Coolier - 新生・東方創想話

マリッジブルーの百年戦争

2016/09/15 15:17:17
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人里での取材を終え妖怪の山に帰ってきた私は、天狗の里に入る直前で予想外の足止めを食っていた。
いや、あらかじめ予測はしていたのだ。
だからその予測を避けるために、あえて遠回りをしたつもりだったというのに、なぜか予測通りに事が進んでしまった。

「担当場所、離れてもいいんですか?」

一応挨拶がてら軽く声をかけてみるが、やはり返事はない。
彼女に私との会話を成立させるつもりはないようで、口をへの字に閉じたまま、黙って私を睨みつけている。
その目には明らかに敵意――いや、殺意と言ってもいいかもしれない――が宿っていて、どんなに私が口八丁でも退いてくれそうには無い。
私の眼前に立ちはだかる白狼天狗の名は、犬走椛。
私は烏天狗、同じ天狗である白狼天狗と敵対はしたつもりはない。
しかも、彼女は哨戒部隊の一員のはず。
鬼が支配していた頃と違い、今では天狗にもある程度の職業の自由が認められる時代。
自ら望んで他の天狗を守るべく哨戒部隊に入ったはずの椛に、なぜ烏天狗である私が敵意を向けられねばならないのか。
曰く、外からの侵入者を排除するという名目の上で行われている”横暴”らしいのだが……はて、いつから私は侵入者になったのやら。
どんなにそれっぽい理由をでっち上げようとも、これはどう考えても個人的感情による職権濫用。
上司にチクって止めさせようにも、この場における最高責任者、つまり哨戒部隊の隊長は他でもない彼女自身なのだ。
だから横暴が許されてしまう。
椛の部下たちは、遠巻きに私たちのやりとりを眺めていた。
いや、彼女だけでなく、気付けば他の野次馬たちも集まってきている。
まったく、見世物にしたつもりはないのだが。

「また懲りずに来たのか」

椛はようやく口を開く。
いくら私が嫌いとはいえ、眉間に皺を寄せてガンを飛ばすのは女の子としてどうなのだろう。
以前であれば、下っ端である白狼天狗が烏天狗や他の天狗に反抗しよう物なら、彼女らの上司からお叱りの言葉が飛んできたものだが、鬼の支配から解放された今ではそんなことも無い。
とは言え、白狼天狗が下っ端という状況が変わったわけではなく、故に白狼天狗の身で隊長にまで上り詰めた椛は注目の的なのだ。
最近は新聞の記事でその姿を見ることも多い。
もっとも、椛は昔から人前に出るのが苦手なので、インタビュー等は可能な限り断っているらしいのだが。
まあ、実は記事になるのは隊長になった事以外にも大きな理由もあったりするのだが――それは今はどうでもいいことだ。
現在の彼女は嫉妬の対象でもあるため、お世辞にも好意的な記事ばかりとは言えないが、それでもなお、彼女の真面目な性格が幸いしてか慕う天狗は多いと聞いている。
そんな出世頭と、一端の新聞記者である私との間にどんな関係があるのかと言うと――

「――殺されるとわかっていながら」

ご覧のとおり。
嫌われている、と言うのは言うまでもなく見てわかることなのだが、椛の感情は嫌悪だけに留まらない。
憎悪。
殺意。
対する私は、特に椛にそういった感情は抱いていない。
むしろ、椛のことが好きなぐらいだ。
要するに、殺し殺され――と言うヴァイオレンスに対等な、愛に溢れた関係ではなく、一方的に命を狙われる、そんなアンバランスな繋がりなのだ。
これは所謂、どうしようもない片思いというやつで、私たちは毎度、顔を合わせる度に今みたいなやり取りを繰り返している。
飽きずに、何十回も、何十年も。
よく飽きないなと、思う。
飽きられたら、それはそれで寂しい思いをしそうではあるが。

「いや、私から会いに来たつもりはないのですが」

私は彼女を避けて移動したのだから、自ら近づいてきたのは椛の方だ。
椛の千里眼からも逃げられるよう、わざわざ回り道をしたというのに。
ああなんと言う偶然、強すぎる運命。
神様というのはつくづく悪戯っ子で、一回こっぴどく叱っておいた方がいいのかもしれない。
まあ、そんなこと出来るはずもないのだが。
私には彼らの気まぐれを止める術は無いのだから、これで私が責められるのはさすがに理不尽ではないだろうか。
そう言っても、椛は私を責めるのを止めてはくれないだろうが。

「酷い顔をしているな」

私の言い訳など聞こえてすらいないような滑らかさで、シームレスに会話が罵倒フェイズに移行する。
いくら嫌いでも、せめて会話ぐらいは成立させて欲しい。

「そうですか? いつも通りだと思いますけど」
「は、ははっ」

椛は乾いた嘲笑を私に浴びせる。
心底馬鹿にするようなその笑いに、私の胸は強く痛んだ。

「その有様でいつも通りか。
 鏡を見てみろ、死霊と見紛うほどに生気の抜けた顔をしているぞ、死病でも患ったのか?」

言われてみれば、今日は寝起きから調子が悪かったような気もする。
取材が上手く行って上機嫌だったのですっかり忘れていたが、そんな日だってあるだろう。
いくら人間より丈夫と言っても限度があるのだから。
風邪だって引くし、刺されれば死ぬ。
つまり日によってコンディションの揺らぎぐらいはあるということだ、なにもそれを死病とまで言わなくても。

「ああ、本当に死病だとしたら、これほどめでたいことはないというのに。
 もしくたばったなら、葬式には祝いの花束をたんまりと送ってやろう、とびきり色鮮やかで綺麗なやつを」
「さぞ華やかな葬式になりそうですね」
「あんまり派手だと、お前には似合わないかもな」

それに関しては私も同意する、死に際は地味で誰にも知られないぐらいがちょうどいいと思っているから。
それにしても、椛の罵倒は今日も絶好調だ。
椛はありとあらゆる罵詈雑言を私に投げかけた後、最終的には私を殺したがる。
どんな会話の流れだろうと、最後には必ず私が死ぬのだから見事なものだ。
実はそれが愛情表現、いわゆる照れ隠しの一種だったりしたらどれほど可愛らしいことか。
もしそうなら、『やだなあ椛ったらツンデレちゃんなんだから』、と陽気に茶化せるというのに。
まあ、恨みを買った原因が明らかに私にある以上、そんなことはありえないとわかりきってるのだが。
理由が理由だけに、話を聞いてくれないのも仕方無い。
それでも、いつも同じやり取りの繰り返しだと、マンネリや倦怠期と言った、退屈な時期が来てしまうわけで。
たまにはまともに会話を成立させたいと思うのは、そうおかしなことではないはず。
それとも、私が死を受け入れれば一度ぐらいはまともに話してくれるのだろうか。
死に際に一瞬だけでも、対等に話すことができれば――それも、悪くはないのかもしれない。
命というのは、払うのが最も楽な対価だ。
はいどうぞ、と差し出せばそれでおしまいだし、老若男女関係なく誰にでも支払うことが出来る。
価値は重く、コストは安い。
対価が私の命一つで済むというのなら、そしてそれだけで全てが終わるというのなら、これ以上に楽な結末は他にはない。
私としても、椛を不快な気分にさせるのは本意ではないのだ。
生きているだけで迷惑になるというのなら、素直に殺されてあげようではないか。
私の目的が果たせたのなら、という前置きは付いてしまうが。

「しかし……思わず何度も言いたくなるほど酷い顔をしているな、生理的に受け付けないというべきか、見ているだけで吐き気がするというべきか。
 いっそ顔を削いでみるか? それか、仮面でも付けてくれると私が助かるんだが」
「お断りします」

顔を削ぐとか、よくもまあそこまで恐ろしい発想が出てくるものだ。
想像しただけで顔の表面がぞわぞわしてしまう。

「ならば今度から用意しておくことにしよう。
 ま、お前が私の前に姿を現さなければ済むだけの話なのだが」
「相変わらず人の話を聞かない」
「お互い様だろう。
 二度と来るな、と何度言えばわかるんだ?」
「だからぁ……ああもうっ、いいですよ、どうせ何を言ったって無駄なんですから」

私はわざわざ遠回りまでして避けようとしたのに、それでも見つけてしまったのは椛の方だ。
――ただの免罪符じゃないか。
それを私のせいだと言われても、むしろ反省すべきは椛の方だろうに。
だが、椛は視界に入った私が悪いの一点張りで、てこでも動こうとはしない。
結局、事実なんてどうでもいいのだ。
私が悪い、という結論ありきで話は進んでいくのだから。
そしてやはり、最終的には私が殺される。ハッピーエンド。
椛にとっての私は諸悪の根源、云わば魔王のようなものだ。
魔王が勇者に何を言おうが通じないってのがお約束。
勇者がそんな簡単に靡いてたんじゃ、世界が滅亡してしまうのだから仕方無い。

「まったく、本当に気が合わないな私たちは。
 なぜこんなにも”ずれた”私たちが同じ世界に生まれてしまったんだろう、神様というやつはとんだひねくれ者だ」

それに関しても、心底同意する。
私たちは意見が全く合わないわけではないのだ、むしろ同意することの方が多いぐらいで。
椛は殺したい、私は殺されたい、ほら一致した。
なのに会話が成立しないのは、椛がそれほどまでに強く私を拒絶しているから。
拒絶しているくせに、逃がしてくれないから。
本当に椛の言うとおり、ずれていると思う。
運命を定める神様が本当に居るんなら、一つだけ頼みたいことがある。
一発だけ、殴らせてくれないものだろうか。
ありったけの憎しみを、心の底に沈んでるありとあらゆるどす黒い感情を拳に乗せて。
そして出来れば、その一撃で神様を仕留められたならな、といつも考えているのだ。
どうやら私も、暴力性においては椛とそう変わらないようで。
……ま、そりゃそうか。似ないはずがないよね。
だが現実は非情である。
本当に、全てが神様の決めた運命ならどれほど楽なことか。
だって有象無象の責任を神様一人になすりつけることができるのだから。
現実はもっと複雑怪奇で、歪んだ形をしている。
責任は分散する。
罪は拡散する。
一つ潰したからと言って、何から何までうまくいくわけではない。
例え私が命を捧げたとしても、私自身の問題が解決するだけで、椛やそれを取り巻く人々の問題が解決するわけではないのだ。

「さて、会う度に言っている気がするが、御存知の通り今の私はただの隊員ではない、隊長だ。
 それなりに忙しいし、お前に付き合うほど暇ではない。追い返すために体力だって浪費したくはない。
 できれば私が剣を抜くより前に、私の視界の外に出て欲しいのだが」
「出たいのはやまやまなんですが、もしここで私が背中を見せたらどうします?」
「斬る」
「ですよねぇ」

逃げろと言いながら逃がすつもりは無いと言う。
もちろん椛はその矛盾に気づいている。
私が消耗するのなら道理などどうでもいい、そう考えているのだろう。
とんだ構ってちゃんで、かつ困ったちゃんである。
苦笑い混じりのため息だって出るに決まってる。
しかし椛は、私にため息を吐く暇すら与えてくれない。

「付き合いたくないなら最初から近づいたりしなければ……ってもう剣抜いてるし、逃げる猶予もくれないんですか!?」
「私ぐらい目が良いとな、見たくないものも見えてしまうものなんだ。
 見て見ぬふりが出来るのならそれに越したことはない。
 だが、見つけてしまったからには、斬らないわけにはいかないだろう? それが隊長の責任という物だ」

そんな責任の取り方は初耳だ。

「隊長を言い訳にして私を斬りたいだけなんじゃ……」

椛が私に殺意を抱き始めたのは隊長になるより前の話。
つまり、隊長の責任という言葉は口からでまかせ、ただの言い訳にすぎない。
以前は言い訳などせずに、率直に殺したいから殺すと言っていたのだけど――隊長という立場が彼女に責任感を与えたのだろうか。
最近はこうして、一応はそれっぽい理由を付けるようになってきた。
妥当性はさておき、成長が見て取れるのは素直に嬉しい。思わず胸が暖かくなる。

「だとしたら、なんだって言うんだ? お前を殺せれば理由なんてどうでもいい」

って言ってる傍から開き直ってるし。
隊長がそんな有様じゃ、部下も付いてこないのではないだろうか。
背丈は成長しても、中身はまだまだ独り立ちしたとは言えないらしい。
それはそれで、可愛げがあって悪く無いと私は思ってるけども。
でも、やっぱり殺すとか死ねとか、そういうのは何度言われても慣れないものだ。

「こう見えても私、意外とナイーブな心を持ってるんですよ。
 事あるごとに死ねと言われて、その度に傷ついてるんですからね?」
「は、はは、はははっ、あはははははははっ!
 傷つくだって? 毛が生えたような心臓の持ち主のくせに? まさか、そんな事、天地がひっくり返ってもありえるわけがないだろう!」

よっぽど面白かったのか、椛は腹を抱えながら笑い始めてしまった。
ごく当たり前のことを言ったつもりだったのに。
”死ね”と言われて傷つくのは万国共通、誰だって同じことのはず。
椛は今まで、私が傷ついていないとでも思っていたのだろうか。
それはさすがに、少しショックだ。
せめて広大な砂漠の一粒程度には、”期待”してくれていると思っていたのに。
これっぽっちも望みが無いと言うのなら、私が生きてきたこれまでの日々は全て無駄だということになってしまう。
それは、嫌だ。それだけは嫌だ。
事実だとすれば、この場で椛が見逃してくれたとしても、直後に自殺するぐらい、心の底から嫌だ。

「ふん……傷ついてる、か。
 死ぬほど滑稽な戯言だな、どの口が言うか。
 いっそそのまま死んでしまえ」

ほらまた言った。
私の心の傷がまた一つ。
そして私はこの傷を糧にして明日に進んでいくのである、ああなんて私ったら健気なのかしら。
悲劇のヒロインぶるなと椛に怒られそうだが、茶化しでもしないとやってられない。
椛の件だけではないのだ。
天狗社会には、幻想郷には、理不尽があまりに多すぎる。

「むしろ傷ついているのは私の方だ、顔を見るだけでこんなにも、立ち直れないぐらい深い深い傷を負っているのだから。
 こんな酷い傷、二度と癒えないだろうし、詫びの一つや二つでは償うこともできない」

それは知っているし、申し訳ないとも思っている。

「聞かずともわかる気がしますが、一応は聞いておきましょう。
 詫びて足りないのなら、一体何をお望みで?」

椛は片手でぶら下げるように持っていた剣を、しっかりと両手で握る。
握った柄を顔の横に構え、切っ先と殺意の篭った視線をこちらに向けた。
陽の光を反射して、刃が嬉しそうに輝く。
雄々しい表情も相まって、その姿はやけに絵になっている。
写真にして、部屋の一番目立つ場所に飾っておきたいほどに。
そして鋭い殺気を私に向けたまま、一言。

「無論、命を」

そう言って、椛はにやりと笑った。
私も向けられる殺意に慣れてきたのか、恐怖は感じない。
ただただ、悲しいだけだった。
それで気が晴れるのなら私は殺されても構わない、命を捧げても良い。
その気持ちに嘘は無い。
悲劇的な現状を作ってしまったのは、他でもない私自身なのだから。
まっすぐ向けられる切っ先をじっと見ていると、思わずその刃に飛び込みたくなる。
自ら首にあてて、鮮血と共に命を散らしたくなる。
むしろ死にたがる自分自身を止めるのに必死なほどで、それでも死のうとしないのは、私にはまだやるべきことが残されているから。
その時が来るまで、私は衝動を抑え続けるしか無い。

「……私、帰ってもいいですか?」

チャラけた対応は、謂わば誤魔化しようなもので。
きっと私が悲しんでいることを知ったら、椛は今よりも強く私を憎むだろうから。

「逃すかぁッ!」

吠えるように叫び、こちらに肉薄する椛。
気付いた時には、剣の先端が目と鼻の先にまで近づいていた。
かつてはこうして眼前に迫ることすら叶わなかった。
だが彼女は、天性の努力家。
種族の違い、性別の違い、才能の違い、あらゆる差異を努力で補うことが出来る、そういう才能を持っていた。
昨日よりも一ミリでも近く――それは椛が、今でも日々弛まぬ努力を続け、進歩し続けている証でもある。
柄を握る両手に巻かれた包帯と、マメの潰れた痕が、鍛錬の壮絶さを物語っていた。
努力が報われて欲しい。
私は本気でそう願っている。
にも関わらず、とっさに後方に移動して切っ先を避けた私は、やはり残酷な女なのだろう。

「く、そっ……!」

椛は私に届かなかった悔しさから、強く唇を噛み締めた。
彼女の瞬発力は、今ではそんじょそこらの烏天狗よりもずっと上だ。
私の眉間めがけて放たれたその突きも、凡百の烏天狗なら、為す術もなく貫かれていたのかもしれない。
しかし、椛にとって相手が私であることこそが、最大の不幸だった。
前髪に触れるか触れないかギリギリの距離で、太刀の先端はぴたり止まっている。
この位置こそが椛の初撃の最大レンジを、私は最初からわかっていたから。

「あと一歩、足りませんでしたね」

確かに椛は成長している。
だがそれも、まだ私の想像の範囲内に過ぎないのだ。
決して見下しているわけではない。
私は椛が優秀な白狼天狗であることを知っている。
だから私の想像の中の椛は、きっと他のどの天狗よりも高みに居るはずだ。
想像と言うよりも、期待と言った方がいいかもしれない。
椛は今でも、そんな私の期待に応え続けてくれている。
想像を凌駕する彼女の成長は、純粋に、私にとっての最大の楽しみだった。
命が危機に晒されている今であっても、思わず笑みがこぼれてしまう程に。
しかしその笑顔が、椛の感情をさらに逆なでしてしまったようで。

「お前はいつだってそうだった。
 あと少しで手が届くと錯覚させて、期待させて、裏切るんだ。
 何が一歩だっ……遥か高みで、蟻のように地面を這いつくばる私を見て笑っておいてぇぇぇっ!」

叫びながら斬りかかってくる椛を、ひらりと避ける。
そうは言われても、余裕を見せて避けたらそれはそれで怒るじゃないか。
何をしたって、今の私には椛を憤らせることしかできない。
笑顔を見るなんて夢のまた夢。
それにしても、今更考えても仕方のないことなのだが、椛は私を殺してどうするつもりなのだろう。
単純な実力差で考えれば私が殺されることは無い。
しかし、偶然に偶然が重なって、運命の悪戯がうっかり私を殺してしまったとしたら――どうする……いや、どうなってしまうのか。
イコール私が死んだ後の話になるので、どう転がろうが私はその結末を見ることは出来ないのだが。

「その余裕がっ、目障りだって言ってるんだッ!」

積み重ねてきたもの。
たどり着いた場所。
私を……私如きを殺してしまえば、椛は罪人となり、あらゆる物を失ってしまう。
天狗の里にも法はある。
人間と同じく、天狗にとっても同族殺しはご法度である。
どんなに私が椛に罪はないと主張しても、死人に口なし、誰にもその声は届かない。
”椛は悪く無い”と手紙を残したとしても、罪が消えるわけではない。
私には到底、私を殺した後の椛に幸せな結末が訪れるとは思えないのだ。
そう、私が殺されるのは妥当でも、椛が殺すのは妥当ではない、間違っている。
だから私が椛による死を望まないのは、ある意味で椛のためでもあった。

「くそっ、くそぉぉっ!」

私が考え込んでいる間にも、椛の攻めは続く。
彼女は剣を大きく振りかぶると、感情を露わにしながらがむしゃらに太刀を振り下ろした。

「死ねっ、死ねェッ!!」

さらに三撃目の斬り上げ、四撃目のなぎ払いと立て続けに私に斬りかかる。
それらの剣に技と呼べる物は宿っていない、私には”でたらめ”としか形容できなかった。
しかし目的ははっきりしている。
どの軌道も、行き着く先はすべて私の首。
狼が獲物の急所に食らいつくように、鋭く、直情的に、私の首を刈り取ろうと狙ってくる。
心が乱れると狙いがわかりやすくなるのは椛の悪い癖だ。
もっとも、椛がここまで取り乱すのは私の前だけなのだから、未熟だと説教するつもりはないが。

「まだ足りないのかっ!? ここまでやっても……まだッ!」

椛が目指す地平は、遥か彼方。
烏天狗と白狼天狗。
生きてきた年月の違い。
努力で埋められない差というのは、どうしても存在する。
いくら才能があっても体には限界があって、時間にも制約がある。
これが追いかけっこだとするのなら、私が大人しく立ち止まっているわけもない。
椛ならいつか、その差すら埋めてしまえそうな気もするのだが――椛の刃が私に届かない最大の問題が、努力の有無ではないことを私は知っている。
いや、きっと椛自身も気づいているはずだった。

「殺してやる、絶対に殺してやる、私が、私が、この手でぇぇぇぇぇっ!」
「椛、もっと隊長らしく振る舞わないと、みんなが見ていますよ」
「隊長なんて関係ないっ、私がっ、私自身の意思でお前を殺すんだ! 殺さなければならないんだ!」

だったら何のために隊長になったと言うのか。
私を見返すためだと、そう言っていた記憶があるのだが、結局私を殺そうとするのなら同じことではないか。

「椛……あなたは」
「うるさい、黙れっ、私の名前を呼ぶなっ、聞くだけで頭がおかしくなる!
 お前のせいなんだよ、全部、全部! だから殺す、殺してやるっ、死ねっ、死ねぇっ!」

死ね。
殺す。
殺さなければならない。
自分に言い聞かせるように繰り返す残酷な言葉。
現実を認めたくない椛が、都合の悪い何かから目をそらすために繰り返す自己暗示。
だが、目をそらした所で存在が消えるわけではない。
いっそ、私が椛の何もかもを理解できない唐変木だったらよかったのに。
なまじ知っているものだから、気付かないわけにはいかなかった。
全てが私の勘違いであればいいと、何度願ったことか。
しかし皮肉なことに私は、”私が椛のことに関して間違えることは絶対にない”と言うことを知っているから――それもまた、勘違いではないのだと理解してしまった。
私に希望を抱かせるのは、椛のそういう態度だ。
どんなに塗りつぶされても、染まりきらない。
感情と感情の間にある小さな隙間に見える、後悔するように微かに光るその異物。
それが私に教えてくれる。
言葉も、仕草も、全身全霊で私に憎しみを向けるその態度と裏腹に、今だって椛は、椛は――

「お前さえ死ねば、お前さえいなくなれば、私はもう、もうっ……こんなに苦しまなくてもいいのだからっ!」

――いや、今はそんなことどうでもいい。
理由なんてどうでもいいじゃないか、結果は一つだけなのだから。
私は死なない。
椛は殺せない。
ただ、それだけのこと。
それだけの、とても、大事なこと。
私という罪人だけでない。
椛という被害者まで巻き込んで、今も私たちを、苦しめ続ける――





……………





疲れ果て、肩を上下させながら息をする椛の背後からこっそりと近づく。
腰にぶら下げていた竹水筒を手に持つと、それを彼女の頬にくっつけた。
びくんと体が震え、耳が天に向かってピンと逆立つ。

「ぷぷっ」

予想していた通りのリアクションに、私は吹き出さずにはいられなかった。
私の笑い声に気づいた椛は、振り返り私を睨みつける。

「あっはははっ、椛ったら可愛いー!」
「っ……誰かと思えば、なんだはたてか。
 人が弱ってるって言うのに、随分と酷いことをしてくれるな」

でもこんなシチュエーションじゃ、睨まれてもちっとも怖くないんだけどね。
むしろ可愛さが増したんじゃないかってぐらい。

「良かれと思ってやったのよ。
 喉、乾いてるでしょ?」
「ならもっと普通に渡してくれよ……はぁ、一応お礼は言っておくよ。ありがとう」

椛は受け取った水筒の蓋を取ると、上を向き、その中身を一気に口の中に流し込んだ。
こういう時でもお礼を忘れないあたり、椛を育てた人はさぞ礼儀正しい天狗なんだろうな。
水の飲み方に関しては……なかなかワイルドだけど、それは個性ってことで。
哨戒部隊って暇な時は暇だけど、忙しい時は何かと物騒な仕事だしね。
普段は穏やかに見えても、実は怖いんだぞーってアピールするぐらいじゃないと舐められちゃうのかも。
わざわざアピールしないといけないってことはつまり、椛の本性は品行方正で穏やかな天狗、ってことなんだけど。
だからこそ、やっぱり解せないんだよね。

「前々から思ってたんだけどさ、椛と文ってなんであんなに仲悪いの?」

椛がここまで疲れているのは、ついさっきまで文と追いかけっこをしていたから。
結局、文にはまんまと逃げられたわけだけど。
それは追いかけっこと言っても、子供の遊びのように平和な物ではなく、捕まれば即死亡のデスゲーム。
私はそんな二人のランデブーを少し離れた場所から観察してたってわけ。

「烏天狗が嫌いってわけでもないのよね、私とは普通に話せてるんだし」

天狗の社会では、未だに種族間の格差が残っている。
特に白狼天狗は他の天狗より下の立場として見られることが多くて、そんなわけで、白狼天狗同士は仲間意識が強いし、無条件で他の天狗に反抗する者も少なくはない。
けど、椛は種族間格差を僻んでいるようには見えなかった。
たぶん、文と椛の間にある確執ってのは、種族の差とかじゃなくって個人的な物なんじゃないかな。

「へ?」

椛は私の方を振り返ると、珍しく間の抜けた返事をした。
いつもキリッとした椛にしてはあんまりレアな顔だったもんだから、貴重だから写真に収めたいぐらい。
でも、何でそんな顔されなきゃなんないのよ、変なことを聞いたつもりは無いんだけど。

「何よその顔、”えっ、そんなことも知らないの? マジで?”みたいな顔しないでよ。
 私が知らないのがおかしいみたいじゃない」
「いや、まさにその通りだからさ。てっきり天狗なら誰も彼もが知ってると勘違いしてたんだ。
 そっか、はたてはほとんど外に出てなかったから知らなかったのか。
 道理で平気な顔して、私とあいつの間を行き来できるはずだ。
 まあ……知らないんならそれで良いんじゃないかな? むしろその方が私にとって都合が良いぐらいだから」

いかにも聞いてくださいみたいな言い方してくれちゃってまあ。

「言っとくけど私だって新聞記者なんだからね、人並み以上に好奇心は持ち合わせてるつもりなんだから。
 そんなもったいぶった言い方されて、はいそうですかって退くと思った?
 むしろ余計に興味が湧いたわ。さあ、キリキリ話しなさい、一切合切包み隠さずにね」
「聞いたって後悔するだけだと思うけど。
 知りたいなら他の誰かに聞けばいい、きっと誰に聞いたって答えてくれるだろうから」
「当人である椛から聞くのが一番手っ取り早いじゃない」

誰に聞いても答えるような内容なら、本人から詳しく聞くのが一番わかりやすいに決まってる。
でも椛は大きく息を吐くと、眉間に皺を寄せて黙りこんでしまった。
いやいや、困った顔したいのは私の方だってば。

「察してくれないかな、私の口からは話したくないってこと」

ははーん、なるほどそういうことね。
思わず手をぽんと叩いてしまうぐらい納得してしまった、確かに少し考えればわかることだったのかもしれない。
こんなんだから、いつもにとりに『はたては相変わらず空気よめないよね』とか言われるのよね。
引きこもりの後遺症なのかな、どうも私は他人の心を読む能力ってのが欠けてるみたいでさ。
お陰で他人の事情にもズカズカと土足で上がり込めちゃうわけだけど。
あれ、これってもしかして新聞記者としては治さない方が良いスキルなのでは。
だからと言って、椛に対する無礼が消えるわけじゃないんだけ。

「そっか、ごめんね」
「別に良いよ、はたてのそれは今に始まった話じゃないから、もう慣れっこだ。
 伊達に長年引きこもりやってないもんね」

わざわざ言われなくたって自覚してるっての。
でも事実なだけに、適当な罵声よりもよっぽど胸に突き刺さる。
自分で言う分にはいいんだけどさ、他の人に言われるとダメージ倍ぐらいになっちゃうのよ。
まさか空気読めなかった仕返しのつもりだったりして?

「酷い言われようね」
「本当だからしょうがない」
「言い返せない自分が恨めしいっ」

私が大げさに悔しがってみせると、椛はケラケラと笑った。
釣られて私も笑っちゃって、すっかり微妙な空気は吹き飛んでしまった。
さっきまで殺し合いをしていた椛の姿はそこには無い。
真面目で、温和で、誰に対しても優しくて、一方で親しい相手の前だとちょっと毒を吐いたりもする、そんなイメージ通りの椛だった。
だから、なおさらに気になる。
何をやったら椛をここまで怒らせることが出来るんだろう、って。





椛から話を聞けなかった私は、文を追って天狗の里へと向かう。
他の誰かに聞けというのなら、もう一方の当事者である文に聞くのが道理というもの。
とはいえ文の現在位置なんて知る由もないので、とりあえず当てずっぽうで天狗の里にある文の家の前へと向かう。
するとそこには、玄関を背もたれにして地面に座り込む文の姿があった。
椛のように体力的に消耗している様子はないが、顔は焦燥しきっている。
家に入る気力も残ってないってことかな、事情は知らないけどこりゃ重症っぽいなあ。
私が文の前に降り立つと、彼女はゆっくりと顔を上げた。
うわあ、正面から見るとなおさらひどい。

「これはまた、随分とやつれてるわね。
 もしかして、今日の椛がいつもより激しかったせい?」

別にそんな意図は無いんだけど、変な意味に取られなかったよね、今の。

「見てたなら助けろっての……」

良かった、今の文には突っ込みを入れる余裕すら無いみたい。
声にも覇気が無いし、さっきも言った通り顔が完全に死んでるし。
いつも生意気なぐらい生き生きとしてる文がこの有様とは、お医者さんまで連れてった方がいいのかしら。
確か診療所がそこそこ近かったはずだけど……大げさすぎるかな。
椛の攻撃はうまく避けてたし、実は見た目ほど体調が悪いわけじゃないのかも。

「その必要があったの? 顔色が悪いわりには、文にはまだまだ余裕があったみたいだけど。
 見てるだけの私が腹立たしくなるぐらいにね、椛だって怒るに決まってるわ」
「本気を出したって怒るのよあの子は」
「だったらもっと徹底的に避ければいいのに、文だったら絶対に椛に見つからないルートとか知ってるはずよね?」

哨戒部隊の配置とかも全部掴んでそうだしね。
とはいえ、今日の椛は所定の場所とは全く違う場所にいたわけだから、文にとっても予想外だったはず……なんだけど。

「……まあ、ね。あんたの言うとおりなんだけど」

んん? 
なんだろ、この反応。
ここで言葉を濁したってことは、まるで自分から会いに行ったとでも言ってるみたいじゃない。
少し離れてたからはっきりと聞こえたわけじゃないけど、さっき椛と揉めてた時は、”自分から会いに来たわけじゃない”とか言ってなかったっけ。
でも今の言い方からして、本当は自分から会いに行ってたってこと? 殺されるかもしれないのに?
いやいや、でも椛はたまたま文を見つけただけで――まさか、それも理解した上で、あえてあの場所を選んだってこと?
そんなバカな、二人の確執の根が深いと言っても、そんな心の内を読むようなことできるわけがない。

「何よその顔、聞きたいことがあるなら言いなさいよ」

聞いていいものか、聞いたらまた空気よめないとか言われそうだなあ。
なにせ当事者その2だしね。
でも気になるなあ、やっぱ聞いちゃおうかなあ。
まあ、許しをもらったのならいいのかな。

「もしかして文って、自分から椛に会いにいってたの?」
「どうかしらね……」

何だそのもやっとする反応は、自分から振っておいて。
やっぱりそういうことなの?
気になる、空気読めてないのはなんとなくわかるけど、どうしても気になる。

「……話したくないんならそれでもいいけどさ」

しかし”空気が読めない”と言われたくない私は、これ以上踏み込めないのです。
嫌気が差すほどチキンだなあ、私ってば。天狗なのに。
いや、でも烏天狗だし、鳥だし、チキンで間違ってはいない気もする。

「それにしたって椛の嫌い方は尋常じゃないわよね、どうみても本気で命狙ってたし。いくら嫌いだからって普通あそこまでやるかなあ」
「普通では……ないんでしょうね」
「なんでそこまで嫌われたのよ。
 椛にも聞いてみたんだけど、天狗ならみんな知ってるみたいなこと言われてさ、そのくせ聞くなら自分以外を当たれって追い返されたのよ」
「当人である椛がそう言ったんなら、その片割れである私も話したくないことぐらい察しなさいよ。
 本当に空気の読めないやつ」

ああ、結局また言われちゃった。そんな気はしてたけど。
予め予測してたおかげで、椛に言われた時よりは幾分かダメージは軽減されてる。
それでも痛いもんは痛いけどね。
椛の場合は鉄パイプがぐさーっと心に刺さったぐらいだったけど、今のは竹槍がぐさーっぐらいで済んでる感じ。
ささくれ立ってる分、竹槍の方が痛い気がするけど、多分気のせいだと思いたい。
でも今の私はこの程度では挫けない、なんたって支えがあるのだから。
ひるまず追求を続ける。

「他人からも話は聞けるだろうけど、私は詳しい話を聞きたいの、となるとやっぱり本人に聞くのが手っ取り早いと思って。
 で、なんで椛と仲悪いの? やっぱり文が嫌がらせしたから?」
「はぁ……できれば私も話したくないって言ったつもりだったんだけど。
 まあ、嫌がらせをしたからってのは間違ってないかもしれないわね」
「そりゃそうよね、椛に非があるとは思えないもの、やらかしたのは文の方って相場が決まってるわ」

私がそう言うと、文はなぜかこっちを睨んでくる。
いや、自分でそう言ったんじゃない、睨まれる筋合いは無いってば。

「当時の椛がこれ以上嫌がることはないってぐらい――って言うと自惚れになるかもしれないけど、それに近いことをやってのけたわ。
 一族郎党、千年経ったって恨まれ続けるようなことをね。だから椛に命を狙われるのは……そうね、きっと因果応報なのよ」

自惚れっていうのがよくわかんないんだけど、私って昔の椛のこと知らないからなあ。
当時の椛が一番嫌がることって言われてもピンと来ない。
それでも、殺されるのも仕方ないって思うっちゃうぐらいのことをやらかした自覚はあるみたいで、そうなるとますます、自分から会いにいった理由もわからなくなってくる。
椛の恨みを一身に受けることで贖罪をしている、とか?
怒らせてる時点で全然償えてないと思うんだけど、どうなんだろう。

「因果応報とか言ってる割には、椛の剣は避けるのね。素直に報いを受けるつもりはないの?」
「私に死ねと?」

相応の罰を受ける気は無いと。
メモメモ。

「書くなっての」
「ライバルを蹴落とすのに役立つかと思って」
「情けないわね、実力で蹴落として見せなさいよ」
「こういうのも実力のうちだって文が教えてくれたんじゃない」
「どんだけ私を悪人に仕立てあげるつもりなのよ!?」
「悪人じゃないのよう」

あの椛から命を狙われるほど恨まれる程度には。
そう、”あの”椛から恨みを買ったのだから、それはもうよっぽどの大罪ということになる。

「そりゃあ、うん、悪人なんでしょうけど。
 私だって……その、色々あったのよ! 本当は、あんな……」

そう言って文は自分の膝を抱えると、顔を伏せてしまった。
どうやら、私はまた何らかの地雷を踏んでしまったらしい。
そうは言われても、事情を知らない私にしてみれば、わけわかんないとしか言いようが無い。
自分が悪いって言ったくせに、悪人扱いされると凹むなんて。
それとも悪人にならざるをえない何らかの理由があったってこと? はたまたただの言い訳かしら。
なんにせよ、この様子じゃ二人の間に何があったのかを聞き出せそうにない。

「理由が知りたいなら、にとりにでも聞けばいいじゃない。
 仲の良いあんたにだったら話してくれるでしょう」
「にとりも知ってるの?」
「もちろん。
 と言うより……椛も似たようなこと言ってなかった?
 里の天狗なら、よっぽど若い天狗か、あんたみたいに引きこもってた奴以外はみんな知ってると思うってさ」
「にとりは天狗じゃないわ」
「私たちと親しい妖怪なら誰でも知ってるってことよ、察しなさい」

確かに、椛もそんなことを言っていた。
みんなが知ってるってことは、かなりの大事件だったってことよね。
その割には、文に対する風当たりはあまり強くない、他の天狗たちもごく普通に接してる。
事件の原因が文にあるのだとすれば、もっとみんなが文を嫌って無ければ辻褄が合わない。
文も”やりたくてやったわけじゃない”って言ってたし、同情の余地があって、事情をみんなも知ってたってことなのかな。

「もし渋られたのなら私の名前を出せばいいわ、本人の許可はもらってるってね。
 ただし、私はともかくとして椛の前でその話は二度としないことね、あの子はへそ曲げると面倒だし長引くから」

前々から思ってたけど、文が椛のことを話す時、いつも”あの子”って呼び方するのよね。
本人不在の時に限ってだし、普段は呼び捨てなんだけども。
それって少なくとも、自分を殺そうとしている相手に対する呼び方じゃ無い気がする。

「ねえ、もしかして文って……」
「ちなみに、私も調子が狂うから、できればあまり椛の話題は振らないで欲しいわ」

釘を刺されてしまった、ぐぬぬ。
答えるつもりはないと、そういう意思表示なんだろうな。
まあ、にとりも知ってるって言ってたし、あいつから聞けばいいかな。
……ん、待てよ。

「これってもしかして、椛の話題こそが文の弱点ってことになるんじゃ?」
「別にそういう風に使ってくれても構わないけど、あんまりしつこいと命の保証は出来ないわよ」
「藪蛇?」
「仏の顔も三度まで」
「あはははっ、文が仏って何の冗談よぉ」

私の言葉を聞いた文は、満面の笑みを私に向ける。
その目には、暗い炎が宿っていた。

「三度まで。
 わかってるわよね、はたて?」

ぞくりと背筋が凍る。
あ、だめだこれ、冗談じゃなくて本気だ。

「ごめんなさい、もう聞きません」
「聞き分けのいい子は好きよ。
 ……椛も昔は、今のはたてぐらい素直だったんだけどね」

素直に謝ったご褒美ということだろうか、文は最後に一つだけヒントをくれた。
つまり昔は、文と椛は今のように殺しあう仲じゃなかった。
むしろ――親しかったんじゃないかな、今の私とにとりみたいに。





文と別れた私は、言われた通りに二人の事情を知ってそうなにとりの元へと向かった。
来客が私だとわかるとにとりは顔に喜びを輝かせながら、家の中に入るよう急かす。
部屋に入ると、オイルの匂いが鼻を突く。
すっかり嗅ぎ慣れて、今は以前のように気分が悪くなることもない。
むしろ嗅ぐと安心感を覚えるほどで、自分がにとりに染められていることを痛感する。
それにしても、匂いはともかくとして、このとっ散らかった部屋にはどうにかならないのかな。
私も特別綺麗好きってわけではないんだけど、足の置き場が無いほどに散らかってるのはさすがにどうかと思う。

「はたてが来るってわかってたら綺麗にしておいたのに」
「気を使って綺麗にされる方が不安よ、これぐらい散らかってた方がにとりの部屋っぽいから……とは言え、限度はあるけど。
 他の妖怪を呼ぶときは片付けたほうがいいんじゃないかしら」
「そこんとこは大丈夫、私はプライベートスペースにはたて以外を入れることは無いから」

にとりはそう言って、なぜか自慢気に胸を張った。

「それ誇られて喜んでいいの?」

イコール、友達居ないってことじゃない。
いや、にとりに友達が居ることは知ってるんだけどさ、それに私だけ特別扱いってのは純粋に嬉しいし。
ま、いっか。
にとりの言葉なんて深く考えるだけ無駄なことの方が多いんだから。

テーブルの上は、ネジやら配線やらでごちゃごちゃとしていた。
私が座ったソファの前も例外ではなく、にとりは台所でお茶の準備をしているようだが、目の前にはマグカップを置くスペースすら無い。
お茶の準備が終わり、にとりが台所からこちらへと戻ってくる。
どうするつもりなのか、不安げににとりの行動を見守っていると、案の定、彼女はマグカップを持っていない方の手でテーブルの上をなぎ払い、強引に道具をどかした。
もちろん退かされた物たちは床に散らばる。

「そんなんだから片付かないのよ……」
「大丈夫大丈夫、ここに置いてあったのは大したものじゃないし、私は何がどこにあるのか把握してるから」
「そういう問題じゃないでしょうに。
 にとりに整理整頓を期待しても無駄だってのはわかってるけど」

私にはゴミが散らばっているようにしか見えないが、これで本当に全ての道具の位置を把握しているらしく、だからこそにとりは整頓の必要性を感じていないらしい。
本人が良いのなら問題は無いのかもしれないけど、私もこの家には頻繁に通っているわけで。
さすがにここまで散らかっていると、落ち着いておしゃべりすらできない。

「頑張って片付けてみるかなあ」

にとりは私の隣に座ると、そんな心にもないことを言い出した。

「あんたがやったってどうせ片付かないでしょ、そのうち私がやるわ」
「片付けてくれるの?」
「うん、やったげる。
 私に文と椛の関係を教えてくれたらね」

私は単刀直入に話題を切り出す。
するとにとりは、首をかしげながらきょとんとした顔で言った。

「文と、椛って……別に構わないけど、なんでまた今更」
「今更なんて言われても私は知らなかったのよ、まだまだ引きこもり全盛期だったから」
「今も大して変わってな、いたっ、痛い痛いっ、横腹は抓るなっていつも言ってるじゃんかよう!」

これでもかなり改善された方だっての。
今日だって椛に文、にとりの三人に話を聞くため、外を出歩いたんだから。
全員身内だけど。まともに話も聞けなかったけど。
でも進歩は進歩よ。
人の進歩を笑うやつなんて痛い目を見て当然なの、にとりに文句をいう資格なんて無いんだから。

「適度にぷにぷにしてるにとりのお腹が悪いのよ。
 ほれほれ、余計な話はせずに素直に話しなさい」
「その強引さ、文に似てきたんじゃ……あだっ、ごめんっ、話すからっ、素直に話すから横腹は勘弁してってば!」

強引になってきたってのは自分でも感じてたけど、文に似てるってのは心外だなあ。
参考にするべき部分は大いにある、でも似てるって言われるのは何か嫌だ。

「ふぅ……まったく昔の可愛かったダウナー系はたてはどこに行っちゃったんだか」
「あの頃の私が大人しかったのは、単に生きる気力が無かっただけよ」
「自分で動こうとせずに、何かと私に甘えてばっかりで可愛かったなあ。
 ま、今のはつらつとしたはたても可愛いけどね、私は好きだよ」
「さらっと口説かないの。
 いいから早く教えてよ、そのあとだったらいくらでも付き合ってあげるから」

文句を言いつつも、脳内にピロンという効果音が響き、にとりに対する好感度が1ポイント上がる。
なんか顔も熱くなってきたし、単純だな私。

「そういう顔したはたてはさらに可愛い」
「うっさい、いいから聞かせなさい!」

ああ、このタイミングで怒鳴ったって照れ隠ししてるって思われるだけじゃない。
さらに顔が熱くなる。
やだやだ、どうせにとりは私がこうなるってわかっててやってるに決まってるんだ。
何十年もやられてるんだから、いい加減慣れろっての私。

「ちなみに、あんま楽しい話じゃないけど、それでもいい?」
「椛と文の様子を見てたらわかるわ。
 でも、どうしても知りたいのよ、身近な友達が不仲だったらどうにかしてあげたいって思うのが人情じゃない」
「余計なお世話だと思うけどなあ」

空気を読めてないのは承知の上。
わかった上で、それでも知りたいって思ったのは、紛れも無く私の意思なんだから。
他人に何を言われようと、曲げるつもりはない。
私が本気だと理解したいのか、にとりは諦めたように大きく息を吐くと、気まずそうに話を始めた。

「簡単に言うとさ、あの二人が昔付き合ってたって話なんだけど」
「は? ……は!?」

思わず二回驚いた。
けれどそれでも驚き足りない。
だって、そんなの、二人が……付き合ってたって、そんな馬鹿な。
いや、そうよ、馬鹿げてる、ありえない!
確かに文と椛は親しかったかもって予測はしたけども、でもお付き合いは、ねえ?
きっとにとりは私をからかって遊ぼうとしてるんだわ、そうに違いない。

「待って、ちょっと理解が追いつかないんだけど。
 それは……冗談ってことでいいの? 笑えない河童式ジョークってやつ?」
「河童を何だと思ってるんだい、嘘つく価値もないぐらいの周知の事実さ。
 もちろん別の意味でもない、はたてが思ってる通りの意味でね。
 あの二人は付き合ってたの、私達みたいに」
「はっはっは、この姫海棠はたて、いくら人情に溢れてると言ってもそんな見え透いた嘘を信じられるほどピュアじゃあないなあ」

そうだ、これは嘘だ、嘘じゃなきゃおかしい。
あの殺し合ってる二人が、何がどうなって付き合うことになるというのか。
例え世界がひっくり返ってもそんなことありえない、そう断言できる。
あ、ちなみに私たちは付き合ってなんかないから。

「その反応、逆に新鮮だね。
 昔の二人を知ってたら、むしろ今の状況こそ信じられないって言うと思うよ」
「そんな、まっさかぁ。
 今の二人からじゃ想像できないわ、昔はどんな様子だったって言うのよ」
「そりゃもう、四六時中べったべただよ。今の私達みたいに」

にとりはどうしても私を絡めないと気が済まないらしい。
もちろん聞こえなかったふりをしてスルー。
というか構ってる余裕なんて無いしさ、あまりに驚愕の事実すぎて。

「椛っていつも忙しそうにしてるじゃない、そんな四六時中なんてとても」
「あの頃はまだ文も新聞記者やってなかったし、椛も下っ端の中の下っ端だったからねえ、今ほどきっちり仕事もしてなかったのさ。
 だからべたべたする時間はいくらでもあったの」
「人前でべたべたなんてあの椛が許すはずがないわ!」
「文はともかく、椛の性格なんて今と真逆だよ? 百年経ったってあの口調には慣れないなあ、本人も無理してる気がするっていうかさ」

性格はおろか口調まで違うと。
椛の人格が変わるほどの事件って、あの二人に一体何があったって言うのよ。

「真逆って、そんな大げさな」
「大げさなんかじゃないよお。
 昔の椛はね、人前で文にキスをねだったりとか、平気でやっちゃってたんだから」
「あ、あの椛が!?」

やだ、キスなんてそんな破廉恥な真似を、しかも人前でなんて。
ほんとにそれ椛なの? 椛の皮を被ったそこらの犬っころとかじゃないの?
それにそれを受け入れる文も文よ、それが本人の行動だとは到底信じられない。

「うん、あの椛が。
 しゃべり方ももっと乙女っぽいと言うか、女の子らしい喋り方だったのにさ」
「文と命がけの追いかけっこしてるイメージしか無いんだけど……」
「可愛さ余って憎さ百倍って言うでしょ、もう別れて随分と経ってるはずなのに、まだ気持ちの整理が出来てないんだろうね」
「別れたんだ……ってそうよね、今も付き合ってるんなら殺したりしないはずだもの」

だけど、ここまでの話じゃまだ文が椛に恨まれる要素は一つもない。
たぶん、どちらかが別れを切り出して、そのあたりが絡んでくるんだろうけど――

「別れたっていうか文が捨てたって方が正しいかな、一方的に突き放したわけだし」
「恋人ならそういうこともあるんじゃないの?
 しばらくは恨まれるでしょうけど、さすがに百年は……ねえ?」

二人の関係の深さを実際に見たわけじゃない。
ひょっとすると、百年ぐらいじゃ癒えないほど愛し合っていたのかもしれない。
でも、いくらなんでも、その愛は重すぎやしないだろうか。

「普通じゃなかったんだろうね。
 あの二人の場合、別れる前日まで今までと変わらずいちゃいちゃしてたからさ、本当に突然の出来事だったんだ。
 椛はもちろんのこと、周りの天狗たちや二人と親交のあった私だってびっくりだったよ。
 ほら、覚えてない? ちょうどその頃、私がはたてに会いに行った時、珍しく考えこんでたことあったでしょ?」
「あったような、無かったような」

何せ百年以上も前の出来事だ、はっきりとは覚えていない。
あの頃のにとりはそれこそ毎日のようにうちに来ていたのだから、いちいち記憶してたんじゃ脳の容量がどれだけあっても足りやしないっての。

「当時は印刷技術も今ほど進歩してないし、紙の供給量もまだまだ少なかったから、今ほど新聞で情報が拡散されることは無かった。
 なのにあの二人の話は瞬く間に山中に広がっていったんだ、つまりそれだけ注目度の高い話題だったってことだね。
 今だったら新聞の一面を飾ってるんじゃないかな、天狗の里はおろか、妖怪の山でも有名な二人だったし」
「有名だったっていうのは……」
「所構わずいちゃついてたからね」

ああ、やっぱり。
里だけじゃなく山全体で有名人だったとは、二人のいちゃつきっぷりは、私の想像を遥かに凌駕していたようだ。

「別れた直後の椛は茫然自失で、喋るのはおろか歩くことすらままない状態になっちゃってさ。
 もちろん文は面倒見てくれないから、仲の良い私がフォローすることになって。
 はぁ、あの時はほんと大変だったなあ、思い出しただけで当時の疲労が蘇るようだ」
「文は、そんな状態の椛を見て何もしなかったの?」
「何回も説得したんだけどね、話も聞いてくれなかった。
 椛は放っておいたら自殺しそうなぐらい落ち込んでたのにさ。
 そのくせ、文ってば自分から捨てたくせに何故かイライラしてるし。
 結局そのまま、二人が別れた理由はわからないでうやむやになって今に至るってわけ」

そしておそらく、文の苛立ちは今でも消えてはいない。
椛も……どうなんだろう、好きの反対は無関心だって言うし、殺すほど憎んでいるということは、本当は今もまだ引きずっているのかもしれない。
椛が感情をむき出しにするのは、文の前でだけだ。
例えそれが殺意だったとしても、未だ椛の感情を最も大きく揺さぶる事が出来るのは、文であることに違いはない。

「あの二人、随分と深い関係だったのね。
 単純にそりが合わなくて、犬猿の仲になっただけかと思ってた」
「あ、その犬猿の仲って言葉、二人の前で言わないほうがいいよ」
「どうして?」
「椛に言うと”私は犬じゃない!”って噛みつかれるし、文に言うと”私は猿じゃない!”って怒鳴られるから」
「めんどくさ……」

どっちが犬でどっちが猿なのかはちゃんと理解しているらしい。
離れ離れになっても以心伝心は消えてないってことか。

「そういえば、はたては二人が元はどういう関係だったかも知らないんだっけ?」
「元?」
「恋人になる前の話ってこと。
 そっか、やっぱりそっちも知らなかったんだ」

私だって、二人が出会った即恋人になったわけではないことぐらい理解している。
でもそれが、今の二人の関係とどう繋がってくるというのか。
私が首をかしげると、にとりはなぜか得意げな顔をしながら続きを語りだした。

「文は椛にとって憧れのお姉さんだったの。
 家が近所だったとかで、小さい頃から椛の世話を文がしてたんだ」
「憧れのお姉さん、ねえ」

二つの単語が揃って私の中の文のイメージと一致しない。
ここまで聞いても、私の想像する文と椛とは全くの別人なのではないか、という疑惑が付きまとって消えない。
にとりには申し訳ないけど、内容があまりにショッキングすぎるのよ。

「あの二人って、そんなに長い付き合いだったんだ」
「二人の執着が今も消えない理由、なんとなくわかってくるでしょ?
 恋人になる以前から、仲の良い姉妹みたいだって評判の二人だったんだよね。
 付き合い始める前から常にべたべたしてて、外を出歩く時なんかは必ず手を繋いでたぐらいさ」

今の二人が手を繋いで歩いている所を想像しても違和感しかない。
どっちかの手が折れてるか、椛が文の首に食らいつくシーンだったらしっくりくるんだけどなあ。
やっぱりあの二人にはバイオレンスがよく似合う。
……ってのも、私の勝手なイメージなんだろうけど。

「だから、恋人になってからの二人の行動にも、周囲の妖怪たちは耐性があったんだ。
 そのおかげで、度を越したいちゃいちゃっぷりを見せられても、微笑ましく二人の仲を見守ることができたの」
「……それ、本当にこの世界の話?」
「もちろんだよ、勝手に平行世界に移動しないでよ。
 過去の新聞のバックナンバーでも見てきたらいいんじゃないかな、時期が時期だけに数は少ないだろうけど、新聞が全く無かったわけじゃないからね。
 たぶんどこかに、古ーい写真ぐらいは残ってると思うよ。
 特に恋人になりたての頃の椛の浮かれっぷりはすごかったから、自分から記者にべらべら喋ってるかもね」

文と恋人になって浮かれる椛なんて、そんなのもう椛じゃない。
でも私以外の妖怪たちにとっては、今の椛の方が椛らしくないってことなんだよね。

「うーん、でもそうなってくると、なおさら文が椛を捨てた理由がわからなくなってくるわよね。
 文にとっても椛は妹みたいな存在だったってことでしょう?」
「そう、私とはたてみたいにね」
「それは……まあ、否定しないであげるわ」

私をあの狭い世界から連れだしてくれたにとりは、間違いなく私にとって唯一無二の存在だった。
姉妹という呼び方が正しいかは別として、友達やその他諸々の呼び方よりは、姉妹の方が近い性質を持っているのかもしれない。

「わお、意外だ」
「人の心に容赦なく入り込んだくせによく言うわ」

それもノックもせず、土足で堂々と。
結果的に、私の心の中には、にとりの専用の誰にも侵せない専用のスペースが出来てしまった。
それは私が望んだものではなく、にとりが強引に作った居場所だ。
本来なら存在しないそれは、今では私にとっては必要不可欠な、云わば聖域のようなもの。
私とにとりが普段は軽口を言い合うような関係だとしても、きっと私はその領域無しでは生きていけないぐらい、彼女に依存している。
私からその領域を消そうとしても、薬か変な術でも使わないかぎり、一日やそこらで目的を達することは出来ないはず。
それほどまでに深く、強く、広く、もはや私自身と言ってしまっても過言ではないほど図々しく根付いていた。
なのに文と椛の関係は一日で変わってしまった。
数十年、あるいは百年以上をかけて築き上げてきた関係なのに、ほんのそれしきで心変わりすることなんてありえるだろうか。

「しっかし、解せないことばかりね。
 別れた時点で文がイライラしてたってのも理解できないわ、自分で振っておいて」
「そうなんだよねえ。
 そのくせ、本人に聞いても絶対に口を開こうとしないし。
 なのに最近はやけに椛に絡むしさあ、付き合いの長い私にもさっぱりさ」

文ははっきりと言葉にはしなかったが、自分から会いに行ったことを否定はしなかった。
二人が姉妹のような関係を経て恋人になったのだとしたら、文が椛の行動パターンを把握している可能性も否定はできなくなってくる。
この方法なら、回りくどい方法ではあるが、”自分から会いに行ったわけではない”という言い訳は出来る。
そして文は、殺意を向けられることを理解しながらも、椛と会話をするためだけに彼女に会いに行った。
……ってこれが本当だとしたら、未練どころの話じゃないじゃない。
重いわ、文の椛に対する愛が重い!

「とにかく、尋常ではない恨みには尋常ではない理由があるってことだよ。
 椛が文に向ける並々ならぬ憎しみの原因は、そういうことがあったからなんだ。
 わかってもらえたかな?」

それはわかってる。
形は違えど、椛が尋常じゃないほど文に執着していることは実際に見て確かめたから。
あれは、ただ嫌いなだけとか、生理的に受け付けないとか、そういう一般的な嫌悪の延長線上にあるものではない。
親を殺されただとか、あるいは死んでもいいと思うほどの愛情、その裏返しであるとか――とにかく特別でなければ、成立しない物のように感じられた。

「ありがとう、わかりやすかったわ。
 ごめんね、最初は疑ったりして」

まだ完全に把握しきったとは言いがたいが、にとりのおかげで大まかな顛末を知れたのは事実。
私が素直にお礼を言うと、にとりは下婢た笑みを浮かべた。
あーあ、また変なスイッチ入っちゃったよ。
変なスイッチってのは、にとりが調子に乗るとオンになっちゃう通称変態スイッチの略称。
その名前の通り、スイッチの入ったにとりは漏れ無くいやらしい要求をしてくるという、迷惑極まりないスイッチなのである。
ちなみに二人きりの時しかオンにはならないらしい。

「いいっていいって、お詫びにパンツ見せてくれればそれで」
「あんたねえ……」

人がシリアスにお礼言ってんのに、何言ってんだかこのエロガッパ。
私がそんなはしたない真似を、いくらご褒美とは言えやるわけがないじゃないか。

「えいっ」

……なんて言いつつ、立ち上がって、大胆にちらり。

「おふぅっ」

こやつめ、悶えよった。
さながら水を失った魚のように、びくんびくんと。
なんだか楽しいので間髪入れず連続で見せることにする。

「ま、まさか……本当に見せてくれるなんて」
「ちらっ、ちらちらっ」
「あふっ、おひぃんっ」

伊達に付き合いが長いわけじゃない、百年にも及ぶの付き合いで彼女の変態っぷりは幾度と無く見てきた。
それは私が引きこもりだった頃から変わらない。
そのせいで私もにとりの変態要求にすっかり慣れてしまって、平然と対応出来るようになってしまった。
私には何がいいのか私にはわからないが、昔からにとりにはこのチラリズム攻撃がよく効くのだ。
ちらりちらちらと布っ切れを見せるだけで、にとりは悶えながら体をびくんびくんと震わせるのである。
そして見せている私は優越感に浸る。
ええわかってる、わかってるのよ、ぶっちゃけ私もにとりに負けず劣らずの変態だってことぐらいはね!
もちろん最初は自分から見せたわけじゃなく、偶然に見えただけだった。
にとりも今ほど明け透けに見たがったりはしなかったし、ほんのアクシデントだった。
それがいつの間にかエスカレートして、今じゃあこんな人にはとても見せられない遊びをするまでになってしまって。

「にとりは変態さんねえ、こんなのがいいの?
 こんな薄っきれを見せられて喜んじゃうわけ? ほれほれっ」
「だ、だめだよはたてっ、そ、そんなはしたない……ああ、でも駄目だどうしても見てしまうっ、首がっ、視線がっ、欲望に逆らえない!
 はためくスカート! 微かに顔を撫でる風! そしてはたての甘い香りっ! どれをとっても……一級品……あひぃぃんっ!」

にとりがひときわ大きな声を上げて仰け反る。
気を良くして、サディスティックな笑みを浮かべながらチラリズムを続ける私。
……それと同時に、部屋に入ってくる人影。
人影は部屋の入口で足を止めると、心底呆れた顔をして、控えめの声で言った。

「二人とも、何やってるの?」
「あっ」
「も、椛……?」

まさかのタイミングでまさかの来客。
入ってきたのは犬走椛、まさにたった今まで話題にしていた、渦中の人物である。
噂が呼び寄せてしまったのか、何にせよ状況は最悪。
視界に移るは目を覆うような惨状。
悶えるにとり。
そしてパンツを見せつける私。
どっからどう見ても、アブノーマルプレイの最中にしか見えない。
というかアブノーマルプレイそのものですよ、はたてさん。

「ち、違うの、違うのよ椛っ」

とりあえず否定してみたが、どう否定しようとも言い訳できる状況ではない。
いっそ「パンツ見せてましたー、てへっ」と開き直った方がマシじゃなかろうか。
私とにとりがそういう関係だと勘違いされる可能性もあるけど、軽蔑されるよりはいくらかマシだと思う。
私は全てを諦め、何もかもを素直に話そうとした。

――だが、にとりだけは違った。

それでも、この絶望的な状況に置いても、諦めようとはしなかった。
絶対に弁解は無理な状況だと理解しながらも、運命に抗い始めたのである。

「そうそう、違うんだ! こ、これは……そうだっ、新しい発明の実験をしてただけなんだ!
 ねっ、そうだよね、はたて?」

”そうだ”とか言ってる時点で今思いついたのはバレバレだと思うんだけど。
……まあ、やれるだけやってみますか。

「そうね、その通りよ、新しい発明なのよこれ!」
「どのへんが?」

椛のもっともな突っ込み。
ええ、その通りです、私も全く同じ感想です。
でも一応にとりに乗っかっておく。
天才発明家のにとりなら、この場を丸く収める画期的な発想ができるはず!
……たぶん。

「見てなよ。
 ほらはたて、またさっきのやって!」
「さっきのって?」
「スカートパタパタに決まってるじゃん、ほれほれ早く!」
「こ、こう?」

言われる通り、スカートをはためかせる。
もちろんスカートの下のセクシー生地は見えないように、さっきよりは控えめにしながら。
スカートの動きによって生まれた風は、にとりの顔へ向かって流れていく。
そして風を受けたにとりは先ほどと同じように、再び悶え始めた。

「おうっ、あはぁぁんっ! イエスッ、イエスッ、イエェェスッ! そう、それ! いいよぉー、いい風来てるよぉーっ!
 わかったかな椛、これが私の発明、仰ぐとすげー風が来るスカート!
 一見して普通のスカートに見えるじゃん? それがすごいとこなんだよ、デザイン性を損なわずに機能性を追加したまさに次世代スカート!
 あんな風に軽くパタパタするだけで、ほら見てよすごい! すごい風来てる! 感じる! 私、今まさに風を感じてる! 風になれる気すらする!
 これさえあれば夏の暑い日でも完璧だ! うちわはおろか扇風機すら要らない! どこでだって気分はソゥクール!
 おふぅっ、んはぁぁぁんっ、すごいっ、半端ないっ、さすがはたてのスカート! さすが私の発明ッ! いいよぉ、もっと、もっと……そう! その調子!
 あぁ、これなら、こんなに涼しいなら今年の夏も乗り切れるね! ね、はたてっ!?」

発明品だろうがなんだろうが、どこからどうみても変態である、言い訳は出来ない。
いや、にとりだって気付いているんだ、これが無駄なあがきだってことぐらい。
それでも彼女は諦めない。
常に新しい技術へ挑戦していく姿勢、それはイコール何事にも諦めずに立ち向かっていくことに他ならない。
彼女はとにかく必死だった。
必死に悶え、例え冷たい視線を向けられたとしても、それをやめようとはしない。
いずれその無謀な挑戦が実を結ぶ日が来ると信じて、悶え続けている。
実に滑稽な光景だった。
けれど、それをどうして、私が笑うことができるだろうか。
彼女が挑戦し続けているのは、他でもない、私を守るためだというのに。

「え、ええ……そうね、乗りきれるわ」

だったら、私にできることなんて一つしかない。
信じる。
にとりを、信じる。
例え椛に軽蔑されたとしても、私だけはにとりのことを信じ続けなければ。

「だってこれすごいもの、すっごい風来るもの、ぱたぱたしてる私も涼しくってたまらないわ、まるで北極に居るみたい!」
「そうだよね!? そうだよ、そうなんだよ、これすごいんだよっ、半端無いんだよ!」
「まるで空を舞っているみたい! 風がっ、風が私たちを祝福してくれている!」
「はたてにも伝わったんだね、この風が! 私たちを優しく包む、この大いなる風が!
 ……どうかな椛、この機会に椛もこのスカートを――」
「い、いや、いい、遠慮しとくよ」
「そっかぁ残念だなあ、こんなに涼しいのにぃ。
 でも椛が望まないなら仕方無い、残念だけど、心の底から悔しいけどこれはもう仕方無いことだ。
 ……で、椛。一体今日は何の用かな?」

にとりのあまりの必死さに椛も引き気味だ。
もちろん私も引いた。
一応は付き合ってあげたけど、やっぱり酷いものは酷いと思う。
にとりはどうやら誤魔化しきれたつもりで居るらしいが、断じてそうじゃない。
なんだか可哀想になって見逃しただけだ、つまり椛の優しさなのだ。
よかったねにとり、よかったね私、椛が優しい子で。

「ま、まあいいや。
 用と言うか、休憩時間だから遊びにきただけだったんだけど、このタイミングではたてが来てたってことは”そういうこと”でいいのかな?」
「そういうことって、どゆこと?」

にとりの頭の上に疑問符が浮かぶのも仕方がない。
事情を知るのは私と椛だけなんだから。

「さっきまで話してたじゃない、そういうことよ」
「あー、文と椛の話か。なんだ椛に話通してたんだ、それで本人が吐かなかったから私に回ってきたと。
 なるほどね、確かに椛は絶対に話したがらないよねえ」
「……」

椛は気まずそうに顔を伏せる。
やっぱり、今でも心の傷は完全には癒えたわけじゃなさそうだ。
別に私は気にしないんだけどね、二人の関係がどうであろうと、私の態度が変わるわけじゃないんだし。
でも一番の問題は、それを椛が気まずいと思っていることで。
私の意思なんて関係ない。
今、私がここにいるせいで椛が居づらいと感じているのなら、私は素直に消えてしまおう。

「えっと、じゃあ私はそろそろお暇させてもらうわ」
「待って、何もそこまで気遣いしなくても」
「そんな顔されちゃ私の方が居心地悪いっての、昔の話をほじくり返したのは私の方なんだからさ。
 別に椛が来たから帰るわけじゃないわよ、元から帰ろうと思ってたの。
 そのタイミングが椛の来たタイミングと合致しただけ」
「えー、帰っちゃうの?」
「あんたは少し空気を読みなさいよ……」

まさか私がこのセリフを言うことになるとは。
にとりの気持ちはわかるけどさ、私だって出来ればもう少しじゃれていたかったし。

「ぶーぶー」
「だから、別に今生の別れってわけじゃないでしょうに」
「やだやだー、もっとはたてといちゃいちゃしーたーいー」

ハナからいちゃいちゃなんてしてないっての。
頬膨らまして駄々こねてみたって、今の状況が変わるわけじゃないんだけどね。
あー……でも、私ってば、引き止めてくれて嬉しいなんて思っちゃってるんだよなあ、ちくしょうめ。
私の意思なんて関係なく、心の中に住み着いちゃった厄介な好意が、勝手に喜んじゃうのよ。
本当なら、にとりのワガママなんて面倒くさいの一言で片付けるだけなのにね。

「はぁ、わかったわよ。
 じゃあ今日の夕飯、二人分作って待ってるから」

甘い、甘いぞ私。
でも、ぱあっと輝くにとりの顔を見て、誘ってよかったって思っちゃうんだよね。
憎たらしいほど単純だぞ、それでいいのか私ー!

「さっすがはたて、わかってるぅ!」
「ごめんね、はたて」
「だから、椛もそういうのはやめてってば。
 さっきも言ったけど、最初からそのつもりだったの、取材もあるしね。
 罪悪感湧いちゃうから、申し訳ないと思うならなおさらそういう顔はしないで」

義理堅すぎるのも考えものだ、軽く流してくれればこっちも気が楽なのに。
立ち上がった私は、椛の横を通りすぎて部屋から出ようとする。
私がとある要件を思い出したのは、その瞬間だった。

「あ、そうそう、最後に椛に一つだけ聞いておきたいことがあったんだけど」
「ん?」

椛の正面で立ち止まった私は、軽い気持ちで彼女に問いかける。

「――鞍馬様は元気?」

その名前を出した瞬間、椛の表情は今まで以上に曇ってしまった。
ありゃ、そんなつもりじゃなかったんだけどな。
ひょっとすると、椛には”嫌味”に聞こえてしまったのかもしれない。

「……はたて、どこでその話を」
「噂で聞いただけよ、でもその様子じゃ本当みたいね」

椛が鞍馬様と”仲良く”しているという噂。
仲良くと言うのはオブラートに包んだ言い方で、里に流れている噂は、もっと辛辣で容赦のない言い回しだったりする。
その噂は、おそらく椛の耳にも噂は届いてしまっているんだろう。
第三者である私ですら聞いた瞬間に胸が痛くなったのに、当人はどれほどの痛みを感じたのだろうか。

「鞍馬様って言うと、確か大天狗のうちの一人だったっけ」

近づいてきたにとりがそう言った。

「そう、眉目秀麗で有名なね」
「なになに、そんな大物と椛に何の関係があるの?」

大天狗は天狗社会における管理職で、その上には天魔様が居るわけだから、実質ナンバー2ってことになる。
もっとも、大天狗は八人も居て、その中でさらに力関係があるわけだけど。
何にせよ、大天狗と言えば私たち下っ端から見れば雲の上の存在ってわけ。
そんな大天狗と白狼天狗が仲良く談笑なんてしてたら噂になるのも当たり前のことだ。

「さあ、私は事情までは知らないわ。
 ただ椛が鞍馬様に気に入られたんじゃないかって噂が流れてるだけで」
「そっか、噂になってるんだね。
 ……仕方無いか」

そう言う椛の表情はどこか苦しそうで、噂には裏があるのではないかと勘ぐってしまう。
実は文が椛に近づこうとしているのって、その噂が関係してたりしてね。
単純に考えれば、椛が他の人に取られるかもしれないってことで、文が嫉妬したって考えるのが自然なんだろうけど。

「目撃者が居たんだもの、仕方ないわ。
 それがゴシップ新聞の記者じゃなかっただけ良かったじゃない」
「まあ、ね」

そうは言ったものの、結局私が帰る瞬間まで、椛の表情は晴れないままだった。






その日の夜、約束した通り、私の家でにとりに夕食を振る舞うことになった。
メニューはド定番の肉じゃがにお味噌汁、そしてにとりの食卓には絶対に欠かせないきゅうりの浅漬。
にとりは事ある毎に肉じゃがをリクエストしてくる。
私が作った肉じゃがってのが重要みたいで、特別肉じゃがが好きってわけではないらしい。
何でも、肉じゃがは”嫁ポイント”が高いとかなんとか。
相変わらずわけのわからないことばかりを言うやつだ、悪い気はしないんだけどさ。

「はぁ~、しゃーあわせだぁ。はたての作る料理はほんと美味しいよね。
 あっしの胃袋は幸せでパンパンでさぁ」

にとりの前に並ぶ食器は綺麗に空になっている。
ごはんを二度もおかわりして、彼女のお腹は見てわかるほど膨らんでいた。

「にとりはいつも美味しそうに食べてくれるわね、そこまで喜んでもらえるなら作りがいがあるわ」
「そりゃもう、だって美味しいんだもの。
 浅漬の漬け具合も、私も負けちゃうぐらいに随分と上手になったよね」
「にとり直伝だからね、不味くなるわけがないわ」

他の料理は自分で研究したものだけど、きゅうり絡みだけはそうはいかない。
河童なだけあって、にとりのきゅうりに対するこだわりは尋常じゃないのだ。
こればっかりは、独学では彼女の舌を満足させることはできなかった。

「他の味付けも薄すぎず濃すぎず、そして絶妙に甘みがあって、ご飯がぐんぐん進んじゃうんだよねぇ」

つまりそれはにとりの好み味付けというわけで、一度椛に振る舞った時は少し味が薄いと言われてしまった。
あちらが立てばこちらが立たず。
どうせ私の料理を食べるのなんてにとりばっかりなんだし、彼女が気に入ってくれればそれでいいんだけどね。

「素晴らしい! ゴージャス! デリシャス!
 いやあ、はたてはきっと将来良いお嫁さんになるよ、もちろん私の!」

にとりはぐっと親指を突き立てながら、実にいい笑顔を私の方に向けている。

「はいはい、ありがと」

にとりのジョークは軽く流すに限る……と言いつつにやつく私の顔、相変わらずちょろいなあ。
私は空になった食器を台所へと運ぶ。
にとりも自分の分を運び終えると、定位置に座りながら新聞を広げた。
残念なことに、それは花果子念報ではない。
私が情報収集のために買った、他の天狗の新聞だ。

「ふーん、凶暴な野良妖怪が山に侵入ねえ、こんなの天狗の力でどうにかなりそうだけど」
「ああ、その記事ね。
 大した知性もない、獣の類みたいなんだけど、ところがどっこい獲物を狩ることに関してだけは中々に狡猾みたいで。
 気配を消して茂みに潜んで、通りがかった弱そうな子とか、完全に油断した天狗だけを見繕って襲いかかってるみたいよ」

実際、被害にあっているのは幼い天狗ばかり。
幸いなことに命に関わる被害はまだ出ていないけど、このまま放っておけば犠牲者が出るのも時間の問題だと私は見ている。

「椛とか危ないんじゃないの?」
「椛は強いから大丈夫よ、まず狙われないでしょうね。
 それに、被害が起きた場所は椛の部隊の管轄外だし、怪我人も出てるからとっくに捜索は始まってるの。
 心配しなくてもじきに捕まるわ」
「捜索ねえ。
 このだだっ広い山から獣一匹を探すなんて、考えるだけで気が滅入りそうだ」
「お偉いさんの面子のために過剰に人員が投入されて、馬車馬のようにこき使われてるみたいよ」

以前に里付近で大天狗の息子が妖怪に襲われたことがあるとかで、彼らはこの手の話題には敏感なのだ。
決して子供たちのために必死になっているわけじゃない。
にとりも事情を察したのか、うんざりとした表情をしている。

「面子のためかあ、天狗社会もなんだか人間じみてきたね」
「鬼が居なくなっても、天狗社会のピラミッド構造が変わったわけじゃないんだもの。
 流動性の無い権力はいずれ腐るのが世の定めってね」
「おお、なんだか頭良さそうな発言」

鬼の圧力が消え、一時期は里にも希望が満ちていたのだが、今ではあの頃の方がマシだったと話す天狗すら居るほどの有様。
いざ鬼が戻ってくれば、手のひらを返したように愚痴を垂れるんだろうけど。
でも、それぐらいの劇薬じゃなきゃ、腐りきった上層部を壊すことは出来ないのかもね。

「癒着に汚職、権力争い、話を聞くだけでもげんなりするってのに」
「捜索に巻き込まれた天狗たちはご愁傷様だね」

天狗社会で新聞という文化が流行しだしたのも、そういった権力に対するアンチテーゼの意味合いがあったのかもしれない。
実際、昔に比べれば、記者の監視の目が行き届いた現在の方が、大天狗たちも動きにくくなっているらしい。
でも、大天狗たちもやられっぱなしでは終わらない。
最近では記者を囲い込んで、自分に都合の良い記事ばかりを書かせている者も居るんだとか。

「その点、河童の世界は気楽だからいいよお。いっそはたてもこっちに来ちゃう?」

魅力的な提案だと、本気で思ってしまった。
河童のマイペースさには何度も呆れさせられて来たが、権力闘争に巻き込まれるよりはマシなのかもしれない。
何より、今よりも長い時間にとりと一緒に過ごすことができるだろうから。

「今より居心地が悪くなったら考えてみるわ」
「そういうネガティブなきっかけじゃなくてさ、もっと嫁入りするためにーとか」
「はいはい、だったら今よりにとりのこと好きになったら考えてみるわ」
「よっしゃ私がんばる」

両手でガッツポーズをして気合を入れるにとり。
冗談のつもりだったのに、こりゃ本気にしてるな。
ま、本気で好きになったら、そういうことを考える可能性だってあるけど。

「頑張るのはいいけど、私に迷惑はかけないでね」
「ボディタッチぐらいは……」
「タッチは厳禁でお願いします」
「別料金でどう?」
「金じゃないの、大事なのはハートよ」
「そんな殺生なぁ」

にとりはがっくりと肩を落とした。
何が殺生だ、当然でしょうが。
まったく、どういう方向で頑張るつもりだったんだか。
体触っただけで好感度が上がるわけないじゃない、もっと私はプラトニックな部分を重視するんだから。
……。
……いや、まあ、にとりから触られるのは嫌いじゃないし。
ひょっとすると、触られただけでも多少は上がるかもしれないんだけどさ。

「あ、そうだ」

にとりは何かを思い出したのか、手をポンと叩く。
さっきまで盛大に落ち込んでたのに、立ち直り早いなあ。

「今日言ってた椛の話だけどさ、大天狗に気に入られると何か得することでもあるの?」
「ん、どうして?」
「いや、はたての言い方がやけに意味深だったし、椛もはたてが帰った後ずーっとテンション低かったからさ、何かあるんじゃないかと思って」

ああ、やっぱり落ち込んでたんだ、いくら気になってるからって聞かない方がよかったのかな。
でもいずれは聞かなきゃいけないことだとは思ってたし、他人の新聞記事で知るよりはマシだったと思う。

「椛には嫌味に聞こえちゃったんでしょうね」
「嫌味というと?」
「それをにとりに理解してもらうには、天狗社会について少し突っ込んだ話をしないといけないんだけど」
「はたての話なら一生でも聞けるよ」

にぃーっと笑いながら、にとりはそう言い切った。
冗談抜きで一生聞いてそうなのがにとりの恐ろしい所でもある。
にとりがそう言うなら話しても良いかな、話した所で椛に対する態度を変えたりはしないだろうし。

「なら話しましょう。
 ところで、にとりは大天狗様の名前を全部言える?」
「愛宕、比良、飯綱、大山、彦山、大峯、白峯、あとはさっき言ってた鞍馬だっけ」
「そう、合計で八人。にとりもそのうち何人かは見たことがあるでしょ?」
「あるある、大天狗って名前通りやたら図体が大きい天狗ばっかりだったね」
「大天狗ってそういう種族なのよ」

名前の通り、とにかく図体がデカイのだ。
体の大きさの分だけ力も強い、体の大きさの割には速さだって烏天狗に負けていない。
もちろん、ピラミッドの頂点に位置する天魔様に勝てるほどではないけれど。

「種族ってくくりならそれなりの数は居るんだけど、天狗社会における大天狗って地位に付いてるのはさっき言った八人だけね」
「役職と種族で名前が一緒なんだ、ややこしいなあ」
「私も同感。
 元が同じものだったから、その名残みたいだけどね」

基本的に天狗の地位の高さは、力の強さの序列とリンクしている。
天魔様がトップに居るのも力が強いからこそだし、白狼天狗が一番下っ端なのも、種族としての力が弱いからだ。
とは言え、以前と比べ幻想郷の天狗の数が増えた今では、一概に種族だけで力を判断することはできない。
数が増えれば、椛や文のような例外が生まれることだってあるのだから。
だがそれでも、地位が逆転することはなかった。
成熟してしまった今の天狗社会では、ただ単に力が強いだけで上に上り詰めることはできないのだ。
つまり、いくら腕っ節が強くても、種族の差を乗り越えて権力を得るのはそう簡単じゃないってこと。

「で、それぞれの大天狗様に私たち下っ端の天狗が割り振られてるんだけど、私たちの直属の上司は愛宕様なの」

私たちだけに限らず、烏天狗の大半は愛宕様の部下ということになっている。
自ら望んで部下になったわけじゃない。
生まれた時から、天狗は必ずいずれかの大天狗の下につく決まりになっているのだ。

「んん? 鞍馬様じゃないの?」
「鞍馬様が取り仕切っているのは白狼天狗、烏天狗とは別よ」

白狼天狗たちが剣を使った戦闘を得意とするのは、鞍馬様が天狗一の剣士であることに由来する。
見た目もいいし、腕もたつし、あれで性格さえ良ければ言うことなしの大天狗なのにな。
性格が悪いとは言わないんだけど、ちょっと癖がある人なんだよね。

「ってことは、椛は鞍馬様の部下なわけだ」
「そういうことになるわね」

烏天狗の全てが愛宕様の部下ではないように、白狼天狗の中にも他の大天狗の部下になっている者はいる。
必ずしも種族だけで全てが決められるわけではないが、少なくとも私たちの中に例外は居なかった。

「所属も違うのに、同じ所属の天狗と付き合わずに文とあんなにべたべたしてたってわけか。
 そりゃあどんなに優秀でも出世は出来ないはずだ」

姉妹扱いされるほど距離の近い二人だったのだ、大天狗たちも気を使っていたのかもしれない。
とはいえ、その計らいをした張本人が椛に手を出してたんじゃ、美談も台無しだけど。

「でもそうなると、椛と鞍馬様が話してたって別に不自然なことはないんじゃないの? 部下と上司なわけだし」

にとりは顎に手を当て、微妙に首を傾けて考え込んでながらそう言った。

「普通は下っ端と大天狗様が個人的に会話することなんてないわ、仕事に関する話ならもっと大天狗様より下の天狗で十分なはずなのよ」
「椛って今や哨戒部隊の隊長で、白狼天狗の中でも出世株なんだし、目をつけられてもおかしくないってことじゃない?」
「出世株と言っても所詮は白狼天狗よ、上り詰めた今でも哨戒部隊の隊長が限界。
 まだまだ、種族で役割が分けられる天狗社会じゃ下っ端扱いなの」
「そもそもさ、種族で役割が分かれてるのって、鬼が決めたルールじゃなかったっけ。
 もう連中は山には居ないんだし、気にしなければいいのに」
「ルールを撤廃して誰が得するかって言うと、のし上がりたい下っ端の天狗たちじゃない。
 力さえあれば白狼天狗や私たち烏天狗がが下克上を狙ってもいいし、大天狗様とその他の天狗の間に力の差があると言っても、才能と努力でその差は埋められるかもしれない」
「つまり……」
「保身のために現状維持を望む誰かさんがいるってことよ」

それに、大天狗様以外が管理職のポストに就いた所で、里の現状が変わるとは思えない。
朱に交われば赤くなるというように、腐った環境に身を置いていれば、どんなに正義感の強い天狗でも腐ってしまう可能性はあるのだから。
とは言え、今の流動性のない仕組みもどうかとは思うんだよねー。

「上の方の気持ちはわからないでもないけど、それじゃあ下っ端天狗の不満が貯まるんじゃないかなあ。
 折角のチャンスなのに、力で押し込めたってことでしょ?」

問題は上層部の腐敗だけじゃない。
にとりの指摘した通り、溜りにたまった不満が暴発寸前まで膨れ上がったことは過去にあったらしい。
そこで大天狗たちは、適度にガス抜き出来る仕組みを考えた。

「それがね、不満を解消するためのいくつかの例外があるのよ」
「例外って……もしかして、それが椛が微妙な顔してた理由?」

察しのいいにとりはすでに気付いたようだ。
鞍馬様と椛の関係が純粋な好意による物だと言うのなら、誰も文句は言わないはず。
だけど、そこに利益が発生するとなれば話は別になってくる。

「ええ、要は彼らに気に入って貰えばいいのよ」

鬼の監視が無くなったことによって自由を得たのは下っ端だけじゃない。
大天狗もまた、横暴に振る舞う権利を手に入れてしまった。

「大天狗様には部下に地位を与えられるだけの権力がある。
 つまり彼らと懇ろの関係になって大天狗様がその気になれば、白狼天狗でも隊長より高い地位に就けるだろうし、大天狗様の家に入り込んでしまえばもっと上だって狙えるわ」
「家に入り込むって言うのは、嫁入りするってことでいいのかな」
「その認識で間違ってないわ、場合によっては養子ってパターンもあるみたいだけどね。
 それは例外中の例外よ」

それに、例え養子扱いだったとしても、家の中での扱いは嫁とは変わらない。
嫁入りできない何らかの障害があった時のために用意された手段に過ぎないのだ。

「嫁入りさえしてしまえば、白狼天狗でも扱い的には大天狗様の家の一員になるわけじゃない?
 そうなったら、他の白狼天狗と同じような扱いなんてできるわけがないの」
「でも、白狼天狗が大天狗のお嫁さんになんてなれるの?
 立場だけじゃなくって、サイズとか色々と違うと思うんだけど」

にとりの疑問はもっともだ。
実際の所、白狼天狗には見向きもしない大天狗がほとんどだし、椛に興味を示している鞍馬様だって、何かしらの打算があると考えている。
さっきも言った通り、目的はガス抜きのためなんだから、白狼天狗を妻に娶ることで彼女たちからの支持を盤石のものにしようとしてるのかもしれない。

「以前は同じ種族同士でしか結婚しないとか決まり事があったらしいんだけど、鬼が居ない今となっては有名無実化してるわ。
 こういう時、権力者にとって都合のいい部分だけは変えるのよね。
 今は子供だって問題なく作れるし、すでに混血の天狗は存在してるわ」

とは言え数はそう多くはないし、大天狗との混血は今のところは一人も居ないはずだけどね。

「昔は白狼天狗と言えば、都合の悪い事件の責任を全部押し付けられたりして酷い扱いばかりだったのに、ずいぶんと出世したもんだ。
 それを素直に喜んでいいかは別としてね」

所詮は作為的に与えられた地位にすぎない。
大天狗様がその気になれば一瞬で剥奪出来てしまうし、根本的な問題が解決したわけじゃない。

「そういえば、ちょうど文と椛が別れた頃に、白狼天狗が責任をおっ被せられた事件があった気がするなあ」
「その頃って……確か、哨戒天狗の目を盗んで、天狗に反感を抱く妖怪が入り込んだんだっけ」
「それははたても知ってるんだ、引きこもってたのに」
「さっき新聞に載ってた事件がその件に関連してるからよ」

私が当時の事件について知ったのはつい最近のこと。
”この程度のことで大騒ぎするなんて何かがおかしい”と思って調べなければ、今でも知らないままだった。

「そっかそっか、お偉いさん方が焦ってるのはあの事件のせいなんだね。
 確か……侵入した妖怪が、そこそこ偉い天狗を……いや、その子供だったかな。
 それを大怪我させて大騒ぎになって、ってそんな感じの事件だったっけ」

随分と時間が経ったせいか、にとりの記憶は曖昧だった。
いつもの考え事をしている時の癖で、机の上を人差し指でトントンと叩いている。
こういう何気ない仕草を見て微笑んでしまう私はおかしいんだろうか。
自分でも何が嬉しいのかわかんないんだけどさ、何なんだろうこの気持ち。
他の人が知らない一面を見られる優越感、って言えばいいのかしら。

「侵入を見過ごしたってことで白狼天狗が責任をとらされて、山から追放されてたような……」

正確には天狗の里から、だけど。
それでも、里の後ろ盾を失った天狗が、山で一人で生きていけるとは思えないけどね。
実質、山から追放されたと言っても間違ってるわけじゃない。

「そうそう、一端の隊員が責任を押し付けられたの」
「どう考えても隊長の責任だと思うんだけど」
「あの時の隊長は白狼天狗じゃなかったのよ」

そもそも椛が隊長になったこと自体が例外中の例外なのだから、哨戒部隊の隊長は今でも基本的に白狼天狗以外の天狗が務めている。

「だからってさあ」
「私もそう思うけど、昔のことをいまさらあれこれ言っても仕方ないじゃない。
 今は無条件で部下に責任を押し付けないだけ改善されたってことで」

未だ面倒事は押し付けられているようだけど。

「時代の移り変わりだね、今後もっといい方向に向いてくれるといいんだけど。
 それにしても、椛が大天狗の家に嫁入りかぁ……あ、そうか、だから文をあんな風に」
「どんなことになってたの?」
「いや、椛がね、今日の文の顔はとびきり酷かった、目を覆いたくなるほど不細工だったって言ってたの」

それが何だと言うのか、至って平常運転じゃないか。
確かに文の顔は酷いものだった、それでも椛の罵詈雑言は文の状態に関係なく文にぶつけられてきたはずだ。

「いつも通りの椛じゃない」

むしろ”殺す”と言わないだけ優しい方じゃないかな。
けれど、私の言葉を否定するように、にとりは人差し指を立てると、左右に振って「チッチッチッ」と舌を鳴らした。
そういうの似合わないっていつも言ってるのに。
にとりがそんなことやったって、カッコいいと言うよりは可愛くなるだけだと思う。
可愛いでいいんならそれでいいけどさ、にとりに可愛いって言うと顔真っ赤にして恥ずかしがるもんだから、またそれが可愛くって。
『か、可愛いなんて私にゃ似合わないやいっ』なんて言っちゃって、それがこれまた可愛くって、それからはもう無限ループ。
最終的にはにとりが拗ねちゃって、一時間ぐらい口を聞いてくれなかったんだよねー。
って、今はそんなこと思い出してる場合じゃない。

「はたては気づかなかった? 椛が文の見た目を貶すのってかなり珍しいんだよ」
「そうだっけ? いつも容赦なく罵倒してる印象しか無いんだけど」
「別れたからって見た目の好みが変わるわけじゃないからね、文の容姿が椛に取ってのど真ん中ストライクって事実は変わらないのさ」
「椛の好みってああいうのだったんだ……」
「なんたって幼いころからずうっと憧れのお姉さんだったんだもん。
 見た目だけじゃない、椛のありとあらゆる好みの根幹にあるのが文って事実は、何年経とうと揺るがないんじゃないかなー」

三つ子の魂百までってことか。
いんや、天狗の場合は百どころか千までだって変わらないのかもしれない。
しかし、自分が面倒見てた女の子をそこまで夢中にさせちゃうなんて、文も罪づくりよね。
狙ってやってたとしたら、策士と言うか、変態と言うか、光源氏的というか。
その罪を命で償う羽目になるとは、当時の文はこれっぽっちも考えてなかったでしょうけど。

「でも、今日だけはその容姿を貶した。
 それって、椛の噂を聞いてショックを受けた文がやつれていたと考えれば納得できると思わない?
 そういえばはたても文に会ってきたんだっけ、顔色はどうだった? 青ざめてた?」
「にとりの言うとおり、酷い顔色だったわ」

顔色だけじゃない、体調だって崩しているように見えた。
あれが精神的なダメージに由来する物だとしたら、その傷はかなり大きな物だと思う。

「椛に色恋沙汰の噂がたつなんて、文と別れてからは初めてだからね」
「いざ現実を突きつけられて、文が耐え切れなくなったってこと?
 でも、だったら……」

最初から別れなければよかったのに。
いや、待てよ。
考えてみれば、今日の文は”本当はこんなことやりたくなかった”的な雰囲気を出していたような。
あの時の私は、あれをただの言い訳程度にしか認識していなかった。

「私はさ、文は自分の意思で別れたわけじゃないって思ってる」

にとりの言葉が私の認識を修正する。
あれは言い訳なんかじゃなく、真実だったんじゃないかって。
文の不可解な行動も、誰かに強要されたのだと考えれば合点がいく。
問題は、あの文を言いくるめられる天狗が果たして存在するのかってことだけど。

「誰かに脅迫されたとか?」
「確証があるわけじゃないけどね、その可能性は十分にあると思うよ。
 実はさ、文と椛が別れる少し前に、文から相談受けたことがあってね。
 椛に渡す結婚指輪はどんなのが良いかって聞かれたんだ」

さらっと明かされる衝撃の事実。

「けっ、結婚んん!? いやいや待ってよ、あの二人、そんな話までしてたの!?」

そんなの驚くに決まっている。
一方でにとりは平然としていて、文と椛の顛末を聞いても尚、私たちの二人に対する認識に、溝があることを思い知らされた。
つまりは、あの二人は”結婚する”と言い出しても驚かないレベルで、普段からじゃれあっていたということで。
確かに、公衆の面前で平気で抱き合ったりキスしたりしてたら、結婚ぐらいしそうではあるかなあ。
いや、でも結婚って。
女同士でどうするつもりだったんだか、天狗の里でそんなこと出来たっけ。

「もう秒読みって段階まで行ってたんじゃないかな。
 私に相談した時期からして指輪はもう買ってたはずだし、椛へのサプライズの準備も進めてたはずなんだよね。
 二人が別れたのはそんな矢先のことでさ、いくらなんでもタイミングがおかしすぎるって前からずっと思ってたんだ」

それが事実だとすれば、別れを文が望んでいなかった、という仮説がさらに現実味を増してくる。
結婚まで考えていた相手を失い、殺意を抱かれるほど恨まれ、そしてやがて相手は他の男の物になり、結婚指輪だけが自分の手元に残っている――
文がやつれるのも致し方ないこと、むしろ同情すらしてしまうほどだ。
だがしかし、自分がやつれるほど苦しんでもなお、反旗を翻さないのは文らしくない。
そもそも、文に対して脅迫という手段を取ること自体が悪手だ。
大会上位を取るような記者に比べれば劣るかもしれないが、それでも文は立派な新聞記者、情報の扱いはお手の物のはず。

「あの文が他人に脅されたからってそう簡単に自分の物を手放すかなあ。
 もし強要されたとしても、むしろ反発して逆効果になりそうじゃない?」
「当時の文は新聞記者でもないただの烏天狗、組織の歯車だよ」
「あ、そっか」

失念していた、そういえばさっきにとりがそう言ってたじゃないか。
天狗の界隈で新聞が流行りだしたのはここ数十年ほどの出来事。
文は他の天狗より一足先に新聞の発行を始めたってことになるけど、それでも百年程度しか経っていない。

「文々。新聞があれば脅迫の事実を拡散できたかもしれない、けどあの頃の文に情報を拡散させる手段は無かった。
 だから、大天狗から脅迫まがいの命令をされても逆らえないんじゃないかな」

あの時の文には大天狗に対抗する武器がなかった。
ううん、それだけじゃない。
そうだ、そうだった、私は重要な事実を失念していた。
もし文が事件当時に記者をやっていたとしても、逆らえない理由がある。

「理由ならもうひとつあるわ、鞍馬様は一流の新聞記者でもあるのよ。
 もしも当時に文々。新聞が存在していたとしても、情報戦で立ち向かおうとしても難しかったと思う」
「え、そうなの?」
「鞍馬諧報って聞いたこと無い?
 天狗の大会で優勝する、正真正銘の一流新聞なんだけど。
 人里での影響力は文の方が勝っていたとしても、天狗の里での影響力は鞍馬様の方がずっと上よ」

権力者なだけあって、鞍馬様本人は非常に多忙だ。
そんな中で、取材をして、記事を書いて、幻想郷中に配って――なんて事が出来るわけがない。
そう、鞍馬諧報は私たちの新聞のように個人で制作した物ではなく、数人の天狗から成る編集部によって作られているのである。
そしてその編集長が鞍馬様というわけだ。
質、量、そして発行頻度と、そのどれもが一級品の新聞。
おまけに文々。新聞とそう変わらない程度には歴史もあるときた。
大会での優勝を諦めるつもりはない。
でも、逆立ちしたって私たちが敵うとは思えない。
文が自分の新聞を天狗向けでなく、里の人間やその他の妖怪に向けて作っているのも、正面からぶつかっては勝てないと判断したからなのかもしれない。

「当時の状況がどうであれ、脅迫の事実を公表するのも難しかったってことか、これはますます大天狗が怪しくなってきたね。
 しかも、脅されただけでは飽きたらず、鞍馬ってやつは椛まで奪おうとしている」

文は追い詰められているのかもしれない。
向けられる感情が憎悪だったとしても、それすら恋しいと感じてしまうほどに。
椛の前に姿を表しているのも、大した理由なんて無くて、ただ会いたいと言う理由だけ。
椛が鞍馬様の物になってしまえば、自由に会うことすら叶わなくなってしまうから。

「なんだか、急に文が可哀想に思えてきたわ」
「ま、全部憶測なんだけどねー」

にとりはあっけらかんと言い放つ。
それを言ったら全部台無しじゃないか。

「可能性はゼロじゃないわ、情況証拠は揃ってるんだから。
 もし文が誰かに脅されて椛と別れたのが事実だとしたら、確かな証拠さえ掴めれば……」

二人を元の関係に戻せる可能性は十分にある。
ふふふ、それってやりがいありそうよね。

「おうおう、記者魂が燃え上がってるみたいだねえ」
「それだけじゃない。
 文と椛は私の友人だもの、幸せになってもらうに越したことはないわ」
「本音は?」
「いちゃついてる二人をからかってみたい!」
「さっすが、野次馬の鑑だね」

記者なんて野次馬をこじらせなきゃやってられない。
それに、二人に幸せになってもらいたいって気持ちは嘘なんかじゃないから。
数少ない私の友人なんだもん、いがみ合うよりは仲良くした方がいいに決まってる。

「無茶はしないでね、なんたって相手は自分の上司なんだから」
「大丈夫よ、都合の良いことに私の新聞はまだ知名度が低いもの、誰も警戒しやしないから」
「そ、それは素直に安心していいのかな?」

自分で言ってて虚しくならないわけじゃない。
でも、引きこもってた分だけ差がつくのは当然のこと。

「今の時点で花果子念報の知名度が低いことは認めざるを得ないわ。
 けどね、だからってここで終わるわけじゃないの。まだまだこれからよ。
 知名度が低いのなら、大スクープをすっぱ抜いて知名度を上げればいいだけの話じゃない、そのために利用出来るものは利用するべきなの」
「はたて……こんなに立派に育ってくれて、あたしゃ嬉しいよ」
「母親みたいな言い方しないでよ……」

どうやらにとりは私をからかっているわけでもないようで、目を潤ませてまで本気で感動している。
そういう言い方されると、むず痒いっていうか、恥ずかしくて仕方ない。
にとりに育てられたつもりは無い。
でも、今の私が居るのは間違いなくにとりのお陰なわけで……。
あの時、にとりがしつこく私の元に通ってくれなかったら、私は今でも家から出ようとはしなかっただろうし、文と椛に知り合うこともなかったと思う。
だから、まあ、感謝はしてるの。
でも、それとこれとは話は別。
今の私とにとりは対等な関係なんだから、それ相応の喜び方をして欲しい。

「ごめんねぇ、年取るとどうも涙脆くなっちゃってさあ」
「年寄りぶらないでよね。
 そりゃ私よりは年上でしょうけど、妖怪にとって年齢なんて大した問題じゃないはずよ」

問題がないと言ったら嘘になるけど。
これには年齢なんて大した問題であって欲しくない、っていう私の願望も大いに含まれている。
たぶんにとりは私より年上なんだろうけど、そんなこと気にしないで欲しいって。
何で気にしないで欲しいのかとか、理由は私にもよくわからないけどさ。
うん、ぜんぜん、まったくわかんない。

「とにかく、私は頑張って事件の真相を暴いてみようと思うから。
 ひょっとするとにとりにまた話を聞くこともあるかもしれないわ」
「どんと来い、だよ。
 利用できるものは利用するって言うんなら、私のことも存分に利用してね。
 困ったことがあったら何でも言って、全力でフォローするからさ」

協力はして欲しい、でも利用はしたくない。
って思ってしまうのは、私がまだまだ甘いからだろうか。
甘くてもいいや、私はにとりに対してはそういう私でありたい。
甘やかされ、甘えられ、そうやって私の閉ざされた心は溶けていったのだから。
このやり方が間違ってるとは思わない。

「じゃあさ、例えば私が大天狗様に粗相をして、怒らせて、里を追い出されたりしたら……助けてくれる?」

もちろん里を出て行くつもりなどないが、この質問も、云わば甘えみたいなものだ。
だって答えはわかりきっているのだから。
そして私の期待通り、にとりは即答してくれた。

「地獄の底だろうと助けるよ、はたてが居る場所が私の居場所なんだから」

想像の範疇だったとしても、胸が暖かくなる、心が満たされていく。
その言葉だけで、私の勇気は何倍にも膨れ上がる。

「さすがにとり、頼りになるわ」
「愛の力ってやつさ、つまりは無限大!」

あとは調子に乗って愛とか言っちゃわなければ完璧なんだけどね。
嬉しくないとは言わないけど。
でも、なんていうかさ、調子に乗る所を含めてにとりらしさって言うか。
これがなきゃ、逆に不安になっちゃうのかもね。

「その言葉を聞いて安心した」
「できればきゅんとして欲しかったなあ」

調子に乗ってるのを見過ごしてあげたのに、なんてわがままな。
でも今の私は機嫌がいいから、きゅんとして欲しいならそういうことにしてやろう。

「じゃあきゅんとしたわ」
「じゃあって何さ、ありがたみ半減だよ!」
「ワガママねえ。
 どっちだっていいじゃない、好感度がうなぎ登りで上昇したんだから」
「……上がったの?」
「ここ最近じゃなかなか無いぐらいあがったわよ」
「だったら、さ。
 今日は……泊まっていってもいい?」

泊めて欲しいとは、また強気に出たなあ。
今まで何度も泊めてくれと頼まれた事があるけど、私はその都度断ってきた。
その理由として使ったのが、この好感度という言葉なのだ。
好感度が足りないからお泊りはNG、好感度が溜まったからデートはOK。
そうやって私の都合で一方的に断ったり、受け入れたりするための、とても身勝手な言い訳。
それでも、にとりは嫌な顔一つせずに付き合ってくれる。
そして目ざとく好感度を稼いで、私との距離を一つ一つ、確実に詰めてくる。
基本的には、後退はおろか立ち止まることすら無かった。
だから、予感と言うか、確信というか、そういう物はあった。
遅かれ早かれ、何もかもを許してしまうんじゃないかって。
まんざらでも無いって思ってる時点で、きっと勝負は付いてるんだと思う。
要は私のハートさんは素直じゃないってことで。
でもやっぱり、泊めるのはちょっと怖いかな。
実は以前に一度だけ泊めたことあるんだけど、にとりってば、夜が深まる度に鼻息が荒くなっていくの。
朝起きたら、別の布団で寝てたはずなのに、いつの間にか同じ布団で寝てるしさあ。
にとりの事は嫌いじゃないし、別に触れても構いやしない。
だけど、あんまり下心オープンにされると、やっぱり女の子として複雑な気持ちになるっていうか。
でもなあ、あの時よりも関係も深まって状況も随分と変わったし、にとりも反省してるだろうし。
……頑なに拒む理由も、無いのかもしれない。

「いい、よ」

言ってからちょっとだけ後悔したけど――

「ほ、ほんとに? マジに? いいの!?」

にとりが身を乗り出しながら喜んでくれたので、それだけで後悔は吹き飛んでいった。
しかし同時に、微妙に驚いているようにも見える。

「なんで驚いてるのよ……」
「いつも拒否するじゃんかよう、何度枕とか色んな物を濡らしてきたことか」

いくらにとりと言えど、枕以外を濡らすのはさすがに汚い。

「布団、洗ったほうがいいと思うよ?」
「真面目に返されるとそれはそれで辛いってば。
 で、結局どういう心変わりだったの?」
「今までは好感度が足りなかったのよ。
 ちょうど今日でにとりに対しての好感度がお泊りラインを超えたってこと」
「お泊りラインって何さ」
「好感度達成報酬よ」
「なんで微妙にゲームチックなの……」
「そんなのあんたの影響に決まってるじゃない。
 ちなみにこれ、隠しイベントだから」

しかも、にとりがリスクを恐れずにお泊りを提案した場合のみ起きるレアイベント。
困ったことに、自分でも存在に気付かないぐらいの隠しだったりする。

「隠さないでいいのに、面倒だなあもう」

心の底から同感です。
自分がどれだけにとりに心を許しているのか、今ならどこまで受け入れられるのか、それが目に見える形でわかれば、今よりもう少しぐらいは素直になれるかもしれないのに。
……いや、別にこれ以上素直になりたいってわけじゃないんだけどね。
適度な距離感が大事だと思うのよ、私は。
いちゃいちゃも好きだけどね、距離感あってこそのイチャイチャというか、メリハリが大切というか。
あんまり近づきすぎて、昔の文と椛みたいになるのはさすがに嫌だし。

「ちなみにだけど、はたての好感度って最大まで上がるとどうなるの?」
「連帯保証人になってあげる」
「信頼は感じるけど嬉しくない!」

嘘だ。
本当はもっと別のもので……でも、そんなの言えるわけないじゃない。
とてもじゃないけど、恥ずかしくって。
焦らしてるつもりはない。
どうせじきにわかるんだから、急く必要なんて無い。





……………





「女々しいったらありゃしない」

手にした写真を月明かりに透かす。
万能の力でも手にした気分だった。
それは、一振りで私を取り巻く楔の全てを切り裂くことが出来る、魔法の剣。
振りかざせば、くそったれた現実にさよならして、また愛おしい日々が返ってくる。
私の望んだ。私だけの、最高の切り札。

「もっと身勝手になれたら良かったのに」

独り言は誰の耳にも届かずに、水の流れる音に掻き消されていった。
昔、椛とよく来ていた思い出の場所は、今も全く変わっていない。
しかし、私たちはすっかり変わり果ててしまった。
全ては、私のせいで。
何もかも捨てて外へ連れ出すぐらいの甲斐性があればこんなことにはならなかったのに。
今だってそう、全てを投げ捨てる覚悟があるのなら、躊躇う必要だって無いはずだった。

「全部……無かったことにできればいいのに」
「戯言を」

突如、首に冷たい感触が突きつけられる。
彼女の仕事は昔からいつだって丁寧で確かだった、この刀もさぞ丁寧に磨かれてるのだろう。
切れ味を疑うまでもない。
そのまま刃を引くだけで動脈がぱっくり開き、私の首からは鮮やかな赤が吹き出すはずだ。
月光に照らされた赤い噴水は、薄汚れた私から流れ出たと思えないほど美しく、幻想的な風景に違いない。

「お前ほど身勝手な天狗を私は知らない、あの時も、そして今日だってそうだ。
 全てを無かったことに? お前が自分自身で壊したものだろうに、何を巫山戯たことを言っているんだ。
 こんなに月が綺麗な夜だというのに、思わず鼻歌を歌ってしまうほど上機嫌だった先刻までの私を返してくれないか」

鼻歌なんて可愛らしい、そういう所は昔と変わってないらしい。
思わず顔がほころんでしまう。

「何を笑っているんだ、気でも狂れたか?」
「なんでもありませんよ。
 それにしても、挨拶も無しに物騒ですね」
「招かれざる客に挨拶する阿呆がいるか」
「私にはここに来る資格もないと?」
「あるわけがないだろう、こんな場所に来て過去を思い返しながら感傷に浸るとでも言うつもりか。
 止してくれ気色が悪い、吐き気がする」

川は流れ、せせらぎが耳を心地よくくすぐる。
決して緩やかな流れではないが、騒々しいと言うほどでもない、気持ちを落ち着けるにはこれぐらいの音がちょうどいい。
さらに、明滅する蛍のランプが視覚すら癒してくれる。
ここは妖怪の山にありながら天狗すら知らない穴場スポット。
こんな辺鄙な場所でじゃれているのは、今も昔も私たちぐらいしか居ない。

「なぜ、今更になって近づこうとするんだ?」
「今日はほんの気まぐれですよ。
 だいたい、ここを椛に教えたのは私なんですよ? 私が来るのは当然じゃないですか」
「いいや違うね、今日で確信した。
 お前は、わざと私に見つかるように動いているんだ」

私が椛を誰よりも理解しているように、椛も私を理解している。
こんな見え透いた嘘がいつまでも通用するとは思っていなかった。

「以前のお前なら、絶対に私に見つかるような場所を訪れはしなかった、それが変わったのはつい最近だろう。
 これは明らかな心変わりだ、しかも私にとって都合の悪い。
 まさか、何か企んでいるのか? それとも今更になって許してもらおうとでも?」
「そんなこと思っちゃいません。
 ただ世を儚んでいただけです、どうしようもなく世知辛いことばかりだな、と」

それは、紛れも無い事実。
世界は私を嫌うかのように、都合の悪い現実ばかりを突きつけてくる。
あの椛が他の誰かの物になるなんて、まったく冗談は止して欲しいものだ。

「お前は世知辛さを押し付ける側だろうに、よく言えたものだ」
「ええ、まったくです」

それもまた、事実だ。
理不尽にはもう慣れている。
慣れていくうち、自分が誰かに理不尽を押し付けることも多くなっていった。
要するに、夢見る少女で居られる時間が終わっただけのこと。
年を経ると、思考は現実に近似していく。
現実とは理不尽であり、理不尽とは腫瘍だ。
悪性の腫瘍でありながら取り除く手段はなく、世に蔓延する不治の病。
それを受け入れられない者から、リタイアして、ドロップアウトしていく。
多くの人は妥協して生きているのだろう。
腫瘍に冒されていく体、度し難い痛み、抗おうとすること自体が間違いだったのだ。
無謀にも抗う私のような愚か者は、いずれ耐え切れなくなり、潰れて、終わる。
結局、夢は夢でしかない。
あの頃、幸福な日々をまるで夢のようだと比喩していたが、まさにその通り。
あれは夢だった。夢でしか無かった。
それを取り戻す夢を見続ける私は、現実に潰されて然るべき、それが自然の理。

「殺すというのならそのまま首を斬り落としてもらっても構いませんが、出来れば刀を収めてはくれませんか?」
「お前を自由にして私に何か利益があるのか?」
「もれなくここから私が消えます、綺麗な自然を汚さなくて済むってわけです。
 椛だって、この場所を汚すことは本意ではないですよね?」
「ふん」

椛は、案外素直に刀を収めた。
もっとゴネるか、傷の一つか二つ程度は覚悟していたのに、覚悟は見事に空転してしまう。
思い出の場所を汚したくないという思いは、椛と共有できていたということだろうか。
首から消えた冷たい感触に少々の寂しさを感じつつ、私は振り返って椛の顔を見た。
暗くて良く見えないが、いつもと変わらず、機嫌が悪い事だけははっきりとわかった。
あまり長話はしない方が良さそうだ、この距離では今度こそ本当に殺されてしまうかもしれないから。
ほんの少しだけ殺される未来を期待してしまうのは、私の甘えだろうか。

「その写真、どうしたんだ?」
「ああ、これですか?」

椛が私の持ち物に興味を示すのは珍しい。
今すぐ消えろと言われると思っていただけに、少し拍子抜けしてしまう。

「ちょっとした好奇心と復讐心の賜物です、公表したら権力のバランスが崩れるほどの大スクープですよ」
「表沙汰にはしないんだな。
 ああそうか、写真を使って脅せば記事にするより大きな利益が得られるかもしれないからな」

皮肉で私を貶したつもりかもしれないが、椛の予想は正解に限りなく近い。
もっとも、椛の想像する”大きな利益”と、私が得ようとしている物の間には大きな差異があるのだけど。

「それが出来るような肝っ玉があれば、私の人生に残る後悔のうちの大多数は存在していませんよ」
「臆病者だという自覚はあったのか」
「ええ、ありますよ。何せ自分のことですから、誰よりも知っていて、誰よりも嫌っているんです」
「……一応、後悔はしてるんだな」

椛の感情が、少し揺らいだ。
子供の頃の体験は人格の形成に大きな影響をもたらすと聞いたことがある。
それが事実だとすれば、私は椛に与えた影響は計り知れないはず。
彼女の成長も変化も、その全てを私は一番近くで見続けてきたのだから、どんなに長い空白の時間があったとしても、この世で椛の事を最も理解しているのは私なのだと自信を持って言える。
だからわかってしまう。
どんなに離れていても、根っこの部分は何も変わっていないということが。
おかげさまで、些細な変化でも容易く察することが出来た。
私が後悔していると聞いて、椛は……多少なりとも、喜んでくれたのかもしれない。
未練は、間違いなくある。
顔を合わせる度に殺されかけるような仲だ、私への好意などとっくに微塵も残っていない可能性だって考えた。
だがどうやら、椛の心にも塵のように微かとは言え私への想いが残っていたらしい。
嬉しいような、むしろ辛いような、複雑な気持ちになる。
これじゃ余計に、選ぶのが難しくなる。

「一つ、椛に聞いてもいいですか?」
「すぐに私の前から消えてくれるなら」

それは問題ない、これを聞いたらすぐに消えるつもりだから。
こんな巫山戯た事を聞いて居座り続けられる勇気は私には無い。
いっそ完全に嫌われてしまえばいいと思った。
中途半端に悔やまれるよりはそっちの方がずっと楽だろうから。
抗わず、立ち向かわず、楽な選択肢ばかり選んできた私らしいやり口じゃなかろうか。

「今、幸せですか?」

一瞬の静寂、そして椛の歯ぎしりが聞こえた気がした。
川の音に掻き消されずに私の耳まで届く歯ぎしりなどあるのだろうか。
どちらにしろ、彼女の顔があまりの不快さに歪んだことだけは間違いない。

「少なくとも、お前と過ごした日々よりはな」
「あはは、ですよね」

愚問だった。
聞いて、私はどうしたかったのだろう。
不幸だと、だから貴方と一緒に居たいと、そう言ってくれるのを期待していたのだろうか。
答えなど知れたこと。
それが本心かどうかなど、当時ですらわからなかった私が理解できるはずがないのに。

「不愉快だ、殺されたくないのなら今すぐに帰れ!」
「そうさせてもらいます、こんな命でも今のところは惜しいので」

例え使い捨てのゴミクズだとしても、今はまだ、いくつかの後悔が残りそうな気がする。
その後なら好きなだけ私の命を奪えばいい、椛が満たされるのなら私のような裏切り者の命なんていくらでも捧げよう。
臆病さと勇気の狭間で、善意と悪意のせめぎあいは続いている。
手にした写真は私が探し続けた逆転の一手だったはずなのに、躊躇う私は、一体何のためにこの百年間を過ごしてきたのだろう。
腰からぶら下げたポーチにはネガフィルムも入っている。
嫌われたのなら、諦めがついたのなら、いっそ全てを投げ捨ててしまえばいいのに。
私はそのためにわざわざ思い出の場所まで来たんじゃなかったのか、何もかもを忘れるために。
それともこの行動こそが、未練の象徴だったのか。

結局、手元には写真もフィルムも残ったまま。
枷として私の体にまとわりつく未練を引きずりながら、重い足取りで来た道のりを戻っていく。
何も捨てられないまま。
何も得られないまま。
あの頃と何も変わらない。
私は、あまりにも無力だ。





……………





天狗の里の大通り、様々な店が軒を連ねる里のメインストリートは昼間から大賑わいしている。
とある人物が特定の時間に大通りを通るという情報を仕入れいていた私は、いくつかの甘味をつまみながらその人物を待ちぶせしていた。
そこそこ混んでいるのだが、彼は私たちとは種族が違う上に私たちよりも数が少ない、体格を見ればすぐに目的の人物だと判別できる。
人混みの中、頭ひとつ大きい人影を見つけた。
そう、彼こそが私の探していた目的の人物。
天狗たちの間をすり抜けて、駆け足で彼へと近づいていく。

「愛宕様、少しお時間いただけませんか?」

彼こそが八人いる大天狗のうちの一人であり私たちの直属の上司でもある、愛宕様だ。
警戒されないように、最近ようやく身についてきた営業スマイルで近づいていく。

「姫海棠か、お前から話しかけてくるのは珍しいな」

愛宕様はご立派な顎ひげを触りながら、実に渋い声で反応した。
私たちよりも一回りか二回りほど大きいその体格と、髭のせいで余計に発せられる威厳、そしてダンディな面構えに思わず圧倒されそうになる。
遠くで見てる分には平気なんだけど、近づくとその大きさがさらに際立つんだよね。
この人に喧嘩売るなんて、本当に私に出来るんだろうか。

「珍しいというか、たぶん始めてですよ、飲み会の時だって酔って絡まれた時しか話してなかったと思いますから」
「お前は基本的に一人で飲んでいるからな、湿気た顔をしてるのを見ると絡みたくなるのも仕方あるまい。
 引きこもりだったお前の言うのは酷かもしれんが、もう少し交友関係を広げたほうがいいぞ」
「ま、まあそれは今後の課題と言うことで。
 今日は愛宕様に聞きたいことがあって来たんです」
「つまり取材ということだな、いいだろう。格好良く撮ってくれるなら許可しようじゃないか」

意外と陽気な性格をしてらっしゃる。
それとも今がたまたま機嫌がいいだけだろうか、だとすればラッキーだ、これなら鞍馬様のことを聞き出すのも難しくは無いかもしれない。

「申し訳ありません、今日は愛宕様のことを聞きに来たわけではないんです」
「私ではない? では誰だ、射命丸か、それとも犬走か。生憎、河城のことは私はあまり詳しくはないぞ」

私の交友関係が狭いせいか、その全てはしっかりと把握されているらしい。
これは遠回しに、自分に把握されない程度には交友関係を広げろと言われているのだろうか。
大きなお世話だ、文と椛が増えただけでも私からしたら大進歩なんだから。
なんたって以前は胸張って友人って言える相手はにとりだけだったしね。つまり三倍よ、三倍。

「椛は関係ないわけでは無いのですが、私が聞きたいのは鞍馬様のことなんです」
「犬走と鞍馬の、つまりあの二人の関係について探りたいと、そういうことだな。
 はっはっは、噂になっているとは聞いていたが、いきなり私に聞きに来るとは中々度胸があるな。
 やはり友人が関連しているからか? 心配になる気持ちもわからんでもないがな」
「ということは、やはり……」
「うむ、交際は順調に進んでいると聞いているぞ」

交際と言うワードに、私は思わず顔をしかめそうになった。
危ない危ない、愛宕様と鞍馬様は仲がいいんだから、あんまりそういうを見せるのはよろしくない。
八人の大天狗、彼らはそれぞれ独立した勢力ではあるが、その全てが対立しているわけではない。
同盟と呼ぶべきかはわからないが、愛宕様が鞍馬様と親しい間柄であるという話は私も聞いたことがあった。
愛宕様の反応を見る限り、どうやらその話は事実だったらしい。

「ただし、まだ清い関係らしいからな、お前たち記者共が期待しているような写真は取れまい」
「別にそういうのを期待していたわけではありません」
「そうか? 権力者というのは得てしてスキャンダルに弱いものだからな、てっきりそれを狙っているのかと思っていたのだが」

良いことを聞いた、つまり愛宕様もスキャンダルには弱いってことか。
でも、文への未練が残っている限り椛は鞍馬様の事を受け入れないんじゃないかな。
鞍馬様って、どうも手が早いことで有名みたいだし、それなのにまだ清い関係ってことは、椛が拒んている可能性が高い。
交際してるって時点で焦る必要はあるんだろうけど、猶予が全くないってわけでも無いと考えて良さそう。
二人が一線を越える前に脅迫の証拠を掴めれば、まだまだ逆転のチャンスはある。

「ちなみに、鞍馬様は椛のどんなところに惹かれたかご存じですか?
 かの鞍馬様が白狼天狗に惚れたともなれば、並々ならぬ理由があると思うのですが」
「誰かに惚れ込むのに大した理由など必要あるまい、要は好みだったと、ただそれだけの話だ。
 鞍馬いわく、真面目で温和で一途な所に惹かれたそうだが」
「温和で一途、ですか」

にとりは文と椛が付き合っていたのは有名な話と言っていたし、鞍馬様がそれを知らないとは考えにくい。
それに、今の文とのやりとりを見て温和だと感じるだろうか。
一途っていうのも、文と付き合ってた時の印象なのだとしたら、鞍馬様が椛に惚れたのは二人が付き合ってた時なんじゃないかな。

「付き合いの浅いお前は知らないかもしれないが、犬走はあれでもお淑やかな女らしいからな」

残念、実はもう知ってるんです。
でも愛宕様が私と椛、そして文との付き合いがそう長くないことを知っているのは好都合かも。
私が文と椛のよりを戻させようとしているなんて知られたら大変だし。

「今の椛からは想像できませんね、凛々しくて勇敢なイメージがありますから」
「ギャップと言うやつに男は惹かれるからな、鞍馬の気持ちもわからんでもない」
「もしかして、愛宕様の奥様もギャップがあったんですか?」
「昔はあったかもしれんが、今は見る影も無い。
 鞍馬の浮かれようと見ていると羨ましくなるよ、私にもああいう頃があったのだな、と」
「いいんですか、そんなこと言って。奥様にバレたら怒られますよ?」
「怒られようが事実は事実だ、どうせこの場には居ないのだから遠慮することはあるまい」

愛宕様は奥様に不満を抱いている、と。
しかし話を聞いている限りじゃ、やっぱり愛宕様と鞍馬様は同盟以上の関係にあるように思える。
椛との惚気話も聞かされてるみたいだし、普段から一緒に飲んだりする程度には仲が良いのかな。
だとすると、鞍馬様と椛の仲を取り持ったのは愛宕様という可能性も考えられる。
少し妙だとは思ってた。
いくら立場が上とはいえ、直属の上司ではない鞍馬様が文を脅すなんてことがあるだろうか、と。
バレた時のリスクだってある、仮に文が脅迫されたことを椛に漏らせば、彼女は二度と鞍馬様に心を開かないだろう。
そう考えると、直接本人が脅迫するのは得策ではない。
そこで現れるのが愛宕様ってわけ、この人なら危険を冒さずに文のことを脅せるはず。
文に対しての影響力も鞍馬様より大きい、脅しのネタだって集めやすいんじゃないかな。
問題は、そのネタが何だったのか、だけど。
さすがにいきなり文の話を振るのは怪しまれるよね、愛宕様の前で椛と文の二人を関連付けるべきじゃない。
遠回しに話を誘導できたらいいんだけど。

「ああ、そうだ。姫海棠に一つ聞いておきたいことがあるのだが」
「私に、ですか?」
「適任はお前しか居ないだろうからな、聞きたいのは……その、射命丸のことなのだが」

思わぬ幸運が転がり込んできた、まさか愛宕様の方から話を振ってくれるなんて。

「最近、あいつはどうだ? 何か企んだりしていないか?」
「企むといえば、相変わらず新聞記事のために色々企んではいるようですが」

以前よりも椛と顔を合わせる回数が増えている、などと言えるわけがない。
あの二人に関する情報は極力愛宕様や鞍馬様には与えないほうがいい。

「大天狗絡みの取材をしていると聞いたことは?」
「ありませんね、何か心配事でもあるんですか?」
「いや、無ければいいのだが……」

こりゃあ文と何かありましたと白状したようなものだ。
この様子じゃ内容まで聞き出すのは難しそうだけど、愛宕様が文を脅している説が有力になっただけでも十分進歩したと言える。
出来れば、その中身の触りだけでも聞けると助かるんだけどなあ。

「文がどうかしたんですか? あいつのことだし、愛宕様に無礼を働いたとか」
「そ、そういうわけではない」

せわしなく顎鬚をいじりる愛宕様。
明らかに不自然な動き、嘘をついた時の癖なのかな。
これは、どうもそういうことっぽいなあ。
しかし、愛宕様は脅した立場であるにも関わらず、どうしてこうも文に対して警戒心を抱いているのだろう。
見方によっては怯えているようにも見える。
あの大天狗が、烏天狗である文相手に怯えるって……一体何が?
単純な力勝負でも、もちろん権力でも、文が愛宕様に敵うはずなんてないのに。
むしろ脅してるのは文だったりして?
んなバカな、だったら文が椛を手放す必要なんて無い。

「何もないならそれでいいのだ、射命丸の件は気にしなくてもいい」
「はあ……」

気にするなと言われてしまった。
これ以上問い詰めて愛宕様の機嫌を損ねたら今後の取材にも差し支える、ここは大人しく引き下がることにする。
何もこれで終わりというわけじゃあない。
情報源は愛宕様だけではない、事の当事者である彼が残っているじゃないか。





鞍馬様の居場所を見つけるのはそう難しいことではなかった。
愛宕様と同様に情報は手に入れていたし、何より彼は愛宕様よりも派手好きだから、体の大きさとそのファッションも相まって、そこらを歩いているだけでかなり目立つ。

自信家でほんのりナルシスト気質、と言われる鞍馬様だけど、その自信は決して過剰などではない。
編集長の名はハリボテではない。
新聞記者としての実力は言うまでもなし、新聞大会で優勝するぐらいなのだから、つまりは天狗の中でもトップクラスということになる。
大天狗であるというアドバンテージを差し引いても、彼の扱う力の大きさは凡百の天狗が束になっても敵わないほどだし、地位と権力も持ち合わせている。
それが幼少期から変わらず続いているって言うんだから、自信家になるのも仕方無い。

「俺と椛のことが聞きたいってことか。
 噂になっているとは聞いていたが、どうやら俺も腰を据える時が来たか」

そう言いながら、鞍馬様は満足そうに笑った。

「腰を据えるとは?」
「公然の事実になってしまったのなら、俺が責任を取るしか無いだろ?
 椛が俺を娶る、鞍馬椛になる、それで万事解決だ」
「そんなに簡単なことでしょうか」
「姫海棠だったか。お前は、俺が椛に求婚して拒絶されるとでも思ってるのか?」
「まあ、椛は逆らえないでしょうね」
「逆らうだと? 俺はそんな話はしていないっ!
 椛は自分の意思で俺を受け入れる、間違いなくな!」
「そ、そうですか……」

噂に違わず自信家だこと。
椛の友人である私から見ても、明らかに椛のタイプでは無いんだけど、地位を得るためなら好みなんて二の次ってことなのかな。
私は文と別れた後の椛しか知らないから、今が正常な状態に見える。
でも他の人から見た椛は、昔と比べると驚くほど変わってしまったと言う。
文の一件で椛の本性まで変わってしまったとは思えない。
きっと椛は、上を目指すために、手段を選ばず、自分を殺してきた。
そう、自分のことなんて二の次で、ただただ貪欲に地位だけを求めている。
理由なんて一つしかない。
ただ、自分を裏切った文を見返すためだけに。
そんなの、辛すぎるよ。
こんなの、例え地位や名誉を手に入れられたとしても、幸せなんかじゃない。
鞍馬様が悪人とは言わない、彼は彼なりに椛のことを想ってくれているのかもしれない。
けど、もしこのまま事が進んでしまい後戻りができない状況になれば、椛はきっと今のまま、無理をし続けて、不幸の渦から抜けられないまま生きることになる。
それだけは、絶対に止めないと。

「鞍馬様はいつごろから椛のことを気にかけていたんです?」
「もうかれこれ百年以上になるか、あの頃はまだ忌々しい射命丸とかいう烏天狗が椛を独占していたんだがな。
 と、すまんすまん、射命丸はお前の友人だったな」
「別に構いませんよ」

あなたがそういうやつだってことはわかってますから。

「だが、射命丸は俺の実力と魅力と美に圧倒され諦め、自分から身を引いたんだ」

その割には数年はかかってるし、椛と近づくのにも百年弱使ってるけどね。
それにしても、今の言い方、やっぱり二人を引き離したのは鞍馬様なんだ。
その事実を椛が知っていれば鞍馬様に擦り寄るなんてことも無いはずなんだけど、やけにあっさり白状したなあ。

「もしかして、二人を引き離したんですか?」
「引き離したという表現は正しくないな。
 あの射命丸とかいう天狗に椛は相応しくない、美しくないんだ。
 椛と並ぶのに相応しいのは俺しか居ない、お前もそう思うだろう? 俺と並んだほうがはるかに美しい、と」
「あ、あはは……」

わざわざ他人の意見を求めるあたり、実はあんまり自信なかったりしてね。
なにせ椛は未だに文への気持ちを忘れられずに居るかもしれないんだから、鞍馬様も椛の中に自分以外の誰かが居ることを察しているのかも。
それが百年以上も続いたんだし、同情はしないけど、多少は可哀想だと思わないでもない。

「俺も多少強引な手を使ってしまったとは思っているが」
「強引、ですか」
「ああ、射命丸に話を通すにあたって、白狼天狗を管轄する私ではどうにも都合が悪い、だから仕方なく愛宕に頼むしかなかったんだよ。
 あれは今でも悔やんでいる、女を自分の物にするのに他者の力を借りるのは美しくないからな。
 とは言え、俺の力あっての結果だという事実が変わるわけじゃあない。
 射命丸が俺の美に圧倒されて椛を手放したという事実は変わらなのさ。
 凡人の語る愛など所詮はその程度だってことだよ、お前に理解できないかもしれないがな」

その程度、ね。
あまり気分のいい物言いではない、横恋慕しておいてよくもまあそこまで言えたもんだ。
文なんて、百年経った今でも悩み続けてるってのに。
しかし、鞍馬様と実際に話したのはこれが始めてなんだけど、口は悪いがその分軽い。
聞いてもないのに自分ことをペラペラと語ってくれる。
新聞記者としては、こんなに取材をしやすい人は居ない。
それとも、この程度の情報じゃ自分の地位は揺らがないと確信してるのかな。
あるいは、私程度には何もできないと思ってる、とか?
確かに無名の新聞記者だし、取材能力も、人脈も、力だって文には及ばない。
でもさ、ここまで舐められて奮起しないほどへたれた姫海棠はたてじゃないんだよね。
愛宕様が文を脅していたのが確定したのは大きな情報だ。
そうだよね、直属の部下ではない烏天狗を鞍馬様本人が脅すのはリスクがありすぎるもん、愛宕様が協力したとなれば納得できる。
具体的に何をネタに脅したのかはわからないままだけど、犯人が確認できただけでも十分。

「ありがとうございます、助かりました」
「何だ、もういいのか?」

鞍馬様はまだ話し足りない、といった様子。

「はい、今日は噂の確認のために来ただけですから」
「そうか……」

愛宕様が、鞍馬様は椛と近づけて浮かれているという話をしていたが、それは事実らしい。
椛の態度に若干の違和感と、もやもやした感情を抱きつつも、その関係が順調に進んでいることを喜んでいる。
そこだけ見ると年頃の少年みたいで可愛いんだけどねえ。
おそらく今も、自分と椛の話を言いふらしたくて仕方ないんだと思う。
そうすることで既成事実を作ることだって出来るのだから。
椛の本心がはっきりとしない今、周りを固めて逃げられないように囲ってしまうことが、鞍馬様が安心を手にするための唯一の方法なのかもしれない。
でも今までは、大天狗という立場がそれを許してくれなかった。
自然と噂が広がり、こうして記者が取材に来てくれたのは、言いふらしたい鞍馬様にとっては救いの手だったのだろう。
とはいえ、大天狗の大敵はスキャンダル、何の前準備もなしに白狼天狗との関係が暴露されようものなら鞍馬様の地位が揺らぎかねない。
然るべき手順を踏んで、公式の場で発表する。
地位と本心の狭間で揺らぎながらも、結局は大天狗という立場のために動くしか無い。
可哀想だけど、そこに私のつけ込む隙がある。



 

鞍馬様から話を聞いた帰り道、私は大通りでぱったりと椛と出くわした。
なんというタイミング、なんという偶然。
いや、実は偶然じゃなくて、もしかして今から鞍馬様の所に向かおうとしてるとか?
私が戻ってきた道をそのまま進もうとしているみたいだし。

「あれ、椛じゃない。もしかして鞍馬様に呼ばれたの?」
「違うよ、私が自分の意志で会いに行くんだ」

ビンゴ。
それにしても、良い雰囲気になってる相手に会いに行くっていうんなら、もうちょっと楽しそうな顔をした方が良いと思うんだけどな。

「はたては……もしかして鞍馬様に会ってきたのかい?」
「バレちゃったか、ちょっと聞きたいことがあってね」
「余計な話はしてないだろうね」
「わざわざ椛の足を引っ張るような真似はしないわよ」
「ならいいんだけど……」

やっても良かったけど、鞍馬様に切り捨てられるのは勘弁だしさ。
切り捨てられるってのは、もちろん物理的にって意味でね。

「顔色が悪いみたいね、大丈夫なの?」
「良くないことばかりが起こったから、少し疲れてるんじゃないかな」

表情から察するに、おそらく文のことだと思う。
椛からしてみれば、文は突然自分のことを裏切った相手だし、しかも理由もはっきりしないと来た、殺したいほど憎む気持ちもよくわかる。
かつて愛していた相手となれば、その憎しみも何倍にも増幅しているはず。
そんな相手が自分に近づいてきたとなれば、動揺するのも仕方が無い。

「はたても聞いたんだよね、私とあいつが恋人だった頃の話」
「ええ、まあ軽くだけどね」
「どう思った? 
 ……ああ、いや、そうじゃないな。
 現在のことについて、どう思ってる?」
「どう、って?」
「私たちの関係を踏まえた上での、最近のあいつの動き。
 やけに私に近づこうとしてるように見えないかな」
「確かに椛と文が喧嘩してる場面をよく見る気はするわね」
「やっぱり、そうだよね」

単純に憎んでいるのなら、椛はここまで悩んだりはしない。
理由もわからず捨てたられた椛は、おそらく当時は文のことを信じようとしたはず。
何か理由があるはずだ、自分のために、裏切ったりなんてしていない、そうやって信じ続けて……それでも尚、裏切られ続けた。
でも、今だって文が椛から離れた理由は判明していない。
今でも、心の何処かに信じたいと思う気持ちがあるのかもしれない。
だからこそここまで心を痛めている。
未練があるのは、たぶん文だけなんかじゃない。

「椛はさ、文のこと殺したらどうするつもりなの?」

未練があるのだとしたら、きっと椛は文を殺したことを悔いるはず。
そして裏切りの謎は解けないまま、永遠に苦しみ続けることになる。

「……え?」

私の問いに対して、椛は間抜けな声で返した。
まさか、殺した後のことなんて考えてないって言うんじゃないでしょうね。

「いつも殺してやるって言いながら斬りかかってるじゃない。
 私にはよくわからないのよね、文が避けることをわかった上でやってるんでしょうけど、でも全力よね。
 例えば文の体調が優れなかったりして、万が一にでも避けられないようなことがあったとしたら、文は間違いなく死んでるわ。
 いくら椛が鞍馬様に気に入られていたとしても、仲間である烏天狗を理由もなく殺したりしたら、鞍馬様との関係も今の隊長という地位も全部パアになるじゃない。
 それでも殺そうっていうの?」
「それは……」

復讐だけなら、鞍馬様と結婚でも何でもしてやれば、それで十分なはず。
でも、もし文を殺すようなことがあればあれもこれも全部無駄になる。
それに、椛にまだ未練が残っているというのなら、椛は文のことを一生忘れられなくなるんじゃないかな。
まるで呪いのように、文を殺した記憶に苦しめられるはず。

「殺そうと思ってるのは本気だよ」
「矛盾してない?」
「そんなことはわかってる! 
 それでも……私は許せないんだよ、あいつのことが。
 見る度に胸が締め付けられて、苦しくなって、吐き気がして、あんなクズのためにこんな気分を何度も味わうぐらいならいっそ殺した方がマシだ!」

椛は感情に任せて、そう言い切った。
椛の中で、理性と感情がせめぎあっている。
間違っていると知っていても、抑えきれない想いってどうしても生まれてしまうものだから。
わかるよ、わかるけど――

「死んだって消えないんじゃないかな、その気持ち」
「殺してみないと、わからない」
「別れた今だって当時の記憶を忘れられないんでしょう?
 だったら、文を殺したって椛の中から文が消えるわけがないじゃない、むしろもっと強く刻み込まれるでしょうね」
「何を言い出すかと思えば。
 あの頃のことはもう忘れたんだ、全部ね」

そんな苦しそうな顔をしながら嘘つかれても、誰も信じないって。

「だからあとは殺せば終わる、あいつを見ることさえ無くなれば、完全に消えて無くなるはずなんだ」
「忘れたいっていう願望でしょ?
 文は椛のことを子供の頃から面倒を見てくれたってにとりから聞いたわ、そんな大事な人のことを忘れられるわけがない。
 それとも、もしかして……」
「違うっ!」

激情の篭った否定。
まだ何も言ってないのに。
あまりの迫力に、私は思わず怖気づいた。

「椛……」
「違う、違う、私は消したいんだ! 
 消して、全部無かったことにして、頭の中にこびりつくこの不快な記憶を、この感情をっ! 全部無かったことにしたいだけなんだ!」

無かったことにしたいと思いこみたい、そう叫んでいるようにしか聞こえなかった。
たぶん椛は、取り返しの付かないことがしたかった。
手段なんてどうでもいい。
結果が、もはや前進も後退も選べない、身動きの取れない終着点へと辿り着くのなら。
鞍馬様との結婚でもいい、文を殺してもいい。
彼女の望みはただひとつ。
好意と憎悪の狭間で苦しみ続ける自分を、境界から解放することだけ。
憎めるものなら憎んでしまいたい、でも椛にそれはできない、心の奥底で未だ嘆き続ける未練と呼ばれる感情は、自分一人の力でどうこうできる物ではないのだから。
だったら、未練の余地も無いほど終わってしまえばいい。身動きを取れなくしてしまえばいい。
放り出されたあとに自分がどこに居るのかなど関係ない、四方八方が地獄に囲まれているのならどこに行こうと同じこと。
天国なんて、とうの昔に失われて久しいのだから。
現状さえ、破壊できれば。

「無かったことになんてならないわ」
「だったらどうしろって言うんだよ! 私が何をしたって言うんだ!?
 私はただっ、ただ……ずっと……っ」

あのままで居たかっただけだ、と椛は言えなかった。
ただ俯いて、歯を食いしばって、理不尽に対しての憎しみを積もらせるだけ。
最後まで言えなかったけど、私には十分伝わっていた。
結局はそこだ、椛がもし過去に戻れる手段を持っていたのなら、何もかもを捨ててでもその手段に縋っただろう。
一番の解決策は、そもそも文との別離というイベントが発生しないことなのだから。

「……どんなに否定しても思い出すんだ。
 嫌な夢だよ、仮にあいつが私の前に現れなかったとしても、毎日のように夢に見る」
「幸せだったんでしょう?」
「そうだよ、幸せだった。
 あの頃はずっと、毎日が幸せで、特に何もなくても、ただ一緒に居るだけで笑っていられた」

やっぱり忘れてないんじゃない。
どんなに忘れたって自分に言い聞かせても、記憶はそう簡単に消えてくれるものじゃない。
思い出を否定し続けた所で、今の椛という人格を作り出したのはその思い出なんだから。
それは、自分を傷つけるだけの不毛な行為に過ぎない。

「素敵ね」
「ああ素敵さ、もう二度と手に入らないと簡単に理解できるぐらい素敵だった。
 願わくば今が永遠に続いてくれって、ずっと願ってた」

椛は肩を震わせ、下唇を噛みながら想起する。
幸せだった頃の記憶を、もう戻らない楽園の日々を。
今にも涙が零れそうなほどに椛の心は揺れていて、私はそれを見ていることしかできない。
慰められてばかりの私は、他人を慰める方法なんて知らないから。
でも放っておくわけにはいかない、涙が溢れる前に、どうにかして少しでも支えにならなければ。
思い出す、自分が慰められた時の記憶を。
思い出す、にとりが私に与えてくれた優しさを。
見よう見まねではあるけれど、私はおぼつかない手つきで椛の頭に触れ、優しく撫でる。
少しだけ、肩の力が抜けた気がしたのは私の思い込みだろうか。

「は、はは……まさかはたてに慰められるなんて」
「追い詰めたのは私だから」
「ほんとだよ、反省してくれ」

椛は笑っていた。
自分のあまりの情けなさに、笑うことしかできなかったんだと思う。

「はは……は……。
 ……あの頃もさ、ちょうど今みたいに頭を撫でられて、その度に私は喜んでたよ。
 あの人の顔を見上げていた頃も、同じ高さの世界を見られるようになってからも、何も変わらなかった。
 ただ撫でて欲しくて、そのためだけにどれだけ頑張ったことか。
 馬鹿馬鹿しい。
 その努力に、一体どれだけの価値があったっていうんだ……」

少なくとも、当時の椛には万金よりもずっと価値があった。
愛情は価値観すらも揺らがせる。
例えば、昔の私が自分の領域に誰も入れたくないと駄々をこね、一人の世界に閉じこもっていることが至高の幸せだって思い込んでたみたいに。
私たちは変わっていく、プラスにもマイナスにも、時に運命のいたずらに、時に誰かの自分勝手な理不尽に振り回されて。
中々自分の力だけでマイナスから抜け出すのは難しいものだ、抜け出すためには、きっと他人が嫌がるぐらい身勝手なぐらいが丁度いいんだと思う。
ごめんね椛、きっとあなたは望まないだろうけど、今回は私がその役目を担わせてもらうから。
……ま、まあ、未熟な私に出来るかどうかはわかんないけどさ。
出来る限りはやってみるつもり。

「駄目だ……。
 こんな顔じゃあ、鞍馬様には会えないな」
「だったら、ぱーっと甘いものでも食べに行きましょうよ。今日は私が奢るわ」

ついでに鞍馬様との関係進展も邪魔してやろう、まさに一石二鳥。

「……だね、それがよさそうだ」
「あんまり湿っぽい顔してると甘いモノが逃げて行くわよ?」
「逃げないって、にとりの発明じゃないんだから」
「あはは、あったわねそんなのも。
 ラジコン機能の付いたパフェグラスだっけ?」
「しかもセンサーで動く自立型だよ、近づくだけで勝手に逃げてくなんて、一体何に使うつもりだったんだか」
「さっすがにとりよね、バカみたいな機械ばっかり作るんだから。
 たまには使える物もあるけどさ」

にとりの話をしているうちに、椛の顔は次第に晴れていった。
相手が楽しそうな顔をしてるとこっちの気分まで良くなっていくものだ、だから私はあえてにとりの話題を振った。
つまり、そういうことです。
私がこうして外の世界を満喫できているのは、椛や文のおかげって部分も確かにある。
けど一番の元凶は、やっぱりにとりだから。
あの自分勝手なマイペースバカがいなきゃ、きっと私は今だって自分の殻に閉じこもったままだった。
だから、まあ、恩返しってわけじゃないんだけどさ、にとりは私のちょっとした目標でもあったりするから、そうなるための第一歩。
手始めに椛と文でも助けてみようかなって、そう思ったわけ。





椛としこたま甘いモノを食べた私は、パンパンに膨らんだお腹を抱えながら家へと戻った。
もちろんうちは一人暮らしなので誰もいないはず……なんだけど、何故か窓から明かりが見えている。
消し忘れ、というわけではなく、実はとある事情で一人にだけ家の合鍵を渡していたりする。
私がそこまで信頼を寄せる相手なんて、にとりしか居ない。
でも、今日は来るなんて言ってなかったはずなんだけどな。
夕食は抜くつもりだったんだけど、来てしまったのなら仕方無い、にとりの分も作ってやるとしよう。

「あぁ、今日もはたての料理はデリシャスだよ! 素敵、私のお嫁さんにしたい!」

昨日も同じこと聞いた気がする。
一人で食べるよりは楽しんだけどさ、せめて事前許可ぐらいとって欲しいよね。
私にも色々あるんだから、心の準備とか。お腹の準備とか。
おかげで、ほとんどにとりのためだけに作る羽目になっちゃったしさ。

「ごめんごめん、やけに戻りが遅いなとは思ってたけど、まさか食べてくるとは思ってなかったんだ」

私もまさかあんな量を食べるとは思っていなかった。
椛のやけ食いに付きあおうとするんじゃなかった、今はとても後悔している。
たぶんこのあと、体重計にのってプラスアルファで後悔するんだろうなあ。

「でさ、今日も出歩いてたみたいだけど、何か収穫はあった?」

夕食を終えたにとりが早速聞いてくる。
しかし、お腹がいっぱいで満足するのはわかる。
でもその体勢はどうなのよ。
いくら食後とはいえ寝っ転がって、まるで我が家のようにくつろいでくれちゃってまあ。
まさかこのまま流れで住み着くつもりじゃないだろうか、この気の抜け方は遠回しなアピールだったりして。
にとりと同棲なんて、そんなのっ……そんな……同棲なんて……同棲……。
……ああダメだ、このパターンってもう何回も繰り返してるじゃない。
どうせにとりと同棲するのも悪く無いって思っちゃうんでしょう!?
よし決めた、忘れよう、考えなかったことにしよう、だからにとりの体勢も気にしない!
今はまず、今日あった出来事を伝えなければ。

「鞍馬様に話を聞いたら、愛宕様が脅迫したって教えてくれたわ」
「うわお、はたてってばいつの間にそんな一流記者になったのさ」
「私にそんな真似できると思う? 鞍馬様の口が軽かったのよ。
 自信満々で”私の美貌に圧倒されて射命丸は手を引いた!”とか言っちゃってさ」

ナルシストという噂は聞いていたけど、実際にあってみると想像以上だった。
そこらの女性よりはるかに美を追求してそうな感じで、私はちょっと苦手なタイプ、かな。
でもそのこだわりが、鞍馬諧報の新聞大会優勝という結果をもたらしているのだとすると、一概に馬鹿にもできないのかもしれない。
そんな鞍馬様の発言を聞いたにとりは、鼻で笑ってみせた。

「その程度で文が手を引くわけがないじゃん」

それは私も同意見。
実際に見たことがあるわけではないにしろ、今の私とにとりですら鞍馬様に引き裂けるとは思えない。
だとすると、妖怪の山で噂になるぐらいの文と椛が、その程度で手を引くわけがないわけで。

「でしょ? 他にも文より私の方が相応しいとか、もう好き放題よ」
「まあ、でも椛に惚れてるってのは事実なんだ」
「言われてみれば、惚れたのは百年以上前って言ってたし……てっきり白狼天狗の支持を得るためだと思ってたんだけど」

思ったより悪人ってわけではないのかもしれない。
だからって椛を奪ったことに変わりはないのだから、容赦するつもりはないんだけどね。

「あと、さらに話を聞いてみたんだけどさ、鞍馬様は文との交渉を愛宕様に任せたとも言ってたわ」
「つまり、その鞍馬ってやつは、文がどういう脅迫をされたのかは知らないってこと?」
「そう言えば、一度も脅したなんて話は出てこなかったかな。
 ひょっとすると、文が脅されたこと自体知らないのかも……」

文との交渉を愛宕様に任せたことを後悔するような人が、脅迫を善しとするとは思えない。
それこそ美学に反する真似じゃない。

「だから、鞍馬様は罪悪感を感じる様子もなく、椛に手を出せたってことなのかな」
「かもね、案外そいつは私たちの敵じゃないのかもしれないよ。
 となると、問題は愛宕ってやつの方だ」
「諸悪の根源ってことね」
「無理なら最初から頼みを聞かなきゃ良かっただけの話だから、リスクを背負ってでも欲しい見返りがあったんだろうね。
 家同士の同盟の絆を深めるために無理な話でも断るわけにはいかなかった、とか。
 直属の部下である文と椛の関係を知らないわけでもないだろうし、最初から脅迫するつもりで引き受けたんじゃないかな」
「そこまでして権力にしがみついて、大天狗様は昔から全然変わらないわね。
 それにしてもあの文が逆らえないほどの脅迫のネタって、一体どんな……」

ここまで言っておいて”様”付けをする必要があるのかとも思ったけど、これで慣れてしまってるんだから仕方ない。
それにしても、脅迫、か。
命の危険があると理解しながらも椛に近づこうとする文が、自分の身が危ない程度で従うとは思えない。
おそらく当時の文が最も嫌がるのは――

「私がすぐに思いつくのは、やっぱり椛に関することかな。
 何らかの形で人質に取られたとか」
「自分が人質に取られてたら、勘のいい椛なら文が脅されてることに気づきそうなものよね」
「ちなみにその大天狗ってやつは、どの程度の力を持ってるの?
 何の非もない天狗を山から追い出したり、処刑したりは出来るのかな」
「それはさすがに無理ね、妥当な口実が無いと」
「ってことはさ、文が脅されたタイミングで、何らかの事件や事故が起きてた可能性は十分にあると思わない?」

他の天狗の命を脅かしたとか、そのレベルの罪を犯さなければ追放処分が適用されることはない。
いくら大天狗でも、追放まで行くような事件を完全に隠蔽出来るとは思えない。
なにせ、鞍馬様のように同盟を結ぶ大天狗も居れば、逆に敵対して、常に弱みを握ろうと動いている者もいるのだから。
大天狗たちは、思うほど自由に動けるわけじゃない。

「……あ」
「どうしたの、にとり」
「はたて、あるよ」
「何が?」
「事件だよ、文が椛と別れたのとちょうど同じ時期にさ」
「あっ……そういえば、天狗が一人追放されてるんだっけ。
 そっか、追放されたのが本来は椛だったとしたら……」

妖怪の山に妖獣が侵入し、権力者の子供を襲ったあの事件。
当時、とある白狼天狗が失敗の責任を押し付けられ、山から追放されることとなった。
でも本来責任を取るべきは部隊の隊長であって、下っ端の天狗では無かったはず。
つまり追放される天狗は、誰でも良かった。
それでも、なんで愛宕様が白狼天狗の追放に絡めたのかはよくわからないけど。

「文は椛を追放されたくなければ別れろって脅されたんだ、だから泣く泣く手を引いた」

それでも、文は悩んだはず。
常に寄り添い支えあってきた半身を、そんな理不尽な理由で手放すものかと、必死に抗ったはず。

「あの二人ならどこでも生きていけそうだし、あえて追放を選んでも良かったんだろうけど、椛のことを考えるとできなかったんだろうね」

どちらの選択が二人を幸福に導くのか、今になって思えば答えは明らかだ。
殺意を向けられる関係になるぐらいなら、二人で追放されるべきだった。
きっと今の文は、そう考えて後悔してると思う。

「最近、文が椛が喧嘩してる姿を良く見るのもさ、文なりに後悔しないように動いてるってことなのかな」
「簡単に諦められるわけないからね。
 私が同じ立場だったとしたら、絶対に諦めないと思うし」

でも、自分で”スキャンダルが弱点だ”と言うような天狗が、自ら弱点をさらけ出すとは思えない。
仮に何らかの弱点があったとしても、それは巧妙に、何重にもヴェールに覆われて隠されているはず。
それを文が探し出せるかと言うと……未だそれらしき情報が表に出ていないということは、微妙な所なのかな。

「例の大天狗と椛の仲が順調に進展してるって言うんなら、タイムリミットはそう遠くないってことになる。
 文も焦ってるんだよ」

結局、文は椛に自分から近づいていた、と。
ひょっとすると、奪われるぐらいなら殺してくれと、そう考えていた可能性だって考えられる。
……文の心境を考えると、うまく言葉が出なかった。
しばらく、部屋は沈黙に包まれる。
私たちになにか出来ることはないのか、二人を救うための方法は。
愛宕様のスキャンダルを探しだすのが一番早いのかもしれない、でも文が百年追って見つけられなかった物を、未熟者の私が探せるものなのだろうか。
にとりも方法を探しているのか、額に手を当てながら考え込んでいる。

「脅迫があったって事実を、私たちが椛に伝えるわけにはいかないかな」

にとりは苦い案だと理解しているのか、難しい顔をしながらそう言った。

「今の所はっきりしてるのは、鞍馬様が愛宕様に文との交渉を頼んだって所だけ。
 脅迫があったかどうかも定かじゃないのに」
「だよねえ」

それに、鞍馬様と違って愛宕様が自分から語りだすとは思えない。

「確実でない情報を与えたところで、さらに椛を苦しませるだけになるかもしれないし」
「やっぱり椛も苦しんでるよねえ」
「じゃなきゃ、団子のやけ食いなんてしないって」

今日の椛の食べっぷりは目を見張るものがあった。
それに付き合わされたんだから、そりゃあお腹いっぱいになるに決まってる。

「裏切られたと知っていても、文への想いは断ちきれないまま。
 殺したいほど憎んでいるというよりは、殺せば想いが消えると言い聞かせてる感じかな」
「それは間違いだよ、殺したって消えるわけがない」
「私もそう言ったんだけどね」

かつての椛にとって、生きる理由はただ一つ、文のためだけだった。
全てを文のために捧げてきた椛が文を失えば、そこに生まれるのは虚ろな空箱だけ。
再び立ち上がるには、空白を何かで埋めるしか無い。
それが、文への憎しみだった。

「結局、二人を元に戻すためには、愛宕ってやつに直接説明させるしかないってことかあ」
「百年前の証拠なんてもう出てこないだろうしね」
「あ、そうだ。
 はたての念写はどうなの? 過去の情報を引き出すことに関しては、他のどの天狗よりも優れてるはずだよね」
「都合よくそんな写真があるかなあ。
 私が念写出来るのは、すでに誰かが撮影した写真だけなの。
 つまり、誰かが脅迫の場面を都合よく撮影してないといけないのよ?
 もしそんな写真が実在していたら、文がとっくに手に入れてそうなもんだけど」
「物は試しだよ、一回やってみようよ」

にとりの言うとおりかな。
一度もやらずに諦めるよりは、ダメ元で一度試してみたほうがいい。
私は携帯を取り出すと、検索画面で『愛宕 脅迫』と入力し、検索開始のボタンを押した。
読み込み画面が表示され、検索結果が少しずつ表示されはじめる。

「どう、それっぽいの出てきた?」

ずらりと並んだ画像。
一通り目を通してみたけれど、どれも関係のない写真のようだった。

「ダメね、出てこない」
「やっぱそう簡単には見つからないか」

試しに愛宕様だけでなく、文や椛に関する用語でも検索を書けてみるけれど、やはりどれも関係ない物ばかり。
それどころか、過去の文や椛が撮影したとんでもない写真が出てきたりして。

「うわ、すごいの出てきた」
「なになに、どんなのが出てきたの!?」

向かいに座っていたにとは四つん這いで私の方に移動すると、背後からにゅっと首を出して、無意味にほっぺたをくっつける。
触れ合いたいのはわかるけど、これ必要ある?

「うへへ、はたてさんええ香りでんなぁ……」
「へ、変態! どさくさに紛れて嗅ぐな!」
「いいじゃん、パンツ見せてくれたんだし」
「あ、あれは別よ!」
「はたての基準がよくわかんないなあ、一緒にお風呂だって入った仲なのに」

無理やり入ってきたくせによく言うわ。
どんなに講義しても、にとりは私から離れないし、匂いを嗅ぐのをやめようとはしない。
こんな濃密なスキンシップを許すほど好感度が溜まった覚えはないんだけどな。
まあいいや、どうせ画像も事件と関係ない物だし、無理に真面目ぶる必要はない。

「ほら、これよ」
「あらら、これはまた懐かしい写真が出てきたもんだね」

携帯に表示された画像には、文と椛が抱き合いながらキスをしている場面が映しだされている。
百年以上前となると、文は記者ではないし、まだ素人の個人が簡単にカメラを持てた時代では無かったはずだから、わざわざ河童あたりに頼んで撮影してもらったのかな。
自撮りならまだしも、人前でこれって……話には聞いてたけど、二人の仲の濃密さは相当みたいね。

「これ本当に椛なの? まるっきり別人じゃない。
 特に見た目が変わってるってわけじゃないのに、表情だけで印象ってこんなに変わるもんなんだ」
「やっぱり目つきが違うからね、当時の椛はほら、飼い犬みたいな目してるでしょ」
「確かに、文に心酔してるって感じね。
 文の顔もいい具合に蕩けてるわね、今からは想像もつかないぐらい」
「だらしないよね、以前はこれが普通だったんだけどさ。
 これ見てるとさ、やっぱり今の状態は間違ってるって思えちゃうんだよね」

確かににとりの言うとおり、写真に映る二人がいがみあい、殺意を向けるなんて、そんな未来あっていいわけがない。
二人だって、想像すらしなかったはず。

「別れる直前までこうだったのよね?
 椛が傷つく気持ちもわかるし、文がやさぐれたのも仕方のないことなのかも」
「いや、文は昔から割と意地悪なとこあったけどね」
「あはは、そうなんだ」
「椛のことからかって遊ぶこともあったし、時に犬みたいな扱いだったし……当時の椛はそれすらも喜んでたけど」
「ほんとに飼い犬みたいね……」

犬扱いされて激怒する今の椛からは想像もできない。
もしかして犬扱いされて怒るのって、文との思い出が蘇るからだったりして。

「それにしても、なんというか、微笑ましいを通り越してはしたない写真もちらほらあるんだけど」
「はしたないで思い出したんだけど」
「嫌なワードで思い出すわね」
「ちょっと携帯貸してよ」
「まあ、いいけど」

私から携帯を受け取ったにとりは、なぜか少し距離を取ってぽちぽちと手慣れた様子で文字を入力し始めた。
あの携帯を作った張本人だし、慣れてるのも当然だけどね。

「検索していい?」
「どうぞ」

私が携帯に力を込めると、念写が開始される。
携帯に、幻想郷から集められた写真のデータが送り込まれれ、検索ワードによってフィルタリングされていく。

「はたて はしたない」
「何て言葉で検索かけてんのよーっ!」
「大丈夫だって、検索したのは私だし、念写能力なんて持って……ってうわ、何か出てきた」

なんで私力使っちゃったんだ、にとりが碌でもないワードで検索かけるってわかってたはずなのに!

「やめてえぇぇぇぇぇっ!」

喉が枯れるほど絶叫し、にとりに飛びかかる。
今だけは、幻想郷最速を名乗る文よりも私の方がたぶん早かった。
間違いなく全力、この一瞬で明日筋肉痛になるぐらいの筋力を使ったに違いない。
でも構いやしない。見られるわけにはいかないのだ、あれだけは、絶対に!
必死の形相で飛びかかってくる私に驚いたのか、一瞬動きが止まったにとりからあっさりと携帯は奪い返すことができた。
携帯を取られたにとりは、そのまま固まっている。

「……はたて」

固まったにとりの顔は、なぜか次第に赤くなっていく。
いや、なぜかっていうか、見たんでしょう? そうよね、見たのよ、じゃなきゃド変態にとりが赤くなるわけがないんだからっ。

「見た、の?」

一応確認しておく、見てないっていう奇跡的な可能性を信じて。

「その……自撮りは、ほどほどにしといた方がいいよ?」

しかし私の希望は、(わかりきってたけど)容易く打ち砕かれた。

「今時はどこで情報が漏れるかわからないし、見たのが私だったからよかったものの、他の人に見られたら私だってショックだしさ」
「み、見たの? あれを見たの!?」
「でも、うん、ああいう表情のはたても、私は好きっていうか、意外と着痩せするのはお風呂入った時に知ってたけど、チラリズムの美学っていうのかな、肌色が多くて色っぽかったけど新鮮ですごく可愛かっ


「死ねぇええええっ!」

渾身の右ストレートがにとりの頬を強襲する。
死ねとは言ったが、もちろん殺せるわけがない。
にとりの言う通り、彼女以外の誰かが見ていたらそいつは殺したかもしれないが、一緒に風呂に入った仲だしね、殺すまではいかない。
気絶はしてもらうけど。
ついでに記憶も飛んでくれればなお良い。
でも、そう都合よくはいかないんだろうなあ。
見られてしまった。あれを、あんな恥ずかしい画像を。
ちなみに、この場で一番死ぬべきなのはにとりなんかじゃなく、可愛いと言われて少しでも喜んでしまった私だと思うの。
ああ、どうして天狗は恥ずかしさで死ねる生き物じゃないんだろう。





翌日、百年前に起きた事件の詳細を調べようと思い立った私は、メインストリートからは少し離れた通りにある、とある新聞屋を訪れていた。
店に入ると、特有のインクの匂いが鼻をくすぐる。
記者にとっては嗅ぎ慣れた匂いだから平気だけど、中には嗅ぐだけで気分が悪くなる人も居るんだとか。
ちなみにここ、新聞屋と言っても、天狗の里に数軒存在するその日の新刊を並べる新聞屋とは趣が異なる。
まず店に入って目につくのは、売り場の広さと、品物の量。
いくら烏天狗が各々に様々な新聞を発行しているとはいえ、新刊だけでここまでの量には成り得ない。
そう、つまりこれらの新聞は新たに発行された物ではなく、過去に発行されたバックナンバーなのだ。
ここは過去の新聞を収めた、云わば図書館のようなものである。
最古の新聞から現在に至るまで、そのほとんどが納められているらしい。
しかし、店を一通り回っても百年も昔の新聞は並んでいない。
ある程度古い新聞は倉庫にあるらしく、店主に頼んで持ってきてもらう必要があった。
カウンターには店員らしき女性の白狼天狗が腰掛けている。
一人でやりくりしてるって話を聞いたことがあるし、あの人が店主なのかな。
それにしては顔立ちは幼いし、体も小柄、人間で言う所の十代前半ぐらいにしか見えないんだけど……実は私より年上だったりして。
勝手なイメージなんだけど、てっきり髭を生やした渋いおじさんが思ってたから、ギャップのせいでちょっと話しかけづらい。
カウンターから離れた所で店主の顔をちらちらと見ていると、彼女はにこりと笑って私に話しかけてきた。

「いらっしゃい、新聞を探してるのかい?」

声は少女そのものだが、喋り方はかなり落ち着いている。
妖怪は見た目で年齢を判断できない。
やっぱり、私よりずっと年上っぽい気がするなあ。

「59季、水無月の新聞を探してるんですが」
「ずいぶんと昔の新聞を探してるんだね、それなら倉庫から……ああ、いや、59期か」

店主は一度立ち上がったが、すぐに神妙な顔をして立ち止まってしまった。

「どうかしましたか?」
「いやね、つい昨日のことになるんだが、愛宕様がちょうど同じ時頃の新聞を探してるってうちに来て、全部持ってっちまったのさ」
「全部!?」
「当時の新聞は貴重だからあんまり渡したくなかったんだがね、大天狗様の命令に逆らえるわけがない。
 それにしたって、あんなろくでもない事件を掘り返して何がしたいのかね」

先手を打たれてしまったらしい。
愛宕様に頼み込んで見せてもらうわけにもいかないし、脅迫が事実だとすればすでに処分されている可能性だってある。
それにしても早過ぎる。
昨日ってことは、私が愛宕様に取材した直後ってことになる。
たったあれだけの会話で、百年の前に脅迫にたどり着かれるかもしれないと思って、警戒したってこと?
大天狗のくせに小心者すぎるんじゃないの、結果的に私は情報を集められなくなったんだけどさ。
でもおかげで、百年前の情報が愛宕様にとって都合の悪いものだということがわかってしまった。
多少なりとも収穫があったことを喜ぶしか無い。
これ以上ここに居ても仕方無いし、新聞以外の方法を使って情報を集めて――

「知りたいことがあるんだろう? あの事件のことなら何でも答えられるよ、聞きたいことがあるなら言ってみな」

店主の発言が、私の思考を遮る。

「知ってるんですか?」
「ああ、なにせ当時追放されたのはうちの娘だからね」
「娘ぇっ!?」

思わず声が上ずってしまう。
私の驚きは、都合よく事件の関係者が見つかったことに対してだけではなく、この幼い少女が子持ちという事実のせいでもあった。
それなら事件について詳しいのにも納得できる、けども。
しかしこの見た目で、さらに子持ちだなんて……いくら外見と年齢に相関関係が無いとはいえ、物事には限度があるというか、いくらなんでも幼すぎるような。
子供が居るってことは妊娠したことがあるってことで、つまりはこの人に手を出した異性が居たということで。
合法なんだろうけど……旦那さん、どんな気分でこの人に手を出したんだろう。

「ふふっ、そんなに驚くことかい?」
「す、すいません、あまりに若い見た目をしていたもので」
「よく言われるよ、好きでこんな見てくれをしてるわけじゃないんだがね」
「あはは……」

旦那さんはたぶん、そんな見た目のあなたが好きになったんだと思いますよ。
とりあえずそれは置いといて、早速本題に入ろう。

「で、聞きたいことってのは?」
「思い出したくないことかもしれませんが、追い出された当時の状況を詳しく聞きたいんです」
「状況っていうのは……」
「なぜ、娘さんが追い出さなければならなかったのか」

他の誰でも良かったというのなら、あえて彼女を選んだ理由がどこかにあるはずだから。

「単純な話さ、うちの娘は上司に嫌われてたんだろう。
 当時、娘は寮暮らしで、一月か二月に一度うちに帰ってきてたんだが、その度にぽろっと弱音をこぼすんだ。
 私はやっぱり才能が無かった、隊長の言うとおり辞めるべきなのかもしれない、ってね」
「当時の隊長って確か……」
「そう、今の愛宕様の側近の烏天狗さ。
 後から知ったんだが、愚痴をこぼしてたのはうちの娘だけじゃなかったらしい。
 やつは部下からの評価が最底辺って言っていいぐらい悪かった。
 だが上からの評価は全く逆で、要するに上に媚びへつらうのが得意だったんだろう。
 おかげでやつの所業を咎める者は誰も居なかった。
 娘は生まれつき体が弱くてね、哨戒部隊に入った時も体力不足ですぐに倒れるんじゃないかって心配したもんさ。
 だから、上司が娘に厳しくあたるのは、あの娘を育てるためだって、あの頃の私は思ってたんだ」

実質、いじめにも等しい扱いを受けていたのだろう。
挙句の果てには自らの失敗を押し付け、追放にまで追い込んだ。

「……すまないねぇ、聞かれてないことまで勝手に話してしまって」
「詳しく聞きたいって言ったのは私の方ですから、むしろお礼を言いたいぐらいです」

鞍馬様の自分語りよりは聞いててよっぽどタメになったしね。

「娘さんが追放処分を受けたのは、要は当時の隊長の気分だったってことですよね」
「たぶんそうだろう、としか言えないね。
 隊長より上の人間が指示を出せば変わったのかもしれないけど、そんな話は聞いたことが無いからさ」

隊長より上の人間、つまり烏天狗の上司である愛宕様の気分によっては変わる可能性があったと。
そっか、実際に追放の処理をしたのは鞍馬様だったとしても、これなら追放する天狗の選定に愛宕様も介入できるってことになる。
新聞を回収していったことも含めて、愛宕様が椛の追放をネタに文を脅していたのはほぼ決まりかな。
それにしても……店主をそのまま放置してたってことは、この人が当時追放した白狼天狗の母親だってことも知らなかった、あるいは覚えてなかったってことだよね。
一人の人生を台無しにしといて、それを覚えてもいないなんて、とことん馬鹿にしてる。

「もう一つ聞きたいことがあるんですが、娘さんと同じ部隊に、椛――犬走椛って名前の天狗がいませんでした?」
「同僚の名前まではさすがに覚えてないね。
 しかし、犬走椛と言えば今の隊長だろう? しかも鞍馬様と噂になってるっていう。
 そういえば、昔は射命丸とかいう天狗と色々と噂になってたみたいだね」
「知ってるんですか?」
「色んな意味で有名だったからね。
 それに、仕事柄、新聞には一通り目を通しているし、何よりうちは記者の連中が集まる店だ、嫌でもうわさ話は聞こえてくるさ。
 ひょっとすると、鞍馬様との噂の件に事件が絡んでるのかい?」
「たぶん、そうだと思います。
 愛宕様が新聞を回収しにきたのも、自分に被害が及ぶ可能性を減らしたかったからでしょう」
「せこいやつだね、相変わらず」

事の経緯からして、店主さんが愛宕様に恨みを抱いていてもおかしくはない。
やけに協力的なのは、誰かに復讐という願いを託したいからなのかもしれない。

「そうそう、犬走椛の話だったね。
 娘が送ってきた当時の集合写真が残ってるから、良かったら見てみるかい?」
「ぜひお願いします」

店主さんは一度席を立ち、写真を探しに向かった。
店には自宅も併設されているらしく、写真はどうやら自宅の方に保管されているらしい。
しかし今更だけど、まさかここの店主が追放された天狗の母親だとは、さすがに驚いたなあ。
鞍馬様からも簡単に重要な情報を聞き出せたし、今回に限っては私に運が回ってきてるのかも。
この調子で、愛宕様の賄賂現場とか、浮気現場を目撃できると良いんだけど。
そんなことを考えていると、店主さんがアルバムを持って戻ってきた。

「待たせたね」

店主さんはアルバムをカウンターの上に置くと、ページをめくり始める。
大切に保管されていたのか、古いアルバムにも関わらず状態は非常に良い。
中の写真も、色褪せず鮮明に残っている。

「確かこのあたりのページに……あった」

店主さんが指し示したのは、一枚の白黒写真だった。
当時娘さんが所属していた部隊の天狗たちが、上と下の二列に分かれて整列している。
中央には当時の隊長と思われる、比較的しっかりしたガタイの烏天狗が偉そうな顔をして座っていた。
諸々の情報から悪い方向にバイアスがかかってしまっているのか、顔から性格の悪さがにじみ出ているように見える。
一方で娘さんは、一番端の方に、控えめに写っている。
顔をよく見てみると、店主さんと似ている感じがした。

「それがうちの娘さ、比べてみると一目瞭然だが、私に似て小さな体をしてるだろう?
 加えて、虫も殺せないような優しい性格をしてたんだ。
 なのに哨戒部隊に入りたいなんて。
 ろくに自分すら守れないで、一体何を守ろうとしてたんだかね」

彼女は自嘲ぎみにそう言った。
あの時に娘を止められていたら――そうやって、今でも後悔し続けているのかな。

「あんなか弱い子が、山の外で一人きりで生きていけるのかねえ」
「うまく他の妖怪や人間と共存できれば、あるいは」
「……そうだねえ、そうできてるといいねえ」

この人は、たぶん半ば諦めている。
娘が死んだと思い込むことで、精神のバランスを保っているように見えた。
椛を見ていると、それも正しいやり方なのかもしれないと思える。
生き物は、時に憎しみや悲しみすらも糧にできてしまうから。
諦めることを悪だと断じる人もいるけれど、私はそうは思わない。
目の前に立ちはだかるのは絶対的な壁、それを乗り越えることも、壊すこともできないくせに、ただひたすらに諦めずに生きていくなんて、あまりに負担が大きすぎる。

「そうそう、犬走椛を探してるんだったね。
 見ての通り下っ端ほど端の方に追いやられてるようだから、そうやって探せばいい」

今はともかく、文と付き合ってた頃の椛が優秀だったとは思えない。
しかし、娘さんの近く、写真の右端の方に椛らしき姿は無かった。
そこから左側へと視線を動かしていく。
椛の姿が見つかったのは、視線が左端にまで到達した時だった。
まだ初々しさの残る椛が、緊張した面持ちで写っている。
昨日念写で見た画像とは少し様子が違ってるけれど、やっぱり昔の椛には今にはない可愛げがある。

「やっぱり同じ部隊だったんだ」
「ところで、同じ部隊かどうかをやけに気にしてるみたいだけど、何かあるのかい?」
「それは……」

話し方によっては、娘さんが椛の代わりに追放されたと誤解を与える可能性もある。
そもそも、私にはそれが誤解なのかもわからない。
文が椛の追放を受け入れていれば、娘さんが追放されなかったのは事実なわけだし、どう話したものか。

「心配することは無いさね、今更誰かを怨んだりはするつもりは無いよ」

顔に出ていたのかな、あっさりと心が読まれてしまった。
ここまで言われてしまっては仕方無い、素直に話すしかなさそうだ。

「文と椛が付き合ってたって話は知ってるんですよね?」
「有名な二人だったからね、突然別れたって所までは知ってるよ」

知人ってわけでも無さそうなのに知ってるってことは、本当に有名だったんだ。

「その、二人が別れた理由なんですが、どうも鞍馬様が愛宕様に、二人を別れさせるよう頼んだみたいなんです。
 ですが鞍馬様が命令したからって、文がそう簡単に椛を手放すわけはない、だから愛宕様は椛を人質に取ったんじゃないかと」
「追放されたくなければ別れろ、ってことかい。
 その条件を飲んだから……追放されたのは、娘になったと。
 いや、違うね。本来追放されるはずだったのは娘だったんだ、それが変わらなかっただけのことか」
「……えっと」
「そんなに萎縮しなくても大丈夫さ、私だってわかってるんだ。
 事件当時、私たちは愛宕様に直談判したり、責任の所在をはっきりさせるために調査をしたりもした。
 結局は突っぱねられて終わりだったけど、はっきりしたことが一つある。
 それは、あの隊長は間違いなくうちの娘を一番嫌ってたってことさ。
 両親の前ですら悪意を隠しもしないからね、今でもあの時の奴の顔ははっきりと覚えている。
 犬走椛なんて名前は出てくることすら無かったよ、だから本来追放されるはずだったのはうちの娘ってことは間違いない。
 それに、あんたは事件に何の関係もない部外者なんだ、落ち込んだって何にもならないだろう?」

店主さんは優しく微笑んだけど、その笑みにはどこか悲しげだった。
強い絆は百年経ったって消えない。
文と椛も、そして店主さんだって、立ち直れたとしても忘れられるわけじゃないんだから。

「そういえば、あんた名前は何ていうんだい?」
「姫海棠はたてと言います」
「姫海棠……確か、新聞の名前は花果子念報だったか」
「えっ、知ってるんですか!?」
「そりゃあねえ。言っただろう? 仕事柄、新聞には目を通してるってね。
 ちゃんと過去の分も保管してあるよ、確認するかい?」
「いえ、今は大丈夫です」

貸出履歴で人気がないのがわかっちゃうから、あんまり見たくないってのが本音だったりする。
それを見ぬかれてしまったのか、店主さんは口元をおさえて軽く笑った。

「ところで、もしかしてだけどあんた、愛宕様の脅迫を表沙汰にしようとしてるのかい?」
「それは難しいと思っています、できれば他の方法で追い詰められれば……」

これが他の天狗に聞かれたら大変なことになるけど、相手は愛宕様にあまりいい感情を抱いていないようだし、言っても大丈夫だと思う。
それに、記者が集う場所だって言うんなら、私も知らないような情報を持っているかもしれないし。

「実は、愛宕様に関する噂を耳にしたんだがね」
「噂、ですか」

食いついた。
店主さんに愛宕様への復讐心があるのなら、これは私にとって有益な情報になるはず。

「とはいえ噂も噂、信憑性なんて欠片もありやしない。
 それを前提として聞いて欲しんだが……なんでも愛宕様、不倫してるんじゃないかって話があるみたいでね」
「不倫……」

まさにスキャンダル、愛宕様の弱点ど真ん中。
これが事実なら、十分な武器になり得る。

「ただ妙なのは、私の耳に届く程度には記者の間で噂が拡散しているはずなのに、証拠が一つも出てこないってことだ。
 事実だとすれば愛宕様は絶対にバレないように事を進めているはずだが、それでも里中に居る天狗の目や、鞍馬様の目から逃れられるもんなのかねえ」

確かに店主さんの言うとおり、そう広くない里の中で、誰にも気づかれずに浮気するなんて芸当、いくら大天狗とはいえできるものなのか。
ところで……。

「なんでそこで鞍馬様の名前が出てくるんです?」
「愛宕様が今の嫁さんと結婚する時に一悶着あったのさ、鞍馬様も色々と思う所があるはずさ」
「なるほど……」

よくわからん。
詳細はわからないけど、とにかく何かがあったってことで。
とにかく重要なのは、愛宕様が不倫をしているかもしれないってこと。
でも里には、浮気など関係なしに常に愛宕様をマークしている文が居る。
愛宕様の言動から考えると、彼は間違いなく文のことを警戒している様子だし、そんなにうかつな真似をするとは思えない。
敵対する勢力が悪評を広めるために流した噂なのか、それとも他のスキャンダルを隠すための隠れ蓑なのか。
私としては、不倫は事実で、警戒心の強い愛宕様はそれを上手に隠してるって感じだと一番うれしいんだけど……鞍馬様にも見張られてるとなると難しいかな。
それならまだ、反撃の目は残されているはずだから。

「この情報があいつを追い詰める手助けになればいいんだが」
「ありがとうございます、おかげで随分と真実に近づけた気がします」
「ふふっ、お役に立てたのなら幸いさね」

最初は推測に過ぎなかった文と椛を引き裂いた事件は、ようやくはっきりとした形になりはじめた。
細部の詳細まではわからないにしても、愛宕様が文を脅迫し、椛と別れさせたという事実はもはや疑いようのない事実。
やっぱり、文は椛を捨ててなんかいなかったんだ。
そして今だってそれは変わらず、彼女のことを想い続けている。
苦しくなるほど、一途に。





店を出て大通りの方へと向かう途中、偶然にも文の後ろ姿を見かけた。
彼女は昼間でも暗く感じるような、狭い路地裏の壁に背中を凭れて何やら写真を眺めている。
順調に取材も進み上機嫌だった私は、とんとんと軽くステップを踏みながら文へと近づいていった。

「なーにしてんの、こんなとこで」
「うひゃああぁっ!?」

私が肩に触れると、文は体をびくっと震わせて、まるで女の子みたいな黄色い叫びをあげながら大げさに飛び退いた。
てっきり横目で私の存在に気づいていたと思っていたのに、気配を消したつもりなんて無いんだけどな。

「はぁ……はぁ……なんだはたてか、驚かさないでよ」
「驚いたのはこっちの方よ! ただ話しかけただけじゃない、こんなに近くにいたのに気付かないなんて、ずいぶん集中してたのね。
 なに見てたの? 写真?」
「……なんでもないわ」

いそいそと肩から下げたポーチに写真を入れる文。
これで何も無いなんて、そんな言い訳が私に通用すると思ってるのかしら。

「なんで隠すのよぉ」
「別に、どうでもいいでしょう」

別に何も無いっていうんなら、露骨に目を逸らして、額から冷や汗を流しながら、バツが悪そうな顔をする必要なんて無いと思うんだけどな。
文がここまで必死になるってことは、やっぱりアレ絡みしか無いよね。

「重要な写真なのね、思わず椛に近づきたくなっちゃうぐらいに」
「ちっ、違うわよ! 椛は関係ないわっ」
「取り乱しすぎ、怪しむに決まってるじゃない、文らしくもない」
「ぐ……どうせあんたが見ても面白い物じゃないわよ、気する必要無いって言ってるでしょう」

気にしないでって言われたら気にすると何度言えばいいのか。

「気にしてくれって言ってるの?」

そう言ってにんまり笑う私を見て、文は「げっ」と小さく呟いた。
”気にするな”が私に対するNGワードだと気づいてしまったらしい。

「これは私の問題なんだから、私がどうにかしなきゃいけないのよ」
「問題?」
「……しまった」

問題って何の問題なのかなー、私にはわからないなー。
でも文が問題って言葉を使ったってことは、何かしら大変なことが起きてるってことだよね。
実は心当たりがかなりあったりするんだけどね。

「やっぱり大切な写真なんじゃない、見せなさいよー」
「いや、見せないわ」
「みーせーてーよー」
「子供かっての! 掴まないでよっ、見せない、絶対に見せないんだから!」

私が子供なら文も子供だ、ここまでやっても頑なに見せないとは。
ならばより子供らしい方法で文を揺さぶってやろう。

「あ、わかった、私わかっちゃった」
「何が、わかったってのよ」
「その写真、椛のあられもない姿が写ってるんでしょ!?
 あー、だからかあ、恋しくなっちゃったかあ、仕方ないよね、何年も離れてたら人肌も恋しくなるってもんよね、わかる、わかるわ、うんうん」
「ちっがあぁぁぁうっ! 断じて違うっ、絶対に違う! ありえないから!」
「あーやしいなぁ、ほんとに? 本当に違う? 椛は関係ない?」
「椛は……関係なくは、無いけど。でも写ってないわ」

ふうん、椛が写ってないけど椛に関係あるってことはつまり、百年前の事件か、あるいは愛宕様に関係のある写真ってことだよね。

「やっぱり椛関係あるんじゃない」
「……しまった」

本日二度目のしまったである。
今日の文はぽんこつだ、弄りがいがあって楽しいっちゃ楽しいんだけど、悩んでる友人をあんまりいじめるのも良くないよね。

「椛を取り戻す目処が付いたの?」
「取り戻すって……あんた、どこまで知ってるのよ」
「聞いたのは二人が付き合ってたってことと、文が一方的に椛を捨てたってことだけ。
 そこから先は愛宕様や鞍馬様、それに新聞屋の店主から私が得た情報から推察した、まあ簡単にいえば妄想ね」
「妄想にしては情報元の信頼度が随分と高いわね」

それでも明確な証拠が無いので、妄想ということにしている。
私だってはっきりさせられないのは、正直に言うともやもやしてるけど、物証が出てくるような物でもないから、仕方ないと思うようにしている。

「……はたて、試しにその妄想とやらを聞かせてもらってもいい?」
「答え合わせでもしてくれるの?」
「あんたがそれを望むなら」

望むに決まってるじゃない。
胸のもやもやが晴れるんなら、こんなに嬉しいことはない。

「オーケイ、そこそこ自信あるんだから。
 間違ってたら容赦なく途中で止めてね」

そして私は文に語り始める。
二人の関係を知ってから今日まで、ぶっちゃけて言うとそんなに長い時間ではないけれど、私が得た情報の全てを。

「文が椛を捨てた理由は、ずばり愛宕様に脅迫されたからよ」

文からの静止は、無い。
ほぼ確信はしていたけれど、これで正解だったらしい。

「鞍馬様は文と椛が付き合っていた頃から椛のことが気になっていた、これは本人から聞いてるから間違いないわ。
 けれど、椛と文は妖怪の山に噂が轟くほどのおしどり夫婦っぷりで、鞍馬様がどう口説いても靡きそうには無かった。
 そこで、どうにか自分の物にできないかと思案した結果、私たちの直属の上司であり、自身が懇意にしている愛宕様に頼むことにしたの。
 おそらくだけど、方法は指定していないわ、だから鞍馬様は文が脅迫されていることを知らない。
 じゃなきゃあそこまで堂々と椛を口説けるわけがないもの。
 天狗の里において、脅迫の事実を知っているのは文と愛宕様の二人だけ。
 脅迫の内容は……そうね、百年前に起きた事件の責任を椛に被せられたくなければ別れろって所かしら」

最後まで言い切るまで、文は私の言葉を止めなかった。
私の集めた情報と推測は全て正しかったってことが、これで証明されたと言っても過言ではない。

「正解よ、驚いたわ。
 愛宕様や鞍馬様に直接話を聞いたってのは知ってるけど、まさかそこまで掴んでるなんてね」
「ど、どこで聞いたのよその話」
「他の天狗からね、あんた堂々と動きすぎなのよ。
 おかげで愛宕が警戒して、昨日からやけにガードが固くなってるわ」

私の動きが噂になってるなんて、大天狗様と会話したのは、せいぜい二分か三分程度だっていうのに。
天狗の取材力、恐るべし。

「あいつ、昔から何も無くても周囲を警戒するような心配性……いや、臆病者だったのよ。
 例えはたてのことを脅威と感じていなくとも、自分に損が生じる可能性が生まれた瞬間に、可能性を潰そうと動き始めるの」

だから、新聞のバックナンバーを全部持って行ったりしたんだ。
でも――

「それって、後ろめたさの発露でもあるよね」
「はたてにしては鋭いわね」

褒めるならもっと素直に褒めろっての。

「おそらくそうでしょう。
 臆病で慎重すぎる性格をしているわ、でもその割には悪事に手を染めないわけじゃない」

でなければ、文を脅迫などするはずがないのだから。

「厄介なタイプよ、自己保身の能力は飛び抜けて優れているから、なかなかボロを出してくれない。
 でも汚い手を使ってることは確かなのよ、必ず弱みは存在しているはずなの」
「自分ばっかり幸せになって、他人には不幸を振りまいて……ふざけてるよね。
 文だって辛かったでしょう?」
「一番の被害者は、何も知らずに巻き込まれた椛よ」

文は即答した。
自分は被害者ではないのだと、そう主張するように。

「今になって後悔してるわ、例え追放されたとしても、私は椛と一緒に生きていくべきだったって」
「そこまで椛のこと……」
「当然じゃない、あの子の存在は私にとって命より重いの。
 人生全てを捧げてでも、私は椛を幸せにしなくちゃならない、例え椛がどんなに私を憎んだとしても、私がどんなに不幸になったとしても。
 あんたにだって大切な人が居るならわかるでしょう? にとりを奪われた未来のことなんて想像したくもないはずよ」
「……そう、ね」

きっと今の私からにとりを奪えば、再びあの闇の中に後戻りすると思う。
誰も信じず、誰とも繋がらず、全てを拒絶して、一人膝を抱えてにとりと過ごした幸せな記憶に沈んでしまう。
そう考えると、奪われてもなお立ち上がる文は、私よりもずっと強い心を持ってるんだと思う。
尊敬するよ、素直に。

「文は強いね」
「強くなんてないわ。
 私がもっと強ければ、椛を手放す必要なんて無かったんだから」
「それでも、愛宕様や鞍馬様への怒りを抑えて今まで頑張ってきたんでしょう?
 私だったら、途中で爆発して、大暴れして、全部台無しにしてると思うな」
「……」

文はなぜか視線を逸らした。
何よその反応、まさか大暴れしたことがあるってこと?
でもそんな話は、数少ない顔見知りの記者仲間からも聞いたことが無い。
もし文が、怒りに任せて大天狗様に手を上げたことがあるのだとしたら、もっと大事件になっていないとおかしい。
文の怒りの対象はたぶん愛宕様なんだろうけど、愛宕様に文から暴力を振るわれたという事実を隠すメリットなんて無いはずだし。
いざとなれば、さらなる脅しをかけるための材料にだってなるはず。
それに、いくら文でも、戦闘能力で大天狗と拮抗することは出来ても、一方的に勝てるとは思えない。

「どうしようもないとわかりながらも、私は椛のことを諦められなかったわ。
 いくら私と大天狗の間に大きな権力の差があったとしても、一つぐらい譲歩を引き出せないかって、あの時の私は必死になって考えたのよ」
「う、うん」
「だから、言ってやったの。
 ”わかりました、椛は諦めます。ですがその代わりに、てめえ様の顔を一発ぶん殴らせていただけませんか”って」
「それで……殴った、の? 愛宕様を?」

いくら交換条件とは言え、その案を愛宕様に承諾させるとは。
きっと文の怒りは、愛宕様でも逆らえないほどだったんだろうなあ。
そこまでキレる文を見たことが無いから想像も出来ないけど、愛宕様がビビるぐらいだから天魔さまと同レベルかな。

「ええ、人生で一番力を込めて、歯を食いしばって、口の端から血を流しながら、殺す気で、全力でね。
 今でも後悔しているわ、あの一撃で奴を殺せていれば、椛と一緒に逃避行出来たのにって」
「あー、だから……」

愛宕様は文に怯えてたんだ。
百年経ってもトラウマが消えないとは、文の拳、おそるべし。
私がうんうんと納得していると、

「一つ、はたてに聞いても良い?」

と今度は文の方から質問を投げかけてきた。

「どうぞどうぞ、何でも遠慮なく聞いちゃってよ」
「あんた、どういう目的で私たちのことを調べてるの?」

文は懐疑的な表情に若干の敵意込めてそう聞いた。
そりゃそうだ、疑問はもっともだった。
”今は”文と椛の共通の友人になってはいるものの、事件当時の私はまだ引きこもっていたわけで、謂わば部外者だった。
それが急にやる気を出して、事件を引っ掻き回してるというのだから、文が訝しむのも仕方無い。
でも、疑われるのはちょっとだけ悲しいかな。
これでも私、友情のために頑張ってるんだから。

「椛も友達、文も友達、その二人を仲直りさせたいって思うのは自然なことだと思うけどな。
 それに、いちゃいちゃしてる二人を見てからかってみたいしね」

本音も本音、私にはこれ以外の動機なんて無い。
全ての事実が明らかになったとしても、記事にするつもりすらなかった。

「……そう。
 ふふっ、そのからかいたいって方が本音でしょう?」
「うん、だから私は味方だよ」
「味方、味方ねえ……まあそういうことでいいかな」

む、頼りないと思われてそうな雰囲気。
私みたいな未熟者じゃ仕方ないけど、もうちょっとぐらい頼りにしてくれていいのに。

「一人より二人の方がやりやすいでしょ?」
「一人半ぐらいの働きにはなるかもしれないわね」
「素直じゃないなあ」
「素直さを求めるなら椛でも当たりなさい、私はこれが売りなの。
 まあ……困ったことがあったら頼らせてもらうわ、ありがとね」

何気なく言われた一言。
でも冷静になって考えてみると、これは記念すべき出来事なのかもしれない。
だって……文からお礼を言われるなんて、彼女と出会ってから今までで初めての出来事なんだから。



 

家に戻ると、例のごとく灯りが付いている。
言うまでもなく、私の家で待っていたのはにとりだった。
こんな毎日来てたんじゃ、本当に半同棲状態じゃない、新聞記事にされたらどうするつもりなんだか。
追い出さない私が悪いのかもしれないけど、私ににとりを追い出せるわけがないし。
正直言うと……嬉しいし。うん、そこはもう認めるしか無いと思う。

「ふぃー、食った食った。おいしかったよはたて」
「ごちそうさまでした」

軽く流したけれど、にとりは必ず私の料理を美味しいと褒めてくれる。
二人分用意するのは大変でも、美味しいって言ってもらえるのは素直に嬉しいです。
私は食器をまとめて、流し台へと運んでいく。
思わず上機嫌になった私は、鼻歌を歌いながら洗い物を始めた。

「デザートははたてがいいな」
「自分の腕でもかじってなさい」
「つれないなあ、はむはむ」

ほんとにかじり始めたし。
そりゃつれなくもなる、その発言で私の心臓がどんだけ高鳴ったと思ってるんだ。
何よデザートは私が良いって、新婚夫婦の発言じゃない。
新婚……夫婦……同棲……。
あーだめ、だめよ姫海棠はたて、こんなんだからちょろいとか思われちゃうのよ。
落ち着け、落ち着きなさい。
あーあ、また顔熱くなってきちゃったし。
こういう時は気をそらすのが一番だ。
食器洗いに集中して落ち着こう、それがいい。

「はたて、顔真っ赤だよ?」
「うひゃぁうっ!?」

そう、このタイミングで背後から近づいてくるのがにとりなんだった。
そういうやつなんだこいつは。
私と違う意味で空気が読めなくて、そしてある意味で一番空気を読めている。
憎たらしいたらありゃしない、やっぱり大好きだこんちくしょうめ。

「い、いきなり近づいて来ないでよぉっ」
「いや、残りの食器運んできただけなんだけど……」
「うっ……」
「はたて、かわいい」
「やめろぉー! それ以上言うなー!」

私は脳内でリピートするにとりの声を振り払うように、食器洗いに没頭した。
死ぬ、死んでしまう、顔が熱くなり過ぎて爆発してしまう。
なんか最近の私、以前に比べてにとりの発言に翻弄されすぎじゃないだろうか。
前はもっと、クールにつれなくスルーできてたはずなのに。
これってまさか、好感度のせいだったり? つまりは巡り巡って私のせい?

「そうやっていちいち素敵なリアクションを見せてくれるはたてが悪いのさ」

いや、絶対にからかうにとりが悪いはずだ。
神様はきっと見てる、いつか正義の鉄槌を食らって痛い目を……見たら、にとりが可哀想だなあ。
痛い目は見なくていいかな、うん。
恥ずかしいのはやだけど、にとりが痛い目を見るぐらいなら、私が恥ずかしい思いをした方がまだいいかな。

「そういえばさ、昨日やり忘れたことがあったんだけど」
「昨日って言うと、念写?」
「そうそう、念写で調べようとしたのは百年前の事件だったでしょ?
 あんな回りくどいことしないでさ、今のスキャンダル写真を探せばよかったんだよ」
「そんな物があったらとっくに大ニュースだと思うけどね」

写真といえば、文が持ってた写真、結局は最後まで見せてくれなかったな。
なんだったんだろうあれ、随分と大事そうに持ってたように見えたけど。

「とりあえず、念写はあとでするとして、洗い物を終わらせましょうか」
「ほいさっ」

私が食器を洗い、隣に立つにとりが洗い終えた食器を受け取り、布巾で拭いて水切りラックに並べていく。
手慣れた分担作業。
どちらかと言えばにとりの家でやつことの方が多いけれど、どちらの家でもこのポジションが変わることは無かった。
いつの間にか、私が洗いでにとりが拭き、といった感じで固定されてしまったのだ。

「なんか、こうやって二人で洗い物してるとさ……」
「夫婦禁止!」
「……自分で言ってるじゃん」

まんまとにとりの罠にハメられてしまった。
くそう、また顔が熱くなってきた。
これじゃあ、バカ丸出しじゃないか私。

「私のせいじゃないからね?」

わざわざ言われなくてもわかってるっつの、どうせ悪いのは私ですよーだ!
……わかってたけど、わかってたことだけどさあ、私ってやっぱりかなりのバカらしい。
それも普通のバカじゃなくて、にとりバカ。
うわあ、自分で言ってて恥ずかしいぞこれ。

食後の片付けを終えた私たちは、二人で居間へと戻る。
ナチュラルに隣に寄り添って座るにとりは、この際無視することにした。
携帯を取り出し、先ほど話した通り、現在の愛宕様に関するワードを入力していく。
手当たり次第に関連したワードを入力していく方法も考えられたけど、愛宕様のスキャンダルについて、私には一つ心当たりがあった。

「不倫の噂?」
「そう、確証は無いけど、そういう噂が一部の記者の間で流れてるんだって」
「ふーん、うかつだねえ。
 奥さんが居るんだから、スキャンダルに弱いって自覚があるんなら、そんなのやらなければいいのに」

一途な妖怪には縁のない話だからか、にとりは不快そうな表情をしている。
私も同じ気持ちだ、一生その人が好きだって確信したからこそ、結婚までしたはずなのに。
それとも、大天狗とかになると結婚にも政治的な都合が絡んできたりするんだろうか。

「噂はしょせん噂、証拠どころか実際にあるのかも疑わしいものだけど――」

検索ワードは『愛宕 不倫』。
試すのにそう時間はかからないのだから、試すだけ試してみたらいい。

「検索、っと」
「ま、私も簡単に見つかるとは思ってないよ。
 でも、試してみるだけならタダだしさ」
「私がそこそこ疲れるわ」

念写には私の力を消耗する。
とは言え、一回程度試すぐらいなら大したことはないんだけど。

「マッサージしてあげよっか?」
「目つきがやらしいから遠慮しとくわ」

頼めば真っ当にマッサージしてくれそうなんだけど、息が荒いのでちょっと怖い。
ただ、前は”ちょっと”じゃなくて普通に怖いと思ってたから、そのうち怖いとも思わなくなるのかもね。
携帯の画面に表示されるのは読み込みマーク。
しばらくすると検索結果画面に移り変わり、画像がずらりと並んだ。
私たちは無言で画像を覗き込む。
表示された画像はどれも似たような風景を撮影していて、風景の真ん中には二人の人物が写っていた。
一人は愛宕様。
そしてもう一人は――

「奥さんじゃ、無い」

愛宕様の奥さんの顔ぐらいは知っている。
でもこの画像に写っているのは、髪型も、顔も、体型も奥さんとは違っている。
つまり、これは。

「……あった」
「あった、ね」

そうとしか言えなかった。
まさかこんなに、容易く見つかるとは思っていなかったから。
私とにとりはほぼ同時に驚愕の声をあげる。

「え、これ本物なの? そんなあっさり見つかっちゃうものなの!?」
「私だって驚いてるさ! でもこれ、間違いなく不倫現場……だよね?」

写真には、愛宕様が女性と一緒に宿の前で寄り添う姿がばっちりと写っていた。

「うーわ、次の写真はもっとすごいよ、部屋の隠し撮りみたいだ」

検索結果が先に進む度に、その写真は過激に、致命的になっていく。
愛宕様と女性が抱き合い、口づけを交わし、そして服を脱がし――

「あっ、これ以上はダメなやつだ。
 ダメ、ダメダメっ、はたてには刺激が強すぎるから閲覧禁止ー!」
「人の裸を見といていまさらじゃないっ」

でも、まあ確かに証拠としてはその手前までで十分すぎるほどで。
あれから百年が経過し、彼も油断していたのかも。
あるいは、彼も警戒はしていたが、これを撮影した天狗が愛宕様ですら想像もしないような方法を使ったのか。
これらの写真は全て、予め場所がわかっていなければ撮影できないような物ばかりだ。
一朝一夕でどうにかなる物ではない。

「でもこれ、天狗の里じゃないよね?」
「へ? ああ、言われてみればここ……人里、かも」

二人が入っていった小屋は、宿や茶屋と言った雰囲気ではない。
詳しい場所まではわからないけど、郊外のほたって小屋とか、そんな所なのかもね。
だから、鞍馬様や周囲の天狗たちにバレなかったんだ。
でもさすがに、一人で人里に行ってたら怪しまれると思うんだけど、そこは上手く言い訳してたってことかな。
最近は天狗も、人里での妖怪同士の勢力争いに参加してるわけだし、そのあたりを理由にすれば誰も怪しまないのかもしれない。
ただ一人、この写真を撮影した誰かさん以外は。
しっかし、外での写真はともかく、部屋の中の写真なんてどうやって撮影したんだか。

「どうしよう、とりあえず……印刷しておいたほうがいいのかな」
「待った、印刷はいつでも出来るんだし、外に漏れる危険性を考えたら今はやめておいた方がいいかもしれないよ」

今の所は私が愛宕様に目をつけられている様子はないけれど、万が一、ということもある。
にとりの言うとおり、うかつに印刷するのはやめておいた方がいいかもしれない。
私たちはあくまでこの写真を、椛の件に関する交渉材料として使おうとしているのだ。
もし写真が漏れて、他の新聞に載ってしまえば、その時点で交渉には使えなくなってしまう。

「でもおかしな話だよね、この写真を撮影した天狗はどうして公表しなかったんだろう」

はたてには心当たりがあった。
おそらくこの写真を撮影した天狗の目的は、新聞記事にするためではないから。

「撮影したのが文だから、じゃないかしら」

先ほど文に会った時、何かの写真を慌ててポーチに隠していた。
あれが現像された浮気現場の写真だったとしたら、文が悩んでいたのはおそらく――

「だったら、とっとと写真を使って椛を取り返したらいいじゃん」
「文は……椛が幸せになるためなら、自分が不幸になっても良いって言ってたのよ」
「それっておかしくないかな、椛にとっての一番の幸せは文と一緒に過ごすことだよ?」
「文がそうは思ってないとしたら?」

文は椛を被害者だと言っていた、けれどそれに自分は含まれていない。
ひょっとすると、文は自分のことを加害者だと考え、今でも責め続けているのかもしれない。
だからこんな武器を手に入れても、使おうとしなかった。
そして今も、葛藤し続けている。

「そんなの……文は、バカだよ」
「バカよねえ」

私と同じか、それ以上に。
疑う余地なんて無いはずなのに、当事者になるとそういう感覚さえも麻痺してしまうのだろうか。
でもさ、バカはバカでも、私は愚かとまでは思えない。
椛を強く想うが故に躊躇してしまう、という文の心情も理解できてしまうから。





……………





私が愛宕の不倫写真を手に入れたのは、二週間ほど前のことだった。
不倫の情報を掴んだ時は興奮が止まらなかったが、実際に撮影している時はそれどころではない。
興奮しすぎて、当時の記憶がほとんど残っていないほどだ。
辛うじて覚えているのは、震える指でシャッターを押し続ける感触だけ。
家に戻ってから現像して、写真を手にして、初めて実感が生まれた。
全知全能の力を手にした気分だった。
やっと手に入れたんだ、あいつらと渡り合える武器を、って。
嬉しくて、嬉しくて、その日の晩は眠れないほど嬉しかった。
次の日、冷静になった私は気づいてしまった。
この写真をうまく使えば、椛を取り戻すことが出来るかもしれない。
だがその代償として、椛の百年間の努力を奪うことになってしまう、と。

ずっと考えていた。
椛は被害者で、私は加害者だ。
脅迫の有無は関係なしに、その図式が揺らぐことは無い。
椛に最悪の裏切りを与えた私に、再び手を取る資格があるのだろうか。
きっと私は幸せで、椛も幸せな日々が戻ってくる。
しかし今のまま椛が努力を続けても、彼女だけは幸せになれるかもしれない。
私は不幸で、椛は幸せで、それこそが加害者と被害者の正しい形ではないだろうか。

誰も正しい答えは持っていない。
決めるのは私の意思、それだけが結果を左右する。
ようやく武器を手に入れたのに、今の私は、それを手にする前よりも強く苦悩している。
こうしている間にも椛はあの鞍馬と仲を深め、私の手の届かない場所へ行ってしまおうとしているというのに。

もう鞍馬のやつと接吻ぐらいはしたのだろうか。
抱き合っている場面を見たという噂を聞いた。
だったら、もう一晩ぐらいは一緒に過ごしているかもしれない。
近々結婚を決めて、射命丸になるはずだった姓は気付けば鞍馬になって、二人が幸せそうに生きる姿を私は遠くから眺めて――
仕方のない事だ。
椛自身が選んだ道、私が捨てた道、その末路。
因果応報。
成るべくして成った結論。
……。
ああ、だから、なんだって言うんだ。
ちくしょう、ちくしょう、いやだなあ、悔しいなあ、殺してやりたいなあ。
私以外が椛に触れる? あの唇が、体が、心が、私以外のものになる!?
ふざけるなふざけるなふざけるな!
殺したい、あの鞍馬とか言う間男と愛宕とか言う図体がでかいだけが取り柄の下劣な狸を殺してやりたい。
犬のように喉仏に食らいついて、肉を噛みちぎり、首から血を吹き出しながらのたうち回って死んで欲しい。
何度も何度も殴りつけてあの整った顔をぐちゃぐちゃにしてやりたい。
四肢を切断して、殺してくれと懇願して、それでも生かして、声も出なくなるまで嬲った末に殺してやりたい。
どす黒い憎悪が、膨らんで、膨らんで、破裂してもなお汚泥を吐き出して。
それでも、椛が幸せであって欲しいと思うから、私は身動き一つ取ることができない。
大天狗の地位さえ手に入れば、椛は今以上の自由を手にすることが出来る。
私では与えられない物を手に入れることが出来る。
烏天狗の身では越えようのない、壁。
それに、所詮私は加害者であって、鞍馬の行為を咎められる立場に無いのだから。

瞬きすら忘れていた、眼球が乾いている。
呼吸が荒い、心音が煩い。
最近は毎晩こんな調子だ。
目が冴えてしまって眠れない、目覚めたまま悪夢を見ているような気がする。
部屋に一人で閉じこもっているだけで、見てわかるほどに消耗していく私が居た。
ふらりと散歩に出るのは心を落ち着けるためで、決して椛に会いに行くためじゃない。
ただ、気付けば足が、椛の居る方に向かっているだけで。
無意識のやつめ、わざわさそんなことをしてくれなくても、私が椛を欲していることぐらい理解しているというのに。
でも、今日はいつもに比べれば、まだ冷静に自分を保っていられそうだった。
だから、道を選ぶことができた。
大丈夫、この方向なら椛は絶対に居ない、この一帯は別の部隊が哨戒任務にあたっているはずだし、万が一にも椛が近くに居たとしても、夜の森を歩く私を見つけられるものか。
夜風が火照った頭を冷ましてくれる、大きく深呼吸すると冷たい空気が体全体から熱を奪っていく。
冷気は、憎悪に対する鎮静薬みたいなものだ。
これがなかったら、私はとっくに鞍馬と愛宕を手にかけているだろう。

ランタンで周囲を照らしながら、森の中を歩いて行く。
どこかに繋がっているのだろうか、獣道にしてはやけに広い道だった。
もし迷ったとしても、上空から周囲を見渡せばいいだけなのだから特に問題はない。
あえて空を移動しないのは、目的が心を落ち着けるためだから。
個人的な意見になるが、星空よりも草木のせせらぎの方が、落ち着くにはちょうどいいのだ。

私は適当な樹の幹に背中を預けると、腰にぶら下げた水筒を手に取り、軽く水を口に含んだ。
こんな時間に散歩をする好き物は他に居ないらしく、周囲からは虫の鳴き声と、葉のこすれ合う音しかしない。
普段の私なら、人が行き交う喧騒の方を好むはずなのに。
静かな場所を好むようになったこと自体が、私に余裕がないことを象徴しているのだ。
しかし、私が元の状態に戻ることなどあるのだろうか。
椛を取り戻す武器を持ちながら、使うのを躊躇うような弱い私が――
……いや、やめておこう。
そういうのを忘れる度に散歩してるのに、これでは本末転倒だ。
やはり止まると良くないことばかりを考えてしまう、とにかく歩いて、風を受けて、頭を冷やさなければならない。
自分自身から思考の余地をなくさなければ。
背中を預けた木に別れを告げ、私は再び歩き出す。
その、瞬間だった。

「シィッ!」

背後から微かな呼吸音、そして強烈な殺気。
だが私がそれに気づいた時には、すでに彼女はすぐ背後まで迫っていた。

「なっ!?」

馬鹿な、椛が居ない場所を選んだはずだったのに――
いつもの大剣なら避けられる、しかし椛が奇襲に用いたのは、長さ一尺にも満たない短刀。
狼が獲物に食らいつくように、低い姿勢から放たれるなぎ払い。
リーチは短い、だがその分だけ小回りは利く。
いつもの椛が放つ斬撃よりも、それは数段素早いものだった。
完全に油断していたこともあって、回避が間に合わない。

「ぐっ……ぅ」

冷たい刃の感触が、左のふくらはぎのあたりを切り裂いた。
鋭い痛み。
遅れて、流れ出た血液がかかとを濡らす。
足の切断までは行かなかったものの、刃はそれなりに深く入りこんだらしい、左足にうまく力が入らない。
歯を食いしばり、痛みに顔を歪める。
だが、痛みにかまけている暇はない。
椛は間髪入れずに再び攻撃姿勢に移行した。
同じ低姿勢から接近しようと腰を落とす。
狼が祖なだけあって、その動きを真似たほうが早いのか。
上空へ飛び立つ余裕はない、迎撃する必要がある。
今度は先ほどと違って奇襲じゃない、右足もまだ使える、あの短刀だけならどうにか受け止められるかもしれない。
しかし、椛はすぐに次の攻撃には移らなかった。
それは逡巡。
奇襲が成功したことは椛にとって予想外の出来事だったのかもしれない。
血の付いた短刀をじっと見つめている。
だが暗いため、その顔から感情を読み取ることはできなかった。

「……椛」

私が名前を呼ぶと、椛ははっとこちらを向き直し、改めて二撃目の準備動作に移った。
だが遅すぎる。
万全の体制で受けられる次の攻撃は、絶対に私には命中しない。

「ハァッ!」

二撃目、再び足元を狙って繰り出される斬撃を、私は下駄の歯で受け止めた。
椛は即座に短刀を放棄、手を離してなぎ払いの勢いを利用して右回し蹴りを放つ。
それも予想の範疇。
脇腹に抱え込むようにして足を受け止め、そのまま動けないようにしっかりと腕で挟みこんで固定する。

「今日は、別にあなたに会いに来たつもりは無かったのですが」
「くっ……欠員が出て、代わりに見回りをしていたんだ、そしたらお前の姿が見えて……」
「奇襲しようと思い立った、と」

この距離になって、ようやく椛の顔を見ることができた。
いつもの殺意に満ちた攻撃的な表情とは違う。
こめかみから冷や汗を流しながら、怯えたような顔をしている。
やっぱり、そうだ。
私を傷つけてしまったことを、強く後悔しているらしい。
こんなの見せられて、愛おしいと思わない天狗が居るだろうか。
欲しい、欲しい、取り戻したい。
強い欲求が私の体を支配しようとするが、首を左右に振って振り払った。
その声は妄執だ、聴く価値は無い。

「どうします、まだ続けますか?」

椛は答えること無かった。
やめるつもりはないと、そう強がっているように見えた。
仕方ないので私が足を離すと、後ろに大きく飛び退いて距離を取る。
足元の短刀はちゃっかり回収していたらしく、再び構えて私に向き直った。

「いつもの大剣はどうしたんですか? あれ無しで私とやりあうのは、さすがに厳しいと思いますが」
「……」

うかつな発言は避けたいのか、椛はやはり答えない。
大方、急な呼び出しで代理を頼まれ、準備する余裕が無かったとかそんな所だろう。
それとも、私と会う予定が無かったから持ってこなかったのだろうか。
しかし、奇襲に用いるならまだしも、あの短刀で私と真正面からやりあうには無理がある。
椛の専門外ということもあるし、私だって葉団扇とは別に護身用の短刀ぐらいは持ち歩いている。
あまり使い慣れた代物ではないが、専門外の椛と打ち合うには十分すぎる獲物だ。
はっきり言って、例え私が足を負傷していたとしても、勝負にはならない。
多少の痛みはあるが、地面に足をつけなければさしたる問題ではない。
多少動きは落ちるかもしれないが、椛以上の機動力というアドバンテージが失われたわけではないのだから。

「すぅ……」

椛は大きく深呼吸をする。
勝ち目が無いことは椛にだってわかっている。
それでも椛が私を殺そうとするのは……たぶん、殺意が無ければ今の椛を維持できないから。
自分を支えていた大きな柱を失って、それを補うために別の感情が必要だったから。
私がそうであるように、椛もきっと、あの頃の思い出を捨て切れたわけではないのだろう。
椛のことは、私が一番よくわかっている。
だから、鞍馬が椛の好みでないことも、地位なんて本当はどうでもいいと思っていることも、理解しているはず、なのに。
だったらどうして、私は未だに躊躇い続けているのか。
罪悪感を馬鹿げたものだと一蹴できる程度の常識は持ち合わせているはずなのに、立ち止まる理由は?
互いに未練を引きずっているというのに、殺意を向ける意味が、一体どこに。
いいや、それを言い出せば、私たちが未だにすれ違い続ける意味すら無いはず。
こんな矛盾したやり取り、いつまで続ければいいのだろう。

「ふっ!」

足の怪我の分を差し引いて、真正面からでも勝てると踏んだのだろうか、椛は馬鹿正直に突進してきた。
刃の先端は真っ直ぐにこちらを向いている。
最初は刺突から、あれが撒き餌だとして椛は私にどういった返しを期待しているのか。
次の一手、さらに次の手、その次の手――いくつもの枝分かれした可能性をあらかじめ予測しておく。
相手がよく知る椛なので、作業は一瞬で完了した。
だがその一瞬のせいで、私はその存在に気づくのに遅れてしまった。
椛の側面から迫る、妖獣の存在に。

「――!!」

彼女の名前を呼ぶ隙すら無かった。
時間はコンマ秒単位、つまり刹那しか残されていない。
私はこちらに刃を突き立てる椛へ向かって、自ら前へと踏み出す。
――体は、オートマチックに動いていた。
意思は関係ない、私が椛を助けたいと願うのは、射命丸文という生き物の本能だから。
優先順位は、はるか昔に逆転していた。
私の命は私のためにあるんじゃない、椛のためにある。
椛を守るためならば、如何なる傷を負っても構わない、痛みなんて二の次だ。
だから、私の体は一瞬でも刃を、そして椛の首すじに食らいつかんとする牙を、恐れることは無かった。
それは反射行為であり、脳からの伝達すら必要はない。
しかし、あいにくコンディションは万全とは言えなかった。
足が無事なら、体調がいつもどおりなら、他の方法もあったかもしれない。
だが今の私に取れる方法は、たった一つしかないのだ。
私は伸ばした手で椛の体を抱きしめ、妖獣の牙からかばうようにして地面に押し倒した。

「文……あや、さま……?」

ああ、その呼び方されるの、何年ぶりだっけ――
歓喜は刹那。
直後、腹部を貫通する冷たい異物の存在を感じた。

「ぐ、ぶっ……」

同時に、側面から襲いかかってきた妖獣の牙が、私の肩に食い込む。

牙の方は大した傷じゃなさそうだ、腕の動きが多少鈍るとしても、唾でも付けておけばすぐに治る。
問題は、お腹の傷の方だが……諸々の衝撃で思わず肺の空気を吐き出してしまったが、今のところ痛みは無い。
まだ痛みが脳まで届いていないだけなのか、それとも脳内麻薬によって痛覚が麻痺しているのか。
幸いにも、と言って良いのかはわからないが、痛みがないのなら、まだ動くことは出来る。

「グルゥゥゥッ」

妖獣が呻く。
たぶんこいつが、最近天狗を襲ってるっていう例の妖獣だろう。
なんてバッドタイミング、神様もこんな畜生に運を与えてる場合じゃないだろうに。
椛の首筋に食い込むだったはずの牙は、私の肩の骨に阻まれて大した傷すら残せていない。
私が睨みつけると、妖獣は怯えて口を離し、飛びのき距離を取った。

「なんで? なんで、こんな……文さまが、どうして、私を……」

混沌とした状況に頭がついていけていないのか、椛は呆けてしまっている。
色々話したいのはやまやまなんだけど、ごめんね、今は椛の面倒を見るのは後回しにしないと。
腹部の痛みは、なかなかやってこない。
運良く痛覚も臓器も無い場所に刺さってくれたのか……と思った矢先に、呼吸と共に血の匂いがせり上がってきた。
どうやらそこまで都合よく事は進まなかったらしい、間違いなく何らかの臓器がやられている。
だが、今のところは私の動きを阻害しているのは足の傷だけだ。
件の妖獣は狡猾な頭脳を持つと聞いている。
ならばこの状況、圧倒的な戦力差を前にして真っ向勝負を挑んできたりはしないはず。
腹に短刀が刺さったまま私は立ち上がり、妖獣を睨みつける。
すると妖獣は、じりじりと後ずさりはじめた。
やはり、逃げるか。
逃がすものか、椛を傷つけようとした代償は命で払ってもらう。
容赦は必要ない、時間も使うべきではない、今は体が動くが数秒後どうなっているかわからない、総じて私に余裕はあまりない。
腰から葉団扇を取り出す。
普段ならプライドが邪魔をして、妖獣程度に使おうとはしないだろう。
だが、私の怒りはプライドを蹴散らすのに十分すぎる。
さあせいぜいあがいてみなさい。
殺す気で襲いかかってきたんなら、死ぬ覚悟ぐらいはしてるんでしょう?

「ッ!?」

獣は本能的に危険を察知したのか、素早く体の向きを反転して逃走を図る。
それを見ても、私が慌てることはない。
私が取るべき行動は、たったの一つ。
うちわを仰ぐようにして一振り――たったそれだけで、蹂躙は成立する。
団扇から生じた風は名人の一太刀よりも鋭い刃となり、獣を追って駈け出した。
軌道の落ち葉は微塵に刻まれ、地面すらえぐりながら迫る風の刃。
獣も野生で培ってきた脚力で必死に地面を蹴ったが、じりじりと距離は詰まっていく。
必死に走りながらも、ちらりちらりとこちらを振り向く。
その度に近づきつつある凶器を目にして、瞳孔が開いた。

「フゥッ、フゥッ、フウゥッ」

妖獣の息は過剰に荒い。
普段から山で暮らす妖獣がこの程度で息を切らすはずがない、これは奴が追い詰められている証だ。
そして必死の逃亡は終わりを告げる。
風が獣の尻尾に触れようとしたその時、妖獣に何らかのひらめきがあったのだろうか、スピードを殺さずに脇にある木に向かって跳びかかり、幹を蹴り強引に進行方向を変える。
なるほど、風は直線にしか進めないと考えたらしい。
思惑通り、全てを切り裂く風は妖獣の横を通り過ぎていく。
助かった――妖獣は安堵し、体から力を抜いた。
だが、次の瞬間。

「天狗の力は……んなもんじゃない、っての」

妖獣の体が左にぐらりと傾く。
奴はこう思ったに違いない、気が抜けて力が入らなくなってしまったのだろうか、と。
慌てて左前足に力を入れるが、思うように持ち直せない。
右前足で踏ん張ろうと試みたが、次はそちらにも力が入らなくなっている。
いや、前足だけじゃない。
どうやら獣は、体のありとあらゆる部分に力が入らないことを不思議に思っているようだ。
私は思わず笑った。
その程度のこともわからないのなら、おそらく次はこう思うはずだ――避けたはずなのになぜ、と。
それは一度通り過ぎた風を私が操作したため獣の方へと戻ってきたという単純な理屈だったが、獣の思考が答えに到達することは無い。
なぜなら、その体はすでに”分解”されていたから。
首の切断面がずるりと滑り、重力に導かれて頭部が地面へ落ちる。
だが接地する直前、その場にとどまっていた風の刃に切断され、さらに頭部は四分割された。
頭部以外も、地面に落ちる前に分割され、再び浮き上がる。
空中で赤い断片が撹拌されていく。
獣の体は数十秒もしないうちに原型を留めないほどにバラバラになっていき――とっくに絶命しているというのに、風は、彼の肉体がミンチになるまで止むことはなかった。

「ざま、あ、みろ……」

精一杯煽ったつもりだったが、これが今の私の限界だった。
仕方無い、どうやら次は私の番らしいから。
突き刺さった短刀の周囲が、焼けたように熱くなる。
強烈な痛みが来るよりはマシかもしれないが、痛みすら麻痺しているということはつまり、相当まずい状態ってことになる。
さすがに自力で治療するのは無理かもしれない。
立っているのもきつくなってきた、じきに意識も無くなるとしたら――

「……もみ、じ」
「う、うぁ、あ、文さま……あやさまぁっ……」

椛のことを、放っておくわけにはいかない。
彼女は目に涙を浮かべながら、縋るように足にしがみついた。
椛から触れてくれるのは嬉しいんだけど、今の私にはその体重を支える力はたぶん無いと思う。
案の定、体勢を崩した私は尻もちを付いて地面に座り込む。
おかげで椛と同じ目線の高さになれたのは、結果オーライだったのかもしれない。

「ひっ……!」

腹部に付き刺さる短刀を直視した椛は、引きつったような、不規則な呼吸を繰り返す。
この子は昔からそうだった、人一倍責任感が強くて、勝手に自分を追い込んで、自身を悪者に仕立て上げる。
全く誰に似たのだろう、少なくとも私では無いことは確かだ。
例えば、転びそうになる椛を庇って私が肘を擦りむいてしまった時。
椛はその後一週間も自分を責め続け、ふさぎ込み、私に繰り返し謝った。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいぃっ」

とは言えさすがに、当時でもここまでは無かったかな。
でも、一度会話をする度に必ず一度は謝っていた。
あまりに無理やりねじ込んで来るものだから、最終的には私が笑ってしまうほどに。
今になって思えば、椛は病的なほどに私に対して過保護だった。
それに関しては、たぶん私に似たのだろう。
だって私も、見ての通り、椛に対して過保護すぎるほどだったから。
まあ、私のことはどうでもいい。
そうやって椛が自分を責めて塞ぎこんだ時、私は決まってとある行動を取っていた。
魔法のような、とまでは行かないものの、一定の効果が認められる特効薬。
百年間で効果が失われていないか心配だが、とりあえずやるしかない。
私の意識が消える前に。

「あやさま、ごめんなさいっ、ごめんなさいぃっ……! 私のせいで、私が、私が文さまをぉっ!」
「そうやって、自分を責めるのは……悪いくせ、だって…いつも、言って、た、でしょう?」
「……っ!?」
「これ、は、勲章……だか、ら。
 もみ、じを…たすけられ、たって言う、わたしの、じまん」
「あやさまぁ……っ」

頭に手のひらを乗っけると、椛の瞳に涙が浮かびだす。
泣くほどだろうか。
うん、泣くほどだ。
撫でてる私の方も、手のひらに感じる感触が懐かしくて泣きたくなっているのだから、椛が泣かないわけがない。
ぽろぽろと、涙が雫となって頬をこぼれ落ちていく。
私の視界も歪んでいる。
これは涙のせいなのか、それとも意識が遠のいている影響なのか。
このまま意識が消えたら、私はどうなるんだろう。
傷は深い、内臓までやられているのだとしたら、場合によっては二度と目を覚まさない可能性だって十分にある。
それは、いやだな。
せっかく椛が私のために泣いてくれているのに、私の名前を読んでくれているのに、これじゃ死ぬに死に切れない。
もう一度ぐらい抱きしめて、口付けて……いやだ、それだけじゃ足りない。
もっと欲しい、触れるだけじゃない、抱いて、深く繋がって、そんな一瞬のつながりだけじゃなくて、長い長い時間寄り添って生きていきたい、椛と一緒に暮らしたい、指輪を渡して、二人で、二人でずっと―


そう、ずっと、心の奥底ではそれだけを望んできた。
欲しかった、ひたすらに恋しかった。
本当はさ、私が加害者とか、椛が被害者とか、そんなの無かったんじゃない?
理不尽を押し付けられてさ、あんなの、大天狗の連中が悪いに決まってるじゃない。
私は悪く無い、椛も悪く無い、不幸になる道理なんて世界のどこに存在していない。
椛は私のだ。
椛は、私だけの物だ。
このまま死んだら、椛は鞍馬の物になる?
あんな見た目だけのハリボテクソッタレ野郎に椛を幸せにできるはずがない。
そうだ、そうに決まっている。
地位とか名誉とか、そんな物を手に入れて何にになるっていうんだ。
椛だってそう思ってるに決まってる。
だったらいっそ、私と一緒に死んでくれる? そしたら同じ場所に行ける?
やだ、それはもっといやだ。
幸せになるなら生きて二人が良い、椛が死ぬなんて悲しすぎる、そんなことになったら私は地獄で死ぬほど嘆き涙を流すだろう。
幸せになるなら、現世がいい。
見つめて、触れて、感じあえるこの体がいい。
だったら、生きなければ。
問題は山積みで、例え生き残ったとして簡単に椛を取り戻すことは出来ないかもしれない。
それでも、生きていかなければ。
和解しようが、再び離別しようが、私が欠けてしまえば、どちらにしたって椛は不幸になる。
私がいなきゃ。
私じゃなきゃ。
ダメなんだ。
椛には私しか居ない、私には椛しかいない。
わかってた、知っていた、だったらどうして今まで、私は躊躇ってきたのか。
幸せにする自信がなかったから?
裏切りによる罪悪感が消えなかったから?
その不安は一体どこから湧いて出てきたものだったのか。
ほら見てみなよ、私が頭を撫でただけで、椛は泣いてくれている。
これが、他の誰に出来るって言うんだ。
私にできることなんて、最初から一つしか無かったんだ。
新聞記者とか、烏天狗とか、それ以前に――私は、椛を幸せにするために生まれてきた生物だったのだから。

「いやだ、いやです、あやさま死なないでくださいっ、一緒に……ずっと一緒にっ」

椛だって一緒だった。
ずっと同じ気持ちを抱いていた。

「わた、しも……しに…たく……ない……」

死んで、たまるものか。
失った百年を取り戻すまで、いいや取り戻したって、その十倍も百倍も、今までの不幸なんて笑って蹴散らせるぐらい盛大に幸せになってやる。
ああ、でも――視界が、ゆがんで、椛の顔もよく見えなくなってきた。
意識が遠のいていく。
私に触れる椛の感触すら曖昧になっていく。
目を覚ましたら夢だったとか、そういうオチでは無いことを願おう。
目を覚まさなかったら?
そんな心配、したくもない。

「あやさま……あやさまぁ……あやさまぁぁぁぁっ!」

叫ばなくたって大丈夫だって。
私、絶対に、生きてやるから。
大丈夫、大丈夫。
強い意志がある。
根拠だってある。
だって私、今まで一度だって、椛との約束破ったこと……いや、一回はあったんだっけ。
ずっと一緒に居ようって約束。
でも、あれは無しだって、私だって破りたくて破ったわけじゃない。
心配はいらない、天地がひっくり返ったって二度目は無いから。
世界が滅びて私たちを引き裂こうったって、抱きしめて、守りぬいてみせるから。
だから、大丈夫、泣かないで――もみ、じ――





……………




にとりが帰った後、一人きりになるとやけに部屋が広く感じる。
静寂が耳にまとわりついて、余計に騒がしいような気がした。
一人になってせいぜい三十分ほどしか経ってないってのに、恋しく感じるにはまだまだ早すぎる。
以前の私なら、むしろこんな一人きりの静かな時間を喜んでいたはずなのに。

「今日はもう寝ちゃおっかな……」

夕食を終え、風呂に入り、片付けも終わり、あとは寝るだけ。
まあ、やろうと思えば新聞づくりとか色々出来ることはあるんだけど、今はそんな気分じゃない。
なにせ、今の私は大スクープを握っている状態なのだから。

「不倫ねえ、気が知れないわ」

何度考えたって理解が出来ない。
元から偉い人達の考えなんてわかろうとも思わなかったけれど、今回は偉いとか下っ端とか関係ない。
私の常識と照らしあわせて、まったくもって理解できない。
愛する奥さんが居て、大事な地位もあって、なのにどうして他の女性に手を出せるのか。
どんな顔をして家に帰っているのか。
そんなことを私が考えたってしょーもないことはわかってる。
でもさ、私の独断でこの問題を公表することが出来ない以上、どうしても抱え込まなきゃならないわけで。
抱え込んだものはどうしても考えこんじゃうもので。
一人だから余計に、気を紛らわすために頭を回転させとかなきゃならない。
そうなるとどうしても、思考はインパクトの大きな愛宕様の件に傾いてしまう。
他のことを考えようとしても、結局はそれと関連のある文や椛のことを考えてしまうわけで。

「文も椛も大丈夫なのかな……」

考えれば考える程に、心配事は積もっていくばかり。
思いつめた文がとんでもないことをやらかしたりはしないか、とか。
もし文がとんでもない状況になったら、椛も今までみたいに平気な顔はしてられないんじゃないか、とか。
どうしてもネガティブな方向に転んでしまうので、たまには明るい話題に変えてみようとも思うのだけれど――

「……はぁ」

思わずため息が漏れる。
だって、出てくるのはどれもこれもにとりの事ばかりで。
あいつの顔を思い出すだけで胸が軽くなるのを自覚して、ほんのりと顔が熱くなってくる。
ネガティブまみれの思考もどうかと思うんだけど、これはこれで、私としては困った状況だ。
結局は一周してまた愛宕様のことを考え始めて――携帯から流れ始めた着信音が、私のそんな思考のループをせき止めてくれた。
携帯の番号を教えている相手なんて数えるほどしかいないので、だいたい誰からの着信からかは想像がつく。
このタイミングなら、家に着いたにとりかな。
と、思ったら。

「んー? なんだろこの番号」

登録されていない、見覚えのない番号がディスプレイに表示されている。
番号からして固定電話、それも天狗の里からの発信みたいなんだけど、私の携帯の番号を知ってるなんて何者なんだろう。
それとも、私の番号を知っているにとり、文、椛のうちの誰かが、他所の電話を使ってかけてきたとか?
だとしたら、私なんかに助けを求めるぐらいだし、よっぽどの非常事態なんじゃ――
通話ボタンを押し、携帯を耳に当てると、向こうから聞こえてきたのは震えた呼吸音だった。
そのまま少し待ってみたけど、相手が名乗る様子はない。

「もしもーし?」

恐る恐る声をかけると、か細い声で返事が帰ってくる。

『はた、て?』

女性の声。
これはたぶん……聞き覚えがある声、だと思う。
確信がもてないのは、その声が小さいせい。
今にも消えそうなぐらいのか細い声で、昔の私の喋り方を想起させる。

『あやさまが……あやさまが、私のせいで……』
「あや、さま?」

私の知り合いにアヤサマなる人物は居ない。
文はいるけど。
それとも、もしかしてあの文を様付けで呼んでるとか?
まっさかぁ、文にそんな怪しげな関係の相手が居るなんて聞いたことは……いや、待てよ。
もしかしてこれって――

「椛、なの?」

かつての椛は、文のことを姉のように慕い、天の上の存在として憧れていたと聞いている。
つまり、昔の椛なら文のことを文様と呼んでもそう不思議では……無い、んじゃないかな、たぶん。
あくまで仮説であって、言ってる自分でも信じられないんだけどさ。
いやだって、様って。
あの椛が文に様って、信じられるわけないじゃん。

『そうだよぉ、椛だよぉ……っ』

信じられないけど、認めるしかないようで。
そっかぁ、これが椛かぁ……ってことはたぶん、これが昔の椛の喋り方。
そして”アヤサマ”が、あの文のことだっていう私の予想は正しいってことになる。
確かににとりの言っていた通り、今の椛からは想像出来ないほどしおらしくて、女々しい声だ。
でも、なんで急にそんなことになってんの?
つい最近合った時は、多少取り乱しはしてたものの、いつもどおりの椛だったはずなのに。
タイムスリップでもしたとか? それとも文が例の写真を使って愛宕様を脅して、全部が明らかになったとか?
それにしては、椛が”私のせいで”とか言ってるし、声が震えてるし、物騒なことになってる気がするんだけど。

『あやさまが……あやさまがぁ……うぅう、ううぅぅぅっ……』
「もしかして椛、泣いてるの?」
『だって、あやさま……あんな、あんなこどに……わたしが、わだじがさじたせいでぇ……っ!』

さじた……さした? 刺したってこと?
つまり、いつぞやに私が危惧していた”もし椛が文を殺したらどうなるのか”ってのが現実になっちゃったってことか。
文も体調悪そうだったしね、不意打ちされたらさすがの文でも回避しきれなかったか。
そして案の定、椛は罪悪感で取り乱してしまったと。
文が刺されたんだし、もっと私も取り乱すべきかと思うんだけど、いまいち実感が湧いてこない。
相手が椛だと判明した今でも、椛と話してる気分になれないからなのかな。
でも、文が刺されたってことを疑ってるわけじゃない。
それにしたって、その状況でどうして私に電話をしてきたんだろう、しかも見覚えのない番号から。

「椛、今どこにいるの?」
『あやさま……あやさまぁっ……うわぁぁぁっ……あやさまがっ、わたしのせいでっ……』
「おーい、椛ー」
『ひっぐ……ずず……う、うぅ……』

もうちょっとだけ落ち着いてくれれば、話を聞いてくれそうなんだけども。
まあ、取り乱す気持ちもわからないでもないんだけどさ。
最愛の人を自らの手で殺しかけたとなれば、誰だってそうなる。
状況を考えれば、私に助けを求められただけマシだったのかもしれない。

「ねえ、今どこに居るの? すぐに向かうから教えて?」
『診療所、だと思う。よくわからなくて、必死で文さまを背負って……ここまで来て……』
「りょーかい、診療所ね」

道理で知らない番号だったわけだ。
里で診療所と言うと一箇所しかない。
大方、今は文の怪我の処置中で、椛は一人で不安に耐え切れず助けを求めたってとこかな。
罪悪感に潰れる前に、早いところ合流してあげないとね。
今の椛の状態じゃ、放っておくと何をやらかすかわかったもんじゃないから。





他の天狗に比べて若干体力の無い私は、少しだけ息を切らしながら診療所の扉を開いた。
ロビーで待ってるかと思ったんだけど、そこに椛の姿は無い。
時間が時間だし、本来の診療時間はすでに過ぎていて、受付のカウンターにも人の姿は無かった。
私が柱に貼られている院内地図に近づくと、こちらに足音が近づいてくる。
一瞬だけ椛かもしれないと期待したんだけど、今の椛があんな落ち着いた足音で歩けるとは思えない。
姿を現したのは、ナース服に身を包んだ女性の烏天狗だった。

「あら、あなたは確か……姫海棠さん?」

天狗の里はそう広くない、同じ烏天狗ともなれば顔と名前ぐらいは知っているのは当然だった。
私は、ほら、人の顔を覚えるのが苦手だから、その……覚えてないのは仕方無いってことで。

「犬走さんと射命丸さんなら、今は処置室の中に居るわ」
「椛も処置室の中に?」
「”文さまは無事なのか”って泣きながらすがりついてきて、何度大丈夫だと言っても落ち着いてくれないものだから、仕方なく中に入ってもらったの。
 今頃は泣きながら手でも握ってるんじゃないかしら」
「あー……」

いつもの椛のイメージとは合わないものの、電話口での声を聞いてると、ボロ泣きしながら祈るように文の手を握る椛の姿がなんとなく想像できてしまった。
それにしても、人を呼んでおいて自分だけはさっさと処置室に入ってしまうとは、薄情な奴め。
私に電話したことすら忘れてそうな気もするけど、どんだけ文のことが好きなんだ。
そこまで好きならとっとと認めて一緒になればよかったのに。

「処置室の前に椅子があるから、そこで待ってたらいいんじゃない?」

そう提案され、私はすぐに首を縦に振った。
とにかくこの場を離れたかったのである。
実は名前を覚えてないなんてことがバレたら、かなり気まずいからね。



それから一時間、私は処置室の前のベンチで座って待ち続けた。
怪我の具合までは聞いていないんだけど、時間のかかり方からしてなかなかの大怪我らしい。
まあ、刺したって言ってたしね。
もしいつも椛が使ってる大剣で刺したんだとしたら、それこそ命が無事なのが奇跡的と言うか、体がまっぷたつになってそうだし、たぶん小太刀の方で刺したのかも。
とはいえ小太刀だとしても、文の体を貫通する程度の刃渡りはあるわけで、それが内蔵を貫いていたとしたらただの怪我では済まない。
場合によっては、命に関わる可能性だってある。
そう考えると、不安でいてもたってもいられなくなってくる。
思わず立ち上がり、うろうろと処置室の前を歩きまわった。
こういう時に、にとりが居てくれたら安心できるのに。

「それにしても……にとり遅いなあ」

椛からしてみれば、頼りない私に電話をかけるよりは、付き合いも長くて頼りがいのあるにとりに電話をかける方が自然なわけで。
つまり、私が呼ばれたということはにとりにも連絡が行っていると考えてもいいはず。
と言うか間違いなく連絡してるはず。
いくら河童の里から若干距離があるとはいえ、一時間もかかるとは思えないんだけど。
いっそにとりの携帯に電話をしてみようかとも思ったけど、ここ診療所の中だし、電波が届く保証も無いからまだ試してはいない。
別に、電話をかけるのがなぜだか気恥ずかしかったから、とかいう下らない理由ではない。断じて。
結局、特にやることの無い私は再び椅子に座り、床の模様を眺めながら足をパタつかせて時間がすぎるのをひたすらに待った。
診療所の中は静かなもので、処置室の中から微かに聞こえる音以外はほとんど無音だった。
そのせいか、入り口の方から聞こえてきた足音は、小さな音量ながらもやけに響いて聞こえた。
こんな時間に来客……って私も人のことを言えた義理じゃないんだけどさ。
足音は急いでいる様子はない。
急患を運んできたってわけでも無さそうだ。
ってことは目当ては椛なわけで……にとりがやっと到着したのかな。
でも、にとりとは微妙に足音の雰囲気が違う気もする。
……。
いや、足音の雰囲気ってなんなんだ、私よ。
でもそうとしか言いようのない感覚で、どうやら私は、いつの間にか足音でにとりと他人を聞き分けられるようになっていたらしい。
さらに耳を澄まして聞いてみると、どうやら足音は一人だけじゃないようだった。
人数は二人。
足音の近づく速さ、そして音の大きさからして、おそらくその人物は大柄の……男性だと推察できる。
その時点で、私は足音の正体に察しがついてしまった。
そして思わず下唇を噛んだ。
あいつらめ、なんて間の悪い。

「私よりも空気の読めない天狗が居るとは思わなかったなー」

むしろ空気をぶち壊すことが目的なら、これ以上無いぐらい効果的な手段なんだろうけど。
椅子から立ち上がり、いつでも動けるように構えながら彼らが姿を表わすのを待つ。
迷うことなくこちらに近づいてくる足音。
つまり彼らは、ここに処置室があることを知っていて、そして部屋の中に誰が居るのかも知っている。
なぜ、と考えるまでもなかった。
天狗一の新聞を作るようなお方なのだから、素早く正確な情報を手に入れる手段があるはず。
そしてそれは、広い人脈が無ければ成立しない。
こんな早くに新聞に文と椛の情報が載るとは思えないし、診療所に大天狗様と懇意にしている天狗がいたのかもしれない。
ここの院長、確か烏天狗だったっけ。
その院長、あるいは職員から愛宕様に話が伝わったのかな。
だとするともう一人の足音の主は愛宕様と考えるのが妥当。

「……当然、文のお見舞いってわけじゃないよね、やっぱり」

私の希望的観測は診療所の廊下に微かに響き、誰にも届かずに儚く消えた。
椛が文を刺して、文は重傷。
その報せを聞いた鞍馬様が何を考えてここに来たのか。
なぜ愛宕様を連れてくる必要があったのか。
鞍馬様の目当ては間違いなく椛。
いくら人望のある椛とはいえ、身内を刺したとなれば処罰は免れない。
服役か、追放か。
少なくとも今までの地位を維持することは難しいだろうし、事件が表沙汰になれば、もちろん鞍馬様との婚姻など夢のまた夢となる。
鞍馬様としては、それだけは避けたいはず。
もし彼が、白狼天狗の支持を盤石にするために椛を手に入れようとしていたのなら、ここで切り捨てるという選択肢もあったのかもしれない。
でも違う。
鞍馬様は、本気で椛に惚れている、そして本気で彼女を娶ろうとしている。
だからきっと、彼の目的は事件を隠蔽することだ。
愛宕様が連れてこられたのは、隠蔽を完璧な物にするためかもしれない。
椛はともかくとして、文の口を封じるためには、烏天狗に対して強い影響力を持つ愛宕様の力が必要だと考えたんだと思う。
以前に一度成功した実績もあるわけだしね。
それに、診療所の院長が烏天狗だって言うんなら、愛宕様以上に職員への口止めに適した人材は居ないだろうから。
でも、事情を知ってる身からしてみると、皮算用と言うか、なんというか。
他の天狗はどうとでもなるだろうけど、愛宕様が何をしようが言おうが、文がそれを飲むことは無いんだから。
脅迫が通用しないとなると……やっぱり、最終的には実力行使、とか?
いや、でも文は他の天狗と違って里の外でも顔が利くから、追放して解決するほど単純な問題じゃない。
追い出された所で、文々。新聞の購読者のほとんどは里の外に居るわけだし、その気になれば河童や人間の協力を仰いで新聞を刷ることが出来る。
さほど文にダメージは与えられないんじゃないかな。
もちろん愛宕様だってそれは知ってるだろうし、かといって幽閉するにしても永遠に閉じ込めておけるわけじゃない。
だとすると、口封じをするためには、物理的に文の口を塞ぐしかない。
つまり、愛宕様に残された方法は文の命を奪う以外に無いってことになる。

「……考えすぎかな」

いや、でも二人を別れさせるために追放なんて手段を使うようなやつだもん、天狗の一人や二人殺してたっておかしくはない。
ライバルだけど、減ったら嬉しいとか軽口は叩いたことあるけど、それでも文が死ぬのは、嫌だ。
もし死ななかったとしても、こんな追い詰められた状況の二人に追い打ちをかけるような真似、許しちゃいけないと思う。
相手は大天狗二人、対してこちらは元引きこもりの烏天狗が一人。
二人の目的が口封じだという私の予測が当たっていたとしたら、事件を知ってしまった私の口も封じようとするだろう。
逃げようにも速さはあちらが上、戦おうにも腕っ節はあちらがはるかに上。
今までの私の人生において、これほどまでに絶望的な戦いは他になかった。
勝ち目は万に一も無い。わかりきってる。
でも、私は逃げようとも、逃げたいとも全く思ってはいない。
ただの蛮勇かもしれない。間違った選択かもしれない。
それでも私は、なりたい私になるために、ここから逃げたくなかった。
廊下のど真ん中に、仁王立ちで立ちはだかる。
自分を奮い立たせるように、不遜な笑みを顔に浮かべながら。
同時に、こめかみから冷や汗を流しながら。
正直に言えば、怖いよ。
泣きたいぐらい怖いし、早く終わらせて帰ってにとりに甘えたいと思ってる。
でも、ここで逃げたらにとりはきっと私を見損なう。
いや、見損ないはしないだろうけど、褒めてはくれないだろうから。
それに、にとりだったら絶対に二人を見捨てたりはしないはず。
ええそうよ、結局のところ私は、にとりに褒めて欲しくて、にとりみたいになりたくて――そういう、あいつに対するたくさんの下心のためにここに立ってる。
友情とか勇気とかそんな綺麗事じゃない。
だけど、それでいいと思ってる。
大事なのは”出来る”ことであって、それが偽善でも、下心でも、結果が同じなら動機なんてどうでもいい。
だいたい、鞍馬様や愛宕様だって自分の下心のために他人の人生をめちゃくちゃにしてるじゃないか。
それに比べれば、私の下心なんて可愛いものだ。

足音がさらに近づいてくる。
暗い廊下の奥から、二つの大きな影がぬっと姿を表した。
二人の巨人は大きな歩幅で、一歩一歩こちらへと近づいてくる。
大天狗という種族は、小さくても一間一尺を超える身長を持つと言われている。
鞍馬様は、その中でも恵まれた体を持って生まれてきたと言われていて、その大きな態度に負けないぐらいの体躯の大きさだった。
背丈に関してだけ言えば、愛宕様も負けてはいない。
剣術の達人である鞍馬様に比べれば、筋肉の付き方は少々甘い部分があるけれど、それでも烏天狗を一捻りできる程度の力はある。
ここまで近づくと、見上げなければ顔を見ることは出来ない。
出来ることなら見上げたくはなかった。
俯いて、目をそらしたままで居たかったけれど――立ち向かうと決めた以上、向き合うしか無い。
私の視線が、二人の顔を真っ直ぐ見つめる。
威圧的な視線が二つ、私の姿を捉える。
先に口を開いたのは鞍馬様の方だった。

「誰かと思えば姫海棠か。退け、今はお前に用はない」

鞍馬様は私に一切の興味が無いと言わんばかりに、あごをしゃくり私に指図する。

「椛なら今は取り込み中ですよ、手術が終わるまで待たないと」
「だからどうしたっていうんだ、俺には関係のない話だな」

いや関係あるでしょうよ。
まさか、手術中の処置室に入って、無理やり椛を連れて行くつもり?
いくら大天狗とはいえ、そんな横暴許されていいわけがない。

「何か言いたそうな顔をしているな。
 椛は俺の女だ、自分の女を連れだして何の問題があるってんだよ。
 それともお前は、椛は未だ射命丸の物だとでも言うつもりか?」
「その通りです」

どうして椛がこの場所に居るのか、その理由を考えたら鞍馬様にだってわかるはずなのに。
二人の間にある誤解はまだ解けたわけじゃない、椛は今だって文に捨てられたと思っているはず。
それでも、椛は文のために泣いていた。文を傷つけてしまったことを心の底から悔いていた。
結局、例え大天狗様が二人を引き裂こうとした所で、二人の繋がりを断つことなんて出来なかった。
鞍馬様が、それに気付けないほど愚かだとは思えない。

「あっはははは! 面白い冗談だな、姫海棠。
 だが、その技能は俺に対してじゃなく、新聞に活かすべきだと俺は思うぞ?」
「茶化さないでくださいっ!」
「これを茶化さずにいられるか、射命丸はとっくの昔に椛を捨ててるんだよ!」 
「捨てさせたくせに」
「捨てさせたとは、人聞きが悪いな。
 言ったろう? 奴は俺との格の差に気付き自ら身を引いたんだ、懸命な判断だと思うがな」

やっぱりね、鞍馬様は何も知らないみたい。
こんな時に愛宕様は何をしているのかというと、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら処置室の方を見ているのであった。
うん、文が殴りたくなった気持ちもよーくわかる。

「まあ確かに、射命丸は椛の昔の恋人だ、あいつが射命丸に対して何らかの情を抱いていることは間違いないだろう。
 しかし、俺はこう思うよ。
 その情は、愛情はおろか友情ですらなく、ただの同情だってな。
 百年も前の過去に縛られ続ける愚かな女に、同情してるんだよ。
 射命丸はそれを勘違いしているだけだ」
「勘違いしてるのは鞍馬様の方でしょう?」
「ふん。
 どうあっても俺の話を受け入れる気は無いらしい。
 もういいだろう、これ以上は話すだけ無駄だ。
 退け、これ以上邪魔するのなら実力行使も辞さない」
「そうはいきません」
「……姫海棠、俺だって罪なき矮小な天狗を斬るのは本意ではない、何より上司の前だしな」

鞍馬様がそこまで言っても、愛宕様は一言も言葉を発しなかった。
興味ないと言わんばかりの反応だ。
一応、私も直属の部下のはずなんだけどなー。

「同族を斬れば、例え大天狗であろうと罪に問われることになりますよ」
「それよりも優先すべきことが俺にはある」
「椛も友人である私が斬られたとなれば怒るんじゃないですか」
「それは問題ないな、多少は悲しむだろうが、理由を話せば許してくれるだろう」

その自信はどっから来るんだ。
自己愛はともかくとして、自分が周りから好かれていると確信できるその神経はまったくもって理解できない。
実際、権力者でもある鞍馬様の周囲には、彼を悪く言う天狗など一人も居ないのだろうけど――果たしてそれは、幸せなことなのだろうか。
私は鞍馬様とそう親しいわけではないから、人間関係まで知っているわけじゃないんだけど……少なくともここに一人、鞍馬様を騙してる奴がいるっていうのに。
まあいいや、とりあえず鞍馬様を止めた所で話が通じそうにない。
ここからは本題、愛宕様に相手を切り替えよう。

「ところで、愛宕様はどうしてここに?」
「……ん?」

自分に話が振られるとは思っていなかったのか、愛宕様は初めて私の存在に気づいたかのようにこちらに視線を向けた。
わざとらしく、興味が無いことをアピールするかのように。

「私の部下が大怪我を負ったのだ、心配するのは当然のことだろう?」

そして白々しく、言いよどむこと無くそう言い放った。
ああ、たった今確信したよ。
こいつは、根っからのクズだ。
他人を騙すことぐらい平気でやってのける、そういうやつなんだ。
価値観のど真ん中に常に自分が居て、自分を中心に損得勘定をする。
他人が傷つこうが何だろうが関係ない、自分にさえ益があれば、例えそれが友人であろうと、奥さんであろうと、平気で切り捨てる。
椛や文、そしてにとりとは全く正反対の天狗――

「今の答えに、何か問題があったとは思えないが」
「……」

口を利くことすら汚らわしいと思えた。
……そういえば、私が自分の殻に閉じこもるようになった原因も、こういうやつが居たからだっけ。
他人を傷つけることを悪いと思わない、善悪観がぶっ壊れた悪魔みたいな天狗が。
汚くて、黒くて、歪んでいて、そういう天狗が里には何人もいる。
にとりがいるからどうにか心を開けたけれど、連中が消えたわけじゃないんだ。
そりゃ消えるわけがないよね。
だってみんなの上に居る、偉い偉い大天狗様ですらこの有様なんだから。

「愛宕様、あなたは文を脅したんですよね?」
「何の話だ」
「百年前の話です! あれだけ椛のことを愛していた……いえ、今だって愛している文が、そう簡単に椛を手放すわけがない。
 椛を人質にして脅したからっ、だから文は!」
「知らんな、私は鞍馬がどれだけ素晴らしい天狗かを教えてやっただけだ。
 それだけで、射命丸は簡単に身を引いたぞ? お前の言う愛などと言う物は存在しなかったのだろうな」
「このっ――!」

許せない、こんなやつが未だに誰にも責められずのさばってるなんて、許せるもんか!
私は思わず拳を握り、愛宕様を目に精一杯の力をこめて睨みつけた。
私に出来ることなんてたかが知れてる、修羅場だってくぐってない私の眼力なんて、彼の感情を一ミリたりとも動かせやしないだろう。
それでも、怒りを向ける矛先が欲しかった。誰かにぶつけなければ、間違いを認めることになってしまいそうだと思った。
やはり、愛宕様は動じる様子はない、むしろ意地の悪い笑みは嘲笑と呼べるほどまでに私を見下すようになっている。
敵わなくても構わない、傷をつけられなくても良い、でもここでこの男を許すことは、私が許したくなかった全部を許すことになってしまう。
嫌だ、あんな奴らを許容なんてしたくない! 間違ってるったら間違ってるんだ!
怒りのボルテージはさらにさらに増していく、睨みつけるだけじゃ抑えきれなくなる。
私は敵意をむき出しにし、今にも殴りかかろうとした、その時だった。

「……」

鞍馬様は無言で、背負っていた剣に手をかける。
たったそれだけの、簡単な動作。
それだけなのに、鞍馬様から放たれた殺気が私に向けて――いや、その場全てを覆ってしまった。
体が、鉄の鎖に縛られたかのように重くなり、身動きがとれなくなる。
先程まで私の感情を支配していた怒りも、殺気に塗りつぶされるようにしぼんでいった。

「姫海棠」

名前を、呼ばれた。
心臓が握られているかのように痛い。
吐き気がする。
差があるのはわかっていたけれど。
こんな、まさかこんなに圧倒的だなんて。

「俺自身への侮辱はある程度は許してやってもいい。
 だがな、俺の友を愚弄して、ただで済むと思うなよ?」

彼はまだ、剣に手をかけただけだ。
ただそれだけで、私は呼吸すら満足できなくなるほどに、追い詰められている。
敵うとか、傷一つとか、そんな次元の話じゃなくって。
目の前に立っていることすら、おこがましいことだと、そう考えてしまった。
自分は矮小だと自覚してしまったのだ。
間違いとか正しいとか、そんなのはさしたるもんだいじゃない。
重要なのは、強いか、弱いか。
そう私に告げているかのように。
崩れ落ちそうになった。
ただ、力の差を見せられただけで、理不尽を仕方ないと受け入れそうになった。
私は、それが、気に食わなかった。

「下っ端の烏天狗の割には頑張るな。
 まだ目が死んでいない、生意気にも反抗しようとしているらしい。
 愛宕、お前の部下は中々骨があるやつばかりだな」
「ははは、なんと言っても私の部下だからな」

あんたに育てられた覚えはこれっぽっちもない。
むしろその逆で、どんなに追いつめられても、助けを求めたって何もしてくれなかったくせに。
なのに、上司面して、都合のいい時だけ自分の手柄みたいにしてさ。
そうやって、ありもしない虚ろな評価をみんなから集めて、その地位まで上り詰めたんだ。
惨めなやつ。

「ならば、これならどうだ?」

鞍馬様は剣を抜く。
椛が使っている大剣と形は同じだが、サイズは更に大きな、大天狗に合わせた冗談みたいな代物だった。
なんたって、その剣は私よりも大きいのだから。
そんな規格外のサイズの剣、つまりは金属の塊を、片手で軽く構えると、ゆっくりと刃の部分を私へと近づけていく。
じわじわと首へ向けて近づいていく、それに怯える私の姿を、鞍馬様は何かを試すようにじっと観察していた。
獲物を嬲る目ではない。
私の勇気を、試しているようだった。
そして金属の冷ややかな感触を感じ取れるまで近づけた所で、剣はぴたりと動きを止めた。

「動じないか」

関心したように、鞍馬様はそう言った。
自分でも動じないことに驚いている。
私はもうやけくそで、はっきり言って正気と呼べるかもわからない状態だった。
どうせ死ぬのなら何をされたって変わらない、直接的な痛みが無ければ、今の私が動じることはないんだと思う。

「鞍馬、別に斬り捨てても構わんぞ。
 ここは病院だ、言い訳はどうとでもなる」

愛宕様がそう言うと、鞍馬様は少し不満気に眉をひそめた。
同族を斬り捨てるのは美学に反する、ましてや隠蔽などと、とでも言いたそうに。

「姫海棠、悪いことは言わないから退いてくれないか。
 本音を言うとだな、俺だって同じ天狗を斬るのは本意ではない。
 椛を再優先する意思は揺らがないが、罪に問われるのもできれば避けたいしな」
「お断りします」
「なぜだ、なぜそこまでして俺達の邪魔をする?」
「間違っていると思ったからです」
「脅迫とか言っていた件か? あれなら愛宕が言った通りだ、射命丸は私の美しさに恐れおののいて自ら――」

まだそんなことを。
もういい、こうなったら、どうせ斬られるんなら、斬られて死ぬんなら、言いたいことを言って死んでやろうじゃないか。
大天狗だろうが何だろうが、遠慮なんて必要ない。
だって死ぬんでしょう? 鞍馬様がそうしなかったとしても、ここでニヤニヤ笑ってる愛宕様にあとで殺されるんでしょう?
本当に殺されるかはしらないけど、どうせ碌でもない事をされるに決まってる。
だったら、だったら!

「文がそんな下らない理由で椛を手放すわけがないでしょう、少し考えればわかることじゃないですか!?」
「下らない、だと?」
「ええ、下らないですね、これ以上無いってぐらい下らないです!
 どこまで自信過剰で、どこまで頭お花畑なんですか、そこまで馬鹿になれたらさぞ幸せな人生を送ってきたんでしょうね!」
「姫海棠、貴様ぁっ!」

いいぞ、怒れ怒れ。
私は死んでもここを退く気はないんだから。
斬るなら斬ればいい。
こんな鞍馬諧報の足元にも及ばないマイナー新聞を作ってる矮小な下っ端烏天狗を斬り捨てて、失墜して何もかも失ってしまえばいいさ。

「いいですか、確かに鞍馬様は顔は良いですよ、剣の腕も立つし権力だってあるでしょう、ひょっとしたら頭もいいのかもしれない。
 でもそれだけです、それだけなんですよ。
 そのどこに椛に愛される要素があるっていうんです? 椛はそんな見える部分だけで相手を判断するような天狗じゃない!
 椛が文を愛したのは、小さい頃から積み上げてきた日々があったからなんですよ?
 鞍馬様にはありますか? ありませんよね?
 そう、あなたには――椛と一緒に過ごしてきた日々も、絆も、愛情も、何一つとして、全く足りてないんです!」
「椛と俺は何度も逢引を繰り返してきた、それが証明になるはずだ!」
「だからなんだって言うんです。
 ただ顔を合わせて話すだけのどこが逢引なんですか?
 どーせ抱いてないんでしょう? それどころかキスもまだなんでしょう?」
「そういうのは婚姻を結んでからだなっ」
「子供かっつーの!」
「し、しかし、椛は一度も私を求めては……」
「求められても居ないのに恋人面して、病院から連れ去ろうとしてたんですか?
 そんなのただの誘拐じゃないですか、この変態誘拐犯!」
「なっ、へ、変態!?」
「そうですよ、変態ですよ、正真正銘の!
 でかい図体して女一人口説き落とせず、挙句の果てに誘拐って生きてて恥ずかしくないんですか?
 それでよく文のこと見下せましたね、私だったらみじめになってとっくに自殺してますよ!」
「黙って言わせておけば!」
「鞍馬様、知ってますか? いや知ってますよね、本当はわかってるんですよね。
 だって本当は頭の良い人なんですもんね、だったら絶対にわかってて、気づいてるはずなんです。
 文と付き合ってた時の椛は、人前でも自分からキスをせがむぐらい心酔してた。
 本当に好きな人の前では、それぐらい見境なくなる女の子なんですよ、椛は。
 ねえ、椛はあなたの前でそんな姿を一度でも見せましたか? 見せてませんよね? 見たことありませんよね?」
「そ、それは……」

気圧された鞍馬様は、思わず剣を下ろし視線を泳がせた。
そう、わかってたんだこの人は。
以前話した時も、自分と椛の仲を誇示するかのように自慢を続けていた。
それはつまり、自信の無さの裏返し。
自分に関して絶対の自信を持っているのは事実かもしれない。
けれど今回は違う、見えない相手の心に関して絶対に自信を持つなんて、鞍馬様にもできなかった。
そうやってアピールすることで、椛は自分を愛していると、それが事実なのだと自分に言い聞かせていただけのこと。
そんな虚勢、事実をぶつけたらいとも簡単に崩れてしまう。

「だ、だったら、だったらなぜ、私との逢引に応じたんだ!? 私が呼ばずとも椛は来てくれたぞ!?」
「それが椛にとって必要だったからでしょう」
「私が必要だったということだろう!?」
「いいえ、あなたの地位が必要だったんです」
「地位……大天狗、の? 違う、違うっ、椛が、俺の椛がっ、そんな即物的な物に惹かれるわけがないだろうっ!」

俺の椛という言葉が、余計にみじめさを引き立たせている。
椛は鞍馬様に惹かれたわけじゃない。
彼女は欲しがったていた、忌々しく愛しい過去と決別するために。

「椛は、今の自分と違う誰かになりたかったんです」
「違う、誰かに?」
「文を愛していた自分を忘れたくて、全く違う自分になれれば全てを忘れられるんじゃないかって、そう思ってたんだと思います。
 例えば、興味もない誰かと結婚するとか。
 例えば、全ての元である文を殺すとか」
「興味が、ない? そんな、馬鹿なことが――」

馬鹿でもなんでもない。
少し考えたら誰にでもわかる、簡単な答え合わせ。

「方法なんてどれでもよかったんです、未だあの蜜月を忘れられず苦しむ自分と、別れを告げる事さえできれば。
 それに、はっきり言って鞍馬様は椛の好みじゃありませんよ。
 惚れるなんて考えられません」
「な――」

絶句。
まさにそうとしか形容しようのない、鞍馬様のお手本のようなリアクション。
これはさすがに予想外の展開だったのか、愛宕様も少し動揺した様子で鞍馬様の方を見ていた。
そんなに自信があるのなら、私の言葉なんかで揺らぐ必要なんて無いはずなのに。
こうも容易く自信を喪失するのは、やっぱりそれが虚勢だったから。
だって、事情をよく知らなかった私ですら知ってるってのに、鞍馬様が知らないはずがないもんね。
文と椛が、どれだけ互いを想い合っていたのか。
そして、本当に好きな人を前にした椛が、どんな風になってしまうのかを。

「おい鞍馬、何をしているんだ。
 こんな一烏天狗風情の言うことなど気にする必要などあるまい」
「しかし……姫海棠は、椛の友人で」
「だからどうした、お前の気持ちは他人に言われただけで揺らぐ程度だったのか?
 ほら、犬走が処置室の中でお前の迎えを待っているぞ」
「椛が……」
「待ってるわけないじゃないですか、この期に及んでよくそんなこと言えますね。
 今頃椛は、必死で文の手を握って無事を祈ってるはずですよ」
「なぜだ、なぜ自分を捨てた射命丸にそこまで執着する!?」
「椛も心の何処かで気づいてたんじゃないですか、文が自分を捨てるわけがないって。
 何らかの理由があって、仕方なく距離をおいてるだけじゃないかって。
 ねえ、愛宕様?」

こうなれば、もう鞍馬様は敵じゃない。
いや、最初から敵なんかじゃなかった、ただちょっとお馬鹿だっただけで。
そして、頼った相手を間違ってしまっただけで。
本当の敵は、その隣に居る。

「なぜ私を見る、犬走の件に私は関係あるまい」
「脅したんですよね」
「だから脅しては居ないと何度言えば良いんだ、証拠はあるのか?」
「愛宕……」
「鞍馬、お前までそんな目で見てくれるなよ。
 いいか、どうやら姫海棠は私が脅したと決めつけているようだがな、いくらなんでも私にそこまでの力が無いことは、同じ大天狗である鞍馬がよくわかっているはずだ」
「それはそうだが……」
「お前は私が犬走を人質にしたと言っていたが、どうやって人質にすると言うのだ。
 言うことを聞かなければ犬走を里から追放する、とでも言えばいいのか?」
「ええ、その通りです」
「何度も言うが、それは不可能だと――」

愛宕様は半笑いで、私を小馬鹿にするように言い訳を繰り広げている。
わかってるくせに、白々しい。

「ちょうど鞍馬様が愛宕様に頼みごとをした頃、一人の白狼天狗が追放されてるんです。
 百年も前のことなので、覚えているかはわかりませんが」
「百年前……妖獣の件か? 俺は覚えているぞ、確かに一人、女の白狼天狗を追放したのを。
 か弱そうな女だった、最後の最後まで両親は無実を訴えていたが、被害者が大天狗の子供あってはな。
 心は傷んだが、彼女に責任があるとなってはな、罰を与えなければ彼らを納得させることはできなかった。
 だが、白狼天狗の話なれば、関係あるのは愛宕ではなく俺じゃないのか?」
「鞍馬に同意だ、私には関係のない話だな」

あくまで白を切り通すつもりらしい。
証拠がない以上、愛宕様に自分から吐かせるしかないんだけど、そんなことは愛宕様だってわかってるだろう。
自分が話さなければ脅迫の事実は証明出来ないと、そう高をくくってるんだろう。
まあ、事実なんだけどね。
でも、ここで食い下がるつもりはない、絶対にボロを出させてやる。
幸いなことに、今の鞍馬様は精神的にぐらついている。
いくら無関係を装った所で、鞍馬様に疑わせれば、愛宕様だって今みたいに澄ました顔は続けられないはず。

「ちなみに鞍馬様、追放する天狗ってどうやって決めたんですか?」
「部隊の隊長に一任されていたはずだ。
 本来なら隊長が責任を取るべきだとは思ったが、原因が職務怠慢とあってはな。
 もちろん彼も処分は受けたが、さすがに追放とまでは行かなかったようだ」
「その時の隊長が誰だったか覚えてます?」
「確か……烏天狗だったと記憶しているが。
 なあ姫海棠、お前が俺から何を聞き出そうとしているのかはわからないが、私はあくまで白狼天狗たちを管理しているに過ぎないんだ。
 哨戒部隊の詳細までは把握していない」
「でも、その隊長の顔、最近どこかで見た覚えがあるんじゃないですか」
「何?」
「ほら、愛宕様のすぐ近くで――」
「姫海棠、それに鞍馬ももう良いだろう。
 特に鞍馬、犬走を連れて行くのが目的だったはずではなかったのか?」

さすがにまずいと思ったのか、愛宕様は私の言葉を遮るように鞍馬様に呼びかける。
ところがどっこい、時すでに遅しなんだよね。
鞍馬様の頭には、すでに心当たりが浮かんでる。
なんたって、百年前のことを覚えてるぐらいの記憶力なんだしね。

「愛宕の、近く……側近のあの天狗か?
 確かに言われてみれば、当時の隊長と同じ顔をしている」
「つまり、当時の隊長と愛宕様の間には繋がりがあったんです、そうですよね愛宕様?」

鞍馬様の言質も取れた所で、話を愛宕様に振ると――

「……そうだ」

彼はあっさりと、それを事実だと認めた。
しかしまだ、その余裕は崩れない。

「確かに彼とは長い付き合いになるが、まさかそれだけで犬走を人質に取った証拠だとでも言うつもりか?」
「疑う材料にはなります」

まだ焦ることはない。
鞍馬様は愛宕様に疑いの目を向けつつある、この調子で行けば二対一の状況に持ち込める。

「俺も、いくつか疑問に思っていたことがあったんだ。
 射命丸が簡単に椛を……いや、犬走を手放したこともそうだが」
「鞍馬、お前……」

あえて犬走と言い直したのは、一種の敗北宣言のような物だったのかもしれない。

「一番の疑問は、射命丸がなぜ新聞記者を選んだか、だった。
 犬走を失ったショックから今の仕事を辞めると言うのは、理解できないでもない。
 だがその後になぜ新聞記者を選ぶ必要がある? それもまだ新聞が今ほど流行していない時期に、だ」
「……私に復讐するためと、そう言いたいのか、鞍馬よ」

そっか、権力者の最大の弱点はスキャンダルだって言ってたのは愛宕様自身だ。
文ももちろんそれを理解していた。
だから、情報収集に都合のいい新聞記者を選んだんだ。
文が椛を取り戻そうとしてたのは、鞍馬様と椛が近づいた最近の話なんかじゃない。
百年前からずっと、ただそのためだけに――

「しかし、どの新聞記事にもそんな物は載っていないではないか。
 そもそも最初からスキャンダルなど存在しなのだから当然の話だが」

今しかない、と思った。
これは私の武器じゃない、けれど文が動けない以上、私がやるしかない。
彼の心の余裕を支えるのは、証拠がない、ただその一点のみだった。
一見して強固に見える彼のメンタルも、その大きな一本柱に支えられているだけというのなら、私にだって勝ち目はある。
だって私は、持っているのだから。
その柱をぶち壊す、特注品のとびきり上等な武器を。

「ありますよ、証拠なら」
「……何?」

その時、愛宕様の表情が豹変した。
顔から笑みが消え、私をほぼ無表情で冷たく見下ろす。
すっごい怖い。下手に怒鳴られるよりよっぽど怖い。
わかりきったことだから、今更日和ったりはしないけどさ。
ポケットから携帯を取り出すと、素早く例の画像を表示し、ディスプレイを二人の方へ向けた。
選んだのは愛宕様と女の顔が一番良く見える、鮮明な写真。

「スキャンダルの証拠です。
 愛宕様の、不倫しゃ――」

私が言い切るより前に、手に握っていたはずの携帯の上半分が消えていた。
直後、遅れて私の顔を風が凪ぐ。

「姫海棠よ、証拠とは何のことだ?」
「んな……っ!?」

まさか追いつめられたら実力行使に出るとは。
鞍馬様も剣は向けてきたけど、実際に斬ることは躊躇ってたのに、今の愛宕様には一切の逡巡が無かった。
慣れてるっていえばいいのかな。
これまでも、追い詰められる度にそうやって、都合の悪い物を消してきたのかもしれない。
じゃなきゃ、百年前に文を脅し、白狼天狗の女の子を追放した時点で、良心の呵責で潰れてるはずだもんね。

「そんなことをしても、今のは私の念写で撮影した画像で……その、念写っていうのは元からある画像を写す能力なんです!
 だから、無駄なんだから! 私が死んだって他の誰かが証拠を持ってるってことなんですよ!」
「他の誰かぁ? どうせ射命丸だろう、まったくもって忌々しい。
 まあいい。都合よく、あいつは今ちょうど死の淵に居るようではないか。
 証拠を奪うぐらい、赤子の手をひねるより容易く実行出来る」

冗談などではなく、そのためなら、本気で赤子すら殺してしまいそうな、そんな残酷さを感じた。

「……」

誰か助けてくれないかと、思わず鞍馬様の方を見るけれど、彼は愛宕様の方をじっと黙って見ているだけだ。
感情はいまいち読み取れない。
でも、止めてくれる雰囲気じゃない。
つまり私は一人、タイマンで愛宕様と戦わなくちゃならないってこと。
……いや、無理でしょそれ。

「だが、その念写能力は厄介だな。
 いくら射影機を破壊しようとも、新たな射影機を手に入れれば、再び撮影出来てしまうのだろう?
 どうしたらいい、どうしたら証拠を消せる?」

愛宕様の手にはいつの間にか葉団扇が握られていて、どうやら先程はそれを使って、器用に携帯だけを切り落としたらしかった。
その気になれば、私ごと真っ二つに出来たのに。
慈悲のつもりだったのか、あるいは怯える私の姿を見て楽しんでいるのか。
無表情だった愛宕様の顔に、笑顔が戻る。
喜ぶでもなく、嘲るでもなく、怒りを込めて。
たぶん、その時初めて、愛宕様は私のことを敵だと判断したんだと思う。

「なあ、姫海棠よ――」

背筋が凍った。
体も凍りついたように動かなくなった。
さっき鞍馬様に凄まれた時もだったけど、あれはまだ加減してたんだなってわかってしまった。
本気って、こんなに恐ろしいものだったんだ。
蛇に睨まれた蛙ってこんな気分だったんだって、慣用句の完成度に舌を巻いてしまうほどに、まさにその通り状況で。
だから――再び振りかざされる葉団扇が、次は私の体を真っ二つに切断しようとしていることに気づいても、動くことすら出来なかった。
さっき携帯を切られた時は見えもしなかったのに、今ははっきりとその動きが見える。
私に死をもたらさんと動き始める葉団扇を、私はやけに冷静な頭で、魅入られたように見つめていた。
――ああ、私、死ぬんだ。

「行けぇっ、のびーるアァァァームッ!」

私の凍りついた世界を溶かしたのは、外の世界の漫画じみた、やけに気合の入った叫び声だった。
愛宕様の背後からアームが近づき、その腕をがっちりと捕まえる。
それは葉団扇が纏った風が、私に向けられる直前の刹那の出来事。
正真正銘、私の命を救う一手だった。
氷が溶ければ、水になる。
溶けた心から染みだした雫は私の視界をにじませ、やがてぼろぼろと涙になってこぼれ落ちた。
それでも、ぼやける世界の中にあってもはっきりと見えていた。
見えてしまった。
二人の大天狗の背後に、死ぬほど愛しい誰かの顔が。
なんだよあいつ、なんでこんなタイミング良く来るんだよぉっ!

「にとりぃぃぃっ!」

まずは愛宕様から距離を取るべきなんだろうけど、思わず真っ先にその名前を叫んでしまった。
私の声に反応して、彼女はカッコつけて私にウインクを飛ばす。
似合わない。
場にそぐわない。
空気読めてない。
でも、きゅんときた。
昔から変わんないなあ。
百年経っても、きっと二百年経ったって、ずっと、永遠に、にとりは――変わらず、私のヒーローだ。

「へっへっへ、愛しのはたてを守るため、河城にとりただいま参上っ!」
「河童……河城か、なぜここに!?」
「当たり前じゃないか、愛する人がピンチとなれば颯爽と現れるのがダーリンのお仕事だろう?
 あ、不倫しちゃうよーな人には言ってもわかんないか、ははっ」
「目障りな、どいつもこいつも私の邪魔をしよってっ!」

愛宕様の動きを止められたのも一瞬。
彼が少し力を込めると、にとりのリュックサックから伸びるアームは振りほどかれてしまった。

「ちぃっ、さすがに大天狗相手には強度が足りないか」
「部外者が手を出すとは愚かな、だが天狗で無いなら後処理を考える必要も無い!」
「物騒だねえ、お偉いさんならもうちょっと優雅じゃないと」

愛宕様はにとりに向かって団扇を仰ぎ、刃を放つ。
床を削り取りながら進むそれをひょいっと軽く避けると、次の瞬間、にとりは私たちの視界から消えていた。

「相変わらず珍妙な機械ばかり使いよって」

視線を彷徨わせてにとりの姿を探す愛宕様だったが、突如何の前触れもなく右肩が爆ぜる。
続いて左足、トドメに胸元で何かが爆ぜ、立て続けの打撃にぐらりとよろけた。

「ぐっ……なにが起きた?」

たぶん、光学迷彩だ。
光学迷彩を搭載した弾丸とか、それに近い何かを発射しているんじゃないだろうか。
以前、光学迷彩はコストの問題から大量生産は出来ないと聞いたことがある。
それはつまり、コストさえ度外視すれば不可能では無いということ。
発射地点も軌道も見えない不可視の弾丸、いくら大天狗とは言えこれを避けることは出来ない。

「ちぃっ……ぐぅぅ……っ」

愛宕様は為す術もなく、四方八方から襲い来る弾丸を浴びせられる。
しかしそれにしても丈夫すぎる、弾丸には十分な威力があるように見えるのに、未だ膝すらつかない。
これが大天狗とその他の違いってわけ? だったら天魔様はどんだけ強いって言うのよ。
かと言って私が手を出しても足手まといにしかならないだろうし。

「ええいしゃらくさいっ!」

さすがに煩わしくなってきたのか、愛宕様は怒りを露わにして声を荒げた。
そして葉団扇に、今までと比べ物にならないほど激しい風が宿る。

「姿を見せぬというのなら、一帯諸共消えてしまえっ!」

あれが、大天狗の本気。
とんでもない力だ。
あの風が放たれれば、直線軌道上のありとあらゆる物は粉々に切り刻まれてしまう。
にとりの居る場所は把握出来ないけれど、方角には目処が付いているのか、愛宕様は明確に向きを定めて団扇を振りかぶった。

「やばっ」

微かに、にとりの声が聞こえた気がした。
何が”やばっ”だ、そりゃ山に済む普通の妖怪が、本気の大天狗を相手にしたら殺されるに決まってる。
でも、そう簡単に殺させたりはしない。
いつもにとりに救われてばっかりだけど、今日は私が救う番なんだから。
その後で死ぬのは私かもしれないけど、にとりが死ぬよりずっといい!
駈け出した私は、抱きつくようにして愛宕様の腕にぶら下がる。

「邪魔だ!」
「がっ……げほっ、げほっ」

しかしあっさりと振りほどかれ、吹き飛ばされて壁に叩きつけられてしまった。
背中を強烈に打ち付け、衝撃で肺から空気が押し出される。

「はたてっ!?」

反射的に、だったのだろうか。
にとりは周囲に聞こえるほどの大きさで私の名前を呼んでしまった。
馬鹿、そんなことしたらもっとはっきりとした場所がわかっちゃうじゃないのよう!
案の定、声から位置を特定した愛宕様は、団扇の向きを微修正、にとりを直線上のど真ん中に捉えた。
これではもう、逃げられない。
私も打ち付けられた衝撃で思うように体が動かない。
死ぬ覚悟は出来たとか言ってたけど、あんなの嘘だ。
やっぱり怖い。死にたくない。
まだ、にとりに言えてないこととか、にとりとやれてないこととか、いっぱい、いっぱいあるのに。

「今度こそ終わ――」
「愛宕、少しいいか?」
「なんだ鞍馬、こんな時に。
 連中を仕留めた後でもいいだろう」
「いや、ダメだ。ダメなんだよ愛宕」
「鞍馬、今はそれどころでは……は?」

鞍馬様は先ほど私に向けた剣を、愛宕様の首すじにあてがった。
愛宕様の顔は驚愕で歪んだが、鞍馬様は眉一つ動かさず、淡々としている。

「意外か? 俺もだよ。
 なにせ、もっと激情にかられると思っていたからな。
 怒りに任せて、有無を言わさず斬りかかるんじゃないかとも思っていた」
「血迷ったか、鞍馬!」

私にもそうとしか思えなかった。
なぜこの状況で鞍馬様が愛宕様に剣を向けるのか、そのきっかけになる原因なんてどこかにあったっけ。

「よくわかんないけど、助かったみたいだね」

耳元でにとりの声が聞こえる。
いつの間にか私の直ぐ側にまで移動してきていたらしい。
光学迷彩を解くと、こめかみに汗を浮かばせながらも、どうにか笑顔を作るにとりの姿が現れる。
どうせ私には無理してるってわかるんだから、作り笑顔なんてやらなくていいのにね。

「にとり……よかった、無事で」
「それはこっちの台詞だよ、とんだ無茶してくれるよねまったく」
「そっちだって無茶してたじゃないのよ、死ぬんじゃないかって……心配だったんだからぁっ」
「心配無用さ、その気になればまだまだ奥の手を用意してたからね」

強がりなのか本気なのかはわからないけど、今のにとりには信じるに値するだけの頼もしさがあった。
こうして私たちが話してる間も、鞍馬様と愛宕様は今もにらみ合いを続けている。
それにしてもなんで鞍馬様が、愛宕様との確執なんてあったっけ?
んー……あったような、無かったような。
確か最近、誰かからそんな話を聞かされてなかったっけ。

「血迷ったのはお前の方だろうよ、愛宕。
 覚えていないのか、忘れちまったのか、俺と交わした約束を」
「約束、だと?」
「俺は見たぞ、姫海棠が見せてくれた写真を、はっきりと。
 どう言い訳しようと、俺ははっきり見たんだよ、お前が他の女と、それも人間の女としっかり抱き合ってる写真を」
「だから、それは――」

愛宕様の顔色がさっと青ざめる。
鞍馬様は約束と言っていた。
それに思い当たるフシがあったんだろう。

「待て、違う、何かの間違いだ、あの写真は……そう、念写などという怪しい能力を信じるのか!?
 ひょっとしたら写真を捏造する能力かもしれんぞっ」
「追い詰められた時のお前はわかりやすいなぁ、愛宕。
 なあ、俺はずっと信じてきたんだ。
 お前があいつを幸せにするって、俺よりもずっと幸せにするって言った言葉を、ずっと信じてきた。
 その信頼を裏切ったんだ、わかるよなぁ、なあ!?」

そういえば――そう、新聞屋の女性から聞いたんだ。
確か、愛宕様が今の奥さんと結婚するときに、鞍馬様と一悶着あったって。
あの時は一悶着があったって聞いただけで、詳しい内容までは何も聞いてなかったけど、これってつまり、鞍馬様と愛宕様が恋敵だったってこと?
それで愛宕様の説得で鞍馬様が身を引いて、譲ったんだ。
だから不倫写真を見せられて、鞍馬様が憤慨した。

「俺は今すぐお前を斬り捨てたい、あいつを裏切るお前のような汚らわしい存在は俺の美学が許さない!」
「ひっ……待て、待ってくれ鞍馬ぁっ」

本気の殺意を至近距離で向けられ、愛宕様はみじめに命乞いをしている。
さっきまでの余裕はどこへやら。
さすがの愛宕様も、剣の達人である鞍馬様とこの距離でやりあって勝てるわけがない。
本気で死を覚悟したからこそ、本性が出てきたんだろう。

「一つ、聞かせろ」
「答える、何でも答えるからその剣を離してくれっ!」
「射命丸を脅したというのは事実か?」
「そ、そうだっ、脅した、姫海棠の言ったことは全て事実だ!
 だがな、鞍馬だって本当はわかっていたはずだ!
 いくらお前が優れていようと、自分に自信を持っていようと、射命丸はその程度で引き下がるような聞き分けのいい天狗ではないと!」
「……そうか、そうだな」

愛宕様の答えを聞くと、鞍馬様は意外にもあっさりと剣を引いた。
自分の首から剣が離れたことを確認すると、愛宕様は大きく息を吐き出して地面にへたり込む。
彼の体はまだ震えている、よっぽど恐ろしかったのだろう。失禁してないだけマシなのかもしれない。
一方の鞍馬様はと言うと、剣を持ったまま私たちの方へと近づいてきていた。

「来る……?」

にとりが警戒態勢を取る。
つられて私も構えちゃったんだけど、どうも見たところ敵意は無さそうな感じがするんだけど。
すると鞍馬様は、警戒するにとりの方を見て一言こう言った。

「やりあうつもりはない。
 全ては私が愛宕に頼んだことから始まったんだ、むしろ謝らせてくれ。
 ……すまなかった」

そう言って、深々と頭を下げる。
私たちは唖然とその姿を見ていた。
潔い人だ。
何があっても下っ端に頭を下げることは無いと思っていた大天狗が、こうもあっさり謝るなんて。
今まではただの嫌なナルシストって印象しかなかったけど、それだけじゃないのかもしれない。
良くも悪くも、正直な人なんだ。
そして自分を曲げない。
通例よりも自分が正しいと思った事を貫き通す。
それが、彼が慕われる理由。
鞍馬様はゆっくりと頭をあげると、視線を処置室の方へ向け、落ち着いた声で言った。

「だが、俺が最も謝らなければならない相手は別に居る」

そして再び歩き始める、今度は処置室の方へ向かって。
謝らなければならない相手、それはたぶん……文と椛の二人だと思う。
椛を連れ去ろうという意思は感じられないし、止める体力も無かったから、静かに進んでいく鞍馬様を二人で見ていることしか出来なかった。
処置室の頑丈な扉の前に立った鞍馬様は、声を張り上げながら扉に向かって話しはじめた。

「犬走、聞こえているか? いや、白狼天狗の耳なら聞こえているはずだ。
 一度でいいから顔を見せてくれないか、俺はお前に直接謝らなければならないことがある」

声が反射して、響いて、消える。
再び周囲に完全なる静寂が戻っても、扉はうんともすんとも言わない。
確かに白狼天狗は耳も鼻も利く、正常な状態の椛なら、扉越しであろうと私たちの話し声は聞こえていたはずだ。
けれど今は非常事態。
文のことを考えるあまり、外の声など聞こえていなかった可能性だってある。
それに、聞いたからこそ出てきたくないのかもしれない。
沈黙はさらに続く、椛からの返事はまだ無い。
それでも扉の前に立つ鞍馬様に諦める様子はなく、じっと扉を凝視して、微動だにしないで椛が出てくるのを待っていた。
この調子だと、手術が終わるまで――例え手術が朝まで掛かったとしても、同じ姿勢で待ち続けていそうだ。
最初に鞍馬様が処置室の椛に声をかけてから、もう一分以上は過ぎたはずだ。
その間、誰も一言も言葉を発さずに、私の耳には自分とにとりの呼吸音しか聞こえなかった。
ふと、この場にはもう一人の登場人物が居たことを思い出した。
愛宕様、この隙に逃げたり、何か企んだりしてないだろうか。
視線を愛宕様の方に向ける。
……心配するまでもなかった、彼は私たちと同じように集中して、鞍馬様の背中を見つめている。
顔は完全に腑抜けていて、悪さをする気力も残っていないみたい、放っておいて良さそうだ。
次はにとりの方を見る。
にとりも鞍馬様の方を見ていたけれど、私の視線に気づくとこちらを見て、私を安心させるようににこりと笑って、握っている手にほんの少し力を込めた。
別に不安になったってわけじゃないんだけど、元気づけてくれようとする気持ちは、すっごい嬉しい。
雰囲気に飲み込まれて落ち込んでいた気持ちが、少しだけ明るくなる。
そして再び鞍馬様の背中へと視線を戻した。
まだ反応は――
と、その時だった。
ガチャリと、処置室の扉の鍵が開く音。
直後、ギィと音をたてながら、重厚な扉がゆっくりと動き始める。
隙間から漏れ出す処置室の光が、暗い廊下を微かに明るく照らした。
その光を遮るように、動く影が一つ。
影の主は一歩、また一歩と、やけに慎重に、何か躊躇うように姿を表した。

「椛……」

にとりが小さく呟く。
処置室から出てきた椛は鞍馬様の前で立ち止まると、視線を上げ、その顔をじっと見つめた。
言葉は、まだ無い。お互いに黙ったままだ。
だが、椛には言葉を探している様子は無かった。
待っているのだろうか、鞍馬様が口を開くのを。

「犬走」

鞍馬様が、名前を読んだ。だが反応はない。
先程まで泣いていたのか、椛の目は腫れて真っ赤になっていた。
しかし泣いていたのはあくまで過去の話である。
椛の心はすでに揺らいでいない。
明らかに、何らかの意思を持って――それは怒りでもなければ悲しみでもなく――ただひたすらに、鞍馬様の目を見続けていた。
鞍馬様はそんな椛の真っ直ぐな視線を受けて、一瞬だけ罪悪感に負け目を逸らそうとしたが、唇を噛んでぐっと堪える。
そして一歩後ろへ下がって、右膝をついた。
次に左膝。
両膝をついた後は、前のめりになって、地面に手をつく。
それから、床にこすりつけるようにして、額を地面に当てた。

「すまなかった」

何でも様になる人がやると、土下座ですら様になってしまうのか――
そう感嘆してしまうほどの、見紛うことなき、正真正銘の土下座であった。
白狼天狗の管理者たる大天狗が、部下である白狼天狗に土下座している。
鞍馬様はプライドが高い天狗だと思っていた。
いや、今でも思っているし、それは間違った認識じゃないはず。
それでも土下座せずには居られなかったのだろうか。
罪悪感が、プライドを凌駕したから。
誰が見たって、証明する必要も無いほどにはっきりとわかる。
それは鞍馬様からの、疑いようのない、心からの謝罪だった。
スキャンダルが大天狗にとっての弱点だと言うなら、この場面を撮影した写真は鞍馬様にとっての最大の弱点になるだろう。
しかし鞍馬様は構うこと無く、頭を地面に擦り付けたまま、さらに椛に向かっての謝罪を続ける。

「全ては俺のわがままが引き起こした事だ、どれだけ謝っても許されないことはわかっている。
 俺が奪ってしまった時間は、あまりに長く、重い。
 この程度で償えるとは思っていない。
 自己満足と罵ってくれても構わない。
 それでも、謝らせてくれ。
 すまなかった、本当にすまなかった、心の底から……申し訳ないと、そう思っている」

声を震わせながら、鞍馬様は誠心誠意の謝罪を言葉にして、椛へと送った。
思うに、今まで椛に向けてきたどの口説き文句よりも、気持ちの入った言葉だったんじゃないだろうか。
その言葉を聞いて、椛は目を細めた。
何を考えているのか、私にもよくわからない。
強い意思を持っていると、漠然とそう感じるだけで、その中身まではさっぱりなのだから。
結局よくわからないから――椛の次の行動も、全く読めなかった。

「……」

土下座する鞍馬様から視線を外すと、その脇を通って椛は進みだす。
椛が離れていったことを理解しても、鞍馬様は頭をあげることは無かった。
むしろより強く、額から血が流れるほど強く地面に頭を押し付けている。
椛はそこからさらに少し進むと、鞍馬様の体を通り過ぎた直後に、一旦歩みを止めた。
そして初めて口を開く。

「……別に、鞍馬様を恨んでいるわけではありません。
 はたての言っていた通り、あなたは私の好みではありませんし、好きにはなれませんでした。
 それでも、みんなに慕われているだけあって、楽しい時間は過ごせましたよ。
 ええ、きっと、嫌いではありませんでした。
 だからそんな人に謝られても……許すとか許さないとか、そういう話では無いんです。
 感想は何も。全く。
 ただ、それだけです」

それは、鞍馬様にとって救いだったのだろうか。
恋愛対象では無かったと言う事実が明白になってしまったのは気の毒だと思うけども、嫌われてはいなかった。
その言葉をどう受け取るのか。
好きの反対は無関心とも言うし、考え方によっては最悪の結果とも受け取れるんだけど。
鞍馬様は前向きだし、そのあたりは心配する必要も無さそうだ。
出来ればどんな顔をしているのか見たかったけど、鞍馬様は相変わらず土下座をやめようとしないので、それは叶いそうにない。
けど、肩が微かに震えているように見えた。
泣いてるのかな。
どういう意味の涙なのか、やっぱり私にはわかんないけどさ。

「私が許せないのは、謝罪が聞きたいのは、鞍馬様じゃない」

再び椛が歩き出す。
行く先は、鞍馬様の土下座を呆けた顔で見ていた愛宕様の方で。
その姿を視界に捉えた瞬間、椛の目に感情の火が灯る。
今まで押さえ込んでいた強い感情を、一気に燃え上がらせるように。
前へ進む足に力がこもる。
大きな足音を響かせながら、広い歩幅で愛宕様に迫った。
あっという間に目の前までたどり着く。
そこで椛は、愛宕様に向かって、静かに言い放った。

「……お前だ、愛宕」

鞍馬様に続いて椛にまで凄まれる愛宕様は、小さく「ひっ」と声をあげた。
相手は白狼天狗、大天狗なら叶わない相手じゃないはずなのに、愛宕様には抵抗する様子はない。
完全に心が折れてしまっている。
今の彼は、下手したら妖精にすら負けてしまいそうなほどだ。
だが相手が弱っていようが何だろうが椛には関係ない。

「文さまを脅して、傷つけて、私たちを引き離したっ。
 百年……百年だぞ、私は文さまを憎んで、文さまは憎まれ続けて……っ!
 戻らないのに……お前が何をしたって、命を捧げた所で、この百年は二度と戻らないっていうのに!」
「す、すまなかった……」
「どうしてくれるんだよ!? 私たちの百年分の幸せを返してよぉぉっ!」
「も、申し訳……なかったと思って、いる……」
「申し訳ない? そんな薄っぺらい言葉で、許されるわけがないだろうがっ!」

謝ってほしいとは言ったが、謝ったからと言って許すと言ったわけではない。
理論の破綻はなかった。
いや、そもそも謝罪を聞いた程度で椛が止まるわけがない。
今まで、百年分の苦痛を誰のせいにもすることはできなかった。
文のせいにしようにも心の何処かで文を信じる自分が居て、かといって自分のせいにしようにも原因に心当たりがない。
もちろん他人のせいにすることも出来ない。
文はともかくとして、椛は全く事情を知らなかったのだから。
行きどころのない感情を抱えて、それから解放されようと、自分ではない誰かになろうとしてきた。
百年もの間。
あまりに長すぎる、苦しい百年だったはず。
なのにそれが、見つかってしまった。
百年分のありとあらゆる負の感情をぶつけてもいい、それが許される存在を。
全ての悪の元凶を。

「待て、待て、わかった、謝っても許されないことはわかっている、理解している!
 その……金なら、どうだ? 地位でもいいぞ?
 確かに私には時間は返せないっ、だからせめて、望むものならなんでも――」

椛は無言のまま左手で胸ぐらを掴み、右手の拳を愛宕様の左頬に叩き込んだ。

「がっ……!」

愛宕様の背が大きいおかげか、膝立ちの状態でも椛の身長とそう差があるわけではない。
それは椛にとって、非常に都合の良い事実だった。
殴るのにちょうどいい高さだから。

「ま、待て……私は、大天狗で……お前は白狼天狗だぞっ!? わかっているのかっ」
「うるさい」
「おごぉっ!?」

再び右手で殴る。
頬を、次はこめかみを、次はアゴを、次は耳を。
殴る度に微妙に位置を変えながら、まるで機械のように作業的に、椛は愛宕様の顔を殴り続けた。
時折、愛宕様が言い訳のために口を開こうとすると、「うるさい」「黙れ」と冷酷に告げ、拳でそれを遮った。
やがて椛の右手に血が滲みだすと、次はその右手で胸ぐらを掴み、左手で殴り始める。
このままでは愛宕様の右顔面だけが腫れ上がる一方だったので、バランスをとるのにはちょうどいいのかもしれない。

「あ、がっ、かひっ」

左の顔面が腫れだした頃には、愛宕様はすでに意味のある言葉を発せなくなっていた。
ただ呻き声を漏らすだけになった愛宕様の姿を見て、なぜか私の隣に居るにとりが落ち込んでいる。

「なんでそこでへこむの?」
「光学迷彩弾を何発打ち込んでも倒れなかったのになあ、と思ってさ。
 やっぱり威力に難ありか……」

割とどうでもいい悩みだった。
とはいえ、私たちには椛がひたすら愛宕様を殴る姿を見ていることしか出来ないわけで、下らないことを考えてしまうのも仕方のないことなのかな。
鞍馬様は相変わらず土下座したままだし。
そうやって私たちの話が脱線しているうちにも、椛はひたすら愛宕様を殴り続ける。

「はぁ、はぁ、はあぁ……」

さすがに椛も疲れてきたのか、肩を大きく上下させながら息を荒げている。
やはりそれでも、椛は殴るのを止めはしない。
復讐ってわけじゃないんだろうけど、殴らずには居られなかったんだと思う。
でも、きっといくら殴った所で、椛の気は晴れないんじゃないかな。
百年殴り続けられるなら別としても、たった十回や二十回程度殴った所で、失った日々を取り戻せるわけじゃないんだから。
それでも、殴らずには居られない、と。
気持ちはわかる……って言うと軽すぎるかな。
私は実際に被害にあったわけじゃないし、失った経験があるわけでもない。
でも、私の隣にも、椛にとっての文と変わらないぐらい大事な人がいるから。
それを他人に奪われた時の苦しみや憎しみは、想像するだけでも吐き気がするほどだ。
このどす黒い塊は、殴っても、殺したって、きっと発散出来るものじゃない。

「ふうぅ……はぁぁ……この、程度で……っ」

握力が無くなってしまったのか、胸ぐらを掴んでいた右手から、愛宕様の上着の布がするりと抜けていく。
すでに意識を失っていた愛宕様の体は、音を立てて背中から床へと倒れ落ちた。
微かに胸が上下しているのを見ると、まだ死んだわけじゃないらしい。
それでも虫の息と言う言葉がぴったりな有様。
けれど対する椛もかなり体力を消耗している。
肩で息をしながら、仰向けで倒れた愛宕様の憎たらしい顔を睨みつける。
さすがの椛もさすがにこれ以上は――と思ったら、まだまだ満足したわけでは無さそうで。
上半身を支えながら殴り続けるのは無理だと判断したのか、今度は愛宕様の体に馬乗りになって、振り回すように両手を使って殴りはじめた。

「このおぉっ! く、っそぉぉぉっ!」

一度拳を振り下ろす度に、椛の喉から声が漏れる。

「死ねっ……死ねぇぇっ!」

百年分の憎しみがこもった、一種の呪詛のようだった。
その呪いは、聞くだけで私たちの胸を締め付ける。心に暗い影を落とす。

「かえせっ、かえせっ、かえせええぇぇっ!」

その憎しみが愛宕様に向けた物だけなら、とっくに椛は止めていたのかもしれない。
でも、椛の心に巣食う闇は、誰もが想像しているよりもずっと暗く、深く、そして複雑。
さまざまな感情が積み重なってかき混ぜて、悪趣味なマーブル色をしている。
――文に殺意を向け続けた自分に対する憤り。
――脅されてもどうして一緒に居てくれなかったんだっていう文に対する少しの不満。
――死ぬほど努力してここまでのし上がってきた事が無駄だと知らされた無力感。
――そして、全てが終わったという開放感。
それだけじゃない。
他にも諸々、悲喜こもごも、感情の混沌がぐるぐると渦巻いている。
その全てが、椛の拳に込められているのだ。
これで止まると思える方がどうかしている。

「うわあぁぁぁぁっ!」

言葉に意味なんてなかった。
全ての感情が混じり合えば、もはや形をなさない。
椛自身にも制御出来ずに、例え自らの拳が砕けようとも、椛は止めようとはしないだろう。
両拳から血が滴っても、腕を振り上げる体力すら無くなっても、体が無理だと悲鳴を上げたって、心が動くのをやめようとはしなかったから。

その後、椛が動きを止めたのは、ちょうど文の手術が終わる直前のこと。
気が晴れたわけじゃない。
ただ、愛宕様なんかよりずっと優先すべき物を見つけたから止まっただけだった。
処置室から出てきた先生は、もちろん廊下の惨状を見てずいぶん驚いていたけれど、椛を見つけ真っ先にこう伝えた。
「手術は成功しました、射命丸さんは無事ですよ」と。
それを聞いて、椛は安堵の吐息を漏らすと――糸の切れた人形のように意識を失い、床に倒れ込んだ。
倒れる直前、微かに文の名前を呼ぶ声が聞こえたのは、きっと気のせいなんかじゃなかったんだと思う。





さて、言うまでもないとは思うけど、そんだけ殴っておいて、そしてそんだけ殴られておいて、お互いに無事で済むわけがない。
二人はそれぞれに、相応の怪我を負って、そのまま診療所に入院することになってしまった。
同じ診療所に、それも同時に、文と椛と愛宕様が入院している今って、実はかなり滑稽な状況なんじゃないかと思う。
さらに、この三人の入院期間の違いが滑稽さを増量させていると思うのは私だけだろうか。
椛は拳の骨にヒビが入った程度だったから、割とすぐに退院できるそうだ。
文も手術が成功したことと、妖怪特有の自然治癒力の高さもあって、二週間程度で退院できるんだとか。
そして問題の愛宕様なんだけど……詳しい話は聞いてないけど、怪我だけじゃなくて心の傷もあるとかで、そこそこ長い間入院することになりそうなんだとか。
最初にその話を聞いた時、私は一緒に居たにとりと二人でゲラゲラと笑ってしまった。
ちょっと不謹慎かなーとは思ったけど、愛宕様だしまあいいかなって。
因果応報、同情の余地は一切ないんだから
むしろ生きているだけラッキーだったと思うべきよね。

手術後ずっと眠っていた文が目を覚ましたのは、翌日のお昼ごろだったらしい。
ちょうど私たちは昼食を食べるために外に出てたせいなんだけど、話は大体聞いている。
椛が号泣して、文は最初は戸惑ってたけど、釣られるように一緒にわんわん泣いたんだとか。
気持ちはわかる、気持ちはわかるんだけど――あの二人が抱き合って号泣する姿なんて、念写した今でも全く想像できないなぁ。
そもそも、椛ってば怪我は大丈夫だったのかな。
なんでもその後、強制的に病室に連れてかれたって聞いたんだけど……やっぱり無茶してたんだろうな。

文が目を覚ましてからの一週間は、あっという間に過ぎていった。
当事者じゃない私ですらこれなんだから、文や椛はもっと早く感じたに違いない。
椛が先生の言うことを聞かずに文の部屋に入り浸ったり、退院しても診療所から出て行かなかったり、椛が甘えすぎて文の傷が開きかけたりと、一週間の間だけでも色んな出来事があった。
主に椛絡みなんだけどね。
本当なら先生とかにこっぴどく怒られて然るべきなんだけど、頭を撫でられるだけであんだけ幸せそうな顔をする椛を見てたら、言うに言えないわよね。
べったべたに懐いた飼い犬だってあんな顔しないっての、ちょっと羨ましい気もするけどさ。
その一方で、天狗の里の方では何やら興味深い事件が起きていたようで。

「ほんと恐ろしい話よね、まさかとっくに奥さんが気づいてたとは」

文はベッドの上で苦笑いしながらそう言った。
この場合の奥さんというのは、愛宕様の奥さんのことだったりする。
つまりどういうことかというと、愛宕様の不倫は、実はとっくに奥さんにバレていたということ。
そして愛宕様が椛に殴られ入院したタイミングで、奥さんがそれをとある新聞記者にリークしたのである。

「それを鞍馬様に話すってのもさらに怖いと思うわ、あえてなんだろうけどさ」

そう、愛宕様不倫のスクープを一番最初に報じたのは、他でもない鞍馬諧報だったのだ。
診療所の一件で鞍馬様はすでに不倫のことを知っていたわけなんだけど、私たちの意思を尊重してか、それを表沙汰にすることは無かった。
騙されていたとはいえ、親友を売るような真似はしたくなかったっていう、鞍馬様なりの美学もあったのかもしれない。
けれど、それが愛宕様の奥さんの頼みとなると話は別。
情報がもたらされた翌日には不倫のニュースが鞍馬諧報の一面を飾り、天狗の里中にばらまかれた。
ちなみにだけど、新聞の一面に載った写真は、不倫現場を室内から撮影した物だった。
要するに、私が念写で見た室内からの写真は愛宕様の奥さんが用意した物で、外から撮ったものは文が撮影したものだったってことだ。
どうやって室内から撮影したか、だけど……たぶん愛宕様の所持品に、河童から買った遠隔操作出来るカメラを仕込んでたんじゃないかな。
にとりに聞いた所、コストを度外視すればできないわけじゃないって言ってたしね。
決定的な証拠は出たものの、愛宕様の状況が状況だから、彼はまだ奥さんとちゃんと話はできてないらしい。
でも、とある新聞の情報によると離婚も視野に入れて話が進んでるんだとか。
実際にそうなった時、鞍馬様が愛宕様の奥さんに対してどうするのかはちょっと気になるかな。
奥さんも奥さんで、わざわざ不倫の報道を鞍馬諧報に頼んだわけだしね。

「それにしたってほんと、今回の件に関してははたてには何度お礼を言っても足りないぐらいよ。
 ごめんね、勝手に半人前扱いして」
「だからいいって、あの写真を撮影したのは間違いなく文だったんだから」
「でも、私があと二日も立ち止まってたら、あの情報は世に出回ってたのよ?」
「そんなの結果論よ、気にしない気にしない」

私だって、大天狗二人に追い詰められなければ、あの写真を使ったりはしなかった。
それに元を正せば、椛が文を刺さなければ、私たちが診療所に行くことすらなかったわけで。
偶然に偶然が重なった結果で、誰が偉くて誰が悪いとか、そういう話じゃない。

「……ところでさ、椛はどこいったんだい?」

にとりが周囲を見回しながら、そう言った。
確かに言われてみれば、あの日以降はずっと文にべったりだった椛の姿が見当たらない。

「着替えを取りに、一旦家に帰ってるわ。
 一足先に退院したんだけど、私が退院するまではずっと泊まる気みたいだしね」

とか言いつつ、文は嬉しそうにニヤついている。

「うわ、文がすごく嬉しそうだ。なんか気持ち悪い」
「これからはもっとだらしない顔を見ることになるから、慣れておかないとね」
「想像できないわー、私の中の文のイメージが崩れていくわ」
「あんたらねぇ……いいじゃない、こっちだって百年ぶりに一緒に過ごせてるんだから。
 幸せで幸せで仕方ないの、幻想郷どころか世界中に見せびらかしたいぐらいにね!」

その発想で人前でいちゃついてたってわけか。
まあ、幸せなら幸せでいいんだけどね。

「文句を言ってるわけじゃないのよ、ただイメージにそぐわないってだけで」

私の中の文のイメージと言えば、やけに真面目な顔するくせに嫌味が多くて、素直じゃなくて、けどたまに優しい、そんな感じだったから。
でも全部わかった上で思い返せば、ずっと椛のために一人で戦ってたわけだから、真面目な顔になっちゃうのは仕方のないことだったんだよね。
……と言っても、やっぱり気持ち悪いものは気持ち悪いというか。

「はたてだって、にとりと話してる時は同じような顔してるじゃない」
「またまたぁ」
「自覚無いんだ……」

二人きりの時ならともかく、他人の前で話す時までそんな顔になってるつもりはない。
なってないはず……なってない……よね?

「助けを求めるように私の方を見られてもなあ。
 私としては、もっとデレてくれても良いと思ってるよ」

しまった、こいつはむしろ引きずり込む側だから、助けを求めたって逆効果だった。
別に、嫌ってわけじゃないんだけどさ。
少なくとも二人きりの時はそういう顔になっちゃってるって自覚はあるわけだし。
親しい相手から見たら人の目があってもデレデレしちゃってるように見えるのは、仕方ないことなんじゃないかな。

「開き直ったわね」
「文や椛にぐらいだったら気付かれてもいいかなと思って」
「そうやって少しずつ妥協していって、最終的には……」
「文みたいになるつもりはありませーん」
「どうだかねえ、にとりはどうなの? はたては椛みたいになってくれた方がいい?」
「んー……適度にツンツンしてるはたても捨てがたいけど、子犬のようにじゃれてくるはたてって言うのも中々……」
「想像するんじゃないっ!」

思わずにとりの頭を小突いてしまう。
これじゃ丸っきり照れ隠しじゃないか、文の前だと逆効果だ。
ほら見ろ、私の方見てニヤニヤ笑ってるし。

「私はどんなはたてでも愛せる自信あるけどね」
「だそうよ?」
「そんなこと言われても困るわよ、ノーコメント!」

と言いつつも、体は正直なんだよねぇ……ああ、顔が熱い。

「ラブラブね」
「ラブラブでしょー?」
「私なにも言ってないよね!?」

敵は二人、私は孤立無援。
ここはアウェーだ、私は圧倒的にな状況にある。
椛さえ、椛さえ帰ってくれば――と思ったんだけど、今の椛は絶対に文に付いちゃうし、そうなると三対一、もう不利ってレベルじゃない。
無条件降伏するしかないじゃない。
これは椛が帰ってくる前に戦略的撤退を考えておかなければ。
ここに来た本当の用事は別にあるわけだし。

「私をからかうのはほどほどにして、ほらにとり、あれ渡さなくていいの?」
「ああ、そうだった。
 頼まれてた荷物持ってきたんだったね」
「ありがとね、手間かけちゃってごめん」
「いいってことよ、文の名前を出したらみんな大喜びで協力してくれたよ」
「大喜びで?」
「なんだかんだで寂しかったんじゃない? 二人のあれこれは妖怪の山名物みたいなものだったし」
「そう言われると恥ずかしいわね……」
「今更何を恥ずかしがることがあるんだか、むしろ見てるほうが恥ずかしいっての」
「そうは言ってるけど、いつかあんたもこうなるのよ?」
「だからならないってば!」

そして私を見てにやりと笑うにとり。
こいつらは私をどうしたいんだ、ところ構わず甘え倒すはしたない天狗になれと?
はしたない……はしたない……ああ、嫌なこと思い出しちゃった。

「はぁ、もういいじゃない。
 用事は済んだんだし早く帰ろ」

私はそう言ってにとりの手を取った。

「あんたたち、ナチュラルに二人同じ場所に帰ろうとするのね」
「ぐっ……」

しまった、慣れすぎて気にしてなかったけど、これが文に突っ込まれないはずがない。

「あと、自然と手を繋ごうとするのもなかなかにポイント高いわよ」
「ぐぐっ……」
「だよね、別に私から催促したわけでもないのに、最近はたての方から繋いでくれるようになったんだよ」
「ぐぐぐっ……」

隙の生じぬ三段攻撃に、私は全く反論出来ない。
私だって、少しずつ自分の中の許容ラインが広くなってるなってのは実感してるんだから。
最近はにとりがうちに居る状況がすっかり当たり前になってて、半同棲みたいになってるし。
にとりもにとりで、一緒に帰ろうって言うと自然に、ごく当たり前みたいにうちに来て、ご飯食べて、泊まっていくしさ。

「もう、いちいち揚げ足とらなくたっていいでしょ。
 ほら、こんどこそ帰るよにとりっ!」
「ふふふっ、わかったからそんなに引っ張らなくたって大丈夫だって。
 もっとゆっくり行こうよ、時間はあるんだから」
「一刻も早くこの部屋から出たいのー!」

これ以上ボロが出る前に、早く脱出しなければ。
それに……椛が帰ってくる前に出てかないと、邪魔することになっちゃうしね。
部屋から出て、診療所の廊下を歩いていると、にとりが私に話しかけてきた。

「ねえ、はたて」
「んー?」
「さっき部屋から早く出たがってたの、気を使ってたの? それとも本当に怒ってた?」

椛が帰ってくる前に出てった方がいいのかなとは、確かに考えていた。
二人きりの時間を邪魔するのは悪いしさ。

「半々って所かな。
 でも怒ってたっていうか……」
「……照れてた?」
「わかってるなら聞くなっての」
「はたての口から、はたての声で聞けるのがいいんじゃないか」
「そーですか」

そして私はまたそっぽを向きながら、下手な照れ隠しをするのだった。





……………





はたてとにとりが去った後、部屋は一気に静かになった。
椛はまだ帰ってこない。
寂しさで、少しだけ胸が締め付けられた。
百年も一人きりで慣れたつもりでいたのに、ほんの一週間を一緒に過ごしただけでこれだ。
いや、むしろ百年離れていたことで、その反動が来たのだろうか。
以前よりもずっと、椛のことを愛おしく感じる。
触れることが当たり前だった頃は、触れることがここまで胸を満たすものだと意識したことは無かった。
当たり前が当たり前ではなくなること。
それが、本当に大切なものに気づく方法。
かといって、二度と離れ離れになるつもりはないが。

「……足音」

まだ遠いが、誰かが廊下を歩く音が聞こえる。
そろそろ椛が戻ってきてもおかしくないころだし、きっとこれは椛の足音だろう。
そうに決まっている、でなければ困る。
甘えざかりな私にとっては、期待の空振りほど辛いものは無いのだから。
足音は病室の前で止まり、その後すぐにドアノブがひねられた。
そして開いたドアの向こうから現したのは、やはり椛で。

「おかえり」

椛が”ただいま”と言うより早くそう言った。
すると椛は少し不満気な顔をしながら、

「私が先に言うはずだったのに」

と言って、その後すぐに笑った。
競い合いをしているつもりはないが、些細な事でも楽しめるのならこういうのも悪く無い。
他人から見ればこれも、”いちゃついている”範疇に入るのだろうか。

「ただいま戻りました、文さま」

椛は改めて言うと、荷物をベッドの脇に置き、その傍にある椅子に腰掛ける。
座った椛は軽く部屋を見回すと、増えた荷物を見つけて私に問いかけた。

「にとりとはたてが来てたんですね」
「ええ、今日も仲良さそうだったわ」
「近頃は特にそうみたいですね、早くくっついちゃえばいいのに」
「同感ね、いつまでもただの友達で居るつもりなのかしら」

とっくにやってることは恋人同士だと思うのだが、はたてはどうしても素直に慣れない性格らしい。
一時期は引きこもっていたこともあったので、相手との関係と距離感の相関がいまいち掴めていないのかもしれない。
にとりはすっかりその気だというのに、保護者のような立ち位置でもあるからか、中々自分から強引に手を出そうとはしない。
とは言え、それを正確に掴めている妖怪など、山中探しても居るかは怪しいものだが。
正しい距離感なんて、私にだってわからないのだから。

「ねえ、椛」
「どうしました、文さま」
「呼んでみただけって言ったら、怒る?」
「怒るわけないじゃないですか、文さまなら名前を呼ばれるだけでも幸せです」

椛は優しく微笑みながらそう言った。
その言葉の真偽など、疑うまでもない。
私が思うに、名前を呼びあうだけで幸せになることが出来る状態こそが、恋人として最も理想的な状態だと思うのだ。
名前を呼ぶだけで幸せなら、愛の言葉を囁やけば、その手に触れれば、抱きしめれば、どれだけ私は彼女を幸せに出来るのだろう。
彼女が幸せになるだけで、私は幸せになれる。
つまり今の私はこの上ないほど幸せだった。
この時間を過ごすために、どれほどの苦痛を味わってきたことか。
私は忌々しき過去の日々を精算しなければならない、そのためには――

「文さま、もしかして何か隠し事してます?」

さすが私の椛、鋭い。
椛が私に隠し事なんて出来ないように、その逆も然り。
バレてしまっては仕方ない、全部話してしまおう。

「悩み事があるのなら言ってください。私に隠し事は嫌ですよ」
「悩みなら沢山あるわ、下らないことから大事なことまで」
「全部聞きます、私は文さまのこと全部知ってなきゃいけないんですから」

そうそう、これだ。
椛は従順な子ではあったけれど、それだけじゃなかった。
私に関することになると程よくわがままで、時折強引で。
だからこそ、椛も私を愛してくれていると自信を持つことが出来た。
なのに――

「それじゃあ一つ目は軽めの悩みで行こうかな。
 ここ一週間ね、ずっと考えてたんだけど……」

百年分の努力は確かに報われた。
私の撮った写真は役に立ったし、結果的に椛を取り戻すことはできた、はずなのだが。

「ほら、診療所で大天狗二人とやりあってた時も、私って眠ってたわけじゃない?
 だからあんまり活躍した気がしないのよね」

軽めの悩みとは言ったが、割と本気で悩んでいる。
どうせならもっと派手な活躍をしたかったと言うか、本音を言えば愛宕をもっと殴りたかっただけでもあるのだが。
その役割は椛が果たしてくれたようだし、いまさら彼を殴るつもりはないが、ほんの少しだけ、不完全燃焼な部分があるのは否めない。

「……?」

私の悩みを聞いた椛は、首をかしげるだけで何も言ってはくれなかった。
その動きを言葉にするのなら、”何を言っているんですか文さま”と言った所だろうか。

「文さまは、私を助けてくれたじゃないですか」
「あれも、本当ならもっとうまく助けられたはずなのにって思ってたのよ」
「あれは……私のせいですから」

椛は基本的に私の言葉を疑わない。
私の指示には絶対に従う。
それでも、ここ一週間、何度言っても自分が悪いという主張だけは曲げなかった。
これが、私の二つ目の悩み。
一つ目とは違ってちょっと重めの、簡単には解決出来そうに無い物である。
椛が今も私と少し距離をとっているのは、それが原因では無いかと思っている。
他人から見れば今でも十分近い距離なのかもしれないが、椛に関してはまだまだと言い切れる自信がある。
今だってそうだ、椛が本気を出せば、椅子に座らずに同じベッドに入り込もうとするはずなのだから。
それどころか、”くっついているだけじゃ足りません、ちゃんと抱きしめてください”と言ってくるかもしれない。
それでこそ、私の知る犬走椛。
だがこればかりは私一人では解決しようもない、椛の問題なのだから。
しかし、そのための方法はすでに用意している。

「自分を責めるなって言っても聞いてくれないの?」
「ダメです、どんなに文さまが私を許しても、私は私を許せません。
 ちゃんとした罰が与えられるまで、絶対に。
 だって、今でも消えてくれないんですよ? 文さまを刺した時の、あの感触が……」

罰が無ければ許されない。
けれど罰を与えるべき私は、椛を傷つけることはできない。
そもそも、私が椛に与えることが出来る物なんて限られている。
一つか、せいぜい二つぐらいのもので。
だったら、私は私にしか出来ないことをするべきだ。
いかに罰を与えるのではなく、いかに罪を忘れさせられるかを。

「だったらこうしましょう、今から椛に罰を与えるわ」

言ってる側から矛盾しているようにも思えるが、椛だってわかっている。

「期待出来なさそうですね」

そう、私に椛を傷つけることなどできるわけがないのだ。
でも思ったより辛辣な答えが帰ってきた。
思わず心が折れそうになったが、くじけずに、説明を続ける。

「椛には私の命令を聞いてもらうわ。
 何があっても絶対服従、どんなに嫌なことでも逆らってはならない」
「いつもと何も変わりませんよ? 私は文さまの言葉には逆らいませんから」
「……それもそうね」

作戦崩壊、我ながら見通しが甘すぎた。 
自分で椛は従順だって言ってたはずなのに、どうしてさっきまでの私は”完璧な作戦だ!”とか自信満々で居られたんだろう。
だが、重要なのは命令を聞いてもらうことではない、ここは多少強引にでも台本通りにシナリオを進めなければ。

「だったら罰とかどうでもいいから、今からしばらく私の命令通りに動くこと。
 絶対に逆らっちゃだめよ?」
「もしかして、文さま何か企んでます?」
「企んでるといえば企んでるわ。
 まあいいから、まずはベッドの隣にある棚の一番上の引き出しを開けてみてよ」
「はいはい、わかりました」

椛は少し呆れ気味に、それでも私の言葉に従って引き出しに手を伸ばした。
今のところ、どうやら椛には私の緊張は気取られていないようだ。
いや、本当は気付かれているのかもしれないが、私が何を企んでいるのかまでは気づいていないはず。
果たしてこのまま、最後まで上手く出来るだろうか。
――実を言うと、私の抱えている悩みのほとんどは、大雑把に言えば”今日の計画がうまくいくかどうか”と言う一つに集約できてしまう。
その他の細々とした悩みは、それに関連して生まれた枝葉のような物なのだ。
目を覚ましてから、椛はずっと私の近くに寄り添ってくれた。
もはや殺意を向けられることもなければ、私が他人行儀に敬語を使う必要もない。
満たされる。
幸福で、頭も胸も全身が、溺れてしまいそうな程に満たされていく。
それでも、まだ足りないと囁く、強欲な私が居た。
違和感があったのだ。
確かに今までよりも近い、けれど椛はまだ完全に私に心を開いてくれたわけではないのではないか、と。
以前の椛であれば、部屋に入ってきて椅子に座ったりはしない。
迷いなく私のベッドに乗り込むと、隣で一緒に寝ようとするはずだった。
そのレベルの甘えん坊だったのである。
やはり椛の抱く罪悪感が、私たちの距離を離している。
しかし強情な椛のことだから、私がどう説得しようと罪悪感を消すのは無理だと判断した。
消すのが無理なら、どうする?

「小さな箱が入ってますね」
「それを取って」
「わかりました」

引き出しの中から手のひらに乗るサイズの木箱を取り出すと、私の前に差し出す。
私は思わずくすりと笑った。

「どうしてそこで笑うんです? 取って欲しかったんじゃ……」
「ううん、それは椛にあげるものだから」
「私に?」

椛は不思議そうに箱を眺めている。
軽い箱だけど、その箱には重さ以上の重みがある。
私の百年間。
一度だって、これの存在を忘れたことなんて無かった。
膨らむ期待、止まらない想像、あるいは妄想。
そして転落。
絶望、後悔、渇望。
百年分の私の想いが、詰まっている。
これは椛の罪悪感を上書きするための作戦であり、私の百年を精算するための儀式でもあった。

「この箱、何が入ってるんです?」
「開けてみて」

全く中身の想像がつかない椛は、迷うことなく、あっさりと箱の蓋を開いた。
百年前も一度も話したことは無かったから、きっと想像もしていなかっただろう。
目の前に現れたそれを見て、椛は口を開けたまま固まってしまった。
予想以上のリアクションに、思わず私はほくそ笑む。
それぐらい驚いてくれないと困る、ずっと待ち続けてきた瞬間なのだから。

「……文さま」

椛はゆっくりと箱から私の方へと視線を映すと、震える声でそう言った。
最初から失敗なんてありえないとは思っていが、それでもほんの少しの恐怖はあって。
その恐怖が、椛の声を聞いた瞬間に完全に弾けて消えた。
杞憂だったのだと、それまでの自分を指差して笑ってやりたい気分だった。
そうだ、だって椛なのだから、私の椛なのだから。
信じる理由なんて、それだけで十分だ。
どれだけ愛してきたか。
どれだけ愛されてきたか。
むしろ遅いぐらいだった、どうしてもっと早くそうしなかったのかと何度自分を呪ったことか。

「こんなの、駄目ですよ……駄目、なんです」

言いながら、椛の瞳が涙で潤み始める。
声だけじゃない、何かを堪えるようにきつく結んだ唇も震わせている。
それは罪悪感と歓喜のせめぎあい、未だ上書きするには至っていない。
けれど椛の苦悩も、あと少しで終わる。

「なんで、わたし……だめ、なのに……っ、駄目だってわかってるのにぃっ」

椛の意思と関係なしに、唇が緩み、頬が綻んでいく。
その罪悪感は、所詮理屈に過ぎない。
私もそうだった。
結局のところ、土壇場では本音が理屈を凌駕する。

「文さまが、悪いんですからね?」
「そうね、ぜーんぶ私が悪いわ」
「はい、悪いのは……文さまなんです。
 だって、だって私、本当はもっと謝らなくちゃだめで、償わなくちゃ許されなくって。
 刺したんですよ!? 文さまを、大事な、大事な、私の、私だけの文さまを……っ!
 文さまが居なくちゃ生きていけないくせに、結局自分を刺したようなものなんです!
 痛くて、苦しくて……でも文さまはもっともっと辛かったはずなのに、なのにっ……。
 それを……それを、それをぉ……っ」

椛の潤んでいた瞳から涙がこぼれ始め、頬を伝い零れ落ちた。
頬に触れ指で拭っても、拭った側からまた溢れだす。
無意味だとはわかっていたが、それでも続けずにはいられなかった。
手を流れる涙の感触がなぜだか心地よくて。
それに退かそうにも、椛に上から手を重ねられてしまったから、もう逃げられそうにない。

罪悪感で苦しむことが正しいのか、償いなんて捨てて幸せになるのが間違っているのか。
一般的に責任を放棄するのは悪と言われている。
だとすると椛が言った通り、私が悪で間違っては居ないのだろう。
だが、私は間違った幸福と正しい不幸なら、前者を選ぶべきだと考えている。
いや、今回の一件でそう考えるようになった。
罪悪感とか、相手の幸せのためにー、とか――ああ、下らない、本当に下らない。
椛を取り戻してから、私は今までの百年間がどれほど不毛な物だったのか思い知った。
例えこれが椛を悪の道に引き込む行為だとしても、私は自分の行いを間違いだとは思わない。
だってほら、見るからに明らかなのだから。
潤んだ瞳で私を見つめる彼女は、今はもう、間違いなく笑っていて――

「指輪、なんて、見せられたらっ……私は……自分が、抑えられなくなるじゃないですかぁっ」

そう言って、ベッドの上の私の胸に飛び込んできた。
私も両手を広げて待ち構え、椛の体を受け止める。
かかる体重で傷口が微かに痛んだが、大した問題じゃない。
まだまだ傷が治ってない段階でもっと痛い目を見たのだから、それに比べれば。

「はあぁ……文さま、文さまぁっ……」

よほど今まで我慢してきたのか、私に抱きついた椛は頬ずりしながら、何度も何度も私の名前を呼んだ。
私もこうして抱き合うのは久々だったら嬉しい。
嬉しい……の、だが。

「こら椛、抱きつく前に大事なことを忘れてない?」
「大事なこと……文さまより大事なことですか? そんなのありません!」

可愛いのだが、甘えると急に駄犬になる所は昔から変わっていないらしい。
まさか自分の手に持ってるものの存在すら忘れるとは。

「私に関することで大事な事があるでしょう?」
「文さまに関することで……はっ、指輪!」
「そう、指輪。
 私が指輪を渡したってことは、どういう意味かわかるわよね」
「……いいんですか、私で」

良いとか悪いとかの問題ではない。
どうやら椛はすっかり忘れているようだが、まだ私の罰は続いているのだ。
私の命令には絶対服従という、罰にもならない罰が。

「これはお願いじゃないの、命令よ」

頬に手を当てて、諭すように言った。
椛は「ほぅ」と熱い吐息を漏らして、小さく首を縦に振った。
その目は陶酔したように、とろんとしている。

「私と結婚しなさい。
 一生、私の隣で、私のためだけに生きるの。いい?」

私の横暴な要求にも、椛は笑顔を崩さなかった。
むしろ陶酔の度合いがさらに深くなったほどで、私に命令されて喜んでいるようにも見える。

「……はい」
「ふふ、一生のことをそんなに簡単に決めてしまってもいいのかしら?
 結婚した途端、急に亭主関白になるかもしれないわよ」
「命令、なんですよね?」
「そうよ、命令。どうせ断ったって無理やり攫うつもり居たわ」
「だったら聞かないでくださいよぅ。
 それに私は……文さまが私を求めてくれるのなら、全てを受け入れます。
 心でも、体でも、命でも、魂でも、ありとあらゆる何もかもを差し出すことを、躊躇ったりはしません。
 むしろ亭主関白になってください、そして私を束縛してください。
 もう二度と、文さま以外の誰かに触れられないように。
 もう二度と、文さま以外が見えなくなるように」

椛が縛られることを望んでいるのなら、もっと早くこうしておくべきだった。
なまじ彼女のことを思いやるあまりに、私は椛を束縛することを恐れてしまった。
それが間違いだった。
ずっと、彼女が小さい頃から、その人生を縛ってきたっていうのに、何をいまさら。

「本当に束縛するから、覚悟しときなさいよ」
「覚悟が必要なほど束縛してくれるなんて、やっぱり文さまは素敵です」

そして私は頬から手を離すと、椛から指輪の箱を受け取った。
箱の中では、百年前に買った指輪――それを河童の技術で磨き直した物が、眩く煌めいている。
当時の私としてはかなり無理をして買った代物で、今でもこの指輪を買うには給料三ヶ月分では足りないぐらいだ。
だから、指輪を持ち上げる私の手が震えてしまうのも仕方のないこと。
だというのに、私の気も知らずに椛は肩を震わせている。

「笑うなっての」
「だ、だって……くふ、ごめんなさい……っ」

椛の額を小突いても、笑うのをやめようとしない。
全く、大事な場面ぐらいはカッコつけたかったのだが、どうやら真面目なシーンを演じるには私たちはお互いを知りすぎているようだ。
むしろ私の方が、気負いすぎていたのかもしれない。

「ほら、左手を出しなさい」

私が手を差し出してそう促すと、椛は素直に手を重ねた。

「あ、文さま今お手してるみたいだって思ったでしょ」

……考えても居なかった。
言われてみればまさにその通りで、椛の尻尾がぶんぶん触れてるせいで余計に飼い主とよく懐いたペットのように見えてしまう。
ただでさえ格好つかないと嘆いていた所だというのに、更に追い打ちをかけてどうするんだ。

「……まさか、思ってなかったんですか?」
「自滅してどうするのよ」
「う、うぅ……」
「ふふ、もー本当に可愛い子ねえ椛は」

頭を撫でてやりたい所だったが、あいにく両手がふさがっているのでそれは叶わなかった。

「お望みだったら指輪だけじゃなくて首輪だって買ってあげるわよ」
「いじわるです、文さまは」
「そりゃそうよ、だって私は射命丸文だもの」
「それでも好きです」
「そりゃそうよ、だってあなたは犬走椛だもの」

疑う余地も無いほどに、それが”私たち”という生き物だった。
そっか、そうだったんだ、違和感は椛だけにあったわけじゃない。
甘ったるい愛の言葉なんかを、わざわざ頭で考えてる私もおかしかったんだ。
そういうのって、自然と溢れだすものだったはずだった。
考えないと出てこない私の方がずっとおかしかった。
でも、もう大丈夫。
思わず苦笑いしてしまうようなやり取りが、いつかの私を思い出させてくれたから。

「ずっとこんな風に、下らないことで笑って生きていけたらいいわね」
「文さまのいじわるは死んでも治りそうにありませんから、心配するまでも無いですね」

私は椛の薬指に指輪をはめた。
ロマンスの欠片もない、あの頃と変わらないやり取りをしながら。

「入っちゃいましたね、文さま」

椛は、薬指の指輪を見てにやけている。

「入っちゃったわね、椛」

私もその指輪をみると、思わずにやけてしまう。
儀式は終わった。
胸につっかえていたものが、すぅっと消えていくような気がした。

「もう取り返しはつかないわよ、本当の本当に、冗談じゃ済まないぐらい束縛してやるんだから」
「例えばどんな風に束縛してくれるんです?」

そう言われると困る。
束縛するとは言ってみたものの、具体的にどうするのか考えていなかったのだから。
一応、退院したらやりたいことをいくつか考えては居たのだが、それが束縛するうちに入るかどうかと言われると微妙な所で。
でも、まあ、とりあえず言うだけ言っておこう。

「まずは……そうね、退院したら一緒に暮らしましょう」
「わかりました、今の家を引き払う準備をしておきますね」

即答である。

「その程度のことは予測済みですから、まだまだあるんですよね?」
「だったら、忙しい隊長職を辞めるってのはどう?
 仕事より私のことを優先してもらわないとね」
「ああ、それだったら――もう辞めてますよ」
「……は?」

こちらも即答、それも予想外の答えが帰ってきた。
椛は確かに、もう辞めていると言った。
愛宕を殴った件で処分が下ったのだろうか、もう一週間経っているし可能性は十分にある。
だが、あの一件が椛の仕業であるということは、ごく一部の天狗しか知らなかったはず。
なのに椛に処分が下るというのはどうにも違和感がある。

「私から辞めたんです。
 もう必要のない肩書きでしたから、背負ってたって重たいだけじゃないですか」
「そっか……そう、よね」

私を見返すために手に入れた地位だったというのなら、私とよりを戻した以上、必要は無くなる。
以前の私なら、椛に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになったのかもしれない。
だが今の指輪を渡した私なら、動じることはない。
むしろその事実を素直に喜ぶ事が出来た。

「ほらほら、まだ他にあるんじゃないですか?
 私はもっと束縛されないと満足できませんよ」

椛の想いは私の想像の遥か上を言っていて、正直言ってこれ以上のネタは用意できそうにない。
でも旦那さんとして素直に負けを認めるのは尺なので、この話題を強引に締めることにした。
椛の背中に腕を回し、その体を引き寄せる。

「だったら、今日は一日このままでいなさい。
 一瞬たりとも私から離れることは許さないわ」
「……文さま、逃げましたね?」

もちろん椛にはすぐにバレる。
だが他にやりようがないのだから、開き直ってこのまま逃げ切るつもりだ。

「逃げてないわよ、これだって立派な束縛だもの」
「言われなくたってそうしましたよ、私だって一瞬たりとも文さまから離れたくなかったんですから。
 今の私が文さまから離れたら、きっと呼吸困難で倒れちゃいますからね」
「その時は人工呼吸で助けてあげるわ」
「人工呼吸もいいですけど、その時が来なくたって唇は塞いでくださいね?」

椛が挑発的に笑うので、私は我慢できなくなって唇を重ねた。
軽く触れ合わせるだけのバードキスを、一回、二回。

「はふぅ……」

椛は頬を染めながら、満足気に吐息を漏らした。
私もそんな椛を見て満足感に浸っていたのだが……ふと気づく。
あ、これ百年ぶりのキスじゃん――と。

「あっさり終わっちゃいましたね」
「ふふふ、そうね」

色々考えてたはずなのだが。
プロポーズと一緒で、結局は本能の欲求には逆らえないらしい。

「百年ぶりのキスはどうしようって色々考えてたんですけど。
 ……こっちの方が私たちらしくて、好きです」

でも結果オーライということで。
どうせ、今日一日で、一度目がどれだったのかわからないぐらい繰り返すことになるのだから。
そんなことを考えながら、私は椛の顎に手を添えて、唇を寄せるのであった。





……………





文に指輪を渡し家に戻ってきた私たちは、二人して居間でだらりと寛いでいた。
あの指輪、文が意識を取り戻した二日後ぐらいに預かったものだったんだけど、最初に”どうにかして河童の技術で綺麗にできないか”って頼まれた時はまあ驚いた。
いずれは指輪を渡してプロポーズするんじゃないかとは思ってたけど、まさか目を覚まして二日目にやるとは思ってなかったから。
ほんと二人の想いの強さっていうか、そういうのを見せつけられた感じ。
預かった指輪は、百年間手入れを怠らなかったおかげかそこそこ綺麗な状態を保ってたんだけど、新品と呼ぶには少し無理のある状態だった。
これを元通りなんて、さすがに河童でも無理だろうと思ってたんだけどな。
にとりの知り合いに頼んだら、あっさり数日で元通り以上にピカピカにして見せるんだもん、そりゃ驚いたわ。
今頃、文は椛にプロポーズしてるんだろうか。

「結婚かー……」
「何、羨ましいと思った?」
「羨ましいとかそれ以前の問題よ、実際にどうなるのか見てないんだし、そもそもあの二人女同士だし。
 でも、好きな人と一生を誓おうって決意する瞬間がどんな気持ちなのか、少し気になっちゃって」
「気持ちを理解するためにも、私で練習してみる?」
「遠慮しとく、嫌な予感がするから」
「……鋭くなったねぇ、はたて」

にとりはしみじみしながら言った。
あんたは前より素直になったと思う、悪い意味で。
でも、もし私がプロポーズするとしたら……たぶん相手は、にとりなんだろうな。
それ以外の相手に心当たりなんて無いし、にとり以上の運命の出会いなんてあるわけがないんだから。
診療所の時だってそうだった。
にとりはいつだって私を闇の中から救い出してくれる。
結果的には勝つことはできなかったけど、にとりが居なかったら私、今頃とっくに殺されてただろうから。

「んー、どうしたの私の方をじっと見ちゃって。
 惚れた? いいや、惚れなおした?」
「なんでわざわざ言い直すのよ」

確かににとりの言う通り、惚れなおしたの方がニュアンスは正しいんだろうけど。
でもなんか顔がムカつくから、そっけない対応で返すことにした。

「出た、ツンデレはたて」
「デレてませんー!」
「いーやデレてるね、わたしゃわかってるんだからね?
 あの夜、はたてを助けに来た私を見て、きゅんと来ちゃったんでしょ?」

それは事実なんだけど、だからそういう言い方されると認めたくなくなるんだってば!
まあ、でも……今日の所はにとりが言う所の”ツン”な私を飲み込んでおこうと思う。
あれから色々あって、忙しくて、あらたまってにとりと話す機会なんて無かったから。
一度、きちんとお礼を言わなくちゃならないと思ってた。

「きゅんと来たかは別としてさ……その、ありがとね」
「ん?」
「助けてくれて、本当に嬉しかった。
 この前のことだけじゃなくて、今までもずっと、私を部屋から引っ張りだしてくれた時だってそう。
 沢山――数えきれないぐらい、にとりには感謝してるから、さ」

到底この程度で感謝の気持ちを表しきれてるとは思えないけど、それでも言わずには居られなかった。

「お、おう……急にそういうこと言われちゃうと、なんか照れちゃうね」
 
にとりってば、実はストレートな感情表現に弱いんだよね。
知ってる、前にも一回、それで恥ずかしがってるにとりを見たことあるから。
根っこは素直で優しいんだよね。
そこにお調子者の皮を被せてるだけで、だから私みたいな暗くて性格悪くて何の取り柄もない天狗を助けちゃうんだ。

「あー、なんか顔が熱くなってきちゃった」
「ご、ごめんね、急にこんなこと言って」
「謝んないでよ、はたての本音が聞けて、これでも嬉しいんだから。
 ただちょっとばかし恥ずかしいだけで……あはは」

私も私で素直にお礼を言うのが恥ずかしくて、顔が真っ赤になっていた。
二人して赤面して、露骨に目を合わせないようにしてる間に、どんどん変な空気になっていく。
どうして私たちが普段から素直になれないのかと言うと、こうなることを知ってるからであって。
たまには悪く無いとは思うけど、やっぱり居心地はあんまり良くないかなって。

「あ、そうだ」

どうにか状況を打破できないかと考えていると、にとりがわざとらしく手を叩く。
まさに今、何らかの妙案を考えついたかのように。
きっとにとりも私と同じで、なんとか空気を変えられないかと、その方法を探してたんだと思う。
やっぱ頭の回転だと、私よりにとりの方がずっと上だよね。
普段はお調子者だけど、とんでもない発明を作れるだけの頭脳はあるんだから。
それがまともな方向に活かされないのが、河童が河童である所以なんだけどね。

「はたては、私に感謝してるんだよね?」
「うん、そうだけど」
「感謝してるってことは、私に何らかの見返りが無いとおかしいよね?」
「……んん?」

果たしてその理論が正しいのか、私にはあまりよくわからない。
世の中にはボランティア精神という言葉があって、無償の奉仕が存在しないわけじゃないんだけど。
でもにとりが私にやってくれたことは、ボランティアと呼ぶにはあまりに偉大で、文字通り私の人生を変えてしまったわけだし。
求められれば、拒むわけにもいかない、のかな。

「というわけで、私ははたてに対するボディタッチ権を要求します!」
「えぇー……」

何が”というわけで”だ、やけに鼻息荒いと思ったらそういうことか。
いや、確かに変な空気は消えたけどさ、もっとうまいやり方あったんじゃないの?

「ルール1ッ」
「え、ちょっと待って、私に拒否権は無いの!?」
「ありません。
 ルール1、私ははたての体の好きな部位に一度だけ触ることができるっ!」

本気で拒否権は無いで押し通すつもりか、このエロ河童め。
それぐらいされてもいいって思える程度には、にとりには助けられてるけどさ。
でもやっぱり、こういうのってお互いの気持ちが大切だと思うのよね。

「ルール2、はたての体に触れる私の部位は、手や足、口でも良いこととする!」
「手や足はともかく口って何よ、何をするつもりなのよ!?」

急に変態プレイの可能性が浮上してきた。
ファーストキスを奪うつもりなのか、それとも口じゃ言えないような部分に触れるつもりなのか、そうなのか。
いくら触れるのが一回とはいえ、どこに触れるか知んないけど、何から何まで私は初体験なわけで。
ねえにとり、本当にそんなのでいいの?
エロスには愛があるべきだって熱弁してたあの時のにとりはどこに行ってしまったの!?
いやエロスを認めたわけじゃないけど、でもどうせなら、ほら、ね?

「ルール3、はたては私が触れるまで目を開けてはならない!」
「にとり、私たちにはまだそういうのは早いと思うんだけど――」
「さあ、じゃあはじめようか!」
「話を聞けー!」

今日のにとりはいつになく強引だった。
このまま押し通せば私が折れるとでも思っているんだろうか。
言っとくけど、私はそんなに甘く無いんだからね。
確かに今までは好き勝手されてきたけど、駄目な時は駄目だってちゃんと言える意思の強い女なんだから。
さあ抵抗するのよ私、今日こそはびしっと、にとりの横暴を止めて見せなさい!
…………。
……。
…。

「さあ、準備完了! 私が触るまで目を開けちゃ駄目だからね?」

折れました。
十秒ぐらいで勢いに押し切られて、そりゃもうあっさりと。
わかってたのよ、心のどこかでちょっと期待しちゃってる自分が居たあたりで、ああ断れないんだろうなってわかってたんだけど。
でも、自分でもまさかちょろいとは思わなかった。

「本当に、触るの?」
「ここまで来といて何言ってるのさ、大丈夫すぐに終わるから」
「でも……」
「えー、はたては私に感謝してるんじゃないのぉ?」
「くっ、このゲスめっ! わかった、わかったわよ、好きなだけ触ればいいじゃない!」
「好きなだけ良いの?」
「もちろん一回よ!」

おっかしいなあ、ほんの一週間か二週間前ぐらいまではもう少しガードが硬かった気がしたんだけど。
やっぱあれかな、愛宕様から助けてもらったのが効いてるのかな。
あの時は一瞬とはいえ、”きゃー! にとりカッコいい! 抱いて!”って気分になっちゃったぐらいだし。
気分が冷めた今でも、元の温度には戻れなくて。
そうやって少しずつ、私の心は熱を帯びていく。後戻りできなくなっていく。

「ふ、ふふふ、げへへへへ、お嬢ちゃんええ体してまんなぁ……」

あ、でも今のでちょっと冷めたかも。
口調が気持ち悪いし、鼻息の音がこの距離でも聞こえるぐらいに荒い。
さぞ下品な顔してるんだろうし、ある意味で目を開けてなくてよかったのかもしれない。

「じゃ、じゃあ……触る、からね?」

急に口調が変わって、緊張した雰囲気に。
相変わらず鼻息は荒いままだけど、自分で言い出したくせに緊張するってどういうことなのよ。
今までだってさんざんセクハラしてきたり、同じ布団で寝たり、一緒にお風呂に入ったりしてきたくせに。
そうよ、裸だって見られてるんだから、一回触られるぐらいどうってこと無いはず。
無いはず……なのに、なぜか私も釣られて緊張してる。心臓がバクバク言ってる。
視界が真っ暗なせいもあるのかな、やけに感覚が研ぎ澄まされている感じがする。

「……」

そしてついに、にとりは黙りこんでしまった。
ごくりと、生唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。
その緊張感がやけに生々しくて、私の心を大きく揺さぶる。
不安で全身がじとりと汗ばむ。
せいぜい胸や太ももを触られるだけだと思ってたけど、本当はもっと変なことをしようとしてるんじゃないかって。
にとりだし、きっと私が傷つくようなことはしないって信じてる、けど。
興奮してる時のにとりって、何やらかすかわかんないしなぁ……。
視界を失い、変わりに敏感になった聴覚が、布がこすれる音を捉える。
にとりが動いた。
体の一部が近づいてきている、これは手だろうか。
手から放たれる熱が、私の頬から首にかけての肌をなぞるように移動する。
触れられていないのに、触れられているかのような錯覚。
首すじを舐めるように動く熱がくすぐったくて、思わず「ん……」と声を出して体をよじった。
熱は体の下へとさらに降りていく。
服越しにはその熱は感じられない、胸元まで降りてきたあたりで私はにとりの現在位置を見失った。

「は、早く……ちょっと怖いから、触るなら早くしてよぉ」
「わかった、ごめんね」

先ほどまでの緊張とは裏腹に、にとりの声はやけに冷静だった。
覚悟を決めたのかもしれない。
私は恐怖を誤魔化すように、目を強く閉じ、唇に力を込めて一文字に結んだ。
そしてついに、にとりが、私の体に触れる。

「あ……」

警戒していた場所のどこでもない。
胸も、太ももも、うなじとか鎖骨とか、そんなフェティッシュな選択でもなくて。
にとりが触れたのは――私の頭だった。
優しく、柔らかに、頭を撫でている。
いつか文が、椛にそうしていたように。
違う。
それよりもずっと昔に、にとりが、私にそうしてくれたように。
私はにとりの手によって、初めて世界に光があることを知った。
悪意の黒で塗りつぶされた私の世界に、初めて一粒の白が現れた日。
思わず我慢できずに目を開けると、そこには私を連れ出してくれたあの日と変わらない、にとりの笑顔があった。

「今回はよくがんばったね、はたて」

その笑顔と言葉は、私の胸の奥の奥まで、自分でも驚くほど簡単に入り込んできた。
私がガードしようとしていたのは全く別の場所だったから、油断して、必要以上に染みこんでしまった。

「どう、して」

いつもの私だったら、照れ隠しで顔を真っ赤にして喚いていた所だった。
けど今の私には、それすらできない。
途切れ途切れの言葉を一つ発するだけで精一杯。

「友達なんて要らない、絶対に一人で生きていくとか言ってたあのはたてが、自分の意志で友達を救ったんだよ?
 結果はどうであれ始めただけでも快挙なのに、しかも見事に成功させてみせた。
 これで褒めてあげなくちゃ嘘じゃないか」
「それで、頭を?」
「うん、椛を見て羨ましそうにしてたからね。
 上手く行ったみたいでよかった、直前でバレやしないかってヒヤヒヤ物だったよ」

は、はは、敵わないなあ。
にとりはいつだって私のことを見てくれていた。
どんな微かな兆候も見逃さずに、望んだ言葉を、行動を、的確に与えてくれる。
いつもだったら”卑怯だ”って罵ってる所だけど、今回は素直に負けを認めるしかない。

――勝てない。

にとりは私以上に私のことをよく知っていて、頭だって良くて、行動力もあって。

――勝てるわけがない。

私はたぶん、にとりにこのまま、一生翻弄され続けるんだろうな。

――勝ちたくも、無い。

手のひらの上で踊らされて、死ぬほど恥ずかしい思いをして、そうやって生きてくんだ。
私が恥ずかしがる度ににとりは楽しそうに笑って、やめろって言ってもやめてくれなくて。
そのくせ、本当に嫌なことは絶対にやろうとしなくて。
酷いやつだ、にとりと居る限り、私の日常に平穏は絶対に訪れない。

――ああ、なんて、なんて、幸福な人生なんだろう。

好きな人と一生を誓う瞬間、文や椛がどんな気持ちだったのか、私にはわからない。
きっと考えたって永遠にわからないと思う。
だって私たちは違う妖怪なんだもの。
違う出会い方をして、違う日々を過ごして、だったらその結末が違うのは当然のことだから。
ただ、一つだけはっきりと言えることがあるとするならば。

私にとってのその瞬間は、今、だった。

心は、かつて無いほどに熱を帯びていた。
溶けて原型を失ってしまいそうな程に。
どろどろに溶けた後は、にとりの作った型にはめられて、熱を失った頃には新しい形に変わってしまう。
そう、にとりにとって都合のいい、私の形に。

「んー、はたてったらそんな熱っぽい目で私を見ちゃってどうしたの?」
「なんでもない」
「今度こそデレちゃってたりして」
「デレてないし、惚れてもいません。
 なんでもないったらなんでもないの!」

きっとにとりは気づいている。
だって今の私を作ったのはにとりなんだもん、気持ちの変化に気付かないわけがない。
それでも、まあいいかなって。
今はまだ、素直なれない私と、それをからかうにとりって言う、微妙な関係を楽しむのもアリなんじゃないかって。
だって、こんな関係を楽しめるのって、今だけだから。
ステップアップは後の楽しみとして、少しずつ消化していくとして。
今はまだ、河城はたてって名前を想像しながら、一人悶えるぐらいで留めておこうと思う。




「どうも、射命丸椛です」
「……うん」
「射命丸椛です」
「だから、何?」
「射命丸椛なんです」
「まさか……それを言うためだけに遊びに来たの?」
「もちろん! 文さまと私の愛をはたてにも知ってもらわないとと思って」
「そ、そうなんだ……」
「どうも、私が姫海棠にとりです」
「あんたは便乗しなくていいから!」
「これはこれはどうも、射命丸椛です」
「椛も乗っからないでよー!」
kiki
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コメント



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1.90柊屋削除
私的ににとりのボディータッチ権で結婚指輪を渡して欲しかった……
ともかく、楽しませてもらいました! 後日談なんかも読みたいです!
3.100名前が無い程度の能力削除
はたての立ち回りが勇敢でとてもカッコ良く、にとりの前ではデレッデレなのが素晴らしいです。
あや様に蕩けきった椛も最高に可愛くて、100年のすれ違いを思うともっと幸せになってほしいです。そして、その後の甘々な2人のお話をもっと見てみたいです。もちろんにとはたの2人の今後も。

みんなカッコ良くて、とても面白かったです!
6.100名前が無い程度の能力削除
主役とその周りは勿論、大天狗の二人もこれからどう立ち直るのかと想像してしまう程に魅力的な作品でした
9.100春頭削除
これはいいあやもみ文に噛みつく椛と文にデレデレの椛、両方をこう展開することで描くとは……脱帽です