Coolier - 新生・東方創想話

咲きそうで咲かない桜のつぼみ

2016/04/02 00:36:10
最終更新
サイズ
35.9KB
ページ数
1
閲覧数
2511
評価数
13/23
POINT
1760
Rate
14.88

分類タグ



1 ままごとの影絵とふきのとう(妹紅、慧音)
2 季節を運ぶウグイスの鳴き声(はたて、椛)
3 咲きそうで咲かない桜のつぼみ(サグメ、霊夢)

 ※それぞれ独立したお話です。









1 ままごとの影絵とふきのとう


 彼女は新妻が板に付いている。
 夫を持っているわけでもない彼女に対して「新妻が板に付いている」という言葉もおかしなものだけど、実際そう見えるのだからしょうがない。
 私が薪割りの仕事を終え帰路に就くと、慧音はいつも川沿いに据えられたベンチに座って手に持った本に視線を落としている。
 息を吐けば眼前が白い靄で覆われるくらいにまだ強く寒さを残しているというのに、彼女はそこにいるのが当たり前であるかのように大人しく座り、何か面白い事でも書いてあったのか口元だけそっと綻ばせ、熱心に文字を目で追っている。
 やたらと絵になる光景だ。
 歩み寄る私の足音が聞こえたのか、彼女はふと顔を上げた。
 目が合う。
 それをきっかけに慧音は本に栞を挟んでぱたりと閉じて立ち上がり、襟元に落ちた髪を手で振り払ってから、それこそ花が咲くような笑顔をみせる。胸元まで持ち上げた右手を控えめな仕草で振ってくる。

「別に待ってなくてもいいのに。こんなに寒いんだからさ」

 私が言うと、彼女は、

「私が待っていたいから待っているんだ。それに私がここにいないと、妹紅はまっすぐ家に帰ってしまうだろう」

 私が里での仕事を終えると、慧音はなぜかいつも私を自宅に招待して夕飯をごちそうしてくれる。ここ最近は毎日のように仕事があるので、つまり毎日のように彼女の家にお邪魔しているということだ。さすがに毎日は悪いので断りはするのだが、慧音はこうしていつも私の帰りを待っていてくれる。

「夕飯はどうしようか。何か食べたい物はあるか?」
「なんでもいいよ」
「あのな、なんでもいいというのが一番困るんだぞ」

 このやり取りもいつものお決まりというもので、私はその度にまるで夫婦のようだなと思う。仕事の帰りを待ち、私の姿を見かけると顔をほころばせて片手を振ってくる仕草は新妻のそれにしか見えない。慧音の何気ない言葉や仕草の節々にそうした新妻っぽさは少なからず潜んでいて、ふとした拍子にはっと感じる。
 そういう時、私は穏やかな気持ちになる。慧音が私に向けてくれる優しさが、じんわりと胸を温かくする。それと同時に、そういった仕草は私にではなく男に向けてやればいいのにとも思う。よっぽどの偏屈な性格の持ち主でもない限りは、一発で落とせるはず。
 夕暮れ時を前にした商店通りは喧噪で溢れていた。八百屋のおっちゃんの「今日は大根が安いよ」という年季の入った濁声が響き、それにつられた主婦たちが家に残したダメ夫と三人の子供たちのために押し合いへし合いを繰り広げ、まったく別の所に目を向ければ居酒屋のすぐ外に用意された立ち飲み席で筋骨隆々の男たちが酒をあおって大笑いしている。

「そうだ肉じゃがにしよう。好きだろう?」
「いいね」

 人でごった返す通りを慧音は苦もなく突き進んでいく。草木が生い茂る森林の中で獣道を歩く動物のように、彼女には行くべき道が見えているようだった。気を抜くと置いていかれそうになり、背中を必死に追いかける。
 肉じゃがに必要な食材を買い込むのにそれほど時間はかからなかった。私はあまり人混みが慣れていないせいかやたらと疲れたが、慧音は「牛肉が安く買えたぞ。ラッキーだ」と言って焼き芋みたいにほくほくしていた。
 慧音の自宅に辿り着き、温かい居間の中に入ると薪割りと買い物で疲れた体は自然と座布団の上に吸い寄せられた。座り込んで、だらしなく足を伸ばす。
 慧音はさっそくエプロンを身につけ背中に流れる長い髪を結って纏めると、夕餉の準備に取りかかり始めた。「手伝う?」と尋ねると、当然のごとく「ゆっくりしていろ」と返された。
 台所は居間から廊下へ出て、左に進み突き当たり右手にある。私は居間の壁により掛かりながら顔だけを廊下にぬっと出して台所の方へ視線を向けるが、鏡でも置いておかない限り料理している慧音の姿を見ることはできない。料理している慧音の姿は見えないが料理している慧音の影は廊下へと伸びていて、その影は常にせわしなく揺れ動き、まるで影絵のようだ。時折聞こえてくる何かを包丁で刻むリズムカルな音とちょっとばかり調子っぱずれ鼻歌、そして廊下の床を踊る影。それだけあれば退屈なんてしない。

「配膳くらいは手伝うよ」

 そのうち廊下の奥から良い匂いが漂って来たので機を見て台所へと足を向けると、慧音が肉じゃがに入ったジャガイモを味見している所だった。

「あ、もほお、いいほころに、あ、熱っ、熱い! ……ん、よし美味しい。完成だ」

 二人で食卓に皿を並べる。中央には大皿にこれでもかと盛られた肉じゃが。ちょっと作りすぎたかもしれない、と慧音は苦笑いを浮かべていた。
 準備が整った所で二人揃って「いただきます」
 ほかほかのご飯と肉じゃがの相性はいうまでもない。箸が自然と伸びる。美味しい肉じゃが。新妻力プラス10ポイント。

「慧音の料理は本当に美味しいね」
「それは良かった。自分の作った物を美味しく食べてもらえるのは嬉しいからな」

 彼女はそう言って、空になった私の湯飲みにお茶を注いでくれる。さらにプラス5ポイント。
 慧音は絶対にいいお嫁さんになる。それは間違いのない確信めいた思いなのだが、当の本人はその気があるのかないのかそういう話を振ってもとぼけるばかりで、話題の軌道修正を図るために例え外が土砂降りの雨だろうが「今日は星が綺麗だろうか」なんてことを言い始める。
 私としては慧音に幸せになってもらいたい。伴侶ができるならそれに越したことはないと思っている。彼女は美人で頭も良いし、ちょっとだけ性格が真面目過ぎる所もあるけどそれがまた却って可愛いと思うし、褒めるべき箇所を挙げ始めたらきりがない。
 彼女の手料理を食べるべきなのは本当は私なんかじゃないのだ。
 それは、この里のどこかにいる優しくて見た目も良くて地主の家計に生まれたから土地なんかもいっぱい持っていて、里の女どもからキャーキャー黄色い声を飛ばされても色目を使ったりせずに、自分が心に決めた一人の女性を生涯愛し抜く、そんな男であるべきなのだ。
 決して、私なんかではない。

「肉じゃが美味しい」

 私はまたそう呟く。彼女は私の内心を知ってか知らずか、ただ満足そうに晴れやかな笑みを浮かべていた。



 翌日はよく冷え込んだ。
 寒さのピークは過ぎたはずだったが、それでも身が震えるような寒い日もまだやって来る。朝方から空には分厚い雲がかかっていた。私がいつものように薪割りの仕事を始めたのを境に雪がちらつき始めた。雪は積もるほどの勢いはなかったが、より一層寒さが身に染みた。
 私は斧を一度地面に置き、かじかんだ手に息を吐きかけた。
 未だやって来ない花の季節を思う。生命に溢れ、華やかさを身に纏ったあの季節を。空から依然として舞い降りてくる雪を、散りゆく花びらの姿に重ねた。
 その時一際強い風がぴゅうっと吹き、私の想像はいとも簡単に消え去ってしまった。へっくしょい、と大きなくしゃみをぶちかます。
 鼻の先が冷たさで痛みを感じる。雪は相変わらず細々と降り続け、止む気配はなかった。私は薪を切り株の上に置き、斧を手に取る。一度深く息を吐き、斧を目一杯振りかぶると、思い切り振り下ろす。真っ二つに割れた薪が地面に転がった。
 今日の分の薪をすべてたたき割り、散らばったそれらをいくつかの束に纏めて縛り上げる。錆び付いてうまく動かない納屋の扉を力ずくで開き、ほこりっぽい屋内に薪の束を仕舞い込んだ。
 仕事を終え、酷使した腕を労りながら何となく視線を裏手の林の方へ向けた。ふとその目が地面に植わっているある物を捉えた。
 ふきのとうだった。
 まだ寒さは色濃く残ってはいるものの、季節はしっかりと流れているのだなとしみじみ思う。蕾はまだ固く閉じられていたが、食べるには十分だ。天ぷらにすれば美味しいだろう。
 私がそのふきのとうをしゃがみ込んでじっくり観察していると、雇い主である初老の男性がやってきた。

「ははあ、ふきのとうか。もうそんな時期なんだねえ」

 と彼は目尻の皺を深くさせ感慨深げに呟いた。

「美味しいですよね、ふきのとう」
「私はあまり得意ではなくてね」
「そうなんですか」
「ここら辺には毎年結構な数が生えるんだが、私は食べないんだよ。せっかくだし採っていくかい? 探せば簡単に見つかるはずだよ」

 ただでいただくのはさすがに悪い気がして断った。他に誰か欲しがる人がいるのではないか、と。しかし、彼はそんな人には心当たりがないと言う。

「ふきのとうが大好物の人も探せば近くにいるかもしれないけれどね。でも、それよりはいま欲しがっている人にあげた方がいいだろう。君が欲しがっていれば、の話だけど」

 私は少し迷ったが、せっかくなので好意に甘えることにした。林に少し踏み入っただけでたくさんのふきのとうが見つかり、ものの数分で両手に収まらないほど集まった。ありがたいことに風呂敷まで貸して貰い、それに包んで持ち帰ることにした。
 はらはらと雪が舞う帰り道、いつものベンチの所まで来るとやはり慧音はそこにいた。今日は座っていなかった。本を読んでもいなかった。ベンチの横に佇んで、舞い落ちる雪のそのひとつひとつを見逃すまいとしているかのようにただじっと視線を空へ向けていた。彼女が差す朱色の傘が何よりも目を引いた。
 どこか幻想的な景色だ。

「慧音」

 呼びかけると、彼女は空へ向けていた視線をこちらに寄こす。それからいつものように笑顔を見せ、やっぱりいつものように控えめに片手を振ってくる。

「今日は寒いな。大変だったろう」
「それはこっちのセリフだよ。雪まで振ってるんだから、家にいれば良かったのに」

 彼女はもう一本傘を持っていて、それを差し出してきた。深い水の底を思わせる濃紺の傘だった。
 朱色と紺色の傘を並べて歩く。傘の下からそうっと慧音の顔をのぞき見れば、寒さのせいか頬がほんのりと朱に染まっていた。元々が色白の肌だから、その朱色がさらに際立っていた。色っぽいと思う。

「今日の夕飯はどうしようか?」
「昨日の肉じゃが、まだ残ってるでしょう。それでいいよ。寒いから早く帰りたい」
「いやあ、でも残り物というのもなあ」
「それだけじゃないよ。ほら、これもらったんだ」

 私は片手にぶら下げた包みを持ち上げる。さっき採ったばかりのふきのとうだと説明すると、彼女は「それはいいな。天ぷらにしよう」と喜んだ。
 今日は寄り道をせずにまっすぐ慧音の家に向かった。玄関先で傘に付いた水滴を振り払い、「お邪魔します」と一言断ってから扉を開けた。居間へ入った私はいつもそうするように座布団の上にどかりと座り込んだ。
 慧音はすぐに料理の仕度を調え、私が採ったふきのとうを持って台所へ向かった。廊下には彼女の影が伸び、ふきのとうが油で揚げられる音が響いていた。パチパチやらカラカラといった音は聞いているだけで腹が空いてくる。ぐうっと私の腹が鳴った。
 食卓には昨日の残り物の肉じゃがとそして揚げたてのふきのとうの天ぷらが並んだ。肉じゃがだけでも十分だと思ったが、やっぱり残り物だけでは少し寂しかったかもしれない。黄金色の衣を纏ったふきのとうのおかげで食卓の華やかさがだいぶ増したように思える。

「いただきます」

 私はさっそくふきのとうの天ぷらに箸を伸ばし、口の中に放り入れた。「まだ熱いぞ」と慧音が苦笑いを浮かべる。確かに熱かった。でも、口の中いっぱいに広がる苦味は何よりも私を満足させてくれる。

「うまい」
「そうか。では私もいただこう」

 慧音も天ぷらを箸でつまみ、口の前で一度ふうっと息を吹きかけてから、恐る恐るといった様子でかじりつく。

「ん、これは美味しい」

 彼女は満面の笑みを浮かべた。見た人の気持ちを和らげるような、そういう独特の柔らかさをはらんだ笑みだった。
 思う。
 こうして一緒に彼女と夕飯を共にできることはとても幸福なことである、と。
 自分の人生を振り返ってみれば、独りで過ごした夜の方が圧倒的に長い。温かい灯りの下で一緒に夕飯にありつくなど、それこそ私の記憶のごく一部にしか存在しない。
 だからこそ、今こうして気の合う彼女と一緒に美味しいご飯を食べられることは、何よりもありがたいことなのだ。
 ふとあの言葉を思い出す。

「ふきのとうが大好物の人も探せば近くにいるかもしれないけれどね。でも、わざわざ探すよりはいま欲しがっている人にあげた方がいいだろう。君が欲しがっていれば、の話だけど」

 私は慧音と一緒にいる時、彼女を独り占めしているような気がして誰に対してだかわからないけど何だか申し訳ない気持ちになる。また彼女に対しても、私以外の誰かといるべきなのではないかという思いが付きまとい、やっぱり申し訳ない気持ちになる。
 でも例えばこのふきのとうのように、本当に誰か強く求める人がやってくるまでは私がもらっておいてもいいのではないだろうか。そんな考えがふと頭をよぎった。
 慧音は美人で頭も良くて性格は少し堅いけれど優しくて料理もうまい。だからきっと人生における華やかな季節もいつかやって来ると思う。それまでは、私が一緒にいるのもきっと悪いことではないのではないだろうか。
 今度料理を手伝おう。その時に廊下へと伸びる二つの影は、端から見れば夫婦のように見えるかもしれない。例えままごとの影絵であったとしても、それはそれで楽しいじゃないか。

「贅沢だな」
「ああ、季節の物はその時期にしか食べられないからな。やはり旬を味わうのは何よりも贅沢だ」

 私が贅沢だと言ったのは慧音と一緒にいられることだったのだけど、そのことは黙っておく。もし言ったら、彼女は「何を馬鹿なこと」と呆れるかもしれないし、「変なことを言うな」と恥ずかしがるかもしれない。どちらにせよ、天ぷらを頬張り満足そうに笑みを浮かべている、その表情を崩してしまう。
 今はただ彼女の笑顔を眺めていたかった。









 2 季節を運ぶウグイスの鳴き声


 ぶっきらぼうで近寄りがたい。話も合わないし、そもそも話をしようという気持ちが伝わってこない。何より可愛げがない。ああいうタイプは名高い山吹屋の温泉饅頭の一番高い奴を土産として持っていってやっても鼻で笑って突き返してくる。間違いない。
 さすがに言いすぎなのではないかと私は思う。
 いつだったか、文が椛のことを表した言葉だった。
 もちろんそれは文から見た椛の印象であり、その視点には独自の偏見が混ざっているのは間違いなく、文の心象によって悪い部分のみが過度に装飾された言葉であったことは疑うまでもない。
 でも、半分くらいはあってると思う。
 私が案山子念報の取材のために外を飛び回っている(私だって文と同じようにフィールドワークする)と、偶に椛の姿を見かけることがある。そういう時、彼女は決まって一人だった。もちろん哨戒任務中に一人でいることは何もおかしいことではないし、任務に就く彼女の姿は凛々しく立派だった。仕事に対する彼女の姿勢は「真面目」であると周りからの評価も非常に高い。
 でも、である。でも、どうにも椛は他の天狗たちと仲良くしようとか、楽しくおしゃべりしようとか、そういった態度をまったく見せないのも事実で。
 そうすると、「あいつはどうにも愛嬌がない」という言葉も自然と聞こえてくる。椛の他人との接触を避けようとするかのような態度が気に食わない人も当然ながら出てくるし、そういう噂もやっぱり耳に入ってくるもので。
 でも、でも、でも。文が言った言葉は過剰であるし、椛にだって可愛い所はある。例えば、……ほら、えーと、……その、なんだ。……うん、あれだ。干し肉を囓る姿が野性的な所とか。

「何か用ですか?」

 干し肉を噛みちぎりながら椛は横目で私を見た。滝近くの岩肌が今日の彼女の持ち場であり、簡素な茣蓙を敷いた上に彼女がどしんと座り、右にぶっとくておっかない刀を左にもみじマークの入った若干キュートな盾を侍らせている。

「いやあ、その、……元気にしてるかなあと思って」

 若干しどろもどろになってしまったのは彼女の視線がやけに鋭かったからだ。まさか私に対して攻撃的な感情を持っているとは思えないけど、それでも一瞬どきりとしてしまう。
 椛は何も言わなかった。
 気まずい沈黙が流れ、滝の音がやたらと大きく聞こえた。今の時期は雪解けによって水量が増しているので盛大な水しぶきを上げるその姿には迫力があった。
 沈黙に耐えきれなくなり、私は再び口を開く。

「あ、そうそう。ほら水筒! 詰所の人が今日は寒いから椛に持っていってやれって。温かいお茶が入ってるみたい」

 ほんのりと温もりを感じる水筒を手渡しすると、椛は「どうも」とぶっきらぼうに答えて受け取った。

「でも、どうしてはたてさんが持ってきてくれたんです? 本来ならその係の者が持ってくるはずですが」
「ああ、それは、その……さっき私がその係の人とばったり出くわしてね。これから椛に会いに行くって言ったら、ちょうどいいからこれを持っていってくれって」

 嘘だった。その係の人とばったり出くわしたのは本当だけど、その後のことは出任せだ。本当はその係の人に「俺あいつ苦手なんだよ。頼む、俺の代わりにこれ届けてくれよ。今度何か奢ってやるからさ」と泣きつかれて仕方なく引き受けたのだった。
 椛はただ一言、「そうですか」と感情の読めない声で言った。

「えーと、まだまだ寒い日が続くわよね。これじゃあ哨戒の任務も大変でしょう」
「そうですね」

 彼女はどこか遠くに視線を送りながら素っ気なく答えた。

「でも雪解けはもう始まったし、そろそろ暖かくなってくるはずよね。早く過ごしやすい気候になってくれればいいのに」
「そうですね」
「私は寒いのあまり得意じゃないから。寒いのと暑いのどっちがいいかといえば、私は暑い方かな」
「そうですか」

 椛の返答は「そうですね」と「そうですか」の二種類しかなかった。これならにとりが作る音声付きロボットと喋ってる方がまだバリエーション豊かな会話が可能だ。
 私は段々と居心地が悪くなってきて、後ろ手に指を組んで人差し指だけをもぞもぞと動かした。何か気の利いた会話も思いつかず、これ以上会話を発展させる自信もなかったし、あまり長居しても椛に悪いかと思い、ここら辺でお暇することに決めた。

「じゃあ私はそろそろ取材に行かなきゃ。またね」
「はい。ではお気を付けて」

 私は岩肌から大空へと飛び上がる。冷たさをはらんだ風が襲いかかってくる。
 決して椛のことが嫌いではない。でも、もう少し色々とおしゃべりしてみたいし、彼女の方からも何か話を振ってきてくれればいいのにと思う。
 せめてもう少し愛嬌のある一面を見せてくれれば。そうすれば、もっと絡みやすくなるのに。
 そんなことを思いながら、澄み切った空を翔た。



 それから数日が経った。私は取材のために空を駆け回っていた。
 ここ最近は連日のように西の端から東の端まで飛び回っているのだけど、そう簡単に面白いネタが手に入ることはない。
 私の探し方が悪いのか、はたまたみんな同じように苦労しているのかわからないけれど、何の成果も上げられないまま疲労ばかりが蓄積していく状況は好ましくない。
 休憩のために川原に降りた。川のせせらぎを聞きながら、ため息をひとつこぼす。そこら中に転がっている石ころが何か特別な記事のネタに変わってくれればいいのに。
 私は石ころのひとつを手に取り、その石の表面がやけにつるつるとしている以外に何の変哲もないことを確認すると、適当な方向へ向けて投げつけた。石は草むらの中に消えた。
 文は今日もどこかを元気に飛び回っているのだろうか。きっとそうだ。もしかしたら特大のネタを見つけてほくそ笑んでいるかもしれない。自分が何もうまくいかないと他の誰かが代わりにうまくいっているような気がして、気持ちはさらに焦ってくる。
 私がもうひとつ足下に転がっていた石を拾い上げようとした時、ふと、

 ――ホーホケキョ。

 ウグイスの鳴き声だった。
 私は耳を澄ます。もう一度聞こえた。凛として響く、何とも奥ゆかしい鳴き声。
 その瞬間、不思議と私の周りにある世界が変化したように思えた。風にやたらと暖かさを感じる。目に映るものが途端に生き生きとし始めたように思う。どこにも新しい命が芽吹き、さらにまたどこかで眠りから覚めようとする生き物の気配を感じる。突然にして季節が切り替わってしまった。まるで本のページを捲るかのように。
 世界が変わったというよりは私の心情が変化したもので、急激に時の流れが速くなったとかそういうことは決してない。少しずつ変わっていくものに変化は感じにくい。例えば、髪の毛なんかは毎日の伸びているはずだけど、いつの間にか長くなっていることに鏡を見て気付く。それと同じように、ウグイスの鳴き声を聞いた瞬間に季節の流れを実感し、何もかもが変わってしまったように思えただけなのだ。
 頭ではわかってる。でも、まるで魔法だった。
 シンデレラは自分にかけられた魔法に驚いたけれど、私も同じ気持ちだった。一瞬の出来事はすっかり心に刻みつけられていた。
 私は何だか楽しくなってそれらの変化のひとつひとつをもっと感じようと、ゆっくりと歩き始める。
 新鮮な緑が目に付く。陽射しを浴び、きらきらと光を照り返す葉の一枚一枚に目を通していく。赤と黒の模様を背中に描いたテントウムシが一枚の葉の上で忙しげに動き回っていた。
 川の中に一瞬何か光るものを捉え、良く目をこらしてみれば数匹の魚が尾びれをひらひらとさせて泳いでいるのが見える。
 遠く、木の枝に一羽の小鳥が舞い降りた。さっきのウグイスかもしれない。
 そうだ。新聞の記事は何か季節を感じられるものにしよう。そう決めた。いま私が感じているこの気持ちを伝えられるような、そんな写真を添えて。
 雪の少なくなった山頂の写真を撮った。次は芽吹いたばかりの植物。雪解けによって水かさの増した小川。晴れた空に気持ち良さそうに飛んでいる二羽の鳥。それからも色々と写真を撮ってみたけれど、どうにもしっくりくるものはない。
 どうしたものかと頭を捻っていると、またウグイスの鳴き声が聞こえた。しかし、今度聞こえてきたのはどうにもおかしい。

 ――ホーホキョキョケ。

 しっくりこない。
 耳を澄ます。もう一度聞く。ホーホキョキョケ。やっぱりしっくりこない。非常にむずがゆい。下手くそな鳴き方をするウグイスもいるんだなあと思う。
 私は気になってその鳴き声の主を捜すことにした。声を頼りに少しずつ近づいていく。背の高い木の立ち並ぶ林の中に飛び込んで、顔をあっちこっちに向けてその姿を探した。
 下手くそな鳴き声は続く。そんな声で鳴いても素敵な相手はやって来ないのではないか。もうちょっとこう、スマートにというか、音程というか、他の鳥の鳴き声を参考にして欲しい。
 何度目かのホーホキョキョケが響いた時だった。その声のすぐ後を追うかのように、どこか別の場所から何とも美しいウグイスの鳴き声がひとつ木と木の隙間を抜けていった。
 そうそう、こんな感じ、と私は思う。
 新しい声の主はまるで下手くそな鳴き方をするそのウグイスに、こうするんだよといわんばかりに何度も何度も音痴な声の後を追って鳴いた。
 その美しい鳴き声には、見せつけるようないやらしさも、相手を馬鹿にするような傲慢さも感じなかった。親が我が子に何かを教えるときに見せる優しさを含んだ響きだった。私にはそう聞こえた。
 林の中を歩いていると突然視界が開けた。その先には広々とした空間が広がっていてその中心に大きな岩がひとつ、どかりと鎮座していた。
 その上に、見覚えのある影がちょこんと乗っかっている。
 椛だった。
 そして、さらに驚いたことに、

 ――ホーホケキョ。

 美しい鳴き声は彼女の口から発せられたものだった。
 口笛だ。
 岩の上に座り、足をぷらぷらさせて、今まで見たことないくらい柔らかな表情を浮かべて、口笛でウグイスの鳴き声を真似ていた。
 意外なものを目撃してしまった。まさかこのウグイスの鳴き声に聞こえた音は人の口から発せられたもので、しかもそれを発しているのが椛だったなんて。
 彼女にもこんな一面があったんだ。口笛を使って、下手くそな鳴き方をする本物のウグイスに正しい鳴き方を教えようとする彼女の姿は、端から見ていてとても可愛らしく思えた。
 私は木の陰からその様子を眺めていた。それから、こっそりとポケットからケータイを取り出す。写真機能をオンにする。昼モード、被写体は人型、手ぶれ補正は最大。各種設定を行い、椛の姿を写真に収めるべくケータイを構える。一番いいタイミングで撮ろう。これを記事にすれば絶対反響があるに違いない。椛のつっけんどんな態度に不快感を抱く人もいるけれど、こういった一面が彼女にもあるのだと知ればきっと見方を変えてくれるはずだ。元々容姿は上々だと評判はある。間違いなく椛は人気が出る。
 呼吸を止め、彼女の足の動きから手の先までに気を配り、最高に絵になるその一瞬を切り取ってやろうと待ち構え、ケータイを強く握り、ボタンに親指をかけ、そして、

 やめた。

 ケータイをポケットにしまう。
 椛のこうした一面を皆が知れば、周りの人達の彼女に対する態度も柔らかくなるかもしれないとか、人気が出て彼女に近づこうとする人が多くなるかもしれないとか、そうすれば椛の方にも何かしらの変化が生まれて、いい方向へ向かうのではないか。誰も損しないし、誰もが幸せになる。
 そんな考えは結局、新聞記事のネタに困った私が最高の獲物を前にして、自分の知り合いを記事の上で勝手に踊らせることに対して罪悪感を抱かないために作り出した言い訳でしかない。
 わざわざそんな大層な言い訳まで引っ張って来ないと書けない記事なんて、いらない。
 その代わりに、ちょっと悪戯してやろうと思った。それくらいは許して欲しい。
 場所を移動する。彼女の視線に入らないよう、背後に回り込んで足音を忍ばせてこっそり近づく。ゆっくりと慎重に足を動かす。あと一歩で彼女の座る岩に手がつく距離まで来ると、

「ねえ、私にもその鳴き声の出し方教えてよ」

 隙だらけのその背中に向かっていきなり声を掛けた。
 その瞬間、素っ頓狂な声を出して椛は岩から転げ落ちしまった。

「な、な……はたてさん! なんで、ここに……?」
「んー偶々かな。ね、あの下手くそなウグイスに鳴き方を教えてたんでしょう。もう一回聞かせてくれない?」
「あの、そのこれはですね、その何というか……」

 彼女は恥ずかしいのか顔を赤く染め、慌てふためいた。こんな椛は見たことがなかった。私は急に可笑しくなって笑った。
 椛は私のことを呆然と眺めていたけれど、ふと冷静さを取り戻したのか地面から立ち上がり再び岩の上に座り込んで、あからさまに顔をぷいと私から背けてしまった。
 その仕草がまた子供っぽくてなんだか可笑しかった。
 話がしたいと思った。色々な話をしよう。今ならきっとできる。
 どこかでウグイスが下手くそに鳴いた。









 3 咲きそうで咲かない桜のつぼみ


「桜の花って見たことある?」

 彼女は蕾の付いた枝にそっと手を伸ばし、愛しいものに触れるような優しい手つきで枝の表面を撫でた。顔を近づけ、ふうっと息を吹きかける。まるでその息によって閉ざされた蕾が目覚めてくれることを期待しているかのように。
 私が二度目の博麗神社訪問を敢行した時、博麗霊夢は境内に突っ立って自分の頭よりも少しだけ高い位置にある木の枝を熱心に見つめていた。背後から近づくと彼女は首だけを動かし、横目でこちらの姿を確認した。そして先ほどの言葉を放ったのだった。

「サグメ?」

 黙って口元に手を添える私に、彼女は体をくるりと反転させる。
 私の口は禍をもたらす。迂闊に何かを喋ることはできない。だけど答えを返さなかったのは、果たしてどう答えるべきなのかを考えていたからでこの能力のせいではない。
 もちろん桜は見たことがある。満開に咲く桜の花を。私の部屋にある端末をいじってデータベースにアクセスすれば、いくらでも画像が出てくる。しかし、それは果たして彼女の言っている「見たこと」に含まれるのだろうか。こうして実際に地上まで降りてきて自分の目で直に見たことがあるか? という質問だった場合、答えは「NO」になる。
 思考を巡らす私の姿をどうやら彼女は能力のせいで話せないのだと思ったらしい。

「ああ、そうか。喋るのは厳禁だったわね」

 そう言って勝手に納得してしまう。
 私はこの能力のおかげで他人から勝手な判断を下されることには慣れている。今みたいに喋らないでいると「能力のせいで口に出せないのだ」と思われ、私の能力を知らない存在に出会うと、「なんだこいつは変な奴」とか「無口で無愛想。怒ってる」といった風に見られる。
 慣れている。気にしない。ほんの少し、理不尽だと思うだけ。

「んで、どうしてアンタはここにいるの。また何か厄介毎でも持ってきたわけ?」

 私は首を振る。そしてたった一言、

「お礼」

 持っていた酒を彼女に差し出す。前回の異変では彼女たちの働きがなければ問題解決には至らなかった。そのことで礼のひとつくらいはしておくべきだと思い、遠路はるばるやって来たというわけだ。
 今度はたった一言ですべてを正しく理解したらしい。霊夢は笑みを浮かべて受け取った。

「あら、それは嬉しいわねえ。いいお酒?」
「最高に。私でさえあまり飲む機会に恵まれない。だから、大事に飲むことをおすすめするわ」
「いいわねえ…………あ、そうだ!」

 霊夢はいきなり大きな声を上げ、「ちょっとそこで待ってて」と今渡した酒をこちらに返すと、全力で境内を駆け抜けてどこかへと行ってしまった。私があまりの勢いに呆気に取られていると彼女は息を切らせてすぐに戻ってきた。敷物を腕に抱えていた。逆の手にはコップをふたつ。
 敷物は先ほど霊夢が眺めていた枝のすぐ下にしかれた。彼女はその上に座り込むと、こちらに来るように手招きする。言われるとおりにすると、コップを寄こしてこう言うのだ。

「さあ、始めましょう。お花見よ。ちょっとだけ時期は早いけれど」

 突如として始まった花見は、あまり地上に長居したくなかった私の事情など一切無視だ。半ば強引な形で参加させられることとなったが、これもひとつの礼の形だと思って受け入れることにした。貴重なお酒が飲みたかった、というのもちょっとだけあるけれど。
 霊夢は始まってすぐに私が月から持ってきた酒をがぶがぶ飲んだ。そして、酒をあおってはまだ蕾しかつけていない桜の枝へと視線を投げかけて、桜の美しさについて自慢げに語るのだ。まるでそれが自分自身のことであるかのように。

 季節の中でやっぱり桜の咲いている間が一番好き。ピンク色の花びらはどこか健気な感じがして可愛い。風に揺られひらひらと舞い落ちる花びらはとっても綺麗。微かに香る甘酸っぱい香りは奥ゆかしさを感じる。この神社でも本当に綺麗な桜が咲いて毎年楽しみにしてる。どこで見ても桜は綺麗だけど、川面に反射する桜は趣があるから開花したら一度は里まで足を運ぶべきだ。そんな言葉が彼女の口から次々と飛び出した。

 よっぽど桜が好きなのだろう。桜の枝の蕾へ向ける彼女の眼差しは、恋心を抱く乙女のようだった。
 私にはその気持ちはまったくわからない。桜を美しいと思う気持ちはない。わずかな期間しか咲かずすぐに散ってしまう花は、生と死を連想させるから。
 生きることと死ぬことは穢れであり、最も忌むべきもの。それが私の住む月の決まり。月では永遠に変わらないものこそ真に美しいとされる。一瞬しか咲き誇ることのできない花になど、どうしてそこまで心奪われるというのか。
 能力の発動を抑えるために口を閉ざしていることで唯一特をすると感じるのは、こうした風に誰かと自分の意見が合わない時。おやおや、どうやらあなたと私じゃ考え方がまったく違うようですね。そんなことをわざわざ口走って、無駄な対立を引き起こすことがないから。
 言葉には力がある。
 言葉を使って大きな作用を及ぼすのは何も私だけが可能な力ではない。言葉を使える存在なら誰だって持ち合わせている。
 たった一言放った言葉が時に人を傷つける。怒らせたり、泣かせたりする。逆に誰かを癒すことだってできるだろう。喜ばせたり、笑わせたり。
 心という器官は、言葉によって簡単に左右される。ひどく壊れやすい癖にいつだって無防備で、いともたやすく触れることができる。
 ねえ博麗霊夢さん。私には桜の美しさもわからなければ、あなたが桜にそこまで入れ込む理由だってこれっぽっちも理解できません。例え地上から桜の木がすべて消え失せたとしても、私の気持ちが揺れ動くことは決してないでしょう。そんなことを言ったら彼女はどういった反応を見せるだろう。
 と、そこで境内に新たな客がやって来た。

「お、なんだなんだ花見か? まだ桜は咲いてないってのに。おまけに珍しい奴までいるな」

 霧雨魔理沙。彼女は境内の地面に足を着けるなりこちらに寄ってきて、私のすぐ隣に「よっこらせ」と言って座り込んだ。

「開花の前にする花見ってのも乙なものじゃない? こうして蕾を眺めながら、これから咲き誇る桜の姿を想像してお酒を飲むってのも」
「確かに悪くないな。おい、私にも酒をくれよ」

 魔理沙が来たのを境に、それから続々と新しい顔が増えていった。宙にいきなり靄が洗われたかと思うと、それらがひとつに収束し小鬼の姿になった。小鬼はもうすでに酔っていた。空からミサイルでも落ちてくるような勢いで地面に降り立ったのは天狗だった。新聞記者をやっているらしい。いかにも我が儘な感じのする吸血鬼と傘を手にした銀髪のメイドが歩いてきた。その後に続いて、おかっぱの剣士とどこか育ちの良さそうな和服の令嬢が姿を見せた。メガネをかけたおさげの少女がびくびくしながら鳥居の影からひょっこり顔を出した。次から次へとまるで何か示し合わせたかのように、境内にひとが増え続けていく。
 私と霊夢、二人きりだった花見はいつの間にか大きな集合体となっていた。私が持ってきた酒は私と霊夢の二人でほとんど飲んでしまったけれど、どういう力を使ったのか小鬼によって新しい酒が土石流のように持ち込まれ、それに合わせて私が知らない料理が振る舞われた。

「ラザニアと言います。幻想郷ではなかなかお目にかかる機会はありませんね。一応は自信作ですので、良かったらどうぞ」

 咲夜と名乗ったメイドは、自分の作った料理を小皿に分けて私に寄こした。どうしようか迷う。地上の食べ物を口にするのはあまり好ましくない。本来なら避けるのが妥当な判断だったけど、今回は興味の方が勝った。
 フォークですくい、恐る恐る口の中に入れた。意外にも私の口に合う味だった。想像以上に美味しくて驚く。どうやら顔に出ていたらしい。咲夜はにっこりと笑ってみせた。
 美味しい料理の影響か、はたまたみんな元から酒が好きなのか、大量に持ち込まれた酒は信じられない勢いでなくなっていった。
 皆のペースにつられたのかもしれない。一人で飲む時よりもずっと酔いが回るのが早かった。
 私は酔ったらおしゃべりなる。ということを期待したのなら残念。そんなことはない。でもたいていの人は酔えば饒舌になるもので、そしてこの場所で饒舌になったひと達が話すことと言ったら桜についてだった。

 ――ああ、桜が咲くのが楽しみでしょうがないわ。咲いたら毎日宴会だな。花びらを一枚、杯に浮かべると実に雅だぞ。いいわね、それやってみようかしら。花びらの散る様は美しいのだけど、庭を掃除するのが大変でして。うふふ、それもまた一興じゃない。館の屋上から眺める桜は綺麗でねえ、パーティーを開くのもいいかもね。お、でしたら是非そこから写真を一枚。桜を見ると新しい生活が始まるのを意識するわー。

 皆の顔を見れば誰もが桜を好んでいるのがわかる。どの表情にも、羨望のような、待ちこがれるような、そんな意識の欠片が見え隠れしていた。
 人々はこう言う。桜は美しい、と。そしてそれはまったく嫌みのない素直で純粋な言の葉として私の耳に飛び込んでくる。
 不思議だ。どうしてこんなにたくさんのひとがいるのに、誰一人その認識に異を唱える存在が出てこないのか。桜は、それほどひとの気持ちを捉えて離さないものなのだろうか。
 私にはわからない。
 日が高いうちから始まった花見は、日が暮れてからも賑わいを保っていた。むしろ参加人数が増えた分、さらにやかましくなっている。笑い声が境内のそこかしこから上がった。
 霊夢はいつの間にか横になって静かな寝息を立てていた。
 まったく、事の発端はすべてこの巫女だというのに誰よりも早く酔いつぶれては何とも気持ちよさそうな表情で寝ている。こうして見ると、どこにでもいるようなただの女の子にしか思えない。
 まだ花を咲かせない桜の枝はそんな彼女の姿をまるで笑っているかのように、風にあおられて小刻みに揺れていた。
 そこでついに私も限界が来た。酔いが心地のいい気怠さをもたらした。思考を働かせることが面倒になり、霊夢と同じように横になる。火照った顔には地面の冷たさが気持ちよく感じられた。
 目を閉じてすぐにすうっと水の底に落ちていくような感覚に襲われ、やがて耳から聞こえてくる喧噪も遠のいていった。



 まず感じたのが匂い。
 甘いような、酸っぱいような、目を閉じてなければ気付かなかったかもしれないほど微かな匂いだったけれど、確かに感じた。
 次にやってきたのは何かが頬を撫でる感触だった。小さく柔らかい何かが頬にそっと触れ、涙の雫がこぼれ落ちる時みたいに頬の表面を流れていった。
 私は今触れたものが花びらだとわかった。なぜわかったのかはわからないけれど、確信めいた思いがあった。
 目を開ける。
 顔だけを動かし辺りの様子を確認する。そこは見たこともない場所だった。月の都でもないし博麗神社でもない。私は緑の映える草原の中に寝そべっていた。そのことに特に疑問は感じなかった。
 手をついて起き上がろうとした時、ふと手元に視線がいった。人差し指と中指の間に花びらが一枚、落ちていた。
 私はその花びらをつまみ上げると、目の前まで持ち上げてじっくり眺める。薄ピンク色の小さな小さな一枚の花びら。どこかで見たことがあるような、でもやっぱり見たことがないような、どちらともつかないむず痒い感覚に襲われる。
 私が手を離すとそれは風に舞い上げられて空へと吸い込まれていった。
 空に向けた視線を下に戻すと、霊夢がいた。
 大きな木の幹の前でこちらを背にして立っている。私は立ち上がり、彼女の方へと後ろから近づいていく。
 彼女は首だけを動かして背後を振り返った。目があった。そして、静かな口調でこう言った。

「桜の花って見たことある?」

 どこかで同じようなことを尋ねられたことがあったような気がする。はっきりとは思い出せない。何もかもがおぼろげな感覚。
 私が何も言葉を返さないでいると霊夢は横に来るように手招きをした。私が素直に従い彼女の横に並び立つと、霊夢は右の人差し指である場所を指した。
 花が一輪、枝の先で咲いていた。
 私はそこでようやく、目の前にある大木が桜の木であることを知る。
 霊夢はそれから手を伸ばして、花の付いた枝を指先でそうっとなぞるように撫でた。枝の先端に咲かせた花の手前で指を止め、背伸びをして顔を近づけると、ふうっと息を吹きかけた。
 驚きのあまり声が出るかと思う。
 霊夢が息を吹きかけた瞬間、まだ一輪しか咲いていなかったはずの桜の枝が、次から次へと蕾を開き、薄ピンクの花をふわりと咲かせた。
 その変化は先端から枝の根元へ、やがて幹へと移り、他の枝へと広がっていく。あっという間に冬眠状態にあった桜の木は私が先ほど感じた甘酸っぱい匂いを放ちながら、やがてすべての蕾を開いてみせた。
 満開の桜が私たちの前にあった。花を身に纏った桜の木は、枝ばかりが目立った時よりもずっと鮮明で、空を覆うかのように何倍にも体積を増した姿はまるで花そのものが光を放っているかのように眩い。眩い光景の中で、はらりひらりと花びらが私の顔に向かって舞い降りてくる。まるで悪戯でもするかのように鼻先をくすぐっては、肌の表面にこそばゆい疼きを残して流れ落ちていく。
 声が出るかと思うほど驚いたと思ったら、今度は呆気に取れて声すら出ない。
 幾重にも舞い落ちる花びらの一枚一枚が不規則に揺れ動く度に見え方を変えるものだから、一瞬とて同じ姿を維持しない。瞬きをした瞬間、今目の前にあった光景はまるで別のものへと変化して目に映る物すべてが常に新鮮な状態だった。まるで万華鏡のよう。
 圧倒される。
 永遠に変化しないものこそが賛美されるべきだったはず。常に変化を続けるものに心奪われることなんて絶対になかったはず。というのに、私は今ここで繰り返されている変化をずっと眺めていたいと思った。
 視界の端に霊夢の横顔が映った。彼女の方へ視線を送ると、彼女もこちらを向いた。そして、にやりと笑みを浮かべた。まるで「ほらね、綺麗でしょう?」とでも言わんばかりに。
 そこで急に視界がぐにゃりと揺れ動いた。意識が覚醒へと向かい、体が浮上する感覚を得る。

「もう時間ですよ」

 霊夢がそう言う。いや、つい先ほどまで霊夢だったはずの女の子が、だ。尻尾が生えている。ナイトキャップを被っている。
 私が最後に見たもの。それはひとを小馬鹿にするような独特の微笑みだった。



 目が覚めた時、私は博麗神社にいて目の前には霊夢の寝顔があった。
 のっそり起き上がる。
 辺りを見渡してみれば、死屍累々。酔いつぶれた者達が折り重なり合って地面に伏している。
 聞こえるのは酔っぱらいのいびきくらいで、それ以外にはまったくの物音はなかった。
 先ほど見た夢を思い出す。
 空を覆うように伸び広がった桜の木も、雨のように舞い落ちてくる花びらも、得意げな顔を浮かべた霊夢も、何もかもが嘘っぱちだった。何もかもが嘘っぱちだったくせに、今私の胸の中で早鐘のごとく打ち鳴らされる心臓の鼓動は本物で――。
 深く息を吐いた。
 立ち上がり、伸びをする。すると、伸ばした腕が何かに触れた。上空へ視線を向ければ、桜の枝が揺れていた。
 まだ蕾だ。
 どこへ視線を向けても、ごつごつとした枝の茶色ばかりが目立って、花はやっぱり咲いていない。
 と、その目がやたらと白い何かを見つけた。はっと思い、その場所へと駆け寄ってみる。
 咲いていた。いつの間にかひっそりと、ただ一輪の桜の花が枝の先で物静かに開いていた。
 私はしばらくその花を眺めてから周りに目をやって誰も起きていないのを確認すると、そっと息を吹きかけてみる。
 当然ながら夢の中の霊夢のようにその一吹きによって桜の蕾が次々と花開いていくなんてことはない。小刻みに揺れ動くだけだ。
 桜はまだほとんどが眠りの中にある。いまはまだ寝かせておいてあげるべきなのだ。いずれ自然と眠りから覚める時は来るのだから。この境内で眠りこける酔っぱらいどものように。
 そう考えると、誰よりも一足早く目が覚めた私とこの一輪の花は同じ境遇にあるということだ。
 私はなんだかとってもおかしくなって、口元に手をやった。
 皆が待ちこがれる季節はもうすぐそこまで迫っている。一足早く、私はその息吹に触れた。
 私の中で劇的に何かが変化した。かといえば、そういうことはまったくない。
 だけど、また来ようと思った。
 桜が満開になったら、その時またこの場所に。
 今度は自分の目で、夢でも幻覚でもない本物の桜を直接見るのだ。その時まで、地上とはしばらくさよなら。
 私はその花に向かって再び息を吹きかける。
 一輪の花は、ただ静かに揺れ動いていた。




桜は好きです。
わずかな期間しか咲いている姿を見られないというのは寂しくもあり、だからこそ美しいとも思い…………悩ましいです。
あめの
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.480簡易評価
2.90名前が無い程度の能力削除
良かったです
3.100名前が無い程度の能力削除
美しい
4.90奇声を発する程度の能力削除
素晴らしかったです
5.100名前が無い程度の能力削除
 楽しませて頂きました。
6.100南条削除
美しいお話でした
7.100名前が無い程度の能力削除
それぞれ春の訪れを感じさせる素敵な作品でした。

ままごとの影絵とふきのとう
妹紅視点で、妹紅の思いを乗せて描かれる慧音の魅力が詰まっていてよかったです。

季節を運ぶウグイスの鳴き声
椛の印象のギャップが素敵ですね。親近感の湧くように丁寧に展開されていくのがより良さを感じさせます。

咲きそうで咲かない桜のつぼみ
桜の幻想的な描写が美しく、感嘆が漏れると同時にサグメの価値観も変わるのも当たり前だと感じさせていいですね。
10.100名前が無い程度の能力削除
春本番に向かっていく幻想郷の一コマ。
妹紅のはたてのサグメの思いがありありと伝わってきてほっこりさせていただきました。
ただ妹紅は気づいてあげてよw次回作も楽しみにしております。
11.100名前が無い程度の能力削除
よかったです。
椛の話が特に好きです。口笛の着想が素晴らしい。
12.100大根屋削除
最高に綺麗なお話でした。特に最後のサグメのお話は、とても好きです。満点!
13.100名前が無い程度の能力削除
皆可愛らしかったです
15.100絶望を司る程度の能力削除
大変面白く読ませていただきました。
21.100名前が無い程度の能力削除
二つ目の話が好き
全部面白いけど、どれもちょっと長いですね
22.100名前が無い程度の能力削除
どれも良かったです