Coolier - 新生・東方創想話

小悪魔のいる紅魔館(新装版)

2016/05/18 04:19:05
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◇◇◇ 序

 ミルク色の靄を掻き分けるように進んで行くと、知らない場所に迷い込んだ。
 生い茂る匂い夏草は、風も無いのに揺れている。子供の足で歩いて来られたはずなのに、どういうわけか遠い場所だと確信できる、不思議な場所だった。いつからそこにあるのか、何らかの意味があるのかないのかも窺わせない程に、ただじっとして動じず、何も語らないメンヒルが佇んでいる。
 メンヒルの上には、有ってはならないほど綺麗な少女が腰掛けていて、ふらりと現れた迷子を、興味深そうに見下ろしていた。紅い少女だった。
「……妖精? それとも、悪魔?」
 いずれしても、彼女がおとぎ話の中の存在だということだけは、少年は頭の何処か根幹で理解していた。
「さあ。どちらかしらね?」
 淡く微笑む、少女。
 その一挙一動にすら、心が奪われる。
「でも、そのどちらだとしても、違うようで違わないわ。貴方の好きに呼んだら良いんじゃないかしら?」

 …………
 ……………………

 それからというもの。
 この家は繁栄と引き換えに、代々の領主は夭折する。

 夜、ベッドの中で眠りに落ちるその前に、もしくは眠りに落ちたその後に。
 絵本を朗読するように優しい声に聞かされた妖精譚が、そんな筋書きだった。



「Oui, mon chéri」
 畏まりました、我が愛しの旦那様。

 耳をくすぐる甘い声と共に、室内の空気が、蝋燭を吹き消したように翳った。しかしそれは、本当に光源が失われたためではない。読書用のランプは変わらずに、風通しの悪い狭い部屋の、埃っぽく澱んだ空気を、精一杯に煌々と照らしている。
 ただ、薄暗くなった部屋。少女はすぐ傍らに、寄り添うように舞い降りる。

 数日前に大量に買い込んだ本の整理……という名目で二人して読書に耽り、時間感覚が消え失せて、かれこれ数時間、少女に旦那様と呼ばれた館の主は、思い出した風に疲れを感じて、そろそろ休憩にしようと呟いたところだった。

 物腰こそ丁寧であっても、まだまだ茶化した感じを残す仕草。
 笑みを張り付かせた貌は、いかにもイタズラ好きそうな表情。
 アーモンドの形をした大きな目。はしっこい印象の瞳は、吸い込まれそうなクラレット。さらさらの長い髪もワインレッド。
 明らかに人間では有り得ない程の、美貌の少女だった。
 目が合うと、少女はくすっと微笑んだ。
「どう? 似合う?」
 決して華美ではなく、白いブラウスと黒いジレ、黒のスカートという実務的な服装。とは言え高級な服であることには違いない。ブラウスの襟元にはレースの装飾が施されている。彼女がくるりとその場で回って見せると、天鵞絨の布地をたっぷりと使ったサーキュラースカートが、ふんわりと夜顔のように広がった。
「ねぇねぇ、似合ってる? ねぇ、旦那様ってば~」
 共に本を読んで、語らって、少年が青年になる頃には、その少女に、特別な思いを抱くようになっていた。
「あれあれ? お姉ちゃんが寝かし付けてあげたことは忘れちゃったんでちゅかぁ? あーあー、ちょっと前までちっちゃくて可愛かったのに、お姉ちゃんって呼んでくれてたのに、お姉ちゃんは寂しいなぁ~」
 少々からみ方が鬱陶しいのは直してほしいのだが。いや、本当に。
 似合ってるよと答えると、少女は、愛おしそうに目を細める。

「……いつの間にか、背も高くなって、私のこと、好きだ、なんて言っちゃうようになって」

 時代に押され、没落の始まった門閥貴族の邸宅。
 家にはもうメイドも残っていない。二人っきり。
 本を読んで過ごす日々の、何気ない一日。

「それじゃあ、お茶を淹れてくるわね。コーヒーで良いかしら?」

 蜜月は長く続かない。
 彼も、少女も、口には出さないけれど、そんなことは分かっていた。


◇◇◇ 1章

 容姿は自分で選べない。

 煌く金糸の髪。ルビーの瞳。磁器人形を思わせる白い肌。特に、装飾過多な虹の羽根は煌びやかに過ぎて、少女の内面との乖離が凄まじい。何処を取り出してみても、きっと天の匠が心血を注いで造り上げた違いない芸術品。けれど、少女の内心は冷やかで、自分の容姿には皮肉な感慨を懐いていた。
 誰が、頼んだ。
 天使もかくやという容姿を、少女は鼻で笑う。
 しかし、少しくらいむすっとした表情も、祝福を一身に受けたとしか思えない可愛らしい顔立ちを損なうことはない。ただ冷たい拒絶の眼差しのみでしか、少女は、自身を取り巻く世界に抵抗する手段を持っていなかった。

「……フランドール」
 姉が、名前を呼ぶ。
 フランドールは聡い子供だった。感受性が強く、それ故に繊細で、脆いところがある。そんなフランは、姉が名前を呼ぶ、その声音に混じっている複雑に絡み合った思いも、過敏に感じ取っていた。
 愛情もある。愛おしくてたまらない。それ故に、壊れ物をどう扱って良いか分からないという、ある種の困惑。それから、大部分を占める、疚しさの念。そんなものが綯い交ぜになって、結局は何も言えずに、よしんば声を掛けられたとしても、続く言葉が出てこない。また、そんな自分への不甲斐無さもあるか。この程度には、姉が自覚している以上のことを把握していた。

 苛立ちが募る。姉に対してではなく、姉にそうさせた自分と、どうにもならない現状に対して、自分を取り巻く環境に対して。

 爪を噛んだ。簡単に割れた爪から、じんわりと熱が広がって、舌の上に血の味が乗った。こんなことで苛立ちは収まるはずもない。
 聡いが故に、知り過ぎるが故に、フランの心は冷え切っていた。
 気付けば、苛立ちのままに言葉を発していた。

「……出てって」

 今、何を話したところで何も好転しない。話すだけ無駄だ。お互いに傷付かないためにも、今は落ち着くべきだ。
 だから。出てって。それだけ、一言。明らかに言葉足らず。
 バカな姉がたじろいだことも、手に取るように分かった。

 お姉様も私の考えていることが分かれば良いのに……

 などとは、思わない。
 一方的に心情を把握したとしても、相互理解の望めない関係にあることなんて、あのバカな姉の顔を見れば承知するしかなかった。姉妹は姉妹であっても、あまりにも違った。
 虹の羽根。ほとんど何かの間違いのような、魔法に関する天賦の才。フランが望まずに得た才能の欠片すら、姉には無い。フランがその才能で見ている景色を姉が共有できないことを責めるのは、筋違いどころか無意味にも程がある。

 ……ところで、あれはどういう経緯だったろう。暗い部屋で泣いていたフランに、レミリアは紅くて綺麗な理想の怪物の話をしたことが、一度だけあった。泣いている理由を知らないくせに。不器用で拙い愛情だった。

 ……と。
 フランは少し昔のことを思い返しながら、本を探すでもなく、図書館をそぞろ歩きしていた。

 図書館に特有の、ひんやりとした静謐。この涼しさと静けさは他の何にも代えられない、図書館でしか味わうことのできない心地の良さだろう。好きの部類。
 薄闇と静寂の暗い場所は、ひどく落ち着く。この古い石造りの洋館には、冬の寒さや、もちろん冷房の涼しさとは違う、日陰そのものが持つ純粋な涼しさがあるように思えた。特に、図書館ではその性質が顕著だ。長い年月をかけて染み付いた古書の臭いも、嫌いではない。

 紅魔館付属の図書館は、館に数棟ある尖塔の内の一つを占有していて、とても一生では読み切れない数、としか言いようがないような大量の本が収められている。
 吹き抜けの解放的な造りになった地上階は氷山の一角。地下に続く螺旋階段を降りれば、更に広大な図書館がある。そこまでが、いわゆる開架閲覧室。自由に手に取っても良い本を並べてある場所。
 開架閲覧室だけでも蔵書数は万単位だろうけれど、まだ更に下には、閉架書庫があるそうだ。しかし書庫へ続く階段は無い。フランが予想するに、現実の世界には存在していないのだろう。

「やっほやっほ~、こあお姉ちゃんだぞっ♪」
「だぞっ……じゃないわよ」

 フランはそれ以上は何も言わず、溜め息も呑み下した。もう色々あって相手をするのにも疲れた。「親しみを込めて、こあとお呼びくださいませ」などとぬかす、昔からこの館に棲み付いている小悪魔風の少女には、何を言っても無駄だ。
「はい、フラン様。なんなりとお申し付けくださいね」
 司書風の服装をしているからには司書なのだろう。が、腰を絞ったデザインは、くびれとか、他の部分とか、やけに凹凸が目立つし、双丘の谷間に挟まったネクタイに関しては、ふざけているのかと問い質したい。衣裳だけ見れば楚々としているものを、何をどうして、そんな着こなしになるのか。
「調べものがあるのなら、お手伝いしますよ?」
「別に、いい」
「ふふふ、可愛い悩み事ですね」
 小悪魔は目を伏せたフランの前にしゃがみ込んで、顔を下から覗き込むと、面白いものでも見付けたように、くす、と唇に微笑を湛えて囁いた。その様は、淑やかな花弁が夜露に揺れたようでもあった。
「……」
 目を、逸らしてしまう。
 小悪魔の、何もかも見透かしたような瞳と微笑は、少し苦手の部類だった。



 連れて来られたのは、霧の湖を一望するバルコニー。
 窓を開けると、水気を含んだ柔らかい風が吹き込んで来る。水の上の季節は遅れてやってくるもので、風が当たると少し肌寒い。
 しかし、フランは顔の前に手を翳していた。
 季節は初夏。湖面は、まるでソーダ水みたいに、キラキラと輝いている。

 フランは思わず立ち竦んだけれど、小悪魔はと言えば、半円にせり出したバルコニーの手摺りの上に、横向きに腰掛けて、湖の方に体を向けていた。

 湖を背にした小悪魔は、ケルトの古い妖精譚に語られる妖精にも見えて……

 そんな小悪魔の視線の先には、天真爛漫そのものの無邪気な笑顔で湖上を飛び回る妖精の姿があった。小悪魔は遠い昔を顧みるように、遠くの方を見るような憂いを帯びた目で、光を反射する湖を眺めている。
「妖精って、ああいうものですよね」
 たまにこうして、小悪魔は伏し目がちに、どこか翳りのある表情をする。
 かつての古い妖精はフランを振り返り、顔を上げた。ワインレッドの長髪が風に舞う。

 ぞっとする程の美貌だった。

 フランだって姿見を見たことはあるけれど、これは確実に種類が違う。
 薫然たる容姿。嫣然とした微笑。この世のものではない美貌。浮世離れした、などと生易しいものではなく、この世に存在しているはずがない、そう言わしめる程の、凄絶なまでの美貌。
 ヒトの夢見る女性像をそのまま体現したような美貌は、ユングの言うアニマを思い起こさせた。

 薄く透き通った羽は、ただ黒色と済ますには複雑な色合いをしていて、喩えるなら、夜の闇をそのまま薄くスライスしたような、そんな夜色。すぐに破れてしまいそうな薄膜は、強靭な悪魔の翼よりも、むしろ妖精の薄羽根に近い。

 かつて身近で、今となっては遠い神秘。

 ……黙っていれば、綺麗なのに。
 そう思ってしまうと言うか、思わざるを得ないと言うか。フランは小さく溜め息を零す。

「お茶にしましょう」
 微笑んで言う、小悪魔。
 テラス席のテーブルにはコーヒーとお菓子が並んでいた。フランは湯気の立つカップを、無用の物として見下ろす。
「どこから始めるか考えたんですけどね、とりあえず軽く聞き流しながらどうぞと思いまして」
「……ふーん、そう」
 つれない相槌を打って、先を促す。フランの興味はお茶菓子にはなく、話の内容の方にあった。
「幻想郷は……いえ、この日本という国が、よく似ているんですよね」
 似ている。何処に、と言うなら、妖精の溢れる場所だろう。
 自然の切れ端のようなものである妖精は、自然さえあれば何処にでも発生する。無論、それらは西洋の悪魔的な妖精とは種類が異なるのだろうけれど。
「例えば、ですね。アイルランド人の父を持ち、子供時代を同国で過ごしたハーンも、日本で暮らしながら、松江の海辺をアイルランドの海岸に模して回想する文章を残しています。きっと、情景には何処か通じるものがあったのでしょうね……私も、似てると思います」
 また、翳りを帯びた貌で目を細める。
「まあ似ていると言うか、相似した対照ですからね。置換するにしても、概念的な無理が少ないんですよ」
「……?」
「フラン様は、全ての生き物が見る夢が根底部分で繋がっていることはご存知ですよね。夢の世界を上手く使うことができれば何処にでも行けますし、基本的に何でもできます。サキュバスのお姉ちゃんに不可能はありません」
 ついさっきの憂い顔が気のせいだったのかと思うくらい、冗談めかして。
 フランは怪訝そうにしながらも、熱いコーヒーで唇を湿らせる。紅茶党が主流の紅魔館では珍しい味。珈琲党は小悪魔しかいない。
 ようやく手を付けたサブレを齧ると、バターの風味が口いっぱいに広がった。以前、発酵バターが手に入らないと嘆いていたけれど、直輸入でもしているのだろうか。紅魔館でお茶菓子と言えば、咲夜の作るしっとりとしたスコーンなので、こちらも紅魔館では珍しい。小悪魔の得意なお菓子はサクサクとした軽い食感を追及した焼き菓子。小悪魔が長く住んでいたフランスの片田舎では、ガレット・ブルトンヌやクイニーアマンといった、バターをふんだんに使った素朴な焼き菓子が伝統的なのだそうだ。
 このサブレからは、小悪魔が基本に忠実に作って、とにかく軽いサクサクを求めたのだと伝わってくる。コーヒーにも、よく合う。ほのかに酸味のあるコーヒーはフランの好みに合わせたのだろうか、これなら飲みやすい。
「嬉しいです。フラン様にはお分かりになるんですね。それでこそ甲斐があるというものですよ」
「……」
 まだ何も言っていない。
 今更それに文句を言う気にもならないけれど。
「レミリアなんて、美味いわねこれって、そのくらいのことしか言わないのに」
「バカ姉と一緒にしないでよ」
 流石に心外だった。あんな味音痴と一緒にしないで欲しい。
 と、それとはまた別の理由も含めて、フランはやや不機嫌気味の表情で唇を尖らせた。
 理由は承知しているはずなのに、小悪魔は惚けた顔で笑う。小悪魔のそんな態度にフランはますます不機嫌になって、小悪魔はにこにこと楽しげに。
 要するに、からかわれているのだ。
 馬鹿馬鹿しくなって、フランは溜め息を吐く。

「あら、残念。拗ねた顔も可愛かったのに」

 嫣然と、小悪魔は微笑んだ。
 いつもの悪戯っぽい笑顔に混じって稀に現れる、小悪魔の素の微笑だった。からかいを含んだ敬語もやめて、もう本当にからかうだけの口調。
「…………」
「ふふっ」
 いっそのこと壊してやろうか、とも思う。
 いや、フランが怒りっぽいとかではなく、小悪魔が神経を逆撫でする態度をしているのだということは、念を押しておくが。フランはむしろ温厚な性格で、普段はあまり怒ったりしない。だからって苛々しているところに「うふふ~、お姉ちゃんが耳かきしてあげまちゅからね~」とか、本気で怒っても別に良いだろう。
 でも。仮にそうまでしたところで小悪魔が態度を変えないことを、フランは既に思い知っていた。
 それに、だ。小悪魔は、それがいかなる種類の笑みであれ、フラン達の前で微笑を絶やしたことは無かった。彼女が怒っているところなんて、想像もできない。
 だから、やめる。代わりに。
「お姉様のこと、呼び捨てにしないで」
「どうしてです?」
 意を決した抗議のつもりだった。
 そして、複雑な感情の含まれた言葉でもあった。
 これでも努力して素直になって言ったのに、小悪魔はこてんと首を傾けるだけ。
 どうして、って。うまく言葉にできないフランよりも余程、フランの心の機微なんて手に取るように分かっているだろうに、小悪魔は性格が悪い。
 どうしてなのか今一度考えてみなさい。そうフランに促すように、小悪魔は微笑む。
「お姉様は、私の……」
 私の? 何だと言うのだろう。
 四百年以上もの間、自分を放っておいた姉のことが、何だと言うのだろう。

 私を捨てた、素敵なお姉様。

 鬱屈も、曲折も、曰くし難い複雑な感情がある。尊敬しているとは言い難い姉だった。好きだとも、言えない。
 威厳なんて欠片も無い姉だけれど。
 威厳はともかくデリカシーとか色々と無い姉だけれど。
 だけれど、何? 分からない。

 そう言えば、フランはあの姉のことなんて、実はほとんど知らないのだ。

 知らない、と言うよりは、教えてもらえない。バカ姉は全てを夢だったように忘れて、いつものあの調子。それから小悪魔も、
 調べものがあるのなら、お手伝いしますよ?
 と、そう言っただけ。つまりは小悪魔が全てを教えてくれるということも無いらしい。

「…………」

 だからせめて、断片を集めよう。
 ただのレミリアがレミリア・スカーレットになるまでの、精一杯に命を運んだ旅路を辿って。

 質問は、ほんの少し、おかしな風になる。

「貴方は、お姉様とどんな関係なの?」
「いえ、順番通りにいきましょうね。そうですね、まずは……」


◇◇◇

 まずもって、“いわゆる吸血鬼”の歴史は百年にも満たない。
 現代にも受け継がれる吸血鬼像が完成して、かつ一般に浸透したのは、かの『ドラキュラ伯爵』の刊行による所が大きい。乱暴に言ってしまえば、人狼にすら比肩し得る知名度を誇る吸血鬼とは、近年の創作だ。今や、ドラキュラ伯爵の悪名は吸血鬼の代名詞ともなっている。
 それでいて、“いわゆる吸血鬼”をいわゆると言うのであれば、いわゆらない方の吸血鬼の歴史は、それなりに古くなり、吸血鬼伝承のルーツと目されるものも多々ある。家付きの悪戯妖精の例もあるが、一般的には、起き上がる死体だろう。
 曰く、心臓に杭を打ち込まないと死体が起き上がるとか。死者への畏れから、墓の上に十字を置くとか、棺の中に芥子や麦の粒を入れるとか、現代では考えられないほど真剣に、こうした民間信仰は行われていたものだ。そう前でもない昔、今では迷信とされるようなことは、唯一の身を守る手段だった。

 及第点には、程遠いか。
 ともあれ紅美鈴が調べ物無しで絞り出した知識は、この程度のものだった。
「まあ、ぐっちゃぐちゃのごちゃごちゃなんですよねぇ。全然違うものを一緒くたにして、あることないこと付け足して、みたいな。現代の吸血鬼像は色んな要素の継ぎ接ぎで寄せ集めです」
 とは、小悪魔の談。
 司書らしきことをしている彼女にも、吸血鬼とは何かを説明付けることは簡単ではないらしい。
「らしき、とは失礼な。昔は資格も免許も無かったんですよ。ですけど今から取ろうにも、試験だけ受けて、ぽんと取れるわけじゃないですし……」
 司書にも上級司書とか図書学芸員とか色々あってですね、じゃあ私がどれに当て嵌まるかと言うと全部やってるわけですし……と、何やら不満そうに小声で呟き始めた。
「あの?」
「なんでもないです気にしてません。さて、吸血鬼でしたね」
 小悪魔は少し、唇に指を添え。
 すぐに段取りをまとめたようで、緩やかな口調で話し始める。
「美鈴さんが言った、“いわゆる吸血鬼”ですけれど、これをその他のものと区別したのは良い着眼点です。日光に流水、ニンニク、あとは十字架など嫌う、いわゆる吸血鬼です」
 話題に上っている吸血鬼は、何でそんなもんにやられなきゃいかんのか、と常々から不平不満を漏らしている。
 ちなみにその妹によると「バカ姉はノリが良いからリアクション芸をしているだけよ」とのこと。
 美鈴も吸血鬼の弱点については、子供がピーマンを苦手にする程度の好き嫌いだと認識している。ニンニクを料理に使っても、形が見えていなければ気付かない、それどころか「美味いわねこれ」と感想も言う。そのくせピーマンだけはみじん切りにしようとも、器用に取り除くのだが。
 匿名にする意味も無いのできっぱりと言うが、レミリアを見ているとそうとしか思えないのだ。わりと融通が効いている。流水、シャワーを嫌うのだって、猫もそうだろう。唯一、十字架は平気だと言っていたか。
「では美鈴さん。吸血鬼が吸血鬼たる上で重要な特徴は何だと思いますか?」
 手を上げた生徒を指すような口調。
 小悪魔の癖なのか、ものを教えることに慣れているやり口だった。彼女なら学芸員も司書教諭も難なく務まることだろう。
「血を吸うことと、あとは不死性、でしょうか?」
 怪力やら何やらは、気にするまでもなかろう。際立った脅威ではない。
「まあ、そんなところでしょうね。血を吸う、これをより純粋で古い形で言い表すとすれば、霊魂を攫う、となりますね。不死性は後付けの特徴ですね。美鈴さんは動く死体とか生ける屍って言いたかったんじゃないですか?」
 確かに、美鈴が知っている吸血鬼は、それだ。
 故国のキョンシーの他、実際に美鈴が見たことのあるレミリア以外の吸血鬼も、ほとんどがそれらだった。
「西暦1031年、南仏のカオールで死体が墓から甦る事件がありました。その人物は秘蹟を拒んだ騎士で、教会の外の墓地に埋葬し直したところ、現象は収まった。といった記録が残っています。多分これが一番古い吸血鬼事件かと」
「へぇ、そんなことが」
 美鈴の知識は自分で見聞きしたことに限られるので、こういう客観的な情報というのは耳に馴染みが無い。
「んー、フィールドワーク的な知識の方が得難いものだと思うんですけどねぇ。私なんてちょろっと資料を漁っただけですもん」
 そんなものですか? と美鈴が言うと、小悪魔は、そんなものですよ、と。
「あと教会関連で言いますと、カオールの例とは逆パターンで、異教徒の死体は腐らない、という話もありますね。ブルコラカスと言いますが、これらは家を訪れて害を為します」
「……やっぱり、問題のある死体が蘇ってしまうんですね」
「信仰関係。生前に罪を犯した。お墓の上をカラスや猫が横切った。理由は色々。昔はお墓の安全を相当に気にしていましたからね」
「そうだ。今思い出したのですが、ご遺体の口に金貨を咥えさせる葬儀を見たことがあります」
 今にして思えば、あれは珍しい風習だったのだろう。冥府の川の渡し賃とも関わってくるのだろうか。
 死者を鎮める風習は、必ず、どんな地域にもある。
 生者は、死者には安らかに眠っていてもらわなければ、困るのだ。
 死体が動き出すと言われる由縁は、誤葬だとか死体の屍蝋化だとか言われているが、後世から見た推察の域を出るまい。小悪魔なら、違いますと断ずるはずだ。
「吸血鬼は、死者への畏れから生まれた……」
 考えながら呟く美鈴に、それが一つですねと、小悪魔。
「もう一つ、血を吸うという特徴があります。吸血鬼の古い形には、鳥に似た姿のものがありましたね。嘴で血を吸い取るんです。花の蜜を吸い取るハチドリみたいな感じでしょうか。吸血という特徴だけを抜き出してみると、このタイプには実体を持たないものもいますので、甦る死体の吸血鬼とは系統が違うでしょうけど」
「……鳥、ですか」
 なんとも貧弱な空想力だが、美鈴の脳裏では、カラスが死骸を突っついていた。ハチドリのイメージには重ならない。
「他には、ストリガ、ギリシャのエンプーサ、聖書のリリスも……ここまで遡るとサキュバスと混じってきますね。子供を攫ったり、男性の精気を吸ったりと、血液だけを吸うものではなくなってきます」
 と、淫魔は語る。
「ですがまだ例を挙げていくとすれば、バイヴ・カハなどはいかがでしょう」
「たしか、ケルト神話の女神様ですよね」
 モリガン。マーハ。ネヴァン。この三姉妹の女神の中でも長姉のモリガンは、サキュバスの女王としても有名だろう。
「カラスに姿を変えるのは、ええと、末妹でしたか?」
「よくご存知ですね。まあ色々とパターンはあるんですけど、それは置いておきましょうか。で、ですね。この女神らは戦場で死者の魂を集めると言われています」
 血を啜る、ひいては魂を浚うヴァンピールのルーツを求めるのなら、そういうものになっていくのだろう。荒涼とした夜を舞台に、墓地、あるいは戦場で、死体の元に舞い降りる夜行性の鳥だ。
 漠然としたイメージが重なるようだった。話はまだ途中だったが、美鈴は半ば以上に納得していた。
「戦死者の首を城門に飾っておくのは、モズの早贄の習性にも似ていますね」
「はぁ」
「あとは、そうですね。ケルトと言えば、マン島のリャナン・シーは吸血する悪性の妖精です」
「なるほど。吸血のルーツは、思いの外、古いんですね」
「ただ問題は、何処までを吸血鬼の範疇に捉えるかどうか、ですね。これがいわゆる吸血鬼像に直結するかと言うと、どうかなーと思います」
「古代のそれと現代の吸血鬼は、別のもの?」
「そです。ほら、やっぱり吸血鬼の故郷はスラヴ圏ですよ。ヴァンパイアという名前。それ自体の語源は、スラヴ圏なんじゃないかなー、そうっぽいなー、とはっきりしているわけですから」
 そんなものなのだろうか。
 いや、そんなものなのだろう。名前とは、重要なものだ。
「認識と本質の間に相関なんて無いですけどね」
「……はあ」
 勢いを失う。
 折角、納得していたというのに。
「はい。そのようでしたから。簡単に納得してもらっても困りますよ」
 悪びれもせずに小悪魔。
「定義付けは理性の働きです。本当はどんなものだって、どう呼んでも正しくないんです。でも、言葉を大事にするのが人間でしょう?」
 ……そんなものなのだろうか。
 どうにも、その手の観念的な話は苦手だ。
「いいえ、美鈴さん。難しく考え過ぎです。むしろとても単純なことなんですよ? 名前というものは、確かに存在を形容するものですけど、それはあくまで容器であって中身ではありません」
 分かりましたか? と問う小悪魔に、美鈴は難しい顔で、努力します、とだけ答えておいた。

「では最後に、漠然とした吸血する死者が、いわゆる吸血鬼になるまでを、年代を追ってまとめましょう」
 手を打ち合わせて、教師のように小悪魔。やはり癖のようだ。
「紀元前は飛ばして、西暦から。キリスト教社会でも既に、死者の扱いと密接に関わる、生ける屍タイプの吸血鬼は、民間に馴染みの深いものでした」
 進めて大丈夫ですと美鈴は頷いた。
「そうそう、14世紀に入ってペストが蔓延すると、これもまた吸血鬼と関わってきますね」
 そんなこともあったなと美鈴は思い出す。
 伝染病に、飢饉に、人の手でどうにもならないことが多過ぎた。
「次です。かのバートリ・エリザベート伯爵夫人は、17世紀の人物。またこの頃から、吸血鬼が当時の新聞や雑誌に掲載されていきます。段々と“いわゆる吸血鬼”に近付いていきますね。更にそれに伴って、吸血鬼に関する憶測が喧々諤々に飛び交い始めます。特に18世紀前半には、吸血鬼の報告が多かったようですよ」
「お嬢様がファンのドラキュラ伯爵は……」
 わんぱくなお嬢様はいたく感銘を受けたらしく、彼の末裔を自称している程だ。末裔も何も、レミリアとワラキア公爵は同世代だと言っても耳を貸さない。
「いえ、それ以前にも吸血鬼を題材にした小説はありました。私のお薦めは、ゴーティエの『死霊の恋』です」
 ハーンの英訳がありますよと、小悪魔は実物を手に取って、美鈴に表紙を見せる。
「人気者、なんですね」
「それは的を射ていますね……正鵠ど真ん中かも知れませんよ? 言わば、片田舎のフォークロアが都会で話題になって、大衆文学に発展していったわけですから、ウケが良かったのは間違いないです。こうして、吸血鬼は畏怖と敬意の対象ではなく、人々の娯楽の題材になりました」
 そう、娯楽だ。“いわゆる吸血鬼”には、かつてのような、葬送に対する真剣さも深刻さも含まれてはいない。面白がって、怖がっている。
 吸血鬼は大して強力な怪物ではないというのが、小悪魔の、そして美鈴の、共通の認識だった。
「以上です。簡潔な説明になってしまいましたけど、ご了承くださいね」
「いえ、十分でしたよ」
 簡潔、と小悪魔は言うが、確かに話の内容を取捨選択した部分も多いのだろう。そうは言っても、持ち出す例が多ければ良いというものでもない。これでも美鈴には、丁度良いと限界近いの間ほどの情報量だった。
 おかげさまで、話は分かった。
 しかし結局、そんなことはどうでもいいのだ。どんな周辺情報があろうと、美鈴の見てきたことの説明にはならない。
 美鈴の知る吸血鬼とは、夜空を舞う夜鳥ではなく、土臭い生ける屍だった。
 あの頃の美鈴は、その少女をキョンシーか何かだと思っていた。

 蒸し返された過去は、美鈴の内に苦い回想を呼び起こす。

 いつも決まって、同じ夢を見ていた。今でも、たまにそんな夢を見る。
 そこでの自分は世界を救うような英雄で、少し頭が悪いくらいに無鉄砲で、でも情熱的に。化蛇に始まり四凶四罪の悪神も何のその、果ては太歳星君さえも打ち倒す勢いで、美鈴は大陸を股に掛けるのだ。
 荒唐無稽な夢は、若い娘が見るものとしては少年的だろうか。
「私は美鈴さんの夢、嫌いじゃないですよ?」
 美鈴の夢を見たことがあるかのように言う小悪魔。夢魔なら難しくもないか。
「貴方と私は正反対なのかも知れませんね」
 ふと思い付いた風に呟いて、小悪魔は指折りして相違点を数え上げていく。
「美鈴さんは格闘派で、私は魔法派。美鈴さんの得意な中国拳法は、自然の力の流れを体内に取り入れる。逆に、私の得意なケルトの魔法は、生きている命から力を絞り取る」
 皮肉げな笑みを零し、次の言葉を、とびきり意地悪く囁いた。

「そして、美鈴さんは人間を好きじゃないけど、人権を認めてる。私は人間を嫌ってないけど、人権は認めてない」
 暖色の紅色と、暗色の紅色。同じ紅色でも、私と美鈴さんは全く違う色ですね。

「そうですね」
 人間を好きじゃないと指摘されても、美鈴は平然と頷く。事実その通りだ。人間のことは好きでも嫌いでもない。普通だ。
 美鈴からも一つ付け加えるなら、小悪魔は異端の人外で、美鈴は普通の人間だ。

 特別なんて一つも持ち合わせていない美鈴は、身の程知らずにも、誰かを助けたり、人のためになりたいだなどと、夢を見ていた。しかし荒唐無稽な夢の筋書きを信じていられたのは、ほんの最初の頃だけ。幼稚な夢は、すぐに、冷たく厳しい現実に否定された。
 人々を救う英雄になりたくて、ずっと長い旅をしていて、もう疲れて嫌になって、ただの惰性と空っぽの使命感だけで動いていた。
 死体のように無口なあの子に出会ったのは、その頃だった。


◇◇◇ 2章

 いつも決まって、同じ夢を見る。
 そこでの自分は世界を救うような英雄で、喝采と称賛に包まれ……馬鹿馬鹿しい。

 凡才。凡人。普通。そんな言葉こそ自分に相応しいと、美鈴は思う。

 辺りは暗い。
 ここは村外れの墓所。夜空には厚い雲が垂れ込めている。
 この村には、起き上がり死体の問題を解決しにやって来た。そして今夜、夜な夜な家畜を襲う怪物を始末するため、まずは適当な墓を暴いたのだった。

 棺の蓋をずらして美鈴が見たものは、横たわる少女の姿。
 血の気の失せた肌色が、磁器人形を思わせた。生きている人間にも見えないが、かと言って、死んだ人間にも見えない。
 生と死のあわいにいる。それとも、死んでも生きてもいない?
 死んでいるのに生きている。もしくは、死んでいるものが生きている。
 美鈴には、その細かい違いは分からない。

 ……誰?

 掠れた、しかし、少女のものと分かる声が、死体の口から発せられた。
「私は怪物退治を仕事にしています」
 声帯が衰えている少女にも負けず劣らず、我ながら乾き切った声だった。
 と言うのも、少女であるということが、かなり予想外だったせいだ。
「ですが、お嬢さん」
 掘り起こした死体は、幼い少女のものだった。
 退治するに足る理由は無い。この少女は、あまりにも非力だ。
「貴方は人を襲う怪物ではないようです」
 まずは、当たりを引かなかったということになる。落胆した美鈴が、再び棺の蓋を閉め、土を被せようとした、その時だった。
 ふと、雲が途切れた。蒼褪めた満月が皓々と夜の墓所を照らす。
 少女のその幼い顔に、生まれて初めて夜を見るような感動が浮かんだ。その瞬間、確かに、死んだ表情は、生への歓びに彩られていた。
「……ああ」
 魂が零れ落ちるような感嘆の溜め息は、少女と美鈴、果たしてどちらのものだったろう。
 紫水晶を砕いてまぶしたかのような、そんな奇妙な色合いをした銀髪が揺れて、目に掛かった。美鈴はそれを指で払ってやる。
 少女は不思議そうに、やはり初めて見るように、きょとんとした顔で美鈴を見上げた。

 ふらりと立ち寄った寒村でのこと。
 それは今から500年と少し前の話で。
 その少女の名を、レミリアと言った。


◇◇◇

 東洋系の顔立ちをした若い娘は、紅美鈴と名乗った。

 肌の色が違うし、服装も見慣れない。言葉は通じているが、何処か怪しい。身振り手振りで乗り切っている間に気合で覚えたような感じだ。
 お世辞にも身なりが良いとは言えない娘だった。しかし芯が通っているとでも言うのだろうか、衣服の染み汚れ等が目に付くものの、例えば脚絆の裾の土からは、彼女の健脚さが窺える。細身だが張りのある肢体には、引き締まった筋肉が付いている。けれども、鍛え抜いたことによりある種の剣呑さを秘めた肉体とは裏腹に、その表情は太平楽そのもの。
 赤毛で、それから、長身で、背筋がすっと伸びている。清流のように爽やかで、大河のようにおおらかな、そんな人物である。

「私は旅の者です。あと、私は普通の人間です」
 そう自己紹介をすると、美鈴は、自分が怪物退治のようなことを生業にしていることと、その用件で村に立ち寄ったことを話した。
「お嬢さんは……僵尸のようなもの、ですか? あれ、背中に何か……」
 呟きつつ、美鈴が身を屈めてレミリアの背中の膨らみを観察する。視線が行き来しているのは、肩甲骨の辺りだ。レミリアは自分の背中を見られないけれど、未発達な突起は、将来的には立派な翼になるだろう。
「翼がありますね、これは珍しい」
 しばらくの観察の後、美鈴はレミリアを、そう評した。
 僵尸とは、故国で言う所の、動いて人を襲う死体。時には生き血を啜る、恐ろしい怪物だとか。
「……見たところ、害は無いようですね」
 それもそうだろう。
 レミリアは終始無言で、じっと美鈴の顔を見上げていた。感情を表現する方法を学ぶように、無言で観察していたのだ。爬虫類じみた温度の無い視線、あるいは雛鳥のごとき無垢な瞳に晒されながら、美鈴は穏やかに口を開く。
「ところでお嬢さんは、この村にいる悪い怪物について、何か心当たりはありますか?」
 いきなり核心を切り出す。気遣い、ひいては常識の欠損が見受けられた。
 生まれたばかりのレミリアは知る由もなかったが、この美鈴という娘、少々おかしかった。

 更に詳しい話を聞いてみる。

 怪異の解決と言っても、ほとんどは、“気の巡りを良くする”ことの手伝いなのだそうだ。そしてこの寒村には“悪い気”が充満している。レミリアが生き返ったのも、それが原因だろうとのこと。
 傍目には無反応に見えたレミリアだが、実の所、美鈴の予想よりは幾分、理解らしきものを示していた。情緒の変化に欠けた頭は、並べられた情報を淡々と受け入れる。感情が未発達であるが故の冷静さだ。
 もちろん子供の頭で分かる範囲は限られる。が、レミリアは要点だけは、なんとなく悟っていた。
 生まれ故郷の寒村で、良くないことが起こっている。見届けたところで、良い思い出にはなるまい、と。
「…………」
 けれど、それについて何かを思う心は無い。美鈴の質問にも一つも答えなかった。
 聞き込みで情報を得られなかった美鈴は、困った風に頭を掻いた。
「村に戻りましょう」
 とことこと、レミリアは美鈴の後ろを鴨の子供のように着いていった。

 聞いた話は、こうだ。

 最初は、家畜が襲われた。
 別の日、村人は墓が暴かれているのを見付けた。
 また、夜の墓場で不審な人影を見たという者がいる。
「……やれやれ、なんとも普通の村ですね」
 美鈴は独り言のように、これまでの聞き込みで得た情報を呟いて、最後に、普通の村だと締め括った。
 何が普通か知らないが、差し当たって、その噂のどれもレミリアではない。レミリアより先に甦った死人がいるようだ。同類の、先輩ということになる。

 数ヶ月ぶりに戻った村の広場は、あの頃と何も変わっていなかった。人々の様子が、張り詰めたものに変貌している以外、特筆すべき点は無い。
 人は目に見えない何かを恐れるように、それぞれの家に籠っている。無人の広場は、しんと静まり返っていた。いや、深夜なのだから当然か。だがやはり、どこか奇妙だ。静かだが、張り詰めた気配がある。
「何かしらの怪物が家畜を襲った上にお墓まで掘り起こした。そう考えても良いんです。ですが、この村の不穏な空気はそうではない。皆が一様に、死人の祟りと信じているようだ」
 一拍を置いて、美鈴は平坦な口調で続ける。
「つまり、後ろ暗い事情がある。死人に対して、罪の意識があるのでしょうね。まったく、何をしたんだか」
 確定的な断言だった。
 後ろのレミリアを振り返り、更に続けて呟く。
「死者を丁重に扱わないなどと、ぞっとしますね。安らかに眠れなかった彼等が、生者を快く思うはずがないのに」

 レミリアを見て、そう言った。



「出遅れましたね」
 苦々しく思う心も摩耗しているのか、いかにも日常的な調子で美鈴は言った。
 何がどう出遅れたとかといった事情は独り言の呟きには含まれていなかったが、レミリアには、レミリアの相手をしていたせいで美鈴が出遅れたのだということは、なんとなく分かっていた。

 村人達の大声を聞き届けて美鈴が駆け付けた時には既に、死体は三つあった。
 場所は村の民家。その家の玄関の前に、人だかりができている。「ここで待ってください」と言われ、その意図を直感的に把握したレミリアは、仔細を指示される前から物陰に身を潜めた。小動物的な本能の為せる技であった。不用意に人間の群れに近付くのは危険だと、誰に教わるでもなく、本能が知っていた。
「何があったんですか?」
 美鈴は自然に、人だかりを遠巻きに見守っていた男に声を掛けた。美鈴の人懐っこい人徳のためか、男は異邦人の美鈴相手にも警戒することなく、声を潜めて事情を説明し始めた。幸い、まだ辛うじて聞き取れる距離だ。注意深く周囲の気配にも聴覚を張り巡らせながら、レミリアは男の話に耳を傾けた。
 話は簡単だ。生き返った死人が民家の住民を襲った。
 しかし状況は簡単ではない。男は声を荒げて、男自身も又聞きだろうが、その時の信じ難い状況を語る。

 生ける屍は玄関の戸を叩き、押し入るのではなく招かれる形で民家に入り込んで、住民を惨殺したのだとか。
 人間の行動をなぞっておきながら、その直後に躊躇なく人間を取って喰った。

「……お役に立てず、申し訳ありません。こうならないように、私はこの村を訪れたのに」
 目を伏せる美鈴に、いや、あんたは悪くねぇ、だとか、男は自分もショックだろうに、美鈴を慰めるようなことを言う。きっと、悪人ではないのだろう。ひでぇよ、と。心の底から痛ましそうに。強面の大男が、しかし大きいのは図体ばかりで中身は繊細であるかのようにおめおめと、事件の悲しさを訴える。それ故に、同情を禁じ得ない一幕だった。

 そして、窓から話題の民家の中を覗くことができた。
 そこには、完璧な嘆きの光景があった。

 死人は生者を殺した。殺害されたのは若い夫婦だ。知人、親類だろうか血塗れの骸を抱いて、絶叫しているものがいる。また別のある者は、惜しみなく涙を流しながら、全身を震わせていた。

 完璧な嘆きの光景だ。
 その完璧な嘆きの光景の、すぐ隣、血飛沫の飛び散った玄関。レミリアが注視していたのは、そこだった。

 そちらでは、生者が死人を殺していた。先の男が遠巻きに見ていた人だかりだ。若い男衆が濁った笑い声を吐き出しながら、鉈を、木材を、それぞれに振りかぶり、どしゃどしゃと肉を耕すように執拗に振り下ろす。その場は、鬼気迫るようでいて、粘つくような、異様な熱狂に満ちていた。
 死人……彼は、あるいは元から遺体の保存状態がひどかったのか、体のほとんどが腐敗し、崩れていた。そこへ立て続けに繰り返される、凶器による殴打、殴打、殴打。見る間に彼の輪郭は形を失い、赤黒く染まった服の袋から、やはり赤黒い混合物をだらしなく溢れさせた、ミンチ状の肉が詰まったズダ袋といった有様に変わり遂げていった。
 誰しもが、彼を許せないといった様子で、惨さを訴える者はいなかった。彼のしたことを考えれば、これでもまだ手ぬるいくらいだ。死人の命一つで償えるものか。彼は、地獄の苦しみを味わうべきだった。惨いだなどと口を挟んで良いわけがない。

 ところで、そう広くない寒村だ。あの人間達は、誰も彼も、レミリアの見知った村人であるように思える。
 彼らは、レミリアの姿を見た時に、どのような反応をするのだろう?
 レミリアは無意識の内に異色の髪を抑えていた。

 美鈴が歩いて戻ってくる。
「じゃあ、行きましょうか」
 それだけを淡々と言うと、悲しみなど何処かに置き忘れてしまったように、完璧な嘆きの光景と、その隣の人だかりにも、一切の頓着もせずに背を向けたのだった。



 彼らは普通の人間だった。
 あの寒村の人間の誰もが、普通の人間だった。普通の人間が殺されて、普通の人間が悲しんで、普通の人間が同情していた。死人を殺していたのも、その光景を遠巻きに見ていたのも、普通の人間だった。
 自分達が何をしているかすら知らず、彼ら普通の人間は、自分だけは善人だと疑いもせずに思っているようだった。元はと言えば、誰が葬送を怠ったのか露ほども考えず、罪悪感も抱かない。何故なら、完璧な嘆きの光景がそこにある以上、彼ら普通の人間は絶対的な被害者であることが保証されているからだ。被害者であるということと、それで正当性があるかどうは別問題のはずだが、そんなことすら、完璧な嘆きの光景の前には霞んだ。
 一般的であり、大多数である。普通であるということは、普通以外の少数派に対する優位性の証拠に他ならない。この世界は、ほとんどのものが普通で出来ていた。
 圧倒的な優位に立った人間は、怪物という弱者に対し、いとも容易く残虐な行為を働いた。

「私と一緒に来ますか?」
 ふと立ち止まって、美鈴が言う。レミリアは、ゆっくりと頷いた。
 それは形ばかりの質問で、ほとんど確認程度のものだった。保護なくしては、レミリアが生き残ることは不可能だろう。怪物は、普通の世界では生きていけない。
 普通の人間は、怪物の餌であると同時に、怪物の天敵でもあった。
「ああ、そうだ」
 またしばらく歩いた頃、美鈴が呟く。
「貴方にとっての故郷です。村を出る前に、何か持っていきたい荷物はありますか?」

 妹がいる。

 少し考えてから、レミリアは首を横に振った。
 知らず零れた涙は、すぐに澎湃と流れる滝になり、頬をびしゃびしゃに濡らした。

 遠い夜空の美しさを知っている。
 けれど。こんなところに妹を連れ出せるわけがない!

 妹のことを皮切りにして、仮死状態だった感情が溶け、死後硬直にも似た硬さを失っていく。
 声も出さずに号泣しながら、レミリアは持っていくものなど何も無いと、繰り返して首を横に振り続けた。

 後ろを振り返るその度に、青白い満月が追い掛けてくる。
 逃避行にも似た、旅立ちの日の夜だった。



 それから結局、レミリアは美鈴の背中を追って育つことになった。

 美鈴に付き合うことは即ち、地脈の乱れた土地を渡り歩くことを意味していた。怪異を解決する、人助けの旅だ。
 楽しい旅ではなかった。美鈴が立ち寄る土地は地脈の乱れた土地であり、健康を害した土地の人間は、やはり精神的に健常ではない。レミリアの故郷で起きた事件など、さして珍しくもない普通の出来事なのだと知った。

 武道を修得した美鈴の動きは、踊っているようにも見える演武だった。ああいうものを華麗と言うのだろう。長い手足が動く度に、人を襲う怪物は屠られていく。しかし何の意味も無い。
 強者は弱者を虐げ、多数派は少数派を虐げる。美鈴がどれだけ頑張っても世界は変わらなかった。

 もしかすると、美鈴の普通になど付き合わなければ、せめてレミリアだけでも、もう少しマシな世界を見ることもできただろうか。



 それは、次の目的地へと向かう途中。林の中を移動していた、ある日のことだ。
 今では一部でしか使われなくなった旧道が林の中を通っている。土を固めただけの旧道を、馬車が走り抜けようとしていた。
「……」
 今、美鈴はいない。今、馬車が無防備に走っている。
 幌の隙間から、弱そうな人間が乗っているのが見えた。人数は、6人ほど。武器を持っている護衛はいない。絶好の狩りの対象だ。

 レミリアが動く。
 連なる悲鳴が、森にこだました。

 人間には、突風か何かとしか思えなかったろう。レミリアは手頃な首根っこを掴んで繁みの中に連れ込み、押し倒して首を絞めた。狩りは大成功だ。
「はははっ、ははっ」
 自分を恐れて泣き喚く人間を襲うのは、こんなにも気持ちが良い。けたたましい哄笑も、すぐには自分の喉から発せられていると気付かなかった。勝手に唇の形が歪んでいる。ここまで爽快な気持ちは初めてだ。
 涙を含んで潤んだ瞳。助けて助けてと繰り返し懇願する声。その全てを無視して圧倒的な腕力で捻じ伏せることは、異常なまでに楽しい。初めてやったが、まさかここまでとは。これが弱者を虐げるということだ。本能だろうか。魂の躍動を感じる。みるみるうちに飢えが満たされていく。
「はははっ……?」
 自分が何をしているか、自覚した。
 弱そうだと狙った人間……幼い少女の、その背丈が、ちょうど妹ほどであることに意識が及んだ。
「……」
 だから、どうしたと言うのか。
 この少女は食べ物だ。妹と重ねて考えるのは、間違っている。
 レミリアは怪物として正しい思考をする。少女の死をレミリアが嘆く必要が、何処にある?
 少女は既に死んでいる。
 レミリアは、取り返しの付かないことをした。後悔しようにも遅いのだ。温かいスープが冷めてしまいわない内に、その細い首に、牙を突き立てた。
「うげえぇぇっ……」
 血腥さに悶絶する。少し飲んだだけで、吐き戻してしまった。

 レミリアは茫然として空を仰いだ。

 太陽も青空も嫌いだ。
 泣き出したい気分のこんな時にだって、青空は、雨など降らせたことがないかのように、眩しい程に明るかった。突き抜けた青色は、何の慰めにもならないのに。


 やがて、太陽が落とす影の向きが変わる頃だから、小一時間は過ぎたのだろう。
 茫然自失のレミリアは、頬を炙られて正気に戻り、少女の遺体を引きずって影の中に逃げ込んだ。美鈴がレミリアの元に戻って来たのは、折悪くもその時だった。美鈴の足音が聞こえた瞬間、レミリアは他の怪物と同様に、美鈴に殺される覚悟を決めていた。
 レミリアの手は人間の少女の血で汚れている。惨殺に当たる行為のはずだ。しかし美鈴は、普段と何も変わらない普通の調子で、レミリアに声を掛けたのだった。
「ああ、ちゃんとできたんですね。偉いですよ、お嬢さん」
 美鈴は、レミリアの初めての狩りを褒めた。
「え?」
 呆気に取られた。
 少し遅れて気付く。走り去った馬車の残した轍を見て、美鈴はそう言ったのだった。
 まだ、意味を計れない。
「こういうのはですね、全部取ってしまってはいけません。来年もまた実るように残しておくんです。一部を少しだけ頂く、この気持ちを忘れずに。大切なことです。これからも守ってくださいね」
 山菜取りでもしているように和やかに、太平楽な美鈴。
 激しく震える手で少女の惨殺死体を抱いて、血の混じった吐瀉物に汚れ、今もまだ嗚咽と嘔吐を繰り返すレミリアを前にしても、平然とした態度が変わらず、美鈴は普通にしていた。
 後から聞いたことだが、美鈴が怪物を退治するかどうかは、その怪物が過剰かつ無用に他の生物を襲うか否かを基準にしているのだそうだ。獣が肉を喰らうのは自然だ。レミリアの行動は何ら問題が無い。だからって、そう簡単に割り切れる問題ではないだろうと、レミリアは思ったのだが。
「でも……あーあ、こんなに汚して」
 美鈴は普通に、服の裾でレミリアの口元を拭った。
 この状況で普通にしていることが、まともじゃない。
「……」
 レミリアは、薄々ながら勘付いている。

 自分を普通の人間だと語る美鈴は、確実に異常だった。


 レミリアの髪は異色で、肌の色も誤魔化せるかどうか危うい線で、人間の集団に紛れることは難しい。そんなレミリアが人間の世界で生きるには、間違いなく美鈴の保護が必要だった。レミリアが美鈴と行動を共にしているのは、そうしなければ生きていけないという明確な理由がある。もしも、その前提が崩れるとしたら、レミリアは、美鈴と共に行くのだろうか?
「行きますよ、お嬢さん。次の町の情報を仕入れてきました」
 人助けをする美鈴は、人が困っている場所に赴く。次の町でも、美鈴にとっては普通で、レミリアにとっては愉快とは言えない出来事が待っているだろうことは、楽々と予想できた。
 最初、もしかするとと思っていたけれど、今では恐らくと思っている。
 恐らく、美鈴とさえ別れれば、もっと楽しく生きられる。もう少し、マシな世界を歩ける。
 それでもレミリアは、落日と同じ色をした美鈴の後ろ姿を、とことこと追いかけて行った。
 理由なんて、後から考えれば良い。



 故郷を、夢を見る。
 貧しい村で、流行り病で子供が命を落とすことも珍しくなかった。

 レミリアは、墓石の前に立ち竦んでいる。砂を吹き付けたような、ざらざらとした印象の光景には現実味が無い。何も考えられない頭が、ただぼんやりと、これが夢であることを了解する。
 たった一つの墓石。他は、荒涼とした地面。空は厚く垂れ込めた灰色の雲に、辺り一帯は白い靄に覆われている。本来は墓地で、墓石がずらりと並んでいたはずだけれど、レミリアの思い出を反映した結果か、ひどく殺風景なものになっていた。
 レミリアと墓石以外、土埃にまみれたこの世界には、何も存在してない。
 いや、そうではない。
 一人の少女が、墓石の前にしゃがんで俯いている。
 少女は、何も言わない。しかしレミリアは非難されているように感じたし、事実この悪夢は、レミリアを苛むものだった。

 レミリアによく似た少女。妹。
 守ってやらなければいけなかった。それなのに。

 生前のレミリアは活発な子供だったが、妹は体が弱く、それを差し引いても内向的な性格をしていた。
 たしか、生前のレミリアは、そんな彼女の面倒を押し付けられるのが嫌で、妹を疎ましく思っていたような気がする。外で遊ぶのが好きなレミリアが、内向的な妹によって行動を制限されていた形になる。けれども別に、何も本気で嫌っていたわけではない。甚だ面白くないのは確かにそうだが、それは、姉妹関係において必ず姉が経験することとなる当たり前の嫉妬や不服であって、本心では妹に、子供なりの愛情を向けていたはずだ。
 貧しいこと以外は平凡な家庭で、やや腕白に、幸福な家庭なら何処でもそうであるような、両親からの無限の愛を注がれて育った。少女の不幸は、十歳の誕生日すら迎えられなかったこと以外には、何も無い。そう、普通の少女だった。「生前のお嬢さんは、愛されて育ったのでしょうね」と、美鈴は言う。多分、愛されていた。死んで初めて、そのことが分かった。丁重に葬られなかったことも、恨もうとは思わない。あの村には、そんな余裕は無かった。

 しかし生前のことなんて、今のレミリアには関係が無い。生前の少女とレミリアは、他人だ。

 相変わらず妹は何も言わない。
 いつも、こうだ。夢の中の妹は無言で、自分を置いて村を出たレミリアを非難し続けている。

 べっとりと汗を掻いて目を覚ますまで、この拷問は続く。



 目を覚ますと、町の宿だった。
 故郷の寒村からはどれくらい離れたろう。逃げても逃げても、悪夢からは逃げられないどころか、日に日に酷さを増していくようだった。
 温かい布団で眠った日には、特にひどい。
 ベッドは一人分。美鈴はいつも床に寝ていた。その方が落ち着くとは美鈴の談だけれど、あの唐変木にそんな気が回せるかどうかは微妙な線だ。本当に貧乏性なだけかも知れない。
「……美鈴、いる?」
 言っている間に、部屋の様子は確認できていた。美鈴は不在だ。情報収集をするのにレミリアが同行する理由も利点もないために、別行動には慣れていた。しかしどうしてか、今日に限っては不安を感じた。

 カーテンの隙間からは白い光が漏れている。土の下で眠っていた者には、あまりにも眩しい光だ。外に出ることは躊躇われた。けれど、このまま部屋で美鈴の帰りを待つこともできそうにない。頭からすっぽりとフードを被って、光の差す町に一人で飛び出した。


 木の手触りが優しそうな子供用の玩具が、店頭に並んでいる。
 大きな物は家具等の調度、細かい物は伝統の工芸品と、木材加工が盛んな町だった。都市部はもっと大きく人が多いと聞かされたが、レミリアには十分に巨大で、人の多い町に見えた。もっとも、それは他愛もない田舎者の感想だ。実際のところは、山間にありながらも賑わった職人の街、といった具合である。レミリアが初めて訪れた、地方の城塞都市がここだった。
 人が集まるためか、町はところどころ、見栄えを意識した造りになっている。工芸で栄えた町ならではといった、可愛らしい町並み。

 チョコレート色の梁が飛び出す白塗りの壁。木枠で囲われた窓。ベランダには蔓を伸ばす花の鉢植え。
 足元はずっと石畳。足音がコツコツと響いて着いてくる。

 そんな町に満ちる圧倒的な幸福が、レミリアを押し潰そうとしているかのようだった。
 冬の町には、粉雪が散っていた。行き交う人々は肩を寄せ合っている。人波に揉まれ、レミリアは早くも窒息寸前だった。普通の世界には、この町には、怪物の居場所なんて無い。

 町並みそのものが、どこか浮き浮きとして弾んでいるような気がする。そこに住まう人々も皆、笑顔だ。すれ違う人々は、目深にフードを被ったレミリアを怪訝に振り返るものの、具合が悪そうな様子だと分かるやいなや、多くの人が気遣わしげに声を掛けようとした。その度に、レミリアは小走りになる。
 周りにいるのが全て普通の人間だと思えば、今にも恐慌状態に陥ってしまいそうである。特に親子連れだけは視界に収めないように注意する。羨ましくなってしまっては、困るから。
 親切な人間達を振り払いながら、レミリアは美鈴を探した。

「……美鈴……美鈴」

 人混みの中に消えるだけの声。泣き出す寸前のような声で繰り返しながら、レミリアは当てもなく町中をさ迷った。
 その姿は、母親を探す迷子の子供にも、似ていたか、どうだか。

「美鈴っ!」

 見間違えるはずがない。ついに、背筋の伸びたあの背中を見付けて、レミリアは思わず飛び付いていた。

 今、ようやく分かったような気がする。レミリアが美鈴と共にいるのは、美鈴と過ごす“普通”が異常でも、あの背中の後ろにいれば安心できたからに、他ならないのだと。
 美鈴の様子は、いつもと少し違った。
「ああ、お嬢さん。この町では何も起きていない。珍しい町ですね」
 落胆しているようだった。
 美鈴が、“普通”と言わない。美鈴にとっては無駄足でも、レミリアにとっての朗報だ。
「すぐに出発しましょう」
 何らかの義務感に衝き動かされ、美鈴は言う。
 しかしレミリアは、激しく首を横に振った。
「あと一日だけ、この町にいよう」
 美鈴が、僅かに目を見開いた。



 怪異の解決は、ごく稀に金銭が発生する。安宿からも分かるように路銀に余裕があるわけではないが、レミリアはこの時ばかりはわがままな子供になって、多くをねだった。
 祭りのお菓子らしいものがたくさん並んでいる。可愛らしい形のマジパンに、パステルカラーのドラジェ。お菓子を買い込んで、宿に戻る。

 宿泊客の出払った昼間の宿は、比較的静かだった。遠く聴こえる町の喧騒も、その中を歩いている最中はあれ程までに苛まれたのに、こうして離れてしまうと、何故だか心地良く感じられる。現実味が無いからだろう。付かず離れず、このくらいが丁度良い。

 旅の途中。束の間の平穏。
 暖炉の燃える部屋は温かかった。
 こんな時間が永遠に続くのならそれも良いと、レミリアは思った。もちろん、分かっている。レミリアにもすべきことはあるし、何より、美鈴が自分の平穏を良しとしないだろう。
 この幸せな時間が終わってしまえば、美鈴はまた旅を続ける。
 だけど今この瞬間だけは、世界にはレミリアと美鈴の二人しかいないように思えた。

 二人で、他愛もない話をした。
 と言っても、あの美鈴との会話だ。普通の意味で気を使うということができない美鈴は、気の利いた話なんかできやしない。おのずと話題は限られてしまう。話題は、これまでレミリアが美鈴と見てきた、陰惨な出来事の数々だった。
「……美鈴は、なんでこんなことしてるの?」
 嫌ならやめれば良いのに。
「……さあ、どうしてでしょうね」
 自然体で肩をすくめる美鈴。
 例えば、美鈴の小さかった頃を想像してみると、これが全然、想像が付かないのだ。美鈴を見ていると、最初からそう生まれてきたとしか思えなくて、なんだかちょっと悔しい。レミリアは、いつか大人になる自分というものが分からなかった。
「私のようになることは、決して良いことではありません。慣れとは、怖いものですよ」
 ぽつり、と。声に疲労を滲ませて、美鈴は小さく呟いた。
 決して声を荒げているわけではないのに、擦り切れた声は、吼えているようにも聞こえた。

 ひどく疲れているようだ。
 レミリアには、その程度のことしか分からない。自分に会う以前から、ずっと、長い旅を経て来たのだろう。いつか、美鈴が報われれば良い。

「……ふわぁ」
「今日は昼から起きていましたからね、もう眠いはずですよ」
 まだまだ言いたいことはあったけれど、暖炉の温もりに誘われて、うとうととしてくる。

 美鈴は、普通の人間とは違う。普通じゃないよ。すごいよ。

 レミリアはそう伝えたかったけれど、今日は人混みに苛まれ、ひどく疲れた。眠気は強烈だった。伝えないことは、また明日になったら伝えれば良い。
「おやすみなさい、お嬢さん」
 母親のような声が、遠くの方で聞こえた。
 それは、記憶に残る母親らしいものとは似ても似つかなかったけれど。不器用で、手探りの、しかし確かに向けられる愛情を感じて、レミリアは安心して瞼を閉じた。

 間違いなく今夜は、いつにも増して悪夢に魘されるだろう。
 幸福を感じれば感じる程に、妹への罪悪感は肥大していく。でも、眠るレミリアのすぐそばには、美鈴がいる。悪夢を見ることは、いつも程には、怖くなかった。



 レミリアをベッドに運び、暖炉の前に座ると、美鈴は、呆然とした表情で硬直した。そのまま、決して短くない時間が過ぎる。

 旅の間、たまに喋る時以外、レミリアの感情の起伏は、死人のように乏しかった。
 だから今日が最初ということになる。レミリアの無邪気な笑顔を、美鈴は初めて目にすることとなった。

「あと一日だけ、この町にいよう」
 そう言ったレミリアの、思いがけず強い意思に、驚いた。

「……美鈴は、なんでこんなことしてるの?」
 はぐらかした。何も答えられなかった。
 ただの惰性だった。
 それ以外には、何も無いからだ。
 そうする以外の生き方を、忘れてしまったからだ。

「……お嬢さん。私は……」
 何を、言おうと思ったのか。
 言葉は出てこなかった。
 レミリアと出会ってからの奇妙な日々。しかしいつの間にか、レミリアと過ごす毎日が、美鈴の日常になっていた。この子に出会う以前の自分は、どう過ごしていただろうか。随分と生き急いでいたようで、掠れた記憶があるだけだ。擦り切れていくばかりの人生だった。だがそれは、今は違う。過去は、過去のことになっていた。
 物思いに沈む美鈴は、レミリアの安らかな寝息に、はっと顔を上げた。

 まるで、普通の子供のようだ。
 殴る蹴るしか能の無い自分では守れないと思っていた、尊いものの姿だった。

 たったこれだけのことで、今までの全てが報われる程の安堵を得られるはずがない。
 けれど、たまらない喜びが、拭い難いはずの疲れを癒していくかのようだった。


◇◇◇

 それから後も、安易な道のりではなかった。ところが美鈴は、どういうわけかこうして、安穏と日々を送っている。
 場所は、現在の図書館に戻る。
 話すべき内容の整理に付き合ってもらった小悪魔に代わり、ルビーに似た瞳が美鈴を見上げている。
 単純な姉と違って、聡い子だ。訝しみ、推し量る目付きで、美鈴の逡巡を見抜いて、不機嫌に唇を尖らせる。ひょっとして、美鈴よりも余程、頭の回転が早いのではないだろうか。
「私は過ぎたことは気にしない。聞かせてって頼んだのも私。だからさ、下手なくせに変に気を使わないでくれる? そういうの、腹が立つから。大人が思ってるより、子供はそういうのに敏感なのよ?」
 そう言われたところで、美鈴は困っていた。小悪魔の言い分を信用するのであればだが、美鈴が普通と思っていた話は、どうにも子供に聞かせるような話ではないらしい。

「私が拾ったのか拾われたのか分からない」

 レミリアとの来歴を問われた美鈴は、長い沈黙の末に、一言だけ、そう呟いた。


◇◇◇ 3章

 1899年。季節は初夏。
 フランスはブルターニュが次の舞台。

 ブルターニュの名は、ブリテンからこの地に移住したケルトの民族が、故郷と同じ名で呼んだことに由来する。
 アイルランド、ウェールズ、コーンウォール、スコットランド、マン島、そしてブルターニュ。これら六つの国を、ケルト国と言う。
 ブルターニュはケルトの国だ。そこかしこで聴こえるただの葉擦れの音にも、目に見えない存在達の気配を感じてしまう。生い茂るメドウグリーンの夏草の奥に、少し探せば、妖精の輪が見つかりそうでもある。
 ブロセリアンドの森は、アーサー王伝説に縁の地。カルナックの環状列石群には、驚くような数のメンヒルが立ち並んでいる。ブルターニュには、神秘の気配が色濃く残っている。

 そんな、フランスの片田舎。何処にでもいるような没落貴族の館が、そうらしい。

 田舎とは恐ろしいもので、所によっては、かつての建築が残っている事も珍しくないどころか、相当数がある。パチュリーが探してきた物件も、そうした数ある内の一例だった。


 小高い丘の上に、その、古色蒼然とした館はあった。

 初夏の涼しげな風が、草いきれの空気を散らす。
 風に煽られ目深に被ったフードが捲れても、レミリアはしばらくの間、被り直すことを忘れていた。

 縦に並んだ細い窓の端正な立ち姿。例えば館を取り囲む鉄柵の意匠。細かい部分にも装飾の凝らされた、大時代的な美意識の結実した一つの作品だった。蔦の絡む外観にも、重みの伴った歴史を感じる。フランス語のシャトーには、貴族の邸宅と、城の意味もあったかどうか。
 風雨に晒された外観は乾燥し、石造りの壁には蔦が絡んでいた。これだけ古いと風が吹く度に石材の欠片がぱらぱらと零れそうなものであるが、何故だか不思議と、このままに鎮座している。時間の流れから忘れ去られ、百年は眠り続けていたような、そんな印象すら抱かせた。
「……聞いてはいたけど、古い建物だな。うわー、屋根が尖ってる」
 一人、呟く。

 今日から、レミリアはここに住むのだ。



 持つべきものは頼れる友人だ。
 レミリアが彼女に出会ったのは、年号を少し遡って、霧の煙る都会でのこと。

 両隣の家と家の間に挟まれて肩身も狭くこじんまりと建っている、赤茶けた煉瓦作りのフラット。部屋は狭いが、貧乏だから仕方ない。むしろレミリアの人生の中では、かなり上等な部類の生活を送っていると言える。美鈴が働いている茶館も、歩いて行ける距離にあった。
 レミリアは猛アタックの末に友達になった、ある苦学生とルームシェアをしていた。


 パチュリー・ノーレッジほど、魔法使いらしい魔法使いはいないだろう。
 当時のことだ。こんなエピソードがある。

 レミリアが夜の渉猟から戻ると、パチュリーが暗い部屋で何やらごそごそとやっていた。興味を引かれて観察していると、パチュリーはぶつぶつと呪文を唱えて燭台に火を灯す。こじんまりとした部屋の暗い一角が、揺らめく炎のオレンジ色に照らされる。その結果に、パチュリーは満足げに息を吐いた。
「いつも思うんだけど、わざわざ、って感じだよな」
 と、率直な感想を。
 そんなレミリアに、成功の余韻に浸るパチュリーは気を悪くする様子も無く、饒舌に返す。

「確かに、火を点けたければ、燐寸の方が手っ取り早いこともあるでしょう。魔法と言っても、まさか御伽話のように何でもとはいかないわ。魔法は学問なのだから、確固たる理論があるの。私はその理屈と手順を、魔法を知らない世間一般より多く知っているだけ。けれど、その知識こそ、何よりも尊いものだわ。魔法という尊い知識を担う特権階級として、私は世俗の道具に頼るなんて恥ずかしい真似はしないわ」

 魔法使いという特権階級の自覚を持ち、魔法使いの誇りを掲げ、魔法使いたらんとしている、あらゆる意味で生粋の魔法使いのパチュリーらしい言葉と、その宣言に即した行為だった。
 真性のオカルティストもここまで徹底すれば、まさに生粋の魔法使いだ。

 知識とはそれ即ち財産である。

 パチュリーの口癖だ。
 錬金術は鉛を黄金に変えると言う。しかし錬金術最盛期の中世ならばともかく、今の時代にあってはそんなものは夢物語。仮に可能だとしても、コストの方が遥かに高く付くだろう。が、そう考えるのは俗物だけだ。魔法使いにとっての宝とは、黄金という結果ではなく、手段の方だというのが、パチュリーの言葉の本意。
 つまりは、魔法という貴重な知識を持つ魔法使いは、紛れもなく財を持つ貴族に他ならない。魔法を使う特権階級にあるという自負と誇り。秘密の知識を我が物としていることへの、悪く言えば特権意識。人間よりも一段階上の存在であるという優越感もあるだろう。
 また、
「秘密の知識は、独り占めしないと秘密にならないのよ」
 そんな口癖もあった。
 その言葉を口にする時のパチュリーは、レミリアでさえひやりとしたものを感じるような、底冷えのする酷薄な顔をしている。
 魔法はなべて秘匿されるべし。
 徹底的な秘密主義には理由がある。悪名高い魔女狩り以降、魔法使いの冬の時代が続き、貴重な人材や文献が失われた。魔法は一度、滅んだと言っても過言ではない。しかし近代に入ってから、幾つかの魔術結社が次々と成立し、魔法は復権を果たした。近代魔術師の登場である。
 彼らにとって最も重要なことは、知識の獲得と秘匿。オカルティズムは秘匿されていることに意味があると考え、パチュリーは、ひいては魔法使い一般は、魔術書一冊のために、時に非道な行いにも手を染める。中には大衆のために魔法を使う善良な魔法使いもいることにはいるそうだが、下手に魔法を晒す連中は本来的な意味で魔法使いとは呼べないとは、嫌悪感すら露わにしたパチュリーの談。
 彼らの目的は一つ。万物の根源を調べ、世界の真理を暴くこと。それのみを目的とし、明るい光に背を向け自身の学問に没頭する。そういう意味では、生粋の社会不適合者でもあった。己の妄執こそが全て。世俗の倫理から逸脱したその感性は、レミリアのような怪物にも通じる部分があった。魔法使いにはそうした傾向があり、生粋の魔法使いたるパチュリーは、その傾向が特に強い。

 ノーレッジは自分で付けた名前らしく(魔術名というやつだろうか?)、家の名前は別にあるそうだ。その筋では名門として知られ、パチュリー自身も神童と持て囃されたらしいが、生家との縁などとうの昔に切れているとかで、レミリアと出会った時には、パチュリーは既に独り立ちしていた。錬金術の本道から外れたその経緯が放逐か逐電か、詳しい話は聞いていないものの、レミリアは、パチュリーに話す気が無いなら別にそれで良いと思っている。

 専攻はルネサンス期に再発祥した錬金術と聞いたが、もちろんレミリアにはさっぱりだ。
 元錬金術師。現在は東洋思想に傾倒した神秘家。総じて言えば、隠秘学専攻の近代魔術師。それが、パチュリー・ノーレッジという魔法使いの、大雑把な来歴だった。

 発育の遅れている痩せこけた体躯。折角の中東的な黒髪も枝毛が目立つ、それどころか、きつい香(魔術用語でインセンスと言うらしい)ばかり焚いている影響か、染みのように半ば変色しかかっている。また、日光をほとんど浴びない生活習慣のために、肌の色は、生ける屍の吸血鬼にも劣らぬ不健康な白。しかし、瞳の奥に覗く執念が、虚弱体質の印象の全てを打ち消して余りあった。
 弱冠17才。年齢は、まだ学生の年頃であろうに、既にいっぱしの魔法使いの風格が備わっていた。

 決して口には出さないし、パチュリーの語る思想の意味などこれっぽっちも分からないが、それでも、レミリアは楽しげに魔法を語るパチュリーに好感を抱いていた。
 力を持つ者は、その力に誇りを持つべきだ。それは貴族の義務であり美徳だ。
 研究に邁進するその姿は、どんな貴石にも劣らない眩しさを放っていた。素直に、友として誇らしいと思う。

 もちろん、気難しいところもある。しかし、そんなところまで含めて、寡黙で偏屈で陰気なこの友人のことを、レミリアは心から尊敬しているのだった。



 雰囲気のあるお城に住んでみたい!

 そう言い出したのは、もちろんレミリアを置いて他にはいない。
「貴方は言うだけ。計画して実行するのは主に私。しかも一度言い出したら聞かないし……」
 と、文句を重ねつつも、この通り、パチュリーは田舎の荒れ城を探し出してきたのだったりする。本当に、持つべきものは頼れる友人だ。

 悪魔に魅入られたと噂される館は長らく買い手が付かず、どころか、立ち入った者には祟りすらあったそうな。それが事実かどうかはさておき、無人の状態が続いていたこの館は、それなりに埃が積もっていた。その一方で、各所に生々しく残る生活の残り香が胸に迫る。在りし日の栄華の面影など、厚い埃に湮没してしまっていた。

 分かってはいたが、完全な廃墟だ。

「保存状態は、これでもマシな方なのよ。百年以上も放置されていた館が、精々一ヶ月分くらいしか風化していないことが、異常と言えば異常なのよ……有り得ないわ」
 パチュリーは、そんなことを言っていたが……



 新居での生活が始まってしばらくの、ある日のこと。
 レミリアは、少年のそれと同じ快活さで、まだ掃除もままならない新居の中を駆け抜けていく。

 代々の領主がビブリオマニアだったと聞くこの館には、館の一角を丸ごと占める図書館があった。パチュリーはレミリアの我が儘に乗じて、自分の趣味も満たしていたようである。
 しかし、驚かされた。
 図書館の存在は知っていたが、これは、知らなかったということになるのだろう。
 立ち入ってみて、圧倒された。
 吹き抜けの広大な空間を持つ巨大な図書館。増改築の結果なのか、書架の数を継ぎ足していったのか、ほとんど迷宮じみた複雑な構造と化している。入り組んだ螺旋階段に、下手をすれば、家の中で迷ってしまうかも知れない。

 空気に染み込んでいるのは日蔭の涼しさ。薄暗い室内は、街の古書店の臭いを、更に凝縮したような空間だった。
 上を見れば、書架がほとんどドーム状に覆い被さってくるような威圧感に辟易する。まあそんな錯覚は、レミリアが大衆小説くらいしか読まないから感じるのだけれど。

「パ~チェ~っ」
「……うるさい。読書の邪魔しないで」
 レミリアとパチュリーは仲の良い友人だ。
 これもまた、気心の知れた友人同士ならではのやり取り。
「まったく、パチェは相変わらずだなぁ」
「うるさい」
 断固とした声で、ぴしゃりと言われる。若干だが怒気を含んでいた。
 繰り返すが、レミリアとパチュリーは仲の良い友人だ。パチュリーはこういう性格なのだ。

「温かいお飲み物をお持ちしました」
 ロゼワインと同じ色をしたショートボブの髪、司書風の服装の少女が、薄暗い図書館で、その姿に背後の書架を薄く透かせながら、ふわふわと宙に浮いている。腰の位置からは、これ見よがしな暗い羽。同じものが頭のこめかみの辺りからもひらひらと。見た所の年齢はレミリアやパチュリーよりも幼く見える。
 この少女は小悪魔。大体いつもこうしてパチュリーの世話を焼いている。
「落ち着きますよ」
 ホットココアだ。間が悪かったせいか、レミリアの分は無い。頼もうかと思ったのだけれど、その前にパチュリーが「用が済んだなら、消えなさい」と冷たく言ってしまう。おかげでレミリアは飲み物無しだ。
「パチェに懐いてるんだな、あの悪魔。仕事もするみたいだし、良い使い魔じゃないか」
 何気なく言った、その瞬間だった。
 衝動的に本を叩き付けなかったのは、パチュリーらしい矜持だろう。しかし、そうしてもおかしくない程の怒りが、パチュリーから発散される。
「殺すわよ?」
 怒りは抑えていたが、それだけに、地の底から響くような低い声だった。
「何故だしっ!?」
 理不尽としか思えない冷たい怒気の滲んだ脅しに、レミリアは悲鳴にも近いツッコミを入れた。
 ……ただ、悲しいことに友人の気難しさについては慣れている。虫の居所が悪い時に声を掛けようものなら、今と大して変わらない反応が待っているのだ。いや、それにしても今日は深刻なような気もするが、生憎とレミリアは大雑把だ。
 なにはともあれ、魔法使いの友人は、自分の魔法が穢されることを何よりも嫌う。
 レミリアはパチュリーに魔導の尊さの何たるかを説かれたこともあるのだが、あの時は酷かった。ひどく手厳しい叱責を受けたものだ。思うに、今回もその延長線上にあるものだろう。
「じゃあ、あいつは何なの?」
「見たら分かるでしょ。最悪に腹の立つ、低級悪魔よ」
 確かに、これ見よがしな羽もあることだ。
 それにしても、その頼りない、ちょっとでも風圧を受ければすぐに破れてしまいそうな羽で飛べるのだろうかとレミリアは心配になるけれど、そもそも吸血鬼の強靭な翼とは用途が違うのだろう。実際、小悪魔はふわふわと浮いたり、宙に腰掛けたりしていて、物理的に飛んでいるわけではないようだ。物理法則を無視した速度で飛行するのはレミリアもそうだが、だいぶニュアンスが違ってくる。
「余談になるけれど、そもそも悪魔という言葉自体がナンセンスだわ。宗教や地域ごとにまるで意味が変わってくる。特に、西洋で中心的な地位を獲得した宗教は、神に背くものを全てまとめて悪魔と呼んだ。より正確に言うなら、悪魔以外の怪異の存在を認めずに、キリスト教的に存在を許容できる悪魔という枠組みに押し込めた。だから当然、サキュバスなんてものも悪魔だわ」
 あの小悪魔はサキュバスなのか。いかにも、らしいと言えばらしい。
「私も悪魔だな」
「広義では、魔法使いの私も悪魔の同類、ということにもなるわね」
 いかに悪魔という言葉の範囲が広いか、よく分かる。「私は小悪魔ですよー」と、遠くの方で言っているのが聞こえた。
「うん、そうだな。私もデーモンとデビルの違いくらいは知ってるぞ」
「……? へぇ、じゃあ説明してみなさいよ」
 その顔には、期待はしていないけれど、と書いてあった。
「デビルよりすごいのがデーモンだ」
 えへんと胸を張るフィジカル系吸血鬼。案の定とかいうやつを、思い切り下回っていった。
 自信満々に言うレミリアに、パチュリーは額に手をやって溜め息を吐いた。もはや、閉口する以外の対処がなかったようである。
「あれ、違うの?」
「それ以前の問題」
 ものすごく残念なものを見る目を向けられる。
「仕方ない。良い機会だから覚えておきなさい」
「……おう」
 額から手を離したその時、パチュリーの目付きは学者のそれに変わっていた。
 何も言われずとも、講義の始まりと知れる。立って聞いてはいられないので、レミリアは適当な場所に椅子を探して、飛び乗るように座った。ガッタンと大きく揺れる椅子の上で翼をぱたぱた動かして、器用にバランスを取る。
「ただし貴方に一から説明なんかしていられないから、省くところは省くと先に言っておくわ」
 いや、一からきちんと説明することが大事なのではとも思うが、むしろ話が短くなることを喜ぶレミリアである。こんなすれ違いもあって、パチュリーの講義をレミリアが理解できた試しは、ほとんど無い。と言うか、一度も無い。
「そうね。我々魔法使いが悪魔をどう認識しているか、仮にも私の友人である貴方には知っておいてもらいましょう。結論から言うわ。悪魔とは、概念の集合よ」
「概念?」
 いきなり、予想もしていなかった単語だった。
「レミィ。貴方は間違いなく悪魔を召喚または喚起するということを誤解している」
 パチュリーがそう言うなら、誤解しているのだろう。
 ついさっきまで怒っていた割には、今はどこか得意げな饒舌。薀蓄を語って機嫌が直るところとか、こんな部分がパチュリーだ。魔法の話題になると、パチュリーの舌は途端に早く動き出す。ぶつぶつとした口調な上に早口なせいで、聞き取り辛かったりはするのだが。
「うん」
 適当に、相槌。
 茶々を挟むな、とも言われるので、加減が難しいのだ。そしてそんなことばっかり気にしているレミリアが話を聴いているかと言えば、あんまり聴いてないのである。
 ただ、パチュリーが楽しそうなので、なら良いかと思っているだけだった。
 パチュリーの険しい顔に、笑顔らしきものが浮かんでいる。たったそれだけで、落ち着きのないレミリアが長い話に耐える理由には十分だ。
「悪魔学はルネサンス期のオカルティズム再興の風潮の中で始まった隠秘学の一部門。過去の文献からデーモンやサタンとかこれらの悪魔的なものを神学にある天使の階級に対応する形で整理しながら定義していったってわけ。こうした背景から悪魔学に見られる悪魔には堕天使や天使と同一視される悪魔が少なくない。この運動がなければ貴重な文献が失われていたかと思うと、ぞっとするわ」
 そう言ってパチュリーは、アグリッパだの何だのと、著名らしき学者の名を挙げ連ねた。もちろんレミリアは一人も知らない。でもとりあえず、うんうんと頷く。
「なるほどな」
 何がなるほどなのか言ってみろと問い質されれば困っただろうに。
 幸いなことに、パチュリーの講義は怒涛のように続くのだった。
「紆余曲折あれ、こうして確立した悪魔の概念は、安定したシンボルとして実に都合が良かったのよ」
「元からそうあるものを使った方がやり易い? えっと、一から始めるんじゃなくて、悪魔は、色々な概念の集合だから」
「その通り」
 レミリアは思い付きを言っただけなのだが、奇跡的に正解だったようだ。
「簡単に、儀式の流れを説明しましょう」
 そう言って、パチュリーは指を二本立てて印らしきものを作ると、十字を切り、我が前にラファエル……云々などと、呪文を唱え始めた。
「これは小五芒星儀礼。他にカバラ十字の祓えもあるわ。基本は聖別から始めるのよ。当然、実際にはもっと本格的にやるのだけど」
 聖別とは何かとか、説明が足りない。
「魔法円とかは使わないの?」
「敷くに決まっているでしょうが」
 何を言っているんだという顔だった。
「悪魔の召喚はソロモン王の魔法。用いる魔法陣は円に内接する三角形。儀式場を聖別する意図とは、魔法陣を単なる図形から霊的な領域にも存在するものとして昇華させることよ。そう説明したでしょう?」
 いや、してないだろ。
 とは思ったが、レミリアはおとなしく頷いておく。
「とかく重要になるのが魔法陣。この魔法陣が悪魔を閉じ込め術者を守り、呼び出した悪魔を従わせる役目を担う。ただしこの際、呼び出すものは必ずしも実体のある悪魔である必要が無い。悪魔とは概念の集合。目的に沿った力を持つ悪魔を指標にして、必要な部分だけ取り出して扱うの。杯や短剣と同じ、儀式に使う道具の一つでしかないわ」
「なんか、思ってたのと違うな」
 聞いた限りでは、精神修養の一種にも思えた。実際の所、パチュリーは瞑想法の一つとして紹介していたのだが、それならそれで最初に言っておいてくれても良かったろう。
「どばーんと悪魔を召喚したりとかは……しないの?」
 単細胞なレミリアは、派手な方が好きだ。
 ソロモン72柱の悪霊と言えば、マルバス、グラシャ=ラボラスと、胸躍る名前が揃っている。デビルとデーモンの違いも分からないレミリアでも、この辺りは数ページほど読み齧った覚えがある。
「そうだ。なぁなぁパチェ、あの中でどいつが一番強いの?」
 よせば良いのに、子供っぽいと言うか、完全に子供な好奇心を抑えられなかった。
「……アホなの?」
 例えばこの館で悪魔を召喚するのなら、ふさわしい悪魔とは何だろう。いや、元よりこの館自体、悪魔が棲み付いていると噂されていたのだったか?
 目立つのは、本、か。
 本を手にした姿で顕現するのはダンタリオン。他に、知識を与える悪魔は……と考えて、レミリアは早くも頓挫した。これが、実に多いのである。レミリアが真っ先に思い付いたのは、召喚した者を賢くする他、水をワインに変える錬金術を披露するとも言われるハアゲンティであったが、72柱の悪霊には学問に優れた者が多く、彼らが集まれば、修辞学、言語学、薬草学、哲学、論理学、占星術、幾何学に、果ては諸科学まで網羅する。ウヴァル等、過去・現在・未来についての事物を語る悪魔も珍しくない。
 レミリアは、ちらりと小悪魔の姿に目をやった。司書の業務とは具体的に何をするのかレミリアには想像も付かないが、とりあえず今は、本を愛でる仕事に勤しんでいる。
 ロゼワインのように透き通った、半透明ながらも紅色をした髪。白のブラウス。黒のスカート。
 グレモリー。この悪魔も、過去・現在・未来についての事物を語る能力を持つ。
「見当違いもいいところですね」
 と、一言。レミリアはまだ視線をやっただけなのに、誰に向けたものか、きっぱりとした明言だった。
 それから小悪魔は、唇に指を当てて小首を傾げた。いちいち仕草が可愛らしいやつである。
「でも。そですねぇ、エリゴールなんて、おすすめですよ?」
「強いの?」
 ちょっと弾んだ声のレミリア。まさか話に乗ってくれるとは思っていなかったので、少し嬉しい。
「ええ、とても。高潔で実直な騎士さんですから」
「強いのか。すごいな」
「まだ話の途中でしょう!」
 怒鳴られた。
 鉄槌でも叩き下ろすような怒号だ。まあ、非はレミリアにあるか。
「ともかく、近代魔術では貴方の思っているようなことなんてやらないわ」
 そうなのか。いや、最初からそう言っていたか。
 しかし、なんだか夢を壊されたような気分である。
「はあ。そもそも貴方は、未だに魔法と言うものを誤解していない? 魔法は下らない夢物語ではないの」
「……分かってるよ」
 何度となく、繰り返し繰り返し、頭と耳が痛くなるまで聞かされたことだ。
 魔法は理論。知識が全て。
「魔法の力は、いわば科学そのもの。つまり時代の最先端よ」
 そう言われても、どうしてもレミリアは、魔法=科学という式を実感として理解できないのだが。
 表情に出たらしい。嘆かわしいとばかりに、パチュリーが大仰に溜め息を吐く。今日ばかりはレミリアも食い下がった。
「いや、でもパチェさ、普段は科学を低俗だって言ってるじゃんよ」
「そうよ。大衆に膾炙している程度の科学は、低俗で違いない」
 やっぱりそうなんじゃないかと口を尖らせるレミリアに、パチュリーはこう語る。
「魔法も科学も知的探求という本質においては区別が無いの。魔法は魔法を知らない者には不思議な力に見える。それはただ単に無知だから。魔法が科学から見て不思議とは限らないし、その必要も無い。魔法も高度な科学も、崇高な知的探求であるという点で同質」
 小悪魔が、くすっと微笑んだ。
 何処に笑える箇所があったのだか。
「……何か、文句でもある?」
「いいえ、別に。ふふ」
 小悪魔は軽やかに笑うと、スカートをさばいて本を愛でる作業に戻って行った。
 レミリアには今のやり取りの意味が全く分からなかった。まあ、それは良いとして。
「じゃあ、つまり。私が思うような、悪魔と契約して、みたいなことは」
「メフィストフェレスのような?」
 パチュリーの目付きは、苛立ちと胡乱。
 いい加減、レミリアの理解力に辟易しているようである。
「いや、そんな感じじゃなくても、もっとこう、あれだ、サバトみたいな。魔女はみんなサバトに参加したんじゃなかった?」
「無い。いつの時代の話よ」
 きっぱりだった。
「貴方の言っているその悪魔はバフォメットね。山羊の頭、捻じれた角、翼、尻尾。悪魔らしい悪魔の特徴を備えた姿で描かれるわ。言っておくけれどね、中世のサバトに見られるような悪魔側有利の契約なんてものは、はっきり言って時代遅れよ。やるわけないでしょ。近代魔術が扱う悪魔は、単なるシンボル、単なる道具」
 流石に最先端を自称するだけあって、もちろん伝統は尊重しているはずだが、伝統と紙一重の旧弊に対しては辛辣だ。
「そもそもそのサバトだって、元は季節の祝祭、だったかしら。でも、黒ミサはミサの反転。いつしか魔女も悪魔も、神との対立概念に成り果てた。それと並行して、サバトも神を貶めるものに意義を変えた」
 つまり、こうだろうか?
 キリスト教の浸透、時代の変化と共に、魔女側の認識も変わっていった。悪魔は神の敵対者だと決められて、本来は別にそんなこともないのに、周囲にそう言われるものだから、魔女も悪魔も段々そんな気分になっていった、みたいな。
 また余計なことを言ってパチュリーに怒鳴られても仕方ないので、平易過ぎる理解は口には出さないでおく。が、うっかり頭の悪い感想が漏れてしまう。
「魔女と言えばサバトの時代は終わっていたのか」
 驚きだ。
 でもちょっと、自分が400才近いのだと実感できたりして照れるレミリアなのだった。
 魔法使いの在り様も、中世から近代への変遷で、随分と様変わりしたものだ。
「ちなみにサバトと言えば、黒魔術の本尊こと地獄の女神ヘカテーにも、折角ですから触れておきましょう。後期のサバトで奉られるようにもなりましたが、古くは地中海沿岸で信仰されていた女神です。ではどうして、本来は中世の魔女とは何の関係も無いこの女神が、あの時代に脚光を集めたのかと言えば、理由の一つはテッサリアの巫女。いかにも悪魔的な趣味が、神を貶めんとする中世の背信者には好まれたのでしょう。まあ、中世の魔女が古代の巫女の儀式を再現できるとは思えませんし、動機的に、そのつもりも無かったでしょうけど。中世に流行した黒魔術には、かつてのドルイド僧の真似事も含まれますし、要するに、異教的であることに意味があった……いえ、これは余談ですね。
 それから、魔女の守護神と位置付けられたことには、魔女としても名高いコルキスの王女メーディアとの関連もあるでしょうか。このように、魔法に関わる女神なのは確かですが、その範囲は魔女術や黒魔術が中心となります」
 だとすると、バフォメットと同じく、中世の魔女ならぬ近代魔術師のパチュリーには、あまり縁の無い存在というわけだ。むしろテッサリアの巫女が執り行ったと言われる儀式は、吸血鬼の方に縁があるほどだ。
 上階の方から小悪魔の声が聞こえてくるが、パチュリーは耳に入っていないかのように無視して続ける。
「でも、悪魔の基本はそこかもね。キリスト教から見て異教的な存在が、悪魔と呼ばれた。結局、ここに終始するのだから」
「異教的、ね」
 ぽつりと呟く。引っ掛かるものを感じたのだ。
 キリスト教は、良くも悪くも、西洋の社会を大きく塗り変えた。サバト一つ取り上げても、聞いた通りだ。
「ってことは、それ以前の信仰みたいなものがあったんだよな」
 異教ではなく本道として。
 サバトが元は季節の祝祭であったように、土着の宗教があったはずだ。
「……? そうね。与太話になるけれど、キリスト教が浸透するにつれて、ケルトの神々はその地位から零落して妖精になったとされている。妖精郷へ逃れたダーナ神族、ディーナ・シーのことね。それがどうかした?」
「別に」
「どうでもいいけど。ところで、分かったの?」
「何が?」
「自分で質問したことを忘れたの?」
「?」
 こっくんと首が傾く。
 それからたっぷり十秒は時間を掛けたものの、話の脱線もあって、もはや記憶の彼方。それにも構わずにパチュリーは続ける。
「異教的な存在よ。つまり、一部の妖精は広義の悪魔に含まれるってわけ」
「妖精が、悪魔……?」
 脳内では天真爛漫な妖精がくるくると飛び回るものだから、レミリアは信じられないといった表情で呟く。
「リャナン・シー」
「あ、それ聞いたことある」
「ケルト、特にアイルランドの伝承に見られる、人間を誘惑する悪性の妖精ね。人間に付き纏い、詩や音楽の才能を始めとして、あらゆる才能、霊感を与え、その引き換えに生命力を吸い取る」
「……そいつは本当に妖精なのか?」
 まるで、ついさっき否定された、悪魔と契約を交わし、成功の対価として魂を代償に、のような話に聞こえる。
 パチュリーは顎に手をやって、じっと黙り込む。この時間は長かったり短かったり色々だ。
「事典を持って来なさい」
「どうぞ。こちらです」
 一瞬の間も無かった。
 含み笑いしつつやって来た小悪魔の手には、既に注文の本があった。パチュリーは本をひったくるようにすると、小さい文字の群れに視線を走らせた。
「ふふっ。私に直接訊いてくださればよろしいのに」
「黙りなさい」
「ええ、そのように。自分で調べることも勉強です。それではごゆっくり」
 胸に手を当てて一礼する小悪魔と、一瞥もしないパチュリーの様子を見て、レミリアは少し笑った。傍目に見るとパチュリーは高慢ちきだ。他人にどう思われるか、という配慮が全く無い。道理で、人間社会の中で孤立するわけだよなとレミリアは思ってしまう。もちろん、そんな瑣事を気にするレミリアでも小悪魔でもない。それどころかレミリアは、こうした姿を見れば見る程にむしろ好感が湧く。他人を思いやる心など不要。怪物とはかくあるべきだ。
「リャナンは恋人、シーは妖精で、リャナン・シー。シーはゲール語、つまりアイルランドの古語でsidhe。この単語には丘や土塚という意味もあって、シーは丘の住民の意でもある。ケルトの文化圏において、それらの場所は妖精郷への入り口だと考えられていた。現在でもfairy mountと言えば塚のことを指す」
 いきなり話し始めるパチュリー。目線は本に落ちたまま。
「……それから、例えばケット・シーのシーもこの意味ね。シーは、自然の一部であり比較的無害なそれとは全くの別物も含むわ。他には、バン・シーとかもそう。いわゆる妖精のイメージではないでしょう?」
「バンシー……泣き女だっけ? このシーもリャナンシーのシーと同じなのか?」
「そうよ。レミリアにしては物分りが良いわね」
「えっと、なんだ? 森とかに行くとわんさか湧いてる妖精とは違う?」
 もっとも、レミリアが美鈴と旅をしていた頃には大量にいた妖精も、最近はめっきり数を減らしている気もするのだけれど。いつ頃から、だろう?
「自然から表出した存在である、という点は同じ。でも、そうね……」
 再び、沈黙。
「W・B・イエィツは群れを形成するか単独で行動するかで妖精を分類しているわ」
 誰だか知らないけど、それはレミリアにも分かり易かった。よく見る妖精は群れで行動している。
「じゃあその違いを、いわゆる妖精とそうでない妖精の違いだと思って良いんだな?」
「…………」
 眉間に皺を寄せて、爪を噛むパチュリー。
 そうしていると、外から見ても、頭が高速で回転しているのが分かる。
「……そうね。概ね、fairyとsidheの違いはそのようなものだと思って良いでしょう」
 いわゆる妖精がfairyなのかとレミリアは勝手に納得する。
「じゃあ、シーが昔のアイルランド語なら、フェアリーは何処の言葉なんだ?」
「ああ、それはラテン語よ。ラテン語のファターレが魔法の意味。更にここから変化して同じくラテン語のファタエ。つまり、通常は人の手の及ばない超自然の神秘を意味する言葉。英語だとフェイトね。運命よ」
「へぇ、そうだったんだ」
 素直に感心した。
「例の宗教の影響で異教的なものは全て悪魔扱いになった。けれどルネサンス期に復興運動があって……シェイクスピアのプーカの影響もあったかしら。ともかく私達がよく見る羽根のある姿のものが知られるようになったのは更にその後、比較的、最近のことよ。言わば、その姿に妖精が再定義された」
 再定義。
 レミリア達が妖精と思っているそれは、最近の意味での妖精、ということ。既存の定義が一度は無効になったから、新しい定義が作られたというわけだ。
 当時の社会と価値観への反発、その反動から来る、懐古主義。かなり乱暴な言い方になるが、ルネサンスの正体とは、畢竟そういうものであって、いわば、美化された過去であるのだ。そんなことでは、過去を正確に見つめられはしまい。
「えっと、じゃあ……」
 では、その一新された定義に当て嵌まらなかったものが、一部の悪魔として取り残された?
「ああもうっ!」
「!?」
 唐突に怒鳴られて、レミリアは椅子から飛び上がった。
 翼までぱたぱたと動員した滞空時間は長く、ぽすんと戻ってくるまで間があった。
「どうして私が妖精なんかのことで貴重な頭を使わないといけないのよ!」
 ご立腹でいらっしゃる。
 分からん、と言うか……本当に気難しいやつだ。まあ、そこが良いのだが。
 レミリアは内心で惚れ込んでいるのを悟られないように、とりあえずは「私が悪かったよ」と、パチュリーを落ち着かせる。
 パチュリーにも負けず劣らずのレミリアの傍若無人っぷりを知っている者ならば、素直に折れたレミリアの態度には驚くだろう。しかし何も驚くことはない。怪物も身内には甘いものだ。
 一方のパチュリーは、不機嫌の極み、ほとんど凶相とも言っていい表情。
「邪魔して悪かったな。時間に都合が付いたら、また話を聞かせてくれ」

 図書館の外へ出る。

 結局、今日もパチュリーの話はよく分からなかった。

 妖精は異教的だから悪魔で……?

 零落した神族。悪魔に再定義された妖精。リャナンシー。サキュバス。
 ぐるぐると単語ばかりが頭の中で回って、結局、話の筋は繋がりもせず、有機的な結び付きを生まなかった知識なんて、すぐに忘れてしまうのだった。



 魔術とは意志に従って変化を起こす科学であり技術である。

 意志が全てを変える。インセンスによって集中力を高め、瞑想法を用いて、普段の自分から魔法を使う自分へと意識を切り替えることが、近代魔術の第一歩。専門用語でパスワーキングの手法。有り体に言うなら、魔法使いのスイッチとでも。スイッチに用いるイメージは、先に述べたように悪魔というシンボルだったりと、色々だ。これらは個々人の領分であり、そのやり方は様々であるが、パチュリーの場合は、“情報の開陳”だった。
 瞼を降ろし、集中力を研ぎ澄ます。

「──open」

 スペル。と言っても、何も外連味に満ちた怪しい魔法の呪文などではなく、イメージの呼び水となるキーワード。意味合いとしては、“開示せよ”。本を紐解くように、自身を取り巻く世界の在り様を詳らかにしていく。

 意識が鮮明に澄み渡り、徐々に感覚が幽体まで行き渡る。自己の認識が世界の隅々まで浸透して同化し、世界を己が手足として使役する感覚。全身を襲う、内臓から裏返るような壮絶な違和感は、意識の切り替えが上手くいっている証拠だった。
 死など、恐れてはいられない。瞑想には臨死体験を伴うものもあるように、魔術とは死を想うことに始まる。心地良い緊張だった。手足が痺れる。心臓が早鐘を打つ。しかし魔法使いたらんとするのなら、この悪寒さえ恍惚に変わる。事実、背中に冷や汗を掻きながら呪文を唱え続けるパチュリーの口元は、笑みの形に引き攣っていた。


 元々は錬金術を学んでいたパチュリーは、しかし従来の錬金術に見切りを付けていた。過去の失敗を見れば明らかだ。自然学により分類される四大属性では、真理には至らない。そこで白羽の矢を立てたのが、全く新しい東洋の自然観だった。

 錬金術においては、あらゆる物質は共通して第一質料から成るため、属性の操作によって任意の元素を導くことが可能だと考えられる。
 錬金術の基本は加減算。この法則、つまり計算に用いる式は変えていない。変えたのは、式に当て嵌める数値の方だ。しかし陰陽五行説をそのまま流用したのでは二番煎じになる。そこで錬金術師として、金と水銀に再度目を付けた。金は不変、太陽の象徴。水銀は変化、月の象徴。これで、七曜。

 錬金術の起こりは古代エジプトはアレクサンドリアと言われている。やがてアラビア、イスラム帝国圏で発展し、十字軍遠征でヨーロッパへ持ち込まれるのは11世紀から12世紀にかけて。そして同時期、賢者の石が取り沙汰されていく。
 賢者の石そのものは目的ではなく手段だ。完全な物質である賢者の石であれば、また、その製法を解明すれば、必ずや真理へと到達し得るはず。
 ただし今必要とされているのは、怨敵を討ち滅ぼす力。
 得意の水ではなく、胸を焦がす瞋恚のままに、苛烈な炎を瞼の裏に思い描く。

 声を張り上げ殷々と呪文を唱え続けるパチュリーを中心にして、床に光の線が走り、東洋的な意匠の混じった独自の魔法円を描いた。
 翳した手の平に、目に見えない力が集まっていく。

「──open!」

 目の前を塞ぐ暗雲を、抉じ開ける!
 強く叫び、大気に漂うエレメンタリーを圧縮した魔弾を解き放つ。

 迸る光量の眩さに、確かな手応えを感じ取る。快心の一撃だ。

 錬金術が扱う物は鉱石に限らない。四大元素の精霊を操る魔法も、錬金術の範疇だ。元より秤を見ながらの調合を得意としてなかったパチュリーにとっては、むしろこちらの方が専門だった。
 革新的な自然観が取り入れられたオリジナルの精霊魔法は、同時代、同世代の魔法使いと比較してみれば、目を見張るものであった。これ程の一撃、魔女の台頭する中世ならまだしも、近代以降は中々見られるものではあるまい。
 しかし。悲しいことに。それは所詮、人間の技に過ぎなかった。



 魔術による決闘とは知的遊戯だ。相手の手の内を読み、自分はそれを凌駕するに足る手札を用意する。故に、始まった時点で決着は付いていると言っても過言ではない。魔導の誇りを尊ぶ者同士が秘術の限りを尽くし、互いが互いの手腕と知識に畏敬し、相応しいだけの返礼として、魔法の力を発揮する。知略と知略の衝突。高貴な嗜みたるこの決闘は、フェーデの形式を取ることもあった。
 争いは決して魔法使いの本分ではなく、そのための手段を主題に置くことはない。しかし、“知”の競い合いであるからには、誇りにかけて、無様は見せられるはずがなかった。

 ただしパチュリーは最初からこれを魔術決闘だとは思っていない。
 うるさい羽虫を払う程度のこと。それなのに、何故?

「……んもう、そんなことしたら危ないですよ?」
 膜状の羽を指先で摘まみ寄せ、庇うように体を隠して、小悪魔は言う。
 本来なら小悪魔を爆ぜ散らしていたはずの炎は、その半透明のヴェールに吸収されてしまった。
 たった今、難無くパチュリーの魔法を無力化しておきながら、透き通るロゼワインと同じ髪の色の少女は、羽を口元まで寄せたりなどして、あざとい上目遣いでパチュリーの様子を窺っていた。

 ところで、レミリアが去った後、逆上したパチュリーは小悪魔を殺そうとしていた。
 理由は、話に口を挟まれたから。

「私の手練手管に敵うと思いましたか?」
 本気の殺意と、紛れも無い憎悪を向けられているというのに、ショートボブの髪を揺らして首を傾げ、にこっと優しく微笑む小悪魔。
 これが小馬鹿にされていなくて、何なのか。
 耐え難い憤怒のあまりのことに、パチュリーの総身は引き付けでも起こしたように痙攣した。細い肩は、危うい程に震えている。

 愚弄された。
 自分だけではない。全ての魔法使いが、コレに愚弄された。
 パチュリーは確信した。
 コレの存在は、魔導を志す探究者に対する冒涜だ。

「魔法は理論。おとぎ話の魔法が下らない……? はぁ、科学に対立する魔法、科学を補完する魔法、ちなみに私は、魔法と科学の間には何の関係も無いと思いますが、いずれにしても結構です」
 物分りの悪い生徒を前に、少しだけ、困った風な口調。
 しかし小悪魔は決して、その気味の悪い薄ら笑みを絶やさない。
「……なっ、あっ」
 数秒、口をぱくぱくとするパチュリー。
「黙りなさい!」
 苛立ちに駆られるままテーブルに手を叩き付け、大声で言い放った。
「ですがパチュリー様? こともあろうに魔法を科学的に見る貴方の視点はいかがなものでしょうか。夢みたいな魔法だって、ちゃんとあるんですよ?」
 錬金術的な精霊魔法は、どう足掻いたところで原理的に、等価交換未満にならざるを得ない。
 質量保存の法則。エネルギー保存の法則。それは科学の常識であって、魔法の常識。パチュリーの知る魔法とは、そういうものだ。
「いいからそのふざけた口を塞ぎなさいって言ってるのよっ!」
 喉が張り裂けそうなことも厭わずに怒鳴り散らす。髪を振り乱し訴える姿には、知性が見られるかどうか。理性的であれと克己の努力を徹底しろと言うのも、無理な話だろう。なにせ相手が悪い。
「……えっと?」
 小悪魔は、さも不可解なものでも見るように首を傾げる。
「いえ、神として崇めろとは言いませんけどね。何故、そこでそうなるのです?」
 宙に腰掛け、何もかも見透かしたような瞳で見下ろしながら。
「いえいえ、そこでそうなる理由も分かっています。どうやら貴方は東洋思想にかぶれているわりに、近代的な考え方に毒されているようです。自然を支配し操作する……ですよね。これが近代的な考えに毒されていないのなら、何なんですか、もう」
 呆れた、そう言わんばかりの小悪魔の態度。
 パチュリーは、指先が鬱血する程の強さで拳を握り締める。
「妖精風情が、私に説教?」
 声は、怒りに震えていた。
「私の魔法は自然を操る。妖精は奴隷だわ」
 声は、屈辱に震えていた。
「妖精は、自然は、私に支配されるべきものよ」
 声は、更なる怒りに震えていた。
 だって、たかだか妖精ごときが、魔法使い様に盾突いて良い道理が無いではないか。

「私はあんた達なんかに意識があると思わない! おとなしく私に従ってれば良いのよ!」

 怒号、だった。
 そして、後には引けない重さのある、強い言葉だった。
「なのにどうして……いつもいつもっ、奴隷のくせにっ!」
 声は早くも枯れた。舌も回らなくなり始める。頭も酸欠気味だった。小悪魔に対しての罵声は、気付けば常日頃からの、実験が上手くいかないことへの不服へと及んでいた。元より、魔道とは生半可な覚悟で志せるものではない。致し方無い部分もあるとは言え、パチュリーは自分の才能を疑わなかった。
 小悪魔は唇を笑みの形のままに、目を細める。
「あのですね? 私はパチュリー様よりも、ちょっとだけ長く生きています。ちょこっとだけ多くの本を読んでいます。魔法も一日の長がございます。こあ先生は経験豊富なのですよ?」
 奴隷であるべき存在が、何かを言っている。
「……嘆かわしい、いえ、どうでもいいですけど。人間は無力だってこと、お忘れなんですね。いったい、いつから人間は、異界への恐怖と敬意と友情を忘れたのでしょう。人間が自然の魔法に晒された時に身を以て知る、憂鬱と混じり合いながらも溌剌とした、あの、歓喜に満ちた悲哀の調べを、本当に忘れてしまったのですか? やむにやまれない激しい思いまで、本当に?」
「私は、魔法使いよ」
 それだけは、毅然として宣言した。
 魔術とは意志に従って変化を起こす科学であり技術である。
 魔法とは魔を律する法だ。魔術とは魔を統べる術だ。即ち、意思の力で魔を制圧することこそ本義。
 パチュリーはアデプタス・マイナーに相当する実力を自負し、近代魔術世界では有名な言葉を、そのように解釈していた。
「……魔法とは本来、自然崇拝だったでしょうに」
 小さく呟く、小悪魔。
 パチュリーに向けたものではなく、細めた目を更に細めて、どちらかと言うと独り言に近い呟き。
「自然崇拝? 原始的な呪術のことを言っているのしら? お生憎様、私は原始人じゃない。私は、魔法使いよ」
「魔法使い、つまり、無力な人間でしょう? あと、その自負は強気が過ぎるようにも思いますよ?」
 からかいの笑顔に戻った小悪魔は、遠慮なくそう言い放った。
「なんですって!?」
「ですから、貴方は無力な人間です、と」
 辛うじての反駁も、届かない。
 怒りが、悔しさが、パチュリーに歯ぎしりをさせる。
 そんな態度に小悪魔は少しだけ溜め息を吐いて、パチュリーのことを見据えた。
「貴方を見ていると、最近の人間は自然と切れようとしているのだとよく分かります。それだけに飽き足らず、個人を区別して、他人は他人と、そうやって人間関係まで切ろうとする。だから感じなくても良い孤独を感じるんです。
 個人とはそれぞれ別個の人間を意味しますよね。他人と他人は言葉によって意思疎通を計る必要があり、的確な言葉があれば可能だと誤解されています。だから、言語表現が不十分な人はコミュニケーション能力が足りないということになる。パチュリー様、口下手の貴方には心当たりがあるでしょう? これも弊害の一つです。
 人間と人間の縁を切り、人間と自然の縁を切る。産業革命以後、近代文明はそうして発展してきました。しかし本来、境界とは曖昧なものです。境界とは、あわいです。このあわいにおいて、二項対立的な図式や二極的な考え方は通用しません。当たり前のことですよね?
 客観視とはつまり、主体と客体を切り離しているわけですから、そのやり方では世界を混沌とした自然の様態として、ありのままに受け入れることはできないでしょう。そして貴方は、できなくとも構わないと思っている。
 もちろん、理性的思考、科学的見地がもたらしたものは多いでしょう。多過ぎる程です。いえ、多過ぎた。その意味するところは、自然存在の非合理を受け止める感覚的活動の停止です。貴方達はどうしようもない部分に抗う術を失ったのです。何故なら、知ることはすなわち理性の活動であり、世界の合理的な秩序化なんですから。scienceの語源はラテン語のscientiaでしたね。スキエンティアは知識。疑問に始まり、物事に明確な原因と結果を求める。知ることこそは科学の原理なのでしょう。さりとて……」
 耳を塞いだ。反論する気にもならなかった。
 小悪魔の話し方が、パチュリーに馴染みが有るやや小難しい言い回しを、敢えて、しかし適切に選んでいるのだということも、パチュリーは頑なに認めないどころか、思い至りもしなかった。

 ぼたぼたと絨毯に溢れていく悔し涙から目を逸らしながら、固く唇を引き結んで、じっと耐え忍んでいた。

「でも、私は貴方の考え方を否定しているわけではないんですよ?」
「そう言ってるようなものじゃない!」
 半分は、泣きじゃくっているような有様。
 誰しもが同情するだろう。もっとも、差し伸べられた手を叩き落とすのがパチュリーだが。
「落ち着いてください。一方が違ったからといって、もう一方が正しいわけではないですよね」
 気遣わしげな視線を向けながらも、この期に及んで、小悪魔の唇は薄く微笑の形に歪んでいた。明らかに、パチュリーの様子を面白がっている。
 情けなかった。
 死にたいとすら思った。
 いや、どう考えても、こんなやつの慰み物になるくらいなら、死んだ方がマシだった。
「あはっ、泣いちゃった♪」
 血が滲むほど唇を強く噛み、顔を歪めて噎び泣くパチュリーに、小悪魔はとうとう口元を抑えて笑い出した。
「うふふっ、パチュリー様って可愛いです、面白いです。ふふーん、どうしましょう? もっと苛めたくなっちゃいますねぇ」
「……つまり何? 聴いてあげるわ」
 渾身の敵意を込めて睨み付ける。
 聴いてやる、ただし、これ以上ふざけたことを言えば、どうなるか。そんな気迫を込めて。いや、どうなるかも何も、パチュリーは小悪魔を害する手段を持っていないのに、これでは脅していることにはならない。
「いえ、明確な答えを求めることからして……と、さっきからずっと言っているんですけどね、良いですよ、お答えします」
 小悪魔は、ほんの少しだけ表情を厳しくすると、よく言い含めるように、一拍置いてから、静かに言う。
「中道です」
 あの太平楽な美鈴あたりが言いそうなことだった。
「私は、近代文明それ自体は否定しません。問題なのは、貴方がその考えに凝り固まっている、つまり毒されていることです。良いですか? 貴方には過度に偏執的な性質が見受けられます。私の言っていること、分かりますよね?」
「…………」
 もはや、パチュリーの肩は震えてはいない。
「それから、具体的なことも教えておきます。変えるべきは、式に当て嵌める数値ではありませんよ?」
 しかし怒りが収まったわけではない。臨界を迎えたことによる、さながら回路が焼き切れたかのような変化だった。発露の方法を見失った荒れ狂う憤怒の奔流が、凝縮されてパチュリーの体内を暴れ回っているのだ。まさしく今のパチュリーは、憤懣やるかたないという言葉を体現していた。
 よりにもよって、パチュリーの魔法に口出しする、などと。
 たった一目でパチュリーの魔法を完膚なきまでに看破して、それだけには飽き足らず、将来の方向性まで、指図するなどと。これが、秘密主義者の魔法使いをして許せるか?

 繰り返そう。
 コレの存在は、魔法使いに対する冒涜だ。

「……殺すわよ?」
 打って変わって抑揚の無い、いっそ冷やかなまでの低い声だった。
 涙は止まり、その眼は据わっていた。
 上から目線であれやこれや言われるのはプライドが許さない。能面じみた無表情でありながら、間違い無く、パチュリーは激怒している。
「いや、無理ですよね? 知性を自慢にしているのなら、少しくらい冷静に思考したらどうなんです?」
「あ゛っっ……うわああぁぁっ!」
 激昂の叫びは、意味の通る言葉にならなかった。
 一口も飲んでいないココアのマグカップを投げるという、平素のパチュリーであれば魔法使いにあるまじきと断じたであろう即物的な行為に訴えて……そして怒りが沸点を上回ったパチュリーは、ぷっつんと意識が途切れて、失神してしまったのだった。


◇◇◇ 4章

 この館にいれば、何処にいても小悪魔の含み笑いが聴こえてくる。

 地下の自室を抜け出して、館内を歩き回っていると、改めてそのことを感じさせられる。もしも反りが合わないと感じ、かつ争いを望まないのであれば、門の外に出てしまうのが手っ取り早い。
 しかし中には、真っ向から爪を立てる者もいた。
 空気を塗り替えようとするがごとく焚かれるインセンスの数々。窓をカーテンで塞いだ室内は、怪しいキャンドルの灯りに照らされている。
 壁面の棚には、パチュリーの研究用のファイル類、私物の魔術書はもちろん、パーチメントやゴブレット等の基本的な道具、ドライハーブの入ったガラス瓶、等々、フランにはよく分からない細長い管の付いた真鍮製の機械装置まで、いかにも怪しげな物品が所狭しと陳列され、さながらヴンダーカンマーの様相を呈していた。ただし違うのは、それらの品が日常的に使用されている、という点。
 走り書きのメモが散らばったこの部屋は、断じて博物館などではないのだ。
 こんな部屋、紅魔館の中にはパチュリー・ノーレッジの魔法工房をおいて他には無い。宛がわれている客室が、この有様だった。

「昔話なら、また時間のある時にしてあげるわ」
「ううん。ごめんなさい。邪魔しちゃって」
 ぺこりと頭を下げるフラン。パチュリーはフランの家庭教師という立場になっているのだから、妥当な態度。しかしそれ以上に、フランの内心には緊張の念があった。図書館や、フランの部屋で会う分には、こうはならないのだが、このアトリエだけは、特別な意味を持っている。
 魔法工房はパチュリーの聖域。土足で踏み入って良い場所ではない。
「……はあ」
 とは言え、後にしてしまえば緊張は抜けて、落胆が戻ってくる。

 ──だからせめて、断片を集めよう。

 なんて意気込んでみたものの、成果は少しもあがらない。美鈴も言葉を濁し、パチュリーも今しがたの通りだ。
「ではフラン様。ここで一息いれましょうよ」
 ほら、何処にいても。
 すぐ、耳許で。
「あのさぁ、こあ。どうして私が奔走してるのか、分かってるよね?」
 歩いてるけど。
「もちろんです。デリカシーの無いバカ姉に、ちょっとは素直になってみるため、でしょう?」
 違う。貴方がそうやってはぐらかすからよ。
 振り返って、フランは無言でじーっと睨み上げ、そう抗議する。もちろん意に介する小悪魔ではなかった。小悪魔はこれまでもずっとそうしてきたように、いつもそうしているように、これからもずっとそうであるように、空中に腰を掛けてフランのことを楽しそうに見下ろしている。
 ワインレッドの長い髪も、まるで重力なんか無いみたいに靡いて。編み上げブーツの足も楽しげにふらふらと揺れている。大人っぽいと言って差し支えない姿なのに、子供じみた仕草だった。
「……はあ」
「あの、フラン様? 私の顔を見て溜め息って、ちょっとひどくないですか?」
「ひどくない」
「どうせなら蔑んで頂きたいのですが」
 このサキュバスうるさい。
 つい、思いっ切り表情に出してしまった。
「はぁはぁ、ありがとうございますっ」
 と、今にもフランの靴を舐めそうな勢いで。
「こあ。マジでキモいからやめて」
「そですか。残念です。折角おいしそうな靴下なのに」
「意味が分からないんだけど」
 分かりたくもないけど。
「くつしたはむはむしたい……」
 このサキュバスは、どうしてこうもサキュバスなんだろう。
 考えると頭痛に悩まされそうだ。
「……貴方が少しは尊敬に値する性格なら、パチュリーの態度も違ったと思うのよね」
「心を折るまで打ちのめせと? ふふっ、それも楽しいですね」
 に~っこり。そんな風に微笑む小悪魔。
 パチュリーは一言も話さなかったが、小悪魔とパチュリーの間で何があったか、フランには容易に想像が付いた。
 プライド高いパチュリーのことだ。あらゆる魔術を“嗜み程度”に修めた小悪魔に対しては、間違いなく、憎悪と殺意を抱いているだろう。当然、今も、なお。
「パチュリーは小悪魔のこと、蛇蝎のように嫌ってるよね」
「はい、そうですね」
 気にしている様子もなく言って、くすくすと微笑む。
 パチュリーが小悪魔に師事するなど有り得ない。その反面、独学でどれ程までに知識を磨けたかどうか。フランはパチュリーの内心を想像して苦々しい気持ちになる。
「ああいうところも可愛いです」
「……」
 ここに外道がいる。
「フラン様もパチュリー様のことはお好きでしょう?」
「うん。好きよ。だけど貴方の言う好きとは、絶対に違うから」
 正直、パチュリーの授業は分かり辛い。
 難しい、というわけじゃない。ただ、説明はあまり親切ではないし、口に籠った小声な上に、早口で聞き取り辛いこと、この上ない。しかも、本の文章をそのまま読み上げたような言葉は難解で回りくどくて、それを口語で理解するのは文字を追うより何倍も難しい。忌憚なく言ってしまえば、研究家のパチュリーは教師には向いてないのだと思う。
 ただ知識を持っているだけなのと、つらつらと連想を口にできることとは違う。
 ただ自分で理解するだけのことと、他人に理解させることも、全く別の能力だ。
 フランが魔法の勉強をしているのなんて子供の手習いに過ぎないし、ましてや何かの目標があるわけでもない。したくなければしなくてもいい、勉強。けれどもフランは、パチュリーの講義が嫌いではなかった。
 それは多分、姉と同じ理由。魔法の話をするパチュリーが、楽しそうだから。普段は陰気なくせに、なんて思ってしまうけれど。
「ふふふっ」
「……何よ?」
「自分の好き嫌いを他の何よりも優先する。そういうところ、レミリアに似ていますよね」
「あ、そう」
 素っ気ない返事をして、フランはぷいと顔を背けた。



「…………」
 当ても無く歩いていると、大広間に足が向いた。今は誰もいないようだ。
 天井にはシャンデリア。長いテーブル。一際に派手な内装の部屋は、在りし日々にも館の中心であったのだろう。
 小悪魔は当然のように、館の領主が座るべき席の、その背凭れの上に腰を掛けた。
「……幻想郷の風土に合わせるのなら、七曜よりも、三精・四季・五行に修整した方が良いのにと教えはしたんですけどね。パチュリー様は頑固で困ります。ここまでの問題児は初めてですよ……」
本当に困っている風に、小悪魔は溜め息を吐く。
溜め息の方は無視するとして。
 小悪魔が言及したことの意味は分かる。他ならぬパチュリーに教わった。
 古代ギリシャで言うところの、アルケーより生ずる四要素。魔法の基礎……もとい、自然科学だったものだ。四大元素。陰陽五行。東西では数からして違うし、無論それ以外の違いもあれど、森羅万象を区分けしていくシステムのことだと言えば、便利な概念という点では同じだろう。パチュリーは七曜と独自のものを、ここ幻想郷では、自然を三精・四季・五行の組み合わせで60パターンに分類している。
 魔法を使う際には、方式を合わせた方が余計な負荷が少なくて済むことは、言うまでも無い。
 敢えて、更に言うとしたなら。
「そうですね、フラン様なら……では、とりあえずはゲニウス・ロキと言いましょうか。言葉の意味は分かりますか?」
 小悪魔は、フランの傍目には少し不機嫌に唇を尖らせているようにしか見えない表情を窺いながら問い掛けた。
 区分けの仕組みがあるのなら、話の次の段階は、区分けされた各々の性質。
 フランは難なく答える。
「元はローマの言葉だっけ。今は、土地が持ってる雰囲気みたいな概念だよね。和訳するなら、土地柄、とでも言うのかな?」
「流石はフラン様。90点です」
 随分と甘い採点だ。フランの自己採点だと、これだけでは半分の50点にも届かない。
「そして、土地の守護神の意味もある。こっちを日本風に言うなら、土地守」
 ここまで言えば、ひとまず赤点の心配はしなくて良いだろう。
「大正解。はなまるをあげましょう」
 やっぱり、甘い採点。
 小悪魔は満面の笑みを、その美しい貌に浮かべる。
 解答用の答えではないので口には出さなかったが、土地が持つ性質といったものを、フランは無理に言葉で理解しようとはせず、“色”に近い感覚で捉えていた。四大元素も陰陽五行も、七曜も、幻想郷の方式でさえ、在るがままの自然の有様を人為的に説明付けようなどと、どだい無理な話なのである。
 なら、紅魔館の“色”が何色かは、言うまでもあるまい。
 パチュリーは魔法工房にインセンスを焚いて、自分の領域として固定しようと躍起になっている。元の色の面影を消そうと努力しているようだが、それは、自然に逆らっているということになる。自然を支配せんと試みるそれは、西洋の近代的な考え方だ。
 自然を操るという言葉の、明らかな矛盾。湖の氷精は、『貴方の周りは不自然な自然でいっぱい』と揶揄していたか。
 フランは、その是非を問わない。
 フランが、とやかく言えることではない。
「ふふっ」
 花を散らすように微笑む小悪魔。先生としての笑顔ではなく、意地の悪い微笑。
「何がおかしいの?」
 わざわざ質問なんてしなくて良いのに。頭の端でそう思う。
 何がおかしいと言うなら、パチュリーに意見しないフランの稚拙な優しさを笑っているのだろう。
 小悪魔はいつもこうして、フラン達のことを眺めて、たまにからかって遊んだりして、笑っている。

 そう。この館にいれば、何処にいても小悪魔の含み笑いが聴こえてくる。


◇◇◇

 もうだいぶ前の話。
 部屋の外の様子に興味の無かったフランは知る由もないけれど、多分、そこはもう故郷ではなく、知らない国の土地の上だったと思う。

 小鳥を飼っていたことがある。
 しかしすぐに死んでしまった。誤解しないで欲しいが、フランが世話を怠った、ましてや力加減を誤ったとかではなく、寿命を迎えたからだ。

 明るい世界を知らないフランに、不器用な気遣いで姉から贈られた小鳥だった。はっきり言って嬉しくなかった。穿って見るのなら、当事者のフランに部屋から出るという発想が無いとは言え、姉の方は閉じ込めている負い目がないわけではないだろうに、籠の鳥状態の妹に籠の鳥そのものをプレゼントするなんていう姉の愚鈍さには、ほとほと呆れさせられた。
 そしてまた、感情の過敏さ故にそう穿ってしまう自分と、朴訥そのものの姉との隔たりを実感する結果に。つまりは姉の気遣いは裏目に出ているということになる。

 ただ、本と他人の記憶でしか知らない鳥は、可愛いとは思ったけれど。
 その可愛いという気持ちにしたって、か弱い鳥を哀れと思ってのことだったけれど。

 そんな内心を含ませて小鳥を冷めた目で見るフランに、あのバカな姉がショックを受けたことも知っている。期待された反応ができないことを申し訳なく思いはすれども、まさか無邪気に喜ぶとでも思ったか。その誤解に、更に冷めた気持ちになっていく。「……出てって」と、いつもそうなるように、その日もそうなるだけだった。
 大事にされているプレッシャー。
 無駄な気遣いがフランを追い詰める。悪い方へ、悪い方へ、滑落していく悪循環。

 放っておいてくれれば、それで良いのに。

 鳥籠の中でぐったりと横たわる小鳥を眺めるフランの顔は、一切の表情を欠いていた。何を考えているか分からないと、よく言われる。ああそう、と思うだけだが。
「大丈夫ですよ」
 そう言ったのは、美鈴だ。
 あの中国人は、愚鈍な辺りとかが姉に近い。姉と同じように優しくて、未熟な姉よりも、その言葉と背中をさする手は力強く頼もしかった。
「貴方のお姉様には、私から言っておきます」
 そうして、部屋を出る時にはまた大丈夫ですよと繰り返すのだった。
 機嫌が悪い時、自分の気持ちに手が付けられない時、彼女にはかなりひどいことを言ったような気もするのだけれど。極め付けの愚鈍か、それとも、彼女は強い人物なのか。

 時計を壊した地下室には、昼夜を知れる物が無い。
 でも、その日の夜だった。

 鳥籠を前に、フランは終わることのない思索に耽っていた。
 こうして過ごすことは、全く苦ではない。生と死と命の思索は、幼くして死んでしまった生前の少女と、吸血鬼として甦ったフランドールという少女の、双方の生涯に通底する問題だった。
 フランは、ある種の答えを得ていた。

 つまり、神様は無慈悲で残酷で、きっと、私は神様に嫌われている。

「いいえ、フランドール。それは違います」
「!?」
 紅い少女だった。
 くすくすと少女の仄暗い微笑が漏れ聞こえてくると同時に、真っ暗な地下室は、明かりが差したわけでもないのに薄暗くなった。矛盾しているが、暗闇それ自体が淡く発光しているかのような、現実的には有り得ない変化だった。とは言えある意味では、まだ、異常と言える怪奇は、明度の変化たったそれだけ、とも言えた。しかしフランは、首筋のすぐ後ろに、その色まで分かる程の気配をありありと感じ取っていた。
 この館の空気を凝集させたような、あるいはその逆で、その少女から滲み出た気配が、この館の空気に染み付いているような、そんな、少女の形をした薄闇の気配だった。
「何が違うの?」
 少し驚いたけれど、当たり前に誰何する程、フランはまともな子供ではない。
 疑問は全て無視したまま、愉しげに囁く声の相手をする。
「あっけなく死んじゃったよ?」
 小鳥も、私になる前のあの子も。
 無垢に口にしたが故に、純真な重さが伴った。
「そんなこともありますよ」
 だが、返ってきたのはあっさりとした答え。
「こあ……だよね。何か用なの?」
 ようやく、フランは億劫そうに振り向く。
 ワインレッドの長髪に司書風の服装の紅い少女が、変わらない微笑を湛えて宙に浮かんでいた。
「ちゃんと、この子を見送ってあげましょうね」
 小悪魔は空っぽの鳥籠を手に提げて持ち込んでいた。いや、空っぽ、ではなかった。
 半透明の瑠璃色の小鳥が、今も、つい昨日までそうしていたように、何か啄む仕草をしている。フランが思わず声を漏らすと、まるで返事でもするように愛らしく首を傾げる。音に反応しただけだと分かっているのに、そういう風に見えてしまう。
 ただし、ちゅんちゅんと喧しい鳴き声だけは聞こえなかった。この小鳥は幽霊だ。
「…………」
 フランの沈黙は、意味を計りかねたから。
 送る? 何処に?
 あるいは、何らかの魔法の話をしているのだろうか。けれども小悪魔が取り出した銀色のペンダントは、五芒星でも六芒星でもなかった。
 首に掛けられるように細い鎖の付いた、円と十字のシンボル。少し形は違うが、十字架だ。フランの胸の内に、冷たい嫌悪が広がった。
 一般的な悪魔として、ではなく、それ以前に、一人の孤独な少女として、フランはその教義に懐疑的だった。救済も奇跡も信じていない。でも、それがかつて子供心に漠然と信じていた教えが裏切られたことへの裏返しだということも、フランは冷静に理解していた。

 あっけなく死んでしまった小鳥と少女。
 ああっ、なんて素敵な神様なの?

 ────

「……」
 気が付くと、知らない場所に立っていた。
 フランは特に反応せず、ちらりとだけ一瞥する。
 岩肌が目立つ海岸線。彼方の海は、夜と同じ色に染まった靄に覆われている。寄せては返す波の他に音は無い。ひどく静かで、清浄で、うら寂しい。こんな海岸が現実に存在しているのだろうか。
 そう、喩えるのなら、三途の川の河川敷。それも、仏教によって地獄の情報が整理される以前の、民間信仰的な三途の川に似ている、ような気がする。見たことも馴染みもないけれど、海岸に立ち並んだ背の高い石の十字架は、カラカラと回り続ける風車を思わせた。

 何かおかしい。そう感じながらも、フランはそのおかしさを受け入れてもいた。この心の動きは、夢を見ている時のそれに似ている。だからこれは夢だと結論した。

 波打ち際から響く小悪魔の声。一定の周期で聴こえる波の音。
 あるいは、すぐ耳許。ベッドで眠るフランの枕元で囁く小悪魔の声。一定の周期で聴こえる、自分の心臓の音。
 夢と現実の境界が溶け合って、始まりも終わりもない混沌とした渦に吸い込まていくようでもあった。

「これらの十字架はハイクロスと言って、この十字架に施されている彫刻をカルヴェールと言います。彫刻の絵はキリスト教を布教するための内容ですが、曲線と渦巻きの紋様はケルト的なものです。地母神や永劫回帰を象徴している、みたいな感じに言われますね」
 と、小悪魔は十字架に彫られた絵に指を這わせながら。
「アイルランドにキリスト教を布教した聖パトリックは、ケルトの感性を否定するのではなく、元の文化に合わせる形でキリストの教えを説いていきました。まあ、もちろんそこに都合の良い取捨選択が無かったわけではないですけどね、比較的穏当に話は進みましたよ。シャムロックと三位一体を重ねたり、とかは有名な話です。そうやって、土着先住宗教との共存を図ったんです。言わば、ケルト文化にキリスト教を接ぎ木したのです。ハイクロスやケルト十字は、目に見えるその結果でしょう」
 今度はケルト十字のペンダントを指でなぞった小悪魔は、やがて視線を、彼方へと移した。
「さて、本題です。あの海の向こうはどうなっているんでしょうね?」
 霞の向こう側、遥か彼方の遠景は、見渡せるはずもない。
 この世はここで途切れていると、世界の最果てを思わせるに足る風景だった。
「西の最果ての海岸から小舟で海へと漕ぎ出して、延々と大海原を真っ直ぐ西に進んでいったとして、何処に辿り着くのでしょうか。ちょっとだけ、クイズです。現実的に考えてお答えください」
 真っ直ぐと西へ、正確に進んで行けるのなら、カナダか、少しずれてもグリーンランド。でもこれは、意地悪な引っ掛け問題。現実的に考えるのなら、答えは明々白々だ。
「死ぬに決まってるわ。小舟でしょう?」
「正解です。だから……ではないですけどね、海の向こうにあるのは死後の世界、それは常若の国であって、アヴァロンであって、彼岸でもある。まとめて言えば、こちらでない向こう側。異界です。あの海の向こうには、空想ではなく実感として、人間の住む世界とは別の世界があるんです」
「……」
「ブルターニュに伝わったキリスト教は、アイルランドを経由したものでした。16世紀から17世紀にかけてフランスの中央集権化が進む中で圧迫されていきますが、死生観はそうそう簡単に変わるものではありません。死者は水の境界を超え、西の国に旅立つものと決まっています」
「貴方は、何を言いたいの?」
 苛立たしげに問うと、小悪魔は少し思案気に首を傾げた。
「例えば、霊体のこの子を、このまま鳥籠で飼うこともできますよ?」
 肉体の器を失くしては、精神は早々に拡散してしまう。魔術の常識ではそのはずだけれど、小悪魔に掛かれば難しくはないのだろう。
「……そう。でも、いいよ。飼い殺しにされても、どうしようもないでしょ?」
 別に、元からして大して可愛がってはいなかったのだし。
 俯きがちに言うフランに、小悪魔は真摯に語り掛ける。
「そうですね。貴方なら、そう答えると思いました」
「奇天烈なことを言った覚えはないわ」
 フランは淡々と、物憂げな敵意を込めて答える。
 小鳥のことなんて可愛がっていなかったと、別に、そこまで言うつもりもない。つまらない意地を張ることもない。確かに、微々たる愛着はあった。だからこそ哀れを感じて、一般に不幸と思われるだろう薄暗い地下室の、さらにその内の鳥籠に閉じ込めることへ、後ろめたさを感じる。
 予想されて然るべき、むしろ比較的、自然と言える選択。
 もっとも、誰にも理解されたことなど無いのだけれど。何を考えているか分からないと、よく言われる。フランに言わせれば、たまさかフランの周囲には頭を使わない、もしくは頭の硬い連中が集まっているだけのことで。でも、それを責める気にもならず、ああそうと思うだけに留まる。それがいつものことだった。
 しかし小悪魔だけはフランが答える前から共感を示し、その上で、首を横に振った。
「……フランドール。貴方は、自分で自分の気持ちに気付いていない、そのことにも、気付いていないんです」
「どういうこと?」
「どうもこうもありませんよ。形はどうあれ、貴方は悲しんでいます」
「悲しい?」
 フランは小悪魔の言うことを疑った。
 心の中を探しても答えは見付からない。不安に近い疑心は、私は本当に生き物の死を悲しめるの? と、そんな問い掛けをもたらした。

「祈りなさいませ。哀れな貴方達には、それくらいしかできないのですよ。ミサに出席したことはありますね? さあ、手を組んでください」

 黒いシルクのリボンを巻いた素足を、波打ち際に足首まで浸して、最果ての海岸線──あの世とこの世の境界を、歩いていく。
 そして、少し進んだ所で、鳥籠の鍵を外して扉を開いた。半透明の小鳥はしばらく不思議そうに首を傾げた後、海の向こうへと、高く、高く、飛び立っていき、小さなその姿は夜闇に溶けて、すぐに見えなくなった。意外なほど、あっさりとした旅立ちだった。

 小鳥の行方を追って、視線がつられるようにふと見上げた空には、細切れの雲が、渦を巻きながら棚引いていた。夜空に薄膜を張ったように、目に見えるものはみな、星々の光も薄ぼんやりとしている。朧に霞んだ、柔らかな夜だった。

「主よ。身罷りし者の霊魂のために祈り奉る。願わくは、その全ての罪を赦し、終りなき命の港にいたらしめ給え」
 ふざけているにも程があったろう。悪魔が祈りの言葉を唱えるなどと、冒涜だった。フランも、小悪魔も、罪の赦しなど請うてはおらず、それ以前に、誰の許しも必要としていない。
 なのに小悪魔はケルト十字を胸の前に掲げ、あくまでも粛々と唱え続ける。
 祈りを唱える小悪魔の、静かな哀切を含んで淡々とした表情は、喩えるのなら、夜に似ていた。
「主よ。永遠の安らぎを彼らに与え、絶えざる光を彼らの上に照らし給え。全ての人の救霊を望み、罪人に赦しを与え給う天主、主の憐れみを切に願い奉る。願わくは……」
 これに、何の意味があるのだろう。どうすれば良いのだろう。
 フランは、形だけ手を組んではみたものの、表情は冷え切っていた。
 少しだけ思い出したのは、生前の姉妹達もこうして手を組んでいて、やんちゃな姉が、早く終われば良いのにね、なんてことを言っていた、そんな他愛も無い思い出だった。
「──Amen」
 小悪魔は祈りの言葉を締め括り、淀みのない所作で、胸の前で十字を切った。

 だから、なんだっての?

 フランの沈黙はひどく冷やかだった。これ以上は、この黙祷、この茶番に耐えられそうにない。胸の内の冷たい嫌悪は、いよいよ最高潮に達している。
「ねぇ、私は主なんて信じてないよ?」
 澄んだ、底冷えのする声音。
 透明な氷を思わせてならないような、そんな声だった。
「そうでしょうね。それでも構いません」
 嫌悪のままに吐き捨てたフランに、小悪魔はフランを肯定する言葉を返した。
「天国があるかないかは知らない。でも、司祭様の言うような永遠の魂を信じる気にはなれない」
 キリスト教で言う永遠の魂、つまり死後に天国に行ける魂は人間の魂だけとされ、明確に区別にされている。そんなものがあるとは思わないし、第一、それならそれで、小鳥にも吸血鬼にも関係の無い話だ。
「構いませんよ。私も、いや、それは無いわ、って思っていまから」
 しかし、こちらを信じられないからと言っても、ケルトの死生観を信じることにはならない。
「輪廻転生。生まれ変わりも、信じてないわ。ねぇ、どうなの? 生まれ変わりって、あるの?」
「私は、無いと答えます。生まれ変わったとしても、それは同じ命ではありませんから。似ていることは、ありますけどね、でも、別物です」
「それならっ……」
 平坦だった声音に感情が混じり始めていたことを、フランは自覚していただろうか。
「それなら、何? 貴方は何を言いたいの?」
 先よりも苛立ちを増して、同じ質問を、より深刻な意味で繰り返す。

「ねぇ、フランドール。お菓子は好きですか?」
「?」

 意味が、分からない。虚を突く問い掛けはフランを無心に返らせた。
「と、言うのもですね。お菓子屋さんには、教会の近くに建っているものが珍しくない、むしろ、教会の近くにはほとんど必ずお菓子屋さんがあると言っても良いくらいです。だから、日曜のミサの帰りにお菓子を買って帰る光景がよく見られます」
「……」
「それから、修道院でお菓子を作ることもありますね。このお菓子の発祥は修道院、その話題になれば必ず名前が挙がるカヌレの他にも、マカロンの発祥の一説には、ロレーヌ地方はナンシーの修道女が作ったというものも。同じくロレーヌ地方のサント・マリー教会にはヴィジタンディーヌ。可愛らしい王冠型で焼き上げる、フィナンシェに似たお菓子です。クリスマスにはブッシュ・ド・ノエル。復活祭にはアニョー・パスカル。それからそれから、公現祭のお祝いには、ガレット・デ・ロワが欠かせません。大きなアーモンドタルトは特別なご馳走なんです。ねぇ、素敵な光景でしょう?」
「そうかもね」
 と、無感動にフラン。
「もちろん私は、多くのものを失わせた排他的な宗教を、そして宗教を利用した者達を、手放しに快くは思っていません」
 重く、小悪魔は口にした。
 もしかするとフランのそれとは比較にならない強烈な嫌悪を秘めながらも、重く、しかし語気を荒げることはなく、穏やかな口調のままに。
「ですが、民草の祈りは正式なものとは違います。教えを正確に理解している人がどれだけいると思います? 信仰の本質は、いつだって同じなんです。素朴に、ただ神に感謝を。一人一人の心の中にある祈りは、きっと、尊いものですよ」
 フランの反応を待つように小悪魔は言葉を区切り、少しだけ不安そうにしている風にも見える仕草で、ケルト十字を掛けた胸に手を当てた。
「……続けて」
 ぽつりと、フランはそれだけ。
「あの世とは、あの海の向こうです。フランドールは、あの海の向こうがどんな場所だったら良いと思いますか?」
「…………」
 何も思わない。
 そのはずが、胸が詰まって、何も言えなかった。
 天国も永遠の命も、信じることはできないけれど、ただ、幸せな場所であれば良いと願う。
「それで良いんです」
 フランの顔を見て、小悪魔は頷いた。
「絶対に、幸せな場所ですよ。ええ、私が言うんですから間違いはありません。ジンジャークッキーやマジパンで作った家とかがあるんです。街並みは、雪みたいに粉砂糖を振りかけて、一年中クリスマスみたいに賑やかなんです。チョコレートだっていくらでもあります。フランドールはどんなお菓子が好きですか? あそこには何だってありますよ」
 そんな、有り得もしないメルヘンを。
「かくあれかし。本当に、そうであれば良いですね。祈りが形だけのものでも、弔いの心が本物ならそれで良い。祈る貴方の心に、平穏のあらんことを。祈ることには意味がありますよ」
 そう語る小悪魔の貌は、いつになく真摯で、真っ直ぐにフランを見つめていた。
「祈りは、哀れな貴方達のために。信仰は、儚い人間のために。私の言葉を信じられなくても構いません。でもどうか、幸せだけは信じてください」
「……よく分からない、けど」
 分からない。
 意味なんて、無いと思う。
 ただ、心の棘が、少しだけ柔らかになって、心の中が、ぐちゃぐちゃに掻き乱されるようでもあった。
 少し前まで、フランは、ある種の答えを得ていたはずだった。

 ──つまり、神様は無慈悲で残酷で、きっと、私は神様に嫌われている、と。

 そう思えばこそ、悲運を諦められていたのに。フランは自分を慰めるための答えを見失ってしまった。
 自分を取り囲む環境に対しての冷たい拒絶は、少女が持つ唯一の心の鎧だったのに。それなのに……なんて、残酷なことをするのか。
「えっ、なに?」
 胸の中に顔が埋まって、甘い匂いに包まれる。
 抱き締められたのだと気付くまでには、少し時間が必要だった。
 立ち尽くすフランをその胸にうずめるように抱き締めて、小悪魔は、丁寧に髪を梳くようにしてフランの頭を撫でるのだった。
「神様は無慈悲で残酷で……そうね、釈明のしようがないわ。ちょっぴり意地悪ですよね、ごめんなさい。でも、フランドール、貴方が神様に嫌われているなんてことは有り得ません」
「!?」
 気が付いた。
 同時に、戦慄した。
 何故、それを断言できるのか。
 何故、小悪魔がそれを断言するのか。
「絶対に神様は貴方を嫌ったりなんかしていません。意地悪もするけど、それだけは、私に約束させてください」
 それを断言する、紅い髪と暗い羽の少女が、いかなる存在か。今やフランは、過たず理解していた。
 夜色の羽は、端の方から薄く夜闇に溶け込んで境界が曖昧になっている。何処からが彼女の羽で、何処までが夜なのだろう。あるいは、見分けようとするその試みは無意味なのか。
 夜と同義の紅い少女は少し体を離して、しかし吐息が掛かる程の間近で、ぞっと背筋が粟立つような優しい微笑みをフランに向ける。この世のものではない美貌にフランが感じていたものは、畏敬と怖気だった。

「私が、貴方を、愛しています」

 くすぐるようでいて、背筋をぞわりと撫で上げるようで。優しく抱き締めるようでいて、絡みつくような声に、そう、告げられて。フランは、殺されるのかと思った。
 抱き締められて感じるのは、あまりにも尋常の埒外にある、殺意にも程近い母性。
 自分に関わるものを片端から拒絶しようとするフランの心すら、もろともに呑み込んでしまうような、圧倒的な、何か、得体の知れないもの。しかしフランは、畏れと同時に、安らぎを感じていた。
 フランの傷口。死への羨望、そして疑問が、柔らかく溶かされていく。恐怖と安堵とが綯い交ぜになって、いつの間にかすり替わる。
 それは紛れも無い、信仰の歓びだった。



「日本の場合、輸入された近代の価値観と風土的なそれが、同居しているだの、逆に棲み分けしているだのと言われていますが、むしろ元々の性質が新しく入って来たものを希釈しているように思えます。言うなれば、あらゆるものを取り込む八百万という溶剤が、西洋文明というある種の毒素すら、消化し、吸収してしまったのでしょう。ところがこの八百万の観念は、何らかの理念を示すものではなく、無意識の領域にあるものですね。理念を超越……ないしは無視するものですから、言葉や論理で説明するのは容易ではありません。ですが、分かるはずです。多神教も汎神論も決して特異なものではなく、むしろ自然で、とても素朴なものだと、私は思います。八百万、アミニズム、仏教風に言うと草木国土悉皆成仏。人間の無意識の中には、必ずこの感覚があります。素朴な信仰とは、目に見えないものの気配を感じ取ること、それだけなんですから」
「それでも、西洋では違ったんだね。美鈴が話してたよ。教会の彫刻にあるグリーンマンは、村の酒場とかでもよく見かける。きっと、元は豊穣神だった、って。土着先住宗教の神様達は管理的な自然観で歪曲されて、キリスト教の神に対立する形、つまり悪魔として描き出された。全体として抑圧されながら、ある部分では拾い上げられたとしても、どうしたところでキリスト教はその二重性を認めないから、日本みたいに神仏が平行して残る、ということが起こり得なかった。つまり、日本は曖昧を許容するけど、西洋は違った。曖昧な無意識は明確な意識に抑圧されることになった。こういうこと?」
 ただし例外的に、アイルランドやブルターニュ等の辺境には、ケルト的なキリスト教が残っている。
 フランは内心で、そう付け足した。

 幻想郷の魔術的な基盤の話は、東洋と西洋の文化的な違いに及んでいた。
 少々物思いに耽っていたフランだったが、話を聞いていなかったわけでもない。小悪魔の生徒になった覚えだってないけれど、フランの解答はまたも合格点だったようで、小悪魔は手を叩いて喜んでいる。

 最東端の島国と最西端の島国の不思議な共通項。フランの表情を窺った小悪魔に、躊躇いを見せながらも「……そうね。聴かせて」と、フランは答えた。
 心境の変化は、物思いが原因。
 小悪魔が十字架を持っているのなんて、あの夜の他には見たことがない。夢だと思って忘れてしまっていてもおかしくはなかっただろう。辛うじて残る記憶も、全体像は霞掛かっていて、上手く思い出せなかった。
 フランが一息吐くのを待ってから、小悪魔は話を一つ進める。
「神様がどんなものか。これも東西では大きく違ってきますね。ではここで好例として、本を一冊、紹介しましょう。遠藤周作の『深い河』です。彼は、生涯を通じてキリスト教と日本人の関係を書いた方でした。『深い河』の主人公の一人、大津という男は、フランスでキリスト教系の大学に通います。しかしそこで彼は、軋轢や、認識の差異を感じることになるのです。彼は、彼の汎神論的な考えを諭そうとする神父に対して、こう語ります」

『神とは貴方達の言うように、人間の外にあって、仰ぎみるものではないと思います。それは人間の中にあって、しかも人間を包み、樹を包み、草花をも包む、あの大きな命です』

「そして、かつての西洋にも、自然で素朴な宗教観が広がっていました」
 ケルト文化。その実態は記録の彼方に消え去ってしまっていて、正確に知られていないというのが現状だ。ケルトを外側から見た記録は幾つかあるものの、ケルト社会の内側で残された文献の記録は皆無。特に、ドルイドの祭儀は口承で伝えられていたため、今となっては失われた秘術だった。忘却の祭儀というわけである。
 一般の社会でもそうであり、魔法のジャンルとしての古代ケルト式魔法もまた、担い手の途絶えたマイナーな魔法に分類されている。魔術書も多く収めるこの図書館にだって、口伝の秘儀が書き記された本は収蔵されていないだろう。
「何をもって素朴と言うのか知らないけど、文献の記録がなくっても、人身御供の祭儀の遺構らしきものならあるんじゃなかった?」
「自然神が流血を求めることなんて珍しくもないですよ? 血を穢れとする以前の日本の古神道も、大体そんな感じです」
 今も諏訪に残っていますね。
 と、一言付け足す小悪魔。
「まあ、血がどうこうの話はやめましょう。ケルトの魔法で用いる触媒と言えば、月齢六日目の晩に黄金の鎌で刈り取った、楢の木に生えたヤドリギです」
「うん、知ってる」
 ドルイドは樫の木の賢者とも訳されるけれど、その木は、楢や柏の木のこと。常緑樹の樫には北限があって、実地にはあまり生育していない。色々とややこしいから乱暴にまとめてしまえば、要するに、ドングリの木を指す。イングランドにはマン・イン・ジ・オークというグリーンマンの一種があり、これらの木が霊的に見られていたことが窺えるが、産業革命期にオークウッドの樹林の多くが伐採され、消滅してしまった。英国が植生に乏しいなどと言われる一因である。
 次にヤドリギ。
 詩人にして隠秘学家のエリファス・レヴィ(ちなみに近代魔術の復権に尽力したこの人物は、パチュリーの偉大な先輩に当たる)は、ケルト文化に関する研究をも残していた。小悪魔が言ったのはそれだ。ヤドリギは木と草の中間的な植物で、また、地面と離れて育つ特性から、天と地の中間的な存在でもあった。このため極めて特異な媒介として、アストラルライトを強烈に引き付けると信じられた。また、厳粛な儀式をもって刈り取ることで、更に権威性を高めると共に、魔術的に磁気化する、云々。
 ……と。
 フランが諳んじられるのは、精々がこの程度まで。「いえいえ上出来ですよ」と小悪魔に褒められても、自分ではまだまだだと思って、唇を尖らせた。
「フラン様は、ケルトと言えば他には何を思い出されますか?」
「すぐに思い付くのはメンヒルとかドルメン、かな。無難なところだけど外せないよね」
 メンヒルは立石。ドルメンは支石墓。
「ふふっ、手の掛かる子も可愛いですけど、優秀な生徒も魅力的ですねぇ。こあ先生は~、嬉しいですよ~♪ ふふ~♪」
「そういうのいいから」
 ふてくされ気味に言っても、小悪魔はくすくすと笑うのをやめない。
「でも、言って欲しいことだったのですよ。その通りです。ケルトでは、団栗樹に、奇岩に、霊的な力が宿ることを認めていました」
 小悪魔の言葉を借りるなら、それは何も特別なことではなくて、自然で、とても素朴な、人間の無意識の中に必ずあるはずのカタチ。それが偶さか最近まで残っていたのが、地理的な要因で固有の文化を保ちやすかった、東西の両端の島国だった。
「また、この国でも、特別な樹を神籬と、特別な石を磐座と呼び習わし、神様が宿るものと考えてきました」
 草木国土悉皆成仏。草に木に、あらゆるものに仏性を見出す、特に日本仏教で見られる考え方。
 幻想郷のこと。東西の文化。
 最初は、何故そんなことを言い出すのかと思っていた。しかしもう既に、フランの中ではそれらの話は繋がりを持ったものとなっている。小悪魔はフランの質問に答えていたのだ。小悪魔がここにいること、それが答えだ。
 フランは既に知っていた。
 仰ぎ見るものではなくて、何もかもを包み込む、あの、大きな……そんな捉えようのない存在を辛うじて定義する、その名称を。

 古くからそこにいる、その土地に根付いたもの、中でも取り分けて土着先住宗教の神格を指し、幻想郷では“土着神”と呼ぶ。

 この館にいれば、何処にいても小悪魔の含み笑いが聴こえてくる。
 いつも薄暗い館内は、小悪魔が現れると決まって、薄膜を被せたように更に光が翳り、薄暗くなる。夜と同じ色をしたその羽は神秘のヴェールだった。柔らかな夜と、館の薄暗がりと、ほぼ同義の少女。

 妖精に零落し、更には悪魔として排斥された、かつて身近で、今となっては遠い神秘。

 ……本当に、真面目にしていれば綺麗なのに。

「はぁ」
「また溜め息ですか? お疲れでしたらこあお姉ちゃんが膝枕をしてあげますよ?」
「こあ。私はね、色々と残念に思うわ」
「え~、別に良いじゃないですかぁ。こあは可愛い小悪魔ですよ~?」
 だから、そういう態度が。
 言っても無駄か。
「分かっててやってるのって、性格悪いと思うの」
「天然で悪意が無い方が怖いですよ? 咲夜さんとか」
 かも知れないけど。
 このままのらくらされ続けたのでは、埒が開かない。
「ねぇ、こあ」
 微笑む小悪魔を、フランは真剣な瞳で、射抜くように見つめる。
「答えて」
 具体的な質問は考えていなかった。何を答えて、とも言わなかった。
「心配しなくても、レミリアは貴方を愛していますよ」
 でも、小悪魔は内緒の話をするようにそっと耳打ちをして、そう答えたのだった。
 愛されている。その自覚はある。
 けれどフランが知りたいのは、もう少し踏み込んだこと。核心に触れたい、そう思う。

 例えば、必ずしもではないだろうけれど、神様というのは信仰を失えば消えてしまう存在だとか。
 じゃあ、小悪魔は?


◇◇◇ 5章

 ああ、まただ。
 久し振りだ。妹の夢を見るのは。

 自分と墓石の他には何も無い、荒涼とした墓地。
 周囲は果てしない靄に包まれていて、辺りを見回しても動くものの姿は見当たらなかった。

「…………」
 何もすることは無い。目が覚めるまで待つだけ。
「ねぇ、お姉様」
「……っ!?」
 どくん、と心臓が脈打つ。心臓に流れ込む血は不安の塊にも似て、胸が潰れそうな圧迫感をもたらした。

 レミリアは妹を愛している。そのはずだ。
 だが、妹を置き去りにした姉の戯言を、誰が信用する?

「あら、何を驚いているの?」
 妹がこちらを見て、話をしている。
 一斉に肌を這う鳥肌の感触を、ありありと感じられる程だった。
 負い目。引け目。募りに募った罪悪感は恐怖にすら等しく、その、レミリアにとっては最悪の恐怖の対象が動き出したことに、一瞬にして恐慌状態に陥った。

 あるいは、吸血鬼の恐怖とは、これなのかも知れない。

 この子は私を責めるに決まっている。
 だから、生き返ってくれば怖いに決まっている。

 死者が戻ってくることは、こんなにも恐ろしい。

「……!」
 溺死寸前のような有様で目を覚ましたレミリアの顔は、いつにも増して蒼白だった。
 窓の無い部屋では分かるはずもないが、館の外では、新しい一日が始まろうとしていた。



 嫌なことを考えまいと思うなら、体を動かすのが一番だ。

 もやもやとした気持ちを振り切って、地面を蹴る音さえも、置き去りにして。純粋な瞬発力のみによって、レミリアの身体は弾丸と化して消え失せた。
 颶風の唸りをあげる五指の爪が、腰を落として構える美鈴の首筋に襲い掛かる。少女の細腕? いいや違う。吸血鬼の爪だ。空気を切り裂く音は、物理法則の悲鳴のようにも聞こえた。
 するりと滑らかに、レミリアの手首に絡む美鈴の腕。なまじ身体的なポテンシャルに優れているだけに、この時点で既にレミリアの直感は、もはや逃れようもない死を悟っていた。
 引っ繰り返る天地に、胴体の鈍痛。何が起きたのかすら理解できない……ということは、流石に無かった。なにせ、こうなるのはもう十回目を数える。
 鮮やかに決まった頂肘は、中国拳法が一つ、威力において最強を謳われる八極拳の体捌きである。
 華麗な套路を前に、何倍、ともすれば何十倍もの膂力の差は、何ら意味をもたらさなかった。絶招を極めるまでに積み上げた功夫は、暴力であり芸術でもあった。
 地べたに転がされたレミリアは、手のひらに触れる感触がおかしなことに気付く。美鈴の立ち位置の周辺には放射状に亀裂が走り、抉れると同時に盛り上がっていた。今更になって、踏み込んだ震脚の衝撃を知る。美鈴がその気になれば、さながら大地の擡げた腕に殴られるにも等しい勁を発揮するだろう。もちろん、命のやり取りの場ならいざ知らず、試合でもない、ただの稽古とあっては、そこまでのことはしない。多大なる手心のおかげで、怪我の度合いは軽い打撲。しかしそれ以上に、ゆるやかに吐気し残心を取る美鈴の、華麗な後ろ姿にこそ、レミリアは強い衝撃を受ける。

 強者とは時に美しい。
 レミリアが美鈴から学んだことの一つだ。

 あと、つくづく思う。
 美鈴が普通の人間だとしたら、中国人はみんな、なんかおかしい。美鈴が言うには、美鈴以上の達人だっていくらでもいるそうだ。ほんとにどんな国だよ、中国。

「立てますか?」
 どうかしてる中国人が、普通にレミリアに手を貸して体を起こさせる。胡坐を掻いて地べたに座り込んだレミリアが機嫌を損ねる。三日前から続いている、朝の日課だ。広い庭もあって、場所にも困らなかった。
 打撲なら治っている。吸血鬼の中でも特にタフなレミリアは、そう簡単には倒れやしない……少なくとも肉体は、だが。
「……もう飽きた」
 この通り、精神面は未熟で、飽きっぽい。
「そう言うと思いましたよ。お嬢さんはいつもそうですからね」
 むしろ、初日でへこたれなかったことを褒めるべきか。
「寝る」
 大の字に寝転がって、レミリアは固い決意も新たに宣言した。
「寝るぞ。私は寝るぞ。ものすごく寝るからな」
「あのですね、お嬢さん。早起きの習慣くらいは身に付けませんか?」
「なんで吸血鬼が早起きしないといけないんだよ?」
 深刻な事情を付け加るとすれば、夜、眠れないのだ。悪夢を見るから。まさか好んで早起きしたわけではない。
「そもそも、体を鍛えるなんて吸血鬼のすることじゃないの。そんなことしなくたって私は強いから」
 美鈴に軽くあしらわれていることは気にしない。そんな細かいことを気にするレミリアの器ではないのだ。細かいことを気にしていては大きくなれない。ものすごく些細なことだが、美鈴の朝の鍛練に付き合いたいと言い始めたのはレミリア自身だ。でもそんなことはどうでもいい。
「な? パチェ」
 軒先の日陰に引きこもっている陰気な友人な同意を求める。
「知らないわよ」
 つっけんどんな態度の割には、手元の本に視線を落としつつも、こうしてレミリアに付き合っているわけなのだけれど。

 レミリアは何も考えてはいなかったし、美鈴も似たり寄ったりなのは違いない。二人とも、体を動かして解決するタイプだった。しかしそこは人生経験の差。美鈴はパチュリーの変化を察していた。

 少しでも館の中に居たくはないのか、あるいは、何らかの壁に直面しているのか。

 美鈴は今こそ好機と感じ取った。
 中国の拳法にはその名もずばり太極拳や五行拳なるものもあるくらいで、結び付けようと思えばいくらでも陰陽五行思想と結び付く。つまり、パチュリーが最近の研究対象にしている分野である。
 満を持して、実は常日頃から気にしていたパチュリーの不摂生を改善するべく、美鈴はパチュリーを誘った。
「パチュリーお嬢さんも、拳法をご一緒しませんか? 健康にも良いですよ。まずは簡単な站椿から」
「するわけないでしょ」
 即答だった。
 そうだろうとは思っていたが、少々落ち込んだ美鈴は、ひとり寂しく、朝の鍛練を再開する。



 美鈴の朝は忙しい。
 忙しいのなら、むしろ時間が空く昼間に仕事を回せば良いとは思うのだが、鍛練も一日の準備も、日の出と共に始めるというのが美鈴の日課である。
 軽く体を動かした後は朝食の支度だ。

 ところでこの洋館の厨房、館自体の大きさに見合う形で、一般家庭とは広さからして違う。
「飲み物で腹が膨れるか。固形の食べ物を、炭水化物を用意しろ」
 なんてことを言い放つ血を主食にしない吸血鬼と、当たり前のように食事を抜くことも多々ある小食な魔法使い、たった二人のために食事を用意するには、この厨房はあまりにも広過ぎた。
 しかも、広いだけではないのだ。例えば戸棚には、20種類以上もの蜂蜜の瓶が、色の違いで音階を作るかのごとく並んでいて、どれから使って良いのか分からない。しかも見慣れない魔法道具と思しき物まであるとあっては勝手が違う。
「爽やかな朝、白い陽射し、そして、バゲットの詰まった紙袋を抱えて街を歩く、立ち姿の美しい女性。中々に絵になっている光景です、素敵ですね。というわけでよろしくお願いします」
 何が、というわけなのか。
 それは今も判明していないが、買い出しの担当は美鈴だった。レミリアもパチュリーも論外だろう。
 片道一時間以上の往路は苦ではなかったし、キロ単位で砂糖や小麦粉を買い込むのも体を鍛えた美鈴の負担にはならない。ただ、小悪魔に渡されたリストの通りの品を集めるのには、ほとんどがマルシェで集まったとは言え難儀した。
「ちょっと前までパンは保存食でもありました。そんなこともあり、この国には堅くなったパンを美味しいお菓子に甦らせる方法がたくさんあります。パン・ペルデュはもちろん、ラスクにしても良いですね。ちょっと手間を掛けて、クレーム・ダマンドたっぷりのヴォストックも美味しいです」
「いや、それって全部お菓子ですよね?」
「パンがあってもお菓子に作り変えたら良いじゃないですかぁ」
 王妃様だってそんなことは言わない。シュガーボイスで暴論をのたまう小悪魔に頼るにも限度があり、美鈴は腕捲りをして厨房に立っていたのだった。

 料理は得意な方だ。
 故郷の料理はもちろんのこと、一人旅が長かったこともあり、各地の味も覚えている。特技など持ち合わせていない普通の人間の美鈴が自慢できる、数少ない得意分野の内の一つである。

 はたと、ルーン文字が刻印された火打石を手にした美鈴は顔を上げた。
「これ、魔法っぽい文字の意味は……?」
 石には『 < 』の刻印。
 取り立てて意識せずに、普通に火打石の使い方をしてしまった。とりあえず火花は散ったのだが、用途としてこれで正しかったかどうか。
「火のルーン、ですよ」
 声と共に、ふわりと浮かぶ、半透明に透ける影。
 厨房の明るさまで翳るかのようだった。
「本道のやり方とは違いますけどね、ルーンは小回りが利くので便利に使わせてもらってます」
 そう言いながら、慣れた手付きでルーンの霊石をくべる。便利なもので、石はすぐに赤々と発光を始めた。
「わざわざ……って感じでは、ないんでしょうね」
 魔法使いがぶつぶつと呪文を唱えて火を灯すのとは、わけが違うのだろう。
「え~と? 普通に火を起こす方が手間じゃないですか?」
 至極当然のように、小悪魔。
 それこそ、呪文を唱えて魔法的な現象を起こす者と、そこにいるだけで神秘的な存在の、当然の差異なのだろう。
 空間を転移したり、空中を浮遊したり、呼吸するように魔法を使う小悪魔は、例えばこうして、燐寸を擦るより簡単にルーンの秘術を使ってみたり、と。彼女にとっては、そうした方が楽な上に早いようだ。“人間の一流”と“人外の嗜み程度”との間に、どれほどの隔絶があるか、計量すら難しい。
「美鈴さーん?」
 幼いながらも妖艶さを醸し出す、明らかに人外と分かる美貌の少女が、透き通るロゼワインの髪を揺らして、背の高い美鈴の顔を低い位置からじとっ~と睨め上げている。
「さては聞いていませんね?」
 少し、考え事をしていた。
「ごめんなさい。それで?」
「遠赤外線とか出てますので、お肉は低温でじっくりと火を通してくださいね……って話だったんですけど、まあ別に良いですよ」
「そうですか。一応、覚えておきましょう」
 呟いてから、ふと思い立って、美鈴は怪しんだ。
「貴方は何をしに、ここに?」
 慣れない環境に戸惑う美鈴に助け船を出すつもりだったと言うのなら、それでも構わないが。
「お外に出てお疲れのお客様にお飲み物をお持ちするのです♪ ホットココアです♪」
 可愛らしい笑顔だった。
 蕾が開花する瞬間を目の当たりにしたような感動を、見る者の心に抱かせてならないだろう。
「……はあ。あ、ちょっと疑問なんですけど、魔法でココアを直接温めた方が早いんじゃないですか?」
 手間だろうに。
「分かってないですねー。料理というのは、手間の掛かり具合と愛情の深さが比例するんです」
 ミルクパンでココアをゆっくり温めながら、小悪魔は自慢げな笑顔で言う。
「まずココアの粉末を溶かしてペースト状になるまで、よ~く練りましょう。この一手間を絶対に忘れないでください。そうしたら、後からミルクを足して、ゆ~っくり温めるんです。こうすると口当たりが優しくなりますよ……そんな気がしますよっ。ミルクパンで温めるのもポイント高いですよっ」
「…………」
 これで笑っていられるその神経がおかしいと、美鈴は思う。
「パチュリーちゃんは可愛い子ですよね」
「ええ」
 いきなり、何を言い出すかと思えば。
 美鈴も、レミリアの親友のパチュリーのことは、自分の娘も同然に大事に思っている。当然、小悪魔が言った可愛いの意味は、美鈴のそれとは異なるだろうが。
 しかしそうなると、解せない。可憐そのものの容姿を持つ小悪魔が、お世辞にも愛想が良いとは言えないあの野暮ったい娘を指して、何を可愛いと言うのか。
「こぁぅぅ……意外です。美鈴さんって、私を可愛いと思ってくれているんですね」
 ぱちぱちと瞬きする小悪魔。
 美鈴の思考は筒抜けのようである。
「可愛らしい容姿なのは、確かでしょう?」
 無論、親しみを込めて愛称で呼ぼうなどとは思わないが。当然、動揺する姿にも可愛げは感じない。含むところを隠すつもりもない美鈴に、小悪魔は微苦笑する。
「気を使え、とか言われませんか?」
「……言われます」
 自分のそういった性質は、理解しているつもりだった。
 パチュリーを激怒させておきながら大笑いしている小悪魔と違って、自分は人間らしいとでも思っておこう。こうして下を見て安心するのも人間らしい卑劣さだ。構わない。美鈴は普通の人間なのだ。
「美鈴さん美鈴さんっ」
 袖をくいくいと引っ張る小悪魔。
「はい?」
 怪訝に答えた美鈴に体を寄せて、小悪魔は可憐に微笑んだ。同時に、甘い匂いが香る。クッキーを焼き上げている時、オーブンから漂う砂糖の匂いに似ている。
 あるいはそれは、魅了と呼ばれる類いの魔法であったかも知れない。
「……?」
 あったかも知れないが、美鈴には区別が付かない。霊感、故国では見鬼と言うが、美鈴のその手の感覚は、ただ霊的な存在が見えるだけという最低限しか備わっていないのだ。美鈴には、小悪魔が微笑んだようにしか見えなかった。
「なんで普通にしていられるんですかっ? いや、あんまり効果なさそうなのは分かってましたけどねっ」
 何を言い出すんだ。言い掛かりにも程がある。
 どうにも誤解があるようなので、美鈴はなるべく真剣に答えるべく、表情を硬くする。
「私は普通の人間ですからね。そりゃあ、普通にしているしかないですよ」
 せめて気の利いた褒め文句を口にするか、少女の美を称える詩の一つでも謳うが礼だったか。凡人の身ではそうもいかない。
「中国人はなんかおかしいですっ」
 またしてもひどい誤解を受けてしまう。
「常套が優れているのは分かりますけど……それにしてもですね、美鈴さんは、ちょっとどうかしてます」
「いえ、普通ですよ?」
 普通の凡才で凡人だ。
 いったい、どこがおかしいと言うのか。確実に人外なのは、そちらだろう。
「もういいです……」


 それはさておき、パチュリーのこと。
 末成りと言うか、どうにも不健康に思う。
 食事を摂る頻度も減っている。人間らしい生活から、どんどんかけ離れていっている。驚くべきことに、美鈴やレミリアよりも彼女の方がよっぽど人間らしからぬ生活を送っているのだ。
「あのお嬢さんのことは、どうも分からなくて、どう心配して良いのかすら、分からないんですよね」
 訥々と、口に出していた。
 外に出て人と関わった方が良いと言った美鈴を、パチュリーは「人間の生態なんて本の中に書いてあるでしょうに」と突き放し、全く相手にしなかった。舌鋒もまるで刃が通らない。おだてれば言うことを聞くレミリアと違って難しい子供だったというのもあるし、パチュリーは、魔法に無知な美鈴の忠言には最初から聞く耳を持たなかったのだ。それなら、性格に問題はあっても魔法に詳しい小悪魔なら、美鈴の悩みにも答え得るかも知れないと、相談する形になっていた。
「んー、私はその辺はあんまり気にしてないんですよね。ほら、パチュリーちゃんはなんだかんだでレミリアちゃんと一緒にいるじゃないですか。本さえあれば他は要らない、みたいな状況ではないですから」
「そう、ですか?」
 期待した通り、美鈴には無い見地の意見である。
「本好きにも色々ありますよ。例えば私が好きなのは、物語の本と、本にまつわるエピソードです」

 思い出が形として残るって……やっぱり、素敵なことですよ。
 だから私は、本が好きです。

 小悪魔は、彼女にしては珍しい物憂げな様子で、そう呟いた。
 美鈴は適当に聞き流す。
「すると、パチュリーお嬢さんは?」
「あの子は物語の本を読まないみたいでして……ディケンズの『クリスマス・キャロル』は絶対に名作だから読んで頂きたいんですけど……」
 さり気なくテーブルに置いても無視なんですよねぇ。
 と、肩を落とす小悪魔。
「本を情報の集積体としか思ってないんです。知識を得るためのツールって感じです。味気ないですよ。あれは本好きとは違います。知識を偏愛しているだけです。もちろん、ビブリオマニアと呼ばれる人種とも違います」
 いかにも悲しい、という風に。
 本の虫と言えば同じものと思っていたのだが、違うようだ。
「えっと、つまり……心配なくは、ないんですよね?」
「もちろん、健常ではありませんね」
 完全に本に没頭しているわけではない。しかし、だからと言って健常であるはずもない。
 このままでは研究に没入するあまり、衰弱して死んでしまうのではないかと、美鈴は本気で危惧している。
「貴方から見て、彼女の腕前はどうなんです?」
「頭の回転は、決して鈍重ではない程度。ただし、柔軟性に欠ける。知識はややあるようですが偏り気味。その上、普段使わない知識を思い浮かべるには時間が掛かる。実技の方も、学生の域を出ないでしょう。問題なのは凝り固まった自尊心。重症です。あとあれですね、勉強は量こなせば良いと思ってるタイプですね。総評としては、多少は物識りだけど頭が良くない、って感じです」
 ふざけているようでいて、しっかりと客観的な評価を下す小悪魔。
 対して美鈴は、困った風に頭を掻くばかり。魔法使いという異端を自称する者達の生き方は、普通を自負する美鈴からはあまりにも遠い位置にある。
「……私には、あの子のしている研究の意味はおろか、目的もよく分かっていないんです」
「万物の根源。唯一不変の真理。イリアステル。そんなところですよ。完全な物質であるところの賢者の石を精製することそれ自体が、知識欲の究極というわけです」
「はあ、つまり……よく分かんないですね」
「乱暴に言っちゃえば、単純な欲望なんですけどね」
 件のパチュリーが聞いたら憤死しそうな暴言である。
 生粋の魔法使い。彼女は知るためだけに生きて、それを良しとしている。その生き方に、美鈴は口を挟めない。なのだけれど、せめて、自己管理くらいはして欲しいと思うのだ。
「私はとにかく心配です。食事も摂らないで。仙人にでもなるつもりなんでしょうか」
「でしょうね。あの子の言う研究を完遂しようと思うのなら、人間の一生は短いですから。寿命への対策としては、未完成のエリクシールでも錬丹と同様の効果が見込めるでしょう」
「ああ。水銀を飲んだりとか、中国の皇帝もやっていましたっけね」
 錬丹術と言ったか。
「あははっ、あれって体に悪いですよね」
「笑いごとじゃないですよ。あの子は……大丈夫なんですか?」
「本人は独力で頑張るつもりみたいですけどね。あのままだと、そう遠くないうちに道半ばにして果てますね。そしてあの子は、そうなることすら本懐と言い放つ。ふふっ、愚かなことですよ。ま、させませんけどね。ちゃんと宿題を用意してあります」
 小悪魔は唇に微笑を湛え、ココアが沸騰しないように木べらでかき混ぜている。
「…………」

 つい先日のこと。
 パチュリーの気配の異常を感じ取って駆け付けた美鈴は、お腹を抱えて大笑いする小悪魔と、廊下で出くわしていた。
「あははははっ♪ うふふふふっ……♪」
 笑い転げているせいで逆さになったりしつつも、手にしたマグカップからは、なみなみと注がれたホットココアは一滴も零れることはない。
 この世に悪魔がいるのなら、それはこいつのことだろう。いや、元来の妖精とは、人をおちょくるのが大好きな存在だったか? いずれにしても、こいつは邪悪だ。
「あっ、美鈴さんだ。ふふ、そんなに怖い顔をしないでくださいよ~」
 普段と何も変わらない態度の美鈴に対して、小悪魔は怯えた風におどけて見せる。
「一応これでも、立ち直りが早い方向に挫折させたつもりなんですよ? いや、私だって普段はい~っぱい褒めて伸ばすんですけどね、でも、あの子は甘やかして伸びる子には見えませんから」
 あの時、小悪魔はそう言った。
 そして今も、再びココアを温めている。

 信用して、良いのだろうか?



「──Allumez」
 可憐な唇が呪文を紡いだ。
 もちろん小悪魔がわざわざ意識を変成させる必要は無い。だからこれは、作業の手順を口ずさむだけの独り言と同じ。
 小悪魔がイメージしているものはお菓子作りで、まずはオーブンの火を起こしたところ。いや別に、実際の工程にオーブンは使わないが。
「エーテルこと第五元素は熱せられた物質から立ち上る湯気に含まれている、というのが従来の錬金術の考え方です。その際の蒸留に用いられるのは、もっぱら卵でした。雛の孵る卵には、生物の根源的なプネウマが含まれている、と考えられていたようですね。ほら、雛が孵るまでの卵の内部での変化は、不思議に見えるでしょう?」
 小悪魔が手にしている物は、何の変哲も無い鶏卵。しいて言えば新鮮な有精卵。アンギヌムでもあれば良いのだけれど、それは少々、買い物に頼むにしては難題だったか。
「賢者の石に関しては様々な議論が交わされていて、決まった形はありません。だけどパチュリーちゃんの追い求めている物なら話は別。東洋思想への興味、錬金術から精霊を扱う魔法への転向を踏まえると、要するに、“一でありながら森羅万象を包含した物質”になるでしょうね。つまりミクロな世界卵です。こうやって殻の内側で撹拌してやれば、エーテルと他の元素が結合しますから……」
 説明しつつ小悪魔は、ホイッパーでも扱うように手首のスナップを利かせながら卵を振り続ける。
 そうして。およそ1分間後。
 中でコロコロと硬い物がぶつかる音がした。頃合いの合図だ。
「さて、でっきたかな~?」
 卵をコツンと適当な場所にぶつけて、殻を割る。
 ころんとまろび出たものは、生卵ではなく、透明に輝く結晶だった。
 数カラットはあろうという大粒の宝石。名門出身の秀才がやっとの思いで精製する、針の先よりも小さな欠片とはまさに雲泥の差。一生を費やして、それでも手は届くまいという完成度。
「後はこの石に焼き色を付けて、赤くなるまで冷やせば出来上がりです」
 意外と簡単な焼きメレンゲのレシピの話でもするように、小悪魔は締め括った。
 実際、小悪魔にとってはその程度のこと。コレの存在は魔法使いに対する冒涜とは、パチュリーもよく言ったものだ。
 卵から精製した全元素化合物質を指で摘まみ上げ、小悪魔は、それこそ悪魔のように意地悪く囁く。
「で、これは汎用性のある魔力源として使えるんですけどね。まあ、それだけのものですよ。パチュリーちゃんが生涯を賭して作ろうとしているものが、これです」
 もう一つ、卵を手に取る。
 ふと思い出して、美鈴に視線を送った。今は、賢者の石の一例など作っている場合ではない。
「ところで美鈴さん。そろそろ朝ごはんの支度を始めましょうか」
 レミリアもパチュリーもまともに食べるかどうかは分からない。でも、作ってあげるということは、大切であるはずだ。
「……あ、忘れてました」
 実はまだ考えていなかった、という顔の美鈴。
 ちょっと失念していたのは小悪魔も同じだった。
「お手伝いしますよ。それとですね、美鈴さんは早く道具の使い方を覚えてくださいね?」
 意地悪な小悪魔は、すぐに退場することになりますから。
 にこにこと言った後に、小悪魔はほとんど口を動かさずに囁いた。



 日光は嫌いだ。
 肌が弱いのか、すぐに赤くなってヒリヒリと痛む。真夏の強い日差しに晒された時には、体が蒸発してしまうんじゃないかと本気で思ったこともある。パチュリーに調べてもらったところによると、医学的にはメラニンを作る機能がどうとかで……紫外線によって肌の細胞がこうとかで……どうたらこうたら、らしい。いや、そういう問題じゃないだろう。
 ともあれ弱点が多いのも、吸血鬼が強大な種族であるが故。その吸血鬼が悩まされているのは、朝っぱらから目が覚めてしまったから。遅い朝食の後、特にやることのない無い日中を過ごすレミリアには、鬱憤が溜まっていた。
 それもこれも、夜に眠ると悪夢を見るせいだ。だったら、悪夢を見ずに済めば良いのである。
 困った時にはパチュリーだ。何か良い方法は無いものかと、レミリアは図書館を訪れたのだった。


「もうこんなのは嫌!」
 相変わらず薄暗い図書館に一歩入って、鼓膜を叩いたのは、今にも泣き出しそうな叫び声。
 聞き違えるはずもない、他ならないパチュリーの声に、レミリアは即座にパチュリーを探し始めた。迷路のように入り組んだ書架の隙間を、針で縫うように飛び回る。
 レミリアの意識は、完全に、臨戦態勢のそれに切り替わっている。日焼けのことなど意中から消えた。
 果たしてパチュリーの姿は、すぐに見付かった。怪我は無い。けれど、レミリアは声を掛けることを躊躇した。
 床に、崩れるようにしゃがんでいるパチュリー。打ち拉がれ、悄然と肩を下げた姿には、常の気迫は感じられなかったのだ。

「パチュリー様? 勝手に持ち出されては困るのですけれどね。それに、危険だと分からなかったんですか?」

 背の低い書架の上に座って、小悪魔がパチュリーに何か言っている。膝の上には、革張りの黒い本が一冊。錆びた鉄の留め金が重々しい。魔術書の類いであろう。
 しかし小悪魔のその努めて穏やかな口調は、一体どう表現すべきか。例えば、おままごとで遊ぶ子供が本物の包丁を持ち出したとしたら、小悪魔は慌てて取り上げて、それでも頭ごなしに怒ったりはせずに、諭すように叱るのだろうか。今、こうしているように。
「……いいえ、私が迂闊でしたね。自衛くらいはできるものと、貴方を買い被り過ぎていたようです。申し訳ありません。私が責任を持って鍵を掛けさせて頂きます。内容の危険度と解錠の難易度を比例させておきますので、以後、開くことのできない本がございましたら、それはその時点の貴方では触れるべきでない物と思って頂くよう、お願い致します。もちろん、入れない場所への立ち入りもご遠慮なさいませ」
 服の裾をぎゅっと握り締め、パチュリーは俯いたまま黙っている。やがて。
「……うるさい」
 今にも消え入りそうな、か細い声だった。
「へぇ、まだ言うんですね?」
 実に愉しげな、猫が鼠を観察する目付き。
「ねぇ、貴方ってどうしてそんなにおバカさんなんですかぁ~?」
 絡み付くような、甘ったるい猫撫で声。
 ビクッと肩を震わせたパチュリーに、小悪魔はあくまでも優しく、それでいて、からかいを込めて囁く。
 どう見ても小馬鹿にした態度。紛れも無い邪悪。
 そんな最中、小悪魔はふと、失笑気味に目を細める。
「……と言うかですね、なに選民思想を拗らせてるんですか、まったくもう。しかもそれは不当なものですし。愍然としちゃってる自分に、少しはお気付きになった方がよろしいかと」
「もうやめて! もうこれ以上、私達の魔法に遊び半分で近付かないで!」
 金切り声の絶叫が、図書館に響き渡った。突き刺さるような響きに、レミリアは身を竦ませる。
 それは、最も触れられたくない心の脆い部分をちくりとつつかれたことによる、痛切なまでの悲鳴だった。
 幻想を思い描く度、現実を直視する。魔法使いとは、不可能な問題に果敢に挑む生き方だ。パチュリーがどれだけ魔法の研究に情熱を注いでいるか、まだ長い付き合いではないが、レミリアは隣で見てきた。
 小悪魔の指摘はもっともかも知れない。だとしても、だ。レミリアの前で友人を侮辱することは許さない。
 文句を言おうとした、その時だ。
「やれやれ、強情なことで。それともお友達には、醜態を見せられませんか?」
 その言葉で初めて、パチュリーは弾かれたように顔を上げた。忙しなく首を巡らし、レミリアを見る。レミリアもまた、パチュリーを見た。

 確実に、見てはいけないものを、見てしまった。
 誇り高いパチュリーは、今の自分の姿を、見られたくはなかったに違いない。

 だが沈黙は一瞬だった。
 パチュリーは目尻を乱暴に袖で拭う。唇を噛み締めると、怯え切った瞳にも、強気な意思の光が戻った。
「何か用なの?」
 普段通りだ。
 声には、震えも残っているけれど。表情を取り繕えているとも、言えないけれど。
 普段通りの、陰気で面倒臭い、偏屈で意地っ張りなパチュリーだ。レミリアは嬉しくなった。
「なぁなぁパチェ~。聞いてくれよ。最近なんか寝付きが悪くてさ、何か良い方法教えてよ」
「部屋を暗くしてじっとしてなさい」
「それはやってるてば」
 うん、普段通りだ。
 レミリアの方も、駆け寄りたい気持ちを抑え、努めて平静を装いながらパチュリーの元へと歩いて近付いていく。
 小悪魔の隣を通り過ぎる折、自分でも酷薄だと思う口調で、言い放つ。
「これ以上やってみろ。許さんぞ?」
 軽く首を傾げる小悪魔。諌められたことなんて、何処吹く風だった。


◇◇◇

 結局、パチュリーは良い方法を教えてはくれなかった。
 枕元に置いたミルクも、翌朝にはコップごと誰かに片付けられていて、何の効果も無い。
 悪夢に魘される夜は続く。
 何度も、何度も、繰り返されてきた、同じ内容の悪夢。やはりレミリアは、墓石の前に立ち竦んでいる。
 自分と墓石の他には何も無い、荒涼とした墓地。
 世界は乳白色の濃い霞に包まれていて、辺りを見回しても動くものの姿は見当たらなかった。何もかも霞んで見える様は、意識のように稀薄だ。

 最近になって気付いたのだが、空には厚く垂れ込めた灰色の雲はなく、淡い星空が広がっていた。
 レミリアは妹から目を逸らし、星ばかり眺めている。
 空の星には手が届くはずもなく、渦を巻きながら棚引く薄い雲にさえ、こうして立ち尽くすレミリアには届くまい。
 無窮の夜天には、星雲のように密集した数え切れないほどの星々と、大きな月。
 茫としたその光は確かに眩しいのだけれど、眩し過ぎるということはなくて。夜空にヴェールを被せたように、目に見えるものはみな、月の光も星の光も薄ぼんやりとしていた。

「ねぇ、貴方はいつまで、こうしているの?」
「…………」
 昼間は空元気で過ごし、夜になると限界を迎えて眠る。そして朝、目を覚ます。
 辛くはなかった。当然の報いだ。本物の妹に責められるくらいなら、こうしている方がマシだ。
「いい加減、じれったいのだけど?」
 妹は墓石の前にしゃがんでいなかった。それ以前にその声が、妹のものではない。代わりに、知らない誰かが、墓石の……いいや、墓石と思っていたそれはそもそも人工物ではなく、自然に存在しているらしい一個の巨大な岩だった。人の背丈以上の大きさのその上には、紅い髪の少女が足を組んで腰掛けていた。
 何かおかしいとは思えども、朧気な意識では具体的な考えはまとまらない。なにせ、これは夢だ。この悪夢はレミリアの恐怖が形作った幻影だ。

 本当に、そうなのか?

「……貴方は、誰よ?」
 当たり前に誰何する、レミリア。
「夢魔みたいなものよ。面白そうな夢があったから観賞していたの」
 さらさらと流れるワインレッドの長髪、おとなびた容姿には、司書風の服装がよく馴染んでいた。薄く雲の掛かった淡い星空の下、吸い込まれそうに紅い瞳が、レミリアを見下ろしている。
 紅い少女だった。
「…………あ」
 その姿を見た瞬間、魂が抜け落ちるような溜め息と共に、全身から力が抜けた。
 ぞわ、と一斉に鳥肌の立つような美貌に、しばし、見惚れてしまう。目を、心を、奪われた。
 悪夢を見ているのは分かっていた。なのに、夢でも見ているのかと思ったほどだ。
「……お前、図書館にいた、あの小さい悪魔か?」
 我に返った……とは、言えないか。少なくとも一抹の正気と呼べなくもないものを取り戻したレミリアは、しかしまだ呆然としたまま呟いた。
 あちらの小悪魔が10才にも満たない幼い少女なら、こちらの紅い少女は、少女性と妖艶さを併せ持つ10代半ばの美貌。背格好ばかりか、髪の長さも髪の色も違うけれど、その顔に浮かぶ意地悪そうな微笑は同じだった。
「さあ? どうかしら? 今はそんなこと、どうでも良いと思わない?」
 適当にはぐらかした小悪魔は、くすくすと笑いながらレミリアを唆す。
「で、夢魔の存在を知った貴方はどうするの?」
 答えは、こうだ。
 レミリアは地面を蹴り、腕を振った。吸血鬼の爪の一撃。軽く擦過しただけも壊滅的な威力に余りある。まずはこれで驚かしてやるつもりだった。
「はぁ、そんなんじゃ全然ダメね」
 溜め息一つ。さらりと空間を渡って、レミリアの後ろに舞い降りる小悪魔。レミリアの爪の、その風圧は外れた。
「でも、そうね。そう来てくれないと、困るのよ。だけどもうちょっとだけ頑張って欲しいかなぁ。だからもっともっと、貴方を追い詰めることにしましょう」
 危うさを感じさせる囁きと共に、小悪魔は何も無い空中から、見慣れない赤い結晶を取り出して、
「──Allumez」
 燃え上がれと、詩うように口ずさんだ。
 指ではじかれて目線の高さ程まで飛ばされた結晶は、落ちることなく宙に漂ったまま燃焼を始め、その内部に炎を宿した。湯気のように立ち昇る魔力は、それこそ火を見るように、視覚的にも明らかだ。
 もう一つ続けて小悪魔は、六芒星をあしらった飾りナイフを、やはり何も無い空中から取り出した。まさか武器ではあるまい。魔女が儀式に臨む際に用いる、アセイミとかいう短剣だろう。
 どのみち、戦術を立てることは苦手だ。考えるより先に、喉元まで食らい付く。吸血鬼の加速はまさに颶風の勢い。
「ぶん殴ってやるわっ」
 芸も無く同じように跳んだレミリアに、今度の小悪魔は、避けることなく応じた。

 レミリアはパチュリーと組手の感覚で魔術戦をしたことがある。その経験から言えば、この間合いに入った時点でレミリアの勝ちで、そう易々とそこまで持ち込ませてもらえないのが、パチュリーの戦略だ。
 しかし小悪魔は違った。戦術も何もあったものではない。
 タクトのように振るわれたアセイミの切っ先が、空中に光の線を残し、『 | 』の文字を刻む。突如──
「!?」
 突進が止まった。
 単純な拘束ではなく、氷の中に閉じ込められたような感触。見れば、跳躍の衝撃で弾け跳んだ砂の粒に始まり、目に見える範囲で全ての物体の動きが凍り付いて静止している。それはまるで、時間が止まっているかのような光景だった。
 驚愕するレミリアに、小悪魔は更にアセイミを振るう。
「氷のルーンよ。そして次は、雹のルーン」
 雹。ハガラズ、だったかどうか。破滅や災厄の意味を併せ持つことを知らずとも、直感的に危機を感じ取れる不吉な響き。焦燥に駆られたレミリアが渾身の力でもがくと、拍子抜けするほど簡単に、氷のルーンと赤い結晶とが砕け散った。
 驚愕すべき魔法ではあったが、所詮は微弱な魔力から成っているに過ぎなかったのだ。レミリアにそんな打算があったわけではないにしろ、活路には事足りる。とにもかくにも小悪魔から離れるべく、咄嗟に大きく後ろに跳ぶ。
「……うーん、ちゃんと対処できるようになって欲しいかなぁ。時間停止と物体破壊、この二つは軽く返せないと、これから先やっていけないわよ?」
 ゆったりとした口調で呟きながら、小悪魔は二つ目の赤い結晶を取り出して、先と同じように火を入れた。
 レミリアに聞いている余裕は無かった。生唾を呑み込んで、慎重に小悪魔との距離を測る。

 吸血鬼は強大な種族であり、強大な種族であるが故の堕落や油断、慢心は、むしろ強者の美徳だとすら思っている。
 自分は強いのだから、思う存分、驕り高ぶるべきだ。

 歩いて十歩以上を、まずは安全圏と見なす。
 慎重に推し測った距離はそのまま、レミリアが自身に科した枷と、掲げる矜持の揺らいでいる証拠であった。
 感覚的には、美鈴に稽古をつけてもらった時のものに近い。
 単純に膂力や魔力の強さを比べるのであれば、圧倒的にレミリアの方が上だろう。にも関わらず、届かない、掠りもしない。美鈴は、強いと言うより巧いのだ。そして小悪魔の場合、強いとか弱いとか、そういう問題ですらない。力比べで勝負すれば勝つのはレミリアだとしても、そもそもレベルが違い過ぎて、最初からまともな勝負にはならない。やっていること、競う形式からして、違うのだから、同じ土俵で争える道理が無い。住む世界が違うとは、そういうことだ。

 いつかパチュリーが言っていたことを思い出す。
 魔法とは魔を律する法で、魔術とは魔を統べる術だ。純然たる“魔”そのものは、魔法でも魔術でも何でもない。
 小悪魔が僅かに見せた魔法の御業。あれは、レミリアの常識を超えていた。パチュリーの魔法と、小悪魔のそれとでは、全くの別物と考えるべきだろう。どう贔屓目に見積もっても、パチュリー相手に勝率4割弱のレミリアでは分が悪い。

 頭の片隅で冷静にそう思考しながらも、レミリアは全く別のことに思いを馳せていた。
 どうやって、あれを倒すか。

 答えが出るより先に、三度、レミリアは無策に飛び掛かっていた。
 当然、違う結果は導かれない。
「──Il y a une ondine」
 アセイミが北の方角を示して振り翳されて──
「──急々如律令」
 号令の文言と共に、振り下ろされる。
 瞬く間に、結露のように無数の水滴が空気中に浮かび上がった。
「!」
 レミリアは、その魔法を知っていた。最も身近で目にするその魔法を、知らないはずがない。
 錬金術を基礎に、陰陽五行説を取り入れてアレンジされた、精霊魔法。
 水の属性に導かれ、一点に集まる水滴は膜状に広がった。それは人間大のクラゲにも似た形を取って、広げた傘でレミリアを捕食しようとする。まるで最初からそう定められていたかのように、極めて自然に、何の抵抗にも遭わずに。レミリアのよく知るそれの、何十倍もの速さ。まさに律令のごとく疾く下知は促され、呪文が唱えられてから結果の出るまでに、ほとんど時間が掛かっていない。同種の魔法、だからこそ、技術の差が際立った。
 だが、傘の本体からリボン状に伸びて繰り出される水の鞭の、その動き自体なら、見切れないこともない。美鈴の蹴り技に比べれば脅威の程は格段に落ちた。身を翻して、すんでのところで躱す。
「…………」
 おかしい。
 先よりは、やや余裕を持ちつつも。宙返りしつつ地面に降り立ったレミリアの表情は、怪訝なものだった。

 赤い結晶の灯火が消えると、連動して水の精霊も細かい水滴に戻り、文字通り霧散した。すると小悪魔は、また次の赤い結晶を出して点火する。魔法の力を発揮するために触媒を用いるのは基本的なことだろう。けれど、ふとした違和感が脳裏をよぎる。
 魔力を供給していると思しきその赤い結晶は、本当に必要なのか?
 持ち前の魔力が足りていないとして、そこを、触媒を消費する形で補っている?
 そもそも小悪魔が使っているアセイミにしても、代用品のように思える。本来の得物は、また別の物だろう。

 要するに、魔法使いではない小悪魔が、魔法使いと同じような低い水準で魔法を使っていることがおかしいのだ。

「どうしたの? 考え事なら待ってあげるけど?」
 余裕そうに首を傾げる小悪魔は、あまりにも無防備で、挙動もやけにゆったりとしている。レミリアの警戒とは裏腹に、小悪魔にはレミリアと戦っているという意識が無いらしい。

 思えば最初から、小悪魔の意図が見えない。攻撃を誘導するよう焚き付けるその一方で、自分では、レミリアに危機感を抱かせるには十分に過ぎ、しかし決定的と言える攻撃をしていない。例えばルーンには、ソウェルの文字がある。松明の火を上回る灼熱に、太陽の象徴的意味まで加わるとなれば、吸血鬼には一溜まりもない。
 小悪魔がその気なら、抵抗もできないまま瞬殺されてもおかしくはないと、業腹ながらもレミリアには分析できていた。まるで反撃を待っているかのようで、それは少し違う。ただ単に反撃を待っているだけでは疑問が残る。だってレミリアは最初から、小悪魔を捻じ伏せようとしている。

 そもそも何故、レミリアは小悪魔と戦わされているのか。
 いや、勝負にはなっていない。こんなものはただの虐待だ。楽しいと言うのなら、納得するが。

「そろそろ本気になってくれないのかしらね?」
「……なんだって?」
 認めるのは癪だが、レミリアはこの上なく本気だった。
 全くと言っていいくらいに本気になっていないのは、断然に小悪魔の方だろう。
「本気で殺しにかかってきなさいって言ってるのよ」
 焦れったいなぁ、とでも言う風に、小悪魔。
「すぐに後悔させてやるよ」
 適当に相手をしながら、機を窺う。
 負けを認めるつもりはないが、仕切り直した方が無難だと、さしものレミリアにもそのくらいの判断は付いている。
「いや、後悔させるとか捻じ伏せるとか、そういうことじゃなくて……」
 律儀に話を聞いてやる必要は無い。
 小悪魔の視線がレミリアから外れた瞬間を狙って、レミリアは、後ろを向いて全力で飛び出した。

「……」
 異常には、すぐに気付いた。
 飛べども飛べども、霞は晴れない。景色も変わらない。いや、そもそも本当に進んでいるのかと疑い始めた頃、前方に紅い少女の姿があった。
「飛んで逃げられると思った?」
 たおやかに首を傾げる仕草は優美そのもので、彼女にレミリアを追って移動した様子は無い。レミリアの方が、真っ直ぐに飛んでいるつもりで、何がどうしてか元の位置に戻って来てしまったのだろう。空間がおかしなことにでもなっていたか。
 レミリアは翼を大きく広げて空気を掴み、地面を踵で削って急停止を試みるものの、最高速度に乗った吸血鬼の飛行はそうそう止まるものではない。慣性を飼い慣らし切れずに勢い余って地面を転がった。
「あら、丁度良い位置に頭があるわね」
 ふと気付いた風に呟くと、小悪魔は編み上げブーツのつま先で掬うようにして、レミリアの頤を力任せに蹴り上げる。大して強い力で蹴られたわけではないのに、当たり所が良かったせいもあるのか、またしても地面をごろごろと転がることとなる。
「こわわぁぁっ!?」
 悲鳴をあげたのは何故か小悪魔の方だった。予想以上に吹っ飛んだらしい。
「あっ、あぅ、えっと、痛くなかった? ご、ごめんね? ちょっと加減の仕方が分からなかったのよ、こういう荒っぽいのって昔から苦手で……」
 レミリアは固く瞼を閉じて、鼻を抑える。目頭の奥の方が熱くなって、鼻血が溢れて来た……でも、レミリアは強い子だから泣かない。鼻血だって、これくらいならすぐに止まる。気丈に睨み返すレミリアを確認すると、小悪魔は安堵した様子で胸を撫で下ろした。
「……」
 言葉も無いレミリア。
 完全に、意味の一貫していない行動だった。
 こいつは何がしたいんだ?
 その疑問は、少しずれている。正しくは、こう問うべきだ。
「……貴方は、私に何を期待しているの?」
「何って、面白く足掻いてくれることよ?」
 嘘だ。直感的にそう思った。
 小悪魔はレミリアを追い詰めているようだった。いつでも無力化できるのに、そうしない。手加減を誤った際には、慌てふためく姿すら見せた。加えて、小悪魔を倒すと、そこまでしか考えていないレミリアに対しては、わざわざ分かり易い形で戦力差を示して危機感を煽り、殺しにかかってきなさいと告げた。

 ああ、そういうことか。なんのことはない。そのままだ。

「つまり貴方は、殺されたいってわけね?」
 ほんの一瞬、小悪魔は唇を噛み締めた……ようにも見えた。レミリアの気のせいだったかも知れない。
 余計な思考に囚われながらもレミリアは、僅かに動揺した小悪魔の、大きな隙を見逃さなかった。
 鋭い爪が空気を切り裂いた。しかし喉に触れる寸前で、怪力の爪は止まる。
 ただし、止められたわけではない。レミリア自身の意志によるものだった。
「分かっているのかしら? いつ私の気が変わるとも知れないのよ?」
 小悪魔の言う通りだ。今この瞬間にトドメを刺さなければ、次は無いかも知れない。
 殺さなければ殺される。そのシンプルな事実を、レミリアも、ともすれば美鈴との過酷な旅を経て来たレミリアの方が、身に染みて、よく理解している。
「そもそも、貴方が私を殺すのを躊躇する理由は無いはずよ?」
「……あっ」
 つい、声が出た。言われてみれば、その通りだ。
 小悪魔の喉に爪を突き立てた半端な体勢のまま、レミリアは止まった。今の恰好も含めて、滑稽な状態だった。いったい何をやっているのだか。早く、殺してしまえば良いのに。自分でもそう思う。が、実行に移そうという気分にはならない。
 短くない時間が過ぎる。小悪魔の唇が時間と共に徐々に歪んでいく。思い直した風にふっと息を吐き出して、小悪魔はおもむろに口を開いた。
「本が好きよ。物語が好き。悲劇も喜劇も惨劇も、全部笑って見ていられるけれど……私は、ハッピーエンドの童話が好き」
「何の話よ?」
 怪訝に、レミリアは眉を顰める。
「私って、かなり悪いことしてるのよ? だからほら、貴方はわるい怪物をやっつけて、お友達を、お姫様を助ければ良いの。分かるでしょう?」
 そう言って、小悪魔は笑った。吹っ切れたような笑いだった。
 お友達。
 レミリアとて、パチュリーを笑う小悪魔の姿を忘れたわけではない。
 はっきり言って、こいつは悪魔だ。レミリアは率直にそう思う。正しい意味での悪魔ではなく、比喩的な意味でのそれだ。歪んだ状況を見て珈琲を一口含み、泣いている子がいればその姿を見て微笑む、そんな姿もありありと想像できた。どう考えても、かなりひどい性格をしている。
 無論、パチュリーを侮辱するのは許せない。でも、それとは別に、思う所もあったのだ。
「意地悪な悪魔を退治して、めでたしめでたし」
 童話を朗読するように優しい声音で、小悪魔は囁いた。
 普通はそうなのかも知れない。しかし怪物の立ち位置にいるレミリアは、悪とされるものを排して、それを高らかに善と言いたくはなかった。
 確かに小悪魔は、パチュリーを小馬鹿にした言動を繰り返していた。見下ろしていた。からかっていた。甘い毒の滲む言葉を投げ掛けた。
 だけど決して、嘲ることだけはしなかった。
 外道ではあったが、下衆ではなかった。
 それはどうでもいい違いのようではあるけれど、とても大きな違いのように、レミリアには思えるのだった。
「ほら、ハッピーエンドはすぐそこよ?」
 何故、そんなことを言うのか。
 恐らくこの紅い少女は、ルーンや錬金術のみならず、他の魔法までもを“嗜み程度”に扱う。しかし一方で、触媒が無ければ魔法を使えないようでもある。その夜色の羽は、ズタズタに引き裂かれたボロ布のような有様になっていた。
 ふと、レミリアは思い至る。
 もしかして彼女は、レミリアの想定以上に無理をしている状態ではないのか?
「んー、そういう細かいところは気付かないと思ってたんだけど。まあ、そうよ。あとついでに魔力片も、さっきので使い切ったわ、元々そんなに用意してなかったの。良かったわね、今なら簡単に仕留められるわよ?」
 あたかも祝福するかのように、澄んだ瞳で微笑む。
「私は限りなく無力な、弱々しい夢魔よ。そもそも魔力片を用意したって、あんな小さなものだと、できることは限られるのよね」
「……」
 そんなわけあるか。冗談はやめろ。
 とは、言えなかった。破れた羽を直視してしまったせいだ。
「もう消えるしかないの。でもやっぱり、消えるのは嫌。私は、殺されていなくなりたい」
 そして小悪魔はようやく、そう吐露した。
「ね? 全部が丸く収まるでしょ?」

 ああ、なるほど。よく分からんが、そうなんだろう。
 レミリアは適当に納得して、首を横に振った。

 それでハッピーエンドだなんて、認められるか。
 理屈の正しさなんて、知ったことか。

 否定の言葉を叩き付けてやろうと思った。
 そのつもりで口を開きかけた瞬間には、小悪魔の笑みの質が、冷たいものに変わっていた。
「もしかして、苛め方が足りなかったのかな?」
 二の腕に冷たい感触が滑り込んだ。血が噴き出し、抉られた傷口が熱を発する。なんのことはない、ただ短剣が突き刺さっただけだ。傷も浅い、すぐに治癒する。
 しかし、
「──Allumez」
 血が凍るような囁き。
 痛みより熱さより先に、背筋が震えた。
 的中した悪寒は、灼熱に塗り潰される。血液が燃え上がったのだ。炎は、油に引火するようにして血管の内側を凄まじい速度で駆け巡り、炎に巻かれる藁束も同然に、レミリアの身体を内側から焼き焦がした。
 血管内を循環する火焔。その感覚は、痛い、熱い、などというものではなかった。目の前は火焔の渦に呑み込まれていて何も見えないが、それ以前に焼け爛れた瞼が開いていない。鼓膜も爛れているくせに、こちらは耳の外と内の両方で、茫々と燃え盛る炎の音が聴こえる。皮膚の感覚はあろうはずもなく、ただ、体中の血管という血管、神経という神経を、千を超える無数の棘で串刺しにされるような痛覚の限界を超えた真っ白な感覚があるばかりだった。
 これはウィッカーマンだ。
 頭の何処か遠くの方で、そう認識した。荊で編み上げた人型に生贄を詰め込んで、生きたまた焼くという、あれだ。
 あまりのことに喘ぎ声すら出ない。痛みが理由で流れ出るものとは明らかに種類の異なる、生理的で粘ついた涙が、頬を濡らした。
 やがて、濡れた頬に知る。気付けば炎は消え去っている。全ては一瞬のことだった。しかし、レミリアの心を折るには十分どころか過剰極まりない火力。
 時間をおいて最低限の機能が回復した後も、レミリアは倒れ伏したままで、動けない。
「血脂……吸血鬼の貴方も知っての通り、血は、生命力の源泉よね。串刺しにして。燃やして。ケルトの魔法の神髄は、精気の活用」
 ひどく沈鬱な声で、小悪魔は淡々と呟いた。
 普段の楽しげにしている様子が全て嘘であったかのように、その面持ちは荒んでいる。常にからかいと優しさを注いでいた眼差しは何処にもなくて、無感情に細められた目は、冷やかにレミリアを見下ろしていた。
「ま、今のなんて本当の意味でのケルトの魔法ではないのだけれどね」
 確かに、スペルはフランス語だった。真正の古代ケルトの秘儀であれば、ケルトの言語を使うに決まっていよう。
「でも、ひどいわ。こんな魔法、二度と使いたくなかったのに。血腥くなるから嫌なのよ」
 と、勝手なことを。
 酷いのも惨いのも、どっちだ。
 一方的に甚振られて丸焼きにされるなんて経験、そうそうできるものではない。レミリアが何か悪さを働いたというならともかく、あまりにも理不尽だった。なんてひどい状況だ。本当は泣き出してしまいたかったし、そもそも涙なら勝手に零れていた。痛みと痛みによる疲労で、もう指一本だって動かせない。
 それに正直に白状すれば、怖いのだ。動物的な本能が、過去最大の強さで警鐘を叩いている。コレは、ダメだ。本能がそう認識した。勝てるわけがない。それどころか、争ってどうこうしようとかいう発想を持つことからしておかしい存在だ。朝になったら美鈴に助けてと訴えよう、それしかない。

「まあ、いいわ。早く私を殺して。ね?」
 脅迫と言うよりは、哀願に近い。
 消えるのは嫌。私は、殺されていなくなりたい。
 小悪魔が零した呟きは、まだレミリアの脳裏に残響していた。
「…………嫌だ」
 叩き付ける予定だった我が儘が、ぽつりと、力なく零れる。
 自分に選択肢が無いことは理解している。
 それでいて、どうしても小悪魔を殺したくない理由は自覚していない。
 夢魔を退ければ、必要以上の悪夢に魘されることもなくなるかも知れない。小悪魔がいなくなることは、レミリアにとっては利益になる。だったらとりあえず常識的に考えて、小悪魔を殺してしまうことは圧倒的に正しい。気に入らないものを短絡的に暴力で取り除くことも、怪物の思考としては妥当で、正しいと言える。
 そう、正しいのだ。
「んー、嫌? へぇ、そういうこと言うんだ」
 レミリアを笑う声と、その無表情が一致していない。何処か歯車が外れたような調子で、小悪魔は首を傾げる。
「吸血鬼って弱いわよね。だって死体に羽が生えただけだもの。人気者にはなったけど、雑誌を賑わせるのに丁度良い娯楽でしかないわ。貴方は、調子に乗っているだけよ? 貴方が本当の意味で恐れられていたのは、もう今は過去のこと、貴方達が生まれた、数百年前のことよ?」
 小悪魔は悪びれもせずに、吸血鬼を弱いと言い切った。
 今、否定の材料は無い。
「……」
 ああ、そうだとも。
 頭の片端の方で、冷淡に頷くレミリアがいた。
「西暦の始まり頃から徐々にそうだったけれど、致命的な転機は産業革命。それ以後、近代文明の発展に伴って、幻想の住民は力を弱めていった。これは貴方も知ってるわね?」
「そうね。知ってるわ」
 科学の光は神秘の闇を照らした。
 時代の変化に伴って、人間の意識の在り様も変化していった。
 そして、森林が伐採されるように、獣が乱獲されるように、それらと同じように居場所を失った怪物達は、急速に力を失って、その数を減らしていった。思えば、妖精が姿を消したのも、その頃だったか。

 そんな時代の中でも跋扈している吸血鬼とは何だ? 真に強大な怪物の王か?

 レミリアはよく知っている。
 吸血鬼なんてのは、人間におだてられているだけの敗残者の群れだ。
 ちやほやされながら恐れられて、良い気分にでもなっていたか?
「あらら、可哀そうに」
 哀れむように目を細める小悪魔。
 彼女らしくない表情だと、レミリアは少しだけ思った。
「……まあ、貴方のことばかり言えないのだけれどね。私も、堕ちるところまで堕ちたわ。神秘は、もう本の中にしか存在していないの。神々は失墜し、妖精は消え去り、悪魔の居場所もなくなっていく。それが運命なのなら、ええ、従いましょう。もう私に恋をするヒトは、どこにもいないのだもの」
 泣きたいのはレミリアの方なのに、何故だか、そう呟いた小悪魔の目が、寂しくて泣き出す寸前の少女のように、あるいは鬼哭啾啾と泣き腫らしたバンシーの目のように、見えてしまった。
「誰にも読まれない絵本ほど、寂しいものはないわ」
 そう言えば、レミリアが訪れた時、この館は。

 とても寂しい、廃墟だった。

「さて、そろそろ終わりにしましょうか。そんなに何回も質問しないわよ? 私を殺すの? 私に殺されるの?」
 今なら、その懇願の意味が分かるだろう。

 もう消えるしかないの。でもやっぱり、消えるのは嫌。私は、殺されていなくなりたい。
 本が好きよ。物語が好き。悲劇も喜劇も惨劇も、全部笑って見ていられるけれど……私は、ハッピーエンドの童話が好きよ。
 意地悪な悪魔を退治して、めでたしめでたし。

 懇願の意味なんて、分かりたくなかった。レミリアはもう一度、強く思う。
 それでハッピーエンドだなんて、認めてたまるか。
「……ここまでされて、ここまで言われて、まだ分からないの? 痛かったわよね? 自分の無力も理解したわよね? なのに貴方は、何に抗っているの?」
 小悪魔は自嘲気味に唇を歪める。
「ねぇ、私のことが嫌いでしょう? けっこうこっぴどくやっちゃったような自覚もあるのだけれど?」

 嫌い?
 そうだ。好きか嫌いかで考えれば簡単だったのだ。

 事ここに至って、レミリアはようやく、自分が小悪魔の要求を拒む理由を自覚した。沸々と、苛立ちに近い感情が腹の底から沸き上がってくる。
 拳を握って、力の限りに土の地面に叩き下ろす。
「ああそうだよ嫌いだよ!! なんでそんな顔で笑うんだ!!」
「?」
「貴方は私が見た中で、一番の怪物なのに!」
 レミリアは、衝動のままに叫んだ。
「怪物ってのは、自由で横暴で、悪いやつなのよ! 好き勝手にやって、それで良いの!」
 泣きじゃくりながら訴える。つまり何が言いたいのかとか、結論が何処に落ちるのかも分からないまま、頭で整理する余裕も無く、腹の底から、ありったけの絶叫をぶちまける。
「ねぇ、怪物って傲慢なものでしょうっ!? 好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、行動原理なんてそれだけで、難しいことなんて考えないで、やりたいようにやるものでしょうっ!? なのにっ、どうして貴方はそんな顔をするのっ!?」
「……う、うん? 急にどしたー?」
 小悪魔は、きょとんとしていた。その反応も当然だろう。レミリア自身も、自分が何をやっているのかよく分かっていない。
「言っておくけどね、私は貴方を殺しもしないし、助けもしないわよ」
 滅茶苦茶なことを言っている自覚はある。理屈に合わないのも承知している。憐れんだやるつもりだって、微塵もありはしない。どうして私がこんなことを、そう自問しながら、一時の激情がその問い掛けを下らないと一蹴する。

 爪で地面を掻き毟って体を起こす。土臭い足掻きすら、満身創痍のレミリアにとっては大儀だった。やっとの思いで立ち上がったところで、それが何だと言うのだろう。小悪魔は、レミリアには何の脅威も感じていないきょとんとした顔のまま、怯える小鹿のように足を震わせるレミリアを見守っていた。
 そう、それで良い。その、圧倒的な上から目線が良い。
「貴方は、ひどいやつだわ」
 普通の世界は残酷で、冷たくて、怪物の居場所なんて無いんだと、レミリアはそう思っていた。
 けれど、この古びた館には、紅い少女がいた。紅い少女は怪物だった。

 もう認めるより他にない。簡単にあしらわれてる内に、レミリアは紅い少女のことを、無敵の存在か何かだと思うようになっていた。

 紅い少女はいつだって嫣然と微笑みながら、吸い込まれそうに深いワインレッドの瞳で、レミリアのことを見下ろしていた。
 外道で。でも、優しくて。
 まるで歯が立たないくらい、別世界の存在で。
 そして、とても綺麗だった。

 今にも崩れ落ちそうな体を前に進めて、その、理想の怪物に限りなく近い少女に、焦がれるように手を伸ばす。
 一歩、歩みを進めるその度に、傷口が開いて、痛みが再発した。荒い呼吸を繰り返すことは鞴を踏むような大変な作業で、しかしその実、吐く息も絶え絶えといった有様である。出鱈目に心臓が脈打てば、体のあちこちから血が噴き出した。
「貴方はひどいやつなんだから、怪物らしく笑ってなきゃいけないのよ!」
 それは、どうしようもないレミリアの我がままだった。
 強者とは時に美しい。その理屈に則るのなら、レミリアがその生涯を通して知る限り、最も綺麗なこの少女が、最強でないはずがない。一番に綺麗なんだから、一番に強いに決まっている。
 だから腹が立ったのだ。レミリアよりも怪物のくせに、なんで弱気な顔をしやがるのか。それがひどく気に入らない。ほとんど駄々っ子のような言い分だった。
 もしかしたら見当違いなことを言っているのかも知れない。この紅い少女はたかだか怪物の枠組みには収まらないのかも知れない。それでも、レミリアは無茶苦茶な言葉を続けた。

 腹が立ったのも事実だ。でも、本当にそれだけ、だろうか。
 泣き出す寸前のような小悪魔の顔。
 ほんの一瞬しか見えなかったのに、少し思い出しただけでも、胸が締め付けられるように痛む。

「貴方のあんな顔なんて、見たくない……」
 ──ずっと、私が見惚れたあの顔のままで、笑っていて欲しい。

「えっ……?」
 言葉の続きが聞こえたかどうか。紅い少女は、可愛らしく小首を傾げることも忘れ、表情を固めたまま驚いていた。頽れるレミリアに慌てて手を伸ばして、その小さな体を抱き止める。
 捕まえた。
 もう本当に限界だった。けれどレミリアは、紅い少女の腰に腕を回して、ブラウスの裾をぎゅっと強く握り締めた。真っ白なブラウスには皺が寄った上に、べっとりと血で汚れる。構うことなく、レミリアは紅い少女を掻き抱くように捕まえたまま、決してその手を離そうとはしなかった。

 夢のように儚く消えてしまわないように。どこにも行ってしまわないように。

「……ねぇ、それって……そんな言い方って……まるで私に……」
 その呟きは、レミリアにはもう聞こえていない。
 紅い少女は、少し呆れた風に、少し困った風にも見える微苦笑で、意識を失っても手を離さないレミリアの頭に、そっと手を置いた。


◇◇◇

 そして、一夜が明ける。

「Bonjour, ma petite. Tu as bien dormi?」
「……ん?」
 透き通っていて、詩声にも聴こえるような、綺麗な声だった。
 何語だ。フランス語か。日常会話くらいなら余裕でいける。ボンジュールでしょ? えーと……?
「おはよう、レミリア。よく眠れたかしら?」
 そう、それ。
 レミリアが目を擦りながら身動ぎすると、ブランケットがずり落ちた。自分が寝ていたことだけを、とりあえず把握する。いや、小悪魔の挨拶は白々しいにも程があったのだけれど。まずレミリアは状況に疑問を持つ。
「……なんで貴方が私の部屋にいるのよ?」
「いたら悪い? それと、ここは図書館よ」
 言われてみれば、古書に特有のあの臭いが鼻についた。気のせいか、普段よりも濃いようだ。噎せ返るほどの臭いは、長い年月をかけて染み付いたようで、レミリアは少し苦手に感じた。鼻を押さえながら、もう一度辺りを見回してみると、四方の壁の全てが書架に侵略されている。
 申し訳程度の隙間に、ちょこんと埋もれるようにして、小さな扉があった。図書館の中でも狭い部屋らしいけれど、丸テーブルと椅子や、仮眠用の毛布まで用意されていて、足場もあるかどうかという有様だ。司書用の部屋だろうか。
 それにしても凄まじい空間だった。
 普段レミリア達が立ち入っている場所は、機能的に整理整頓されて本の背表紙が並んでいるのだけれど、この部屋の書架は、版の大きさも厚さも別々の本が、ほんの僅かな空間も逃すまいと、棚板の隙間に横向きに差し込んでみたりと、なんかもうちょっとしたパズル状態になるまで、ぎっしりと収納されている。そのくせ全部の本を収納できているわけでは断じてないので、溢れ返った本は当然のように平積みになっていた。書架の上の方の本を取るための物だろうに、小型の脚立まで、本棚代わりにされている。
「……別に良いのよ。どうせ、私達以外は誰も入らない部屋だもの」
 非常に言い訳がましい言葉だった。
 思う所があるから、小悪魔も目を逸らしているのだろう。整理されずに手付かずになっているこの部屋は、どう考えても他人を招く場所ではない……と、その印象の違和感を覚えつつ、レミリアは眠気を振り払うように、重い頭を振った。
 体を起こそうとして、それが難しいことに気付いた。異様なまでの疲労感が、全身を石のように重くしている。生気をごっそりと吸われたら、こんな風になるかも知れない。
 キョロキョロと辺りを見回すレミリアが、無事に目を覚ましたこと、何も覚えていない様子なことに、小悪魔が胸を撫で下ろしていたりするのだけれど、残念ながらレミリアは見ていない。
 ところで、
 訊きたいことは山ほどあった。
 まず、レミリアは図書館で眠った覚えは無いだとか。
 あと、何だか知らないけれど、小悪魔の容姿がおとなびている。髪が長くなっていて、髪の色も、ロゼワインの淡いピンク色ではなく、艶やかなワインレッドに変わっていた。
 儚く透き通った姿も、やや影の濃さを増しているように思えた。
 しかし質問を一つに絞るのであれば、まずはこれだろう。
「何故、タメ口?」
「だってレミリアだし?」
「……」
 聞き間違いだろうか。
「何故、タメ口?」
「だってレミリアだし? そう言ったわ。聞き間違いじゃないわよ」
 どうやら、そのようだ。
「じゃあ、私からも質問ね」
 小悪魔はレミリアのすぐ隣に座って、顔を覗き込んだ。反射的に身を引いて、それでもさらさらと零れた髪が、鼻先をくすぐった。本と同じ匂いが薫る、とてつもなく甘い匂い。
 めっちゃいいにおいするしっ!
 まつげながいしっ!
 そんなことに驚きながら、思わずドキリとするレミリア。
 起き抜けから興奮醒めやらないレミリアに、小悪魔はシンプルな質問をする。
「ねぇ、どうしてこの館に来たの?」
「……いや、どうしてって言われても」
 元々この館は、広げた地図の上にいくつか候補があって、その中から、レミリアが直感で決めたものだ。
 どうしてだか知らないけれど、あの時、絶対にここが良いと思ったのだ。それだけだ。勘、としか言いようがない。
「……そう、貴方らしいわね」
 まだ何も答えていないのに、思考を読んだように小悪魔は言った。
 そして、静かに目を伏せる。こんな時、レミリアはどうしたら良いのか分からない。手持ち無沙汰になって、つい、目を逸らしてしまう。間近に見る年上の少女の貌は、レミリアには少し刺激が強過ぎた。

「昔、私にも妹がいたの」
 ふと静けさの落ちた部屋に、小悪魔は囁きを零す。
「けなげで、家庭的で、とっても泣き虫な子」
「……」
「もう長い間、会ってないわ」
「それが」
 それが何よ。そう言おうと思った。けれど、言えなかった。
「貴方にも妹がいるわね?」
「!」
「フランドール」
「貴方ッ、なんでそれを!」
 その名前に、レミリアは尋常ではない反応をした。小悪魔はレミリアの唇に指を当てて、行動も言葉も、いとも簡単に遮る。
「貴方が安心して住めるお家を探していたのは、可愛い妹のためでしょう? 良かったわね。ここが、そうよ。本当は、ちゃんと悪夢を克服して、そうしたら、後はこの館も好きにすれば良い。そう思っていたのだけれど、貴方のせいで、そんな結末にはならなかったわね。こうなることも、見ようと思えば見えて……だからわざと見ないようにして……でもきっと貴方は、私の見たものとは少し違う未来を選び抜いたのだと思うわ」
「……」
 不思議な呪縛を掛けられたこととは全く別の理由で、レミリアは何も言えなかった。
 だって今更、会いに行けるはずがない。
「ふふ、嫌われてるかもね」
 楽しげに、小悪魔。
 冗談ではない。レミリアは妹に嫌われたら生きてはいけない。
「別に良いじゃない。意地を張ったり、拗ねてる子も可愛いわよ?」
「でも」
 でも、などと、しぼんだ声で。
 普段の大胆不敵は何処へやら。
「それじゃあ……お姉ちゃんが、元気の出るおまじないをしてあげる」
 微笑んで、小悪魔はレミリアの手を取った。
 手の甲に、柔らかい唇が微かに触れる。
「ひゃっ!」
 トクン、と心臓が跳ね上がった。
 いや、驚いたとかそういうことではなく、本当に貧血が回復して、体温が一気に上がったような感覚だった。もちろん、びっくりはしたのだけれど。
「貴方が妹を大切に思ってることは、私がちゃんと知ってるわ」
 確信に満ちた断言。
 勇気よりも、確かな支えとなる言葉。
「がんばってよね?」
 長い髪とスカートを翻し、小さな扉から出て行く小悪魔の姿を、口を開けたまま見送って、レミリアはそれからしばらくの間、我を忘れてほうけていたのだった。



 結論から言えば、覚悟していたような一悶着は起こらない。
 最愛の眠り姫は館の地下にある一番上等な部屋に寝かせることになって、目を覚ますのは、もう少し先のこと。
 妹が、レミリアに、何を言うのか。
 その恐怖は今もなお続いている。いくらなんでも遅過ぎだろう。良い顔はされないに決まっている。けれどそれは仕方ない。甘んじて非難されよう。百回くらいなら殺されたって構わない。そう考えられる程度には、レミリアは腹を据えた。

 それにしても、何かとてつもなく理不尽でひどい目に遭ったような覚えが、頭の片端に引っ掛かっている。けれど、レミリアは妙に清々しい気分だった。
 勝てっこない相手に立ち向かって、散々な目に遭わされもしたが、確かに何かを勝ち取った。無様な上に土臭かろうが泥臭かろうが知ったことか。よく覚えてないけれど、レミリアはやったのだ。悪童が膝小僧の擦り傷を自慢するのと同じように、その瘡蓋さえも、レミリアにとっては勲章となった。

 夢に見た景色は、夢がみなそうであるように、日々を過ごす内に掠れていく。紅い少女のことは、もう顔も思い出せない。たとえそれでも、あの、世にも綺麗な紅色だけは、魂に焼き付いたまま、一生、忘れることなんてできないのだろう。

 逃避行にも似た、旅立ちの日の夜を、覚えている。
 だが、もう既に。ずっと後ろを追い掛けられていたような気がしていたあの満月は、振り返っても、何処にも見えはしなかった。レミリアが心に描く月は、艶やかなワインレッドに染まっている。

 旅立ちの夜の終わり。
 レミリア・スカーレットの、始まりの朝だった。


◇◇◇ 6章

 長い廊下の片側には、剣のような形をした縦に細長い窓が狭い間隔で並んでいて、窓から射した光は、紅い絨毯に縞模様の陰影を描いている。フランは意味も無く姉の真似をして、影の部分だけを跳んで渡りながら廊下を歩く。
 紅魔館は、巨大と言う程ではないしても、子供の足で練り歩こうと思えば、やはりそれなりの時間は掛かるもので。館を一周する頃には、だいぶ時間が過ぎていた。場所は再び、大広間。

「この館と一緒に滅んでいこうって、私は、そう思っていたんです」
 しかし、そうはならなかった。
 小悪魔はここにいる。
 廊下ではメイド服を着た妖精たちがはしゃいでいる。美鈴が手入れをしている自家庭園の野菜も、緑を生い茂らす季節が近付いている。絨毯には、埃一つ積もっていない。
「全部、あの子のせいです」
 落ち着いた声で語る小悪魔を、フランは、どういう気持ちになって良いか分からないまま見上げている。
 でも、小悪魔の言う通り、この館の住人達を引き合わせたのは、あの姉の生き方だったのだろう。
 普通の人間。
 生粋の魔法使い。
 よくもまあ、面倒な縁を実らせたものだと呆れてしまう。女運がどうかしているとしか思えない。
 レミリア・スカーレットさえいなければ、皆がそれぞれの末路を迎えていたことだろうに。傍迷惑な引力が、あの姉にはあったのだ。

 そして小悪魔もまた、レミリアのせいで、まだ、ここにいる。
 小悪魔から何を聞くまでもなく、小悪魔のいる紅魔館が答えだった。

 滅びるつもりだったと言う小悪魔に、あのバカ姉は、いったいどんな途方もないことをやらかしたんだか。もしかしなくても、当のレミリアも自覚が足りていないかも知れない。


 大広間の扉は、少しだけ開いていた。両開きの重い扉は、立て付けを直して以降、蝶番の軋む音もしなくなったし、開閉もなめらかに滑るようだ。隙間に手を掛けて、中の様子を窺ってみる。

 今日の一日ずっと話題の中心にいたレミリアは、一番奥の椅子に、どっかりと座っている。妹からの容赦無い身内目線で言わせてもらえば、領主と言うより、お誕生日席でご満悦のお子様という印象が拭えない。

 私がこんなに悩んでいることなんて何も知らない、って顔。自分だって色々あっただろうに、そんなことはぜんぶ忘れた、って顔。はっきり言ってアホ面。
 ……と言うか、あれは一人で何をしているの?

 少し観察していると、レミリアはおもむろに謎のポーズを取って「フンッ」と満足した風に頷いた。
「ふふっ」
「……えぇ……うわぁ」
 小悪魔は笑っているけれど、フランは言葉を失った。笑い事じゃない。残念なことに、あのアホはフランと血の繋がった実の姉なのだ。

 ……優雅ごっこ? 見たくなかったよ、あんな姉の姿。

「そう言えば、その昔、私にも姉がいたんですよ。まあ、私もどっちかって言うと、奔放で、毎日ノリで生きてる感じの姉さんのことは好きじゃなかったんですけどね。それに昔の私は、今よりちょこっとだけ怒りっぽかったですから、姉妹喧嘩もよくしましたっけ」
 しんみりした話題、だったかも知れない。しかし小悪魔は軽い調子で言った。
「……何か、未練でもあったの?」
「いいえ、全然。姉さんのことなんて知りません。どうせ勝手にやってますよ。会っても喧嘩になるだけですからね、むしろ会いたくないくらいです」
 口を尖らせて文句を言ってはいても、思い出すことからして久し振りであるかのように、ひどく懐かしんでいる風だった。
 ワインレッドの髪をくるくると指に巻き付けて、物憂げな表情。
「私の姉の話を持ち出して、だからフラン様は後悔の無いように……とか、そんな脈絡の繋がってないことを言うつもりはないですよ。貴方と私は違います」
「分かってるわよ」
 小悪魔は、そんなことを言わないだろう。
「ええ、それなら結構です。フラン様には言うまでもなかったですね。私が言いたかったのは、別のことです」
「姉妹の話?」
「はい。フラン様がフラン様のお姉様をどう思っているのか、それは」
 フランにしか、分からない。
 普通なら、そんなことを言っていただろう。
 でも、紅魔館にいるのは小悪魔だから、
「私がちゃんと知っています」
 彼女でないと言えないことを言うのだった。
 内実の伴わない無意味な慰めではなく、高次の存在による保証。
 じっと見つめるフランの前で、紅い少女は、女神のように微笑む。
「フランドールは、レミリアのことを、大好きな姉と思っていますよ」
「……」
「バカで間抜けでデリカシーの無い、最高な私のお姉様。そうでしょう?」
 やっぱり、何でも見透かしたような小悪魔の瞳と微笑は、少し苦手なフランだった。

「ほら、フラン様♪」

 とん、と。軽く背中を押された。



 ふわ、と。体が浮かんだ。
 ヴェールのようなものに包まれた、もとい、捕まった、か。
 浮遊感とは似ているようでいて、少し違う。浮いているのか沈んでいるのかも分からない、上下左右の概念も無い別の位相へと連れ去られた。
「うわっ!?」
「……!」
 気付いた時には、フランの目の前には姉の顔がある。似ている、でも、表情が違う。大袈裟に驚いたレミリアと、微かに表情を強張らせただけのフラン。性格の違いでもあるけれど、魔法への理解の差からも来ている。何が起こったのか、フランには一応の知識があった。
 今の魔法は、小悪魔が日常的に使っている転移魔法だった。理屈としては、物質界とは別の空間、異界や夢の世界と呼ばれる、ある種の精神世界、小悪魔の得意な領域へと拉致し、そしてすぐにまたこちら側に戻すことで、結果的に瞬間移動になっているのだとか。
 歩くより燃費が良いのだと小悪魔は言う。気軽に使っているが離れ業であることは言うまでもないし、仕組みを聞いたからと理解の及ぶものでもない。もっとも、小悪魔が神業をこなすのなんて当たり前のことなのだから、フランがそこに驚くことはないけれど。

「こあお姉ちゃんは、今日は仲睦まじい姉妹の姿が見たい気分なのです。だからちょっと無理矢理こうしちゃいますね。ほら、姉妹は仲良くしましょう? ね?」

 そう言って小悪魔は、フランとレミリアを胸にうずめるように抱き寄せる。
 ちなみに無理矢理と言うのは、本当に無理矢理だった。抱き締める腕は優しいのに、瞬きの自由すら奪われている、完全な服従状態。流石、小悪魔のグラマリーは精度が高い。殺傷目的で使ったなら、視線一つで心臓の鼓動をも止めてしまうだろう。
 ほとんど他人事のように、フランは抵抗を諦めて脱力した。紅い少女がその力の片鱗でも示したのなら、吸血鬼程度の霊格で抗える道理も無い。
「~~~っ」
 精神的な魔法に抗う手段を持たない姉は、声も出ないらしい。息ができなくなったように、じたばたともがいている。レミリア一人だけ水の中にでもいるような感じだ。必死に抵抗しているところ残念だが、暗示や金縛りの類いは逃れようと思えば思う程、泥沼に嵌まって逆効果になるものだ。
「~~っ!! ~~っ!!」
「んー、何か言いたいの? 何かな? お姉ちゃんが聞いてあげるよ?」
 すると、呪縛が少しだけ緩んだ。
「急に何すんのよっ!?」
「言ったでしょ? お姉ちゃんは姉妹のいちゃいちゃを見たい気分なの。はい、説明終わり」
「ちょっと待て、あと何故タメ口なのかと問いたい。と言うか……貴方、前からそうよね」
「だってレミリアだし?」
「いや、フランとパチェは様付けで呼んでるよね?」
「図書館の利用客なんだから当然ね」
「じゃあ、咲夜と美鈴には、さん付けだよね?」
「それも当然。使用人に対しても礼儀を忘れてはいけないと思うのよ」
「あのさ、私、この家で一番偉いんだけど」
「そうね。だから、なのよ?」
「言ってる意味分かんないし!」

 騒がしい姉を眺めながら、フランはと言えば、これが実に、なんとも面白くない表情になっていた。

「お姉様のバカ」
「妹が冷たい……」
「なにデレデレしてんのよ」
 どうせ、めっちゃ良い匂いがする、とか思っているんだろう。アホ丸出しの顔に、そう書いてある。
「してないしっ」
「してる」
 だって、顔が赤い。
 しかも躍起になって否定するし。
「お姉様のバカ」
 もう一度、ぼそっと呟いた。
「うふふふっ、良いものですねぇ、仲睦まじい姉妹というものは♪」
 いや、これは仲睦まじいと言えるかどうか。
「ねぇねぇ、こあお姉ちゃんも混ぜて欲しいなぁ~」
 更にむぎゅ~っと抱き寄せて、頬擦りしてくる小悪魔。鬱陶しいにも程がある。
 辟易しきった表情が、せめてもの抵抗の代わりになれば良いのだけれど。
「なんで貴方が姉なのよ」
 姉は看過できなかったようだ。
「なんでもなにも、私は貴方達のお姉ちゃんみたいなものなのよ?」
 今度はフランも聞き捨てておけない。
「……いや、こあさ、それはちょっと無理があるんじゃない? 姉って言うか……」
 吸血鬼よりも古い、精気を吸い取る妖精は、伝承の区分で言えば確かに先達に当たる。しかしその関係を姉妹と言って良いものか。年の離れた従姉か、でなければ、本流の祖先だろう。
 それに、妖精になる以前の小悪魔は……
 結局の所、フランは全容を知らないけれど、小悪魔の具体的な名前の、ヒントなら出ていたはずだ。
「うん、姉ってのはおかしい。あのさぁ、年の差を考え、はきゃっ……」
 背筋に甘い電流が走って、ピーンと宝石の翼が伸びる。
 小悪魔はフランの唇に指を当てて、にこりと微笑む。
「それはナイショですよ? 親しみを込めて、こあお姉ちゃんって呼んでくださると嬉しいです。怖がられるのなんて嫌ですから」
「……あ、そう。でも、ウザい姉なら足りてるから、もう要らない」
 そっぽを向いて言うフラン。
 あるいは単に拗ねているだけに見えるかも知れないが、もちろん違う、色々と文句はあった。だがここに、フランの内心など分からないやつがいる。
「あれ? 私、ウザいって言われた?」
「ええ、言ったわ」
 きっぱり。
「私の扱いがひどい……」
「ねぇ、こあ。お姉様のことはどうでもいいから、いいかげん離してよ。自力じゃ解けないんだけど」
「どうでもいい!?」
「うるさい。大声出さないで。それでさぁ、こあってば、もういいでしょ。お願いだから離して」
 答えなら、最初からフランの中にあって。断片の断片に満たない話でも、十分だった。
 だからもう、フランは根負けするように納得していた。
「ふっふふ~、もうちょっとだけですから~」
「……」
 もう十分のはずなのに、小悪魔は頬を擦り付けてくる。
「……早くしてね」
 なんかもう、色々と諦めた。
「話聞いてよっ」
 こっちはこっちできーきーうるさい。
「バカ姉は黙ってて」
「バカ姉っ!? 聞き間違いだよねっ!?」
「お姉様はバカ姉でしょう? 何も分かってないお子様だわ」

 まず、小悪魔がこの館にとってどういう存在であるかということ。
 そして、小悪魔がレミリアの名前を呼ぶ時の、その特別な響きの理由。
 小悪魔が、バカ姉の言うところのタメ口で接しているのはレミリア“だけ”だということも。
 それから、この家で自分が一番偉いと言ったレミリアに、『だから』と返した答えの意味だって。

 全部、全然分かってない。

「ほんと、子供……って言うか、ガキよね」
 小悪魔は、こんなのの何処が良いんだろう?
「ふふ、私もたまに不思議に思います。でも、信じています。大切な時に大切なことができる子だって」
「……そうかな?」
「そうですよ。私の時にも、そうだったみたいに。今ここにいる皆さんが、そうだったみたいに」
「ん? お前ら何の話してんだ?」
 何も分かってない顔で、バカ姉。
 これだよ。
 フランはがっくりと肩を落とす。
「別になんでもない。お姉様の悪口を言ってただけ」
「ええ、まったくですね。いつも周りを困らせてばかりで」
「姉なのに……領主なのに……私の威厳って?」
「威厳? 最初からお姉様にはそんなものは無いでしょう?」
「……あるもん」
 いや、あるもんとかプルプル震えながら言っている段階で威厳とか何やらから、掛け離れてしまっているものと、果たして当の姉は知っているだろうか。
 だけど。認めてあげても良いかな、くらいには思う。別に、最初から威厳なんて求めてないから、どうでもいい。
 大切なことは一つ。フランドールは、今の紅魔館が、好きの部類だということ。そしてこの紅魔館は、どうやらバカ姉なくしては成立していなかったらしい。
「……」
 悔しくて、唇を噛む。
 すごいアホだと思うし、同じくらい、すごいと思う。
 フランでは、姉のようにやろうとしても、できっこない。
 嫉妬にも似た感情だった。レミリアと小悪魔の、双方に対しての嫉妬。

 ──お姉様のこと、呼び捨てにしないで。

 そう言ったのは、もちろん姉を取られまいとする妹らしい妬きもちが半分。もう半分は、何も分かっていないくせに紅い少女に認められるレミリアへの嫉みそねみでもあった。
 そして、フランの胸に疼くもやもやした気持ちなんて、バカ姉には想像も付かないのだろう。
 姉妹のはずなのに、どうして姉だけが、こんなにも真っ直ぐに、胸を張れる生き方をできるのだろうか。正しいわけじゃない、むしろ盛大に間違っているのに。
「……お姉様だけ、ずるいわ」
「ふふふ。姉というのは偉いのよ。年上なんだから」
 ほら、バカな顔してる。やっぱり何も分かってない。

 鬱屈も、曲折も、曰くし難い複雑な感情がある。尊敬しているとは言い難い姉だった。好きだとも、言えない。
 威厳なんて欠片も無い姉だけれど。
 威厳はともかくデリカシーとか色々と無い姉だけれど。
『バカで間抜けでデリカシーの無い、最高な私のお姉様。そうでしょう?』

「……はあ」
 大きく、溜め息を吐いた。
 小悪魔が笑って、フランのことを見ている。いつもと変わらずに、フランが少し苦手な、あの、何でも見透かしたような紅い瞳で。
「ねぇ、お姉様」
「何よ? 私は威厳もあるし頭も良いわよ」
 レミリアは、フランの羨望の眼差しに気が付かない。馬鹿だから。
 その曇りの無い瞳を見ていると、悩んでいてもどうしようもないって気持ちになる。
「お姉様は威厳も無いし頭も悪いわよ」
 素直になってみようかとも思ったけど、やっぱり、やめた。
「うふふふふふふっ」
 響く、小悪魔の笑い声。
「本当に、可愛い子。ねぇ、レミリア、だから言ったでしょう? 意地を張ったり、拗ねたりしている子も、こんなに可愛いのよ?」
「当然ね。なにせ私の妹だからな。世界一可愛いに決まってる」
「…………」
 苛々しても、良いよね?



 バカ姉はうざいけれど……とか。
 こういう騒々しいのも悪くないかな……なんて。
 本当なら、フランドールという少女は、まさかそんな、まるで妹みたいなことを思うような少女ではなかったのに。静謐と孤独を好んで、埃っぽい暗闇の底に沈み、永遠に何にも煩わされることのない安らぎに喜びを見出すような、そんな少女だったはずだ。いったい誰のせいでこうなったと思っているんだか。

「……お姉様のバカ」

 小さな声で、でも、ちゃんと姉にも聞こえるように、フランは唇を尖らせて呟いた。


◇◇◇

 深い眠りについた夜、あるいは、寝苦しいような夜に。レミリアはふらりと起き出して、紅魔館の中をうろつくことがあった。
 夜の紅魔館は、少し様子がおかしい。それは例えば、昼間に寝て、夜を活動時間に据えた時の、蝋燭の火に照らされた真っ暗な紅魔館とも違うのだ。石材の天井から淡い星の光が零れてくる館内は、他の光源など何も無いのに、不思議と真っ暗にならずに薄暗さを保っている。
 もう百年と少しになる、住み慣れたはずの我が家。しかしどうだろう、例えばほら、今通り過ぎた部屋の扉に、見覚えがあったかどうか。まるで、現実と鏡写しになった知らない世界を歩いているような、そんな錯覚に囚われる。

 どうして目を覚ましたのだったろう。
 ……いいや、何か飲もう。

 前後にはぐねぐねと伸びる直線の廊下、両側で捻じれながら直立する造りの壁面は、少し間違えれば恐怖の対象になりそうでもある。けれど、レミリアはただぼんやりと、不思議を不思議と思うこともなく、行き先の分からない廊下を進んでいった。


 やがて、夜風が心地良い、夜のバルコニーに出た。
 無窮の夜天。朧に霞んだ月。星々の淡い瞬き。渦を巻いて棚引く薄い雲。
 眩しいものは何も無く、しかし完全な暗闇でもない、ただ薄ぼんやりとした、優しい夜だった。
「いらっしゃい。レミリア」
 バルコニーの欄干に横向きに腰掛けて、夜空と合わせ鏡になった湖面を眺める紅い少女が、ふとレミリアの方を振り返り、歓迎するようなことを言った。
「……」
 さらさらとしたワインレッドの長い髪に、司書風の服装は、もちろん小悪魔だ。
 実は一瞬だけ、小悪魔か、紅い少女か、迷ったりもしたけれど。

 紅魔館は、山間部にある湖の畔に位置している。涼しいと言うよりも、まだまだ冷え込む初夏の夜に、わざわざバルコニーにまで出てコーヒーを飲むなんて、随分と物好きなことをする。
「貴方も、何か飲む?」
 白いマグカップを少し持ち上げてレミリアに見せると、ゆるりと問い掛ける。
 確かに、熱い飲み物が欲しくなる。
「咲夜。お茶」
 短く、告げる。
「……?」
 待てども返事は無かった。
 いつもなら、「Yes, my lady」と、レミリアが言い終わるかどうか、というくらいの瞬時に、時間の齣の刹那の間隙を切り裂いて、すぐ傍らに控えて、慇懃に腰を折る従者の姿があるものなのに。
「ふふ」
 微笑を零す小悪魔。
「いくら咲夜さんでも、ここまでは入って来られないわ。で、何か飲む? 言っておくけど、紅茶以外ね」
「え、紅茶が良い……」
「以外で、ね。紅茶とスコーンだけなら、咲夜さんが用意する物の方が美味しいのよ。ほんと、ティータイムへの執念には感心すら覚えるわ。英国で料理を食べるなら、朝食も取らずに一日中お茶を飲んでいるべきね」
「私はイギリス料理、嫌いじゃないけど」
 庶民派風の、焼き立てのトーストにポーチドエッグ。それから伝統的なイングリッシュ・ブレックファストまで、ヴィクトリア朝の趣を漂わせる咲夜の料理は、レミリアの貴族趣味に嵌まりに嵌まった。
 ……何故か、レミリア以外は微妙そうな顔をするのだけれど。
 メイド・オブ・オールワークと、一同は口を揃えて、半ば呻くようにして言う。成る程、相応しい称号である。咲夜はまさに万能メイドだ。レミリアは良い従者を持ったものだと、つくづく思わされる。
 そう言えば、小悪魔がフレンチのフルコースを、美鈴が中華の満漢全席を作ったことがあったっけ。咲夜も加わって戦争でもしているような剣幕だったけれど、今にして思う、あれは一体何だったんだろうか。小悪魔は妙に引き攣った笑顔だったし、あの美鈴まで、ちょっと筆舌に尽し難い系の微妙な顔になっていた。そんな中、一人だけ勝ち誇るように余裕の表情を見せる咲夜は流石だったが。
「何と言うなら……英仏中食卓戦争、ね。レミリアの味覚が死んでるのなんて、最初から知ってたわよ、知ってましたとも」
 酷い言い様だ。
 と言うか、どうしてそんなに頭の痛そうな顔をしているのか。
「はぁ、ココアで良いわね?」
 良くない。今夜は少し大人ぶりたい気分だった。
「コーヒーにする。私あれが良い、絵の描いてあるやつ」
「うぃー」
 ものすごく軽い返事を残して、小悪魔の姿は消える。
 咲夜曰く、よく出来た従者なら瞬間移動系のスキルは必須なのだとか。小悪魔と咲夜のそれとでは理屈が違うのだろうけれど、見た限りでは同じことだ。
「はい、お待たせ」
 待ってない。
 手渡された温かいカップ。コーヒーのキャンパスには、ものすごく複雑な、渦巻き模様の三巴紋のラテアート。つい、じっと見入ってしまう。たしか、トリスケリオンという紋様だったはず。
「ねぇ、レミリア。貴方は今の自分を、どう思う?」
 カップに目線を落としていると、ふいに、そんな質問が投げ掛けられた。
 答えのないような質問。解答の趣旨の分からない、意地悪な問題。けれど、薄ら笑みを浮かべる小悪魔は楽しげで、レミリアなら満足のいく答えを出し得るものと信じているようだった。
「どうって、つまりどういうこと?」
「美鈴さんは多少はマシになった、パチュリーちゃんは相変わらず、私は外道だし、妹は冷たい。威厳も無ければ、実力も無い。こうも悪し様な扱いを受けて、貴方はそれをどう思うの?」
 レミリアは少し考えた。
 今日だって、半べそをかくまで妹にボコボコにされた。
「さんざんバカバカって言われたわね。まあ、レミリアの頭が悪いのは事実だけど」
「……」
 本当に散々だ。
 美鈴は気遣いができないし、パチュリーはぶっきらぼうだし、小悪魔はタメ口だし、妹は生意気だし、いや正直、なんだこの扱いはと思うこともある。
 でも、よくよく考えてみれば、そもそも考える必要が無かったではないか。
「確かに、これはひどいな。だけどさ、私は自分を哀れんだりはしないよ」
 その言葉はすんなりと、胸の内から湧き上がってきた。
 レミリアは誇らしげに顔を上げる。
「自信を持って、言えるね。私は富める者だよ」
 確信を込めて、強く、言い切ることができた。
 周りを見てみれば良い。思うまま好き勝手にやった結果として、レミリアの元に残った輝きがある。なんと、誉れ高いことだろうか。
 だから言える。レミリア・スカーレットは、得難い宝を幾つも持った貴族だ。
「どうだ。羨ましいか。すごいだろう」
 フッフンと。
 妹にアホ丸出しの顔と言われるその顔で、レミリアは、胸を張って言った。
 たとえどれだけ馬鹿にされても、驕り高ぶるこの姿が滑稽でも、構わない。この胸に懐いた譲れないものは、他人にどう言われたところで揺らぐものではないのだから。
「……そう、ね。レミリアのそういうところ、私は、好きよ?」
 吐息のように囁いて、小悪魔は愛おしげに目を細める。
「ねぇ、私と約束できる?」

 ──たとえこれから先、何があっても、貴方は貴方のままでいること。

「成長することがあって、いつかおとなになっても、ずっと変わらないでいてね。もしもこれを約束できるなら、私は無条件に貴方の味方でいるわ」
「約束?」
「そう、約束よ。絶対に違えてはいけない約束」
「針千本飲ます?」
「もちろん、そうね。でも、それよりひどいわ。もしも約束を破ったら、あの空が怒って落ちてくるわ」
 小悪魔は脅かす風に悪戯っぽく言って、上の方を指差す。
 ずっと後になって知る。空が落ちるというのは、ケルトで誓いを交わす時に、よく使われる言い回しなのだとか。
 ただ、そんなことなど知らないレミリアは、気に留めもせずに、仄明るい夜空を見上げる。
 月を置いて、星をまぶした、綺麗な空だ。満天に輝く星々の集まりは星雲となって、空を星の光で染め上げている。
 月が綺麗ですね、なんていう表現もあったろうか。でも、小悪魔がいるこの夜の空は、比喩でも表現の手法でも何でもなく、本当に、言葉通りの意味そのままに、綺麗だと思う。ヴェールから透き通るような優しい灯りが零れる夜を、レミリアは他のどの場所でも見たことが無い。
 思い上がった人類が無粋な光で神秘の夜を照らす以前のもの。いや、あるいはもっと遥か太古。
 喩えるなら、そう。
 ちはやぶる神代の星空は、きっとこうだったのだろうと思わせるような。
 こんなにも綺麗で神秘的な夜は、紅魔館でしか見ることのできないものだ。理屈ではない部分で、レミリアはそう納得していた。
 世にも綺麗な月夜を肴にできるレミリアは、やはり間違いなく、富める者であるのだ。なればこそ、自らの財産を誇り、守ることは、貴族の責務であろう。
「そんなことはさせないよ」
 夜を見上げて、呟く。
 守ってみせると、レミリアは何ら気負うことなく誓いを立てた。
 だって、この空がなくなるなんてこと、あって良いはずがないのだ。
「好きだから」
 と、何気なく一言付け足す。
「……っ!?」
「ふう」
 カフェラテずずーっ。最初は物好きだと思ったけれど、夜更かししてお茶をするというのも、中々に良い趣味ではないか。ところで小悪魔はどうして顔を赤くしているのだろう。
「あ、あのねぇ、レミリア?」
「?」
 もう一口、啜りつつ。
 砂糖とミルクがたっぷりで、とても甘い。うん、悪くない。
「レミリアのそういうところは分かっているつもりなのだけれどね、けど、でも、あのね? いや、でもね?」
「なんなのよ」
 お茶菓子も欲しくなるな、でも、あんまり遅くに食べるのもな、とか思いながら。
「ずるいわ。ふいうちなんて……」
 胸の前で指を突き合わせ、小さな声で、小悪魔は目を逸らしながら言う。
 全く意味の分からない反応だった。照れているようにも見えるけれど、何故、ここで照れる?
「わからんやつだな」
「……レミリアこそ、言ってる意味、分かってる?」
 言ってる意味も何も、レミリアは良い夜だと言っただけで、そこにはもちろん回りくどい含みは無い。
「だからそれが、なのよ? 急に言わないでよ、もう。お姉ちゃん、ちょっとびっくりしちゃったなぁ」
 そんなこんなで、小悪魔が落ち着きを取り戻すにはしばらく掛かって。

「そう思ってもらえるのは、嬉しいわ。でも、千年早い」

 そして、小悪魔はそう言った。
 朧に霞んだ柔らかな夜の中、ぼんやりと淡い星々の光の下で、小悪魔は夜と同じ美しさを纏って、レミリアに向けて微笑む。
 少しだけ……本当は、とても、小悪魔の貌があまりにも綺麗だったから、レミリアはついドキリとして、面映ゆいような気持ちになってしまう。
「貴方には、今の気持ちと、今の時間を、心から大切にして欲しいって、私は思っているの」
「…………」
 釈然としなくて、レミリアは唇を尖らせる。
 どうしてだか、子供扱いされるのが面白くない時がある。もどかしいような、よく分からない感じ。
「誰がお姉ちゃんだよ」
 つい、乱暴に言ってしまう。
 年上。それは分かる。
 少し意地悪な部分を考慮しても、パチュリーやフランの面倒を見る小悪魔が、優しげな司書のお姉さんという様子であることには違わなかった。レミリアも、密かに憧れていないことも、なくもない。少女なら誰しもが子供心に抱くような、年上の綺麗な女性に対する、漠然とした憧れだった。
「今に見てろよな」
 ふてくされて、レミリアは呟いた。
「私だってな、すごいんだからな」
「うふふふふっ……」
 笑い出す小悪魔。
「でもダメよ? 貴方は永遠に幼いままでいてくれないと。お姉ちゃん、レベルドレインしちゃうぞ?」
「いや待て、おい。さっきのあれは自分を曲げるなみたいな意味だろ?」
「ええ。まあ、それはそうなんだけど。何も知らない子供のままでいられるのは、今だけ。でも、いつか大人になっても、大切なことを忘れないでいてね。みたいな、大体そんな感じの意味で言ったわ。でもね、お姉ちゃんは幼いレミリアのことも大好きなのよ?」
「今に見てろよな!」
 ちょっと必死になって、レミリアは叫ぶ。
 レベルドレインとか冗談じゃない。
「ふふ。それなら……」
 小悪魔は悪戯っぽい笑みと共にレミリアを見つめる。淡い燐光のような妖しい紅色が、瞳の中で揺れた。効果は劇的で、ふっと意識を吸い込まれたかと思うと、レミリアはあっさりと舟を漕ぎ始める。
「このくらいは耐えられるように、強くならないとね。明日は早起きして、美鈴さんの朝練にでも付き合ったら良いんじゃないかしら? まあ、私が教育してあげても良いんだけど、レミリアは体を動かす方が向いているから」
 その囁きも既に遠い。
 レミリアの意識は、甘く柔らかく溶けていき、夢も見ない程に深い眠りの淵に沈んでいった。

「それじゃあ、おやすみなさい」






◇◇◇ extra

 人間風に言うと又甥に当たるその子のことを、私はいつまでたってもからかいを込めて、きゅん付けで呼んでいた。

 大人たちの卑怯な都合が絡んだ面倒な生い立ちの元に産まれ、幼くして予言に付き纏われた、その子。
 私はよく、彼に内緒でこっそりとその子をお城の中庭に招いては、遊んであげる傍ら、勉強に付き合ってあげたりもした。その子は先生としての私が形無しになるくらいに物覚えの良い子で、詩、踊り、楽器の演奏、何でもすぐに上達して、私を驚かせるのだった。抜きん出た才覚を示し、そもそも神族一の鍛冶師さんの元で暮らすその子に、私が教えられることはそう多くはなかったけれど、その子は私を本当の姉のように慕ってくれた。
 やがて聡明なその子が、いつ頃からか私を避けるようになるのに、大した時間はかからなかった。
 千の千乗を超えるヤドリギの矢、天を焦がす焔の渦、棘と焔の私の魔法と真っ向から撃ち合ってみせたその子に、私は幾許かの驚きを本心から感じながらも、それ以上に嬉しくて、いつもよりもずっとたくさん褒めてあげようと思った。だけど。その子は不服そうに、頭を撫でようとした私の手を振り払った。忸怩たる、という風な顔。
 ──貴方のその顔が嫌いです。その、何もかも見透かしたような瞳が嫌いです。
 決然と顔を上げて告げたその子の、いつになく真面目な態度に、私はつい可笑しくなって、その子が本気なのは分かっていたのに、全然真面目に受け止めずに、そうね、とだけ答えて、頭を撫でてあげるだけだった。


 当然、その時は来た。
 モイトゥラにおける二度目の大戦。

 魔眼で恐れられる巨人族の神は何とかなったけれど、そいつが死に際に引っ張り出したものが悪かった。この世の悪いものがドロドロに集まって、結果として巨大な蛇に似た姿に見えるソレは、貪欲に世界を呑み込むように滾々と湧き上がってきて、もうとっくに、私の手には負えない始末になってしまっていた。
 空を覆う暗雲にも似た巨体には、金の鱗。蛇に似たソレの吐く息は、敵も味方も関係なく、触れた物の全てを片端から腐らせていった。元は爽やかな緑の平原だった、堆積して高く積み上がった戦士達の死体の山が溶けて崩れ、溶け残った骨の浮かぶ血の沼地に変わり、その沼地すらもすぐに干上がった、火の粉が散らつき死臭の漂う焦土。
 毒素の回った体が重い。私も、もう長くはないでしょう。
 逃げる場所なんて無いから、その戦場跡を、散策するような軽い気持ちで歩いていた。他にすることもなかったし、今さら希望も持てなかった。だからいっそピクニック気分♪ ……つよがり、かしら? いいえ、別に、そういうわけじゃないのだけど。
 不敗を謳われる剣は敗北を喫し、切っ先は欠け、見るも無残に刃毀れして、ついには持ち主の手を離れ、今は私の手の中で、杖の代わりにされている。愛しい彼の遺品、ということになる。誰よりも平和を願っていたのに、誰よりも勇猛だった彼は、最期まで戦い続けて、とうとうこの場所で果てた。
 逃げれば良かったのに。逃げても良いって言ったのに。逃げなさいって、言ったのに。

 予期しない敗北、ではなかった。最初から知っていた光景。
 あの子の言う通り、私の目は死の運命を見透かしていた。彼の、そして、私の。
 手は尽したけれど、運命は変わらない。私の見てしまった運命を変えられるとしたら、それは、私の力を上回るものだけ。皮肉なことに、いや当たり前のことで、私の力を上回るものが、彼と私に死をもたらすことになった。
 ……と言うか、結局これじゃあ勝敗は有耶無耶よね。残念と言えば残念。あの巨体に似合う強い魔力と、余計なしがらみなんて考えないで、気が済むまで一騎打ちがしてみたかったわ。

「……」
 ふと、立ち止まる。
 陽炎の帳を裂いて、過日と同じ風に悔しさに歪んだ顔が、私の前に現れた。
 その子はもう、可愛いおとこのこだなんて言えない凛々しい顔付きと逞しい体付きになって、でも、表情だけは昔のままに、私のことを見つめていた。
 血と涙に濡れた顔も、血染めのドレスも、この子には見せたくなかったのに。
「……ええ、そうよ。貴方が間に合わないことも、知ってたわ」
 かの邪神を打倒し得る者、そう目を掛けられていたこの子は、だけど大事な局面には間に合わない。
 私はそう知っていながら、それでもこの子が可愛くて、私が教えられることの全てを教えた。聡いこの子は、私のそんな内心に気付いていた。その子が気付いていたことを、私は見透かしていた。
「ねぇ……」
 私は、その子に向けて微笑む。
 その子の気持ちも知っていた。お城で出会って、魔法の勉強を見てくれるお姉さんが、その子の中でどういう位置付けになるか、分からないはずもない。
 小さい頃は、鍛冶師さんか育ての父親かに出された課題を持って、「お勉強教えて」と、屈託のない笑顔を振り撒いていたのに。ちょっと大きくなったら、私がきゅん付けで呼ぶと照れ臭がって、すぐに拗ねてしまって。もう少しだけ大きくなった頃には、取り繕って澄ました生意気な顔で、私のことを大叔母様なんて呼ぶようになって。その度に、私はにこやかに笑顔を浮かべながら、ほんのちょっぴり実戦的な魔法の練習を見てあげたりもしたっけ。つくる魔法。こわす魔法。あの子の養父が前者の最高峰なら、私は後者。
 この子が何も知らない子供のままでいられた平穏なひと時は、私にとっても、安らげるものだった。
 真っ直ぐな瞳をキラキラと輝かせる、日の光のように明るい子だった。先生を名乗るつもりはないけれど、良いお姉ちゃんでいられたかな?
「子供扱いされるのが悔しかったのよね? お姉ちゃん、知ってたよ?」
 もちろん、一生懸命に勉強をがんばった理由も。
 義務感でも使命感でもなければ、褒められるのが嬉しかったわけでもない。この子は、本当は、私を守りたかったんだって。
 唇を噛み締めて頷くその子が、本当に可愛くて。こんな時なのに、可笑しくて唇が綻んでしまう。
 確かにこの子は間に合わなった。それは事実。けれど、終末の光景は、私の見たものとも少し違っていた。ただ荒涼としたこの場所で果てるしかないと思っていた私は、だけど今、たまらない喜びを感じている。それもまた、確かなこと。
「貴方のおかげよ?」
 無意味に慰めるつもりなんて無い。ただ、この子の成したことを認めてあげたかった。
「ねぇねぇ、昔みたいに、まー姉って呼んで欲しいなぁ」
 まー姉って、マーハお姉ちゃんって、もう一度だけで良いから。
 余裕を振り絞って悪戯っぽく言ってみると、ルーきゅんは頑なに首を横に振った。やっぱり可笑しくて、つい微笑が零れる。この子はこんなに立派に成長したのに、私から見れば、まだまだ可愛い子供のままだった。
 でも、もうこれで最後だから。
 この子の望みを叶えてあげる。
 きゅ、と抱き締めて、静かに、唇と唇を重ねる。
 少し背伸びをして、その時に初めて、ルーきゅんの背丈が私よりもずっと高くなっていることを意識した。今まで、ずっと浮かんでばかりで上から見下ろすだけだっから、全然気が付かなかった。
 使い残した魔力と一緒に、私はこの子に後のことを託す。
「じゃあ、アレの後片付け、がんばってね? ふふ、怖がらないの。貴方ならできるわ。貴方はそのための武器を持っているし、やり方なら、私が教えてあげたでしょう? ──思いっ切り、ぶち抜いちゃえっ」

 あの子の背中を押して、程なくすると、長く続いた夜に眩い曙光が差した。
 分厚い雲は取り払われ、夜空には月と星の光が戻り、東の空は黎明の色に染まろうとしていた。夜の終わりは、長く続いた戦乱の一区切りでもあった。

 ……道理、ね。

 夜明けの光を見て、得心がいった。あの子が光で、私が夜なら、この結末は道理だった。
 でも、なんだか嬉しかったような気もした私でした。あの子、本当にいつの間に、あんなに成長してたのかなぁ、なんて。消えゆく最後に、あの子のことを見れて良かった。



 やがて追想は、遠い遠い昔から、ほんの少し前のことに。

 ぴたりと寄り添って座る、本の溢れた狭い部屋。
 重ねた手は、ひどく冷たい。ここ数日は、大好きな読書さえままならなくなっている。でもこれは、体の具合が悪いわけじゃない。根本的に、命と呼ばれるものが失われているせい。もちろん、手立てならある。

 ねぇ、本当に良いの? 貴方が望むなら、貴方さえ望んでくれるなら、私は全てを叶えてあげられるのよ?
 遺産を付け狙う塵埃共を、祭壇の火にくべて。もっともっと私と楽しみましょう? きっと、楽しいわよ?

 サキュバスのお姉ちゃんに不可能は無いわ。いつもは冗談めかして言う言葉は、その時、限り無く本気だった。
 全能の女神のように、堕落を誘う悪魔のように、私は、彼に囁き掛けた。
 ……まあ、断られることは分かっていたのだけれど。誠実で誇り高く、そして何より、真っ直ぐで優しい子に育った彼は、そんなことを望まなかった。
 年々、地脈の調子も悪くなっている。力の源が無い以上、私にはささやかな魔法しか扱えない。それどころか、私も……
 無力なことを歯痒く感じたこともあったけれど、今はもう彼の覚悟を受け入れて、彼と一緒に、このまま緩やかに滅んでいこうと思っていた。

「……昔のことを、思い出していたわ」
 小さく、呟いた。
「でも、安心してね? 今の私は、今の旦那様の貴方だけのものよ?」
 と、言い訳したりして。
 最後まで秘密にしておくことも考えたけれど、私は、固く閉ざしたはずの口を開いていた。
「ずっと前から、私はいつも、看取るばかりだった」
 語るべきことは多くない。
 繁栄したものは破滅する。この一言が全て。
 私が恋して、私に恋した貴方達は、いつも、いつも。離れ離れになってしまえば、もう会うことはできないのに。
「……私のせい、よね」
 そんなことはない、なんて、そんな言葉はいらない。
「ねぇ、旦那様、聴こえる? 今夜、貴方も、眠るように息を引き取るわ」
 その命の最後の一滴まで、私が啜る。残さず、余さず、絞り尽す。殺してあげる。
「恨んでくれてもいいのよ? 私さえいなかったら、貴方はごく普通に、人間の女の子と結ばれていたことでしょうから」
 口をついて言ってしまった言葉を、言い終わる前から、激しく後悔した。
 もしも嫌われてしまったら、そう思うと、顔が強張るのも隠せなかった。でも、私の心配は杞憂に終わる。
 彼は力の籠らない手を、私の頬に伸ばして。知らず零れていた涙を拭った。
 そして、そんな風に寂しそうな顔をしないで欲しい、どうか泣かないで欲しいと、彼はそう言った。
 それから、そう……困ったことに、いつかまた貴方が、大切に思える誰かと巡り逢えますように、とも。
 そんなことを言われてたって、困るだけなのに。
 もう二度と、誰のことも好きにならないって。そう思っていたのに。

 それなのに、あの、もう終わりにしようと思っていた夜に。
 無茶苦茶な言葉、がむしゃらな我がままを、ぶつけられて。
『……ねぇ、それって。そんな言い方って、まるで私に、恋してるみたいになっちゃうわよ?』
 私は本当に困って、そう言って。
 恋と呼ぶにはあどけない純粋な憧れではあったのだけれど。

 そして今、ベッドの脇に腰掛けて、私を繋ぎ留めたこの子の、くしゃくしゃした紅掛空色の髪を撫でている。
 どことなく少年っぽいあどけなさのある顔も、眠っていればおとなしい……なんてことはなくて、大きく開いた口から八重歯を覗かせて、豪快に眠っている。寝返りを打つ度に掛け布団を蹴り飛ばしたりして、ほんとに落ち着きが無い。
 いつまでも子供のままでいて欲しいと願っても、いつまでも子供のままではいてくれない。それは、この子も同じ。健やかに成長してくれることは嬉しい。でも、その反面で、寂しくもある。
 私のそんな心配を余所に、レミリアは「今に見てろよな」なんて生意気なことをむにゃむにゃ呟きながら、すやすやと。ちょこっとだけからかってみると、う~んと魘される。ふふっ、良い反応。

 本音を言うと、もっと遊んでいたいのだけれど、今はまだ我慢してあげる。この子は、私を守れるくらいに強くなるって、そんなつもりみたいで、でも無謀と言うか、絶対に無理だと思うのだけど……もしもそうなったら、やっぱり私は、嬉しいと思うのでしょうね。

「それじゃあ、おやすみなさい」
 不格好でも真っ直ぐに、強くて優しい子に育ってよね?

 耳許で囁いて、その頬に、微かに触れるだけのキスをした。




 こんなカリスマがあっても良いですよね?
珈琲味のお湯
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コメント



0.260簡易評価
2.無評価名前が無い程度の能力削除
さすがにもうしつこいとしか言えない。
内容がさほど悪くないので余計そのように感じる。
3.20名前が無い程度の能力削除
最早チート小悪魔がゲラゲラ笑ってるだけの作品。いっそオリキャラ無双のほうがまだマシ。
4.100名前が無い程度の能力削除
最初のレミこあから拝見させていただいています。前2バージョンも保存して3周読むくらいには好きです。
今回のはまたこれすごい読む価値をもった文章で、読破するのに時間がかかってしまいました。
アクションが以前より少なくなったぶん秋の夜みたいな印象で、こう、なんというか……いいぞ!(語彙が貧弱で申し訳ない
こあちゃんどんどん強くなっていく可愛い。お嬢様天然が加速していく可愛い。たまらん。
正直なところ、展開アクションともに動きのある(長い版)が一番お気に入りなのですが、平行世界的なものとして3作とも全部楽しい。
8.100名前が無い程度の能力削除
多少の設定変更があるとはいえ、前2作でかけていたピースがはまりすっきりとした気分です。小悪魔やレミリアを中心とした各キャラたちをより一層魅力的に感じることができました。頑固一徹なパチュリーや、小悪魔とレミリアにちょっぴりやきもちを焼くフランが可愛すぎる。新装版であり、正しく完成版ですね。
素晴らしい作品、ごちそうさまでした。
9.80名前が無い程度の能力削除
くどい・冗長な部分もありますし、多少衒学的に過ぎる部分もあるように思います。
しかし、一方でそれらが作品を引き立てているというのもまた感じますし、面白いかどうかで言えば私は楽しめました。
個人的には本作を含めた関連三作で今回が一番好きですかね。ただそれは前作の長編があってこそという感じもしますが。
こういう紅魔館もこれはこれで。