霍青娥が最初に気づいたのは、糞尿のものと思しい強い悪臭だった。
それも、人間の糞尿の臭いである。
牛馬の糞の臭いなどは隋でも倭でもそこかしこに溢れているものだが、人間の糞尿となれば話は別だ。何せ、人は草を食めば肉も食うし、酒を容れては醤を舐める。何でもかんでも胃の腑に詰め込んで生きるから、その結果として生成される糞尿の臭いは、禽獣とは違ったものとならざるをえない。青娥は、それを自身の技術である屍体の腑分けと改造から知ったのだった。
しかも、そうした臭いが漂ってくるのが屋外に掘られた厠の穴などではなく、人家の内を源としているというのなら、なお異常。
「まあ。なにごとが出来したのかしら」
羽衣を翻して鼻先を隠しながら、中空より地上に降り立つ青娥である。
独語する口ぶりは不安げなものながら、その実で彼女の目は実に愉しそうに歪められていた。厄介ごとを自らの膝元に呼び込んで、それを手玉にとって弄ぶのは、仙女として永久にも等しい生を得た彼女にとってはまさに必須の遊戯なのだ。
降り立ったのは、先に物部布都の命を受けて皿作りを依頼した、あの倭人の住まいの前だ。出入り口に向かって適当に声を掛けたが、返事はない。ふざけて猫なで声も使ってみたが、やはり何も返っては来なかった。
「土師彦どの。物部の主から、お約束の褒賞ですわ。衣摺の地の一角をあなたに賜うと。その旨、こうして記した書状まで持って参ったのですが。お留守ですか?」
そう呼びかけながら、首から提げていた筒をトントンと叩く。中には、此度の土師彦の仕事ぶりに報いるべく、布都が直々に選出した衣摺の地の地図が納められている。だが、それでもやはり土師彦の住まいは沈黙したままだ。ふ、と、青娥はあることに気づく。器作りの工房だというのに、野焼きの坑にも陶器の窖窯にも、煙はおろか火の気も宿っていない。まるで、もう何日も使われていないみたいに冷え切っている。
さては、まさか。
小さな溜息をひとつ吐いて、彼女は正面から竪穴の住まいに入り込んだ。
そして、建物の梁から吊り下がっているものを見つける。それこそが、周囲に満ちた悪臭の源。おそらくは縊死してからさほど時の立っていない、土師彦の屍体だった。人は急速に死ぬと、排泄を抑え込んでいた身体の機能が喪われて脱糞と失禁が始まる。それもまた、青娥が屍体を扱ううちに気づいたことだ。土師彦が首を吊って自死したため、その骸から糞尿が漏れ出してきたというわけである。
「何ということを。せっかくわれわれが栄達の好機を与えてあげたのに。それを自ら“ふい”にするなんて……」
言いながらも、邪仙は眉ひとつ動かすことがない。
彼女の故国では数百年の昔から、覇王が敵対した軍兵数万の首を落として大地に並べたとか、夫の死後にその愛妾の手足を切り落とし、さらに目と耳と鼻を潰し、舌を切ってから豚と罵ったとか、そういう話がざらにある。彼女自身もたくさん見てきたし、自ら煽り立てたこともあった。たかだか工人ひとりが縊死したくらいで驚くなど、ばかのやることである。ために彼女が悔やんだのは、せっかくここまで足を運んだのがむだな骨折りに終わったという、ただそれだけの事実だ。
部屋中に満ちた土器の破片と、それから作りかけらしい土の塊を順繰りに見て回りながら、青娥は深々と溜め息を吐く。まったく、ときに工人という者たちの気難しさは度しがたいものがある、と。
物部布都が青娥を介して土師彦に依頼を発したのは、決して彼の腕前を見込んでのことではなかった。辺鄙なところに住む無名の工人なら、後腐れなく仕事を任せられると思ったからである。国家の大政を司る立場である布都が、ことさら目立って動くのは望ましくない。ただでさえ、朝政を二分した丁未のいくさで物部氏が滅ぼされてから未だ日が浅いのだ。物部の生き残りに向けられる世人の目は決して好意のそればかりにあらず。隋人と結託して何かを企んでいるという嫌疑を掛けられては、何もかもご破算である。豊聡耳神子が尸解仙として天下の領導者たるべく、その先駆けとして布都が先に眠りにつくという算段が。土師彦の作り上げた皿はそのためのいち手段であり、全体からすれば些事にすぎない。
しかし些事とはいえ、その皿は確かに出来が良かった。
神ならぬ人の手にて作り上げられたがゆえ、それ自体が人為の産物でありながら、天地自然の真理をただ一枚の皿に示している。人界を超越して永世に穢れなく生き続けるという神仙の境地に、一瞬とはいえ千書万言に頼ることなく、俗人でありながら行き着いたのだ。
そうした、少なからず霊感の気配を宿した代物であったから、道士が尸解の友として依り代にするにはちょうど良い。そうと解れば急がねばならぬ。土師彦に皿を求めた布都は丹薬の毒に身体を蝕まれ、次第に床より起き上がることも難しくなりつつある。皿を依り代として魂を移し替えることで物部布都は尸解仙と化し、先々の世に霍青娥と同じく、不老にして不死の肉体を手に入れるのだ。
「そう。永遠不滅(とこしえ)の命を得たごとくに、ね」
それこそが土師彦という、傲慢さで己の無能を粉飾することでしか自我を保てなかった工人が、最後に仕上げた一作に望んだことであったろう。工人の理想はこれで叶えられる。もはや何人も、彼の最高傑作を侵せない。彼もまた自死を選んだことで、布都の皿に匹敵する代物も、それを超える新たな作も、生み出すことがない。最高の芸術は、作者自身の死を除いては完結させることができないのだ。作者が死してもなお、作品は生き続ける。ときに作者の意に反する形になっても、なお。
だけれど、それが何になろうか?
最高と奉ずるものの前で歩みを止めて、おまえ以上のものを手掛けたくはないのだからと、それに跪いて己の死を乞い願うなどは? 世に最大最高の傑作を出だすのであれば――その最大最高が自分の思い通りに育ってくれて、なお永年に渡って可愛がることのできる方が良いではないか?
たとえば、朝政を預かる二大氏族を唆し、仏法の是非をめぐっていくさを起こさせる物部布都のような。
たとえば、芳しきばかりの美貌と世の人をことごとく超越した才を持ち合わせながら、なお死を恐れて生が欲しいと涙を流す、豊聡耳神子のような。
彼女らを思いのままに育て上げることが、霍青娥にとっての何よりの『芸術』だ。
古に蛇体の女神が泥を捏ねて、才ある人々を地上に産ましめたという物語がごとく。
誇るべきは生である。肯うべきは果てしのない己が傲慢さである。
人の身たる土師彦には、そのすべてを受け止めることはできなかったのだろう。
「哀れな、男」
吐き捨てながら、青娥は再び羽衣を翻した。風もないのにその着物の裾はひゅうと波打ち、あれよという間に空高くに浮かび上がる。そして、土師彦が彼女を初めて目にした運命の晩にそうしたように――――地上に向けてただいちどだけ笑いかけた。
数瞬ばかり風に乗って遊んだかと思うと、土師彦には見上げるばかりでとうとう飛べなかった空を、この邪仙は何方(いずかた)へ向けてか軽々と飛び去っていった。
言葉遣いだけじゃなく嗜好まで男勝りな屠自古が新鮮でよかったです
すばらしい つらい
情緒不安定は当たり前、躁鬱、アル中の無職、脅迫障害、真正のサド、神隠しに合う、ろくでもない末路、etc...何かを作り出して名を遺した連中はそんなんばっかりか?
汚い山月記というのは、反省する余地のなかった山月記という意味なのか、虎でなく汚袋に変身したという意味なのか、あるいは別の所に意図があるのかは分かりませんが、積んである中島敦読んでみようと思いました。
天稟が無かったと自覚するのは簡単ですが、そこを納得するのは実に難しい。
自分でも思い至るところがあってか、感情移入して読むことができました。
超えるものを認められない故に、境地に達せたのだろう、とも思えますね。
こんな萌え二次創作みたいなところで燻ってないでちゃんとした一次オリジナル小説作って勝負すれば?
なんか作者の逃げを感じる
もう少し掘り下げてもらいたかった。
まともな作品が読めることに感謝
いや分かる。酷い自虐小説に見えなくもない。そのせいか文も常の精緻さが無く少し乱暴だったか。作者さんは神経質に文面文章造詣に心血注ぐ芸風だし余計にねぇ。気のせい? 何にしてもこうずさんの文章が好きな私としてはいま三つくらい
感想がとても難しい。どうしてこなた。どうしてこなた。