Coolier - 新生・東方創想話

登龍

2016/07/08 18:59:35
最終更新
サイズ
67.74KB
ページ数
1
閲覧数
1912
評価数
2/13
POINT
720
Rate
10.64

分類タグ

 大雨が、ざんざんと降り続いていた。
 夥しい雨量は、バケツをひっくり返したようなという比喩では足りない程だ。雨粒の大群は森の木々の葉や地面を容赦なく叩き、三角屋根を殴っては喧しい音を屋内と住人に送りつけている。
 盛大な雨音と飛沫が、引っ切り無しに窓ガラスを打ちつける。耳障りな音に辟易して雨戸を閉め切ると、室内はより薄暗さを増し、ランタンの灯りが一際色濃くなった。
 聞こえるのは雨の雑音だけだ。蛙の鳴き声も妖精の話し声も無い。ざばざばと水が絶え間なく落ち続ける音は、既に世界の一部となりつつあった。それくらいずっと耳に纏わっている。まるで滝の中だ。その内に全身が雨音と溶け合って、自らも水の一部になれるような気がした。自分も水の性質を持つのだから丁度良いのかもしれない。
 ソファの上の本をどかして座り、紅茶を飲む。今日は摩り下ろした生姜とレモン汁、蜂蜜を加えてジンジャーティーにした。飲み込んだ紅茶は喉と食道を通り過ぎ、胃の中をふわりと温めた。
「なんか違うな」
 不満気に呟く。冷えやすい雨の日にはこれが良いと、紅魔館のメイドに以前教わったのを覚えている。その際に出された紅茶が、今飲んだものよりもだいぶ味わいが深かったことも鮮明に。味が薄いわけでも、不味いわけでもない。ただ、何かが物足りない。材料も手順も教わった通りにしている筈なのに、何度作ってもメイドのそれと同じ味にはならなかった。
 ふと、湿り気を含んだ土の匂いが鼻に触れる。家の中なのにどうして、と疑問を抱いたが、それはすぐに嫌な予感へと変換された。
「まさか」
 ティーカップを置き、ランタンを手に早足で玄関へと向かった。すると予感は的中した。
 土間部分に、泥水が浸入していたのである。水位はまだ低いものの、小さな葉や泥が混じった水は、土間床を隠す程度に濁っていた。
 狭い土間を尚狭くしていた実験道具や保存食のキノコも、水に浸かってしまっている。道具は乾かせば使えそうだが、さすがに汚水に浸かったキノコを食べる気にはなれない。落胆しつつ、水気を切って全てホールに避難させた。
 天井から雨漏りはしていないようだ。ならば床下か、あるいは外からか。
 ランタンを壁のフックに掛け、黒いスカートをたくし上げて腰で縛る。靴下を脱いで土間に下りると、ひやりとした質量が裸足に纏い、体温を奪う代わりに不快感を与えた。柔らかい何かが指の間に入り、気色悪さも追加された。
 ちゃぷちゃぷと歩いてドアノブに手をかける。いつもより少しだけ重みが増した扉を開けると、壁越しにくぐもっていた轟音は鮮明になって耳を劈いた。うへぇ、と音に辟易した直後、目の前の景色にぎょっとした。
「うわぁ、マジかよ」
 玄関先は、涅色の湖になっていた。見慣れたポーチは泥水に埋まって全く見えず、土にまみれた濁水は雨と撹拌して泡を生んでいる。軒先からは水が何本も落ち、雑草も半分程しか顔を出していなかった。森独特の湿気が混ざったぬるい空気が顔を撫で、鼻を通っていく。
 水は家の前の道を飲み込み、低い方へとゆっくり流れていた。森の地盤は緩んでいないか、山は崩れやしないか、各地の川は氾濫していないか、そして何より博麗神社は無事だろうかと、方々への心配は尽きない。
 雨音の中で気を揉んでいると、足を包んでいた水の量に変化を感じた。
「うわっ」
 足元の水位は、踝の位置から下腿の四半を飲み込むまでに増えていた。浸水の原因は玄関ドアの下の隙間からだと判明したので、そこを塞ぐとする。
 一旦家の奥に戻り、物置から古い布切れとバケツを用意した。ホールにしゃがみ、布切れに泥水を含ませてバケツに絞り入れる。少しくすんだ白色の布は、途端に黒く汚れてしまった。同じ作業を何度も繰り返し、バケツは八分目まで溜まったが浸水はまだ続いている。
 ホールの壁にかけてある沢山の荷物から、キノコ収穫の時に使う麻袋をいくつか取り出した。防水魔法を施して、バケツに溜まった水を入れて口を縛る。残りも同様にして、ドア下の隙間を塞ぐように置いた。これで浸水は止められるはずだ。
 まだ僅かに残った水も拭き取ると、土間は本来の姿を取り戻した。ひび割れてはない。浸入はドア下からだけのようだ。
 足を拭いてホールに上がり、スカートを元に戻す。バケツは土間に置いておくことにした。避難させておいた実験道具とランタンを手に持つ。その刹那、光源が移動したことで土間の一部が光ったのを、視界の隅ではっきりと捕らえた。
 再び土間に下り、へばりついていたそれを取る。半透明で、水玉の形をしていて、薄っぺらい。ランタンに近づけると、角度によっては青く光った。夜雀が持っていたギターのピックのようにも見える。
「もしかして、龍のウロコか!?」
 住人は、嬉々として声を上げた。
 幻想郷でも最高神として、多くの人妖に崇められている龍。蛇を元にした姿とされ、その表面には硬いウロコを持つという。大いなる力を持つ龍の体は、その一部だけでも龍神の恩恵を受けられると謂われている。つまり、ウロコ一枚でもマジックアイテムとして十分な活用が見込めるというわけだ。
 雨は龍神の加護であるから、龍の体の一部が見つかるのは理に適っている。しかしその確率はとても低く、発見は奇跡に近い。それが自宅の土間に偶然転がっていたのである。何という幸運か。雨のけだるさが沈めていた感情の粒が、一陣の風でたちまち舞い上がるような高揚感を覚えた。
 早速調べるため、胸を高鳴らせながら家の奥に戻る。雨が止む気配はない。


  ◇


 出涸らしのお茶は、ついに七杯目に突入した。抹茶色はとうに消え失せ、緑茶の風味は申し訳程度すら感じられない。
 平時であれば、やわらかな陽が射す縁側で呑気に一服している時分だが、豪雨によってそれは阻まれた。滝のような雨量は縁側兼外廊下を容赦なく水浸しにするため、雨戸は全て閉めている。縁側に面する障子も閉ざした仄暗い家の中で、ひたすらに薄い茶を飲む。こんな天気では買い出しにも行けないので、茶葉を節約する他なかった。
 一人で過ごす時間は異様に長く、退屈は存分に引き伸ばされて家と住人をぐるりと包んでいた。普段は人間や人間以外の誰かしらが訪れる神社も、天候と足元が悪ければ客足も自然と間遠になる。
 蝋燭の拙い光が揺らす空間を、雨の降る音と茶を啜る音だけが支配する。
 大抵、雨の日は静かなのが常だ。心地良い雨音に耳を澄ませば、穏やかに一日を過ごすことができる。しかし、ただ乱暴に水を落とすだけの暴雨は、詫び寂びなど知った事かと言いたげにひたすら騒ぐだけだ。茣蓙の上に小豆を大量にばら撒き、それをずっと転がしているような耳障りな音が、一日中耳に纏うので嫌気が差していた。
「霊夢ー、いるかーい?」
 そんな淀んだ空気を打ち破って、一つの声が響いた。雨音に混じらず鮮明に聞こえたそれは、明らかに家の中からの発声だった。誰かが勝手に家に入ったらしく、ぺたりぺたりと足音が近づいてくる。
 聞き覚えのある声に霊夢は立ち上がり、手燭を持って障子を開けた。揺らめく灯りが廊下を照らすと、そこにはずぶ濡れになった小柄な鬼が立っていた。廊下が濡れることなどお構いなしに、ここまで歩いてきたようだ。髪や服は肌に張り付き、毛先や角先、裾からは雫が垂れている。
「ちょっと萃香、濡れたまま家に上がらないでよ」
 驚きと呆れを含めて言い聞かせる。鬼・伊吹萃香は、弾幕勝負で惨敗したような情けない顔つきをしていた。
「雨が降ってるんだから仕方ないじゃないか~。あぁもう、びっしょびしょだぁ」
「待ってて、拭くもの持ってくるから」
 このまま畳に上がられても困るので、急いで寝巻用の襦袢と数枚のタオルを持ってくる。律儀に廊下で立ったまま待っていた萃香にタオルを渡し、霊夢も頭や背中などを拭いてやった。服を脱がせ、水場で固く絞って他の部屋に干す。その間に萃香は襦袢に着替え、自分で濡らした廊下を雑巾で拭いていた。
 茶葉を新しくして、二人分のお茶を用意する。雨で冷えた体には有難かったようで、萃香は喉仏を鳴らして飲んだ。熱さは大丈夫なのだろうか。
「大雨の中わざわざ来て、何の用?」
 菓子器を卓袱台に置きながら訊ねる。すぐさま萃香の手が伸びてきて、煎餅を一つ掻っ攫っていった。ばりばりと咀嚼して、お茶で流し込む。
「いやぁ、もうずっと雨が降っているでしょ? 暇で暇でしょうがないのよ」
「ふうん。それで?」
「だから来たのさ」
「……えっ、理由はそれだけ?」
「それで十分じゃないか」
 拍子抜けした霊夢をけらけらと笑いながら煎餅をかじる。もうお茶を飲みきったようで、二杯目を催促してきたので淹れてやる。
「お酒でもどうかなってね。あと、初物を持ってきたからさ」
「初物?」
 玄関に置いてあるというので、再び手燭を手に向かう。意外と礼儀良く玄関から入ってきたのかと感心していると、土間に濡れた大きな麻袋が一つ置いてあった。紐を解いて灯りを入れる。いつもの瓢箪と二升五合瓶が三本、そして新聞紙に包まれた何かを見つけた。包みを開けると、緑色の細い棒状のものがいくつも入っている。先端から短い糸切れが少し出ていて、一定の間隔でやや丸みを帯びた膨らみがあった。
「あら、いんげんじゃない」
 それは、今が食べ頃のいんげんだった。旬ものを手土産に持ってくるとは、なかなか風情のある奴だと再度感心した。
 包みだけ持って居間に戻ると、器の煎餅は半分以上消えていた。食べてもらうために出したので、特に気にせず卓袱台を挟んで対面に座る。
「それで胡麻和えでも作ってよ。酒の肴にしよう」
 霊夢の持った包みを指して、萃香は口を三日月型にして笑った。二杯目のお茶も空にしたようだ。
「来た理由は暇じゃなくて酒盛りね。あんたらしいけど」
「両方さ。暇つぶしに酒を飲むんだよ。初物を囲ってね。あー、楽しみだなぁ」
 まだ酒を飲んでないのに肴を心待ちにする萃香に、思わず霊夢も笑みがこぼれた。
 わざわざ雨の中、初物の旬野菜を携えて訪れてくれたのだ。理由はどうあれ、暇を持て余し尽くしていた霊夢にとって、彼女の来訪は有難かった。些細な礼として、腕によりをかけて美味しい胡麻和えを作るとしよう。
「じゃあ、まずは筋を取るわよ」
「あいあいさー」
 包みの新聞を卓袱台に広げ、二人でいんげんの筋取りに取り掛かった。よく見ると新聞は鴉天狗のもので、水気と湿気で文字はすっかり滲んでいた。


  ◆


 ばさっ、と放り投げられた紙の束は、ベッドの上の蒐集物の一部と化した。
「なんだ、外れじゃないか」
 先ほど拾った龍のウロコらしき物体について調べていた。遥か昔に現れた龍神についての資料から、実際に見た者が推測した体長の記述を見つけたが、どう考えても体とウロコの大きさが合わなかった。ウロコは人差し指ほどの長さしかなく、とても“空を覆い尽くさんばかりの”巨体を保護出来るとは思えない。昔人の表現が大袈裟であることを差し引いても、こんな小さくて柔なものでは役に立たないだろう。
 よって、これは龍のウロコでは無いという結論に至ったのである。
「ま、そんなうまい話があるわけないよな」
 期待しただけに、外れだと分かった際の落胆も大きい。大方、川の魚のウロコが剥がれたのだろう。川のものが森に流れ着く理由は、一つしか思い当たらない。
 川が氾濫しているのだ。
 こうなると、いよいよ諸々の心配が現実味を帯びてきた。森はすでに湖と化している。このまま雨が続けば土も緩むかもしれない。山は二柱がいるから何とかなるだろう。自分の住処が危険に晒されて、神様が何もしない訳はあるまい。
 また、里のほうも気掛かりだ。川は幻想郷中の至る所を巡っており、里も例外ではない。だが、気になったところで自分にはどうしようも出来ないことも承知していた。自然災害を一人間がどうにか出来るとは思わないし、何より里にはあまり近づきたくないのだ。
 魚のウロコをよくよく観察する。ただのウロコにしては、やけに綺麗な色をしていた。それで龍のものだと早とちりしたのだ。川で釣れる魚に、これだけ色鮮やかな青色をしたものは見たことが無かった。いや、目にしていないだけで実在している可能性はある。わざわざウロコを剥いで確認したことはないし、普通の魚も実はこれだけ綺麗だったのかもしれない。最も、この魚が川に住んでいるという保証はないが。
「あいつは、どうしてるかな」
 ふと、友人の巫女が気になった。
 魔法の森は瘴気に満ちている。そのせいで空はまともに飛べやしないし、雨が降ると尚更それは乱れてしまう。第一、こんな滝の中をずぶ濡れになりながら飛びたくはない。
 なので、友人にはもう十日も会えていないのだ。研究が一息ついて気分転換したくても、新しいスペルカードを試したくても、ただ単に顔を見に行きたくても、こんな豪雨ではそのどれもが叶わない。
「だいたい、何で連日こんなに雨が続くんだ。異変じゃないのか?」
 最初は、梅雨入りを思わせる程度の雨であった。しかし徐々にその水量は増し、ついには五日程前からこの有様となった。今日で雨が降り続いて十日目。さすがにおかしい。
 龍神の加護だとしても、これだけの雨量が連日降り注げば、地上には何らかの悪影響が及ぶ。そうまでして何から護っているというのか。それとも、遥か昔の博麗大結界設立時と同じような事態が起きているというのだろうか。
 当時、結界を張った事に龍神が怒り、天を割る程の雷鳴と、全てを飲み込む程の沛雨を引き起こした。妖怪の賢者達が幻想郷の永遠の平和を誓ったことで龍神は怒りを鎮め、雷雨は瞬く間に収まったという。
 全てを飲み込む程の雨。何日もどしゃ降りが続けば、幻想郷がまだ見ぬ海になってもおかしくはない。史実から考えれば、龍神の怒りを買うような事態が起きているとも想定出来る。
 それに、もしこれが異変なら巫女である友人に先を越されるわけにはいかない。あっちは仕事、こっちは趣味で異変解決をしているが、手柄を奪われるのは何だか面白くない。
 考えれば考えるほど、気もそぞろになる。好奇心旺盛な性格も相まって、今幻想郷で何が起こっているのか、気になり出したら止まらなかった。
「ああ、くそ。ずぶ濡れになるのは嫌なんだが」
 思い立ったが吉日。箒と雨合羽、好奇心の塊を携えて、住人・霧雨魔理沙は家の裏口から雨の中へ飛び出した。


  ◇


 白胡麻の香ばしい香りが鼻腔を蕩かした。擦り胡麻がいんげんによく絡み、柔らかさと瑞々しさが口内に溢れる。続いて酒をくいと呻れば、何とも言えぬ味の深さに自然と頬が緩む。
「くぅーっ、やっぱり初物はいいねぇ!」
 酒と肴を交互に口へ運び、萃香は旬の味を噛みしめる。幸せとはこういうものなのだと誰かに知らしめたい気分になった。
「はい、これもどうぞ」
「おおっ」
 霊夢が卓袱台に追加したのは、里芋の煮っ転がしと豆腐田楽。そろそろ腹の減る頃なので、数少ない食糧の中からついでに作ったものである。
 つまみを待っている間、萃香はすでに瓶を半分ほど空けていた。霊夢も腰掛けて酒を注ぎ、お互いに杯を上げる。出涸らしの茶に慣れていた舌と胃袋は、上質な酒に歓喜した。
「うん、いいお酒ね」
「でしょ~? 一人で飲むより二人ってね。美味い肴も相まって尚更さ」
 萃香は上機嫌に杯を傾ける。霊夢も箸を取り、和え物を食べた。美味しい。やはり素材の鮮度は重要だなと改めて実感した。
 酒を含みながら、閉ざされた雨戸に視線を移す。外の雨は勢いが衰えることなく、時折雨粒がぱしぱしと戸を叩いた。隙間から生温い空気が入り込み、かびを含んだような湿った土の匂いが時々鼻をくすぐる。
(あいつは、どうしてるかしら)
 ふいに、友人の魔法使いが頭を過ぎった。
 雨の日は誰も外に出たがらない。彼女もその例に漏れず、もう十日も姿を見せていなかった。先刻の自分と同様、暇を持て余しているのだろうか。いや、どうせ研究に没頭しているに違いない。暇さえあれば研究、研究という性分だ。外に出れないのを良い事に、大掛かりな実験でもしているだろう。そうなれば、気にかけるのも野暮というものだ。
「ん? どうしたの霊夢」
 酒に夢中だった萃香が話しかけた。肴はそれ程減っていないが、瓶の酒はもうすぐ空になりそうだった。
「雨がね、ずっと降ってるなぁって」
「ああ」
 つられて萃香も雨戸を見る。蝋燭の灯りが淡く張り付いた木製の戸は、内と外の境界の役目を見事に果たしていた。どしゃ降りの雨も、土を叩きつける音も、境界の内側では布でくるんだように不明瞭なものになる。
「仕方ないね。梅雨っていうのは、そういうものだから」
「でも、これだけ降るのもおかしいわ。龍神様に何かあったのかしら」
 霊夢は顎に手を添えて、首を傾げた。
 梅雨は、龍神が幻想郷を視察する時に降らせるものだ。年によって雨量は異なるが、これ程隙間なく降りしきる猛雨は、霊夢が見てきた十数年の中でも初めてに近い。何か、幻想郷に悪いものでも近づいているのだろうか。その脅威から龍神が護ってくれているのだとしたら、この雨も仕方が無いのかもしれない。とは言え、いい加減に止んでくれないと食糧が尽きてしまう。次に買い出しに行けるのは、いつになるやら。
「巫女が神様に兵糧攻めを食らうなんてねぇ」
 ふう、と息を吐いて酒を飲みきる。空いた杯に萃香がすかさず注ぎ足した。
「何だい、こうして初物を持ってきてやったじゃないか」
「有難いけど根本的な解決にはなってないわ。このままずっと止まなかったら、出涸らしだけで過ごさないといけなくなる」
 そりゃ大変だねぇ、と萃香はわざとらしく仰け反って酒を飲んだ。
 心配事は食糧だけではない。連日の雨は、家屋に十分な湿気を運び込んだ。早く乾いた風を取り込んで乾燥させないと、家中がかびだらけになってしまう。
「心配しなくても、そのうち晴れるよ」
 天候と家屋の事情に悩んでいると、萃香がぽつりと零した。その言葉に、霊夢は少し訝しむ。
 慰めで言ったというよりも、確固たる根拠があって言い切った気配があったからだ。
「……どういう意味?」
 真意を尋ねる。適当な事を言ったようには見えない。
「んふふ、知りたい?」
 すっかりご機嫌な笑みを向け、頬杖をついた。杯を弄ぶようにぐるりと一周傾ける。
「勿体ぶってないで教えなさいよ」
 そう急かすと、萃香は里芋を口に入れて咀嚼し始めた。しばらくして酒も飲むと、「えっとね」と前置きして話し始めた。勿体ぶるなと言ったのに。
「守矢神社に、龍宮の使いがやってきたんだよ」


  ◆


 合羽越しでも、雨の攻撃は体に結構響く。
 魔法の森は、やはり瘴気が乱れていて飛びづらかった。かといって濁水に足を突っ込んで歩きたくもなかったので、だいぶ苦労して箒を操りながら森を抜けた。
 厚い黒雲が空に張り巡り、陽光を遮っている。家の中と変わらない薄暗さが遠くまで続き、無数に降り注ぐ雨の槍は十尺先の景色さえも朧げに見せていた。
 帽子のつばから細い滝が何本も垂れる。それが合羽の覆っていない箇所に当たるものだから、実質体の半分も雨から守れていない。
 雨音は激しい。これでは声をかけられても聞き取れないだろう。鼓膜を刺す轟音とびしょ濡れの衣服が、鬱陶しさを増幅させた。
「これじゃ、背後から襲われても何も出来んな」
 独り言は、瞬時に雨の雑音が掻き消した。水を吸った帽子とスカートが重くて、なかなかスピードは出ない。それでもどうにか飛行し続け、人里の上空まで辿り着いた。
 里は、大半が土の水に飲まれていた。人々が往来するはずであろう軒並みの間の広い道は、もはや灰色の水路と遜色無い。家々は玄関前に土嚢や木の板を立てて、家屋が浸水しないように対策されている。
 川があったと思われる箇所に、その面影はなかった。先の道と区別はつかず、水面から飛び出ている橋の手すり部分がその所在を周知するに留まっていた。
「はぁ、すごいな。本当に幻想郷は海になったのか?」
 海の上に家が建っているようだ。数多の家が箱舟の如く水に浮かび、規律良く並んだ様は身を寄せ合って行く末を案じているかに見えた。太陽が出ている時間なのに、里全体は水墨で塗りつぶしたように色を失っている。
 やはり、異変なのだろうか。
 ここで、里に祀られている龍神の像を思い出した。像の目は天候や異変によって色が変わるという。異変が起きているのなら、その色になっているかもしれない。向かってみることにした。
 像は里の中心に鎮座している。当然、像の台座も三分の一が水に埋まってしまっていた。だが、それよりも魔理沙が驚いたのは、像の周りに里の人間が数人立っていることであった。全身を藁の合羽で纏った成人男性達が、像の前で頭を垂れている。
 魔理沙は像の近く、水面ぎりぎりまで下降して、近くにいた男に「何をしているんだ?」とやや大きな声で尋ねた。男も声を張りながら、「龍神様にお祈りをしているんだよ」と返す。雨音に負けないようにやり取りをするのは大変だ。
「もうずっと雨を降らせておいでだ。このままでは商売も出来ないし、里が流されやしないかと心配でなぁ」
 だから雨が止むように祈っているのだという。他の者達も、神妙な面持ちで俯くように祈っていた。
 魔理沙は、死者や怪我人は出ていないか、困っていることはないかと男達に聞いた。先ほどの男曰く、怪我をした老婆と病気の子どもがいたが、竹林の薬屋が来てどうにかなったとの事だった。こんな日でも永遠亭は出張業務をするらしい。仕事熱心だなと二つの意味で感嘆した。
「あと、霊夢は来なかったか?」
「巫女様? いや、見てないねぇ。雨が降ってからは、なあ?」
 男が他の者達へ振り向いて同意を求める。皆、声は出さず首肯で応じた。
 魔理沙が礼を告げると、男達は最後にもう一度祈ってから像を後にした。水を歩く音は殆ど聞こえず、あっという間に男達の背中は雨の中に消えた。
 改めて龍神の像を見上げる。雨に打たれても、その威厳ある佇まいは変わらない。目を見てみる。異変時には赤い光を帯びるのだが、赤くないどころか何色にも光っていなかった。少なくとも異変ではないらしい。
 脅威から幻想郷を護る雨は、今や幻想郷の脅威となっている。この矛盾している現状すら、龍神の思惑通りだというのか。神様の考える事は、人間には分からない。まさに、神のみぞ知るというやつだ。
 ――それなら、やはり神様に仕える人間に聞こうじゃないか。
 魔理沙は次に向かう場所を定め、箒の方向を変え――ずに一旦止まり、像の前で手を合わせて拝んだ。祈り終わって改めて浮上するが、屋根の高さまで高度を上げたところで再び動きを止めた。視界の隅に何かが映ったのだ。
「何だこれ」
 薄汚れた布切れが、屋根に引っかかっていた。
 ただの布なら見向きもしなかっただろう。立ち止まったのは、この灰色の世界の中で見えた一瞬の青色が、とても鮮やかだったからだ。
 近づいて手に取る。大風呂敷ほどの大きさの細長い布は、薄くてとても丈夫そうには見えない。ぐっしょりと濡れていて、薄さの割に重みがある。
 屋根の上に立ち、それを広げた。墨色で曲線がいくつも描かれていて、丸い図形の中にさらに丸い図形があったり、扇状の柄がずらりと並んでいたりする。扇の中には所々綺麗な青の差し色が入り、力強い中に優雅さも含まれる画であった。
「……魚、か?」
 それは、大きな布に描かれた魚の絵だった。布の形自体を魚に見立てて、丸い目や扇形の鱗模様が描かれている。
 何故、屋根の上にこんなものがあるのか。軒先に飾っていて仕舞い忘れたか。それにしたって、こんなボロ布になるまで放置するとは何処の無精者だ。
 絞ってなるべく水気を取ると、小さく畳んで懐にしまった。
 晴れたら持ち主を探そう。そうすれば礼金くらいは貰えるだろう。何でも屋は仕事を自ら作るのである。
 端から見ても成功するとは思えない目算を目論みながら、魔理沙は次の目的地へと向かった。


  ◇


「ふーん。なるほどね」
「だからさ、事が済めば雨は止むよ」
「そんなに上手く行くかしら。十日もかかってるのに」
「それは、向こうさんの腕次第ってことで」
 話し終わった萃香は、酒を飲もうとして杯が空である事に気付き、新たに酒を注いだ。霊夢の杯にもついでに注ぎ、自分の杯を半分ほど空けて田楽を食べた。
 二人だけの酒宴は佳境に入っている。肴は半分以上減り、萃香の持ち込んだ二升五合瓶は二本目もあと半量となりそうだった。
「うーん。やっぱり人間用の酒はすぐに飲み切っちゃうねぇ」
「あんた一人でどんだけ飲むのよ。二升五合がそんなに早く無くなるなんて……」
「じゃ、続きは伊吹の瓢箪で飲むとするかね」
 卓袱台に手をついて立ち上がり、萃香は障子を開けてやや千鳥足で部屋を出た。玄関に向かい、置いたままにしていた瓢箪を手に取る。
 と、ほぼ同時に引き戸が勢いよく開き、「霊夢ー!」という叫び声と共に濡れ鼠が入ってきて、「ひょ?」と萃香は間抜けな声を上げた。
 瓢箪を手に固まったまま、濡れ鼠を寸時見た。そいつは「なんだ、お前も来てたのか」と言いながら、藁の合羽を脱いで土間の隅に立てかけるように置いた。箒も同様にした。聞きなれた声と合羽の下から露わになった見慣れた服装で、濡れ鼠が誰だか判明した。
「おお、魔理沙じゃないか」
「霊夢は? いないのか?」
「萃香、一体どうし……あら、あんた来たの?」
 萃香に大声で呼ばれたと思って玄関にやってきた霊夢は、そこにいた友人の魔理沙の姿に少しばかり驚いた。
「なんだ、いるじゃないか。すれ違ったと思ったぜ」
 魔理沙はスカートの裾を握り、含まれた水分を絞り出した。びちゃびちゃと滴り、土間に少々の水たまりが出来た。
「びしょ濡れじゃない。どうして……」
「説明は後だ。とりあえず、風呂を貸してくれないか」

 それから魔理沙は風呂場に向かい、霊夢に濡れた服を預けた。意外と体は冷えていたようで、湯の温かさを存分に有難がって堪能した。
 一方霊夢は、魔理沙の服を絞って水気を取り、萃香の時と同様に別部屋で干していた。黒のベスト、白いシャツ、リボン、帽子、ドロワーズ。スカートを干そうと広げた時、何かがするりと床に滑り落ちた。
「何かしら」
 すかさず拾う。それは折り畳まれた湿っぽい布で、墨色の線が描かれていた。厚みからハンカチのようだと推測した。身だしなみとして持ち歩くようになったのだろうか。いつもは汚れが目立たないようにと黒い服を着ているのに、急に何の心変わりが起きたのか。あとで聞くとしよう。
 湿っているのだから、これも干すかと布を広げた。ところがいくら広げても終わりが見えず、ついには大きな風呂敷サイズにまで広がってしまった。布は薄かった。だから畳まれててもハンカチ程の厚みしか無かったのだ。身だしなみではなかった。
 広げた布は細長く、魚を模したような柄が描かれていた。所々に入っている青色が綺麗だと思った。最後の重なりを開こうとしたが、開かない。よく見ると筒状になっていた。
「これって……」
 この正体を、霊夢は知っている。そして、これを魔理沙が持っていることに微塵の疑問も感じなかった。
 布を持ったまま、急いで隣の居間への襖を開けた。
「萃香!」
 急に襖が開いたので驚いたらしく、一人で呑んでいた萃香は一瞬固まった。
「どしたの霊夢。びっくりしたなぁ」
「ごめん、でもこれ見て!」
 ばっと持っていた布を広げて見せる。それが魚を模した絵であると、萃香にはすぐに理解できた。
「それは……」
 杯を持ったまま、萃香は真顔で布をじっと見つめる。湿った布が畳の上についているが、今の霊夢はそんなことを気に留めていなかった。
「おそらく、これだと思うんだけど」
「そうだねぇ。まぁ、まずは魔理沙に話を聞くべきだと思うよ」
「……それもそうね」
 魔理沙がいない状態では話も進まないだろう。霊夢は部屋に戻り、布が畳につかないように折り曲げて干した。

 風呂から上がった魔理沙が障子を開けると、即座に霊夢の質問が飛んできた。
「ねえ魔理沙。あの布、どうしたの?」
「あん?」
 さっぱりして戻ってきた所へ不意に質問をぶつけられて戸惑うも、すぐに何の話か察しがついたので返答する。
「どうしたも何も、拾ったんだよ」
「何処で?」
「人里の家の、屋根の上」
「あんた、人里に行ったの?」
「なあ、座っていいか?」
 魔理沙は質問と返答の淀み無い流れを切って、二人の中間にあたる位置に腰を下ろした。髪をタオルで念入りに拭いている。萃香に貸したのと同じ型の襦袢を着ているため、首から下がお揃いになってしまっていた。それが少しおかしくて、霊夢はくすりと笑った。
「何だ、酒盛りしてたのか」
 卓袱台上に広げられた宴会の有様を見て、魔理沙が言った。二つの杯と肴の入った器が三つ、卓袱台の横には大きな瓶が一本転がり、二本が脇に立っている。
「ふふふ。これはね~、初物のいんげんなんだよ」
 萃香が胡麻和えの入った器を見せて、これみよがしに箸でつまんで食べた。酒も飲んだ。
「ちぇっ。私が家で浸水被害に遭ってた時に、こんな豪華な宴会してたとはな」
「浸水? あんたの家、浸水したの?」
 霊夢は質問の続きを一旦脇に置き、魔理沙の話を聞くことにした。
「玄関だけな。水嚢で塞いでは来たけど、こう雨が続くとなぁ……」
 魔理沙は家の心配をした。このまま雨が続けば、水嚢がどこまで役に立つかは分からない。地底の太陽エネルギーがあれば一気に水を蒸発させられるかなと考えて、その前に家自体が消滅するから駄目だと気付いて却下した。
「浸水したから、うちに来たってわけ?」
 霊夢が、杯と箸を魔理沙に差し出す。
「そうじゃない。外に出たのは、雨が異変じゃないかって思ったからだ」
 それを受け取り、魔理沙は早速酒を注いで二人と乾杯した。一気に呷って、ぷはぁーっと気分良く息を吐いた。
「異変? 雨が?」
「もう十日も降り続けてる。こんなの、どう考えたって異変じゃないか」
 不満げに漏らしながら、魔理沙はいんげんを食べる。数回噛んで目を少し見開いた。
「おお、美味いなこれ」
「でしょ? 霊夢が作ったんだよ~」
「何かに仕える奴は美味い飯を作るんだな。メイドといい、庭師といい、巫女といい」
「褒めても何も出ないわよ」
「里芋と田楽が出たじゃないのさ。さて、次は何が出るのかな」
「楽しみだな」
「出ないっての。で、結局異変だったの? この雨は」
 話の方向を修正する。魔理沙はお腹が空いていたのか、つまみをしばらく黙々と食べていた。
 どうして萃香も魔理沙も、質問に対して物を食べてから答えるのだろうかと霊夢は不思議に思った。そうしないと落ち着かない性分なのか。それとも勿体ぶっているだけなのか。後者だとしたら、結構性格悪い。
 咀嚼し終えた魔理沙は、酒を一口飲んでからようやく口を開いた。
「龍神の像を見てきた。目は赤くなっていなかった。だから、異変じゃないんだろうよ」
 ふん、と鼻をならした。
 つまらなかったのだろう。異変だと勇んで出てきたら異変ではなかったのだから、魔理沙の好奇心は肩透かしを食らったに違いない。どの道、勿体ぶるまでもない答えだった。
「龍神様が何を考えているのかは分からん。だから、巫女に聞けば分かるかと思ったんだ」
「それでうちに来たの?」
「ああ」
 魔理沙は田楽を食べた。濃厚で甘めの赤味噌が淡白な豆腐と混ざり合い、味に深みが生まれた。味噌の風味が残る口に酒を流せば、尚も味わいは増す。美味しい。
「それで、あれを里で見つけたのね」霊夢は得心がいったように頷いた。
「見つけたけど、それがどうかしたのか?」
 変に含みを持たせた言い方をする友人に、魔理沙は眉をひそめた。
「やったね、霊夢。大当たりだよこいつは」
 萃香が両手を広げて賛辞して、霊夢も同調する。魔理沙は二人が交わす訳の分からない会話にやきもきした。
「おい、何の話だよ」
「魔理沙がお手柄だって話さ」
「詳細が分からないと喜べないだろ。これ以上、酒を不味くしないでくれ」
 あからさまに苛立った声を出して、乱暴に里芋を食べた。途端に眉間の皺がゆるむ。美味しいものを食べながら怒れる人間は、そうそういない。
 さっきから魔理沙はこんな調子だ。不満を漏らしても鼻を鳴らしても、美味しい肴がそれを許さない。ころころと心情が変わるので変な顔つきになっている。
「さて、私はつまみを追加で作ってくるわ。真相は萃香から聞いてね」
 退散だと言わんばかりに霊夢は立ち上がり、お勝手へ向かう。やはり褒めたら何か出るようだ。
「えぇ~。もっかい言うの? めんどくさいよー」
「面倒くさいって言うな」
 萃香の抗議に、魔理沙が蓋をした。「仕方ないね」と萃香は姿勢を整え、魔理沙の方へ体を向ける。
「あの布が何なのか、魔理沙なら分かるよね?」
「鯉のぼりだろ」
 そう。あれは、魚の目と鱗が描かれたあの布は、鯉のぼりに使う鯉であった。
「あれがどうかしたのか」
「あれはね」
 萃香はそこで一旦区切り、にやりと笑った。
「龍神様の探し物なんだよ」




 守矢神社にね、龍宮の使いがやってきたんだ。
「ああ、天界のおてんば娘のお目付け役か」
 そうそう。衣玖って言ったっけ。山の上空を漂ってたら、偶然見つけちゃって。守矢の三人と話してたから、私も参加したのさ。
「よく歓迎されたな」
 正面から行ったって追い出されるに決まってるじゃん。霧散したまま耳を傾けたの。
「盗聴かよ」
 それでね、衣玖は龍神様の言葉を伝えにやって来たそうなんだ。
 何でこんなに雨を降らせているのかって言うと、登龍をしているからなんだって。
「登龍?」
 鯉が滝を登ると竜になるのは知ってるよね。その竜になるための滝登りが、梅雨の時期に当たるんだ。
 五月五日、鯉は一斉に空を舞う。そして節句が終われば、空を駆け登って登龍門を目指す。
 空を登るため、門に向かうために必要なのが滝、つまり雨なのさ。だから龍神様は雨を降らせる。視察も兼ねてね。
 奴らはまだまだ可愛い稚魚だ。親代わりである龍神も、雨と加護を降らせて鯉達を守っているんだ。全ての鯉が門へ辿り着けるように。
 でも、一匹だけ、いつまで経っても登ってこない奴がいるらしいんだ。龍神様はその子をずっと探してる。その子が無事に登れない限り、雨を止ませる訳には行かない。
「だから十日も降ってるってわけか」
 そう。だから衣玖は、三人に伝えに来たのさ。龍神様からの言伝を。


   + + +

 『龍神様は、詫言を申し上げられておいでです』
  衣玖の凛とした声が、広い拝殿に響いた。
  粛々とした空気が隅までぴんと張り詰めた空間の中央に、四つの人影が座している。守矢の三人が横に並び、対面する位置に衣玖がいる。
  神奈子と諏訪子は真剣な面持ちで衣玖の、否、龍神の言葉を傾聴している。
  早苗はというと、少し緊張して顔が強張っているようにも見えた。それだけ、龍に関する者との対顔は神聖なものなのだろう。
 『連日に亘り雨の帳を降ろし、幻想郷及び人妖に脅威を齎(もたら)している現状に、龍神様は大変御心を痛めておられます』
 『さりとて、全ては龍神様の思惑の範疇にあるのでしょう。此方とて無下に声を荒げる訳にも参りますまい』
  威厳ある口調で返答したのは、中央の諏訪子だ。衣玖を正面から見据える。
  龍神の言葉を伝える者には、龍神に接見する時と同等の態度で臨む。それが諏訪子の礼節であった。
 『深き懐に感謝します』
 『して、その為に使いを寄越された訳では無いでしょう』
  諏訪子は、龍神の本当の目的が別にあることを悟っていた。神奈子と早苗は黙ったまま、二人のやりとりを聞いている。
 『申し上げます。坤を操る土着神、そなたの力で大地の壊崩と溢流(いつりゅう)を防ぎ、加護をして頂きたいのです』
 『……ふむ』
 『また、水の祟り神が郷に害を与えぬよう、そなたの神助を以て人妖を加護して頂きたい、と』
 『……』
  諏訪子が押し黙る。
  龍神が伝えたのは、大地が崩れぬよう護り、水害が出ないよう祟り神を抑え、人妖を護って欲しいという大仕事の依頼だった。
 『そりゃちょっと、荷が重すぎやしないかい』
  代わりに神奈子が発言した。諏訪子を慮ってのことだった。
  大地を護り、祟り神を祀って人妖を護る。どちらも大いに神力を使う仕事だ。全てを同時にこなすには負担が大きい。
 『神奈子、案ずるな。問題は無い』落ち着いた声で制する諏訪子。
 『別に諏訪子を見くびっているわけじゃないさ。ただ、幻想郷は広いからねぇ』
  神奈子の懸念は、そこにあった。
  幻想郷はその殆どを山々が占めている。守矢の信仰が及んでいない地域も全て加護しなければ、そこで発生した土砂崩れが影響を及ぼす恐れがあった。
  つまり、幻想郷全土を常時神力をもって護らねばならないのだ。神奈子は、この過酷さを煩慮していた。
 『だが、このままでは山は崩れ、幻想郷は土と水に飲まれてしまう。龍神様が使いを寄越して下さったんだ。我らも応えねばならんだろう』
  諏訪子の表情に変化は見られない。依然として、威風を湛えている。
 『ま、あんたならそう言うと思ったよ』
  神奈子は確信を持って微笑した。分かっていた。いくら心配しようが止めようが、龍神の頼みを断る真似などしないことを。
 『引き受けて下さいますか』衣玖が、改めて問う。
 『勿論』
  二つ返事で了承した。当然の返答だろう。その瞳に、打ったばかりの赤い鉄を入れたような炯々たる光が宿る。
  神奈子が納得していると、諏訪子がおもむろに腰を浮かせた。座っていた座布団の後ろへ下がり、直床に正座する。そして両手をつけて、
 『神奈子、早苗。今し方、私は龍神様からの御頼み事を諾(うべな)った。故に、力を貸してほしい』
  頼む、と叩頭した。被っている帽子の頂部がこちらを向いた。
  急に何をしだすのかと思えば、諏訪子から二人に対する“御頼み事”だった。
 『……何を今更、畏まってるんだい』
 『激務に巻き込むんだ。これくらいの事はせねば無礼だろう』同じ体勢で諏訪子が続ける。
  無礼も何も友人を手助けするのは当然じゃないか、と内心を伝えようと口を開いたところで、
 『そんなことなさらなくても、大丈夫ですよ』
  初めて、場に違う声が加わった。諏訪子も思わず頭を上げる。視線の先には早苗がいた。
  厳かな雰囲気を纏う二柱に負けじと凛々しい双眸を向けている。何だか神様っぽいなと神奈子は思った。
 『諏訪子様がお決めになられた事です。私も、精いっぱい尽力致します』
  覚悟と強い意志のこもった、芯のある声色。そして衣玖のほうへ体を向き直す。
 『守矢には神が三人、うち強大な二柱がおわします。龍神様の御頼み事、必ずやり遂げてみせましょう』
  堂々と放たれた宣誓に、諏訪子は微笑み、神奈子は様々な感情を含めて笑う。
  一丁前な事を言うようになったな、と感慨深くなる。現人神として成長していく早苗に、愛おしさに似た感情が湧き立った。
  彼女の言う通り、守矢には三人も神がいる。人間が三人寄れば文殊の知恵だ。ならば、神が三人寄ればどうなるか。
  見せてやろうではないか。
 『ですよね、神奈子様!』
  先程まで高尚じみていた早苗の言葉と佇まいは、一転してあどけない少女のそれになった。それが大分おかしくて、神奈子はふふっと一つ笑う。
 『最後までしゃんとしなさい。でも、そうだね。龍神様からのお達しだもの。やってやろうじゃない』
 『……有難う。神奈子、早苗』
  柔和な笑みを浮かべ、諏訪子も二人に謝辞を述べる。
 『使いの者、龍神様にお伝え願いたい。我ら守矢、一丸となって幻想郷を守護仕る、と』
  再び貫録を湛え、龍神への言伝を衣玖に託した。
  無表情だった衣玖はわずかに唇を引き上げ、手を前について深く頭を下げる。
 『御頼み申します。わたくしは引き続き、迷い鯉を探さねばなりませんので、失礼致します』
  用件を済ませるや否や、すっと衣玖は立ち上がった。羽衣がふわりと広がり、彼女の体を纏う。
  合わせて早苗も立ち、拝殿の扉を開け放つ。土を叩く雨音と湿り気のある風が、一気に中へと入り込んだ。
  衣玖は最後に軽く会釈をして、雨の世界へ吸い込まれるようにするすると外へ飛び出ていった。拝殿から龍の気配が消える。
 『よし』
  使いの帰還を見届けて、諏訪子も立ち上がる。そして二人へ振り返り、
 『早苗は、陣と札を用意して。神奈子は陣が出来次第、私に神力を流してくれ』素早く指示を出した。
 『かしこまりました!』
 『了解っ』
  早苗は雨に濡れるのも厭わず、降りしきる雨の中へ飛び出した。すぐに陣の形成に移る。
  諏訪子も外に出る。帽子も服も一瞬で水を含み、濡れた袖が腕にぴたりと張り付いた。
  手を合わせ、祝詞を唱える。しばしそれを続けた後、しゃがんで地面に両手を置いた。
  そして諏訪子は、その姿勢を一切崩すことなく、ひたすら祝詞を唱え続けた。
  早苗と神奈子が周りで忙しなく動いても、諏訪子の姿勢は蝋で固めたように崩れることがなかった。

   + + +


 それが、三日前のことだったよ。
「なるほど。だからこれだけ雨が降っても、大きな被害が出ていないのか」
 そうだね。守矢の神様はよくやってると思うよ。
「私の家は被害に遭ったけどな」
 それは家の造りが悪いんじゃないの。
 で、それから衣玖はずっと幻想郷中を飛び回っているのさ。鯉を探してね。
「字が違ってればロマンチックなんだがな」
 緊急事態だからねぇ。それでその鯉ってのが、あんたが拾ってきたものだったってわけ。
「ん? おお、鯉のぼりの鯉か。あれがか」
 そう。屋根に引っかかっていたんでしょ? それが、おそらく衣玖が探していた最後の一匹。
 この時期に鯉のぼりを出しておく家なんて無いからね。忘れられていたんだろう。忘れられてるってことは、鯉として見られていないってことだ。精神的に眠っていたんじゃないのかな。それで、雨が降っても登って来れなかった。
「ほう」
 だから、立てかけてあげなくちゃね。
「ん?」
 鯉のぼりだよ。ちゃんと空へ登れるように、五月五日と同じような状況にしてあげなくちゃ。そしたら起きるかもしれないからね、鯉が。
「ああ、そうか。よし、私の箒を棒代わりに使おう」
 おっ、協力的だねぇ。珍しい。
「龍神様が困ってるし、すでに濡れてるから今更惜しくはない。紐で括りつけるぞ」
 よしきた。

「その必要はございません」

 突如、空間を別の声が走った。萃香と魔理沙が顔を見合わす。
 それはとても鮮明で、凛としていた。しかし家の中には二人と霊夢以外の気配はない。
「何だ、妖精か? 座敷童か?」
「いや、違うね。これは……」
 萃香は見当がついたようで、はたと立ち上がって雨戸を開ける。
 魔理沙が家で体験したのと同じく、雨の轟音が耳と居間を貫いた。雨水が縁側に入ってくる中、外には魔理沙も久しぶりに見る姿があった。
「おっ。お目付け役じゃん」
「やっぱりね。久しぶり、衣玖」
 龍宮の使い・永江衣玖が、大雨の中直立していた。
 雨戸という開け放たれた境界の外側に居るにも関わらず、彼女の服も髪も羽衣も水に打たれている様子はない。
「お久しぶりです、萃香さん。そして、ありがとうございました」
 深々と、それでいて慎ましく頭を垂れる。羽衣が重力に反してふわふわと靡いていた。
「ちょっと、何で雨戸開けてんのよ! びしょびしょじゃな……」
 奥からばたばたと、菜箸を片手に霊夢が慌てて駆け寄ってきた。家の中に響いた雨音で察したのだろう。
 衣玖の姿を見て納得したのか、瞬時に言い止めた。新たに姿を現した家主に、衣玖は再び会釈する。
「お邪魔しています、博麗の巫女」
「ええ、どうも。鯉を取りに来たんでしょ?」
「おいおい、私への挨拶は無しかよ。鯉を拾ったのは私なんだぞ」
 魔理沙は自分の存在が無視されかけていることに危機感を覚え、前に出張って衣玖にアピールした。濡れる面積が増えたが気にしない。
「分かっていますよ、魔理沙。あなたにも感謝しています。本当にありがとう」
 優美に微笑む。素直に礼を言われ、魔理沙は「わ、分かればいいんだ」と控えめに下がるしかなかった。
「さて。早速ですが、鯉を」
「ほら、持ってきたわよ」
 いつの間にか、霊夢が鯉のぼりの布を持って立っていた。魔理沙が抗議している間に用意したらしい。
「これを泳がすんだろ?」
「いえ、もう大丈夫ですよ」
 魔理沙が疑問を目いっぱい顔に張り付ける。衣玖の発言からすると、鯉のぼりと同じ状況にしなくても良いようだ。布を受け取った彼女がどうするのか、三人は庇が防ぎきれない雨風に打たれながら見入っていた。
 衣玖は布をはらはらと広げ、鯉の口のあたりを掴んで雨の中を泳がせた。風も無いのに、雨が叩きつけているのに鯉は地面と平行に漂っている。
 そして、小声で何かを呟き始めた。祝詞のように聞こえるが、日本語ではないようで何を言っているかは分からない。そもそも雨の音がうるさくて聞き取りづらかった。
 程なくして衣玖が、ぱん、と両手を叩いた。豪雨のやかましい音に混ざりもせず、鮮烈な一拍が三人の耳に響く。
 衣玖が手を離しても、鯉は落ちることなく空中で同じ姿勢を保っていた。メイドの見せる手品のようだと魔理沙が思った、次の瞬間。

 ――ばしゅん!

 鯉が、まばゆい光を纏った。青みがかった光は瞬く間に上空へ真っ直ぐに伸び、黒雲へ到達して吸い込まれた。
 短い悲鳴を上げて、三人は光を目で追った。光が入っていった箇所が、かすかに明るむ。
 何が起きているのか分からずに、呆けた顔で空を見続ける。明るくなった黒雲の一部は亀裂が入るように徐々に裂けていき、やがて厚い雲は二つに割れ始めた。気づけば、雨水が体にかからなくなっている。音も静かだ。
「晴れた……のか?」
 三人が呆然とするなか、魔理沙が喉をこじ開けた。亀裂の合間から見え始めた十日ぶりの青空に、他の二人も目を奪われている。
 ふう、と息を吐く音が聞こえた。もう吐息ほどの小さな音も聞こえるようになっていた。衣玖が一仕事終えたような顔をしている。終わったのだろう、色々と。
「登ったんだね、最後の鯉」
 萃香が満足げに、しみじみと言った。もしかすると、一番鯉を気にしていたのは萃香なのかもしれない。鯉を空へ掲げようとする程度には心配していたようだから。
「ええ、これで全て揃いました」
 衣玖がにこりと笑う。その表情は、今回の仕事が成功したことを意味していた。
 鯉は無事に空へ上がったようだ。これでもう、龍神が雨を降らせる必要は無くなった。視察も終わっているだろう。
「ひゃっほー、晴れたぜー!」
 歓喜の声を上げ、縁側から飛び下りて魔理沙は外へ出た。ぬかるんだ土で裸足が汚れたが、そんなもの気にしちゃいなかった。襦袢の裾に泥が飛び散ったのを見て、あれは自分で洗濯させようと霊夢は固く決意した。
 黒い雲はだんだんと空の隅に追いやられ、太陽の光が里や山に降り注ぐのが見えた。光は神社にもやってきて、外に出ている魔理沙を照らす。雨の水を含んだ金髪が、舞う度に白く光る。
「ご苦労様。そうだ、あんたも何か食べてく? ちょうど筍ご飯を炊いてるところなの」
 霊夢が衣玖を労うついでに、春夏の食材に溢れた宴会へ招待した。
「筍ご飯! また美味しそうなもの作ってるねぇ!」
 締めにぴったりなご飯ものが出てくると聞いて、萃香も胸を躍らせる。「お茶漬けにしてもいいんだよねー」と、まだ出てきていない料理に垂涎した。
「すみません、まだやる事が残っておりますので」
「そう、残念ね」
 丁重に断った衣玖を惜しんでいると、「おい、見ろ!」と魔理沙が唐突に空を見上げながら叫んだ。
 何だと思いつつ霊夢も見上げたが、視界にはその半分を庇にさえぎられた晴天しか映らない。隣でしゃがんでいた萃香が「うわぁ~」とため息交じりに歓声を上げたので、倣ってその場に座り込む。改めて空を見ると、その光景に霊夢は息を飲んだ。
 晴れ渡る空を、七色の鯉の群れが雄大に泳いでいた。
 赤橙黄緑青藍紫。それぞれの色を持つ鯉が、空を東西に横切っている。ゆらゆらと西へ向かう鯉に光が当たり、時折きらきらと宝石のように輝いた。
 青空を流れる七色の天の川。それはこの瞬間、幻想郷のどの景色よりも美しかった。
「きれい……」
「みんな、登龍門を目指すんだな」
「ねえ、あれ見て」
 萃香が西の空を指す。群れの先頭、もはや霞んで見える遥か向こうの空に、白く細い尾のようなものが数瞬ほど見えた。
「あの白いのってさ……」
「まさか、龍神様か!?」
 魔理沙が叫ぶ。
 分からない。確信はない。小さすぎて人間や鬼の視力では良く見えなかった。単純に、魚の尾ひれが光に当たって白く見えただけかもしれない。だけど。
「絶対にそうだって!」
「そんなわけ……。そんな簡単に姿を見せるような神様じゃないわ」
「きっと鯉の礼を言いに来たんだ! 間違いない!」
 龍神様だと信じて疑わない魔理沙は、この場にいる誰よりも興奮していた。神様を実際に目の当たりにしたと思えば無理もない反応であった。
 衣玖なら知っているはずだ。だが、あれが龍神様であろうとそうで無かろうと、真実を聞くのは無粋かもしれないと思い、霊夢はあえて何もしなかった。
「それでは、失礼いたします」
 一礼し、衣玖も空へ飛んでいった。魚群の最後尾について泳ぎ、徐々に姿が小さくなる。やがて、衣玖も七色の天の川も見えなくなった。
 空には通常の虹がかかっている。先程の龍神と思わしき者が通った跡か、七色の鯉が残した軌跡なのか。分からない。
 夢でも見ているような心地だった。魔理沙は目を爛々とさせながら、霊夢はぼんやりと空の向こうをずっと見つめていた。
「これで異変は解決ってことだね」
 萃香が笑む。いつの間にか縁側に座り、瓢箪を片手に酔っていた。天の川を肴にしたようだ。
「久々の太陽は眩しいな。これから暑くなるぜ」
 梅雨は明けた。守矢の力により、溢れた川や雨水も直に引くだろう。
 山へお礼参りに行くかな、と霊夢は考えた。龍神様の手伝いをしたのだ。分社を置いている身として、本社へ挨拶するのも良いだろう。それに――。
「ようしっ! それじゃあ、ようやく見えたお天道様を祝って乾杯だぁ!」
 萃香が瓢箪を掲げた。締めのご飯があるというのに、まだ飲むつもりらしい。
「まだ宴会するの? 昼前からずっと飲んでるじゃない」
「待て。私はまだ全然飲んでないぞ」
 魔理沙が主張する。確かに、彼女が来てまだ半刻も経っていない。これでお開きになってしまっては、彼女の気は収まらないだろう。
 霊夢は正直忘れていた。自分は目一杯飲んでいるし、そろそろご飯ものを胃に入れたかったのだ。飲んでないのに締められては、魔理沙も不服を唱えるに違いない。宴会目的で来たわけではなかろうに。
「……仕方ないわね。余ってるいんげんで何か作るわ。その前に、濡れた服を替えなさいね」
「さすが、神様仏様霊夢様だな!」
「よっ、霊夢様!」
 取って付けたような太鼓持ちっぷりである。そのまま魔理沙は縁側に上がろうとして、
「あ、ちょっと待って」霊夢様に阻まれた。
「ん?」
「あんた、その状態で家に上がろうと思ってる?」
「え?」
 そこで魔理沙は初めて自分の姿を確認した。足はもちろん、白い襦袢にはくっきりと泥がはねている。
「おお……。でも、どうすれば良いんだ」
「外に井戸があるわ。水はたんまり溜まってるはずよ。ちゃんと洗ってから上がりなさい」
 霊夢が神社の裏を指で指す。どうやら本気で家に上げる気はないようだ。
「おい、それって、外で素っ裸になって洗濯しろってことか?」
「あんたが何も考えずに外に出ちゃったのが悪いんじゃないの」
「何を! 私が外にいなかったら虹の川に気づかなかったじゃないか!」
「それとこれとは話が違うわ! 問題をすり替えないで!」
「大問題だ! 年頃の乙女が外で素っ裸なんて変態もいいところだろ!」
「どうせ誰も見てないんだから大丈夫よ!」
「そういう問題じゃねえ! せめて風呂で! 風呂で洗わせてくれ! 頼むから!!」
 絶対に外で脱ぎたくない魔理沙は、最終的に霊夢に泣きついた。せめて足を洗ってから上がれと霊夢から草履を渡されて、魔理沙は井戸へと向かう。水を汲み上げて洗い、草履を履いて歩いていると、視界の隅で地面がきらりと光るのが見えた。
「お? 今度は何だ」
 今日は光る物がたくさん見える。未来が輝いている暗示かな、と能天気な事を考えながら光った箇所にしゃがみ込む。
 何かが落ちていた。若干土にめり込んでいたのでひっぺがす。
「ん? ……おおっ、これは!」
 それは半透明で、水玉の形をしていて、薄っぺらい。夜雀が持つギターのピックのようにも見える。陽光にかざすと青く光って、魔理沙の額に色を映した。


  ◇


 十日ぶりに雨が止んだ翌日、博麗神社は朝から賑やかな声で溢れていた。
 人間と人間以外の様々な種族が、梅雨明けの青空を仰ぎながら酒を嗜む。普段なら妖怪は寝ている時間帯であっても、陽が昇るにつれて徐々に宴会の参加人数は増えていった。
 大方、萃香の能力の仕業だろう。昨晩、魔理沙と萃香はずっと飲み続け、しきりに「明日は皆を集めて宴会だ」と叫んでいた。仮眠を取って朝を迎えた後、宣言通りこうして萃めて飲んでいる。食糧が尽きていたにも関わらず、皆が酒や料理を持参してくるので困ることはなかった。
 霊夢が用意したものと言えば、ぬかるんだ地面に茣蓙を敷き、蔵から大量の杯を引っ張り出してきたくらいだ。茣蓙の一画には大きなパラソルが刺さっており、日陰の下では吸血鬼がワイン片手にほろ酔いしている。
 魔理沙は宴の中心でお手製の台座に立ち、自分も梅雨明けの一端を担った事を力説していた。最初は「何であんたが」「話を盛るな」とヤジを飛ばされたが、天狗の新聞と証拠の鯉の布を見せると徐々に信用を得たようだ。さすがに「龍神様を見た」という話は誰も信じていなかった。無理もない。
 霊夢は宴会場である庭を見渡せる縁側に座り、集まった人妖を眺めながら酒をちびちび飲んでいた。隅に生えた木の枝葉には、まだ雨雫がぽつぽつと残っている。風が吹いて雫が落ち、飛び回っている妖精の頭に当たって「ひゃあ」と叫び声を上げた。腹を立てた妖精が、何を思ったか雫まみれの木に体当たりをしたので、そこだけ一瞬豪雨が降った。
「わぁん、びしょ濡れだぁ~」
「チルノちゃん、大丈夫!?」
 超局地的な雨の被害に遭った妖精・チルノはそのまま何処かへ飛んで行ってしまい、大妖精も慌てて追いかけていった。
「何やってんだか……」
「本当、何やってるのよ。こんなところで」
 一部始終を見て呆れていると、急に隣から声がした。霊夢の右側に、胸から上だけの女が空中で佇んでいた。
「うわ、出た」
「お化けでも見たような反応しないでよぅ」
「お化けでしょ」
「妖怪ですわ」
「人間からしたら、どっちも同じ」
 お化けもとい妖怪・八雲紫を適当にあしらって、杯を空ける。傍らの徳利を取ろうとしたが、手は空を切った。何故だと思う前に、杯には酒がとくとくと注がれていた。空間の裂け目から徳利だけが顔を出してお酌をしている。騙し絵のようだ。
「注ぐなら、スキマを通さないでちゃんと注ぎなさいよ」
「注いでしまえば、どちらも同じじゃないの」
 スキマを通して注がれた酒を一口飲む。太陽が酒の表面に光の粒を落とし、きらきらと霊夢の目を反射している。
「ねえ、紫」組んだ足の上に肘を乗せ、頬杖をついた。
「なあに?」
「衣玖はさ、最初にあんたの所に行ったんでしょ?」
「ええ」
 淀みなく会話が流れた。まるで初めから予定されていた台詞のようだった。
「ずっと気になってたのよ。何で衣玖は、管理者であるあんたじゃなくて、諏訪子の所に行ったんだろうって。でも、逆に考えたら納得できたわ。初めに紫の所に行って、あんたから守矢へ行くように言われたのね」
「さすが博麗の巫女、良く出来ました。花丸をあげましょう」
 紫は霊夢の頭を優しく撫で、右手を取って甲に何かを押しつけた。見ると、朱墨の赤い花がついていた。花の下には『大変よくできました』という文字。紫の手に、木で出来た判子が見えた。
「何よこれ」
「外の世界では、こうやって子供を褒めるのよ」
「ふーん、烙印って感じだわ」
「あら、これを貰って喜ばない子はいないのに」
「入れ墨を盲信するなんて、どこの宗教かしら」
「だから私より、守矢の神様が適任だって思ったの」
「……ん?」
 急に会話がおかしくなったので、思わず首を傾けた。もはやこれは日常茶飯事である。霊夢も気にしないよう努めるが、それでも首は傾いてしまう。
「有難がられるのは、宗教であるほうがいいわ。胡散臭い妖怪より由緒ある神様に救われたほうが、人間も有難みやすいでしょう?」
 守矢の話をしているらしかった。それと、胡散臭いという自覚はあるようだ。
「そんな気配りの出来る妖怪だったっけ、あんたって」
「まあ、今更気づいたの」
 ふふふ、と意味ありげに紫は微笑んだ。こうやって一々含みを持たせるのが少し面倒くさい。
「今回、あの子もお手柄だったそうじゃない」
「ああ、魔理沙?」
 宴会の中心に目をやる。酒も入って身振り手振りが仰々しくなった魔理沙は、つい先程やってきた鈴仙に絡みながら武勇伝を語っていた。早速耳がしおれた鈴仙に、霊夢は遠目に同情する。
「そうね。あいつが鯉を見つけたから、事がすんなり片付いたんだし」
「異変解決の手柄、取られちゃったわね」
「龍神様の起こしたことを『異変』なんて呼んだら、罰が当たるわよ」
「やだ、霊夢が巫女みたいなこと言ってる」
「烙印をつけたのは誰? 大変良くできた巫女でしょう、私は」
 霊夢は得意げに右手の甲を紫に見せた。あんたがつけたんでしょう、と言いたげな顔に、紫は無言でスキマを閉じた。
「……逃げたわね」
 風の吹くなか、酒を呷る。ようやく静かになったと安堵した――のだが。
「霊夢さーん!」
 すぐさま別のお呼びがかかる。今度は誰だと声の主を探すと、宴会の中心がにわかに騒がしかった。そこには、魔理沙に代わって大きく手を振る少女が立っていた。緑の髪に、白と青の巫女服。誰だか一目で分かった。
 こちらに向かって歩き出した少女に、周りの人妖は自然と道を開ける。さながらモーゼのようだ。似たようなスペルカードを以前使っていたな、と昔を懐かしんだところで、
「霊夢さん、十日ぶりですね!」
 風祝・東風谷早苗が、徳利と杯を持って満面の笑みで挨拶した。
「あら、主役のおでましね」
 合わせて笑う。杯を空け、早苗から新たに酒を注いでもらって二人で乾杯した。霊夢は一気に飲み干し、早苗は喉を二回鳴らして止めた。
「あんた、一人で来たの?」
「え? いや、神奈子様も一緒に……あれ?」
 早苗が後ろを振り返っても誰もいない。庭を見渡すと、神奈子は一画ですでに誰かと盛り上がっていた。早苗は「挨拶もしないで酒盛りなんて」と呆れ、霊夢は「挨拶より親交なんて神奈子らしいわ」と笑い飛ばした。二人して縁側に腰を下ろす。
「こんなところにいたのか、霊夢」
 魔理沙もやってきた。もう武勇伝語りは終わったのだろうか。互いにまた杯を上げる。早苗は今度は一口だけ飲んで止めた。そこへ、もっと飲めと言わんばかりに魔理沙が酒を追加する。あまり減っていないのに注いだものだから、早苗の杯はなみなみになった。溢れない量になるまで飲み減らすと、彼女の顔がほんのり赤く染まってきた。
「やっぱり、主役が来ると盛り上がりが違うな」
「本当の主役は諏訪子様です。私はお手伝いしたに過ぎませんよ」
「その肝心の諏訪子様はいないの?」
「さすがに、昨日の今日ですからね。まだぐっすり眠ってらっしゃいます」
 やはり神力の消費は相当だったようだ。龍神の頼み事とはいえ、よくやってくれたと思う。それはこの宴会にいる誰しもが、否、幻想郷に住む誰もが感じていることであった。
「そっか、ご苦労様」
「一番苦労なされたのは諏訪子様ですよ。私と神奈子様は、ここに来れるくらいには元気になりましたから」
 謙遜する早苗に、二人は萃香から聞いた話を想起する。彼女も諏訪子を支えるために膨大な霊力を使ったはずだ。御札で無理矢理増強させたかもしれない。魔理沙はともかく、同業者の霊夢はその大変さを身を持って知っている。だから労った。
「看ていてあげたかったんですけど、諏訪子様が何度も『いいから行きなさい』って仰るものだから。『話題の人物がいない宴会は、新婦がいない神前式と同じだ』なんて言い出すし」
「それは一大事だな」
 魔理沙が分かった風なことを言う。大体、神前式に新婦がいない訳ないだろうと霊夢は訝った。
「申し訳ないと思いつつ二人で来たんです。元気になられたら、一度顔を見せに来てあげてください」
「ええ、元からそのつもりよ」
 手をひらひらと振って承諾する。その返答に早苗も口元を緩めた。
「なぁ、お前らそんなに苦労したのに、龍神様からは何の御礼も無いのか?」
 魔理沙が二人を見下ろしながら、節度に欠ける質問を放り込んだ。巫女として、神様に無心するかのような発言に霊夢は眉根を寄せる。
「あんたねぇ、龍神様を何だと思ってるのよ」
「依頼主だろ。神様も人間も妖怪も、仕事を依頼したら対価を払うもんだ。金に限らずな」
 神を軽視している感はあるが、魔理沙の言うことは最もだ。霊夢だって、祈祷や御祓いをする時は人間からお金をもらう。仕事には報酬が発生する。例え依頼主が龍神であっても、その理は変わらない……はずだ。
 三日間、飲まず食わず休まずで神力を使い続けるよう頼んだのは龍神である。三日で鯉が見つかったから良かったものの、ずっと探し出せなかったら諏訪子は、守矢の三神はどうなっていただろう。
 早苗はと言えば、飲まずに杯を膝の上で手持ち無沙汰に弄んでいた。相変わらず酒に弱いんだなと思ったが、まだ体が本調子でないのだとすぐに察した。疲れてるなら無理して来ることないのに、と思い神奈子に目をやる。皆から酒を大杯に注がれて一気飲みしていた。元気そうに見えたが、若干顔が青白いような気もする。気のせいだろうか。
「うーん、言ってもいいんでしょうかねぇ」
「おお、やっぱり報酬があるんじゃないか!」
 苦く笑う早苗に、魔理沙が食いついた。霊夢も内心興味があった。報酬ではなく別の目的で。
「米俵一年分か? やっぱり単純に金銀財宝か!? それとも、龍神様に纏わるマジックアイテムとか……」
「いえ、龍神様です」
 ん、とその場が固まった。饒舌だった魔理沙も黙る。その隙に早苗は酒を一口舐めた。
「どういうこと?」
 たまらず霊夢が聞く。魔理沙はとりあえず一気に酒を飲み干した。
「敷地内に龍神様の像を置くことになったんです。里のものよりは少し小さめだけど」
 詳細を求めると、昨晩、衣玖が再び守矢神社を訪れたのだという。彼女らの働きぶりに龍神は大変感心したそうで、感謝と労いを込めて自身の像を置くことにした。台座には、守矢が成した偉業とそれを讃える言葉が刻まれる予定らしい。
 さらになんと、現在里にある龍神の像と守矢分社を合併するのだという。二つの神様を同時に拝められる、何とも有難い分社が出来ることとなった。
「これで妖怪はもちろん、里の人間からも信仰を得やすくなります。短期間で多くの信仰が集まるので、諏訪子様も早く回復出来るかもしれません。良かったですよ、話の分かる神様で。最高神で在られるだけありますね」
 実に当を得た褒美だ。その者が一番必要としているものを龍神は理解している。自らの依頼で疲弊した体を一刻も早く治してほしいと願う、なんと慈悲深い神様だろうか。
「ほー、そいつは良いな。守矢も安泰だろ」
「ええ。龍神様のお役に立てたようで、私達も嬉しいです」
「良かったな。そして霊夢、何だその顔は」
 話の最中、一人だけ眉間に皺を寄せながら杯を睨む霊夢に魔理沙は気づいた。心なしか震えている。
「ちょっと待って……。ってことは、つまり……」
「どうした、酔いが回ったか?」
「うちへの参拝が減っちゃうってことじゃないの!」
 霊夢が心底を叫ぶ。早苗はぽかんと口を開け、魔理沙は呆れ顔を浮かべた。この台詞で霊夢の魂胆が手に取るように分かったからだ。
 七色の天の川が空に流れた時、天狗がすぐさま記事にしたものだから、今朝の時点で守矢の偉業はほぼ幻想郷中に広まっていた。その為、守矢への参拝はますます増えるだろうと霊夢は踏んだ。そうなれば博麗の分社にも参拝が増える。お賽銭も増える。自分の幸せも増える。雨降って地固まるとは良く言ったものだと、内心ほくそ笑んでいた。
 だが、守矢神社に龍神の像が置かれ、里に合併分社が出来てしまっては、その目算は大きく外れる。水害を防いだ山の神と最高神の龍神が拝めるのなら、わざわざ苦労して博麗神社に行かなくても里内で全て事足りるからだ。そうなると、博麗神社を訪れようとする者は自ずと減る。
「いや、あの、分社を龍神様とくっつけるのは、諏訪子様の為の応急処置であって……」
 ものすごい剣幕で迫る霊夢にたじろぐ早苗。杯の酒がこぼれないよう必死だ。
「おい霊夢。お前、今回何もしてないのに恩恵に授かれると思ってるのか?」
 魔理沙の至論にやられ、霊夢は嗚咽のような呻き声をあげてうなだれた。右手の甲を一瞥する。『大変良く出来ました』の文字が恨めしい。魔理沙の言う通り、霊夢は鯉が登るところを端から見てただけだった。「つまみは美味かったけどな」というフォローすら虚しく感じる。
「うちの信仰を増やすために分社を置いたのに、その分社への参拝を減らすようなことしてどうするのよ」
「他人の偉業にあやかろうとするなんて、罰当たりな巫女だな」
「あの、ですからー」
「分社置いてる時点で十分あやかってるわ! それに、龍神様の雨を異変だって思う方が罰当たりよ」
「十日も雨が降ってるのに何も思わない方がどうかしてるぜ」
「信仰心が足りないわね、罰当たりな奴っ」
「あのー」
「ははっ、何とでも言えばいいさ。私だって龍神様から褒美は貰っているからな」
 自慢気に鼻を鳴らす魔理沙に、「何ですって?」と不信感を露にする。何か言いたげだった早苗も、途端にそちらへ意識を移した。
 偶然とはいえ、魔理沙も鯉の発見という功績をあげたのだ。龍神から何かしらの見返りはあってもおかしくはない。
 杯を縁側に置いて、懐からあるものを取り出した。霊夢と早苗が覗きこむと、手のひらには半透明で、水玉の形をしていて、薄っぺらいものが二つあった。見た目は綺麗だが、これがどんな役に立つのかは見当がつかない。
「何よこれ」
 これが龍神からの褒美なのか、と霊夢は疑問を呈する。早苗も同じらしく、魔理沙の手をじっと見て考え込んでいた。
「鯉のウロコだ」
「鯉の? 何でそんなものが」
 二人が顔を上げて尋ねたので、魔理沙は得意気に説明し始めた。
「一つは私の家の玄関にあったんだ。流れてきた水に紛れてたんだろう。川魚のものかと思ったんだが、昨日同じものがもう一つ、神社の裏に落ちていた。それで確信したんだ」
 ウロコの一つを持つ。魔理沙の指先で、青色が光を受けてきらりと煌めいた。
「これは、空に登った鯉のウロコなんだ」
「……そんなものが、報酬になるの?」
 霊夢の質問に、魔理沙が二度目の呆れ顔を向ける。まだ分からないのか、と言いたげであった。
「龍神になる前の魚だぜ。龍の、もしくはそれに近い力があるに違いない。これをうまく使えば、私も龍神様の力を扱えるかもしれないってわけだ。マスパの威力もうなぎ登りさ」
「鯉ではないんですねぇ」
 早苗のさりげない呟きをかき消すように、はん、と霊夢が笑い捨てる。
「何よ、落ちてたのを拾っただけじゃないの」
「あん?」
 見るからに不機嫌になる魔理沙。早苗は何だか嫌な予感がした。
「悔しいなら悔しいって言っていいんだぜ?」
「龍神様から直接頂いたわけじゃないのに、なに威張ってんの。『違いない』とか『かもしれない』とか予想ばかりだし」
「何もしてない奴が何言っても、僻みにしか聞こえないな」
「私が何もしなかったから、あんたは雨宿り出来たんでしょう。むしろ私に感謝すべきだわ!」
「お前が何もしなかったのは雨が降ってたからだろ。私が外に出なかったら雨は止まなかった。お前が私に感謝するべきだ!」
「何であんたに感謝しなきゃいけないのよ! うぬぼれないで!」
「うぬぼれてるのはそっちじゃないか!」
「落ちてたウロコで浮かれてるあんたよりはマシだわ!」
「何だと!?」
「何よ!」
 両者一歩も譲らない。睨み合いが続く中、どちらからともなく地面を蹴り上げて真上に飛んだ。「おっ、始まったね!」と何処かから声が上がる。
「覚悟しろよな、グータラ巫女!」
「泣いて謝っても許さないわよ、浮かれ女郎!」
「意味が違ぇ!」
 それを皮切りに、両者から大量の弾幕が一気に展開される。神社の屋根より高い空中で、紅白と黒白による十日ぶりの弾幕ごっこが火蓋を切った。
 宴会の頭上で繰り広げられる弾の交戦に、皆は歓声を飛ばしながら、または優雅に観戦しながら、または呆れながら酒を飲む。霊夢が飛ばした七色の御札弾に、一際大きな喝采が起こった。空中に虹の橋が架かり、ホーミング機能で魔理沙を追う。
「屋根より高い鯉のぼり、のつもりですかね」
 早苗は縁側で二人の弾幕を見上げながら、酒を一口喉に通す。
 完全に言いそびれた。分社なのだから、本社と同じ分霊を宿すのは当然だ。つまり、博麗の分社にも龍神の神霊を宿すつもりなのだ。それに、合併分社は期間限定である。諏訪子の神力が回復したら、像も分社も元に戻す。なので二人が戦う道理はないのだが、「まあいいか、楽しいし」と早苗も観戦者の一人に混じった。
 魔理沙が逆光を背負い、黒白がただの黒になる。日差しは強い。これから暑くなるだろう。
 幻想郷で迎える何度目かの夏に思いを馳せながら、早苗はやっと杯の中身を空にした。


  ◆


 魔法の森から程近い古道具店、香霖堂。
 店の入口以外の開口部は全て開け放たれ、熱気のこもる店内にどうにか風を招き入れようと奮闘しているが、得たものは夏の蒸し暑さと天狗の新聞だけだった。商品の一部を棚から落とす勢いで投げ入れられた新聞は、先日の豪雨異変を尚も喧伝している。
「あー、こいつはいいな」
 魔理沙はそんな店内にいるにも関わらず、心地よさげな声を漏らした。木椅子に座り、スカートをたくし上げて水の張った桶に素足を突っ込んでいる。水面には小さなガラス玉のようなものが浮かび、中では青い炎が揺らいでいた。水魔法で水温を下げる仕組みを使った、足湯ならぬ足水である。
「駄目だね、これは使えないよ」
 店主の森近霖之助による無情の宣告が降りた。涼しげに足水を愉しんでいた魔理沙の顔が、途端に引きつる。
「あん? どういうことだ」
 やや乱暴に桶から足を出して、ぺたぺたと霖之助の座るカウンターに詰め寄った。水の足跡がついた床を魔理沙の頭越しに見て、霖之助は眉をひそめる。
「魔理沙、せめて足を拭いてくれよ」
「龍神になる魚のウロコだぜ? 何の力も宿ってないっていうのかよ」
 質問と一致しない返答に嘆息し、霖之助は席を立つ。奥に引っ込むと、手に白無地のタオルを持って戻ってきた。眉間に皺を寄せる魔理沙に無言で差し出すと、「悪いな」と受け取り、片足ずつ拭いた。
「店の中で足水をする許可なんて出してないんだけどね」
「一緒に入るか、涼しいぞ」
「遠慮しておく。さて、この『鯉のウロコ』なるものだけど」
 話を本筋に戻すと、魔理沙はタオルを無造作にカウンターの隅に置いた。それから、少し高さのある壺を持ってきて腰掛け、頬杖をつく。二人の目線が同じ高さになった。
「まず、君は勘違いをしている。鯉は、あくまでも鯉なんだよ」
「何だ? 謎かけなら後にしてくれよ」
 怪訝な顔をして、尚も傾聴しようと前屈みになった。帽子を被っていない彼女の額に、細かな汗がいくつもついている。頭部は涼しくならないらしい。
「頓知でも何でもないよ。いいかい? 鯉は鯉なんだ。登龍して竜にはなるが現時点では竜じゃない。サナギも蝶になるけれど、蝶そのものではないのと同じだ。サナギは羽を持たないし、花の蜜を吸う事もない。サナギの殻に蝶の力は宿っていないだろう?」
「つまり、どういうことだ」表情を変えずに聞き返した。
「これが『鯉のウロコ』である限り、鯉以上の力を持ち得ないということだ。龍神はおろか、竜の力も宿っていないよ」
 霖之助の答えに、魔理沙はウロコを一瞥し、再び彼に視線を戻した。無表情で焦点がずれていることから、彼女の頭の中で様々な考え事が巡っていることが伺える。
「龍神と竜、って言ったか?」虚空を見ながら問う。霖之助は小さく頷いて解説を続ける。
「ああ、『龍神』と『竜』は違う存在だからね。龍神とは、竜が神の力を授かって成る姿だ。水を統べる竜と、創造と破壊の力を持つ神を併せ持つ者、それが龍神さ」
 霖之助が正面から魔理沙を見る。我に返ったのか、やっと彼女と目が合った。
「……鯉は竜にはなるが、龍神になるとは限らないってことか」
「ああ。だから、君が期待した通りには『使えない』のさ」
 明白な判決が下り、魔理沙の顔が奥歯で金属を噛んだように歪む。足水で得た涼しさが何処かへ行ってしまったようだ。
 萃香の話を聞いて、登龍した鯉はもれなく龍神になると思い込んでいた。でもそれは違った。竜になるのであって、神の力は付随しない。思い返してみても、萃香は一度も『龍神になる』とは言っていなかった。迂闊だった。
「すると……これはもはや、本当にただの鯉のウロコ……」低い声で呟く。
「ご名答。暑いのに頭が冴えているね。足水の効果はあったみたいだ」
 微笑む霖之助に、魔理沙はついに落ち込んだ。想定外の結果に不満がだだ漏れている。
「っあぁー、くそぁー」
 たっぷり悔しがり、カウンターに突っ伏した。伸ばした手の先が向こう側に垂れる。墓場のキョンシーみたいだ。ぶらりと力なく揺れる右手が、失望の念を表している。
 ウロコの調査と解説が終わった霖之助は、脇に置いていた本を取って栞部分を開いた。うじうじと小刻みにうねる魔理沙を横目に、続きの箇所を探す。
「私への褒美は無いのかよぅ」
「褒美が欲しくて鯉を助けたのか?」
「助けたのは偶然だけど、元から持ち主に返すつもりで回収したんだ。返すときに報酬を頂く算段だった」
「実に貪婪だね」
「商売上手と言ってくれ」
「それも失敗したんだろ?」
「……」
 鯉のぼりの持ち主は見つからなかった。慧音や阿求、小鈴にも協力してもらって探しはしたが、心当たりのある者はついに現れなかった。何処から湧いたのか知らないが、あれは本当に忘れ去られた鯉だったのだ。現在は魔理沙の家で蒐集物に埋もれている。
 霖之助が文章を目で追い始めたのを確認すると、黒白のキョンシーはやおら起き上がった。壺から降りると桶に戻って再び足を入れる。木椅子に座って腕を組み、天井を仰いで目を閉じる様は、妙案を探る賢人のようにも見えた。
 ――カランカランッ
「霖之助さん、いる?」
 扉の開く音と共に、紅白が入店してきた。入ってすぐに魔理沙の姿が目に映ったようで、「あら、いたの」とあまり驚いていない様子で話しかけた。
「霊夢か」
 片目を開けて、少々気怠そうに対応する。暑さにやられているのか、ウロコの正体に心をやられたのか、声に覇気は無い。
「涼しそうね」
 足水に気付いた霊夢が、魔理沙を瞥見する。
「すまんな、今は満席だ」
「代わる気もないでしょうに」
 さらりと言い返して霊夢はカウンターへ向かう。霖之助と対面する形になり、そこで初めて彼は本から目を離した。
「ねえ、霖之助さん。小さめの箒は無いかしら」
「ん? 珍しいな、君が僕の店で品物を探すなんて」
「出来るだけ、細かい所を掃けるものがいいの」
「ちょっと待っててくれ。探してくるよ」
 本に栞を挟んで立ち上がり、店の奥に引っ込んだ。
「掃除用具の調達か?」
 一連のやりとりを聞いていた魔理沙が声を投げる。霊夢はカウンターを背に肘をつき、胸を少し反らして寄りかかった。
「ええ、ちょっとね」
 袖から扇子を取り出して広げ、ぱたぱたと煽る。前に紫のお古を貰ったらしい。微風に霊夢の黒髪が揺れる。
 魔理沙は懐から手拭いを取り出し、水につけた。ほんの少し水気が残る程度に絞ったそれを首の後ろに当てる。首筋に冷たさが伝わり、暑さが幾らか和らいだ。気持ちよさに思わず目をつむる。
「あったよ、こんなのでどうかな」
 店主が戻ってきた。手には、はたきや刷毛がいくつも握られている。カウンターに並べると、霊夢は早速吟味し始めた。
「何に使うんだい?」
「分社の掃除をするの。細かい段々になってる箇所とか、雑巾だけだと拭ききれなくてね」
「珍しいね、霊夢が分社を丁寧に祀るなんて」
 霖之助が目を丸くする。刷毛の使い心地を確認する霊夢に思うところがあるようで、じっとその動作を観察していた。
 魔理沙は興味なさげに振る舞う。手拭いをまた濡らして絞り、今度は目頭に置いた。「ひゃあー」と法悦に似た声が自然と漏れる。
 今の彼女にとって『分社』は禁句であった。先日の宴会後、早苗は分社に龍神の神霊を分け与えた。言い分を聞くと理解はしたが、内心納得はいかない。何もしなくても恩恵が転がり込むなんて、やはり博麗の巫女という人物は反則そのものだと思った。どの道、合併分社がある間は人間の参拝は増えないだろう。妖怪の参拝は増えそうだが。
 どちらにせよ、自分には鯉のウロコがあるから構わないと思っていた。だのに、今日の結果がこれである。ウロコはただのウロコで、龍神の褒美では無かった。鯉のぼりも金にならない。憂鬱な気分にもなるし、暑さからも禁句からも逃げたくなる。手拭いで塞がれた視界は暗くて、冷たくて、心地よい。
「だって龍神様がいるんだもの。あんまり汚いと失礼でしょ?」
 烙印も貰ったし、と謎の一言を呟きつつ、五本に絞った中からさらに選定する。持ちやすさや毛先の硬さを確かめる様子に、真剣さが伺えた。
「うん、この二つにするわ」
 最終的に二本に決めた。毛筆のような形の毛束が少ない刷毛と、箒の形をした大きめのはたき。この二本で細かい所と広い部分に対応できるので、掃除がはかどりそうだ。
「そういえば、魔理沙。この間のウロコはどうなったの?」
 振り返った霊夢が、『分社』よりも忌むべき言葉を発する。耳を塞いでいなかったことを魔理沙は後悔した。答えるのも癪だが、無視をするのも癪だ。無言は、物事の調子が宜しくないと言っているようなものである。
「ああ、絶好調だぜ。次の勝負で覚悟しておくんだな」
 視界を塞いだまま返す。霖之助は一瞬変な顔をして、何も言わないでおいた。その間に霊夢が懐から巾着を取り出して金を差し出したので、面を食らったのかもっと変な顔になった。
「……珍しいな、本当に」
「何よ、私は買い物をする時はお金払ってるじゃないの」
「服の仕立てや御祓い棒は買い物じゃないのかい」
「それは持ち合わせがなかっただけよ。私はお金を持ち歩かないから」
 相変わらず浮世離れしている、と霖之助が感心したのも束の間、霊夢が店から出て行った。出際に魔理沙へ「風邪引かないようにね」と言い残し、めでたい色は居なくなった。
 巫女らしい巫女を見たな、と霖之助は思った。霊夢が境内を掃除するのは神様のためではなく、単純に自分の領地が汚れているのが嫌だという理由からだった。それが、分社に龍神が宿ってから掃除用具を新調するまでになったのだから、その心境の変化に驚くばかりである。
 ふん、と誰かの鼻が鳴った。魔理沙が未だいじけているようだった。魔法のお陰で水はぬるくならないので、ずっと冷水に体を漬け続けている。必要以上に体を冷やすと却って疲れるんじゃないかと霖之助は少し心配した。が、そんな心中を余所に、魔理沙は手拭いを固く絞り、桶から足を出して水気を拭いた。足水は終わったようだ。桶を持ってお勝手に入って行く。
 魔理沙がどういう心理であんな嘘をついたのか、霖之助は気になった。しかし、それを聞くのはどうにも忍びない。ただの強がりなのか、それともウロコに何か勝算を見出したのか。事実、二つのウロコというのは中々手に入るものでもない。ウロコなんてそう剥がれたりはしないからだ。偶然という言葉で片付けるには、どうにも腑に落ちない拾い物だ。
 お勝手から水を捨てる音が聞こえた。程なくして魔理沙が手ぶらで戻ってくると、ウロコを手に取って出口へ向かった。
「邪魔したな」
「帰るのか?」
「ああ、宣戦布告しちまったしな。こいつを玄関先に飾って猛勉強だ」
 にっと笑い、ウロコを二枚見せつける。そんなものを飾ってどうするつもりなのか、霖之助は表情のみで質問した。
「知らないか? ウロボロスってやつさ」
 二枚のウロコの外周の弧を、両手の人差し指と親指が成す弧に沿わせるように持った。両手に一枚ずつ、妙にしっくりくる形でウロコが納まっている。そして二つの指先を合わせると、それは『完全なるもの』を表す無限大に似た形となった。
「縁起が良いだろ?」
 魔法使いらしからぬ単語が、魔理沙の口から出てきた。普段は縁起物なんてものに頼ろうとはしないのに、こちらも龍神に関わってから珍しい言動をしている。
「なるほど、君らしいね。でも、いつからそんな不確定要素を意識するようになったんだ?」
「ウロコが二枚手に入ってからだ」したり顔で片方の口角を上げた。
「叶えてほしい願いなんて私には無いからな。祈る暇があったら研究するぜ。だから、褒美なんて縁起物くらいで丁度いいんだよ、うん」
 縁起物を懐にしまうと、箒を手に颯爽と店を出て行った。熱気を浴びて少し間抜けな悲鳴を上げながら、魔法の森へ帰っていく。うじうじしている間に、自分なりに納得できる理屈を探し出したようだ。ずっと拗ねているよりは健全だろう。
 ウロボロス。竜や蛇が自らの尾を噛むことで生まれる円環(または八の字)の図。死と再生を繰り返す生命の循環を意味するそれは、外の世界でも様々な歴史や文化に根付いていることが多数の文献から見て取れる。二枚のウロコをそれに見立ててあやかる、という妙案を魔理沙は思いついていたらしい。本当に抜け目がない。
 魚や蛇のウロコは『再生』の象徴とされ、縁起の良いものとして暫し工芸品などに用いられる。『再生するもの』から『完全なるもの』を生み出すとは、何とも魔法使いらしい知行だと霖之助は感嘆した。
 二人とも、身近に感じた龍神の恩恵を少しでも有難がろうとしているのだろう。修行を渋々積んでいる霊夢も、魔法に心酔して神様を軽視しがちな魔理沙も、あの雨の一件で少しばかり信仰心が芽生えてきたのかもしれない。
 ふと、冷たい空気がお勝手から流れ込んできた。不思議に思ってそちらへ向かうと、流しに小さなガラス玉が転がっていた。中には青い炎が揺らめいている。どうやら魔法使いが忘れていったらしい。手に取ると、冷気がやさしく伝う。
「これは中々、良いものだね」
 後で届けようと思ったが、しばらくはこのガラス玉に世話になることにした。これも恩恵なのかもしれない。
 魔理沙が残した“恩恵”を最大限活用するため、全ての開口部を閉めきってガラス玉を店の真ん中に置いた。程なくして涼しい空気が店内に充満し、体の汗がひく頃には、霖之助は意識のすべてを本に集中させていた。
 夏の空気と無縁の店内は、静寂に包まれている。唯一聞こえるのは、時折本をめくる音だけだった。



 了
ご読了ありがとうございます。暑くなってきました。

ご感想・ご指摘・助言等頂ければ幸いです。
unico
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.530簡易評価
5.90名前が無い程度の能力削除
良かったです。少々冗長に感じましたが、物語があって面白かった。
10.無評価unico削除
ご評価ありがとうございます。

>5様
ありがとうございます。どうにも文を長くしてしまう傾向があるようです。次は短めに出来るよう頑張ります。
11.100名前が無い程度の能力削除
とても面白かったです。
萃香の立ち位置を用意できるのは話の膨らませ方や見せ方が上手いなと思いました。
13.無評価unico削除
>11様
霊夢&魔理沙と衣玖を繋げる役目は萃香しかいないかな、と思ったので出てもらいました。
嬉しいお言葉ありがとうございます。これからも頑張りますのでよろしくお願いします。