Coolier - 新生・東方創想話

東方八幡抄 ~Palpable Night.

2016/10/14 23:55:34
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3.素衣は添い遂げる八に

 しろ
 それは彼女の根源に関わるファクタだった。
 八幡神として信仰される前、彼女は素い毛が特徴の妖怪兎だった。宇佐の国で神代紀にすでに成立しており、てゐは歳を重ねる内に高草群という竹林に国造氏という一族を築き上げた。後に因幡氏と名前を変え、西に勢力を拡大して高草群の他に八上群も支配した。
 その八上群で生まれた八幡神の子孫に、八上姫という、美しく聡明な者が居た。その噂は瞬く間に広まり、八上姫のもとに八十神という須佐之男の直系の昆孫である神々が言い寄ってきたという。彼らは八十というほど数の多い兄弟であったそうだ。立場も悪くはないが、八上姫は相手の素性も知らずその中から選ぶことができない。しかし断ることもできない。
 そこで、八幡神は一つ彼らを試した。
 八十神の中でも天津神に媚びるやつを八上姫と結ばせる訳にはいかない。最も近い天津神の子孫として和邇を襲った。和邇とは和にちかいと書き、日本国の近内、即ち海の民という意味である。天津神、海神の子孫であることは海神の祖、綿津見大神の娘の豊玉姫の別の姿が八尋和邇であることから明白だ。
 天津神の子孫を襲った者として、てゐは月の神に擦り寄る八十神らには穢い悪性を見せられた。ただ、一柱だけ彼女に助けの手を差し伸べる者が居た。大穴牟遅、後の大国主大神だった。その際、てゐは大穴牟遅の親切な姿に、不肖の八十神達とくらべて、俗的な言い方ではあるが惚れてしまった。総して八上姫とこの御方を括らせよう、と二人の間を間接的に取り持った。

 八幡神となった彼女は目の前にある、自分の名前が書かれている素き旗が揺れる姿を見て、あの頃の妖怪兎としての姿の素を、思い出した。
  それは、奈良時代には煌めいた藤原氏の黄金時代が終わりを迎えるしるしでもあった。
 百数十年振りに藤原氏と縁の薄く、藤原頼通らとは仲の悪い後三条天皇が即位する。
 この前から藤原氏の中で時代が行くにつれ連帯意識が薄れ、分裂が起きてくる。原因は藤原頼通が藤原氏の安泰を願うのではなく、藤原頼通個人の権力を握るために政治を動かしたからであった。
 三条天皇、後朱雀天皇などとの衝突があり、ついに百数十年振りに藤原氏と縁の薄く、両親に藤原氏を持たない後三条天皇が即位する。後三条天皇は彼自らによる国政の立て直しをはかり、天皇に近寄る摂関家藤原頼通を数々の改革で跳ね返した。
 藤原氏が衰退し、国が安定し始めると藤原頼通と伴に藤原氏の全盛期を築いた彼の父、藤原道長に仕えていたつわもの、道長四天王が独立するようになった。
 その内の一人は八幡神を氏神とする一族が出自であり、この頃から八幡宮がちょくちょく造営される。
 八幡神はその時まで、宇佐神宮が中央との結びつきが強いせいで朝廷の中心人物に媚びる偽りの神託が起き、政治対立に巻き込まれ神官が流刑され、八幡神の神格が一時的に四国に移されたこともあり、存在が曖昧模糊としていた。
 久方ぶりに八幡宮を造営し八幡神の分霊を何度か喚び、信仰が大きくなり八幡神の存在が確立させたのは、源氏だった。八幡神は人間の信仰を無下にする訳にいかなかったが、一抹とはいえない不安が彼女の中にあった。藤原氏が廃れた後、源氏の他に平氏が力を持ち始めた。
 平氏の祖を辿れば、伊勢に行き着く。
 伊勢と言えば……。
 この抄も半ばを終え、これより始まるは第三章。
 素き源氏、紅き平氏。
 源平合戦、それは単純に源氏と平氏の戦乱という訳ではない。
 現に、八幡神はその源平の両者から帰依される事と為る。

 天皇の変動による影響が長引き、天皇家と摂関家、さらに源平を巻き込む二分化が幾度となく行われた。それらの中で、決して源氏に対するのが平氏という構図になる訳ではなくそれぞれの氏で派閥ごとによる差や他の人物との繋がりで複雑に絡み合う時代、それが平安時代の末期であった。
 保元の乱では、後白河天皇と崇徳上皇。勝利した後白河天皇側の分裂から平治の乱が起きる。その間、八幡神の申し子と名乗る八幡太郎義家の子孫が戦乱に登場したが、ことごとく伊勢の神々が八幡神の霊力を跳ね返した。
 しかし、一人、たった一人その子孫の中で平氏に負けない男が居た。
 源頼朝だった。
 平治の乱で勝利者となった平清盛は厳島神社を整えることで市杵嶋姫命を味方につけた。一方、頼朝は北条氏と繋がり、平氏を恨んでいた以仁王の配下で続々と勢力を大きくしていく。頼朝自身も東国を支配し、その東国が鎌倉に自分の祖である八幡神を祀る鶴岡八幡宮を造営した。
 その八幡宮の熊襲および隼人の霊を鎮める放生会にて、頼朝の弟義経が平清盛に強く攻め入る源平合戦の中、頼朝が討伐した源義仲の部下で、かつ平家の役人である金刺盛澄が死罪にされる判断が行われた。頼朝は盛澄に暴れ馬で流鏑馬を行わせ、的の破片や的の串を射抜く難題をふっかけた。
 まるで那須与一の話のようだ、と想いつつてゐは盛澄から急に湧き出た霊気に気づいた。
「ははあん」てゐはわざとらしく声をあげた。「どこにいるのかしら」
「ここに」
 土よりずぶずぶと雨後の筍のごとく現れたのは、古めかしい、あるいは原始的な衣装を纏った神霊だった。彼女は自分の周辺にお供らしい蛙を一匹引き連れて、配下の蛙と同じ姿勢でてゐの隣に地面へ腰掛けた。
 その時、盛澄の乗る暴れ馬がやや鎮まり、彼はそのタイミングで番えた矢をる。かの神霊は蛙の肌が乾燥しているのに気づいたのか、蛙にるように水を手から産み出した。
「あれね、私の子孫」産み出した水で濡れた手の人差し指で難題をクリアし、誉めそやされている彼を指した。
「ふうん、諏訪の一族だったの」
 てゐは処刑を逃れた盛澄から目を外し、隣に座り込む彼女は国津神の頂に立っていた洩矢神であった。洩矢神の立っていたその地位は、今は自分が所有していると自負するてゐではあったが、そこな神に勝負を臨んで勝てるとは想えない。
 洩矢神は一度、建御名方命に自らの土着の地を侵略され、建御名方命と共同するという形で地位を収めた。建御名方命は優れた製鉄技術で封じ込めたが、洩矢神の持つ本質に関わる資質に祟りがある。それは土着神の頂点として、乾を操る能力を持つ。乾、即ち大地には幾度となく死んだ生物達の穢れが染み込んでいる。穢れの集合は祟りとなり、彼女がその身に宿すは穢れの塊、ミシャグジさまだ。それに襲われたら天下の八幡神でもただでは済まないだろう。
 「ずいぶん人の子に愛着が湧いてるのね」てゐは冷やかした。
「まあね」
「頼朝を殺すつもり?」へらりと返されたのが意外で、より本心に迫るような尋ね方をした。
「まさか……」洩矢神は口を緩めた。いくら自分が祟り神とはいえ、あの八幡神にそこまで言われるような存在だとは自覚していなかった。「人間にそこまでするつもりなんかないやい」
「あの人間を寵愛しているのに」
「あんたさぁ、いや、いいや。種族が一緒だからって平等に扱う道理なんて無いよ。あんただって、他の神より殊更、大国主様がイイんでしょ~」
「あー?」てゐが声をあげてから、金鳩を洩矢神の首に向かって飛ばした。この頃、源氏が参拝に来た時のパフォーマンスとして神の験らしく金色の鳩を飛ばし、八幡神の神使としていた。洩矢神はそれを扞禦せず、まともに攻撃を食らった。今まで洩矢神だったものは赤い蛙と姿を変えて、今度は洩矢神の足元に居たはずの蛙が洩矢神に変身した。
「ところで、源氏と平氏、どっちにつく気なの?」ぴょこ、と転身した洩矢神が空に飛び出る。
「地にひれ伏されて疎かにできる神なんている?」
それを聴いて洩矢神は声に出して笑んだ。
「にしし。菩薩様よ、源平に頼られて忙しいんだろうけど、たまにゃあ神在月……じゃなかった、神無月に行ったらどう?出雲大社は因幡国からそう遠くないでしょ。それとも、大国主様と会うのは恥ずかしい?」
 八幡神の金鳩が虚空を貫き、かの神の元に戻る時には洩矢神はいつの間にか上空から深い地殻まで潜って何処に居るか察知できなかった。神無月に出雲にて八百万の国津神が集う会の欠席が許されているのは土着神の頂である諏訪の神だけだ、とでも言いに来たのか、とてゐは考えた。見渡せば、頼朝の祖、初代八幡太郎が源義家の修復した鶴岡八幡宮も、熊襲の霊も静まり鎮まりかえっていた。金鳩が洩矢神の居る方向へ鳴いたようだが、どれだけの距離が離れているのか想像するのさえ億劫になった。

 熊襲と鳩で一つ、思い出す話が八幡神にはあった。
 まだ八幡神が九州、筑紫に熊襲討伐へ行く以前から信仰がすでに広まるきっかけがあった。それはある人物が病に伏せかけ、その治癒を望みに宇佐の八幡宮まで来た人物が居た。名を小野妹子と良い、病気平癒だけではなく八幡神の出自が因幡国と海の近辺であることから航海への祈願も行った。どこへ行くのかと思えば遣唐使という名目で唐へと海へ渡るらしく、それに興味を持った八幡神は加護を与えてやると共々にその船に鳩を乗せた。
 この頃から八幡神の神使として鳩はおり、たまたま兎の毛色と同じという理由で素い毛並みを持つ鳩と馬を飼い馴らしたところ、その内の素い鳩が八幡神の名にある「八」に宿る「多」の性質から大繁殖したのだった。
 遣唐使には留学生や学問僧がそれぞれに祈る神がごった返しており、それぞれが分霊とはいえその数に八幡神の鳩は息苦しかったが、唐からある女が載り、その空気は一変した。
 その女は片手に色彩豊かな装飾があしどられた本、もう片手には黒い唐猫を抱えていた。何人かが中国語で猫について話しかけると、彼女はたいへん流暢な日本語で受け応えた。
「ああ。本が鼠に食べられてはマズいでしょう?ですから、猫も一緒に……大丈夫、猫は肉食でしょう?鼠が居なくとも、餌は海にあるわ。倭国では魚を食べるのがポピュラーだとお聞きしております」
 その慣れた言葉遣いに遣唐使はみな驚き、舟に乗り込んだ様々な神の分霊も鳴りを潜めた。代わりに、一瞬でこの舟に打ち解けるどころか支配した彼女は人で無いような素振りばかり見せる。持ち込んでいる仏教の書物は全て凄まじき魔術書に見え、日本のマナーを真似た行儀も尊大に見えた。八幡神は彼女が古い仙人なのではないか、と予想を立てた。だが、それにしてはなぜ道教ではなく仏教の書物を持ち込んだのか分からなかった。
 後に、彼女は推古天皇の甥、聖徳太子の傍らに居たという。その舟で名乗りこそしなかったが、霍青娥と言うそうだ。聖徳太子が発布した十七条憲法には仏教の息が吹きこまれていた。隼人の反乱の後、弥勒菩薩に救われ、自身に菩薩としての側面が擦り込まれたのは霍青娥がこの国の仏教の基盤を築き上げた、と考えることができた。
 まるでにわかに降る雨のごとく青くみめよい女の姿は、青でほとんど占められていると八幡神の中で記憶していたが、あの時の映像を再生した時、霍青娥の色が大和言葉で青いのか、赤いのか、素いのか、黒いのか、分からなかった。

 去っていった洩矢神が言った通り、八幡神は源氏からも平氏からも敬虔な祈りを捧げられていた。
 当時、平安時代に九州一の大荘園領主となった宇佐神宮の神官である宇佐公通が平氏に近づいた。それは宇佐神宮が九州に勢力を広めており、その九州にある太宰府を平氏が掌握していたこと、元々平氏が宇佐一帯を含む西国に傾いており西方には平家恩顧の豪族が多いことから宇佐神宮は源家ではなく平家を重視していたのだ。神宮は平清盛の娘を正室に入れ、平氏と結合し宇佐神宮は地位が授けられた。
 しかし、京都は西に非ず、京にて反平氏の勢力は増し、それを味方につけて源氏の中から源義経と源義仲が出兵した。さらに蛇神の子と称された、平氏側であったはずの緒方惟栄が平氏による政治への人々の不満から源氏についた。
 この時に平清盛が熱病で没し、残る平氏の残党狩りが始まった。八幡神はこの戦いの結末が平氏の消滅であることを察しをつけ、源氏から受ける八幡神への信仰と宇佐神宮への敵意がほぼ異なるものであることを知り得ると戦場から離れた。最も平氏の面影が残っていないのは反平氏がそこらに万と居る京の都であった。素い影がてゐの懐に飛び込み、平氏が八幡神を頼りに宇佐神宮を訪れたと報せたが気にも留めず、久しく耳にしていなかった詠でも聴きに行きたいとこの時代に名を広めたある法師の娘に会いに赴いた。その法師の詠は故実などに富みながらも俗語などを取り入れ、自由の詠み口の中に立つ気品が歌風をより研ぎ澄まされた物とし、歌壇の中心人物として活躍ぶりを見せた。
 法師の娘が詠むという噂は無いが、あの者の付近に居て詠まない者が居るのだろうか。
 八幡神は一昔前の古今和歌集仮名序を一部を思い出しながら、京の伏見へたどり着く。向かう先は西行寺、西行法師が残した邸宅であった。
 
 西行寺は静まりかえっていた。しかし、先の放生会のように鎮まりかえってはいなかった。邸の隅々まで広がる穢れは神聖に見えるほど仰々しくてゐを迎え入れた。そこら一面に潜もうともしない穢らわしい死が充満しきっている。
 死は様々な形で具現化していた。死体からの腐臭、地面にこびりつき黒へと変色している血、四肢を投げ出し永久に眠り込む男。まるで地獄のようで、例え冗談でもここを天の聖處と言い切るやつはいまい、とてゐは印象を位置づけた。これこそ、『殺』風景なのだと。
 八幡神が歩む空間は只管に深閑だったが、清閑ではなかった。四方八方から言葉を用いずコミュニケーションを試みる死と常に対抗しなければいけなかった。
 涅槃から最も遠い場所の中で、ただ一つ八幡神を除いた生があった。しかし、その生は絶対的には生と死の区別がついてなどいない。死が満ちる西行寺の中で、相対的に生として顕在しているが識別できるのだった。この観察から、とある因果が八幡神には想像できた。生きているという結果に、死が満ちるという原因が密接に繋がっている。生と死の境界が曖昧な存在は、生が普遍にある領域では生きていないと判断される。逆に、その存在が死の偏在する領域に住めば、なんとか生きることができるのだ。
 生きているとも死んでいるとも言えない、あるいは生者とも死者とも言える存在が、頽廃的な屋敷の外に面するひさしの間で死者のように寝転んでいた。虚空に散乱する燦爛たる空華を見つめている彼女は、五分の間そのウォッチングに意識を沈ませてからようやくてゐに気付き、肘で産まれたばかりの子鹿のように拙く起き上がった。
 おもむろに老いゆき、死にゆく老婆の墨染めの蓬髪が血で染まり、猥雑な桜色になっていた。この京都が伏見にある墨染めの桜を連想し、てゐは邸宅にあるはずの桜の樹に視線を送ったが、花弁の一枚もそこには無かった。起き上がった女は、本来ハレの装束である擦り切れた蒼い唐衣裳を揺らし、喉を震えさせ発声した。
「あぁ……いらっしゃい。今、侍女を……」彼女は言葉を継ぐのを途中で止め、僅かに動転してから再開した。「そうだ、あの子も死んだんだった……」
「詠を詠んでくださる?」てゐは従来の目的通りに行動した。予想している状況と反していたが、これはこれで一興だと考えた。
「うた……うた、うた。ごめんなさい、私……」血でこびりついた髪を手で梳き、女は断ろうとしたように見えたが、唐突に口を大きく開けた。「願わくは花の下に春死なむその如月の望月のころ」
その詠は、てゐもよく知っている西行法師の遺書めいた和歌だった。しかし、次に女が声に出したのは全く知らないものだった。
くらは蓮の花にあらねどもうてなあらなむ頻りに望み」
「お父様は」女はひさしの間から立ち上がった。その動きは頗る明瞭なものであった。「藤原の血を引き継いで歌も流鏑馬も大変お得意で蹴鞠も素晴らしいのそれにお美しくて」早口で捲し立ててから、屋敷に振り返る。「でも、私を、蹴落として行ったの。ここで……」
 女の脚が竦みだし、声も同様に目立つ振動を帯びてくる。「行かないでって。お父様、行かないでって言ったのに……逝かないでって……」
 ぐらり、と地帯が揺れる。
 死が女の元へ合併しだし、集団となる。領域の境界の設定が変動し、滑らかな境界面にガリガリと摩擦が起きる。死で支配されていた空間の定義域が次々と動き出し始めた。
 領域外と分離した弾みに、突然他者が外から入力を始めた。死が彼女に集まり、領域内で生が蘇り始めたのをツテにてゐは外から引きずり出された。
「危なかったわねぇ」八幡神を外から引きずり出したのは、あの遣唐使の際に出会った霍青娥だった。ここでまた、彼女の何色か分からなかった姿の色を再認識した。その青色が、あの霊とも人とも区別のつかない女の蒼い着物より鮮やかで今日はきよく見えた。

 青娥はクルクルとのみを回しており、その鑿をてゐはじっと見つめた。それは空間と空間を繋げてゐを脱出させた道具であった。
「私たちは」青娥が喋りだした。「物理、心理、記憶の層に基づいて願意的にか、恣意的にか、故意的にかで現実を構成しているのです。それは妖にせよ人にせよ、神でも霊でも同じこと。構成する範囲の大きさこそが強さなの。私の鑿は空間と空間を繋げることにおいて『強い』というわけですわ」
「ありがとう、助けてくれて……でも、どうしてここに?まさかつけてた?」
「私は別のお方をつけていたの。そのお方は物理や心理、記憶の層との兼ね合いを操ることもできるお強い人なのよ」青娥は疑問に応答してから付け足した。「あ、いえ、貴女様が弱いという訳じゃなくてよ。八幡神が酒呑童子退治に貢献したお話など耳にしていますわ」
「その別のお方ってのが、あん中にいるやつ?」
「いいえ。あそこに居るのは生と死の境界で彷徨う亡霊モドキね。生きるために人の精気を吸い取っているけども、吸い取る過程にしか効能が無くて結局吸い取ったモノは全部桜におしつけているみたい。あのお方は、彼女を救おうとしているの。生と死の境界を操る禁忌にまで手をだしてね」
「そんなに強いなら、私のとこにも情報が入ってくるはずなんだけどなあ」てゐは自分の髪の毛を弄る。
「強いからこそ、情報が秘匿され入ってこないのよ」青娥は鑿を簪のように頭の唐子髷にさした。「私は、これで情報漏洩を防ぐ天網に孔を開けていますの」
「ふうん、今のところ、まるっきりあんたの法螺話でもおかしくないね。でさ、その禁忌なお方は今、何をしているわけ?」
「今はまだ花を咲かせていない、あの桜を不完全なる墨染の桜に留めているのに精いっぱいのようね。だけど、それも持たないかも。妖怪桜が人を喰らい続け、いつか……。いつもはゲンソウキョウという、妖怪の都の賢者らしいの。そこな娘の父で歌聖の西行法師も、貴方が倒した酒呑童子もそこを訪れたみたい」
「ゲンソウキョウねえ。まあ、妖怪の都なんて山国のこの国で有数って訳じゃないとおもうけど」
「今は眠るとある人の復活がこの国で行えなさそうなの。ちょっと、私の伝承の時代を書き換えるついでに書物にイタズラをしちゃったのが不味かったわね。『上宮聖徳太子伝補闕記』なんて出回っちゃって……あ」青娥が思い返したように声をあげる。「そうそう、書物と言えば、大丈夫?宇佐神宮、全部もってかれちゃったらしいけど」
「え?なんだって!」てゐは跳び上がった。宇佐神宮の記録が後世に残らなければ八幡神の存続は危うくなる。宇佐神宮には偽りの神託や平氏への媚びた行動があったが、それを差し引いても宇佐神宮の書物が全て消えるのは大きすぎる損失になる。
「ああ、もう!霍青娥!そのお方とやらに会ったなら言っておけよ。和歌には言霊としての側面が強すぎる、如月の望月で本当に死んだのだってそう詠ったからよ。ほとけには桜の花をたてまつれ、あれは、完全な呪いだ!」てゐは相手が忘れないように威勢の良い声を出した。
「呪い、ねぇ……身の憂さ宇佐を思ひしらでややみなましそむくならひのなき世なりせば。ああ、どうなることかしらね」

 はやくもてゐが使役する素鳩が宇佐神宮に飛ばしてから戻ってきた。今、源平の争乱に巻き込まれた宇佐神宮は建て直しをはかっており、一切合切持って行かれた書物の代わりに記憶を頼って八幡宇佐宮御託宣集が制作されているという。それでは意味がない。八幡神は出自が海に近いゆえに、容易に海を越えて存在の根本が変えられる可能性がある。八幡神は、書物を奪っただろう相手に会いに走った。
 数々の諏訪氏や守矢氏などの一族とすれ違い、諏訪大社下社秋宮にてゐは降り立った。上代は諏訪氏としての諏訪大社であり、下代は守矢もりや氏としての諏訪大社で、洩矢もりや神が居るとするならこちらだった。
 てゐは辺りを見渡すが、人間の影しか辺りには居なかった。急いでこちらへやって来て、異なる土着の地に脚を踏み入れたのがようやく分かり始める。神力が遅れて肌を包み、相手の陣地に入ったゆえの危機感が起動し始めたその時、

「天の逆手」

激しい語気と共に、洩矢神が地中から跳躍し、高速でてゐの元へ手刀を振りかぶせて来た。てゐは急いで躱したが、洩矢神の手が顔を掠める。洩矢神が上下を逆にした柏手を打つと、掠めただけであった頬から激痛が走る。
 てゐは確信した。これは事代主神が天津神に対して用いた呪詛に違いない、と。
「どう?事代主神直伝の必殺技は」洩矢神は正しく柏手を打ち直すと、てゐが感じていた痛みは消えた。
「ふ。なんだ、あの諏訪明神も出雲大社に行ってたの?」てゐは余裕を持って笑ってみせた。
「ん、まぁ、わたしゃ弱くなった分楽になったからね……。悪いわね!書物全部奪っちゃって。でも、貴方以外の国津神の総意そういなのよ」
「私だけと相違そういがあった、と」
「あのまま源平の争乱を掻き乱し、この国をも掻き乱すつもりならもっと創痍そういさせたよ。盛者必衰の理を現したのよ、夢幻泡影、胡蝶の夢」
てゐはゴタゴタと言葉を並べる洩矢神にしかめっ面を浮かべた。
「あのさ、猿田彦大神のやつ、出世したでしょう?」
「ん、ああ。そうね」昔、猿田彦大神に恩があるてゐは猿田彦大神の出世についてよく知っていた。導きの神とされて道祖神となり、さらに道教と併合しより勢力を強めていたのだ。「それが?」
「な~んか、きな臭いのよねぇ……」
「はあ。というと」
「あいつ、伊勢でまた祀られてる」
「え?祀られてるって、どうして?」
「伊勢の地に太陽神は二柱も要らないわ。たぶん……殺されたんだわ。だから、伊勢の地に封じ込めてる」元々、伊勢に土着の太陽神だった猿田彦大神は天照大神ら天津神に追放されたはずだった。追放というのは、天孫降臨に他ならない。
「ともかく。猿田彦大神のやつが殺されたのは知らないけど、どちらにせよ月の天津神に取り込まれたということよ。まさか猿田彦が天津神を支配してる訳がないでしょうし」
「確かめたの?」
「私の一族に、風魔という忍者が居るの。伊勢にある天津神、天照大神の神社の近辺の海で釣りをしてたらシャコ貝に挟まれて死んだって噂が流れてた。で、猿田彦神社とやらは伊勢神宮の内宮の手前よ」月、水、そして貝。それらは強く結びついていた。月と水、海の満ち潮と月の満ち欠け。水と貝は言わずもがな。貝と月、それは女性という共通点で繋がっていた。貝は女性器をあらわし、月もまた陰として女性の性質を司っている。「間違いない。天津神は伊勢神宮から勢力を広めようとしているわ。きっと、天津神の子孫である天皇の力が勢力争いやらなんやらで時代と共に落ちてきているからよ」
「じゃあ、あの天の逆手は……」
「うん。八幡神の力を衰えさせるためでもあったけどさ」事代主神が天津神、武甕槌命に用いた天の逆手は自殺を伴う呪詛であった。天津神に対して最も手っ取り早い攻撃手段は穢れであり、天の逆手とは自分を殺すことで産まれる穢れを相手に押し付ける呪術であった。「言っておくけど、これは敵うとか、敵わないとかそういう問題だけじゃないの。我々は敵わなくても意志を持っておかなきゃいけない」
「それ、猿田彦大神にも言われたわね」天津神に乗っ取られたであろう神を想い、てゐは両目を閉じる。「でも、さっきの恨みはそんな思惑だろうとなんであろうとまだチャラじゃないぞ」
「はいはい、分かってるってば」洩矢神は秋宮の奥に引っ込んだ。やがて、液体の入った獲物を抱えて帰ってくる。「真面目な話はこれっきりにしよう。さあご賞味あれ!諏訪湖の霊水で造った、御井酒『蛙は口ゆえ酒に呑まるる』よ!」
 薄い金色の光を放つ液面は、以前見たことのある玉依姫の神酒と違う、また別の土着の良さがあった。八幡神がさっそく口につけると、濃厚な甘みが強く主張し、爽やかな酸味が締めてきた。思わず、てゐはホウと溜め息が出る。遥か昔、神代のころに巫女が口で噛んで醸んで造っていた出雲の地伝酒の味を想起した。二柱は言動がままならないのも奇瑞だとして、酒盛りを始めた。
 酒盛の『モル』、それは6.02×10の23乗個の集団ではなく、盛らうが盛るに変化したものである。古代、酒盛とは巫女からカミの力を司る<カミの神酒を盛らうことを指していた。だからこそ、神を敬う平清盛を代表する平氏には盛と名のつく者が多い。酒盛りは、人と神の歴史の象徴であった。
 人と神と酒が産み出すのは、永い夜の抄。
 東の国の眠らない夜が寄る。二柱はその夜にる、そしてる。
 二柱は、二日酔いという永夜の報いを受けることとなる。

  約五百年後、江戸時代を迎えた。
 八幡神土着の地である宇佐一帯が様々な藩が複雑に所有する土地となった。これでは存在が消えかねない、と八幡神は危惧し人払いの結界をかけた因幡の高草群という竹林に主たる神格を宿すことにし、竹林ごと引っ越すことを考えた。しばらく移住先を考えてから、九州よりも近い一度神格が宿されたことのある四国の方へと転移しようとした。それは、ひとが居たからでもあった。
 しかし、てゐの目的地である出雲の方角とは相対する東北東へ引きずり込まれた。
 何事か、と辺りを見回す。
 周囲の風景は高草群の昔の姿となんら変わりなかったが、それは物理の層における観測だった。心理の層、記憶の層においては何もかもが違った。
 ただ、その違和感は悉くてゐの素い肌にピッタリとフィットした。
 てゐは心理の層から世界を覗き、そこで事の真相の一端を知る。
 明確な結界が張られている訳でもないのに、心理の層では遠方が暈っと朧気にしか現れない。
 そして記憶の層では構造が根本から異なっていた。
 心理の層が肌に触れる感触、記憶の層の構造、それらは、八幡神の脳裏の最も深い場所に刻み込まれていたものだった。
 ああ、とてゐは思い出す。
 それは皇紀2305年、および日本が元号を正保へ変えた1645年のこと。
 高草群の竹の花が一斉に六十年に一度の開花を始めだした。
 ここには、邃深にして幽玄なる神代が蘇っているのだった。
 「ユユコがお世話になったようね」物理の層、心理の層、記憶の層の全てに妖女の声が月よりも響いた。「ようこそ、幻想郷へ……。貴方の言った通り、言霊は……言靈は、呪い足り得るのかしらね」

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