Coolier - 新生・東方創想話

小悪魔のいる紅魔館(長い版)

2015/07/31 17:00:16
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◇◇◇ 序

 世の中にはビブリオマニアという人種がいるらしい。
 祖父がまさに、それだった。

 草原を撫でる風が波ならば、その丘は浮島だった。丘の上に、彼女の生家は建っている。彼女はこの家の出身で、一応は門閥貴族の身。けれど同時に、重んじるものが違ってもいた。それ故に、既に傾きかかっている家に早々に見切り若くして出奔した、世相を思えば苛烈な生き方をしている女性だった。その印象に違わず、目元は常に鋭く細められている。

 中央から遠く離れた郊外の、田園風景の広がる長閑な田舎。
 朝は、地平線までミルク色の靄が立ち込めて、それなりの景観にはなる。そして夜は、真っ暗で不気味な、朝とは真逆の恐ろしい光景を見せる。子供の頃は何とも思っていなかったが、改めて見ると、思う所はある。良くも悪くも……いや、悪い方が多いか。良い思い出はあるが、社会に出た今の視線で見るのならば、彼女の生家には少し、おかしい所があった。外に出て初めて知った。住んでいた頃は意識していなかったが、館には、悪い噂が付きまとっていたのだ。

 そんな彼女が、快く思わない生家に久方の帰省をしたのには、もちろん、並々ならない理由がある。

 従弟の事。
 祖父に似た、従弟の事。
 そして、子供の頃に神隠しに遭ってから何処かおかしい、従弟の事。

 年の離れた病気がちの従弟を、彼女は弟のように可愛がっていたし、実態もそのようなものだった。男子とあって、一応は家の権利を持っている事になる。もっとも、本人にはまるで興味が無いようで、その上、家を取り直そうという周囲の熱意も冷めていた。時代だ。何をどうして爵位なんぞ得たのかは知らないが、大方、初代が何かの機会に恵まれていただけだろう。

 整然と手入れのされた庭園を抜けながら、そんな事を思う。

 最後に会ったのは、親族の葬儀の時だった。その時はまだ、やや浮世離れした印象もあったが、普通の範疇だった。妖精に誘拐されれば取り替え児になって帰って来るとも聞くが、取り立ててそこまで言う程の異常は無かったのに。それが、だ。程なくして、本格的に祖父を継いだとの知らせを受けた。

 つまり、所領を館だけ残して気味の悪い本へと変貌させる狂人で、最期には理解不能な原因で夭折した記録の残る祖父の、趣味と遺産を。

 薄々そんな気は、していたのだ。
 目を逸らし続けた事に、責任の一端も感じる。

 ビブリオマニアは狂人だと断言するのは、誤解と偏見に満ちているだろうか。

 頭を下げる使用人に荷物を預けて、足早に図書館に向かう。
 館に数棟ある尖塔の内の一つが、丸々図書館となっている。地上階は吹き抜けの開放的な造りで、更に地下書庫まで設けてある始末だ。家の者でも滅多に寄り付かない、古書と黴の臭いに包まれた場所。

「っ!」

 ぞっとした。
 図書館に一歩、足を踏み入れた、その瞬間だった。

 明度と気温が下がった。それは分かる。紙は日に焼ける、とか、そういう理屈は分かる。そもそも、この館の図書館や、他の場所の図書館だって知っている。図書館特有の、ひんやりとした静謐を、知っている。そんな事は承知しているのだ。

 視界が翳った。それは、よく晴れた日に、ふと、大きな雲が太陽を遮るように。蝕のように、日が翳った。
 図書館が暗いのは分かる。彼女の、なんとなく、としか言いようの無い違和感を説明しようと思うなら、それが、無意識に予想していた以上だった、とでも言えば良いのだろうか。

 大した理由も無いのに、薄気味悪い。

「…………」

 足が竦んだ。逡巡。即座に、気のせいだと結論する。
 それでも、書架の陰に、背後に、何かに見られているような気配を感じる。本人も気付かない内に、元からの急ぎ足の意味が変わる。早く用を済ませて出て行きたいと思うようになる。この図書館は、空気が変だ。

「どうかしたのか?」
「きゃっ……」

 線の細さと少年っぽさをそのままに成長した青年は、彼女の従弟であった。
 彼は脚立の上に座り、書架の上の方で作業をしている。身内の目線でも、ただ座っているだけで中々どうして絵になるではないか。けれど、そんな感想と、驚かれた事による怒りは無関係だ。いきなり上から声を掛けられたせいで、必要以上に驚いてしまった。文句を言うと「理不尽だ」と返って来る。懐かしい、家族同士の軽いやり取りの間に、気が紛れた。

 馬鹿馬鹿しい。すっかり、気を張っていたのが恥ずかしくなる。

 ところで彼女は祖父の趣味を快く思っていない。これだけの蔵書、然るべき所に売却すれば資産にもなるだろう。急に全てとなれば大事だろうが、保存には手間も掛かる。手を出せる所から、遺品整理を始めるべきだった。それに、所有者を呪う本なんてのも大量にあるという話ではないか。冗談じゃない。間違い無く、この図書館は厄介物だった。今日はその件についての話を詰めに来たのだ。

「ちょっと話があるから、降りて……」

 降りて来なさいと。そう言うのに合わせて、何気無く上を向いた。

 今までそれは、当たり前に存在してからこそ、視界に入っていても意識せずに済んだ。しかしそれは一度でも気付いてしまえば異常で、そう、異常以外の何物でもなかった。

 本が宙に浮いていた。

「え?」

 口から出たのは恐怖の悲鳴ですらなかった。ただの間抜けな疑問の声だ。

 従弟のすぐ隣で、本が一冊、あたかもその場所に誰かが宙に腰掛けていて、その見えない誰かが今まさに本を読んでいるかのように、浮いていた。

 はらりと、ページが捲られる。

 そこには誰も、いないのに。

「……え?」

 動揺しているのは彼女だけだ。従弟は異常に気付いていないのか、それとも異常とは思っていないのか、平然とした様子で、彼女の様子を窺っている。そして、その視線を追って、本を見る寸前に。

 ──ゴトッ。

 本が足元に落ちて来た。これが普通だ。本は、宙に浮かない。
 一歩、足を引いていた。気は強い方の彼女が、完全に呑まれていた。追い打ちのように、周囲の書架の全てから、気配を感じた。こちらを馬鹿にする笑い声の幻聴が聞こえる。

「ひっ」

 思わず尻餅をついて。
 決して幻聴ではない気色の悪い笑い声が、図書館中にこだまして響き、今度こそ喉から絞り出された甲高い悲鳴が重なった。




「……こっ……くふふ……くはっ、笑い過ぎておなか痛い……」

 従姉が逃げるように去った後、それからもしばらく腹をよじって大爆笑している小悪魔を、従姉の従弟、つまり小悪魔が彼と呼ぶ若い男は、冷え切った視線で見下ろしていた。
「ひっ。だって、聞いた?」
 これだ。小悪魔は何と言うか、良い性格をしている。メイドをからかって遊ぶのも日常茶飯事だった。従姉が小悪魔の姿を見なかったのは、むしろ救いだろう。プライド高い彼女の事だ。激昂したに違いない。
 まさか、こんなしょうもない悪魔に怯えていたなど、悪い冗談にも程がある。

 実の所、以前からこの館には良からぬ噂があり、メイド達は姿の見えない陰に怯えている。それが全部、小悪魔の些細な悪戯だった。

「まあ、でも。この前に会った時は、仕事が順調じゃなかったみたいだったのよね。私の忠告をきちんと聞いたようで、何よりだわ」
「信じてなかったみたいだけどな」
 小悪魔の、ちょっとした予言。彼が伝言した内容は、決して具体的なものではなく、抽象的で暗示に満ちた、意味の取り辛い忠告だった。
「そうだった? ふふ、小さい頃から知ってる妹みたいな子だもの。可愛い子は、贔屓にしてあげるわよ。今度は伝え方を考えましょう」
 悪戯っぽい笑みで、小悪魔。
 従姉の用事は済んでいない。であれば、滞在するだろう。どんな目に遭うか、気の毒だ。
「久し振りに会うと、成長したのがよく分かって楽しいものなのね。ふふっ」
 小悪魔は、彼の物心が付いた時には既に、勝手にこの館に棲み付いていた。彼も彼女の事も、子供の頃からよく知っているとか。

 ワインレッドの長髪に、同じ色の瞳。これ見よがしな黒い羽と尻尾。二十年近くも変わらない容姿から鑑みても明らか過ぎる程に、“人間離れした”美貌の少女。

「ねぇ」
「なんだよ」
「ふふ、好きよ」
 急に、そんな事を言い出す。
 近頃は体を重く感じる事も増えている。悪魔に目を付けられた彼は、漠然とではあるが、自分の死期を悟っていた。




 元から十分な広さの無い読書室に、居住空間としての物品も持ち込んでいるために、むしろ相当に狭い部屋と化している。冷静に考えれば、わざわざこんな狭い部屋で過ごす必要は無いのだが。図書館棟が分離している館の構造も手伝って、基本的に、この部屋で過ごす事が多かった。

 寝る間も惜しんで本を読んでいると、時には寝起きすら、この部屋で済ませてしまう。

「……マズい」
 手渡されたマグカップに満ちる暗褐色の液体を口に含み、彼は苦い顔で呟いた。
「でしょうね。そう言うと思ったわ」
 答えたのは、生気を吸い取る類いの低級の悪魔。少し違うのは、人の多い街中を離れている事。本を読むのが好きな事。それから、珈琲党な事。
 身に付けているのは、だらしなく釦の外れたワイシャツ一枚という危うい姿で。彼と揃いのマグカップを持って、その辺りをふらふらと歩いている。決して広い部屋ではないので、ぐるぐると巡る事になるが。
「……あれだ、エスプレッソ」
「正解。ま、正確にはエスプレッソ用の豆をドリップで淹れたものだけど。貴方にしては珍しく惜しいから、正解にしてあげる」
 立ち止まった時には、いつもの司書風の服装。
「この国では、朝から夜までワインを飲んでるって話だものね。だから……なのかしら、どうかしら、覚醒効果のある飲み物が好まれているそうよ」
 食欲の次に知識欲が強い小悪魔は、どうでもいい事をよく知っている。小悪魔の事を何も知らなければ、図書館勤務で頭の良い年上の優しいお姉さんに見えてしまう。
「悪酔いはしてないんだけどな」
「カフェオレにする? お子ちゃま味覚くん」
 言って、ふと思い付いた風に首を傾げる。
「ところで私がカフェオレと言うと、ごにょごにょなミルクでカフェオレにするのを連想するのは、私だけかしら?」
 本当に、余計な事さえ言わなければ良いのだが。
「どうでもいいから砂糖持って来て」
「たまにはそのまま飲みなさい」




 図書館の本を漁っていると、頻繁に変なものが発掘される。
「……あ、その辺は」
 遠くの方にいた小悪魔が声をあげて。
 後頭部付近に、獣の口の生温さと、断頭斧の冷たさ。
 咄嗟に頭を過ぎるのは、幼少期に、敷地で飼っていた大型犬にじゃれつかれ、噛まれそうになった記憶。
「──なっ」
「……怪我してない?」
「今ヤバかったよっ!? 掠った、ものすごい掠った!」
「“ちょっと問題のある本”もあるから気を付けてね……って、今、言おうとしたんだけど」
「遅い」
「それはそれとして」
「流すな」
「従姉ちゃんの事なんだけどね、あの子、なかなか諦めないのよねぇ。貴方からも言ってくれない?」
「言うも何も。現に今こうして、図書館正常化計画を実行してるだろ」
「……ああ、宝探しで遊んでるのかと思ったら、貴方なりに考えていたのね」
 え、何その無駄な努力。とでも言いたげな表情の後に、小悪魔はそう言った。
「で、その努力に何の意味が?」
「生きている間に一人で読破するのは無理そうだからな。市民に解放でも出来るなら、図書館としての存在意義もあるだろ。文句も言われなく……なる、のか?」
「確かに、可愛い女の子が遊びに来るなら歓迎だけど」
 小悪魔は指を咥えて呟く。ダメだこいつ。
「一応だけど、地上と地下で危険度順に区分けはしてあるのよ?」
 それでも、問題のある本が多過ぎるせいで、吹き抜けの大図書館にも侵出しているのだ。これでは人は招けない。ましてや子供など。
「どうする? 私がやれば今日中に終わるけれど」
 それもそうだろう。
 彼も、羊飼いが羊の群れを誘導するように、小悪魔が本の群れを空中に泳がせている光景を見た事がある。
「……いや、良い。自分でやる」
「そう」
 察したように、微笑んで。
 余計な事さえ言わなければ、ワインレッドの少女は普通に綺麗で、その微笑は一等星のように眩しくて。眩しいのと気恥ずかしので、目を逸らす。

「貴方が図書館を守るために頑張ってくれて、嬉しいわ」

 普段は問題のある性格のせいで気にならない事を意識する時、彼は少年のように、照れてしまう。




「珍しい事も、あるものね。貴方が本以外のものを買って来るなんて」

 それはまた、別のある日。

「また部屋が狭くなるけどね。観葉植物、みたいな?」
 もっとも、小悪魔の存在だけで空間は現実味を失くす。今更になって、不要だったかとも思う。それと勘違いを正しておくが、彼は本が好きな以前に、物珍しいものに惹かれるディレッタントだった。
「薔薇かな、棘あるし」
「それも分からず買って来たのね。薔薇じゃないわよ」
 あれ、違うんだ。
「棘のある花って、みんな薔薇じゃないのか?」
「……繰り返してあげる。棘のある花は、みんな薔薇ではないわ。ちなみにその花は、ブーゲンビリアよ。ビリア、ビレア、どっちでも良いけど」
 小悪魔は呆れた表情で言う。

 置き場所に困った末に、天井から、天窓の下に吊るす事にした鉢植え。
 濃密なピンク色や、あとは蔦を這わせる様子なんかが、実を言うと誰かに似ていると思って目に留まった、その紅い花は、今、改めて見ても。それに小悪魔は、薔薇のイメージともまた違うような気がするし。

「そうか。まあいいや。お前に似合うと思ったんだ」
「こはっ……」
 吐血した。
 と、そう言いたくなるくらいには、動揺していた。小悪魔は口元の唾液を袖で拭う。やっぱりダメだこいつ、とか思ってしまう。
「思ってもみなかった反応なんだけど」
「ちょっと不意打ちだっただけよ」
「不意打ち?」
 きょとん、と。
「……無自覚なのね。貴方のそういう所、怖いわ」




 平穏な日々は過ぎて行く。
 その日も読書室で、夜を明かして。

「……もう朝ね。夜明けって、恨めしいわ」
 同じ椅子に、肩を寄せ合って座って。
「そうだわ、こうしましょう。ほら」
 良い事を思い付いた、という風に言って、天窓を指し示すと、そこでは夜が止まっていた。もちろん単なる子供騙し。天窓に、羽の飛膜と同じ素材の幕を被せただけのプラネタリウム。外では変わらず時間は進むだろう。
「ねぇ、見て。二人だけの夜よ。素敵でしょう?」
「いや、夜が明けるのも結構好きだけどな」
「……んもう、貴方って時々、つれないわよね」
 つまらなさそうに言うけれど、すぐに声を弾ませる。
「ねぇねぇ、好きなところの言い合いっこしましょ?」
「いや、どうしてわざわざそんな事を」
「まずは私からね……結構バカなところとか、好きよ?」
「いきなり悪口だよねそれっ!?」
「いつになっても子供なところ。でも、体は成長したわね。髪もくしゃくしゃで、そこも好き」

 甘い声音で連ねる言葉は、次第に異様な熱を孕んでいく。

「貴方のために、私は私の全てを尽くすわ」

 紅い瞳が、妖艶な光を帯びて。

「最近、貴方の周りがうるさいわよねぇ」

 人の世は煩わしい。
 小悪魔は昼間も、容赦無く、そう断言していた。

「竃の炎にくべましょう? 魔犬の餌にしてしまいましょう? 無数の剣で貫きましょう? 他には何がお望みかしら? 貴方が望む全てを、私は叶えてあげられるのよ?」

 恐ろしく純粋な悪意の声が、謳うように囁く。
 貴方以外の全てを殺しても構わない、と。

「お前のそういう所、嫌いだよ」
「…………そう」




 蜜月は長く続かない。

 ゆっくりと、倦怠感を伴いながら、小悪魔は目を覚ます。
 まだ眠りの内にいるように思考は覚束無いが、視界に入る一筋の光の線が、朝の訪れを知らせていた。窓から差し込む白い光は、埃に反射してキラキラと輝いている。光の階、と。まどろむ頭で、小悪魔は朝の光をそんな風に形容する。
 地下書庫全体はもちろん地下階だが、この部屋だけは、天窓が備え付けられていた。そのため、朝の訪れと共に、深海に差し込む光のように、美しい光景が見られる。それに対しても、何の感慨も湧かない。

 夢を見ていた。
 それは、記憶の断片。二度と戻らない事を思えば、悪夢にも程近い記憶の再生。

 図書館の司書室と言うか、資料室。壁際にはうず高く木箱を積み上げあれ、床にも未整理の本が整列している。更に中央には無駄に大きなテーブルが置いてあるため、足の踏み場はほとんど無い。こうなると、もはや宿直室だろうか。
 猫脚のテーブルの上、何年も手付かずの読みかけの本が放置されたテーブルの片隅には、無地の白いマグカップ。本と同じ期間だけ放置されて、すっかりアイスコーヒーと化している。

 そして、天窓の下に吊るされたブーゲンビリアからは、異常な量の蔓が部屋中に繁茂していた。
 小悪魔が自身の血を与えた事で異常な生命力を得た魔の植物は、今や館全体を覆い尽くしている。

 小悪魔は椅子を傾けて座り、独り、暗い安らぎに身を任せる。

 記憶と共に朽ちていくのは、言ってしまえば退屈だ。
 色褪せて見える見慣れた景色は、つまらないものだった。

 当然、その理由を知っている。

 どうしてかしら? 答えは簡単、気のせいよ。
 最愛の者を亡くした世界で、生きる価値が何処にある?




 時間の感覚も失せるような、長い時間が過ぎて。

「お客さん? それじゃあ、おもてなしをしないといけないわね」
 独り言、空しい独り芝居。
 見せる相手がいないのなら、愛嬌も無意味だった。一人でいるという事実に気付き、小悪魔の顔からは自然と表情が消える。

 その物音は、小悪魔の耳にも届いていた。
 ちらりと、地下の読書室から、階上のエントランスホールを一瞥する。水晶玉さえ用いれば、腕の良い魔女ならば難無くこなすだろう、簡単な遠見の魔法。
 見えたのは、無粋な賊人。公的な職員かも知れなかったが、同じ事だ。
 様子を確認して胡乱に目を細めると、続けて小悪魔は、人語ではない言葉を短く囁いた。

 読書室に変化は無い。
 代わりに、図書館の暗い一角では、ばたん、と。沈黙を突き破る異様な物音を立てて、一冊の厚い装丁の魔術書が落ちた。誰が触れた訳でも無いのに、ひとりでに。綺麗に揃えられた背表紙は、およそ、自然と何かの拍子に落ちたのだという言い訳を許さない。むしろ想像力を働かすのなら、まるで、本が抜け落ちた部分の、ぽっかりと空いた黒い空間の中に何かが潜んでいて、物陰から押し出したかのような。

 しかし図書館に起こる変化もそれだけに留まって。
 そして地上階には、やかましい絶叫が喨々と響き渡る。

 魔法の力の源流は大別して二種類ある。世界に溢れているものと、生き物の中にあるもの。小悪魔は特に、後者の扱いに長けていた。

 運良く、運悪く生き残ったらしい、全身血塗れになりながら悶える狼藉者。血走った眼付きで周囲を警戒する様は手負いの獣もかくやだが、その実、無防備にも程がある。

 小悪魔は椅子を傾けて座った状態のまま、空中に『 < 』の文字を書く。
 火のルーンによる、ほんの小さな火種。小悪魔が用意したのは、それだけだった。男の足元に、燐寸ほどの怪火が力無く落ちる。瀕死の蛍ではないかとも思える、弱々しい火種。それだけで、十分だった。
 火種が血溜まりに落下した途端、茫、と。さながら、撒いた灯油の上に火を落としたように。爆発的な火勢が広まって、瞬く間に数人の男を火達磨へと変えた。
 夥しく飛び散った血は、油と同じ、血脂。使い易い燃料。それを垂れ流すなど、呪法の観点において、無防備にも程がある。

 雑事を済ませ、小悪魔は元のように、無為に目を閉じた。
 屋敷を守るだけの日々が続いていく事を予感しつつ。勝手に居着いているだけのはずだったのに、どうして自分は律儀にも留守番をしているのか。自嘲気味の感慨も、持ち飽きた。
「……餓死も良いわね」
 使う用の無い味覚と嗅覚から機能が抜け落ちた。恐らく次は、触覚を段階的に。目も見え辛く、耳まで遠くなる始末。それでも何も困らないのは、肉を伴う身体の機能は、元々あまり使っていなかったからだろうか。けれど、魔法が使えなくなるのも時間の問題で。
 体の限界と心が朽ちるのとでは、どちらの方が早いのだろう。
 とりとめもなく、そんな事を考えた。




「……日陰にもパンジーは咲くのね」

 また、ある日。小悪魔は目を閉じたまま呟いた。
「思慮深そうな可愛い子、だけど、顔が少し俯きがち」
 この日の客人は一人の少女だった。
 重い扉を全身の力で精一杯に開けた姿は何とも微笑ましい限りだが、彼女に魔法の嗜みがある事くらいは、一目見れば分かる。過大評価でなければ、雑霊を放っても無駄撃ちだろう。

「可愛い子が、無用心ね」

 小悪魔は椅子から降りて──エントランスホールの絨毯に着地する。
 かくんと、膝が崩れた。
「こあ? あ……ちょっと待って」
 もちろん、魔法使いの少女は待ったりなんかしなかった。
「…………あ……これは、やられちゃうかも」
 実力は完全に見抜いていたはずなのに、簡単な計算が出来ていなかった。
「……そう、あれね、あれよ」
 例えば、相手が仔犬だと高を括っていたら、こっちは全身雁字搦めに拘束されているのを忘れていて為されるがまま顔をペロペロされる図、みたいな。
 小悪魔がちょっとよく分からない例えを出している間に、仔犬どころではない──陽光を間近に見たらこうだろうというような強い光が、視界の全てを影も残さず照らし尽くした。



◇◇◇ 1章

 中央から遠く離れた郊外の、田園風景の広がる長閑な田舎。何処にでもいるような没落貴族の館が、そうらしい。

 出立前にパチュリーから聞いた簡潔な説明を、実の所、レミリアは大部分を聞き流していた。浮き足立って、それどころではなかったのだ。
「……おわぁ」
 幌を張った馬車の荷台から顔を覗かせて、目に飛び込んで来た景色に驚いた。深く被った外套のフード部分を、少しだけ捲り上げる。
 気の遠くなるような目眩すら感じる。鮮烈な初夏の彩りは、まるで網膜を焼こうとしているかのようだ。などと言えば、それは少々、被害妄想が混じっているか。
「田舎だなぁ」
 そうですなぁ、と気の抜けた田舎訛りの返事は、馬車の手綱を握っている、地元の農夫の声。馬の歩みも、ロバかと疑う程に遅い。ころころころと、荷馬車は進む。

 本当に長閑な田舎だった。つい先日まで都会の夜を徘徊していたレミリアにとっては懐かしく、同時に、初めて来る場所でもある。噎せ返るような緑の匂いが鼻を刺激する。牧草だろうか、それとも、初夏という季節が持つ特有の匂いだろうか。ある者は心が躍り、またある者は、これから強くなる日差しに辟易する。普段は後者のレミリアも、今だけは前者だった。夏草の匂いに、空を流れる雲に、爽やかな夏の兆しを感じる。
 レミリアが知る空色は、暗い夜の色であり、あるいは血色の緋色。けれど、ここの空は違った。空色の空。雲色の雲。ものの見事に牧歌的な田園風景が、地平線まで続いている。

「それで、お嬢さんは……」
 農夫の質問は途中ですぼんだ。おおよそ、察しているのかも知れない。レミリアは貴族然として胸を張り、流暢な言葉遣いで答える。
「あちらに見える古城に引っ越す者ですの。よろしくしてあげても、良くってよ」
 返って来るのは、半ば予想していた反応。何か言いたげに渋る表情の意味だけは、パチュリーから聞いていた。牧歌的な田舎にそぐわない、その単語を。
 曰く、その古城には──

「──悪魔が棲んでいるとか? ふん、上等ですわ」




 田舎とは恐ろしいもので、所によっては、かつての建築が残っている事も珍しくないどころか、相当数がある。パチュリーが探してきたのも、そうした数ある内の一例だった。

 小高い丘の上に、古色蒼然としたその館はあった。

 縦に並んだ細い窓の端正な立ち姿。例えば館を取り囲む鉄柵の意匠。細かい部分にも装飾の凝らされた、大時代的な美意識の作品だった。蔦の絡む外観にも、歴史を感じる。
 古城と言うのも大袈裟ではなく、実に、荘厳だ。時間の流れから忘れ去られ、百年は眠り続けていたような、そんな印象を見る者に持たせる。風雨と砂塵に晒された外観は乾燥し、石造りの壁には蔦が絡んでいた。
「……聞いてはいたけど、古い所だな。うわー、屋根が尖ってる」
 一人、呟く。たしかパチュリーは十……何世紀の建築と言っていたか。今が1899年だから……とにかく、大した古さなのだろう。
 レミリアは重厚でいかにも重そうな門扉に手を掛けて、指先に感じた痛みに、反射的に手を引いた。棘だ。
 枯れ草色になるまで干からびた蔦が、扉を固く閉ざしている。カラタチのように大きな棘のある、見た事の無い植物だった。
 まるで捕食しているような……? 少し違う。レミリアはじっとして、考える。

 喩えるなら、まるで茨が館を守るか、でなければ、未練がましくしがみついているかのように、館全体を覆っていた?

「…………」
 何にしても、おどろおどろしくて雰囲気がよろしい。小さく頷き、今度は棘に注意して扉を押した。
 一歩、中に入って見えたのは、テニスでも出来そうに広いエントランスホール。
 そして、がたん! 異様に大きな音で、扉が閉まった。同時に、初夏の気配が消え去った。季節とは無縁の暗い館に閉じ込められたような気分になる。
 少し驚いたが、風か蝶番の何かの拍子だろうと思う。

 内装を見ていたレミリアは、厚い両開きの扉の隙間から、蝶番の代わりに細い蔦がびっしりと粘菌に似た糸を引き、二枚貝の貝柱のように扉を閉めたのだという事に、気付かない。扉の外側で、レミリアの血を吸った茨の棘が奇妙に艶めかしく紅い光沢を帯び、生物的な触手じみた動きで壁面を這い回り始めた事にも、気付きようが無かった。




 色々と見て回ったけれど、館全体の意匠は漠然としか捉えられないし、逆に、細かい部分の装飾は、無意味にペタペタと触るくらいにしかする事が無い。結果的に、広いな、しか言葉が出て来なかった。広いなー、と呟きながら、ひとまずの探索を終えて。

 大広間と思しき、長いテーブルの目立つ広い部屋に気配を感じ取って、そちらに向かう。

「……ん、無事に来れたのね」
 ぼそっと興味無さげに呟いたのは日陰の魔女。この館は彼女が色々と調べて見付けて来たものなので、足を踏み入れたのも彼女が最初という事になる。書類関係の煩雑な手間も任せたので、持つべき者は頼れる友人だと、レミリアは腹の底から思う。
 年の頃は十代の半ば程……に見えるものの、魔法の影響で髪がラベンダー色になるまで完全に変色した上に、外見上の老化が止まっているらしい。単純な年齢で言えば、丁度、社会的に自立している頃合いか、どうだか。こう見えてしっかりしているのだ。実年齢で言うなら長く生きているはずのレミリアよりも。
 そんなパチュリーは、わざわざ部屋の隅の方の薄暗い場所まで椅子を運んで、それでいて優雅に足を組んで座っている。折角広い空間の大部分がデッドスペースになっているのは構わないとして、その足元に、見慣れない生き物がいた。

 絨毯に直接座ってパチュリーの足にしどけなく凭れる姿は、上品な猫を思わせる。けれど、猫ではないのだ。少女だ。外見的な特徴は、ぬめるように艶やかな紅い長髪と、白のブラウスに黒いベストとスカートを合わせた司書風の服装。腰回りを絞ったデザインが、必要以上に凹凸を強調している。そして、これ見よがしな悪魔っぽい羽と尻尾。

 レミリアは否が応にも、館に付随していた曰く付きの内容を連想する。曰く、丘の上の古城には、悪魔が棲んでいる。
「それ、どうしたの? 使い魔でも召喚したの?」
 しばし、パチュリーは不快気に顔を顰めた。手元の本のページを捲る手も止まる。
「この館を買ったら付いてきたの。オマケみたいなものよ……返品は不可だった」
 と、簡潔に。
 いや、それで良いのか。良くないらしく、“館のオマケ”が反応した。
「んも~っ、パチュリー様~、オマケじゃないですよ~。親しみを込めて『こあ』とお呼びください♪」
「…………」
 きゃぴきゃぴとした身元不明の少女と、思いっ切り無視を決め込むパチュリー。もっとも、陰気な友人はレミリアが話し掛けてもこんなものだが。偏屈で、基本的に口数が少ないのだ。読書に集中している時に声など掛けようものなら、途端に機嫌を損ねてしまう。
「えっと、こあ? 見た所、悪魔っぽいけど……」
 様子見をしつつ声を掛ける。
 悪魔という単語が意味する範囲は殊の外、広い。レミリアだって悪魔の一種で、悪魔の定義はこの大広間よりもずっと広々としている。だから身元不明のその少女は……? まあ、心配するまでもなく低級の、そこら辺にいる程度の小悪魔だろうけど。
「ねぇ、そこの小さい悪魔さん? なぁ、パチェさん?」
 二人とも答えないので、返事を催促してみたり。
「ねーねーパチュリー様~、私と一緒に良い事して遊びましょうよ~」
「…………」
 どっちも聞いちゃいなかった。
「返事しないとふとももに頬擦りしちゃいますよ~? スカートの中に手を入れちゃいますよ~?」
「っ!」
 ガツンと本の角と頭蓋骨が一瞬の逢瀬を交わす壮絶な音が響いて、大広間は荘厳な静けさを取り戻す。
 レミリアも若干、身を竦ませた。今のは絶対に痛い。
「……こぁぅぅ~。痛いです」
「あ、そう。これ以上殴られたくなかったら、おとなしくしていなさい。私だっていい加減、嫌になるわ」
 もう何回か似た事があったような言い方に、友人の気苦労は察せようというものだ。
「うふふふふ、でもこれがだんだん気持ち良くなってくるのですようふふふこけけけ」
 一応は、小悪魔の頭蓋骨の心配でもしようかと思ったら、何事か呟きながら、怪しく身悶えしている。どう言うべきか、脳がピンク色でヌルヌルの液状と化しているのではという感じに手遅れで、関わりたくない感じの雰囲気。吸血鬼でも鳥肌くらい立っても良いと思う。賢いレミリアはそっと目線を逸らした。
 レミリアには間に困ると前髪を弄る癖がある。柔らかい髪質のくしゃくしゃとした髪を掻き上げて。ふと、助け船に思い至る。
「ところで美鈴は?」
「一緒じゃないの? ……って、一人でこんな昼間から来たの? 馬鹿なの? 日光は私達の敵でしょう?」
 聞き取り易さなんてものを度外視した、もごもごとした口調。多めに喋ったと思えば、これだ。指摘の内容に関してはその通りかも知れないが、日光が敵なのはレミリアだけのはずだ。魔女も少しは日光浴でもすれば良いと思う。わざわざ部屋の端まで椅子を寄せている色白少女にレミリアはそんな意図を込めた視線を向けて、清々しく流される。
「じゃあ美鈴はまだ来てないんだ」
「見れば分かるでしょ」
「そうだね、そうだけどね。あのですねパチュリーさん、会話をしませんか?」
「どうして私が不要な労力に肺活量を消費しなければならないの?」
 その割に文句はくどい気もするがね、とは言わないまでも、レミリアはそう思う。

 肩を落とすと、長旅の疲れがどっと出てきた。
 けれど準備を待ち切れずにこうして日中からやって来てしまったわけで、この館では休む事もままならない。やらなければならない事が、残っている。大掃除とか、大掃除とか、あと……大掃除とか。
 館はひどく荒れている。外観もそうだったが、内装もだ。何週間、掃除を怠っていたのか。パチュリーがこの部屋に押し込められているのも、ここが一番マシだったという理由だろうし。

「いや、掃除って私がするのか?」
「他に誰がするのよ?」
 その通りだ。その通りだけど。
 レミリアは病弱系魔女を、半分閉じかけた目で見て、溜め息を吐いた。
「よしっ。じゃあパチェ、埃の立たない所に避難してろ」
「むきゅ」
 なにはともあれ、大掃除だ。
「そこの悪魔は……まあ、手伝ってくれないわな」
 気まぐれな猫のような態度の悪魔風少女は相変わらずパチュリーに夢中で、ただの一度もレミリアの方を向いていなかった。




 そしてはかどるはずもなく……
「パチェー、魔法で何とかしてー」
「そんな便利な魔法は無いわ。そもそも貴方が駄々を捏ねるから私が古い館を探して来たのよ? これ以上、まだ何かさせる気なの? レミィはいつもそうよね、言うだけよね」
 ちょっとひどくないかなとレミリアも思うけれど、言い返せるだけの弁舌は立たない。
「気に入らないけれど、ね」
 本当に気に入らなさそうな口調で、パチュリーは険しく眉根を寄せて更に続けた。
「保存状態は、これでもマシな方なのよ。百年以上も放置されていた館が、精々一ヶ月分くらいしか風化していない事が、異常と言えば異常なの」
 レミリアは、首を傾げる。
「何が異常か知らないけど、私はそれ、歓迎だぞ?」
「そうね。何も知らなければ、そうだわ」
 パチュリーはそれだけ言って、顔を俯けた。その何かとやらを教えてくれる親切心なんてものは無いようだ。

「もし茨を毟るなら、死なないように気を付けなさい」
「……いや、ただの掃除の話だよな?」




 雰囲気のあるお城に住んでみたい!

 そもそもの発端は、珍しく本を読んで流行にかぶれた某伯爵ファンの、いつものわがままだった。いや、実際の所、彼とは同年代なのだが、そんな事を気にするレミリアではなかった。

 ところでレミリアにはもう一人、連れがいる。いかにもインドア派な魔法使いとは真逆の健康的な若い娘で、太平楽と言うか、おおらかと言うか、何処か気が抜けている。
 数日遅れの第一声も、半分寝惚けたような口調だった。

「到着しましたー。流石に重かったですよー」

 そうして美鈴が降ろした荷物の量はと言えば、後ろから見たなら鞄にひょっこり足が生えて歩いていたように見えたかも知れない、という程だ。
 色々と諸事情のあるパチュリーや、根が風来坊の美鈴。三人のスケジュールや生活習慣が合わず、都市部からの引っ越しは別行動になっていた。加えて美鈴には三人分の大荷物をまとめて運んでもらったのだった。

「おう、ご苦労。じゃあ早速だけど、掃除と、ご飯の支度と、あと……うん、あとなんか、必要に応じた内装の入れ替えとかも含めて、全部」
「…………」
 もの言いたげな表情。
 こういう時の美鈴はすぐに口を滑らすので、レミリアは早い所、意図を汲み取ってやる。
「あっ、そうだ。こっちこっち」
 丁度良い材料があった。思い立って言うと、レミリアは美鈴の腕を引っ張って、大広間に連れていく。

「このやたら長いテーブルは私が拭いた。どうよ?」
「散らかってますね」

 でも、拭いたのだ。
 でも、揚げパンとかの、レミリアのお菓子の空き袋で散らかっている。それと、これで食料が尽きた。

「……って言うか、このお屋敷ってば電気も水道も通ってないよ!? 前に住んでたアパートは通ってたのに!」
「むしろ何故、通ってると思ったのですか?」
「不便過ぎる。近くに買い物できる所も無いなんて」
「田舎ですからね」
「私はどうしてこんな辺鄙な所に来ちゃったんだ?」
 呆然と呟いた。自分で言い出した事だが。
「…………」
 美鈴は特に呆れた表情もせずに、静かに目を細め……やっぱり少しは呆れているのだろうか。それならそうと言ってしまうのが美鈴だが、今日に限って、何か別の事を考え込んでいる。
「ところで。これからは、お嬢様、と呼んだ方が良いのでしょうかね」
「うん? うん、それ良いな。なんか……そう、あれだ、お金持ちっぽい」
「では、お嬢様。慎んで忠言させて頂きますが」
 よく出来た使用人のような物腰で、美鈴。
「……やっぱ、やめておきます」
「言えってば! これだとなんか、言ってもどうせ無駄みたいな感じじゃん!」
「えー?」
 全然、よく出来てなんかいなかった。




「すごいなこれ、何千……いや、何万とかあるのか?」

 図書館の存在は知っていたが、これは、知らなかったという事になるのだろう。館の一角を丸ごと占めているのは、吹き抜けの広大な空間を持つ巨大な図書館だ。しかしそれは、実は地上部分だけではなかったのだ。螺旋階段を下ると、地上部分より更に広大な書架の森が広がっていた。

「奥にはもっとあるわよ」
 埃を被って、パチュリーが出て来た。

 塔の下に当たる場所で、空気に満ちるのは日蔭の涼しさ。薄膜を被せたように暗い室内は、街の古書店の臭いを、更に凝縮したような空間だった。
 パチュリーが心躍るのは分かるにしても、中々に心配になる様相を呈している。そんなレミリアの心配を余所に、パチュリーは喘息も忘れてはしゃいでいた。もしかすると、レミリアの我が侭に乗じて、元から巨大図書館のある洋館を探し求めていたのやも知れない。

「まあいいや、ともかくこれ」
 ブランド物の化粧箱のような高級感のある箱を差し出す。魔法の道具、らしい。特に大切な物はパチュリー自身で運び込んだろうが、手荷物の限界から溢れた私物は美鈴に引き渡されて、レミリアも美鈴から慎重に取り扱うようにと念を押されている。そしてレミリアは箱が爆発物であるかのような取扱いをしていた。早く渡したい。
「ああ、それなら、その辺りに置いておいて」
「分かった」
 いや、その辺りって何処だよ、と口の中で愚痴りながら、とりあえずは本棚の空いたスペースに置いてみる。それから手持ち無沙汰になって、何処とも付かないその辺りを散策する。別に本は読まないが、何か面白いものでもないだろうか。
 すると、大方の予想に反して、面白そうなものが見つかったではないか。隠し部屋、とレミリアは思うが、つまり司書室か資料室だろうが、レミリアは図書館の構造なんて知らない。図書館の端に、本棚と本棚の間に埋もれるように存在していた扉を見れば、隠し部屋と思うに決まっている。

「……あれ? このドア開かない」

「そこは、開かないわよ」
 独り言のつもりだったレミリアの呟きに対して、やけに断定的な口調で、パチュリーは答えた。
「パチェがここの鍵、持ってるの?」
「鍵は全部、貴方に渡したでしょう?」
 との事で。
 レミリアはしっかりと、古めかしい鍵束の重量を、今もポケットの中に感じている。
 そういう事なら紛失しているのだろう。まさか蹴破る訳にはいかないし、後で、美鈴に大工仕事を回そうと決める。

「そうそう。さっきの道具箱は何処?」
「その辺り」
 レミリアは、さっきの本棚の辺りを指差す。
「その辺りって何処よ?」
 理不尽だ。
 まあ、気が置けない友人とは、きっと、たぶん、こういうものなんだろう、そうだよね?
 そう納得して、空いた手で頭を掻く。

「ん、じゃあ、虚弱体質なんだから程々にしろよな」

 言って、レミリアは薄暗い図書館を後にした。




「外の、裏手に捨ててあるものを見ました」
「……こあ?」
「記憶にすら残っていないのなら、結構」
「そんな事より、引き締まった良いふくらはぎですね。頬擦りさせてくれませんか?」
「嫌なんですけど」
「指でつーっとなぞるだけでも良いんで」
「ごめんなさい、嫌です」

 地上階に戻ると、よく知った声と、あまり知らない声が、二人分。吸血鬼の優れた聴覚と、無人の屋敷の静けさを併せた理由で、石材に反響した声が聞こえて来る。
 うろうろして探せば、すぐに見付かった。二人は一階の廊下にいる。まだ何かを話しているようだけれど、最初に聞こえた内容以外は聞き取れなかった。
 別に盗み聞きの趣味など無い。
 ひょこんと壁から顔を覗かせて、レミリアは思わず、息を呑んだ。

 一直線の長い廊下の先に。
 明暗の紅色が、隣り合って佇んでいた。

 同じ赤系統の色なのに、両者から受ける印象は真逆。
 橙に近い暖色系の紅色と、艶めかしい暗色の紅色と。ヴァーミリオンと、ワインレッドと。

 美鈴と、自称『こあ』の悪魔っぽい少女──小悪魔は、レミリアに気付いたのか、会話をやめる。レミリアは変な風に緊張してしまった。

「お嬢様? 何をそんな所で妙な姿勢のまま固まっているんです?」
「え、いや、別に」
 レミリア自身もよく分かっていなかったが。立ち入り難いものを、感じたのだ。
 それは、たまに美鈴に対して感じる、すぐそこにいるのに、何処か遠い所にいるような、そんな感覚。レミリアの語彙で精一杯に表現するなら、“こども”と“おとな”の違い、とか。
 よく分からないままムキになって、つかつかと歩み寄る。距離が詰まった気はしない。
「ねぇ、美鈴。そいつと何の話してたの?」
 もう数日も経つと言うのに、レミリアはまだ小悪魔とはちっとも話をしていない。先を越されたような気がしてしまう。それと、美鈴に何か言おうとしていた事があったけど、忘れた。
「では、ふくらはぎさん。後の事はよろしくお願いしますね」
 小悪魔はスカートを摘み上げ、優雅に一礼する。言ってる内容は優雅でも何でもなかったが。
「いやいや待ちましょうか。いい加減、ふくらはぎに向かって話すのやめてもらえませんか? 美鈴です、メ、イ、リ、ン」
「分かりました。なら私は小悪魔ですよ。親しみを込めて『こあ』とお呼びください♪」
「そう言われましても……私、そういう愛称っぽいのダメなんです。背筋が痒くなるので」
 思い返せば確かに、レミィにパチェと呼び合う二人を前に、美鈴は苦笑いをしていた。
「なるほど。ではここで、実は半分くらい真名とかなんかそっち系のアレだという驚愕でもなんでもない大体知ってたよみたいな事実が明らかに……」
「いえ、それでもですけど」
「うわーい。きっぱり断わられたー。もうこうなったら、こあって呼んでもらうまで美鈴さんはふくらはぎさんですからねっ」
「……えー」
 けっこう嫌そうな顔をする美鈴。レミリアは、そんな美鈴のふくらはぎを見る。けれど、ふくらはぎの良し悪しなどレミリアには分からなかった。話題の中心に据える程の価値があるのだろうか。ふくらはぎが分かれば、二人の会話に混ざれるのだろうか。
「ねぇ美鈴。ふくらはぎの話をしてたの?」
「してませんから!」
 大声を出されてしまった。よほどおかしな事を言ったらしい。
「……あは。では、美……ふくらはぎさん。後の事はよろしくお願いしますね。それではごきげんよう、またあとで」
 今度こそ優雅に一礼して、ふわりと黒を翻す小悪魔。引き留める間もなく行ってしまった。

「…………で、何をよろしく頼まれたの?」
「色々ですよ」
「色々?」
 美鈴は、少し面倒そうな表情をしていた。
「色々ですよ……力仕事全般、ですね」
「私も手伝う」
「……えー、えー?」
 こあと呼んでくださいね♪ と言われた時にも負けず劣らず、嫌そう顔。
「なんて言うか、二度手間?」
「きっぱり言うなよっ!」

 のけもの扱いされているのは、気のせいだと思いたい。




 清流のように爽やかで、大河のようにおおらかな。
 夕陽に染まる川面の色。暖かくて、少しだけ、寂しくなる色。

 背筋の伸びた長身の立ち姿は、窓から差し込む夕陽に、朱に染まっていた。
 持ち込んだ家具を運び終えて一休みしている。間の抜けた顔さえ見なければ、本当によく出来た使用人のようだ。

 働く美鈴を鑑賞しながら時間を潰していると、お腹が鳴った。
「めーりんー。なんか食べる物あるー?」
「無いですよー。明日、買って来ますね」
「ぐるるるる~っ」
 何の音だよ。自分でそう思った。一応、威嚇するライオンのものまねのつもりだったけど。
「……私の血でも飲みます?」
「あのさぁ、飲み物で腹が膨れるかと思う?」
 吸血鬼としてこの発言はどうかと思うけど、固形の物が食べたい。炭水化物が食べたい。
「それと、お前の血はなんか土みたいな味がして不味いからやだ。ゴボウっぽい感じ」
「いや、ゴボウは美味しいでしょうが」
「もういい。自分で探してくる。あ、パチェでも襲おうかな」
「また黒焦げにされますよ」
「ひどいよね。ちょっと襲っただけなのに。あとさ、パチェはなんか……普通に不味いんだよ」
 インセンスだかなんだか知らないが、いつも焚いてる香の臭いが染み付いていて、普通に不味い。
「ああもう、なんなら満足なんですか? めんどうだなぁ」
 そういう事は思っても言わないようにね?
 内心を口に滑らしてしまう美鈴に向けてにっこりと微笑み、レミリアはお手本を見せた。
「あれ、なんで変な顔してるんですか?」
 ダメだこいつ。別に変な顔とかしてないし。
 まあ、今に始まった事じゃない。
「あのですねお嬢様、私のせいにしないでください。けっこう変な顔ですから。鏡を見ると面白いですよ」
「知らないの? 吸血鬼は鏡に映らないのよ?」
 と言うか、内心を読めるなら気を使え。
「パチュリー様が言ってませんでしたっけ? 鏡の種類で映ったり映らなかったりするとか……」
 たしか鏡の魔術的な意味合いと性質がどうとかいう話だった。小難しい話はもちろん聞いてなんかない。
「ともかく、かなり変な顔ですよ」
「変な顔とかしてないし!」
「いや、変です」
「何回言うんだよっ……!」
 だんだんと、もの悲しくなってきた。
 何の話をしてたんだっけ? そう、お腹が空いたんだ。
「……そうだ、小悪魔なんてどうだろ」
「やめといた方が良いんじゃないですか? バカが感染りますよ?」
「え? うん、分かった、やめとく」
 正直、少し驚いた。遠慮の無い発言はともかくとしても、こういう言い方は、お気楽な美鈴にしては珍しい。

「じゃあ探してくるよ」
「え、襲うんですか」
「いや、普通の食べ物を探すから。なんかこう、保存食みたいなものくらい、あるでしょ」




 細い階段を昇る。
 冷たい石の壁には蔦が這っている。あまり、使われていなかったのだろうか。

 なにげなく、石の壁に絡みついていた蔦を引っ張った──その時だ。

 ずるり。
 暗い階段を歩く足が、何かに引っ掛かった。夜目は利く。レミリアは足元に目を凝らし、すぐにそうした事を後悔する。
 廊下の床は、触手じみた茨で、埋め尽くされていた。直径で女性の指程もある太い茨だ。
 思わず後ずさった足にも、茨が絡む。蛇のように体を這い上がった茨が頭に巻き付くと、すぐに視界まで覆われて、耳も塞がれた。声にならない絶叫を上げた口に、柔らかい口内を傷付けながら茨が侵入する。鼻の奥の方と目頭の下の方が、かっと熱くなって、一瞬にしてパニックになった。が、茨の勝手は止まらない。瞼を突き破り、耳朶を引っ掻き、鼓膜を掠り、鼻腔を貫いて、茨同士で擦れ合いながら我先にと潜り込もうとするかのように蠢き、脳まで茨が犇めいているような気分になって、心が苦痛と恐怖で満たされた。
「んんっ、ん~っ」
 嘔吐感に泣いた。
 擦り傷だらけの舌の上に血と唾液の混じった不快な液体が乗って。
 ああ、いばら姫のお城を訪れた、百年よりも前に来てしまった王子たちはこうなったのだろうな、という風な感想を他人事のように抱く。
 敢えてそうされているのか自由なままで許されている両手で必死に顔面を掻き分けるも、そんな抵抗は何の意味も為さない。茨の海に突っ込んだ手が引っ掻き傷だらけになっただけだった。それでも、ともかく逃れたい一心で、ちぎった茨を捨てる行為を繰り返す。

 砂場で穴を掘るような徒労を繰り返し……繰り返し……繰り返して……

 ふと、開けた視界の先で、ゆらゆらと、何処かで見た事のある悪魔の尻尾が、触手じみた動きをする茨と同じように、揺れていた。


 …………
 ……………………

 階段の下までずり落ちたレミリアは、二度とこんな奇跡は起きないような稀な体勢で目を覚ます。目が覚めた時の姿勢は、三点倒立だった。
 日中から動き回ったせいだろう。疲れて寝ていたらしい。

 殺されるような、夢を見た。
 あれは、何だったんだろう?

 前代未聞の寝違え方をした貴重な痛みを体験しながらよろよろと廊下を歩いていると、外から差し込む光に焼かれた。どうやら既に、翌朝らしい。

 さて、気を取り直して。

 一階と二階を繋ぐ中央階段を、とん、とん、と跳ねて降りる。そのままの足取りで、地下図書館に続く螺旋階段を駆け下りて行った。




「一つ、お姉さんが良い事を教えてあげるわ。新鮮な動物の脳って大体ピンク色なの。つまり、そういう事よ」

 いきなり、諭すような声が聞こえてきた。
 何の事だか知らないが、そんな事、あってたまるか。

「どうでもいいから、その脂肪の固まりを乗せるな」
「え~? いいじゃないですか~。やわらかいですよ~? これでこそ癒し系ぽわぽわ系お姉ちゃんなのですよ~」

 椅子に座ったパチュリーの後ろから、小悪魔がのしかかるように抱き付いていた。角を曲がって見えたのは、そんな光景で。
 ふむ、おたわむれになっていらっしゃる。
 大仰にそう確認したレミリアは、パチュリーへの友誼の証として、そっと視線を逸らした。黙って戻ろうかとも思った。
「いやっ、目を逸らす前に助けなさいっ!」
 見ても良いのか、と疑念に囚われる。その間にもパチュリーは襲われて、顔を真っ赤にしているのだろう。
 やがて小悪魔は、顔を見なくても神妙な表情だとありありと分かるような感嘆の溜め息を吐き出すと、ニーソックスを引っ張る手を途中で止めた。
「ちょ、ねぇ、やめなさいってば」
「すばらしい」
 ふと、視線を戻せば。
 涙目だった。真顔だった。
「……ごくり。これはもうサキュバすしかないですね。私のピンク色の脳細胞が告げています。ここはやるしかないサキュバすしかないここでやらなきゃ触手が廃る」
「聞いた事が無い動詞なのだけどっ!?」
「ちゅぱちゅぱ……これは、なんて芳醇な!」
「やめなさいっ、やめなさいってば」
 泣き出す寸前の表情で、パチュリーが小悪魔を殴っている。ぽかぽかと音の聞こえてくる、実に微笑ましい光景だ。
「うひょひょ、こあっこあっ、ここここけけ……ふふへへうふふ」
「笑い方が気持ち悪いっ!」
 レミリアも無意識に両肘を抱いていた。こんな事で身震いなんてしたくなかった。
 ところでいい加減、これは何劇場だよ、とも思ってる。
「良い反応ですねぇ……滾ります。まさか初めてではないでしょうに」
「何を言ってるのっ!? ううっ、わたしまだ17才なのよ……? そんなこと、経験があるわけないじゃない」

「──?」

 ちょっと筆舌に尽くし難い系の味わい深い趣きのある表情で、小悪魔の動きがぴたりと止まる。
 レミリアは生まれて初めて、時間が止まる瞬間を目撃した。
「違法ロリ……ですって?」
 そして聞いた事の無い単語だった。出来れば聞きたくもなかった。

 図書館特有の静謐とは別種の妙な沈黙の中。おもむろな動作で、パチュリーは懐から愛用の魔導書を取り出した。そしてぶつぶつと呪文を呟く。

「こぁ?」
 きょとん。
 レミリアの方はこの後にどうなるかよく知っているので、すぐにこの場を離れて本棚の裏に回り込み、後はしゃがんで、弱点である頭を守った。これで完璧だ。まるで隙が無い。
 爆弾を叩きつけたような衝撃で床が揺れても、髪を揺らすそよ風しか感じなかった。
「こぁ~~っ、くやしいっ、新鮮なごにょごにょ液さえあれば、こんな幼女なんかに負けないんだから~っ」
 泣き言を聞き届けてから、ひょこんと顔を覗かせ、様子を窺う。意外と焦げ痕の少ない爆心地を見て、レミリアは、パチュリーがきちんと威力を調整したらしいと安心した。パタパタと羽を動かし去って行く結構元気そうな小悪魔の事は、この際、放っておく。自業自得だろう。
 パチュリーの方はと言えば、まだ鬱憤が晴れないようで、むすっとしている。
「いや、一発ぶちかましてやったんだからさ。許してやれよ。仲良くしろって」
 途端、怒気がより一層深刻になった。
「ふざけた事を言わないで。あんなものを、好きになれる?」
 あんなもの呼ばわりだった。小悪魔は、パチュリーから蛇蝎の如く嫌われているらしい。もっとも、あの様子なので無理もないとは思うけれど。
 そんな事を考えていて、低く抑えた声で呟かれた「私は殺す気でやったのよ」という言葉を聞き漏らす。それは、憎悪にすら近い呟きだった。しかしパチュリーは持ち前の理性と自制心で、その鬱屈の全てを、深い溜め息にして吐き出した。
「……ところで、レミィの方も、多少は痛い目に遭ったんじゃない?」
「ん? いや、別に痛い目って程じゃないけど」
 忘れていたが、それを言いに来たのだ。茨を毟ろうとした時の事だ。
 レミリアは淀みなく用件を伝える。
「疲れてるっぽいから、元気になる魔法とかある?」
「無いわ。そんな事より、枕元に牛乳でも置いておきなさい」
「えー、あれ嫌い」
「だから背が伸びないのよ……じゃなくて、魔除けよ。そうね、いっそジョッキで置いてみたら?」
「いや、なんで?」
「気休めくらいにはなるから」
 パチュリーは頑なにそう言う。
 仕方ないから、美鈴に頼む事にした。




「あのー、美鈴さーん、買い出しリストに追加、お願いしても良いですかー?」

 レミリアのいる先々に、小悪魔がいるような気がする。
 それとも逆か。この館の内なら何処にでも現れるのか。

 以前、バタンと音を立てて閉まった玄関の扉の前に、小悪魔と美鈴の姿を見付けた。この組み合わせで見るのは二度目になるが、昨日のような妙な空気感は薄い。ごく普通に、司書と使用人がいるような雰囲気だ。

「インセンスにパーチメントとかが……まあ何と言うか、カビてましてね。停滞の魔法は掛けていたはずなんですけど。こあううぅ、パチュリー様にも怒られましたよ。当然、常備してあるものと思っていたようで。いえ、常備はしてあったんですが……」
「ところで、あの、ヤドリギとかって売ってるものなんですか?」
 リストに目を通して、美鈴は素朴な疑問を呟いた。
「魔法雑貨店みたいなの、ありますよね?」
 さも当然のように、小悪魔。美鈴も当然、困惑する。ついでにレミリアも困惑した。
「……探してみます」
「美鈴。パチェがよく行くところじゃないの? 路地裏曲がった先にある」
 都会は便利だったなー、とか思う。
「あ、お嬢様。いえ、それは私も分かりますけど……この近くにあるかどうか」
 しばらく悩んだ後、どうにかしましょう、と美鈴。
「美鈴美鈴めーりん」
「はいはいはい。お嬢様の食事ですね」
 あとお前の分なとレミリアは付け足した。
「こあ、パチュリー様はごはん要らないと言ってましたっけ……いや、そういう問題じゃないと思うんですけどね」
 小悪魔の苦心するような呟きにも、レミリアは賛同する。
「食費が掛からないのは結構なんだけどな、なんか違うよな、やっぱり」
 いっそ軽やかなまでに、小悪魔はレミリアを無視して話を続ける。
「美鈴さん。他に、これくらいはあるよね? というものがあれば仰ってください。無いかも知れないので」
「ああ、そうですね。じゃあ……あ、紅茶とかって?」
「紅茶は……えっと、あー、この館の人って、彼だけじゃなくて誰も紅茶飲む習慣なかったから。まあ、無いって事ですね。他にもコーヒーとかココアとか色々、適当な物を見繕ってください」
「了解しました。実は私、これでも結構詳しいんですよ」
 と、自慢げに美鈴。
「では、是非お願いしますね。あと……買って欲しい本のリストを用意したんですけど。こちらはその、手が空いてたらで良いんで」
「一応、受け取っておきます」
「はいっ、ありがとうございます。それじゃあ、これ全部」
 美鈴は、その、何処から出したのかと問い質したくなる量の束にぎょっとしつつも、勢いに押されて受け取っていた。
「ところで貴方達、金欠よね? こちらは私の財布です。歩荷のお給料だと思って受け取ってください」
「あ、本当ですか。有り難いです、切実に」
 金貨でゴツゴツに膨れ上がったビンテージ物の財布に、貧乏性の毛があるレミリアと美鈴は目を丸くした。下手をすれば、この財布が空だったとしても、美鈴の持ち歩いていた路銀に匹敵するのでは、とも。好奇心に引かれて中身を覗くと、まとまった紙幣も入っている。それに、通貨の時代も国籍もまちまちだ。これはこれで、もう少し時代を経れば博物的な貴重品になるかも知れない。

 美鈴の方も、レミリアの純朴な感心以上に、これが館の遺産とは別で、小悪魔の、ぽんと簡単に出せる私財だと言うのだから、金銭感覚の違いに驚いていた。ビブリオマニアはどうかしている。そして、レミリアの前という事もあってか流石に遠慮がちに言う。

「と言うかこれ、現役時代の小悪魔さんの戦利品なんじゃ……?」
「さて……どのみち時効でしょうけどね」
「良いんですか?」
 毛どころではなく、根っから貧乏性だと判明した。慣れていないと、こういう時に尻込みするものだ。貧乏性は直そうと、レミリアは一人でうんうんと何度も頷く。
「ええ、どうぞ。どうせ私には使う当ても無いですから」
「……はあ」
 美鈴は、時間を掛けてから頷いた。

「それでは最後に、パセリとセージとローズマリーとタイムを」
「よりにもよって貴方がそれを要求してどうするんですか」
「妖精ジョークです……って、普通にお料理用ですよ」

「美鈴美鈴めーりんっ、めーりんってばっ、小悪魔ばっかりずるい、私も欲しいものあるけどっ」
 ぴょんぴょんぴょんと飛び跳ねて、何とか美鈴の視界に入ろうとする。
「はいはいはいはい、なんですか」
「私も食べ物欲しい。お菓子が良い」
 買って来ますねと、美鈴は確かにそう答えた。
 それとまたも何か忘れていて、今度はちゃんと、思い出した。
「あと……要らないけど牛乳」
 どっちですかとも言ったが、分かりましたと美鈴。

「では、いってきます。数日中には、戻りますので」

 そして扉は、何事も無く普通に開いた。



「ねぇ、小悪魔、で良いのよね? 貴方にちょっと、話があるのだけれど…………」

 言った時にはもう、それはレミリアの独り言だった。




 ……と、いうような事がありながらも、館を訪れてからの、何事も無い日々が過ぎて。
 ただ、少しだけ、寝付きが悪く、悪夢に魘されるような事があっただけで、何事も無い日々。果たして枕元の牛乳に、何の意味があったのか。

 レミリアが図書館に足を運ぶと。

「胃がたぽたぽします~。聞きます? ほら、むぎゅ~っ」
「きゅっ、息っ、息が出来ないからっ」
「パチュリー様の(用意した)ミルクでお腹の中がいっぱいです~」
「妙な言い回しをしないでちょうだいっ!」
 ちちくりあってた。こいつら、本当は仲が良いんじゃないのか?
「あの、パッチェさん? おーい、聞いてますかー。なぁなぁ、パチュリーってば」
「ああもうっ、どいつもこいつもっ」
 確実に、パチュリーのストレスは溜まっているようだけど。
「パチェー、パ~チェ~、パ~~アアアァァチェェェェ~~、返事しろって」
「うるさいよお前もっ!」
「ひどくないっ!?」
 理不尽だ。
「だからうるさいっての!」
 いつにない大声で。
 日に日に、レミリアの扱いまで雑になっていくような気がする。

「……はあ。で、貴方、本の整理は良いの?」
「あ、そでしたね。つい読み耽っちゃって、捗ってないです。早く終わらせないといけませんし、身辺整理も兼ねてますし……はい、ではパチュリー様をからかうのも程々に、そちらに戻る事にします」
「今、からかうってはっきり言った?」
「こはははー♪」
 楽しげな笑い声を残し、小悪魔は図書館の奥に去って行った。
 その背中を見送って、感慨深げに呟く。

「パチェに懐いてるんだな、あの悪魔。仕事もするみたいだし、良い使い魔じゃないか」
「……殺すわよ?」
「何故に!?」
 理不尽としか思えない冷たい怒気の滲んだ脅しに、レミリアは悲鳴にも近いツッコミを入れた。

「じゃあ、あいつは何なの?」
「……そうね」
 ふて腐れ気味のレミリアが問うと、おもむろに、パチュリーは語り出す。
「リャナンシーは分かる?」
「聞いた事はある」
「アレは、それに近いような印象を受けるわ。私の見立てだけどね。それに、当のアレも、自分が何かなんて気にしてはいないようだけど」
「何の話?」
「黙って聞きなさい」
 はい、と素直に頷く。
「リャナン(恋人)のシー(妖精)でリャナン・シー」
「妖精?」
「ゲール語、つまりアイルランドの古語でsheeもしくはsidhe。有名所で言うと、ケット・シーのシーもこの意味ね。この場合の妖精は、自然の一部であり比較的無害なそれとは、全くの別物も含むわ。例えば、バン・シーとかもそう。いわゆる妖精のイメージではないでしょう?」
「バンシー……泣き女だっけ? このシーもリャナンシーのシーと同じなのか?」
「そうよ。レミリアにしては物分りが良いわね」
 パチュリーは膝の向きを変えた。本格的に講義の姿勢だ。レミリアも椅子を探して、そこに座る。

「シーはむしろ、広義の低級悪魔に近い……まあ、異教的なものを異教と言うつもりはないけれどね、善悪で定義するなら、比較的有害な悪性の存在よ。神の祝福を授かったシーリーコートに対して、アンシーリーコート、という言い方もあるわね」
 ──マン島のそれは特に悪質と評判で……ああ、バーヴァン・シーだとか、“吸血妖精”の例もあったかしら?

 思い出した風を装って、パチュリーはそう付け足した。

「余談になるけど、そもそも悪魔という言葉自体がナンセンスだわ。宗教や地域ごとにまるで意味が変わってくる。取り分け例の宗教では、神に背くものは全て、元から存在していたものも含めて、悪魔と呼ばれた……もちろん、広義の意味でだけど。当然、サキュバスなんてものも悪魔だわ」
「私も悪魔だな」
「私も悪魔の同類よ」
「私は小悪魔です」
 いたのか。
 見れば本を抱えている。それを置きに、近くまで戻って来ていたらしい。

「例の宗教は父性原理一辺倒ですからね。それに排他的で、文化としては尊重しますが、私はあれが嫌いだわ」

 一説には、吸血鬼が十字架を苦手とするのは信仰心の影響だと言われている。レミリアの生前の少女も、ごく一般的なレベルで教会の洗礼を受けていたようで、レミリアも十字架を見ると無性に嫌な気分になる。けれど、理由まで添えてきっぱりと嫌いと吐き捨てている者を見るのは初めてだった。流石は小さくても悪魔なのか、何なのか。

「妖精的、異教的と言えば、みんな悪魔なのよねぇ。そぐわないものを、全て敵として取り入れる、業、よねぇ」
「今は私が話してるの。口を挟まないでくれる?」
 不機嫌の極み。ほとんど凶相だとも言っていい表情で、パチュリー。
 その理由は、レミリアも察している。パチュリーは自分の知識と思索に、相当なプライドを持っているのだ。話の腰を折られるのは不愉快に違いない。知ってか知らずか、小悪魔は微笑んだまま、さらに続ける。

「いえ、少し訂正があったものですから。妖精の性格についてですが、そもそも善悪に興味が無い、が正確な言い方ですよ。結果的に残虐なのは否定しませんけどね。妖精とは無垢で無邪気なもの。更に、妖精のイメージの形成に一役買っているのは、シェイクスピアのプーカの影響もあったでしょうか。最近……そうねぇ、大体、十六世紀頃から、ね。その頃からは小人サイズで天真爛漫な可愛い妖精が増えているけれど。妖精の歴史は、もっと古い。それ以前の古い妖精は、フォークロアに語られる高位の存在なんですよ? 例えば、十三世紀の詩人、トマス・レアモント。彼は予言者でもあり、その能力は妖精が授けたもの。例えば、かの大魔法使いマーリン。彼の父親は夢魔とも言われています」

 次から次へと連想を口にする小悪魔は、まるで、頭が良くて親切な司書のお姉さんのようだ。
 例の気持ち悪い笑い方の色魔は何処に消えたのだろうかと、レミリアは半ば本気で疑問に思う。

「また、妖精と言うと、この地域、ブルターニュの伝承や童話では、ル・フェイというのがお馴染みです。Feeとはつまり、ラテン語のFate──ファタエが語源です。運命、という意味ですよ。フェアリーの語源は、実はここから来ているんですね」
 パチュリーは黙殺して。
 レミリアは、へぇ、と。
「例えば童話なら、いばら姫。贈り物をして、死の運命を予言し、更にそれを百年の眠りに変えて、悉く運命を弄ぶ。多く知られているものだと贈り物をするのは仙女だけれど、元々は妖精です。グリムのものは童話らしく完成されていて素敵ですね。エーレンベルク稿では36行くらいの短い話だったのですが、最終的には今、よく知られている通り、文章の量としては三倍以上にもなっているんです。それだけ脚色も多い、という事ですが」
「……エーレン……何? 教えてパチェ」
 レミリアが口を挟むと、どういう訳かパリュリーはそっぽを向いた。代わりに小悪魔が、小さく溜め息を吐いてから、明後日の方向に向けて呟く。
「初稿以前の原稿を、そう言うのよ。紛失したと思われていたものがエーレンベルクという修道院で見付かったから、そう呼ばれているの。言うなれば、グリム童話第0版とでも思ってくれて構わないわ。まあ、豆知識以上の意味は無いわね」
 どうでもよさそうにして。
 小悪魔は更に続ける。
「さて、いばら姫の原話は、十四世紀まで遡る事が出来ると言われています。中でもフランス起源のものが、眠れる森の美女。グリム童話の初稿に、ここから採用したと注釈がありましたっけ。まあそれで、いばら姫がフランスの民話だと言い切れる訳ではありませんが、実は、いばら姫の話のように呪いを掛ける、というのは仙女らしくないんです。だって、仙女は悪さをしませんからね。グリム童話では、初稿と決定稿を比較してみると、妖精から賢女や仙女に変更している話が結構あるんですよ、ラプンツェルのゴテルおばあさんも、妖精だったかな」

 ふと、小悪魔は足を組んで顎に手をやった。

「ところで、王様が“つむ”を国中から焼いたがために、愛娘は“つむ”を知らずに──つまり、過保護な愛情の結果、少女は純真無垢で無防備に育った、という事なのよ。15才の少女が、“つむ”で指を突いて血を流す……ああ、そういう、とか思ってしまうわ」

 そういう、って何? と、レミリアは首を傾げた。
 隣を見るとパチュリーも俯いて、手近な本で顔を覆っている。パチュリーはプライドが高いので、分からない事を恥ずかしがっているのかも知れないと、レミリアは思った。

「いやいやいや、勘違いしないで欲しいけれど、あくまで一般論として言っているんですよ? いばら姫の眠りを一種のイニシエーションとする説は、今に始まった事じゃありません。むしろ私としては、それ以上に意味があるとは思っているのですけどね。ちなみに心理学では、乙女の眠りを指して、ブリュンヒルド・モチーフと言ったりします。解釈はそれぞれです」

 話を逸らして、こほんと咳払い。

「妖精と運命の関係、という話題でしたね。この示唆として、ブルターニュにはこんな風習があります。子供が産まれた家庭では妖精の恩恵を得るため、お祝いの食事を三席分用意する、というものですが、これってつまり、三女神の伝承の系列ですよね。ノルンやモイラを始めとして、運命の女神は決まって三姉妹である事が多いんです。運命の糸を、紡ぎ、計り、切る、差異はあれ大まかにこの三つの役割を分担しているからでしょう。この役割を果たすものは、民間信仰においては女神とは限らない、ルーマニアの伝承に登場するウルシトワーレも、生後三日目に現れては、赤子の運命を予言します」

 ──つまり、運命の操作です。

「この手の話は妖精に限らず、西欧では一般的です。人を外れた能力は、神や精霊、あるいは他の何かといった、人を外れた存在に授かるものと、相場が決まっているんです。実際、生まれたばかりや誕生日の子供に運命を決定付ける事も可能ですよ。美しく可憐に、思慮と知識を、詩と踊りの才能を、行く末に祝いを、望む全てを授けましょう。他にはそう、童話のように、針が指に刺さって死んでしまう運命の呪いも、それを百年の眠りに変える事も」

 両手を広げ、全能が如き微笑で、小悪魔は謳う。

「運命の進行を茨で縛る魔法。そう、ヒトの身と魂で扱える規模にはない大魔法です。こちらは、すでにご覧頂きましたよね? 私の油断と恩情を、お忘れなく。弱者は常に、強者に許されているんですから」
 悪意の見え隠れする言い方に、パチュリーは素っ気なく答える。
「だから何? 貴方の事なんか、知った事じゃない」
 理性的にあろうとする克己の努力は、果たして徹底されているだろうか。
「人は人の意思で望みを叶えるわ。私の魔法は確かに自然の力を借りる、ただしその前提には、私の意思がある。それを、忘れないことね……あまり、魔法使いを舐めるんじゃない。人は人の意思で、その力を超えるわ」
 小悪魔の顔に、ニヤニヤとした気色の悪い笑みが浮かぶ。
 そして愛でるように、パチュリーの顔を覗き込んだ。
「ふ~ん。ええ、良いですねぇ。面白い、面白いですよ、パチュリー様」
「……言いたい事があるなら、言ったら?」
「こはっ。パチュリー様こそ、どうかされましたか?」
「ちっ……いいえ、なにも」
「素直じゃないですねぇ、まあ、そういうところが可愛いんですけど。気が変わったら、言ってくださいね。人を外れた存在である私が、人を辞めた生まれたての魔法使い“見習い”に、手ずから神秘を授けて差しあげますよ?」
「余計なお世話よっ!」
「ふふふふふふっ……」

 性格の悪そうな含み笑いが図書館に反響して──小悪魔の姿は消えていた。
 ひとしきりからかって遊んだので、用は済んだのだろう。

「いや、私には話が見えんぞ?」

 リャナンシーの話から始まったのも不明瞭で、それから妖精と運命の話になって、で、どうして、こうなったのだろう。
 声を掛けようにも、パチュリーはこの上なく不機嫌な様子で、迂闊に触れようものなら、そのまま逆鱗に触る事になりそうな予感がある。

 パチュリーがここまで苛立つ理由。
 まるで、ひどくプライドを傷付けられたかのような。

 レミリアは、なにか肌寒いものを感じた。



◇◇◇ 2章

「あっ、もしかしてこれって“学校”の教科書ですか? あはは~、すごいな~、私って学校とか行ったこと無いので、少し見せてもらっても良いですか?」
 そう言いながら、既にページをぱらぱらと捲っている。「……へぇ、最近の子は、こういう事を勉強するんですね」などと呟いて。それなり以上には楽しそうに。
「返しなさいって」
「もう少しだけ」
 軽やかに宙に浮く小悪魔。パチュリーは何とかスカートの裾でも掴んで引き摺り下ろそうと、ぴょんぴょんと跳ねて……少し訂正、半端な背伸び運動を繰り返していた。

 レミリアの知る由も無いけれど、だいぶ前に、そんなやり取りがあって……

「………………むきゅっ!?」
「………………こあっ!?」

 物音に気付くと、揃って本に視線を落としていた二人は、同時に顔を上げた。

「や、やばいですパチュリー様。もう半日くらい経ってますよ」
「半日? なんだ、まだ十二時間じゃない。よくある事よ」
「よくあるという事には同意しますけど、それじゃダメですよ、休憩にしてください」

 この前はひやっとしたけれど、やっぱりこいつら仲が良いんだろうか。

 別の日。
 色々な事が片付いたり、まだまだだったり。ひとまずは、あれやこれやの色々が落ち着いた頃。けれどまだまだ汗水流して働く美鈴に構ってもらえずに、また図書館にやって来たレミリアは、そんな二人の姿を見た。
 そして、レミリアは感傷じみた呟きを漏らす。
「学校……か。ついこの間まで、パチェは通ってたんだよな」
「レミィのおかげで中退したけどね」
 それを言われると、レミリアは「おう」くらいしか、言う事がなくなる。
「魔女になるにはサバトに出席して洗礼を受けて、なんて時代もありましたねぇ。とんと聞かなくなりましたが、現在では、そんな事はもう無いですか?」
「そうね。少なくとも私の知る限り」
「時代なんですかねー。かの悪名高い魔女狩りも、噂くらいは聞いています。魔法は一回、その時代に滅びていると言っても過言ではないのでしょうか」
「いいえ、過言よ。生き残りは貴方が思っているより、ずっと多い。それに、歴史的には見直され始めているわよ」
「多い、ですか。そうなんですかね……まあ、この図書館の蔵書も私が守ってきましたし。でも、自分で言うのもなんですが、稀有な例だと思います。近代の魔法関連の学問が、かつてそのまま、とは言い難いんじゃないですか? あ、いえ、この発言自体に他意はありません。単なる、世相へのしょうもない興味です」
「……そう? なら、いいけど。古きに習う部分は、確かにあるわ。その一方で新しい事も始めてる。そういう意味では、かつてそのままではないわね、良くも、悪くも。特に古きに習う部分が多い分野に関しては、確実に水準は落ちているでしょう。その点に関しては、復興という言葉が相応しい、とも言えるわ」
 先日のような、小悪魔がパチュリーに向けた、噛み砕いた内容の講義ならともかく、二人の間だけで難しい話をされると、レミリアは最初から完全に置いていかれる事となる。むすっとした顔をするが、二人はレミリアなど気にも掛けない。
「パチュリー様の専攻分野は隠秘学でしたっけ。すると、ここの蔵書も専門機関には及ばないかも知れませんね。そういうのが体系的に栄えたのは、近世ですし。美鈴さんに頼んで新しく仕入れられたの、結局、半分も無かったので。いえ、それでもよくあれだけ運んだなーとか感心しましたが」
「肉体労働は、肉体労働が出来る者の仕事よ」
「はは……それは辛辣な。まあ、美鈴さんは後で個人的に労うとして」
 素っ気なく言うパチュリーに、小悪魔は苦笑した。レミリアはむすっとするのをやめて、ぽけーっとする。
「図書館の本は、手の届く範囲のものだけ、自由に閲覧してくださいね。やっぱり、本は読まれるためにあるものです。この子達に寂しい思いをさせたのは、私の落ち度でしょうから」
「手の届く範囲のものだけ……ね」
 今度はパチュリーが不愉快そうに、ただし、むすっとどころではない。これではレミリアも、うかうか気を抜いてはいられなかった。
 そう言えば学生時代も、貸し出し禁止の蔵書について、よく愚痴っていた。それを聞かされていたのは、ルームシェアしていたレミリアだ。
「もちろん教員の立ち合いの下であれば、少々危険なものも、お見せ出来るのですが……?」
 それは、嫌なのでしょう?
 と、厭な笑い方で。
 流石にレミリアも、こいつはもしかしてわざとやっているんじゃないかと、疑いを持つ。その証拠に、小悪魔は実に愉しそうにしているではないか。薄暗闇に潜む、薄暗い妖精の微笑で。

「ああ……可哀そうなパチュリー様」

 芝居じみた大仰な仕草で、小悪魔は胸に手を当てて高い天井を仰ぎ、嘆くように言った。
「自分の心に素直になれば、たったそれだけで、楽になれますのに……」
 パチュリーは、口元を固く閉ざしている。
「例えばここに、そこそこ魔法に詳しい妖精がいるとしますよ? 魔法全般を、“嗜み程度”に修めています。そうねぇ……新米魔法使いちゃん相手に教鞭を取れる程度の腕前くらいかしら? ……あは♪ 誰もパチュリー様が新米魔法使いちゃんとは言っていませんよ? そんなに怖い顔をなさらないでください。ね? パチュリー様?」
「……黙りなさい」
「パチュリー様はどんな事を知りたいのですか? 私のおすすめは、中世の庶民派系魔女術。いわゆるウィッチクラフトですよ、あ~んなお薬やこ~んなお薬をぐつぐつお鍋で煮込んでみましょ~♪」
「……黙りなさいっての」
「気に入らないのですか? じゃあ、ルーン占いから始めましょう。気になる子との相性もバッチリ。十代女子必見ですよ?」
「だからっ、あんたねぇっ!」
 怒りはもはや、上手く声にならなかったらしい。喉から発散しかけた文句は、引き攣った舌に乗らずに消える。

 レミリアにも、辛うじて察せた。
 今、小悪魔が例に挙げたものは、多分、魔法としては、さほど高度な内容ではないのだろう。いや、もちろんその道を極めればその限りではないのだろうが、小悪魔の言葉のニュアンスに、そういったものは感じられなかった。ルーン占いなど、その辺の女学生でもやれる事だろう。パチュリーが学びたい魔法とは、遊びの恋占いなどではなく、刻んだ文字から火を出すような、現実に作用する魔法のはずだ。

「ふふふふふふふふふふっ……」

 明らかに、純粋な悪意から、小悪魔はパチュリーの神経を意図して逆撫でしていた。要するに、バカにしているのだ。嫌うな、と言うのは、無理だろう。上手くいっているようで、上手くいっていないのか。

「ちなみに、私が主に扱うのはアイリッシュ・ケルトの古代の魔法です。これらの文化は大部分が口承で伝わっているので、今となっては貴重な使い手だと思われますよ?」
「ふん、下らない。生贄の苦痛から魔力を抽出する、原始的な黒魔術でしょう? そしてそれは近代の価値観で言えば呪術だわ」
 パチュリーも喧嘩腰になっていた。
「うーん、それは流石に偏見だと言っておきます。まあ、そういう部分も多々あるというか神髄の一つだったりしますが」
「あら、そうだった? 一般的にどうかはともかく、貴方のソレの話をしているのよ?」
「こはっ♪ 精気をサキュバすもとい生気を吸い取るのは得意技なのですよ。こと“生気の活用”においては、他種族の追従を許しませんとも」

 小悪魔は含みを持たせて笑う。
 その手には、古びた革の手帳。

「興味が無いようで、安心しました。普通、古代ケルト魔法の手記なんて言ったら、魔女垂涎の代物のはずなんですけどね。しかも“直筆の妖精文字で書かれた原典”です。この図書館にさえ関連書籍の無い貴重品ですよ? まあ要するに、私の自分用メモなんですけど」
「興味無いって言ってるでしょう。私の魔法は科学。古典的な呪術には、興味も用も無いわ」
 誰が見ても強がりな態度。
 その愚かなプライドを上から眺めて、癒しでも感じているような穏やかな微笑を浮かべる小悪魔。

 ふと、思う。
 そもそも小悪魔に、本気で古代ケルトやらの秘術をパチュリーに継承させる気があるのかどうか。もしも、ただからかっているだけならば、こんなひどい話は無い、と。

「ま、冗談はさておき」
 冗談。つまり、本気ではなかったらしい。
「蔵書量は現在、私の寄贈本も含めて、およそ457,000冊。パチュリー様の新しい学び舎としてこの図書館が機能して欲しいと、不肖こあ、心からそう願っております」
 少し、真面目な態度。これだけは、本当にそうなんだろう。
「……それと、ですね、魔術書だけでなく、出来れば普通の本にも興味を持って欲しいとも思っているんです。珍しくて面白い稀覯本がたくさんありますよ? いえ、それこそ魔術書よりも多いくらいですので」
「魔法図書館が、聞いて呆れるわね」
 レミリアは、そもそもここは魔法図書館だったのか? という根本的な疑問すら持った。それとさっきから一言も喋ってない。
「“ちょっと問題のある本”が、現状で七割です。実を言うと、古い魔術書となると全体の二割も無いんですよねぇ。あ、猥雑な本の割合も聞きます? ピンクのカーテンに閉ざされた最深部の、こあ専用ルームに……」
「知りたくない、絶対に知りたくない。って、その二割の魔導書を見せなさいって言ってるの」
「いいえ、ともかく、いけませんよ。黒い雌鶏とか内容がえろいむえっさいむですから」
「いや、違うっての。はあ、とにかく、貴方は黙って、私の邪魔をしなければ良いの」
「申し訳ありません。18才未満の方には閲覧の許可が……規則ですので」
「この……どこまで私をおちょくれば気が済むのよ」
 パチュリーの、屈辱に歪む表情。
「こひゃひゃひゃ」
 小悪魔は爆笑寸前で崩れ気味になった含み笑いで、唇の端を痙攣させていた。
「……何が理由で、私の邪魔をするわけ?」

「──あっれ~? それを言ってもいいんですか?」

 にっこりと。小悪魔は、ついさっきまでの暗い微笑も、今しがたのふざけた笑いでもなく、明るい笑顔を浮かべた。その裏側に、ついさっき以上の暗さを潜ませて。

 そして声を出さずに、口だけを動かした。

 それは貴方がミジュクだからよ?

 傍から見ていたレミリアにも、小悪魔の顔を見ていなかったパチュリーにも、その唇の動きは読み取れなかった。けれど、何を言われるか心当たりくらいはあったのか、パチュリーは深く俯いて、震える程、拳を強く握る。そんな、パチュリーのいじらしい姿を見て、
 とうとう、小悪魔は我慢の限界を迎えた。

「こはぁぁ~~っ、この子ったらかわいしゅぎりゅ~~~」

 突然、小悪魔が奇声をあげた。
 しかもそれだけでは飽き足らず、ごろごろごろと床を転がって、ごろごろごろと戻って来た。“もんどりうつ”という言葉を知らないレミリアには、なにがなんだか分からない。まあ、喜ばしい事でない事くらいは察せるが。それは何処に出しても恥ずかしい、完璧な奇行だった。

「……パチェ、こいつは何なんだ?」
「見ての通り。最悪に腹の立つ、気持ち悪い生き物よ」

 パチュリーの説明はレミリアにとっては難しい事が常だけれど、今回ばかりは、一発で納得した。

「良い事? レミィも、こいつに心を許してはいけないわ。リャナンシーの誘惑を拒めば、そいつは奴隷のように傅くのだからね」
「ふふ、パチュリー様ってそういうのお好きなんですか? ふふふふ、そういう事でしたら。さあっ、じゃんじゃん命令しちゃってください!」
 喜々として、ヌルヌルとした動きで床を這って戻って来る。
 おい、今のは人型の骨格で出来る動きじゃなかったぞ。
「ふん。ええ、そうね……何が良いかしら」
「まずはおみ足をお舐め致しましょう」
「え? え、ちょっと待ちなさいって」
「違うんですか? じゃあ、私は何処を舐めたら良いんですか? おへそですか? 膝の裏ですか?」
「どうして舐める限定なのよ!?」
「では着替えをお手伝いしましょう。まずはくつしたから──いえ、くつしただけ、脱がしますね」
「今はその必要、無いわよね? それと何故、くつしただけ?」
「こひゃひゃだばー」
 よだれだばだばー、みたいな感じの気持ち悪い生き物が、パチュリーに襲いかかる。
 それにしても、こいつは、いちいち変な声を出さないといけない呪いにでも掛かっているんだろうか。
「近寄らないで!」
 ぽこんぽこんと拳骨を振り下ろすパチュリー。
 前にも、この奇跡のように微笑ましい光景を見た事があった気がする。
「お仕置きですか? お仕置きですね? うきうきわくわく。こあっひゃひゃひゃ」
「笑い方キモいって言ってるでしょ!」
「こあ? こきゅ……? こきょきょ……? うーん、難しいですね。どうすると可愛いのでしょう」
「私が知るわけないでしょ……」
 動いたせいだけではあるまい、パチュリーは疲れ果てた表情で言った。

「コアーッヒャヒャヒャッヒャッヒャッヒャッ……うん、しっくりくる、これだわ」

 小物っぽい高笑いだった。
 いや、絶対にそれじゃないだろう。

「大変だな、パチェも」
「ええ、大変だわ」

 まあ、大変とは言うが。
 結局のところ、なんだかんだ上手くやっているようで、安心した。
 レミリアは腕を組んで、うんうん、善きかな善きかな、と何度も頷く。

「何処が上手くいってるように見えるのよっ!?」

 痛切な悲鳴が、静かな図書館に響いたのだった。




 その日の夜。正確には、レミリアが気まぐれに毛布にくるまった、半端な時間。

 眠ったはずのレミリアは、灯りの消えた図書館を歩いていた。


 古びた革の手帳を、開いた。
 途端、
 ページ一杯にびっしりと書き込まれた、意味不明な記号の羅列が目に飛び込んで来た。崩し字なのか、それで正確な筆記体なのか、意味が有るのか、意味など無いのか、それすらも判然としない黒い文字が、そのくせ律儀に手記の罫線に沿って…………
 本能が、拒否反応を引き起こす。
 高等数学の式を見た時にも似た、しかしその何十倍もひどく強烈な目眩に見舞われた。

 これが、本物のグリモワールだ。本物の魔術書。魔法の掛かった本。決して、まともな感性の者が見てはいけない本。

 頭の中を、蟻が這い回っているような不快感がある。異端の知識を得た影響が早くも色濃く表出している。レミリアは無駄だと知りながらも頭皮を掻き毟った。もちろんそれでも、頭の中身の痒みはなくならない。更に、頭を強く掻く。ぶちっ……と、厭な音がして、手が止まる。
 恐る恐る、手の平を見れば。
 頭皮ごと捲れた数十本もの髪の毛が指に絡まり着いて、草を土から引っこ抜いた時のように、毛根と、どろりと固まった血が、指の隙間から垂れ下がっていた。
 つー。
 冷や汗か血か分からない液体が、こめかみを伝う。
 その謎の液体が、不意に、頬を這い回った。ぎょっとして、虫が顔に向かって飛んで来た時と同じ焦りを感じ、レミリアは血塗れの手で、頬をはたいてしまう。
「……はあ…………え?」
 気付いた。そう、丁度、虫が顔に向かって飛んで来た時のように、頬をはたいた自分に。
 足元に、べちゃりと。蜂くらいの大きさの蟲が。
 蟲? 違う。それは、こめかみから伝い落ちて、不意に頬を這い回った、冷や汗とも血とも知れない……レミリアの頭から流れた、黒いインクの固まりだった。
 ぞわぞわぞわ……と。叩かれたせいか、それこそ本当に蟲のように痙攣するインクの水溜りは、手記の文字と同じだ。手記を見た時に、これが頭の中に入ったのだと、レミリアはそれを当然の事として受け入れて理解した
 そして、無理もない。こんなものが頭の中にいるのなら、痒みも、不快感も仕方ない。そして、一度見てしまった以上、こんなにもおぞましいものが脳の表面を這う事に、もう耐えられなかった。レミリアは自分の頭に、強く爪を立てた。
 掻き毟りながら、羽虫を払う動物のように、強く頭を振る。ばちゃっ、ばちゃっ、と、その度に何かが飛び散って、その度に頭が軽くなって、段々と意識が遠くなって……

 跳ね起きた。

 寝相が悪かったのか、毛布はあらぬ場所に。しかし、それ以外は昨晩と変わらない。半端で適当な時間に目を覚ますのも、いつも通りだ。朝起きたとは言い難い、昼下がり頃だろう。レミリアは寝起きの目を擦って、億劫そうな仕草で背筋を伸ばす。体の節々が痛いのは、悪夢のせいだけではないような気がした。




 つまりだよ。ふかふかのベッドが必要という事だよ。
 主人ともあろう者がとりあえず掃除の済んだ適当な部屋で満足していたのは、ちょっと変だったと思う。

「ここを私の部屋にしよう」
 一際広い地下室を見付けて、レミリアは呟いた。今日は三人揃っていて、パチュリーと美鈴も、後ろから着いて来る。
「ここは?」
 極めて事務的に、感情を排して、パチュリーは頭上に質問を投げ掛けた。するとどうだろう、間を置かずに天井の暗がりの中から小悪魔が現れる。基本的に呼べば来るらしい。間を置かずに主人の呼び掛けに応えるのは、よく出来た使用人なら必須の技能だろう。
「私がこの館に棲み着いた頃には、既に機能していませんでしたが、ありがちな秘密の地下室とでも思って良いでしょう。工房になさるんですか?」
 いや、ありがちなのか? レミリアは首を傾げる。
「ええ。正方形で、石造りで、理想的だわ」
「ちょっと待っててば。何を勝手に話を進めてんの。ここは私の部屋にするって」
「どうせ寝るだけでしょ?」
「いやそれ重要だよね」
 太陽光は一切届かない程に暗く、気温も湿度も一定。しかも広い。寝室としては理想的だ。家具さえ搬入してしまえば、さぞや、それっぽくなるだろう。漠然としたイメージしか湧かないが。ともかく本能が、なんか知らんけど落ち着くわここと告げている。

「成る程。確かに、良い感じの部屋ですね。いわゆる竜穴に位置しているようです」
 美鈴まで、そう言い出す。
 レミリアの吸血鬼の感性ならともかく、何故、ここまでこの地下室に人気が出るのか。それ以上に何故、レミリアの意見が通らないんだ。
「……相変わらず、よく器材も使わないで判るわね」
 ぼそっと、やや剣呑にパチュリー。美鈴は飄々と、「普通ですよー」と。多分、そういう態度が癪に障るのだろう。感じ、とか曖昧な表現も。
「でも、それなら話が早いわ。調べる手間も省けた。レミィ。ここは私の工房にするけど、良いわね?」
「良くないって言ったわよね……こればかりは譲らんぞ」
「あのー、私もこの部屋、欲しいんですけど」

「「「………………」」」

 三名分の沈黙。
 じゃんけんで決めるのは味気無い。さて、どうしてくれようか? などとレミリアが思い始める頃。
「ひとまず、保留にしてはいかがですか?」
 意外にも小悪魔は、こういう気を回せたらしい。
「あら、貴方としても、この地下室の霊格は見過ごせないんじゃなくって? 造りからして、魔法の使用を前提としている空間よ?」
「……私は、私達の部屋がありましたから。ええ、魔術的な観点からは全く見所の無い、狭い部屋でしたけどね」
 つっかかるように言ったパチュリーに、小悪魔は、そう、静かに答えた。

「でも、折角の場所です。催し物の一つくらいは、開きましょうか」

 そう言って部屋の中央に降り立つと、何も無い空中から大きな黒い布を取り出した。空気に乗るかのように軽やかに広がった黒が、一瞬、視界を覆って、そしてふわりと床に敷かれた。レジャーシート? とレミリアは思ったり。

「悪魔とはテキトーな言葉だと、先日、パチュリー様も仰っていました。そこで今日は、常識的な悪魔について、講義の続きをする事に致しましょう」
 ──実演を交えて。

 囁き声のその一言に、レミリアは思わず居住まいを正した。

「ま、期待を煽っておいてなんですが……今回はあくまでデモンストレーションという事で簡易なものにします。用意するものは、まず、魔法円」
 黒い布には、白い線で大きな円と、その内側に三角形。
「いえ、床に魔法円を書くともっと大きなものが出来るのですけどね、ちょっとだけ、手順を省きました。本来なら、この地下室であれば、十全に儀式場としての霊格を備えているのですが……ま、その場合、掃除とかしなきゃいけませんし。また、こういった部屋が無い場合、テーブルと、クロスを敷いて代用しても大丈夫ですよ。ちなみにロープがあると、くるっとするだけで簡単に円が用意できるので便利です」
 いや、ぐだぐだだな、とかレミリアは思った。若干、身構えを崩す。
「次に、これが魔女の短剣。アサミーとか、アセイミと言いますね」
 小悪魔は手を振って、また何処からか、暗い色調の青い短剣を取り出した。持ち手の部分が円状の、奇妙な形のものだ。
「それはクナイでも良いんですか?」
 美鈴が素朴な質問を。
「はい、構いません。扱いやすいものを用意しましょう。ですが一つ、注意です。儀式に用いる道具は、未使用の物が望ましい。儀式の前に聖別も忘れずに。ま、無ければ刀印でも別に良いんじゃないですか。象徴的な意味さえしっかりしてればいいんで」
 代用品ばっかりだな。
「重要なのは一点。神聖である事です。もちろん術者自身も、清潔であるべきです──そう、お風呂上りが良いでしょう」
 どうしてその言い回しなんだ。それと……神聖?
 レミリアは首を捻った。
「頻繁に勘違いされますが、一般的な悪魔召喚は、とても清らかなものなんです。かのソロモン王の喚起した悪魔も、ぜんぜん外道とかじゃなくて、むしろ紳士的な方々です。あの方々、王様とか貴族ですからね」
 納得する前に、小悪魔の講義は続く。
「さて、短剣で十字を切るのですが、この動作に、聖句の詠唱や呼吸法を交えて行います。ここまでが、悪魔召喚に限らず魔術全般の下準備となる祓いです。それぞれの方角に守護天使や四大属性をイメージ……この時に重要なのは、魔法円を単なる図形から、霊的な領域にも存在するものとして昇華させる事です」
 一応は悪魔の口から、天使や聖別という言葉が出る事に少なからずレミリアは驚いたが、これはこれで、ある意味、神への冒涜になるのかも知れない。
「……十字……」
 少しだけ、我慢。

「いよいよ喚起に臨むのですが。本来なら最初に目的に沿った悪魔の紋章を用意してあるべきなのですがね……特に考えてませんでした。えっと、では、ラクダさんでも強くイメージしましょう。コブがあって……あとなんかこう、それっぽく、ああ、そうです、エジプトの言葉で喋るらしいです。偉大にして強大、そして強力。37の悪霊の軍勢を治める公爵。過去・現在・未来の事物について詳しく語り、女性の愛を得る事にも長けている」
 もしくは、ラクダに乗った貴婦人も良いですねと、小悪魔は適当に付け足す。
「悪魔は空想の世界に、ぽわわわ~んと現れます。さてさてここでようやく命令するのですが、悪魔が聞き入れるまで不断で続けなければならない、根気の要る工程です。もしも上手くいったとしても、気を緩めてはいけません。すかさず退去を命じ、魔法円を閉じます。さらに、儀式の穢れを現世に持ち帰るのは危険です。必ず最後に祓いを忘れずに行ってください。召喚、要求、そして退去。そうしたら、また祓い。ここまでが一連の流れです」

 ウヴァルでもグレモリでも何でもない、ただの低級の──狭義においては悪魔ですらない小悪魔は、十字を切って締め括り、静かにアセイミを降ろした。

「……と、まあ」
 これで終わりです、と。
「お風呂にも入って、悪魔に来てもらって、お願いを聞いてもらったよ、ちゃんと帰ってもらったよ、やったね、と。この内的な精神修養が、一般的、常識的な悪魔召喚の魔法、という事になります。祓いの意味を魔術的に言えば、アストラル体から霊的不純物を取り除くという事ですが、要するにこれは、雑念を払拭するという事と、ほぼ同じでしょう。悪魔召喚の目的も、その延長線上にあるとも言えます。誤解を恐れずに乱暴な言い方をすれば、ここで言う悪魔とは儀式に際して用いる道具と同列。イメージを喚起するためのシンボルですからね。例えばラクダさんの場合なら、知識を得るという目的ありきで喚起するわけですので。もっと極論を言えば、悪魔なんてものはただのオマケで、本命はその能力なのです。ラクダさんを呼ぶ事で、自己の内部にある潜在的な能力を活性化させる……つまりこうです、悪魔とは、想像力を鍛えるトレーニングの際に用いる指標なのです。更に言い換えれば、無意識との対話。ラクダさんラクダさん、女の子に告白したいんだけど、良い方法はありますか? 悪魔召喚が上手くいった場合、ビビッとあたかも天啓のように、なんかすごい事を思い付くわけです」

 途中からあまり聞いていなかったレミリアは、内的な精神修養という部分だけ拾い聞きして、まるで、美鈴がやっている武道のようだ、という印象を持つ。各所に顰蹙を買うかも知れないが、集中して精神を高めるというのは、ゆったりとした動作の中で呼吸を整え、世界と合一するイメージトレーニングを伴う太極拳のそれと似ているように、レミリアには思えた。
 余談だがパチュリー曰く、太極拳は東洋の神秘思想と密接な関係にあるらしい。美鈴が何の器材も無しに竜穴の存在を感じ取れるのも、修練の成果なのだろう。

 悪魔と言うからには、でろんでろんとした恐ろしいものを想像して、ついでに期待もしていたので、拍子抜けだった。
 そんな訳で、レミリアは怪訝に目を細めた。
「なぁパチェ。そうなのか?」
 レミリア以上に聞き流していたような態度の本職の魔法使いに、話を振る。
 ルーンの恋占いよりは本格的な物のように聞こえたが。パチュリーは、どう言うのだろう。
「そうよ。かなりひどい語弊を度外視すれば、間違ってはいないわね。精神統一によるイメージ喚起。その手法をパスワーキングと言うわ」
 との事らしい。
 レミリアは魔法を使うのに性格からして向いていないが、シンボルを用いて集中力を高めるのなら、出来るかもしれない。今度やってみよう、とか思う。六芒星くらいは知っている。
「……それで?」
 パチュリーの方はお怒りだ。
 眉間に可愛くないギャザーが寄せられている。
「まさか、私にそんな事を教えたつもりじゃないでしょうね? 知ってるわよ、常識だもの」
「だから最初に言ったじゃないですか。常識的な悪魔について、と。それにしても、よくご存知ですね。カバラの儀式が体系化されて世に知られるのは、まだ先の話のはずですが、なるほど、都会では進んだ研究をしてらっしゃるのですね」
「だったら、何の茶番だったわけ?」
「あれ? まさかパチュリー様まで期待してたんですか? 本当に悪魔にお越しいただくなんて」
 ぐっと、パチュリーは言葉に詰まったようだった。
「やりませんよ。馬鹿馬鹿しい、面倒なだけですよ。何処の馬の骨と知れない余所の悪魔に頼むより、自分でやった方が手っ取り早い。そもそも、自分の願望を見知らない存在に託す発想が、気に入りませんね。ダメよ、そんな事をしちゃ。願うのなら、この私に願ってくれないと」
 小悪魔は不快そうに目を細め、上級の悪魔を蔑ろにするような事を、平気な顔で言った。
 レミリアは思う。その傲慢な言い方こそ、悪魔らしいのではないか、と。やはり、この少女も、低級と言えど悪魔の部類なのだろう。
「ですから、茶番ですよ。デモンストレーションだとも言ったでしょう。それなのに……こはっ♪ もしかして、聞いていない振りをしながら、実は興味津々だったの? ふふ、可愛いですね」
 口を挟むかどうか、レミリアは迷った。
 難しい話は分からないが、この程度、いや、今の程度がどの程度なのかも分からないけれど、助け船を出すまでもない……と、思う。
「やめておいた方が身のためよ? だって貴方、悪魔を手懐けるのは無理そうじゃない?」
 クスクスと、堪え切れなかったように笑いを零して。
「そんな事、やってみなければ」
 息巻くパチュリーに、小悪魔は、冷やかで厳しい視線を向けた。

「やってみなければ分からない? ──じゃあ、やってみる?」

「…………」
「そう、良い子ね。ふふふ、失礼しました、パチュリー様。そういう思慮深い所が、貴方の美点ですよ。世界の真理を解き明かそうとする探究心も素晴らしい。ただ、悪魔を飼い慣らす願望と堅牢な理性には、適性が無いようです」
「ふざけないで。どうして貴方にそんな事を言われなければならないの?」
 憤然と。
「だってほら、すぐに悔しがる。負けず嫌いは結構だけど。喧嘩を売る相手は、選んだ方が良いわ」
「やってみる? ……ですって? いいわ、やって──」
 ワインレッドの髪が舞った。
 その曲線に見惚れている内に、いつの間にか、小悪魔はパチュリーのすぐ目の前に、顔を覗き込むように身をかがめていた。にこやかに微笑んで、パチュリーの唇に指を当てて言葉を止める。
「ねぇ、パチュリー様? 貴方は本当に、よく考える子だわ。特に賢くも聡くもないけれど、その分だけ、時間を掛けてよく考える子。私は貴方を、他の悪魔なんかに瑕物にされたくないの。誤解しないでね、イジワルしてるわけじゃないのよ? 過ぎた知識は、身を滅ぼすもの。ほんと、危なっかしいんだから。私はね、貴方の事を心配しているのよ?」
「いい加減にしなさいよ。誰が貴方に心配なんか」
「心配するに決まってるでしょう? だって、こんなに可愛い子が無用心なんですもの。基礎トレから始めなさいって言ってるのよ、見習い魔法使いちゃん。それか、論文を書く方が向いてるわ。ね? 駆け出しの隠秘学者ちゃん?」

 それから小悪魔は、更に一段、柔らかな笑みを顔いっぱいに浮かべた。とても、優しい表情だ。

 小さな子供に言い聞かせるような口調で。
 先生が生徒に言い聞かせる、それよりも、遥かに低い水準で、小悪魔はパチュリーに物を言っていた。

 例えば、おままごとで遊ぶ子供が本物の包丁を持ち出したとしたら、小悪魔は慌てて取り上げて、それでも頭ごなしに怒ったりはせずに、諭すように叱るのだろうか。──今のように。

 とても、優しい表情。その表情に、そんな表情を浮かべられる神経に、途方も無い悪意を感じた。

「悪魔に限った話ではありません。魔法とは、人と異なる存在とは、すべからく危険なものです。その原則を、忘れていませんか? “ちょっと問題のある本”を読んで軽く発狂とか、そういうのも珍しくない世界なんですよ? 汝が深淵を覗く時、深淵もまた……使い古された言葉ですけどね、そういう事を、本当に、忘れていないと言えますか?」

 優しい声で。諭すように。

「人間をやめたくらいで調子に乗らない事ですよ。貴方はよく考える子だから、分かるわよね? か弱い“人間”ちゃん。慣れた頃が危ないのは、何事にしても通じるでしょうから」

 パチュリーは肩を震わせ、怒りにわなないている。脳の血管が切れて、憤死すら危ぶまれるのではと、レミリアがあらぬ心配をしてしまう程に。
 深呼吸して怒りを鎮める、長い沈黙の末に、パチュリーは、
「貴方に言われるまでも無い。ええ、よく知っているわ。──黙りなさい」
 毅然とした表情で答えた。
 やはり、パチュリーは強い。レミリアと張り合うのだって、決して伊達ではないのだ。安易な挑発になど乗るはずもない。
 パチュリーは小悪魔を睨み付けると、それを一瞥だけで済まし、足早に地下室を後にした。小悪魔の方はと言えば、せせら笑う、という表現がぴったりな表情で、この期に及んで笑みを絶やさずにいる。
 前も、この前の時も、小悪魔はパチュリーをからかうような事を言っていた。

 当初の目的もあったはずだったが、今やそんな気分にはなれなかった。
 これと言って何か喋るような事があるわけでもなく、美鈴に「私は先に上に戻ってるから」とだけ言って、地上階に戻る。胃の中身を消化し切れないような、釈然としない気分だった。

「楽しいんですか?」
「そこそこ♪」

 短いやり取りを、後ろの方に聞いて。
 その続きは、聞こえなかった。

「興味の無いものには、私は何もしないわ。からかうのは好意の顕れよ?」
「だったら、お嬢様に向ける悪意は、何なんですかね?」
「……さあ?」




 太陽の都合なんて知らない、うとうとしてくるのが眠りの合図。
 でも、今夜は美鈴がベッドを用意してくれたから、いつもより早く眠るのだ。


「Petit Poucetの方が、可愛いのにねぇ。親指小僧という訳には、ちょっと可愛げが足りないと思うの。ま、それはさておき。小人の童話はたくさんあるわね。アンデルセンのおやゆび姫はとってもメルヘンで可愛らしくて、鬼退治の一寸法師はしたたかで勇敢だわ。小人は、秘められた力や巧みな技術の象徴。古くは冥界に類する地下世界の住人で、彼ら“小さき民”は隠された宝の場所を知っている。ところで、もうブルターニュ観光はした? ブルターニュの伝承には、小人のコリガンが巨石建造物を造ったというものもあるわ。この館の近くにも、歩いて行ける所に遺構があったはずだけど。そうそう、小人と言えば、妖精と同じ、可愛いイメージは近年のもので──例えば、ゴブリン。この子達は、可愛い小人像から外れた、醜い小人くん。地下の洞窟に住むゴブリンくんは、源流を辿れば小人の親戚で、近縁の存在よ。小人ちゃんがちっちゃくて可愛いからって騙されちゃダメ。あの子達の本性は、醜悪で意地汚いんだから……ふふ、な~んてね、別にそこまでは言わないけれど」

 レミリアが寝ているベッドに、美しい少女が横向きに腰掛けていた。
 その美貌は、人外である事を差し引いて尚、美貌である事に特化した美貌。ワインレッドの長髪を見て、ぼんやりと思う。

 小悪魔が、何故ここに?

「ペロー童話集のPetit Poucetも、そんな頭の良い小人ちゃんの物語よ。どんな話かと言えば、あらすじはヘンゼルとグレーテルとほとんど同じ。類話の一つと考えて、何も問題は無いでしょう。小さ子譚、と言うよりも間引きや人喰い鬼の系統の話だわ」

 小悪魔は童話集と思しき厚い本を手に、まるで読み聞かせでもするように、絹を紡ぐような優しい声で囁いている。
 傍らには、空になったジョッキが置いてあった。いっき飲みでもしたのだろうか。すごいな、と。まどろむ頭が、呑気な事を考える。

「ねぇ、“小さな”吸血鬼ちゃん?」

 目と目が合った。直後、生存本能がその瞳を見てはならないと訴えるが、その警告は遅過ぎる。
 気付いた時には視線をずらす事も出来ない程に魅入られて、

 レミリアは深く、深く沈んで、意識を滑らかに溶かされて、夜の底へと堕ちて、懐かしい夢を見る。

「あなたはどんな風に産まれて、どんな風に生きたのかしら?」




 目が覚めると、冷たい土の下にいた。

 人の子供が産声をあげて産まれるなら、怪物の産まれる時とはいつだろう?

 記憶は、無い。人間の娘と思しき他人の記憶はあるが、それは、他人の記憶だ。
 体が重い。それでも力を込めると、まず、指先がぴくりと動いた。土葬。棺の中ではなく、直接、土が被せられている。助けを呼ぼうと口を開くと、ぽろぽろと崩れてきた土が口の中に入ってきてしまった。そして、助けを呼ぼうとした事それ自体の不可解さに気付く。
 少女は、死んだから埋められているんだ。

 怒りも悲しみも、感じなかった。困惑と疑問も、弱い。まだ眠っているように、頭の中を満たす靄は濃かった。
 ただ懸命に、辛うじて動く指先で土を引っ掻く。
 非力な抵抗を続ける内に、涙が溢れた。目に入る土が痛い。より懸命に、自分の中の渇望に衝き動かされて、可能な限り身動ぎした。

 もう一度だけで良い。土の上に出たかった。

 暗く、冷たい。
 たったそれだけの世界の中で。人間ではない少女は、土の下で死ぬ事すら出来なかった。気が遠くなるような時間を過ごし──やがて、中指の先端が、風を感じた。そこから先は無我夢中。無茶苦茶に土を掘り進め、『レミリア』は身を起こした。

 暗く、寒い。寒いけれど、決して冷たくはない。肌に風の吹き付ける寒さは、新鮮だ。
 辺りは暗い。どうやら、夜のようだった。厚い雲の垂れ込めた空は真っ暗だが、その天井は手を伸ばしても全然届かないくらいには、高く遠い。

 呆然と、生まれて初めての夜に、レミリアは圧倒された。
 そう、生まれて初めて。土の下から起き返った時に、産まれたのだろう。

 察するに墓所なのだろうが、周りの様子など、ほとんど分からなかった。辺りは暗いが、まだ、目が明るさに慣れていなかったのだ。世界はとても眩しい。

 その時、ふと雲が途切れた。満月が皓々と、夜の墓所を照らす。レミリアは土だらけの手で目を覆った。
 月明かりでこれならば、太陽に当たればどうなってしまうのだろうか。目の潰れるような眩しさにも次第に慣れた後、レミリアは隣の墓に気付いた。

 掘り起こさなければならない、誰かがいる。

 レミリアは自分の時以上に我を忘れ、その誰かとは誰かとさえ考えないまま、必死に、爪の剥がれた手で土を掘り起こす。

 そして、息を呑んで硬直した。
 土の下には、美しい少女が眠っていた。両手を胸の上で組んで、静かに、眠っている。

 レミリアは自分の手の色を知っている。それは死人の肌色だ。土に汚れた灰色の指。けれど、この少女の肌は、雪のように白かった。
 生まれたばかりのレミリアの知識は、元となった人間の娘の記憶を合わせても心許ない。それでも、確実に分かる事があった。

 柔らかな金髪の少女は、この世界で最も可愛らしい。
 それと同時に、自分が守らなければならない存在だ。

 レミリアは震える手で、少女の手を取ろうとする。すぐにやめた。土塗れの手で触って良いものではない。汚れた服で慌てて手を拭い、多少はマシと言える状態にすると、レミリアは深呼吸の後、怖々と、少女の手を取った。

 冷たいが、温もりを感じる。
 瞬間、レミリアの全身が震えた。

 思っていたほど、覚悟していたほど、『妹』の手は重くはなかった。まるで──レミリアは他人の記憶を探り当てる、そう、冬の季節、最初に降り積もった淡雪を掬い取ったかのようだ。
 軽く、繊細で、今にも解けて消えてしまいそうに、儚い。
 その“重さ”に、意思とは裏腹にレミリアの全身は痙攣を起こし、ついには少女の手を取り落してしまう。あっ、とあげた声は他人の声に聞こえた。硝子細工のように割れてしまうかと危惧したが、幸い、少女の手は元の位置に収まった。

 啜り泣きで号泣しながら、レミリアは空を見上げた。

 自分が情けない。
 だけど、これはあんまりだろう。無理だ。妹の手は、あまりにも重かった。

 どれくらいの間、そうしていただろう。東の空が白み始める頃、レミリアは再び、眠る少女の上に優しく、土を被せた。
 自分が目を覚ました事に誰も気付かないように土を元通りにして、ひっそりと、その場を後にした。




 何処とも知れない故郷で目を覚ました、あの後。臆病な野兎のように、レミリアは生き伸びた。
 草葉の音にも怯えながら、日々を過ごす。そんな中でも、幾つか分かる事があった。

 どうやら、野犬に襲われても返り討ちに出来る程度には、自分はそこそこ強い事。もう一つ、人間達の話を遠巻きに聞いて知った、『吸血鬼』という、自分の境遇に合致する怪物の存在。

 曰く、心臓に杭を打ち込まないと、死体が起き上がるとか。
 レミリアが言うのも何だが、いやまさか、その程度の事で死体が起き上がるだろうか。しかし、その実在は事実のようだ。人々は血を吸う化物である吸血鬼を、親しみながらも恐れていた。

 飢えて、捕まえた野犬の血を啜る。すると一時だけ、死体のような灰色の肌は、死人のような蒼白さを取り戻した。森に入って来た人間を襲う事もあった。人間の方が、食べ甲斐があって良かった。御馳走だ。

「そうね。この時点では、現在の時点で定着している吸血鬼像は出来上がっていないのよ。大衆に膾炙するのは、ドラキュラ伯爵の刊行以降だわ。元はと言えば、家付きの悪戯妖精の例を除けば、一般的には、いわゆる起き上がる死体」

 木に背を預けてじっと座るレミリアは、樹上から注ぐ、聞き覚えの無い艶然とした声音を聴いていた。

「吸血鬼の故郷と言われるスラヴ圏では、気候的な関係から、腐敗しない死骸が墓から発見される事が多かったらしいわね。腐敗しないと言っても、表面の脂肪層が屍蝋化するだけで内臓から先に腐敗していくから、赤黒い腐汁が生成されるとか……ま、私も実際に見た事は無いから眉唾だけど。まあともかく、その結果、墓を暴いて見付かった死体を突っつくと、赤い液が流れて来て、吸血していると誤解された、という説もあるけど……これもどうかなぁ、信憑性無いなぁ。あともう一個、吸血鬼の伝承のルーツには、長い嘴で犠牲者の血を吸う夜鳥、というものもあったわね。私はこっちの方が近いと思う。夜鳥かどうかは知らないけど、きっと何かの土俗の怪物だったのでしょうね」

 夜に舞い、血を吸い取る、人ではないもの。そんな、幻想の生き物だわ。

 レミリアは無言で、幻聴に耐える。
 益体の無い事をする余裕は無い。

「……惨めね、可哀そう」

 じっと膝を抱いて、レミリアは腕に顔をうずめた。




 そしてまた、一夜が明けた。

「──ふふ、朝茶は福が増すわね」

 びっしょりと汗を掻いて仕方なく目を覚ましたレミリアは、柔らかな、これくらいなら耐えられる朝の陽射しのシャワーを浴びながら、優雅に囁いた。

「やっぱり、紅茶はアールグレイに限るわ。上出来よ、流石は美鈴ね」

 庭の片隅に白いテーブルと椅子を置いて。優雅なティータイムを楽しむ。貴族の嗜みだ。
 レミリアは、傍らに控えた美鈴に、横目で目線を送る。

 さあ、何か気の利いた瀟洒なジョークでも返しなさい。

「……お嬢様」

 美鈴は、ひどく真摯に目を伏せた。
 ためらいがちに何度も口を開いては閉じを繰り返し、やがて決意を固めたのか、そろそろ首が痛くなってきたレミリアと、真っ直ぐに視線を合わせた。

「……それ、烏龍茶です」
「………………マジかよ」

 疑いを胸に、紅茶のカップに注がれた茶色の液体を口に含む。
「……これ、烏龍茶だわ」
 違いの分かるレミリアだった。
「よく冷えてて美味いな」
「夏ですからね」
「次からは、ちゃんとコップに入れろよな。それと朝からお腹が冷えるのは良くないよね」
「いえ、お嬢様が……まあ、いいです」
 優雅には程遠い朝になった。
「美鈴。今日の予定は?」
「いつも通りですよ。目の前の事だけ、どうにかするだけです。そろそろ手の付け所が分かる感じになって来そうなんで、やりがいもあるのが幸いです」
「そう。まあ、いいんだけど」
 何故だか今日は、美鈴を頼りたくなる。

 あんな夢を見たせいだろうか。

「その前に、お嬢様の朝ごはんですけど」
「えー、おなか減ってない」
「起きたのなら食べてください。朝食は大事ですよ」
「むー」
「フレンチトーストの仕込みが済んでいるそうなので、それを焼かせてもらいましょう」
「うんっ、なんかオシャレっぽいから良いよ」
「……ところで、意外と元気ですね」
 美鈴は、首を傾げる。
「何の事?」
「何の事も何も、お嬢様がどんな夢を見たかなんて、私の知る由もないので」
 夢の話などしていないが、美鈴はそう言った。
「ちなみに、どんな夢を?」
「んー……忘れた」
 夢なんて、そんなものだ。
「そうですか。まあ、ともかく、次第に手心は減っていくはずです」

 彼女は、そこそこどころか微塵も、楽しんではいないでしょうから。

「……?」
「お嬢様。このお城の領主になるんでしょう? だったら、私に出来る事は何も無い。お嬢様が、何とかなさってください」

 意味も分からないまま、頷いた。

「殺されないようにだけ、気を付けてくださいね」
「それ、似たような感じの事をパチュリーにも言われたけど……何の話なの?」




 レミリアたっての強い希望で、全員で集まって、午後のティータイムを満喫する運びになった。

 場所は大広間。そしてレミリアは、お誕生日席に当たる場所の背もたれの大きな椅子にどかんと腰を据えて、美鈴を待っている。

「レミィ。私、今とても忙しいのだけど」
 桂馬に跳ねた位置に、パチュリー。
 半ば無理矢理な形で連行したせいか、虫の居所が悪いようだ。
「そもそも私は、紅茶もあまり好きじゃない。お茶菓子だって食べたくない。それに今、とても忙しいの」
 二度も忙しいと言った。それなりに忙しいのだろう。
「なんかしてたの?」
「してたわよ。大事な実験の準備があるの」
 そう言われてみれば、パチュリーは図書館ではなく、別棟の一室に構えたらしき自身の工房に籠っていた。よほど大事な準備のようで、何かいじる疑惑のあるレミリアはもちろん、知識のある小悪魔も中には入れていないと聞く。

「まぁまぁ、これも息抜きですよ、パチュリー様」

 可愛らしい声だった。
 例えば、絵本。楚々と咲く桃色の花が楽しげにおしゃべりする場面があるなら、こういう音色が聴けるのだろうかと思わせるような。甘くて、少し舌っ足らずな声。
 花の微笑を浮かべ、両手にマグカップを持ったショートボブの髪型の少女が、紅い髪をはずませてやって来る。あどけない容姿は、少女と言うより女の子と言った方が近い。

 ……いや、誰だよ?

 疑問に思うレミリアの視線を意にも介さず、外見年齢で言うなら10才にも満たない女の子は、パチュリーの隣に座った。

「さあ、私の愛を注入したミルクココアを」
「そこはかとなく聞きたくないのだけれど……愛、ですって?」
「ぶっちゃけると、体液です」
「遠慮するわ!」
「元気とか出ますよ?」
「遠慮するって言ったでしょうっ!!」
「こはっ♪ 冗談ですよー、冗談。ただちに影響の出る量では無いので安心してください」
「それの何処を安心しろってのっ!?」

 なんか、誰だか分かった気がする。

「お待たせしました、お嬢様」
 小悪魔に少し遅れて、ティーセット一式を持って美鈴が。一緒に来た所を見るち、二人でお茶会の準備をしていたのかも知れない。
「クッキーだっ」
 欣喜雀躍。服から飛び出た翼がひょこひょこと動く。
「ねぇねぇ美鈴、これスコーン? スコーンなの?」
「スコーンですよ」
「王様みたいだねっ」
「そうですね?」
「あとなんか分かんないやつ」
「マカロンです」
「実在したのかっ!?」
「ええ、マカロンはフランス発祥のお菓子でして地域によって種類が……と、小悪魔さんの受け売りですが。私の洋菓子のレパートリーは簡単なものだけなので、ほとんど小悪魔さんがやってくれ……いえ、バター混ぜて、メレンゲを泡立てて……知りませんでしたよ、お菓子作りが力仕事だったとはね。私も中々、頑張りましたとも」
 微妙に目を逸らして、ぶつぶつと美鈴。
 その小悪魔はと言えば、パチュリーのほっぺにマカロンを押し付けている。「こあー」「むきゅー」「こ~あ~ん~」「むきゅーっ」と、パチュリーは嫌がっているけれど、傍目には楽しそうだ。
「美鈴」
 呼び掛けるだけで命令して、口を開けて待つ。
 美鈴は少し悩んだ後、大判のミルククッキーをレミリアの頬に押し付けた。
「違うよねっ!? でも惜しいっ。数インチの誤差だった」
「どうしたらよかったんですか……」
「もう、いい……」
 美鈴の手からクッキーを受け取って齧る。
「これは私が一から作ったんですよ」
「ええ、美味しいわ」
 なるべく厳かに言って、緩む頬を引き締める。
「それは何よりです。顔にも書いてありますね」
「前々から思ってるし、注意もしてるはずだけど、美鈴は遠慮って知らないの? 一言、多いんだよ」
「そうですか?」
 どうやら自覚は無いらしかった。
「あー、家事を万全にこなせて気が利く上に腕が立って時間や空間も操れる完璧なメイドさん雇いたいなー、できれば人間で」
「それはたしかに、すごい人間ですね。人間かどうか怪しいですけど」
「レミィ。そんなのがいたら確実に人外よ。いえ、私達の中でもぶっちぎりで」
「いや、そもそもメイドってそういうのじゃないような……」
 満場一致で疑問視された。
 咳払いで誤魔化す。
「まあともかく、召し上がってください」
「うんっ」
 我慢しても、弾けるような笑顔が浮かんでしまう。
 長いテーブルの上には、思い付くだけ作ってみました、と言うような様々なお菓子が並べられている。童話か夢の中でしか見れないような光景だ。主なものは焼き菓子。マカロンにクッキーに、スコーン。スコーンに添えられている白っぽいのは、多分クロテッドクリーム。その隣の黄色っぽいのは?
「それはレモンカードです。レモンの果汁と卵と砂糖を煮詰めたもので……カードとは、凝固という意味だそうです。私も前に作ってみた事あるじゃないですか。その時はパンに塗って」
「あ、あれなんだ。ふ~ん」
 他にも、見慣れないものがたくさん。変わった所では、クレープを四角く畳んだもの。
「そちらはガレット。ブルターニュの郷土料理で、デザートではなく食事にもなるそうですが、それの中身は生クリームとフルーツです。要するに、お皿に乗ったクレープ、でしょうか。フォークとナイフでお召し上がりください」
「……なんか、すごい量だよね」
 食べ切れるかどうか、心配してしまう。
「お礼なら、私ではなく小悪魔さんに」
 美鈴が横目で言うと、レミリアが口を開く前に、小悪魔は答えた。
「いいえ別に」拒むように素っ気なく、「もう百年振り以上ですからねー、久し振りにやったら楽しかったもので、ついはりきってしまいました。それにむしろ、私はパチュリー様のためにと作ったんですから。お菓子作りで大事なのは、オーブンの温度よりも、大切な人の為に作る気持ち、愛情という隠し味です。そう、愛情すなわち体液です」
「……いや、貴方ね、良い事を言っている顔で、自分が何を言っているのか分かってる?」
「パチュリー様。体液の混入は私が阻止しましたので、ご安心ください」
「……いまいち、信用ならないけど」
「毒見も済んでいます。ほら、お嬢様は何ともないでしょう?」
 おい待て。
「そうね。折角だから、頂いてやらない事もないわ」
 パチュリーがぼそっと、そっぽを向いて小さく言うと、小悪魔は満足したように笑う。色々とおかしい部分もあるけれど、基本的には……いや、どうなんだろうか。ともかく、幼い顔立ちに浮かぶ優しい笑みは、パチュリーにだけ、向けられていた。


「コーヒーはドリップの場合、沸騰してから少し待つのが基本です」
「紅茶は沸騰したらすぐ、ですね。高温で蒸らすと、ポットの中で茶葉が跳ねるんです。蓋をして待って、蓋を取った時の感動と言ったらもう……私の語彙では言葉に出来ません」
「分かります。コーヒーもそうですが、お茶は淹れている間も至高なのです。たまに面倒で、だばーっとお湯を注いじゃうのは秘密ですけど」
 パチュリーは、物を食べるのと同時に口を動かせない。そのためか、小悪魔と美鈴は、そんな話を始める。レミリアは、はむ、とスコーンを食べながら、話をぼんやりと聞いて。
 スコーンと言うと、しっとりとした食感があるけれど、このスコーンは焼き菓子のような感じで、外がサクッとしている。焼きたての美味しさだ。小悪魔は焼き菓子が得意なのかも知れない。やはりぼんやりとスコーンを味わいながら。

「紅茶の出涸らしを絨毯に落として、それを箒で掃くと良いんだよね」

 レミリアは、渾身の薀蓄を披露した。

「お嬢様。それは緑茶と畳でやってくださいね……と、朝にも、朝茶は福が増すとか言ってましたけど……何処で覚えて来るんだか」

 なにか、違ったらしい。




 ところで、いっぱしのレディがお茶会で出すべき話題とは何だろう。レミリアには全然、分からなかった。

「……そういや、パチェとか美鈴は夢って見るの?」

 朝の事を思い出して、レミリアはそれを、素朴な質問のつもりで言った。
「見ない」
 パチュリーは即答。
 そして小悪魔はにやにや。
「こはは?」
 触れない方が良さそうだ。

「美鈴は?」
「いえ、記憶に残るような印象的な夢は見ないですね」
 美鈴が意地を張る理由も無いので、やっぱりそんなものなんだろう。レミリアだってその日の内に忘れる。実際、明け方の夢など、もう覚えていなかった。本来ならここで終わる話題は、まだ少しだけ続いた。
「小悪魔さん」
「こあ?」
 ショートボブの髪を揺らして、パチュリーに抱き付いていた幼い女の子が振り返る。
「私は何か面白い夢を見てたりします?」
「あの、いくら私だって、プライバシーくらい守りますよ?」
 少し心外そうな困った顔で。
 この直前までにやにやしていた色魔は誰だったんだろう。
「私は気にしませんから」
「……えっと、じゃあ、一回だけお邪魔したんですけど。その時は、巨悪に挑んで世界を救う系の、少年っぽい夢でした。これ、言っても良いんですか?」
「はい、別に。むしろ昔から言ってますし。やっぱり今でも憧れてるんですね」
 ごくさり気ない口調で美鈴は言う。
 相変わらずの、とぼけた表情で。何を考えているのかは、よく分からない。
「…………」
 レミリアは、どうしたら良いのか分からなくなって。生まれてしまった奇妙な間を、美鈴の頬にスコーンを押し付ける事で回避した。



◇◇◇ 間

「ささ、美鈴さん。大人組も楽しもうじゃないですか」
「あ、元に戻ったんですね」

 夜、使用人用の比較的質素な造りの部屋に、小悪魔がやって来た。
 漫然と過ごしていた美鈴は、小悪魔の手荷物よりもまず、尻尾の方に目線が行って。
「……器用な尻尾、ですよね」
 行儀が悪いと、やや咎める風に言ったのだが、小悪魔は得意げに頷いた。
「そうでしょうとも。実はこれ尻尾じゃなくて触手ですから。うにょんうにょんにゅりゅにゅりゅ動きますよ」
「へぇ、それは気持ち悪……あ、失礼。便利ですね」
「お気になさらず。触手に対して気持ち悪いは褒め言葉です」
 ちなみに羽の方はただの飾りなんですけどね、と言いつつ、踵で扉を閉める。
 小悪魔は両手と触手を器用に使って、グラスやら何やらを持ち運んでいた。飲みましょう、という事らしい。
「じゃ~ん、シャンパンです。お菓子もこの通り完備です、なんか古いチーズです。もう飲む機会も無いので、ぱぁっと華やかにいきましょ~」
「……と、言われましてもねぇ」
 美鈴の表情は渋かった。
「折角なら、楽しいお酒を呑みたいものですが」
「ワインも古いのがありますよ? 持って来ましょうか?」
「そうではなく」
「つまり、迂遠に言っていますが、私とでは楽しくないと?」
「ええ、そういう事ですね。貴方とでは、楽しくない」
 きっぱりと。
「……そですか。いえ、構いませんよ。貴方はそういう方です」
 美鈴の対応は半ば予期していたのか、頓着する様子も無く言って、小悪魔は一人でコルクに手を添える。
「あ、開きませんねこれ」
 ビクともしない栓を握って悪戦苦闘。
 触手まで動員しているのに貧弱な事に変わりはないようだ。豊富な魔法の知識を持ち、また、実際に使いこなす事も出来る小悪魔の日常的な欠点に、美鈴は少しだけ苦笑する。
 程無くして、諦めたようだ。
「ところで美鈴さんは昼型だと思っていました。夜更かしすると、レッドキャップやらトミー・ロウ・ヘッドがやって来ますよ」
「それは怖い。でも、貴方のご同類でしょう? よろしく口添えしておいてください」
「まあ心配しなくても、この館の悪い妖精は私だけですけどね」
 そうですかと美鈴は答える。

 小悪魔と美鈴の間で、話す事など何も無い。
 分かり合えない事くらい、美鈴は一目で見抜いていた。小悪魔の側も同じだろう。だから、夜にまで小悪魔が訪ねて来るのは、不可解だった。

「そうですね。でも、世間話くらいはしましょうよ」

 ああ、それなら。
 美鈴は軽く応じた。分かり合えない事を前提に、表面だけ友好的に振る舞うのは、別に悪い事じゃない。そもそも嫌っている訳ではないのだ。おしゃべりは素直に楽しい。

「例えば、甘寧という方。いえ、三国志が図書館に置いてなく詳しくもないので恐縮なのですが。義賊のような事をしていた彼は、大勢の愉快な手下に囲まれていたそうじゃないですか。貴方の持っている鈴の音を聞いて、これだっ、と思いました。人間に程近い無名妖怪が紛れていても、誰も気付かないでしょう」

 美鈴は何も答えずに、にこりと微笑んだ。
 小悪魔も困った風に苦笑する。
「いえ、だからどうしたという事も無いのですけどね」
「はい」
「あるいは、“西欧から見た一般的な華人像”とも」
「成る程」
「シルクロードなんて東西交易路は、それこそ紀元前からあったわけですから」
「ええ、成る程」
「……あの、肯定か否定か、どちらかに取れる事を言ってくれませんか?」
 実を言うと、自信の無さそうにする小悪魔が珍しくて、面白がっていた美鈴だった。
「美鈴さーん?」
「私は無名の小鬼です。悪鬼羅刹の類いの最下層です。角の一本も生えてない、ほとんど人間と変わらないくらいに、力の弱い存在です。それで良いでしょう?」
 そうでなければおかしい。自分にそう言い聞かせるように、美鈴は言った。起きている時に、夢は見ない。

 広義の悪魔の最下層は不服そうに目を細め、投げやりに嘆息する。

「……ま、どうでもいいんですけどね。それでは、来ただけになっちゃいますけど、私はこれで失礼します。おやすみなさい」

 そして普通に扉を開けて、それから夜に溶けるように消えた小悪魔の横顔は、唇の端を噛んだ、苛立ちの募る表情だった。
 痺れを切らすのも近いかも知れない。
 過たずにそう認識しながらも、美鈴は小悪魔を引き留めはしなかった。



◇◇◇ 3章

「それじゃあ、昨夜の続きからにしましょうね」

 ぐっすりと眠るレミリアの耳に、そんな声が届いた。

「今夜のお話は、緑の蛇。知らないよー、って言う人の方が多いかも知れないわね。簡単に言うと、パゴダの国の王女レドロネットに恋をする蛇のお話よ。作者はマリー・カトリーヌ・オーノワ。オーノワ婦人は、ペローと同時代の作家だわ。それと、パゴダも分かんないわよね。十七世紀頃に、ヨーロッパで中国の磁器や日本の伊万里焼きが流行したの。そんな中、マイセン磁器の工房が作った中国風の人形が、パゴダ人形よ。首を振る仕掛けがあったりして、童話に登場するパゴダ人形も、クルミやアーモンドの殻で作った楽器で演奏をするのよ、素敵よね……そういえば、うちにもバイオリンがあるけれど、いや、飾りと化してるわね、あれ。まあ、それはおいといて。悪い妖精の呪いで醜い姿にされたレドロネットだけど、彼女は海で漂流した末に流れ着いたパゴダの国で、女王様になるのよ。そして実は、蛇も魔法で姿を変えられた王子様なの。緑の蛇は、そんな二人の恋物語」

 ──さて、じょおうさま。

 あなたが出会ったパゴダ人形は、鈴の音色で演奏をするのかしらね?
 それとも……“緑の服を着た虹色の彼女”は、王子様だったりした?

 囁き声は次第に遠くなり、聞こえなくなっていった。レミリアは今日も、夢を見る。




 生活は基本的に森の中。動物の生肉が主食だった。
 たまに、街に出る。何故かは分からないが、無性に人恋しくなる事があるのだ。何がそうさせるのかと、レミリアはいつも不思議に思う。人間の娘の記憶がそうさせるのか、吸血鬼である以上は人を襲う本能があるのか。
 もっとも、出処の曖昧な感情を差し引いても、街は魅力的だった。森の中には無いものが多くある。
 人の世界の常識は知識として他人の記憶に残っていた。盗んだ服を着て、サイズの合わない外套で身を隠せばある程度は溶け込めると、そう考えてはいたのだが、実際の所、レミリアの姿は珍奇なものとして街の人々の目に映っていただろう。

 彼女に出逢ったのは、街にもすっかり慣れた頃だった。どの程度に慣れたかと言えば、地元の孤児と顔見知りになって一緒にパンを盗むくらいなのだから、レミリアの適応力たるや、相当のものだ。

 なに? この、みすぼらしいいきもの。

 率直な、レミリアの感想だ。

 商店の立ち並ぶ街の中央通りからは少し外れて、やや太い往来の中心。旅の途中らしい、しかし路銀でも尽きたのか。見慣れない顔立ちの人間が倒れている。そのあまりの珍妙さ故か、善良な部類の人々も、遠巻きに見守るばかりだ。

 拾った木の枝でつっついてみるが、ピクリとも反応しない。
 放っておけば飢えて死ぬだろう。レミリアは散々迷った末に、手の中のパンを、赤毛の彼女に差し出したのだった。



「いやー、助かりましたよー」
 問い質しい事は多々あったが、背中をばんばんと叩かれては、質問もままならない。まあ、そいつは勝手に喋りはじめたが。
「どうも、私は旅の者です」
 見れば分かる。
「この国、この地方の者ではありません」
 それも見れば分かる。
 肌の色が違うし、服装も見慣れない。言葉は通じているが、何処か怪しい。大仰な身振り手振りで乗り切っている間に、気合で覚えたような感じだ。やけに馴れ馴れしいのは性格だろうか。レミリアは、この旅人ならば、世界の何処へ行っても通用してしまうような気がした。

 世界って、広いの?

 レミリアが質問すると、旅人は笑った。
「初めて、喋ってくれましたね……ええ、広いですよ、すんごく」
 旅人は首を傾げる。
「私と一緒に、来ますか?」
 レミリアは、こくんと頷いて。

 そしてレミリアは、奇妙な華人と旅を始めた。




「それで、お嬢さんは……」
 レミリアはその呼び方が好きではなかったが、かと言って他に何も思い付かなかったから、仕方なく受け入れている。
「僵尸。屍鬼のようなもの、ですか? あれ、背中が膨らんで……羽が生えてるんですか、これは珍しい」
 美鈴はレミリアの正体を、そう評した。
 故国で言う所の、動いて人を襲う死体らしい。時には生き血を啜る、恐ろしい怪物だとか。

 そして美鈴は「実は私も妖怪なんですよ」と。
 村から村への道すがら、美鈴は一人で、色々な事をよく喋った。

 妖怪? レミリアが首を傾げたのは、大陸の妖怪に馴染みがないから、もちろん、それだけではなかった。
 妖怪、つまり、レミリアや他の怪物、その類いと言うには美鈴の肌色は健康的なのだ。細身だが張りのある肢体には、鍛え抜かれた美しい筋肉が備わっている。健常、ものすごく、健常で。とてもではないが、妖怪には見えなかったのだ。
 また不思議な事に、美鈴は“妖怪退治”を生業にしていた。
「いやいやいや、違いますから。そんな大それた事はしていません。ただちょっと、上手く巡っていないものを上手く巡らせる、ほんの些細な手助けです」
 とは、美鈴の談。
 何にせよ、美鈴は困っている人を助けながら、大陸を西へ西へと徒歩で移動してきたらしい。要約するなら、“人助け”をしている内に、いつの間にやら故郷を遠く離れた土地を旅する羽目になっていたようだ。
 おかしな話だ。妖怪、つまり怪物でありながら、人を助けると言う。
「表面的に、そう見えるだけですよ。言ったじゃないですか。私がするのは、ただちょっと、上手く巡っていないものを上手く巡らせる、ほんの些細な手助けなんですよ」
 つまり、“気の巡りを良くする”のだそうだが。
「私は“普通の人”ですから、その程度の事しか出来ません」
 レミリアの知っている普通と、美鈴の、華人の言う“普通”には大分、隔たりがあるようにも思えた。しかしそれを言葉にするだけの説得力がレミリアには無かった。




 身を切る冷たさは、冬のものだ。
 数年が経った頃に訪れた、小さな寒村での出来事だった。

 こんな場所、こんな時でも、賑わいを見せる酒屋にて、レミリアはライ麦のパンを頬張っていた。飲み込む前から、次はスープに手を伸ばす。恰幅の良い男衆が飲んでいる麦酒にも興味を持つが、美鈴に止められる。
 じゃがいものゴロゴロと入ったオムレツに、鶏肉の香草蒸しと、癖の強い臭いを放つチーズの固まり。料理の種類は目移りしてしまう程だ。久し振りのまともな食事とあって、食べられる時に食べられるだけ食べる主義の美鈴は気前が良かった。
 目深に被ったフードが邪魔だけど、美鈴から外してはいけないと言い付けられている。もちろんレミリアもその意味を理解して、言われるまでもなくそのつもりだった。

 レミリアの髪色は異色だ。紫水晶を砕いてまぶしたように輝く髪は、とてもよく目立つ。瞳は血の色、肌は死人のように白い。
 その点、美鈴は顔立ちこそ東洋人なものの、その容姿において、人間と大した差が無い。体構造や身体機能の造りからしても、人間のそれに近いのかも知れない。美鈴が仲立ちをしてくれる事は、単純に助かった。

 それに、以前立ち寄った市で買ってもらった赤いビロードのフード付きのマントを、レミリアはとても気に入っていた。

 もくもくともぐもぐするレミリアを放置して、美鈴は適当な人物に声を掛ける。

「──この村で、相次いで人が消えているそうですね」

 一つ残念だったのは、美鈴には、子供を連れ回しながらと言えど、観光旅行を楽しむ気など、さらさら持ち合わせが無かった事だろうか。


「やれやれ、多いですね」
 席に戻って来た美鈴は、そう呟いた。
 レミリアも話を合わせる。
「うん、多いね。まだ食べるけど」
 唐突な閃きで、鶏肉をパンに挟んでみた。齧り付くと、脳が痺れるような錯覚を得た。飛び上がるくらいに美味しい。夢中でむしゃむしゃと口に詰め込む。
「そうなると困るんですよ……食べ過ぎだ」
「ひょうにゃの?」
「……お嬢さん。食べている時には喋らないようにしましょうか。それと、貴方の事ではありませんので、ご心配なく」
 レミリアは安心して、次は何を食べようかと考えた。
「女性が森で狼に襲われたのが始まり。更に似た事例が数件。狼の仕業でしょうが、それにしては、状況に不審な点がある。中には人間による殺人では、と疑う声まであるとか。そして現在、捜索に出た若気の至りの方々も、まだ帰って来ないようです」
 と、早くもそれだけ訊き出して来たらしい。
 これが場慣れの為せる技なのか、美鈴は人の中に溶け込む事が非常に上手い。レミリアは、実は美鈴は人間なんじゃないかと思っている。

 その時、酒屋の──集会所代わりにされていた酒屋の扉が、大きな音を立てて開いた。
 入って来たのは、錯乱した若い男。彼は怪我をしているのか、服が血で汚れていた。美鈴の言った、捜索に出た若気の至りの方々、だろうか。しかし、入って来たのは、一人だった。
 大変な騒ぎになったのは、そのすぐ後の事だ。

 レミリアは状況をあまり把握していないが、美鈴は顎に手をやって、「困った事になりそうだ」と呟いていた。レミリアもごはんの途中だったので困っていた。
「その怪物は立って歩いていた、だなんてね。狼は普通、歩きませんよ。ワーウルフの歴史は古く、大秦……ローマ帝国の時代には記録があるとか。そこまでいかなくとも、千年単位の大物が潜んでいるだけで、私にはお手上げだ。そしてそれ以上に厄介なのは……」

 狼の毛皮を被り人を殺すのは、人間にだって出来る事です。むしろ惨事の現場の様子は、たかが動物にしては知恵のある行動ではないか、と示しているそうじゃないですか。

 集会所には男衆が集まり、他の人々は家に籠っている。村の広場は、不自然に静かだった。互いを疑い、疑わる事を恐れ、不自然に口と門扉を閉ざしている。狼だか怪物だか人だか知らないが、村を襲う危機に対し、一丸となって対処する意思は薄弱だ。集会所の存在も、協力しているというポーズを示しているようにしか見えなかった。
 言ってしまえば、人々は狼を恐れていない。恐れているのは、自分が狼にされる事だ。

 人気のない広場を見回し、美鈴は感想を告げる。
「なんとも普通の村だ。まあ、考えても仕方ない。いつも通り、やるだけですね」
 多くそうであるように、人々は普通である振りをしながら、その実ひどく歪んでいた。要するに、普通の村だった。詳細に語るべき箇所など、何処にも無い。




「手詰まりですね」
「美鈴はうつけものだよね」

 行って戻って、行って戻ってを繰り返した美鈴は、広場に立ち尽くし、そう漏らしたのだった。レミリアもきっぱりと事実を告げてやった。
「出来れば、もう少しでも情報が欲しい」
「それなら美鈴の得意分野じゃないの?」
「ですが、もう済ませてしまいました。有力なものは回収したと思います」
 集会所での一件を言っているのは分かる。しかし、怪我人が担ぎ込まれた以上、余所者が邪魔をするのは迷惑がられよう。すぐに話を聞く事は出来ない。
「他の人に話を聞いたら良いんじゃない?」
「……誰にです?」
 確かに、あの場所は最前線だった。必要な情報もそこに集まる。だが、大人は隠し事をする。それならばいっそ、真逆の方向性から探ってみるのはどうだろう。
 と、いうような事をレミリアは考えて、レミリアなりに統括し、口に出す。
「誰かに」
「それが良いですね」
 果たしてレミリアの意図は通じたのかどうか、甚だ疑問だった。


 どうせ偶然だろうけれど。
 美鈴はレミリアの意図した通りの行動を取った。

「──こんにちは、お嬢さん。一人……なのですか?」

 広場からそう離れていない場所に、何かに使う柵に腰掛けてつまらなそうにしていた金髪の女の子に、美鈴は声を掛けたのだ。

 とことこと駆け寄って来た女の子を見て、レミリアは壮絶な違和感を覚えた。

 レミリアは、この女の子の顔を、はっきりと覚えていないはずだ。何故なら、この後すぐに死んでしまうから。それなのに、金髪のショートボブで10才にも満たない幼い女の子は、丸く大きな目を瞬かせ、笑顔を浮かべていた。
 はっきりとは覚えていないが、確実に言える。村娘は、これ程の美少女ではなかった。野に咲く花のような、目立たないけれど可憐な少女だったはずだ。

 ──あら、別に参加したって構わないでしょう? どうせこれは夢だもの。代役よ、代役。

 すぐ耳許で、色香を漂わす声が囁く。
 代役か。レミリアは納得して、頷いた。

「誰も遊んでくれなくて、つまんないの」
 そう。あの女の子も、これと同じ事を言っていた。
 ……あの女の子? いや、誰だそれは。
 どうやら空想にでも耽っていたらしい。違和感なんか、何処にも無いじゃないか。
「大人の皆さんから話は聞いていますか? 一人で出歩くのは、危ないはずです」
「もう、お姉さんも心配性なのね。うるさい大人は嫌いよ?」
「……ふむ……そうですか、困りました」
 美鈴はあっさりと口論で負けていた。
「ねぇ、そっちのあなた。あなた、村の子供じゃないわよね。そんな高そうな被り物。見たことがないもの」
 女の子はひょこんと美鈴を避けて、興味無さそうにして、つま先で地面を掘り返していたレミリアの前にやって来る。
「…………」
 レミリアは困って、美鈴に助けを求めた。
 人と話すのは慣れていない。美鈴は笑って親指を立てた。意味が分からない。
「ふふ、あなたは知ってる? 狼は心理学で、獰猛な無意識の象徴なのよ?」

 知っているはずが無い。レミリアも、女の子の方も。

「ところで、赤ずきんが赤い頭巾を被っているのは、ペローの創作なの。赤ずきんの類話は、ヨーロッパ各地から世界的に流布しているわ、まあ、ペローやグリムの影響が強いけれどね、赤いずきんの道具立ては傑作よ、だって可愛いもの、可愛さは大事よ。いえ、可愛い云々はさておき、ペロー以前から民話として広く知られていたの。この女の子も、赤ずきんではない、女の子と狼の話を、知っていたでしょうね」

 この後、レミリアと女の子は柵の周りを歩いて、それから少しだけ、一緒に遊んだはずだ。けれど女の子は先を歩きながら、道理の通らない事を喋っている。

「さて、赤ずきんの狼は、狼なのかしら? 童話の解釈では、狼は若い男だとする向きもあるくらい。狼は、厳密な意味での狼ではないわ。獰猛な無意識の象徴。そして、成り代わりの怪物。例えば、山姥、中国では虎とか、でもまあ、主流は狼よね。化けるもの、という所が不思議だけれど、理由だけなら分かるわ。昔、狼とは本当に恐怖の対象だったのよ。でも、時代が経るにつれて、その意味合いは変わって来る。化ける怪物への恐れから、ただの“男は狼”という教訓へ。赤ずきんの童話からは、そんな世相の変遷も読み取れるのかも知れないわね」

「でも……まだこの時は」
「そうね、まだこの時は」

 ──事実、狼は人を襲う恐ろしい怪物だった。

「お嬢さーん」
 遠くで美鈴が手を振っている。隣には知らない女の人も一緒だ。女の子は小さく「お母さん」と呟いて、母親だろう女性の元へと駆けて行った。
 入れ違いに、美鈴が戻って来る。
「あちらで動きがありました。私達もすぐに」
「……え、うん」
 呟いた声に滲んだ、少し意地っ張りな嬉しさと、去り際の後ろ姿だけは、覚えていたような気がする。
 レミリアはぼんやりと無意味に母娘を眺め、生前の事を思い返していた。

 死因は病気だろう。姉も、五才下の妹も。
 姉は、母に手を引かれて外を歩いた事もある。死んでいなければ、姉妹は母に寄り添って街を歩いたのだろうか。もっともその場合、レミリアは生まれていないのだから、詮の無い話だった。姉とレミリアは同じ身体の別人で、姉の母はレミリアの母ではない。レミリアに母と呼べる誰かはいなかった。
 少しだけ、憧れた。
 だからと言って、どうにもならない話だったが。

 黙って美鈴の手を取ったけれど、それには、何の意味も含みも無い。




 ぼこっぼこっ……ぼごっぼごぼごぼごぼごぼご……

 何がどうなったのか知らないが、集会所の近くでは、男が棒で打たれていた。
 男を取り囲む人垣は二つ。まず、男を打擲する、他の男達が数人。そして、それを不安そうに見守る人々。その中に、見覚えのある母娘も混じっていた。取り押さえられる格好の彼女達だけは血相を変えて、やめて、というような内容の事を大声で泣き叫んで、暴れている。
 レミリアが女の子と別れて、ものの五分と経っていない。
 ふと、拘束が外れ……外れない方が良かったのだろう。硬い角材の棒切れが、ぶん、と空を切った。誰かの甲高い悲鳴。そして、頬に飛び散った血を垂らした女の子が一人、取り残される。

 少女を取り囲む村人は皆、心配そうな顔をしていた。心配そうな顔をしながら、早く消えてくれと願っていた。あるいは、ちゃんと消えてくれるかどうか、心配だったのかも知れない。
 自分達が正当だと信じて疑わない人々を、レミリアは無感情に眺める。

 次第に、殴打を続ける男達の鬼気迫る表情にも笑顔が戻っていった。不吉の象徴のような、甲高い鳥の鳴き声のような笑い声が響いた。とても人間のものとは思えない程、下卑た笑い声。しかしその笑い声は、どうしようもなく人間のもので。

「……思ったよりも悪化が早かったですね。お嬢さん、貴方は待っていてください。出来るだけ、見ないように」
「何を?」
 無感動に、問う。
「いいえ、なんでも。あの男性の方は、さっき帰って来た方ですね。生き残った者は消去法で怪しい。その挙句、証言が意味不明だったのなら、こうなってもおかしくない」

 レミリアは女の子の母親を見た。
 綺麗に割れた頭は、熟した果実を思わせる。その見た目に、少しは躊躇するだろうが、食べてみれば、意外と甘くて美味しい事が分かるかも知れない。我知らず、ぼたりと唾液が地面に落ちる。レミリアは慌ててじゅるじゅると啜って、口の周りを袖でふきふきと拭った。

 レミリアは男を、多分、父親だろう人を見た。
 その輪郭は、既に人間の形を留めていない。赤黒く染まった服の袋から、やはり赤黒い混合物をだらしなく溢れさせたものだった。所々、打撲痕の青黒く内出血した痣が、赤に混じっている。口の周りを拭う指が、引き攣るように歪んだ唇に触れた。

「しくじりましたね。でもまあ、遅過ぎるという程じゃない。あ、どうします?」
「なにが?」
「──あの子です」

 レミリアが見ている前で、男の一人が、長い髪の毛と剥がれた頭皮を張り付けたままの、先程、撲殺に用いた角材を振り上げて。

 一瞬の間に色々な考えが浮かんで、それらはただ浮かぶだけ浮かんだかと思うと対消滅する。すぐに具体的な行動には移れなかった。
 人間同士の揉め事に、レミリアは関与しない。だが、耳障りだ。単純に不快に感じる。

「助けよう」
「──お嬢さんが、そう言うのでしたら」

 フードを揺らした風は、レミリアよりも早かった。
 決して小柄ではない大の男の体が、軽々と宙に舞う。特に何が起きた訳じゃない。美鈴は棒の先を受け流しながら、軽く捻った。それだけだった。
「…………お前、強かったの?」
 間抜けな姿からは、想像も付かなかったけれど。
 レミリアが若干の尊敬の眼差しと共に呆然と問うと、呟く声が届いたのか、美鈴は首を傾げる。
「……? いや、強いか弱いかで言うと、かなり弱い部類だと思いますよ?」
 ──まあ、少しだけ鍛えてはいますが。
 そう言い終わる前には、立ち所に数人の男を、軽く気絶させてしまった。
 怪物なら驚く程の事ではないが、美鈴が怪物らしい脅威を発揮しただろうか。ただ演武に見惚れている間に、全ての片が付いていた。

 問題はむしろ、この後だった。
 楽観的に考えても、おとなしく帰してくれるとは思えない。現に、あんぐりと口を開いていた人々は、見るからに怪しい異人に詰め寄っている。暴力で解決したのは、やはり失敗だった。

「お嬢さん、ちょっと良いですか?」
 つかつかと戻って来た美鈴はおもむろに、レミリアの頭からフードを取り払った。異色の髪と血色の瞳が、露わになる。明らかに人間ではない者の容姿に、群衆には動揺が走った。その手の平の返し方に、レミリアは感心さえ覚えた。
 女の子も、代役ではない女の子の顔で、信じられないものを見る目で、目を剥いていた。

「私達は村を去ります」

 宣言し、美鈴は一切の頓着も無く踵を返し、レミリアの手を引いて連れて行く。

「追って来るなら、ご覚悟を」

 飛んで来た石を払いのけ、脅迫の冷やかさで、美鈴はそう告げた。




「ごめんなさい。分かり易く注目を集められると思ったんです。実は前から使えるかなー、とも思ってまして。嫌だったら、二度としません」

 別に……
 声には出さず、レミリアは首を横に振る。美鈴は困った顔をして、頭を掻いた。

 石を投げられて、村を立ち去る。いかにも怪しい異人に対する扱いとしては、妥当なのだろうか。

 これまでも美鈴に付いて旅をしてきたレミリアにとっては、これは、初めての経験ではない。似たような事例だって、幾つも見てきた。ただ今回は、レミリアの目に映る範囲が、これまでもよりも広かったと言えば、広かったろうか。常に美鈴が、一人で全てを終わらせていたからだ。

「被害者だという事と、それで正当性があるかどうかは、完全に別のものです。しかし自分の側が正当だ、多数派だと理解した人々は、優位性を実感する。そして加害者側に回ったのだと気付かないまま、卑劣な残虐さを発揮する。いつの時代も変わらない人間の習性ですね。もちろん個々に目を向ければ、感心すべき良心の持ち主はいるでしょう。しかし群衆の中で、個は失われます」

 簡単な常識を説明するのと何も変わらない口調で、美鈴はそう語る。
 薄々気付いていた事だが、美鈴は気を使って口を噤むという事が出来ない、正直な性格をしているらしい。

「仕方のないことなんですよ」
 美鈴は言う。
「割り切れって事?」
「そうした方が楽ですよ? 楽しいかどうかは知りませんけどね」

 群体を為した時の人間は、かくも醜悪だ。人は簡単に、自分達と同じ姿をした異物を排斥する。
 短い間ながら慣れ親しんだはずの人々は、群衆と化した途端に、腐肉にたかる蠅を連想させた。

 そして、虐げられた者は虐げた者を怨むだろう。
 あの女の子が、あの村で……想像するだに、不愉快な上に無意味な事だった。

「本当に、仕方のないことなんですよ。だから、まあ、私が言うのもおかしいですけど。お嬢さんは、人間を嫌いにならないで欲しいんですよね」
 杞憂だった。レミリアは怪物だ。人間がどうだろうと、知った事ではない。
「貴方は優しいですね」
「……私が?」
 確かに、村の事情に同情はしている。けれど、仮に事の顛末だけを伝え聞いたとしても、同様の感慨しか持たなかっただろう。所詮は他人事だ。それでも関心を引いている理由など、目の前で起きた出来事だったからに過ぎない。そして、目の前で起きた出来事のくせに、レミリアの反応は薄かった。
 これを普通、優しさとは言わない。少なくともレミリアは、そう思う。偽善的な感情にすら及ばない、無味乾燥な感想だ。
「でも、悲しいんですよね。誰かのために悲しめるという事は、優しいという事だと思いますよ」
 静かに黙し、死者に対して敬意を払いながら、美鈴は“普段と何も変わらない態度で”そう言い切った。
「……美鈴?」
「私は悲しくないんですよね。だってこれ、わりと当然の帰結ですから」
 美鈴は更に続ける。醒めた目付き、静かな表情で。

 問題を放置した共同体に対する当然の報いで、当然の損失です。
 私はそれを止めようと思いましたが、上手くいきませんでした。私はそれを、残念に思います。心の底から残念です、確かに残念ですが、同情はしませんし、涙は出ません、悲しいとは、思いません。

「慣れって、怖いものですよ」
 ぽつり、と。感情の擦り切れたような声に疲労を滲ませて、美鈴は小さく呟いた。

 納得は出来ないが、美鈴の言葉の意味は理解出来る。その条件で言うのなら、事実、レミリアは優しいのだろう。レミリアは、醒めた目の美鈴を見る事さえ、悲しかった。
 でも、きっと。レミリアは口を噤む。
 美鈴は知っているし、レミリアにもなんとなく分かった。この優しさには、何の意味も無い。普段と何も変わらない態度だったはずなのに、何故か、何処か、いつもより小さく見える背中の美鈴に、レミリアは掛ける言葉を持たなかった。

「誰かを守れるようになりたい。そういうの格好良いですもんね。小さな頃からずっと憧れてます」

 憧れているだけで、なれていない。
 零れた言葉の裏には、そんな諦観があった。
「でも、私はこれで大丈夫ですから」
 歩きながら顔だけレミリアの方を向いて、美鈴は安心させるように言う。じっと見上げていると、まだ不安がるレミリアに、美鈴は不器用ながらも穏やかで優しい笑顔を見せた。
 諦観と疲労の滲む表情に、レミリアの胸は騒めいて、けれど結局、何を言って良いのかも分からずじまいで。
 ただレミリアは、美鈴の、感情を押し隠した穏やかな笑顔を見ていると、何故だか理由は説明出来ないが、とても嫌な気分になった。そんな顔をして欲しくはなかった。

 今度こそレミリアなりの意味を込めて、美鈴の頼りない背中に駆け寄り、黙ってその手を取った。




 美鈴は道を辿ってはいなかった。歩いているのは、森の中の獣道。美鈴の吐く息は白く霧散して消えて、レミリアの忙しない呼吸は、あまり白くならない。体温が違うからだ。

 道の途中で、彼に遭遇した。

 ──例えば、千年級の人狼ともなれば、魔の者としては、それなり以上には高位の存在よ。たかだか吸血鬼とは歴史と格が違う。ま、美鈴さんなら、八百年くらいまでならどうにかするでしょうけど。

 耳許で。姿は見えないのに、それでもありありと美しい少女だと分かる誰かが、妖艶に囁く。

 ──ただ、残念。この子の力だと……遭遇した時点で結果は出ているわね。上手に人の探索を逃れたみたいだけど、それもここまで。

「人肉の味を覚えましたね? もう、貴方が普通の狼に戻る事は難しいでしょう。いえ、だからどうと言う事は無いんですけどね。応援します、強く逞しく、魔獣として生きてください。例えば、偉大な同胞であるジェヴォーダンの獣のように」
 言いながらも、美鈴の纏う気配は臨戦態勢のそれだった。繋いでいた手は、いつの間にか離れている。

 美鈴の価値観は、ある意味で単純だった。
 それがもたらすものと、それが奪うものを、天秤で計る。奪うものの方が多いなら、それに応じた対策を。他者に対する距離の取り方の第一は、己の拳で砕けるか否か。
 美鈴は子供に対して寛容だ。子供には、大人よりも多くの可能性がある。つまるところ、美鈴が、“羽の生えたキョンシー”を見過ごしているのは、それがまだまだ子供だったから、という理由があったから。
 だが、若い魔狼は別のようだ。その体躯は、牛とはいかないまでも、十分過ぎる程に巨体だった。言葉が通じているのか、その眼光にはわずかながらも、知性の片鱗が窺える。太い後ろ足を見れば、あるいは、立って歩く事もするだろう。彼はもう、動物ではない。

「そう思う気持ちも本当です。私には、命の選別をする資格なんて無い。なのにどうして私は、性懲りもなくこんな事を続けているんでしょうね。残念ですが、貴方がこれから奪うであろう命は、貴方の存在よりも重い。私の勝手な判断です。認められないはずです……どうか、死力を尽くした抵抗を」

 ──リンッ。
 清く澄んだ美しい鈴の音と共に、地面が揺れた。

 そう感じた直後、レミリアに見えたのは、美鈴の足元で断末魔の痙攣を残している異形の狼の最期だった。地面には放射状に亀裂が走り、抉れると同時に盛り上がっている。
 ゆるやかに吐気し残心を取る美鈴の後ろ姿に、踏み込んだ震脚の衝撃と、飛び掛かった狼の頭蓋に振り下ろされた肘打ち、一髪千鈞の命のやり取りがあった事を知る。割って入る隙など、毛先程も無かった。
 鮮やかに決まった、何かの型に嵌まった肘打ち。美しささえ伴う套路を前に、何倍、ともすれば何十倍もの膂力の差は、何ら意味をもたらさなかった。絶招を極めるに至るまで積み上げた功夫は、暴力であり芸術でもあった。

 強者とは時に美しい。
 初めて知った事実は、レミリアの胸に深く刻み込まれる事となる。

「美鈴はすごいね」
 思ったままの素直な気持ちを、レミリアは言葉にした。
 瞬間、全身の産毛が逆立つような悪鬼羅刹の気配が、何処からか、一瞬そう思わざるを得ない程の勢いで、あろう事か美鈴から噴き出した。
「私がすごい? やめてくださいよ、怒りますよ? 私は普通です。だから普通のやり方で、普通の結果を出しただけです。もっと他に、救いがあったはずなのに!」

 小さな村は救われた。そこに何の感慨も達成感も無い。
 結局、美鈴は何一つとして報われてなど、いなかった。

「ほら、私は弱いでしょう? そして、普通の人間のように卑怯だ」
 自分がそうでなければ、他の未来があった。だから不当な評価を許せない、と。

「さ、行きましょうか」
 珍しく声を荒げた後、何事も無かった風に、美鈴。
 美鈴は、こんな事を何度も繰り返して歩いて来た。そしてこれからも、続けて行くつもりだった。

 レミリアが美鈴に付き添って旅を続ける理由は、実は他にある。安心して住める場所を探しているのだ。けれど、結局。
「結局……」
 呟いた言葉の続きに、口を噤む。

 怪物に安息の地など、有りはしない。
 魔狼は二度と動かない。彼の死体に、そんな事を告げられたような気分だった。

 妖怪を自称する美鈴は、旅路の末に、何を求めているんだろう?
 末……末路じゃ、ないよね?
 不安は言葉に出来なかった。言ってしまったら、それが本当の事になってしまいそうな気がして。
「……ねぇ、美鈴」
 レミリアは、美鈴が答えないのを見て、続ける。

「あの村にいたやつら、みんな、今すぐ私が殺してきてあげよっか?」

 思い付きではあったが、冗談ではなかった。
 いざとなれば、レミリアには牙が、爪が、翼がある。美鈴よりも圧倒的な速度で、人を殺せる自信があった。
 美鈴と寒村。レミリアの天秤は前者を取る。あの村が原因で美鈴が落ち込んでいるのなら、壊滅させる事にレミリアの良心は痛まない。

 美鈴は音も無く足を止め、レミリアも倣って足を止めた。振り向き、無垢と真剣の表情で見上げるレミリアの頭に、手を伸ばす。
「──っ!」
 亀のように首を竦ませ、
「そんな事を、言わないでください」
 縋るような声に、困惑した。
 けれど、その声音以上に、恐懼にすら近く戸惑った。レミリアは今、殺されると、そう思ったのだ。だから余計に、美鈴の行為に困惑する羽目になった。頭を撫でられながら、レミリアはただ呆然と、こんな時にどんな顔をしたら良いのかさえも忘れてしまったような美鈴の無表情を、見上げていた。

 この日は、レミリアの知らない美鈴の顔を見る事の多い一日だった。




 結局、あの女の子はレミリアを追って来た。
 その手に、棒きれを持って。

 それは、いつもの通りに美鈴が、おかしくなっていた龍脈の調整に行っていた時。
 丁度、レミリアが一人になっていた時。

 他の食べ物との違いは、特に感じなかった。
 違うのは、充実感。

 自分を恐れて泣き喚く少女を襲うのは、こんなにも気持ちが良い。けたたましい哄笑も、すぐには自分の喉から発せられていると気付かなかった。自然と唇の形が歪んでいる。ここまで爽快な気持ちは初めてだ。
 ……ふと、

 ──人肉の味を覚えましたね?

 自分ではない若い怪物に向けられた言葉を思い出して、猛烈な吐き気に襲われた。

 冷たい川に突き落とされたような悪寒と共に、胃が収斂した。暴力に対する本能的な恐怖が爆発して、思考と、思考以上に体が言う事を聞かなくなる。痙攣する手の中で、もはや少女は鬱血した顔で口の端から涎を垂らすのみで、悲鳴どころか呻き声も漏らさずに、ぐったりとしていた。

 殺すつもりは無かった、などと、ふざけた事を、今更ながらにして思う。

 焦る。焦るが、どうにもならない。力を抜こうと思えば思う程、指は固く鉄のように。そんな恐慌状態のレミリアの腕を、力強く掴む手があった。そのまま、何かのコツでもあったのか、するりと、少女はレミリアの魔の手から解放され、レミリアもまた、優しく組み敷かれていた。

「……美鈴?」
「あ。お邪魔でしたか?」
「うん」
「すぐに村を離れます。急いでくださいね」
「わかった」

 少女は既に死んでいる。温かいスープが冷めてしまいわない内に、レミリアはその首に、牙を突き立てた。
 少し飲んだところで、吐き戻してしまった。




 あれから、冬は厳しさを増していた。
 怪物という同族を狩る旅も、幼い身には過酷なものだった。
 そんな最中、無人の山小屋を発見して、これ幸いと、レミリアは美鈴と一緒に暖炉に身を寄せていた。

 レミリアは美鈴の肩を揺する。そりゃあもう、ゆさゆさと揺する。
 奇跡的な完成度の鼻ちょうちんがパチンと割れるまで根気良く揺すり続けると、美鈴は唐突に立ち上がった。何故、立ったのか。寝惚けている証拠だった。
「寝てないですよ」
 いや、寝てただろ。
 頼りない旅のお供に、レミリアは非難がましい眼差しを浴びせる。
 美鈴はいつもこうだ。頼りなくて、間が抜けている。
 そして何より、誇りが欠けている。美鈴は、力も勲も、何一つとして誇らなかった。それは不当だ。間違っているとレミリアは思う。常日頃から文句を言おうと思っていて、今が丁度、良い機会だ。
「美鈴は良くないよ」
「いや、寝てないですってば。ちゃんと聞いてました」
 何故だろう。話がまるで通じていない。
 力のある者は、それに応じた誇りを持つべきだと諭しているのに……
「……はあ、美鈴は仕方のないやつだな」
「面目ない」
 と、美鈴。
 何をどう言えば、このうつけ者に話が通じるのか。
 レミリアは黙ったまま、首を捻った。
「あのですね、お嬢さん」
「んー、お嬢さんって、嫌なんだけど」
 頬を膨らませて、レミリア。美鈴は困った風に頬を掻いた。
「そう言われましても、ねぇ。だって私はまだ、貴方の名前も聞いていないんです」
「…………」
 そう、だったろうか。
「お嬢さんは、口数が少ないですよね。思った事は、素直に口に出してください」
 そうだった、かも知れない。
「レミリア」
 名前を、伝える。
「ただのレミリアなんですか?」
「?」
「私は美鈴ですが、紅美鈴の美鈴です」
「……?」
「ホンってどういう意味?」
「紅。赤色の事ですよ」

 赤色、レミリアが一番好きな色だ。

「私もホンが良い」
「残念ながらお嬢さんは、どう見ても華人ではないでしょう。西洋の顔立ちです」

 そっか……それじゃあ。

「……スカーレット」
 鮮やかな赤色の事だ。
「うん。レミリア・スカーレット」
 口の中で転がすと、その響きは、とても格好良く思えた。
 少しの間、美鈴は何やら微妙そうな顔をしていたが、すぐに、穏やかな微笑を浮かべた。

 旅の間、たまに喋る時以外、レミリアの感情の起伏は、死人のように乏しかった。
 だから今が最初という事になる。これが、美鈴の初めて見る、レミリアの無邪気な笑顔だった。

「おんなじ意味の、一緒の名前だな」
「………………ええ、そうですね」

 何処までも素直に喜ぶレミリアに、美鈴は優しく返事をする。
 先日に立ち去った村はもう遠い。平穏な日の、静かな夜の出来事だ。

「おやすみなさい、お嬢さん」
「……レミリアだってば」
「あ……はい、分かりました。お嬢さん」
「……もういい」

 毛布を被って眠るレミリアは知らない。
 美鈴は、レミリアの頭を撫でながら、今までの努力が報われたような顔をしていた。

 誰も救えない。誰も守れない。半ばそう諦めていた華人は、やっと……




 近頃にしては珍しく、暖かな気持ちで目を覚ました。

「おはようございます、お嬢さん。ちょっと心配になって、様子を見に来たのですが、大丈夫そうですね……あれ?」

 ベッドの脇に立つ美鈴はレミリアの顔を見て、疑問の声を発した。

「泣くような怖い夢でも、見ましたか?」

 頬を濡らす涙は暖かい。

「……知らない。もう忘れた」

 美鈴がいて嬉しかったとは、素直に言えなかった。けれど、「そうですか」と、美鈴は笑った。



◇◇◇ 4章

 その日、レミリアはパチュリーの工房に呼び出された。
 窓をカーテンで塞いだ室内は、怪しいキャンドルの灯りに照らされている。きつい香が焚かれ、他にも外連味溢れる──しかし見せ掛けではなく、実際に用いられている怪しげな物品が棚に陳列された室内は、成る程、いかにもな魔法使いの工房だった。

 そして一際、光り輝くもの。

 ──宝石の欠片のような、美しい針だった。


「よく来たわね、レミリア。ふふ、良いわ。見ていきなさい」
 珍しく、パチュリーの瞳は輝いていた。
 床の上には直径で六フィート程の、レミリアにでも一目でそれと知れる魔法円が描かれている。
「今から行うのは、『賢者の石』の作製よ」
 そして、喉の調子が良いのか長々と紡がれた言葉は、聞き取れずとも聞き違えようもない、魔法の呪文の詠唱だ。
 何も無いはずの円の中心に、ゆらりと蜃気楼のように、景色が歪む程の何かが収束していく。やがて、渾身の結びと共に顕れせしめたのが、その、針のような結晶だったのだ。


「驚いたかしら?」
「うん、一応」
 実験を終えたパチュリーは満足気に流し目を寄越したが、残念ながら魔法のマの字も知らないレミリアには、何がどう凄いのかすら分からない。ただ、目の前で起こった現象と、欠片から立ち昇る、肌のひりつくような感覚から、素直な感想を述べた。
 パチュリーは間違い無く、魔法使いとして一流の腕がある。いくらレミリアだって、それくらいは分かっている。
「当然ね。自然物の力の流れを陣の上に留め、そして物質の形で取り出す。これは、とても高度な技術なのよ」
 そうなのだろう。普段は無口な友人が、これ程に饒舌になるのだから、それだけで察せるというものだ。パチュリーは魔法の神秘の何たるかを、レミリアには話しても無駄と思っている節がある。まあ、実際その通りで、そう思われるまで御託を聞き流し続けたのもレミリアの責任だが。ともかく、そのパチュリーが、ふふんと鼻を鳴らして饒舌に語っているというだけで、レミリアにとっては何よりの判断材料だった。

「それが、賢者の石なのか?」
「その答えは、ええそうよ、であって、いいえまさか、の二通りね。そもそも賢者の石の本来的な意味は、“完全な物質”を指すの。だからこれはあくまで、私の研究の成果としての産出品をそう呼称しているだけ。そして、こんな程度の代物では私の望む完成型には程遠い。これに蒸留を繰り返して、更に幾つか組み合わせて大きな塊にするの……まあ、一定の大きさを超えると、割れてしまったりして、難しいのだけれど。接合するのだって、繊細な作業だし」
「へぇ」
 と、何の気なしにレミリアが相槌を打った時だった。
 物陰の闇の密度が増していく冷たい気配が、部屋に混じる。寒気と不吉な予感を理解した途端、ぞくっ、と背筋を撫で上げられる厭な囁きが背後から、空気から滲み出るようにして響いた。その響きに伴い、書架の影が凝集していく。

「うふ、可愛いわね。おままごと?」

 と、一言。凄絶な悪意の籠った声が。
 更に直後、打って変わった軽やかな声で。

「な~んて、冗談ですよ。ねぇ、パチュリー様」

 ふわりと、黒い蝶々が。
 小悪魔は腰までの長い髪とサーキュラースカートを翻し、パチュリーの傍らに舞い降りた。実に愉しげに、猫が鼠を観察する目付きで、魔法円と針の欠片を眺める。
「ああ、なるほど。東洋の文字、ですね。ですが基礎に西洋の理論……オリジナルにしては悪くない。私も東洋思想は専門外ですが、美鈴さんが言う所の気の流れ……風水の知識を応用出来るでしょうか。まあ、ただ単に第一質料を結晶化するだけなら、余計な陣は不要どころか妨げになります。──さて」
 何かをぶつぶつと呟いた後、小悪魔は人差し指の先で何も無い空中を掻き回し始めた。コーヒーに注いだミルクをマドラーで混ぜるような、なにげない日常的な仕草だった。それなのに。
 ガシャンッ、と。
 先触れも無く、落としたグラスが割れるような音が響く。ビクリと肩を竦ませたレミリアが目を開けた、そこには……
「ふう。何とか上手に出来ました。まさか、チャンスは三回ですとか言い出したり、体の不調を言い訳にするのはかっこわるいですからね」
 小悪魔の手の上に落ちたのは、透き通った紅色の大きな石。磨き上げたように滑らかな表面の、正確無比な六角柱。パチュリーが長文節の詠唱で作り上げた針のような欠片と見るからに完成度の違う結晶体とは、まさに雲泥の差だった。

 信じられない光景を見たように、パチュリーは目を見開く。

「……そんな……有り得ないわ。そんなの、収支が釣り合ってないじゃない」
「こあ? 犠牲以上の結果を出すのが、魔法の意義だと思いますけどね」

 それは、魔法という神秘に対する大前提の違いで、認識の隔たり。そもそも違うと言うなら、スタートラインからして違っていて、ゴールラインまで違う。同じ魔法という言葉で言い表すものが、実は全くの別物だった。つまり、“人間の一流”と“人外の嗜み程度”との間に決定的な断絶がある事を、まざまざと見せつけられたわけで。

「いかがです? 生粋の魔法使いのパチュリー様?」
 淡く媚びを含んだ態度で、小悪魔は訊ねた。その声音には、優しさすら感じられる。にも関わらず、レミリアの全身に、うそ寒い怖気が駆け上がった。その怖気に沿って皮膚の表面に次々と鳥肌が立つ感覚をありありと味わえる程、明確に。
「僭越ながら私が、手取り足取り魔法を教えて差し上げても良いのですよ? もちろん、“条件”はございますが」
 狂気へと誘う邪悪な妖精がそうするように──いや、そのものの悪戯な笑みで、囁いた。
「………………いやよ、ふざけないで」
 今にも、消え入りそうな声。
 ついさっきまで自信満々にしていたのに、何故? この成果は、恥ずべきものではないはずだ。

 トドメ、だったのかも知れない。
 俯いた顔は見えないが、凄まじい表情をしている事は、よく分かる。

 パチュリーは俯いたまま黙っている。だが、じっと耐え忍んでいるのではない、指先が鬱血するほど強く握り締められているのを、レミリアは見て取った。
 これだけは、自我を構成する自負の全てを賭した研究の成果である魔法の事だけは、冗談では済ませられないのか。だとしたら、内気な魔法使いは、言い返せないだけなのだ。

「パチェにそういうこと言うの、やめて」
 とうとうレミリアは、口を挟んだ。
 小悪魔の態度は、あまりにも、目に余る。
「ねぇ、パチュリー様ってば~」
 諌められた事など何処吹く風に、甘ったるい猫撫で声で囁き、小悪魔はパチュリーの頬に触れるか触れないかの辺りを、ねっとりと撫でている。
「……ふふ、つんけんしちゃって」
 ゴト、と重い音で小悪魔が持っていた結晶が絨毯に転がった。と思った時には、小悪魔の姿は夢から醒めるように消えていた。後には、レミリアとパチュリーが残される。しかし元通りとは言い難い。
 決定的に空気が破綻していた。
 レミリアは声を掛けようとして、やめる。言っては何だが、これしきの事で落ち込む友人でない事を知っている。それと、脆さも。硝子細工に、不用意には触れなかった。
 余計な事をした覚えもあった。パチュリーは他人の助力を好まない。そうと知るレミリアは何も言わずに立ち上がって、そっと部屋を後にする。

「………………ありがと」

 背中に向けて、ぼそっとした、聞こえるか聞こえないかの瀬戸際の、小さい声。
 何の事だろう、と本気で疑問に思う。
 それからしばらく後、小悪魔に文句を言ってやった事だったのだろうかと気付くが、別に、礼を言われる筋合いは無かった。




 工房を後にして。廊下の途中で、レミリアは足を止める。
 以前にも、こんな事があった。そして以前と違うのは、思わず足が竦んだ事。

「小悪魔さんは性格が悪いですよね」
「あはは~♪ 小さくても悪魔ですから。それにしても美鈴さんは直球な指摘をしますよね」
「今日は一段とひどかったですね」
「うふふっ、好きな子にイジワルしちゃうなんて、素直になれないこあちゃんってば可愛い~」
「…………はあ、そういうものなんですか」
「あの、その反応は滑った感じがするのでやめてください」

 いや、なんだろう。
 レミリアはずっこけそうになった。
 確かに一触即発の静けさを感じたのだ。この先へ顔を出せば死線を越える事になる、くらいには思っていたのに、話題が下らない。レミリアの気のせいだったんだろうか。

「ところで私には、“さん”付けなんですね。それって何かの意味があるんですか?」
「いいえ、特には……まあ、それらしい理由なら、いくつか。賓客のパチュリー様には、勝手に棲み付いてるだけの私からすれば、“様”付けすべきですし。使用人の美鈴さんには“さん”で十分でしょう。これが礼儀的な意味での敬称だとすれば、もう一つ個人的な理由で、この世の至宝である美少女には“様”を、私自身が高く評価している方には、“さん”を付けて呼びます。必ずしもこういう理由ではないですけどね、ぶっちゃけ、なんとなくですし。深い意味は無いです。あ、それと、“ちゃん”と“くん”は言うに及ばずでしょう」
 特には、と前置きした割に長々と。
「ええ、大体分かりました。つまり、そういう事ですか」
 そういう事ですと小悪魔は微笑む。
「あの可愛い見習いちゃん。魔法の才能はありますね。頭の回転は、そこそこ、決して鈍重ではない程度。知識は、ちょっと偏り気味。これからに期待、ですかね。いえ、17才にしては大したものですよ? 元錬金術師。現在は東洋思想に傾倒した神秘家。総じて言えば、隠秘学専攻の近代魔術師。魔法のテーマは自然干渉。肩書きを付けるならこんな所ですかね……でもまあ、名折れですよ、所詮は学生レベルですから」

 話題は、パチュリーの事だった。

「魔術とは意志に従って変化を起こす科学であり技術である。名言ですね、いちいち私みたいな低級悪魔が追従する事ではありませんけど。魔術によって引き起こされる変化の、内的、外的の差は、魔術師の力量次第。問題はこの力量でした。近代の魔術師が一生懸命に呪文を唱えてやっと為す程度の神秘なんて……言っちゃなんですけど、私が呼吸同然に引き起こす程度のものですよ? そもそも素地が違うんです。神秘の純度99%の私に、使えない魔法なんて無いですから。針を使わずシャツを縫うわ。日照りの井戸で水を汲むわ。茨の道に花のアーチを」

 ──呪文を唱えて神秘を起こす者と、ここにいるだけで神秘と共にある存在の、これが差なのよ。

 憐憫さえ窺わせ、哀しげに、しかし一片の嘲笑混じりに、小悪魔は囁いた。
 けれどすぐに、しょんぼりとする。羽もへんなりと萎れているので、間違いないだろう。

「そして、17才の小さい女の子を相手にドヤッてるだけかと思うと、こあ姉さんの小物感がはんぱないのです。癒し系のぽわぽわお姉ちゃんを目指すという今月の目標が……」

 なにやら、小悪魔なりに嘆いているようだった。不可能なんて無いとは何だったのか。

「ちなみに“条件”とも言ってましたね。その内容次第では……」
「って、聞いてたんですか。別に対した事じゃないですよ。お姉ちゃん、おねがい……と、一言、上目遣いで、甘えた声で。たったそれだけで、私はどんな願いだって叶えてあげるのに。どうして、言ってくれないのかしらね?」

 いや、どうしても何も無いだろうと。
 そんな事をプライド高いパチュリーがするとは思えなかった。

「うふふ、可愛い子に頼み事をされるのは、嬉しいものですよねぇ」
「どんな内容であれ、ですか?」
「もちろん。どんな願いだって、叶えてあげますよ? そう言ったじゃないですか」

 美鈴が息を吸う。呼吸のリズムが、整っていく。
 レミリアの全身の産毛が、悪寒と共に逆立った。

「では、私も一つ」
「その前に、パンダのものまねをお願いします」
「……それは、急に言われても無理です」
「じゃあ仕方ないですね。こあ特製クレープのレシピなら、美鈴さん特製杏仁豆腐のレシピと交換です」
「頼みたいのは、そういう事ではなくて、ですね。何て言うか……」
「いい加減にしろ。それ以外であれば、何なりと」

 ……………………

 二人とも笑顔を浮かべたまま、ぴくりとも表情を動かさない。
 それは、例えばどちらかが、やりましょうか、とでも言えば、次の瞬間には魔法と拳打が飛び交うような、そんな沈黙。いわゆる、嵐の前の静けさ。

「私は……私の手の届く範囲だけ、守る事にしたんです、身の程を弁えましたから」
「そうね、やっと、手に入れたものだものね。そうしたら良いわ」

 小悪魔が、それで? と言っていれば、蹴りが首を刈り落としていただろう、美鈴の静かな呼吸が聞こえる。言葉を尽くす余地が無く、これ以上の言葉はむしろ、一線を踏み越える事にしかならないと、二人の間に共通の理解がある、それ故の最低限のやり取り。
 レミリアは緊張で動けなかった。冷や汗が垂れて落ちる頃。

「やめましょうか」

 どちらともなく言った。多分、美鈴だったと思う。

「お嬢様」
「うわっ、バレてた」
 ひょっこりと、また以前のように顔を出す。
「信じていますよ」
「?」
 それだけ言い残して、美鈴は背中を向けて歩き去ってしまった。小悪魔も、冷たい視線を美鈴に注いでいる。
「……なんなのよ、あれ。私の前に放り出すなんて、大切にしていないか、それとも、よっぽど信用しているかの、どちらかよね? ま、そう言っていたし、後者なんでしょうけど」
「?」
 美鈴も小悪魔も、何の話をしているのか。
 レミリアは、この場ではあまりにも朴訥な程の表情で、きょときょと首を傾げていた。そんなレミリアに対しても、小悪魔は容赦が減りつつある。

「──甘く見られたものだわ」

 苛立った様子で吐き捨てて、小悪魔はレミリアを見た。
 見た、と言っても、ほとんど一顧だにせずに、疎わしげに視線を向けた程度のもので。

 目眩。ガタンと、物が落ちるような勢いで意識が落ちて、レミリアは気を失った。




 美鈴と共に、あるいは美鈴の背中を追って育ったレミリアは、必然的に、美鈴に似た道を歩く事になった。美鈴は直接レミリアに自分の技術を手解きするような事は無かったが、レミリアは美鈴から多くを学んだ。套路ではない、もっと日常的な事。

 外の世界を知ったレミリアは、とりもなおさず、この世の悲劇、人間の悪意、卑劣や愚劣も、知る事となった。
 普通に生きていれば、そんな事は無かったろう。けれど、美鈴の普通に付き合うという事は即ち、そういう事だった。

 美鈴は、地脈の乱気流を探知する能力に長けていた。そして地脈の乱れた土地では決まって、人が乱れ、人でないものも乱れる。妖怪退治をすれば、人から感謝される事もある。時には目を見張るような金額が手渡される事もあったが、人知れず立ち去る事も、追い出される形になる事もあった。美鈴は数少ない機会で得たその謝礼金を路銀に当てて、次々に土地を渡り歩いた。
 良いことも悪いこともあって。悪いことの方が、少し、多い。美鈴が立ち寄る土地は、地脈の乱れた土地なのだから、当然だけれど。健康を害した土地の人間は、やはり精神的に健常ではない。

 レミリア自身、よく人間に迫害された。人間はいとも簡単に、自分に似た異物を排斥する。多数派は少数派を当然のように虐げる。

「私がその気になれば、まとめてすぐに殺せる。それなのに、いちいち気にしてなんかいられない。ぐずぐずと悩んで、どうするのよ」

 レミリアを気遣って何かを言った美鈴に、そう答えた事もある。

「お嬢さんは、怪物になるつもりなんですか?」
「どういう意味? 私は生まれた時から、怪物よ」

 何故、この脈絡で問われたのかも分からなかった。

「私は、命は平等であるべきだと思います」
「……言っている意味が、分からないわ」

 そしてふと、美鈴の言いたい事を理解した。言いたい事を理解して、その言い分を否定する。

「命が平等なはずが無いわ。人間なんて、怪物の慈悲で生きているだけなのに」

 弱者は常に、強者に許されながら生きている。
 少なくともレミリアは、平等という概念を真っ向から否定するしかない。今も尚、人を捕食する度に、美鈴の戒め──美鈴はそんなつもりではなかったとしても、トラウマじみた記憶として残っている戒めのために、飲んだ血を盛大に吐き戻してしまうレミリアからすれば、それは自明の理と言って良かった。

「そうですか」

 と、美鈴はそれだけ言って、哀しそうに目を伏せた。
 それきり、この話題を美鈴が口に出す事は無くなった。


 美鈴はレミリアを置いて遠出する事も多かった。たまには連絡を入れろと思うのだが、長く離れる時に限って、音信不通になる。折角レミリアが頑張って使い魔に手懐けた蝙蝠も、文通相手の居場所が分からなければ届けられなかった。
 足手まといのレミリアの元に帰って来た美鈴は、いつも、安堵の表情を浮かべる。


 そんな日々は、あっという間に、飛ぶように、過ぎていった。


 そして。

 目深に被ったフードはお決まりの恰好で。羽は畳んでケープの中に。
 レースで縁取りがされたお洒落な傘に、そして長靴。完全防備。これなら、雨の日のお出かけも心躍る日課になる。

 霧にけぶる都会の街並みを、レミリアは行く。




 両隣の家と家の間に挟まれるようにして建っている、こじんまりとした煉瓦作りのアパート。こんな所だが、電気も水道も通っている。
 路地を数回ほど曲がった先の大通りには、時間帯によっては絶えず馬車が行き交っている、そんな大都市の一角だ。美鈴が働いている、お茶や雑貨を取り扱うお店も、歩いてすぐの距離にあった。
 部屋は狭いが、レミリアは貧乏だから仕方ない。むしろ、レミリアの人生の中では、かなり上等な部類の生活を送っていると言える。

 レミリアは、ある苦学生とルームシェアをしていた。

 イングランドの片田舎の出身で、勤勉なのは結構だが、理屈っぽくて面倒臭い。名前を、パチュリー・ノーレッジと言う。彼女の家系は先祖代々魔法使いを志しているらしく、一族始まって以来の天才児、魔法に愛された神童は、6才の頃には精霊と交信し、魔法の初歩を習得していたとか。そして出奔か門出か、はるばる遠方まで勉強をしに来ている。

「二限は基礎学科の授業だったわね。面倒だけど行ってくるわ」
「……それ、一時間目の授業は良いの?」
「錬金術の講義、つまんないのよ」
 自習の方が有意義だと言い放つパチュリーの姿も、見た事がある。
「そんなんでいいのか?」
「良いのよ」
 短く答えて、パチュリーは日差しの下に躍り出た。
 背中に流れる黒髪は、光の加減でレーズンに近い色に見えた。きつい香ばかり焚いているせいで、その色が染み付いてしまったような色だ。

「……ううっ、太陽眩しい」
「どっちが吸血鬼だよ?」

 よく晴れている日の、お馴染みのやり取り。

 レミリアは最初、冗談かと思ったものだが、パチュリーは魔法の学校に通う魔法使いの卵だった。

 魔法使いと聞いたレミリアは安直にも、とんがり帽子と魔法の杖、黒猫を使い魔に、箒に乗って空を飛ぶ魔女を想像した。
「違うわよ」
 まだ何も言っていないのに、わくわくとした顔だけで全てを察せられたのか、にべもなく冷たい目で一蹴されてしまったが。

 異端者にとっての冬の時代がようやく終わりを告げた17世紀末、英国に発祥した神秘思想の『復興』を志す小さな互助組合は、着々と規模を拡大し、現在の形に至る。結界に閉ざされた空間は一般人の立ち入りを許さず、魔法学校は何の冗談か都会の真ん中に存在している。
 ウィッカンの派閥もあるにはあるらしいが少数派。無論それだって、レミリアの想像したものとはかけ離れている。主流を占めるのは、ルネサンス期から栄えていたヘルメス思想の流れを汲む錬金術の集団。他にも、神智学など数種の派閥が。パチュリーの通う施設は、まさにオカルトの総本山とでも言うべき場所だった。そして肥大化の必然として、派閥ごとの権威争いも日常茶飯事。そもそも、学校ではなく研究機関なのも忘れてはいけない。
 魔法使いの基本的な性格と特徴の一つとして、徹底的な秘密主義が挙げられる。魔法使いは神秘の漏洩に神経質で、なべて魔法は秘匿されるべし、これは魔女狩り以降の常識だそうだ。そんな個人が集まった集団であるため、学び舎の体裁は取り繕っているが、肝心の研究成果は開示しない開示されないが基本らしい。何処も派閥も、また、派閥内部でも他人を出し抜こうと虎視眈々として、スクールライフは殺伐としているとか。
 確かに、最初に想像した楽しい光景とは、何もかも違う。

 パチュリーの説明が実際の様子にどれだけ近かったのかはともかく、それは、レミリアの興味を削ぐのに十分な威力があったのは間違いない。
 以来、レミリアはおとなしく、興味は全く無いけど必修科目だからと授業を受けに行くパチュリーの背中を見送っている。学生って大変だな、とか他人事のように思う。

「暇だな」
 ものの五秒の事だった。
 美鈴もパチュリーも出掛けると、必然的にお留守番になる。
 よ~しっ。
 膝を叩いて気合を入れ、勢い良く立ち上がって、そのままの勢いで勢い良く扉から躍り出る。

「……ううっ、太陽眩しい」

 ほとんど真逆の性格だけれど、意気投合している二人だった。




 見たい名所はもう見てしまったので、レミリアはよく裏の細道や、公園などに遊びに行く。
 気の滅入る夏も終わり、もう、秋になる。行き交う人々の服装もまちまちなら、街並みもパッチワークのように新旧の建物が入り混じっていた。運河に架かる大きな橋から川面を覗き込んで、それだけでも、不思議と楽しい。

 橋の上ですれ違い、お互いに、同時に振り返るような、劇的な出逢いだった。

 もっとも、それはただ単に、レミリアの方はパチュリーの異常な臭いに、パチュリーの方も多分、何がしかの理由で気付き、お互いに何か変なのがいると驚いただけで。その後は修羅場になった。だから、出逢いと言うより、遭遇と言った方が近いような気も、するのだけれど。

 そしてまた、レミリアの嗅覚は変わった臭いを捉える。実はこの街には、こうした変わった所も少なくない。そもそも魔法の学校があるというだけで、この都市の恐ろしさが分かる。めざましい発展を遂げた大都市は、坩堝か何かのような街だった。何があっても驚嘆まではさせない雰囲気が、街を覆う霧に充溢しているのだ。
 ほんの十年前に世間を騒がせた連続殺人鬼が出没したのも記憶に新しい。野次馬根性を発揮して移り住んでみたけれど、時期を外したのか、もう噂の殺人鬼は街にいないらしく、夜霧に紛れた散歩は空振りに終わっている。

 夜の散歩が渉猟なら、昼間の散歩は純粋な散歩。もちろん思わぬ発見だって期待しているし、三歩でも歩けば何かにぶつかる大都市だ。しかし出歩いて探さなかったとしたら、パチュリーにだって遭遇してはいない。そう思えばこそ、おちおち寝てはいられなかった。

 古本特有の黴臭さに釣られて顔を上げた先は、もう何度か足を運んでいる場所だ。もちろんこんな臭いを風下に運んでいるのは、古書店以外に有り得ない。

 本と言えばモルグ街の殺人くらいしか読んだ事の無いこだわりの読書家は、漫然と背表紙を眺めたところで頭に入って来る活字の情報など無く、直方体のブロックを積み重ねたものとして、古書店の店頭を見ていた。

「パチュリーが来たら、喜びそうだよなぁ」
 感想は、たったそれだけ。
「……ありゃ、また来たの?」

 店の奥から、地味なセーターを着た店番をしている女の人が顔を覗かせる。
 やぼったい黒縁眼鏡に、くすんだ赤毛でぼさぼさの長髪を、あかぬけない三つ編みにした、ものすごく地味な女性だった。ただ不思議と古書店の空気に馴染んでいて、それが結構、似合いだったりするのだ。厚いレンズ越しの視線は時に鋭く、人を喰ったような笑い方をするので、容姿に反して、おとなしい印象はほとんど持てない。身なりを整えれば美人になるのに、という気はするし、服の上からでもスタイルの良さは分かる。色々と勿体無いと思うのは、価値観の相違だろう。

 少し変わった、でも、子供好きなのか、アメをくれる人。
 それがレミリアの、こじんまりとした古書店の店番に対する印象だった。

 ──ふと、違和感。
 店番はおおよそこのような雰囲気だったのだが。瞳まで、紅かったろうか?

「いえいえ、気にしない事ですよ。それを言うなら貴方もなんですから」
 今日に限ってアメをくれず、店番の女性は店番らしく、本を積み上げた手狭な牙城の中からレミリアを窺っている。

 違う。
 いや、別に違わなくはないのだ。店番はこんな雰囲気の人だった。ただ、何と言うのか、延々と呪詛の譫言を呟き続ける呪いの本を枕の下に挟んで寝ても何も感じないような、霊感の類いが全く無い人だったはずなのだ。問題のある本を手元に置いておいても、霊感の無さという強運で、何も知らずに過ごしている、凄いのか凄くないのか分からない人。
 だからもちろん、店番はレミリアの事も普通の子供と思って接していた。
「稀覯本の中には、“ちょっと問題のある本”も珍しくないのです。これでもこの世の神秘には少しばかり触れてるのよねぇ。お姉さんを舐めたら、いけないぞ♪」
 そうは言うが、その問題の悉くを踏み抜いた上で無自覚にさらっと流しているのは、どこのどいつだったか。店の周囲に漂う、決して古本の臭いだけではない異臭があったからこそ、レミリアはこの店に興味を持ったのに。
「そうね、変わった人もいるものね。このお店がまだ経営してるなら……遊びに行くのも楽しかったかも知れないわ。いえ、言ってみただけ、だけどね」
 店番の女性が、地味な印象をそのままに、妖艶な微笑みを見せた。
「ま、細かい事は気にしない気にしない。黙って見てるのは退屈なのよね」
 言葉の通りに暇を持て余した風にしながら、小悪魔は、レミリアに冷たい視線を向ける。
「私としては、魔法学校のスクールライフにちょっとだけ興味があったのだけど。あなたは大して関わっていないようね。となると、あなたのロンドン観光なんてどうでもいいのよねぇ」

 ──少し、駆け足に進めましょう。

 直後、レミリアは、店番の女性との雑談を終えた。

「では、今度はお友達も連れて来てくださいね」

 そう言って、手を振りながら笑う。
 変わった人なのは確かだが、不審の点は見当たらない。何も、おかしくなどない。

「うん、また来るね」

 いつものように、子供の振りをして答える。
 レミリアは何も疑問を覚えずに、古書店を出た。




「おいっす」
「おいっすじゃないわよ。あんたバカなのっ!?」

 近くの建物の壁に背を預け、腕を組んで待っていたレミリアが気安く挨拶するなり、パチュリーの怒号が飛んできた。
「吸血鬼ってバレたら、ホルマリン漬けの標本にされるわよ?」
 身を寄せて、低い声で。血も凍るような怖い事を。それが単なる脅しでない事を、レミリアは、一応は痛みを教訓として、分かっているつもりだった。
 魔法使いに人間社会の倫理は無い。パチュリーも怖い学友の同類で、解剖こそされていないものの、血液を抜かれた事なら何度もある。その対価として、怪しい薬液を垂らして、レミリアの血液から何かを析出しようとする実験を見せてもらったり、試験管の中で不気味なアラベスク紋様のような結晶状に凝固した自分の血を見て、「ほへー」とか言ったりしたものだ。割に合ってない。

 パチュリーは静かに、しかし熱を込めて、“完全な物質”を作るのだと語っていた。
 むしろ、その決意の眼差しを見られた事こそ、注射の針に怯えた対価としては割に合っていた。

「危なくなったら、パチュリーが誤魔化してくれるんだろ?」
「気安く名前で呼ばないで」
「…………」
 まあ、誤魔化してなんかあげない、とは言ってないし。
「さっさと行くわよ。教師に目を付けられたら終わりなんだから」
 強く腕を引かれた事にレミリアは少し驚いて、咄嗟に身動きが取れなかった。その結果、ガッコンと、パチュリーは係留されて停止する。別に、踏み留まっているつもりも無いのだが。
「さっさと行くわよ……」
「はいはい」
 軽く答えて、歩き出す。
 腕は、掴まれたままだった。


 学校帰りの街並みを、パチュリーと二人で歩く。レミリアまで学生になったような気分だ。

「可愛いものの代表例は、仔猫や仔犬や、あとは赤子の類いでしょう? 異論に関しては面倒だから受け付けないし、あくまでこれは一般論のつもりで、私自身は大いに異論があるけれど、それは置いておくわ、切りが無い。で、話を戻すけれど、可愛いとは保護欲求の発露だわ。子孫を守るという精神構造がそうさせるの。つまり、可愛いという概念が適用される範囲は、自分より下位のもの、というわけなのよね。守らなければならない無力なものを、人間は可愛いという言葉で言い表している……いえ、言い換えているだけ。少なくとも私には、“可愛いだなんて、その対象を子供のように軽んじて、馬鹿にしているようにしか聞こえない”」

 小洒落た雑貨店の窓ガラスから、人の行き交う往来を羨ましげに見つめていたテディベアに、ちらりと目を向けたパチュリーの感想が、それだった。あんまりだ。年頃の女の子の言う事じゃない。

「……なぁパチュリーよ。お前はいつも、そんな面倒臭い事を考えているのか?」
「面倒臭いとは何よ。思索よ、思索」
 これ以上の問答は面倒で、レミリアはそっぽを向いて「面倒臭い」と呟く。「何か文句がある?」「もう良いってのっ」
 こういうのも悪くない。
 並んで歩きながら、レミリアはそんな事を考える。

「やっぱり違うよ」
「……何が?」
「可愛いの意味。軽んじてるってのは、ちょっと言い過ぎだろ。たしかに……下に見ている部分は、そりゃ、あるのかも知れないけど、それでも、大切にしたいって意味は、あると思うよ、私は」
 途切れ途切れに言ったそれは、拙い言葉だったろう。
「…………」
「どうよ?」
「レミリアにしては、上出来ね。ところで私は反論を今すぐに十は返せるけど、論陣を張るかしら?」
「張んないよ……」
「あら、珍しく貴方と話ができると思ったのに、残念ね」


 特に当てもなく歩いていたレミリアは、例の古書店の近くまでやって来た事に気付いた。
「ところでパチュリー、私達は何処に向かってたんだ?」
「何を言っているの?」
 当然、レミリアがエスコートしているものと思っていたらしい。理不尽だとは思うが、まあいい。
「じゃあさ。前に話した古本屋、覚えてる?」
「ん? ああ、あれ。貴方、飴玉を貰った話しかしてなかったけどね」
「今から行かない?」
「行くわ」
 元気の良い即答と、今日一番の活き活きとした表情に、何か釈然としないものを感じるレミリアだった。


「およ、今日はよく会いますね」
 何の異常も無い店番の女性は、牙城に居座り本を読んでいた。
「あら、可愛いお客さん。いらっしゃいませ、ごゆっくり」
 と、いきなりに可愛い発言に、レミリアはパチュリーが気を悪くするかと危惧する。ところが不要な心配だったのはすぐに分かった。パチュリーは、その貧弱な体の何処にそんな能力が備わっているのかと思う程の俊敏さで、店の奥へと消えた後だったのだ。
 若干、レミリアは呆れる。
「……本の虫」
「まったくもって、その通りですね」
 店番も苦笑する。
「貴方もよ。店番しないの?」
「してますよ。今も、いらっしゃいませ、と言ったでしょう。この通り、職務には忠実です」
 いや、本を読んでいるようにしか見えないのだが。
「なに読んでるの?」
 答えを待たず、背表紙を覗く。
 どんな難しい本を読んでいるのかと思ったら、それはグリムの童話集だった。
「夏の庭と冬の庭。タイトルは全然違いますが、要する美女と野獣です。夏と冬の庭は、野獣の住んでいるお城の景観なんですね。四方四季の庭のようなものを想像すると、近いかも知れません」
「美女と野獣?」
 意味を把握できた単語だけ拾う。
「そのタイトルが有名ですね。で、それはフランス民話です。赤ずきんとかの本当に類話が多いもの程ではないですが、少ないという事もなくて、類話のパターンも色々ありますよ。まあ、おおまかに言うと……父親が薔薇を手折る。獣くんこんにちは。娘さんを僕にください。結婚。一週間だけ家に帰る。一週間を過ぎて戻ると、獣くんが凹んでる。娘はそれを見て、あとはなんやかんやでハッピーエンド。良い話ですね」
「いや、全く情感の込もってないあらすじだったな、おい。良い話も何もないわよ」
 つい、素の口調が出た。
「あれよ、人と人外の絆とか真実の愛がどーちゃらこーちゃら、ほら、良い話っぽい。まあ、獣くんは例によって魔法を掛けられた王子だったわけですが。まあ、西洋のお伽話にはありがちなんですけどねぇ。ここでもまた、悪い魔女だか妖精の仕業ですよ」
 言うと、店番は本を閉じた。
「ところで悪い魔女で思い出しました。ワイズ・フラウ、というドイツ語がありますよね。ワイズは賢明な、フラウは女性という意味で、これはいわゆる、黒魔術を行うウィッチとは明確に異なります。それで、これが少し面白いのですが……例えば日本語に訳そうと思うと、ワイズ・フラウは、賢女や仙女と訳して、意味合いとしてはシャーマンのような感じになるんです。更には彼女達の振るう魔法は、仙術や神通力と訳されるんですよ、同じ魔法なのに」
 パチュリーはどちらだろう。良い魔法を使う善良な魔法使いなのか、それとも、悪い魔女なのか。
 聞きながら、レミリアはそんな事を考えた。
「……!」
 唐突に蔑むような視線を感じて、顔をあげた。周囲をぐるぐると見回す。それにしても本しか無い場所だなーと分かっただけだった。視線の主は、まさか、本? 十分に有り得るのが困った所だけれど。
「どうかしましたか?」
 何も知らない、という表情で。
「ううん、なんでもない」
「そうですか。では、私はどうでもいいんですけど、自分こそどちらなのか、考えてはみませんか?」
「…………?」
 それは、どういう意味なのか。

 どんな野獣──怪物なのかって事?
 だとしたらそれは、少なくとも、美女と野獣のような真実の愛がどーちゃらこーちゃらの野獣ではないのだけは確かだ。力ある怪物は傲慢に生きるべきだ。いつか美鈴に対しても言ったように、人間なんて怪物の慈悲で生きているだけで、これを曲げるつもりは無い。
「そうですか」
 いつか美鈴からも聞いた、何の変哲も無い相槌。けれど、意味合いは確実に違った。
 なんだろうと思う前に、計ったようなタイミングで、パチュリーが店の奥から戻ってきた。いかにも怪しい革張りの骨董書を数冊、胸に抱えて持っている。何処にそんな筋力があったのかと驚いたが、しかし流石に限界はあったのか、足はピクピクと震えている。すぐに店番が本を受け取って、パチュリーを救助した。
「とりあえず、これだけ」
 それは売れるのか? 誰が買うんだ? と思うような本が今まさに売られていく貴重な瞬間だと言うのに、背表紙の裏の覚え書きに視線を落とす店番の表情は渋かった。
「あっちゃ~。う~ん、安くする用意はあったんですけどねぇ、これはダメだわ」
「いくらですか?」
「うん? ごにょごにょ……」
「──!」
 店番が耳打ちすると、パチュリーの肩が跳ね上がる。高かったらしい。一瞬だけ跳ね上がった肩も、今はもう、がくーんと落ち込んでいる。
「……ごめんね。こっちも商売なのよ。それに、売った先で問題を起こす訳にもいかないですし」
 と、霊感絶無の店主は平気な顔で言うのだが、骨董書からはおどろおどろしい空気がレミリアの元まで蔓延している。れっきとした魔法使いのパチュリーは、見事に曰く付きの本を狙って引き当てていた。
「…………」
 無言が怖い。読書を至上の喜びとするパチュリーの事だ。落ち込む様が半端でない。
「パチュリー。また来よう。な?」
「……ええ。そうするわ」
 含みのある沈黙はあったものの、分かってくれて、何よりだった。
「あはは、他のお客さんが来ても簡単には売らないようにするから、落ち込まないでください」
 店番も気を利かせてくれた。
「で、貴方たち、まだ学生ですよね。もう暗くなりますよ。早く帰らないと、お家の方も心配してしまいます」
 振り返って見た路地は、六時を回った頃だが、早くも暗い。近頃はめっきり、日が落ちるのが早くなっていた。
 一度、夕飯を食べに戻って、それから気が向いたら夜の渉猟、そして夜明けと共に寝て、適当に目を覚ます。レミリアはそんな算段を思い浮かべる。
「じゃあ、もう帰ろ。パチュリー」
「そうね」
 まだ引きずってるんだろうか、反応が鈍い。
 レミリアはパチュリーを連れて行こうとして……

 ふと、目に止まった文字列があった。

 特に問題の無い、いたって普通の本だ。吸血鬼を題材にした恐怖小説らしいそれを手に取って、しげしげと眺めた後「これください」と、店番の女性に渡した。この本なら、レミリアのお小遣いでも買える。
「はい、どうぞ」
 どう見ても古書店のサービスではない丁寧にラッピングされた本を、レミリアは、はにかんだ表情で受け取った。

「夜は物騒ですからね。可愛いお二人さん。気を付けて、お帰りください。もし何でしたら、私が家まえお送りしますよ」

 その冗談に、思わず笑ってしまいそうになった。
 もっとも店番は、レミリアが吸血鬼で、パチュリーが魔法使いである事を知らないのだから、冗談でも何でもない、ただの親切心なのだろうが。見当違いだが、常識的だ。

「ええ、この街の夜には危険が溢れていますわ。店番のお嬢さんこそ、戸締りをお忘れなく」

 ほんの悪戯心でレミリアはフードを軽く持ち上げて、優雅な言葉遣いで、そう答えた。




 ぶつぶつと呪文を唱えて燭台に火を灯し、パチュリーは満足気に息を吐いた。
 こじんまりとした部屋の暗い一角が、揺らめく炎のオレンジ色に照らされる。

「いっつも思うんだけど、わざわざ、って感じだよな」

 と、率直な感想を。
 そんなレミリアに、成功の余韻に浸るパチュリーは気を悪くする様子も無く、饒舌に返す。

「確かに、火を点けたければ、燐寸の方が手っ取り早い事もあるでしょう。魔法と言っても、まさか御伽話のように何でもとはいかないわ。魔法は学問で、明確な原理があるの。私はその理屈と手順を、魔法を知らない世間一般より多く知っているだけで──けれど、その知識こそ、何よりも尊いものなのよ。魔法を使う特権階級として、私は世俗の道具に頼るなんて恥ずかしい真似はしないわ」

 魔法を使う特権階級の自覚を持ち、魔法使いの誇りを掲げ、魔法使いたらんとしている、あらゆる意味で生粋の魔法使いのパチュリーらしい言葉と、その宣言に即した行為だった。
 真性のオカルティストもここまで来れば、別の何か。まさに、生粋の魔法使いだ。

 絶対に口には出さないけれど、レミリアは内心で、そんなパチュリーを尊敬している。
 誇り。そういうものに憧れる。そう、力のある者は、それに等しい誇りを持たなければならない。

「……晩ごはん、何だろうね?」
 照れ隠しで、余所見をしながら話題を変えた。そちらはそちらで明るく照らされているが、使っているのは普通の灯りだ。
「私は軽いもので十分だわ」
 パチュリーは素っ気なくそう言って、本を開いた。“見覚えがあっても良いはずの骨董書”に、余所見をしたレミリアは気付かない。
「だってさ、美鈴」
 余所見をした方向にいた、家計と家事を一手に担うお家の人に呼び掛けると、すぐに返事が。
「何だと思いますか?」
「私あれ、お肉を生地で包んで焼いたやつが良い」
 それはクイズへの解答ではなく注文だった。
「……餃子ですか。嫌ですよ、あれに何時間掛かったと思ってるんですか」
「三十分?」
「三十分で、ほとんど一人で食べ切ってしまいましたね。百個近く、三回も焼いたのに」
 その時の事を思い出しているのか、美鈴は遠くの方を見ている。
「私はギョーザが気に入ったわ」
「……善処します……いえ、ニラもニンニクと同じ理屈で苦手かと思ったんですけどね」
「お前さ、たまにそういう事するよな」
「そういう事、ですか?」
「……なんでもない」
 悪気は、無いらしい。
 美鈴は首を傾げながら、ミトンを付けた手でホーロー鍋を運んでくる。
「寒くなってきたので、今日はシチューです」
 その選択には、子供の牛乳嫌いを克服させよう、みたいな意図がありありと感じられた。
 テーブルの上のシチューからは、もくもくと湯気が立っている。その中に、鮮やかなオレンジ色を見付けた。
「ニンジンも嫌い」
「好き嫌いは良くないです」
「吸血鬼は弱点が多いんだよ、理不尽だよなー。十字架もそうだし」
「いや、ちょっと我慢すれば大丈夫なものを弱点とは言わないと思います。と言いますか、十字架は割りと平気な部類でしょう。中には本気で嫌がる人もいると聞きますから」
「じゃあ太陽。寝起きに見た時には目玉が破裂するかと思った」
「だからそれは朝が弱いって事じゃないですか? まあ、日光は多少深刻でしょうけど」
「あと流水もだな……」
「……はいはい、お嬢さんは大変ですね。ともかく、牛乳とニンジンが弱点のキョう血鬼なんて、私は知りません」
「今、キョンシーって言いかけた? 私は誇り高い吸血鬼だからね?」
「羽があるのが吸血鬼。大丈夫です、覚えました」
「……美鈴はうつけものだよね」
 ふと思い立って、試してみる事にする。
「ねぇ美鈴。私って可愛い?」
「はい。とっても可愛らしいですよ」
 美鈴は屈託の無い明るい笑顔で、そう答えた。それはどう見ても嘘を吐いてなどいない、心の底からの言葉と笑顔だ。
「ね?」
 と、パチュリー。
 確かに、手放しには喜べないレミリアがいた。



「また昼間から出掛けたんですね。危ないですよ?」
 美鈴からすればレミリアの自由行動は悩みの種らしく、残りのシチューはまた明日となった頃に、そんな事を言われた。
「それは、何が?」
 レミリアだって、自立したいお年頃だ。
「ほぼ全てです」
 きっぱり。
「…………」
「日光。人の目。それにお嬢さんはお嬢さんなんですから、不審者にも気を付けないといけません。360度、危険だらけです」
 ひどい言い様だ。
「前の二つはともかくね、三つ目は返り討ちにしてやるよ」
「はいはい、それでやり過ぎて、警察のお世話にだけはならないでくださいね」
「平気だよ。スコットランドヤードは探偵がいないと犯人を捕まえられない無能と相場が決まっている」
「それは探偵小説の中だけです」
「……んー。ねぇパチュリー。実際はどうなんだ?」
「食事中に話し掛けないでくれる?」
「……うん」
 味方がいない。
 パチュリーはレミリアの弁護なんかしないで、木製のスプーンで一口ずつシチューを掬って食べる作業に戻った。
 と思ったら、追撃があった。
「一般人が相手なら暗示くらい余裕でしょうに」
「私がそういうの苦手なの、知ってるでしょ」
「あら、そうだったわね」
 そして今度こそ、黙々とシチューを食べ始めた。
「では、私が道行く警官になって声を掛けますので、お嬢さんは上手に誤魔化してください」
「良いだろう。受けて立つ」
「どうしたの、君……もしかして迷子かな? 何処から来たの? 名前は言える? お家の人は?」
「…………」
 何も言うまい。これはあくまで、もしもの場合だ。
「大丈夫かい? お腹が痛いとか」
 何も言うまい。美鈴は無知蒙昧なるスコットランドヤードに成りきっているだけなんだとレミリアは心の中で繰り返す。決して本心から子供扱いしているわけではない。
「……病気なの、私」
 ゲホゲホと、レミリアは大袈裟に咳き込む。それだけには、飽き足らず、体をくの字に折ってみたり。思い付く限りの病弱な症状を演じてみた。
 レミリアの顔色は、深窓の令嬢のように白く……を通り越して、死人のように蒼白だ。仮病は簡単に通用するだろう。
「大変だ! すぐに病院へ! ……捕まってるじゃないですかっ!」
「いや、隙を見て逃げるし……」
 レミリアには強靭な翼がある。その気になれば一陣の風になって消え失せて見せよう。風圧で被害が出るとかは知らない。
「ともかく顔色が悪いのは深刻ですよ。チークでも塗ってみますか?」
 と、美鈴。
「おい、ちーくって何だ?」
「あ、私は言ってみただけなんで」
「教えてパチュリー」
「私も知らないわ」

 そして固まる、化粧っ気とか皆無の三名。

「ダメっぽいですね」
「ダメっぽいわね」
「……うん、実は私もダメっぽいなと思った」

 ──ズサァー……
 と、椅子からずり落ちたような音が、耳許で。
 レミリアは後ろを振り向いた。が、もちろんそこには安アパートの壁があるばかり。
 ──地味に痛いわ。
 知らん。
 レミリアは心の底から、そう思った。
 ──そんなんで、よく無事に過ごせたわね。
 世渡り慣れしている美鈴が上手くやってくれた部分はあるし、パチュリーなら一般人に暗示を掛けるくらいは雑作も無いだろう。この日常は、二人のおかげだった。
 ふとした時にレミリアは思う。
 家族のような誰かといるのは、独りでいるより、ずっと良い。
 ──まあ、それはそうよね。私も……
 私も……? どう続いたのか知らないけれど、その答えを、意外な思いで聞いて。

 ──さて、それじゃあ。そんな日々にも、障害はあるわよね。




 部屋の中央に皿を置いた。

 板張りの床にぽつんと白い皿が置かれている光景は、何かの儀式の始まりでも予感させるが……いや、別にそんな事も無いか。しかしそれは、ひたすら眉唾な光景だった。

 ただの雨漏り対策なのだが。

「美鈴に言っておかないと」

 たしか一昨日から、近頃は積鬱な小雨の天気が続いていて、パチュリーは本が湿気ると不平を漏らしていた。晴れていようが雨だろうが文句を言う、難儀なやつだ。とは言え、内心ではパチュリーの不平に賛成のレミリアである。
 二度寝を経て午後二時頃に目を覚ましたレミリアは、窓の外の暗い街並みを眺めて、溜め息を吐いた。くもりの天気が丁度良いのだが、お天道様に期待しても仕方ない。もしも会ったら文句を言ってやる、そのくらいの気持ちを持っておかなければ。

「……ただいま」
「おかえり。午後の授業は自主休講?」
 パチュリーはお皿に目もくれない、返事もしない。何か、それ以上の事があると見た。
「ここから馬車で一時間の郊外で、血を抜かれた死体が発見されたそうよ」
「ごめん、私まだ新聞読んでない。ついさっき起きたから」
「表沙汰にはならないわよ。で?」
「?」
「そう、貴方は知らないのね」
 まさか。
「疑われてた? アリバイならあるけど」
 もしもレミリアがここから一時間の郊外で犯行したとするなら、時間的に無理が生じる。何せレミリアは、さっきまで寝ていたのだ。あれ、これってアリバイが無いって事?
「……飛べよ」
 と、パチュリーは短く。
「それもそうだな。うん、飛ばせば三分くらいでいける」
「ま、貴方を疑ったのは冗談みたいなものよ」
 ひどい冗談だ。
「そうでないと困るわよ」
「事務仕事が好きな教員共はまだ動かない。貴重なサンプルが無防備に好き勝手しているのなら、血が欲しい魔法使いの間で狩りになるわ」
「へー、それは物騒ね」
 引き攣った笑みを返す。人間ってやつはどうしてこうも無謀で、業が深いのか。
 パチュリー曰く、貴重なサンプル……もとい、魔力を持つ希少な生物が発見され、更にそれが法的に手付かずの状態にあると、競争じみた狩りになるらしい。もちろん、滅多にある事ではないそうだが。魔法使いに法と倫理の縛りは無い、決して好ましい事ではないのだが、こうした事例は後を絶たないそうだ。無論、危険も伴うはずなのだけれど。
「命くらい張らなきゃ魔法使いなんてやってられないわ。で、これから捕まえに行こうと思ってるのよ。私はこと吸血鬼に関して、一定のアドバンテージを持っているんですもの。ついでに私の名前と実力を示す、良い機会だわ」
「勝算はあるの?」
「? 勝算以前に、しくじる理由が無い。逆に訊くけど、分を弁えない野良吸血鬼ごときが、貴方よりも優れていると思う?」
「……いや、思わないけど」
 口論になると、レミリアはすぐ負ける。
 騒ぎを起こすようなやつは三流だろう。高名な吸血鬼の貴族ならばともかく、三流相手にパチュリーが遅れを取るとは考えられなかった。
「すぐに出発するから、邪魔しないでよね」
「しないってば」
「そこ邪魔。手荷物をまとめる邪魔をするなって言ってるのよ」
 理不尽だ。
「そんなに急がなくても吸血鬼は逃げないよ……あれ、逃げるのか?」
「さあ? でも、他の連中が先を越す、という事はある」
「ああ、なるほど」
 それで、か。
 パチュリーは手早く、愛用している呪文を書き連ねたノートと言う名の自作魔術書や、触媒の類いを片っ端から鞄に詰め込んでいく。
「大捕り物だな」
「最近、吸血鬼は流行してるもの。競争率は高いでしょう。死傷者も出るでしょうね」
「え……そんなにひどくなるの?」
「ええ、そうよ。全員、倫理観の持ち合わせなんて無い魔法使いの集まりよ。私も含めて、自分の研究の事しか眼中に無いわ。邪魔する者は、容赦しない」
 パチュリーは、異端者の冷徹な顔を見せる。

「レミリアは知らないのね。秘密の知識は、独り占めしないと秘密にならないのよ?」

 魔法使いらしい魔法使いのパチュリーは、人間的な感情など欠片も無いように、冷やかにそう言って。
 寒気を感じたレミリアを一瞥すると、静かに扉を開け放ち、霧の向こうへ消えて行った。


 曰くし難い厭な予感だけが、残される。美女と野獣。目を離した間の悲劇の話が頭に印象に残っているせいだろうか。
 それからのレミリアの行動は迅速だった。




 それは、落雷に似た衝撃だった。

 力ある怪物は傲慢に生きるべきだ。それは、義務か美徳とすら言って良い。傲慢に生きてこその、吸血鬼だ。
「だがこれは……ふん、些か品位に欠けるな」
 レミリアとは別の吸血鬼が喰い散らかした痕跡を見て、心の底から嘆いた。無駄に増やされた配下の吸血鬼は、レミリアが着地しただけの衝撃で城塞ごと吹き飛んでいる。

 目立つ牙に黒いマントの、いかにもな吸血鬼だ。吸血鬼は伝承通り、血の交換で眷属を増やす。だとすれば、こいつは何世なのか。支流は源流に劣るのが道理だ。一世の吸血鬼であるレミリアからすれば、その仮装は馬鹿げていた。いや、遊戯を否定するつもりは無い。むしろレミリア自身、わりとミーハーだと自覚はあった。ただし、その遊びは悪趣味な上、更に救い難い事に、程度が低い。ついでに言うなら、度し難い。

 そんな彼は現在、無惨にも、小さな少女の手に首を吊るされて、力無く地面に膝を突いていた。手を離せば無様に転げるしかないだろう。
「貴方の言い分も最もね。けれど残念ながら、私は傲慢なのよ」
 苦しげな呻き声しか聞こえないが、きっと、もっともらしい事を言っているだろう。いちいち聞いてやる義理は無い。
 そして一際冷たい口調で、言い放つ。

「貴様の言い分なんぞ知った事か。消え失せろ」

 レミリアは軽く、指に力を込めた。ごきり、あっけなく首の骨が折れる。しかし吸血鬼は伝承の通り、心臓と頭部の損傷から初めて死として数えるため、軽傷でこそないが、大怪我の内には入らない。手を離せばすぐにでも蘇生するので、しばらく掴んだままにしておく。

 末端の吸血鬼は、はっきり言って人間に牙の生えた程度のザコだった。
 ほとんど無力なくせに、吸血鬼であるという特権意識から生じる堕落と油断はきっちりと持ち合わせている。油断と堕落、それ自体はレミリアも他人事ではないのだが、それにしてもこいつは弱かった。三流と言うのも今にして思えば過大評価だった。
 この程度、パチュリーも同じく瞬殺にしただろう。いったい何を心配していたんだか。パチュリーには死ぬ程、文句を言われるような気がする。ただ、取り返しの付かないものはどうやったって取り返しが付かないのだ。しょーがない、と開き直るしかない。

「それにしても……」

 遅い。
 パチュリーだけでなく、他の魔法使いも来ないとはどういう状況だろう。

「……遅いなぁ」

 また、美女と野獣の物語を思い出した。

 レミリアは今、何をしている?
 パチュリーを一人にしてはおけないと飛んで来たのに、今、何をしている?

 これは、城を離れた事にはならないのか?

 ……いや、それを言うなら、待たされているのは怪物のレミリアの方だろう。
 しかし、いくらそうやって自分を誤魔化しても、胸にわだかまる焦燥感は減らなかった。

 地面を蹴る。
 後には、逆巻く一陣の風だけが、瓦礫の散る荒涼となった地面に残されていた。既にレミリアは、雲の海を突き抜けている。




 空から探すと、運河沿いの誰もいない場所に、不審な臭いを嗅ぎ取った。
 とりあえずレミリアは、再び衝撃を伴いながら着地する。その際に、何か変な壁を突き破る、妙な感触があった。結界のような何かだろう。残念ながらレミリアには、何を意味していたかなど分からない。
 ただ、見えない壁を突き破った先に、パチュリーと他十数名を見付けたというだけで、事足りた。
 運河沿いに、煉瓦造りの街並みが続いている。運河に水飛沫を上げて着地したらしいレミリアは、風圧で押し退けた水が戻って来る前に、建物の屋根に飛び乗った。
 そして改めて、事態を観察する。
 パチュリーは蹲っていて、ローブ姿の人影達はレミリアを見ても恐れない。むしろ、周囲への配慮のために施した結界を壊した闖入者を、歓迎してはいまい。更に様子を見て察するに、パチュリーとは仲が悪いようだ。

 レミリアは獰猛に、哂った。

「貴方達はパチュリーの“おともだち”かしら? ちょっと聞いたんだけど、吸血鬼を捕まえる競争をしているんでしょ? 楽しそうね……ねぇ、私も混ざっても、良いわよね?」

 強風が吹いた。
 建物の煉瓦を打ち砕き、道路の敷石を割り、そして、不用意に抗った愚か者共の肉を裂く、そんな衝撃を伴う強風だ。
「粋がっていた割に、あっけないわね」
 前の瞬間まで家屋の屋根に立っていた小柄な少女は、今、無惨に土まで抉れた路面に立っている。
 誰が信じられようか。敵対者を一薙ぎにした尋常ならざる風の痕跡が、少女が軽く腕を振るった、その“爪痕”に過ぎない、などと。

 闘争とは言えまい。圧倒的な蹂躙だ。

 呆然となった敵、否、敵意を失った彼らなど、もはやただの観衆だ。その様子に、レミリアは冷やかに目を細める。命まで獲る必要も無いだろう。
 力は示された。怪物は傲然と観衆に語り掛ける。
 見るがいい、これこそが──

「──これが、本物の吸血鬼よ」

 優雅に会釈したレミリアは、親切にも、そう教えてやった。

 …………

 後ろから頭を殴られるまで、久し振りに暴れたレミリアは最高に清々しい気分だった。

「あんたってやつは……このっ……何を、余計な事をしてくれてるのよ!?」
「……うん、そうよねぇ。そうだと思った。死ぬ程文句言われる気はしてた」
 とか言い合っている間に、パチュリーの友人各位は散り散りに逃げて行く。その様子に、些細な引っ掛かりを覚える。あれはまるで、レミリアから逃げていると言うよりは……
「私達もさっさと逃げるわよ」
「なんで?」
「やり過ぎだからに決まってるでしょ! こんな派手な騒ぎになるなんて。決闘は暗闘が常識なのよ……?」
 怒鳴った声は、次第に萎れていった。
 パチュリーは嵐が去ったような惨状を眺めて、溜め息を吐く。
「これはもう、私が一人で暗示を掛けて収拾できる規模じゃない。とにかく、教員に見付かる前に逃げるわよ」
 まるで、喧嘩してちょっとやり過ぎてしまった不良のようだ。
「……大変な事になったな」
 他人事のように。
「貴方に文句を言うのは、その後ね?」
「……大変な事になったな」
 万感の思いを込めて、呟いた。




「で、実際はヤバかったんだろ?」
「いいえ。丁度、前もって敷いた陣の上に誘い込んだところだったわ。誰かさんが吹き飛ばしてくれたけど。私の張った結界も破ってくれたわね」
「…………」
 身に覚えは……あった。
「あいつら、前から小うるさかったかのよ。良い機会だから、黙らせようと思っていたの。私は元々そのつもりだったわ。ま、向こうの出方次第で一考の余地はあったけど」

 黙らせようと思っていた。
 それは、どういう意味だ?

「で、貴方は何をしに来たの? 嫌がらせ?」
「いや、本当に何だったんだろうね?」
 何はともあれ、完全に空回っていたようだ。

 すぐにその場を離れたレミリアだが、近隣の住民が慌ただしく駆け付ける様を、ちらりとだが見ている。きっと、結界には内部の騒音などを遮断する効果があったのだろう。それを無思慮に突き破ったせいで、この騒ぎだ。思えば、ほとんど行って帰って来ただけの三流吸血鬼の居城も、似たりよったりの惨事になっているだろう。天気も悪いので、突風や落雷の被害とでもなれば良いが。
 当然そちらの件に関しても、ぐちぐちぐちぐち……と文句を聞かされ続けて、いい加減、耳が痛くなってきていた。

 しばらくは飛んだり地下道を通ったりと身を隠しながら逃避行を続けていた二人も、帰り道があとわずかになると、人の通らない通りを見繕っていた。レミリアは祭りの後のような静かな足取りで、疲れたのかゆっくりと歩くパチュリーに、歩幅を合わせる。長く続いている雨模様は、しとしとと肩を濡らす。

 自然と、口数も少なくなっていた。

 しかし、それにしても。
 予想以上に酷い集団だった。

 苦い思いで、そう認識する。人間的な倫理観の欠如は聞いていたが、本当に、エゴイズムのためだけに同類を殺そうとする人間を、人間と言って良いのだろうか。
 魔法という一般から逸脱した力を手にし、法と社会に縛られなくなった人間。無論、その集団にはその集団なりの自律の仕組みがある、とは思うが。実際に、パチュリーがこうして、小うるさい学友を始末しようとしていたのだ。文脈から言って、黙らせるとは殺すという意味以外には取れない。

 秘密の知識は、独り占めしないと秘密にならないのよ?

 パチュリーがそう言った時、レミリアは本当に怖かった。ほとんど、自身の奉じる学問への狂信に近い発言だった。そんな言葉を、特に気負わずに、さらりと、既知の常識のように語って見せたパチュリーは、少なくともレミリアの知る真っ当で普通の人間ではなかった。

 まるで、“同類のように”感じたのだ。

 咎めるつもりは無い。
 それでも、もやもやとした気持ちは晴れなかった。

 だから、質問。
 小雨の中、暗い夜道、隣を歩くパチュリーに。

「パチュリーは、どうして魔法使いをやってるの?」
「魔法使いに産まれたからよ」
「……それだけ?」

 長い時間、レミリアは黙って、待っていた。

「じゃあ、パチュリーは最初、どんな魔法使いになろうとしてたの?」

 質問を変えて。
 再び、長い沈黙。

「漠然とだけど……魔法使いになれば、こんな私でも、人の役に立てるような気がしていたのよ」
 ──ま、無理だったけど。
 そう付け足したのは、幼稚な夢への照れ隠しだったんだろうか。
「魔法って、人の役には立たないのよね。魔法で人は助けられないわ」
「……そう」
「私は魔法を学んで、何をしたかったのかしらね?」
 パチュリーの忘れてしまった事を、レミリアが知っているはずなど無かった。

 もしかしたら、レミリアが最初に魔法使いと聞いて連想したように、とんがり帽子で箒に乗って空を飛ぶ、おとぎ話の世界にしかいないような、そんな魔法使いに憧れていたのかも知れない。

 パチュリーは、賢女?
 それとも、私と同類の怪物?

 それは、意地の悪い質問だった。
 だけどもしも、怪物の側に来るのなら、その時は、今のように隣を歩いて行ける。そんな事で励ましになるかどうかは分からないけれど、レミリアはそう言おうとして。
「ねぇ、パチュリー」
 その時、不意にパチュリーが激しく咳き込んだ。

「また持病?」
「……そうね。貴方に文句を言い過ぎて、喉が痛いわ」

 それは、絶対に違った。

 普段から不健康に色白の顔は、今や土気色。湿った咳を繰り返し、べったりと、手のひらに黒ずんだ血がこびり付いている。
 流石のレミリアにも分かった。どう考えても、それは喘息の症状ではない。呪詛に苦しむと言えば、近いだろうか。

「…………」

 原因は追究しない。他にも、レミリアは何も言わない。背中をさすってやる事もしなかった。

「早く帰ろ。そうだ、おぶってやろうか?」
「ふざけないで」
「お前ってほんとに可愛げのないやつだよな」
「知らないわよ」

 二人並んで。対等に話しながら。

 そぼ降る雨は優しく、地面を濡らしていく。
 けれど、この雨は決して、レミリアに優しくなどない。そして、体の弱い少女にも。

 この世界はいつも怪物に厳しいから、怪物は身を隠さないと生きてはいけない。
 誰かに見付かる前に、今日は早く帰って、早く寝よう。




 数日の後。派手な騒動の結末は、パチュリーの謹慎処分となった。

 そして、上品な白いブラウスとシックな黒いスカート姿の、全体像としては清楚な女性が、レミリアの住むアパートを訪れている。
 それに何が入るのかと思う程の小さなハンドバッグが、上品で清楚な印象を後押しする。赤いアンダーリムの眼鏡が、流行を何十年も先取りしたように派手で、印象的だった。

「さて、ノーレッジさん。この度は残念な事になりましたね」

 彼女は艶やかな長髪を揺らし、目を伏せる。
 パチュリーの通う学校で錬金術の講師を勤める、パチュリーの師匠──つまり、“担任の先生”に当たる女性。

 ──コッヒャー、先生、一回やってみたかったのっ。でも、代役だからきちんと台本通りにやるわ。

 耳許ではしゃぐ妖艶な声は、無視して構わないだろう。

 家庭訪問という未知の事態に慌てる美鈴とレミリアの一騒ぎ、「あれ、外国の方。中華っぽいお顔立ちです」「はい、そうですが。あ、いつもうちの子がお世話になっております」「いえいえどうも……って、お母さん的な対応ですね」を経てようやく着席した先生は、残念な事になったと、そう切り出したのだった。

「ノーレッジさんは優秀な生徒だっただけに、まさかこんな事になるなんて」
「世事は結構。確認事項は手短にお願いします」
 慇懃だが横暴な物言いに、先生はわずかに目を細めた。
「魔法を衆目から隠すのは、大々々原則です。絶対に守らないといけない事です。今回、ノーレッジさんはその禁を破ったんですよ、分かっていますね。加えて、生徒が俗称で狩りと呼ぶ行為も、講師一同、厳しく禁止しています。当然、他の者にも同等の処分を下しています。ノーレッジさんも、きちんと反省してください」
「ええ、もちろんです」
「いや……あれは私が」
「私の責任です!」
 レミリアが誤解を解こうとして横合いから口を挟むと、珍しくパチュリーが大声を出した。
「そうですね。飼っていたモルモットが暴れた責任は、ノーレッジさんにありますよね」
「──おい」
 控え目に言っても、かなり苛立った。
 即座に手を出さなかったのは、ひとえに、この女性がパチュリーの先生であり、十中八九、パチュリー以上に優れた魔女であろうという、重い事実を理解していたから。
 すると先生が、レミリアに向けてさりげなくウインクする。
「高品質の吸血鬼が野放しにされているなら、私だって捕まえて実験したい事が山ほどあります。それ以前に、神秘の秘匿は我々の義務ですので、早急に手を打つべきです。もちろん、あちらの吸血鬼がノーレッジさんの私物と言うのなら、その限りではありませんが」
「ええ、以後、管理には注意します」
 どうやら、魔法使い同士の暗黙の了解の元に話を進めていたようで。つまり、見逃してくれる、という事なのだろうか。用件は、確認事項の確認。一瞬思った程、悪い人でもないようだ。
「先生。パチュリーって普段、学校でどんな感じなの?」
「なに余計なこと訊いてんのよっ」
「ふふふ、良いでしょう。これぞ、家庭訪問の醍醐味」
 素朴な質問のせいで、焦った様子のパチュリーが机を叩いて立ち上がる事態になった。先生は楽しそうに、にやにやとしている。
「レミリア。貴方そんな事より、この澄ました顔の女が生徒の間でどう呼ばれているかの興味は無い?」
「あ、それもちょっと気になる」
「惚れ薬先生よ。特に男子はそう呼んでるわ」
 うわー、とレミリアは眉を顰める。
「ノーレッジさんっ!? なんて事を言うんですかっ」
「事実ですよ。先生を代表する研究と言えば、学会で最高評価を受けた惚れ薬の製法でしょう」
「違いますっ。あれはただ、トリスタンとイゾルデに憧れて再現してみようと思っただけで、やましい気持ちは無いんですっ。製法だって、負の遺産として厳重に保管してありますっ。そもそもあれは現代の材料では作れない理論だけのもので、ですね、ともかく」
「何故、そこまで躍起になって否定するんです?」
「嵌められたっ!?」
 少し、呆気に取られる。
 愉快な先生と、嫌味な生徒のやり取りだ。そうか、つまりこういう感じなんだろう。意外な一面が見れて満足だった。学校も、酷いだけの場所ではないと分かって、安心もした。
「ところでレミリア。そいつ、今年で50になる魔女よ」
 ……って、年下かよ。
 ものすんごく言葉にしにくい微妙な気分だ。
「お願いですから年齢の話をしないでくださいっ」
 涙目で訴える先生には、もはやレミリアが最初に抱いた、パチュリーの担任の先生という威厳は残されていなかった。

「で、これで話は終わりですか?」
「あの、ノーレッジさん? 一応、立場というものを弁えて欲しいと、先生は思うのですよ。ノーレッジさんは今、謹慎処分を受けているのをお忘れですか?」
「ええ、ですからこうして家にいるでしょう」
「……いえ、そういう事ではなくてですね。まあ、事後処理も隠蔽工作も無事にまとまりそうなので、これ以上の小言は言いませんが」
 はあ、と。先生は苦労の滲む溜め息を吐く。
「この面談は、進路相談も兼ねているんですよ? ノーレッジさん、錬金術は肌に合わないのではないですか? 優秀な生徒を引き渡すのは残念ですが、他学科への転入をお奨めします」
「そうですね。どのみち、基礎から理論を見直さなければならない、とは思っていました」
「きっぱり言われると、先生も傷つきますよ?」
「ふっ」
「鼻で笑いましたかっ!?」
「で、話は終わりなんですか? 私、読んでいる途中の本がありまして」
「うぁ~う~、先生は辛いですよぅ……」
 なんか、可哀そうになってきた。
「ノーレッジさんがそんな態度では、先生は本当に泣いてしまいます。先生は卒業式の時にしか泣かないと決めているのに」
「知りません」
「……先生は、先生は、うわぁぁ~んっ」
「50」
 ぼそっと、パチュリー。見る見るうちに、先生の眦に水滴が溜まった。
「おい、ひどいな」
「別に良いのよ。私が、こいつに感謝の念を抱く理由なんて、全く無い。むしろ恨んで当然。“こいつは、それだけの事を私にしているんだから”」
「?」
 何かを、見過ごしている?

「こほん。何はともあれ、ノーレッジさんがひとまず元気そうで良かったです。では、先生はこれで失礼します」

 先生は席を立って美鈴に頭を下げると、レミリアにも微笑を向けた。もう帰ってしまうようだった。まだ話を聞いてみたい気もするが、先生も先生で忙しいのだろう。事後処理、隠蔽処理とか言っていたし、元はと言えば、それはレミリアの仕業なのだ。引き留める訳にはいくまい。
「またね、パチュリーの先生」
「はい。可愛い吸血鬼ちゃんも、あんまり乱暴はいけませんよ?」
 可愛い、ね。
 どういう意味で言ったのやら。
「……は~い」
「実を言うと先生は、ノーレッジさんがいつも一人でいるのを心配していました。ま、珍しい事ではないのですけどね。こんなに素敵なお友達がいるのでしたら、先生も安心です。これからもノーレッジさんと仲良くしてくださいと、先生からもお願いします」
「言われなくても」
 優しい先生だった、と、思う。
 レミリアはそう思いながら、先生の後ろ姿を見つめる。

 一応は律儀に先生の見送りに出たパチュリーが、玄関の扉の近くで、先生とまだ話をしていた。

「では、ノーレッジさん。確認します。本当に、良いのですね。今ならまだ、先生が味方をしてあげますよ」
「結構です」
「頑固ですね。先生は残念に思います」
「確認事項はこれで全部ですか?」
「はい、伝達事項もこれだけです。また今度、ノーレッジさんの答えはその時に、聞かせてくださいね。それまで頭を冷やして、よく考えてください」

 どうして、厭な予感がするんだろう。
 事はもう終わったはずなのに。




 一週間の自宅謹慎を終えて学校へ行ったパチュリーを見送って、レミリアは窓から通りを見下ろす。
 からっと晴れた、湿度の低い良い天気だ。日差しも然程、強くない。気持ちの良い秋晴れだった。

 レミリアはいつものように、散歩に出掛けた。昼食は買って済ませ、公園のベンチに座って、枯れ葉を眺めて時間を潰す。また今日も、パチュリーと一緒に帰ろうと思っていた。何時頃になるのか、教えてもらっておけば良かった。
「行ってみよう、かな」
 先生も良い人みたいだし。迷惑にならない範囲なら、遊びに行っても良いかも知れない。
 行く事に決めて、レミリアは上を見る。晴れてはいる、快晴だ。でも何処か、レミリアが歩いてきた村や森の中から見上げる空とは違う、くすんだ空。嫌いではないが、人の多い街は、大体こんな空だ。

 あたかもこの空を見上げる最後の機会であるように、レミリアはじっとして動かずに、ぼんやりと空を見ていた。



 日が暮れるのを待って。
 その夕刻。奇妙に、街には人の気配が無かった。

「……なんだ、これ」
 レミリアの肌が、異常を感じ取る。
 目に見える異常は、街を歩く人の姿が無い事。しかし肌で感じる異常は、正体が掴めない。

 ごくたまに、それも近くまでしか行った事の無い、パチュリーの学び舎。そこは意外と普通で、小さな建物だった。あるいは、内部は見た目以上の敷地があるのだろうが、外から見る限りは、何の変哲も無い煉瓦の建物だ。まさか全ての生徒がここから学校に入る訳ではあるまい。多分、似たような建物が街中にあるんだろう。
 そしてこの場所は、奇妙に閑散としていた。生徒の姿はおろか、誰もいない。
 無意識に固唾を呑んで、レミリアはその建物の中に、入った。

 レミリアのアパートより少し広い部屋。家具の類いは置かれていない、殺風景な部屋だ。入った扉とはまた別に、向かい側にもう一つ、裏庭に出るための扉がある。恐らくは、あの扉の向こう側が別世界になっているのだろうなと、なんとなくそう思いながら見ていると、弾けるような勢いで扉が開いて誰かが飛び出して来た。

「──レミリアっ!?」
「え……パチュリー?」

 尋常でない様子のパチュリーは、飛び出して来た勢いのままレミリアの腕を掴んで、今度は表通りへと飛び出す。
「逃げるわよっ」
「私まだ何も壊してないけど、って、おいってば。──離せ。その方が動き易いだろ」
 驚いたし事情も呑み込んではいないが、レミリアは即座に気持ちを切り替えた。パチュリーの腰を柔らかく抱いて、一跳び毎にヤード単位で跳躍する。人目が無いのが幸いだった。屋根伝いに移動して、ひとまずは直線で距離を離す。
「で、何?」
 最短で問う。
 しかしその返事は、湿った咳だった。
 先日、パチュリーが倒れた時の症状に似ているが……パチュリーの口の端から、またあの時と同じ黒ずんだ血が流れたのを見て、躊躇した後、レミリアは足を止めた。再び戻って来る事になった公園のベンチに、パチュリーを寝かせる。
「……病院じゃ、ないよね」
「はい、そうですね」
 木陰から、パチュリーの担任の先生が姿を現した。
 レミリアは、この状況で現れた他人を信用する程、楽観的ではなかった。油断なく、その姿を視界に収める。日没の公園で、その姿は限り無く不吉だった。
 善意を持っているのなら、先回りして現れる必要は無いし、気配を消す必要も無かった。何より、奇妙に人の気配が無い空間というのが、つい先日もほんの一瞬だけ経験した、人を寄せ付けない結界の内側の空気に似ていた。

 パチュリーの唇が微かに動く。もごもごと言っているのは、レミリアが何故ここにいるのかという文句だとして、それから、どういう訳か、パチュリーは穏やかに微笑んだ。末期に悟りでも開いたような、この世への未練を捨て切った、諦めの微笑で。
 小さく消え入りそうな声で聞こえた言葉は……

 私はもう良いから、貴方だけでも逃げなさい。

 もう良いなどと、パチュリーらしくないだろう。他でも無いパチュリーに対して苛立ちを感じながらも、レミリアは、今この場において最優先で睨むべき相手を睨む。
「どういう事だ。説明しろ」
 命令。
 試した事は無いが、きっと、並大抵の精神の人間ならば恐怖で畏縮する、威厳を込めた低い声音。吸血鬼という高等な種族が持つ、力のある命令だった。
 それを真っ向から受けた先生は、困った風に肩を竦めて見せた。
「魔法の文化を守るためですよ。実はそれほど大した事は無かったらしい魔女狩りですが、魔法が異端である事に変わりはありません。我々は伝説的な悲劇を繰り返したくはないのです」
「…………」
「例えば、先生は魔法が使えます。ほぼイコールで、端的に言って、誰にも知られず殺人を始めとした悪事を働く事が可能です。もしも普通の人が、先生の事を知ったらどう思うでしょう。多分、怖がると思います。怖いから、その存在を許してはおけません」

 人間はいとも簡単に、自分に似た異物を排斥する。
 それをよく知っていたレミリアは、反論が出来なかった。

「ですが、我々魔法使いは、数が少ないんです」

 多数派は少数派を当然のように虐げる。
 レミリアはその事も、よく知っていた。

「そして我々は、学校の体裁は取っていますが、実態は小さな互助組合のようなものです。今は軌道に乗って再びノウハウを蓄積し、組織として機能していますが、本質的に我々は弱者です。その気になれば多数派をまとめて殺せる少数派です。これで結構、繊細な綱渡りをしているんです」

 レミリアは更に、説明の続きを待った。まだ、ほとんど触りの部分しか聞いていない。

「──故に、離反者を許しません。教育の済んでいない問題児など、見逃せばどんな綻びが生じるか分からない。加えて、貴重な知識の持ち逃げなんて、許せるはずがないんです」

 パチュリーと同種で、パチュリー以上に深刻な、人間的な倫理観の欠如した表情で、先生は言った。レミリアは先生の言葉を聞き、表情を見て、ある確信を持つ。

 本物の魔法使いは人間じゃない。別の種族だ。

 だが今は、そんな事はどうでもいい。
「パチュリーが、逃げた?」
「逃げたと言うとニュアンスが違いますね、脱走です。どうやらノーレッジさんに学校は窮屈だったようですね。先生は、せめて卒業まで待って欲しいと説得をしたのですが。いえ、しかも、帰りがけに貸し出し禁止の魔術書まで持って行くんですから、驚きました。流石に先生も、そこまでは庇い切れません」
「それ、本当?」
「鞄の中身を見てください」
「……あ」
 本当だった。
 ……それに、そう言えば。連想が記憶を手繰り寄せた。以前、パチュリーが読んでいた骨董書。あれは本当に、買ったものか?
「ノーレッジさんは優秀な魔法使いですよ。まさかここまで、自分の研究にしか興味が無いなんて。先生はノーレッジさんの事を見くびっていました」
 そう。結局、パチュリーは常に知識を最大に尊んでいる。他の事は全て、二の次だった。生まれ落ちた時から魔法使いだったと言うパチュリーは、恐らく、人間として完全に何かが欠落している。

「自我の無発達な幼児の頃には既に魔法が使えたようですね。そんな子供は、残念ながら真っ当には育たない。人間社会どころか、我々魔法使いの社会とも折り合いが付けられない。ノーレッジさんね、本当にいつも一人で本を読んでいるんですよ? 取り換え児なんじゃないかと疑う程に、まともな意志疎通が計れないんです。禁止書庫に無断で立ち入った事も一度や二度じゃありません。優秀な一方で、とんでもない問題児なんです。院まで進学すれば閲覧出来る範囲も増えると言い聞かせているのですが、とてもわがままで困ります」

 それは、レミリアの知らないパチュリーの顔……ではない。きっとそうだろうと思っていた、レミリアの同類としてのパチュリーの顔だった。
「ところで」
 じっとりと汗を掻くパチュリーの手を握りながら、レミリアは確認すべき事を確認する。みなまで言わずとも、伝わった。
「あ……まあ、普通は気付きますよね。そうです、ノーレッジさんの喘息もとい謎の病気は、先生の呪いです。生徒の勝手な行動を慎ませるための、体罰と、そう思って頂いて構いません」
 魔女は、簡単に自白した。
「で、パチュリーをどうするつもり?」
「残念ですが、謹慎処分の追加です。ただし今度の謹慎は軟禁という形になりますけどね。もちろん貴方にも同行して頂きます。悪いようにはしませんよ……一応ですけど」
 表情一つ変えずに言って、先生は携えた小さなハンドバッグからガラスの小瓶を取り出す。手作りジャムを保存するのに丁度良い大きさの瓶の中身は、赤い、ぷるぷると震えるスライム状の何かだった。

 赤いスライムと、目が合った。理屈は分からないが、ともかくアレは、生きている。

「負の遺産の副産物を混ぜて作った、私の使い魔の人工生命です。これ、ほんのちょ~っとだけ、えげつないんですよ……だから、使わせないでくださいね?」
 咄嗟にレミリアが動けなかったのは、パチュリーが人質同然の状態である事、そしてやはり、目の前の魔女が、パチュリーの担任の先生であるという重い事実だった。
「おとなしく私と一緒に来てくれれば、乱暴はしませんよ。よく考えて、悔いの残らないように行動してください」
 悔いの残らないようにと言われ、レミリアは肝が据わった。
 学校だか何だか知らないが、パチュリーには窮屈だったのだろう。そうと決まれば、すべき事も決まっている。
「……そうですか。ノーレッジさんに素敵なお友達がいて、先生は嬉しいですよ」
 先生が瓶を傾ける。その中身が零れ落ちるまでは、まだ猶予があった。

 戦おうとは思っていない。だからレミリアは、パチュリーを抱えて一目散に逃げ出した。
 勝てないのは、あくまで真正面からやり合った場合。純粋なスピード勝負なら、レミリアの方が早い。無論これでは、パチュリーの病状は回復しない。勝利条件には、解呪の方法を訊き出す事が必須だった。だからレミリアはその点でも、出来る事をした。つまり、先生の善意を信じた。

 すぐにレミリアは、アパートに辿り着く。
「あ、お嬢さん」
「いや、あ、じゃないよ」
「入れ違いにならなくて良かったです」
 荷物をまとめた美鈴が、扉の前に立っている。その様は、まるで夜逃げだ。
「また引っ越しですね」
「そうだな」
 美鈴もレミリアも、急な引っ越しには慣れていた。
 言いながら、レミリアは煉瓦の隙間を縫って赤い液体が零れるのを見た。簡単には見逃してくれないようだ。あるいは、美鈴を伴って戻るという手もあるが、レミリアはそうしなかった。
「話は後」




 ふと気付くと、喧騒が戻っている。
 パチュリーの方も、少し様子を見ると、顔色も良くなっていた。これでまだ咳き込むようなら、自分の不摂生が原因だろう。

「私は何も見てませんけど、彼女は彼女の仕事をしただけなんでしょう」
 と、美鈴。
「彼女の善意に甘えるのなら、二度と目に入る場所に近付くべきではないですよ。次は無いかも知れないし、迷惑にもなります」
「分かってる」
「ちなみに、学校を回ってからお嬢さんを探していたのですが、あの建物、ただの廃屋でした」
「そうなんだ。私は、下手したら建物自体が見付けられないかと思ってた」
「壺中天みたいなものでしょう。よくある話です」
「どっちかって言うと、浅茅が宿じゃない?」
「……お嬢さんはたまに、何処で知ったんだみたいな事を知っていますよね」
 どちらにせよ、行こうと思ったところで行けない、という事だ。結局、レミリアは本当に魔法使いの学校なんてふざけたものがあるのか、こうして事が済んでしまえば、半信半疑にならざるを得なかった。真相は霧の中に消えたのだ。

 話が途切れて、突然、パチュリーが目を覚ました。しばらくレミリアの腕の中で微動だにせずに目を見開いていたパチュリーは、やがて状況を把握したのか暴れ出す。もっとも、そんな拙い抵抗は、吸血鬼の腕力の前では無意味なのだが。
「……屈辱だわ」
 観念して、凶相で吐き捨てた。
「お前な、最初に言う事がそれかよ」
「降ろしなさい」
「はいはい」

 軽く応じながらも、レミリアは考えていた。
 答えなどありそうにない、素朴な疑問だ。
 居場所って、何なんだろう、と。怪物だって、普通に笑うし、普通に怒るし、普通に泣くのに、まるで悪者のように隠れて生活しているのは、何故なんだろう。
 その答え自体は、先生に聞いた通り。

 例えば、先生は魔法が使えます。ほぼイコールで、端的に言って、誰にも知られず殺人を始めとした悪事を働く事が可能です。もしも普通の人が、先生の事を知ったらどう思うでしょう。多分、怖がると思います。怖いから、その存在を許してはおけません。

 だったら、もっと怖くなるしかないだろう。
 誰にも憚らず、レミリアが恐怖政治の秩序となる。

 それは途方も無い話だった。
 けれど、野望として胸に仕舞っておく。いつか王になる、その日まで。

「パチュリーよ。お前は宰相にしてやろう」
「は?」
「美鈴はハウスキーパーだな」
「三食昼寝付き実働一時間なら謹んでお受けしますけど。急になんですか?」
 揃って二人に変な顔をされた。

「……いや、変と言うならな、パチュリー」
「私が何かした?」
「しただろ、色々。と言うか、今こうなってるのはお前の身から出た錆だろ。まさか校則も守れないやつだとは思わなかったぞ」
「ああ、それ。私は悪くないわ」
「……あ、そう」
 本当に悪びれる様子が無い。それでこそ、レミリアの同類だが。なのだが……これはひどいな。
「私が言うのもだけど、少しくらいおとなしくしてろよ」
「本当にそうね。貴方にだけは、言われたくないわ」
「まあ、そうだけど」
「院まで進学すると、自由に身動きがとれなくなるのよ。貴方といるのに、それは面倒だわ」
「……?」
 そこで何故、私が関係するのです?
 と、レミリアは首を傾げる。
「つまり、貴方が悪いのよ。これは論理的な帰結よ」
「理不尽だ」
 でも少し、いつものパチュリーのようで、安心した。



「で、これからどうするの?」
 行く当ては、今の所は考えてない。しばらくは、美鈴の伝手に頼る事になるだろうか。

「実は、お嬢さんの一人立ちのためにと、こっそり貯めていたお金があります」
「え、そんなのあるの?」
「ちょっと前に、私と一緒に妖怪退治をしてましたよね」
「いや、だいぶ昔だけど。まあ、結構長い間」
「期間はざっと三百年間ですね。たまに貰う謝礼金の半分を、使わずに取ってあるんです。お嬢さんの分ですよ」
「へぇ」
 貧乏生活を余儀なくされていたのは、そのせいか。
「そう言えば、私の学費が浮く事になるわね」
「……え? うん」
 何を、求められているんだ?
「「…………」」

「えっと、じゃあ、“欲しいもの”があるんだけど……」



◇◇◇ 5章

「こんばんは? おはよう? どっちかしらね、ねぼすけちゃん。まだ夜で、眠りから覚めたってことでもないのだけれど」

 甘い毒を含んだ囁き声が聞こえる。

「初めまして……これを言うのも何回目かしらね。私はこの館に勝手に住み着いている、元中級妖精の低級悪魔。イタズラが好きな、その辺をふよふよしている程度の存在よ」

 レミリアは乱雑に、図書館の床に放られていた。

「こんな私でも、昏睡状態に陥った子の夢を操るくらい、とっても簡単な事よね。それと、断片的なのは許してね。あくまで、私の興味を惹いた部分を掻い摘んだだけだもの」
 誰にともなく、小悪魔は呟いた。宙に浮いた椅子に腰掛けて、同じく宙に浮いた小さなテーブルにマグカップを戻す。テーブルの上には手作りのショートブレッドも並んでいる。
 レミリアは、気付きたくもない事に気付いてしまった。

 つまり、観賞会だ。回想を、小悪魔は気楽に観劇していた。

「面白かったかどうかに関しては、控えておきましょう。でも、これだけは言っておくわ。あなたの苦悩は、私にとっては駄文以上の価値が無い。コーヒーとお茶菓子は必須。やってらんないわ、正直、途中で何回か挫折しそうになった」
 印象通り、そんな事を言う。
 ふざけるなと手を握り締めれば、爪が手の平に食い込む。まだ血が出る程ではないが、レミリアは苛立ちを感じていた。椅子からずり落ちてしまえ。
「怒った? どうして? あなたのその反応は不可解よ?」
 浮遊する小悪魔の位置は、床に倒れたままのレミリアよりも高い。哀れな者を見る目で、小悪魔はレミリアに視線を落とす。
 そんな事を質問する事自体が、哀れだとでも言う風に。
「じゃあ、同情でもされたかった? まあ、子供には辛かったわよね。口には出さないだけで、内心では、うっわぁ、くらいには思ってたけど」
 そして小悪魔は言い聞かせる口調で、質問に答える。
「怪物って傲慢なものよ? 好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。行動原理なんて、それだけ。本能のままに、心のままに。難しい事なんて考えない、私は私のやりたいようにやる。気に入らないものは壊すわ。もちろん、躊躇なんてしない。誰に憚る必要も、咎められる謂れも無い」
 だから、と。
「あなたが悔しいのは分かるけど、それは少しだけ論点がずれてる。あなたは、私があなたに対してやった怪物としては当然の行動に対して、迂遠な憤りを感じているの。あなたも怪物なら理由も無く怒れば良いのに、あなたは自分の過去を軽んじられた事に対して、義憤に近い感情を持った」
 小悪魔は、レミリアさえ理解していなかったレミリアの苛立ちを、ぴたりと言い当てた。
 レミリアの記憶を再生した夢を鑑賞した小悪魔は、ある意味でレミリア以上に、レミリアの事を知っていた。客観的な評価であり、当のレミリアが意識していない事、忘れている事さえも、小悪魔は十全に見透かしていた。
「人間なんて、怪物の慈悲で生きているだけなのに。これは、どういう意味で言ったの?」
「……? そのままの意味よ」
 何の衒いもなく、単なる事実を事実のままに言っただけだ。
「それだけの意味かしら?」
「ええ、人間は弱く、愚かだわ」
 レミリアが今まで見た人間の群れと社会を思い返して、断定的に言った。
「そうね。意味のある賢さというものについて懐疑的な前提を持つのなら、その意見は正しいわ」
 小悪魔は、全ての生き物が自身も含めて愚かであると、断定的に言った。
「例えば、色んな国があるわよね。ブリテンだって、イングランドにウェールズにスコットランドに、そしてアイルランド。例えば、色んな人がいるわよね。大人と子供、男の人、女の人。外から見ればだいたいみんな同じだけど、内側から見ると、その差異は無視できない。そして誰しもがみんな、自分という国の王様なの。炭焼きも自分の家では主人だわ。それなのに、みんなで集まって仲良しごっこ。うふふっ」
 嘲笑。
「できるわけないのにねぇ」
「…………」
「みんなの、自分達の中にしか無い王国の法律や思想を持ち寄って、社会というお揃いの空想を作る。でも時折、異物が生じるわね」
 悲しそうに、しかし小悪魔は首を横に振った。
「ううん、異物よりも悲しいのは、自分を殺してまで、有りもしない、みんなの輪の中に溶け込もうと、見当違いな努力をしてしまう事。だってそれは──領地を失うって事なのよ?」
 小悪魔の言っている事は、普通じゃない。
 でも、と、レミリアは思う。レミリアには、小悪魔の言葉の一端を理解できるような気がした。人間ではないからだ。

「亡国の王様は、悲しいわ」
「それはただの奴隷でしょ」

 ただし、感じ方は全く違ったが。
「……そうよ。あなたは弱さを愛おしまないのよね。自分も弱いくせに、それとも、自分が弱いから?」
「いいわ。聞き流してあげる。で、貴方は何が言いたいの?」
 簡単な事よ、と小悪魔。
「可哀そうな子を見ると、いっつも、助けてあげたくなるの。亡くした国があるのなら、私が国を作ってあげる」
 嘲笑いながら、言う。
 それは、とてもではないが、理解し難い心の動きだった。
「私は、愚かで弱くて可愛い子たちのことを、嫌いじゃない。どうしようもなく愚かなところもいじらしくてたまらないわ。今すぐみんな、私の触手で眠りに堕としてあげたいくらい」
 うっとりと、小悪魔は言った。やはり、嘲笑を浮かべながら。
 意味が分からなかった。

「それは、あなたが所詮は吸血鬼程度の怪物だから。私から見れば、吸血鬼も魔女も、人間と変わらないわ。とても人間的で愚かな、プライド、な~んて下らないものに縛られてる。そんなものの何処が、怪物なの? 怪物って傲慢なものよ? そして、自由なものよ? ……と、教えてあげたかったのだけど」

「貴方は怪物だって言うの?」
「さあ、どうかしら。少なくともあなたよりは、怪物らしく振る舞っているつもりだけれど。あなたって、自分で思う程には怪物じゃないのよ。わがままを言うだけなら子供にもできる。わがままの内容が極端に悪辣で悪質でないと、怪物とは言えないわ。ま、あなたが怪物かどうかなんて、私には関係ないんだけどね」
 どうでもよさそうに、小悪魔は言う。レミリアの方を向いてすらいなかった。

「さてと、それで。ここまでバカにされたあなたは、どうするのかしら?」

 刺すような視線に、身が竦む。
 レミリアは床に伏せたまま、体の調子を確認する。痛む箇所は無い。十全に動ける。
 そうと分かればこれ以上の無様を晒す事を良しとせず、獣じみた動きで飛び上がり、小悪魔から距離を取って立ち上がる。

「貴方こそ、どうするつもりなのかしら?」
「私? ふーん、それを、質問しちゃうんだ」

 小悪魔はちろりと舌を出して、悪戯めいた笑みを見せた。だが、瞳は凍えたままだ。視線には、明確な害意が含まれている。レミリアの知る限りで言えば、その害意は殺意にも程近い。
「図書館の利用客ならば歓待しましょう。もちろん使用人も歓迎です」
 小悪魔はそこまで言って、首を傾げる。
「……で、あなたは? 連れ子? ああ、連れ子ね、ええ、それなら良いの、私、子供も好きだもの、特に美少女って大好きよ。こあおねーたまだいちゅきー、って甘々ロリボイスで言えば、大体の事は許してあげる。私は美少女には寛容よ」
「誰が言うものですか」
 睨み付けると、小悪魔は冷やかに笑った。冷笑だ。
「そう、じゃあ、はっきりと言うけど、遊びは程々にしなさい。あなたに領主ごっこはまだ早いわ。今ならまだ怒らないから、謝るか出ていくか、どちらか選びましょうね。もちろん私の妹になってくれても構わないわよ?」
 嘲笑の混じった猫撫で声で、吐き捨てる。
 さっきからおとなしく聞いていれば、随分と言ってくれる。
「舐めないで頂戴。どうやら貴方は、本当の畏怖と恐怖を知らないと見えるわ」
 威厳を込めて言うレミリアを、相変わらずの何か哀れなもので見るような目が見下した。それは、絶対に敵わない相手にも勇猛果敢に挑む仔犬に向けるような、慈悲深い視線だった。
「ふ~ん。あなたが、教えてくれるの?」
 一転、失笑といった感じで、小悪魔は笑った。
「あなたが?」
 繰り返して、唇に指を添えて、不思議そうに首を傾げる。
「私は美少女には寛容よ。程々に甘美と退廃を教えてあげるから、私の事はお姉様と呼びなさい」

 もはや、問答の余地は無い。

 レミリアは床を蹴り、手加減無しで腕を振った。爪の一撃は、掠っただけでも、一溜まりも無い。今まで何度、この手で挽肉を作ってきたか。
「“じっとしてて”」
 柔らかく、そう言って。当然のように、レミリアの動きを止める。
 何がしかの術に囚われたのだと、それだけは分かった。金縛りに似ているが、もっと、精神の深い部分を支配されたような感覚がある。
「……よわすぎ。この程度の暗示なんか、17才のパチュリー様だって破るわよ?」
 呆れた風に呟く。
「緊張も抵抗も、するだけ逆効果。自力では……無理そうね、やれやれ、しょうがない。解いてあげる」
 指を鳴らすパチンと小気味良い音を聞くと、きつく絡まっていた糸がほどけるように、体が自由になる。けれどレミリアは、もう不用意には動けなかった。
「あは、知らなかった。可愛いのね、吸血鬼って。もっとこわ~いものかと思っていたけど……いいえそれとも、あなたが特別に弱っちいのかしら?」
 侮蔑的な嘲笑。馬鹿にした視線。茶化した態度。その全てが間違えようも無く、はっきりと分かった。見下されていると、強く自覚する。
「誤解が無いように言っておくわ。私が強いんじゃなくて、あなたが弱いの。所詮は死体が動いてるだけね。だから神秘的な存在としての純度もかなり低い。後々からぽいぽいと伝承をくっつけたみたいだけど、私に言わせれば不格好でちぐはぐ」
 言いたい放題言って、溜め息。
「吸血鬼……変なの。ちょっと有名になったくらいで、何をそんなに良い気になっているのかしらね? 怖がられるのって嬉しい? そもそも、貴方達なんかを本気で怖がる人間なんていないわよ。吸血鬼ってつまり、娯楽だもの。そんな事も分からず……滑稽ね」
 吸血鬼を下に見ているこいつは何者だ?
 悪魔と括るから低級のものに該当するだけで。悪魔という呼び方が出来上がる以前、異教のものは何だった?
「……いや、そもそもさ、え、でも、んー、これ言っても良いのかな? ま、いっか。うん」
 何かを言おうとして、それは流石に憚るような内容だったらしく、歯切れ悪そうに、しかし小悪魔はきっぱりと、レミリアを、いや、レミリアだけではない、吸血鬼という強大なはずの種族を完全に見下して、言う。

「あのね、吸血鬼って土臭いと思うの。それがどうして、貴族面なんかしてるの?」

 言った後から撤回など望めない決定的な一言を、申し訳程度の遠慮の末に、きっぱりと言った。
 保身のための躊躇ではなかった。本当に、これを言ったら、いくら何でも可哀そうだという遠慮で、良心。

「徘徊する死人はどうして血を求めるのか、考えた事はある?」
「……どうして、って、それは……」
「吸血鬼は冷たい死人だからよ。そして、血は熱よ。自力で体温を作れないなら、余所から補うしかないものね。でも、貴方はその知恵を何処から仕入れた? 人に聞いたんじゃないの? 吸血鬼は血を吸う怪物だと、そう聞いたから、そうしたのよね? そして、生気を吸う人外のものなら、ずっと以前からいるわ」
 レミリアは、パチュリーの講義を思い出す。
 人の生気を吸う伝承には、より古いものがあったはずだ。
「と言っても、もちろん諸説あるけれどね。でもこれだけは言えるわ。“吸精伝承の、その源流は何か”、考えた事はある?」

 そう、リャナンシー。
 そして、支流は源流に敵わない。レミリアは絶望的な思いで、ほんの数年前に自分が三流吸血鬼に言い放った言葉と共に、邪悪な妖精の名を思い出した。

「ところであなた、今まで何人の人間を吸った? 要するに経験人数の事だけど……恥ずかしいなら答えなくても良いのよ、大体分かってるから」
 それからまるで、母親が娘に言うかのような調子で、心配そうに言う。
「ちゃんとごはん食べてる? 小食は体に毒よ? どうせまともに血を吸った事も無いのよね。でもダメよ、お腹が減ると、死んじゃうんだから。最初はね、物をよく落とすようになるの。指に力が入らなくなるから、なのよね。で、耳が遠くなったり、目が見えなくなったり、指先から感覚がどんどん消えていく。きっと、そうやって最後には何も亡くなっちゃうんだから。ちゃんと、ごはんは食べないとダメ。でないと、死ぬわよ?」
「貴方にそんな事を心配される覚えは無いわ」
 確実にバカにされていた。屈辱だった。
 小悪魔は、微かに笑みを見せる。
「そうそう、そうよ、そう来なくっちゃ」
 そして何処からか、見覚えのある古めかしい鍵束を取り出す。
 レミリアは、はたと気付く。常にポケットに感じていた重厚感が消えている。

「これは、返してもらうわ。取り返したいのなら、分かっているわよね?」




 吸血鬼の暴力が物理法則に対する蹂躙ならば、邪悪な妖精の魔法とは、世界の不可思議そのままだ。
 闘争とは言えないとして、圧倒的な蹂躙か? 否々、一方的な玩弄だ。

 案の定、レミリアは床に這いつくばっていた。
 レミリアが飛び掛かる度に、小悪魔は炎の球に氷の槍、風の刃を生み出して、簡単に打ち落とす。パチュリーの大魔法に比べれば数段は威力と規模の落ちる、小さな魔法。しかし、優劣を付けるとすればどうなるだろう。呪文も唱えずに、かつ精確にレミリアを傷付けないように狙って放つ魔法の方が、熟練していると言えるのではないか?

 そして、ここまでぞんざいに扱われれば、流石のレミリアにも分かった。

 つまり。

 ──どうやら彼女は、私の事が、ひどく気に入らないらしい。

「……………………あ、やっと分かったのね。遅いわよ」
 呆れ気味に。
「普通さ、曰くありげな古城で怪現象に遭遇したら、でてけ~、でてけ~、で~て~け~よ~、みたいな亡霊の怨念だと思うわよね? 何なの? 私の常識が違うの? とか、色々と不安になったじゃない」
 いや、文句を言われる筋合いは無いだろう。
「まあいいわ」
 伸ばした手の甲を、硬い靴底が踏みつける。
「ところで、世の中にはこれが良いって人もいるのよ? 今すぐ謝るのなら特別に、編み上げブーツ、ストラップシューズ、ニーソックス、素足、この中から選ばせてあげる。左右別々も可よ?」
「理解出来ない趣味ね」
 唾でも吐くように、レミリア。
「あ、そう。じゃあ、もう少し痛い方がお好み……か・し・らっ?」
 勢いを付けて、小悪魔は力任せに、編み上げブーツの爪先でレミリアの鼻っ面を蹴り上げた。小柄な体は思いの他よく飛んで、数メートル先まで転がった。
「──こあっ!? ……うん、この、あ、やばっ、って感じ、ひやっとするわ。泣かないでよね。寝覚めが悪いから」
 レミリアは固く瞼を閉じて、鼻を抑える。目頭の奥の方が熱いが、溢れて来たのは鼻血だった。これくらいならすぐに止まる。気丈に睨み返すレミリアを確認すると、小悪魔は安堵した様子で胸を撫で下ろす。
「ごめんね。流石にこれは無かった」
 語調を変えないまま、囁く。
「こういう方が、良いわよね」
 広げた手の平の上に浮かんだのは、青い色をした両刃の刃物。剣として扱うには、持ち手に当たる部分が奇妙な丸い形をしている。敢えて何に似ているかと言えば、槍の穂先か投擲用のダガーのようだ。美鈴はクナイと呼んでいたが。
「……ええと、そうね。今からこれをブリューナクと呼ぶ事にしたわ。いえ、深い意味は無いけれど」
 どう聞いても、たった今思い付いて適当に付けたような名前だった。
 丸い部分を指に引っ掛けてクルクルと回して。それを、狙いを定めるような仕草も無しに、指から離した。
 吸血鬼の反射神経が、体を真横に跳ばせる。
 投擲の動作と釣り合わない鋭い一撃が、レミリアの身体があった場所を通り抜ける。しかもそれだけには終わらない。鏡に反射する光のように、鋭角に軌道が変わったのだ。

「命中するまで自動で追い詰めるわよ? 別にクラウソサスでも良かったくらいに適当だけど、下らなくても名付けには意味がある。名付けと類比の、運命の呪いよ」

 体勢を直して再び避けるのは、何も難しくはなかった。否応なしに舐められていると分かり、レミリアは歯噛みする。たった一声、視線の一撫で、それだけで完全に意思と行動を支配されてしまうのを経験しているのだから、これは遊び以外の何物でもなかった。

「ところでこれ……例えばの話だけど、破裂する限界ギリギリまでありったけの呪力を込めたらどうなるのかしらね……いや、危ないから絶対にやらないけど。えっと、必中する運命の呪いも並大抵の加護じゃ防げなくなるし、速度と、物理的な威力も相当になるわよね。あとは呪いの付帯効果として、盾とかの防御を、素通りか変な風に動いて迂回、場合によっては途中で五つくらいに軌道が分岐してやっぱり変な動き。で、着弾時に……つまり体内で、大爆発、と。うん危ない、絶対やらない、確実に死ぬわ、むしろクレーター。私は物騒なの苦手なのよ。そもそもそんな力は残ってないし」

 ぶつぶつと呟いていた小悪魔はふと、顔を上げた。
「ん……? あ、あなたの事、忘れてたわ」
 少し焦った表情は、本当に一時、レミリアの事を忘れていたのかも知れない。
「余裕ね。敵から目を逸らすなんて」
 目を逸らすどころではなかった気もするが。
「敵……? いやいや、私は物騒なの苦手なのお。これはただの、獲物を追い立てる狩りで、遊びだわ。と言っても、あなたを苛めても楽しくはないのよね。いい猫にはいい鼠がいるものなんだけど……」
「私じゃ不足だっての? ふざけんじゃないわよ」
 レミリアは迫るアセイミを雑作もなく掴み取り、握力だけで砕く。
「ふふ、元気ね」
 今度はまとめて三本。片手に持ったアセイミを、小悪魔は宙に放った。柄の無い槍の穂先が宙で泳ぎ、蛇の鎌首のように揺れる。小悪魔が指揮棒のように手を振り下ろすと、それに伴って刃が降り注いだ。もちろんレミリアは、今度こそ余裕を持って応じる。
「ただ逃げても仕方ないわよ、これは呪いなんだから。でも、簡単な呪い除けで防げるから、やってみて? 一番簡単なのは、カバラ十字の祓い。教えたでしょ? 十字が嫌なら九字でも良いわよ? 臨兵闘者……ってやつだけど、知ってる?」
 舌打ちしながらも「ねーうしとらうー」と真言? を唱え、縦の線と横の線を無茶苦茶に引くと、いとも簡単に青い光は消え去った。美鈴がやっていた見よう見まねだったのだが、偶然正しく出来たのか、それとも適当で良かったのか。
「はい、よくできました。いえ、できてはいないのだけど」
 仕方無さそうに笑って。
 明るく優しげな笑顔のまま、冷たい刃物を思わせる声で、冷やかに繰り返す。
「もう一度、言うわ。私は美少女には寛容よ。この意味、分かるわよね? 今ならまだ許してあげるわ……だから、ね?」
 小悪魔はレミリアの元へと無防備に降り立つと、顔を寄せて、優しく教え込むように囁いた。
「私のことは、こあ姉さんって呼ぶんだぞっ♪」
「……だぞ、じゃないわよ。で、まだふざけた事を言うの?」
「あのねぇ、本当は私だってこんな事、したくないのよ。いや、ノリノリじゃん、とか言わないで。子供をいじめて楽しむのって……実は私も、それどうなのよって、ちゃんと思ってるから。あなたをいじめる度に私の小物っぽさがすごいことになってるのよ」
 その言葉は嫌がらせだろうか。相対的に、小物に苛められるレミリアの弱々しさを強調させるための。
「いえいえ、そんな意図は無いわよ」
 クスクスと、笑い声をあげる。
 しかし途端に凍る表情。蔑みを湛えた瞳が、レミリアを見下ろす。小悪魔は再び宙に浮かんでいた。
「はあ……ダメよね。あなたって」
 レミリアを取り囲む環状に六本のアセイミが現れて、空中に静止した。
「ちゃんと避けなさいよね。これだって、消しゴムを投げ付けるくらいの威力はあるんだから」
 小悪魔が言うのと、レミリアが後ろに振り向き、アセイミを吹き飛ばしながら包囲を潜り抜け全力で弾丸のように飛び出すのは、ほぼ同時だった。

 確認のため振り返った後ろの方では、小悪魔が腰の後ろで手を組んで、特に足早にでもなく、ゆっくりと、歩いている。
 飛行するレミリアの風切り音に、カツ、カツ、と、硬質の跫が一定の間隔で追いかけてくる。
 足音が途切れた。そう思った時には、眼前にふわりと浮かんで。

「速く動いたくらいで逃げられると思うのは、ちょっと甘いんじゃない?」

 小悪魔が透明のカーテンを引くような仕草をすると、目に見える景色が一変した。




 レミリアは悚然として、踏み出しかけた足を止めた。
 その足元は、インクが零れて溜まっているような、完全な黒色だった。無数の黒い蟻の群れにも、蠢くアメーバにも見える不気味な、得体の知れない窈然とした暗闇が蟠る、影の淵。陸地、と呼んで良いのかも不明だが、埃を吸い込んで踏み心地の悪い絨毯の上へと戻る。

「生々しい悪夢は現実と変わらない。これが夢でも現実でも、当事者であるあなたにとっては関係が無いの。それが何であれ、迫る脅威からは逃げなくっちゃ。夢と現実は、同一のものよ?」

 整然と並んでいたはずの書架が褶曲し、騙し絵のように捻じれて、無間回廊じみた空間を形作っている。
 これは確かに、悪夢じみて理不尽な光景だった。

「朝が来るまで逃げてみる? でも残念、夢は私の領地なの」
 抵抗、と言うにはあまりに拙いが、レミリアは本を一冊抜き取って投げ付けた。本は小悪魔の体を通過して書架の壁に当たり、ばさりと落ちる。
 小悪魔の姿は消えたが、含み笑いが何処からか聞こえてくる。姿を探せば、別の場所の書架の上に腰掛けて、レミリアを眺めていた。それは、迷路に置いたネズミを観察するように。

「──!」

 本能的な危機感を覚え、レミリアは転倒も同然に身を伏せた。直後、ガチッ、と。硬い歯を噛み合わせるような音が、頭の後ろで響く。舞い散った薄い水色の糸は、噛み千切られたレミリアの髪だ。もしも反応が遅れていれば、たった数本では済まなかっただろう。
 噛み付く本は素知らぬ顔で、普通の本のように床に落ちている。

 小悪魔の姿も見失ってしまった。
 呼吸を落ち着けて、レミリアは、あるかどうかも分からない出口を探して歩く。

 くすんだ赤い絨毯の上に輝く金色を見付けて、足を止めた。
 それは、小川の流れのような美しい金色の長い髪だった。だが、その髪は、然るべき場所から生えているものではなかった。その髪は、童話集と思しき本のページとページの隙間から溢れている。ぎょっとして足を止めたレミリアの前で、ずるずるずる……と。大量の金髪が吸い込まれるようにして、本の内側へと還っていく。ああ、誰かが住んでいるんだと、そう納得するしかなかった。

 白黒の挿絵が動いている本があった。
 中から話し声の聞こえる本があった。
 カタカタカタと振動する本があった。

 ──457,000冊の魔法図書館。

 その恐ろしさを、レミリアは初めて認識した。ここは決して、司書の許可無くうろついて良い安全圏ではなかった。
 とにかく、このまま図書館に留まる事は得策ではない。

 早く出口を探して、そして、どうする?

 異世界めいた異様な図書館と、散々遊ばれたという事実が、認め難い現状をレミリアに認めさせる。
 更に遅まきながら、その可能性に思い至った。
 ひょっとして小悪魔は、パチュリーの担任の先生を更に上回る、魔法に関する知識と技量を有しているのではないか?

 だとしたら、もう本当に、勝ち目などない。

「どうしたの? もしかして諦めちゃった?」

 とぼとぼと歩くレミリアの先に、冷たい夜の空気と気配がそのまま凝集したような夜の妖精が、背中の後ろで手を組んで、退屈そうに立っていた。

 目の前が、紅く染まった。
 微量の月灯りの差し込む館で。周囲は暗闇に閉ざされて、暗闇こそが場を支配しているはずなのに、目の前が紅い。理由は単純、視線が釘付けになって、狭窄した視野には彼女しか映らないから。美しい濃密なワインレッドだけが光景の全てであるように。掛け値なしに、ただ見惚れた。
 浮世離れした、などと生易しいものではなく、明らかに有害と分かる、この世のものではない美貌。度を超して美しく、見ているだけで魂を吸われそうな魅力、あるいは魔力。雰囲気からして、もはや媚毒だ。怖気と、何か恍惚としたものが同時に押し寄せて、レミリアの膝は笑い出す。

「もうちょっと、がんばると思ったんだけどなぁ」

 と、つまらなさそうに。
 つまり、まるっきり無力なものを無力と弁えた上でいたぶる邪悪。限り無く透明で純粋な悪意だった。子供が虫の足を毟ったり、悪戯好きの妖精が目を抉り木で作った球に変えるのに、特に理由は要らないのと同じように。
 それは表面的に無邪気であるが故に、あるべき規範や、レミリアの経験則も全て無意味にするようで。常識や良識といったものと無縁で、どころか私利私欲とさえも無関係な、ひたすら純粋な興味の発露だった。
 目の前の存在が孕む、邪悪、さもなくば、狂的な気配に、呑まれてしまいそうになる。
 レミリアが志す、崇敬、畏怖、その類いの威圧とは全く真逆の自然体。しかし、刻一刻と変質していく世界の中心に、小悪魔はいた。この夜に支配者がいるのなら、小悪魔をおいて他にはいない。

 永遠に慰み物にされ、その果てに殺されるのだろうかとさえ思えて、夜のオバケを怖がる子供のように震える。

「……はあ、手間の掛かる……いえ、でも仕方ないわよね。ま、とりあえず、もう少し苛めてみましょうか」

 とん、と軽い力で押されて。
 視界が暗転する。足元が消え、レミリアは深い穴の底に落下した。




 目が覚めると、冷たい土の下にいた。

 その暗さと冷たさを、体が覚えていた。しかし頭は眠っているように働かない。

 体が重い。それでも力を込めると、まず、指先がぴくりと動いた。土葬。棺の中ではなく、直接、土が被せられている。助けを呼ぼうと口を開くと、ぽろぽろと崩れてきた土が口の中に入ってきてしまった。そして、助けを呼ぼうとした事それ自体の不可解さに気付く。

 怒りも悲しみも、感じなかった。困惑と疑問も、弱い。まだ眠っているように、頭の中を満たす靄は濃かった。
 ただ懸命に、辛うじて動く指先で土を引っ掻く。
 非力な抵抗を続ける内に、涙が溢れた。目に入る土が痛い。より懸命に、自分の中の渇望に衝き動かされて、可能な限り身動ぎした。


 レミリアはいつかと同じように、土の下から這い出した。

 辺りは暗い。どうやら、夜のようだった。厚い雲の垂れ込めた空は真っ暗だが、その天井は手を伸ばしても全然届かないくらいには、高かった。

 必死な自分を何処か客観的に見ながら、月の明るさに驚き、隣の墓を掘り返す。
 爪は剥がれるが、痛がるどころではない。レミリアにとっては、二回目だ。この土の下に何が眠っているか、レミリアは知っている。掘り返してはならない。どうしようも、ないのだから。
 しかし無情にも血の滲んだ指先は、その少女の姿を皓々とした月灯りの下に晒す。

「………………お姉様?」

 有り得ないはずの声。
 目覚めてはいないはずだった。けれど、レミリアの愛してやまない少女は目を覚ましている。

 レミリアは途方に暮れた。
 幼いレミリアは、妹の重さには耐えらない。早く埋め直してこの場を立ち去らなければ、人間に見付かって、今度こそ心臓に杭を打たれてしまう。レミリアだけではない、妹もだ。だから困った。目が覚めていたら、土を被せる事が出来ない。

 紅玉のように美しく、そして無機的な、人形に似た瞳が、声を失ったレミリアを映して。

「遅かったわね」

 くしゃ……と。
 瑞々しい果実を握り潰すような簡単さで、レミリアの頭部が内側から破裂した。




 目の前に、狼であって狼でない、異形の狼の死体が転がっている。
 レミリアは一抹の寂しさを感じながら、二度と動かない彼の死体を見つめている。

 何故、この結果になったのか。
 誰のせいだ? 元を辿れば、地脈の乱れとは人の影響ではないのか? 例えば、無理な耕作をした。神聖な森に踏み入った。疑える事は、いくらでもあった。
「ねぇ、美鈴」
 レミリアは、美鈴が答えないのを見て、続ける。

「あいつらみんな、今すぐ私が殺してきてあげよっか?」

 思い付きではあったが、冗談ではなかった。
 いざとなれば、レミリアには牙が、爪が、翼がある。美鈴よりも圧倒的な速度で、人を殺せる自信があった。

 美鈴は音も無く足を止め、レミリアも倣って足を止めた。振り向き、無垢と真剣の表情で見上げるレミリアの頭に、手を伸ばす。
「──美鈴っ!」
 尚、強く。レミリアは言い重ねた。
 そして美鈴は、仕方なさそうな困った表情で、頭を掻いた。
「ここで、お別れですね」

 そのまま何処か遠くに行ってしまって、それきり。
 美鈴が何処に行ったのか、レミリアは知らない。




 一週間の自宅謹慎を終えて学校へ行ったパチュリーを見送って、レミリアは窓から通りを見下ろす。
 からっと晴れた、湿度の低い良い天気だ。日差しも然程、強くない。気持ちの良い秋晴れだった。

 レミリアはいつものように、散歩に出掛けた。昼食は買って済ませ、公園のベンチに座って、枯れ葉を眺めて時間を潰す。
 そしていつものように、アパートに帰った。

「……パチュリー、帰って来るの遅いな。居残り?」

 次の日。
 レミリアはパチュリーの通っている学校がある、と聞いている建物に行った。
 呼び鈴の無い扉をノックする、返事が無いのを躊躇ってから、軋む扉を開ける。そこは、家具はおろか、何の調度品も無い部屋だった。
「ああ、来ないかと思っていました」
「……先生?」
 いた。何も無い部屋の中央に。
 その意味が分からないレミリアでは無い。
「パチュリーは……?」
「残念ですが、貴方は来るのが遅かった」
 返答の意味は、確定的だった。
「先生は悲しいですよ」
 その手にはガラスの小瓶。手作りジャムを保存するのに丁度良い大きさの瓶の中身は、赤い、ぷるぷると震えるスライム状の何かだった。
 先生はその小瓶を、レミリアに向かって叩き付けるように投げた。反射的に叩き落し、飛び散った中身を浴びたレミリアは、急に力が抜けて……
 黒ずんだ血の混じった咳を吐いた。
「……これって」
「あ……まあ、普通は気付きますよね。そうです…………」

 視界が傾いて、床が迫って、打ちつけた頭の痛みも感じずに。
 肯定の言葉の続きは、もう聞こえなかった。




 雰囲気のあるお城に住んでみたい!

 そもそもの発端は、珍しく本を読んで流行にかぶれた某伯爵ファンの、いつものわがままだった。いや、実際の所、彼とは同年代なのだが、そんな事を気にするレミリアではない。

「すごいなこれ、何千……いや、何万とかあるのか?」

 館の一棟を丸ごと占有した、吹き抜けの空間を持つ巨大な図書館。その図書館は、更に地下書庫まで備えていた。

 塔の下に当たる場所で、空気に満ちるのは日蔭の涼しさ。薄膜を被せたように暗い室内は、街の古書店の臭いを、もっと凝縮したような空間だった。
 図書館の地下までパチュリーに手荷物を届けたレミリアは、司書室か資料室と思しき部屋の扉を見付けた。

「……あれ? このドア開かない」

「そこは、開かないわよ」
 独り言のつもりだったレミリアの呟きに対して、やけに断定的な口調で、パチュリーは答えた。
「ん? そうなの。じゃあ仕方ないな。開けるか」
「いやいや、鍵の掛かった部屋だなんて、まるで青髭よ。開けてもロクな事にならないわ」
「でも、気にならない?」
「それは……そうね」
「私に任せろ」
 力任せに押すか引くかで、扉は開くだろう。レミリアはおもむろに手を伸ばし──
「あっぶないわねぇ。少し目を離したらこれだもの」
 二つある目が、両方とも誰かの手の平に覆われて。そして顔の間近に、誰かが舞い降りたようなそよ風を感じる。レミリアは、さながら目隠しされた鳩のように、動けなくなっていた。
「領事裁判権って知ってる? 知らないなら、テストに出るから覚えておきなさい」
 あまり知らない誰かの声。多分、小悪魔。
「国家の要地に土足で踏み込んだりなんかしたら、それは、死刑にされても文句の言えない事なのよ?」
 文句を言おうにも、既にレミリアには、体の自由が一片も残されていないのだが。
「レミリアを離しなさい!」
 焦ったパチュリーの声。叫び、朗々と呪文を唱え上げて、しかしそれも、半端な所で途切れてしまった。



 長く、幅の広い廊下。
 視界を取り戻したレミリアが見たのは、紅い色をした羅刹だった。言葉を交わす余地は無いとばかり、
無言で歩みを進めて来る。
 美鈴は、怒っていた。

 レミリアの前には、小悪魔が羽を広げて浮いている。それはまるで、美鈴からレミリアを守るような位置取りで。そしてそれは少しだけ、当たっている。
 レミリアは今、順番待ちをしているところだった。小悪魔が腰に手を回して抱いているパチュリーの次、魔法を使うための燃料としての順番待ちだった。
 夜の妖精は凄惨な微笑を浮かべ、眠り姫の唇に吸い付いた。すると、植物が枯れる様を早回しで見るように、パチュリーは元の顔など分からなくなる程に萎れて、木乃伊に成り果てる。その現象に反比例して、薄い膜を張った黒い羽が爆発的な勢いで広がっていき、一瞬にして廊下を遮った。
 飛膜には魔法円。瞬く星々よりも眩く、片面だけでも五十近く、膜に映し出された幾つもの魔法円が不気味な光を帯びて廊下を照らす。

 これが、パチュリーが原始的な黒魔術、ひいては呪術に近いと評した、457,000冊の埒外にある、古代ケルトの魔法。生気の活用こそ小悪魔の真骨頂。命を吸い尽くされて無惨に萎れた、元はパチュリーだったものと引き換えに、眼前には、星空を映す暗幕が広がっていた。
 全身が硬直する悪寒と共に理解する。幾つもの魔法円から放たれる魔法の一つ一つが、吸血鬼さえ容易に蒸発させ得る壊滅的な威力を秘めた大魔法。それを無数に用意しておきながら、小悪魔は調子の悪いオーブンに手を焼かされるような、渋い表情だった。
 たかだか魔法使い一人を生贄にくべた程度では足りない、とでも言いたいらしい。順番待ちのレミリアの体からも、直接肌に触れてもいないのに、力が、水分が失われていく。これが生気を吸い取られるという事なのだろう。

 対する美鈴の構えは、最強と名高い八極拳。いつ習得したのか、堂に入ったものだ。
 そして、小悪魔も噂としては知っているのだろうが、やはり身を以ては知るまい。つまりこの場でその意味を理解していたのは、よりもよって、死に体のレミリアだけだったのだ。
 成る程、鍛え上げた人間の肉体と技は、時に怪物にも匹敵するだろう。だが、中国拳法だけは別格だ。達人の域まで功夫を積み上げた人型は修羅とも化す。まさに美鈴がそれだった。


 最後に見たものは、一直線の廊下で対峙する明暗の紅色。
 聞いた音は、鈴の音色、同時に、床を強く踏む音。
 聞いた声は、小悪魔の「あーあ」という投げやりな溜息だった。




 それらは、有り得たかも知れない可能性を辿った悪夢。

「随分と、身の程を超えた成果を挙げてきたものよね」
 呟く声は感心した風でありながら、同時に、現状を分不相応だと告げてもいた。レミリアに、返す言葉は無い。
 悪夢に魘され微睡む意識で、弁解の余地の無い事実を理解する。

 そう。レミリアは、本当だったら、あの時も、あの時も……

 今見たものだってきっと、ほんの一部だ。たった一言、たった一歩の瀬戸際を、歩いて来た。些細な間違いで失くしてしまうものが多かった。取り零してしまったものも、多いだろう。
 だからこそ、今ここにあるものに、胸を張って生きたいと思える。

「貴方の言う事は正しいかも知れない。でも、馬鹿にされたくない」

 口に出して言うだけで、なんとも馬鹿馬鹿しい事に、意思には力が宿るものだ。
 レミリアは、重い瞼を上げた。

「こんばんは? おはよう? どっちかしらね、ねぼすけちゃん。まだ夜で、眠りから覚めたってことでもないのだけれど」

 聞き覚えのある言葉。ひょっとすると、レミリアがそれを聞くのは、一回や二回ではないのかも知れない。
 ところでレミリアは、今、何処にいるんだろう?
 目を擦る。立ち上がる。
 足取りは酔歩蹣跚として覚束無い。ふらふらと踏み出した足が、ぐにゃりと、何かを、柔らかい霜柱のようなものを、踏み潰した。

「…………」

 何か途方も無く、厭な予感。そもそも小悪魔は、何処でレミリアを見ているのか。近くにいるのだろうか。

 立ち眩みから回復して……レミリアは目を見開いた。

 乾いた血の海。でなければ、干からびた肉の絨毯が敷かれている。
 そうとしか言えない光景が広がっていた。

 だが、その異様な室内に劣らないモノが、異様な部屋の中心にあり、レミリアはソレを、直視してしまった。

 本気で吐き気が込み上げた。
 レミリアは口を抑え、状況も忘れて膝を落とした。手の震えが止まらない。気を抜けば、ほんの少しでも身動ぎをすれば、確実に胃の中身が逆流する。

 夢魔の本当の姿は醜いものだと言う。しかしこれは、予想以上だ。
 その肉塊は、赤い芋虫にも、潰れた柘榴にも見えた。女は生皮を剥がされていた。所々、肉と脂肪が、毟られたか、あるいは咀嚼されたように、欠けている。全貌から判断して、辛うじて胴体と四肢と分かる部位は、しかしその繋がれ方がおかしい。高所から落下したように滅茶苦茶な方向を向いていて、そのため手と足の区別が付かない。無惨に足を捥がれた蜘蛛にも見えた。

 また、肉塊は干からびた絨毯とも半ば癒着し、棘のある蔓植物を生やしていた。その植物には見覚えがある。館を覆っていた茨だ。茨は、この肉の絨毯を苗床にしているらしい。

 爛熟した果実か、でなければ、どどめ色の混じる肉腫。
 一言で言えば、“モザイク無しには見られないような、全体的にはピンク色をした何か”だった。

 ただ黒いだけのアイホールから、視線を感じる。
 もぞもぞと蠢く肉塊。その異形は顔面らしき断面を歪めた。数秒後、レミリアはそれが凄惨な笑みの形だと気付く。
 醜く太い触手が、レミリアに向けて伸ばされる。爪は剥がされているが、指が二本だけ残っていた。それを見てやっと、腕だと分かる。
 にちゃり、粘性の音を立てて、芋虫──指が頬を這った。悲鳴さえ、出なかった。
「……そんな顔をされると、困るわ。可愛い反応よねぇ。やりがいとか感じちゃうじゃない」
「ひ……っ────!!」
 遅れて、魂切る絶叫。
「可愛い声で鳴くのね。正直、少し高揚するわ。そんなつもりじゃなかったけれど、このままあなたを私好みに調教するのもありかしら? だいじょうぶよ、ちゃんと優しくしてあげるから」
 頬を撫でる手は、白く、柔らかく、冷たい。
 いつの間にか姿を変えた可憐な少女が囁く。けれど、その顔に浮かぶ微笑は、肉塊と同じだ。
 紅い髪はもう、内臓の色にしか見えない。光の加減で光沢の変わる色は、生々しいピンクでもあり、深く沈んだ暗い紅色にも見える。

 小悪魔は、レミリアの頬に添えた手を、そっと離す。

「でもね、私は私が気に入った子の生気しか吸わないことにしてるの」

 助かった?
 間近に迫った脅威から解放されて、そう思ってしまう。
 いや、助かってなどいない。頬を離れた手は、空中に短剣を出現させる時の仕草で掲げられる。レミリアは背を向けて、一心不乱に走り出した。ここが何処にしろ、図書館の一角なのは間違い無いだろう。地上へ上がれば、まだ希望はあった。

 あれは、レミリアが絶対に敵わない存在の一種だ。吸精能力の上位種で、“嗜み程度”の卓越した魔法の技量を備えている。それだけでも敵わないのに、取り分け、生来の能力と噛み合った古代ケルトの呪術は──氷山の一角を見ただけでも分かる、あれはレミリア程度に向けるには勿体無い程の、強力な攻撃の手段だった。勝ち目なんか、最初から無かった。

 何故、小悪魔はこんな事をしているのだろう。
 自分より圧倒的に劣る者をいたぶって、貶めて、その哀れさを詳らかにして、それで楽しいなら、理由は分かる。なのに、小悪魔の言葉を額面通りに受け取るのなら、レミリアではその役目も為さないと言うのに。
 なのに、何故?




 図書館棟を駆け上がる。
 満身創痍の身体は、階段を少し昇っただけで、呼吸が鞴のように荒くなる。たった一人、悪夢から病弱な少女。そう見られたとしても、何もおかしくなどなかった。
 改築に次ぐ改築の結果だろうか、広大な吹き抜けの空間を持つ地上階に、階段は入り組んで張り巡らされている。一つ昇り切る度に、次の階段を探して昇る。
 途中、転んで膝小僧を思い切り擦り剥く事もあった。それでもすぐに立ち上がった。

 レミリアはいよいよ、尖塔の頂上まで登って来た。
 備え付けの書架もなく、空きのある本棚が置かれているばかりの、狭い部屋だった。カーテンは閉じられているが、外は夜だと分かる。
 ここまで来れば、月が近い。首尾良く逃げおおせたが、レミリアの意図はたったそれだけだった。


 何故、小悪魔はこんな事をしているのだろう。
 走りながら浮かんだ疑問には、一つの答えがある。

 気付いてしまえば、簡単な事だった。

 小悪魔の行動は不自然だった。適度に追い込みながら、反撃を待っている。何が、躊躇なんてしないだ。挑発し、攻撃を誘導し、焚き付けるその一方で、自分は決定的な攻撃をしていない。
 これでは、まるで。
「……ふざけるなよ」
 沸々と湧き上がる感情は、怒りだった。
 恐らく、この推測には間違いが無い。
「あれ、どうしたの? おいかけっこは、もう終わり?」
 上から降りて来て、口元だけで嫣然と微笑む小悪魔。目元は、陰になっていて見えない。
「夜はまだ長いわよ? さあ、もっと楽しい事しましょ?」
 煽るように芝居掛かった声と仕草。

「………………ねぇ、貴方は」
「何を、余計な事を考えているの?」

 ほんの一瞬、小悪魔は唇を噛み締めた……ように見えた。
 暗く虚ろな瞳には、長い時を孤独に過ごした疲れがある。終わりにして欲しいと、哀願している者の目。赤い目は、鬼哭啾啾と泣き腫らしたバンシーの目のようでもあって。
 それは、ほんの一瞬。見間違いであったように、小悪魔は残酷な目付きを取り戻す。だが、次の行動は、茶化すでも誤魔化すでもなく、予想していなかった反応だった。
 無表情。それでいて、対応を誤れば確実に殺されると解る感情の渦を薄皮一枚の向こうに隠した、凄絶な剣幕の、無表情。
 何も言わずに引き下がれば、命だけは助かるかも知れない。少女には寛容だと、小悪魔が繰り返している通りだ。存分に、その善意に甘えれば良い。
「腹が立つのでしょう? それなら、怪物としてすべき事は一つ。余計な事は考えないで、したい事をすれば良いのよ?」
「…………」
「……はあ。反撃出来るだけの余力は、ぴったり残しておいたはずなんだけどなぁ。あなたが私の見込みより弱いの? それとも、私の追い詰め方が悪いの?」
 などと、勝手な事を。
「もういいわ。筋違いな期待をして、悪かったわね。でも仕方ないのよ。だって、こうする以外に分からないんだもの」
 そう言うと、小悪魔はあっさりとレミリアを見限って視線を外す。
 小悪魔は唐突に、勢い良く窓を開いた。吹き込んだ風にカーテンが揺れる。レミリアは一時、これが夢か現実かの区別が付かなくなった。
 差し込む月光の茫とした白さは、本物のように、夢のように、どちらとも思える程に美しい。月は眩しく、しかし、眩し過ぎるという程でもなく。夜空に薄膜を張ったように、目に見えるものはみな、星々の灯りも薄ぼんやりとしていた。
 細切れの雲が棚引き流れて行く。少し季節が逆戻りしたような、優しい朧月夜だった。

 名残惜しむように、小悪魔は緩やかに図書館を振り返る。

 今までの嘲笑も、邪悪な気配も何もかも虚勢だったような弱々しさで。
 静かな哀切を含んで淡々とした表情は、喩えるのなら、夜に似ていた。

「思っちゃったのよねぇ。もしも私さえいなければ……みたいな? ……私は、何処か彼に似ているあなたに、罰して欲しかったのかも知れないわ」
 小さく何かを呟いて、小悪魔は窓の外、窓の下を見つめる。
 足で歩くより浮いている方が楽そうな小悪魔の事だ。眼下の地面との距離感など、恐れるという発想すらあるまい。けれど、わざわざ落ちようと思うなら、落ちる事も出来るだろう。
「望んだ結末ではないけれど、これも運命なのかしら? 第二希望で、我慢しましょう」
 やはり、小さな声で呟いて。
 その声はレミリアの耳まで届かずとも、小悪魔が何をしようとしているかを半ば予想していたレミリアは、すぐに理解した。

 無性に腹が立ってきた。しまいには、激しい怒りが胸を満たす。

 小悪魔の行動は不自然だった。適度に追い込みながら、反撃を待っている。何が、躊躇なんてしないだ。挑発し、攻撃を誘導し、焚き付けるその一方で、自分は決定的な攻撃をしていない。
 それはまるで、レミリアに殺される事を望んでいるようだった。

 小悪魔は、空気抵抗にすら負けそうな程に軽く、ふわりと後ろに傾いて。

 諦観の滲む微笑には、二回も見覚えがあったから、すぐに分かった。そういう笑い方をするようなやつは決まって自分の事を諦めているのだ。
 また、だ。どうして、どいつもこいつも、レミリアが出会うやつは、いつもこうなのか。自分勝手でどうしようもなくて、放っておくとすぐにロクな事にならなくなる。

 もう、どうしようもない。こうなる運命だったと、一人で満足して、勝手に悟ったような顔で、全てを諦めたように。
 その、いっそ穏やかとすら言える微笑が──レミリアは大っ嫌いだった。

 だからレミリアは、怒りに任せて、窓枠の下まで小悪魔を引き摺り降ろした。

 レミリアを放置していた小悪魔はあっさりと捕まって、目を丸くして瞬きを繰り返す。
「……え~っと? 何? やっぱりまだがんばるの?」
「最後の最後まで頑張りもしないくせに、お前達みたいなやつに仕方ないだなんて、言わせてやるもんかっ!」
 泣きじゃくりながら訴えた。叱り付けているのか駄々を捏ねているのかも分からないまま、頭で整理する余裕も無く、肺の空気をそのまま絞り出すように続ける。
「……何? 何の話?」
 小悪魔は怪訝に首を傾げていた。その反応も当然だろう。レミリア自身も、自分が何をやっているのかよく分かっていない。
 有り得たかも知れない可能性を辿った悪夢で見た通りだった。随分と、身の程を超えた成果を挙げてきたものよね、と、ふざけるな。小悪魔にだけは、言われたくなんかない。こいつだけじゃなかった。いつもいつも、レミリアよりもすごいくせに、レミリアよりも先に諦める。
 無性に腹立たしかったのは、この事だ。
「お前達がそんなんだからっ、私がお前達の分まで頑張んなきゃいけなくなるんだろうがっ!」
「いや、誰が頼んだのよ?」
 まったくもって、本当にその通りだ。
 余計なお節介で、単なる我が侭だ。どうとでも言えば良い。身勝手で滅茶苦茶な事を言っている自覚はある。理屈に合わないのも承知している。憐れんだやるつもりだって、微塵もありはしない。どうして私がこんな事をと自問しながら、一時の激情がその問い掛けを下らないと一蹴する。

「同情でもされたかった?」
「いいえ、全然」
 レミリアが低い声で問うと、小悪魔は乾いた声で答えた。

「貴方、パチュリーの事は気に入ってたでしょう」
「……ああ、あの子ね」
 思う所はあったのか、小悪魔は目を逸らす。
「あの子は良かったわ。意地っ張りで内向的なくせに、無意識で他人の評価を求めてる。とてもとても、可愛い子。あの子のために蔵書を整理したり、自走の使い魔や書き置きを残したりする作業は……ええ、悪くなかったわ。ううん、楽しかった。色々と仕掛けもしたわ。危険な魔術書には魔法で鍵を掛けたのだけど、それを、あの子の成長に合わせて段階的に自力で解錠できるように調節したりとか。我ながら中々に凝った作りにしたものよ……でも、はりきってやったらね、すぐに終わっちゃった」
 えへへ、と、小悪魔は笑った。
 レミリアは奥歯を噛み締める。ここは、そんな風に寂しげに笑う場面ではないはずだ。
「あの子は私がいなくても大丈夫。レミリア、あなたとは凸凹コンビって感じだもの。全然違う二人だから、相性がぴったりなの。この私が保証するわ」
 それを言うならもっと別の機会にして欲しい。今、そんな事は言われたくない。不吉だ。
「美鈴は? 私の立ち入れないような、込み入った話、してたわよね?」
 小悪魔は、困ったような顔になった。
「美鈴さんは、とても優しい、だけど、その優しさに疲れてしまっている。でも私では、その疲れを癒せない。美鈴さんと私は、根本的な部分で相容れないんだもの。私も美鈴さんも、お互いに嫌っているって訳じゃ、ないんだけどね」
 その理屈はやはり、レミリアにはよく分からなかった。何せ今その口で、全然違う二人なら相性は良いと言ったばかりなのに。
「だから、私は何処かへ行くわ。だけど今更、行く当てなんて無い。故郷の丘にも帰れない。それだけよ。それに、私はここで死にたいの。墓所にするなら、この館のある、ここの丘が良い」
 やっぱり、そのつもりだったんじゃないか。
「……結局、私は一人で消えてしまうのが嫌だったのかな? でも、ここ最近はまあ、それなりに楽しかったわ。だから、もういい事にしたの」

 それで、これは? と。

 肘の辺りを掴んだままのレミリアの手を、小悪魔は怪訝な表情で見つめていた。
 まるで、少し難しい計算問題を前にした子供のような無垢が、そこにある。
「……意味が分からないわ。やり過ぎ、くらいに思っていたのに、もしかして苛め方が足りなかった? あなたは怪物らしく傲慢に、私を放逐すれば良いのよ?」
 なのに、これは?
 呟いて、きょとんと小首を傾げる。
「あなたがそうなのは、さっき見たわ。でも、これはおかしい」
 レミリアの方こそ、何故だと感じた。
 心の底から不思議そうな小悪魔の態度に、子供の面倒など見た事が無いレミリアは、すぐにでも癇癪を起こしてしまいそうだ。
 どうして、こんな簡単な事が分からないのか。
 まさかと、思う。まさか本気で、レミリアが自分を見殺しにするとでも、思っていたのか。冗談じゃない。自殺になんか、付き合ってられるか。

「あのね、おバカな王子様。私は邪悪な妖精で、お姫様じゃないのよ?」
「誰が王子様よ。私は怪物なんだから。それに性別も、間違えないで」

 ふと、気になった。それは、肘を引いた時の事だ。
 小悪魔の体は、異常な程に、──軽い。
 外見は美しく整っている。なのに、実は中身など、ほとんど詰まっていないのではと疑ってしまう程に、軽かった。少し力を入れて握れば、そのままくしゃりと紙人形よりも容易く潰れてしまいそうな危うさがある。

 レミリアは、発作的な唐突さで、ある事実に気付く。
 たとえどれだけレミリアよりも圧倒的であったとしても、この少女は、力の弱い低級の悪魔に過ぎなかった。

 はやくみつけて、わたしはここよ?

 出口のある迷路を用意するのは、そう訴える事の裏返しに他ならない。たとえ本人が意図していなかったとしても、無意識の願望は何よりも雄弁に本心を語っている。ただ生きる意義を失っただけなら、いつだって消えてしまえるはずだ。そうしなかった理由は、未練以外には無い。
 理屈や御託をずらずらと並べて、バカバカしい。なんて下手な悲鳴なんだろう、と。やっぱり、本当は助けて欲しかったんじゃないか。
 なのに、私はここで死にたい、などと、それはまったくもって理屈が通っていない。
 だからレミリアは、断言する。
「貴方の言っている事は、めちゃくちゃでおかしいわ」
「いや、あなたに言われたくないわよ」
 じとっとした目付きで、そう言われてしまった。ぺたんと絨毯に座り込んだ小悪魔は、むしろ、可愛らしくさえある。本当に馬鹿馬鹿しくなってきた。何を必死になって逃げ惑っていたんだろう。

 小悪魔の姿に、最初の印象が重なる。
 最初に、この丘の上の館と、館に絡みつく棘の生えた蔓を見た時の印象。しがみついているようだと思った、その印象。
 小悪魔は何かに対して意地になって、しがみついていた。
 それが何かなんて、レミリアはもちろん知らない。そもそもレミリアは、小悪魔の事を何一つとして知らなかった。

 決して短くはない沈黙の末、小悪魔は諦めの表情で、けれど、つい先程の諦めとは違う、根負けしたような表情で、深い溜め息を吐いた。

「お城に眠りの魔法を掛けた邪悪な妖精は退治されて、お城はあなたの物に」

 童話を朗読するように優しい声音で、小悪魔は言う。
 おもむろに窓の方へと手を伸ばし、その手を下ろす。

「めでたしめでたし。それで、おしまいのはずだったんだけどなぁ」
 ──何がどうして、こんな結末になったのかしらね。

 レミリアは、吸血鬼として一通りの事は出来る。けれど、ただ出来る事と、上手に出来るかどうかは、また別の問題だった。才能の多寡か、経験が足りないのか、レミリアにしてみれば体を霧や蝙蝠に変じる事さえも、うんと踏ん張った末に、やっとの思いで出来る事。吸血鬼としてのポテンシャルのほとんどが、身体能力に割り振られている。
 要するに、体が頑丈で膂力が優れているだけ。レミリアは腕力は強いし飛ぶのも速い。けれどもそれが大した事か、小さな手に出来る事は限られる。パチュリーのように物識りではないし、美鈴のように達人の動きも出来ないし、小悪魔のような神秘も起こせない。だが、何も出来ないなどと恥じる必要は無かった。無様な上に、土臭かろうが泥臭かろうが知った事か。だってほら、出来たじゃないか。

 美鈴もパチュリーも、恐らくは小悪魔も、醒めた目をして、誰かが誰かを助ける事は難しいと言う。そうだろうかと、レミリアは思う。
 レミリアは大した事なんてしていないどころか、ほとんど何もしていない。けれど、目の前にいる誰かを助ける事くらい、たったこれだけで、十分なはずだった。本当に、特別な事なんて何もしていない。拙い手探りの結果だった。でも、もしかしてこれは……?
 考えがまとまるより先に、緊張の糸が、ぷつんと切れた。あれ程によく喋れていたのが不思議なくらいだ。
「……はあ~、よくもやってくれたわよね。諦めが悪い上にわがままで、とにかく無茶苦茶だわ。なんかもう、ふざけないでよ、とか思う。あなたのわがままで、なに勝手な事をしてくれてるのよ。あーっ、もうっ、それなりにお膳立てしたのに、全部、あなたのせいで台無しよ」
 わりと理不尽だろう文句を言われても、もう言い返すだけの気力は無かった。
 見れば、何故か小悪魔まで、疲れ果てたような表情をしていた。ずっと長い間、一人で無理をしていたように、その目が、今にも泣きそうに歪む。


 瞬間、堰を切ったように、無数の紅が驟雨のように降り注いだ。
 開け放った窓から夜風と共に流れ込んで来た、濃密な色をしたピンク色の紅は、枯れていたはずのブーゲンビリアの花だ。

 館の外は花籠を引っくり返したような有様で、緑の茨からは紅い花が幾重にも咲き乱れている。

 それは、役目を終えた茨の魔法の、その残骸が、一斉に咲き誇り、そして崩れていく光景であり、城に掛けられていた黒い紗が剥がされていくようでもあった。

 レミリアは言葉を失って、花を抱いた風に煽られながら、朧月夜の淡い星空に躍るブーゲンビリアに見惚れる。

 あるいは、何かの暗喩的な意味があったのかも知れないが。
 空中の花園は、ただ純粋に、美しかった。

「良いわよ、おバカさん。あなたみたいなダメな子、嫌いじゃないのよね」
 小悪魔は、レミリアに歩み寄る。
 また何かされると思い、レミリアは小動物のように怯えて、ぎゅっと固く目を閉じた。

「貴方が大きくなったら、ね」

 甘い吐息が、前髪を揺らす。不意に、小悪魔の気配が顔前から消えて。誓うように、小悪魔はレミリアの元に膝をついていた。

「続きは、また今度」

 手の甲に、柔らかい唇が微かに触れた。




 寝返りを打った拍子に、目を覚ました。レミリアは自分の部屋のベッドで眠っていたようだ。
 途中で気付いていたような気もするが、全ては夢だったらしい。その証拠に、意識が戻るにつれて、夢の中の出来事の記憶は薄れていった。
「……?」
 眠る前の記憶を手繰り寄せる。しばらく考えてみるが、ベッドに入った記憶など無い。起き上がって、レミリアは誰かいないと部屋を見回した。けれど、誰もいない部屋は、しんと静まり返っていた。
 全身に妙な疲労感がある。痛む膝をさすると、擦り傷の治癒した名残りがあった。
「……? ……?」
 ますます、意味が分からない。

 今はもう何時頃だろう。カーテンの隙間から差し込む光を見る限り、午後を回っていると見える。よせば良いのにカーテンを開けて、網膜が焦げ眼球が潰れるような目眩を感じた。ものの見事に昼間である。まだ寝ていれば良かった、とか思う。

 倒れ伏したレミリアは、枕元に置いてある、古めかしい鍵束に気付いた。
 見覚えの無い鍵が一本、増えていて。

 レミリアはきょとんと、首を傾げた。



◇◇◇ 間

 先日のように、美鈴の部屋に手と触手にお酒やらお菓子やらを引っ提げた小悪魔がやって来て、返事も聞かない内から、テーブルの上に広げ始めた。そして「ワインとシャンパンどっちにします?」とかの一通りのやり取りの後。

「よく聞いてくださいね、重要ですよ」

 指を立てて、小悪魔はそう強調する。
 そして、いつになく深刻な調子で。

「同性なら、浮気じゃないんですよ」
「……?」
「まあ、それはさておき」
「はあ」
 言いたい事が、あるようだった。
「かなり余裕っぽくしてましたけど、私は別に強くないんですよ? その事だけ、分かっておいて欲しいです」
「それを私に言われても困りますし、正直、言っている意味が分からないのですが」
「ふぇぇ、ひど~い、こんなに可愛いのに~。ちっちゃい悪魔で小悪魔ですよ~? ザコサキュバスって響きがなんかもうステキ。弱々しくて可憐なの♪」
「え?」
 美鈴は目を見開いて、首を傾げた。
「ここで本気のきょとん顔っ!?」
 小悪魔が突っ伏すと、テーブルが大きく揺れた。零れる前に、美鈴はグラスだけ避難しておく。
「アンシーリーコート、でしたっけ? 祝福されていない妖精で、広義の悪魔」
「大雑把な分類では、異教的妖精の総称として、それに該当します。妖精ですよ、妖精。や~ん、よわっちくて可愛いです~」
「え?」
「そのきょとん顔やめてくれませんかっ!?」
 テーブルをパシパシ叩く小悪魔。収まったのを見て、美鈴はグラスを戻した。
「普通に考えて、同じ条件であれば、アンシーリーコートは吸血鬼には敵いません。ただ残念な事に、レミリア(レベル20くらい)が低級夢魔(レベル100)とまともな勝負になるのも有り得ないんです。わざと負けるのすら、ルールが無いと結局は出来ないくらいに難しい。でもこれは、私が強いんじゃなくて、あの子が弱いからなの」
 小悪魔は淡々とした事務的な口調で弁解する。けれど実態は力説の部類だ。
「別にお嬢様は弱くはないと思いますけどね。一世の吸血鬼としてのポテンシャルは計り知れません」
 ほんの百年以上前までは無名で、美鈴もキョンシーと勘違いしていた吸血鬼だが、近年の種族全体の成長は目覚ましい。中でも一世のレミリアは上位に位置するはずだ。
 言ってから美鈴は、今は弱いですけど、という意味で言ってしまった事に気付く。いや、まあ、そういう事なのだが。それに、折角の力を持て余しているようでは宝の持ち腐れであるわけだし。
 それはさておき、比較対象に未熟な吸血鬼を持ち出して自分は弱いなどと言う論法は、何か間違っていると、美鈴は思うのだ。それを世の中では詭弁と言うのだ。
 かく言う美鈴も、上には上がいる事を知っているので自分が強いなどとは間違っても言えないのだが、それとはまた事情が違う気がする。
「なにもそこまでして否定しなくても」
「だって、あんまりと強いと可愛くないんですもん」
 ひどい話だった。
 これは、聞き流しても良いんだろうか。自己申告なんて当てにならないだろう。
「乙女心ですよ。分かってください」
「……はあ」
 いまいち、納得はいかないが。
「そもそも、魔力の干からびたサキュバスなんて弱いに決まっているじゃないですか~」
 その残り僅かな魔力を、絶技とすら言える燃費で使い回してパチュリーを散々からかっていたのは何処の誰だったか。
 それに、衰弱したのは、自分で食事を取らなかったせいだろう。そう指摘するのは、流石に地雷だと分かる。
「リャナンシーじゃなかったんですか?」
 代わりに、そんな事を指摘する。

「似たようなものね。妖精郷に棲むのがリャナンシーで、街に住むのがサキュバスよ。歴史としては前者の方が古い。サキュバスは、はぐれリャナンシーの派生なんでしょう。それと、リャナンシーの場合、お菓子が貴重だから、じっくり味わう。サキュバスは餌場に住んでて餌が豊富だから、あちこち喰い散らかす。その程度の違いで、でも、大きい違い……なのかしら?」

 目を閉じて、小悪魔は考えながらそう言った。一般的な知識の話ではなく、小悪魔自身の意見なのだろう。
「で、私がどうかと言うのなら、私はそんな事は気にしてない、が答えになります。まあ、リャナンシーは妖精なので自然力の保護が有りますが、私には、もう無いですね。加えて、自前で魔力を回復する機能に欠陥があります。私の全盛期は妖精郷を出る直前で、後は落ちる一方。だから今こうして、こんなに弱体化してるじゃないですか。そんなわけで、ザコサキュバスって響きがステキです……いや、あの、きょとん顔しないでください。ともかく、私は悪魔としては最下層ですが妖精としては中くらいです」
「貴方で、中くらいですか」
 どんな魔窟だ。
 自分の故郷を棚に上げて、故郷の基準では“普通”の美鈴はそう思う。
「ええ、そうですね。私の魔力が全快しても、自称大して強くない美鈴さんの本気モードにギリギリ勝てないくらいだと思います」
「まあ、そんな所ですかね」
 自称ではないとかギリギリ勝てないのは美鈴の方だとか、訂正しておきたい部分はあるにしろ、美鈴の判断も概ね似たようなものだ。
「妖精郷には私程度の妖精がいくらでもいますよ。一応、比較的、魔法に長けていた自覚はありますが。でも、ですよ、これでも私、読書好きで引っ込み思案な子供だったんですから。内気な図書委員系の」
「……少々、想像が難しいのですが」
 引っ込み思案? 内気?
「…………それの何がどうして、図書館の物陰で襲ってきそうなピンク色した司書のお姉さんになったんですかね」
 謎だった。

「そう言えば、いきなりこんな話に変わるのもなんですけれど。館の裏手にあった死体は、小悪魔さんが捨てたんですよね」
 開口一番に言った事を、もう一度、美鈴は言った。
 残った骨を見る限り、十や二十ではくだらない数の死体。
「え? ええ、たぶん、そうだわ。ゴミだもの」
 少し、戸惑った風に。そんな事、とうに忘れていた、という風に。
 美鈴は、まあそうだろうと、最初から分かっていた事を、繰り返し諦める。小悪魔の価値観では、興味の無い者の扱いは限り無く低い。生きた人間として認識していたかどうかも怪しかった。
「木乃伊になってない、いわゆる普通の惨殺死体でしたけど。あの人達から生気は調達しなかったんですか?」
「嫌な質問ですね。私は私の気に入った子の生気しか吸わないわ」
 確認を終え、美鈴は顔を伏せた。
「そうですか。彼らは、私が丁重に埋めておきましたので」
「? ご苦労様です」
 きょとんとして、ちょこんと礼をする。
 そして、そんな話はどうでもいいとばかりに、小悪魔は美鈴のグラスに二杯目のシャンパンを注いだ。
「またの機会もあるでしょうが、今日はお祝いです。ぱぁっといきましょう。まさか私とでは楽しくないなんて寂しいことは言いませんよね?」
 先日の夜は、もう機会が無い、だとか言っていたけれど、この分なら意識の変化はあるようだ。
「私でよろしければ、お付き合いしましょう」
 顔を上げ、美鈴は努力して柔和な笑顔を浮かべた。争いを避けられた事は、喜ぶべきだ。
 美鈴の答えを聞くと、小悪魔は目を細めた。
「……つまり、美鈴さんには分かってたんですよね、色々」
「色々、だなんて。小悪魔さんが前途に希望の無い暗い顔をしていた事くらいしか分かりませんでしたよ?」
「空元気に振る舞ってたつもりなんですが」
「はい、実に見え透いてました。そういう意味では、見事な空元気でしたよ」
 先程、魔力の干からびた、とも言っていた通り、小悪魔は極度に衰弱していた。けれど、生気を吸わないどころか普通の食べ物すら摂取していなかったのは、どう考えても自己責任だ。
 小悪魔は惰性で生きていただけで、延命の意思に欠けている。そこに現れた美鈴以外の二人の存在が、小悪魔の惰性に影響を与え、もう疲れたと思わせるようになった。事の顛末をまとめるなら、それだけの事だったのだろう。
「そのつもりで見ていれば、度々口を滑らせていましたよね」
 かと言って、あのレミリアが、小悪魔が昼間にした失言の意味を見抜いていたとは思えない。最終日の夜だけで、気付くべき事に気付き、すべき事をしたのだろう。それは、決して美鈴には真似の出来ない芸当だった。
「はあ。美鈴さんはよく見ていますね。それなりに隠していたつもりなんですけど」
 小悪魔の態度は、死んでも構わない、それ以上に、死を望んでいるような有様だった。もちろん可能性には気付いていたが、その上でどちらに転ぶかまでは分からなかったし、結局、美鈴は……
「まさか。取り繕い方が甘いのは、貴方の惰弱だ。気付いて欲しいという甘えだ。望み通りになって、良かったじゃないですか」
「ふふふふふふっ、棘のある言い方でステキ♪ そんなんだから、貴方は何も救えないのよ?」
 そう。結局、美鈴はそうだった。
「もしもの話ですけどね。例えば、お嬢様と出会わなかった私が、もしも私が生き延びて、この館に辿り着いていたら」
「…………」
 何を言い出すのかと、有り得ない仮定に、小悪魔は胡乱な目をする。
「もしもですよ。もしも私が、立ち入った者を片端から皆殺しにする悪魔が棲んでいる館に辿り着いていたら……私はやっぱり、貴方を退治していたんだと思います」
「……でしょうね。そして、瀕死の私に勝ち目は無いわ」
「私も、ただでは済まないでしょうけどね」

 行き着くべき終端で途方に暮れていた元妖精は、美鈴にとっては善意を向ける対象ではない。
 美鈴は長い間、旅をしていた。けれど、ただの一度として、本当の意味で誰かを助け、守った事など無かった。地脈の調整だけならばともかく、既に顕在化した問題に対しては、直接的な手段で対処する事しか出来なかった。

「私と貴方では相性も悪い。選択肢は限り無く一つでした」
「ですよねー。まるっきり、反対ですもんね。例えば」
 と、小悪魔は指折り、数え上げ始めた。

 美鈴さんは格闘派で、私は魔法派。
 美鈴さんの得意な中国拳法は、自然の力の流れを体内に取り入れる。私の得意なケルト魔法は、生きている命から力を絞り取る。
 美鈴さんは全体主義で、私は主義主張なんてどうでもいい、強いて言うなら耽美主義。
 故郷を離れたのは同じだけど、美鈴さんは東洋、私は西洋の生まれ。
 美鈴さんは人間が好きじゃないけど、人権を認めてる。私は人間を嫌ってないけど、人権は認めてない。

「ほら、こんなに違うわ」
「ええ、違いますね」

 同じ紅色の線の上。明暗で対称的な位置に立つ二人は、

「……ほんと、これで仲良くしているのは、おかしいわよね」
「お嬢様の功績ですね。上手く言葉に出来ませんが、お嬢様には何か……関わった者を惹き付ける力がある」

 その事について、同意する。

「お嬢様がいて良かった」
 特に考えもせずに出て来た言葉を呟いて、美鈴は、安心して肩の荷を降ろした。
 美鈴の長い旅は、レミリアに出逢って、終わっていたのだ。
 いずれ、レミリアは多くの人を襲うだろう。しかし、無闇に人を襲う事はしないはずだ。自然の範疇であれば、生き物が他の生き物の命を糧にするのは当然の事だ。重要なのは、レミリアがその意味と重さを理解する事。
「人助けは、もうやめたんですか?」
「はい。やめましたとも」
 そんな風に、しみじみと言える。

「私は彼の死後、衝動的にこの館を眠らせました。運命を縫い止める大魔法です。もちろん永遠には及ばない、ちょっとしたものですが」
 小悪魔は頬杖を突くと、思案気にそう言った。
「……私は、私なら本当に、運命を操れるわ。でも、あの子みたいにやれる気がしないのよ。私に出来ない事を、あの子は簡単な事のようにやってしまうの」
「ええ、そこがお嬢様のすごいところですから」
 美鈴にも出来ない事、きっと、他の誰にも難しい事。
「ま、私の場合は、可愛い魔法使いちゃんの功績も大きいんですけどね。けなげでかわいいんだから、もう」
「パチュリー様にとっては、貴方の存在自体が嫌がらせみたいなものなんでしょうけどね……」
 お嬢様の大切な親友。もちろん言えば拗ねる事は確実なので絶対に口には出さないが、二人目の娘のように思っている彼女に付いた悪い虫に、美鈴は当然、良い顔をしない。
「あの、流石にそこまで嫌われてはいないと思いたいのですが」
 引き攣った笑みは、良い気味だと思った。
「蛇蝎のように嫌われているでしょうに。パチュリー様は、あれでお嬢様以上にプライド高いですからね。見下してる妖精がこんなのなんですから。腹も立つでしょう」
 これに関しては小悪魔の態度が問題の十割を占めているものと認識している。
「私は小さいサイズの妖精ではなく中世以前の古い妖精です。見下される謂れもありません。妖精という言葉で示すものが違います。それと、こんなの、って何ですか。ひどいです美鈴さん」
「こんなのは、こんなのです。私は事実をそのまま言っただけですから」
 澄ました顔で、美鈴。小悪魔は引き攣った笑みを深くする。
「気功の達人なら、気を使う事くらい、覚えたらどうなんです?」
「善処します」
 それが出来たら、きっとここまでの苦労はしていないのだが。それと白状しておくなら、今のは半分わざとである。
「ズケズケ言っちゃうのをやめるだけで、大分マシになると思いますよ」
「有り難い助言をどうも。私からも、小悪魔さんは黙ってれば良いのに、と伝えておきますね」



「では、改めて乾杯しましょう。私達の領主様……いいえ、領主様(仮)に」
 そう言えば、そんな席だった。
「ははっ」
「笑うところですか、ここ。って言うか、私を笑いましたね?」
「強情ですねと思いまして。ええ、でも、お嬢様はお嬢様ですからね」
 美鈴にとっては、大切に箱の中に仕舞っておきたいと思わせるような、愛らしいお嬢さんだ。

「ここだけの話、先代ってどんな方だったんです?」
 ふと、美鈴はそんな事を。
 小悪魔はさっと、目を逸らした。
「……似てたわ。美青年レミリアって感じ」
「おや、それは」
「あれは、あの子が一人で遊んでいた時に……」
 うん? 一人で遊んで? それは、いつの話だ?
「こぁぁ~っ♪ 最初は美少女かと思うくらいの可愛い子で、それでね、きっとこの子はあと十年もしたらステキな子になるわと思ったの。お姉さんと良い事しましょ、って声をかけて。うふふふふっ、すぐにおうちに帰してあげるからね~。その時の怯えた顔と言ったらもうっ! レッツ源氏計画っ!」
 くねくねと身悶えする姿は、はっきり言って気持ち悪い。
「あんた子供相手になにしてんだっ!」
 つい、美鈴の口調から敬語が抜ける。
「誘拐しちゃった♪」
 なんか変なポーズと共に、小悪魔はそう言った。
 黙ってれば良いのにと、心の底から思う。
「あれ? 貴方だって子供の吸血鬼を連れ回していたじゃないですか。同じですよ」
「同じじゃない! 同じじゃないです!」
「美鈴さんは子供好きですよね。私もロリショタは好きですよ。うふふ、一緒ですね♪」
「切実に、やめてもらえますか? 怒りますよ? それにしても本当に相性が悪いですよね」
「こははっ♪」
「いえ、こはは、ではなく……もういいです」
 言っても無駄だろう。
「……で、期待通り、素敵に育ちました。聡いわりにバカな子でしたよ」
 打って変わった冷たい声音に、美鈴は口を噤む。小悪魔の言う彼は、既に故人だ。
「私が殺した」
「貴方のせいで死んだだけです。貴方が殺した事にはならない」
 真顔で、美鈴。
「……それ、何の救いにもなってないです。と言うか、そういうズケズケ言っちゃうのに気を付けたらどうなんですかと、ですね、まあ良いです、急には直らないものです。ブックドラフトだったら良かったわね、でも違うわ、“私が殺した”のよ、もちろん言葉の通りの意味で。リャナンシーに魅入られた人間の末路は、みんな、そうなんです。日に日に壊れていくのを見るくらいなら……いっそ、美味しい内に食べておきたい。そしてこう、ちゅるちゅるちゅるっと」
「真面目な話なのに、擬音がおかしくないですか?」
「真面目な話だから、まろやかに表現したんです。生々しく言って欲しいんですか? 良いですよ、全力でいきますよ? じゅぽじゅ──」
「──結構です!」
「そうですか、残念です」
 まだ隙あらば言ってやろうみたいな表情だったが、小悪魔は物憂げに頬杖を突いた。
「微妙に似てたから、嫌だったのよ」
「お嬢様にしたら、迷惑な話ですね」
 似てると言っても、容姿が似ていた事ではなく、きっと、性格を通り越した魂のようなものが……

「不健康系の色白でちょっと目付きが悪くて捻くれてるけど根が素直で……とか、ストライクゾーンのど真ん中だわ」

「…………」
 魂のようなものがどうしたのだったか。
 ああ、その条件ってパチュリーも該当してるなと、美鈴は呆れ果てる。
「でも誤解されるのは、悲しいです。私は色白不健康系病弱少女が好きだけど、健康的な褐色日焼け元気っ娘だって、大好きよ。日焼け跡……ふふっ、素敵な響きよね。日焼けした部分と日焼けしてない部分の境目に沿って舐め上げたいと、そう思うのよ……」
 それは別に、しみじみと言うような事ではなかった。
「躁鬱、激しいですね」
 話していると疲れる。レミリアの事さえなければ、絶対に接点など無かったタイプだ。
「それで」
「……? それで、と言いますと?」
 首を傾げた小悪魔に、美鈴は慎重に問い掛けようとして、努力の末に、やや迂遠な言い方をする事が出来た。
「まさか牛乳で栄養が足りるのですか?」
 と言っても、十分に率直の範疇だったが。
 要するに、ところで身体の具合の方は大丈夫なんですか、という質問だった。
「生気なら生きてさえいれば持っています。欲を言うと、牛乳より生乳の方が良いんですけど。ま、普通にしていれば日常生活に支障が無い程度には回復しますよ」
 生きてさえいれば。
「……あれ、その観点で言うと、吸血鬼って」
「驚くくらいに不味いですよ? 土臭いし、饐えた臭いまでするし、なんかもう、強烈なえぐみとかそっち系? 腐った味がします。だけど、こあ姉さん的にはそういう問題ではないのですよ」
 青黴の生えたチーズをつまみながら、小悪魔。
「貴方はいずれ、お嬢様も殺してしまうのでしょうかね」
 結局、そう言ってしまう。小悪魔の身体の心配も確かにしていたが、それよりも。
「もちろんです」
 返答は、肯定だった。
「ま、先の話ですけどね。私が手を出しても簡単に死なない程度には、成長してもらわないと」
 ……でも、いつになるのかしらね?
 困り顔で、そう付け足す。
「千才になる頃くらいかしら? すると、あと六百年くらい。じゃあ、少なくとも、今より30cmぐらい背が伸びて」
 楽しげに空想する小悪魔の態度に、美鈴は心配をやめた。小悪魔はレミリアが大きくなるのを楽しく待っている。それなら、心配は要らないだろう。レミリアは膨大な魔力を持つらしい吸血鬼だ。年月を経て力を増していけば、多少の生気を抜かれたとしても、命には関わるまい。
「それから、ストーンヘンジ規模の祭壇有りで色々と無制限、かつ手加減も自重も無しの私を軽~く吹っ飛ばせるくらいにはなって欲しいわ」
 小悪魔にしては珍しい爽やかな笑顔で、無茶振り。
 祭壇が有るとどうなるか見当も付かないが、それは、目安としてどの程度なのだろう。壁を一枚、超えるような……やはり、少々無理を言っているような気がする。
「待ちなさいっての。お嬢様はその前に、本気の私と試合して勝って頂く予約が入っていますので。割り込みは感心しませんね」
「……モテモテなのは、大変ですねぇ」

 ほんの少しだけ危うい線を渡りつつも、剣呑とした空気は出さずにグラスを傾けて、時間は過ぎていく。レミリアの就寝後から始まった夜間の部のお茶会は、深夜も過ぎる程に更けている。ここまで遅くまで呑むなんて、いつ以来だろうと美鈴は思う。
 そして、未明も近くなる頃に。

「ちなみに」

 小悪魔は殊更、真面目な表情になった。

「ね~ね~おねぇちゃん、さきゅばすってなぁに? みたいな感じで、あの子に魅了を使われてたら瞬殺だったわ」
「それは……嫌な決着ですね」



◇◇◇ 6章

 大広間のお誕生日席に座り、レミリアは一日を過ごしていた。
 大きな背もたれに体重を預け、目を閉じる。この席は良いものだ。こうしていると、自分がこの館の主だと実感する。

 今日は、平穏な一日だった。

 あれからたまに、レミリアは紅い少女の夢に見る。
 その夢を見た寝起きは、日の出であれ月の出であれ、決まってひどい脱力感に襲われるのが不思議だった。またパチュリーに相談したら、もうこうなったら枕元に牛乳を樽で置いておけと言われた。いや、なんの呪術だよ。背が伸びるのか。余計なお世話だよまだ成長期なんだからこれからきっと……


 夢に見た景色は、夢がみなそうであるように、日々を過ごす内に掠れて、薄れていく。それでも尚、忘れ難い原風景として、艶やかなワインレッドだけは覚えていた。声も顔も思い出せない少女の、その美しさだけは、きっと記憶に焼き付いたまま、一生、忘れる事なんて出来ないのだろう。

 恐怖も畏敬も通り越して見る者の心を奪い、全能が如き微笑を浮かべ放埓に振る舞い、夜を謳歌する。いつか私もあんな風に、と。目標と言っても、あながち遠くはないのかも知れない。それで当たっている。あの傲慢なまでの美は、レミリアが思う理想の怪物だった。

 悪夢の渦中にあった時には、ただ翻弄されるばかりで分からなかったけれど、落ち着いて思い返す今なら分かる。魅入られたとか、そんな事よりもっと単純な気持ち。でも、もっともっと、単純に言うのなら──
 きっと、あの紅色をキレイだと思ったんだろう。

 ──お嬢さんは、怪物になるつもりなんですか?

 その昔、問われた事を思い出す。
 その時は、当たり前にそのつもりだと答えた。

 当時はまだ怪物の意味も、知らなかったのに。今にして思えば覚束無いとことことした足取りで追いかけた、あの紅い背中は、今でもまだ追い付けた気がしない。けれど、怪物になるのかと問われるのなら、答えてみせよう。その通りだ。

 一人で頷くと、レミリアは席を立った。
 今日こそ落ち着いて、広い館の内部を見て回る。静謐な空気の中を歩きながら、レミリアは家を欲した最初の理由を思い返す。それは大きな洋館への憧れでもあり、ひどく切実な理由。レミリアはずっと、安心して住める場所を探していた。
 そして、この館は文句の一つも出ない程に立派だ。随分と時間が掛かってしまったが、これでようやく、妹を迎えに行ける。素直にその事が嬉しかったが、いくらなんでも遅過ぎだろう。良い顔はされないに決まっている。けれどそれは仕方ない。甘んじて非難されるしかない。
 人の営みを離れた古城に人の害は及ばない。けれどそれは、レミリアの方からも人に害を為しにくいという事でもあった。これでは困る。安住の地は、この国ではないだろう。まだ叶えたい我が侭はたくさんあった。他ならぬレミリアが、身を落ち着けたいとは思っていないのだ

 この館は終着点ではなくて。むしろ、ここから、これから、全てが始まっていくのだろう。

「……ああ。そうだよね」

 自分の述懐に自分で納得する。そうなるのだと、不思議な確信があった。
 レミリアに相応しい館を居城にして。同時に、この館に相応しい主であるように。誇り高く胸を張って、レミリア・スカーレトを始めていこう。




 廊下を歩いていると、鮮やかな色が視界の端に映った。縦長の窓から身を乗り出して探せば、小さな虹が架かっているのが見える。
 美鈴だ。庭園となる予定の空き地で、如雨露を片手に細雨の放物線を描いている。気配でレミリアに気付いたのか、美鈴は上を向いて手を振った。

 窓は細く、大人が通れるような隙間は無い。子供という特権階級にあるレミリアは我が物顔で開け放った窓から外に出て、飛びもせずに地面に着地した。予想以上に高かったようで、砂埃が舞う。
「……お嬢様は、おてんばでいらっしゃいますね」
「少しくらい茶目っ気があっても良いだろうと思ったのよ」
 と、適当な事を。
「主人がうちのガーデナーの働きぶりを見に来たわよ。案内なさい」
 優雅に言いながら、レミリアは上から見えた虹を探していた。残念な事に、角度か何かの問題で見当たらなかったけれど。
「ん、虹はどこ?」
「花を見に来たのでは、ないんですね」
 やっぱり、みたいな顔で、美鈴は水やりを再開する。葉に当たって弾けた雫がキラキラと輝いて、再び小さな虹が生まれる。
「ところで日光は平気なんですか? 早く戻ってくださいね。私も忙しいので」
「いや、一言多いよ。前半だけで十分だから。ぶっちゃけるのやめようね?」
「……あ、つい。やっぱり直した方が良いんですね」
 美鈴は遠くの方を見るような目で、肩を落とした。美鈴なりに努力はしていたらしい。落ち込む美鈴を見物する趣味は無く、レミリアは美鈴が世話をしていた箇所を見る。
 大きな棘が特徴的な、蔦を這わせる種類の植物。
「あ、すごい、薔薇だ」
「いいえ。ブーゲンビリアですよ」
「なんだ薔薇じゃないのか。まあいいけど、これ、どうしたの?」
「どうしたも何も、館中に茂ってたじゃないですか。もう普通の植物に戻した、との事なので、折角だから残った一部を頂いたんです。お庭が寂しかったので」
「?」
 若干、話は見えないけれど。
 あまりに印象が違うせいで結び付かなかったが、確かにこれは、館をびっしりと覆っていた茨だった。少し剪定するだけで、こうも綺麗に整うのか。
「どんな花が咲くか、知っていますか?」
「濃いピンクに近い紅。それで、葉っぱみたいな花弁」
 無意識で淀みなく答えたレミリアに、美鈴は失礼にも意外な顔をする。
「……薔薇との区別も付かないくせに、よく知っていますね。ちなみに花弁に見える部分は、萼だそうです」
 口を噤むという努力はまるで実っていない。
「あのな。私だって知ってる時は知ってるよ……なんで知ってるんだ?」
「さあ、それを私に言われても」
 まあ、そういう事もあるだろう。レミリアは深く考えず、今は緑の蔦だけの植え込みを眺める。
「美鈴」
「何です?」
「花が咲いてるやつは無いの?」
 それでどうするんですか? と言いたげな表情だけに留めて、美鈴は別の場所の花壇までレミリアを案内した。




 図書館に入ると、明度と気温が一気に下がった。
 広大な吹き抜け構造の地上階には光が降り注いでいるのに、それでも尚、足を踏み入れる度にこの印象は拭えない。この図書館はいつもレミリアの予想を超えて、薄膜を被せたように暗い。

 人陰を探すと、まずは地上階の閲覧スペースで本を読んでいるパチュリーが見付かった。相変わらず不健康だとは思うが、黙々と読書に勤しむ魔女には、やはり、薄暗い日陰が良く似合う。
「はい、お待たせ致しました」
「遅いわ。そこに置いといて。そしたら消えて」
 胸に数冊の本を抱えた小悪魔が、書架の陰から滲むように浮かんでくると、パチュリーは本に視線を落としたまま冷たくそう言った。
「こあうぅぅ、冷たいです、ひどいです。パチュリー様は、こあをお嫌いなのですか?」
「厭悪しているわ。貴方の存在自体が不愉快よ。視界に入らないで欲しい」
「……はぁはぁ……たまんないです、最高です」
「気持ち悪い。近付かないで」
 艶やかなワインレッドはレミリアの夢見る紅い少女に似ている気もするが、なんだろう、何か、ぬめぬめとして艶めかしい。
 呆気に取られていたレミリアも我に帰り、二人に声を掛ける。

「お前らは、何をしているんだ?」

 二人ともそれぞれの用事に夢中で、すぐに返事は無かった。
 何を思ったのか机の下に潜り込んだ小悪魔を、不審物を見る目で無視しつつ、レミリアはパチュリーの前に席に座る。そこでやっと、パチュリーは顔を上げた。
「──きゅっ!?」
 顔を上げたと言うか、驚いた様子でもがき出した。レミリアの位置からでは机の下で何が起きているのかは見えないし、見たくもない。攻防の末、パチュリーは小悪魔の首を絞めて机の下から引き摺り出した。腕力に関してはひ弱な二人の争いには、仔猫がじゃれ合いにも似た、奇跡的な微笑ましさがある。
「あんたねぇ、次こういう事やったら殺すわよ?」
「こあ? こういう事ってなんですか? いえ、今日のお召し物は、こあのパチュリー様観察日記に記しておきますけど」
 ぷっつんと血管の切れる音は、頼むから幻聴であって欲しい。
 おろおろと狼狽えるレミリアの心配も束の間、パチュリーは深呼吸して怒りを静めた。
「…………」
「パチュリー様? どうかなさいましたか?」
 宝石でも観賞するように眇めた目付きで覗き込む小悪魔を、パチュリーは真っ向から睨み返す。
「あまり、私を舐めるんじゃないわよ」
「ふ~ん。ふふふ~ん」
 にんまりとした気色悪い笑みを浮かべる小悪魔からパチュリーは若干身を引きつつ、それでも棘のある言葉を吐く。
「なによ、文句ある?」
「いいえ~、なにも~」
 絶対に信用ならない態度で躱して、ふと、静かな眼差しを向ける。
「貴方にも期待しているわよ。魔法使いちゃん」
 囁き声を残し、小悪魔はそのまま背を向けて、薄暗い書架の向こうに帰って行った。

 何も変わりは無い。この二人は相変わらずだった。
 ……まあ、パチュリーは全力で嫌がっているようだけど。

「やっぱりよく懐いてるよな、あの悪魔。司書の仕事もするみたいだし。私も、使い魔とか欲しいな」
「レミリア?」
 冥府から響いて来るような低い声だった。
 レミリアは思わず背筋を正す。
「……はい、なんでしょう」
「前にも言ってたわね、そんな事。次言ったら殺すわよ? 覚えておきなさい。私はあんなものが存在している事からして許せない。アレは……魔法使いに対する冒涜だわ」
 レミリアの想像以上に、相当、根深い問題のようだ。
 いったいどれだけ何をしたら、ここまで嫌われる事が出来るのか。机の下でスカートの中に侵入して深呼吸、とかだろうか。確かにそんな事をされたら、レミリアだってぶん殴ってやろうとは思うが。

「で、何の用?」
 ようやくパチュリーが、用があるならさっさと話せ、下らない用だったら分かっているわね、と言わんばかりの目付きで、レミリアの方を向いた。
「どうしても話したい事があるのよ。これからの私に関わる、一大発見だ」
「…………」
 無言で促すパチュリーに、レミリアは自信満々に言う。

「気付いたんだよ。私は私のやりたいようにやる。むちゃくちゃなわがままが、私らしいって」

 そこはかとなく、レミリア以外にはどうでもいい話だった。
「……そう。とてつもなく迷惑な事に気付いてしまったのね。ちっ、また面倒な事になるわ」
「あの、パチェさん? どうしてそんなに嫌そうな顔するんです?」
「決まってるでしょうが。レミィが何か言い出すと、そのツケは私に回って来るからよ」
 反論は無い。そりゃあもう、完膚なきまでに。
 敢えて何か言うとするのなら。
「これからもよろしくな、パチェ」
「……はあ」
 パチュリーは露骨に嫌そうな顔で目を逸らし、どっと溜め息を吐いたけれど、決して断りはしなかった。偏屈で不器用な親友との付き合い方には、レミリアは十分に慣れている。その返事は、肯定の意味だ。
「…………ん?」
 レミリアが背中に隠し持っているものに気付いたようで、パチュリーは眉根を寄せ、盛大に怪訝な表情をした。
「何それ。似合わない事するのね」
 そう言われるだろうとは思っていた。美鈴にも言われた。
「ま、いいわ」
 興味なさそうに、再び本に視線を落として。
「あれならどうせ近くにいるし、呼んだらすぐに出てくる。レファレンスが迅速な点だけは、評価してやってもいいわ」
 ぼそぼそと、呟いて。

「とにかく。もうお願いだから、私に静かに本を読ませて」

 それだけは、きっぱりと言っていた。




 勝手に迷宮のような構造をしていると思っていた図書館は、多少は入り組んでいるものの、取り立てて複雑な造りはしていなかった。
 図書館の中腹辺りまで、階段を登ったところで、レミリアは小悪魔の後ろ姿を見付けた。いつも、レミリアが近付くと、まるで無視するかのように小悪魔はその場を離れてしまうのだった。今までは追い掛ける事もしなかったが、今日はちゃんと、小悪魔に用事がある。

 すぐに、近くまで駆け寄る。すると小悪魔は、少し驚いた風に振り向いた。

「……私になにか……用なの?」

 戸惑った声と、表情。よっぽど、レミリアが小悪魔の元を訪れたのが不思議らしい。何をどう話せば良いのか分からずに戸惑っているような、そんな困惑があった。
 そしてそんな顔をされると、慣れない事をしようとしているレミリアの方まで戸惑ってしまう。

 思えば、今が初めてだ。
 もうこの館に来てから、しばらくになるのに。レミリアの記憶が確かなら、小悪魔の顔を正面から見て、言葉を交わすのは、今が初めてだった。

「これ」

 一際艶やかで、一番色の濃いピンク色のものを選んだブーゲンビリアの花を、差し出す。
 半ば反射的に受け取ったのだろう、小悪魔は意味の分からなそうな表情で、レミリアの顔を見つめ返している。

 レミリアはと言えば、満足していた。
 やはり、この花の色は、小悪魔の髪に似ている。

「それ、あげる」
「……え? 私、に?」

 何故か、小悪魔は目をまんまるにして。

「そうよ。貴方によ。他に誰がいるって言うの」
「え、え、あぅ、うん、私に。そう……」

 何故か、耳まで真っ赤になって。

「どうかしたの?」
「……ううん、なんでもない、けど」

 何故か、ぴたりと固まってしまって。

「……うん?」
「ごがあああ~っ! レミリアのくせに何なのよっ」

 何故か、そう叫んで。

「本当に何故だよ!? 理不尽だよねこれ!?」
「ごあーっるるるー、ごあー」

 何故か、唸った。威嚇のつもり?
 小悪魔は胸元に花を抱えたまま、じりじりと後ずさっていく。

「予想外の反応過ぎる……ねぇ、ちょっと」
「──こあっ!」

 何故だか知らないけれど、どこからか取り出したノートでパシンと叩かれた。その反応はもはや、小動物に近い。しかもそのまま逃げ出してしまった。目的は果たせたので構わないけれど、納得はいかない。

「今更なんだが、私の扱いがひどくないか?」

 鼻を抑えて宙を仰ぐと、レミリアはむなしく呟いた。

「理不尽だ」

 ただ、そんな扱いにも慣れ気味なのが、若干もの悲しいのだった。



◇◇◇ 間

 吹き抜けから、レミリアとパチュリーの仲睦まじい姿を眺めていた。
 レミリアが背中に花を持っていたのは知っている。だから小悪魔は、てっきり、パチュリーに渡すものだろうと思って、その瞬間を待ちわびていたのだけれど。
 予想に反して、レミリアはその場を去ってしまった。
「ヘタレね……ヘタレミリアだわ」
 呟いてみると、語呂が良かった。

 レミリアが階段を登って来たのは、気を抜いてしまっていた時だった。
 急に近くまで駆け寄られ、内心ではかなり驚いて振り向いた。

「……私になにか……用なの?」

 現実的には、小悪魔とレミリアの間には接点はほとんど無い。それもそのはずで、徹底的に無視する態度を取っていた。声を掛けられるような心当たりは皆無だ。良く思われていないのは当然どころか、寝込みを襲って軽く苛めたのも一度や二度ではない。
 と言うか……かなりこっぴどくやっちゃったような自覚もあった。無意識下では半ばトラウマと化していて、心の底から忌避されていてもおかしくはなく、もちろんその程度の些事を気に病む小悪魔ではないが、どう考えても嫌われているはずだった。

「これ」

 ブーゲンビリアの花だった。

「それ、あげる」
「……え? 私、に?」

 パチュリーにでも自分用でもなくて?
 完全に不意打ちだった。それからの事は、よく覚えていない。

「──こあっ!」

 照れるのと恥ずかしいのと、あとは色々な何かでいっぱいになって。咄嗟に、ノートでパシンと顔を叩いてしまった。

 何故こうなったのかと、小悪魔は自分でも思う。
 感極まって物陰に押し倒してしまおうかと衝動に駆られたけれど、流石にそれは堪えた。今やると確実に死なせてしまう。

 代わりに、ノートの表紙にそっと、唇を寄せて。
 ノート一冊分の厚みを隔てて。子供がするようなキスをして。

「がんばってよね、貴方は未来の旦那様“候補”なんだから。気を抜いてたら、搾り殺しちゃうぞっ♪」

 決して聞こえないように小さく囁いて。

 未だ幼い未来の領主に、小悪魔は最上級の称賛──本心からの好意の言葉を贈った。



 摘み取られてからのそのままの花を司書室まで持ち帰ると、小悪魔は自分の血で満たした花瓶に挿して、テーブルの上に置いた。これでまた百年は枯れずに咲き続ける。
 椅子に座ってようやく落ち着くと、さっきのノートが目に付いた。テーブルの上には『パチュリー様観察日記』と題されたノートが既に十冊ほど、箱の中に。あんな事やこんな事が克明に記録されたその内容から言えば、この場に置きっぱなしなのは由々しき事態で、地下書庫最深部こあ専用ルームに厳重に保管しておくべき代物だった。
「……そうね」
 まだ新しいノートを手に。
「レミリア観察日記でも、付ける事にしましょう」

 独りで暗い安らぎを得るだけだった司書室で、小悪魔は楽しげに笑っていた。






◇◇◇ 終 1

 半円のバルコニーから臨む、地平線まで続く牧歌的な風景は、遠いブルターニュとは異なる。けれど、そこにある優しげな時間の流れは同種のものだ。
 こんな日には、昔語りをするのも悪くない。要所をはぐらかされつつも、事実らしき情報を微量は含んだその話に、レミリアは初めて耳を傾けた。
「……平穏ね。でも、退屈だとは思わない。どうしてかしら? 答えは簡単、気のせいよ。全ては私の気分の問題だもの」
 水気を含んだ春の風は冷たく心地良い。初夏の空気も、まだ遠く。涼しく、静かで、平穏だ。

「あのヒトが愛してくれたこの姿のまま、あのヒトと過ごしたこの館で、緩やかに朽ちていくと思っていたわ。それは今も変わらないし、これから先もそうだけど……まさか、毎日が楽しくなるなんてね。貴方達が来てから、賑やかになったものよ。それにこの国も、良い所ね。知らない国のはずなのに、懐かしい、不思議な場所。まるでアイルランドの妖精郷のようだわ。生まれ故郷にも、もう二度と、帰れないと思ってた」

 手摺りの上に横向きに腰掛けて。そっと、遠景を眺めている小悪魔。艶やかな紅色の長髪は風に広がり、陽に透けている。これ見よがしな悪魔風の羽の飛膜も薄く、向こう側の景色を透かして。
 姿は自在だろうに、小悪魔は常にこの姿だった。
 およそ完璧な造形美に、レミリアはふと、単純な容姿以上の美しさを感じる。
 どうしてだろうか、きっと、気のせいなのだろう。ただ、レミリアがこの光景を美しいと思った。レミリアの心が決めた事、それが全てだ。
「……平穏ね」
 もう一度、小悪魔は呟いた。
 レミリアも、平穏だと思う。そんな感想を共有している事が、何故か嬉しかった。

「紅掛空色。べにかけそらいろ、ね。日本の色らしいのだけれど、レミリアは知っているかしら?」
「? いいえ、ピンと来ないわ」
 来日するくらいに日本大好きっ娘のレミリアも、流石にそこまでは知らなかった。
 紅いのか空色なのか、どんな色だそれは。
 訝しむレミリアに、小悪魔は、無邪気な妖精のような純真で可憐な微笑を見せて。

「私の一番好きな色よ」

 レミリアの髪を見ながら、そう答えたのだった。






◇◇◇ 終 2

 少し先の未来。
 大きくなったレミリアは、紅い少女をダンスに誘う。

 今夜は夜らしい夜で、いつか見た夜と同じ、空に薄膜を張ったような、優しい朧月夜だった。

 しっとりと濡れた紅い絨毯の上に、レミリアは立っていた。
 見渡す限りに存在しているような、広大な地下図書館の中。高い書架の壁が環状に取り囲むこの場所には、ある程度のスペースが空けられていて、篝火が焚かれている。
 ふと見上げれば、天井は無かった。全天を覆う黒い飛膜に、高く舞った火の粉は吸い込まれていく。

 広大無辺の羽を広げる小悪魔の、足元には。
 巨大な一つの円の中に奇怪な図形をパズルのように敷き詰めた、見た事も無い程の複雑精緻な魔法円。
 祭壇。その中心にくべられた生贄に、小悪魔は陶然とした囁き声で語り掛ける。

「使ってあげる。だって今夜は、大切な領主様の祝祭だものねぇ」

 生気の吸収に特化した種族の為せる技。桁違いの変換効率により、生気から魔力へと何倍にも増幅された力の奔流は当然、持て余される事などなく。僅かな散逸も許されずに膨大な魔力の全てが渦を巻き、周囲に存在している自然界の魔力までも巻き込みながら、一点へ、振り翳されたアセイミに集束していく。白色矮星に似た高密度の青白い光は、夜の中であまりにも眩い。

 それは、名付けと類比によって、投擲武器に必中と必殺の運命を決定付ける魔法。
 回避も防御も無為にするあの魔法に対処しようと思うのなら、同系統で同威力以上の攻撃をぶつけて相殺するより他に無い。

「手加減しないけど……死んだら殺すわよ?」

 嫣然と、世にも楽しげな少女の微笑で、滅茶苦茶な事を。
 レミリアもまた上等だと笑い返して、血の滴る紅いナイフを強く握り締める。レミリア自身の血を塗りたくったナイフには、レミリアの魔力が込められている。
 勝負は単純。この“槍”で、あの“槍”を撃ち抜くだけ。
 不安は感じない。一発で決めてみせる。



 そんな、いつか叶う夢を見た。
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コメント



0.430簡易評価
3.80名前が無い程度の能力削除
一気に読ませていただきました。自分の中のレミリアとはだいぶ異なるお嬢様だったので最初はなんだかなぁといった感じで読んでいたのですが、読み進めるにつれズレた少年っぽい雰囲気の主人公してるレミリアがとても気に入りました。
ただ、終盤小悪魔が解説してた「レミリアが弱いから自分に勝てない」と「アンシーリーコートは普通に考えて吸血鬼に勝てない」ってのがこんがらがりました。作中のレミリアは吸血鬼の中でもまだ下の方って扱いなのでしょうか?
4.50名前が無い程度の能力削除
長編お疲れ様でした
ただ、小悪魔の性格でで評価は分かれるとは思います
短編程度ならまだしも長編であの性格だと自分も見るの少々きつかったです
5.20名前が無い程度の能力削除
なんというか本当に長くしただけで、読まされている感じの強いストレスがかかる文章でした。
6.30名前が無い程度の能力削除
順番が逆、この作品が先にあってこそ前の作品がカタチを持つ。寧ろこの作品無しではあっちの作品が理解出来るのは作者のみ。
7.50名前が無い程度の能力削除
強いて良くないと言うほどのものでもないけど
良いとも言えない
残念ながらそんな物語でした
9.90名前が無い程度の能力削除
面白かったです
冗長な部分も確かにありますが、読み進めさせる独特の魅力がある文章でした
10.無評価名前が無い程度の能力削除
なんというか小悪魔の性格がねちっこくて長編レベルだともう無理
あと後書きみたいなことは胸にそっと仕舞っておくべきです
どう考えてもレミリアファンからは反感買うでしょうしそれがいいのは精々ギャグ路線のときだけですよ?
11.100名前が無い程度の能力削除
うまく表現できない自分のボキャブラリーの少なさに辟易しているところですが……
一言で書くならば、「メッッッッチャよかった!!!」これに尽きます!
前作の短い版でのやり取りも好きでしたが、それと合わせてこれを読んだときの、これだよこれが見たかった感というか、あぁもう情けない語彙力だ。

口下手ですがもう少し詳細に書きたいと思います。
……個人的には前作が先だからこそ、こちらが引き立つのだと思いました。え、だってこれ気持ちよくない?いい音楽を聴いた時の心地よさみたいなの無い?(ある)
前作でも割かし難解な部分はありましたし、今作でも夢との絡みでミスリード(ストーリー上お嬢様に対しても)を誘う部分が強く出ていましたけど、そこまで含めて読んでてワンオブベスト「好き……」って感じです。最後まできちんと読めば不可解な部分も解き明かされる構成になっていたと思います。というか根っこがもう素直じゃないというのかな。愛おしいですね。
このやったら面倒臭い性格の小悪魔可愛いです。無自覚系主人公レミリア可愛いとかいう次元じゃないです垂涎だばぁ。十字架に弱いなどの原作と離れた設定も出てくるのは逆にオリジナル要素を受け入れやすい素地ともなって、うびゃぁこのお嬢様なんなの?反則でしょう?もっとください。
フランちゃんと咲夜さんについては両作品ともほぼ語られていないのであんまし分からないのですが、妄想が試されるポイントですね。しかしこのお嬢様との絡みが読みたかったといえば読みたかった。
色々とたぎりすぎてカロリーを盛大に消費するような最高のSSでした、ありがとうございました。
13.100名前が無い程度の能力削除
凄かったです
15.90名前が無い程度の能力削除
え…面白かったんだが…。
小悪魔の性格とかは悪くない感じでした。本来、悪魔だものね。
数百年後パチェとかレミィが成長して今のイメージに追いつくと考えると、昔はあんなだったのかな、って思えました。
17.無評価名前が無い程度の能力削除
全くレミリアらしくないレミリアなのに性格がーとか言われても意味不明ですね。
結局都合の良いようにキャラの性格や強さをいじくってるだけでしょ。
そりゃレミリアの扱いが悪いといわれますわ。
話はくどさとキャラの性格の気持ち悪さで全く面白くなかったです。
18.無評価名前が無い程度の能力削除
全くレミリアらしくないレミリアなのに性格がーとか言われても意味不明ですね。
結局都合の良いようにキャラの性格や強さをいじくってるだけでしょ。
そりゃレミリアの扱いが悪いといわれますわ。
話はくどさとキャラの性格の気持ち悪さで全く面白くなかったです。
19.無評価名前が無い程度の能力削除
全くレミリアらしくないレミリアなのに性格がーとか言われても意味不明ですね。
結局都合の良いようにキャラの性格や強さをいじくってるだけでしょ。
そりゃレミリアの扱いが悪いといわれますわ。
話はくどさとキャラの性格の気持ち悪さで全く面白くなかったです。
20.無評価名前が無い程度の能力削除
うーん 何ていうかレミのファンからするとちょっと違和感が気になります。原作の設定(レミの十字架とか)と異なる内容で書くなら初めに明記した方が良かったのでは?
23.100名前が無い程度の能力削除
登場人物の設定が新しく思えて楽しめました。
25.100名前が無い程度の能力削除
すごく面白かったです。