Coolier - 新生・東方創想話

月に憑かれたクラウンピース

2015/12/20 07:18:09
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 彼女はこのアパートのどこかには住んでいるだろうと、イザークは当たりをつけていた。しかし結局、彼が死の床につくまで、その部屋を見つけ出すことはできなかった。屋根裏や床下に、何か秘密の小部屋があるのかもしれない。
 今は、彼の隣にいる。手に触れたらきっと吸いついて離れないであろう、なめらかな光沢を放つストレートの金髪が、視界に入る。全身に鉛を流し込んで固めたように重苦しい自分の体を叱咤し、かろうじて、首だけを傾ける。ベッドの脇の椅子に腰かけて、彼女はうつむいて、手元に視線を落としていた。はじめ、本を読んでいるのかと思った。美しい少女には、何よりも本が似合う。楽器はやめた方がいい。あれは、男が弾くものだ。しかし、詩集でも小説でも、本というやつは、女が、それも少女が手に持つに限る。イザークは固くそう信じている。
 しかし少女は、ルービックキューブを弄っているだけだった。
「曲は、完成したの? 死ぬ前に、やっておかないと。おじいさん、そう言っていたよね」
 少女は、イザークが死ぬことをなんとも思っていないようだった。それは、言葉の端々から彼に伝わってきた。
「きょく」
 イザークは、とにかくこれ以上少女に嫌われたくなくて、わけもわからぬままその言葉を繰り返した。
 俺は今まで、何をしていたんだっけか。
「ははっ、それも忘れちゃったか」
 少女はまるでそろっていない、いや、徹底的にそろっていないという意味ではあまりにも整然とバラバラな色をちりばめたルービックキューブを、枕元に放り投げた。鼻先に当たって、反射的にイザークはまばたきする。
「飽きちゃったなあ。もう帰っていい?」
 少女は粗末なスツールから立ち上がる。背中まで届く金髪は、イザークのぱさぱさの髪の毛とは違う物質でできているかのようで、ただ立ち上がるという動作だけで、軽やかに舞う。昔、講演で南東の帝国に招かれた時、別次元に招かれたような劇場で、化粧を施した異国の俳優たちが飛び、跳ね、踊る中、金襴の垂れ幕が眩いきらめきを放っていたのを思い出す。劇場から出ると雨が降っており、遠くに見える、枝垂れ柳の並んだ川岸は、うっすらと幕がかかったようだった。同じイデオロギーを信奉しているとはとても思えないくらい、食べ物も、人も、世界観も、あまりに殺風景で何ひとつしっくり来るものはなかったはずなのに、記憶の一瞬一瞬を切り取ると、たまらなく官能的な想いが湧き上がってくる。
 次に、イザークは反射的に目を閉じた。少女が椅子から立ち上がることで、横になっていたイザークにも、彼女の体全身が見えたからだ。ほっそりとした優美な体つきは、それだけで暴力的な感動をもって彼を打ちのめした。
 そして、その服。
 青い地にちりばめられた白い星、そして、赤と白のストライブ。
 見ただけで軽薄さ、知的薄弱、意志の弱さが迸る、醜悪の極みを狙ったようなデザインだ。人間は享楽の前にひれ伏すという、誤った世界観によって導かれた、資本主義国家群首魁の印、ユナイテッドステイツ、錯誤の国旗。
「今更これを、怖がるっていうの」
 少女は嗤う。
「違う。恐れているのではない。憐れんでいる。軽薄な思想に洗脳された哀れな帝国の民たちを」
「そうね。もっと怖いものが、あるものね」
 少女は、身にまとったワンピースを宙へ放り投げた。わずか一瞬、そのあまりに白い体が露わに晒された気がしたが、イザークは目が灼け、細部を見ることはできなかった。気づいたときは、少女の服は、同じタイトなワンピースでも、まったく違う意匠となっていた。
 全身が真っ赤だ。そして、胸元に、ワンポイントで五芒星と、交差した鎌と槌が置かれている。イザークは目を大きく見開く。目をそらすことができない。少女の肉体が持つラインの美しさだけではない。その色は、夥しく流れる血を、彼に想起させる。これから流れるであろう、血にも。
 荒々しい複数の足音が廊下からやってくる。
「ああ、来ちゃったね。もっと怖いものが」
 粛清の足は部屋の前で止まる。ドアが叩かれる。形ばかりのノックだ。このあと、形ばかりの審議が行なわれるだろう。そして本物の死がやってくる。逃れるすべは、ない。
「兄弟たちが、おじさんを殺しにくるよ」
 少女は、イザークに顔を近づける。間近で見てみると、少女はそれほど端正な顔立ちをしているというわけではなかった。特にパーツごとで見るとそうだ。目は少し離れているし、口もやや大きすぎる。だが、離れて見ていては感じられなかった、強烈な吸引力がある。ただの着飾った置物ではない、呼吸し、嗤い、道化っぽさのある、とても人間的な、人間でない存在。
「クラウンピース……」
「あはっ、やっと思い出した。年取ると、物忘れが激しいんだから」
 少女は満面の笑みを弾けさせた。
「嬉しいな。お礼に何か、あげたいな。殺そっか?」
「そうしてくれ。寒いところは嫌いなんだ。強制される労働も、強制される自発的な自己批判もな」
「オーケー」
 クラウンピースは、手のひらを頭上に掲げた。ぼんやりと光が灯る。薄暗い部屋に、生ぬるい、べとつくような光が生まれた。イザークの目から鼻から口から、光は入り込んでくる。するすると頭に上っていく。心臓に入り込み、血管によって体の隅々まで運ばれる。理性が破壊されていく。兄弟たちがドアを蹴破って入ってきた時には、もうイザークは、自分の名前も住所も誕生日も、わからなくなっていた。ただ、目をひらき、呼吸をしているだけの、何の用も成さない木偶になっていた。彼の体に、思い出だけが残り、それはぽつぽつと毛穴から出たり入ったりしていたが、それに気づいているのはイザークだけで、すでに正気と狂気でわけ隔てられてしまった兄弟たちに、そのことを教えてあげることはできなかった。



   ***



 スプートニクが打ち上げられた夜、もちろんセルゲイは喜んだ。あまりにも祖国が誇らしく、目頭が熱くなった。神童の誉れ高い彼は、自分は宇宙飛行士になるために生まれてきたのだと知った。親も、先生も、市の委員会の偉い人も、そう言った。
 しかし競争は厳しかった。連邦の全土から、勉強も運動もできるやつが集まってくるのだ。その中でセルゲイは、自分が凡人であることを思い知らされた。彼は青年らしく、自分と他人を比べては、落ち込んだり、つけあがったりした。折れそうになるプライドを、かろうじて、町の人たちの手紙が支えてくれた。つまり、大多数の人びとと同じように、日々を暮らしていた。
 そうこうしているうちに、アポロが月にたどりついた。
 セルゲイは、落ち込みなどしなかった。
 なぜなら、アポロは月にたどりついてなどいないと、知っていたからだ。
 スプートニクが宇宙を飛んだあの夜、彼は家の庭から空を見上げた。たとえ目には見えなくとも、暗い夜空を、神秘的なオーラが縦横無尽に駆け巡っているのを感じることができた。
 人間が、とうとう世界の外へ踏み出し、神話の領域へ踏み込んだ。現と幻がつながった夜だった。
 しかし、アポロの時に、夜はそんな騒ぎとはまったく無縁のまま、いつも通りの日常を送っていた。宙を飛び交ういかなるオーラもなかった。ほんとうに月にたどりついたのであれば、今頃、神話のように、馬車に乗った神々が夜空を猛り狂ったように走り回っているはずだ。
「あれは、嘘だ」
 セルゲイは断言した。彼に同調する者も多かった。あれは、敵国の陰謀だと。ほんとうは月になど行っていないのだと。
「あいつらは、月には行ったんだ。だけどその月は本物じゃなかったんだ」
 セルゲイは、半端な理解しかしていない陰謀論者たちに、きちんと正確な説明を試みた。敵国の科学力を甘く見てはいけない。あいつらは確かに、偽物の月に到達する程度の科学力は持っているのだ。現時点では我々よりも上だろう。しかし我々が目指すべきは真実の月なのだ、と。しかし、誰もセルゲイの言うことを真に受けてはくれなかった。
 敵国の奴らが月に行ったのか、行っていないのかが問題であって、当の月そのものの真偽を問うのはナンセンスだ。月は、月だ。本物も偽物もないではないか、と。
「違う。全然違う。月には本物と偽物がある」
 セルゲイが意気込んで伝えようとすればするほど、同調者は減っていった。
 寮の二段ベッドで、冬眠する虫のように体を丸めていると、夜中、ひとりでに窓がひらいて、声が降りかかってきた。
「おかしいよねぇ。あれが偽物だってのは、誰が見たってそうなのに。みんな、見て見ぬふりをしているんだよ」
 シーツを下げて、目を外に出す。部屋に、女の子が立っていた。セルゲイ自身より少しだけ年下の、金髪で、肌は白く、大人びた体つきをしていた。女の子は、敵国の国旗を身にまとったような格好をしていた。スカートは短く、タイツは、足を隠すためではなく、むしろ足を目立たせるために履いているとしか思えないほどに、彼女によく似合っていた。
 ただ、道化の帽子はいただけなかった。そのせいで、せっかくの美しい外見に、奇妙な歪みが生じてしまっていた。
「君は、真実の月がどこにあるのか、知っているのか」
 セルゲイは上体をそろりと起こした。上段で寝ているルームメイトの目を覚ましたくなったし、それでなくとも、あまり急に動くと、少女はなんの前触れもなく消えてしまいそうだった。こんなに美しい女が、ただの幻だなどと、セルゲイは思いたくなかった。スプートニクが飛んだあの夜が、ただの幻ではなかったのと同じように。
「うん、知っているよ」
「どこにあるんだ」
「おんなじとこ」
「同じ所?」
「そう。ただし、裏と表があるんだ」
「そんな馬鹿な」
「あたいは馬鹿じゃないよ」
 少女は明らかに気分を害したようだった。
「ごめんよ、そういうつもりで言ったんじゃない。許してほしい」
 セルゲイは、自分より頭一つ分以上背の低い少女に向かって、目いっぱい頭を下げた。その真摯な態度に、少女は機嫌を直したようだ。
「ま、いいけどね。でも、そっかぁ、なかなか気づかないもんだよね。君は珍しい方だよ。どうして気づけたのかな」
「宇宙のことを、たくさん考えているからだと思う。神話とか、最近の小説とか、たくさん読んだ。サイエンスフィクションって知っている? 最高だぜ」
「あはははっ、ここの建物には、数式がたくさん飛び交っているよ。数式ばっかりだ。空中に言葉の響きが残っているから、あたいにはわかる。神話なんて言ったら、ここじゃ馬鹿にされるよ」
「数式や記号なんかじゃ宇宙はわからない。HやNの話をしたって、宇宙は見えてこないさ」
「興味ないんだ。そりゃ、落ちこぼれるわけよね」
「興味がなくても、僕は一番だったんだ……町では」
「ここじゃあそうはいかないよ。才能がある上に努力している奴しか、ここにはいないもんね」
 やけに世知に詳しい人外だなと、セルゲイは感心した。はじめから彼女が人間ではないことは、何の違和感もなく納得していたことに、セルゲイは今更自分で気づく。
「でも、君は、あたいを見つけることができた。ただの人間なのにね。それだけは自慢していいことだよ」
 話の流れが、終わりへと向かおうとしている。セルゲイは慌てた。ここで体をつかもうとすれば、きっと幻となって消える。
 体をつかんでも意味がない。その存在をつかまないと。
「ぼ、僕は、セ、セルゲイ」
 せき込み、どもりながら、名乗る。少女は目を細め、値踏みするようにセルゲイを見て、狡そうに笑った。
「あたいはクラウンピース。ま、合格かな。また来るね」



   ***



 楽器は、いつまで経ってもこなかった。イザークは気が狂いそうになりながら、コンサートホールの舞台の上を行ったり来たりしていた。五十人近いオーケストラの団員たちは、手ぶらのまま、椅子に座り、心配そうな目を互いに見交わしている。
 確かに、この国であろうと、どこの国であろうと、輸送事故というものはありえる。たまたま今回がそうなのかもしれない。しかし、この国では、たまたまということよりも、わざとということの方が、遥かに多い。
 機材が届かないのは、それは、誰かが、つまり当局が、届かせないから。
 そう疑う方が自然だった。なにしろイザークは前科持ちだ。よく北の凍土に放り込まれなかったものだと、みんな思っている。
「あの……ここに座っていても、あまり意味がないと思うのですが」
 ベテランのホルン奏者が、我が身を犠牲にする覚悟で、口をひらいた。イザークの癇癪が破裂するかどうかは、五分五分といったところだ。イザークは、爆発はしなかった。ただ、目を見開き、鼻の穴を広げ、眉間に皺を寄せ、喉から呻き声を絞り出し、全身をぶるぶると痙攣させた。
「客が、来るんだぞ。客が……来るんだぞ」
 イザークの怒りが最高潮に達していることを、団員は感じていた。もう、何も言わなかった。とりあえず席に座っておくほかない。イザークの気が済むなら、楽器のないままエアオーケストラでもなんでもやってやろう、そういう諦観の境地に彼らは達していた。
「客が……せっかく……俺たちの、俺の……客が」
「お客さんは、もう来ないよ」
 光る粉が、イザークのまわりに振り撒かれた。舞台の照明を映し出し、ガラスの破片のように煌めく。
「お前か、クラウンピース」
 イザークの顔の前に、羽を震わせながら少女が浮かんでいる。
「今日はやけに小さいな」
 彼女の大きさに合わせるように、イザークは声を潜める。団員たちは、また始まった、という顔をしているが、イザークは気にしない。人間たちからは顔を背け、少し斜めに顔をあげ、彼の大切な妖精に囁きかける。
「誰かが邪魔をしやがったんだ。俺の邪魔を。俺が妬ましくて」
「あーあ、トーキョクニメヲツケラレちゃったねぇ」
「俺は何もしていない。誰かがあることないことを言いふらしたんだ。どいつもこいつも善人顔の訳知り顔で通人ぶりやがって、そのくせ何ひとつ俺の役には立ちゃしない。当局の害になるような人間じゃない。ただ曲を作って、みんなに演奏してもらっているだけだ」
 クラウンピースは、目を細め、唇の端をつり上げた。幼い顔には、この狡そうな顔がよく似合う。
「ただの曲?」
 イザークの脳裏に、地滑りを起こし、山の斜面から家々を流し去っていく洪水の様子が思い浮かぶ。それに合わせて、弦楽器が重厚な音を流す。すべてを飲み込むように。時々、ヴィオラやヴァイオリン、チェロが、ひきつったような声で宙を彷徨い、また戻ってくる。
「虐殺のことを、言い過ぎだよ。聴いた人間を、収容所にぶち込んでしまう」
「そんなことはない。ちょっと刺激的で、官能的で、でも真面目な曲だ」
「いいや、殺した奴らには、わかってしまうのさ。その手応えを知っている人間は、あの曲で、その手応えを、嫌でも思い出してしまう。だから、駄目なんだ。最近はニシガワの連中が盛んにガス室や収容所のことを言っているでしょ。映画や小説でたくさん宣伝してさ。収容所のことを言われたら困るよね、それがないと現にあんたの国は人手が足りず、回っていかない」
「よせ、彼らは思想的に問題があったのだから、矯正されなければならない。たとえつらくとも」
「あんたがそこに入れられたら?」
「そんなことはありえない。ありうるとすれば、陰謀だ。まさに今のこの状況だ」
「ぶちこまれる全員がそう思っているんじゃないかなあ。あんたには素質があるもの。あんたたちの民族は、今や悲劇の主人公だ。ニシガワに行きゃたっぷり同情してもらえる。芸術家の亡命なんて最高さ。だから当局は、そうされる前にあんたを始末する」
「馬鹿馬鹿しい。俺が、どれほどこの社会が理想的だと思っているか、当局が知らないはずはない。それは、俺の曲を聴けばわかるはずだ。俺はこの国を愛している。ここでずっと生涯を送りたい。もう、元の国に戻るのはごめんだ。あんなのは祖国じゃない。俺たちを隔離し、殺した。殺したんだ。独裁者のせいじゃない、社会そのものによって殺されたんだ」
「あんたは運が良かった」
「そう、この国に助けられた。ここが、俺の祖国だ。ここで音楽を続けられる幸せを、俺は何度も曲に込めている。何度も何度も何度も。これだけ何度も言っているのに、なぜ伝わらないんだ」
「そりゃ、あんたが弱いからだよ」
 重苦しい思索の果てにようやく導き出したかのようなイザークの問いに、クラウンピースはあっさりと答えた。イザークは黙り込んだ。おそらくその回答は、正解だった。
「弱い奴の言うことは聞かなくていい。強い奴が何か言えば、それは片言隻句たりとも聞き漏らしてはならない。当たり前でしょ? 世界の常識だよ」
 イザークは首を振った。首を振り続けているうちに、コンサートホールの景色が溶け、剥がれ、その下から、瓦礫の山となった都市の風景が現われてくる。
「違う、それじゃいけないんだ。強いとか弱いじゃない。お互いが助け合う。それぞれの長所と短所を持ち寄って、恩に着ることも着せることもなく、身に余る欲望を抱くこともなく、穏やかに生きていくんだ。そういう世界を、俺の国は作ろうとしているんじゃないか」
「ま、あんたの国はすっごく強いけど」
「それは、必要な強さだ」
「そう、必要な強さ。あんたの言う通りよ、イザーク。強さは、必要なのさ」
 壮麗な議事堂は、砲撃によって粉々にされた。全国民の憧れであったギリシアの朽ちた神殿と同じように、文明の残骸が、今はもうそこら中に散らばっている。夜になっても砲弾は飛んでくる。しゅるしゅるしゅると照明を放ちながら。
 硝煙に曇る空に、月が浮かんでいる。それは、砲弾の照明や、火事で燃え上がる炎に比べて、あまりにも弱く、ささやかな光しか放っていなかった。
 やがて、都市の光景は、コンサートの舞台に上塗りされる。団員たちが、心配そうな眼差しで、彼を見ている。イザークが心配なのではない。イザークが変なことをやろうとして、それで楽団に累が及ぶことを心配している。
「解散だ」
 イザークは、急に十も老け込んでしまった。窪んだ目から、涙が溢れていた。髪は、たった数分の独り言の間に、白いものがいちだんと増えていた。舞台に、ため息が漏れる。安堵だけでは、ない。それぞれ、自分の腕に誇りを持ち、音楽に並々ならぬ愛を捧げてきた男女たちだ。悔しいのはイザークだけではない。それでも、命さえあれば、また運命が変わる日を待つことができる。イザークは、彼らのその機会をみすみす奪い、猪突猛進してしまわないかと皆が心配していたのだ。
「楽団は、解散する。各パートのリーダーだけ、私のところに残れ。自己批判書の打ち合わせをしよう」
 何かあれば、自己を批判し、兄弟たちに謝罪をする。
 それが、この世界を平和に保つためのルールだ。
「丸くなったね」
 不意に耳元で、また、小さいクラウンピースが現われる。
「そうじゃない。保身に走るのは大人も子供も一緒だ」
「ふぅん、昔はもっと、尖っていたと思うけど」
「愚かだった」
「そうかぁ。残念だな」
「どうして」
 クラウンピースは残酷だということを、イザークは弁えていたつもりだった。だが、きちんと弁えていれば、うっかりそんな質問はしなかったに違いない。つまり、イザークは気が緩んでいた。クラウンピースは、人間に対して一切の容赦をしないというのに。
「あんた、昔の方が良かったよ」
 それは、嘘偽りのない心底からのクラウンピースの感想であるだけに、イザークの胸を、腹を、深くえぐった。表情に出さないよう、イザークは努めて顔の筋肉を固めた。とりもなおさず、そのことが、彼の受けた苦痛を示していた。クラウンピースは、あの、狡猾で可憐な笑みを浮かべる。
「今は、そうやって痛がっているところを見るのが、精いっぱい、あたいが引き出せる愉しみかなぁ」



   ***



 宇宙飛行士から落ちこぼれてしまったセルゲイの心の隙間を埋めてくれたのは、音楽だった。この国には、才能溢れる音楽家による、豊かな芸術作品が、毎日のように生み出されていた。ニシガワの奴らは、盛んに、堕落した消費文明をこの国に浸透させようと画策していたが、その試みはあまりにも無謀であることを、セルゲイは自室のレコードに耳を澄ませ、祖国のオーケストラが奏でる音楽に酔いながら、しみじみと理解していた。
 なるほど、ニシガワの奴らにも、多少は骨のある音楽家もいる。だが、そいつらも結局は我が国が放つ芸術的光輝の余光を啜って生きているに過ぎないのだ。ジャズだのロックだの俗悪な騒音で、人間としてせっかく生まれ持ってきた感性を無駄にすり減らしていく、かわいそうな帝国主義の奴らだ。
 セルゲイは特殊な音楽教育は受けていない。それでも、祖国の腕利きが奏でるピアノの一音、ヴァイオリンのひと弾きが、彼の官能を思う存分満足させてくれる。
 宇宙飛行士になれなかった代わりに、宇宙飛行センターの職員として働くことになった。もちろん、知的エリートの一部だ。様々な役得もある。だから、それほど苦労せずに女を嫁に取ることができた。しかし、彼女は三か月で妊娠すると、そのままとめどなく太り続け、出産から育児初期のゴタゴタを切り抜けて気づいた時にはもはや手に負えない肉の鎧で身を覆い尽くしていた。彼女が小さい頃の、妖精のような写真だけが残っている。あの可憐な女は、写真の向こうに消えてしまった。セルゲイは職場で最低限のことをやったあとは、家に閉じこもり、女には金とウォッカだけ与えて、子供の世話に専念させ、ろくに言葉も交わさず、ひたすらレコードの前で音楽との甘美な対話を続けた。
 特にセルゲイが愛したのは、イザークという、この国ではないが、連邦に属する重要な友邦国出身の男の手による曲だった。年はセルゲイ自身とあまり変わらない、若手の期待の星だそうだ。
 セルゲイは、正直なところ、イザークが所属する民族と宗教……というよりイザークたちの場合は、民族と宗教が必ず不可分になっているわけだが……それらに対して、あまりいい印象を持っていなかった。一部の科学者や芸術家に、煌めく才能の持ち主がいることは認める。勤勉であることも事実だろう。だが、才能を鼻にかけ、人を騙すことに努力を惜しまないそのこせこせとした姿勢は、気に食わない。だいたい、ニシガワの親玉のご機嫌をとって、二千年前の我が家に無理やり帰還したというのも、少々情けない話だ。先住民は追っ払っているわけだし。
だから、最近、この国のあちこちでイザークが所属する民族と宗教を駆逐する動きが出てきているのも、やむなしと考えていた。ただ、頼りがいのある優秀な職員が、たまにそこに属しているので、そういう時は厄介だった。普段はハキハキと言うことを聞き、愛想もいいのに、いざその民族と宗教の話になると頑なになってしまう。阿片を生きる支えにしていては、本人のためによくないとセルゲイは思うのだが、言えば喧嘩になるから、言わない。しかしこの国全体がそういう趨勢になれば、そういう動きに同調することで、彼らを排斥することにはなるだろう。兄弟たちの意思には逆らえない。
ただ、イザークだけは追放されず、この国で音楽を続けてほしいと、セルゲイは切に思う。レコードの外装や、音楽雑誌でたまに見かけるイザークの髭面の丸顔はすっかり覚えた。彼の顔を見ると、セルゲイは心が穏やかになり、時には胸が熱く昂揚する。
 しばらく前からこの国は、月に行くことよりも、もっと現実的な方面に血道をあげていた。ミサイルをひたすら作る。できるだけ遠くまで飛ぶよう、できるだけ相手にとって迷惑な結果になるよう、一流の科学者たちが日夜心血を注ぎこんだ。落ちこぼれたセルゲイにはとうてい想像もできないような頭脳世界に生きる彼らは、毎日、どうすれば効率的に敵国の都市を壊滅できるか、真剣に考えている。数式と記号で編みこまれた細密画と睨み合う。セルゲイには見てもわからない、複雑で深遠な楽譜。
彼は諦め、漠然とした詩情を胸に抱き、毎日自室でレコードを聴いている。
「今日の月は、いいよ」
 ソファに寝そべった彼の耳元で、ひんやりとした声が囁く。宝石に触れ、その霊妙な力が指に伝わった気がして慌てて手を引くようにして、セルゲイはびくりと体を跳ねさせ、上体を起こした。
 クラウンピースがいた。相変わらず、敵国の国旗をあしらった、ぴっちりとした服を着ている。極端に突き出たり引っ込んでいたりするわけではなく、なだらかな稜線を描いているのだが、それが、えも言われぬ優美な効果を上げていた。いつもセルゲイの家にいる人間と、同じ性別とは思えない。そう、性別は同じでも、この女は、人間ではないのだ。ちょうど、レコードの弦楽四重奏がとりわけ高らかに、抒情的に官能を歌い上げるパートに入った。
「見に行こうよ。とっても綺麗だよ」
「君よりもか」
 本心から、その言葉が出た。目の前の少女よりも、月が綺麗だとは、にわかには信じられなかった。
「へえ」
 クラウンピースは、またあの笑みを浮かべる。相手を推し量る笑みだ。場合によっては、愛想を与えてやってもよいと、こちらを見定める目。セルゲイはその目に見入る。
「そういうこと言えるんだ」
「他に言う奴もいないしな」
「けど、今言う言葉じゃないなあ」
 心からの言葉を、あっさりと否定されてしまった。セルゲイは生まれてこの方、女に対して、その場にふさわしい言葉というものを口にできたことがなかった。
 クラウンピースの手が、セルゲイの肘をつかむ。それだけでセルゲイは、自分が雄であることを思い知らされる。これが女の手だ、と確信する。
 そうして浮ついた心持ちのまま庭に出ると、一面、灰色の荒野だった。見慣れた、区別のつかない住宅群や、仰々しいスローガンが記された横断幕は、どこにもなかった。
 ただ、夜空に、蒼い星が浮かんでいた。
「まさか……」
 慌てて周囲を見回す。今しがた出てきたはずの家もない。だだっ広い不毛の大地が広がっている。
「そう、ここは月」
 クラウンピースは空を指差す。
「そしてあれが、あんたのいた星だよ」
「嘘だ」
「嘘じゃないよ」
「じゃあ、これは夢だ。もしくは、お前が僕に幻を見せているんだ」
「そんなチャチいものじゃないって。あんた、あたいの力を甘く見ているね」
「もしここがほんとうに月なら、僕は死んでいるはずだ。空気はどこだ? 水は? ここじゃ僕みたいな生物は生きられないはずだ」
「ちょっと何言っているかわかんないな。あんたは今こうしてあたいと話している。それで充分じゃないの。なんの文句があって、意味もなくそんなに騒いでいるわけ?」
 クラウンピースが首をかしげながら、不思議そうに尋ねる。その顔を見ていると、セルゲイも、だんだんと自分が慌てているのが馬鹿らしくなってきた。
「まあとりあえずそこに座って落ち着いてなよ。すぐ戻るから」
 彼女が指さした方に、白いベンチがあった。ところどころ塗装が剥げかけて、木の地肌が出ている。セルゲイが座ると、確かな感触が尻、背中、手に伝わってくる。かさかさと乾いた塗装の表面も、剥げた部分の木のちくちくした感触も、あまりに真に迫っており、本物としか思えない。座り心地はあまりいいとは言えなかったが、家の中にたちこめる圧迫感はまったくないので、気分は良かった。背中をもたれかけさせ、両腕をベンチの後ろへやって、蒼い星を見上げる。
 ふと、足音が聞こえた。所在なさそうに、少壮の男がベンチの隣に立っている。セルゲイはあけた口が塞がらない。この顔を、知っている。
「あなたは、イザーク……」
 男は、顔を横に向け、座っているセルゲイを見下ろした。その髭面は、明らかに戸惑っている。
「失礼ですが……どこかでお見掛けしましたか」
「いえ、いいえ、いいんです。どこでも会っていませんのでご安心ください。ただ、僕はレコードと雑誌を持っているというだけです」
「ああ」
 イザークは合点が行ったようにうなずき、それから、警戒心が緩んだのか、ちょっとおどけたようにベンチを手のひらで示した。
「座っても?」
「もちろん。どうぞどうぞ」
「よっこらしょ」
 セルゲイは、イザークの横顔を少し見て、また頭上の地球に視線を戻した。見た感じでは、普通の人間だ。神々しいオーラに包まれているわけでもない。考えてみれば、あのフルートやトランペット、ヴァイオリン、どれも、彼が奏でているのではなく、その道の熟練者がひとりひとり、懸命に絞り出しているのだ。イザークは、それを掬い取っている。その結果、あの、類い稀な作品が出来上がる。
「あなたの曲、いつも聞いています」
 さりげない調子で、セルゲイは話しかけた。
「そうですか、それはどうも」
 イザークはくぐもった声で答え、ちらりとセルゲイを見て、それから空を見上げた。
「ところで、地球が綺麗ですね」
「ええ。ほんとうに」
 曲の話はもう終わってしまったのかどうか、セルゲイは測り兼ねたが、ひとまずイザークに同意することにした。改めて見てみると、確かに、自分の星は美しかった。
「ファンはね、信用できないんですよ」
 声が、星の美しさに言及していた時よりも、その前のくぐもったトーンに戻った。
「もしあなたが、部屋でのんびり過ごしている時に私のレコードを選んでくれているのなら……」
「もちろん、そうしていますよ」
「大変ありがたい話です。あなたがいなければ、私は存在できないのですから」
「あなたのことが掲載されるとわかった雑誌ならば、買います」
「それは良かった」
 肩に重荷を乗せられたように、イザークはため息をついた。セルゲイは、買った雑誌を繰り返し読んでボロボロになっているということは、言わない方がいいのではないかと考え、自制した。言ってしまえば、イザークのため息がさらに重くなりそうだ。念のため、尋ねてみることにした。
「崇拝者はお嫌いですか、イザーク」
「好きとか嫌いではありませんよ。身の安全のためです。崇拝者は、あとで裏切りますから」
「そうですか」
「あなたの作品は最高です! まさに私が求めていたものです! そう言って、拝むようにして私を褒め称える。宣教師のように私の作品を触れて回る。ところが何か一つ、私が意に添わぬことをしたとする。それは重大な裏切りなのだ。崇拝者にとっては。たちまち私は唾棄すべき存在へと変わる。崇拝を裏切ったのだから、何をしてもいいというわけだ」
 自分はイザークを崇拝していただろうか? とセルゲイは自問する。
「崇拝かどうかはともかく、私はあなたに、同志的愛情を抱いていますよ、イザーク。あなたの曲は、素晴らしい」
「ありがとう。しかし曲の話は、少しやめにしましょう。同志……」
「セルゲイ」
「同志セルゲイ。あなたは、何をされているかたですか?」
「宇宙飛行センターで働いています」
 宇宙飛行士になろうとして、競争に敗れたことを付け加えるべきかどうか、迷う。
「宇宙センターで! なんだ、あなた、エリートじゃないですか」
 セルゲイは、乾いた笑い声で応じた。イザークの言葉は、セルゲイの服に当たって、そのまま内部に浸透することなく上滑りして、月の大地に落ち、もはや顧みられることはない。
「私なんて、どうやったらあの大きな鉄の塊が、この黒い空へ飛んでいけるのか、まるで想像がつかない」
「そうでしょう、普通はそうでしょう」
「それに、どうしてスイッチを押せば電気がつくのか、これもわからない。実を言いますと、どうして車が動くのか、もね」
「ほとんどの人はそういうものでしょう。私だって、有人宇宙船に入れと言われれば、できません。その外側から、メンテナンスをしてあげられるだけです」
「いや、いや、それだけでもたいしたものです。何しろ世界はこの二十世紀に至り、もはや世界の隅々まで科学主義で覆い尽くされてしまいました。にもかかわらず、私たちは……おっと失礼、あなたは違う。けど私は、科学の仕組みの何たるかもよくわかっていない」
「あなたは、弦がどう響けば甘美に聴こえるかを、知っている」
 音楽以外の話になると急に饒舌に、しかも薄っぺらくなってきたイザークに、セルゲイは、わずかに鬱陶しさを覚える。
「それは知っています。それしか知らないと言ってもいいです。他に知りたいことなんてありませんからな」
「では、それでいいではありませんか」
「ええ、いいのです。私はそれでね。たとえ、なぜ引き金を引けば、人の頭に穴が空いて血が噴き出すのか、その仕組みを知らなくとも、銃を突きつけられれば足がすくんで怯えてしまう、それでいいのです。うっかりスローガンと違うことを言えば、北の凍土の収容所に」
「イザーク。同志イザーク。少しあなたは酒が入っていませんか? もしそうなら、少し、あの蒼い星を見て酔いを醒ますことにしましょうよ」
 セルゲイは、他人行儀のような、改まった物言いをして、イザークの舌の回転運動を止めた。イザークはしばらくきょとんとして、急に声量を上げたセルゲイを見ていた。おもむろに、居住まいを正し、ベンチに深く腰を掛ける。二人は並んで、地球を鑑賞した。
「いい星ですね」
「ええ。美しいです」



   ***



 またクラウンピースを抱きたくてしょうがなかった。だから、こちらを誘うように、奥へ奥へと逃げていく彼女を、それが罠だと知りつつも、追いかけずにはいられなかった。
 足の裏で、何かの境界を越えてしまった感触がした。
 そしてイザークは、月にたどりついた。そこには、一台のベンチがあり、同じ言葉をしゃべる、同じ年頃の男がいた。二言三言、会話をした。どうやらその男は、自分の曲を聴いたことがあるようだった。他にも、科学の話などをした。細かい内容までは覚えていなかったが、年が近いせいか、けっこうウマが合ったように思えた。セルゲイと名乗っていた。どこの宇宙センターに勤めているかまでは、聞きそびれた。それに、彼の言っていることが事実である保証はないし、もっといえば、彼の存在そのものが、真実かどうかの保証もなかった。
 月への訪問自体が、夢だったとは思っていない。あの妖精には、そのくらいの強大な力があると、イザークは納得している。だが、たとえ月が本物でも、あのセルゲイという連邦人までが本物であるかは、また別の話だ。
「お前はいつも、俺の気を引いてばかりだ。気を引くだけじゃ、つまらんだろう。実際に成就しなければ」
「んー、そんなことないよ。成就したらそれで終わりじゃん」
「馬鹿な。成就してからが、いかに楽しむかを考えられるんだろう」
「かもね。でも、成就した時点で、駆り立てるものはなくなってしまうもん。そうすると、いかに楽しむかって言ってもさ、それは、いかに飽きることを遅らせるかって、それだけの話になっちゃうよ」
「知った風な口を利く」
「あたいは物知りなのさ」
「何を」
 イザークは手を伸ばす。だが、指先が袖にわずかに触れるだけで終わった。最低限に身をよじることで、触れられることを回避する。それなのに、まだそこにいる。
「焦らすなよ」
「焦らしているんじゃないの。つまんないの」
「俺といてもつまらんか」
「そうねぇ。昔は良かったんだけど」
「やめろ、くだらん無能な年寄りが言うようなことは」
「ふふん、あんたは違うんだ」
「俺は常に圧倒的成長を続けている。言い訳ばかりしているそこら辺の有象無象とは違う、圧倒的可能性を秘め続けている。さっきの月の男を見たろう? 誰もが俺の芸術性に魅了されるんだ」
「ふぅん、おめでとう」
 イザークの腕が、クラウンピースの腰に回る。一瞬、クラウンピースは無抵抗になる。そのことと、腰のあまりの細さにイザークが動揺した直後、彼女は腕からすり抜け、背後に回り、イザークの背中を突き飛ばす。床に膝と手のひらをつく。
「きゃははははっ」
「このっ」
 体を起こし、クラウンピースに向き直る。ひと時の激情が醒めてみれば、彼女を組み伏せようなどと言う愚かな考えは、もはやイザークの頭には思い浮かばなかった。触れられるはずがない。存在としての格が違う。彼女には、祖国ご自慢のICBMも当たらない。触れていいのは向こうが許可した時だけだ。
「あいつは月の男じゃないよ。現実にこの世界にいるんだって。あんたと同じ連邦さ。月に憑かれて月を夢見、うつつの月から遠ざけられた、哀れで滑稽で素敵な男だよ」
「俺から乗り換える気か」
「乗り換えるもなにも、元からあんたに乗っていないし」
 クラウンピースは、実に楽し気にこちらを侮蔑してくる。その邪気に溢れた幼い顔立ちが、徐々に曇っていく。
「何よ、本気で萎えないでよ。面白くない」
 イザークが、あまりに落胆した顔を見せたからだろう。クラウンピースは、対処に困ったようにこちらを見ている。
「昔は、お前は、俺によく懐いていてくれた」
「懐いていたわけじゃないけどね。子供の頃のあんたが一番面白かった。だんだんつまらなくなってきた」
「そうかもしれんな。この分では、俺が老いて死ぬ頃には、お前は俺に一片の興味すら抱いていないのかもしれん」
 自嘲の笑みが、イザークに浮かぶ。これまで、誰も振り向いてくれなかった彼の曲が、ようやく社会的に認知され始めた。だというのに、反対に、彼の意気軒昂さは、下降線を下っていくばかりだった。女には、何人かに声を掛け、そのうちの何人かに応じてもらうことには成功したものの、どれも長続きしなかった。超一流で、書記長からも褒めてもらえるような作曲家ならともかく、イザーク程度の才能と運の持ち主ならば、連邦中にゴマンといた。なにしろ連邦は広大なのだ。
「あんた、なんか暗いよ。どうしたの。いや、前から暗かったけど、もっと燃えていたんだけどなあ。おかしいなあ」
「お前の国では、もっといろんなことが、あけっぴろげに楽しめるんだろうがな」
「なにそれ、関係ないじゃん。あと、私に国なんてないし」
「嘘を言うな、お前が着ているその服はなんだ。どう見ても星条旗だろう」
「星条旗? いや、旗じゃないし」
 クラウンピースは、自分の優美な肢体を包む、サイズが小さめのワンピースと、下半身をぴっちりと包むタイツを指でつまんだ。イザークは、自分もあの生地をつまんでみたいと思った。どんな触り心地がしていたのか、どうしても思い出せない。回想しようとする端から、すべて偽りの記憶としてエラー報告がなされ、ダストボックスに放り込まれる。
「もしかして、あたいとのことを、好きな時にたまったものを始末してくれる妖精少女に出会えたって思ってる?」
 タイツを眺めていたら、不意に、クラウンピースが言葉を投げかけてきた。イザークは胸をつかれる。後ろめたい気分になる必要はないと、己に言い聞かせる。だが、即座に肯定するほどの思い切りが持てないでいる。
「ま、がんばりなー しばらくはボーナス期間だよ、あんたの才能が枯渇してしまう、そのわずかな間だけど。今のうちに楽しんでおこうよ、ねえ。あたいはそれを少し離れたところから眺めているからさ」
「そして、落ちるのを見て楽しむ、と」
「落ちなきゃいいじゃんね」
「簡単に言うな」
「あんたはもう落ちないよ」
「どうしてわかる」
 クラウンピースは振り向く。イザークは、その凍った目線に、戦慄する。
「一度どん底まで落ちているからさ。もう上がってこられない。あんたの魂は、あそこにいるままなんだ。私が愛しているのは、そのあんただ。今のあんたじゃない」
「な……何をわけのわからんことを。哲学のお勉強か? 妖精が」
 イザークは、クラウンピースの瞳が移る感情も、彼女の言葉も、何もかも理解していた。だから、懸命に、わからないふりをするしかなかった。理解してしまえば、認めてしまうことになるから。これからもう、死ぬまで、自分は、クラウンピースと打ち解けた関係になれないということを。



   ***



 北の凍土については、連邦の誰もが頭の中で常に意識していた。何かあれば、そこに送られる。何か悪いことをすれば。
 セルゲイは、自分が悪いことをしたなどとはまったく思っていなかった。
 ただ、同僚との話で、敵国を話題に上らせただけだ。しかも、それは祖国を褒めるための前振りに過ぎなかったのに。敵国がどういう状況にあるかをまず述べて、そのあとで、それに比べてなんと祖国の素晴らしいことかと、こういう演説法は、委員長だって書記長だって誰だって使っている。なぜ自分だけが狙われるのか、合点が行かない。
 取調室では、固い椅子に座らせられた。聞かれたこと以上のことを応えようとすると、固い棒で背骨を打たれたので、それからは抵抗しようという活力がすっかりなくなった。
「セルゲイ。君は、宇宙飛行センターの職員仲間と昼食中に、敵国の文化を宣揚した。それは、ニシガワの工作員に依頼されてのことだね」
「違います」
 打たれる。後ろに誰か立っているらしいが、こちらからは見えない。取調官は、指一本動かさず、セルゲイを苦痛にのたうち回らせることができるのだ。
「セルゲイ。君は、ジャズやロック、魔法の炭酸飲料水、享楽的な動画フィルムの話題を、それを批判するふりをしつつ、実は巧妙にも職員たちをその情報が欲しくてたまらない状態に仕立て上げた。彼らの矯正一つとっても一苦労だ。君は見事に敵国の期待に添うような仕事を成し遂げたというわけだ。いったい見返りに何をもらったら、こんな恥知らずな真似ができるのだ。女かね。ハンバーガーかね。いや、やはり我ら連邦人の大好きな煙草だろう。隠すことはない。みんな好きだ。私だって大好きだ。諸君、私は煙草が好きだ、以下略、なんちゃって。ハハハ」
 取調官は、まったく笑わずに、くそ面白くもないジョークをその鉄面皮で言ってのけた。
「もらっていません。宣揚もしていません。僕はただ、みんなに、祖国のクラシック音楽の良さを知ってもらおうと思い、敵国の文化なんてのはチャチでうるさい、目立つだけが取り柄の低劣な」
 また、打たれる。
 いったい、なんと答えれば打たれないのか、セルゲイにはわからない。おそらく、肯定しても、よくも恥知らずにも肯定したなと言われて打たれただろう。何を選択しても、この理不尽な状況から逃れることができない。
「イザークの……」
「そう、イザーク。彼が問題だ。彼は経典の民だ。どうして乳と蜜の流れる父祖の地へ、同胞とともに行ってしまわなかったのだろうね。あそこで、アラアラと唱え続ける野蛮人どものど真ん中で家を建てて、思う存分建国の仕事をやって返り血に塗れればいいのだ。何をのんきに音符なんぞいじくっておるのか。そんな彼の音楽を、セルゲイ、君はとても高く評価している。しかし、流浪の民という奴はな、自分たちのことしか考えておらんのだ。奴らに、我々の目指しているものと同じ理想社会の姿が見えていると思うかね。そんなことはない。バイブルを見ろ。書いてあることがめちゃめちゃだ。我々は科学的、合理的、学術的であらねばならない。二十世紀にもなって、三千年前の経典を墨守し続けている連中の脳みそが、まともに動けるなどと過大評価するなよ」
「彼も……連邦の、一員のはずです……」
「それが真実ならばな、セルゲイ」
 取調官は立ち上がり、自らのブーツでセルゲイの顎を蹴り上げた。
「お前に真実がわかるか? セルゲイ。私には真実などわからない。ただ、党の綱領があるだけ。それ以外は、無だ」
そこで意識は飛んだ。目覚めた時は、もうさっきの取調官はいなかった。顔も思い出せない。ほんとうに、今の会話をしたのかもあやふやだ。ただ、顎と背中が猛烈に痛む。狭い留置所だった。自分と似たような、苦痛と悲嘆を全身で表わしているような連中が、五、六人、押し込められていた。
「なぜ僕の話を聞いてくれないんだ。なぜ誰も彼を無視するんだ」
 答える者はいない。みな、自分の殻に閉じこもっている。その胸に絶望を抱きしめて。
「君だけを狙って無視しているわけじゃないよ。多すぎてひとりひとりの声なんて聞いていられないってことさ」
 ふと、肩に、細い、柔らかな束がかかる。見ると、隣にクラウンピースが座っていた。同じように、留置所の壁に背中を預けている。その有様は、まさしく、掃き溜めに鶴だ。
「なぜ僕がこんな目に遭わなきゃいけない。僕がスパイか。この僕が。笑える。僕なんかがスパイできるんだったら、誰だってスパイできるぞ。子供だって、犬だってね」
「そうだ。だから当局は、子供だって捕まえるし、犬にだって職務質問するよ。そのぐらいしないと、とてもスパイなんて見つけられないよ。相手だってプロなんだから」
「その過程で、僕みたいに無実の人間が出てもいいのか」
「牛にさ、伝染病がはやったとするでしょう。鶏でもいいけど。そこに病気があるってことだけはわかる。実際に、敵国の享楽思想が入り込んでいるのは火を見るよりも明らかだ。とすれば、まとめて始末してしまうしかない。それこそ、火で焼くなりなんなりしてね。南東にある古くからの帝国じゃ、昔から言われているものさ、李下に冠を正さず、って。あそこは今もやってるよ、徹底的にやりまくってるよ。自分の体まで食っちまう勢いでね。でも死なない。ゾンビは何食ったって腹壊しゃしない。自分と他人がミックスされた死骸の山から蘇り続ける。まともに殺し合いを挑んだら誰も勝てやしないよ、最強さ」
「あんな化け物と一緒にするな……連中は、我々文明的な人類とはそもそも人種が違うのだから。それは生物学的に証明されている。あぁ、そんなよそのことはいいんだ、あああ、著しい損壊だ。連邦の有為な人材を、そんな、子供が考え出すようないい加減な理屈で、無駄に浪費してしまうなんて。僕が有為かどうかはともかくとして」
「浪費、でもないんだなぁ。だってさ、北の凍土とか、針葉樹林とか、いつか誰かが開拓して、線路引いたり、家建てたりしなきゃいけないんだよ。誰かを賦役させなきゃならない」
「賦役なんて、まるで奴隷を使ってピラミッドを建てさせていた古代王国の話じゃないか」
「そう、知っているんなら理解が早い。一緒だよ」
「今は二十世紀だ!」
 セルゲイは激昂し、クラウンピースの肩をつかんで揺さぶる。彼女の目が、冷たく光る。途端にセルゲイは、熱した鍋に触れてしまったかのように、慌てて手を引いた。
「そう。その通り。徹底的に、まごうことなく、火を見るよりも明らかに、何度検算したって、今は二十世紀だよ。だからこそさ。今が二十世紀だから、あんたは、ここにいる。この留置所で思想的再教育を受けているんだ」
「狂ってる……」
「狂ってなんかいないよ。誰も彼もが正気だよ」
「僕は正気だ。僕だけは」
「君がそう言うんならそうだろう。君の中ではね」
「あいつらっ! あの取調官の奴ら、あれでも人間か! 奴隷労働で鉄道を作るだと? そんな理由で、あいつら、ありもしない罪をでっちあげて僕を、こんな、ゴミみたいな扱いをして」
「あいつらも一所懸命なんだよぉ。ちゃんと働かないと自分たちが凍土に行っちゃうから。あんたが有罪か無罪かは、あいつらだってわかっちゃいない。で、わからない以上、当局が有罪だって言うんだから有罪にしたってわけだ。組織の二割は裏切り者なんだから、ぼやぼやしちゃいられない。とにかくそれっぽい奴に目星をつけてはハンコ片手にバカスカ判決出して、じゃんじゃかトラックに詰め込むんだ。出荷準備OK! いざラーゲリにぶち込めエィ! ノルマ達成一丁上がりィ! ってね」
「狂ってる、狂ってる」
「狂ってないよぉ」
 膝を抱えてうずくまるセルゲイを、まるでむずかる赤ん坊をなだめるような口調で、クラウンピースは声を上げる。頭まで撫でてきた。
「僕まで狂ってしまいそうだ……」
 膝に顔をうずめたまま首を振ると、頭に触れた彼女の手のひらをより多くの面積で感じ取ることができた。
「それは当たってるかも」
 撫でる手の動きが、ぴたりと止まる。セルゲイが顔をあげると、クラウンピースは、目をまるまるとひらき、口を人にはありえないほどいっぱいに広げていた。
「そうだよ、君が狂えばいいんだ。そうしなよ。あたい、応援するから」
「応援、って」
「がんばれって、言ってあげる。君が狂うと、あたいも嬉しいんだ」
 人間には考えられないほど広がった口からは、粘ついた、白く濁った涎が垂れて、留置所の床に広がる。ねっとりと鼻にまといつく、甘い匂いだ。そのまま鼻の奥にこびりつきそうな、濃密で獰猛な香りだ。
「そっかぁ、気づかなかった。そっかぁ、あたい、いつの間にか、探し当てていたんだ」
「クラウン……」
「がんばれ、セルゲイ、くるえ、がんばれ、くるえ、セルゲイ、がんばれがんばれ、くるえくるえ」
 クラウンピースの言葉が、セルゲイの耳から全身へ、血管を通じて行き渡っていく。頭蓋の中で、彼女の声だけがコンサートホールのように盛大に響き渡る。何も考えられなくなる。多幸感に打ちのめされ、セルゲイは気を失った。
目が覚めると、彼はトラックの荷台に積まれていた。



   ***



 家の扉や壁には、経典の民であることを示す星の印がスプレーで描きつけられた。彼らは次々にトラックに放り込まれ、民族隔離住居区域への長い旅が始まった。家の中に隠れて無事だった者もいたが、たいていは見つけ出され、そして、隠れたというだけの理由で殺された。
 言う通りに従った者たちはさしあたって殺されることはなかった。まもなくトラックの行列は駅にたどり着いた。イザークとその家族は、家畜のようにぎゅうぎゅうに詰められた車両の中でひっそりと息をひそめていた。列車は、汽笛を鳴らし、線路を走っていく。
「ヨハン先生も亡くなったそうだ」
 イザークの父が重い溜息を吐き出した。
「殺されたそうだ」
 すぐに言い換える。勝手に死んだのではない。奴らに殺されたのだ、ということを忘れないために。
「向こうについて、きちんと時間がついたら、お祈りしないとねぇ」
 母が応じる。向こう、というのがどういうところなのか、この時彼らは何も知らなかった。悪い噂だけは色々と聞いていたが、怪談や、誰かの戦争体験談と同じで、恐ろしくはあっても、それが身に降りかかってくるとは思えなかった。
 民族隔離住居区域では、銃を持つ者がスナック感覚で人を殺していった。親しい者をきちんと時間をとって弔う余裕などなかった。人、とは認識されていなかった。イザークの周辺でも、たちまち死者が増えていった。自分が死ぬことと、父が、母が、目の前で死んでいくことに、何か違いがあるとも思えなかった。
 今日一日生き延びることができたのは、ただ運が良かっただけ。
 苛々している監視者が、気まぐれに、列に並んだイザークの同胞を撃つ。ただそこにいたというだけで。彼と、彼の前に立った者、後ろに立った者の区別は、ない。個人の資質も努力も希望も一切が意味を失ってしまった世界だった。
 恐怖は、無論あった。しかしそれ以上に、絶望が上回っていた。夜道、後ろから刃物を持った不審者や、四足の獣に追いかけられれば、誰だって怖い。この区域では、そう言った意味での怖がる余地はそれほどなかった。逃げようがないのだから。
 一部の同胞は、同胞を裏切ることで、相手方の名誉民族として重宝された。しかし、それもほんの些細な行き違いですぐに殺されることが多かった。
 イザークの父は、この区域に押し込められるまでは、相手方の民族に雇用され、貴金属の鑑定作業を行なっていた。同胞である経典の民の死体に付属した物、つまり歯に埋め込まれた金や、腐った指にはめ込まれたままの指輪、生命を失い頭から抜け落ちていく髪に絡んだ簪、そういったものが自分の作業机に山と積まれるので、それをひとつひとつ虫眼鏡で除き、価値を決めていく。
 大儲けしていたわけではないが、それなりに生活の質は保たれていた。同胞の死体を漁る禿鷹としてまわりからは嫌われていたようだが、嫌われない商売人など存在しないと思っていたイザークの父は、動じなかった。しかし時流は彼のささやかな矜持を飲み込み、彼と、彼が軽蔑していた人々とを、まとめてトラックにぶち込んだ。
 父や母がいつ死んだのか、イザークはあまり憶えていない。思い出そうとすると、似たような、ありふれた光景が頭に去来して、父母の姿がかすれてしまう。それくらい、日常的に、なんでもないことのように、同胞が殺されていった。
「大丈夫、君は死なないよ」
 昼間の建設労働中でも、夜眠りにつく時でも、彼女の声は聞こえてきた。いつも傍にいるのがわかる。クラウンピースは、自分に惚れ込んでいるのだ。
「あたいが殺させない」
 監視者が気まぐれで、整列した同胞をランダムに撃ち殺す遊びをする時がある。神だけが運命を決めることができるというわけだ。イザークのこめかみにも銃口が突きつけられたが、イザークは死ななかった。弾詰まりではない。一応は弾詰まりということで、イザークは殴られるだけで許されたが、撃った本人は最後まで疑問を拭い去ることができなかった。銃声は確かに上がったのだ。小さくなったクラウンピースが銃口に入り込んで、弾丸を止めていた。弾丸は異空間をさまよい、その夜、撃った男が同僚同士の酒席で口論となった際、口論相手がまだ引き金を引かないうちに、ただの脅しだったであろう突きつけた銃口から飛び出し、男を始末した。
 寝具は満足に支給されず、冬を耐えきれずに死ぬ同胞も多かった。イザークにそういう心配はなかった。いつでもクラウンピースが添い寝をしてくれたからだ。
「あんまり声が出るといけないからね」
 そう言って、彼女は激しい動きを好まなかった。ほんとうに、ただずっと添い寝を続けるだけの夜というのもあった。早朝、皆がこわばった手足をほぐしながら目覚めるのに比べて、イザークはぽかぽかと全身に活気がみなぎる状態で起きることができた。
「他の人には、お前は見えないのかい」
 煉瓦を荷車に乗せながら、イザークは尋ねる。もうすぐ日が暮れようとしていた。それまでに煉瓦を積んで、所定の場所へ運ばなければならない。間に合わなければ、自分か、腹いせに他の誰かが、撃たれる。間に合わっても、態度が悪かったり、監視者の虫の居所が悪かったりしたら、やはり撃たれる。
地面に尻をつき、荷車に背中を持たせかけたクラウンピースは、汗の流れるイザークの頬と二の腕を満足げに鑑賞しながら、うなずいた。
「そうだよ。見えていない」
「ほんとうに? そのわりにはお前は、いつもこうして広い場所では物陰に隠れるように話すじゃないか。だとしても、普通はバレるはずだから、やっぱり見えていないのか」
「外で普通に立って話していたら、君も同じようにあたいに接するでしょ。そうしたら、君の挙動が不審でバレちゃうよ。今、君は唇もほとんど動かしていないもの。それでもあたいが聞き取れるって信じてくれているからね」
 この秘密めいた会話は、イザークに、現実の馬鹿馬鹿しいまでの絶望的状況を、忘れさせてくれた。ほうぼうで銃声や、監視者の怒鳴り声、同胞の悲鳴が聞こえてくる。けれど、彼にはクラウンピースという、妖精の恋人がいるのだ。それで充分だった。
 ほんとうに? いつ、彼女がお前を裏切らないと言える?
 広場の喧騒にまぎれて、すぅっと、地面をすべって、イザークの足元に不安が絡みつく。妖精がいつまでもお前の身を守ってくれると、なぜ言い切れる? 明日にでも、いや、今にも、妖精はお前を飽きて捨ててしまうかもしれない。そうすれば終わりだ。この家畜の地獄で、お前に逃れるすべはない。
「震えてるね、怖い?」
 クラウンピースは、イザークを荷車の陰に引き込み、頭を抱きかかえ、胸に引き寄せた。イザークの足に蛇のように絡みついた不安を、実際にぶちぶちぶちと手で千切り、地面に投げ捨て、指先から発したレーザーで焼き切る。
「最近、君の音を聞いていないな」
 イザークの髪の毛に、少女の頬が当たる。
「ここには楽器がないんだ。あったとしても、あいつらの家にしかない。俺らの小屋には置いていない」
「取ってきてあげようか」
「言うと思った……だけど、俺が弾いていたらあいつら、すぐに俺を殺す」
「ここの奴らのじゃないよ、他から持ってきてあげるって言ってるの」
「そうだとしても、どうせ盗んだとかなんとか言いがかりをつけられるって」
「あいつらがいなくなりゃいいんでしょ」
「それができりゃ、誰だって苦労しない。お前のその妖精の魔術で、なんとかならないのか」
「難しいね。だって、ひとりひとり区別がつかないもん」
「いいじゃないか、まとめて殺してくれよ」
「みんな死ぬよ」
「いいよ。やってしまえよ」
「意味は、わかってる?」
 クラウンピースは、その細腕からは考えられないほど強い力で、イザークの顔を上げさせ、その目を覗き込んだ。クラウンピースの目は、人間にはありえないほど拡大していた。まるで、スプーンの面に移ったようにぐにゃりと歪んだ巨大な目が、イザークの目を通じて、彼の腹の底まで貫こうとしている。
「あたいさ、ここにいる人間、君以外の全員が区別つかないの」
 本気で言っている。人間には、地を這う蟻を区別はできない。空に輝く星々の区別もつかない。専門家でない限りは。特別に有名な星でなければ。
「いいよ、やりなよ。やってくれよ」
 イザークの投げやりな言葉に、クラウンピースは首を振る。
「気持ちが入っていないね。そんなんじゃ駄目。君は、まだ心からそう思っていない」
 イザークは腹から怒りが湧き上がり、頭部が熱を持つのを感じた。しかし、それは苛立ちにはならず、むしろ彼を落ち着かせた。苛立ちのまま突き放すことはできない、それほどに彼はこの少女に執着していた。
「殺してくれ。ひとり残らず」
「いいのかい?」
「頼む。もうあらかた、親しい人間は俺のまわりからいなくなった。だからいいんだ」
「同胞は?」
「あんなの、同胞じゃない。ここに来る前は、みんなバラバラだったさ。同じ環境になったから同胞ヅラしているだけだ。俺は忘れない。まだ外にいた頃、俺を散々馬鹿にしてきた連中のことをな」
 クラウンピースは、すべすべした肌に皺を寄せ、まるで老婆のように笑う。
「そうは言ってもさ、結局は同じハラカラだ。困った時は助け合う。いいじゃん、平時に多少の縛りがあったって、今回みたいにいざとなったらやっぱり協力し合わなくちゃならないでしょう」
「なんで? 平時でコケにされていて、こっちも侮蔑していた奴と、なんで非常事態だからって助け合わなくちゃいけないんだ」
 イザークは、自分の声が次第に大きくなっていくのを、止められなかった。クラウンピースが不思議な魔法で、まわりの空気への振動を遮ってくれるよう期待していた。
「人間は弱いからね。いざという時の団結のために、普段の身内いじめがあったって、それはしょうがないでしょ」
「俺は嫌だ。俺はひとりでも生きてやる。連中のお情けにすがるなんざごめんだ」
「そりゃ、あたいがいるもんねぇ」
「そうだ。俺にはお前がいる。俺は幸運だ。そうだろう? だからどうした。なあ、クラウンピース」
 クラウンピースは目尻を垂らし、頬を紅潮させ、唇をゆるめた。
「いいよ、命じて、あたいに」
「クラウンピース。ここにいる人間を一人残らず殺せ。ただし、俺以外」
 少女は細腕をイザークの胸に突っ込んだ。中をかき回し、塊を取り出し、引っこ抜く。イザークの胸は無傷だった。それなのに、クラウンピースの手には、どす黒いものが握られていた。心臓に似ているが、あまり色が黒く、そして切断された細い管からは血の代わりに、煙にも粘液にも見えるものが滲み出て、空中に漂い出していた。
「君の魂、いただくよ」
 すずずずずずずっ、じゅる、ごぷっ、くちゅ、ぐっじゅぐっじゅ
 クラウンピースは唇をすぼめて黒い心臓に吸いつき、音を立てて口腔の奥へと取り込みつつ、次第に口を横へ広げて、もっとも力を入れて噛みやすい奥歯まで心臓を送り込むと、激しい勢いで咀嚼し出した。
「君が一番よく知っている人間が、スタートだ」
 咀嚼音に紛れながらも、やはり彼女の声は美しい。ピチカート奏法のように無邪気に飛び跳ねる。そうして、軽々とした声で、妖精の魔術のルールが語られる。
「その人間が、一番よく知っている人間を殺そうとする。理由はないんだよ。とにかく殺そうとする。知っているっていうのは、敵としてなのか味方としてなのか、それはあたいには区別がつかないから、わからない。そして、その人間が殺そうとしている人間もまた、自分が一番よく知っている人間を殺そうとする。ただし、君と、最初の一人、この二人は除くよ。でないと、連鎖がつながらないからね。わかるでしょ。鎖の輪は、最後には最初の一人につながる。君は円環からはずれる」
 イザークはもうその説明で、どういう光景がここで繰り広げられるのか、おおよそ察してしまった。
「もし鎖の輪が途切れたら?」
「いい質問だね、イザーク。その時は心配しなくても、自動的に次の鎖の輪につながる。つまり、殺したいと思う相手が上書きされ、まだ生きていて、しかもさっき言った条件に当てはまる人間になる。もちろん、成り行きによっては最後は君がとどめをささなきゃいけなくなるけど、まあ、一人ぐらいどうにかなるでしょ」
「たぶんな」
「うげっふ」
 クラウンピースは、堂々とげっぷをした。そして、左手をかざす。そこへ、赤い光が周囲から集まっていく。左手が光の渦に埋もれる。日は、もう暮れていた。光が、薄墨色の空に一斉に放射された。夜は、一瞬だけ昼になった。イザークは目が眩んだ。時間にすると、一秒にも満たなかった。イザークが目を開けた時、世界は、見たところ何も変わっていなかった。しかしそれは思い違いだった。すぐさま、宿舎や小屋から、悲鳴が上がり始めた。血走った目のまま、宿舎から小屋へ小屋から宿舎へ走り出す者が現われる。窓を叩いて助けを求めているが、後ろから襲われ、窓に血飛沫が散る。世界は、少しずつ、狂い始めていった。
「クラウンピース……お前は、神様が世界を作ったなんて、思っていないんだな」
「え、世界がどうやってできたかなんて、あたいは知らないよ」
 いや、世界はずっと前から狂っていた。この妖精は、狂いを創造したのではない。ただほんのちょっぴり、ここに集めてみせただけなのだ。
「じゃ、あたいはちょっくら楽器を調達してくるね。チェロだっけ?」
「チェロもできなくはないが、できればヴァイオリンで」
「アイッアイッサー」
 クラウンピースは空高く飛び去った。まるで彼女を迎え入れるかのように、満月が、煌々と赤く輝いていた。月の光に紛れ、すぐに彼女の姿は見えなくなった。
 狂騒は、一晩中続いた。
 早暁、焼け落ちた建物の土台に腰かけて、イザークは呆然としていた。彼の母親がまだ死んでいなかったのを、たった今知った。なぜなら、目の前で、死体たちと折り重なるようにして倒れているからだ。しかし、もう死にかけていた。イザークがとどめを刺す必要はなかった。じきに死んだ。焼けた肉と、血と臓物と、飛び散った糞尿の凄まじい臭気が、あたり一帯に立ち込めていた。
「ただいまー、あ、終わってたね」
 白々と明け行く空に溶け込みつつある月に、小さな点ができる。それは見る間に近づき、クラウンピースとなってイザークの前に降り立った。手には、確かにヴァイオリンを持っている。
「良かった。何かの間違いで死んでしまわないかと、それだけが失敗だったんだよ、あたいは」
「それ、どこで手に入れたんだ。つまらん質問かもしれんが」
「んー、いいよ、つまんなくないよ。その辺のキャンプから」
「キャンプ? ってことは、どっかの軍が」
「大丈夫だよ、ここからすごく遠いところだから。ちゃんと、君に足がつかないよう、気を使ったんだよ。人間の足じゃどうやったってここまで来ることはできないから。さあ」
 差し出されたヴァイオリンと弓を手に取る。調律は、思ったほどひどくはなかった。どこかの軍楽隊の所持品だろうか、それなりに手入れをするヒマがあるということは、勝ち戦側の軍隊だろうか。
 試し弾きを何度かして、すぐに、曲に入った。クラウンピースは、待ってましたとばかりに目を輝かせて、イザークの足元に猫のようにすり寄った。
「なんて曲?」
「どうせ知らないよ」
「うん知らない。けど、いい。君はやっぱり、いいなぁ」
 右太ももの内側に頭を乗せ、左膝に手を置く。自分の一番近いところに、この上もなく可憐で邪悪な妖精がいる。イザークはこれまでにないほど、自分の音への感性が研ぎ澄まされていくのを知った。クラウンピースは、イザークの粗末なズボンをつかみ、破り始めた。下着も容赦なく手で破る。下半身が完全に露出した。クラウンピースはさらにイザークの開かれた下半身に顔を寄せる。
 腐臭の漂う焼け跡に、流麗な弦楽器の調べが漂う。妖精少女が唾を啜るなまなましい音が、時折その旋律に彩を添える。イザークは死んでしまいそうな快楽の中で、これほど巧く弾けることは生涯もうないであろうことを、確信していた。同時に、自分の未来が、わずか数秒だが、まっすぐに続く道路のように、はっきりと見通すことができた。
 このまま生き延びられるかもしれない。どのみちこの国は終わりだ。アクシズは崩壊し、連合軍の領袖か、あるいは、連邦の領袖、どちらかの手に落ちるだろう。そこで自分は音楽をやるだろう。妖精すら魅了したのだ、おそらく自分には才能がある。駆け上がってやる。だが、もしまたいつの日か、今日のような場所へ収容されないともわからない。国家とは、何をやってくるかわからない生き物だから。
 その時、自分はまだ、この女の子を魅惑できるだけの腕前を維持できているだろうか。そう考えると、心細くなってきた。終着までの時間が短くなるにつれ、イザークの快感は指数関数状に上昇していく。最後の頂点への瞬間を、アキレスと亀のように何億回でも分割したいというのに、時間は逆に、どこまでも早くなっていく。
 絶頂の時間は、恐れていたよりも、ずっと長かった。すぐには終わらなかった。すべての欲望をクラウンピースにぶちまけ、捧げる。体全身を脈動させながら、それでもヴァイオリンを奏で続けた。



   ***



 北の凍土にたどり着くまでに、すでに中間収容所や列車で死者が続出した。彼らは病気で腐った牛のように、上下から抱えられ、道端に投げ捨てられた。看守たちは直接死体を触ることは面倒がり、たいていは囚人たちにやらせた。セルゲイもよくやらされた。冷え切った空気の中でも漂ってくる悪臭を放ち始めている、硬直した死体を担ぎ上げ、道にゴロン、沼にドボン、崖にストン、と捨てていく。
 看守への憎悪は、行き場を失ったままセルゲイの中で渦巻き続けた。列車に詰め込まれた時、同じ車両で、アル中の年寄りがいた。吐瀉物を吐き散らし、あたり構わず怒鳴り散らした。そのくせ、看守が来るとへこへこした。いなくなるとまた、まわりの囚人たちをゴミのように罵倒した。
 車両全体の悪意、というものがそこにはあった。誰かが少し小突くと、別の誰かがもう少し小突いた。よろめいたアル中が誰かに足をひっかけられ、セルゲイの目の前で床に倒れ込んだ。頭を強く打ち、呻いている。
「おい、この爺、病気なんじゃないか」
 セルゲイが言った。誰かが、そうだそうだと同調した。セルゲイは気持ちよくなった。
「よし、腐った家畜は処分だ。誰かそっちを持てよ」
 セルゲイがセンターの職員だった頃は、礼儀正しさで知られていた。彼は初めて、他人に呈してそんな風に乱暴に指示した。共犯者の空気に浸りたい、顔も知らない誰かが、セルゲイの指示に従った。アル中は、走行中の列車の窓から宙に放り出されたその瞬間、意識をはっきりとさせたようだった。身もあられもない悲鳴が、尾を引いて遠ざかり、たちまち聞こえなくなった。
「スッとしたぜ!」
 セルゲイが叫ぶと、他の者たちも笑い、手を叩いた。その気持ちの良い昂揚は、三十分ほどは続いた。そのあとはまた、苛立ちと不安と、飢えと寒さに打ちひしがれる行程が待っていた。
 最終目的地である北の凍土、その、針葉樹林に囲まれた孤独な収容所にたどり着いたとき彼ら囚人の意気はすっかり挫かれていた。それでも、陰湿な仲間殺しはやまなかった。弱った者はすぐに標的にされた。自分より弱い者を見れば、人は、襲いたくなるのだ。そして同時に、人は、自分より弱い者を慈しもうとする存在でもある。ふたつの性質は、矛盾せず、ひとりの人間のうちにあった。セルゲイもまた、誰かに手を差し伸べ、同じ手で、別の誰かを奈落に突き落とした。
黒パンが、煙草が、労働の肩代わりが、そして性的奉仕が、商品として収容所内を暴力的に飛び交った。その一方で、夜、誰かが突発的に演奏や物語を始めると、皆が押し黙り、真摯に耳を澄ませるのだった。昼間、弱い者を殴ってスープを一杯余計に飲んだ男が、今は、調律もされていないボロボロのヴァイオリンから流れ出る旋律に、涙を流している。
 かつてここから遠い西の国で、ガス室に送り込むサインをし終えた将校が、夜、眠る前に、流麗な指さばきでピアノソナタを奏でたように。
 セルゲイは、夜、そんな急ごしらえの演奏会でも、朝、スープと黒パンの列に並ぶ時でも、昼間、切り倒した木を台車に乗せる時でも、つい空を見上げていた。月は、夜や明け方だけでなく、昼間でも彼の目にはよく見えた。
「よぉ、何見てんだ」
 比較的気心の知れた囚人仲間が聞いてくる。
「アポロの奴、今も月にいるのかな」
「ああ? また変なこと言い出したなこいつ」
「あの旗、いつまで刺さっていたのかな。もう月の連中に抜かれたんじゃないか」
 仲間は大声で笑った。定期的に大声を出さないと、寒くて凍え死にしそうだ。
「いったいいつの話だセルゲイ。月面着陸なんて昔話。そんな空の果てのことはどうでもいいだろ。今は、空から核ミサイルが降ってくるか、もしくは、看守の野郎どもの機嫌が急に悪くなるか、そのどっちかを気にするだ。それだけで精一杯だってよ」
 仲間は斧を振り上げ、木の幹に叩きつける。
「ほら、お前も」
 ノルマが終わらなければ帰れない。いや、帰れないこともないが、メシにも寝床にもありつけない。すなわち、死ぬということだ。看守たちの脅しではなく、実際に容赦なく外に放り出され、翌朝凍った死体になって転がっている奴を何人も見てきた。
「今日は、イワンたちが弦楽四重奏やるってよ。あんなボロ小屋でな、よくやるぜ」
 仲間の言葉遣いは乱暴だったが、声の調子は暖かかった。
「これでまた今日の生き延びる理由ができるってもんだ」
 二人で交互に斧を叩きつけ、やがて木が雷鳴のような激しい音を立てて倒れる。
「誰をやるんだろうな」
「さあな、なんでもいいさ。退屈がまぎれて、俺がここに生きているってことを忘れさせてくれりゃあな」
「イザークだといいな」
 自然と、その名前が出た。収容所先で口にしていい名前ではないはずだった。なんと言っても、彼の音楽を聴いていたということでここまで連れてこられたのだから。密告者はそこら中にいる。目の前の男がそうでないとも言えない。上にバレて、思想矯正が足りないなどと言われ、独房にぶち込まれかねない。
「イザーク? 知らねえな、そんな奴は。名字はなんて言うんだ」
 囚人仲間は、きょとんとした顔つきで、セルゲイに問いかける。
「え、名字……は」
 とっさに出てこない。イザーク、なんだっけ……イザーク・イザーク・イザーク……
「なんだ、名字も知らないのか。そいつほんとうにプロか」
「ほんとうだ。ほぼ自分専用の楽団も持っていた」
「そりゃすげえ。しかし、イザークなんて知らないな。セルゲイ、あんたほど音楽に詳しいわけじゃないけどよ」
「いや、僕はそうたいして詳しいわけじゃない。雑誌にだって載っていた」
「音楽雑誌なんて手に取ったこともねえよ」
 仲間は首を横に振る。
「知らない……? そんなはずは」
 過酷な労働が終わり、収容所に戻り、皆が待ち望んでいた夜の演奏会が始まった。そこでもセルゲイは、聴衆である囚人たちにイザークのことを聞いて回った。
 悪の帝国の人種抹殺計画によって家族や仲間を失った、悲劇の青年。慈悲深い連邦の手によって助けられ、音楽家としての才能を開花させた経典の民。そして当局に目をつけられ、一度は国家転覆罪に問われた冤罪の男。
有名だったはずだ。
 それなのに、誰も、イザークのことを知らなかった。
 セルゲイは、演奏会が終わり、皆が早朝からの過酷な労働に備えて眠りにつき始めても、まだ、体を起こしたまま、小屋の中央に置かれた粗末な仮初の舞台を眺めていた。確かに、セルゲイはイザークが直接演奏なり指揮なりしているところを見たことはない。レコードも、どこで買ったかは覚えていない。ひょっとしてあれは、妻がたいした意味もなく買ってきたクラシックのレコードだったのか。宇宙飛行センター職員の実入りは、役得も含めればそれなりに良い。その富を自慢するために、レコードを購入したのではなかったのか。その中には、小学生でも知っているような作曲家の曲が詰め合わせで入っていたかもしれないが、その中に、果たしてイザークという名によって作られ、演奏された曲があっただろうか。
「どうしたの、セルゲイ」
 あの声が、降りかかる。くるえくるえくるえと唆す、あの可憐にして邪悪な少女の声が。さらさらの金髪が、うなだれた彼のうなじをくすぐる。
「ねえ、どうしたのさ。まるで自分というものがカラッポになってしまったみたいに、落ち込んでいるよ」
「初めて君と会った時のことを、思い出していた」
 セルゲイは顔を上げる。頭上の光は、軽やかに彼の目の前に飛んできて、目線を合わせる。いつまでも変わらない、少女の姿のままだ。あれからセルゲイは、数えきれない挫折と失望に叩きのめされた。体の関節は曲がり、根性も曲がり、瑞々しい感性はすっかり干からびてしまっていた。しかしクラウンピースは、永遠に可愛かった。セルゲイはその可愛さに打ちのめされ、いっそう惨めになる。
「ああセルゲイ、君は、アポロがたどり着いた月は偽物だって、気づいていたものね」
「クラウンピース、君は月の妖精なのか」
「うーん、もとはそうじゃないんだけど、でも、今はそうだね。君たちのお陰だよ。月に憑かれた者どもの視線が、あたいを、新しいあたいにしてくれたの。感謝しているんだよ。それまでは、殺したり犯したりすることだけが楽しいことだと思っていた。でも、違うんだよね。人間が持つ夢と狂気って、とても美味しいの。ヘカーティア様はそういうこと教えてくれなかったから。ううん、きっと、知っていたけど、あたいが自分で気づくのを待っていたんだろうなあ。その方が、得られる悦びがずっと大きいってこと、わかっていたんだろうなあ」
「何を、言っているんだ」
「イザークのことを誰も知らなくて、気持ちが沈んでいるんでしょう? だったら、まわりのみんなに教えてあげればいいじゃないの。イザークがどういう人だったかを。ここで彼のことを知っているのは君しかいないんだから。君が言わなかったら、イザークは、存在しないも同じだよ。今のままじゃ、イザークは、君が勝手に頭の中で作り上げた登場人物ってことになってしまう」
「そんな馬鹿なことがあるか。僕は、彼と話をした。月の大地の上で」
 湧き上がってくる不安を腹にとどめておきたくないため、吐き出すように、大きな声を出す。
「そう。あたいを通じて、ね。月の、上で」
 噛んで含めるように、クラウンピースが応える。確認をされているのに、聞けば聞くほど、イザークは不安になる。
「そんな、はずは……だって僕は、雑誌も読んだし、レコードも……」
 ぶつぶつと呟きながら、イザークに関する物事を思い出そうと、再びうなだれる。やがてあたりが明るくなり、囚人たちが物音を立て始めた。
「お前、一晩中そこにいたのか」
 囚人仲間が、彼の肩を叩いた。
「寝ていないってことだよな。今日、きついだろうぜ。ま、お前が悪いんだが」
「なあ、イザークって知っているか」
 仲間の手首をつかみ、振り向く。
「またその話か」
「大事な話なんだ。聞いてくれ、そいつは友邦国出身で、音楽に素養があって、ガス室に送られそうになっていたところを我が軍に助けられて……」
 仲間が呆れてセルゲイから離れると、今度は別の囚人へ話しかけた。皆、最近セルゲイが、過酷な労働によって心身を病みつつあることを知っていたので、一応は聞くふりをしながら、すぐに邪険に払いのけるばかりだった。
 セルゲイは必死だった。実のところイザークのことはどうでもよかった。自分が知っていればそれでいい。しかし、なんの前触れもなく消えたクラウンピースが怖かった。あの妖精が、二度と自分の前に姿を現わさないかもしれないと考えると、この極寒の凍土を上回る怖気が、セルゲイを震わせた。
セルゲイの死に物狂いの日々は、彼が死ぬまで続き、その頃にはもう、囚人たちの頭の中には、イザークという男の人生経歴が確かなものとして入り込んでいた。
 セルゲイは、敵国の、軽薄極まりない旗を全身に巻きつけ、凍りついているところを、早朝に発見された。前夜は、月が怖いほど冴え冴えとしていたらしい。



   ***



 イザークは青痣を作った顔を、夜空に向け、土手に寝転んでいた。頭の中では、同級生たちへの憎悪でいっぱいだった。朗読の発表会で、トチってしまった。それで散々な言われようだ。彼が音楽のトレーニングを受けていることまで、馬鹿にされてしまった。それで頭に来た。殴り合って、学校から飛び出した。
「東のコミュニストたちも、この月を眺めているんだろうな」
 いつのまにか寄り添って横になったクラウンピースに、イザークは話しかける。
「戦争するかどうかって、大人たちは怖がっているけど、戦争なんて、なる時はなるし、ならない時はならない、そんなもんだろう。たった二十年前の世界戦争だって、誰もあんなになるなんて思っていなかったんだし」
「誰も争いたくなんてないよ。それでもやっちゃうのが、人間の狂っているところだけど」
「そりゃ、馬鹿にされたり、命が危なくなったりしたら、やるだろう。そしてそうなった時ってのは、どのみち後戻りができない状況になってんのさ。心配するだけ無駄だよ」
 少年は、世の中全体に漂う不穏な空気を丸ごと無視してみせて、自分が大きくなった気がした。クラウンピースがさらに体をくっつけ、イザークの腹に、作り物の精緻な人形のように整った手を乗せる。
「やめようよ、そういう話、今はつまんないよ」
「じゃあ何がいい」
「君の曲を聴かせてよ」
「楽器は学校に置いてきたよ」
「口笛でもいい。君の旋律が聴ければ」
 イザークは言われたとおりに口笛を吹いた。曲想はいくらでも湧いてくる。退屈な授業中も、廊下で頭の悪いガキ大将に肩を小突かれている時も、校舎の裏に呼び出された時も、両親からため息をつかれる時も、隣人に蔑むような目で見られる時も。
 朝露に濡れた草木の放つ涼やかな匂いを嗅いだ時も、お気に入りのヴァイオリンを肩に乗せた重みを感じた時も、鮮やかな黄昏を見た時も、黴臭い古い本をひっそりとめくる時も。
 いつでも彼は、何か旋律を創っていた。
 彼の旋律を、この、人ならざる少女は、いいと言ってくれる。
「君が歌っているのに、あたいが歌われているみたいな気がする。あたいが創られていく」
 イザークは、妖精の言葉に酔いしれる。
「月はね、始めは、太陽の光を反射するだけだったんだよ。だけど、人間たちが見続けたせいで、自分で光るようになった。あたいもそうさ。君が見てくれると、あたいは輝く」
 イザークは目くるめく官能に溺れそうになる。
「けどね、一本の線じゃ、落ち着かないの」
 溺れるイザークは、その声に引き戻される。
「二本の線で、交わらないと、点は固定しない。そうでしょ。東と西から、月を見るのさ」
「どういう、ことだい」
「向こうにも、君と同じような男の子がいるんだって創造するのも、面白いよね」
「いいね。そういうの俺、得意なんだ」
「へえ、話して見せてよ。上手だったら、あたい、信じてあげてもいいよ」
「よおし、聞いてくれよクラウンピース。これはほんとうの話だ。俺と君にとっては。そうだな、向こうの連中にとって、なるべく普通の名前がいいな。セルゲイ、とかね。そいつは、コミュニストらしく夢想家で、神話が大好き。このご時世にもかかわらず。そしていつか大空へはばたくことを夢見る。いや、大空なんてもんじゃない。もっともっと空高く、この大気圏を抜けた、暗黒の宇宙へ……」
 イザークは、空に輝く小さな宝石を眺める。
「あの月に行こうとするんだ。神話が好きなくせに、神話を台無しにしようとする、ちょっとお茶目な男。どうかな」
 横を見ると、そこには誰もいなく、ただ、土手の草がイザークの鼻先をくすぐるばかりだった。


今回は少し硬めの文体で書いてみました。余韻や説明を極力省いて、テンポの良さを優先してみました。
野田文七
http://nodabunshichi.jugem.jp/
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コメント



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Good !
2.90名前が無い程度の能力削除
手慣れてるなーって感じ。やっぱり。上手い上手い。
3.90奇声を発する程度の能力削除
とても面白かったです
4.100名前が図書程度の能力削除
アルデンテ一歩手前みたいな硬さが心地良い文章でした
11.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしい!
14.100名前が無い程度の能力削除
ソビエトの方が地獄とか冥界より怖い