Coolier - 新生・東方創想話

くるみちゃんがころんだ!

2015/11/27 18:54:46
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 かつて私は曖昧で、不確定な存在だった。





 ふと目を覚ますと、私はどこかの林で仰向けに寝転がっていた。
 空を覆う緑の隙間から洩れる光を嫌がって、ごろごろ体を動かしたのを覚えている。
 翼が何度も地面に引っかかってしまい、なんて邪魔な物が付いてるんだと思ったものだ。
 そうして、しばらく転がっているうちに、自分がひどく渇いていることに気がついた。
――欲しい。欲しい。
 沸き上がる飢渇の念に突き動かされて、土の上で寝そべっていた体をむくりと起こす。
――飲みたい。吸いたい。血が、欲しい。
 猟奇的な欲求が私の中で急速に肥大していく。
 もう我慢出来ない。我慢するつもりもない。
 私は背中の翼を大きく広げ、獲物を求めて飛び立とうとした。
 転んだ。
 思いきりすっ転んだ。
 豪快に。顔から地面に突っ伏すように。
 何が起こったのかわからなかった。
 ひとまず俯せになった体をころりと転がして空を仰ぐと、風に揺れる枝葉の向こうで、悠々と空を舞う鳥たちが私のことを見下していた。
――飛べると思ったのに。
 私には確信があったのだ。
 こんな大きな翼がついていながら、空を飛べないはずがない。
 そんなバカなと起き上がり、今度は助走をつけて飛ぼうとしてみる。
 転んだ。
 また転んだ。それも、踏み切ろうとした地点より遥か手前で。
 何ということだろう。飛べないどころか、満足に走ることすら出来ないだなんて。
 心の底から、ふつふつと怒りが込み上げてきた。
――ふざけんな。私を誰だと思ってんのよ。私は……。
 そこで思考が行き詰まる。
――……なんだっけ?
 自分のことがわからない。
 考えてみれば、ついさっき目覚めたのより以前の記憶がない。
 当たり前のように日の光を嫌い、血を欲していたのだけれど、そのことの意味が思い出せない。
 私は何故、ここにいるのか。何故、背中に翼が生えているのか。そもそも、私は何者なのか。
 しばらく自問を繰り返してみるものの、答えは一向に出てこない。
 そのうち、頭の中を「わからない」が廻るたび、ひどい目眩に襲われるようになってきた。
 だんだん世界が遠く、曖昧になっていく。正体不明という名の恐怖が私の全身を包み込む。
 まるで悪い夢を見ているような気分だった。
――やだ。もうやだ。
 私は早々に考えるのをやめた。
 立ち上がって、体のあちこちについた砂を払い、のそのそと木陰を歩き始める。
 わけもわからず獲物を探すような気力は残っていない。
 ただ、得体の知れない恐怖から逃れたくて、あてもなく林の中を徘徊するだけだった。





 陽が傾いて空が紅く染まる頃には、私はすっかり疲弊していた。
 元々全身を苛んでいた渇きに加えて、長時間動かし続けた足がじわじわと痛む。
 途中、何度か飛ぶことに再挑戦したせいで、しこたま地面に打ちつけた額もまた、ずきずきと痛みを訴えた。
――なんで、こんな辛い目に遭ってるんだっけ?
 どうして。どうして。
 忘れようとしていた疑問がぶり返し、目眩まで再発するという四重苦。
 いよいよもって何もかもがイヤになった私は、ぱったりとその場に倒れ込んだ。
――もういい。疲れた。
 全てを諦めて目を閉じる。
 と、その時。
 不意に、何者かの足音が聴こえた。
 足音は少し近づいてはぴたりと止まって、また少し近づいてはぴたりと止まる。
 おっかなびっくり。こそこそ、こそこそ。
 とうとう、私のすぐ傍までやって来た。
――お迎えかな。
 少しだけ目を開けて見てみると、そこには細っこくて小さくて、だけど頑丈そうな二本の足が立っていた。
 子どもの足だ。それも、山野を駆け巡って育った、なかなか丈夫な子どもの足。
 たったの数時間で棒になる私の物とは大違いだ。
 取り換えてくれないかと思ったりもしたけれど、履き物が不格好だったので諦めた。
――変なサンダル。みっともないの。
 上から下までボロボロの私に言われる筋合いはなかっただろう。
 もちろん、口には出さなかったのだから問題はない。単に喋る元気がなかっただけのことだけれど。
 粗末な履物を履いたその子どもは、足元の私に向かって何かしらの言葉を投げかけてきた。
 たぶん、「何だお前、行き倒れか?」か「何だお前、化け物か?」のどっちかだったと思う。
 どっちでも同じことだ。私は初めから、そいつの言葉を聞くつもりなんてなかった。
 心の奥底に潜む本能が、そいつは人間だ、お前の獲物だと叫んでいたからだ。
 私は左手を伸ばして子どもの足を掴み、そのふくらはぎに尖った爪を食い込ませた。
 爪先に流れる血液が私の体に潤いを与え、響き渡る甲高い悲鳴が私の心を和ませる。
――これよ。これこそ私の求めていたもの。
 曖昧だった自分自身に、やっと存在意義を見つけてやれた気がした。
 だけど、そこまでだった。
 人間の子どもは、掴まれていない方の足で私の翼を思いきり踏みつけ、大声で泣きわめきながら逃げてしまったのだ。
 私は踏まれた所があんまり痛くて、声も出せずに悶えるしかなかった。





 せっかく見つけた獲物に逃げられてしまい、私はすっかり意気消沈していた。
 残忍な暴力に己の存在意義を見出だせたのも束の間のこと。
 自ら怪しげな異形に近づく愚か者すら捕まえられなかった私に、いったい何が出来る。
 この爪は人間を傷つけるためにあったんじゃないのか。この翼は人間を追い回すためにあったんじゃないのか。
 一度希望を見せられた反動は大きく、深い絶望が私の心を蝕んでいった。
――じゃあ、私は何のために……。
 意識が遠のき、心が虚ろになっていく。
 はっきり感じていられたのは、踏み折られた翼の痛みだけだ。痛みが私を無理やり現世に繋ぎ止めた。
 まだ終わらない。現実という悪夢はまだまだ続く。
 翼をいたわり、俯せに寝転んだままの私に向かって、どこからかたくさんの怒号が飛ばされてきた。
 さっきの子どもとは明らかに違う、低かったり太かったりする声だ。
 恐々としながら顔を上げて見ると、体の大きな人間たちが数人、揃って私を睨み付けていた。
 その時、初めてしっかりと人間の姿を拝んだ私は、どいつもこいつも珍妙な服を着ているなと思ったものだ。
 向こうに言わせれば、私の方が変だったのだろうけれど。
 連中の手にはそれぞれクワだとか木の杭だとかが持たれていて、どういうわけか野菜をいっぱい担いでいるヤツもいたと思う。
――殺される。
 その血走った目を見れば、そいつらが私を殺すつもりなのは疑いようもない事実とわかる。
 私自身、そこで命を落とすことに異存はなかった。とっくに死を受け入れる覚悟は出来ていたのだ。
 だけど、過程が嫌だった。
――やだ。これ以上、痛いのはイヤ!
 翼を踏み折られただけでもこんなに痛いのに、クワやら杭やらで打たれるなんて冗談ではない。
 私は慌てて立ち上がり、死に物狂いで逃げ出した。
 その俊敏さをさっき発揮出来ていれば、人の子一匹喰らえただろう。そんな速さで林を駆ける。
 背後では、例の大柄な人間たちが、野太い声で口々に叫んでいた。
 何を言っているのかは上手く聞き取れなかったけれど、どうやら私を「バンビーロ」だか「バンビエル」だかと呼びながら、罵声を投げかけているらしいことだけはわかった。
 私にとって幸運だったのは、この時すでに日が傾ききっていたことだ。
 必死になって逃げ回るうちに、みるみる辺りが暗くなっていった。
 人間というヤツらは夜目が利かない。おかげで、あっさり私を見失ってくれた。
 今にして思えば、あいつらの方も、それなりに腰が引けていたのかも知れない。





 人間たちの討伐を免れると、そこで一息つく暇もなく、えげつない不快感に見舞われた。
 目眩と吐き気と脱力感。その上、火事場の馬鹿力を発揮した代償か、全身に激しい痛みが走る。
 一度はマシになっていたはずの渇きも一層ひどくなって襲いかかり、このままだと遠からず死ぬと思った。
――せっかく頑張って逃げたのに……。
 結局、苦痛を味わわずに死ぬことなんて出来やしない。
 何度目かの諦めを覚えた私に、またも苦難が襲いかかる。
 目眩のせいでロクに足元も確認出来ないまま、漫然と歩き続けていた結果、まんまと崖に落ちたのだ。
 崖と言っても、高さはほんの三メートル程度で、下にあったのは硬い地面などではない。
 そこで私を待ち受けていたのは、静かに流れる大量の水だった。
――ダメ! 水はダメ!
 本能が激しく警鐘を鳴らすも、それを回避するための翼は使い物にならない。
 私は手も足も出せずに、大きな音を立てて川へと落ちた。
――ああ、ダメだ。私、ここで死んじゃうんだ。
 想像を絶する苦痛に襲われると思ったのだけれど、不思議とそんなことはなかった。
 ただ、ゆっくりと流れる水が少しずつ私の存在を溶かしていくような気がして、何だか妙な心地だった。
――結局、私って、なんだったんだろう……。
 流れ行く意識の中で、もう一度あの疑問を繰り返す。
 だけど、水が答えを教えてくれるはずもない。
――あの世に行くとき、名前を聞かれたりしないかな……。
 曖昧で不確定な私にとって、それが一番の気がかりだった。





  ◆





 夢を見た。
 天使と花嫁の夢だ。
 真っ暗な空間のずっと向こうに天使と花嫁が立っていて、私のことを物珍しそうに見ている。
 私は二人の傍まで行ってみたかったのだけれど、目の前に見えない壁があって、近付くことが出来ない。
 ただ、それだけの夢だった。





 気がつくと、私はまふっとした何かに頭をうずめて寝ていた。
 頭だけではなく、俯せになった体のほとんどが柔らかな感触に埋もれている。
 翼だけはひんやりと冷たい空気に晒されていたけれど、むしろそれが心地よかった。
――……う?
 うっかり二度寝しそうになるのをぐっと堪えて、今までの記憶を掘り返す。
 林で目覚めて、辺りをうろつき、人間を襲ったら仕返しに来られて、逃げ回った挙げ句、川へと落ちた。ついでにその後、変な夢を見た。
 たったそれだけが私の生涯。
 何度考えなおしても、それ以上のことは思い出せないし、相変わらず、私は私が何者だかわからない。
――ここ、どこ?
 ひとまず寝返りを打って仰向けになろうとしたのだけれど、右に行っても左に行っても、すぐに体が引っかかってしまう。
 どうやら私は、ちょっと窮屈な所で寝ているらしかった。
 仕方がないので両手を下にして、上半身をぐいと持ち上げる。
 そこは、真っ暗な部屋の中だった。
 夜闇をものともしない私の目でそう感じるのだから、その暗さたるやなかなかのものだ。
 それでも、大まかに物の輪郭を捉えることぐらいは出来る。
 じっと目を凝らしてぐるぐる周りを見回してみると、自分が部屋の隅っこにいることがわかった。
 特別目に止まった物は二つだけ。部屋のど真ん中に突っ立った、のっぽな一本足のテーブルと、その向こう側の壁にある、ドアノブらしき出っ張りだけだ。
――他には何かないかな。
 私はひとまずその場に立ち上がり、もうちょっと詳しく部屋の中を見ようと足を踏み出した。
 転んだ。
 これは私がバカだったと言うしかない。
 ついさっき、寝返りを邪魔した何か。その何かに足を引っかけたのだ。
 そのことを覚えてさえいれば。
 悔しさに三度床を叩いてから、体をよじって足元を振り返る。
 そして、私はほんの少しだけ、自分の状況を理解した。
――ああ。やっぱり私、死んじゃったんだ。
 それは棺だった。
 小柄な私を入れておくには少し大袈裟な代物だったけれど、内側に毛布を敷き詰められた棺桶に間違いない。
 要するに、ここは死後の世界で、主の審判を受ける前の控え室なのだろう。私はきっと、死神か何かに運ばれてここへ来たのだ。
 よくよく考えてみると、いま自分の着ている服にも憶えがない。なるほど。あの世ではそれなりの身なりをしていなければならないということか。
 と、だいたい、こんな感じで納得していた。
 川に溶けて死んだ不確定生物もご丁寧に棺桶に入れてもらえるなんて、ありがたい話ではないか。しかも、私好みの暗くて涼しい個室に、小綺麗な衣服まで与えられているとは素晴らしい。
 破格の待遇に大満足。
 そうして勝手に機嫌をなおしたところで、室内の探索を再開しようと立ち上がった。
 その時だ。
 突然、テーブルの向こう側の出っ張り付近の壁、ではなくドアが、ゆっくりと開き始めた。
――なんか来た!
 私は反射的に後ろへ下がろうとして、また棺桶に足を引っかけた。
「キャッ!?」 
 すってんころりん。
 見事に転んで、棺の中へ不格好に倒れ込んだ。
 毛布が枠の上まではみ出していなかったら、どこかしら硬い所に体をぶつけてしまっていただろう。
 そうこうしている間に、開かれるドアの隙間から、ゆらゆら揺れるオレンジ色の光が洩れて、みるみる室内を照らし出していく。
 やがて蝶番の軋む音が消えた時には、部屋はすっかり明るくなっていた。
「あら」
 感嘆詞らしい声が聞こえた。
 私は起き上がってそっちに目を向けたかったのだけれど、変な姿勢で棺に嵌まってしまって、うまく体を動かせない。
 しずしずと控え目な足音が部屋の中へ進入し、コトリ、と、何かがテーブルの上に置かれる。
 それが携帯用の燭台だということには、割合すぐに考え至った。
 だけど、その直後にカタリ、と音を立てた物の正体は、考えてもわからなかった。
「……急に寝相が悪くなったわけではなさそうね」
 誰かがぼそりと呟く。
 同時に、私は大きく両足を振り回し、反動で棺から脱出することに成功した。
 かと思えば、そのまま勢い余って床へと転げ落ちてしまった。
「うべっ」
「あらあら……。大丈夫?」
 人前で間抜けな失態を晒した挙げ句、心配までされるというのは屈辱の極みだ。
 あまりの恥ずかしさに顔を俯けつつ、おずおずと立ち上がると、真っ赤な衣装が目に入った。
 生前に見た人間たちの装いとは明らかに種類が違う。やたらめったら赤いことを除けば、私にとっても違和感のない服装だった。
「今、頭を打たなかった? 足首を挫いたりしていないかしら? 何処か痛む?」
 赤い服の誰かさんは何だかんだと私のことを気遣いながら、ゆっくりと近寄ってきた。
 その背後では、テーブルに置かれたロウソクの火が、すぐ傍に立てかけられた大鎌の、そっぽを向いた刃を妖しく煌めかせている。
 そいつを見て、私は次のような理解を得た。
――そっか。こいつが私を迎えに来た死神なのね。
 そうとわかれば、いくつか聞きたいことがある。
 私はようやく頭を上げて、死神の顔を仰ぎ見た。
「うん。平気」
 見上げた時には不安そうだった死神も、私が無事だとわかると、穏やかに口元を綻ばせた。
「良かった。それじゃあ改めまして、私は」
「あの、私、自分の名前とか生まれとか全然わからないんだけど、ちゃんと審判してもらえる? 今のうちに考えといた方がいい? あ、この後はあなたが案内してくれるのよね? 空って飛んだりするの? えっと、私、こう見えても飛ぶの苦手で、だから、自力で行くのはちょっと難しいと思うんだけど……」
 赤い死神の自己紹介をぶった切り、自分勝手に聞きたいことを聞き立てる。
 死神はほんの一瞬だけきょとんとした顔を見せた後、ちらりと大鎌の方に目をやって、何やら得心したような面構えになった。
「あ、そうだ。ここまで私を運んでくれたのもあなたなんでしょ? ありが……と……?」
 急に頭をぐりぐりと撫で回された。
 少し興奮気味だった私はそれで落ち着きを取り戻したけれど、代わりに、何だか気恥ずかしい気分になってしまった。
「慌てない、慌てない。一つ一つ済ませましょう」
 死神はいかにもおかしそうに、だけどあくまで上品に微笑んでみせた。
「まず一つ。確かに、貴女を棺桶に寝かせてこの部屋へ運び込んだのは私だけれど、山を越えて川を越えて此処まで連れて来たのは私じゃないわ。お礼を言うべき相手は他にいらっしゃるから、それは後に取っておきなさいな」
 などと言いながら、死神が左手の人差し指をくるくると動かす。
 と、丁度その動きに呼応するかのように、背後で幽かな物音がした。
 振り返って見てみると、ひっくり返された棺桶がふわふわと宙を飛んでいるのが目に入った。
「わッ」
 空飛ぶ逆さまの棺は驚く私の目の前に降り立ち、中に敷き詰められていた毛布が独りでに広がって、上から覆い被さった。
 慌てて後ろを振り向きなおし、「今の見た?」と仕草で尋ねる。
 すると、死神は何でもないような顔をして、手振りで「どうぞ腰を掛けて」と指示してきた。
「次。この後、空を飛ぶ予定が有るかどうかって質問だけれど、答えはどちらとも言えないわ。あの御方次第。私としては当分安静にさせてあげたいけれど、こればかりはどうしようもないわね」
 私は驚いていた。
 死神の話す内容に、ではない。そっちはあまり耳に入っていなかった。
 ついさっき、示されるがままに棺桶の裏側に座ろうとして、うっかり自分のお尻で翼を踏んづけてしまいそうになったのだ。
 慌てて翼を横に広げて、どうにか事なきを得たのだけれど、一つ不思議なことに気がついた。
 生前、人間の子どもに踏み折られた方の翼に、包帯がぐるぐると巻いてあるではないか。
「……う?」
 この部屋で目を覚まして以来、頭も体も健康そのもので、川に転落した時の満身創痍は見る影もなかった。
 それはきっと、ここが死後の世界だからだと思っていた。
 だけど、私の体にはどういうわけか、しっかりと手当をした形跡があるのだ。
 その事実は、私に一つの疑念を抱かせた。
「それから、何だったかしら? ああ、そうだわ。貴女の名前のことだったわね。……ええと、先ず、言っておかないといけないことが」
「ねぇ!」
 また強引に言葉を遮った。
 声を上げてしまってから、「今度は怒られるかも」と思ったけれど、死神は相変わらず柔らかな微笑みを浮かべながら、静かに私の言葉を待ってくれた。
 私は一度大きく深呼吸をしてから、意を決して尋ねた。
「私って、死んだんじゃないの!?」
 三秒だったか四秒だったか、少しの間、部屋の中がしんと静まり返る。
 その後、死神はその手を口元に当て、声を洩らして笑い始めた。
 あくまでも真剣だった私はそのことにムッとしたけれど、どう文句を言ってやろうか考えている間に、向こうから二の句をついできた。
「死者に個室を用意してあげられる程、あの世の経済は潤っていないわ」
 それはもう、驚いたなんてものではない。
 私は慌てて棺から立ち上がろうとして、ずるりと毛布を滑らせた。
「あわッ!?」
 床にずり落ちた毛布の上で尻餅をつく私の無様を見て、赤い死神が一層おかしそうに笑う。
 きっと、私の顔も恥ずかしさで赤くなっていたに違いない。
「貴女は高い所に置いてはいけないみたいね」
 そう言って、死神は私の代わりに硬い棺の底へと腰かけた。
 私は立ち上がって毛布を返そうと思ったのだけれど、「構わないから落ち着いて座っていなさい」と言われてしまい、素直にそれに従った。
「さて、それじゃあ、お話を仕切り直しましょうか。そうそう。自己紹介がまだだったわね。私はエリー。此処の番人をしているの」
「……ここって、どこ?」
 私が尋ねると、死神もどきエリーは無言で左手を振り上げた。
 その途端、ドアと向き合う一面の壁が、グラグラ、ガタガタと激しい音を立てて動き始めた。
「うゅ!?」
 壁は瞬く間に大小様々なブロックに分かれ、右へ左へ、上へ下へと、銘々に部屋から追い出されていく。
 そうして空いた場所から差し込む光に目が眩み、私はしばらくの間、瞼を閉じた。
 やがて、壁の動く音がしなくなり、恐る恐る両目を開けて見てみると、そこには信じられない光景が広がっていた。
「……なに、これ……?」
 まず目に入ったのは、奈落の大穴。たくさんの点みたいな光が不気味に輝く、底無しの闇。
 遥か向こうには、大穴の端っこにあたる断崖と、そこから上を覆い尽くす壁みたいな水面。
 水面は曲線を描きながら真上まで伸びているようで、部屋から追い出されたブロックを照らす陽光がゆらゆらと揺れ動いて見えた。
 つまり、そこは水の底なのに水の中ではなくて、上には太陽があるはずなのに下を見れば夜空が広がっている。
 私はもう一度、自分の生死と、ついでに正気を疑った。
「此処は夢と現の境界面。夢幻と幻想の交じる場所」
 その名は夢幻館。
 湖底の大空洞の真ん中にそびえ立つ、世にも奇妙な館だった。





「取り替え子?」
 夢幻館の番人エリーは、私のことをそう表現した。
 館の外に広がる摩訶不思議な景色を一頻り眺めた後、改めて質問はあるかと問われた私が、自分の正体を知りたいと申し出たのに答えてのことだ。
「そう。鬼子と言うことも有るわ。更に言い換えるなら悪魔の子だけれど、貴女の場合は悪魔の子に成り損なっちゃった子ね」
 遥か西の大陸で誕生するはずだった、高貴なる魔王の眷属、ヴァンパイアの末裔。
 その魂が何らかの理由で迷子になり、何百年もさまよい続けた挙げ句、結局間違った場所で生まれてしまったのが私なのだと言う。
 その誤差、ざっと九千キロメートル以上。
 世界的規模を誇る方向音痴の申し子というわけだ。
「きっと、商船に乗って来た人達の噂話を聞いて、この国が地元だと勘違いしちゃったのよ」
 私がどうにも曖昧なのは、その噂話が中途半端だったせいらしい。
 理屈は今一つわからなかったけれど、とりあえず、生まれる前の自分を張り倒してやりたいと思った。
 おかげで散々な目に遭ったじゃないか、って。
「魂の取り替え子は精神的に不安定で、体も弱い子が多いの。特に妖怪はその傾向が強いわ。理由には諸説有るけれど、きっと、自分を認識することが出来なくなってしまうからでしょうね」
「……じゃあ、やっぱり私もすぐに死んじゃうの?」
 私はちゃんと話の内容を理解した上で、至極もっともな疑問を投げかけたつもりだ。
 それなのに、エリーときたら急に体を屈めて、指先で私の額を弾いてきた。
「あ痛っ」
「そんな言い方をするものではありません」
「……だって、いま、私は自分を認識できないって……」
 ふてくされてそっぽを向いた私の頭に、またもエリーの手のひらが乗っけられる。
「そうね。今のは私が悪かったわ。御免なさい。だけど、そう悲観しなくても良いのよ。この館に居る限り、貴女が自分を見失うことは無いはずだから」
「そうなの?」
「ええ。だって貴女は、その為に此処へ連れて来られたんですもの」
「……ふーん」
 素直に喜ぶつもりにはなれなかった。
 だって、そうだろう。
 それまでに経験した事や聞いた話をまとめると、要するに私は出来損ないだ。
 立派な翼を持っていながら空を飛ぶことも出来ないし、苦手なものはたくさんあるのに得意なことは一つもない。
 第一、死に物狂いで人間から逃げる魔王の眷属なんて、お笑い種以外の何者でもないではないか。
 そんな私をわざわざ川から拾い上げ、この館まで連れてきた「あの御方」とやらは、すこぶる悪趣味なヤツだと思った。
「……それで」
「うん?」
「結局、私はどうしたらいいの?」
 改めて見上げたエリーの顔は相変わらず微笑んでいたけれど、私の期待とは裏腹に、何も答えようとしてくれない。
 エリーは黙り込んだまま裏返しの棺から腰を上げて、館の外に向かって両手で指揮を取り始めた。
 そうすると、分かれていたブロックたちが再び動き出し、元通りの壁へと戻っていく。
 私は日の光が差し込まなくなったことに安心する一方で、あの不思議な光景を見られなくなったことが少しだけ残念だった。
「全ては彼女のお気に召すまま」
 声を低くして言いながら、エリーが今しがたイスにしていた棺桶を指で差す。
 その指が軽く振られると、棺桶はふわりと宙に浮かび上がった。
――壁も棺も、こいつが動かしてるのよね? どうやって?
 エリーの挙動と物体の浮遊が連動しているのは、疑いようのない事実だ。
 だけど、よくよく観察してみても、その原理は全くわからない。
 私が首を傾げている間に、空飛ぶ棺桶は手早く部屋の隅へと戻されてしまい、うんともすんとも動かなくなってしまった。
「あの御方は間も無くお目覚めになるでしょう。貴女の処遇がどうなるか、楽しみに待っていると良いわ」
 こんな含みのある言い方をされて、不安にならないわけがない。
 私はまだ見ぬ「あの御方」をあれこれ想像してみたのだけれど、どうしても恐そうなイメージになってしまい、思わず、足元の毛布をぎゅっと掴んだ。
 そんな私の様子を見てか、エリーがまた声を出して笑った。
「恐がらせてしまったかしら。そんなに心配しなくても大丈夫よ。取って食べられたりはしないから」
「……本当?」
「ええ」
「鍋で煮込んだりしない?」
「…………しないわ」
「いまの間はなに?」
「いえ、何も」
「なんで目を逸らすの?」
 と、そこへ――
「おはよー」
 妙に間延びした声が飛び込んできた。
 エリーが入って来て以来、ずっと開けっ放しになっていたドアの方からだ。
――もしかして、「あの御方」?
 どきどきしながら目を向ける。
 そこには、特徴的な緑色の髪を持つ、エリーより少しだけ小柄な誰かが立っていた。
 だるっだるのワンピース姿で。よれよれのナイトキャップを手に持って。
 しかも、長い髪が無造作かつデタラメに膨らんでいて、だらしのないことこの上ない。
 おまけに足元はスリッパだ。そいつが歩くたび、トンパタトンパタとマヌケな音を鳴らす。
――うん。こいつじゃなかったわ。
 そう即断するのも仕方のない有り様だった。
「おはようございます。……また、そのような恰好で」
 エリーがたしなめるように言った。
「そのような恰好って何よ。これはね、西洋では最新鋭の」
「ネグリジェの良し悪しは問題にしていません」
「む」
「それと、また髪をちゃんと乾かさないでお休みになりましたね? 傷みや寝癖の原因になると何度も」
「良いじゃない。別に、誰に見せるわけでも」
「見られているから申し上げているんです」
「んー……?」
 緑髪はやたらと気だるそうな声を洩らしつつ、心底面倒臭そうに首を動かした。
――……なに? こいつ、偉いの?
 そのだらけた身なりや振る舞いからは、威厳なんてこれっぽっちも感じられない。
 だけど、エリーが変に畏まっているのが気にかかった。
――まさか……。
 悪い予感が脳裏をよぎる。
 それが真実かどうか見極めてやろうと、じろじろ観察していると、こっちを向いた緑髪と目が合った。
 緑髪は眠気を帯びた両目で私を見つめながら、トンパタトンパタ、じりじりと歩み寄ってくる。
 そして、毛布の端を踏むか踏まないかという所でひょいとしゃがみ込み、手に持ったキャップの中から小さな布包みを取り出して、一言。
「ケーキ食べる?」
 そこに脈絡なんてものは存在しない。
――……なに? ケーキ? なんで?
 大いに戸惑い、返答に困る私に構わず、緑髪はその丁寧に折り畳まれた布包みをいそいそと剥き始めた。
「また勝手に厨房を漁ったんですか。わざわざお鉢の裏に隠して置きましたのに」
「何よ。二切れ三切れ摘まみ食いするぐらい良いでしょ」
「良くありませんわ。ちゃんと、お八つ時に美味しく召し上がれるように考えて作っているんですから」
「今でも十分美味しかったわよ?」
「もう……」
「はい。あーん」
――……えっと……。
 包みの中から出てきたのは、スポンジ状のケーキだった。
 一辺が膨らんだ分厚い四角形の姿をしたそれは、魅惑的な芳香をこれでもかと漂わせていて、鼻先に差し出された私の食欲を猛烈に刺激する。
 私は先の二人の会話から、これを食べてもいいものか迷っていたのだけれど、お菓子の魔力には抗えず、素直に口を開いた。
「良い子ね」
「むぐ」
 しっとり、まふまふ。
 濃厚なバターの甘い香りが口内に広がり、柔らかな感触が歯と舌を楽しませる。時折ある木の実のパリッとした食感がまた心地よい。
「美味しい?」
 その問いに私が大きく頷くと、緑髪はやけに嬉しそうに、にんまりと笑った。
 まるで、無邪気な子どもみたいに。
「ほら、エリー。くるみも美味しいって言ってるわ」
「はいはい。良かったですわね」
 一瞬、聞き流しそうになった。
 あまりにも自然に、さも当然のように言われたものだから。
「…………くるみ?」
 急いでケーキを飲み込んで、おかしなところを復唱してみる。
 すると、エリーの方を向いていた緑髪の顔が再びこっちへ振り返り、より一層明るい笑顔の花を咲かせた。
「そうよ、くるみ。それが貴方の名前」
「……私、くるみ?」
「くるみ」
「くるみ?」
「くるみ」
 くるみ。くるみ。くるみ。
 緑髪は何度も私の名前を呼んだ。
 何度も。何度も。
 しつこいくらいに繰り返し、私の名前を呼んだ。
「そろそろ憶えたかしら? さあ、答えなさい。貴方は誰?」
「……くるみ」
「そう!」
「わ!?」
 いきなり両脇を抱えられ、一気に上方まで持ち上げられた。
 俗に言う、高い高いの格好だ。
「貴方は、くるみ。それを忘れちゃ駄目よ」
「……うん」
 正直、理解が追いついていなかったように思う。
 どうして「くるみ」なのかとか、そもそもお前は誰だとか、口にするべき疑問は山ほどあった。
 だけど、この時の私は緑髪の勢いに押されてしまって、ただ与えられたものを受け入れることしか出来なかったのだ。
「善かったわね、くるみ。素敵な名前を頂けて」
 エリーもなんだかすごく嬉しそうで、控えめな拍手で私の命名を祝福していた。
「……ところで、幽香様。そろそろ御自分のことを仰いませんと」
「あ、そうね。忘れてたわ」
 緑髪がそらとぼけた風に呟き、私を自分の目の高さまで下ろす。
 改めて正面から見たその顔はやっぱり楽しげで、すでに薄れつつあった私の危機感を完全に拭い去ってしまった。
――……なんか、変だけど、悪いヤツじゃないみたいね。
 こいつが館の主人なのだとしたら、拾われてラッキーだったかも知れない。
 ……と、心を許しかけた幼い妖怪の純真は、この後すぐに打ち砕かれることとなる。
「私は幽香。貴方の飼い主よ、くるみ」
――ああ。やっぱりこいつが…………かいぬし?
「今日からたっぷり虐めてあげるから」
――いじめ?
「精々苦しみ悶えて、私を喜ばせなさい」
――クルシミモダエテ?
 頭が理解を拒絶する。
 代わりに、体が話を飲み込んで、背筋がぞくぞく冷え始めた。
「嗚呼。楽しみ。貴方はどんな風に泣くのかしら? どんな声で哭くのかしら?」
――しまった。変態だ。
 ようやく頭が追いついて、本能と理性が警鐘をジャンジャンかき鳴らす。今すぐ逃げろとおののき叫ぶ。
 私は眼前に迫る危険から逃れようと、自分を支える二本の腕に手をかけた。
 だけど、私を持ち上げるので精一杯に見えた細腕は、これっぽっちも動かない。
――……動かない? なんで? なんで!?
「どうしたの、くるみ?」
 必死の抵抗をものともしない、白々しくて清々しい笑顔が、そっと私に問いかける。
「ああ、解ったわ。早く私と遊びたいのね?」
「や……ちが……!」
「遠慮しなくて良いのよ」
「してない!」
 じたばた、じたばた。
 藻掻けど足掻けど、一向に活路が見いだせない。
「……幽香様」
「うん?」
 そうだ。エリーがいた。
 エリーなら、私を助けてくれるかもしれない。
 私はそこに一縷の望みをかけた。
「その子はまだ病み上がりです」
「そ、そう! 私、病みあがり!」
「……ですから、余り厳しい苦行は課せられない方がよろしいかと」
「そ……!? ちが……!?」
 そうじゃない。違う。厳しい厳しくない以前に、苦行を課すな。
 激しくツッコミを入れようとして、思いきりむせこんだ。
 と、そんな私を、主人が優しく抱き寄せる。
「……う?」
「それもそうね。くるみは私と違って、とてもか弱い妖怪だものね。良いわ。当座のところはのんびりと……」
 まさかの温情。
――……助かった?
 そんなわけはなかった。
「日向ぼっこでもしましょうか」
「うきゅ!?」
 死刑宣告にしか聞こえなかった。
「エリー。正門前にベッド出してきて」
「……畏まりました」
「かしこまるな!」
 抗議もむなしく、早々にエリーの気配がいなくなる。
――うらぎりものー!
 私は再び暴れだし、腕の中からの脱出をはかった。
 だけど、やっぱりぴくりとも動かない。
 そうして私が無意味な抵抗を続けている間に、私を抱えた主人はトンパタトンパタ、鼻唄混じりに歩き始めた。
「ちょっと! どこ行くの!?」
「あら、話を聞いてなかったの? 日当たりの良い広場へ、よ」
「ひ……!? や、やだ! やだってば!」
「ほら。暴れないの」
 じたばた、じたばた。
 一層激しく、強く藻掻く。
 もちろん、何の効果も得られはしない。
 と、しばらく抵抗を続けるうちに、ふと自分の爪の尖っていることを思い出した。
――これだ!
 一切迷わず、自分を拘束している両腕に爪を突き立てる。
 そして、次の瞬間。
 私は地獄にいた。
「ひッ……!?」
 煮え立つマグマが私の足を喰らう。
 無数の針が私の舌を貫く。
 凍える吹雪が私の顔を掻きむしる。
 巨大な岩が私の腕を押し潰す。
 激しい稲妻が私の心臓を穿つ。
 鋭い刃が私の首を斬り落とす。
 燃え盛る炎が私の全身を焼き、冷たい水が私の喉を塞ぐ。
 私はありとあらゆる苦痛を味わいながら、この世のすべてを後悔していた。
 いつまでも。いつまでも。
 ……という夢を見た、ような気がした。
 ほんの一瞬の間に。
「……くるみ。大人しくしてなさい」
 勢いよく突き立てたつもりだった爪先は、ほんの少ししか刺さっていなかった。
 皮膚が硬かったわけではない。
 ただ、それ以上食い込ませてしまうと、悪夢が現実になるのではないかという恐れを抱き、咄嗟に指を止めさせたのだ。
 私の意思とは関係のない、何かが。
 一生分の悪夢を見た気分の私には、もはや少しも動く気力なんて残っていなかった。
「……良い子ね」
 トンパタ、トンパタ。
 間抜けな足音がだだっ広い廊下に響く。
 私は全身にまとわりつく疲労感を鬱陶しく感じながら、悪魔に拾われた自らの悲運を呪っていた。



 こうして、私は悪逆非道の大妖怪、幽香さまのペットとして、夢幻館で飼われ始めたのだった。





   ◆ ◆ ◆





 暴虐な主人によって、日向ぼっこは私の日課とされてしまった。
 毎朝、太陽が空に昇ると、幽香さまは私を館の外まで連れ出した。
 外と言っても、あくまで湖底の大空洞の内側で、あの大穴を渡った先ではない。
 夢幻館の正門から出たところには、硬いタイルが敷き詰められた広場があって、そこには湖の遥か上空から眩しい日の光が届けられるのだ。
 幽香さまは例の怪力でがっしりと私を抱き抱え、エリーに命じて配置させたベッドの上に寝転んだ。

「今日も陽射しが気持ち良いわね。ね、くるみ?」
「……ん……や……」

 私が日光を嫌がって体をもぞもぞさせたり、翼を広げたり畳んだりする度、幽香さまはいやらしく笑った。
 力を入れて抵抗したり、悲鳴を上げたりすると、より一層喜ばれてしまう。
 そんな毎日。

――冗談じゃないわ。なんで私がこんな変態に付き合わなきゃなんないのよ。

 私はまず館からの脱出を考えたけれど、それはすぐに諦めた。
 何せ、館の周りは奈落の大穴に囲まれているし、どうにかして穴を越えても、そこは湖の底。大量の水が待ち構えている。
 飛べないカナヅチの私にとっては、八方塞がりなこと、この上ない。

――うん。無理。まず無理。

 それならばと、幽香さまから逃げ回ってみたことがある。
 夜が明ける前に広大な館の中を駆け抜け、おそらく全然使われていない部屋の、おそらく全然使われていない棚なんかに身を潜めた。
 ムダな足掻きだった。
 どういうわけか、幽香さまは正確に私の後を追跡して来て、私が隠れている部屋までやって来ると、間延びした声で私の名を呼ぶのだ。

「くーるみー。何処に居るのー?」

 それでも黙って隠れていると、今度は武力行使に移る。
 白々しく「此処かしら?」とか言いながら、私の隠れている棚の、その隣の家具を思いっきり叩き壊すのだ。

「あら。此処じゃなかったみたいね」

 そして、次の台詞は声が少しだけ低くなる。

「次は当てるわよ」

 そうなるとギブアップだ。
 私がおずおずと棚から顔を出す。
 すると、幽香さまはにんまりと笑って、私を棚から引きずり出した。

「くるみ。名前を呼ばれたら、ちゃんと返事しなさい。罰として、今日は日向ぼっこをしましょう」
「いつもと同じじゃん!」
「んー? もっと酷い事してほしい? 良いわよ、それでも」
「…………日向ぼっこでいいです」
「あら、そう。くるみがそこまで言うなら仕様が無いわね」

 こんな横暴が毎日続いていた。




 日が暮れて、私に日光浴させることが出来なくなると、幽香さまはエリーに私を預けた。
 それから翌日の朝を迎えるまでは、エリーの監視下に置かれる。
 寝床の棺桶もエリーの自室に移された。
 部屋なんか売るほど余っているのに、個室も与えてもらえない。

「今日も大変だったわね」

 エリーはいつもそう言って私を労ってくれたけれど、主人の無法を止めようとはしてくれない。
 と言うか、エリーは基本的に、幽香さまに対して従順だった。
 本人を前にして堂々と苦言を呈することはあっても、命令を拒否することだけは一度もなかったのだ。

「エリー。これ破けちゃったから、直しといて」
「またですか。一昨日繕ったばかりですよ」
「だって、くるみが思い切り掴むんだもの」
「貴女がその子を陽に晒すからです」
「今日は山菜ご飯が食べたいわ」
「話を聞いてください。昨日はシチューを作れと仰ったでしょう。もう煮込み始めていますよ」
「ん。そうだったかしら。じゃあ、そのシチューはくるみにあげて。ご飯は筍を入れてね」
「……畏まりました。出来上がり次第、お部屋までお持ち致します」

 私は疑問だった。
 エリーはすごく器用で、言われたことを何でもこなせる。
 どのくらい器用かと言うと、あの遠隔操作の能力を駆使して、料理と裁縫と掃除と洗濯をいっぺんにやれてしまうくらい器用なのだ。
 おまけに力も強くて、重たい大鎌を軽々と振り回すことが出来る。
 私と違って、翼もないのに空だって飛べる。
 そんなエリーが、 どうしてあんなワガママな妖怪の下で働いているのか、心の底から不思議でならなかった。

「エリーって、あいつに脅迫されてここにいるの?」
「もう一回言ってみなさい」
「だから、ユーカに脅しとかかけられて」
「もう一回」
「…………ユーカさまに」
「よろしい。質問の答えはノンよ。私は好きであの御方にお仕えしているの」

 当然、私には全く理解出来ない。

「こき使われてるだけじゃん。やめて出てっちゃえばいいのに」
「あら。それじゃあ、明日からは一日中、幽香様と一緒に居たい?」
「やだ。私も出てく」
「駄目よ。貴女は此処に居なさい」
「なんで」
「それがあの御方の意思だからよ。決して、この館を離れてはなりません。この前みたいに逃げ出そうとするなんて、言語道断」
「……あれは別に、ここから出ようとしたんじゃないもん」

 エリーはいつだって幽香さまの味方だ。
 だけど、その一点さえ除けば、エリーはすごくいいヤツだった。
 衣食の世話はもちろん、することがなくて退屈していた私のために、何かと娯楽を用意してくれたりもした。
 それは主として読み物や嗜好品といった、一人で大人しく楽しめる物を寄越したのだけれど、時には忙しい手を止めて、直々に私の遊び相手になってくれることもあった。

「はい。次は貴女の番よ」
「えっと、じゃあ、こっち」
「あらあら。また一羽食べられてしまったわ。食いしん坊な狐ですこと」
「ふふ。ガチョウ絶滅の日は近いわね」

 二人でゲームをした時なんかは、随分上手に手加減をしてもらっていたように思う。
 とにかくエリーは優しくて、幽香さまのせいで荒んだ私の心をあの手この手で癒してくれた。
 ……それでも、朝には当然のように引き渡されるのだけれど。

「くるみ。そろそろ幽香様がお迎えにいらっしゃるわ」
「……行かなきゃダメ?」
「駄目」
「うー……」

 幽香さま至上主義。
 エリーが抱えるその重大な欠陥に触れる度、私は幽香さまへの敵対心を強めていったのだった。





  ◆





 ある日のこと。ちょうど、いつもの鬱陶しい日課が終わった時のことだ。
 幽香さまが、何か用事があるとかで、半月くらい館を留守にすると言い出した。
「その間、館のことは任せるわ。エリー」
「はい。畏まりました」
「くるみ。私が居ないと寂しいでしょうけど、我慢してね」
「……寂しくないし。ユーカさま、帰って来なくていいし」
 ふてくされる私の後ろ頭をエリーが小突く。
 だけど、幽香さまは気味悪いくらいに上機嫌だった。
「帰って来たら、また一緒にお昼寝しましょうね。最近はちっとも暴れなくなって、詰まらないと思っていたところなの。二週間振りの日光に悶える貴方が今から楽しみだわ」
 この発言が、その意地の悪い笑みが、積もり積もった私の反骨精神に火をつけた。
――……見てなさいよ。
 月明かりの照らす広場で幽香さまを見送った後、ベッドを屋内に引っ込めようとするエリーに直談判した。
「明日もそこで昼寝する! あさっても、しあさってもやる!」
 エリーは何かしら思うところがありそうな顔をしながらも、すぐにこれを了承してくれた。
「一応訊いておくけれど、掛け布団は要らないのね?」
「うん」
 どうやら、私の意図を汲んでくれたようだった。
 そう。私は見返してやりたかったのだ。
 二週間、自分の意思で日光と戦い、それを克服したかった。
 そして、あの性悪妖怪が帰って来たら、平気な顔で日向ぼっこに応じて、ガッカリさせてやろうと思っていたのだ。
「辛かったら直ぐに止めるのよ?」
「やめない。辛くない」
 はっきり言って、勝算はあった。
 度重なる苦行の中で、太陽は言うほど私の天敵ではないということに気がついていたからだ。
 それがどうしてかは、全然わかっていなかったけれど。
――そうよ。日光なんか恐くないわ。
 この日、私は生まれて初めて、朝が来るのを待ち遠しく感じた。





 幽香さまがお出かけして、十三日目の真っ昼間。
 私が正門前でベッドに腰かけ、鉛筆を手に館の外観をスケッチしていると、隣に座っていたエリーが急に立ち上がった。
「う? どしたの?」
「還幸よ」
「かんこう?」
「ええ。貴女も立ちなさい」
 その視線の先には、大きな泡に包まれてゆっくりと湖を潜って来る幽香さまの姿があった。
 水の層を抜けると泡が弾けてなくなり、幽香さまはピンク色でフリルつきの可愛い日傘を差して、館を取り巻く大穴の上をふわふわ飛んで帰ってきた。
――来たわね。吠え面かきなさい、ユーカ!
 反抗心を糧に、見事日光嫌いを乗り越えていた私は、自信満々で待ち構えた。
 もうお前の嫌がらせなんか恐くないぞ、というわけだ。
 だけど、幽香さまはそんな私の目の前に降り立つと、上からぎろりと睨みつけてきた。
 情けないことに、私はその視線であっさり怖じ気づいてしまった。
「お帰りなさいませ、幽香様」
「……お、おかえりなさ……ッ!」
 自分に向かって伸ばされた手を恐がり、思わず目を瞑る。
 そんなヘタれた私の頭を、幽香さまの掌が優しく撫でた。
「よくやったわ、くるみ」
「う……? ふあ、ふぁい……?」
「エリー。寝床」
「整っています」
「ん」
 それだけ。
 たったそれだけで、幽香さまは私を通り過ぎて行ってしまった。
 私はぽかん、だ。
 あまりの呆気なさにぽかんと突っ立っていた。
「お疲れのときは何時もああなのよ。怒っているわけではないのだけれど、少し無愛想になられるの」
 その説明に、エリーは「だけど」と言葉を付け加える。
「貴女が自ら成し遂げたことは、大層お喜びの御様子だったわね」
「……なんで喜ぶの?」
「そのうち解るわ」
「わかんない」
「今は、ね。はい、それじゃあ、スケッチの続きをしても良いわよ」
――なんか、釈然としない……。
 結局、私は幽香さまを少しも理解出来ないまま、一つ目の試練を乗り越えたのだった。





   ◆




 太陽に打ち勝った私を待っていたのは、次なる災難だった。
「くーるーみっ」
 あの釈然としない再会から一夜が明けようとしていた早朝のこと。
 朝食を運んで来るはずのエリーに代わって、幽香さまが寝室に姿を現した。
「今日からは私と一緒に、食事の作法を学びましょう」
 昨日の仏頂面はどこへやら。
 にんまりと笑うその顔は、むやみやたらに楽しそうに見えた。
――……なにが目的?
 私はまだ眠気の残る頭を無理やり叩き起こして、一生懸命考えた。
 この嗜虐心の塊が、真っ当なテーブルマナーを私に教え込もうとしているわけがない。こいつはきっと、日光を克服した私を四苦八苦させる新しい手段を考えているはずだ、と。
 だとすれば、その内容は何だろうか。
 考えに考えて、予想出来た答えは一つだけ。
「……おはし?」
「んー、残念。外れ」
 違うかった。
「お箸が苦手なら、それでも良かったわね」
――しまった。余計なこと教えちゃった……。
「まあ良いわ。そっちはエリーに習いなさい。私から貴方に与える課題は、これよ」
 取り出されたのは、一見何の変哲もないナイフとフォーク。
 だけど、その鏡みたいにキレイな光沢から、私は妙な威圧感を感じ取っていた。
「これから朝食と夕食はダイニングで、この食器を使って食べること」
 ちなみに、当時の夢幻館に昼食はなかった。
 それまで、私がごはんを食べていたのは、幽香さまに連れ出される前と解放された後の二回だけ。どっちも寝室で済ませていた。
「もし粗相をしたら罰ゲームね」
「罰ゲーム?」
「そう。罰ゲーム」
「……なにやるの?」
「それは、やっちゃってからのお楽しみ」
――なるほど。私が失敗するのを期待してるわけね。
 この期に及んで、日向ぼっこが罰ゲームだなんていう生ぬるい話はあり得ない。
 何かロクでもないことを考えているのは、火を見るよりも明らかだった。
――上等じゃない。全力で回避してやるわ。
 ナイフとフォークぐらい、当たり前に使えると自負していた。
 と言うのは、エリーがわりとマナーにうるさくて、既にいろいろと仕込まれた後だったからだ。
――残念だったわね、ユーカ。あんたの知らないところで、私は成長してんのよ。
 自らの勝利を確信し、差し出されたナイフを受け取る。
 ところが……。
「んゃっ!?」
 謎の衝撃に指が跳ね、ナイフを床に落としてしまった。
 それはヴァンパイアの苦手な物、その二。銀。
 実は、私は気にしていなかったのだけれど、それまでに私が使っていた食器は全て、エリーが銀製でない物を用意してくれていたのだ。
 私は落としたナイフから目を上げて、そろりと幽香さまの顔色を窺った。
 まだ食事中じゃないし、今回は勘弁してもらえないかな、という淡い期待を抱いてのことだ。
 だけど、そこには、世界で一番タチの悪い笑顔があった。
「それじゃあ早速、罰ゲームを発表しましょう。付いて来なさい」
――悪魔め。





 連れて行かれた先にあったのは、バカみたいに大きな水槽だった。
 上方の大きな蛇口からドバドバと水が注がれ、横手にある排水口からひっきりなしに流れ出ていく。
 今で言う「流れるプール」にはほど遠い代物だったけれど、私の背筋を凍りつかせるには十分な設備だった。
――いやいや、無理! 無理!
 気がつくと、回れ右して走り出している自分がいた。
 転んだ。
 すかさず足を引っかけられた。
「くるみ。残念だけど、今日は鬼ごっこする気分じゃないのよ」
 背中をむんずと掴まれて、体をひょいと持ち上げられる。
「ゆ、ユーカ……さま……。えと、私、水はちょっと……」
「大丈夫。貴方の服は特別製だから、すぐに乾くわ」
「いや、そうじゃなくて……!」
「はい。いってらっしゃーい」
 後のことは、よく憶えていない。





  ◆ ◆ ◆





 私に対する幽香さまの嫌がらせは、驚くほど長く続いた。

「くるみ! 待ちに待った楽しいお食事の時間よ!」
「……食欲ない」
「嘘吐くんじゃないの。ほら、来なさい」
「うぎゅっ」

 何年も。何十年も。

「くるみ? そんなに水ばっかり飲んでたら、おなか壊すわよ?」
「飲びだぐで飲ぶ……げほっ……飲んでんじゃ……ない……!」

 手を変え、品を変え。

「くるみ。そうやって好き嫌いしてると、いつまで経っても大きくなれないわ」
「お茶碗いっぱいニンニク食べたら大きくなれるっての!?」

 ちょっとした苦労から、破壊的な困難まで。

「くーるーみー。ちゃんと避けないと危ないじゃない」
「だから! 目隠ししてんだから見えないって!」
「耳栓はしてないでしょ」
「耳でどうしろってのよ!?」

 様々な苦難が私に与えられた。

「くるみー。今日は暑いから、一緒に寝ましょう」
「……余計に暑いじゃん」
「そんなことないわ。貴方、体温低いし」
「私が暑いんだってば!」

 理不尽極まる苦渋の日々。
 だいたい毎日そんな感じで、一日の半分ぐらいは幽香さまの戯れに付き合わされた。
 そして、残り半分の時間は相変わらず、エリーの傍で過ごすことに決められていた。

「うー……。さぶかった……。また凍っちゃうかと思った……」
「御苦労様。今日も頑張ったわね。はい、お茶」
「もうやだ。こんなとこ、出てってやる……」
「はいはい。幽香様のお許しが出たら、ね」

 何十年経とうと、エリーの態度に変わりはない。
 疲弊した私を優しく慰めたり、私が自主的に訓練するのを手伝ってくれたりしながらも、その意識の最上段には、常に幽香さまが君臨している。

「昨年までに比べたら、寒中水泳にも大分と慣れてきたようね。明日には幽香様からお褒めの言葉を頂けるんじゃないかしら?」
「え。やだ」
「あら、どうして?」
「だって、幽香さまが褒めるときは……」

 私が課題を達成したり、苦手を克服したりすると、幽香さまは一度だけ私を褒めた。

「よくやったわ、くるみ」

 そして、無慈悲に次の試練を下すのだ。

「じゃ、次はこれをやってみなさい」

 エリーはそれを私の「成長の証」だとか言っていたけれど、私にとっては新しい苦難の始まりを告げる合図でしかなかった。
 だから、私が幽香さまのイジメに立ち向かっていたのは、褒められたいからとか、認めてもらいたいからとか、そんな前向きな理由ではない。
 ただ、他にやることがなかっただけだ。
 軟禁生活があまりにも退屈すぎて、不本意ながら、渋々、イカれた主人につき合ってやっていたのだ。
 少なくとも、私は自分にそう言い聞かせていた。

「幽香さまー」
「ん……」
「私、もう朝ごはん終わったけど」
「…………今日は眠いから、エリーに遊んでもらって……」
「え」
「……何?」
「…………なんでもない」

 そうして時は過ぎていく。
 何年も。何十年も。





 ◆ ◆ ◆





 無理難題。
 ある日、幽香さまが私に言い渡した課題は、そう評するより他にないものだった。
「むーりー! できないもんはできないってば!」
「あのね、空を飛ぶくらい、埃にだって出来るのよ。大体、貴方の背中のそれは」
「どうせ私の翼は飾りだもん!」
 空を飛べない。
 それは、欠陥だらけの私にとって、一番のコンプレックスだった。
「だったら、それは使わなくても良いから、飛びなさい。さもないと……」
「さもないと?」
「はい。これ持って」
「う? うぎゅ!?」
 ドサドサ、バサバサ。
 突然、頭上から大量の本を落とされて、私はそれに埋もれてしまった。
「どうしても出来ないってんなら、これらの写本を三冊ずつ作りなさい。内容も理解しておくこと。解らないところはエリーに教えてもらうのよ。明日までに出来なかったら、お化けの部屋に閉じ込めるからね」
――……オバケの部屋?





 幽香さまに渡された本はどれもバカみたいに分厚くて、しかも、何だか難しいことが小さな文字でびっしりと書き込まれていた。
 そんなのが五十冊以上。
 いくらエリーに協力してもらったところで、たった一日では内容を理解することはおろか、書き写しだって出来るわけがなかった。
「やってられるかー!」
「こら。インクを溢したらどうするの。また最初から書き直しになるわよ」
「うー……。だって、意味がわかんないんだもん……。なんなのよ、これ……」
「よく聞きなさい、くるみ。これはね……」
 エリーは懇々と私を諭した。
 才覚にも感覚にも頼ることなく、理屈だけで体を宙に浮かべるためには、こんなにも膨大な知識が必要なのだと。
 つまり、私は空を飛ぶための勉強をさせられていたわけだ。
――これが終わったら、私も飛べるようになるってこと?
 そう思うと、急にやる気が出てきた。
「……で、これ、明日までに終わるの?」
「まさか。最低でも二百年は覚悟しておくことね」
――……桁一つ多くない?
 瞬く間にやる気は引っ込んで、くらくら目眩がしそうになった。





「まったく。飼い主の言い付けを破るだなんて、不届きなペットね。しばらく此処で反省してなさい」
 翌日、私は予告通り、とある部屋の中へと放り込まれた。
 モチだか何だかよくわからない妖怪がぎっしりと詰まった大広間に。
――いや。これ違う。なんか思ってたのと違う。
 想像していたよりも怖くなくて、ほっと一安心……する暇もなく、幽香さまが扉を閉めた途端、部屋中のモチオバケが一斉にこっちを振り向いた。
「う……?」
 じりじり、じりじり。
 モチオバケはどいつもこいつも眠たそうな目をして、でっかい舌であっかんべーをしながら、私の方へにじり寄ってくる。
 右から、左から、前から、上から。
「ちょ、ちょっと……。来ないでよ……」
 じりじり、じりじり。
「く、来るな! 来……うぎゅっ!」
 あっという間にモチの大群に押し潰されて、ふと気がつけばベッドの上。
「――大丈夫? 大変だったわね」
 この時ばかりは、エリーも笑いを堪えていたように思う。





 ◆





 しばらくの間、私は空を飛ぶための勉強と、オバケの部屋を繰り返し往復することになった。
 初めのうちはただ潰されるだけだったオバケの部屋だけれど、ある日を境に認識ががらりと変わる。

「あー、もう……! いい加減に……しろ!」

 やぶれかぶれに思いきりぶん殴った結果、一体のモチオバケをノックアウトすることに成功したのだ。

「……よし。このまま全部ぶっ飛ばし……や、待って、ちょっと待っ……うぎゅ!」

 まあ、その後は結局、モチに埋もれたのだけれど……。
 だけど、それ以降、オバケの部屋は私にとって、敵を何体倒せるかのゲームをする場所へと変化した。

「聞いて、エリー! 今日は二十体もやっつけたのよ!」
「あら、記録更新ね。凄いじゃない」
「へへー」
「こっちはまだ五十三冊残ってるわよ」
「……今日もやるの?」
「やります」
「うー……」

 だけど、肝心の勉強の方は遅々として進まなかった。
 内容が難しすぎたのだ。
 エリーは出来るだけわかりやすく解説するように努めてくれたけれど、それでも私の理解はなかなか追いつかない。
 このままだと、二百年どころか二千年は掛かるんじゃないか。
 そんな不安を抱えて、また時は過ぎていった。





 ◆





 体一つで空を飛べ。
 そんな無茶苦茶を言われてから、数十年。
 結局、私が幽香さまの難題を突破したのは、教材をほとんど理解出来ていない状態でのこと。
 しかも、エリーから教えを受けている時ではなく、なんと、オバケの部屋で――
「こら、逃げるな! ……う?」
 広間の天井近くまで飛んでいったモチオバケを追いかけようとして、思いがけず体が宙に浮いたのだった。
「うわ、飛んだ!?」
 必要は成功の母というわけだ。
――え? これ、楽しい!
 突如として開けた新しい感覚に、私の心も舞い上がる。
 それまでにも、エリーが操るソファに乗せてもらったり、直接抱き抱えてもらったりして空中散歩をしたことはあった。
 だけど、自分の意思で浮遊するというのは、また格別だ。
 世界が一次元増えたと言っても過言ではない。
「よぅし! これで私に死角はないわ! 今日こそ、あんたたち全員ぶっ飛ばしてやる!」
 調子に乗った私は声高らかに勝利を宣言し、揚々と広間を飛び回った。
 そして間もなく、足元のオバケに爪先を引っかけて転び、頭から床に落ちたのだった。





「気分はどう? 大丈夫? どこか痛まない?」
 いつものベッドの上。
 額に生ぬるい湿布を乗せられ、ぼんやりと目を覚ました私に、エリーが心配そうな声をかけてきた。
 寝ぼけた私は、とりあえず聞かれたことに答えようと、全身に意識を巡らせて、特に異常のないことを確認した。
「んー……。だいじょーぶ……」
 エリーがホッと息を吐く。
「良かった。酷い転け方をしたようだと仰っていたから、心配していたのよ」
「ほぇ……?」
 この時のエリーは少し慌ただしくて、私の額の湿布を取り上げながら、片手間に机の上で見慣れない紙の束をまとめたりしていた。
 何をしているのかと聞くと、なんだか憂鬱そうな表情を浮かべて、こう答えた。
「……今ね、お客様がお見えになっているんだけれど、幽香様ったら約束をお忘れだったみたいで、お出掛けしてしまっているのよ」
「お客さま?」
 日頃、夢幻館を訪れるものはほとんどいない。
 おそろしく便の悪い立地に加えて、家主があの幽香さまなのだ。当然といえば当然の話だろう。
 だけど、一人だけ、年に一回、必ず館を訪問する妖怪がいた。
 私は紹介してもらったことがなかったし、顔を見たのもほんの数回だけで、何者なのか、何のために来るのか、何一つとしてわからない。
 ただ、幽香さまがその妖怪のことを呼ぶ名前だけは、ちゃんと覚えていた。
「お客さまって、メギツネさん?」
「……そうだけれど、その呼び方は真似してはいけません」
「う?」
 ぽいっと、ペトッと。
 私の額に新しく冷たい湿布を投げ置いて、エリーは紙の束をごっそり腕に抱えた。
「……兎も角、ただお待たせしているのも申し訳無いから、私が代わりにお話を伺おうと思っているの」
「ふーん」
「だから、今日は貴女のお勉強を見てあげられないのよ。御免なさいね」
「あ、そう……。……んー……?」
 私は何か、言わなければならないことがあったような気がして、だけど、その何かを思い出せずにいた。
「今日は昨日やったところの復習でもしておいてくれる? やっぱり具合が良くないようなら、寝ていても構わないからね」
「はーい」
 それじゃあ、と、エリーが急ぎ足に部屋を出て行く。
 私は一度体を起こしてそれを見送った後、またすぐにベッドへ倒れ込んだ。
――誰が自習なんかするかっての。今日はおやすみよ、おやすみ。




「……いや、もう勉強しなくていいんじゃん!?」
 重大な事実を思い出し、勢いよく跳ね起きたのは、エリーを見送って五分が経過した頃だった。
――そうよ。私ってば、自力で空を飛べたんじゃない!
 おかげで頭を打ったのだけれど、この際、そんなことはどうでもいい。
 とにかく、あの爽快感をもう一度味わってみたい。
 私は寝室を抜け出して、だだっ広い廊下へと躍り出た。
――えっと……。どうやったんだっけ?
 試しにぴょんぴょんジャンプしてみるけれど、すぐに足が床についてしまう。
 それならと、今度は天井を殴りに行くつもりで跳ねてみる。
 成功した。
 私の体はふわりと宙に浮かび上がり、空中を自在に移動することができた。
――やった! やった!
 心の中で歓喜の声を上げる。
 私は先の失敗も省みず、勢い任せに廊下を飛び回った。
 右へ左へ、上へ下へ。迷路みたいに入り組んだ館の中を行き当たりばったりに駆け抜ける。
 しばらく夢中になって飛び続け、ふと気がつくと、私は大きな門の前にいた。
――ここは……エントランスか。
 何事もなく通り過ぎようとして、はたと体の動きが止まる。
「…………んー?」
 また、何か忘れているような気がする。
 さて、それは何だったか。
 私はその場にふわふわ留まって、首をひねって考えた。
 考えて、考えて、ようやく一つの答えに辿り着く。
――……もしかして、出られるんじゃん?
 まったく、時の流れというものは恐ろしい。
 人間なら天寿を全うできるくらいの年月を過ごしているうちに、私はすっかり夢幻館での生活に慣れてしまっていたのだ。
 以前は口癖みたいになっていた「出てってやる」も、もう何年言い忘れていたかわからない。
――いや、だって、エリーの作るデザート、おいしいし……。
 特に、木の実を混ぜ込んだカトル・カールが絶品だ。チョコレート・プディングだって、一度食べたら忘れられない。
 ごはんも当たり前に食べさせてもらえるし、寝床も着物も整っている。望めば娯楽も供給される。
 それらを差し引いて、なお余りある非道と思っていた幽香さまの虐待でさえ、この頃の私にとってはゲーム感覚。
 脱獄の意志を忘れるには、十分すぎる環境だった。
――……でも……。
 それでも、館から出てみたいという願望はあった。
 ここから逃げ出したいからではなく、外へ行ってみたいから。
 かつて一度だけ、うろ覚えの悪夢の中で歩いた世界を、今度はお散歩気分で見て回りたい。
 秘かに、そんな思いを抱いていたのだ。
 そして、その望みを叶える千載一遇のチャンスが、目の前に転がっている。
 エリーに叱られるかも知れない。幽香さまに折檻されるかも知れない。
 だけど、私はすぐにでも、外に出てみたかった。
――……すぐに帰れば、そんなに怒られないわよね。エリーはメギツネとお話してるんだし、もしかしたら、バレずに済むかも。
 私は意を決した。好奇心に負けた、とも言う。
 巨大な門を押し開け、見慣れた広場へ歩み出た。
 時分は夜。ひょいと上を仰いで見れば、二つの湖面の向こう側から、月が私を見下ろしていた。
――あの月を目指して……!
 迷わず、力一杯に飛び跳ねる。
 浮いた体はぐんぐん地べたから遠ざかり、あっという間に湖底の水面まで到達した。
――このまま、上まで!
 勢いよく水中へ飛び込む。
 水圧を考慮していなかった私は予想外の衝撃に驚いたけれど、幸い、意識は失わなかった。
 しばらく惰性で浮上して、後は自力で藻掻いて上へと昇る。
 ものの二十秒も経たないうちに、二つ目の湖面に到達した。
「ぷはっ!」
 飛沫が月の明かりに照らされて、きらきら光りながら舞い落ちる。
 湖上を流れる風が唸り、湖畔に息づく木々がざわめく。
 私は近くに浮いていた注連縄付きの岩によじ登り、濡れた髪を絞ったり梳かしたりしながら、しばらくの間、久しく感じる地上の息吹に耳を傾けていた。





 懐かしい。珍しい。楽しい。
 岸までふわふわ飛んで行き、湖畔の森へと足を踏み入れた私は、まるで宝物庫に入り込んだような気分だった。
 立ち並ぶ木々も、雑多に生えた草花も、そこらに転がる石ころさえも面白い。
 と、そんな私の目に、夜の森でちかちかと光る何かが映った。
――なんだろ、今の?
 これはもう、行くしかないというものだ。
 好奇心に任せて、小走り気味に光を目指す。
 そのうち、光の方から聴こえてくる音にも気がついた。
 バシン、バシンという何かを叩くような音と、子どもがわーわー騒ぐ声だ。
――誰だろ。恐いヤツじゃなかったらいいけど……。
 私は小走りするのをやめて、木陰に身を隠しつつ、そろりそろりと近づいた。
「やったわね!  次はこっちからいくよ!」
「おら来いやー!」
「やっちゃえ、やっちゃえー!」
「頭ふっとばしたれー!」
 森の中の少し開けた場所で、二人の妖怪が互いに光の玉を飛ばし合い、それを取り囲む複数の妖怪たちが何だかんだと囃し立てている。
 ちょっとしたケンカか、本気の殺し合いか、それとも単なる遊びだったのか。それはわからない。
 わからないけれど、ともかく私の目には、すごく野蛮な行為に見えた。
――なんか、危なそうなことしてるわね……。
 迂闊に話しかけたりして、争い事に巻き込まれるのは困る。
 あまり、のんびりしてはいられないのだ。
 そろそろ脱走が発覚するかも知れないという焦りもあって、私は速やかにその場を離れようとした。
 転んだ。
 まんまと木の根っこにつまずいた。
 あえて言い訳をしておくと、平らでない場所を歩くのが久しぶりだったせいだ。
 断じて、私が鈍臭いからではない。
「んー? そこにいるの、だーれー?」
 案の定、妖怪たちがぞろぞろと私の様子を見に来た。
「見て見てー。なんか変なのいるよー?」
「本当だ。見たことないヤツだ」
「あんた、私らの縄張りで何やってんのよ」
「なんね、その格好」
「まー、立派な羽をお持ちで」
 口々に声をかけてくる連中の中には、明らかに敵意むき出しなヤツがいたりして、とてもお友達になれそうな雰囲気ではなかった。
――面倒になる前に逃げよう。
 即断、即決。
 体を起こすとともに、迷わず空へと舞い上がる。
 ところが、そう簡単に逃げさせてはもらえなかった。
「待て、こら」
「いっ!?」
 無言で飛び去ろうとした私の背中に、いきなり激しい衝撃が走る。
 誰かが背後から、さっきの光の玉を浴びせてきたのだ。
 石を投げつけられたような痛みに集中力を削がれ、私はすぐに地面へと落ちてしまった。
「逃げんなよ」
――背中を踏むな。
「失礼なヤツだね」
――脇腹を蹴るな。
「ねー、ねー。あなただーれー?」
――翼を引っ張るな!
 それは確かに、挨拶もせずに逃げようとするのが淑女らしい行動だったとは言わない。
 だからって、ひとの背中を狙うようなヤツら相手に、礼儀正しくしてやろうとは思えなかった。
「……足、どけなさいよ」
「……あ?」
 妖怪どもがぴたりと黙る。
「足をどけろっつってんの」
「……私に言ってんの?」
「あんたも、そっちのヤツもよ!」
「きゃっ!?」
 強引に立ち上がり、いつまでも私を踏んづけているバカをすっ転ばせてやった。
「何すんのよ!」
――こっちのセリフだっての。
「生意気なヤツだな」
「まー、ちょっと態度が悪いねぇ」
――つき合ってらんない。
 無視して歩き出そうとすると、今度は後ろから肩を掴まれた。
「ちょっと。なに知らんぷりして消えようとしてんのよ。あんたのせいで転んだのよ、私」
――知るか、バカ。
「なに黙ってんの? 何か言うことあるんじゃないの?」
――ない。
「ほら。謝りなさいよ」
――なんで私が……。
「謝りなさいよ!」
「うるさい! 黙れ!」
 思わず叫んだ。
 こんなに大声を出したのは、生まれて初めてかもしれないと思うくらいに。
 すると、妖怪どもはまた一斉に黙り込み、みんな揃って二、三歩後ろに退がった。
「……ほっといてよ」
 関わり合いになりたくない一心で、すたすたと湖に向かって足を進める。
 一歩、二歩、三歩……。十歩目までは何の沙汰もなかったのだけれど、十一歩目を踏んだあたりで、背後で誰かが地面を蹴る音が聴こえた。
――げ。飛んで来てる……!
 幽香さまにやらされた無茶のおかげで、私は目に見えない物の動きも、いくらか耳で読みとれるようになっていた。
 目隠ししたまま転がってくる米俵を避ける遊び――という名の暴力行為によって培われた力だ。
 だから、この時、後方から飛びかかって来る妖怪のことも、はっきりと認識できていた。
 だけど、それだけではどうしようもない。
 いくら音で敵の動きがわかっても、相手より素早く動くことが出来なければ無意味なのだ。
 私は慌てて体を屈めたけれど、飛び来る妖怪はそれに合わせて正確に狙いをずらし、私の頭を鷲掴みにして、思いきり地面へと叩きつけた。
「誰に向かって口きいてんだお前ェ! ?」
 豹変した妖怪の怒号が浴びせられる。
 どうしてそんなに怒っているのか、私には全く理解出来ない。
 だけど、理由はどうあれ、私がそいつの逆鱗に触れてしまったことだけは確かなようだった。
「こいつ、絶対にゆるさねェ!」
「あーあー、やっちゃったー」
「自業自得だ。自業自得」
「まー、ただでさえ気が立ってたからねぇ」
「おい、一人でシメてんじゃないよ。私にもやらせな」
 頭を押さえつける力はどんどん強くなっていくし、不穏な足音もたくさん近づいてくる。
 私は先の一撃のせいで頭が朦朧としていて、ロクに抵抗することも出来なかった。
「楽しそうね」
 と、そこへ、どこからか耳慣れた声が聞こえた。
 同時に、憶えのある地獄めいた空気が辺りを包み込む。
 薄らぎ、眠り込む寸前だった私の意識は、そのおぞましい気配によって一気に叩き起こされてしまった。
「私も混ぜてくれない?」
 妖怪どもが三度黙り込む。
 ただし、今度はただの沈黙ではない。
 抜かした腰の落ちる音。ガチガチと歯を鳴らす音。
 ある一つの感情を示す符号が、いくつも私の耳に入ってきた。
「……ゆ……ゆ……!?」
 その『恐怖』は、凡愚が己の名を呼ぶことさえ許さない。
「ねえ。私と一緒に、遊びましょう?」
「……あ、あぁ……あああぁぁぁ……!」
 叫ぶ、走る、転ぶ、喚く、逃げる、ぶつかる。
 一斉にパニックに陥った妖怪どもの無様ときたら、見るに堪えない醜態だった。
 ……私は、わかっていなかった。
 わかっているつもりでいたけれど、本当はこれっぽっちも理解出来ていなかったのだ。
 自分が何者に拾われたのか。何者によって生かされたのか。
 それは、どれだけ幸運なことだったのか。





「この辺に住んでる妖怪って、シャイな子が多いのよね。また仲間に入れてもらえなかったわ」
 妖怪どもが揃って逃げ出した後、殺気を収めた幽香さまが、白々しく残念そうに呟いた。
 私はまだ少し頭がくらくらしていたけれど、どうにかその場に立ち上がることができた。
「……幽香さま……」
 声が萎む。体の震えが止まらない。
 知らず知らず、私は幽香さまの召し物を掴んでいた。
「くるみ」
 ドスッと音を立てて、幽香さまの日傘の先端が地面に突き刺さる。
 私はそれに驚いて、体が跳ね上がるくらいにびくついてしまった。
「くるみ。呼ばれたら返事しなさい」
「……はい」
「貴方、何か私に言うことが有るんじゃないかしら?」
「……ありがとう……ござい……ます……」
「違う」
「…………ごめんなさい」
「違う」
 幽香さまがしゃがみ込み、目線が私に合わされる。
 その顔は変ににこにこしていて、どういうわけか、すごく嬉しそうに見えた。
 だけど、私には自分が何を言うべきなのか、何を望まれているのか、全くわからない。
「ねえ、くるみ」
 おろおろする私に、幽香さまが声をかける。
「貴方、どうやって湖の上に出たの?」
「え……。……えと、泳いで」
「その前」
「……飛んで」
「そう。それそれ」
 幽香さまは満足そうに頷きながら、ぐりぐりと私の頭を撫でた。
「どんな転け方したのかと思ってたけど、まさか、もう飛べるようになってたとはね。流石に驚いたわ。私の予想より五十年以上早いんだもの。凄いわ、くるみ」
 それは、今までの中でも一等大袈裟な褒め方だった。
 正直、ちっとも嬉しくなかった……とは、言わない。
 言わないけれど、それ以上に、もやもやとした不安が私の胸中で渦巻いていた。
「……幽香さま」
「んー?」
「怒んないの……?」
 吹き出した。
 私ではない。幽香さまが、だ。
「何? 貴方、怒られたいわけ?」
「そうじゃないけど……」
「そんな心配しなくても、後でしこたま怒ってもらえるわよ」
 と、言いつつ、幽香さまはどこからか鏡を取り出した。
 妖しげな雰囲気を纏う、黒紫色の手鏡だ。
「……それ、なに?」
「今に解るわ」
 最初、鏡は真っ暗な闇だけを映していたのだけれど、取り出されて十秒も経たないうちに、ぼんやりと淡い光を放ち始めた。
「ほら来た」
『幽香様! 至急、お話したいことが有ります!』
 鏡が急に喋り出した。
 これまた、私の聞き慣れた声で。
「はあい。こちら、ゆうかりん」
 幽香さまが茶目っ気たっぷりに微笑みながら、手鏡を覗き込む。
『幽香様! くるみが……! くるみが居なくなってしまいました!』
 かつて聞いたことのない、エリーのひどく取り乱した声が辺りに響く。
『何処にも見当たらないんです! 藍さんにも気配を探っていただいたんですけれど、館の中には居ないようだと仰って……!』
「あー。藍が来てんの? 良いわよ、追い返して。高いお茶菓子とか出してないでしょうね?」
『おい』
 さりげなく入れられたツッコミは、例のメギツネの声だ。
『館の周りに落ちた形跡も無いんです! もしかしたら、地下に迷い込んだのかも知れません! どうしましょう!? もし、結界を緩めてある箇所に触れてしまっていたら……!』
 くるり。
 幽香さまが手首を返し、手鏡を私の方に向けた。
 鏡の中で、瞳を潤ませたエリーがものすごく驚いた顔をして私を凝視している。
 しばらく絶句した後、その顔は憤怒へと変貌した。
『くるみ! 貴女そこで何してるの!』
 それまでにも、エリーには何百回と叱られてきた。
 だけど、こんな大声で怒鳴られたためしは一度もなかった。
「ご……ごめん……なさ……」
『館の外に出てはいけないってあれ程言っておいたでしょう! 今はただでさえ不安定な時期なのに! 危ない妖怪に遭ったりしたらどうするのよ!』
『おお。これは大変だ。正に今、彼女は凶悪極まりない怪物の傍にいらっしゃいますよ、エリー殿』
「ちょっと、女狐。あんた、後で憶えてなさいよ」
 あっちでケラケラ、こっちでケラケラ。
 外野はのんきに笑っていたけれど、怒られている私は気が気でなかった。
『その擦り傷は!? 何処かで転んだの!? まさか誰かと喧嘩したりしてないでしょうね!?』
「え、えっと……」
 くるり。
 手鏡がもう一度ひっくり返された。
「エリー。お説教は帰ってからにしてちょうだい」
『は、はい……。申し訳御座いません……』
――中止じゃなくて延期なのね……。
 ちょっと、館に帰るのがイヤになってきていた。
「で、女狐。あんたの用事はいつもの点検と、ハクライ何とかの件でしょ?」
『博麗だ。博麗大結界』
「何でも良いわ。点検は勝手にやっといて。もう一つの方は態度次第で聞いてあげないこともないから、今の内に土下座の練習しときなさい」
『……良いだろう。貴様の額を床に叩き付ける準備でも整えておくとしよう』
 なんだか、さっきやられた頭がずきずきと痛む気がした。
「あのね、本当なら紫が直々に菓子折り持って来るべきところ、下ッ端のポンコツで我慢してやってんのよ? 頭下げんのは当然の礼儀でしょうが」
『紫様は今、龍神様とお話をさせていただく為に』
「あー、もう良いわ。また後でね」
 幽香さまが軽く手をかざすと、鏡は元の真っ暗闇に戻った。
「それじゃ、帰るわよ」
「……うん」
 未曾有の叱咤を控えた私の返事は鈍い。
 その心情を察してか、幽香さまがクスリと笑った。
「くるみ」
「はい」
「良いこと教えてあげましょうか」
「う? なに?」
 聞き返すと、幽香さまは一層面白そうに笑って、こう言った。
「エリーは怒ると滅茶苦茶恐いわよ」
――悪魔か。
 妖怪である。
 げんなりする私を見て満足したのか、幽香さまは日傘を手に取って立ち上がり、すたすたと歩き出した。
 自ら死地に赴くのは億劫だったけれど、帰らないわけにもいかない。
 私も諦めて、その後を追った。





 湖の岸まで戻って来ると、幽香さまは日傘の先っぽを水に浸けてから、自分の周りにぐるっと円を描いて、大きな泡を作り出した。
 不思議と割れないその泡は、私たちを包み込み、ゆっくり静かに湖の底へと沈んでいく。
「ああ、そう言えば……」
「う?」
 泡が空洞に辿り着くまでの間に、幽香さまはもう一度私の頭を撫でた。
 一日に二度撫でられたのは、これが初めてのことだ。
「さっきの気迫も、なかなかのものだったわね」
「気迫?」
 身に憶えのない称賛に、思わず首が傾く。
「さっき、急に怒り出した子が居たでしょ」
「……うん。うるさかった」
「あれはね、貴方に気圧されたのが癇に障ったのよ」
――……ちょっと怒鳴っただけなのに。
 あれぐらいのことで激昂するなんて、とんだ癇癪持ちだと思った。
 水の層を抜けると、泡がパチンと音を立てて弾け、私は空中に放り出されてしまった。
「キャッ!?」
「ほらほら。ちゃんと飛ばないと奈落の底よ?」
「ひっ!?」
 下にはいつもの夜空が広がっていて、何もかもを呑み込んでやろうと大口を開けているかのように見えた。
 ところが、私をからかう言葉とは裏腹に、幽香さまは真下に向かってふわりふわりと降りていく。
「あれ? 幽香さま……?」
「なんてね」
 ストン。
 湖底の崖を二、三メートルほど下ったところで、幽香さまの靴底が軽い足音を鳴らした。
 まるで、透明な床に着地したかのように。
「……う?」
 驚き、私も恐る恐る高度を下げていく。
 幽香さまと同じ高さまで降りると、私の足も硬い何かにぶつかって、トッと小さな足音を立てた。
 何のことはない。そこには本当に、透明な床があったのだ。
「え? え?」
 四つん這いになって足元をぺたぺたと触る私を置いて、幽香さまは見えない床の上を歩き始めた。
 平然と。さも当たり前のように。
――もしかして、もしかして……。
 おそらくは、最初から。
 いや、間違いなく、最初から。
「どう? くるみ……」
 幽香さまが振り返る。
 恐ろしく意地の悪い笑みを浮かべて。
「数十年間、ペテンに掛けられ続けた気分は?」
――だまされたああぁ!
 完全に騙された。
 奈落の底なんて、とんでもない。
 空なんか飛べなくても、ほんの少しの崖さえ登ることが出来れば抜け出せたのだ、この大空洞は。
「その様子だと、本当に気付いてなかったみたいね。石とか投げ落としたりしなかったの?」
「……だって、エリーが、穴に物を落とすと悪魔に呪われるって……」
 笑われた。
 おなかを抱えて笑われた。
「あー……酸欠になりそう……。あいつ、言うに事欠いて、呪われるって……。子供騙し過ぎるでしょ……。しかも、それを信じるって……」
「どうせ私は子どもだもん……」
 いつまでも肩を震わせている幽香さまを放っておいて、さっさと帰ろうと館に向かって歩き出す。
 転んだ。
 また一層大きな笑い声が轟く。
 違う。違う。決して、私がドジなのではない。
 足元が見えないのだから、しょうがないではないか。
 私は恥ずかしさと悔しさに堪えかねて、透明な床をバシバシと叩いた。
 すると、幽香さまが相変わらずクスクスと笑い声を洩らしながら近寄ってきて、私の傍らにしゃがみ込んだ。
「くるみ。拗ねる気持ちは解るけど、エリーは別に、貴方に意地悪したかったんじゃないのよ?」
「……そんなの……」
 言われるまでもない。
 エリーが本気で私を心配してくれていたことくらい、私にだってわかっていた。
 ついさっき、私の身に振りかかった災難。あんな目に遭うことがないように、私が絶対に館を離れないようにと、いろいろ気を回してくれていたのだ。
 だからこそ、この後の説教は長引きそうで、嫌気が差していたのだけれど。
「解ってんなら良いのよ。今日のところは、有り難く怒られときなさい」
 そう言って、幽香さまは私を抱き上げ、見えない床の上から軽やかに飛び立った。



 そして、エリーのありがたいお説教は、日の出まで続いたのだった。





 ◆ ◆ ◆





 初めて自分の力で空を飛んだ、あの日。
 あの日は、私にとって大きな転機だった。
 まず、あれ以来、私は幽香さまに懐くようになった。
 助けてもらったからというのもあるけれど、それより、幽香さまの私への接し方が変わったことが大きい。
 あんまり私をいじめなくなったし、いろんな話をしてくれるようになった。
 例えば、私を拾った時のこととか。

「最初は、でっかい金魚かと思ったのよね」
「なんで金魚」
「黄金色だったから」
「……あ、そう……」

 それから、エリーのこととかも。

「え? エリーって、幽香さまにも怒鳴ったりするの?」
「するなんてもんじゃないわよ。あんたを拾って暫くの間なんか、殆ど毎晩私の部屋に来て騒いでたんだから」
「う? なんで?」
「やれ虐め方が酷いだの、くるみが思い詰めて自刃したらどうするつもりだのって。喧しいったら無かったわ。死んだら血の池地獄にでも沈めておけば良いじゃない、って言ってやったら、逆に一月くらい口を利かなくなったけど」
――……やっぱり外道だ。

 薄々気づいていたことだけれど、エリーは暴虐な幽香さまとのバランスを取るために、意識して私に優しくしてくれていたわけだ。
 そのことを再認識したからかどうかはさて置き、この頃から、私はちょっとだけエリーの家事を手伝い始めた。

「エリー。食器みがき終わったー」
「あら、早かったわね。有り難う。御苦労様」
「他にもなんか手伝う?」
「ふふ。有り難う。お手伝いはもう良いから、幽香様がお目覚めになるまで休んでいなさい。今日も妖術を教えてもらうんでしょう?」
「うん」

 とりわけ大きな変化と言えば、これだ。
 幽香さまが直々に、妖術の手ほどきをしてくれるようになったこと。
 何もないところで火をつけたり、空気を操って風を吹かせたり、植物の種を発芽させたり。
 私が自力で会得した空中浮遊も妖術の一種らしくて、うまく飛ぶためのコツを教えてもらったりもした。
 それから、外の妖怪たちが撃ち合いをしていた光の玉。これについては、特に力を入れて教え込まれた。

「くるみ。こんな薄い銅板も凹ませられないようじゃ、妖弾(ようだん)とは呼べないわ」
「これで精一杯なんだけど……」
「あんたはもっと力を付けなきゃ駄目ね。そこら辺の雑魚妖怪に負けるようなペット、恥ずかしくて外に出せないもの」
「……じゃあ、強くなったら出てってもいいの?」
「良いわよ」
「ホント?」
「私が認めるぐらい強くなったらね」
「……それって、どんくらい?」
「んー。そうね……」

 この直後、幽香さまが「これくらい」と言って放った巨大な閃光は、館の約一割を蒸発させた。
 私が同じことを出来るようになるまで五百年はかかると言われたけれど、正直言って、千年経っても出来る気がしない。
 幽香さまに認めてもらえるのは、ずいぶんと先の話になりそうだ。
 ちなみに、この日、エリーは幽香さまの分のおやつを作らなかった。

「あら、エリー。私のプディングは?」
「在りません」
「あ? 何で」
「何で!? 御自分の為さった事を省みられては如何です!? 空き部屋にだって家財は置いてありましたのよ!?」
「……だって、くるみが」
「だってじゃありません! くるみのせいにするとは何事ですか! 少しは反省してください!」
「…………くるみ。ちょっと頂戴」
「やだ」
「ゆ、う、か、さ、ま!? お食事も抜きにして欲しいんですか!?」
「……わかったわよ。ちゃんと直すの手伝うから……」
「当たり前です!」
――本当に怒鳴られてる……。

 お説教する時のエリーは幽香さまにも容赦ないんだなと、甘いチョコレート・プディングを味わいながら、しみじみそう思った。





 そう言えば、私の生活にも一つ、大きな変化があった。
 長年続いたエリーの監視が解かれ、ついに個室を与えられたのだ。
 ただし、部屋は選ばせてくれなかったけれど。
 私が最初に目を覚まし、エリーや幽香さまと初めて会った、あの部屋。あそこが私の寝室になった。

「箪笥は何処に置くのかしら?」
「えっと、そのへん」
「此処ね。それじゃあ、この机は?」
「んー……」

 元々、大きめのテーブル一つしか置いてなかった部屋の中へ、エリーの遠隔操作で次々と家具が運び込まれた。
 家具だけではなく、壁や床まで自由自在に動かせてしまうので、大きい物の運び入れも簡単だ。
 つくづく羨ましい能力なのだけれど、この術はエリー独自のもので、私が習得するのは難しいそうだ。
 幽香さまの妖術でさえ、エリーみたいにたくさんの物を動かすことは出来ないのだとか。

「ベッドは此処で良いのね?」
「うん」
「本当に棺じゃなくても良いの?」
「いいの。なんか最近、窮屈だし」
「……そう言えば、少し背が伸びたものね」
「う?」

 言われて初めて気がついた。
 夢幻館に来てから一世紀近く、これっぽっちも変わらなかった身長が、ここへきて少しずつ伸び始めていたのだ。
 思えば奇妙な話だったけれど、私はあんまり深く考えず、ずいぶん遅い成長期だなと思っていた。

「ベッドで寝るのは構わないけれど、落ちて頭をぶつけないようにね」
「うん」
「それと、物を出しっ放しにしないこと。きちんと整理整頓しなさい 」
「はーい」
「何か有ったら、直ぐに幽香様か私に知らせるのよ?」
「わかった」
「それから」
「まだあるの?」

 エリーは前よりも口うるさくなった。
 と、思ったけれど、前からそんなものだったような気もする。
 ともかく、その日から、私は誰もいない部屋で眠るようになったのだった。





 ◆





 個室をもらって間もない頃、私は何だか懐かしい夢を見た。
 館に来た時に見た、天使が出てくる夢だ。
 天使の隣には、この前ウェディングドレスを着ていた女の子が、今度は修道女の格好をして立っている。
――あいつら、誰なのかしら……。
 尋ねようにも、二人は相変わらず遠くの方にいて、近づけないし、声も届かない。
 また手を振っているのが見えたので、私も手を振り返してやった。
 そうこうしているうち、目が覚めた。





「天使と、修道女?」
「そう」
 私が見た夢について、夕食の席で幽香さまたちに話してみた。
 どうして朝食や昼食じゃないのかと言うと、単にそれまで忘れていたからだ。
「前に見た時はお嫁さんの格好だったけど、今日はシスターになってた」
「あら。前にも見たの?」
「うん」
「いつ?」
「えっと、ここ来た時」
 エリーはわりと興味深そうに、私の夢の話を聞いた。
 幽香さまはそうでもない風で、黙々とイワナの塩焼きを食べていた。
「どっちも全然知らない顔なんだけど」
「くるみは魂のまま迷子になっていた時期が長かったから、その時の記憶が残っているんでしょうね」
「そんなことあるの?」
「ええ。貴女が生まれて間もない頃から言葉を話せたりしたのも、そういう理由なのよ」
――……妖怪って、みんな最初から話せるわけじゃないんだ。
 つまり、私は言ってみれば天才児のようなものだったのだ。
 ようなもの、でしかないのが残念なところだけれど。
「くるみ」
「う? はい」
 突然、幽香さまがお椀を片手に私を呼んだ。
 夢の話で何か言われるのかと思い、次の言葉を待っていると、幽香さまは悠長にお吸物を一口飲んでから、こう言った。
「最近、夜が暑いから、今日は久し振りに私の抱き枕になりなさい」
 このひとの話に脈絡を期待した私が悪い。
 いよいよそんな諦観を抱いてしまっている自分に気がついて、私は深い溜め息を吐いた。
「……だから、それ、私が暑いんだけど」
「イヤなら一晩中、団扇で扇いでくれても良いわよ」
「やだ。腕、疲れる」
「じゃあ、決まりね」
「うー……」
 逆らうだけ無駄。
 幽香さまは言い出したら聞かないのだ。
 案の定、エリーも助け船を出そうとはしてくれず、「楽しい夢を見られると良いですわね」などとのたまっていた。





  ◆ ◆ ◆





 ある晴れた日の昼間のことだ。
 その日は幽香さまが寝坊していて、いつもの妖術の稽古ができなかった。
 それならエリーに遊んでもらおうかとも思ったのだけれど、エリーはエリーで掃除に洗濯と忙しそうで、私に構うヒマがないみたいだった。
 一人で特訓する気分でもなかった私は、ふと、湖の上で日向ぼっこをしたいと思い立った。
 どうしてと聞かれると、ただの気まぐれとしか言い様がない。しいて言うなら、洗濯物を干すのを手伝った時に、広場で浴びた日の光が心地よかったからだろうか。
 もちろん、無断で湖上に出たりはしない。ちゃんとエリーにお願いしてみた。
「日向ぼっこ、ね……」
「この前みたいに、森に入ったりしないから」
 初めは難色を示したエリーだったけれど、熱心に頼み込んだ結果、どうにか条件つきで承諾してくれた。
「良い? 絶対に、湖から離れては駄目よ。出来る限り、岸にも近付かないようにしなさい」
「うん」
「誰かに見つかりそうになったら、直ぐに戻って来るのよ。間違っても喧嘩なんかしようとしないこと」
「はーい」
「もし、急に襲われたりして逃げる暇が無かったら、この鏡に妖力を篭めて、大声を出しなさい」
 エリーが渡してきたのは、いつぞや幽香さまが使っていたのと同じ手鏡だった。
 対になる鏡同士を繋いで話ができる、いわゆるマジックアイテムの一つだ。
「やり方が解らなかったり、鏡を取られたりした時は、磐座に結ばれた注連縄を切ると良いわ」
「いわくら? あの水面に浮いてる岩?」
「そう」
「縄を切るとどうなるの?」
「湖の水が引くのよ」
「ほえ? そんな機能あったの?」
「有ったのよ」
 うちはつくづく変な住居だと思う。
「引いたからってどうなるものでもないけれど、救難信号としては十分判りやすいから」
「わかった。じゃあ、行ってきまーす」
「水面まで泳ぐ時、磐座に頭をぶつけないようにね。それから、帰りは水に濡れている分だけ重くなっているんだから、飛び損なって落ちないように気を付けて。出来るだけ底の方まで潜って、横から空洞に入りなさい。それと、日が暮れる前には」
「ああ、もう、わかったってば。ちゃんと早めに帰るから」
 エリーの過保護を振りきって、私は百年ぶりの直射日光を浴びに、湖上へと浮かび上がった。





「はう……。あったかい……」
 陽気の漂う穏やかな湖面。
 私は例の磐座の上に座り込み、ぽかぽかと日光浴を楽しんだ。
 生まれたての頃は心底鬱陶しい光だと思っていたけれど、いざ苦手を克服してみると、暖かな日射しというのは気持ちのいいものだ。
――幽香さまが起きたら、たまにはこっちで昼寝したいって言ってみようかな……。
 そんなことを考えながら、ぼんやり、のんびりと時間を過ごした。





「ちょっと、あんた」
 いつの間にか、うつらうつらと居眠りをしてしまっていたらしい。
 まどろむ私に、誰かが声をかけてきた。
「……ふあ?」
 寝ぼけまなこをこすって見ると、見憶えのある妖怪が一人。
「あんた、なんで生きてんのよ」
――うわ、最悪。
 健常なはずの頭が急にずきずきと痛み出す。
 そいつは以前、地上へさまよい出た私をひどく痛めつけてくれた、あのヒステリックな妖怪だった。
「……なに? 私と哲学したいの?」
 起き抜けに見たくもない面を見せられて、私は不機嫌を隠す気にもならなかった。
「あんた、バカ?」
――あんたにだけは言われたくないわ。
「どうやってあのイカレ妖怪から逃げたのかって聞いてんのよ」
――……イカレ妖怪……。
 それがどこの誰を指す言葉なのかは、聞くまでもない。
 まだ寝ぼけ半分だった私の頭は一気に覚めて、同時にぐつぐつと煮え立ち始めた。
「まあ、そんなことはどうでもいいわ。それより、私に何か言うことあるでしょ?」
――しつこい。
 たぶん、そいつもいろいろな事情があって、虫の居所が悪かったのだろうと思う。この時も、この前の時も。
 だけど、だからって、自分の主人に対する暴言を赦してやるほど、寛大な心は持ち合わせていなかった。
「……一つ聞いていい?」
「あ? 何よ?」
「あんた、誰だっけ?」
 妖怪の目の色が変わった。
 予想通りと言えば予想通りだったけれど、呆れるほど挑発に乗りやすいヤツだ。
「もう忘れたってんなら、思い出させてやるよ!」
「よッ」
 私は足元を蹴って空中へと舞い上がり、至近距離から放たれた妖弾を寸前でかわしてやった。
「避けんな!」
「えっ!? やだ!」
 ビックリした。さすがに、そんなワガママな注文を受けるとは思っていなかった。
 妖怪は続けて何発も撃ってきたけれど、しっかりと距離を取った私にはかすりもしない。
 あまりにも手数が少ない上に、弾のスピードが遅すぎるのだ。
 正直、前に一発当てられたのが不思議なくらいだった。
「いくら逃げ回ってもムダよ! この前みたいな邪魔はもう入らないからね!」
――そうでもないと思うけど……。
 どうやら、あいつはこの湖の底に何があるか、全く知らなかったらしい。
 そこが幽香さまの家だとわかっていれば、間違っても近寄って来なかっただろう。
――さて。どうしよっかな。
 エリーの言いつけを守るなら、私は隙を見て湖に潜るか、例の鏡を使わなければならない。
 だけど、あのバカから逃げる形になるのは、大いに不服だった。
 前に受けた痛みと、幽香さまをイカレ呼ばわりされた分ぐらいは、返してやらないと気が済まない。
――うまく撃てるかな?
 一発だけ。
 幽香さまが教えてくれた暴力的な術の中で、一番好きなヤツを使ってみた。
「キャッ!?」
 妖怪は私から反撃が来ると思っていなかったみたいで、飛来する火の玉をぎりぎりで避けつつ驚きの声を上げた。
「何すんのよ!?」
――これからやんのよ。
 パンッと心地よい音が響き渡る。
 私の火の玉は敵の背後で弾け飛び、ちょっと貧相な花火を作り出した。
「あ、熱ッ!?」
 たくさんの火の粉が妖怪に襲いかかり、その髪や服をちりちりと焦がす。
 そのうち服の裾から火が出ると、妖怪は半狂乱になって騒ぎ始めた。
「も、燃え……! 熱! 熱い! な、なんとか! なんとかして!」
「……あんた、脳みそ足りてないんじゃないの?」
 敵に助けを求めるのもバカだし、ここが湖の上だってことを忘れているだなんて、救いようがないほどの大バカだ。
 その滑稽さは、久しく忘れていた私の嗜虐精神を呼び起こした。
「あ、あづ……! 火! 消えな……! やだ……! たすけ……!」
「ふーん。助けてほしいんだ? じゃあ、何か私に言うことがあるんじゃないの?」
「……ご……ごめ……ごめんなざい! おねがいだがら助げで……!」
――あ、ダメだ。これ、愉しい。
 いよいよべそをかきだした妖怪の懇願を、無下に断ってやりたい。
 ちょっとだけ、そんな衝動に駆られたけれど、私だって悪魔ではない。
 その胸ぐらを引っ掴み、水面に向かって思いっきり投げつけてやった。
「ひぁっ……!?」
 頭から湖に突っ込まされた妖怪は豪快に水しぶきを撒き散らして、ぶくぶくと湖の底へ沈んでいった。
――あー、スッキリした。
 溜飲が下がって一息つくとともに、はたと自分の失敗に気がつく。
――……しまった。あいつが下まで落ちたら、ケンカしたのがエリーにバレちゃう。
 慌てて回収しに湖へ潜る。
 きょろきょろ水の中を見回してみたけれど、あいつの姿が見当たらない。
 少しばかり力を入れすぎて、早々に底まで落ちてしまったようだ。
 妖怪を捜して、湖底の水面から下向きに頭を出した私が目にしたのは、気絶した妖怪の首根っこを掴み、門前の広場で待ち構える幽香さまとエリーの姿だった。





「わざわざ釘を刺しておいたのに! するなと言ったことをどうしてするの!?」
「あい。ごめんなさい……」
 案の定、エリーのお説教を食らった。
 身に染みてわかったことだけれど、タイルの上で正座するのは、けっこう痛い。
「よくやったわ、くるみ。雪辱を果たしたわね」
 幽香さまは御機嫌で、手に持った妖怪をぷらぷらと揺らして遊んでいた。
「幽香様! 褒めるのは後にしてください! 今回は弱卒が相手だったから良かったですけれど、罷り間違って強力な妖怪と戦っていたらどうなっていたか!」
――そいつが思ってたより弱そうだったから、ちょっとやってみただけなのに……。
 なんて言うと、余計に説教が長引く気がしたので、ただ黙っているしかなかった。
「大丈夫だってば。腕の一本くらいなら私が治してあげるし」
「腕の一本や二本では済まないことが有るから言っているんです!」
――いちいち大袈裟なのよね、エリーは……。
「くるみ! まだ足を崩して良いとは言ってないわ!」
「はひ!」
 情けなし。
 結局、エリーのお説教はそれから一時間近くも続いた。
 ……と、これが、私の記念すべき初勝利の顛末である。





  ◆ ◆ ◆





 生意気な妖怪をぶっ飛ばした湖上での一件は、またも私にとって転機となった。

「うるぁ! 今日こそあんたをぶっ殺してやるわ! さっさと出てきなさいよ!」

 あれ以来、性懲りもなく私にケンカを売りに来るようになったアホのおかげだ。
 私はエリーとの約束を破った罰で、当分の間、館の外に出ることを禁止されるはずだった。
 ところが、あいつが私を捜して湖に来ていることを知った幽香さまが、「実戦経験に丁度良いわ」と、来る度に撃退することを命じたのだ。
 エリーはすごく不本意そうだったけれど、幽香さまの決定には逆らわない。あの手鏡を常に私に携帯させ、異常があれば自動的に連絡するように設定することで承諾した。

「だーかーらー! この湖は立ち入り禁止だっつってんでしょうが!」
「来たわね、コウモリ女! 今日があんたの命日よ!」
「うるさい! とっとと帰れ!」

 いくら痛めつけて追い返しても、何日か間を置いて、またやって来る。
 ご丁寧に仲間内でも噂を広めてくれたらしく、いろんなヤツらが私を倒そうと、湖を訪れるようになった。

「ねーねー。私とも遊ぼー」

「あいつに勝ったぐらいで調子乗ってんじゃないよ」

「まー、私とも勝負すべきだよね」

 幽香さまは、挑んで来るヤツは残らず叩き潰せと言った。

「負けたら罰ゲームだからね。精々、頑張りなさい」
「うん。がんばる」

 エリーも、何だかんだで応援してくれた。

「今日もいつもの妖怪の子達と遊ぶのね?」
「遊びじゃないもん」
「ふふ。そうだったわね。出来るだけ怪我しないようにね」
「はーい」
「それから、やり過ぎないように気を付けなさい。幼子を殺めてしまうのは善くないわ」
「……はーい」
「待ちなさい。今の間は何かしら?」

 こうして、私は湖の番人として、日々妖怪たちと戦い続けることなったのだ。





 ◆





 湖で番を張り始めてから、私は無敗を貫いた。
 と言うのは、何も私が強すぎるからではない。
 私は所詮ヴァンパイアもどきだ。幽香さまはおろか、エリーに手合わせしてもらった時だって、一度も勝てたためしはない。
 では、どういうわけかと言うと、強力な妖怪はえてして長生きで知恵もあるので、幽香さまの住むこの湖には近寄ろうとしないのだ。
 ただし、中には例外もいる。
 メギツネこと八雲藍とか、そのご主人さまとか、客として夢幻館を訪れるひとたちだ。

「くるみちゃん」
「うきゅ!? ……あ、紫さん。こんにちは」
「はい、こんにちは」
「急に後ろから出てくるの、やめてよ」
「『ゆかりん』って呼んでくれたら、止めてあげます」
「……で、紫さん。今日は何の用事?」
「そういう冷淡なところ、飼い主に似てきたわね。可愛いから飴をあげましょう」
「紫さんに物をもらっちゃいけないって言われてるから……」

 一日の大半を湖の上で過ごすようになったおかげで、それまで面識のなかった客人とも顔を合わせるようになった。
 その誰も彼もが、やたらに私を子ども扱いするので、一時期ちょっとだけヘソを曲げていたのは内緒だ。

「おー。またでっかくなったねぇ。その内、あたいより大きくなるんじゃないかい?」
「五年間で一センチしか伸びてないんだけど……」
「そんだけ伸びるんなら、まだまだ成長期だよ。いや、まったく、大したもんだ。先輩からお前さんのことを聞いた時は、六十年も生きないだろうと思ってたんだけどね。よくもまあ、あの妖怪の許でこんなにすくすくと……」
――相変わらず、よくしゃべる死神さん……。

 と、そんな感じで、長らく箱入りだった私も、幽香さまやエリー以外のひとと話す機会が増えた。
 その代わり、この頃から、幽香さまは館を留守にすることが多くなった。
 一度出かけると、一月か二月、長い時には半年帰ってこないことも珍しくなかった。
 エリーが言うには、もともと、私を拾ってくる前はそんなものだったらしい。

「あれ。幽香さま。またお出かけ?」
「ええ」
「いつ帰ってくるの?」
「気が向いたら」
「……あ、そう……」
「私が居ない間も、弛まずに番人やってるのよ?」
「うん……」

 正直な話、寂しくなかったと言えば嘘になる。
 以前は鬱陶しいくらい構われ続けていただけに、何だか飽きられたような感じがして、イヤな気持ちもあったと思う。
 それでも、帰ってきた時には面白いお土産を見せてくれたり、妖術の上達振りを褒めてくれたりしたから、私が幽香さまを嫌いになることはなかった。

「うん。ちゃんと数も威力も上がってるわね」
「でしょ?」
「よくやったわ、くるみ。御褒美にこれをあげましょう」
「わーい。ありが……と……?」
「あら。随分と珍しいものを手に入れられましたのね」
「……なにこれ」
「猫の足音」
「……う……?」
「良かったわね、くるみ」
「……うん。ありがとう」

 まあ、お土産の大半は使い道がわからなくて、棚に飾っておくだけになったのだけれど。





「くるみぃ! 今日という今日は引導を渡してやるわぁ!」
「あんたはいい加減に諦めろっての!」

 そうして、また時は過ぎていく。
 何年も。何十年も。





  ◆ ◆ ◆





  ◆ ◆ ◆




 
 パキン。
 何かが割れるような音がして、私は眠りから覚めた。
「……ん」
 視界は真っ暗。
 だけど、布団と枕の感触から、自分のベッドで寝ていることは間違いない。
――……いま、何時?
 私の部屋には窓がある。
 元々は付いていなかったけれど、個室として貰い受ける時、エリーにお願いして付けてもらったのだ。
 それが真っ暗なのだから、時分は夜。それも、月の見えない夜だ。
――……暗い。
 私は被った布団を押しのけて、ポッと指先に妖術の火を灯した。
 幽かな明かりが部屋の中を照らす。
 ベッド脇の棚に置いてある時計に目をやると、針は零時を指していた。
――……あー。まずい……。
 時計の隣には、もう一つ置いてあるはずの物があった。
 いや、なかった、と言うべきか。
 それは棚の足元で俯せに倒れ、懸念を周囲に振りまいている。
 私は恐る恐るベッドの下に手を伸ばし、そいつの取っ手を掴んでひっくり返した。
「…………やっぱり……」
 例の、連絡用の手鏡だ。
 その闇色の鏡面に、見事な横一線の亀裂が刻まれていた。
――これ、怒られるわよね……。
 貴重な品で、簡単には直せない物だから、くれぐれも割ったりしないよう、慎重に扱うこと。
 耳にタコができるくらい聞かされた言いつけが、頭の中で再生される。
――やっぱり、そこに置かなきゃよかった……。
 鏡にしては丈夫な品で、多少妖弾が当たったりしても平気だったから、まさか棚から落ちたぐらいで割れないだろうと高をくくっていたのだ。
 どうにか誤魔化せないか。それとも、素直に謝るべきか。一番ダメージの少ない手順はどれか。
 起き抜けで混乱気味の頭をくるくる回転させて考えていると、不意に鏡が淡い光を放ち始めた。
――げ……。もうばれた……。
 その時、もう一方の鏡を持っているのは、エリーのはずだった。
 こちらの鏡が割れたことに気がついて、すぐさま連絡してきたのだろうか。もしかしたら、同時にエリー自身も向かって来ているかも知れない。
 私は叱られることを覚悟し、ぐっと身構えた。
『あらら。やっちゃったわね』
――……う?
 ところが、鏡の向こうから聞こえてきたのは、全く聞き覚えのない声だった。
『その鏡、幽香達がとっても大事にしてた宝物なのに』
「うぐ……」
『紫が見せてって頼んだ時も、絶対に触らせようとしなかったし』
「あう……」
『うっかり割っちゃったなんて知ったら、どれだけ怒るかしら』
「……っていうか、あんた誰よ?」
 危うく、後ろめたさで煙に巻かれるところだった。
『私? 私は幽香の友達よ』
 声はすれども、鏡は誰の姿も映さない。
 いつも通りの暗闇の中に、時折、星の瞬きみたいな小さな光がちらつくだけだ。
 心持ち、声にもノイズがかかっているように感じられた。
「……幽香さまの友だち?」
『そう』
「……名前は?」
『夢月。夢の月と書いて、夢月』
――聞いたことない……。
 百年以上、幽香さまたちと一緒に暮らしていて、一度も耳にしたことのない名前。
 それが、自分は幽香さまの友達だと言う。
 疑わしいこと、この上ない。
『信じてないわね?』
「うん」
『そんな名前、聞いたこと無いって?』
「うん」
『まあ、そうでしょうね』
 夢月自身、自分の怪しさは重々承知していたらしい。
『でもね、私は貴方のこと、よく知ってるのよ?』
「へー。たとえば?」
『好物は幽香の奴隷が焼いた胡桃のケーキ』
――あたり。
『最初に幽香に餌付けされたのが、それだったのよね』
――……そうだけど……。
『お気に入りのリボンはピンク色。初めて妖弾が撃てるようになった時、記念に奴隷から貰ったやつ』
――……あたり。
『色落ちして白くなってきてるけど、まだ使ってる。貰ってすぐの頃、幽香が可愛いって言ってくれたから、思い入れが強いのかしら?』
「気持ち悪いわね、あんた!」
 仮に幽香さまの友だちというのが本当だったとしても、余計なことまで知りすぎている。
 話の信憑性が上がる一方で、怪しさも鰻登りだった。
「だいたい、あんた、どうやって話してんのよ? まさか、エリーから鏡を盗んで」
『してない、してない。私は自分の魔力で直接それに声を送ってるのよ』
「……そんなことできるの?」
『出来たり、出来なかったり。巡り合わせの良い時じゃないと難しいわね。何せ、壁が分厚くて』
「かべ?」
『今日は新月だし、幽香も館に居ないみたいだから、いけると思ったんだけど……。声を届けるだけで精一杯だわ』
「……うん?」
 夢月の話はときどき意味不明で、明らかに不審な部分があった。
 ただ、そこにツッコむ前に次から次へとぺらぺら喋ってくるものだから、私は頭が追いつかなくなってきていた。
 しょうがないと思う。
 だって、私は起き抜けで、正直、まだ眠たかったのだ。
『あ、でも、貴方を助けてあげる分には問題ないから、安心してね』
「え?」
『貴方、今、困っていることが有るんじゃない?』
「怪しいヤツに話しかけられて困ってる」
『そうじゃなくて』
「うん?」
『鏡よ、鏡』
「世界で一番美しいのは」
『私よ。シュネーヴィトヒェン朗読してんじゃないわよ』
――さりげなく図々しいヤツ……。
『もう良いから、少し黙って聞きなさい』
「はーい」
『その割れちゃった鏡を直す方法、教えてあげちゃおうかな、って話よ』
 ちょっと目が覚めた。
「……あんたね、それを早く言いなさいよ」
『聞きたい?』
「聞きたい」
 鏡の向こうで笑い声が洩れる。
 どうしたのかと尋ねると、あんまり素直な返事でおかしくて、などとのたまった。
 何がおかしいものか。お説教とお仕置きを回避できるかも知れないのに、聞かない手なんてあるわけがない。
「いいから、さっさと教えてよ」
『はいはい。教えてあげる』
「うん」
『まず、そこでは駄目ね。作業の出来る所に鏡を持って行かないと』
「無理」
 即答した。バカを言うな、とさえ言いかけた。
 また勝手に館を抜け出したりしたら、鏡を割ったこと以上に怒られるのは目に見えているからだ。
『大丈夫。外へ出る必要は無いわ』
「そうなの?」
『ただ、ちょっと館の奥の方まで行かなきゃ駄目だけどね』
「普段使ってないとこには入るな、とも言われてるんだけど……」
『知ってる。迷子になるからでしょ?』
「……うん」
 悔しくも、図星だった。
『応接室にお茶を届けようとしたのに、書庫に迷い込んで出られなくなったことが有ったのよね』
「うゅ……!?」
『この間も、ダイニングに行くつもりが一回エントランスに行っちゃって』
「だから、なんで知ってんのよ!」
 私は悪くない。館の造りが複雑すぎるのが悪いのだ。
 いや、それはさて置き。
 自分しか知らないはずの出来事まで見事に言い当てられ、私はいよいよ夢月を畏れ始めた。
 実は館に憑いているブラウニーか何かではないかと思い至り、尋ねてみても、『さあ、どうかしら?』とはぐらかされるだけ。
 ものすごく気味が悪い。
 だけど、一方で、夢月が夢幻館の中のことに詳しいのも確かだった。
――こいつがウチの中で直せるって言うんだから、本当なのかも……?
『ちゃんと案内してあげるから、心配は無用よ』
 館の中をうろつくだけなら、仮にバレても、そんなに怒られないはず。なら、黙って鏡の件の発覚を待つよりは、やれるだけのことをやってみるべきだ。
 私の頭の中の算盤は、そんな答えを弾き出したのだった。





 割れた鏡を手に部屋を抜け出した私は、夢月に言われるがまま、広大な館の中を歩き回った。
――えっと、ここ、どの辺? っていうか、何階?
 早々に自分の現在地を見失った私に対して、夢月は右だ左だ、上だ下だと、少しも迷うことなく指示を出してくる。
『――で、次の四つ角を右ね』
「へー……。こんな壁紙、初めて見た……」
 百年以上住んだ我が家にも関わらず、初めて足を踏み入れた領域。
 私はちょっとした探検気分で、辺りをきょろきょろ見回しながら歩いていた。
『ほらほら。立ち止まってないで、さっさと歩いて』
「……はーい」
『はい、ストップ。そっちじゃないわ』
「う……? ……だって、右って……」
『今、よそ見してたでしょ?』
「あ、そっか……。……えっと……こっち」
『そっちは来た道でしょうが!』
「ほえ……?」
 遺憾なく発揮される私の方向音痴っぷりに、平淡だった夢月の口調もいくらか荒くなっていた。
『もう。気を付けなさいよ。もし道順を間違えたら、すぐに気付かれちゃうからね』
「……うん」
『眠たそうね』
「……うん……」
『頑張って。もう少しで着くから』
「……うん…………」
 廊下を進むにつれて、だんだん眠気がぶり返し、意識がぼやけていく。
 初めは物珍しかった様相の変化にも、次第に興味を示さなくなっていった。
 そのうち、周囲は建造物としての体裁さえ失い始め、星空を浮遊しているかのような、奇妙な風景へと変貌していく。
 そんなキテレツな事実でさえも、私の頭は看過した。





 部屋を出て、どれくらい経っていただろう。
 十分か、三十分か、一時間か。
 いよいよ時間の感覚もわからなくなってきた頃、私はようやく、妖しげな行き止まりへと辿り着いた。
『あー、良かった。無事に到着ね』
「……ここ?」
『そうよ』
「……んー……?」
 そこは、三方の壁に大きなブロックが居並ぶ、見るからに異様な空間だった。
 ブロックはどれも四角く、真っ黒な材質でできていて、仄かに赤い光を放つ紋様がびっしりと書き込まれている。
 それらは全くと言っていいほど整列できていなくて、ある物は出っ張り、ある物は引っ込み、不細工で凸凹な壁を形作っていた。
『そこに在る石を、どれでも良いから、一つ抜き取りなさい』
「……重たそう……」
『重たいわ。それに滑りやすいから、思い切り力を込めて掴まなきゃ駄目よ』
「……おもいっきり……?」
『そう。それから、一度掴んだら、絶対に放さないように。良いわね?』
「……うん」
『大丈夫。貴方なら出来るわ』
 私は言われるがまま手近なブロックに近づき、鏡をそっと上に置いた。そして、両腕を大きく広げて、左右から引っ掴んだ。
 それを手前に引っ張ろうとした、その時――
「わっ……!?」
 突然、ブロックが赤い紋様をぎらぎらと輝かせ、すごい力で奥に引っ込もうとし始めた。
 そのブロックだけではない。三面に敷き詰められた全てのブロックが、どれもこれも一斉に動き出したのだ。
 凸凹だった壁は瞬く間に平らになっていって、残る出っ張りは私が押さえている部分だけになった。
『あの女、もう……!』
「や……これ、重すぎ……!」
『頑張って! 絶対に放さないで!』
「うー……!」
 決して、それを手放してはならない。
 どういうわけか、私はそんな強迫観念に取り憑かれ、意地になってブロックを引っ張っていた。
 腕がつりそうになるのを堪え、じりじり、じりじりと引き戻していく。
 そして、ついに壁からブロックを引き抜くことができた。
「やっ……た……?」
 瞬間、視界が大きく揺らぐ。
 まるで、いきなり足元が崩れ落ちたように。
 そして――
「ようやく、貴方と遊んであげられるわね」
 ぞっとするような冷たい声が、私にささやいた。





 澄み渡る青い空。
 色鮮やかな花畑。
 美味しそうな実のなる木。
 穏やかな清流。
 私の目の前には、絵に描いたような楽園が広がっていた。
――……えっと……?
 私は考えた。
 今までの出来事、ここに至るまでの経緯を。
 寝ていたら鏡が割れて、謎の声に導かれて館の奥へと入り、へんてこなブロックと力比べして、気がついたら楽園。
 わけがわからない。
 おまけに、持って来たはずの鏡も見当たらない。
「……もしかして、これって夢?」
「さあ、どうかしら?」
「うきゅ!?」
 途方に暮れ、独り言を呟いた私の背後に、いきなり誰かが現れた。
 驚き、振り返って見ると、そこにはメイドが立っていた。
 割れた手鏡を手に持って、にっこりと微笑みながら。
「……あ!」
 そいつの顔を見るなり、思わず声が出た。
 ついでに指も。
「人を指差すのは行儀が悪いわよ?」
「あ、ごめんなさい……」
 慌てて指を引っ込める。
 メイドは「ふふ」と小さく笑うと、私に代わって自分の顔を指差した。
「私のこと、憶えててくれたんだ?」
「……うん」
 ある時は花嫁。ある時は修道女。そして、今はメイド。
 そう。そいつは、いつか私の夢の中に出てきた、あの二人組の片割れだった。
 しかも、それだけではない。
「あんたが夢月だったのね」
「あれ。気付いちゃった?」
「声が一緒だもん」
 聴覚には大いに自信があるのだ。
「つまんない。後で驚かせようと思ってたのに」
 メイド、夢月は少しふてくされた様子で、鏡を持つ手をぶらぶらさせた。
 その鏡をどうにかするのが私の目的だったわけだけれど、それより不可解なことが多すぎて、いったい何から尋ねればいいのか、私は大いに頭を悩ませた。
「……ところで」
「ん?」
「なんでメイドなの?」
「え」
 夢月はあからさまに怪訝そうだった。
「そこ? 最初に聞くの、そこなの?」
「うん」
 だって、前から気になっていたのだ。
 純白ドレスに修道服、メイド服と、いつも特徴的な格好ばかりしているのだから。
「別に大した理由は無いわよ」
「そうなの?」
「姉さんの趣味で着せられてるだけだもの」
 言いつつ、夢月はくるりと一回、回ってみせた。
 まんざらでもない、といった風情だ。
「お姉さん? もしかして、前に一緒にいた天使のひと?」
「そうそう。あれが私の姉さん」
「じゃあ、あの翼も飾りだったの?」
「……さあ、どうかしら?」
 夢月の声がわずかに抑揚を失い、唇に意味ありげな微笑が浮かぶ。
 私は少しぞっとして、思わず目を逸らした。
 逸らした先には、穏やかな楽園の風景が広がっている。
「……そういえば、ここって、どこ?」
「うん。普通はそれが最初の質問だと思うわ」
 ちょっと呆れたように夢月が言う。
「此処は、私と姉さんの世界よ」
「……う?」
 私には今一つ、ぴんと来ない。
「……えっと、私、ウチの中にいたと思うんだけど」
「そうね」
「ここ、屋外だと思うんだけど……」
「そうね」
 しれっとしている夢月とは対照的に、私の心中では急速に不安が膨らんでいった。
 と言うより、それまでマヒしていた頭が、やっと正常に働きだしたのかも知れない。
「……あの、私、ちゃんと帰れる、って言うか、その、いま、何時……!?」
 にわかに慌てだした私の醜態に堪えきれず、夢月は大きく吹き出した。
 私が「笑い事じゃない」と怒ると、「ごめん、ごめん」と笑いを噛み殺して謝りながら、懐から時計を出してきた。
「……まだ一時にもなっていないわ。夜明けには程遠いから、安心しなさい」
「え? でも……」
 頭上を覆う空は、これ以上ないくらい青々としている。
 ほど遠いどころか、既に明けきってしまっているではないか。
 言い返そうとした、その時。
 突然、夢月が大きく振りかぶり、持っていた手鏡を空に向かってぶん投げた。
「わ!?」
 鏡は見る見る空高くまですっ飛んで行き、パアン、という音とともに粉々に砕け散った。
「え? え!?」
 砕けた鏡の欠片は黒い霧となって、空全体へと広がっていく。
 私は何が何やらわからず、その様子をただ呆然と眺めていた。
 やがて、空がすっかり黒に染まって夜になると、ちらほらと星が瞬き始めた。
「ちょ……ちょっと!?」
 ようやく我を取り戻し、夢月の方を振り向く。
 すると、夢月は何故か自慢げに胸を張り、こう言った。
「まあ、別に鏡を投げる必要は無かったんだけどね」
「じゃあ、なんで割ったのよ!?」
「だって、ああいう演出が無いと、つまんないでしょ?」
「いらないわよ! そんな演出!」
 喉が潰れるんじゃないか、というくらいの声が出た。
 だけど、夢月は動じない。
「これで解ったでしょう? 此処は私の世界だから、昼も夜も私の好きに出来るわけ」
「わかったけど! そんなことより、鏡! 私の鏡!」
 対する私は、もう半狂乱だ。
「なんてことすんのよ! あんなばらばらにしちゃったら、もう直すどころじゃないじゃない!」
「大丈夫、大丈夫」
 夢月はあくまでけろりとした態度を崩さない。
「なにが大丈夫なのよ!?」
「そんな心配しなくても、そろそろ姉さんが」
 それ以上の言葉が紡がれることはなかった。
 ズドォン、という轟音とともに、夢月の頭上から天使が降ってきたのだ。
 夢月の体は地面にめり込み、その脳天を天使の靴がぐりぐりと踏みにじる。
「余計な演出で私の仕事を増やさないでちょうだい」
 天使が冷たく吐き捨てる。
 私はそいつが降ってきたのと同時に、近くの木陰まで逃げていた。
 そこから恐々と様子を窺っていると、天使はゆっくりと私の方を向き、背に負う翼を大きく広げて、にっこりと微笑んだ。
「……妹が失礼を働いたわね。ごめんなさい」
――飾りにしては、よくできてるわね……?
 翼の真贋を気にして何も言わない私に構わず、天使は言葉を続ける。
「私は幻月。幻の月と書いて、幻月。もう聞いてると思うけど、そこに埋まってる夢月の姉よ」
「……うん」
 私はようやく木陰を離れ、こっちへ歩み寄ろうとしていた幻月に自分から詰め寄った。
「その夢月が、私の大事な鏡を割っちゃったのよ。あんた、責任取るか取らせるかしてくれない?」
 わざと語気を荒くして言うと、幻月はどこからかガラスのビンを取り出し、私に見せた。
 ビンの中には黒と紫の塵が詰まっていて、それが鏡のなれの果てであることは、割合すぐに察しがついた。
 だけど、そんな物を返してもらっても意味がない。こうも粉々ではジグソーパズルにもなりやしない。
 苛立ち、どう怒鳴りつけてやろうか考えていると、幻月がおもむろにビンのフタを抜いた。
 すると、なんと、中に入っていた鏡の欠片がヘビみたいに連なって、ざわざわと空中へ躍り出た。
「うわっ!?」
 驚く私の目の前で、欠片が何かの形をなしていく。
 あっという間に、それらは一つの手鏡へと変貌してしまった。
――……えっと……。
 ただし、その姿は、私の知る物とは明らかに違っていた。
 鏡面が黒くて、周りが紫。そこまではいい。
 だけど、棘が生えて魚の骨みたいになった取っ手はどうだ。鏡の縁から伸びた二対のヒゲは。あまつさえ、両脇で羽ばたくコウモリの翼は、いったい何の冗談だ。
「うん。我ながら良い感じに出来たわね」
 幻月が満足そうに頷く。
「いい感じ、じゃないわよ!」
 当然、私が黙っているわけはない。
「なんなのよ、これ!? 直すなら元通りに直してよ!」
 だけど、幻月は何が悪いのかわからないと言わんばかりの呆けた表情で、怒る私の顔を見つめていた。
「……お気に召さない?」
「召すわけないでしょ!? こんなとげとげじゃ手で持てないじゃない!」
「あら。それなら平気よ。手で持たなくても、勝手に空を飛んで付いて来てきてくれるから」
「そういう問題じゃないんだってば!」
 では何が問題なのか。と、心底不思議そうな顔をする幻月。
 私は我関せずと呑気に浮遊している鏡の翼を引っ掴んで、幻月の前に突き出してやった。
「勝手にこんな改造したりしたら、結局怒られちゃうじゃない!」
「ああ、そういうこと」
 と、ようやく合点がいった様子で、幻月はにっこりと笑った。
 その能天気な笑顔が余計に私を刺激したのは言うまでもない。
「なに笑ってんのよ! いいから、さっさと元に戻しなさいよ!」
「……良いわ。元に戻してあげる」
 幻月の指が取っ手を掴み、私の手から鏡を奪う。
 その瞬間、幻月の笑みが、薄気味悪い、冷ややかなものへと変貌した。
「何もかも、元通りにね」
「う……?」
 くるり。
 鏡が取っ手を軸にひっくり返されて、鏡面が私と向き合わされる。
 暗闇であるはずのそこには、どういうわけか、やけに豪華なイスに座る私の姿があった。





 覗いていた手鏡がどけられると、私の目の前には豪奢な部屋があった。
 やたら細かい模様がびっしりと描かれた床に、何だか豪華っぽい垂れ幕のかかった壁。天井から吊られたシャンデリア。正面に見えるのは、大きくて威厳のある扉。
 さらに、いつの間にか腰かけていたイスの下には、染み一つない、キレイな紅い絨毯。
――……えっと、これは、どういうこと……?
 私は全く状況が理解できなくて、目をぱちくりさせた。
 改めてきょろきょろ辺りを見回すと、すぐ隣にもう一つ、誰も座っていないイスが置かれていることに気がついた。
――……あれは?
「貴方は誰?」
「うきゅ!?」
 突然、背後から発せられた幻月の声に驚き、マヌケな悲鳴が口から洩れる。
「ねえ。貴方は誰なのかしら?」
「誰って……」
 ついさっきまで姉妹揃って、あなたのことはよく知っていますよ、みたいな雰囲気だったのに、どうして今さらそんなことを聞くのか。
 私は少し不思議というか、バカバカしい気がしたけれど、よくよく考えてみれば、確かにちゃんと名乗っていない。
――うん、まあ、初対面のひとには名前を言って挨拶しなさい、って言われたしね。
 一瞬、脳裏に誰かの顔が浮かびそうになって、だけど、すぐに消えてしまった。
――……誰に言われたんだっけ?
 改めて思い出そうとしてみても、姿がぼやけて、はっきりしない。
――……たしか……赤い服。そうだわ。いつも赤い服を着てる……。……誰?
 何度記憶を掘り返しても、私はその人物のことを思い出せない。
 そうしているうちに、もう一度幻月が問いかけてきた。
「教えてちょうだい。貴方は、誰?」
――ああ、もう、うるさい!
 考え事の邪魔をされた私は一気に不機嫌になって、声を荒らげた。
 いや、荒らげようとした。
「私は……!」
 ところが、言葉が続かない。
――…………私は……?
 あろうことか、私は自分が誰だかわからなくなっていた。
――私は……なに……?
 目の前がぐるぐると回転しだして、ひどい吐き気が私を襲う。
 それは、いつかどこかで味わったことがあるような、奇怪で不快な気分だった。
「わからないみたいよ?」
 どこから現れたのか、夢月が私の左肩に手を添える。
「だったら教えてあげましょう」
 そして、右肩には幻月の手。
「貴方は夜の闇に潜む王」
「世界の不浄を統べる者」
――王……? 統べる……?
「ありとあらゆる妖魔を従え」
「生きとし生ける者を畏怖させる」
「此処は貴方の玉座」
「貴方は此処で、王として君臨するの」
「何もかもを思いのままに」
「誰も彼もを意のままに」
 二人の言葉は私の頭の中で反響し、だんだん大きく、強くなっていく。
 それらは私の存在を肯定してくれるもので、とても魅力的な内容のはずだった。
 だけど、私を苛む目眩は、一向に良くなる兆しを見せない。
 頭の中で、ずっと何かが引っかかっていたからだ。
「全てを与えてあげましょう」
「全てを叶えてあげましょう」
「夢も」
「幻も」
「貴方が望めば現に変わる」
――ゆめ……。まぼろし……。……夢幻……?
 何かを思い出しそうになった私に、姉妹はさらなる甘言を放つ。
「まずは、名前ね」
「そうね、名前ね」
――……名前?
 その瞬間、私の頭の中にはっきりと、ある光景が思い浮かんだ。
 子どもみたいに無邪気な笑顔で私のことをじいっと見つめて、ある言葉を繰り返す、誰かの姿が。
 そして、その傍らに立つ、やっぱり笑顔の誰かの姿も。
――そうだ……。私は……。
 私はようやく思い出した。
 自分が何者か、その正体。今までにあったこと。全て。
――私は……出来損ないだ……。
 強くもない。威厳もない。一人では満足に生きていくことも出来やしない。
 どうしようもない子ども。それが私だ。
「魔族の王に相応しい、威厳の有る名が良いでしょう」
「気高き子女にぴったりの、気品の有る名が良いでしょう」
 ……だけど、そんな私を、私として育ててくれたひとたちがいたのだ。
 何にも出来ない、出来るわけがないと塞ぎ込んでいた私に、出来ることを一つずつ教えてくれた。
 叱られて、褒められて、意地悪されて、優しくされて……。何もかもを与えてもらった。
 そして、一番最初に与えられたもの。私にとって、何よりも大切なもの。
 それが……。
「じゃあ、こんなのはどうかしら? フ」
「いらない」
 二人がぴたりと黙り込む。
「あんたたちが考えた名前なんか、いらない」
「……何を言っているの? 私達が与えなければ、貴方には何も無いのよ?」
「そうよ。だから、手始めに名前から」
「いらないっつってんでしょ!」
 今度こそ、声を荒らげてやった。
「そんなもの、あんたたちなんかにもらわなくたって、私は私よ! 他の何者でもありゃしないわ!」
 妖魔の王だとか、何もかも思いのままだとか、どうでもいいのだ。
 そんなちっぽけなことより、私を育ててくれたひとたち……私の大好きなひとたちが呼んでくれた名前の方が、ずっとずっと大切に決まっている。
「私は、くるみよ!」
 そう叫んだ途端、部屋がガラガラと音を立てて崩れ始めた。




 
 気がつくと、私は星空の下の楽園で、妙ちきりんな意匠の手鏡を覗き込んでいた。
 その鏡面にはいつもと同じように、真っ暗な闇だけが映し出されている。
 今の出来事は夢か、それとも幻か。私には全くわからない。
 だけど、もう、そんなことはどうでもよかった。
――……帰らなきゃ。エリーに心配されちゃう。
 私は鏡の持ちにくい取っ手を無理矢理掴んで、目の前にいる幻月に小さく頭を下げた。
「鏡、もう、これでいいから……。直してくれて、ありがとう……」
 返事も聞かずに踵を返すと、背後に夢月が立っていた。
 夢月は何か言おうとしていたようだったけれど、それより先に私の方から尋ねてやった。
「どこから帰ればいいの?」
「え……。えっと……」
「帰り道は!? どっち!?」
 口ごもる夢月に苛立って、ついつい大きな声が出る。
 すると、夢月は一歩だけ後ろに下がり、何故か震える指先で、ある方角を指し示した。
「……あっちね。ありがとう」
 何も喋ろうとしない姉妹を後目に、私はゆっくりと歩き始めた。
 ……転んだ。
 何かにつまずいたわけではない。
 なのに、どういうわけか、私は転んだ。
――え……? なに……?
 一瞬、何が起こったのか理解できなかった。
「ッ……!?」
 直後、想像したこともないほどの、ひどい痛みが私を襲う。
 いったい何事かと、痛む箇所に目をやって、私は言葉を失った。
 自分の右足の真ん中あたり、膝の所が、半分くらいなくなっていたのだ。
――……なに!? なんで!? なんで!?
 血がどくどくと溢れ出し、辺りの地面を真っ赤に染める。
 何が何やらわからなくて、パニックに陥る私に、不穏な足音が近づいてきた。
「くるみ、ね。確かに、悪くない名前だわ」
 草木が枯れ、空が澱み、楽園が荒野へと変貌していく。
 足の一部を失った痛みでさえ誤魔化しきれないほどの、すさまじい悪寒が私の背筋を駆け抜ける。
「硬い硬い殻の中に、立派な樹を育む種が眠っているのね」
 その声はあまりにも落ち着いていて、それがそいつの狂気の尋常でないことを証明していた。
「……幻月……! あんた、なんで……!」
 私が必死に痛みを堪えて睨みつけても、幻月は全く動じることなく近づいてくる。
 さらに悪いことに、もう一人は既に私のすぐ傍にいた。
「いずれは、さっきの覇気に見合うぐらいまで育っちゃうってこと?」
「そういうこと。幽香がどこまで予見出来ていたかは知らないけどね。その内、あの忌々しい結界の力さえ必要としなくなるでしょう」
「……あれのせいで、私達を必要としなくなったみたいに、か……」
 夢月の手が私の片翼を掴む。
「や……! やだ! 放して!」
「何よ。まだ何もしてないでしょ、私は」
 私は精一杯の大声で「放せ」と「寄るな」を繰り返したけれど、二人は聞く耳を持ってくれない。
 それどころか、何か喚くたびに喜ばれているような、そんな気さえした。
「吸血鬼であることを拒んだ貴方に、こんな物は要らないわよね?」
 ベリッ。
――……え?
 何かが裂ける音がした。
 そして、再び堪えがたい激痛が私を襲う。
「はい。綺麗に取れた」
「……あ……! ああぁあ……!?」
 夢月が投げ捨てたそれは、黒紫色の大きな翼だった。
 その正体については、もはや言うまでもないだろう。
「あ……あ……」
 私はとうとう言葉を組み立てることさえできなくなり、ただ落ちた翼に向かって手を伸ばそうと藻掻いていた。
「どうしましょう、姉さん」
「何が」
「くるみが嫌そうにしてるわ」
「当たり前でしょ」
 何の悪気も感じられない会話が私の上を飛び交う。
「片方だけ取ったらバランス悪いじゃない」
 ベリッ。
「ひぅ!?」
「あら、良い悲鳴」
「痛かったら泣いても良いのよ?」
 足を射抜かれ、翼をもがれ、私はとっくに意識朦朧の満身創痍だ。
 だけど、こいつらの言う通りに泣き声まで上げてしまったら、ますます喜ばれてしまう。
 そんな気がして、私はぐっと唇を噛みしめ、懸命に涙を堪えた。
 それだけが、私に出来た唯一の抵抗だった。
「姉さん」
「ん?」
「この足、こんなんじゃ、もう使い物にならないわ」
「あ、そうね。それじゃあ、これも取っちゃいましょうか」
 私の意識は、そこで途絶えた。





 ……という、夢を見た。





「……ん……」
 悪夢から目覚めた私が寝ていたのは、いつもの寝床。ではなかった。
 いつもより柔らかく、やけに温かい布団と、額の辺りで立てられている幽かな寝息。
 そこは、幽香さまのベッドの上だった。
――……あー、もう……。また……。
 幽香さまは時々、寝ている私を勝手に自室に持ち込んで、抱き枕にすることがあった。
 低体温な私を使って涼を取る、ということなのだけれど、当然、私の方は暑苦しい夜を過ごすことになる。
 おかげで、変な夢や悪夢を見ることもしばしばだった。
――冗談じゃないっての……。翼やら足やら引き千切られる夢なんて…………。
 私ははたと不安になって、おそるおそる背中に手を回し、両足を互いにすり合わせた。
――……ある。
 深い溜め息が洩れる。
 たぶん、生涯でこんなに安堵した瞬間は他にないだろう。
「大丈夫? くるみ」
 不意にかけられたのは、優しげで柔らかく、私を安心させてくれる声。
 私は一旦そのままの姿勢で幽香さまから離れた後、ころりと俯せに転がって、そっちへ向きなおった。
 背中に翼なんかがあると、寝返りを打つにも手間がかかるのだ。おかげで布団も剥いでしまった。
「魘されていたわよ、貴女」
 ベッドのすぐ脇。イスにゆったりと腰かけたエリーが、どこか心配そうに私を見ていた。
 普段はあまり身につけない、ちょっと大きめのコートを羽織って。
――エリー、寒いのかな……?
 どうして枕元にいるのか、とは考えなかった。
 エリーが私や幽香さまの寝ている様子を見回ることは、別に珍しいことではないからだ。
「……ちょっと、怖い夢、見た……」
「あらあら」
 私は寝転んだまま、ぼんやりと覚えていた夢の内容を話した。
 鏡が割れてしまったこと。私が迷い込んだ、へんてこな世界のこと。そして、夢月と幻月という、イカれた姉妹のこと。
 エリーはそれを静かに、たまに相槌を打ちながら聞いてくれた。
「……でね、妹の方が、私は吸血鬼じゃないから、翼はいらないって……」
 エリーが大きく体をひねり、私に向かって手を伸ばす。
 その手は私の頬を優しく撫でてくれたのだけれど、私はそこから、妙な違和感を覚えた。
「きっと、疲れが溜まっていたのね。今日は一日、湖の番をお休みしなさい」
「……うん」
 違和感の正体がわかったのは、エリーが体を返した時だ。
 ちょっと頭を撫でるだけにしては、大袈裟と言うか、何だか無駄な動きをしていることに気がついた。
 具体的に言うと、右手なら簡単に届く位置なのに、わざわざ左手を伸ばしてきていたのだ。
「……エリー」
「何?」
 たぶん、普段の私なら、何も疑問に感じなかったと思う。
 あんな夢を見た直後でなければ。不安を抱えた朝でなければ。
「……右手、どうかしたの?」
「ッ……」
 あからさまな動揺が見て取れた。
「……何でもないわ」
「でも」
「何でもないのよ」
 右へ、左へ、これ見よがしに目が泳ぐ。
 ちょっと関節を痛めて、とか、適当に言えばよかったのに。変なところで不器用なのだ、エリーは。
「……そろそろ、朝御飯の支度……」
 慌ててイスから立ち上がり、その場を離れようとするエリー。
 私はそれを引き留めようと、コートの裾を掴んだ。
 よほど焦っていたのだろう。エリーはそのこと気がつかず、ドアに向かって歩きだしてしまった。
「…………あ……」
 羽織るだけで腕を通していなかったのが仇となり、コートがするりと脱げ落ちる。
 そうして露わになったエリーの姿には、欠けている物があった。
「……う……!?」
 私はひどく驚いて、思わず体を起き上がらせた。
 すぐさまエリーがコートを操り、私の手から取り上げて、自分の右肩を覆い隠す。
 だけど、既に目撃してしまった事実は変わらない。
「エリー! それ……!?」
「く、くるみ……。本当に、何でもないから……」
「ゆ……! 幽香さま! 幽香さま!」
 私はぐるりと振り返り、眠りこけている幽香さまの体を大きく揺さぶった。
「くるみ! やめなさい!」
 大声張った制止の声も、私の耳には届かない。
「幽香さま、この前、腕とか治せるって……! 腕、エリーが、腕……!」
「くるみ!」
 とうとうエリーの左手が私の肩を掴んだ、その時。
 ようやく、幽香さまが目を開けた。
「……うるさい……」
「幽香さま! エリーが、腕! なくなって……! 治して!」
 私は幽香さまの手首を握り締め、エリーの治療を直訴した。
 もはやまともな文章も作れないくらいに混乱していたけれど、意味は十分伝わったと思う。
 そんな私の必死のお願いに対する幽香さまの返答は、いかにも幽香さまらしいものだった。
「……今、眠いから、後でね」
「ッ……!」
 私はもう、言葉にならないくらい怒った。
 怒って、握り締めていた幽香さまの手首に、思いっきり爪を食い込ませた。
 そして、その爪先を赤い滴が伝い始めた時、ようやく気がついた。
――…………え……?
「……くるみ……。痛い……」
 幽香さまが、私の手を振り払うこともできないくらい、ひどく衰弱していることに。
「……う…………」
 私が錯乱気味に慌てていたのは、ただ単にエリーの腕がないことを心配したからではない。
 私にとって、幽香さまとエリーは、世界で一番目と二番目に絶対的な存在だったのだ。
 だから、まず、エリーがケガをしていること、それも、腕を失うなんて大ケガをしていることが、信じられなかった。受け入れられなかった。
 ましてや、幽香さまが弱っているところなんて、想像したことさえない。
 そんなことは絶対にあり得ない。そう信じて疑わなかった。
 なのに、その絶対にあり得ないはずのことが、現実となって目の前に突きつけられている。
 それは私にとって、自分の体の一部を奪われることよりも、遥かに恐ろしいことだった。
「……う……え……えええぇぇぇ……!」
 私は泣いた。大声で哭いた。
 決して失うことはないと思っていたものが、儚く消えてしまいそうになっていたという事実に堪えきれなくて。
「く、くるみ……! 私は大丈夫だから! 幽香様、今、お疲れだから……! だから……」
「ごめ……なざい……! ごめんなざい……!」
「……くるみ……?」
 もう、わかっていた。
 どんなにエリーが誤魔化そうとしたところで、他に原因があるはずもない。
 あんなにおぞましい悪夢と、こんなに悲しい現実が、偶然重なるわけなんてないのだから。
「私……入っぢゃっだから……! 一人で……歩ぎ回るなっで……言われで……だのに……!」
 最初から、素直に謝ればよかった。
 不注意で鏡を割ってしまったと、ただ正直に謝っておけばよかった。
 なのに私は、叱られたくない一心で、あまりにも稚拙な悪魔の甘言に乗ってしまったのだ。
 それが、こんな結果を招くとは知らずに。
「違う。違うわ、くるみ……。貴女のせいじゃないわ。私がちゃんと言っておかなかったのが悪いのよ……」
 もしも私が前もって、あいつらのことを聞かされていたら、どうなっただろう。
 たぶん、結果は変わらなかったと思う。
 遅かれ早かれ夢月たちの甘言に乗せられて、あるいは自らの好奇心に負けて、同じことをやってしまったに違いない。
 エリーだって、そう思っていたからこそ、私に黙っていたのだ。
「……くるみ」
 ぼろぼろと泣きじゃくる私に、幽香さまがそっと手を伸ばした。
「くるみ。地下の封印を破ったのよね……。あの石、重たかったでしょ……?」
 私は溢れる涙を止められなくて、返事もせずにひたすら泣き続けていた。
 だけど、幽香さまはそれを咎めることもなく、ただやんわりと微笑んだ。
「まだ、あんたには無理だと思ってたのにね……。……凄いわ、くるみ……」
 弱々しく、だけどしっかりと、幽香さまの手が私の頭を撫でる。
 その手はそのまま首筋の辺りまで下がっていくと、ぐいと手前に引っ張って、私を再びベッドに倒れ込ませた。
「うゅ……」
「ほら。抱き枕が勝手に離れちゃ駄目でしょ……」
 抱き寄せられた幽香さまの体はとても温かくて、すっかり泣き虫になってしまった私を安心させてくれた。
 エリーも改めてベッドの端に腰かけ、私に布団をかけなおしたり、その上から優しく拍子を打って私をあやしたりしていた。
 それから少し経って、ようやく私が泣き止んだ頃。
「……くるみ」
 ふと、幽香さまが話をし始めた。
「あいつらね、二人ぼっちなのよ。後先考えられない馬鹿の癖して、力ばっかり持て余してるもんだから、親にも見放されちゃって……。何処に行っても嫌われて、とうとう自分達で作った世界に閉じ込められちゃった」
 エリーが小さく咳を払う。
「……まあ、やったのは私なんだけど。その代わり、たまに気が向いたら遊びに行ってやってるわけ……」
 あっちとこっち、二つの世界を結ぶ、唯一の門。そして、悪夢を封じ込める結界の中心。
 それが、夢幻館の正体だった。
「また来てやるから、それまでは大人しくしてろって、いつも言い付けてあるんだけどね……。本当、いつまで経っても聞き分けの無い餓鬼どもだわ。ちょっと結界を緩めた隙に、好き放題やってくれちゃって……。……理由を訊いたら、何て答えたと思う? あんたと友達になりたかったんだって。とんでもないでしょ……?」
 わけがわからない。
 倫理以前に論理が壊れているとしか思えなかった。
「…………なんで、結界、緩めたりするの……?」
 私はまだ少ししゃくり上げながら、声を低くして尋ねた。
 すると、幽香さまはクスリと小さな笑い声を洩らして、答えた。
「少しぐらい換気させておかないと、自分達の瘴気で一層可笑しくなっちゃいそうだもの、あいつら」
「……ほっとけばいいのに……」
 幽香さまがあいつらに関わろうとすること自体、私には理解できなかった。
 たとえ、あいつらを世界から閉め出したのが幽香さまでも、そうなった原因はあいつら自身にあるはずだ。
 あんなイカれたヤツら、完全に封じ込めてしまった方がいい。
 そう思った。
「そうね。私もそう思うわ」
 案外あっさりと同意を示した後、幽香さまは「でも」と続ける。
「あいつらには、借りも有るからね……」
「……なに?」
 疑わしげに尋ねた私の頭を、今度はエリーの手が撫でた。
「くるみ。幻月と夢月の魔力はね、現実を夢幻に塗り替えてしまうの。それも、彼女達の意思とは無関係に」
「う……?」
「夢幻の魔力は人々の夢想に力を与え、曖昧な虚構を歴然たる幻想へと昇華させる。それは神も魔も、霊も妖も、想いに依って生きている全ての存在にとって、等しく希望と成り得るものよ」
「……うん……?」
 小難しい、と言うほど小難しい話ではなかったけれど、私はエリーの言いたいことがわからずにいた。
 と言うより、理解したくなかっただけかもしれない。
「私達はそれを利用して、消え行く運命(さだめ)に在った幻想を生き長らえさせてきたわ。……いえ、その一端を担ってきた、と言うべきかしら」
「エリー。話が長い」
 幽香さまが口を挟んだ。
 それと同時に、私を抱き締める力が一層強くなる。
「要するにね、くるみ。あんたが今、こうして生きていられるのは、あいつらのお陰なのよ。むかつくでしょうけど」
 本当にむかついた。
 生まれて初めて心から憎んだヤツらが、実は自分の命の恩人だったなんて、こんな不愉快はないものだ。
「…………助けてくれたのは幽香さまだもん……」
 そうやって私がぐずると、二人はちょっとだけ黙り込んだ後、揃ってクスクス笑い始めた。
「本当に、意地の張り方が似てきましたね」
「あんたの口答えの癖が移ったんでしょ」
「あら、心外ですわ。私程従順な僕(しもべ)は居りませんのに」
「よく言うわ。いつも二言目には文句垂れるくせに」
「貴女がもっと節度有る振る舞いをしてくださったら、私も小言を言わなくて済みますのよ?」
「どっかの石頭と同じこと言ってるわ。そんなに説教したいんだったら復職すれば?」
「そうしたら、誰が門を管理するんですか」
「あんたよ。兼業しなさい。あっちが副業ね」
「そんな片手間に出来る仕事ではありませんわ」
「へぇ? あんたの後輩、いつもサボッてるけど?」
「あの子はあの子なりに一所懸命やっているんです」
「どうだか」
 たわいなくて仕様もない、いつもの言い合い。
 それがとても心地よく、泣き疲れていたことも相俟って、私は次第にまどろんでいった。
 いつか、いつの日か、この二人みたいに、強く振る舞えるようになりたい。
 そんなことを夢見ながら。





 ◆ ◆ ◆





 あれから、また何十年の時が流れた。
 私は相変わらず湖の番人として、侵入者たちと戦い続けている。
 たぶん、ちゃんと強くなっていってると思う。少しずつ、ゆっくりと、だけど……。





「エリー」
『はい』
「先発隊から報告きた。博麗の巫女、怒って神社から出てきたって」
『あら、そう……。それじゃあ、やるしかないわね……』
「それから、なんか違う人間もこっち向かってるみたい。魔法使いみたいなヤツ」
『……魅魔の弟子ね。鼻の利く娘ですこと』
 つい先日のことだ。
 何を思ったか、幽香さまが突然、「博麗の巫女を招いて宴をやるわよ」と言い出した。
 宴と言うのは、要するに抗争のことだ。
 エリーは心底気が乗らない様子で、どうにか翻意を促そうとしていたけれど、そんなことを聞く幽香さまではない。早々に館から出て行って、ほんの数時間で幻想郷のあちこちから有象無象の妖怪たちを掻き集めてきた。
 魔界から家出してきたお嬢さまとか、幽香さまやエリーのファンだって言うヤツらとか。それから、私の顔馴染みの連中も。
「ちっ……。何で私があんな奴の気紛れに付き合わなきゃなんないのよ……」
「楽しそうだからいいんじゃないのー? ごはんおいしかったしー。このメイド服かわいいしー」
「くるみが指揮官の一人なのが気に食わないんだよ。赤い死神はともかく、何であいつより下に」
「まー、でも、実際勝てないんだから仕方ないよねぇ」
「昔はわりと互角だったのにな、昔は」
「あんたら、こんなとこで無駄口叩いてないで持ち場に帰りなさい!」
「へーい」
「それから、こっちのヤツらは戦闘の準備! もうすぐ巫女が来るわよ!」
 私は迎撃部隊の一つを率いる役を任され、こうして湖上で妖怪たちの指揮を取っている。
「手を抜くのは勝手だけど、うっかり封印されたりしないように気をつけなさいよ! 危なくなったら早めに逃げること!」
 我ながら腰の引けた指示だと思うけれど、これはエリーの要望によるもので、幽香さまも承諾済みである。
 そもそも、今回の目的は巫女と遊ぶことであって、巫女を打ち倒すことではないのだ。
「手の空いたヤツは救護班の手伝いに回りなさい! 特に、下に落ちちゃったヤツは早めに引き上げて! 後で水を引かせるかも知れないからね!」
 湖上にてトリを務める私が負けてしまった場合、私は速やかに磐座の注連縄を切断する手筈になっている。
 そうして湖の水を引かせることで、巫女を夢幻館まで誘導してやろうというわけだ。
 何のための機能か長年疑問だったのだけれど、どうやら元々、そうやって客人を迎える際に使うものだったらしい。
 ただ、八雲のひとたちをはじめ、みんな平気で水中を通って来るものだから、なかなか使う機会がなかったようだ。
 もしかしたら、幽香さまも一度これを使ってみたいがために宴とか言い出したのかもしれない。
『水を引かせるかも知れないって、くるみが負けたらってことでしょ? 確定事項じゃないの?』
「うっさい! 勝手に鏡使うなって何度も言ってんでしょ、夢月!」
『ケチなこと言うんじゃないわよ。作り直してあげたの、何だかんだで便利に使ってるくせに』
「あんたに直してもらった覚えはないわ」
『まあ、良いじゃない』
「よくない」
 何年経っても、相変わらず筋を通さない、自分勝手なヤツである。
『それよりさ』
「なによ」
『幽香、半分くらい、こっちの世界に来ちゃってるんだけど』
「…………はぁ!?」
『待ってる間に飽きて寝ちゃったみたいね』
 ……結局のところ、幽香さまとあいつらの関係というのは、夢幻の魔力がどうとか言う話ではなくて、ただ単に類が友を呼んだだけなのではないだろうか。
 最近、なんとなく、そう思う。
「ちょっと、エリー!」
『……聞こえたわ。確認は取れていないけれど、多分、本当でしょうね』
「で、どうすんの?」
『予定通りに』
「大丈夫なの?」
『問題無いわ』
「あ、そう……」
 未だに、幽香さまの奔放さには慣れない。
 エリーと同じくらい達観出来るようになるのは、いつになるだろうか。
 ……なんて、考え事をしている間に、とうとう人間が湖の岸までやって来た。
 いよいよ開戦の時だ。
「よし、やるわよ! 気合いを入れて……!」
 私はみんなに檄を飛ばしつつ、腰掛けていた磐座から飛び立った。
 ……もとい、飛び立とうとした。
「うきゅ!?」
 転んだ。
 盛大に、それはもう盛大に、注連縄に足を引っかけて。
 足首を軸にぐるっと回転した私の体は、ものすごい勢いで湖面に突っ込んだ。
 湖上では、さぞかし派手な水飛沫が上がったに違いない。
 そして、さらに……。
「ごぼぁ!?」
 水に落ちて間もなく、ゴゴゴゴッと、何だか不穏な音が鳴りだした。
 おまけに、すごい力で体が引っ張られていく。
 そう。さっきの事で注連縄が切れて、水が引き始めてしまったのだ。
 私は慌てて水流を抜け出し、水上へと浮かび上がった。
 待機していた妖怪たちは、どいつもこいつも必死に笑いを噛み殺して、私から目を逸らそうとしている。なお不愉快なことには、憐れみの眼差しを向けてくるヤツまでいた。
「笑いたきゃ笑いなさいよ!」
 やり場のない怒りを喚き声に乗せつつ、急いで切れた縄を結び直しにかかる。
 だけど、その頃にはもう、すっかり水が引いてしまっていて、例の人間はとっくに底の方まで進んでいた。私を含む湖上の妖怪たちをことごとく無視して。
「あー! ずるい!」
『あらあら。やっちゃったわね、くるみ』
 鏡の向こうで、エリーがやたらと楽しそうに笑う。
 ついでに夢月と幻月と、おまけにもう一人がケタケタ笑うのも聴こえた気がするけれど、腹立たしいので気のせいということにしておこうと思う。
「……まだ、あと一人来るもん! 今度こそ、びしっと決めるわよ!」
『はいはい。無理はしないようにね』
「わかってるってば!」
 再び満ちてきた水面に向かって、鏡を思いっきり投げ込む。
 八つ当たりとでも何とでも言うがいい。
 とにかく、これで仕切り直しだ。
「みんな、気合い入れていくわよ! 迎撃用意!」
 さあ、人間よ。来るなら心してかかってくるがいい。
 ちょっとドジなヤツだからと言って、ゆめゆめ侮ることなかれ。
 私はこの世で一番偉大な妖怪と、一番器用な死神によって育てられた。
 いつか必ず、二人のように、何でも出来て、誰よりも強い妖怪になる。そんな大志を抱く者。
 太陽も流水も恐くない。ニンニクだって、十字架だって何のその。
 何の弱点もありはしない、存在するはずのないヴァンパイア。
 その名は、くるみだ!





 
お読みいただき、誠に有り難う御座います。

このくるみがいずれ、取替子(チェンジリング)の片割れと出会うことで未曾有の危機を迎え、
また、八雲の娘と共に高みを目指して競い合うようになり、
やがて来る科学世紀、遂に風見の名を継ぐに至るのだろうと、
好き勝手な妄想が私めの脳内で膨らんでおります。
いつの日か、皆様のお目に掛けたく存じます。

それでは、お疲れ様でした。
昭奈
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コメント



0.720簡易評価
2.100名前が無い程度の能力削除
流石くるみちゃん、最後までタイトル通り
お母さんなエリーが個人的にツボでした
4.90名前が無い程度の能力削除
後半でやや急いだ印象ですね。
もう少し、くるみが幽香達を好きになっていく過程を詳しく見たかったかも。
でも話はすごく好きなので、この一家?の話をまた読んでみたいです。
6.90奇声を発する程度の能力削除
お話の雰囲気が良かったです
7.100名前が無い程度の能力削除
いろんなifにつながりそうな展開が想像力を刺激して楽しかったです。
また、続きも読んでみたいです。
8.100名前が無い程度の能力削除
くるみちゃんは可愛い
14.100名前が無い程度の能力削除
良い家族でした
20.100名前が無い程度の能力削除
いやあ、面白かった