水際の対決/表
妖怪の山・未踏の渓谷
七月のある日のこと。哨戒の任務を終えた椛は友人の河童のもとを訪ねていた。用向きは将棋の勝負である。
これで何度目になるかわからない対局は、佳境に迫っていた。
「王手」
「早ーっ」
件の河童、河城にとりは椛の宣言に思わず声をあげた。
だが、当の椛は勝利に差し迫ったというのに不満げな表情である。
「早くはありません、これでも目標より二十手遅れているので」
「うへぇ」
もっと早く詰むつもりでいたとの発言に、肩を落とすにとり。
「そんなに私、弱いのかな?」
「そんなことはないと思います。……単に回数の違いが出てるだけかと」
滝の向こうの天狗たちが、暇さえあれば将棋を打っていると言うのは強ち嘘ではないらしい。
「椛さー、ちゃんと仕事してる?」
尋ねながらも、にとりは自分の発言にこそ疑問を感じていた。
「失礼な、任務より将棋を優先するようなことはありません」
「まあそうだよね、椛ならね……」
「昨日だって、山の中で見つけた人間にお帰りいただいて……」
「わかったわかった」
少しむきになったような様子の椛をなだめながら、そういや昨日は雨だったよね……などと、にとりは考えていた。
視界が悪い日であれば、それこそ椛の出番だっただろう。
そもそも、椛が仕事をしていようと休んでいようと、にとりは駒よりも独楽を、それも回って電気を起こすようなものを好むのだから、実力に差が出るのは無理からぬことだと言える。
「さあ、それでどうしますか」
次の一手を促す椛の眼は鋭い。にとりの方はと言うと、渋い表情を崩せずにいる。
「この後は是非に及ばず……だよ」
「そうしてくれると助かります」
あっさりと投了を認めた。実際、椛が王手を宣言した上で、にとりの王がその牙から逃れられたためしはない。
椛のスペルカードにもあるように、彼女の牙は密にして逃さぬと言わんがばかりの鋭さで獲物を狙う。
今回もまた、それは前例にたがわぬことなく、というだけのことだった。
「ええと。これで、八連勝……」
手帳に記録をつけながら、椛はあらためて戦果を報告する。
「麻雀だったら役満だね」
「やくまん?」
「あーいや、なんでもない」
どうやら同じ卓上ゲームでも、椛にはそちらの造詣はないらしい。
もっとも、麻雀ならば八連勝どうこうより前に、千里眼を持つ椛相手では勝負にならないだろうが。
「今月に入ってからは全勝させてもらっていますか」
「でもさー、回数どうこうを抜きにしても、椛は強いんじゃない?」
「それほどでもありません。先輩方のなかには私に勝ち越してる人もいるし……」
(あぁ、あくまで「も」いるというレベルなのね……)
にとりは内心、自分の友人の強さを改めてかみしめた。しかしその直後、その実感をさらに覆す一言がかけられた。
「どうしたって、勝てない相手というものはいますよ……」
「へえ」
これは意外だった。井の中の蛙は大海を知らぬというが、河の中の自分は、滝の裏の狼を知らなかったというところか。
「どんな相手?」
にとりの問いに、ふっと椛の表情が寂しそうなものになる。ややあって、椛は答えを返した。
「もういない相手です」
瞠目し、椛は思う。
犬走の家には、椛が生まれる前にもう一人、跡継ぎ候補がいた。
しかし、椛の兄にあたるその白狼天狗は早世してしまったという。
それは椛やにとりの生まれるより、大幅に前のこと。
椛自身、写真で兄の姿を見たことはあるが、動く姿、話す声は知るはずがなかった。
同世代のにとりにしても、立ち入った家庭の話は知らない。
椛は幼いころ、残酷を承知で父に尋ねたことがある。
「兄様は、なぜ亡くなったのですか」
父親もその質問がされる日が来ることは予見していたのか、悲しむというよりは偲ぶように語った。
一言で言えば、才能に殺されたのだと。
「たとえば、ものを見るのに光は必要だが、強すぎる光は目を焼き、失明させてしまう。
そういう風にあの子は、強すぎる能力を持って生まれたが故に、体のほうがそれに押しつぶされてしまった」
月の薬師であれば何か手の施しようもあったかもしれないが、生憎と彼は月の異変が起きる前、つまり永遠亭という存在が明らかになる前の時代に生まれ、そして亡くなったのだった。
そして彼の死から百年以上経過した後に、椛は生を受けた。
亡くした息子に十分にできなかったという想いからなのか、父母は椛に多く、しかし過剰にはならぬ程度に愛情を注いだ。
椛自身も自分が大切にされていると感じていたし、両親の期待に応えられるように生きてきた。
ゆえに、兄の存在は彼女の人生において全くの埒外のこと。
重荷にも、枷にもなることはなかった。ただ一点を除いて。
彼は椛同様、剣と盾を持ち、また、将棋を指すことを趣味としていた。
剣の腕については、間違いなく今や椛のほうが上であると誰もが評するだろう。
しかし、将棋についてはそれよりも何よりも、他の追従を許さなかったという評が、彼に関しては残っている。
百戦錬磨、のみならず。千線全勝、生涯不敗、という声すらあるほどであった。
将棋指しとしての椛にとっては、兄のようになることが目標であり、声も知らぬ兄の幻影こそが胸に刺さった棘でもあった。
しかしまあ、いないものはいないのだからと、椛は諦めていた。
何を諦めていたのかといえば、つまりは兄を越えることだったのかもしれない。