Coolier - 新生・東方創想話

ふすま

2015/12/02 21:13:40
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規則的な秒針の音だけが部屋に鳴り響いている。
部屋の主人である鈴仙がかすかにほこりっぽい部屋に戻ってきた。
まる1日休むことなく過労に苦しむ労働者が唯一息をつける貴重な箱庭である。
模様替えすることも無く、千年一日が如く代わり映えの無い彼女の部屋は、今日も黙って彼女を受け入れた。
無論、鈴仙も部屋の期待を裏切ることなく、定位置に正座する。
もう夜だというのにほんのりと温かい座布団に一瞬首を傾げたが、季節は真夏。
昼の熱を帯びているに違いない。
畳を触ってみると、座布団ほどではないにしろ、温かみを帯びていた。
彼女の居場所は押入れを背にしている。
遠慮も、ためらいもなく上座を選択する彼女の行動が、彼女がこの部屋唯一の主人であることを物語っていた。
彼女は彼女の組織で異質な存在だった。
それは無視されたり、心無い精神的圧迫を強いられるものとは違う意味で異質だった。
一言で言うと勝ち組だった。
本来、従事者であり、奴隷と壁一枚隔てた程度の身分の兎が部屋を持つことなどありえない。
たとえ部屋を貰えたとしても10匹で1部屋がいいところ。
鈴仙はこの8畳ほどのプライベートスペースである和室と今座っている場所から正面のふすまを開けると見える10畳ほどの部屋を2つ持っていた。

この8畳の部屋の方は両側は壁で、背中側が押入れ、正面がふすまになっていて、隣の10畳の部屋を通って来ないとこの部屋には入れないようになっている。
入ってこれるのは正面のふすまだけだ。
ふすまはぴったりと閉じており、わずかな隙間も無かった。
1人で2部屋。

彼女の厚遇を見ても、彼女がこの屋敷の権力者たる者たちの寵愛を一身に受けていることは明らかだった。
もっとも労働条件としては褒められたものではない。

今日は日記を書こうとしていた。
日記は彼女が毎日つけているものだが、今日書こうと思っていたものは、毎日の日記とは少し違っていた。
過去のことを振り返りながら、書き散らしのように自分の想いをぶちまけようと思っていた。
いつも時間が無く10分ほどで当たり障りの無い日記を書くだけだったが、それは主人に万が一見られてもいいように無難な日記を書いていたのだ。
当然そんなことでは、彼女の鬱憤は晴らせない。
本音を、本心を、考えをぶつけるものが欲しかった。
しかし、そんな本音が見られてしまえば、少々問題がある。
今日、ストレス解消をしたら明日の朝一番にこれは燃やしてしまおう…
そう考えていた。
部屋に不釣合いな西洋的な古時計に目をやる。
ちょうど時計の針が9時の直角を指していた。
いつもより2時間は早く労働から戻ってこれた。
こんなチャンスはあまり無い。
座して休息し、茶での一服でも充分な精神回復に至るだろうが、芯からの休息は開放なくして達成しない。
鈴仙は筆を手に取った。












 私は幸せです。
客観的に見れば、そうは見えないかも知れませんが、私は確信を持って自身の幸福を信じられます。
確かに労働は過酷かも知れません。
遊ぶ時間など皆無に等しく、それどころか、休憩時間もありません。
自分のお屋敷は広く、とても私一人では管理しきれないのが実情です。
兎達に命令を下しつつタスクをこなしていくのですが、とてもとても1日の時間と仕事量が釣り合わないのです。
休みなど10日に1度あれば良いほうです。
過労は慢性的にあり、身体はいつも悲鳴をあげています。
頭もボーっとすることがありますし、昼食後は特に眠気が酷いです。
まあ眠気は誰でもあると思いますが。
過労が重なった上での眠気というのは本当に酷いものなんです。
少しうたた寝してしまって、仕事のために起きなければならない時に、前日ゆっくり眠っていたのとそうでなかった時では、まったく精神へのダメージが違います。
さらに言うことを聞かない兎も多いのです。
元々が勝手気ままな動物なのでしょうが、自分のようにまったくサボろうなどとは考えない兎もいるのに、少々がっかりしてしまいます。
さらにここで言うのは気が引けますので、具体的には言及しませんが、汚い仕事も多いです。
忙しい時はそれこそ寝る暇もありません。

 ここまで泣き言ばかり言ってきましたが、自分は仕事を辞めたいとか、ここから出て行きたいとか考えたことは1度もありません。
1度も無いというと嘘のように聞こえるかもしれませんが、本当に1度も無いのです。
それは自分の環境の人間関係が雄弁に物語っていると言えます。
例えば、どんなに仕事が簡単で高給が約束されていたとしても、職場環境が心を病ませるようなものだったらどうでしょう?
きっとすぐに辞めたくなるに決まっています。
私は我慢強い方ですが、精神的な圧迫には耐えられないと思います。
逆に仕事は大変でも、皆が優しく愛してくれ、ぬくもりに溢れた空気が醸し出されていたら嫌になるはずがありましょうか?
そうです。自分はこれだけで生きていると言っても過言ではありません。
私はそんなに長く生きたわけではありません。
それほど顔が広いわけではありませんし、交友関係も広いとは言えません。けれど、自分は胸を張って言えます。
私の主人は素晴らしい人です。おそらく世界中を探したって見つからないでしょう。
これほど慈愛に満ち、穏やかで、理知に富み、素直で、笑顔の似合う美しい方は。

 私のご主人は2人です。一人は個人的にお師匠と呼ばせていただいている方で、ものすごく頭が良くて、それでいて気取ったところがないのです。
いつも熱心に研究をされていて、人、妖怪、何の差別も無く診療なさって下さる菩薩のような方です。
師匠の魅力を語ればそれこそ夜が明けてしまいそうですが、的確に魅力を表現できるほど自分は語彙も無いですし、あまりに褒めすぎるのも身内自慢になってしまうので止めます。
 もう1人は月の姫君、輝夜様です。断言してもいいですが、この世で最も美しい方だと思います。
今まで輝夜様に夢中になられた殿方も多いと聞きましたが、無理も無いでしょう。
姫様の容姿はもとより、醸し出す雰囲気が、自分など何千年生きても出すことの出来ない高貴なものなのです。
こればかりは実際に見ていただくしかないですが。
兎の中にも姫様を嫌う者など1匹もおりません。
当然でしょう。優しく笑顔で愛でてくださる方を邪険にする者などおりましょうか。

 私が来たばかりのころからお二人には本当によくしてもらいました。
正直最初は兎達の中で馴染めるか、お二人に幻滅されはしないかとびくびくしていたんです。
しかし、杞憂でした。
お二人はこんな大してとりえのない自分を娘のように可愛がって下さいました。
今まで誰にも指摘さえされたことの無いことも褒めてくれ、自信をつけることもできました。


 これを書いている今は、外は土砂降りの雨です。
師匠にも今日はもう休みなさいと言われ、自分の部屋でゆっくりしています。
ただ一つ心に巣食って晴れない思い出があるのです。
輝夜様にも師匠にも本当にいい思い出ばかりで、嫌な思いなど数えるほどで。
嫌な思いも自分のせいで起こることなので、実際お二方に気分を害されたり、肉体的な圧迫を味わわされることは皆無でした。
しかし、こんな雨の日は、
隣で話す声すらも雨の音に打ち消されそうな土砂降りの雨の日は、どうしてもあの日のことを思い出してしまうのです。




 








 私がここへ来たばかりのころ、正直兎達の中では浮いた存在でした。
前述の通りさしたる取り得もなく、どちらかと言えば暗く、容姿もどことなく他の兎とは違う私は、周りに馴染めませんでした。
しかし、そんな私を師匠は馬鹿にすることも蔑むこともなく、温かく迎えてくれたのです。
ここへ来てしばらく経つまで、師匠がここの主人だと思っておりました。
兎に命令を下し、常に大局的な考え方をする方でしたから。
きっとここでのやりくりはすべて師匠が担っており、尊敬を集める主人なのだと。
そう思っておりました。
私は光栄にも師匠に気に入られたようで…本当にありがたいことですが
よく師匠の仕事場である診療室に呼ばれるようになりました。
嬉しかったです。
他の兎は入ることも許可がいりましたから。
私は入りたい時はいつでも入っていいと言われておりました。
労働に一区切りを終え、師匠の部屋にお邪魔し、一緒にしばしのお茶の時間を過ごす時の幸福といったら!
今まで感じたことの無い、安寧と充実を感じておりました。
師匠の話はとても面白くて、話題は膨大でした。
とても私が師匠に話すようなことはありませんから、もっぱら師匠の話を聞くだけだったんですが。
働く時間と比べて、師匠と過ごす時間の短かったこと。
ちょっと時間が経ったと思ったら、4時間も5時間も居るのですから。
しかし、多忙な師匠が自分を追い出そうともせず、それだけの長きの時間私のお相手をしてくださるという事実が、自分が好かれているという考えに確信を抱かせてくれました。
まあ、好きな人に自分も好かれたいという願望も少しは入っているのですが。
それを抜きにしても嫌われてはいなかったはずです。
いつも会話はとめどなく流れていきました。





私はよく姫様がよくいらっしゃる和室にも呼ばれていました。

「ねえ、月はなぜ丸いのか知っている?」

いつも姫様の話は浮世離れしています。

「分かりません」

「あれはね。自分が最も魅力的な形を知っているからなの。円は理を示し、和を重んじさせる。
 柔和で知的、そして完全さの象徴でもある。だから安心して愛でることができるのよ。
 人の好き嫌いは100者100様でも、完璧なものには憧れるものだから。」

姫様の話は現実には役にたたなそうな話が大半でしたが、私は大好きでした。
何もすることがなく、会話もそれほど弾むというほどでもなく、けれど何にも替えがたい時間でした。

ー罠にかかるが1匹目ー
ー罠にかけるが2匹目ー
ー獲物を食らうが3匹目ー

この歌が好きで、姫様の前でよく歌っていました。
姫様も喜んでいました。


ある春先のお話も印象的でした。

「私は姫様みたいになりたいんです。」

姫様はなんの反応もなく私を膝枕したまま髪を撫で付けて下さいます。

「美しくてあでやかで気品溢れる高貴で温和な姫様のように…」

姫様の身体がわずかに震えたように感じられ私は閉じていた目をうっすらと開きます。

「あなた私のことをそんなふうに思っていたの?」

「はい。何にも惑わされずに自分の世界を持ち、ぶれずに生きていらっしゃる。私の理想とする人生です。」

姫様は笑っておられました。

「私はあなたが思っているほど大層な人間じゃないわよ。加えればあなたが思い描いている完璧な人間なんて存在しないわ。」

その控えめさも姫様の魅力をより一層際立たせていることに姫様は気づいていないのでしょう。
この方と話すほどにその人柄の素晴らしさが伝わってくるのです。

「私は精神的にも未熟だもの。他の人にどう思われるているのか、気になってしょうがないのよ。」

にわかには信じられません。全てを超越し達観していなければ出せないような笑顔で生活していらっしゃる姫様の言葉とは思えませんでした。

「もちろん。あなた達に慕ってもらうのは嬉しいわ。本当に嬉しいし感謝している。
 けど、私は自分に向けられた悪意や敵意に対して自分でもどう対処したらいいのか分からなくなるくらい動揺してしまうの。」

私は姫様の言葉に強い親近感を抱きました。

「私もです。本当にどう思われるか気になりますし、自分が嫌われてるって思うと胸が詰まりそうになります。
 それは生き物として当然ですよ。」

姫様は微笑んで私の髪をかきあげて私の目をのぞきこまれました。
その目は黒曜石のように照り輝いていて、どんな玉宝でもこの透明感は演出できないと思わせるほど、深く澄んでいました。

「いい子ね…あなた…あなたの言葉は歯に衣を着せずに素直に感じたことを私に伝えてくれる。
 お世辞ばかりが口達者の他の兎とか…嘘つきも多い中で…いいわ…あなた」

姫様は私の額にそっと唇を当てられました。
卒倒するかと思いました。

「かわいいかわいい私のイナバ…ずっとそばにいてね…」

夢かと思えるほどの幸福感の中、私は涙を見られぬように身体を反転させて姫様から視線を外しました。

「身に余る光栄です。」

他にも言いたいことはたくさんあったのに、口に出せたのはそれだけでした。



 師匠は姫様と同じくらいの頻度で会っていただいていました。
師匠はいつも

「輝夜と一緒に過ごす時は楽しく過ごすように」

と繰り返し私に話していました。
そんなことを言われずとも私は幸せで満たされた時間を過ごしているのですから、言われるまでもありません。
それでも執拗に姫様の前では幸せに振舞って姫様への愛情を示さなくてはならないと言われ、私はいつも怪訝な顔で聞いていました。
姫様と一緒にいて楽しくない兎などおりましょうか。
きっと師匠は愛する姫君に少しでも楽しんで欲しくてそう言っているのでしょう。


それはいつもと変わらない昼下がりでした。
日課をこなし、朝の食事はとうにエネルギーに変換されて新たな燃料を要求してお腹が悲鳴を上げる、そんな時間帯。
偶然に姫様と廊下で鉢合わせしました。
会釈をして横を通り過ぎようとしたところでした。




「あなた私の部屋に来なさい。」

「え?」

信じられないお言葉でした。
姫の部屋に入るのは兎はもちろん、師匠ですら禁じられていましたから。
いつも姫様と会うのは他の兎も入れるオープンな和室でした。
その理由を尋ねるよりも早く、姫様は人差し指を立ててかすかに首をかしげました。

「誰だって自分を好いてくれる者には悪意なんて抱かないものよ。」

それは、自分が姫様を慕っているということを姫様も充分に感じられているからこその台詞だったのでしょう。
自分の想いが通じて私は胸が塞がるほどの充実感に打ち震えました。
そこまで感激した理由は、以前師匠に姫様は最も気に入った兎を部屋に招くことがあると聞いたことがあったからです。
もしかしたら自分は姫様の1番になれたのかもしれない、などという傲慢な考えもごく自然に頭をよぎりました。

私はただ頷くしかできませんでした。姫は何も私に言うことなく、歩き始めました。
後からついて来いということなのでしょうか?
私は無言のまま姫の背中について行きました。
自分よりもやや小さく、しかし背後からでも気品の漂う背中にわずかに酔った気分を味わいながら、黙々とついて行きました。
姫様は内裏の東の最も奥、廊下の突き当たりの襖の前で止まりました。
姫様は笑顔で襖を開けます。その態度からここが彼女の牙城であることが分かりました。
部屋は20畳といったところで思ったほど大きくはありませんでした。
天井の高さは他の部屋と比べ特筆するものはなく、襖にもやや凝った日本画が描かれているものの、それも目を引いて離さないほどではなく、
柱も特に大きなものを使用しているわけではないようでした。
目を引かれるとしたらその無造作の中にも法則性を持ち、秩序だって置かれたように見える珍品の数々でした。
姫様が珍しいもの奇妙なものを好むこと、意中の物の入手のため精力をかけることはよく知られた話でした。
私は日常でお目にかかれない奇奇怪怪の類の物よりは、素朴で飾らない物が好きだったので、部屋の雰囲気を通して好感と呼べるほどのものは持てませんでした。
象牙やトラの皮、岩石や宝石、茶碗や壷など、部屋全体に特にジャンルなどにはこだわらず何でも興味を持って欲しがる姫様の性格が出ていました。
その中で、私が一見して理解できなかったのは、部屋の隅から壁沿いに並べられた円柱のガラスの筒でした。
それだけが他の珍品とは違って私の眼を釘付けにしました。
ガラスは中が見えるようになっていました。
全部で20ほどが並んでいたでしょうか。
ガラスケースはすべて水(水である確証はありませんが)で満たされています。
ガラスケースの円柱の中にはそれぞれ一つだけ何かの球が浮かんでいました。
私は興味を引かれてじっと見つめていましたら、姫が私の横を前に出てケースに近づいて行きました。
そして振り返るとこちらに小さく手招きして下さいました。
私は喜んで姫の隣に並んでガラスケースをのぞきました。
距離にして1メートルほど。
そこまで近づいても私には何だか分かりませんでした。
いえ、正確には分かろうとしなかったのです。
そんなものがここのあるはずがないと固定観念で決め付けていました。

「それ、何だか分かる?」

姫様が愛しい者の名を呼ぶように私に語り掛けました。
私は黙って首を振ります。

「それは眼球よ。」



入ってきた言葉にすぐには反応しかねました。

姫様は機嫌がよさそうに一つ一つ指差していきます。

「これは熊の。こっちはリスのでしょ。たぬきにきつねに猫に犬に…」

姫様は大小様々なその球を指差しては足も同時に動かします。

私はその場に棒立ちしたまま呆然としていました。







「身体の部位で眼だけが特別なのよ…選ばれた器官とでも言いましょうかね。この世は視界で成り立つ。正直五感の中でも視力は他のすべての感覚より価値あるとみて
 議論はない。私たちは内部だけでは完結しないの。必ず外部から影響を受け、影響を与え、養われ、傷つき、傷つけられて生きているでしょう?
 つまり視界は私たちの肉体と外界を結ぶ唯一の窓と言っていいわ。そしてそんなに大事なかけがえの無い器官なのに脆い。
 少し突くだけで永久に用を成さなくなってしまう。便利なものほど、美しいものほど弱弱しいものね。
 いらない草は抜いても生えてくるのに、愛でたい花は育てようとしてもあっけなく枯れてしまう。
 でも、美しいものをずっと愛でていられたら満たされない?桜の美しさは散り際にあると言うけれど、そんなことないでしょう?
 ずっと見ていると見飽きてしまうとでも言いたいのかしら?いいえ。それは真の美しさが無いからよ。
 精神の根底を穿つ衝撃的な美との出会いは決して色褪せることは無いもの。
 自分の子供の可愛さに見飽きる親などいないのだから。
 つまりね、愛があれば飽きるということは無いのよ。
 私はこれに愛を感じるわ。
 いったいこの球体は今まで何を見てきたんでしょうね?
 家族との安らぎも、天敵を認識した時の恐怖も、すべてこの球を通しての経験だったんだから。
 これは全てを知っているの。脳が全てを覚えていなくても、見てきた事実は消えないもの。
 儚くて、けれど充実していた生の記憶を内包している、この玉。
 腐らせてしまうにはあまりに惜しい。
 保存してしかるべきよ。
 ああ。いつ来ても落ち着くわ…ここは…」

恍惚の表情を浮かべながら、
いつも言葉少ない姫様が随分と興奮なさっているようでした。

姫様はガラスの円柱を指差しました。
その円柱にだけ、2つの球が入っているのには気づいていました。

「それ、何の眼だか分かる?」

私は首を振るだけしかできませんでした。

「駄目ねえ。毎日その眼に囲まれているのに分からないの?観察力は衰えさせないことをお勧めするわよ。
 それは兎のじゃない。」

「…」

「可愛い子だったわ。私に本当に懐いてくれてね。成長が早くて、知的で運動もできるし、よく働くし、今までで1番のお気に入りだった。
 兎は私にとって特別だから、兎だけは両眼を入れようと思ってるの。
 私にとっては兎の寿命なんて無いようなものだからね。
 短かった。一緒にいられる時間。
 これに入れるほどの兎はこの子だけだったけどね。」

「そしてね、あなたは私にとってこの子に勝るとも劣らないくらいの煌きなの。だからね…」

姫様は満面の笑顔で、ほのかに頬を紅潮させていました。

「あなたが亡くなったら、 あなたのをこの部屋に飾ろうと思うの。これでずっと一緒よ。永久にね。」

頭の中は様々な単語が埋め尽くしていました。
予想の斜め上どころではない物を見せられ、脳が予想外の画面に対応するために回転していました。
脳神経を這う単語の中には品評の単語も数多くありましたが、肯定的なものは何一つありませんでした。
ここではそれらの一切に蓋をして封じるべきでした。
そして、今は遠い彼方に飛んでしまった世辞の言葉を投げかけるべきなのに、考えるより先に口が開いてしまったのです。

「はあ」

正直、心に湧き上がる軽蔑を隠せない声を出してしまいました。

姫はなお笑顔です。

「ふふふ、ごめんなさい。いきなりで驚いちゃった?」

本当はこんなに嫌悪感を持つことはなかったのかもしれません。
眼球収集とは、確かに相当珍しい趣味でしょうが、生きている者から取ったわけではないし。
批難する必要はなかったのかもしれません。
しかし、私の中で、完璧で美しい姫様のイメージが崩れてしまいました。


「怖い」

姫は表情を変えず、じっと私を見つめました。
長かったように思います。
10秒ほども経ったでしょうか。
姫様はかすかに首を傾げました。

「ん?」

よく聞こえなかったのか、受け入れたくなかったのか、しかしこの時の私は姫様の反応などどうでも良かったのです。

「普通じゃないですよこんなの。私は短い時しか生きていないし、姫様とは価値観が違うのかもしれないけど、
 嫌です。こんなの。」

姫様は黙っていました。

「そんなのに死んでから目を取られて入れられるなんてぞっとします。」

私は目を逸らし、ぽつりと言いました。

「気持ち悪い…」

その時でした。
私の視線の先、姫様の顔つきが微妙に変化した気がしたのです。
姫様の美貌が損なわれているというわけではありません。
姫の美しさは永久のものですから。
変化を与えたのが外部の環境ではなく、鼓膜に届いた音声、即ち私の声であることは疑いありませんでした。
姫様の表情は粘土で造った像のように人間の温かみを感じさせない無機質なもので、彼女の内部でなんらかの変化が起き、それが表層まで出ているのだと分かりました。
私は一瞬の驚きを感じました。
姫様は人間とは違う、と言ってしまうと否定的ですが、およそ人の感情の中で善の感情だけを凝縮して出来ているような人だと思っていましたから。
今のように人間でもなかなか出せないまっすぐで純粋な不快感をあらわにするとは思いませんでした。
しかし、その驚きも一瞬のことで、即座に恐怖に取って代わりました。
友人ならば非礼を詫びることで元の仲に戻れることもありましょうが、私はもう本当に言ってはいけないことを言ってしまったのではと後悔しました。
姫様は瞬きもせず、自分の目を捉えて離しません。
私は泣きそうでした。
まるで捕食者の前に差し出された獲物。
この部屋はライオンの檻のようでした。
この部屋から生きては出られないかもしれない。
傍から見れば笑ってしまうようなそんな思考もその時の私には大真面目なものでした。
姫の顔は美しいのにまるで怪物のように見えたのです。
そこには私への冷徹で容赦の無い拒否の意思が込められていました。

「そう」

やはり視線を外さないままそれだけ姫様は呟くと後ろを向きました。

「怖い?」

姫様は自分に問いかけるように呟きました。私に問うているのか、独り言なのか私には判断できかねました。

「怖い…」

そこで姫様は天井を見上げます。

「怖い」

姫様は声色を変えて何度かお経の如き陰気な口調で唇を動かしました。
姫様はゆっくり振り向きました。
姫様の顔は鳥肌の立つほどに文字通りおぞましいものでした。

「怖い…とは、この眼球?それとも…私?」

ー両方ー

即座に頭に答えが浮かびますが理性が瞬時にかき消しました。
しかし、沈黙は許されないでしょう。
彼女の目がそれを物語ります。
沈黙もまた雄弁な肯定なり、と姫の目は語っていました。

「目…です」

姫様はけだるげな様子で部屋に唯一つある椅子に腰を下ろしました。

「信頼とは、お互いが何の気兼ねも無く心の底の不満や希望を吐露し合える関係よね?
 血のつながりなど関係なく、相手のことを知った上でこちらの真実もさらけ出す、それが信頼。
 だからここであなたが私の些細な趣味に拒否反応を正直に示してくれたことに対しては、私は嬉しいわ。
 他の兎だったら下らぬ詭弁で頭を痛くしていたでしょうから。
  けれど、相手への好意が無くては信頼は存在しないわよね。
 相手のことは知っていますけど憎悪してやみませんでは話にならない。
 つまり無償のさらけ出しが必要になるけれど…
 大事よ。これは、あなたがただ物としての眼球に生理的拒否反応を示しただけか、それとも行為を行った私に対して嫌悪感を抱いたのか、
 この差は果てしなく大きいの。そう思わない?」

 姫様は自分に向けられる負の感情など無かったでしょうから、これほどはっきり言ってもいまだに信じられないのでしょう。
私はまだ姫の思考のおかげで一線は越えていないと判断できましたが、舌は止まろうとしませんでした。

「死者を、死者の肉体を弄ぶような真似は仁義に反すると思います。地位的に尊敬される姫様という立場でしたら尚更です。」

姫様の目は据わっていました。
勢い口走ってしまった言葉をすぐにのどの奥に戻したい衝動に駆られましたが、姫の鼓膜に届いてしまった言葉は取り消しようがありません。
姫は表情を揺らがせること無く、ひたすら、それだけで自分によからぬ事が降りかかるとでも言わんばかりに瞬きもせずにこちらをみています。
自分に対する姫の感情はどうなってしまったのか、言うまでもありませんでした。
そして姫様の雪のように白い手が着物の胸元に差し入れられました。
何か懐に入っているものを取り出そうとしているようでした。
私は恐ろしくなって、顔面まで真っ青になりました。

「ひっ」

私はすぐさま姫様に背を向けて走り出しました。
襖を叩きつけるように反対側の木の板まで開けて体勢を崩しながらも前方のみを目的に据えて文字通り逃げ出したのです。
臆病者でした。
あれほど望んで姫様と近しい仲になれたのですから、生理的な拒否反応を示すものを見せられたくらいでそこまで動揺することは無かったかもしれません。
しかし、少なくとも同胞の両眼を見せられた気味悪さは、全てを投げ打っても部屋から出たいと思わせるには充分でした。
息を切らせて姫様の内裏から出て、なお廊下を走り続けます。
自分の部屋が近くなっても安心はできませんでした。
私は部屋を認めるとすぐさまその中に入り、今日は出しっぱなしにしてあった布団と毛布の間に滑り込みました。
蓑虫のように羽根布団に包まって情けないほど震えていました。
姫様の容赦の無い、嫌悪と拒否の表情が脳裏に浮かびます。
夢に出てきそうでした。
普段から優しいお方ほど、そのギャップに効果は何倍にもなるのでしょう。
仕事を放りだしたことも何とも思いませんでした。
今は頭の中全てがこの屋敷を支配する姫様への恐怖で埋め尽くされていたからです。
今、姫様がこの部屋に入ってきて自分に声をかけてくれば、何と反応すればいいのか。
それとも姫様は自分に物理的な制裁を加えるだろうか。
肉体的な暴力など普段の姫様のふるまいの中には毛一本ほども見受けられませんでしたが、今はあながち夢想とも言い切れませんでした。

 自分の思いとは裏腹に。姫様は現れませんでした。
1日仕事をサボったというのに、お咎めにくる者もありませんでした。





 いつの間にか眠ってしまっていたようで、外には雀の鳴き声が聞こえます。
いつもは新鮮で冷涼な朝の空気にスパイスをもたらす可憐な音にも聞こえましたが、今は行動を催促するベルにも聞こえました。

ー姫様にどんな顔をしてお会いすればー

 頭に何度も浮かんだこの問いには答えるすべはありません。
姫様が好意で見せてくれたコレクションに対して気の利いたことを言えないばかりか、裏切りのようなことも言ってしまいましたから。
さらに仕事をさぼって抗弁にも来ないで一昼夜を寝床で過ごすとは、解雇だってありえるでしょう。
少なくとも姫様が私を許さなければここにいることはできません。
今日、部屋から出れば判明することです。

 とりあえず外に出ることにします。
晴れ渡る空とは真逆の内心を抱えつつ、師匠の元を訪れることにしました。
不思議と、姫様というさらに大きな障害があったせいか、さぼっただけの師匠の元に行くのはそれほど苦ではありませんでした。

「昨日は何をしていたの?」

師匠の声は怒りこそ含んでいましたが、自分を萎縮させるほどの激は含まれていませんでした。

「すみません。体調を崩してしまって、少し寝込んでしまいました。」

師匠は、ああと小さく息を漏らして決まりが悪そうに書き物に目を落としました。

「ごめんね。いつもあなたには働かせすぎだとは思っていたのよ。他の兎はいまいち頼りがいが無いからついあなたに頼ってしまうのよね。
 申し訳ないわ。今日はゆっくりしていなさい…と言いたいんだけど。」

次の言葉は今日の労働のメニューが来るのだろうとは予想がつきました。

「輝夜がタケノコご飯が食べたいって言ってね。何でもあなたにタケノコを取ってきて欲しいんだって。」

奇異なことだとは思いましたが、昨日のことで自分に見切りをつけたのならば用事など頼むとは思えません。
姫様はそれほど根にはもっていないのだとほっと一息つきました。

「ごめんね。それを取ってきてももらったらもう休んでいていいから。」

「はい。」

心なしか元気に答えた気がします。
思いがけず問題に発展しなかった姫様との関係と、突然入った1日休みの話が心を浮かれさせました。
私はすぐに準備をして出発しました。
今はタケノコの旬の時期ではなく、探すのには苦労しそうでしたが、毎日の労働に比べれば知れたものです。
私はピクニック気分で竹林に出掛けました。
竹林の中は涼しく、過ごすには快適な場所になります。
お詫びといってはあれですが、姫様には特別にいいところをご馳走したいという気持ちも膨れ上がっていました。
私はいつもは入らない竹林の奥にまで入ってタケノコに目をやり始めました。
なかなか食べられそうなものはありません。
今、旬なものでは緑竹という種類のものしか自分は知りませんでしたが、見つかりませんでした。
それほど頻繁に見かけるものではありませんが、絶対に見つからないという類のものでもありません。
私はやる気を出して辺りを見回しながら歩いて行きました。
やる気は時間と共に削がれ、体力が消費されたとはっきり自覚した頃には、目的もそれほど熱意を持つようなものにも思えなくなってきました。

タケノコを探しながら私の頭は姫様のことでいっぱいでした。

 完璧だと思っていた姫様に見たくない趣味があった。
死体から眼球を収集する趣味。
それは普通のことでしょうか。
もしかしたらそれは咎めるようなことではなく、私のほうがおかしいのでしょうか。
このお屋敷には少し普通でないところがある。
私が知らないことがあっても不思議ではありません。
例えば、死体にはもう魂など入っていないのだから、どう扱おうと一向に構わないという常識があるのかもしれません。
だとしたらあんな反応をしてしまって、悪いのは私のほうです。
姫様に聞くのはあまりに忍びないので、師匠に尋ねたほうがいいのかもしれません。

考え事をしながら探しましたが、結局タケノコは見つかりませんでした。

まあ、謝れば何とかなるだろう、と軽い気持ちで竹林から出ようと飛行しようとおもったのですが…

「…?」

地面についた足は接着剤でつけられたが如く離れようとはしませんでした。

「あ、あれ?」

いつも息を吸うように、歩くように自然とできていた飛行。
それがどうにも違和感を持って頭の中に入り込んでいました。
うまく飛ぶことができない。
いや、まったく飛ぶことができませんでした。
こんなことは今まで経験がありませんでした。
狐につままれたようでした。飛ぼうとしましたが、傍から見れば挙動不審にしか見えなかったことでしょう。
疲れてるせいかな?とも思いましたが、正直疲れている頃は家事の仕事ばかりで疲れているときに飛ぶことなんて無かったのでなんとも言えませんでした。
仕方ないから歩こう、と楽観していました。
このときはまだ。


「あれ?」

 おかしいと思いました。さっき通り過ぎたはずの場所をまた通っている気がしたからです。
ほんの気のせいだと思いました。
ただでさえ代わり映えのしない竹林です。
同じような場所ばかりに見えて、変わった場所を探す方が難しいのです。
しかし、私が不安に思ったのは、そういうものではなく。そこが十字路だったからです。
竹林は大部分が林のようになっていますが、当然人が通れるように道というものがあり、そこには植物は生えていません。
茶色がのぞくその道を私は歩いていました。
特に寄り道などせずに、道からほんの少し外れてタケノコを取ってすぐに道に戻ったと思ったのですが。
とにかくその十字路は先ほど見たものと同じように思えて仕方ありませんでした。
まっすぐ歩いているので、そんなはずは無いのですが、奇妙な感覚でした。
自分はこの時点では少しだけいつもと違うなと思っていただけで、危機感などは微塵もありませんでした。
けれど、既に見たような十字路を3度目に見つけた時は、さすがに驚きました。
驚いたといっても自分の身を案じるような類のものではなく、ただ、妙なものを見た時の好奇心にも近い感情でしたけれど。

もしかしたら同じところをまわっているのかな?

 自分はそう思って後ろを振り返ります。この道は僅かに婉曲していて、かなり大きな円を描いているようにも感じられました。
空から見下ろしていた時は、道などまったく気にしたことが無かったので、いつもちゃんと見ていれば良かったと後悔します。
自分は愚直にまっすぐに進み続けました。
そして4度目に十字路を見た時に、自分の疑いは確信になりました。
この道は円を描いている。横道に入ってまっすぐ進めばいい。
そう思って道を外れ、たけやぶの中に入っていきました。
ここで自分が考えていたことは今日の夕飯のことでした。
夕飯の準備が間に合わなくて師匠と姫様を失望させたくないという思いが強く、どんどんと進んでいきました。
まっすぐに進めば出られない林や森などはありません。
途中中途半端に曲がったりするからいつまでも出られないのです。
自分はまったく迷ったなどとは考えていませんでした。
すぐに出られる。
自分が空を飛んでこの竹林の地帯に入ってから、屋敷につくまでいつも10分もかかりませんでした。
歩くのが飛ぶことの10倍ほど遅くても、進めば必ず出られます。
私は自分を過信しておりました。
でも、当然です。
遠くに旅に来たわけではないのです。
自分の屋敷の周りの林に過ぎないのですから。
そんなところで迷うなど誰が考えるでしょうか。
迷いの竹林と呼ばれる竹林でも、ここに住むものは迷ったりしない。
そう考えるのは不自然なことでしょうか?
ましてやここは兎達と何度も来た竹林です。
まさに自分の庭だというのに。

 3時間ほど歩いて自分は竹を背にへたり込みました。
カラスの鳴き声が聞こえて、空を見れば竹の笹の間からオレンジの空が見えます。
時間は夕刻を迎えていました。
お昼を終えてすぐに出てきたので、5時間ほど歩いていたことになります。
ここで、初めて自分は道に迷ってしまったと認めました。
ため息をついて空中で旋回するカラスを見上げました。
けれど、道に迷ってしまったというのに、不思議と焦りは感じませんでした。
それよりもやすらぎの感情の方が勝っていたように感じます。
今まで、仕事仕事で、ゆっくりと散歩したり自然を眺めたりすることはありませんでした。
散歩という形とは違ってしまいましたが、仕事とは違うウォーキングに充実感を感じましたし、心地よい疲労感でした。
自分は食料は一切持っていなかったのですが、水は持っていました。
師匠からもらった大切な水筒に水を入れて持ってきていました。
ぐいっと水を飲み込みました。
火照った身体に涼しさが流れ込んできて、心地よさに浸ります。
帰っていたら今頃夕食の準備やなにやらでてんやわんやの忙しさのはずでした。
それが、ここでのんびりとカラスの歌を聴いていられる。
それに自分が帰れなかったというのも、サボったわけではないのですから、罪悪感もありません。
申し訳ないとは思いましたが、正直いつも頑張っている自分にちょっとした休憩を神様が与えてくれたのだとすら思いました。
 しばしの休憩を堪能したあと、自分は同じ方向に向けて歩を進め始めます。
歩けども歩けども代わり映えの無い竹林は続き、辺りは夜の闇に支配されつつありました。
それでも大丈夫と自分に言い聞かせて歩を止めることはしませんでした。
しかし、それも限界が来ました。運が無く今日は新月で、月明かりも頼りにならず、周りがほとんど見えなくなってしまったのです。

「…」

 自分が初めて恐怖を感じたのがこの時でした。

「どうしよう」

普段は独り言など言わないのですが、自分の状況が信じられず、思わず漏れてしまいました。
出られないなんてありえないはずなのです。
この竹林の大きさは把握していました。
自分の目方では、ゆっくり歩いたとしても3時間あれば悠々と出られたはずなのに。
とりあえず、歩くのは止めたほうが良さそうでした。
その場に持ってきたタオルを置き、お尻に敷いて体育座りをしました。
竹林の中は不気味なほど静かで、目で見えるのはほんの近くの竹だけでした。
ときおり風が吹いて、竹林の笹が触れ合う音が耳に届きます。
屋敷に居た時は、風流だととても気に入っていた音ですが、今は野獣の囁きのように聞こえました。
自分は身体が震えているのに気がつきました。
夏であり、寒さは気になりません。けれど、林の中に夜中取り残された者が、冷静でいられるはずがありません。
自分の身体の震えは底なしの不安から来ているものでした。
兎には偉そうに、予想外のことが思ったときには冷静になること、なんて話していて、自分はまったく冷静ではいられないのですから情けないです。
がさっと音がするたびに身体をそちらの方に向けて身構えました。
けれど、何も起こりませんでした。
動物どころか、虫一匹見当たらないのです。
けれど自分は何かに見られているような気がしてなりませんでした。
なにか、自分が、水槽に飼われている愛玩動物のような気がしてきました。
確かに夜の闇の、たけやぶの向こうに視線を感じるのです。いまにもにゅっと2つの目玉が出てきそうな不気味な雰囲気がありました。
怖くて怖くて、自分は童女に戻ったかのようにただただ身体を震わせていました。
広く、暗闇に覆われた世界で、自分の存在の小ささ、無力さといったら。
気づくとぽたりと水滴が自分のスカートに落ちました。
雨かな、と思って空を見上げます。
漆黒の闇の中、かすかに見える上空の笹が、自分をあざ笑っているかのように見えるだけでした。
水滴は自分の涙でした。
1人のときも最近はめったに泣かなくなっていたのですが、自分の精神はまいってしまっていたようです。

 ほとんど寝ることもできないまま朝を迎えました。
不思議なもので朝になると夜の闇の恐怖は何だったんだろうと言う気になってきます。
自分は昨日地面に印をつけておいた方向に向かって歩き出しました。
道中、様々なことを考えました。
屋敷では今頃大騒ぎだろうか。
自分がいなくなったら兎のリーダーは誰がやるのだろう。
と、1晩を竹やぶで野宿した割には余裕な考えに浸っておりました。

次の日の昼を迎えました。
自分の心にじんわりと生命の危機を感じさせる恐怖がやってきました。
この時点で水筒の水は尽きてしまいました。
重いだろうからとあまりたくさん入れてこなかったのが悔やまれます。
お腹が減りすぎて段々と胃の辺りが痛くなってきました。
これほど食物を摂取しなかったことは記憶にありません。
自分の頭に濃厚に浮かんでくる、自分の死。
頭の中に文字が浮かび続けます。

ー死ー

どれほど寿命があろうと食物が無ければあっけなく死んでしまうのが兎です。
妖怪でも不死ではないのですから当然ですが。

空を見上げると夏の抜けるような青空が広がっていましたが、心の中は冬の豪雪を思わせるような冷え込みでした。
段々歩く足が震えてきます。
食べ物を摂らないことからくる栄養不足か、恐怖からくる竦みか。
自分には分かりませんでした。
かたかたと自分が歯を鳴らしていたのに気づきました。
寒くなくても、歯をガチガチすることはあるのだと分かりました。
この時に自分は思い出していました。



 自分が屋敷で働き始めて1月ほど経った頃でしょうか。
自分が食事を運ぼうと縁側の廊下を歩いていた時です。
庭に大勢の兎が集まっています。
がやがやと兎達が何かを取り囲んでいるようでした。
見ると師匠の姿もありました。
何だろうと覗き込もうとしてもあまりに兎の数が多くて見ることができませんでした。
自分はどうしても気になって、御盆を置いて、それを見に行きました。
正直に言うと、見たことを後悔しました。
それは兎の死体でした。
兎の中では中背の、自分も何度か見たことのある者でした。
結構な働き者で、自分にも、親切にしてくれた兎です。
姫様にも部屋に呼ばれていた姫様のお気に入りの兎でした。
けれど、他の兎が姫や師匠に大層な熱を上げている中で、妙に冷めていた兎だったのは記憶にあります。
生前の利発で活発だった面影はまったくなく、いつもいい香りがしていた彼女のワンピースは泥にまみれ、手足は擦り傷だらけでした。
気の毒なほどにやせ細った彼女の身体も痛々しかったのですが、最も忘れられないのは、彼女の表情です。
恐怖に歪んだその表情は目を閉じることも無く、口角を不気味につりあげていました。
絶望の表情の中にも、その口元が笑っているようにも見え、グロテスクな印象に拍車をかけていました。

「う…」

自分は口元を押さえて後ずさりしました。
近くに居た師匠が私に気づいたようでした。
私は師匠が何か言う前に尋ねました。

「し、師匠、これって…」

師匠は自分の言葉をみなまで聞かなくても理解してくれたようでした。

「餓死ね…かわいそうに、いい子だったのにね。」

私は驚きました。ここの屋敷に住んでいて餓死などありえるのだろうかと
私が聞かなくても師匠は私が質問したいこと全て話してくれました。

「この子はいなくなって2週間経っていたわ。あなた達には恐怖を与えるからと、遠くに用事にやっていたと言っていたけどね。
竹林の北西にある山に食料調達を頼んでいたのよ。あっちのほうはそれほど複雑な道ではないし、迷うことはないと思っていたんだけど。
他の子に聞いたら、この子は少し方向音痴なところがあったらしいわね。うかつだったわ。一人で行かせるなんて。
私に責任があるわ。」

私はすぐに思いました。
この兎は自分もよく知っている兎です。
姫様にも格段の扱いを受けており、自慢ではありませんが自分と同程度の地位にいました。
いつも二人で姫様の美点をあげては盛り上がっていたのを思い出します。
しかし、三日前にいつものこの子からは想像できない一言を聞いていました。

「姫様は信用できないかもしれない」

私はこの兎は何かの冗談でこんなことを言っているのかと思いましたが、口論を続けるうちに本気で言っているのだと理解しました。
大好きなものを汚す言葉を大事な友人から聞いたことで、私の動揺と焦りも手伝っていつも以上に辛らつな言葉を浴びせてしまいました。
私は憤怒のあまりこの子と絶交するとまで言ってしまいました。
結局この兎はなぜ姫様が信用できないか、その理由は教えてくれませんでしたが、あれが今生の別れかと思うと胸に迫るものがありました。
悲しげな顔で私を見つめた別れる前の顔が脳裏から離れません。




ーこの子飛べなかったんだー


 自分は自在に空を飛べるので迷う心配などまったくありませんが、兎達の中には飛べない者もいました。
もっともそういう兎はヒエラルキーで下部に位置する兎であり、姫様に魅入られる兎が飛ぶ能力もないことに驚きました。
いつも感情を出さない師匠の目が潤んでいるのを見て、あまり自分が一緒に居ては申し訳ないと、御盆運びに戻ろうとしました。
戻る途中、一度だけ振り返りましたが、その兎のぎょろりとした両眼と、目が合った気がしました。






 あの時は、確かにとてもショックでしたが、でもそれでも絶望を感じるほどではなかったと思います。
もしかしたらあの兎も自分と同じように飛行能力を失ってしまったのかもしれません。
自分の醜く汚い、どうしようもない心の深層を告白させてもらえれば…
私は…

自分じゃなくて良かった。

と思っていたのです。
薄情な話です。
あんなに親切にしてもらった兎が死んだというのに、最初に頭に浮かんだのがそれなんですから。
あの時から自分への自己嫌悪が強くなった気がいたします。
しかし、今の自分は自己嫌悪などとは無縁でした。
悩みというのは、ある程度の余裕があるからこそできるものなのです。
戦場に居る時に、人生について考えたりはしないように、危機を感じたときは、目の前のこと以外は頭に入らないものなのです。
このときの私はただただ一つのことだけを考えていました。

ー死にたくないー

形は違っても、このことを何百回と頭で繰り返していました。

頬を伝う涙が止まりませんでした。
歩いても歩いても、無情に変わらない景色。
頭が痛い。腰が痛い。目が痛い。眩暈がする。足の感覚がない。
これだけ歩いていれば当然出てくる症状でしょうが、こんなものは物の数ではありませんでした。
死という恐怖に比べれば、その他の悩みなど、あって無いようなものなのですから。
自分の個性。人間関係。将来の展望。
今まで考えてきたそうした悩みの…なんてくだらなく、幸福だったことか。

 自分が迷ってから2度目の夕日が見えてきました。
私は赤ん坊のように泣きじゃくりながらとにかく進み続けました。
明日になったらもう体力も残っていないかもしれない。

「いや…死ぬのは嫌…」

私は独り言を言うようになっていました。

「なんで?なんでこんな目に合わなきゃいけないの?」

 心の中に恨みつらみが増幅しているのを感じていました。

ーどうしてー今までまじめに働いて働いて尽くしてきたのにーこれがその仕打ちなのー

 私は近くの手ごろな竹をつかんで指が真っ白になるほど強く握り締めました。

「私が何をしたっていうの?こんなところで死ねっていうの?こんなことをされるほど酷いことをしたっていうの?」

私は涙も拭わないまま空に絶叫しました。

「だれかあああああああ!!!!」

自分の声に耳が痛みます。けれど構いません。

「助けてえええええええええええええ!!!!!」

自分の声は少しだけ反響してすぐに消え、また変わらぬ景色が広がるだけでした。
思えばもっと早く叫んでいればよかったのかもしれない。
もしかしたら今の声で誰か助けに来てくれるかもしれない。
そう思うとほんの少し、心が楽になりました。


 この日も眠れぬ夜を過ごし、朝日が昇ってきました。
私は死人のような顔で竹によりかかったまま起き上がりませんでした。
昨日までの恐怖も去ることながら、今までなら考えもしなかった考えが頭に渦巻き始めました。
毒々しい怨念の言葉が、胸に詰まっていたのです。

元はといえば、こんなところに食料調達を命じた姫様が原因なんだ。
何がタケノコだ。
下らぬ食料を欲しがったばかりに、自分は命の危機に瀕しているではないか。
命を落とすかもしれない。
自分は命令だけして、笑っていればいいのだから気が楽だ。

どうしてこんなところによこした?
こんなところに?


愛していると言ったではないか。

可愛いと言ったではないか。

なんでこんな目にあわせる。

ほんとはどうでも良かったんじゃないか

自分のことなど。

もっと働かせようと発破をかけただけだろう

「酷いですよ」

自分で、こんな声が出せるんだと驚くくらい低い声でした。


師匠も師匠だ。死んだ兎がいるのだから、止めてくれてもよかったはずだ。
全然危機管理ができていない。


死んだ者がでたばかりなのに!
そしてよりによって私を!

今頃兎達は楽しく過ごしているのだろう。
自分のことを心配しているものが何匹いるだろう。



あの死んだ兎の目を思い出します。
汚らしく、惨めだったあの死体。
何かを訴えるかのようなあの表情。

あんなふうにはなりたくない。
いやだいやだいやだ。

両耳を塞いでぎゅっと目を閉じました。

「助けて助けて助けて助けて助けて…」

いくらつぶやこうとも、当然何の変化もありません。

脳裏に師匠と姫様の顔が浮かびました。

助かったらあんな屋敷辞めてやる。何をやったって生きていける。

「姫様…師匠…」

なぜだかこの時、姫様の笑顔を思い出し、猛烈に腹が立ちました。


私は空腹を紛らわそうとしてか、それとも怒りをぶつけてか、近くの草にかじりつきました。




 3度目の夜を迎えた頃、私は動こうという気は完全に失せていました。
ただ、座り込んで、地面を見つめるだけでした。
思いのほか、何もしないほうが早く時間が過ぎるというのを学びました。

 




 4度目の夜を迎えた頃、自分は今までの人生を振り返っていました。
自分がここで死んだとしたら自分は幸福だったと言えるだろうか。
悔いの無い人生だったと言えるか。
とても肯定はできません。
人に使われるまま、命令されたことをただただ遂行してきた。
一言で言えばそんな命でした。
歴史に名が残ることなど当然無く、死んでしばらくは他者の心に残るでしょうが、すぐに皆忘れてしまうでしょう。
こんなことになるならもっと好きに生きていれば良かった。
遠慮なんてしないでもっと思うがままに振舞っていれば良かった。
嫌なことがあったら素直に嫌と言えば良かった。

後悔ばかりです。
いつかやろうと思っていたことも、結局何もできないままでした。

 5度目の夜を迎えた頃。
頭が朦朧として、まともな考えはできませんでした。
誰かが助けに来ることももはや期待せず、ただ俯いていました。
幻覚が見えていたのは覚えています。
そこらじゅうに食べ物が落ちているのが見えました。
1,2度拾って口に入れてみましたが、歯が欠けただけでした。
まったく動くことを止めた自分でしたが、唐突にこの日は立ち上がり、進み始めました。
1分に5メートルほどしか歩けませんでした。
相変わらず頭上を飛ぶ鳥の鳴き声を聞きながら、今日出られなかったらおそらく命はないだろうと思いました。

しかし、不思議なことが起きました。

周りに子供たちがいるのです。
私を取り囲んで、何やらはやしたてていました。
私はこれは幻というのが分かっていました。
子供たちは自分が弱って、ふらふら歩いているのがおかしくてたまらないようでした。
自分が子供たちに触れようとすると、子供たちの身体に触れることはなく、私の手は宙をきりました。


ー罠にかかるが1匹目ー
ー罠にかけるが2匹目ー
ー獲物を食らうが3匹目ー

耳に聞こえてくる歌は子供たちが歌っているようでした。
幻なのだから、自分の頭に残る歌に違いない。
しかし、思い出すことはできませんでした。

段々と瞼が重力に負け始めました。

ーここまでかなー

子供たちの兎の歌を聴きながら、ここで座ったら二度と立ち上がれないと思いました。

ぼうっと前を見ながら、ただ足を動かしていきます。
右、左、右、左
あまりに規則的に動く足は自分が動かしているとは信じ難かったほどです。
目は霞み、ほとんど役に立ちませんでした。
薄く開けた瞼の細いすきまに、少女の姿が見えました。
他の子供たちとは違って、一人だけ私を取り囲むことも無く、3メートルほど先を歩いていました。

他の子供とはあまりに異質な雰囲気を携えたその子は振り返ることなく、軽快にスキップを踏んでいます。
この子の服はどこかで見たことがある。
何度も何度も何度も見た服だ。
腐りかけた自分の頭では、生活の一部になっていた人物の着物すら覚えていなかったのです。
少女は唐突に振り返りました。

それは姫様の顔でした。

相変わらず作ったような美しさでした。
しかし、その表情は姫様が最後に見せた、あのガラス球のような目の、不自然極まる顔でした。
美しさとは不自然さが無いことを言います。
ですから不自然な美しさなどありえないはずなのです。
私はこの顔を見て、再び背筋が凍りました。
醜いー
そうさえ思いました。

こんなに美しいのに、まるで化け物の顔だとすら思いました。

見ると前方の少女は手を叩いて何かを喋り始めました。
声は不思議と聞こえませんでした。
少し前からまったく声が聞こえなくなってしまっていたのです。
唇の動きを読んでみると、喋っているというよりは、2文字の言葉を連呼しているようでした。
とても愉快そうにとても嬉しそうにとても幸福そうに
化け物は手を叩いていました。

気づくと回りの子供たちも同じ言葉を連呼して手を叩いています。

ーい、ね?

唇はそのように見えました。

いーね。いーね。

そう言っているのでしょうか?

正確には分かりませんでした。
ただ、イ段とエ段の言葉というのだけは分かりました。
いつまでもいつまでも子供たちの合唱は続きました。

何が、いーね。だ。自分のどこがいいというのか。
死にかけの生物の何がいいんだ?
神経を逆撫でされながらも足を止めることはありませんでした。

飛べさえしたら…

何度そう思ったことでしょう。
次に座ったらもうだめだと、分かってはいましたが、自分は半分投げやりになり、座り込んでしまいました。



私は静かに目を閉じました。
このまま寝てしまおう。
あんな屋敷に戻らなくてもいい。
いつか生物は必ず死ぬ。
今がその時なだけ。

自分はひんやりとした水の中にいました。
湖の中でしょうか。
水の中に数々の魚たちが見えます。
自分は何にも束縛されずに水の中を縦横無尽に泳ぎまわりました。
誰も私の速さについてこられません。
暑い夏の大地から開放され、快適な水の中で、自分は夢のような気分を味わいました。
ここに最初から生まれれば良かったんだ。
そう思いました。
しかし、心地のいい世界はすぐに終わりを迎えました。
魚たちが自分に寄り添ってきたのです。
最初は可愛いと思っていましたが、魚たちは自分の身体をぱくつき始めました。
無論、巨大な人間がただの魚に口をぱくぱくさせながら突かれてもどうということはないのですが。
頭にも足にも、それこそ全身にピチピチと魚が群がってきました。

「やめて!」

大声で叫ぶとともに、自分は目が覚めました。
意識を取り戻すと見知った世界とは少し変わっていました。
薄暗いのです。明らかに先ほどの明るさとは違います。
全身はぐっしょり濡れていました。
汗ではとてもこうはならない濡れ方…
目の前の景色に白い線が無数に走っています。
自分は弾かれたように立ち上がりました。

「雨?!」

ピチピチとした感触は雨が身体に落ちる感触だったのです。
自分は夢中になって口を大きく開けて天空を仰ぎます。
土砂降りの雨でした。
何度この雨を夢見たことか。
水さえあればと何度思ったことか。
自分が眠りに入ってから結構な時間を無駄にしてしまったかもしれません。
あのひんやりした水の世界は、この雨の冷たさのせいだったのでしょうから。
私は祈りました。

やまないで!

ここで、水分さえ補給できれば、まだ助かる見込みはある。
私は服にしみこんだ水分も得ようと服を口にくわえて吸い上げようともしました。
何滴かしか、胃には届かなかったと思いますが、この冷涼さと開放感といったら!
とたんに世界が開かれたような気さえしました。
幸い雨はかなり長く降り続けました。
水分補給が充分なものになってくると、視界が段々と開けてきました。
耳も、しっかりと雨が地面に叩きつける音を捉え始めます。
死にかけていた五感が戻ってきました。
辺りを見回すと、幻の子供たちの姿は消えていました。
意識も覚醒してきたようです。
ありがたいことに自分が充分に水分を摂ったと思ってもまだ、雨は降り続けました。
私は首を上げるのにも疲れてぐいっと身体をひねらせました。










一瞬、

首をひねった一瞬

ありえないものが目の端に映った気がしました。










私は逆の方向を向きました。
高揚した気分がドライアイスで冷やされてゆくように、私の心の臓をしめつけていきました。
目の端に映ったそれは、考えるまでもないものでした。
土砂降りの雨の中に、小さく小さく、手を叩く音が聞こえます。
そして、かすかに声も

「しーね。しーね。」

声は、目の端に映った それ が発していることは確かでした。
私は戦慄しました。
今やっと分かりました。
あの子供たちは、
いーね。
ではなく、

「しーね。」

こう言っていたようです。

私はオイルの切れた車輪のようにぎこちなく、声のする方向に首を回しました。

姫様でした。

他の子供はすべて消えたのに。
他の幻はすべて消えたのに。

一人だけ、姫様だけが、さっきと変わらず手を叩いて言葉を連呼しているようです。
私はどんな顔をすればよいのか、どんな行動をとればよいのか、まったく見当がつきませんでした。
私は、勇気を出して姫様の顔を直視しました。
案の定、化け物の顔でした。
美しさはまるで変わっていません。
ただ、表情が化け物なのです。
無邪気な笑顔のその奥に、確かに非人間的な残虐な狂気がのぞいていました。

「あ…」

私は両耳を押さえてしゃがみこみました。

「いや…助けて…」

「しーね。しーね。」

「やめてよ…」

「しーね。」

「やめなさいよっ!」

私は目をつぶって大声で叫びました。


 



 次に目覚めた時、やはり土砂降りの雨が降っていました。
私は周りを見渡します。人っ子一人居ませんでした。
しかし、頭には鮮やかに死の歌を口ずさむ姫様の姿が残っていました。

「夢?」

もう、何が幻で何が現実が、寝ているのか起きているのかまったく分かりませんでした。

このままでは幻想に殺されてしまうかもしれない。

それともここに迷い込んでいること自体、幻なのではないか?

しかし、あれほど乾いていた体がみずみずしさとともに英気を取り戻しているのを見ると、しっかりと水分補給はしたようでした。

「ああ…」

ほっと息をつきます。
両目はクリアに物を認め、耳は水滴の叩きつける音を逃さず、手のひらの感触は竹を触ってもその雨に濡れた冷たさをはっきりと感じ取りました。
当然幻など見えません。
水のおかげで、少なくとも五感は完全に回復したように思いました。
考えれば、姫様や子供がこんなところに居るはずがないし、居たら居たであんな反応をするはずが無い。
冷静さと正気を取り戻した自分は、また力強く歩を進めました。
既に体力は限界でしたが、感覚が麻痺していたのかもしれません。

そして…

見知った空き地に出ました。
胸が高鳴ると同時に抑えがたい歓喜と達成感が心を覆いました。
その空き地は、永遠亭から入って程なくの、竹林の入り口付近にある空き地で、ここまでは何度か歩いて入ってきたことがありました。
自然と涙が流れてきました。

「やった…」

 ここまで来て間違うわけにはいきません。

自分は10分ほども立ち黙って思考を凝らせました。道は2本。
どちらに歩いても永遠亭には帰れますが、右の道はまっすぐ行って突き当たったらさらに右に曲がってしばらく歩くだけで出られるはずです。
記憶を何度も何度も辿りました。
間違いなどあり得ない。
そう確信し、右の道を歩いていきます。
恐らく、白樺の木が1本あるはずです。
周りからあまりにも浮いているのではっきりと覚えていました。
突き当たりの白樺の木を右に曲がる。
それだけの道です。
身体は悲鳴を上げていたでしょうが、身体とは希望があれば動いてくれるものなのでしょう。
というか、この辺りは兎や姫様も来ておかしくない場所です。
師匠はこの白樺の木までだったら歩いて入ってきてもいいと許可をしていましたから。
兎達はいないかな?
きょろきょろと見渡しながら歩きましたが、生物はいませんでした。
そうこうしているうちに白樺の木に着きました。
やった…

そう思ったときです。

「鈴仙」

声でした。
一瞬獣の鳴き声かと思いました。
自分は白樺の木の右側に意識が集中しており、反対側の左側には意識が向いていませんでした。

「姫様…」

 本物の姫様でした。疑いようも無く実体のある姫様です。
もう自分は朦朧とした世界にはいません。
はっきりと意識があります。
今までの、幻に見えた不気味な姫様とは違います。
白樺の木のT字路の左3メートルほどの場所に姫様は立っていました。
雰囲気と声と着ている服で、すぐに姫だと分かりましたが、幻の不気味な顔の姫様を思い出し、顔を見る気にはなりませんでした。
ただ、嬉しくてたまりませんでした。
おそらくここまで散歩に来ていたのでしょう。
それとも自分を心配して探しに来てくれたのか。
もしくは自分の帰りを待っていてくれたのでしょうか。
私は一瞬、竹林で迷っていた時に姫様や師匠に対し、酷いことを考えていたことに罪悪感を覚えました。
こうして心配して姫様はここまで来てくれたというのに、なんて薄情なことを考えていたのだろう。

「鈴仙」

姫様はもう一度私の名を呼んで両腕を前に差し出しました。
私はその腕に抱きしめられたいと強烈に願いました。姫様の胸に飛び込みたい抑えがたい衝動に駆られました。
ああ、夢にまで見た我が主人。
ついに帰ってきたのだ。
助かった。
生きている。
私は涙が流れてきました。
水分不足なのに、涙は止まりません。
かまいません。
すぐに水は飲めるでしょうし。
私の主人は姫様と師匠だけ。
私をこうして出迎えてくれる。
私を受け入れてくれる。
それだけで、他の何にも替えられない。
私は姫様の元へ駆け出そうとしました。



しかし。


動物的な本能が、自分の足にブレーキをかけました。
私という個体の本能は姫様に抱きしめられたいと願いましたし、理性もそう思っていました。
しかし、最も根源にあるその本能が、私を前には進ませませんでした。

動物的な本能が、瞬間的に他の私を司る神経に働きかけました。
最初にその信号を受け取ったのは、意外にも理性でした。

ー久しぶりに会った人間の反応-




私はブレーキをかけて1秒後に180度身体を回転させて、全力で姫様とは逆の永遠亭に向かって走り出しました。
何でそれほどの力が残っていたのか分かりません。
元気な時でも出せないほどの速さで走りました。
この身体でこんなに早く走ったら死ぬんじゃないかと思いましたが、自分を走らせたのは、得体の知れぬ恐怖でした。
永遠亭が見えました。
竹林を抜けました。
診療所が見えました。
ここで歓喜に飛び上がるところでしたが、とにかく一目散に診療所に走りました。
玄関の戸を壊さんばかりに開けました。

師匠一人だけが診療所の中にいました。
師匠は何か読み物を読んでいたようでしたが、椅子から立ち上がり、あっと口に手を当てました。
そして目がすぐに潤んできました。
私は師匠の胸に飛び込みました。

「師匠!」

「鈴仙!鈴仙!ああ!良かった!ああ、もう…あなたって子は…!」

「師匠…怖かったです…」

「ああ!大変な目に遭ったのね!もう、どれほど心配したか!もう2日も寝ていないわよ。私!」

頭の上に熱い液体の感触があります。
師匠の涙でしょう。

「ああ!話は後ね!すぐに食事を持ってくるわ!待ってて!」

「ま、待ってください!」

私はちらりと玄関に目をやりました。

「どうしたの?」

「え、えっと…」

くらっと立ちくらみがしました。
あまりに無理をして走ったので、身体が持たなかったのです。

「ああ!もう、無理しないの!睡眠…は多分大丈夫ね!水分と食事ね!すぐに持ってくるから座ってなさい!」

私は首を振って師匠に手を伸ばしましたが、師匠はそのままふすまを開けて向こう側に消えてしまいました。






その時




じゃりっと足音がしました。


開けっ放しの玄関の前に誰かが立っているのが、空気で分かります。

背中に冷たい汗が流れます。

私は振り返りました。


立っていたのは姫様でした。


この速さで着くということは姫様も走って追ってきたに違いありません。

私の顔は恐怖に歪みました。

直視した姫様の顔は、やはりあの顔でした。
無機質で、平坦で、深く、暗い、狂気の顔。

無表情の姫様の表情の中に様々なものが見えては消えていきます。
見ているだけで恐怖に泣きたくなります。

姫様は息一つ切らさずに両手を後ろに回していました。

「ねえ、鈴仙」

私は硬直しました。
自然な顔をしようとしましたが、ひくひくと筋肉が痙攣するだけでした。

「私…怖い?」

頭の全細胞が働きました。

先ほどの二つの本能が完全に逆転しました。

鈴仙の本能は逃げ出したかったのですが

動物の本能が姫様に抱きつけと命じました。


「姫様っ!!」

私はためらいなく姫様に抱きつきました。
そして胸に顔を埋めました。

「姫様!会いたかったです!怖いわけないです!ああ、姫様!!」

私は泣きじゃくりました。
とにかく師匠のことを考えていました。
これは師匠なんだと自分に言い聞かせました。

「あの竹林は怖かったけど、姫様が怖いわけないです!ずっと姫様のことばかり考えていました!
 ああ、お慕いしております!姫様!姫様…!」

姫様はしばらくの間何も言わずに私を抱きしめることもなく、私に抱かれるがまま立っていました。

1分ほども過ぎたでしょうか。
姫の背後で、何かトンっという音がしました。
音だけで、私には床に金属が刺さった音だというのがわかりました。

そして姫の手が私の背中に回される感触がありました。
私は顔を上げました。
目の前に姫様の顔を見ました。
狂気の表情はどこにもありませんでした。
あたしが待ち望んだ、願い続けた姫様の笑顔でした。
あの、美しく、気品のある、そして可愛らしい輝夜姫その方の表情です。

「私もよ。お帰り鈴仙」


私はほっとしたと思うととたんに気が緩んでしまい、気を失ってしまいました。




気づけば自分は屋敷の自分の部屋に寝そべっていました。
空腹を満たした食事も何もかも覚えていません。
ただ、もはや空腹は感じていない心身ともに充実した自分だけが部屋の中にありました。
あまりにも今まで通りの自分に一瞬今までのことがすべて夢ではなかったのかと錯覚しました。
しかし、時計に目をやれば11時。
昼の準備をするこの時間帯に寝ているなどあり得ないことです。
間違いなく自分の経験は現実だったと思えました。

すぐに自分は師匠の部屋へ向かいましたが、特に問題もなく安静にしていろと言われました。

それから休息を頂きました。

ここに来て働き出してからは、最も長い休息だったかもしれません。

しばらくの暇を持て余し、空を見上げては他愛のない空想に仮想の自分を遊ばせていました。

姫様に呼ばれる頻度は今までとは変わらないか少し多い程度で、危なげな会話には発展しませんでした。

ただあの悪趣味な私室に招待されることはなくなりました。

招待されても2度と行きたくないと考えていましたのでその点は僥倖でした。

まるであの部屋に行った事実も竹林での出来事もまるで抜け落ちたかのようにお互いの会話に出てきませんでしたので、
あえてデリケートな方向に持っていく必要もないと考えました。

竹林でも幻を多く見たせいか、姫様の部屋に行ったことも自信を持って現実だったと断言できなかったのです。




そしてそれから時間が経った頃、また竹林に行く機会がありました。
仲がよいと言って差し支えないてゐと一緒に竹林に入ってゆく機会があったのです。

私は竹林はトラウマになっていたので入りたくないと説得しました。
山菜取りに自分だけが参加しないのは不合理だろうと無理やりに自分を連れ出したてゐでしたが、妙に張り切っていました。
どうせ何か自分をひっかけようとしているんだろう。
人を罠にはめる時ばかり活き活きする兎ですから。
しかし2人なら問題は無いだろうし、入り口付近で山菜を探すだけなら問題ないかとしぶしぶ了承しました。
竹林の中を少し進んで行き、例の道まできました。T字路のあの場所。
私はあの白樺の木の付近に目をやりました。
当然視線が向かうのは姫様が立っていたあの場所です。


てゐは何の躊躇もなく姫様が立っていた場所にまでふわりと飛んで行きました。

やはり飛べなくなるなんてことないよね、とぼんやりとてゐが飛ぶのを見ていました。

そしてちょうど測ったかのように姫様が立っていた場所と同じ場所に降り立ちました。

てゐは泥もついていないでしょうにぱんぱんとお尻を叩いて埃を払うしぐさをしました。

そして私を手招きします。

私は何とも思わずに一直線にてゐの元に歩いていきます。

餓死しかけたあの時とは違い一歩一歩に命の力強さを感じていました。

てゐの所まで2メートルといったところでした。

自分が踏み出した右足の地面が、当然期待していた反発を見せてくれませんでした。


え?


通常の歩行ではありえないほどに自分の身体が前傾になり、反射的に手を伸ばすと同時に、自分が踏んだ地面の土が崩れていくのが目に入りました。

自分に何が起こったのか。常人ならばもう一瞬は必要でしょう。

しかし、私にとっては何度も経験があることだったので、今までどおりに落下しかける身体を静止させ、中空に舞い上がります。

ー落とし穴ー

飛行能力さえあれば、惨めに泥の籠に入れられて服装を汚されることもありません。

私はじろりとてゐをにらみつけました。

何度やっても懲りない兎です。

兎の中でも特に反省をしない、知恵の回る個体です。

不思議と憎めないのが不思議ですが。

私は明らかに安全なてゐの後ろ側に回り込むと軽く後頭部にチョップしました。

「いったーい!」

全然痛くなさそうな声でてゐが叫びます。

まったく飽きない兎だとふと穴に目をやりました。

思わず息を呑みました。

穴の中にあるのは竹…

先が鋭利に研ぎ澄まされた竹槍でした。

それも数十本はありました。

面積辺りの密集度と竹槍の暴力的な先端を見れば、落ちたら致命傷なのは明らかでした。

私は頭に血が上っててゐの胸倉を掴みました。

「あんた!なんて危ないもの作ってるの!信じられない!こんなところに誘導してっ!!」

「し、知らないよ!私は穴を掘って塞いだだけで…こんなの知らない!」

てゐは首を振って怯えた目で私の目を見つめてきます。

今までに見たことのない反応でしたが、このてゐのこといくらでも演技できるに違いありません。

「私を殺す気だったの?」

「ち、違うよ!そんな訳ないじゃん!怒らないでよ!」

私は、興奮冷めやりませんでした。

てゐの行為よりも、姫様のことを思い出していたからです。

竹林を出る直前、あそこに立っていた姫様に抱きつこうとしていたら、この穴に落ちていた。

場所から見て間違いなく落ちていた。

飛行能力のなくなっていたあの時の自分なら…

ここに…

「最低ね。」

震える声ではき捨てました。

「ご、ごめん!謝るからっ!でも穴を掘っただけだよ!私は!」

私はそのまま竹林を飛び去りました。

言い訳をするてゐを置いて。

本当は心のどこかでてゐが竹槍を設置したのではないのだと確信しながら。

てゐのせいにすることで心の安寧を図ったのかもしれません。











そして、それからの日々は何事も無く過ぎました。
師匠はいつものように自分を可愛がってくれましたし、兎達の態度も別段変わったということはありませんでした。
仕事の量は減らなかったけど、これからも変わりなくこなしていこうと思いました。
姫様も今までと変わらずに部屋に呼んでくれます。
しかし、あの松の間だけは呼ばれることは無くなりました。
自分は今でもあの悪趣味極まるコレクションが自分の妄想だったのではないかと思えてなりません。
すべてにおいて完璧だった姫様にあのような面があるというのが信じられなかったのです。
もしかして本当に何も起きずに自分の頭の中で起こったことではないかとさえ思うのです。
だけど、姫様の愛情は変わることなく、今ではどうでもよく思えるほどに姫様をお慕いしています。
世界中の誰よりも尊敬してやまない御方…
あの日から何も変わってなどいない。
私たちの関係は砂粒ほどのしこりも無く円滑に回っている。
そう思いたかったのですが

1つ

1つだけ日常に変化がもたされていました。
それは自分にとって望まざる変化でした。

 

あの方に見られるようになったのです。


自分が部屋に居る時に、しっかり閉めたはずのふすまの隙間から

のぞいているのです。

私のことを観察するかのように。

無機質な感情が無いあの目で、品定めをするかのように一定時間こちらを見ているのです。

会った時は愛情を振りまいてくれるのに。

いままでとは何も変わりなく私を愛している、いえ、愛しているように見えるのに。

私が部屋で落ちつけなくなったのはこれが理由です。

襖の隙間を見たとき、姫様の目がこちらを見据えているのが、とても、

とても歪な気分になります。

目があっても姫様は反応無くすぐに襖を閉めてしまいます。

なぜそんなことをするのか聞きたい気もしましたが、そんな度胸はありませんでした。

でも、それ以外何も変わらないのです。

私は姫様が好きです。

疑いなどありません。

ずっとずっと一緒にいたいです。

のぞかれる問題など些細なことなんです。




































そう思い込みたいのですが、やはり出来ません。

もう我慢できません。

私が姫様に抱いていた気持ちを持つことはもう出来ないかと思います。

姫様が襖の隙間からこちらを見ているとき、
そしてそれに気づかないふりをしている時、
耐え難い気持ち悪さと恐怖を感じるのです。

あの感情の無い目に見られる居心地の悪さ…

これを書いている今も何度目を上げて襖に目をやったか分かりません。

あの人がこちらを見ているのではないか

幸い今日は一度もこの部屋の隙間が開くことはありませんでしたが、そればかり気になるようになってしまいました。

あの方は私を品定めしているのです。

愛玩用のペットとして合格か否か。

私は…


私は怖くてしょうがないのです。

あの人が怖くてしょうがないのです。

正直、私を餓死寸前に追い込んだあの竹林での遭難も、あの人が企んだのだとさえ思っているのです。

そしてあの落とし穴は自分に好意を抱かなくなった兎を始末するためではなかったのか。

そういえば兎達の姫様への賞賛も、敬愛と言うよりは宗教めいたものを感じていました。

そんな疑いを抱く相手をどうして好きになれましょうか。

もう、あの人の部屋には行きたくありません。

けれど明日も行かなくてはならないと思うと胃が重いです。

美しいと思ったあの人の顔も、彼女の深層を隠す仮面にしか思えないのです。

これからどうしたらいいのか。

私にできることはあの人を慕っているように見せることだけです。

けれど、もうあの人を愛することはできません。

何を考えているかまるで分からないのです。

私があの人を考えるのは…

愛情でも尊敬でも好意でもなく…


ただ

怖い


それだけです




















 書き終えた彼女は最後の一文字を書くやいなや即座に日記を閉じた。
決して文字に表現してはいけないことを、
許可されぬ暴虐を働いてしまった罪悪感を感じたが、己は誰に反抗するでもなく、自己の情念を自らの所有物に書いただけと開き直り、立ち上がった。
時計は3時を指している。
彼女は頭を抱えた。
朝6時から仕事というのに、また寝不足に苛まれる。
何度も視線を投げかけ警戒していた襖は一度も開くことはなかった。
ほっとする。
襖の隙間からではこの文字を読むのは不可能だろうし、入ってきたところですぐに閉じてしまえばおしまいだ。
まさか無理に閲覧しようとするお方でもあるまい。
彼女はぐっと伸びをした。
さっさと寝よう。
明日の朝一番にこの危険な紙切れを焚書の対象にしなくてはならない。
4時間後には灰になっているはずだ。
彼女は部屋の隅に自己主張せずに淡々と灯りを提供してくれた行灯の火を消した。そして前方の寝室へと通じる襖をそっと開ける。
もしかしたらスタンバイしていた姫と鉢合わせになってしまうのではと脳裏を掠めたが、杞憂であった。
今まで居た部屋より少しだけ涼しげな寝室の空気を鼻腔に入れ、安堵と共に強烈な睡魔が襲ってきた。
起きるのが辛そうだ。
彼女は今まで居た部屋から出ると寝室に移り、また隙間の無いように襖を閉めると、すぐ前に布団を敷いた。
誰も来ないとは思うが、本音をさらけ出した日記を誰にも読まれるわけにはいかない。
万一の可能性を考慮してここに寝ていれば誰か入ってきても大丈夫だ。
書き物の部屋はこの襖以外に入る場所は無い。
自分の上を跨いで入っていかれるという考えもあるが、まあ考えていてはきりが無いし、そこまで鈍くは無いと思いたい。
彼女は毛布に包まると泥のように寝入った。







 

























 主人のいなくなった部屋は静謐さを取り戻していた。
行灯の熱も和らぎ、昼の暑さも失われる、夏としては最も過ごしやすい午前4時。
風も無く、熱も無く、人も無く、ただあるだけの箱と化した無人の部屋。
主人を失った部屋の家具が動くことは無い。
物が勝手に動くことも無い。
夜闇の中では昼には考えられない突飛な思想も現実味を帯びるような錯覚を覚えるが、また昼になれば、明瞭な意識と理性を取り戻す。
当然ただあるだけの物達は静止を維持し続ける。

  
 止まった部屋の中で…
この部屋の主人の兎が長時間書き物をしていた背後の押入れ。
その押入れの戸が、肉眼では確認できないほど鈍く、遅く、だが確かに開いていった。

人一人が通れるほど充分に戸が開かれたのは押入れの戸が開き始めて3分も経った頃だろうか。


ゆっくりと、優雅に、陰気に、闇夜に溶けそうな黒髪を垂らせた少女が押入れの中から現れた。
不思議なもので一点に集中された意識は他のものについては極端になおざりになる。
この屋敷の姫君、輝夜は日記を書き始める前からこの部屋に居た。
最近、挙動不審なお気に入りの兎の動向を知るべく、彼女の日記を読んでいたのだ。
読んでいる最中は幸福のただ中にあった。
自分があの子を愛しているのと同じくらいに、自分は慕われていると、確たる証拠を得たのだ。
主人冥利に尽きる。
日記には自分と、彼女にとっての師匠の褒め言葉と尊敬の思念が散りばめられていた。
毎日毎日、欠かさずに温和で人肌を感じさせる純粋な言の葉が綴られていた。
最近はあの子に疑念を抱くことがあったが、どうも勘違いだったらしい。
危ないところだった。
あの子の愛情に気づかなかったら、今頃は…
しかし、今日は油断した。
いつもより数時間も早く、あの子はこの部屋に戻ってきてしまった。
とっさに押入れに入ってしまったが、結局ばれることは無かった。
なにやら今日は一心不乱に書き物をしていたようだ。
日記にしては長すぎる。
小説でも書いていたのだろうか?
それとも自分に対する愛情の文だろうか。
しかし、よく気づかなかったものだ。
自分が6時間近く、押入れの戸の隙間から半センチ程の隙間から彼女の背中をじっと目を離さずに見ていたというのに。
彼女は前方の襖ばかり気にしていたようだ。
何を気にしていたのだろう?
最近自分がよく来るのを楽しみにしていて、待っていたのだろうか?
今度からは頻繁に来てあげるとしよう。

輝夜は机の上に置かれた2冊の日記に目を留めた。
黄色い表紙のほうは、今まで彼女が書いていた日記だ。
自分も閲覧させてもらった。
その隣にある黒い日記に今日は随分熱心に書き込んでいたようだ。
よくあんなに書いていたものだ。
心に思うところがあったと見て間違いない。
自分に対する尊敬の念を抑えきれずに書きすぎてしまったのか。
とにかく楽しみだ。
いつまでも変わらずに自分を愛してくれる可愛らしいペット。
その子がどんなことを書いてくれているのだろう。
今日はどんな褒め言葉で自分を楽しませてくれるのだろう。

輝夜は黒い日記に手を伸ばした。











全然寝たりないというのに妙に冴えた気持ちで鈴仙は目が覚めた。
しかし、身体のほうはまだ休息を求めているようで、行動への変化を良しとしなかった。
彼女はほんの2時間前まで物書きをしていた自分のもう一つの襖に目をやった。

「…」

一瞬、それがあるべき姿なのだと思った。変わったところはない。
おぼろげな脳味噌が徐々に横になった布団の中で覚醒してゆく。
脳味噌は昨日の自分の行動と景色との齟齬に気づいた。
考えをすぐに押し消し、ぐるんと身体を反転させて目をやらないようにした。

 閉めたはずの襖が開いていることについて考えないことにした。

そのまま彼女は覚醒したまま、ただ寝ているのだと自分を信じ込ませた。
そして数刻が経とうとしていた時、彼女はおそるおそる身体を反転させてもう一度襖を見ようとした。
恐ろしさもあったが身体は操られているかのように抵抗なく動いた。
ゆっくりゆっくりと回る身体。
一度仰向けになる反転ゆえ、襖の隙間は当然上の方から見えることになる。
何もいないだろうと少々の楽観を含んだ思考が脳裏をかすめようとした瞬間

 
 こちらを微動だにせず見つめる片目と目が合った。
 
 
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コメント



0.1760簡易評価
1.70名前が無い程度の能力削除
「やや暗いです」なんてレベルじゃなく怖い。
"ホラー"タグが欲しかった。
2.90名前が無い程度の能力削除
コレクションがひとつ増えてしまったか…
4.無評価1削除
あと、
・輝夜が、コレクションを見せた場合の鈴仙の反応を予想もしていなかった(できていなかった)こと
・鈴仙が竹林から抜け出せた後の本心を隠しての言動を輝夜が信じ込んだこと
(『最近はあの子に疑念を抱くことがあったが、どうも勘違いだったらしい。』)
この辺はそこそこ違和感があった。もちろん、だから駄目だなんて言うつもりはないが。

それと、単純な入力ミスだと思うけど、地の文での鈴仙の一人称が一か所だけ「あたし」になってる。
5.90奇声を発する程度の能力削除
おおう…
6.90名前が無い程度の能力削除
お、おう、、、ルナティック
8.80名前が無い程度の能力削除
こわいこわいこわい
でも気になって読むのをやめられなかった
9.無評価らくす削除
>>すみません。ホラー タグをつけさせていただきました。
12.100名前が無い程度の能力削除
 楽しませて頂きました。
14.100名前が無い程度の能力削除
マジこわかった
16.90名前が無い程度の能力削除
こわい
そそわ作品中でトップクラスにこわい
20.100名前が無い程度の能力削除
輝夜こわすぎわろえない……
22.100名前が無い程度の能力削除
鈴仙とホラーの相性はいいなあ
久々に読み応えのあるホラー話でした
23.100名前が無い程度の能力削除
こえぇ…
24.100とある兎より削除
たのしませていただきました
すばらしい輝夜様の魅力を上手く表現できてました
けつまつも自分好みで面白かったです
てゐちゃんにも是非読ませてあげたいです
27.100名前が無い程度の能力削除
怖いというか、なんだろう、恐怖?
読んだ後の横のふすまが気になってしまった
31.70名前が無い程度の能力削除
雰囲気のある語り口がホラータグと相まって、この先嫌なことが起こるに違いないという緊張感のまま読み進めることができました。
作品を通して常に不安を煽る空気感は、作者さんの確かな力量を感じさせるものです。

ホラー小説としては満足のいく作品でしたが、東方の二次創作としては多少納得のいかない点がありました。(鈴仙が飛べなかった理由? 竹槍で殺したら、他の兎に対して殺害したということがあからさまではないか? いくら裏の顔といっても輝夜の性質が原作と乖離しすぎているのでは?)

ただそれでも、これだけの物を書く方の作品でしたら他の話も是非読んでみたいと、そう思わせてくれる力作でした。
34.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしいです、久々の投稿ですね。
私は気のきいたことは書けませんが、もっとあなたの作品を見てみたいです。
36.100名前が無い程度の能力削除
コメ欄みるに輝夜と同じ気質の人間が多そう(偏見)
悪趣味なやつって絶対まんまな本性だと思うの

この輝夜を魅力的ではなく薄気味悪い化け物と思える自分でいたい(切実)
43.100名前が無い程度の能力削除
輝夜様がただただ美しかった 理想的な姫様をありがとうございます
48.100名前が無い程度の能力削除
こんな姫様もアリだなと思えました
49.100もみ削除
ホラータグある中で一番戦慄した。
素晴らしかったです
52.無評価名前が無い程度の能力削除
どこまでも纏わり付いてくるような怖さがありました。とても面白かった
59.90名前が無い程度の能力削除
これはいいホラーですね(白目
ホラー系の作品の中でも最大限にゾワッときました
冒頭からそこはかとなく漂う不穏な空気から、日記を書き終えたあたりまでの流れがすごいです
ただ、輝夜がどうして「こう」なのかって説得力が足りない気がしました
目玉云々ってくだりの台詞、プラスなんかもうちょいあったらよかったかなと思いました。
あと、しねしね歌ってた子供たちはどういう幻覚なのか?ってとこですね
ここはちょっと唐突だったのでマイナスポイントにしました