Coolier - 新生・東方創想話

生ける光、求める闇

2015/11/29 07:55:49
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 相反するものが揃う瞬間が私は好きだった。

 夢と現。動と静。光と闇。ストレートとカーブ。人間と妖怪。生と死。二次元と三次元。
 私の家族である藍と橙の名前もこの趣向から来ている。
 赤、橙、黄、緑、青、藍、紫と並ぶ可視光線の中では、藍色と橙色は緑色を挟んで正反対の波長だ。

 相対するものが揃った時、二つの間には境界が引かれる。
 境界は結界となり、結界が二つを包み込むことで、それらは強く結びつき完成する。
 例えば陰と陽とを円の形で現した太極図が、私の感じているものを表すにはわかりやすいだろう。

 そうだ、唯一つだけでは足りない、不完全なのだ。
 二つ揃った時こそ、その時に初めて――――











 今日の昼飯は何を食べようか、そんなことを考えた人々が腹の虫を鳴らし始める昼の幻想郷。
 多すぎない雲により青と白のコントラストが眩しい空では太陽がますます力を増し、本来なら主婦が喜ぶ洗濯物日和のはずが、何故か日が遮られ薄暗くなった博麗神社の縁側にて、霊夢は呑気にお茶をすすってのんびりしていた。
 そこに箒にまたがった白黒の魔法使いが、影に包まれながら神社に向かって飛んでくる。

「おーい、霊夢ー!」

 境内に着陸した魔理沙は箒を肩に担いで、霊夢の元に歩み寄ってきた。

「また随分とのんびりしてるな。あっち行かなくていいのか、一応異変だろ」
「あれはもう紫の管轄でしょ、一々付き合ってられないわよ。あんただってそうだからこっちに来たんでしょ」
「まあな」

 普段なら敏感に反応すべき『異変』というキーワードにも巫女はただ面倒そうに流して、魔理沙もその反応を当然のごとく受け取った。
 魔理沙は箒を縁側に立てかけて霊夢の隣に腰掛けると、さも当然のようにお茶請けの煎餅に取ろうとして、手の甲を抓られ断念する。
 バツが悪そうに手を降って痛みを飛ばし、閉じられた空を眺めた。

「しかし、今回のはちょっとヤバ目じゃないか?」
「どうせなんとかなるでしょ、いつもみたいに」
「まあそれもそうか」

 そう言ってお茶をすする霊夢が釣られて上を見上げれば、目に映るのは灰色の岩石の裏側だけ。
 幻想郷の空の一角を占領し日光を遮る天の大地は、どこぞの不良な天人が作り出した要石と呼ばれるもの。
 巫女がのんびりするほどまったくもっていつもどおりに、比那名居天子の八度目の異変が始まっていた。






「あの夏に起こした最初の異変からこれ幾度、地上に別荘が欲しくて博麗神社奪取を画策したけどどれも達成できなかった。ならもう作っちゃえばいいんじゃない!?」

 空を覆う要石の上に立って地上を見下ろして、天子は得意げな顔を浮かべて誰もいない天空で声を響かせる。
 彼女が腕を振り回し振り返った先にあるのは、見渡す限りの灰色の地平。
 何もない平べったい要石の上部だが、その大きさだけはずば抜けていた。

「幻想郷上空に徹夜で作り上げた直径十キロの超巨大要石! 天界のものほどじゃないけど、中々立派なの作ったじゃない私」

 渾身の自信作だと胸を張るだけのことはある巨大さだ。
 一夜でこれだけのものをこしらえる辺り、活かし方はともかくとして彼女の才気が伺える。
 とはいえこれ単体ではただの岩の塊にすぎないのも事実、天子は合わせた両手をこすってニヤニヤと下卑た笑いを浮かべながら、これからどうしようかと思いを馳せた。

「ここを私の拠点として幻想郷征服を始めてやるわ。まずは私が選びすぐった人員を拉致って……じゃなくて招待して、街でも作らせて豪華に」
「――つーかまーえた」

 油断する天子に突然声をかけた何者かは、その細い首筋に後ろから腕を回し、割れ物を扱うように優しく天子の身を包み込んだ。
 暖かな抱擁に、鳥肌が立つほどの寒気を感じて眼を見開いた天子は、咄嗟に腰を落として腕から抜けると、背後の斜め上に目掛けて細長い要石をドリルのように回転させて叩き込む。
 天子を抱きしめたその女は美しい金色の髪を揺らしながら扇子を開いて前にかざすと、防御用の障壁を作りだして要石による攻撃を受け止めた。
 頭部を狙って放たれた要石は威力を失って消滅し、その向こう側から見えた顔を見て、天子は憎たらしげに吐き捨てた。

「っんの……また出やがったわね八雲紫!」
「ええ天子、今日もまた特別に、この私が来てあげたわ」

 湧いて出た紫は、スキマから取り出した日傘を広げて日を遮ると、にこやかに笑顔を投げかけた。
 だが天子は温和な態度の紫を前にして警戒し間合いを取る。彼女は知っているのだ、眼の前の妖怪は常に相手を惑わして生きているということを。
 この珍客の来訪に、天子は不満気に口を尖らせた。

「なんでまたあんたが出てくるのよ。巫女は!?」
「天子、あなたねこれであなたが異変を起こしたのは何度目?」
「んーと……七度目?」
「八度目よ。誰だって飽きて手出ししなくなるわよ」

 このいつまでたっても懲りもしない天人相手に、巫女の顔も三度目までだ。
 繰り返される異変の数々に霊夢は無視を決め込むようになり、こと天子に関しての異変の処理は紫に任されるようになっていった。
 それは巫女に限らず、どこぞの白黒魔法使いや他の異変を解決してきた英雄たちも同じことで、天子の異変と知るや「またあいつか」と巻き込まれないように家にこもって茶でもしばくのがお決まりだ。

「とは言え、これだけ大きなもので居座られていては邪魔でしかないのも事実。ということでここは私がご招待に預かったわ」
「誰もあんたなんて呼んでないわよ。まずパチュリーを拉致って川を作らせて、アリスの人形に賑やかせてもらう算段なんだから」
「無理矢理連れてきたところで従ってくれると思ってるのあなた?」

 呆れ顔をする紫だが、心なしかどこか嬉しげな雰囲気を醸し出しながら一歩踏み込む。
 警戒を強めた天子は、いよいよ緋想の剣を懐から引き抜いて敵意を露わにした。
 緋い気質で構成された刀身が、天子の手元でゆらりと炎のように揺れる。

「まあいいわ、招かれざる客への対応なんて相場が決まってる」
「ふふふ、そうそう。それでいいのよ」

 反抗的な視線を受けて言葉を明るくした紫はスキマを開き、その奥から取り出した日傘を緩やかな動きで広げて太陽から隠れる。
 ねぶるように天子を見つめて唇の端を舌でなぞった。

「来なさい。相手をしてあげるわ」

 その一言が、天子の怒りに火を付けた。
 天子の足元に緋想の剣が突き刺され、そこを起点として周囲の足場が尖形に隆起して空気を切り裂く。
 この一撃を予想していた紫は羽毛のようにひらりと身をかわすと、空へと浮かび上がり巨大要石の上に立つ天子を見下ろした。
 後を追って、天子も要石から剣を引き抜いて飛び上がる。

「ムカつくのよあんた! 遊んであげてるみたいな目して!」
「だってその通りでしょう? 来なさいなお嬢ちゃん」
「こんのー!」

 戦いが始まり巨大要石の上で弾幕が入り乱れる。
 天子と紫の戦いの余波は足場となっている要石をえぐり、石の粉砕音と共にまっ平らだった地形が粘土細工のように変化していく。
 要石から離れた宙に浮き、遠くから眺めていたギャラリーが困ったようにため息を吐いた。

「まったく、紫様も相変わらずだな」

 ぼやきを漏らしたのは、紫の後を追ってきた八雲藍だ。
 従者として主を見守るその目には、いつもは理性的な藍には珍しい僅かな苛立ちが芽生えている。
 彼女はこの戦いについて不満を持っているようだった。

「何故天子が相手の時だけは、毎回紫様自ら出向くのだ。巫女が行かずとも、命じてくれればこの私が行くというのに。あいつの何が紫様を惹きつける」

 本来の紫は異変が起こったからといっても、自分から能動的に動くことは少ない。基本的に面倒くさがり屋で、問題が起こっても可能なら別の誰かに押し付けるのが彼女の常だ。
 だが天子が起こした異変においては、二回目以降から積極的に異変解決に乗り出しては天子を打ち倒している。
 何かと主らしくない行動に、藍は嫌な予感を感じて心が乱されるのを抑えられなかった。

「おや藍さんですか、いつもお疲れさまです」

 思い悩んでいると聞き覚えのある声を掛けられて、藍は顔を上げて振り返る。
 優雅な緋色の羽衣を揺らしながらふよふよと浮かぶ龍宮の使いが、いつのまにかすぐそこまで来ていた。

「衣玖か。また天子の付き添いか? そちらも大変だな」
「別荘を作ったということで呼ばれてましたが、紫さん方が来たということは今回はこれで終わりのようですね」

 衣玖は天子と直接の主従関係があるわけではないらしいが、何かと一緒にいることが多く、藍が異変のたびに紫の後を追って来てみれば、彼女と顔を合わせるのが恒例だった。
 よく天子に振り回されている衣玖の姿に、藍は親近感を覚えており、天子と違って彼女に対しては好意的だった。
 藍の隣に並んだ衣玖は、要石上で繰り広げる戦いに目を向ける。
 ちょうど紫がスキマから繰り出した標識が天子の身体を突き崩し、天子は次のスペルを切らざるを得なくなったところだった。
 天子により緋想の剣を突き刺された足場が大きく隆起し山となり、その頂上から気質が撒き散らされる。

「相変わらず総領娘様は紫さん相手だと大はしゃぎのようで。負けが込んでいるから必死ですね」
「……そう、だな」

 物事にはそれを見る視点というものがある。
 この一戦、当事者である二人と関わりのないものであれば、完全な第三者として客観的な視点で見ることだろう。
 だがそのうちどちらかと知り合いであったならば、その者の視点を持つようになる。親密であればあるほどより詳細に、その者の視点でそれを観て、聴いて、感じることになる。
 衣玖が天子の視点で状況を見るように、当然藍は自身の敬愛する紫の視点でこれを見た。
 身をかすめる弾幕、隆起し持ち上がる石の大地。
 揺らめく土煙をの向こう側。紫を相手に劣勢を強いられながらも、一歩も引くまいと緋い気質を巻き上げて前進を続ける、天子の眼に潜む眩い力を。

「――っ」

 紫を通して見たものに、気に入らないなと胸中で毒づいた。

「要石、天地開闢プレス!」

 戦いを続けていた天子が、スペルの宣言と同時に空高く飛び上がり、身を覆うほどの要石に乗って紫を押し潰そうとする。
 視界を埋め尽くす要石に対して、紫は冷静に次の手札を切った。

「境符、四重結界」

 傘を持たない手が天子に向かってかざされ、その手の平から四枚に重ねられた結界が青い壁となって立ちはだかった。
 伸し掛かろうとした要石が結界とぶつかって、宙で停止する。
 天子が即座に踵を叩き付け、後押しを受けた要石が結界を破ろうと圧力を強めるが、先に要石が限界に達し石の先端がえぐれた。

「脆いわね」

 紫のつぶやきの直後、結界から展開される力場に負けた要石が、原型を保てなくなり粉々に砕け散らされた。
 乗り物を壊された天子は、手の平で破片から顔を守りながら無様にも巨大要石に墜落し、片膝を突きながら苦しそうに息を切らす。

「クソッ……!」

 一向に勝負の流れを掴めないことに、天子は思わず悪態を漏らす。
 今しがた紫の使用したスペルカードは、天子の天地開闢プレスより数段威力が低いはず、それなのに結果はこの有様だ。
 本来なら押しきれたはずだったのに、不合理な現実を突き付けられた天子の前で、紫が立ちふさがって冷ややかな視線を送った。

「随分と軟弱ね。あの落成式では、もっと手応えがあったのに」
「落成……式……」

 その言葉を聞くと同時に、天子の胸の奥で何かが心臓を縛り上げ、ぐずりと鈍い痛みが走った。
 そうだ、異変の後始末として自らが崩した博麗神社を立て直した時、天子は要石を仕込むことで密かに神社を乗っ取ろうとして、それを最悪のタイミングで紫に潰された。
 大々的に開いた落成式という場に、紫は堂々と真正面から乗り込んできて、あそこで、あそこで自分は――

 胸の痛みが増し、我慢しきれず天子は左手で胸元を握りしめ、具合が悪そうに背を曲げる。
 足場の要石に緋想の剣を突き刺して支える天子は、息を荒くし肩を上下させて今にも倒れてしまいそうな姿で、それでもその眼だけは力を失わず紫だけを見つめていた。
 それを受けて、紫は苦しむ天子とは対照的にくすりと楽しげに微笑んだ。

「これだけ力の差を見せられても頑張るというのね……健気で可愛いわ」
「だから、その物言いが! ムカつくって言ってんでしょ!!」

 声を張り上げて痛みを吹き飛ばした天子が背を伸ばし、目の前で緋想の剣を回転させて周囲から気質をかき集める。
 集合して緋く発光する気質から放つのはもちろん、比那名居天子が持ちうる最大火力。

「全人類の緋想天!!!」

 気質の粒が集められ固められ、身を包むほどの太さを持つ一本の光線となって、紫にめがけて真っ直ぐ撃ち放たれた。
 緋色の光線が巨大要石の上を横断して、その表面が音を立てて削り飛ばされた。
 その光の中に、にこやかに佇んでいた紫の影が抵抗もなくあっさりと飲み込まれたが、天子の顔に安堵の表情など浮かばない。

「逃げられたッ!」

 紫相手に、この程度で決着が付くはずがない。
 気質の放出を中断し辺りを警戒すると、後方の上空に紫がスキマから姿を出現するところを発見した。
 紫は手の指にスペルカードを挟み、天子へとそれを掲げる。

「さあ天子、あなたには特別に、正面からぶつかってあげる」

 紫がカードを切れば、天子を中心として彼女を取り囲むように弾幕が形作られていく。
 向かい合うよう配置された青色と紫色の弾幕は、実戦向きの攻撃と遊びとしての弾幕で形作られた一つの結界。

「紫奥義、弾幕結界」

 紫が使うスペルカードの中でも最上位に位置する弾幕が、天子に向かって殺到した。

「まだよ! 緋想の剣、ありったけぶっ放しなさい!」

 巨大要石の上で身構えていた天子は、次々と飛来する弾幕に対して気質を全周囲に放射して対抗しようとしする。
 緋想の剣から拡散する閃光が紫の弾幕とぶつかって相殺するが、終始優勢なのは紫の方であった。
 気質は向かってくる弾幕を打ち消しきれず、防御網を突き破ってきた弾幕が天子に突き刺さり、その衝撃だけで足元が陥没した。
 それでも踏ん張ろうとする天子に弾幕は容赦なく降り注ぎ、その身体を巨大要石の中に埋め込んで行く。
 視界を覆い隠す弾幕の雨に押されて、天子は自分が掘削機のように要石に突き進むのを感じながら、悔しそうに口を開いた。

「くぉの……覚えときなさいよ紫! この次は、この次は絶対にー!!!」

 捨て台詞を吐く天子だが、突然背中に叩き付けられる石の感触が消え視界が開けた。巨大要石を貫通したのだ。
 それでもまだ追撃をかける弾幕に、天子の身体が凄まじい勢いで森の中に叩き落とされ、木々の間から土煙が上がった。
 弾幕結界はそのまま開けた風穴から要石の内部に入り込み、内側から破壊を続ける。
 猛攻に耐え切れなくなった巨大要石に亀裂が走り、そこから真っ二つに両断された。

「うーわぁー、やっぱりでたらめですねあの妖怪」
「当然だ、あの方は八雲紫様なのだからな」

 空の大地がかち割られる様子を遠くで見ていた衣玖が、紫の強大さの一端を垣間見て肝を冷やす。その横から決着を確認した藍が紫のもとへと飛んで行った。
 破壊された要石は効力を失い塵となっていき、地面に落下するより先に空の上で跡形もなく消滅していくのを見て、紫がつまらなさそうに鼻を鳴らす。

「やっぱり脆いわ、カルシウム足りてないのかしら」
「紫様、それは骨の話です」
「次はもう少しホネがあると良いけど」

 傍にやってきた藍の指摘を無視して、紫は遠い眼をして何か呟いた。

「……呪いが解けるのはいつでしょうかね」
「のろい?」
「言葉の綾よ。帰りましょう」

 紫はスキマを開くと、その中に身を投じて何処かへ消える。
 同じように藍も後に続こうとするが、その前に天子が落ちたところを一瞥し、できればそのまま二度と起き上がらないでくれと祈りながらスキマをくぐった。

 一方、地上に落下した天子は、地面にクレーターを作り、その上で仰向けで倒れこんでいた。
 力なく開いた眼で、木々の間から覗ける上空から紫が消えるのを見て、うだるげに喉を震わせる。

「ちっくしょー……また負けた……」

 異変のたびに紫と戦って、落成式の日を含めれば今度でかれこれ八連続の大敗北。いったいいつになれば勝てるのかと、さすがの天子も気が滅入っているようだ。
 うなだれていると頬を何かが叩いた。
 何だろうと思って頬を拭えば、指先に付いた水を見て天気雨だとわかった。
 青い空から降り注ぐ透き通った雨が、天子の身体に張り付く。

「なによ、あんたまで私の邪魔する気……?」

 天気にまで打ちのめされ、天子は恨めしそうに空を睨めあげる。
 しばらく休んでいたかったが、このままここにいるのは雨にまで負けた気がして、ボロボロの体に鞭打って起き上がった。

 ふと背後にあるから視線が飛んできた気がして、後ろを振り返る。
 一瞬、木々の隙間からこちらを向く眼を見つけたが、次の瞬間には消えていた。
 幻覚、気の迷いだ。それは間違いないはず。
 それなのに身体中の肌にべったりと張り付く雨が、さっき感じた視線と重なって消えてくれない。
 身体を縛り上げられる感覚にうっとうしいなと顔をしかめながら、悔しそうに言い捨てた。

「……私だって、生きたいのよ」









 生ける光、求める闇









「紫様はやはり比那名居天子に甘すぎると思います」

 幻想と現実の境目、そこに何重も防衛と隠蔽の結界で守りを固められた屋敷の庭。
 ここで流れゆく風を感じている紫に向かって、傍に立っていた藍は背筋を正して進言した。
 藍は以前から、主のあの天人に対する態度に不満を持っており、もっと管理者として厳格な対応をして欲しいと望んでいた。
 まどろんでいた紫は、閉じていた眼をうっすら開けると真剣な顔をした藍に、安らかに微笑みかけた。

「あら、心配性なのね藍は」

 自分の態度に反し、楽天的な言葉を並べる主に、藍は胸の内で苛々としたものが沸くのを感じる。
 だがこの程度のことはいつものことだ、どうもこの主は自分には及びもつかないところに立って物事を見ているため、どうしても意見がすれ違うことがままある。
 得てしてその場合は藍の側が認識を誤っていることが大半だが、それでも藍は間違いを恐れずにもう一度口を開いた。

「あの天人は強力な武器を有し、その能力や思想はこの幻想郷にとって極めて危険です。また何度敗北を期しても異変を起こし続けることからして、紫様に反抗的なのは明らか。彼奴が要石で大地を制している以上迂闊には手は出せませんが、より強力な圧力をかけて牽制すべきです」
「危険ね、その点について異論はないわ」

 一部については同意を得られたが、反応としては芳しくはないようだ。
 実際、続けて紫から出た言葉は否定的な物であった。

「でも彼女を御することは誰にもできないわ。無理に抑えつけるようなことをすれば、行き場を失った想念が爆発してこの幻想郷すら道連れに大暴れしかねない。用意周到なあの娘のこと、もしもの時の切り札くらいは用意してるでしょう。あなたが想像するよりも劇物なのよ、天子は」
「しかし、他の者には不可能でも紫様になら!」

 とうとう苛立ちを隠せなくなった藍が、姿勢を崩し声を荒げて食って掛かった。
 それに対し紫は、ほんのわずかに雰囲気を変え、冷たさをまとって藍に眼を向けた。

「藍、天子が恐いのかしら?」

 何もかも見通すような鋭い視線で射抜かれ、藍は息を呑んで固まった。
 言葉自体は冷徹ではあったが威圧的なものではなく、相手を脅かそうなどと言う稚気は含まれてはいなかった。
 だと言うのに語られた言葉に込められた意味が、何故か藍の心を締め付けて離さなかった。

「恐いなど、何を言っておられるのです」

 なんとかそう言い返したが、藍は尾がわずかに汗ばむのを感じており、どこか怯えを隠し切れずにいた。

 主の言っていることは明らかにおかしい、自分の力量としては天子に劣ったものではないはずだ。
 確かに彼女は強い、だが危険な能力と武器などそれがどうした、その程度ならいくらでも突く隙はある。
 自分が天子を恐れる理由など、断じてどこにもない。

 冷静を装って考える藍であったが、そもそも彼女は最初の時点で考え違いをしている。
 もし本当に藍の考える通り、天子が取るに足らない存在であるならば、最初から紫に危険性を訴える価値などないのだ。
 その矛盾を見抜いた紫は、満足そうに唇の端を吊り上げると、安心させるように柔らかい声ではにかむ。

「あなたは常に私を通して比那名居天子を見てきた、それ故に彼女が私に向けるものをあなたも感じ取ってしまったのね。だって天子が私に持つ意識は、他とは違う特別なものだもの。うふふ」

 途中から自慢げに語りだした紫は、愉快そうに鼻を鳴らして、最後にこう付け加えた。

「藍はいくつか勘違いしているわ。比那名居天子が持つ思想は、誰もが持つありふれたものに過ぎないし、彼女がもつ本当の恐ろしさはその能力でも緋想の剣でもないのよ」

 そこで紫は会話を打ち切った。
 果たして天子が持つものとは何なのか、それを藍は教えてはもらえなかった。聞く勇気も持てなかったし、訪ねてもはぐらかされただろう。
 だがこの紫の言葉は、確かに藍の胸に残ることとなった。



 ◇ ◆ ◇



 澄み渡った吸い込まれるような空に包まれた、俗世を脱した者たちの集う桃源郷、天界。
 人々の理想郷のように言われるこの場所を、衣玖は宙に浮かんで雲が流れるようにゆったりと飛んでいた。
 衣玖の眼前には青々と茂った多くの草花が生い茂っており、植えられた木に実った桃から漂ってくる甘い香りが自然と心を和ませてくれ、ここにいるだけで静かに気力が蓄えられていくように感じる。

 しかし今回この場所に来たのはのんびりするためではなかった。衣玖はある人物から天界に呼び出され、そしてその人から頼まれた伝言を伝えるために、こうして木々の間を縫って飛び回り人を探しているのだ。
 さてその尋ね人は、いつもは地上に降りて好き勝手遊んでいる破天荒な天人なのだが、つい先日大暴れしたばかりであり、今はまだこの天界のどこかで落ち着いているものだと衣玖は考えた。
 彼女は地上においては賑やかな場所を好むのだが、意外にも天界では天人の住処から離れた静かな場所で、ひっそりと佇んでいることが多いのだ。
 今から行くところにいなければ地上にまで出向かなければなるまい、そうなれば探すのが面倒になるなと思いながら森を抜けると、その奥にある平たい石で囲んで作られた池の水面に蒼い髪が漂っているのを見つけ、静かに喜んで池の傍に降り立った。

「ここにおられましたか、総領娘様」

 探していた比那名居家の総領娘、天子が閉じられていた緋い眼を開いて、一糸纏わない姿で池に浸からせていた体を水の中から起き上がらせた。
 細見のしなやかな体に髪の毛を張り付かせたまま、水に塗れた顔を手で拭った天子は、衣玖を見やると口を開いた。

「いらっしゃい衣玖。こんなところまで来るなんてなんか用?」
「総領様が探しておりました、急ぎ伝えたいことがあるので家に戻って来いと」
「そんなとこだと思った、律儀よねあんたって」

 天子はせっかくの水浴びを邪魔されて、あからさまに嫌そうな表情を浮かべる。
 衣玖は比那名居家や天子の従者ではなかったが、このような頼まれごとをよく受ける立場にいた。
 と言うのも、この問題児はあまり家に寄り付かず、何日も地上でぶらぶらと遊んで回っていることが多い上に、呼びつけても中々家に帰ってくることをしないのだ。
 そうなると困るのが彼女の父の比那名居家現総領だ。用ができたときには家に娘の姿がいないし、天女たちから天子にそのことを伝えさせても戻ってこない。
 そこで白羽の矢が立ったのが、比那名居家とも交友があり、かつ天子とも気の知れた仲の衣玖だった。
 使い走りの天女の話にはほとんど耳を貸さない天子も、衣玖に言われてようやく重い腰を上げ天界に戻って来た。
 以来、比那名居家の総領から天子に用件があるときは、まず衣玖を通して伝えられるようになったのである。

「まったく衣玖もさ、別にお父さんからの命令を聞く義理なんてないんだからブッチっちゃえばいいのに。ぶっちゃけ面倒なのよ! 私が!」
「断ってばかりいたら私の評判落ちるんですよ。それに親子の縁にしたほうが宜しいかと」
「まあ正論なんだけどさあ」

 しかし実際のところそれだけが理由ではなかった。
 気難しい天子が自分のお願いは素直に聞いてくれることに、自分を友達だと思ってくれていることを実感して嬉しさを感じるのだ。
 もっともそれはおまけで、一番の理由はやはり天子が親子の仲が良きものであるよう願っているからだが。
 そんな衣玖の内心を知ってか知らずか、天子は気だるそうに頭を掻くと、気を取り直して手を伸ばして言った。

「あ~、衣玖。体拭きたいからそこに置いてるタオルこっち投げて」
「横着ですね。水の上に落としてもしりませんよ?」
「そんなヘマしないわよ。ほらビビってないでパスパース!」

 わざわざ投げろと注文を付けられて衣玖は呆れながらも、周囲の岩場に置かれていたタオルを拾うと投げてよこした。
 腕から水を散らしながら宙を舞うタオルを掴みとった天子は、まず髪の毛や上半身を丁寧に拭いて水を取ると、のんびりとした動きで池を囲う岩に裸足で上がる。

「総領様は急ぐよう言っていましたが」
「いいのいいのの、どうせ行ったところで大した話じゃないんだし。あんただって私が家に帰りたくないのはなんとなくわかってるでしょ……てゆーかさあ、そんなに言うなら衣玖も付いてきてみなさいよ」
「えっ、私もですか?」

 下着を身に付けながら不機嫌そうな視線を送ってくる天子からの提案に、衣玖は意外そうに聞き返す。
 実は以前にも天子を家に呼び戻した時に、衣玖が気を効かせて気まずいなら一緒に行きましょうかと尋ねたが、それを一蹴されたことがあったのだ。

「てっきり総領娘様は、知人を家に招くのが嫌なのだと思っていましたが」
「別に私はどっちでもいいのよ、どうせ下らないゴタゴタだしね。それより返事はイエスでしょうがオラオラ」

 天子は眼を細めてニヤリと笑った意地の悪い顔で、わずかな戸惑いを見せる衣玖の腰元に素足を押し付けてグリグリとにじる。

「下着姿で大股開けるのは止めてください。ちゃんと一緒に行ってあげますから」
「そっ、ならいいわ」
「一応はお嬢様なんですから、もう少し行儀よくしたらどうですか?」
「別にいいじゃない、衣玖しかいないんだから」

 衣玖の苦言を何でもない顔で流して服に袖を通した天子は、着替えを終えると傍に置いてあった桃色の小瓶を手に取って銀色の蓋を開けた。
 蓋の下から現れたノズルを自身に向けて上から押し込むと、霧状の液体が噴射されて天子の身体に吹きかけられる。

「何ですかそれは?」
「香水よ。たまにはこういうのも面白いでしょ、衣玖もつけてみる?」
「いえ、あまりそういうの好きでなくて。吹きかけすぎると臭くなったりするのが嫌で」
「えいや!」

 お断りする衣玖の鼻っ面に、天子は躊躇なく噴射口を向けて香水を三連射した。
 霧状の液体が衣玖に鼻孔を降りかかり、えげつないほど濃い匂いが嗅覚にキツイジャブを食らわせた。

「うおぉわ!? クッサい!!」
「良い匂いでしょ? あはは――――ッ」

 悶絶して鼻を抑えた衣玖が池に顔を突っ込み必死に鼻を洗う様を見て、天子は声を上げて笑おうとしたが、急に背中から視線を感じて振り向いた。
 振り向いた先には誰もいない。彼女を見咎めるものなど存在しない。
 天子は気を取り直して、更に何度か香水を自分の身体に吹きかけた。
 一方池の水で匂いの元をなんとか落とした衣玖は、残った香水の匂いを改めて嗅いでみて首を傾げる。

「あれ、桃の匂いですかこれ?」
「そうよ」
「それじゃあんまり意味がない気が。普段から桃をよく食べてるから、桃の匂いを漂わせてることが多いですし」
「まあ入門にはいいじゃない。さてと、これで準備よし」

 天子としては消極的な答えに、衣玖は釈然としないままだったが、とりとめのないことでもあるしそれ以上は何も言わなかった。
 香水に蓋をしてポケットにしまった天子は、トレードマークである桃の付いた黒い帽子をかぶり、衣玖に背を向けると首だけで振り向いた。

「そろそろあんたに私の家の様子を見せてあげるわ……さあ行きましょう」



 ◇ ◆ ◇



 衣玖を引き連れ悠然とした足取りで自宅に戻って来た天子は、重々しい雰囲気を醸し出す門を自分で開けると、庭を抜けて家の中に足を踏み入れた。
 玄関で比那名居家に住み込みで働いている天女に出迎えられたが、天子は何も言わず手をかざして彼女らを下がらせた。その顔は自分の家に帰って来たというのに驚くほど表情を固くしており、何の安息もないようだった。
 不相応に豪勢で巨大な屋敷の中を二人は階段を二度上り、厚い木の板で作られ要石の模様が掘られた扉の前で足を止めた。

「衣玖はここで待ってなさい」
「はい」

 指を差されながら与えられた指示に衣玖は短く答えると、下腹の辺りに両の手を重ねて一歩下がり、白塗りの壁を背にして待つ態勢に入った。
 この素直に人の希望に従う真面目さが天子にとって好意的だった。少しばかりユーモアがある――オブラートに包まずに言えば口が悪い――ところもあるが根が真面目なのだろう、ちょっとしたお願い程度なら一言で従ってくれるその姿に安心感を覚える。
 それでいて彼女はバカではない。人の考えに盲目的に従うだけでなく、時には自分の考えも言い、嫌なことは嫌だとしっかり断ってくるところがまた安心させてくれるのだ。
 そんな衣玖に気を良くした天子は、この家に入ってようやく表情を崩し、芝居がかった口調で明るい声を出した。

「それじゃ、ちょっと気合入れて行ってくるわ」
「親と会うのに気負うというのもおかしな話ですが」
「……ははっ、それもそうね」

 静かに、だが寂しそうに笑った天子は扉に右手の甲で軽く扉を叩き自分の名を告げた。やがて「入れ」と返ってくるのを待って扉に手を掛け、躊躇わずに入り口を開けた。
 そこはまるで王宮のような部屋だった。広々とした空間には入口から紅い絨毯が奥まで続き、龍を象った金の装飾が来るものに威圧感を与える。だがそれは一介の神官の家系でしかなかった比那名居家のものとしてはいささか豪華過ぎる。
 その上おかしなことに、この部屋の大きな窓には人目を嫌うかのように日差し除けの幕が垂れており、部屋は薄い暗闇に包まれている。
 衣玖を置いて部屋に入った天子は、背中の後ろで扉を閉めると、背を伸ばし凛とした態度で踏み出して部屋の中央で立ち止る。

「比那名居天子、ただいま戻りました、お父様」

 穏やかな作り笑いを浮かべた彼女の視線の先には、王様の座るような椅子の上に座る、一人の男がいた。
 それは奇妙な光景だった、玉座のような立派な椅子なのに、それに座る男の身体は痩せっぽちで力なく背もたれに寄りかかり、その姿は椅子に対し不釣り合いなほど頼りがなかった。
 頬を痩せこけ落ち着きなさそうに肘掛けを指で叩き、酷く憔悴してる様子を見せるその男は、目の前に来た天子を見て不愉快そうに口を開いた。

「また、地上で異変などと言う下らない騒ぎを起こしたようだな」

 実の娘を前にして父の口から最初に出た言葉は、淡々としたものだった。
 それに対し天子は笑みを絶やさず、これまた淡々とした口調で返事をする。

「ええ、その通りです」
「――貴様! よくもそんな、ぬけぬけとした顔で!」

 風を受けて炎が燃え上がるように、急に力を取り戻した父は、椅子から勢いよく立ち上がると天子に対し猛烈な罵倒を飛ばしだした。
 それだけで相手を殺せそうな鋭い視線が投げつけられ、非難の指を指される天子であったが、彼女は微動だにしなかった。

「この愚か者めが! お前は父にこんなに、こんな心配をさせておいて……どうしてお前はそんなに涼しい顔をしていられる!?」
「心配? 心配しているのは、娘じゃなくて自分の身のことでしょう?」
「貴様、何を言う……!!」

 父は続く言葉を出さずに飲み込んだ。今まで幾度となく同じことを言っても無駄だったということもあるが、それ以上に怯えたのだ。
 怒声を浴びてもなお、娘は一切の動揺もせずに変わらぬ表情でじっとこちらを見つめてきていて、二つの緋い瞳は薄暗い中でも灯りを湛えているかのようだった。
 すべての恐れを飲み込んだかのようなこの瞳を前にすると、まるで自分の本心が赤裸々にされているような気がしてくる。
 それに自分は娘から立つ比那名居家への不評に恐れおののいているというのに、その本人はどうだ、こんなこと何も大したことないとでも言うように、毅然としていて自分とは大違いだ。
 父はそんな娘が嫌いだった。生まれた時から自分よりはるかに恵まれたものを持って生まれてきて、この世に恐れるものなど何もないとのごとく不遜な態度で、華やかな日々を過ごしている。

「お前が……お前がバカ騒ぎを起こすたびに、父はどんな目で見られると思う!? 不良天人を育てた親などと、みなから嗤われるに決まっておるわ。比那名居家の面汚し! これから父はどんな顔をして表を歩けばいいというのだ!」

 唾を飛ばして矢継ぎ早に語られる罵詈雑言。そこに娘の身を案じた者は一つとしてなく、ただただ自分の身を嘆いているだけのものだった。
 それまでは父の手前言葉遣いだけでも正していた天子も、ため息を吐いた後、とうとう不満が口を衝いて出た。

「そんなもん、私の知ったこっちゃないわよ!」
「なんだと!?」
「私はね、父さんみたいに誰かの影に怯えてビクビクしながら生きるのなんて真っ平御免、クソ食らえよ! 娘であってもお父さんの生き方に付き合う義理なんてない。私は私の好きなように生きるわ、誰だって邪魔はさせない!」

 啖呵を切って両者が睨みあう。だがこの勝負は始まる前から、父の方が臆し、敗北していた。
 娘の眼に宿る意志にたじろいだ父は再び椅子に腰を下ろしてうなだれ、天子の足元だけを見てか細い声で話した。

「出て行け……何もかも不愉快だ」
「……そのようですね。それでは失礼させていただきます」

 天子は最後に、娘としてうなだれた父に言葉をかけてやるべきかと悩んだが、結局思い浮かばず一礼だけすると、背を向けて歩き出した。
 部屋から出ようと扉の前に立った時、後ろから弱々しい呟きが耳に届いた。

「どうして……お前だけが強いんだ……」

 天子はその声に一度振り返り、伏せられた父の顔を横目で見下ろした。
 哀れな父だ、と天子は思った。この父は才能がなく、与えられた役目も満足に果たせずに名居一族に助けられて、お情けで天人になった落ちこぼれだ。
 それ故に人から見下されてきた彼は劣等感だけは人一倍強く、だからこそ人に取り入るのだけは上手かった。常にどうすれば人から見捨てられないかだけを考えて、あらゆる手を講じて人の情けを買いその中で生きてきた。
 だがこの臆病な父に、自らの血から生まれた子供が、自らの越えられなかった領域を軽々と飛び越えて行く姿はどう映っただろうか。劣等感にまみれた価値観からくる、その気持ちは察するに余りある。
 罵倒しても何も変わらないということすら気づかず、天上に住まう身となっても人間と同じこと繰り返しては苦しみから抜け出せない父が、娘として怒るよりも哀れで仕方がない。

「哀れなのは親をそんな風に思う私も変わらないか」

 結局はどっちもどっちだと、一瞬心を亡くしたような無の表情を浮かべ、誰にも聞こえないよう小さく呟いた天子は扉を開けて部屋を後にした。残ったのは父と一抹の寂しさだけだった。
 部屋から出て最初に天子が眼にしたのは、さっきと同じ体勢で廊下に立ったまま、表情だけを何とも言えない気まずそうなものに変えた衣玖であった。

「総領娘様……」

 恐らくは先程の話が聞こえていたのだろう。親子揃ってあのあの大声だ、聞こえないはずがない。
 だがその友人の身を案じる衣玖の態度が、天子には嬉しくてつい口の端が吊り上がった。家族間の愛情は貰えなかったが、友情には恵まれたようだ。
 だからもっとその情を感じたいとつい欲が出て、からかいたくなって余計な言葉が口から出た。

「じゃあいこっか、ここにはもう何もないし」

 元気よく、そして自虐っぽくそう言ってやると、予想通り衣玖はますます眉を歪めて悲しそうな顔をする。それとは反対に、天子は自分のために悲しんでくれることが面白く笑みを深めた。
 満足した天子が元来た廊下を戻り始まると、付いて来た衣玖が横から不機嫌そうな言葉を投げかけてきた。

「総領娘様。あまり人の気持ちを弄ばないでください」
「ありゃ、ばれた? あんたって意外と勘がいいのね」
「そういう総領娘様はやっぱり構ってちゃんですよね」
「も~、ごめんごめん。謝るからそういう言い方止めてってば」

 軽くじゃれ合いながら家の中を歩いていた二人だが、廊下の途中で佇む人影を認めて口をつぐんだ。
 人の良さそうな柔らかげな顔をしたその女性は、天子の母だった。

「天子ちゃん!」

 嬉しそうな声を上げてすり寄って来た母を、天子は何の感慨もなさそうな無表情で迎えた。
 母は天子の両肩に手を置くと真っ直ぐに意見を口にした。

「ねえ天子、今からでも遅くはないわ。もうやんちゃは止めにして父さんに心配かけさせるのは止めて?」

 母の話を聞き、いくつかの思いが天子の脳裏をよぎる。
 理由を聞かずにただ父に心配をかけるなとだけ言うのはどこか薄情じゃないか、顔を合わせて最初に出た言葉が娘の身を案じているものではないのは何故なのか。

「嫌よ母さん。どうして私が父さんのために生き方を曲げないといけないのよ」
「どうしてって、そんなの当り前じゃない」

 それは天子の素行を注意しているように見え、その実あらゆる心情を察そうとせずに、その一言だけですべてを押し付けようとするものだった。
 結局のところ彼女の言っていることのそれは、何も考えずにただ意見を押し付けているだけにすぎなかった。

「母さん、一つだけ言いたいことがあります良いでしょうか」
「あら、何かしら天子。母さんにできることなら何でも言っ――」

 天子はにこやかな顔を浮かべる母の言葉を遮って、素早く手を伸ばして母の襟元を掴み上げた。
 驚く衣玖が止める間もなく、持ち上げた母を睨め上げて、肌を引き裂く荒々しい怒気を含んだ言葉を発した。

「私を見ずにピーピーと小鳥みたいな泣き言しか言えないなら、壁の染みにでも縋り付いてなさいよ意気地なし」

 天子はそれだけ言ってつまらなそうに鼻息を漏らすと、邪魔な脇に母を押しのけまた歩き始めた。
 一連の流れの中で訳が分からないと茫然自失としていた母だったが、やがて我に返ると目に涙を貯め、声を上げて泣き始めた。

「酷い……酷いわ天子! こんなに心配してるのに……永江さんからも何か言ってあげてください!」
「えっ、いやその、私では無理かと」

 急に話を振られてたじろく衣玖は、この母の考えていることがよくわからなかった。
 だが実のところ、何も考えていないのだ。
 ただ母親という与えられた役割を機械的にこなしている、人形のような女性が天子の母であった。
 今こうやって天子の発言に涙を流しているのも、本気で悲しんでいるからではなく、母親としてそうするのが自然に思えたからその通りにしているに過ぎない。
 前を行く天子は投げかけられる言葉をすべて無視して、母を置き去りにし家を出て行った。
 門を抜けて家の敷地から出てきた天子は、深いため息をして肩を下ろすと、そばの衣玖に話しかけた。

「はあー……案の定、面倒なだけだったわね」
「なんというか、思ったよりも根が深いんですね……あー、えっと」

 衣玖も天子の家はあまり良い家庭環境ではなかったのだろうと予想は付いていたのだが、ここまでとは思わなかった。
 何か場を紛らわすために冗談でも飛ばそうかと思ったが、上手い言葉が思い浮かばず口を薄く開いたままどもるばかりだ。

「……よかれと思って総領娘様をお父上に引き合わせていましたが、むしろ話をこじれさせてただけだったのでしょうか」
「さあね。ぶっちゃけずっと前からこんなのだから、ちょっと顔合わせた程度じゃ大して変わらないし、無意味だったんじゃない? 私個人としてはウザったいことこの上なかったけど」

 率直な回答にたじろぐ衣玖だが、お前のせいで仲が悪くなったとまでは言われないだけまだ救われたような気がした。
 家を背に歩き出した天子は空のはるか遠くを眺めながら、彼女らしくない静かな声でふわふわと浮いて背後を付いてくる衣玖に語り掛けた。

「昔は私も従順にしてたころもあったんだけど、体よく扱われるだけ構ってくれないから嫌になっちゃって。お父さんは怯えるばっかりでだらしないし、お母さんの方は場の流れに従ってるだけで自分の考えがなくて心無い人形みたいだし、そんなのに付き合っててもつまんないばっかりで耐えられなかったわ」

 語られる言葉がスルリと衣玖の中を通り抜けて、彼女の中にある天子という存在がより鮮明になるのを感じた。
 臆病な父親と無感情な母親、それとは反対に無謀なまでに恐れ知らずな身勝手さと、貪欲ですさまじく強い我を持った娘。
 天子が何故このような性格を持つに至ったか、その原因を垣間見た気がした。

「私にも悪いところもあるからどっちもどっちと言えばそうなんだけどね。まあなんにせよ、私みたいのが育つわけよ」

 それはいつも自信満々な天子としては珍しく自虐的で、衣玖が初めて聞いて彼女の弱音であった。
 きっと天子自身、親のことを完全に嫌っているわけではないのだ。あまりにも意見が食い違い、親の性格の一部については軽蔑すらしているが、わずかばりの情を残し、また愛情を望んでいる。
 そして恐らくは自分の身勝手さから親に引け目を感じていて、この弱音はそれから出たものだ。

 この短い時間の間に、衣玖はまた少し比那名居天子という天人に新しい理解を得た。
 しかしだからこそ新たな疑問が胸の奥から湧き出てきて、自然と口を衝いて出た。

「総領娘様は、何故ああまで異変に拘るのですか?」

 人気のない場所まで来たところで、そんなことを衣玖は尋ねた。
 問いかけられた天子が立ち止まり、振り返って未だ気落ちした眼で衣玖を見た。

「何よ突然」
「総領娘様が大人しくしていることができず、騒ぎを起こしてばかりのハチャメチャな性格破綻者というのはよくわかります」
「オイコラ」
「しかしそれでも、もっと親の反感を買わないやり方で心を満足させる方法だって取れたはずです。違いますか?」

 天子はこれで頭がいい、その気になれば別の方法を模索することもできるだろう。
 だがかたくなにそれをせず、異変にこだわっている。親との不仲を考えると、衣玖にはその姿が少し不自然に思えたのだ。

「総領娘様は異変を起こし、自分から家族との軋轢を増すような真似をしている。何故そんな不合理なことを繰り返すのですか」

 別に天子をたしなめようとしているわけではない。そんなことを注意したところで、天子に聞き入られるはずがないだろう。
 これは純粋に衣玖が疑問に思ったから尋ねただけの事だった。
 そのことをわかった天子は、真面目に質問を聞き入れる。

「なんで異変をか。ふむ……」

 口元に手を当てて考え込んだ天子は、やがて意味深な笑みを浮かべると勿体付けて口を開いた。

「ふふふ、それは私と言う存在に生きる意味はなんなのかと問いているようなものね」
「……一気に話が大げさになりましたね。それで結局どういう意図があるので?」

 よもや話を逸らそうとしてるのではあるまいなと、衣玖が疑惑の視線を投げかける。
 それに対し、天子は真っ向から人差し指を突き立てて言い返した。

「教えてやってもいいが、ただ人に聞こうとする態度が気に入らん! と言うわけで教えない!」
「何ですかその意地悪っ」
「でもただ教えないと言うのもつまらないし、ちょっとしたゲームにしようかな」
「ゲーム?」
「ゲームっていうかクイズね。私がなんで異変を起こすのか当てて見なさい。制限時間は今日いっぱいで何度でも答えて良し、そこそこ満足できるような答えが来れば詳しく教えてあげてもいいわ。根気よく探り当てなさいよ」
「それって今日は一日中総領娘様に引っ張り回されるってことですよね。丁度いい暇つぶしの道具にされてる感が否めないんですが」
「よーくわかってるじゃない」

 衣玖の理解が早いことに、天子はニヤリと機嫌良さそうに口元を釣り上げる。
 結局は話を有耶無耶にされかけてる気がするが、まあ有無をいわさず疑問を封じられるより、チャンスを与えられている分マシな方だろうと、衣玖もとりあえずは納得した。

「まあわかりました、弄ばれるのは好きじゃないですが今回は付き合いましょう」
「おっ、中々ノリが良いじゃない」
「まあどうせ暇ですしね」
「そう言う割に顔ニヤけてるわよ?」
「えっ?」

 衣玖が天子に言われて頬を指でなぞってみれば、えくぼができていることに気付いた。
 天子に巻き込まれることの状況をまんざらでもないと感じていることに、なんとなく気恥ずかしくなり顔を暑くして隠すように両頬を手で覆った。

「あ、あらやだ」
「楽しんでくれてるなら結構結構。そのほうが盛り上がるってもんだわ。ってなわけではい! 早速最初の答えをどうぞ!」
「えっ、えっ!?」

 気が緩んだところに突然にも解答を迫られ、衣玖は頬から手を離し慌てふためく。

「あ……ひ、緋想の剣で色々切り刻みかったとか!?」
「ブッブー。そんなのだったら最初の異変の準備で気質集めに幽霊切った時点で満足してるわよ。つーかあんた私のこと狂犬とでも思ってんのか」
「まさかそんなことありません、噛み付くだけのわんこと総領娘様を比べるなんて失礼にもほどがあるじゃないですか。いやですねーもー」
「ハッハッハ、言葉に意味のよっちゃ三枚におろして売り出してやるわよ」

 お互いに笑みを浮かべながらも、二人の間で火花が飛び散る。
 とは言えこの程度の剣呑さなら日常茶飯事だ、天子はすぐに気を取り直した。

「緋想の剣は私の能力に対して色々と都合が良いから使ってるだけよ。まあカッコいいから使いたいっていうのもあるけど」
「えーと、それじゃ幻想郷の支配者になりたかった!」
「ノン! なりたくないわけじゃないけどちがーう!」
「友達百人できるかな!?」
「不正解! これまた欲しいわけじゃないけど理由にするほどでもない!」
「すべての巨乳を滅ぼすまで止まれない!」
「まずあんたのを削ぎ落とすわよ!?」

 答えを出せども出せども天子からの反応は芳しく無い。
 衣玖はもう少しわかりやすい理由なのかと漠然と想像していたが、これは意外と難問かもしれないと苦い顔をした。

「いきなり答えろと言われても無茶ですよ、ヒントはないんですか?」
「すぐわかるようじゃ面白くないじゃないの。ひーこら悩んで私を楽しませなさい」

 どうやら悩むのは確定事項となっているようで、こき使われてるような感覚に衣玖はゲンナリする。
 しかし普段の生活の中で本気で頭脳を働かせる機会もあまりないのを考えれば、たまにはこういうのも頭の体操としては最適かもしれないと、前向きに考えることとした。
 そうやって衣玖が気持ちを切り替えてるうちに、天子は天子で顎に手を当てて思案し、新しい考えを浮かばせたようだ。

「まあでも、衣玖って雰囲気の割に頭は良くないし、このままじゃどうにもならないかもね」
「息をするように相手のことバカにする辺り、性格が伺えますね」
「そうね、地上に降りて他のやつなんで異変を起こしたのか聞いて回るってのはどうよ。参考になりそうだし、面白そうだわ」
「それ総領娘様が知りたいだけじゃないですか?」
「あっ、バレた?」
「まあ、どうせ今日一日一緒にいるんですから、私としてもそれくらいの余興があっても構いませんが」
「オッケーオッケー。それじゃあ張り切って行きましょッカ」

 天子は帽子を深くかぶりなおすと、再び歩き出そうと来た道に背を向け前を向いた。

「さてと、まずは定番の神社辺りに……ってあれ?」
「どうかしましたか?」

 何かに気づいた天子が、眼を丸くして自分の体をまさぐる。
 突然の奇行に衣玖が首をひねっていると、やがて天子が失敗を誤魔化すような苦しい笑みを浮かべながら振り向いた。

「さっき水浴びした時に緋想の剣忘れてきた」
「扱い雑すぎでしょ!? アレ勝手に天界から持ち出してるのに、無くしたら怒られるじゃ済まないですよ!」
「むう、そんな大声で言われなくたってわかってるってば」
「いーや、わかってません。ただでさえ普段から素行が悪いんですから、せめて性格と関わりないところだけでもしっかり正しておかないと、みんなから見捨てられますよ!」
「うぐっ……なーによ、衣玖だってズボラな癖してさ!」

 正論を受けてへそを曲げた天子が急に矛先を向けてきたが、見に覚えのない衣玖は首を傾げた。

「いきなり何のことですか」
「知ってるわよー? あんたこの前、龍神の長話聞く仕事があった癖に、忘れて人里で食べ歩きしてたんでしょー?」
「うっ、何故それを!?」
「だってあんたのお仲間が私のとこに来たんだもん。衣玖の行方を知りませんか、龍神様がカンカンなんですぅってね」

 確かにそういうことがあった。天子が「地上のご飯は美味しいわよ!」なんていうから興味がそそられて人里に行ってみたら、ついつい長居しすぎて仕事をすっぽかしたのだ。
 ただし一度きりのことだし、そこまで言われることでもないと衣玖は語気を荒げる。

「わ、私のことは関係ないじゃないですか! っていうかそれならその時、伝えに来てくれればよかったのに!」
「だってその時、私は五回目くらいの異変の準備で忙しかったんだもん。あーあー、嫌だわ自分のこと棚に上げて」
「この、こっちは心配して言ってるのに……!」

 善意で言っているのに無視されて温厚な衣玖も苛立たしくなってきた。
 普通ならそういう輩は衣玖もまた無視するようにするのだが、天子相手ならばわざわざ怒りを我慢する必要もないだろう。どうせ本気でぶつられたところでへこむようほど軟弱でもない。
 天子が意地を張るなら、こっちも意地を通させてもらうと羽衣に電撃を帯びさせた。

「そこまで言うからには逆襲も覚悟しているということで宜しいですね」
「やる気? いいわよ、緋想の剣がなくたって――」

 眼つきを鋭くした天子が、衣玖に向き直って間合いを詰めようと一歩踏み出そうとした。
 だがその一瞬、天子の脚から力が抜け、膝がカクンと折れ曲がり体勢が崩れる。

「――あり?」
「ハアァッ!」

 ちょうどそのタイミングに、衣玖が羽衣を腕にまとって、ドリル状にして叩きつけてきた。
 みぞおちにドリルをもろに受け、天子は後ろに大きく吹っ飛び、両手両足を投げ出して地面に倒れる。

「んん? おかしいですね。牽制のつもりだったのに、こんなあっさり……」

 思った以上の手応えに、羽衣の変化を解いて様子を見ようとする衣玖だったが、すぐに天子の様子がおかしいことに気が付いた。
 穿たれた胸元を両手で抑えながら脚を折り曲げ、見たことないほど苦しそうに悶えていて、衣玖の腹の底が冷えきった。

「総領娘様!?」
「ぐっ、う……うるっさいわね。何でもないわよ」

 慌てて衣玖が駆け寄ったところで天子は地力で立ち上がったが、その顔は尚も眉を歪ませ苦渋に満ちていて、とてもじゃないが大丈夫そうには見えない。
 辛そうな肩を衣玖は抱えようとしたが、天子はあくまで気丈にそれを振り払う。

「全然なんでもなくないですよ、今のはそんなに強い攻撃でもなかったのに」
「この前、紫とやりあった時こっぴどくやられたから、まだ本調子じゃないってだけよ」

 天子が直撃を受けた胸に手を当てて何度か深呼吸するとだいぶ落ち着いてきたようで、顔の緊張が緩まっていく。
 気を取り直して肩にかかった髪を払う天子だが、先程の真に迫った苦しみように衣玖としては気が気ではなかった。

「それならゆっくりしておいたほうが」
「愚問ね、私がじっとなんてしてられるわけないでしょ!?」

 得意気に唱える天子に、衣玖は額に手を当てて呆れるしかない。
 もとより意地っ張りな彼女だ、助言したところで止められはしないだろう。
 衣玖が諦めたのを隙と見て、天子はチャンスとばかりに駈け出した。

「それじゃ、私は緋想の剣を取りに行くから衣玖はここで待っててよ!」
「あっ、ちょっと総領娘様ー!」

 天子に全速力で飛び出されてしまい、取り残された衣玖は肩を落としてやれやれとため息を地面にこぼす。

「まったく、頭は良いのにまだまだ子供っぽいと言うか、無茶ばっかり」
「でもそんなところがまた可愛いのよねえ」
「まあそうなんですが……ん?」

 耳元で誰ぞの声が呟かれ、衣玖の顔が驚きと共に持ち上がる。
 慌てて身をひるがえすと、背後にいたのは空間に開かれた暗いスキマから、紫色のドレスをまとった豊満な上半身だけ這い出てきた、天子の天敵ともいえる妖怪の姿。

「ゆ、紫さんですか! わざわざ後ろから驚かさないでくださいよ」
「あら、あんなに無防備な姿を見せられたら、魔が差すのも無理からぬことですわ」

 この神出鬼没の妖怪は、衣玖の抗議などどこ吹く風で、扇子を仰ぎながらけらけらと笑っている。
 よく天子と一緒に行動していた衣玖は、時折紫と顔を合わせることもあったが、こうやって一対一で話し合うのは、天子が起こした最初の異変の後始末以来だ。
 改めてこうやって本人と実際に話してみれば、なるほどこれは厄介な相手だと頷く。

「それにあんなに天子と仲良くしているんですもの。陰から覗いてて嫉妬してしまうというものよ」
「しっと?」
「そう、妬ましいーとか、羨ましいーとか、あの嫉妬よ。パルパルパル」

 紫は笑ったままそんなことを言いだすが、どこまで本気なのか衣玖はまったくわからない。

「えっと、その嫉妬って……誰に?」
「あなたに」
「……何で?」
「天子と楽しそうにお話ししてるから」

 どうしよう、返ってくる言葉を合わせていくと、想像しがたい結論が見えてくる。
 あまり信じられないそれをどう扱うべきか悩んで衣玖は、やがて勇気を出して訊ねてみることにして、おずおずと口を開く。

「つまり、総領娘様がお好きだと?」
「ええ、もちろん天子を骨の髄まで愛しているわ」

 予想以上の答えが返ってきて、衣玖は頭を要石で叩かれたような衝撃を受け絶句した。

「いやいやいやいや、あなたいっつも総領娘様の邪魔してばっかじゃないですか! どうしてそうなった!?」
「そんな、天子の好きなところはどこだなんて聞かれても……キャー! 恥ずかしくって言えないわ」

 今度は両手を頬に当てて身体をくねらす紫を見て、衣玖はどうするべきか途方に暮れた。
 この今までにない紫らしくない反応、もしや嘘を吐いてこちらをたばかっているのかと思ったが、それにしたってもっといい冗談があるだろう。
 果たして目の前の光景が真実のものかどうか苦悩した衣玖であったが、最終的にはいつも通り対応することとした。
 即ち面倒なのであるがままに流されようということである。

「それで、総領娘様のことが好きだとして、私に何の御用なので?」
「あら、もう信じてしまうの?」

 開いていたスキマを拡大させて身体全体を現した紫は、天界の大地に足を付けて衣玖のそばに降り立った。
 そのままじっとりとした眼で見つめながら、羽衣を揺らす衣玖の周囲を時計回りに歩く。
 その足取りは優雅すぎて逆に不気味で、値踏みしてくるような不快な視線に衣玖は身を強張らせながら、なんとか負けまいと言葉を返した。

「まともに取り合ってもバカを見るだけみたいなので」
「駄目よそんな思考放棄気味じゃ、面白くないわ。もっと頭を悩ませなさいな」

 背後を伝って左手から回り込んできた紫に、衣玖は目を細めて怒気を込めた視線を投げかけた。

「あなたのために思い煩う義理などありません」
「ふふ、そうそうそれでいいのよ。もっと感情を表しなさい、じゃないと天子の隣にふさわしくないわ」

 しかし吐き捨てた怒りもあっさりと受け流されうやむやにされてしまった。
 やはり厄介な妖怪だと改めて衣玖は認識して肩を落とす。

「今回出てきたのはね、あなたが何故天子とつるむのかが気になってね」
「総領娘様ではなく私が?」
「ええ、あなたが」

 いよいよ紫は本題を話し出したようで、衣玖もこの難敵相手に注意して話に耳を傾ける。

「随分と天子に信頼されてるじゃない、家に招かれて彼女の家庭のことまで教えられて。天子が家の愚痴を漏らしただなんてあなたが初めてよ」
「さりげに日頃から盗撮してるのバラしましたね」
「そこまで天子の信頼を勝ち取れたのは何故なのかしら」
「それは、総領娘様に訊ねるべき疑問では?」
「逆よ。天子があなたを好いているのではなく、あなたが天子を好いているからこそ彼女に歓迎されるのよ」

 率直に語られた言葉に、衣玖の胸が少し心臓が高鳴る。
 自分が天子のことを好き? 無論、紫が言っているのは恋愛感情ではなく友情としての意味だろうが、それでも衣玖はそんなことを考えたことはなかった。
 無表情を装いながらも混乱する衣玖だったが、紫が続きの言葉を語りだしたので、慌てて思考の海に沈みかけた意識を引っ張り出した。

「天子があなたを迎えるのは当然の成り行きよ、彼女みたいに我の強い人物は友人になれる相手が限られるもの。私も似たようなところがあるからわかるわ、あまり友達を選べる立場じゃないのよ」
「はぁ」
「でもあなたは違う。やろうと思えば人の気配の行く先を読み、それに合わせる強かさを自然と持っている」

 気のない返事をしながらも、実際には「それはまあそうだろう」とこちらのほうはすんなりと理解できた。
 比那名居天子のキャラクターは強烈だ、暇つぶしに全力を懸けて幻想郷中を引っ掻き回す不良娘などそうはいない、沢山いてたまるか。
 他人に迷惑を掛けることをいとわない天子が誰かと仲良くしようとしても、彼女がありのままの彼女でいる限り、その手を握ってくれる者は決して多くはないだろう。
 対する自分は今しがた指摘された通り何かと器用で、やろうと思えば場の空気に合わせて自分の立ち位置を自由に変化させて、場に馴染むことが得意である。

「あなたは持ち前の性格で誰とだって仲良くなれるのに、どうして破天荒な天子を友人に選んだのか。あなたがさっき彼女にした質問と同じよ、何故わざわざそんな不合理を?」

 だからこそこの質問には息が詰まった。
 真面目に疑問を考えようとすると、頭の何処かで警鐘が鳴って思考が遮られた。
 ここから先へ進むと戻れなくなる、そんな気がして、何も考えず適当に思い付いた言葉を口にした。

「総領娘様が要石を埋め込んでから暇なんですよ。龍神様のご機嫌取りのほかはやることはないですし、彼女は何をしでかすかわからなくて見てて飽きませんから、暇つぶしには最適です」
「ふうん、そう。それがあなたの答えと言うわけね」

 興味深そうに頷いた紫が背を向ける。
 なんとなくで出した答えを神妙に受け取られて、生真面目にも申し訳無さを感じてきた衣玖が続ける言葉に悩んでいると、紫はくるりと向き直り口元に閉じた扇子を立ててクスリと笑みをこぼした。

「あなたは何も考えずに答えたと思っているようだけど、どんな言葉にもその者の意志が隠れている。あなたの唱えた言葉の何処かに、真実が潜んでいるのよ」

 すべてを見透かす昏い紫の瞳。
 その眼に自らの深淵を覗き込まれているようで、衣玖は背中が粟立つのを止められなかった。
 困惑していると足元から靴底が擦れる音が聞こえてきて、無意識のうちに後退りしていることに気が付ついた。
 このまま紫の雰囲気に飲まれるのはよくないと思い、大きく咳払いをして話の流れを変えようとする。

「んん、ゴホッ! そ、それにしても思ったよりなんというか、妖怪らしい性格なのですね。総領娘様と戯れているのを見て、もう少し楽しげな方かと思っていましたが」
「えっ?」

 これまた適当に出した話題なのだが、またもや紫はまともに受け止めてしまったというか、眼を丸くして大層驚いているようだった。
 大妖怪の珍しい表情に、逆に衣玖のほうが怯んでしまう。

「誰が? 私が? あなたから見てそう思ったの?」
「え、ええまあ、まあ勝手な想像でですが。総領娘様は口では巫女が来いと言ってますが、あなたとの戦いを一番待ち望んでるように見えましたので。総領娘様が待つだけの面白さを持った方だと」

 しばし呆然としていた紫であったが突如として顔を緩ませると、はしたない口元を開いた扇子で隠して、その裏側から気味の悪い笑い声を響かせた。

「ふふ、ンフ、ウフフフフフフフフフフ」
「うわ、キモッ!? 何ですかいきなり」
「そうかぁ、天子の側に立ってるあなたから見てそう見えたの。あぁ、嬉しいわ嬉しいわ」

 何やら扇子の下ではニヤニヤとしつこい笑みを浮かべているのが目元と声から伺える。
 それどころかやたらと興奮しているようで、女性としては非常に魅力的なメリハリのある身体を艶めかしくくねらせ始め、見る人によって劣情を懐きそうな光景だったが、衣玖としては気色悪いことこの上なかった。

「そうよ、やはり天子だわ。彼女こそがきっと私を……」
「総領娘様が何なんですか」
「ひ・み・つ。あなたはそのまま天子を支えてくれればいいわ、それじゃあ」

 それだけ言い残して、紫は開いたスキマに身を投じてさっさと行ってしまい、取り残された衣玖は、途方に暮れてその場に佇む。

「……結局何だったんですかアレ」

 残念ながら、彼女の疑問に答えてくれる人物はいなかった。



 ◇ ◆ ◇



 一悶着あった天子と衣玖だったが、緋想の剣を取り戻した後は合流し、予定通り地上に降りてきていた。
 すでに何件かの異変首謀者の元へと訪れて、その情報をまとめながら空の上をふよふよと移動していた。
 要石に腰掛けて空飛ぶ天子に、衣玖は両手をお腹の上に重ねて浮かびながら声をかける。

「こうして聞いて回ってると、けっこう切羽詰まった理由も多いんですね。総領娘様を見てると忘れそうになりますが」
「まあ普通は重大な問題でもなきゃそんな騒ぎは起こさないわよね」

 あるいは月からの逃亡者が逃れるためであったり、あるいは誰ぞをを復活させるためであったり、あるいは面を無くしての不可抗力などは、衣玖としても理解できた。
 とは言っても、それ以外にいい加減な理由も多いのが頭の痛いところであるが。

「最近は、月への復讐のとばっちりを受けたりしてたようですが」
「あそこら辺は存在からして次元が違うから、一緒くたに考えようとすると気が狂うわよ。とにかく、だからこそその中でなんでもないような理由でリスクのある異変を起こすような奴こそ、本当の意味で強いやつだと思うのよ」
「聞いて回った中だと萃香さんや、紅魔館の吸血鬼なんかがそうですね……って言うかそれ、要するにご自分の自慢ですか」
「そのとおーり! 私 is 最強!」
「そこまで自分大好きになれるのはある意味すごいなーと思わされますが、妖精もびっくりするくらい頭の悪い発言はどうなんですか」

 この手の天子の発言には衣玖としては呆れるばかりである。
 それとも馬鹿と天才は紙一重という言葉もあるし、これも一種の才能なんだろうか。

「ただ大きな視点で見ればどんな異変も、そいつがその状況で自然と生きる上で自然にそうなった、起こるべくして起きたことにすぎないけどね。いるでしょ、悪いとわかっててもやってしまうやつって。目の前にとか」
「わかってるならやらないでください。理解し難いですよ……でもまあ、自分らしく生きてる方ばかりなのはそうですね」
「まあこれは異変の首謀者だけじゃない。巫女も魔法使いも、異変に関わってこようとするようなやつはみんな自分らしく、楽しく生きてるのばっかりよ」

 一瞬、天子が眼を細め視線を何処か遠くへと移した。

「……私も、そう生きれたらなぁ」
「何言ってるんですか、誰よりも好き勝手に生きてるくせして」

 これ以上好き勝手に生きられたらたまったもんじゃないと、すぐさま衣玖が水を差した。
 だが天子はというと喉を鳴らして苦笑すると「それもそうね」などとのたまっているだけだ。

「それはそれとしてクイズの方はどうなのよ。ハイ、解答衣玖選手!」
「んー、地上の美味しい料理が食べたかったとか」
「ああ、美味しいわよねえ地上の食べ物って。ナマズ食べた時とか感動したわ私。でもブッブー、違いまーす」

 時折こうやって天子に尋ねられては、緋想の剣より強い武器を見つけるためだとか、生き別れの姉妹を探すためだとか、色々解答してみてはいるがどれも正解に掠りもしないようだ。
 悩む衣玖はもとより、天子としても面白くなさそうだった。

「ダメダメねぇ、さっきから表面的なところばっかり見て。ちゃんと正解しないと罰ゲームで人里で食べ歩きに奢ってもらうわよ」
「ちょ、聞いてないですよ!」
「だって衣玖ったら全然必死さがないんだもん。これくらいやったほうがやる気出ていいでしょ? しっかり頭悩ませて、私を楽しませなさいよ」

 自分勝手に周りを巻き込む天子に、衣玖は頭を抱える。
 だが天子の言い方に、どことなく先程の紫を思い出して「そういえば」と口にした。

「さっき総領娘様と入れ違いで紫さんが来てましたよ」
「ブッ!?」

 要石に両手をついてくつろいでいた天子は、驚きのあまり跳ね上がった勢いで要石から落っこちかける。
 咄嗟に要石の縁を掴んで這い上がってきたが、そもそも本人が飛べることも忘れてる辺り相当衝撃的だったらしい。

「あ、あの疫病神が!? 何しに来やがったのよあいつ!」
「うわあ、蛇蝎の如く嫌ってますね。いつも異変の相手をしてもらってるから、仲いいのかと思ってましたけど」
「そんなわけないじゃないのあんの厄介ババア!」

 天子は衣玖の思っていた以上の反応を示し、要石にへばりつきながら大口開けて唾を吐き散らす。
 いつも邪魔されてる天子からすれば気に入らないのは確かかもしれないが、いつも遊んでもらってるようなものなのだからもう少し好意を持ってあげてもいいだろうにと、衣玖は若干紫に同情する。

「向こうは総領娘様を気に入っているようでしたが」
「ふん、どうだか。あいつ自分のこと隠すのが上手いタイプよ。信用出来ないわ」
「……まあ確かに、それはそうなんですが」

 普通に考えればそうなのだろうが、あまりにも紫の発言がぶっ飛んでいるせいで、衣玖にはその真偽は見分けがつかない。
 あるいは天子ならわかるかもしれないとも思ったが、あの発言をそのまま伝えるのも気が引けて踏み切れない。
 もやもやとしたものを抱える衣玖の前で、天子は要石の上に座り直すと腕を組んで嫌そうに口をとがらせた。

「初めて異変を起こした時に、カウンターを用意したりで色々敵と戦う準備してたけど、まさかあんなヤバイのが来るとは思わなかったわ」
「カウンター?」
「神社の要石のことよ……って、何よ衣玖。もしかして気付いてないの?」

 そう言われても心当たりがなく、何も答えを返せない衣玖に、目尻を険しくした天子は指を突き付けてまくしたててきた。

「信じらんない! あんた私の傍にいようって言うんなら、それくらいわかってなさいよね!」
「す、すみません……?」

 これで案外怒り狂ったりするような取り乱し方はあまりしない天子から、珍しく苛立ちを向けられて少し困惑する。
 天子は深く座り直して腕を組むと、脚をブラブラと動かしながら衣玖のために説明し始める。

「神社に要石を挿して乗っ取ろうとしたのはね、別荘が欲しかったからわけじゃない……いや、欲しいとは思ってたけど目的はそれじゃない。妖怪相手にアドバンテージを獲得するためのものよ」
「妖怪相手にって、何故ですか?」

 紫のことかと思ったが、ニュアンス的に幻想郷の妖怪全体を指しているように思える。
 事実次の言葉からしてそのようであった。

「どれだけ取り繕おうと、幻想郷は妖怪が作った妖怪のための楽園なのよ。天人である私は人間サイドなんだから、そこにお邪魔しようっていうなら反目は必至よ」
「総領娘様が下手なことをしなければ、紫さんの怒りを買わなかったと思いますが。地上では仙人が上手くやってるという話も聞きますし」
「今日明日は大丈夫でも、十年後百年後に大丈夫って保証はある? どっかで何かしらの衝突はあるでしょ。特に私みたいな人に気を使って生きるなんて真っ平ごめんなやつはね」
「まあ、それは……」

 確かに天子なら、どこかでそのうち大事を起こしそうな気がする。
 そのことをわかって、あえて幻想郷の全てと対立する覚悟で異変に及んだのだろうか。そうだとすれば身の程知らず過ぎて、逆に恐ろしい。

「まあ、そういう時のための保険として、神社を抑えてれば優位に事を運べる、だから異変のプロットに組み込んだってわけよ」
「どっちにしろ紫さんに打ちのめされてる辺り、失敗してる気がしますが」
「いやーまあー……反省すべき点はあったなーとは思うわよ。若気の至りというか……」

 腕を組んだまま天子が顔を俯かせる。これはこれで、それなりに自省しようとする意思もあるようだ。

「あのババアのこと考えるなら、もっと慎重に、かつ大胆にもっと色々やっとけば良かったなー。今と比べたら監視は少なかっただろうし」
「保険をかけるのに、なんでそうバイオレンス方面に突っ切るんですか……だいぶ警戒してますね。あの妖怪は能力も智慧もずば抜けてるので当然ではありますですが」
「それ以上に厄介なのよあいつは。自分を闇に紛らわす術を知ってるから、衣玖にはわからないだろうけど」
「そこら辺は全然隠してるように思えないんですが」

 衣玖はつい先日、天子の身体を杭のように押し込んで要石を叩き割った場面を思い出す。
 当たり前のように自分の実力をひけらかしているように思えたが、天子はその考えを否定した。

「隠してるのよアレで。あいつの本質はもっとヤバイわ、あの胡散臭さだって自分を隠すための演技の一つよ」

 あんなものは大したものではないと天子は言い切った。
 紫のことを語る彼女の言葉に、重みを感じて衣玖を押し黙らる。

「あんたにはわからないかもしれないけど、直接対峙した私にはわかる」

 今一度天子はどこか遠くを仰ぎ見る。

『――この幻想郷から往ね』

 彼女の脳裏に過る、ある記憶。
 それと同時に身体中が締め付けられるような感触が身を包み、天子は胸元を握りしめた。
 その様子を見て、衣玖は天界での天子の苦しみようを思い出し、心配になって口を開く。

「総領娘様? やはりお身体が」
「あっ! ほら見なさい衣玖、次の獲物発見よ!」

 しかし衣玖の言葉は、天子の唐突に明るくなった口調で遮られた。
 地上を指差した天子は要石から降りて自分の身で飛んでいくが、衣玖にはどうもわざと話を流されたような気がする。
 もしそうだとすれば、どれだけ衣玖が心配しようとも天子は己の気の向くままに先へ進んでいくだろう、彼女はそういう気質の持ち主だ。
 天衣無縫なれども唯我独尊、常に望みに向かって勇往邁進する比那名居天子を、誰にも止められはしなのだと衣玖は思った。

「こんにちは冥界コンビ。こんなところで何してるの?」
「そう言うそちらは天界コンビ。お散歩ついでに漬け物を買ってきたところなの」

 大地に降り立った天子が話しかけたのは、のんびりと風景を楽しみながらボリボリと漬物をかじっている亡霊の幽々子であった。
 その傍には当然半人半霊の妖夢も、漬物のたっぷり詰まった壺を両手で抱えて付き添っていた。

「ああ、どうもこれはこれは。幽々子さん、妖夢さん、お久しぶりです」
「どうもこんにちわ」

 後からやってきた衣玖と妖夢は目を合わせて会釈する。
 藍のことといい、衣玖は従者と何か通ずるものを感じるようだ。

「冥界じゃ食べ物が発酵することがないから作れないのよねぇ。お一つどう?」
「勿論頂戴するわ」

 挨拶もそこそこに、天子は早速妖夢が持っている壺に手を伸ばし、妖夢が「あっ!」という頃には蓋を開けて中からひときわ大きなきゅうりを取り出して貪った。
 天子と幽々子、二人が顎を上下させる度にボリボリと小気味の良い音が鳴る。
 二人共食べることに夢中でただひたすら咀嚼する音だけが辺りに響き、何だこの状況と衣玖と妖夢は肩身が狭そうに苦い顔を浮かべる。

「幽々子様食べてばかりいないで……あ、あー、お二人は何をしにここへ?」
「そ、そうそう! ちょっと調べていることがありまして、色んな方から異変を起こした理由を聞いて回ってるんですよ。ね、総領眼様?」
「ボリボリボリ。うん、そうボリボリ。幽々子たちもボリちょっとボリボリ教えてボリボリボリ」
「すいません。飲み込んでからでお願いします」
「ゴクン……そんなわけで、幽々子たちも教えてくれない?」

 天子からの頼みに、幽々子はニッコリと笑みを浮かべる。

「別にボリいいけボリボリど」
「幽々子様、対抗しなくていいですから」
「んんゴクン……別にいいけど、タダで教えるのも面白くないわ。そうね、一つゲームはどうかしら?」

 ゲーム、という単語を聞いて天子の眼が光り輝く。
 衣玖がなんとなく嫌な予感がしたが、すでに天子はノリノリ話に乗っかっていた。

「ほほう、どんなゲームかしら?」
「そうね、どうせなら二人一組のチーム戦で競いましょう。私たちはこれから帰るところだから、それも兼ねて白玉楼までどちらが早く辿りつけるか競争するというのはどう?」
「もちろん妨害ありね」
「そういうこと」

 やっぱりこうなったかと額を抑えた衣玖は、天子の肩を叩いて耳打ちする。

「総領娘様、体調が優れないんでしょう?」
「そんなの気合でどうにかするわよ。私の事より、あんたも戦うんだからシャキッとしなさいよね」
「はあ、やっぱり私も巻き込まれるんですか」

 まあそんな気はしていた、というよりもそもそも天子と行動を共にすることになった時から確定事項だったかもしれない。
 しかしそれならそれで仕方ないと、衣玖も神経を尖らせて、武器として使っている羽衣を掴み手応えを確かめた。
 だがそんな中一人、壺を手に持ち無防備にならざるを得ない人物が一人。

「幽々子様、漬け物抱えたまま弾幕を受けたりしたら、壺が割れちゃいますよ」
「そうかしら。妖夢は足が速い方だし、ゴールまで全部避け切るとか……なんとかやれない?」
「流石に無理です」
「あらどうしましょうか」

 無茶振りを跳ね除けられ、幽々子は下唇を人差し指で持ち上げて悩み始めた。

「ならその壺、私が預かっておきましょう」

 その場に割り込んで、全員が聞き覚えのある声が響いた。
 まるで背筋をなでられるような不気味な声に、衣玖と妖夢は鳥肌を立てて身を固くし、幽々子は嬉しそうに笑顔になる。
 そして天子は一切の躊躇なく、素早く身を沈めて懐から緋想の剣を手にし、緋色の刃を背後に向けて振り抜いた。
 刃の向かう先は、彼女の背後からスキマより現れた天敵、八雲紫の首筋。

「総領娘様!?」

 驚きの声が上がるが、それよりも先に剣は紫の余裕めいた笑みを切り裂く寸前で、火花を上げて停止していた。
 天子と紫の間に金色の尾を引いて割って入った八雲藍が、妖気をまとって伸ばした爪の甲を盾とし緋想の剣を押さえ込んだのだ。

「紫様に対し、剣を振るうとはどういう了見だ比那名居天子」
「悪いわね。いきなり妖怪に出てこられるとどうしても警戒しちゃうもんで」

 藍は隠すことない怒気を込めて眼を鋭くして睨みつける。
 それに対し、天子も負けず劣らずの敵意をもって睨み返した。
 一瞬で一色触発の状況が形成され、衣玖と妖夢が慌てふためいていたが、原因である紫はにこやかに笑ったままだ。

「いいわ藍、下がりなさい。天子も引いてくれるわね?」
「……まあ、襲い掛かってくるわけじゃなかったら、こっちとしてもあんたのことはどうでもいいわ」

 ここで争っても意味はなさそうだと判断し、天子は素直に引き下がったが、その手は緋想の剣を握ったままで油断がない。
 主の身を守った藍は少し不思議そうな顔をして、自らの手と天子を見比べるように視線を移した。

「どうしたのよ、変な目でこっち見て」
「いや、何でもない」

 天子の問いかけにそっけない答えを返すが、今受け止めた一撃が心なしか妙に軽い気がしたのは気のせいだろうか。
 藍も紫の隣へと下がったのを受け、突然のことで何も出来なかった衣玖が、青い顔に冷や汗を垂らした情けない表情で天子にすがりついてくる。

「そ、そ、総領娘様~! あんまりびっくりさせるようなことは止めてくださいよ! 私、心臓バクバクですよ!」
「何言ってるのよ、あいつにこの程度のこと何でもないわよ。見なさいよ、人に剣抜かさせときながら、あのムカつくくらい涼しげな顔!」
「それじゃあ漬け物の方はスキマで送っておくわ。そうそう前に幽々子がどぶろく作りに失敗したって聞いたけど、最近いいのが手に入ったのよ」
「あら本当? それじゃあこの漬け物をつまみにして飲みましょうね」
「まあ確かに、すんごい呑気に世間話してますけども」

 楽しそうに幽々子を顔を合わせる紫は、雑談を終えると天子へと向き直り、改めて話しかけた。

「ところで天子、あなた誰と組むのか決めたのかしら?」
「はあ? 何言ってんのよ、そんなの衣玖以外にいないじゃない」
「あらいるわよ。今ここにやって来た、ね?」

 紫の言葉に天子の表情が変わる。苛ついた眼は更に鋭く細められ、眉が潜まった。
 天子が察したのを、紫は楽しそうに半目で見下ろし唇を舌でなぞり、両腕を開いて迎え入れようとする。

「私は良いわよ、あなたと肩を並べて戦うというのも。龍宮の使いともたまにつるんでいても、一緒に戦ったことはないでしょう?」

 唇を三日月の形に歪ませると、紫は一歩前へ出て天子へ向けて、白く雅で蠱惑的な手を差し出す。

「即席コンビだけど、私とあなたならきっと上手く行くわ。あなたに勝利を与えてあげる」

 会話を聞いていた衣玖は、自分の役割を横からかっさらわれそうなことに思うことはあったが、何も言えずにいた。
 紫の言葉には一切の敵意はないものの、提案でありながら相手に強要させるかのような圧力が込められており、それに押しのけられて衣玖には踏み出せなかった。
 紫は本気で天子に勝利をプレゼントしようと意気込んでいる。有無を言わせずすべてを与える深い、とても深い愛。
 常人なら何も抵抗できずただ頷かせられる言葉を前にして、だが天子は腹立たしく鼻を鳴らすと、当然のように紫の手を弾き返した。

「お断りよ、あんたは私の敵! 打倒してもいない相手と協力する気はないわ」
「そう、それは残念ね」

 拒絶され引き下がる紫だが、言葉とは反対に醸し出す空気はひどく嬉しげだ。
 衣玖には八雲紫という妖怪が、余計わけがわからなくなりそうだった。あんな申し出をしても天子は苛立つだけだろうに。
 ただひとつ確かなのは、二人の間に挟まれると緊張で胃が痛くなるということだけだと、お腹を抑えながら思った。

「それじゃあ紫、どうせなら審判をお願いできる? 天子もそれでいいかしら」
「それくらいなら別に構わないわ」
「なら引き受けさせてもらうわ。ついでにルールも決めさせてもらいましょうか。四人が白玉楼に向かって競争し、先に二人ともがゴールしたチームの勝利。片方がゴールしただけなら、まだ相手チームにもチャンスはあるわ」
「明確なゴールの定義は何よ?」
「冥界にある白玉楼の敷地内に入った時点でゴールよ。地面に足を付けてなくても良し、門をくぐらず塀を乗り越えても良し」

 ようやく話しがまとまって勝負が始まることとなる。
 藍をそばに置く紫を挟んで、天界チームと冥界チームが並び立つ。
 乗り気だった天子と幽々子は元より、衣玖と妖夢も戦闘に備え精神を集中させ、全員が準備を完了させたのを見て、紫は扇子を持った手を頭上高くに持ち上げた。

「それでは、スペルカードルールに則り、弾幕レース開始!」

 その手が振り落とされると同時に、四者が空へと飛び上がった。

「まずは速攻で仕掛けるわよ衣玖!」
「えっ、ちょ総領娘様!」

 開始早々、勢いに乗った天子が呆気にとられる衣玖を置いて、緋想の剣を片手に相手チームへと突撃する。
 それに対処するため主である幽々子の手前、従者の妖夢がに出て天子の前に立ちふさがり、自らも楼観剣を抜いた。

「剣技、気炎万丈の剣!」
「転生剣、円心流転斬!」

 炎のような軌跡を残して豪快に振り回された緋想の剣と、舞う散る桜のような回転を伴った楼観剣の連続斬りが互いを捉えた。
 二本の剣は一振りごとに閃光を放ちながら激しくぶつかり合い、緋色と桜色の火花が散り乱れる。
 正面からのぶつかり合いはおおよそ互角、数度切り結ぶが決着が付かず両者共に一時退く。
 だがそれを先読みし、一手早く割って入った者がいた。

「妖夢、援護するわ」
「ハイ、幽々子様」

 パートナーの後退に合わせ、幽々子から放たれた霊魂が上方から回り込むと、レーザーに変質し天子に向かって襲い掛かった。
 援護としてタイミングは完璧で効果的な牽制だ。引いたところで立て続けに加えられた追撃を天子は紙一重で避けるものの、リズムを崩されて攻勢に回れない。
 対して十分に時間を稼いでもらった妖夢は悠々と体勢を立て直し、通常弾を剣から矢のように飛ばして一方的に攻撃し続けた。

「チッ、やっぱコンビネーション抜群ね! 何やってんの衣玖、あんたも援護!」
「は、はい!」

 いきなりの展開に置いて行かれた衣玖だが、ようやく状況に追いついて急ぎ羽衣に電撃を貯める。
 遅れた分を取り戻そうと、蒼き雷光と共に気合を入れた一打が放たれた。

「雷魚、雷雲魚遊泳弾!!」

 発射された雷の弾丸が戦いの前線にいる妖夢へと向かう。
 しかし妖夢にあっさりと避けられた電撃は、見えない壁にぶつかるかのように方向転換を繰り返し、たまたまその先にいた天子の身体を貫いた。

「うぎゃぁぁぁぁああああ!!!?」
「そ、総領娘様ー!!!」

 電撃がほとばしり、髪の毛を尖らせながら天子が吹っ飛んだ。
 慌てて落下する天子の身体を衣玖が受け止めるが、バカなことをやっている間に、幽々子と妖夢はその場を放棄してゴールを目指し先に飛んで行ってしまう。

「味方に当ててどうすんのよ!」
「すいません……でもいきなりコンビで戦えと言われても難しいかと」
「くぅ、実際その通りね」

 乱戦で恐いのが今のような同士討ちだ。
 天子も衣玖も、味方に注意しながら戦うというのはすぐには無理だ。
 それに対してタッグを組んだ戦いに慣れている幽々子と妖夢は、ピッタリと息を合わせ互いの邪魔にならないように戦えている。この差は大きい。

「ほらほら、急ぐわよ妖夢」
「とか言いつつ、私より幽々子様の方が遅いんですが」
「気にしない気にしない」

 先を進む幽々子は、余裕しゃくしゃくといった様子だ。
 この勝負、飛行速度が若干遅い幽々子には少し不利な戦いではあるが、チーム戦という以上は負ける気がしなかった。
 しかし隣を行く妖夢が、疑問を抱いた妙な顔をしているのに気付いた。

「どうかしたの?」
「はい、少し気になったことが。天子の太刀筋なんですが、いまいち昔の彼女に劣ると言うか。ハッキリ言って弱くなってます」
「あら不調かしら」
「あれなら、近距離での剣比べでは負けません」

 戦いの場を少し離れた位置から見守っていた紫は、開いたスキマから届いてきた妖夢の声を盗み聞きし、愉快そうな顔で喉を震わす。

「ふふふ、本調子でないようだし、天子ったら苦戦しそうね」
「……弱体化は私の気のせいではなかったのですか」

 同じくスキマから会話を聞いていた藍が思考を漏らす。
 先ほど紫をかばった時の一撃が妙に軽かったのは、気のせいではなかったのだ。

「しかし何故彼女は弱くなっているのでしょうか?」
「スランプくらい誰にでもあるでしょう? 彼女のそれは少し根が深いけど」

 やはりと言うべきか、紫は天子の状態をお見通しのようだ。
 しかしスランプと言うだけで、この飄々とした主はそれ以上のことは何も式神に教えてはくれない。

「でも段々と気合が入ってくるんじゃないかしら。私の挑戦状を受け取ってくれたようだし」
「挑戦状?」
「さっき私が言ったことを、天子なら『お前は私に勝ちを恵んでもらうしかない脆弱な存在なのだ』と受け取るでしょう。ならば彼女としては、私の発言を覆すために何としてでも勝ちをもぎ取りに行くでしょうね」
「……紫様も人が悪い」
「おほほ、だって妖怪ですもの」

 要は、天子が必死で戦うように仕向けたということか。
 ほんの少しばかり藍に同情の念を抱かれていた天子は、冥界コンビの後を追いながらどうやって勝負を征するか思考を回していた。

「コンビネーションも含めた総合的な戦闘力じゃこっちが劣ってるわね。地力で負けてる以上、真正面から挑んでも勝ち目はないわ」
「となれば策を弄するしかありませんか」
「理解が早いじゃない、耳貸しなさいよ衣玖」

 そこからしばらくは断続的に戦闘が続いたものの、冥界側がリードしたままだった。
 天子と衣玖は同士討ちを恐れて接近できず決め手に掛け、ゴールを目指して逃げる冥界チームを撃ち落とすことはできずにいた。
 あるいは上位のスペルカードを使えば可能だったかもしれないが、早い段階でから切り札を使うべきではないと判断し、通常弾をバラ撒いてまぐれ当たりを祈るのが精一杯だ。
 無論、幽々子と妖夢も歴戦の強者だ、この攻撃にも堅実に応戦しながらも天界チームが前に出ないよう牽制し、先頭を守りぬいた。
 だがそのくらいのことは天子たちも予想済みだ。はるか空の上に飛び込み、現世を抜けて冥界に突入したところで勝負に出た。

「冥界に入った。白玉楼までもうちょっとよ!」

 白玉楼まで続く長い階段を見上げて、その先に立派な門があるのを天子が捉える。
 ここから白玉楼までの距離を十とすれば、幽々子たちからは八くらいだろうか。ゴールを確認した天子は、後ろから付いてくる衣玖に振り返った。

「勝負に出るならここよ! この距離なら一度抜けばそのまま突っ切れる。作戦はわかってるわね衣玖!?」
「勿論ですよ。ここまで尻を追ってるだけでしたからね、目にもの見せてやりましょう」
「当然じゃない!」

 レースだと言うのに、天子は坂道の上に降りて立ち止まると、足元の地面に緋想の剣を突き刺して力を注ぎ込む。
 比那名居家が受け継いだ大地を操る能力が、石造りの階段を吹き飛ばしながら周囲を山のように隆起させた。

「なにか仕掛けてくる気よ妖夢」
「そうみたいですね」

 階段が吹っ飛ぶ音を聞いて振り返った幽々子が警戒を促し、妖夢は刀を握り直す。
 何が来ようとも、すべて跳ね除けるつもりでいる幽々子たちを前にして、天子は隆起した山の頂上で威勢よく声を張り上げた。

「コンビネーションよ、行くわよ衣玖!」
「準備オーケーです、いつでもどうぞ!」

 天子のすぐ背後に衣玖は浮かびながら呼びかけに応える。
 緋想の剣と羽衣が揺らめき、ここまで溜めていた力を一気に放出した。

「天地、世界を見下ろす遥かなる大地よ!」
「珠符、五爪龍の珠!」

 周囲から集められた気質が山に刺されたままの緋想の剣から全方位にバラ撒かれ、更にその後ろから龍神の力である五芒星の稲妻が、羽衣から衣玖の腕を通して現れる。
 大量の気質に龍の五本の爪の象徴の弾幕が繰り返し放出され、そこいらの妖怪程度相手なら十分驚異的な技であったが、幽々子たちから見れば拍子抜けも良いところだった。

「あら、これだけかしら?」

 交互に押し寄せる気質と稲妻の波状攻撃だが、どちらも周囲にバラ撒くタイプの弾幕であるため、距離があるこの状況ではあまり有効とは言えない。
 これが普通の弾幕ごっこなら相手を倒すために立ち向かう必要もあるが、レースである以上無視して逃げ続ければいいだけなのだ。
 ゴールを目指して逃げれば逃げるほど、弾幕の層は薄くなり避けやすくなる、おまけに天子と衣玖はその場から動かないと来た。
 この程度ならば反撃するまでもなく、念のため後ろに妖夢が備えながら幽々子が先を行き、悠々と五芒星の下に潜りこんで避けながらゴールを目指す。

「幽々子様、上です!」

 だが突如叫ばれた声に、幽々子は反射的に上に向かって障壁を作り出した。
 その直後に要石が上方から幽々子に襲いかかった。
 障壁に阻まれた石の上で踊る、空の色をした印象的な長髪。

「いつのまに……!?」
「チィ、防がれたか!」

 奇襲を防げたものの、幽々子の顔にわずかな焦りを浮かぶ。
 要石の上にいたのは間違いなく比那名居天子であった。
 すぐさま妖夢が通常弾を放ち天子を狙うが、元々天子もここで幽々子を倒す気はなかったらしく、すぐに要石の上から飛び上がって攻撃を避けると、幽々子たちを抜いて最も白玉楼に近づいた。
 天子は衣玖の作り出した五本の稲妻に囲まれて弾幕に並走することでその身を隠し、ここまで妨害を受けず近づいてこれたのだ。

「そんな、じゃああっちの弾幕は!?」

 しかしそれでは今なお放出される気質は何なのかと、妖夢が山の方に振り向く。
 天子が姿を見せたと同時に、隆起した大地から放射されていた気質が止んでいく。
 緋い弾幕が失せた後に残っていたのは、山の頂上に突き刺さる緋想の剣だった。

「け、剣だけ!?」

 天子は自分の居場所を隆起させた山の上にいると印象づけるため、緋想の剣が自動で弾幕を張るように操作し囮にしていたのだ。
 衣玖も自身の弾幕を解除して残された緋想の剣の柄を握ると、緋い刀身が霧状に変質し消滅した。
 天人だけが扱える緋想の剣の刀身は、気質を集め硬質化することで形成されたものだ、妖怪の衣玖が手に取れば効力を失い柄の部分だけが残る。
 突き刺さっていた刀身が消えると同時に、隆起した地面も徐々に沈下して元に戻っていった。

「足止めさせてもらうわ。地震、避難険路!」

 勝負の最前線に躍り出た天子は、自前の能力を使い大量の要石を生成し幽々子たちに向かって撃ち下ろした。
 連なった要石が滝のように前方を覆い、前に出ようとする幽々子たちを遮った。

「逆転されたわね……!」
「まだですよ、この弾幕なら相方だってすぐには通れないはず」

 立ち往生する冥界チームの上を、衣玖が輝きを失った緋想の剣を大事に握りしめ、迷わず要石の群れに飛び込んで行く。
 弾幕をどう避けるかを考える暇もない速度だ。これならすぐ要石にぶつかってやられてしまうだろうと思う妖夢だったが、衣玖はひらりと身をかわして、石の向こう側に回り込んで行ってしまった。

「ど、どうしてあんな簡単に!?」
「落ち着きなさい妖夢。事前に打ち合わせくらいしてるわ」

 幽々子の推測通り、衣玖は先に天子から先に進むためのルートを教えられていた。
 元々避難険路は避けるための穴が用意された趣のスペルカードだ。予め二人で相談して穴の位置を決めておくことで、足止めをしつつ衣玖を先頭へ導くことに成功した

「総領娘様、剣を!」
「よくやったわ衣玖! 先にゴールに向かってなさい」

 要石の弾幕を抜けた衣玖が緋想の剣を投げ渡し、白玉楼を目指して突き進む。
 このままタフネスに自信のある天子が足止めを続け、頃合いを見て衣玖の後を追い、追撃を受けながらも一直線にゴールに向かう算段だ。
 冥界チームは連続して襲い掛かってくる要石加え、過ぎ去った石が光弾に変わって前後から襲われるものの、狼狽していた妖夢も落ち着き態勢を立て直し始める。
 しかし冥界組から見て、状況が一気に不利になったことに変わりはない。

「マズイですよ、もう一人が白玉楼に!」
「ならこっちも足止めしましょうか」

 幽々子は天子から広く間合いを取り、要石も光弾も届かないところまで離れる。
 そこで静止すると目を閉じて両手を組み、何処かへと念を飛ばした。
 見えない繋がりは妖夢を越え、天子を越え、衣玖を越え、白玉楼の庭に植えられた咲かない桜の木の下にまで届いた。

「反魂蝶 ‐零分咲‐」

 白玉楼へと迫る衣玖の前に、突如としてぼんやりとした謎の霊魂のようなものが現れる。
 門の上から出でた淡い色合いのそれは、四方八方にレーザーと青の蝶型の弾幕をばら撒いて、衣玖の行く手を阻んだ。

「うわわっ!?」

 予想外の攻撃に衣玖は後退を余儀なくされる。
 彼女の前に姿を見せたのは、幽々子の形をした影のような何か。
 それは門の上に陣取ると、今度は赤い蝶型弾幕を発射して衣玖の進路を塞いでしまった。
 その騒ぎを感じ取り、足止めに徹していた天子も後ろを振り向き、その華麗で儚げな弾幕を見上げた。

「えっ、なになに!?」
「隙あり!」

 天子が動揺して弾幕の一角が大きく崩れるのを見て、妖夢が前に出る。
 鞘から白楼剣を引き抜いて楼観剣と合わせて構え、一気に要石を抜いて天子の前にまで飛び出してきた。

「断霊剣、成仏得脱斬!」

 交差するように振るわれた二本の刀が生み出した剣気が、桜色の柱となって天子に襲いかかる。
 咄嗟に要石を壁にして防御しようとするが、弱体化の著しい今、要石は辛うじて剣気を防げたものの圧力に負けて粉々砕け、吹き飛んでだ破片が天子の身体に食い込んだ。
 瓦礫に突き飛ばされ、苦しそうなうめきを漏らしながら妖夢から距離を取り、先を行っていた衣玖と背中合わせになる。

「やってくれるわ、妖夢のやつ!」
「総領娘様、この弾幕すぐには突破できませんよ!」
「前は幽々子の影に、後ろからは妖夢。挟み撃ちにされたわね」

 逆転したと思えばあっという間にピンチだ。袋の鼠となったこの状況で、幽々子の影の弾幕を避けながらも、ジリジリと距離を詰める妖夢に要石を撃ち込んで牽制しつつ、天子は必死に勝機を探る。
 門の上から放たれる弾幕は勢いを弱める様子がない、これを直接突破するのは難しいだろう。無理をすれば自分だけならゴールにたどり着けるかもしれないが、衣玖は付いてこれまい。
 ゴールまでの距離で言えば相手チームよりこちらのほうが近いが、この順位に守り抜こうとするのも無謀だ。この位置をキープしつつ前後からの攻撃に耐え切れるとは思えない。
 門にいるのはあくまで遠隔操作された幽々子の影だ。順位を捨てて自分か衣玖のどちらかが逆走し、妖夢を超えて幽々子本体を狙うか? だがそうした場合、きっと幽々子はこのスペルを解除し自分で戦いだす。乱戦となればこちらが不利なのはすでに証明済みだ。

 これなら最初の案がもっとも可能性がある。ネックとなるのはいかに衣玖をゴールへ導くか。

「なら力づくで道を作る!」
「おお、何か策が!?」

 天子が周囲から気質を集め始めて、その頼もしさに衣玖は背中越しに希望が湧き出てくる。
 だが緋想の剣の刀身をも解除して気質を集中させた天子は、剣の柄を握ったその手を迫り来る妖夢ではなく衣玖へと向けた。

「はっ――?」
「全人類の緋想天!!」

 天子が持つ最大のスペルカード。気質の粒が極太のレーザーのように飛び出して、味方である衣玖の身体を丸ごと飲み込み、押し飛ばした。

「イヤァァァアアァァアァアアア!!!?」

 衣玖の悲痛な叫びは、大量の気質に飲み込まれほとんど誰にも届かない。
 妖怪一人を巻き込みながらも気質の勢いは依然として止まらず、門から降り注ぐ反魂蝶をかき消してひたすら突き進み続ける。
 危険を感じた幽々子が、自身の影を門の上から更に上方へ飛び立たせた直後には、気質の奔流は立派な門を丸ごと吹き飛ばしてはるか彼方に消えて行った。
 当然、気質に押し出された衣玖の身体はそのまま白玉楼の敷地内に叩きこまれ、門から玄関へと続く庭の途中に落下し、同様に吹っ飛ばされた門の残骸の下敷きとなった。

「永江衣玖、ゴール♪」
「うわぁ……」

 扇子で首元を仰ぐ審判員から呑気に下された判定が、スキマを通して全員に伝えられるのを、藍はこの暴挙にドン引きしながら聞いていた。
 このスペルカードを避けた幽々子の影が、高度を落とし振り向く。
 本来門があるべき場所には、ぽっかりと何もない空間が広がるだけであった。

「は、白玉楼の門があぁああ!!?」

 あまりのことに攻撃を仕掛けようとしていた妖夢は呆然と口を開いていたが、紫の声を聞き我に返る。
 妖夢にとって幼い頃から見続けてきて、来る日も来る日も自分の手で掃除をし、どこか調子が悪ければ整備をし、一生懸命向き合ってきた門が跡形もなく吹っ飛ばされて、頭の奥がプッツンする。

「貴ッ様ぁぁあ、許さん!!」
「まあ妖夢ったら人斬りモードに」

 妖夢が両手に持った刀を一度鞘にしまうと、楼観剣の柄を握りしめながら階段を蹴って、こちらに背中を向けたまま隙だらけの天子に肉薄する。
 十分な加速を以って楼観剣を引き抜き、超高速の居合い斬りが放たれた。

「人鬼――未来永劫斬!!!」

 初手にて相手を打ち上げてから怒涛の連続斬りに繋ぐ大技、その最初の踏み込み切りをまともに天子は食らった。
 後ろを向いて妖夢を捉えていた天子の視界が、一瞬にして切り替わる。飛ばされた自分が、上空から白玉楼へと続く階段を見下ろしてると理解した直後には、無数の斬撃がその身を襲った。
 切られ、切られ、また切られる、そしてトドメの切り上げにより、天子の身体は更に上方へと浮かび上がった。
 巡るましく流れる風景に眼が回る。

 だがこれでいい、全部計算通りだ。
 妖夢の剣技を受けて打ち上げられたお蔭で、階段の上にある白玉楼まで一気に近づけた。
 すべては勝利のための布石、後は崩壊した門へ飛び込んでしまえばいい。
 そう思い白玉楼へと手を伸ばして飛ぼうとした、したはずだった。
 だと言うのに、肉体は重力に引かれゴールは遠ざかり。

「あ、れ……?」

 頭から階段へと叩き付けられて、鈍い音が辺りに響いた。
 落下した天子の身体は階段の上で跳ねて数段転がり落ちると、うつ伏せで倒れたまま起き上がれなくなってしまった。
 妖夢のスペルカードと落下後の回転で感覚が混濁し、まるで平衡感覚が掴めず動けない天子の上を、妖夢と幽々子がゴールに向けて飛び去って行く。
 大丈夫だ、天界の桃で硬化された肉体はこの程度で挫けはしない。天子は自分にそう言い聞かせるが、指一本動かすのさえ辛く感じる。
 やっとのことで腕を持ち上げて、立ち上がろうと門を見上げながら手を突いて身体を起こすが、喉元から込み上げてきたものに押されてすぐ顔を伏せた。

「おえっ! げほ、ゴホッ! うっ――!」

 液体が喉を逆流する気味の悪い音とともに、液体が天子の口から吐き出された。
 天子の眼に映ったのは、階段を汚すドス黒く濁った赤い色。
 その様子を遠くから見ていた藍から、驚きの声が上がった。

「血!?」
「まったく、調子が悪いのに無理しちゃうから」

 藍の横にいる紫は呆れたように呟く、だがただのスランプ程度でこうなるはずがない。

「紫様、天子は一体」
「でもこれはこれでいいわね。藍、面白いものが見れるかもしれないわよ」
「面白いって……」

 何をするでもなくただ天子を眺め続ける紫が、開いていた扇子を閉じて小気味いい音を鳴らす。

「天子の本質よ」

 紫の視線の先で、天子は持ち上げた上半身が倒れないようにするので精一杯だった。
 血反吐の臭いが臓物を冷やし、彼女の肉体に起こった何らかの異常が、警鐘を掻き鳴らし脳を痺れさせる。
 ボヤケた視界で進む敵を見つめて、機能しない頭でこのままだと負けるとだけ理解してから、重さに負けて顔をうつむかせる。

 黒い血で汚れた石造りの階段が視界に映る。
 その階段の段差と段差の黒い境界線、わずかな隙間に天子は何かを見た。

 昏い眼が、こちらを覗き込んでいた。
 深い深い谷底のような、あるいは月と星が消え去った夜のような、真っ暗な瞳が浮かんでいる。
 きっと幻覚だろうが、朦朧とした頭ではそのことを判別できない。
 眼は段々と段差の隙間に増えていき、そこに収まりきらなくなると今度は血の海の上にも沸き出てくる。

 辺り一面に出現した眼から放たれた視線が、粘ついた糸のように天子の身体に巻きつき、四肢から力を奪い尽くしていく。
 指先から蔓延する無気力感に、息をする力も失われ始め、視線が完全なる敗北を天子に伝えてくる。
 自らのあらゆる存在と可能性が否定していくのを感じる。その先にあるのは昏い、どこまでも昏い――

「――負けて、たまるかあああ!!!」

 意識より早く、引き出された言霊が空気を揺らした。
 脳裏に浮かぶ敗北の二文字。その向こう側にチラつく憎き妖怪の姿。
 それが天子の胸を叩き、まとわりつく視線を振り払って、ありったけの声を絞り出させた。

「バカにされてたまるか! 負けてたまるか! ここであいつに情けない姿見せてるようじゃダメなのよ!!」

 凄まじい気迫を感じ、先を行っていた冥界チームの両名が思わず振り返った。
 階下に見えたのは、緋い霧を周囲に渦巻かせる天子の姿。
 辺りに遍在する想念の気質が、緋想の剣を介して天子の激しすぎる衝動に巻き込まれ、彼女の元に集まりつつあるのだ。
 空気をかき回す気質に照らされ、緋い輝きを従えた天子が二本の足で立ち上がると、自らが吐いた血だまりを踏みにじる。

「私は――私はああああ――――!!!」

 すでに門前まで差し掛かっていた妖夢だが、天子の叫びを聞いて鳥肌が立つのを止められなかった。
 その気合に圧されて従者としての本能から、思わず汗ばんだ手で楼観剣を握り直しながらレースを逆走して天子に向かい始める。

「幽々子様は先に!」
「妖夢!? ダメよ行っちゃ」

 気が付けば主を守ろうとゴールから離れ飛び出てしまっていたが、すぐに間違いだったなと後悔する。
 スピードの遅い幽々子に対しても天子はかなり距離を取られている、本来なら天子の叫びなど無視して妖夢はゴールに向かうべきだった。
 だが問題はない、今の天子の実力はすでに把握している。理由は知らないが弱体化している上に、先程のスペルカードですでに満身創痍だろう、剣士として接近戦で負けるはずがない。
 わずかな焦りとともに両手で握りしめた楼観剣を振りかざし、ほとんど落ちるように階段を下りながら、勢いをそのままに大上段から切りつけた。

「そのまま落ちろぉ!!!」

 速度の乗った刃が自らに差し掛かるのを見据えていた天子が、緋想の剣を持っていない空の左手を突き出した。
 天子の手の平と楼観剣が交じり合い、およそ人体から発せられたとは思えない、硬い岩石がぶつかったような鈍い音が響き、手から伝わった衝撃が天子の足元が陥没させる。
 楼観剣から重い感触を感じた妖夢は、刀身が手に受け止められるのを見て驚愕した。

「これは……気質!?」

 天子の手の平に緋い霧のようなものがまとわれているのが見え、妖夢は気質を緩衝材として斬撃の威力を緩和させたことに気付く。
 だがそれだけですべてを相殺できたわけではなく、刃は気質を切り裂いてその白刃を食い込ませていた。
 手から流れた血が肘にまで伝っていくのを見て、ダメージを与えれていたことに安堵した妖夢だが、傷付いた手が刃を握りこむのを見てすぐに青ざめた。

「捕まえた……!!」

 痛みを堪えながら口の端を吊り上げた天子に、妖夢は急いで白楼剣に手をかけるが、それが引き抜かれるよりも早く緋想の剣が地を突いた。
 階段を突き破って地面に潜った剣先から気質が打ち込まれ、爆発的な圧力と天子の持つ能力により周囲の地面が尖形に隆起し、その上にいた妖夢も巻き込まれた。
 小柄な体躯が持ち上げられ、更に握られた刀ごと天子に投げ飛ばされる。
 隆起した地面の根本にいたお陰で妖夢に大したダメージはないものの、天子の上から真横に吹っ飛んでいってしまった。

「オラオラァ! 落ちるのはあんたよ!」

 重力に惹かれ落下する妖夢は、猫のような素晴らしいバランス感覚で足を下にし着地するが、その硬直に合わせて天子は要石からレーザー上の気質を撃ち放った。
 連なって次々飛来する気質に対して、妖夢は防御の姿勢を取って受け止めた。
 気質のレーザーはダメージを与えられなかったものの、防御の上から妖夢の身体をより階段の下へと押し込む。
 これでゴールした衣玖を除き、レースの順位は幽々子、天子、妖夢の順番だ。再び天子にも勝ち目が見えてきた。
 だが安心する余裕はない、妖夢との直接戦闘を避けて階下に追いやる戦術を取ったのは、今の状態では敵わないと判断したからだ。
 一秒でも早くゴールに飛び込もうと白玉楼を見上げて踏み出す。途端に震える膝が折れて崩れ落ちるが、隆起した地面に拳を叩きつけて無理矢理体勢を整えると、体全体をバネにして足場を砕くほどのロケットスタートを切った。

「絶対負けるかあぁぁぁああ!!!」

 異常なまでの気迫で追い上げてくる天子に、ゴール間近の幽々子が焦りを覚える。
 このまま幽々子だけがゴールしても、妖夢がここから天子を抜いて白玉楼までたどり着くには間に合わない。
 勝つにはこの場で天子を仕留めるしかない。幽々子はそう覚悟し、ゴールに背を向けて天子に立ち向かう
 遥か階下にいる妖夢も同様の判断を下し、白楼剣を引き抜いて二刀で構えた。

「西行寺無余涅槃!」
「天神剣、三魂七魄!」

 幽々子が自らの影を消し、改めて打ち出したのは彼女の持ちえる最大奥義。先程の反魂蝶を更に強化した蝶形の弾幕が天子を迎え撃つ。
 妖夢が二つの刀を振りぬくとともに、彼女の前面に黄、茶、赤、紫、青の五色の楔弾が出現し、先を行く天子の背中に追いすがる。
 圧倒的な物量に囲まれ、天子は最後のスペルカードを切った。

 前後から押し迫る弾幕が、避けようともしない天子を呆気無く飲み込んだ。
 トレードマークの桃が付いた帽子が吹っ飛ぶのを見て、勝利を確信し安堵する幽々子と妖夢だが、次に現れた光景に目を剥いた。
 身体中に弾幕を浴びながらも、全身に緋色の霧をまとって止まらず進み続ける天子の姿を。

「気符、無念無想の境地!」

 追い詰められた天子が選んだのは、戦術もクソもない、意地だけのゴリ押しだ。
 とは言え何もしていないわけではない、無念無想の境地は気質を身にまとって身体強度を上げるスペルカードである。
 これ一枚で弾幕の中を突っ切ろうとするが、この弾幕は幽々子と妖夢の持つ中でも最上位、あるいはそれに近いスペルカードだ。
 あまりに多い被弾に気質の鎧もあまり意味を持たず、凄まじ痛みが天子の身体を駆け巡る。基本殺傷を目的としないスペルカードルール上の弾幕ごっことはいえ、並の妖怪ならとっくに死んでるはずだ。
 それでも天子は、身体中ボロボロになりながら走り続ける。振りかかる弾幕の圧力に空も飛べない有様なのに、潰れそうな身体を二本の足支えて階段を駆け上がった。

 そしてとうとう弾幕の切れ目の向こうに幽々子の姿を視認する。そのすぐ背後には白玉楼、この亡霊を突破すれば天子の勝利だ。
 再び血反吐が込み上げてきて、食いしばった歯の隙間から噴出した。身体が限界だと叫ぶが、それでも天子は止まろうとしない。
 そこで幽々子は天子の口から垂れる血を見て、彼女の肉体に起こる異常を初めて知り、動揺しわずかに弾幕を止めてしまった。
 こうなれば、背後を打つ妖夢の弾幕もありがたい。前方からのプレッシャーが消え失せ、妖夢の後押しを受けて飛び上がった天子が幽々子の目の前にまで辿り着いた。
 この驚異的な爆発力に幽々子は愕然とした様子で、天子に問いかける。

「どうして……何故そこまでして戦えるの」
「そんなの、思う存分生きて楽しみたいからに決まってるじゃない!!」

 血で赤色に塗りたくられた口を開くと、不敵な笑みを作った天子が右手を振りかぶり、激しい情動とともに幽々子に拳を叩き付ける。
 障壁を張って受け止める幽々子が大きく押し退けられた。




「見たかしら藍? あれが彼女の持つ力の一端」

 その光景を眺めていた紫が、隣りにいる藍に語りかける。
 藍は天子の異様なまでの行動に、尻尾をの毛を逆立てて目を見開いていた。

「何もかも懸けて自分を貫く意地っ張り。素晴らしいわ、見てるだけで身体が熱くなる」

 紫が震えていた両腕を抱き込み、身体を竦ませて、湿った唇を震わせる。

「天子なら、あらゆる境界を踏み越えて、きっと私のもとに――」




 幽々子と天子の姿が視界から消えたのを受け、スペルカードを中止した妖夢は急いで階段を駆け上がった。
 最上段まで登った妖夢が目にしたのは、屋敷へと続く庭に倒れる幽々子と天子の姿。

「幽々子様、大丈夫ですか」
「えぇ、私はね」

 尻餅をついていた幽々子は何事も無く起き上がるが、彼女の前にいた天子は、うつぶせのまま荒い息を整えるのに必死のようだ。

「ハァーッ、ハァーッ……!」

 そんな天子に幽々子は手を伸ばそうとするが、一瞬先程の気迫を思い出して少し怯えて躊躇し、しばし逡巡してから改めて天子の手を取った。

「おめでとう、この勝負はあなたの勝ちよ天子」

 顔を上げて幽々子を見た天子は、少しばかり呆けていたが、意味を理解すると眼を丸く広げてときめかせ、表情に喜びが広がっていく。
 幽々子に引っ張ってもらって起き上がった天子は、握りしめた両手を脇の前でわなわなと震わせ、天に突き上げた。

「やったああああああ勝ったああああああ!!!」

 清々しい勝利の叫びが冥界に響き渡る。
 さっきの苦しみようはどこへやら、飛び跳ねて全身で喜びを表現していた。
 妖夢は剣を収めると、天子の横を通って幽々子の隣で立ち止まる。

「負けちゃいましたね幽々子様」
「ええ。でも面白かったから良しとしましょう」

 こうまで喜ばれては、負けた方としても何も言えない。
 それどころか天子に笑顔につられて、門を壊された恨みも忘れて二人の顔もついほころぶ。
 爽やかな空気が流れる庭に、審判員であった紫も藍を引き連れて到着した。

「フッハハハハ、どーだ見たか紫!? フハハハハ」
「では、この勝負、幽々子妖夢チームの勝利!」
「ハハハハヒッ!?」

 幽々子側に扇子が向けられると出た言葉に、天子の笑いがせき止められた。
 まさかの事態に幽々子と妖夢も、目をパチクリさせた。

「ちょ、どういうことよ、ボケて頭腐ってんじゃないのあんた!? 誰がどう見たって今のは私の勝ちでしょ!!」
「まあまあ、まずは判定のために用意したカメラで撮影した写真を見てもらうわ」

 紫がスキマから取り出した写真は、三枚。

「まずこちらが気質で吹っ飛ばされた永江衣玖の写真で、こっちが幽々子と天子の。幽々子が押し込まれる形で先にゴールに入ってるわね。そしてこちらがその間に撮影された三枚目」

 最後の写真は、妖夢が天子の叫び声を聞いて引き返し始めた瞬間を捉えたものだった。
 これが何なんだと写真を睨む天子だが、半霊の先っぽが門があった場所を通過しているのに気付いて「あっ」と声を上げた。

「見ての通り、妖夢が引き返そうとした時点で半霊部分が敷地内に届いてます。ということで幽々子たちの勝ち」
「んな……納得いかないわよ! あいつ戻って戦いに来てたじゃない!」
「私は敷地内に入った時点でゴールとは言ったけれど、戻ってはダメとは言ってないわ」
「ふざけんな、依怙贔屓よ! こんなの認められるかあ!!!」

 紫に詰め寄った天子が、怒鳴り声を上げる。
 そんな中、庭に積もった門の瓦礫が崩れ、その下から人影が立ち上がった。

『あ……』

 全員が同じ声を呟いて、視線が一点に集中する。
 瓦礫から出てきたのは、天子に思いっきり吹き飛ばされた永江衣玖。

「……誰も、私のことは心配してくれないんですね」

 天子に負けず劣らずのボロボロ具合で、汚れた頬に一筋の涙をこぼした衣玖は、力なく瓦礫の上に倒れこんでしまった。

「きゃあああ!! ちょっと、衣玖しっかりー!」
「うわあ! 人の家で死にかけないで下さいよー!」
「あらあら大変ねぇ」
「……衣玖、お前も苦労するなぁ」

 急いで衣玖を白玉楼の中に運び込んで手当することとなり、そのまま勝負の判定については天子の負けということになったのだった。



 ◇ ◆ ◇



「最悪です、ここまで傷めつけられて意味なしとか、死んだら化けて出るところですよ」
「だから悪かったって」

 手当の終わった衣玖は、白玉楼の一室に敷かれた布団に寝かせられていた。
 レースとともに白玉楼に来た全員が揃って取り囲むように座っているが、衣玖はその中の一人に不満を漏らし、天子が両手を合わせて機嫌を取る。楼観剣に切りつけられた左手には、衣玖のついでにと包帯が巻かれていた。
 よく周りに迷惑をかける天子だが、こうやって直接許しを請うのは中々お目にかかれない光景だ。

「化けてくれたら、是非ともここで働いてもらいたいわね。まずは手始めに握り飯から」
「貴重な常識人仲間が来てくれたら私としても嬉しいですね」
「妖夢さんと組むのは良さそうですねえ、面倒が少なそうですし」
「あんたら、いざって時に力づくで解決しようとするあたり、どっちも常識人じゃないからね」

 天子から横槍を入れられて、衣玖と妖夢が顔をそらす。
 実際の常識から外れていても、一部の非常識共と比べれば相対的に常識的なのだからそれでいいのだ。多分。

「天子の方は大丈夫なのかしら?」
「妖夢に切られた傷なら、薬を塗りこんどいたから一晩寝れば元通り。天界特製薬よ」
「なんですかそれ、私にも下さいよ」
「いいけど天人専用だから妖怪に使うとどうなるか知らないわよ。悶え苦しんでもいいなら試してみるか」
「けっこうですハイ」

 幽々子の質問に天子はあっけからんと答えるが、あくまでも口からの吐血については語る気はないらしい。
 幽々子もそれ以上の追求はしなかった。そんなことをしなくても、ある程度察しがついていた。

「それじゃあ衣玖さんはしばらくここで休んでてください。帰るときには布団はそのままで結構ですから」
「ありがとうございます。少し休めば動けるようになりますので」
「それでは、私は夕食の支度があるのでこれで」

 妖夢が部屋から出て行くのを見送って、天子もそろそろ御暇しようと立ち上がって軽く伸びをした。

「あーあー、負けってことになっちゃったし嫌になるわ。私は先帰るわよ衣玖。クイズは明日に持ち越しで、今日のところは罰ゲームの方はナシでいいから」
「あら帰っちゃうの? ウチで一緒に飲んでいけばいいのに」
「どうせそこのババアも一緒でしょ、願い下げだわそんなの」
「あらやだ、天子ったらそんなに照れなくたっていいのに」
「本気で嫌がってるのよ! じゃあね衣玖サヨナラ!」
「ああはい、さようなら」

 わざとらしく頬を赤らめる紫に怒声を飛ばた天子は、襖を開けっ放しにしてドタドタと足音を鳴らしながら部屋から出て行った。
 横から話を聞いていた幽々子が今の会話に気になるキーワードがあったらしく、衣玖に疑問を投げかける。

「罰ゲーム?」
「ああ、元々は総領娘様が異変を起こした理由を、私が考えるという話でして。みなさんに聞きまわっていたのは余興というか、私の解答の参考にするためだったんですよ」
「へぇ、なるほど……」

 衣玖から答えられた言葉に何かを感じ取ったらしい幽々子は、チラリと紫に視線を送る。すると親友は幽々子の予想を裏付けるように、左目を閉じウインクして応えた。
 おおよそのことを把握した幽々子は席を立つと、住み慣れた白玉楼の廊下を歩いて行き、玄関で座り込み靴を履いていた天子に声をかけた。

「待って天子、勝負の報酬がまだよ」
「何よ、勝負は私の負けでしょ?」

 靴を履き終わった天子は立ち上がると、不思議そうな顔で振り向いた。
 もしや負けたけど教えてあげるだなんて甘い言葉を抜かすわけじゃあるまいなと、天子の機嫌が悪くなり始める。
 そういうお情けで恵まれるようなことは天子としては好ましいものではないのだが、幽々子はそのこともわかっているようだった。

「そうだけど、楽しめたから別の質問になら答えてあげようと思ってね。これならあなたも文句はないでしょう」
「質問って、別に私はあんたなんかに聞きたいことなんて」
「あるでしょう? 本当はもっと別に聞きたいことが」

 言葉を遮って尋ねてくる幽々子に、天子は何かに気付いてハッと眼を丸くして顔を上げた。
 視線の先で幽々子と眼と眼が合う。すべてを知る賢者のようにこちらを覗き込んでくるその眼が、紫の顔とダブって見えて、天子は苛立たそうに顔をしかめた。

「……フン、紫の友達だけあって嫌なやつだわ。あいつみたいな、なんでもわかってますみたいな眼しやがって」
「ならどうする? このまま帰るかしら」
「……いや、どうせだから聞いておくわ」

 どうやら苛立たしさより興味のほうが勝ったらしい。
 一度顔を伏せて言葉を選んだ天子は、改めて幽々子を見つめて口を開いた。

「あんたが死を選んだ理由って何?」

 幽々子の目が細まり、玄関周りの空気が淀み始める。
 天子の言葉が予想通りだったのかそうではないのか、幽々子はわずかに考えこんでから、ケラケラと笑って明るい口調で空気をかき乱した。

「あらあら、それじゃ私が自殺したみたいだけど」
「とぼけたって無駄よ。冥界だろうが何だろうが大地のすべては私の手の平。この屋敷の庭のことだって全部わかってるんだから」

 うやむやにされそうになった空気を、天子が再び巻き込み始める。

「封印された妖怪桜、そしてその封印の起点となっている女の死体」

 強い口調で語られる言葉は、どれも亡霊である幽々子の根幹を担うものだ。

「まあ、確信したのはさっきなんだけどね。あの影の幽々子は死体を利用したんでしょ。多分妖怪桜を抑えるために死体が必要だったんだろうけど、あんたが人にむざむざ殺されるようなやつとは思えない」
「大正解。紫が警戒するだけのことはあるわ」

 褒め称える幽々子に対し、試しておいて白々しいと、天子は不快に眉を曲げる。
 しかし言ったところで話はこじれるだけであるし、胸に閉まっておくことにした。それにどうせ言っても無駄だろう。

「そうね、答えてあげる……と言いたいところなんだけど、私もよく知らないのよねぇ」
「なによ、はぐらかす気?」
「違うのよ、生きてた頃の記憶がなくてねぇ。桜の下に死体があるってわかったのも最近だし、それが私の死体だって気付いたのはもっと後。紫も何か知ってるようだけど教えてくれないし」
「じゃあもう予想でいいわよ。自分が死ぬとしたらどんな理由だと思う?」

 天子としてはどうせたまたま手に入ったものに期待などしてはいない。
 一応聞いておくつもりなだけの天子に急かされ、幽々子は思ったままに答えた。

「……生きることが怖くなった時かしら」

 何気なく出た答えに、発言した本人である幽々子自身が驚いたように指先で口を塞いだ。
 先に断った通り彼女に生前の記憶はない。それについて深く考えたりしたことはなかったのに、出てきた答えは妙に生々しく感じてつい困惑する。
 予想よりも重い回答に天子は眼を閉じて、受け取った言葉を反芻して深く飲み込むと、玄関の扉を開けた。

「ありがと、参考になったわ。それじゃ」
「……ええ、さようなら」

 未だ動揺が消えない幽々子を残して、天子は玄関の戸を開けて庭へ出る。
 思いがけない収穫だった。ゆっくりと扉を閉め、胸に手を置いて気を落ち着かせる。

「……で! なんであんたがこっちにいんのよ!」
「うふふ、私がどこにいるかなんて自由じゃない?」
「うっさいわよストーカーババア!」

 恐らくスキマで先回りしたのだろう、ご丁寧にも式神までつき従えて庭で待ち受けていた紫に、天子は思わず怒鳴り散らす。

「ったく、どうせ普段から私の事も監視してるだろうにいちいち出てきて。そっちの狐も嫌な目で見てくるしさあ!」
「言われてるわよ藍」
「私の事より紫様の態度を改めたほうがいいかと」
「あらやだ味方がいないわ、寂しいわぁ。およよ……」

 自在に涙を流して泣き真似をする紫だったが、すぐに涙を拭きとると、閉じた扇子を天子にズビシッと突き付けて話を切り出した。

「ところで天子、今日は面白い話を持ってきたのよ」
「わかった帰れ」
「あなたのお連れの龍宮の使いね。彼女とは今日初めてまともにお話したんだけど、あなたと一緒にいる私を見てどう考えてたと思う? 楽しげな方だと思ってた、ですって」
「……はぁ?」

 意味がわからず呆ける天子だったが、すぐに紫の言わんとする所を察して不愉快そうに顔を険しくする。
 要は衣玖が天子を通して見た感想がそれなのならば、天子自身もそうなる可能性があると言いたいのだろう。

「チッ、まったくあいつ肝心なとこで空気が読めないわね」
「あなたのそばにいた彼女がそう言うなら、きっと私達はそういう関係になれるわね」
「ならないわよ! だいたいあんた態度がナメてんのよ、人のこと見下し腐った眺め方して!」
「見下してる……そうね、その通りかもしれない。ふふふ、わかってくれるなんて嬉しいわ」

 自分の態度の間違いを指摘されたというのに、紫は一向に笑みを浮かべたままだ。

「でもねぇ、天子。私が態度を変えたとして、それであなたの持つ問題が解決するとでも?」

 突然、笑いから一転したすべてを見抜くような眼光で射抜かれて、天子は息を呑んだ。
 その眼に心臓を縛り上げられたような感覚を覚え、姿勢を乱して胸元を握り締めると、眼の前の妖怪を睨みつけた。

「……どういう意味よ、あんた」
「ふふ、そういう負けず嫌いなところとっても愛しいわ。バキバキに折れても頑張るところが特にね」

 天子の反応に紫は満足気に喉を震わせ、鼻から笑い声を響かせる。

「それとね、今回は一つあなたに警告があるのよ」
「今度は何よ」
「さすが勘の良いあなた、幽々子のことに気付くとは大したものよ。でも彼女には、昔のことは思い出してほしくないの。彼女の生前が後味の悪いものなのは察しがつくでしょう?」

 一方的に語る紫は、閉じた扇子を自らの首筋に当てた。

「もしこれ以上、幽々子の過去を掘り下げようとする者は潰すわ」

 これ以上もないほどあからさまな威圧と敵意。獣のように見開かれた眼。
 利己的で他の犠牲を躊躇しない、人を脅かす恐ろしい"妖怪"の顔がそこにあった。
 自分の行動を圧迫される屈辱に、天子はこれまでにないほど顔を深く歪ませて苛立ちを吐き捨てる。

「……チィッ! そんなに大事なら、籠にでも入れて飼っておきなさいよ!」
「籠ならあるわ、この幻想郷がそうよ。私が私の愛する者のために創った楽園。だからね、あまりにも籠の中荒らす害虫がいれば……わかるでしょ? 」
「ホンットーに悪趣味なおばさんねあんた!」

 隠そうともしない幻想郷への狂的な執着心、それを管理者の矜持と言うにはいささか感情が生々し過ぎる。
 普通なら妖怪の賢者を恐れて従うしかないところを、なおも反抗的な天子に、紫は肩から力を抜くと、スキマを開いてその奥からあるものを引き抜いた。
 天子に差し出されたのは、さきほどのレースで吹き飛ばされた黒い帽子。

「でも逆に言えば、籠の中で従う者には慈悲を与えるということよ、健気で可愛い娘」

 紫の息遣いとともに、帽子に実った鮮やかな桃が揺れる。

「何ならこれも、私が守ってあげましょうか?」
「……ふん、余計なお世話よ!」

 天子は悪態をつくと、差し出された帽子をぶんどり、深くかぶって紫の脇を通り過ぎる。
 その一瞬、紫の後ろに立っていた藍が、わずかに眉を寄せて息を止めた。

「せいぜい足掻いてみせることね」
「うるさいわよ、あんたなんかいつか絶対ブチのめしてやるからね!」
「なら私はそれを楽しみにしているわ!」

 門があった場所を踏み越えて、白玉楼から階段を降りていく天子に、紫は大きな声で思ったままに届けた。
 空色の後ろ姿が視界から隠れるのを見届けると、紫は踵を返して幽々子のところへ戻り始める。

「あの娘もまだまだ苦労しそうね。さあ、行きましょうか藍」
「……御意」

 短く答える藍の様子がいつもと違っていたことを、天子と話して浮かれていた紫は見抜けなかった。
 天子を見送ったあと、藍は主と親友が楽しくお喋りする横でお茶を入れた後、席を立って妖夢の手伝いをすることにした。
 しかし手を動かしながらも、藍の目はどこか別の場所を見据え、何かを悩んでいる。
 やがて決心して漬物を切っていた包丁を置くと、借りていたエプロンを外し口を開いた。

「妖夢、急用を思い出した。すまないが後は任せていいか?」
「構いませんが、珍しいですね」
「橙のことでちょっとな」
「ああ、彼女もけっこうあわてんぼうですからね。わかりました、どうぞ行ってきてください」

 疑うことなく送り出してくれた妖夢に背を向け、藍は静かに素早く廊下と歩いて行く。
 誰もいない場所まで来ると、顔つきを剣呑なものへと変化させていき、口元から鋭い牙をのぞかせた。

「きっと今がチャンスのはずだ、急がねば」
「――どこに行く気かしら?」

 唐突に背後から掛けられた声に、藍は胃の底が冷えつくのがわかった。

「ゆっ――!?」

 声から感じられたすべてを見透かすような印象に、主を思い浮かべて振り返った先にいたのは、しかし紫でなく彼女の親友の姿だった。
 出てきたのが主でなかったことに胸中で安心し、努めて冷静に普段通り振る舞おうとする。

「幽々子様、でしたか」
「随分と急いでいるようね」
「これは橙のところに……」
「天子の、でしょう?」

 再び藍の全身が冷え、続く言い訳が引っ込まされた。
 服の下が汗ばむのを感じながら固まるしかない藍に、幽々子はなだめるように微笑んだ。

「焦らなくてもいいわ、止めたりなんてしないから」

 スッと、音もなく幽々子が藍に忍び寄る。
 藍のほうが背が高く見下ろす格好だが、逆に見下されているような気分しかしなかった。

「私はね藍あなたと同じ気持ちなのよ。紫が喜ぶのはわかるけど、危ない目に遭うのは嫌」

 幽々子は藍の手を取って胸元まで引き寄せると、自分の手の平を重ね合わせる。
 人間のように体温のある亡霊なのに、藍の手に伝わってきたのは異様な冷たさ。

「だけど直接邪魔立てして紫に嫌われるのはもっと嫌だから。私にできるのはほんの少し」

 幽々子の手が離され、藍は自分の手の平に渡されたものをしかと見た。

「紫の気は逸らしておくわ。頑張ってきてね藍」
「……ありがとうございます」

 藍は受け取ったものを袖に下に隠し、腰を曲げて丁重にお礼を返すと、幽々子に背を向け白玉楼から出て行く。
 冥界から地上に向かって、金色の尾が凶星のごとく煌めいて駆け抜けた。



 ◇ ◆ ◇



「――ッハア……ハア……!!」

 冥界を抜けた天子は、苦しそうに息を漏らし、たまらず地上に降り立った。
 弾幕レースからこっち、ずっと気を張り詰めて何でもないようを装って来たが、一人になって気が抜けて我慢しきれなくなっていた。
 早鐘を打つ胸を押さえ、もう片方の手を木に突いて身体を支えようとしたが、結局木の根元に崩れ落ちる。
 だらしなく開いた口から涎が糸を引いてこぼれ落ちるのが濁った眼で見えていたが、そんなはしたない行為を止めるだけの気力も湧き上がらない。

「あの女、足掻けですって――言わなくたって、足掻いてやるわよ」

 苦しみながらも顔を上げると、また嫌なものが見えた。
 暗くなり始めた森の中に、こちらを見つめてくる眼の幻覚を認めてヒステリックな声を上げる。

「うっとうしいのよあんた! 引っ込んでなさいよ!!」

 それで幻覚は消え失せたが、視線を感じるのはそのままだ。
 いつもこうだ、常に何かに見られているような気がしてならない。

「足掻いて、足掻いて――それで、それできっとまた……また――」

 歯を食いしばって星明かりが出始めた空を見上げた天子だが、何かに気づいて神経を尖らせた。
 自らの背後、木々の間を縫って静かさの中を追いかけてくる、金色の殺気。

「要石!」

 振り向きざまに盾として作り出した要石が、鋭い爪に中程までごっそりと削られて砕かれた。
 対象を目視で確認した天子は、地面を蹴って素早く距離を取ると、緋想の剣を取り出して気質の刃を展開する。

「……外したか。幻想郷が安定したことで闘争が減ってしばらく、勘が鈍ったか」

 崩れて消えいく要石の向こうで、金色に煌めく九つの尾を揺らす妖怪に、天子は声を荒げる。

「なんのつもりよ、八雲藍!」

 先ほどまで白玉楼にいた藍が、夕闇の中で緋想の剣の輝きに照らされて、天子に妖気の灯った眼光を向けた。

「なんのつもりもなにも、お前を殺そうとしただけだ」
「この――本性を表したわね、あの性悪妖怪! しかも自分は動かず手下を送ってくるなんて、私のことバカにしやがって!」
「おっと、勘違いするなよ。これは紫様の命令ではない」

 激しく怒り狂う天子に、藍は至極冷静に人差し指を立てて指摘した。

「あの方の考えとは別に、私が私の意思でここに立っている」
「ハア? なにそれ本気!? 私が死ねば、要石も効力を失って大地震が起きるわよ。あんた紫の大事な幻想郷を傷つけてでも私を殺そうってわけ!?」

 初めて天子が異変を起こした際、緋想の剣で幻想郷から気質を集め、それを緋色の雲に変換したのだ。
 緋色の雲は地震の前兆、それが現れたということで幻想郷に大地震が起きるのを、天子が博麗神社に要石を差し込むことで鎮めた。
 見事なマッチポンプであるが、これにより天子が幻想郷の生命線を握っているのは無視できない事実。

「郷など作りなおせばいい。私には、幻想郷よりも紫様のほうが重要だ」

 だが至極当然の如く言いのける藍を見て、天子は舌打ちを漏らし剣を構える。

「……チッ、どいつもこいつもムカつくわ。あんたも、ペットを躾けられないあいつも、まとめてぶった切ってやる!」

 怒りを露わにする天子に、何を思ったか藍は急に喉を震わせて細かな笑い声をこぼし始めた。

「クク、ククククッ。よくもまあ、そんな状態で気丈に振る舞っていられる」
「はあ? 何言ってんのよあんた」

 天子の前で、藍は白い面を上げて言い放つ。

「お前……天人の五衰が起きているだろう」





 天人の五衰。

 一つ、衣裳垢膩。衣服が垢で汚れること。

 二つ、頭上華萎。死神に頭の花を萎れさせられること。

 三つ、身体臭穢。臭気を漂わせること。

 四つ、腋下汗出。脇の下から汗が流れること。

 五つ、不楽本座。今を楽しめないこと。





 これら五つは、長きに渡って生きてきた天人が死ぬ前兆であり、その際には地獄の苦しみを遥かに超える苦悩を感じるとされる。
 天子は思わず剣を下ろし、藍から指摘されたことに、動揺を隠し切れないようだった。

「何を、根拠に」
「さきほど紫様を前にしたときにボロが出ていたよ。すれ違いざまに、鼻に付く嫌な臭いがお前から漂ってきた。香水で隠しているが、あれは身体臭穢だろう? そうでなければ腐った肉のような臭いが、どんなものも腐らない冥界でするはずがない」

 無意識に天子の指先が、香水の瓶をポケットの上から撫でる。
 藍の言葉を否定することは簡単だ、所詮はただの推測に過ぎない、違うと言い切ればいい。
 けれど天子が何も言い返さないことこそが、何よりもこの発言を肯定していた。

「――ならばこそ、ここで殺す」

 推測が真実であると確信した藍は、今度こそ天子の身体を引き裂こうと、両手から伸ばされた鋭利な爪を擦り合わせて研ぎ澄ます。
 それを見て、天子も慌てて臨戦態勢を取った。

「チッ……! 死にかけの天人一人によくもまあそんなに殺気立てるもんね!」
「死にかけだからだよ」

 死が近いと言い放ったはずの少女を相手に、藍は一切の油断を見せない。
 姿勢を低くして妖獣らしい四つん這いの戦闘態勢に入った藍は、自分よりも強大な敵と相対したかのように天子を異常に警戒している。

「正直に言おう天子、私はお前が恐ろしい。死を目前にしてもなお揺らがず地に立ち、自分の欲するところを求め続ける精神の強靭さが」

 主との会話を思い出す。この際、あの時に言われたことを何もかも認めよう。
 幾度と無く紫へと立ち向かう天子を藍はずっと主を通して見てきた、そこから感じた天子の内にあるモノが藍の心を騒ぎ立たせる。
 だからこそ、藍はここに来たのだ。

「そして一番恐ろしいのは、その強さが紫様に向けられることだ! 紫様を仇なす前に、お前の息の根を止めてやる!」

 藍の身体が跳ね、一瞬で天子の視界から消え去った。
 高速で森を駆ける九尾を天子は必死に眼で追う。疲弊した状態では感覚が追いつけず、それでも勘を頼りに剣を振るった。
 天子の左後方から妖力を込めて薙ぎ払おうとした手刀を、緋想の剣が受け止めた。
 金色のオーラを手にまとった藍が、力づくて手を振るって天子を押し飛ばす。
 たたらを踏んで下がる天子が、追撃してくる藍に対して要石で防御しようと力を込める。しかし能力が発現する前に、足がもつれて尻から転げてしまった。
 疲労が目に見える天子に、容赦なく藍の爪が襲いかかった。

「死ねぃ!」

 押し寄せる金の猛獣に死を覚悟する天子だが、藍が何かを察知し天子とは逆方向に飛び跳ねた。
 その直後に天子と藍の間に、回転する緋色の衣と電撃が割って入ってきて、藍が飛び込もうとした場所の地面を穿った。

「大丈夫ですか、総領娘様!?」
「衣玖……!」

 地面から羽衣を引き抜いた衣玖は、背後で苦しむ天子に言葉をかけた。
 一休みして白玉楼を出た衣玖だったが、負けた天子を少し慰めてやろうかと思い、彼女を探してこの場にやってきたのだ。
 天子の無事を確認した衣玖は、警戒を解かないままに目の前の藍を睨み付ける。

「藍さん、これは一体どういうことです!?」
「どういうことも何も、そいつを殺そうとしているだけのことだ」

 平時は比較的温和な藍の殺意に、思わず衣玖はうろたえそうになる。

「お前は妖怪なのにわからないのか、天子の危険性に、恐ろしさに」
「恐ろしいって……一体何のことです!?」

 天子以外を傷つける気のない藍が衣玖に訴えかける。
 だが藍の感じたものを、他に伝えるのはいささか難しいようだ。

「確かに、彼女は迷惑かけてばっかりですが、なにもいきなり殺されるような!」
「違うんだ、違うんだよそういうのとは。力が強いとか智慧があるとかとは次元が違うんだ」

 衣玖に話が通じないと見た藍は、一方的に話を打ち切る。
 もう一度姿勢を低くし、まずは邪魔な妖怪にターゲットを合わせた。

「わからぬならいい、問答をしに来たのではないのだからな。怪我をしたくなくばそこをどけ」
「ど……どきません!」

 式神とは言え藍もまた大妖怪と呼ぶにふさわしい存在。その殺気を受けて戸惑いながらも、衣玖はなけなしの勇気を振り絞って天子の側についた。
 衣玖もまた敵と見定めた藍が再び駆けた。カウンターを狙って振るわれた羽衣を、藍は安々と避けて懐に潜り込んだ。
 恐らく衣玖はスペルカードルール以外の実戦を経験したことがないのだろう、動きがいつもよりぎこちなくて次の手が見え見えだ。
 藍から放たれた裏拳が衣玖の頬を叩きのめした。頭部を振動させられ目が回り、上体が崩れた衣玖を見て天子がフォローに入ろうとする。

「衣玖!!」
「お前は後だ!」

 藍は身体を反転させると、九本の尾の内から一本を伸ばして天子に横から打ち据えられた。
 丸太のような尾に吹き飛ばされた天子は、近くに生えていた樹木に叩き付けられて、音を立てて揺れる樹の根にずり落ちた。
 天子を後回しにした藍は、衣玖の持っている羽衣を左手で鷲掴みにし、そこから衣玖の身体を引きずり込み右の拳を鳩尾に叩き込む。

「ゴハッ! ゴホッ!! オェ……」

 苦しいうめき声を上げながら、衣玖は地面の上に投げ出された。
 衣玖がすぐには起き上がれないことを確認するといよいよ天子に詰め寄った。

「終わりだ比那名居天子」

 樹木に背中を預けた天子が、うなだれた顔から藍の姿を見上げる。
 予期せぬ人生の決着に急速に空気が冷え込んでいく中、ふと天子は口開いた。

「……本当は、天人の五衰が起きるのはこれで二度目なのよ」

 その言葉に藍は興味深げに目を細め、衣玖は初めて聞いた五衰という単語に倒れたまま天子に見やる。

「一度目は、私が初めて異変を起こす前。不楽本座、何もかもつまらなくなって生きる価値を失った」

 天界での人生で、天子は楽しい思い出などほとんどなかった。
 たまに命を刈り取りに来る死神との戦いを楽しいと感じるほど、絶望的な虚無の日々。
 それが続くに連れ、ただ死神がにじり寄ってくることだけを楽しみにする人生に、とうとう疲れてしまった。

「でもね、地上のことを知って、死ぬ前の最後の最後にひと暴れしようと異変を起こしたら、何もかもが激変した。心に血が通うのを感じて、あとは死ぬはずだった身体が息を吹き返した。私は喜んではしゃいだけどそれも束の間。異変が終わって少し経った頃に、また不楽本座の症状が現れた。また異変を起こせば治るかなって思ったけど、何度やってもダメだった。時間が立つごとに症状は重くなっていった。今はもう不楽本座だけじゃない、脇下汗流も、衣服垢穢も、身体臭穢もよ。頭の花を残して全滅よ」

 天子が語り終わった時には、衣玖が地面にうずくまったまま彼女に向けた顔が、信じられないと呆然とした表情になっていた。

「総領娘様が五衰……死ぬ……? そんな、馬鹿な話が……」

 それもそうだ、今日だって天子はあんなにも派手に暴れていたはずなのだ。確かに調子が悪いと苦しんでもいたけれど、立派に戦っていたじゃないか。
 それなのに、元気溌剌としていた天子が死の危機に瀕しているなどと言われても、まるでそのことを受け入れられなかった。
 藍としても、天子の話には驚愕だ。
 天人の五衰が起きているならば、もっと最近から発症したのかと思っていたのだが、それほど以前から五衰に苦しみながらも異変を起こし続けていたとは。
 そんな状態でも戦い続けるなら、さぞや生きたいと望んでいるのだろうと藍は感じたが、最後に語られた言葉は違った。

「これってね、要するに私の心が死を望んでいるのよ」

 うつむいた頭から蒼い髪が垂れ幕のように天子の表情を遮り、いつも爛々と燃えた眼が静かに濁る。彼女が必死に装って来た輝きの下から、途方も無い暗闇が浮上してきた。
 四肢から力が抜け落ち、緩んだ指の間から緋想の剣が抜け落ちそうになる。

「何かに絶望して生きていたって仕方がないから、私の心がこの身体を死の淵へ運び込もうとしてる」

 一気に生者が死人へと変貌したようだった。全身から腐臭とともに苦悩が溢れ、日が沈んだ夜の中に溶け落ちてしまいそうだ。
 その変わり用に藍は息を呑んだが、それならそれで好都合だ。

「お前の事情はわからないが、死を望んでいるというのならいいだろう。私がその死をくれてやる」

 藍の右手に妖力が集中される。矛のような爪が金色になって震え、指先が真っ直ぐに揃えられた。

「紫様をこれ以上惑わさぬうちに、ここで散れ!」

 心臓を抉ろうと藍の貫手が突き出され、咄嗟に衣玖は目を閉じて顔を逸らしたが、耳に届いてきたのは肉が潰れる音ではなく、金属がこすれ合うような金切り音。
 恐る恐る目を開けると、焦燥を浮かべる藍の目の前で、天子は緋色の輝きを湛えていた。

「でもね、私は何に絶望したかもわからず、迷ったまま死ぬのはごめんなのよ」

 剣で貫手を受け止めた天子の眼に、再び命の灯火が燃え上がる。周囲の気質が突風のように吹き荒れて蒼い髪が巻き上がった。
 気質の波に跳ね除けられて藍が一歩下がると共に、天子は身体を起き上がらせて、緋想の剣で力いっぱい薙ぎ払う。

「こ、こいつ!!?」

 上空にいくつもの要石が生成され、やむを得ず後退する藍に目掛けて即座に撃ち下ろされた。
 藍が元いた場所に要石が爆音を響かせてクレーターを作り上げる。連続した攻撃を避けるため、天子から大きく距離を取ることになってしまった。
 だがそんなことよりも問題なのは、天子が乱れた髪をかきあげて整え、目の前の障害を睨みつけてくること。

「殺れるもんなら殺ってみなさい式神風情が。あんたの主のために虫けらみたいに死んでやれるほど、私はお人好しじゃないわよ!!」

 すべてを吐露し、闇夜に沈みかけても消えぬ情熱の炎。
 死を前にして恐怖を抱いても、矜持を零さず勇気を持って前へ踏み出す天子の姿に、衣玖は自らが持ち得ぬナニカを見て、感動が胸を叩いた。

「上等だ、元々多少の損害は覚悟済みだ」
「なら起き上がれないほど徹底的に打ちのめしてやるわよ」

 勢い良く啖呵を切ったものの、状況は最初の状態に戻ったにすぎない。
 天人の五衰により初めからボロボロの体と、幽々子たち相手に負ったダメージを顧みれば状況は天子の最悪だ。このまままともに戦っていたのでは敗北は必至。
 これをどう切り抜けるか、生き残る道を探そうとする天子だったが、衣玖が緋色の羽衣をたなびかせて割り込んできた。

「ならば、私もそれに混ぜてもらいましょうか」

 さっきまで地べたを這いずっていた妖怪が、意気揚々と現れて、天子は思わず面食らう。
 藍もまた驚きつつも、すぐに牙を見せて天子をかばって前に立つ邪魔者を威嚇した。

「さっきの手加減は見逃してやるという意思表示のつもりだったんだがな。これ以上邪魔立てするなら、本気で貴様も殺すぞ」
「流石は藍さん、中々の殺気ですね。正直腰が震えそうですが、ここは引けません」

 どうしても退かない気の衣玖に、藍は苛立たしげに歯噛みする。
 この強情な態度に、天子は困惑気味に衣玖の背中へ語りかけた。

「……逃げ出してもいいのよ衣玖。別に恨んだりはしないわ」
「そんなことのためにここに立っているんじゃありませんよ。私の中で答えが出たんです」

 衣玖は天界で紫に問われた言葉を思い出す。なぜ天子を慕うのか、あの時は誤魔化したが今ならハッキリと言える。

「あなたの往く先を守らせて下さい、天子様」

 衣玖は多くを語らなかったが、それだけで並々ならぬ決意があることが感じ取れた。
 それだけで天子には十分だった。天子は口を曲げて目蓋をギュッと引き締め、目頭が熱くなるのをこらえると、再び衣玖が魂を揺さぶられたあの眼を開く。

「なら、私も全力で期待に応えてやるわよ」

 どちらにせよ衣玖が殺し合いという場では藍には勝てないだろう、だが取れる選択肢は大幅に増えた。
 少しでも可能性のある方へ進もうと、天子は取っておきのカードを切ることにした。

「――出でよ緋想天」

 重々しく呟き、天子は緋想の剣を逆手に持って大地に突き刺した。
 その瞬間、大地は突き上げられた机のように大きく跳ね上がり、それに伴って腹の底を揺らす凄まじい地鳴りが周囲に響き渡った。

「ぬおっ!? 地震か!」

 地面に押し上げられて崩れた体勢を取り戻す藍だが、天子はこの期に追撃を仕掛けてこようという気はないようだ。衣玖も同様に、立ち塞がったまま成り行きを見守っている。
 地震はその震度を落としながらも止まることなく揺れ続けており、これが攻撃のためのものでないとすれば、一体何のために起こしたのか。
 だが周囲の地面から間欠泉のように緋い霧が噴出し始めたことで、その疑問は氷解した。

「霧……これが狙いか!?」

 霧が噴出しているのは三人の周辺だけではない、四方数里にまで渡って同様の現象が起き、それらは地震で揺れる大気を更にかき乱し、うねりを上げながら台風のように渦を巻いて、決死を競うこの場所へと集まってくる。
 天子が普段からやっている人の本質を利用した天候操作とはまるで違う、何か心臓に圧し掛かる重々しい異様な雰囲気に藍は上空を仰ぎ見た。
 妖気を帯びて瞳の中で揺れる殺意の輝きが、そこに集まる光明に押しのけられた。

「緋色の……雲……!!」

 夜空に光を伴って二人の頭上に集うのは、天子が最初の異変でも密かに作り上げていた緋色の雲だった。
 この雲は本来は地震の前兆に過ぎないはずだ。天子が神社に要石を挿すことで消え去ったが、何故ここでまたそれを出現させたのか。

 ――用意周到なあの娘のこと、もしもの時の切り札くらいは用意してるでしょう――

 藍の脳裏に、紫から語られた言葉を思い出す。もしやこれが主をも警戒させた、天子が隠し持つ切り札ではないのか。
 だが今はただの緋色の雲の塊にすぎない。ここから何かを発動させる前に潰す、そう藍が判断したのは、天子にとってもまた予想通りであった。

「さあ、勝負どころよ! 私と共に来る気があるのなら、時間を稼いでみなさい衣玖!」

 計算を済ませ地面を蹴って突撃する藍と、命令を下す天子。
 両者に挟まれた衣玖は天子の目的が見えずわずかな混乱を生じさせながらも、身体は驚くほど従順に動いた。

「――承りました、天子様」

 地面スレスレを滑るように飛ぶ藍の前に、今一度羽衣を腕に巻いて躍り出る。
 それを見届けて、逃げ出す体力もない天子は樹木に背中を預け、戦いの成り行きを見守った。

「永江衣玖! もはやその生命ないものと思え!」
「藍さん、あなたが何故あの方を、敵視するのか理解できました。あなたが、妖怪が、天子様を恐れる、もっともです」

 対決の寸前、言葉を交えた藍には衣玖から迷いが取り払われた理由がわかった。

「ですが、だからこそここは退けません」
「そうか、お前――私と逆か」

 恐れた者と惹かれた者。
 相反する感情を抱いた両者が、敬愛する者のためにここに揃った。

「ならば紫様より授かったこの式で!」
「龍神様よりお借りしたこの力で!」

 使うは切り札。互いに相手の手札に対応しやすいよう空に飛び上がった。
 木々の上空で対峙した二人は正真正銘の必殺を狙い、スペルカードルールという枷を外し、自らに与えられた力のすべてを開放する。

「幻神、飯綱権現降臨!!」
「珠符、五爪龍の珠!!」

 力が荒れ狂い、夜空が白く瞬いた。
 両者とも通常のスペルカードを流用しているものの、放出される弾幕はどれも相手を死に至らしめるのに十分な力が込められている。
 八雲藍が使ったのは、主のスペルである『生と死の境界』と同種のもの。本来はダメージとともに激しさを増していく形式のスペルカードであるが、ルールを無視した今、最初からすべての弾幕が放射された。
 対して永江衣玖が腕に巻きつけた羽衣から使う力は龍神から賜ったもの。はるかに自身の力量を超えた力である故、スペルカードルール内ではコントロールしやすいように大幅に威力を落としており最強の札ではないが、すべての制限を外したならば、これが衣玖の持ちうる最大火力であった。
 全周囲に放たれる色とりどりの弾幕と、五芒星を模した雷がぶつかり合い激しい閃光がほとばしる。

「うわーお。やるじゃん衣玖のやつ」

 上空で弾ける稲妻を眺めて、天子が感心して声を上げた。
 よくやってくれるやつだと、逆光を受けた衣玖の背中を見ながらしみじみと思う。
 こんな気難しい自分に連れ添ってくれて、この身が死にかけになっても尚こうして付いてこようとしてくれている。

 なんて、ありがたい。

「……ま、友達には恵まれたかな」

 深く帽子をかぶり直した天子の前で繰り広げられる戦いで、優勢なのは衣玖だった。
 お互いの中間点でぶつかり合っていた二人の弾幕の境界が、次第に藍の方へと近づき始める。
 藍が師事する八雲紫がいかに強大であってもあくまで妖怪なのだ、彼女の式では龍神の力を上回ることはできない。
 しかしだからといって、衣玖が絶対有利とは言えなかった。

「くうっ――!」

 うめき声をもらした衣玖が苦しい表情を浮かべる。
 敵に向けてかざされた衣玖の両腕は、羽衣から発せられる電撃によって焼け焦げ始め、異臭を放ち始めていた。
 龍神の強大な力を全力で行使するには、衣玖の存在は矮小すぎた。
 制御しきれない力に両腕を焼き切られそうになりながら、それでも衣玖は歯を食いしばって一歩も引き下がらなかった。

「まだ、まだぁ!」

 脳裏に浮かぶのは、先ほどの天子の姿。
 四苦八苦に苛まされて、それでも全力で生きようとするあまりに強すぎる生き様。妖怪にはない、先へ向かおうとする人としての強さ。
 妖怪でありながら衣玖はそれに惹かれてしまったのだ、あんな風に生きてみたいと思わされてしまったのだ。
 そう思ってしまったが最後、もはや彼女に後退の二文字はありえなくなった。

「天子様が生きるというのなら、私もまたそれを全力で支えます――全力で!」

 呼び名を変えた意味。自身が尊敬した相手を守るため、両腕の負傷も物ともしなかった。しないつもりだった。
 だが、綻びは確実にあったのだ。

「――見えた」

 稲光と共に衣玖の腕が焦げつく一瞬、弾幕の一部がわずかだが崩れた。
 使命に燃えながらも冷静な頭でその隙を逃さなかった藍は、弾幕の一部をその綻びに向かって集中させる。
 ヒビに杭を打つように、綻びの周辺にある弾幕を打ち消し穴を作り上げた。
 それは本当に小さな穴だった。尻尾も含めれば体格の大きい藍には入りきれず、わずかにでも脇に寄れれば龍神の力にやられ即死、完璧に穴に飛び込めても間違いなく無傷ではいられず、更に穴を抜けても衣玖の元まで道が続いている保証はない。
 だが敬愛する主への献身が、藍を迷わずその穴に飛びつかせた。自身の弾幕を目眩ましにして、稲妻の合間を縫って体を削られながらも前に出る。
 美しい金毛の尾を中程から焼き切られて失い、全身に感電からくる煙を吹き上げさせながらも、その身を衣玖の真正面に現した。

「ぬかったな、永江衣玖!」

 弾幕を抜かれたことに気付いた衣玖が羽衣をかざそうとするも遅い。長さが不揃いになった九つの尾が、藍自身の回転によって巨大な槌となって衣玖の頭上から襲いかかった。
 柔らかそうな尾は外見からは考えられぬほどの強度を持ち、咄嗟に防御しようと前に出された羽衣ごと敵を叩き潰した。
 衣玖の身体は撃ちだされた弾丸のように落下し、地面へうつ伏せに叩き付けられ大きな音を辺りに響かせた。

「ガハッ……!」

 大きな衝撃に胸の内の空気を吐き出させられ、意識朦朧としながらも衣玖は藍を目で追っていたが、もはや戦うどころか起き上がれる状態ですらなかった。
 戦いの中、衣玖は自分の体をおもんばかった。両腕を失うことに躊躇した。
 対する藍は押されながらも冷静に隙を探し、ほんの少しまかり間違えば死ぬ弾幕の道を突き進んだ。
 雲を漂うばかりだった龍宮の使いと、地上で揉まれてきた九尾の戦いにおける経験の差、そして何よりも身を差し出すほどの覚悟がこの戦いの勝敗を分けた。

「だが……私もここまでやれるとはな」

 地に倒れる衣玖のそばに、藍も落ちるように降り立って膝をつく。
 正直なところ衣玖が天子のために、両腕のリスクを負ってまで戦おうとするとは予想外だった。
 借り物とはいえ龍神の力によって藍もまた手酷い傷を受け、焼けて千切れた尾を始め、全身から激痛が走って動きが止まりそうになる。
 だが戦いはこれで終わりなわけがない、藍の目標は初めからただひとつ。

「比那名居天子ィイ!!!」
「来るか……!」

 地面を蹴って突撃する藍を前に、天子は身を起こして迎え撃とうとする。

「天子様、逃げて!」
「ありがと衣玖、あとは私の見せ場よ」

 這いつくばりながら叫ぶ衣玖に、体を蝕む五衰に苦しみながらも不敵に答えてみせる。
 衣玖は頑張ってくれた、切り札の完成には残り数秒ほど、この一撃をしのぎ切れば勝利は目前だ。
 この期に及んで地面の振動は邪魔なだけだ。能力で地震を止めると天子は迎撃を開始する。

「要石ィ!!!」

 先程のように上空から要石が降り注ぐ。だが今度の藍は後ろには下がらず、神速とでも言うべきスピードで前に進みながらすべての要石を回避する。
 ミサイルのように狙ってくる要石を振り切って、藍が今度こそ心臓を貫こうとした瞬間、これを読んでいた天子が自身の眼の前に要石を撃ち降ろして壁とした。
 突如進路を塞ぐ石塊を、藍は妖力を漲らせた右手で刺し貫く。
 粉砕された壁の向こうから現れたのは、緋想の剣を顔の高さに持ち、切っ先を前方に構えた天子の姿。

「うおぉぉりゃああああ!!!」

 天子が踏み込み、緋想の剣が藍の胸を狙って突き出される。
 今の藍を相手に生半可な策は通じない、だからこそ天子が挑んだのはギリギリのカウンターだ。
 突き付けられる剣を見て致命傷を受ける未来を予想する藍であったが、しかしそれもまた覚悟の内だ。

「申し訳ありません、幽々子様」

 本当はこの力は使いたくなかった。敬愛する主とその親友の友情にヒビを入れるようなことは避けたかった。
 だがもう手段を選ぶ余裕がない、今使わねば狩られるのはこちらの方だ。

 要石を砕いて突き出された藍の右手、その袖の下から黒い力が飛び出したものを、天子の眼が捉えた。

 蝶だ。

 それは幽々子が藍に渡したもの、死を操る能力を結晶化させて作り出した力の塊。
 発動したが最期、あらゆる命の灯を飲み込む死そのものだった。
 命あるものにとって絶対の不吉が羽ばたき迫ってくるのを見て、天子もその性質を衝突の直前の一瞬に理解した。

 不味い避けねば、だが自ら飛びかかったこの状況、身体の反応が追い付かない、駄目だ、いやなんとかしなければ、死の深淵はすぐ眼の前に。

 死ぬ――――

「――――カハ……ッ」

 死んだ、本気でそう思って、縮こまった冷たい肺からかすれた息がこぼれる。
 だが実際には死んではいない、まだ生きている。緋想の剣を突き出しながらも、前に出された右足が大地を踏ん張り急停止したところで天子の身体は固まっていた。
 眼の前にあるのは死で作られた蝶でなく、青い幕をかざすしなやかな手。

「ゆか……り……」

 長い金色の髪の毛、闇夜に映える透き通るような白い肌と暗闇に沈む紫色の衣装、そして妖怪の賢者として他を圧倒する底知れない空気を纏う彼女を前に、なんとかその名をひねり出せた。
 たった今、激突しようとした天子と藍のあいだに凛然と立ち、その攻防を止めたのは紛れもなく天子が敵と見定めた八雲紫だった。
 スキマから突然現れた紫は、自身の右側から飛ばされた死の蝶を四重結界を張った左手で、同じように左側から突き出された緋想の剣を右手の結界で、大きく両腕を広げた状態でそれぞれ受け止めた。
 強力な結界に阻まれた蝶は、四枚ある結界のうち三枚を溶かし尽くしながらも、紫の手の平を越えることができず煙を噴いて霧散していった。

「紫、様……」

 藍も動きを止めて主の名を呟く。助けられたのは天子だけでなく彼女もだ。
 もしここで紫が止めに入っていなければ、緋想の剣はそのまま藍の身体に突き刺さり、込められた気質が弾けて内臓器官を完膚なきまで破壊しつくしていただろう。

「この勝負、ここまでよ」

 紫は結界を張った右手で緋想の剣を押し戻し、二人の距離を遠ざける。
 天子はのけぞり、たたらを踏んで後ろに下がった。
 戦っていた両者の距離が開けられるのを、うつ伏せで倒れながら見ていた衣玖は、安堵して地面に額を擦り付け、傷付いた身体を休ませる。

「紫さん……よかった、助かりましたか……」

 どうやらこの一戦は、紫の登場で終わりを迎えそうだ。
 けれど安心する衣玖とは違い、天子と藍の両者はまだ身体から警戒を解かせれないでいた。
 その肉体はむしろ緊張を増し強張らせたまま固まってしまっている、その警戒は先程までの対戦相手に向けられたものではなく、そのあいだに佇む妖美な女性へのものであった。
 助けられた天子も、従者であるはずの藍も、八雲紫唯一人を前に身構えていた。

「藍」

 紫の口からただ一言名前が出た、それだけで他の二人は全身が粟立ち腰が引けた。
 倒れたままの衣玖もまた悪寒を感じ、緊張した面持ちで顔を上げる。
 それだけの不吉な予感が言葉に、そしてかのスキマ妖怪には備わっていたのだ。

「私はね、怒っているのよ」

 張り詰めた無表情で、唇の端を指でなぞって歪ませた紫が、藍の元へと一歩踏み出した。
 紫が近付いた途端、冷気のようにも感じるものが足元から藍の身体を包み込んだ。端から見ていた天子も、胸の奥底から這い出てきた奇妙な感覚に剣を取りこぼしそうになった。

 恐怖、この場ですべてを支配しているのはそれだった。

 その穏やかな眼を向けられるだけで金縛りのように身動きできなくなる。声を掛けられれば雑巾をしぼるように身体がすくみ上って覚えて息が詰まる。優しげに微笑みかけられれば、全身の血が氷に入れ替えられた感覚が身を包み、心臓が止まったとまで思わされた。
 これが他の妖怪とを隔絶する力、八雲紫が彼女たる所以、あらゆる存在を縛り上げる圧倒的なまでの恐怖こそが、彼女の持つ真の力だった。
 山をも動かす腕力だとか、自在に世界を操る能力だとか、そんなものはチャチな小手先のものだと思い知らされる恐怖のカリスマ。これに比べれば、藍が天子に抱いていた恐れなど子供の戯れだ。
 紫の視線が、何気ない言葉の一つ一つが、あまりにも幽雅で見惚れるような一挙一動が、そこにいるものの奥底から恐怖を引き出して、心を潰しかねないプレッシャーが圧し掛かった。

「いけない子ね、私の言いつけを破って断りもせずに手を出してしまうだなんて」

 いつもは胡乱げな態度の下に押し隠していたものを発現させ、薄い笑みを浮かべた紫が、ゆったりとした動作で藍の元にまでやってきて彼女の肩に手を置いた。
 だが藍は何もできない。視線は動かず紫が元いた一点を見つめ続け、肺は凍り付いたように機能を止め、肌の上に冷汗一つ出す権利すら踏みにじられていた。
 肩の上に乗せられた指で、積み木を崩すように自分の全てを壊されてしまうのではないかと怯えながら、耳を塞げずただ紫の言葉を聞くしかなかった。

「いつ熟すのだろう、早く早くと楽しみにしていた果実を、まだ青いうちに横からかっさたわれたような気分だわ。これで天子が死んでいたりでもしたら、あなたを八つ裂きにしてその首を身体から引き抜いたかもしれない」

 耳元に囁かれた発言を聞いて、ああ何て素晴らしいことだろうかと藍は思った。
 この恐怖の支配から解放されるなら、それが死と言う結末であろうと望外の喜びだ。
 いっそ自分の手でこの首をかきむしりたかったが、この折れた心ではそれも叶わない儚い夢であった。

「でもね、私は優しいからあなたの気持ちもわかってあげるわ。天子が私の胸に剣を突き刺さないか、それが心配だったのよね?」

 深淵を覗き込むように、藍の瞳をじっくりと見やった紫は、何もすることなく肩から手を離して寛大な態度で引き下がった。

「許しましょう藍。私はもうあなたのことを怒ってはいないし、自由にしていていいのよ」

 そこでようやく藍は体の自由を取り戻した。
 膝は簡単に折れて地面にへたり込み、身体中から汗がにじみ出て服が体にべったりと張り付いた。
 力を取り戻した胸が暖かな空気を取り入れようと必死に上下し、意識が遠のきそうな状態で、息も絶え絶えに口から言わなければならない言葉をひねり出した。

「あり……ありが、とう……ございます……」
「あらあら、お礼だなんて大げさね藍ったら」

 それは過剰なまでの屈服を示す屈辱的な言葉であったが、本能と理性のすべてが藍にそれを言わせた。瀕した心はそう言わざるを得なかった。
 久しく忘れていた、主が持つおぞましい力を。これがあるからこそ、藍は主に敬服し仕えることとしたのだ。
 藍が生きる心地を取り戻すのを眺めていた紫は、振り向いて次にその顔を天子へと向けた

「あなたも、そんな身体でよく頑張っているものね天子」

 すでに紫の顔には余裕が戻りつつあったが、未だ他者の心を蝕む強力な妖気に満ち、天子は声をかけられただけで恐怖の残り香に絡め取られてしまった。
 いつものように不満を口にして拒絶したいと願うが、身体の奥の肺は恐怖に縛られ微動だにしてくれない。

「疲れたでしょう? 私が直々に慰めてあげようかしら?」

 紫が頭を撫でようと伸ばしてきた手を見て、天子の全身の細胞が悲鳴を上げ悶え苦しんだ。
 あの手の平から感じつプレッシャーに、嫌悪感が駆け抜けて脳天を掻き回す。
 近づいてくる柔らかな身体に剣を突きつけようとしても、剣が持ち上がらない。
 せめて逃げ出したくて、天子は必死に頭のなかで唱えた。

 動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け――

「――あっ?」

 突如口に溢れた熱にようやく天子は声が出た。
 呆気に取られて紫から足元へ眼を逸らし、地面に落ちた赤い雫に現状を理解すると、それは止まらなくなった。

「が……あぁあ……おおおぉぉぉぉぉ!!!」

 地の底にうごめく怨霊と聞き間違えるような悲痛な叫び声が、天子の小さな体から上がり、胃の底から湧き上がってきた多量の血液がうつむいた顔から滝のように流れ落ちる。
 ドロドロとした液体が喉を逆流する気持ちが悪い音が辺りに響き、地面の上にドス黒い血の花が出来上がった。
 血反吐は冥界で吐血した時より遥かに量が多く、それどころか喉を抑えながら気持ち悪そうにあえぐ天子の頬を血涙までもが流れ落ち、血だまりの上に身体が崩れ落ちる。
 身体をビクビクと痙攣させながら、悲鳴を上げ続ける姿を見て、紫は残念そうに口を結ぶ。

「ぐぁ……あ、ぎあぁぁぁぁ……!!」
「わざわざ自分から苦しんででも私から逃げようだなんて、寂しいじゃないのもう」
「て……天子様!」

 そのあまりの様相に見ていられなくなった衣玖は、震える手足で起き上がり天子の傍に駆け寄ろうとした。

「はい、あなたは邪魔しちゃ駄目。そこで固まってなさい」

 紫はその姿を見向きもしないまま、そんな衣玖の手足を結界で縛り上げ動けないようにしてしまった。
 自由を奪われ再び地面に転がった衣玖は、頭上の紫を見上げて食い下がる。

「ゆ、紫さん! あなたは天子様に何をしたんですか!?」
「あら、これ自体は私がやったことじゃないわよ、天子が勝手に苦しんでるだけ。そもそも五衰の相が現れ死に瀕した天人が、身体に何の異常もきたさないとでも? 彼女の身体は、どんな病魔よりも悲惨な痛みに苦しめられていたでしょうね。その一部はあなたもすでに見ているでしょうに」

 衣玖は天界で羽衣の攻撃を食らった天子が、苦しげにしていたのを思い出す。
 それどころか天子は、本当はずっとこの苦しみを背負いながら何度も異変を起こし、戦い続けてきたのだ。
 長い時間を掛けて蓄積された苦痛が濁流のように溢れだし、無理をしていた身体を飲み込む。

「天人の五衰の苦しみは地獄の十六倍と言うわね。誇張表現も甚だしいけれど、彼女ほど業の強いものならあながち間違いでもないかもしれないわ」
「て、天子様、しっかりして下さい! 天子様!」
「もう、あなたはしばらく黙っておいて頂戴ね」

 無慈悲に笑いかけた紫が、今度は衣玖の口元を結界で覆う。
 衣玖は無様に横たわったまま、呼びかけることすら不可能となった。

「ンー! ンンーッ!!」
「せっかく面白いことになりそうなんだから。ここからは私と天子の時間よ」

 連続した戦闘によるダメージ、そして何よりも本質を露わにした紫から受けた精神的衝撃が、とうとう天子の心を打ち崩した。
 悲鳴とともに天子が苦しみ続けるその様子を、紫は気味の悪い笑みで眺め続けていた。

「おぉぉぉ、あああああああああああああああああああああああああああああああああ――――!!!!」

 想像を絶する苦しみは終わりを見せなかった、苦痛の中ではたった一秒が何日にも感じられた。
 右も左も前も後ろもわからない、自分が誰でここがどこなのか、何もかもがいっぺんに吹き飛んでしまった。
 すべてを失っていく天子の心に、最後に浮かび上がってきたものがあった。

 それは記憶の底に封じ込めた、忌まわしい過去。
 あの博麗神社の落成式で、紫に受けたあの仕打ちを。






「小賢しい天人如きが、空の上だけで満足していれば良いものを、この幻想郷に手を出して良いと思っていたのかしら?」

 幻想郷を一望できるほどの高さにまで、地面を隆起させて作ったバトルフィールド。
 落成式に来ていたギャラリーのいないこの場所で、一対一の決戦を臨んだ天子だが、容易く紫に打ち破れてしまった。
 それどころか、天子はその時、死の恐怖を感じ取っていた。

「ぐ……あぁ……」

 うつ伏せで倒れていた天子が紫を見上げて、絶望の顔を浮かべる。
 紫の顔に浮かぶ、まるですべての感情が吹っ飛んだ無を体現したかのような虚ろな表情。あまりに生気のないそれに、黒い泥の塊でも見ている気分になった。
 だがそれは決して紫が何の感慨も持っていないからではない、激しすぎる怒りに胸の中をかき回され、表情に表すことすら出来ずにいるだけだ。

「私はね、この幻想郷を愛しているの、その気持の大きさがあなたにわかる? それをあなたのような羽虫に汚された気持ちがわかる?」

 ぞっとする声だった。言葉だけですべての尊厳を失ってしまいそうな、災厄のような声だ。
 紫から溢れた怒気は天子の心に突き刺さり、精神を穿つ。
 恐怖に硬直しているが、それが解ければ今にも身体を抱えて震え出しそうな天子を、紫は無造作に足を振り上げて蹴り飛ばした。

「ぐはっ、お、おうぇ!」
「いい声ね。いつまでも聞いていたいわ、あなたのその情けない悲鳴」

 爪先が腹にめり込み、激しい吐き気に苦しみ漏らしたうめき声に、紫の表情が快感に歪む。
 本来血なまぐさい闘争を弾幕ごっこという遊びに落としこむためのスペルカードルールだが、あろうことか幻想郷の管理者である紫自身がこれを破り、天子に殺意を叩きつけてきた。
 すべてのスペルを破られて、力を失って地面に倒れ込む天子を、なおも紫は傷めつける。
 天子は戦いを邪魔されないように戦いの場を変えたが不味かった。誰の目も届かないこの場所では紫は好きな様に振るまえる。

「私は人生を通してたくさんの者を愛し、尽くしたわ。その献身をすべて無駄にされたかもしれないと思うと、あなたの魂を八つ裂きにしてもまだ収まらないわ」
「な、なにが献身よ、どうせ自分のためでしょ!?」

 言い返した天子の脇腹に、またもや足が打ち据えられた。
 地面の上を天子の身体が転がり、緋想の剣を手放してしまう。

「……気に入らないわね」

 毒づいた紫が、更に天子を蹴っ飛ばして、鈍い音と共に短い悲鳴が空に響く。
 ボールのように遊ばれた天子は、隆起した地面の端にまで転がって行き、そこで紫に髪の毛を乱暴に掴まれて頭を引っ張られた。

「ぐぅ……っ!」
「この景色が見えるかしら? 素晴らしいでしょう?」

 強引に顔を下に向けられた天子の眼に、大きく広がる青々しい大地が映る。
 幻想郷。天子が惹かれ、ここで生きたいと思った、活気溢れる素晴らしい楽園。
 だからこそ、天子はここで異変を起こし、誰も自分を離せないように要石を埋め込んだのだ。

「これらは私が作り上げたもの。私の愛する者たちが消えないための、私の愛する者たちのための楽園。これらすべてが私の愛する可愛い子供たち」

 大いに自慢して悦に浸っていた紫は、再び表情を消して、持ち上げた天子の顔を地面に叩き付けた。
 うめき声すら出せないその顔を、なおも地面に擦り付けると、紫は空いている手の指で口元をなぞった。

「博麗神社は、この幻想郷の要よ。まあだからこそ狙って乗っ取ろうとしたのだろうけど、ここを狙うことは幻想郷を奪うことも同然」

 十分に天子を貶めた紫は、掴んだ頭を隆起した大地の内側に放り投げた。
 乱暴に手放され仰向けで倒れた天子が、力を振り絞って立ち上がろうとするが、上半身を持ち上げたところで紫の視線を受けて、完全に力を奪い取られた。

「私の大切なモノを侵略された怒り、この程度で収まるとは思わないことよ」

 そう言ってこちらを見下す紫の眼は、どこまでも深く昏く、こちらのすべてを飲み込む深淵のような眼だった。
 恐ろしさに息を忘れ、眼を離して逃げることすらが出来ない。
 間違いなく、こいつはここで自分を殺す気だ。異変を機に生きる活力を取り戻した天子には、それは何よりも恐ろしかった。
 その時、わずかに震えた右手の指先に、転がっていた緋想の剣が触れて我に返る。
 すぐさま緋想の剣を掴みとるが、その手の上に紫の踵が降ってきて踏みにじった。
 走る痛みに右腕を押さえ、天子は紫を見上げて苦しみながらも辛うじて口を開いた。

「わ、私を殺せば、要石の効力が消えて大地震が……」

 そうだ、要石はこれを狙ってのものだった。
 要石が地震を抑えている限り、幻想郷全体が天子の人質だ。
 だが紫はそんな策略を鼻で笑い飛ばし、馬鹿にするように天子の顔を覗き込む。

「それが何? 地震が起これば確かに幻想郷は傷つく。でもそれですべてが終わるわけではない、いずれは傷を癒やして復興していけるわ」

 お前の策などすべて無駄だと言い放たれて、天子は今度こそすべての望みが絶たれた。

「私が愛し、私が育てた幻想郷を舐めないことね」

 完敗だった、自分の持つ何もかもが通用しない。
 敗北感に包み込まれる天子の左胸に、紫がスキマから取り出した日傘の尖端が食い込んだ。

「死ね。せめてあなたの死で私を慰めなさい」

 突き付けられた傘の先に妖力が集まるのを感じる。それはすぐにでも放たれて天子の心臓を貫くだろう
 目前に来た死の感覚にどうすればいいかと考えるも、すべてを打ち砕かれて何も思い浮かばない。
 抗いようのない結末に、身体中に熱が吸い取られていく。

「――ハァッ……ハァッ……」

 だがそれでも、天子は震える手で突き付けられた傘を握りしめた。
 ピクリと眉を震わす紫に見下されながら、眉を折り曲げ泣きそうな顔を相手に向けて口を開く。

「あんたなんかに、死んでも負けてやるもんか……!」

 今にも消えてしまいそうな哀れな反抗心。
 しかし紫が再度剣に伸ばされた右手を踏み付け、傘の先端に妖力を集中させて握った左手を焼き付かせても摘み取れない。
 あまりに弱々しいのに、決して潰えない心。

「――面白いわ、あなた」

 口端を吊り上げた紫が天子の右手から踵を外し、傘を引かせた。
 逃げてゆく傘を引き止める力もなく、天子もまた握りしめていた手を解く。
 だが安心したのも束の間、振るわれた傘が天子の頭部を横合いから叩き飛ばし、宙に浮いた身体が反転して地面に倒れる。

「ガッ……いったぁ……」
「考えてみれば、ここまで怒り狂ったのは初めてね。不自然だわ、これ以上の屈辱も過去にあったのに……ふむ……怒りを覚える怨敵……まあ余興くらいにはなるかもしれない」

 倒れた天子の髪の毛が掴まれ、紫の視線と同じ高さまで持ち上げられた。
 無理矢理向けられた視界が、人の恐怖を喰らう妖怪の眼と向き合って天子は思わずたじろぐ。

「今日のところは見逃してあげるわ。でもよく覚えておきなさい、今後あなたがまた何かしでかしたら、必ず私が現れる。あなたの望みのすべてを打ち砕く」

 すぐ近くまで寄せられた紫の顔から囁かれた声が、天子の耳元をおぞましく犯していく。
 冷淡な声に天子は心臓を鷲掴みにされ、言い返すこともできない。
 何かの妖力がこもったわけではない、ただの言葉による束縛。もっとも原始的な呪いが、天子の心に埋め込まれる。

「暗がりを見れば、その中に私がいると思いなさい。あなたは決して逃れられない。世界の隙間から、ずっとあなたを見ているわ」

 恐ろしい宣言に、天子の身体が小さく震え、わずかに喉の奥から悲鳴が漏れた。
 呪文が挿し込まれたのを確認した紫は、もう十分だと判断して天子の髪を手を離す。
 日傘を開いて、地面に横たわって身を震わす天子からようやく離れて行く。

「けれどもし、あなたがその苦悩を超えようとするならば」

 人してのあらゆる尊厳を奪い取られ、震えるしかない天子は苦しみながら顔を上げる。
 紫は嬉しげな表情で薄っすらと笑って見下していた。

「その時は、また私と相見えましょう」






 それが比那名居天子の最も底にしまわれた屈辱の記憶。
 どうしようもない絶望と恐怖が、にじり寄る死に苦しむ天子の心を砕いた。
 だがそれでも、許容しがたい敵意にすべての尊厳を踏みにじられ存在を否定されながらも、天子の心に残ったものがあった。

 ――生きたい――

 激流の中で唯一思い浮かんだそれこそが、再生の起点であった。
 天子は気が遠くなるような時間をたっぷりと苦しみ抜きながらも、その中でバラバラに引き裂かれた心を必死にかき集め、少しずつ自分というものを取り戻していった。
 生きる、ただそれだけの旗のもとに、彼女の意識が集まる。
 そこからはあまり時間もかからなかった。恐るべき速度で自我を修復させ、天子の眼に意志が戻ってきた。

「うっ……ぐぅ……」

 瀕死の身体に走る苦痛はまだ残っていたが、とりあえず意識は取り戻せた。
 目の前に映ったものが未だ残った緋色の雲に照らされた血濡れの大地だと気が付いた天子は、痛みに消されないように心を保ちながらまず自分の身を把握しようとする。
 五衰のことを除けば五体満足だが体は血まみれ、右手には剣は持ったまま地面にうつ伏せで倒れていたようだ。
 傍に落ちていた帽子を拾って頭に被せると、地に腕を突いて起き上がろうと前を向いたとき、まだ紫がそこにいることに初めて気が付いた。

「あ……あぁ……ゆ、ゆかっ」

 紫の気は静まったようで、先程のような威圧感は消え去っていたが、それでも思わず逃げ出そうとして尻もちをついた。
 そんな天子に向けて、紫は気にせず語り掛けてくる。

「今のあなたは、精神力が限りなく零に近付いている。この状態では表層意識は力を失い、普段は隠している無意識下に潜んでいた感情が浮き上がってくる」

 転んだまま座り込んでしまった天子は、雪の中に放り出された童のように身を震わせ、自らの肩を抱いて竦み上がる。
 眼の奥で瞳孔が大きく開き、口元からは歯と歯がぶつかってカチカチと音が鳴るこれは、先程の藍と根本的に同じものだ。

「そう、怯えているのね、私を恐がっているのね天子」

 藍が紫に恐怖し動けずにいたように、天子もまた紫に恐怖し震えてしまっていた。
 だがこの恐怖は、今さっき与えられたものではない、ずっと天子のうちに眠っていたものだ。
 もっと以前に、あの神社の落成式の日に、初めて紫に会った時から植え付けられていたもの。

「あ、あぁ……こんなの、が……」

 天子は自分の身を包む寒気に驚いていた。
 こんな巨大な感情に、今まで自分は忘れて生活していたというのか。
 いや、忘れていたというのは間違いだ、眼を逸らしていたに過ぎない。この恐怖は今まで片時も離れず胸の内にあり、精神を蝕み、汚し辱めていたと言うのに、自分の愚かさに反吐が出る。

「藍から聞いたわ、あなたを苦しめる天人の五衰は不楽本座から始まったそうね。ああ、当然だわ――そんなに怯えていては、何も楽しむこともできないに決まってるじゃない」

 哀れむように言葉をかける紫が足を踏み出す。
 気付いた天子が逃れようともがくが、すっかり腰が抜けてしまったようで、脚に力が入らず立ち上がることすらままならない。
 藍との戦いで完成した切り札のことが頭にチラついたが、怯えた心ではどうしてもそれを使うこともできなかった。
 右手に握る緋想の剣も持ち上げられず、左手を振り回して追い払おうとするがやはり無力であり、紫は天子の前で腰をかがめると大きく腕を開いた。

「や、やめ……近寄らな」
「あぁ、可哀想な天子、こんなに怯えてしまって。あなたのそんな姿を見て、私も胸が痛むわ」

 紫が天子の身体を包み込むように抱きしめると、湿った血糊が擦れてドレスを汚したが、彼女は構わず頭を優しく撫でてあげた。
 傍目には温かな抱擁にも見えるが、天子からすればその対極だ。
 蛇に睨まれた蛙どころの騒ぎじゃない、大口を開けて飲み込まれ、狭苦しい胃袋で今にも溶かされてしまいそうな気分だ。

 結界に縛り上げられたまま動けずにいた衣玖は、涙を流した悲壮な表情をして、恐怖に取り込まれていく天子の姿を見ていた。
 彼女が精神的に追い詰められていくのは、美しい宝石を粉々に打ち砕かれてしまったような、絶望的な気持ちだった。

 ずっとそこにいてその様子を脇から見守っていた藍は、天子に同情して苦い表情を浮かべていた。
 主の恐怖は一番よく知っているのだ。気の毒だが、ああなってはもはや逆らうことはできないだろうと確信し、哀れみの視線を送った。

「うふふ、でもね安心して天子。私はこれでもあなたのことをとても気に入ってるのよ? あなたをその苦しみから解放してあげる」

 抱擁を解いた紫は、うつむいた天子の顔を両手で挟んで持ち上げると、正面から覗き込んだ。

「私に服従しなさい、そうすればあなたに危害を加えないと約束するわ。五衰なんてものに悩まされない妖怪の身体と、八雲の名を与えて私の家族としましょう。ずっと私の傍で、私を支えて頂戴」

 天子にはそれはとても魅力的な話に思えた。
 すでに自分の身体はもう死の淵に立たされている、明日も知れぬわが身が妖怪の肉体を得て生き永らえられるなら、それだけでも十分な利益だ。
 そして八雲の名を渡されるとその意味。紫は今言うように本当の家族として天子を扱うに違いない、そこには確実な安全と安心があるだろう。
 無論問題がないわけでもない、妖怪の身体では人間を喰わなければ存在を維持できないだろうし、下手に暴れたりすることは制限されると思われる。
 だがそれらの不利益を塵のように思えるほど、心は恐怖からの解放と安寧を欲していた。

「ずっとずっと、愛してあげるわ天子」
「わ、た、し、は……」

 苦痛と苦悩でグズグズになった脳がまともに機能を果たせないまま、いくつもの思いが浮かんでは消え、浮かんでは消える。
 走馬灯のように過去の経験が駆け抜け、迷いに迷い果てた先、とうとう思考さえも放棄してしまった時、すべてはあるがままに成った。
 無意識のうちに天子の面が上がり、虚ろな眼が紫の顔を捉えると大きく体をのけぞらせた。

「ッざけんじゃないわよ、ドグサレババア!!」

 大きく振りかぶられた頭部が、万感の思いと共に鉄槌となって振り下ろされた。
 強固な石頭は何の障害もなく紫の鼻っ柱をへし折り、綺麗だった彼女の顔の中心部分を歪にへこませてみせた。
 さしもの紫もこれには「ぐうっ」と彼女らしくないうめき声を鼻血と共に漏らして、頭突きを受けた勢いのまま立ち上がり後退する。

「紫様!!?」

 後ろから見ていた藍は何が何だかわからず、ほんのわずかばかり呆けていたものの、すぐさま状況を理解し紫の身体を受け止めた。
 一転した空気に、衣玖は清々しさが胸中を洗い流していくのを感じ、歓喜の表情で天子に熱いまなざしを送った。

「フーッ……フーッ……この、よく聞きなさいよ陰険根暗妖怪」

 肩で息をする天子は頬を伝う血涙を拭うと、強く握りしめた緋想の剣を大地に刺して杖代わりにし、ふらつきながらも確かな足取りで立ち上がる。

「私は、誰かに自分を明け渡して、へりくだって生きていくなんてまっぴらごめんだし! 誰かに怯えて、思うように生きられないなんてのも嫌よ!」

 いつのまにかその眼には熱が宿り、震えていたはずの歯は食いしばられていた。
 しかしその表情は依然として苦しみに満ちていて、苦痛だけならず恐怖心からも抜け出せたわけではないことが見て取れる。
 根源的な恐怖を抱き、その心が潰れかねないほど重すぎる枷をまといながら、それでも眼の前に剣を突きつけて力強く声を張り上げた。

「そんなつまらない人生を送るくらいなら、絶対にそれを乗り越えてやる! 何を懸けても!!」

 瀕死の身体から出てきているとは思えないほど強い叫びが、そこにいる者の鼓膜を震わし、魂を揺らした。
 藍に身体を支えられながらそれを聞いていた紫は、くぐもった笑いを折れた鼻から漏らし始める。
 それは最初は控えめだったが、次第に我慢しきれず肩を上下させて声も大きくなっていき、やがては大口を開けて腹の底から出した笑い声を響かせるに至った。

「ふふ、うふふふふ、あはははははははははは!!!」

 腹を抑えてひたすら笑い転げる紫を前に、天子は敵意を込めた視線を止めず、藍はここまで大笑いする主の姿は初めて見たと、彼女を支えながら驚いた表情で固まっていた。

「さずがよ、てんじ! やっばりあなだは、ぞうでなぐっちゃ!」

 一段落ついた紫は藍から離れて一人で立つと、折れた鼻を掴んで力を込め、ベキベキと音を立てて強引に元の向きに戻した。
 垂れていた鼻血をぬぐって装いを正すが、顔の中心部分は未だ陥没したままで、普段の美貌は完璧に壊されてしまっている。
 だが紫はそれも気にせず、歪んだ笑みを浮かべている。

「いいわ天子、すごくイイ! そうよ、このくらいで下るようじゃ興醒めというものよ。ああ、でも本当に……その情熱、その眼差し! 素敵よ天子……年甲斐もなくゾクゾクきちゃう」

 これ以上ないくらい楽しげな声に、見守るしかない衣玖は気味悪さに反吐が出そうだった。
 一体その頭の中ではどんな理論が展開されているのか、敵意を受けているというのに異常なまでに興奮を示す紫は、悦に浸り、感極まって天子の血で汚れた自らの身体を抱いて身悶えした。
 しかし笑い続ける彼女の眼には今までになく妖しく激しい妖気を帯びており、それと相対する天子は以前として気を抜けず、剣を向けたまま口に残っていた血反吐を吐き捨てて警戒を表した。
 だがそんな態度を示されても、紫は余計に喜んで熱い吐息を漏らすばかりだった。

「それはつまり、宣戦布告ということね天子」

 向けられた剣先をねぶるように見つめ、また口端を指でなぞって歪んだ笑顔を更に歪にした紫は語りかけた。

「あらゆる安寧を捨ててでも、あるいは大切な誰かを失ってでも、この郷を傷つけてでも、そして――例え殺されることになろうとも、私に挑むということね」

 笑みを浮かべながらも、今度の言葉に含まれたものは明らかな敵意と警告。
 これ以上のことをするというのなら、こちらも相応の力を以って対応させてもらうと、言外に語っていた。

「私を殺すつもりで」

 一瞬天子は躊躇したように唇をゆるめたが、すぐに一文字にきつく結び一層眼光を強めた。

「そうしないと、私が生きられないのなら。いくらだって、なんだってやってやる」

 自らのためならあらゆる代償も厭わない行き過ぎとも言える覚悟。正気の境界を超え、ある種の狂的で破滅的な領域に踏み込む姿勢を示した。
 それを受け紫は笑顔を浮かべたまま、眼だけは獲物をとらえた獣のように細く研ぎ澄まされる。

「なんなら、今ここでおっぱじめても良いのよ」

 緋想の剣を握りなおしてそう言いきる天子だったが、実際のところ今この場で戦闘を始めてしまうのは彼女にとっては大きく不利だった。
 津波のように押し寄せる苦痛から正気を取り戻せたとはいえ、彼女の肉体と精神は消耗しており、天人の五衰のことを差し引いても万全とは言い難い。
 それでもここであえて挑発したのは、紫の腹の内を探ることにあった。
 もしここで紫が引き下がって身を隠しながら、日常のふとした瞬間にスキマを経由して命を狙ってきたりでもしたら、天子にはそれらを防きることは不可能なのだ。
 紫は戦いを臨んでいるようだが、その戦術によっては例え不利でも今ここで戦うしか、天子に生き延びる道はないかもしれない。
 天子は固唾を飲んで反応を待つ。返ってきた答えは、彼女にとってありがたいものであった。

「あら、それはもったいないわ。せっかく私とあなたで踊るんですもの、それに相応しいやり方があるはずよ」
「……ふん、いい気なもんね、ったく」

 どうやら紫はこちらの好きにやらせてくれるらしく、天子は悪態を吐きながらも内心安堵していた。
 嘘と言う可能性もないだろう。このタイミングでブラフをかけても紫の側に特に利はない、そんなことをするくらいならとっとと天子の前から姿を消してしまえばいい。
 そこでようやく天子は警戒を解くと、緋想の剣を地面に刺しもう一度地震を起こした。
 幻想郷中に地鳴りが鳴り響き、それに続いて頭上に形成されていた緋色の雲が四散し消えて行く。
 それらを確認すると緋想の剣から展開していた刃状の気質を解いて、剣の柄を懐にしまった。

「それじゃあ、次に合うのは決戦の場ね」
「待ちなさいよ」

 背中を向けて話を切り上げようとする紫を天子が呼び止める。

「私はあんたをぶちのめす、それはもう確定事項で変える気はないけど、あんたが私に拘る理由は何!? 私のことを、虫けらのように見下してるあんたが」
「それはあなたが私と同じ領域に立てた時、自然とわかることでしょう」

 意味深げなことを言うだけで紫は核心部分を話そうとはせず、帰り道となるスキマを開いて、先に藍にくぐらせた。
 ただ彼女もスキマに半身ほど踏み入れたところで、こちら側に半分だけ残った顔を覗かせて最後に言葉を付け加えた。

「立ち向かってきなさい天子、存分に死合いましょう。あなたなら、きっと私を……」

 紫の姿がスキマに飲み込まれ、残されたスキマもゆっくりと閉じていって、夜の暗さの中に消えていった。
 ようやく結界を解除された衣玖は、自由になった両腕を突いて立ち上がると、恐る恐る天子に話しかけた。

「天子様……」
「……衣玖」

 緊張が解けた天子は、眉を八の字に歪せて振り返り、拭ったはずの頬に血涙を流した。

「あと……お願い……」

 短く言い残した天子は、再び暴れだした苦痛に白目を剥き、ボロ布のように地面に倒れ込む。
 血相を変えた衣玖が必死に呼びかけながら、のたうち始めた天子の身体を抱き起こした。

「天子様! しっかり――下さ――――天――様――――!」

 激痛に流されて衣玖の悲鳴が遠ざかっていく。
 自我が薄れていく中、天子は自分を見つめる紫の熱狂的な瞳を思い出していた。





『つーかまーえた』

 いつだったか、紫に言われたこの言葉。
 今度は私が捕まえる番だ、そう決意したのを最後に天子の意識は堕ちていった。



 ◇ ◆ ◇



 再び意識を苦痛に飲まれた天子が、正気を取り戻すには一夜必要であった。
 大きく見開かれたままだった眼孔が、朝の陽射しに照らされ、その眩しさに意識を揺さぶられ覚醒した。
 まだまともに動かない瞳孔のせいで視界を白く塗りつぶされながらも、まだ自分が死んでいないことを自覚して、起き上がろうと無意識に眼の前へ手を伸ばした。
 空振った手を握りしめ、終わらない苦痛に歯を食いしばりながら、血で汚れたシーツに肘を付いてやっとのことで身を起こす。

「ここ……どこ……?」

 落ち着いた天子が周囲を見渡してみれば見覚えのない部屋。ベッドサイドのテーブルには自分の帽子が乗せられていた。
 大きな部屋に並べられたベッドを見るに、どこぞの病院にでも放り込まれたらしく、病室の窓からは竹が生い茂って壁のようになっているのが見えた。
 恐らくは、衣玖と異変首謀者を尋ねた時にも来た永遠亭だろう。しばらく待ってれば誰か様子を見に来るかもしれないが、来るかわからない相手を暇しながら待つなどというのは天子として耐えられるところではない。
 すぐに決断を下した天子は帽子をかぶり、重い体で血だらけのベッドから降りて部屋の出口に向かう。
 部屋から出て壁に手をつきながら人の気配がありそうなほうへ歩を進めていると、少し歩いた先で扉の向こうから親しんだ声が聞こえてきた。

「はいこれであなたの処置は完了。酷い火傷だったわね」
「助かりました、ありがとうございます」

 部屋の前に立つと、わずかに開いた扉の隙間から、上半身を下着姿にした衣玖が両腕に包帯を巻き付けられているのが見えた。
 このまま入っていってもいいが、今更ながらあまり情けない姿を見られたくはないと思い、先に息を整えて姿勢を正すこととした。

「それと肋骨の骨折に加えて、何箇所か骨にヒビが入っているからゆっくりしていったほうがいいわ。ベッドなら貸してあげる」
「いえけっこうです。妖怪ですからまあなんとか大丈夫ですし、やることもありますから」
「そう、なら無理強いはしないわ。それで、あなたが連れてきたあの天人のことだけど。残念ながら私の方でできることは何もないわ」
「はあ、そうですか」

 しかし衣玖の気の抜けた返事に軽くずっこけた。
 まるで自分のことをなんとも思っていないのかと感じる天子だったが、様子を見るにどうやらそういうわけでもないらしい。

「そうですかって……以外ね。必死な顔で連れてきたから、よっぽど大切な人かと思ったけど」
「大切な方なのは正しいですが、別にあの方の治療をして欲しかったわけではありません。野ざらしではどうかと思ったので、ひとまず静かに休める場所に連れて来たかっただけです。どこでも良かったですが、ここなら私の治療もしてくれると思いましたし。あとはまあ、自分で勝手にどうにかするでしょうから」
「彼女に何を期待しているのかは知らないけど、悪いことは言わないから止めときなさい。ああなった天人の行き先はもう決まってるわ、あんなに酷いのは私も初めて見たけど」
「まあ普通ならそうなんですが」

 こちらを信頼してくれている衣玖の言葉に安心感を覚え、深く息を吐く。
 しかし扉の隙間からウサギの耳がチラついたかと思うと、でしゃばりな声が届いてきた。

「あなたねえ、可哀想だけど師匠が忠告してる通り、あの天人はもう死んだも同然で」
「誰が死んだよコラ」

 扉を勢い良く開けてそう言い切ってやると、部屋にいた三人は三者三様の反応を見せた。
 机の前に置かれた椅子に腰掛けていた永琳は、天子の姿に目を大きく見開いたまま硬直し、永琳と衣玖のあいだに立っていた鈴仙は信じられないものを見たかのように口をパクパクさせてうろたえる。
 そんな中、衣玖だけは唯一動揺を見せず、服を着直すとうやうやしく一礼した。

「おはようございます。お目覚めになりましたか天子様」
「おはよう衣玖。あんたがここに連れてきてくれたのね、礼を言うわ。あんたの怪我は?」
「えっ、あ……あれ? あれ!?」
「あなたほどじゃありませんよ。問題ありません」
「そっ、ならよかった」

 状況を確認した天子は、慌てふためく鈴仙に顔を向けて口を開く。

「喉が渇いたわ」
「へっ?」
「気が利かないわね。口の中が血だらけで気持ち悪いのよ。ここは病人に水も出さないわけ?」
「えっ、あ、あれ……わかったけど……あれぇ?」

 言われた通り水の一つ出さないのはどうかと思い、診療室を出て行った鈴仙だが、そもそもその病人が元気にここまでやってきたことに終始首をひねったままだった。
 穏やかながらも僅かな緊張感のある慎み深さを持って背筋を正した衣玖が、固まったままの永琳の横を通り抜けて天子の傍に付いた。

「調子の方はいかがですか」
「文字通り最悪よ。どこもかしくも苦しくてしょうがないわ」

 天人の五衰のことは昨晩の時点ですべてバレてしまったし、今更身体の状態について隠すこともないだろう。
 正直に打ち明けるが、衣玖としても予想はできていたようで特別取り乱したりはしなかった。騒がれても鬱陶しいだけであるし、天子としてもこの方がいい。

「……ちょっとあなた!」

 しかし突如として永琳が椅子から立ち上がり、天子の頭を両手で挟んで鷲掴みにした。

「な、何よいきなり!?」
「腐臭は漂ったまま、垢も取れるし脇の下にも汗をかいてる。天人五衰が治ったわけでも、死んで亡霊にでもなったわけでもない」

 永琳は臭いを嗅いだり服の下を弄ったりして、天子の身体を調べ始める。

「相当の苦痛が蝕んでるはず、なのになんで動けるの」
「なんでもなにも、我慢してるに決まってるでしょ」
「我慢って、いやまさかそんな、調べた限り気合でどうにかできるようなレベルの苦しみじゃ」
「もううるっさいわね、動けてるもんは動けてるんでしょ。うっとうしいから離しなさいよ、近くで喋られたら頭痛くってしょうがないんだから」

 目の前の天人が普通に動ける理由は、永琳としては非常に珍しくまるで理解できなかった。
 常識的に考えて気合がどうこうで耐えきれるものじゃない。
 だが天子は本当にたった一つ意地だけで、ここに立っているのだ。

「はい、水持ってきたわよ」
「サンキューね」

 天子は戻ってきた鈴仙からコップを受け取り、注がれていた水で口の中をゆすぐ。
 残っていた血が気持ち悪かったが、周囲に水を捨てられそうな場所がなかったのでしかたなく飲み込み、コップに残っていた水を喉奥に流し込んで無理矢理不快感を追いやった。

「プハァー。まったく汗やら垢やら気持ち悪いわね。お風呂に入るわ、風呂場はどこ?」
「この屋敷に住んでる方用のものがありました。確かここの姫様が朝風呂をしていたので沸いてますよ、ご案内します」
「……ハイ!? ちょっと待ちなさいよあなたたち!」

 我が物顔で診察室を出て行く鈴仙が二人を止めようとするが、まるで話を聞いて貰えない。
 しかし二人共患者であるし、手荒な真似をするというのも気が引ける。

「あーもう勝手に。師匠も黙ってないで何か言ってやってください! ……師匠?」

 死ぬはずの身体で歩いて行く天子から、何故かまったく性質の違う八雲紫のような得体の知れなさを思い出して、永琳は頭を抱えて顔をうつむかせるのだった。

「はぁー、血を出しすぎて力が出ないわね。お風呂の後はご飯にしなくちゃ」
「血を吐いた後で大丈夫なんですか」
「天人だしなんとかなるわよ、多分」

 天子の先を歩きながら、私に関しては何も言わないのだなと衣玖は思った。
 昨晩からの衣玖の変化を、天子は当たり前のように受け入れている。自分が他人に受け入れられにくいからこそ、自分の懐は大きくするように務めているのかもしれない。
 あるいは初めからこうなることをわかっていたのだろうか。すべて予想済みだとしたらと考えて、紫が品定めしてきた時のような眼で、天子がいつのまにかこちらのことを探っていたのかと思うと衣玖は身震いした。
 だがまあそれもまた当然かも知れない。あの八雲紫と競おうとするならば、それくらいの慧眼は備えている必要があるだろう。
 ならばこちらからもわざわざ何か言う必要もあるまいと考え、別のことを話しかけた。

「天人の五衰は地獄の十六倍の苦しみだと聞きましたが」
「ああ、あんなの嘘っぱちよ。チヤホヤされてた天人が死ぬ直前になって周りから見捨てられて、その時の気持ちを大げさに触れ回っただけ。多分実際には人間が病気死ぬ時と似たようなもんでしょ」

 恐らくは、普通に天人が死ぬ場合はそうなのだろう。
 しかし天子は違う、あくまで生きるためにすべてに抗って前へ進もうとしている。その身に振りかかる苦痛は、他の天人が死に際に感じるそれより遥かに辛い。

「ふん、まったく馬鹿らしいわね。周りから見捨てられたくらいで地獄が云々だとか、私なんてはなっから家族にも見捨てられてるっての」
「……気が立ってますね、やはり緊張しますか」

 先程から背中からビシビシと感じる、天子から発せられる刺々しい空気。
 ものの流れを読むことに長けた衣玖には、それが手に取るようにわかった。
 五衰の苦しみが理由ではないのだろう。天子は衣玖の言葉を聞いて、不機嫌そうに鼻を鳴らして吐き捨てた。

「そりゃするわよ、これからあの化け物に挑むんだから」
「命懸けの宣戦布告とは、随分と思い切ったことをしたものです」
「悔しいけど私じゃ全賭けでもないとあいつを乗り越えれないからね」

 紫との戦力差を思い浮かべ、天子が自嘲気味に笑う。

「あれだけ紫にびびって、通りで五衰なんて起きるわけよ。あいつから心に埋め込まれたものが、ずっと私を苦しめてた」

 あの日の紫の恐怖が呪いとなって、天子が自由に生きるのを許さなかった。彼女なりに生きようとするその胸に食い込み、心を削ぎ落としていた。
 比那名居天子にとって誰かに怯えて自分を殺す生き方は、死ぬことよりも恐ろしいものだったが故に、自らの身体を死へ運び込もうとしていたのだ。
 自業自得と言われればそれまでだし、その点については反省が必要だろう。
 だがそれとは別に、この無視できない枷は、これから天子が生きていくためには絶対に超克しなければいけないものだ。

「ホントはさ、ここのところ異変を起こしても楽しくともなんともなかったのよ。なんとか形だけ楽しい風に装って盛り上げようとしたけど、紫への恐怖が枷になって心が追いつかなかった。面白くなってきたら紫の眼がこっちを見てる気がして、心を縛られてた」
「まるで頭に輪を掛けられた猿のようですね」
「ハハッ、笑えないわね」

 帽子を深く沈ませて足元を見つめた天子は、すぐに顔を上げ、遥か遠くを睨み上げた。

「この胸の呪い、すぐにぶっ壊してやる」

 天子の意志は堅い。間違いなくもうすぐ紫に対して行動を起こすだろう。
 しかし衣玖には、このままでは足りないだろうなと、確証はないがそう感じた。
 あと一歩、天子が紫との差を縮めるにはあと一歩、彼女が踏み込む必要がある。
 そのために、自分もやれることをやらなければと決心した。



 ◇ ◆ ◇



 天子からの宣戦布告を受けて、一晩明けた昼に、紫は縁側に座って庭を眺めていた。
 頭突きを受けて陥没したはずの顔は、すでに大妖怪の回復力により以前の美貌を取り戻していた。
 彼女の背後には、尻尾を含む身体中に包帯を巻きながらも、いつもの服装で律儀に正座する藍の姿があった。

「本当に面白いことになったわ。八つ当たりで恐がらせた小娘が、私に牙を向いてくるなんて」
「八つ当たりだったんですか」
「だってそれくらい気に入らなかったもの。でも、逆効果だったわね」

 昨夜のことを思い出して、紫は楽しそうに言う。

「恐怖に生き方をねじ曲げられた者の行末なんて惨めなもの。それなのに彼女はどう? むしろ激しさを増すばかりで、彼女の想いはもうすぐ最高潮を迎えるわ。まるで叩けば響く鐘のよう、わざわざ毎回出向いて、滅多打ちにした甲斐があったというものよ」
「……もしかして、昨日の弾幕レースの裁定なども」
「せいかーい。天子に対する、い、や、が、ら、せ」

 えげつなさ過ぎて藍は言葉に詰まる。
 こうなることを見越して、散々天子を虐めてきたというわけか。サディスティックにも程がある。

「結局、紫様のおっしゃったとおりになりましたね、無理に抑えつけられればいつか天子は爆発すると。私が進言するまでもなく、最初から紫様は天子を抑えていたんですか」
「ええ、抑えていてあれよ。彼女を制御するなんてバカらしいでしょ?」

 最初から紫は幻想郷を管理する賢者として、いやそれ以上の私情と私怨で天子に恐怖を与えて行動を束縛しようとしていた。
 事実、天子の内面には効果があり、それが天人の五衰を引き起こしたわけであるが、引き出された効果はおよそ真逆だ。
 天子はその束縛を破るべく、紫に対して溜まった鬱憤を叩き付けに来る。

「すべてを失った者が死の瀬戸際に何をするのか。何も出来ない彼女の眼は、依然として熱く燃えていた」

 落成式で天子と戦った時のことを思い出す。打ちのめされて今にも殺されようとしていた彼女は、倒れながらもその眼だけは生きていた。
 お前になんか負けてやるもんかと、絶対に生き延びてやると、あらゆる手段を殺されてもまだ天子は心の底でそう思っていた。
 紫にとってはこれから殺そうとする獲物が、死に際でにまでこちらを乗り越えようとしてくるのは初めてのことだったのだ。今までは誰もが恐怖に取り込まれ、身体よりも先に心が死んでいったのに。

「私でも完全にはあの力を奪えなかった。そこに可能性を感じたのよ」
「……天子の性質は理解出来ました。恐怖を克服しようとする意地、暗闇に火を灯して歩く人の業。その力は我々妖怪から見ればそれこそ恐ろしいもの」

 ここに来てようやく藍は、天子への評価を紫のものと合わせた。
 本当は認めたくはなかった、自らが信奉する主の恐怖に匹敵する存在など。

「下手をすれば、紫様のお命が危なくなりますよ」
「あら、私が彼女に殺されるとでも?」
「まかり間違えばそうなることを、紫様自身が感じているはずです」

 紫は何も答えず、振り返った顔から舌を出し、笑って誤魔化した。

「ずっと彼女みたいな者を探していたのよ、それこそ生まれた時から。理屈でもなく利益でもなく、本質として本能として」

 紫は景色に顔を戻し、あらゆる進言を頑として受け付けない。
 この強情さは天子と同じだと藍は感じた。天子が根本に譲れないものがあるように、紫もまた根源的なところで天子と向かい合っている気がする。
 だからと言って、口をつぐんでいることなど出来ない。

「死ぬかもしれないでしょう。私情ばかりで周りを置いてけぼりにして、残された側はどうなるんですか」
「……私が死んでも、幻想郷を回していくプランは用意してある」
「私の気持ちはどうなるんですか!」

 藍の心の底からの叫びが、紫の背中を叩いた。
 忠信を超え、敬愛を超え、家族の域から出た深い愛情からくる訴え。
 自分を置いて行かないでくれと泣き叫ぶような声に、紫はもう一度振り向いて畳の上に膝を突いて擦り寄ると、ただ一言だけを伝えた。

「ごめんなさいね」
「その一言ですまそうなんて、紫様も勝手すぎます……!」

 涙こそ見せないが肩を震わせて憤りを露わにする藍を、紫は静かに抱き寄せる。
 どれだけ紫が心情を語ろうと、これから彼女が臨もうとしていることは、これまで彼女についてきた者達に対する裏切りに等しいのだ。
 このようなことに命を使おうとするなど、周りからすれば到底認めることなどできない。
 それをわかっていながら、紫は天子相手に引くつもりはなく、藍の頭を優しく撫でて誤魔化すことしかしなかった。

「ところで紫。その……私はいつまでこうしていればいいのかしら?」

 身体を寄せ合う二人の膝下から、そんな声が聞こえてきた。
 抱擁を解いて紫が見下ろした先にいるのは、畳の上に生首状態となった幽々子の滑稽な姿だった。
 実際には紫のスキマに捕らえられ、首から先のみを出されたまま固定されている。

「まだダメよ幽々子。あなたに対する仕返しがまだだもの」
「いや違うのよ紫。私が発破掛けたわけじゃなくて最初から藍が自分でね?」
「それでも力を貸したのは事実でしょ」
「それは……ね?」

 はっきりとしない幽々子の目の前に、どこからともなく紫の傘が飛んできて畳に突き刺さった。
 「ひぃ!?」と悲鳴を上げて首をよじる幽々子に、紫は昨夜藍に見せたような無表情で威圧してその心を圧し折りにかかった。

「幽々子ぉ? 私はね、怒っているのよ? 藍と一緒になって私から天子を取り上げようとして。あとほんの少し気付くのが遅れていたらぁ……」
「ね? ね? 紫、恐い顔はやめて話し合いましょう!? 私その顔苦手だから、紫ぃ!」

 さすがの幽々子も、本気で怒った紫相手では萎縮してしまっている。
 気の毒だと思う藍だったが、かと言ってどうすることもできなかった。幽々子は天子襲撃の共犯だ。
 幽々子もまた天子が紫の命を脅かす可能性に気付き、藍を利用しその生命を葬ろうとしたのだ。それ相応の報いがあっても仕方がないところである。

「あなたに裏切られた気がしてとっても悲しかったわ。だから今日は、あなたの一番大事な人に裏切られる感覚を知ってもらおうと思うの」
「な、なんなの……なにするきぃ……」

 一気に空気が冷えていく中、部屋の戸が開いて元気溌剌とした橙と少し引け目がちな妖夢が、たくさんの和菓子を乗せた大皿を持って入ってきた。

「藍様ー! 紫様ー! おまんじゅういっぱい作ってきましたよー!!」
「あ、あの、お団子もできました」
「あら、二人共ありがとう」

 可憐な少女の登場に紫は素早く傘をスキマにしまい、無表情をやめパアッと笑顔を花開かせて彼女たちを迎え入れる。
 それと同時に手元で指を鳴らすと、幽々子の周囲に半透明の青い結界が展開された。

「ちょ、ちょっと紫? これは何? よ、妖夢助けてー!!」
「あのー、紫さん。この結界はどういう」

 ぎょっとして助けを乞う幽々子だが、妖夢の反応に少し違和感を覚える。
 悲鳴を聞いていたのなら、もっと必死になって動いてくれるだろうに。そう考え、これが声を遮る結界だと気が付いた。

「藍様、おまんじゅう食べて元気になってくださいね!」
「おー、ありがとう橙、お疲れ様だ。これだけ食べればきっとすぐ元通りだな!」

 大皿を置いて擦り寄ってきた橙の頭を、藍はワシャワシャと可愛がるように撫でて労いの言葉を掛ける。
 その後ろで、妖夢が生首状態となった幽々子をチラチラ見て、戸惑いながら口を開く。

「そ、それであの。これから私はどうすれば……」
「こんなに美味しそうなものがいっぱいあるんだもの、みんなで食べましょう。幽々子抜きで」
「はう!?」

 そういうことかと察しがついた幽々子が、いつも陽気な顔に絶望感を浮かばせる。
 今まで見たことないような悲壮感漂う幽々子と喜々として語る紫を見比べて、妖夢は話しについていけずただただ困惑するばかりのようだ。
 今回の一件について妖夢と橙は一切関知していない。藍が天子を殺しにかかり、それを幽々子が助力したことを知らないゆえ、何がどうして親友の二人がこんな状況になっているのか検討もつかない。
 ただ妙な雰囲気が流れていることだけは感じ取り、この状況でどう行動すればいいか迷っていた。

「あの、幽々子様も一緒じゃ駄目なんですか……?」
「まあまあ、妖夢は優しいのね。でも本当にそれだけかしら?」
「へっ?」

 だが紫は妖夢の肩を軽く叩き、人を弄ぶ妖しい笑顔で耳元に呟く。

「あなたも幽々子になんの苛立ちも抱いていないわけじゃないでしょう。食べ過ぎだ、お仕置きが必要だ、そんなふうに感じたことが一度ならずあることでしょう?」
「そ、そのようなことは!」
「少し想像を巡らせてご覧なさい。悔しがる幽々子の前で、満面の笑みで美味しいものを頬張る一方的な優越感。あの顔を曇らすかどうか、その選択肢はすべてあなたの手にあるのよ」
「曇らすだなんて、幽々子様のお付の私がそんな」
「ふふふ、大丈夫よ。この結界は全部の声を遮断しているから。私があなたに何を言ってるかなんて幽々子には聞こえない。幽々子からは、あなたが私に脅されて従ったようにしか見えないわ」
「……ごくり」

 勿論嘘だ。遮っているのは幽々子の声だけであり、二人の会話は幽々子に丸聞こえだ。
 そんなことは知らない妖夢が、それを聞いて目がわずかに揺れ動いたのを紫が見逃すはずもなかった。

「いいのよ妖夢、あなたは良心は咎めるだろうけどこれは仕方のないことなの。私に幽々子を人質に取られてそうしなさいと言われているだけ。あなたは何も悪くない」
「私は悪く無い……全部仕方がないこと……」
「そう、脅されて仕方なくよ」
「妖夢ー! 耳を貸しちゃダメー!」

 紫は繰り返し言葉を刷り込み、迷う妖夢の手に団子を握らせた。
 幽々子は目尻に涙をためて必死になって妖夢を止めようとしたが、それが逆効果だった。
 捕らえられ今にも泣きそうな弱気な姿を見て、妖夢はいつも剣で何かを切った時に覚える恍惚感にも似た黒い感情が胸を衝いた。

「幽々子様ごめんなさい!」
「ああーッ!?」

 意を決し、とうとう幽々子の前で妖夢が団子を口にした。
 気まずそうにしながらも、どこか笑い出しそうなのを堪えているような微妙な表情で団子を味わい、よく噛んで飲み込む。

「どうかしら妖夢、美味しいでしょう?」
「ええとその、自画自賛になりますがよく出来てます」
「そうでしょう、そうでしょう。妖夢が作ったお団子だもの、美味しくないわけないわ」
「うぅーようむぅ~……」

 恨みがましく落ち込み垂れた眉、今まで知らなかった幽々子の情けない姿。
 それが一層が妖夢の中の加虐心を開花させ、次第にその顔をどこか歪な笑みに変えていった。

「美味しい……その、美味しいです。美味しい!」
「ふふふ、いい笑顔よ。橙が作ったお饅頭も食べなさい。こっちもよく出来ているわ」
「はい、ありがとうございます!」
「やめてぇ、ようむやめぇ……ないてるわたしのまえでそんなかおしないでぇ……」

 畳の上に涙をこぼす幽々子を盗み見ながら、妖夢の悪心は更に加速する。
 少女が悪に染まっていく光景を見て、藍は遠い目をしながら橙の目と耳を塞いでいた。

「なんだか妖夢が開けちゃいけない扉を開けてしまった気がする」
「藍様ー? なにしてるんですか? 藍様ー?」
「そうだ、人里の名店の羊羹もあるのよ。今日はこれも食べちゃいましょう」
「うわあ、こんなに美味しい物一杯いただけで、私嬉しいです!」
「うわあ~ん! 紫ぃ、末代まで祟ってやるー!!!」



 ◇ ◆ ◇



「ホラア! もっといっぱい料理持って来なさいよ、こっちは決戦に向けて気合い入れなきゃならないんだからね!!」
「ひぃー! 天人って仙人のお仲間みたいなものでしょ。霞でも食べときなさいよー!」
「そんなの食べたって力入らないわよ。ご飯おかわり!」

 風呂に入ってから病衣を着込んで、我が物顔で永遠亭に居座る天子は、威勢のいい声を上げてやせ我慢の空元気全開でタダ飯食らいまくっていた。
 鈴仙を始めとする兎たちは、豪快に飯をかきこむ天子を前にしっちゃかめっちゃかになりながら、料理を作っては病室に担ぎ込んでくる。
 本来は天子などただの一病人、ここまで彼女のためにしてやる義理などあるはずもないのだが、兎たちにとっては頭の痛いことに、ここのトップと繋がりを持ってしまったのだ。

「それで八雲紫に挑もうってわけ? 随分と威勢がいいわ」
「はぐはぐ……んぐ、そりゃ当然、ここまでされて黙ってられるかってのよ」
「愚かしいまでの猪突猛進っぷり、ナイスね!」
「びびらされたまま黙りこくっていられるほど賢くないからね!」
「賢くなくて何が悪い! 愚者バンザーイ、イエー!」
「イエー! あぐあぐ」

 ご飯をかき込む天子と話してころころと笑うのはこの永遠亭の最上位に位置する姫として、毎日を自由気ままに過ごしている蓬来山輝夜だ。
 彼女は面白いわの一言で天子の要求を承認、こうして兎たちはひたすらご飯を作り続ける段となってしまった。
 過労と心労のダブルコンボで倒れる未来を幻視した鈴仙は、急ぎ永琳に諭して中断させてもらおうとしたのだが、何故かトラウマスイッチが入っていて月の酒がどうのと言って気落ちしており、輝夜を説き伏せてもらうことは叶わなかった。

「でも良いわよねそういうの! 思いっきり喧嘩したい思える相手がいるのは素晴らしいわ、私にも妹紅がいるからわかるわよ」
「んー、そう言われても、私はただ紫のヤツをぎったんぎたんにしてやりたいってだけだからねー」
「今はそうでもあなたもそのうち分かるようになるわよ」
「よっし、とにかく気合入れてあのババアに土下座させてやるわ!」
「あー、話ししてたら私も燃えてきたわ。ちょっと妹紅と殺しあってこようかしら!」
「両方共不死身なんだっけ? そういうの後腐れしなくていいわねー」
「でしょー?」

 この二人、どこか似てる部分があるのか妙に波長が合う様子。
 さっきからずっとこの調子で、兎たちからはまるで理解不能な話し合いが進行していた。

「それじゃ妹紅のところ行ってくるわ。五衰かなんかで苦しいらしいけど頑張ってね、応援してるわ」
「いってらー。今度そいつ紹介してね、面白そうだし」
「いいけどあげたりしないわよー」

 出かける輝夜に箸を持った手を振って送り出し、すかさずお椀の中のご飯を頬張った。

「んぐ、面白い奴もいるもんね。あっ、このタケノコのお刺身もっとある?」
「もうないわよ! 姫様も行ったしもう作らないからね!」

 涙目で吠える苦労人の鈴仙は、空になった食器をさっさと片付けて病室を出て行ってしまった。
 お椀も取り上げられ、手持ち無沙汰になった天子は、とりあえず残っていた湯のみからお茶を喉奥へ一杯流し込み、暖かな息を付いて天井を仰ぎ見た。

「あー、胸が痛いわー。やっぱ楽しもうとすると負担かかるわね」

 平気な振りして笑顔を浮かべてみたのだが、実のところ輝夜と会話を楽しもうとしている間、ずっと紫の眼がチラついて胸の奥を締め付けられるような痛みが走っていた。
 根付いた恐怖をどうにかしなければ、この苦しみはどうにもできまい。

「さて、さっさと紫を倒す方法を考えるか」

 自分の持ち札を思い返し、紫にどう対向するかその戦術を考える。
 大地を操る力、緋想の剣、これらの力で紫の隙を上手く突く方法。
 一度天界に戻って、紫に対して有利な術や道具がないか探してくるという手もあったが、これはすぐに却下した。
 武器は緋想の剣これ一振りで十分だ。
 この武器は、ただカッコイイからで使っているわけではない。天界に数ある武器の中から、天子がもっとも自分と相性が良いものとして選び取ったものだ。これ以上のものは存在しないと断言できる。

「手持ちの材料で追い詰めるのには小細工が必要だわ。考えろ……考えろ……」

 額に手を当てて考え込んでいると、二度ノックの音が部屋に響いて、病室の扉が開けられた。
 廊下から不機嫌そうな鈴仙が顔を覗かせた。

「ちょっとあなた」
「あ、えーと……兎のパスタ!」
「う・ど・ん・げよ! 鈴仙・優曇華院・イナバ! 今日が初対面ってわけじゃないのになんで覚えてないの!?」
「えっ、会ったことあったっけ?」
「神社! 落成式の日! 勝負までしたのに!!」
「あっ、名前と違って素で覚えてないわ、あの日って紫のインパクト強かったし」
「うぅ、あの時は私が勝ったのに、なんなのよもう……」

 しばし項垂れた鈴仙はしわくちゃのウサミミが生えた頭を上げると、親指を立てて天子からは見えない廊下の奥を指し示した。

「それよりお見舞いが来てるわよ。ここ病室だから騒がないようにお願いね」

 それだけ言って鈴仙は扉を開け放ったまま去っていく。
 血と垢で汚れた服を着続けるわけにもいかず、衣玖に頼んで自宅から代わりの服を持ってきてもらうことになっていたのだ。
 服を包んだ風呂敷を手に持った衣玖が病室に入ってくるのを見て、天子は顔を明るくする。

「おー、衣玖。遅かったじゃな……」

 だが彼女の後に続いて入ってきた人物に、続く言葉を忘れた。
 生まれた時から、ずっと見続けてきた男と女の顔。

「邪魔するぞ」
「……お父さん、お母さん」

 それからしばらくの時間、病室には重い沈黙が続くこととなった。
 ベッドの上であぐらをかぐ天子、ベッド脇の椅子に座った両親、入口の傍に両手を前に重ねたまま佇む衣玖。誰も口を開かず時間だけが過ぎていく。
 さっきまであれほど騒がしかったのに、いきなりの静寂を不気味に思った兎が何羽か様子を見に来たが、予想外の空気の重さに全員尻尾を巻いて逃げていった。
 胃が痛みそうな雰囲気を引き裂いて最初に口を開いたのは、天子だった。

「ちょっと、いきなり来たんだから何か言いたいことでもあるんでしょ。こっちは忙しいんだから、とっとと話してどっか行きなさいよ」
「……天人の五衰が、起きていたそうだな」

 やっぱりそのことかと、天子は情報を漏らした衣玖を睨みつける。
 しかしこれに黙っていても仕方ないので、嫌々ながらも言葉を返した。

「起きていた、じゃなくて今も起きてるのよ。臭い嗅いで見る? 桃の匂いに慣れた鼻じゃゲロ吐くわよ」
「なぜ、それを教えてくれなかったんだ」
「教えたところでどうにかなるもんじゃないでしょ。それになにより、そんな信頼関係を築けていたと本気で思うの?」

 厭味ったらしい口答えに父の顔が曇るのを見て、すぐに天子は言い過ぎたと後悔した。
 紫のことで緊張してるとはいえ、親を相手に気を張り過ぎていた。
 バツの悪そうな顔をして、気を取り直す。

「……まあ、親子の義理としてそういったことは伝えるべきだったかもしれないわね、そこは謝るわ。で、話ってそれだけ?」
「お前が、とても危険なことをしようとしていると聞いた」

 どうやら全部知られてしまっているようだ。娘のことを良いようにコントロールしようとしてくる親に、天子はうんざりする。

「八雲紫だったか。噂はいくらか聞いている、恐ろしい妖怪だそうじゃないか。そんなのに命をかけて挑むなど愚かしい」
「愚かしい? ハッ、娘が妖怪にやられて経歴に傷が付くのが嫌なら嫌ってハッキリ言えば?」
「…………」
「よくまあそんな恥知らずなこと伝えに天界からノコノコと」
「天子ちゃん!」

 言葉を遮って声を張り上げたのは、父ではなく、母の方であった。
 いつも周りの良いように振る舞うだけの母の、生まれて初めて聞く怒声に天子は眼を丸くする。
 言葉に込められた生の感情。母は今自分の意思で、罵倒する天子に怒りを持って応えたのだ。
 その意味とはつまり、父は天子が考えているような不埒な理由でここに来ているのではないということ。
 これで父の胸中のすべてが掴めたわけではない、だが天子に対し親として心配を感じて父がここに駆けつけてきたことはわかった。

「……勘違いだったわ、ごめん」
「……いや、いい」

 気まずく眼をそらし一応は謝罪を口にするが、すぐにまた天子の中で不快感が募る。
 今更になって首を突っ込んでくるなら、もっと早く親らしくしてくれれば良かったのに。
 だが同時に、こんな時だけでも本当に親として心配してくれたことを嬉しく感じるのも確かだった。
 良心と喜びから不満を押し殺そうとしているうちに、再び父が話し始める。

「……なあ天子、恐がることがそんなに悪いことか」

 その言葉に、天子は驚いた顔を上げた。

「良いじゃないか怯えても。この父も色んなことに怯えて、自分を捻じ曲げて生きてきた。それでも命を投げ捨てるような真似はしなかった。弱い自分を受け入れてなんとかやってきた。確かに屈辱的なことだが、死ぬよりかは良いじゃないか。お前も、もっと他に道を取れないか?」

 長らく聴かなかった情のこもった父の言葉。彼は今この瞬間は、真心をもって娘と触れ合おうとしてくれている。ただそのことだけで天子は涙が零れ落ちそうなほどの感動が胸を熱くした。
 だが同時に、父からの教えに、やはり自分とは相容れないのだということを理解してしまい、深い落胆が心を抉り、まぶたを閉じた。

「死ぬよりは良い、か。それがお父さんの考え方なのね」
「そうだ、当たり前だろう」

 瞳を閉じたまま、天子は胸に手を当ててそれまでの人生を振り返り、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「お父さんとお母さんには感謝してる。私を産んでくれて、天人にしてくれなきゃ今の私はいないから、この気持ちは、本当のこと」

 やがて眼を開き、いつもの力強い視線で父を射抜いた。

「でも私は、そんな惨めな生き方、絶対にお断りよ」

 天子の言葉を受け取った父は、自らのやり方を侮辱されたことに憤り、音を立てて立ち上がった。

「惨めだと……惨めだとぉ!?」
「ああそうよ、お父さんがそうやって生きるのは勝手だけど、私からしたら惨めよ。自分を殺して生きて、それで自分が欲しいものは手に入らない。異変を起こして、幻想郷の住民と触れ合って学んだことは、ここの連中はみんな自分の好きな様に生きてる。だからこそ望みを掴み、多くの喜びを手に入れて、幸せに過ごしてる」

 自分の心に正直に生きる幻想郷の住民たちとぶつかり合った、あの異変の日々を思い出す。
 空虚な天界の暮らしで忘れてしまっていた生の実感。人と妖怪の群れに投げ込んだ石が波紋を生んで、それが跳ね返って来た時の手応えと感動。
 白い雲の上では確かめられなかった自分の存在を、他者と強引に交じり合って初めて気付くことが出来たのだ。
 その時の昂ぶりを、忘れることなど出来はしない。

「私も生きるならそうするわ。わがままに生きて、とにかく目一杯楽しんで生きていきたい! その障害が現れたなら、何が何でも乗り越える!」

 弱々しい人生をたどってきた父に、天子の激しすぎる主張は受けいれられるものではなかった。
 それどころか今までの生き方を否定され、心が揺らいで怒声となって溢れ出る。

「そもそもお前が妖怪に目を付けられたのも、お前自身のやんちゃが原因だろうが!? そんな風に敵を作って生きていくことの何が正しい!」
「正しいとか間違いとか、そんなことにこだわってるわけじゃない。私が私として、満足できるように生きれなきゃ、死んだほうがマシってことよ」
「それだけのことに、命をかける価値があるのか!?」
「これだけのことだからこそ全てを懸けるだけの価値がある!」

 押さえつけようとする父を、天子は意思を確かにして跳ね返した。
 結局話は平行線、それ以上何も進展がないまま、父と母は帰って行った。

「ったく、第一現実問題として天人五衰が始まってるんだから、もうどうこう言ってる暇なんかないっていうのに。わかってないわ」

 衣玖が持ってきた服に袖を通しながら天子はぼやく。
 まあどんな結果で終わったとしても、改めて言葉でぶつかり合ってきたのだから、あの両親としては良くやってくれたほうだろう。こっちとしても悪いところはあるし、それ以上は言わないでおく。
 その代わりに、溜まった鬱憤は衣玖に向かって吐き捨てた。

「あんたもよ衣玖。あんなのを差し向けて何を期待してるんだか」
「いいえ、期待通りでした。天子様」

 毅然とした声に釣られ、天子はボタンを掛ける手を止めて、衣玖に顔を向けた。

「あなたは自分の望みを叶えるため、勇敢に突き進んでいく。あらゆる障害を踏破し、苦難と相見えるほどにより力強く歩を進める。それは肉親も例外ではありません」

 わずかに当惑する天子に対し、衣玖はつらつらと言葉を述べる。
 躊躇なく想いをぶつけてくる衣玖に、天子はふとこんなにも頑固になれるやつだったのだなと思い浮かべた。

「今更ですが、昨日のクイズに答えましょう。あなたが異変を起こしていたのは、すべてあなた自身が生きるため。先ほど幻想郷の住民から学んだと仰りましたが、その生きることに対する貪欲さは元来備えていたものに違いありません」

 そもそもこの幻想郷だって窮屈なものだ。不満を持って生きている者も少なくはない。
 そんな中で自由に生きている者を見定めたのは、天子自身にそういう気質があったからだ。それが比那名居天子が生きることに必要不可欠だったからこそ、彼女はそれを強く求めた。
 強いが故に弱い生き方を許せない。楽しいと感じられる人生でないと意味が無い。
 例えその先が絶望的でも、望んだ道を歩けなければ気が済まない。自傷すら構わないわがまま加減。

「異変はあなたにとって生の象徴であり、八雲紫という恐怖への抗いだった。あなたの行動の全ては栄光の人生を歩むことに向いている。だからこそ、最初の異変の時から、まだ見ぬ天敵への備えとしてあの切り札まで用意したのでしょう?」

 礼儀正しく頭を下げる衣玖は、この瞬間は未来の天子の姿を見据えていた。
 天子が最初の異変を起こして以来、ずっと後追いだった彼女が、今初めて天子の先に立っていた。

「私は、あなたの行く先を見てみたい。実のご両親を前にしても信念を曲げなかった天子様は、もはや迷うことなく、自らの天道を違えることなく、あの妖怪をも討ち倒すでしょう」

 永江衣玖は、比那名居天子の本質にもっと前から気付いていたが、それに気付かないふりをして見ないようにしていた。
 深海を漂う魚にはそれは眩しすぎて、自分の生き方まで巻き込まれてしまうから。
 だが結局はそれから逃れられなかった、ならば衣玖に残された選択肢はただ一つ、どこまでも天子という輝きを追い求めることだけだ。
 その為ならば天子と同じように、自分もまた誰かから恨まれて自らが傷つくことを覚悟してでも、やりたいと思ったことをやろう。
 水底深くに漂っていたところを大地に引きずり出された一匹の深海魚は、大地とともに生きることを選んだ。

 腹を括り終えた衣玖の、他を寄せ付けない牢固たる感情を前にして、天子はしばし呆然としていた。
 しばらくしてすべてを理解した天子は、歪めた口元から笑い声を漏らし始める。

「ク、ククク、クハハ……アハハハハハハハハハ!!!」

 永遠亭すべてに届く大きな声を響かせながら、くの字に折り曲げたお腹を抑えて膝を叩く。
 昨晩の紫に負けず劣らず狂的な笑いを見せる天子は、ひとしきり笑ったあと歪な笑顔を手の平で覆い、指の隙間から衣玖に肌にまとわりつく重い視線を送った。
 頭を上げた衣玖は、その視線を受け止めながら微動だにしない。

「ハハハハハ。驚いたわ衣玖! まさかあんたに謀られるなんて思いもしなかった! アハハハ……」

 笑いを止めた天子が、突如として拳を振りかぶった。
 天人の身体能力を活かした無造作な殴打は、無防備の衣玖の頬に真っ直ぐ突き刺さってそのまま殴り抜ける。
 首がもげそうなほどの衝撃により、衣玖は病室の扉の真横に大穴を開けながら飛び出て、廊下の壁へと背中から倒れこんだ。

「すっごいムカつく。紫の次くらいに」

 なんであれ家族と怒鳴り合うなど悲しいことだ。
 それを意図的に起こした衣玖に鉄拳制裁という、天子らしいやり方で決着が付けられた。

「ぐっ……これで次、ですか。残念です」
「何よあいつと張り合ってんの? 意外に意地っ張りねあんた」

 衣玖が口の中で歯を舌でなぞった。欠損はなし、天子なら容赦なく顔に来ると予想して、事前に歯を食いしばっていて助かった。
 しかし衝撃で身体に力が入らない。立ち上がれない衣玖を見て、天子は壁に開いた穴を乗り越えて廊下に出た。
 白い雲がかかった青空のような清々しさを七色の極光で彩った服に、桃の実った黒い帽子を頭にかぶり、天子は仁王立つ。
 傾き始めた陽射しが病室の窓から入り、大穴を抜けて天子を背中から照らし出すのを、衣玖は瓦礫を被ったまま眺めていた。

「フン、でもまあ良いわ。ハイハイ言うだけの木偶の坊よりかは悪くない。それくらい腹黒いほうが私には合うってもんよ」

 天子は時折衣玖から送られる特別な感情に気付いていた。
 期待の眼。羨望の眼。次は一体何をしでかすのだろうと、自らにはできないことを軽々やってのける人を羨ましく眺める眼差し。異変を起こすたびに、遠巻きにだが、ずっと見ていてくれた彼女。
 いつの日かただ安全圏から眺めるのを止め、自分の隣を歩いてくれる日が来るのではないかと期待していたが、予想以上の働きをしてくれることに、天子はニヤリと唇を歪ませる。

「手伝ってもらうわよ衣玖」
「喜んで。私をあなたのそばに置かせてください天子様」

 倒れた身体に差し出した手が、握り返されて心地の良い熱が伝わってくる。この温かさが、天子には何よりも安心できた。
 肉親とすら親しみ合えなかった自分は、天涯孤独だろうと諦めていたのに、今はこうしてこの手を握ってくれる者がいる。ありがたいの一言以外に感想が出ない。
 わがままで意地っ張りで、望み通りに生きるためならすべてを敵に回すこんな無謀な自分を、永江衣玖は好いてくれた。自分が比那名居天子であるかぎり、この妖怪は決して自分を見捨てることはしないだろう。

「アァーッ!? なにこれ、あんたたち何してるのよー!?」
「うるさいわね。この程度、後で天女たちに直させるわよ」
「後じゃなくて今しなさいよ、今!」

 様子を見に来た鈴仙の耳障りな声が廊下に響くが、天子は特にどうとも思わない。
 色々と吹っ切れたこともあるし、とても気分がよく、今まで以上に身体に力がみなぎっていた。

「それで天子様、紫さんへの報復はいつになさるので?」
「ククク、決まってるわ」

 天子は帽子のツバを摘んで深く沈ませると、改めて前方部分だけ押し上げて前を見定める。

「今すぐによ!!」



 ◇ ◆ ◇



 幽々子へのお仕置きを敢行し、十分に恨みを晴らした紫はニコニコ顔で団欒とした時間を過ごしていた。

「はあー、実に有意義な時間だったわ」
「うう、紫も妖夢も酷いわ。辱められたわ……」
「んな大げさな……」

 親友の珍しい泣き顔で悦に浸る紫の横では、生首状態から開放された幽々子が目元を袖で覆ってシクシクと泣いている。
 折り目正しく正座をしてそれを見ていた藍が大げさと評したのは、加虐趣味の過ぎる主とあの程度でそこまでショックを受ける幽々子の両方に対してだ。

「良いわね妖夢、止めてよ!? もうあんなことしないでね!?」
「ええ、わかってます幽々子様」

 会話が丸聞こえだったというネタばらしも受け、一応は幽々子の言葉に頷く妖夢だが、紫には一度火の着いた情熱はそう簡単には消えはしないだろうと見抜いていた。現に礼儀正しさを繕う妖夢の目元は僅かにだが笑っている。
 これから白玉楼がどうなるのかが楽しみで、密かに笑みを漏らした。

「藍様、どういうことだったんですか?」
「いやー、ははは……まあ色々あるということだ。橙にはまだちょっと早い」
「なんですかそれ、教えてくれてもー」
「いや頼む、あんまり突っ込まないでくれ……」

 愛する橙にまでその昏い火が燃え移らないか心配で、藍は頭を悩ませて眉間にシワを寄せた苦い顔を、紫の耳元へ寄せる。

「あんなこと妖夢に仕込んで。本当に祟られますよ」
「長い人生、たまにはこういう刺激もいいじゃない?」
「まったく……それに妖夢にあんなにお菓子を食べさせて。晩御飯食べれなくなったらどうするんですか」
「育ち盛りだしなんとかなるわよ、多分」

 悪趣味な主に思わず藍も小言を言うが、やはり大した効き目はあらずがっくりとうなだれた後、気を取り直して立ち上がった。

「それじゃあ橙、晩御飯はもうできてるから運ぶのを手伝ってくれ」
「はい、藍様!」

 元気な橙を連れた藍が部屋のふすまに手をかけた時、突如下から突き上げるような大きな揺れが襲ってきて、家屋全体が揺れ動いた。

「うおお!?」
「藍様大丈夫ですか!?」

 怪我を負っている身では突然の揺れに抵抗できず、バランスを崩し尻餅をつきそうになった藍を咄嗟に橙が支える。
 並の民家ならあっという間に潰れてしまいそうな大きな地震を前に、頑丈な作りをした屋敷もギシギシと不気味な音が鳴り響く。

「ゆ、幽々子様、これは!?」
「ああもう、せっかく晩御飯なのに」

 妖夢はこの騒動に狼狽えて主人に抱き着いているが、幽々子は意に返さず食の心配ばかりしているようだ。
 地震は収まる気配を見せず、藍の胸中に焦りがうずまき、主に楯突いたあの少女のことを思い出す。

「まさかあいつ、昨日の今日だぞ!?」
「……本当、忙しなくて、真っ直ぐな子」

 背筋を正し畳に座したまま、紫はわずかな戸惑いも見せず天井で閉ざされた空を仰ぎ見た。

「要石! 天地開闢プレス!!」

 地鳴りをも物ともせず、力強い声が屋外から届いてきた。
 直後に紫たちの眼の前に現れたのは、天井を突き破って部屋を押しつぶそうとする、先の尖った見覚えのある巨大な岩石。

「え、ええぇぇぇぇええええ!!?」

 次々と起こる危険に悲鳴を上げたのは、事態を飲み込めない妖夢だ。
 動けずにいる彼女と幽々子を、いち早く反応した紫が手を引き、偶然にもこの攻撃の射程距離外にいた藍たちの方へと避難する。
 岩石は柱ごと壁を粉砕しながら突き進み、畳をひしゃげさせて部屋の一角に大穴を開けた。

「相変わらず手加減ってものを知らないのね」
「ふん、そんなことしてやらないわよ」

 襲来した岩石、要石の上にいたのは、紫が予期した通り不遜な態度で緋想の剣を担ぎ、相手を見下ろす比那名居天子であった。
 無礼極まりない登場を遂げた客に、藍がまず最初に敵意を向けた。

「どうやってここを、結界だってあるのに」
「バカねえ、大地は私の手のひらも同然。こんなチンケな屋敷の位置くらいとっくの昔に割り出してたわ。結界の方は、地震で地脈を狂わせて緩んだところを、緋想の剣でズバッとよ」

 ゲームの駒を止めるために盤ごと机をひっくり返すような、随分と強引で大掛かりな普通なら非効率なやり方だ。
 普通な偉大なる大地に干渉するなど思い浮かばないし思いついても実行などできない策だが、地を操ることに長けた天子としてはなんてことない、当然のカードの一つである。

「さあ紫、異変を始めましょう」

 何であれ、紫との戦いならこの形式がしっくり来ると思い、取ってつけたような前口上を伝える。

「私はこれから大地を操って地震を起こす。とびっきりに最悪なマグニチュード8.0の直下型大地震って形でね。異変の解決方法は、私を気絶させるか殺すかのどちらか。気絶した場合、地震は起こらず幻想郷はそのまま。殺した場合は、まあ要石が壊れて地震が起こるけど、これから私がしようとしてることに比べれば何でもない程度よ。そのくらいなら自力で復興できるでしょ」

 その内容に、藍や橙、妖夢などは唖然とする。
 天子の目的は紫との決闘だけのはず、そのためだけに幻想郷を丸ごと破滅させようなどと度が過ぎている。
 だが天子はただ紫に勝てば満足できるわけではない、本気の紫を乗り越えることで自らの恐怖を超克することが目標だ。
 これは自らに背水の陣を敷くだけでなく、紫もまた全力で挑めるようにお膳立てしているのだ。

「止めに来なさいよ管理者。さもなくば幻想郷が割れるわよ」

 要石の上から見下ろしてくる天子に、妖夢はもはや切り捨ててしまうべきだろうと楼観剣に手をかけた。
 だが何故だか剣が上手く握れない。どうしてかと手元に目をやって、そこで初めて自らが震えていることに気が付いた。
 途端に妖夢の身体の奥底が冷え付いた。それは妖夢だけでなく、天子も、藍も、橙も、幽々子も一緒だった。
 違うのはたった一人、いま部屋に渦巻く冷酷な妖気の中心である妖怪のみ。

「ふふ、ふふふふふふ……神社を奪おうとした時のように、あなたはまたそうやって私から大切なモノを奪おうとするのね」

 紫の顔が持ち上がる、その形相に声にならない悲鳴がどこからか上がった。
 まるで死人の如き虚ろな無表情を浮かべながら、垂れ下がった眼には爛々として憤怒の炎が宿り、怒りだけで敵を射殺すかのような眼光が天子に向けられていた。
 また紫が唇の端を指先でなぞった。

「そんなあなたが、憎くて憎くて堪らないわ」

 誰もが凍っていた、橙と妖夢は元より式神の藍も、親友である幽々子も、肚を括ってきたはずの天子も。
 自らの所有物を傷つける者に対する怒りと憎しみ、それこそが紫が天子に向ける感情の根底部分を担うものだった。
 凍った世界の中、紫の手が持ち上げられる。

「行けぇ、要石!!!」

 しかし紫より一瞬早く、天子が恐怖を引きずりながらも動き、戦いの先手を取った。
 撃ちだされた要石は二つ、それぞれが姑息にも無防備な橙と妖夢を狙ったものだ。その軌道の後ろから、天子も飛び出して紫へと詰め寄ろうとする。
 橙と妖夢は固まったまま、藍と幽々子も対処が遅れている、ここは紫がかばうしかない。
 紫は遅れを取ったものの、冷静に状況を判断すると、スキマから日傘を取り出して手に取り、傘の先から光弾を発射した。
 発射された光弾は途中で枝分かれし、光の尾を引きながら要石と激突する。
 要石ごと天子まで貫くつもりで発射された光弾は、しかし思惑に反して要石を破壊しただけで威力を削がれ宙に掻き消えた。

「――硬い!」

 先日の弱々しさはどこへやら、今日の天子が作り出した要石は今まで交戦したうちでもっとも高い強度を誇っていた。
 だが焦りはしない、次弾を発射しようと日傘を天子へと向け力を込める。
 だがその時、屋外から蒼雷が降り注いで、半壊した屋敷にとどめを刺すかのように天井を吹き飛ばし、紫が頭上を見上げた。
 蒼雷の向こうで、緋色の羽衣が揺れる。
 天子の天地開闢プレスに次ぐ第二の奇襲。これを防がなければ紫は愚か天子まで含めて全員が消し炭だ。

「……ッ! 四重結界」

 またも対応できる者は紫しかいなかった。天子より優先して傘を持たない手を上方に向けて、重ねた四枚の結界を張り、部屋を丸ごと焼き尽くそうとする轟雷を遮る。
 空気の割れる音が屋敷を揺らしながらも、雷は青い結界を破ることができず押しとどめられる。
 蒼雷による全滅は防げた、だがその間に紫の眼の前にまで肉薄した天子が、緋色の気質をまとって歪んだ畳を蹴った。

「天符、天道是非の剣!」

 右手で持った緋想の剣の刀身を左手で押さえ、紫の首元に目掛けて剣を叩きつけようと飛び上がる。
 紫は閉じた日傘をかざしてこれを受け止めたものの、強引な攻撃に身体が宙へと持ち上がり、防御の上から上空へと押し飛ばされる。
 崩壊した天井を抜けて、紫は空へと連れだされた。

「紫様!」

 主の一大事に、藍が一番に動き二人の後を追おうと屋敷の上空に飛び上がる。
 だがその前にゆらゆらと揺れる妖怪が、またもや立ちふさがった。

「永江衣玖……」
「昨日はどうも。再び邪魔立てしに参りました」

 いつもの格好に腕に包帯を巻いた姿で現れた衣玖は、こんな状況にも関わらず礼儀正しく一礼で藍を迎える。
 この難敵に、藍は伸ばした爪を向けて威嚇し、威圧的な声で食って掛かった。

「昨日負けた輩が、今日勝てると思うのか?」
「勝算は薄いでしょうね。しかし、そちらには足枷がいるようです」

 表情一つ変えない衣玖に冷静に言い放たれ、藍はまだ屋敷に残った橙たちのことを気にかけた。
 先程の天子も、躊躇なく橙を狙ってきた。もし衣玖が同じことをしてくるならば、かなり厄介なことになる。
 ダメ押しのように、衣玖は腕に巻かれた包帯の上から更に羽衣を重ねて、手を藍に突き出し戦闘態勢を取る。

「両腕を失う覚悟で行けば、足止めには十分では?」

 たった一夜で随分と進歩したようだ。昨日と違って、衣玖は今度こそすべてを犠牲にする覚悟で天子に尽くすだろう。
 すでに場の空気は、衣玖を中心に動き始めていた。藍は衣玖を相手に気が抜けない、そうさせられている。
 これこそが衣玖の本質だ。場の空気を読みながら、それを巻き込んでしまう台風の気質。
 幻想郷を巻き込んで異変を起こした天子と同じだ、だからこそ彼女は比那名居天子に惹かれたのだ。
 藍は頬に汗を流してしばし逡巡し、やがて諦めて肩から力を抜いて腕を下ろした。

「憎らしいが、止めておこう」
「おや意外ですね。てっきり来るかと思ってましたが」
「そりゃあまあ、食って掛かりたいのはやまやまなんだがな」

 藍は遠くで戦う紫と天子を見やる。
 もはやあの二人の戦いは藍では止められない。どれだけの言葉を重ねようと、紫は天子との死合を決行するだろう。
 藍自身に主を止めるだけの力がない以上、できることは見守るだけであった。
 そして己の無力からくるその無念さを、衣玖もまたいくらか理解していた。

「私は、ここから見ていることにするよ」
「……そうですか。私もそうしましょう」

 衣玖もまた腕を下ろす。覚悟をしてきたとはいえ、わざわざ命を懸ける必要もなくなったようで、内心安堵していた。
 肩の荷が下りて溜息を吐く衣玖を見て、藍は苦々しさを噛み締めながら笑いかけた。

「厄介な方に惚れ込んでしまったようだな。お前も私も」
「えぇ、まったくです」

 釣られて衣玖も笑ってしまう。やはりこの二人は波長が合うようだ。
 鼻からくぐもった笑い声を漏らした二人は、やがて同時に口を開いた。

「まあ当然勝つのは紫様だがな」
「まあ最後の立っているのは天子様ですけどね」

 穏やかだった二人が、急に真顔になって顔を見合わす。

「お前は何を言っているんだ、本当にあんな小娘が紫様に敵うわけ無いだろ」
「そちらこそ頭カチコチですね。天子様がいつまでも地上の妖怪ごときに遅れを取るわけがないでしょう」
「紫様なら余裕だ余裕。あんなの逆立ちで昼寝しながらでも勝てるわ」
「天子様なら、石の上で座禅組んで瞑想しながらチョチョイのチョイで勝てちゃいますもんね」
「お前馬鹿か? そんな器用な戦い方できるほどの娘じゃないだろ」
「そっちこそ阿呆ですか。どこの世界にそんな意味不明な行動できるやつがいるんです」
「……紫様紫様紫様紫様ー!!!」
「……天子様天子様天子様天子様ー!!!」

 ものすごい剣幕で唾を飛ばして吠え合うが、これには言葉だけでは足りないと、両者は指にスペルカードを挟んだ。

「どうやらお前とは決着を付けねばならぬようだな……」
「そのようですね、お相手しましょう!」

 主たちとは別に、お遊びの弾幕ごっこが始まる。
 スペルカードルールも無視で戦う天子と紫に比べて実に平和的であるが、下手をするとあちらの二人よりも殺気立っている。
 修羅場が発生するのを、幽々子は妖夢と橙を傍に置いて、屋敷の中から見上げていた。

「あらあら、藍ったら意外と負けず嫌いだったのね。それにしても、紫があんなに惹かれてたなんて読めなかったわ。これは殺せなくって良かったかしら」
「あ、あの」

 ぼんやりと呟く幽々子に、二本の尻尾を床に垂らした橙が恐る恐る話しかけた。
 先程の紫の威圧感からすっかり恐縮してしまっているが、勇気を振り絞って口を開く。

「紫様は、どうしたんですか」
「うん? そうねぇ」

 橙からの質問に幽々子は空を見上げてしばし考えこむ。
 実際のところ、幽々子にもよくはわからなかった。紫は断固として他者に踏み込ませない核心部分がある。親友である幽々子も、その辺りについては未知数だった。
 恐らくはそれが関係しているのではないかと思うが、だからと何も言えないのは親友ポジションとしてのプライドに障ったので、思いつくままの答えを口にする。

「多分、確かめたいことがあるんじゃないかしら?」







「おらおらおらああああ!!!」

 天子の第一目標は、余計な邪魔をされないように藍と引き離すことだ。
 衣玖に乗せられた少し癪だが、精神状態が非常に高揚している。勝負を仕掛けるなら今だ、悠長に異変を起こしてから紫が来るのを待っている暇などない。
 雷での援護もあって上手く行った、望んだ一対一の状況だ。

「とうとう吐き出したわね、狸ババア! 好いているだの愛するだの、そんな面でよく言えたもんね!」

 ビシビシと叩き付けられるような殺気を肌に感じ、天子は胸が痛み脇に汗が流れるのを感じながらも、負けまい必死に好戦的な笑みを絶やさないようにした。
 敵対する紫は、口元こそ無表情から笑顔に転じてはいたが、その眼は獲物を前にした凶暴な肉食獣のような眼光をたたえている。

「あら、あなたのことが好きなのは本当のことよ。ほら言うでしょう? 憎さ余って可愛さ百倍」
「そりゃ反対だっつーのぉっ!!!」

 天子に振るわれた緋想の剣を、紫はひらりと空中で身を躍らせてかわし距離を取り、優雅な動作で閉じていた日傘を差した。
 離れた隙に周囲を伺ってみれば、見渡す限りすべての空に、昨日見たものと同じ緋色の雲が湧き出つつあった。

「幻想郷全体が緋色の雲に包まれつつあるようね。派手な狼煙だわ」
「誰の仕業だってわかりやすいじゃない。私の異変にもう巫女は出張らないって言ったのはあんたよ、これで邪魔してこようってやつはいなくなる」
「それだけじゃない、でしょう?」

 指摘されて天子は挑発するように笑みを深める。
 簡単な仕掛けだ、紫相手にはとうの昔にバレていてもおかしくない。だがそれでも、わざわざ自分から情報をくれてやることもないだろう。

「さあ、それはどうかしらね!」

 腕を振りかぶりながら更に上へと飛び上がり、紫へ向けて両の手を突き出す。
 緋想の剣が周囲から吸い上げた気質が、天子の体を通して手の平から放出された。

「天気、緋想天促!」

 大きめの球形に固められた緋色の弾幕が扇状に広がり、広範囲に渡って撒き散らされる。
 通常のスペルカードの弾幕と外見こそ同じであるが、やはり込められたエネルギーは怪我程度では済まない本気の殺意に溢れていた。天子は昨晩の宣言通り、紫を殺す気で戦いに臨んでいる。
 緋く埋まる光景の中で、紫はつまらなそうに眉を曲げた。

「見え見えの攻撃、私に様子見なんて嘆かわしいわ」

 気質の塊が命中する瞬間、紫はスキマへと身を投じ、絶対的な安全圏へと逃れる。
 そのままスキマを伝って天子の頭上に現れた紫は、隙だらけなその顔を思いっきり蹴り抜いた。
 足で踏まれる屈辱を受けて落下する天子が見たのは、周囲を取り囲んでこちらを見つめる空間に開いた無数の眼。

「いつのまにっ――」
「魔眼、ラプラスの魔よ。見逃してた?」

 スキマで移動する前にあらかじめ仕掛けておいたトラップが発動し、眼から紫色の光弾が撃ちだされた。
 全方位から向けられた眼光が着弾し爆煙が噴き出る。死に蝕まれる身体を砕かれるような痛みが骨の髄まで響き渡るが、あくまでそれだけであり戦闘活動に支障はない。
 それがまた痛みよりも何よりも天子のプライドに傷をつけ、煙をから抜け出て宙で踏ん張る彼女から怒声が口を衝いて出た。

「やろうと思えば今ので殺せたのに! この期に及んで手加減なんて!!」
「あなたはまだ私と同じ次元にすら立っていない、まったく失望させないで欲しいわ」
「言ってくれたわねクソスキマ、引きずり下ろしてやるわ!!」

 すぐに紫と同じ高度まで復帰した天子は十数個の要石を作り出すと、石を起点として気質を放出し、更に要石そのものも紫にぶつけようと打ち出した。

「カナメファンネル!! 行け、要石!」
「またこんなもので――」

 呆れて紫が溜息をつく。こんな攻撃ではいくらやっても無駄なことだ。
 また同じようにスキマを使い難を逃れようとする姿を見て、天子は力を込めて紫に伸ばした手を握りしめた。

「今、このタイミング!!」

 生まれ持った能力が神経を通る電流のように走り、肉体を出て戦いの場すら飛び越えて、幻想郷の要所である博麗神社に仕掛けられた要石へと届いた。
 地震を抑える役割を持った要石が地面の中で微かに震え、その振動が伝播するように幻想郷全体に強い地震が発生した。
 そして幻想の大地が揺れると共に、何故か宙に開かれたスキマが震え、紫の額にわずかな冷や汗が流れた。

「――――やってくれるッ!」

 紫は開いたスキマを即座に閉じ、その場で回避行動に移る。
 空を走る弾幕のあいだを縫って飛び回り、飛び込んできた要石を紙一重で避けようとする。
 しかし最後の一つが紫の逃げ道へと的確に向かってきて、閉じた日傘を横から叩いて軌道を変えることで辛うじ凌いだ。
 再び傘を開く紫だが、天子を見つめる眼には、先程までとは違う明らかな警戒が含まれていた。

「そうか、あなた博麗大結界を利用したわね」
「ご明察、さっすが察しがいいじゃないの」

 先の一瞬、異常な挙動を見せたスキマを思い返す。
 スキマだけではない、あの瞬間においては空間そのものが揺れ動いていた。
 単なる地震の効果では、あんなことは起こりえない。しかし天子は、思い切った方法でそれを実現してみせた。

「地震で地脈を狂わし、結界を揺るがし、空間を引っ掻き回したわ! この状況でスキマからワープできるもんならやってみなさいよ、不規則に揺れる空間に同調できなきゃ、身体がねじ切れるでしょうけどね!」

 要は紫の屋敷に奇襲を掛けた時と同じ方法だ。天子は紫と渡り合うために、幻想郷を丸ごと武器として使用しているのだ。
 確かに幻想郷を包み込む強力な博麗大結界を介せば空間にまで干渉できる、それは下手をすれば幻想郷そのものが潰れかねない、でたらめな戦術だ。
 久しぶりに感じる屈辱に紫の表情が固くなる。

「アッハハハハハハハ!!! 愛する幻想郷に牙を剥かれた気分はどうよ紫ぃ!?」

 そこに差し込まれた不愉快な煽りに、紫の眉間に珍しく影が差した。

「私のものを利用しただけの分際で、よく言えたものね」
「おう、怒った? じゃんじゃん怒りなさいよ! じゃなきゃ今までの割に合わないわ!」

 紫の余裕が消えて行くことに、天子はいかにも嬉しげに声を張り上げた。
 とは言え当然だろう、これは今までの仕返しだ。

「あんたが私のことを散々馬鹿にして煽ってきたのは、何も今日のためだけじゃない。本当は私のことがムカつくから、屈服させたかったってのが実際のところでしょ!?」

 天子の指摘を受け、ようやく紫本人もこれまで天子に与えてきた仕打ちの真相に気が付いた。
 それほどまでに、紫は天子に対して怒りと憎悪を抱いていたのだ。
 幻想郷を傷付けられたからではなく、単純に天子の存在そのものが気に食わない。

「私だって同じよ! 吠え面かかせてやるわよ紫!!」

 天子が正面にかざした緋想の剣が、高速で回転を始め周囲の気質をすさまじい勢いで収束させていく。
 スキマによる移動を封じた今、天子は何の憂いもなく攻勢に移れる。

「全人類の緋想天!!」

 満を持して、比那名居天子の持つ最大最強の一撃が放たれた。
 幻想郷に住まうものの気が緋色の塊となり、自らを誇示するように緋く輝き紫の視界を覆う。
 大地に逃げ道を断たれ絶体絶命のさなか、紫は傘を左手で持つよう切り替えながら、ふと天と地の切れ目を流し見た。

「そういえば、雲でわかりづらいけど逢魔が時ね」

 白く美しい指を誇るように、しなやかな右手が前面にかざされる。
 手の平から巻き起こる幾何学模様の結界が、何重にも重なり壁となって現れた、その数は四を超えて無数に。
 青みがかった彩色は波長が沈まり紫色へ、作り出されたのは月と星のない夜のような、昼を遮る夜の帳。

「境界――八重結界」

 四重結界を越える、八枚重ねにされた紫色の結界が、緋い輝きにも負けず空に咲き誇った。
 凄まじい妖力を注がれた結界はどこまでも巨大さを増し、紫はおろかその直下の地上を覆い、上空の緋想の雲を突き破るほどにまで広がった。
 大気を押しのけて到来した気質が、立ちはだかった結界に正面から衝突する。
 激突から発生した衝撃波が周囲に撒き散らされ、地上ではその風圧に木々が大きくしなり天災もかくやの様相を見せていたが、結界を隔てた向こう側にはそよ風一つ起こっておらず、紫は涼しい顔で行く手を阻まれた気質を眺めていた。
 とうとう全人類の緋想天は凶暴な爪を立てながらも、この壁を突き破ることは叶わず消え失せ、後には紫色の結界が傷一つなく艶麗な微光を放っていた。

「……防いだ、あれを!?」

 直前まで勢いづいていた天子が、唖然とした表情で結界を見ていた。
 結界の向こう側に佇む紫の冷ややかな視線に、強気な自信が打ち崩されていく。

「それで、終わり?」
「こぉの、要石!」

 怖じける心を誤魔化すために叫びを上げ、要石を周囲にいくつも作り上げ、結界に向けて射出した。
 空を裂いて飛来した要石は、結界に触れた先から粉々に粉砕され宙に消えた。
 業を煮やした天子が緋想の剣を構えて突撃し、直接結界に剣を斬りつける。

「天符、天道是非の剣!」

 だがやはりこんな苦し紛れの攻撃では、結界はびくともしない。
 それどころか近くにいるだけで結界から手足をもがれそうなほど膨大な圧力がかかり、もう一撃入れようとするも踏ん張りきれず吹き飛ばされてしまった。
 元より最強のスペルである全人類の緋想天で破れなかったものだ、他の手札で打ち崩せるはずがない。
 うねりを上げてすべてを隔絶する結界の壁は、絶対的な超えることのできない象徴として、天子の行く手を塞いでいた。
 天子の胸の奥で、埋め込まれた恐怖が再びその眼を開き始める。

「くっ……恐がるな、恐がるな……!!」

 思わず剣を持つ手が震えそうになり、その腕を反対の手で押さえる。
 そんな天子の様子を見て、紫は満足気に唇を舌でなぞった。

「では、今度はこちらの番ね」

 八重の結界が紫色に瞬き、結界の表面から生み出された光弾が天子に向かって放たれた。
 襲いかかる弾幕に、天子は顔を引き攣らせて、無意識の内に身を引いていた。

「か、要石!! 無念無想の境地!!」

 いくつもの要石を作り出して周囲に浮かべ、更に自分の身体に気質の鎧をまとわせる。
 飛来する光弾に対して要石をぶつけ、それでも防ぎきれない弾幕の中を、天子は逃げ惑う。
 眼の前で光弾に負けて弾ける要石を見て、天子の中で無力感が蔓延する。
 嵐が去るのをじっと待つように、ひたすら守りに徹していた。
 だが、それでは勝てない。

「あら、まだ凌ぐ程度の力は残っていたのね」

 様子を見るために一度紫が攻撃を止めれば、浮遊する要石の上に立って息を切らす天子の姿があった。
 しかし左手で抑えた右の脇腹が赤く染まっており、完全にかわせたわけではない。
 このままの状況では先は袋小路だ。まず間違いなく敗北する。
 この境界を超えねば、天子に勝利は訪れない。

 立ち塞がる壁に、天子の奥歯が震えてカチカチと耳障りな音を鳴らす。
 結界を破るどころか、まず天子は折れそうな心を保とうとするだけで必死だった。
 脚が震え、要石の上で膝を突いた。倒れかける身体を、緋想の剣を杖にして支える。

 恐い、恐い、恐い、ただひたすらに恐い。
 次に紫はどうしてくるか。やはりこのまま結界越しに攻撃を続けるか、それとも瀕死の天子を直接自分の手でなぶりに来るか。その場合自分はどれだけの尊厳を踏みにじられることになるだろうか。
 嫌な予感ばかりが脳裏を過ぎり、負けてしまった先で紫にどんな目に合わされるのかと考えてしまい、緊張で喉の奥から血が溢れた。
 服の下にこすれる垢の気色悪い感触。脇の下の湿り気。鼻につく腐臭。それらが不安を加速させ、いっそ死んでしまいたくもなった。

「ハァー…ハァー……」

 一瞬でも気を抜けば、また苦痛に飲まれて発狂してしまいそうだ。そうすれば、今度こそ正気には戻ってこれない気がする。
 勝利か敗北か。生か死か。最大の境界線に立った天子が、垂れた顔から眼球だけを動かして、紫を睨め上げた。
 あとほんのわずか、一歩だけなのだ。ここさえ超えれば、紫のもとに辿り着く。

 その一歩が、果てしなく遠い。

 窮まった天子の身体から、急激に力が抜け落ちる。
 要石の上に倒れかける一瞬、意識だけが先鋭化して肉体を抜き出た。
 八重の境界に阻まれたその先の、紫の眼の中に飛び込んだような感覚が身を包み、その先に垣間見た。

 一面の暗黒と、その中に溶け込んで佇む誰かの姿を。

「――――まだ、よ」

 膝に力が込められて、倒れる身体をギリギリで持ち上げた。
 要石の上で歯を食いしばって立ち上がった天子は、口の端から溢れだした血を拭って剣を握り直す。

「最初に異変を起こしたあの日々は、死に体の心が生き返るくらい素晴らしい時間だった。私のしたことが、人を動かして私に返ってくる。楽しくて嬉しくて、幸せの絶頂だった。そこにあんたが……紫が現れた。あんたは私の心を犯す闇よ。大きすぎて、超えられる気がしなくて、絶望感すら湧いてきて、正しく恐怖の権化だった」

 今もなお、その恐怖は天子の心を縛り続けている。
 あらゆる力を根こそぎ奪い取られ続け、出口のない闇の中を彷徨うしかない。

「でも……今なら、恐怖の向こう側にあるものに手が届く気がする」

 そんな中、一筋の希望を見つけたように安らかな顔で見つめてくる天子を、紫は結界の向こう側から表情を変えないまま受け止めていた。

「それが何だかわからないけど、付き合ってもらうわよ、紫!」

 最後の瀬戸際で、自分らしさを取り戻した天子が、気合をみなぎらせる。
 その姿を見ながら、紫の脳裏に思い出される言葉があった。
 あれは博麗大結界を張り、幻想郷が今の形に完成した時に龍神から与えられたものだ。



『――幻想郷、博麗大結界、よかろうすべて承知した。しかし八雲紫よ、お前は自分の望みがなにかわかっているか?』

 幻想郷を雷鳴と豪雨で覆い尽くし、大地と海ができたばかりの原初の地球もさながらの光景を作り出した龍神に、紫は妖怪の賢者達を代表し平和を誓い、事態の沈静化を願った。
 その時に、天を塞ぐほどの巨体を持つ龍神は何を思ったか、紫本人にわずかな興味を示し、そんな質問を投げかけた。

『私の望みは、私の愛する大切な家族や友人と、できるだけ長い間過ごしていたい。それだけのことです』
『なるほど、それはそうだろう。だがそれとは別に、お前には求めているものがあるはずだ』

 遥か頭上から見下ろす龍神は、初めて出会った紫の本質を即座に看破していた。

『哀れな小さき女よ、お前が求めるものは愛する者たちからは与えられまい。お前の愛する者はつまるところ手球に過ぎない、それでは欠落は埋められない』

 哀れと評された紫は、漠然とその言葉を受け止めていた。

『怒りを覚える怨敵が現れればそれを大切にするが良い、立ち向かうものだけが境界に潜むお前の原初の欲求を満たすだろう』



 これを聞かされた時は言葉の意味があまり実感できなかった。そうかもしれないとは思ったが、完全に同意できたわけではなかった。
 だが今なら理解できる。
 天子が自分を見つめてくれる、暗黒の深淵に恐怖しながらも、それでも熱い眼差しを投げかけてきてくれる。
 今にも彼女は情熱をまとって駆け出し、闇に潜むこの身に剣を突き立てるだろう、その時こそ――その時こそ――



 ――相対するものが二つ揃った時、そこに境界が生まれるのだ――



「私が闇なら、あなたは光ね天子」

 満面の笑顔を浮かべる紫の前で、天子は高々と緋想の剣を緋色の雲に包まれた空に掲げた。

「はああぁぁぁぁあああ!!!」

 更に精神を集中と共に、周囲の気質が反応し、緋い霧が周囲に渦巻いていく。
 そして緋想の剣は、柔らかな手の中で逆手に握り直され、天子の胸に突き出された。

「――――カハッ」

 天子の口から乾いた声が漏れる。
 突然の自決にも見えた、だが緋想の剣は決して天子の身体を切り裂いてはいない。
 気質で構成された刀身は肉体を傷つけず、天子の魂に深く食い込んでいた。
 緋想の剣から気質が、幻想郷に住まうものすべての気が流れ込み、それに付随する混沌とした感情の渦に天子の心が曝された。
 自らを巻き込む感情の流れがすべてを奪い去ろうとし、脳が壊れ魂が砕けそうになりながらも、未来を夢見て生きることを望んだ天子は巨石のごとくたじろがず、自らの想いだけを剣に差し出した。
 空模様に変化が起こる。

「あの夏の異変で、私は緋想の剣で気質を集め、それを緋色の雲にして地震を起こそうとした。ならその逆も可能なはず」

 気質で作られた緋色の雲が、天子の生まれ持った本質に巻き込まれ、形を変えていく。
 膨大な気質は糸となり、布を織るようにまとめられていき、夜の空に緋色の雲から生まれた緋いカーテンが揺らめいた。
 これこそが、天子の持ちうる気質、極光。

「あんたがこれから戦うのは、この幻想郷そのものと思うことね、八雲紫!」

 緋きオーロラは幾重にも重ねられ、すでに日が落ちて暗くなった空を覆い尽くし、夜の幻想郷を照らしだした。
 その前に夜空に散らばる星粒もかき消され、人を狂わす月の輝きすら跳ね除けられる。
 昼と見まごう明るさが結界をも飛び越えてきて眼に映り、紫は我を忘れ感嘆の声を呟いた。

「美しいわ……」

 結界越しにも伝わるほどの素晴らしさ。
 心奪われるほど美しくもあり、またこれを創りだしたこと自体が驚愕だ。
 天子は自らの気質を利用し、幻想郷の地震エネルギーの一部を極光の形でまとめ上げたが、口で言うほど簡単なことではない。
 気質は人の想いだ、大地に染みこんだ感情の数々、それは喜び楽しむ感情もあれば、当然怒りや哀しみなど負の感情もある。
 その感情のすべてを受け止めることは、マグマの流れに身を投げ込むことに等しい危険な行為だ。
 天子自身も、その可能性を考慮していたがために、ギリギリまで使用を踏みとどまっていたのだ。

 だが天子は一歩間違えれば精神が崩壊し廃人になるであろう困難を見事やり遂げ、圧倒的なエネルギーを味方につけた。
 幻想郷を覆う極光、今やこれらすべてが天子が意のままに操れる気質の塊なのだ。

「緋い極光……赤気なんて、見るのも久しぶりね」

 緋い色のオーロラは自然現象としても稀に発生し、日本書紀にも赤気という言葉で記されている。
 紫も自らの眼で見たことがあったが、天子が創りだした極光は、今まで見たどれよりも美しかった。

「いつか使うことがあるかもと思って、異変のプロットに組み込んでおいたけど、こんなに早く発動することになるとは思わなかったわ」

 天子の持つ緋想の剣が、そして新たに作り出した数十個の要石が気質を帯びて緋く輝く。
 極光から無尽蔵とも言える気質の供給を受け、先程までとは比べ物にならないエネルギー量に、紫も気を引き締め表情をきつくした。

「さあ、これがこの大地に住まう者、全ての非想の気から作り上げた『全人類の緋想天』の真なる姿よ!!!」

 天と地を裂くような轟音とともに、緋色の光が放射され、津波のごとく紫に向かって押し寄せてきた。
 紫はより結界に力を注ぎ込み、その堅牢さを最大にまで高め、この勝負を受けて立つ。

「受け止めてあげるわ……!!」

 全人類の緋想天と八重結界、二つの衝突により大きく結界が歪曲し、周囲の空間がたわんだ。
 押し寄せる気質を受け止めた結界が、端の方からガラスが割れるような音と共にひびが入り、それが全体に広がっていく。
 やがてヒビは中央部にまで届き、一瞬の空白の後に結界が粉々に砕け散った。

「やった……!!!」

 天子の顔に歓喜が浮かぶ。
 残念ながら、結界を打ち破ったところで一旦気質を出し尽くしてしまった。
 もう一度攻撃するには気質を再充填する必要があるが、これで天子にも勝ち目が見えて来た。
 しかしまだ紫にはあらゆる手段が残されている。
 崩壊した結界の紫色の残光に包まれた紫は、吹き荒れる突風で体勢を崩しながらも、鋭い眼で極光を背負う天子を睨みつけた。

「開けスキマよ!」

 号令とともに、天子を中心として周囲にスキマが広がっていき、その奥でうごめいていた眼が一斉に開いた。
 振動する大地と揺らめく天空。
 天地の挟撃にとうとう紫は追い詰められ、ようやく彼女は天子を幻想郷を荒らす害虫としてではなく、自身と相対する『敵』であると認定した。

「開けて悔しき玉手箱、至る処に青山あり、二次元と三次元の結界、客観結界、飛光虫ネスト、狂躁高速飛行物体!!!」

 墓石が、卒塔婆が、結界が、謎の高速飛行物体が、紫の持つありとあらゆる攻撃手段が全周囲から天子の身を襲いかかる。
 揺れる空間の中でスキマから繰り出された攻撃は不完全なものも多い。降ってくる墓石は半分ほどえぐれているし、飛び出した卒塔婆や弾幕は通常より数が少ない。
 それでもこれだけ同時に発射された攻撃だ。中心に居座る天子に、一切の逃げ場はない。

「ぬるいわ!!」

 だが天子が剣を振るうとともに、緋想の剣と要石から全方位に気質が放出され、飛来する弾幕群を打ち砕く。
 緋い光がまたたき、爆煙が周囲を包んだ後に残ったものは何一つとしてない。
 純粋な力押しで、紫の攻撃はすべて撃墜されてしまった。

「廃線、ぶらり廃駅下車の旅」

 更に紫は自らの隣に巨大なスキマを開き、そこから廃車となった電車を走らせた。
 巨大な鉄の塊は妖力の保護を受け、揺らぐ空間と擦れて火花を散らして車体を歪ませながらも、強引にスキマを抜け出て天子に体当たりを仕掛けてくる。

「今更、こんなものが効くかぁ!!!」

 力を込めた緋想の剣の一振りが、全開の気質を開放し廃電車に叩き付けた。
 緋色の輝きに飲み込まれた電車は、全体の窓ガラスを粉々に砕かれながら、先頭車両は原型を留めないまでにひしゃげてしまい、足蹴にされた蛇のように紫の背後へ吹き飛ばされた。

「見えた――」

 背後から地上に落下した電車の音を聴きながら、紫は天子への対抗策を打ち出した。

「――八雲の巣!」

 紫を起点に網目状に張り巡らされた光線が発射され、蜘蛛の巣のよう天子の周囲を取り囲むが、これは天子自身を攻撃するためのものではない。
 光弾は天子ではなく、彼女の周囲に浮かぶ要石に突き刺さり、それらを破壊し尽くして天子の領土を奪い取る。

「チィッ、さすがは紫ね、的確に弱点を突いてくる!」

 天子の顔に焦りが浮かぶ。
 極光を利用した全人類の緋想天は総エネルギー量だけ見れば桁外れであるが、緋想の剣だけではスペックが追いつかず一度に放出できる気質の量に限界があるのだ。
 そこで天子は、作り出したた要石を大地に見立て、そこに気質を押し込めることで砲台として利用していた。
 これにより一度の射撃の出力を底上げしていたのだが、早速見破られてしまった。

「まだまだぁ!」

 要石を失った天子が、緋想の剣から気質を打ち出した。
 緋想の剣から放出される気質だけでも相当なものだ。先程の要石を加えた最大出力には負けるが、山を削ぎ落としかねないほどの気質が再び紫に襲いかかる。

「八重結界!」

 吐き出された気質に対し、紫は再び結界での防御を試みる。
 結界は緋想天を受け止めると豪快に音を立てて歪み、重ねられた八枚のうち七枚が耐え切れず破壊された。
 だがそれでも最後の八枚目が緋い光を押しとどめ、術者の身を見事守り通した。

「剣だけの射撃じゃ力不足か、なら!」

 要石を出せばそこを叩かれて、戦況は五分五分のまま膠着する。そうなればいつ紫が新しい手を打ってくるかわからない。
 早めに決着をつけるべきと判断した天子は、要石を捨ててその身一つで紫の元へ飛び込んだ。
 あっという間に修復して完全な姿へと戻る八重結界に対し、緋想の剣の刀身に気質を集中することで一点突破力を向上させ、結界の表面に剣先を突き立てる。

「切り裂け、緋想の剣!」

 一極集中された気質が先端から矢のように飛び、重ねられた結界に小さな穴を開け、そこから結界全体を粉々に打ち崩した。
 結界を貫通した気質が紫の頬をかすめ、手に持っていた日傘に穴が空く。
 崩壊する紫色の結界の残骸をあいだに挟み、とうとう天子は目と鼻の先にまで紫に近づいた。

「これで終わりよ紫!!!」

 両手で持った緋想の剣で、天子は紫に斬りかかった。
 だがその鋭い刃が見を引き裂く前に、紫から差し出された閉じた日傘とぶつかってせき止められる。
 集中した気質の刃を止められ、眼を見張る天子の前で傘布がはじけ飛び、その下から現れたものがあった。

「――隠し刀!?」
「まだよ天子。決着には早いわ」

 日傘の中から現れたのは、紫色の妖光を放つ一振りの剣であった。

「そんな玩具みたいな剣で!」

 天子が力づくで紫の剣をへし折ろうと、緋想の剣を叩き付けた。
 だが全力で剣を振り回し、三度打ち合っても紫の剣はびくともせず、鈍い金属音が響くのみ。

「硬い……!!」

 これはただの剣ではなかった。隠し刀の上に、縮小した八重結界を張り詰めた、紫の妖力で紡がれた刃なのだ。
 極光を背負う緋想の剣とも渡り合う、紫色の刃が踊り始める。

 紫の剣が、天子の胴体を狙って滑るように切り込んできた。慌てて緋想の剣で受け止めると、すぐに刃は離れ新たな斬撃が襲いかかる。
 緋想の剣による防御は間に合わない。要石を作り出してその身を隠す天子だったが、紫の剣は要石を粘土のように切り裂いて、裏側にいた天子の胸を切り裂いた。
 天子は一瞬死を覚悟したが、幸いにも薄皮一枚切られただけで済む。

「あっぶな……!!!」

 紫の戦い方は、意識の隙間をつく妙法であった。
 剣先の揺らぎ、手足のそぶり、視線の移り方から吐き出される吐息に至るまで、すべてが天子の注意を揺らすように組み合わせられており、それによりできた隙を突く。
 もはや接近戦での天子の不利は明白だ、ここは素直に引いて射撃での攻撃に徹するべきだ。
 だが天子の中にうずく何かが、ここで引いてはダメだと彼女に教えていた。

「ハァッ、ハァッ!」

 植え付けられた恐怖が胸の奥でざわめき、天子の身体を絡めとる。
 天子が紫に隙を突かれる最大の要因が、この恐怖による束縛であった。
 恐怖は紫の動作に対し天子を過敏に反応させ、ここぞという勝負どころで動きを縛る枷になり、戦いの邪魔をしていた。
 だが重い体を押して必死に攻撃をかわし、恐怖と命の危険に神経をすり減らしながらも、それでも天子は剣を振るう紫の姿を見て。

 楽しそうだと思った。
 異変の日々で気付いたことと同じだ、この幻想郷の住人は誰だって自分らしく楽しく今この瞬間を楽しもうとしている。
 眼の前にいる紫も、この戦いを楽しんでいるのだ。
 自分もそうしたいのだと、天子は思ったはずだ。

「ハァッ、ハァッ、ハァッ――」

 胸の奥で縛られた心臓が痛む、次の一撃は対応を誤れば首を跳ねられると直感でわかった。
 本能が逃げ出せと叫び、警鐘がけたたましく鳴り響くのを聞き流す。
 生きることを楽しむために、望んだ道を往くために、死の瀬戸際に踏み込んだ。

「――えへへ、やった」

 天子と紫の剣が交差して、立ち位置が入れ違いになった。
 得意げな顔をして振り向いた向こうには、脇腹を血で汚した紫の姿があった。

「ようやく、ここまで来てくれたわね天子」

 傷口をのぞった紫は、指先に付いた血を舐め、天子に振り返る。

「今のあなたは間違いなく対等よ」

 八度にも及ぶ敗北の夜を超え、とうとう天子はあの紫と並び立った。
 喜びが天子の内を駆け巡り、その身を蝕んでいた呪いが浄化されていく。

「まさか、一発いいの当てたからって、これで終わりにするなんて寂しいことは言わないでしょうね?」
「あはは、そんなわけ、ないじゃない!」

 気が付けば、脇の下の湿り気は薄れ、身体にまとわりついていた臭気が消え失せる。
 五体を埋め尽くしていた苦痛の波が引いていき、冷えきった魂が熱を取り戻していく。
 天子はとうとう、紫への恐怖を克服したのだ。
 もう天子が掲げていた目標は乗り越え、自由な心を取り戻した。
 紫とこれ以上戦う理由もないはず、それでも天子は嬉しそうに剣を振るう。

「こんな最高の舞台で、黙って退場なんてできっこないわよ!!」

 そうだ、ここで戦いを止めるようなおとなしい性格なら、ここまで来てたりやしない。
 貪欲に生の快感を求めて、すぐにまた突っ走り始めた。
 天子の剣を弾いて隙を窺う紫が、間合いを調整しながら笑いかけた。

「えぇ、こんなに面白いこと、すぐに止めるなんてもったいないわね」
「あはは、あんたに同意するなんて癪だけどその通り!」

 面白い、そう面白いのだ。
 もはや天子が戦うのは、恐怖からくる意地でもない、憎しみですらない。そういう局面へ導かれていた。
 それは天子に限った話ではない。

 今まさに天子と対になって戦いに興じる紫もまた同じだ。
 何故先ほどまで紫と剣を打ちあうたびに恐怖心を引き出されていたのか、天子にはわかった。
 紫はあらゆる仮面を脱ぎ捨て、ありのままの自分を剣に表しているのだ。故に、紫に怯えていた時点の天子は、安々と恐怖に飲み込まれていた。
 そして改めて意識を研ぎ澄ませば、紫の剣から驚くほど多くの想念が伝わってくる。

 紫が天子のことをどう思っているのか。憎しみと愛、怒りと慈しみ、相反する感情がひとまとめになって天子にぶつけられてくる
 だからこそ天子も楽しかった、己の気持ちを出し尽くすつもりで剣を打ち合った。
 全力でぶつかりたいと思え、それに応えてくれる、それのどれだけ感動的なことか。

「痛手を受けたからって、ビビってなんかいないわよね紫!?」
「ビビる? 私が? はは、面白い冗談だわ。笑って手元が狂ってしまいそう……よ!」

 紫の突きつけた刃が、天子の腕に浅い傷をつける。
 一度下がらざるを得なくなった天子だが、その隙を要石を射出することで埋める。
 繰り出された要石は紫の剣に一刀両断されるが、すかさず天子は前進して斬りかかった。
 炎のように荒れ狂う剣の前に、三度目の八重結界が阻もうとするがこの近距離ではやはり打ち砕かれる。
 しかし剣を振りきった後の隙を狙って紫の剣が振るわれそうになり、天子は咄嗟に開いた左手を前に出して、紫の剣を持つ手を押さえ込んだ。
 斬撃を止められた紫もまた、同じように左手を伸ばして緋想の剣を持つ天子の手を押さえる。
 一進一退の攻防。押さえられた互いの剣が眼前で交差したまま拮抗した二人は、刃越しに鋭い歯を見せながら睨み合った。

「狂ってるのは性格でしょイカレババア! 怒ったり笑ったりわけわかんないのよ、あんた結局何がしたいわけ!」
「あら、今のあなたならわかるでしょう」

 天子の腹部を膝で蹴りつけて押し返した紫は、一旦紫色の剣を下ろし引き下がった。

「好きで嫌いで、憎くて愛しい。そんな矛盾を孕んであなたとぶつかる度、私の心が引き出される。私という存在が暴かれて、この世界に浮き彫りになっていく」

 紫が剣を持たない手を胸に当て語る。
 その姿は、天子が今まで見てきた中で、一番感情を露わにしているように思えた。

「――嗚呼、私は生きてここにいる。なんて、なんて嬉しいことかしら」

 本当に、本当に嬉しそうに紫は言い切った。
 しかし穏やかな笑みを浮かばせて本当に心から断じる紫の眼が、天子には一瞬寂しげに見えたのは気のせいだろうか。
 同時に、それを見た心に、何かが芽生えようとしていた。

「だからね天子。私をそんな気持ちにしてくれるあなたが好きよ、愛してる」
「ふん、私はあんたのことなんて大っ嫌いだけどね」

 この気持を嫌いというだけで終わらせてしまって良いのだろうか。
 もう一度天子は紫の昏い眼を真っ直ぐ見つめる。先程追い詰められた天子が見つけた影が、深淵で揺れ動く。
 そこに潜むものに向かって、天子は問いかけた。

「……あんたは、何者よ」
「私は紫、八雲紫よ、スキマに潜む妖怪」

 言葉で問うてみても返ってくるのは表面的な部分だけ。天子が知りたいのはその最奥の本質だ。
 まだ紫は何か核心部分をかくしている。それを見つけた時に、天子も自分の気持ちが変わる気がする。
 そこに辿り着くためには、やはり生身の感情でぶつかるしかない。

「だからね天子。全力でやりましょう」
「……当然よ、手加減なんてしてやるもんか」
「それでいいわ。それこそを、私は望む」

 互いに示し合わせたように笑みを浮かべて構えを取り、再び剣が火花を散らし始める。
 まるで二人で完成された剣舞のように立ち回りが続いた。






「紫も随分と熱が入り始めたわね」
「うわぁ、紫様の剣捌きすごっ。というかあの方、剣も扱えたんですね」
「あんな紫様、初めて見ました」

 博麗大結界を揺らす地震にも、二人が展開する弾幕にも被害を受けないように、距離を置いた空中に佇む幽々子たちは二人の勝負を眺めていた。
 そろそろ決着を予感し始めていると、背後に誰かの気配を感じて幽々子は振り向く。
 苦々しい顔で肩を落とす衣玖と、誇らしげに胸を張る藍がそこまで来ていた。

「あら二人共、そっちは藍の勝ちみたいね」
「もちろんです、紫様の手前負けられませんよ」
「まあ私が負けたからといって、天子様が負けるとは限りませんがね」
「まだ言うか、お前も意外に負けず嫌いだな」

 負けず嫌いなのは両方だと幽々子は思うが、面倒なのでとやかく言うまい。

「紫たちのほうはそろそろ佳境よ」
「おぉ……って、なんですかあれ。どうして接近戦なんか」
「どうやら天子様は順調に紫さんを追い詰めているようですね」

 食い入るように天子と紫の戦いを見つめる橙と妖夢に、後からやってきた二人も並んで加わった。
 その戦いぶりのなんと楽しそうなことか。
 衣玖は一目見ただけで、天子が恐怖から抜け出たことがわかった。

 しかしならば何故未だ戦い続けているのか。その理由についても衣玖は当然のごとくわかっていた。
 健やかな子供がその足で草原を駆け抜けるように、翼を持った鳥が大空を羽ばたくように、天子はあらん限りの力を振るうことが、楽しくて楽しくてしょうがないのだ。

 そして天子からそんな感情を引き出せている紫に、衣玖は羨んだ視線を送った。
 衣玖とて天子の力になれることがあれば、いくらでもその身を使おう。
 しかし真正面から全力の天子を受け止めることができるかと、聞かれると返答に詰まる。

「まったく、嫉妬してしまいそうですよ」

 衣玖の視線の先で、いよいよ結末が訪れようとしていた。






 こいつの望みは、実は私と同じなんじゃないかと天子は思った。
 天子が生きたいと願うように、紫もまた同じことを祈っているのではないか。
 だからこそ紫は全力で生きようとする天子を求めて、お互いが真正面からぶつかるこの状況を仕立てあげたような気がする。
 良いように扱われたというのはハッキリ言ってムカつくが、この際どうでもいい。

「だから、もっとよ!」

 叫びとともに緋い刃が走る。
 何にせよこの先に紫が求めていた真の望みがある、それに何故か天子自身も惹かれ始めていた。
 自らの魂を震わす何かを感じ、身を投じる。

「こんなんじゃ足りない、もっと、もっと、もっと!!!」

 もっと先へ、もっと前へ、もっと深く、もっと強く。
 天子の意識が境界を超えて、より紫の深淵へと踏み込んで行き、暗がりに手を伸ばす。

「そうよ天子。来てみなさい……いや――」

 天子が来る、あらゆる障害を乗り越えて今まさに自分と相見えている。
 待ち望んでいた時が来ることに紫は胸が高鳴るのを抑えられない。
 そうだ自分はずっと前から呼んでいたのだ、生まれた時から、彼女のような光を。

「来て! 天子!!」
「行くわよ紫!!!」

 剣を打ち合っていた二人は、突如として弾かれたように飛び退いて距離を取る。
 当然逃げたわけではない、最後の勝負に出たのだ。

 緋想の剣を横薙ぎに振るった天子の周囲に、緋色の弾幕が放出され輝きを放つ。
 何も持たない手をかざした紫の周りに、紫色の弾幕が生成され並び立つ。
 空を覆うその光景に、遠くから見守っていた藍の口からは「まるで結界だ」と言葉が漏れたが、それは的を得ていた。

「――全人類の緋想天!」
「――弾幕結界!」

 弾幕結界とは、本来は遊びの弾幕と実践の攻撃とを向かい合わせ、その境界を結界として作り上げたスペルカードだ。
 だがこの場において紫が創りだしたのは、天子に向けられた一種のみで構成された紫色の弾幕であった。
 紫奥義である弾幕結界とも、更にその上位の深弾幕結界とも違う。
 八雲紫と比那名居天子、存在としての二人を以って生まれた『結界』だ。

「うおおおぉぉぉおおおおおお!!」
「はあああああああぁぁぁぁ!!!」

 向かい合った弾幕が解き放たれ、術者本人もその後を追って空を駆けた。
 隙間なく押し寄せ、空の一面を覆う緋と紫が激突する。
 飛び交う弾幕のうち、半分がぶつかると衝撃波を拡散させながら消滅し、残る半分が猛攻をくぐり抜けお互いの目標へと襲いかかった。
 緋と紫が入れ違い、目前に現れた相手の弾幕が眼に映る。半数が相殺されたとはいえ、その弾幕は依然として驚異的だ。
 手加減抜き、当たれば即死は免れない一撃必殺の嵐に二人は笑みを浮かべて、一切の躊躇なく、弾幕の中にその身を飛び込ませた。
 かすった弾幕が服の上から肌を食いちぎり、頬のすぐ隣を死が横切るのを感じる。だが胸の内から湧き上がるのは、この上ない高揚感と生の実感。
 死線を踏み越え、両者は手傷を負い血を流しながらも、同時に弾幕を抜けて出会う。

 眼と眼が合って互いの生存を知り、歓喜の表情を浮かべて、宿敵に対して剣を振り抜いた。
 ぶつかり合った剣は、一瞬火花を散らしながらすれ違おうとし、しかしその寸前に耐え切れなくなった刃が砕け散り、緋と紫の破片が宙を舞う。
 お互いが剣を失ったようにも見えたが、気質のみで構成された緋想の剣に対し、紫の持つ得物は隠し刀の上に結界を貼り付けたものだ。表面の結界が破れても、その下の刀身が鋭い光沢を放つ。
 傘に隠されていただけあってあまりに細い、西洋のレイピアのような刀身。だがそれは紛れも無く妖怪の賢者が秘蔵するだけのものであり、硬い天子の肉体をも切り裂くだけの鋭さを誇っている。
 紫が返す刀で天子の喉元を狙い、下から斜めに切り上げた。
 だがこれを覚悟していた天子は、左手に拳大の要石を出現させると、力いっぱい握りしめ、紫の剣に叩き付ける。
 刃と要石が衝突し、両方共が先ほどのように粉々に砕け、再度互いの武器が失われた。
 後がなくなった紫はスキマを開き、そこから物体を召喚し攻撃に転じようとするが、それより早く踏み込んだ天子が、極光からの支援を受けて緋想の剣の刀身を再構成し、天高く振りかざした。

 振り下ろされた剣が、紫の肌を切り裂いた。

「勝った!! 私の勝ちよ紫!!!」

 緋想の剣はその剣先を紫の右胸から左横腹にまで掛けて通り抜けさせ、上半身を大きく裂く。
 紫のような大妖怪の絶命には足りないが、十分な深手であり、勝負は決したように思えた。
 だが紫が身に受けた傷口から噴出したのは、血ではなかった。

「な――!?」

 眼を見張る天子の前で、闇が溢れた。
 切り裂かれた服の下から、ドロドロとしたドス黒い何かが這い出てくる。
 闇の流出は止まらず、次第に服の破れた穴や袖、首元からも溢れだす。
 それが物質なのかエネルギーなのかはわからないが、とにかく危険なものだと天子は直感した。

「最後の……悪あがきよ……」

 そう言い残したのを最後に、紫の身体が闇に飲み込まれ、ボロボロの道士服だけが残った。
 闇はそれもすぐに飲み込んでしまうと、次は天子に標的を向けて、膨れ上がったドロドロを触手のように伸ばしてきた。

「こ、こいつ!」

 緋く輝く緋想の剣を振るって切り裂こうとするが、剣先が闇に食い込んだところで、刀身を絡め取られてしまった。
 振りほどこうとしても、闇は剣に吸い付いて離そうとしない。

「来い緋想天!!」

 身の危険を感じた天子が、頭上に輝く極光から気質を呼び寄せて闇にぶつけようとする。
 緋想の剣のキャパシティを遥かに超えた気質が空でうごめき、天子の直上で極光が渦巻いた。
 制御を放棄した代わり、天から放たれる気質は今までで最大の威力だ。下手をすれば天子ごと巻き込みかねない問答無用の一撃が、ここら一帯を何もかも消し飛ばだろう。

 だがそれよりも早く近づいてきた闇の中から紫の顔が現れて、天子の眼と鼻の先から昏い眼差しを送った。
 突然現れた紫の眼に魅入られて、一瞬天子の身体が硬直する。その隙を狙って、顔のすぐ下の闇から今度は手が飛び出てきて、天子の頭を抱えるように抑えこむ。
 声も出す暇もないほどあっという間に、天子は肥大化する闇の塊に飲み込まれた。



 ――――つかまえて――――



 何処かへ引きこまれ、一瞬意識が遠のいて曖昧になった瞬間、何かの声が聞こえた気がした。
 その直後、天子の意識が引き戻され正気に戻る。

「こ……こは――!」

 眼を見開く天子だが、その眼に映るものは何もない。
 一切の灯りのない、黒く塗りつぶされた世界。紫の姿どころか、自身の手足すら闇に埋もれて識別することが出来ない。
 本当なら輝きを発する緋想の剣が天子の身体を照らしてくれるはずが、何故かそれすらもなかった。
 そもそも緋想の剣の刀身が、完全に解除されてしまっていることに天子が気が付いた。気質が一切感じ取れない。
 気質を残して天子の身体だけが引きずり込まれたのか、それともここは気質すら意味のない空間なのか。

「――あらゆる境界を曖昧にしてかき消した」
「紫!?」

 届いてきた声に耳をすますが、それはすぐ眼の前から聞こえてきたようであり、後ろの遥か遠くから発せられたものであるような気もした。
 確かに紫の声であったが、どこから聞こえてきたのかまるで検討もつかなかった。
 そして周囲を探っていた天子の頬に打撃が加えられ、痛みに思わず眼を剥いた。

「がっ……なによこれ!?」

 堅牢な肉体を持つ天子であるが、今しがた与えられた攻撃はその防御を容易く貫いてきた。
 いや、貫くと言うには何か違う、まるで天子の存在そのものを揺らしてきたかのような一撃だった。
 だがそれが拳による攻撃なのかもどうかも天子には判別できない。

「クソッ、なら要石よ!」

 緋想の剣に頼れないなら、自前の能力を使うまでだ。剣を持たない左手を前に出し、そこに要石を創りだそうとする。
 だがいくら力を込めても能力が発動し、要石が出現した気配がまったくなかった。
 完全に無防備な天子に再び攻撃が加えられ、左手を殴られたかのような衝撃が走り、痛みで痺れる手を引っ込める。

「ど、どういう……」
「ここは世界の隙間、名前の無い場所。境界がなければ、朝と夜もなく、光と闇もなく、天と地もない」

 要石はあくまで大地を操る能力の一端である、ならば大地のないこの空間では存在できないということだろうか。
 愕然としていると、更に右腕を攻撃され、危うく緋想の剣を取りこぼしそうになった。
 手の痺れとともに、握った剣から感じる硬さが薄らいでいく。この攻撃のせいかそれとも空間の特性か、段々と天子のあらゆる感覚が消失してきていた。

「このお!」

 天子が刀身がない剣を掴んだままの手で、破れかぶれに眼の前を殴りつけるが、それと同時に胸を叩かれて大きくむせこむ。
 今の攻撃は完全に同時だったはずだ、だが紫の攻撃は通るのに、こちらの拳にはまったく引っかからない。単純に姿を隠しているというだけでないようだ
 弄ばれるうちに平衡感覚が失われてきて、もはやどちらが上でどちらが下かもわからなくなり始める。段々と手足の感覚が途切れてきて、本当に剣を握れているのか不安になってきた。
 そもそもさっきから音を聞いて声を返しているような気がしていたが、ここに空気があるのか、自分はちゃんと呼吸ができているのか。
 いや、まず自分は生きてるのか? 死んでるのか? あらゆる難問が天子の精神を削り、闇に取り込もうとしてくる。
 力を失いかける身体に殴打が突き刺さり、更に天子の気力を奪う。

「私という存在も、ないようなものよ」

 そんな中、紫の声だけが天子の心を取り戻させてくれた。

「フフ、フフフフフフフフフ」

 人を馬鹿にする不気味な嘲笑が、八方から天子を囲む。
 少し前までは恐くてたまらなかった笑い声。だが今ならこの声を聞いていると力が湧いてくるのは何故だろう。
 今となっては、紫の全てが天子の生きる実感と意味を与えてくれる宿敵だった。

「天地をもがれた天地人、あなたに何ができるかしら?」
「それでも――」

 投げかけられた疑問に、天子は行方もわからぬ紫に向けたつもりで、闇の中を睨みつけた。

「それでもあんたを捕まえることができる」
「……よく言えたことね、小娘風情が!」

 突如として紫は怒り狂って声を荒げ、天子に絶え間ない攻撃を繰り返し始めた。
 首を切り落とされるような痛みが走ったかと思えば、次の瞬間には脚がねじ切れるような感覚を覚え、天子は悲鳴を上げた。
 天子が先に体験した天人の五衰よりかは苦痛として劣るが、自らの存在を揺さぶるこの痛みは、それより遥かに精神を崩してくる。

「誰も私をここから引きずり出すことはできなかった!」

 一言毎に天子の身に痛みが襲いかかるが、それに意識を奪われぬよう、天子は必死に耳を澄まして紫の声を受け止めた。
 この声に込められた、その意味を探る。

「あなたが私を倒すというのなら、私の姿を暴いてみせなさい!」

 八雲紫という妖怪がまだその名も持たぬ時、生まれ落ちたのはこの空間であった
 どこまでも続く一面の闇、そこで彼女が最初に感じたのは寂しさだった。
 だから彼女は外に出て多くのものを愛した、時には人を愛し、時には妖怪を愛し、その愛は幻想郷を創るにまで至った。
 愛に応えてくれる者たちもできた、友達ができ家族ができた、自分が愛するように相手からも愛情を向けてもらえることは正しく至福だった。
 けれどそれでも埋まらない空白、拭い切れない切なさ。

「私を捕まえてみせなさい!」

 その悲痛な心を、天子は身を潰されかねない痛みと共に感じ取る。
 紫の腕か足か、はたまた頭かがみぞおちに突き刺さり、天子は大きくのけぞって闇に翻弄される。
 だが紫の核心に触れ、天子の心に火が着いた。

「想いを灯せ、緋想の剣」

 この空間には気質はない、万物に宿る気質も何もないこの空間には存在しないものだった。
 だというのに緋想の剣に柔らかな刀身が形成される。それは天子自身の持つ非想の気――気質を使い創り出したものだった。
 気質とは、その者の魂の性質であり、存在そのものを表すもの。それが紫の声に呼応して力を増し、ようやくこの闇の中で形を持つに至った。
 もっとも天子一人に宿った僅かな気質では、刀身は硬度を保てず火のように揺らめいており、それは闇の中で燃える一本のろうそくのようなか細い輝きでしかない。
 それでも闇が続くこの空間で、行先を照らす道標であった。

「――私は、戦う前は、闇から覗いてくる眼を振り払いたいだけだった」

 天子は眼の前の闇に語りかけた。言霊に乗せ、自身の心を届ける。
 紫は絶対にこれを聞いている。今までだってそうしてくれていたみたいに、自分がこの闇でそうしたみたいに、きっとあいつは自分を受け止めてくれると思った。

「でも今は違う、私はもっと自由に振る舞えるはずなの。恐がることができる、乗り越えることができる。嫌える、好きになれる。憎めるし愛せる。なんだって、望んだ通りに、思うがままに想いのままに、どんな風にだって生きられるはず」

 緋想の剣の切っ先が、何かを追い求めるように揺れ動いてなにもないはずの闇を指した。
 天子が剣の向かう先を追って振り返り、背後にあった空間に確信を持って踏み込んで、剣を突き出した。

「あんたと――紫となら!」

 無限の闇に緋想の剣が突き立てたられ、初めて手応えが天子の手に返ってきた。

「ここには私がいて、紫がいる! ならそれが境界よ、そうでしょう!?」

 天子の叫びとともに、瞬間的に緋想の剣が大きな輝きを発した。
 闇が白く照らされ、そこにいた何者かを暴き出す。
 光が影を浮き彫りにし、緋想の剣に腹部を突き刺された紫の姿を映しだした。

「――――――」

 紫は呆然として声も出せず、ただ己に刺さった剣から感じる温かさに、ようやく自分が捕まったことを知る。
 そしてすべてを悟った紫は噛みしめるよう、確かめるよう、まばたきもせず自らに剣を突き刺す天子の姿を見つめ続けていた。

 闇の中では影すら暗闇に溶け落ち、そこに潜む者の姿をかき消す。
 光と合わさり、初めてこの妖怪は自らの存在を知り得た。

 本来は何もないこの空間で境界が生まれるという矛盾に、世界の隙間がそれを排除しようとする。
 元々の戦いの場である極光が輝く空の下で、広がっていた闇は蠢きながら天子と紫は弾き出し、その暗闇は霞がかって消えていった。
 闇に飲み込まれているあいだに地震が収まっていた大地に落下した天子は、腹部に剣が突き刺さったままの紫にまたがって肩を上下に揺らし息を荒くしていた。

「はぁ……はぁ……や、やった……?」

 無我夢中だった、上手くいく確信はあったがどうやったのかよく覚えていなかった。
 混濁する思考を解きほぐそうとしていると、地に伏せていた紫の右手がいつのまにか持ち上がっており、突如頬を撫でられ天子は体を強張らせる。
 しかし紫の表情に、緊張はすぐかき消された。

「綺麗な、光……」

 穏やかに微笑みながら薄く開かれた紫の眼から見えたのは、極光を背負って自らを覗き込む天子の姿。
 その眼から覗く彼女の輝きに、紫は安らぎを感じ、ほっと息を吐く。

「ああ、楽しかったわ……できれば、また……ずっと……」

 それだけを言い残し、紫は力なく手を下ろして気を失った。
 満足気な顔で眠る紫を見て、天子はぼそりと呟いた。

「そんなの、私も同じに決まってるじゃない」

 戦いは終わった、働かない頭でそのことをゆっくり受け止めようとするが、空から伝わってきた振動に邪魔をされる。

「うわ、ヤバっ……」

 天子が空を仰ぎ見れば、先ほど闇に飲み込まれる前に使おうとした気質が、雪崩のように降り注いでくる。
 すぐに紫に刺さったままの緋想の剣を手に取って介入しようとするが、元々焦った天子が制御出来ない量の気質を扱おうとしていたのだ、今更止めることは出来ない。
 となればもはやできるのは逃げることだけだが、今の天子に紫を担いで飛べる体力は残っていない、逃げるならこの場に紫を置いて一人で行くしかないだろう。

「……見捨てられるわけないか」

 こんな危機的状況で、呑気に寝ている紫の笑みを見て、天子も釣られて苦笑してしまった。

 もし彼女が自分に助けられたと知ったら、喜ぶだろうか、悔しがるだろうか。
 どちらにせよ、楽しいことになるに違いない。

 天子は紫の腹部に突き刺さった刃を引き抜く。傷口から血が流れるが、そこは妖怪の生命力を信じよう。
 緋想の剣を持った右手を紫の右手に重ねて、二人の手で一つの剣を握った。

「力を借りるわ、紫」

 祈るように握った紫の手を胸に当て、その温かさを感じ取る。
 紫の体に残った気質を、緋想の剣が吸い取った。
 緋い刀身に一瞬だけ紫色の灯りが混じって、両者が反発するように四散した。
 一度細かい粒子に砕かれて、宙を漂う霧となった気質は、柔らかな光を放ちながら周囲を回る。
 緋と紫、二つの気質が対を成してドーム状に固まっていき、太極図のように入り混じって外界を遮断する壁となり二人を覆った。

「結界――っと」

 非想の結界に、空を割るような轟音を伴って気質が流れ落ちてくる。
 揺れる世界、白くにじむ視界、結界にヒビが入る音。
 重ね合わせた手に紫と自分の存在を感じながら、これからを夢見た。















「天子様、しっかりして下さい!!」
「紫様! 大丈夫ですか!?」

 緋い閃光が収まった後に、心配を胸に駆けつけた従者達は目にするだろう。
 お互いの手を握り合いながら折り重なって眠る、安らいだ表情を浮かべた二人の姿を。









 ◇ ◆ ◇









「――片や腹部の大穴開け片や背中に重度の火傷。その他、体外体内に関わらず全身傷だらけ。よくまあ生きていたものね、そのしぶとさに感心するわ」

 持っていたカルテを鈴仙に預けながら、呆れた顔で語る永琳の前で、並べられたベッドの上で上半身を起こして聞いていた天子と紫は、清々しい笑顔を浮かべていた。
 最後に紫をかばった背中を気質に焼かれた天子が、嬉しそうな声を上げた。

「いやー、楽しかった楽しかった!」
「気が済んだのなら、あそこまで命を削る戦いはもう止めてくださいよね、こっちは心配したんですから」
「なによー、衣玖ったら煽ってきたくせしてノリ悪いなぁ」
「あれは天子様に必要だったからです、じゃなければあんな戦いして欲しいとは思いませんよ。もう紫さんが原因の五衰もなんとかできたのですから、少しは静かにして下さい」

 ベッドの横に立っていた衣玖が顔をしかめて説教する。
 あの戦いから三日明けた今日、ずっと眠りこけていた二人が同時に目を覚ましたのだ。
 泊まりこみで看病していた衣玖と藍は元より、呼ばれて駆けつけてきた橙や幽々子も病室に集まって来ている。

「紫様も、金輪際こんなことは止めてくださいよね」
「うふふ、それにしても今日はいい天気ね藍」
「目ぇ合わせてハイとだけ言ってください。またやる気ですか」

 睨みつけてくる藍の視線などどこ吹く風で、紫は呑気に笑っている。
 紫側も自分と同じ状況なのを見て、天子が口を開いた。

「別に紫と今すぐおっぱじめようってわけじゃないけどさ、長く生きてればまた何か拗れて戦うこともあるでしょ。数十年後か数百年後かはわかんないけど」
「その時はもっと楽しくなりそうね、今から胸がドキドキしちゃうわ」
「あ~も~、自分たちばっかり突っ走って……」
「お互い苦労しそうだな、衣玖……」

 頭を抱えで苦悩する衣玖を、藍が肩を叩いて元気付けた。
 どうやらお互い、このことでずっと悩まされ続けることになりそうだ。
 うなだれる従者組を無視して、紫との一夜を思い出した天子が、得意気に胸を張った。

「まあ今回は私の勝ちだったけどね」
「いやいや、何言ってるの結果見てみれば私の勝利でしょ」
「は?」
「は?」

 従者たちのあいだで嫌な予感が走る。
 妙なところで意見が食い違った天子と紫は、険悪な雰囲気で睨み合っていた。

「本気で言ってんのあんた、頭ボケたんじゃないの? 痴呆なの? 完膚なきまで私の圧勝だったでしょ!」
「何が圧勝よボロボロだったくせして。私が先に倒れたのは確かだけど、あなたが勝負を仕掛けてきた時最初になんて言ったのか忘れたの? 異変って名目で始めたものでしょうが」
「あっ」
「私は見事大地震を回避して異変解決ということよ」
「ぐぐっ、あんなのただの名目じゃないの! そんな棚ボタみたいなもので胸張って恥ずかしくないの!?」
「勝ちは勝ち、負けは負けで素直に認められないなんて、たかが知れてるわね」
「何よあんた生意気!」
「あなたこそ!」

 言い争いに発展する二人を見て、衣玖と藍は幸せが裸足で逃げ出す大きな溜息を床にこぼした。

「紫さんが恐かったのを克服できたのに、なんでまた喧嘩してるんですかもう」
「紫様までどうして張り合ってるんですか……」
「これはお互いが同等の立場だと認めたからでしょう」

 落ち込む二人に、幽々子が割って入ってくる。

「今まで紫優位の立ち位置だったのが互角になったのよ。天子はもちろん、紫ももう見下したりはしない。この喧嘩腰の態度は、天子を認めたことの現れよ」

 いい話のようにも聞こえるが、前までは歯牙にも掛けなかったことにも、これからは敏感に反応するということでもある。
 それを知って落ち込む藍を、今度は衣玖が肩を叩いて慰めた。
 しかし天子と口喧嘩を続けていた紫が、橙が遠巻きにこっちを見ていることに気が付いて、天子から一時的に顔をそらした。

「……ん? どうしたのかしら橙。そんな遠くにいないで、ほらこっちへ来て?」
「ひっ!」

 声をかけられた橙は、どうしたことか短い悲鳴を上げて藍の背後に隠れてしまった。
 身内からのあまりの反応に、紫は眼をパチクリさせて呆然とする。

「えっ、えっ、何この反応?」
「あーいやー、その。家で襲われて天子にガチギレした時に、そばで紫様の怒気を感じたのがトラウマになったらしくて……」
「ちぇ、ちぇええええええん!? 大丈夫よ、私恐くないわ!?」
「ご、ごめんなさい紫様! とっても恐いです!」

 藍を盾にする橙は顔を合わせることすらしてくれない。
 紫の顔に絶望が浮かび上がる。

「妖夢も恐がっちゃって来れなかったのよねぇ、あの子もまだまだ修行が必要だわ」
「アヒャヒャヒャヒャヒャ! 孫に嫌われるなんて情けないババアねぇ!?」
「うわ、さすが天子様、エグい笑い声」
「なによあなたのせいじゃない!」
「いつも優しいフリしてたのがボロ出ただけでしょ!」

 これ見よがしに攻め立ててくる天子に、紫が涙目で怒鳴り返す。
 とうとう堪忍袋の緒が切れた両者が、拳を握りしめた。

「一度上手く行ったくらいで調子に乗った小娘が、表に出なさゴハァ!」
「いいわよやってやろうじゃない、もう一度ぶちのめしてブハァ!」
「あっ、ベッドに血の池地獄」

 立ち上がろうとした二人だが、口から血を噴出してベッドを汚しながら倒れ込んでしまった。
 病み上がりの身体で無茶をしようとすれば、こうなるのも当然であろう。

「ヒュー……ヒュー……ああ、川の向こうで幽々子が手を振って……」
「私ここにいるけどね」
「いい歳してバカなことしてないでくださいよ」
「ごほ……おぉぉ、おのれババア……」
「あーあー、あーあーもー。総領様たちもお見舞いに来たがってるんですから、しっかりして下さいよ」
「また私が治療しないといけないのね……」
「師匠、その前に壁の修理くらいはやらせましょう」



 ◇ ◆ ◇



「で、あんたのほうが早く治っちゃうんだ」

 このままじゃいつまでたっても治らんということで、紫とは別々の部屋に押し込まれた天子だったが、入院から一週間経ったある夜に、全快したという紫が道士服をまとって現れた。
 実際には全快ではなく動きまわっても支障がない程度まで快復しただけだろうが、どちらにせよ天子より治りが早いのは事実だ。

「あなたとは鍛え方が違うもの」
「よく言うわ、家じゃグータラばかりしてて困るって式神の愚痴が衣玖経由で入ってきてるわよ」
「後でお仕置きね」

 そう言ってからかうものの、窓際に立ち月明かりに照らされる紫の姿は、天子の眼にとても美しく映っていた。
 いつも自分を隠すために纏っている胡乱げな雰囲気を脱ぎ捨て、ありのままを曝け出した紫はどこまでも凛として気高く、遠くの月を眺める眼は鋭いながらもどこか柔らかいという矛盾を内包している。
 窓から入ってくる風で揺れる髪を、手の甲でかき分ける仕草一つ取っても洗練されていて、天子も惚れ惚れする魅力があった。
 なんとなくだが、天子には紫が以前よりも精神的に強くたくましくなっている気がした。
 とは言っても以前の紫はよく知らない。向こうからは見下されていたせいで純粋な紫と触れ合ったことはなかったし、天子としてもその余裕はなく敵として見つめていた
 それでも天子は特に疑うこともなくその直感を信じることにした。自分もあの戦いを経て変わったものがある、なら紫もそうだろうと自然に思った。

「いいなー、先に退院しちゃって。うーらーやーまーうーらーめーしー」
「あなた余計落ち着きなくなったわね。私が言えた義理じゃないけど、何もない時くらいは自分の体は大事にしなさい。ご両親を心配させるものじゃないわ」
「ふんだ、いいのよ心配させとけば」
「匙を投げるのは関心しないわねぇ。向こうもまだ歩み寄ろうとする姿勢はあるし、あなたの主張がいい刺激になってみたいね」
「人の家庭のこと知り過ぎててキモいわっ。そうかもしれないけどさ、ずっとベッドの上でいい加減うんざりなのよ。なんかいい気分転換ないかな」

 うだるげに窓の外を見やる天子だったが、紫を見てピンと来た。
 外に出ても帰ろうと思えばすぐに戻ってこれる、便利な移動手段がすぐそばにいるではないか。

「紫」
「どうしたの?」
「外、連れてってよ」

 天子の一言で、二人は夜の空に空中散歩と洒落こむこととなった。
 散歩などと言いながらも、実際には紫に天子が乗せて貰う形だったが。
 空中に開いたスキマに紫が膝を並べて座り、その柔らかな太ももに天子が右向きに足を交差させて上に乗る。
 位置取りから身長差が取り払われ、両者の顔が横並びになる。
 紫の肩に手を回して落ちないよう捕まりながら、天子は大きく深呼吸して幻想郷の空を思う存分味わった。

「ぷっはー! 久しぶりの娑婆の空気は美味いわー!」
「永遠亭も換気には気をつけてるけど、鬱蒼とした竹林の見た目的に少し重かったものね」

 紫に手で腰を支えてもらい、空から見える幻想郷の景色を眺めた天子は、和やかな気持ちで溜息をつく。

「外に出て実感したけど。だいぶ前より楽になった感じがするなぁ。身体だけじゃなくて心まで」
「ふふふ。そう、良かったわ……これから何がしたい?」
「……どうしよっかなぁ」

 恐怖の枷を外した天子は、これからより活発的になるだろう。
 しかし紫に聞かれてみれば、緩んだ心のせいでこれが中々思い浮かばない。
 天子が口を閉じてしばらく静寂が続いた後、紫が次の話題を切り出した。

「ねえ天子、知ってるかしら。光の波長で言えば、赤と紫は正反対なのよ」
「え? あー、そう言えば赤外線とか紫外線とか聞いたことあるような。どっちが上だっけ、紫色?」
「赤色のほうが高い波長よ。ふふ、私たちの力の色ね」

 紫色の瞳と、緋色の瞳が覗き合う。
 お互いの眼の奥に、あの夜の戦いの記憶が蘇ってきた。
 微笑んだ紫は、視線を外し天子の髪の毛を指ですくい取った。

「それに原色の組み合わせで言えば髪の毛の色も正反対。青は黄色の反対よ」
「おっかしなの。普通こういうのって、同じの見つけて遊ぶもんでしょ?」
「そっちの方が私たちらしいでしょ?」
「ははは、確かにね」
「天人は元々人間だから妖怪とは反対だし。あとは、身長とか胸とか」
「胸のことは言うな!」
「性格も大人びてる私と違って子供っぽい……」
「ここぞとばかりに馬鹿にしてるわよねあんた!?」

 笑い合いふざけ合い、心地いい時間が過ぎていく。
 ああ、紫とはこんな風にも過ごせるんだなと、天子は内心では驚きを感じていた。
 そして少し静かになったあと、おずおずと口を開く。

「……紫、言わないといけないって思ってたことがあるんだけどさ」
「なに?」

 尋ねてくる紫に、天子は恥ずかしそうに顔をそらし、一つ一つ言葉を積み上げていく。

「そのね、私は自分が今までやってきたことに後悔なんてない。自分が生きるために必要なことなら、どれだけだって周りに迷惑かけて恨まれてやるつもりよ。だから異変のことに関しても、全然思い煩ってもないんだけど。でも、その、あんたの気を悪くしたのは確かだから、そこは謝っとくわ……ごめんなさい」

 肩の荷が下りて素直な気持ちになった天子が、自分のスタンスは譲らないながらも、一応の礼儀を尽くしてくれた。
 そのことに紫はしばし呆けたあと、何だか嬉しくなって笑い声が漏れてしまう。

「うふふふふふ。おっかしいわ、あなたもそんな殊勝なことが言えたのね」
「笑わないでよ、もう」
「……私こそ、ごめんなさいね。自分の感情に振り回されて、天子にかなり酷いことしてきたし」
「まあ、別にいいわよ。面白かったからそれでチャラ」

 天子には自分がやったことと紫のやったこと、どちらの罪が重いかなど興味はなかった。
 それよりも、紫と新しい関係を築くためにできることをしたかった。

「心機一転。お互い水に流すってことで」
「ふふふ、まあ私は許さないけど」
「って、そこは許すところでしょ!?」

 和やか流れだったのが、いきなり水を差されて天子の口からツッコミが飛んだ。

「うふふ、許してほしかったら、力づくでやらせてみせなさいな」

 紫はそう言っておどけたが、紫の深層を垣間見た天子には、その表情の下にあるものにすぐ気が付いた。
 せっかく自分を見つけてくれた存在が、清算と共に離れていってしまうことを寂しがっているのだ。

「もう、紫って変なところで馬鹿ね。離れられるわけないじゃない」

 天子はありったけの温もりをかき集めて、紫に笑いかける。
 その笑顔があまりにも優しくて、紫は呆気に取られた。

「私たち、本質的のところで惹かれ合ってるんだから。どっちかが離れても、どっちかが追い求める」

 天子は左手の人差し指で自分の左胸をなぞると、その指で今度は紫の胸に円を描くように滑らせた。
 通じ合った二人の心が、太極図のように一つの形にまとめ上げられる。
 それを感じて瞳を震わす紫に、天子は眼を閉じて額をこすりあわせた。

「もしまた紫が寂しがるようなことがあれば、絶対また見つけてあげるから」

 息を呑んだ紫の胸を、温もりが包み込む。
 気が付けば紫は天子の手を握りし締めていた。
 天子もまた、力の込められた手を握り返し、自分の存在を相手に伝える。
 あの闇の中で寂しげな声を聞いて、紫の心を闇の中から連れ出して共に生きることができたなら、きっとこの先は楽しいことだらけだろうなと天子は思ったのだ。
 その気持ちが紫にも伝わったと感じた天子は、顔を離して瞳を開いた。

「ずっと私と一緒に、楽しんで生きていきましょ!」

 これからどんなことがあるのだろうと期待して、天子が満面の笑みを投げかける。
 その内容に、紫は爆発しそうなほど顔を赤く染め上げて、肩を強張らせた。

「そ、それって、天子! プロ、プロポー……!!」
「プロ……なに?」
「なんでもないわ! もう、変なところで馬鹿ねあなた」
「誰が馬鹿よ! もー!」

 心地よいじゃれあいが続いて行く。
 八度を超え九回もの対決を重ねられた関係は、きっと終わりはしないだろう。
 一生の付き合いになる、そう思って二人は顔を見合わせるとまた笑った。

「これから何をするにしても、とりあえずは、今まで仲良くできなかった奴のこと色々知りたいかな」
「あら、知りすぎてまた恐がったりしないかしら?」
「その時はまた、立ち向かうだけよ」
「なら、安心かしらね」

 月明かりに照らされて語り合う二人は、いつまでもいつまでも幸せそうに手を握りしめていた。
 天子と紫の戦いは、一旦の終幕を見せた。これからは今暫くの間、穏やかな日々が続くことだろう。
 だが衣玖には、まだ一つ大切な仕事が残っていた。

「――以上で、今回の比那名居天子の報告を終わりにします」

 巨大な入道雲の内部で衣玖が立ち向かっているのは、圧倒的な巨体と力を持った一匹の龍であった。
 もっともその龍はここにはいない、いつも衣玖がまとっている羽衣を雲の中央に備えることで、そこから発した光により投影された虚像のみが存在する。
 龍宮の使いが真に仕える、幻想郷の最高神、龍神である。

『ご苦労だった』

 伝えられてきた声が、入道雲を震わせる。羽衣を介した声で有るのに、それのなんと重く神々しいことか。
 これが永江衣玖の最も重要な任務。比那名居天子に関する情報を龍神に伝えることだ。
 何故そうする必要があるのか、衣玖にはそんなことはわからない。
 ただ天子が最初の異変を起こし落成式で紫に敗れたことを、戯れで龍神に伝えたところ、衣玖はその仕事を仰せつかった。

 衣玖が天子の後を追っていたのは、実は元々これが理由だったのだ。衣玖は天子が異変を起こすたびに、その顛末を観察し龍神に伝えていた。
 このことについては完全に隠し通せており、恐らくは天子どころか幻想郷を管理する八雲紫も知らないだろう。
 自らの仕事については不備がないが、衣玖にはある不安が胸中にある。

「一つお尋ねしてもよろしいでしょうか」
『……言うがよい』
「幻想郷の賢者は、龍神様に平和を誓ったと聞き及んでおります。今回の騒動、二人だけのあいだで済んだ話ではありますが、命をかけた闘争とは平和からはいささか逸脱しすぎています。龍神様は如何なされるつもりでございましょうか」

 今回の天子と紫の戦い、これについて龍神がどう動くかだ。
 まさかとは思うが、これで龍神が怒り狂ったりでもしたのなら、幻想郷は間違いなく滅びる。荒れ狂う嵐と大雨が、幻想の地を水底に沈めるだろう。
 最悪の場合、自らの命を差し出してでも幻想郷の存命を請う覚悟で衣玖は尋ねた。
 背中が汗でグッショリになるのを感じながら返答を待つ。

『ただの童の戯れだ、手を出すほどのことではない』

 その返信に衣玖は身体中が弛緩していくのがハッキリとわかった。

『比那名居天子に関する任は今回を持って終了する、貸し与えた力に関しては自由にするがいい』
「かしこまりました」

 安堵する衣玖に告げられた、突然の終わりに衣玖の疑問が膨れ上がる。
 何故龍神が天子の情報を欲しがったのだろうか。
 この仕事のためだけに、五爪龍の珠を使用する権限を与えられまでした。随分と入れ込んでるようだったが、ならばなぜいきなり任務を終了させたのか。
 タイミングから推測するなら、天子ではなく紫のことを気にしていたのかもしれないが、それなら天子ではなく、直接紫を調べさせれば良いはずだ。

 頭を悩ませる衣玖だったが、答えは一向に見つからない。天子の腹を探るよりずっと難題だ。
 とにかくこれで仕事は終わりだ。人里で甘いものでも買って、天子へのお見舞いに行こう。そう考えて通信を切って、羽衣を身に付けた。

『よかったな、境界の』

 はるか遠くの玉座から、かつて見た少女に祝福が送られた。


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 こんなに長い作品をここまで読んでくれてありがとうございました。
 最初に「私が闇なら、あなたは光ね天子」って台詞だけ思い浮かんで、よしこれ言わせるためにこいつら殴り愛させようと思い書き始め、どうせならメッチャクチャやらせようとその為の理由付けに天子をイジメまくって、ゆかりんには誘惑させまくって、ついでにやりたかったこととか色々詰め込んでたらこの長さだよ! 年単位で時間掛かった。
 ちょっと発想が他の方と被ってるところがないかとか心配ですけどね、というか八重結界はまず間違いなく被ってると思う、色々と。先に同じネタ使ってた方にはすいません。

 まあこの二人には一度は骨が砕けるくらい思いっきりぶつからせたかったので、めちゃくちゃ大変だったけど書き切れて満足。天人の五衰は一度起こると必ず死ぬらしいですけど、創作ってことでどうか大目に見てください。
 ゆかてんヒャッホーイ! ゆかてん流行れオラア!

【追記】
 幽々子様たちが地震で揺れまくりのはずの地上に立ってるのに、のんびり雑談しながらゆかてん喧嘩を観戦するという、、辻褄の合わない場面があったので修正。
 多分地震に負けないくらい足腰強かったんだよ。
電動ドリル
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コメント



0.1050簡易評価
1.100奇声を発する程度の能力削除
とても素晴らしいゆかてんでした
3.100名前が無い程度の能力削除
さすがのゆかてんでした。
ゆかてん流行るはず!
4.100名前が無い程度の能力削除
いやあ面白かった!天子と紫の激突でここまで描けるとは!
互いが互い、ぶん殴りあうほど憎みあっていて、それでかつ必要としている、ほんとゆかてんの本質を見た気持ちになりました。
実にいいゆかてんでした!作者に感謝を!
5.100名前が無い程度の能力削除
ヒャッハー新鮮なドリルだあああ!
…なげえよ!なかなか投稿してくれないなと思ってたけどこんな大作書いてたせいかよ!本当にお疲れ様でした。

それにしても極限まで抗った上で本当の自分を見つけてくれる相手を欲するとかゆかりんはあまりにもめんどくさい人ですね…。
6.100名前が無い程度の能力削除
相変わらず電動ドリル氏のゆかてんは愛があふれてますな
7.90名前が無い程度の能力削除
さすがゆかてんマイスタ
天子が豪快で繊細で好き放題、と言うのは定番なんですが、この天子はそれらをぶっちぎって無茶苦茶な勢いですね(褒め言葉)
最初はこれがどうやって普段のゆかてんみたいになったんや?と不安でしたがそんな読者の心配まどこ吹く風、常に前へ前へ、と言う前のめりな姿勢、生き急いでると見せて実は五衰を逃れる為の大暴れ
割と深刻な状態なのに「こいつ死にそうにねえな」と言うレベルの精神的タフさを見せられてしっちゃかめっちゃかですな(意味不明な感想を送る読者の屑)
しかしさすがにこの文章量では校正も満足にできなかったようで、誤字脱字が割とそこかしこに見受けられた気がします
具体的にどこかは忘れてしまいましたが…
9.100ペンギン削除
さすが電導ドリルさんのゆかてんだ!
最高のゆかてんでしたぜ、流行れゆかてん!
11.100名前が無い程度の能力削除
もう流行ってるよ!!
主に貴方のお陰でな!
12.100絶望を司る程度の能力削除
すごく良かったです。
戦闘シーンの緊迫感がすごかったです!
15.100名前が無い程度の能力削除
氏の作品からどれほど生きる活力を与えられたか分からないけど、今回は一番凄かった
本当にありがとう
16.100名前が無い程度の能力削除
ドリルさんのゆかてんだ!しかも大作だ!
素晴らしかったです
20.90名前が無い程度の能力削除
長かったけど、読んだことを後悔させない内容でした。
23.100名前が無い程度の能力削除
負けず嫌いを拗らせまくって生き抜く天子が素敵でもう
素晴らしい作品でした
25.100名前が無い程度の能力削除
がっつりとした骨のある作品ごちそう様です
普段のゆかてんもいいですが、こういうゆかてんも凄く楽しめました
いつかこの二人が共闘するような話も読みたいですね

とりあえずゆかてんはいいものだ