Coolier - 新生・東方創想話

愛するあなたに全てをゆだねて

2016/08/04 21:55:36
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※一部グロ描写あり



 その日は満月の綺麗な晩だった。
 人里に住む上白沢慧音は月の光を受けて妖怪の姿となり、埋もれてしまった幻想郷の歴史を掘り返し編纂作業を行っていた。
 巻物が開かれた机の前で座し虫の囁きを聞きながら筆を動かす。
 妖怪となった赤い瞳は目の前を見ておらず、歴史という曖昧な存在を見据えていた。

 知覚した歴史を巻物の上に並べて整理する、地道な作業の繰り返しに辟易としてきたころ、玄関の戸を叩く音が響いた。
 慧音の知人の多くは満月の日には気を使って訪ねないのだが、もしや緊急の用事かと角の生えた姿のまま玄関の取っ手に手をかけた。
 しかし地道な作業に苛立ってきた頭に、これが下らない案件だったならという考えがよぎり、もしそうだったら憂さ晴らしに頭突きの一発はくれてやろうと決心して扉を開ける。
 だがそこに立っていたのは里の者ではなく、寒くもないのに長袖の服と緋いマフラーを身につけた、蒼い髪の少女だった。

「あなたが、半妖の上白沢慧音さんですね」

 少女は天人の比那名居天子と名乗った。
 その名を聞いて慧音の身体に緊張が走る。
 慧音は異変の多くは歴史の編纂を通して知り得ているし、それ以外でも可能な限り情報を集め何があったのか確認している、その中で彼女の名もすでに知っていた。
 曰く、退屈しのぎに博麗の巫女を敵に回した重度の暇人。あげく博麗神社に手を出し、あの妖怪の賢者まで出張ってきて直接叩きのめされるという限度を知らない貪欲な愚者だという。
 はっきり言って危険人物だと慧音は見ている、そしてそんな奇人がこんなところに何をしに来たのか。
 天子を迎え入れ、お茶を出しつつも心の中では身構えていた。

「天人様にわざわざこんなところまでご足労頂き恐縮です」
「いえ、こちらこそ突然の訪問という無礼を許していただきありがとうございます」

 とは言え、まだ何もしていない相手に表立って敵意をぶつけていいことなどない。
 苛立ちを抑えながらあくまでも礼節をかかさずに対応すると、天子もまたそれに合わせてきた。
 机を挟んで、慧音は静かに天子と渡り合おうとする。

「お召し物をお預かりしましょうか。そのマフラーは暑いでしょう」
「いえ、これはこのままで結構です」

 気を利かせるふりをして身なりについて探ってみたが、申し出はにべもなく断られた。
 冬でもないのにこんな格好をしているのはかなり怪しいが、あまり突っ込んでも仕方あるまい。

「……本当に、満月の日には妖怪になるのですね」

 天子が慧音の頭から生えた二本の角を見てそう言った。
 どうやらこの晩に来たのは偶然ではないらしい、慧音はわざわざそんな日に人のプライベートに踏み込んできた天子に頭突きをかましてやりたい衝動に駆られたがグッと堪える。

「今日は、里でも偉大な功績を残しているあなたにお聞きしたいことがありまして、こうしてやって来ました」
「私は偉大などでは……」
「ご謙遜を、あなたの評判は聞いていますよ」

 お世辞だとわかっているが、少しくすぐったい。我ながら軽い女だと思うが、疲労が蓄積しているとどうも精神が揺らぎやすくていけない。
 だが今回の本題は、きっとその質問にあるのだろう。
 慧音は気を引き締め、天子の開かれた口が紡ぐ言葉を一字一句聞き逃さないよう聞き耳を立てた。

「――あなたは、人を食べたいと思ったことはありますか?」

 その言葉に、慧音は意表を突かれて目を丸くした。
 この質問の真意はなんだろうか。まさかとは思うがここではいとでも答えたら、それを大義名分に退治でもしてくる気なのだろうか。

「……いえ、幸いにもそのようなことは思ったことがありません」

 慧音はありのまま答えた。半人半妖となれば妖怪の持つ食人衝動に駆られるのではないかというのは当然の疑問だろうが、慧音はその類の欲求が湧くことはなかった。
 すると天子は貼り付けていた笑みを解いて、あからさまに興味をなくしたようにあらぬ方に目を向けた。

「……そう」

 短くそれだけ言うと、天子はうろんげな態度で茶も飲まないまま腰を上げた。
 突然態度を変えた天子に、慧音は困惑して尋ねる。

「どちらへ?」
「もういいわ、聞きたいことはこれでお終い。あなたも満月の日は忙しいんでしょ?」

 ぶっきらぼうに言い放って帰ろうとする天子の背中に、慧音は手を伸ばそうとしたが、なんと言葉をかければいいかわからなかった。
 本当なら怒りのまま天子に頭突きの一発でもしてやればよかったかもしれない、しかし天子の重い瞳に苛立ちは霧散してしまった。
 緋色の目から見えたらのは、まるで今にも崩れてしまいそうな強烈な不安感。

「何だったんだ一体……」

 玄関から出て行く背を見送って、慧音は独りごちる。
 家から出た天子は緩慢な動作で数歩ほど歩いて立ち止まり、狂気じみた輝きの満月を見上げた。

「あいつ、また来るんだろうな」

 マフラーの下に指を差し込み、ざらついた首筋を撫でた。



 ◇ ◆ ◇



「うっ……」

 寝苦しさに目覚めた天子が、ぼんやりと瞼を開けた。
 首を動かし、暗い天井から月明かりが差し込む窓へと視線を移す。
 暗闇に差し込んだ満月の光が作り出す明暗のコントラストを眺めながら、ゆっくりと意識を引き戻す。

「はぐ……んぐ…………」
「んぅ……?」

 段々と思考がはっきりしていく脳髄に、くぐもった声と水気のあるピチャピチャとした音が響く。
 そして不意に襲ってきた右腕からの痛みに、天子は顔をしかめてやおらに起き上がった。
 広がった視界に入ってくるのは、寝台の上に横たわった自分の体と、更にその上にまたがる何者かの影。

「あー――」

 天子の腰元に座ったその影の手に持たれていたのは、赤い斑点が付いた天子の右腕。
 か細い腕に対し影はご飯を頬張ろうとするかのごとく、雛鳥のように口を大きく開け。

「――んぐ」

 そして無造作に、天子の腕にかぶりついた。
 歯が立てられた腕から痛みが走り、天子は反射的に左手を振りかぶる。

「こんの――何してんのよ!」

 夜の静寂に怒声が響き、大きなげんこつの音が後に続いた。
 額に拳を叩きつけられた影はのけぞり、天子の腕から口を離した。
 えびぞりに背を反らした影は、しかし天子の殴打にもなんともないように姿勢を戻し顔を向けてくる。
 月の狂気に当てられた、恐ろしい妖怪の眼光が妖美に煌めく。
 賢者とまで呼ばれる大妖怪、八雲紫が八重歯から涎を垂らしたまま、熱烈な視線で天子を射抜いた。

「おはよう天子、良い夜ね」
「ええ本当、むかつくくらい目覚めの良い夜だわ」
「あぐ」
「噛むなー!!!」

 スパコーンと、二度目のげんこつが闇夜に響いた。



 ◇ ◆ ◇



 あの後、紫と喰われるか否かのボケとツッコミを繰り返しているうちに夜が明けていた。
 日が昇ると共に紫の食人欲求も収まってきたらしく、ようやく大人しくなった妖怪の前で天子は朝の身支度をしていた。

「まったくもう! だから噛むのは止めてって言ってるのに」

 そう声を荒げながら寝巻きを脱いだ天子の姿は、身体中に異様なおうとつが残っていた。
 二の腕、ふともも、脇腹、腰、首筋、あらゆる場所に残ったそれは、八雲紫がその歯で残した噛み跡だった。
 醜く歪んだ身体を姿見で確認した天子は、長袖の服を選んで袖を通す。

「腕もこんなに真っ赤になっちゃって、また長袖着ないといけないじゃないの」
「私と天子の熱い夜の印……ポッ」
「ポッ、じゃないわよ! 熱いどころか、噛み跡だらけで狂的過ぎるわ!」

 頬を赤らめる紫を脇腹から蹴り上げる。蹴られた方は衝撃ですっ転んで床に突っ伏したが、見た目ほど効いているかは怪しいものだ。
 床に沈んだ顔の横から、紫が人を食べようとする時の癖ともいうべき鋭く伸びた八重歯が目に入った。

 これが天子の恋人、八雲紫。
 彼女とのファーストコンタクトは、それはそれはえげつないものだったが、何度か顔を合わせているうちにいつの間にか友だちになり、親友になり、ついには恋人などという枠組みに収まってしまった。

「あなたのすべてを私に頂戴」

 告白された時の言葉がこれだ。
 頂戴じゃなくて与えるだろう言葉のチョイス逆なんじゃないかとも思うが、紫が隠し持つこの熱烈さが天子は好きだった。
 天子も以前から紫のことは気になっていたから表向き満更でもなさそうに、実際大喜びで紫をの気持ちを受け入れ、恋人と楽しい毎日を送っているのだが、問題は紫の噛み癖だ。
 いや、噛み癖というのは正しくない。紫は正真正銘、比那名居天子のことを食べたいと思っているのだ。

 天人はあくまで人間の延長線上にある存在だ、人食い妖怪としては食欲が湧いてくる対象らしい。
 恋人なら食べるなよと天子は思うのだが、紫はむしろそれが良いのだとかのたまっている始末。
 そのため紫は時折天子の元に来てはその肌に牙を突き立てる。
 とは言え紫も今のところ本気で食べようとはしていない、ナイフも刺さらない堅牢な天子の肉体も大妖怪が本気で噛み千切ろうとすればひとたまりもないが、今のところ血が出るほど強く噛まれたことはない。

 このことについての問題点は枚挙すればキリがない。
 まず本気で食べられて死ぬなどということになるのは天子としては全力で遠慮したいという点、もう一つは万が一本当に紫が天子を捕食してしまえば、妖怪にとって猛毒である天人の血肉は紫まで死に至らしめることだ。
 他にも本気じゃないと言っても結構な力で噛み付いてくるためかなり痛い点。噛み跡が残るのでそれを隠さないといけない点。睡眠を妨害される点。エトセトラ、エトセトラ。

 天子はこの噛み癖というか捕食癖を直して欲しいと思っているのだが、当の紫は改める気があまりないらしく頭が痛いところだった。
 一応は天子に対する食欲を普段は抑えているらしいのだが、満月の日だったり何かしらの要因で精神的に高揚してたり、逆に落ち込んでたりすると今回のように噛み付いてくるのだ。

「あーもう、こんな暖かいのにマフラーとかバカみたいだわ」

 天子は毒づきながら、椅子に掛けられていた赤いマフラーを取り出すと首に巻いた。
 これは紫が「私が冬眠中に、天子が寂しくないように」と言って渡してくれたプレゼントだ。貰った時は嬉しかったが、この使い方を考えると今では素直に喜べない。
 一度鏡でチェックして、噛み跡が見えないことを確認するとようやく身支度を終える。

「はい天子、それじゃあこれ」

 そう言って紫はスキマからバスケットを取り出して机の上に置いた。

「なにこれ?」
「ふふ、実は来る前に作ってきておいたの」

 そう言って紫が箱を開けると、中にあったのはギッシリ詰まったサンドイッチだった。

「うわー! 美味しそう!」

 分厚い肉と瑞々しい野菜の色鮮やかさが魅力的な朝食に、思わず天子は目を輝かせて跳びはねる。
 妖怪として色々問題もある紫だが、こういうところは実によく出来た恋人だった。
 ここが噛み跡を付けられても紫と別れない理由の一つだろう。

「お茶も淹れるわ。どんなのがいい?」
「うーん、パン食なんだしどうせなら紅茶ね! それじゃいただきます!」

 さっそく席に付いてサンドイッチを頬張る天子を前に、紫は「慌てすぎよ」と言いながらもころころと心地よい声で笑って、スキマからティーセットを取り出した。
 香りの良いお茶を二人分淹れて向かいの椅子に紫も腰を下ろす、その口元からは尖った八重歯はなりを潜め、一見人間のものと変わらない平穏な見た目に戻っていた。
 組んだ両手に顎を乗せてこちらを見ながら微笑む紫だが、一向にパンに手を付けることがなく、天子は不思議そうに問いかけた。

「紫は食べないの?」
「私はそろそろ寝る頃だから、今はもう食べる気がしないわ」
「……そっか」

 恋人のために学んだマナーを守って音を立てず紅茶を口にする天子に、紫の表情はわずかに影を作った。

「ごめんなさいね」
「いいわよ別に、これくらい」

 一緒に食べてもらえないことに寂しさを感じるのは確かだが、紫の問題を天子はできるだけ理解しようともしていた。
 そもそもが天人と妖怪というかけ離れた存在だ、多少の齟齬は仕方ないだろう。
 すぐに気を取り直して恋人の作ってくれたご飯を楽しんだあと、残った紅茶を一息に飲み干して両手を合わせた。

「ごちそうさまでした」

 満足気にお腹を擦る天子を前に、紫は椅子から立ち上がった。

「それじゃあ、私はそろそろ帰るわね」
「……もう帰っちゃうんだ」
「夜の間ずっと起きてたから眠くって……ふわあぁ」

 紫は口に手を当てて欠伸をしていると、服を引っ張られている感触がして眠たげな目で視線を下げる。
 下から伸びた天子の指先が、紫のスカートをつまんで引き止めていた。

「……ご飯だけじゃ、足りないわよ」

 恥ずかしげに拗ねる天子に、紫はクスリと微笑を漏らすと、大きく両腕を広げた。

「来て、天子」

 人のことを食べようとしていた妖怪のものとは思えない、ふわりとした気持ちのいい笑顔。
 その微笑みに釣られて天子は椅子から飛び出て、天子の胸元に頭から飛びついた。
 細身の体がふんわりとした道士服の上から優しく、しかし強く抱き締められる。
 天子は紫の背中に腕を回して抱き合うと、下から紫の顔を見上げた。
 期待に応えるよう、紫は優しげな表情のまま天子の口元に唇を落とした。
 数秒の間が開き、柔らかな唇が離れる。

「もう一眠りしたら、また来るわ」
「……ふんだ、その時はこの噛み跡のぶん、仕返ししてやるんだから」

 そう言って天子は紫の胸に顔を埋めた。
 幾度と無く食べられようとしても、肌に傷跡を残されても、天子が紫から離れられないもっとも大きな理由。
 どれほどの悪癖が積み重なろうと、天子は紫のことが、好きで好きで仕方なかったのだった。

「ホント……何で私、あんたみたいなの好きになっちゃったんだろ」

 今まで何度か考えた答えの出ない疑問をひっそりと口にし、天子は自分の気持が消えないように更に強く紫を抱きしめた。



 ◇ ◆ ◇



「それでそのマフラーですか」
「随分とアツアツだねぇ、聞いてるだけで身体が火照っちゃうよ」
「あんたの場合、火照ってるのはお酒のせいでしょ」

 衣玖と萃香を前にして、口から出てくるのは主に紫の愚痴だった。
 天子は衣玖と中々いい友人関係を結べているし、萃香も紫との共通の友人として、二人には紫に関することをよく話していた。
 天子の身体に食い込んだ歯型についても知っている数少ない存在だ。

「そんなに嫌なら別れてしまえばいいのに」
「だから言ってるでしょ衣玖、その気はないって」
「人の恋心とは本当に不可解なものですね。生き死にを超えて結びつくとは、いっそ狂気を超えてロマンチックです」

 呆れつつもどこか羨ましそうな口ぶりで衣玖がうそぶく。
 ロマンチックか。天子はその言葉を聞いて自分はそうだろうと思う、この自分ならそのぐらい情熱的な恋慕でなければ嘘だとすら思う。
 だが自分はそうだとして、紫の場合はどうなのだろう。

「……私を食べたいって、どんな気持ちなんだろう」

 その気持がどれだけ大きなものなのだろうと、天子は思わず呟いた。

「なんだい、食べられる気になったのかい?」
「違うわ、そしたら私も紫も死んじゃって意味ないでしょバカちん。止めさせたいからこそ、紫の気持ちを少しでも知りたいのよ」

 本当は天子は天界の書籍をあさり、人喰い妖怪の性質関して記した本がないか探していた。
 しかしあの妖怪は人を喰う、この妖怪は人を喰うということは載っていても、それ以上のことは書いていなかった。
 ましてや人喰いをやめさせる方法など皆無だ、ならば自分が体当たりで調べるしかないということで、色んな妖怪に話を聞いてみることにしたのだ。

「衣玖は人を食べたことってある?」
「いえ、ありませんね。私はしがない竜宮の使い、雲とともに漂って地震の到来を告げ、龍神様におべっか使うだけの妖怪ですから。あんまり人間に対する脅威とかとは無縁ですよ」

 妖怪と言っても色々種類がいる。
 人を怯えさせればそれだけで満足なのもいるし、紫のように人を食べたいのもいる。衣玖はその中でもかなり特殊な方で、人間から見てここまで安全な妖怪もそうはいない。
 天子はまあそんなところだろうと衣玖に興味をなくし、今度は萃香に目を向けた。

「あんたは?」
「ははは、聞くまでもないだろう? 食べたさ、何人も、何人もね」

 帰ってきたのは予想通りの答えだった。
 仲の良い友人が人を食べたという告白に、天子は特に動揺するでもなく、むしろ手応えに嬉しそうな顔をして身を乗り出した。

「何で食べたわけ?」
「理由なんて私が鬼だから、それだけで十分さね」

 続く答えはとても簡単なものだった。

「人が子を産むのに理由がいるか? きっとそれと同じさ、根源的にそういう存在なのさ、私らはね」

 まあそうなのだろう、そこのところは天子としても予想が付いていたところだったが、これは求めている答えではない。
 紫が人を食べたいにしても、それだけではわざわざ天子を付け狙う理由にはならないはずだ。スキマで他の人間を攫ってきて食べれば済む話なのだから。

「なら聞き方をちょっと変えるわ。どうしてもこいつだけは食べてやりたいって思ったことはある?」
「そうだね、やっぱり強い人間相手にはそう思ったりするよ」

 萃香は過去を思い出してわずかに遠い目をし、興奮気味に酒臭い口を開く。

「剣を手に、勇気を胸に、望みを口に、私を討ち倒そうと迫ってくる真に強いやつら。いいねえ、あいつらを喰うのは最高だったねえ」
「愛の為にー! とか言っちゃうやつ?」
「いや、愛の為にか名誉の為にかなんて些細な違いさ。重要なのは恐怖に立ち向かう意地、決して折れない心で向かってくる勇者にはワクワクして、こいつだけは絶対に私の手でけじめを付けて、この口で喰らいたいって思っちゃうのさ」

 なるほどと天子は頷く。
 要は面白いやつであればあるほど食欲が刺激されるということなのだろう。
 紫が天子を食べたいというのもこれの延長かもしれない。

「ちなみに捕食対象を好きになったことは?」
「今のところないね、だからちょっと紫のやつが羨ましいよ。きっと格別なんだろうね、好きなやつを喰らうってのはさ」

 続く答えは天子の考えを肯定するような言葉だった。

「どんだけ羨んだって、紫のやつが実際に食べることはないけどね」
「ははは、紫のやつも可哀想だ!」
「可哀想も何も、食べたらそれこそ可哀想なことになるでしょうが」

 そんなことで紫を殺す訳にはいかないと、天子は息巻いて鼻を鳴らす。
 どれだけ妖怪から見たら正しい姿でも、恋に落ちた二人がもろともに滅んでは幸せにはなれまい。

「……まあ、ちょっとは参考になったかしら。ところで、それはそれとして今日は二人に試してもらいたいものがあるのよ」

 言うなり天子は、風呂敷に包まれた立方体を二人の前にズデンと持ちだした。

「なんですかこれ?」
「ふふふ、対紫用の秘密兵器ってやつよ」

 風呂敷の結び目を解き、その下から出てきた重箱の蓋に手をかける。
 中から飛び出してきたのは、一面の黄色だった。

「じゃじゃーん! 私自作の玉子焼きよ!」
「ほぉー、総領娘様がお料理を?」
「そうよ! 私いっつも紫にごちそうになってばっかりだからさぁ、あいつにも何かしてあげたいって思って!」
「うーわー、恋人のために甲斐甲斐しくお料理とか、甘すぎて反吐でも吐きそうです」
「砂でしょそこは」
「いい心がけだろうけど、これは、何かちょっと微妙じゃない?」

 萃香がそういうのは無理もなく、卵焼きに見た目はお世辞にも良いとはいえないものだった。
 玉子焼きの表面はボコボコで、焼き目はところどころ茶色を通り越して黒に近い部分まである。
 重要なのは外見だけではないが、これではちょっと期待できまい。

「まだ練習中でね、紫に食べさせる前に二人に試食して欲しいのよ」
「ふーん、どれどれ……」

 気になった萃香が玉子焼きを丸々一個指でつまんで口いっぱいに頬張った。衣玖も天子から箸を渡されると試しにひとくち食べてみる。
 もぐもぐと口を動かす二人だが次第に眉を潜め、やがて苦しそうに飲み込むと「うえー」と気持ち悪そうな声を吐いた。

「なにこれ塩辛! おまけに変に固くてボソボソしてる!」
「私のはなんでしょう、変に甘いし中まで火が通ってなくて、噛んだ途端ドロッとした生卵が……」
「あらー……また失敗だったか……」

 二人の反応を見て、天子はバツが悪そうに帽子を下げて表情を隠す。

「こんなの自分で食いなよー」
「あんたらの何倍も食べてるわよ。朝からいっぱい作ってもうお腹いっぱいなの」
「それでこれとかど下手ですね総領娘様」
「うっさい! それよりまだいっぱいあるけど食べない?」
「もう勘弁です」
「右に同じく」

 両手を上げて降参のポーズを取る二人に、天子は舌打ちして重箱の蓋を閉じる。

「おはよう天子。昨日も紫様がお邪魔したらしいな」

 風呂敷を結んでいた天子は、この天界では珍しい声に顔を上げた。
 艶やかな美しい金毛を誇る九つの尾、紫の式神である八雲藍だ。
 紫はよくスキマを介して天界にもやって来るのだが、藍がここまで来るのは滅多にない。まあ、たまに酔っ払った主を迎えにやってきたことはあったが。
 更に彼女の隣には、紫の式の式である橙の姿まであり、下からこちらに棘のある視線で睨めあげてきた。

「おはよう。お陰で寝不足よ。珍しいわねあんたがここまで来るなんて、おまけに橙までいるし」
「何さ、私がここに来ると悪いの?」
「いんやー、面白そうだなって思って」

 不機嫌そうな橙の敵意を受けて、天子はにやあと意地悪く憎たらしげな笑みを返す。
 すると橙はあからさまに怒りを沸かせ、尻尾の毛を逆立てて目つきをさらにきつくしてきた。

「総領娘様、あんまりいじめちゃダメですよ」
「わかってるわよ」
「橙、少し抑えろ……できれば、私と一緒に家まで来てくれないか?」
「家って、あんたらの――紫の家に?」
「ああそうだ」

 天子は少しばかり驚いた。
 紫は基本的に秘密主義者だし、彼女の式神である藍もその影響を強く受けている。
 紫が何度か恋人の天子を家に連れてきた時も、藍は決していい顔をしなかったはずだが、どういう心変わりだろうか。

「今行ったって紫のやつ寝てるじゃないのよ」
「いや、恐らくそろそろ空腹で目覚める頃だろう。実は紫様に内密で、お前に見て欲しいものがあってな」
「ふぅん」

 今までにない提案に、天子は腰を上げて舞うような足取りで藍の前に飛び出した。
 首から下げたマフラーが、澄んだ蒼い髪に混じってはためく。

「興味が湧いたわ、あいつに内緒でやれることなんてそうないし」

 特に紫に秘密というのが気に入った。
 恋人に内緒にして裏で動くというのはいけないことをしているようでドキドキする、何でもお見通しな紫相手には中々味わえない感覚だ。

「そんじゃね衣玖、萃香。また宴会で」
「ええ、それでは」
「ほんじゃね、せいぜい喰われないように気を付けな」

 去りゆく二人を、衣玖と萃香が手を振って送り出す。
 小さくなっていく三人の姿を眺めて、衣玖が表情が曇るのを萃香は見もしなくとも感じ取った。

「心配かい?」
「……ええ、そうですね。紫さんが現れる頻度も増してきてますし」
「とは言え、あれは外野がどうこう言っても無駄だよ」

 その意見を肯定して衣玖は頷く。
 これがそれぞれの根底に根ざした問題であるなら、衣玖がどれだけ苦言を呈したところでどちらも決して変わりはしないだろう。

「萃香さんは、お二人はどうなると思いますか?」
「さあてね、でも紫のやつのひねくれ具合を考えると、どう転んでも大変そうだ。ありゃあ本当、底の方はドロドロでとんでもないからね」
「あの妖怪が、ですか。私には総領娘様のほうが強烈なイメージですが」
「天子以上さねあいつは。まあ天子は天子で、紫に好かれるだけあって苛烈だけど」

 衣玖の質問を終え、萃香は首を逸らして瓢箪の酒を一気に胃へ流し込んだ。
 プハァーと酒臭い息を吐いて瓢箪を口から離すと、空を見上げたままぽつりと呟いた。

「紫の気持ちもわかるけど、あんなのに恋をするなんて。まったくもって難儀な話だねぇ」
「……ところで、あの人ったら卵焼き忘れて行っちゃいましたけど、どうしますこれ?」
「そうだね、お腹空かせた霊夢にでも食わせて反応見てみるかい?」
「鬼ですかあなた」



 ◇ ◆ ◇



 空を飛ぶ藍の後を追って家へと向かう天子だが、時折前を行く藍から目を離し背後をチラリと確認していた。
 その理由は、天界からずっと睨みつけてくる凶兆の黒猫であった。

「むうううううう……」

 わざわざ藍のそばでなく、天子の後ろを飛んでいる橙は、さっきからこんな唸り声を上げながら目を吊り上げていた。
 天子はそんな橙に「やだなにれ面白」と思い、試しに飛びながら後ろを向いて挑発してみた。

「ちょっとそこなお子様、文句あるなら直接言いなさいよー」
「天子がムカつく!」
「やだ、この子超素直……」
「紫様から面白くもない惚気話聞かされるし! 藍様だって心配させられてるし! 今日だって、本当は藍様に稽古つけてもらう約束だったのに!」
「これ橙、止めなさい」

 堰が切れたように喚き始めた橙に、藍からお叱りの言葉が飛ぶ。
 主の叱責を受け、橙はまだ物足りないと歯ぎしりしながらも言葉を引っ込めた。

「すまないな、教育がなってなくて」
「べっつにー、このくらいでどうこう感じるほど優しくないし……と言うか、本当に悪いと思ってるなら、まずあんたが変われば?」
「さあ、何のことかな?」

 そう言って穏やかそうな微笑を浮かべる藍の眼に、一瞬だけ悪意の篭もったギラついた妖光が宿るのを天子は見逃さなかった。
 藍が笑みの下に隠した警戒と敵意こそが、橙が嫌ってくる原因の大本なのだろう、
 幼い子供ほど純粋で、身近な大人の影響を受けやすい。素晴らしい感性で無意識化の感情でさえ過敏に察知し、それに倣うように同じ反応を取る。
 橙が天子を気に入らないのではない、実際には藍が天子を気に入らないから代弁しているにすぎないのだ。
 その理由はおおよそ予想できるが、なんにせよ障害が多いというのは面白くて素晴らしいと、天子は口元の卑しい笑いが押さえられない。

「こら! 藍様は悪くないよ!」
「くっくっく、良いわねあんたは無邪気で」
「ちょっ、頭撫でないでよー!」

 橙くらいの敵意なら、嫌われるのに慣れた天子には可愛いものだった。
 それより敵意をまるで隠さないこの純粋さが気に入っていた。紫が実に理性的で精神的に歳上な分、自分より幼い橙には安心と優越を感じられて良い。
 そうして藍の敵意を受け流しつつ橙をいじくっていると、一行はいつのまにか紫の家にまで着いていた。

「それで、見せたいものってなんなのよ?」

 天子は庭に降り立ってふんぞり返りながら尋ねた。
 ここに来たい時は紫が気持ち悪いぐらい的確なタイミングで会いに来てスキマから送ってくれるので、こうして自分の足でやって来たのは初めてだ。
 自分の足で尋ねる恋人の家は新鮮だったが、今回藍がここに連れてきたのはそんな風に気を使うためではないはず。

「まあそう慌てるな。ところでお前はここの離れに行ったことはあるか?」
「……ないけど、っていうか存在自体初めて知った」
「だろうな、別段面白い場所でもない」

 藍は天子を連れて庭から家の裏側に周った。
 橙も天子の背後から離れ、藍のすぐ傍に付いて歩いて行くので、天子も後を追った。
 木々が連なり一見するとただの雑木林に見える場所だが、よく観察してみると木々の間隔が一定に保つよう整備されており、不自然に虫や獣、鳥類どの気配が少ない。

「こっちだ」

 藍に従って背の高い草をかき分けて進むと、林に囲まれた小さな広場のような空間と、その中心に建てられた小さな小屋が存在していた。
 だが不思議なのはちゃんと整備され日頃から使われているようなのに、この広場に通じる明確な道が用意されていないようだった。
 離れというよりも、隔離された牢獄か何かのようにも思える。

「何よここ? 倉庫ってわけでもなさそ――」

 訝しげながら広場に一歩足を踏み入れた瞬間、かつて感じたことのないような悪寒が天子の身体を駆け巡った。
 見開く眼や耳鼻からドロドロした蛇が侵入して内蔵を這いずりまわるような間隔に、喉の奥から酸味を感じた。
 思わず弱気にも引き返しそうになるのをプライドで抑えこみながらも、強烈な暗黒の気配に呼吸が止まりしばし身じろぎできなくなる。

「――ここは」

 負けたくなくて声を絞り出すと、前方を往く藍が振り返って冷たく無感動な眼でこちらを見た。
 妖怪である彼女がなんともないのを見て天子は悟った、これは"人にとって良くない場所"だ。

「にひひ、怯えちゃった怯えちゃった?」

 橙がこちらを笑うのにも、天子は何も返せなかった。
 慣れつつあるが、今はまだこの空間の異質な感覚に緊張が抜けない。

「……そこの窓から中を覗いておくと良い。やがて紫様がお見えになる。気配は消しておけよ」

 それだけ残して藍と橙は立ち去った。
 小屋に備え付けられた簡素な格子窓に近付いて止まっていた呼吸を再開すると、最初に感じた悪寒の正体の一つが臭気であると気が付いた。
 小屋の内側にへばりついた忌まわしい臭いが窓から漂ってきて、一嗅ぎしただけで鼻が腐り落ちそうにも感じ、涙腺が締め上げられ嗚咽を漏らしかけた。
 心臓が不吉に騒ぐのを耳にしながら震える眼で窓を覗き込むと、まさに小屋の中の空間にが裂かれたところだった。

「――――」

 咄嗟に天子は自らの気配を周囲の空気に埋没させた。こういうのは得意ではないが、この異質な空間においては簡単だった。
 開かれた異次元のスキマから出てきたのは、まごうごとなき恋人の紫。
 寝間着のままで眠たげの眼と半開きの口という、みっともない姿でスキマから這い出てきた紫の手には、人間の首筋が握られていた。

 衝撃を受けながらも、天子は存外にも冷静に対象を観察できた。
 性別は男、年齢は20代後半と言ったところか。首が手折られ即死している
 短い髪に眠ったような死に顔には大した魅力を感じない、恐らく生前から外見、能力の両方において凡人、あるいはそれ以下の人種だったのだろうと感じる。
 見慣れぬ襟のついた半袖の服に金具の付いたズボンとベルト、幻想郷ではそう見ない洋風な服装の辺り、外界から適当な"餌"として攫われてきたか。

 紫は男の死体を小屋の奥に放り投げ、大きな欠伸を一つして目をこすりながら死体の前に座した。
 両の手を合わせて、ただ一言だけ唱える。

「いただきます」

 後の光景は予想通りだった。
 紫はまず天子にいつもやっているように死体の首に噛み付いた。軟な人間の肉は簡単に食いちぎれ、ぴちゃぴちゃと水音と共に血が垂れる。
 一瞬血の噴水が出るかと思ったが、すでに息絶えて心臓が止まっているため傷口から垂れるだけだった。
 水気の多い肉と毛と骨とを妖怪の強靭な歯と咬合力でシェイクして、丼をかき込むような大胆さでみるみるうちに死体を飲み込んでいく。
 そして人を食べる紫の顔は、いつも天子に噛みつく時に見せる恍惚とした顔でなく、冷めたご飯を仕方なく空きっ腹に押し込むような淡々とした表情だった。

「ごちそうさまでした」

 きちんと終わりまで手を合わせる姿に、天子は変なところだけえらく行儀が良いだなとなんとなく思った。
 あとに残ったのは血まみれの服だけ。
 糞尿の詰まった器官は除去してスキマから捨てていたようだが、それでも血と肉の臭いだけで天子の気を悪くさせるに十分だった。
 紫はミルクをぶちまけた赤ん坊のように口から下を血で汚したまま、また欠伸をして床の上に寝転がって、そのままスヤスヤと寝息を立て始めた。

「ここ最近は人を食べてなかったからな、たまにはこうやって栄養補給をしないと紫様は存在を維持できん」

 振り返るといつのまにか藍と橙が戻ってきていた。
 戦慄していた天子も、さっきまでの無残な光景から意識を戻す。

「これが、あんたが見せたかったもの?」
「ああ、お気に召さなかったかな」
「……いや、有り難かったわ。おかげで私の知らない紫を見れた」

 このくらいの光景は、以前から覚悟していたことだった。
 天子を食べたいどうこう以前に、妖怪ならこうであってもおかしくない。

「でも、思ったより淡々と食べるのね」
「紫様はもっと良い味を知っているからな。大した舌も持っていない低級妖怪なら、あんなのでももっと喜ぶぞ」

 もっと良い味とは、萃香が言っていたような『真の強者』の味わいなのだろう。
 日々の食人は自己を保つためだけのものでしかないのだなとわかり、それに対して紫が天子に向ける食人衝動がどれだけ大きなものか否応がなく思い知らされたようだった。
 あまりうろたえることなく紫のあられもない姿を受け止めている天子に、藍は興味深そうに目を細めた。

「お前は別に人食いを非難するわけではないのだな」
「まあ別に、どうでもいいっていうか」

 出てきた言葉はとてもドライで、天子らしいエゴイスティックなものだった。

「私の知らない世界の裏側で、知らない誰かが食べられるくらいならどうだっていいわ。そいつのお陰で紫が生きていられるなら、どうぞご自由にお食べになってくださいって感じ。知り合いに手を出そうって言うなら怒るし、こう目の前でやられちゃ気分が悪いけど」
「やはりな、そう言ってくれると思った」

 そう言って藍は嬉しそうに喉を震わせて笑う。

「なあ天子、妖怪になってみる気はないか?」
「は?」

 思いがけない提案を、藍は天子に持ちかけてきた。

 藍もまた紫の噛み癖、否捕食癖を知っており、そのことで気を揉んでいた。
 別に天子が食べられること自体は別にどうでもいいことなのだが、看過できないのはその場合は主が天人の毒にやられて死んでしまうことだ。
 それを回避するために一番簡単なのは、天子が天人で無くなってしまえばいい。
 人間になって紫に食べられるのならそれも良いがそんなメリットのない話では天子は飲まないだろうから、お互いに害がなくなる落とし所として妖怪化を勧めた。
 その場合、これから天子も人を食べていかないといけなくなるだろうが、この様子ならそれもきっと乗り越えられる。

「天人から妖怪などというのも紫様なら可能だろう。そうすればお前も食べられる心配もないし、すべて丸く収ま――」

 言い終わる前に藍の襟元が締めあげられた。
 天子の小さな手が、自分よりも長身の藍の首を圧迫しながら持ち上げて振り回すと、小屋の壁に背中から叩きつけた。
 肺に衝撃が響きむせる藍の眼前に、緋色の刃が突き付けられた。

「冗談じゃないわよ! 薄汚い妖怪になれだなんて死んでもゴメンだわ!!」

 さっきまでの消沈した様子はどこへやら、周囲の死臭を跳ね除けてこれ以上ないくらい怒りを露わにした天子が、藍を今にも刺しそうな勢いで睨み上げてきた。
 狭まる襟が喉を圧迫し険しい顔をする藍に、続けざまに天子は怒鳴り散らす。

「藍様に手を出すなぁー!!」

 突然の天子の豹変にしばし呆然としていた橙が、我に返って猛然と飛びかかってきた。
 両手の爪を鋭く伸ばして、襟首を握るその左腕に渾身の力で爪を振るった。
 音とともに長袖の衣服が切り裂かれ、爪跡の形に細長い穴が出来上がる。
 だが橙の力では強靭な天人の肉体を傷つけることはできず、それどころか反動で爪が中程から砕け宙を舞った。
 爪の付け根からも出血し、橙は痛む右手を押さえて唸り声を上げた。

「いだっ……!」
「止めろ、橙。お前じゃ脅しにならないし、そもそも脅しが通じる相手でもないらしい」

 攻撃を受けても天子は微動だにせず、橙の方を一瞥すらしなかった。
 今の一撃、いくら肌に傷がつかないとはいえ普通の人間が棒で強く叩かれた程度には痛かった、しかしその程度では動じない。
 天子の眼光は相変わらず藍に向けられたままだ。
 藍とて真正面から戦えば天子に負ける気は毛頭ないが、ここで争ったところで双方痛手を負うだけで何も変わらないと計算し、無抵抗を貫いた。

「もう一度さっきと同じ事言ってみなさい。紫のペットだろうが、その時には本当にこの剣であんたを刺し貫くわよ!」

 隠さないままに意思を伝えた天子は手を離すと、残った鬱憤を晴らそうと風を切ってから緋想の剣でしまった。
 解放された藍は背を持たれたまま喉元を抑え、荒い息で背中を向ける天子に口を開いた。

「……一応は善意からの提案だぞ。お前がどれほど紫様を愛していようと、この手の結末なんてありきたりだ」
「っ――だからって諦めきれるわけ無いでしょ。負けず嫌いなのよ、私は」

 来たる未来を言い当てられ悔しげに歯を食いしばった天子は、それでも不屈を口にする。

「天に上がろうが人の子として生まれた以上、妖怪に負けられるか」

 それだけ吐き捨てると、天子は式神たちの前で飛び上がり空に去っていった。
 緊張を解いた藍の首筋を冷や汗が伝う。多少の反感は予想していたが、まさかあそこまで怒り狂うとは思いもしなかった。

「藍様、だいじょ」
「――それは余計なお世話というものよ藍」

 駆け寄ろうとした橙の言葉を遮って、重い声が小屋の周りに響いた。
 聞かれていたのか、そりゃあな、あれだけ騒げば起きて当然か。そんな平静と取り繕った思考が流れつつも、藍の顔は蒼白に染まる。
 声の聞こえていた方に顔を向けると、半端に開かれた扉から顔を出して、血走った眼と無表情でこちらを見る紫と目が合って心臓が止まりかけた。

「あ、いや……その、これは……」

 うろたえて続く言葉が引っ込む藍に、寝間着の浴衣が血まみれのままの紫が、ゆったりと赤黒く染まったふとももを見せながら歩み寄ってくる。

「待ってください紫様! ら、藍様は紫様の為を思って」
「橙、黙っていなさい?」

 紫から無理矢理作られた歪な笑いを投げかけられて、橙は「ひゃ、ひゃい……」と言って押し黙るしか無くなった。

「彼女の自尊心を甘く見ていたわね」
「た、確かに思った以上に自意識が強く……」
「そうじゃないの。本当に誇り高いのよ彼女は」

 あのおてんば娘が誇り高いとは、どう考えても盲目になり過ぎだと思う。
 藍は主の言葉に理解を得られなかったが、とりあえずその場しのぎに首を縦に振った。

「まあ、彼女はアレで懐の深いところもある。このくらいで私と天子の関係にヒビが入ることはないでしょう」
「そ、そうですか、それは良か」

 必死に取り繕う藍の顔に紫に手が張り付き、こめかみが万力のように締め上げられた。

「それはそれとして邪魔されたのはムカつくからお仕置きね」
「あだだだだだだだだだだだだだ!!!」

 頭を掴まれたまま持ち上げられ、痛みに悶える足が空中でバタバタと音を立てた。
 恐ろしい光景にビクビクと震え上がる橙の前で、たっぷりと苦しめて満足した紫はようやく藍を解放した。

「今はもう眠いからこれで見逃してあげるけど、次また同じような真似をしたら、覚悟しておくことね」
「わか……わかりました……」

 膝を突いて息絶え絶えの藍に背を向けて、紫はだらしない欠伸を手で覆い本宅に戻って改めて寝ようと心に決めた。
 しかし藍はこうなってもまだ疑心を捨てきれぬまま、主の背に疑問を投げかけた。

「紫様は、これでいいんですか……?」
「えぇ、万事、何もかも、それで良いのよ」

 不吉な問いに紫は笑顔に答えた。
 しかしこのやり取りに嫌な予感が橙の身体を伝い、唇をぎゅっと結び震える足で一歩踏み出した。

「あああ、あの……紫様、藍様と喧嘩するのは……その……」
「ごめんなさいね橙、もうしないわ」

 怯える橙に紫は努めて優しい顔で受け止めようとする。
 けれど橙は両手を胸の前で握りしめ、肩を震わせながら胸の内を言い放った。

「紫様は、死にませんよね!? 天子のこと食べて、一緒に死んじゃったりしませんよね!?」
「……えぇ、大丈夫よ。大丈夫」

 血にまみれたままの手で橙を撫で付ける紫を、藍は寂しげな眼で眺めていた。



 ◇ ◆ ◇



 その日の夜、紫は一人で家の台所に佇んでいた。
 脇には冷めた二人分の晩ごはん、目の前のスキマか見ているのは天界で暇そうにしている天子の姿。
 今日は天子に晩ごはんをご馳走するつもりだった。今日も自信を持って差し出せる料理を用意出来た。
 いつも通りひょっこり顔を出して優雅に今晩はと言い、適当に天子をからかいながら作っておいた夕食をスキマから引き寄せ、怒った天子のご機嫌をとる。
 いつも通りの光景が約束されているはずだった、だが胸のつかえがそれを邪魔した。

「……大丈夫かしらね」

 平気そうな顔の下で、紫は怯えていた。

 本当は、紫のような妖怪など天子のそばに居ていい存在ではないのだ。
 本質的に奪う側の存在である妖怪が、人と寄り添うなど不自然極まりない。
 いつ愛想を尽かされても不思議ではない、むしろ日頃から食べようとしていて未だに恋人関係が続いていることが奇跡だ。

 紫はスキマからこの広き世界を覗いて、いくつかの時代で人間が妖怪と恋に落ち結ばれるのを見ていた、そしてそのほとんどが妖怪の本質に恐怖して逃げるのを目の当たりにしていた。
 藍にはああ言ったが、いつか天子も自分を拒絶して逃げて行ってしまう日が来るのではないか。

 いつもは胡散臭い態度の下に隠していたそれが、藍のことがきっかけで今日はその不安が増長していた。
 不安は足枷となり、天子に会いに行こうとする身体を重くし、振る舞うつもりだったご飯が冷めるまで動けずにいる。
 いっそのこと日を改めるべきかと弱気な考えが鎌首をもたげるが、それこそ愚策だろう。
 人の心は飽きやすく移り気だ、天子の関心を自分に繋ぎ止めるには、彼女を飽きさせないように絶え間なく愛情をふりかける必要がある。

 決心した紫はスキマをくぐって天子の背後に現れた、静寂の中を縫って忍び寄る。
 夕食には遅いがまだまだ夜は長く、時間は十分残っている。

「だーれだ?」

 天子の両目を手で隠し、努めておどけて声を掛けた。

「だーれかしら、やたら胡散臭くて神経逆なでされる声だけど覚えがないわね」
「あらあら、藍に言われたことで怒ってるのかしら?」
「べっつにー、怒ってなんかないしー。っていうかあいつから聞いたの?」
「直に聞いてたわ、あんなにうるさくされてたら寝れないわよ」
「だったらあの時出てきてくれればよかったのに」
「眠かったのよ」
「一生寝てなさいよバカ」

 無邪気に当たり散らしてくる天子に微笑みを持って迎え撃つ。
 両手を離して天子の隣に座ると、こちらへ向けられる意地悪そうな瞳と目があった。

「人が見るからに苛々してるっていうのに、よくもまあ気軽に声をかけてくるもんね」
「あら、面の皮が薄いタイプに見えるかしら?」

 紫はスキマから一升瓶と盃を取り出した。

「いい加減に機嫌を直して頂戴な、ね?」
「へっへっへ、話がわかってるじゃない」

 わかりやすく眉間の皺を解いた天子が盃を受け取る、彼女だって苛々しているだけであり、無理にいがみ合うつもりはないらしい。
 紫は天子にお酌をし、自分の盃にも酒を注いで乾杯をした。

「さあて、今晩は何に乾杯する?」
「そうね、私達の変わらぬ関係に乾杯、なんてどうかしら?」
「何よそれクッサーい……でもいいわね、それじゃあそれに乾杯」
「ふふ、乾杯」

 お互いに一息で盃を飲み干す。
 ぷはぁーと声を出して息を吐く天子に、紫は更にスキマから料理の乗ったお盆を取り出した。

「肴にどうかしら? ローストビーフと言うんだけど、こっちのタレを付けて食べるの」
「なにこれ、中の部分は生なの? 面白いわね」

 元々は夕食用に作ったものだが、これなら冷めても美味しいだろう。
 天子は素手で肉を摘むと、隣の小皿のタレを付けて口に放り込んだ。
 興味津々といった様子で肉を咀嚼し、タレと肉の味わいと香りを堪能すると、目を輝かせて緩む頬を押さえた。

「んー、美味しいー! これも紫が作ったの?」
「あら、あなたが食べるための料理なのに、私が他に任せてると思うだなんて悲しいわぁ」
「思ってないわよもー」

 紫がわざとらしくそっぽを向く天子は笑顔で肘で突っついて、いつのまにか逆に機嫌を取っていた。
 他愛無いじゃれあいに浸っていると、ふと天子が呟いた。

「……紫もさ、私に妖怪になってほしいと思う?」

 水底に吸い込まれてしまったような、天子らしくない沈んだ声。
 それに対して紫は一瞬虚を疲れて呆然としたが、すぐいつも以上におどけた大げさな身振りで両手を広げた。

「まさか、まさかまさかよ、そんなこと思うわけがないわ」

 天子は紫と直接顔を合わせようとせず、チラリと横目で相手の様子をうかがう。

「私がそんなこと言ったところであなたが自分を曲げてまでそんな選択をするなんて思えないし、それを選ぼうだなんてそれこそ私には恐怖よ」
「でも……」

 紫は弱気になってしまった天子の蒼い髪を人差し指でゆったりとかきあげて、その表情を覗き見た。
 向けられてきた震える瞳に微笑みかける。

「あなたはあなたのままが一番よ、あるがままの天子は誰よりも美しいわ」

 紫の眼をしばらく見つめ続けていた天子は、やがてこの言葉に安心を得たようで面を持ち上げてはにかんだ。

「良かったわ、紫が私に望んでるのがそれだったら、どうすればいいかわからなかったから」

 苦笑しながらそう零して盃に口をつける仕草に、紫は強烈な疼きに胸が張り裂けそうになった。
 天子が自分のために思い悩んでくれている、自らのわがままと愛情のジレンマに苦しんでくれている。
 あの天子が、自分のことでは絶対に他人に譲らないような天子が悩んでくれているのだ。
 そのことから天子からの好意を感じて、どうしようもないほどの愛おしさに喉が酷く乾いた。

「……天子」

 紫は酒瓶を掴んで静かに声をかけて、それに気づいた天子は空になった盃を差した。
 しかし紫は酒瓶を離すと、鮮やかな流れで天子の手首を掴み、華奢な身体を引き寄せた。
 呆気に取られる天子に唇が重ねられる。
 取りこぼした盃がからんと音を立てたのを聞き流し、紫は天子の唇に舌をねじ込んだ。

「ん……じゅる、ぴちゃ……」

 驚く天子だが、こういう求められ方は嫌いじゃなかった。
 欲望のまま紫の舌が唾液を絡めとって奪い去っていくのを、無抵抗で受け止める。
 舌に口内を蹂躙されるたび、恋人に求められているという事実が天子に代えがたい多幸感を与え、刺激的な快感が脳を痺れさせた。
 やがて満足した紫が離れ、綱のようなよだれが二人の唇に繋がっているのを天子は蕩けた頭で見ていた。
 よだれが引力に負けて千切れ服の上の染みになると、紫は天子をもう一度引き寄せて、今度は胸の抱きしめた。

「好きよ天子、ずっと私と一緒にいて……」
「うん、私も好き……紫……」

 心地良く、重く、不純な愛を、紫は囁いた。
 幸せの海に、天子の心を沈めさせる。
 離れられないよう、見捨てられないよう、与えられるだけの愛情を与える。



 ――いつか全てを奪う時が来ても良いように。



 ◇ ◆ ◇



 八雲紫は天子を愛している、しかし天子もまた彼女なりに紫を愛しているのだ。
 紫のことを理解しようと恋人の言葉には常に意識を凝らしていたし、だからこそ気付いていた。
 紫の愛の更に奥に潜む、暗黒の狂気を。

「紫、あなたが私に望むものって何?」
「あなたが私の隣で幸せでいることが何よりの望みよ」

 耳触りの良い綺麗な言葉が、天子の胸に透き通る。
 天子はゆったりとした幸福の中、先ほどのキスの時、舌先から感じた鋭い八重歯の感触を思い出した。

 ウソつき――――

 憂いた眼をする天子のそばで顎が開き、剥き出しの歯が糸を引いた。



 ◇ ◆ ◇



 硬い歯が肌に食い込んで鈍い痛みを与え、漏れた熱い息と舌が噛み跡を慰める、それが繰り返される度に天子の心は沈み込む。
 この痛みも紫からの愛情の印であるとは言える、だがどうして恋人に傷つけられなければならないのかと理不尽に憤る気持ちもあった
 だが不思議と紫の愛情を疑うことはなかったし、彼女から離れる気にもならなかった。

 天子は紫の食人衝動を抑える術を探して妖怪に話を聞いて回ったが、どれも彼女が満足する回答は出てこない。
 むしろ多くの意見を聴けば聴くほど、紫の人喰いとしての本能は抑えられないものなんじゃないかと不安は増大するばかり。
 それでもまだ諦めきれず、天子はある寺の門を叩いた。
 門の横に書かれた寺の名前は命蓮寺、妖怪を教化することで人を襲わなくても存在できるようになることを目指す、幻想郷でも屈指の変わり者集団だった。

「おはよーございます!」
「おはようございます。あなたは命蓮寺の修行者?」
「はい!!!」
「なら……私は天人の比那名居天子と申します。突然の訪問で恐縮ですが、こちらの住職にお話を聞かせてもらえないでしょうか?」
「はい、伝えてきますね!!」

 門前で掃除をしていた妖怪山彦が天人の訪問を告げると、寺は一時騒然となった。寺の衆人からしたら、天人とは厳しい修行の果てに存在する、まさに雲の上の偉大な者達だ。
 実際のところ、天子は修行らしい修行はほとんど積んでいないのだが、丁重に扱われる分には不満はないのであえて言わない。
 命蓮寺の一室に通された天子は、そこでリクエストの通りこの寺の住職と面を通すことになった。

「初めまして、この寺の住職をさせていただいております、聖白蓮と申します」
「これはこれは、比那名居天子です。今日は突然の訪問にもご対応いただき、ありがとうございます」
「いえ、天人様にお越しいただいただけで光栄の至りです」

 聖は言葉こそ丁寧で敬意に溢れていたが、他の修行者達とは違い天子相手にもうろたえることなく整然としていた。組織のリーダーとしての素質は十分なようだ。
 とは言え、部屋の外で話を盗み聞きしようと妖怪が押し寄せている辺り、かなり甘いタイプなのだろうが。廊下から漏れる気配を察知してそんな推測を立てる。
 にっこりと笑って迎える聖に、天子は今日もまた疑問を投げかけた。

「こちらの寺では、他にないものを目指していると聞きます。妖怪を教化し、人を襲わなくさせているだとか」
「はい、人妖平等を目指し、そのために仏教の修行を通して人間と共存する道を探っております」
「……私としては、それは非常に興味深いことです」

 人間と妖怪の完全な共存、誇大妄想も甚だしいと思うが、もしそれが実現すれば天子にはそれこそ夢の様な話だ。

「良ければ、後学の為に詳しいお話を聞かせていただけませんか」
「はい、天人様のお力になれるのならば喜んで。しかし――失礼ですが、天人様はどうして命蓮寺に興味をお持ちに?」

 笑みを絶やさず、しかしわずかに眼光を強めて訪ねてき聖に、天子は警戒されているなと胸中で毒づいた。
 なるほど、のほほんと理想を謳うだけでなく、人を疑う強かさも持ち合わせているようだ。
 さてどうするかと天子は思案する。正直に話すか、嘘をついて利用するか。
 長期的に見てどちらが得かを考え、目の前の妖怪がお人好しなタイプだろうと推測し、天子は人差し指を立てて口元に添えた。

「しー……」

 外で聞き耳をたてている修行者たちに知れぬよう合図を送る。ついでにウィンクも付けてみた。
 聖はいきなりのことに面食らったようだが、すぐに意図を理解しきつく唇を結んで頷いた。
 天子は口元に当てていた手をもう一方の手元に伸ばし、袖口を引っ張った。
 その下に現れたものを見て、聖が固唾を呑み込んだのが静寂の中を伝わってきた。

 あらわになった天子の腕は幾重もの歯型でうめつくされ、表皮は歪な形に歪んでいた。
 綺麗な場所など一つもなく、酷い場所では内出血で青く滲んでいる場所まであった。
 崩れゆく枯れ木のような細腕に聖がショックで口を両手で押さえて絶句するのを見て、天子はそんなに驚かなくてもいいのにと一瞬考え、これが普通なら聖の反応が正しいのだと気付き逆に衝撃を受けた。
 我ながら酷い姿だなと思いながらこの噛み跡を受け入れ始めている自分がいる、段々と紫の食人衝動に慣れていった先、待ち受ける結末とは何か。
 自らの状況を改めて悟った天子は袖を戻し両手を重ねて膝に置き、聖にに向かって、そして自分に対して語る。

「私の知り合いに、少しばかり噛み癖が強い妖怪がいます。なんとかしたい」

 悲痛な表情で聖は事実を飲み込むと、神妙に頷いた。

「……わかりました。お力になれることがあれば、出来る限り協力しましょう」

 こうして天子はあえて事実を示すことで聖の信用を得ることができた。
 それからは命蓮寺に何度か出入りするようになり、今後のためにもできれば聖の覚えが良いようにしておきたいところだったのだが。

「ぷはぁー! 隠れて飲むお酒ってのも美味いわね!」
「おやおやぁ、天人様ったらいける口でござんすね。ほーれもっともっと」
「いやー、初めて見た時はお固いように見えたけど、中々話がわかるじゃない」

 騙して楽しむわけでもないのに猫をかぶるのも面倒になり、修行者と一緒に聖の目から逃れて酒を呑むようになっていた。
 入道使いの一輪と舟幽霊の村紗に酒を注いでもらったコップに口をつけて、酒臭い息を吐く。

「あー美味しいわ! この一杯のために生きてるって感じね」
「そうそう、そうよね! まあ私もう死んでるんだけど」
「天人様が来るなんて、厳しいこと言われるんじゃないかって心配だったけど、天子みたいのでよかったわよ」
「あははは、まあ私ロクに修行もしてないしね」
「え、マジで? どうして天人になれたのよ」
「まあ天運と親の七光りってやつね、ドヤア」
「威張れたもんじゃないでしょそれ、しかも真面目に修行してるやつ前にして」
「はいはい、入道使いさんは偉い修行者ですよ。ところで酒の肴にこれを持ってきたんだけど」
「おっ、なになに?」

 天子がじゃじゃーんと持ち出したのは、やはりというか玉子焼き入りの重箱であった
 大概ワンパターンであるが、事情を知らない一輪と村紗は、不思議そうな顔をして首をひねる。

「何故卵焼き? ……っていうか乳製品も肉食の内なんだけど」
「酒で顔赤くしといて何言ってんのよ、それにここは戒律が緩いから人から勧められたものに関しては寛容じゃない。聖だって人に勧められたらお酒飲んでるわよ、宴会でチラッと見たことあるわ」
「まあいいじゃん一輪、せっかく持ってきてくれたんだし食べなきゃもったいないよ」

 二人は天子から渡された箸を手に、玉子焼きを口にしてみた。
 しかし少し噛み締めたところで、「うっ」と気持ち悪そうな声を出して渋い顔をした。

「か、噛んだ瞬間ガリって言ったんだけど」
「殻入ってんじゃないのこれ!?」
「あー、ははは……よくあるよくある」
「よくあってたまるか!」

 笑って誤魔化そうとした天子に、村紗の怒声が飛んだ。

「なにこれ、あんたが作ったの? 私はもう良いわ」
「同じく、遠慮しとく」

 口にしたものを飲み込んだら即座に箸を置かれ、天子は悔しそうな顔で重箱に蓋をした。

「うーん、中々上手く行かないわね……」
「もしかしてずっと練習しといてアレ? 才能ないわねー」
「うっさい! ああもう、むしゃくしゃするしもう一杯……」
「あら天子さん、ここにいましたか」

 天子が再びコップを手にしようとした時、部屋の戸が開かれて聖が現れた。

「少しお話したいことが……すみません、何でお寺でお酒の臭がするのでしょうか」
「……聖も飲む?」

 命蓮寺に鈍い拳骨の音が三度鳴り響いた。



 ◇ ◆ ◇



「天子さんが仰ったとおり、この命蓮寺では妖怪が人を襲わなくとも存在できるようになることを目標としています」
「はい」

 頭にたんこぶを作った天子は、聖に連れられて命蓮寺で一番奥にある部屋の前に連れられてきた。

「……ですが、実際のところ成果の方は芳しくありません」
「まあ裏で酒飲んでるくらいだしねー」

 自分もその悪行に加わっておきながら、いけしゃあしゃあと天子は口を開く。
 そんな天人に聖は呆れながらも、目の前の扉を開く。
 扉の向こうから、ひんやりとした冷たい空気が天子の足元に流れ込んできた。

「ここは?」
「食料庫です、腐りにくいよう魔法で冷やしております。冷気が逃げると良くないので、お寒いですが中へお入りください」

 言われたとおりに中に入ると、聖が入り口を閉めた。
 一度部屋の中が真っ暗となるが、聖がすぐに魔法で光球を作り灯りとし、食料庫の奥を漁って何かを取り出した。

「これを見てください」
「……なにこれ、随分とエグい見た目してるけど」

 聖が見せたのは、薄い透明のビラビラで挟まれた生の内蔵だった。
 紙や布とも違う幻想郷ではまず見ない類の人工物。天子は知らなかったが、それは外界で真空パックと呼ばれる保存法だ。
 そしてわざわざそんなもので保存する物とは、少し想像を巡らせれば簡単に答えが出た。

「あまり大きな声では言えませんが、この中に詰まっているのは人の肉です」
「まあそうよね、そんな気はしてた」

 先に紫が人を喰う姿を見たおかげで耐性がついたのか、少し気味が悪くはあったが大して動揺もしなかった。
 問題は何でこんなものが命蓮寺にあるのかだ。

「実はこれは、幻想郷を管理しているある妖怪から供給されたものです」
「やっぱりあいつか」
「あら、お知り合いでしたか?」
「あーいや、まあそんなとこ」

 実は件の噛み癖の妖怪がそいつで、しかも恋人ですとは言い出せず適当に答えを濁す。
 幸い聖は追求せず話を進めてくれた。

「表向き肉食を禁じ、人喰いの性質を持つ妖怪にも同じように言い聞かせています。修行者はそれに従ってくれているものも多いですが、やはり耐えようとしても耐え難いもの。今のところ我慢させ無為に苦しませて、本能が抑えきれなくなったところでこれを出し、欲求を満たさせているだけなのが現状です」
「……やっぱり、難しいか」

 聖から聞かされる命蓮寺の実態に、どうしても落胆してしまう。
 ここも成果なしなのか、途方に暮れてうなだれる天子に話は続いた。

「しかし今、一人だけ半年以上ものあいだ人肉を食べずにいる妖怪がいます」

 天子は俯いていた顔を上げ目を見張る。

「彼女は約半年前、血まみれで倒れているところを私が保護しました。それ以来、この寺で修行していますが一度も人肉に手を付けていません」

 説明を受けながら、天子は食料庫を出て別の部屋に案内された。
 命蓮寺の修行者達が住まう区画の中で、一番隅にあるひっそりとした部屋の前で聖は足を止める。。

「彼女の名はくいな。どうぞ話してやってください」

 この戸の向こうに、探していた人を食べたいと思わない人喰い妖怪がいる。
 思いがけず転がり込んできた手がかりに、天子は緊張で硬い表情をしていた。
 期待と幾ばくかの不安に一度拳を握りしめ、戸の取っ手に指先を掛けた。
 戸を引いて部屋に踏み入ると、そこには妖獣と思しき獣の耳をかぶった女の妖怪が、背を向けて正座していた。
 ちっぽけな背中のその妖怪は艶のあるショートカットの髪の毛も、毛並みの良い尻尾も微動だにさせず、仏教について説かれた書をじっと読んでいるようだった。

「あんたが……」
「初めまして天人様、お待ちしておりました」

 見た時は思ったより普通の背中に拍子抜けしたが、声を聞いた瞬間ぞわっとした悪寒が天子の身体を駆け巡った。
 思わず身を抱いて、すくみ上がる。
 こいつは一体何者なのかと、問いかけるように聖へと勢い良く振り返ったが、この寺の住職は困惑した顔で逆に問い掛けてきた。

「どうしましたか?」
「いや……」

 今の感覚は、天子だけが感じたものであるようだ。
 天子は答えることができず、もういちど一度部屋の中を見ると、その妖怪はいつのまにかこちらに向いて折り目正しく頭を下げていた。
 さきほど天子が感じた悪寒が嘘のような無垢なたたずまい。
 人喰いの凶暴さなど微塵も感じられない、無感動な瞳が天子を見た。

「犬の妖獣、くいなです。この身がお力になれば幸いです」



 ◇ ◆ ◇



 くいなのお淑やかというか、大人しく礼儀正しい妖怪だった。正直、性格だけ見れば天子よりもよほど天人らしい。
 彼女は拾ってくれた聖に恩義を感じており、聖のために修行しているらしかった。

「聖の客人に手を貸すことに理由はいりません。お話を聞きたいのならば、すべてお答えしましょう」

 くいなは初めて出会った天子に、正座をしたまま呼吸を崩さず言ってのけた。
 まるで戸惑いも反抗も見えず、あらゆることを受け入れているような超然とした雰囲気をまとっていた。
 その透明な瞳に早速天子は彼女に質問した。

「あなたは人を食べないそうだけど、どんな気持ちなの? やはり食べたいのを我慢してるの?」
「いえ、そういうわけではありません。以前は人を食べることに喜びを感じておりましたが、ここのところは食べたいとも思いませんので我慢もしていません」

 くいなの話を聞いて、天子は素晴らしいと目を輝かせた。
 彼女こそ天子が求めていた答えを体現していた。紫もくいなのようになれば、自分と平和に仲良く過ごすことができる。
 肩を並べた恋人が、いつ豹変し襲ってくるかと心配する必要もなく、静かに寄り合って夜を過ごす、そんな当たり前の光景の手がかりをやっと掴むことができたのだ。

 天子は毎日命蓮寺に通い詰め、熱心にくいなと話をした。
 どうすれば人喰いの欲求を抑えられるのかを調べるために、まずはくいな自身のことを尋ね続けた。

「最後に人を食べたのはいつ?」
「半年前、聖に拾ってもらう前に一人、それが最後です」
「くいなはどれくらい前から生き続けてるの?」
「そうですね、正確な歳はわかりませんが博麗大結界ができる少し前くらいから生きてますから、百五十から二百歳程度かと思います」
「今は人を食べてないようだけど、昔はどれくらいの頻度で人を食べてたの?」
「数ヶ月に一人か二人のときもあれば、一月で三人も食べれたこともありました。何分、力がそこまで強くありませんから、たまたま集落の外で見つけた人間を食べる程度でした」
「その時はどんな気持ちだった?」
「なんと言いましょうか、咀嚼した肉の感触から感じる生きることの充実感や、自分より弱い人間を殺すことの万能感に酔いしれ、心地良い気持ちに浸れるんです」
「それってお酒を呑むのとどっちが気持ちいい?」
「あれはお酒などとは比べ物になりませんよ」
「味で考えて好みの人間とかはいた?」
「小さい子供が好みでした。舌触りがなんとも言えなくて、血も香ばしくてスッと鼻に抜ける感じが好きなんです。臭いだけでもお腹が減って、興奮しました」
「……今、人を食べたらどうなると思う?」
「恐らく、獣の肉を食べるのとそう変わりないと感じるでしょう」

 人の肉について話すくいなは、まるで他人事のようで興奮した様子はなく、本当に人喰いに未練はないようだった。
 ついでに他の修行者たちにくいなの印象を聞いてみたりもした。

「くいなのこと? なんていうか、普通のやつだなって感じ?」
「変なやつだよねー、人喰いなのにまったく人を食べたくないなんて」
「気味が悪かったこと? ないない、あそこまで人畜無害な妖怪そういないわよ」
「全然怖くなくて元人間の私や一輪よりよっぽど人間っぽいんじゃない?」

 天子の唯一の気がかりが、あの日に感じた悪寒が何だったのかだが、あれが何だったのかそれを教えてくれる者はいなかった。
 最近感じた悪寒といえば八雲家の食事小屋が思い出されるが、あれともまた別種の感覚だった。
 あれ以来、天子はくいなから異様ななにかを感じたりはしなかった。ただ心身のバランスが崩れただけの気の迷いかとすら思う。

 ただ天子が覚えている感覚を自分なりに解析した結果、あの悪寒は生理的嫌悪に似ている気がした。
 例えば害虫を気色悪いと思うような、そんな理由のない不快感が近い。

 だが答えの出ない疑問は次第に薄れていく。
 とにかく天子は紫との平穏な日々のために、無我夢中だった。
 何故命蓮寺の中で、彼女だけが人を食べなくても生きていけるようになったのか。
 その秘訣を調べるため、まずくいな本人を理解しようと様々なことを聞いた。

 服装はあまり派手なのは好きではない。
 髪が短いのは、他に髪の毛の長い狼女を見かけたので区別が付きやすいように切っただけで、髪型に頓着はない。
 獣の肉は嗜好として普通に好き、ただし修行中のため我慢している。
 人間の血液型で好きな味はA型。
 音楽はあまり興味が無いが、祭りの太鼓の音は好き。
 覚えてる限り傍に親はいたことはない、命蓮寺に来るまでずっと一人で生きてきた。
 好きな天気は雨、逆に雪は嫌い。
 頭についた犬の耳を触られるのは好き、尻尾を触られるのは嫌い。
 生野菜は少し苦手、命蓮寺のご飯は質素ながらちゃんと調理してくれるので助かってる。
 弾幕ごっこはあまりやらない、すぐ負けて面白く無いらしい

 ただ残念なのが聖から「血まみれで倒れていたことに関してあまり追求してやらないで欲しい」と言われたことだった。
 そこにこそ秘密がありそうな気がしたが、こちらが協力している手前わがままは通せずそれだけは避けることになったが、聞けることは何でも聞いた。
 急ぐあまり無遠慮な天子の質問攻めにもくいなは嫌な顔ひとつせず、丁寧に答えていってくれた。
 やがてくいなという妖獣のおおよそを把握した天子は、次に「本当に人を食べたいとは思わないのか?」という方向に興味がシフトしていった。

「と言うわけで、くいなを人里に連れて行ってみたいのよ」

 折り目正しい正座で天子が聖に提案したのは、昼前から出発し昼ごはんを人里の適当な店で食べた後、好きに歩きまわって楽しんで、最後に夕飯を食べる人里体験コースだった。
 人を食べたいか否かの判断は、実際に人里に連れて行くのが早いだろうという考えだ。
 天子としては勝手に行けばいいじゃんと思うのだが、くいなが許可がないと行かないと頑なに言うので、仕方なく先に聖に話を持ち込んだ。
 勝手に動いて心配をかけるのが嫌ならしい、真面目なことだ。
 今回の実験の概要を書いた書面を置いて、聖が読書用の眼鏡を掛けた顔を上げた。

「随分と長いあいだ里にいるのですね。というかこれに書いてる夕食のお店の名前、居酒屋だったと思うんですが……」
「お酒は大事でしょ!?」
「はあ……」

 天子は酩酊状態が食人本能にどう関与するのかを調べたいとそれらしく説明した、決して自分が飲みたいわけではない。

「……天子さん、何故あなたにくいなを紹介したのか、理由がわかりますか?」

 聖は眼鏡を外すと、神妙な面持ちで今までにない話をしてきた。

「くいなと話してみて、彼女にはいまいち生きる活力に不足していると感じませんでしたか」
「まあ無感情なタイプよね」

 無気力という点について天子は同意した。
 確かにくいなは表面的にはか弱そうに見える。自分の修行には精を出すのに、他の修行者が隠れて酒を飲んでいてもまったく注意したり苛立ったりせず、部屋の中にも書物ばかりで趣味の私物がない、あらゆる物事に無頓着だ。
 あれではそばで見ているほうは、霞がかって消えてしまわないかと心配になってくるのも仕方あるまい。

「私がたまたま保護してから、くいなは熱心に修行をしてくれています。ですがその姿は儚げで、今にも消え失せてしまいそうで。修行自体も好きや恩義から行っているのでなく、ただ言われたからやっているように感じます」
「確かにそういうところあるかも……主体性がないっていうか……」
「あなたに協力したいからと思ったのはもちろんです。ですが同時に、あなたという刺激がくいなにとってプラスにならないか、と思っていたのです。あなたと話す中で、くいなに生きる活力が戻れば……と」

 その先の言葉を聖は言い淀む。

「……連日の質問攻めで、くいなにはかなり負担をかけているように見えます。本人がなんともないと言っていでも、人里まで連れ出して引っ張り回すのは」
「そ、そんな、お願いよ聖!」

 苦い顔をする聖に、天子は様相を一変してすがりついてきた。
 いつもと違う弱々しい顔をして、聖の両腕を掴んで必死に語りかける。

「やっと見つけた手がかりなのよ! 天界中の本棚をひっくり返しても、人喰い妖怪の性質を詳細に書いた本なんてなかった! それどころかそれを止めさせる方法なんて……くいな以外にないのよ! どうかこれだけはやらせて!!」

 普段の天子からは考えられないほど弱々しく切羽詰まった姿に、聖は身体を揺さぶられながら困惑して何も言えず言葉を受け止める。
 やがて懇願に耐え切れず、甘い言葉を選んでしまった。

「……わかりました、ただし条件があります。この実験が終わったら一週間の間を置くこと。それからくいなに会う時間は私が管理します、彼女の負担にならない範囲で調整し、制限します。よろしいですか?」
「うん、うん! それでいいわ! ありがとう聖!!」

 笑顔になった天子が、感激で聖の両手を掴んで振り回す。
 くいなの解析が長引いても、その分は自分が噛まれて痛いのを我慢すればいいだけだ、最終的に紫との平穏を手に入れられればそれでいい。
 だが嬉しそうな顔をする天子とは違い、聖の表情は苦悩の影が差していた。

 くいなと天子を引き合わせるべきでなかったかもしれない。天子がここまで必死になるとは思わなかった。
 だがもう聖は賽を投げてしまった、くいなの存在を教えた時点で全てが遅い。
 今更くいなとの接触を禁止したところで、天子は無理矢理にでもくいなに会いに来るだろう。
 なら行き着くところまで行くしかない、その結末がどうであれ。



 ◇ ◆ ◇



「それでは聖さん、行ってまいります」

 昼前の心地よい陽気が広がってくる頃合いに、支度を終えたくいなが命蓮寺の門前で丁寧な一礼を聖に見せる。
 人里に行くということで、桜模様の上品な着物に白い頭巾をかぶって、妖獣としての耳と尻尾を隠していた。
 命蓮寺が用意できる服装としては尼さんの格好が手っ取り早かったのだが、天子が「ダサいからやだ」と着物を持ち込んでこうなった。どこぞの入道使いが尼さん差別だと、親の仇を見るような視線をぶつけてきたが気にしない。
 天子の方はすっかりおなじみになった長袖とマフラースタイルだ。紫は定期的にやって来ては噛み付いてくるのでいつまで経っても噛み跡が消えず、服の下はとてもじゃないが見せられない。

「行ってらっしゃいくいな。あまり無理しないようにね」
「大丈夫だって、私が付いてるんだから」
「天子さんがいるから心配なんですが……」

 完全に素の性格がバレている今、聖からの態度に天人への尊敬は皆無だった。
 聖に手を振って送り出され、天子とくいなは人里へと向かう。
 と言ってもそんなに遠いわけではない、門から出て三分ばかし歩けばもう人里である。
 もとから人妖平等を目指す寺だ、人里からはできるだけ近い位置に建てられていた。

 事前の予定の通り、まずはお昼ごはんを食べるために料亭へと足を運んだ。
 かなり稼ぎの良い層しか来れないようなお値段だが、値段相応の美味しさを約束してくれる良店だ。
 漆で塗られた達筆な看板の下をくぐり、二人は店の敷居をまたいだ。

「予約してた比那名居だけど」
「はいかしこまりました。すぐお席までご案内します」

 はっきりとした、それでいて不快のない透き通った声で店員が対応してくれる。
 教育の行き届いた店員が案内してくれた部屋は、綺麗に整理された庭園が一望できる特等室だった。
 厳かで力強い岩石を中心に波打った砂利が自然の流れと雄大さを表現し、天子は感嘆の声を上げる。

「中々良いじゃない。地上のドロドロした穢れっぽさを残しつつ、ここまで魅せるとはやるわね」
「はい、見事なものですね」

 机を挟んで向かいに座ったくいなが頷くのを横目で見て、天子は面白く無いやつだなと思った。
 金を掛けて良い店を選んだのになんとも味気ない感想だ。臆して本心を隠しているわけでもなく、本当に額面以上のことを感じていないかのようだ。
 聖が心配するだけあって無感情が過ぎる、今のところ捕食対象であるはずの人間たちの中にいても、彼らに大した興味を示していないようだった。
 まあそれはひとまず置いておこう、それより飯屋に来たのならやることは一つだ。

「さて何食べようかしら。くいなは何にする? 値段なら気にせず好きなの頼んでいいわよ。って言ってもここのメニュー値段書いてないけど」
「そうですね……今日は聖さんからお肉とお酒の許可をもらっていますから、どうせなら季節のお肉と言うものを頼んでみます」
「いいわねぇ、私もそれにしよっと。女将さーん!」
「――はい、ただいま」

 呼ぶなり音もなく襖が開かれ、廊下から女将らしき妖美な女性が入ってくる。
 メニューを視線を落としたまま、天子は女将に話しかけた。

「とりあえずこの季節のお肉で、二人分ね」
「はい」
「あとデザートに果物もお願い」
「はいかしこまりました。お客様は桃は食べ飽きてますし、他の果物を多めにしておきますね」
「おー、気が効いて……」

 何で桃のことを知っているんだろうと思い振り返った天子の先に、信じられない顔が人当たりの良い笑みを浮かべていた。
 不審に思い首を傾げるくいなの前で、天子はパクパクと溺れた魚のように口を動かす。

「……ユカリサン、コンナトコロデナニシテラッシャルカ?」
「あら天子奇遇ね。ちょうど私、今日はここでバイトしてるのよ……ふわあぁぁ、それにしても眠いわ」

 妖怪の賢者が人里の料亭でバイトって何なんだよとか、バイトなら客前であくびすんなとか突っ込みたかったが、下手に突っ込むと余計話がこじれそうで出来なかった。

「あの、天子さんそちらの方は……」
「はいくいなさん初めまして、私は妖怪の賢者をやっておりますスキマ妖怪の八雲紫と申しますよ」
「妖怪……そんな方が何でここに」
「ちょ、ちょっと紫!」

 にっこりと笑いかける紫の首に天子は腕を回し、くいなに背を向けるよう引っ張り耳打ちした。

「何であんたがここにいるのよ!?」
「別に―、ただー、私のことを放ったらかして別の女に入れ込んでるから嫉妬したとかー、そんなんじゃないしー」

 嫉妬したからって強引すぎやしないかだとか、そんな喋り方で許されると思ってるのかだとか、そもそもくいなと会ってたのも紫のためなのにだとか、煮えたぎった思いが天子の頭をかき混ぜるが、歯を噛み締め、鋼の意志でそれらを制した。
 適当にあしらうくらいが丁度いいと考え、紫に回していた腕を離す。

「それではお客様、ただいまお持ちいたしますので少々お待ちください」
「お、お願いね」

 一応従業員として仕事はする気らしく、紫は襖を開けて普通に部屋を出て行った。
 あの紫が料亭で働いているシュールな姿をつい想像して、天子は吹き出しかけるのを抑える。

「先ほどの妖怪とは親しいのですか?」
「……まあ、そんなとこ」

 あれを恋人と言うのは気恥ずかしくてできなかった。

「あの様子だとあいつこの後も着いてくるわね。どうしようかなー、くいなを人里に連れてくるなんて、これから聖が許してくれるとは限らないし……」

 紫には悪いが、貴重なこの一日を別のことに割くのは御免被りたいところだった。
 なんとかくいなの観察に集中したいが、紫はきっとこの後も着いてくるだろうし、言ったところで帰ってくれるとは思えない。
 敵に回すと厄介な事この上ない妖怪を相手に天子が頭を悩ませていると、くいながほんの少し口端を釣り上げた。

「……次の機会は、私から聖さんにお願いしますよ」

 ハッとなった天子が顔をあげると、初めて見るくいなの微笑みがそこにあった。

「だから天子さんは、あの方のことを気にかけてあげてください」
「くいな……」
「あの妖怪、とても天子さんと一緒にいたいように見えました」

 誰からに言われたのでもない純粋な気遣い。
 くいなが持つ本質的な優しさに天子は迷いから吹っ切れ、自然な笑みが戻ってきた。

「ありがと、くいな」

 今までいくら聞いても見えなかったくいなの性格が、少し見えてきた気がする。
 天子は素直な感謝を感じながらも、人里に連れて来てよかったと思った。

 その後、食事を持ってきた紫は当然のように同席し、ちゃっかり自分の分の昼食まで用意していた。無論請求は天子に行く。
 安くないご飯を奢らせれた天子が恨みがましい声を上げたり、それを紫がおどけて返したりと、二人らしい時間が回る。
 存在感の薄いくいなはほとんど口を挟まず、黙々とご飯を食べながらじゃれあう二人を見つめていた。

 昼食の後は人里のお店を見て回ったが、やはり紫は紫色のドレスに着替えてこれにも着いてきた。
 どの店に入るのか決めたのはほとんど天子だ。雑貨屋から家具、刃物店まで見境なく興味を示し、二人を引っ張り回した。

「ほほぉー、下界の鍛冶屋も意外とやるじゃない。ねえー、見てみて紫この包丁。そこらの妖怪くらいなら切れそうじゃない?」
「女の子と一緒に出掛けて刃物が云々とか、もっと他に行くべきところがあるでしょ。可愛い服とか小物とか」
「それも後で行くわよー。ねぇ、紫で試し切りしてみていい?」
「いいわね、それじゃあ私はこっちの業物で天子の身体を……」
「それ刀じゃん、ガチで切る気まんまんじゃん」
「丸かじりもいいけど、先に切り分けてというのも……」
「あんたが言うとシャレにならないから!」

 どこでもやはりくいなは喋らずに、これでは天子と紫だけでデートしているも同然だった。

「ごめんねくいな、なんか私達ばっか楽しんでて」
「構いませんよ。仲の良いお二人を見ているだけで、私も楽しいです」
「そう? ならいいんだけど」

 くいなの無表情の顔からでは真意を汲み取れず額面以上のことがわからない。
 なんにせよこのまま放っておくというのは、少しばかり天子の良心が痛んだ。

「まあでも、くいなも行きたいところあったら言ってくれていいわよ。どこかないの?」
「それがこういうことには疎くて……どこに行けばいいか」
「そっかぁ、ずっと一人で生きてきたからこういう感性が育ってないのね。部屋の中も質素だったし……そうだ、お人形とか置いてみたらどう? ちょっと可愛いので自分の部屋を埋めてみなさいよ!」
「人形ですか? 」
「そうそう、くいなってばドライ過ぎだし、色々試してみるべきよ。他にも髪飾りみたいなアクセサリーとかー。あっ、ほらあそこのお店に!」

 持ち前の明るさが炸裂し、天子は小物を売っている店にまでくいなの背中を押していく。
 その背中を見つめる、紫の重い視線には気づかずに。

「どうどうこの髪留め? 花のデザインがくいなの大人しさにもあってて良いんじゃない?」
「そうですね、派手なのは好みませんがこれくらいなら」
「他にもいいのないかなー」

 天子が店先に並んだ品を物色する隣で、くいなはアクセサリーよりも別に気になるものを見つけた。
 道端で小さな少女が泣きじゃくっている。
 手に取っていた髪留めを棚に戻し、少女の方へと近付いた。

「どうしたのお嬢ちゃん?」
「ぐす……おかあさんが……」
「お母さんとはぐれちゃったのね、よしよし」

 とりあえず助けてあげるべきだろうと子供の頭を撫でてあげて慰めるが、子供の扱いがくいなにはわからない。
 やはり母親を探してあげるべきだろうか。

「あの天子さ――」

 天子に助けを求めようと振り返った時、そこに見知った顔はどこにもいなかった。

「――あれ?」



 ◇ ◆ ◇



「ちょ、何よ紫、こんなところに連れ込んできて!」

 喚く天子を無視して、紫は問答無用といった様子で路地裏に恋人を引っ張りこんできた。
 天子は掴まれた手首に込められた力に思わず苦痛で顔を歪ませる、やはり紫は大妖怪だけあって基礎能力も馬鹿げている。
 人に見向きもされない薄暗いこの場所で、紫は天子を店の壁に押し付けると、壁に手を突いてねっとりとした視線を浴びせかけた。
 気のせいかその顔は妙に上気してる気がする。

「ごめんなさいね、我慢できなくなっちゃった」
「我慢って――んっ!?」

 疑問を返す天子の唇が、またもや強引に塞がれた。
 紫はすぐに顔を離したが、粘膜を通して伝わってきた熱に天子は目を白黒させたままだ。

「今は、甘えさせてちょうだい」

 興奮が伝わった天子が息を荒くして肩を上下し始めた時、紫の手がマフラーを横に引っ張って緩めた。

「ごめんなさい――」

 天子が何か言う間もなく、露わになった噛み跡だらけの首筋に、大口を開けて齧りついてきた。

 ――何でそうなるのよ!

 痛みで辛そうに顔を歪ませた天子は、恋人の求める先が食欲なことに苛立ちを感じ、紫の肩を押し返そうとする。
 しかしどれだけ力を込めようと紫は頑として動かず、ほとんど抗えないまま熱い息を吐くしかなかった。

「天子が悪いのよ、私の事ずっと放っておくから」
「放ってって、むしろ放ってかれてたのはくいなじゃ、んっ!」

 顎に力を込められると肌の下からゴリッと音が鳴り、天子は痛みに短い悲鳴を上げて首を反らした。
 路地裏からの狭い空の青さが目に映る、いつも過ごしている空がとても眩しく遠く感じ、どこか非現実的に思えた。

「今日のことだけじゃないのよ。このところ毎日毎日、ずっと命蓮寺に通い詰めて、私のことを無視して。それなのに他の子と目の前で楽しそうで話されたりしたら」
「それは、だって紫のためだし。それに夜の間には会いに来てたじゃないの」
「それでも、恋人に放って置かれるのは寂しいわよ……」

 紫の悲しげな声に、天子の腕から力が抜ける。

「あなたが妖怪のことを理解できなくても、ただの寂しさくらいはわかってちょうだいよ……」

 恋人としての気持ちを持ちだされると、天子には弱々しい顔のまま何も言えなくなってしまった。
 天子だって紫の願いはできるだけ叶えてやりたいのだ、与えてあげたいのだ。
 だからこそただ噛むだけならどれだけ痛くたって我慢して受け入れている。

 けどこんなのは間違っているはずだ。
 この先では、どっちも幸せになれない。
 そうわかってるのに、噛む度に恍惚そうな顔をして一時の幸せに浸る紫を見ると、止めてと強くは言えなかった。

「天子、天子……」

 天子の抵抗がないのを良しとしたのか、再び紫が力を込める。
 歯を食い込ませて肉の感触と味を確かめると一度顔を離し、天子への愛を呟いてまた噛み付く。

「好きよ天子……ん……愛してる……」

 至近距離からの囁きが天子の心にドロドロと流し込まれて、愛情と苦痛の間で天子の思考が溶けていく。
 それでも感じる苦痛に、天子はやはり紫を止めようと考えなおす。

「ゆ、紫……愛してくれてるって言うなら、お願いだからもう止め……つっ!」

 その時、今までにない鋭い痛みが天子の身体を走った。
 何故か噛んでいた紫のほうが一瞬身体を震わせ、力なくヨロヨロと後退するのを見て天子は疑問を抱きながら噛まれた首筋を押さえた。
 指先を見て見ると、ドロッとした紫の唾液に混じって赤い液体が光沢を放っていた。

「――血っ!?」

 歯が表皮を食い破ったことを理解した天子は、顔を真っ青にして紫を見た。
 紫は瞳孔の開いた眼を揺らしながら、わずかに血で濡れた口元を両手で押さえた荒い息で舌先から感じる血の味に震えていた。

「血……天子の血……!?」
「紫落ち着いて! 飲んじゃダメよ吐き出して!」

 だが紫にとって待ち望んでいた恋人の味に、理性は効かなくなっていた。
 天子の目の前で我慢しきれなかった紫は、一息に口の残った血を飲み込んでしまった。
 拙い。どれだけ少量だろうと、天人の血が妖怪にとって有害だ。
 恋人の危機を感じ、天子は咄嗟に行動に出た。

「紫ごめん!!」

 血の味に酔う紫の腹部を、天子は拳で思いっきり殴りつけた。
 小さな拳が鉄杭のようにめり込み、紫の内蔵が激しく圧迫されて身体がくの字に折り曲がる。

「お……おええええぇぇぇ!」

 顔をしかめてしまう嫌な音と共に、紫の口から胃の中のものが逆流する。
 路地裏に吐瀉物が広がって行くのを、天子は気味が悪いながらも目をそらさず見ていた。
 飲み込んだ血もこれで一緒に出てきただろう。すべてを出し終えて、涎を垂らしながら激しく咳き込む紫の背中を、天子はできるだけ優しくさすってあげる。

「大丈夫、紫?」
「ゲホッ、え、えぇ……ありがとう天子、助かったわ」

 容赦なしに恋人を殴りつけるのは罪悪感があったが、紫の言葉のおかげで救われる。
 天人の腕力でけっこう本気で殴ったが、さすがは大妖怪だけあってダメージは吐く程度でしかないようだ。
 安心に肩を落として溜息をつく天子だが、もし紫が血を飲み込んだままだったらどうなったのか、最悪の事態を想像して恐怖に震えた。

「……もう噛むのは良いでしょ、ほらくいなのとこに戻りましょ」

 天子は怯えを隠してマフラーを再び首に巻き、ツンとした臭いの立ち込める路地裏から出ようとする。
 だがその背中に突然紫が覆いかぶさった。

「ちょっと今度は何よ!?」
「いやね、大したことじゃないんだけどね……眠いのに無理して来てたところでこのダメージでしょ……もうダメ限界、ここで寝させて」
「マジ!? 待ってよ紫、寝るなら帰って」
「ぐぅぅ……」
「寝付き早っ!? あーもう、信じられないわこのババア!」

 抱き着いたまま寝息を立て始めた紫を、天子はしょうがなく抱えたまま路地裏から通りに出た。
 しかし辺りを見渡しても、どこにもくいなの姿はいなかった。



 ◇ ◆ ◇



「ほら泣かないで、すぐお母ちゃんを探してあげるからね」
「ぐすっ……うん……」

 泣いている少女の手を引きながらくいなは人里を練り歩くが、その無表情とは裏腹に困っていた。
 一人で生きてきたくいなには人間の子供の扱いというのがよくわからない、天子たちに頼ればよかったのだが、覗き込んだ路地裏では何やらお楽しみ中だったらしく邪魔できなかった。
 犬の妖獣としての嗅覚を活かしてその子供に付いていた別の人間の臭いを覚えて探してみているが、臭いの大本に辿り着くにはまだ掛かりそうだった。

「うええぇぇん…………」

 大きな声こそ出さないが、中々泣きやまない少女を見てくいなは溜息をつく。
 お菓子でも買ってやれば良いかもしれないが、天子がすべての代金を支払うと息巻いていたので生憎と路銀は持ってきていなかった。
 生真面目さからひねった考えも出てこず悩んでいた時、青みがかった銀髪の女性とすれ違う。

「――そこの方、待ちなさい」

 わずかな剣呑さが漂う声に、くいなが頭巾の下の耳をピクリと動かしてから振り向く。
 深い青色の四角い帽子を被った銀髪の女性が、敵意を含めた眼でくいなのことを睨み付けて来ていた。
 泣いていた少女が鼻をすすりながら、不安げにくいなと女性を交互に見やる。

「妖怪が、子供の手を引いて何をしている」
「私が、妖怪……と?」

 一瞬でくいなの正体を看破してきた女性に、くいなは逆に問い掛ける。

「私も半分は妖怪だ、変化しているわけでもなければ見分けは付く」

 なるほど嘘偽りが通用する相手でもなさそうだ。
 そして泣いた子供の手を引いたこの状況、どうやら知らぬ間に厄介なことになってしまったようである。

「……たまに温厚な妖怪が人里に入ってきているのは知っている、しかし里の子供を連れているとなれば見逃す訳にはいかない」

 女性は語気を強めて威圧してくる。
 どうしたものかと一瞬悩むが、弱小妖怪に取れる選択肢などなかった。
 観念したくいなは溜息を一つ吐くと、頭巾に手をかけてその下の素顔を明るみに晒した。
 現れた獣のそれと同じ耳に、周囲にいた通行人からどよめきが上がった。

「よ、妖怪だ……!」
「妖怪がいるぞ」

 たまたま出会った妖怪の姿に、幾人から怯えた声が出た。
 くいなの隣りにいた少女も、それに釣られるように顔を恐怖で引き攣らせる。

「ひぅ……!?」
「ほら、お嬢ちゃん危ないよ」

 危ないと見たか、どこぞの男が少女の手を引いてくいなから引き剥がした。
 くいなはそのことに気付きもせず、こちらを睨みつけてくる女性から目を逸らさず対峙する。
 周囲の人々は驚いたようだが、妖怪と立ち会っているのが上白沢慧音だと気付くと安心し始めた。
 やはり幻想郷に住まうだけあってこういったことへの度胸と順応性は強い。それどころか良い見世物として見物客が集まってきて、つかず離れずの距離に人垣ができ始めていた。
 そこから少し離れた場所で、一回り大きい女性をおぶった奇妙な少女がひょっこりと通りに現れた。

「くいなのやつどこ行ったのかしら。紫が起きてくれてたらすぐ見つかるんだけど」

 紫を背負いながら、くいなを探して里をうろついていた天子だった。
 大人しいくいなのことだから面倒事を起こすことはそうないだろうが、それでもこのまま放ったままというわけにもいかない。
 まあこのまま歩いていればどこかで見つかるだろうし、最悪紫が起きたら探してもらえばいい。
 楽観的な気分で足を動かしていると、往来の真ん中で里の人間がひしめき合っているのを見つけた。

「何かしらあの人だかり」

 どうやら人々が何かを取り囲んでいるようだが、面白い見世物でもあるのだろうか。
 好奇心で人垣をかき分けて人の輪をくぐり抜けた天子は、その中心でくいなと、以前にも会った慧音が睨み合ってるのを見つけ、血相を変えて走り寄った。

「ちょ、ちょ、どうしたのよ、くいな!」
「天子さん、これは……」

 慧音は天子の姿を認めると、訝しげな表情を強めた。

「比那名居天子? この妖怪はあなたの――って、何だその背中の!? 何でそんなの厄介なやつ背負ってる!?」
「えっ、あんたこいつとお知り合い?」

 紫の姿を見るなり一気に警戒の度合いを最大まで引き上げて、臨戦態勢を取ってしまった。
 天子の介入で余計ややこしい状況になりつつあったが、しかし紫に注意が注がれたお陰で、くいなに少し余裕が戻ってきた。
 喉の奥に詰まっていた息を吐き出して肩を落とし、緊張をほぐすように辺りを見渡す。

「……あら、先ほどの子供は」

 ようやく少女が自分の元から離れていたことに気付いたくいなは、辺りを見渡す。
 妖怪が怖くて逃げてしまったか、それとも他の人が保護したか。少し心配ではあるが、この場から動けない以上は、気を揉んでも仕方ないだろうと思考を放棄しようとした。
 しかし繊細な鼻腔がその場に残った何者かの臭いを嗅ぎ分けると、毛を逆立て目を見開いた。

「……拙い」

 静かに呟いて虚空を見つめる。

「天子さん、その方をお願いします!」
「えっ? なんかわかんないけどわかった!」
「うわっ!? やめろ引っ付くな!!」

 突然の頼みに天子は咄嗟に慧音にしがみついて動きを縛り、その隙にくいなは地を蹴って駆け出した。
 辺りを囲んでいた様子を見守っていた野次馬たちも、妖怪が猛然と飛び出してきた見るや慌てて散ってくいなの道を開けた。

 くいなが目の色を変えて臭いを辿るその遙か先では、大柄な男が泣き続ける少女の手を引いて歩く姿があった。

「ほら、妖怪に引っ張り回されて怖かったねぇお嬢ちゃん」
「う、うん……」

 妖怪を前に咄嗟に男の後を着いてきてしまった少女であったが彼との面識はなく、親しげな顔を浮かべる男が怖くなり始めていた。

「実はおじさんはね、お嬢ちゃんを探すようお母ちゃんに頼まれてたのさ。今から連れてってあげるよ」
「ホント?」
「ああ、本当さ」

 優しい声色で語りかけてくる男に少女は警戒を緩め、母と会える喜びに笑顔を浮かばせる。
 しかし男が連れてきたところは、浮浪者が道端に座り込んでいるような、人里でも特に寂れて人気のない一角であった。
 こちらを睨めあげてくる薄汚い乞食に少女は怯えながらも、今更一人で逃げ戻ることもできず、目の前の男についていくしかなかった。

「さあ、お母ちゃんはこの先だよ」

 薄暗く誰も寄り付かない廃屋の前にまで来た男は、子供の背を叩いてその押し込んだ。
 流石におかしいと感じた少女が身を震わせる。

「……お母さんどこ? ここにいるんじゃないの?」

 振り返った少女が見たのは、人では考えられないほど口を大きく開けて、こちらに飛び掛ってくる男の姿だった。
 わけもわからず本能的に悲鳴をあげようとした瞬間、男の脇から矢のように人影が飛び込んできて少女の身を攫った。
 急に標的がいなくなりつんのめった男は、倒れそうな身体を起こし背後の影を見やった。

「お前はっ、さっきの妖怪!」

 寂れた道の端で、子供を抱いて腰を落としたくいなが男を睨み付けていた。
 明らかに男に対して警戒を向けるくいなの腕で、男の変貌と妖怪が自分を助けたという事実を前に少女は混乱し、泣き声も出せないまま涙を零した。

「な、なんだってんだお前、突然出てきて。お、俺ぁ別に……」
「隠しても無駄です、いかに変化しようと私は鼻が利きます」

 焦って取り繕う男に、くいなは変わらず強い眼光を送る。

「土と草と、溢れる獣の臭い、あなたは私と同じ妖獣ですね」
「よう……じゅう……?」
「妖怪ということですよ」

 男の正体を聞かされ、少女が「ひっ!」と悲鳴を上げる。

「……ククク、独り占めしようかと思ったが、バレちゃあ仕方ないな」

 男はくいなに対して偽るのをやめると、堂々とした態度で重圧な声を響かせた。

「仕方ない?」
「ああ、お前さんだってその人間を狙ってたんだろ? 山分けと行こうじゃないか」

 太い手を差し出して、男がくいなに言い寄ってきた。
 遠慮のない獰猛な瞳が少女の柔肌を舐めるように見つめてきて、くいなの腕の中で小さな身体が震え上がる。

「俺はなあ、手足の部分が大好物なんだよ。他の奴らは内蔵とかが好きってんで珍しがられるけどさ、獲物の手足を食いつぶして逃げようとしても逃げられない様子を見るのが乙ってなもんだ。お前は腰から上、俺は下半身と両腕でどうだ?」

 やはり目的は少女を食べることにあったか。
 山分けとは、昔の非力なだけのくいなならばすぐさま飛び付くような話だが、あの頃とは状況が違った。

「あなたは勘違いされているようですが。人里で妖怪が人間を襲うのは禁忌ですし、私に人を食べる気はありません」
「ああ? ……せっかくこっちから譲ってやったっていうのに、潰すぞテメエ」

 男が重い足音を立てて踏み出したのを見て、くいなは少女を抱えたまま身構えた。
 変化という手段を取って里に入り込んだ妖怪なら、パワーに劣る小手先の戦闘タイプかもしれないとくいなは考える、それなら弱小の自分にも一縷の望みがある。
 身体能力に任せて相手を撹乱、これしかない。
 しかしくいなの予想とは裏腹にメリメリと音を立てて男の体が膨らんでいく。
 目を丸くするくいなの前で、服を破いて巨大化した背は二メートルを超え、全身から刃も通さないような厚い毛が生え出した。

「幻想郷なんてのに押し込められて人を食べる機会ってのもぐっと減っちまった! せっかく性に合わねえ変化まで覚えてこの餌場に来たんだ、とっとと食わせろよその小娘!」

 正体を表した『熊』の妖獣を見てくいなは悟った。

 ――ダメだ勝てない。

 熊男が飛び掛ってくる。その動作は先程のような鈍足ではなく、その体重からは考えられないほどに素早くくいなの身に迫ってきた。
 恐るべき瞬発力だ、この一瞬の動作だけでくいなは男の能力のすべてが自分を上回っていると思い知らされた。
 選んだのは逃げの一手。慌ててくいなは横に飛んで見をかわすが、獰猛な爪が少女の肩をかすめた。

「くっ」
「きゃあああああ!!!」

 大した傷ではないが、少女の心は耐え切れず金切り声が響く。
 破けた服の下から飛び散った血が地面に染みを作り、わずかな血の臭いが妖獣たちの鼻を震わせた。

「いいねぇ、この血の匂い。腹が減って止まらねえ。テメエもそう思うだろう!?」

 男は拳を握り締めると、今度は少女ではなくくいなに向かって殴打を繰り出してきた。
 飛び退ったくいなの脚に拳が半分ほどめり込み、くいなは着地もできず地面に転がった。
 咄嗟に少女を突き放して、少しでも男から遠ざける。

「今のうちに逃げて!」
「あ……あぁぁぁ……」

 必死に呼びかけるが、少女は腰が抜けたのか、力なく首を横に振ることしかできなかった。
 やはり自分がなんとかするしかないようだが、振り返った先には続けざまに殴りかかってきた男がすぐ目の前まで来ていた。

「とっとと、そいつを寄越せよお!!?」

 抗いようのない暴力に、死すら覚悟したくいなの前で、突然現れた白い何かが拳を弾いた。
 くいなも男も呆気に取られる。その時にはすでに白い何かは消え失せて、後に残ったのは棒立ちの熊男と地面にへたり込むくいなだけだった。

「な、何だ今の腕……?」

 困惑する男だったが、そう言われても理解が追いつかないのはくいなの方だった。そもそも腕だったのか?
 続けて二度三度と拳が振るわれて、ようやくくいなは何が起こったのかわかった。
 確かに腕だ。白い手袋を着けた腕が文字通り空間から生えている。
 そして腕は細長い指を伸ばすと、男の拳に指先を添えてこともなげに殴打を弾いて見せたのだ。
 攻撃が止めば腕もまた瞬時に消える、この時に漂ってくる臭いにくいなは覚えがあった。

「クソ、いい加減に……」
「――そこまでよ下郎」

 張り詰めて凛とした声が、窮地を裂いて辺りに響く。
 聞き覚えのある声にくいなが背後を見上げる。
 紫を背負ったままの比那名居天子が、怒りを込めてそこにいた。
 自分より体格の大きい女を抱えたその姿は見ようによっては滑稽だが、そこから溢れる威圧感は間違いなく強者のそれだ。
 小柄な少女から叩きつけられる殺気に、男は怯み後ずさった。

「あんたは二つ選択を誤った。一つは人里を狙ったこと、もう一つは、よりにもよって私の友達を狙ったこと」
「な、何だ小娘、ナニモ――」

 男がうろたえて喋ろうとした時には、獣臭い口に要石が掘削機のようにねじ込まれていた。

「――たかが妖怪が、許さない」

 石の塊が音を立てて口内をえぐり、幾つもの歯が砕かれへし折られる破壊的な光景に、見ているくいなも息を呑む。
 当然堪え難い激痛が男の脳を貫いたが、哀れにも喉の奥にまで押し込まれた要石に声を出すこともできないまま、痺れる身体を震わせるしかない。
 やっとのことで鼻からくぐもった声を出せた時には天子が前に躍り出て、緋色の輝きが男の右脇腹から左肩までかけて一閃した。

「死ね」
「も、もう死んでるんだが……」

 遅れてやってきていた慧音が、緋想の剣を手にする天子に思わず同情的な声を上げた。
 天子の前では二つに別れた妖獣が音を立てて崩れ落ち、切り捨てられた場所から煙を吹き上げて消え失せようとしていた。

「何よ、どっちみち里の人間に手を出した時点でこうなるもんでしょ?」
「いやそれは確かにそうだが」

 天子の言うことは正論ではあるが、迷いなき天子の熾烈さに慧音は引き気味だった。
 どこぞの巫女も、今回のことを知っていれば同じことをしただろうが、それでもそれが規律に依るものか、感情に依るものかで性質も感じ方も違うものだ。

「で、くいなは大丈夫?」
「はい、ありがとうございます。でも何故ここに」

 剣をしまった天子は手を差し出した。
 くいなはその手を受け取ると引っ張りあげてもらい、痛む足に顔を歪めながらも立ち上がる。

「なんか面白そうだから、頃合見て追いかけて来ちゃった。こんなことなってるとは思わなかったけど」
「よくここがわかりましたね」
「こいつがナビゲーター役してくれたからね」

 天子がそう言って顎をクイと上げて後ろを示した。
 背負われたままの紫が顔を上げ、目尻に涙を溜めて大きな欠伸を放っていた。

「ありがとうございます、紫さん」
「こいつが眠いとか言ってないで直接スキマで連れてってくれたらもっと早かったんだけど」
「自分以外もなるとスキマの座標計算が大変なのよ、寝起きなんだから勘弁してほしいわ」

 そう言って紫はまた天子のマフラーに顔を擦り付けて寝る体制に入ってしまった。
 「こいつ」と天子は腹立たし気な声を上げたが、今回の恩を考えると強くも言えない。
 一方、くいなが少女を助けていたことを察した慧音は、兎にも角にも少女の傍に駆け寄り小さな身体に手を差し出していた。

「キミ、大丈夫か?」
「ひっぐ、ぐす……怖かったよせんせえぇ」

 少女の肩にはわずかな爪跡が残るものの、他にめぼしい傷はなく命に別条はない、しかしやはりあれだけの恐怖を体験したのだからその声は震えっぱなしだった。
 揺れる声色にくいなは頭の上に付いた犬の耳を揺らして振り返る。
 無表情な瞳に傷ついた少女の姿を映すと、自身も怪我をしているというのに痛む足を動かして、ゆらりと少女に近付いた。

「くいな……?」
「あら、香ばしい匂いね」

 寝入ろうとしていた紫が、突如顔を上げて声を出した。
 耳元に掛けられる息の熱さに天子はぎょっとして、肩に乗った紫の横顔を見る。
 その眼は天子を食べようとしている時に見せる、恐るべき妖怪の不吉な輝きが灯っていた。

「新鮮で活きがいい子供の匂い。嗅ぐだけで柔らかい肉の感触が感じられそうだわ」

 どうやらあの子供は妖怪基準で見れば大層なご馳走らしい、普段は天子以外の人間には栄養摂取と割り切っているらしい紫が言うのだから相当なものだろう。

『小さい子供が好みでした。舌触りがなんとも言えなくて、血も香ばしくてスッと鼻に抜ける感じが好きなんです』

 天子の脳裏には、くいなの過去の発言がよぎっていた。
 そのくいなが、今その子供に向かって歩みを進めている。
 ドクンと心臓が高鳴り一瞬血の気が引いて、すぐに今度は興奮で血が巡り始めた。
 怪我を負った子供に対しくいなはどう振る舞うのだろうか、期待と不安が入り混じりその光景を食い入る様に見つめた。

 そしてくいなは目を見開いたまま少女の前で膝を突いて、自らの右手を伸ばし――

「大丈夫? ほら、泣かないで」

 泣きじゃくる少女の頭の上に手を置いた。
 その光景には何ら悪意がなく、そのあまりの自然さに慧音も妖怪が少女に近づくことの危険性に気が付かず、後から我に返って慌ててくいなを引き剥がしていた。
 捕食対象に優しく語りかけたくいなの姿に、天子は真ん丸くした目を嬉々として輝かせ、唇で結んで一文字を大きく吊り上げた。

「ほらほら、見てた紫!? 血を嗅いでも子供のことを食べようとは思ってもいない!」

 とびっきり明るい声で、夢中で背中の紫に話しかけた。
 正しくアレは天子にとって『希望』に相違ない。

「何でそうなったのか解明すれば、紫も私のことを食べたいなんて思わずに済む……!!」
「……そう、天子は私に、食べて欲しくないのね」

 だが天子とは対照的に、紫の態度は酷く冷たいものだった。
 そんな紫に、天子は苛立たしげに睨みつける。

「何よ今更、どうせあんたのことだから、私のしようとしてることだってお見通しだったんでしょ」
「言ってもらわなきゃ伝わらないわ」

 そう言って紫は緩慢な動作で背中から降りると、天子から一歩距離を取った。
 離れる恋人に、天子は困惑して瞳を揺らしながら、彼女らしくもない呆然とした声を出す。

「どうしてわかってくれないのよ、私はただ紫に……」
「わかってくれないのは、あなたも同じよ」

 いつもひらひらと人の気持ちをかわす紫が、こんな頑な態度を見せてくるのは初めてだった。
 まるで踏み込んではいけない領域を守るような圧力に、天子は押し黙らさられるしかなかった。

 その後、くいなに関しての嫌疑も解け、慧音からは目立つ行動をしない限りはと人里内での行動を許され、天子たちは再び実験の続きに戻った。
 結果的に見れば誤解を解く良いきっかけになったし、二人の怪我が軽いものだったのも不幸中の幸いだった。
 天子にとってはくいなが少女に対して何もしなかった時点で実験の答えは出ていたのだが、予定を変えて中途半端なまま帰るのは気持ち悪いからと意地でも帰ろうとしなかった。
 しかし、一日が終わるまで紫との関係はギクシャクしたものだったが。
 くいなは訝しげな目でそれを見ていたが、天子の機嫌がよくなさそうと察して深くは聞かなかった。

 そうこうしているあいだに日が落ちて、三人は事前に予定していた居酒屋に足を踏み入れた。
 天子は席に紫とくいなを残し、先にお手洗いのほうを済ませてこようと店の奥へ入って行った。

「なんだか、途中から変じゃありませんでしたか」
「どうしてもね、意見がくい違うくらいのことはあるわ」

 二人きりになって、ようやくくいなが気になっていたことを尋ねてみた。
 いささか不躾ではあったが紫は特に怒るでもなく、自嘲するように薄く笑って返す。

「天子はね私のために色々と頑張ってくれているの、そのことはとっても嬉しいんだけど、彼女の気持ちの全てには応えてあげられない。ほらわかるでしょう? どうしても譲れない部分というものはあるの」
「はあ」

 天子がいなくなった途端、溜まっていたものを吐き出すように紫はやたらと饒舌に語り始めた。
 それを眺めるくいなは相変わらずの無表情だが、視線にはわずかに冷淡なものが浮かんでいた。

「彼女の気持ちをすべて満たせるくらい、何もかもをあげられたならどんなにいいか――」
「――よく言いますね、本当は天子さんのすべてを奪いたくて仕方ないくせに」

 あまりの白々しさについくいながそう言った直後、一瞬で心臓が凍えそうな冷気がくいなの足元からよじ登ってきた。
 だが周囲の人間はまるで気付かない、まるで色のない暗黒のようなこれは、ただ紫がくいなに自らの本性を垣間見せただけにすぎない。
 視界が暗闇に閉ざされそうな異様な空気の中で、それを作り出した紫が目を細めて薄い笑みを浮かばせた。

「よくわかっているわね、流石は"同類"だわ」

 しばしくいなは無表情のまま息をするのを忘れた。
 やがて自分が何者でここがどこなのかを思い出し、自分の袖をめくってチラリと腕を覗き込んでみた。
 目に入ったのは鳥肌。同じ妖怪である自分までこうなるとは、なるほどこれは格が違う。

「いつ、わかったの?」

 これが並の妖怪なら、この空気に飲まれるだけで精神が四散し消滅していたかもしれない、それほど濃厚な死の気配だった。
 だが弱小妖怪であるはずのくいなは、まるで死ぬことを恐れていないかのように、変わらぬ態度でそこに居続けていた。

「最初に、料亭であなたが出てきた時に。あなたの臭いに覚えがありましたから」
「あらあら、あんまりくっつくから天子にこびり付いちゃってたかしら」

 紫は愉快そうに笑って言葉をかわすがそういう意味ではなかった、確かに天子には紫の臭いがこびりついていたが、それよりも以前に感じたことがある。
 よくもそこまでいけしゃあしゃあとしていられるなと感心する。

「ふふふ、ねえ羨ましい妖獣さん。もしよければあの住職さんのように、私のお願いも聞いてもらえるかしら?」

 そう言って紫がスキマから何かを取り出した。
 ゴトリと鈍い音と共に机の上に置かれたそれに緊張が走る。
 居酒屋の机で重々しい存在感を出したのは、柄から鞘まで艶やかな漆喰で塗られた小刀だった。
 鞘の下に隠された狂気が、見るものを惑わそうとする。

「どうせやりたいこともないんでしょうし」
「……そうですね、どうせやりたいこともないですし」

 それなのに、まるで迷いもせずにくいなの手は刀の鞘を掴んだ。



 ◇ ◆ ◇



「ただいまー、ってアレ紫は?」

 天子が厠から戻ってくると、机の上に三人分のお冷が置かれたまま、紫の姿だけがなかった。
 机の上に視線を落としていたくいなは、顔を上げると天子の方に向き直る。

「えぇ、先に帰ってしまいました」
「もう、あいつったら帰るなら一言くらいいなさいよね!」

 そんなことをくいなの前で仕方ないというのに、天子は吐き捨てるとドカッと音を立てて椅子に腰を落とした。
 ちょうどそのタイミングで頼んでいた注文していた酒と料理が店員によって運ばれてきて、机の上に並べられる。
 お冷の数と同じく、料理の数も三人分だった。

「どうしましょう、少し多いですが」
「構わないわよ、私がその分食べるから。いただきます!」
「いただきます」

 律儀に手を合わせた天子は、うっぷんを晴らすように紫の分まで料理を口に突っ込み始めた。
 焼き鳥に唐揚げに炒めものと、胃に重そうな料理をかっこんでいく天子は、店員も近づきがらない威圧感がたっぷりと湧き出ていたが、くいなは特に気にするでもなく話し掛ける。

「天子さん、お尋ねしたいことがあるのですがいいでしょうか?」
「んあー? なによ、聞きたいなら聞きなさいよ!」
「あの紫さんという方は、天子さんの恋人か何かですか?」
「むぐっ!」

 思わぬ質問に天子は喉をつまらせて、くぐもった悲鳴を上げた。
 くいなの前で自分の胸を何度か叩くと、酒を手に取って一気に煽り、喉の奥へを洗い流した。

「ぷはぁ――な、なんで!?」
「天子さんの身体から、あの妖怪と同じ臭いがしています。身体に染み付いたような」

 身に覚えがありすぎる天子は、誤魔化そうかと悩んでしばらく黙り込む。
 しかし何も言い訳が思いつかず、肘を突いた手首にこめかみを置いてウンウン唸った後、結局赤らめた顔でそのままの答えを返した。

「まあ、あんたの察しの通りよ」
「私のことを調べるのも、そのためですか?」

 続けざまの質問に、天子は表情を少し真剣なものに正した。
 デリケートな話題ではあったが、こちらからくいなのことを探っているのだから、出来る限り正しく答えるのが筋だろう。

「……そっちも正解よ。私は、あいつに人喰いなんて止めさせたい」
「それは、何故ですか?」
「何故……」

 天子は少し言い淀む、まるで自分の行動に疑問がなく、当たり前のように行動していた天子にはすぐには答えられなかった。
 しかし自分の意志を明確にするいい機会だろう、特に紫から拒絶されるようなことを言われた今だからこそそれが必要だ。
 頭を悩ませ、自分を表す言葉を選んで恐る恐る紡いでいく。

「私が死んじゃうからっていうのもある、天人を食べたら紫が死んじゃうからっていうのもある。でもそれ以上に、なんて言うかな……紫に何かを与えてあげたいのよ」
「与えたい?」

 抽象的言葉に、くいながもう一度尋ねてくる。
 天子は改めて自分の気持を奥底からすくい取り、明確なものにしていく。

「私は、紫からたくさんのものを与えてもらった。ご飯を作ってもらったこともあるし、お茶を入れてもらった。それに何よりも、紫は幻想郷を私に与えてくれた。私だけのために用意したってわけでもないけど、私を受け入れてくれたことは嬉しかった。だから、同じくらいの……ううん、それ以上のものを紫に与えたい」

 ようやく自分の気持を自覚した天子は、顔を上げて清々しい面持ちで言い放った。

「だから手始めに、紫が人を食べなくてもいいようにしてやって、それからゆっくり探しに行くんだ。いっぱいいっぱい、時間をかけてあいつのこと愛してやりたい、幸せにしてやりたいの」

 それは天子は恋人として、紫に無償の愛を与えるという宣言に他ならなかった。
 純粋な奉仕の精神を、くいなはただただ口を閉じて受け止めていた。

「……うぅ、はっずぅ~。あーもう、酒に酔ったからって言うようなもんじゃなかったわね」

 我に返った天子が、机に突っ伏して腕で顔を隠す。もっとも赤い耳までは隠せていなかったが。
 恥ずかしがる天子をしばらく黙って眺めていたくいなは、天使の言葉と紫からの頼みごとを反芻し、やがて何かを決心して、袖の下に隠した滑らかな鞘を撫でた。

「天子さん、お酒は程々にして行きたいところがあります。付いてきてもらいますか?」
「え……?」
「ダメでしょうか」
「い、いや、行く行く!」

 くいなから提案されるのが珍しく、天子は慌てて頷く。
 そうと決まれば適当なところで切り上げ、二人は店を出た。
 先を行くくいなに天子は付いて行っていたが、彼女の足は人里の外へと向いていた。

「里から出ちゃうわよ?」
「はい、私もあなたも問題はないですし」
「それはそうだけど」

 向かう先は何もなく命蓮寺からも正反対の場所で、一体どこへ何をしに行くのか検討がつかない。
 くいなは頭巾も外し、里を出てから四半刻は無言で歩き続けた、その後姿はくいなとは思えないほど威圧的で、天子は何も言えず付いて行った。
 そしてくいなが立ち止まったのは、一件のあばら屋の前だった。
 最近見たこういう小屋といえば、紫の家の食事小屋が思い出されたが、あれよりか幾分も小さい。

「なにこれ? 随分ボロっちいけど」
「これは、私が命蓮寺に来る前に使っていた家です」
「えっ……!?」

 一人で住むにも窮屈そうなオンボロが家なのだということにも驚いたが、何よりもくいなが以前の住処を見せてくれたことが意外だった。
 呆気にとられる天子の前で、くいなは玄関の扉を手を伸ばす。老朽化した戸の枠は歪んでしまっていて、無理矢理開けると戸が外れ地面の上に倒れこんでしまった。
 くいなは巻き上がる砂埃を無視して、家の中を見つめている。

「天子さんは、私が聖さんに保護された時のことを知っていますか?」
「確か、血まみれで倒れてたって」
「その通りです、でもそれは私が怪我をしていたわけではありません」

 驚愕で目を剥く天子を置いて、くいなはいつもどおり淡々とした態度で家の中に入っていった。
 慌てて天子も家に上がり込む。あばら屋の中はほとんど真っ暗で、格子窓から月明かりが届く部屋の真ん中辺りしかまともに見えなかった。

「ま、待ってよ! じゃあそれって誰の血――」

 だが家に入った瞬間、ムッとした嫌な臭いが鼻を突いて足を止めさせた。
 臭気に目眩がし、家の壁に手を突いた天子が手元に目をやると、暗闇に慣れてきた目が壁にこびりついた赤黒い何かを認めた。

「まさか――」
「あの日、この家を捨てた日。私はある人間を喰らいました。それが私の終着点」

 家の奥に積まれた何かを漁っていたくいなが、目的のものを見つけてしゃがんでいた膝を伸ばす。
 家の中央にスキップでもするみたいに踊り出て、月明かりの下に姿を見せたくいなは、どこまでも純粋で無邪気に、笑っていた。

「――見てください天子さん、この人が私の恋人なんです!」

 初めて見せる満面の笑みを振りまいて、くいなは両手に持っていた人の頭骨を掲げた。
 魅せつけられた人の躯と言葉の意味を理解し、耐え難い笑顔の理由に脳の裏側をかち割られ、天子はうめきを漏らして口を抑えた。

「うっ――お、おええぇぇぇぇぁあ――!!!」

 見知らぬ人ではなく、くいなが"恋人"を食べてしまったという事実が精神を揺るがし、胃液と食べ物とが混ざり合った吐瀉物が撒き散らされた。
 大きな音を立てて反吐が足元に撒き散らされ、すえた臭いが天子の混乱と焦燥を加速させる。
 だがくいなはそんな天子に目もくれず、いつもの大人しさを忘れ骨の頭頂部を撫でてうっとりとした表情で声をはずませる。

「な、なん、で――」
「どうです、カッコいいでしょう!? カワイイでしょう!? すっごく凛々しい顔つきの人だけど、えくぼがとても似合うとても素敵な人だったんですよ! この人から愛していると言われた時、私は一晩中飛び跳ねちゃいました!! ずっと、ずっとずっと私はこの人の虜なんだって思えて、今だってずっとこの人のことが大好きなんです!!」
「なんで、何でなのよ!?」

 えずきの苦しさに涙を零した天子が、暴れまわる胸糞悪さを服の上から押さえて叫んだ。

「恋人だったんでしょ!? 好きだったんでしょ!? 愛してたんでしょ!? それなのに、何で! 何でその恋人を食べたことをそんな嬉しそうに言えるのよ!!?」
「だって私は妖怪だから」

 恋を語る乙女から一転して無表情に戻ったくいなは、冷静にそう説いた。
 だが内から湧き出る何かに身体を震わせ始め、手に持った頭骨が音を立てて下に落ちた。

「本当はね、嬉しいだけじゃなくて悲しかったんです。あの人の肉を食べながら悲しくて悲しくて、泣きながらあの人を貪って、ああこの人と話すことはもうできないんだなと思うと食べながら嗚咽が止まらなくて」

 震える身体を抱くくいなの顔は恐怖さえ浮かんでいた。
 瞳孔の開いた眼で、歯の奥をガチガチと鳴らしながら必死に口を動かす。

「もうこの人はいなくなったんだって考えて、もうこの人と一緒にいる幸せは一生ないんだなって考えるだけで気が狂いそうなくらいで。でも、でもでもでもでも、すっごく美味しかったんですよあの人のお肉!!」

 身震いは身悶えになり、狂気が狂喜となりボロ小屋を響かせた。

「すごかった、すごかった! そこらのどうでもいい人間を食べた時なんてのとはわけが違うんです! 一口食べただけで濃厚な旨味がこう首の後ろあたりを貫いて、漂ってくる臓物の臭いが頭のなかをグワングワンって駆け巡って。生きたまま食べたんですが、目の前で内蔵を食べられる恐怖と苦痛で染まるあの人の顔と悲鳴が痛々しくて申し訳なくて、はしてなくてあそこが濡れてしまいました。あの人を食べた一夜はまるで桃源郷にいたみたいでしたよ! もちろん、腸に詰まってたあの人のうんちまで美味しく食べました、だってあの人の作ったものなんだから不味いはずなんてありませんでしょ!!?」

 支離滅裂なことを叫ぶくいなが示す事実に、天子は恐怖に胆を鷲掴みにされていた。
 耳を押さえ涙の止まらない顔を振り、胃液の垂れた唇を震わせる。

「やめて――やめて――」
「今まで何のために生きてきたのかなんて全部吹っ飛んで、ああ私はこの人を食べるために生きてきたんだなって、いや間違えました生き死になんかで語るのはあの人に失礼でした、そんな下らないもので言い表せません!! 食べて食べて、食べ終わったあと残ったあの人の骨を見て、なんてことをしてしまったんだって悲しくなって、でも次の瞬間には思い出した幸せだけで頭のなかがパーッと瞬いて、あの人と一体なった嬉しさに吠え立てて倒れるまで外を走り回って!!」
「止めて! そんな話、私に聞かせないでえええええええええええええ!!!」

 絶望に絶叫する天子の前で、くいなは袖の下から一本の小刀を取り出して鞘から引き抜くと。
 無造作に無感動に、自分の腹に突き刺して横一文字に切り裂いた。

「――――え?」

 くいなの腹から血が噴出するのが、スローモーションのようにハッキリと見えた。
 格子から覗く月明かりの明暗に、赤と黒のコントラストが天子の視界を揺さぶる。

「もう、十分幸せです……」

 急激に顔から生気を失っていくくいなは、すぐに堪え切れず仰向けに倒れこんだ。

「な……ん……で…………」

 耳から手を離し、天子は震えながらくいなに近づく。

「言ったじゃ……ないです、か……生き死にな、んかで……語れ、ない……って……」

 弱々しく熱気が篭もった息を吐くくいなは、虚ろな目で自分の血で汚れた頭骨を見つめる。
 闇の中で血に染まった頭骨が見つめ返してくるその深淵を覗きながら、いつも通り淡々と天子に質問に答えた。

「あの人を、食べたとき、か、ら……じ、ぶんの命、どうで、もよくて…………言われた、修行するの、も、あの妖怪のの、ぞみのため……死ぬの、変わ……り……ない……」

 苦しげに言葉を吐いたくいなは、一度ギュッと目をつむって呼吸を整えると、できるだけしっかりと口を開いた。

「私は……もう満たされました……何も怖くないし、どうなってもいい……」

 その言葉を聞いて、天子は涙を流し続ける。
 信じられないと、虚ろな目を泳がせる。

「どうなってもいい……? 死んでもいいっていうの……抱き合えないし、キスもできないし、笑い合ったりもできないのに……満足だっていうの……」

 視界の端で、にっこりと笑って頷くくいなの顔が映った。

「そんなに……そんなに幸せだったっていうの……?」

 なら、自分が紫に与えてやれる最大の幸せは――

 天子の足元で、くいなが血を吐いて泣き顔を見上げる。
 大した力のない妖怪だ、この傷ではもう助からない。
 しかしそれでも妖怪の端くれゆえ、存分に苦しむだけのしぶとさは持っているようだった。

「でも……やっぱ、り苦しい、です……てんし……さ……介錯を、おねが……お慈悲を…………」

 それを聞き、混乱の極みに達していた天子は心を守るため思考を停止し、ただ命令に従うことだけをこなそうとした。
 両手に緋想の剣が握られ、緋い刀身が暗闇に揺れた。
 天井に向けられた切っ先が震え、横たわる首筋に狙いをつける。
 見下ろしたくいなと目と目が合い、わずかに躊躇した後、剣が振り下ろされた。

「――――――――――あの人は、自分から食べて良いって言ってくれたんですよ」

 最期の瞬間、呪いの言葉が投げかけられた。
 重々しい切断音のあと、床の上を身体を失った首が転げる。
 剣を振り下ろしたまま、身動きも取れない天子の前で、生首と頭蓋骨が向き合うように並んだ。
 暗い眼で見つめ合う二つの禍々しい姿が、何故かとても幸せで愛おしい恋人たちに見えた。

「うわあああああああああああああああああああ!!!!」

 狂気にやられた天子が、要石を作り出して両手で持つと、笑い合うくいなと頭骨に目掛けて振り落とした。
 暗闇の中に何かが飛び散る。
 そのまま天子は倒れた身体を何度も何度も要石で叩き潰す、その度に死体の手足が跳ねたが、段々と手足も微塵になってゆく。
 やがてそこに自分以外の誰かの跡形もなくなったところで、荒い息をする天子は手を止めた。
 次第と明瞭になってくる頭で、自分の身が血で汚れていることに気がついた。

「うあ……うああぁぁああ……」

 要石を取りこぼし、天子はよたよたとした覚束ない足取りで小屋から抜け出た。
 思考は驚くほど冷静に天子が求める先を理解し、彼女の身体を近くの川辺へと導いた。
 力なく水の中に飛び込んだ天子は、一心不乱に汚れた服と肌をこすって血を落とす。

「こんな、汚れてたら……紫に嫌われちゃう……」

 すべてをわかってしまった心は、そんなことを考えていた。



 ◇ ◆ ◇



 丑三つ時、天子は自分の部屋の中で、ひっそりと息を静めてその時を待っていた。
 寝床の上で膝を抱えるその姿は、久しぶりに半袖を着てマフラーも外していた。
 天子はこの服が一番好きだった、デザイン的にもそうだが、紫と初めて会った時がこの衣装だったからだ。
 さらけ出された腕と首筋に残された、おびただしい数の歯型。
 何も考えず、呆っとその歯型を一つ一つ数えていると、部屋の奥に気配が増えた。

 いつのまにかそこにいた紫が、恐ろしい人喰い妖怪が、天子の恋人が、両手を伸ばしていた。

「天子……」

 床の上に膝を突いて上がった紫が、未だ苦悩に囚われた天子の身体を抱えて息を吹きかける。
 火を灯すように我に返った天子は、腕の中で紫の顔を至近距離から見上げた。

「天子、ああ天子……」
「紫……紫……?」

 だが天子の目に宿ったのは彼女元来のそれでなく、静かな狂気と狂喜だった。

「紫、好き……好きよ紫」
「私も大好きよ、天子」
「大好き。愛してる。好き」

 経を口にする僧のように一心不乱に唱える天子が、ねだるように紫の口元に唇を近づけた。
 しかし紫はすっと身体を横に動かしてその唇をかわすと、天子の耳元に囁いた。

「大好きなあなたを、食べさせて……」

 熱い息が耳元から首筋へ移っていく。
 天子は待ち望んでいたと言うかのごとく、恍惚とした表情で紫を迎えた。
 僅かに震える首筋に、湿った歯が押し当てられ――

「――――イヤァ!!」

 とっさに出た腕が紫を突き飛ばした。
 紫の身体が寝台から突き落とされ、床の上に尻餅をついた。
 天子は自分が何をやったのか今いちわかっていないようで、目を瞬かせて紫の滑稽な姿を見ていた。

「わ、私……私は…………?」

 混乱したまま何が何だか分からない天子の前で、紫の唇が噛み締められた。

「どうして……どうして食べさせてくれないの!?」

 怒りの篭もった叫びとともに、わなわなと震わす拳を駄々をこねる子供のように振り回した。
 手の内側からは爪が食い込んで血が流れ、部屋に敷かれた絨毯の上に赤い染みを作ったが、それすらまるで気に留めず紫は大きく口を開いて叫び散らした。

「ずっとあなたを食べたかったのに! あなたを望む私の気持ちがわかったのに! どうして私を拒絶するの!」
「ゆか……ちがっ……」
「違わない!!」

 突如狂乱になった紫に糾弾され、謂れ無き罪に天子の心が疲弊していく。
 受け入れられなかった罪悪感から、天子の頬に涙が伝った時、それを見て我に返った紫が切なそうな顔をしてまだ震えたままの拳を緩めた。

「……ごめんなさい。天子は別に悪く無いわ」
「ま……紫、待って!」

 顔を俯かせた紫が、天子に背を向けて家に帰るためのスキマを開いた。
 咄嗟に声をかけるが紫は立ち止まらず、一言だけ残して去っていった。

「……また来るわ、今日のところはこれで」

 紫の姿が消え、静まった家の中で天子は呆然と布団の上にへたり込んでいた。
 何が間違ったのか、どうすれば正しかったのか、そんな疑問が頭のなかで回り続け、日が昇るまでのあいだ一睡もできずただひたすら考え続けていた。
 ただ一つ、なにか決定的な選択をしたことだけがわかっていた。



 ◇ ◆ ◇



 夜が明け、天子は長袖とマフラーを身に着けて、くいなを殺した場所に戻ってきた。
 まずは命蓮寺に伝えるべきかと思ったが、死体が運ぶのも難しいほど粉々にしてしまっていて、これは他人に見せないほうが良いと思い、すぐ近くに埋葬して、小屋の方は地震を起こして取り潰した。
 その後で聖に昨夜のことを伝え、墓の前にまで彼女を案内した。

「そうですか、くいなが……」

 聖は最初こそ驚いた顔を見せたが、どちらかといえば納得したかのような表情だった。
 特に天子を攻め立てるでもなく、むしろ同情するかのような態度でいる。

「申し訳ありませんでした天子さん、こんな結果になるだなんて」
「いいわよ、もう」

 天子の方も、聖に強く当たることはなかった。
 聖が不用意に自分とくいなと引き合わせたせいでトラウマを植え付けられてしまったわけだが、こうなうることは何故か自然なように感じた。
 紫と付き合う以上、こういうことは避けられなかった気がする。

「くいなが人肉を求めないのは、すでにすべて満たされていたからなのですね……死んでもいい、ですか。そんな風になるものなのでしょうか」
「さあね、私に妖怪の気持ちなんてわからないわよ。でもくいなの言葉に嘘はなかったと思う」

 墓を見ながら、あの夜のくいなを思い出す。
 本当に心の底から嬉しさに狂うくいなの姿。もし紫があれと同じくらいの喜びを見せてくれるならと一瞬考えて、まだ噛み跡の残った腕を服の上から押さえた。

 あれから、紫は相変わらず天子の元を訪れてくれていた。
 まるであの夜のことなどなかったかのようにご飯を作ってくれて、一緒に遊んでくれて、抱きしめてキスをして、天子を満たしてくれていた
 ただ唯一変わったのは、噛み癖がパタリと止めたことだけだった。
 天子にとっては平穏な時間が過ぎるようになり、結果だけ見れば素晴らしいが、あまり心は晴れなかった。

 あの夜の自分はどうかしていた、自分から紫に食べられようとするなんて。
 なのに何故か今考えても、あのまま食べられることが正しいことのように感じてしまう。
 天子は紫を愛していると自負している、骨の髄まで完膚なきまで隙間なく
 だから未練がましく思ってしまうのだ、彼女の幸せのためにこの身を差し出すべきではないのかと。

「……どうすればよかったのかな」

 一月ほど経って家の厨房で手を動かしながらも、まだそんなことを考えていた。
 その袖はもう短く、さらけ出された腕や首筋は元の綺麗な柔肌が健康的な眩しさを湛えていた。
 天子の手に持ったフライパンの上で、黄色い卵がジュワと音を立てて煙を上げる。

「あっ、やば!」

 気がつけば、薄く伸ばされた卵がまだ巻いていないのに固まり始めていた。
 慌てて箸を動かすが、できたのは黒い渦巻き模様を作る、玉子焼きとは到底呼べない出来損ないだった。
 一応続けている練習だが、悩みごとがあるせいかどうにも上手く行かない。

「あーあ、また失敗しちゃった……」
「あらあら、あなたってどうしてこうお料理だけは下手なのかしら。他は結構器用なのに」
「うわっ!」

 いきなり後ろから声をかけられ天子が飛び上がる。
 後ろを振り返ってみれば案の定、紫がスキマから姿を出てきているところだった。

「ゆ、紫ったら来てたの!?」
「それどうするの? 捨てるくらいなら、せっかく天子が作ったんだし、私が食べて」
「だ、ダメダメ! こんなの紫には食べさせられないわよ!」

 伸ばしてきた手を遮って、天子はフライパンを身体の後ろに隠した。

「紫には、私の恋人としてちゃんと美味しい料理を食べてもらうんだから!」
「でもずっと待たされっぱなしじゃない。頑張ってくれてるのはわかってるんだし、一口くらい」
「ダメ! 絶対ダメ!!」

 恋人としての天子の意地が、頑固として失敗作を紫に与えるのを許さなかった。
 彼女は正真正銘、紫を満足させるようなものじゃないと我慢できないのだ。
 融通の効かない話であるが、そんな恋人の必死な姿もまたかわいいと、紫はため息を付きながらも表情に嬉しさがにじみ出る。

「まあ、わかったわ。いつまでも続けてなさい」
「いつまでもじゃないわよ、こんなのすぐ……」
「すぐっていつ?」
「……ら、来年くらい」
「随分日和った答えね」
「うっさい!」

 鼻で笑った紫は、しばし天子の怒り顔を眺めると、何か考えこむように一度目を伏せる。
 目を開いた時には、感情の読めない胡散臭気なポーカーフェイスで口を開いた。

「……ねえ天子、もし一年経っても……ううん、百年後になっても上手く行かなかったとして、あなたはまだ私のために頑張ってくれる?」
「何よそれ、からかってんの?」

 意地悪なことを言われてると受け取って天子が、憎たらしげな眼で睨みつける。
 しかしすぐ紫から視線を反らし、照れくさいのを隠そうとしながら言い捨てた。

「そんなの、いつまでだって紫のために頑張るに決まってるじゃないの、バカ」

 その答えに穏やかな表情になった紫は、つい笑ってしまう口元を袖で隠して背中を向けた。

「ありがと、また来るわ」
「えー、もう帰っちゃうの? お茶くらい飲んでいけば?」
「残念、私も忙しいのよ」
「ちぇ、ちゃんとかまってくれないと怒るわよ」
「大丈夫よ、呼ばれなくたって来るから」

 ふくれっ面をする天子に、後ろ手を振って紫はスキマをくぐる。
 紫の視界はスキマの闇に閉ざされて、すぐに今度は自宅の庭に映り変わった。

「あっ! おかえりなさい紫様!」

 藍の手伝いで洗濯物を畳んでいた橙が、家主の帰宅を知って縁側に駆けつけてきた。
 後から藍も余裕を持って歩み寄り、一礼で迎える。

「紫様、おかえりなさいませ」
「……えぇ」

 しかし紫は大した返事も返さず、力なさ気に呟いて手を上げただけだった。
 まるで覇気を感じられない姿に、橙が心配そうに首を傾げた。

「紫様? 大丈夫ですか、具合悪いんですか?」

 橙の問いかけにも呆っとして答えない紫に、藍は何かを察したか悲しそうに眉を曲げて、縁側から降りようとした橙の肩に手をかけた。

「さあ橙、服も畳み終わったし、夕食の準備を手伝ってくれないか?」
「えっ? でも紫様が」
「大丈夫さ……ですよね紫様」
「……えぇ、心配しなくていいわ」

 紫との会話はそれだけにして、藍は橙を連れて家の奥へと消えた。
 残された紫は、ゆらりと陽炎の用に身体を揺らしながら庭から林に入っていく。
 草をかき分けて食人用に建てられた離れにまでやって来くると、中に入って閉めた扉に背を預けた。

 ずっと食事場として使ってきた小屋に漂う、拭い切れない死臭が虚ろな目をする紫を取り囲む。
 しばらく薄暗い床を見つめ続けていた紫は、きつく噛み締められた歯の隙間から震えた声を漏らし始めた。

「ぐ……ふぅ……あぁ…………ああああああああああああ!!!」

 地の底から響く悪霊が如き泣き声が、空気を震わせ悲痛を響かせた。
 大粒の涙を溢れさせた顔を、両の手で押さえて跪かせた。
 鼻水が唇を伝って来て不快な塩気が舌先に広がるのも構わず、大声で泣きはらす。

「あ……あぁ、てんしぃ…………!!!」

 例えこの身が滅んでもいい、理性を遥かに超越した本能が、天子のことを食べてしまいたいと叫んでいた。
 だがそれはありえないことだと、天子に跳ね除けられた時に気付いてしまった。

 天子の心臓を歯で引き裂いたらどれほどの感動が胸を焦がすだろう、天子の目玉を舌で転がしたらどれほどの恍惚感が身を包むだろう、天子の脳髄を飲み込んだ時にはきっとかけがえのない幸福がこの心を救うだろう。
 きっとその時に訪れる生涯最高の絶頂に比べれば、死んでしまうことが何だというのだ。

 だから紫はずっと天子を求めていた、天子ならばいつか出会うだろうとくいなをスキマで誘導し、命蓮寺に保護させるという小賢しい真似までした。
 そして紫の計画通りに、天子は妖怪が人を求める気持ちの強さを知るに至った。

 けれど、天子は絶対にそれを拒む。

「あああ……あが、ぐ……でん、し……あなたを、だべだがっだ…………」

 紫は今までにも、境界の隙間から人間と人喰い妖怪の恋の行方をいくつか見てきたが、結末は得てして悲劇的なものだった。
 人間から妖怪に向けられる愛、妖怪から人間へと向けられる愛、その二つの愛が極まった時に人間の心は愛に押し潰され膝を折り、その首筋を妖怪へと差し出した。
 だが天子は違う、天子自身から向ける紫への愛、紫から向けられる天子への愛、その二つの愛の重荷をはねのけるモノを持っている。

 決して手に入らない幸福に最初はそれを拒む天子への的はずれな怒りが脳髄を燃やして、恋人に当たり散らすのさえ止められなかった。
 それが収まった今は、ただただ悲しみの奔流があらゆる感情を押し流し、紫の喉奥から呪いのように嗚咽が漏れる。

 木々の隙間が血で赤黒くなった床に、涙の染みが広がっていく。
 泣き声と共に肺の空気を出しきった紫の身体が、突発的にビクンと震えて立ち上がり、すぐに力なく床の上に倒れこんだ。
 音を立てて叩きつけられた身体が鈍く痛むが、構わず紫は泣き続ける。
 天子へのたまらない欲求に肩を抱き、服の上から爪を食い込ませたまま床の上を転げまわった。
 それをしばらく続けて気が少し落ち着いてきたころ、すすり泣き悲哀に歪んだ顔のまま立ち上がろうとしたが、すぐに悲しみがぶり返してまた床の上に泣き崩れた。

 泣き声は離れから溢れ、小屋の周りにいた鳥や獣、草木に潜んだ虫さえ追い散らすほどの苦悩がこもっていた。
 本宅でこれを聞いた橙は、耳の毛を逆立てて泣きそうな顔で傍の藍を仰ぎ見る。

「ら、藍様、これって……」
「大丈夫だ、紫様は黙っていなくなるような方じゃない」

 藍はただ耐えるように、橙の頭を撫でて泣きそうな彼女を慰めた。
 ただひたすら、紫の泣き声が木霊し続けた。

 やがてどれほどのあいだ泣き続けていたのだろう、とうに日が沈み満月が雲のない空で輝き始めた頃、ようやく泣き声が静まった。
 離れの中でひっそりと壁に背を持たれて佇んでいた紫は、乱れた髪を顔にかけ、死人のような目で窓からおぼろげに月を見上げていた。
 涙とともに悲しみは過ぎ去った。今の紫の胸中にあるのは、飾り気のないむき出しの希望。

「……天子に、会わなきゃ……」

 髪をかきあげ、涙と鼻水とよだれで汚れた顔を手で拭い、指の隙間から闇夜を見つめた。
 月の光に当てられた心に、鬼火のようにゆらゆらと燃え上がってくる何かがある。

 確かめなくちゃ――

 そう口にし、次の瞬間には暗闇に紫の姿は消えていた。



 ◇ ◆ ◇



 雲のない夜に、絢爛と輝き渡る月の下で、天子は天界の隅っこで一人酒を呷っていた。
 作り出した要石に手を突いて座り、盃に酒を注いだ瓢箪を脇に置いて酒の水面を揺らす。
 衣玖と萃香もそばに置かず、一人で飲みたい気分だった。
 傾けた盃から生ぬるい酒が香りを残して喉を通り、五体に染みた酒気が理性の殻を剥がしていく。
 ふと満月を見上げた。

 これまで紫は満月のたびに天子の元を訪れて、歯痕を残していっていた。
 今日はもう来ないのだろうか、これから二度とないのだろうか。
 結局は天子の望んだ通りになった、それなのに妙な心寂しさが四肢を伝い、噛み跡の消え去った首筋を指でなぞった。
 この奇妙な気持ちはどうすればいいのだろう。
 別に紫が自分を食べに来ないからといって、恋人でいられなくなったわけでもない、それなのに紫が自分を求めないことがなぜだか不安なような、物足りないような。
 本当は紫に喰われたがっていたのか? そんなバカな、ありえない。

 不可解に憂いながら手元に酒に視線を落とし、盃に唇をつけた。
 その時だった、天子の前で空間に線が走った。
 線は境界となりてに空間を裂き、広げられた隙間を不釣り合いに可愛らしいリボンが固定する。
 奥から血走った幾つもの目が現世に暗い眼差しを送り、その中から八雲紫が姿を表した。

「紫……?」

 天子は身を乗り出した。紫の雰囲気が妙だったからだ。
 紫のいつも整っているはずの髪の毛は雑多に束ねたわらのように乱れて、赤い目と涙の跡が泣いた後なのだということがわかった。
 だがそれよりも天子の気を引いたのは紫のまとった空気。最初に出会った時、博麗神社の落成式で本気の怒りを露わにした紫と似たような、鬼気迫る何かが彼女の身体から漏れだしていた。
 威圧感に当てられて思わず身をこわばらせた天子の意識の隙に、紫の言葉が入り込んできた。

「――天子、あなたを食べるわ」

 簡潔に述べられた想いとともに、目を見開く天子の前で鈍い鉄塊が瞬く間に視界を埋め尽くした。
 要石と瓢箪を吹き飛ばし粉々にしたのはスキマから呼び出された廃電車、飛び上がることで紙一重でそれを避けた天子は、右手に杯を持ったまま混乱から立ち直れない。

「な、何よいきなり!? どうしたのよ紫!」
「だから言ったでしょう、あなたを食べに来たと」

 紫はスキマから傘を取り出し地面を蹴ると、驚くべき速さで天子に肉薄し上段から無造作に傘で殴りつけてきた。
 酔いが一瞬で冷める。天子は咄嗟に左手で緋想の剣を取り出すと、振るわれた傘を受け止めて鍔迫り合いをしながら訴えかけた。

「あんた……私を食べるのは諦めてくれたんじゃなかったの!?」
「誰がそんなことを言ったのかしら、あなたが拒絶の意を示して、それで変わるほど簡単な欲求だと思うの?」

 柄を両手で握った紫は、力任せに傘が押し付けてくる。
 押し負けた緋想の剣が眼前に迫り、天子は右手に持った盃を紫に向かってひっくり返した。
 酒が紫の目にかかり、反射的に瞼が落ちてわずかな隙が生まれた。
 今しかないと天子は直感し、盃を離した右手で紫の顎に掌底を打ち込んだ。
 こうなれば短期決戦の一撃必殺だ。のけぞって後ろに下がる紫の身体に対して、天子は緋想の剣を向けた。

「全人類の緋想天!!!」

 後先考えている暇はなかった、紫が本気で襲いかかってきたのであれば、間違いなく自分は敗北し、捕食される。
 恐怖に突き動かされた天子は相手が恋人だという事実も今は忘れ、急ぎ集めた気質を躊躇なく紫に向かって放出した。
 緋い奔流が唸りを上げて荒れ狂い、紫はあっという間に飲み込まれた。確かな手応えがあり、間違いなく紫に直撃したのを感じる。
 だが直後には天子は眼を見張ることになる。

 気質に飲み込まれながらも、一歩も退くことなく手を伸ばした紫が、緋い光線の中から現れた。

「てん――しぃ――――!!!」

 大慌てで発動したスペルとはいえ、数ヶ月は起き上がらせないくらいのつもりで天子は気質を打ち出したはずだ。
 しかし紫は絶え間なく放出される気質に肌が破け、肉が裂かれながらもなお止まらない。
 紫らしくない盲進。天子は驚愕しながらも手を緩めなかったが、紫相手にそれだけでは足りない。
 全人類の緋想天を使いながら身動きがとれない天子の周囲にスキマが開かれる。空間に開いた闇から幾多の軌跡が疾走り、放出された何かが天子の身体を打ち崩した。
 こめかみ、顎、喉、鳩尾。的確に急所を穿たれ、気質の放出がわずかに弱まる
 その隙を狙って紫は緋想天から抜け出ると、天子に向かって手のひらをかざした。

「四重結界!!」

 世界を拒絶する青い結界が、折り重なって天子の身体に襲いかかった。
 空間ごと隔絶する凄まじい圧力に晒され、身体が捻じ裂かれるような感覚が天子の意識をかき乱す。事実、体の内側からは、何かが千切れるような嫌な音が響いた。
 頑強な肉体に安々とダメージを与えられ、天子は声すら出せないまま吹き飛ばされた。
 華奢の身体がボロ布のように夜空を飛ぶ。

「――――ぎゃあっ!」

 天界の地面に墜落し、ようやく声が絞り出せた。
 うつ伏せで倒れこんだ天子は、震える手で必死に身体を起こす。すぐそばで取りこぼした緋想の剣が転がって乾いた音を立てた
 なんとか持ち上がった身体で前を向くと、地面に降り立った紫がこちらに走ってくるのが見えた。

「てんしぃぃぃいいいいいいいいいい!!!!!」

 狂ったように声を上げる紫は、事実悦びに狂っていた。
 差し迫った歓喜に待ちきれず目尻からは涙を流し、聞くものの臓物を揺らす叫びを木霊させる。
 飛び掛ってくる紫と目が合った時、天子はもうこれでいいかもしれないと諦めにも似た悟りが到来した。
 あの目を見て天子は通じ合うかのように紫の悦びがわかってしまった。死すら超える幸せを求めて、紫が柄にもなく狂喜乱舞している。
 いいじゃないか喰われてやったって。どうせ数十年で死ぬはずが運良く数百年繋いだだけの命だ、恋人と幸福な心中とも思えばそれはそれでロマンチックだ。
 膝立ちのまま呆然とその時を迎える、安らかな笑みを浮かべた天子の前に剥き出しの情欲が迫る。

「きて、紫――――」

 ――――すべてを受け入れたはずなのに、何故かその手には剣が握られていた。

 天子の首筋に噛み付こうとした歯が寸前で止められる。
 わずかな間があって紫の身体が天子に覆いかぶさり、体重に押されて背中から倒れこんだ。

「あ――――」

 無意識に握り込んだ手から伝わってくる感触に、天子の喉元からかすれた声が漏れる。
 どうして自分は剣を手に取ったんだろう。どうしてそれで紫の身体を貫いたんだろう。
 折り重なった紫の背中から、剣が突き出ているのを見て猛烈な寂しさが湧き上がった。

「ごめん……ごめんね紫…………」

 願いを叶えてやれない情けなさに、涙が溢れ出す。

「私、やっぱり妖怪に食べられるなんて嫌だ」

 別に天子は、死ぬことが怖いわけでも、紫に死なれるのが悲しいわけでもなかった。愛の前にそれらを差し出すことに戸惑いはいらなかった。
 それでも人間として、妖怪に負けるのが嫌だった。
 ただの負けず嫌いで望みを踏みにじった。

 理屈なんかない、人が子を産もうとするのが当然なように、紫が自分を食べようとするのが当然なように。
 天子が紫という妖怪に抗うのが当然なだけだった。

 天子の上で、紫の身体が震えた。
 恐るべき生命力だ、身体を貫かれてもまだ致命傷と呼ぶには足りないのか。
 腹に剣を突き刺したまま紫の身体が起き上がる。熱い血が剣を伝い、天子の手に振りかかる。
 天子の目の前に持ち上げられた紫の顔にあったのは、目尻に涙をいっぱいに溜めて、悲しさと嬉しさの同居した苦い笑いだった。

「いいのよ天子……それでいい……」

 やっぱり食べれなかったことにポロポロと大粒のナミダで天子の頬を叩き、それでも自然に笑いかけられた。

「私は、そんなあなたが好きだから」

 熱い唇が重ねられた。

 紫は十分に天子からの愛情をわかっていたし、この結果もわかっていた。
 天子は紫を愛してくれている、だがそれと同等に自分自身のことを愛している、その拮抗が生み出すのは人間としての妖怪への抵抗。
 彼女が持つ自分の存在への誇りが食べられることを良しとしない、それは人間として妖怪という存在への完全な屈服を意味するから。

 だけどそれでいいのだ。
 もし今の自分が天子の首元にかぶりつけば、彼女は一瞬の躊躇なく手にした剣でこの身を引き裂くだろう。
 もし自分が天子の持ちうるすべての手段を封じても、彼女は自らが喰われるその前に自分自身の身体を食べられぬよう粉々に砕いて、自らの尊厳を守り通すだろう。


 ――そんな届かないほど誇り高いあなただからこそ私は恋をしたのよ。


 決して手に入らない輝きが目の前にただあることの奇跡に、紫は感謝して涙を零した。
「――――あは、そういうことだったんだ」

 天子は剣を離さないまま、覆いかぶさった紫の体を空いた左手で抱きしめて、合点がいったと声を出す。
 ずっと抱いていた疑問、何で自分が紫みたいな人喰い妖怪に好きになったのか。
 紫はずっと自分の本質を見てくれていた、底の底の気質を看破してそれをずっと見つめ続けてくれていた。
 決して屈しないとわかっていたから、当たり前のように甘えてきて噛み跡を残していた。
 誰よりも自分自身を熱烈に見てくれる紫だからこそ、天子は感謝し、好きになれたのだ。

「ねえ、紫。紫は私に美味しいもの作ってくれて、愛してくれて、私のことを楽しませてくれてるよね」
「うん」
「でも私は、卵焼きくらいしか食べさせてあげられない」
「うん」
「そんなことくらいしかできないけど、私のこと許してくれる?」
「うん。その気持ちが、一番嬉しい」

 卵焼きなんかじゃお腹は膨れても心は満たされないけど、だからこそいっぱい作ろうと思った。
 ずっとずっと作り続けて、何百か何千年後のいつの日か、人を食べたい気持ちと並ぶくらい幸せを与えられたらいい。たとえ無理でも、それを目指していたい。
 自分は自分なりのやり方で、紫に与えられる限りのものを与えられるよう頑張って行きたい。

「天子。何百年も、何千年も、私はあなたを血肉を求め続ける。それでもあなたは」
「うん、それがいい」
「……ありがとう、天子」
「ありがとう、紫」

 そして紫が永遠に自分の底を見つめ続けてくれるのなら、それは素敵なことだと思えた。
 その手をこの心臓に伸ばしてくるのなら切り落とすしかないのに、それでも諦めずに求めてくれるなら、きっと、それを幸せとして。

 腰に回した左手で紫の身体をなぞっていき、紫の右手に指を絡め合わせる。
 何もかも与えたいのに一番大事なものは与えられないけど、何もかも奪いたいのに一番大事なものは奪えないけど、それはとてもとても悲しくて切ないけど。
 どれだけ近寄っても肝心なところに相容れないあなたに、それでもできるだけ近づきたくて、二人は泣き腫らした瞳を閉じ、唇の熱に心を委ねた。


~~~~~~~~~

>コメント12さん
>コメント16さん
誤字報告ありがとうございます
https://twitter.com/digi_freedom
電動ドリル
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コメント



0.750簡易評価
2.60名前が無い程度の能力削除
数日前に過去作「生ける光、求める闇」読み返したばっかのところにこれ、ゆかてんが重すぎて反吐を吐きそう。(私信)

変わらぬ天子の意志力に敬意を評しつつ、個人的には愛の果てに両方死ぬ展開の方が好みなので作品自体の評価は控えめで。
6.100絶望を司る程度の能力削除
どこにも救いがないという印象でした。とても面白かったです。
ゆかてんは天人と妖怪という相容れないカップルだからこそ、このエンディングもありじゃないかなと思います。

それにしてもくいなちゃんの独白、狂気を感じざるを得ない。
7.90奇声を発する程度の能力削除
面白かった、良かったです
8.80大根屋削除
ずしっとくる読後感でしたね。むむぅ……
10.90名前が無い程度の能力削除
あなたのゆかてんもついにここまで来たか・・・
この二人らしい結末であると思います。面白かった。
次作があるのならどうなってしまうのか、期待しています。
11.100桜野削除
息もつかせぬ文章の力に襲われました。最高です。
12.100名前が無い程度の能力削除
うん・・・いや・・・なんというか・・・凄い。そしてラストのくいなちゃんがめっちゃ怖い。
あと誤字らしきものが1つ(誤字じゃなかったら申し訳ない)
>渡しの手でけじめを付けて
私?
13.100ペンギン削除
私の心境を、満ちる心を書ける文章力がないのが、悔やまれます。
素晴らしい作品を、ゆかてんをありがとうございました!
14.100Yuya削除
電動ドリルさんがこういう作品を書くのは珍しい気がしますね。だけれど不慣れな感じなんかなくて、読んでいて圧倒されました。天子が紫を受け入れようとする場面の退廃的な雰囲気やくいなの告白や紫との戦闘シーンの緊迫感にはのめり込みました。素晴らしかったです。
天子は紫を愛してくれている。だがそれと同等に自分自信を愛している。この文がこの天子の在り方を表していて納得させられたと同時に私自身も生きていく上で大事なことを教わった気がしてとても好きです
小説からは少しずれるんですが、毎度一定のペースを保ったままゆかてんを作り続けていること、その作品の完成度、二人のやり取りは一度しかないのにキャラを崩さず毎回新しい形のゆかてんを生み出していること、何年もずっと二人のCPを愛し続けてそれを示し続けていること、えとせとら。いち東方ファンとして電動ドリルさんのこと尊敬しています。あなたのゆかてんが大好きです。これからも益々のご活躍をお祈りしています
16.70名前が無い程度の能力削除
>ああこの人と話すことはもうできないんだなと思うと食べながら嗚呼が止まらなくて
>紫の喉奥から呪いのように嗚呼が漏れる。

「嗚咽」の間違いでしょうか?