Coolier - 新生・東方創想話

ラスト・ロール

2016/02/01 00:30:16
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「紫がいなくなったの」
 メリーの泣きそうな声が受話器の向こうで木霊する。蓮子はすぐに返事ができなかった。彼女の言葉が頭の中で輪郭を持たなかったのだ。
 壁に埋め込まれた電子時計が午後九時半を指し示していた。目の前には薄型のラップトップが置かれていて、画面に学生たちのレポートが映されている。あと三日で二十数人の採点を終わらせなければいけないのに、まだ三人目も終わっていない。右下には教授会のメールの通知が見える。そうだ、明日の講義の準備もまだ全部終わっていない。
「ねえ、蓮子」
 もう一度、メリーの声が耳に刺さる。そこで、初めて蓮子は何かがおかしいことに気づく。意識は電波を通して、蓮子の部屋からメリーの元へ向かう。気づけば応えていた。
「行く、今すぐに」
 そして蓮子は電話を切った。メリーの返事も聞かずに。

 ラップトップを閉じて、部屋を見渡した。特に片付けるべきものはなかった。調理器具も使っていない。洗濯はさっき終わった。さっき淹れたばかりのインスタントコーヒーは忘れることにした。明日の講義は午後からだから、明日なんとかしよう。
 玄関に脱ぎ捨てたままの靴を履き、下駄箱の上のキーを手に取って、部屋の灯りを消した。しんとした闇を背に、蓮子は家を出た。マンションの古いエレベーターに乗って地下駐車場に出る。一番奥に置かれた青いコンパクトに乗り込んで「エア」を起動した。ハンドルスクリーンに様々な情報が映し出される。車検まであと二ヶ月、バッテリーの交換時期もあと二ヶ月。夜の京都は晴れ。人通りは少なく、渋滞はなし。
 蓮子はエアのハンドルを握り、ギアをドライブに入れようとした。けれど、左手が思うようにギアを握れなかった。耳の奥で残響するメリーの声が、手の自由を奪っているようだった。しかたなくハンドブレーキの横のスイッチを押し、運転モードを自動走行(オートマチック)に変えた。「お気に入り」からメリーの家を目的地に設定すると、女性のアナウンスが鳴って車が走り出した。
 地下の駐車場から外に出ると、まばらな京都の街明かりが蓮子を迎えた。エアの予想通り、道行く人もまばらだった。数日前のニュースでは、京都の人口がピーク時の半分ほどになったと報じていた。その当時と今の夜景を比べたコメンテーターは、寂しくなってしまいましたねと述べていた。蓮子はそう思わない。人が減ったからといって人々の豊かさは失われていないし、夜に電気を点けないのは、単にその必要がなくなっただけだ。昼間に少し仕事をして、夜は早く寝る。昔の人々が理想とした今の生活を寂しいと思うのは、ただのノスタルジーでしかない。そして今、ナビの画面の左上ではヒロシゲがもうすぐその役目を終えるというニュースが流れていた。
 蓮子はシートをゆっくりと後ろに倒し、脚を組んで窓の外に視線を投げた。空には満月が浮かんでいる。2135年5月27日21時53分15秒、16秒……相変わらず、自分の目は日本標準時刻で刻まれている。彼女は長いため息をついて、車内冷房を弱で入れた。心地よいイオン風が髪を揺らして、ゆっくりと眠りへ誘いはじめる。ここ数日の実験であまりよく眠れていないせいかもしれない。彼女の視界の中で満月は不規則にゆったりと揺れ、やがてぼやけていった。エアの中で彼女は微睡み、意識と無意識の境界を漂う。微睡みは長いフラッシュバックへと変わっていった。

  ◆

 メリーが結婚したのは今から十年も前になる。相手の名前は「八雲晴太」という。メリーと彼は大学時代に出会ったのだと聞いた。彼らの結婚式に蓮子は呼ばれ、彼女と結婚相手がキスをするのを見た。それは蓮子には信じられない、信じたくない光景だった。
 彼女は式場のビルの屋上に逃げ出し、追いかけてきたメリーと出会った時のことを語り合った。それが蓮子の感情を膨らませていき、とうとう抑えきれなくなってしまった。蓮子はメリーに口づけをする。後にも先にも、彼女とキスをしたのはその一度だけだった。
 けれど、そのキスが、彼女が今まで抱き続けていたものを静かに切り崩した。メリーと自分は大学時代とは違う。メリーの唾液と一緒に、蓮子の体にはその事実が染み込んでいった。その日、彼女はみすぼらしくも大切に抱えていた自分の夢を捨てた。また現実の中に戻るだけの話なのだと、そう言い聞かせて。

 蓮子は自分が通っていた大学で働きはじめ、物理の研究を続けた。数々の論文を発表し、その成果は誰もが認めるものだった。その結果、助教授、准教授、教授と立場は上がり、教鞭もとるようにもなった。メリーもある企業の経理でしばらく働いていた。
 メリーが結婚してからも彼女とは度々会った。彼女が住むマンションに行ってのんびり話をしたり、喫茶店に行って甘いものを食べたりした。けれど、もう不思議な出来事の話はしなかった。それぞれの仕事の話だったり、メリーの夫の話だったり、蓮子に相手がずっといないことだったり。誘うのはもっぱらメリーの方で、ときどき蓮子は嘘の理由で誘いを断るときもあった。
 そのうち、メリーは仕事を辞めた。結婚して三年後のことだった。彼女の夫との間に子どもを授かったのだ。数ヶ月もすれば彼女のお腹は大きくなり、それから三ヶ月経って子どもは無事に産まれた。
 蓮子がその子どもを見たのは、出産から二日後のことだった。病室に入ると、ベッドの脇には晴太が、ベッドの中にはメリーが、そして子どもはメリーの腕に優しく抱かれていた。赤ん坊は小さく、くしゃくしゃで真っ赤な顔をしていた。戸惑いながら赤ん坊に触れる蓮子に、父親となった晴太が蓮子に赤ん坊の名付け親になってほしいと告げた。メリーも笑って肯いた。二人でずっと考えていた、という言葉を添えて。
 それから数日間のことは蓮子の記憶にない。思い出せるのは、同じ病院のベッドで子どもの名前を告げたときからだ。
「紫」
 これから生きていく中で、いろんな縁やゆかりがありますようにという意味だと説明した。それは素敵だ、と二人は蓮子に感謝した。そして、二人とも嬉しそうに、何度も赤ん坊をその名前で呼んだ。けれど、蓮子が本当に込めた想いには、二人とも気づかないままだった。
 紫が生まれてからも、メリーはそれまでと変わらない付き合いを蓮子に求めた。そして、蓮子はその清らかな願いに応えた。メリーの家に行って晴太も交えた食事をしたり、時には紫の世話もした。紫が大きくなって自意識を持ち始めると、蓮子が数学を教えることもあった。
 知らない人が見れば、八雲家は幸せそのものだった。よい夫と、よい妻と、可愛い子供と、仲の良い友人。その友人が抱えている歪な思いは些細なことに過ぎない。他人が読むその物語の主人公は、蓮子ではないのだから。

 けれど、こんな幸せなはずのメリーは叫ぶ。
 紫がいなくなったの、と。

  ◆

「まもなく、目的地です」
 そのアナウンスに、蓮子は微睡みから引きずり上げられた。もう車はメリーの住むマンションの近くまで来ていた。眠りの水辺でぼんやりしながら窓の外を見ると、彼女たちの部屋からあたたかい光が漏れているのが見える。それが蓮子にはひどい皮肉のように感じられた。
 紫はあの部屋にいない。

 エントランスでメリーを呼び出したが、反応はなかった。しかたなく、以前に教えてもらった暗証番号で中へ進み、彼女の部屋の玄関扉をノックした。それでも反応はない。ハンドルを引くと、ドアはあっさりと開いた。
「メリー」
 家の中に入った瞬間、そのひどい有様に蓮子は動揺した。土間から廊下までの通路に、ありとあらゆるものが打ち捨てられていた。衣服や歯ブラシや食器や写真、それらが乱雑に。
「メリー!」
 もう一度彼女を呼ぶと、リビングから小さな悲鳴が聞こえた。蓮子は靴を脱ぎ捨て、落ちているものを踏まないように気を付けながら、リビングへ向かった。
 リビングは廊下以上だった。家電もテーブルも位置が滅茶苦茶だった。食材が冷蔵庫から放り捨てられていた。ガラスの食器は割れている。そして、メリーは部屋の真ん中の、ライトブラウンのソファに座って、うずくまっていた。
「これ、メリーが全部やったの」
 黙って顔を上げたメリーが、何よりもひどかった。いつも綺麗に整えられている金色のショートヘアは、一度溶かしたあとで無理矢理固めたようだった。化粧は涙でぼろぼろで、すっぴんの方が全然ましだと思える。
「紫がいないの」
 不意に出たメリーの言葉は、問いかけへの返事ではなかった。声はひどくしわがれていて、言葉として聞き取るのも難しかった。
「どこを探してもいないの」
 それきり、また二人は沈黙に沈む。湿った空気の中で立っていることに、蓮子は苦しさを覚えた。彼女はひとまずキッチンに入り、食材の片付けから取りかかる。冷蔵庫を開くと中には何も入っていなかった。本当に何もかもを探したのかと蓮子は呆れた。カウンター越しにメリーに尋ねる。
「フォンの位置情報は?」
「お昼までは足跡があった。でも、夕方から急に反応が消えて、そこからは何も動きがないの。電話をしても全然繋がらない、メッセージも届かない」
 醤油の瓶から中身がすべて床に溢れていた。蓮子は布巾を探して、それを拭き取る。メリーがソファから動く気配はない。
「出かける前に何か言わなかったの?」
「あの子、私に行き先を告げなかった」
「隠したってこと?」
「私が聞いても全然教えてくれなかった」
「それであなたはそのまま紫を家から出したわけ」
「あの子がそんなふうに反抗するのは初めてで、私も戸惑って」
 きゅうりの横に落ちていたインスタントコーヒーの袋を拾い上げた。ココアはマーマレードジャムの横に転がっていた。それをカウンターに置いて、他のものは手当たり次第冷蔵庫に詰め込んだ。
「家出かもしれないね」
 蓮子がそう言うと、メリーから嗚咽が漏れた。つんと蓮子の胸に後悔が刺さる。
「私が、もっと、ちゃんと、聞いていれば、紫は、ああ」
 それ以上は言葉にならなかった。後悔と自責の念に追い詰められていたところに、私がとどめを刺してしまったのだろう。そんなメリーの状況すら察せられなくなったのか。蓮子は自分への嫌悪感をため息に滲ませた。
 彼女が泣き続けている間、マグカップをゴミ箱の裏から拾い上げて、丁寧に流しで洗った。それから湯を沸かし、インスタントのコーヒーとココアを作った。
 彼女が落ち着き始めたあたりで、ココアが入ったマグカップを彼女に手渡した。あじさいが描かれたマグを彼女は受け取り、中身に少し口をつける。蓮子はメリーの横に腰かけ、濃いブルーのマグに淹れたブラックコーヒーを一気に半分ほど飲んだ。熱さと苦さが喉から胃を焼いていく。粉末の量を間違えてしまったのかもしれない。
「メリー、ちゃんと教えて。紫がいなくなるときのこと」
 メリーは目を開いて、澄んだ碧い目を蓮子に向けた。その睫には涙が絡んで、薄暗い部屋の中できらめいて見えた。顔はひどくても、その目はすごく綺麗だ。蓮子は幾度となく思う。
「朝、起きたときから少し様子が変だった」
「どんなふうに」
「あまり私を見なかったし、ときどきどこでもない場所を見てぼんやりしていた」
「それから」
「朝ご飯の後片付けのとき、あの子は外に行くって言ったの」
「そのときにあなたはどこに行くのかを尋ねたのね」
「でも、教えてくれなかった。黙ってドアから出て行って。私も手が離せなかったから、追いかけなかった」
「その前に何かおかしなことはなかったの?」
「わからないわ。その日も、その前の日も普通だった」
「普通って?」
「幼稚園に行って、家に戻ったら本を読んで、ご飯を食べて、それから私と一緒にお風呂に入って、一緒のベッドで寝て」
「それ以外には?」
「なかった」
 メリーはココアをもうひとくち飲んで、急に思い出したように言った。
「いえ、今日、ベーコンを残したわ。二枚ある内の一枚を残した」
 メリーの口調は重々しかった。
「何か言っていたの?」
「お腹いっぱいって、そう言っていた」
 それは単純にそうなんでしょう、と蓮子は言い返したかった。そこにどんな意味がある?
「そうよ、そのときにちゃんと聞けばよかった」
 再びメリーの目に涙がにじみ始めた。蓮子は肩をすくめて言った。
「わかった、それで警察には連絡した?」
「警察!」
 その言葉が出た瞬間、メリーがわっと泣き出してしまう。
「連絡、していないんだね」
 蓮子はコーヒーを一気に飲み干した。胃の中がぐつぐつする。
「夜になっても帰ってこないんだから、連絡した方がいいよ。あなたができないんだったら、私が連絡する」
 蓮子はフォンを手に取った。けれど、その腕にメリーがしがみつく。蓮子とメリーの手からマグが離れ、鈍い音を立てて床に落ちた。ココアがどろりと床に広がった。
「蓮子、それは、だめ」
「どうして」
 気づけば蓮子も声を荒げていた。
「何を考えているの、あなたの子どもが消えたのよ」
 不意に、壁に飾ってある写真が視界に入ってきた。そこにはメリーと紫と晴太が写っている。蓮子は不意にメリーに尋ねた。
「晴太さんにはこのこと、言ったの?」
 メリーは首を振った。そして、やめて、と小さく告げた。
「蓮子以外に、言えない」
 お腹がコーヒーの苦さに悲鳴を上げている。いつもと違う粉末をどう処理すればいいのか、わからずに苦しんでいる。ラベンダーが活けられた花瓶が、空の花瓶に寄りかかっている。空の花瓶は壁に押しつけられるようにして、やっと立っているようだった。
 しばらくの沈黙のあと、蓮子は力が抜けたようにソファに腰を下ろした。
「警察と、晴太さんに、連絡して」
「いやよ」
「あなたが電話しなければ、今度こそ私が電話する」
 メリーは一瞬泣き止んで蓮子を見た。蓮子は彼女の瞳に自分の姿を見出せなかった。再び彼女の目から涙が溢れて、彼女が泣き崩れてしまったから。

 泣き疲れたメリーが警察と晴太に連絡している間、蓮子は部屋の片付けを続けた。床にこぼれたココア、メリーの下着や、晴太のシャツ、紫のスカート、スーパーボール、リボン、ボールペン、単三電池。ときどきメリーの話し声に耳を傾けても、彼女の言葉は途切れ途切れだった。
 ものを片付けたあと、テーブルとソファを元の位置に戻した。すると、ソファの下から一冊の本が見つかった。子ぎつねが地蔵の上に乗っている絵が描かれている。絵本にしては少し厚く、もの悲しい雰囲気だ。少し前、この本を紫に読んだこともあったか。それを本棚に戻すと、隣の数学ドリルが目に入った。「やくもゆかり」と背表紙に可愛らしい字が書かれていた。蓮子が紫に計算を教えていたときに使っていた本だ。
 紫、と声に出さずに蓮子は言葉を口にする。あなたのせいで本当に滅茶苦茶だよ。勝手に消えて、メリーには探してほしいなんて期待を勝手にかけられた。そんなあなたをどうして私が探さなければならないの。あなたを探す理由は、私には何ひとつありはしない。

 メリーの電話が終わる。警察がもうすぐ家に来て、事情を聞き、捜索を始めるということだった。晴太は仕事でイギリスにいるが、すぐに飛び帰ってくるとメリーに伝えていた。二日弱かかるそうだ。メリーがそれを蓮子に伝えると、彼女はまた涙をこぼしてソファに倒れ込んだ。
 すぐに、彼女はソファで寝息を立て始めた。小さく、弱々しく、ときどき嗚咽が混じる。蓮子は彼女の背中を撫でた。いつか触れたときよりも弾力は失われていた。私もメリーも、三十六になるのだから当然か。
 蓮子はキッチンに行って、もう一度インスタントコーヒーを作った。お湯を注いでいる間、カーテンの隙間から星と月が見えた。正確な時刻は、蓮子に明日の講義を思い出させた。
 カウンターテーブルに座り、コーヒーを飲みながら蓮子はメモを書いた。
 私は講義があるから、もう行きます。あとは警察と晴太がなんとかしてくれると信じているから、大丈夫。まだ一日だけなんだから、どこかでフォンを落として迷子になっているだけかもしれない。むやみに悲しまないでください。
 書き終えると同時に蓮子は一気にコーヒーを飲み干した。そして、メリーの横にメモを置き、メリーの家を出た。色々なことを置き去りにしたかった。けれど、罪悪感だけは置き去りにできなかった。

 真っ暗な自分の部屋に戻り、灯りを点ける。時計は十二時過ぎを示していた。蓮子は靴を脱ぎ捨て、デスクチェアに腰かけると、モニターが自動的に点いて未読のメールを開くように告げた。急に居心地が悪くなって蓮子は席を立った。
 ベランダに出て下を見下ろすと、小さな広場の隅に電話ボックスが見えた。蓮子は小さく息を吸い込む。今はあるはずもない電話ボックス。再びそれが目の前に現れた。蛍光灯の冷たい光の中に、古びた緑色が浮かんでいる。
 蓮子とメリーが秘封倶楽部として最初に見つけた不思議が、その電話ボックスだった。幻のように現れては消え、蓮子の心は振り子のように揺れて、それがメリーとの繋がりとなった。けれど、夢を捨てると誓ったあの日から、電話ボックスは姿を消した。蓮子はそれを不思議なことだとは思わなかった。
 それが、どうして今さら。

 気づけば電話ボックスの前に立っていた。扉を開け、蓮子は中に入った。自分の知らない、けれどどこか懐かしいコンクリートの匂いがした。かすれた茶色のスポンジで巻かれたバーが端にある。緑色の機械の下の棚に、ページの角が丸まってしまった電話帳が置いてある。そして上を見ると蛍光灯があって、その両端が黒くくすんでいた。
 蓮子はぎこちない動きで電話機の受話器をとった。くるくると螺旋状に巻かれたコードが電話機とつながっている。それが蓮子の胸にひやりとした何かで満たしていく。十円硬貨はもちろん持っていない。もう数十年前に硬貨はなくなっているのだ。それでも蓮子は受話器を耳にあてた。
 電話はどこにも繋がっていない。けれど、何かが聞こえた。本当にかすかだが、高い音が聞こえる。きいん――それは悲しい叫び声だった。蓮子にはそれがわかった。遠い遠い鳴き声は蓮子を呼んでいるようでも、拒絶しているようでもあった。蓮子は受話器を置く。再び沈黙が電話ボックスを満たした。
 ずっとこの中にいるのだと思っていた。憧れはガラスを隔てた先に置いてきたはずだった。それなのに、紫も電話ボックスも、私をもう一度あの世界に連れ戻そうとしている。けれど、私はその場所には戻らない。とうの昔にそう誓ったのだ。

 ガラス戸を開けて外に出る。扉を閉めると、電話ボックスは姿を消した。蓮子の顔に夜の影が落ちてきた。彼女はフォンを取り出して、未読のメールをようやく開いた。蓮子の勤める大学の教授会からだった。東京の大学で講義をしてほしいという依頼、それも二日後。いつもだったら、すぐに断って寝てしまうのに。採点だってまだ終わっていないのに。蓮子は承諾する文面をフォンに打ち込んでいた。


  2

 酉京都駅から出たヒロシゲの車内は多くの人で賑わっていた。二日前のニュースで、ヒロシゲがもうすぐ運行をやめると報道したせいだろう。煤けたガレイドスクリーンに造形の富士が描かれるときには、あちこちでわっと歓声が上がった。モロノブの方を選べばよかったと蓮子は後悔する。目を瞑って、富士を視界から締めだした。目を開いたときには卯東京に到着していた。
 東京駅から、旧山手線に乗り換える。ちょうど一分前に電車が行ったばかりで、次の電車が来るまでは三十分ほど待たなければならない。ヒロシゲのときからついてない。見渡すと、ホームには五六人しかおらず、みんな半袖だった。どこへ行くのだろうと蓮子は不意に思う。九十九里浜に行くにはまだ早すぎるし、山に行くには別の路線に乗らないといけない。地元の人は車で移動するのがあたりまえだ。蓮子は乾いた木のベンチに座って、何をするでもなくただ電車を待った。上を仰ぐと。ホームの屋根に小さな隙間が見えた。空は雲ひとつない快晴だった。じわりとシャツの襟元に汗が浮かぶ。
 やっときた電車に乗って十五分。目的の駅の改札を出ると、日差しが蓮子を容赦なく照りつけた。そこから十分ほど歩く。道はまったく舗装されておらず、アスファルトの間から雑草が背伸びをしていた。キャスターを引きずりながら坂を登ると、アゲハ蝶が目の前をよぎった。キン、と坂の上のグラウンドから快音が響いた。
 坂を登り切った先が蓮子の実家だった。瓦葺きの屋根、少し歪んだ檜の柱、裏庭へ抜けるアルミ製の門、緑が繁る桜の木。蓮子は鞄の底から鍵を取り出した。それをしなびたブロンズの錠に差し込み、反時計回りに回した。がちゃり、と仰々しい音を立てて錠は外れる。
「ただいま」
 扉を開けると同時に出した声は、自分でも驚くほどよそよそしかった。
「ちょっと、どなたですか?」
 家の奥から声がするが蓮子は気にせず、土間で靴を脱いで上がった。フローリングが音もなくたわむ。下駄箱の上の手ぬぐいから老人特有の汗の臭いがした。
 やがて、ばたばたと音を立てて、人影が現れた。
「あれ、ハスコ!」
 それは花柄のシャツとぶかぶかのズボンを身に着けた母親だった。瞳を丸くして、蓮子を見上げる格好になっていた。
「帰ってくるなんて全然聞いてなかったから、驚いた」
 そう言いながらも、彼女の顔は一気に緩んで目元に皺ができた。少し黄色い歯が、乾いた唇の間から覗く。
「お母さん」
 蓮子は鞄の紐を握りしめて言う。
「私はハスコじゃない」
 母親は一瞬、目をぱちくりさせたが、すぐにまた口元を緩めた。
「まあまあ、せっかく帰ってきたんだから、早く入りなさい」
 そう言って彼女はばたばたと奥へ入っていく。前よりも背中が丸くなったかもしれない、と蓮子は思う。それに前よりもみすぼらしくなった、とも。
 居間の掘りごたつに腰かけても、息をつく気になれなかった。畳、ふすま、窓から見える縁側と裏庭。裏庭ではトマトが緑から赤に変わりかけている。きゅうりの苗も大きくなろうと、太陽の下で背伸びする。それは子どもの頃に見慣れているはずの風景なのに、映画のセットのように見えてしまう。ふんふん、と鼻歌を鳴らしながら、蓮子の母親はせんべいと緑茶をお盆に載せて蓮子の向かい側に座った。
「本当、あなたが帰ってくるのって久しぶりじゃない?」
「もう十六年も前だよ」
「わあ、私は全然覚えてないわね、なんだっけ?」
「メリーと来た」
 自分で口にした言葉が、自分の胸にじわりと滲みる。
「うんうん、マエリベリー・ハーンさんね。あの子のことは覚えてるわ」
「その名前を覚えていられるなら、お母さんもまだまだ若いね」
「あらやだ、嬉しい」
 彼女は頬に手を添えながらけらけら笑った。若いね、とは言ったものの、蓮子はまったくそう思わなかった。もう六十六歳になるはずで、髪が黒々としている以外は老人以外の何でもない。おしゃれらしいおしゃれもしていないようだ。
「それで、今日はどうして急に帰ってきたの?」
「今、大学の教授の仕事をしているの。それで急に明日、こっちの大学で授業をすることになったんだよ」
「へえ、教授! そりゃまた、ずいぶん偉くなったものね」
「たいしたことじゃない。そっちは?」
「ま、寂しいものね。一人暮らしだから。お父さんのお墓に週に一回行って、あとはそこの庭いじりくらい。京都に比べたら静かなもんだよ」
 彼女はぱりぱりとせんべいを食べ、緑茶を飲む。蓮子もせんべいを口にするが、醤油の味が濃くてむせそうになった。慌てて緑茶を口にすると、今度は渋みが強すぎた。それからしばらく二人は黙っていた。笠をかぶった電球が二人を見下ろしていた。
「聞かないの?」
 蓮子が先に口を開いた。母親は新しいせんべいに手を伸ばしているところだった。
「何を?」
「何をって、もっと私のこと気にならないの?」
「いいや、心配してないよ」
 二枚目のせんべいが軽快に割れる音がした。
「便りがないのが何よりの便りだって、昔からよくいうじゃない」
 彼女はズボンのポケットからフォンを取り出して笑った。
「十六年間、ハスコからメールが来てないから、大丈夫っていうことでしょう」
「勝手に大丈夫って、決めないでよ」
 気づけば低く唸っていた。母は不思議そうに首を傾げた。
「元気そうに見えるけれど」
「そうだよ、別に問題ない」
 蓮子はお茶を一気に飲み干して立ち上がった。
「明日の講義の準備があるから部屋に行くね。ごちそうさま」

 やたら段差が大きい階段を上って、廊下の一番奥が蓮子の部屋だった。レバーを押し下げて中に入ると、妙な熱気を肌に感じた。蓮子は窓を開けて部屋に空気を通した。籠もった熱が外へ吹き抜けると、ようやく息苦しさは消えた。こぢんまりとした部屋だった。窓の横に机があって、ベッドが部屋の奥に置かれている。ブランケットがきちんと畳まれていた。机の反対側の壁に本棚が埋め込まれていた。家具はすべて綺麗に整理されていて、埃をかぶっていなかった。まるで今日自分がここに帰ってくるのを知っているかのように。
 蓮子は机に座り、ラップトップを開いてレポートの採点と、明日の講義の準備に取りかかった。途中、コーヒーを淹れようかと思ったが、下に戻るのが面倒でやめた。三時間で準備は終わる。どれも適当にこなしただけだが、それを気にすることはやめた。
 蓮子はベッドに寝転び部屋をぼんやりと眺めた。不意に壁に埋め込まれた本棚の中に、一冊の絵本を見つけた。彼女が腕を伸ばして取ると、メリーの家にあったものと同じ本だった。地蔵に狐がちょこんと可愛らしく乗っている。蓮子は指でページを捲っていった。

 物語の大筋はこうだ。
 第二次世界大戦中の日本、北方の小さな島を舞台に狐の親子がのびのびと暮らしていた。子狐は漁に訪れる老夫婦にもかわいがられ、人間にも懐いていた。しかし、狐の毛皮を求める軍人によって父親は殺され、母と子は命からがら逃げた。しかし、茂みに仕掛けられた罠に子狐が捕まってしまい、動けなくなってしまう。軍人は現れなかったが、罠を外すことは母にもできなかった。
 母は必死に子狐のために餌をとり、二匹で生き延びようとする。けれど、北方の厳しい冬が来ると、餌も果物もとれなくなってしまった。寒さと飢えで二匹とも衰弱し、とうとう雪の中で息を引き取る。最後の場面では、子狐をかわいがっていた老夫婦が、狐たちが息絶えた場所に咲いたキツネザクラの前で涙をこぼした。

 読み終わるのに十分もかからなかった。ベッドの上で寝返りを打ちながら、蓮子はぼんやりと考える。
 子どもの頃は、このお話は戦争の残酷さを伝える物語だと思っていた。平和な時代であれば狐を狩る軍人はおらず、優しい老夫婦のようにみんな狐と仲良くなれたはずではないか、と。でも、と蓮子は自問する。本当にそうだろうか。戦争でなくても狐の皮を狙う人々はいるだろうし、食べ物がとれない冬は必ず来る。そのとき、やはり子狐は罠にかかって死に瀕し、母狐はそれを守ろうとするのではないか。彼女たちの平和を壊すものはどこにでもある。人間がいないときでさえ。むしろ、この物語は母と子どもがその理不尽な現実に立ち向かい、けれどその現実に押しつぶされる話なのではないか。理想的な幻想を、現実が打ち壊す話なのではないか。
 そこまで思考したところで、蓮子はため息をつき、本を机に放り投げ、湯船へと向かった。こんなことはあくまで想像の中の話でしかないし、もう夢だの現実だの、そんなことは考えたくもない。

 翌日、再び電車に乗って大学へと向かった。家を出てから二十分ほどで着いた。そこは東京の唯一の大学で、かつては日本随一の学府だったらしい。教室に入ると、席の半分程度しか学生はいなかった。しかし、彼らは後ろではなく、みんな前の席に詰めていた。教壇に立つと、彼らの雑談はぴたりと止んで、誰もが蓮子に視線を向けた。
 講義は統一物理学の基礎中の基礎、古典の四つの力の性質の説明だった。驚いたことに、学生はみんな熱心にエア・タブレットにノートをとっていた。自分が学生時代には考えられないことだった。蓮子はいつもより少し丁寧に講義を進めた。
 それでも講義が終わると、予定時間より五分ほど早く終わっていた。最後に、いつもは訊かないことを、蓮子は学生たちに尋ねる。
「何か質問のある人は?」
 沈黙が空間を埋めた。誰かが手を挙げることも、生徒同士のおしゃべりも、勝手に教室のドアから出て行くことも、入ることもない。気味が悪いほどの静寂が湛えられていた。蓮子がラップトップを閉じると、その音が木霊するほどに。
 けれど、次の瞬間、ぱち、ぱちと間の抜けた音がした。誰もが音のする方を向いた。講義室のドアに寄りかかった男性が拍手する音だった。やがて彼は拍手をやめ、ゆっくりと蓮子の方へ歩きだした。
「いやはや、素晴らしい講義でした」
 短く刈り上げた髪、丸く薄い銀縁の眼鏡、黒いタートルネック、くたびれたジーンズ、白いスニーカー。顔は三十代後半なのに、格好がまるで見合っていない。
 蓮子はその格好を認識した瞬間、自分の顔がわずかに歪むのを感じた。晴海恵助。来ていてほしくなかったのに、と心の中で呟く。彼は歩きながら、周囲をぐるりと見回し、両手を広げる。
「質問が出ないほど宇佐見教授の講義に聴き入っていたのでしょう。確かにわかりやすい、しかし決して基本だけではない。そんな魔法の講義をしていただき、彼女にお願いした私も嬉しい限りです」
 彼はそのまま演壇に上がり、蓮子の横に立って手を差し出す。
「ありがとうございました。ぜひ握手を」
 眼鏡の奥の目は真っ直ぐに蓮子を見ていた。今までの言葉に嘘はないようだった。それでも蓮子はラップトップを脇に抱えて演壇から下りた。あら、と彼の声がするが、それを無視して蓮子は講義室の扉を開いた。部屋から出る直前、「今回のレポートはありません」という彼の言葉が漏れ聞こえた。

「おいおい、無視はひどいんじゃないか、宇佐見」
 長い廊下を歩いていると、彼に呼び止められた。蓮子が応えず歩きつづけていると、彼が小走りで横に追いついた。仕方なく蓮子は言葉を返す。
「呼ばれたから講義しただけ。交流なんてどうでもいいわ」
「でも、こっちに来るのは初めてじゃないか。宇佐見教授というだけでみんな盛り上がっていたんだぜ?」
「そうは見えなかったけれど」
「とにかく、もう少しゆっくりしていきなよ」
「いいえ、もう帰るわ」
 不意に彼が蓮子の前に立ったので、蓮子は慌てて歩みを止めた。
「せっかくだし、食事に行かないか」
「だから――」
「行かなかったら教授会にチクっておくよ。宇佐見教授の授業は滅茶苦茶でしたって」
 彼はにやりと笑う。数名の学生が蓮子たちの横を通り過ぎ、何事かと振り返る。まただ、と蓮子は思う。この男は私のスキを正確に射止めてくる。魔法で心の中を覗くように。蓮子は黙って彼の顔から視線を外した。
「じゃあ、あとでメール送っておくから、どこかで待ってな」
 彼はひらひらと手を振りながら、蓮子に背を向けて去っていった。

 夕方六時過ぎ、駅前の古いビルのガラス戸を開き、タイル階段を下りた先にその居酒屋があった。赤地に黒い文字で書かれたのれんをかき分けて引き戸を開く。意外にも中はそれなりに混んでいて、八割がた席は埋まっていた。ほとんどがサラリーマンか地元の中年の男たちだった。東京のどこにこんなに人がいるのだろう、蓮子は驚く。恵助は一番奥の席にいて、蓮子を認めると手を振った。テーブルの間を抜けて席に着くと脂の匂いがした。紺色の前掛けをした若い女性が注文を取りに来た。蓮子は焼酎を、恵助はビールを頼んだ。
「今はこういう雰囲気の店もほとんどなくなったよな」
 彼が言い終わるか終わらないかのうちに、テーブルに梅きゅうりが置かれた。妙に水っぽい見た目のきゅうりに、また妙に水っぽい梅干しが載せられているだけだった。すぐに焼酎とビールが来て、二人は静かにグラスを合わせた。
「宇佐見と会うのも本当に久しぶりだな」
「高校を卒業して以来ね」
「そうだったっけ? そこまで昔だった感覚もなかった」
「この界隈にいれば、直接会わなくてもお互いに何をやっているのかはある程度わかるもの」
「ああ、そうか。宇佐見教授はずいぶん名が知れてるからなあ」
「あなたほどじゃないわ、晴海教授」

 結局、蓮子は恵助の誘いに乗ることにしたのだった。
 教授会は怖くない。既に蓮子は教授会の中で厄介者扱いされている。今さら良くない授業をしたという程度で何が起こるわけでもない。彼がチクったところで、またかと呆れられるだけだ。むしろ、誘ってくれたことにかすかに安堵している。
 五件の着信履歴、三件の未読メール。すべてメリーのものだ。さっきも一度電話がかかってきたが、それも無視した。きっと紫は見つかっていないのだろう。警察が捜索して、それでも手がかりさえつかめていない。もうすぐ晴太が帰ってくるのに。メールの件名だけでそのことが手に取るようにわかる。
 彼の誘いを断れば、私はメリーと向き合わなければいけなくなる。けれど、私ができることなんて本当に何もない。ただ自分の無力さを実感するだけだ。そんなことになるよりも、彼の言葉に少しだけ寄りかかって、そのことを意識から追い出したい。蓮子は自分の感情をそう結論づけていた。

 恵助は首を傾げながらグラスのビールを一気に半分ほど飲んだ。それから小さくしゃっくりをして、梅きゅうりを口に入れた。彼の顔はあっという間に赤くなる。今の姿を見て、誰が彼を統一物理学界の革命児だと思うだろう。そして、現在のあらゆる最新技術が彼の研究成果を元に作られたと。
「名が知れてもいいことはないよ」
 酔い始めて目をとろんとさせながら、彼は言う。
「なあ、聞いてくれるか。この前さ、超弦理論の四次応用技術の論文を発表したあとの交流会で、つまらないやつに会ったんだ。なんでも、論文に書いた数式をどう計算しても結果が合わないと言う。どこが合わないか聞いてみると、ご丁寧にその数式のメモを見せるんだ。よく見てみればなんてことはない、ただの誤字。【a】と【g】が違うだけだ。でも、そいつは大声で『いやあ、晴海教授がこんな致命的なミスをしてしまうなんて、大変でしたなあ』なんて言いやがる。『この論文の根幹を成す数式を間違ってしまったのですから。他の式を全部計算し直さないといけませんし』だとさ」
 彼はビールを飲み干して、店員を呼んでビールのおかわりともつ煮込みを頼んだ。
「やれやれだ。たかが誤字だぜ。しょうがないから、その場で俺が書いた式を計算し直した。一分で終わったよ。手元のフォンでデータを直すだけだったから。それでそいつにその式を見せたら、途端にぐうの音も出なくなった。最後に『誤字は困りますな、誤字は……』とかぶつくさ呟いて会場を出て行ったよ」
 ビールが届くと、また彼は一気に半分ほど飲んでつまらなそうに言った。
「本当、今は面白いやつはどこにもいないな」
「あなたは細かいところを気にしなさすぎ」
「部屋はすごく綺麗にしているつもりだ」
「そういうことの方がどうでもいいのよ」
 焼酎を飲むと、安っぽいアルコールが喉を焼いた。そのうちもつ煮込みがやってきて、恵助はそれをつまんだ。
「それでおまえの方はどうなんだ?」
「どう、と言われても」
「プライベートの方。結婚はしたのか?」
 蓮子はかぶりを振って、煮込みに手を伸ばした。
「恋人は?」
「言い寄って来る人は前はたまにいたけど、今はもういないね」
「なんだ、もったいない。せっかく綺麗な顔してるのに」
「口説いてるつもり?」
「全然」
「そういうあなたはどうなのよ」
「特にないなあ」
 彼は追加でサラダとポテトフライを頼みながら、宙を見た。
「付き合った人も、この人ならいいかもってと思う人もいたけど、みんな俺から離れていったよ。あなたは外れすぎているって、みんな別れ際に言い残してさ」
「わかる気がする」
「おまえがそれを言うか」
 彼はへらへらと笑いながらビールの追加を頼み、ついでにグラスの残りを一気に飲み干した。首が据わらないところを見ると、お酒にはとても弱いらしい。蓮子は梅酒のロックに切り替えて、ちびちびと飲み続けた。
 彼は蓮子にまるで気を遣わなかった。蓮子のグラスが空いても気づかなかったし、食べたいものを蓮子に訊くこともなかった。蓮子はときどき彼のグラスが空きそうになったらビールを注文した。その間に店の客は何度も入れ替わった。喧騒は酒が進むごとに大きくなっているように感じられる。少しずつ世界が蓮子から遠ざかる。そのくせ、キッチンで食器を洗う音が妙によく聞こえた。
「まあ、いろいろあるけれどさ」
 やがて、恵助が瞼を半分下ろした状態で言った。
「なんだかんだ楽しいよな」
 梅酒が急に苦く感じられた。気づけば訊き返していた。
「何が」
「俺がここにいて、おまえがここにいて。まあ、この界隈で会うことはなかったけどさ、ときどき思い出すんだ」
 恵助は頬杖をついて、目を遠くにやった。蓮子は彼が何を言おうとするのかを察する。それを口にしないでと願う。けれど、その願いは虚しく葬られた。
「高校のときにも、おまえとこうやっていたんだな、って」
「楽しくなんてなかった」
 気づけば、彼の言葉に間を開けずに返していた。恵助のグラスを持つ手が止まる。何を言っているんだろうと自分で思う。けれど、蓮子に今さら自分を止められなかった。
「あのときが今と同じというなら、私はあのときと何も変わってない。あなたに向けている感情もね」
 彼は黙ってグラスを空けた。そして蓮子からそっと視線を外す。わかっているんだ、と蓮子は悟った。わかっているからこそ、私をこうして食事に誘う。本当にあのときと何も変わらない。惨めなのはいつも自分ばかりじゃないか。かっと頭が熱くなる。食道がちりちりと焼けて、奥の方から嫌なものがせり上がってくるようだった。
「もう、いいよ」
 蓮子はこみ上げるものを押さえつけて、席を立った。店の客の視線がいくつか自分に向けられているのを感じたが、かまわず店の外へ出て行った。最後に恵助が自分を呼びながら、勘定をお願いする声が背後に響いた。

 どこをどう歩いたのか、わからないままとにかく早足で歩きつづけた。意識ははっきりしているようで朧だった。夜空の星が震えていて、正確な位置を割り出すこともできない。それでも身体に染みついた記憶が蓮子を導き、気づけば小さな公園にたどり着いていた。
 誰もいなかった。生き物の気配すらなかった。蓮子は中に入り、傾きかけた外灯のそばを通り過ぎ、塗装がはがれかけた青いベンチに腰かける。夜風が吹くたび、隣のさびたブランコからきいきい音がした。申し訳程度に植えられた桜の木の横に、旧式の自動販売機と電話ボックスが置いてあった。その向こうには真っ白な月が浮かんでいた。位置は計算できなくとも、時刻だけは正確に蓮子に現実を突きつけた。同じ場所に座ったときから十八年が経っていた。それでも、彼女の惨めな気持ちだけは変わっていなかった。蓮子は目を瞑って深い呼吸をした。
 しばらくして、遠くから声が飛んでくる。
「おまえなあ、勝手に行くなよ。俺が全額払っているんだぜ。本当、教授会にチクろうか?」
 蓮子は返事をしなかった。恵助のため息が響く。すたすたと彼の足音がは蓮子の前を通り過ぎて、奥へ向かっていく。やがて、がこんと音が公園に響き、再び恵助の足音が近づいてきた。すると、急に手の甲にひやりとしたものが触れた。蓮子は思わず目を開いた。目の前にまだ赤らんだ恵助の顔があって、彼の両手には虹色のパッケージの缶コーヒーがあった。
「ほら、飲んで酔いでもさませ」
 缶にはパイポをくわえた渋い男の影絵が描かれていて、その下に〈微糖〉の文字が書かれていた。
「微糖は好きじゃない」
「そうか」
 恵助が右手の缶を引っ込めようとしたが、蓮子はそれを奪い取りプルタブを引っ張った。カシュ、と懐かしい音がして、甘ったるい匂いが彼女の鼻をついた。それをひとくち飲むと、粘っこい甘さが口の中に広がり、同時に苦みが鼻を抜けていった。
「やっぱりひどい味」
 蓮子はもうひとくちコーヒーを口に入れた。恵助は顔を緩ませて、彼女の横に座った。
「ブラックがよかったんだっけか」
「昔からね。こんな微糖みたいに、中途半端な大人になりたくなかったの」
「でも、このラベルの男はすごくダンディだ」
 彼は眼鏡を外して、ラベルの男の真似をした。パイポをふかすように、息を吐きながら虚空を見上げる。案外その仕草は自然だった。
「ダンディになりたいわけじゃないよ」
 蓮子は呆れて地面に視線を落とした。
「本当はあなたのようになりたかったのかもしれない」
 すらっと、言葉が自然に流れ出た。まだ酔いが覚めていないせいかもしれないし、微糖の甘さにどこかがやられてしまったのかもしれない。恵助の動きが一瞬止まったが、すぐに愉快そうな笑いを漏らした。
「それは俺がダンディじゃないってことか」
「もちろん、そうよ」
 蓮子は一気にコーヒーを飲み干して続けた。
「高校の時からそう。服はいつもだぼだぼ、髪はばさばさ。見た目なんて全然気にしてない。授業は寝てばかりで、教師に怒られても反省するそぶりすらない」
「今思えばろくでもない生徒だったな。蓮子とは真逆だ」
「でも、試験の成績はいつでもあなたが上にいた」
「試験」
 ぽつりと彼は蓮子の言葉を繰り返した。蓮子は空になった缶の穴を見つめて、続けた。
「高校であなたに出会う前は、私は試験と名のつくものはぶっちぎりでトップだったわ。勉強もそう、音楽も、美術も。体育だけは完全にトップというわけにはいかなかったけれど、だいたい上位にいた。でも、あなたと出会ってから、あなたが上に来てしまった。くだらないことだって思う? 試験なんてどうでもいいだろうって、あなたはきっとそう言うでしょ」
 彼も黙って蓮子の缶の穴を見つめていた。蓮子の胸の中にも同じ穴がある。彼はそのことをわかっているのだろうか。蓮子は乾いた笑いを漏らして、さらに続ける。
「でも、私にとってはそうじゃなかった。誰もが認めざるを得ないものが欲しかった。それが数字で、成績で、試験だった。それがなければ、私は自分を認めることができなかった。でも、あなたがわけのわからないうちに、私の物差しを超えてしまったの。それにいろんな人に好かれていた。私にははっきりとわかるのよ」
 蓮子の手がかすかに震える。
「もっとがんばらないと認められない。そう思って、本当に努力した。自分で言うのもなんだけど、誰にも負けないくらいに勉強に打ち込んだ。それでも、あなたに敵うことはなかった」
 金属の歪む音がした。蓮子の手の中の缶が変形していた。恵助は視線をそらさず、彼女の話を聞いていた。
「それを自覚した瞬間、私の中の何かが壊れた。どんなに努力しても、どうにもならないことがある。そりゃ、私だって運動では敵わないやつがいたけれど、それは私の中の大事な柱ではなかった。でも、あなたと出会って壊れた柱は、私を支える大事なものだった」
 やがて、缶は蓮子の手の中から落ちた。ころんと低い音を立ててそれは地面に落ちた。蓮子は顔を上げて空に視線を向けた。その唇はかすかに震えていた。
「だからね、私はあなたが羨ましかった。今だって、あなたは自分のしたいことを思うようにできている。夢をどんどん現実に変えている。そんなあなたが羨ましくて、憎い」
 蓮子は目を瞑って、口をつぐんだ。恵助の顔を見たくなかった。
 ポケットの中でフォンが震えた。またメリーからの電話だろう。蓮子はフォンを取り出そうとはしなかった。恵助も彼女に声をかけなかった。電話は十数秒鳴り続けたが、その時間はひどく引き延ばされていた。電話が鳴り止むと、またあたりに静寂が戻った。
「そう思うなら、ひとつ訊くけれど」
 不意に恵助が口を開いた。
「俺が現れなければ、おまえは自分が思うように生きることができたのか?」
 風が吹く。缶が小さく音を立てて転がり、蓮子の足にぶつかった。蓮子は目を開いて恵助を見た。彼は蓮子を見ていない。彼女の見ていた空をじっと見つめていた。
 恵助がいなかったら。
 想像したこともなかった。けれど、彼の言葉が蓮子の頭を一気に染めて、あらゆる映像や音を生み出した。恵助がいない、蓮子だけがトップにいる世界。

 かた、と公園の隅から音がした。蓮子も恵助も同時にその音がする方を見た。蛍光灯の白い光に満ちた電話ボックスから、一人の少女が出るのを、蓮子は見た。さっきまでは確かに誰もいなかったはずなのに。少女は栗色の髪をして、細身のワイシャツと紺色の丈の長いスカートを身に着けていた。顔は俯いていて、よく見えなかったけれど、蓮子はすぐにわかる。
 あれは、私だ。高校生の、私。
 少女は両手の拳を握りしめて、蓮子たちのいるベンチに向かってきた。そして、今蓮子が座っている場所に腰かけた。蓮子は驚いて声をあげそうになる。けれど、彼女の亡霊は蓮子に触れることなく、そっくり蓮子と重なってしまった。
 がたん。今度は向こうの自動販売機から音がした。そちらに目を向けると、今度は少年――高校生の恵助――が微糖のコーヒー缶を持って自販機の前に立っていた。彼は笑って蓮子の前に立ち、一本の缶を差し出した。
「くれるの?」
 隣に現実が恵助がいることも忘れて、蓮子は問いかけた。少年の恵助は肯く。蓮子が手を伸ばしてその缶を受け取ろうとした瞬間、少女の蓮子が恵助の手をはたいていた。缶が地面に転がった。音ひとつ立てずに。
 蓮子が缶から顔を上げると、少年の顔が見覚えのある少女の顔に変わっていた。アメジストの瞳の前に、蓮子は言葉を失った。

「どうしたんだ、蓮子?」
 えっ、と蓮子が横を振り向くと、恵助が不思議そうな顔をして蓮子を見つめていた。
「おまえ、誰と話していたんだ?」
 蓮子はもう一度正面に向き直る。けれど、もうそこには少年の恵助はいなかった。地面に落ちた缶も、自分に重なった蓮子も、みんな消えていた。
「見えなかったの?」
 蓮子は恵助に尋ねる。恵助は電話ボックスの方に目を向け、かぶりを振った。
「いいや、何も」
 蓮子はもう一度電話ボックスと自動販売機を見たが、それらは沈黙の白い色を湛えたまま佇んでいるだけだった。急に蓮子から色々なものが遠くなったように感じられた。頭上の夜空も、電話ボックスも、隣の恵助も、過去の自分たちのことも。自分の穴を夜風が吹き通っていく。
「もう、行くよ」
 蓮子は足下の空き缶を拾って、歩き出した。背後から恵助の声がする。
「送ろうか」
「いいよ、ここから家まで近いから」
「そうか」
 特に残念がるわけでもなく、恵助はそのままベンチに座っていた。蓮子は、後ろ手で恵助に手を振って公園から出た。決して振り返ることはなかった。
 もう、あの少女の亡霊は見たくない。あの姿は確かに紫だった。


  3

「ねえ、蓮子」
 蓮子はメリーの家のリビングのソファーに座っていた。膝の上には紫が座っている。
「うたた寝してた?」
 蓮子はすぐにこれが夢だと気づいた。けれど、頭の制御装置は覚醒へののスイッチを入れられなかった。紫はそんな蓮子の努力など知らず、蓮子の頬をつねった。その柔らかな指の感覚も煙のように消えていく。
「痛い」
「だって、私の話聞いてないんだもの」
 彼女のふくれ面は作った怒りよりも、蓮子の滑稽さを表しているようだった。蓮子は覚醒することをあきらめて、夢の中に留まることを選んだ。
「ごめん、なんだっけ?」
「このきつねさんの話」
 気づけば紫の膝元には絵本があった。その表紙に描かれていたのは、冷たい地蔵とあたたかな狐――メリーの家で拾ったあの本だった。
「本当に、かわいそう」
 身を縮こませながら、紫は言った。
「戦争のせいなの?」
 その問いかけは、海に放った手紙入りのビンだった。昨日自分が考えたことがそのまま返ってきた。蓮子はそのときの思考を正確にたどろうとしたが、考えるほど霧のように言葉は散っていく。「蓮子」と紫にせかされ、しかたなく散らばった言葉を拾い上げた。
「戦争のせいじゃない」
 キッチンの電気がふっと消える。しんとした暗闇が降りてきた。
「戦争じゃなくても、この狐は死ぬんだ」
 紫は口を開きかけた。けれど、何も口にしなかった。蓮子は続けた。
「お母さんと一緒にいない方が、生きられたかもしれない。あのおじいさんとおばあさんと一緒にいた方がよかったもしれない」
 自分の言葉に自分で胸が痛む。違う、昨日考えたのはこんなことではなかった。なのに、どうしてこんなひどい言葉になったのだろう。そんな深層意識が私の中にあったのか。
 紫は悲しそうな顔をしていた。蓮子の言葉に傷ついたのは明らかだった。しかし、罪悪感と同時に、蓮子の中で鋭い悦びが密かに生まれていた。紫は両手を膝の上で握りしめて感情をを押し殺し、言った。
「それでも、私はこのきつねが強い子だって思った」
「強い子?」
「お母さんとお父さんと離ればなれになっても生きていたから」
 老夫婦にかわいがられる場面のことだった。狐の両親と別れて数ヶ月は二人と一匹で暮らしていたのだ。
「私、このきつねに会いたい」
 呟くような声、けれど妙な重みがそこにあった。感情を押し殺した紫の表情からは、何も読み取れない。ただ、何かを静かに決めたような雰囲気だけが感じられた。
「蓮子はきつねに会ったこと、あるの?」
 ふと、白い狐が頭の中に現れた。博麗神社でメリーと会ったあの狐。寂しそうな表情で自分を見つめる目。蓮子は紫の言葉にしばらく応えることができなかった。
「上野動物園なら狐にも会えるよ」
 やっと振り絞った言葉が、それだった。
「本当?」
 ぱっと紫が蓮子に振り向いた。
「蓮子、私を連れて行って」
 深いアメジスト色の瞳が蓮子に真っ直ぐ向けられた。瞳に奥に暗闇が見える。蓮子は自分の体が思うように動かせないことに気づいた。紫はくす、と笑う。到底子どもとは思えない、ぞっとする笑みだった。そして、彼女は蓮子の頭の中に直接語りかけた。
「私があなたをここに呼んだように、連れていってよ」

 ひどい震えと共に蓮子は目を覚ました。彼女がいるのは東京の家のベッドで、部屋はほとんど真っ暗だった。当然、部屋に蓮子以外は誰もいなかった。彼女はひどい寝汗をかいていて、視界はひどくぼんやりとしていた。長い時間をかけて、かろうじて時計を読んだ。まだ午前三時だった。
 今まで見ていたのは夢。その動かしがたい事実は蓮子を安堵させるどころか、よけいに頭の中をかき乱した。けれど、一つだけ確信めいたものがあった。
 上野動物園。そこに手がかりがある。
 蓮子は寝間着の袖で寝汗を拭い、横になってもう一度寝ようとした。けれど、なかなか寝付くことはできなず、日が昇る頃になってようやく静かな沈黙へと沈んでいった。

 再び九時にベッドで目を覚ます。遠い昔に忘れていた橙の光が部屋を満たしている。部屋の中が妙に暑い。カーテンを開けると、心地よい風が吹き込んできた。勉強机には充電を忘れたフォンが無造作に置いてあった。もう、メリーからの新しい着信やメールはなかった。
 ぼさぼさになった髪を手ぐしで直しながら階段を下りると、ダイニングから米を炊く匂いと、ネギの強い匂いがした。
「おはよう、お寝坊さん」
 ドアを開けると、母親が蓮子に振り向いて笑った。
「昨日はずいぶん遅くまで呑んでいたみたいね」
「大した話はしていないけどね」
 蓮子は欠伸を漏らしながら食卓について、頬杖をついた。あの夢のせいか、まだ眠気が瞼の裏にこびりついていた。ぼんやりと母親の後ろ姿を眺めていると、金色と紫色のイメージがうっすらと見える。やがて、ちんと小気味のいい音がした。
 ふっくらとやわらかいご飯、しょっぱいネギの味噌汁、少し焼きすぎの鮭、お新香。滅多に食べられないものが目の前に揃う。母は律儀に両手を合わせて「いただきます」を言った。蓮子もそれに倣った。それからは二人とも黙々と朝食を食べた。蓮子は居心地が悪いとは思わなかった。
 小さい時は食事のたび、あれこれ蓮子が母親にしゃべっていた。外で見つけた面白いことや、月や星のこと、宇宙のこと。母親はほとんどしゃべらず、楽しそうに蓮子の話を聞いていた。いつからか、そういうことはなくなった。話したくないことが多くなりすぎたせいかもしれない。けれど、母親は蓮子に深く問いかけることはなかった。蓮子がどんなにつらそうな顔をしていても。そして今も、やっぱり母は蓮子に何も話しかけなかった。
 ご飯を食べ終わり、母親は食後の緑茶を飲んでいるところで、蓮子から沈黙を破った。
「今日、出かけるよ」
「うん」
 母親はそう返してお茶を啜った。どこに、とも、いつ、とも訊かなかった。
「明日、京都に戻らないといけないけれど、今日は夜には帰ってくるから」
「明日の仕事には間に合うのね?」
「講義は午後からだから、余裕で間に合う」
「なら、だいじょうぶ」
 母はそれきり黙って緑茶をゆっくりと飲んでいた。蓮子も目の前の湯飲みに手をつけて、ゆっくりと渋い緑茶を味わった。その奥に優しい甘みがあることを、蓮子は初めて知った。

 在来線で五分、駅の公園口を出て五分。美術館を通り、野球場を通り、広場を通った先に動物園がある。かつては日本でも有名な観光名所だったという。今は上野への電車はがらんとしていた。近くの国道は若緑の草が路面を覆って、エアが走っている雰囲気すらなかった。それでも上野駅は蓮子の地元の駅に比べて賑わっていた。
 夢から覚めても、あの確信は消えていなかった。紫が消えてしまった原因がここにあるかもしれない。その考えにいたったとき、気にも留めなかった色々なものごとが一本の線で繋がったのだ。メリーが荒らした家で見かけたもの、紫に蓮子が教えたこと、この動物園で紫が目にしたこと、口にした言葉。すべてはここに繋がっているのかもしれない。

 蓮子の隣を親子連れが歩いている。父親が娘を肩車して、その娘は母親と手を繋いでいる。「どうぶつえん、ぱんださん」と子どもは楽しそうに言う。蓮子と同じように一人で行こうとする者は誰もいなかった。
 恐ろしいほど旧式の券売機でチケットを買い、ゲートをくぐると、すぐ目の前にパンダの薄汚れた像があった。もう百年以上も前のものになるだろう。そこに小さな子どもたちが群がり、家族に写真を撮られている。可愛いはずのパンダが、子どもたちの姿の前にはみすぼらしく見えてしまった。
 パンダの展示コーナーに入ると、ユーカリの葉が壁から天井をびっしりと覆っていて、その奥にパンダがゆっさゆっさと大きな体を動かして、木に登っていく姿が見えた。わあっと歓声が上がる。パンダは器用にユーカリの葉を掴み、口元へ持っていってくさくさと噛む。展示窓の上に小さな表示があった。

【このパンダは当時の資料を基に再現されたバーチャルです】

 百年前には本物のパンダがここにも二頭いた。蓮子の母親はそう言っていた。彼女も蓮子の祖母が母親に何度も何度もそう聞かされていただけだったが。
「本物のパンダはいるの?」
 展示窓から不意にそんな声がした。蓮子は思わずその声の方を見た。かつての自分が母親に問いかけたのと、まったく同じ言葉だった。女性が小さな男の子を抱き上げながら答えていた。
「ううん、パンダは今はどこにもいないの。あれはバーチャル、偽物よ」

 ゾウ・トラ・ライオン・ホッキョクグマ――蓮子は淡々と展示を回っていく。みんな生き生きとした姿を見せていた。そして、みんなバーチャルだった。本物はとうの昔に絶滅したか、希少種となって動物園の展示を禁止されている。いつしか上野の動物園は、最先端のバーチャルランドへと変わっていた。

 午後になると、太陽の日差しが強くなり、少し湿気が増した。空には雲ひとつ無く、風は弱々しかった。来場者が少しずつ屋内の展示場へ消えていく。ぽつり、ぽつり。屋外展示のバーチャルの動物たちは、そんなことを気にしないように動き続けていた。
 蓮子は屋内の展示場には行かず、カーブを描くスロープを下ってキタキツネのコーナーに来た。ここが本当の目的だった。バーチャルスクリーンの前に立ち、その姿を見続ける。キツネたちはいつまでも飽きることなく小さな兎を追い回し、木の実を拾い集め、親子で飛び跳ねている。冬山を駆け抜ける映像がスクリーンの横で映し出されている。古い映画のワンシーンのようだ。

  ◆

 紫はこのキタキツネが好きだった。他の愛くるしい動物よりも、このキツネがずっと。スクリーンの前に立ってまったく離れなかった。どうしたのと蓮子が問いかけると、紫は言った。
「蓮子、このキツネたち、幸せそうだね」
「幸せそう?」
「あの絵本と違って、お母さんも子どもも、みんな元気だもの」
 そこで話は途切れた。少し先に行っていたメリーが、紫と蓮子に振り返って彼女たちを呼んだ。もうすぐ日が暮れてしまうから、そろそろ行きましょう、と。けれど、紫は動かなかった。彼女はじっと子どものキツネを見つめていた。
「紫?」
 蓮子が手をとっても、彼女の視線は釘付けのままだった。まるで自分が画面の中の子ギツネになっているかのように。そして、彼女はぽつりと呟いた。
「この子たちが本物だったら、もっと楽しい」
 母ギツネが子ギツネに葡萄を持ってきて、うまく取り分けていた。けれど、子ギツネはそれに目もくれず、脇を通り過ぎた兎を追いかけていき、画面の中から消えた。そこまで見届けて、ようやく紫は歩き始めた。けれど、彼女の視線は手を振るメリーではなく、どこか遠くを見ていた。

  ◆

 蓮子も長い間、その狐たちを見つめていた。バーチャルとはいえ、同じ映像を繰り返されることはなかった。バーチャルの世界の中で様々な要素が絡み合い、本当に生きているように描かれている。ひとつとして同じ瞬間はない。
 紫はどうして、これを本物と認めなかったのだろう。確かに映像ではあるけれど、その行動はコンピューターの計算ではじき出されているけれど、その中で彼らは生きていると、そう言うことはできなかったのだろうか。いや、できなかったからこそ、紫は本物を求めたのだ。
「紫」と蓮子はスクリーンの前で呟いた。
「本当に、あなたはどこへ行ったのよ」
 バーチャルの狐たちは蓮子の問いには答えず、鼠を追いかけて森の奥へ消えていった。

 気づけば空は茜色に染まり始めていた。入り口と同じ正面出入り口から動物園を出ると、人は昼よりもずっとまばらになっていた。広場を出て、右手の方へ歩いていった。宛てはなかった。駅の方向とは違うせいか、さらに人は少なくなる。
 やがて、彼女は神社の入り口に着いた。周りには誰もいなかった。入り口から階段が続く。鳥居が階段ごとに立ち並び、赤いトンネルを作っていた。なんとはなしに階段を二十数段下りると、右手に本殿が見えた。本殿といっても小さな建物で、古い住戸と見間違えてしまうほどだ。本堂の右脇にはキツネの像がある。よく見ると、母ギツネと子ギツネの二匹が重なっていた。まるであの動物園のキツネたちのようだ。
 不意にきん、と音がする。何かの鳴き声のように聞こえて、蓮子は周りを見渡したが、神社には誰もいない。聞き間違いだろうか。蓮子は本堂に向き直り、鞄から財布を取り出す。賽銭箱にフォンをかざして賽銭を入れ、お祈りをした。
 それから社務所に行くと、おみくじの箱が置かれていた。箱の中央にフォンをかざしておみくじ代百円を払い、引き出しを適当に選び、中から紙を取り出した。おみくじにはまるでふさわしくない紙質で、印刷もところどころかすれている。けれど、蓮子は中身を読むことを一瞬躊躇った。
 私はこの紙に書かれた内容を知っているのではないか。確信はないけれど、推測が当たっていれば、あのときのおみくじと同じことが書かれているはずだ。
 彼女がその紙を開こうとしたとき、きいんと、また音がした。聞き間違いではない。その音を私は確かに聞いたことがある。彼女は、今度は躊躇わず振り返った。その瞬間、視界が音もなく切り替わった。

 鳥居の下に彼岸花が一輪だけ、冷えた地面に植わっている。夕風に揺られて、手を振っているようだった。そして「彼女」は、足下のそれをじっと見つめている。彼女の白さと彼岸花の赤の色合いが妙に眩しくて、蓮子は言葉にできない思いにとらわれた。
 白い狐。再び、彼女と出会ったのだ。

 白い狐は花から蓮子へと視線を向けた。
「お前は誰だ」
 狐は口を動かさずにしゃべった。
「この境界に入ってこられる者は滅多にいないはずだ。特に私たちが力を失ったこの時代では、まずありえない」
 声を出すのがひどく苦しい。鳥居の向こう側にいる彼女は、蓮子が二度と思い出したくない夢だった。古い傷の中に潜む淋しさがじわりと全身へ広がっていく。けれど、捨てたはずの夢とこうして出会うことを、心のどこかではわかっていたはずだ。
「宇佐見蓮子」
 掠れる声で答えた。その瞬間、狐がはっとした表情になる。動物に表情などないはずなのに、蓮子にはそれが確かにわかった。やがて、狐は腰を上げてその瞳を細めた。
「よくも」
 牙を剥き出そうとしているのを必死で抑えているように見える。
「よくも、ここに戻ってこられたな」
 蓮子は狐に応えることができなかった。おみくじを握りしめて、ぐちゃぐちゃになりかけの頭を必死に鎮めようとする。その間に狐は一歩、一歩蓮子に向かって歩み始めた。
「紫様はいなくなってしまった。それからずっと、私はここにいる」
 一歩。
「いつか私たちの元に帰ってくるのではないかと」
 一歩。
「もう一度、私たちの場所を取り戻してくれるのではないかと」
 もう蓮子と狐の距離は二メートルもなかった。そして、ふっと狐が息を吐いた次の瞬間、彼女は蓮子に飛びかかっていた。瞬きをする間もなく、蓮子は冷たい石畳の上に押し倒される。後頭部から鋭い痛みが走り、蓮子の意識が一瞬失われる。視界が戻ると、あたりは空の茜色に染まっていた。ただ、目の前の白い狐を除いて。
「でも、もう、あの方は帰ってこない!」
 彼女はもう、感情を隠そうとはしなかった。牙を剥き出しにして、前足で蓮子の両腕を、後ろ足で蓮子の脚を押さえつける。
「お前が、紫様を連れ去った! それなのにどうして戻ってきた!」
 蓮子には彼女の言葉は耳に入らなかった。心は別のものに奪われていた。狐の燃える黄金色の瞳に、何もかも裂く牙の鋭さに、彼女の体を押さえつける重さに、流れる毛並みに、そして、空を突き抜ける寂しい鳴き声に。
 その瞬間、蓮子は理解した。紫がこの狐を創ったのだ。これが紫の見たかった夢。本物だったらよかったのに、そう願っていたもの。本当に美しい夢。頭はひどく痛むけれど、その痛みさえ懐かしい。色鮮やかで、生き生きとしていて。紫、と蓮子は声もなく呼びかけた。わかったよ、あなたのいる場所が。この子を作るために、あなたはそこへ消えた。だから私たちはこの狐に出会うことができた。
 博麗神社。そこが今、あなたがいる場所。そこであなたは素敵な夢を見ているのでしょう。この狐の美しさのように、きっと何もかもが幻想的で儚く、それでいて本物の――夢。
「とても綺麗よ、あなたは」
 蓮子は狐に静かに囁く。狐の鳴き声が止まる。
「なんだって」
「あなたは綺麗よ、私が見た他のどの生き物よりも」
 蓮子は右肘を折り曲げて、そっと狐の脚に触れた。
「この感触だって、一度も感じたことがないくらい、気持ちいい」
「何を言っているんだ」
 狐が蓮子の喉元に食いつく格好をする。
「私はお前を殺そうとさえ思っているのにか」
 彼女が顎に力を込めれば、蓮子はたやすく死んでしまうだろう。それでも、蓮子にはその意志すら眩しく映る。
「あなたたちは、私たちの時代にはもう、いない」
 蓮子は呟くように続けた。
「狐だけじゃない。他の動物たちも、植物も、私は本物を見たことがない」
「わかっている、そんなことくらい」
「だから、紫はきっとあなたに憧れた。あなたの夢を見ようとした。あの子狐がまだ生きていて、本物であり続けることができたなら、と」
「あの子狐?」
「この動物園で幻想になってしまった、かわいそうな子」
 そして、あの物語の中で息を引き取った子。紫はこの狐にその子への想いを映したのだ。けれど、あの物語の世界でも悲劇的なことは起きる。私が夢の中で紫に伝えたかったことは、そのことだった。
 蓮子は喉に食い込む牙の感触を確かめながら、はっきりと告げた。
「でも、あの子が見ようとした夢も、いつか覚める」
 白い狐は蓮子の喉元から離れた。もうその瞳には憎しみはなかった。ただ、無性に寂しい光が湛えられていた。
「紫様を奪ったのは、その言葉だよ」
 狐は静かに呟いた。
「おまえたちが見た夢の成れの果てが私たちの世界だった。私たちは忘れ去られたものの成れの果てだった。おまえはそれさえも許さないのか。忘れ去ってなお、夢は覚めるからと否定する。ならば、捨てられる私たちはどうすればいい? 私たちはもう、どこにもいけないのか」
 狐はもう一度空に向かって叫ぶ。
「夢はどこに行けばいい!」
 その鳴き声は木霊し続けた。空と地が呼応しているかのように。
 覚めてほしくない夢だって、残酷な時の流れには逆らえない。そして、夢から覚めれば、大切なものは私の中から奪い去られていた。眩しい喜びや、暖かなつながりや、透き通るような好意を、現実が壊していった。もし動物が涙を流すことができたなら、と蓮子は思う。彼女は大粒の涙を零している。私があの電車の中で涙を流したように。
 それでも、私はここにいる。あなたがここにいる。そして――蓮子は口を開いた。
「あなたのおかげで、私は夢を見る」
 木霊と風がやんだ。世界は沈黙に包まれた。狐は蓮子を見つめていた。その瞳は揺れていた。蓮子はもう一度、狐に告げた。
「あなたの夢を見るの」
 蓮子は狐を抱きしめた。彼女は抵抗することなく蓮子の腕の中に抱かれた。見た目よりも細く、けれどしっかりとした体だった。毛並みは優しく、しっかりとしていた。言葉にできない感情が蓮子の目頭を熱くした。
 沈黙は彼岸花の眠りを誘い、雲は空へ溶けていく。夕焼けと夜空の境が失われ、何色でもない空が降りてくる。静かに、けれど確かに。

「もう一度、私がここに来るわ」
 長い沈黙のあと、蓮子は狐の耳元で告げた。
「今の私とは全然違う姿で。それに大切な友だちも連れてくる。きっと、あなたは私たちと出会う」
 今はここに一輪しかない彼岸花。それはやがて、鮮やかな赤い絨毯を作るだろう。未来のこの子に会うのは、過去の私なのだから。狐は静かに応えた。
「それでも、私は許さない。おまえとは永遠にわかり合えない」
 蓮子は抱き留める腕を緩めて、彼女の瞳を見つめた。
「それでもいい、あなたは私の中に居続ける。それで十分」
 黄金色の瞳はもう揺れず、いつか見た色に戻っていた。狐は立ち上がって、蓮子から離れた。彼女は鳥居に向かって、ゆっくりと歩き始める。
「紫様のお母様は元気なのか」
「今は違う」
 蓮子も立ち上がりながら応えた。
「でも、きっと元通りになる。私がそうする」
「そうか」
 狐は鳥居のところで立ち止まり、蓮子に振り向いた。
「私も彼女に会うことができるだろうか」
「必ず」
「紫様のように笑ってくれるだろうか」
 一瞬、蓮子は迷った。けれど、すぐにそれを振り切り、答えた。
「元通りにするって言ったでしょう」
「そうだったな」
 狐は空を見上げた。
「今日は朧月か」
 蓮子も同じように空を見上げた。
「――年五月二十九日、日本時間にして十八時十二分――」
 かちり、と針の音がして、再び視界が一瞬にして切り替わる。視線を落とすと、もう狐はいなくなっていた。世界に音が戻ってきた。どこか遠くでラッパの電子音が鳴り響いていた。蓮子の足下には彼岸花の花びらが、手のひらにはあの紙が残されていた。その紙を開くと、こう書かれていた。

 仕事:なにごともうまくいく。
 恋愛:運命的な出会いを果たす
 勉強:努力が実を結ぶ。

 蓮子は紙をポケットに入れ、歩き始めた。
 ピースは揃った。推測は確信に変わる。紫は博麗神社にいる。
 紫はあの絵本を読んで、狐に出会いたいと思った。けれど、上野動物園で本物はどこにもいないと知った。だから、あの狐を創った。あの狐は博麗神社で私を待っていたのだ。私がメリーを連れて行くのを、『ずっと長い間』。そして今も、きっと待ち続けている。
 ただひとつだけ、足りないものがある。紫がメリーの元から飛び出した理由。それがなければ、私は紫を連れ戻すことはできない。私はそれを見つけなければならない。
 捨てたはずの夢と、また約束してしまったのだから。


  4

「ただいま」
 蓮子が家に戻ると夜七時を過ぎていた。彼女の母親がわざわざ土間まで蓮子を迎えに来てくれる。
「おかえり。ごはん食べる?」
「うん」
 朝食と同じように簡単な夕食だった。野菜が少し水っぽかったが、やはり人工で作られたものとは違う感触だった。食事を終えると、蓮子の母親は昨日と同じように緑茶を入れ、蓮子と二人、居間でそれをゆっくりと啜った。空には少し欠けた満月が浮かんでいた。
「ねえ、お母さん」
 蓮子はそれを見上げながら、不意に問いかけた。
「お母さんには月が見える?」
 彼女の母親はぽかんと小さく口を開けてしばらく止まっていたが、やがてもう一度湯飲みからお茶を啜った。
「もちろん、見えるわ」
「それなら良かった」
 はあ、と蓮子は深く息を吐いた。食べかけたせんべいを皿の上に置いて、湯飲みもちゃぶ台に戻した。かち、かち、と仏壇からアナログ式の時計の音だけが静かに響く。
「私、月を見ると自分のいる位置がわかるんだ」
 月を見上げたまま、蓮子はそう告げる。母親の反応を待たずに彼女は続ける。
「星を見れば今の時刻がわかる。私はそんな目を持っているの、生まれたときから、ずっと」
 窓ガラスにもう一つまん丸の月が映って見えた。けれど、それがすぐに今の電球が反射しているだけだと蓮子は気づく。星はその光にかすんで、ほとんど見えなかった。それでも蓮子の目は正確に位置と時間を刻む。
「そう」
 一秒の間に蓮子の母親は言葉を置いた。蓮子はゆっくりと視線を空から母親へ戻した。母は驚いた様子もなく、せんべいを手にとり、お茶を啜っていた。けれど、蓮子から目をそらすことはなかった。
「それがあなたにとって重要なことだったのね」
「とても。きっと私の生死を決めるくらいに」と蓮子は答えた。
「知らなかったでしょう?」
 母はしばらく返事をせず、お茶を啜って息をついた。一度だけ彼女の視線は虚空へ向けられ、そしてまた蓮子に向けられた。湯飲みをちゃぶ台において、彼女は答えた。
「あなたが何を見ているかはもちろん知らなかった。でも、あなたに不思議な目があることは薄々気づいていたわ」
 母は続けた。
「小さい頃は晴れた夜空をよく見上げていたから」
 蓮子は戸惑った。私が夜空をよく見上げていた頃だって? そんなこと、全然覚えていない。記憶が私の中で作られたときには、もう私は月も星も嫌いになっていたから。けれど、母は私の目のことを知っていたと言う。
「だったら、どうしてそう伝えてくれなかったの?」
「どうしてって?」
「私が空を見上げなくなったときに――わかるでしょう?」
「ああ、わかるわ」
 あっけらかんと彼女は答える。蓮子の言葉が喉元で詰まる。嫌なことを思い出してしまった。小学校のときの周囲の目、誰も蓮子を相手にしない。蓮子の「妄想」をみんな遠ざけていた。そして、その思い出が蓮子の口を無理矢理動かした。
「私、みんなから気持ち悪いって思われていた。誰も私に声をかけてくれなかった。小さい私にはそれがとても、つらかったの。誰も私を信じてくれないって。でも、お母さんが気づいているんだったら、教えてほしかったよ。お母さんが信じてくれるだけで、私は孤独じゃないって思えたはずなのに」
「私がそれを伝えたら、ハスコは救われた?」
 蓮子の独白は母の短い言葉に制された。短い沈黙。母がその言葉を口にするということは、彼女は蓮子の気持ちに気づいていたのだ。それなのにあえてそのことを口にしなかった。緑茶の渋くも淡い匂いが蓮子の鼻腔を満たした。
「あなたは子どものときから一人でなんでもできる子だったわ」
 母親が続けた。
「小学校に入って、私に勉強のことを一度も聞いてこなかったけれど、テストはずっと満点だった。私に用があってあなただけが留守番になっても、料理も洗濯も掃除も全部一人でやっていた。その気になればお金を稼ぐ手段だって自分で見つけて、一人暮らしだってできたかもしれない、と思うくらいに。あなたは何でも一人でできた。私の出る幕なんてなかった」
 母親は苦笑いを浮かべる。
「でも、一度だけ、私があなたに声をかけようか迷ったときがあった。あなたが高校に入ってすぐの時よ。あなたが部屋で泣いている声が、ほんのかすかにここまで届いたの」
 蓮子はすぐにそのことに思い当たった。ちょうど今の季節。高校の一年目の試験が終わったときのことだ。恵助に試験でわずかに及ばなかったとき。自分に残された柱のひとつを崩されたとき。
「聞こえたの」と蓮子は小さく声を漏らした。
「本当にかすかに。一瞬聞き間違いだと思ったけれど、でも私はハスコだと確信した。私は声をかけるべきか、本当に、ものすごく迷った」
 母は深いため息をついた。一瞬、彼女の目が湯飲みのお茶の上を彷徨った。蓮子は彼女から目を離さなかった。やがて、母は目を上げ、再び蓮子と真っ直ぐに向き合った。
「結局、そうしなかった。声をかければ、そのときにはあなたの慰めになったでしょう。あなたがさっきも言ったように、あなたは独りじゃないと伝えられた。でもね、母というより、あなたのそばにいる者として、私はそうしなかった。そうしてしまったら、見守り続けようとした私の今までのことが、すべて無駄になってしまうような気がしたから」
「どういうこと?」
「あなたは私の手を借りなくても、乗り越えていけるってそう信じようと思った。私は乗り越えるために、静かに後ろから支えていこうと、思い直したの」
 蓮子は言い返したかった。そんなに格好つけなくてもいい、私を慰めてほしかった。ただただ、お母さんに甘えさせてほしかった。どれほどつらかったのか、誰にも認められるはずの「天才」が破れた苦しさを、挫折感を、そこから私を救ってほしかった。
 けれど、彼女の口からはその言葉は出なかった。蓮子は恵助の言葉も思い出していた。もし、お母さんに声をかけられていたとしても――蓮子の頭が締めつけられるようだった――私はお母さんを拒絶したはずだ。惨めな自分を慰めてほしくないと、そう吐き捨てただろう。そこまでわかっていたからこそ、何も声をかけなかった。私はそのことをわかっていただろうか?
「ねえ、お母さん」
 蓮子はかろうじて声を絞り出した。
「心配、だった?」
 母はにっこりと笑った。
「心配しないわけ、ないでしょう? 私はあなたの母親なんだから。あなたと違って、私は月を見ても星を見ても、何も見えないわ。結局、私にはあなたの苦しみを完全に理解することなんてできないの。今だってそう」
 でも、と彼女は続けた。
「あなたが連れてきた子は、違った」
「メリー」
 彼女を思い出すたびにぶり返す鈍い痛みは、それでも少し和らいでいた。
「お互いのことを深く理解して、尊敬しているように見えた。まるで恋人だったわ。きっと、彼女はあなたの目のことを知っていたんでしょう?」
 蓮子は黙ってうなずいた。
「あなたたちを最初に見たときに、すぐに確信した。もう、蓮子は自分の世界を見つけたんだって。私が心配しなくても大丈夫だって。それが見えるのはあなただけ。そうやって世界の見方を作るのは他でもない、あなた自身よ」
 母は蓮子の手をとってゆっくりと笑った。
「苦しかったと思うけれど、あなたはうまくやった。わざわざ私に目のことを話してくれたのは、きっとそうなのでしょう」
 母の手は細くなってしまった。そうだ、母に手を握られるのはいつ以来のことだろう。小学生のときにはもう、手を繋ぐことを恥ずかしいと思っていた。けれど、母の手の温かさは昔のままだ。少しは私も素直になれるかもしれない。少なくとも、お母さんの優しさに包まれようと思うくらいには。
「うまくなんかやってないよ」
 そう言い出すと、急に言葉がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「私はいつになっても結婚できずに中途半端な仕事をしているばかり。メリーは他の男と結婚して、私とは違う場所に行っちゃった。私、そのときから置いていかれたままだよ」
 母は黙って蓮子の手を包んでいた。蓮子は静かに目元が熱くなるのを感じた。けれど、それを無理矢理押さえ込んだ。
「メリーの娘が家出したの。色々探して、彼女の居場所はわかった。でも、私には彼女を連れ戻すための言葉が見つからない。メリーもひどく取り乱してて、私も彼女の助けをずっと無視してた」
 洞穴に海が湛えられていく。静かな無力感は嫌なものではなく、透き通るように蓮子の体を満たしていく。
「お母さんの思うような子じゃないよ、私。やっぱり一人じゃ何もできないんだ。大切なメリーを、その子を、連れ戻すことだってできない」
 母は何度もうなずいた。それは決して蓮子を無力な娘だという意思ではなかった。もう一度母を信じたい、と蓮子は思った。
「だから、目のことを打ち明けたんだ。だって――」
 そこで蓮子の言葉は途切れた。それ以上言葉を口にしたら、本当に泣き出しそうだったから。蓮子は深く息を吐いて、涙をこらえる。母はうなずいて、蓮子の手をそっと撫でた。
「あなたならその子を連れ戻せるわ。きっと、今、あなたが言おうとしていたことを、その子も願っているはずだから」
 そうして、母は無力感の海に光を投げ込んだ。
「元に戻すことはできないけれど、もう一度繋がることはできるわ」
 天井の電球がその光を増した。外の月が、星が降ってくるようにさえ感じられた。やっぱり母には勝てないな、と蓮子は思う。最後のピースはまだ見つからないけれど、やるべきことはもう、わかった。
「ありがとう、お母さん」
 蓮子は立ち上がって、自分の部屋に駆け出した。財布と上着を取って、蓮子は部屋を飛び出して、ばたばたと階段を駆け下りていた。
「ハスコ?」
 彼女の母親が居間から驚いた顔を覗かせた。
「お母さん、私はハスコじゃない」
 蓮子は靴を履きながら返した。
「れんこ、宇佐見蓮子。それが私の名前」
 彼女は母を振り返る。その顔には笑みが浮かんでいた。
「ちゃんと帰ってくるから」
 そう言って蓮子はドアを開ける。走り出した蓮子の背中に、母はため息をつきながら手を振った。夜風が吹き込み、玄関から階段を通って蓮子の部屋へ抜けていく。部屋の窓からは月と星が見える。

 蓮子の向かう先は公園だった。駆け足で向かう最中、何度もメリーにフォンで連絡しようとしたが、繋がらない。留守番電話にもならない。けれど、それほど気にならなかった。私もメリーの電話に出なかった。失望されたって当然だ。今さら都合良く私が電話をかけたって、出るはずもない。
 走って五分で目的地に着いた。公園の片隅に電話ボックスはある。蓮子は躊躇わず煤けた扉を開けて中に入る。硬貨は手元にないが、受話器を取り、フォンを見ながらメリーの家の電話番号を押す。押し終わって、受話器を耳に当てた。ノイズがかかった向こうで、呼び出し音が鳴った――「やっぱり」繋がった。
 呼び出し音が鳴り続ける十秒間、蓮子は秘封倶楽部を始めたばかりの頃を思い出す。京都にある夢のような電話ボックス、あれが私とメリーが初めて二人で出会った不思議だった。電話ボックスで彼女と話したことはなんだっただろう?
 そのときは絶対に忘れることはないだろうと思っていた。けれど、時間が経った今、私はその思いを忘れてしまった。きっと笑ってしまうくらい小さなことだと思う。
 不意にがちゃりと耳元で音が鳴る。
「メリー?」
 驚いて蓮子が呼びかけるが、すぐに「ただいま、電話に出ることができません」という冷たいアナウンスが続いた。胸に冷たいものが詰められるような感覚、けれど、留守番電話になった!「メッセージを残してください」というアナウンスのあと、甲高い機械音が鳴り、ノイズの空白が続いた。
 すう、と蓮子は小さく息を吸い込んで、はっきりと告げた。
「メリー、聞こえる? 私、蓮子よ」
 返事はない。当たり前だ、これは私の一方的なメッセージなのだから。
「私、紫の居場所がわかった。必ず連れ戻すよ。でも、私だけじゃできなくて、その、あなたもいないとダメなんだ。だから、明日あなたの家に行く」
 伝えたいことは伝えた。このまま切っていい。でも、それだけでは。あと何秒間話せるだろう? 一秒ほどの間、やがて蓮子は囁いた。
「こうやって、もう一度あなたと繋がれてよかった」
 その言葉を口にした瞬間、蓮子は電話ボックスでメリーとかつて話したことを思い出した。ああ、そうだ。この電話ボックスでメリーとこうやって、繋がったことが本当に嬉しかったんだ。電話ボックスの中の白く冷たい光も、ノイズがかかった音も、くすんだガラスの向こうにある月も、何もかもが懐かしく生々しい。
「私たち、また素敵な夢を見れると思う」
 そう口にし終わらないうちに、また甲高い機械音が鳴った。メッセージの録音時間は終わった。何かアナウンスが流れ、そして電話は切れた。蓮子は深く息を吐いて、受話器を戻した。

 電話ボックスを出ると、入り口から誰かがやってくるのが見えた――恵助だった。彼も蓮子に気づき、手を軽く振ってやってきた。
「俺、ここの缶コーヒーが好きなんだよ」
 でも他のどこにも売っていないんだよなあ、とひとりごちて自動販売機で微糖のコーヒーを買っていた。虹色のパッケージの缶コーヒー。蓮子は昨日と同じベンチに同じように腰かけた。恵助も蓮子の隣に座る。
「あさっても同じ講義があるんだが、出てくれないか?」
「出られないね」
「即答か」
 彼は特に残念ぶる様子もなく、缶コーヒーを啜った。
「うちの生徒の間で噂になってるぜ。宇佐見先生の講義はわかりやすくて面白かったってな」
「嘘でしょう」
「本当だよ。俺の講義は全然聞いてないのに、あいつら」
「それはどうも。でも、帰ってやらなきゃいけないことができたの」
 恵助は大げさに肩をすくめて、首を横に振った。
「お得意の遅刻どころか、とうとうサボりかよ」
「教授は遅刻、サボりでナンボだからね」
「喜ぶのは生徒だけだ」
「だいたい、あんな内容ならあなたもできるでしょ?」
「まあな」
「それに」
 蓮子はそこで一旦言葉を区切る。
「今度から別の研究をしようと思っているんだ」
「ほう、何の研究をするつもりなんだ」
 恵助の手が止まった。彼の驚いた顔は久しぶりに見るな、と蓮子は思う。少しばかり愉快な気持ち。にやりと彼女は笑って、告げた。
「オカルト」
 彼は目を丸くする。開いた口がふさがらない。言葉も出ないようだった。やがて、はっと正気を取り戻したように、途切れ途切れに言った。
「おまえ、それは、タブーだろ。それをやるっていうのか」
「まあね、昔からちょっと興味もあってさ」
 はあ、と焦点が合わないまま彼はコーヒーを飲む。ごくりと喉からやたら大きい音を立てて。コーヒーはそうやって飲むものじゃないでしょうに、と蓮子は心の中で呟いた。彼は残りを一気に飲み干して、もう一度長いため息をつく。それから、ぷっと噴き出し、やがてそれは大きな笑いへ変わっていった。
「おまえ、それ、本当か? 物理学の権威がオカルトを研究するって? 馬鹿だよ、おまえ。本当に馬鹿」
「本当の本気。物理学の知識があるからこそ、よ」
「ああ、本当か。いやあ、笑っちまうよ、馬鹿だなあ、もうなあ」
 笑いすぎて出てきた涙を指で拭いながら、彼は言う。予想通りだったが、馬鹿と言われて蓮子は少し腹が立つ。いつしか彼の笑いはおさまる。そして、彼は咳き込みながら言った。
「俺、そういう馬鹿なこと大好きだ」
 また馬鹿って。そう文句を言おうとしたが、彼の表情を見てやめた。口元は笑っているが、彼の瞳には光が宿っていた。黒い瞳に白い月がよく映える。やはり彼はこういう人間なのだ、と蓮子は思う。世界の夢が大好きで、それを追い求めることも好きで好きでたまらない。現実の細かいことなんて置いてきぼりにするくらいに。
 蓮子は彼に自分の目の話はしていない。けれど、彼なら信じてくれるだろう。自分の持つ不思議な目のことを。でも、今日はまだやめておこう。
「今ね、時間移動のことにすごく興味があるの。でも、次元曲面のことが複雑すぎてアイディアが出てこない」
 まずはほどけた糸を結び直しにいかないといけない。蓮子は立ち上がりながら、続けた。
「だから、あなたの時空物理学の基礎理論を使わせてもらおうと思ってる」
「ああ、好きなように使えよ。そのうち研究結果を教えてくれ」
 彼は微笑みながら力強く肯き、立ち上がった。
「さて、俺も帰るか。もう一本コーヒー買うけど、飲むか?」
「奢り?」
「昨日のことを思い出せよ」
 そう言いながら二人で自動販売機の前に立つ。
「コーヒーがいいんだろ。どれにする?」
「だから言ってるでしょ、ブラック以外私は認めない」
 はいはいと言いながら、彼は硬貨を取り出して自動販売機に入れる。
「でも、今日は微糖でもいいかな」
 がこん。言い終わると同時に真っ黒なコーヒー缶が落ちてきた。恵助はそれを蓮子に手渡しながら渋い顔をする。
「もっと早く言えよ、馬鹿」
「あと、ホットがよかった」
「アイス以外ないから我慢しろ」
 缶のきんとした冷たさが骨まで浸みていく。かしゅ、とプルタブを引っ張ってひとくちそれを飲んだ。濃く、妙な渋みのあるコーヒー。恵助はまた微糖のコーヒーを買って、先に入り口に歩き始めていた。
「恵助」
 蓮子は彼の背中に声をかけた。彼は歩きながら振り返る。
「そのうち奢ってよ、微糖」
「ああ、不味いとか言うなよ」
 後ろ手で手をひらひらと振りながら彼は姿を消した。

 家への帰り道、坂を上りながらふと後ろを振り返ると、眼下に東京の夜景が広がっていた。街の灯りは京都よりもずっと少なく、高いビルもない。遠くに古びたテレビ塔が二つ残っているくらいだ。そして、空には星と月が綺麗に見えた。月は時間を、星は場所を刻む。蓮子が現実にいるのだと、彼女の胸に刻みつける。
 そうだよ、私は東京にいる。蓮子は自分に呟く。私が生まれた街、浅い歴史の中でいつか忘れ去られる街、私が捨てた街。現実はこの街のように、客観的で動かしがたい事実だ。けれど、その見え方は自分が決めていく。この街を出る前と、今とで感じ方が違うように。
 今度戻ってきたら、もっと寂しい風景になっているだろうか。蓮子は思う。けれど、必ず帰ってくる。ここには断ち切りがたいものが多すぎる。


  5

 次の朝、蓮子はヒロシゲ三十六号に乗って東京から京都に戻った。
 京都駅は相変わらず多くの人が行き交っていた。エアがすいすいと道を走っている。外国人が何かをしゃべりながら京都タワーを指差している。どこからか焼き菓子と、緑茶が混じった匂いがする。ぱたぱたとフォンを片手に改札へ向かう会社員、友人とのんびり会話を楽しむ主婦たち。東京とのギャップに蓮子は少し目眩がした。
 自分の家には戻らず、そのまま地下鉄に乗ってメリーの家へ向かう。地下鉄はリニア化されておらず、がたんごとんと音がした。東京の在来線と同じようだ。地下鉄に乗っている間、何回かメリーにメッセージを送ったが、彼女からの返事は無かった。

 十数分ほどで最寄りの駅に着く。地下から地上に出て、少し曲がった道に入るとメリーの住むマンションの入り口に着く。そこからエレベーターに乗って十二階を押す。エレベーターを出て、左側の五番目の玄関。そこがメリーの家だった。
 呼び鈴を押しても、ドアをノックしても誰の返事もしなかった。晴太も戻ってきていないのだろうか。ドアハンドルを引くと、あっさりと開く。そこからのぞいても、廊下の奥は暗かった。「入るよ」と蓮子は中に入った。
 リビングに入ると、つんと饐えた匂いがした。部屋はある程度整っていたが、それは蓮子が綺麗にしたときのまま変わっていないようだった。照明はひとつも点いておらず、閉め切ったカーテンから陽がぼんやりと部屋を照らしているくらいだった。その部屋のソファーの中で、メリーは膝を抱えてうずくまっていた。ときどき、小さくしゃくり上げる声が部屋に響いていた。蓮子の胸が鈍く痛む。
 蓮子は部屋の灯りを点けて、メリーの肩をつかんだ。
「メリー」
 メリーが顔を上げると、泥のように疲れ切った表情の中に、おびえたものが見えた。もう一度彼女は顔を膝に埋め、小さな金切り声で言った。
「私、どうすればいいのか、わからない!」
「警察からは?」
「何も、連絡が、来ない」
「晴太さんは?」
「警察と一緒に紫を探しているけれど、まだ」
「そう」
 蓮子は小さく息を吸って、それから言った。
「私の留守電、聞いてくれた?」
 メリーが再び顔を上げた。今度はその顔を怒りで小さく歪ませて。
「何よ、私の留守電にもメッセージにも反応しなかったくせに」
 蓮子の胸にその言葉が深々と突き刺さる。冷たく光る蒼い瞳は蓮子でないものを見ていた。
「結局、私のことなんてどうでもよかったのね」
 言い訳ならいくらでもできた。学生のレポートを見なければいけなかった。講義の準備で忙しかった。無理矢理教授会に付き合わされた。けれど、メリーの言葉の通りだった。蓮子はメリーのことを意図的に考えないようにしていた。急に都合良く留守電を残したくらいで許されることではない。メリーが一番に連絡したのは警察でも夫でもなく、蓮子だった。けれど、蓮子はその気持ちを勝手に断った。そう思われても仕方がない。
 それでも、電話線は繋がった。蓮子は深く息をつき、紫の肩をつかんだまま、はっきりと告げた。
「紫がいる場所がわかった」
 メリーの瞳がきゅうと絞られる。
「紫が? どこに?」
「博麗神社」
 メリーは再びうなだれる。
「もう、私はどこにも行けない」
「なに、言っているの」
 口の中が乾くのを蓮子は感じた。
「紫がいるってわかっているのに、どうして」
「紫と会うのが怖いの」
「怖いって」
 今まで決してメリーに抱いたことのない感情が、首筋を上っていった。
「あなたの子どもでしょう! 怖いってなに? それが母親だっていうの? 一番紫のことを心配していたのはあなたじゃない!」
「うるさい!」
 鋭く乾いた音が、乾いた部屋に響いた。蓮子の視界はぐらりと揺れ、次の瞬間、右頬に痛みが走った。メリーは涙を目の端に溜め込んで、蓮子をにらみつけていた。
「メリー」
「うるさい、うるさい!」
 メリーは髪を振り乱して叫ぶ。
「あなたこそ、今まで私のことを無視していたくせに! 今さら親友みたいに偉そうにして! あなたに私の何がわかるの! あなたに母親の何がわかるの!」
 澄んだ碧から、透明な涙がこぼれ落ちた。

「母親にも、なったこと、ないくせに!」

 メリーのすすり泣きが淀んだ空気と混じり合って、ゆっくりと沈んでいった。怒りが、むなしさが、情けなさが蓮子の体を満たす。それらが混じり合い、まるで別の感情へと変わる。
 かちり、と壁時計が時を刻む音と一緒に、それがあふれ出た。
「夢を見たんだ」
 秒針の音と共に、蓮子は静かに言った。
「博麗神社から帰る電車の中でね、白い狐と出会う夢。そこで彼女は言ったの。夢はいつか終わるものだって。私はそのとき、そんなことはないと思っていた」
 蓮子はメリーの隣に座って、彼女を抱きしめた。
「だって、私が抱いていた夢は、メリーだったんだから」
 メリーが再び顔を上げた。涙に濡れた頬が蓮子の髪に触れる。かすかに吐息が耳にかかる。そして、ブルーの瞳。歳をとって体のかたちが少しずつ崩れても、それだけはずっと変わらない。
「あなたと出会う前は、こんな現実なんて大嫌いだってずっと思っていた。でも、あなたがそれを変えてくれた。あなたと過ごす時間は本当に、夢のように幸せだったよ。私はあなたが夢を見ているのが本当に羨ましかった。でも、怖かった。いつかあなただけがその目の力で夢の世界に行ってしまって、私が置いていかれるような気がして。そうしたら、私が――」
 気づかないうちに蓮子の声がかすかに震えていた。
「この現実の中で、また、ひとりぼっちになるような気がして」
 ぽつり、と蓮子の手の甲に何かが当たった。それが自分の涙だと気づくまでに時間がかかった。鼻を詰まらせて、嗚咽を漏らして、それでも蓮子からの口からはどんどん言葉がこぼれ落ちた。涙と一緒に。
「秘封倶楽部だけが私の居場所でしかなかったんだ。私はあなたを言い訳に夢の世界に浸っているだけだった。結局、あなたは夢の世界には消えなかったけれど、あの狐が正しかったんだ。私は夢が覚めたことを認めたくなかっただけ。でも、あなたが結婚して私から離れて、やっぱり私はひとりぼっちになって、そのとき、初めてそのことに気づいた。そして、決めたの。もう夢は見ない、いつか覚める夢なら見ない方がずっといいって」
 メリーの前で何度涙を流しただろう。彼女の涙を何度見ただろう。その度、お互いの気持ちを確かめ合って、もっと一緒にいたいと思えた。でも、今は違う。
「メリーの、言うとおりだよ。私は、あなたの気持ちなんて何もわかってなかった。十年間、ずっと」
 この涙さえも、時間が止まったままの私の言い訳。許してほしいとは思わない。この言葉も、私の独白でしかない。
「でも、また、私は夢、見てるんだよ。どうしても、見ちゃうんだ。夢から逃げようと思ってもできない。それで、まだ、メリーのことを想っていて、メリーのことで苦しんで。結局、紫のことも……」
 それ以上、言葉を紡ぐことはできなかった。いくら言い訳を積み重ねても届かない。メリーは私と違う場所にいる。繋がっていた気持ちは、本当はどこにも繋がらず、虚しく空を漂っているだけだった。
 蓮子はメリーの方に顔をうずめた。もう、彼女の前で泣くことも許されていないはずなのに、涙も嗚咽も止まらなかった。それを隠すことで精一杯だった。
 そして、最後の一言を告げた。
「ごめん、なさい」
 その言葉をもっと早く言えばよかった。メリーが結婚したとき、紫を生んだとき、紫が消えたとき。言うチャンスはいくらでもあった。それがたとえ、自分とメリーを引き離すものだったとしても。でも、自分の醜い感情をさらけ出すには遅すぎた。
 抑えようとすればするほど、涙と後悔は膨らんでいく。それに蓮子は押しつぶされそうだった。蓮子は何度もメリーの名前を呼んだ。彼女にしがみついた。

「蓮子」
 不意に自分の名前を呼ばれて、蓮子の手の力が緩んだ。メリーが蓮子の手をつかんで、自分の膝の上に置いた。蓮子は体を起こしてメリーを見た。ひっく、と小さくしゃくり上げて、メリーが笑った。
「私も、あなたがずっと、夢だった」
 そして、メリーは蓮子の手に自分の掌を重ねた。ひやりとして、少しかさついて、それでも柔らかなその手を。
「メリー」
 彼女の笑みは涙でぐしゃぐしゃで、とても綺麗とは言えなかった。それでも、蓮子にはそれがとても眩しく見えた。
「小さな頃から、不思議なものばかり見えていた。でも、それが何かなんて、追い求めようなんて思わなかった。だって、不思議なものは他の誰にも見えなくて、その世界があることで私は独りだったんだから。私は私の目が恨めしかった」
 蓮子はメリーの手を握り返した。
「でも、あなたのおかげでその不思議を、この世界を受け容れられた。あなたと一緒にもっとこの世界を楽しんでいいと思えた。私独りだったら、この国で家族を持って楽しく過ごそうなんて思えなかった」
 メリーの目から、再び涙がこぼれ落ちた。
「だから、晴太さんがいなくて、紫もいなくなったとき、私は蓮子にすがるしかなかった。私もあなたの気持ちを、見ないふりしていた」
 蓮子、とメリーは呟いて、途切れ途切れに告げた。
「ごめんな、さい」

 蓮子は彼女の手を強く握りしめた。もう、この繋がりを失わないように。
 夢見た繋がりは消えていた。やっぱり、ずっと同じ夢を見ることなんてできやしない。けれど、私たちは何度でも夢を見る。結局、みんな、この現実の中で夢を見る。現があるから夢があって、夢があるからこの現がある。そうして、今、私たちは別の思いで繋がった。
 やっぱり私は夢を見たいんだ。夢を見ることで、私たちはこの現実で繋がっていけるのだから。

「メリー、行こう」
 蓮子はメリーの顔に手を添えた。彼女の瞳に自分の姿が映る。昔よく見ていた自分の顔とは違う。肌のつやも失われはじめているし、どこかには小さな皺ができているかもしれない。それが今の私。昔の私とは違う。
「だって、私たちは元、秘封倶楽部なんだから」
 メリーは涙を袖で拭って、かすかに口元を緩めた。そして、ゆっくりと立ち上がった。
「蓮子、少しだけあなたを待たせてもいい?」
 蓮子はぎこちない笑みを浮かべて、応えた。
「遅刻なんだから、行く途中でコーヒー奢りね」
 メリーは疲れ切った顔で、けれども確かに蓮子に微笑んでシャワーを浴びにいった。

 博麗神社へ向かう最終電車に二人は乗り込んだ。帰りのことは二人とも気にしなかった。電車には二人以外に誰も乗っていなかった。ボックス席に腰かけて窓の外を見ると、あたりはもう夕方から夜へと変わりつつある。電車は暗い野原の中を駈けていた。遠くの山の輪郭を夕焼けがくっきりと映し出していて、山の中にときどき灯りが見えた。そんな光景をコンクリートの電柱が区切る。
 電車で二時間半。二人はしゃべらなかった。そのうちメリーは蓮子の向かい側でうつらうつらしはじめた。やはり紫のことが心配で眠れていなかったのだろう。今だって心配でたまらないはずだ。彼女の目元にじわりと涙が浮かんでいるのが見えた。
 麓の山に着いたときにはあたりはすっかり暗くなっていた。電車が駅から離れてしまうと、ホームのふたつの外灯以外に灯りはなかった。
「夜にこんな山に来るのは初めて?」
「当たり前でしょう。蓮子と違って私は主婦なんだから」
「私だって研究でこんなことやらないよ」
 蓮子は空を見上げた。ここ数日、私は空を見上げてばかりだな、と思いながら。夜空は本当によく晴れていた。月の模様までくっきりと見える。京都の空では見つからなかった星が瞬いている。手元の地図さえあれば迷わずにたどり着ける。
「行こう」
 いつか来たときのように、蓮子がメリーの先を行き、メリーがふらふらとした足取りで蓮子を追う。ときどき悲鳴混じりのため息が蓮子の背後から響いた。その度蓮子は後ろを振り返るが、メリーは黙って首を横に振って再び歩き出す。蓮子もメリーに手を伸ばす余裕はなかった。彼女もときどき足を止めて、切れた息を落ち着ける。
 しばらく上り続けると、山の中から鳥居のかたちの影が見えた。月を背景にくっきりと浮かび上がっていた。
「メリー」
 蓮子は後ろを振り返らずに言った。
「もうすぐだよ。今、鳥居が見えた」
「ええ」
 それきり、また二人は黙って階段を上り続ける。
 あのときのように無茶がきく歳じゃあなくなったな。蓮子は思う。そして、この階段以上に私たちは別々の時間を積み重ねてきた。見たいものだって違う、境遇だって全然違う。あのときと同じ気持ちを抱けるはずもない。それでも私たちはここに来れた。重ねる時間が違っても、会話がうまく噛み合わなくても、今は同じ場所を目指している。

 階段を上り終わって、二人は博麗神社に着いた。鳥居の手前に並んで立つ。月が本堂の上に静かに眩く佇んでいた。昔、ここに来たときと風景は変わっていた。地面を埋め尽くすような彼岸花はなく、鳥居は以前よりも堂々として、本堂もまわりの建物も朽ちていない。なにより人の手を加えられているように綺麗に整えられていた。
「蓮子」
 メリーは鳥居から目を離さず、言った。
「ここに境界がある。消えかけてない、はっきりとした境界よ」
「だったら、今の景色が前と違っている理由もはっきりしている。この神社の時間が巻き戻されているんだ」
「巻き戻されているって」
 メリーの言葉に重ねるように、蓮子は続けた。
「あなたと晴太さんと紫と、上野動物園に行ったこと覚えてる? あれはね、紫が本物の狐に会いたいと言ったから。そして昨日、私は上野動物公園で狐に会った。あなたとここに来たときに出会った狐に。その狐は自分の世界から、私が紫を連れ去ったと言っていた。でも、おかしいじゃない。私は紫を向こう側の世界から連れてきたことは一度も無いんだから」
 蓮子はポケットからおみくじを出してそれをメリーに手渡す。
「そして、このおみくじ。それも昨日、上野の神社で引いたものよ」
 メリーが怪訝な顔をしてそれを開く。すると、彼女の顔が驚きに満ちていくのがはっきりとわかる。
「そう、私たちの最後の活動のとき、この場所で引いたものよ。あのときは紙がすごく古いのに字体が今と変わらないことがおかしいと思っていた。でも、今なら説明がつく」
「でも、どうやって」
「理屈はわからない。でも、わかることは、これから私は未来から過去へ時間をさかのぼっておみくじを置いていく。そして、紫を過去から私たちの時間へと連れて帰るのよ」
 蓮子の口から出た言葉は力強く、確かな響きだった。
「時間が巻き戻るなんて聞いたことがない。四次元の時間の流れは常に一方向なのが物理の世界の常識。なのに、このおみくじも、あの狐もそんな常識をひっくり返した。そうしたのは紫。紫がこの向こう側の世界を作ったんだよ」
「そんな、あの子がそんなこと」
「うん、ものすごい力だよ。あなたの目の力がもっと強くなって境界そのものを操り始めたんだと思う」
 蓮子は目を瞑って、あの本を一緒に読んだときの紫の顔を思い出した。
「でも、その世界は夢なんだ。普通の子どもが見るよりも、少しばかり長いだけの」
 蓮子もメリーに目を向けた。二人が向き合うかたちになる。
「私が紫を連れ戻しに行くよ。メリーはここで待ってて」
「いやよ、私が行かないわけにはいかない」
「ううん、私だけじゃないとだめなんだ。メリーの言うとおり、私には母親の気持ちはわからない。でも、子どもの紫の気持ちならわかる。紫はきっと、メリーに今は来てほしくないと思っている」
 メリーが目をふせる。蓮子は微笑んで続けた。
「大丈夫、最後にはちゃんとあなたの元に戻ってくる。私だって、そうだったんだから。ちゃんと戻ってきたら、そのときに抱きしめてあげて」
 メリーもうなずいて笑った。蓮子もうなずき返して、鳥居へ向かって歩きはじめた。そして鳥居を、紫が作り出した世界の境界をくぐった。


  6

 境界を超えても、まわりの風景は変わらなかった。静かな森、白い月。けれど、はっきりと違うものがそこにいた。彼女は賽銭箱の手前の階段に腰かけている。蓮子はその名前を呼んだ。
「紫」
 紫は蓮子が最後に会ったときより少し体が大きくなっていたが、子どもの姿のままだった。紫色のワンピース、ふわふわとした帽子、白い手袋。服装も蓮子の記憶にあるままだった。ただ、月の光に照らされた彼女の瞳が、無邪気さの奥に妖しさを秘めている。彼女は立ち上がって笑う。
「やっぱり来てくれたんだね。蓮子ならちゃんと来てくれると思った。あなたはいつの蓮子なの?」
 その言葉が、彼女が時を操っていることを蓮子に確信させる。
「あなたがメリーの前から姿を消して数日経ったところよ」
「そう。お母さん、心配してる?」
 蓮子は答えなかった。紫はころころと首を傾げていたが、やがてあきらめたようにため息をついて、蓮子の方へ歩き始めた。
「まあ、お母さんのことなんていいよね。じゃあ、これから蓮子を案内してあげる」
「案内するって、何を?」
 わざと蓮子は問いかけた。すると、紫は首を傾げる。
「あれ、わかってなかった? 私が作った世界。夢だけど全部本物。動物園で見たあの狐もいるの。蓮子も覚えているでしょう?」
 彼女の猫撫で声は聞き心地がよすぎた。恐怖を覚えるほどに。それに呑まれないよう、蓮子ははっきりとした声で答えた。
「覚えている。あの子狐でしょう」
 紫はぱっと表情を明るくした。
「よかった。その子を蓮子に会わせたいの。すごく可愛くて、強い狐なんだから」
 紫は蓮子の目の前で立ち止まり、蓮子の手をとった。手袋越しに紫の指のあたたかさを、柔らかさを感じる。懐かしく、自分の体の芯が痺れる感覚。紫は蓮子の手を引いて、神社の奥へと連れて行こうとした。
「ほら、一緒に来て」
 ああ、と蓮子はため息をついた。このまま溺れてしまうことができたなら、どんなに気持ちいいことだろう。春の陽だまりの中でうたた寝をするように、誘惑的で甘美な心地。けれど、蓮子は動かない。足は地面を踏みしめて、腕は紫の手を逆に引き返した。
「どうしたの?」
 紫は蓮子を振り返って首を傾げた。その仕草は大人を陥れる純真さに満ちていた。けれど、蓮子はその裏にあるものを知っている。彼女は静かに告げた。
「紫、私はここに遊びに来たわけじゃない。私はあなたを連れ戻しに来たの」
 二人の間を風が抜けて森を揺らす。ざわざわと胸騒ぎをかき立てる音が聞こえる。紫の表情が失われていく。さっきまでの笑顔が嘘だと思えるほど、その顔には色がなかった。
「連れ戻す? どういうこと?」
「言葉の通りよ。家に帰りましょう」
「どうして」
「当たり前でしょう。メリーが心配しているんだから」
「へえ、あなた、お母さんの味方なんだ」
 しまった、と蓮子は思う。メリーのことを口にしないようにしていたのに。けれども、今さら後悔しても遅かった。紫の表情に冷たい青が浮かび、口元が歪む。
「お母さんなんて関係ない。お母さんなんてどうでもいい。私はこっちの世界の方が好きなんだから」
 紫が蓮子から手を離そうとする。けれど、蓮子はその手を離さなかった。
「やめて、蓮子」
「離さない」
「離してよ、結局あなたもお母さんと同じなんだ。私は蓮子を信じてたから入れてあげたのに、どうして帰るなんて言うの?」
「違う、私は」
「うるさい!」
 紫が叫ぶと同時に、ぐらぐらと空間が歪んだ。森のざわめきが一層大きくなる。悪寒が蓮子の肌を伝う。紫の目の奥に冷たい光が宿っている。蓮子だけではなく、メリーも晴太も「こちら」側のものをすべて拒むような光。
「お母さんのところには帰らない。それに、あなたも帰さない」
 気づけば蓮子と紫を黒い影が取り囲んでいた。蓮子はその姿を見ることができなかった。かたちさえもつかめない妖怪(あやかし)。蓮子は紫の名前を叫んだが、紫は冷たい笑みを浮かべて蓮子の手を振り払った。
「私と同じ夢を楽しみましょう。ね、蓮子?」
 蓮子がもう一度声をあげる間もなく、妖怪は彼女を覆い尽くして視界を奪った。そして、蓮子の世界はあっという間に黒い空間の中に閉じ込められた。

  ◆

 何もない空間。重力すらも感じられず、出口もわからないこの感覚。自分の体の五感はなく、自分が自分であることを疑いたくなる場所。蓮子は懐かしささえ覚えていた。あの神隠しも紫の仕業だったのだろうか。あのときはメリーが私を救い出してくれたけれど、今はメリーも私が消えたことを知らない。
「紫」
 言葉を口にするが返事はない。それどころか、自分が今声を出したことも認識できなかった。怖い、と蓮子は思った。二回目の経験だったが、そのシンプルな感情は変わらない。自分が失われてしまったことが、怖い。
 それでもこうして思考する自分はいる。それを信じなければ、何も始まらない。彼女は暗闇にもう一度呼びかけた。自分には聞こえなくとも、紫には聞こえていると信じて。
「私はきっとあなたが思うような大人じゃない。私はあなたが生まれる前から、自分の夢を捨てていた。自分の居場所はメリーの隣しかないと思っていた。秘封倶楽部だったあの時間だけが私の夢の時間だったんだよ」
 返事はない。それでも蓮子は続けた。
「だから、メリーが結婚してあなたを生んだとき、本当にどうにもならなかった」
 一瞬、何かに手が触れた感覚がして、蓮子は言葉に詰まった。彼女の言葉とシンクロするように、黒い空間が動いたように感じたのだ。
 本当に紫に私の言葉が届いているのかもしれない。だったら、今、胸につかえている思いを吐き出していいのか。その言葉は紫を傷つけるだろう。彼女が私に抱く想いを粉々に砕くだろう。
 けれど、それを伝えなければ、私たちは変わらない。捻れた関係を続けることは、もうできない。蓮子は静かに告げた。
「あなたが、憎かった」
〈蓮子?〉
 今度こそ間違いない。自分の声と紫の声が頭に響いた。
「そうだよ、あなたは私の夢を壊した。あなたは私とメリーを引き離す現実の楔だった。あなたの名前を私が『紫』にしたのも、縁があるようになんてことじゃない。しょうもない都市伝説にすがりたかった私の気持ちだよ」
 言葉を口にするほど、胸の痛みは積み重なる。それが認めたくない気持ちを口にすることの代償。けれど、私はそうして紫と、現実と向き合ってきた。
「私が見た夢は、最後には壊れて私を苦しめるだけだった。もう、夢なんて見たくないって、思ったんだよ」
 長い沈黙。胸の痛みはそう簡単になくならない。闇の向こうにいる紫もその痛みを抱えているはずだ。五感で感じることはできなくとも、空間が胎動するのを感じる。
 やがて、泣き出しそうな小さな声で、紫の声が降ってきた。
〈蓮子は……〉
 ぼんやりと目の前が光る。その光の中に小さな紫の後ろ姿が見えた。紫の向こう側には他の子どもたちがいる。みんな冷たい目を紫に向けている。
〈蓮子は、そう思っていたの?〉
 映像は切り替わる。紫がメリーに抱かれていた。頬をすりつけるように可愛がるメリーに対して、紫は不満そうな顔をしていた。また映像がスイッチすると、どこかを歩いている二人が映った。メリーが紫の手を握って離そうとしない。
 また映像がスイッチする。今度は蓮子が映った。数学を紫に教えていたり、本を読んだり、たまに頭をはたいたりしていた。けれど、紫の表情はメリーと一緒にいるときよりも生き生きしている。そんなふうに蓮子は感じた。
「あなた、メリーよりも」
〈そうだよ、蓮子〉
 紫は消え入りそうな声で返した。
〈お母さんよりも蓮子が好き。だって、蓮子は私の顔をちゃんと見てくれるから〉
 一瞬の間のあと、絞るような声で紫は言った。
〈あなたが私に夢を見せてくれたからだよ。それなのに、あなたが夢を捨てていたなんて。私を嫌いだなんて、考えもしなかった〉
 蓮子の足が地面に着いた。触覚が体に戻ってきたのだ。同時に左手に懐かしい感覚があった。蓮子はその手をしっかりと握りしめて、暗闇に言葉を放った。
「私だけじゃない。メリーだって小さいときは同じだった。私たちの現実が嫌いだった。夢を見ていなければ、いつだってひどい現実に戻ってしまうんだと思っていた」
〈お母さん、そんなこと言ったことなかったよ〉
「そうだよ、あなたはメリーの夢なんだから。あなたを傷つけたくないと本気で思っているから」
〈そんなの身勝手だよ!〉
 紫は叫ぶ。
〈なんで、みんな勝手過ぎよ。私の力がなによ、私が夢だからなによ、私が憎いからなによ! 私がいなくなればいいの?〉
 叫びはやがて震え声に変わる。
〈そんなの、嫌だよ。蓮子、私を嫌いにならないで〉
 そして、最後には声はいつしか泣きじゃくる声になった。
〈この夢が好きなの。蓮子が見せてくれた、この世界が好きなの。だから、夢が覚めたら怖い。そうしたら、本当に、私には何もなくなっちゃう〉
「いつか、夢は覚める」
 蓮子はそう言い切った。その言葉は闇の中で確かな重みを持って、姿の見えない紫に投げられた。しゃくり上げる声が一層大きくなる。
「ずっと見ていられる夢なんてない。叶ってしまったら、あきらめてしまったら夢は覚める。私はそう思っているよ」
 一歩、蓮子は歩みを進める。
「それでも、また夢を見る。どうしても見てしまうんだ、夢を捨てたいと思っても」
 もう一歩、歩みを進める。
「でもね、紫。私はそのことをもう後悔したりしない」
 最後に一歩踏み出して、蓮子は立ち止まった。
「今の私の夢はなんだと思う?」
 しばらく嗚咽が続いた。けれど、ぽつりと声が落ちる。
〈わからないよ〉
「そうね、たった昨日、見つけた夢だから」
 すとんと肩にバッグが戻る。蓮子はそこからあるものを取り出して、闇に差し出した。
〈それ〉
 それはあの狐の本だった。透明なものが砕ける音がして、空間に穴が空いた。そこから紫の金色の瞳がのぞいていた。
「この絵本の狐を本物にする。あなたがこの世界で見た景色を現実のものにする」
 また空間が砕ける。今度は紫の上半身が見えた。
「今はこの狐はどこにもいない。だから、夢なんだ。夢の中で本物を作るんじゃない。夢を現実にするんだ」
 すうと蓮子は息を吸って、はっきりと口にした。
「それが私の夢。あなたの夢を、私も見る」
〈れん、こ――〉
 それ以上、紫は言葉を口にできなかった。ただ、泣きじゃくるばかりだった。
「紫、私はあなたが好きだよ。大好きだよ。一緒に同じ夢を見たい。夢の中でなく、現実の中で」
 蓮子は思う。やっぱり、私には母親の気持ちなんてわからない。本当、メリーの言うとおりだ。私には夢を見る子どもの気持ちしかわからない。
 でも、今はまだ母親になろうとは思わない。もう一度だけ、夢を見る少女になりたいんだ。その気持ちが紫と繋がっていたから、私はここに来れたんだ。
 左手を握りしめて、蓮子は微笑んだ。
「さあ、帰ろう」
 蓮子を覆っていた空間が完全に砕け散って、世界は色を取り戻した。

  ◆

 蓮子の目の前には泣き続ける紫がいた。目を何度も拭って、止まらない泣き声を無理矢理おさえようとする、小さな子どもがいた。そして、蓮子の隣には静かに涙をこぼすメリーがいた。駆け出したいのを無理矢理おさえた母親。
 蓮子は頭を掻いて、空に向かってため息をつく。やっぱりメリーに助けられてしまった。自分の左手がつかんでいたのはメリーの手。その感触がなければ、あの空間を出ることはできなかった。
「ありがとう、メリー」
 メリーにさえ聞こえないような囁きで蓮子は言った。そして、彼女の手を離して鳥居に背中を預ける。あとはもう、メリーと紫のことだ。私が出る幕じゃない。

 紫がよたよたとメリーのもとへ歩き始める。あまりにおぼつかない足どりで。不意に彼女はつまづいて、転びそうになった。
 けれども、転ばなかった。
「お母さん」
 メリーが紫をしっかりと抱きしめていた。震える腕の中で、紫はもう、こらえることができなくなった。大きな泣き声を上げて、メリーの背中にしがみつき、何度も同じ言葉を繰り返した。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
 こらえきれなくなったメリーも、紫と同じように泣きじゃくる。
「ううん、あなたが無事で良かった。もう、それだけでいい」
 透き通る夜空の下、きらめく金の髪が風に靡く。ブルーとアメジストの瞳が珠の涙をこぼし続けている。柔らかな色彩はひとつに混じり合い、かすかに光を生み出していた。

 その光景を見届けた蓮子は、ゆっくりと賽銭箱に歩み寄り、中にあのおみくじを入れた。そして、空を見上げた。透き通る夜の海に浮かぶ月と星は現実を刻み続けていた。
 蓮子はふと、自分の母親のことを思った。ポケットからフォンを取り出して、メッセージを開く。何と打ち込めばいいのか、長い間迷った。でも、伝えなければいけないことは決まっている。それに気づいた蓮子は、自分に呆れ笑いしながら、その文言を打ち込んだ。
「約束通り、近いうちに帰るよ」


  7

「紫様」
 白い狐は紫を見て、そのまま立ち尽くしていた。
 何度目ともわからない、夕方の空。白い狐と再会した上野の神社へ、蓮子はメリーと紫を連れてきたのだった。
「藍!」
 紫が狐に駆け寄って、彼女を抱きしめた。藍と呼ばれた彼女は「狐につままれたように」視線を泳がせるばかりだった。
「本当にいた、蓮子の言うとおり」
 狐は少しずつ事態を把握したようで、蓮子に視線を向けた。
「必ず。そう言ったからね」
 蓮子の言葉に、狐はようやく納得したようだった。
「本当に待たせてくれる。博麗神社に来たときには、おまえとメリー様、どちらも泣き出しそうな顔だったのだから」
 狐はメリーに視線を向けた。
「それにしても、紫様は本当にお母様にそっくりですね」
「何度も言っているでしょう、私のお母さんだもの」
 紫がやっと狐を放すと、狐はすっと脚を折ってお辞儀をする格好をした。メリーは戸惑いながらも、狐に手を振った。それから蓮子に顔を向けた。何かを言おうとしているが、もどかしくて言葉にできないようだった。
 蓮子は狐の前にしゃがんで言った。
「許さなくていいよ、私のこと」
 狐は顔を上げた。彼女の表情に赦しはなかった。けれど、怒りもなかった。紫が狐の代わりに応えた。
「蓮子、そんなこと、もう気にしてないよ」
「気にしていなくても、私は彼女たちの居場所を奪った。紫だってもうこちら側にいるつもりはないでしょう?」
 紫は下唇を噛んだ。蓮子は彼女の頭を撫でて、狐に笑いかけた。
「でも、いつか、あなたたちを現実に変えてみせる。もう一度、約束をしてもいいかな?」
 狐はぱちくりと目を瞬いて、やがてにやりと口の端を上げた。
「また、身勝手なことばっかり言う」
 彼女はひらりと本堂の手すりに飛び乗り、木を伝って屋根に上った。雲ひとつない朱い空に、彼女の白い姿がくっきりと浮かび上がる。その姿は夢の世界の中で、ひときわ幻想的だった。彼女は遠くを見つめながら言った。
「紫様にも、メリー様にも会えた。お二人とも笑っておられた。それで十分だ。これ以上望むことはない」
「そんな、藍!」
「大丈夫ですよ、紫様」
 狐は遠くを見つめたまま、優しい声で言った。
「彼女がいつか、私を現実に変えると約束したのです。ならば、そのときにまた会えるでしょう」
 紫は蓮子とメリーに視線を向けた。メリーはうなずいて続けた。
「あんまり遅くならないように、私が蓮子の尻を叩いておくわ」
「ちょっとメリー、ひどい物言いだね」
「昔っからの遅刻癖が直ってないからよ。今日も見事に十五分遅れてくれて」
「電車一本乗り過ごしちゃったんだから、しょうがないじゃない」
 二人のやりとりの様子に紫は困った表情を浮かべるだけだった。そんな三人の様子を眺めながら、藍は呆れたようにため息をついた。けれど、その顔はどこか笑っているようにも見えた。そして、彼女は空に向かって叫んだ。
 きいん――。
 その声は幻想的な朱い空をどこまでも駆け抜けていく。三人は狐を見上げた。狐は満足そうな笑顔を浮かべ、三人に顔を向けた。
「また会いましょう」
 狐は空へ飛び上がった。途端、突風が巻き起こり、三人は思わず目を瞑った。風はほんの一瞬でやんだ。三人が目を開いて空を見上げると、狐は姿を消していた。

「さあ、帰ろうか」
 蓮子が歩き出そうとすると、ぐいと手をつかまれた。後ろを振り向くと、メリーが蓮子の手を握っていた。そのメリーは紫に手をつかまれていた。
「なに、これ」
 蓮子が二人に問いかけると、二人はくすくすと笑った。
「蓮子」と紫が言う。「私、ちょっと歩き疲れちゃったよ」
「蓮子」とメリーが言う。「私もよ」
「やれやれ」と蓮子は呆れながらため息をついた。
「そうしたら、帰りに近くの喫茶店に行こうか。あそこならコーヒーもあるし、ココアもあるし」
「私は緑茶ね」と紫は言う。
「なんだか秘封倶楽部のときみたいね」とメリーが言った。
 朱い空の下、蓮子は歩きはじめた。二人は彼女の手に引かれながら、隣を歩く。夢の鳥居をくぐって、現の上野へ戻っていく。その鳥居をくぐる瞬間、蓮子は言った。
「メリー、違うよ」
 そして、二人に向かってにやりと笑った。
「私たちはもう、秘封倶楽部じゃない」

 三人で手を繋ぐ。それは以前にメリーと感じた絆とはまるで別物だ。
 メリーは結婚して、子どもを産んで、母親になった。紫は子どもの社会の中に戻っていく。そして、私もしばらくつまらない物理学の基礎研究をしなければならない。純粋な不思議探しなんて、もうできるはずもない。鳥居をくぐれば、私たちはそれぞれの現実に帰らなければならない。
 それでも、この繋がりを私たちは愛おしく思う。それが私たちの始まりで、何度でも帰ってくる場所なのだから。蓮子はぎゅっと左手を、メリーの手を握り直した。


 私は今、夢と手を繋いでいる。







夢現の物語は幕を閉じる。けれど、世界は続く。
歩く先に現れる夢はどんなものだろう。
それがどんなものであれ、夢を見ることをやめはしない。

――――――――――――――――――――――

これが秘封シリーズの完結作になります。
全六作で構想していたのですが、物語の密度を考えて、この一作で終わらせました。
四作目からもう、四年半。そして一作目からは五年半。
本当に長い間、お待たせいたしました。

今まで色々秘封を書いていましたが、すべてこのシリーズが根底にありました。
だからこそ、書き終わったとき、充実感で満たされるのだろうなと思っていました。
今、私の中にあるのは淋しさです。なぜだか、私にも理由はわかりません。

けれど、秘封の二人に引っ張られて、このお話を書き終えることができました。
秘封の二人に、そして、ここまで読んでくださった方に、今は感謝したいと思います。

本当にありがとうございました。

一作目『ライン・ホルダー』
二作目『オブジェクト・ゼロ』
三作目『サークルズ・エンド』
四作目『メリー・マリー』
蛮天丸
bantenmaru@gmail.com
http://twitter.com/bantenmaru
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コメント



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1.100名前が無い程度の能力削除
完結編投稿の知らせを聞いて読み始め、読み終わったらこの時間。
待っていた甲斐がありました。お疲れ様です。
2.100名前が無い程度の能力削除
完結だああああああああああああああああ!!おめでとおお!!!ずっと待ってたあああ
最後はハッピーエンドで本当に良かった
3.80奇声を発する程度の能力削除
良かったです
5.100名前が無い程度の能力削除
ずっと待ってました。
8.100名前が無い程度の能力削除
100点以外になにを入れろと。徹夜しちゃったじゃないか!時間返せ(嘘ですめっちゃ幸せな時間でした)!
一気に持っていかれて用意してた感想ぶっとんじゃったよ。まさにマイリベリエ。
シリーズであり最終作の今作しか読めていないことを凄く後悔。時間を見つけて、また夢を見たいなと思う次第ですが。ああ~本当に、楽しかった!
秘封沼は実現していたとわかったので、沈みたいと思います。
それから、誤字(脱字)報告っぽいをして締めたいと思います。
4章のところ
■でも、一度だけ、私があなた声をかけようか迷ったときがあった。
■あなたに不思議が目があることは――(が→な?)
5章のところ
■私たちがの最後の活動のとき→私たちの?

私が見つけられた箇所は以上です、シリーズの完結、お疲れさまでした。
また氏の作品に出会えることを楽しみにしております。
ありがとうございました。
10.無評価名前が無い程度の能力削除
今は心地よい気持ちでいっぱいです。
ありがとうございました。
12.100おるふぇ削除
生きている蓮子たちの息遣いひとつひとつを感じながら、すぐれた現実感覚の持主でなければ生み出せない幻想世界に、東方SSという枠組みを超えて、「小説」を堪能しました。文句なしに、素晴らしかったです。ありがとう。そして、お疲れさま。