Coolier - 新生・東方創想話

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2015/07/28 23:29:28
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「天国の場所を知ってますか?」

 私は耳を塞ぐ代わりに、スマホに差したイヤホンを耳へと突っ込んだ。ここは街中。通学路。耳を塞いで歩けば、変な人だと思われてしまうから。
 音量をマックスに。耳が悪くなるとか、音が割れるとか、そんなことは考えない。ただコイツの声が聞こえなくなればいい。コイツがニヤニヤ笑いと共に紡ぐ戯言が聞こえなければそれで良い。
 けれど、頭がクラクラするような音楽の中でも、囁きは止まることがなくて。

「天国というのは、特定の社会に通じる死生観の共有知なんですよ。知識や情報というのは、一個体の脳内や本の中で終結する物じゃあないんです。情報は粒子。ふわふわと漂う無定形の粒。それは入れ物の中を飛び出して、世界に充満する。それがこの国のいわゆる『空気』って奴でしてね。Airじゃなくって、『お前空気読めよ』の方の空気ですよ? 人間は無意識的に、入れ物を飛び出した情報を感知する機能が付いているんですねぇ」

 知らんぷりを決め込む私の顔を面白そうに見つめながら、少女は後ろ向きに歩いて語り続ける。転んでしまえばいい、と願うけれど、彼女の足取りはしっかりとしていて、どうも私の願いは叶ってくれそうにない。

「そうした空気をかき集めた物。無意識では感知できない情報の集積。それこそが天国になるんです。人間の集合知、漏れ出た願望、夢の欠片。まあ、お好きなように呼べばいいですよ。ところで、夢の世界ってのも同じように組み上げられるものでしてねぇ。平安の時代なんかには、夢を通じて想い人のところへ行く、なぁんてロマンチックなこともありましたが、ま、それは置いておいて。眠る人間の夢の欠片は、集積してひとつの世界、ないしは夢の通路を互いに繋ぎ合わせるのです。夢の通ひ路うんたらかんたら、ってのは、その当時からその存在を認知されてたわけですねぇ」

 心なし、歩調を速める。目の前の少女の言葉を聞かないように。彼女の笑う顔を、見ないように。彼女はそのスピードにきちんと対応して、一定の距離を崩さずに歩き続ける。気持ち悪い。気持ち悪い。朝食のベーコンエッグが、お腹の中でグルグルと回転している感覚。
 私に付きまとうコイツを、気に留める人は居ない。通学路には大勢の生徒やらサラリーマンやらが行き交ってるのに、寝巻みたいな恰好をしたコイツに視線をやる人は一人も居ない。コイツの姿は私にしか見えない。コイツの声は私にしか聞こえない。自分でも、とうとう頭がおかしくなったかと思ってしまう。

 けれど、コイツの存在は紛れもない事実。

 最近ドラマ化された漫画の主人公を思い出してしまう。ノートに触った者にしか存在を認知されない死神を従える少年。原作を読んだ時に、ちょっと面白そうとか思った自分をぶん殴ってやりたい。

 ただ、鬱陶しいだけだ。
 ただ、不愉快なだけだ。
 私を見て、私に語りかけて、ニヤニヤと笑い続ける奴に、終始付きまとわれるなんて。

「夢とは単なる記憶の整理じゃあないんです。脳内に蓄積された情報が、外界とリンクすることで発生する情報同士の衝突。たまーに他の時間軸や他の世界とリンクしちゃう人も居るんですがねぇ。宇佐見さん、宇佐見さん。宇佐見菫子さん。ねぇ、判ります? アナタのことですよ」

 私の顔に向けられた人差し指を、私は払いのける。払いのけようとする。でも、私の右手は空を掻くばかりで、少女の指に触れることは叶わない。残念、ハズレ、とでも言いそうに、少女はにんまりと笑うと、

「当たらなくって良かったですねぇ。まだ、機が熟しちゃいないってことです。まだまだ、アナタは大丈夫ってことです。ああ、素敵ですねぇ。待ちきれないですねぇ。宇佐見さんはどんな味がするんでしょうねぇ。とびきり美味しく熟成されちゃってくださいよ。カスみたいな悪夢をせっせと集めるのも乙なものですけど、熟したアナタは欠片なんぞ比べ物にならないくらいに格別でしょうからねぇ」

 ベロリ、と少女が自分の唇を舐める。唇の端から零れる唾液を、手の甲で擦る。
 そうだ。コイツは私を食べる気なのだ。こんなに間抜けな見た目の癖に。馬鹿みたいなナイトキャップを被ってる癖に。幻想郷で戦った少女たちとは比べ物にならないくらい弱そうな癖に。

 だらしのない笑みを浮かべたまま、少女は私に告げる。
 我が物顔で東深見高校の正門を潜り、ドレミー・スイートは口遊む。


「逃げ場はありませんよ。愛する夢の迷い子、宇佐見菫子さん」


 ――全ての始まりは。
 コイツに付きまとわれることになった契機は、昨日の夢だった。

 ◆

「――また……」

 私は幻想郷に居る自分を自覚する。いつものこと。そういつものことじゃない。私は私を青白く照らす月を見上げた。
 眠ってる間。夢を通じて、私は幻想郷に来ることができるようになった。それは構わない。幻想郷の人たちと話したり、戦ってみたり。人との出会いが、人との交わりが楽しい物だと、私は知れたのだから。

 ……でも。

 問題は、夜。家に帰って来て、自分のベッドで眠っている時。普通の人間が、普通に眠っている時間。その時も私の身体は、幻想郷へと旅立ってしまうのだ。
 夜の幻想郷は、危険だ。
 外の世界のように電燈が点いていることもなければ、警官がパトロールをしていることもなく、野生動物や妖怪がうようよとしている。

「今夜は……どこかしら」

 私を取り囲む木立を見回して、私はため息を吐く。
 今日はあまりよろしくないパターンだ。幻想郷に流入する私の出現場所は完全にランダム。博麗神社の境内とか人間の里なら良いのだけど、今日みたいに森の中や竹林に出てしまうことだってある。
 そうなったら、すぐにでも安全な場所に移動しなくちゃいけない。超能力者とはいえ、私は普通の女子高生。怪我もするし、致命傷を受ければ死んでしまう。
 だから普段は博麗神社か、妹紅さんの家。その時々で近い方で匿ってもらっている。霊夢も妹紅さんも、大変だな、と言って私を受け入れてくれるので、ありがたい限り。
 とはいえ、それほど深刻な状況に立たされてるわけでもなし。
 特別な力のない人間ならばいざ知らず、私は超能力者。テレキネシスもパイロキネシスもお茶の子さいさい。空を飛ぶことだってできる。

 そう。飛んでしまえばいい。
 上空へと飛び上がってから場所を確認して、博麗神社か妹紅さんの家に行けばそれで良い。
 怖いのは、不意を突かれることだ。意識の隙間からの一撃。これこそ私が心配しなければならない事案。けれど幸いなことに、奇襲を受けたことは一度もない。
 飛び上がるには、少し場所が良くない。梢が密集していて、枝が服に引っかかってしまうかも。そう思って、私は空を見上げたまま適当に歩き出す。大丈夫。何も心配はない。万が一、野生動物や妖怪と鉢合わせてしまっても、超能力で退治してしまえばいい。私はあくまで楽観的に、進んでいた。

 ――と。

 「あらら」

 誰かの声が前方から聞こえて、ハッと前へと向き直る。即座に臨戦態勢。危険が一杯の幻想郷で、夜に森の中を歩く人間なんて私くらいの物だから。そうなると、その声の主は妖怪でしかありえないから。

「誰!?」

 暗闇を睨み付ける。声のした大体の方向へと目を向けるけれど、そこには喪服みたいな黒が横たわるばかりで、その闇の中に誰かの影が見えることはなかった。
 知らない声。それは少女の物。私が知ってる妖怪じゃない。私は四方八方を見渡す。やっぱり誰の影もない。上を見る。逃走経路の確認。無理をすれば、飛び上がれなくもないくらい。

「宇佐見さん。危険が迫ってるかもって時に、余所見は良くないですよ」

 前方に広がる闇の中から、そんな声がする。私を茶化すみたいな、そんな気持ちの悪い声音。私の名前を知ってる? けれど、やっぱり知らない声。柳田國男の本の中にあったサトリ妖怪だろうか。けれど第三の目を閉じたサトリの女の子ならまだしも、眼の開いてるサトリは地底と呼ばれる世界に居る筈なのに。
 ゆったりとした足音。やがて闇の中から、ひとりの女の子が微かな月光の下に姿を現す。黒地の服に、兎の尻尾みたいな白の水玉を無数にあしらって、奇妙なナイトキャップを被ってる。半開きの両目。一目見ただけだと、深刻な夢遊病者みたいだと思った。
 けれど、その目もとに湛えているのは、眠気ではなくて嘲笑だ。憐れみと蔑みだ。第一印象から、既に嫌なヤツ。無駄話なんかせず、逃げてしまうべきか。それとも問答無用で倒してしまうべきか。

「あはっ。嫌ですよぉ、宇佐見さん。お話もせずに逃げちゃうなんて。私が何をしたわけでもないのに、やっつけようとするなんて」

 口元に手を当てるようにして、少女がクスクスと笑う。やっぱり、私の心が読まれてる。しかし、コードに繋がった第三の眼らしきものは見えない。サトリなのか何なのか、コイツの正体が判らない。

「ドレミー・スイートと申します。宇佐見菫子さん」
「……アナタ、何なの? サトリ妖怪なの?」

 仰々しく勿体ぶるような挙動で頭を垂れた少女、ドレミー・スイートに問いかける。心が読まれてるのなら、会話なんて無駄かもしれないと思いつつ。

「サトリ妖怪みたいな高尚な種族じゃありませんよぉ。私は獏。夢の世界の支配者。悪夢の捕食者。夢の通路を行き交うラプラスの魔。夢の中限定で、どこにでも居てどこにも居ない。シュレーディンガーの猫ならぬ、シュレーディンガーの獏です」

 獏。
 昔、動物園で見た獏の姿を思い出す。
 獏は二本足で立つこともなければ、日本語で喋ることもない。眠っている人の夢を食べてしまうというのも、俗説のひとつ。つまり目の前のコイツは、そうした獏の俗説を元にして生まれた妖怪なのだろう。そう思った。
 ともあれ、会話は通じる。襲い掛かってくる素振りもない。相対してるだけで変に嫌な気持ちになることを除けば、コイツの態度は友好的の範疇に収まる。霊夢や妹紅さんに比べれば強そうにも見えない。

「……私に、何か用?」
「んー、私が用事を持ってココに来たと言うと、少し語弊がありますね。私は自発的に来たわけじゃない。むしろ、呼ばれたって感じですかねぇ。甘くて芳しい悪夢の香りに。アナタに。摂理を歪めるアナタに」
「何それ。何が言いたいのか、全然判んない」
「いずれ判る時が来ますよ。宇佐見菫子さん。否が応にもね。まぁ、最終的には後悔することになるんでしょうけどねぇ。うふふふふ」

 いったい何が面白いのか、ドレミーは肩を小刻みに震わせて笑う。前言撤回。コイツはどう考えても友好的じゃない。コイツを見てるだけで嫌な気持ちになる。コイツと話してるだけで何故か不安になる。
 私は付き合ってられない、とため息を吐いて、

「悪いけど、アナタと話しても面白いと思えない。むしろ不愉快だわ。もう、私行くから」
「行く? 行くってどこにです? どうやって向かうつもりです? こんな時間に森の中を独りで歩くのは危険ですよぉ? 私が付き添ってあげます。道案内もしてあげますし、危ない目に遭いそうになったら守ってもあげます。だから、もう少しお話しましょうよぉ」
「結構よ。飛んでいくから」
「飛ぶ? 飛ぶって言いました? 今? くっくくく……」

 ドレミーが両手でお腹を抑えて笑う。嗤う。ただコイツと別れるだけじゃなく、一発食らわせてやるべきかしら。そんな風に眉根をしかめる私に、ドレミーは目の縁に浮かんだ涙を擦って、

「翼もない人間がどうやって飛ぶんです? ここ、幻想郷ですよ? 外の世界みたくヘリコプターやジャンボジェットが転がってるわけじゃないんですよ? それなのに飛ぶって何なんです? 面白い人ですねぇ」
「何が面白いんだか……。そうやって笑ってると良いわよ。じゃ、私もう行くから――」

 私はいつものようにグッと体に力を入れて、自分の身体を浮き上がらせる。浮き上がらせようとした。

 なのに、私の身体が飛ぶことはなかった。

「……え?」

 首を傾げる。サッと背筋を冷たい感覚がなぜる。両足は地面に着いたまま、重力に逆らうことなく私は立ち尽くしている。馬鹿みたいに。ドレミーの笑い声が強まる。ほとんど立っても居られないようで、地面に頽れるみたいにして、彼女が私を嗤っている。

「だーから言ったんですよぉ。どうやって飛ぶんです? ってぇ。アナタ何がしたいんです? 人間が道具も使わずに空を飛ぶなんて、物理法則に対する冒涜じゃないんですかぁ?」
「アナタ――私に何をしたッ!?」

 笑い転げるドレミーを睨み、私は臨戦態勢を取る。急に飛べなくなった理由は判らない。こんなことは初めて。ならそんなの、コイツの仕業に決まってる。コイツが何か、得体の知れない力を使って、私の飛ぶ能力を阻害してるって。
 私が敵意を向けているというのに、ドレミーはどこ吹く風といった様子で笑い続けてる。私の方を見てすらいない。無性に腹が立つ。まるでコイツの手の中で踊らされてるみたいで。

「あー、笑った笑った……。ん? おやおや? 宇佐見さん、もしかして怒ってます? 嫌だなぁ。そんな怖い顔しないでくださいよぉ。私は何もしちゃいませんよ」
「嘘を吐かないで。アンタと逢ってから、私の能力が使えなくなった。なら、それはアンタの仕業。他に納得のいく説明ができるとでも?」
「ははぁ。真面目な説明を求められてると。そうですねぇ、言ってあげても良いですよ? だから私を攻撃しようとすんの、やめてください。どうせ無駄なんですから」

 ドレミーは肩を竦めると、どっこらしょ、とおばあさんみたいな声を出して、手近な場所にあった木の根元に腰掛けてしまう。ESPカードを構えてるというのに、コイツはどこまでも余裕で、悠長で、それが腹立たしくてたまらない。

「さて……どっからお話しすべきですかねぇ、ふむ……」
「もったいぶってるの? それとも私を馬鹿にしてるとか?」
「滅相もない。前者の方については、そんなつもりは毛頭ありません。馬鹿にしてるってのはちょっとありますけど――まあ、それは良いでしょう。そもそも、おかしいと思わなかったんですか? アナタ」
「……なにが」
「私は獏。夢の中を揺蕩う者。私の生息場所は幻想郷じゃありません。なのに私はここに居る。それは何故だと思います?」

 ドレミーが私の顔に人差し指を向ける。質問に対しては、特におかしいとも思わなかったというのが回答。現実世界の私は確かに眠っていて、ここに居る私は夢として存在しているから。なら、夢の管理者とやらが出てきても不思議じゃない。
 正直にそう告げると、ドレミーはうんうんと頷いて、

「そうですねぇ。その考え方で問題ありません。見た目よりは頭の働く御方らしい……おや、また怒りました? 嫌だなぁ、褒めてるじゃないですか。説明を続けますよ。アナタが聞きたいって言ったんだから、アナタは聞く姿勢を保つ義務があるんじゃないですか? ま、どうでも良いですけど。
 さて、宇佐見さん。人間にとって睡眠とは何だと思います?」
「脳の休息でしょ。そんなの、聞く程のこと?」
「えぇ、もちろん。それが判ってるのに、根本的な問題に気付けないアナタはちょっぴり愛おしいですねぇ。滑稽で。

 ――宇佐見さん、宇佐見さん。アナタの脳って、いま休息してると本当に言えます?」

「……え」

 思ってもみなかった指摘を受けて、一瞬、私は動揺してしまう。
 私の意識。私の身体。それは現実世界で眠っている今も、普段と何ひとつ変わることなく十全に機能している。それはつまり、外の世界で過ごす私と何も変わってないということ。普段通りに脳が働いているということ。

 ……つまり。
 私の脳は、眠ったところで休息できていない……。

「その通り」

 ドレミーがゆったりと立ち上がる。また、私の内心を読んだ言葉と共に。彼女が一歩一歩、苔藻を踏みしめて歩いて来て、私は一歩、後退りをしてしまう。

「アナタの脳は酷使されている。休む暇もなく機能している。それ、どういうことだか判ります? て言うか、そんな脳が超能力みたいに莫大な負担を強いる力を、使えると思います? アナタの脳はよく頑張った方ですよ。よく適応した方ですよ。たまーに居るんですよねぇ。夢と現実の境界を無くして、少しでも負担を減らそうと脳が変化する人。だからアナタは、いま眠っている筈のアナタは、現実と同じように動くことができるんですよ。ただ、流石に限界が来ちゃってるみたいで、超能力は使えなくなってるみたいですがね。

 それこそ、アナタが飛べなくなった理由。私を攻撃しようとしても無駄な理由。
 理解できました?」

 ドレミーが、どこか勝ち誇った風の笑みを浮かべる。私はと言えば、彼女の言葉を否定しようと何でもいいから超能力を使おうとして結局、彼女の説明の正しさを証明してしまっていた。
 テレキネシスも。パイロキネシスも。テレポートも。
 どれを使おうとしても、いつもの感覚が訪れることはなかった。
 その代わりに、

「――痛ッ……!」

 不意に脳の奥に針で刺したような痛みが走る。それはまるで悲鳴。酷使されることに対する声なき叫びのよう。これ以上、脳に負担を掛けるな、と戒めるみたいで。
 痛みとショックで、私はその場にへたり込んでしまう。小さなときから当たり前のように使えた私の力。私が、特別な私で在ることを証明する能力。それを急に使えなくなってしまったという、その喪失感に押し潰されそうになる。

「まあ、心中お察ししますよ。察するだけで、何をして差し上げることもできませんがねぇ。

 あぁ、いや。ひとつだけあるんでした。アナタの脳を苦しみから解放する方法。夢も現実も綯交ぜになってしまったアナタを助けて差し上げる方法。て言うか、そのために私がアナタの前に出てきたんですけど」

 相変わらずのクスクス笑いを含みながら、ドレミーがたった今思い出したみたいに言う。ガバと顔を上げて、彼女に詰め寄ろうとする。縋り付くみたいに。
 なのに、伸ばした私の手はドレミーの身体をすり抜けて、体勢を崩した私はそのまま地面に転んだ。何が起きたのか咄嗟に判らず、混乱する私に、ドレミーは嗤いながら振り向いて、

「正直、困るんですよねぇ。夢と現実の境界を無くされちゃうこと。宇佐見菫子さん。アナタの脳は、夢と現実の世界をごちゃ混ぜにする媒介になりつつあるんです。個々人の夢が現実に流入する。現実が夢に混在する。夢の支配者としちゃ、見過ごせませんよ。夢で見たことが現実になる世界を、アナタは無意識に作ろうとしてる。それがどんなに狂った世界か判ります? アナタひとりの現実が夢に汚染されるくらいなら良いんですけどね。アナタが精神病院に一生閉じ込められるくらいなんで。ただ、アナタという媒介を通じて大勢の人の夢が現実に、現実が夢になっちゃうのは、世界の崩壊を意味します。私の言ってる意味、理解できます?」
「ごちゃごちゃと……!」

 立ち上がり、腹の立つ嘲笑を浮かべるドレミーを睨む。そんなことをしても無駄だと、判っていながら。

「早く教えてよ! 私はどうすれば良いの!? どうしたら私は助かるの!? 夢の支配者なんでしょ!? どうしたらいいのか、教えてよ!」
「簡単です。アナタが死ねばいい。暴走を始めた脳ごと、機能を停止すればいい。それで解決ですよ」

 ドレミーが平然と、とんでもないことを言う。それこそ自明の理じゃないか、と言わんばかりの気楽さで。天気の話でもするような当然顔で。

「……ッ」
「何です? その間抜け面。私、そんなに難しいこと言ったつもりないですよ?」

 肩を竦めた彼女が、呆然とする私の方へと歩み寄る。二歩、三歩と私は後退りをする。咄嗟に何を言い返すこともできず。半分しか開かれてない少女の両目が私を見る。視る。そこに隠しきれないほどの愉悦を滲ませながら。

「アナタの視る夢は、もう現実と不可分になってます。自発的に夢を見ない選択ができる人間なんて居ません。アナタは領分を犯した。境界を越えた。アナタの立つそこは、もう取り返しのつかない地平線です。後戻りはできません。アナタが眠る度、夢を見る度、アナタを通して夢が浸食される。現実が浸食される。
 だから、私はここに居るんですよ。夢と現実を破壊するアナタを、終わらせるためにね」
「……私を、殺すって……こと……」
「ある意味では正しいです。ある意味では間違い。ただ殺すなんてことはしませんよぉ。もったいない。アナタの身体は夢の粒子へと変換されています。夢の世界の構成物へと入れ替わりつつある。つまり、アナタそのものが夢になりつつあるんです。

 ところで……私の種族、何だって言いましたっけ? 私は何を食べる種族なんでしたっけ? 存在しちゃいけない夢を食べる種族が、アナタの前に現れた。それが何を意味するか……もちろん、判って頂けると思います」

 ドレミーがニヤニヤ笑いを浮かべて、唇の端から唾液を零れさせる。私の頭のてっぺんから、爪先まで。気持ちの悪い視線が、無遠慮に向けられる。

 コイツは……。
 この、目の前の妖怪は――


 ――私を、食べる気なんだ。


 私は踵を返す。息を切らせて、暗い森の中を走り出す。どこでもいい。人が居る場所なら。誰か、誰か私を助けて。そう祈りながら。

「逃げるのは構いませんよ。それは生物の本能です」

 ドレミーの声がする。振り返っても、彼女の姿は見えないのに。彼女が追って来ている気配はないのに、その声は明瞭に私の脳内で反響する。

「ただ、馬鹿な他の妖怪に食べられるのだけは、やめてくださいね。アナタはまだ、完全に夢になってない。私に触れなかったでしょう? それが証拠です。私としちゃ、せっかく何十年ぶりに逢った夢の迷い子なんです。純粋な夢に転じた生き物の味。格別なんですよぉ。そんなご馳走を、何も知らないアホに横取りされるのは、勘弁願いたいですねぇ」

 彼女の笑い声が、けたたましく頭の中から響いてくる。そう。声は私の脳内から聞こえてくる。だから、走っても私は声から逃げられない。耳を塞いでも、笑い声は私の精神を蝕み続ける。彼女は夢の支配者だから、私がこの夢を見ている限り、私はアイツから逃げられない。

「……っ、このっ! 早く! 目を覚ますのよ! 私!」

 走りながら、自分の頬をバシバシと叩く。鈍い痛み。けれど、眼が覚める予兆はない。現実世界の私は、ついさっき眠ったばかり。眠ってる私は、痛みで目を覚ますことはない。幻想郷の住民と激しく戦い、傷つけ傷つけられ、それでも起きないのだから。

 でも、私は何としても目を覚まさなくちゃいけない。
 超能力も使えない私が、あの妖怪を倒せるとは思えない。

 必死に走る。走る。走る。せり出した木の根に躓きそうになりながら。追い掛けても来ないドレミー・スイートから逃げようと足掻く。笑い声。笑い声。まだ脳の奥でアイツのクスクス笑いが響いてる。私の行為を嘲るみたいに。逃げる私を蔑むみたいに。
 何もできずに逃げ続ける私。私を食べようとする怪物。本当に、悪夢へと迷い込んでしまったみたい。どうしてこうなってしまったのだろう。夢の中で降り立つ幻想郷は、すごく楽しいところだったのに。魅力的な人たち。不思議な世界。つまらなくて下らない現実なんかとは違う、私にとっての楽園だと思ってたのに。

「……お願い……! 覚めてよ……! 目を、覚ましてよ、私……!」

 もう走れない。私は木の幹に寄り掛かって、額から流れる汗を拭う。得体の知れない恐怖が、私の鼓動を速めて胸の内側から叩いてくる。幻想郷の住民たちから追い掛けられた時よりも、ずっとその恐怖は強かった。

「そんなに必死こいて逃げなくても、まだ食べませんよ」

 ドレミーの声。今度は脳内から響いたわけじゃなく、私のすぐ横から鼓膜を震わす声。悲鳴を上げそうになるのを懸命に堪えて横を向けば、そこには当たり前のようにドレミー・スイートが立っていた。

「言ったでしょ? 私は夢の住人。アナタは夢になり掛けの人間。まだ、完璧に干渉できるわけじゃないんです。アナタが私に触れないのと同様に、私もアナタに触れません。触れない相手を食べるなんて、禅問答じゃあるまいし無理でしょう?」
「何が、望みなのよ……」

 ドレミーから後退りしつつ、私は問い掛ける。ほとんど、反射のような無意味な質問。何が望みかなんて、コイツは明らかにしてるというのに。

「もちろん、アナタが完全な夢と化してから、食べちゃうことです。果実で例えるなら、アナタはまだ熟し切ってないってことですね。熟してから、最高の状態でつるりといただく。それが私の望みです――って、おや?」

 ドレミーが不意に空を見上げたかと思うと、目を細めて私を見つめてくる。何かと思って自分の身体へと視線を向けると、私は指先から少しずつ消えていくところだった。

「おやおや。お目覚めのご様子ですね。良かったですね。夢から覚めて」

 獏がにっこりと微笑む。私の生還に、ほんの少しも口惜しい様子を見せることなく。このまま目が覚めて、コイツから逃げたと思われるのは癪だ、と私は精一杯の虚勢を張って、

「ふん。これでアンタも手出しできないってわけね。ざまあみなさい。アンタみたいな弱そうな妖怪に食べられたりするもんですか」
「あはははぁ。夢から覚めるだけだってのに、ずいぶん勝ち誇ってくれますね。唇は震えてますし、虚勢の張り方、ヘタクソですよ?

 アナタが夢の世界に入る度、アナタは夢へと近づく。現実世界の住民から、夢の構成物へと変化していく。私がアナタの前に現れた時点で、もう手遅れなのです。それをお忘れなきよう。

 それじゃ、近い内にまた逢いましょうね」

 消えて行く私に、ドレミーが小さく手を振ってくる。消失が腕から体幹へと移り、視界が黒に染まっていくと同時に、森の匂いが消えていく。

 全き暗闇が私の視界を覆うや否や、私は自分の身体が誰かに揺すぶられている感覚を覚えた。

「――菫子、ちょっと、アンタどうしたのよ……?」

 目を開けると、そこは私の部屋のベッドの中。母さんが心配げな表情で私を見下ろしている。

「……お母さん……?」
「どうしたの? アンタ、バタンバタンって暴れたり、叫んだりしてたのよ? エクソシストでも呼ぼうかと思っちゃったくらいだわ」

 窓から月明かりが差し込んでいる。まだ、夜は明けてないみたい。シーツを退けて、目覚めたことに安堵のため息を吐く。パジャマが寝汗でびしょびしょに濡れていて、とても気持ちが悪かった。

「うん……何でもないの。ちょっと、怖い夢を見たくらいで……」
「ちょっとってレベルじゃなかったけど、本当に大丈夫なの? 悪魔祓いは流石に冗談としても、お医者様くらい呼んだ方が……」
「ううん、大丈夫。心配かけてゴメンね」

 私は母さんに笑いかける。ちゃんとした笑みを描けているか、自信がない。もしかしたら、引き攣った表情になっているのかもしれない。母さんの表情からじゃ、それはよく判らなかった。

「そう……? じゃ、私も寝るから。アンタ、明日も学校でしょ。早く寝なさいね」
「うん。汗かいちゃったから、もう一回、お風呂に入ってからね」

 何度も振り返って私を見る母さんを見送って、私はお風呂場へと向かう。とてもじゃないけど、すぐに寝なおす気になんてなれなかった。そうしちゃいけない理由だってある。

 ――対策を、考えないといけない。

 汗まみれのパジャマと下着を脱衣カゴに放り、身体の汗をお湯で流してから湯船に入る。母さんが入れた入浴剤で、お湯はミルクみたいに真っ白だ。まだ、動悸が強い。走っていた時の疲労を引きずってしまってるみたい。そしてそんな夢と現実のリンクこそ、あの獏が私に接触してきた理由なのだ。

「……でも、どうしろって言うのよ……」

 肩までお湯につかって、私は一人ごちる。眠った私は、自動的に幻想郷へと送られる。そうして現実と同様に行動していること。それこそ、私が夢の構成物へと変化していく証左だとあの獏は言った。
 夢の中で幻想郷に行けるようになった理由。そのメカニズムは、私にもよく判ってない。根本的な解決は眠らないことになるのだろうけれど、それは現実的じゃない。エルム街の悪夢じゃあるまいし。

「眠っても、幻想郷に行かないようにすれば良いの……? もうあの世界に行かないってのは寂しいけど、少なくとも頻度は減らさないといけない。じゃないと、超能力も使えないままだし、あの獏に食べられちゃう……」

 そう。ことは一刻を争うのだ。何とかして、対策を考えなきゃいけない。眠っている間、私の脳をきちんと休息させること。幻想郷に行く夢じゃなく、一般的な夢を見るようにすること。その方法を編み出さないことには、私に未来なんてない。

 ――と。

「……ん?」

 水面が奇妙に揺らめいたように見えた。湯船に浸かる私は動いてないのに、白いお湯がゆらりと波紋を作る。
 何が起きてるのか判らない。首を傾げなら、お湯の中で自分の両手をゆらゆら動かしてみる。小さな波ができて、湯船の縁にぶつかった。その波に、波紋も紛れてしまう。
 目を凝らす。眼鏡を外してるから、視界はぼやけてよく判らない。ジッと水面を見つめる。私が立てた波は収まって、水面はしっかりと水平に保たれる。波紋は、見間違いだったのだろうか。小さく息を吐いて視線を移そうとした時、また波紋が出てくる。

「……天井から、水滴でも落ちてる?」

 私は天井を見上げる。水滴があったとしても、私じゃ見えないと気付くまで時間が掛かった。それに、水滴が水面に落ちる音だって聞こえる筈。いったい何なんだろう。とにかく対策を練らなきゃ。そう思って天井から視線を戻した私の目に、有り得ない光景が飛び込んで来る。

 ――手。
 水面から、大きくパーに開かれた一本の手が伸びている。

 もちろん、私の手じゃない。その手は私に掴みかかろうとしてるみたいに広げられてて、一瞬、私の思考が完全にフリーズする。ゴボゴボと幾つもの泡が昇って来ては、水面でパチンパチンと弾けだす。身体が動かない。ありえない現象を前にして、蛇に睨まれた蛙のように、指先さえも動かせない。声を上げることはおろか、呼吸の仕方も忘れてしまったみたい。湧き上がる泡が激しさを増したと思った途端、ザバ、と水面が爆発する。

「……ひっ!?」
「プハぁ!」

 ひとりの女の子が、私と相対するみたいに湯船から生えて来た。洋服を着たままの女の子。馬鹿みたいなナイトキャップを被ったままの女の子。先ほど私の夢の中に出て来て、私を食べると宣言した妖怪獏。

 ――ドレミー・スイートが、私の家の湯船の中に、出現する。

「……いやぁ、お風呂の中だなんて聞いてないですよぉ。危うく溺れ死んじゃうところでした。あぁ、また逢いましたね。宇佐見菫子さん。眼鏡を取ったら美人さんですね。でもおっぱいは私の勝ちです。見せてはあげませんけど」

 私は――。
 ――私は。
 声にならないくらいに、大きな悲鳴を上げて――。

 ◆

「判りますか? 夢と現実がごちゃ混ぜになるってのは、こういうことなんです。アナタの現実が、アナタの夢になる。アナタの夢が、アナタの現実になる。その両者の境界がぼやけた挙句に消滅する。だから私は、全世界を構成する夢の通路を通って、夢が混じったアナタの現実に出没できるってわけですねぇ」

 教室に入って机に突っ伏す私の耳に、ドレミーが囁いてくる。当たり前のように教室に入るコイツを見咎める奴は、やっぱりいない。昨日、お風呂で私が上げた悲鳴を聞き付けてやってきた母さんにも、コイツの姿は見えてなかった。夢の混じった現実を生きているのが私だけだから、夢の住人であるコイツに悩まされるのは私だけ。

 いっそ、本当に私の精神がおかしくなってしまっていたら、どれほどいいだろう。

 私はコイツが行ったとおりに精神病院へと送られるだろうけど、少なくともコイツに食べられることはなくなる。狂ったまま生き続けることが、私にとっての幸福かどうかはさておき。
 対策を考えなくちゃいけない。それは判ってる。昨日はあれから眠らず、ドレミーの下らない話を聞き流して考えてるけど、有効な打開策は見えてこない。
 いったいどうすれば良いと言うのだろう。現代日本で、私が直面している問題に対処できる医者がいるとは思えない。夢を見ると私が夢に近づいて、最後は獏に食べられちゃうんです。そう言って、適切な対処をしてくれる大人がどこに居るだろう。それこそ、たっぷりの薬と拘束衣、檻付きのベッドで雁字搦めにされるだけだ。そしてその待遇が、私を救ってくれるとは思えない。

 そうなると、活路は幻想郷にしかない。
 あの不思議な世界に暮らす人々なら、夢妖怪に襲われることへの対処法も何か知っているかもしれない。眠る度、私は夢に近づくとドレミーは言っていた。けれど、他に道がないのなら、それに縋る他にない。虎穴に入らずんば虎児を得ず。今の私にぴったりの故事成語。

 HRの出欠だけ終わらせたら、さっさと眠ってしまおう。
 正直、眠らずに朝を迎えるのはキツい。本当なら今すぐにでも眠ってしまいたいくらい。きっと夢の中にドレミーも着いて来るだろうけど、無視してればいい。まだコイツは、何もできやしない。まだ。私に話しかけてくるのが関の山だ。

「しかし、現実世界の学校というのも、なかなかに面白そうなところですねぇ。宇佐見さんはご学友とお喋りに興じないのですか? あっちの席でもこっちの席でも、実にどうでもいいクソ下らない話で盛り上がってますよ? もしかして、宇佐見さんは孤高を気取ってらっしゃる? ははぁ、思春期の子供にありがちな全能感って奴ですか。青臭くって素敵ですねぇ。人間は群れて生活することで、ここまで発展できたというのに。そのセオリーに従えないってのはポリシーじゃなくて、アナタが人としての機能を発揮できてないってことなんじゃないですかぁ?」

 ドレミーが耳元で囁いてくる。追い払うことも反応することもできないのがもどかしい。ただでさえ、秘封倶楽部の結成で人払いをしてるのだ。これ以上、奇怪な行動をしたらイジメのターゲットになりかねない。ちょっと近寄りがたい人、という今のポジションを崩すのは嫌だった。
 机に突っ伏していると、脳の奥がトロンとふやけて眠りの予兆がやってくるのが判る。でも、流石に出欠の時まで寝てるのは良くない。内申点とかを考えてる場合じゃないというのは確かだけど、どうせあと数分のことだ。待ったって問題ない。そんなことを考えていると、朝のチャイムが聞こえてくる。

「おや。チャイムが鳴りましたね。十人十色な人間たちを、一緒くたにして管理するための悪しき習慣。時間を区切ることで、社会の枠組みに収めようとする取り組み。これだから現実は嫌いです。宇佐見さんもそう思うでしょ? だから、夢の世界に頻繁に足を踏み入れたんでしょ? それがどんな結果を起こすかも知らず。くっくくく、全能感にあふれる女子高生は、知識も経験も通じない世界の摂理にゃ弱いんですねぇ」

 私はドレミーを無視したまま、顔を上げる。鬱陶しい妖怪なんか見えてない振りをする。周囲で喋っていた生徒たちも、各々の席に戻っていく。いつも通りの退屈な学校風景だ。私の前に立つ奇妙な少女さえ居なければ。

「これから授業ですか? 宇佐見さん、だいぶ眠そうですねぇ。眼の下にくっきりと隈が浮かんでいますよ? 頭もボーッとしてらっしゃるでしょ? 自分が寝てるんだか起きてるんだか、よく判ってないんじゃないですかぁ?」

 うるさいな。私は起きてるわよ。

 そう、心の中でドレミーに告げてみる。夢の中で、コイツは私の心を読んだ。それはコイツ曰く、私から漏れ出る夢の欠片を拾ってるのだ、とのこと。それが現実世界でも適応するのかどうかは判らなかったけど、ドレミーはクスクスと笑って、

「重要なのは起きてるという自意識じゃなくって、アナタの脳の状態なのですよ。宇佐見菫子さん。疲労で麻痺した脳細胞は、休息を求めて夢の欠片を生産します。それがどういう意味を持つのか。すぐに判りますよ」

 ガラリ、と教室の戸が開けられて、担任の先生が出席簿を手に教室へと入ってくる。そこまではいい。それはいつもの風景。けれど私は、担任を見てアッと声を上げそうになった。咄嗟に口を抑えて、周囲を見渡しても、私の他に驚いている生徒は居なかった。

「――おはよう。みんな。そんじゃ、出席取るぞー」

 当然のように告げる男性教諭。教科書を読み上げるだけのつまらない授業をする現国の教師。その彼の頭上に、兎のものと思しき耳が生えている。ウサ耳カチューシャを付けてるわけでもなく、ピクピクと動いていて。
 誰も反応しない。男の人の頭にウサ耳が生えてるなんて、どう考えてもおかしいのに。普通なら笑ってしまうところだけど、あまりに異常すぎて笑えやしない。ドレミーと同様に、先生のウサ耳は私にしか見えてないのだろうか。

「……宇佐見、宇佐見ー。いるなら返事しろー」

 ハッとする。いつの間にか出欠は始まってて、私の名前が呼ばれてた。慌てて返事をすると、先生のウサ耳が不機嫌そうにピクピクと動く。

「まったく、朝からぼんやりしてちゃ駄目だぞ。兎は寂しいと死んじゃうんだ。シャキッとしてくれ。俺の自慢のウサ耳みたいにな。ところで宇佐見とウサ耳って、なんか似てるな」

 ――あはははははははは!

 生徒たちが、当然のように笑いだす。その視線は私に向いている。なに、なにこれ。幻覚なんかじゃない。もっと別の何かだ。先生のウサ耳が、当然のこととして処理されてる。誰もウサ耳が変だと思ってない。

「――ようこそ。現実と夢の混じった世界へ」

 ドレミーが私へ向けて恭しくお辞儀をしてみせる。途端、校内放送マイクからピアノの旋律が大音量で聞こえてくる。それはドビュッシーの月の光。ザラザラと耳障りな音割れを起こすその音楽に、やっぱり誰も反応を示さない。先生の点呼の声すら、私には聞こえないのに。

「おめでとうございます。フェーズ2です。宇佐見さん。病状はたちどころに進行していきますよ。ま、私がそれを加速させてるんだから、当たり前の話ですけど。
 世界は観測者の存在によって成り立つ。純粋に客観的な世界は、そもそも存在しないのです。観測者がアナタである以上、いまアナタが体感している全てが、世界の真実です。アナタの世界のね。言ったでしょ? 私がアナタの前に出た時点で、もう手遅れだって」
 
 ドレミーの足元を起点として、彼女の服の柄が教室の内部を染めていく。黒地に白の水玉模様。床も机も、壁も天井も悪趣味な柄に染め上げられて、同級生たちの顔が赤いクレヨンで塗りたくったみたいに変貌し、誰が誰だか判別できなくなる。
 ハウリングしながら月の光が流れる中、私の隣に座っていた生徒が立ち上がる。鞄の中から、大量のニンジンを取り出して、それを一本ずつ担任の先生へと向けて投げ付けた。ニンジンを投げ付けられる先生は、それでも何事も無いように点呼を続けている。
 生徒が次々に立ち上がる。誰もが腕一杯にニンジンを抱えて、それを先生へと向けて投げ付けていく。ニンジンは先生の身体にぶつかって床に落ち、教卓の周囲には何百本ものニンジンが散乱していく。黒地に白の水玉模様の中、堆く積み上げられるオレンジ色。頭がどうにかなってしまいそう。いや、もうどうにかなっているのか。ドレミーがその光景をケラケラと笑いながら見守っている。

「おやおや、宇佐見さんってニンジン、お嫌いなんですか? うふふ、かぁわいーい。子供みたいな舌をしてらっしゃるんですねぇ」

 無限に投げられるニンジンに埋もれて、もう先生の姿は見えない。ニンジンの山の中から、出席簿を持った手だけが虚しく伸びていた。
 限界。私は立ち上がる。月の光は、もはやハウリングばかりが耳をつんざいて、ピアノの旋律なんか聞こえやしない。教室を出ようとする私の背中に、幾つかのニンジンがぶつけられる。振り返ることもせず、イカレたこの教室を後にする。廊下もまた、黒地に白の水玉。フワフワと兎の尻尾みたいな白い球が、無数に浮かんでいる。
 窓の外は、どういうわけか夜になっていた。信じられないくらいに巨大な月が、ビル群の後ろに控えている。眩いばかりの月光が、建造物の全てを影に落とす。ここは現実と夢の混じった世界。あの獏の支配下。だから、きっと何でもあり。ここはどこでもあるし、どこでもない。暴走する私の脳が産み出した歪な世界。

 どこかに逃げないといけない。
 どこかで眠って、幻想郷へと至らないといけない。

 焦燥感に駆られるまま、私は走り出す。浮かぶ白い球が、私に殺到してくる。それを払いのけながら、私は廊下を突き進む。

「あっははは。お逃げなさいお逃げなさい。息の続く限りに走ると良いですよ。けれど、一体全体どうやって、アナタはアナタの世界から逃げるつもりです? 例え地平線の端まで行きついても、アナタがアナタである限り、アナタの世界に果てはないのです」
「うるさい!」

 頭の中に響くドレミーの声に向かって、叫ぶ。口を開けた途端、白の球が私の口の中へと入ろうと雪崩れ込んでくる。歯を食いしばり、球を薙ぎ払い、私は走る。走る。走る。
 目指すは屋上。こんな世界じゃ、ベッドのある保健室の場所も判らない。そもそも、保健室なんか無くなってても不思議じゃない。屋上へ行きついて、すぐに目を閉じれば良い。そうして幻想郷の誰かに、助けを求めるのだ。もうそれしかない。

「宇佐見さん。廊下を走るもんじゃありませんよぉ? 誰か……いや、何かにぶつかったって、文句は言えませんからねぇ」

 嘲るみたいなドレミーの声がした途端、前方に浮かんでいた白の球がひとつ所に固まり出す。おしくらまんじゅうみたいに寄せ集まったそれらが、ブヨブヨと形を変える。
 そうして出来上がったのは、巨大な真っ白の赤ん坊。
 体長は五メートル近くあるだろうか。廊下を埋め尽くすその赤ん坊は、不気味な仮面で顔を覆っていた。トーテムポールみたいな、やけにエキゾチックな意匠。化け物は四対ある仮面の眼で私を見るや否や、怖気を催すほど高速のハイハイで私に迫ってくる。

「……ひっ!」
「おやおや、宇佐見さん。その赤ちゃんはアナタに産んでほしいみたいですねぇ。処女懐胎なんて、マリア様みたいで素敵じゃありません?」
「……っぐ! うぅ……!」

 込み上げる吐き気を堪えながら、踵を返す。ざらつくハウリングの中、サイの群れが大挙して押し寄せるみたいな轟音が背後から響いた。寄生型のエイリアンが喚くような声音で、ママ、ママ、と怪物が叫んでいる。

「誰、が! ママよ!」
「もちろん、アナタですよ。ちょいと立ち止まるだけで、でっかくて可愛い赤ちゃんがアナタのもとに……くくく、最高のイベントじゃありません?」

 廊下を右に曲がって、二段飛ばしで階段を駆け上がっていく。奇声をあげながら怪物が着いて来る。私は後ろを向かず、上へ上へと進み続けた。校舎は四階建て。私の教室は一階。幾ら進んでも、屋上への扉が見えてこない。ごく普通の階段は、気付けば螺旋階段へと変化していて、私は懸命にグルグルと回りながら上へと向かう。

「はぁ、はっ! はぁ……! っ!」

 壁も天井も無くなって、私は巨大な月が浮かぶ夜空の只中に居た。螺旋階段だけが、雲を目掛けて空へと伸びている。怪物が追い掛けてくる気配は、もう無かった。ハウリングも奇声もやんで、何故かひぐらしの輪唱が私を包んでいた。
 空中に浮かぶ螺旋階段を昇り切ると、そこには屋上へと通じる扉がある。壁も天井もないのに、扉だけが階段の終わりを告げるみたいに立っている。私がその扉を開けると、それまでうるさいくらいにカナカナ鳴いていたひぐらしの声がピタリと止んだ。
 扉を潜った先には、薄い金属性の床だけの空間に太いツルみたいな植物が大量に横たわっていた。ラピュタの内部みたいだ。もはや屋上と呼んでいいのか判らないその場所の中心に、なぜか天蓋付きのベッドが安置されている。お膳立てされたみたいだと警戒するも、ドレミーの声が聞こえてくることはなかった。

 ツル性植物を跨ぎ、ベッドのもとへ。ここは何の音もしない。少し不安になるくらいに。必死に走っている時には判らなかったけど、もう私の身体は限界みたいだった。身体が酷く重い。気を抜いたらこの場で倒れて、そのまま永遠に眠ってしまいそう。
 ようやく、ベッドに辿り着く。周囲を見回したけど、危険はないようだった。迫ってくる化け物も居なければ、ニンジンが投げられることもドレミーが囁いてくることもない。

 だからこそ――おかしいと思った。

 どうしていきなり、こんなベッドが置いてあるのか。どうしてドレミーが邪魔をしてこないのか。ここは夢と現実の混じった世界。アイツの意のままに操れる世界。ツルで覆われたこの場所も、その真ん中に置かれたベッドも、アイツが用意したに違いない。
 どうして、ドレミー・スイートがそんな真似をする?
 私が幻想郷で助けを求めようとするなんて、アイツにはお見通しの筈。どうせ何もできやしないと高をくくってる? そんな馬鹿な。アイツの口ぶりからして、私が助かる可能性を1パーセントでも作ったりはしない。
 眠りを求めてベッドに倒れ込もうとする自分の頬を叩いて、私は意識をシャンと保とうとする。これは罠だ。このベッドで眠ったら、きっと私は助からない。私を捕食するための、甘い誘い。それがこのベッドの正体。じゃなきゃ、あれだけ私を甚振って楽しんだアイツが、この瞬間に何もしてこない説明が付かない。
 私は踵を返す。眠ってしまいたい欲求に蓋をして、ツル性植物を跨いでいく。どこまで逃げれば良いのか判らない。どこにも逃げ場なんてないのかも。けれど、こんな間抜けな罠に引っかかって、アイツに食べられてしまうなんて嫌だ。

 そもそも、アイツの目的は私が夢の世界に旅立つこと。
 夢の中で現実と同様に行動することで起きる不具合。それを加速させること。

 なら私は、もう夢を見ずに脳を休息させなくちゃいけない。眠らずして、意識を遮断する。その方法さえあれば……。
 入って来た扉を開ける。そこにはドレミーが立っていた。私がベッドに倒れ込まなかったことを、少しだけ残念がるみたいな表情で。

「ははぁ、罠だとバレてしまいましたか」
「こんな不自然な状況で、眠る馬鹿なんかいないわ」

 キッと睨み付ける。おぉ怖い怖い、と私を小馬鹿にする声でさえずったドレミーが、肩を竦めながら、

「ここまで病状が進行したら、あと一回で良いんですよ。もう一度アナタが夢を見れば、それでアナタは完全な夢になる。なんで私がそんな種明かしをすると思います? もうアナタは取り返しがつかない地点にいるからです。眠らない生物はいない。アナタの脳は、もう限界です。夢魔の誘いは、弱った脳にとびきり効くんですよ。夜通しお話をしたかいがあったというものです」

 ドレミーがパチンと指を鳴らすと、私の周囲にレトロな蓄音機型のレコードプレーヤーが幾つも幾つも出現し、それらは一斉に穏やかなブラームスの子守唄を奏で始めた。

「ほぉら、眠くなってくるでしょう? さぁ、眠っちゃってくださいよぉ。さぁさぁさぁ、もうアナタは充分に頑張りましたよぉ? 誰の助けも望めない狂った世界でぇ、あんなに走ったり喚いたりしたじゃないですかぁ。ほら、ほら、ほぉら……これまで楽しかったでしょぉ? 眠ってる間も普通に喋って、笑って、戦って、そんな人としての領分を越えた行いを、たっくさん楽しんだでしょぉ? だったらもう、私に食べられちゃっても、本望って奴じゃないんですかぁ?」

 グラリと視界が歪む。神の見えざる手に揺すぶられたみたいに、私の意識が、私の世界が、グニャグニャと形を失っていく。もう立っていられなくて、私は地面に片膝を着いてしまう。ドレミーが私を見下ろしながら、クスクスと笑う。嗤う。
 幻想郷の人たちの姿が、私の脳裏を過った。霊夢、魔理沙、妹紅さん、華仙さん、私があの不思議な世界で出会った人たち。自分勝手にあんなことを仕出かした私を、笑って受け入れてくれた素敵な人たち。私がここでコイツに食べられれば、もう私は彼女たちに逢うことはできない。世界が楽しいものなんだと、人との触れ合いが素敵なことなんだと、教えてくれた魅力的な人たち。彼女たちとの出会いも、戦いも、語らいも、私が死ねばすべてゼロになってしまう。嫌だ。そんなのは嫌。死にたくない。食べられたくなんてない。そんな恐怖も、誘われる眠気に上書きされて、小数点の向こう側まで希釈されていく。

「さぁさ、お眠りなさい。宇佐見菫子さん。大丈夫ですよぉ。食べる時も、痛くはしないでさしあげますからぁ」
「……私、は」

 私は、ブラウスのリボンを引き抜く。気付いた。最後の最後で。眠ることなく、私の意識を遮断してしまう方法。夢の世界へ辿り着くことなく、私の脳をリセットしてしまう手段。
 視線を感じる。それはドレミーの物。最後に私がどんな悪足掻きをするのか、と見物するみたいな、そんな余裕ぶった視線。嗤ってられるのも今の内だ。私は藁にもすがるような思いで、引き抜いたリボンを自分の首へと回し――

 ――自分の首を、一気に、絞めあげる。

「な、ちょ、ちょっと! 宇佐見さん!?」

 流石に慌てたドレミーが、首の肉に喰い込むリボンを引き剥がそうとする。けれど、その目論見は失敗。当然だ。彼女はまだ、私に触れないのだから。だからこそ、私を眠らせて干渉可能な局面に引き摺り落とそうとしていたのだから。

「宇佐見さん! 馬鹿なことは止めなさい! こんなところで死なれちゃ困るんですよ! ほら、自殺なんてカッコ悪いですよ!? ここで死んだら、私、アナタを食べられないじゃないですか……っ!」

 自分の首を絞める力を緩めないまま、私は笑ってやった。半狂乱で私を宥めすかそうとするドレミーの顔を見ながら、私は自分の意識が遠のいていくのを感じる。

「てんめぇええええ!! ここまで私にさせておいて死んじまうってのかよぉおおお!!??? ふざけんじゃねえええぞおおおおおおおお!!???? 私がどんだけ苦労して久々の御馳走にありつこうとしたか!! テメェに判るってのかよぉおおおお!!!????」

 いよいよドレミーの仮面が剥がれ、私は苦笑する。
 死ぬつもりなんてない。このまま、気絶さえできればそれで良い。

 これが、コイツの魔の手から逃げ出すための奇策。眠らずして、私の意識を途絶させる。眠りさえしなければ、夢も見ない。気絶と睡眠は違う。私が意識を失ってる時、私の脳は休息してくれるはずだから。
 目の前が暗くなっていく。喚くドレミーの声も、もう聞こえない。血液が途絶えて脳が死を迎えるには、二分を要すると聞いた覚えがある。その前に訪れるのは、私が待ち焦がれた意識の遮断だ。私は死なない。ただ気を失うだけ。これで私は、コイツから解放される――。

……………………。
………………。
…………。









 目を開くと、そこは果てしない草原だった。

「……え?」

 今まで見たことがない場所。地平線までずっと草原が続いていて、どこを見渡しても建物はおろか山も見えてこない。両足から力が抜けて、その場にへたり込んでしまう。こんな筈はない。こんな筈は、ない。だって私は、夢も見ずに気を失った筈なのに。

「うそ……嘘よ……どこなの、ここ……どこ、よ……?」

 問いかけに答えてくれる声はない。生暖かい風が素知らぬ顔をして通り過ぎていく。ここは幻想郷ですらない。ここには妖怪の山も、博麗神社も、何もないから。永遠に続く草の原。穏やかで、何もなくて、雲ひとつない晴天が広がる。

 ここは。
 ここは、まるで……。

「――そう。天国みたいでしょう」

 声がする。私の背後から。昨晩からずっと悩まされてる声が。私を嘲笑うような、ドレミー・スイートの声が聞こえてくる。
 呆然と、私は振り返る。背中に手を組んだドレミーが、感慨深いと言わんばかりに周囲を見回している。その表情は満足げだ。何か、大きな目標を達成したような、晴れ晴れとした顔。その表情を張り付けたまま、彼女が私ににっこりと微笑んでくる。

「夢も天国も、人の集合意識だというお話はしましたね? キリスト教における死生観が中途半端に共有されてる、これがこの国の天国です。日本人は、エデンがどんな場所なのか上手くイメージできてないのですねぇ」

 そう言って、ドレミーが私の肩にポン、と手を置いてくる。触った。触られた。彼女の手は、洋服越しにも判るくらい、ゾッとするほどに冷たかった。

「……私、死んだ、の……?」
「いやはや、焦りましたよぉ。アナタが自分の首を絞め始めた時にはねぇ」

 くくく、と喉を鳴らすみたいに笑ったドレミーが、私の前にペタンと座る。死神みたいに体温のない両手が、私の頬を挟み込んできた。

「ちょびっと、お聞き苦しいところがありましたかね? いや、こいつは失敬。私も必死だったってことで勘弁してください。
 さて、質問にお答えしましょう。おめでとうございます。アナタは死んでません。お望み通り、気絶してるだけです。いやぁ、良かったですねぇ、目論見が上手くいって。バンザーイ。やりましたね、ピースピース。アナタは眠らずして、意識を遮断することに成功したのです。

 たーだーし……。

 ――ここはアナタの夢の中です。臨死体験って聞いたことありますでしょ? あれも死に際に脳が見せる幻覚。夢の欠片の範疇。つまり私の支配下です」

 ドレミーがグイ、と私の顔を引き寄せて、頬をベロリと舐め上げる。手は冷たいのに、ドレミーの舌は気味の悪い生暖かさをもって、私の顔を唾液塗れにする。鼻も、目蓋も、まだ誰ともキスしたことのない唇までも、無遠慮に犯してくる。

「んふふふふふ。美味しい、あぁ、美味しくって美味しくって頭がバカになっちゃいそうですよ宇佐見さん宇佐見さん宇佐見菫子さんあははははははぁ。やっと熟してくれましたねぇ。やっと美味しく実ってくれましたねぇ。待ちくたびれましたよぉ。孤高を気取ってないで彼氏でも作ってれば、初キッスを私みたいな女の子に奪われなくて済んだのに。カワイソ。あは、あはは、あはははははははは!!!!」

 身体が……。
 ……身体が、動いてくれない。

 まるで金縛りにでもあったみたいに。自分の身体を動かす一切の機能を失ってしまったみたいに、指先はおろか視線さえも動かせない。自分の意志じゃ、瞬きさえできない。あぁ、そうか。もう私は、夢になってしまったのだから。ドレミー・スイートの支配下に、堕ちてしまったのだから。
 動かすことのできない私の両眼から、涙だけが零れる。止め処なく零れて、頬を伝って、私のスカートに染みを作る。狂ったように笑い転げるドレミーの姿が、涙の向こうに霞んでいく。これから私を終わらせる彼女の姿が。私を食べてしまう獏の形が。

 ――歪んで。

「アナタは物語の主人公だったのでしょ?」

 ピタリ、と笑い声を止めたドレミーが、いっそ愛おしげな手つきで、私の涙を拭う。

「幻想郷に流入する外の人間。オカルトボールを操って、結界を壊す主人公。下らない現実世界を否定して、神秘的な物に惹かれる女の子。まさに一騎当千。歴史に名を残す英雄。それが故に、アナタは生物としての領分を踏み越えることさえ、厭わなかった。

 教えてあげますよ。

 ここが。

 アナタが刻んできた物語の。

 ――ピリオドです」

 ドレミーがにっこりと微笑む。その唇の端から、唾液をだらしなく垂らしながら。
 あぁ私は、私の世界から逃げることができなかった。ごめんなさい。ごめんなさい。もはや震えることもない舌の根で、私は誰かに、何かに謝りの言葉を述べ続ける。死にたくないと願っても、私の身体、もう動いてくれなくて。

 そして。
 彼女が。
 大きく口を。
 ……開けて。


「いただきます」


 Fin
夏ですし、妖怪の怖いところを書いてみたくなりました。
夏後冬前
[email protected]
http://blog.livedoor.jp/kago_tozenn/
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おもろー
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おお…
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鬱陶しい
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こういうのを求めてました、ありがとうございます。
夢で幻想郷に来れるって、必ずしも幸せに繋がるとは限らないですよね…
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いいね
14.100名前が無い程度の能力削除
いい落ちでした。本当は怖い幻想郷の片鱗を垣間見てチビりそうです。
17.100名前が無い程度の能力削除
ぐいぐいと引き込まれる、面白いお話でした。
20.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしい。私の理想のドレミーさんでした。