Coolier - 新生・東方創想話

Coppélia

2015/07/08 04:22:03
最終更新
サイズ
40.03KB
ページ数
1
閲覧数
2382
評価数
5/9
POINT
440
Rate
9.30

分類タグ

 目覚まし時計のベルがけたたましく鳴り響き、私はほとんど無意識のうちにそれのスイッチを半ば叩くようにして押した。
 それから、布団にくるまったまま上半身だけをなんとか起き上がらせる。まだ頭が上手く回らず、まぶたもやや重い。
 もう秋も終わりを迎え、冬と呼んでもいい季節となった京都の朝は凍えるように寒く、壁が薄いボロアパートの室内では手足の指先もかじかんですらいた。
 そんな中、人肌に温まった心地の良い布団をこっちから払いのけるのに、どれほどの気力が必要であるかは言うまでもなかろう。
 だが、そこはくじけそうな心に鞭打ってでも布団をはねのけ、両手で体を抱くようにしてこすりながら立ち上がらなければならないのが、学生生活に身を置くもののさがである。
 洗面所のタイル張りの床は、ともすれば足の裏の皮膚がくっついてしまうのではないかと錯覚するほど冷たく、むしろ痛みすら感じた。
 そして蛇口から出てくるキンキンに冷えた水道水で顔を洗うのだ。ほとんど拷問に近い。
 しかし、蛇口から温水が出てくることを求めるのは、この築ウン十年、いつ倒壊するともわからないボロアパートには少々荷が重いだろう。
 なにせ部屋は四畳半、板張りの天井にヒビが入った砂壁、ぶら下がっているのは今では珍しい白熱電球である。
 風呂なしのトイレ付きで、いつも何かしらの虫が部屋に忍び込んでいる。
 夏場は特に、本棚やテレビの裏を覗けば大抵四角くて黒いものがもぞもぞと蠢いていたりするのだが、一度対処を誤りそれが部屋中四方八方へと拡散、張り付き、這入り、飛翔してからはすっかり慣れてしまったものである。
 今ではそんなヘマもすることなく、四角いそれを四角いままそっとビニール袋で包んで月・木曜日の燃えるゴミの日にゴミ捨て場へと持っていくことも可能である。
 さて、富士山の天然水もかくやという冷たさの水道水で顔を洗い、あまりの冷たさにひいひいと言いながら四畳半の我が根城へ戻ると、目覚ましの音で目が覚めてしまったのか、艶のいい金色の少しウェーブがかった髪をした仏蘭西人形がごとき少女が、布団から顔だけをひょっこり出していた。
 少女は私の姿を確認すると、私が見当たらなかったのが不安であったのか、愛くるしい笑顔をこちらに向けてきた。
「あ、おはようメリー。起こしちゃった?」
「ううん、大丈夫よ。いくら病気とはいっても、早寝早起きはしないとね」
「まだ体の調子、良くない?」
「うん。食欲もあまり……ごめんね?」
 大丈夫だよ、と私は彼女の髪を梳くように撫でた。
 ああ、なんて可愛らしいのだろう。
 例えばよちよちと歩き回る子犬がいかに可愛かろうと、彼女の愛らしさの前にはそれも霞んでしまうだろう。
 少女の可愛らしさと、それとは相反するような美しさとがそれぞれ両立していて、それでもって彼女の精神は病気のためか弱りがちなのが、庇護欲というものを刺激した。
 触れれば今にも壊れてしまいそうな彼女を守ってあげなければならないと、そう思わせた。
 私は思わず彼女の前髪をかきあげ、その額にキスをした。
 少女はその白い肌を真っ赤に染め上げ、布団でさらに顔を隠してしまう。
 ごめんごめん、と頭を撫でてやると、嬉しそうな表情をした少女が再び顔を覗かせた。
 毎朝こんなことをしている。はたから見たらバカップルかなにかだと思われるだろうか。
 それとも仲の良い友達だなと思われるだろうか。
 なんにしても、自分でもバカップルだと思っているし、そして仲の良い友達であるとも思っている。
 そう、私はこの愛くるしい少女、マエリベリー・ハーンと付き合っている。


 メリーと初めて出会ったのは、京都の国立大学に入学してすぐの頃であった。
 時計台前の広場では様々なサークルや同好会がそれぞれビラやチラシや看板を手に、これからの新生活に思いを馳せる初々しき新入生どもを付け狙う、飢えた狼もかくやと思わんばかりの勧誘活動を行う中、その喧騒をピタッと止めてしまったのが誰でもないマエリベリー・ハーンその人であった。
 メリーが広場に現れると、その場にいた全身の視線が彼女に集中した。
 誰も彼女に声をかけようとはしない。そんな勇気の持ち主はこの場にはいなかったのだ。
 フランスでは会話が途切れてしんと静まりかえる瞬間を天使が通ると表現するらしいが、まさに彼女がその天使に他ならなかった。
 メリーが進むであろう先の人混みは自然と開いていき、モーゼがごとき奇跡を起こしてみせる彼女もまた、奇跡のような美しさだったのである。
 その光景はすぐさまこの大学の伝説となり、メリーの噂は瞬く間に大学全体を縦横無尽に駆け回ることとなった。
 曰く、相対性精神学専攻のとても美しい外国人がやばい、相精学に天使のような少女が現れたと、特になにかと出会いを求めたがる浮かれた男どもを中心に広がっていった。
 おまけに、彼女は時折、突然何もない場所を、例えば廊下の隅の何も掲示されていない掲示板や、鴨川等間隔の法則で算出された距離毎に設置されたベンチに囲まれた中庭の噴水がある池や、誰も座っていない食堂の席などを、まるでそこに何かがあるかのように、そしてそれを興味深げに観察するかのように、眺める時があるのだ。
 それがまたただでさえ美しく可愛らしい彼女のミステリアスな一面を演出し、その人気は校内でとどまるところを知らないままぐんぐんと成長していくこととなった。
 しかし私はというと相対性精神学とは全くもって無縁の専攻分野、メリーと廊下ですれ違ったり、彼女がカフェテラスで友人とお茶をしているのを見かけたりはしたものの、話をする機会などは一向に訪れる気配を見せず、一度話してみたい、あわよくば友達になれたらなという思いを抱えたまま半年ほどを自然と彼女を目で追うだけに費やしていた。
 こうやって親密な間柄になり始めたのはつい最近、秋の中頃のことであった。
 このころにもなると京都はすでに寒空の下に包まれることとなり、夏の茹だるような暑さとの落差に体調も壊すというものなのだが、実際そうなってしまったのか、大学から帰る途中、徒歩数分圏内のボロアパート前につながる細道のゴミ捨て場付近で、彼女は倒れていたのである。
「えっ、ちょ……」
 慌てて駆け寄り抱き起こしてやると、メリーは意識を失っているのか目を閉じすうすうと静かに呼吸をしていた。
 その度に胸が小さく上下し、桃色の柔らかそうな唇の隙間から小さな呼吸音が聞こえてきたのを今でも覚えている。
 その時初めて私は彼女に触れ、彼女の顔を間近で見ることとなったのだが、第一印象はまつげ長っ! であった。
 もっと他に注目するべき点もあるのだろうが、なにぶん気が動転していた私はどういう訳か真っ先に彼女のまつげへと視線がいってしまったのである。
「あ、あの、大丈夫……?」
 返事はない。そりゃあ意識を失っているのだから当然であると、あの頃の私にはツッコミを入れてやりたい。
 それから私は彼女の額に手を触れた。驚くほど熱を帯びている、という訳でもなく、むしろ驚くほど冷たかった。
 一瞬死体だろうかと疑ってしまうほどである。
 昼間といえどもやはり冷えるし、もしかしてずっとここで倒れていたのだろうか。
 この小道は人通りの多い道から奥に入った先にあり、滅多に人が来ない場所なのでその可能性も十分にあり得た。
 私はそれ以上考えるのをやめて、彼女を背中におぶさって我が根城へと向かうことにした。
 とりあえず、家で休ませよう。背中で力なくうなだれる少女は、しかしそれでも驚くほど軽かった。
 ボロアパートの前で、隣の部屋の住人である男と出くわした。
 彼が何をしている人間なのかは知らないし、これっぽっちも興味はないのだが、彼はそうでもないらしく、何かと私と話をしたがるので少々煙たい存在であった。
 やあ、と片手を上げて挨拶をする男。
 と、私が背負っている少女の存在に気づいたらしく、男は私の背中を覗き込んで、
「なにそれ、可愛いね」
 なにそれ、可愛いね!? な、何を言っているんだこの男は!
 こいつは女を物か何かとしか見ていないのか!?
 女はお前の性欲処理にためだけに存在しているんじゃあないんだぞ!
 と叫びたくなるほど沸騰した怒りが喉元まで出かかっていたのをなんとかこらえ、私は平然を装って軽く会釈する程度に頭を下げた。
 それから男が何やら話し始めたのを、急いでいるんでと制して私は自分の部屋に入り、鍵をかけた。
 メリーを一旦床の上に寝かせて、私は押入れの中から布団を取り出した。
 今まで一度も使っていない、二枚目の布団である。
 万が一の来客用に持っておけと親に言われて押入れの中の邪魔者同然の扱いを受けていたのだが、まさかこんな風に役立つ時が来ようとは夢にも思っていなかった。
 少々カビ臭いが許容範囲内である。
 今度干しておこうとか思いながら、私が使って出しっ放しにしてあった布団の隣にそれを敷いただけで、四畳半の部屋が埋まってしまった。
 布団に彼女を寝かせると、私はなんとなしにメリーの顔を覗き込んだ。
 彼女は美しくもどこか無機物的で、例えるならロザリア・ロンバルドのような美しい死体のようであった。
 金色の細い髪や、白い肌、整った顔立ちが人形を思わせるのだ。
 ゴシック調のドレスを着せて等身大の仏蘭西人形だと言い張っても騙されてしまいそうなほどである。
 今の彼女をそのままの形で手元に飾っておけるなら、どれほど素敵であろうか。
 花であればドライフラワーにするように、動物であれば剥製にするように。
 もはや骨董品並みに古びた石油ストーブをつけて、その上に水が入ったやかんを乗せる。
 部屋は温まるし、沸騰したやかんから出る蒸気は乾燥した部屋に適度な湿気をもたらしてくれる。
 やがてやかんが沸騰し、蒸気が吹き出してやかんの口についた笛がピィーッと鳴ると、音で目が覚めたのかメリーはぱっちりと目を開いた。
 ガラス玉のような澄んだ瞳が、私を捉える。
「あ、目が覚めた?」
 私はやかんの笛を取り外してから少女の顔を覗き込んだ。
 メリーは困惑した様子できょろきょろと辺りを見回す。
 自分の置かれている状況を理解できていないらしい。
 至極もっともであると、私はここに至るまでの経緯を語ることにした。
「あなた、すぐそこの道に倒れてたのよ。大丈夫? 何かあったの?」
 説明してやるも、メリーは首をかしげるばかりであった。
 どうやら彼女はそのことすら覚えていないらしい。
「……わからない。私、どこか暗くて狭いところにいて……それで……」
「気がついたらここにいた?」
 頷く少女。どうやら倒れる前後の記憶がないらしかった。
 何か事件に巻き込まれたんじゃないかと心配したが、少女は大丈夫です、と健気な笑みを浮かべた。
「変な事もされてないみたいですし……」
「変な事って?」
 尋ねると、少女はその白い肌をみるみる赤く染めていった。
 あの、とかその、と消え入りそうな声で呟き、その反応でやっと彼女の言いたいことを理解した私は、彼女と一緒になって赤面することとなった。
 コホン、と彼女は咳払いを一つした。
「それに、元々体もあまり丈夫じゃなかったから、もしかしたら最近の気候の変化に体がついていけなかったのかも」
 それから少女は思い出したように、
「あっ、そうだ。あの、ありがとうございます、介抱までしてもらって。あ、私は……」
「マエリベリー・ハーンさんでしょう? 知ってるわよ。うちの学校じゃ有名人だもの、相精学の美しすぎる一年生って」
 笑いながら言うと、彼女は恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「そ、そんなんじゃないですよぅ……」
 最後に方には消え入りそうなほどか細い声で、異を唱えるメリー。
 思わず私は、そんな彼女の髪を梳くようにして撫でていた。
 思えばこの頃から私の撫でぐせが現れ始めている気がする。
 一瞬驚きの表情を見せた彼女だが、やがて心地良さそうに目をつむり、されるがままとなった。
 まるで猫か何かみたいだと思いながら、私はその手を耳へと滑らせる。
 耳たぶを優しく愛撫するように触れると、彼女はこそばゆそうに身を捩らせた。
 顔は上気し、息遣いが次第に荒くなり、彼女の喉奥からは漏れ出るようにか細い嬌声が吐息と混じり合っていた。
 それに驚いて手を離すと、
「あっ……」
彼女は名残惜しそうにこちらに目を向けた。
 今にして思えばあの時の私はどうかしていた。
 私は決して同性愛者ではないし、彼女と友達にこそなりたいとは思えど、こういったことをしたいなどとは今まで微塵も思っていなかったのだ。
 私は布団をめくると、そのままメリーに覆い被さり、彼女の唇を塞いだ。
 彼女の唇を押し広げ、口腔に私の舌が侵入すると、メリーはそれを拒むことなく喉奥から嬌声を漏らした。
 互いの舌が絡み合い、唾液が混じり合い、蕩けていく。
 二人の境界が曖昧になっていく。
 身体の芯にえも言われぬ快感が、電流のように走った。
 私は呼吸をするのも忘れてメリーを求めた。
 このまま彼女の全身にむしゃぶりつきたい衝動に駆られた。
 互いの歯がカチッと音を立ててぶつかり合い、そこではっとして私はメリーから顔を離した。
 まるで激しい運動をした後のように、心臓は激しく鼓動し、息は大きく乱れていた。
 どうしてこんな事をしたのか、自分でもよくわからなかった。ただ、殆ど衝動的に動いていた。
 見ると、メリーは顔を真っ赤に紅潮させ、濡れた瞳を細めながら私を見ていた。
 整ったピンク色の唇はてらてらと滑り輝き、半開きになった口からはどちらのものともつかない唾液が口角から垂れていた。
 官能的な表情だった。乱れた髪や、肌蹴た胸元が、再び私の身体をつき動かそうとしていた。
 私は彼女の胸元のボタンを外していき、ブラのホックを外した。
 はだけた服から白くふくよかなそれが露わになり、ぽつんと桃色の突起物が硬くなっていた。
 それにそっと手を触れると、指先が沈み込みそうなほど柔らかかった。
 壊れものに触れるように優しく揉みしだく。
「んっ……く……」
じれったい快感に身悶えるメリー。
 硬くなった突起を甘噛みし、舌先で転がすように弄ぶと、メリーは小さく悲鳴にも似た嬌声を上げた。
 そして、自分の口から出た声を恥じるように、両手で口を押さえて必死に声を抑えようとする様がとても可愛かった。
 そこで私はメリーに触れるのをやめ、彼女の胸元から顔を離した。
 すると、メリーは今にも泣き出しそうな表情で訴えるようにこちらを見つめてきた。
「あ……お願い、やめないで……」
 ぞくぞくとした快感が背筋を脳天まで駆け上がっていった。
 ああ、今すぐにでも彼女を滅茶苦茶にしてしまいたい。
 彼女の肢体にむしゃぶりつき、ニューロン細胞が磨耗するほど快楽という快楽を味わわせたい。
 私は彼女の上に覆い被さり、再びその唇をさっきよりも激しく、荒々しく、塞いだ。
「………………?」
 気が付くと朝だった。私もメリーも裸で、すっかり体力を使い切りぐったりとしていた。
 初めて経験する快楽の数々に、未だに身体の芯がゾクゾクと震えていた。
「ごめん、私……流石にもう、無理かも……」
「いやまあ、私も限界だから……」
 体を動かす体力すらなかった。私たちは裸のまま抱き合い、布団に潜り込んだ。
 密着してお互いの体温を感じ合う。不思議と、寒くはなかった。
 そして、ふっと意識が途切れた。
 目が覚めてからが悲惨だった。
 お互いにお互いのことをまったく知らないと言っても過言ではないというのに、なんだってコトに及んでしまったのかと二人して苦悶の表情を浮かべながら呻く羽目になった。
 なにせついさっきまでお互い話したこともない相手の、お互い誰にも見せたり聞かせたりしたことのない表情や、場所や、声を知ってしまったのである。
「あー……うー……」
 メリーは顔を布団に埋めながら足をバタバタとさせた。
 よほど恥ずかしいのか耳は真っ赤に染まっている。
 私はそんな彼女の隣に寄り添うように寝そべり、よしよしと頭を撫でた。
 メリーは少し潤んだ目をこちらに向けると、
「うああぁぁー」
一層顔を赤くして足をばたつかせた。どうやら逆効果だったらしい。
 今の彼女はすっかり幼い少女のそれであった。
 果たして普段の彼女に天使を見る人たちのどれくらいが、こんな姿のメリーを想像できるだろうか。
 私だけが彼女のこんな姿を知っているのだ。
 私だけが彼女のあられもない姿や、快楽に喘ぎ身悶える姿や、声や、仕草を知っているのだ。
 そう考えると、なにか心の中を満たしていくものがあった。
 一通り騒いで気が済んだのか、それからぴたりと動きを止めると、メリーはこちらを伺うように見た。
 まだほんのり顔が赤い。
「責任……とって、ちゃんと付き合ってもらうわよ?」
「……それは、どういう意味でせうか」
 メリーは上体を起こすと、覆いかぶさるように私の唇を奪った。
 突然のことに抵抗する暇すらなく、されるがままになる。
 メリーの舌が私の口内へと這入り、蠢く。
 脳味噌を直接掻き回されているかのような、むずがゆい快感が走る。
 ぷはぁ、とメリーが顔を離すと、互いの間を糸が伝った。
「こういう意味よ」
「なるほど」
 ぐるりと体を回転させ、今度は私がメリーに覆いかぶさる体勢になった。
 そのまま、今メリーにされたこととまったく同じことを彼女にし返す。
 ああ、ダメだ。
 頭が回らない。歯止めがきかないのだ。わたしはすっかりこの快楽の虜となっていた。
 体力の続く限り、精神力の続く限り、彼女とこうしていたいという衝動が溢れ出てきて止まらない。
 耳にメリーの艶かしい喘ぎ声がこびりついて離れない。
 彼女の首に顔を埋めていると、耳元で彼女の吐息が、嬌声が、そしてそれを必死にこらえようとして喉を鳴らす音が、頭の中でぐわんぐわんと回り出す。
 ああ、ダメだ。
 快楽に意識が遠のく。
 ああ、ダメだ。
 体の芯から押し寄せる快楽の波に、全身が震え、痙攣する。
 ああ、ダメだ。
 声が抑えきれない。
 ああ、ああ、ああ……。
 その時、部屋の中をチャイムが鳴り響き、はっとして私はメリーに埋めていた顔を上げた。
 玄関のチャイムだ。
 私はメリーに待つように言って慌てて脱ぎ散らかしたままの服を着た。
 その間にもチャイムが再び鳴り、はーい! と答えながら私は玄関のドアスコープから外の様子を覗き見た。
 そこには隣の部屋のあの男が立っていた。
 小さく口の中で舌打ちし、私はチェーンがついたままの扉を開けた。
 男が外から扉に手をかける。
 無理やり扉を全開にしようとし、ピンと張ったチェーンを見て、男は怪訝な表情をした。
「あの、なにか?」
「いや、なんか変な声がしたから、大丈夫かなって」
「あ、大丈夫です」
「本当に? 何かあったら俺に言いなよ?」
「いえ、ほんと、大丈夫ですので」
 気持ち悪い。聞き耳を立てられていたのだろうか。
 私は早々に会話を切り上げ扉を閉めた。
 それから再びドアスコープから外の様子を見やると、すぐ目の前、まるでこちら側をドアスコープから覗き込むかのように、男が立っていた。
 思わず叫びかけ、私は口を押さえた。
 しばらくしてから、隣の部屋の扉が閉まる音が聞こえ、そこでやっと私は安堵のため息をついた。
「大丈夫?」
 奥からメリーの声がした。
 部屋に戻ると、メリーはたくし上げた布団を抱きしめ、不安そうな表情でこちらを伺っていた。
 大丈夫だよ、と私は彼女にキスをした。
 その日はなんとなくその気になれず、結局お互いの体を求め合うことはなかった。


 ついさっきまで倒れていた少女に無理を要しすぎたせいか、メリーは立ち上がるのもやっとという状態がしばらく続くこととなった。
 その間、私は大学を休んで彼女の看病をした。
 彼女の体調は芳しくなく、食事もほとんど喉を通っていなかった。
 それでも、やつれることなく、美しい姿を保っているのは奇跡としか言いようがなかった。
 だが、それでもやはり元気がないのは心配だった。
「ねえ、もう大学に行ったほうがいいわ。私のせいであまり休ませるのも申し訳ないもの」
 メリーの背中を濡らしたタオルで拭いていると、不意に彼女はそう言った。
 私はすぐに首を横に振る。
「ダメよ。もし留守の間にあなたに何かあったらと思うと、勉強に身が入らないもの」
「わがまま言わないの。今までだってこういう経験あったし、それに何より」
 メリーはこちらを振り向いてニヤリと笑みを浮かべた。
「私、これでも丈夫で長持ちなのよ?」
「なによそれぇ」
 私は背後からメリーにしな垂れかかった。メリーが重いー、と苦しそうに呻く。
 そのままメリーを抱きしめると、私の手に彼女が触れた。
 冷たくて、それでも細く美しい指が、私の腕をなぞる。
「……本当に、大丈夫?」
「大丈夫よ。だって、何かあったらすぐに駆けつけてくれるでしょう?」
「……うん」
「なら、私も安心できる。だから、あなたも安心して。ね?」
 微笑むメリー。私は彼女のこの表情に弱い。
 何もかもを許してしまう表情。ずるいな、と私は思った。
 そして、ほんの少しでもいいから仕返しをしてやりたいと、私は彼女の唇を奪った。


 玄関の扉を開けると、吹きすさぶ冬の冷たく乾燥した空気が襲いかかり、早速私から学校に行くという気力を奪い去っていった。
 名残惜しげに振り返ると、布団で寝ているメリーが、めっ! と強い語気で私を叱った。
「うえーん、本当の本当に、何かあったらすぐに私に知らせるのよ?」
「はいはい、わかったから。ほら、遅刻しちゃうわよ。早く行きなさいって」
 まるでお母さんみたいだなと思いながら、私はメリーに手を振った。
「それじゃ、いってきます」
「うん。いってらっしゃい」
 扉を閉める。この扉の向こう側でひとりぼっちのメリーは一体何を思っているのだろうと考えると、早速扉を開けて彼女に抱きつきたくなる衝動に駆られるのだが、それをぐっとこらえて私は大学へと向かうことにした。
 大学で教授の眠たい講義を受けながら、頭の中ではメリーのことばかり考えていた。
 一人で寂しくはないだろうかとか、体調が悪化して苦しんではいないだろうかとか、ふとした拍子に部屋の奥底で眠りについていた黒くて四角いそれらが覚醒し、彼女を恐怖のどん底へと突き落としてやいないだろうかとか。
 これではまだ家で彼女の看病をしていたほうが建設的である。
「……縺翫>」
 ノイズが混じった音声が耳に入り、ハッとする。
 周囲を見回すが、なんてことはない、広々とした講堂でごくごく普通の眠たげな講義が続いているだけである。
 なんらおかしなことはない。むしろ、おかしいのは自分自身だろうか。
 いけない、メリー分が不足しているのかもしれない。
 ここは健康的心身の保持という大義名分のもとに、以降の講義はサボるか、と私は講義終了のチャイムとともに荷物をひったくって講堂を後にした。
 廊下をほとんど走るように突っ切ると、途中で携帯で何やら話している女子生徒とぶつかった。
「きゃっ」
「うわっ」
 二人して転倒する。携帯が廊下を滑って行き、あわわわと四つん這いになって追いかける女子生徒。
 私は彼女が落とした帽子を拾い、駆け寄った。
「あの、ごめんなさい。大丈夫ですか?」
 手を差し伸べ、引っ張り起こす。その顔はどこかで見たような覚えがあった……気がした。
 女子生徒はあははは、と笑った。
「いやぁ、こっちこそちゃんと前見てなくてごめん」
 帽子を差し出すと、彼女はそれを少し傾けて被り、
「ホント、ホントごめんね!」
と手を合わせた。
「あっ、もしもし? ごめんごめん、ちょっと転んじゃって。で、今日なんだけど、これから祇園四条にあるっていう怪異を探りに……いや、パフェじゃなくってね?」
 それから彼女は電話の相手を慌ただしくまくし立てながら、廊下の角を曲がっていった。
 怪異を探りに……あれが噂のオカルトサークルというやつだろうか。
 今、京都の大学ではこの世の怪異に探りを入れる霊験あらたかな活動として、オカルトサークルが何かと人気を博していた。
 中にはオカルトサークルを騙った出会い系サークルや、いわゆるそういう場所でいわゆるいたしてしまういわゆるヤリサーもあるらしいのだが、そういうのは正統派オカルトサークルの手によって見えない形で潰されてしまうのだという噂もある。
 つまるところ、オカルトサークルそのものがやたらオカルトじみているのである。
 とはいえ、なんだか晩年梅雨みたいなじめじめした印象を勝手に持っていたオカルトサークルだが、ああいう軽快な人もいるんだなと、私は感心していた。
 ああいう風にキャンパスライフを送れたら、きっと楽しいのだろうなぁ。
 っと、いけないいけない。本来の目的を忘れるところだった。
 時計台前の正門を抜けて、東一条通りを西進する。東山東一条の交差点を抜けて、YMCA会館の横の細道を進む。
 住宅街の中に姿を現したボロアパートは、見れば見るほど今にも倒壊しそうで、こうして建っているのが本当に不思議なほどであった。
 メリーには残りの講義は全部休講になったとでも伝えておこう。
 もっとも、彼女にはそんな嘘はすぐに見破られてしまうだろうが。
 と、隣の部屋の玄関の前を通る際、ふと鼻に付く異臭がし、思わず鼻を押さえる。
 コーヒーの豆を焦がしたような……いや、これは、髪や皮膚が燃えた時の、あの臭いに近い。
 顔をしかめながら隣の部屋の玄関に目をやると、
「縺翫?繧医≧縲√い繝ェ繧ケ縺。繧?s」
呪詛にような呻き声が、扉越しに響いた。思わず後ずさる。
「縺?▽繧り◇縺薙∴繧九s縺?縲∝菅縺ョ蝟倥℃螢ー縺後?ょヵ繧ゅ≧縲∵?諷「縺ァ縺阪↑縺?h」
 ぶつぶつと、聞き取れない声のようなもの。ノイズが混じった不愉快な空気の振動。
 ガリガリ、と扉を引っ掻くような音がして、私は慌てて自分の部屋に向かった。
 取り出した鍵で玄関を開け、転がり込むように中へと入る。
 扉を閉めようとして、しかしそれを許してはもらえなかった。
 そこに、男は立っていた。ぼうっと、こちらを見つめていた。
 その瞳に、なにか違和感を感じた。無機質だ。無機物的で、まるでガラス玉のようである。
 だが、それはメリーのもののような美しさを纏ったものではなく、もっと汚い、汚泥のような色合いをしていた。
 なんにしても、普通の人間の目としては、まずあり得ない。
「縺ェ縺ゅ?√♀蜑阪b譛ャ蠖薙?菫コ縺悟・ス縺阪↑繧薙□繧阪≧?」
 聞き取ることのできない言葉を発しながら、男は私に襲いかかってきた。
 玄関に入ってすぐの簡易キッチンに背中を打ち付け、呼吸が止まる。
 調理器具が床にばらまかれ、けたたましい音を響かせた。
「何っ!? どうしたの!?」
 部屋からメリーの叫び声が聞こえた。私は叫ぶ。
「メリーっ! こっちに来ちゃダメっ!」
 私はそのまま床に押し倒され、男は私の上に覆い被さった。
「縺ゅ≠縲√い繝ェ繧ケ縲よ?縺励※繧九?よ?縺励※繧九h」
 上着のボタンを引きちぎられ、胸部が露わになる。私は叫び声をあげた。
 男は私の口を手で押さえ、ブラも乱暴に引きちぎった。
 ほとんど抵抗できなかった。男の力は強く、女である私には到底敵いっこなかった。
 外気に触れた私の乳首にむしゃぶりつきながら、男はなおも呪詛めいた呟きをする。
 私は泣きながら抵抗する術を求めた。
 幸いだったのは、男が私を女であるからと油断して、両手を拘束しなかったことだ。
 私は手に何か硬いものが触れたのを感じ、それを一心不乱に手に取った。
 包丁だ。散らばった調理器具に紛れていたらしい。
 男が上半身を起こし、私の上に跨ったまま自分のベルトに手をかけ始めた。
 ベルトを外し、ズボンも脱ごうとする。今しかないと、私は包丁を両手で握った。
 男がそれに気づいた頃には、包丁は既に男の胸部に突き立てられていた。
 しかし、肋骨が邪魔をしてほとんど刺さっていない。
 男が叫ぶ。私は包丁を引き抜き、また突き立てた。
 肋骨の隙間を通ったのか、今度はすんなりと深く突き刺さる。
 男が叫ぶ。私は包丁を引き抜き、また突き立てた。
 男が包丁を防ごうと突き出した手を貫き、指が二本、ぽろりと床を転がる。
 男が叫ぶ。私は包丁を引き抜き、また突き立てた。
 男の左目に包丁が入ると、眼球がぷちっと潰れ、中からどろりとした液体が溢れ出る。
 男が叫ぶ。私は包丁を引き抜き、また突き立てた。
 左目を刺したんだから右目も刺さなきゃ。しかし意外としぶとい。
 男が叫ぶ。私は包丁を引き抜き、また突き立てた。
 喉に突き立てると、溢れ出る血がぶくぶくと泡立った。気道に穴が空いたのだ。
 男は叫び声を上げなくなっていた。指が二本ない手で、喉を押さえる。隙間から血が溢れる。
 血を吐き出しながら、男は痙攣しはじめた。自分の血で溺れているのだ。突き飛ばすと、簡単に転がった。
 床で仰向けになって痙攣する男に、今度は私が跨った。
 包丁を両手で逆手に持ち、突き刺す。突き刺す。突き刺す。突き刺す。突き刺す。突き刺す。突き刺す。突き刺す。突き刺す。突き刺す。突き刺す。突き刺す。突き刺す。突き刺す。突き刺す。突き刺す。突き刺す。突き刺す。突き刺す。突き刺す。突き刺す。突き刺す。突き刺す。突き刺す。突き刺す。
 いくら刺しても、もしかしてまだ起き上がってくるんじゃないかという不安が拭い切れいない。
 いかんせん簡単に突き刺さるものだから、これといった実感が湧いてこないのだ。
 それでも私は、真っ赤に染まったボロ布を纏う肉塊に包丁を突き刺し続けた。
 ふっと、脳裏にメリーの姿が浮かび上がり、私は手を止めた。
 肉塊に包丁を突き立てたまま立ち上がり、四畳半の部屋を覗き込む。
 そこには、部屋の隅で震えながら涙を流しているメリーの姿があった。
 私がメリーに駆け寄ろうとするよりも先に、私に気付いた彼女は立ち上がろうとし、そのまま転ぶ。
「そっ、その血っ! 怪我は!? どこか怪我とかしてない!?」
 這いつくばりながら叫ぶメリー。
 私の血じゃないと説明すると、彼女は安堵のため息をついた。
 ……私の血じゃないのなら、これは一体、誰の血だろう?
 私は振り返り、玄関を見た。
 何かがある。赤黒く、所々に白い何かが見え隠れしている、みずみずしい無花果の果肉のような、それ。
 見慣れた場所で、見慣れた人間が血まみれになって死んでいる、その歯痒い違和感に私は笑っていた。
 そして、ふと目をやると、ああ、なんてことだ。
 私の手には血まみれの包丁が握られているじゃないか。
 そうだ。私が殺したんだ。私が、こいつを……。
「くっ……ふ、うう……」
 私は膝から床に崩れ落ちた。涙が溢れる。泣いていた。
 この男のために泣いているんじゃない。
 自分自身の手で人の命を、たとえこんな男の命でも、奪ってしまったのだという後悔の涙だ。
だが、メリーが気になることを呟いた。
「ねぇ……それ、本当に人間なの?」
「えっ」
「だって、その、人間にはとても見えなくて、その……」
 私は男だったものに近付いた。
 双方の眼球は潰れ、どろりとした透明な液体と血が混じり合って眼窩に水溜りを作っている。
 鼻は削げ落ち軟骨の断面が露わになっており、口角は顎関節まで裂けていた。
 溢れ出る血も収まりが見えた喉には、傷口から気道が見えていた。
 胸部から腹部にかけては何十もの刺し傷があり、人間の体の形をとどめていない。
 細切れになった肉片の隙間には血が充満していて、その下から微かに浮かび上がった内臓が見え隠れしていた。
 私は吐き出しそうになり、口で手を押さえた。指の隙間から吐瀉物がびちゃびちゃと零れ落ちる。
 吐き出して少しすっきりとしたら、冷静にその肉塊を観察することができた。
 そして、違和感を感じた。
 内臓とは陶器のように白く艶があるものなのだろうか。どこか無機物的だ。
 爪で叩いてみると、カチンと甲高い音を響かせた。
 私は突き刺さったままの包丁を抜き取り、それを男の額に押し当てた。
 包丁は血と脂肪で濡れていて滑りやすく、悪戦苦闘しながら額から喉まで皮膚に刃を通す。
 喉から下、胸の辺りからはほとんどぐちゃぐちゃで、刃はすんなりと通った。
 腹部で刃を止め、私はバッグでも開くかのように皮膚をぱっくりと開いた。
 思いの外しっかりと張り付いているらしく、皮膚はゆっくりとぶちぶち剥がれていった。
 本来であれば、そこには筋繊維や脂肪、場所によっては肉が張り付いた骨が見えるのだろうが、この男は違った。
 そこにあったのは、陶器の肌をした西洋人形だった。それも、極めて歪な。
 肌は白く、血と粘液にまみれている。
 眼窩には粘液とともに粉々に砕けたガラス玉が沈んでいて、暗い底でキラキラと光を反射していた。
 鼻はひび割れ、口は桃色の小さな唇がまるまる陥没していた。
喉の部分は陶器が割れて黒い穴を覗かせており、その中にはチューブのようなものが通っている。
 胸部から腹部が粉々に砕け散り、ぽっかりと開いた穴の中に破片が散らばっていた。
「なによ……これ……」
「人形……陶器の?」
「ありえないわ。こんな、人間の中にこんなのが……」
「でも……それじゃあこれは?」
 私は剥がした男の皮膚を手に取った。
 内側は黄色っぽい脂肪と血液で塗れており、外側には黒子やシミ、毛穴や産毛もある。
「皮は人間のものだわ」
「 誰かしら?」
「隣の部屋の男。なんだってこんな……」
 突然、チャイムの音が鳴り響いた。私は驚き、玄関を凝視した。
「縺ゅj縺吶&繧難シ√>繧峨▲縺励c縺?∪縺吶°?∬ュヲ蟇溘〒縺呻シ」
 ノイズ混じりの声が扉の向こうから響き、メリーが小さく悲鳴をあげた。
 私は包丁を手に取り、玄関に向かう。
 荒くなる息を抑えながら、ドアスコープを覗き見た。
 そこには、警官の服装をした男が二人、首を奇妙な角度に傾げながら立っていた。
 汚泥のような瞳がぎょろぎょろと周囲を見回している。
 だが、それが本物の警察でないことはすぐにわかった。
 中身が陶器の人形であることも。
 男の仲間だろうか。
 男と同じように私を襲いに来たのだろうか。
 私はぐっと包丁を握る手に力を込めた。
 壊さなければ。
「隴ヲ蟇溘〒縺呻シ√≠繧翫☆縺輔s?∝、ァ荳亥、ォ縺ァ縺吶°?」
 男と同じ、呪詛のような言葉がドア越しにくぐもって聞こえる。
 私は扉のノブに手を掛け、一気に押し開いた。
 突然開かれた扉に驚いたのか、唖然とする二人の警官。私はそのうちの一人の喉に包丁を突き刺した。
 ほとんど力を込めていなくても、ずぶずぶと刃先は沈み込んでいき、喉と口からごぼごぼと赤い泡を吹きながら警官は痙攣した。
 硬い感触が手に伝わり、包丁が入らなくなる。
 包丁を引き抜くと、溢れ出した血が警官の服を赤黒く染めた。
 溢れ出す血を止めようとでもしているのか、首を両手で絞めるように押さえながら、警官は地面に倒れた。
 見ると、もう一人は腰を抜かして地面にへたり込んでいた。
 私は包丁を逆手に持ち、警官を見下ろしながら考えた。
 こいつらは一体何のつもりなのだろう。
 人間の皮を被って、人間になりすまして、この世界を乗っ取るとでもいうのだろうか。
 もしかして、知らないうちにほとんどの人間がこいつらに成り代わっているのだろうか。
 私は包丁を肩に目掛けて振り下ろした。
 まず刃先の数センチが肉にめり込み、それからずぶずぶと沈み込む。
 奇妙な叫び声を上げながら、警官は私の手を掴んだ。
 私はさらに両手で包丁をずぶ、ずぶ、ずぶ、と根元まで突き刺した。
 皮膚、脂肪、筋肉、それぞれに硬さの違いがあり、手に伝わる感触も変化する。
 だが、不思議なことに陶器の硬い感触はしないまま、包丁は全て突き刺さってしまった。
 警官が私の手を掴む力は段々と弱まってゆき、やがて掴むのをやめると、だらんと力なく垂れ下がった。
 包丁を引き抜くと、私は耳の裏の顎関節の辺りに刃先を差し込み、顎に添ってぐるりと包丁を反対側の顎関節まで半周させた。
 そして顎の皮膚の下に指を差し入れて捲り上げると、ぶちぶちと音と手応えがして顔の皮がべろんと裏返るようにして捲れ上がった。
 軟骨が張り付いたままの鼻や、穴の空いた目や口、髪の毛などが生えたままの皮膚がべろんと剥がれる。
 さらに捲れたそれを頭に沿って剥がしていくと、フードを取ったみたいに頭の皮が首の後ろに垂れ下がり、陶器の人形の頭が露わになった。
 あの男と同じ、歪な陶器の人形である。
 もう一人の警官も同じようにして顔の皮を剥ぐ。結果は同じだった。
 私は恐怖した。知らず知らずのうちにこの世界が侵蝕されているのだ。
 そして、こいつらの存在に気付いてしまった私もまた、同じように皮を剥がれ、陶器の人形に成り代わってしまうのだろうか。
 その時、メリーは?
 私は、ひとりぼっちになってしまったメリーを想像し、かわいそうだと思った。
 彼女のためにも、私はメリーを連れて逃げなければならない。
 私は二人の警官だったものを玄関に引きずり込むと、最小限の衣服や預金通帳などをバッグに押し込んだ。
 メリーが困惑して訊ねる。
「ど、どうしたの? さっきの、誰だったの?」
「警察……になりすました、人形だった。あいつら人間の皮を被ってこの世界に広まってるんだわ。私たちが知らないうちに、きっと多くの人があいつらに入れ替わってる」
「逃げるの?」
「ええ、逃げるわよ。絶対にあなたを一人にさせないし、あいつらの仲間にもさせない。私があなたを守るわ」
 私はメリーにキスをした。唇が触れ合うだけの簡単なキスだ。
「ついていくわ。私、あなたと一緒ならどこにだって行ける」
 私は彼女を背中におぶさった。やはり驚くほど軽い。
 外には白黒パトカーが停まっていた。あの警官二人が乗ってきたのだろう。
 こんな狭い路地によく入ってこれたと感心しながら、私はメリーを助手席に座らせ、自らもパトカーに乗り込んだ。
 鍵は刺さったままで、それをひねるとエンジンがかかった。
 車の免許は持っていないが、運転の仕方は知識として理解している。
 もっとも、細かな運転のルールは知らないが、今はそんなものを気にしている余裕はない。
 クラッチを踏みながらギアをファーストに入れ、アクセルを踏み込む。
 後輪が一瞬空転したのち、地面を蹴り上げ体がシートに押し付けられる。
 暴れ馬のように壁をガリガリと削りながら、車は小道を抜けて東一条通に抜けた。
 ハンドルを左に切ると、遠心力で体が右に傾き、タイヤのスリップ音が響く。
「もっ、もう少し安全運転を心がけてよっ!」
 助手席でメリーが叫ぶが、そんな余裕はない。
「黙ってないと舌噛むよ! しっかり掴まってて!」
「きゃあああああああああああ!」
 東山東一条の交差点で右に曲がり、東大路通を南下する。
「いやああああああ! こわいこわいこわいこわいこわい!」
 メリーの叫び声を無視して、私はアクセルをぐっと踏んだ。
 車はぐんぐんとスピードを上げて、周囲の車を追い越していく。
 赤信号を無視して行き交う車の隙間を突き抜けると、後ろから車が衝突する音が響いた。
 このまま京都を出よう。京都を出て、どこか遠くに逃げよう。
 どこがいいだろうか。東京の実家は駄目だろう。
 奴らは警察の内部にすでに巣食っていた。警察の情報網を使って私の実家もすぐに特定されるだろう。
 なら、どこか僻地の田舎がいい。空気が澄んだ自然が多い田舎なら、メリーの療養も捗るだろう。
「どこか田舎に行きましょう。人がいない、奴らの追っ手も来ない場所。空気が美味しくて、自然がたくさんあって、メリーの弱った体も回復させてくれる場所」
「私、虫とか嫌いだわ」
「大丈夫よ、すぐに慣れるもの。実際、私は慣れちゃったし」
 私は部屋中に拡散、張り付き、這入り、飛翔した黒いそれを思い出しながら苦笑した。
 私は車を猛スピードで走らせながら、これからメリーと二人で暮らすことになるであろう田舎での生活を見ていた。
 どうにかなりそうな気がする、なんて楽観視とも取れる思いを抱きながら。
 しかし、それは八坂神社前で四条通と交わる、祇園交差点前で打ち砕かれることとなった。
 ふと、視界に一人の人物が入り込んだのだ。
「見ちゃダメ!」メリーが叫ぶ。
 どうしてそんなことを言うのだろうと頭の片隅で思いながら、私の視界には鮮明に彼女の姿が写り込んでいた。
 マエリベリー・ハーン。通称メリー。
 彼女が、交差点前のコンビニの入り口のところで、誰かと一緒に歩いている姿だった。
 車はかなりのスピードを出していたはずであったが、彼女の姿を見つけてからはいやにゆっくりに感じた。
 どうして、メリーがあそこにいるんだろう?
 メリーと一緒にいるのは、よく彼女と一緒にカフェテラスでお喋りをしている、彼女の友人だった。
 ……そうだ。今日、廊下でぶつかった人だ。
 どうして……どうして彼女と、メリーが一緒に……いや、そうじゃない。
 隣に、助手席にいるのは、それじゃあ、一体……。
「ダカラ、イッタノニ……」
 ハンドルが勝手に曲がる。いや、横から伸びた手がハンドルを曲げているのだ。
 私は助手席を見ようとしたが、顔を動かすことができなかった。
 助手席から伸びる手が誰のものなのか、確認することができなかった。
 車は祇園交差点の少し手前で反対車線にはみ出し、対向車線の車のサイドミラーと接触した。
 車は真っ直ぐに、メリーに向かって走っている。
 ハンドルを切ろうとしたが、体が動かない。
 ブレーキを踏もうとしたが、体が動かない。
 メリーがこちらに気付く。早く避けてくれと懇願するが、メリーは動かない。
 車はゆっくりと彼女に近付く。彼女の友人も、周囲の人々も、こちらに気が付いたらしかったが、やはり動かない。
 車が歩道に突っ込むと、がくんと大きく揺れて衝撃が走った。
 車は少し浮かび上がり、歩道を歩く人々をなぎ払い、突き飛ばし、押し潰した。
 ゴリゴリゴリゴリボキボキバキバキバキバキ
 肉を引き剥がす音。骨を砕く音。内臓を潰す音。それらが鮮明に耳に入る。
 悲鳴や、怒号や、絶命の音が、鮮明に耳に入る。
 そして、すぐ目の前に、千切れ飛んだ腕や足や、噴き出した血や体液の中に、メリーがいた。
 その目は恐怖に見開かれ、絶望の色で私を見つめていた。
 彼女と一緒に歩いていた友人が、メリーを突き飛ばす。
 車は彼女を跳ね飛ばし、そのまま交番の窓ガラスを突き破り、横倒しになって奥の壁に衝突した。
  バンッ! とハンドルが破裂し、エアバッグが視界いっぱいに広がる。
 それに顔を埋めながら、私は意識が遠のいていくのを感じた。
 様々な声が膜の向こう側から聞こえてくるようだった。
 少女の泣き叫ぶ声もうっすらと聞こえる。
 私はほとんど薄れゆく意識の中で、最後に力を振り絞って、助手席に目をやった。
 そこに、いたのは……


 気がつくと、私は見覚えのない天井を前に呆然としていた。
 白い。天井も、壁も、そして、私が今寝ているベッドも。
 私は体を起こそうとして、頭の中が割れるように痛み、思わず叫んだ。
 そのまま重力に従って頭を枕の上に落とす。横から声がした。
「大丈夫? 私が誰だかわかる?」
 そこには、金髪の西洋人形もかくやという美少女がいた。
 私が彼女が誰だかわからないといった風に呆然と見つめていると、少女は目を見開き、口を両手で押さえた。
「まさか……私の記憶がなくなっちゃったの!?」
 泣きそうになる少女に、私は思わず笑ってしまった。
 何が起こったか理解できず唖然とするメリーに、私は微笑みかけた。
「覚えてるよ、メリー」
 すると、メリーは泣きながら私の体をぺしぺしと叩いた。
「冗談はやめてよ! もう!」
「あはは、ごめんごめん」
「もう……本当に心配したんだからぁ……」
 抱きついてくるメリー。私は彼女を抱きとめ、細くきれいな髪を解かすように撫でた。
「心配かけたね。ごめんね、メリー」
「うん……」
 メリーは小さく頷くと、安心した風に私の胸に顔を埋め、やがて小さな寝息を立て始めた。
 何が起こったのか、どうしてこんな場所にいるのか、何もわからなかったけれど、とりあえず彼女が無事でよかったと、私は心からそう思った。


 祇園交差点でパトカーが歩道に突っ込み、歩行者を跳ね飛ばして交番に突っ込むという事故が起こった。
 運転していたのは市内の大学に通う一年生の少女で、十八歳だった。
 この事故で十三人の死者が出ており、六人が重軽傷を負う大惨事となった。
 少女の家からは三人の男性の遺体が発見されており、うち二人は警察官で、残りの一人は隣の部屋の住人であった。
 死体は惨たらしい状態で発見された。皮を剥がされていたのだ。
二人の警官は頭部の皮をまるまる剥がされており、隣部屋の男性は上半身の皮を剥がされていた。
 三人を殺害したのも少女であった。少女は動機をこう語った。
「隣の部屋の男が私に襲いかかってきたんです。でも、どこか普通じゃなくて、私はたまたま近くにあった包丁で彼を刺したんです。そしたら、彼の皮膚の内側が普通の人間ではあり得ないことに気付いたんです。陶器です。皮膚の下から陶器が見えました。だから皮を剥がしたんです。知っての通りだと思いますけど、陶器の人形がそこにいたんです。皮膚の内側に。陶器の人形がいたんです。それから、警官二人がやってきました」
 警察の話によると、この二人の警官は少女の部屋から叫び声が聞こえると通報を受けて、確認にやってきたのだという。
 少女は続けた。
「警官も奴らの仲間でした。……奴らが誰かって、人形ですよ。陶器の人形。男の仲間です。いえ、男を乗っ取った、奴らの仲間です。あの警官二人も、やっぱり乗っ取られていました。……見分ける方法ですか? あいつらは私たちが知らない言語で話します。ノイズが混じった不快な音を発するんです。あと、目が汚泥を混ぜたガラス玉のようでした。もっと色々と違和感はあるんですけれど、私も焦っていたのであまり詳しくは……はい、ごめんなさい。えっと、どこまで話しましたっけ。……そうだ。それで、あの二人も壊したんです。……はい、壊した。だって、人形でしょう?」
 少女はそれからメリーと共に京都から逃げようと、パトカーに乗り込んだと話した。
「どこか遠く、田舎に逃げようって思って、それで東大路通を南に走っていたんですけれど……どうして私はここに?」
 少女はどうやら、あの事故の前後の記憶を失っていたようである。
「先生も気を付けてください。あいつら、人間の皮を剥いで、それを被るんです。そうやって気付かないうちに何人も、奴らと入れ替わっているんです。だから、気を付けてください」
 それから、彼女の病室にいる、メリーについて聞いた。
「メリーは同じ学校の生徒で、彼女が道端で倒れているのを偶然私が見つけて、介抱していたんです。私の家で、です。彼女、体が弱いらしくって、しばらく私の家で安静に寝かせていたんです。それから、その、こういうのって、アブノーマルに思われるかもしれませんけれど、笑わないでくれます? ……ありがとうございます。私とメリーは、愛し合って、いるんです。その、はい……。彼女を介抱しているうちに、どちらともなく自然と」
 メリーの話をしている間、彼女はとても楽しそうに笑っていた。
「彼女の本名ですか? マエリベリー・ハーンです。ふふ、呼びにくいでしょう? そんな彼女をメリーって、彼女の友人が呼んでいたんです。えっとなんてったっけかな……あっ、宇佐見蓮子さん、だったかしら? ごめんなさい、うろ覚えで」
 それから少女は少し寂しそうに俯いた。
「メリーを巻き込んでしまったのは本当に申し訳ないと思ってます。でも、あいつらがこの世界を乗っ取らんとしている以上、彼女を一人にする訳にはいきません。先生ならわかりますよね?」
 病室に戻った少女は、楽しそうにメリーに一方的に話しかけながら、その髪を梳いていた。
 マエリベリー・ハーンという少女は、あの事故現場に居合わせていた。
 それも、パトカーはピンポイントで彼女に向かって突っ込んで行ったと、目撃証言が多数出ている。
 もっとも、マエリベリー・ハーンは一緒にいた友人、宇佐見蓮子に突き飛ばされて幸いにも無傷であった。
 ただ、その宇佐見蓮子はそのまま車の下敷きになり、不運にもタイヤに巻き込まれて、全身の骨が折れ、肉が千切れ、内臓が押し潰された状態で死亡していたが。
 彼女がマエリベリー・ハーンに車で突っ込んだのは、偶然ではないだろう。
 マエリベリー・ハーンが二人いることに混乱して?
 それとも、本物のマエリベリー・ハーンを人形がなりすました偽物だと判断して?
 人形が人間に成り代わっていると思い込む。恐らく、カプグラ症候群だろうと思われる。
 あれがメリーに見えているのも、それに関連しているのだろう。
 彼女の精神状態は正常ではない。
 それこそ、社会に放り出すには危険だろう。
 また誰を殺し、皮膚を剥がすかもわからない。
 明日にも、私も乗っ取られていると彼女に判断され、殺されかねないのだ。
 だがしかし、ベッドの上で西洋人形の髪を梳くその姿からは、まったく想像ができなかった。
蓮メリちゅっちゅ好きです。嘘じゃないです。
雨宮和巳
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.170簡易評価
2.60名前が無い程度の能力削除
ホラーというよりサスペンス?
この内容で後書きを信じろというのは私には無理だった
3.10名前が無い程度の能力削除
18禁って意味わかります?わきまえろ。
5.10名前が無い程度の能力削除
ぬぅ・・・
これはあかんやつですねー
削除依頼削除依頼っと
6.100名前が無い程度の能力削除
性描写もグロも18禁というほどでもないと思います。性器の描写もないし。精々15禁?
なかなか楽しめました。途中まで蓮メリだとだまされました。
8.90名前が無い程度の能力削除
キツいッスけど十八禁ではないですね


………蓮子死んじゃったよおおおぉおおおぁああぁぁぃおううああああ!!!!
10.無評価絶望を司る程度の能力削除
おい消されてないぞ、ちゃんと依頼出せよ。口ばっかりじゃなくてさぁ…