Coolier - 新生・東方創想話

漠砂のスマラグド

2014/11/28 21:43:22
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   <ⅰ>

 夜空は今宵も綺麗だった。
 鏤められた星達は、闇が覆う辺りに僅かな光を与え、砂の世界を優しく照らす。
 両側に広がる砂丘を避け、古都アンティオキアへと道は続いていく。
 砂と違い、足場がしっかりと整備されているために、馬車も走り抜けができる道。砂に道が埋もれないのも、多くの人々がこの道を使用してきた、そして今も使用しているからであろう。
 運転手と商人がそれぞれ乗っている二頭の馬が運ぶ荷物、その中には都市で売られる“商品”が入っている。
 荷台には年端もいかぬ子供達が数人、ジャライル朝の主要都市タブリーズから運ばれてきた奴隷である。
 地表に残存する水分が少ない為に、昼夜の砂漠の温度変化は大きい。夜の砂漠は簡素な藁葺き屋根と、汚い褥では凌げないほどに冷え込む。
 奴隷であっても手枷足枷等の拘束用装着はされていない。砂漠の真ん中で逃亡を試みたところで、得られるのは自由ではなく、生命にとって耐え難い苦痛と結果としての死である。
 薄手の服しか着る事ができず、寒さが身に染みる。子供達は毛布を分け合いながら、無言で身体を寄せ合っている。
 そんな中、一人だけ荷台の端で顔を出し、夜空を見ている女の子がいた。
 金色の髪に細い体躯、幼いなりに美人の気質を持っている。
 けれど、彼女には他の奴隷の子でさえも距離を置いている。
 理由は傍から見れば些細な事。
 彼女の瞳は、深い緑色に染まっていたのだ。



























『戦争では強者が弱者という奴隷を、平時では富者が貧者という奴隷をつくる』
                         オスカー・ワイルド

























 「邪眼(チェシュメ・ハスード)」。
 この地、タブリーズを含めた広大な地域を支配したペルシャに、古くから伝わる慣習である。
 邪眼は誰もが持つ者であり、身に不幸が起こる度に人々は悪しき出来事の責任を邪眼に転嫁する。また、幸福な出来事が起こった場合は、人々から邪眼の眼を浴びないように、親戚にささやかな祝い品を送ることで、自身への邪眼の集中を避ける。
 つまりは、邪眼という不幸の捌け口を作り出すことにより、身に起こった不幸な出来事を納得させるのが、この地域の幸福に対する考え方であった。
 邪眼という曖昧な定義、人々が分かりやすい形を求めた為に生まれたのが、明確な形を持った贄である。畏怖すべき対象を明確化して作り出すことにより、理論を現実的なものへと変える。
 赤髪の老婆と緑目の女、彼女達は強い邪眼を持つとし、忌みの化身とされた。
 そして彼女は、不運にもその二つ共に該当してしまったのだ。



 目で見た光景を記憶できるようになった頃には、彼女の両親は既に隣にはいなかった。
 子供を置き去りにするような者の居場所など、彼女は生まれてから一度も興味を持ってはいない。
 自分と一緒にいたのは、彼女の叔母に当たる赤髪の老婆。
 叔母は労働力にもならない金食いの荷物として預けられた彼女にも優しく接した。彼女の目には、顔すら知らない両親なんかよりも、よっぽど信頼できる人物に映ったことだろう。彼女は老婆に守られながら、守りたいと思う人を見つけた。皺くちゃな笑顔は決して綺麗ではなかったけれど、彼女には眩しかったのだ。
 叔母には信頼できる人脈というものが、全くと言っていいほどに無かった。人柄に問題があったわけではなく、「強い邪眼を持つ」姿をしていた為に、恐れを抱いた人々が自発的に離れていったのだ。邪な思いを溜め込んでいると人々は思い込み、彼女との接触を頑なに拒んだ。
 老婆自身も邪眼の事を知っている故に、無理して他者との関わりを持とうとは思わなかった。居場所を無くした愛情が彼女に注がれるのは、謂わば必然だったのである。



 平穏に包まれた幸せは長くは続かない。
 彼女のその目は成長を遂げると共に、深い緑を帯びていった。
 美しく深い緑を見ても、この地の者達はそれを美しいとは言わない。邪悪且つおぞましい物と認識をする。
 赤髪の老婆が育てた緑眼の怪物、邪眼が生んだ邪眼、周りはそう囃し立てるようになり、距離は開くどころか、存在すら非難されるようになっていった。
 彼女も何故、私と叔母が周りから煙たがれているのか、理解できるほどの歳になっていた。自分が異質な者であると納得するように心がけ、周りから入ってくる雑音をできうる限り遮断していた。その中で邪眼という慣習に疑問を持ち、憎しみは増していった。
 放っておいてくれていたならば、二人はもっと幸せに過ごせていたのかもしれない。しかし、邪眼の存在は他者の不幸を一身に受け入れなければならなかった。
 都市に壊滅的な被害を与える地震が起きたのである。



 地震自体はタブリーズでは珍しいことではなかったが、今回は規模が大きかったために、都市に大きな爪跡を残した。街全体を襲った自然災害は、日頃から抱えていた人々の負の感情を爆発させたのだ。

「災害の原因は邪眼によるもの!」
「私達の幸福に妬みを覚えた邪眼の申し子が、この災害を起こしたに違いない!」
「証拠に、奴等の家は無事だった!」
「この冒涜、赦せるものか!」
「王に嘆願するべきだ!」

 不満の吐き出し口を発見すると、人は悪意を剥き出しにして非難を行う。
 ジャライル王朝の支配者アフマドも、この大災害と市民の不満を大事と捉えていた。
 事態を収拾するためには、何かしらの矛先が必要だった。そして、市民の不満の声を聞けば、解決法は至って簡単であったのだ。
 災害を防ぐための儀式、そこに必要なものは神に対する許し。王は邪眼を取り入れた贄を神に捧げるという名目を取り付け、一家の犠牲を肯定した。義を捨てて、利を受け入れたのである。
 街の常備軍に怒り狂う市民も加え、悪意に満ちた尖兵は目的地を目指す。
 街の郊外にまで隔離された家、そこが彼女と老婆が住み着いている家であった。
 外から聞こえる音を不審に思い、赤髪の老婆が外に出た、その時に皆の感情は爆発に至った。
 掠奪と破壊、矛は老婆にも至る。

「お前のせいでこの街が滅びそうになった!」
「てめえの存在が悪なんだ! アンリ・マンユの使い魔め!」
「死ね! 死んでしまえ!」
「あの子供はどうした! 街の為にもアイツも殺さなければ!」

 髪を引き千切られ、首を引っ張られ、身体を引き摺られ、あらゆる箇所を蹴られる。
 一度焚き付けられた悪意の芽は、集団という偽物の正義に狂い、上限を知らずに増長する。数の暴力は人間の判断を鈍らせるのだ。
 殺さない程度に不満を吐き出した後は、兵の仕事。彼等はボロボロの老婆を家の柱へと縛りつけた。

「これより儀を取り行う。供物を贄とし、怒りを静めたまえ」

 兵士の一人が、震える手を抑えながら家に火を放つ。
 生きた者が中にいるというのに、誰も止めようとせず、助けようともしない。
 ただ燃え盛る炎を目に映しているだけ。
 本当にこれでよかったのか、なんて誰も考えない。良くなければ、人としての倫理が崩れ去ってしまうから、傍観者論理で真っ当な思考を放棄する。
 悲鳴すら聞こえないままに、家は壊れた黒い炭の跡地へと変わり果てた。
 言葉を放つ者もここにはいない。一人が踵を返すと、皆がその行動を真似て、郊外は本来の静けさを取り戻した。



 たまたま外出していた彼女が家に帰ってくる頃には、事件が起きてからいくらかの時間が経っていた。
 熾った火は既に消え去り、黒い世界が彼女の眼前に広がっている。
 現実に対して理解が追いつかない。ただ森の奥で木の実と根菜を取りに行っただけであるのに、家が焼けて無くなってしまっていることなど、思考の領域を超えている。
 来る場所を、住まう家を間違えるわけがない。世界でここにしか、彼女の安心できる場所は無かったのだから。
 煤けた匂いが残るその場所へ足を踏み入れていく。僅かに残っている家の構造は、彼女が良く知るものであった。
 外側だけが黒く汚れている大きな木の柱、その元には焼け焦げた何かが存在している。
 口に出してはいけない、彼女はそう思った。出してしまったのならば、現実が襲ってくる。
 でも漏れていた。一目見ただけで分かってしまったのだから。
 最初から分かっていたんだ。家が燃やされた理由を突き詰めれば答えは出てくる。ただ、知りたくなかったから考えなかっただけ。

「あっ……」

 焼け焦げた者の体躯とはもはや呼べない亡骸を触って知る。
 大切な人の姿。
 自分の唯一の味方だった人の姿。
 生きていないから、ここに存在する姿。
 感情がやっと追い付き、緑の宝石から涙が流れ落ちていた。
 もういない。自分を理解してくれる人は、この世界にもう誰もいないのだ。
 涙は悲しさと悔しさ、そして強い厭悪。
 唇を噛み締めた為に、赤い涙も混じり合う。
 そして、空は彼女の涙さえ否定した。
 灰色の雲から滴り落ちる雨は、彼女の感情をも否定し、消し去ろうとするのだ。
 遅い。全てが遅すぎる。
 火はもう消えている。この雨は火を消すためでなく、全てを洗い流すため。ここであった忌々しき出来事を全ての人間から消滅させる為に降り注ぐ。
 世界も彼女の敵であった。



 ああ、妬ましい。
 私を省いて進んでいく世界が妬ましい。
 私の大切な者を奪っていく世界が妬ましい。
 私の心を憎悪で埋め尽くそうとする世界が妬ましい。



 彼女は帰る場所、行くべき場所、全てを失ったのだ。
 力、復讐、そんなものはこの場に落ちていない。
 自分にはただ妬む事しかできない。それは皮肉にも言い伝え通り、邪眼を内に秘める事と同じであった。




















 商人は時折馬の上から振り返り、“商品”の確認を行う。馬車から逃げた場合、奴隷と商人双方が損することになるが、先見の能力が無い馬鹿にはそんな理論は通用しない。
 何度も後方を気にする商人を見て、運転手は溜息をついた。

「気になるのなら最初から枷でも何でもつけておけばいいじゃないですか。下手にけちるから駄目なんですよ」
「馬鹿言うな。アンティオキアは表面上、奴隷交易を認めていない。それに拘束具をつけていないほうが、生きのいい奴隷に見えるんだ。奴隷は男女共に身体が資本。大切な商品を手荒く扱わないで欲しい」
「目を見りゃあ、こいつらの生きが悪いことなど明らかな気もしますけどね」
「まだまだ無垢そうでいいじゃないか。これから世間の厳しさを知れば、その瞳ももっと曇るだろうよ」
「あんた、良い死に方しないでしょうね」
「商人たるものは未来より今を大事にするものだ。死については死ぬ時にでも考えるさ」

 商人も緑の目が忌み嫌われる慣習を知ってはいた。それに伴う恐怖もある。
 しかし、成長過程にして独特の色気を持つ彼女は、慣習から外れる場所にて取引を行えば、相場以上の高値で売れるだろうと考えたのだ。
 聖域を侵し、禁忌を恐れとしない商人の執念の殆どは、金から構成されている。
 世の中は金だ。奴隷から成り上がった傭兵、マムルークは金で動き回る。身を守る為の傭兵の質も金次第なのである。要は命さえも金で買っているに等しい。
 今は金を得られずに、運転手と馬車しか雇えない男であったが、この商売を終えればこの儲けを資本にして、もっと大規模で安全な商売をする予定であった。
 何しろ今の世は荒れている。絶対的な王朝がこのペルシャの地には存在せず、マムルーク崩れや仕事を無くして道を外した賊達が砂漠を闊歩しているのだ。金を手に入れる機会は十分にある、けれど命は一度落としたらそれっきりなのだ。
 周囲を注意深く観察していたところで、馬車の速度は盗賊のものには劣る。
 商人はそれを身を持って知ることになる。

「おい、前に誰かいるぞ」
「夜盗の類でしょうか?」
「さっさと迂回しろ!」
「ええ、そうしましょう」
「お、おい!? 待て!」

 運転手の判断と行動は、驚くほどに早かった。
 即座に荷台と馬を繋ぐ紐を解き、自分の任務を放棄したのだ。
 仕事を投げ出しての逃亡。命を第一に考えるならば、彼の行動は正しい。
 運転手の行動を呆然と見ていた商人であるが、やっと自身が瀕している危険に気が付く。
 しかし、運転手に比べて、認識と行動、そのどちらも遅かった。
 強奪に慣れている賊にとって、獲物を囲み、退路を断つことなど容易い。
 行き場を無くした商人は、ただ慌てるばかり。
 そんなカモに対して、遠慮など必要ない。賊はがなり立てるように声を張り上げた。

「荷を全部降ろせ。全部だ!」
「そ、そんな!」
「言いがかりを付ける力があるなら聞いてやるよ。ただしこっちはこれだけいるがな」

 下劣に笑った男が言うように、この馬車は十名以上の賊に囲まれている。商人ができることと言えば、自身の荷物を相手に与えるだけのことだった。
 この商売を終えれば、人生が変わり、金の流れも変わる筈であった。しかし、アンティオキアに到達する前から、商人の歯車は狂い始めていた。
 賊達は中のいわくつき商品を見てから、驚く。
 無理もない。アンティオキアでの奴隷取引は禁止されているのだ。

「なんだ。あんたも俺達と大して変わらねぇじゃねぇか」
「世には需要があり、一人や二人、汚い仕事をしなくてはいけない奴がいる。今回は私がそれに該当しただけだ!」
「単なるてめえの為の金儲けだろ」
「儲け方も知らない奴が何を言うか」
「おいおい、俺らだって儲け方くらい知っているぜ。力を示して弱者から全てを毟り取るっていう儲け方をな。それとだ、剣が手から滑っちまうこともあるんだ、口の聞き方には注意することだな」
「ひぃ!」

 指示を出している首謀者と思われる男は商人の顔も見ない。
 ただ馬車にいる商品の品定めを行い、どの程度の価値なのか確認しているようだ。
 男が荷台から降りると、商人の近くにいた男が剣を抜いた。
 商人は指示に従った自分に起ころうとしている仕打ちを、理解できない。理解することを頭が拒絶している。
 
「荷はすべて下ろしたのに何故!」
「そもそもだ。俺達がいつあんたを殺さないと約束した?」
「や、やめっ!」

 それが商人の最後の言葉、首を刎ねられれば、それ以上話せないのも当然である。
 口の代わりに首が血飛沫を上げる。赤い雨を降らせたところで、大地の渇きは全く癒えない。
 頭がぼとりと砂の上に落ちる。二つに分かれた肉塊には何の価値もないので、部下の賊達は一人として目を死体に戻さなかった。
 噴水が煩わしいため、男は身体を蹴り倒し、噴水の拡散を防ぐ。死体からのドロリとした流水は、倒れたからか勢いを失った。
 曲剣に付いた血を死体の衣服で拭き取った後、後始末をした男は剣を収めた。
 話題は売れにくい積み荷へと戻る。
 たとえ価値があったとしても、売れなければ意味がない。アンティオキアでの売買は、商人のように何かしらのコネが無ければ公ではできない。
 故に売り場をアンティオキア以外の場所へと変える必要があったわけだ。

「ダマスカスに向かう。一人はその馬車を動かせ」
「死体はどうします?」
「金目のものはどうした?」
「全部取りましたぜ」
「なら、路肩に適当に埋めておけ」

 自分の駱駝を馬車につないだ男は、今一度、奴隷の頭数を確認する。
 その中で、一名。目に止まるほどの顔をした少女が一人いた。
 早速、男は商品に自分の手垢を付けようとする。

「へへっ、上玉見っけたぜ」

 緑眼の少女は迫る男をただ見ている。しかし、その冷たい目線では、残念ながら彼の行動を止めることはできない。
 それなのに、男は止まった。
 少女だけでなく、男の仲間である賊達も怪訝な顔をしていたのだ。
 男はその光景を見た後、場違いな事を言った。

「何だよ。お前等、勝手に取っちゃいけなかったか?」

 男はペルシャの出身ではなく、北の遊牧地からやってきた者であった。故に邪眼の畏怖を知らないのだ。
 この女、子供とはいえ言い伝えに恥じないほどの立派な邪眼を持っている。無闇に近づこうものならば、自身や周りにも災いが降りかかるであろう、と。
 皆の代表として、盗賊の頭が行動に難儀を示した。

「やめておけ。こいつは“いわくつき”だ。祟りがあってからじゃ遅い」
「は? 祟り? お頭、本気で言っているのか? あんたは上玉を捨て置こうとしているんだぜ? 街で売ったら二倍以上の額に……」
「これは頭としての命令だ」
「でもよ、こんないい代物を置いていくのは勿体無いぜ? だろ?」
「聞けないのなら、お前はここに一人で残れ。後は勝手にしろ」

 男の意見に賛同する者は一人としていない。誰もが少女を厄災と決めて、関わろうとしないのだ。
 男はやっと周囲の異様な空気を嗅ぎ取って、事を諦めることにした。

「ちっ、わぁったよ! 指示に従いますぜ、お頭」
「荷物を出せ、他は護衛だ。他の輩に取られるなよ」
「あーあ。ほんと、勿体ねえな」
「あの商人は既に祟られていたんだよ。邪眼に関わった故にな。だから、不幸にも俺らに殺されちまった」
「運命論ですかい?」
「ただの恐ろしい言い伝えだ」

















 月に照らされている砂のうねりを、彼女はぼうっと眺めていた。砂は風で舞い上がって動き回り、幾度も新しい模様を描いては消えていく。
 風の音と砂の音だけが耳へと入ってくる無の世界。先程までここに人がいたとは全く思えない。
 人間はここに存在していてはいけない、ここにいるからこそ彼女はそう思った。
 彼女は好きでここへといるわけでもない。異端として扱われた上で、人々から逃げ出されたのだ。
 人間の首を平気で切り落とす賊達でさえも、緑眼の彼女を恐れていた。剣で切ったその血、頭が首から離れても見つめ続けるだろうその眼、人ではなく化物としての扱いだった。
 いくら恐れられたところで、彼女は彼女でしかない。化物であろうが何であろうが、過酷な環境下にいれば間違いなく死ぬ、ということを彼女だけは知っていた。誰もいない場所で一人死んでいく、自分にはお似合いだと彼女は思った。
 ここが街からどれくらい離れているのかもわからない。見渡す限り、光は空にしかなかった。
 適当な方角に歩いて、体力を浪費するくらいならば、この場で野垂れ死んだ方が辛い思いをしなくてすむ。
 星を頼りに方角を決めて歩いて行けるほど、彼女は砂漠の夜に精通していない。見上げたところで、星と星を繋げた綺麗な何かが浮かんでくる程度のものである。
 砂漠の夜は冷え込む。水という温度が変わりにくい物体が著しく欠如しているからである。
 鉄の鍋に火をくべた暑さは影を潜め、死という闇が少しずつ彼女に近付いてきている。
 寒さに我慢することができず、彼女は一歩踏み出した。
 先程まで足があった場所に、僅かな砂の足跡。こんな形跡、風が吹けばすぐに消えてしまう。
 自分も同じようなものであるのだと、彼女は思う。風が吹いただけで世から消えられるなら、どれだけ楽だろうか?
 運が良いのか悪いのか、近くに目標物が見えていたので、彼女はそこに向かって裸足で歩いていった。
 まだまだ風化しないであろう大岩の麓、礫が固まって出来ている壁は砂漠の風景に似つかわしいものではない。
 大岩を背中にしたことで、吹き付ける冷たい風砂は防げる。肌を守れない服しか着ていない彼女には、それだけでも幾分楽だ。
 彼女は寄りかかったまま、地面へと座った。
 それでも寒い、体温を保つことはできそうもない。燃やせるようなものも辺りには存在しないし、そもそも火が無かった。
 肌を隠す程度の服しか纏っていない彼女にとって、夜の砂漠は死の世界に等しいもの。体内機能の維持が一夜でも持つかどうか、分からない。
 脚を曲げて体を丸めて、出来るだけ熱が逃げないような体勢を取る。
 死んでもいいと思っているのに、体は冷えることを嫌う。
 何たる矛盾。生きることに意思など関係ないと言うのか?
 彼女は無慈悲なる夜空に願いを昇華させる。



 ああ、妬ましい。
 私を産み落としたこの世界が妬ましい。
 どうして私は、ここにいる?
 私が存在する意味は何?



 不条理が襲いかかってくると、人は思考を停止させる。
 故に彼女の瞼は自然と落ちていった。
 次に目を開ける時、自分は生きているのだろうか? そもそも目を開けることができるのだろうか? そんな重大な問題を考える力すら、彼女には残されていなかった。
 最後に映ったのは、夜空を駆け抜けた流れ星。
 透明な思考に雑念一つ。
 自分が何を願ったか思い返す力は、もう残っていなかった。





















 身体が暖かさを感じている。
 きっと朝日が顔を照らしているから。
 昨夜は死ななかったけれど、いずれ暑さと寒さのどちらかで死ぬだけ。選ぶことさえ出来やしない。
 そんな悲観的な考えがあったが故に、彼女はなかなか目を開けなかったのだ。

「おはよう」

 いつ以来だろうか?
 パルシャはその挨拶を久しぶりに耳にした。
 その目を開くと煩わしいまでに輝く太陽。

「お目覚めかい?」

 当然、誰かに声を掛けられるなんて事、微々たりとも考えてはいなかった。
 咄嗟に返事する事も出来ず、目を丸くするのは当然である。
 彼女の一番近くにいた者は男、荷物を背中に背負い、防砂の服を着こんでいる。砂漠の商人といった感じの身なりである。服と服の間からは日焼けした茶色の肌が時折見える。
 奥から心配そうな眼差しを送っている者は女であった。上着として頭から被るローブを着ているものの、大人の雰囲気が布の中から漏れている。歳も彼女よりは上であろう。
 無言のまま観察の目を向けていると、男の方も表情に陰りが見え始めた。

「うーむ、もしかしたら言語が違うのかもしれないな」
「テュルク語で話してみる?」
「ああ、そうしてくれるか? こんな場所に一人でいることには、何かの事情がある筈だし、このままにしておくわけにもいかないだろう」

 別に言語が違うわけではない。単に眠りについていた頭が、現状の理解に追い付いていないだけである。
 男が下がり、今度は女が接触を試みてくる。
 彼女の緑眼を真っ向から見ながら意思疎通を図る。テュルク語を知らない彼女は、今度は女が何を話しているのかを聞き取る事が出来なかった。

「駄目みたい。どうしよう?」
「取り敢えず仲間のところに連れていこう。誰か言葉が通じる奴がいるかもしれない」
「そうね。もしかしたら体の不調で喋れないだけかもしれないし」

 男の方が身振りを通して彼女にしたい事を伝える。どうやら、おぶっていくから背中に乗れ、と言いたいようだ。
 意識が覚醒しつつある彼女は、やっと口を開く。

「必要ないし、助けてもらうつもりもない」
「おっ? なんだ喋れるのか? だったら最初から言ってくれよ」
「私から離れた方がいいわ。私は呪われているから。この眼を見ればわかるでしょ?」

 目を見開いて、彼女は相手を威嚇する。
 ペルシャ人ならば、誰もが恐れるその緑色の瞳。砂漠に存在する緑は彼女だけが持っている。
 砂漠に緑は共存できない、だから萎れて消える。それが自然の摂理。
 しかし、二人は彼女を捨てようとしなかった。

「残念だが俺は迷信とかそういったやつは信じないんだ。実際に見た事しか信じない。だから俺は、実際にこの目で見て、苦しそうな君に手を伸ばしている」
「私はこのへんの出身じゃないの。眼を見てって言われても、素敵としか思わないけど」
「おいおい、口説き台詞としたなら20点くらいか?」
「あんたもよ」

 笑い合う二人。
 盗賊さえ怯んだ眼を、全く気にとめない。逃げるどころか、助けようとすらしてくる始末。
 彼女は困惑した。自分を助けてくれた者など、もうこの世にはいないと思ったから。
 それでも、手を取る事はできない。その手に手を伸ばそうとしたら、引っ込められてしまう、誰かに切られてしまう気がしてならない。
 自分の手を見ながらも、なかなか手を伸ばそうとしない彼女を見て、男は頭に手を当てた。

「まあ、荒れに荒れたこんな世の中だ。いきなり信用しろ、っていうのは無理なもんだよな」
「置いていく、なんて言わないわよね?」
「そんなことはしねぇよ。こっちは手を伸ばしているんだから、後は待つだけだ」

 ぶっきらぼうな言い方ではあるが、男は確かに善意を向けていた。
 しゃがみこんで目線を合わせ、男は再度尋ねる。

「ところで嬢ちゃん。行き場所はあるのかい?」

 首を振る。
 そんな場所はあるわけがないのだから、正直に答えた。
 居場所なんて、どこにも無い。

「少なくとも、こっちにくれば水や食料をあげられる。寝床だって街に行きゃあ与えられる」
「貴方達が私に何か与えられても、私は貴方達に与えられるものは何一つない。つまり、貴方達は私を連れて行って得する事なんてない」
「損得で考えりゃあ、まあ実際損かもな。だから、嬢ちゃんは十分に俺らから得ってやつを味わえばいいさ」

 嘘を付く事が嫌いな人種もいる。この男が彼女の中でそれに分類された。
 だからこそ、この男が何を思って自分を連れていこうとしているのか、彼女は気が付けなかった。
 損得のない善意を他者から受けた事が無かったから余計に。

「俺達を信じるかどうかは嬢ちゃん次第だ。用無しと思えば、街に着いてから無言で消えてもいいし、勿論ついてきたっていい」
「そうそう。ここの男は女を襲う勇気もない奴らばかりだし、もし何かされたら私がひっぱたいてあげるわ」
「こりゃ手厳しい」

 不思議な人間だと彼女は感じていた。
 人と真っ当に話す機会すら持つ事ができなかったからこそ、他者の言葉に真剣に耳を傾けるようなことは殆どしてこなかった。その反動が今になって出てきているだけだったのかもしれない。
 現状で判断はできないものの、この者達がどのような事をして、どんな生活を送っているのか、そして信頼できるのかが気に掛かるようになっていた。即ち彼女の心の片隅に彼らが入り込んでいたのである。

「さて、どうだい? 悪い話ではないと思うが」
「私もついてきた方がいいと思うわ。貴方にどんな事情があれ、砂漠を荷物もなく一人で越えるのは無謀」

 そうかもしれない、少しでもこう思ってしまった時点で、彼女の答えは一つしかなかった。
 どうせ死を予期した身、再び奴隷として売られた所で、先程の商人に連れられていたことと変わりない。
 だったらまだ生きてやろう。神が選択を迫るままに。
 彼女は無言で頷く。それに伴って、二人の顔が笑顔へと変わった。

「じゃあ客人に自己紹介だ。俺はサールタヴァーハって名乗っている。名が長いから、周りからはサルトと呼ばれているけどな。名前というよりはまあ、役職名みたいなもんだ。見てわかる通り商人で、カルヴァーンを指揮している。んで、こっちのが」
「リリ。訳あって隊商に同行している薬師よ」
「名前、聞かせてくれるか? “嬢ちゃん”でいいのなら構わないが、それじゃ味気無いだろ」

 人に名乗った事など一度も無かった。叔母は最初から彼女の名前を知っていたし、他に会話する相手もいなかったから。
 名前というものが必要なものだと思った事も無かった。
 けれど、サルトは必要だと言ったのだ。
 初めて自分の名前を言う。彼女は自身にも言い聞かせるように、名を彼らに伝えた。



「……パルシャ」
「“純粋”、か。いい名前じゃないか」




 彼女、パルシャは、自分の名の意味を初めて知ったのだった。


























<ⅱ> 砂の世界



「旅はいいものだ。そうは思いませんか」

 彼の言葉に共感するものが多いのは、彼が言葉よりももっと重い業績を残しているから。
 洗練された言葉を机の上で推敲するより、外の世界から新しい何かを見つけることに彼は長けていた。
 だからこそ、彼は同じ場所に留まっている事ができなかったのだ。
 イブン・バットゥータ。
 彼の世界に対する探求心は底知れないものであった。

















『砂漠を旅する者は、星に導かれて進む』
                         マービン・トケイヤー




















 日が昇ってからは黄土色と空色の境界線、砂漠は本来の姿を取り戻しつつある。
 見上げる空には雲一つ、水一滴の存在をも許さない。燦々と光輝く大きい太陽が、見えない何かで身体を照り付ける。雲の代わりにいるのは、弧を描き飛びまわる鳥の黒い影、ハゲタカ達が力尽きた生命の肉を空から狙っている。
 風は砂を巻き上げるため、これまた黄土色。シロッコと呼ばれる砂風は、この環境が生命に優しくない事を暗に示している。
 彼女ことパルシャは、渡された布で身体を多い、肌を日差しから守りながら、先頭にて道を歩く二瘤の駱駝の後ろに乗っていた。
 いや、最初から道などというものはなく、砂の風景を目に入れず、太陽だけを目印にして進んでいる。夜になると月、星を頼りにする。羅針盤より、己の経験のほうが正確、これこそが一流の砂漠の行商だ。
 馬車が走ってきた道をそのまま使っていないのは、整備道が荷台を狙う盗賊の温床となっているから。砂漠という脅威を孕んでいても、人災よりも幾分はましだろう。
 要するに戦うべき相手が人間か気候か、ただそれだけである。
 過酷な環境の中を闊歩することができる。だからこそ、砂漠の商人はたどり着いた街で重宝されるのだ。
 彼らの足並みはゆっくりながら、確実に一歩を進んでいく。その一歩を刻んでいるのは駱駝達だ。
 馬に比べて駱駝は足場の悪い道に強い。そして餌を何でも食べるために、食費が安上がり。丈夫さ、特に砂漠に対する耐性は馬よりも数段上だ。
 荷物を運ぶ能力も駱駝は秀でている。駱駝に乗っている人間のほうが先に疲れてしまうのだから、行商達は駱駝には頭が上がらないのだ。
 駱駝という強い動物が存在するからこそ、自分達の商売が成り立つ。駱駝の良し悪しが商人の格を決めているといっても過言ではない。
 移動しながら商売を行う者は、駱駝達に命を預けていたのだ。勿論、今のパルシャの命も同じである。
 太陽が砂を金色に照らしている。駱駝が歩く度、身体が砂に埋まっていく不快な感覚を彼女は覚える。自分の中の錯覚だと分かっているのに、駱駝が上下すると、慣れない為か違和感を身体が覚える。
 砂の丘が辺りに立ち並ぶ世界は、人の持つ距離感覚を狂わせる。風景が全く変わらないために、いくら進んでも進んだ気にはならない。
 砂の上にいる生命を照らしつけ、容赦無く水分を飛ばしていく。太陽の下にいる生命は、時間に比例して体力を消耗していく。地面から砂を含んで吹き上げる風は、人の肌を焼き切っていく。呼吸困難に陥る程の凶悪な熱風の洗礼は、早々慣れるものではない。炎の一つも見えていないのに、喉は弱火で少しずつ炙られていく。ここは自然の竈だ。
 壁も何も無い砂の迷宮。この世界は人だけでなく、誰にも優しくない。
 パルシャは砂漠の過酷さなど知らなかった。生まれてからタブリーズの街から出た事など一度もなく、砂漠という場所が漠然として危険であるということしか知らなかった。
 分かっているのと体験するのでは、大きく異なる。パルシャは越えても越えても出てくる砂丘を見る度に、砂漠に対する恐怖を肥大化させていくのだ。
 生唾を飲むと、自身の喉が渇いている事を認識する。身体が失ってしまった分の水を欲して仕方がないのだ。
 汗を掻いている事は、まだ身体が正常に機能している証拠である。水がなければ汗も全く掻かなくなる。
 「汗を掻かなくなったら、水と岩塩を含んで休め」は、砂漠の旅人が知る教訓。水のみを飲んでも、塩分がなければ直ぐに水が身体から抜け出てしまう。
 パルシャは前で駱駝を走らせているサルトから水を貰っている。竹に詰められ、僅かな冷たさを保った水は、砂漠において金や商品よりも大切であり、価値が高い。いくら砂漠を知らないパルシャであっても、これだけの日光と砂を見せられれば、欲求のままに水を飲むことなどできない。
 加えて、不確定分子であった自分が現れたせいで、彼自身の使用できる水の量も減っている。
 自分が荷物でしかないと考えていたパルシャは、過酷な地での移動であっても、身体が必要な養分を求めても、水へと口をつけなかった。

「飲まないのか?」

 サルトの心配など上の空、パルシャは全く反応せずに目を瞑って俯いている。
 どうせ前を見ても砂丘と砂嵐くらいしか目に入らない。余計なものを目に入れて体力を消耗するくらいならば、視覚情報を全て遮断してしまったほうが、何かと楽であった。肉体も、精神も。
 よって、急に口の中に何かを突っ込まれても、上手くは対応できなかった。
 入ってきた液体をそのまま飲み込む。味は全くしない、でも冷たい。
 喉の潤いが少しだけ癒えた事により、自分が飲んだものが水であると分かった。
 パルシャに水を飲ませる事ができる位置にいる者など、前に乗っている男くらいだ。
 口を開くとまた喉が渇いてしまうので、パルシャは肩を叩いて呼び出した後で、目を見開いて無躾な行為を取った彼を睨みつけた。
 彼女の意を汲み取った上で、彼は笑う。

「倒れられるくらいなら、飲んでもらったほうがこっちは楽なんだけどな」

 倒れたなら、そこらへんに捨て置けばいい、よっぽど楽ではないかとパルシャは思う。
 自分を抱え込むことの意味がいまいち思い浮かばないので、尚更困惑し、結論は自己嫌悪。
 不愉快と不安がよぎった顔を見て、彼は誰に問うことなく呟いてみせる。

「信用できなくても食べる、飲むこった。生命、口に入れなきゃ死ぬんだからな」
「口に入れても結局は死ぬんでしょ?」
「殺すんだったら、貴重な水を客人にはやらないと思わないか?」

 商人など信用できない。結局、金が一番であり、自分にも付加価値と値札を付けて商品にするに違いないと。前例があった故、考えを改められない。
 付加価値などあるものか、自分の目は全てを台無しにするのだから。
 不幸をもたらすいわくつきの商品など、金を貰ったって受け取りたくはない。
 パルシャは自分の緑の目を何より憎んでいる。この目が自分を化物にしている。
 この目さえ無ければ、親にも捨てられず、周りから白い目で見られる事もなく、叔母が殺されることだって。
 感情を押し付ける前に、何かの物を押しつけられたことで、パルシャの思考は一旦中断した。

「ついでだ。甘い物も取っておいたほうがいい」
「いらな……」
「いいから食え。食わなきゃ大きくなれないぞ」

 鼻を摘まれたパルシャは思わず口を開く。そこに放り込まれた固形物。
 口の中に入ってすぐに、形が崩れて甘みが広がっていった。
 塩と砂糖を混ぜ、卵白で凝固させたお菓子類、帯食の一種である。砂漠を歩く者の中では、手軽に糖分を補給できる貴重な携帯食となっている。
 その甘みは、パルシャの身体が深く求めているものだった。
 糖分が体中に沁み渡っていく様子が体中で感じられ、その感覚に幸せを感じる。
 甘い甘い幸せ。それはもうすぐに蕩けて、手が届かない所に。
 パルシャは自分がまだ過去に苛まれていることに気が付く。
 きっと不幸だった、それでも顧みれば幸福と思えた。
 緑眼が招いた悲劇、けれど張本人はのうのうと生きている。さて、一体どうしてなのだろう?
 脳を活性化させる餌が投与された所で、難題が解ける事は無かった。



 人は衣服の量によって体温の調節を行うけれど、砂漠の場合は強い直射日光が肌を傷つけるために、暑くても薄着でいる事はできない。風通しが良く、光による刺激を防げれば最善である。
 元から大した服を持っていないパルシャには、新しい服が必要不可欠である。布をひっ剥がしたら裸にも相違ないような格好で歩かせるのは、なんとも心苦しいものであるから。
 残念ながら、カルヴァーンの仲間内には、パルシャの小柄な身体に合う大きさの服を持っている者はいなかった。砂漠での厳しい道のりを歩いて行く上で、余計な荷物を持たない。あるとするならば、その服は商品である。
 パルシャは子供よりも少しだけ大きい位の体格、身体が大きく成長する時期であり、同世代の服の需要は乏しい。よって服に布を纏ったまま、外套を羽織っている今の姿へと至る。

「街に着いたら買えるさ」
「いらない。私の身分、奴隷に相応な服だわ」
「心まで奴隷になったっていい事はないぞ。思考が縛られてしまうと、自ずと行動も縛られることになるからな」

 自分を縛ってきた外見、それが生み出した道と末路。
 彼女は最初から束縛されていた、人生という決められた道筋を前に歩くしかできなかった。速度だって決められない、後ろから石を投げられるから。今だってきっと真っ直ぐに歩かされているだけ、パルシャはそう確信している。
 続いていく熱い熱い道、視界は大きく広がっているのに、パルシャには一本道にしか見えなかった。





「水の匂いがするな」

 再び沈黙を破ったのは、カルヴァーンの隊長であるサルトである。
 その声に同意する者は多い。水に対して敏感且つ貪欲になってしまうのが砂漠の旅人というものである。
 砂漠の道にて水が現地調達できる事は、乾燥地帯を長期歩く上で重要だ。いくら貴重とは言えど、荷物を増やし過ぎれば駱駝にも商売にも負担が掛かる。
 しかし、パルシャの緑眼には水など何処にも映っていなかった。水どころか、見る限りの砂丘地帯、前と映像が変わった所など無い。
 パルシャが色々な場所に目を向けている間に、カルヴァーンの者達は駱駝から降りて砂を掘り始めた。
 丘と丘の麓、水があったとしたら確かにここへと流れて溜まるであろう。残っているなんて普通は思わないけれど。
 その不可解を現実へと昇華するのが砂漠で生きている民である。砂漠での生活を行わなければ、砂漠での常識を得る事ができない。故に砂漠の脅威を過大評価し、当然の如くその流砂へと沈んでいく。
 弱者のみが喰われるのは、世界の理と何も変わらない。

「こっちで出たぞ! 早いうちに汲まないとぬるま湯になっちまう、ってもんだ」

 穴から湧き出る小さな水場へと殺到し、水分を補給する者達。奪い合いもなく、分け合いながら飲み合う姿。
 そう、まるで血の繋がった者同士、パルシャの掌から零れ落ちた絆。
 家族、なのに自分だけが異物で馴染めない。一つの透明な壁を隔てて相手を見ている、そんな感覚。パルシャ自身が他者に馴染む気を持っていないのも事実であるが。
 喉の渇きはある、けれど輪に入っていく気には全くなれない。
 だから彼女は、砂丘で己の姿を隠した。
 商人の誰かからもらったブカブカの靴、焼けた砂から足を守る為だけで、彼女の足とは合っていない。脱げそうになるのを調整する度に、踝や踵が擦り切れていく。
 砂は足音を殺す。故に人目を避けて消えることは難しくなかった。
 自己防衛のために身を隠すのだけは、パルシャは得意だった。
 あの日もそうだ。叔母が殺されながらも奴隷として生きながらえているのは、他者から身を隠せたからに他ならない。



 水がどんな場所に隠されているかは、前例を見た彼女の中で大体見当が付いている。
 商人の隊列から一つの砂丘分離れた場所、ここも砂丘と砂丘の間になっている。パルシャが考える通りならば、この場所にも同じように水が湧く可能性がある。砂が白くなっていた場所を掘っていた所をパルシャは目視していたので、それに倣った。
 本当に上手くいくものだろうか? 半信半疑のままに、パルシャは手で地面を掘り始める。
 砂は日当の熱砂とは違い、少し掘っただけでほんのりと冷たくなる。この温度は嘘をついてはいない。
 そして想定通り、砂がじわりと濡れて、綺麗な水溜りが生じた。
 掌を器にすれば掬えるほどの水、自分で見つけた水だ。
 触ってみると、砂漠には存在しないと思うほどの冷たさをパルシャは感じ取った。

「ちょろいものね」

 嬉しさを隠す減らず口を聞くのは自分だけ。
 誰かに聞かせるために言ったわけじゃない。劣悪な環境でも自身一人の力で生きていけると思い込みたかったからだ。
 お宝はいくらでも湧き出てきそうだったけれど、とにかく喉の渇きを潤したい。
 水に口をつけようとした、その時だった。

「飲むな!」

 予想外の大声に驚き、掌から水が全て零れ落ちた。
 砂漠は水を一気に飲み干す、それは手で掬った一杯では全く足りなそうに。
 パルシャの掌はあっという間に乾き切り、何も残っていない。
 再び水を求めようとした時には、もうサルトは横にいた。

「こらこら、勝手に掘るなって」

 しゃがみこんで、水の色を確認している。透明であることは間違いない。
 水を飲む行為さえ規制されることに苛立ちを覚えつつも、パルシャはその思いを表には出さない。
 感情を露にして言葉を紡ぐことほど疲れることはないと知っていたから。

「湧き出る水にも飲めるものと飲めないものがある。見た目が透明でも、何かの養分が溶けだすことで、人間に対して毒として作用する水もあるんだ。サブカ付近で掘られた地下水なんかなら、味で誰でも分かるんだけどな」

 サブカ、塩原という言葉を聞いたことが無かったパルシャは彼の言葉を聞き流して、ただ彼を見ていた。
 行動に移れないのは、彼が動作を止めたからである。
 パルシャよりも先にサルトは水を少しだけ口に含んだ、そして即座に吐き捨てた。

「こいつは、外れだ。残念だったな」

 パルシャも同じように口に含んでみるが、水の味を忘れてしまったのか良く分からない。
 吐き出した後に首を傾げて見せると、サルトはケラケラと笑った。

「年季が違うからな」

 いつから他者の笑顔を不快に思うようになったのだろう? きっと自分の手から幸せが離れたときからだろうな、とパルシャは自問自答をする。
 幸せはこの掌で作った器の上にもない。
 あったとしても、パルシャから逃げてしまう。水が滴り落ち、乾いてしまったように。
 幸せはどこにあるものなのか?
 きっと、幸と不幸の量は不変じゃない。だから消えてしまうんだ。砂に吸い取られてしまったように。

「そろそろ駱駝を出す。戻るぞ」

 それでも、名残惜しそうにパルシャは作り出した水溜りを見ている。
 何かを何度も失っても、失うことには慣れないのだ。
 だから尚更に、

「ほら、さっき汲んできた新しい水だ。喉渇いていたんだろ?」

 急に失った物を得るとは思っていなかった。
 図星をつかれたパルシャは、耳まで赤くしていた。
 この暑さと被っている布からすれば、他者からするとほんの些細な変化にしか見えないだろう。強く実感しているのは本人である。
 でも、サルトには知られている。

「年季が違うからな」

 砂漠にいれば、誰だって喉が乾く。そんなことも思いつかないほどに、パルシャは初めての砂の上の旅に疲弊していたのだった。











 日が沈んでくる頃になると、砂漠の温度は急激に下がってくる。
 暑さというよりは、この寒暖の差、つまりは水の無さが砂漠を死地へと変えるのだ。
 水は温度変化を緩めるもの。熱しにくく、冷めにくい。生命が水場に集まる理由の一つである。
 水の少ない砂漠が大きな温度差を持つのは必然であったのだ。
 パルシャは昼間よりも布を密着させて被り、熱が逃げることをできるだけ防ぐ。
 他の者達が気を使って布やら服やらをパルシャへと渡そうとしたが、パルシャは全て断った。自分はお荷物になんてならないという気持ちを持ってして。
 暑さよりも寒さのほうが身体に堪える。旅中、特に砂漠では食事事情が悪くなる。加えて一日前までは奴隷であったパルシャの場合、劣悪な食事事情により体調は最悪と言っていいほどだ。
 パルシャの下唇が青くなっていることを確認したサルトは足を止めて、隊商に野宿の指示を出すのだった。





 夜になっても砂漠の風は止まないので、風を遮れる岩陰付近で足を休めるのが一番賢い。洞窟でもあると保温効果は格段に高くなるが、少なくない人数を率いている者からすれば高望みであった。
 砂漠慣れしている商人達は、疲れた様子を見せることなく、焚き火で暖を取りながら仲間同士で談笑を始めている。パルシャからすれば、口を開けることですら疲労に繋がるというのに。

「横になる? 膝を貸してあげるけど」

 パルシャの隣に座った女、リリはにこやかな笑顔で話しかけてくる。
 栗色の長い髪は紐で束ねられ、馬の尻尾のように垂れ下がっている。身動きの取り易い髪型、長髪の束ね方なのだろうが、格好としてさぞかし勿体無い。質素ながら肌を覆い尽くす服は、長旅で疲れてしまったのか色が褪せてしまっている。そんな拙い服を着ていても、パルシャには彼女が同性として綺麗な女の人に映っていた。
 しかし、外観と内心の印象は全く別のものである。
 今日初めて会った奴、そんなのが信用できるわけがない。パルシャが心に秘めている感情は、すべてを拒否という結果を導く。今回も例外ではない。

「いらないわ。他人様に寄りかかるなんて常識的に迷惑だもの」
「そうね。私達は他人ね」

 リリは見上げる、先には夜空しかない。
 星の輝きは、砂漠が一番綺麗に観測できる。真っ暗であり、空を遮るものが何もないからだ。
 それは薄暗い世界を優しく照らす光であり、旅人達の夜の案内人でもある。

「そう、今は私と貴方は他人同士。でもね」

 星へと手を伸ばすリリ、当然掴むことなんかできない。
 この光は遠い世界からやってきたものであるのだから。

「星と違って、こうやって手を伸ばせば、掴み合える場所に私達はいるの。誰だって最初は他人、要は近くにいて手を伸ばせばいいだけ」
「屁理屈だわ。手を伸ばしたところで払い落される。私はそれを知っている」
「払い落されるのは確かに怖い、それでも人は手を伸ばすわ。そうしないと生きていけないように出来ているんだと思う。人間は強くないから」

 理想論なんて笑えないし、唾を吐き捨てたくなる。
 そもそも、先に唾をかけてきたのは他人、いや神がパルシャを最初に突き落としたと言っていい。
 今更、理想に縋って何をすればいいというのだ。

「ふん」

 パルシャは膝を抱えて俯いた。温かさを保つには、身を丸くするのが一番良い。布を貸すと言ってきたリリを突っぱねて、パルシャは目を閉じる。
 本当の暗闇ならば、自分が一番安らげる場所。今は違う、誰かが見ている気がするから、怖いのだ。緑の目を良しとしない者達が。
 パルシャは少しだけ目を開ける。
 本当に見ていた。

「じー」
「やめてほしいんだけど。それとも嫌がらせ?」
「ごめんね。ついついさ、珍しく年下の女の子を見ると可愛らしくてね。見ての通り、むさいのが多いから尚更」
「私の知るところじゃない。勝手に巻き込まないで」
「あーあ、ふられちゃった。いいよー、おっさん達と飲んできますよー」

 リリは立ち上がって背伸び、動いていないと疲れてしまうそうな快活さが彼女の顔に現れている。喋るよりも行動を重視する者は、全てが真っ直ぐだ。
 パルシャは自分が真っ直ぐと対極にいることを知っていた。その愚直さにあこがれることだってあった。でも、自分の真っ直ぐさが生み出したものは歪曲物ばかり。根っからの歪み者だった。

「蠍には気をつけてね。ここで刺されたら簡単に対処できないから」

 どう気を付けろというんだ。そんな文句を内へと抱えている間に、リリはどっかに行ってしまった。
 パルシャは警告も気にせずに再び目を瞑ると、闇のカーテンと共に疲労からくる眠気がやってきた。
 睡眠を疎かにし過ぎていたのだから、無理はない。





 身体の冷えに気が付き、パルシャの目が開く。
 暗い、寒い、それよりも静けさを感じ取っていた。
 周囲を見渡すと、人間の食べ残しでも狙っているのか、リスが焚き火の跡地をうろついている。
 大きな尻尾を地面に引きずりながら、せっせと歩きまわる姿は、この場所が砂漠であることを忘れさせるのだ。
 わずかな水分を糧とし、砂漠を生きる生命もいる。もっと適した環境で生きればいいのにと、思わず同情してしまいそうになるが、彼らは過酷な環境にも適応できる能力を持っていた。
 自分にはそれがあるのだろうか? パルシャは自問してみた。
 その能力が劣っているのか、持っていないふりをしているのか、どこかに置き忘れてしまったのか。
 少なくとも環境に慣れる為に友好的な態度を取っている、とは言えなかった。
 そして取る気もない。
 要は自問自体が無意味であった。
 向こうには無防備な駱駝達が、縄でまとめて繋がれている。この静まっている状況ならば、一匹盗んで逃げることも難しくはない。問題はこの場所がどこで、どこへと向かえばいいのかもパルシャは分かっていないことであった。
 砂漠の独り歩きが危険な事は、過酷な昼と夜を一日でも体験していれば分かる事。これだけの気候変化がある場所で、目的もなく歩き回るのは死を迎えるのと同じであるのだ。
 干からびたくないから、まだここにいよう。楽な方に引っ張られるようにして、結論は先送りした。
 散歩がてらに岩周りを歩いてみる。日中の熱はどこへやら、砂が冷たくなっている。
 鬱陶しいまでにへばりついてきた熱がどこかに消えて、死んだ世界の上に彼女はいる。世界を動かしていたもの全てがどこかへと消えてしまったのではないかと、パルシャは思うのだ。
 ある者の後ろ姿を確認したことで、それが幻想であると気が付く。
 男、サルトはしゃがんだまま動かずに何かをしているが、背中で何も見えない。
 何かしているのだろうか? パルシャは音を立てないように忍び寄っていく。

「……賊か? 人を背後から襲おうなんて、いい度胸だな」

 今までに聞いた事のない口調で、制止を求められた。
 止まらなければいけない、パルシャの脳が即座に制止信号を身体に伝え、棒立ちとなる。
 何度も味わった他者から発せられる「殺される」感覚。身体が動かないのは恐怖と諦めから。
 商人なんかとは違う。奴隷商よりも残忍な何かが、目の前に佇んでいる。

「ん……って、パルシャ? なんだ、驚かせないでくれ」
「驚いたのは私。今のが貴方の真の姿?」
「ああ、これはアレだ。砂漠を生きていくための脅し文句みたいなやつだ」

 パルシャは本物の殺気というものをよく知っている。何故なら、自分自身が常にその気を身体にぶつけられていたから。
 人の悪意は暴力と同じで、切先を持つ。肉体を通過して目に見えない傷を心に刻むから、尚更タチが悪い。
 先程の空気はもう消え去っているが、パルシャの怯えはまだ身体に残ったまま。

「見張り?」
「だから歩き回っていた」
「立ち止まっていたじゃない」
「単に見つけてしまっただけだ」

 見つけたもの、パルシャはサルトが背中で隠していたものを確認するために覗きこむ。
 そして、後悔した。
 骨、それも大量に。
 頭蓋骨、足や手の形をした骨。人間の骨であるとは分かるけれど、分割されているために人間の形は保っていない。

「骨、骨……ちがう、私は……」

 パルシャにとっては、最も見たくない光景であった。
 骨は略奪の爪痕、嫉妬の暴走、怒りの矛先に突き刺され、燃やされた者の顛末である。
 人の悪意は切先になるだけじゃない、身をも削ぎ落として溶かす。こんな白くて固い物体しか残さないんだ。
 温かさも、優しい言葉も、思い出さえも燃え盛り、無味な灰塵に変わっていく。

「パルシャ?」
「うっ……、ん。別になんでもない」

 どう見ても“なんでもなくはない”状態のパルシャであったが、距離を取る言葉で相手を突き放した。
 聞かないで欲しい、そんな気持ちをサルトも読み取ったのだろう。顔を見たままで、何かを語ろうとはしなかった。
 冷たい風が流れる。ここにある白骨も、風と砂に洗われて、いずれ消え去って砂漠の一部となるのだろう。

「運良く死に場所に辿りつけた者達だ。ここ以外で死んだら、死体すら残らないから」

 砂に埋もれた者は、骨すら残らない。あの殺された商人のように一生行方不明のまま、世界から忘れられ、世界の一部となる。
 現世に形が残っているだけ、彼らは幸せだったのかもしれない。
 そう考える方が、パルシャにとって気が楽であった。
 考えすぎるほどに、嫌なものを思い出してしまうから。

「全ては大地に帰り、再びの生を灯す」

 サルトが砂に膝を付いて、何やら呟き始めた。
 神に祈るような人柄には到底見えなかった。
 けれど、彼が目を瞑って何かをしている姿は、パルシャにはさも神聖な行為をしているように見えている。
 パルシャは今まで、死者の霊を弔うために墓地へ行くこともなかった。親しい者もいなかった上に、叔母の墓を作る事さえ叶わなかった。
 死んでしまったらそれで全て終わり。命という定義を、自身の体験から作り上げていた。
 そこには土地柄からの慣習など無い。

「アラーの審に光あれ」

 彼がどこへ向けて言葉を放ったのかはパルシャには分からない。彼女には宗教といった概念に否定的だった。
 遺体は規定に従い右脇腹を下に、顔は正しくメッカに向け墓の中に収められるのが、ムスリムとなった者が死者に対して行うべき作業である。しかし、これまた宗教観に染まりきっていないサルトにとって、この言葉は形式上のものでしかなかった。
 イスラム教は死という状態を「この世の終末の日に神の審判と救済を受けるため、再度生前の肉体と結び付いて復活するまでの期間」と定義している。しかし、全てを失って世に戻ることは復活と呼べるのだろうか? 少なくとも彼はそう思っていなかった、故にサルトは真摯な教徒ではなかった。要はパルシャと同じ側の人間だったということである。
 色々な地に足を踏み入れることによって世界観は変わるもの。カルヴァーンの中にも異教徒がいて、イスラム以外の宗教に纏わる話を色々としたから、彼はイスラムに染まりきらなかったのかもしれない。

「もし俺がアラーの審判を受けることになったら、墓の拷問を受けることになるのだろうな」
「墓の拷問?」
「ムスリムに伝わる言い伝えだ。不信仰の者が死ぬと、怒りの天使がやってくるといわれているんだと。その死者の魂は不快な悪臭を放ち、それが天使たちの気持ちを悪くし、死者は怒りの天使たちから尋問を受けた後、不信仰者達のいる地獄に捨てられる。だそうだ」
「ふぅん」
「まあ、今が楽しけりゃあそれでいい。死後の事は死んでから考えても遅くないだろう」

 立ち上がり、ターバンを抑える。
 砂が混ざった風が、下から捲き上げられて、露出している頬を打った。
 外套と布切れしか持っていないパルシャには堪える。顔を隠すようにして砂から顔を守ってみる。
 痛い。痛みを感じるからこそ生きていると実感できるなどと言うけれど、パルシャはこの世は痛みしか与えてくれないと思っていた。それは、生きることを強いているのと同じ。

「ねえ? この世界と地獄って、どこが違うのかな?」

 埋葬を終えて元の場所へと戻ろうとするサルトを、疑問で引き止める。
 話しかけられるとは思っていなかったものの、彼は声を聞いて振り向いた。
 あまりに単純、でも誰もそれを聞かないのは、それについて誰も考えようとしなかったからである。

「ねえ? 生きているって、楽しいの?」

 音が無い分に、耳へと澄んで入ってきた小さな救援。
 サルトは彼女の真剣な顔とこの言葉を聞いて、軽い眩暈と嘔吐感を覚えた。
 どうして無垢の顔で、パルシャはその言葉を口にできるのだろうか? 答えは一つで、冷やかしなどではなく、本当に答えを求めているからだ。
 笑いたい時に笑い、泣きたい時に泣ける。そんな人間として当たり前の事すら知ることができなかったのが、今のパルシャである。
 だからこそ、返さなければならない言葉が直ぐに口にできなかったのだ。
 強く優しい言葉でないと、現実に牙を剥いた無垢の言葉を覆い込むことはできない。

「……ああ、楽しいよ」
「本当に?」
「パルシャは若い。これからいくらでも知ることになるさ」

 せめて少女が温かいものを温かい、楽しいものを楽しいと言えるように。当然の事を認識できるように。世界には幸せがごまんと落ちている事を知ってもらうように。少女に理不尽な不幸せが降りかからないように。
 彼は苦汁を口の中へと押し込んで言った。
 冷たい砂に足を取られながら、二人は音も立てずに歩いていく。
 冴え冴え輝く月は、薄い雲を蒼白く照らし、冷たい砂の上に佇む者の存在を証明していた。


















「あの後、少しは寝たのか?」
「……一応」
「日が落ちる前には、目的地に着くだろう。それまでは窮屈だろうけど我慢してくれ」

 昨日と変わらない太陽の元気さ、是非とも夜の静かな時間と相殺して貰いたいところだ。
 カルヴァーンの者達は砂の上でも、岩に寄りかかってもよく寝られるのか、テントを使用していない者も元気そうにしている。
 見た目も内心も一番疲れているのはパルシャだろう。だからこそ、サルトは彼女に話しかけた。
 その心使いがパルシャをいらいらさせる。自分が役立たずで何もできないのに、皆に目をかけられる。弱き者の烙印を押されているに等しい。
 どんな事があっても生きてきた。信用に足る人物はいたとしても、失ってしまうと知っていた。なら、自分が強くなるしかないのだ。なのに、弱いと思われてしまっている現状が気分を不快にさせる。強くなれていないのを知っているから尚更に。



 妬ましい。自身も皆も妬ましい。
 自身の価値を無にする環境すら妬ましい。



「別に自分を追い詰めることはない。街に着いたら働いてもらうさ」

 サルトが気休め言葉を口にしたところで、カルヴァーンの厳しい旅は再開された。
 昨日、水を補充できたためか、それとも街の近くまで来ているからか、昨日よりも雑談、というより商売論についての会話が飛び交っている。
 この交易品は珍しいから価値が上がるだとか、これを上手く運べたら別の場所で高く売れるだとか、次の街の特産品はあれだだとか。
 砂が飛び交う風の中で、不純物を口にしてまで喋りたいなどとは、パルシャは全く思わなかった。

「皆、現地のお酒が楽しみなのよ」
「昨日も飲んでいたでしょ?」
「言われれば確かに」

 不快感が顔に出ていたところを察した者がいた。リリである。
 命すら落としかねない狂気の商売をずっと続けているカルヴァーンにとって、お金や商品よりも酒が好ましくなるのは当然の事なのかもしれない。
 アルコールは気の緩みという安心感を、他のものでは決して手に入らないものを提供してくれるのだから。
 パルシャにはまだアルコールの良さが分からない。叔母が飲んでいたお酒を口に含ませてもらって以来、あんな苦い異物など二度と口にするかと思っていたから。

「そろそろ砂の世界からはおさらばしたいわね。まあ、すぐにそうなりそうだけど」

 リリの目線の先には砂漠の終わりが見える。岩盤が多いものの、岩の合間から砂漠では見られなかった植物も生えている。
 厳しい環境の終わりだ。身体を隠していた防砂用の布も、もう必要なくなるだろう。
 街の外形ももう少しすれば見えてくる筈だ。

「ふふっ、笑った」
「なっ! 笑ってなんか……いない、私は別に……」
「いいじゃない。嬉しい時は嬉しいと言って笑うものよ。貴方にはその権利があるんだもの。絶対に忘れちゃだめ」

 もう誰にも拘束されていない。誰かに行動を妨げられることない。自分の好きな事ができるのだ。
 自分の好きな事、やりたい事。
 でも、それって一体なんだろう?
 そんなものが本当に、嫌悪すべき世界のどこかに転がっているのだろうか?
 自問しても自答には至らなかった。
 自由を一度も知らなかった彼女にとって、その命題はあまりにも大きく、難解だったのかもしれない。





「やっと着いたか」

 安全とは掛け離れた旅をしている者にとって、無事に目的地に着くことほど安心できる事はない。街を見る事で、自分達が死の世界に迷い込んだわけではないのだと再認識するのだ。
 手に入りにくいものであるからこそ、ありがたさが分かる。砂漠の旅人にとっての大切なものは、人々が住まう中にある休息であった。

「長い旅、お疲れ様でした」

 リリは駱駝から降りて、ぺこりと頭を下げた。まるでこの街の街娘にでもなったかのようだ。
 来客者を迎えるよう、上品さを保ったまま、この街の名を告げた。

「ようこそ、アンティオキアへ」























<ⅲ> アンティオキアのある公爵

 山の水と海の水が交わるこの街、名をアンティオキアと呼ぶ。
 東の端国に絹を伝えた道とされるシルクロードの始まりとなる街。
 セレウコス朝の首都であり、ヘレニズム文化の発端となった都市。古くから陸と海の交易都市として栄え、様々な民族がこの地を通り、そして定住していた。
 異文化が混ざり合い、人種も宗教も様々。故に揉め事が絶えず起こっている。
 キリストとイスラムの境界に位置し、昔から戦争の最前線となった。嫌気の差した住民達は年経つごとに消えていく。
 宗教対立、その最たるものがキリスト教の聖地奪還運動である十字軍だ。
 セルジューク朝から支配権を奪ったキリスト勢力は、アンティオキア公国を立ち上げ、十字軍の最前線としてイスラム勢力と対した。しかし、新たな国家すら長くは続かない。十字軍が衰退してきた時期に入ってからは、イスラムを信仰するマムルーク朝に再び奪還されている。
 人口も旺盛を極めた頃に比べると、50万いた人間が半分以下にまで減ってしまった。それでも地の利を生かした陸海の拠点として、多くの荷物が今猶行き来している。
 盛衰と復興の交易都市。
 アンティオキアの街は、今も生きている。




















『愛は十倍に、憎悪は百倍にして返せ』
                         アンティオキアの格言



















「目が皿になっているわね」

 パルシャを見ている者も十分に驚いているが、当人の比ではないだろう。
 自分が住んでいた街と風景があまりに異なるために、パルシャの目は深緑を隠すことなく見開かれていた。
 ほんの少しだけ、彼女の顔は感情を表していた。
 それがサルトにとっては嬉しかった。たとえ些細なことであっても。
 とはいっても、いちいちパルシャの行動に目を向けていては、時間だけが過ぎ去ってしまう。
 カルヴァーンがここに来た事は、商いを行うため。そして、砂漠のど真ん中では手に入らない、一時の安らぎを得るためである。

「さて、久しぶりのお仕事でもするかね」
「先に酒だ、酒! 飲んでから仕事!」
「寝させてもらいます。屋根と風避け付きの睡眠は貴重なものですから」
「水浴びたい! ギャルマーべに直行!」

 街へと来ると皆の感情が吹っ切れるのか、協調が全く見えないままに、バラバラに行動していく。
 それぞれの意志のままに、活気づく街へと消えていくのだ。
 今までずっと一緒に行動して来たとは思えないほどに、旅仲間は分散していく。
 ポツリ一人、街に来たところで目的も特にはないパルシャが、この場に残るのは必然である。
 そして彼女の保護者候補二名。
 本人そっちのけで、勝手に今後の方針を決め始める。

「まずは服。布を羽織らなくてもいい格好が必要だわ。年頃の女の子なんだから可愛い服探さなきゃ」
「新しい駱駝の調達も必要になるかもしれないな。サイズは中で、丈夫なやつだ。あと、少し仕事の手伝いをだな……」
「そんなのはサルトがやりなさいよ。こっちは女の子にとって一番重要な問題なの」
「むっ、まあ、そうだな。分かった……」
「じゃあ、暫く借りるわよ」
「私は所有物じゃない」

 今のパルシャにとって一番信頼できるサルトは人混みへと消え、パルシャにとって一番関わりたくない女が残った。





「ところで、パルシャちゃん。どんな服がいい?」
「別にいらない」

 布を羽織って肌を隠す恥ずかしさよりも、服を買ってもらえるこそばゆさのほうが上回ったのか、パルシャは即座に拒否を示す。
 人にタダで物を与えることも、物を貰うことも理解しがたい行動。パルシャの考え方に無償という文字は消え去っていた。
 世の中に都合の良い出来事など存在しない。全ては利益と損失、一時の感情で結果が決まるのだと。
 自分の意志を示したことは、パルシャにとって立派な成長だ。
 問題があるとするならば、リリに聞く耳が全くなかったことである。

「いるの。貴方が良くても、私が嫌だから。毎日鼻の下を伸ばした男達の顔を見なきゃならないのは、耐えがたい苦痛だわ」

 そもそも、リリはパルシャに“服がいるのかどうか”を聞いていない。

「別に私は……」
「はい、意見なしね」

 こういう強引なタイプに、パルシャは滅法弱い。抵抗するという行為を無駄と割り切っているからである。
 人の話を聞かないのも、無気力なのも困りもの。二人共に欠陥がある性格を持っていて、直す気が無い。
 しかし、相性は悪くはない。

「日が暮れちゃう前に、さっさと済ませちゃうかな。パルシャちゃんも、さっさと行くよ。目指すは呉服屋ね。風砂に耐えられるしっかりした可愛いの買わなきゃ」

 返事の代わりに重い息を身体から吐き出す。
 残念ながらその吐息はリリの耳へと入っていかなかった。







 パルシャの眼が再び丸くなるまでに、一分もいらなかった。
 変わりゆく街並みが、彼女の視覚を刺激するのだ。
 白い石材の街、海の水色は光を反射し、街を一層と明るくする。
 砂が支配している黄土色の世界と打って変わり、青と白、緑、彩色が世界を美しく飾っている。
 光を反射する水の色、土壌の潤いを示す緑、石材をふんだんに使った白、その全ての色がパルシャが知る街にはない色であった。
  整備された石の水路は、澄み渡った水を細部に行き渡らせ、多くの石橋が道の途中に創られている。
 長くから続いている街とあって、道路と区画がしっかりとしており、人が歩く為の経路まで決まっている。

「大きい街は初めて?」
「私のいた街とは風景が違う。砂の色じゃない」
「そうね。石の白に水と空の青、この季節限定の緑。私もアンティオキアという街は綺麗だし好きよ」

 多色で埋め尽くされた世界は視覚以外の部分も刺激する。美しい風景は心に水を与え、彼女の中で凍りついていた正常な精神を呼び起こす。
 青と緑が蔓延る港街、広い大陸の中でも突飛な街並みである。

「変な臭い」
「潮の香りの事かな? 私も最初は慣れなかったかも」
「異臭」
「いいじゃない、爽やかで」
「男の……」
「やめましょうね」

 不意に威圧されたので、パルシャは口を噤んだ。
 凍った空気は一瞬だけ、錯覚と感じるくらい。リリは普通の雰囲気に戻っていた。

「そっか、海も初めてかな」
「海。水が沢山ある場所」
「そう、そして異国同士を繋げる水路とも言われている。道が示されないあたり、砂漠と同じようなものかしら」
「異国?」
「貴方にとっても私にとってもここは異国だけど、海の先にはもっと不思議な風景があるんでしょうね」

 道の端では祝福の海から得られた食材達が叩き売りされている。
 篭に入れられた色とりどりの食べ物達は、青い空から注がれる光を反射して輝きを増している。
 砂の世界で生きてきたパルシャにとって、並ばれた食材、海の幸は得体の知れない生命体でしかない。

「これは烏賊、見た目は……アレだけど、すごく美味しいのよ」
「嘘くさいんだけど」
「じゃあ食べてみよっか。すいませーん、烏賊焼き一つ。あと海老も」

 いらないの声も、行動よりも早く言わねば、言葉としての意味を成さない。
 脊髄反射の如く行動するリリの前に、言葉の価値は著しく低くなっていくのだ。
 右手に串に刺さった烏賊の焙りと、左手に塩が降りかかった海老の鬼殻焼きを手にして、ニッコリと笑うリリを見て、パルシャは何度目か分からない溜息を吐いた。
 そんな微妙な空気も感じ取ってもらえず、受け取ったパルシャの右手には、脚が四本以上あるナニカ、そして三角帽子を被った胴体。
 四を超える脚の量は、パルシャにとっては虫という認識でしかなかった。
 目を細めながらその物体に手を伸ばしてみる、むにむにとした感触が伝わってくる。虫と違って固い装甲を持っていないのだから当然である。
 対して、リリが目下格闘中の海老は、身が殻で包まれている。その殻を綺麗に剥ぎ取って身にもう到達しているあたり、食べ慣れていると言ってよい。
 大きくなった蠍のようなものを食べている姿は、異性から見ればさぞかし残念なものに見える事だろう。そんな事を思いつつ、パルシャは目の前の異生物の食事から逃避する。
 食が進まないパルシャの様子を、傍目で見ていたリリが言葉を挟む。

「それ、丸ごと食べられるから」
「え゛っ?」
「ガブっといっちゃいなさい、ガブっと」

 形状が恐怖と違和感を与えるというのに、勢い良く噛み付けというのが難しいものである。でも、このままでは何になのかは分からないけど、謎の敗北感に満ちることになる。
 パルシャは目を瞑ることで映像を遮り、勇気を振り絞ってそのまま齧りつく。
 歯が身に刺さった筈なのに、跳ね返してくる食感、防御力の高い食べ物である。
 不快感の高い身を思いきって噛み千切ると、烏賊と海の味がパルシャの口の中を包み込んだ。
 烏賊の旨さは身の濃厚な味にある。噛まなければ喉を通らないし、噛めば噛むほどに味わいが増すのだ。
 今までに感じた事の無い口当たり、味わいに、思わず舌鼓を打つしかなかった。

「……美味しい」
「美味しいもの口にすると、人間正直になるものよね。うんうん!」

 食べ方のコツを知ってしまえば、パクパクと進んでいく。烏賊はゲソも含めて串以外の全てがパルシャの胃の中へと収まった。
 お粗末さまでした、先に食べ終わっていたリリが笑顔で祝福すると、パルシャは顔を逸らした。
 本当に煩わしい者である。笑顔を無作為に向けてくるような人間は得意ではないのだ。いつか、その笑顔が他の誰かにしか向けられなくなる気がするから。
 パルシャの中で生まれる妬みと渇望、それは羨望と飢えから生じるもの。



 嗚呼、妬ましい。
 この世界の広く広大な大地、ここにいる私の狭き視界が妬ましい。
 幸せの循環を終着させる自身さえ妬ましい。



 食べ終わった串をゴミとして捨てる時、ゴミの中で重なった刺々しい串達の残骸の山を、触ると皮膚を裂き、血が流れる刺々しい世界に相似させていた。







 パルシャは選ぶつもりが無かったし、リリは選ばせるつもりも無かった。
 結果がこれである。

「どうでしょ? 私のコーディネートは」
「……暑い」
「可愛い?」
「暑い」

 茶色い上着にウエストを縛る白、洒落ているスカートは藍色だ。
 この衣装にパルシャは見覚えがあった。何故ならこの服は、自分が住んでいた場所の者が着ていた服であるからだ。
 この服、ペルシアンドレスは一般人が着られるような安いものではない。そもそもドレスは礼装に使われるもので、今着ている物は普段着用にアレンジされているものだった。
 パルシャはこの服をいたく気に入っていた。しかしどうしても値が気になる上に、他人から物を貰うという行為に慣れていない。加えて、自分が相手に返せるのものなど何もない。だから、欲しいなんて言葉が本人の口から出てくるわけも無いのだ。
 妬ましい、素直になれないことが妬ましいのか、パルシャを気にかけているリリが妬ましいのかは、本人にさえ分からない。

「もっと開放的な服とかもあるけど、砂漠を歩くのには適さないのよね。ほら、あそこにあるヒラヒラとかも可愛いでしょ?」

 身につけていると布一枚よりも色気を出しそうな、踊り子専用の服が売っているのだ。
 細い体躯のパルシャよりも、背が高く、出るところが出ている女らしいリリのほうが似合うだろう。パルシャには少し早いのだ。
 ラインを美しく見せる事ができる女にのみ許される特権。
 パルシャは妬んだ。あの服を見せられた後に、今着ている服に安堵を求めた自分に対して。

「ちょっと値が嵩むけど、あっちにする?」
「……これでいい」
「気にいってくれた?」
「そんなの……、じゃない」
「じゃあ、お姉さん的趣向に則って、むこうに……」
「こっちでいい!」

 本気で着せたかったらしく、がっかりしながら彼女は交渉へと向かっていく。
 一緒に行けばいいものの、パルシャは足を動かさなかった。
 人混みに知っている顔はいない、知らない者ばかりの方が幸せであるとさえパルシャは思う事があった。
 自分を知られる事自体が災い。この緑色の眼は全ての不幸を呼び起こす。
 タブリーズにいた時はどこにいたって目を感じていた。疎外感ばかりを感じていたというのに、常に人に見られているという矛盾。
 ここにいる人々は知らないだけだ。

「緑眼……災禍の象徴」
「えっ?」

 通り過ぎる際に誰かが呟いた。
 それは男だったのか、女だったのか、それとも両方に該当しないモノだったのかも分からない。
 ただ、そいつは知っていたのだ。パルシャの眼が恐ろしい災いを招くことを。
 ただの錯覚だった。確証のない安堵感に感覚を狂わされていた。
 どこに行ったって邪眼を知っている者がいる。この目を抉り出さない限りは、ずっと、ずっと。
 足から力が抜けて、パルシャはその場へと座り込む。縮こまった小さな姿は子供のそれと同じだ。
 忘れた頃にやってくる心的外傷、掴みかけたもの何であるかも知らぬままに霧散する。
 慣れている筈なのに、ずっと慣れないまま。感情が死ぬまではずっと、緑眼が生み出し続ける、苦しく妬ましい感情に振り回されていくのだろう。
 会計を済ませて戻ってきたリリは、へたれこんでいるパルシャの姿を見て、思わず綺麗に畳まれた服を放り投げそうになる。

「えっ、ちょっと! 何かあったの!?」
「なんでも……、ない。ただの眩暈」
「疲れているの? だったら休んでいたほうがいいわ」
「仕事、する。私は荷物、なんかじゃないから」

 パルシャは自分の手で立ちあがって、心配顔を睨みつける。
 不幸の発散なんかで考え込んでいたら、ずっと座りきりになってしまう。いつも浴びていた感情を久しぶりに感じたから、少々クラクラしただけ。ただ忘れていただけの話。慣れれば、相手の不快な感情さえもただの妬み事へと変換できる。
 渡された服を持って更衣室に戻る。強く布を握りしめる事で、自分を奮い立てた。
 生きていくことにたとえ意味が無くても、この生を自ら止める事はできないのだから。







「おおっ、こいつは驚いた。やっぱり味気ない毛布と布切れじゃ、勿体無い」
「だよねだよね!」

 駱駝を選別中であったサルトは目を丸くして、子供っぽさを衣装で払拭したパルシャを見ている。
 イスラムに則れば、女が膝以上を露出する事など論外である。しかし、そんな宗教観に縛られないほどに、パルシャの着こなしは自然のものであった。
 緑の瞳と相俟って目立ってしまうのは、難点であると言えば難点である。

「んで、駱駝のほうは?」
「いい奴は押さえといたが、答えを貰う前に買えるほど安いもんじゃない」
「うわぁ、けちくさいなぁ」
「仕方ないだろ!」

 そもそも、他人様に駱駝を無償で買おうとしている事自体が間違っている気がするが、自分自身の問題でもあるので、パルシャは思いを口にはできない。
 一人で生きていく術を身に付けるならば、商人達についていくのが、選択できる手段の中で一番である。他の手は窃盗やら秘め事やら、選択肢は奴隷や罪人と殆ど変わらないものしかない。
 真っ当でいたいという思いは消え去っていない。自分が受けてきた負の感情のままに行動したところで、自己嫌悪しか生み出さない。それくらいはパルシャだって分かっている。悪事に手を染めたところで、自己の負の感情に押し潰されるだけ。
 なのに回答が出てこないのは、ただ決意が足りないから。言葉が口から出ないだけ。
 言葉を発するという事、意志を示す事は、こんなにも重いのだろうか。

「んで、そっちの用は終わったのか?」
「仕事なんて一つもやっていないわよ。薬草買うのも、売るのも、配合するのも手付かず。これから材料探しに店回りするわ」
「ということは、受け渡しか?」
「そゆこと」

 薬の知識なんて皆無であるから戦力外、つまりはそういうこと。
 逆に言えば、サルト側はパルシャにでもできる仕事なるものを用意しているということである。
 恩を返そうなんて気持ちは彼女には湧いていなかった。単に自分が使えない人間と評されるのが嫌であり、怖かった。
 期待されず捨てられて、畏怖によって捨てられる世界、そんな現実に終止符を打つ事。
 地元の商人と話をつけたサルトは、大きく背伸びをしてから、誰に伝えることも無く呟いた。

「さて、お嬢さんを連れて一仕事といくかな。仕事もしやすくなりそうだ」
「?」
「花があったほうが商談が進む」

 パルシャは仕事の内容に不安を持つ。あまり良い予感がしない。

「両手に花、っていうのはどうよ?」
「薬師は薬師の仕事をしろ」
「ふぁーい」

 リーダーに対してあんな態度、そしてよく我儘が許されるなぁ、なんてパルシャは思うけれど、自分の態度も大概だったから、あまり考えないようにした。
 勿論、これにはサルトの適当な管理主義だけでなく、彼女が有能である故でもある。
 遊牧民はその生活形式上、色々な土地を訪れている。その度に草木の形、効用を把握していった彼女は、安全な街から出ようとしない見識の狭い薬師とは一味も二味も違う。
 要は実践的、即ちどの土地にどの薬が欠如しやすいかが土地環境で分かるのである。
 やる気はあるように見えないが、腕は確か。そして、戦続きの世界により薬の需要も低くはない。
 加えて、薬は人間の生命に関わる重要な物質。時に食料よりも重宝され、人の命が世界に存在する限り、需要は決して無くなることはない。
 彼女が贅沢できるほどの商売上手であるのは、これら理由の上だ。

「じゃ、私は市場に行ってくるから。周りの売れ行き確認と、次の街での商品探し」
「がっつり儲けろよ」
「今夜は美味しいお酒が飲めるよう、頑張りますわ」

 やる気の欠片も見えない掌のヒラヒラ感。服を見ていた時の方が数倍真剣である。
 残念な表情に変わり果てて見送る二人、そんな気配に気が付いたのか、リリは一旦足を止める。
 振り返って余計な一言、

「パルシャちゃん、気を付けてね。こいつ楽天的なアホだから」
「ほっとけ」

 うん知ってる、と反射的に答えそうになったあたり、少なくともここ数時間で彼女から影響を多少なりとも受けているんじゃないかと、パルシャは感じるのだった。







 市場の通りを越えると、市民達が集まる広場にぶつかった。
 中央には石で掘られた白い女人像があり、澄んだ水が白い水路を流れている。
 今日は天気も良い為に、家族でこの天気を楽しんでいる人達もいるようだ。
 人工の風景、それはそれで美しく、味があるものである。
 にぎわう広場の中に、一ヶ所、人だかりが出来ている。
 そこから聞こえてくるものはパルシャの聞いた事の無い音、音調、旋律。
 楽しそうだったり、悲しそうだったり、はたまたこの世の音とは思えないような、そんな音が重なって生み出す旋律。
 音を作り出す道具は究極の娯楽品であり、一般人が手に届くものではない。楽器は高級所得者が楽しむものであるという概念が、一般常識の中にあり、それはここに住まう者達にも通じるものである。
 そもそも野外で楽器を打ち鳴らすなんて、品が無いものだ。加えて発生する音は、他者には音楽であっても、他者には雑音でしかない。
 それが適応されていないということは、この音が広場の人達に一定の理解を生み出しているという事だった。

「ヴァイオリンにトランペット、ポルタティーフオルガンか。全部貴族の高級嗜好品だが、音はなんだか一般人向けだな。上品さの欠片もない代わりに、音が弾んでいる」

 庶民に楽器の音を聞かせるなんて例に無い。しかし、間違っているなんて、誰も言えないのだ。
 品が無いと言われていても、誰も咎めようとせず、むしろ楽しそうにしている者、熱狂している者、踊りだしている者、全ての民が演奏という行為を肯定している。
 だからこそ、演奏者達もその音に自分を乗せ、洗練されていく。
 音楽に耳を奪われ、道行く人々が足を止める。一人、もう一人、と。
 そして、パルシャは思わず指で腿を叩きながら、自然と音楽の旋律を拾っていた。

「聞いていくか?」
「いい」

 気付かれていたのがすごく恥ずかしかったのか、パルシャは即座に行動を停止した。
 歩く速度が少し上がったのも、気恥ずかしさを隠す為。
 妬みと辱め、増えてもどうしようもない感情ばかりが蓄積していくのだった。







 商業街、公共広場を抜けて、住宅地へと二人は入っていく。
 良質な大理石が大量に作出されるこの地域では、石材造りの家が主となっている。
 狭い間隔に敷き詰められて立ち並んでいる家々を見ていると、近所の付き合いが密接なものに見えるだろう。
 隔離された場所でひっそりと暮らしていたパルシャには、他人同士が互いに手を繋ぐ関係というのが必要不可欠であるとは思えなかった。
 住宅地は奥へと進んでいく事に一軒の大きさが変わり、石のみで作られた家も減っていき、風景も目に見えて変化していく。
 アンティオキア公国時代の東ローマ、ビザンツチックな作りをした豪邸、その多くが現支配を行っているイスラム信仰勢力の居住区域となっている。他にもシルクロードから多大な利を得た豪商、他の王国から招かれた有力貴族、不利を知ってバチカンを裏切ったキリスト勢力など、権力を行使できる者が住まう場所である事は間違いない。
 富持つ者のみが存在を許される高級住宅街を歩くパルシャ、足が地面にしっかりと付いているような足取りとは決して言えなかった。
 先を歩いていたサルトが足を止めると、パルシャもそれに倣い、目的地と思われる目の前の建物を眺めてみる。
 ステンドガラスが用いられた装飾、前から見ただけで片指が折り切れてしまう窓の数、そもそも駱駝に乗る人間さえも通してしまうであろう門構えだけで、この中に住む者が街の有力者であることが分かる。
 その大きさに思わずパルシャは萎縮する。金を大量に持っている奴に、良い記憶など無かった。
 そもそも、彼女に刻まれている記憶という存在自体が、彼女を傷つける装置と化している。

「パルシャ?」

 いつも以上に顔を白くして、彼女は無意識にサルトの服を掴んでいた。彼に指摘されるまで気付けずに、離せなかった。
 恐怖という感情は、心という概念に刷り込まれ、思い出される度に感情を増幅させる。身近な風景でさえ恐怖を喚起されるパルシャの記憶は、彼女の心に大きな負荷を与えていた。

「顔色が良くないな」
「普段からこんな顔」
「苦しいなら一回戻っても」
「私に気を使わなくていい! たとえ役立たずでも……自分の身くらい理解できている」
「男顔負けの意地っ張りだな……、まったく」

 鎖を引っ張って鐘に打ちつけると、気味の良い乾いた音が住宅街に鳴り響いた。
 屋根で羽を休めていた鳥達が、偽りの警鐘を受け取って、青空へと羽ばたいていく。
 嫌いな場所から飛んでいける翼に、パルシャは憧れを覚える。逃げる事を常に欲するようになってしまったのは、世界が彼女に対して常に冷たかったからに他ならない。
 緑眼は中から出てきた服装がおかしな女性を捉える。白い前掛けと濃い下地、頭のカチューシャ、パルシャにとっては異国の変な服装だとしか分からなかった。パルシャがもし奴隷になっていれば自分が着るかもしれなかった、などとは毛頭にも考えていないことだろう。
 サルトは自分が持っている武器を彼女に預ける。少なくともこちら側には敵意が無いという事を証明する手段であり、商人が顧客の信用を得る為の一手だ。彼女はその鞘に収まった刃物を、両手で受け取る。あくまで彼女にとって、サルトもパルシャもお客様なのである、たとえ素性がはっきりしなくても。
 玄関前の扉を開けると、血色がやけに良い白い髭を生やした男が立っていた。その静の佇まい見ているだけで、彼がこの家の統括者である事が伝わってきた、少なくともサルトには。
 対して、パルシャは金持ち貴族には品が無いイメージを持っていたが、それはタブリーズでのみ構成されたイメージのようだ。

「君がカルヴァーンの代表者かい? ようこそ、アンティオキアへ」
「お初目にかかります、プリズムリバー公爵」
「優秀なカルヴァーンがこの街に来た事は聞いているよ」

 ニコリと浮かべた笑顔が似合う老けた顔。
 公爵にも色々な苦労があって、今の笑顔があるのだ。

「滅相もないお言葉」
「いや、カルヴァーンの優劣など、品揃えですぐに分かる。珍しい物品を市場に流し、街の活性化と新しい流通を作り出してくれる行商の方々には感謝しているんだ。本当にありがとう」
「何を! 頭を上げて下さい!」
「いや、私も相応の事が無い限り、頭を下げるようなことはしないつもりだ。私の感謝の念だけでも、受け取ってほしい」
「こいつは……、まいったな」

 サルトが困った表情を浮かべる所を、パルシャは初めて見る。
 老紳士が客間へと案内すると告げると、サルトはひきつりながらも笑顔を浮かべ、中へと入っていく。
 置いていかれている気分で、たとえ居心地が良くなくても、パルシャには彼についていくという手段しか選択できなかった。





 三つのカップに注がれている紅茶、これも交易によってアンティオキアに齎された嗜好品である。
 物に口をつける動作にしても、年を召しているようなゆったりとした動き、日々刻々と流れゆく時間に対して、余裕というものが公爵からは感じられる。
 サルトもこれから商売という仕事が始まる上で、いつまでも萎縮しているわけにもいかない。上品な空気に呑まれないように意識しながら、紅茶を飲んで高まり過ぎる気分を抑えている。
 紅茶以外見えていないパルシャは放置され、腹の探り合いは始まった。

「さて、君達の潤いのお陰でアンティオキアが昔の姿に戻りつつある事は私も知っている。しかし、それとこの商談は別と考えてくれ。こちらにも生活や仕事がある」
「それを口にするだけ貴方は公明正大だと思う。こっちの苦労も知らずに、ふざけた額を吹っかけてくる奴らも多いからな」
「して、商品を見せてくれないか?」

 サルトが取り出したのは布に包まれた何か。梱包されているのに、中の物の匂いが漏れ出てきている。
 布、そして紙、二重の封止を解くと、各々の器に分けられた乾燥物は、その匂いを部屋中に撒き散らした。
 嫌な匂いじゃない。人間の食欲に火を付けるような、刺激的な香りだ。

「香辛料かね?」
「その通り」

 香辛料は臭いが気になる肉料理だけでなく、魚料理、煮込み料理などで使われる「味付け&臭い消し」を同時に行える調味料である。加えて、殺菌や消毒、防腐の作用も持つ優れもの、なのである。
 育つ地域が限られている香辛料は、度々金と比較される、それくらいに市場価値は高い。乾燥地帯を好む植物が主な香辛料の原料となる為に、湿った海からの風と、恵みの雨の恩恵を受けるアンティオキアでは、香辛料はキリスト圏と同程度の価値が付けられる。

「胡椒、ナツメグ、クローブ、レッドペッパー」
「東の貴重な香辛料ばかりだね。市場に流通していない物まである」
「色々と苦労したからな」

 商人にとって問題はこれからである。
 買い手は、どうでもいい所にいちゃもんをつけてきて、どうにか安く買い取ろうとするものなのだ。その方が、自分にとっても利益が上がるからである。
 対抗の手札を色々と用意しているサルトにとっても、相手の第一声がどんなものであるのか気になるし、手ごわさを測る指標でもある。
 そんな心配が杞憂に終わる一言が、部屋を包み込む。

「常々市場に潤いを与えてくれただけでなく、貴重で良質な香辛料をこれだけ提供してもらったのだ。こちらもアンティオキアに住まう者として、相応の態度を見せなければならんな」

 家を見ていたので、公爵がお金を持っている事くらいはパルシャでも理解できていた。しかし、テーブルの上に積まれた金額の意味を理解できるのは、サルトだけであった。

「全部買い取ろう。これでいいかね?」
「なっ、本当か?」
「嘘はつかんよ。嘘とは付いただけ後で跳ね返ってくるものだからな。跳ね返ってくる嘘を待てぬほど長生きできない歳になったとはいえ、人として不当に命は落としたくないものだ」

 髭を触った後ににっこりと笑う紳士。
 皺くちゃな顔である筈なのに、とても若々しく眩しいものにパルシャは感じていた。
 そして思うのだ。この人は幸せなのだろうと。この人の幸せの原点は何なのだろう、と。
 自分には幸せの原点など、存在しないから。
 パルシャが定義する“幸せ”は、他者が持っていると思われるだけの、幻想の産物でしかない。
 戦わずして勝利してしまったサルトは、商売口調を仕舞って、素直に感心してみせる。

「若いですね。考え方も、気の持ち方も」
「孫に影響されて」
「お孫さんがいるのですか?」
「騒がしいのが四人もいてな」

 屋敷は静かで、若い誰かの声など聞こえない。
 カチッ、カチッ、と何かが時を刻む音が部屋に静かに響いている。
 窓から入る光が、老いた男の顔を照らしている。彼は笑顔だ、とても楽しそうな顔をしている。
 その窓の外を見て呟く。

「またどこかで演奏でもしているのだろう。相変わらず四人揃っておてんばで困ったものだ。両親も空から呆れた目で見ていることだろう」

 遠くの方から音が聞こえる。
 それはパルシャにとって空耳でしかなかったかもしれないし、あの広場で聞いた音が本当に届いていたのかもしれない。
 どちらでも良かった。重要なのは、あの音楽が老紳士の今の顔を作り出している事だ。



 ああ、妬ましい。
 目に見える幸せが、手に入らない幸せが妬ましい。
 この街には幸せが蔓延っている。その眩しすぎる光が、私の瞳を緑色に焦がす。
 不幸が好きなわけじゃない。でも、過剰な幸せは、摂取できずに腐り落ちる。
 幸せがあらゆる場所に満ちていたならば、きっとこの世界もその甘味で腐敗してしまうんだ。



 夜が訪れる前触れを感じながら、パルシャは窓の外へと目線を移していた。
 男達は会話を続ける、大まかな金の話が決着している為、和やかな空気で会話が進んでいる。パルシャにとっては雑音でしかないが。
 自分がここにいる意味を、パルシャは把握する事などできなかった。
 何一つ役に立つ事など無い。色仕掛けでもするのかと思っていたら、役割はただの置物。
 意味を成さない緑色の邪を兼ねた肉塊でしかない。
 負の思考が入り混じる中でも、会話の終わりをなんとか聞き取る事ができた。

「良い商談、良い商品を再び持ってきてくれる日を待っている」
「こちらも。あんたみたいな客なら大歓迎だ」

 サルトに続いて椅子から立ち上がる。
 その時に、老紳士はパルシャの顔をじっと見つめた。
 汚い目に見られるのは慣れていたが、見透かすような瞳かつ正の感情が込められた目線は、彼女の心を深く抉る。
 どんな目であっても、彼女は見られるのが苦手だった。

「もう少し、優しさを知った方がいい目だ」
「えっ?」
「この地は一度灰になった。そんな時に君のような目をした子供を何度も見て、数日後にはその遺体を見たこともあった」

 人と人は同種族でありながら、本気で憎み合って争う。人間が他の動物に比べて特殊である証拠であり、人間が愚かである証拠。
 犠牲となるのは、いつも争う理由すら知らされていない人々だ。
 パルシャも同じようなもので、緑眼である事だけで蔑まれ、緑色が妬まれる根本的な原因を知らなかった。
 理不尽な決め事に対して人は無力。ただ受け入れるしか手段はない。

「君は優しさに慣れていないように見受けられる。そんな世界を作り出してしまったのは、私達の世代なのだろう」
「別にあんたは関係ない」
「負ばかり見せられれば、人間は自然と負に強い身体を作ろうとする。だから、君には幸せと優しさが必要だろう。人は幸福に弱くあるべきだ」
「……知ったような口を」
「じじいの戯言だと思ってくれていい。ただ、脳の片隅に入れておいて欲しかったから言ってみただけだよ」

 「何も知らない奴が」、心の中でしかそう強がる事はできなかった。
 何故か。彼女は幸せと優しさを本当に知らないから。
 知ろうと思わない以前に、どうやって知るのかさえも知らない。
 彼女にとって、それこそ最大の不幸と呼ぶに他無いだろう。






 一度振り返って、その大きな屋敷を刻みつける。
 屋敷に負けぬくらいに公爵の心も広いものであったことを、サルトは実感している。
 砂漠を歩き続ける身、服装も街の商人達に比べれば姿も立派なものでない。商売する上で外見は商品と同じくらいに重要であり、その点において砂漠の行商達は劣っている。
 毎度毎度、良品を揃えても苦戦続きだった故、今回のような取引は今までにあったかと思い返してみたものの、脳から引きだす事はできなかった。それが、彼にとっては嬉しかった。
 嬉しい時にはアルコール、悲しい時にもアルコール、一仕事終えればアルコール、金は充分にある。

「さあ、皆の所に帰るとしよう。旨い酒が待っている」
「別に私は……」

 パルシャにとって、カルヴァーンは帰る場所ではない。
 自分で居場所を作り出す事ができない不器用者は、意味もなくそこにいることしかできない。
 居場所が欲しいなんて言えるわけもない。自分にとって、どこが“いるべき場所”であるかを知らないから。
 切っ掛けが必要だった。そして、サルトも十分に承知していた。
 空が茜色に染まっていき、茜は紫を経て藍色から黒に至るだろう。世界に色が存在するうちに。

「ちょっと待った。先に渡しておこう」

 パルシャは道の真ん中で脚を止める。ペルシアンドレスを着飾った彼女は、元奴隷には見えず、この高級な住宅街にいても違和感を覚えない。
 容姿とは相手に与える重要な情報であり、利点であり、欠点である。商人だけでなく、どの世界でも大体同じもの。その緑眼が例に挙げられるように。
 そして、サルトの手から差し出されたものも、視覚に付随するものであった。

「こいつをプレゼントだ」

 装飾が施されていない味気ない箱であったのが功を奏したのか、パルシャは思わずそれを条件反射の如く受け取ってしまった。
 封止用のリボンもついておらず、ただ開けるだけ。やはり物を貰うことに慣れていないパルシャは中々開けられずにいるが、目線がこちらに向いている限り、状況は変わらないので、手をつける以外になかった。
 開けてみると、そこにはパルシャにとって見慣れないものが括り付けられた何か。
 可愛らしいネックレスで、先には子安貝が三つ付いている。薄い水色と白が混ざったアクセサリーは見ているだけで涼をとれる。
 作りは決して立派なものではない。パルシャが立派なものを嫌う衒いがあると踏んでこそ、こんなプレゼントを用意したのだ。
 だからこそ、パルシャはなぜ自分にこんなものが渡されるのかが理解できない。
 表情だけでなく実際に口からも、その疑問が出た。

「なんで?」

 短い言葉はサルトにとっても予想通りの反応だったのか、質問に対する回答は間髪いれずに返ってくる。

「そりゃあ、俺がパルシャのことをもっと知りたい、心を開いて欲しいと思っているからだ。簡単だろ?」
「私は別に」
「そいつはパルシャ自身の意志だろ? 俺には俺の意志があり、その意志を相手に伝えるためにこれを用意した。納得がいくだろ?」

 全く納得ができていないままなのに、行動も言葉も続かないまま。
 サルトが一人、ただ言葉を続けている。

「子安貝には悪しきものを鎮める効果があるそうだ。別に俺はその目が何か酷い災禍を齎すなんて少しも考えてもいないが、まあなんだ、一種のおまじないみたいなものだと思ってくれればいい」

 手に持っているそれを握ってみると、ありもしない温かみを感じる気がした。
 優しさに慣れていないからこそ、ふとしたものに過敏に反応し、ありもしない恐れすら抱く。
 熱いのか冷たいのかわからないものに手を伸ばすように、怯えながら、身体を強張らせながら。
 そんな態度を把握しているサルトは言葉を吟味して、足りない部分はプレゼントに補ってもらいながら、相手に意志を伝えた。

「つては無いと聞いたし、全てを一から始めるのは大変だ。だから、俺達の場所に留まることも、一つの選択肢として考えて欲しいんだ」

 装飾が削ぎ落とされた明快な思いは、混乱が見られるパルシャにもきっちりと伝わる。
 普段から言葉に拘る仕事をしているから当たり前といえば当たり前、しかしそんな打算的な考えで話しているわけでない。
 サルト自身も、彼女を放っておけないと考えている。だから、素直な思いが口から次々に出てくる。
 この男は出会った時から一貫してお人好しであった。

「カルヴァーンは誰も拒まない、それだけは知っておいて欲しい。その上でどうするのかはパルシャ、お前の意志次第さ。行商っていうのは売るのが仕事じゃない。商品をどこかからどこかへと運ぶ、多く移動する事が儲けに繋がる。故に旅は決して楽なものじゃないし、命の危険も混じるだろう。正直、人に勧められるようなもんじゃない。でも悪いもんじゃないぞ。いつも新鮮な何かを身体で感じられる。街での安堵感だけじゃ満たされないようになっちまうのは、人間としていささか問題がある気がするがな」

 笑いながらも、サルトが感じていたカルヴァーンについて、次々と評価が出てくる。そう、彼は砂漠の行商という自身の職をいたく気に入っていたのだ。
 数日間一緒に過ごしたパルシャは、その思いを容易に受け取っていた。
 パルシャは商売が何たるかを全く分かってはいないが、少なくとも一つの選択肢を受け入れれば、自分にとって商売が面白いのか否かを理解することができるだろう。
 二人は向かい合っている。距離にして二歩半ほど。その距離をどうするのかは、全てパルシャ次第。
 サルトが歩み寄れるのはここまでだ。

「この街を出るまであと十日以上ある。ゆっくり考えればいい」

 隊商達は多くの商談、次の街への物資補給の為に、しばらくこの街へと滞在する。それはパルシャに選択の時間を与えることにも繋がっている。
 答えを急かす必要もないし、ゆっくりと考える時間もある。
 しかし、パルシャにとって時間を与えられた事が良い方向に働くかと言えば、そうとは言いがたかった。
 彼女は選択を迫られるような機会を、今までに殆ど与えられてこなかったのだ。不幸という道の中央をただ歩き続け、時折路肩に倒れている死体を見ながら、思考を捨て置いて真っ直ぐに歩いてきた。そしてやっと、枝分かれした道を見つけたのだ。
 だからこそ、自分で道を選ぶという行為に困惑し、対策が取れない。

「まあ、どちらにしても早めに決断してもらったほうがパルシャの為になるがな。商人としてのいろはや、駱駝の乗り方を教えられる。新たな道を進むにしても、時間があれば補助しやすいってもんだろ? 時は金なりってな」

 照れ隠しにもみあげを触って見せるサルトの顔は、夕日に照れされている為に、パルシャからはよく見えない。単に目の調子が悪くてよく見る事ができないだけ、なのかもしれないが。
 日が沈む前に市場から帰路へと着く人々、自分の居場所へと帰っていく人々、そんな当たり前の場所をパルシャは一度失った。二度と手に入らないと思っていた。
 自分に今与えられている選択肢は、そんな場所、なのかもしれない。
 都合の良いように考えてしまう自身を妬ましく思いながらも、その妬ましさに不快感を覚えなかった。
 そう、これは妬みとは異なる感情。

「ここで突っ立っていてもアレだな。まあ、一旦帰るとしようか。横になって頭と体の疲れを取りながら考えてくれればいい」

 話に区切りを付けて、サルトは空を見上げた。
 空は黒へと変わり、静かに時は進む。夜は何かを考えるには、静かで優しい時間である。
 思考が固まり、自身の考えを述べたサルトとは異なり、パルシャにはまだ混乱が見られた。
 何故、相手が自分を誘ってくれているのかが理解できないから。
 手を伸ばしてくれる者など、一人もいなかった。誰もが緑眼を罵り、心の中で恐れた。
 だから、自分が世界にとって価値があるものだと思えず、ただ自虐的になり、全てを妬み続けた。緑眼の邪眼も強ち間違いではなく、嘘も百回言えば真となると考え始めた。
 その概念を崩そうとする誰かがいる。見返りが何もないと知っているのに。
 行動の先にあるものが何であるのか、知りたいと思ってしまった。その時点で、彼女の答えは決まっていた。

「……待って!」

 歩き出すサルトの背中に掛けられた制止の合図。
 しかし、パルシャの口から次の声が出ない。自分がどうしたいのか決まっているのに、考えは固まっているのに、それを相手に伝える言葉が出てこない。
 言えないのか、言いたくないのか、言う経験が根本的に足りていないのか。
 目線だけは彼を捉えて離さない、でもそれでは伝わらない。
 背中を押してくれる誰かなんていない。いたとしても、崖に立つパルシャの背中を押す者だけだ。人に期待せず、自分への期待も消え、時間の経過に引き摺られて生きてきた過去は、人間らしいものではなかった。
 新しい世界が目の前にあるかもしれない。掴み取りたいならば、自分で手を伸ばさなければならない。でも、パルシャはいつしか手の伸ばし方を忘れてしまっていた。
 俯いて目線での拘束を解く。駄目な者は駄目なままで、変わることなどできない。最初から絶望しておけば、大きな悲しみを背負ったりはしない。下を向いて歩いてるのが自分らしいと、勝手に結論付けている。
 だから、再び手が差し伸べられているのに気が付けなかった。

「俺達と一緒に来てくれるか?」

 不意に背中を優しく押されていた。
 怯えて伸ばせなかった手を握って、引っ張ってくれた。
 何も言わなくても理解してくれた。その上で、一欠の勇気をくれた。
 パルシャの口からは相変わらず言葉は出ないままで、けれど、頷くことで自分の気持ちを伝える。

「そうか……、ありがとう」

 ありがとうの使い方を間違っている、とパルシャは思う。感謝をする側とされる側がまるで逆だ。
 そしてこの時こそ、パルシャが他者という存在が自身にとって価値があるものだと認めた瞬間であった。

「今度こそ帰ろう。今日は色々と喋り過ぎた、恥ずかしい事も含めてな」

 照れた顔を見せないように先を歩くサルト、その月影を追いかけるパルシャ。疲れている筈なのに、彼女の足取りは軽い。
 嬉しいのか安堵なのか自身でさえも理解できないこの気持ちを、言葉という曖昧なもので形にできない事が、彼女にとって心地良い妬ましさとなっていた。























<ⅳ> カルヴァーンの休暇

 アンティオキアでの滞在生活は二週間。その間に覚えられる事は多くない。
 ましてや教え手であるサルトは商人であり、街での生活は一番の儲け時である。
 砂の道を歩いて持ってきた貴重品、珍品を割高で売りさばき、次の街で高く売れそうな商品を市場で仕入れる。その仕事には巧みな話術、そして多大な時間を要する。故に、パルシャの指導に与えられる時間は自ずと限られてくる。
 そんな中で、パルシャの成長は目覚ましく、商人としての振る舞いを次々と吸収していった。
 彼女には今まで、“目的”というものが欠如していた。目を開けるとどこからともなく石を投げつけられる世界、目を見開いて目的を探す事すら躊躇っていた。故に今の彼女は二つの点において、他者よりも優れていたのだ。
 一つ目は、知識が欠乏していた分だけ、他者よりも物事を覚える容量が空いていた事。考える事はいつも自己に対する嫌悪感ばかりで、頭というものを有用に使っているとは言えなかった。加えて色々な事象に対する経験も足りていなかった。従って、覚えるという未開の能力を今になって最高の状態で使用できたのだ。
 二つ目は初めて目的を得た事。全てを失い、流れるがままに奴隷となった過去とは異なり、自分で生きていく術を得る機会を得た。そこには明白な自分の意志があり、加えてその意志を後押ししてくれる誰かがいた。久しぶりに触れた優しさは確かに温かく、何かに向けて歩きだせるだけの元気を得た。
 昼間は人手の足りないサルトの商売の付き添い、まだぎこちない笑顔を浮かべながら、売り手や買い手をひたすら観察し、夜には砂漠の行商としての知識をサルトから学び取っていく。再び砂漠の岐路へと向かう二週間の間、商人見習いの彼女の生活は彼女が過ごしてきた時の中で、一番充実していたとも言えるだろう。
 サルトの背中でただ日光を避け続けていた自分とはお別れ、彼女は比較的小柄な駱駝を乗りこなし、灼熱の世界を闊歩している。生きているので当然乾きは感じてはいるが、アンティオキアで入手した塩を舐めながら、水への渇望を抑えている。
 一人前へ目下成長過程であるパルシャであるが、カルヴァーンの者達から見れば、まだまだ危なっかしく見えるらしい。

「大丈夫? 調子悪くない?」

 リリが声を掛けるのは今日三回目である。薬師であるが故に医学も齧っている彼女は、とりわけカルヴァーンの医者といった所である。
 目を凝らしても生命の欠片が見えづらい砂漠のど真ん中、街にいた時に比べれは調子は最悪というものである。しかし、パルシャは相手の意図を受け取れる程度に、

「喋ると調子が悪くなるわ」

 そして、減らず口を叩ける程度には元気であった。
 リリが苦笑いを浮かべて去っていくのもこれにて三回目である。
 パルシャの心持ちがたとえ変わったとしても、彼女の皮肉が効きまくった性格には変化はない。人は簡単に変わるものではない。
 余計な事を考えながら移動できるようになったのは、彼女が砂漠の生活に慣れた証拠でもある。暑い中でも思考は停止せず、辺りの人間の様子に気を配る事も前は到底できなかった。
 耳を澄ませば商談の話や、夢を語る商売話が聞こえる。

「水の冷たさが保てる方法があれば、売れる商品が増えると思うんだ」
「冷たさの保存か。砂漠の暑さを和らげる冷たさのほうがいいけどな」
「そんなこと出来たら、誰でも商人になっちまうだろうが」
「外に方法を漏らさなければいいんだよ。俺らで独占するんだ」
「まあ、方法が分からなければ意味も無いだろう」
「工夫を売る時代もいずれ来るんだろうな、きっと」
「一回しか売れねぇぞ、それ」

 余裕の度合いというものは何段階かあるらしく、彼等はパルシャの数段階上の余裕とやらを持っているのは間違いない。そもそも、この砂嵐吹き荒れる世界で会話をするのがおかしいし、パルシャはそもそも他者に話す内容すら持ってはいない。
 結局は最低限の所にいるだけでしかなく、役に立つなど雲の上。事実を知って増えるは妬みばかり。

「おい、パルシャ。調子は……」
「最悪に決まっているでしょ。話しかけないで」
「……やれやれ」

 サルトが声を掛けるのもこれまた三回目で、回を増すごとにパルシャの回答はきつくなっていっている。やれやれと呆れてみせても、その緑眼には何も映らない。
 自分はこの場所にいる誰よりも劣っている、だから余計な事はせずにただ付いていけばいい。パルシャは思考を縛る為に、理由付けを考え始めていた。






















『嫉妬は常に他人との比較においてであり、比較のないところには嫉妬はない』
                         フランシス・べーコン





















 オアシスという言葉は一般的に砂漠の中の淡水が存在する地域を指すが、勿論この言葉にも語源がある。古代ギリシアの書物によれば、リビア砂漠に点在していた都市をオアシス都市と呼び、そこは砂漠の休息所として、また交易の要所として発展したという。
 カルヴァーンは砂の旅路を歩む間、いくらかのオアシスを経由していくことになる。彼らが所有する地図に載っている程の大規模、または場所が知られているオアシスは、貴重な水源となる。しかし、地図のオアシスは実際にその場所に行ってみない限り、本当に存在するのかは分からない。水が枯れてしまえば、そこはもうオアシスと言えないのである。
 逆に地図に載っていないオアシスもあり、それは過酷な環境下を歩むカルヴァーンにとっては知られざる楽園と呼ぶに相応しい場所である。休息だけでなく、現場での食料の確保、飲料水の確保、水浴びなど、街に近い水準での生活が期待できる。
 今回、サルト一行が見つけたオアシスは後者であった。

「あれって灌木じゃない? ってことは、水があるかも?」

 草原育ち故に目が良いのか、周囲の変化に最初に気がついたのはリリであった。
 緑は水場に生えるもので、水分をほとんど必要としないサボテンであっても、砂漠という過酷な環境下では生きていけない。故に葉の緑は水の在り処を指し示す。
 緑に引き寄せられるようにして一行は進路を変更すると、一面砂漠の風景が変化した。砂から土へと変わり、灌木の量は増え、地面の照り返しも少なくなり、気温の低下が肌で感じられる。
 そして、リリが予想した通り、目的の水場がパルシャの視界に広がった。
 砂漠の真ん中に浮かぶ湖、オアシスはなんとも不思議な光景だ。まわりはカラカラであるのに、そこだけは懇々と水の存在を讃えている。
 水鳥達が急な訪問者に驚き飛び立っていくと、そのオアシスの規模が大きいことが分かる。広大な水溜りに流れ込む川は無く、どうしてこの場所にだけ水が存在しているのかは不明である。そして、そんな理由を考える者はカルヴァーンの中にいない。

「よし、今日はこの場所で休息だ。明日に向けてきっちり休んでくれ」

 サルトの一声の後に歓声が上がった。














 勝手に寛いだり、少ない肴で酒盛りを始めたり、獲物を持って臨時食料を探したりと、仲間の行動はさまざまである。
 そんな中パルシャも駱駝から降りて、水場付近の倒木に腰掛けていた。
 喉は渇いていて、すぐ近くに水場もある。掬ってみると気持ちの良い冷たさが手から身体全体へと伝わるのだ。
 けれど、パルシャはなかなかその掬った水に口をつけなかった。
 過ぎるのは一人で砂を掘った時のサルトの顔だ。生憎、飲料水と毒が染み出た水を区別する能力をパルシャはまだ持ち合わせてはいなかった。
 器に穴を空けるとそこからぽたぽたと水が漏れていく。
 砂漠では貴重な水も、これだけたくさん存在すると、価値が薄れてしまうものだ。
 そんな傍から見たら意味の無い行動をしていると、つられる様にパルシャに一人の影が近づいてきた。

「どうした? 悩める少女よ」
「別に悩んでない」

 パルシャが苦手とする女、リリである。
 何が楽しいのか相変わらず笑顔を貼り付けている表情で、パルシャとは正反対の雰囲気を醸し出している。
 他者の笑顔がパルシャは嫌いである、自分にはないものを見せびらかせられている気がするから。

「サルトなら向こうで周囲の見回りしているわよ。危険な肉食獣とかいるかもしれないからだってさ」
「聞いてない」
「うん、聞かれていない」

 呆れて再び倒木に座るパルシャ、二人分の場所がある所に座ったのは悪手であった。
 暇を持て余しているのかリリは隣に座る。しかし、先程のような言葉は無く、ただ空を見上げていた。
 水と同じ色をしている空、昨日から全く代わり映えしていないであろうその空には、燦々と輝く太陽がずっしりと座り、世界に過剰な光を齎している。
 欲してもいない光を勝手に撒き散らす太陽を憎んだところで仕方が無いと思ったパルシャは、視線の落とし所に困ってつい隣を見てしまった。
 リリは相変わらず見上げたまま、何も話さない。彼女には空を見ていても飽きない秘訣があるようだ。



 静寂なる時間は二人のどちらでもなく第三者によって破られる。対岸沿いから喧騒の声が上がったのだ。
 カルヴァーンの中で喧嘩を行っている様子は、今まで全く見受けられなかった。パルシャにとってその風景は偶々程度ではあるが、リリにとっては必然。故に異変を先に感じ取ったのもリリであった。
 立ち上がった後に無言でパルシャの手を掴んだリリは、強引に彼女の身体を引き寄せ、灌木林の中に身を潜める。

「きゃっ! な、何!?」
「シッ、隠れて!」

 声も厳禁、そうなるとパルシャにも想像が付く。
 見つかってはいけない何かがこの場所に現れた、そう考えるのが自然というものだ。
 嫌な感覚に支配されたパルシャは思わずリリの顔を見る。そして、彼女の表情がパルシャにとって今までに無い新しいものである事に気が付いた。鋭い眼光に見える感情は単なる殺意ではない、狩猟民族としての生存本能から来るもの。

「どうやら肉食よりもタチが悪いやつがいたみたいね」
「ということは、人間?」
「ご名答」

 カルヴァーンから見て外部の人間、つまりならず者どもが現れて何らかのいちゃもんをつけている。そもそも、追い剥ぎ自体が目的なのかもしれない。
 追い剥ぎという行為から想像されるパルシャの想像は実に生々しいものである。彼らの残忍な手口をパルシャは目の前で見た、そこで殺された商人の姿をサルトに変えるのなど実に容易い。
 何とかしなければならない。けれど、脳が繰り出す答えは“何もできない”以外に無かった。武器の扱いに長けるどころか、武器一つ持たないパルシャにとって、たとえ存在が認知されていなくても相手の脅威にはならない。
 そしてそれはリリも同じである、そうパルシャは結論付けていた、勝手に。
 だから、リリの次の言葉に驚いたのだ。

「パルシャはここに身を伏せていてね。私は向こうに行って来るから」
「えっ?」
「まあ正直、私が行くまでもないとは思うんだけど、一応ってことで」

 まるで危機感を感じない言葉からは大きな自信が溢れている。彼女がどこからか取り出したものは洋弓銃、クロスボウと呼ばれる力が無くても手軽に扱える機械弓である。
 普通の弓矢は引き手の腕っぷしが射程と精度を決める。しかし、弓矢の亜種であるクロスボウは引く力を要することはないため、引き手のタイミングのみで精度が決まることになる。
 放物線を描いて矢が飛んでいく長弓よりは飛距離は落ちるものの、直線に素早く飛んでいくクロスボウは殺傷力で断然勝る。深く刺さり、矢も抜けにくく、対象に致命傷を与えるのに特化した殺傷力の高い間接武器である。
 かの、獅子心王リチャード一世が好み、皮肉にもこの武器の傷で死に至ったのは有名な話である。
 静止の一言を掛ける暇すらパルシャに与えずに、リリは灌木林を影にしながら現場へと近づいていった。






 カルヴァーンのメンバーは20名ほどである。そしてこの場所にいるのは計十名、先頭にいるのは隊商の隊長であるサルトである。サルトの顔には疲労感が浮かんでいる、それが忌々しき相手との交渉のためか、はたまた恐怖からなのかは見て取れない。
 相手は半分の五名であるが、全員が軽装ながら鎧を着込み、剣や曲刀を持ち、馬に跨っている。鎧には何らかの紋章が入っており、見た目ではならず者には見えない。しかし、やっていることは実に横柄である。

「もう一度言うぞ、商人達よ。ここは王朝由来のオアシスだ。使用の許可は事前に取ったのか?」
「だから何度も言っているだろ? 許可は取っていない、そもそも知らない」
「あのな、知らないで世の中全てが解決するなんて思ったら大間違いだ。知らないこと自体が罪になることもあるんだぜ。てめぇらはこの紋章を知らねぇと思うが、マムルーク朝の傭兵の証だ」

 鎧の男は誇らしく紋章を見せ付けている。
 マムルーク朝のマムルークとは、下層階級の傭兵であり、腕っ節だけで権力を手に入れた者も多々存在する。マムルーク朝はそんな有象無象の軍人達で成り立っている王朝である。故にならず者であっても、王朝から見れば権力者である可能性は否めない。
 男は威圧するためか、大きな曲剣を取り出し、刃を見せつけながら命令した。

「水と食料以外の荷物を全て置いていけ。本当ならば王都まで連れて行って処刑が妥当だが、現場には現場の法がある。俺は優しいからな」

 兵士達は次々に獲物を見せつけ、商人達を脅す。
 青銅器ではなく鉄製の獲物は太陽光を反射し、その凶悪な形状を如何無く見せ付けている。
 奪われる者はいつも決まっている。
 所詮、この世界は強い者が弱い者を虐げるようにできているのだ。その摂理は昔から変わらない。
 自分の身を守る強さを持たない者は、自分の大切な何かを差し出さなければ生きていけないのだ。
 しかし、

「寛大な処置をありがとう。だか、謹んで辞退させてもらおう」

 サルトは自分達の宝であり、商売道具でもある荷物の差し出しを拒否した。
 隊長の判断に対する動揺は一切見られない。最初からこう答えることをこの場にいた者達は予期していたのだろう。
 面目を潰されたに等しいマムルークを名乗る男が激昂したのは言うまでもない。

「どうやら死んでも構わないようだな」
「お前らがな」

 サルトが取りだした武器はシャムシール、三日月を想起させる湾曲した刀剣は威圧感があり、また、よく手入れが成されている。
 隊長の無言の合図と共に、カルヴァーンの商人達は次々と武具を手にした。彼らも砂漠の治安の悪さを重々に承知しており、その脅威から身を守るために武器を常備している。
 カルヴァーンが複数人で行動する理由の最もたるものが、武力による強奪を防ぐためである。故にカルヴァーンの中には遊牧民や元軍人といった腕利きの戦闘要因も含まれている。

「さて、数ではこっちが上。ああ、あとここには俺らだけしかいないが、まだまだ仲間はいるんだぜ? あんたらはそれを把握して、選択すべきだ」
「選択?」
「命あって退散するか、この何もない砂地で自然に還るか、だ」
「嘘を付くのは一人前のようだが」
「同じようなものだろ」

 その時、男の後方で馬が嘶き暴れ、更にだらしない悲鳴が響き渡った。
 痛てえと喚き散らす男の鎧の隙間となっている脇腹には小型の矢が刺さっており、赤く染まった布がなんとも痛々しい。
 さらに後ろでは落馬して呻き声をあげている者、鎧の重さが仇となったのか全く動けないでいる。その男の足には同様に小型の矢が刺さっていた。要するにどこからか狙撃されているわけだ。
 当然男達は狙撃手の存在に気が付いていない。目線を少し動かし探している様子はサルトにすら隠せていない。
 サルトはにこりと商売用の笑顔を浮かべた後で、もう一度通告した。

「もう一度聞くとしよう。あんたらはどう選択する? 俺らには殺意はないが、こっちも命がなきゃ商いはできないもんでね。加えて手加減できるほどの腕もない」
「くっ!」

 諦める事は肝心だ。無駄に踏み込んで多くを失うのは愚者の行為でしかない。
 撤退を指示し始めた男は、剣をカルヴァーンの商人達に構えたまま、じりじりと後退していく。自分達が狩られる側になってしまったのだから、警戒を解くわけにはいかないのだ。
 負傷者を回収し、本物のマムルークなのかさえ分からない者達は退却していく。そしてやっと、サルトは獲物をしまって狙撃手へと声を掛けた。

「リリ、あんま無理すんな。こっちが焦ったぞ」
「ごめんなさい。話が長いので、つい手が出てしまいましたわ」

 舌を出しながら姿を現したリリを見ると、皆の緊張が一気に解れたのだった。






 遠くから状況を覗いていたパルシャには、何故ならず者達が退いたのかが把握できなかった。たとえ何かの餌を彼らに与えても、全て奪うのが追い剥ぎのやり口であるとパルシャは知っている。だから尚更納得ができなかった。
 再び訪れた水場での平穏の中、仲間との会話の合間を見つけてパルシャはサルトへと話しかける。

「……一体どうやって煙に巻いたの?」
「ん? 何の話だ?」
「さっきにのならず者の話」
「ああ、アレか。あそこにいるやんちゃ娘がクロスボウを持ち出してな。遊牧民生まれはここの男よりも血の気が多くて困る」
「リリってそういう生活していたの?」
「ああ、言ってなかったな」

 やんちゃ娘は素足を晒して水と戯れている。イスラム教徒でない故に、彼女は異性の前で肌を晒している。それを敢えて見ようとしない者は厳格なムスリムであるが、カルヴァーンの中では、一つの文化的概念に捕らわれている者は少ない。よって、彼女の健康的な脚に釘付け、というわけである。
 彼女を見たままぽかんとしていたパルシャであったが、あんな元気が取り柄な彼女も狩猟民族の血を引いているのである。他者を傷つけてまで生きようとする心がどこかになければ、引き金は引けないのだから。

「あいつは特別だし、そもそも生きてきた環境が違う。別にああまでならなくていいし、パルシャはパルシャの道を歩めばいいさ」
「別にああなりたいなんて思わない。そもそも、私には向いていない生き方」
「それでも偶には頭を軽くして、力を抜くのもいいと思うぞ。俺だってそうしてきたから今があるわけだしな」

 パルシャが頭をからっぽにする時は、余分な雑念が頭を犯している時ばかりだった。苦痛を伴う負の思考を追い払う為に、頭から全てを消して均等に戻す。それは冷静になる手段でしかなく、楽しみなど一つもない行為である。
 そもそも、楽しい行為とは一体何なのであろうか? 具体例など無く、パルシャには疑問しか浮かばない。

「……やっぱり分からない」
「何がだ?」
「貴方達の言動や行動全て。一体何を持ってして楽しいと定義するのか、私には全く理解できない」
「難しい事ではないと思うが……、なんていう解答では答えを導けないか」

 サルトは珍しく悩んだ表情を見せる。商売柄からか笑顔でいる事を常々意識している為、彼の負の表情というのは殆ど見られない。
 楽しいという感情は、パルシャの言うように簡単に定義できるものではない。誰かにとって楽しいという行為は、誰かにとって苦痛であるかもしれない。事実、砂漠を渡り歩く事は一般的な人間にとって苦痛でしかないが、サルトにとっては今や楽しいと思える行動になっている。
 楽しいを探すのも人の歩みの一環だ。ただ、パルシャにはそんな機会すら与えられなかった。だから今でも分からないだけ。

「まあ、そういう時はアレだ。俺の楽しいの根源について、一つ具体例をあげて説明するとしよう。少し長くなるがいいか?」
「かまわない。したい事なんてないし」
「そう、これは俺がしたい事が何であるのか分かった話、そして俺の尊敬する旅人の話だ」
















「イブン・バットゥータって知っているか?」

 首を振って返事してみせるパルシャ。
 まともな教育を受けてこず、人との繋がりを欠いて情報が入ってこない彼女にとって、人の名など意味の無い情報である。
 そしてサルトにとっても、その回答は予想通りであった。

「まあ知らないだろうとは思っていた。彼の事を大まかに表現するならば大旅行家、だろうな」
「それ、職業なの?」
「難しいな。あの爺さんはやっている事が無茶苦茶で特異的だから、これくらいしか表現方法がないんだ。分類として一番もっともらしいのが旅行家ってわけだ」
「無茶苦茶って? ならず者に矢を撃つくらい?」
「いや、そんなの比にならないな」

 何故比べ物にならないのか、早口で捲し立てるサルトの言葉には説得力があった。

「誰も知り合いのいない旅行先で出世して土地を貰ったり、高官として働いたり、海賊に話術で命乞いして生き延びたり、難破した後も帰らず、予定を変更してその土地での旅を続けたり、まあ間違いなく変人だろうな」

 変人故に彼の逸話には勝手に尾鰭が付き始め、一体何が本当で何が嘘であるか分からなくなっているのが現実だ。真実を知る者も、逸話に口出しをせず、この世から去ってしまえば、何が真実なのかなどどうでもいいものとなり、世間には世界を渡り歩いた雄姿だけが飛び回る。
 話題に事欠かさない特別な生き様だった故に、死んで直、人々に語られるのだ。今、サルトがパルシャに教えているように。

「爺さんの凄さは、異国の相手との意志の疎通の取り方にある」
「言葉が伝わらないものね」
「俺らのようなカルヴァーンという職業の場合、言語が伝わらなくても数字と通貨さえ分かっていれば、異国の街で過ごすこともできるし、商売も可能。しかもカルヴァーンには様々な人がいる、その中で一人でも言語が理解できる者がいれば、何かがあっても問題ない。だか、爺さんはたった一人で旅を続け、その土地に至る度に言語を学び、自身の理解者を探して、自分というものを理解してもらっている。そいつは正に無を有にする能力だ。学習能力もさることながら、その忍耐力と精神力は俺の想像をはるかに超えているよ」

 パルシャはサルトという人間を評価していた。商売は上手く、カルヴァーンの隊長として献身的に働いている、加えて無駄に面倒見もいい。それは彼女が持っていないものばかりで、自分の手が届かない所にいるほどに眩しいものに見えていた。
 けれど、そんなサルトにも到底及ばないような人間がいたのだ。残念ながら、パルシャにはその言葉から彼の言う“爺さん”の素晴らしい姿を想像する事ができなかった。

「法学家の息子として生まれたイブン・バットゥータは、メッカへの巡礼を経て世界への探求心を肥大化させ、鞄一つで当てもない旅に出た。世間は狂人、失踪、無責任な放浪者、色々な声が飛んだが、そのどれもが罵声に等しかった」
「文句はただで言えるからね」
「多くの人の頭から彼の事が忘れ去られた頃に、彼は手土産とそれ以上の知識を持って故郷に帰ってきた。彼の話す物語、冒険談はどんな書物よりも奇妙で、面白いものであったんだ。中には“全てが嘘っぱちで、どこかでただ惨めになって帰ってきただけだ”と口にした者もいた。そんな相手に言い返した言葉がある」



“街に籠っていた頃、私には何が嘘で何が本物かが分からなかった。だから、自分が知らない未知の世界へと旅立って、嘘と本物をこの目で見てきた。そして分かった事が一つある。多くを知って嘘と本物の区別が付くからこそ、本物の中に嘘を入れて楽しむ権利が生まれるんだ”



「彼は何度もふらりと街から消えて、忘れた頃にボロボロの姿で戻ってきて、人々が想像すらできないような新しい話や、奇妙な手土産を仕入れてきた。それは市民だけでなく、王朝にすら一目置かれるようになった。そして王の指示により、旅行を総括する為に晩年にリフラと呼ばれる本を書いた。世間的には嘘八百の妄想本、イスラムに仇成す禁書と評されていたが、その魅力に取り込まれた多くの金持ち達が複製したその本を読み耽り、新しい大地へと憧れたそうだ」
「サルトは読んだことは」
「ないよ。そもそも手に入らんし、ただの商人には高すぎる代物だろう。機会があるのなら、是非ともお目にかかりたいものだけどな」

 サルトは商談の時も饒舌ではあるが、どこか胡散臭い節があった。けれど今のサルトは子供が夢を語っている時と同じように、楽しそうに説明している。
 しかし、これだけ聞けばパルシャにも疑問が浮かび上がる。
 何故、サルトが本も読んでいないのに、その大旅行家に過度に肩入れするのか?
 大嘘吐きかもしれないと言ったのはサルト自身である。日々、商談で人とやり取り、いわば化かし合いをしている人間が、真偽も不確かな逸話を聞いたくらいで全てを信じるような人間だとも思えない。
 それこそ、嘘と本物の区別が付いていないのではないか、と。

「ある人間にとっては世紀の大嘘吐き、ある人間には空前絶後の大冒険家にして大旅行家、真実は本人のみ知る。それがイブン・バットゥータという人間だ」
「どういう人なのかはよく分かった。でも、貴方と接点が見当たらない。日々旅をしている点くらいしかない」
「いや、接点はある。というよりも、俺がカルヴァーンになったのも、この爺さんがいたからだろう」

 照れくさそうに頬を掻いたサルトは、とても分かりやすいイブン・バットゥータとの接点を口にした。

「俺が子供の頃に、爺さんと一度だけ会話した事があってな。偶々、爺さんが旅先で俺のいた街を訪れたんだ」























 奇妙な異国の語り手が街の広場で毎日、下手糞な一人芝居をしている。
 街の噂は大人だけでなく、子供達にも伝わっていた。
 子供は興味本位で集まって、創作よりも不思議な冒険談を大げさに話す男に少しだけ耳を傾け、多くの子供はつまらないと判断して、他の興味へと惹かれていく。
 初老の男は、その見た目よりも幾分と若そうな声、そして歳不相応に身体を動かしながら、異国の話を行う。その話は創作かどうかも分からないが、人々の興味を湧かせるような想像力に満ち溢れたものであったのだ。しかし、頭の固い人間や子供には不評であった。

「ここから遥か東にあるトゥグルク朝、この王朝は正に特異というべき点は、人々が二種の信仰を行い、それを王朝が許容している点にあります」

 話す時に手で言葉を表現しながら会話する癖は、彼が異国で過ごす為のいわば道具である。
 流暢ではない異国の言葉を不器用に操る際、いつも助けになったのが身体での表現であった。言語が違っても、形や仕草から同じ物を想像できる。故にそれはイブンにとっては、どこに行っても伝わる共通言語であったのだ。

「我らムスリムが信仰するアラーは絶対神、所謂一神教でありますが、民達はもう一つの信仰にして一神教に対する多神教、ヒンドゥを信仰しておりました。ヒンドゥにとって、神は無数に存在する、その中の誰を信仰していようと全てを信仰している自分達と同じ。それ故に寛容なのです。私が部外者でありながら、自由に行き来でき、こうしてこの場所にいるのも、優しさからなのです」

 多神などという考えはこの地域には存在せず、人々はざわつき始める。自分達の教えに疑問符を突きつけられたのと同じであり、憤りさえ感じている者もいる。
 地域の慣習に捉われずにありのままを伝えてしまうのは、イブンの良い点でもあり、悪い点でもあった。そして大体は悪い方向に転び、最悪政治犯として投獄される。今まで処刑されなかったのだから、彼は天運に愛されているのだろう。
 慌てて広場から離れた市民が、武装した兵士と話をする姿を見て、彼は地面へと置いていた鞄を取った。

「さて、そろそろ頃合い。また、どこかでお会いしましょう」
「神を汚す異端者が! 捕らえて処罰せよ!」



 罵声には慣れているし、石を投げられるのにも慣れている。
 けれど、彼が旅をしていて慣れなかったものが一つだけある。
 それは孤独であり、これだけはどうしても駄目であり、何とかして相手に思いを伝えようとする自分がいつもいた。
 他者から孤独な一人旅と称される事も少なくはなかったが、彼は自分が一度でも孤独だとは感じたことはなかった。何故ならば、自分ほど沢山の誰かと話をして親しくなった人間は、世界でも殆どいないだろうと自負していたから。
 追跡者を撒き、路地裏の石段に腰を下ろして一息、イブンはもう若くはない。
 身体は日々動かなくなっていく、旅をするごとに心はもっと遠く、未知の世界を目指すのに、身体がついていかないのだ。それが老いというものであると、彼は身を持って理解している。

「うーむ、撒いたようじゃの」

 辺りに目を回してみると、清楚な街並みは消えて、歩き回る人々の服装も変わった。
 狭い場所で生活する事だけを求められた土地により、人々は互いの生活を晒し合い、半無法化している。
 外部から来た人間は珍しいのか、街の人間達はこぞってイブンを見ている。その目には好意も敵意も見えない。
 そんな中、彼の袖を引っ張る者がいた。

「爺さん、こっち!」
「むっ?」

 弱くながら明確な意志を持って引っ張る男の子、先程の語りの際に見た顔であり、毎度のように最前列に座って聞いていた子であった。
 少なくとも自分に害を成すものではないと認識したイブンは、そのままついていき、市外部の中へと進んでいく。
 語りの後に色々と街を回っていると自負していたイブンだったが、半分は単なる幻であり過信であった。暗い部分を見せようとしない、そんな国の政策に乗せられるままに、真意のない部分ばかりを見せられ続けていた。
 貧困を極めた街の造りは裕福層が見せていた風景とは天地の差がある。
 人は汚い部分を隠す。それがこの文明の中にも存在した。

「うむ、少年よ、助かったぞ」

 少年はこくりと頷いて、微笑んで見せる。
 その顔はこの貧しい住宅地に住んでいる者達と同じ顔であり、広場にいた者とは少し違う。
 だからこそ、イブンは気が付いた。どの文明も抱えている問題が、この場所にも蔓延っているのではないかと。
 難しい直面に目が行き始めたイブンに対して、無垢な質問を少年はぶつける。

「広場でいつも語っている人だよね」

 笑顔に表情を変えて、首を縦に振る。少し訛っている少年の言語は、イブンにとって聞きづらい。
 少年は目を見つめたままに質問を続ける。

「あれって嘘?」
「うむ、嘘だったか本当だったか……」
「どっち? みんな嘘って言ってるよ」

 しつこく聞き続ける少年に向けて、イブンは笑って見せた。
 自分が相手に言いたい一言が思い浮かんだからである。

「遠くに行って、自分で確認してみるといいだろう」
「うわっ、ケチ!」
「ぐわっはっは!」

 人を引きこむのも一流、人を煙に巻くのも一流、それが大旅行家であるイブン・バットゥータという男だ。
 掴みどころはないのに、人を掴む方法を知っている。あらゆる人間を見て、知り合ってきたからこそ、成せる業と言えるだろう。

「砂漠のど真ん中では、金なんてただの紙切れだ。経験こそ己を生かす宝となる。少年よ、多くを見て、多くを学び、そして大きな夢を抱け! そうすればもっともっと、この生を楽しめるだろう」
「……勝手だよ」

 イブンの言葉に反論し、今までに無かった不快感が場に伝わる。
 それは、イブンが感じた文明が持つ問題と同じものである。
 彼らが貧困層で、表通りに住んでいる人間が裕福である理由。答えは簡単であり、イブンにとっては実に下らないものである。
 民族の相違は、文明によっては能力の優劣とされる。彼等にもそれが適応されている。

「僕らは少数民族、どんなに頑張っても結局は弾圧されて奪われる。世界はそうなっているんだ」

 言葉には不条理な世界に対する憎しみが籠っていた。
 どのような嫌がらせ、苦痛がこの街を包んできたのかは、イブンは当然知らない。
 知らなくても大まかに内容は分かってしまう。見たくなくても、色々な場所で見てしまうほどに、身近な問題であるのだ。
 今までのしわくちゃな笑顔がイブンから消え、経験豊富な初老の真面目な姿がそこにある。

「少年も旅に出たいのか?」

 回答を出すまでにいくらかの間があった、それは少年の迷いであり、懸念である。
 自分の意志を適応する事により、誰かが不幸になる。街を出る者は、残る者から見れば裏切りと同じ。
 それでも、自分の意志を伝える。口で伝えるだけなら誰でもできるし、効力を持たない。
 だから本音が出る。

「この街は居心地悪いから……」
「そうか」

 優しい応答と共に、彼は鞄を開けて中身を漁り始めた。
 旅と一緒にあった鞄には様々な道具、記念品、貴重品が収められている。そのいずれもが、彼を助けたり彼に助けられた思い出を持っている。
 そんな鞄の中から取り出したのは麻で出来ている黄土色の小袋、その袋を振ってみると中から細やかな音がする。
 相手の行動の意味を理解できないままにただ見ている少年、そんな少年の掌にイブンは袋の中身を置いた。
 手に残っている物は何かの種である。種である以上の情報は分からず、少年には両方とも見た事が無いものであった。

「プレゼントだ。君の知り合いには農業を嗜む者はいるかい?」
「うん。たまに手伝ったりするし」

 まじまじと種を見ている少年に対して、イブンは概要を説明する。

「この種は大豆、もう一つはライ麦、両方とも異国の作物で、干ばつや冷害に強い。痩せた土地でも大きく育つだろうし、この市場に出回っていないものだから高く売れるだろう」
「でも、すぐ国に差し押さえられる。僕らは刈り取られる為だけに存在するから」

 間髪無く返ってきた言葉は悲惨で重い。強者と弱者が決められていると思い込んでいるからこそ、迷いの無い現実を知った言葉が子供の口から返ってくる。
 イブンにとって、聞きたくもない言葉だった。楽しい事を考えられなくなった世界になど、一時の幸福すら訪れない。
 夢によって今の自分があるイブンには、そんな寂しさや空しさばかりが強調される現実は不快なものでしかなく、自分が変えたいと思ってきた世界そのものであった。
 数度悩んだ素振りを見せた後、再び袋をまさぐる。

「うーむ、なら秘密兵器を出そうか」

 彼が取り出し物は萎びた何かであり、種の時と異なりそれが何であるのかが少年には理解できなかった。
 掌に置かれたそれを触ったり凝視したりしてみるが、結局何に使うかは思いつかなかった。
 分からなければ聞いてみる。人と人との関わりがある限り、情報の取得は容易い。
 イブンにもそんな経験は沢山あった。ある場所の常識はある場所の非常識、非常識を常識に変える機会はいくらでもあるのだ。

「これ、何?」
「根菜、ある場所ではキャッサバと呼ばれている。その実、種、みたいなものさ」
「種なんて見当たらないけど」
「実は私も、種をくれた者もその植物の生態をよく知らないんだ。私が訪ねた場所よりももっと遠い場所が原産地と聞いているから、その者に会えれば分かるかもしれんがな」

 伝えようとしている本人が堂々と良く分からないと言っているのは不安要素である。
 形は確かに特別ではあるが、結局は作物。奪われるのは目に見えている。

「見た目は花で、葉っぱも食べられない。しかし、地中を掘り返すと、根っこに実が育っているんだ。これなら、隠れて栽培するのも可能だろう」
「根っこに実?」

 植物の根を食べるなどという慣習など聞いた事が無い。あの細くて長く、食べる場所が無いものを食べることに対してイメージが湧かない。
 全てが妄想に聞こえる。それは彼の魅力とも言えるし、欠点とも言える。

「へぇ、そんな食べ物があるんだ」
「同じだよ」
「えっ?」
「君達と同じように迫害されていた人々が、国に奪われないようにこの作物を開発した」

 全ては生まれながらの勝者による無慈悲な略奪に抵抗する為に、人種で全てが決まる腐りきった制度に対抗する為に。
 人は負け組でなどいられない。だから、頭をこねくり回して現状に抗うのだ。
 叶わないかもしれない、散々に打ち負かされるかもしれない、それでも人は生きている限り立ち上がる。
 イブンはそんな人々の姿を見続けてきたから、諦められなかった。この男、諦めるという選択肢を何よりも嫌う。

「国を作ったのは人。だから、人間は国になんか負けない。悪しき国は必ず滅びる、たとえ今は良くたって、人が支えなければ国はいずれ滅びるのだからな」
「そんな力は僕達には……ないよ」
「力の形や使い方を勘違いするな、少年。略奪や暴力だけが人間の持つ力ではない。この改良された作物だって、戦う人間が生み出した一つの力さ」

 年端もいかない少年を諭す老いた男の顔は真剣そのものである。
 誰に対しても一生懸命、正面からぶつかり合って相互理解を求める形は、イブンが望むもの。人はどこまで行っても人であり、人である限りは希望はある。だから、老いて尚、自分は生きているのだと。
 そんな中、外が騒がしくなってきた。少年の友達も、一言二言少年に声を掛けている。
 この場所に好ましくない奴らが来る、そんなところだろうとイブンは判断した。
 危険な啓蒙思想家が貧民街に逃げ込んだと、誰かが通報したようである。懸賞金まで出ているとしたら、お喋りをしただけの人間としては、大出世である。嬉しいものではないが。
 渡すべき物を渡したイブンは、鞄を持って立ち上がった。住みにくくなってしまった街からは離れるのが一番である。

「少年よ。いつかまた、別の土地で会おう」

 歳不相応の素早さを持ってして、怒号を掻い潜ってイブンは消えていく。投獄の危機にあるというのに、彼の顔からは笑顔が消えなかった。
 不治の楽天家、最後まで自分勝手な言い分を口にし続ける。良し悪しでは区分できない、それでいて強烈な印象が少年の脳裏に残ったのだった。















「貴方も小生意気な少年だったのね」
「言い返す言葉もない」

 パルシャの痛烈な皮肉に対して、笑いながら余裕で返すサルト。
 彼も子供の頃は、希望的な未来を描けなかった。そんな時に彼は大旅行家に出会い、劇的ではないものの、変化を持ち始めた。

「別に最初は単なる興味でしかなかったし、話してみても口だけが立派な大人にしか思わなかった」
「口だけの人間なんて、広い世の中にはさぞかし多いのでしょうね」
「だが、俺の手には相手がペテン師かどうか判断できる材料が残っていた」
「そうね。貰った物は使えたわけ?」
「ライ麦と大豆は育ったよ。だから、収穫量は確かに増えた。けれど、キャッサバは全て枯れてしまった。芽までは出たけれど、それは育たないままに黄色になってしまった。搾取される量も増えたから、結局肥えたのは国だけだ」
「やっぱり詐欺師じゃない」
「でも俺にはそうは映らなかった」

 結論としては何も変わらなかった。パルシャはそう思ったのだが、少年サルトはその育った作物に一縷の光を見出した。
 イブンという不可思議な男は嘘つきではなく、とても高い場所から世界を俯瞰してきた者であると判断したのだ。
 新しい物を伝道できるのは、自分達が知らない新しい何かを知っているから。それは知らぬ者から見れば特別であり、輝きがあるものであった。

「爺さんに対する街の評価も様々だ。新しい作物を伝えてくれたと感謝する人間もいれば、地中に実が成るなどと得体の知れない植物を妄想し、吹聴した詐欺師と言っていた人間もいた」
「貴方にとっては前者だったのでしょうね」
「感謝か。そういう気持ちよりも、自分ももっと遠くに行ってみたい、という気持ちを抱くようになった。感謝といえば、これも感謝か」

 単なる嘘つきではなかった。周りは窮屈な世界にばかり見えるけれど、国や制度、身分に押し潰されることのない場所がどこかにきっとある。
 そして彼は、手段として流浪の民であるカルヴァーンに志願し、色々な世界を見てきた。見る度にイブン・バットゥータの言葉を思い出し、真実と虚偽を汲み上げた。

「世界を飛び回った証拠をいくつも持っていたのに、爺さんはそれを自分から証明せずに、わざと胡散臭いままに振る舞っていた。きっと爺さんにとって、夢を他者に語ることが一番“楽しい”事だったんだろう」
「迷惑な人間」
「男は得てして迷惑な馬鹿者なんだ」

 歳を経て、多くを見るほどに、イブンに対する憧れの念を膨らませ始めた。
 もっともっと遠くに行ってみたいと思うほどに、未知の世界に辿り着く難しさを実感する。その度にあのしわくちゃな笑顔が頭に浮かんだ。

「多分、いや間違いなくあの爺さんは、俺より子供で馬鹿で夢見がちだった。だからこそ、世界中を回って見てくるだなんてとんでもない発想を抱き、それを実現しちまったんだ」
「そんなことが出来る人間なんて最初から選ばれている。特別なんてものは簡単に生まれない」
「ああ、特別だったのかもしれない。でも、爺さんは特別であることを嫌い、自分が特別にならない事を望んだ。だから、色々な街で人々に旅を促したんだ。いや、もっと単純だったのかもな。孤独を嫌い、出会いを求めて旅を続けていただけかもしれない。まあ、真相は闇の中だけどな」

 釘を差しても、彼女には何の面白みも無かった。
 楽しそうに話す男にパルシャは、いつしか嫉妬ではなく羨望の眼差しを向けていた。妬みから憧れ、その思いは負の境界から正へと成り変わっていたのだ。
 純粋に自分が持っていない思いを、彼が尊敬するイブン、そしてサルトは持っていて、今の自分は持っていない。だから、ただ彼らが羨ましかった。
 羨ましい、全てを諦めていたパルシャには今まで湧き出てこなかった感情。相手を不幸にして叩き落とすのではなく、自分を同じ高さへと上げる。それは、彼女が自由を感じられるからこそ、自然と浮かんだ感情、そして人間である証。

「人は未知を好む。自分の目で世界を見ることも経験、知識の一つだ」
「そんなもの、生きていくのに必要無かった」
「それで楽しかったか?」
「経験や知識を持っていたとしても、今までの人生が楽しいものへと変化したとは思えない」
「それはパルシャが今すぐに判断するべきものではないだろ。これから何をしたいか決めて、楽しくしていけばいい」

 自己を卑下する刺々しい言葉を紡いでいても、パルシャの表情は穏やかに見える。
 何も感じないように感覚を閉ざしていた頃とは異なり、サルトの言葉のように経験や知識を吸収している。
 その際に、パルシャにも何か思うものがあるのだろう。

「サハラの秘境にある黄金の国、マリ。あらゆる人種の傭兵を雇う戦闘国家、オスマントルコ。慣習から何まで異なる東方の大王国、明。文化旺盛なる古からの文明、ビザンツ。その国には国特有の考え方があるから、おもしろいし、飽きない」
「分かり合える人間も、分かり合える部分も少ししかないわ……きっと」
「自分と相手の間に勝手に敷居を立てるな。爺さんならそう言うだろうな」
「あー、なんかイライラしてきたわ。話も雲を掴むようなことばっかりだし、やれば分かるみたいなことしか言わないし。真面目に聞いていた私が馬鹿みたい」

 背伸びをして立ち上がるパルシャ。日は未だ燦々と世界を照らし、水面を煌びやかに反射している。空へと向かって上に育つ水辺の草達には、少々きつい日差しだろう。
 腕を目一杯伸ばしてみても、小さな体。もっともっと大きく育つべき身体は、今までの栄養不足からか、骨と皮から出来ているように見える。大人びた精悍な顔つきとは不釣り合いだ。
 パルシャは振り返り再びサルトを見る。その緑の眼光は鋭く、人の心の奥まで見透かすような両目であった。

「みんなで分かりあって……世界平和でも目指しているわけ? たいそうな夢ね」
「そんな聖人君子なことは言っていないさ。その国の頭にいる奴らは、相手の首ばかり狙っているからな。ただ、それぞれの国に住まう者達は、異国にどんな者がいるのか、どんな物があるのかを知りたいと、俺自身が本質的に思っている。ただそれだけで、行商は俺の夢、そして指導者の要望に一番近い職業だったってわけだ」
「つまらない回答」

 靴を脱いで裸足になると、砂からも日光の温かさを感じる。オアシスとは言えど、ここは砂漠のど真ん中であるには変わりないのだ。
 湖岸へと歩みを進めていくと、足の裏から伝わる温かさが少しずつ消えていく。そして、親指が水辺に入ると、全身が保っていた熱が足を経由して水へと逃げていく。
 砂地から穴を開けて出てきた黒い蠍が、餌を求めてか水辺近くを歩き回っている。
 地中から出てきたばかりでは、辺りを見渡しても何も分からない。うろうろと同じ場所を彷徨う姿を見ていると、そんなことを想像してしまう。今までの自分と同じで、今の自分とは違うのだろうか、パルシャは考えてみたりする。
 未知、そして既知。世界が変わったようには感じていないが、サルトは日々、変わっていると言っている。
 掌を器にして水をぽたりと近くに落とすと、蠍は満足したのか砂の中へと戻っていった。
 隠れていった生命を見届けてから、パルシャは再び話し掛ける。

「ねぇ、サルト」
「んっ?」

 振り向いたサルトに映った宙を飛ぶ透明な液体。それは無慈悲にも彼の顔へと直撃した。
 奪われた視界を戻すべく目を擦ると、彼が見たことが無いパルシャの表情が目の前に広がった。そして、安心したのだ。なんだ、彼女も笑う事ができるんだと。
 多分見ていたのはサルトだけ。人一倍隊員を心配する隊長だからこそ見れた、パルシャの姿。
 瞬きもせずに見とれていたら、もう一度、同じように視界が水に奪われた。
 今度は驚きで目を見開いていた為に、眼球に痛みを感じる。
 視界を暫く奪われていた為に、感覚は研ぎ澄まされていた。



「ばーか!」



 その声今のパルシャの表情と一致するような明るさだった。
 リリのような清々しい明るさを真似た、彼女なりの精一杯だったのかもしれない。本当に楽しい気分になって行った行為だったのかもしれない。いずれにせよ、サルトにとってはどうでもいいことである。
 笑顔がここにある。それでいいんだ。

「男は本質的に馬鹿なんだよ! さっき言っただろ?」
「知ってる」

 顔にへばりついている水分を削ぎ落とし、サルトも立ち上がる。太陽が空にあるうちに、すべきことをしておかなければならない。
 今日この場所で夜を過ごすのならば、寒さをやり過ごす適切な場所の選定が必要だ。
 まあ、水が近くにある故に、温度変化は砂漠のど真ん中よりも幾分緩い。
 きょろきょろと人の数を数えたサルトは、水際にいるパルシャに声を掛けた。

「さあ、休憩は終わり、さっさと野営地を作るぞ。夜の砂漠は冷える、パルシャも良く知っているだろ?」

 そう、パルシャはもう知っているのだ。
 知っているからこそ、これからどうすればいいのかが分かる。
 自己の持っている知識を駆使し、状況を考えるのが人間というものである。
 自分で考え、判断できる彼女はもう奴隷なんかではない。
 先程の笑顔が如実に物語っている。























<ⅴ> 薔薇と鉄鉱石

 中世という厳しい環境を生き抜くことで進化したのは、人間達だけでなく街並もである。
 敵襲、蛮族による略奪が、街自体を根絶やしにしてしまうことも多かった。
 よって自らの身を守るために、街さえも戦闘に特化した形へと姿を変えていかなければ、生き残っていけなかったのだ。
 一つ目は住民の意識。
 街に住む権利を与えられると共に、街を守る義務も同時に発生する事になる。
 守れなければ全てを失う、人は失うことを恐れるから武器を取って戦うのだ。
 勝たなくてもいい、だからこそ都市は守りを特化する都市へと変貌していった。これが二つ目だ。
 防壁に城、その多くは石で作られ、高さを優位として外部者を弓矢や大岩を浴びせて外敵を追い払う。
 その代表的な都市と言えるものが、要塞都市ダマスカスであった。
 ダマスカスは欧州からの十字軍の襲撃に何度も晒された都市だ。侵攻を何度も受け、破壊が行われる度に、都市は防御的な姿へと変わっていった。
 防御的な姿勢の名残は、アイユーブ朝時代のものであり、その形式は今も影響を受け、更に洗練されている。
 アイユーブ朝のかの英雄、サラーフッディーンは、石の城を堅固なる礎とし、幾度にも十字軍を破ってみせたのだ。
 幾度にも起こった戦争の歴史と共に、この街は時を刻んでいる。





 小さな街に寄りながら目指してきた大都市、ダマスカス。
 その城壁に囲まれた異様、独特の空気は、他の都市が持っていた空気とは大きく異なる。
 アンティオキアに着いた時と同じように、パルシャはこの街が醸し出す崇高な空気に飲み込まれていく。

「おいおい……また城壁が高くなっていないか?」
「街自体が要塞みたいなもんだものな、ここは」

 石の壁を見ながら驚愕の言葉を交わす商人達。何度か訪ねている者であっても、威圧的で排他的である巨岩の防壁に圧倒される。
 これを作り上げたのは紛れも無く人間であり、必要であるからこの場所に存在しているのだ。
 人間にとって、ここまでの壁が必要となる外敵がどのようなものなのか、カルヴァーンの商人達では思い浮かべることはなかった。

「久しぶりだな、ダマスカスに来るのは。そして相変わらず慣れないな、ここの空気には」

 壁の頂上を見上げながら、サルトはぼそりと口にする。
 トレビュシェットすらも中に入れられるほどの大きな岩の門が、パルシャ達を御出迎えした。




















『おお、稲妻よ! 挨拶しにやって来たのか!
 初めは甘美に、やがて汝、篠突く雨の如く変わる。
 ダマスカスへ急げ! 葦茂る如き驟雨を鞭に!
 宝石を鏤め、王冠を抱くが如く咲く、その牧場の花々、
 ジャイルーンのもとに、汝の着物の裾を広げよ!
 すべてに完璧なる高貴なる衣装纏いし、殿閣を目指せよ!
 春の溢るる大自然の恵み、その賜物を四方へ広げるところに、
 春の驟雨、牧場を緑に彩る』
                         大旅行家 イブン・バットゥータ























 高々と積み上げられた壁を越えても、ダマスカスの空気は他の街とは異なっている。
 城塞に囲まれている都市圏は入り組んでおり、大都市ながら道は広いとはいえない。
 また、高低差が激しい上に道が真っ直ぐでなく入り組んでいる為、歩行者が視界を確保するのも難しい。
 そんな良質ではない道を駱駝やら馬車やらを含めて、容量を超えた人々が歩き回っている。故に混雑を極め、視界は尚更悪い。
 砂と石、茶色と白、物々しい雰囲気は速く歩く街の者達からも感じられる。
 そんな中で、パルシャは自分が乗ってきた駱駝を引っ張りながら歩いている。

「もうちょっと広い道は無いの?」
「ダマスカスには殆ど無いな。何度も攻められているうちに、こうやって攻めにくいように整備されてしまったんだろう」

 サルトの言葉の主旨を受け取り、パルシャは諦めたように空を仰いだ。
 カルヴァーン達が止まるための専用施設であるサライ。
 迷路のように張り巡らされた商店街であるスーク。
 厳格なイスラム達が礼拝するモスクやマドラサにミナレット。
 若者がこぞって学問を励行する大学。
 その建物達の殆どが石造りであり、建物に飾り気や建設者の遊び心は一切存在しない。まるで自身に与えられた役割以外のモノは全て不要であると、世界に言い聞かせているように。
 アンティオキアが海と空、大理石に囲まれた開放感溢れる都市だった故に、ダマスカスが醸し出す閉塞感は更に強調されている。
 外部者を歓迎しない石の街、パルシャがダマスカスという都市に対して最初に持った印象である。
 土地や場所に住まう人々に適した街作りがされている。それは正に、サルトが言っていた世界の面白さの一つ、なのだろう。パルシャは彼の言葉の意味を、ほんの少しだけ汲み取っていた。

「楽しそうだな」
「べ、別に……そんなことはない」
「新鮮か?」
「……うん」
「その感覚が楽しめるようになったら、一流の行商さ」

 自分の目で見つける新しい発見は、ほんのり甘酸っぱく、こっ恥ずかしいものであるとパルシャは認識するのであった。





 サライに大型の荷物と疲労が見られる駱駝を預けると、皆それぞれが自由に行動を始める。
 砂漠での移動がいつもよりも長かったのか、寝込んでから行動する者が多い。休める時に休み、残された時間で商品を捌く。行商が街にいられる時間は限られている。
 自分の荷物をまだ持っていないパルシャは、街に入ると逆に時間を持て余す。その時間の大半はサルトについていき、商人見習いとして手伝ってきた。しかし、今日のサルトはパルシャが自身の仕事場に来る事に対して、難儀を示していた。

「悪い。今日はちっと治安の悪い場所に行かなきゃいけないんだ」
「構わない」
「俺が構うんだよ。自分の身を守る程度の腕はあるが、それ以上の力は持っていない。何かあっても保証できないんだよ」
「構わないから」
「……はぁ、どうしてリリといいパルシャといい、なんでこう気丈なんだろうな……」
「なんか呼ばれた気がしたけど?」

 困り果てている所に登場したのはリリである。眩しすぎるくらいに明るい空気を周囲に撒き散らす彼女にパルシャは苦手な意識を持っていたが、慣れと諦めを駆使すると、人は苦手を克服できるようである。
 助けが必要と目配せするサルトに一瞬視線を寄せた後、リリは中腰になってビシッっと人差し指を立てた。

「パルシャちゃん、サルトが困っているのは分かる?」
「私も困る」
「それはやる事が無いから、ってこと?」
「他にも理由はある。仕事を覚えないと私はお荷物のまま、だから人より倍以上働かなければならない。サルトの近くで働いていれば、分からない事があってもすぐ聞ける」
「うーむ、懐かれているわね。腹立たしいような、羨ましいような……」

 リリは思わず本音を小声で呟いてしまったが、二人には聞こえなかったようだ。
 助けを求めたサルトに嫉妬を含んだ目線を送った後で、リリは本格的に助け船を出す。

「ならさ、私の仕事を手伝ってくれないかな?」
「えっ、リリは商人じゃないんじゃ……」
「薬師といったって、相手は勿論いるわ。それに、私だってカルヴァーンの商人よ。薬を全般とした物を捌いたり、次の街に向けて売れそうな物を購入したりもする。まあ、職業柄故触るのはもっぱら薬関連や植物ばかりになるけどね。狭く深く、ってやつ」

 パルシャはリリがまともに働いている場面を見た事が無かった。
 最初に出会った際に薬師であると言っていたが、その技能が発揮された時は殆ど無い。カルヴァーンの長旅で体調を崩す物に対して、持っていた薬を処方していたくらいだ。
 街に来ても薬を買い入れるくらいしかしていないだろう。そんなパルシャの予想は見事に覆される。そして知るのだ、やはり自分だけが本当に何も出来ていない事を。
 彼女に今できる最善、それは自分の意志を抑えて、我慢する事であった。

「迷惑掛けるのは……やめる」
「うん。お姉さん、聞き分けの良い子は好きだぞ」
「手伝えるのなら……手伝う」
「うん。パルシャちゃんなら大歓迎」

 安堵の息をついたのはサルトである。安全な場所のみに行き、行動範囲を制限していたら、儲かるものも儲からないのだ。
 これから出掛ける準備を始めようとサライへと戻っていくサルトに、リリは一声掛けた。

「それじゃあ、パルシャちゃんは頂いていくね」
「私は所有物じゃない」
「ごめんごめん、怒った?」
「いちいち疲れる」
「ダマスカスは決して治安は良くない。二人とも気をつけろよ」

 パルシャはいつもとは違うパートナーへと目を向ける。
 駱駝に荷物を積んで歩いているサルトとは異なり、荷物という荷物は麻で出来た布袋一つだけ。他のカルヴァーンの商人と比較しても、軽装である。
 本当に売れるようなものがあるのだろうか、そして自分の仕事なんて本当はなんじゃないだろうか、不安を覚え始めたパルシャの視線に気が付いたリリは、いつものように微笑んで見せた。

「それじゃ、一緒にいこっか」
「……うん」
「返事は重要、良きかなー良きかな」

 荷物は本当にその袋一つのようである。荷物運びという手伝いの選択肢が消えてしまった。
 上機嫌のリリの後に、怪訝な気持ちを払拭しきれないパルシャが続いていった。








 街に入ってから真っ当に呼吸ができていない気がする。パルシャは何度も息を吸って吐いてはいるが、身体の中から内臓が締め付けられるような閉塞感はどうしても拭えないまま。
 道が狭い割に立ち並ぶ石の建造物は高い。故に道は影で覆われており、晴れ渡っている空さえ遠く感じる。
 人々の目にも猜疑心が芽生えている。口を閉ざし早足で歩く人々に表情は存在しない。時々鎧と兜を着こみ、武器を持っている衛兵が壁に背を預けて立っている。外部からこの街に来たであろう人間の監視が目的であろう。
 狭い通りの両隣に並ぶ店は露店であり、道からはみ出ている為に更に道を狭くしている。
 集客の為に声を張り上げていたサルトとは違い、静かに客を待っている。よって、通りは人の量に比例せず静かだ。無言の圧力、とでも呼ぶべきだろう。
 店は一旦途切れて、大通りへと交差した。
 ダマスカスの建物にしては珍しく、精錬された建物が見られ、多くの者が集まっている。
 宗教関連の施設であるのはパルシャにも見て取れたが、それ以上の情報は入ってこなかった。

「あれ何、って顔しているわね」
「してない」
「イスラムの聖地とされる建造物、ウマイヤドモスク。古くはキリスト教徒の国が立てた建物だったらしいけど、今の支配者に合わせてイスラムの形式に改築されたの」

 無愛想とも言うべき建物と異なる理由は建築時期が古い為、であったわけだ。
 遠くから建物を眺めていると、大通りから馬車が二人の隣を通過した。髭を生やしたターバンの男は周囲の視線を気にする事なく、馬に跨り道を我が物顔で進む。その馬が引っ張っている大きな荷台の中には、パルシャと同じような金色の髪をした子供達が乗っていた。
 パルシャは思う。あの時の自分と全く同じだと。だから彼らが奴隷である事は聞かずとも理解できる。

「ダマスカスは争いが付近で絶えない都市。だから、色々な人種の人達が捕虜として捕らえられる。奴隷交易も盛んなのよ」
「……最悪ね」
「同意するわ」

 マムルーク朝はそんな奴隷達によって支えられている文明でもある。
 男の奴隷は戦士として貴族に買われ、奴隷同士で命の取り合いを飼い主の娯楽として行い、生き残った数名の者は奴隷兵士、マムルークとして国に買い取られる。マムルークの中で力を付ければ、買い取った貴族を蹴落とし、国を動かす事すら可能となる。
 マムルークを構成する人種は様々であるが、その多くは遊牧民族である。大自然の中、狩猟の腕のみで生きてきた者達は、街で暮らしてきた者とは腕も心も異なる。獲物を殺す技術、そして同族を殺す覚悟、その二つが奴隷になる前から備わっているのだ。
 金髪の奴隷である彼等の出身地は、恐らくビザンツの者か十字軍として従事してきた欧州の小国の者、男は獲物として殺され、女はまわされる。彼等の暗い未来は想像できる。



 ああ、妬ましい。
 薄汚い自分自身の心が妬ましい。
 彼等と同族であったのに、自分は彼等ほど不幸ではないと思っているこの醜い心が妬ましい。



 内から湧き出る感情を潰す為に、パルシャは馬車から目を逸らす。
 汚いものを見ないのが自分にとって最善、という新しく生まれた汚い感情を抑えながら。
 不快感と無力感に苛まれたパルシャは、足早に大通りから去っていった。








 再び空が遠くなった道を歩いていると、横を歩いていたリリが立ち止まった。

「ここ左ね。もうすぐ着くから」

 彼女に続いてパルシャは路地裏へと入っていく。
 一際狭く暗くなった道は露店を置ける面積もない。こんな場所に店があるのだろうか、パルシャの頭に疑問符が浮かぶ。
 しかし、答えは単純であり、目的地は露店ではなく、石造りの建物の内部にあった。
 相変わらず派手さは無く、立地も悪い。客など一日一人くらいしか来なそうな店である。
 看板には雑貨商、その文字の下にはパルシャの知らない言語で何かが書いてある。恐らくは同じように雑貨商と書いてあるのだろう。
 リリは慣れた手つきで扉を二度甲で軽く叩き、そのまま開けた。

「お邪魔します」
「……します」

 カランカランと乾いた鐘の音、その後に奥から店の者と思われる誰かが現れた。
 背丈はパルシャよりも小さく、身長の高いリリの首ほどしかない。
 自分と同じような手伝いだろうかと様子を見ていたパルシャであるが、彼女の声を聞いてどうやらそうではないようだと判断した。

「ああ君か。久しぶりだね」
「ナスリーンちゃん、お久しぶりー」
「うちの店に来たという事は、この街に着いたばかりということかな。まあ居心地が良い街とは言わないが、旅の疲れもあるだろう。ゆっくりとしていくといい」

 リリとは顔見知りなのか、ナスリーンと呼ばれた女の店長は、面倒臭そうにお世辞のような言葉を述べた。
 思考は固まっているパルシャであるが、視覚だけは正常に機能している。
 自分と同程度、またはそれ以下の歳にしか見えない彼女は、歳不相応の言葉使いで、不釣り合いという言葉ばかりが頭を回っている。
 姿で特に気になるのが左右で丸まっている特徴的な髪型で、まるで哺乳類、鼠の耳である。
 灰色の髪といい大きな目といい胡散臭い空気といい、人間に化けた何かに見えてしまう。
 そんな目を余所に、ナスリーンはリリの笑顔を見て溜息をついている。

「君は相変わらずそうだな」
「ナスリーンちゃんもお変わりないようで」
「ちゃん付けで呼ばれるほど、私は若くない。一体何度言えば、君は分かってくれるんだ?」
「私よりも大きくなったら、かな?」
「まったく、これだから君という奴は」

 二度目の溜息、諦めはパルシャよりも早いようである。
 そして初めてナスリーンの目線がリリの後ろにいった。威圧と受け取ったのか、パルシャは思わずリリの後ろに隠れようとするが、リリの腕に邪魔された。

「さて、そっちは……初めて見る顔だね」
「我等カルヴァーンの新しい仲間、パルシャちゃんよ」
「ふむ、綺麗な目をしているな」
「流石ナスリーンちゃん、お目が高い。でも、あげないからね」
「誰が欲しいと言った?」
「私は所有物じゃない」
「あー、なんか二人って性格似てるかも」

 訝しげな目線が二方向からリリへと刺さる。リリの言葉は強ち間違っていないようである。
 そんな視線をものともせずに、袋の中身を探っているリリは、大物であり鈍感でもある。
 彼女は麻の袋よりも小奇麗な蓋付きの陶器を二つ、三つと木の机へと並べていく。

「はいこれ、いつものお薬ね」
「硬貨と香料だ。量はいつもと変わらない」
「釣り上げ交渉はアリ?」
「却下だ。面倒な読み合いは嫌いなんだ」
「ぶー」

 頬を膨らませているリリにいつもペースを崩されているパルシャは、そんなリリを軽くあしらいつつ、店に入ってから全く感情を変化させる事無くリリの相手をしているナスリーンという女を警戒していた。
 自分に似ている、そうリリは言っていた。だったら、“信用できない”。
 何か裏があるのではないかと見続けてはいるが、その緑眼は無変化なナスリーンの姿を映すだけである。

「一つ仕事があるんだが。依頼していいか?」
「あら珍しい」

 そんな中で、商談は続く。
 全く噛み合いそうもない二人でも、需要と供給さえ合えば商売は成り立つのである。

「ある高級香料の依頼がこちらに入っていて、生憎そいつが在庫を切らしているんだ。取りに行きたいのだが、別の仕事と重なってしまっていてな」
「代わりに取ってこい、と?」
「緊急の依頼だから、報酬は相場より高く出すよ。こっちも人手不足で金ばかりが増える」
「なら誰か雇えばいいじゃない」
「騒がしいのは嫌いなんでね。ああ、特に君のような人間が苦手だ」
「余計な一言」
「余計な一言を我慢せずに口にするのが、長生きの秘訣さ」

 お互いに無駄口が多い。それも商人のやり取りの一つ、と言えば聞こえはいいだろう。
 パルシャから見れば賢くはなく、決して効率のいい交渉をしている、なんて思わなかったが、どこか羨ましいと思ってしまっていた。
 軽口を叩ける相手は、パルシャにとってサルトくらいだ。

「それで、必要な香料の名前は?」
「ダマスクローズ、知っているだろう?」
「そういえばナスリーンちゃんの名前の意味も野薔薇だよね。浪漫ある名前だよねぇ」
「君は話の腰を折るのが得意だね。少し商談の仕方というものを覚えたほうが良い」

 薔薇、赤くて花弁が沢山ある花、パルシャが薔薇という言葉から想像できるものは汎用的なものでしかない。それが染料ではなく香料として使われるのも、腑には落ちなかった。
 パルシャは一人置いてきぼりのまま、二人の話は詳細へと進んでいく。

「なに、別に絶壁を登っていって稀少種の薬草を取ってこいと言っているわけではない。薬師の君なら分かるだろう?」
「お手軽だとは思うんだけどさ」
「何を迷うんだ? 即決してもらえると思って、君に依頼したのだが」
「うーん、でも今は街から出るのはねぇ」

 リリは一瞬パルシャへと視線を送る。危険は少ないとはいえ、薬草摘みを行った事のないパルシャを街の外に連れ出すことは、リリにとって良いとはいえなかった。不確定な要素は、危険を誘い込む可能性を高める。
 事故はあってからでは遅い。ダマスクローズの生息地も大まかな場所が分かる程度で、実際にどうなのかといわれると首を傾げるところだ。
 視線を送ったのは一度、けれどパルシャは素材の話に着いていけなくても、リリの懸念事項を察した。自分が足手まといになっているのだと。

「無理ならばそれでいい」

 依頼者であるナスリーンは諦めが早い。任務自体が難しいものではない為、断られたのならば別の誰かに頼むだけである。
 リリは何も言わない。だから、代わりに返答したのはパルシャであった。
 彼女には明確な意志があり、それを証明していいのだと皆に教えてもらっていたから。
 殻ばかりに篭ってはいられない。だからこそ、自分の意志を第三者に伝えた。

「する」

 驚きの表情ながら聞いていた二人のリアクションは対照的。ほう、と小さく驚いただけのナスリーンに、予想外の回答に言葉が出てこないリリ。そもそも、リリが静かになる事自体が珍しい。
 暫くあっけにとられていたリリであるが、二人の目線から自分の返事待ちであると認識し、やっと口につっかえていた言うべき言葉が出てきた。

「うん。ならやろっかな」

 パルシャにも色々な思いが降り積もっている。その上での回答が“する”ならば、リリが断る理由も無い。悩める少女の背中を押すのも、先輩商人の仕事なのだ。
 すべきことは野草を探して、少し摘み取ってくるだけ。何かの不確定要素があったとしても、そこには自分がいるのだから、対策はできる筈だ。
 発言の後にリリは考えを纏め、不安要素を頭の隅へと追いやった。

「ところで、ナスリーンちゃんの仕事というのは?」
「いつもの水脈探しだよ、頼まれてな」
「例の金属の棒二つ使って、うぃ~ってするやつ?」
「これがないと仕事にならないからな」

 彼女が取り出したのは途中で垂直に折れ曲がっている金属の棒二本。何の変哲もない棒にしか見えないが、彼女がこれを持つと普段見えない物や、目で見られない動きが探知できる。
 本人曰く「種も仕掛けはあるが、極秘事項」であるそうだ。彼女を習って同じような動きを見よう見まねでやってみた人間もいくらかいるが、結局何も掴めないまま。
 よって、今回の依頼である水脈や新しい鉱山探しは彼女にしかできない仕事であり、故に彼女には潤滑な資金がある。

「ナスリーンちゃんにとって、雑貨商は副業かつ単なる趣味。羨ましいね」
「忙しいばかりでいいことなんて無いさ。金が入っても、使い道や使う時間が無ければ本末転倒」
「いいじゃん。街にも貢献できて、お金も入って、みんな幸せ。ダマスカスの街の人から好かれるのって結構大変だと思うよ」
「好んで好かれているわけではない」
「この照れ隠しさんめ」

 抑揚が無い声からして、ナスリーンには全く照れを隠している様子はない。
 しかし、ナスリーンがダマスカスの人間に重宝されているのは事実である。
 ダマスカスは砂漠の真ん中の都市、オアシスの水と地下水を水源としている為、極めて水不足になりやすい土地である。
 故に水の価値が高騰しやすく、自身の土地から地下水が出ようものなら、それだけで生きていけるのだ。
 彼女の不可思議な能力は水がどこにあるかを掘るまでもなく探り当てる。悪用すれば、この都市の地下水の殆どを抑える事だって可能だろう。当然、彼女にはそんな野心は無く、街の為に力を使っている。彼女が相手を知らなくても、相手から篤い人望を受けていたりもする。

「話が外れたな。モノは明後日までに手に入ればいい、君ほどの腕の薬師なら十分な時間だと思うが」
「了解。期待に応えて見せますわ」
「気をつけて行ってくるといい」








 休み少なく再び砂漠の道を歩く事になったパルシャ達は一度サライに戻り、支度を済ませた。そこまで遠くには行かないと言っていたリリの言葉により、駱駝は休ませて徒歩で砂漠を渡るのだ。
 街の端に位置する相変わらず大きい城壁の出入り口、そこには立派な石像が二つ並んでおり、通りかかる者が時折一礼したりしている。
 歴史に疎いどころか歴史に疎い事すら知らないパルシャにとって、この二人が誰であり、どんな業績を上げた者なのかは全く持って不明である。
 そんな石像を見上げていると、リリが立ち止まり解説を勝手に始めた。

「アイユーブ朝の英雄、サラーフッディーンとマムルーク朝の創始者、バイバルスの石像。二人はこの街に縁のある指導者ってことね」
「縁が無ければ石像なんて立てられないだろうし」
「二人に共通する事は、外部からの敵に対してこの街を命を賭して守った指導者という事」
「実は物知り?」
「ふふーん……って言っても、全部カルヴァーンの仲間の受け売りだけどね。色々な人と話せば、自然と色々な知識が身に付く。パルシャちゃんなんか今頃が覚え時だと思うから、色々と話したり聞いてみたりすると良いと思うわ」
「……気が向いたら、ね」

 二人の英雄に見守られながら、パルシャとリリは街から離れていく。





 今日も砂の世界の上は水色に染まっている。不快なまでに輝く太陽が闇を許さず、照らす物すべてに熱を与えている。加えて地面からの距離が近い為に、身を持って熱を感じるのだ。いつも人間の代わりに歩いてくれている駱駝への感謝の念は、この砂の海を徒歩で渡る事によって大きくなっていく。
 とはいえ、この焼けるような暑さにも生命というものは慣れてしまうから恐ろしい。慣れる事が出来なかった生命はただ焼け死ぬだけであるが。
 昔は暑さに耐えながらただ無言でいることしかできなかったパルシャも、今は渇きを抑えつつ、砂を運ぶ風を外套で避け、話をしながら歩く事ができる。彼女の頭に突っかかっている疑問、解決できるのなら今解決しておきたい。

「どこに向かっているの?」
「うーん、あっちに山が見えるでしょ? あそこら辺なら多種の植物が生息しているから、多分見つかると思う」
「意外と近い」
「まあ目で捉えられるんだから、目的地が見えない砂漠の道を只管に歩くよりは、きっと近いでしょうね。でも、ダマスカスの人にとっては遠いと感じると思うわ」

 行商という職に慣れてくると一般的な感覚が狂っていく。それはサルトが言っていた国が持つ特有の常識というものの亜種である。仲間内では普通と考えられても、一歩外に出たらそれは非常識となる。
 遠いを近いと感じるようになったのも、砂漠の行商という職が板についてきた証拠である。
 そんな成長を感じつつ、ニコニコと機嫌が良いリリは、別の話を始める。

「さてここでパルシャちゃんに問題、私達がこれから取りに行くダマスクローズは香料として利用されますが、ダマスカスを含む砂漠地帯では何故香料が重宝されるのでしょうか? さあ、制限時間は目的地に着くまで」
「持ち時間が無駄に長い。諦める」
「むぅ、だらしないぞ」

 指をぴんと立てて怒るリリの姿は、全く様になっていなく、パルシャは込み上げてくる笑いを堪えていた。子供を諭すのは得意そうではあるが、真面目な質問に対する回答の仕方としては威厳が致命的に足りていない。
 そんなパルシャの心象も知らず、リリは答えについて述べる。

「答えは、ええと……考えれば沢山ありそうだけど、私が思いついたのはとりあえず三つかな」

 聞いていないし興味も無いパルシャではあったが、止めるともっと面倒になりそうだと判断したので、無駄口は叩かなかった。
 人と話せば知識は身についていくものなのである。時には不要なものもあるだろうが。

「一つ目、綺麗な水が貴重なものであるから、水浴びの機会が少ない事。二つ目、気温の上昇によって汗を掻く事が多い事。一つ目、二つ目共に臭い消しの意味合いが強いわね。三つ目、香料となる植物は乾燥に強いものが多いの。だから砂漠の近くでも栽培できたり、この近くに生息していたりするの」
「他の食物は育たないってこと?」
「育ちにくいのでしょうね。植物には適度な光、水、肥えた土が必要。砂漠にはそのうちの二つが枯れているから」

 行商が難しいとされる理由の一つに、砂漠での食料の確保が挙げられる。植物にしても動物にしても、殆どの生命が生息できない為、食物連鎖のサイクルは存在せず、死んで砂へと還されるサイクルのみが存在する。
 そんな場所を通りぬけて新しい商品を運んだり売り捌いたりする。カルヴァーンが街で重宝される理由は単純明快だ。

「乾燥に強いって、乾燥した地帯じゃないと育たないとか?」
「育つには育つんだけど……、香りを強くするにはジメジメする場所よりカラッとした場所のほうがいいの」
「何で?」
「うーん、言われてみれば……」

 質問が質問を呼び、講師であったリリも悩み始める。
 先程までピンと立っていた指が揺らいでいるのは、動揺の証拠となるだろう。
 パルシャも今し方得た知識を導入して考えてみる。しかし、簡単に思いつくわけも無かった。
 視線のやり場が無い為に彼女を見ると、あははと乾いた笑い。
 それでもパルシャよりも基礎知識は豊富な為、一度唸った後に手を一度ポンと打って見せて、リリは今思いついた回答を口にした。

「ほら、湿っている時よりからりとしている時のほうが、鼻って敏感になるでしょ? きっとそれよ」

 返事なく再びの目線、反応がこうも薄いと自分の言葉に自信が持てなくなる。目線が泳ぐのも仕方ない。
 無言に対して折れたのはリリであった。

「あはは……嘘、かも」

 苦笑いは自分に向けたものでもある。背伸びしていつもと違った事をしてみた結果がこれなのだから。
 人は完璧ではない。彼女が教えてという立場が苦手なように、個々で得手不得手が存在するのである。






 砂漠の道は徒歩一時間ほど、いつもの岐路に比べれば短いと言う他になかった。
 足場を構成する素材は砂から土や砂利、礫へと変わり、大岩を隠すように大岩が転がっている。岩と岩の間の僅かな隙間からは、砂地では見られなかった草が生えており、僅かな栄養を糧にして成長を続けている。
 遠くに見えていた山も、近くまできた故にその形状が詳しく見て取れる。それは山というよりも岩の塊を積み重ねたものとでも言ったところであり、砂漠から追い出された生命が蔓延る場所としては、環境が厳しい。
 砂とは違った足場の悪さにパルシャの足取りはおぼつかない。時折地面から突き出ている岩の出っ張りが足を取り、何度か体勢を崩している。下を見て前を見てといった感じで、砂漠での余裕はない。
 加えてこの道は登りであり。なだらかながらひたすら上に続いていく道は、確実に体力を奪っていくだろう。

「ねえ、どこまで上がるの?」
「草叢が見えるまで、かな」
「それって未定って事?」
「そうともいう」

 カルヴァーンの行商達は、予定を明確にせずに行き当たりばったりな行動に出る癖がある。
 今回の目的はダマスクローズという香料の成分である草を採取してくる事。生息している場所が分かっていればいいのだが、現状では大まかにしか把握していない。
 先行きは不安でしかない。

「本当に……あるの?」
「珍しい花ではないから、群生地を見つけたらそれで十分だと思うんだけど」

 岩の灰色ばかりが目につく。緑や赤の世界は少なくともパルシャの視界には入っていない。
 空を見上げれば、水色を覆うように薄い雲が掛かっている。太陽も朧げにしか見えない。
 そして、風。乾いた空気しか運んでこなかった空気の流れが、この場所にはない。
 彼女が住んでいた高地に近い環境、懐かしい感覚。
 パルシャはふと、誰かに言うわけでもなくこうつぶやいた。

「雨が降ってくる」
「えっ?」
「雨宿りできる場所は……あそこの岩陰」





 浸食により大岩に人が入れるほどの穴が刳り貫かれている洞窟へと二人は避難し、まもなくパルシャが口にした通りに雨が降り始めた。
 ぽつぽつと地面を濡らした水滴は、あっという間に辺りを雨音で包み込んだ。
 濡れる事無く空を見上げるパルシャ、その隣には訝しげに彼女の顔を見るリリ。

「パルシャちゃんは雨が降るってどうして分かったの?」
「……空、そして風。こうなったら大体雨が降る。私の故郷ではそうだった」
「うーん、私鈍感だから何も分からないのかなぁ」
「リリは別に鈍感じゃないと思う」

 説明できない事を言葉にしようと無理しても意味はない。
 リリはパルシャと同じように、雨粒が降り注ぐ白い空に目線を戻す。

「いつぐらいまで降りそうかな?」
「暫くは降り続けると思う。雨降り始めてから空の様子、変わらないから」

 溜息をついたのはリリである。山の天候は変わりやすい、高原に住んでいたリリにとって既知の事象ではあったが、砂漠に居場所を移した事で認識が甘くなっていた。
 突然の雨を予報してみせたパルシャは、引き続き雨は続くと言った。
 日が落ちる前に帰れると踏んで、軽装で来たのが仇となった形だ。
 リリは岩肌へと凭れ掛かり、ゆっくりと息を吐いた後で、再びパルシャへと話し掛ける。

「さて、お話するくらいしかする事が無いわね」
「私は別に空を見ているだけで構わない。いつもそうしていたから」
「それはお姉さんが退屈を持て余すからから、できれば別の案がいいなぁ。例えばパルシャちゃんの話とか。故郷って言っていたけど、どこなのかな?」

 ピクリと示された反応、それはパルシャが奥底にしまっていた昔の記憶を一瞬で思い出させるに十分な言葉となってしまっていた。
 嫌な記憶に蓋はできるが、それを捨てる事は叶わない。殺したい記憶は鮮明に蘇るように、人はできている。

「私の話……そんなの、そんなのどうでもいい!」

 いつもより一つトーンの上がった、感情の乗った声が岩場へと響く。
 拒絶を持ってして伝えられたこの声は、パルシャの自分に対する不快感を含んでいる。
 思い出したい過去も無く、自分という存在の再認識もしたくない。ましてや、自分の良い所を見つける事すらできない。自虐的な人生の顛末が、奴隷という身分にあった。
 そんなパルシャが絞り出した次の言葉も、やはり自虐に等しいものだ。

「私の存在が皆に迷惑をかける……から。ずっと、そう言われてきた、だから自然と、自分でもそう思うようになっていた」
「周りの声なんて……」
「さっきだって……サルトに嫌われたと思う」
「えっと、別にそこまでは……」
「目だけじゃないんだ。私という存在が……汚くて、穢れている」

 負の思いは止まらずに、次々と口から洩れていく。いつもは口にする言葉を詮索してから話しているのに、こういう時だけは饒舌になれる。パルシャは知っている、真実を話すだけでいいから、言葉に詰まらないのだと。
 流れ出る水の如く止まらない、パルシャの悲痛なる自身という存在に対する評価は、聞いていて心地良いものではない。それはリリにとっても当てはまる。
 しかし、彼女は不快という想い以上の気持ちを心に持っていた。

「穢れている……、かぁ」

 他人事のようにパルシャの言葉を反芻してみせたリリは、舌打ちしたい気分を何とか抑え込んだ。
 誰に対して怒りを覚えたのか? 前向きに世界を捉えられないパルシャ、彼女をそう歪ませた垢の他人、生まれながらにして結果が大まかに決まる世界の規則、その全てを唾棄すべきだと結論付けた。
 いつもの笑顔を崩し、でも怒っているわけでもないリリの顔。今の真面目な彼女に冗談は通りそうもない。

「ちょっと怒ってやろうと思ったけど、多分あんまり効果ないし、私ってばさ、こんな性格だから誰かを真剣に怒るのって苦手なんだよね。だからさ、ちょっと私の話、するね。そもそも私が過去の話を振って、パルシャちゃんを困らせたんだしね。興味無いかもしれないけど、良く聞いてね。今からもっともっと昔の私の話」

 話を始める前に突然、彼女は聞き手に背を向けて服へと手に掛ける。肩の部分をずらし、少しはだけさせてみると、そこには大きな傷が垣間見えた。それ以外にも、何かの獣に引き裂かれた傷など細やかな傷跡が散見される。
 リリの肌は女として誰かに見せられるほど美しいものではなかった。そして、その傷は彼女が歩んできた平坦ではない道を示している。

「私が遊牧民だった、っていうのは知ってる?」
「サルトから聞いた」
「そう。私は遊牧民、そして……、貴方と同じ奴隷だったのよ。戦争で親、資産、仲間、全てを失った戦争奴隷」
「えっ……」

 普段から笑ってばかりで、不幸とは無縁の綺麗な女性、パルシャは勝手にそう見ていた。自分との接点など一つたりとも存在しないと思っていた。けれど、そんな妄想から生まれた産物は、全て自己が作り出した幻影でしかない。

「領土争いに負けて、民族の大半を失い、私達は塵々に敗走したわ。生き残れた者は運の良かった少数のみでしょうね。故郷なんて言える場所も最初から無かったから、屋根のある場所での生活など夢のまた夢だったわ」

 生きる為に動物を狩る道具を作って手に取り、時には人から物を奪い取ってでも生きる。
 辛いことばかりなのにどうして生きようとするのか、分からないから自問するのはやめて思考を強制的に閉ざす。
 人間らしさなるものが逃亡生活の中にあったかと言われれば、それは否である。不必要なものは、路上に勝手に捨てられるのだ。

「幼い女、一人者の私が生きていく術など、結局一つしかなかった。こんな野蛮で規則から外れた生活を一生送るくらいなら、自分という存在を金に換えてしまったほうが手っ取り早い、ってね」

 パルシャにとって、嫌というほどに理解できる言葉だった。
 自分を養う事さえできなくなった人間は、誰かに値札を付けてもらう以外に生きる方法が無くなる。
 明日を生きる為に、奴隷商人の元に掛け込む孤児は少なくない。
 弓の使い手でもあったリリではあるが、女であり整った顔つきをしていた為、彼女が希望していたマムルークとしての仕官は叶わず、成り上がりの道は閉ざされる。
 それでも、彼女は安心したと言う。

「奴隷として買われ、娼婦として飼われ、飽きたら捨てられる。貴族の家を盥回しされる運命すら明るいものに見えていたわ。だってそうでしょ? 食べる事、寝る事、そして何より自分の命が買い手によって保障される。飼われていても、それは立派な人間だと思うわ。少なくとも自然の中で誰にも観測されず、狩った動物の血と肉を食らうだけの人間の形をした存在よりはね」

 商人に引き取られた子供達は大都市に連れて行かれ、市場で競売に掛けられる。マムルーク朝の大都市の殆どは奴隷取引を容認、どころか軍事力強化の為に推奨しており、人間一人に高額の金額が支払われる事も少なくなかった。
 しかし、それはマムルーク朝で兵士として功を立てて、国の中枢へ上り詰められる程に腕っ節に自信がある男の奴隷のみ。貴族はその奴隷を買い取って投資し、成り上がった奴隷兵士と共に国の中枢へと加わり、富を肥やす。
 よって、奴隷の競売は野心を隠さない貴族達のメッカであり、生半可な金では人一人買えずに、競りで人の命が高額で落とされる。この場所にいる事自体が金持ちである証拠だった。

「私は娼婦としての価値を問われ、競売に掛けられたわ。私の二倍以上に老いた悪徳貴族達が、自分を見て舌舐めずりをする。そんな下劣な光景にも娼婦になったらきっと慣れるんだろうなぁ、そんな冷たい俯瞰的な感覚で自分の価値を眺めていたわ」

 今までに落とされていった人間達と同じように徐々に価値は高められていく。
 自分がいくらで落とされるのか、先程売られた女よりも自分の価値は高いのだろうか、リリには下らない思惑以外に考える事が無かった。

「そんな時に、急に一人の男が競りの金額の桁を一つ上げ、会場に驚きの声が上がった。男は女の奴隷相場の倍以上の値を口にしたの。競りを進めていた司会さえも、言葉を聞き直していたわ。商人から奴隷の相場は聞かされていたから驚いたわ。正直にさ」

 会場の注目の中にいた男は、どよめきにもどこ吹く風、上が出ないのならばさっさとこの競りを終わらせろと、司会に注文をつけていた。
 当然、相場を遥かに超える値に手をつける貴族も無く、彼はリリを手に入れる事になる。

「結構若い男だったから、この人に巡り合った私って結構悪くないかも、なんて思っていた。でも、その思いは二重の意味で裏切られる。だって、私に与えられたのは娼婦なんていう奴隷従来の役割じゃなくて、人として選択できる自由だったんだもの」

 男は自分が行商であり、砂漠を越える事で多くの富を稼いできた事を語った。
 そして、今必要としている人材として、異国の土地で育ち、砂漠の土地に根付いた概念に捉われない人材を探している、とも言った。

「その男はサルト、と名乗ったわ。そして、できればカルヴァーンに同行して欲しいと」

 にわかには信じられなかったが、リリには相手に騙される理由が無かった。彼女は全てを失っており、投資して自分を買い上げた相手が嘘を付いてまでして得られるものなど、想像がつかない。
 そして彼の言う人材とやらが、自分のみが当て嵌まるとも思えなかった。別に他の奴隷でも良かったし、わざわざ奴隷を高額で買い上げる必要が無い。
 根拠の見えない不明瞭な行動をあえて追及しても、不利益以外に無かった。なのに、リリは気になった事を口にしていたのだ。彼女は白黒をはっきりとつけたいと思う性格だから、である。
 彼女は問う。何故、自分でなければいけなかったのか、と。

「『金で買えるなら安いものだと思った』だって。口説き文句としては0点。今思い返すと、キザったらしすぎてさ、ぶん殴ってやりたいわね」
「今度ぶん殴っておけばいいんじゃない?」
「うん、そうしよっか」

 減らず口だけは乗ってくるパルシャに、真面目な顔をしていたリリは思わず綻んでしまった。
 叱る為に話していた空気が台無しである。台無しにしたのはリリ当人であるが。

「その後はとんとん拍子、貴方と同じような道程で今の私がある。話さなくても想像はつくでしょ?」
「なんとなく」

 奴隷、そんな素振りはリリからは一度も感じられなかった。
 いつも笑っていて、明るく振る舞って、皆を元気にしている。パルシャは必然的に遠い人間だと思い込んでいた。
 しかし、リリは違った。表情すら消えていた幼い彼女の姿と過去の自分を相似させ、その度に心を痛めていた。そして、彼女が幸せになる事をいつしか願っていたのだ。今の自分が幸せであるように。
 そしてもう一人、同じような人間がカルヴァーンの中にいた。サルトである。

「サルトの昔については聞いたかな?」
「少しだけ」
「彼が本名じゃなくてサルトと名乗っているのには理由があるの。職業柄以外にもね」

 サルトという言葉は本来、商人またはカルヴァーンの隊長という意味を持っている。よってサルトという名は名義であり、彼にも本当の名があるという。
 その名前を本人は口にはしない。したくないのか、しないようにしているのか、それは誰も問いかけないから不明のまま。
 しかし、サルトが隊長ではなかった頃からカルヴァーンとして行商を続けている者は違う。彼がどうして名を名乗らないのか、解答の一つを持っている。そして、リリもその解答を知っていた。

「えっと……サルトには内緒ね」
「喋る相手もいないわ」
「クルディスタン、だったの」

 クルディスタン、タブリーズという土地で生活してきた故に、その言葉を消化する知識をパルシャは持っていた。
 クルド人は環境が厳しい山や貧困を極めた痩せた土地に住んでいる民族であり、タブリーズの街の中でも狭きに押し込められて苦しい生活を強いられていた。
 彼等の立場が弱いのは少数民族故である。人は多を力として、少を搾取、弾圧する。その一番分かりやすい例は民族による違いとなる。
 クルド人は農耕すら自給の手段になりえない土地しか持たず、豊かさを求めて街に出てきた者は数の力に屈して、除け者にされる。彼等が受けてきた不当な扱いは、同じく街の除け者だったパルシャでも知っていた。

「詳しくは分からないし、聞こうとも思わない。サルトが話したくなったら、聞けばいいと思っているから」
「過去になんて興味無い」
「そうね、知っても仕方が無い事だと思う」

 そんな劣った血族の烙印を押されたサルトが“サルト”になれたのは、本人の努力故であろう。レッテル故に人と同じ実力なら選ばれない、少し優れていても選ばれない、だから圧倒的な能力が必要であり、それを皆に見せつける必要があったのだ。
 そして、サルトは成し遂げた。故に隊長となった今がある。

「私は遊牧民、テュルク系の奴隷。彼はペルシャ人……ではなく、少数民族のクルド人。少数民族は数の暴力によって迫害されてきたから、きっと苦労してきたと思うわ。他にも色々な種族の者達が、訳や目的があってこのカルヴァーンに集まってきている」

 特別でもなく、不幸ではあったけれどそれは自分だけではない。
 傷を嘗め合う相手がこの場所にはいる。

「私だってきっと汚くて穢れているわ。でもさ、パルシャちゃんはそういう風に私を見ていた?」

 首を振る、それが自身が問い掛けた命題に対する解答になっていた。
 にっこりと笑いかけるリリの笑顔が少し眩しい。

「だったら、そういう事。貴方は綺麗よ」

 救われた気分にはどうしてもなれない。
 それは他者の芝が青く見えるのと同じだった。
 納得するか否か、それは自分の気持ちの問題でしかなく、解決しなくても前へと歩いていくしかない。
 そんなの最初から知っていた。動き出せないのは、彼女は嘘を付くのが下手糞だから。自分にも他人にも。だから、嫉妬を覚え、嫉妬する自分にも悪意を覚える。

「奴隷だった事実は私もパルシャちゃんも同じ、そして過去は絶対に変えられない。でも、たったそれだけの話。過去を変えようと無理するくらいなら、明日を私は見るわ。だって、奴隷だった過去を持つ自分やパルシャちゃんが自由を得られるくらいに、明日という未来は不可思議で美しいものなんですもの」

 日差しが見え始めた空を見上げるリリが嘘を付いているようには思えない。彼女もパルシャと同じで、嘘を付くのが下手であるから。
 ぽたりぽたりと雨水が垂れる洞窟の軒下に差し込む光、パルシャの心は晴れ渡ったのだろうか?
 リリは残念ながらそうは思っていないようである。

「納得は……していない、わよね。ごめんね、私さ、相手を納得させるとかの話は苦手だから」

 パルシャの口から言葉は出てこない。
 彼女に投げるべき気持ちを形にする事ができなかったからである。
 でも、今言葉にする必要性はないのかもしれない、そう思える自分がいるのも事実だった。
 今は誰かに追いかけられているわけではないから。

「雨、上がったわ。さあ、ちゃっちゃと見つけちゃいましょ」












 太陽が定位置に戻り、世界は明るさに包まれる。
 ごつごつした足場にも慣れ、雨で一度休んだ為に、先程とは違って足取りは軽い。
 水気を含んだ滑りやすい岩場をしっかりと登ると、大岩だらけであった視界が開け、清々しい新緑がパルシャの視界へと広がっていった。

「ふぅ、やっと着いたかぁ」

 崖となっている丘一面に広がり、水を浴びていつもよりも透明に輝く緑、その緑を餌にしているラバや野羊といった草食動物達が二人の訪問者を無視して食事を続けている。
 閉塞感ばかりの茶色い世界が嘘のようで、水色と緑が全てを塗り潰している。
 崖の先には石造りのダマスカスの都市が小さく見える。
 言葉が出ないままに止まっているパルシャの隣で、ニコニコとその顔を見ているリリ。そんな彼女の視界に目的の花が入った。

「沢山あるわ、ダマスクローズ」

 野原の端に位置取り、薄い赤の花弁を何重にも纏い、空に見せつけるが如く咲き誇る花がダマスクローズである。その花は高原の一部に陣取って群生していた。
 生える芝を踏みしめながら薔薇へと近付いていくと、動物達が距離を取り始める。人間が自分達にとって敵なのか味方なのかまだ判断が付いていないらしく、警戒を怠らないながらも食事もやめない。
 風を遮っていた大岩が無いので、時折強い風が吹きつける。その風は青い香りを二人へと運ぶのだ。
 パルシャはその香りを知っている。植物を弄っているリリと同じ香り。

「こうさ、綺麗な風景を見る事ができるとね、重労働が報われたって感じがするんだ。自然の美しい姿って、慣れないし、何度見てもいいから不思議」
「……なんか恥ずかしい台詞」
「……言っていて、私もそう思った」

 舌を出しておどけて見せるリリの姿はいつも通りに戻っている。
 そんな変わらないままにいられる相手を見て、パルシャはほんの少し、嫉妬を覚えるのだ。
 自分も変わりないままに、人から好かれるような姿と性格でいられたら、もっと自分に自信が持てていたのではないかと。
 無い物強請り、知っていても頭は想像をやめてはくれない。
 そして、結論はいつも溜息である。
 なんて、普段通りのサイクルを行っていると、リリの手の甲がパルシャの頭をこつんと叩いた。

「こぉら! また悲観的になったでしょ?」
「……分かるの?」
「分かるわ。だって、パルシャちゃんったら、急に盲目になったように視点が動かなくなるんだもの。そんな貴方には、これをプレゼント」

 目の前に差し出されたのは、ダマスクローズその物だった。
 考え事をしている間に、リリはきっちり作業をしていて、その一輪がパルシャの目の前にある。
 香料という単語がふと脳内に浮かんできたパルシャは、その一輪の花を顔へと近付けてみた。
 風が吹かなくても漂う香りは、間違いなく目の前にある花が持つものだ。

「良い香り」
「さあ、雨で足止めされた分、急がないと……」

 風下にある花畑、風上には草原、そして見慣れた大岩、変哲もない景色から異変を受け取る。大自然の中で生きてきたリリは視覚以外の感覚が、街で生きてきた人間よりも優れている。
 故に危機察知の能力は軒並みに高い。
 花を摘むその手は止まり、振り返る。何もいないが、彼女は狩猟者の視線を感じていた。
 不確定要素とは、突然に訪れるものだ。

「パルシャちゃん、私から離れないでね」
「えっ?」
「何かいる。多分あっちの岩陰」

 護身用兼狩猟用のクロスボウを取り出すと、彼女の表情から笑顔が消えていく。
 オアシスで一度だけ見た彼女のその表情と全く同じ、隠しきれない、隠す気すら無い鋭利な感情は、研磨された鏃を想起させる。
 その殺意に晒された狩猟者が姿を表す。人と違い感情の全く現れない目をしている雄の猪は、食料に困っていないのか肉の壁を何重にも装着し、二本の鋭い牙を相手に向け、ふてぶてしい態度でこちらをじっと見ている。

「ちっ、面倒ね。肉食じゃないだけマシだけど、快くは思われていないわね」

 舌打ちをして悪態をつきながらも、その標準は猪に合わせたまま。
 十分に距離は開いており、間違いなくリリは先制できるだろうが、もし一発で仕留められなかった場合、あの巨体から繰り出される体当たりを避ける必要が出てくる。避けられなければ、人間が地面に叩きつけられる音を最後に聞く事になるだけだ。

「食料自給以外の狩猟は嫌いなんだけど、まあやるしかなさそう、か」

 野獣へと武器を向ける肉食獣、そんな印象をパルシャは持ってしまう。
 殺意の違いがある。自分と対面し、こちらを眺めているモノは本当に自分達を襲おうとしているのだろうか?
 パルシャの中には答えがあった。だから、彼女はリリの言葉通りにはしなかった。

「ちょっと、待って」
「えっ、パルシャちゃん? ちょっと! 危な……」
「私は大丈夫」

 リリを遮るようにして立ったパルシャは、構えられていたクロスボウの上に手を置く。自然と標準も猪から外れ、地面へ。
 パルシャが何を行おうとしているのか、リリの脳は理解が追いつかない。その間にもパルシャの足は一歩ずつ一歩ずつ、正面から猪へと近付いていく。

「ただの怖がり、私と同じだから」

 リリには猪が怯儒しているようには見えていない。息は荒く、だらしなく涎を垂らし、前足を頻りに動かして地面を掻き、身体を生かした突進を行おうとしている、そう見えている。
 パルシャの認識は致命的に間違っている。だから止めなければ、取り返しのつかないことになる。
 唯一の違和感は、パルシャの足取りにある。彼女はゆっくりと進んでいるが、その一歩には迷いや雑念が全くない。平常心のままに進んでいく姿のせいで、どうしても再度ボウガンを構え直すことができない。
 パルシャは殺意に敏感である。それを小さな身にひたすらに浴びてきた、だから本物と偽物の殺意の区別がつくように自然となっていた。
 人間は本物で猪は偽物、それが彼女には分かるのだ。
 猪はじっと近づいてくる動物を見ている。敵か味方か、その区別が未だについていないために、威嚇したまま固まっている。
 既に牙の範囲内にパルシャは入っている。もし、猪の気まぐれで牙での突き上げでも行われたら、そのペルシアンドレスごと、パルシャの身体に二つの穴が空くことだろう。
 しかし、危機的なイメージはリリの頭にどうしても思い浮かばない。
 楽観的、そんな生易しい言葉で表してはいけない。それでも、リリはパルシャに何もしない、できないまま。
 そして、パルシャの手が猪の額に置かれる光景を目に入れる。
 興奮冷めぬ、とでも言うべきか、猪はまだ従来の温厚な気質を取り戻しているとはいえない。首を時折上下に動かし、荒い呼吸を繰り返している。

「うん、怖くないよ。怖くないから……」

 子供をあやすように目線を合わせ、通じるわけのない言語を口にする。
 合理的な行動ではない。少なくともリリからしてみれば、自然を侮った死にたがりの狂人の行為にしか見えていない。
 けれど、その行動が身を守るための一つの術になったりもする。
 せわしない動きは減り、下を向く。撫ぜられているのが気持ちいいのか、ずっと開いていた猪の目は閉じている。
 あっけにとられているのはリリである。クロスボウを持っている手にも力が入らず、構え直す事もできないまま、パルシャの倍ほどある猪が目を瞑っている姿をただ見ていた。

「ほら、わかってくれた。いい子」

 手を離してパルシャが背を向けると、猪は嘶いた後にのっそり歩きながら大きな岩場の陰へと行ってしまった。その様子を見た後に、パルシャは「ふう……」と大きく息を吐く。緊張の糸を解いたパルシャは、リリが知っているいつものパルシャである。
 駆けつけたリリを見るパルシャは、少し怒っているように見える。パルシャが何か言いたい事を抱えているのは、表情から明らかであった。
 対してリリは心配だったという気持ちのみが先行している。

「冷や汗掻いたわ。ほんと、無理しちゃ駄目よ」
「無理はしていない。無理に解決しようとしていたのはリリのほう」
「でも、ああでもしないと生き残れない。野生の動物はパルシャちゃんが思っている以上に獰猛なの。今回はたまたま……」
「偶然じゃない。私にはそうは見えなかったから、自分達が無害であると証明した。動物は……、人間とは違うから」

 先程まで命の危険すら覚える状況にいたというのに、穏やかな表情でリリへ反論するパルシャ。彼女の主張は行動として最初から一貫しているのだから、信じ難くても言っている事は事実だと考えるのが道理である。
 少なくともパルシャよりも倍以上の時間を森や草原で過ごしてきたリリにとって、自然の法則の一つが覆されるのは、驚き以外に他無かった。
 自分に見えているモノとパルシャが見ているモノ、それはきっと根本的な部分で異なっているのだと。

「リリの動物を見る目は肉食獣と同じ、彼等に優しくない」
「ずっとそうしてきたからねぇ。今更直せないなぁ」
「だから彼らはリリに怯え、命の危険を覚えた。そうなると敵意や殺意を剥き出しにするのは、生命として真っ当な行動」
「そうかもね。私も自然に優しく接した覚えはないから」

 リリの視線の先の岩場、そこに大きな猪の姿はない。草食に限りなく近い雑食性の猪は、大型の動物を餌として襲う事は滅多になく、襲うのには何か別の理由がある。リリは猪の習性を知っていてボウガンを構えたのだから、接する気が無かったと言って差し支えはないだろう。
 だからといって、自分がパルシャのように動物と接していけるとも思っていない。
 遊牧民であるリリには動物は狩るもの、それ以外には成り得ないのだ。
 岩場からパルシャへと視線を戻し、リリはいつものように微笑む。

「さあ、今度こそお仕事。急いで済ませましょ」









 成長した花を摘むのに時間はあまり掛からず、リリが持ってきた麻の袋の中身はみるみるうちにダマスクローズの香りで一杯になる。香料として使用するのならば、量もこれだけあれば十分である。
 リリの終了の合図でたった三十分程の作業は終わる。移動九割、実働一割という無駄が多い仕事であった。
 東の空が水色から青に、西の空が赤に染まりつつある。リリの足取りは行きよりは早い。
 傾斜がきつい岩場ではお互いに無言であったが、砂利道へと道が変わると、珍しくパルシャが先に話しかける。

「やっぱり私、何の役にも立っていない」
「パルシャちゃん?」
「今日、リリに連れられて香料を探して見つけたけど、これってリリ一人でもできるし、私のせいで時間がより掛かってしまった」

 少しずつ暗くなっていく空を見ながら話すパルシャの声は震え、今にも泣き出しそうな声だった。
 集団という多数の人間が共存していく中で、人は役割というものを求める。それは自分がこの集団の中にいてもいいと思える証であり、自分が集団にとって特別となる為の手段だ。
 リリは医学、特に植物系の薬学に通じている。それだけではなく、いつも明るく皆へと元気を配っている。それはカルヴァーンの一つの風景であり、彼女がカルヴァーンにとって特別である証である。
 そんな欲求を満たせる手段を、パルシャは所持していなかった。

「もしさ、サルトやリリが突然消えたとしたら、きっとカルヴァーンは今のカルヴァーンじゃなくなっちゃうと思う。でも、私が突然消えたとしても、カルヴァーンはそのまま。何も変わる事は無い」

 パルシャにとって、カルヴァーンの仲間は未だ遠い存在でしかない。
 そして、自分の居場所というものをまだ見つけられないまま。

「リリが薬師の役職に就いたのは偶然じゃない。その技能をリリ自身が持っていたから、特別になれる。私にはそんなものは……無いから、だから誰かにとって必要にはなれない」
「本当に無いのかな? 見つかっていないだけ、見つけ方が分からないだけじゃないかな?」
「分からない。何も持っていないから何も見えない。私はきっと、何も見えていないんだよ。今も、きっとこれからも」

 パルシャの否定的な言葉に首をゆっくりと首を振るリリ。
 それは違うよ、と優しく諭すような彼女の顔は、パルシャの見えない場所を見ているようだった。

「何も見えずに、恐怖や焦りのままに闇雲に走ってしまう気持ちは分かるわ。でも、それが有効的でない事は、きっと走っている本人が一番良く分かっている」
「だったらどうしたら」
「それは探すものじゃないの、探してもらう事。自分で見つけるのは難しいから」
「違う。リリは技能を“持っていた”し、“自分が持っている事を知っていた”。私には何も無い。だから捨てられても何も文句を言えない。無能な者は、例え運命が非情であっても、ただ我慢するしかない」
「パルシャちゃんの言っている事は分かるけど、居場所にいる為の条件が技能とか、特別な何かだと思う? 私はそうは思わないなぁ」

 焦って早口で捲し立てるパルシャに対して、リリは敢えてゆっくり諭すように話す。
 相手の言い分を聞きつつも、それが間違いであると教える事。彼女なりのパルシャとの対話方法である。

「パルシャちゃんの理論を使わせてもらうね。例えばだけど、私よりも優れた薬師の人がカルヴァーンに入って来たとしたら、私はサルトに用無しって言われると思う? サルトがそんな事言う人間だとは私は思わないかな」

 リリの言うとおりだとパルシャも思う。
 サルトという過度のお人好しが、人が不条理に不幸になる選択肢を与えるわけがない。
 だから、そうなってもリリには新しい役割が与えられる筈だと。

「サルトは誰かがカルヴァーンに使えるとか使えないとか、これくらい貢献しているとか、そんな打算的な考え方を仲間には適用していないと思う。だってさ、素性も分からない私やパルシャちゃんを引き込むのって、そもそも効率がいいやり方ではないわ」

 そこまで分かっているのに、いざ自分と置き換えてみると、同じ答えにならないのだ。
 それは、パルシャが潜在的に持っていて、パルシャを否定してきた周りの人間に丹念に育てられた劣等感故、長年受け続けてきた仕打ちは、遠い場所に来て尚、彼女の精神に深い傷を残している。

「アレは気分屋、私やパルシャちゃんをこの場所に置いているのも、ただそうしたほうがいいとか、そんな簡単な感情に従っただけ。深く考えても仕方ない、だってそもそもサルト自身が深く考えていないんだもの」

 考えても仕方ない、そう割り切れたらどれほど楽だろうか?
 人は考えて仕方がないような事ばかりを常日頃から考えているものだ。

「でも、それは私が役に立っているか否かの回答にはならない」
「私は知っているわよ、パルシャちゃんの良い所も悪い所も。今日だって一緒に仕事して、パルシャちゃんの事、色々新しく知ったわ。言って欲しい?」
「……遠慮しとく」
「素直じゃないのは悪い所」

 笑いながら切り返してくるリリの顔を見ていると、頭を回す気分ではなくなってくる。
 そして、そんなメリハリのつけられる行き方ができる彼女を、パルシャは羨ましく思うのだ。
 自分に自信が持てない事、それこそが不幸の一因なのである。

「ちょっとは気分が晴れた? まあ、晴れないよね……」
「でも、なんか諦められそうな気がしてきた」
「それ、私が納得いかなくなるから。やっぱり、自分の近くにいる誰かが罵られたり否定されるのは嫌だな。たとえ否定しているのが本人だとしてもさ」

 パルシャはその言葉に対して返事をしない。
 そして会話は自然と無くなり、足取りが速くなる。
 自分自身を枷と思う彼女の苦悩は、暫く続きそうである。

















「あちゃー、やっぱり夜になっちゃったかぁ」

 岩山からの下山、空は藍色に包まれ、疎らに白い光が散りばめられている。
 高い場所から帰ってきたというのに、温度は変わらずに肌寒さを感じるほど。
 高低差の少ない砂漠故に、遠くにダマスカスの街の明かりが見えている。
 迷うことはないだろうが、砂を縫いつけた冷たい風は、山を上り下りして消費した体力と、身体を維持する為の体温を容赦無く奪うだろう。
 土とは違う柔らかく少し沈む足場は、普通の地面よりも多くの体力を消耗することになるだろう。
 リリの溜息は止まらない。ついても仕方がないと知っていても、である。

「ごめんね」
「気にしていない」
「本当に」
「気にしていない」
「パルシャちゃんは気にしていないんだろうけど、私は気にするわ。はぁ……」

 ただでさえ重い足取りを、今の気分が更に重くしていく。
 顔には疲れを出していないが、パルシャの疲労の度合いをリリは足取りで把握している。下山時に歩く速度が遅くなっているのが、疲労の何よりの証拠である。
 強行で街まで帰るべきか、一旦野営できる場所を探し、日が上がるまで待つべきか。
 街の外まで治安は維持できていないのか、夜にはならず者が街付近で巣を張っているという噂をリリは耳にした事がある。もしそんな奴に出会えば、再び自由を無くすかもしれない。
 今は自分だけではない。たとえ疲れていても、一番安全な策を取るべきだ。
 リリの中で答えが決まったその時に、砂漠に駱駝を引き連れる人影があることに気がついた。

「パルシャちゃん、こっち。誰かいる!」

 即岩場に隠れ相手の様子を探ってみると、どうやら野党ではないのか、時折声を上げながら周りを見渡している。まるで誰かを探しているようだ。
 自身が乗る駱駝と、乗り手がいない駱駝二体。荷物を運んでいるようにも見えない。
 そして、どんどんこちらの方へと近付いてくる。
 身を潜ませたままの二人にも、その声が入ってくる。

「リリ様ー、パルシャ様ー、いらっしゃいますかい? ナスリーンの姉さんに頼まれ、迎えに参上したのですがー! おっかしいなぁ、山までは直進の一本道な筈なのにな」

 正確にその声を聞き取った二人は顔を見合わせる。
 自分達の名、そして雑貨商の店主の名が出た以上、相手が悪意を持っているとは思えない。
 そして、悪意ある者はこんな目立つ仕草や、無意味な駱駝を連れたりはしない。
 岩場から先に出たのはリリ、続いて彼女の影に隠れるようにパルシャも出てくる。
 男も影から現れた人の姿に、多少驚いたようだ。

「もしかして警戒されてやしたか?」
「まあ一応ね。砂漠は治安の良い場所ではないし」
「ですな」

 がはは、と豪快に笑う大男は口髭を生やした気さくな商人といった印象である。
 そんな男が何故街の外である辺鄙な山の麓に来たのか? ナスリーンの名が彼の口から出ていた故に、理由はある程度まで想定できる。

「いや、ナスリーンの姉さんが、“客人にダマスクローズの採取を依頼したのだが、今日は山の天気が悪くなる事を言い忘れた。すまないが迎えを頼めないか”と頼まれやして。うちの近くの水脈を見つけてくれた恩人、姉さんに言われちまったら断ることはできねぇし、頭も上がらねぇ」
「私も頭が上がらなくなるかも……」
「あのひとが誰かを目に掛ける事自体が珍しい。きっとナスリーン姉さんの眼には、お二人の特別な何かが見えているに違いねぇ」

 自分ではそんな特別と思えるようなものは感じない二人、リリは苦笑いを浮かべ、パルシャは反応なし。
 駱駝から降りた男は、自分が乗っていた駱駝と同じ大きさの駱駝を二頭の手綱を持った。

「その駱駝って」
「あっしは駱駝の運送業を営んでましてな。あっしの駱駝は丈夫ですぜ、血の気が強いのが玉に瑕ですがね」
「えっと、料金は……」
「本日は姉さんの依頼という事で無料。感謝するなら姉さんにしてくだせぇ」
「……なんか申し訳ないなぁ」

 といっても、二人は登山と下山を同日付にこなしていて、足も上手くは動かない。
 ナスリーンの優しさを素直に受け入れるのが、二人にとっても最善であった。
 自分の駱駝の二倍程度の大きさの駱駝の上へパルシャが乗ると、駱駝はゆっくりと立ち上がった。
 いつもよりも視界は高く、地面が遠い。一段上に上がっただけで、見える景色は変わるものだ。

「お二人とも流石は砂漠の商人。駱駝の扱いには慣れていますなぁ」
「だってさ、パルシャちゃん」

 褒め言葉を受け取らずにパルシャは駱駝を歩かせて、帰路を進み始める。
 二人もその後ろに続く。パルシャにとって煩わしいニコニコ顔のリリは、懲りることなく彼女の隣へと寄せている。

「ナスリーンちゃんは預言者か何かなのかしら?」
「さあね、良く知らないし」

 疲れているフリを見せながら、パルシャは話を終わらせようとする。
 確かに駱駝がここまで来たことは、彼女にとってありがたい出来事であったが、お礼は着いた後にでも言えばいいし、無駄口を叩くと余計に疲れる。
 それでも、リリの言葉を完全に遮断できないから、よく不意を打たれたりする。

「まあ、パルシャちゃんも負けてないけど」
「えっ?」
「今日の天気の話。未来を知っていたでしょ?」
「……別にそれは」
「私にとっては十分不思議だし、預言に見えたわ。それに、動物の事もね」

 誰かを褒める時、リリは本当に楽しそうな顔をする。まるで自分が褒められているかのような笑顔は、彼女の機嫌そのものを表しているのだ。
 誰かが嬉しいから自分も嬉しい。誰かが褒められたからやっぱり嬉しい。
 リリの考え方は真似できるものではない、パルシャは改めて知るのだ。

「私だけ除け者にされた気分、悔しいなぁ」

 楽しそうな感情しか伝わらない悔しいという言葉、普通ならばお世辞にでも聞こえるのだろうが、発言者はリリ。だから本音である。

「私に分からなくて貴方には分かる。それはきっと、パルシャちゃんの言っていた特別だと思うわ」
「その話はもういい」
「うん……そうだね、分かった」

 風が止んだ夜の砂漠、砂だけの暗い世界を僅かに照らす月と星。ダマスカスの街の明かりは砂漠を歩く者達に帰路を示している。
 会話は消え、足が砂に埋もれる音だけが断続的に耳へと入る。
 生命に優しい砂漠の姿、疲れ切っていたパルシャの瞳も機能を十分に果たしていない。
 余計な思考さえ頭に浮かばず、目を閉じると闇が誘う。
 今日はゆっくり眠れるだろう、そんなことばかり思う。




















 翌日、ダマスカス市街雑貨商にて。

「これくらいで十分かな?」
「十分すぎる。大切な生息地を一つ無くしたわけではないだろうな?」
「薬師は自然を大切にしますわ」

 袋一杯に詰められたダマスクローズの香りが部屋へと広がる中、リリはナスリーンと詰めの交渉を行っていた。引き続きパルシャはリリに帯同中である。
 目的の香料を手に入れ、任務は果たした。あとはいくらで換金するかだ。

「遠出をしてもらい、夜になるまで作業をしてもらったとなると、まあそれなりに誠意を見せなければならないだろう」
「駱駝の件は助かったよ。正直こっちはヘトヘトだったし」
「無理な時間に無理な依頼をしたと自覚もあった、だから補助したまで。君が気にする事もない」

 相も変わらずのぶっきらぼうな言い方で対応する雑貨商の店主であるが、言動には本質は現れない。本質を表すものは常に行動である。彼女が二人を気にかけているのは、昨日の行動から明らかだった。そして、今差し出された金額が裏付けとなる。
 積まれた硬貨は昨日、リリが薬と交換した時と同程度、一日の仕事としては破格である。
 相場をまだ把握していないパルシャが見ても、理解はできないだろうが。

「うわぁ、ナスリーンちゃん太っ腹」
「いや、これでもこちらとしては十分に儲けが期待できる」
「ちょっと遠出すれば手に入る割には割高ね」
「そのちょっとの苦労をしようとしない人間がいるから、雑貨商という仕事があり、君ら砂漠の商人の仕事があるというものだ」
「あはは、そうかも」

 予定以上の成果を上げて、彼女との交渉は終了。サライに帰って戦果を自慢しつつ、稼いだお金で美味しい料理を頬張る。そんな未来を描いていたリリを余所に、ナスリーンは忘れていた何かを思い出すような声で、二人を呼び止めた。

「ああ、そうだ」

 その際に彼女が見ていたのはリリではない、パルシャだ。
 しかし、パルシャ本人は気が付いていても、気には留めなかった。心当たりが無かった故に、気のせいという結論しか導けなかったからである。
 目線の意義を見抜けていないパルシャを確認し、悪巧みを隠さずに笑った後、ナスリーンは雑貨商の仕事とは全く関係の無い提案を行った。
 ちなみに店は目下営業中である。

「少しゲームをしていかないか? その賭け金を使って」
「あら、珍しい。ナスリーンちゃんが不真面目な姿、初めて見るかも」
「私はいつだって不真面目さ。ここで店を開いているのも、本来の目的からは程遠い。私が不真面目故だ」
「それじゃあ、ナスリーンちゃんの不真面目さに感謝しないと」

 真意を測りかねるリリは言葉では乗っているものの、警戒心を保っていた。金と金という不確かな関係で繋がっている以上、その関係を断ち切る起因も金となることは多い。上手い儲け話に乗せられてカルヴァーンを去った者も多く、その後彼らがどうなっていったのかは、殆ど耳にしない。
 信頼できる商談相手であるナスリーンという理想像に、少しの罅が入ったのだ。
 だが、それは致命的ではないし、リリの目が起こしている錯覚なだけかもしれない。
 真意が見えない。相手の利が見えにくい。だからこそ、商人は疑うのだ。

「ナスリーンちゃんにしては回りくどいと思うんだけど」
「少し気になったことがあってね」
「気になったなら、疑問をはっきり言えばいいんじゃない?」
「口にしない事に意味があると考えてもらえると嬉しいんだが」

 歯切れがあまり良くないナスリーンの言葉が続いたので、平行線を嫌ったリリは言葉を慎む。
 今、自分が話した所で事が変わるとも思えない。今は注意深く静観しておくべきだろう、笑顔は消えていないが、その目線は確かにナスリーンに強く刺さっている。
 それを全く気にせずにゲームの概要を説明し始める彼女も、誰かとの騙し合いには慣れているようである。まあ、相手の感情に左右されずに仕事をこなすのは、商人の嗜みのようなものであるが。

「ルールは簡単。コイン当てゲームだ。左手と右手、どちらの手にこの銀貨があるのか、当てるだけ」

 茶色の袋から取り出しされ、ナスリーンの掌の上に載っているコインは、ダマスカスで扱われているごく普通の銀貨である。少なくとも外見を見ても、何か奇妙な点があるとは思えない。表面には髭の男の顔、裏面には葉っぱが彫刻されている。

「勝てば特別な商品を渡そう。上手く捌けば先程の額の二倍程度で売れるだろう。負ければ、先程の報酬の二割を返して貰う。悪い賭けだとは思わないが」
「それって、ナスリーンちゃんが勝つ自信があるから吹っかけてきているんでしょ? 最終的に全て毟り取られちゃう気がするんだけど」
「そう思うなら降りればいい。無理強いはしない」

 机の上で弾いたコインがクルクルと回っている。物欲しそうに走り回ったコインは、人の顔の面を表に倒れ込んだ。

「例えばなんだけど、その二割が一割に……」
「一割で乗ってくれるなら、了承しよう」
「本当にお金が絡んでいないみたいね」
「要はこのゲームを真面目にやってもらいたいだけさ。損得が発生しないと、人は物事を適当に行うだろう? だから、賭け金を設けて真剣さを取り入れただけさ」

 あまり乗り気でもなかったリリも、いつもとは違う積極的な発言を繰り返すナスリーンに押し込まれ、首を縦にしか振る事ができなかった。

「よくわからないけど、やってみる」
「気が乗らない所に悪い事をした。景品は弾むとしよう」

 手慣れた動作で左右にコインを動かし、ウォームアップ。自在に指先でコインを動かせるあたり、彼女は奇術にも知があるようである。
 コインを右親指の上に止め、準備は完了。
 ピィン、と弾かれたコインは高度を上げるごとに減速し、空中で止まったかと思うと高度を下げながら加速して落ちてくる。ナスリーンはそのコインを胸付近で両手で掴んだように見せ、そして拳を作った手を前へと出す。

「さあ、どっち?」

 早い動きではあったが、目でコインを追っていれば分からないほどの動きではなかった。
 リリにしても、彼女が右手でコインを掴んだように見えていた。だからといって、「現在」右手にコインがあるのかは分からない。
 人間、自信が無ければ誰かに聞く。

「右に見えたけど……、相手はナスリーンちゃんだからなぁ」
「どういう意味か聞いていいかい?」
「一筋縄ではいかないな、ってこと。良い意味として捉えていいと思うよ。パルシャちゃんはどう?」
「右と思うなら右でいいんじゃない?」
「ううっ、冷たいなぁ」

 特に視線のやり場が無かったパルシャなので、彼女もきっちりとナスリーンの事を見ていた。
 しかし、彼女はコインがどちらに入っているのかは分からなかった。何故なら、彼女はナスリーンという相手を信用していなかったから。
 だから、彼女は弾かれたコインを見ていなかった。

「じゃあ、右でいい?」

 パルシャは不満げながらも頷く。
 不敵な笑みを浮かべているナスリーンの右手、空けられた手の上には確かに先程見た銀の硬貨が乗っていた。
 喜びを隠さないリリへと祝福の言葉が舞い降りる。

「流石、正解だ」
「やったよパルシャちゃん!」
「…………」

 パルシャはまだナスリーンを見たままだ。その視線の先はずっと同じ。
 確かに右手は開かれて、その手の中には銀貨があった。しかし、パルシャにとってそれが正解であるとは思えなかった。
 そもそも、最初からゲームにすらなっていない。負ける気がない、勝敗が無い時点でゲームと呼ぶべきではない。
 気持ち悪い感覚に耐えかねて、ぼそりとパルシャは呟く。

「その左手、見せて欲しいんだけど」

 ナスリーンの左手はずっと閉じたままだ。まるで大切な何かを今でも包み込んでいるかのように、五本の指で閉じられている。
 リリには未だ真意が伝わっていない。左手に一応目線を向けているものの、何も分かっていない様子。しかし、その言葉を聞いたナスリーンは別で、彼女の疑問は確信へと変わっていた。
 先に開いたのは手ではなく、上機嫌さを隠さないその口だった。

「くっくっく! やはり君の目はどうやら特殊、いや……濁りが無いようだね」

 右手と同じようにゆっくりと開いた左手、その手にも同じ銀貨が入っていた。それは両手共に当たりである事を意味している。
 表情一つ変えないパルシャに、更に疑問が深まったリリ。彼女に至っては、説明を求める言葉が自然と出てくる。

「えっ、どういうこと?」
「だから言っただろ? 気になる事があったから試したと。まあ試された当人は不愉快極まりないみたいだけどね、くっくっく!」

 リリにとって言葉不足である。
 そして、ナスリーンは種と仕掛けを口にする気もないようだ。
 懇願する目線を向けられたパルシャは仕方なく、自分が見たままの光景を口にした。

「コインを投げた時、既に左手には同じコインが入っていた。しかも、わざとこっちに見せびらかすように手を開けていた。だから、右手にもコインが入っていた時点で茶番」
「私、全然気がつかなかったよ。ずっと、コインを見ていたし」
「そう、彼女には一般の常識が通用しない。見ている部分が他者とは違うのさ、だから本質に気が付く事があるし、自分だけが何も見えない時もある。そして、見てはいけない部分を見てしまう事もあるだろう。だからまだ汚れていないし、だからこそ人よりも歪んでしまう可能性もある」

 まるで歪んだモノを何度も見てきたかのような言い分。ナスリーンは歳不相応な遠い目をしたまま、自分を正すかのように呟いた。
 でも、パルシャからすれば余計なお世話にしか聞こえない。
 自分は特別でもなければ、澄んでもいない。今までの汚れきった人生が自分を物語っている。
 不幸しか呼ばない特別など要らない。何度も捨てたいと思っていたけれど、捨てられないものだと諦めたのだ。
 だから、自分を、過去を思い返したりもしない。
 勝手な言い分を並べられても、生まれるのは妬ましさだけ。

「こちら側に世界を覗き込まずに、人生を歩むことだ」
「どいつもこいつも、知ったような口を。前の街でも言われたわ」
「くっくっく! 私も昔は色々していたが……、それでも君みたいな恐ろしい程に澄んだ緑眼は見た事が無いよ。だから不安に思うのさ、私が見てきた人間の世界は、お世辞でも美しいだなんて言えないからね」

 ああ、あんたのような胡散臭い奴が蔓延る世界は確かに美しくはない。そんな喧嘩言葉をパルシャは飲み込む。
 文句を口にしても、それを餌にして楽しむような者。だから、黙っているのが一番良いと判断した。そして、無言でいるのはパルシャの得意分野だった。
 パルシャが意志疎通を断絶すれば、話は当然元に戻る。なにはともあれ、二人は賭けに勝ったのだから。

「さて、人生の勝利者には相応の商品が必要だな」

 大きめの木の引き戸に両手を入れて取り出したのは、灰色の中に光沢を持った銀色が散りばめられている石だった。キラキラと光ってはいるが、その輝き方は地味であり、そこらへんの石を探せば拾ってこれそうなものである。
 その机の上に置かれた石を興味深く観察しているのはリリである。石を見た瞬間に少し反応してみせた彼女は、近くで見ることで確信を持って言葉にした。

「これってもしかして、ダマスカス鋼の原石、だよね? 本当に貰っていいのかしら?」
「遠慮しなくていい。単なる景品だ」
「滅茶苦茶高い、というか、今までの仕事って何だったのって感じなんですけど」
「なら、今までの仕事を含めての評価としておこう。それでいいだろう?」

 貰えるものは貰っておきますけど、とリリはまんざらでもない様子である。
 対してパルシャには、その物の価値を見出す指標が無かった。だから、口出しはできない。
 ダマスカス鋼は強靭な硬度を持つ鋼材であり、扱い方は砂漠の鍛冶屋の中で内密にされている。腕に覚えのある鍛冶屋がこの鉱石を精錬すると、美しい木目状の模様が浮かび上がるのだ。
 鉱物の用途は様々ではあるが、主に武器として重宝される。この特異な紋章と段違いの強度により、ダマスカス鋼は鍛冶屋だけでなく、金持ち、国の統治者にも広く名を轟かせているのだ。
 物珍しいダマスカス鋼を眺めていると、店主がカルヴァーンの次の目的地を告げる。

「次は小都市やバグダードに寄りながら、タブリーズと目指すのだろう?」

 タブリーズ。
 思わぬ名をパルシャは耳にする。
 忘れもしない。彼女を見捨て、彼女の存在を追放した街の名だ。
 胸糞の悪い連中達が未だ呼吸をしていると思うと、吐き気すら覚える。

「多分そうなると思う」
「なら、高価で売れる筈だ。特にタブリーズでは鉱物の物価が大きく上がっていると聞くからな。質の高い鉄鋼なら、ここの倍以上でも買い手がつくだろう」
「鉱物が高いってさ、つまり」
「ああそうだ。戦が近いからだろう」

 武器の需要が増えれば、当然その素材の価値も上がるものだ。
 しかしながら、戦が近々起こると知っていてその場へと留まるのは愚か者か、死にたがりだけである。
 加えて、攻め込んでくる相手が最悪であった。

「ティムール王朝の事は流石に知っているだろう? 馬に跨る大陸屈指の軍事国家さ」
「知っているわ。遊牧民族の中でも特異な存在、そして破壊的な連中」
「タブリーズを支配下に置くジャライル朝は数ヶ月前にトクタミシュの襲撃を受けて惨敗、タブリーズも略奪の被害にあっている。都市は現在再建中で軍の士気も低く、その上に大陸最強のティムールが来襲するとの噂だ。高地という地の利も、現状ではほとんど機能しないだろう。治安も低下しているだろうし、安心して長居できる場所では決してない。軍用需要を利用するのも結構だが、身の危険を感じたらさっさと去ることだな。人間、命あっての商売だ」

 命が無ければ商売はできない、その通りだ。パルシャは自分を売ろうとした者の末路を自身の目で見ていたから、教訓として身体へと染み付いているのだ。
 故郷が滅亡の危機に貧している事など、彼女には毛頭の興味もない、むしろ街に滞在する時間が短くなり、加えて存在するに足らない街が滅亡するかもしれない。気分が晴れる気すら覚える。

「正直やめておけ、と言いたいところだが、君達カルヴァーンの危機管理の基準は砂漠の旅を通して狂ってしまっている。顧客でもある一個人の意見など通らないだろうが、小耳にくらいは挟んでおいて欲しい」
「ナスリーンちゃんが私達の心配をしてくれるとは」
「ダマスカスの市場に弊害を出さないための忠告だよ。客が減って困るのはお互い様」

 心配の言葉を紡ぐ中でも舌鋒の鋭さが落ちないナスリーンに、リリも流石に苦笑いである。彼女らしくもある皮肉の効いた警告である。
 しかし、その警告は持っている情報の少ないパルシャはともかくとして、リリを含む商人達にとって、有用且つ重要な情報であった。その街を獲物としている相手は獰猛な遊牧民族、一瞬でも逃げ遅れれば背中を弓で射られることになるだろう。
 加えて目下大陸に覇を轟かせているティムールとなれば、人どころか残骸すら残らないかもしれない。
 そんな死地に仕事とはいえ好んで行こうとしているのだ。ナスリーンが呆れるのも仕方がない。

「さて、こちらも本来の仕事に戻るとしよう。用は互いに済んでいる、無駄に時を過ごせば富を得る好機を失うものだ」
「うん、そだね」
「“次”の商談もよろしく頼む」
「寄ったら必ず顔出すから」

 商人など取引が終われば基本は商売敵である。地に足をつけていない故に、現地の商人から敵視されないカルヴァーンは、やはり特殊な存在なのである。
 思わぬ報酬を得てご機嫌なリリと、先程から表情を変えずに二人を観察していたパルシャ、二人が出口の扉を開いた時、言い残した言葉を飲み込まずに、ナスリーンはただ口にしていた。

「その緑、これ以上濃くするな」

 自分が話しかけられていると知り、思わずパルシャは振り向いてしまう。
 見られるのに慣れたふりをし続けていた。向けられる目はいつも悪意と嫌悪に満ちていた、今だって人とすれ違う度にそんな目で見られている感覚がパルシャの中に生まれては消える。
 ナスリーンの目は悪意や嫌悪感を含んではいなかった。なのに、その目を見ているだけでパルシャのほうが先に嫌悪感を覚えていた。
 パルシャには自己から生まれた感情の理由、そして忠告の意味が分からなかった。





 報酬を得た為にまるで仕事が終わったかのような気分に晒されるが、残念ながら今日という日は始まったばかりである。昨日は相応に頑張りを見せた、その報酬を今日貰っただけである。
 雑踏の中、下を向いて歩く人々は他者に全く興味を持たず、ただ地面を叩く足音だけが道を支配している。だからニコニコと大股で歩くリリは、パルシャからすれば目立っていた。他者は地面を見ているからそうは思っていないだろうが。
 自身はいつも興味の対象、畏怖の権限として人の目に晒されていた。見るなと言えるだけの勇気も気力もなく、殺意と悪意、時折凶器が飛んできても、パルシャは世界に唾を吐きながら逃げ続けた。
 ダマスカスの人間は過去に観てきた人間とは違う。他者を見る余裕さえ無いのか、単純に無意味なものと判断しているのか、気にしない。建物の外ならば尚更だ。
 外見に大きな劣等感を抱えているパルシャにとっては、視線を気にしなくてもいい過ごしやすい環境。
 でも、どこか悲しいと感じてしまう。
 それは、パルシャの確かな変化であった。齎したのはカルヴァーンの人々、サルトとリリだろう。
 声のない環境に飽きている? そんな思いを汲み取るかのように、リリは呟く。パルシャの顔を見ていないから、それは独り言に近い。けれど、確かにパルシャに聞こえるほどの声量だった。

「私、サルトの事が好きよ。ずっと一緒にいたいと思ってる」
「……えっ?」

 意味は理解できていたのに、彼女の口は疑問符を返していた。
 何故、こんな場所で、加えて私にそれを言う必要があるのか?
 問いかけたい相手が目の前にいる。けれど、先に自身の脳が回答を出してしまった。
 彼女の言葉でやっと気がついたのだ。
 自分が彼女にとって一人の女として見られていること、そして心の奥底に彼女がパルシャを敵視するべき理由があるということに。
 気に入らない人間だった。拒絶の意思を見せているのに優しい言葉を掛け続け、ひねくれた返答をも自分を理解してくれたかのような言葉で包み込む。
 全てが嘘みたいで見ていて嫌。腹が立つんだ。
 違う、そんなのは嘘っぱち。
 素直という行為すら忘れてしまった自分、比較から生まれる愚かな自分と愚かな思い。
 自身の緑が深く濁る感覚をパルシャは覚える。邪眼を持つ存在はこうやって歪んで、怪物へと近づいていくんだ。
 パルシャは今までの何よりも醜く歪んだ嫉妬心を持っている事に気が付いたのだった。



























<ⅵ> 忌むべき故郷タブリーズ

 タブリーズ。
 パルシャが生まれた場所、そして大切なものを失った場所。
 故郷なんかに戻りたくは無かった。その場所には拾うべきものなど何も残っていない、パルシャは知っていたから。自分の足で歩き始めたから尚更に。
 けれど、運命というものは苛立たしく、不愉快ばかりを誘い込む。
 だから、皆が不条理を邪眼へと押し付けるのだ。
 ならば、邪眼そのものと称されるパルシャは一体どうすればいいというのか。
 妬む相手すら分からないまま、彼女は実体のない何かを心の奥底で妬んでいる。























『孤独――訪ねるには良い場所であるが、滞在するのには寂しい場所である』
                         ヘンリー・ショー





















 他国の掠奪にあった為か、タブリーズという都市はパルシャの記憶の中にある故郷とは異なる印象だった。
 偉そうに歩く役員共、鼻につく豪商、強い者に靡く市民、田舎にこき下ろす割に何の取り柄もない弱小国家の二流都市、それが砂漠を渡り歩いてきたパルシャが結論付けたタブリーズという都市であった。
 しかし、そんな人間達はどこかへと消え失せ、街の建物も廃墟が目立ち、ダマスカスとは異なり、何かに怯えるように挙動不審で視線が定まらない市民達が時折歩いている。
 地面に座っている者は家を失ってしまったのか、通りかかる人間に対して物乞いを行っている。街の様子を眺めれば、彼の行為が無意味に終わっているのは言うまでもないだろう。
 そんな物乞いの顔色は突如青ざめ、逃げ出す。視線の先には彼と同じような境遇の男、その者を囲う人間達は武装していた。腕を引っ張られて、引き摺られ、悲鳴を上げる男、その真意は耳を澄ませば理解できる。

「常備軍の人材、足りていないんだってよ」
「トクタミシュとの交戦で遊軍どころか衛士さえも多く失ったらしい」
「身元の分からない奴は強制士官で国の使い捨ての駒か」
「使い捨てにすらなるとも思えねぇよ。そもそも使えねぇんだから」

 鎧を着込んだ男が雑踏に紛れる不快な囁きを察知し睨みつけると、人々は再び静まり返った。
 寂れている、そんな一言で表せるわけもない。この街は異常だ、今までに幾多の街を渡り歩いてきたから、パルシャにもその異常さが伝わった。
 見かけだけは街の形式を辛うじて保ってはいるが、秩序も法も無い。それどころか、生活や慣習すら見られない。人が生きていくための形だけは備わっているように見えるが、中身が全く伴わない空っぽの都市と化していた。
 こんな場所で商売など成立するのだろうか? 不愉快に不安が合わさり、パルシャはいつもより不機嫌三割増しといったところだ。

「そんなに嫌か?」

 察したつもりで声を掛けてくるサルトではあるが、今のパルシャにとっては大概の言葉が火に油である。

「別に関係ない。こんな廃れた場所にいる意味がないと思っただけ」
「まあ、そうかもな。貨幣価値というのは信頼と安定あって、本来の意味が生まれるものだ。今のこの場所にそれを要求するのは少々辛いものがあるな。ほんの前は交易都市として栄えてはいたんだが」
「なら、長居する必要は……」
「まあそう言うな。それでも商売相手はいるし、顔見知りの商人仲間を持っている奴もいる。事態が代わりでもしない限りは、早々に出ることもない。残念ながら、な」

 過去の固執に囚われるのは無駄、忘れるべき、そう思っているというのに、パルシャはどうしても意識してしまう。嫌な記憶は脳へとこべり付いて消えず、事ある度に想起を繰り返す。パルシャにしてみれば緑の眼と同じく不必要な部位でしかなかった。






 目的地に着き、荷物を置く仲間の姿もどこか重々しい。いつもなら商売やら娯楽やらを求めて皆が散会していくのだが、今日に限って言えばサライに入ってからどっしりと腰を下ろしたまま動かない。
 ここに着くまでに街の様子を見てきている。その結論が今の行動に現れているのだろう。こんな街に留まること自体が無駄でしかないと思っているパルシャではあるが、そこに自分の私的な要望が織り込まれていると思うと、自己に対する嫌気しか覚えなかった。
 タブリーズに入ってから雑念が酷い。何もしないでいれば、脳が働け働けと不快な光景を勝手に思い浮かべていくのだ。必要ない過去を思い返しては溜息を吐く自分にさえ飽き飽きする。
 そんな重苦しい空気の中でも、いつもの調子を続けているのはリリであった。欠伸を噛み殺して、麻の袋を片手に立ち上がる。あの“戦利品”も袋の中に入っているのだろう。

「リリちゃんは仕事熱心だねぇ」
「まあここでボーっとしているよりは、外に出たほうがいいだろうし」
「街がアレじゃあ、ここにいたほうが疲れないかもしれないぜ」
「外出てある程度時間が経てば分かるよ、そんな事はさ」

 茶化す仲間の声も一蹴して、リリはサライの出口から出て行ってしまった。
 声を掛けて一緒に連れてってもらうべきだったのかもしれない。受動的なままの態度を悔やんだところで、結果は変わらない。
 けれど、現状打破の切っ掛けだけは与えてくれた。仕事という存在は下らない思考を遮断する理由としては説得力がある。
 キョロキョロと首を動かしサルトを探してみると、彼も例に漏れず部屋の片隅に荷物を置き、腰を下ろしていた。視線は宙に浮いたままで、どう見てもこれから仕事をしに行く感じではない。
 なら、他の誰か手伝いに行けるかといえば、恐らく否である。少なくとも、サルトとリリ以外の者についていったことはないし、そもそも声を掛けたり掛けられたりもしない。更に言えば、パルシャ自身が単独行動を好んでいる。そうなると、手段は一つしか残らない。
 話しかける相手はやはりサルトである。

「ん? なんか用事でもあるのか?」
「私も……商売をしてこようと思う」
「とはいってもなぁ。急ぎの予定があるわけでもないし」
「サルトは休んでいていい。私一人で捌いてくるから」

 思わぬ返しにサルトは固まる。彼女の性格からすれば十分に考えられる理論ではあったが、自分から言い出すとは思ってはいなかった。
 自分の言葉に責任と説得力を持たせようと、パルシャは続ける。

「今まで手伝ってきたのも、ただ後ろで見ていただけじゃない。買い手の嗜好も考え方もある程度分かると思う」
「パルシャには悪いが出任せに聞こえるんだが」
「私だってちゃんと考えている!」

 感情的になるのは悪い癖、いいことなんて一個もないと彼女は信じていた。
 たとえ耳障りな言葉を聞いても、何も感じないふりをしてただ心の中でいつもの言葉を呟いていればいい。
 でも、今のパルシャには感情の捌け口があった。それはきっと、良いことなのだろう。

「売れるものは三つある。一つ目は食事、これは人間、生命が生きていく以上必ず必要になる。こういう治安の悪くなっている場所なら尚更だし、一歩先が見えないから、保存の聞く食事とかは需要は高い筈」
「成程、最もだ」
「二つ目は武器。これは身を守るために民衆に売るというよりは、国及びお取り付きの商人に売るのが妥当。場合によっては相場も釣り上げられる余裕があるかも」
「むしり取る気満々だな」
「最後は塩、ここらへんでは劣悪な岩塩くらいしか取れないから、タブリーズ内ではずっと需要があった。今はそうじゃないかもしれないけど、裕福層に捌けば儲かると思う」
「金じゃなくて物々交換するとしたら?」
「絨毯ね。タブリーズは良質な動植物の糸の生産地だから、他所で捌けば高く売れると思う」
「この街に詳しいな」
「私の故郷、そして私を捨てた街。ただそれだけ」

 頭の中を整理しながら話すパルシャにサルトは素直に感心していた。
 彼女は彼女なりに考えているし、早くカルヴァーンの力になりたいと思っているからこそ、一人でやろうとするし、一人でもできるという根拠を口にする。
 パルシャを一人前と認めることは、彼女自身が背負っている重荷を軽くする意味もあるだろう。
 彼女の意図は十分に汲み取れていた。
 早いには早い。それでも、サルトは止めようとしなかった。
 自分の意思で自分の行動を決める。無気力であった砂漠の出会いから、彼女は見違える程に成長したのだ。
 パルシャに最も必要なものは経験。これから沢山自分の身体を通して学んでいけばいい。
 だから、サルトは彼女の背中をそっと押すことにした。

「……合格だ」
「えっ、合格?」
「俺の駱駝の積荷に商品が入っている。その中から捌けそうと思う商品、量を持って行って貰って構わない。どう売るのかも自由、ただし危険なことだけはしないでくれよ」

 なんだかんだ理由を付けられて止められるのではないか、そう思っていたパルシャのほうが思わず拍子抜け、いつもは半分くらいしか開けていないその緑眼がぱちくりと開かれている。
 瞬きをしたまま停止している彼女、もう一歩分背中を押してあげる必要がありそうだ。

「ほら、仕事するんだろ? 時間は有限、有効に使うことだ」
「あっ、うん……」

 そそくさと準備を始め、パルシャは部屋から消えていく。
 このやりとりは部屋に残っているカルヴァーンのメンバーの目にも入っていた。そして、多くの者にとって、サルトの行動は懐疑的に映っている。
 当事者の一人がいなくなってから、思わず横槍を入れるのも、彼の行動の真意が他の商人に伝わっていないからだろう。

「……甘やかし過ぎは良くないんじゃないか?」
「んっ? 甘やかし?」
「さっきの言動だよ。商売っつーもんはそんな甘くない、お前だって良く分かっているだろ?」
「知っている。だからこそ、彼女自身が早い段階でそれを感じるのは悪くないし、思わぬ収穫があるかもしれない。俺の行動が間違っていたかどうかは、結果を見てから判断するよ、自分でな」
「まあ、お前が責任を持つならいいんだけどな」

 働く気力が無いのか、それとも気力を養っているのか、酒を呷りながら男は話を終わらせた。
 土で出来ている壁の外の風景、青い空と眩しい太陽に涼しさを運ぶ弱風、気候だけは絶好の商売日和である。








 この街に住んでいたパルシャではあったが、街の中心地であるバザールに顔を出す事は一度も無かった。外に出すこと自体が危険であるという叔母の考えもあり、自炊の生活をずっと送ってきていたのだ。
 叔母の話してくれた事の中に、タブリーズのバザールもあった。けれど、それは近くて遠いまま、パルシャに関わることもない存在。
 時は経ち、彼女は運命の道標に導かれるままこの街へと戻り、一度も行かなかった市場へと顔を出している。
 当然ながら、その緑眼は他者に観測されていない。フードを深く被れば、姿だけでなく眼も隠せる。伏し目がちなのはいつものこと、顔を隠すのは商売に向かないだろうが、商売自体ができないわけではない。
 いかなる時でも賑わいを見せている、そんな印象を話で植えつけられていたパルシャであったが、実際に自分の目で見た印象とは大きく異なっていた。
 網目状に張り巡らされている道は広いものの、道に隣接している店は昼間から扉を締め切っていて、商売に励む人の声も疎らだ。ここぞとばかしに空いているスペースは、カルヴァーンのような街に住を持っていない行商の為のものなのだろうが、これだけ空いてしまっていると寂れた空気をただ助長しているだけである。
 しかし、人だけは行き場がないのか込み合っている。商談の話はほとんど聞こえず、未来に対する不安を吐露する声や、真偽性が不明な噂が道端を支配していた。
 需要と供給の具合はよく分からないが、少なくとも供給する側の人間が少ないことは間違いない。商売敵がいないことは、パルシャにとっては幸福と言えるだろう。
 小さな体に大きな麻の風呂敷、場所はどこでもいい、空いているからどこにいても文句は言われないだろう。
 さて、彼女が持ち出したものは先程の回答、そして香料である。比較的乾燥していて、降水量が少ない高地であるタブリーズでは、香料自体に付加価値はあまりない。むしろ馴染みの香りとでもいったところである。
 集客をする際、多くの者は声を上げて、もしくは身振りを合わせて客を誘う。パルシャも実際にサルトやリリのそんな姿を見てきた。そして、自分には合わないと思っていた。
 内気だから、したくないから、勿論否定できない。けれど、彼女が緑眼である以上、商品ではなく自分が目立ってしまうのは好ましくなかった。自分はあくまで物を売る為の道具でいい、印象に残ってはいけないのだ。
 だから、売り捌くのにも一工夫が必要である。その手の一つが香料であり、香料は彼女の中では売り物ではなかった。空腹というものは良い匂いに反応する、聴覚ではなく嗅覚に問いかけるという作戦を彼女はとったのだ。
 元から人は多くいる。その匂いに誘われて、人々は食べ物を求めて集まってくるのだ。
 金が無ければ娯楽は抑えられるが、食事に対する欲求は簡単に抑制できるものではない。
 寄せ餌の搦手が成功すれば後は取引、声と声だけでやりとりはできる。

「少し値切ってくれないか?」
「無理。タブリーズではこの食材は貴重、これでも安い」
「むっ……、仕方ないか」

 財布事情が芳しくない者が多く、買い手の多くが値切りを要求してくるが、パルシャは正当な理由がない限りは全て突っぱねた。競合となる商人が他にいない、値切りに応じると値崩れが進んでしまう、明日以降も売りやすくする、色々な考えの元で回答を捻り出していた。
 人を相手にするような職に就くなどとは思ってもいなかったし、できるとも思えなかった。けれど、今こうして物をお金へと代えている。商品が無くなる事に不思議な感覚は確かな喜びへと変わっていく。
 保存食、食材、即席食、用意していた物が彼女の手元から無くなるまでに、然したる時間は掛からなかった。代わりに残った物は、売り上げたお金と少しばかりの商人としての自信、それはパルシャが幸福というものを知る上でかけがえのないものであった。






 買い物をすることもなく、寄り道もせず、軽くなった袋を持ちながらの帰路。足は軽く、視線を気にして俯きながらの早足も、気分は悪くなかった。
 ずっと役に立てなかった。厄介者としてあしらわれ、石や罵声を浴びてきた。そして、自分の価値というものを自問しても、解答は一度も出てこなかった。
 そんな自分がお金を手にしている。自分だけの力ではないけれど、自分の手で掴んだ労働の成果。
 彼女は嬉しい時、どういう顔をすればいいのかが分からなかった。だからもどかしい。でも、悪くない、悪くない気分。
 サライへと戻ってくると、相変わらず宿舎の中は賑わっている。それは商売が繁盛していない故の景色でもある。
 商売の腕というよりも、品揃えや珍品で勝負をする者が多いのが行商である。そもそも、腕に自信があるならば態々危険を冒してまでして、砂漠を渡り歩く必要はないだろう。
 皆が時間を持て余している中、サルトは何かの文献に目を通していた。本は貴族層が趣味にしているものであり、値段も安くない。そもそも、パルシャは字というものを殆ど見てきていないので、読んでもらわなければ内容は理解できないだろう。
 本から少し目線を逸したサルトは、視界に帰宅者を捉える。

「おお、早かったな。袋の中身が無いってことは」
「捌いてきた」
「流石は地元民。見る目が俺達とは違うってことか」

 様子を見ていた周りの者達は驚きを隠せないようであるが、サルトには驚いた様子は見受けられなかった。これくらいはできて当然、そう思っているのがパルシャに伝わる。
 彼はパルシャの空白を自分なりに咀嚼して理解していたし、その空白を埋めるにはどうすればいいのか、ある程度の理解が出来ていた。彼女に致命的に足りていないのは自信、自分という存在を労われるだけの根拠が足りていなかった。
 なら、仕事、商売を通してその心を養っていけばいい。パルシャの必死さは理解できるし、過剰は甘やかしで喜ぶほど彼女は鈍くない。なら、背伸びしない態度で、背伸びしない根拠を持って接してあげるのが、彼女にとって最善であると考えた。

「売れやすそうなものだけ持っていったから、難しいことじゃない」

 難しくはないと言っているが、稼ぎの方は十分だった。
 これだけ寂れた空気を出している街の中で、一般的な相場で物を捌けるのなら十分である。
 パルシャから手渡しされた売り上げを数え終わった後で、サルトはその金額の七対三に分ける。そして、七のほうをパルシャの前に差し出した。

「これはパルシャの取り分な」

 手の行き場が自分を差していた為、思わず手を差し出してしまったパルシャではあるが、受け取ってから疑問が頭に浮かぶ。
 物を売った功績は確かにパルシャのものである。しかし、商品自体はサルトが別の街から仕入れてきたものである。彼女自身の力、独力で儲けたものかと自身に問い質せば、回答は否。

「俺は物を仕入れただけ、パルシャはそれを売った。取り分として不満か?」
「違う、私の取り分が多い気がした」
「最初だけだよ。新人のやる気を出させるための費用と考えれば安いものだ」

 お金を得たからといってパルシャのやる気が向上するかといえば、そうもいかない。そもそも、彼女はお金をどう使うべきなのかを知らない。でも、自分が仕事をしたという形がこうして手元に残るのは悪くないだろう。

「それで別の街で売るための新しい商品を買うのもいいし、この本みたいに自分の欲しいものを買うのもいい。それはパルシャが汗水垂らして稼いだお金、使い方も自由だよ」
「……んっ」

 感情を隠すようにパルシャは俯いて頷いたが、隠したい相手はその仕草を見て思わず笑顔を浮かべるのだった。
 彼女は嘘が下手糞だ。嘘を付くべき相手さえ今までいなかったから。







 パルシャには目的が必要だった。今までは目的が無かったから、自らを傷つけるように自身の存在意義を捜索し、手順すら知らない為故、虚無という結論へと何度も導かれた。
 今の彼女にとって、商売は手段ではなく目的であり、パルシャが自分自身の価値を見出すための唯一の行動だった。役立たずどころか、厄ばかり立てると言われてきた彼女、そんな証拠もない汚名を注ぐが如く、ただただ働いた。
 最初はサルトの荷物のいくらかを選択し、金へと変えていたが、捌くべき物はすぐに無くなってしまった。いくら売上が出るとしても、荷台の全てを金に変換するわけにはいかないし、サルトにもカルヴァーンの経路に沿った商売の計画がある。想定外が続いてしまえば、これからの旅に支障が出る。
 サルトから休んでいいという一声を掛けられた後でも、彼女はその取り憑かれた目的を遂行し続けた。サルトから貰った給与は軍資金となり、彼女の目的を成す手段となる。燃料さえあれば、彼女は進むことが可能となり、他者が期待している速度を上回って駆け抜けていく。
 ある日は日が昇る前に自分の駱駝に乗って行方を眩ませて、日が落ちる前に荷物を大量に積んで帰ってくる。そして、ある日は荷を背負ったままサライから消え、日が天井へと昇る前に儲けた金を数える為に岐路へと着く。
 私物を仕入れてくる事も希にはあったが、それも全て商売の効率を上げるものであった。

「パルシャちゃん何買ってきたの? ふむふむ、荷台装填増量の治具に軽量の袋……、水保存用の竹水筒……パルシャちゃん、花も恥じらう乙女よね?」
「それって金になるの? ああ、なるか、生憎売る気はないし、こんな眼じゃ売れないだろうけど」
「ううっ、清きパルシャちゃんが金の亡者に」

 暴走とも呼べる行為は止まらない。
 商人としての引き出しは少なく、経験も稚拙なもの。セオリーなんて言葉は最初から空っぽのまま。
 ただ彼女が見てきた光景、そして今見ている光景を重ね合わせ、選択肢を拡張し、最善解を導き出す。
 解答が外れることも何度かあった。しかし、保険を効かせておけば傷は最小限で済むし、主要な稼ぎ場で部の悪い賭けは行わなかった。
 結果として金は溜まっていき、貯まるほどに彼女の帰りは遅くなった。
 油と薪があったとしても、それを程よく制御する人手は必要であり、火が大きくなれば尚更だ。十分な燃料を得て燃え上がった火は、簡単に制御できるものではなく、他の何かをも焼き尽くす。
 しかし、突如として雲は空を覆い尽くし、大粒の雨粒が火を消し去る。
 雨は偶然か、必然か。





 買って売り、売って買う。そんな日々が二週間程続く。
 彼女の売り上げは日に日に伸びてはいたが、街の寂れ具合は日に日に増していく。
 ティムールという言葉は忌み嫌われているというのに、誰もが恐れを持ってその言葉を発し、身の危機を察して街から去っていく。人々は目に見えて減っていき、人々に残っていた笑顔も消えていく。
 危機が迫っているのは誰が見ても明らかだった。
 姿さえ見せていないのに、軍靴の音、弓騎兵の影がこの街へと迫っている。
 そんな街の情勢も気にせず、パルシャ自身は正常運転。仕入れた商品を再びお金へと戻すべく、屋根のある場所に麻の布を敷いて、商品を陳列していく。
 バザールに足を運んでいる者がいつもよりも少ない。空が雨模様というのもあるが、街から人が減っているのも商売に当然影響している。
 でも、パルシャはそれが原因だとは思っていなかった。視線を感じるのだ、この街が自分にずっと向けていた視線を。
 フードをもっと深く被る。見えることより見られないことのほうが、彼女にとっては重要なのだ。
 地面に叩きつけられる雨音が場を支配する中、本日初の客が商品に目星を付け始めた。
 警戒を解かないパルシャに客が価格を尋ねる。下を向いたままぼそりと要求額を口にするパルシャは、傍から見たら不気味に見えるかもしれない。
 取り出されたお金に手を伸ばした、その時だった。
 殺気に気がつくのが少し遅れ、対応もその分遅れる。
 急に視界に現れたそいつは客ではなかった、スリでもなかった。
 なのに、パルシャに狙いをつけているかのように、その腕でフードを彼女から剥ぎ取ったのだ。
 そして、確信めいたように隠された緑に言葉を吐き捨てた。

「やっぱり緑眼」
「ひっ! み、緑眼……!」

 金を払おうとした客の手から硬貨が零れ落ち、石へと落ちた音は雨に掻き消される。
 客は小さな悲鳴を上げ、視線は自然とそこに集まる。
 嫌が応でも、その緑は人の目を誘ってしまうのだ。
 今更隠そうとしても遅い、だから彼女は周囲を睨みつけるしかできなかった。
 商品には目もくれず、彼らは見世物に対して今持っている不安の捌け口とする。

「緑眼の女、不吉の象徴」
「やっぱり……、やっぱりティムールが攻め込んでくるんだ!」
「こっちに来るな! 邪眼め!」

 立ち込める罵声、喧騒、そして畏怖と憤怒。
 彼女が知っているタブリーズという街の本質が、この場所に生まれた。
 値が高いものだけ荷物をまとめあげていると、誰が呼んだのかも分からないが、王国の鎧を着込んだ守備兵が二名、こちらへと歩いてくる。
 この国が見栄えだけで他者を処刑する。実例を知っている故に、身の危険を瞬時に受け取った。
 再びフードで金色の髪と緑の瞳を隠し、彼女は焚いていた香台を足蹴にした。
 ガシャンと鳴り響いた音を目くらましに、前動作もなく全速力で走り出す。
 深い緑色は雨の日でも良く目立つ。

「逃げるぞ!」
「衛兵、向こうだ!」
「誰か捕まえろ!」

 悪いことなど何一つしていない、追われる理由だって自分の中にはない。けれど、逃げなければならないのだ。彼女は皆から邪眼持ちと認知されるから。
 悔しかった、誰に対してか何に対してか分からないけれど、感情は自己に正直だった。歯を食いしばって、沸き上がってくる感情を内に押しとどめる。
 この街も、そして奴隷ではなくなった自分も……何も変わらない。
 忌み嫌われるこの目を持つ限り、妬みという呪縛からは永久に逃れられない。
 自分には厄が付きまとうんだ。それが先天的か後天的かなど、些細な問題でしかない。
 恨むべきは自身の部位か、それとも後ろ指を差す人々か。
 双方に感情を向けられぬまま、パルシャは代わりに自分自身を傷つけ続けている。






 魔女狩りを敢行すべく追ってきた者達を振り切り、パルシャは雨に打たれながら人気の少ない郊外までやってきた。ずぶ濡れになり、背中には踵から跳ね上げられた泥が付着し、水気を含んだ髪は皮膚へとへばりつく。
 手で邪魔な髪をかきあげて、改めて周囲を見回した。
 見慣れた地形、まばらな家屋、泥と土、茶色と灰色の世界。
 けれど確かにこの土地に自分がいて、自分を受け入れてくれた者がいた。
 あの日も雨が降っていた。全てを隠す雨、全てを洗い流す雨、あの日から彼女は雨というもの自体が嫌いになった。
 そして、雨は自分の瞳の色を注いではくれない。灰色の空も失った光も、彼女だけは怪しく照らしている。
 上を向く事さえ許されない人間なんかに、幸福が舞い降りてくるわけがない。
 たとえ彼女自身が変わったとしても、世界の本質は変わらない。彼女は緑眼であり、緑眼は災いを齎すと誰もが信じている。
 不幸を集約すべく生まれた存在に、幸運が許されるとは思えない。
 事実、彼女は今まで幸福に立ち会えず、束の間の静寂も偽りのもの、今雨に打たれている自分だけが残っている。
 外装を煌びやかにしたのも、人間らしく通貨の取引を行ったのも、全てが自分にとって色褪せてしまった異物のように感じてしまう。
 自分にとって他者が異物であり、他者にとっても自分が異物、生半可な同族意識を持つと、お互いが傷つくだけだった。
 それでも、優しさを求めていたのだろうか?
 少しだけ風景が変わった灰色の畦道を、パルシャは歩き始める。過去に憧れたわけでもないし、興味があったわけでもない。理由もなく光に釣られていく蛾のように、彼女の足はおぼつかないながらも見覚えのある道を歩いていく。
 呼吸が上手くできない。本当は見たいなんて思っていない。なのに、足は止まることなく、酸素を求めるように、蛇行しながらも我が家だった場所に身体が引き寄せられていく。無意識の行動に逆らえないまま、雨に打たれながらも、一歩一歩、その歩みを進めていく。
 吸い寄せられた先に待つ物は一体何か、彼女は知っている気がした。
 期待というものは悉く裏切られるもの、それでいて自分は何を求めているのか? そもそも、何を期待している? ありもしないものを望んでいるのならばそれは本物の狂人だ。
 答えはすぐそこにある。





 存在しなかった光は、確かな生活の光となり、パルシャのその目へと入ってきた。
 けれど、それはやはりというべきか、彼女がそこにいた証、温もりというものは一つたりとも残ってはいなかった。
 代わりにあったのは、残酷にも彼女の気持ちを善意のみで切り裂く確かな幸せ。
 ありもせずに無意識に追い求めていたささやかな幸せの欠片も存在せず、新しい幸せがそこには築かれていた。
 温かい光、遠い光、自分とは関わりもないものが目の前に広がっていて、気持ち悪くなり嘔吐さえ伴う。
 目を開けているのさえつらくなる。他者の育みは、パルシャにとって拒絶しか想起させなかった。
 そんな家の扉が開き、傘を持った少年が出てきた。
 出てきた子供は瞳の色が緑ではなく、水のような青色をしている。そんな些細な違いで、歩いていく道に致命的な差異が生じているんだ。
 こちらに気が付き、ペコリと頭を下げる少年、彼はまだ邪眼というものを知らないのだろう。そして近々、彼の親によって教えられるのだろう。
 パルシャは逃げるようにこの場所から離れていった。

 ああ、妬ましい。
 幸せがあるべきではない場所に、新たな幸せが芽吹かれているのが妬ましい。
 自分達の幸せが忘れられている事が妬ましい。
 私達がいなくなっても動き続けるこの街が妬ましい。

 こんな街なんて無くなってしまえば……、思考を途中で遮断する。
 そう思うと、本当に現実となってしまう気がしたのだ。
 自分はやはり化物なのだろうか? 問い掛けさえ雨と闇に溶けていく。
 サライに帰る、パルシャの中にはその選択肢は存在しなかった。
 緑眼である事は自身を苦しめるだけではない。近くにいる他者にも同じ苦しみを与える。
 カルヴァーンが緑眼の女を雇っているという噂が立てば、その価値は著しく下がるだろう。
 生きていく術だけは既に与えてもらっている。それを駆使すれば、生を繋ぎ止める事くらいはできるだろう。
 同じ場所に留まるのはもう得策ではない。緑眼の商人がこの地にいるという情報が広まっているならば、パルシャが商売をできる環境ではない。
 灯から離れ、パルシャの姿は消えていく。








 夕刻前、日は完全に落ちていないものの、空は厚い雲に覆われている為、高台からは街の明かりが確認できる。
 この場所から覗き込んでいる者にとって、光が漏れる街の光景を見るのはきっと最後になるだろう。破壊者にとって、人々の生活は奪うべき対象でしかない。
 無条件での降伏、属国化を受け入れなかったジャライル朝は、彼等にとって敵と認知され、恐怖を植え付けなければならない文明となった。
 侵略者であるが故に隣国は敵だらけ、かつての同盟先であったトクタミシュを始めとして、黒羊朝、グルジア王国、ムザッファル朝、その小国を支持するオスマントルコ、マムルーク朝。彼らが手を組んだとしたら、兵力は数倍となるだろう。
 そんな状況を楽しめるのがこの王朝の創始者であるティムールである。叩き上げで成り上がり、一国の長となった彼の野望はまだ序章でしかなく、幸運にも侵略先はいくらでもある。
 傭兵に絶対の自信を持ち、モンゴルの騎兵戦略を継承するティムールの兵は大陸最強と呼ばれ、他国からも恐れられている。
 戦に負け続けているジャライル朝からすれば、悪夢に他ならない。
 しかし、ティムールにとってはそれはただの良く知っている現実でしかなかった。

「静かなものだな」
「斥候の情報では、既に敵は街の至る場所に潜んでいるとのことです」
「ならば炙り出せばいい。質でも士気でも我らが上」

 抵抗を行う国に対しては略奪、虐殺を悉く繰り返し、相手の士気を削いだ。破壊された建物の代わりに立てられた複数の塔は、兵や住民から刈り取った首でできた征服の証である。
 無駄な時間は掛けず、最適の効率と最善の一手で軍を動かす。時には残虐非道と味方から疑念の声が上がる事もあるだろうが、それでも彼は味方には寛大であり、従順を示す国にも丁重な態度で臨んだ。
 今となっては、彼が支配者であり王である事を疑う者はいない。

「夜襲を仕掛ける必要もないだろう。夜が明け次第、野営地を払って街を制圧する」

 多くの指示を出されぬまま、集められた軍は森へと散っていく。
 光を付けずにただ獲物を待ち続ける姿は正に狩人であり、彼等の空腹が満たされるのは時間の問題である。
 時間に猶予が生まれた為か、一人の部下がティムールに近付いてきた。
 杖を持っているティムールは生まれつき足が悪く、若かりし頃は自由に動かない脚を揶揄される事もしばしあった。しかし、その不利を補って余りある才能が彼には携わっていた。

「この戦はどうですか?」
「くっくっく、面白い事を言うな。これが戦と呼べるとでも?」
「と、申しますと?」
「戦力が拮抗していなければ戦とは呼べん。残念ながらこれはただの狩猟、命令をこなす兵さえいれば、他には何も必要ない」

 目を細くして街を見るティムールは、物惜しそうに敵の無力さを嘆く。
 早くから命のやり取りを行ってきた彼にとって、無防備に命を晒し合うような戦こそが自身の求めるものであり、生きていると感じられる唯一の瞬間だった。
 そして、そんな自身の思想が他者に理解されないのも良く知っている。

「しかしながら、戦力が劣っているとはいえ、情勢に決着が付くまで指揮官が隙を見せるわけにはいきません」
「その通りだ。隙を見せたつもりもないんだが」
「つまらなそうですよ」
「そうだな。歯ごたえがある相手なら良いんだがな」
「……やれやれ、兵は貴方を楽しませる為に戦を行っているわけではないんですが」

 部下の呆れ顔にも、ティムールは笑顔である。
 死地を潜り抜けてきた彼にとって、この場所が自分の墓場にならないことは重々に承知している。
 彼にはまだこの世界でやるべきことがあるのだ。

「この地の全てを掌握するつもりなんですか?」
「生きている間にできればいいんだがな」
「戦の無い世界を作る為に戦をし続ける、真に皮肉な話ですね」
「戦の無い世界……か」

 ティムールは部下の質問に疑問を抱く。自分は決して戦を世界から消す為に、他国を併合しているわけではないのだと。
 目的と手段が入れ替わることもある。戦が手段ではなく目的となっていたように。
 彼は命を曝け出す戦争というものに取り憑かれていたのだ。

「死後の地は、戦の無い平和な世界があると聞いております」
「成程な……それは恐ろしい場所だ」
「一体、何を恐れる事がありましょう?」
「戦の無い世界に行ったら、私は何から楽しみを見出せばいいのだ?」

 部下は笑いながら、その男を内心で恐れていた。
 ティムール、その男は戦を行うために生まれてきたのだろうか。
































<ⅶ> 破壊公と波斯姫

 精鋭の騎馬部隊を持つ軍隊は、常に平原に住む者達を脅かしてきた。
 羌族、突厥(とっけつ)、エフタル、女真に契丹……。蛮族とは違う、洗練された弓騎兵、騎乗兵を率いて束の間の平穏を嗜む大国を大いに苦しめた。
 そして東国で栄えた遊牧民の大国家である元(げん)、チンギス・ハーンはケシクと呼ばれる精鋭騎兵を率いて他国の武力を悉く蹂躙し、汗国(ハンコク)と呼ばれる属国に地方を統治させた。その勢力は大陸全土に渡り、ケシクが地上を駆ける音は他国を戦慄させたと言われている。
 馬の機動性は、歩兵とは大きく異なる。行軍に移動に時間を要さなければ、糧も必要量が減り、戦前までに士気が下がることも少ない。遠征は軍の士気を下げ、国力を弱くする要因の一つであったが、馬の錬成部隊はその問題を見事に解決している。
 元は二代の偉大の王を経た後で内部から瓦解していき、凋落の岐路を辿っていく。その中でも、多くの国が栄光の道を辿った元という国に未だにあやかっている。
 王国の創始者であるティムールという男は、偉大なるモンゴル帝国の血を継いでいると称している。
 それが本当であるか嘘であるかは、実質の問題とはなり得ない。単に大義名分、戦を起こす理由が明確にできれば何でもいいのだ。
 そして彼は、周りにモンゴル帝国の末裔、そう思わせるだけの軍才を持っていた。
 モンゴル帝国の属国が支配していた領土の奪還、それこそが他国に対するティムールの宣戦理由となっていたわけだ。





 雨上がりの夜明け、日は東の空に昇り、我慢の時間は終わった。
 味のしない保存食ばかりを口にしてきた騎兵達は、軽い鎧に身を通し、目を血走らせながら崖下の都市を見下ろしている。
 後は指揮官の一声があれば、彼等は忠実に責務を実行するだろう。
 痺れを切らせているのは、ティムールも同じ。楽しみの一つさえないタブリーズの攻略など、今すぐにでも済ませたいところだった。

「兵を集めろ。出陣するぞ」

 直近の幹部に声を掛けた後、ティムールは馬へと乗り、再び集まってきた味方を激励する。

「敵はすぐそこにある! さあ、声を上げろ! 憐れなる弱者に我々の力というものを見せつけてやろうぞ!」

 上がる鬨の声、嘶く馬達、響く蹄の音。
 弓や剣、槍を携えた者達は馬に跨り、感情を爆発させて街へと迫っていく。
 ティムールの騎兵が成す音に弱者の悲鳴が加わり、世界は炎と血の赤へと染まるのだ。
 これから起こるのは文明間の戦争ではない。ティムールが弱者へと行う正当な権利、即ち略奪である。






















『何びともこの墓を開く者は、我より恐ろしき者に打ち倒されるであろう』
                        「破壊公」ティムールの墓石より
























 街が混乱に飲み込まれつつある。
 多様な情報網を持つカルヴァ―ンにとって、その当事者がどの勢力であるのか、知るのは容易だった。
 軍事大国ティムールの軍靴の音が近付いているのだ。
 定住の地を持たないカルヴァーンにとって、荷を畳んで街から出るのにも時間は掛からない。
 けれど、それは全ての商人が戻ってきている前提でのこと。
 夜が明けても、サライにパルシャの姿は無いままだった。
 既に荷物を纏めたサルトは、忙しなく部屋の中を歩き回っていて、その顔には焦りが見受けられる。
 焦りが見られるのは、他の行商も同じである。今の状況は自分の命を野ざらしにしているのと変わらない。

「……来ないな」

 同じ行動を繰り返しているサルト、その姿を見て苛立ちを覚え始めている者は少なくない。危機管理能力が足りていない者のせいで、自らが危険に晒されている。一刻も早くこの場所から逃げ出たいというのが、真っ当な人間の考えである。
 カルヴァーンは全ての行動を組織的に行う。故に退避するにしても、隊長、サルトの一声が必要になる。その一言が無い故に、今の状況が作り出されている。

「なあ、出発はまだか? こんな場所じゃ、落ち着いて待てもしねぇだろ」
「パルシャが帰ってきていない。もう少し待たせてくれ」
「この街を襲おうとしている文明がどこなのか知っていての発言か!? 戦の後には建物の瓦礫しか残らない破壊公率いるティムールだぞ! そんなやつらに見つけられたら、奴隷として売り飛ばされるか、雑草が踏み潰されるように殺されるのが関の山だ! 俺は人様のせいでそんな運命を迎えるのなんて絶対嫌だ!」
「お前は隊商の頭だ。砂漠を跨いで商いを行う者達の命を授かっていると言っても過言ではない。それはお前自身が一番良く分かっているだろう。だからこそ、隊商に利を齎さない私的な判断は許されないし、いかなる判断に対しても説明が必須となる」

 不安に晒されている行商達が声を上げ始める。
 人は窮地に陥るほどに本質が表れるものだ。死というものが明確に想像できる現状は、精神的に宜しくない。
 サルトだって自分の選択が他者に影響を及ぼしていると知っている。それでも、彼は意志を曲げようとはしない。

「俺は頭である前に人間だ」
「皆はお前を評価している、故に無下に失いたくない。我々はお前を置いて逃げる事もできるだろうが、お前はこの場所で待つのだろう?」
「ああ」
「そうか……なら止めんよ」

 サルトの決意は固い。説得するだけ無駄だろう。
 ざわついた空気が消えるかと思った矢先、我慢しきれなくなった者から火種が落ちるべくして落ちた。

「……あいつは疫病神だったんだよ」

 小さな声であるが、皆の口数が少なかった故に、多くの者の耳へとその独り言が入っていった。当然、サルトの耳にも。
 彼の動きが止まり、喋った者を仲間とは思えない目つきで睨む。

「おい、お前。今、何って言った?」

 迫りくる殺意とこの街に渦巻く血気、生きているか死んでいるかも分からない感覚。本音を隠すことさえできない空気が流れていて、遂には感情ごと爆発する。

「誰も本音を言わねぇから、俺が代弁してやったんだ!」
「その汚ねえ台詞をか?」
「そうだよ! へっ、何度だって言ってやるさ! 少数民族であるクルディスタンのお前は、自分と同じように迫害される邪眼持ちの女に自分の姿を重ねた! だから、救いたいと思ったんだろ? お前はいつもそうだ。カルヴァーンの頭だというのに、個人の不必要な優しさで団体に災厄を抱え込む。傷の舐め合いがしたいなら勝手にすればいいが、お前の都合でこっちにまで巻き込むな! 迷惑なんだよ!」
「その減らず口、首元から切り落としてやる!」
「ああ、やってみろよ! 本心を突かれたから頭に血が上ったんだろ? 名前を隠さなきゃ生きていけない野蛮な下等民族らしいじゃないか!」

 不安という燃料を糧に、喧騒は燃え盛り、殺意へと昇華する。
 共に砂の大地を超えてきた仲間ではあるが、所詮は他人。命が脅かされる状況となれば、醜い部分などいくらでも出てくるものである。

「緑眼が商売ごっこをしていることは街中に知れ渡っている。俺は優しいからこうやって住民にも教えてやったんだ。だから、この街ではまともな商売もできないだろうし、普通に考えたらもういねぇよ。そして、俺等の前に二度と現れる事もない」
「ぶっ殺す! 今すぐにでも殺してやる!」

 シャムシールを取り出しそうな剣幕で、サルトは喧嘩口調の男にくってかかる。
 仲間に取り押さえられなかったら、発言通り本当にその首を切り落としているかもしれない。
 感情に流されて判断を間違う。実に人間らしい行動である。
 刃を握ったまま叫ぶサルトの言葉に滲むのは無念だ。

「てめぇのような奴がいるから……、この世界はこんなにも生きにくいんだよ! 争いも消えねぇし、人間はアホみたいに同族で殺し合う! ほんと……、ホントクソッタレだ!」
「俺もつくづくそう思うよ。てめぇみてえな奴に頼らないと稼げない自分に腹が立つ」

 曲刀を収めた後に、サルトは地面を思い切り蹴った。爪先に走る痛みが少しだけ冷静さを与えてくれる。感情に任せたところで、パルシャが見つかるわけでもないのだ。
 険悪な空気は消えず、先程よりも重い沈黙。事の顛末を見ても全く喋らなかったリリが下を向いたまま、掌で額を触れた後にわざとらしく溜息をついた。

「黙っていたけど……、やっぱり見ていられないわね」

 彼女も感情を心に留めて我慢をしていたのだ。
 カルヴァーンという共同体の中では、本音や真実を隠していかなければならない時もある。
 行商の男がどうしようもない差別主義者である、というのもその一つであろう。
 リリにとってはそんなことはどうでもよかった。ただ、悲しい人間なんだ、くらいにしか思わなかったから。そして、彼女には優先すべきことがある。

「下らない罵り合いをするのが男の本性なのかしら? だとしたら醜いわよ」

 彼女が今欲しているものは決断である。
 パルシャの為にも速やかに回答が欲しかった。

「私とサルトはパルシャを探す。他の皆は身と荷物の安全を第一にこの場から離れる。滞在期間を決めて次の街で合流。揉めるまでもない、至って簡単な問題でしょ?」

 下らない、本当に下らない。
 パルシャはきっとこういう人間の姿をあの無垢な緑眼で見てきたんだ。
 純粋でありながら皮肉屋の一面を持つパルシャの気持ちが、リリには少し分かった気がした。
 荷物を駱駝に積み込んだ者から順に、サライから外へと出ていく。街は混乱の最中にあるが、人々の逃げる方角は同じである。
 中にはサルトに「死ぬな」と一声掛ける者もいた。彼が人種の壁を持ちながらも、隊長としてカルヴァーンを導いてきた。その功績を評価する者は少なくなかった。
 さて、残ったのは彼とリリである。
 街に残れば残るだけ、身に危険が迫る。サルトはもう一度だけ彼女の意志を確認した。

「お前も街から……」
「私にとってパルシャは商品よりもずっと大事。だから残って探す。それ以上の理由が存在する?」
「……しないな」

 呆れるようにサルトは首を振る。
 自分と同じような頑固者。パルシャといい、リリといい、そこだけはお互いに共通している。
 仲間を危険に晒す真似はしたくなかったが、協力者が多いほうが見つかる可能性が上がるのも事実。
 せめて危険度が低い方法を頼む。隊長としての残された権限である。

「お前はこの場所に残ってくれ。パルシャが帰ってきたらすぐに避難できるように準備をしてな」
「そっちは?」
「街に出る。駱駝の足で探したほうが早く見つかるかもしれない」
「でも、街はティムールとジャライルの軍で……」
「……ヘマしねぇように努力はするが、今回ばかりは分が悪そうだな」

 サルト達が知っている情報は、あくまでもティムールが攻めてきた、という漠然としたものだけである。どこから進軍してきたのか? 防備に当たっている兵の数は? そもそも無条件で降伏しているのか? 目下戦闘中なのか? どちらが勝勢なのか? 最新の情報は不足している故、最悪の状況を頭へと叩きこんで、慎重に行動しなければならない。

「他人の事心配している場合でもないぞ。危ないと感じたら引き払って避難してくれ。そして、絶対に敵と交戦するな。なんたって天下のティムール軍だ、正規軍相手じゃ万一にも勝ち目はない」
「やり残している事が沢山あるわ。まだ死にたくない」
「それは安心した」

 最低限のみを伝えた後、サルトは駱駝へと乗り込む。細かく指示を出せるほどの情報もないし、戦闘の腕は狩猟種族であるリリのほうが上である。
 最初に目指すはタブリーズ中心部のバザール。距離はそう遠くない。
 北から流れてくる砂煙で、空の水色が茶色に汚されている。侵略軍は北から敵が入ってきていると見て間違いないだろう。









 ジャライルの常備兵の抵抗は散発的である。
 そもそも、トクタミシュとの戦闘により軍に甚大な損害を受けているジャライルが、街の復興も途上である短期間で、強大なティムールに対抗できる軍を揃えられるわけがない。
 同盟先である黒羊朝に援軍を要請しているものの、支援側の実利が殆ど無い故に相手の腰は重かった。
 軍備もない、支援もない。こうなると、孤立無援の都市の使い道は自ずと限られてくる。
 最低限の軍備のみ配置して、できうる限りの時間稼ぎ。その間に主要都市で軍備を整え、援軍を仰ぎ、薄氷の勝利をもぎ取る。理論的ではあるが、あまりに残酷な戦術。
 タブリーズはジャライル朝に切り捨てられた、というわけだ。
 そして、ティムールにとって、抵抗の有無に関わらず、敵対する文明の街は破壊対象でしかない。





 剽悍なる精鋭騎馬軍団は残党を次々に打ち取り、逃げる民をも邪魔者として排除していく。
 疾風のように駆け抜けていった後には、矢を射られた者の屍しか存在しない。
 剣や槍は血糊によってすぐ切れ味を無くすが、弓は放たれる矢が全て新しいものである為に、消耗が少ない武器である。
 殺傷力こそ落ちるが、そこは腕を磨くことである程度は賄える。
 馬といい、弓といい、とにかく時間を掛けずに攻略するのがティムールの戦である。
 破壊行為が目立つティムールであるが、唯一、彼らが丁重に保護する人材は芸術家である。
 ティムール朝の首都であるサマルカンドには多くの名がある芸術家が蒐集され、国の莫大な資金によって多くの作品が創作されている。
 芸術家にとっては夢の街ではあるが、凋落が始まった者に対しては優しくはない。
 彼らは生き続けるためにも作品を作り続けなければならないのだ。著名人も人の子、殺されてしまっては何もできないのだから。
 それはある者にとっては作品を作るための理想の環境であり、ある者にとっては苦痛でしかなかった。





「南門は防備が厚い。少し遠いが向こうのほうが安全だ」

 立派な馬に乗って、民に指示を出している彼はこの街の守備隊長であり、衛兵からは英雄視されている。
 若かりし頃にジャライルの突撃兵として頭角を現した彼であるが、相次ぐ戦にて脚に深い傷を負って以来、先鋒部隊から外れ、街の防衛に努めている。
 槍の名手だった彼は、敵兵に散見された重装の騎士に倣い、大型の馬へと乗り、西洋でランスと呼ばれる突撃槍を携え、昔鳴らした名に恥じぬ武勲を携えている。
 今は街の住民達を安全な場所へと先導している彼だが、索敵部隊すらいないタブリーズでは、街の防衛にまわっている全ての兵が重要な戦力である。
 勝てるだなんて誰もが最初から思っていない。それでも、敵の首の一、二個は切り落としてやりたいと、全力で抵抗してやりたいと思うのが武人というものである。死地が決まっているならば尚更だ。
 避難民の先導部隊に追いついた伝令、これまた馬に乗った若い騎兵が混乱を極めながらも状況を逐一で報告する。

「隊長! 北側大通りから三騎、敵の騎兵かと!」
「了解だ。お前は住民の守護に回れ!」

 敵が近く、自分は兵士。ならば、選択は一つである。
 戦場を幾度も歩き、多くの者を屠ってきた。
 そして、いずれは自分も誰かに屠られる。武人としての逃れられない定めである。

「さて……おいでなさったか」

 北から迫る砂埃は多くない。先行で敵地に入ってくる騎兵は少数ながら、錬成度は非常に高い。だが、守りに自信を持つ彼は自分が石弓に遅れを取るとは思わなかった。
 現れた三騎、相手を見て弓の代わりに剣と槍を取り出す騎兵二騎、持っている獲物はそれぞれ別の物になった。
 異なる武器を持って苦手を作らず、臨機応変に幅広く対応する。小集団で行動しつつ、機動力を使い、数的不利となる複数戦を行わない。ティムールの用兵の考え方であり、元が好んで用いた広範囲の電撃戦でもある。
 弓を持った騎兵が陽動しつつ、左右を剣、槍を持った騎兵が囲むが、騎士に動揺の色は見られない。
 彼は戦場で動揺を見せた者の末路が同じであると知っている。
 騎士の前に位置取った弓騎兵が馬を走らせながら、騎手は後ろ向きで矢を放つパルティアンショットで牽制するが、騎士は矢を撃ち落とし、時に鎧や兜に当たるが意に介さない。

「そんな軟弱な石鏃など効かぬ!」

 相手が行っている射撃は単なる挑発であり、本命は別の攻撃法。相手からすれば敵地の市街戦であるが故に、搦め手は使ってこないと思われる。
 騎士は馬の横に取り付けておいたジャベリンを左手に持ち、軽々と投げつける。不意をつかれた弓騎兵は、槍は避けたものの、身体のバランスを崩した男はそのまま落馬した。
 一騎消えたが、弓以外の武器を持った騎兵は未だ彼の両隣を併走している。
 機動力と間接攻撃を武器とする弓騎兵は、重装歩兵といった機動力に乏しい兵を攪乱するのに優れているが、騎士のような機動力と防御力のバランスが取れた兵種は得意ではない。鎧と鎧の間を狙われない限り、傷を負うこともないだろう。
 そう、常識という知識が凝り固まった人間の思考を阻害するのだ。
 戦場での経験が豊富なティムールの兵にとって、重装な騎士もただの取り組みやすい敵兵に過ぎない。
 馬という機動力も軽装の弓持ちには一歩劣り、矢一つ通さない重い装備は相手が戦法を変えれば寧ろ欠点にもなりうる。
 防備の薄い箇所を狙うような精密な技術を馬上で披露するのは難しい。だが、そもそも彼等の狙いは騎士ではなかった。
 わざわざ重い物を背負っている相手と、真っ向に組む必要など無いのだ。
 暫く馬の並走が続いていたが、剣持ちが先に切先を騎士へと向けた。彼の持つ大型の突撃槍に比べれば、その剣はあまりに細い。加えて急所を狙える刺突剣でもない。
 相手は組織的な行動を見せている。無意味な剣戟が陽動なのは明らかである。
 騎士は相手の挑発に乗って意図的に隙を作ってみせた。その突撃槍を大きく振り下ろしたのである。
 大きな隙を狙っていた片側の騎兵が動く。片手で持っていた槍を両腕で持ち、素早く直線に突き出す。狙いは騎士ではなく、彼が騎乗している馬だ。
 しかし、それは空振りに終わる。相手の狙いを読んでいた騎士は、手綱を強く引き速度を緩めていた。そして、隙を逃した相手が無防備になるのも想定していた。
 急な停止に興奮した騎士の愛馬は再び脚で強く地面を叩き、五歩で全速へと変わる。良い反応に思わず笑みを浮かべた騎士は、得物を強く握り閉め、右手で二騎を一閃する。
 一人は槍に馬上から突き飛ばされて、宙へと放り出された後に地面に強く打ち付けられた。もう一人は太い槍に腹ごと貫かれ、払われた際に地面へと捨てられた。
 馬を止めて騎士はティムールの兵へと目を向ける。そして、相手が二度と自分に向ってくる事は無いと悟った。
 将軍格、指揮官がいない一般兵であっても個々で統率が取れているのだから、相手が“軍隊”で現れたとしたら、武勇の一つでなんとかなるものではない。そんな恐れはすぐに現実へと変わっていく。
 今度北方から姿を現した兵は十騎、加えて指揮官と思われる一際大きな馬に乗っている男が、死骸に目をやった後に敵を睨みつけた。

「くくっ! どうしたものか……」

 突撃槍に付着した血を振り払って、騎士は笑った後に溜息を付いた。
 どうやら死に場所は決まったようだ。







 多くの者が街から外へ逃げていく。その流れに身を潜ませて移動するパルシャではあったが、足の運びには大きな違いがあった。死の影から逃げるように必死で足を進めていく住人とは異なり、彼女の足は速く進まなかった。
 昨日の朝から食事もずっと取っていない。逃げようという意志も微弱。身体に力が入っていなかった。
 死というものに今更恐怖感は抱かない。むしろそれは自分にとって素敵で素晴らしいモノにさえ見えることがあった。でもきっと答えは、今までに経験してきたものと同じで、ただ当たり障りのない事象の一つでしかないのだろう。
 膝の力が急に抜けて、彼女はどさりと倒れる。地面は生温かく、彼女の指先よりも熱を帯びている。自身の肉体は最初から死んでいたのかと、錯覚を覚えるくらいに。
 周囲の者にとって、今や倒れている者と死体は同じ扱いである。慈悲の心どころか興味の欠片すら抱かれず、ただ邪魔な障害物でしかない。
 雑踏は我先にと他者を傷付けてでも突き進む。自分や家族が傷付けられるくらいなら、他者の痛みを見て見ぬふりをしたほうが楽だと、誰もが知っている。
 土と血の味が懐かしく思える。自分にお似合いの味だ。
 今までにも同じような状況に陥ったことが幾度かあった。その度にパルシャは死ぬのだろうと思いながらも、死にきれないままであった。
 嗚呼、慣れとは恐ろしいもの。彼女は心の片隅で自分は死ねないと感じていた。
 そして、予感は的中する。
 土煙が酷くて何も見えなくても、彼女はその影を覚えていた。
 たとえ雑踏が巻き起こす喧騒の中でも、自分の名を呼ぶ声ははっきりと伝わっていた。
 立ち上がる必要なんて無いのに頭の中の独り言を無意識の白で塗り潰していく。
 黄土色の世界、役に立たない視覚よりも聴覚が研ぎ澄まされていく。
 そして、その声はいつもの場所、隣から聞こえるようになった。

「パルシャ!? パルシャ……、なのか?」

 綺麗な織物が尽く砂の色に染められてしまい、髪もボサボサ。自信を秘めた顔でサライから出て行った顔を最後に見ていたサルトにとっては信じがたい姿であり、今のパルシャは砂漠で出会った時と何も変わらなかった。
 その緑眼からは感情は消えて、何も映していないとさえ思える。
 何があったのか分からない。でも、何かがあったのは明らかだった。
 この街は彼女を再び誰もいない夜の砂漠へと導いてしまったのだ。

「立てるか? 立てなきゃ担ぎ上げてでも連れて行くからな」

 良く分からないサルトの脅しを耳にし、パルシャは力が入らない足でなんとか立ち上がる。
 食事を口にしていない為に衰弱が見られる。不意にサルトへとしがみついたのも、足元が命令を聞かずにふらついた為。
 触れてサルトは気が付く、彼女の肌はひどく冷たく、生きているとは思えなかった。
 肌も恐ろしい程に白く、唇の赤みも見られない。
 放っておいたら更に血の気が無くなってしまうかもしれない。
 この街の危機的な状況を差し置いても、時間が惜しい。

「私は……不幸の、化身……」

 だから、サルトはパルシャの言葉を聞き入れなかった。
 行動を絞っていかないと、無駄に時間を消費するだけだ。

「悪いがゆっくり耳を澄ましている暇は無い。しっかり掴まれよ」
「でも、この緑眼は……」
「愚痴だったら街から出た後にいくらでも聞いてやる。だから、今は黙ってろ」

 こんな時、駱駝の持久力ではなく馬の瞬発力が欲しいと思ってしまう。
 ティムール王朝は騎兵による電撃戦を得意とする戦闘国家。この街が戦火に巻き込まれているのならば、一刻も早く街から出なければならないのだから。
 駱駝は愚鈍な生命だ。瘤にしても皮膚にしても反応が鈍く、叩いたところで馬のように全速で走ったりはしない。
 商人の命でもあるこの駱駝を捨てる手段もある。命あれば、再び新しい駱駝を得ることもできるだろう。
 けれど、パルシャには走る力が残っていないとサルトは判断していた。立つこともままならない人間、加えて命に対して強い思いも残っていない。「私なんて置いていけばいい……」なんて言うに決まっている。
 焦れる感情を表すかのように、サルトの目線は落ち着かない。
 後ろから地獄が迫ってきているのだから、歴戦の軍人でもない限り平静を装うのが無理というもの。
 逃げる人、人、人……。人がいる限りはまだ安全と言えよう。もしも屍が視界に入ってきたならば、近く自分達も“おなじもの”へと成り果てるだろう。
 そんな中、奇妙な光景が目に入ってくる。
 人の流れを逆らう流れ。逆流。その先には死があるというのに?
 思わずサルトは駱駝を止める。時間は無いし、逃げなければいけない。しかし、それをも越える優先事項と脳が判断したのだ。
 逆走する駱駝に騎乗しているその姿は、どう見てもリリにしか見えなかった。
 彼女もサルトを認識し、思わず笑顔を浮かべる。戦場には似つかわしくない姿だ。
 本来ならばリリの姿を見て一安心するところではあるが、サルトの脳は生存本能に執着し、目に映る情報以外の部分から疑問を自身に投げかける。
 どうして、彼女がサライでもなく、避難路でもある南門でもなく、こんな場所にいるのだろうか?
 心配になって飛び出した? 生産的ではない判断をリリが下すとは思わない。
 不安になっていてもたってもいられなくなった? カルヴァーン随一の豪胆者が?
 迎えに来た? パルシャが帰ってくるから待っていろと言ったのに? 都合が良すぎる。 自分達が帰ってこないのを知っていたのか、その場所にいられなくなったか。
 無駄口を叩かず避難行動に移るべきなのに、不安に煽られた彼の口は疑問を言葉にして曝け出していた。

「おいおい、何で外に出てきているんだ? サライにいろって……」

 彼女は笑っている。笑顔を絶やさない、いつもの姿。
 いつもと何一つ変わらない笑顔だというのに、違和感が拭えない。
 明るく元気で、皆に同じ気持ちを配る表情。なのに、生み出されるのは不安ばかり。
 一言も話さないリリが近くまで来ると、その違和感の正体に気が付いた。
 その致命的なまでに血の気が消えてしまっている顔色は、彼女の異変を明確に表していた。
 弾き出したのは最低最悪の回答。

「お前、まさか……」

 言葉よりも行動のほうが数倍説得力がある。
 駱駝の上部は黄色でも橙色でもなく、濃い赤に染められていた。赤は毛を染め上げ、駱駝の身体を伝って、地面へと一滴、また一滴と落ちている。
 そう、リリの座っている、その場所だけが、ただ赤い。
 笑顔のまま、彼女は目を開けているのかどうかも分からないまま、支える力も無く駱駝から転げ落ちた。
 黄土の地面へと抱かれるリリ、うつぶせになったその背中は布ごとぱっくりと裂けており、鮮やかな赤に染まっている。

「うそ、だろ……?」

 パルシャの緑は開いたまま、紛うこと無き現実をその瞳に映し出している。
 人間らしい反応を見せたサルトのほうがまだ気が保てているといるだろう。パルシャは凄惨な光景を目に焼き付けているというのに、言葉も含めて何一つ行動を起こせない。感情が零へと落ち、命令さえ放棄。
 こういう時には自分は何も出来ない。身体が知ってしまっているんだ。
 パルシャの手を引っ張って駆け寄るサルト、話す彼女の口調はあまりにも弱い。

「えへへ、しくじっちゃった……。やっぱり、あいつら……強いわ」
「やりあったのか!? どうして!」
「私が……待っていないと……、私はパルシャちゃんの居場所に……」

 出血が酷い。リリがいつ頃に戦闘を行ったのかは分からないが、未だに血は止まっておらず、顔はますます色を失っていく。
 誰かが苦しんでいるならば助けなければならない。人としての道理は知っていたが、現実は違う。彼女に残された時間は少なく、その中でできることでこれから迎える“結論”は変えられない。

「私、笑えている……かな?」
「……ああ、いつも通りだ」
「ふふっ、良かった……」

 何も良くはないけれど、サルトはリリに分かるように大げさに頷いた。
 せめてこの瞬間だけでもリリが幸せであることを冀う、それがサルトにできる唯一の手段であり無念を抱えた解答。

「駱駝、持って来れて良かったよ……。二人には……、生きて欲しいな。血で濡れちゃったね。ごめんね」
「言っていることが滅茶苦茶だ」
「あはは……、頭回らないや。寒くて……、眠たい……な」

 弱々しい笑みは見ていている人間にさえ痛みを与える。
 いつも元気で皆に余りある笑顔を配っていた者も、一つ間違えれば全てを失うのだ。
 パルシャは思う。何故生を謳歌していた彼女が砂の大地に抱擁され、何故生を蔑ろにしようとしていた自分が、この大地で立っているのかと。

「最後にさ……パルシャちゃん……と、サルトの顔……、見れて、良かったよ。サルト……頼んだよ」

 愚かだった。自分も、そして世界も。
 間違いだらけだった。自分も、そして世界も。
 そして、無力だった。何もかもが。

「……行くぞ」

 リリは目を開けていない。微かに動いている呼吸だけが、彼女が生命であるという証拠だった。
 それでも、パルシャにとって、彼女はリリであるのだ。
 自分に手を伸ばしてくれた。理解をしようとしてくれた。欲しくもないのに、鬱陶しいと思うほど笑顔をくれた。
 貰ってばかりで何一つとして返せていないのに、先に会えない場所に行ってしまうのが許せない。
 パルシャは子供であり、彼女は純粋だった。

「行く? 一体どこに!? リリを置いていくの!? 正気!?」
「正気じゃないのは……パルシャ、お前だ。現実を見れていない」

 だから、サルトもパルシャの言葉を聞くと判断が鈍りそうになる。
 感情のままにいられたら、悔しさや悲しさを爆発させられたら、自身は満足できるのだろうかと。
 問いかけても同じなのだ。それは自分が30秒前に答えを出したばかりだと。
 人の意志は弱い。そこに人間の命が絡むと尚更に。
 それでも、サルトは強い方であった。人間であるからこそ浮かび上がる感傷的な幻想を、言葉にすることで完全に消し去った。

「リリは助からない。あれだけ血を流したら……、人は死ぬんだよ」
「そんなの、そんなの……」
「お前も現状を理解している。そして、リリはこの場所に俺達が残って、死ぬ事を望んではいなかった」

 過去形で話すサルトは、出来うる限り身体から吐き出そうな感情を噛み殺した。故にその姿はパルシャにとって、より一層、無機質なものに見えたのだ。
 サルトとリリの付き合いが自分よりも長いのは知っていたし、リリが特別な感情をサルトに覚えていたのも知っていた。
 何もかもを心に抱えたまま、何も話さなくなった人間。
 最後の最後まで、リリは今までのリリのまま。
 それで良かったなんて、到底口にできない。代弁さえも許されず、感情の行き場もなく、パルシャは呻き苦しむように声を絞り出した。

「どうして、どうして……そんな冷静な声で話しているの?」
「なあ、パルシャ。俺が、冷静に見えるのか?」

 サルトとは対照的に、パルシャの声は震えている。
 彼は仕事柄、多くの人々と付き合うこととなり、多くの者を失った。故に悲しみに飲まれない方法を身体が勝手に覚えてしまっていた。
 しかし、彼女は生きていく中で大切な者を多くは作れなかった。だから、失う痛みに耐えられるだけの経験が無かった。
 抱いている感情は同じであっても、導かれる結論は異なる。
 リリが命を磨り減らしながら連れてきた駱駝は、パルシャのものであった。おそらくは自分の駱駝は戦闘で用い、動かなくなってしまったのだろう。
 この場をいち早く離れなければならないというサルトの指示は理解しつつも、パルシャの身体は重く、行動も身に危険が迫っている者とは思えないままだった。
 何の為に生きているのか、その価値が自分にはあるのかという疑念に加えて、埋めようのない喪失感と絶望は肥大化し、彼女の精神を蝕んでいく。
 逃げる速度は先ほどと全く変わらないどころか、パルシャに手が届かなくなった分、不安は増長している。命に対する執着が薄すぎるパルシャを見ていると、どうするのが一番良いのかが分からなくなる。
 頭を冷やし冷静さを取り戻す時間が欲しい、しかしこの街に留まっている限り、時間など無きに等しい。
 彼等の背後から聞こえた悲鳴と喧騒がこの地の人々を急かすのだ。

「遂に軍隊のお出ましか」

 進軍するティムールの兵にとって、罵声も金切り声も耳障りな雑音であり、弓と矢があればそれを止めることができた。この街の人間を無差別に殺める権利は、彼等の指揮官に認められている。
 逆らう者は尽く滅し、破壊し、焼き払う。後の憂いを消すのが半分、余計な思考を省けるのが半分。
 馬で追い立てる故に、人の足とは速度が全く異なる。馬を止めることなく弓を巧みに操れる為、その速度を最大限に生かせるのだ。
 人を次々と骸へと変えているというのに、顔色一つ変えない。彼らの世界では戦で人が死ぬのは常識であり、死ぬ者は自身を守るだけの力がなかった、それだけ。狩猟とはそういうものだ。
 進行上の敵を無差別に排除しながら、彼等は街を駆け回る。もはやジャライルの守備兵すら見られず、鎮圧という目的は達成してはいたが、それでも人々の悲鳴は止まらない。
 敵対する民族を殺すのは正しい、善行なのである。
 死に追い立てられる、逃げ惑う者が抱く恐怖は思考を塗り潰し、ただ後ろを見ずに逃げるという行動に現れる。

「うわぁ! 前にも敵が!」
「もう……終わりだ。神よ!」

 全てを否定するような叫び声は、逃げるという唯一の行動さえも奪った。
 だから、大通りを先回りした弓騎兵が進む先に現れた時、全ての行動は停止し、混乱は極まる。
 脇道へと逃げる者、我先にと他者に暴力を奮ってでも逃げる者、全てを放棄する者、思考が破壊されただ進む者、その尽くがティムールの兵達にとって無力であり、野生を失った獲物であった。

「ちっ、ここまでか……」

 無抵抗に殺されていく多数の人間を見ていても、サルトは落ち着いたまま現状を見極めていた。既に大きなものを失ってしまった彼が考えていることは一つだけ、同じ過ちを犯すわけにはいかない。
 敵は挟撃の体勢を取ってはいるが少数。逃げるもの達は命惜しく、抵抗の兆しも見せないで逃げようとして、殺されていくだけ。
 彼の考えは違う。リリと同じように護身用の道具を所持しているし、行動の選択をできるだけの余裕がある。
 駱駝を寄せてパルシャに近付いていくサルト、その表情は穏やかだった。
 リリの姿を見た時から、彼は近い未来を覚悟していた。

「パルシャ、俺が合図したら全速力で逃げろ」
「きっと……、駄目。どんなに逃げたって……矢に貫かれて死ぬだけ」
「諦めるな。リリは……最後まで諦めなかった」

 彼女の名を出すのは卑怯な気がしたが、遠慮している場合でもなかった。
 この場所で待っていても待ち受けるのは確実な死。足掻くことすら許されないだろう。
 まだ博打を打てるだけの硬貨は残っている。やるなら命燃え尽きる最後まで。
 叱咤するように彼は一人、駆け出す。
 策の一つも見えないただの無謀な突撃、パルシャにとってはそういう行動にしか映らなかった。
 サルトは違う。自身が思い浮かべるものは策なんて呼ぶには幼稚であり愚挙。それでも、可能性があるのなら掛けるしかない。
 彼はシャムシールを抜き、前方の弓騎兵へ駆けていく。
 敵意など一つもなかった空間に突如現れた“新手の敵兵”は、躊躇なく刃を対面する敵へと向けて、それを突き出した。
 敵襲を察知せずに“戦後処理”を行っていた兵に避ける隙はなく、その腹に致命的な穴が空き、地面へと突き落とされた。
 彼はパルシャに掛けたのだ、自身が持つその全てを。
 彼以外の全ての者に動揺が走る。それは予想外の行動を目に見てしまったパルシャも同じであった。

「えっ、サルト!?」
「逃げろ! 振り向くな!」

 彼の言葉と行動は、思考を停止していた者達をも動かす。
 的でしかなった人間達は再び逃避を開始し、残党処理にとって面倒事は増える。
 そして、雑踏に紛れればパルシャに矢が襲いかかる確率も低くなる。
 今だけは安全、全ての弓がサルトへと向けられているから。
 生きる事、抵抗する事が彼の策であり、愚かな最終手段であった。
 鬨の声は彼なりの強がりだ。
 これ以上何かできるわけでもない、でも何もしないわけにはいかない。
 腕に矢が刺さろうと、殺意と恐怖が全身を襲おうと、怯まなかった。怯まずに戦い続けた。
 でも、それだけだった。彼の力ではそれしかできなかった。
 生きることでの時間稼ぎ、健気なまでに儚く、そして無謀。
 どうして自分がこんな決断へと至ったのか、解答を思案する時間さえ彼には与えられなかった。

「……結局、イブンみたいにはなれなかったけど」

 矢が右肩に刺さった、左腕には何本刺さっているだろうか?
 続いて駱駝の足に刺さる。既に駱駝は歩いてもいなかったが、彼には降りる力すら残っていなかった。
 腕はもう動かない。ただ口を動かして、心情を吐露しているだけ。
 もう兵は見ていなかった。視界に見渡す限りは空色、砂漠では見飽きた光景ではあるが、今の彼にとっては、ただただ美しかった。
 太陽の光が暖かい、身体は冷たいから尚更に。
 抜刀した騎兵が彼の目に一瞬入った気がした。

「ほんと、俺の人生は最高だったよ」





 サルトの首が、彼女の目の前で、飛んだ。





 どうしてパルシャは、その光景を今、その緑眼で見てしまったのだろうか?
 振り向くな、確かに彼はそう言った。彼は今までに間違えた事を言った事があっただろうか? いつもパルシャに対して、皆に対して的確な忠言を行ってきた。
 だからパルシャは守るべきだったんだ。
 ただ死ぬのと、死を迎える瞬間を見るのとでは大きく違う。
 彼は死んだんじゃない、奪われたんだ。
 理由は、自分が弱いから。ただそれだけ。

「あっ……あ、ああ……」

 パルシャも同じだった、弱いから守れなかったし、自分よりも強いサルトに守られ、彼より強い者に消された。
 強さを欲したこともなかった。自分は蔑まれ、恨まれるだけの存在。そもそも、強さを持っても守りたいものなど無かった。
 勝手に守られていて、勝手に消えていく人間。今までにはそんな人が彼女の傍らにはいなかった。
 だからこそ、失ったという一瞬が、二度と会えないという事実が、防衛機能で包まれた彼女の心を大きく傷つけた。

「いやあああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 今度は手を伸ばしても届かないし、慟哭も涙も雨に掻き消されることはない。彼女の目の前で起こった確かな事実として、今もこの場所に残っている。
 なのに、記憶は違かった。単語と印象が乖離していき、無味なものへと塗りつぶされていくんだ。
 カルヴァーン、イブン・バットゥータ、ダマスクローズ、忌々しき緑眼、その記憶全てがバラバラと剥がれ、闇へと落ちていく。
 少なくとも今の彼女には必要の無い記憶だった。
 掴みかけた幸福とは一体何だったのだろうか? わかりかけていたのに、全て忘れてしまった。たった今、この手から全て欠け落ちてしまった。
 そして、知る必要も無くなってしまった。
 恨むは人、社会、それを構成するのは何か? 答えは一つ。



 こんな世界。
 こんな世界!
 こんな……世界?
 嗚呼、そうか。そうだったんだ。





 今更、知ったの。
 私が世界から嫌われているんじゃない。私が世界を嫌っていたの。
 だから、私はここにいるんだ。





 どちらが先だったかなんて考える必要もない。
 ただそう思った。そして他にはすることが無かった。
 やっぱり、自分で理由を探すことはできなかった。探そうとする為の指標も分からず、誰かが否定する。
 そして、何よりも自分が望んでいる感覚が無かった。
 だから、嬉しかったのだ。明確な意識が芽生え、それに伴う理由が生まれて。
 ただ、その意識とやらが人間が考えているものから程遠く、歪んでいただけの話。
 今、自身を支配している感情は何であるか? 痛い? 悲しい? 違う、それさえ分かっている。ただ心へと溜め込み、口にしてこなかっただけだ。
 もう彼女の名前を優しく呼んでくれる者はこの世界に存在しない。だから、パルシャという名前も、その意味さえも、もう世界に存在しなくてよかった。
 だったら、それは不必要だ。
 パルシャでいる事も、もう強要されたりはしない。
 何も残らないと思っていたけれど、とんだ手土産が残った。この感情を配って歩けると思うと、心がおかしくなる。
 愉快で仕方がなく彼女は笑う。喉がはち切れんばかりの狂気の声を上げ、ひきつけを起こし、緑から涙を流しながら笑い続ける。
 世界を楽しめと誰かが言っていた。楽しみ方は一つだけではなく、彼女はその方法をやっと知った、いや受け入れたと言ったほうが正しいか。
 枯れたとさえ思っていた涙の泉は、今し方生まれた不明の感情と共に、再びの潤いを外へと漏らす。その目から止まらずに出てくるものの色は、燃える建物の紅色、橙色を反射し、本来の透明さを失っていた。
 握っていた子安貝のネックレスから手を離した。
 嗚咽は止まり、ピタリと声は消えた。
 代わりに入る煩わしい悲鳴。先程まで同じモノでしかなかったのに、今は嫌悪感しか浮かばない。
 下を向いているため、短めの金の髪が彼女の表情を遮る。
 それでも隠しきれていなかった。
 感情に任せると、どうしても口が歪んでしまうんだ。

「……ましい」

 誰にも聞こえない声。
 誰にも聞かせない声。
 でもそれは確かな音となって、彼女の耳へと入ってきた。
 なんてことはない。何も恐れる事はない。
 ただありのままに、自分を表現する。その感情が心から言語に変わっただけだ。
 これは大きな変化。
 彼女が新しい彼女へと変わっていく。いや、これが本来の彼女というものなのかもしれない。

「……ああ、ほんと……、“妬ましいわ”」

 心でしか思っていなかった言葉を、ついに彼女は口にした。
 口にしてはいけないと知っていて、口にした。
 その言葉は自己の嫉妬を増長し、世界に憎悪を撒き散らすから。



 でも、
 彼女の見てきた世界は、最初から憎悪で包まれていた。



 素直な感情が彼女の表情を恍惚なる笑顔へと変える。
 彼女は心から笑っていた。妬む事こそが自身の幸福に直結するのだと気付き、そんな自分がもう人間という括りに該当しなくなったと認識し、愉快で堪らなくなった。
 一体、何を恐れていたというのか。
 自分の周りに誰もいなくても、妬みという居心地の良い場所があったのだと。
 駱駝から降りる。殺意から逃げようとするのは、人間がすべき行為だ。今の彼女には相応しくない。

「ええ、妬ましい。この呪われた緑眼に映る全ての世界が」

 “妬ましい”という言葉を発するごとに、自分自身の存在が“妬ましい”という感情へと馴染んでいく。いや、単純に忘れたふり、知らないふりをしていただけだ。
 自身は妬みと同じモノでしかなかった。
 邪を持つ碧眼など、この地域に伝わる伝承に過ぎない。けれど、彼女が受けてきた仕打ちと迫害された成り行き、それによって抱えた負の感情は本物であり、想像を絶するまでに深く深く積もっていた。
 先天? 後付け? そんな事は彼女には関係無い。今、嫉妬という感情に狂わされている自分というものが、ただここに存在することが全てだった。
 嫉妬狂い。手に入らなくなり、諦めたからこそ、彼女は狂った。
 嫉妬が手段ではなく目的になってしまったのだ。

「私の特別になって、そして勝手に欠けていく。許せないわ、ふふっ、本当に人間は許せない! 人は間違える。一割の善意と九割の悪意からできている世界を直視できず、一割の善意を信じて、幸福という名の盲目に包まれて、偽りの感情に支配されている。本当に愚かよね。だから、私が目を覚まさせてあげる。この綺麗で醜い嫉妬に包まれた、本物の緑色の世界を教えてあげるの」

 自分という存在が物語の主人公である時点で、物語の顛末は悲劇であると決まっている。悲劇のヒロインは“救いのない悲劇の作り方”を熟知している。
 悲劇、復讐さえも彼女にとっては大いなる嫉妬を招く手段に過ぎない。
 幾千にも頭へと浮かんだ脚本を妄想しては、妬ましいと嘆く。今の彼女にはすべきこと、そしてできることが多すぎたのだ。
 涙で濡れた両目は既に乾いている。宝石は感情により研磨され、エメラルドよりも深い緑へと変わっていた。





 しかしながら、彼女の変質に気が付けるのは彼女自身だけだった。
 観測者にとっては気がふれてしまった人間にしか見えなかったのだ。
 騎兵の男は表情を全く変えず、つまらなそうに弓を構え、その矢を放った。
 多文明の街を掠奪している間に、多くの死体と死臭により、精神が壊れてしまった人間を沢山見てきた。彼女の様子もティムールの兵にとっては、特別不思議な光景ではなかった。
 発狂した人間などを相手していてもキリが無い。その言葉を強制的に話せないように、頭に矢を突き刺すのが一番手っ取り早い。彼等はそれができるし、していいだけの力を持っている。
 だから、目の前の光景を取るに足らない奇行としか認識できなかった。
 そう……彼等は本物の怪物、本当の力を知らなかったのだ。
 彼女は知ってしまった。強さには守るだけではなく別の使い方があるのだと。
 世界がたった今、教えてくれた。強さは他者を歪めてもいい権限を与え、“していいだけの力”をも授けた。
 射手の腕は正確無比であり、多少の距離があったとしても、獲物を貫く能力がある。対象が動いていないのならば尚更だ。
 射ったその瞬間、対象の息の根は止まると、彼は確信を持っていた。
 けれど、事実は異なる。彼の目がそう伝えたのだ。
 鏃は突き出された彼女の掌を貫いたものの、ほんの僅かな距離でその勢いを止めている。身体の一部に穴が空き、眼前まで鏃が迫っていたというのに、彼女は顔を背けることもなく、穴の空いた自分の掌と鏃を見て、つまらなそうに溜息を付いた。
 腕に刺さった矢をへし折り、身体から引っこ抜く。腕を貫いた穴は、こぽりと出てきた血と体内の熱を持ってしてその傷を脳へと伝えるが、心にぽっかりと浮かび上がった空洞のほうが、彼女にとっては重症であった。

「人を殺す為の玩具。そんなもので内に秘める穢れた感情は雪げないわ」

 急所を外したならもう一回射ればいい。それでも当たらなければ再び。
 自身が攻勢にでている限りは、斉射は止められない。
 彼等はパルシャの攻撃にも、心情の変化にも気が付けないまま。

「ほら、耳を澄まして。貴方達にも聞こえるでしょ、皆の妬みが」

 また、狂言を繰り返している。死ぬ前の人間はいつもそうだ。
 現実を見られずに、どこか他人事。今を理解すると壊れるから、今を理解せずに壊れる。どっちにしても結果は同じであり、彼等は迷いなく壊す。
 でも、これはあくまでも人間だけの話でしかない。
 人の思考というものは何にでも当てはめられるものではない。
 理解できないものはいつの時代でも恐怖であるから、人は異端を認めないのだ。
 だから、何度でも間違える。

「弓を射るべき相手を間違えているわ。貴方達の中にある嫉妬心に問い掛ければ、解は直ぐに現れ、形となる」

 人々の異変は一人の男から始まった。
 腰に備えていた短刀を手に持ち、近くにいた仲間へと投擲したのだ。
 弓を彼女へと構えていた男の喉にその鋭い刃が刺さり、呻き声すらあげられずに兵は馬から落下した。
 電光石火の反逆に反応を示せる者は誰一人としていない。理由無き行動を、人間は理解できるようにできていない。
 この光景を必然と捉えているのは、薄気味悪い笑顔を浮かべる緑眼だけである。

「貴方達の妬むべき相手は誰? 何も知らない私? それともただ優秀なあいつ? 人の獲物を横取りして出世をしたあいつ? 軍将に媚びて舞台を持つようになった能力の無いあいつ? ほら、貴方の心に聞いてみなさい」

 その緑眼に見せられて、疑心暗鬼になった者達が同士討ちを始まる。
 一緒に戦った仲間も、一度刃を向け合ってしまえば殺し合うべき敵でしかない。
 自身の命を守るために、他者を切り捨て、射貫き、殺す。それを許してくれるのは奥底に溜め込まれた嫉妬を抱いている弱い心である。
 腕が飛び、眼が射抜かれ、馬から落ち、どこかがひしゃげる音。ティムールの兵がいつも見ている光景ではあるが、それがよく知っている仲間の姿であることが、唯一の違いであった。
 その狂気は逃げ惑う者達にも感染していく。
 自分だけが助かればいいという薄汚い精神を奥に秘めていた者達は、彼女に宿っている瘴気に侵され、逃走に邪魔となる人間へと襲いかかったのだ。
 人間により作られた人間の為の地獄。嫉妬という開放してはならない感情が作り出す殺戮遊戯。本性を曝け出した人間を見ていると、彼女の気分も高揚するものだ。
 この街もここを襲う兵もいらない。
 彼女にとって、世の中には不必要が多すぎた。

「あら、もう人間として壊れちゃったの? 人間って肉体も精神も貧弱なのね。その割には強がっちゃって……、妬ましいわ」

 命の数だけしか宴は行えない。
 血だまりと肉塊が残る中、恐怖と畏怖に苛まれた兵士が一人、馬上で荒い息を整えながら血走った目で彼女を見ていた。

「可哀想、一人残してしまったわ。それは貴方が優秀だったから? それとも他者から妬まれてすらいない屑だったから?」
「うるさい!」

 自分の発言を聞きながら、思わず笑ってしまう。
 生き残ってしまった彼がどうしようもない程に不幸であると、手に取るように感じ取れるから。
 生き残った彼には一つだけ褒美があった。
 目に映っている金髪の女は、既に人間には分類すべきではない存在であると理解できたのだ。
 それでも恐怖は収まらない。彼は彼女という存在を知るには情報が足りていない。

「か、怪物!」
「あら? 私を怪物と罵ったのは私の周りにいた人間達でしょ? だから、私は望み通りに怪物になってあげた。そして、目に見える全てを妬んであげるわ。だってそれが、世界が、人間が私に与えた唯一の役割なんですもの」

 歯をカチカチさせて、狂乱する精神を抑えきれなくても、彼は戦士であった。逃げるよりも相手を殺したほうが生存できる確率が高いと知っていた。
 あくまでも相手が人間であったら、の話ではあるが。
 弓を構えて矢を弦に掛ける。武芸に長ける者ならば、この距離で外したりはしない。

「まるで成長が見られないわね。怪物を見たら攻撃するのが人間? 違うわ、違うでしょ? 逃げないと……貴方、死ぬわよ」

 人並みの殺意を受けても彼女はただ呆れるだけ。矢を撃ったところで、先程と結果は変わらないのだから。
 それでも、男にとって頼れるのは弓しかなかった。弓は絶対に裏切らない、人とは違う。
 でも、他の生命はどうだろうか?
 人は当然裏切るものではあるが、人以外は?
 人は未知に恐怖を覚えるが、人以外は?
 聞き覚えのある嘶きを聞いて、男は驚いた。馬が命令以外で大きな声を上げるようなことは今までには無かった。
 暴れ馬と化した愛馬に振り落とされ、男は尻餅を付く。彼の目に入ったのは愛馬の尻尾、それは滅多に見ない光景であり、見てはいけないものでもあった。
 彼が精鋭への道、弓騎兵になってから最初に教わったこと。馬の後ろには絶対に立つな、と。
 そんな教訓を思い出した所で、避ける暇さえ与えず、跳ね上がった愛馬の後ろ足の蹄は彼の顎を砕き、首の骨をも容易く圧し折った。
 口から液体を垂れ流し、身体は脆くも地面へと崩れ落ちる。
 精兵とはいっても所詮は人間、彼女にとってはもう区別すべき対象ではなかった。

「まあ、逃げても死ぬけどね」

 死体に何を言ったところで聞こえはしない。














 ティムールの軍は進む、たとえ目を凝らしたとしても障害は見当たらない。
 故に退屈だけが彼には残る。

「実につまらんな。一度、常勝の法則を作り出してしまうと、後は単なる略奪と破壊という作業でしかない」
「それが強者の戦というものでございますよ」
「昔に戻りたいものだな。あの頃は明日の命すら不確かなものであった」

 自身も文明も歳を取り、危険や無茶を侵す機会は必然と減っていく。
 このような勝負が最初から決まっている戦ばかりが繰り返され、彼の心は満たされないままに、戦は終わってしまう。
 国が強固、強大になるほどに、彼に住まう空虚はその場所を広げていく。

「法則を破る法則が創出されるか、そもそも法則が当て嵌められない何かが存在するか。いずれにせよ、今のままでは私は満たされぬままだ」

 街の娘の背中に深々と刺さった矢を遠くで見ながら、ティムールは不満を露呈する。
 地位を確立してからの戦争は、退屈極まりないものでしかない。
 命のやり取りなど自身には皆無。あるのは文明間の兵と兵のみだ。
 たとえ戦に負けるようなことがあったとしても、自分の命が失われることはないだろう。
 掛け金無く参加できる賭博など、本質を失っているに等しい。
 一度快感を覚えてしまうと、新たな刺激を探すのも一苦労である。

「んっ? 誰かいるな」

 砂煙が上がり見通しが悪い中、一つの小柄な影が映る。
 背丈低く、見失ってしまいそうな影。それ自体に違和感は無いが、自分達が進軍してきた方角に動く影が残っていることが、そもそも不可思議なのだ。
 彼女はゆっくりと歩いている。誰かに追われる訳もなく、実際に今は誰にも追われてはいない。
 道に朽ち果てられた死体はモニュメントの如く重ねられて、小山となって彼女の周りに散らばっている。
 その中には彼らが良く知る姿の人間だったもの、馬だったものも含まれていた。
 再び現れた生きた人間を目にし、彼女は笑いかける。

「あら、異民の方々。こんにちわ」

 その一声でティムールの顔付きは変わった。
 鼓動が警鐘を鳴らすのだ。奴は自身の命を脅かすものであると。
 周りにいた親衛部隊も概ね同じ反応を見せる。防衛本能から弓を構え、得体の知れない標的へと向ける。
 わざとらしく驚いた表情を見せる彼女は、まだまだ余裕がある。この空間を支配しているのが誰であるかを、確信を持って理解していたから。

「失礼ね。そちらさんの文化はその弓矢で挨拶をするのかしら? それでは命がいくつあっても足りないわね」

 何が楽しいのかケタケタと笑い続ける。
 その光景はあまりに異様で、あまりに不気味だ。死を感じている者とは到底思えない。
 多くの狂った人間を見てきたティムールであるが、彼女はそんな者達を同じ分類はできなかった。精神が壊れた者は五感の感覚が愚鈍になり、世界から隔絶される、現実を見ないままに死に至る。しかし、彼女の緑眼はしっかりと相手を捉えており、動作にも異常は見られず、感覚を閉ざしている仕草もない。
 人間らしい恐怖の症状が、その動作に見られないのだ。
 それどころか、人の形をしているだけの別の何かにすら思える。

「今までの兵隊さん達とは違う? すぐ矢を撃ってくる困り者ばかりだったのだけど」
「だから殺したのか?」
「いえ、勝手に死んでしまっただけ。別に人を殺すこと自体は楽しくないし、面倒なだけだわ」

 野蛮といった素振りを見せて首を振ると、それを目にしていた男達の腕がぴくりと動いた。彼らにとっては戦友であり、無二の仲間である。目の前に仇がいるのだ。
 複数の殺意を察知していても、彼女は態度を改めようとはしない。そもそも、殺意というものは、彼女にとってはもはや苦手なものでもない。
 けれど、もっと奥の本質こそ、彼女が求めるもの。

「逆に聞きたかったの。人を殺すのって、そんなに楽しいかしら?」
「少なくともこの戦ではつまらんな」
「なら、どんな時なら楽しい?」
「お互いの命を天秤に掛ける殺し合いだよ。そうでもしないと、生きていることを忘れてしまったりするだろ?」
「貴方、私が言うのもあれだけど異常者ね。この兵達の指揮官かしら?」

 弓を構えられてもお構いなし。彼女は怯えることもなく、堂々と佇んでいる。
 構えている兵の方に猜疑心、恐怖、怯儒、負の感情が渦巻いていく。
 彼らにとってティムールは戦場では信頼できる指揮官であり、恐怖の対象でもある。まともに目を見ていると気が狂ってしまう感覚さえある。なのに、彼女は目の前で恐怖を纏った男とただ話し続けている。
 兵からすればそれは異常が異常と交わっているだけだった。

「お名前、伺える?」
「ティムール。巷では破壊公などと呼ばれているそうだ」
「……へぇ。貴方のせいでこの街は消される運命になったのね。妬ましい、妬ましいわ」

 最初はくぐもった笑いだった。これでも彼女は我慢していたらしい。
 でも、もう彼女の敷居はとっく前に取り払われてしまった。耐える必要など無いのだ。
 ネジが切れたように笑い始める。笑い、笑い、狂ったように笑い続ける。
 昔の彼女は笑わなかった、どのような出来事が自分にとって愉快であるのかを今の今まで知らなかったのだ。
 心から笑える、それが何よりも嬉しく、そして悲しかった。
 ティムールがこの街を焼尽にしてもいい力を持っていて、実際にそうしようとした。
 止めることが誰にもできなかったのだから、彼は正しかったのだろう。実際に疑念を覚えたりもしていない。
 だから、彼女もそれに倣う。
 同じように振舞っていい権利が彼女にはある。そう自認している。

「力を持つ者のみ横暴が許される。妬ましいけど正論だわ」
「それが人間世界の性というものだよ。権力争いに勝ち残ったから、俺は力を持ち、他の文明が弱いのに抵抗するから焼き払う。人間の行動としての判断など、俺には二の次の理由でしかない」
「否定はしないわ」

 リリとサルトが消える要因を作り出した男が目の前にいる。それでも、殺意や復讐心は湧いてこなかった。
 ただ、すべてが自分の目論見通りに動いていると思わせる、その態度が彼女の嫉妬心を擽った。
 自分の為に自分の力を使う。それは何よりも正しい行為だ。

「でも、貴方の願いは叶わない」

 静寂に響く笑い声は止み、彼女は冷たい目で彼の志を否定してみせた。
 ティムールは咄嗟に射手の行動を制す。横槍を入れられるのが嫌だったのが半分、彼等の生命を案じたのが半分。
 どちらにしても、彼女の行動には変化はない。
 所詮彼等は、観察対象でしかないのだ。

「貴方はずっと嫉妬の目で見続けられることになる。私だけではないわ。貴方の部下、信頼する参謀、家族からもね。それは貴方を蝕む呪いとなる」

 言葉の意味を理解している者は半分にも満たないだろう。
 虚言癖は戦時では特別ではない。自分が特別でいたいからこそ、特別であると思い込みたいのだ。
 でも、今は違う。彼女には分かる。
 特別と思い込んでいるのは人間だけ。化物は特別であり、それでいて尚、満たされてはいないのだ。

「貴方は楽には死ねない。死んだ後にも禍は残り続け、恐怖を撒き散らすだろう」

 静かなる予言は人々の頭の片隅にも残らないだろう、ティムールを除いて。
 彼には相手が無茶苦茶を言っているようには思えなかった。
 人を支配する者、国を征服する者、忠誠を誓う者、野心をひた隠す者、多くの者を見てきたティムールでも、目の前で尊大に言葉を紡ぐ奴を理解できなかった。
 彼女という存在を心から拒んでいる。

「私は妬みの化身、人々がひた隠す負の象徴にして体現。この瞳に一度でも魅入られたら、貴方も私も絶対に幸せにはならない」

 緑眼がティムールを捉えている。
 言葉よりも冷たい視線。太陽光は本当にこの街を照らしているのだろうか。

「これは予言でも、ましては妄言でもない。必然。私は貴方達、人間を妬み続ける為に存在しているのだから」

 遂に耐えかねた男が一人、弦を引くその指を離した。
 けれど、その標準は微少ながらズレてしまった。大地が目覚めた事によって。
 微震から始まったその揺れは、次第に世界を揺るがすほどの大きな波へと変わっていく。

「地震!? 大きいぞ!」
「ああ、世界まで呪い殺してしまいそう。妬ましいわ」

 彼女が願った結論だ。
 記憶にも残らず、いずれ記憶からも消えて、最初から無かったかのように扱われる。それがこの街が彼女へと下した結論だったのだから、彼女も同様の仕打ちをこの街に対して望んだ。
 大切なものを奪ったティムール、人間、街、世界、そのどれもが嫉みの対象。
 でも、楽しみは取っておく。この嫉妬心が消えてしまったら、自分というものは無くなってしまうから。
 揺れは収まらず、大地には大きな亀裂が走り、世界と緑眼を分け隔てた。
 現実と非現実、正常と異常、一本の線が彼女を否定した。
 世界は彼女を否定したのだ。
 自身に対する世界の解答を知った彼女は、再び笑ってみせた。
 どこまでいっても、この世界は生きた緑眼を認めようとしない。そんなやり取りを無為に行い続けるにも飽きたのだ。
 彼女は一歩進む、そこには地面がある。
 また一歩、砂は煙となって、すぐに消える。
 もう一歩。その先は闇、底すら見えない深い場所。

「またどこかで会いましょ。異国の跛行将軍」
「二度と会わん事を祈ろう」

 一歩。そこに地面は無い。












 吸い込まれるように地の裂け目へと消えていった女。
 傍から見れば思考が狂ってしまって、投身自殺した人間に過ぎない。

「悪女の運命は凄惨と決まっているものですな」

 隣にいた参謀は一息つく。
 相手が武器を持っていなかったとはいえど、指揮官であり王でもあるティムールが敵文明の女に無防備に近付くのは頂けない。
 今回は支離滅裂な言葉だけで済んだから良いものの、相手が武器を隠していたら、まさかもありえるのだ。
 ティムールという存在は代えがきかない。今し方、死に誘われた者とは違うのだ。

「いいや」

 ティムールは否定した。何を否定したいかも理解できていないまま。
 自身が抱いた感覚と他者のそれとには、あまりに隔たりがあったから、言わなくても良かったのに直感的に否定していたのだ。
 何をどうすればいいのか、はたまた相手の言葉に致命的な間違いがあるのか。
 深く考えても答えは出ないだろう。
 言えることは一つだけ。

「奴は緑眼の妖怪だ」



















 光が無い世界は殆どの者にとって恐怖の権限でしかない筈であったが、彼女にとっては静寂と安らぎを注入する。
 五感は彼女に妬みしか与えない産物だった。しかし、今の彼女には妬みこそが自身に必要不可欠な餌でもある。
 退屈を持て余すこの世界こそ、もしかしたら死、なのかもしれない。
 タブリーズから逃げたカルヴァーンの者達はいったいどうなったのか? 生き延びて再び砂漠を歩き続けたのか、はたまたティムールの掠奪に合って霧散したのか?
 いずれにせよ、碧眼の怪物にとって興味の無い話である。他者が命を落とした程度でいちいち悲しんでいたら、心が疲弊しきってしまうだろう。
 半信半疑のままに闇を見続けていると、闇の中にも僅かな映像が映し出されてきた。
 黒い岩、闇に溶ける岩、大きな岩、洞窟の中と変わらない風景。
 ぽたり、ぽたり、雫が何かに当たり弾ける音、近くに水でも流れているのか、砂の世界には無い湿気と涼を感じ取れる。
 警戒心を解かぬまま適当に視線を送っていると、隠す気も無い足音が聞こえ始めた。それはどんどん大きくなっていく、こちらへと近付いてきている。

「警告した意味も結局無しか。人間という生命は全く持って理解しがたいな」

 女の声、聞き覚えのある嫌味しかない声。
 闇の中でも判断できる。その女に試され、意味のわからない忠告を受けていた。そして、今になってその意味を大まかに知った気になる。
 色はないがその顔はダマスカスにいたナスリーンに間違いない。唯一にして決定的に違う点は、彼女には人間には存在し得ない耳や尻尾が生えていたことくらいだ。
 パルシャは気に咎めることもない。自分に似た“人ならざるもの”なだけ、別に驚く必要もなかった。
 そんなパルシャの様子は傍から見れば物珍しい。

「色々と驚かれると思ったのだが、随分と冷静だな。地面に食われ、闇に放り込まれ、顔見知りの妖怪に出会ったのだから、人間らしい反応の一つでも見せて欲しいものだ」
「残念ながらそういう感性はもう持ち合わせていないわ。そういうのは人間にでも頼んだら?」
「くっくっく! 警告が無駄になるのも当然だったというわけだ」

 様変わりした商人駆け出しの姿。
 ナスリーンの乾いた笑いが窖の中に木霊する。

「貴方は最初からこちら側の者だったってことね」
「まあね。君達の世界は実に面白いから観ていた」
「もう“奴等の世界”には私はいないわ」
「そうだった。まあ、頑なに向こうの世界に依存するのも良くないだろう」
「リリは……」
「……そうだな。失うのは辛いものだ。それは自身が人間でもそれ以外でも変わらない」

 ナスリーン達観した物言いが彼女を苛立てる。
 まるで、自分は多くの大切なものを失って、もう“その程度のこと”では何も感じない、とでも言いたいように聞こえてくる。
 それでも感情はすぐに萎んでいく。彼女を掻き立てるモノは一つだけ。
 感情的になるのは妬む時だけでいい。

「貴方なら、助けられたんじゃないの?」
「人間の世界には干渉しない。人間の問題は人間が解決すべきだ。その顛末が悲劇だとしてもな」
「冷たいのね」
「お互い様だ。お前の問いは、私だけでなく自分を責める両刃でしかないだろ?」
「知った口を……妬ましいわ」

 今更自分という存在を受け入れて力を得た所で、それにどれほどの意味があっただろうか?
 ティムールという男は奪うために力を行使したが、少なくとも彼女がパルシャであった時、力は守るためにあり、その無力な自分を妬んだのだ。
 二人が死ななければ嫉妬は生れず、嫉妬が顕現したところで、救うべきものはいない。
 流石は使い道の少ない感情、といったところである。

「ここはどこ?」
「地面の中、水脈近くの地下洞窟」
「貴方の能力で?」
「まあ、そんなものだ」

 死んでいるのか生きているのかも分からない、どうしてこんな場所にいるのかも分からない。でも、それはどうでもいいこと。消えることのない妬ましい感情が心から湧き出てくる、それこそが彼女が彼女である証。
 しかしながら、この場所は嫉妬心を増長させるにはあまりに情報が少ない場所である。
 暗く、寒く、静か。感情を養ったところですぐに死んでしまいそうだ。

「パルシャ、といったかな?」
「名前なんてもう必要ないわ」
「呼び名が無いと不便だろう?」
「べつに」
「私を含めた他者が、だよ」
「あっそ」

 新しい名前が必要になる、と彼女は思う。
 今の自分には“純粋”だなんて名前は似合わない。
 今の自分には取捨選択していかなければならないものが沢山ある。人並みの感情で身体を重くする必要ももうないのだ。

「君は今、今まで生きてきた世界から隔離されている」
「てっきり世界に疎まれたのかと思ったわ」
「その認識に間違いはないよ。残念ながら君は、あちら側の世界で生きていく上で不適格な存在となってしまった。だから、世界から強制的に分けた」
「成程。どうりで都合よく地割れとか起きちゃうわけね」
「タブリーズは元から地震が良く起こる場所だ。そして、私の出来うる事にも合致した」
「龍脈探しは本当に得意なのね。それで、ずっとこんな場所にいなきゃいけないわけ?」

 不安よりも不愉快、嫉妬を覚える対象すらいないのでは、彼女の存在意義すら危ぶまれる。
 退屈な時間には慣れるだろうけど、深緑の嫉妬を抱える者にとっては不適正な環境だ。

「まあここから先は私の仕事じゃない。来るべき奴が迎えに来るよ」
「誰?」
「私や君の十倍くらいひん曲がっている奴さ」
「ふーん」
「……なんて言っている間においでなさったよ。じゃあ、私は帰らせてもらう、彼女は苦手なんだ」

 くたびれ損とでもいった様子で、ナスリーンはつかつかと闇へと歩いていく。自分の役割は終わったと背中が伝えていた。
 代わりに現れたのは揺らぎ、宙が歪み重なりずれていく。
 揺らぎに生じたのは隙間、宙にひかれた一線は世界がこんなにも壊れているという証拠。
 その隙間から彼女を見ている視線、それは目玉だけであり、意志や感情が全く混じっていない。
 彼女にとって意志の映らない生命など興味の対象外である。
 非現実の光景を見せられたところで、何も感じないのだから意味がない。

「茶番にしては長いわ。どうせ穴に落ちた時からずっと観察してたんでしょ?」
「……ふふっ、ご名答」

 その空間から聞こえた声は女のもの、姿は表さず相変わらず不気味な目玉がこちらを見ているだけ。
 別にすぐにでもやりたいことがあるわけではない彼女であったが、下らないやりとりで時間を費やすのも良しとはしていない。
 そもそも、姿も本意も見せずに観察する相手のやり方が気に入らない。

「で、あんたはいつまでこうしているわけ? お互い退屈を持て余すだけだと思うけど」
「そうね、私は退屈、嫌いじゃないわよ。何を行ったところで、それから逃れられる手段など無いのだから」

 別の場所に生じる新しい隙間、そこから地面へと着地して現れた者は声の通り女。彼女と同じ、金髪であった。
 扇と唐傘を持った西洋の身なり、不釣合いな格好をした女は対面してからも相手の全てを推量するかのように、時折頷きながら目線を送っている。
 何を考えているのか、全く持って分からない。
 余裕どころか感情すら隠しきる表情は、今までに見たこともない。
 ただ一つだけ言えることを彼女は呟く。

「貴方、凄く妬ましい存在ね」

 扇子で隠した薄紅の唇が酷く歪んでいた。



























<…> スマラグド


















『地上の光が妬ましい、巡る風が妬ましい』
                         地殻の下の嫉妬心 水橋パルスィ


















 昔の夢。
 脚色の有無、真実の可否さえ分からなくなった遥か昔の夢。
 体調が芳しくない時ばかり見るので、一種のバロメーターになっている。
 故に目覚めは心身共に最悪であった。
 清々しい朝などというものを迎えた事が、今までにあっただろうか?
 鉛のような上半身を起こし、枷に繋がれた足を動かす。視界は最悪、全てのものが霧に包まれているので、洗浄が必要だ。
 身体がこんなにも冷たいのが原因であり、不治の体質。彼女、水橋パルスィは朝というものがそもそも好きではなかった。
 光の少ない世界の方が良い。見づらいものを明るくして見たところで、不幸になるだけだ。
 理解できない曖昧な幸福に妬みを持っているくらいが丁度いいのだ。
 冷たい水で意識を覚醒、曇った緑眼にいらない光が戻ってくる。嫉妬に狂った緑色の世界だ。
 特にこの地下の世界は如何なる時も負の感情で渦巻いている。
 パルスィの為にあるような世界である。



 彼女は幻想の世界を経て、そのまま地下へと放り込まれた。
 心に作用する能力は人間にとって特に危険、感情の琴線に触れられる特殊な妖怪であることは間違いなかった。故に地下での生活が妥当と判断されたのだ。
 何も知らず、知る気もないパルスィから処遇に対する言葉は出なかった。ただ悪態を付いただけである。
 地下の生活は外の世界とは異なり快適だった。
 感情の餌となる人間は殆ど生息しておらず、見渡してもネジが切れた妖怪ばかりが闊歩している。
 そもそも、パルスィはもう特別ではない。緑眼をしていたところで、誰かから畏怖を抱かれることもなく、そもそも迷信の類すらない。彼女の一生を苛ませた伝承は跡形もなく霧散してしまった。
 地下の中において、パルスィは別に強い妖怪ではない。
 戦闘に特化した鬼や、心を読む者、都を荒らした化け蜘蛛など、この世界で名が知れ渡っている妖怪は少なくはなく、パルスィ自身が目立つのを良しとしない性格だった為、特に目をつけられるような事もなかった。
 しかしながら、何故か彼女の周りには何故か、その“名が知れ渡った妖怪達”が集まってくる。強い妖怪に擦り寄っているように見えているのか、小物どもの要らぬ恨みや根拠の無い妬みを買うこともしばしば。しかしそういう感情を持つ者は彼女の専売特許であり、返り討ちにするのも難しくはなかった。
 現状に不満は持っていない。強いて言うなれば嫉妬心が足りていないくらいか。



 過去を振り返ったせいか、睡眠を取った気分にもなれないまま。精神は二度寝をしてもいいと訴えるのだが、身体は反対している。
 気分の転換でもしないと、頭が重くて仕方がない。
 仕事の前に少し寄り道をしても、罰は当たらないだろう。
 そう、彼女に罰を与えられる人間などもういない。
 そして、神などというものは存在しない。少なくとも彼女の中では。






 いつも賑わいを見せている旧都地獄街は、彼女の過去を想起させる場所でもあり、あまり好きではなかった。
 そもそも、彼女は多くの者達が集まる場所を好いていない。それが人、妖怪であるかは些細な問題だ。
 気分の転換にも適した方法がある。けれど、彼女がこの場所に来てしまったのはきっと夢のせいだろう。商いの様子が見たくなることだって稀にはあるのだ。
 地獄街は大路の脇に店を構える市場で、行商には閉鎖的な都市であり、タブリーズやアンティオキアといった交易都市とは異なる。とはいえ、物資がそこまで充実していない地下にとって、ここが一番大きな商業の地であるのには変わりない。
 誰でも店を出してよいバザールも所々にはあるが、規模は都市全体で管理していたタブリーズやダマスカスの迷路じみたスークには劣る。妖怪自体が商売に労力を費やしていないから、発展も見込めないだろう。
 誰かの為に商売を行うお人好しなんて、人間だけであり、それもごく僅か。
 そんな人間に出会ったのは、幸福だったのか不幸だったのか。
 声だけは大きい妖怪達が、金という戦利品を求めて下手な客引きを行っている。
 ただ歩いているパルスィも当然その対象であり、煩わしく飾ってある商品の素晴らしさについて大声で説かれる。
 商売は押すだけでは客は引くだけである。バランスを取りながら、相手の心を上手く崩して取り付かなければならない。力でなんとかしようとする妖怪にはやはり向いていない職である。
 自分ならもっとうまくやれる、そんな心を塗り潰しながら歩いていても、やはり下手糞が真似事をしている光景は、彼女の嫉妬に触れていた。
 再び威勢だけは良い声が上がる。勧誘は何度目だろうか?

「水橋の姉さん! 夏の風物詩、西瓜ですぜ。しかも、水気と甘味たっぷりの小玉西瓜」
「別にいらないわよ」
「切ってあげたら、きっと勇儀姉さんやヤマメさんも喜びますぜ」
「そのふたりの名前を出す事自体に悪意を感じるんだけど」

 加えて顔見知りときた。
 普段は商売なんてやっていない奴が何かを切っ掛けに店を出し、商品を陳列させている。
 目的は遊ぶ金だろうが、ぱっと見た感じからして儲かっていないのがパルスィには分かる。駄目出しできる場所が多すぎて話にならない。
 今までに貯めた鬱憤、そして一応は顔見知りということもあって、目玉商品とやらの外観を吟味してみる。

「これ、値段が高い」
「相場通りですぜ」
「ふーん」

 近くにある西瓜を手に取ってみると十分な重量感が肘へと伝わった。中身は見れないので、この重さを信じるしかない。
 続いて外観、こういう立派な目玉商品は目立つ場所に置かれる傾向があるが、意外と落とし穴があったりする。
 そして、その穴はすぐにパルスィに見つかってしまった。

「大きな傷が入っている。相場通りの値で売っていい商品じゃないわね」
「……あっちゃー。気付かれちったかぁ」
「知っていてやったなら、尚救いが無いわよ」

 頭を抱えるジャスチャーを見せる店主、頭を抱えたいのはパルスィである。
 馬鹿正直に欠陥商品を勧めるから、顧客から竹箆返しをくらうのだ。
 売り手には悪いが、短所を上手く隠しきるのも商人の腕である。

「そもそも、置く場所が悪いわね」
「位置、ですかい?」
「私だったら傷物は客の手が届かない位置に置くわ。そうすれば手に取られる心配もないし、用心深い客にだって、傷も見られない。高い場所なら目立つし、集客も望める。後先の事を考えないのなら、傷を見せずに売り切る。今後の売りに繋げたいなら、値段をやや安めにして、その後傷物と明かして客と値引き交渉ね」
「頭回すのは苦手ですわ姉さん。言っていることはなんとなくは分かるが」
「頭を回さないと儲からないし、損している事にさえ気が付けない。あんた達は能天気でいいわね」

 馬鹿にされていると知っていた上で、妖怪は笑う。
 商人というものが自分にどれだけ向いていないかがよく分かったから。
 その中で浮かび上がった疑問を口にする。

「姉さんは、昔、商売でもやっていたんですかい?」
「……別に」

 もう必要ないから捨てただけ、続いた言葉はパルスィの心のゴミ箱の中。
 知識だっていつかは同じように捨てられるのだろう。それにはまだまだ時間が掛かるのかもしれない。
 少なくとも、二人の名を忘れるまでは。

「ところで、西瓜は? 割引しやすが」
「いらないわ。他の客を当たって頂戴」

 軽くあしらわれて男も流石に諦めた。
 しつこさだけは合格にしてもいいだろう。
 すぐ物事を諦めるパルスィとは真逆であった。



















 地下と地上を繋ぐ河、深道に架かる橋の上でパルスィは一冊の本を手に、寄りかかりながら活字に目を通していた。
 光少なく、白が白に見えない場所、加えて湿気が多く、岩の先から水滴がぽたりぽたりと音を立てている。
 湿気を含んだ指先は紙とは相性が良い。頁を捲るたびにぴらりと気味の良いかすれた音が、彼女の耳に入っていく。
 主人公が肉体的にも精神的にも追い立てられていく様子が鮮明に書かれている文章は、彼女好みのものであった。一文一文で追い詰められていく人間、淡い希望を抱きながら絶望に落ちていく人間、その様子は彼女の心を掻き立てる。
 現実の光景ではないというのが、唯一且つ致命的な欠点であった。
 妖怪には悲劇は似合わない。愚かな自分と向き合う苦悩はなく、欠陥や問題を過小評価する楽天的な思考回路、自分にはない嫉妬の対象。
 人間は筆記物の中でも、現実でも、常に悲劇の中心にいる。そして、彼等は極上の感情を生み出す。
 事実は小説よりも奇なり。そして、悲劇的だ。
 そんな日常を彼女はいつも待っている。闇に包まれた洞穴で一人、今日も誰かを待っている。






「もしかして人間?」

 漠砂のスマラグド。
 人間は一生懸命に自分と向き合って、悩み抜いた。
 けれど、結末は人間にとって悲劇でしかない。

「人間が旧都に何の用」

 縛鎖のスマラグド。
 妖怪は未だ嫉妬という増長し続ける感情に囚われている。
 それは他者から見て悲劇かもしれないが、妖怪の中では必然であり、幸福であった。

「迷い込んできたの? だったら上を目指して帰った方が良いわ。輝かしい光の注ぐ地上にね 」

 水橋パルスィ。
 その緑眼は、今日も美しく、冷たく輝いている。
 彼女は幸福に飢えているのだ。

「折角忠告したのに……。本当に人間は愚かね。妬ましいわ」






















 ねえ、サルト、リリ。
 私にも見つかったわ、生きていて楽しい事。

 誰かの幸福を、才能を、行動を妬む事。
 それがこの美しく儚い緑色の世界が与えてくれた唯一の生き甲斐。


お気をつけ下さい、将軍、嫉妬というものに。それは緑色の目をした怪物で、ひとの心をなぶりものにして、餌食にするのです。
キム・ワイプ
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コメント



0.710簡易評価
2.無評価名前が無い程度の能力削除
理解出来る理解不能って理解したよ
3.10019削除
 同じ人間なのに、他人とどこか違うだけで差別されるという現実、それによって出来た心の闇を見事に書いた作品だと思います。
それ以外でも舞台となる14世紀の中央アジアの情景や雰囲気が感じ取れる筆致や脇役のサルトとリリの内面の掘り下げも出来てますし、他の東方キャラも自然な感じに登場していて良かったと思います。この部分だけでもちょっとした道中物の作品なると思います。
 非常に長い作品なので読む人を選ぶかもしれませんが、自分は良かったと思います。 
4.100名前が無い程度の能力削除
嗜好にあわなきゃ最後までは読みませんが、
パルスィが出ていれば何はさておき目を通してます
今作は最後まで読みました
今まで読んで来たものとは違う味わいがあります
それを優れていると評価するかは別の話でしょうが、
私にとっては記憶に残る作品になりました
7.100名前が無い程度の能力削除
中央・西アジアという世界も、そこで生きた人たちも、生き生きと描かれていてとても素敵。
パルスィの闇と、妖怪となってからの禍々しさの退避も強烈で、そこに人間の征服者が対峙しているという構図も強烈な印象を与えてくれる。
独自の世界を見せてくれる作品には惜しみない評価を。
8.100片隅削除
いい
すごくいい…
9.90名前が無い程度の能力削除
やや長編ながら最後まで楽しめました。パルスィかわいい!
ただ物語の本質からは外れていますがいくつか気づいた、気になった点を。

>「ヴァイオリンにトランペット、ポルタティーフオルガンか。全部貴族の高級嗜好品だが、音はなんだか一般人向けだな。上品さの欠片もない代わりに、音が弾んでいる」
14世紀のアンティオキアにヴァイオリンはなかったんじゃないかなーと思います。歴史資料として残ってない、黎明期のヴァイオリンにしてもアンティオキアに当時存在していたとみるのはちょっと厳しいかなあと。ハープやリュートで代用すれば問題ないかと思います。

>「根菜、ある場所ではキャッサバと呼ばれている。その実、種、みたいなものさ」
あれー、キャッサバ原産って確か……と思って調べましたが新大陸でした。当時話でさえも伝わっていたと考えるのは無理があるかと思います。
同じく根菜のヤムイモか、珍重度を考えるならばキャッサバと同じくトウダイグサ科で中国原産のアブラギリあたりでいいかもしれません。
10.90名前が無い程度の能力削除
サラディンがクルド人ってこと知ってるとあの像に見送られる場面が意味深く思える

素敵な作品でした
11.100名前が無い程度の能力削除
自ら地上にさよならを告げるシーンが印象的だった。パルスィに救いの無い展開は何故こうも似合うのだろう
12.100名前が無い程度の能力削除
彼女は最初から妖怪で、緑眼が恐れられるのと同じように見て見ぬふりをしていたのかな?
色々想像が膨らむけど、結論は人間から見れば救いようがない悲劇でしかないのが悲しい
15.90名前が無い程度の能力削除
もの悲しさがあるけれど、私はこうやって昔も、そして今も生きている、と言う感じのパルパルが良かったです
17.100名前が無い程度の能力削除
すごく好きだ
次の作品を期待して待ってます
19.100名前が無い程度の能力削除
年明け前に読み切れて良かったです
読み応えのある作品ありがとうございました
20.100名前が無い程度の能力削除
世界史好きにはうれしい作品
街の情景が特に良かった
23.100名前が無い程度の能力削除
同人音楽や幾つかの二次創作でパルスィに惹かれ、このキャラには必ず悲しい過去と秘めた思いがあるはずだと思っていました。
というわけでペルシャ時代のパルスィの話を長編でじっくり読んでみたいものだとずっと思っていた、そんな中ついにこの作品を発見。
そういう経緯なのでそもそも万感の思いで読ませてもらったのですが、内容もまさにその期待に違わない出来でした。
当時の中央アジア世界の空気やそこに生きるパルスィの心情を、格調高い文章でいきいきと描いた傑作です。
24.100名前が無い程度の能力削除
すばらしい
25.80名前が無い程度の能力削除
こんな良作品を見逃していたとは・・・
読みごたえがあって、面白かったです
27.100名前が無い程度の能力削除
パルシャは初めから人間的であった。
”わかって”しまってからの急変が悲しくも美しかった。
32.100名前が無い程度の能力削除
中世の中央アジアに生きたキャラクター、世界観ともに見事な作品でした。
34.100名前が無い程度の能力削除
久しぶりに読み返しましたが最高