Coolier - 新生・東方創想話

Wlii  ~其は赤にして赤編 5

2015/07/20 02:46:54
最終更新
サイズ
32.23KB
ページ数
1
閲覧数
512
評価数
2/8
POINT
440
Rate
10.33

分類タグ

前作
夢が偽りだというのならこの世界は嘘吐き達の住む箱庭

最初
~其は赤にして赤編 1

一つ前
~其は赤にして赤編 4



    第六節 正直者の死

 桜の下に横たわった少女に触れるとゴムの様な感触が返ってくる。生暖かいが、すぐに温度は失われるだろう。死んでいる。それを切った妖夢は少女の体に手を載せて、それが冷たくなるまでじっと待った。やがて体温が抜けきると、妖夢は少女から手をどかし、血のこびりついた己の手を見つめる。手がべったりと血に塗れている。その指先をそっと自分の唇に這わせると、自分の唇が笑みで歪んでいる事に気がついた。舌の先に痺れの様な疼きを覚えた。

 布団を跳ね除けて起き上がった妖夢は、すぐに頭を振って、今見た夢を振り払った。一ヶ月前に少女を殺す夢を見た時から、頻繁に同じ夢を見る様になった。屋敷の裏手へ行って、少女に出会い、そして切り殺す。もう何度同じ夢を見た事か。初めの内は夢に対する恐怖で眠れない日も多かったが、最近では慣れてきた。頭を振っただけで、夢に対する恐怖は消えた様な気がする。
 正確には、妖夢の心が磨り減ったというべきだが、妖夢自身は自分が悪夢に慣れてきたと信じている。頭を振れば恐怖が消えると本気で思っている。胸の奥にわだかまる不快感に気が付かぬ振りをしている。
 夢の恐怖を振り払ったと信じる妖夢は再び布団に潜り、目を閉じた。今度は夢を見ない様に願いながら。

「聞いて、聞いて。今朝青い髪の人に話しかけられちゃった」
 教室に入ってきた芳香はまっすぐに妖夢達の下へやって来て、興奮気味に言った。
「青い髪の人ぉ?」
 美貴が疑わしげな視線を送ると、芳香は大きく頷いた。
「きっと遺伝子操作してる人だよ!」
「嘘だぁ。噂じゃ聞くけどさぁ」
「本当本当。あれはウィッグとかじゃないよ。染めてもないと思う」
「そうなの? それで何て話しかけられたの?」
「近付いて来て、思った通り良い目をしてるわねって」
「嘘臭ぇ」
「本当だよ!」
 芳香と美貴の掛け合いを眺めていた妖夢は乾いた笑い声を出した。その疲れた様子に気がついた愛梨が、心配そうな表情になる。
「どうしたの? 風邪?」
「え? 違うよ。何で?」
「何か疲れた顔をしてるから」
 そんな事無いと、妖夢はすぐに笑顔を作る。愛梨が尚も気になって更に追求しようとした時、教師が入ってきて着席を促してきた。
 愛梨は仕方無く、妖夢の体調を気遣う言葉を残して席に着く。美貴も芳香もシャウナも妖夢の席を離れる。
 授業の開始を告げる声を聞きながら、妖夢は自分の顔を掌で挟み込んだ。最近悪夢の所為で疲れている事は自覚していた。慣れてきたとはいえ、気分の良いものではないから休まらないし、眠りも浅くなっている。
 悪夢の事を皆に相談したかった。
 でも駄目だ。呪いが感染するかもしれない。
 だから妖夢は、悪夢を見ているだなんて気が付かれない様に、意識して元気を出す様にしていた。そのメッキが剥がれてきたという事だろうか。
 このままでは、疲れに押し流されてしまいそうだ。
 悪夢に負けるつもりはない。そう強がっては居るが、もう一ヶ月も悪夢を見続けている。この悪夢はいつまで続くのか。そう考えると、億劫な虚脱感に支配されそうになる。
 妖夢は頭を跳ね上げた。一瞬眠りに落ちかけていた。意識が混濁していたらしく、授業はいつの間にか随分と進んでいる。起きていようと気を引き締めるが、次第に視界が茫洋としていく。
 眠りそうだ。
 そう思いながら、机の上で組んだ指先をぼんやりと眺めている。
 そこでまた頭を跳ね上げた。
 危うく眠りかけていた。
 駄目だ駄目だと言い聞かせながら、妖夢は眠りに抗い続けた。

「眠そうね。何か悩み事?」
 虚ろに前を見つめていた妖夢の視界を、シャウナの顔が遮った。驚いて顔を跳ね上げると、そのまま勢い余って椅子から転がり落ちた。妖夢が痛みにしかめた顔をあげると、シャウナが手を差し伸べてきた。
「大丈夫?」
 その顔には、おかしそうな笑みが浮かんでいる。教室のみんなが自分の事を見ている事に気が付き、妖夢は慌てて椅子を直し、顔を赤くして椅子に座り込んだ。恥ずかしさに顔を俯けていると、その額にシャウナの手が当たった。
「熱は無いみたいだけど。どうしたの?」
 シャウナの優しさを噛み締めつつ、妖夢は心配を掛けない様に笑顔を作る。
「何でも無い。さっきの授業が眠かっただけ」
「嘘」
 あっさりと見破られた事に驚く妖夢を、シャウナが睨む。
「下手な事はやめなさい。悩みは他人と共有した方が救われるの。そしてそれが相手の迷惑になるなんて事は無い。だから安心して話してみて」
 シャウナの言葉がありがたかった。悩みを相談してしまいたくなった。でも駄目だ。普通の悩みであれば相談していたかもしれない。だが今回は違う。呪いだ。うっかり話したら感染して、シャウナまで失踪してしまうかもしれない。そんなのは絶対に嫌だった。言う訳にはいかない。
「本当に何でもないから」
「もしかして居なくなったお爺さんの事? 確かに苦しいと思うけど」
 シャウナは勘違いしている。
 確かに妖夢の悩みには祖父の失踪も関係しているが、悩みの本質はそこでない。けれど本当の悩みを言えない以上、シャウナがそう勘違いしてくれるのなら、それで通そうと思った。
「うん。ありがとう。ちょっとね、寂しいし、もしかしたらお爺ちゃんはもうって思う事もあるけど」
「違うか」
 シャウナの目が細められている。まるで何かを値踏みする様だ。
 その視線に気がついて妖夢は総毛立った。
 シャウナは質問をしながら妖夢の反応を見て、答えを探り出そうとしているのだ。
「でも全くの無関係という訳でも無さそう」
 このままでは自分の悩みを当てられてしまいそうで、妖夢は恐れを覚えた。この二ヶ月、友達として過ごしてきて分かった事だが、シャウナは非常に鋭い。まるで人の心を見透かしているんじゃないかと思う時がある。
 だが幾らシャウナでも、今回の悩みを当てるのは無理だ。何と言っても呪いという人智を超越した現象なのだから。まともに考えても分かる訳が無い。妖夢自身でさえ、呪いを恐れつつも、本当にそんなものがあるのか信じ切れてはいない程なのだ。
「シャウナ、本当に何でも無いから」
「妖夢、あなたもしかして」
 妖夢が止めてもシャウナは尚も悩みを探ってくる。
 当てられっこない以上、徒労にしかならないのだから少しだけ申し訳無い。
 幾らシャウナでも、妖夢の悩みが、両親や祖父を不幸に合わせた亡霊を見てしまっただなんて当てられる訳がない。
 そんな妖夢の確信は見事に裏切られた。
「お爺さんが失踪した事件の犯人を見たんじゃない?」
 妖夢が目を見開く。
 シャウナが再び目を細める。
 劇的な反応を見せてしまった後に、しまったと思うがもう遅い。シャウナの険しい顔が妖夢の目の前に迫っていた。真っ青な目に睨まれて、妖夢は気が遠くなった。
「どういう事?」
 シャウナの問いを、妖夢は弱弱しく否定する。
「見てない」
「どういう事? 誰にも言ってないのよね? 何で?」
「見てない」
「どういう事? 何を見たの」
「何も見てない」
「言えない訳ね」
 シャウナは考え込む様に目を瞑る。
 そうして目を見開くとはっきりと言った。
「呪い、かしら」
 妖夢の喉の奥から空気が抜けた。力も抜けて椅子の背もたれにしなだれかかる。何故それが分かったのか、理解出来無い。
 驚く妖夢は、シャウナと目が合った。
「何も驚く事は無いわ。前の芳香の時と一緒」
「どういう事?」
「あなたの事を聞いたのよ。あなたは小学校で孤立していた。中学校でも、美貴達と仲良くなるまでは孤独だった。その原因が呪い。小学校の頃、あなたは両親を殺害する幽霊の夢をよく見た。そしてそれを呪いだと吹聴していた為に、呆れられて、周囲に拒絶された。でしょう?」
「誰に」
「誰にも何も周知の事。さっきのあなたの様子は、秘密を守ろうと怯えていた。それは嫌われると思ったからでしょう? 呪いだと吹聴した結果友達が離れていった過去があるから、私が離れてしまうんじゃないかと怖がった。違う?」
 シャウナは確信を持ってそう尋ねてきたが、妖夢は首を横に振った。
「分からない」
 言い逃れる為でも何でも無く、本当に分からない。いや、思い出せない。今、シャウナに言われた事が本当かどうか、自分の記憶と照らし合わせようとしたが、過去を思い出そうとすると、思考がまるで過去を避ける様にすり抜けていく。小学校で孤立していたかどうか、周りに呪いの事を言いふらしていたかどうか、それを考えようとしても、何故か思い浮かぶのは、桜と少女、そして切り殺した自分。
 おかしい。
 明らかに変だ。
 何か自分の中が違っている。
 妖夢の表情が歪む。顔を俯けて、頭を抱える。
「分からない。あやふやなの。ぼうっとしてるの。考えようとすると、頭がぼうってするの」
「忘れているという事かしら?」
 シャウナは頭を抱える妖夢の手をどけると、抱きしめた。シャウナの胸に頭を押し付けられて、妖夢は呼吸を止める。
「私の心臓の音、聞こえる?」
「え?」
「私の心臓の音」
 妖夢は耳を澄ます。シャウナの心臓は確かに鼓動している。
「鳴ってる」
「なら大丈夫」
 シャウナの拘束が解ける。開放された妖夢は困惑してシャウナを見上げる。
「どういう事?」
「きっとあなたは辛い記憶を封じ込めようとしているの。だからその時の記憶を手繰り寄せられない。よくある事よ。そしてその忌避が酷くなると、ひたすら辛い記憶を封じる事に注力して、周りを気にする事が出来無くなる。例えば、今やったみたいに胸に耳を当ててみると、本当に酷い人は相手の心臓の音が聞こえなかったりする。でもあなたはそこまで重症じゃないから大丈夫」
「そうなの?」
 よく分からない。シャウナが大丈夫だというのなら大丈夫なのだろうけれど。
「私はどうすれば良いの?」
「まずはあなたが怖がっている事を話してみて」
「駄目。そうしたら呪いが感染するかもしれない」
「感染?」
「お爺ちゃんが居なくなったのも、多分私が話したのが原因で」
「話したっていうのは、桜の下の幽霊に会ったっていうのを?」
 妖夢は目を剥いた。
 妖夢が秘密にしようとしていた事をシャウナが既に知っていた。
 何故そんなに詳しく知っているのか。
 誰にも言っていない筈なのに。
 驚きに固まる妖夢を見て、シャウナは息を吐く。
「別に不思議な事じゃない。さっきも言った通り、あなたは小学校の頃、幽霊に会ったって周りに訴え続けていた」
「嘘」
「嘘じゃない。みんな知っている事よ。だからその幽霊について話しても、呪いは感染ったりなんかしない」
「でもお爺ちゃんが居なくなって。私が話したからで」
 混乱する妖夢の肩をシャウナが掴む。
「ねえ、妖夢」
「分からないの。本当に。記憶が変で」
「妖夢、一つ聞かせて、あなたの家に刀が無い?」
「何で?」
「無い?」
「ある。蔵に、色色ある」
「色色? あなたの家に伝わっている刀は?」
「詳しくないから分からないけど。何で? どうしたの?」
 突然の話題に妖夢は戸惑う。その態度に焦れた様子で、シャウナは表情に苛立ちを覗かせた。
「実は私、あなたの家を知っていたの。あなたに会う前から」
「どういう事? さっきから、よく分かんない。何なの?」
「あなたの家、というよりその前の西行寺家ね。そこに伝わる妖刀の伝説を私は知っていた」
「伝説なんて、聞いた事無い」
「私の両親が民俗学を研究していた事は既に言ったわよね。その研究対象は、世界中の伝承。とりわけ妖怪を扱っていた。妖怪って分かる? まあお化けみたいなものね」
 お化けという言葉に妖夢は体を震わせる。幽霊を見てしまった妖夢には他人事ではない。
「そして西行寺家には妖怪が鍛えた妖刀があるとも聞いていた」
「そんなの聞いた事無い」
「ある筈。そして私は、あなたが直面している問題。あなたの御両親が亡くなり、あなたのお爺さんが姿を消し、そしてあなたが幽霊を切り殺したというあらゆる問題は、その妖刀が起こしたんじゃないかと疑ってる」
 その瞬間妖夢の脳裏に記憶がフラッシュバックした。
 あっと声を出し口を半開きにしたまま虚空を見つめて固まった妖夢を、シャウナは訝しむ。
「どうしたの妖夢?」
「刀だ」
「え?」
「刀。お爺ちゃんが消えた時、警察の人に連絡して、蔵が開いてて、あんまり人が入らないのに人が入ったみたいで、泥棒じゃないかって、それで調べたら無くなってた。二振りの剣。そうだ。そういえば」
「無くなってた?」
「きっとお爺ちゃんが持っていったんだと思う。それが、妖刀?」
「妖夢はその刀について何か知らないの?」
「ごめん。私は本当に詳しくなくて」
 妖夢が落ち込んで肩を落とすので、シャウナは妖夢の肩から手を離して屈み込み、妖夢に視線を合わせる様にして、真剣な顔で言った。
「妖夢、これは手掛かりよ。お爺さんを見つける事が出来るかもしれない」
「妖刀を調べれば?」
「そう。これが妖刀の呪いなら、それを調べれば、あなたのお爺さんを見つける事が出来る」
 妖夢は期待のこもった視線を返すと、シャウナが頷いた。妖夢の心の底に希望が湧いて温かくなった。心の何処かで祖父の事は諦めていた。けれどそれを取り戻せるかもしれないと思うと、期待が膨らんでいく。調べる価値はある。いやシャウナが言う事だから、それは確かな事の様に思えた。
「もしもーし、何か真剣な話してるけどさ、そろそろ帰らない?」
 背後から声を掛けられて振り返ると、美貴が退屈そうな顔で立っていた。その後ろには、そわそわと落ち着かなげな芳香と愛梨も居る。
「もう学校終わってるんだけど」
 美貴の言葉に驚いて、妖夢が辺りを見回すと、もう教室には殆ど人が残っていなかった。
「あれ? 授業は? まだ一限目が終わったばっかりだよね?」
 すると、美貴が溜息を吐いた。
「いや、もうお終いだから。何で? 記憶飛んでる?」
「え? 嘘!」
「嘘じゃない。とにかく教師も早く帰れって言ってたし、早く帰ろう。残ってると多分怒られる」
「え? 何で?」
 夜まで残っているならまだしも、外はまだ明るい。早く帰れと怒られる事は無い筈だ。
「部活も全部休みで、早く帰る様に言われてるの。危ないから」
 一瞬意味が分からなかったが、妖夢はその訳に思い当たる。
「もしかして、スカーレット事件?」
 最近妖夢達の住む町の近くでスカーレット事件という猟奇性事件が続発している。全く前兆の見られない若者が、急に気が違った様子で周囲を襲ったり、あるいは集団自殺する。ニュースは連日その不可解な事件を報じ続けている。まだ妖夢達の町では起こっていないが、頻発している状況を考えればいつ何処で事件が起こってもおかしくはない。対岸の火事でありながら、妖夢の町にも暗雲の様な不安が立ち込めている。
「多分ね」
「そっか」
「まあ、うちの町じゃまだ起きてないし、部活休みとかやり過ぎな感じするけどね」
「でも大変な事件みたいだし」
「まあね。それはともかく。忘れたの? 今日は芳香の詩の最終選考の発表日だよ」
「あ、そうだ」
 芳香の顔には緊張が見て取れた。隣の愛梨もだ。
「じゃあ、早く行かないと」
「だからそう言ってんじゃん。ほら行こう」
 妖夢は立ち上がって、美貴達と一緒に教室の外に向かおうとした。
 ふと振り返ると、シャウナが険しい顔をしている。
「どうしたの?」
「いえ。何でも無いわ」
 シャウナは首を横に振り、妖夢と一緒に美貴達を追った。

「今回は落ち着いているのね」
 本屋を前にして、シャウナがそう尋ねると、芳香はシャウナを見上げ、決意に満ちた顔で頷いた。ほんの一瞬前まで、その顔には不安が混じっていた。けれどシャウナの言葉によって、芳香の表情から不安は抜け落ちて、後には自信に裏打ちされた硬い表情だけが残る。
「シャウナちゃんのお陰。励ましてくれたから強くなれたんだと思う」
「あなたは最初から強かった。それに自分自身が気がついていなかっただけ」
「ありがとう。でも」
「それに、励ました事を感謝するのなら、私にだけじゃないでしょう?」
 芳香ははっと気がついた様子で、美貴達に振り返り、頭を下げる。
「美貴も愛梨も妖夢もありがとう」
「お礼は良いよ」
 美貴が笑って手を振った。
「それより勝つんだっていう、決意を聞かせてよ」
 芳香は自分の胸に手を当てると、一つ呼吸をしてから、本屋の入り口に向き直る。
「私、絶対プロになる」
「よーし、じゃあ、行くぞ!」
 芳香は頷いて、先頭に立って本屋へと入った。
 雑誌のコーナへ向かう途中、後ろを歩いていた妖夢は、シャウナにこっそりと尋ねた。
「ねえ、シャウナ」
「何?」
「もう結果分かってるんだよね。芳香は受かってるの?」
 一ヶ月前も、芳香が確認する前に、シャウナは予め結果を確認していた。今回も既に結果は知っているのだろう。
 そう思っての言葉だったが、その期待に反して、シャウナは首を横に振った。
「見てない」
「え? どうして?」
「どうして? そうね。朝の内に用事があって見られなかったというのもあるけど」
「けど?」
「みんなと一緒に喜びたいと思ったからかしら」
 そう言ってシャウナは微笑んだ。
 胸のすく言葉だ。
 妖夢の心が嬉しさで火照る。
 シャウナは芳香の事を信じている。シャウナは自分達の事を信頼してくれている。それが嬉しかった。
「そうだね。うん、それが良いと思う」
「野次馬というのかもしれないけれど」
「そんな事無い。友達と一緒に喜びたいっていうのは当たり前の事だもん」
 妖夢は芳香達の背に向かって、受かっています様にと念を込めた。どうか、お願いだから、受かっています様に。そう願って、願って、雑誌コーナに辿り着くまで、妖夢は願い続けた。
 雑誌コーナには前回よりも人が多く居た。そしてその全てが、やって来た芳香達を見て、落ち着かない様子になった。誰もが朝早くから、新しい歌人の誕生を心待ちにしていた。
 とはいえ、そんな期待は芳香にとっては何の意味も無い事で、あくまで自分の傍に居てくれる四人に勇気をもらいながら、雑誌の前に立つ。
「じゃあ、見るね」
「うん」
「前みたいに、一回戻したりしないで、すぐに見るからね」
「うん。でも良いよ。別にゆっくりでも」
 芳香は雑誌を手に取る。手が震えているのに気がついて、喉の奥から熱い塊が込み上げてきそうになった。それを飲み下す。
 息を飲む芳香を、愛梨達は心配そうに見守っている。その視線を感じて、芳香は勇気を振り絞り、雑誌を開いた。目次を確認し、発表のページを探す。
 ぱらりぱらりとページがめくれる。
 関係の無いページが次次にめくられていく。
 やがて芳香の手が止まり、視線は紙面に釘付けられた。
 そして固まった。
 美貴達が固唾を飲んで見守る中、芳香は雑誌の発表ページを覗きこんだまま、固まり続けた。
「受かってた? 受かってたのか?」
 美貴の問いに答えない。
 芳香は無表情で、じっと紙面を見つめている。
「どう? 受かってたんだよね?」
 愛梨が不安げに尋ねる横で、妖夢は既に気がついていた。
 受賞と書かれた下にある名前は、芳香のものではない。何処の誰とも知れない名前が書かれている。
 落ちた。
 妖夢はその事実を一瞬信じる事が出来無かった。絶対に受かると信じていた。芳香と、受かったらどうしようかと語り合った事だってあるのだ。発表の後には、妖夢の家で受賞祝いのお花見をやろうと約束していた。もし芳香が詩壇に上がっても、ずっと友達でいようと約束しあっていた。この一ヶ月、妖夢達は芳香が受賞する事を疑っていなかった。
 だからしばらくの間信じられなかった。
 自分の事でもないのに妖夢は泣きそうになる。でも本当に泣きたいのは芳香だと分かっているから必死で涙を堪える。その芳香を見ると、さっきから無表情のまま動かない。まるで凍りついた様に、固まっている。
 その肩に、美貴が触れた。途端に芳香は顔を跳ね上げて、まるで迷子の様に辺りに視界を彷徨わせた。
「芳香」
 美貴が名を呼ぶと、芳香は慌てて雑誌を閉じて、元にあった場所へ戻し、足早に歩き出した。
「芳香、待って」
 美貴達の呼び止めを無視して、芳香は出口に向かってしまう。美貴達もそれを追って、外に出ると、芳香は入り口で立ち止まって、背を向けたまま美貴達に向かって言った。
「ごめんね」
 弱弱しい声だ。
「みんなが褒めてくれて、凄いって言ってくれて、受かるって言ってくれて、私、受賞出来るって思っちゃってた」
 芳香の震える声に、美貴達は胸が締め付けられる。
「ごめん、芳香。期待させる様な事言って」
「違うの! 嬉しかった。みんなの言葉は嬉しかった。私が、ただ、受賞するのが難しい事を忘れてただけ」
 美貴達が何と声を掛けようか迷っている内に、芳香は何処かへと向かって歩き出す。美貴達は慌ててそれを追う。
「昔から、私、頭も良くないし、運動も出来無いし、暗くて、美貴ちゃん達の後ろに隠れてばかりで。でも、こんな私でも、みんなが褒めてくれて、初めてみんなの期待に応えられるんじゃないかって勘違いして。でも駄目だった」
 愛梨が芳香の手を掴むと、芳香の足が止まる。でも顔を向けようとはしない。
「この一ヶ月、違う、もっと前、応募した時からずっと、本当は楽しみにしてた。もしかしたら受賞出来るかもしれないって。もしかしたら誰かが私を見てくれるかもしれないって。思って。応募した事、美貴ちゃん達が知って、褒めてくれて。妖夢ちゃんもシャウナちゃんも褒めてくれて。私にも光が、私もみんなの前で、胸を、張って」
 芳香が立ち止まった。まるでこれ以上進めなくなったかの様に。肢が止まる。
 そんな芳香にシャウナが近寄った。芳香が恐る恐るといった様子でシャウナを振り返る。芳香の顔をくしゃくしゃに歪んでいて目に涙はたまっていた。
 そんな芳香に、シャウナは手を差し出した。
「おめでとう。これであなたは一歩進んだの」
 そのまま芳香の手を取って、握手する。驚いて目を見開く芳香に、シャウナは続けた。
「詩はずっと書き続けられる。賞はまた次の機会がある。そして賞を取った後も、あなたは詩を書き続けていくんでしょう? 賞は過程。賞を取る事自体があなたの目的でもゴールでも無かったんじゃない?」
 芳香は震える唇を小さく開いて、囁く様な声を出した。
「分かってるよ。それは、そうだけど」
「私と美貴と愛梨と妖夢があなたの詩を褒めた。純粋に、心から。その言葉に嘘は無い。素晴らしいものだと本気で思ったからあなたの詩を褒めたのよ。あなたの実力は十分にある。それは最終選考まで残った事からも分かるでしょう?」
「分かってる。みんなが選んでくれた事は。でも」
「悔しい?」
「え?」
 シャウナの言葉が予想外だった様で、芳香は口を開けたまま固まった。
「あなたの今の感情は、悔しいって気持ち。違う?」
 芳香は答えない。シャウナの言葉があまりにも意外で混乱している様だった。
「あなたはあまり悔しいって気持ちを抱かない人よね。そんなあなたが、泣きそうになる位悔しかったのよ。あなたにとって詩を書くっていうのはそれだけの行為って事。素敵な事じゃない。きっと詩は、あなたが人生を懸けて付き合っていくものになる筈だわ」
 芳香の体から力が抜けて倒れそうになる。それを愛梨と美貴が慌てて支える。
「期待に応えられなかった? あなたを見ていない? そんな事は無い。人生を懸けた詩に、あなたが真剣に取り組んで一喜一憂する。それは、友達にとって、私にとって、美貴にとって、愛梨にとって、妖夢にとって、とても嬉しい事なのよ」
 シャウナは、愛梨と美貴に抱きとめられた芳香を、抱き締める。
「お疲れ様。凄かったわ。沢山の中からあなたは最終選考まで選ばれた。胸を張って良い事よ」
 シャウナの胸に顔を押し付けて、芳香が嗚咽を漏らしだす。
「泣くのを我慢する必要なんて無い。泣かない人間なんて居ないんだから。今は泣いて悔しさを元気に変えて。元気になったらまた、芳香が作った詩を読ませてね」
 シャウナは泣き声を上げる芳香を抱きしめる。そして顔をあげると、唖然として見ていた美貴達と目が合った。
「何?」
「いや、何か、凄いというか、よく分かんないけど」
 それを聞いてシャウナが苦笑する。
「芳香に自分を重ね過ぎちゃった。私も、芳香と同じ様に、人生を懸けて取り組んでいる事があるから?」
 すると急に芳香がシャウナの手から逃れ、かと思うと、袖でごしごしと顔を擦り、涙を拭った。
「何? シャウナは何を頑張ってるの?」
 喉の枯れた濁声で、瞳にはまた涙が浮き始めていたが、顔には笑顔が浮かんでいる。さっきまでの悲しみで歪んでいた面影は無い。無理をした笑顔ではあるが、元気になろうという意思が感じられる。
「私の両親がしようとしていた事を私が引き継ごうと思って」
「民俗学者だったよね?」
 妖夢が問うと、シャウナは頷いた。
「その研究を引き継ぐって事?」
 芳香の問いに、シャウナは答える。
「難しい事だとは分かっているけどね」
 幾分沈んだ声のシャウナを、芳香が必死に元気づけようとする。
「でもでも、難しい事でもシャウナが頑張るなら応援するし、嬉しいし。多分シャウナならきっと、どんなに難しくても、きっと出来るよ」
 妖夢も「私も応援するよ」と声を掛ける。
 シャウナは振り返り、ありがとうと微笑んだ。
 美貴が沁沁といった様子で、腕を組み頷いてみせる。
「二人共、人生を懸けた大切な事に取り組んでるんだねぇ」
 そして笑顔になると、拳を突き上げて、宣言した。
「じゃあ、今日は芳香とシャウナの今後を祝して、お花見だ!」
 突然の言葉だったが、初めからこの後お花見をする予定はあったので、愛梨と妖夢がすぐに「おー」と応じる。
「じゃあ、一回帰ってからー、六時に妖夢の家に集合! 今日は夜中まで飲むからね!」
「お、お酒は飲まないよね?」
 芳香が慌てて聞いた。
「お酒は駄目だよ」
 妖夢も慌てて釘を刺す。
「けち」
「駄目なものは駄目」
「はいはい。とにかく妖夢の家に集合ね。ほら急げ!」
 美貴が芳香の背を押してから駈け出した。芳香が態勢を崩しつつ、それを追う。愛梨は振り返って、妖夢とシャウナに手を振った。
「じゃあ、また後で」
 妖夢とシャウナは手を振り返し、反対の方角へ歩き出す。
「妖夢の家の桜は見事だって聞いたけど」
「うん。一応家の自慢かな?」
「良い花があるのなら、良い食事もないとね」
 妖夢は美貴の浮かれた調子を思い出す。あの様子だと、羽目を外しそうだ。食事も多目に要るだろう。家の材料だけじゃ心許ない。
「妖夢は買い出しに行くんでしょう? 私も付き合うわ」
「え? でも」
「実は私、結構料理得意なのよね。偶にはみんなに振る舞おうかと」
「そうなの? 楽しみ!」
「だから、ちょっと食材を選ばせて欲しくて」
「そういう事なら!」
「勿論お酒は抜きでね」
 そう言ってシャウナが笑みを見せたので、妖夢も笑った。
「シャウナの国の料理ってどんなの?」
「どんなのと言うと」
「私も料理はそれなりに出来て。シャウナの国の料理とか教えて欲しいなって」
「なら私も妖夢に日本料理を教わる事にしようかしら。お花見の場合はどういう料理を作るものなの?」
 二人は料理談義に花を咲かせつつ、買い出しに向かった。
 そして盛り上がり過ぎたまま買い出しに突入した結果、次から次へと料理の案が浮かび、それに合わせて食材の量は膨大となった。会計を済ませた後にようやく、五人ではどう考えても食べきれない事に気が付いた。それでも、何とかなると楽観的に考え、最初に出す用の食材を手に持ち、残りは即日の配達をお願いして、家に帰る事にした。
 外は日が暮れていた。
「やっぱりちょっと買いすぎちゃったかな」
「冷静になってみると、そうね。張り切りすぎたというか」
 店を出て数分で後悔し始めた二人だが、もう後には退けない。どうしようか悩みつつ、食材を持って家に帰る途中、交番に差し掛かった。妖夢が覗き込むと、中には老いた警官が外を眺めていた。妖夢が昔から知っている警官だ。よく家に来て妖夢の祖父と話していた人物で、妖夢の祖父が失踪した時は親身になってくれた。
「こんにちは!」
 妖夢が挨拶すると、警官が手を挙げて立ち上がる。
「おお、妖夢ちゃん。学校の帰り?」
「はい! 買い物して、これから友達と家でお花見を!」
 そう言って、妖夢が手に持った袋を掲げる。
「ああ、妖夢ちゃん家の桜は綺麗だから」
 警官の声音はいかにも羨ましそうだ。職務中なのに花見の話なんかして悪かったかなと、妖夢は申し訳なくなった。
「不動さんも来ます?」
「若者の邪魔をする気はないから、遠慮しておくよ。友達と花見をするんだろう? 仲良くおやんなさい」
 警官の言葉はいつもの通り優しい。その優しさが益益妖夢の申し訳無さを助長する。妖夢は気まずい思いのまま、頭を下げてその場を離れる事にした。
 交番を離れて、少し歩くと、シャウナが尋ねてきた。
「さっきのは?」
「さっきの? 不動さんて言って、お巡りさん。優しい良い人だよ」
「普通の人?」
「どういう事? 普通の警察だけど?」
「そう。いえ、優秀そうな目付きだったから」
「えー。そうかな? 優しそうだとは思うけど」
 と言いつつ、祖父が不動の事を信用出来ると言っていた事を思い出す。まあ優しそうで悪い事はしそうにない。助けを求めればきっと親身に応えてくれるだろう。そういう安心感を与えるというのは、警官としては優秀なのかもしれない。
 そのまま妖夢の家の前に辿り着いた時になって、妖夢はシャウナの家に寄らなかった事を思い出した。
「あ、ごめん。シャウナの家、過ぎちゃったよね」
「帰らなくちゃ駄目かしら? 初めから家に帰らず妖夢の家に来るつもりだったけど」
「ああ、なら」
 二人が門をくぐると、庭から笑い声が聞こえてきた。妖夢が「まさか」と呟きながら、庭に向かうと、既に美貴達三人が桜の前に座り込んでいて、しかも美貴は出来上がっていた。
「ちょっと! 何してんの!」
「あ、ごめん、妖夢。美貴が先に入ってようって」
「先に入ったのは良いけど、美貴お酒飲んでない? 駄目って言ったじゃん!」
「うん、でも持ち込まなければいいだろって、飲んでからこっちに来て」
「言い訳にもなってないよ!」
「べらんめぇ! 酒を飲まずに花見が出来るか!」
「それに何も敷かずに地面に座ってちゃ汚いよ。普通は部屋の中から」
「べらんめぇ! 花見なのに屋内で出来るか!」
「べらんめぇじゃないよ! 日本語喋って!」
 そんな訳で美貴が最初ぶっ飛ばしていたが、それを何とか部屋まで引きずり込んだ後は、美貴も落ち着いて、妖夢とシャウナの料理上手二人が趣向を凝らした料理に舌鼓を打ちながら歓談する和やかで楽しい花見となった。それはある意味で妖夢にとって初めての花見だ。毎年、祖父と桜を見ながら食事をしたり、近所の人達と花見をしたりはしていたが、友達とだけで花見をするというのは、妖夢にとって初めての経験だった。だからその日のお花見を、妖夢は今までの人生の中で一番楽しいと感じたし、一生忘れる事は無いだろうと思った。事実、その日のお花見は妖夢の記憶にずっと残る事となる。
 特に心に残ったのは、所信表明をしろと美貴に言われて、芳香が語った言葉。
「確かに私にとって詩は人生を懸けて取り組む事かもしれない。シャウナちゃんに言われてそうかもしれないって思った。でも、それから考えたんだけど、私にとっての一番は詩じゃない。私にとって大事なのは、やっぱり友達。美貴ちゃんと愛梨ちゃんとシャウナちゃんと妖夢ちゃん。私にとっての友達が一番大事。だからつまり、幻滅されるかもしれないんだけど、つまり、人生を懸けるのは友達というか、上手く言えないけど、そういう事」
 美貴が盛大に茶茶を入れて、混ぜっ返されてしまった言葉だけれど、妖夢はその言葉にとても共感した。まだ自分にはそんな人生を懸ける程の思いは無い。でもきっと、そういうものが出来たとしても、それは友達という存在には及ばないだろう。人生を懸けて付き合っていくものは、芳香と同じ様に、きっと友達なんだろう。
 宴は続き、いよいよ酣という頃に、妖夢は断腸の思いで、宴の終わりを宣言した。また明日も学校があるから早めに終えようという訳だ。美貴は当然の様に抗議した。まだまだ楽しみ足りないという話で、妖夢も同じ様に名残惜しい気持ちだったが、また明日もやるからと何とか説得した。明日が終われば明後日は休日。明日の夜なら夜更かし出来る。気兼ねなく楽しむのなら明日の方が良い。それはシャウナの入れ知恵で、どう考えても余る食材を消費し尽くす為、二日に分けようというのが初めからの作戦だった。
 美貴は見事その作戦に乗ってくれて、じゃあ明日は明後日の朝までやろうと、その場はお開きになった。いや朝まではと尻込みする他の四人を尻目に、美貴は僅かに残った食事を平らげて、明日も楽しみだと笑う。
「そうそう。楽しみと言えば、レミリアのショー、もう少しだから。ちゃんとチケット届いたよ」
 美貴が「楽しみでしょ?」と言ってシャウナを見る。シャウナは目を鋭くして頷いた。
「きっと生で見たら写真よりももっと綺麗なんだろうね」
 芳香が夢見る様に言った。楽しみなのは、愛梨も妖夢もそうだ。
 今日はお花見、明日もお花見、少ししたらファッションショーがあって、更には春休みも間近とあって、本当に楽しみばかりが待ち構えている。
 そんな風に、未来へ思いを馳せつつ、宴はお開きとなった。
 しっかりと全員で片付けをして、妖夢を除いた四人は門を出る。
「シャウナだけ反対側だよな。もう夜で危ないし一緒に行こうか?」
「大丈夫よ。人通りの多いところだから」
「でもさぁ」
「大丈夫。また明日会いましょう」
 そう言って、シャウナはさっさと行ってしまった。三人は仕方無く、自分達の住む施設へ向かう。道中の話題には事欠かない。芳香の落選が残念であった事や、励ましてくれたシャウナの優しさ、妖夢の家の桜は噂通り綺麗だったし、シャウナと妖夢の料理は絶品だった。今日の宴は楽しかったし、明日の宴も、これから先の事も楽しみだ。
 そうやって笑っていた三人が十字路に差し掛かった時、不意に曲道からピエロが現れた。その異様にぎょっとしている三人に、ピエロは笑顔を向けると、ごそごそとポケットから何かを取り出し、手渡してきた。

 目を覚ました妖夢は確かに予感を覚えた。ぼうっとした思考が、じわりと嫌な予感で満ちていく。時刻を確認すると、宴を終えてからしばらく時間が経っている。思い返してみると、宴を終えて、寝る準備をして、そして布団に入った。つまり寝ていた訳だ。いつもの夢も見た様で、手には誰かを切った感触が残っている。
 いつもであれば、見た筈の悪夢について思い悩む所だが、今日は違った。頭の中が嫌な予感で満ちていた。その予感が何を意味しているのかは分からない。ただそれは例えるなら、入ってはならないと禁じられた扉を前にしている様な感覚で、自分が今ここに存在する事が不吉な事に思えた。
 何となく夢の中に居る様な心地だ。
 現実感が無い。
 またいつもの夢の様な気がする。
 少女を切り殺す夢。
 それを見ている様な気がする。
 何だか落ち着かない。
 布団の中でじっとしている事も気味悪くて、妖夢は起き上がり部屋の外へ出る。いつも悪夢を見た時そうしている様に、水を飲む為に台所へ向かう。
 その途中、庭に面した廊下を歩いている時に外を見ると、月の下に満開の桜が見えた。その瞬間、妖夢の中の不吉な予感が一層濃くなった。
 何だろう。
 庭に誰か居るのかと見渡してみたが、おかしな影は見えない。
 何も無い筈だ。
 だが予感は、更に強くなる。無視を決め込んで、台所へ向かいたかったが、恐怖が庭を確かめろと訴えてくる。
 妖夢は震える息を吐きながら履物を替えて外に出た。桜の下まで歩き、影に何か居やしないかと探して回る。だが誰も居ない。居る訳が無い。
 これは夢なんだ。
 そう思った。
 根拠は無い。
 だが夢に違いないと思う。
 夢だ夢だと思考が誘導している。
 その誘導は明らかに何かを忌避している。
 それが分かりつつも、妖夢はその考えに縋る。
 これは夢だと。
 妖夢は桜林を出て、また家の中へ戻ろうとした。
 そしてふと気がついた。
 妖夢は違和感を覚えて足元を見る。
 夢だ。
 これは夢だ。
 地面が沢山の足跡で踏み荒らされていた。
 どういう事だろうと嫌な予感が強くなる。
 夢。
 これは夢。
 嫌な予感が、急かす様に、妖夢の視線を裏庭へ続く方角へと向ける。嫌な予感が気付け気付けと訴えてくる。沢山の足跡もその方角へ向かっている。裏庭の方角から風が吹いてきた。その風が臭いを運んできた。一ヶ月前に路地裏で嗅いだ臭いと同じ血の臭い。しかもその時より強く濃い臭いが裏庭から運ばれてきた。
 嫌な予感はもう殆ど確信になっている。沢山の足跡、強い血の臭い、何があれ、当たり前に考えれば、警察に連絡して、その場から逃げた方が懸命だ。そう理性では分かっている。頭にもその常識的な方策が思い浮かぶ。
 けれど、二ヶ月前と同じ、体は誘われる様に裏庭へ向かう。止める術は無く、妖夢は抗い難い流れに従って、石畳を踏みしめ、裏庭へ向かう。
 夢。
 夢に違いない。
 裏庭へ行くと、月の光の下に咲かない大桜が咲いていた。だが妖夢は、生まれてから一度として咲いた記憶の無い桜が咲いている事を、何ら不思議に思わない。いや、思う余裕が無い。
 満開の桜の下に人が積み重なっているのが見えた。
 夢。
 夢だって言ってるのに。
 血の強烈な臭いに吐き気がこみ上げる。
 妖夢はよろめきながら桜の下に駆け寄った。
 辺りは一面赤く塗れていた。何もかもが赤く染まっている。
 けれど人の判別はつく。
 夢。
 瞬き一つしない眼で、空を見上げている芳香が居た。死体を乗り越えて妖夢が駆け寄っても、芳香は身動ぎ一つしない。死体に伸し掛かられて倒れている美貴を見つけて近寄るが、美貴は強張った表情のまま、妖夢を見ようともしない。辺りを見回し、愛梨を見つけた。その全身は血に塗れている。特に喉の辺りがどろどろと夥しい。
 妖夢が近付くと愛梨は微かに瞬きした。
 妖夢は必死に呼びかける。
 目を覚ましてくれと懇願する。
 すると愛梨は目を開き、そして口を動かした。
 何か言おうとしている。けれど声が出て来ない。喉の辺りの血が泡立つばかり。
 それでも口の動きから、何となく愛梨の言っている事が分かった。
「何で」
 それだけだった。
 ただそれだけ言おうとして、愛梨は動かなくなった。
 妖夢は愛梨から手を離し、やっぱりこれは夢なんだと思う。
 いつもの通り、桜の下で人を切り殺す夢。いつもの通り、切られて赤く染まった死体を見下ろす夢。
 そうでなければこんなにも現実感が無い事に説明がつかない。
 咲かない桜の下に沢山の赤い死体が倒れている。
 辺りには自分の金切り声が響き渡ってる。
 そんな中に友達が倒れているのだ。
 さっきまで一緒に笑って話していた友達が死んでいるのだ。
 夢でなければ何だというのだろう。
 そうでなければこんなにも現実感が無い事に説明がつかない。



続き
~其は赤にして赤編 6(探偵1)
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.250簡易評価
4.100名前が無い程度の能力削除
相変わらずの独特な雰囲気で感服致しました
8.90名前が無い程度の能力削除
読者にはこの結末は初めから明かされていたわけですが、丁寧な筆致でそれまでの過程を描かれると悲しさ倍増ですね……。
妖夢の友人一人ひとりとの対話に感情移入した後にこの結末は本当に悲しい。
作者さんの構成力に脱帽です。