Coolier - 新生・東方創想話

桜の木の下で ~後編~

2005/10/23 17:17:28
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 ※本作品は作品集21「桜の木の下で ~前編~ 」の続編にあたります。








「ふむ、これで一通りは終わったか」
 持っていた雑巾を桶へ投げ入れると、妖忌は庭に出て、改めてあたりを見回した。
 西行寺という、今では血筋の絶えてしまった一族が暮らしていた屋敷。
 今、ここに住むのは自分ひとり。
 最後の頭首となった西行寺幽々子と、彼女とともに結界となり西行妖を封じた魂たちのために墓を作り、墓守をしながらひっそりと暮らしている。
 墓といっても幽々子の亡骸はそこには無い。
 彼女は今でも、西行妖の元に眠っている。
 屋敷の片隅にひっそりと立てた小さな墓は、自分に、彼女らの死を認めさせるために作ったようなものだ。

 今日は大晦日。
 年に一度の大掃除の日。
 日課となった墓参りを終えてから、箒、塵取り、はたきを持って屋敷中を駆け回り、雑巾で長い廊下を拭いてまわったところだ。
 掃除を始めたのは昼前だったが、今はもうすっかり暗くなってしまった。
「庭の手入れは……明日、明後日でもよかろう」
 まったく、一人身には広すぎる屋敷だ。
 妖忌はぼやきながら縁側に上がった。

 幽々子が死んで十年が経とうとしている。
 最近では滅多に剣を取ることもなくなった。
 たかが人間一人のために妖怪が大挙して押し寄せることは無い。
 妖怪除けの結界もある。
 あとは自分を護れるだけの力があれば、どうということはない。
 どうということはないのだが……。
「いざというときに困るかもしれん」
 以前と比べて細くなった二の腕を触りながら、妖忌は、明日からまた稽古を始めようかと考えた。
 物心ついたときにはもう剣を握っていた身だ。
 それが衰えてゆくかと思うと、いささか寂しい気がする。
「……どうも、感傷的になっていかんな」
 体の衰えとともに心まで衰えていくようで、妖忌は苦笑した。
 まったく、年は取りたくないものだ。

 ――シャリ。

「――何奴!」
 不意の足音に、振り返りながら一喝する。
 本当に年は取りたくないものだ。
 足音の聞こえる距離まで相手を気取れず、しかも丸腰だった。
 これが以前の状況であれば死んでいたかもしれない。
 立てかけておいた刀を抜き放ち、妖忌はそんなことを考えた。
 また、明日といわず今すぐにでも稽古を始めておくべきだった、とも。
 かつては己の一部のように扱えたこの刀が手に馴染まない。
 冷たい汗が、頬を伝って流れ落ちた。
「……わたしは……」
「――!」
 暗闇の中から聞こえてきたそれは、懐かしい、しかしもう二度と聞けるはずのない声。
 思わず一歩を踏み出そうとして、体が前のめりに倒れた。
 畳がどんどん近づいてくる。
 体に力が入らない。
 手をつくこともできず、妖忌は顔から倒れ込んだ。
 痛みは無い。
 ただ、ゆっくりと、辺りが暗くなっていく。

 ――そんな……なぜ、貴方が……。

 視界が闇に閉ざされてなお、妖忌は意識を保ち続ける。
 快楽とも思える開放感に逆らって、意識を保ち続ける。

 ――ふふ、あははははは……。

 しかし、それも次第に薄れゆく中、
 笑い声だけが、耳に残っていた。





 ――――――――





「あー……眩しい」
 部屋に差し込んでくる光で久しぶりに目が覚めた。
 外は明るいが空気はまだ肌寒い。
 季節は春に移り変わる頃だろう。
 冬を越えたものたちが一斉に活動を始める時期だ。

 ――ぐ~……。

 お腹空いたなあ。
 腹の虫がなったので、もそもそと布団から抜け出した。
 うーん、と伸びをして、さて朝ご飯だ。
 スキマを開いて居間へ移動。
 そこには食事を終えたばかりの藍がいた。
「あ、おはようございます。今年は早いのですね」
「おはよう。……そうみたいね。まだ肌寒いし、少し早かったかしら。まあいいわ、それよりご飯作って頂戴」
「はいはい。それまであったかいお茶でも飲んで待っててください」
 湯飲みにお茶を注いで、洗い物をまとめてお盆に載せて、藍は台所へと姿を消した。
 湯気の立つお茶を飲みながら、部屋を見回す。
 毎年目が覚めるたびに思う。藍が来てから家の中が綺麗になった気がする。
 私が一人で暮らしていた頃はこうはいかなかった。
 別に汚れていたわけじゃないけど、綺麗という感じはしなかったと思う。
 料理も上手になったし。お茶も美味しいし。
 本当に変な奴。
 私が冬眠している間にどこかへ行ってしまえばいいのに。
 あれだけの力があれば、どこへ行ってもやっていけるだろうに。
 そう思うようになったのはあの時からだ。


 幽々子が死んだ時、ぼろぼろになって帰ってきた私を、藍は黙って家の中に運んで寝かせてくれた。
 目を閉じるとそのときの光景が浮かんできて、なかなか眠ることができなかった。
 それでも藍はじっと動かずに、私のそばにいてくれた。
 しばらくして私は眠ることができたのだけれど……あの時なら、殺そうと思えば私を殺せたはず。
 逃げるなんてもっと楽だ。私を放ってどこかへ行ってしまえばいいのだから。

 あれからもうずいぶん経つのよね……。

「ほんと、変な奴……」
「――変な奴って、誰ですか?」
「貴方のことよ」
「まあ、そうでしょうね」
 どうやら自覚はあるらしい。
 笑いながらご飯と味噌汁とおかずとを並べていく藍は、なぜか嬉しそうだった。

 ……ほんと、変な奴。



 ――――――



 それから十日ほど経って。
 私は相変わらずぐうたらな毎日を送っていた。
 夜に起きて朝に寝て、たまに朝に起きて夜に寝てみたり。
 変な奴こと藍は、そんな私の不規則極まりない生活リズムに合わせて、食事を作ったり布団を干したり洗濯物を片付けたりと、相も変わらず完璧な家政婦ぶり。
 しかし、家事で手一杯かと思えば、この近くに侵入してきた妖怪を退治することもあるとか。
 生まれてくる種族を間違えたのではなかろうかと思えるほどの働きぶりだった。
 そして私は有能な家政婦に一切を任せて惰眠を貪るわけだ。
 ああ、楽ちん。
 最近はこれといった事件も起こらないからやることも無い。
 平和ねえ……。



 ――――――



 そんなある日のこと。
 いつものように夜遅くに起きると、珍しく藍がいなかった。
 呼んでも返事はない。
 寝ているのかと思いきや、寝室にも姿はない。
 家中どこを探してもどこにもいなかった。
「ついに愛想を尽かされちゃったかしら?」
 十分ありえる話だ。
 こんな、ぐうたらで何もしようとしない妖怪の元に居たって面白いわけがない。
 出て行って当然、愛想をつかされて当然だ。
 まあ、いなくなったものは仕方がない。
 そうと決まれば、ご飯でも作って食べましょうか。



「不味い……」
 久しぶりに作ったご飯の感想はこの一言だけ。
 あれ? 私って、お料理こんなに下手だったっけ?
 お茶も美味しくないし。
 鈍ったのかなぁ、いろいろと。

 ……ちょっとだけ、藍の手料理が恋しくなった。


「ごちそうさま」
 とりあえずお腹は膨れた。
 次は後片付け……面倒くさいなあ。
 でも放って置くとあとが怖いので片付けてしまうことにする。

 ……じゃぶじゃぶじゃぶ。

 春先の冷たい水で食器を洗う。
 指が痛い。痛いというか何も感じなくなってきた。

 ……昔はこんなことを毎日やってたのかしら?

 境界をずらせば熱いも冷たいも思いのままだって気づいたのは、洗い物が全部終わったあとだった。
 訂正。
 鈍ったんじゃなくて駄目になってるわ、いろいろと。



「……はぁ」
 縁側でお茶を飲みながらため息をついた。
 もう何回目だろう。数えるのも馬鹿馬鹿しいくらい。
 やることがなくて、とても暇で、それでも昨日までとは何かが違っていて。
 もやもやした感じが私の邪魔をする。
 おかしいなぁ……昨日までは暇な時間の使い道なんていくらでもあったはずなのに。
「――あ、そうか」
 わかった。
 藍だ。藍がいないからだ。
 いつも隣に居た藍が居なくなったという喪失感が、このもやもやの正体だ。
 家政婦は、意外にも私の中で大きなウェイトを占めていたようだった。
 そのことに気づくと、住み慣れた我が家がやけに広く見えた。
 人口密度が半分になると、広さが倍になったような感じ。

 ――それなら境界をちょっといじって、家を狭くしてみようか?
 ――いやいやそんなことに意味はない。だってこれは、気持ちの問題だから。

 初めて独りが嫌なものだと思った。
 昔は群れることに意味があるなんて思わなかったのに。
 私は妖怪だから、強いから、独りで居ることが当たり前で。
 つまるところ孤独とは、強さの証だと思っていた。
 それが、生意気な式ができて、幽々子と出会って、友達になって、そこから全部変わってしまった。
 対等な立場でものを言い合えることがどれだけ幸せなことか、知ってしまった。
 一人でいられない私は、弱くなってしまったんだろうか?
「こんなことを考えるなんて……。やれやれ、ね……あら?」
 私は不思議な光景を目にした。
 はるか向こう――どれくらい離れているのかはわからないけど、かなりの距離がある――、森の中を仄白い光が群れをなして飛んでいる。
 人の魂だ。
 見間違えるはずはない。真っ暗闇の中だから余計に目立つ。
 遠目ではっきりと見えるということは、かなりの数がいるはず。
 戦もないのにこんなに多くの人間が死ぬなんておかしい。
 妙な胸騒ぎを覚えて、飲みかけのお茶を置いたまま、私はスキマの中へと身を躍らせた。



 ――――――



 暫くして。
 問題の一団の近くに到着した。
 魂たちには目的地があるようで、誰もが迷うことなく同じ方向に飛んでいく。
 私はその後ろをついていくことにした。

 ――彼らはどこへ向かっているのだろう?

 ふと、そんな疑問が頭に浮かんだ。
 死者の向かう先は三途の川。それが常識というものだ。
 しかし、この先にあるのは西行寺の屋敷。
 今は妖忌が一人で墓守をしているはずだ。
 あそこに何の用があるというのだろう?
「とにかく、行ってみるしかないわね」
 ここにはなるべく来たくはなかったのだけど。
 長い長い階段の入り口にたどり着いて、また一つ、私はため息をついた。
 階段の先を見上げる。
 魂たちはずいぶん上まで登っていた。
 飛ぼうか、それとも歩こうか。
 少しの間悩んで、結局私は飛んでいくことにした。



 ――――――



「この石段……相変わらず長いのねえ」
 ふわふわと宙を漂いながら言う。
 前は途中から霧が出て結界の中を散々歩き回らされた。
 だから長いのだと思っていたのだけれど、実際これはかなり距離があった。(帰りはそんなことに気を回す余裕なんてなかった。
 歩いて登っていたら、今頃、大変なことになっていたに違いない。
 まったく運動していない体でこの石段を歩いて登るのは、はっきり言って無謀だ。
「でも、結界もないし……妖怪に対する備えはないのかしら?」
 普通なら、まずあり得ない話だけど。
 ついでにいくつか仮説を思いついたけどそれは頭の隅にしまっておこう。

 先を飛んでいる魂たちは相変わらずふわふわと階段を上っていく。
 彼らは階段の外側にはみ出さないように列を作って飛んでいる。
 これまた普通ならあり得ない話だ。
 閻魔に裁きを受けに行く道中ならわかる。
 三途の川を渡ったそのあとは道が一本しかない上に、踏み外せばそれだけで地獄へ落ちてしまうからだ。
 しかし、今の状況はどうだろう?
 基本的に死んだ人間の魂は自分勝手に動き回って、特別なことがない限り統制が取れないものだ。
 一箇所に居つくもの、生き物に自分の存在を知らせようとするもの、また、彼らの体を乗っ取ろうとするもの……種類、行動ともに様々。
 そんな魂たちを、どうやってまとめて、動かしているのだろう?
「……あら?」
 ようやくこの長い階段の果てが見えた。
 縦に伸びた魂の列は、もう先頭が開け放たれた門をくぐっている。
 しかし、私は彼らの後については行かなかった。
「不思議ねえ……」
 どうしてこんなに血の臭いがするのだろう?
 ちらりちらりと視線を移してみれば、階段脇の茂みに隠れて、あちこちに妖怪の死体がある。中には人のものもあった。
 調べると、いずれの死体にも鋭利な刃物のようなもので斬られた傷口があった。
 この近くに住んでいて、相当に腕が立ち、鋭利な刃物を扱うもの……。
 心当たりは一人しかいない。
 同時に、さっき思いついた仮説が、急に真実味を帯びてきた。
 でも、一つ腑に落ちない。
 もしこれをやったのが『彼』だとするなら、どうして死体の中に人間がいたのだろう?
「――理由、教えてもらえるかしら?」
 階段の一番上、門の前に立っている『彼』に問いかける。
「ここより先は命あるものの立ち入る場所ではない。よって、相応しい姿へと変えたまで」
「この人間も?」
「無論。何人であろうと、命あるものはこの先へは進ませぬ」
「そう。ところで……貴方、誰?」
「ほう、名を尋ねる妖とは珍しい。……いいだろう。我が名は魂魄妖忌――冥界を守護する盾である」
「ありがとう。私は八雲紫。しがないスキマ妖怪よ」
 こらこら嘘をつくな。
 どうして盾が人斬りますか。
 しかも刀持ってるし。
 すらり、と長刀を抜き放つ妖忌に非難の視線をぶつけてやる。
「護るものは剣ではなく盾だ。しかし、そちらも人のことは言えんだろう。その妖気で『しがない』と言われても、到底信じられるものではないぞ?」
「いいんじゃない? 偉大なスキマ妖怪様、よりは語呂がいいでしょ?」
「確かに。……それより、この門を通るのならばその命、貰い受けることになるぞ」
「戦うってことね。構わないわ。貴方には一度借りを返したいと思っていたところだし」
「借り……?」
 こちらの意図を探るような目をする妖忌。
 ああ、やっぱり。
 妖忌は私のことを覚えていない。
 十中八九、背中に背負ってる幽霊が理由なんだろうけど。
 半人半霊――何らかの理由で魂と肉体が分離してしまった半妖。それが今の彼だ。
 そして、どうやらあり得ないことが起こっているらしい。



 私が思いついた仮説は大まかに分けて三つ。

 ①結界を保つことができなくなった。
 ――これは十分あり得る。妖忌という男からは術者の気配が感じられなかった。
    また、彼は常に刀のみを持ち歩いていたことから、この推測は的を射ていると思う。

 ②何者かに結界を破られた。
 ――これも可能性としてはなくはない。いかに優れた結界といえど、数には勝てないもの。
    まあ、この説には、普段一人で行動する妖怪が、徒党を組んで攻め込むほどの理由が必要になるが。
    西行寺がこの地にこもって以来、ここに妖怪が攻め込んだという話を聞かないので、著しく信憑性に欠ける説だ。

 ③結界を張る必要がなくなった。
 ――戦も起こっていないのに大勢の人間が死んだ。
    その魂は三途の川へ行かず、何故かこの西行寺家へとやってきた。
    結界は、彼らを迎え入れるためには邪魔だった。だから消した。



 三番目の説。
 説として成り立っていないが、死を操ることのできる人物がいれば話は変わってくる。
 まさか……。
「何のことかはわからぬが、この門を通るなら、何人たりとも生かしてはおかぬ」
 刀を構える妖忌。
 ここから先は余計な事を考えている暇はない。
 隙を見せれば、おそらく命はないだろう。
「それでも通らせてもらうわ」
 階段を一段上る。
 刹那、体を囲うように張っていた結界の一枚が音もなく断ち切られた。
 一枚目を切り裂いた妖忌の刀は、二枚目の結界に阻まれて弾かれる。
 しかし、そこに妖忌の姿はない。
 目で追うよりも速く、もう一枚結界を展開する――
「――取った!」
「それはどうかしら?」
 背後、頭めがけて突き入れられた刀は二枚の結界を易々と貫く。
 が、そこに二つのスキマを開く。 
 一つは私の頭の後ろ、もう一つは彼の目の前。
 スキマに入った刃は歪んだ空間を通って彼の体を貫く――はずだった。
「痛っ――」
 とっさに体を倒したことが幸いした。
 突き入れられた二本目の刀――小太刀がわき腹を切り裂いていたからだ。
 あのまま立っていたなら致命傷だった。
 後ろを確認している暇はない。傷口を押さえて階段を一気に駆け上がる。
 こんな足場の悪いところでは戦いづらい。空の上ではなおさら。全方位からの、結界を切り裂く攻撃を防ぐ自信はない。
 とにかく、もっと開けた場所に出ないと――。


「……はぁ……はぁ」
 階段を上りきって壁に背を預ける。
 相手が強いのか私が弱くなったのか。
 どちらにせよ、彼は半妖になってさらに強くなっている気がする。
 私の結界がこうも容易く破られるなんて……。
「それにしても……」
 妖忌は一向に姿を見せない。
 気配を断って動くことができるだけに、視界に入っていないとどこから襲われるかわからない。
 いや、もし視界のうちにいたとしてもあのスピードで撹乱されては元も子もない。
 やりにくい。
 こうしているだけでも、じりじりと体力と精神力を消耗していく。

 ――カッ。

 物音に振り向いてしまう。
 そこに落ちていたのは、小さな一つの石。
 囮……?
 全身が凍りついたように感じた。
 と、なれば次は――

 頭上に影。

「今度は逃さぬ!」
 突風のような剣戟が襲い来る。
 私には逃げる暇も、迷う暇も残されていなかった。
「――境符『四重結界』!!」
 瞬時に展開する四枚の結界。
 そのことごとくが一刀の元に両断される。
 だが、わずかに勢いの鈍った刀は私の胸元を掠めて敷石を割るにとどまった。
 服の切れ目から何かが落ちる。
「ぁ……」
 扇だ。
 幽々子が死んだあの日、妖忌から渡された扇が、服の切れ目から落ちていく。
 私はそれを呆然と見送って、同じようにそれに目を奪われている妖忌と目を合わせた。
 必殺の好機とばかりに小太刀を構えたまま、妖忌は動かなかった。
 それを見て閃く。
 もしかしたら妖忌は……

 ――カタン。

 扇が地面に落ちた。
 私と妖忌は、ほとんど同時に我に返った。
 自分たちが今、何をしていたのか、思い出した。
 私が結界を張るより、スキマを開くよりもわずかに速く、妖忌の剣が突き出される。
 避けられない――

 ――ピシャッ……。

 思わず目を閉じてしまった私の顔に、生暖かいものがかかる。
 恐る恐る目を開くと、私のすぐ目の前に赤く濡れた小太刀の切っ先があった。
「むっ!?」
 驚いたような妖忌の声。
 長刀が斜めに振り上げられ、間に割って入ったそれがわずかに姿勢を崩す。
 その隙を見逃さず、妖忌は小太刀を引き抜くと距離をとった。
「……大丈夫ですか?」
 背中を向けたまま――藍は言った。
 藍が庇ってくれたおかげで、私には傷一つなかったけど、私は何も言えなかった。
 なんというか……事情がよく飲み込めていない。
 何で藍がここにいるんだろう? とか、
 何で藍が私を庇うんだろう? とか。
 でも、それより今は、妖忌を元に戻すほうが先だ。
「そこをどきなさい、藍」
「――はい」
 静かに脇に下がる藍。
「二人掛けとはな。だが、それもよかろう。少々物足りなかったところだ」
 どこか嬉しそうに言いながら、妖忌は二本の刀を構える。
「いいえ。これ以上、この娘に手出しはさせないわ」
「……ほう?」
「その必要もないもの」
「――よく言った!」
 妖忌の姿が掻き消える。
 不思議と、この時の私は落ち着いていた。
 さっきまで何をあんなに焦っていたのだろう。
 そう思えるほどに私の心は穏やかだった。

 ――私が誰なのか、思い出すことができたから。

 敵の姿が見えなくても、強い力を持っていても、私が動じる必要はない。
 目の前に結界を張る。
「笑止!」
 結界ごと私を斬るつもりだったのだろう。
 目の前に現れた妖忌は長刀を振り下ろす。
「な……に?」
 甲高い音を立てて、くるくると弧を描きながら折れた剣先が飛んでいく。
 無駄とわかっているだろうに、残った小太刀を突き入れる。
 小太刀は触れた先から粉々に砕けた。
「藍の体は頑丈なの。そんなものを斬れば刃毀れを起こすでしょう。それに、妖怪の血には強い毒を持つものもあるわ。――九尾の狐ならなおさらね」
 そう言って私はにっこりと笑い、
「とっとと目を覚ましなさい、この馬鹿侍!」
 妖忌の顔を思いっきり殴ってやった。



 ――――――



「これしきの傷で動けなくなるとは……わしも老いたものだ」
 目が覚めて、妖忌はぽつりと言った。
 門に寄りかかりながら座っている彼の横で、藍はせっせと傷の手当てをしている。

 聞けば藍も私と同じように魂の群れを見たのだという。
 事の次第を確かめるために人里に下りたものの、そこはすでに全滅していた。
 人だけではなく、虫から妖怪に至るまであらゆるものが死んでいたらしい。
 何とか生き残っていた妖怪から、この方角へ魂が飛んでいったということを聞いて、ここへ来たということだ。
 一方の妖忌は生前の記憶を取り戻していた。
 一時的な記憶喪失になっていたが、私に殴られたことと、幽々子の扇を見たことでそのほとんどを思い出したらしい。

「それで妖忌。貴方、誰にやられたの?」
「……」
「……幽々子ね?」
 妖忌は答えない。
 黙ったまま、目を閉じている。
 その沈黙が、彼の心の内を物語っていた。

 ある程度は予想していたことだけど。
 できれば「違う」と否定して欲しかった気がする。
「そう。じゃあ、私はいくわ」
「……どちらに?」
「決まっているでしょう。あの娘のところよ。これ以上、あの娘にこんなことはさせられない」
 妖忌は何かを言いかけたが、結局何も言わず、頭を下げた。
「藍。貴方はここで彼を見ていなさい」
「わかりました。……お気をつけて、紫様」



 門をくぐってから気がついた。
 藍が、初めて私の名前を呼んだことに。



 ………………



「藍殿といったか。一つ、尋ねても構わんか?」
「ええ。何でしょう?」
「貴方はなぜ、紫様にお仕えしているのだ? 見たところ、相当な力の持ち主のようだが」
 妖忌の問いかけに、藍はしばらく悩んでいたようだった。
「そうですね。負けたから、契約だから……いろいろありますけど、やっぱり私は、あの方が好きなんだと思います」
「……好き?」
「といっても、気づいたのはついさっきなんですけど。それまでは役割だと割り切っていました。……でも、紫様にお仕えするのって、不思議と嫌じゃなかったんです。気づいてしまえば「ああ、そういうことか」という感じですけどね」
 「紫様には内緒ですよ?」と、照れながら藍は言う。
「そうか……」
「ええ。好きでなければ、あんなわがままな人に仕えるなんてできませんよ……まぁ、あのぐうたらはどうにかして欲しいところですが」
「ふ、ふははははは! そうだな、相手を好きでなければ仕えることはできん。確かにそうだ!」

 ――実際、死損なってなお幽々子様の下を離れられなかった自分も、藍殿に負けず劣らず相当なものだ。

 口には出さず、妖忌は立ち上がった。
 その肩を藍が支える。
「申し訳ないが、行くところができてしまったようだ」
「わかっていますよ。行きましょうか」



 ――――――



 気の早い桜が花開く中を飛んでいく。
 見た目の美しさとは裏腹に、ここには死の臭いが溢れていた。
 そういえば、妖忌が言っていたっけ。
 「冥界を守護する盾である」って。


 冥界とはつまるところ死後の世界。
 この世に別れを告げたものが行く世界。いわゆるあの世。
 故にまったく別物のように扱われがちな二つの世界だが、何も冥界は別世界に存在するわけではない。
 死者であるといっても、この世界のものには違いないのだから。
 それに、冥界は一つではない。
 死後、生まれ変わるまでの時間を過ごす世界はどこにでも存在する。
 だって、死んだ者たちがそこで暮らしていれば、そこが冥界になるのだから。

 つまり、死んだものの魂が数多く集められたこの西行寺家は、それだけで冥界と化す条件を満たしていたのだ。



 ………………



 と、考え事をしている間に目的地に到着。
 一つも花を咲かせることなく立っている西行妖。
 そして、その根元には桜の木を見上げる一人の少女。
 何も変わらない。
 私の記憶そのままの幽々子が、そこにいた。
「初めまして、西行寺幽々子さん」
「初めまして、名前も知らない妖怪さん。こんな所に来るなんて、貴方も死にに来たの?」
 無邪気な顔をして幽々子は言う。
 初めて会ったときの彼女と、その姿が重なって見えた。
「いいえ。貴方を止めに来たの」
「私を止める? どうやって?」
「もちろん力ずくでよ」
「面白いことを言うのね。――やって御覧なさい」

 辺りが急に色づく。
 初めは西行妖が花を咲かせたのかと思った。
 しかし、見ればその一つ一つは透き通るような羽を持った輝く蝶。
 幽々子が呼び出した冥界の蝶たち……。
 それにしてもなんという数――

「さあ、行きなさい、冥界の蝶たち」

 幽々子の指し示す先――つまり私に向かって、蝶たちが殺到する。
 その様はまるで花吹雪のよう。
 ただし、風に舞う花びらと違って、この蝶たちは明確な殺意を持っている。
 千を超えるであろうこの数に襲われれば、私とてひとたまりもない。

 ――ま、そんなことはあり得ないけど。

 周りの空間を一気に縮める。
 蝶たちは一瞬のうちに圧縮された空気に圧し潰されて、霧のように散っていなくなった。
「残念だったわね。頼みの綱の蝶たちはこれでおしまい」
「……ふふ。それはどうかしらね?」
 あたりを見回すと、何もないところからぽつぽつと灯がともるように蝶が生まれてくる。
 数はさっきと同じか、それ以上。
「この子たちはもう死んでいるの。いくら潰しても意味はないわ。こうやってすぐに蘇ってしまうから」
 気づけばぐるりと周りを蝶たちに囲まれていた。
「だから、もう無駄なことはやめて、大人しく死になさい。ここはとても良い所よ」

 ――さっきからずっと思っていた。

「寂しかったら貴方の連れてきた妖怪も一緒に殺してあげる」

 ――これは本当に幽々子なのだろうか?

「大丈夫よ。みんな殺してしまえば、ここはもっと賑やかになるわ」

 ――本物の幽々子なら、死ぬだの殺すだのを、どうしてこんなに楽しんでいる――?

 いらいらする。
 あの頃の幽々子は殺すことしかできない自分を嫌っていて。
 自分のせいで誰かが死んでいくことを嫌っていて。
 それなのに。
 今の幽々子は……それを心底楽しんでいる。
 いらいらする。
 例え死んだ人間が、生前とはまるで違うものになるものだったとしても。
 それでも、幽々子が人を殺すことを楽しむなんて、そんなものは見たくない。
「何度も言わせないで」
 蝶たちが襲いかかってくる。
 切り刻んでも潰しても死ぬことのない蝶が。
 でも、私には関係ない。
「私は貴方を止めるといったはずよ。力ずくで」
 これを使うのは藍と戦ったとき以来。
 死なないというのなら、蘇るというのなら、無限に潰し続けるまで。
 跡形も残らないほどに。



 ――『弾幕結界』



「……え?」
 初めて幽々子の顔から笑みが消える。
 彼女を取り巻く無数の妖弾。
 その数は蝶の比ではない。
 数千、数万……いや、もっとある。
 私でさえその正確な数は把握していない。
 相手を滅するか、私の力が尽きるまで半永久的に湧き出る妖弾が、蝶を貫き四散させて幽々子に襲い掛かる――



 ………………

 …………

 ……



「う……ぁ……」
 ぼろぼろになった体を支えきれず、幽々子は地面に膝をついた。
 いかに霊体といえども、これだけの攻撃を受ければ、しばらくの間動くことはできない。
 もし動けたとしても、蝶を呼ぶどころか満足に戦うだけの力も残っていないはず。
「勝負ありね。幽々子、もう抵抗するのは止めなさい」
「っ……」
「聞いているの、幽々子?」
「ぁ……ああああああああ!!!」
 瞬間、ぐにゃりと、空間が歪んだ。
 幽々子の発する、禍々しい妖気によって。
 巻き込まれた私の妖弾が消えて――否、死んでいく。
 これにはさすがに私も言葉を失った。
 幽々子の力が、これほどのものとは思っていなかったからだ。
 そして、それ以上に……
「暗い……冷たい……痛い……痛い、痛い、痛い! どうしてみんな行っちゃうの! どうして私を一人にするの! 私を一人にしないで! 私を……独りに……しないで……」
 心を引き裂くような叫び声。
 私はそこに幽々子の味わっている苦痛を垣間見た気がした。


 が、それとは別に、幽々子の発する妖気がますます強まっていく。
 私の放った妖弾を飲み込んでなお、死が、広がっていく。
 幽々子を止めなければ、このままではどうなるかわからない。
 しかし、幽々子を止めるということは……。
 体が震えた。

 ――私は、また、幽々子を犠牲にして、生きようとしているのか……?

 そう思うと最後の決断を下せない。
 何もできないまま呆然と立ち尽くす私の横を、誰かが駆け抜けて行った。



 ………………



 妖忌は心のどこかで思っていた。
 紫に幽々子を止めることはできないだろう、と。

 なぜなら、幽々子は生前の記憶を失っているからだ。
 そして、彼女が今の自分というものに何ら疑問を抱いていないからだ。
 なぜ自分がここにいるのか、なぜ自分にはこんな力があるのか、自分の生い立ちについてさえ、何一つ疑問を抱かない。
 全てがどうでもいいことのように。
 ただ、一つだけ例外があった。生前に強く印象に残ったことを、うっすらとだが覚えていたのだ。
 自分が孤独であったこと。
 その孤独を癒してくれる存在があったことを。
 幽々子はそれに従って行動し、人を、妖怪を死に誘う。
 何を言われても、例え殺されても、幽々子は死に誘うことをやめないだろう。
 今の幽々子にとって、それだけが価値のあることだから。


 二人の戦う姿が見えたとき、妖忌の体は勝手に動いていた。
 呆然と立つ紫の横を走りぬけ、死の充満する空間へと飛び込む。
 あの時と同じように体中の力が抜けていく。
 しかし、半分死んでいることが幸いしたのか、今度は踏みとどまることができた。
 倒れそうになる体を必死に支えて、一歩一歩、幽々子の元へ進んでいく。


 幽々子は泣いていた。
 迷子になった子供のように、死に包まれた世界の中心で、独りきりで泣いていた。
 これが彼女の心の中なのだと、妖忌は思った。



 西行寺の人間は幽々子の力によって全て死に絶えた。
 幽々子の力を知る人間は、誰も彼女に会おうとはしなかった。
 八雲紫という友人ができたのも束の間、幽々子は結界にその身を捧げて、また、独りになった。
 彼女が背負い続ける苦しみがどれほどのものか、彼には想像もつかない。
 今になって思う。
 その時、自分は何をしていたのだろう、と。

 ――自分はただ、幽々子様の苦しみから目を逸らしていたのではないか?
 ――幽々子様を失う苦しみを恐れて、これは役目だと割り切ろうとしていたのではないか?

 だが、いかに割り切って考えようと、苦しみから逃れることはできなかった。
 そして、後には自分の愚かさを悔いる日々が待っていた。

 ――全ては、わしに人と正面から向き合う強さがなかったからだ。
 ――人との別れを受け止めるだけの強さがなかったからだ。

 だから、今度こそは――



「……誰?」
 どこか怯えたような表情で幽々子が言う。
 泣き腫らした目を見て、妖忌は無意識に手をきつく握り締めていた。
 ともすれば抜け落ちてしまいそうな意識をつなぎとめ、ゆっくりと地面に膝をつく。
「庭師、魂魄妖忌にございます。幽々子様」
「妖忌……?」
「はい」
「妖忌は……私と一緒にいてくれるの?」
「はい」
「……ずっと?」
「――いいえ」
 幽々子が息を呑むのがわかる。
 だが、妖忌は迷わなかった。
「ですが、次代の者が跡を継ぎ、必ずや幽々子様にお仕えするでしょう」
「……ふふ」
「……幽々子様?」
 幽々子は笑っていた。
 涙を拭いながら、笑っている。
「妖忌は本当に嘘がつけないのね。こういう時は、嘘でも「はい」って言うものよ?」
「……申し訳ありません」
「いいの。いつかは貴方とも別れる日が来る、それはわかっていたことだから。……ただ、認めたくなかっただけ」
「――」
「私の隣には妖忌、いつも貴方がいてくれたわ」
「幽々子様、もしや記憶が……?」
 幽々子はゆっくりと首を横に振った。
「わからない。でも、そんな気がするの」
「……」
「それが当たり前。貴方がいなくなるなんて考えられない、だからいなくならないで欲しいなんて……子供じみた考えよね」
「いいえ、それは――」
 「自分も同じだった」。喉まででかかった言葉を、妖忌は何とか飲み込んだ。
 目を逸らしてしまう。
 だから気づかなかった。幽々子の頬がほんのりと紅くなっていたことに。
 話を変えるように、幽々子は明るい声で言った。
「ああ、もう一度彼女に会いたいわ。ぼんやりとしか思い出せないけど、眩しいくらいに輝いて見えた彼女に。……ねえ、妖忌。私はまた彼女に会えるかしら?」
「――はい。必ず」
「そう。それを聞いて安心したわ。あら……安心したら、何だか眠くなってきちゃった……」
「では、寝所までお連れしましょう」
「……ええ、お願い……ね」
 幽々子は妖忌に寄りかかるようにして倒れ込む。
 すぐに静かな寝息が聞こえてきた。
 妖忌はその寝顔を見て微笑むと、幽々子を抱いてゆっくりと立ち上がった。

 ――これでいい。
    限りある命しかないわしには、幽々子様と共に歩み続けることはできない。
    だが、その心はきっと次代に受け継がれることだろう。
    それに紫様もいる。
    これからは、幽々子様は決して独りではない。

 辺りは、元の静けさを取り戻していた。



 ………………



 私はその光景をただじっと見ていた。
 見ているだけしかできなかった。
 だって、私の入り込むスキマなんてこれっぽっちもなかったから。
「これにて一件落着ですね、紫様」
 いらいらする。
 隣では藍がにこにこしながら二人を見ている。
 その笑顔がなんかむかつく。
「主従の絆ってやっぱり凄いものです――痛っ!!」
 あまりにもむかつくからお尻を蹴っ飛ばしてやった。
 あれがそんなものに見えるなんて、こいつの目は節穴に違いない。
 ……それにしても足が痛い。
「さっさと帰るわよ、藍。こういうのはいつまでも見てるものじゃないわ」
「うぅ……わかりましたよう」
 お尻をさすっている藍の首根っこを捕まえてスキマの中に放り込む。
 続いて中に入った私は、スキマが閉じる寸前にちょっとだけ後ろを振り返った。
 桜の下の二人は、まるで……


 ――あれは親子! ……誰が妬いたりなんかするもんですか。





 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇





「あ~美味しい」
 妖夢秘蔵のお酒をちびちびやりながら、私は桜並木を歩いていた。
 冥界の結界を張りなおしたのだから、これくらいの報酬はあって然るべきだ。うん。


 昔のことを思い出すうちに、私の足はあるところへと向けられていた。
 今年は春が遅かったせいでまだあそこに行ってなかったからだ。
 桜並木を抜けると、そこには一本の巨大な桜――西行妖。
 散ったばかりで、今は眠りについている西行妖の後ろへ回り込む。

 ……あった。

 西行妖の根元に、一本の木の枝が置かれていた。
 花は散ってしまっているが、間違いない、これは桜だ。
 今年も彼はここへ来ていたらしい。
 自分のあとを妖夢に任せて幽々子の元を離れても、毎年、こうやって桜の花を供えていく。
 それに習って私も、例年通りに桜を供えていくことにする。



 でも、今年は“例年通り”では終わらなかった。
 なんというか、まあ、昔の思い出に浸ってみたり酒が入っていたりで、いつもならやらないことをやってみようと思ったのだ。
 具体的には言えば、幽々子の顔が見たかった。

「……さてと」
 辺りに誰もいないことを確認して、深呼吸を一つ。
 精神を集中して、慎重に、西行妖の結界に小さなスキマを開く。
 大きさは四、五十センチほど。
 開ききったところで固定して、中を覗き込む。


 時が止まった世界の中に幽々子はいた。
 年を取ることもなく、あの時と同じ真っ白な装束に身を包んで。
「幽々子……」
 無意識に呟いていた。
 しまったと思った時にはもう遅い。スキマが徐々に閉じ始め、見えない力に体が圧される。
 外からの刺激に反応した結界が、異物を排除しようとしているのだ。
 それに逆らうように手を伸ばす。
 幽々子の顔に触れるか触れないかというところで手が止まる。
 触れたいけど、触れてはいけない。
 そんな葛藤……

 
 結局、そうこうしているうちに結界に弾き飛ばされて、スキマは完全に閉じてしまった。
 無様にも尻餅をついたまま、私は西行妖を見上げていた。
「あー、私らしくもないミスだわ……」
「紫? こんなところで何してるの?」
「……」
 すぐ横には幽々子の姿が。
 結界の中の幽々子とまったく同じ顔。
「ねえ、いったい何をやっていたの?」
 ま、こっちでもいいか。
 両手を伸ばして……

 びよーん。

「ひょっ、ゆ、ゆかひ! ひらひひらひ!」
 両方のほっぺたをつかんで思いっきり引っ張る。
 おお、餅のようによく伸びる。
 何か言ってるけどぜんぜん聞こえないし気にしない。
「幽々子、もうこの桜の封印、解こうなんて考えちゃ駄目よ? この桜に比べたら、冥界の結界なんてずいぶんと可愛いものなんだから」
 限界まで引っ張ってほっぺたを離す。

 ぱちん!

「あいたた……わかってるわよ、もう。この桜、私じゃ咲かせられないみたいだし」
「そう? それならいいわ。じゃ、どこかでお酒でも飲みましょうか。いいものを手に入れたのよ」
 立ち上がりながら、妖夢の酒瓶を軽く振ってみせる。
「それ妖夢の……」
「いいじゃない。お酒は飲むためにあるものよ?」
「……まったく、仕様のない人ね」
 幽々子はやれやれといった風に笑っていたが、反対する気はないらしい。
 歩き出した私の横に並んで、どこがいいとかここがいいとか言っている。
 この食いしん坊の呑ん兵衛め。
 そんなことを思っていた時、

(――ありがとう、紫)

 風に乗って確かに聞こえた。
 立ち止まって振り返ったその先、桜の花びらの舞う中に、彼女はいた。

(――また会えるかな?)

 ふん。会えないなんてこれっぽっちも思ってないくせに。
 私が会いに来ないなんてあり得ないってわかってるくせに。
 でも、まあいいか。
 一度だけ、のせられてあげる。

「ええ。きっと会えるわ」

 私の言葉を聞いて、彼女は嬉しそうに笑いながら消えていった。
 あとには何も残らない。
 それはそうだ。
 あれは幻。
 幻を見ることのない妖怪に人間が見せた、たった一度の奇跡。
 だから、来年もまた来よう。
 貴方に会いに。もう一度あの奇跡を見に。


 この、桜の木の下で――


昔の幽々子と今の幽々子。
紫の目にはどう映っているんでしょう。
…何か「どっちも同じ」とかいわれそうな気もします。
幻想郷の妖怪はきっと大らか(?)なのです。

ともあれ、ここまで読んでくださってありがとうございました。
少しでも楽しんでいただければ幸いです。
aki
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コメント



0.1260簡易評価
2.80名前が無い程度の能力削除
幽々子と紫、妖忌とそれに続く妖夢。
彼女らの織り成すドラマがしっとりとした雰囲気で綴られていて、読んでいて楽しかったです。
紫と藍の関係もとても暖かくて良いですね。

ごちそうさまでした。
10.70おやつ削除
これみて前編ごと読み返してきました。
良いお話でした。
藍様と紫様の距離が非常にツボでした。
16.70七死削除
幽々子が死んでから、現在(?)に至るまでの話っていうのは、創想話では殆どないんですよね。 

幽々子が存在していたこの期間は、幽々子が人間だった頃や、妖夢が現われてからよりもずっと長いものなのですが、じつはここに関する資料は、幽々子が死に誘う己の能力を楽しむようになった、この一文だけ。

もう少し場面場面にしっかりと読ませるパートが欲しかったですが、それでもこのグレーゾーンに果敢に挑まれ、そして物語を完結された事は実にお見事。

良い作品を有難う御座いました。