Coolier - 新生・東方創想話

嘘をついたら全部よくなる

2015/02/09 23:33:39
最終更新
サイズ
36.56KB
ページ数
1
閲覧数
3955
評価数
7/24
POINT
1380
Rate
11.24

分類タグ


 その日はそこらの納戸だか物置だかだった。辺りに人影の見えない隙を見計らって、こっそり潜り込んだ。正邪は家を持たない。好き勝手なところに住む。嘘をつくのが好きだし、上手だから、一人暮らしの老人の家に、孫だよ、とか、忙しそうな旅館に、女中の手伝いで呼ばれました、とか、言いつくろって、潜り込み、良さそうなところを見つけては眠る。気付かれたらどうしよう、などとは、深く考えない。定住する住処を持たぬ生活を続けるうち、一流の肝の据わり方を身につけてしまった。
 正邪の行動の規範は、やりたいことをやる、ということだ。何者か、例えば運命や神というものがいて、あらゆるものの動きを決めているというのなら、絶対に従ってなどやらない、と正邪は考える。抗うことが鬼人正邪なのだ、と信じている。由来、天邪鬼という中途半端な生物として時を経、他者から否定され蔑まれたことが、その理念を形作っている。自身を否定する声を、そうではない、と抗わなければ、自身を保てなかったことが、正邪を形作っている。
 だが、と正邪は一つの思考に行き届いたことがある。運命や、神が、正邪の人格を、あらゆるものに抗うように作ったのだとする。そうなると、抗うことそのものが、神や運命に操られていることになるのだが、それ以上は正邪は考えないようにしていた。そこまでゆくと、存在していることそのものが、何者かの意思であるかのように思うからだ。
 ここにいる鬼人正邪は、生きているのか、生かされているのか? あらゆるものに叛逆するとは、どういうことか?
 存在していることに叛逆するには、何もかも消してしまうほかない。
 だが、そういった虚無主義に走るには、正邪は存外この世界は好きなのだ。何者かの導きを感じようとも、生きて、抗う。これが正邪の基本理念だ。
 うとうとと、益体もないことを考えて、積み上げられた布団に背中を預けて微睡んだ。正邪の生は、大半の時間、何者かに追われていることに費やされる。日々の糧さえ、盗みをやって得るような生活だから、当然のことではあった。故に、正邪には常に睡眠不足と、疲れが付きまとう。だから、正邪には、横になれば五分でも十分でも、眠って身体を休める癖がついていた。
 物置の戸が突然がらりと開いた。

「何、やってんの。誰だお前」
「あ?」

 扉が開いて、封獣ぬえが顔を出した。ふよふよと奇妙な羽根を泳がせて、正邪をぎろりと可愛らしく睨みつけたが、正邪は寝転んだまま平然としていた。誰かに見つかっても、正邪は堂々としている。身体を隠そうともしない。誰かの場所とは、逆に言えば誰のものでもない。境界線でもあんのか。あるなら見せてみろよ、と言わんばかりの居座りようである。だが、言わない。言えば喧嘩になるからだ。正邪は喧嘩も好きだ(力は弱いので口喧嘩が主だが)が、相手を観察してうまい方法を考えるのが常だった。今は、脱兎のごとくに逃げなければいけないほど、悪いことをした訳ではない。
 正邪は鷹揚に構えながら、相手をじっと観察した。ちびっこくて、黒っぽい妖怪だ。強そうにも見えないが、妖精のようにあからさまに弱い相手でもない。喧嘩を吹っかけるのは考え物だと正邪は決める。

「野良妖怪だな。寺に潜り込むなんて、ふてえ奴だな」
「ふてえ奴、ってさ。胆が太いってことなのかな。それとも不逞な奴って意味合いなのかな。どうでもいいや」

 思いついたことを、思いつくままに喋った。煙に巻くつもりはなかったが、ぬえは一瞬言葉を澱ませた。寺か、そうか、ここは寺だったか、と正邪は考えながら、腕を伸ばして相手を抱え込み、引っ張り込んで扉を閉めた。ぬえが呆気にとられているうちに、正邪はそれを済ませた。

「なっ」
「開けたまま大声でぺらぺら喋るんじゃない。人が来るでしょうが。話がしたいなら入ってからにして」
「何をっ、するのよ。誰がっ、あんたと話したいって言った。うざい奴」
「ほほう。話したくない。途端に私はあんたと話がしたくなってきたねえ。私は……私は博麗の巫女だ。あんたの名前は」
「嘘だ、嘘を言え。巫女はそんな顔してないよ」
「じゃあ霧雨魔理沙だ。顔は……こないだトラックに轢かれてこんな顔になったんだ」
「もういいよ。あんたが誰かは正直興味ないの。私はぬえ。封獣ぬえって言うの。封印の封に獣の獣。ぬえはひらがな。これで全部よ、分かった? じゃあ出て行ってよ」

 ぬえは鬱陶しそうに言った。けれど、抱き寄せられた身体をよじって逃げることはしなかった。ぬえは強い力を持つ割に、その力を相手次第で発揮することが多い。こうまでされて、賢しらな口を利かれても、決して怒ってはいなかった。普通の人間や妖怪はどういう時に怒るのか、こういう時は怒るべきなのか、今ひとつ分かっていない。正邪は、ぬえを眺めながら、案外強い妖怪ではないのかな、と観察を続け、言葉を続けた。

「そもそも、ぬえは何をしに来たの」
「ここ、私のお気に入りの場所なの。あんまり人が来ないから。ああ、もう。なんで話してるのよ。私は話したくないの、勝手に寺に入ってるのも良くないし、私の場所だし、出てってよ。ていうか、いい加減に離して。鬱陶しい奴」
「へえ。あんた友達いないんだ」
「友達いないって何よ。いなくたっていいのよ。別に、いたっていいことないんだし」

 ふん、と拗ねたようにぬえはそっぽを向いた。おやおや、可愛らしいねえ、と正邪は思う。その仕草から、本音の言葉でないことは容易に伺えた。正邪のように、嘘をつく妖怪にはあっさり分かる。

「ああ、そりゃそうだ。友達なんていたって仕方ない。じゃあ、友達がいらないんなら、私がなってやろう」
「何がじゃあよ。いらないって言ってるんでしょ。どうしてそうなるの」
「私は、友達がいらないって言ってる奴に友達が出来て、喜んでるところを、『お前なんて友達じゃない。お前なんて知らない』って言って、絶望の顔をするのが好きなんだ」
「悪趣味な奴。そんなこと言うつもりの奴と仲良くしようって思う奴がいると思うの?」
「ああ思うね。友達のいない仲間はずれ妖怪なら特にね」
「馬鹿にしてんの」
「馬鹿にされてるって思うんなら自分を蔑んでる証拠だよ。友達がいない自分を寂しいやつ、だめなやつって思ってるんだ。可愛いねえ」
「馬鹿にして」

 正邪はくすくす、くすくす笑った。相手の力量を見るよりも、ぬえをからかうのが楽しくなってきたのだった。『友達になってやろう』なんて言ったのも、ただの気紛れだった。天邪鬼のいつもの性質。そのつもりだったが、あんまり素直に言葉を喋るものだから、本当に可愛らしく思えてきたのだ。可愛らしく思えたからこそ、可愛がってなどやらない。ようし、と正邪は心を決めた。可愛がってやるふりをして、いじめてやろう。普通の相手なら、正邪にからかわれれば怒るかどこかへ行ってしまうかだ。不法侵入者に対して普通に話して、からかわれても怒らないぬえは、正邪の格好のおもちゃだった。
 ぬえのほうではからかわれていることに気付いて、いい加減怒りそうなだったが、ぬえに積極的に構う妖怪は少ないから、つい怒りきれないでいた。自分の方から、怒って、どこかへ行ったりできないのだ。

「話そうよ。私、お前のこと嫌いじゃないみたいだぜ」

 ふん、とぬえは鼻息荒く、だけど表情を緩ませて口を開いた。

「話してやってもいいけどな。お前の名前を教えなよ。そうしたら、話してやっても良いよ」




 ぬえがお気に入りの物置の扉を開けると、そこに正邪が潜り込んでいる。正邪は、どんな風に潜り込むのか、気付いたらそこにいる。寺は人の出入りが多いし、裏の墓場には怪しげなものが出るらしいから、変わった奴がいるのは別に珍しいことではないのかもしれない。害があるわけでもなし。ぬえはそんな風に、正邪が自然とそこに潜り込んでいることを納得した。見れば、正邪は小皿に乗ったおにぎりと、瓢箪を持ち込んでいた。

「どうしたの、それ」
「ご飯を作ってる気配がしたから、ちょちょっとね。何、簡単なもんだよ。外で作業をしてる人がご飯持ってきて欲しいらしいからちょっと分けて、とか言ったら、案外疑いもせずに作ってくれるもんさ」

 呆れた、とぬえは思った。こんな風に生きて行けたら、どこででも生きていけるだろうな、と思った。ぬえは長いこと生きている人間ながら、人や妖怪とコミュニケーションをとって紛れるのは苦手だ。正邪は付け合わせの漬け物をぽりぽりやりながら、食うかい、と言った。

「でね。その時、私は法界まで付いていったんだけど、その巫女が集めた欠片で、聖が目覚めたの。巫女はそのまま聖を倒しちゃったんだけど……元々復活する目的は果たされたから、それから寺を建てて、ここにいるのよ」
「へえ。あの巫女は色んなことをしてるんだな」

 二人はもしゃもしゃご飯を食べながら、ぬえがここに来た経緯のことを話していた。そのうち、聖と巫女の話になった。ぬえはここで食べるご飯は不思議とおいしいと思った。皆で並んで食べるより、狭苦しいところで座り込んでいる方が、楽だ。皆で食べる時は、きちんと座って、箸もきちんと持って、しないといけない。幻想郷以前からの仲間内……一輪や村紗達だけならば、彼女らは軽口を叩いたりして、もう少し気楽にやるけれど、修行に来ている通いの妖怪達と並んでいれば、等間隔に並んで、時間も守って、きちんきちんとやらなければならない。ぬえはそういうのは苦手だった。だから、ご飯時でも面倒で抜け出してしまって、そこらの蛇なんかを食べたりするのだ。今度からここに来よう、とぬえは思った。正邪にご飯を持ってきて、私も一緒に食べよう、と思った。
 指先をぺろぺろ舐めて、指先についたご飯粒を食べる正邪を見ながら、ああ、今度からじゃなくても、今からすればいいじゃないか、と考えた。

「なんだい。何見てるんだよ。気持ち悪いな。にへにへ笑って」
「あのさ、正邪。おやつ食べない? 持って来るからさ」

 正邪は嬉しそうに言うぬえを見返して、いらない、と言った。




 ……友達がいないなんてこと、ない。
 ぬえは、木の上から、皆を見下ろしながら、思った。ぬえの視界の下で、村紗と一輪は、おざなりに箒を動かしながら話し込んでいる。掃除をしているんだか、サボっておしゃべりをしてるのか、分からない。
 今からだって、降りていって、話に入ることだって、できるんだ。そのつもりで、会話の中に入れそうな話題を探していたけど、今日もしなかった。二人が話しているのを見ているだけで、なんとなくいいかな、と思っているうちに、二人は箒を片付けに、歩いて行ってしまったのだ。
 木の上にいるぬえの事には、気付きもしなかった。『あ、ぬえ。どうしたの、降りてきなよ。一緒に話そう』そんな風に言われるのを期待なんて、していないけれど。ぬえは誰もいなくなった庭に降りて、スカートのお尻をはたいて埃を払った。
 物置に行ってみると、正邪が横になってだらだらと暇そうにしていた。正邪はにっと笑った。ぬえが来たことへの笑みではなくて、暇潰しの道具が来た、というような、誰でも良い笑いなのだろう。でも、ぬえは笑顔を向けられたことが嬉しかった。埃っぽい、薄暗い、狭っ苦しいところ。

「お、どしたの。今日は遅かったじゃん」
「……別に」

 にやにや笑いながら、正邪は言った。ぬえは態度にちょっとむかついたけど、出て行こう、とは思わなかった。正邪から微妙に距離を取ったところに座り込んだ。正邪は膝を付いて歩み寄って、抱きかかえた。身じろぎして、極端にはねのけることも出来ず、ぬえはされるがままだった。

「何やってんの」
「ああ? ああ、嫌なのかい」
「嫌っていうか……嫌だね」
「そうだよな、普通は嫌がるよな。ベタベタされんのは。好き合ってるならまだしもな」
「好き合ってないからな。ひょっとして正邪、お前、私のこと好きなんじゃないのか?」

 いつもからかわれてばっかりだから、ぬえはからかってみることにした。からかうのにも、直感で物を言う者もいれば、考えてからじゃないと言えない奴もいる。ぬえは後者で、正邪は前者だ。喋ること全部がからかいとも言えるかもしれない。

「ああ、そうだよ。お前のことが好きなんだ。言わなかったっけ」
「馬鹿言うな。いいから離せ。鬱陶しいから」
「ああそうかい、嫌いなんだな。お前は嫌な奴だよ。ふん、いいさ、いいさ」
「そう言うんなら離せ。何だよ。……っていうか、本当なの?」

 ぬえの方が照れてしまって、そう言ってしまった。正邪はにまぁ、と笑った。顔を見た瞬間にぬえは分かった。分かって、顔を真っ赤にした。

「馬鹿。馬鹿野郎。嫌いだ、お前なんて」
「ははは、ははは。お前、馬鹿だねぇ。面白いったらないねぇ」
「んだよぉ。……ほんっと、お前さぁ……ていうかさ、離してくんない。離せよ」
「何だ、こうしてるの嫌なのかい」
「嫌だねえ」
「じゃあ離さない」
「何でだよ……」

 正邪は腕に力を込めて、余計に身体をくっつけて、ぐりぐり自分の身体をぬえの身体に押しつけた。痩せ形で、骨っぽい、二人の身体が、隙間なく触れ合った。

「お前が離して欲しくないって言うまで、永遠に、絶対に離さない」
「………………」
「何だよ、離して欲しくないのかよ。離して欲しくないみたいじゃないか。じゃあ離す」
「何でだよ」

 他人と触れ合うことは心地よい。正邪にも、ぬえにも、それはそうだった。だけど、心地よくなれば、正邪は躍起になって身体を離そうとする。正邪がぺいっと、放り出すみたいにしてぬえの身体を離すと、ぬえは不満を明らかにした。

「お、いいねえ、その反応いいねえ。もっと離す」
「何だよ……ほんと、自分勝手なやつだな、お前」
「それは違うだろ。私は、お前の気分が変わったから止めたんだ。自分勝手なのはお前の気分だろ」
「意味の分かんない理屈をさ……」

 まあ、いいけどさ、とぬえは言った。正邪は楽しそうだったし、楽しそうにしてる奴を見るのは嫌いじゃなかった。それに、正邪といると、正邪は気楽そうにしている。ぬえは、正邪は寂しいやつなんだ、と思った。どこから来たやつか知らないけれど、一人で、ぬえしか遊ぶ相手はいない。正邪にとって、ぬえはどうでもいい奴だった。ぬえはそれを思うと寂しくなる。だけど、元々を考えると、ぬえにとっても正邪はどうでもいい奴だ。どうでもいい奴なら、適当に相手をしていたっていい。その気楽さが心地よかった。




 血を流すと、疲れがどっと来る。身体を打つと、痛みで動けなくなる。動けなくなると、嫌なことばかり思い返す。正邪にとって痛みとは、自分から何かに向かって行った結果ではなく、大抵の場合、自分に向かってくる負の感情から生まれて与えられるものばかりだった。概ね、妖怪の肉体は強靱なものであるけれど、正邪は妖怪の中でも強い肉体は持たなかった。貧弱な妖怪は、妖怪の中では生きていけない。だが、人の間でも、当然、生きてはゆけない。
 今は休むところがあるだけましだ。一時的な住処が見つかる、こういう瞬間は人生のうち何度もあった。だけど、終の棲家となるような場所にはお目にかかったことがない。仮住まいの寺の物置に、転がるように入って、扉を閉める。
 永遠に一人で、痛みを抱えて生きてゆくのだ、と思うと、自虐主義、冷笑主義に満ちた正邪でさえ、悔しさに泣きたい気分になる。
 外は雨の音ばかりが響いている。扉の外は暗闇ばかりで、出歩く者もいない。夜の雨というのは、嫌いではないけれど、どうしてこうも寂しくなるばかりなのだろう。傷のせいか、正邪はそう思った。……扉が開いた。

「……何。お前、何やってんのさ」

 ぬえの言葉の感じは、いつものように乱暴だったけれど、慌てていた。正邪にはそれが分かるから、鬱陶しいやつだ、と思った。他人の顔色を見る奴は嫌いだ。

「何、やってんのって、聞いてるんでしょ、目、開けてよ」
「うるさいな。……死にゃしない。この程度で。夜中にきゃんきゃん喚くんじゃないよ。誰か、来るだろ」
「うるさいのはお前だ。声はうるさくないかもしれないけど、理屈がうるさい。そもそも、不法侵入だろ。何だよ、何をやったんだよ。お前……」
「ちょっと巫女やら何やらと喧嘩をしてな。弾幕だけならちょっと痛い程度で済むけれど、本気で逃げりゃ本気で追ってくる。殴り合いにもなる。……くそ、巫女の奴は術を使ってるかもしれないけど、私は生身だぜ。容赦ねえよなあ……」

 じゃなきゃ、妖怪に混じって弾幕なんてやってるな、ってことかよ、くく、と正邪は自虐敵に笑った。
 正邪は肉体の弱い妖怪だ。人間より少し硬く、治癒力が高い、という程度でしかない。巫女が道具を使って強い弾幕に耐えるようなこともできない。天邪鬼という種族は、その立ち位置の故に、人間にはなれず、妖怪には混じれず、孤独であるしかない。

「殴り合いって……何をしたの」
「何だぁ? お前は私のママかよ。悪いことをしたんだよ。殺しに盗み、火つけに犯し……そんなののうちのどれかをやったんだ」
「嘘をつけよ。どうせ、お得意の嘘なんだろ。石段か何かでこけて、恥ずかしいから強がり言ってんだろ」
「それでもいいな」
「ふざけんなよ」
「嘘だと思うんなら、巫女を呼んで来いよ。目の前で、縛り上げられて、連れて行かれてリンチされれば、お前だって何が本当か分かんだろ」

 ぬえは、憮然とした顔で正邪を睨み付けた。扉を勢い良く閉めて、ぬえは出て行った。正邪は目を閉じた。ようやく、うるさいのが出て行った。誰もいなくなると、自分の呼吸の音ばかりが、うるさい。痛みは身体を疲弊させる。ぬえは巫女か、寺の誰かを連れてくるかもしれない。その前に逃げなければと思うけれど、身体を持ち上げることができなかった。もうどうにでもなれ、という捨て鉢な気持ちが正邪の中に生まれている。
 どうせ、やり込められたって、死にはしない。つまらない世界で生きていくだけのことだ。叛逆しなければ、適当に生きていける。一妖怪みたいな顔をして。
 正邪はこの世界に恨みを持って生きてきた。だけど、妖怪どもをだまくらかして生きているうちに、嘘をついて人の間を渡ってゆくことに手慣れてきた。そうなると、日々を楽しんで生きることができるようになった。
 日々を楽しめるならば、世界に対して叛逆する必要はどこにもない。ならば、正邪の誓った叛逆は、世界への反抗は何なのだ。一過性の、人間における反抗期に過ぎないのか。
 何もかもをひっくり返してやることの他に、正邪にするべきことはない。そのはずだった。正邪は、どこへも落ち着いてやらない、と思った。怪我もなく安寧に暮らせるところになど。そう思えば、傷の痛みも存在している痛みなのだと思えた。

 ばたん、と扉が開いて、正邪は目を開けた。澱のように、身体の内にまどろみが残っている。跳ね起きることもなかった。
 腕いっぱいに物を抱えたぬえが、扉の前に立っていた。ばたばた物を正邪の前にばらまくと、治療にかかった。腕に法衣を巻いて、障子糊でくっつけにかかった。滅茶苦茶さに正邪は思わず笑った。人間のするような治療の方法なんて何一つ知らないのだろう。そもそも、ぬえには傷がつくのだろうか。傷という概念すら知らず、何となく見覚えのあることをやっているだけだ。

「あのな」言いながら、正邪はまた笑ってしまった。笑うと、傷が痛んだ。「まず、普通の布を持って来いよ。それから、包帯だよ。知らないか?」




 からり、と扉を開けた。正邪は最早馴染んだ風景のようにそこにいる。

「あのさ、言われたようにしてきたけど」
「ああ、ありがと……じゃなくて、ざまあみろ」
「何でだよ……」

 正邪に手紙を渡すように言いつけられたぬえは、正直面倒だったけれど、傷の具合が、と言われれば、仕方なく出て行って用事を済ませてきたのだった。ぬえがぽすんと座り込むと、正邪は心地よさそうに持ち上げた足を揺らした。棚にだらしなくもたれかかり、腰をかなり前に出した寝そべり姿が、正邪らしくぬえには見える。傷も随分良くなったようだ。思えば、傷がどうこう、とは都合良く使われたように、ぬえには思えてきた。

「間違いなくできたか?」
「あ、……うん。でも、何だよあれ。何番目の角を曲がれとか、山のふもとで妖怪の小僧にいくら銭を渡せとか」
「お前な。それできちんとできたんだろうな?」
「できたよ。受け取ってくれたもん。きちんとしないと受け取ってくれないんでしょ?」
「ああ。ならいいよ。ま、私は追われる身だからな。色々とあるのさ」
「またそんな嘘を言うでしょ。いいけどさ。正邪は嘘をつく奴だから」
「分かってきたじゃねぇの」

 正邪が手を伸ばして、ぬえの手を握った。手を引かれたので、ぬえは正邪の隣に座った。正邪が抱きつくと、もう、とぬえは正邪の身体を押した。正邪は顔をしかめた。

「痛……」
「あっ、ごめん……」

 正邪の表情が、にい、と変わる。しかめっ面などどこかへ行ったように。あっ、とぬえは声を上げて、また騙された、と感じた。だけど、もう押しのけて身体を離す気にはなれなかった。正邪が身体をまさぐるのを、したいままにさせておいた。
 がらりん、と扉が開いて、響子が声を出した。

「失礼しまああす。あれ? どなたですかあ?」
「あ、の、え、響子。これはその」
「寺の小坊主だよ。暇なもんで、サボってる。それよりあんた、誰もいない扉を開ける時でも声かけてんの?」

 響子が扉を開けると、ぬえは思わず飛び退いて、言葉をごにょごにょと濁した。正邪が平然と言葉を返してフォローした。

「サボっちゃだめですよー。ぬえさんも」
「あ、はい」

 よいしょ、よいしょ、と響子は布団を下ろし、抱えて、出て行った。またすぐに戻ってきそうで、正邪はそれ以上手を触れなかった。人並みの恥じらいというか、正邪にもそういう感覚は持ち合わせているらしい。
 正邪が黙って気ままそうに足をぶらぶら揺らしていても、ぬえは何も言わなかった。続きをしてほしいなんて言えるはずもなかった。




 正邪は時々、例の物置から消えるようになった。ぬえが顔を見せればいつもいたのに、三日に一度ほど、いない時ができるようになった。
 ぬえに手紙を届けるように頼んだりするように、何か、ぬえには分からない遊びに勤しんでいるのかもしれない……寂しいと思っても、いないのは仕方ないし、いつもいてくれよ、と頼む筋合いもなかった。ぬえにとっても、正邪にとっても、互いに他人でしかないのだ。ならば、私は誰かにとっての何かなのだろうか、と、ぬえは思う。
 ぬえはまどろむ。一人物置で膝を抱えて座っていると、待っている身になっている気がしている。元々、ぬえの場所で、そこに居着いてだらだらと時を過ごしていたのだから、以前に戻っただけのことだ。だけど、物置に一人でいる姿を遠いものに感じている。
 ほこりっぽい空気と、うっすら差し込む光。物音が遠く響いて聞こえる。

 物置の中で、ぬえは夢を見た。水面に墨汁を落としたように、黒いマーブル模様が広がってゆく。黒さの内からか、その後ろの透明さから生まれ出でたのか、ぬえはそこに立っている。やがてマーブル模様は闇となり、ぬえの立つ闇夜の路地裏の陰になる。
 ぬえが生まれたのはどこで、誰が親かなんて、誰も知らない。鳥や獣がどこからともなく生まれ、一匹で山野を駆けるように、ぬえもそこらにいる一匹の妖怪に過ぎない。
 ぬえが他の妖怪と違ったのは、食う必要がないということだった。ぬえは人の噂の中から発生した。何も食わなくても飢餓感に襲われることはなかった。他の妖怪がするように、食うことの楽しみを覚えれば習慣として日常に組み込まれたが、食うものがなくてもそれで困ることはなかった。
 そのため、他の生物のように日々の糧に追われることなく、ぬえには思考する時間が生まれた。それが幸福なことでないのは明らかだった。考えずに生きていられるのは、それはそれで幸福なことだからだ。思い悩むことは一つの不幸の形だ。
 ぬえが気付いた真理の一つは、生物は望まれて生まれてくるのではなく、誰も、何も、生きることを望まれていないということだった。肉体が勝手に飢えて、渇望し、欲するのに合わせて意識が引きずられてゆくのだということだ。
 ぬえには死が無く、ぬえには生がない。ぬえが人の世にいるのは、仮住まいをしているのに過ぎないようなものだ。ぬえはこの世の存在ではなかった。ぬえが地上で人や妖怪を見ている間、一緒に生きていた奴らは、皆死んでしまった。ぬえは、長い長い間、誰かと一緒に過ごす時間はそう長くなかった。皆、弱い生き物で、生きるためには食と希望が必要だからだ。ぬえには必要のないものだった。
 皆、誰も彼も、短く生きて死んでいった。ぬえの前から永遠に消えていった。ぬえは一人だった。

 扉の開くからからという音がした。夢と現の間でどちらのことか分からず、ぬえは正面を見上げた。光の前に正邪がいる。

「なんだ、お前。待ってたのか」

 うん、とぬえはまどろんだまま答えた。正邪は、ぬえが寝ぼけているのも構わず、ぬえの身体をまさぐり始めた。正邪はぬえの身体を自分の勝手にするのが好きだった。他人の身体を勝手にすることほど、楽しいことはない、と正邪は思っている。ぬえは好きにさせておいた。




 ぬえ、と正邪はぬえの名前を呼んだ。ぬえは熱を帯びて湿った吐息で答えた。

「なあ、ぬえ、お前。私が触れている時、お前は何を考えるの」
「何を。何も、考えないよ」
「なあ。お前は何を愉しみに生きているんだ。私は何をさ。お前の望みは何だい、ぬえ」

 今度は、正邪の背に回した腕の力で答えた。はあ、と音が漏れる。ぬえの身体に触れている一瞬だけ、ぬえと正邪は素直になることができた。
 やがて二人抱き合っていることに疲れて、荒い息をして床に転がるまで、そうしていた。




 下品な笑い声が廊下の奥から聞こえた。誰が笑っているのか、とぬえが覗き見ると、笑い合っているのはマミゾウと正邪だった。正邪は角を隠して、寺の小僧の姿をしていた。二人して昼酒をかっくらって、げらげら笑っていた。
 正邪は次第に大胆になった。平気で、寺に潜り込んでいる信徒を装って、人前ではぬえに声もかけず、目さえ合わせなくなった。代わりに様々な人間や妖怪と言葉を交わしていた。そのくせ、村紗や一輪、星や聖といった、寺の中心の人物の目からは器用に隠れていた。人目を隠れて立ち回るのに、これほど器用な奴はいないだろうとぬえは思った。正邪の心のうちには、何か目論みがあるのだろうけれど、ぬえとは無縁のことだった。
 ぬえと正邪の逢瀬は続いていた。正邪に会いたくなれば、ぬえは物置に行った。物置にいれば、正邪はするりと潜り込んでくる。ぬえの隣に座り、ぬえを引っ張って自分の足の間に座らせ、好きにする。正邪は相変わらず自分勝手で、それがぬえを満足させた。

「お前は相変わらず痩せっぽちで骨っぽいな。もっとあの尼の大将みたいに、抱き心地の良い肉体になればいいのに」
「言ってなよ」

 悪態をついても、正邪はぬえを放り出すつもりはないようだった。しばらく、正邪は黙っていた。

「あのさあ、お前さあ」
「何よ?」

 正邪の言葉は途中で切れた。ぬえが聞き返すと、ぬえは黙り込んで、次の言葉を出さなかった。

「……いいや。何でもないよ。お前が不細工だなとか、そういう話さ。傷付くかなと思ってやめたんだよ」
「また嘘っぽいことをさ」

 正邪はそのまま黙り込んだ。ぬえは、今言いかけたことを聞きたかったけれど、秘密主義の正邪が、また言葉を閉ざして引きこもってしまうことが怖かった。それ以上に、どこかへ行ってしまうのが怖かった。正邪の機嫌を損ねるのが、ぬえには怖い。

「……あのさ。どうして話してくれないの。今日はどうして静かなの」
「あたしは、あんたと仲良くしたい気分じゃなくなってきた。話したいなら、あんたが話しなよ」
「……今日は触ってくれないの」
「さっきちょっと触ったろ。それに、触りたいなら、あんたが触ればいい」

 ぬえは正邪から身体を離し、正邪を見た。正邪は挑発するようにぬえを見た。できるもんならやってみなよ、と言っているようだった。
 ぬえは、いつも正邪がするみたいに、正邪の身体を好きにした。でも、うまくできなかった。

 正邪が、二人の物置に来る回数はますます、減っていった。ぬえは、一人で過ごす時間が、また増えていった。




 山から、緑の髪の巫女が来た。朝から寺に居座って、何やら聞いて回っているようだった。ぬえは巫女の姿を見つけて、なんて言う名前だったかな、と考えながら眺めていた。と、巫女の方でもぬえを発見し、歩み寄ってきた。

「こんにちは。いつぞや会いましたね。ぬえさんって言いましたっけ」
「え、ああ、うん。そうだけど」
「私の方では……名乗りましたっけ。どうだったかな。私、東風谷早苗って言います。一度言ったかもしれませんけど」
「ああ、早苗。聞いた覚えがあるような気がするね」
「はい。それならいいんです。で、ぬえさん、私、正邪って人を捜してるんですけど、知ってますか? 一度、付喪神の人達と組んで色々やったんで、少しは有名なはずですけど」
「え、いや、ううん。し知らないよ。会ったこともない。それで、そいつがどうかしたの」

 ぬえはとぼけて見せたけれど、ぬえには、早苗の目は不思議に光って見えた。早苗がぬえを怪しんでかまをかけているとかいうよりも、心にやましいことがあるとそんな風に見えるものだ。ぬえの方の疑心暗鬼だった。

「またやらかしたみたいなんですよね。里に、妖怪を敵視する連中がいて。そいつらと手を組んで何やらやらかすつもりだったみたいですねえ。山を焼くやらなんて計画書も見つかってるそうで。ま、人間のことは人間でうまいこと処理をしてもらいましたけど、妖怪が関わってるとなれば妖怪のことはこちらで処理しないといけません」
「処理、って? 殺すの?」
「まさか。止めればそれでいいんですよ。ただ、止めなければ、止めさせるようにしなければなりませんよね。でも、私なんてまだましな方ですよ。本当は霊夢さんの方が怖い。私は、必要となれば霊夢さんとも敵対をしますけれど、霊夢さんの目的は幻想郷の維持ですから。必要なら、人殺しくらいは、平気でやる人です」

 ぬえは怖くなった。正邪は、二度と帰って来ないかもしれない。来なくなるのではなくて、二度と来られなくなるかもしれない。ぬえに何も言わないところで、そういう怪しげなことをしていたのだ。

「その正邪っていうのは、何をしようとしてるの」
「さあ。本当のところは分かりませんけれど。前に事件を起こした時には、付喪神と組んで、立場を逆転しようと企んでいました。使われ、虐げられている道具の地位を復権するとか何とか。だけど、大人しくなった付喪神どもと別れて、一人でまだ怪しげなことをやっている。人間に肩入れして、妖怪主体の幻想郷を変えようというなら、大それたことを企んでいるかもしれません。人間や妖怪が沢山死ぬような混乱を招こうとしているのかも」

 嘘だ、とぬえは思おうとした。だけど、ぬえは正邪のことを何も知らないのだ。それに、正邪は自分のしていることを何も言わない。ぬえは俯いて、黙り込んだ。

「……まあ、元々、ここに来た者達は皆そうです。吸血鬼は太陽を隠した。そのままでは飢餓で皆死んだかもしれません。幽霊達は春を奪った。寒さで多くの人が死んだかもしれなかった。でも、それらは全て、弾幕で事が収まりました。大丈夫ですよ」

 ぬえの落ち込んでいる様子を見て、早苗は子供にするように、背中をぽんぽんと叩いて、どこかへ行ってしまった。
 正邪、とぬえは呟いた。正邪は友達なんだ、そんな悪いやつなんかじゃないんだ、と誰かに言いたかった。




 台所で、村紗と一輪が話している。

「あの正邪ってやつ」
「ああ、朝から山の巫女が来て、色々聞き回っていたアレでしょ」
「山の方へ行って聞いてみたら、山の方では情報が出回っているらしい。まだ大事にはしないつもりらしいけど」
「人間のことだしねえ。こっちでも、それらしいのがいないか聞いて回ったら、響子が見たんだって。物置で寝転んでたって。他にも、信徒の間で、それっぽいのを見たって話があるみたい。ここをねぐらにしてたのは間違いないよ」
「迷惑な奴だ」
「それで、どうするの? 突き出す?」
「わざわざ突き出してやることもないよ。でも、聖に迷惑はかけられない。そうだろ?」
「うん。命蓮寺が関わってるとも思われたくないしね。ともかく、さっさと見つけることだよ」

 ぬえは、何も言うべき言葉を持っていなかった。『あいつはそんな奴じゃない』とさえ言えない。弁護する言葉がないどころか、『あいつと友達だ』とも言えなかった。正邪と顔見知りであるということは、今の幻想郷では忌むべきことなのだ。村紗や一輪たちから、ますます距離を置かれるのは嫌だった。
 ぬえは、とぼとぼと歩いて、その場を遠ざかっていった。




 例の物置になんて、近寄らない方が良いのだろう。寺には友達がいるし、正邪は今や、寺からもこの幻想郷からも疎まれている。
 物置の扉を開けては、いないのを確かめて、遠ざかる。毎日、毎日、寺をうろうろして別のことをしていても、繰り返し、繰り返し、そこへと来てしまう。正邪は身勝手なやつで、でもなんだかんだここへ来ていたということは、私に会いに来ていたんだ、とぬえは思う。だけど少し危険になれば、あっという間に来なくなってしまう。私はその程度だったんだな、とぬえは思った。
 夜ならばいるかもしれない、と毎晩考えては裏切られる。寝間着姿で物置の扉を開けて、いない、と思う。
 正邪に会いたい。そう叫んで正邪が来るなら、そうしてもいい。ぬえは、これまで、何かをしたいと思っても、うまくいった試しがなかった。何かをすれば、大抵のことは裏目に出る。聖の復活を邪魔したこともそうだった。皆を怒らせてしまった。正邪に会いたいと思っても、そのために行動すればまずいことになるかもしれない。
 だけど、何かを思いついたなら、してみるべきだ、と思った。

「会いたい」ぬえはぽつりと呟いた。「正邪に、会いたい」
「呼んだかよ」

 正邪が外から飛んできて、物置へと入ろうとするところだった。正邪、と叫びかけて、正邪がその口を塞ぐ。人目を気にして、素早く物置へ入り込む。




 正邪は何も起こっていないみたいに振る舞った。壁にもたれて座り込み、だらしなく組んだ足を放り出した。

「まずいことになったねえ、兄弟」
「何を言ってるのさ」

 憎まれ口を叩きながら、ぬえは懐かしくて泣きそうになった。またすぐ来る、と思ってた頃とは違って、二度と来ないかもしれない、もう死んでいるかも、とさえ思った後では、随分長い間離れているような感じがした。

「私がやってたのはさ、人間どもの組織に勢いをつけようとしただけなのさ。だが、少し規律だって大きなことが出来るようになると、途端につけあがる。人間の力を強めて、妖怪との力のバランスを取る、そうすればこそ私がつけ込むスキも出来てくるってもんさ。それだけでいいのに、山を焼こうだなんて、途端に極端な方へ行く。呆れた連中だ」

 お陰で、元々日なたを歩けないのにこんな身分だ。嫌になるぜ、と正邪は言った。ぬえは黙って聞いていた。心情の吐露を聞くのは初めてな気がして、少し嬉しかった。

「ますます妖怪の力が強くなるな。だけど、それはそれで付け目なんだ。人間のことを人間同士だけで処理しきれなくなって、妖怪たちが人間を締め付けるようになれば、軋轢が生まれて反発を生む。それはそれでチャンスになる」
「分かんないよ」

 沈黙が生まれた。次に続く言葉を、正邪は待っていた。

「全然分からない。正邪はどうしてそんなことをやってるの。誰も望んでいないのに、どうして」
「私にだって分かるもんか。私はずっとこうやって生きてきたんだ。今更、全部なしにできるかよ」

 そんな風に突き放されれば、ぬえには言うべき言葉を見つけることはできなかった。友達じゃなかったら、『はん、そうかよ』と言って、突き放して終わりにしてしまえる。

「友達だろ。……友達なんだから、放っておけるわけ、ないじゃないか……」
「誰が。お前なんて友達なんて思ってるかよ。ただの暇潰しの道具だ。ついでに、匿ってくれるから便利に使ってただけなんだよ」
「お前は嘘つきだからそんな風に言うんだ。じゃあ、なんでここに来た。危ないところに来る必要なんてないだろ」

 変に勢い付いて、ぬえはまくしたてた。

「何のために生きてるの、って前、正邪は言ったね。じゃあ、正邪は何のために生きているの。くずみたいな人間に肩入れして、後のことも考えずに幻想郷をひっくり返そうとしている連中に手を貸して、それでどうなるっていうの」
「私のやってることに口を出すんじゃない。私が、お前の生き方に口を出したか。私にはこの他にはないんだ。今更、普通に生きていられるもんか。お前の方こそ、何が目的で生きているんだよ。もう一度聞いてやるよ、ぬえ。お前は、何のために生きてるんだ。お前はいなくてもいいやつだ。ただ目的もなく生きてるだけのやつなんて」

 がん、とぬえは衝撃を受けたように思った。同時に、正邪の言うことももっともだ、と納得する部分もあった。死にたい、いなくなりたい、とは、ぬえは考えない。だけど、自分に目的がないのも確かなことだ。村紗や、聖、ぬえの周りにいてくれる者達の側から離れたくない、という曖昧な理由しかない。

「お前のことも調べたよ。お前は鵺だ。人間の空想の産物だ。お前は元々人でも獣でもなかった。空漠の中の、概念的な存在でいれば良かったんだ。
 でも、お前は人の形になった。人の言葉を話すようになった。人を知ったからには当然のことだよな。繁栄している生物を真似るのは。だけど、お前は人にはなれない。人より余程長く生きるし、物を食う必要もないやつだ。
 お前は強い生物だよ。概念って意味なら、お前は神様と一緒だ。何にでも成れる。人の噂に乗って、どんな風にでも存在できる。だけど、だからこそ、人には成れない。人に混じって生きていくことなんてできやしない。
 そんなお前が、私は嫌いだよ。ずっと嫌いだった。これまでは便利に使っていただけさ。妖怪以下、人間以下の私が、お前なんて好きになる訳ないよな。自分の惨めさにうんざりするだけだ。分かるだろ?」
「……嘘だ。……嘘だろ。いつもの嘘だ」
「嘘しか喋らない奴はいないよ。嘘は本当の中に忍ばせて意味があるんだ。もう一度言ってやろうか、ぬえ。お前が嫌いだよ」

 いつしか吹き始めた強い風が、物置の戸にぶつかって音を立てた。物置の闇の中では、沈黙が渦となって、二人の感情をぐるぐる掻き混ぜて一つにした。
 ぬえは……薄々そうではないかと思っていたけれど……改めて言われるとショックだった。だけど、殴ってやろうとか、ならひどい目に合わせてやるとかは、全く考えないのだ。正邪の側では、殴られてもいい、というような、余裕の表情を見せていた。だけど、ぬえにとって、正邪の表情は、本当のことか、嘘のことか、最早分からない。

 真実とは何だろう。この世の中に真実など、存在しないのではないか。正邪の中には正邪の真実があり、ぬえの中にはぬえの真実がある。本当のことがどこにもないのなら、ぬえにとっては、ぬえの中のことだけが真実だ。正邪が嫌いだと言っても、ぬえが正邪を好きだ、正邪もぬえが好きだと決めつければ、本当のことになるのではないか。結局のところは、自分で全て決めることで、認めるか認めないかのところは、単に感情を納得させるだけのことで、世の中の真実は、どのようにでも変化しえるのではないか。……長い時を生きるぬえには、そのように思われた。正邪はいつか死ぬかもしれない。その時まで嘘をつき続けるかもしれない。だけど、そんなことは、ぬえにとっては関係がない。

「私のことが嫌いだっていいよ」ぽつりと言葉をこぼすように、ぬえは言った。「でも、正邪は幸せにならないといけない。私のことを嫌いで幸せなら、それでいいんだ。私は皆に幸せになってほしい。私だって幸せになりたい。だけど、皆にだって嫌な思いをして欲しくないんだ」
「はん。今更何を言う」
「人は皆幸せになるために生きているんだ。私はそれを知った。人の姿になって分かった。種族の繁栄だけじゃない。そういう生物的な本能が言葉を変えただけのことでもいい。お前だって人の形をして、人の言葉を喋っている。お前は天邪鬼とか、弱いとか言うけど、人間だって同じだ。人間の中には、お前みたいに生まれついて、弱くって、でも幸せに生きてる奴だっているんだ。お前は不幸だったかもしれないけど……」
「はは。青臭ぇ」

 正邪は立ち上がった。立ち上がると、正邪の方が少し、ぬえより背が高い。見下ろす形になった。

「私だって長く生きていれば生き方も分かってくる。これまでの人生は、子供みたいなもんで、うまくいかないのは当たり前かもしれない。人間で言えば大人になったようなもんで、これまでを取り返して生きていくのかもしれない。だけどな。私は幸福なんていらないんだ。自分が幸せになるなんて許せないのさ。幸福というものが嫌いだ。私が幸せになるっていうのは、自分以外の何か、例えば神様とか仏様とかがいるとして、そいつらは誰もの幸福を願っているらしい。そいつらの望み通りになるものか。何か大きなものになんて縋ってなんてやるものか。そいつらが望んでいるところになんて行ってやるものか。望まれるがままになんてなってやるものか。私はそんなに弱い存在じゃない。私は他の誰かの望む幸福になんて身を委ねない。私は私の持っている力にだけ身を委ねるのさ。誰もが本来はそうなんだ。誰かに保証される幸福なんてまっぴらだ。私は世の中の幸福というものなんていらないんだ。絶対に幸せになんてなってやるものか」
「お前は本当にそれが正しいと思ってんの」
「思ってないとやってらんないのさ。私が折れたら私じゃなくなる。そうしたら生きてる意味がない。私は私でいたい、鬼人正邪のままでいたいんだ。抗うことが私なんだ」

 正邪はぬえの脇を擦り抜けて、物置の戸を開けた。

「お前にお別れを言いに来たんだ。でも、言う必要もないみたいだな。幸せなんてものは、誰もが幸せがあると信じてるかもしれない。世の中の皆が、幸せがあると思う限り、私は不幸へと向かってやるんだ。幸せなんてないって、言ってやる。そうだね、お前が幸せになれと言うなら、世の中の理が不幸で、残酷なものだと言うなら、幸せになってやってもいいさ」

 戸の敷居を越えて、正邪は外へ出た。それで、決別だった。ぬえと正邪は混じり合うところにはいなかった。元々、そうだった。ぬえにとっては、正邪よりも大切な人がいて、正邪にとっては、留まるべきところなんてどこにもない。別れるべきだった、ということにするしかない。

「あばよ、ぬえ。お前はお前の友達とうまくやれよ。村紗や一輪って言うんだろ。私より、よっぽど良い奴だぜ」




 ぬえと、村紗と、一輪の三人は台所に向き合って座っていた。それぞれ豆かんの器を前にして、スプーンをのんびり動かしていた。

「私らだって、堅苦しいのは苦手さ。だけど、人が増えればそうもいかない。きちんとしてるってのは見せないとな。その分、私らだけの時は仲良くやってるしな」
「ふうん、一輪たちもそうだったんだ」
「そうだよ。お前だけじゃないんだよ、ぬえ。私らだって苦手さ、村紗?」
「ほんとにねえ」
「そう言えば村紗、お前、ぬえと喧嘩してたんじゃなかったか」
「聖の邪魔したことは怒ってるわよ。今でもね。でも、それが理由で嫌いになったりしないわよ。たぶん、そういうの、聖は嫌いだし」

 うん、うん、とぬえは頷いた。

「悪かったと思ってるよ。あの時はああしたいと思ったんだ。でも、あの時諦めて別れてたら、こうしてることもなかったかもしれない。だから、良かったと思ってるよ」
「あんたが良くってもねえ」

 村紗は噛みつきかけたが、まあまあ、と一輪がなだめて、全く、と矛を収めた。




 正邪は二度と物置には来ない。相変わらず逃亡を続けていて、一つ所に収まらない。正邪はぬえを嫌いだと言った。だけど、正邪は気分屋だから、それも一時の感情だろう。ぬえと仲良くしていたのだって、一時の感情の迷いかもしれない。だけど、それも真実だ。過ぎ去っていったことは本当のことだ。正邪が、ぬえなんて知らない、と言ったって、ぬえにとっては正邪は友達だ。
 ぬえは会おうと思えば会うことはできる。また、仲良くすることもできると思う。だけど、ぬえにはそれよりも大切にしておくべきことがあって、ぬえには帰るべき寝床が、今のところはある。正邪だって、自分のしたいことをしているのだ。
 正邪とまた一緒に遊ぶには、正邪にも、またぬえにも、帰るべきところがなくなってからだって、まったく遅くはないのだ。
 ぬえは、今でも時々、物置に一人で籠もる。居心地がいいのは変わらないし、正邪がもしかしたら来るかも知れない、と、甘美に思うことができるからだ。
 なんかこれ、なんかアレっぽいなーと思ってたらアレです。非合法活動する青年と匿う女みたい。
 最近は刀剣乱舞ばっかりやってます。おじいちゃんかわいい。こういうこと言うとアレ、また何か言われるかもしれませんけどでも言う。そういうやつです。
RingGing
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.710簡易評価
1.100名前が図書程度の能力削除
まるで学生運動に身を投じる青年と、それを匿う女、みたい
正邪はマイノリティであったり、コンプレックスを抱える者の目には、非常に魅力的に映るキャラのようだ
それでいて決して正邪がただのいい奴には描かれていないのがいい
3.80奇声を発する程度の能力削除
良かったです
4.100テル削除
面白かったです。
その後の二人が見たみたい。
8.100名前が無い程度の能力削除
楽しかったです。
たぶん狙ってやっているんでしょうが、読んでるうちにぬえだか正邪だか、斑模様のように混じり合ってわけが分からなくなりました。
人間の様々な恐れが妖怪を生み出したと考えた場合、それぞれが「そうあるべき」存在である妖怪たちがみんな自分勝手なのも当たり前ですよね。
作中の正邪が例えた神や運命とはすなわち人間のことなのかも知れません。
9.100名前が無い程度の能力削除
グレイト!
11.100名前が無い程度の能力削除
いいね
15.90名前が無い程度の能力削除
Good!