Coolier - 新生・東方創想話

化けて出る確率

2015/03/18 23:16:57
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 私たち科学者はオカルトなんて信じていない、と思われているとしたら、それは大きな誤解というものだ。
 こと私が通う岡崎夢美教授の研究室では、世に言うオカルトを全面的に受け入れ、それを「魔力」なる概念で統一的に記述しようと試みている。
 ただ、妖怪やら妖精やら、悪魔に幽霊に宇宙人、神に仏に死後の世界。そういった目に見えない存在というのは、私も教授も見ることができないから扱いに困る。私としてはそもそもそんなものが実在するとは信じていなかったりするのだが、教授曰く
 ――幽霊の存在によって部屋の貸し賃が変動する以上、その存在を認めないわけにはいかないわ。
 とのことで、幽霊に関しては妙なところからその存在に確信を得ているようだ。
 そう、幽霊といえば……。



『化けて出る確率』



 私のご主人様こと岡崎夢美教授は、魔力なるものの存在を信じている。
 この世には五番目の力、『魔力』が存在し、世間一般ではオカルトと称されるあらゆる現象は、この魔力によって余さず物理学的に記述することができる、だとか何とか。
 もちろん世間的に言えばこれは所謂トンデモ理論で、この理論を堂々と発表した教授は学会の笑いの的となったわけだが。
 しかし一方で、大真面目に魔力の存在を主張する教授に興味を寄せる者もいた。オカルト雑誌の編集者から連載記事の依頼が来たり、テレビ局から心霊検証番組への出演オファーが来たりと、それはもう凄まじい食いつきっぷりだった。
「勘違いされては困るわ。私の理論はまだ研究段階のものだし、そもそも三流雑誌の記事にされて暇人の手慰みに流し読みされるようなものではないの」
 教授はそんなことを言いながら各種の依頼を片っ端から断っていたのだが、そんなある日のこと。


『こらっ、ムラサ。あなたまた水辺に出かけていたわね?』
『そっ、そんなことないよー? ふんふふーん?』
 今日もテレビの中の幻想郷では妖怪たちが愚にも付かないショートコントを繰り広げている。私はこのところ研究室へやってきては、教授に何か言われるまでソファに座ってぼんやりとテレビを眺めるのが日課になっていた。
『嘘おっしゃい、全身びしょぬれじゃないの。まさか、人を襲ったりはしていないでしょうね?』
『これはその……水浴びしてたんだよ』
『どこで?』
『まぁその、水辺で……あっ、そういえば用事があるんだった!』
 ムラサは聖の咎めるような視線から逃れるように、命蓮寺の軒下を走り去っていった。取り残された聖は、まったく、と呆れたように首を左右に振る。
 私は最近、この命蓮寺の日常風景をぼんやりと観察することが多かった。このムラサとかいう女の子は、私と同じように水兵服を好んで着ており、何となく親近感がわくのだ。
「いいご身分ね。昼間っからテレビばっかり。こっちは仕事で大忙しなのに」
 背後から教授がぬっと現れ、私の顔を覗き込んだ。
「そうは言っても、次何をやるかご主人様がはっきり決めてないんじゃ、私は何もできないしなぁ。それにご主人様が言ったんだぜ、テレビを見てこの世界――幻想郷について学ぶのも研究の一環だって」
「ふーん。それじゃ、このテレビを使った実験をやりたいと思ったら、あなたに任せればいいわけね?」
 あ、これは誘導されたか。はぁ……、まぁいい。私としても暇を持て余していたところだし。
「はぁ……実験? 今度はまた何を始めようってんだ?」
 ソファから立ち上がり振り返ると、私は教授から「はいこれ」と一冊の雑誌を胸元に押し付けられた。
「何だこれ。えー……『月刊心霊マガジン』……あぁ、先週原稿の依頼が来てたあのオカルト雑誌か」
「えぇ。各地の心霊スポットを紹介したり怪談を紹介したりする、よくある心霊雑誌よ。それが、私の理論をどこで耳に挟んだのか、幽霊の科学的考察を記事にして欲しいだなんて言ってきてね」
「へぇ。そんな話だったのか。それはまた……」
 いかにも教授が眉を顰めそうな依頼内容だ。まぁ、その手の雑誌からの執筆依頼なんて大概そんなものだろうが。
「……で、今ここにこの雑誌があるってことは断らなかったのか? そんなに原稿料が高そうな雑誌にも見えないけど」
「えぇ、最初は断ろうと思ったんだけどね。でも今この研究室には新しい実験装置があることだし」
 教授はテレビの前へ回り込み、ばん、とテレビを叩いた。尼僧の映像がノイズと共に揺らぐ。
「それを助手の暇つぶしの道具にしておくのもどうかと思ってね。一つ、あなたにこれを使って実験をしてもらって、レポートを書いてもらうことを思いついたの。幽霊に関する実験をね。で、私がそれを元に原稿を書く。実験がうまくいかなかったら書かない」
「はぁ。まぁ、暇つぶしの道具にしてることに関しちゃ反論できないけど……。幽霊に関する実験? って言われてもなぁ」
「ふふ。安心しなさい、実験の内容は既に決めてあるの」
 教授はにやりと笑ってテレビのチャンネルを回した。場面が軒先から切り替わり、畳の上で腹を出して昼寝するムラサの映像が映し出される。教授は次にブラウン管に映し出されている水兵服の少女をこんこんと指で叩いた。すると、画面が一瞬真っ暗になり、何やら格闘ゲームのキャラクター紹介画面のような映像が浮かび上がった。画面の左にはムラサの全身像が映し出されており、その下には彼女の名前――「村紗水蜜」――、画面右側には彼女に関する説明が数行表示されている。
「うわっ、何だその機能。そんなことできたのか」
「まぁね。で、あなたももう知っていると思うけど、この村紗ちゃんは舟幽霊という妖怪なの。今でこそ妖怪にまでなってしまったけど、元々は水難事故で死んだ哀れな幽霊だったのよ。そこで今回は、彼女を使って測定をしてもらうわ」
「測定? 何の」
「化けて出る確率の測定よ」
「はぁ」
 化けて出る確率。はぁとしか反応しようがない。
「興味のかけらもないって言う反応ね」
「いや、だって意味わからないし」
「ふむ、じゃぁ一つ準備体操をしておきましょうか。さて問題。世界が始まってから今日この日まで、この島国ではおよそ何人の人間が死んだでしょうか?」
「へ? あー、何だ、推定問題か?」
 相変わらず教授の話は短時間の間にあちこちへ飛び回る。しかし、話と話の間の繋がりをいちいち気にしていたらきりがないということを、私はこれまでの研究室生活の中でちゃんと学んでいる。
「えぇ。大雑把でいいから計算してちょうだい」
 ふむ。まぁ、こういう問題は適当にそれっぽいことを言ってやり過ごすのがいいだろう。
「えーっと……そうだなぁ。とりあえず人口の推移から考えてみるか。現在の日本の人口が一億二千七百万人で、確か一億人を突破したのが大体五十年前だったな。人口が仮に指数関数的に増加していると仮定して関数を作ったら、あのー……西暦をx、総人口をyとしてy = 8.29e3 * exp(4.78e-3 * x)くらい? で、人間五十年っていうくらいだし一人の人間が生きられる時間をざっと五十年と仮定して五十年ごとに人口を足し合わせると、ええと……。いままでこの国で死んだのは五億五千三百万人……くらいか?」
「なるほど。ま、とりあえず五億人としておきましょうか」
 私の計算はかなりざっくりと切り捨てられた。教授は更に数字を提示していく。
「そして、日本の国土のうち人が住んでいる土地はたかだか二万平方キロメートル程度。ということは?」
「あ、何となく話が見えてきたぜ。つまり、もし仮に今までこの国で死んだ全ての人間が幽霊になっていると仮定したら、だ。一平方キロメートルの中に二万五千人の幽霊がいる、つまり六、七メートル四方に一人ずつ幽霊がいる計算になるわけだ」
「そうね。言い換えれば、この国のあらゆる部屋という部屋には平均して一人くらいは幽霊がいることになる。ところが、不動産屋で家賃を調べると、部屋に幽霊が出る確率は非常に低いわ。そこから計算してみると、この国の幽霊はせいぜい一万体ほどしかいないはずなのよ」
 どうやら教授の頭の中では、日本にいる幽霊の総数は不動産屋の家賃から推定できることになっているらしい。
「以上からわかるように、日本の総死者数から計算するよりも幽霊はずっと少ないらしい。これは何故かしら?」
「さぁ。幽霊が成仏したんじゃないのか?」
「なるほど。つまり、成仏と言うシステムは家賃を安定させるためのものだということもできるわね」
「ふーむ、そうか。……え、そうか?」
「ところが、多くの怪談から学べるように、幽霊はなかなか成仏しない。成仏させるには霊能力者が何か働きかけるか、ある種の特別なドラマがなければならないのよ」
「まぁ確かに。幽霊一体を成仏させるために一時間以上の除霊番組が組まれるくらいだからな」
 言ってから自分でも何を言っているんだ私はと思ったが、教授と会話するときの話のたゆたい具合はいつも大体こんな感じだ。
「そんなものがこの国でしょっちゅう行われているとも思えないから、一万体の幽霊のうち、成仏した幽霊は無視できるほどしかいないはずなのよ。ということはつまり、こういうことなんじゃないかしら。そもそも死んだ時点で何らかのフィルタリングが行われて、ある割合の魂は成仏してしまい、幽霊になるのはごく一部……さっきの計算からすると、化けて出る確率は五億分の一万、せいぜい0.002%程度しかない。さて、ここまでが事前予想よ」
「……あー、それで、その予想が正しいかどうか、試すっていうわけか? このテレビで」
「ええ。十分に信頼できるデータを取れた暁には、どうすれば幽霊になれるのかもわかるかもしれない。なかなか発展性のある実験テーマだと思わない?」
 教授はにぃと笑って見せる。なかなかお似合いのマッド笑いだ。
「うーん、まぁご主人様が好きそうだなって感じはするな」
「それはそうだけど、実験するのはあなたなんだからね」
 教授は再びブラウン管を手で叩いた。村紗の隣に表示されていた説明文が拡大され、画面いっぱいに広がる。
「さて、まずこの子についてなんだけど。読んでみて」
「えーとなになに……『村紗水蜜。種族:舟幽霊(元人間)。航海中の舟を転覆させて乗員を溺死させる危険な妖怪。後に尼僧、聖白蓮によって改心させられ仏門に帰依。現在は命蓮寺で白蓮らと共に暮らす。人間としての村紗水蜜は一九八五年二月二十日没、享年二十二歳。島根県の日本海沖を航海中の客船に船員として乗船していたが、海中に転落し、溺死する』……か。若いのにかわいそうに」
「死んでも運よく幽霊になれたわけだから、結果オーライなんじゃない?」
「そういうものなのか?」
 どうも先ほどから聞いていると教授は幽霊を単なる人生の延長として捉えているらしい。幽霊とはそういう性質のものではないような気もするが、如何せん幽霊に会ったことがない以上私にも詳しいことはわからない。
 村紗紹介画面に書かれていた情報はそこで終わりだったため、教授はテレビのチャンネルをがちゃがちゃと回した。ダイアルを三周ほど回した後、深い紺色の画面になったところで教授は手を止める。
「一九八五年二月二十日、午後八時三十分……ここで合ってるわね。さぁ、そろそろ問題の時間なんだけど……」
「これは……海中の映像、なのか?」
 私の問いかけに教授は頷き、ほらきた、と画面上部を指差した。どぼんという音が鳴り、水泡と青白い光を身に纏いながら小さな人影が画面の上からフレームインした。これは……。
「あのー、ご主人様?」
 話しかけようとするが、
「しっ。静かに」
 教授はじっと画面の中の人影に見入っている。
 これが海中なのだとしたら、この人影は恐らく……海に落ちた村紗水蜜なのだ。夜の海中は暗かったが、落ちていく村紗の周りには彼女に付き添うようにして青い光が漂っており、その体をぼうと照らし出している。それはまるで人の体から魂が徐々に抜け出ていくかのようにも見えた。今まさに村紗水蜜という一人の人間が死にゆこうとしている映像だというのに、テレビの中の光景は寒気がするほど幻想的で、私は息をするのも忘れて見入ってしまう。
 体に何か重りでも付けているのか、彼女は海底を目指してまっすぐに沈下して行く。画面の下辺には岩のような影が見えている。どうやらここが海底らしい。落ちていく村紗の体はそろそろ海底の岩に触れ――
「おっ」「あっ」
 私と教授の声が重なる。
 海底の村紗の体が不意に白く光ったかと思うと、ぼんやりとした半透明の村紗の像がその身体から浮き上がり、今度は海面を目指して猛烈な勢いで上って行く。元の村紗の体は海底に落ちて動かなくなった。これは……漫画とかでよく見る幽体離脱の表現のように見えたが……。
「一発目から成功とはついてるわね!」
「成功って、え、もしかして今もう幽霊になったのか?」
「そうよ」
「早いな! 迷うの」
 ほぼ死んだ直後に幽霊化してるじゃないか。どんだけ未練があったんだ。
 教授はテレビの巻き戻しボタンを押した。村紗は消え、静かな海の映像がしばらく流れた後、またどぼんと村紗が上から入水する。今度は幽霊化に失敗したのか、海底に落ちた村紗は何の変化も起こすことなく沈黙する。青い光もすぐに消えてしまった。
「あら、今度は死んでおしまいみたい。まぁでもこんなものかしら。というわけで、あなたには今の作業を繰り返してもらって、何回死んだうち何回幽霊になったか、つまり化けて出る確率を測定して欲しいのよ。このテレビを使えば、初期条件を揃えた状態で何度でも死ぬ瞬間を観察することができる。繰り返し観察していれば、幽霊になるメカニズムを解明する取っ掛かりが得られるかもしれない……」
 教授はそう言いながらまた巻き戻しボタンを押し、村紗が沈んでいく様子をじっと眺める。今度もまた村紗は何の変化も起こさずに海の底へ沈んだ。また巻き戻し、また村紗は沈んでいく……。
「ふぅん……」
 どこか艶っぽい吐息を漏らしつつ、教授は画面の中に見入っている。
 私はそっと教授の顔を覗き込んだ。教授は静かに微笑んでいた。人が繰り返し死んでいく様を眺める表情にしては冷静で無感動、まさにモルモットを見下ろす科学者の顔といった感じだった。しかしその目にはどこか奇妙な情熱が宿っているようでもあり、教授は瞬きもせずにじっと対象を見据えている。今までに何度か私に見せたことがある、この人が何かに興味を持っているときの表情だ。
 そう、興味。この人の研究に対する最大の動機は、どうやら人間に対する興味にあるらしいということを、私は最近ようやく理解し始めた。それは私が持つような一般的な自然への興味とは全く違う次元のもので、人間の行動や選択、その人生を俯瞰するような視点から観察したときの、恐らくは教授だけが持ち合わせている独特な興味なのだ。
 いつか教授は言っていた。およそ魔法というものは、人間が関与した時にだけ現れるものだから、人間のあり方と不可分な力であるに違いない、と。そりゃ単に人間の想像の産物だからだろうと私が言うと、教授は、想像の産物であろうと実在には違いない、と奇妙なことを言うのだった。
「じゃ……じゃぁ、まぁ後は私がやっておくぜ」
 私がそう言うと、教授は頷いてテレビの前から離れ、自分の机の前に座る。
 教授がどこからこの謎めいた実験道具――幻想世界を観察するテレビを手に入れたのかは知らないが、これがあってよかった。もしなかったら、そのうち教授は本物の人間を使って実験をやり始めていたかもしれない。恐らくは、倫理的に問題になりそうな実験を。


 とりあえずノートに測定方法や観測条件をまとめておき、私は実験を開始した。
 巻き戻しボタンを押してしばらくすると、どぼん、と村紗が入水。それから三十秒ほどの時間をかけてゆっくりと沈下していく。あ、幽霊化したぞ。幽霊化するときは大体入水してから二十秒以降だ。
 幽霊化せずに海底に沈みきった後もしばらく観察してみたが、どうやら海底に到達してから幽霊化することはないらしい。一応早送りしてその後の経過も観察してみたが、死体が海底で白骨化しても村紗が幽霊になることはなかった。つまり、幽霊化する可能性があるのは、村紗の体が沈んでいる最中しかない、ということだ。これもそれほど自明ではない気がするが、何か理由があるのだろうか。念のためノートに書き留めておこう。
 今回は単に確率を求めるだけなので、私は幽霊化したかどうかだけをノートに記録しつつ、作業的に実験を繰り返した。
 ふむ、七回試行して幽霊化は二回、か。
「……多くないか?」
 そう、先ほどの教授の試算と比べると、随分幽霊になりやすいという結果が出ている。想像してみてもこれは多い。七人死んだらうち二人が幽霊になるという勘定では、この国は今頃幽霊で溢れかえっているはずだ。
 あ、また幽霊化した。これで八分の三。幽体となった村紗は、海底深くへと沈んでいく自分の亡骸を尻目に海面を目指して生き生きと上昇していく。通りかかる船を襲って転覆させていたとは聞いていたが、なかなかアグレッシブな幽霊らしい。
 しかし、うーん……。八分の三か。実験結果が予想と食い違っている、あるいは感覚的に不自然な結果になっている……ということは、幽霊化に未知のバイアスがかかっているのだろうか。まぁ普通に考えて、この国の多くの人は老衰で息を引き取るのだから、船から転落死した村紗よりかは安らかに死ぬはずだ。つまり、村紗は若くして水難事故で亡くなったため、この世への未練が人よりも強く、それがバイアスとなって幽霊化しやすくなっている、と考えることができる。
 そうなってくると厄介だな……。
 つまり、幽霊になるにはある確率をかいくぐらないといけないのだが、その確率は「この世への未練」を変数とした関数になっている可能性がある、というわけだ。どういう形の関数かは知らないが。というかそれ以前に、人の未練を客観的に数値化する保々なんてあるのだろうか……。
 ま、色々と私なりに考えるところもあるが、今回の私の課題は単なる確率の測定だ。記事の原稿は教授が書くんだし、私はこのまま粛々と測定を続けよう。


「よーし。ご主人様、ある程度できたぜー」
 私はごく簡単な計算をしてからノートをまとめて教授の下へ持っていった。教授は散らかった机の上に何やら新聞を広げて読んでいた。
「あら、早いわね。結果は?」
「三十回中、幽霊化は八回だった。26.7%ってところだな」
「はぁ? 全然足りないじゃない」
 教授は新聞から顔を上げてこちらを振り向いた。
「いや、寧ろ多いだろ、予想だと0.002%程度だって。まぁ多分、それくらい村紗が持つ現世への未練が強かったんだって話だと思うんだけどな、私は」
「違うわよ、試行回数が足りないってこと。ただ繰り返すだけの簡単な実験なんだから、もっとたくさん測定しなさいよ。原稿の締め切りはまだ先なんだから」
「えー……何回くらい?」
「あのねぇ……。まぁ、自分で考えろって言いたいところだけど、それじゃぁ千回くらいやってもらおうかしら。えーと、ほら」
 教授は新聞の下をがさがさと探ると、幻想テレビの説明書を私に投げて寄越した。
「それ見て実験を自動化してもいいから」
「はーい。仕方ないなぁ……ん?」
 ふと、教授の机の上に広げられている新聞が目にとまる。紙面がところどころ色あせており、どうやら古いもののようだった。
「ご主人様、それって……」
「あぁ、あなたも読む? 参考になるかと思って、当時の新聞を取り寄せておいたのよ。ほら、ここに載ってるでしょ。村紗水蜜が溺れ死んだ事故の記事が」
「あぁ本当だ」
 教授の言うように、新聞の片隅には「島根県隠岐の海上で転落事故」という見出しの小さな記事が載っていた。
「……って、あれ? 何かおかしくないか?」
「何が」
「いや、だって村紗水蜜はテレビの中の世界……っていうか、幻想郷の登場人物だろ? でもこの新聞は現実に発行されたものなんだよな。何でそれに村紗のことが書いてあるんだ?」
「あんたねぇ」
 教授は私の顔を見て呆れたように嘆息する。
「ちゃんとあの世界のことをまだ理解できていないようね。いい? 幻想郷には幻想入りっていうシステムがあって、現実世界のものが流れ着くことがあるのよ。それは何か具体的なものだったり、あるいは形のない習慣だったり概念だったり。村紗水蜜という幽霊もそうして向こうの世界に流れ着いたってわけ。ちょうど、昔起きた実際の事件が物語として脚色されて小説に描かれるようにね」
「え……あれ? うーん、何か納得できるようなできないような……。あの、要するに村紗水蜜ってやつはこの世界にも三十年前には実在していて、で彼女は海で溺れ死んだ。その事実がその後幻想郷に取り入れられて、幻想郷で舟幽霊ムラサが形作られ、私は今テレビでそれを観測してる、とかそういう?」
「ちょっと違う。この世界でも村紗水蜜は幽霊になったと思うわ。あの近くの海域では、この事件の後何回も不審な溺死事故が起きている。それで、村紗水蜜が舟幽霊となって通りかかる船を襲っているんだ、なんて怪談が一時期流れていたらしいしね」
「うん」
「ところが、あなたもその身をもって経験してきたように、この世界では限られた人しか幽霊を観測することができない。それを霊能力の有無と呼ぶ人もいるし、幽霊は存在せず人の恐怖心によって作られる幻だという人もいるでしょう。いずれにせよ、この世界ではそうやって人間を通さないと幻想に触れることができない。でもあのテレビの向こうの世界、即ち幻想郷では、幽霊をそこに確かに存在するものとして観測することができるのよ。何しろ、小説や映画と同じように、私たちより次元が一つ低い世界なのだから」
 う、うーん……。そうだとしたら、余計村紗の事件がこちらの世界の新聞に書かれていることが不思議に思えてくるのだが……。
 私はとりあえずつき返されたノートとテレビの説明書、そして「もう読んだから」と教授に渡された古新聞をまとめて、テレビの前へと戻った。


 その後私は、幻想テレビの不親切な説明書との格闘の結果、どうにか実験の自動化には成功した。この機械、ただの古いテレビかと思いきや、ちゃんと実験器具としてのインターフェイスは備えており、パソコンと繋いでそこから操作できるようだ。あれやこれやしているうちに巻き戻しと幽霊化の判定、そして試行回数のカウントという、最低限必要な実験のフローをプログラミングすることができた。というわけで、村紗の死が千回繰り返されるまで、私の手は空いたわけだ。
 私は空いた時間で教授が持っていた新聞の記事を読むことにした。どうも有名な事故だったらしく、色々な新聞に報道が分散している。私は紅茶片手に記事を読み進め、次第にその事故についていくつか思い違いをしていたことに気づいた。
 まず、これは事故ではない。村紗は自殺したのだ。彼女は自ら海に身を投げたらしい。事件当日は雨が降っていたものの、それほど荒れた天候というほどでもなく、また船上で何かトラブルがあったわけでもないらしい。村紗は若いとはいえ数年は船の上で過ごした船乗りだ、誤って転落するということもなかっただろう。彼女は間違いなく自らの意思で死を選んだのだ。
 次に、死んだのは村紗一人ではない。もう一人、若い男が同日同じ場所で同じように海に落ちて死んでいる。この男がいたからこそ、この転落事故は広く報道される有名な事件にまでなったのだ。この事件にまつわる、いかにも昭和的なロマンスと悲劇性によって。


   ◆


 長い抱擁の後、彼は私の耳元でそっと呟いた。
「会いたかった」
 私は言葉を返す代わりに、黙って彼の胸に頭を埋めた。数ヶ月ぶりの彼の体の温もりが心地よい。今をときめく青年実業家らしい、折り目のついた背広が私の頬に触れる。逆に私の方はといえば、今回ばかりは仕事着のままで逢瀬を迎えることになってしまったが、彼は疎ましく感じてはいないだろうか。船員という、私と彼の仲を地理的にも精神的にも遠ざけてきた私のこの生業を。
 そんな私の不安を察したかのように、彼は無言で私の頭を撫でてくれる。私は顔を上げて彼の目を見つめ、
「これからは、ずっと一緒だよ」
 と言った。
 彼は微笑んで頷いた。
 それから私たちはまたしばらく無言で見つめあった。船室においてあるラジオから無機質な声色の天気予報が聞こえる。島根県東部、夕方から降水確率30%。
「あぁ、それ」
 不意に彼が何かに気づいて視線を私の後ろへやった。
「手紙、持ってきてくれたんだ」
 彼は、船室の私の机の上に置かれた、手紙の束を見てそう言った。私が海へ出てからというもの、離れ離れになった私と彼との間を繋ぎとめていてくれた、数多の手紙。ここにある分は、私へ届いた彼からの返信だった。長く寂しい航海の時は、いつもこれを読み返しては気持ちを奮わせていたものだ。
 でも、もう。
「うん。もう……必要ないもんね」
 今日この日から、私と彼はずっと共にある。だから、この手紙はもう必要ない。
「……そうだね。くっ……!」
 彼は急に私の体を腕で突き放すと、苦しそうに咳き込み始めた。
「だっ、大丈夫? やっぱり船旅は体に悪かったんじゃ……」
「あぁ……。いや、大丈夫だよ」
 そうは言うが、彼の息は乱れており、額には大粒の汗が滲んでいる。
「船旅はそれほど問題じゃないし、第一……君と一緒になるためには、どうしても船の上でないといけなかったしね」
 彼はそう言って寂しそうに笑う。


 思い返せば、最初から私と彼の間は厚い壁で隔てられていた。
 接点といえば生家が近かったということくらいで、彼が生まれたのは事業家の豪邸、私が生まれたのは貧乏船乗りの掘っ立て小屋と、この時点で私たちの立場には天地の差があった。それでも、時折道で見かける少年の頃の彼の笑顔は、私に身の丈に合わない憧れを抱かせた。
 いつから彼と個人的に親しくなったのか、はっきりとは覚えてない。ただ私が船舶学校に入る頃には既に、私たちは親しすぎるほど親しかった。私は親の仕事を継ぐように船乗りへ、彼もまた親の事業を手伝うために生家を離れることになった。別れの日、彼は私に言ってくれた。まだ時間はかかるかもしれないが、必ず私を迎えにいく、そして共に暮らそう、と。
 離れ離れになった後、私は彼に手紙を送った。しばらく間隔が空くこともあったが、彼は必ず返信をくれた。私が船に乗るようになってからは更に連絡の機会が狭まったが、それでも私は手紙を書き続けた。ハードな船上での生活の中で、彼の存在だけが私の支えだった。
 とはいえ、全く彼と会えなかったわけではない。私と彼の都合がつくときを見計らって、私たちは逢瀬を繰り返した。相変わらず潮の臭いのする小娘のままだった私とは違い、彼は会うたびに立派になっていった。彼の家の事業はここ数年で更に発展・拡大を遂げ、まだ若い彼はその中で次第に重要な地位を任されるようになっていった。彼の快進撃を聞くたびに、私と彼が共に暮らすという夢が遠のいていくような気がして、私の胸中は複雑な思いで満たされていった。
 私が彼とはつりあわない人間であることなど、ずっと前から気づいていた。私はきっと幸せになれない、それだけではなく、私の存在が彼の栄光ある未来への道を遮っているのかもしれない。それでも彼は私に手紙を書き、時々会ったときには優しく微笑んでくれるのだ。
 いつまでもこのままではいないだろう。きっと未来には悲しい運命が待ち受けているはずだ。私はずっとそう思っていた。
 だが、……私が考えているよりもずっと、私たちの運命は数奇で複雑だった。


 時刻は既に午後八時を回っている。暗い夜の甲板には人気が全くなかった。これで晴れていたら星空を眺める乗客が一人二人いてもおかしくないのだが、いつ雨が降り出してもおかしくないようなこんな曇天では、客は皆部屋に戻っているか、食堂で時間を潰していることだろう。この点については、私たちは幸運だった。このときを、二人だけで迎えることができたのだから。
「ええと、これが私の分。こっちがあなたの分。……ごめんね、こういうのしか用意できなくて」
「いや、君らしいよ。こういうものを選ぶあたり、昔と変わらないね」
 彼は私が持ってきた小型の錨を受け取り、
「……結構重いんだ」
 と言った。
「もちろん、元々船を繋ぎとめておくためのものだから。これはかなり小型だけど」
 重しになるものを準備して欲しいと彼に言われ、錨しか思い浮かばなかった辺り、やはり私は海に住む人間なのだろう。錨は船を停泊させておくためのものだから、その重さよりも形状のほうが重要なのだが、今回はただ重くて水に沈みさえすればいい。
「このロープでくくりつければ、多分外れないと思う」
「あぁ」
 私は錨と自分の仕事着のベルトをロープで結んだ。そして手すり越しに暗い海面を覗き込む。このまま飛び込めば、この錨は私をまっすぐに静かな海底へと連れて行ってくれる。そして私の体は、二度とこの俗世に浮かび上がってくることはないだろう。
「……ん、あ、しまった。ベルトを忘れていたな。後で部屋から取って来よう」
 彼は、まるで切符を部屋に置き忘れたとでもいうような軽い調子でそう言った。
 これから二人であの暗く冷たい波間へ身を投じようとしているのに、彼はいつもの彼だった。尤も、以前に比べるとその顔は随分とやつれてしまったが。
 ――俺は、不治の病に犯されている。余命はいくばくもない。
 彼からの手紙でその事実を知ったとき、私は大いに混乱した。私にとっては、彼だけが唯一の希望だったのに。いつか彼の隣で彼と共に歩んでいく日を信じていたからこそ、私はこれまで辛い荒波を乗り越えてくることができたというのに。
 けれど、私などの絶望はきっと、彼自身の絶望に比べれば取るに足らないほどのものだったはずだ。約束されていた栄光ある未来への道を、こんな若くして断たれてしまったのだから。
 私と彼は手紙で多くの言葉を交わし合い、そして共に一つの道を選ぶことを約束した。つまり、共に行こう、という道を。最初、彼は私を道連れにすることについて猛烈に反対していた。だが、彼を失った後の私に、何か一つでも生きる意味が残っているだろうか。私は彼に嘆願した。最後まで彼の隣に付き添っていくことを。
 そして今日という日に至り、私と彼は今こうして船の縁から真っ暗な水面を覗き込んでいる。
「……一緒に、海の底まで行けるかな」
 私が不安を口にすると、彼は私の肩に手を置いて囁く。
「大丈夫さ。例え潮に流されて離れ離れになったとしても、海は世界中どこだってつながっているんだ」
「……そうだね」
 彼の言葉は私に勇気を与えてくれる。
 そのとき。
「なぁ、見つかったか?」
「いや、そっちはどうだ?」
「駄目だ。どこに行っちまったんだ、村紗の奴……」
 人などいないと思っていた甲板に、複数人の男性の声が響き渡った。
 まずい、あれはきっと。
「私を探しに来たんだ、ずっと持ち場を離れていたから……」
「……まずいな。見つかったら、飛び込むタイミングがなくなってしまう」
 彼は少しの間考え込んでいたが、男達の声が近づいてくると「仕方ない」と私の顔を覗き込んで言う。
「ここは俺がうまく説明しておくよ。さっき君を部屋の近くで見かけたが、体の具合が悪そうだった、部屋で休んでいるのではないか、って。それでとりあえずここはやり過ごせる。君はその間に、先に行ってくれないか。俺もあいつらを追い払い次第、すぐにベルトを取ってきて君の後を追うから」
「えっ、でも……」
「ここでぐずぐずしていたら姿を見られて、たとえ飛び込んだとしても後ですぐに見つかってしまうよ。飛び込んだ場所がはっきりしているんだから、沈んだ場所もすぐにわかるさ。そうなったら当然引き揚げられて、僕と君は離れ離れになってしまう」
「……それは……」
「大丈夫だよ。離れている時間はほんの僅かだ」
 彼は私の肩を抱きしめ、安心させるようにやわらかく微笑んだ。
「……うんっ」
 彼は甲板の反対側に周り、男達に何やら話しかけている。
 あまり時間はない。私は手すりを乗り越え、船の縁から水面を覗き込む。波と波の間に、ちらりと青白い光が見えた。それはまるで、向こうの世界から何者かが私に手招きをしているようで、私はそれに誘われるように、半ば無意識に身を乗り出した。


 深く深く、私の体は沈んでいく。
 先ほどまではあんなに苦しかったのに、何故だろう。苦しいという感覚はいつの間にか遠のいて、私はこの体を包む青い光をぼんやりと眺めていた。
 私はもう死んでいるのだろうか。肉体は既に生命の維持を諦め、魂を手放す準備をしているのかもしれない。溺れ死ぬのは大変な苦痛だと聞いていたし、実際先ほどまでは気が狂わんばかりの苦しみに苛まれていたが、最後は安らかな心地のまま眠りに就くことができそうだ。
 最後に、あの人が隣にいないことだけは、少し残念だけど。
 でも、世界中どこだって海はつながっているのだ。すぐに、あの人はやってくる。
 ――これからは、ずっと一緒だよ。
 段々と青い光が消えていき、私は……。


「あっ、見て。あそこも光った!」
 身なりのいい子供が海面を指差してはしゃいでいる。彼の隣の母親らしき女性も、夜の海に浮かび上がる青い光の波にうっとりと見とれている。
「綺麗ねぇ。お星様みたい」
 甲板には多くの客が集まり、波間に漂う青い光を眺めていた。夜の海面を航行する客船の周囲を、幻想的な青い光が包み込んでいる。この晩は、この海洋の自然現象を見慣れている船員達でさえも思わず目を向けるほど、その青い光は強かった。
「でもちょっと不気味だな」
 甲板で海面を眺める乗客の若い男性が呟いた。隣で彼に寄り添う女性は、どうして、と問いかける。
「夜に光るものって言ったら、ほら、人魂とか、鬼火とか……。よく人の死と結び付けられるじゃないか」
「やだもう、ロマンがないんだから」
 若い二人は笑い合った。
 星も月も雲に隠された闇夜の海原で、幽玄な青白い光が静かに揺らめいている。その光の波を割るようにして、客船はゆっくりと海の上を進んでいく。


   ◆


「なるほどねぇ……そういうことだったのか」
 暇をもてあました私は、教授から受け取った新聞記事に加え、ネットなどからも情報を集めていた。どうやら村紗水蜜の死とは、
「つまり情死だったわけだ」
 社会に認められない関係だった若き男女は、その愛を成就させるために冷たい海へと身を投げたのだ。
 転落事故の後、陸の村紗の部屋からは数年の間に二人の間で取り交わされた大量の書簡が見つかったという。それは入水した男が思い人である村紗へ宛てて書いた手紙で、どこからかそれがマスコミに漏れ、不幸な若い男女が愛を貫き通したこの物語は世間の注目を浴びることとなった。「身分違いの恋」とは当時であっても時代錯誤的な主題だっただろうが、それが逆に受けたのか、小説化されたり舞台化されたり映像化されたりと持てはやされ、村紗水蜜の物語は多くの人に届いたようだ。
 ……まぁ、その一方で、事件のあった海域でその後に起きた事故は、全部幽霊となった村紗の仕業だと言われもしたのだが。
「ふぁ~あ……はぁ」
 私は伸びをして体をほぐす。目が疲れたな。
 ここまで調べる気はなかったのだが、思わず引き込まれてしまった。男と心中とは……正直、私には想像もつかない世界だ。心中とは行かないまでも、そんなに心が通じ合う相手が私にもいつか現れるのだろうか。……事件の記事を読んで、私のようにそんな想像を抱く者は、きっととても多かったのだろう。
 気がつけば研究室の外はすっかり暗く、教授は机の前に座ってうな垂れ、目を閉じている。起きているのか寝ているのかはわからない。テレビを使った実験は先ほど完了した。テレビと繋いだノートパソコンには、測定結果が表示されている。
 幽霊化は千回中三百十五回。確率にして、31.5%。
 これはただの数字ではない。村紗がそれだけ強い思いを抱いていたという証だ。世を儚んで身を投げたと言えば簡単だが、人の死には往々にして強い感情が伴う。この確率の測定から、人が死ぬときに抱いていた思いの強さを逆算して推定できるのではないか、そんなことを私はふと思った。それは、幽霊化する仕組みの原因の解明よりも面白い研究テーマかもしれない。
 ……うーん、こんなことを考えるとは。私も教授に影響されてきたかな。
「まぁとにかくこれで実験終了、と。人間が……いや、村紗水蜜が幽霊になる確率は、31.5%と測定できたわけだ」
「違うわよ」
「うわぁっ!」
 いきなり背後から教授の声がして、私は飛び上がった。
「あ、あれ? 寝てたんじゃ」
 いつの間にこの人は机から私の背後へ移動したんだ。
「その結果」
 教授は私の肩越しにパソコンの測定結果画面を覗き込む。
「使い物にならないだろうから、もう提出しなくていいわ。今回の実験は失敗、っていうことね。あ、原稿はさっき電話で断っておいたから。安心して」
「え、えぇっ!? どういうことだよ、それ! 折角頑張ったのに……っていうか、測定は成功したじゃないか! ご主人様の言ったとおり……」
 私はふと口を噤む。測定結果を眺める教授の表情に気づいたからだ。
 この人が測定前に見せていたあの興味の表情は残っていない。興奮が冷めた後の、ひどく冷静で無感動な眼差し。まるで、このことについては全てを把握してしまったから、これ以上の興味が沸かないとでもいうような……。
「これはね」
 平板な口調で教授は語る。
「物理実験の、よくある落とし穴なのよ。この手の失敗はあなたもこれまで何度かやらかしてるけど、成長しないわね。つまり、あるものを測定しようとして試行を繰り返すが、結果に重大な影響を与えるあるファクターを見落としていていた、っていうパターン。その結果、本来測定しようと思っていた確率とは全く別の確率が測定結果として現れる。ここまで綺麗に別の数値が測定できることは稀だけど」
「えー……と。つまり何だ、この30%って数値は、化けて出る確率ではない、……ってこと? 何か別のものを表していると?」
「えぇ。幽霊になる確率というものが仮に存在したとしても、この結果には比較できるほどの影響を与えてないんじゃないかしら」
「う、うーん……」
 さすがに努力をここまで無碍に否定されては、そう易々と納得できるものではない。
「でもさ、ご主人様。私はプログラムを組んで、毎回同じ時点に時間を巻き戻していたんだぜ? そりゃ試行ごとに画面の物質を構成する全ての分子一個一個の座標と速度が毎回同じだった、ってわけにはいかないかもしれないけど」
「そんなミクロな話じゃなくて、もっと目に見えてわかる明白なファクターが変動していたのよ。それがこの数値の指し示す『答え』」
「はぁ……?」
 ええと、どういうことだ……? どうも教授の様子からすると、彼女の言うファクターが何であるかは既に把握しているらしい。
「わからなければ考えてみなさい、一つの演習だと思ってね。さっきから見ていたら、あなたもある程度この事件については調べたみたいね。私もさっき色々調べて、そしてその30%という実験結果を予想していたのよ。この数字を引き起こしたであろう幾つかの事実から」
「事実……?」
 一つ、と教授は人差し指を立てた。
「周辺海域で夜光虫が現れたこと。その画面にも見えている、水に落ちた村紗の周りを漂っていた青い光ね」
「あ、これ夜光虫だったのか? 夜光虫って言ったらあのー、海とかにいて、こう刺激を与えると光るプランクトンだよな」
 魔法的なエフェクトだと思っていたらただの虫だったのか。……だがそれがどうかしたのだろうか。
「えぇ。元々この客船の売りの一つだったらしいわね、夜に夜光虫が観察できる船旅、って。乗客はみんな、それを期待して船に乗り込んでいるのよ。夜光虫そのものよりも、この点を留意する必要がある。そして二つ。これはあなたが知っているか分からないけど、男の遺品から村紗が男へ送ったであろう手紙が見つからなかったこと、加えて村紗の部屋から見つかった手紙が全て手書きによる複写だったこと。村紗は今まで届いた手紙を航海に持ち出していたようだから、きっと陸にも保存用に複製を保管していたのね。乙女の恋心ここに極まれり、といったところかしら」
 それは知らなかった。手紙がコピーだった、ということは、本物の手紙はどこへいったんだ?
「そして三つ。テレビに映った映像に妙な点がある。報道によればこれは愛を成就させるための心中で、実際海に落ちたのは若い男女一組なのに、このテレビで見てみると落ちてくるのは村紗一人だけ。その隣に男の姿はない」
 教授はさらりとそう指摘したが、その言葉は暗にある推測を私に提示していた。男と女が死を以て永遠に添い遂げることを誓い合う、しかし海に落ちてきたのは女だけ……。
 私の背筋を、嫌な予感が微かに走り抜ける。
「そりゃ……まぁ、何か事情があったんじゃないか? 例えば……入水の準備をしていた村紗たちのところに、村紗がいないことに気づいた船員が探しにきて、男がそれを食い止めている間に村紗が先に飛び込んだ、とか。男の方はまだ準備ができていなかったのかもしれないな」
「そうだとしたら、重りまで用意していた割には詰めが甘くないかしら?」
 そう言われても。教授はその先を自分からは話そうとしない。もしかして、私が自主的に気付くのを待っているのだろうか。この数字が指し示す答えとやらに。
「……なぁ、ご主人様がどう考えてるか、そろそろ教えてくれないか。何だか気持ちが悪いぜ」
「気持ちが悪いのなら、何故そう感じるのか探ってみることね。一つ一つ糸を手繰り寄せるように事実を総合していけば、いつかどこかで一本の糸につながる時が来るから。正しい方向へ糸を手繰ることができれば、その糸の先は必ず、30%という数字の答えにつながっている。そう、この事件で言うところの」
 教授は事件当時の古新聞を持ち上げ、事件が書かれていた頁ではなく、天気予報の欄を私の前に掲げて見せた。
「答え――即ち『降水確率』にね」


   ◆


 ――島根県東部、夕方から降水確率30%。
 船室に置いてあるラジオから、無機質な声色の天気予報が聞こえてくる。見れば、船室の窓を大粒の雨が叩いている。昼から空模様は微妙だったが、とうとう降り出してしまったか。
 甲板に上がれば濡れてしまうな……。俺は彼女を抱きしめながら、そんなことを考えていた。
「これからは、ずっと一緒だよ」
 俺がそう言うと、目の前の痩せぎすな女――村紗水蜜は縋るような目で俺を見上げた。
 俺は彼女に微笑んで見せ、心の中で呟く。
 でも、死ぬのはお前一人なんだよ。


 こんな女のためによくここまで手を尽くしてやったものだと、自分で自分を褒めてやりたくなる。それほど今回の準備には手間がかかった。だがそれも仕方がない、どうしても必要な処置だったんだ。俺の未来のために。そして勿論、彼女の幸福のために。
 村紗水蜜と俺の関係については、こちら側にもいくつか反省すべき点があった。彼女が船舶学校へ進むあの時、縁を切りきれなかったのが最初の失敗だった。あそこできっぱり別れていればよかったのに、俺としたことが。
 離れ離れになった後、一体どこで俺の住所を調べたのか、彼女は何通も手紙を送ってよこしてきた。愚かなことに、最初の方は俺もそんなにまんざらじゃなかったんだ。だから彼女に返信を書いてしまった。実際、俺の言うことは何でも聞くし、見た目もそこそこだったし、一時期はこのままずっとこの丁度いい関係を続けていられたら、と考えていたこともあった。
 だが俺も次第に理解するようになった。この女は俺を栄養源に生きている寄生虫だ。元々誰かに依存していないと自分では立つこともできない、村紗水蜜とはそんな人間だったのだ。手紙のやり取りと、年に数回の人目をはばかる逢瀬を繰り返すうちに、彼女のその性分はどんどん悪化していった。彼女はこう思っていたんだ。自分の長く辛い人生の苦しみは、いつの日かあの人と結婚することで終わるのだと。分不相応にもほどがあるその望みを彼女は本気で抱いていて、その夢想に縋ってこれまでの日々をやりすごしていたのだ。
 俺は、何度か波を立てずに関係を終わらせるよう彼女に掛け合ってもみた。もう自分達は階級が違いすぎる、残念だが互いのためにならないのだ、と。だが彼女は聞きやしない、それでもいつか俺が自分を救い上げてくれるのだと固く信じたまま、それ以外の未来を受け入れる気は毛頭ない様子だった。
 その上、彼女は俺の人生にとっての真の障害になり始めた。彼女との関係はずっと隠し通してきたのだが、一年ほど前、ついにその関係が親父にばれてしまったのだ。それも親父主導で俺の縁談を進めている最中に、だ。
 いよいよもって俺は追い詰められ、ついに一つの結論にたどり着いた。
 村紗水蜜を殺害すること。それも、彼女にとって最も幸福な形で。


 雨音に混ざって聞こえた今の重い水音は、恐らく村紗が身を投げた音だろう。彼女はどうやら最後まで俺を信じていてくれたらしい。まったく、途方もない幸せな女だった。
 甲板へ村紗を探しに来た船員に適当に話を合わせておき、俺は村紗の船室へ急いだ。元々彼ら船員たちに「あの女船員に大事な手紙を盗まれたかもしれない、探して来い」と命じたのは俺だ。甲板にはいなかった、と俺が言えば、彼らはすぐに別のところを探しに行っただろう。そして、俺が村紗の船室へ入り込み、そこにあった手紙を持ち出す現場を仮に目撃されたとしても、何とか言い訳は立つはずだ。村紗を先に飛び込ませる口実を作ることと、あの手紙を安全に持ち出すこと。この二つを同時に適える手段として、我ながらなかなか冴えた策を思いついたものだ。
 それにしても甲板は酷い雨だった。早く着替えないと怪しまれるが、俺にはもう一つ甲板でやらなければならない重大な仕事がある。
 俺は村紗の部屋から手紙の束を持ち出し、急いで甲板へと向かう。
 ――成功のためにどうしようもなく邪魔な人間は、この世から排さなければならない。
 それははっきりしていたし、その前提に問題はない。その上で今改めて思い返すと、何故俺はこれほどまで苦労して彼女の幸福な死を演出してやる気になったのだろう。二人きりになったときに海へ突き落とせばそれで済んだのに。しかし、結局俺も人の子だ。一度は愛した女性に最高の最期を贈ってやりたかったのかもしれない。それに変に恨みでも買って、化けて出てこられても困るしな。
 俺は一年も前から不治の病を演じ、徐々に衰弱しているということを彼女に見せつけ、また俺と彼女の未来には何の希望もないのだと暗に言い聞かせた。更に、二人にとって唯一の幸福は、共に死んで永遠の愛を成就させることだと信じ込ませた。元々俺の言うことを鵜呑みにする女だ、このこと自体はそれほど難しくはなかった。
 大変だったのは状況のセッティングだ。勿論俺は彼女と共に死ぬ気などさらさらなかったが、彼女には俺が確実に後を追うと思わせて自ら命を絶たせる必要があった。その上、二人の関係を知る親父達には、俺が別れ話を切り出したために悲観して彼女が一人海へ身を投げたと思わせなければならないし、世間には、そもそも俺と彼女の関係を知られてはならない。
 それらの条件を成立させるためには、何としてもこれを処分しなければならないのだ。
 俺は雨の振る甲板へ出、誰もいないことを確認して手紙の束と村紗から貰った錨をロープで縛り付ける。
 この手紙には俺と村紗の関係だけでなく、俺が村紗に明確な殺意を抱いていたことを示す記述がいくらでもある。村紗が身を投げたことが分かった暁には、村紗の身辺は徹底的に調査されるだろう。そのときこの手紙が見つかれば、俺はただでは済まない。村紗が自分で身を投げたこと、少なくとも俺がそれに関与していなかったことは、うまくすれば先ほどあの水音を聞いたときに話していた船員たちが証言してくれるだろうが、この手紙が見つかれば俺は自殺教唆罪……いや、そこに明確な殺意が認められた時点で殺人罪で裁かれる。
 そうは言うものの、船上で焼き捨てようとすれば火災報知機にひっかかりかねないし、村紗本人に処分させるのでは不安が残る。結局、適当なことを言って船の上から投棄するのが一番安全で簡単だ。勿論、ちゃんと沈むように重石をつけて。
 しかし、それにしても俺はついていた。
 このタイミングでこんな大雨が降っているなんて。降水確率は30%だったか。今日はいい意味で外れてくれた。
 もし雨が降っていなかったら、今頃この甲板は先ほど波間に見えた夜光虫に見とれる乗客で溢れ、とてもこっそりと海に物を捨てるなんてことはできなかっただろう。その場合は更に危険な方法で手紙を処分しなければいけなかったはずだ。
 ……よし。準備はできた。危険な証拠品はととっと隠滅してしまわないと。
 俺は手紙を結わえた錨を、そっと海へと放った。


  ◆


 闇夜の海中を、青白い光を纏いながら一人の女性の体が漂っている。その腰には錨が結び付けられており、女性の体はゆっくりとだが確実に海底へ向かって沈んでいく。既に意識はないらしく、その開かれた空ろな目は海面のほうへ向けられている。
 と、彼女の上方から、別の青白い光が沈んできた。まだ意識が残っていたのか、あるいは単に海流で体が動かされたのか、彼女の手がそっと上方の光へと伸びる。まるで、最後に添い遂げたい相手に向かって手を伸ばすように。
 やがて青白い光は、彼女の手が届くほどの距離まで近づいた。
 青白い光の中心にあった錨が彼女の手に触れ、その途端、彼女の周りに俄かに強く青白い光が広がった。彼女の体と、新たに上から落ちてきたそれが青く照らされる。
 彼女の目に、その手に触れた錨と、その先端に結び付けられた無数の手紙が映った。彼女が慕い、縋ってきた思い人の言葉の一つ一つが、その言葉を信じていた彼女をあざ笑うかのように、冷たい海水に溶けて消えていく。
 光はすぐに薄らぎ、辺りは再び暗くなった。


 既に息絶えたはずの村紗水蜜の両目が見開かれ、血のように赤く染まっていく。


  ◆


 俺は食堂の壁際に立ち、何もせずにじっと時間が過ぎるのを待っていた。
 廊下を歩く乗員達の会話から、どうやら行方不明になった村紗の捜索が徐々に本格化し始めていることが伺える。乗員一人がいなくなったところで、どこかで油を売っているのだろうとみなされ放置されるかと思っていたが、意外とちゃんとしている。
 これ以降は俺も派手な動きはできないだろう。だが、後はもうじっとしていればいいだけだ。雨に濡れた上着はもう着替えてしまったし、手紙も処分できた。何も心配はないはず……。
「はい、何ですか?」
 ふと、誰かに名前を呼ばれて反射的に返事をする。だが顔を上げると俺の周りには誰もいない。おかしい、今確かに誰かが……。
 廊下のほうだろうか。賑やかな食堂を出て暗い廊下に立つと、また誰かに名前を呼ばれる。今度は……甲板のほうからか? 女の声のように聞こえたが、……まさか。
 いや、そんなはずはない。直接確認してはいないものの、村紗が身を投げた音を俺は確かに聞いているし、乗員がまだ村紗を探している以上、彼女が救助されたということもないはずだ。村紗であるはずがない……。
 外はまだ雨が降り続いていた。俺は甲板に出ると、雨に濡れないよう庇の下を通って船の縁に近づいた。確かここから村紗は落ちたはずだ。馬鹿なことをと思いつつも、念のため手すりから海面を覗き込む。
 当然だが、何もおかしなものはない。遥か下方、雨粒が吸い込まれていく先に、黒々とした海面が広がっているだけだ。
 大丈夫だ、大丈夫に決まっている。それよりもこんなところにいるのを目撃されたら怪しまれかねない。早く戻らなければ。
 そう自分に言い聞かせて縁に背を向けたとき、今度はすぐ背後で自分の名が呼ばれた。はっきりと、彼女の――村紗の声で。
 そんな、馬鹿な……。俺は失敗したのか? 村紗は生きていたのか?
 とにかく、何か言わないと。何か……。
「む、村紗、俺は――」
 言い終わるよりも前に、背後から俺の首根を濡れた女の手が掴んだ。
前作「天才と友達になる方法」と同じ世界観の短編ですが、話のつながりはありません。
銘宮
http://www.nicovideo.jp/user/20481638
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コメント



0.270簡易評価
1.10名前が無い程度の能力削除
よくここまで設定ガン無視出来るもんだ。
9.70名前が無い程度の能力削除
雨が降って、男がうまくやれたと思った行為こそが幽霊化のきっかけになって男の不幸を呼び込む
馬鹿な男のバカな気まぐれが文字通り自分の首を絞めたわけだ

というか教授本当に賢いな、探偵のようだ
ただ、教授たちが「外側」にいるのがなんか気になるというか
上から見下ろすようになってる教授たちが当事者になってほしいみたいな気持ちがあったりなかったり
12.100名前が無い程度の能力削除
とても好きです。なんで評価がこの作品だけ低いのかわかりません。