Coolier - 新生・東方創想話

堂廻り、目くらみ

2015/10/12 15:36:46
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キィィィィィィ……………………………ン…………………



 私が闇の底から意識を回復し、知覚したのは耳鳴りのようで、その実、脳の錯覚ではない、例えば、体が音叉となってはじき出したみたく響き渡る音であった。
 星霜を数多遡った頃に栄華を極めた者どもの名残を懐かしむときの如く、母親の温もりを頬に受けているときの如く郷愁を身に沁みさせつつも、自身が胎内より離れて暮らし、もう二度と戻れないことを知った時の寂しさも私の眼窩を撫でた。
 入念に世話をされた引敷に座り込んでただひたすら呆然としていると、様々な調度品が飾られた洒落た室内に、真っ暗闇を照らす洋風の室内灯と、使い古されたことがわかる作業机、明らかに人の形をしたものの用途ではない器具の数々が目に入り、上質な匂いの香が焚かれているのを嗅ぎ取って、私はどこぞの貴族の館に紛れ込んでしまったのだと気づいてしまった。
 とにかく失礼を承知で名乗り上げ、お情けを頂戴しそそくさと退散しようと思ったのだが、はてさて、一体どうしたものか、私が一体何者であるのか、名前も、家族も、出身も、何一つ浮かんでこない。奇怪なことに、一般常識と言われること、動物的ではない、理性的な行動や思考ができる程度の記憶は持ち合わせているのだが、自身の出自に関することとなると、引き出せないのではなく、引き出すものが無いといった具合にガンガンと訴えてくるのだ。
 自分が何者であるか考えるうちにひどい頭痛に苛まれ、私は被っていたリボンのあしらわれていた黒い帽子をぞんざいに脱ぎ捨てると、少し長めの緑がかった銀髪を頭皮のあたりから鷲掴み、この苦しみから一刻も早く解放されることを切に願った。
 抱え込んだ頭の額を地べたにこすりつけ、みっともないなと自覚しつつものっそりと身じろぎをする。自分の正体についてしばらく解明は不可能であることを勘付くと、頭を捩じりあげるような痛みは驚くほど速く引いたのだが、全く不明瞭な場所で覚醒した私の意識は身体に目を向けていなかったらしく、筋繊維が、それどころではない、骨髄や血液までも疲労困憊に陥っていて、ハッとした時には、私は指一本動かすことができなくなっていた。
 腹を抱え込んだような状態でいる私は、私の身体から延びる紐のようなものと、まるで人型には存在しえない第三の目が胸元に鎮座しているのを確認すると、五体がショックから立ち直るのを見計らって、奇怪な物体を探ることにした。
 何をどうしたらこのような疲れにおそわれるのか、私には皆目見当もつかないほど、長い時間が経過した。何度、壁掛けの時計の分針のネジが動いた音を聞いたのだろう。湿っぽい空気が私の肺を満たすたび、幽かに獣臭さが私の鼻をつつく。
 一刻もしないうちに、なんとか私は身動きがとれるようにはなった。館の主人の書斎らしきこの部屋に往来しようとする気配は微塵もなく、その静けさに不気味さを覚えた。が、かえってその方が都合はよかったのかもしれぬ。見知らぬ人物が自室で踞ているのを見て、主人が何を思い、何をしでかすかわからない。私は、朦朧としていた頭でひょんな偶然に感謝した。
 さて、ようやく四肢が思うようになったのだ。この私とつながり、おそらく私の一部なのであろうこの球体を明かしてやらねばならない。私は密林で未知の生物に出くわした民族のように慎重な手つきでそっと持つと、脈が通っているような生暖かさと、私の脳髄の一部が撫でられたみたく感覚が同時に情報信号として脳に伝達され、思わず縮あがってしまった。
 真っ事恐ろしいものだった。頭蓋という絶対防壁に囲まれているはずの脳髄の欠片がふわりと浮いたような感覚を得たのだ。怖気を感じないで何を感ずるのだろう。私はこれ以上、この私であるはずの物体を触れようとは思わなかった。
 故に、観察する以上のことはできそうもなかったのだが、それでも、この瞳は半ば閉じている、というよりは薄目を開けた状態でしかないことと、この眼に映るものは視覚とは一線を画していて、もはや別物であることぐらいは確認をすることができた。
 私は人間ではない。その事実に、私は特に無反応であった。それもそのはずだろう。私は元々人外であり、その人外であるというのは深層意識、本能的な部分で理解しているので、たとえ一見自分が人の形であることから人であると勘違いをしていても、その誤解もすぐに解消されるのだろう。
 はてさて、自分が何者であるかの糸口は見出すことができた。私としてはそれでもう満足だった。これ以上踏み込もうとすれば、先ほどの拷問に等しい頭痛がやってくるだろうし、そろそろ家人が異常に気付いてやってきてもおかしくはない。これ以上禅問答に似たことをやっても無意味だろう事は記憶を失った私にも容易く理解った。
 私は生まれたての小鹿のように足を振るわせながら立ち上がると、目覚めた直後に放り投げた帽子を手に取り、大事そうに両腕で抱えた。なにせ私が記憶を失う前から身に着けていたものである。私のものでない通りの確率の方が低いだろう。それに、私のみに纏っているフリルやリボン、雑貨の多く使われたゴシック調……とでもいえる身なりに見合っているのだ。
 そこまで考えたところで、無駄な思考に体力を使ってしまったことを恥じ、私はいつかやってくるだろう館の者にどう弁明をすればいいのかに切り替えた。
 と、直後に何やら私と同じく、いや、少し違う、精神的な疲労のせいか、やたら重い口調で独り言をぶつぶつと喋りながらこちらに歩いてくる人を察知できた。さすがに何を言っているのか聞き取ることは難しかったが、次第に足音だけはドアに近づいてくるほど大きくなり、ぴたりと止まると油の差していない金属のこすれ合う金切り音をあげながら入室してきた。
「あ、あの、私は決して怪しくは……そうじゃない、私はいつの間にかここにいたの。気がついたらこの部屋に……この部屋の主人である貴方ならわかるかと思って……」
 姿が見えるか否か、私はまくしたてるように整合性の取れない台詞を口走っていた。最後まで言い切ったところで、焦りと恐怖が先行し過ぎたと後悔の念に口を鬻がれてしまったが、その者は私を目にして叫ぶのでも、怒るのでも、いぶかしむのでもなく、私が覚醒した直後、状況を把握し切れていなかった頃そっくりの様子で、大口を開けてこちらを見据えていたのだ。
 その時間に、私はその者を観察することで、幾らか平静さを取り戻すことができた。背丈や顔立ちを見るに、歳は、十三、四ほどだろうか。目の大きさ、顔のパーツの比率、明らかに大人のものではない。私はこの少女をいかにも子供として認識しているが、かくいう私も背丈は彼女と同じほどで、おそらく、彼女の服装センスが私の者に似通っていることといい、顔立ちも同じような年齢層なのだろう、
 また、その少女も私と同じく、胸元に『目』を持っていた。私が青で、彼女が赤だ。
 同じ種族なのだろうか。十中八九そうだろう。こんな脳髄が露出しているような機構の存在が多く蔓延っていても困る。
 もしかしたら家族なのやもしれない。そう思うと、私は急に姿見が欲しくなってきた。そこで私の顔立ちを初めて見て、私とそう離れていないだろう少女と共通点が存在していれば、仮設は事実となる。
 無礼を承知の上で、キョロキョロと首を回して鏡を探していると、ちょうど背後、今まで死角となっていたところに綺麗な装飾の施された等身大の鏡が置かれていて、まじまじと見つめようとしたところ、
「こいし?」
 少女が初めて声帯を震わせた。
 こいし、というのが何を指しているのか、私にはいまいちピンと来なかった。感嘆詞や疑問詞にしては複雑すぎる響きだ。
「あなた、サードアイが……」
 サードアイ、サード、アイ……なるほど、三番目の目。そう名付けられていたのか。私は酷く納得し、思わず大きくうなずきそうになった。
 さては、“こいし”というのは私の名前なのではないだろうか。少女は「あなた」と言っていた。つまり、私を指して“こいし”と呼んだのだ。
「こいし……私の名前?」
 一応念のため、間違えの無いように少女に訊くと、少女は一瞬ぽかんと間抜けな表情に変わり、
「何言ってるの、自分の名前で……まさか」
 すぐさま真っ青に染まった。まるで、血液が顔から一切抜かれてしまったのではないかというほどだ。
 こいし。こいし、こいし。こいし……。
 私の名前だったというのに、どうしてこうしっくりこないのだろう。まるで本の中の登場人物を読み上げるような、遠い存在の名前をふと耳にした時のような、聞き慣れなさがどうにも不快だった。まるで今、この場所で胎児だったものが赤ん坊に変わる瞬間……“こいし”という名を授かったのかと錯覚を引き起こすほどに。
 少女は思いつめた表情で私を再び注視すると、割れ物を扱うような優しい手つきでサードアイに触れ、静かに瞼を閉じた。
 失念していたが、ドアの向こうから聞こえていた独り言はぴたりと止んでいた。この言い方に引っかかりを覚えるのも無理はない。なにせ、独り言であれば、少女がこの部屋を訪れた瞬間から途切れていなければいけない。が、私が気を動転させ、彼女が私の異常に気付き、なぜか瞑想し始めるまで、ぶつぶつとした聞き取れないほどの呟きが収まらなかったのであれば、私の表現に不適切なところはなかったと証明できるだろう。
 私がある程度聡明で、サードアイにまつわる事なのだと察することができなければ、私は酷くさっきより酷く狼狽し、この主人の癪に触ってしまったかもしれない。
 ここからが肝心なところと、少女の黙している間に更なる情報を分析しようとしたのだが、脳髄の奥、ひいては全身の痛みがまた再燃する予兆が首のあたりから発生し、刹那の間だが見ることのできた私の面立ちから、私と少女には血縁関係があることが確実な事となった。
 まあ、過去の私は姉妹だったのだろう。実感はそんなになかった。他人事のように思えて仕方が無いのだ。
 唇にせき止められてくぐもった念仏のような独り言、……多少癪に障るうるささのそれが再開されて、私は少女の意識が表層に浮かび上がったことを知った。
 少女は涙を目尻に溜め、悲しさと怒りを混ぜに混ぜきったような表情を前面に押し出し、私がそれをまじまじと観察しているのに気が付くと、親が子を安心させる時のような、穏やかで柔らかい笑みを取り繕った。
 私は、少女が儚い希望に見放され、深く傷つき、不甲斐なさを自責していることをイメージとして理解してしまった。
 生まれて初めての感覚だったので私は面食らってしまい、海の底に一人で放り出されてしまったのかと錯覚してしまうほどの不安に陥り、目をあちこちに彷徨わせ、どうしようもない孤独を癒してくれる存在を欲した。
 華やかな香りが鼻腔を満たす。次いで、じんわりと、まるで胎内のように安らげる温もりが私の身体を覆った。藤紫の髪がサラサラと私の顔を流れるのを感じて、ようやく私は少女に抱擁されているのだとわかった。
「大丈夫、大丈夫だから……」
 少女は震えながら、消え入りそうな声で言い聞かせてきた。
「ごめんね……」
 私はなぜ謝られているのかさっぱりだった。私は今、我儘を願っただけなのに、どうして彼女は私に施しをくれるのだろう。どうして罪悪感を抱くのだろう。なぜ、なぜ、何故。
「馬鹿なお姉ちゃんを許して……」
 ああ、私は彼女の家族だったのか。唐突に私は理解した。こんなことを無償でしでかすのは家族をおいて他ない。私は未だ少女とのつながりを実感することができなかったのだが、どうにも振りほどく気になれず、私は妹らしく、静かに『姉』の腕の中にしばらく納まり続けた。




 私は、「姉」である古明地さとりの保護の下、一先ずの安息を手に入れた。
 不安がなかったといえば嘘になる。無論、私が誰であるかなどというのは眼中にはなかった。無理に思い出そうとすれば身体に直接害が浮き彫りになるのだし、そんなことしなくても、私が安心して自分の身元を証明してくれるのを任せられる存在がすぐそばに、心の平静を乱す前に出会えたのだから。
 だから、私が生物的あるいは文化的な生活に困る事なんていうのはあり得ないことで、唯一気がかりだったのは、私が何故私である所以を失ってしまったかである。その根源が判明しない限り、根源に害意があるのかそうでないのかがはっきりとしない限り、私は真に落ち着いてリハビリを受け続けることは叶わない。
 リハビリ、と大仰なことを言ったが、今の私になる前、記憶を喪失する前の私の『遺品』や、私に関する人物を次々と私に遭遇させ、それをトリガーに記憶を引っ張り出そうとする、元も子もないことを言えば荒治療のようなものだ。
 医者に診せられるといったことはなかった。私は何らかの外的要因や、あるいは心理的要因があるならそれを白日の下に晒し、取り除けるものなら取り除いてしまうことを進言したのだが、さとりは「すべて私が把握している」の一点張りで、「地霊殿」と呼ばれる我が家から一歩も外に出そうとはしなかった。
 私は嵌められているのでは、という疑念も少なからず湧いて出てきたが、私たち「覚妖怪」というのはもう確認できるのは私たちだけらしく、しかも、今回の症例の原因は覚妖怪特有のものというのがさとりの弁で、素直に信じることはできなかったが、手の内にある情報があまりにも少なすぎるため、従わざるを得ない状況にあった。
「覚妖怪」というものは大層面白く、それでいて恐ろしく不気味なものだった。
 人の心を読む。この字面だけでも何たる恐ろしいことか。
 これほどまでに凶悪な存在がいるとあっては、まともに形成された社会は存続できないであろう。
 その能力がかつて私にはあった(今はまだ、能力の要である第三の目が完全に開ききってはおらず、完全な読心はできないらしい……さとり曰く、「こいし」もかつては開眼していて、一旦サードアイを閉じてしまっていた時期があったらしいのだが)ことを聞き、なんと怖気立つ話だろう、と私は震えあがってしまった。「古明地こいし」が種族の象徴であるサードアイを閉じるのも無理もない話だと私は思っている。私も好き好んで心を読みたいとは到底思わない。
 そんな私の心中を読み取ってか、さとりは遠い昔を見たのだろう、キュッと唇を結ぶと、私を視界から外してしまったことがある。
 さて、私の治療の手始めとして、まず紹介されたのは鴉と猫である。しかし、ただの動物なんぞではなかった。人型だったのである。猫の方、火車という妖怪で、火焔猫燐と、地獄鴉、霊烏路空の二人はさとりのペット……本人談では家族なのだが……らしい。
 この時、私が妖怪という単語に違和感を示さなかった理由は、特筆する必要もないだろう。
 二人とも私がサードアイを少しでも開いた、と聞いて居ても立ってもいられなかったらしいが、いざ私の状態がこうであると知ると途端に落胆し、それから幾ばくも無く私の異常を心配してくれるようになった。
 ところが、二人がさとりの家族……つまり私にとっても家族同然で、深いつながりがあったのにもかかわらず、私の琴線にかすりもしないのは、私自身も驚いた。
 申し訳ない、私にはあなた方は道すがらで通りすがった赤の他人にしか今は思えない、でも、私は間違いなく、あなた方の家族だったのだろう。そう伝えると、霊烏路は泣き出し、火焔猫は面談に使った部屋から飛び出していってしまった。
 本心だった。二人の振る舞いは演技などではなかった。この、私の、壊れたサードアイに流れ込んでくる感情に、嘘偽りが入り込む余地などなかった。この時点で、私がさとりに対して抱いていた疑念は振り払われ、自分が空っぽになってしまっていることへの罪悪感が、私の全身を震わせていた。
 姉は私の髪をやんわりと撫で、「焦らなくていいわ、これから、これからよ……妖怪にとって、時間はあって無いようなものだから……」と諭した。
 しかし、私は私への責苦を止めることができず、次の来訪者が入室してくるまで、ただ、項垂れることしかできなかった。
 私の心を大きく揺らしたのは、彼女たちだけだった。いや、揺れはしたが、その揺れを私は大事に思うことができず、作業のようになってしまっていたのだ。
「鬼」にも会った。額に立派な角を飾る星熊勇儀と名乗る鬼は、放浪癖のあった私との関わりも深かったらしい。
 彼女はまず、さとりが大急ぎでこいしとの面識のある面子にお触れを出し、地霊殿に呼び出したことに対しての驚きを、そして、友人の危機に馳せ参じないわけにもいかんだろうという男気を見せつけてきたが、私は何の感慨もなくそれを聞き流していた。
 彼女から、私が見聞してきた外の世界の話や、『地底』と呼ばれるこの土地で共に行ったこと等を耳にしたが、「生前」の私がどんな性格だったのかを窺い知る以外の成果はなく、鬼は悔しさを隠そうともせず、帰り際に「絶対治してやるからな」とだけ残して帰っていった。私にとって刺激的だったのは、もう一つ彼女に裏表がなかったことだけで、表裏一体の心を持つなんて……と勉強させてもらったぐらいだった。
 黒谷ヤマメ、キスメといった面子は、半ば面白がって、というのを隠そうともしなかったのでそれが少々癪に障ったが、それでも一友人として真摯に私の問題に向き合い、解決の光明を探ろうとしているのが好印象だった。
 二人の話の中でも出てきた「私」の奔放な姿に、姉たちがどれだけ胸を痛めていたか、私はそんなことも気にするようにもなった。
 元来ならば、もう一人来るはずだったのだが、その人物は私のいる部屋の目前まで来て、姉を呼び出すとしばらく言い争い、私に会わずに帰っていってしまった。
 姉の話によれば、その人は水橋パルスィというらしい。気難しいが、それなりにいい人と聞いたのに、そんな人物が何故姉と口論し、直帰してしまったのか、私にはさっぱりわからなかった。
「またあなたは……」「いつまで……」
 という唯一無二の手がかりな彼女の怒鳴り声を反芻しても、頭は痛くなるばかりだった。
 面会人が途切れ、精神的に少し限界が来ていた私が腰かけていた椅子に深く沈み込むと、姉が気分転換に館を歩き回ろう。と言い出した。
 ああ、確かに、これから生活する館のことを全く知らないのでは不便極まりない。それに、喪失前の私が見慣れているはずの光景を目にすれば、それもまた私を取り戻すヒントになる。
 私は疲れが吹き飛んだ気分で、嬉々として姉の後ろをついていった。
 キッチン、ダイニングホール、ペットたちの部屋、浴室、執務室、エトセトラエトセトラ……。
 姉の紹介も、無力なものだった。まるでどこぞの高級宿泊施設を目の当たりにしているような、そんな余所々々さしか私は感じることができなかった。
 とりわけ、「こいし」がよく足を運んだという姉の執務室、姉の部屋、そして浴室……それらに差し掛かった時、さとりは小指の先ほどの希望を抱いたようだったが、然り、私がこの館に生まれ落とされた当座のような冷やかさは随分と軽減されたものの、まるで歴史的な調度品を保存する展示室を見学するような心地が抜け切れず、家族の部屋、ということをいまいち実感できなかった。
 その私の様子を見て、姉が臍を噛んだように表情を歪ませるのを、私は痛々しく眺めることしかできなかった。


 太陽による時間推測が意味をなさないこの立地、姉がふと気にした時計を見て、「晩御飯にしましょう」と提案してきた。気づけば、胃の中身は空っぽである。それも当然。目が覚めて以来、水以外何も口にしていなかったのだ。
 私は姉と二人っきりで食事をとることになった。十人ほどは入るだろうか、という広さのホールで、私と姉は向かい合った。
 姉の飼う膨大なペットのうちの一人がいかにも美味そうな料理を運んできて、私たちの目の前に置いた。
 私も、姉も、小食だったのだろうか。三個ほどの小麦パンと、ニンジンやジャガイモ、玉葱など、具材はオーソドックスでありながら、気品あふれる香りを放つシチューが献立であった。
 確かに、味は悪くなかったどころか、長年培った技が舌の上で踊ったし、作り手の、そしてホストの思いやりがひしひしと伝わってくるものだった。
 しかし、その場はあまりに静かすぎた。居心地の悪い静けさが、私の心を抉っていく。とても家族、姉妹水入らずの時間とは思えなかった。
 姉も何を話していいかわからなかったのだろう。なにせ、私は空っぽなのである。「こいし」という器の中身はまるで空っぽなのである。外見は、魂は確かに「さとりの妹」であるが、「こいし」はもはや「こいし」ではないのだ。それを理解しているからこそ、姉も、私も何も口に出すことはできなかった。
 いつしか、最高であったはずの料理からは、味も、香りも、温もりも、何も、感じられなくなっていた。
 私は食事をとり終えると、機械的に体を洗浄し、私のものであると押し付けられた寝巻に着替えさせられた。思案すべきことが多すぎて、思考は思考でなくなり、ただぼんやりとした不安定な塊としか存在しなくなり、私の頭を占めていたからこそ、何の成果を得ることもなく一刻あまりを無駄にしてしまった。
 私が案内されたのは、姉の部屋の隣。私の……「こいし」の部屋。姉の部屋に比べると、随分不恰好だ。というのは、統一感が無いからである。一つうん十万と値が付きそうな壺があるかと思えば、そこらの枯れ枝の塊があり、薄気味悪いしゃれこうべが逆さになって私の方を向いている。中でも、隅の柱の真ん中に、『たくさんの私』で始まり、『私は過去のたくさんの私。ずっと昔から続いてきた私のこれから』などと墨か何かで書かれた怪文章は一際異彩を放っていた。
 さまざまな妄念がここ一室に集まっているようなそんな感覚に、私は初見冷汗をかいたものだ。
 ふわふわとした憂いの中で、私がここでベッドに潜り、目を閉じて、十分やそこら我慢したら、次の瞬間には私は「こいし」として、元通りの生活を送っていて、私の、姉たちの苦痛もなく、私は夢を見ていたんだと胸を撫で下ろしているんじゃないかと、そんな妄想もした。
 私はもちろん、そんなことを本気にしてはいなかった。そんなことを思わなければならないほど、私の不安は溢れ切っていたのだ。
 些細ながら、妄想という現実逃避を行い、気を抜いたからか、私は眠気に首根っこを引っ張られたかのようにベッドに倒れ込んだ。趣味の悪い部屋に不釣り合いな、とても繊細な素材のシーツ。私は妙な落ち着きを取り戻した。
 大きく二息ほどついたところ、もはや聞き慣れた、不明瞭な囁きがのそのそと近づいてくるのを私は認識した。
「こいし、入るわよ」
 数回のノックの後、姉が私と色違いなだけの、お揃いの寝巻を着て私の元にやってきた。
 姉は横たわる私の傍に立つと、私の髪を一房摘まみ、はらりと散らせながらその手を離した。
「……迷惑でなければ、私も一緒に寝るわ」
 少々他人行儀っぽさをにじませながら、姉が私の腹の隣辺りに腰掛けた。
 一人でいることに少なからず恐れ戦いていた私には願ったり叶ったりのもので、しかし私にはもう返答をする余力も残っておらず、少女一人分のスペースだけずれると、空いてるよ、と静かにアピールした。
 姉は短く嘆息すると、私の肩と拳一つ分だけ離れ、枕を並べた。
 どうしてそんなに遠慮しているのか、妹なんだ、抱き寄せるぐらいしてくれないと、私はまるで嫌われているようではないか……そう思ってしまったが、なにせ私は空洞なのだ、中にはただ闇が一辺倒に広がっているだけなのだ……姉の態度も無理もないことを思い出すと、まるで姉から逃げるように私は寝返りを打とうとした。
 しかし、姉は電気を消すとすぐさま寝返ろうとする私の肩を掴むと、優しく引き、それどころか私の頭を自分の胸に抱き寄せたではないか。
 私は困惑し、「えっ、えっ」と腑抜けた声を出してしまったが、姉の抱擁が若干強まると、全身の筋肉が弛緩して、姉と一緒に夕食を食べ始めた時と同じような安らぎが、姉の胸から流れ込んできた。
 これが姉妹か……。私は胸いっぱいに広がる姉の香りが、一気に好きになってしまった。この時、私は記憶の一切より先に、家族という実感を手に入れた。まだ私が「こいし」となる日は遠いだろうが、それでも、姉となら、どうとでもなる気がする。そんな思いが私を支配していった。
 そういえば、姉も覚妖怪で、心が読めるんだったな、さっきの私の心の声も全部聞こえてたんだな……私がそのことに気付き、羞恥心に頬を染め、わずかに身じろぎをすると、脳の一部が幽かに浮いた感覚、あの懐かしさすら覚える感覚がにわかに浮上してきた。
 視線を下にやると、私のサードアイと姉のサードアイが触れ合っていた。密接に、近々に。
 開ききった眼と、開きかけの眼。もしも私がこの目を完全に開放すれば、あるいは私は元に戻れるのだろうか。恐ろしさと同時に、姉の見ている世界はどんなものなのか。確かめてみたい衝動に駆られた。

 二つの第三の目に私が見入っていると、悪寒が一つ。脊髄のあたりを通った気がした。
 吃驚して体を起こそうと思っても、体は見事に反応しない。どれだけ腕を振ろうとも、どれだけ足をばたつかせても、私の頭の中では四肢は正常に動いているはずなのに、現実では私はピクリともしていない。
 どういうことだろか。金縛りだろうか。いや、そんなはずはない肉体に縛られている感覚は一切ないのだ。私は自由なのだ。
 唯一私の言うことを聞く二つの目を姉に向けると、姉は既に目を閉じて、健やかな寝息を立てている。私の異変に気付くこともなさそうだった。
 怖かった。ただただ、怖かった。死への恐怖ではない。そんなちゃちなものではない。自分が自分でなくなる。自分という物が分解され、歯車の一つに、数兆ある人体の細胞の一部になろうとしている。そうなってしまえば、私はもう二度と、「私にも」戻れない……!
 キィィィ……ン。私を闇の底から引き揚げた怪音が頭蓋を貫いた。
 私の頭の中で繰り広げられる死闘の中、姉のサードアイだけが浮き彫りになって、私を包み隠そうとしていた。抵抗は無意味だった。やがて私の視界は姉のサードアイに全てのみ込まれてしまっていて、
「えっ……?」
 気が付けば中空に投げ出されていた。


 ああ、全て夢だ。この世の全ての苦しみも、喜びも、怒りも、悲しみも、全て夢。邯鄲が枕に見た夢。どんな悪いことも、喜劇も、成功も、何もかも。
 私が見た物。それはどうやって言い表したらよいのだろう。とても難解で、簡単すぎるが故に難解で、理解するのには遅すぎたのかもしれない。
 私は胎児だった。生命の誕生から現代にいたるまで、ありとあらゆる進化をその身に刻んできた。
 私は原初の覚妖怪だった。その子孫だった。そしてこいしだった。覚妖怪全てが経験し、感じたこと、私が世界に生を受けるまで、その全てを、私は夢見た。
 私は、「こいし」は、第三の目の力に耐えきれなくなって以後、無意識の海に身をゆだねた。無意識というのは少し違うのかもしれない。それは私を含む、私たち以前の覚妖怪の記憶であり、欲望であり、無念であり、連綿と続く私たちの繋がりであり、私の血潮、私を構成する全てに宿っている歴史だった。瞳を閉じるというのは、無意識の顕現というのは、そういった連続した遺伝の発現、理性という箍に抑え込まれていた細胞一つ一つの本能欲求、刷り込まれていた記憶の発露。『たくさんの私』とは、そういうことだった。
「古明地こいし」が瞳を閉じてから歩んだ月日……それは、「古明地こいし」の行動ではない。「古明地こいし」という土台を踏まえたうえで、全ての覚妖怪が成し遂げたかった欲求に従っていたにすぎなかったのだ。
 私はそのことに気付いたとき、驚くほど無感慨であった。ただ、数学的証明を目の当たりにしたような、そうなのか、ぐらいのことしか思えなかった。
 私は何者でもなかった。長い間、「古明地こいし」は存在していなかった。いや、既に「古明地こいし」は死んでいたのかもしれない。サードアイを不必要とした、その時から。
 一体全体一切合財、ここにいる私は、「古明地こいし」でもなければ、「古明地こいしだったもの」でもなければ誰なのだろうか。私は誰であればいいのだろうか…………。
 わからない。そしてこれからも。私がたとえすべての記憶を取り戻したとして、それは「古明地こいし」の生き写しにしか過ぎない。私は「古明地こいし」にはなりえない。
 もう、私はここにはいられないのだ。
 姉には申し訳のないことをするとは思っている。しかし、私自身が「古明地こいし」を演じるその罪悪感に耐えきれない。ならばせめて、「古明地こいし」は最後まで「古明地こいし」であったということにしてあげられたなら。

 私の眼前には、霊烏路空が管理するという灼熱地獄がある。ここならば、誰にも悟られることなく消えられるだろう。さあ、「古明地こいし」に「古明地こいし」を返し、私は胎内へと回帰しよう。これもまた一炊の夢、我々が果てしなく見続けねばならぬ悪夢の一断片に過ぎないのだから……。









…………キィィィィィィ……………………ン………………
祖先代々より遺伝し来りたる無量の記憶と、その血統中に包含されたる各人種、各家系、各個性等の無数の性能の統一体たる一個の人間の性格のうち、その一部が覚醒中に分離してあらわれたるものが所謂二重人格にして、同じく睡眠中に発露されたるものが夢中遊行症なり。

キチガイ博士手記「心理遺伝論附録」より





「まんまじゃねーか」というツッコミが聞こえてくる気がします
ハメにも
八衣風巻
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コメント



0.110簡易評価
1.80名無し削除
ドグラ・マグラみたい。
描写の仕方が好きです。