Coolier - 新生・東方創想話

恋の盲目シャルルボネ症候群

2014/11/27 01:12:05
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「今日は私が行くから、ウドンゲは休みで良いわよ」

 ものの一瞬の間に、鈴仙はありとあらゆる全てを疑った。自分の耳、言い間違い、夢である可能性、元からあって無いような師匠の正気、挙げていけば切りが無い。
 師匠こと八意永琳が薬を売っている理由は、話せば長い経緯になる地上に住まう税のようなものであり、当の永琳としては喜び勇んで販売している訳でもない。価格もかなり良心的で、薬の販売における、ある種のどうでもよさが伝わってくる。その投げやりっぷりの最たる例が、薬の訪問販売形式だった。別にわざわざ薬を売りたくもない師匠は、その頭脳を惜しげなく発揮して“置き薬”という形式を取ったのだ。そしてその雑用は専ら鈴仙に回って来る。まともな医者のいない人里で薬は簡単に売れるし、売ってやっているのは師匠の方。顧客を回って、消費があれば補充して料金を徴収する。表と照らし合わせるだけの、簡単な雑用だった。
 人間と関わる事も勉強よ、と師匠は言うが、鈴仙は内心で、自分で売るのが面倒なだけだろうと睨んでいる。もちろん指摘した事は無い。
 無論、鈴仙が勝手にそう思っているだけであり、何か崇高で深遠な思考があるのかも知れない。でもやっぱり無いのかも知れない。無いんだと思う。
「………」
 玄関で薬の入った箱を背負って、靴をつっかけた微妙な姿勢のまま、鈴仙は動きを止めた。
 今まさに、理解不能の現象が発生しているのである。師匠の言動、行動、理解出来た試しなど空前絶後に近いけれど、直接自分の身に関わる分だけ質が悪い。
「今日は私が行くから、ウドンゲは休みで良いわよ」
 師匠は同じ事を二回言った。
「えーと、何故ゆえですか?」
 ちょっとおかしい言い方になった。
「二度手間になりそうだからよ。面倒な事は、早めに済ませてしまうに限るわ」
 師匠の説明にしてはまともな方だ、と鈴仙は思う。
「グドンゲ、じゃなかった、ウドンゲには荷が重いでしょうから。仕様がないのよ」
 困った表情で言ってから慌てて赤面し否定する辺り、悪気は無いのだろう。悪気は。師匠はいつでも本気で、ものすごい事を言う。
「つまり師匠は何らかのサイコパワー、もとい超然的頭脳で今日のイレギュラーを予知して、それで私が役に立たない、と言うのですね。二度手間になるくらいなら、自分が即決即断即殺で片付ける、と」
「大体そんな感じよ。予知ではないけれど」
 割りと忌憚無く言った鈴仙の言葉に、意を得たりという風に師匠は頷いた。
 そういう事なら鈴仙としても、面倒事など御免だった。そもそもこの雑用自体、嫌で嫌で仕方が無い。師匠の提案の意味を理解した鈴仙は、直前までのウロンゲとは別人のように晴れやかに笑った。
「分かりましたっ。それじゃあ、お勤め頑張ってください」
 苦難の象徴である四角い箱を降ろし、今日の予定を立て直す。
「いやー、師匠の頭はすごいですね。まだ起きてもいない面倒事が分かるなんて」
「いえ、元はと言えばてゐの予見よ。私も未来予測くらいなら出来るから確認したけど、ウドンゲには無理な件でしょう」
 ぴたーっ、と動きが止まった。
 因幡てゐ、あの奇矯な兎について、未だに鈴仙は多くを知らない。知る必要も無いと思っていた。けれど、思い知る機会ならばあった。あれは真実、“迷いの竹林の主”なのだ。
 一時は部下程度に勘違いしていたが、その実態は、師匠でさえ目の上のたんこぶ扱いで手を焼く、もはや自然現象と見限って潔く御す事を諦めた方が良いような存在だった。この竹林が立ち入る者を迷わせるのは主の性格の影響だと、永琳は見解を述べている。曰く、『ただの妖怪兎でないのは明らか』とか。
 とは言え、本人を見ても何の威厳も感じられないのも事実なのだった。鈴仙の表情は、見る間に渋いものに変わっていく。
「てゐの予知ですか」
 憮然と呟くと、何故か師匠は訂正を入れる。
「違うわ、予知でなくて予見。予知、予見、予測、あとはいわゆる未来視、他にも神託なんかの預言。これらはそれぞれ明確に理屈の違うものよ。予知は漠然とした察知。予測は予想の高度なもの。未来視は、未来を視る程度の能力とでもなる一個の確立した才能。預言は神職のものね。で、私は予見をしないから知らないけれど、てゐは確か、…」
「いや、どうでもいいですけど」
 話が長くなる前に遮る。
「それで、…あー、要するにこうですか? れーせんには無理でしょ、助けてあげておししょーさまー、とそういう事ですか?」
「言い方は違ったけどそういう事ね。…やれやれね、いつも何だかんだで甘いんだから」
「私がやります」
 どうしてそう言ったのかと言えば、単なる反駁心だった。
「…つまり、二度手間になるのね」
 と、悟ったような表情で永琳。
「私の仕事ですから、私がやります」
 面倒な問題とやらも、何処まで面倒なのかは知らない。いざとなれば、後詰めに師匠もいる。師匠が二度手間を覚悟しているのなら、とりあえず様子だけ見て自分では無理と判断したらおとなしく手を引こうと、鈴仙はこの時点で決心した。もしも、てゐが鈴仙を舐めている故の判断だったなら軽々と功名を立ててやるだけの事。
 すると師匠は二度手間を覚悟したのか、さっぱりと興味を失った。

「まあ、自分で考える事ね。どうせあなたは何もしないし、何も出来ないでしょうけど」




「…今となっては、からかわれただけのような気もするわ」
 滞りなく、仕事は片付いていった。
 活気のある里の中を歩く。賑やか、とでも言えば聞こえは良いが、猥雑なだけの喧騒など聞くに絶えない、鈴仙は意識から聴覚を遮断していた。だから、目の前にその少女が立つまで存在に気付かなかった。

「──さんっ、鈴仙さんじゃないですか」
「…ん、あー、妖夢」

 真っ白なおかっぱ頭。小柄な体。幼い顔立ちに浮かぶ表情は朴訥そのもの。そして、今日もばっちりと帯刀している。

「こんな所で奇遇ですね」
 妖夢は微かに頬を紅潮させて、上目遣いに鈴仙の表情を窺う。
 厄介な上司の部下である事から親近感を持たれ、軍隊の出身だと話したら憧れられた。無論、脱走兵である事は伏せてある。しかしそうでなくとも、部活動のようなゆるふわ系の訓練しか受けていない事は一生涯を掛けて隠し通す事を誓っていた。
 ちょっとした経験を通して、鈴仙は自分のトラウマもどきと向き合う事を完全にやめていた。一般にそれは成長ではなく、開き直りと呼ぶ。
 逃げて何が悪い。
 後悔したいだけで何が悪い。
 痛い目に遭いたくない事の何が悪い。
 自分だけが助かろうとして、何が悪い。
 私は何も悪くない。
 元からそう思っていた事を、強く自覚した。玉兎兵は戦争になんて使えない、期待する方がどうかしてる、それが鈴仙の見解になった。実際、受けた訓練も欠伸交じりにこなせるような生易しいもの。あの程度で根をあげる元同僚を鈴仙は内心で見下し切っていた。逃げて正解。可哀そうに逃げられなかった元同僚は、今でも下らない部活動を続けているだろう。逃げ足が遅いからそうなる。心の底から、同情して哀れんでやろうじゃないか。
 本当に後悔しているなら死んででも償えば良い。そうしないのは、別にそれ程の事じゃないと思っているから。どうして愚図ばかりの元同僚のために、そこまで深刻に悩む必要があるのか。
 まあ、それはそれとして、鈴仙は今でも罪悪感に苛まれている。罪悪感の地獄にいるという主張は、心地良い酩酊感と自己陶酔を生む。適量の後悔は、酒を嗜む事にも似ている。見捨てた元同僚の怨嗟の声を夢想しながら、自分の悲劇的な境遇を再確認する愉悦。究極的に言って、自分さえ良ければ後はどうでもいい。

 閑話休題。ともかく自分勝手な鈴仙にしては珍しい、純朴な少女の夢を壊さないように、という切なる願いだった。慕われるのが悪い気分で無い事も相俟って、今の所、この優しい嘘は露見していない。
 回想を振り切って、鈴仙は笑う。
「妖夢もお仕事?」
「はい、」
 答えを待たずに鈴仙が歩きだすと、妖夢はとことこと着いてくる。
 自分を慕う健気で純朴なおかっぱ頭の少女の事は、比較的、気に入っている。自分さえ良ければ後はどうでもいいと言っても、他者に優しく接する事を無意味だとは思わない。鈴仙は真っ当な人格者なので、普通に親切する事に対して捻くれた感情を持ったりはしなかった。根が素直なのだと、鈴仙は自分でも思う。

「調べ物に来たんです。…まあ、幽々子様が突然何かに興味を持つのは慣れっこです、…けど、どうせまた、すぐに飽きるんですよ」
「あなたも大変ね」
 言う程、同情はしていなかった。今の所は調子が良いけれど、自分の方が大変な予定なのである。


「…えっ、鈴仙さんもですか?」
「本当に奇遇ね」
 奇遇と言うのは、悪質な偶然を意味するらしい。
 顧客の一軒を前に、鈴仙と妖夢は立ち止まった。里の民家の区別は、興味が無い鈴仙にとっては大きい小さいの判断しか付かない。そういう意味では、小さ目の家だ。

「え、えっと、どうしましょう。…じゃあ、お先にどうぞ、と言うのも変ですかね」
「妖夢からで良いわよ」
 そうすれば、挨拶も適当で良いし。そう思って、戸口の前を譲る。

「ごめんくださーい」
 妖夢が呼ぶと、しばらく家の中でガタガタと音がした後、カラカラと戸が開いた。
「…君は?」
「さる屋敷の庭師です」
「庭師?」
 無精ひげの目立つ窶れた男は、見るからに困惑した。卑賤な地上の者に下げる頭は無い、鈴仙は軽く会釈だけして土間に上がり、薬用箱を探す。置き薬は玄関に置いておくのが通例。確認して、もう一度会釈してさようなら、それで今日の業務は終了。ところがその容れ物が見付からない。
「…失礼、言葉足らずでした。修行の一環で妖怪退治を行っております。本日はこちらのお家で心霊現象が起こるという事で、解決に参りました。危険性は無いと思われますが、早期に解決しないとそれに応じて危険度も上がりますので、何卒、ご理解の方を」
「…心霊現象? そうかい、そうか、…薬師さん、薬の事なんだが」
 家に幽霊が出るといきなり言われて、男は戸惑っているようだった。どうでもいいが鈴仙は薬師ではない、薬は持たされているだけで、使い方はさっぱりだ。
「妹が病気でな、かなり使っちまってるんだ。で、一向に良くならん。…診てやってくれないか?」

 これが面倒な問題らしい。鈴仙は思う、往診なら往診と先に言え、それなら最初から師匠に任せたっての。




 でも一応、診てみる事にした。結果的に用件を後回しにされた妖夢も着いてくる。

 妹は奥の和室の布団に横たわっていた。切り揃えれた髪は、おかっぱ頭。年の頃は、不明、多分十歳前後だろう、子供だ。人間の年齢なんて鈴仙には察せない。見た目の年齢で言うなら、妖夢以下、てゐ以上くらい。
 多分十歳前後の娘は、静かに目を閉じている。

「寝てるわね」

 その一言が、鈴仙の診療の全てだった。
「もう一週間近く、目を覚まさないんだよな。最初は薬師さんのところに行こうかとも思ったが、熱も下がっているし、咳もしなくなったから」
「…うーん、そう。まあ、とりあえず、頭を冷やして体を温かくして寝かせておいたらどうでしょうか」
「それが基本か」
「ええ、大体そんな感じね」
 往診終了。きちんと看病すれば快方にも向かうだろう。後は鈴仙の知った事ではない。
「妖夢、あなたも何か用事があったんでしょ?」
 声を掛けると、妖夢は少女を見下ろしたまま立ち竦んでいた。浮かんでいる表情は、動揺と、信じられないという気持ち。逼迫した表情の変化も、鈴仙には何かおかしいな、くらいにしか分からない。
「鈴仙さん、…それとあの、貴方も、…本気で言ってるんですか?」
 疑うような問い掛け。
「何がよ?」
「…何がだい?」
 妖夢は怪訝な反応に息を呑み、一呼吸置いて、意を決して言葉として表現する。

「………この人、死んでるじゃないですか」

 不思議な沈黙が訪れた。
「えー、…あー、よく見ると、うん、死んでるわね」
 言われてみれば、波長が物の波長だった。
「いやでも、夜中に呻き声が聞こえるしな」
 じゃあ、生きてるのか。鈴仙にはよく分からなくなった。
「それ完全に幽霊じゃないですかっ!? 化けて出てるんですよ、早く供養しないと」
「なるほど、…弱ったな」
 男は呟いて、頭を掻き毟った。鈴仙としても、気持ちは分からなくもない。まさか死んでいるとは思わなかった。
「本当に死んでるのか?」
「え、えーと、…鈴仙さん、脈とか」
「厭よ」
 条件反射で即答した。死んでいるなら死体だ、触りたくない。穢いからだ。
「…え? …はい、では、僭越ながら私が」
 そして妖夢は、何故か分からないが恭しい手付きで少女の体に触れる。「失礼します」と声を掛けていたけれど、どういう意味だったのだろう。相手は物のはずだ。別に、わざわざ訊ねる程の興味は湧かないが。
「ところで妖夢、あまり触らない方が良いわよ?」
「…? 何か、見えているんですか?」
「まあ、そんなところよ」
 心の底からの善意に基づく忠告だった。妖夢を心配する気持ちには、一点の曇りも無い。別に特別な物は何も見えてはいないけれど、それで妖夢が納得するならそれで良い。
 とにかく、穢いし、しかも汚い、だから触るのは控えるべきだ。
「………その、私では詳しく判断出来ないのですが、仏様になってから既に数日以上と思われます。失礼とは承知していますが、…ええと、妹さんの容体とも無関係ではないでしょう。だからその、」
 そこで妖夢は言葉に詰まった。言いにくい事でもあるらしい。

「心霊の話に移らせて頂いてもよろしいですか?」




 鈴仙は部屋を出るタイミングを逃した。妖夢の話が始まってしまったのだった。

「ええ、つまり妹さんは、数日前から目を覚まさない、異音、…とは思っていないですんね? ですが物音もその頃から。…、はい、はい、分かりました。ありがとうございます」

 男は気が利かない訳でもないらしい。頭痛を堪えるような妖夢を前に、お茶を淹れてくる、と言い残し部屋を出て行った。

 和室には、鈴仙と妖夢、それと死体が一つ残された。妖夢はちょこんと正座。鈴仙は死体から離れて、壁の柱に背を預けていた。
 思い立って、背中を離す。とにかく仕事を済ませてしまう事にした。いかにも大儀そうに、ほとんど空になった箱の空いたスペースに、背中から降ろした箱の中身を詰め替えていく。
 それにしても、死体に飲ませていたのだとすれば無駄そのものだったろう。無料同然に売っているとは言え、量が量ならそこそこの値段になる。集計したら、なった。

「…鈴仙さん」
 いかにも困ったという表情で、妖夢。
「どうしたの?」
 お姉さんとして、聞いてやらないでもない鈴仙だった。
「あの男、…おかしいです」
「そうなの?」
 おかしいのか、正直、人間なんてどいつもこいつも同じに見える。男か女か、大人か子供かの区別で十分だろう。あれが女だと言われたら鈴仙も驚くが、おかしいと言われてもピンと来なかった。アレは鈴仙にとって紋切型の大人の男だった。掃いて捨てた方が多少の景観美化になる。仕事でもなければ、人間なんて視界に入れたくもない。
 もちろん妖夢は別。半分人間にしては、見所がある。
「だって、…妹さん、どう見ても死んでるのに。しかもこの期に及んでまだ平然としてるんですよ?」
「なるほど、妖夢の意見にも一理あるわね」
 とりあえず部分的に肯定した。本当はちっとも分からない。

「兄と年の離れた妹、兄妹二人で暮らしていたそうです。ご両親は妖怪に襲われて他界していたそうですが、兄上は手に職が付いていたので、経済的な問題は無かったとか。ちなみに、彫金職人だそうです。…それがどうしてこんな事に。あの、鈴仙さん、私さっぱり分からないんです。霊障の正体が見えないんですよ。なにせ、家がこの様子ですから。…あ、いえ、今の無しでお願いします。大丈夫です、もう少しだけ自分で頑張ってみます。まずは家の探索ですよね。悪霊がいたら斬れば良いんです」
 何やら一人で話していた妖夢は、一人で解決したらしい。人に話すと楽になるとはこういう事を言うのかも知れない。鈴仙は年上の面目を保ち、感慨深げに満足した。

「…にしても、お茶なんか良いのに」
 民家で出されたものなんて汚くて飲めやしない。
「ええ、私が至らないばかりに気を使わせてしまいました」
「別に妖夢は気にしなくていいわよ。アレの勝手でしょう。それじゃ私、自分の用事を済ませてくるから」
「待ってくださいっ」
 切羽つまった声だった。
「どうしたの?」
「え、えっと、その」
 妖夢は顔を赤くして、膝で歩いて鈴仙にすり寄ってくる。制服の袖をつまんだ手を見れば、それで分からない程鈴仙も野暮ではなかった。
「一人で行動すると危険ですし。だってほら、この家、曰く付きですし」
「大丈夫よ、私はかなり強いから」
 加虐心の湧いたサドンゲは、敢えて分からない振りをする。
「オバケだったらどうするんですかっ、駄目ですよっ。お化けは幽霊や騒霊とは違うんです」
 具体的にどう違うのか分からないのは、多分、鈴仙のせいではない。
 オバケに怯える妖夢は、放っておけば泣き出してしまいそうだった。それも面白いけれど、サドンゲはそこまでサドンゲではない。
「もう…、仕方ないわね」
「ち、違いますよ。鈴仙さんが一人だと危ないから、私が守ってあげるんです。この刀に誓います」
「ええ、お願いね」
「…あ、でも、もしもの時は頼りにしてます」
 悪い気分ではなかった。弱気な少女がいれば、相対的に自分は頼れるお姉さんになる。それを受け入れて応じる事は、悪い事とは思わない。これで無視する方が外道だろう。寄り添い助け合って生きるとはこういう事なのだと、鈴仙は本心から思う。
「ええ、任せなさい」
 鈴仙は妖夢を安心させるためにそう言った。自分の優しさに感動さえ覚え、つい口元が綻ぶ。
「じゃあ、私はアレの様子を見てくるから。あなたも早い方が良いでしょう? 一緒にいれば大丈夫よ」
 適当に仕事を片付けて帰りたい。オバケも騒霊も一緒だろう、妖夢もいつものようにさっくりと斬ればいい。鈴仙が関わる余地があるとは思えなかった。
「…意地悪です~」
 妖夢は何か勘違いしながら、後ろを着いてくる。

「…確かに、お茶を淹れてくるだけなのに遅いですもんね」
「そうかしら?」
 永遠亭でお茶といえば姫様の口に入るものだ。斯様な大役を任せられるはずも、強いて立候補するやる気もなく、鈴仙はお茶を淹れた事がない。やらなくて済む事などやらないに限る。楽を出来るのにわざわざ苦労をするなど、意味が分からない。そんな事情があって、鈴仙には判断が付かなかった。
「…あの、鈴仙さん」
「何?」
「この家、やっぱりおかしいです」
「…?」
 廊下が汚い、埃っぽい。身分の低い者の家なのがよく分かる。鈴仙の感想としては、以上だった。他に特筆する要素は何も無い。
 鈴仙は里の者の民家になど上がらないが、大方こんなものであろう。
「その、波長とか何か、分かる事は無いですか?」
 ざっと、辺りを見回す。
「正常値の範疇だと思うわよ。霊体もいるわね。後ろよ」
「きゃっ」
 しっかりと抱きとめる。自分のお姉さんらしさに、鈴仙は我ながら惚れ惚れした。
「ああああの、今の見ましたか?」
「ええ、見たわよ。妖夢はあの霊体を斬りにきたのね。頑張って」
「あんな幽霊も騒霊も、見た事ありませんよ」
 確かに鈴仙も見た事が無かった。振り向いた後ろ、廊下の先の暗がりを横切った小さな影は、鮮やかな黄色だった。多分、手の上に乗る程度の大きさだったろう。ひらひらと尾のような、あるいは帯のような残光を引く霊体は、一般にイメージする湿っぽい幽霊とは違っていた。
「騒霊なら、賑やかだから騒霊なんでしょう?」
 見覚えのある騒霊を思い出す。カラフルな三色の三姉妹だったはずだ。詳細は記憶に無いけれど。
「彼女達は特別なんです。魔法道具由来だそうですから。それに、楽器の演奏の上手な楽しい方々です。でもあれは違います。力の弱い霊は本来、無色です」
「見るからに弱そうなのに、あれには色があった?」
 とは言え、水彩絵の具でぼかして描いたような、半透明の淡い色彩だ。
「そうです。ですからあれは元々色のあるものだった、という事です」
「だから?」
「よくわかんないという事です」
 話が終わってしまった。
 鈴仙には、妖夢が怖がる理由が分からない。どれだけ分からないものだろうと、力で勝るのは圧倒的にこちらのはず。襲われる心配は無い。
「…オバケかも知れません」
 冗談のように、顔が真っ青だった。
「オバケでも斬れば良いでしょう」
「斬れないからオバケなんですよっ?」
「あ、…そう」
 鈴仙は自分に無関係な霊の事がどうでもよくなって、踵を返した。ひよこのように妖夢が付いてくる。と言っても、鈴仙にも目的地は無い。
「台所、ですよね」
 なるほど、台所か。
「何処かしらね、台所は」
「多分、向こうですよ」

 別に広い家ではないので、台所はすぐに見付かった。
 男の後ろ姿が目に入る。ここでようやく、鈴仙はその様子を観察した。おかしい、という妖夢の発言による先入観があるせいか、確かに異常はあるように見えなくもない。
 着流し姿の男は痩せぎすで、そう、何と言うか、くたびれたような印象だった。木枯らしでも吹けば飛んでいってしまいそうだ。いっそ飛ばされてしまえば楽なのに。
「あー、済まない。待たせてしまったか。いや、茶葉を切らしているとは思わなんだな」
 そしてこの通り、抜けている。愚鈍もここまで来れば滑稽だ。
「いえ、お気遣いだけで十分です。…それより、お伺いしたい事があるのですが」
 妖夢が答えて、またも鈴仙は薬の料金を徴収する機会を逸した。

 客間、本来はここに通されるべき場所だろう。客間に場所を移し、妖夢は霊障の発生する心当たりについて、男と問答を交わしていた。
 当の妖夢におかしいと評された男だが、受け答えに関しては間が抜けているだけで、正常なように思える。問答の内容に関しては、鈴仙の知った事じゃない。暇だから、嫌でも二人の様子が目に入るだけ。

「極彩色の霊、それは珍しいのかい?」
「力の強いものであれば、個性として色彩や輪郭も得るでしょう。しかし、ほとんど存在感の無いあの程度の霊体が強い色彩を持つのは不可解なんです。考えられる可能性としては、元々強い色彩を持つような類いの未練の霊、でしょうか。生前の執着に、霊は影響されます。ですから、何か、霊の発生する原因に心当たりはございませんか? あれが駆除可能、かつ有害なものと判明さえすれば、この魂魄妖夢、一太刀のもとに叩き斬って御覧にいれましょう」
「残念だが、僕にはさっぱりだ」
「妹さんが関わっている可能性を考えて、話を伺っているのです。もちろん、心中はお察ししています。ですがこれも、妹さんの安らかな冥福のために」
「別に責めてはいないよ。むしろ礼を言うべきは僕の方だろう?」
「……」
 それで話は終わったらしい。

「じゃあ、薬の料金の徴収を良い?」
「…鈴仙さんっ、…いえ、私が言うべき事ではないのですけど、この方は喪中、なんですよ」
「落ち着いてるじゃない、気にし過ぎよ」
「二人は知人なのか、薬師と祓い屋とは妙な組み合わせだ。…あー、料金だったね。薬師さん、いくらかな?」
 鈴仙がそこそこになった値段を告げると、男は頭を掻いて、「今持ってくるよ」と客間を出て行った。まさか料金が無くて待たされるような事になれば、なるほど、それは面倒な事態だ。その辺りは信用するしか無い。

 妖夢が、耐え兼ねるという風に、男の気配が去った後に小声で口を開く。
「…その、重ね重ね失礼とは存じますが、…鈴仙さん」
「何よ?」
「絶対におかしいです。普通に考えて、妹さんの死に気付かないのも、気付いた上で平然としているのも、はっきり言って異常です。
 それにこれは本来、実は私も詳しく話を聞いていないんです。けれど、…恐らく、幽々子様ご自身で里に遊びに行った折の事でしょう、この家を見付けられ、それで、私にお使いを命じられたのです。この家には、幽々子様が興味を持つだけの何かがあります」
「…ふぅん」
「いえ、ふぅんって、もっと他に何か」
「あなたの所も大変よね、相変わらず。頑張ってね、応援してるわ」
 素直に応援する自分に感心した。こんな些細な一言からも、徳の高さが窺えるというものだ。
「ありがとうございます。…え?」
「私は料金を徴収したら帰るけど」
 それはそれで、鈴仙にとっては自明の理だった。
「いやいやいや、あの男の方、治療しないんですか?」
「何処を?」
 と言うか、仮に怪我をしていたとしても、どうして?
「だって頭おかしいですよ」
「頭が悪いの間違いよ、それは」
 妖夢は何故か、恥じ入るように黙った。恥じらう、と言うよりは、己の不甲斐無さを噛み締めるような感じなのだが、その些細な違いは鈴仙にはやはり分からない。
「…はい、確かに修行の至らぬ身である私が、安易に判断して良いべきものではありませんでした。鈴仙さんが言うなら、それはきっと、そうなのでしょう」
 妖夢は恐れながらと呟き、慎重に言葉を続ける。
「しかし、あの状態は狂気に属するのではないでしょうか? 未熟な私にはどうしても、そのように見えるのです。かく言う私自身、狂気に呑まれた事もあります。あの状態は、見えるべきものが見えなくなり、見えないものが見えるようになる。端的に言えば、自己を失います。あの男性は、そういう状態ではないのですか?」
 専門分野だったので鈴仙はこの際しっかりと説明しておこうと、並んで机に向かっていたのを妖夢の対面側に回る。
「狂気というのはね、本来は月の狂気だけを指して言うの」
「本当の月が持つ狂気、…ですね。あれ、ですか」
「ええ、そうよ。月の民は地上のどの種族よりも優れた存在。月の民は、地上の者が持っているゴミみたいな感情を持っていない、でも地上の者はその雑多な感情に縋っている。だからその不純物を取り除いてやれば、地上の者はあっさりと狂う。
 月が狂っているように見えるのは、地上とは断絶的な差異があるから。月の狂気は、純化の狂気。雑多な地上との明確な差異はそこにある。自分達と異なる意志疎通の成立しない存在を指して、狂っていると言うの」

 そういう意味で言うのならば、男の行動は鈴仙の理解の埒外にある。穢い死体と暮らすなど、真っ当な精神とは言い難い。しかし、地上の概念で言う家族の情、だろうか、そのくらい察してやらない鈴仙でも無かった。不本意ながら、地上で仕事をしている経験の為せる技だろう。歩み寄るつもりも合わせるつもりも無いが、出来てしまうのだから仕方がない。

 有能。優秀。鈴仙は玉兎兵時代にも、大した努力もせずに抜きん出た成績を残している。なんだか、「うまく行きすぎると不安になるのは心の病かしら」と真顔で語る師匠の気持ちが分かったような気がする鈴仙だった。


 一方の妖夢は、鈴仙の説明に、分かるような、分からないような、という顔をした。
「あの男性は?」
「アレの波長は正常値よ、可も無く不可も無く。いえ、少し間延びした暢気かしら? 狂気に堕ちると波長は短くなるの。だから、アレは狂ってない。話が少し通じないだけで狂気と言うのは早計だわ」
「…はい、分かりました。納得もしました。ご教授、有り難く存じます」
 妖夢が頭を下げたので、ジマンゲはえへんと胸を張った。気分が良かったのだ。




「…で、また遅いですね」
 妖夢が呟いて、鈴仙は料金不足という可能性を考慮した。それならそれで、物理的に止むを得ないだろう。であれば、鈴仙の責任問題にはならない。ツケておくしかない。まさか家財を徴収して来いと言うなら話は別だが。

「…待たされても迷惑ね。また様子を見に行くわ」
「あっ、私も行きます」

 さて、今度は台所ではないだろう。何処だか、と考えると、玄関の方に気配があった。客間は玄関に近いから客間なので、すぐに気付いた。
「鈴仙さん」
 と小声と共に、妖夢が鈴仙を手で制した。
 確かに不審である。けれど柱の陰に隠れて息を潜め、家主と客人の会話を盗み聞きするフシンゲと妖夢も、他人の事は言えない。
 そーっと様子を窺った玄関には、知った顔がいた。

「お師匠様の言い付けで参りました。因幡、と申します」
 軽薄にならない程度の絶妙さを保つ、柔和な笑顔。落ち着いた物腰。

 詐欺だ。鈴仙は、呆れて物も言えずにそう思った。

「私は鈴仙先輩と少し話があります。こちらで時間をもらっても?」
「ん? ああ、分かったよ」

 小柄を通り越した幼児体型のあどけない体付き。けれどそこには、妖夢に感じるような純粋さは欠片も無かった。てゐの老獪な性格を鑑みれば、愛くるしい容貌は疑似餌じみている。

 何故か、てゐは鈴仙の制服を着ていた。もちろんサイズが全然合っていない。ワイシャツは大きすぎてスカートを覆い隠しているし、そのためかてゐは普通に着こなす事を放棄していた。袖は捲ってゴムで留め、腰にはワイシャツの上からベルトを巻いている、こちらは鈴仙もやる。ネクタイは緩めるどころか、胸元でリボンのようにちょうちょ結び。癖毛には軽くブラシも当てたのか、いつもよりはマシだった。
「似合う?」
 てゐは上機嫌そうにくるっと回った。
「ちゃんと返しなさいよね」
 他に、言うべき事は無い。
「……、いや、感想を期待した方が悪いのだろうね。で、妖夢、どうかな?」
 話を振られて、妖夢はきょとんと小首を傾げた。
「今様ですね」
「中世頃に廃れた流行りと言われた気がするけれど、他意は無いと受け取っておくよ」

 そして、朗らかな笑みが、呆れた表情に変わった。
「…あのねぇ、鈴仙。…ま、こんなものか」
 鈴仙は零下に冷えた眼差しで、てゐを見つめる。お師匠様、先輩、どれもこれも戯言だった。
「別に良いじゃない。ちっちゃい後輩がいて鈴仙は幸せものだね」
「素直な後輩なら歓迎するわよ、素直ならね」

 甘ったるい幼い声は、聞いているだけで胃がもたれる。
 鈴仙の内心でも悟ったのか、てゐはさも可笑しそうに笑った。こいつは、最悪な性格をしている。

「ま、処世術だよ。話が進行しないのは困るからね。私はお師匠様の弟子、鈴仙の後輩、そういう事にしておこうじゃない。第三者の参入は説明が面倒だよ。私は永遠亭でなんか、働いちゃいないけどね、その勘違いは馬鹿馬鹿しいよ。不快と言う程では無いから受け入れるけれど。ほら、制服も着てみたんだから」
 着たか着てないかで言えば微妙な線なのは、気にしていないらしい。
「…あ、そう」
 今日のてゐは上機嫌だ。笑顔は溌剌としていて、鈴仙の苛立ちを募らせた。こういう時は大抵、ロクでもない事になる。
 おとなしくしていれば、…まあ、自分程ではないにしろ、可愛くない事もないのに。本当に勿体無いと、鈴仙は思う。
「で、鈴仙はどうする? もう帰って良いよ」
「は? 帰る訳が無いでしょ」
 さっきと言っている事が違うな、とは思った。
 数秒前までの決意くらい、容易く裏切れなくてどうするのか。
「さて、妖夢。あなたの用件は? 一応、確認しておくよ」
「それでしたら、霊障の除去です」
 妖夢は短く答えた。
「ん? うん、じゃあ決まりね。問題無し」
 と、まとめるてゐ。主導権を握られるのは癪に触った。
「仕切るな」
「あなた達だけじゃ展望が無さ過ぎるでしょ? だから私が案内してあげる、けどまあ、必要以上の口出しをするつもりは無いよ。勝手にしてよ、私は見ているからさ」

 上機嫌そうに、てゐは微笑む。
 ケージの中の動物を眺めるような優しげな目付きに、鈴仙は生理的な嫌悪感を持った。




 何故、こんな事になったのだろう。
 …言っちゃなんだけど、師匠のせいね。

 グドンゲなどと言われなければ、鈴仙だってムキにはならなかった。

 鈴仙は嫌々と進み、てゐは後ろを着いてくる。必然的に先頭に立たされた妖夢が、奥の和室の障子戸を開く。
 格子に囲まれた和紙の目隠しが外される。

 露わになる室内。男の薄汚い背中が目に入った。男は妹の、眠っているような死体を前に沈黙していた。

 さっきは気付かなかったいくつかの点が、目に入る。何故か知らないが、少女の枕元には妙な形の石が置いてある。地上の者のする事など意味が分からないし、分かりたくもない。小さな本棚には、少女が読めるとは思えない、大判で箱入りの本が数冊並んでいる。古びた本だ、鈴仙は厚い本を見るだけで嫌になる。さっさと視線を外した。

「何故、こんな事になったのでしょう」
 ぽつりと、妖夢が呟いた。
「師匠のせいね」
「えっ?」
「…どうしたの? 妖夢」
「あ、いえ、何でもないです。仏前で大声を出してしまいました、すいません」
 弾かれたように後ろを振り返った妖夢は、鈴仙の真剣そのものの顔を見て、何か自分には及ばない領域の話なのだろうと、訳が分からないなりに納得するしかなかったようだ。
 鈴仙は不思議そうに、すごすごと前に向き直った妖夢の後頭部を眺めていた。
「鈴仙、あなたの仕事だよ?」
 と、背中をつつかれる。
「改めて話を伺いに参りました、だからね」
 顔を顰めて、再び奥の和室に踏み入った。先入観のせいか、異臭が鼻を突いた。一刻も早く、こんな部屋、こんな家は出ていきたい。
「起きてるかしら? 話を聞きに来てやったわよ」
 それで、何をどうしろと言うのだろう。
 部屋には兄と、死んでいる妹。兄は妹の死に気付かずに、看病を続けていた。
「あ、ご愁傷様ね」
 薄汚い背中に、そう声を掛けた。後はさっさっと穢い死体を処理すれば良い。火葬か土葬か知らないが、墓地に捨ててくるべきだった。それで終わりのはずだ。
 いや、料金の徴収が未だに達成されていないのだった。
「で、薬の」
「実に愉快だけど、そこまでだよ。…妖夢、先にあなたの仕事を済ませようか」
 遮ったてゐを、鈴仙は腹立たしさと共に睨み付ける。
 話を振られた妖夢は、しかし先程、質疑応答は済ませていたはずだ。困惑した表情で、鈴仙に助け船を求めている。
 てゐは、仕方ないという風に目を細めた。その視線を、滑らせる。
「あなたは、どうしてまだ看病を続けているのでしょうね?」
「………いや、…どうにも受け入れ難くてな」
 男は至って平静に、そう答えた。

「ずっと二人だったんだ。妹は昔から病気がちで、よく寝込んでいたよ」
「妹さんは…」
 妖夢が気遣うように問う。
「父が妖怪に襲われて、あれは何だったかな、猪狩りに森にいった時か、何だったのかは覚えてないけど、…冷たいんだろうか。でも、僕が十五の時だったのは覚えてる。母も、後を追うように病に倒れて、…まあ、ここじゃ珍しくもない話だがな」

 ものすごく、どうでもいい。心の底から、興味が無い。
 鈴仙は少しでも耳を傾けてしまった事を後悔して、目線を逸らした。地上の情報を頭に入れるのは、頭が穢れるような気がして不快だった。

「つまり、そういう事ですか」
 何かに気付いたように、妖夢が呟いた。

「あなたの未練が、妹さんの魂をこの世に縛り付けているのです。辛いのは分かります、…でも、現実を見てください。それが、妹さんのためでもあります」

 男は顔をあげる。
 なんかよくわかんないけど、大団円らしい。良かった良かったと、他人事ながら鈴仙は思う。こういう時は、拍手でもすれば良いのだろうか。

「──いやいや、そうはならないんだよねぇ」

 視界の端で、てゐが不吉に笑った。

「あなた達は気付かない? 見えるよ。あなた達の視界の中に、それはいるんだから。ゆっくりと息を吐いて、力を抜いて、気分を落ち着けて。…ほら、鮮やかだね。極彩色、と言うのかな」
「…鈴仙さん」
 深刻な声音で、妖夢が頼るように鈴仙の名を呼んだ。
 理由は分かった。至って平凡な和室が、極彩色に彩られている。ひらひらと尾のような、あるいは帯のような残光を引く霊体。暗い廊下の先で見たものと同じだった。

 和室の空間を埋め尽くすように、赤や黄色だけではない、オレンジやブルーの、ありとあらゆる色彩をもった不自然な霊体の群れが溢れ返る。
 発光する霊体は光源となり、しかし光源に留まらない鮮烈な気配で、くすんだ室内を華々しく飾り立てた。

 鬱陶しい。鈴仙は視界を覆う霊の群れを手で振り払った。反射的にそうしてみたものの、実態を持たない半透明の霊を相手に、手の平はすり抜けただけだった。つまり、視界の鬱陶しさを我慢してしまえば、この現象は限り無く無害という事でもあった。
 霊とは人の魂らしいけれど、その程度の取るに足らないものはどうでもいい。無害で無価値な光景は、事実だけ見てしまえば、セロハンで飾り付けた室内と大差無かった。

 そんな判断から、鈴仙は冷静と言うよりは醒めた気分だった。いや、やっぱり鬱陶しい。すり抜けると分かっていてもあまりに鬱陶しいので、つい手で払ってしまう。

「この家に巣食っているのは力の無い霊と聞いているけれど。…これは、何だろうね?」
 てゐの質問に、妖夢は硬直する。
「妖夢、霊が現れるのは、どういう理由である事が多いのかな?」
「…それは、怨みつらみ、…それと、自分の存在に気付いて欲しい、という思いから」

 それなら現れた段階で用は終えたのか、心霊現象は鮮明さを失っていき、元の平凡な和室に戻っていった。

「これは派手だったね。後者だろうと思うけれど。…だとしたら、気付いて欲しいという願望は、どれだけ募っていたのだろうね?」
 てゐは妖夢ではなく、男の背中に向けて声を掛けた。

「…僕が、悪いのか?」
 悲嘆に擦り切れたような呟きだった。

「くだらない、それで何なの? 悲劇的な口調で語られても失笑するしかないわね。後悔するのは、まるで反省しているみたいに爽快だもの。自分が楽になりたいだけの懺悔なんて、いちいち聞いてられないわ」

 いい加減、待たされ過ぎて苛々していた。自分の仕事が気になって気になって仕方がない。
 鈴仙は前髪を掻き上げて、くたびれた男の背を見下ろした。

 師匠の折角の申し出を断った事を、今更悔やんだ。このザマでは料金を徴収出来るかどうか、本格的に怪しい。
 つまり師匠の申し出は、そのままの意味だったのだ。

 鈴仙では家財を差し押さえる判断は付かない。それは師匠がすべき事だろう。また家を訪ねるとなれば、なるほど、確かにそれは二度手間に相違ない。
「…はあ~」
 お腹の底から絞り出すような溜め息を吐いた。もはや鈴仙がここにいる意味は無い。それならば、一刻だって居たくはなかった。この家は埃っぽくて嫌だ。大体にして、鈴仙は人里の空気を吸うのも嫌なのだ。汚らわしい。
 一度意識してしまうと、尋常ではない不快感に偏頭痛すら覚えた。
 そもそも、地蟲相手に薬を売る必要はあるのだろうか? どうせ、ほいほいと無価値に死んでいくだけなのに。

「てゐ」
「ん?」
「私、もう帰るから。後はあんたがやりなさい。物の値段くらいは分かるんでしょう?」
 世渡りに関してはてゐの方が慣れているのも確かだった。それを素直に認めない鈴仙ではない。
「んん? あー、そう来たか。うん、分かった。裁量と責任なら私が持つよ。あ、姫様が団子食べたい、買って来いって言ってたけど」
「…お金はどうするのよ」
「売り上げに手を付けて良いってさ」

 鈴仙はもう一度、溜め息を吐いた。
 どうしてこんなにも、苦労性が板に付いてしまったのだろう。

 苦労と言えば鈴仙、鈴仙と言えば苦労、そう言っても過言ではない。次々と我が身を苛む不幸に、鈴仙は内心で苦笑を零してしまった。

 やれやれ、永遠亭は私がいないと回らないわね。

「………あの、…鈴仙さん?」
 妖夢が、まるで何か信じられないものでも見たような表情で、鈴仙の顔を呆然と見つめながら呟いた。
「ん、私の顔に何か付いてる?」
「…いえ、そういうわけでは」
「妖夢も仕事、頑張ってね。大丈夫よ、妖夢なら。この程度の雑魚幽霊、大した事なんか無いんだから」
 何故かは知らないけれど、妖夢は激しく動揺している。鈴仙は思いやりの心に駆られて、無知蒙昧で非力な少女の事を明るく励ました。すると、不思議な充足感があった。
 わずかながら、鈴仙は面倒事に煩わされた収獲を感じたのだった。良い事をすると、気分が良い。

「妖夢、次はお互い休日の時に会えると良いわね」

 ぱあっと晴れやかな笑顔で鈴仙はそう言い残し、みすぼらしい家を立ち去った。


◇◇◇

 妖夢の常識に照らし合わせる限り、この家の様相は異常な感触をもたらすものだった。

 見た目は普通の古民家だった。その玄関を潜り抜けた瞬間に、気温の変化を感じた。
 今の季節は冬である。もう少しすれば、小雪が散らつき始め、山間部のこの地域は深い雪に閉ざされるだろう。それが、一歩土間に入った瞬間だった。
 暖かい、そう感じた。しかし季節を間違えたような変化は錯覚で、暖房が効いている訳でもなかった。肌寒さは家の中にも存在している。もちろん、屋外に比べれば風が吹き付けない分、温かさを感じる。何より、古民家に特有の気配が、妖夢にとっては心地良いものだった。
 掃除が行き届いていないきらいはあっても、男所帯ならこんなものだ。その時はそう思って、奥の和室へ通される最中に見た、用途不明の空の水槽に、一瞬だけ足を止めた。
 歩調を緩めて名残惜しく振り返って見ても、水槽の用途は相変わらず不明だった。

 そして和室に入り、絶句した。そもそも幽霊屋敷だと聞いていた当初の予想からすれば、おどろおどろしい所も無く、不審点は散見するものの、どちらかと言うならむしろ普通に近い家だと感じていた印象が、全て覆った。幽霊、それどころの騒ぎではない。

 布団に寝かされている自分より少し年下に見える少女を、妖夢は最初、人形か何かだと思ってしまった。生気が無いのだ。
 次に、生気を吸われたのだと思った。脈を取るために肌に触れ、脈を取る前に確信した。せざるを得なかった。肌の弾力が、既に死人のそれだったのだ。妖夢には死後硬直なんてものに関する知識は無いのだが、無いなりに察する中で、恐らくこれは、死後数日は経過した仏様だろうと判断した。

 そして、怖くなった。家主の男性は、嘘を言っているようには見えなかった。本当に、妹が死んでいる事に気付かなかったようだった。狂言ならばまだ良かった。加えて、鈴仙が言うには正常との事。理解が及ばず、妖夢は完全に取り乱してしまった。

「妖夢、次はお互い休日の時に会えると良いわね」

 気付いた時にはもう、そんな事になっていたのだ。
 他にも何か、信じ難い事が起きていたような気がする。…オバケ、そう言った自分を思い出して赤面する。

「…もう何なんですか、これは」

 鈴仙が後を任せてくれた。妖夢はそう思った。だから弱音を吐く訳にはいかないのに、それでも口をついて出てしまった。自分の不甲斐無さが嫌になる。日々の修練は何だったのか。

「先程は先輩が失礼致しました。私達は別室、客間をもう一度お借りしますので、有事の際、身の危険等を感じましたらお呼び立てください。現在、この家では心霊現象が起こるようですから。相談の後、詳しい話をお伺いさせて頂きます」

 流暢な言葉を聞いて、放心した妖夢は手を引かれて和室を後にした。




「さて、はっきり言ってかなり非常識で非礼な事をしてしまったね。まあ、最初から常識なんて二の次ではあるけどね」
「え?」
「妖夢さ、この家で現在、真っ先にすべき事は分かる?」
「…霊を、…あ、違います。妹さんのご遺体を、然るべき形に」
「うん、その通り。別に不審死じゃないからね。ただ、家の人があの様子でちょっと困ってるだけ。非礼は承知で、私達は私達の目的を果たしてしまおうか」
「…良いんですかね」
 勝手をするのは気が引ける。
「良いも悪いも無いよ。供養が最優先なのは分かるでしょ? 私達の目的は、妹ちゃんの供養に深刻に関わる問題だもの」
「…はあ、…はい」
 何かほだされたような気がするのは気のせいだろう。妖夢の中に、然るべき義務感が湧いた。
「そうです、私がこれではいけません。今あの兄妹を救えるのは、私だけなんです」
「うん、その意気だよ」

 そこでようやく妖夢は顔を上げて、机の対面に座るてゐの姿を見た。少し前に鈴仙が座っていた位置だ。

 鈴仙がいつも着ているものと同じ制服姿なのに、随分と印象が変わる。いや、大きさが合っていないので当然と言え当然なのだろうけれど。ほとんど、ぶかぶかのワイシャツ一枚に見えるし、リボン代わりにちょうちょ結びにしたネクタイは、どういう発想をしたらそうなるのか不思議だった。

「で、妖夢。当てはあるのかな?」
 頬杖を突いて、てゐは問い掛ける。

 妖夢は、てゐと話した事はあまり無い。先程は永遠亭でなんか働いちゃいないとも言っていたが、それならどうして玉兎の制服を着ているのか。処世術、とも言っていたか。
 それに実を言うと、妖夢はてゐの、背筋がくすぐったくなるような甘い声が苦手である。面と向かうと、気恥ずかしい。
「まさか、斬れば分かる、とは言わないよね」
「言いませんよ。斬って良いものと悪いものの区別くらい、斬る前に分かります。刀を握る者として、最低限の心構えでしょう」

 無論、斬って分かる事は多々ある。斬らねば分からない事も多々ある。最終的には斬ってみなければ分からない、それも妖夢にとっては事実だ。

「…斬るのは悪いもの、ね。興味深いかな、聞かせてくれる?」
「明らかに私よりも弱いもの、です」
 妖夢は明瞭に、そう答えた。
「…私の記憶違いかな、そこら辺の妖精は斬り倒してない?」
「未熟なこの身、妖精に激突するだけでも命取りに成り得ます。妖精と言えど、努々、油断ならぬ相手でしょう」
「そう、…物は言い様だね。続けて」
「この家に現れたものは無害です。加えて、妹さんの霊魂である可能性がある以上、安易に刃を向けて良いとは思えませんし。自分の存在に気付いて欲しい、それだけを望む幽霊の根底には、哀れがあります。ですから私は、刀を抜く予定はありません」

 妖夢の返答に、てゐは微笑む。鈴仙から聞く噂は、何と言うかひどいものであるし、妖夢自身の耳に入る限りでも、信用ならない相手なのは分かっている。それでも、優しさくらいは信じて良いような気がした。
 てゐの眼差しは、籠の中の鳥を眺めるように優しげだ。

「生者が訴えを聞き届ける。それで、霊魂が満足してくれれば良いのですが」

 妖夢は、ひらひらと尾のような、あるいは帯のような残光を引く霊体を、そして、極彩色に彩られた和室の光景を再び脳裏に描く。
 弔われない無縁の霊は、時として花に宿る。少しだけ、あの光景を思い出した。しかし今は、無関係のはずだ。

 真夏を思わせるような明るい色だった。あの瞬間、妖夢は肌寒さを忘れていた程だ。
 …魚。妖夢には、あの霊魂が魚の群れに見えた。動きが丁度、似ていたのだ。けれど、妖夢が知る限りの、例えば鮎などの川魚などの色彩とは違った。極彩色の魚なんて、妖夢は見た事はもちろん、聞いた事も無い。
 黄色に黒い模様が入ったものや、橙色と白の縞模様。霊なのだから当たり前だが、あれはこの世のものではない。
 和室に何の前触れも無く現れた、不可解な霊の群れ。群れは一定の規則と、各個の不規則さを以て複雑に、しかし全体をみれば法則が分かるような、そういう配合で揺れていた。
 恐怖や当惑に先んじる感情があった。妖夢は、何処かの仙境にでも迷い込んでしまったような錯覚に陥ったのだ。

 華美なものは苦手だ。それでも、美しいものは理解を超えて美しい。それが妖夢の密やかな持論。余計な御託や説明は不必要なのだ。

「疑問点を挙げてみようか」
 しばし、意識が飛んでいた。妖夢は慌てて正座し直す。

「…えっと、あの子の病気は」
「肺が悪かったそうだね。事前に確認してきた、少し前の事だけれど永琳はちゃんと往診に来ている。…あー、それなら何故、完治させなかったのか、それを質問するのは酷だよ? まさか人里の者を片っ端から延命させろとは言わないよね? 容易に救えるからこそ、線引きは必要。救えるからという理由だけで命を救う事は、すべきではない。永琳は薬効を型落ちさせているし、一定以上に症状が重くなった患者は治療を放棄する。それはむしろ、人の倫理のための行為だよ。…ま、永琳は、それとも私達みたいな異端の人外は、かな、所詮、命は軽くないという事を理屈でしか理解出来ていないんだけどね。それでも努力くらいはするよ」

 その言い分は妖夢にも分かるし、納得も出来る。人は死ぬ、それは絶対だ。人の死なない世の中など、少し想像しただけでもぞっとする。
 少女の死は悲しいが、病気ではあれど自然な死を迎えた、そう理解するべきなのか。無論、救えるのなら年端のいかない少女くらいは治しても罰は当たらないと思うが、機械的に基準を決めなければならないのだろう。力のある者には、同時に責任も発生する。それは妖夢がとやかく言う事ではない。

「さ、それで、妖夢はどう思う? この家の状況」
「まず、私にはどうしても、…家主の様子がおかしいように思えます」
 着流し姿の、くたびれた男性だった。実際は二十代だろうが、老けた容姿は三十を過ぎているように見える。無精髭もそのままに窶れた印象はあるものの、体格を見れば芯が通っているのは分かるし、妹を一人で養っている身の上にも深く心を動かされた。だからこそ、たった一点の、妹の死に気付かずに看病を続けていたという事が、不可解だった。嘘を言っているようには見えない、あれは心の底からの本気だった。
 狂っている、そう思ったのだ。
「それと、霊の方ですね」
 妖夢は最初に見た一体の詳細を思い出す。見えたのはほんの一時だったが、仕事なので仔細に観察していた。
「鮮やかな黄色、黒や白の線で模様が入っていました。球体、と言うよりは円盤状でしたか。それが縦になって、尻尾を動かすようにくねりながら、水平にすーっと、…あんな霊魂は、見た事がありません。ですがあれは霊魂なのは確実です。見れば分かりますから」
 死者の性格か未練の影響だろうか。いや、恐らくはそうなのだろう。
「うんうん」
「二度目に和室に現れた方が、目下の問題です。…あれは正直、意味が分かりません。気付いて欲しい、という願望は分かります。…ですがその、大変言い辛いのですけど、…力の弱い霊に出来る事なんて、大した事ではないんですよ。なのに、あんな華美な姿を取るなんて。…最悪、危険性に関しても考慮すべきなのかも知れません」
 刀を抜く予定は無い、とは言え、安全第一でもある。何せ、真っ先に犠牲になるのは普通の人間でもあり関係者の男性からであろう。
 刀さえ抜けば、一分と掛からずに家中の霊魂を探し出して斬り尽くせると、確かな自負がある。けれど、それが正しい解決とは思わない。

 それは、幽霊を無闇に斬ってはならないと閻魔や主に言い付けられたからではなく、妖夢自身が、その意味を朧ながらに理解している。本来天に昇らない魂が成仏してしまうとか、そんな都合じみた話ではないのだ。斬る事は、殺す事。言い付けとは違っているかも知れないが、妖夢はそう理解して、すべきだと考えている。

「上出来かな、状況把握としては三十点」
 てゐは相変わらずの背筋がくすぐったくなる甘い声で妖夢を褒めた。まともに褒められる機会は少ないので、全身がむずがゆくなって、また正座し直す。
「…でもそれ、上出来なんですか?」
「点数が付くだけで優秀だよ。霊魂の詳細な観察で十点、一度目と二度目を分けて考えた事に二十点」
「疑問点一個で十点ではないんですね」
 男の様子に点数は付かなかった。
「ま、数字は適当だよ」
 本当に適当だな、と妖夢は思ってしまった。その印象は間違ってはいないのだろうけど。
「ともかく、あの霊に関しての正確な理解だね。あれは妖夢から見て不可解な点はあるのだろうけれど、妹ちゃんの霊魂だと思っている、で良いのかな?」
「はい、死因も病気という事ですし、時期の確認は済ませてありますから。…悪い霊に取り殺された、という事は無いと思います。それに私の印象で恐縮ですが、あの霊は無害で、敵意はありません。だから、何故ああなったのか、を調べれば良いんですね?」
「ただしそれは、第三者が理解するのでは意味が無いよ? 分かっているね?」
「もちろんです」

 あの状態の家人に話を訊くか、半ば勝手に家の中を探索する事、どちらが失礼に当たるか考え、妖夢は後者を取る事にした。許可はこの際、やむを得ないだろう。後で頭を下げる事になるくらいは安い。
 それに、妖夢は期待してもいた、霊が人間の心に働き掛ける影響とは、いかに無害な霊とはいえ馬鹿に出来ない。家人ともなれば、影響は受けるだろう。霊の問題を解決すれば、家人も真っ当な状態に回復するかも知れないのだった。
 兄妹が暮らしたこの家に、霊の形がああなった答えがあるはずだ。妖夢は小脇に置いた二本の刀を再び差して、腰を上げた。




 霊魂が魚の群れに見えた。動きが似ていたのはそうだが、その印象と連想の原因は、恐らくはこれだった。
 廊下に置かれていた、空の水槽。空っぽと言っても、中に生物が入っていないだけで、単なるガラスの箱ではなかった。
 白っぽい砂が敷き詰められて、波模様が描かれている。そうでなければ、妖夢はこの透明な箱を水槽とは思わなかったろう。

 小規模な枯山水。侘び寂び、だろうか。妖夢は西行寺の令嬢に仕える身でありながら、雅だの何だのが、恥ずかしながらさっぱりである。和歌だとか、そういう華やかな文化はどうしても肌に合わない。雨月とか、凝ったものも駄目だった。雨月など、詭弁にしか聞こえない。御託を並べて何が楽しいのだか、まったく分からない。
 妖夢の肌に合ったのは、質素倹約を旨とする世界だった。しかし、難しい決まり事や約束事は、むしろ余分ではないかと畏れ多くも考えている。庭造りにも見立てはあるが、妖夢に言わせれば、くどい。
 妖夢の美意識は、幽邃の庭を前に、縁側に腰を降ろし、黙して眺める事で完成されるのである。主人に話したら喧嘩になったので、妖夢の交友範囲に侘び寂びを語れる者はいなくなってしまった。無念である。

 白玉楼の庭園は、西行寺家が居住する前から在ったと伝え聞く。いかなる匠か、その名前さえ聞く前に先代の祖父はふらりと去ってしまい、悔いが残った。
 あの庭は、見事だ。それ以上の言葉を尽くす意義を感じない。光栄にも妖夢が手入れを仰せつかっているが、やはり妖夢の中にも欲はある。
 あのような庭を拵えてみたいものだ。しかしそう思う時点で、かつての匠に敵わない事も理解している。あれは己の中の自然と一体にならなければ生まれない。禅僧が庭を造る例があるように、庭作りとは、禅にも似ている。造ろうとしては造れないのだ。だからまず、日々の修練から。
 まさかあの庭に手入れ以上の手を加える訳にもいかない。そんな訳で、妖夢は日々精進しつつも、庭作りとは遠く手が届かないものだと思っていた。雅に雨月を好む美意識の合わない主人に話しても請け負ってはくれないだろうが、お小遣いを溜めて水槽を買うのも良いかも知れない。まずはこの小さな箱の中に、己を、小さな白玉楼を再現してみよう。

「…妖夢、仕事中だよ。趣味に没入するのはやめるように」
「………はっ、」
「砂だけで、よくもそこまで想像を育めるね」
「それはそうですけど。私は水槽というものに魅力を感じて」
 だから、ひょっとすると家人もそうで、…まあ、近い未来の妖夢の姿なのかも知れないが、頓挫、したのだろうと思ったのだ。言ってしまっては何だけれど、水槽の中身には魅力も才能も技術も感じない。砂を敷き詰めてあるだけだ。だからこそ、同好の士の先達かも知れないと。

 ふと、視界の端を黄色い影が横切った。
 振り返っても、そこにはいない。追おうと思えば追えるだろうが、今は追っても手立てが無い。

 あれは何故、黄色、いや、色はあまり関係が無いとは思う。違和感のある姿そのものが問題だ。
 あの極彩色がそれでも何処か寂しいのは、やはり、幽霊だから、なのであろう。

 古い木造日本家屋の、真っ暗ではないが、照明が無いためにかなり薄暗い廊下。この家は全体的に、柿渋色をしている。
 それなのに、不意に空気の中に異質を感じる事がある。見慣れない小物類や何かがそう思わせるのか、そぐわない空気の気配が、節々に感じられる。

 この違和感は何だろう。恐らくこの喩えは間違っているのだが、素人芸で結界を張るとこうなる。家の空気が、情念の影響を受けている。だからこの家は、民家でありながら、別の場所を夢に見ているような。
 手掛かりは些細な違和感だ。想像は形を取る前に霧散する。

「目の付け所は悪くないかな。ま、この水槽が残念なのは即物的な理由なのだけれどね」
「…?」
「彼の庭園を造るに当たっての材料が手に入らないんだよ。さて、ここに見るべきものは無いし、時間を掛けるべき場所でもないよ。次に行こうか」




 一戸建てとは言え、見るべき部屋はそう多くない。散らかった仕事部屋はあまり物を動かさないように。物置と化した部屋は、父母の寝室だろうか。そもそも二人きりで住んでいるのだから、普段から使っている部屋は少なかった。

 箪笥や戸棚を開く泥棒みたいな真似は当然しないので、眺めて次の場所に移る、という淡々とした工程。
 なるべく考えないようにしていた事が、頭を占める。

 くだらない、それで何なの? 悲劇的な口調で語られても失笑するしかないわね。どうせ、後悔したいだけなんでしょ。後悔するのは、まるで反省しているみたいに爽快だもの。自分が楽になりたいだけの懺悔なんて、いちいち聞いてられないわ。

 言葉を額面通りに受け取るのならば、ひどい言い草だ。後悔するのは勝手、ただしそれは、自分に酔っているだけ。そういう意味に聞こえる。

 鈴仙がそう言った真意は、何だったのだろう。
 その後すぐに、鈴仙はまるで用事でも済んだかのように、一人で帰ってしまった。

 つまり、自分より一足先に何かを理解して、その上での台詞なのだと、そう妖夢は思った。
 鈴仙は少ない手掛かりの中から、あるいは妖夢に見えない世界から、何を理解したのだろう。

 こつこつと手掛かりを探すのは、ひどく地味な作業に思えた。しかし霊感以外は刀を振るうしか芸の無い事は弁えている。足る事を知る事、そこから始めるのは基本。不平不満を言うつもりは無い。

「…てゐ、さん」
 迷った末、さんを付けた。話すと目線を下げる事になる程度に小柄でも、いかにあどけない容姿だとしても、年上なのは違いないだろう。

 助言の一つ一つが的確で、立ち止まってしまった時に、振り向けばいつもそこにいる。どうにも振り回される事の多い妖夢にとっては、ほとんど未知の珍しい経験だった。助けてもらうとは、こういう事を言うのだろう。見守られている事に、安心する。
 そして、甘く軽やかな声が「妖夢」と口にする度に、妖夢は照れ臭いような面映ゆいような、不思議な気分になるのだった。

「てゐさんは、色々と分かっているんですよね?」
「うん、おおよそ全て把握してる、そのように振る舞っているね。その真偽は妖夢の判断する所だけど」

 どうにも振り回される事の多い妖夢だ、先を歩いている者、特に主人などは、判らない方がおかしいのよと容赦無く言い放つ。だから今回もそうなのだとしても驚かない。助言をしてもらえるのは有り難いが、妖夢は妖夢で遅々として歩みを進める覚悟もあった。
 けれど、安全第一の問題もある。もしも妖夢の知り得ない領域で危険性があるなら、自分の気持ちと努力は無下にしてもらって構わないとも思っていた。前提として、妹を失った兄だけでも助けるのは絶対だろう。他人とは言え関わった者ならば、見過ごして良いはずが無い。これで無関心を決め込めるような者がいるなら、そいつは最低だと妖夢は思う。

「人命への危険が無い事を保障しましょう。これで良いかな?」
「はい。ありがとうございます」
 本当に的確な一言だ。
「少しは疑って欲しいけれどね。で、本当は他に訊きたい事があるんじゃないの?」
 本当の本当に、的確だ。
 妖夢は意を決して、問い掛ける。
「鈴仙さんは、どうしてあんな事を言ったんでしょうか」
「さあ? 何か勝手に勘違いでもしたんじゃないかな? あれが自分の経験から来る説教などと思うのは、ひどい誤解だよ? 自分の事を棚に上げて、度し難い程に自分勝手だね。そういう所が大好きだよ可愛いなぁもう。れーせん好き好き大好き無条件に愛してるよ」
 楽しそうだ。妖夢は醒めた目でてゐを見る。
「…真面目に答えてくださいよ。鈴仙さんにはきっと、考えがあるんです」
「うん? あの吐き捨てた台詞を聞いて尚、本気で鈴仙の善性を信じると言うのなら、私はあなたを尊敬するよ?」
 からかうような声に、冷たいものが混じった。
 気のせい、だろうか。一瞬後にそう思う程度には、てゐの様子に変化は無かった。
「無神経にも程がある。妖夢もそう思ったんでしょう?」
「…それは、私が至らないからです。どのような理由があっても、誰かを貶めるような事を思ってはいけません。無闇に人を見下すのは良くないと、私は思います。だから、私は鈴仙さんを信じています」
「好きなの?」
 ずっこけた。
 そりゃあもう、ずっこけましたとも。
 いつも踏まないように気を付けている畳のヘリも敷居も何も無い場所で、思いっ切り躓いて思いっ切り転んだ。鼻が熱い。受け身も取らずに顔から転んだので、鼻血が出ていても不思議でないくらいに顔が痛い。
 ばっこーん、という音が廊下に残響して消えるのを待って、妖夢はむくりと起きた。
「憧れています。それだけです。すぐに好きとか、何ですか、子供ですか。やめてくださいよ」
 極めて冷静に言った、…つもりだった。
「そんなに面白い反応しなくても良いのに」
「ああもうっ、何ですかっ、今はふざけてる場合じゃないんですから。鈴仙さんは立派にお勤めしていて、相当に腕も立ちます。憧れを持つのは、当然の事だと思います」
「憧れてる、ね。そういう事にしておこうか。まあ実際の所も、そのくらいの漠然としたものなんだろうね」
 てゐがにまにまと面白そうに笑うので、妖夢は少し拗ねてしまった。
「からかわないでください」
「それじゃ、真面目な話でもしようか」
 いきなりそう言われても、中々着いていけるものでもない。

「そう見えるのは、そう見るからだよ。思い込みが、幻を作る。現実を見ているつもりでも、それは思い込みの作った幻なんだよ。分かるかな?」

「…えっと、…分からないです」
 正直にそう答えた。
 分からないのは織り込み済みのようで、てゐは更に言葉を続ける。
「だよね。じゃあ、妖夢には、私がどう見える? これは例題だから、気楽に答えてね」
 そう言われても、本人の前で言える事は少ない。
「ねぇ、妖夢?」
 思わずたじろいでしまう。大きな目に見つめられると、正気を保てなくなりそうだ。
 幼い、華奢で未成熟な体付き。着崩した制服、と言うか、サイズの合わないワイシャツ。その組み合わせには、危うい犯罪っぽさがあった。
 どうしてもワイシャツの裾が気になってしまうのは、妖夢の修行が足りないからだろう。
 扇情的です、とは間違っても言えない。
「…えーと、あ、意外と優しいんですね。こんなに親切に面倒を見てもらえるとは思いませんでした」
「意外と? ふぅん、どう思われてたのか、分かった気がするなー」
 てゐは悪戯っぽい顔で微笑む。いちいち仕草が可愛らしさを発散しているのに、それがよく馴染んでいる。わざとらしさまで含めて似合っていた。
「別に、意外とで合ってます。悪戯する兎と聞いてましたから」
 現にこうしている今も、悪戯好きそうな印象は変わっていない。
「何処から聞くのやら。鈴仙かな、だとすると内容は愉快だろうね」
「はい、愉快なものですよ」
 妖夢は鈴仙から聞いた話を思い返しながら、そう答える。話自体はひどいけれど、本当に愉快で些細な悪戯で、鈴仙は仕方無さそうに語っていた。
「…鈴仙さんとは、どんな」
「気になる?」
「なりませんっ」
「ふふっ、面白いね」
 からかわれているのは気のせいではないだろう。
「そう言えば因幡って、昔の国の名前なんですよね?」
 妖夢は無理矢理、話題を変える。
「そうそう、元はいなばで稲羽だったりもしたけど、私も因幡の名前は気に入ってるよ。因幡の因は、事の起こりを意味する因の字。因幡の幡は、縁起の良い素い幡。因幡の国は、素い幡の因る処。素敵な名前だよね」
 投げやり気味に振った話題だったけど、思いの外、食い付きは良かった。
「どんな所だったんですか?」
「…うーん、何処から話すのかなぁ、ちょっと長くなるかも」
「じゃあいいです」
 長い話を聞いている暇は無い。
「………ここ最近で一番傷ついたよ」
 本当にそんな感じの表情で言うので、妖夢は少しだけ反省した。
「…どんな所だったんですか? 手短にお願いします」

 薄い唇が、弧を描いた。

「面白くて可愛い子がたくさんいたよ。お気に入りの子達なら、足でシてあげるし、肌も許してあげる。乱暴なのは嫌いじゃないよ。大好きで大好きで大好きで、無条件に愛してる」

 妖夢には、その確信犯めいた笑みの理由が分からなかった。
 ただ、鳥肌が立つような怖気を感じた。

「海に棲んでる生き物って、普段は見る機会が無い分だけ珍しいよね」

 そう言って、てゐは先の表情の面影を一片も残さずに、幼い子供のように明るく無邪気に笑った。




 探すべき部屋の最後、奥の和室。
 呼び掛けても返事は無い。恐る恐る部屋に入ると、兄は布団に横たえた妹を前に座していた。

 妹の額には、濡らした布巾が乗っている。
 兄は部屋に入った妖夢とてゐに会釈すると、幽霊はどうしたのか、とやや深刻そうに言う。普通の人間には霊から身を守る術は無い。不安は感じているはずだ。しかし彼にとっては非常識な客より妹の方に重きが置かれるようで、すぐに視線は外された。

 そんな事より、今また布巾を傍らの桶に浸し、きつく絞ってから妹の額に乗せたのは、どういう事なのか。
 その行為はあまりに日常的に、自然に行われている。完全な異常者の行動、少なくとも妖夢にはそう見えた。

「…これでも、狂ってないって言うんですか?」
 男の目の前だと言うのに、妖夢は憚り無く、てゐに問うた。
「狂気の定義は曖昧、と言うか、そんなものは存在しないよ。鈴仙と微妙に違う説明をするけれど、狂ってるとは相互理解への期待が裏切られた際の落差、正常と異常の差異の事。だって、人間か、せめて人型以外の存在に対して狂ってるとは思わないでしょう? 元から期待してなければ、狂ってるとさえ思わない。
 …だからまあ、彼が狂ってると言えば、狂っているのだろうね。ただ、私は彼を狂人とは思わないし、一般的に言ってもそうだと思う。至って普通の人間、けれど心身共に健康とは言い難い、かな」
「狂ってない? だけど、…普通、気付くと思います。やっぱり何処かおかしいと」
 何に、とは明確に言葉に出さないが、視線は男の背に注いでいた。
 恐らくは、男は毎日、妹の世話をしているのだ。今日のように、今のように。動かない妹の事を、どう思っていたのか。自分でおかしいと、思わなかったのか。

「いやいや私だって、普通気付くでしょ、とは思っているよ。ただ、例えば温室育ちで死という概念に極端に無知だったり、無学故に医学的知識が信じ難い程に欠乏していたり、心の底から興味が無かったり、とかね。彼の場合は、その現実を受け入れられなかった、とか。気付かない、という事は十分有り得ると判断せざるを得ない。
 確かに彼の思い込みはやや妄執じみている。けれど本質自体は、すべからく人間の持ち得る機能の一つなんだよ。視覚情報を整理して意識に像を結ぶのは、脳の仕事なんだからね。見たくないものは見えないし、見たいように見える。人は無意識に、視覚の編集を行っているの」

 だからと言って、こんな事が有り得るのだろうか。
 妖夢の怪訝に、てゐは呆れ気味の目付きになった。

「時に信じられない勘違いもするよ。思い込みってのは、すごいよね」

 てゐは妖夢を見ながら、本当に感心するようにそう言った。
 思い込み、前にも聞いた言葉だ。

 そう見えるのは、そう見るからだよ。思い込みが、幻を作る。現実を見ているつもりでも、それは思い込みの作った幻なんだよ。分かるかな?

 ようやく、妖夢にも意味が分かった。男は、現実ではなく幻を見ているのだ。

「それで、どうするの?」
 試すような質問。

 一瞬だけ、妖夢は思ってしまった。兄のためを思うなら、勘違いしたままでも良いのではないかと。それは駄目だろう。現に未練を元にした霊魂は現れているし、何より、死体は腐る。この生活は長く続かない。
 そうだ、続く訳が無いのだ。恐らくは、頭で分かっている事を、心が拒絶しているだけ。だってこの部屋は、火鉢の一つも焚いていない。冬場にこれでは寒い。にも関わらず、だ。死体が腐る事への無意識下で行った処置。やはり、この状況は歪んでいる。

「正気に戻す、とは言わないのでしょう、この場合は何と言ったら?」
「目を覚ます、くらいが妥当かな」
 単に死んでいると突きつけても効果は無い。それをさっきやったのに、今も男はこうしている。やはり鍵になるのは、実在している妹の霊魂。
 死者の声は生者には届かない。その姿、その行動から、推察するしかない。そのための情報は、欠けたままだった。

「妖夢、この家に入った時、どういう印象を持った?」
 一歩土間に入った瞬間だった。
 暖かい、そう感じた。
 何かを無意識に幻視したが故の錯覚だろう。

「その子の枕元に石が置いてあるでしょ」
 無数の穴が開いたような奇妙な形状の石は、
「…菊目石」
「そう、珊瑚だよ」

「そこの本棚、見てごらん。それが、一番分かり易い答えだよ」
 言われるままに、妖夢は一冊を手に取った。箱に入った本は重い。読み物ではなく、大判の図鑑だった。
「…原色熱帯魚図鑑?」
「うん、…1958年に出版されたものか、貴重かな。他のはもう少し最近のだね、写真も綺麗だと思うよ」
 てゐがすぐ横にぴょこんと顔を出して、妖夢は少しびっくりした。
「ちなみに、買うと高いよ。まあ、物の値段が愛情と等価ではないと念頭に置くとしても、一般にこういう方は、良いお兄さん、とでも言うんじゃないかな」
 そんな事は、考えもしなかった。
 行動の奇怪さに、ただ驚いて、困惑するしかなかったからだ。

「様子がおかしいように見えるなら、間が抜けているように見えるなら、それはね、疲れているだけだよ。霊に憑かれている訳でもない、ただ単に、本当に疲れているだけなんだよ。ロクに食事も睡眠も取っていないのでしょうね。よくやるよ、美少女三人が訪ねても妹に掛かりっきりな事だけはある」

 てゐは半笑いに、しかしもう半分は真面目な態度でそう言い切ると、押入れに目線を向けた。
「妹さんの私物を見たいのですが」
 男は顔を上げて「構わないよ」と答える。てゐに「ほら」と促され、妖夢は押入れに歩み寄り、戸を引いた。

 それは何の変哲も無い、段ボールの小さな箱だった。中には画用紙が幾枚も入っている。
 妖夢はその一番上の画用紙を手に取った。手に伝わる感触には、普段扱っている和紙とはまた違った温もりがある。

 竜宮城の沈む海のような絵が、色鉛筆で描かれていた。
 真夏を思わせる鮮やかな色合いは、南の国の楽園のようだ。

 妹は病弱だと聞いていた。絵が子供ながら巧みに描かれているのも、外に出られないが故の結果だと思えば印象も変わる。

 海の青の眩しさに、妖夢は目を細めた。この海に泳ぐ魚に、見覚えがあった。鮮やかな黄色、黒や白の線で模様が入っている。他にも、極彩色の魚がたくさん泳いでいる。
 この世のものではないように思えた魚は、この国のものでないだけだったのだ。熱帯魚と言うのか。

「あの半端な水槽はね、南国の海を作ろうとしていたんだよ」

 不可解だった手掛かりの意味が、腑に落ちた。
 豁然と視界が開ける。内心でどう取り繕っても、妖夢にはこの家の住人が、異常者と死体、そう見えていた。そうではなかったのだ。そうであるはずがない。
 死体が横たわる家は異常だろう。けれど、思えば最初から、それを悔やむべきだった。それなのに妖夢の中であまりにもその少女は、物言わぬ死体だった。妖夢は少女の笑った顔を見た事が無い。
 兄は奇怪な行動を続けていた。疲労の生む影に隠れた、その優しい表情を見た事が無い。

 脳裏に想像上の光景が浮かび上がった。
 床に臥せる妹の横に兄が座り、古書市を歩き回って探した図鑑を差し出す。それはごくごく平凡な、仲睦まじい兄妹の姿だった。

 だからこそ、目の前の茶番に腹が立つ。鈴仙が声を荒げた意味も、分かったような気がした。

「いつまでも目を背けてないで、ちゃんと後悔しなさい!」

 両手を強く拳の形に握って、叩き付けるように怒鳴った。
 あなたの未練が、妹さんの魂をこの世に縛り付けているのです。辛いのは分かります、…でも、現実を見てください。それが、妹さんのためでもあります。
 それでは、さっきと変わらない。もっと深く踏み込んだ言葉が必要になる。表面を撫でるようなお座なりな言葉では、何も伝わらない。
 妖夢が本心から叫ぶ言葉は、疲れた彼にとって、辛いものになるかも知れない。それでも、説教せずにはいられなかった。

「もう亡くなっているんです。貴方の行為は、妹さん御自身を蔑ろにする行為です。…遺体は、ただの遺体です。そこにはもう、いないんですよ。本当の彼女を、見てあげてください」

 妖夢の声に応えるように、和室の空中に黄色い光が泳いだ。
 この光を白楼剣で斬れば、たったそれだけの刹那の内に心霊現象は終わる。妹は未練を無理矢理に消失して、兄は幻に生きたまま終わる。そんな事で終わらせてはならない。安易な方法を選んでは、安易な結果しか得られない。

 頭上から目を逸らすように、兄は横たわる妹の空っぽの器に視線を注いでいる。まるで、淡い光が本当に見えていないように。
 見えないのだろう。兄も本当は理解しているはずだった。妹の霊魂は、彼女が夢に見た南国の楽園を、魚になって泳いでいる。兄ならば、それが分からないなんて事は有り得なかった。
 それは辛い現実から、目を逸らしているだけだ。それでは死者が報われない。

 兄がこんな様子だから、妹の霊魂は弔われずに浮遊し、さまよっているのだ。

 どうすれば良いのだろうか。妖夢の言葉は届くだろうか。そこまで己惚れる事なんて、出来なかった。
 唇を噛み締めた。瞼を固く閉じた。肩が震えた。刀を振るわない自分は、あまりにも非力だった。

 だからもう一度、と願う。もう一度、さっきみたいに美しい光景を見せて欲しい。少女の小さな霊魂一つに起こせる現象では無かった。その不自然も、今は儚い祈りの結果のように尊く思える。

「聞こえるよ。耳を、澄ましてごらん」
「…え、」
「波の音、だよ。…落ち着いて、深呼吸して。……吸って、……吐いて、……吸って、……吐いて、ほら、聞こえるね。呼吸に合わせて打ち寄せる、穏やかな波。一呼吸毎に、潜っていく、沈んでいく、大丈夫、息は出来るよ」
 気付けば、その言葉に従っていた。
「もういっかい、いくよ。…吸って、…吐いて、ゆっくり、ゆっくり、沈んでいくね。…私が三つ数を数えると、あなたは海の中にいる。いくよ、…3、…2、…1、…0、さあ、目を開ければ見えるよ」
 てゐの声に操られるように、妖夢は目を開いた。

 そこはもう、和室ではなかった。目眩のするような青。天井のあるべき頭上は、光を揺らめかせる水面。真っ白な輝きは、真夏の日差し。
 棚田のように広がる珊瑚礁。海中を、極彩色の魚の群れが泳いでいる。金魚や錦鯉とはまた違う、真夏を思わせる明るい色。鮮やかな体色の魚は全て妖夢の知らない種類だった。頭側の窄まった三角形で黄色と黒の縞模様の魚が、妖夢の肩の近くを通り過ぎた。
 絵に描かれていたものと同じ世界は、少女が焦がれていた景色なんだろうか。
 幻想的、妖夢は否と思った。この光景自体は心霊現象でも、熱帯魚とは、この部屋から地続きの人間の世界に実在しているのだ。だから、これはきっと、現実的な光景なんだろう。

 海が見たいわ、兄様。
 ああ、約束だ。

 それは、ほとんど絶対に叶わない約束だ。そもそも本当にそんな約束をしたかどうかも、妖夢は知らなかった。霊感が見せる死者の記憶だとしても、確証は無いから、ただの想像。しかし、死後の魂が別の形を取ってまで残す未練だ。近い事はあっただろうと確信を持つ。生前の強い執着は、死後の魂に強い影響を与える。それは一般に怨念である事が多いのだけれど、こういう例もあるのか。

 この部屋に入ってから、ずっと異常な状況に流されていた。
 他人だ。話した事も無い。だから本当の意味では悲しむ事なんて出来ない。それでも、妖夢はこの少女の死を、初めてしっかりと悼む事が出来たような気がした。

「この光景が、妹さんの心です」
 妖夢のではない、妹の気持ちが伝わるように、妖夢はその一言に思いの丈を込めた。
「──、」
 呼んだ名前は、妹の名前だろう。
 それを契機にしてか、夢のような現象は潮が引くように薄れていった。結局、この不可解な現象の理由は分からないままだ。
 しかしやっと、肝心な事が分かった。こんなにも美しい光景を見せた霊が、敵意も怨みも持つはずがない。思い描いた景色をもう見る事が叶わないとしても、死後に取った形は美しかった。それなら後は、想像するのは容易い。それは全ての死者が思う、ごく普通の事だから。

 ありがとう。もう良いよ。妹の代わりに、そう伝えなければいけない。

 気付けば、最後の一匹、そして、最初の一匹が、元通りの和室を泳いでいた。鮮やかな黄色、黒と白の線で模様が入っている。極彩色、しかし半透明の淡い光。
 この一匹をこの和室から旅立たせる事が、妖夢の仕事だった。天に昇るのか、冥界に行くのか、全ての魂の行き着く場所は一定ではなく、個人の信仰や地域によって色々であるらしい。だから輪廻にも、色々ある。
 死んだ人間は何処に行くのだろうか。冥界に住む庭師の身ながらも、妖夢はそんな事を考える。けれどその空想も、仕上げをしてからだ。

「妹さんは、」
 その声が、遮られる。
「おぼろげだった形が、ようやくはっきりとしたね。そう見えるのは、そう見るから。見たいように見れば見たいように見える。霊魂は儚い存在だよ。乱暴に持ち出そうとすると、あっさりと消滅してしまう。だから、一手間を掛けさせてもらったよ。まさか網で掬う訳にはいかないからね」
 上機嫌な声が響いた。
 てゐは声の響きと同様な上機嫌な笑顔で、男の前に立った。

 何かが致命的に間違っているような違和感が、脳裏に染みのように広がっていく。

「あなたは浮遊霊を妹だと認識した。生まれ立ての幻想は他者の認識無しには成立しないからね。あなたにそう見てもらわないと、私が困るんだよ。…ん、はしゃいでしまいました。それで、あなたには今、この浮遊霊が何に見えますか? どういうカタチをしていますか? そのカタチは、見る者が決めてあげなげれば、脆く崩れ去ってしまいます。人の想像力が幻想を産み出すんですからね。さあ、口に出して、言葉にして。名前を付けて明確に、カタチを与えてあげて」
「…熱帯魚。あの子が一番、好きだと言っていた」
 男は熱に浮かされたような口調で、そう答えた。
「そう見るなら、そう見えていますよね。では、次の段階に移りましょう。ご存知、ではないかも知れませんが、視覚情報を整理して視界を編集するのは、脳の仕事です。つまり、幻覚は脳の中で起こるし、実は、現実だって脳の中に存在しているんです。私達は各々が違う世界を、脳の中に持っているんですね。…でも、本当にそうでしょうか? いえいえ、そんな科学的な考えはやめましょう。だって、少し考えれば分かるじゃないですか。物を見ているのは目なんですから、幻が宿るのは目に決まっていますよ。実在する幻は現実と変わらない。目で見えるものこそが真実です。真実は目の中にこそ存在しているんです」
 言い聞かせるように、てゐは長台詞を淀みなく謳いあげる。
「…それじゃあ、あの子は、」

「その通りですよ。あなたの本当の妹は、あなたの目の中にいます」

 それは、絶対におかしい結論だった。大体にして、目で見えるものこそが真実ですなどと、明らかにさっきと言っている事が違った。
 口を挟もうとする妖夢。けれど、魚の口のようにパクパクと喘いだだけで、何の音も喉から絞り出す事は出来なかった。

 魚が男の目に飛び込んだ。吸い込まれるように、引き寄せられるように。
 ちゅぽんっ、と聞こえた音は幻聴だろうか。それとも、眼球の表面には涙の水面でもあったのだろうか。

「つ、か、ま、え、た。…ふふっ」

 妖夢は呆然と立ち尽くして、その光景を見つめた。
 何故そうなるのか、意味が分からない。だってあまりに脈絡が無い。

 おかしい。あと一歩で少女の霊魂は成仏して、それで終わりだったはずなのに。何処で間違えたのだろう。何処で、道を踏み外したのだろう。

「…ああ、泳いでいる。──が、魚になって、」
 部屋をぐるりと見回した男と、妖夢は一瞬だけ目が合った。その一瞬は、時間が止まったように感じられた。

 瞳は窓だ。窓の向こう、眼球の大きさを無視した一間くらいの空間に、黄色い光が過ぎて行く。
 鮮やかな色合いと模様もくっきりと。鰓があり、鰭があるのが見て取れた。半透明の霊魂では有り得ない確かさ。その姿は、完全に魚だった。

 目の中で、魚が泳いでいる。
 それは、囚われていると言うのではないか?

 そう見たから、そう見える。けれどそれは実像ではない。
 兄の確固たる認識に、妹の霊が、…?

 妖夢の思考は、そこで止まった。

「ねぇ、優しいお兄さん。一緒にいたいのは分かるけれど、死者は冥界に旅立たなければならないの。そこで、私に提案があるんだけどね。私は竹の樹海を持っている。広いし、良い場所だよ。竹林は時に冥界に喩えられる。私の管理する、暗喩の中の死後の世界。どうかな? 私に託してみない? 何処とも知れない、あるかどうかも分からない天国にくれてやるのと、どっちが良い?」
 今度こそ止めなければならないと確信した。なのに、声は出ないし、体も動かない。身体の自由が完全に失われていた。
 まるで、妖夢も男も何者かに操られているようだ。
「…それが、」
「妹のためを思って決めてね、お兄さん。まさか、その狭い場所に閉じ込めておく訳にもいかないでしょ? 広い場所に移さないと」
 かくん、と男は頷く。
「うん、ありがと。話を聞いてもらえるのは嬉しいな」

 じゃあ、もらうからね?

 細い指が、男の顔に触れた。その動きに、妖夢は生理的な嫌悪を感じる。指先は躊躇せずに眼孔に食い込み、眼球はそれに伴って押し出される。
 異様に外に飛び出した眼球を、指先はそっと摘み、そして、爪の先端を引っ掛けた。

 反射的に瞬きする事さえ、許されなかった。目を見開いたまま、眼球がぬるりと引き出されるのを目の当たりにする。激痛を、想像してしまった。

 粘液が、ねちゃりと糸を引いた。視神経も、だらりと糸を引いた。ずるずると引き出される糸は、悪い冗談のようだった。
 男は虚ろな眼窩から血の涙を流し、無事な方の目で白目を剥き、透明な涙を流している。

「………え?」

 やっと声が出た。けれど、妖夢の小さな呟きに答える者はいない。
 男は失神したのか、横になって倒れている。てゐは和室に残されていた救急箱を引き寄せて、慣れた様子で手当てを始めた。
 それもやはり、妖夢は呆然と眺めていた。

 耳元の甲高い異音を、耳鳴りだと自覚した。遠退いていく現実感。つい先程まで上手く事を運べそうだった光景は、今となっては何もかもが終わっていた。

 見たくないものは見えないようになる。そうは言っても、ここまで突きつけられた光景からは、目を逸らす事は出来なかった。




 それから結局、妖夢は一言も喋れなかった。

 家を出ると、既に日は暮れていた。妖夢が呆然としている間に、意外な時間が経っていたようだ。肌寒いではなく、寒い。冷たい風が頬に吹き付けて、家の中がやはり温かった事を実感する。
 人里の夜道を歩く。月灯りもない夜道には、墨汁を満たしたような闇が広がっている。里の外れ近く、人の気配も妖怪の気配も無い、閑散とした細い道に差し掛かる頃、妖夢の頭は冷えた。

「…どうして、あんな事をしたんですか」
 久しぶりに声を出したような気がした。
「あの人は、目を失わなければならないような事をしたんですか?」
「正当な対価として得たものだよ、彼は納得していたじゃない。それに元々、これが私達の目的だよ?」
 半ば詰問になった妖夢の質問にも、てゐは変わらない口調で返してくる。
「まあ、最初に用件を確認した時に霊障がどうとか言ってたから、妖夢は知らなかったんだろうけどね。でも私が思うに、妖夢のお使いの内容は、これだよ? 疑問に思わなかったの? 人里で起きた些細な幽霊騒動なんて、西行寺のお嬢様の関与する所じゃないもの。知った事じゃない。
 それとも妖夢は、幽霊退治の仕事を頻繁にしているの? そもそも浮遊霊が何だと言うのかな、放置しても危険は無いよ。しかもあれは良性」
「…危険は無い、それは同感でした。でもそれならどうして、幽々子様は私にお使いを。…いえ、まあ良いです、幽々子様のする事ですから。では、その、…それを、こちらに渡してください。私が責任を持って、冥界に持ち帰ります」

 それとは、妖夢が明言を避けたくなる程度には只ならない品だった。妹の魂を閉じ込めた兄の眼球。今は眼窩ではなく、事前に用意していたらしいガラス瓶の、生々しいピンク色の薬液の中に揺れる、それ。
 ガラス瓶の細い首を指に挟んで、てゐは妖夢の数歩前を歩いていた。弾むような歩調には、楽しげな雰囲気が滲んでいる。

「渡す? 嫌だよ。私もこれが欲しかったんだから。熱帯魚はこの辺りでは手に入らないからね。これは、珍しい例だよ。私もこういった例はあんまり聞かないし、それほど見ない。でも考えてもみれば、何も奇異な事は無いのかな。例えば、プシュケーとは蝶と魂の同じ言葉。人の魂は時に、蝶に仮託される。それは妖夢もよく知っている事だよね」
 夥しい蝶の群れの奔流を思い出した。蝶と魂の関連は、妖夢にも馴染みのあるものだ。
「…蝶? でも、熱帯魚ですよね」
「レインフォーズバタフライフィッシュ、和名ではチョウチョウウオと言うよ。グッピーやエンゼルフィッシュに並んで、熱帯魚らしい熱帯魚。人の魂が魚になるのなら、チョウチョウウオは相応しいのかもね」

 チョウチョウウオ、…蝶々魚。

 ぴょんぴょんと軽い足取りで駆けたてゐが、道の先で振り返る。妖夢の目に見通せなくなる、その間際の距離。
 胸元で赤色が揺れた。リボンの代わりに揺れたのは、ちょうちょ結びにしたネクタイだった。

「とにかく、おとなしく渡してください。その魂は、正当な手順で成仏させます」
 妖夢は強い口調で言った。
「んー、これはもう、ヒトの魂とは別のモノになっていると思うけど。元の人格なんて、残ってないよ。それこそ魚類くらいの知性しか残っていない。…逆かな、意識の無い霊体から意思のある霊魚に変わった。元から魚のカタチはしてたけどね」
「…渡す気は無い、という事ですか?」

 では、荒事も覚悟ですね?

 言外にそう付け足した。わざわざ言わずとも、そうだと知れる気迫も出した。
 てゐはにっこりと微笑んで、眼球を隠すように背中の後ろで手を組む。

「一つ教えてあげる。私と目を合わせて話すというのは、致命的な失敗。さっきも動きを縛ったのが分からないのかな? 何だったら、より強固に縛り付ける事も出来るよ?」

 妖夢は無言で、体の重心を下げた。

「良いよ。じゃあ、お口で遊んであげるね」

 ぞわ、と、耳元を撫でられたような悪寒。
 てゐが確信犯めいた笑みを浮かべた瞬間、明確に空気が変質した。間違いなく気温は下がったと言うのに、冬の空気にある凛とした趣きとは無縁の、絡みつくような嫌な空気が、肌に触れる。
 てゐの気配はその中に掻き消えて、あたかも空間そのものに語り掛けられているような錯覚に苛まれる。

「そもそも西行寺のお嬢様は、どうして魚のカタチをした魂を欲しがったのかな? 私がどうして一手間掛けて魚のカタチを定着させて、そうした後に捕まえたのか分かるかな? 分かるよね、乱暴に水揚げすればどうなるか。だってこの子は魚で、不定形の霊体だから、あまり刺激を与えては崩れてしまうよ? 眼球とはつまり、眼房水の満ちた水槽だよ。血縁者の体内は、霊にとっては居心地の良い場所だろうね。私はちゃんと熱帯魚を飼育する要領で慎重に竹林に移すけれど、…西行寺のお嬢様は、どうするつもりなのかな? 妖夢には、曖昧な魚をしっかりとした魚にしてから水の中に捕まえる事は出来た? ううん、捕まえるだけなら、簡単だったよね。無理な事は流石に頼まないだろうし、それで十分だったんだろうね。水揚げした魚、弱った魚、…観賞用の扱いじゃ、ないよねぇ。…お魚さんだし、食用かな? お刺身かな? 珍味だもんね、お醤油を用意して妖夢の帰りを待ってるのかな? それなのに、冥界に持って帰っても良いのかな? 女の子の魂が食べられちゃうのは、惨いと思うなぁ」

 滔々と流れた、呪文のような言葉。透き通った声は軽やかに、甘々とした幼い声音で謳い上げる。
 言霊で済ますには生温い、重度の呪い、思考する力を奪う声。妖夢は大波に呑まれて溺れたような感覚に突き落とされた。
「……出鱈目を言うな。嘘に決まってる」
 反論した声は、笑えるくらいに乾いていた。
「それを信じられない時点で、私の術中だよ」
 その通りだと感じた。てゐに渡して良いとも思わないが、持ち帰る気も失せた。反論出来る要素が何一つも無い。美意識の合わない主人の考える事は、まったく分からなかった。

 完全に、頭が冷えた。

 てゐの目的が最初から決まっていたと言うのなら、妖夢は騙されていたという事だった。体の方も力無く弛緩していた。俯いたまま、問い質す。
「…一つ、訊いておきます」
「何かな? 答えるよ」
「魂が魚になって泳ぎ出すのは、一応、理解出来ます。でも、和室で見たあの光景は、変でした」
「あー、それね。よく気付いたよね。見えているもの自体は同じだから、同一視すると思ってた。だから褒めてあげたよね、一度目と二度目を分けて考えた事に二十点、って。あの幻覚はね、私が見せたものだよ。精神とか偏光弄ったりとか色々の併せ技で。本当はもっと意識を深化させた方が良いんだけど、面倒だから省いたよ」
 幻覚。だとするなら、不可解さは消える。
 でも今度は、別の矛盾が生じる。
「幻覚なら、鈴仙さんが気付くはずです。だって、幻覚や波長は、鈴仙さんの能力」
「鈴仙に出来る事が、私に出来ない訳が無いでしょう? 玉兎だって元を辿れば私だよ。普遍的ないたずらウサギの幻想の、ヒトに定義付けられる前から存在している最初のカタチ、元型よりも古いもの、それが私。波長も狂気も幻覚も催眠も全部、元はと言えば私の能力なのに。それを我が物顔で使ってるんだから可愛いよね。しかも、鈴仙は自分の能力を過信し過ぎ。同系統で完全上位互換の相手に出くわせば、違和感すら覚えない」
 そう言いながら、てゐは指先で宙に波線を描く。
「鈴仙は、彼の容体もまるで分かっていなかったね。波長ってのは、要するに単なる波線だよ? 高低と振幅の要素しか表せない。それが世界の全てだと思ってるから、鈴仙は無能なの。阿保、波長だけで何が分かるっての。人間は単純だけど、流石にそこまでじゃないよ。妖夢は、人の性格や精神状態を、たった一本の波線に貶めて良いと思っているの?」

 ま、鈴仙は盛大な勘違いと全力で調子に乗ってるところが可愛いんだけどね。

 そう呟いて、てゐは呆れ気味に笑った。
「鈴仙さんを、悪く言うな」
 憧れの女性を侮辱され、沸々と湧いた怒りをその一言に押し込める。
「月の出身だから偉いと勘違いしているの。それは虚しい驕りなのにね。…ねぇ、妖夢。鈴仙は、あなたの事も内心で見下しているよ?」
「そんな事を思う方じゃない! それに、私が未熟なのは事実です。…とにかく、私の前で鈴仙さんを悪く言わないでください」
「…いや、これでもかな~り目一杯に気を使ったつもりなんだけどね。…あ、そうそう、私が波長を操れるのは、鈴仙にはナイショだよ? 未だに鈴仙は、自分が私より優れていると思っているから。いじらしいよ、まったく」
 人指し指を口元に立てて、事も無げにてゐは言う。
 これ以上この話題を続ける事は無益だろう。妖夢は平静を意識して、目を伏せ、拳を固めて、怒りを堪えながら次の質問をする。
「もう一つ、不可解な事がありました。…熱帯魚、ですか。それが欲しいだけなら、何故、私に助言するような真似を?」
 妖夢がいてもいなくても結果は変わらなかった。結局、妖夢がした事は何も無い。ただ、てゐの前を右往左往しながら歩いていただけだった。てゐは一人でも滞りなく自分の目的を果たしたはずだ。
「そだね、妖夢の思っている通りかな。だから永琳に鈴仙を休ませるように言ったけど、…永琳の日本語力は絶望的だからねぇ、結局、鈴仙は来ちゃうし。まあ、それは良いか。妖夢が訊きたいのはつまり、邪魔ならとっとと帰せば良かったって事だよね?」
「そうです。…あれは、わざわざ私に見せたって事ですか?」
「ん、妖夢は鋭いねぇ。真面目で、努力家で、勤勉で、とてもつよい良心も持っている。本当に優秀だよ、たった一点の盲目を除いて、だけどね。私の主目的は珍しい霊魚が欲しかった、それだけ。でも妖夢がいたから、少しだけ遊ぶ事にしたの。別の目的もあったからね」
 からかうような笑みを、てゐは見せる。
 思い返せば、呆れている時以外の終始、てゐは薄笑みを浮かべていたような気がした。
「…てゐさんにとって、あれは遊びだったんですか?」
 馬鹿な事を訊いた。そう思った。
 糸を引く粘液と視神経。あんなものを見せるために、妖夢が兄妹に感情移入するように仕向け、その場に居合わせるようにした。それは、どういう神経をしていれば出来るのか。
「あんな惨い事が、」
「そうは言うけどねぇ、必要な処置だよ。霊魚は繊細で、家の外の空気では生息出来ないから。他の方法もあったけどね、敢えて一番確実で簡単な方法を取りやめる理由にはならない。
 それと、自罰の代行でもある。彼が自分の所業を気に病む前に妥当な傷を負わせないと、罪悪感から何をしでかすんだか。普通、後悔や罪悪感とは深刻に辛いものだからね。生きる理由が無ければ自害も視野に入る」
 仕方ない、と言う風に説明するてゐに、妖夢は非難がましい目付きを向ける。
「さっきも言ったけど、正当な対価だよ。彼が本心から拒む要求を通せるような催眠は掛けてない。あくまでリラックスさせただけ。彼の神経衰弱症を治療したのは私、価格を私の一存で設定して何が悪いのかな。それにどうでもいいけど、薬の料金なら私の財布から立て替えておく。当然、怪我の手当ても施した。台所を借りて食事の支度もしておいた、栄養失調一歩手前だったからね。で、明日また伺うよ。彼も明日になれば目を覚ますでしょう、色々な意味でね。その際に相談があれば受けるつもり。結構、至れり尽くせりな感じだと思うけど。…私は極めて良心的に、彼に対応しているよ? 別に、殺して奪っても良かったんだから」
「そういう問題では、ないでしょう」
 上手くは言えないが、絶対におかしかった。良心的で、誠意があって、だから何だと言うのだ。片目を抉り、妹の霊魂を攫った事実は変わらない。
 てゐは、きょとんと小首を傾げた。今の妖夢なら、その仕草は作り物だと分かる。全てを察した上での芝居だろう。
「じゃあ訊くけど、普通の解決で良かった? 妹ちゃんの魂は成仏して、彼は正気に戻る。時間は掛かっても、妖夢ならそこまで辿り着けると思う。でも、本当にそれで良いの? それだけで、良いのかな? それだけで、彼は将来的に妹ちゃんのお墓を守って暮らしていけるの?
 海、見せてあげたよね。そして今度は幻覚じゃない、本当の竹の樹海に連れて行くの。私が今までに集めた子達と、ずっと一緒。独りじゃないから、寂しくないと思うよ? おともだちと遊べるのは楽しいものね。それを信じて、生きていけば良いよ」

 困惑する妖夢からふと目線を外し、てゐはガラス瓶を目の高さに掲げた。中の眼球を、更にその中の空間を、うっとりと見つめる。てゐの目には、小さな円い窓を通して蝶々魚が見えているのだろう。その目付きは、籠の中の鳥でも眺めるように優しげだ。それともこの場合は、水槽の中を眺めるように、だろうか。
 優しく、圧倒的な高所から観察して慈しむような、人が人に向ける愛情とは確実に意味の違う、そんな愛情の込められた視線。

「…あ、」

 ふと、気付いた。気付くと同時に、周囲の無音を意識した。しん、と広がる闇の中で、視線の意味が、上機嫌の理由が分かってしまった。
 てゐのとっての人の価値は、玩具に過ぎないという事。眺めて遊ぶ視線は慈悲深く、新しく珍しい玩具が手に入れば喜びもするだろう。
「それは誤解だよ、妖夢」
 当たり前のように妖夢の動揺を見透かして、てゐは訂正を入れる。
「私にだって好き嫌いくらいはあるんだから。つまらない人間はつまらない。私は人に限らず、面白くて可愛い子達なら、みんなの事が大好きだよ? 例えばほら、海に棲んでる生き物って、素敵な子達が多いの」
 くすくすと、微笑を零す。
 異様な熱を帯びた瞳。赤らんだ頬。艶めかしい吐息。うっとりと、てゐは蝶々魚に視線を注いでいる。

「綺麗な色。…私が、可愛がってあげるからね」

 足元から頭上まで、気温のせいではない寒気が瞬間的に這い上がった。
「その霊魂は……」
「この子は私のモノだから、私の国に連れて帰るよ。さっきからそう言っているでしょう?」
 人の魂を召し上げる。それは、祟り神に供物を捧げる事にも似ていた。
「それで妖夢は、どうするのかな?」
 こてんと首を傾げて問い掛ける、てゐ。
 煩悶する妖夢を眺めながら、てゐは明るく上機嫌に笑っていた。妖夢の様子が面白い、という風に。

 可憐な少女の姿をした兎は、妖夢の答えを促すように、柔らかく微笑みかける。他のどんなに凄絶な表情でも、ここまでの緊張感は覚えないと妖夢は思った。
 濡れたように黒い髪が、周囲の夜闇に溶暗しつつ揺れている。てゐは静かに佇んで、妖夢の次の反応を待っていた。

「最後の質問です。どうして、てゐさんの髪は黒いのですか?」

 前にも訊いた事だった。ただし今は、素朴な疑問ではない。
「ん、それは私が白兎じゃないからだよ」
 隠しもせずに、てゐはそう答えた。
 一拍の後、妖夢は乾いた思考で認識を改める。妖怪兎と言われている理由を、理解した。つまり、間違っても良い神様ではないという事。この兎は、他の命を弄ぶ。

 こんなものが、幸運をもたらす? なんて、馬鹿げた勘違いだろう。

 その勘違いを正しもせずに、平然と微笑を浮かべている、黒い髪の兎。態度は限り無く常態だった。今日の事が日常的な事だという疑いを持つ。異形の兎は、今までどれだけの命を弄んできたのか。
 平然と笑いながら。どう考えても、真っ当な神経の持ち主がする事ではない。

「お前は……狂っている」

 不思議と、声の調子が荒れる事は無かった。その事を他ならぬ妖夢自身が意外に思い、そして、漠然と実感する。怒りよりも、悲しさの方が勝っていた。

 勝手に信じて、勝手に裏切られた。たった一日の事でも、自分はそれなりに悲しんでいるらしい。

 狂ってると思うのは、相互理解の期待が裏切られた時。狂っていると、理解出来ない存在に対する共感を拒否しながらも、妖夢はまだ心の何処かで期待していた。否定してほしい、と。
 てゐの優しい笑顔を、今でも妖夢は思い出せる。てゐは今でも、優しい笑顔を浮かべている。
「そうかもね。さっき私が妖夢にした説明は、あくまで客観的な評価の問題で、本質的な話ではないからね。本当に狂っているかどうかは、他人が決める事じゃない。別に自己申告するものでもないけどね。ただ、三月兎の例もあるかな。人が人以外の存在を狂っていると言う、稀有な例だね」
 あっさりと、てゐは妖夢の拒否を受け入れた。褒められると照れ臭かった、くすぐったくなるような、あの甘い声のままに。
 軋む音が鳴る程に、奥歯を噛み締める。妖夢が信じていたてゐなんて、そんなものは最初からいなかった。全て妖夢が、その目に見ていた幻だった。優しい兎は、妖夢の目の中にしか存在しなかった。

 悲しくて、本当に悲しくて、泣きたくなった。
 しかし妖夢は涙を流さずに、決然と顔をあげる。負けるもんか、何に対してかすら分からないが、そう思った。

 顔をあげた先、別の生物のような舌が、艶めかしくガラス瓶の表面を這っていた。

 不意の追い討ちに心臓が跳ね上がった。ぬらぬらと、軟体動物じみた動きに怖気が走る。苦い唾液と酸っぱい胃液、噛み締めた唇から流れた血、それらが混ざった液体を、妖夢は矜持で以て飲み干す。
「………それは、悪趣味です。不快です。やめてください」
「見せ付けてるんだよ?」
「悪趣味です」
 毅然と言い放つと、てゐは優しげな目付きをそのまま妖夢に向ける。
「そう、ごめんね。そこまで言うなら今はやめるよ。中身を取り出した後は、飴玉みたいに舐めるけどね。好きなんだよねぇ、眼球。血と涙の味がして、食感も楽しいの」
 離した舌から、粘ついた唾液が糸を引いた。
 妖夢は不快感も露わに睨み付ける。てゐの行為は、妖怪が生きるために必要とする食事ではない。嗜好品として、愉しんでいる。
「…外道が」
 そう、吐き捨てた。言葉と共に、一時でも抱いた親愛の情さえも吐き捨てた。
「妖夢には私がそう見えるんだ? 不思議だね、たった今ちょっとだけイジワルしたけれど、私自身は何一つとして妖夢に対する態度を変えてはいないのに。これ、もっと信じていた誰かさんだったら妖夢はどんな顔をするのかなぁ。きっと、可愛い顔をするんだろうね」

 ひどく無邪気な、酷く無邪気な笑顔。もはや妖夢は確信していた。この笑みは、今この瞬間に人を殺したところで微塵も揺らぐ事は無いだろう。
 その笑顔は、人外の存在が少女のように笑う、嫣然とした微笑だった。

「…あなたが鈴仙さんと同じ兎だと思うと、虫唾が走ります」
「それなら安心しなよ、明確に違うから。並べて評する事自体がどうかしている」
「ですよね。比べるなんて鈴仙さんに失礼でした。能力なんて知った事か。だって鈴仙さんは、素晴らしい立派な方で、あなたなんかとは違うんだ」
「うん、違う違う。…ま、私はどうでもいいんだけどね」
 それにしても、とてゐの口元が更に歪む。
「可愛いなぁ、もう。だけどね、妖夢の反応を楽しんでいるのは、あくまでオマケみたいなもの。妖夢は近い内に、今とほとんど同じ目に遭う。信じていた誰かさんに、盛大に裏切られる事になる。それは、妖夢が勝手に誤解して勝手に信じているだけなんだけどね。慣れておくのは、悪い事じゃないと思うな。もしくは、これに懲りるべき。私自身の悪趣味な遊び心は認めるけれど、半分は妖夢のためを思ってやっている事なんだよ?」

 言っている意味が分からなかった。これ以上、誰に裏切られると言うのだろう。
 愛おしげな表情は、言葉を尽くす余地も無く狂っているとしか思えなかった。

「私は妖夢の事をそれなりに気に入ってるの。反応も楽しみたいけど、…でも、同じくらいに本当に心配してるの。本当に本当だよ? 私は、妖夢に悲しい思いをしてほしくないの。だから、聞いてもらえないと思うけど、ちゃんと忠告してあげる」

 子供に言い聞かせるように、てゐは優しく妖夢に語り掛ける。
 気に入ってる。その意味する所は、妖夢にしてみれば身の毛もよだつような死刑宣告も同然だった。

 ふと、てゐの顔から、今までのあらゆる種類の笑顔と表情が何もかも嘘だったように、一切の表情が消えた。てゐは無表情に、冷淡に、しかし何処となく何かを諦めたような、委ねるような、そんな儚げな表情をほんの一瞬だけ浮かべた後、やはり表情を消した。そして、厳粛に告げる。

「兎なんて外道は、信じるのをやめた方が幸せになれるよ。断言しましょう。次の失望は、今より酷い」
「誰がお前なんか二度と信じるもんか!」

 反射的に、怒声が口をついて出た。
 自分で出した大声が反響して、頭痛がする。
「…ま、言っても分かんないよね、知ってた。私の事じゃ、ないんだけどな」
 妖夢の態度を面白がるように、てゐは再び笑顔を浮かべた。むしろ先の無表情の方が、嘘どころか何かの間違いのようだ。恬淡な態度に、重苦しい面影は無い。
「言って聞かせる事も直接見せる事も出来るけれど、私はそこまでしないよ。永琳が薬の質を型落ちさせるのと似た理由、これは分かってくれたよね? 私が全部何とかしてあげちゃったら、あなた達は何も出来なくなっちゃうもの。困った時には助けてあげるけど、基本的には見守るだけ。自由主義で放任主義だから」
 もはや、聞く耳は持てなかった。
「いい加減にしてください。…その戯れ言は、聞くに堪えない」
 因幡てゐは、ここで斬り捨てるべき敵だ。斬るより他の方法を、妖夢は知らなかった。

 控え目に見積もっても容易い相手ではない。彼女が戯れに扱う妖術一つにしても、並の妖怪を凌駕するだろう。老練な妖怪がいかなる力を持つか、妖夢は身に染みて分かっている、つもりだ。加えて目の前の化物は、老練な妖怪で済ませて良い存在でもない。
 正直に言って、怖い。ものすごく怖い。総身が竦む。膝が笑っていないのが不思議なくらいだ。ごっこ遊びの弾幕ならともかく、本気でやれば勝てないのは最初から分かっている。下手をすれば殺されるかも知れない。だが、それはそれ、これはこれ、だ。

 怖いとか、そういう身勝手な理由で全てを放り出すような真似は、断じて許される事ではないと、妖夢は思う。

 音も無く、腰の後ろから白楼剣を抜いた。直感的に、こちらの方が効くと思った。白楼剣の用途は幽霊を成仏させるだけではない。
 構えは正眼。隙あらば、斬る。
 白銀の切っ先を、赤に赤を重ねて赤で塗り潰したような深い赤色に重ねた。

 鈴仙の瞳は、赤く発光する鮮烈な真紅だった。綺麗だ、と思う。だが、この全てを呑み込む奈落の穴のような暗い瞳は何だろう。同じものであるはずがない。
 純化された月の狂気とは真逆の、穢れ切って澱んだ瞳。

 妖夢は、てゐの黒に程近い深紅の瞳を、真っ直ぐに見据える。

 怖い、勝てない、そういった感情は、刀の柄を握った瞬間に消えた。
 彼我の絶対的な戦力差を理解したまま、てゐが自分を甘く見ているという点に勝機を見出す。

 ──斬り潰す。その一念だけがあった。

「私をどうにかしたいなら最低でも解脱してから掛かっておいで。…と、言いたい所だけど」
 てゐは溜め息を吐いて、呆れたように目を細めた。しかしそれも一瞬の事。すぐ後に気が変わったのか、世にも楽しそうな、悪戯っぽい満面の笑みが幼い顔を彩った。
「迷いを断ち斬る白楼剣、迷いの竹林には有効かもね。面白い符合だよ。それに貫かれたら、ちょっとくらいは痛いかな。でも、…今の妖夢に迷いを絶てる?」
 そう言った声は、何処か陶然とした色さえ帯びている。

 突然、しかしおもむろに、てゐは空いている手で、はらりとネクタイを解いた。
 全てが夜の闇色に包まれた世界で、赤い色彩が踊る。その軌跡を、目で追ってしまった。赤い布が円を描き、ぐにゃりと渦を巻く。幻覚だ。
「ねぇ、妖夢」
 聞いてはならない。そう理解した時にはもう遅く、半ば忘我状態に陥っていた。

「私の事が許せないのかな? だから斬るの? うん、それも良いんじゃないかな。その白楼剣で私の事を貫いたら、きっと気持ち良いと思うよ? 暴力を振るうのは、楽しいもんね。嫌いな相手はぐちゃぐちゃにしたいもんね。我慢なんてしなくて良いんだよ? 私が全て、許してあげる」

 闇の中に、茫と浮かび上がる白い服と肌。華奢な体付き。思わず手折りたくなるような細い首筋。真っ白なワイシャツの裾から覗く、生白いふともも。あまりにも無防備に、その身を晒している。襲えば、組み敷くのは容易だと想像させるような危うさ。暴力衝動と、他の何か、禁忌に相当する劣情を催すような、弱々しさがあった。
 柔らかい肌を、ワイシャツの薄い生地もろともに貫いて、突き立てる。ぷっくりとした白い表皮を、ぷつんと破ると、赤々とした血が噴き出す。
 それは、いとも簡単に実行出来る事だ。

「それだけ? もっと、ぐちゃぐちゃって、ぐちゅぐちゅって、ぐじゅぐじゅに掻き回さないの?」

 促されるままに、妖夢は想像した。
 一回だけでは飽き足らない。何度も何度も繰り返し、刃を突き入れる。そのうち、肉は柔らかくほぐれる。

「どんな味がするんだろうね?」

 まるで作り立ての苺ジャムのように肉がドロドロになっている。口を付けて果汁を啜れば、信じられない甘さが、口の中に広がる。生温かい果肉は、とろけるように甘い。

「あまくて、おいしい。ふふ、ウサギってお菓子だったんだね」

 早く、食べよう。ぐちゃぐちゃに掻き回した後で、生のままで思い切り頬張ろう。
 その邪魔をするのは、理性だけ。

「つまんない理性なんて、ブチ壊してあげるよ」

 すぐ耳元で、その声が聞こえた。

 凶器を握る手が、歓喜に震えた。とくんとくん、と心臓の音がする。抗い難い欲求に駆られる。

「ほら、好きにシていいよ?」

 吐息が触れる程の近くに顔を寄せたお菓子は、誘うように微笑んだ。

 ──パチンッ
 両の頬を、はたかれた。

「はい、妄想はここまで」

 気が付くと、元の暗い路地に、妖夢は立っている。
 徐々に意識を取り戻し、
「うぇっ、…うぅ、」
 えずいた。
 たった今までの自分がしていた想像を、信じたくなかった。
 全身を痙攣させて、妖夢は地面に崩れ落ちた。大事な神経がおかしくなったように、体がまるで言う事を聞かない。呼吸さえ覚束ずに、舌を出して喘いだ。心臓が早鐘を打ち、手足の筋肉が強張って、肺も痙攣をやめなかった。内臓がきりきりと引き絞られるような苦痛もあった。全身が、異常な痙攣に見舞われた。
 ひどい寒気を感じた。目からは粘性の涙が滲み、口の端からは水っぽい唾液が滴り落ちる。喉の奥の奥の方が引き攣って、呻き声が漏れた。
 そんな渦の中で分かったのは、脳を激しく揺さぶられた事、そして、完全に手玉に取られた事、多大な手心を加えられた事。

 一番大きい波が引いてから、不快感と吐き気と恐怖と嫌悪が戻ってきた。全身に浮かんだ脂汗は冷たい。胃の内容物が、舌の付け根までせり上がる。嘔吐感を本当に最後になった矜持で堪え、妖夢はひたすら耐え続けた。これ以上の恥は晒せない。

「ありゃ、もしかしなくても、やり過ぎた? ちょこっと魅了を掛けただけなんだけど。ごめんね、よしよし、怖くないよー」
 背中をさする手を払いのける気概なんてものは残されていなかった。程無くして、妖夢は辛うじて落ち着きを取り戻した、と言える程度の小康状態にまで回復する。
 手首がネクタイで縛られている。白楼剣は鞘に戻された状態で、妖夢の顔の前に置いてあった。そんな事にさえ、今の今まで気付かなかった。
 何も話したくなかった。地面に丸まったまま、一歩も動きたくなかった。手の震えは止まりそうにない。
「…妖夢、起きれる? 無理かな」
 まるで心の底から心配しているような表情で、てゐはそんな事を言う。
 あまりにも自然に、それ故に、あまりにも狂的に。
「ま、いいや。そのまま聞いてよ。兎を相手にする時は、絶対に目を見ちゃダメ、声を聞いちゃダメ、意識しちゃダメ。幻惑される前に仕留めなさい。また今度、妖夢がその良心で断じて許せない最低な兎に会った時、今日の経験を活かしてね。…いえ、誤解しないでほしいけれど、喧嘩を推奨しているんじゃないよ? でも、軽くあしらわれるようじゃ情けないもの」
 また、てゐは意味の分からない事を言った。考える事を、脳が激しく拒絶した。

「もう一つ、教えておくよ。シャルル・ボネ症候群という例もあってね。視覚の不便は、時に幻視を引き起こす。これはもちろん、脳の引き起こす錯覚ではあるんだけど。でも同時に、見えない目が異界を覗く発想も普遍的。見えない目には、本来は見えないものが見えるんだよ、幻想郷ではその方が常識だね。実際、心霊現象は実在する訳だから。見えるものを見ようと思って見るのは、当たり前の事。
 ただし、目に見えるものがいつも本当の事とは限らないのも、当たり前の事。見えているつもりでも、見えていない。見えないはずのものを、見ている。そういう事も有り得るよ。
 現実も幻覚も、当人の目に映る以上はどうしようもなく、当人にとっては等しく現実として機能する。だから、妖夢。あなたが見ているもの、見ていないもの、見ようとしているもの、見ようとしていないもの、その意味を、もう一度考え直してほしいな。
 欺瞞だらけの世界を正しく見る事は、あなた達の目にはとても難しいの。妖夢の盲目が見せる偶像は、現実? 幻覚? どちらかな。もういっその事、幻を見るのは構わない、でも、見るべきものを見失っちゃダメ。…これ以上は何も言わないから、自分で見て、自分で選んで、自分で決めてね。大切な事だよ」

 妖夢はありったけの憎しみを込めて、泣き腫らした目でてゐを睨み付ける。
 そんな妖夢に、てゐは深紅の瞳を隠すように目を細め、ちょっとした悪戯をした少女みたいに可愛らしく微笑んでみせた。

「それじゃあね。私は、あなた達の幸せを想っているよ」
 まあ、同じくらいに可愛い反応も期待しているけれどね。どちらになるかは、妖夢次第だよ。

 そう言い残すと、てゐは踵を返し、月灯りもない夜道を歩いて去っていく。暗闇を踏んで走るような足取りは、相変わらず上機嫌そうに、ふわふわと軽やかに。白い姿もすぐに暗闇に溶けて、見えなくなった。

 一人残された妖夢はしばらく身動きもせずにじっとした後、思い出したように、作業的に口で手首のネクタイをほどいた。体を起こしてからも、人の往来が無い事を良い事にさらにしばらく座り込んでいた。
 もう一度、妖夢はてゐの去った方向に視線を向ける。そして、やるせない気持ちを発散するように、強く地面を叩いた。




「おかえりなさい、妖夢。お使いに頼んだものはどうなったかしら?」
「申し訳ありません、しくじりました。…今日は疲れました、休ませてください」

 白玉楼に戻る前に、土埃を払う程度に身嗜みは整え直した。それでも、明らかに悄然とした様子は隠せていないはずだった。
 それなのに、最初にお使いの成果を確認した主人。手に持ったままの箸は、何か悪い冗談だと思う事にする。妖夢はいたたまれない気持ちで目を逸らし、自室へと足早に立ち去った。真意を問い質す事さえしたくなかった。もしも予想通りの返答があれば、妖夢はもう駄目になってしまうような気がした。

 狭い和室に戻ると、ようやく息が整った。狭いが、妖夢が希望した部屋である。元々広い間取りの部屋が多いので、主人に無理を言って空けてもらった部屋だった。余計な物と飾り気の無い部屋には、妖夢の素朴さが染み込んでいる。

 布団も敷かずに、畳の上に倒れた。そのまま胎児のように丸くなる。

「…鈴仙さん」
 無意識の内に、その名を口に出して呼んでいた。成り行きで持っているネクタイを、強く握り締める。

 思い返してみても、辛い出来事だった。
 理不尽な目に遭った。妖夢の力ではどうしようもなかった。
 しかしそれは、言い訳だ。妖夢の未熟さが原因だと、妖夢自身がそう思っている。

 鈴仙なら、どう言ってくれるだろうか。
「鈴仙さん」
 今度は意識して、縋るように、憧れの玉兎の名を呼んだ。

 彼女の優しい顔を思い描いて、その思い外の難しさに戸惑いながら、妖夢はそのままの体勢で、ひたすら身を縮める。
 火鉢も焚かない部屋の中は寒い。寝ようと思うなら、毛布だけでも用意するべきだった。でも、風邪に罹れば永遠亭に行く口実になるな、とも思ってしまう。

 次の休日、いつになるかも分からない日を心待ちにしながら、やがて妖夢は眠りに落ちていった。
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コメント



0.380簡易評価
1.60名前が無い程度の能力削除
思わず唸りをあげてしまう、というような意味での、面白みを感じる場面は無かったです
物語を読むときの醍醐味がすぽんと抜け落ちているような印象でした
作りはしっかりしているのに、なんででしょうね
読む側に想像させる余地が少ない感はありますが、特段足を引っ張るほどのものじゃないですし……
4.40名前が無い程度の能力削除
地上を見下してるのは公式といっても強調されすぎてて鈴仙好きとしてはちょっと思うところが合ったりもする
5.60名前が無い程度の能力削除
ストーリもギミックも面白いんだが、
鈴仙の性格やら場面描写やらに妙な収斂味が感じられて、
どうも自分には苦手な印象でした。
8.80名前が無い程度の能力削除
鈴仙がわかりやすく調子に乗ってて可愛かったと思います(小並感)
話も面白かったと思いますが、最初の方が仰っている感覚というのも理解できる気がします。あくまで個人的にはですけど、その原因の一つは物語中の描写の濃淡が一定であることに起因するのかなぁと。なまじ作者様の筆力が高いために、どの部分でも描写を細かく描いてしまっているきらいがあるように感じました。
ただ偉そうに講釈垂れておいて何ですが、私はこの文章は割と好みなので、このままでも良い気がしています。とりあえず次回作も楽しみにしています。
あと無用な指摘かもしれませんが、「すべからく」に「全て」に類する意味はないです
9.50名前が無い程度の能力削除
前後編の前編だけを見せられた感がありますね
鈴仙の本性を知った妖夢がどういう反応をするかは見てみたかったところです
11.100名前が無い程度の能力削除
僕は世界の見え方は結局なんの味方をするかだと思いますね
要は敵か味方か
真実の正しい見方があるんじゃなくて味方する上で正しい見方みたいな
人間大事なのは目的と結果と努力ぐらいしかないと思いますし、誰だって少しばかり狂った見方してると思います
つか自分の立場にあった見方をすることが責任だと思いますし見方とはなんの味方であるかじゃないかなと思います
結局見方が思想であり宗教じゃないかと思いますね
見方が違えば味方じゃない
味方は正義じゃないといけないので敵は見方が真逆なので狂っている
狂った敵に対しては力で啓蒙して治療してあげるか迷惑かけられるから排除するかしないといけない

宗教問題も政治問題もそういうことじゃないかと思います
逆に言えば見方を変えることは味方を変えることなのである意味見方を変えない頑固さも時には誠実なのかも知れません
思えば組織もリーダーも基本頑固なものですしね 頭の硬さは簡単に味方を変えない誠意かも
レッテルや偏見こそ実はその人の誠意や信念なのかも知れないと思います
兎と目を合わすなとは敵とはまともに相手をするな つまりレッテルや偏見のフィルターを外すな誠意を持って相手と接するなということですかね

だからまあ自分の気に入らない人間を例えその理由が趣味に対する嫌悪感であっても叩く人がいるのでしょう
彼らにとってはそれが信念であり誠意なのですから

長くなりましたが要するにてゐの靴下すーはーすーはーしたいということです
13.60名前が無い程度の能力削除
なんて道を誤りそうな妖夢
こんな頭固い子とは思って無いので、そこだけ納得いかなかったですかね(見方の相違)
うどんに憧れる動機がさらっと流されすぎてて妖夢の気持ちに納得できないっつーか
そこまで頑なにうどんを信じさせるに足る説明が欲しいかなと

てゐはいちいちご説ごもっともでまるで京極堂ですが、みょーに科学に堪能ですな
それで良いのか白兎
14.80名前が無い程度の能力削除
クズンゲかわいい
16.90名前が無い程度の能力削除
ミステリ風味から突然の急展開、ケレン味が溢れてて面白かったです。
17.100名前が無い程度の能力削除
妖夢の気持ちはわかる
人間何かを否定する方が難しい
理屈じゃどう考えても否定するしかないのに否定出来ないものというのが世の中には沢山ある
そういうときに人間は否定出来ないからそれを正当化するため複雑な思考を身につけたり価値観を変えて成長する
妖夢にとったら否定したいものばかりなのに否定出来ないものばかりだ
逆になんでも否定することが出来るのがうどんげなんだろう
自分が否定すべきと思うものを否定してるんだから凄く論理的だ
自分が否定すべきと思うものを否定出来ないんなら酷く非論理的だ
だが自分が否定すべきと思うものを常に否定していけばうどんげみたいにもなる危うさがある
だからうどんげはダメダメにして自分らの出来ないことをやり遂げた理想像にも見える
否定したい他者を否定し自己を常に肯定する 軽薄だが自分の思想を突き通すということはつまりそういうことかも知れない
18.100ばかのひ削除
とても面白かったです。満たされました
妖夢、鈴仙、てゐ、ここまでらしいキャラクタたちはとても魅力的に感じます
心の拠り所があんな鈴仙でありいつかは裏切られる妖夢ちゃんを思うと胸をかきむしりたくなってきます
19.無評価名前が無い程度の能力削除
鈴仙が嫌なやつに描かれすぎてて途中で読むのをやめちゃいました
20.無評価削除
いい意味でも悪い意味でも妖怪だな、という印象を持ちました。
他の作品のてゐは好きだけど、この作品のてゐはどうも受け入れがたかったです。
作品としてはかなり面白かったです。
22.10名前が無い程度の能力削除
紺珠伝をやってから読むと鈴仙の性格に違和感ありまくり