Coolier - 新生・東方創想話

人間「聖白蓮」 第二話

2014/10/25 19:22:26
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第二話 地底遊行

「とうちゃ~く」
 光の届かない地の底の静寂を裂いて、こいしの明るい声が響いた。その姿が、後から降りてくる白蓮が放つ光の魔法に照らされ、暗闇の中にぼんやりと浮かび上がる。
 こいしの頭上には端から端まで五丈程もある巨大な縦穴が遥か上へと口を開いている。今は夜なので尚更だが、昼間であってもこの縦穴の底から空を伺うことはできない。
 それは数年前の間欠泉騒動で開いた無数の縦穴のうちの一つだった。幾つかの間欠泉からは今も温泉が噴き出しているが、この穴のようにすぐに水が枯れたものもあった。白蓮とこいしはそうして出来た洞窟を使って地上から降りて来たのだ。
 こいしに遅れて、白蓮がゆっくりと地底の底に足をつく。その手に持つ魔人経巻から放たれる魔法の光が、地底の冷たい岩肌を明るく照らした。
 縦穴の壁にはぽっかりと横穴が開いており、さらに地下へと続いていた。間欠泉の名残のごく小さな泉から、細い水の流れが横穴の下に向かって道を作っている。
「ここが地底の入り口。ここまで来れば、私のおうちまでもうすぐだよ」
「随分深いところまで降りましたね。私も地底には度々出向いていましたが、ここまで深く降りたのは初めてです」
 白蓮は頭上に開く縦穴を見上げて目を細めた。
「旧都に続く穴はそんなに多くないわ。深い穴から降りないとたどり着けないの」
 こいしは地下へ続く横穴の方に駆けて行って、ちょっと行った所でくるりと振り向いた。
「早くしないと夜が明けちゃうよ。おねえちゃんは夜型だから、昼にうちに着いても多分寝てて会えないよ」
「あら、それは困るわね。じゃあこいしちゃん、悪いけど案内してくれる? こんな大きな洞窟で迷ってしまったら大変だわ」
 白蓮は孫を見るような優しい目をして笑った。こいしは元気よく頷くと、再び踵を返して横穴を駆け下りていく。
「こんな足場の悪い所で走ったら危ないわよ」
 そう白蓮が言っているそばから、こいしは足元の岩の突起につま先を取られて勢い良くすっ転んだ。
 慌てて白蓮が駆け寄る。こいしはバツが悪そうに起き上がって、恥ずかし紛れに身づくろいなどしてみせた。
 怪我はないかと思いこいしの前で屈んで光を向けてみると、スカートから伸びる細い足、その膝小僧が赤く擦りむけていた。
「ああ、怪我をしちゃったわね。待ってて、すぐ治してあげる」
 白蓮がこいしの膝に手を添えると、その手が淡く光る。それは先刻の弾幕戦の後にも見せた癒しの法力だった。白蓮が手をのけると、先ほどまで血の滲んでいた膝小僧の傷はすっかり消え失せていた。
 こいしの顔にぱっと笑顔の花が咲く。
「その力、さっきも使ってたよね。すごいなあ。私も修行したらその力を使えるようになるの?」
「もちろんです。真面目に修行すれば、この程度の法術はすぐに使えるようになりますよ」
 それを聞くと、こいしはじっとしていられなくなって、不安定な岩場の上でピョンピョンと飛び跳ねた。
 白蓮は慌ててこいしの手を掴む。きょとんとするこいし。
「ほら、さっきみたいに転んでは危ないから、手をつないで歩きましょう」
「うん!」
 そうして二人はようやく旧都に向けて歩き出した。
 暗い洞窟の中を足元と頭上双方に注意しながらひたすら下っていく。時折、妖気を含んだ湿った風が二人の頬を撫でる。こいしは心地よさそうにその風の匂いをかいでいた。
 洞窟は途中から複雑に分岐し始め、さながら迷宮の様相を呈してきた。しかし、こいしはその分岐一本一本を迷い無く選んで進んでいく。
 そして、ある横穴に入って以降、分かれ道はぱったりとなりをひそめ、緩やかに傾斜する一本道になった。
 天井は次第に高くなり、足場も安定してきたので、白蓮はそろそろ安全かと思い、こいしの手を離そうとした。しかし、こいしの小さな手が白蓮の手をぎゅっと握ったまま離さなかったので、白蓮はそっとその手を握り直した。
「聖おねえちゃんの手ってあったかいね」
 こいしは人懐っこく笑って白蓮を見上げた。白蓮も微笑んで頷く。
「生きている証拠ですね。……人間も妖怪も皆体温を持っています。互いに親しく触れ合い、その体温を感じ合うことはとても大切なことです。肌と肌を重ねる、ただそれだけの行為なのに、互いの存在を確認し合うことができる」
「うん。私、昔はよくおねえちゃんと一緒のベッドで寝ていたわ。心の目を閉じる前はね、自分はこの世界では一人ぼっちなんじゃないかってずっと思ってた。だから、すごく怖くなって、寂しくなって、一人じゃ寝られなかったんだ。でも、おねえちゃんと抱き合いながらだとすごく安心で、すぐに眠れたの」
「こいしちゃんはさとり様のことが大好きなのね」
「当然よ! この世界で一番好き!」
「さとり様はどんな方なの?」
「うーんとね、私にとっても優しくてね、ペットにもとっても優しくてね、皆おねえちゃんの事が大好きなの。時々お菓子を作ってくれてね、すごく美味しいんだ! 普段のお料理はペットに作らせてるんだけど、お祝いの時とかはお姉ちゃんが台所に立つのよ。あとね、本がすごく好きなの。お部屋には沢山本があってね、自分でも沢山の本を書いているわ。あとね――あれっ?」
 こいしは姉に関する取り留めのない話をふいに止めた。白蓮も既に気づいていたが、二人が歩く先に二匹の妖怪の姿が見えたのだ。
 その妖怪たちは古びた橋の袂に立って和やかに談笑していた。どちらかというと片方が一方的に喋って、もう片方が笑顔でそれに頷いている様子だった。
 地上ではよく見かける光景を、この地底でも同じように見ることができ、白蓮はなんとなく心に安堵を感じた。地底は無法者たちの集まりと聞いていたので、妖怪同士で争いばかりしているのではないかと心配していたのだ。
 良く見ると、その二匹のうちの一方の顔は白蓮も見たことがあった。というより、僅かだが話したこともある知り合いだった。
「あれはヤマメとパルスィよ。地底では割と話の分かる二人だわ」
 ヤマメ――黒谷ヤマメは、白蓮が生まれるよりずっと昔から日本に棲んでいる妖怪、土蜘蛛の末裔だ。古来から権力に反発することを是としていた種族で、今もその血の定めに従って幻想郷に背を向けて生きている。
 地底に移り住む前は地上の妖怪の山に棲んでいたが、幻想郷が大結界の庇護の下に置かれた際に地下に潜ったと言われている。
 ヤマメ自身は人懐っこい性格をしているが、体内に病原菌を保持しているので、長く関わると病気をうつされて命を危険にさらすことになる。
 こいしと白蓮の姿に気づいたヤマメは、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「こいしちゃん、お久しぶり! 相変わらず元気そうね」
「ヤマメもね!」
 こいしは無意識のうちにヤマメに抱きついた。
「あらあらこいしちゃん。あんまりひっつくと病気になっちゃうわよ」
 こいしの無邪気さに苦笑いしつつ、ヤマメはこいしをやんわりと引き離す。
「お客様も一緒なのかい? ……って、おやまあ!」
 ヤマメは白蓮の姿を認めるや目を丸くして驚いてみせた。そしてそそくさと白蓮に近づき、その顔を覗きこんだ。
「こりゃ驚いた。誰かと思えば地上のお寺の住職さんじゃないのさ。こんな遠くまで、はるばるよく来たねえ」
「お久しぶりですね、ヤマメさん」
 ヤマメと白蓮にの間には面識がある。間欠泉騒動の後、ヤマメは一度地上に遊びに出たことがあった。彼女は妖怪の山や人里を巡った後、命蓮寺にも足を向け、そこで白蓮と出会ったのだ。
 妖怪が営む妖怪のための寺があるということにヤマメは大層驚いたが、その寺に人間も参拝に来ているの目の当たりにして、ヤマメの胸は大きくときめいた。
 寺に入れば人間食べ放題! 血は啜り放題!! 煩悩まみれで辛気臭い顔した参拝客共を病気にしてやれば旨さ三倍増し!!!
 ヤマメの頭の中では即座にそんな皮算用が展開され、気づいた時には白蓮に熱烈なアプローチをかけていた。
 結果は見事な玉砕で、振られたヤマメはとぼとぼと地底に舞い戻ったというわけだ。
 そんな経緯もあって、白蓮としてはこの顔合わせに若干気まずいものを感じていたが、対するヤマメの方は全く頓着しておらず、それどころかなんだか妙に嬉しそうにしているではないか。
 その理由はすぐに判った。
「もしかして! 気が変わって私を入門させる気になったんじゃないかい!? それでわざわざ私に会いに来てくれたのね! なんだいなんだい、こりゃとんだサプライズだねえ」
 もう本人は入門した気になっているようで、両頬に手を当ててくねくねしている。その口の端から涎が垂れそうになって慌てて啜り込んだ。柔らかい人肉でも想像しているのだろうか。
「いえ、あの……」
「もうっ。しょうがないねえ。まあ私の魅力ってのは後からじわじわ分かってくるものだからね。そりゃ蜘蛛ってのは第一印象は悪いかも知れないけどね、長いこと一緒にいると少しずつその愛くるしさに……」
「あの……それより、お連れの方がもの凄い形相でこちらを睨んでいるのですが……」
 白蓮がヤマメの後方を指さす。ヤマメが振り返ると、橋の袂に取り残された相方が緑色の目をギラギラ光らせてこちらを見ていた。
 ヤマメは慌てて彼女に向かって手招きする。
「ああ、パルスィ。ごめんごめん、除け者にするつもりじゃなかったのよ。ほら、こっちおいで。紹介してあげるわ」
 呼ばれてもパルスィはしばらくの間橋の傍から離れず、恨みがましい目でこちらをじっと見ていた。そのうち、小さな声でぶつぶつと何事か囁きながらジリジリとこちらに歩み寄ってきた。
 その妖怪を間近に見て、白蓮は息を呑んだ。パルスィの容姿が、今まで見たどんな妖怪よりも美しかったのだ。
 透き通るような白い肌、真っ直ぐに伸びた鼻梁となめらかな輪郭を持ち、大きな翡翠色の瞳はどこまでも深く澄んでいる。細い金糸のような髪が軽く波うって柔らかく肩にかかっており、時折風に吹かれてふわふわと揺れる。
 洋画の中から間違って出てきたものか、はたまた繊細な造形の石像が動き出したものか。何にせよ、この世のものとは思えない容姿だった。
 白蓮が惚けながら彼女の姿を眺めていると、パルスィはその視線を跳ね返すように目を吊り上げて、白蓮の頭の天辺からつま先までをジロジロと睨め回した。
 そしてやおら白蓮を指さし、
「その外套……」
 と、地の底に響くような声で呻いた。
「あ、ああ、これですか? これはマントですね。魔界に封印されていた時に現地のお店で買ったものです。マントはあまり幻想郷では流行っていないようでちょっと恥ずかし……」
「妬ましい!」
 白蓮の話を遮って、パルスィが甲高い声で叫んだ。
「異国の流行をひけらかして都会派気取り? 時代遅れな私たちを陰で密かに笑っているのね? ええ、ええ、そうでしょうよ、旧都なんて名前からして旧臭いものね。ああ、良いわねえ全く流行に敏感なお洒落さんは。目がつぶれるくらい輝いて見えるわ」
 薄い花びらのような唇から繰り出される呪詛の言葉に、白蓮はたじろいで一歩後じさった。
「あ、あの、でも貴女もその……とてもお綺麗ですし、お召しもとても洗練されていらっしゃって……」
 そんな白蓮の褒め言葉もこの妖怪には逆効果だったようで、彼女は双眸をカッと見開いて、さらに激しい言葉を白蓮に浴びせかけた。
「は!? 何その上から目線!? 勝者の余裕ってやつです!!!??? 『貴女も綺麗ですねー、でも私には敵わないでしょうけど!』ってとこですか!!!???? 死ね!!!!!」
 言葉のナイフで心をめった刺しにされて、白蓮は早くも涙目になってしまった。
 そんな二人の間にヤマメがやれやれといった様子で割って入る。
「あー。この残念美人の言うことは気にしないで良いよ。こりゃある種の病気だからね。あ、ちなみに今のは彼女なりの謙遜だからね」
 前衛的な謙遜もあったもんである。しかし、会話の流れを注意深く思い返してみると、確かに何となく世間話のように思えなくもない。
 彼女の言葉を日常会話に翻訳するのは相当な知性と精神力が必要そうだった。
「彼女は水橋パルスィ。橋姫よ。パルスィ、この方は聖白蓮様。地上でお寺の住職を……」
 言いながらヤマメがパルスィを見やると、彼女はまだ「死ね」だとか「妬ましい」だとかブツブツ言っている。
(あ、ダメだこりゃ)
 パルスィの普段を知るヤマメは早々に紹介を諦めた。
 と、そんなパルスィにこいしが近づき、躊躇もせずに絶賛嫉妬中の橋姫に話しかけた。
「パルスィ、お久しぶり!」
 パルスィはこいしの姿を見るといくぶん落ち着きを取り戻し、それどころか微笑みまで見せ始めた。
「あら、こいし。相変わらず元気そうで妬ましいわね……。最近は地上によく遊びに出かけているそうね」
「うん、人里の子供たちと一緒に遊んでるの」
「ちょっと日焼けしたんじゃない? 輝く太陽の下で駆け回れるなんて妬ましいわ~」
 先ほどとは打って変わって楽しそうに話すパルスィとこいしの様子を見て、白蓮はちょっとだけこいしに嫉妬を感じた。
 何しろあんな美しい妖怪が、自分とは仲良くしてくれずに他の妖怪とは楽しそうにしているのだから詮無いことだった。
 言わずもがな、これもパルスィの煽り技術の一つだった。
 橋姫のパルスィは嫉妬を糧に生きる妖怪であり、いわば嫉妬のプロだ。人の嫉妬心を煽ることに関しては職人的な腕前を見せる。
 今もこいしとの世間話を装って、最も効率よく嫉妬を稼げそうな初対面の白蓮をターゲットに嫉妬を稼いでいるのだった。
「パルスィは日焼けしない方がいいよ。その白い肌、とっても綺麗よ」
「やだ、こいしったらお世辞が上手くなったわね。とっても妬ましいわ」
「お世辞なんかじゃないよ~。私、パルスィより綺麗な子見たこと無いもん。ね、ちょっとだけほっぺた触らせて」
「ちょっ……しょうがないわね、ちょっとだけよ」
「わ~、すごいすごい! 絹みたいすべすべしてる!」
「貴女ばっかり触ってきて妬ましいわね。ちょっと私にも触らせなさいな」
「キャハ! やめてやめて! くすぐったい~」
 二人の妖怪がはばかりなくイチャイチャし始めたのを見て、白蓮は目に涙を貯めて小刻みに震え始めた。
 見かねてヤマメが白蓮の袖を掴む。
「ね、それよりさっきの話の続きをしましょ?」
「何の話でしょう?」
 白蓮は気丈に返事したつもりだったが、声が震えている。
「またまた~。とぼけちゃって!」
 ヤマメは馴れ馴れしく白蓮の肩口をちょんとつついた。帰ったらきちんと服を洗濯しようと白蓮は心に誓う。
「私を寺に入門させてくれるんでしょ? そこんとこ、詳細詰めようと思ってさ。――それで、人間は一日何体まで食べて良いの?」
「まだそんなことを……」
 白蓮は目の前の妖怪の諦めの悪さに辟易して大きく溜息をついた。
 そして、毅然とした態度で言い放つ。
「前も言いましたが、お寺に参拝に来る人間が目当てである限り、貴女の入門は決して許しませんよ」
「なんでさ! けちんぼねえ」
 なし崩し的に入門に漕ぎ着けよういう目論見を破られ、ヤマメは不機嫌そうに頬を膨らます。
 しかし、まだまだヤマメは諦めなかった。土蜘蛛は粘り強いのだ。
 今度はくるりと白蓮に背を向けて大げさに肩をすくめてみせると、わざと白蓮に聞こえるような声で独り言らしきものを呟き始めた。
「あーあ。住職に妖怪を見る目がないんじゃ仕方ないのかな。私たち土蜘蛛はお釈迦様から認められた存在だってのにさ。証拠だってあるのにさ」
 言いながらチラチラと白蓮の方に視線を投げ掛けてくる。あからさまに続きを聞いて欲しそうなそぶりだ。
 その様子が妙にいじらしく思えて、白蓮はちょっとこの土蜘蛛の話につきあってみることにした。
「それは初耳ですね。よろしければその証拠とやらをお見せ願えますか?」
 かかったとばかりにヤマメの目が光る。彼女は頬を上気させて勢い良く白蓮に詰め寄り、どこからともなく取り出したスペルカードをその眼前に掲げて見せた。
「あたしゃこう見えて読書家なんだよ。ほら見て、私のスペルカード、『カンダタロープ』」
「芥川龍之介の『蜘蛛の糸』ですね。私も魔界の図書館で読みました。含蓄深い良いお話だと思います」
 鼻先に突きつけられたスペルカードをやんわりと除けながら白蓮は微笑んだ。
 この土蜘蛛、人間を喰うことばかり考えていると思ったが、なかなかどうして宗教にも幾ばくか関心があるようだ。
 白蓮が評価を改めかけた次の瞬間、ヤマメは得意げに鼻の穴を膨らませてこう言い放った。
「ね? ね? そうだろうそうだろう? なんといっても土蜘蛛はお釈迦様のお墨付きなんだ。そこらの凡百の妖怪とは素質が違うよ。私が寺に入門しなくて、他に誰が入門するっていうんだい」
「あのお話のどこを読んだらそんな考えになるのですか……?」
 白蓮はがっかりしてしまって、しょんぼりと肩を落とした。
 しかし、どうやらヤマメはその独自解釈を頭の天辺から信じ込んでいるらしく、困惑しきりの表情で首をかしげる。
「んん? 言っている意味がよくわからないねえ。あの話は蜘蛛がお釈迦様に選ばれた種族だってことを語った話だろう?」
 ヤマメには悪気はない。それは白蓮も重々承知していた。彼女は純粋に妖怪らしく生きているだけなのだ。
 目的が目的だけにやすやすと入門を許す訳にはいかなかったが、彼女が見せるいじらしい努力や、先ほど見せてくれたさりげない気遣いに、白蓮の頑なな心も僅かにほだされていた。
 しばらく考えた後、白蓮はヤマメに対して一つの提案をしてみせた。
「……ではもう一度読み返してみると良いでしょう。しかるのちその胸に聞いてみてください。貴女自身がカンダタになってはいませんか? もし何か気づくことがあればいつでもお寺にお越しなさい。歓迎いたしますよ」
 宿題付きの再見学許可。厄介な病気と野望を持つこの妖怪に対して出来る最大限の譲歩だった。
 しかし、ヤマメはその提案を鼻で笑って一蹴した。
「私がカンダタ? あは! あたしゃあんなに馬鹿じゃないよ。私だったら糸が切れる前に何重にも命綱を張って落ちないようにしておくさね。その上で、下からおバカさんがたが上がってこないように、下の方の糸を後ろ脚で切ってしまうのさ。ああ、あたしゃなんて賢いんだろう。ほら、どう、パルスィ? この賢さが妬ましいんじゃないかい?」
 いつの間にか近くに寄ってきていたパルスィにヤマメがご機嫌な様子で水を向ける。
 するとパルスィはやおら両手をヤマメの首にかけ、にっこりと微笑んだ。そして、
「ええ、ええ、そりゃもう、震えるほど妬ましいわ。首を締めてやりたい」
 華奢な指でヤマメの頸動脈を絞め上げた。
「くええ~! ぱ、パルジイ……やめで……」
 雌鳥みたいな声を出しながら目を白黒させるヤマメを見て、こいしがコロコロと笑った。
「相変わらず二人は仲良しね」
「いけないわ、止めないと……」
 ついに取っ組み合いを始めた二人を見て白蓮が慌てて駆け寄ろうとするも、その腕をこいしが掴んで引き止めた。
「いいのいいの。あの二人はだいたいいつもあんな感じ。それより早く旧都に行きましょ」
 こいしは逡巡する白蓮の手をひっつかみ、洞窟の奥に向かって駆け出した。
 生真面目な白蓮は、最後までこれがパルスィの芸風なのだと理解せず仕舞いだった。
 
 ***
 
 二人の妖怪の眼前には巨大な空洞が黒々と口を開いていた。その空洞の巨大さたるや、妖怪の山が丸ごとひとつ入るのではないかと思わせる程で、見上げたところで天蓋は見えず、遠く見据えても向こうの壁など見えはしない。
 ただ眼下に目をやれば、がらんどうの底に古めかしい街の灯が色とりどりの煌めきを湛えて横たわっており、暗闇の中にぼんやりと浮かび上がって見えるのだ。
 地の底からは生暖かい風が吹き上げ白蓮を煽り、その長い髪を靡かせ、そしてマントをはためかせる。
 白蓮は溜息をついてその永遠の夜景に見とれていた。
「壮観ですね……。このような場所がこの幻想郷の地下にあったとは……」
「ねっ、ねっ! 素敵でしょう!? あれが旧都。ここが旧地獄。何物にも縛られない自由な妖怪たちの棲む場所よ」
 風に飛ばされそうになる帽子を抑えながら、こいしは白蓮を見上げて笑いかけた。
 二人は今、ようやくのこと洞窟を抜け、旧地獄に足を踏み入れていた。
 ここは元々は死者の魂が裁きを受ける場所、正真正銘の地獄だったのだが、罪人の数が増え手狭になった為に打ち捨てられた場所だった。
 そこに、幻想郷に馴染めなかった妖怪や嫌われ者の妖怪、封印された妖怪などが集まり、ひとつのコミュニティを形成し出した。
 それが、旧地獄と呼ばれる場所だった。
 旧地獄には旧都と呼ばれる大都市が存在する。今、白蓮たちの眼下に横たわる街がそれである。幻想郷の人里など及びもつかないほど巨大で文化的にも進んだ街だ。
 この街も元々は地獄の官吏や使役の鬼たちの住居だったが、地獄の移転に際して住民も転居し一時的に廃墟と化した。
 そこにならず者の妖怪たちが越してきて、今では幻想郷に引けをとらない賑わいを見せる場所になっている。
「毎晩毎晩、いつだってあそこはお祭り騒ぎ。元気そうなことで、全く妬ましいわ」
 地の底から響くような怨嗟の声を背後に聞き、白蓮はぎくりとして振り返った。
 見れば、先ほど白蓮たちが出てきた洞窟の出口から頭を半分だけ覗かせて、橋姫のパルスィがこちらの様子を伺っていた。
 翠色の眼が、白蓮の放つ魔法の光に照らされてちらちらと光る。
 続けて何か言うなり近づいてくるなりするかと思いきや、彼女は別にどうするともなく、じっと二人のことを睨み続けるばかりだった。
 しびれを切らして白蓮が尋ねる。
「一緒に行きたいのですか?」
 返事はない。
 そこで、今度はこいしが進みでてパルスィに笑いかけた。
「一緒に行きたいんだよね?」
「まあ、ね。なんだか面白そうなことが起こりそうな気がするの」
 どうやら白蓮のことは徹底的に無視する構えのようだ。またしても白蓮の心がもやつく。
 こいしはとことことパルスィに近づき、その手を取って白蓮の元まで引っ張ってきた。
 間近に見ると益々その美しさが映えて見える。透き通った瞳に無感情で見上げられるだけでも、なにかくらくらと目眩がしてしまうのだ。
 ――どうにかしてこの妖怪さんと仲良しになりたい。
 そんな白蓮の胸中などお構いなしに、こいしは気軽にパルスィに話しかける。
「今からこのおねえちゃんに旧都を案内しようと思ってるの」
「今から? ここから歩いて下ったら、旧都に着くまでにもう半日はかかると思うけど」
「大丈夫よ。このおねえちゃん、魔法使いだから空も飛べるんだよ」
「……へえ。魔法を。それはまた、妬ましい……」
 心底妬ましそうに顔を歪めてパルスィは白蓮を一瞥した。自身も魔法と似たような力を操る身でありながら、この橋姫は平気で他人の力に嫉妬する。
 しかし、この話題はパルスィの興味を引いたようで、彼女はついと目を上げていかにも高慢な態度で白蓮に問うた。
「貴女、どんな魔法を使うの?」
「ええと、あの、大抵の魔法なら使えますが、特に身体強化の魔法が得意ですね」
 白蓮はぎこちなく答えた。初めてまともに質問をされたものだから、少し緊張してしまったのだろう。
「このおねえちゃん、すっごく強いんだよ! ちょっと前に弾幕勝負したけど、私負けちゃったんだ」
「えっ! こいしが負けた? それ、本当なの!?」
 パルスィの目が大きく見開かれた。どうやら本当に驚いているらしく、僅かばかり声が裏返って素の表情が垣間見える。
「悔しいけど仕方ないわ。負けは負けだもの。それを認めないと成長できないっておねえちゃんも言ってた」
 そう言ってこいしは苦笑した。パルスィは思案げな表情でこいしと白蓮の顔を交互に見ていたが、やがて妙な薄笑いを口元に浮かべて、
「……それは、大したものね」
 と呟いた。
 初めて褒められた。しかし、白蓮の心に差し込んだのは喜びではなく戦慄だった。目の前の橋姫の翠色の瞳の中に、一瞬だけ邪な光がちらついたような気がした。
「何を考えているのですか?」
 すかさず釘を刺しにかかったものの、その時にはもうパルスィの顔から悪意は消え、見る者をとろけさせるような甘い笑顔に変わっていた。
「貴女、気に入ったわ。これから旧都に行くんでしょう? 私が案内してあげるわ」
 言うやパルスィの足がふわりと地面を離れた。
 彼女は崖から十尺ほど離れた虚空まで飛んだところで、誘うように振り返る。
「飛べるんでしょう? 早く来なさいな」
 旧都の淡い灯を下から受けたパルスィの姿は、妙な妖しさを纏って闇の中に浮かんでいた。
 今やパルスィの艶やかな微笑みは白蓮に鈍い不安を与えるばかりだったが、彼女の申し出をすげなく断るには理由に欠ける。
「行きましょ。旧都はとっても楽しいよ!」
 こいしが相変わらずの無邪気さで白蓮の袖を引く。
 仕方なしに、白蓮はパルスィを追って宙に進み入った。
 パルスィは満足そうに頷くと、再び白蓮に背を向けて闇の中を降下した。こいしと白蓮がそれに追随する。
 三名の姿はやがて、煌々と輝く街の灯の中にとけて消えた。

 ***

 どこかで飴でも溶かしているのか、甘い匂いが胸を詰まらせる。太鼓と笛と、陽気な妖怪たちの歌う声とが混じり合って、街は活気に彩られている。
 パルスィの話のとおり、旧都はまるで祭のようなにぎやかさで白蓮たちを迎え入れていた。
 白蓮たちの歩く大通りには、その路肩に露天やら屋台やらテキ屋やらがひしめき合っていて、それらには子供ほどの小さな妖怪から、見上げる程の巨体を持つ妖怪まで、様々な妖怪たちが群がって享楽に酔いしれていた。
 当然のことながら道行く姿は右を見ても左を見ても妖怪ばかりで、人間の姿など一人として見られない。
 人いきれならぬ妖怪いきれで街の空気は熱気をはらんでいるものの、街に満ちあふれる妖気は白蓮の中の魔の力をいや増していく。
 白蓮は己の心が自然と高揚していくのを感じていた。
「思っていたよりもずっと賑やかな所ですね。地下にこれほどまで多くの妖怪が住んでいるなんて……」
 白蓮は幻想郷よりも遥かに多くの妖怪でごった返す様を見て感嘆の溜息をついた。
「良い所でしょ? 地上なんかよりずっと活気があって妖怪たちも生き生きしてる。弱い妖怪にはちょっと生きづらい所だけどね」
「何よそれ、私へのあてつけ?」
 パルスィがこいしの言葉を聞き咎めてふくれっ面になる。
 こいしは苦笑いしながらたしなめるように上体を傾げた。
「誰もパルスィの事だなんて言ってないでしょ? パルスィは旧都の妖怪の中じゃ強い方だよ~」
 こいしとパルスィは相変わらず仲良くじゃれ合っている。その姿は微笑ましいものではあるのだが、彼女らの間に挟まれる格好となっている白蓮としては、いかんせん居心地の悪さに苦笑するしかなかった。
 旧都を歩いて妖怪たちの様子を見ているうちに、白蓮はふとあることに気が付いた。
「意外ですね。道を歩く者皆、私のことを見ても特に気にする様子がないわ」
「旧都は広いからね。都会ではあまり他の妖怪のことは気にしないものよ」
 こいしが得意げに語る。その言を引き継いでパルスィが静かに語りだす。
「来るもの拒まず去る者追わず。余所は余所、自分は自分、それが地底世界の数少ないルールよ」
 こちらは少し物足りなそうな表情を見せる。白蓮はその顔からおぼろながら彼女の思いを察したが、口に出さずにおいた。
 しばらく三者で大通りを歩いていると、通りの一角にひときわ多くの妖怪たちがたむろしているのが目に入った。
 パルスィがそれを目ざとく見つけて指差し、白蓮に尋ねた。
「見て。あれ、何だと思う?」
「うーん……あそこに見える劇場の入場待ちでしょうか?」
 パルスィが指差す先には、大通りに面して小ぶりな店が並ぶ中、ひときわ立派な二階建ての建物が建っていた。白蓮の言葉通り、その建物に掲げられた看板には朱色の文字で『時空劇場』の文字が躍っている。件の妖怪たちはその劇場の前で歓談などしながら、しきりに中の様子を伺ったり、もぎりの妖怪に何事か尋ねたりしていた。
 白蓮の答えに、パルスィは指をぱちんと鳴らして愉快そうにウィンクした。
「正解。あそこは今旧都の妖怪たちの間で人気の劇場よ。演目はなんと、他でもない自分自身」
 パルスィの言葉の意味をにわかには理解できず、白蓮は首をかしげた。
 こいしがすかさずフォローを入れる。
「この劇場ではね、自分の過去と未来を見ることができるの。ううん、見るっていうより、もう一度体験するって言った方が良いのかな。過去や未来の自分に乗り移って、その時代の文物をその目で見て触れて、音をその耳で聴いて、香りを味わうことができるのよ」
「そんなことが可能なのですか!?」
 にわかに信じがたい話に白蓮は眼を大きく見開いた。永く生きてきた白蓮だったが、かような体験をしたという話はついぞ聞いたことがなかった。
「地底にはまれに本当に変わった妖怪が現れるのよ。いつの頃からか時を操る高等妖怪が旧都に棲み付いたの。そいつが自分の能力を他の妖怪に披露してみたら意外と受けが良かったものだから、能力を物質化して商売を始めたってわけ」
 白蓮はパルスィの説明を聞いて、子供のように感心しながら何度も頷いた。
 すると、パルスィはやにわに胡散臭いほど眩しい笑顔を見せつけながら白蓮の袖を引っぱってきた。
「もちろん、寄ってくわよね。折角旧都まで来たんだから思い出作っておかないと」
「いえ、あの……」
 普段の白蓮は少し押しに弱いところがある。寺で夕飯の献立を決める際なども、もっぱら一輪、村紗、ぬえの三名が激しい自己主張をする横で、悶々としながら成り行きを見守るのが白蓮である。煮付けか蕎麦か鍋かで争っている中に割って入っていって、「私は芋粥が食べたい」とは決して言えない、白蓮はそういう性格だった。
 やや強引なパルスィの物言いに白蓮が逡巡していると、こいしが二者の間に割って入って咎めた。
「だめよ、パルスィ。早くお家に帰っておねえちゃんに白蓮を紹介しなきゃ。その為に地底まで連れてきたんだから」
 しかし、パルスィも諦めの悪い妖怪だった。
「別にそんなのいつだって良いでしょ。どうせ貴女のお姉さんなんか会いたい時に何時でも会えるわよ。家にずっと篭りっきりなんだから」
 涼しい顔をして言い放つパルスィ。姉の瑕疵を突かれてこいしの喉がぐっと詰まる。
 優勢と見たパルスィはかさにかかって言を継いだ。
「そもそも、地上から遥々来てくれたお客様に対して用事だけ済ませてはいサヨウナラ、なんて、ちょっと味気なさすぎるんじゃない? 出来る限りおもてなししてあげなきゃ妖怪がすたるわよ」
 地底の妖怪は嫌われ者の集まりといわれるが、その割には随分とまっとうな物言いをする。白蓮は思わず感心してしまった。
 さらにパルスィの勧誘は続く。彼女は白蓮の脇に擦り寄ると、甘い声で囁きかけた。
「この劇場は本当に素敵よ。もう一度逢いたい相手と話だってできるし、昔起きた出来事に別のアクションを起こしていたらどうなっていたか調べることだってできるの」
「もう一度逢いたい相手……」
 白蓮の眉がぴくりと動いた。その様子を見逃さず、パルスィは畳み掛けるように白蓮に押し迫った。
「そうよ。貴女、逢いたい人がいるんでしょう? もう二度と想いを交わすことができないなんて諦めていたのではなくて? その方の声、もう一度聞きたくはない? その方の笑顔、もう一度見たくはない?」
 白蓮の脳裏に一人の男の顔が浮かんだ。
 それは他でもない、実弟命蓮の笑顔だった。
 白蓮がまだ人間だった頃に死別した伝説の高僧・命蓮上人。ごうつくばりな長者の家の蔵を空に飛ばせたり、仏徳にて帝の病を快復に導く逸話などで知られる英傑だが、白蓮にとっては愛すべきたった一人の弟に他ならなかった。
 その入滅から十世紀以上経った今でも、白蓮は弟の顔を瞼の裏に鮮明に思い描くことが出来た。
 しかし、もし再び相まみえるならば、その息遣いや鼓動も思い出せるかもしれない。
 不用意に訪れた巨大な誘惑に、白蓮の心は大きく揺れ動いていた。
 数百年来、絶えて感じたことのなかった動悸が胸を苛む。
「幸せだったあの頃に、戻りたくはない?」
 パルスィの緑色のの瞳が燃えるように瞬いた。
 その瞳の色を見た瞬間、白蓮の腹は決まった。
「……やめておきましょう。思い出は思い出のままにしておいた方が良いこともあります」
 過去を追体験するということが、必ずしも幸せとは限らない。
 思い出の中で美化されたことも、忘れたい記憶も、全てが現実として舞い戻ってくる。それは本当に幸せなことだろうか。
 白蓮はそうは思わなかった。
 過去に戻れば、命蓮の死や封印された日のことも再体験してしまうかもしれない。
 それらの記憶は、白蓮の胸の内に未だに消化し切れずに澱のように淀んでいる。
 彼女には、現実として再び体験するには辛い出来事が多すぎた。
 パルスィはといえば白蓮の答えを聞くやその柳の葉のような眉を寄せ、唇を尖らせ、これみよがしに不機嫌な表情になった。
「そう? 別に無理にとは言わないけど。でも、言っちゃ悪いけど貴女そりゃ無粋ってものよ。娯楽の一つも楽しめないなんて……」
 ぶつぶつと文句を垂れるパルスィとは裏腹に、こいしは上機嫌に頷いていた。
「そうでなくっちゃ! 好事魔多しと言うもの。やっぱり私が見込んだだけのことはあるね!」
 早いところ白蓮を姉の元に連れて行きたいこいしとしては、白蓮の判断は快いものだったらしい。
 これから信徒にしようという相手に逆に見込まれてしまっては、白蓮としては乾いた笑いを漏らす他なかった。
 再び旧都を歩き出す。しばらく歩くと、三者は大きく開けた場所に出た。そこはどうやら広場らしく、大通りに負けず劣らず多くの妖怪で溢れかえっていた。
 そして、開けた視界の先には宮殿のように巨大な屋敷が、暗闇の向こうにぼんやりと浮かび上がっているのが見えた。
 こいしが遠くに霞んで見えるその屋敷を指さしてはしゃいだ。
「見て、見て。あれが私のお家! もうすぐそこだよ!」
 明るく振る舞うこいしとは対照的に、白蓮の表情は引き締まっていた。
 間の悪いことだが、先ほどのごたごたの結果、白蓮の心の中には忌まわしい記憶が蘇っていた。サトリ妖怪は人の心を読むという。万一、その記憶の残り香でも嗅ぎつけられようものなら、交渉に悪い影響を与えかねない。
 白蓮は口の中で真言を唱えた。すると、眩い聖光が白蓮の心の中に瞬き、大いなる勇気が全身の末端に至るまで行き渡った。
 迷いを断ち切り、決然と顔を上げる。
 その時だった。それまで不機嫌そうに喉を鳴らしていたパルスィが突然何の前触れもなく空に向かって飛翔したかと思うと、狂気に駆られたような甲高い声で叫んだのだ。
「皆聞いて! そこに居る黒衣の方は地上からいらっしゃった坊さんよ! はるばる地上から長い道のりを越えてこの旧都にやってきたの! 是非、是非、歓迎してちょうだい!」
 パルスィのよく通る声が広場中に響き渡った。すると、それまであれほど喧騒に包まれていた広場は水を打ったように静まり返り、めいめいの方を向いていた広場中の妖怪たちの視線が、一斉に白蓮に向かって集まった。
 色とりどりの眼光が闇の中に揺らめく。その中に潜む感情は様々で、困惑や好奇心に混じって、何やら黒い感情が見え隠れしていた。
 やがて、妖怪たちの低いささやき声が漏れ聞こえてくる。
 ――地上の坊さんだとさ。
 ――美味いのかな。
 ――でも妖怪みたいなカンジもするよ。食べれるの、あれ?
 ――封印されてこの方、人肉食ってねえなあ……。
 ――地上……もう何百年もお月様を見ていない……。
 ――……何しにきやがったんだ、この尼は……。
 ――……気に食わないねえ……。
 遠巻きに白蓮たちを見ていた妖怪の中にちらほら、邪な感情を抱えて白蓮たちににじり寄る影も見え隠れする。
 どう楽天的に見ても、手放しで歓迎されているとは言えない。
「パルスィッ! 何をしているの!?」
 白蓮の前でこいしが初めて怒りを顕にし、上空に浮かぶパルスィに向かって叫んだ。
 パルスィはといえば、こいしの怒りなどどこ吹く風で穏やかに答える。
「折角だから、旧都の皆にお客様を紹介しようと思って。何か問題でも?」
 旧都の灯を下から受けたパルスィは、酷薄そうな笑みを浮かべてこいしと白蓮を見下ろしていた。闇に埋もれて顔の上半分はよく見えないが、その目だけは爛々と緑色の光を放っている。
「あーもう! またパルスィの悪い癖が出たあ!」
 こいしがやけくそ気味に叫ぶ。彼女はパルスィの笑顔の意味を嫌というほど知っていた。
 勿論、白蓮にもパルスィの狙いは分かっていた。自分を見る妖怪たちの目に宿る光には見覚えがある。
 地底に棲む妖怪たちの中には、好き好んでこの場所に留まっている訳ではない者も居る。止むに止まれぬ事情から地底で暮らさざるを得なくなった妖怪は、なにも地霊殿の主だけではないのだ。
 持たざる者が持てるものに向ける視線。
 それは、千年前にも受けたことのある視線だった。
 ――やはり、過去など見るまでもなかったわね。
 白蓮は心の中でそうひとりごちて静かに笑った。
 その笑顔を見た途端、白蓮を睨む妖怪たちの目の色が変わった。嫉妬の緑の炎の合間にポツリポツリと赤い光が瞬き始め、終には辺り一面が真っ赤な光で埋め尽くされた。
 白蓮はその変容に僅かながら危険を感じ、懐からそっと魔人経巻を取り出す。
「こいつ、笑いやがった」
 白蓮の右の眉がぴくりと動く。妖怪のうちの一匹が、はっきりとそう毒づいたのだ。
 その声に呼応して、妖怪たちの間から次々にと怨嗟の声が上がり始める。
「……何、笑っていやがるんだ、貴様」
「せせら笑っていやがるのさ。いつまでも地底で這いつくばって生きている俺たちのことを……」
「恨めしい……恨めしや、地上の者ども……」
「……地上の尼の一人や二人、殺した所で誰も咎めやしないよなあ」
「妖力は強そうだが、ここにいる皆で力を合せりゃ、やれないことはないぜ」
「殺してやる……食ってやる……」
 広場の妖怪たちは、今や殺意も顕に、各々が凶器たる爪や牙をむき出しにして白蓮を睨みつけている。
 不穏な空気がますます色濃くなり、辺り一帯の空気も一層重苦しくなってゆく。
「いつの間にか囲まれているわ。ほら、上にも妖怪があんなにたくさん!」
 周囲の緊迫した空気を破って、こいしが妙に楽しそうな声を出して白蓮のドレスの端を掴む。
 言われて顔を上げると、夜空のような暗闇の中に妖怪たちの無数の目が、まるで満天の星のように瞬いているのが目に入った。
 もしも夜空の星がすべて赤くなったらば、きっと今見ている光景のようになるだろう。それはまるで、世界の終わりのような光景だった。
 それら妖怪たちの目の中に混じって広場を悠然と眺めていたパルスィが、わざとらしく眉をひそめて言った。
「あらあら、なんだか大変なことになってきたわね。皆、歓迎してくれると思ったのだけど。何か皆の気に障るようなことをしちゃったの、僧侶さん? この状況をどうやって切り抜けるのかしら?」
 確かに状況は最悪と言ってよかった。一匹の妖怪を仏門に加える過程にしては、いささか苦難が大きすぎる。
 白蓮は自分の浅はかさに唇を噛んだ。無意識に漏らした自嘲の笑みがあらぬ誤解を招いてしまったのだ。
 ――未熟者め!
 彼女は己に対して激しい怒りを感じた。その怒気は白蓮の内面に留まらず、激しく燃える妖気となって白蓮の両肩から頭頂から熱り立つ。
 その妖気はその場に並み居る妖怪たちのそれを遥かに凌駕していた。立ち上る力が空気を震わせ、おぞましい波動が第六感を締め付ける。精神が存在の主体である妖怪たちにとって、その感覚は生命の危険を感じさせる程のものだった。
 憎悪によって動いていた妖怪たちの足が、その波動の一閃によってことごとく止まった。
 怯んだのだ。それは無理もないことだった。人間は自ら死後の世界を想像することで死への恐怖を緩和したが、妖怪にはそのような観念は無い。存在が消えればそれは即ち無に至るばかりだ。
 妖怪にとって、死は人間が感じる以上に恐ろしいものだ。だからこそ、妖怪は自らの存在を脅かす力に対して本能的に防衛機制を働かせる。
 その防衛機制が、妖怪たちの足を無意識的に止めたのだ。
 この流れは白蓮自身が意図したところではなかったが、状況は若干彼女に有利に傾いているようだった。
 しかし、広場には未だ緊迫した空気が張りつめ、誰一人としてその場を動くことができなくなっていた。
 その時だった。
「何だい何だい、今日は何のお祭りさ?」
 場の緊張を一気に吹き飛ばす威勢のよい声が広場に響いた。これは決して比喩ではなく、その声そのものが白蓮の禍々しい妖気を『物理的に』払拭したのだ。
 並大抵の妖怪に出来る芸当ではない。
 しかし、その並大抵ではないこと――怪力乱神を実現できる者が地底には存在する。地底の住民なら誰もが、その存在を畏怖とともに記憶に刻み込んでいる。
 ――『そいつ』が、今、広場に来ているのだ。
 パルスィが闇の中で密かに舌打ちをする。せっかく作り上げた自分好みの劇場も、『そいつ』が居るだけでどっちらけになるのは目に見えている。
 事実、白蓮を囲む妖怪たちの眼の色からは怒りが消え、困惑気味の感情が広がりつつあった。振り上げた拳にどう始末をつけるべきか、そもそもこの場に留まるべきなのか。目まぐるしく変わる状況に、主体性の無い妖怪などは致し方を決めあぐねているようだった。
 ほどなくして、白蓮とこいしを囲む妖怪たちの群れの一部がさわさわと動き出した。異国のお伽話の中に海が割れて道ができる類のものがあるが、それに似た様子で、妖怪たちの群れの一部が二つに割れて、道が出来始めたのだ。
 その道の先から、一匹の妖怪が泰然とした足取りで白蓮たちの元に歩み寄ってきた。
 近づくにつれ、その姿が闇の中からおぼろげに浮かび上がってくる。大柄な体躯から伸びた足が一つ踏み出すたびに、どうという鈍い地響きが鼓膜を揺らす。
 その妖怪の顔をひと目見た白蓮は、思わず息を呑んだ。
 額から、一本の角が赤くまっすぐ伸びていた。
 ――鬼。
 説明不要、泣く子も黙る鬼である。
 今や幻想郷ですら、お目にかかることも珍しくなった種族だ。その破壊的な力に関しては並み居る妖怪たちの中でも桁違いに凄まじく、天狗ですら恐れをなす程のものだという。
 かつては地上の妖怪の山に君臨していたが、実力の見合う敵が減ってきたことや、自分たちを縛るくだらないルールが地上に生まれ始めたことなどに嫌気がさし、地底に移り住んだと言われている。
 白蓮自身、噂には聞くものの、その目で姿を見るのは初めてだった。
 金色の髪と透き通るような白い肌はまるで海向こうの異人のようだったが、眼窩の奥で油断なく動く緋色の瞳は彼女が正真正銘の妖であることを証していた。その両腕と両足には鉄の枷が嵌められており、それぞれの枷には引きちぎられた鎖が一条ずつ繋がっていた。
 そしてその手には赤い大きな盃が掲げられており、鬼は白蓮たちが見ている前でその盃の中身をぐびりと一口喉に流し込んだ。
 彼女の全身からは凄まじい妖気が発せられ、周囲の空気が歪んで見える。
 只者でないことは一目見ただけで判った。
 彼女は白蓮たちから三丈ばかり離れたところで足を止めると、不敵な笑みを見せてその場に仁王立ちした。
「勇儀」
 こいしが静かにその鬼の名を呼んだ。
「あら、なんだい。古明地のところの妹の方じゃないか。久しく見なかったが元気にしていたかい?」
 勇儀と呼ばれた鬼は拍子抜けするほど柔和な物腰でこいしに向かって笑顔を見せた。
 こいしはその笑顔を見て安心したのか、白蓮の脇を抜けてとことこと勇儀に向かって歩き出した。
 が、すかさず白蓮の手がこいしの肩をつかみ、彼女の歩みを止めた。
 こいしは驚いたように白蓮を見上げる。
「どうしたの? 彼女は悪い奴じゃないよ」
「……」
 白蓮は目の前の鬼のその立ち居振る舞いに妙な違和感を覚えていた。
 理由はわからない、ただ、嫌な雰囲気を感じたのだ。第六感のようなものだろうか。
 勇儀は片方の眉を上げて白蓮に視線を移した。
「お連れの方は坊さんかい? 随分徳の高そうなの引っ掛けてきたじゃないか。なんの祭りかと思えば、地上からかっさらってきた獲物の争奪戦ってわけかい」
 勇儀は白蓮を見やると目を細め、口の端で舌なめずりをしてみせた。
 こいしは頭を振って、
「別に食べるために攫ってきたわけじゃないわ。このお姉ちゃんは地上でお寺の住職をやっていて、私はそこの信者になるの」
 そう言い放った。
「はあ!?」
 これにはさしもの鬼も目を皿のように丸くして固まった。そして、すぐに腹を抱えて笑い始めた。
「ブハハハハハハハハハハハハ!!!!!!!! 妖怪のあんたが? 寺の信者に? ギャハハハハハハハ!!!!!! ち、地上ではそういう遊びが流行ってるの? 変わったやつだと思ってたけど、そこまでトチ狂ってたとは思わなかったよ。ヒーッヒーッ……あー腹が痛い……来年のこと言われたってこんなおかしかないよ」
「私は本気よ! それに地上じゃ妖怪寺なんてジョーシキなんだから」
 頬をふくらませるこいし。
 勇儀の方は目の端を指で拭きつつ、また一口、杯から酒を啜る。
 それでようやく落ち着きを取り戻したようで、こいしの話にも聞く耳をもつつもりになったようだ。
 彼女は咳を一つ、二つして、それから、片手を上げて謝罪した。
「あー、悪かった悪かった。私も地底時代が長いからね、地上がそんなことになってるなんて知らなかった。でもさ、妖怪が仏門に入るなんて冗談みたいじゃないか。そもそもあんた、寺に入ってて何をするっていうんだい?」
「今よりもっと強くなるの!」
 何の迷いもなくそう言い切るこいしを、白蓮はやんわりとたしなめた。
「いえ、今よりもっと世の中の為になる妖怪になるのですよ」
「はなから意見が食い違ってるようだけど大丈夫かい?」
 呆れる勇儀。
「大丈夫よ! 強くなれば自然と世の中の為になるような働きもできるようになるわ!」
「その通りです、こいし。自らを高めようとするその心が他者の心に刺激を与え、ひいては相互に高め合う関係が周囲に広まっていくのです!」
 唐突に盛り上がり始める住職と信者を最初憐れむような目で見ていた勇儀も、彼女らが自分を置いて二人の世界に旅立ちそうになっていることに気づくと、慌ててわざとらしい咳払いで気を引き始めた。
「エヘンエヘン。まあその話はもういいや、なあ。地上の話は存外楽しかったが、私の用件はそこじゃないんだ」
 そう言って、勇儀は人差し指を真っ直ぐに白蓮に向けた。
「あんた、坊主のくせに闘いも上手そうだな。初見で私の間合いに気づくとはね。足元を見てみなよ。そこが生と死の境界線だったのさ」
 勇儀は白蓮に向けていた指をゆっくりと下に向けた。
 白蓮が足元にちらと目をやると、つま先の数寸先の地面の土がジリジリと灼けて煙を立ち上らせている。
 白蓮は、それが目の前の鬼が放った気迫による現象だと経験から推察した。
 先刻感じた不穏な気配の正体はこれだったのだ。
 ――不用意にあの先に進んでいたら、命を落としていたかもしれない。
 白蓮の額に汗が滲んだ。咎めるようにこいしが叫ぶ。
「勇儀までどういうつもりなの!?」
「私ゃ祭りに目がなくてね。ことに決斗の類は大好物だ。そんな私がどういうつもりでここにいるかなんて、分かりきったことじゃないか」
 そう平然とうそぶく勇儀を見て、こいしは忌々しげに歯ぎしりをした。
 だが、言われてみれば相手は鬼だ。何のためにそこにいるかと問われれば、喧嘩か酒と相場が決まっている。
 他方、周りを取り囲む妖怪たちはその言葉を聞いて色めきだった。
「勇儀! あんたも加勢してくれるのか!?」
「あんたが加われば百人力だ! こいつ、ちょっと手強そうで……」
「あんたも一緒にこいつをやっつけてくれるんだろう?」
 どうやら呼んでもないのにやってきたこの鬼が、都合良く戦力になってくれると思ったらしい。妖怪たちは勇儀の背後に群がって、やいのやいのと喚き始めた。
 そんな彼らに、勇儀は眉をひそめて明白な嫌悪の視線を送る。
「あん? 莫迦言っちゃいけない。私が遠当てを見せたからには、こいつはもう私だけの獲物だよ。あんたらの下らないいざこざなんぞに付き合ってられるか。そもそも、多人数で一人を押し包んでどうこうしようなんて根性が気に食わないね。やるなら正々堂々一匹ずつ戦いを申しこめばいいじゃないか」
「いや、それは……」
「無理なんだろ? 分かってるさ。こいつの相手はあんたらじゃ力不足だね。束になってかかっても下手すりゃ遅れを取るよ。まあ、指を咥えて見てりゃあいいさ」
 そう言われて反論する妖怪は誰もいなかった。事実、先ほど見た白蓮の妖気に大半の妖怪たちは戦意すら失っている。
 勇儀はもう背後の妖怪たちに関心がなくなったようで、再び白蓮たちに向き直ると、打って変わってご機嫌な笑顔を見せた。
「さ、これで心配事は無くなったろ。心置きなく戦えるってもんだ」
「勇儀、この人は私の大事なお客様なの。乱暴したりするのは無粋だわ」
 こいしは眉根を寄せ嫌悪感を顕にする。鬼の方は軽快に笑ってそれを一蹴した。
「そりゃないね、こいし。目の前に豪華な食事があって、喰うなという方が無粋だよ。この地底じゃ力こそが粋。その点じゃ、そこの坊さんは随分と粋なもんじゃないか。半里も先からただならぬ気配を感じたから走って来ちゃったよ」
「このお姉ちゃんは私のものなの!」
 こいしは両手をめちゃくちゃにばたつかせて駄々をこねた。
 いつからこの子の所有物になったのかしら、と苦笑しつつ、白蓮はこいしの肩に手を置いた。
 地団駄踏むこいしになんとか身を引かせると、白蓮は鬼に向かって静かに尋ねた。
「私はこの道の先の地霊殿に用があるのです。通していただけますか?」
 愚問とは思いつつも、一応争いを望まぬ自らの意思だけは明確にしておかなければ気が済まない白蓮だった。
 当然勇儀はその問いを鼻であしらう。
「無論、すんなり通す気はないね。私はあんたに用がある。察しが良けりゃ皆まで言わなくてもわかると思うけど……」
「しかし私は、特に理由もなく争うことを好みません。話し合いで済むならそれに越したことはないでしょう」
「鬼との話し合いは拳でするものよ」
 背後から突然鈴の音のような声をかけられ白蓮はぎょっとして振り向いた。
 声の主はパルスィだった。いつの間にか地に降りて、心底どうでも良さげに髪をいじっている。
「そういうこと。『力も方便』ってね。望みがあるんなら戦って勝てば叶えられる、それが地底の素敵なところさ。あんたが何を心配してるか知らんが、ここじゃ戦いより平和的な解決法は無いんだ」
 言うと勇儀はどこからともなく手品のようにスペルカードを取り出して、それを白蓮に見えるように掲げた。
「安心しなよ。手加減はしてあげるからさ! 私はこの盃の酒を一滴も溢さずに戦う。ちょっとした力試しだと思えば気が楽だろう?」
 地底には地底のルールがある。人間社会と同じように。それを破ってしまえば、再びいつかと同じような憂き目に合うことだろう。
 ――もう二度と、同じ過ちを繰り返したくはない。
 その思いが、知らず知らずのうちに自らの選択肢を減らしていることに、白蓮は気づいていなかった。
「…………仕方ありませんね」
 ため息を交えつつ、白蓮も懐からスペルカードを取り出し勇儀に見せる。
 鬼の満面に、これ以上ない程の喜色が広がる。よほど白蓮と闘いたくて仕方がなかったのだろう。
 その笑顔を見た瞬間、白蓮は直感的に悟った。
 ――私はこの妖怪のことが好きだ。
 これから戦う相手にも関わらず、だ。
 両者はいずれともなく地底の空に飛翔した。暗闇の中に二名の姿が紛れて消える。一瞬の間、静寂。そして、こいしやパルスィ、地底の妖怪たちが見上げる中、地底の闇夜に光が弾けた。まるで今この瞬間に空が誕生しているかのような眩さ、暴力的な光の放射、それらは互いに衝突し合い、せめぎ合う度により強い光を放つ弾幕の姿だった。
 目で見える範囲の空という空が、大小色とりどりの光弾によって埋め尽くされる。
 白蓮と勇儀が放った光弾はそれぞれ理性と力という相反する性質で互いを圧していた。高速で放射された両者の光弾の多くは弾幕間の狭い隙間を通り抜けることができず、相手の放った弾に衝突し、強烈なエネルギーと光を放ちながら消滅する。
 地上でも中々お目にかかることのない、強者同士の弾幕勝負の姿だった。
 それまで呆気にとられて成り行きを見ていたこいしが、その大量の弾幕を見て我に返った。
「もーーーーっ!! 皆邪魔ばっかりしてっ!!!」
 叫ぶこいしの声は虚空に戦う二人には届かない。
 空の戦場の中で、二人はもはや互いしか認識していなかった。それしか意識にのぼらなくなっていた、といった方が正しいかもしれない。互いの弾幕のその厚みが、互いの想像を遥かに超えた密度と速度をもって襲い掛かってくる。
 絶え間ない光弾の嵐をすりぬけながら、白蓮は心の内で戦慄していた。
 恐るべきことに、これだけの弾幕を放っていながら、相手はまだ本気ではないのだ。
 片手で弾幕を操りながら隙を見ては杯の酒を口に含む鬼の姿は、まだまだ余裕に満ちていた。
 ――本気になる前に倒さなければ……!
 白蓮は機を伺いつつ、懐のスペルカードを引き抜く。
 しかし、実際のところ、焦っているのは勇儀も同じだった。それをおくびにも出さなかったのは、ひとえに鬼の矜持でしかない。
 あの怪僧が放つ一つ一つの弾の速度、密度、重さは、鬼である自らのものと比べても全く遅れを取っていない。それどころか、油断をすれば一気に勝負を決められかねない。
 しかも、未だに相手は一枚のスペルカードも見せてはいないのだ。
 地底の妖怪たちが見ている前で無様な姿を見せる訳にはいかない。
 ――先手を取らねば危険……!
 二人がカードを切ったのはほぼ同時だった。
「魔法『紫雲のオーメン』!」
「鬼符『怪力乱神』!」
 奇しくも二名が選んだカードはそれぞれの持つ技の中でも屈指の弾数を誇るものだった。互いの張った弾幕は互いの視界を遮り、相手が被弾したかも判然としない。そんな中で両者はうまいこと身を処して襲いくる光の牙をかわしていく。
 両者の選んだカードは、初めて出会う二人が交わす挨拶としては、効果的だったようだ。白蓮は聞きしに勝る鬼の妖力を相手の技から感じ取り、勇儀は坊主のくせに怪しげな技を使う白蓮に驚愕する。
 特に、より強く衝撃を受けたのは勇儀の方だった。
 正直、相手を舐めていた。
 勇儀が地上を去った理由は、ひとえに敵の不在にあった。勇儀が地上を去った当時、自らを脅かす人間は絶えて久しく、喧嘩と祭りと酒が全ての勇儀にとって地上は退屈な場所になっていた。
 地上には惰弱な奴しか残っていない。そのような観念が勇儀の心に定着してから百年単位もの時間が過ぎていた。
 しかし、今相手している地上の僧はどうだ。少なくとも霊力だけならば鬼である自らに優るとも劣らぬモノを持っている。
 先日やってきた人間の魔法使いもそうだ。手加減されているとはいえ、鬼と真っ向から勝負して怯まない勇気は見事という他なかった。
 ――地上は変わったのだ。強者たちが跋扈ししのぎを削る理想世界が、再び地上に形作られつつあるのか。
 勇儀の口元に、我知らず笑みがこぼれた。
 一枚目のカードが時間切れになった。勇儀がカードを投げ捨てつつ叫ぶ。
「なかなかできるようだね! でも、まだあんたは本気じゃない! そうだろ!?」
「流石に見透かされていますね」
 白蓮は苦笑した。
 彼女はまだ、隙を見て逃げ出すという選択肢を捨てていなかったのだ。一瞬の隙さえ見つかれば、大量の弾幕を隠れ蓑に、こいし共々地霊殿まで辿り着く自信が白蓮にはあった。
 しかし、その一瞬の隙さえも、相対する鬼の所作の中に見つけることはできなかった。鬼の目は白蓮を捉えてついに離さなかったのだ。
「馬鹿な考えはよすんだね。鬼の目は節穴じゃないよ!」
「その集中力、尊敬に値します」
 会話の最中にも弾幕が途切れることはなかった。両者の妖気の色を纏った弾幕は地底の空を入り乱れる。相手に当たらず後逸した光弾は術者から離れるほど緊張を失い、果ては霧散しながら地上の観戦者たちの頭上にゆっくりと雪のように降りしきる。
 鬼は考えていた。薄笑いを浮かべながらのらりくらりと弾幕を躱し続けるこの僧侶を、いかにして闘いに仕向けるか。いかにして、彼女に奥の手を出させるか。
 相手の意図は明白だ。逃げの一手。妖気の中に戦意がないことからもそれは明らか。ならばどうする。
 ――ならば、逃げられないようにすれば良い。
「……この技をこんなにも早く使うことになるとはね」
 勇儀は二枚目のカードを懐から引きぬいた。
 カードの表に記されたスペルの名前、それは――。
「奥義『三歩必殺』!」
 勇儀が宣言すると、彼女の周囲に高密度の弾幕が敷き詰められた。
 地上で観戦する妖怪の中にはその技の名を聞いた途端泡を食って逃げ出す者もいた。こいしやパルスィも、めいめい慌てて長屋の影に飛び込んだ。
 時を置いて、さらにもう一周、より密度の濃い弾幕が勇儀の周りに張り巡らされる。
 白蓮の顔から笑みが消えた。鬼が放った光弾の一つ一つから発せられる妖気は、今までのような小手調べのそれではない。殺気と、そして名状しがたい熱意のようなものが白蓮の頬まで伝わりひりつく。彼女は本能的に勇儀から距離を取った。
 しかしそれは大きな判断ミスだった。
 自らの身体を焦がす熱気が、単なる鬼の気迫ではないことに気づいた時には既に手遅れだった。回避という選択肢も潰えた白蓮は、口の中で真言を唱え目を閉じた。
 そして、鬼の三歩目は炸裂した。
 その場にいる、すべての妖怪たちの視界が白に染まる。
 凄まじい爆裂音と共に、目に見えない力が地上の妖怪たちの身体を薙ぎ払う。長屋の瓦が滝のような速さで屋根を滑り落ちていく。
 逃げ遅れた妖怪たちの顛末といえば、ある者は長屋の壁に叩きつけられ悶絶し、ある者は落ちてきた長屋の瓦を頭に受け呻き、ある者は大通りを数十間も先まで吹き飛ばされた。
 一体何が起きたのか。ひとしきりの滅茶苦茶が収まった後、妖怪たちが空を見上げる。
 虚空に、巨大な白い光球が浮かんでいた。
 空に現れたこの巨大な光球が、その場にあった大量の空気を一瞬にして他所へ追いやった結果、衝撃波が発生したのだ。
 地上に目を向ければそれはもう惨憺たる有り様で、屋根瓦は尽く落ち、外に置かれていた桶やら椅子やら机やらは皆バラバラの木片と化し、店屋の看板は傾くか酷ければ落ち、長屋の窓のあったところにはポッカリと黒い穴が開き、そして運悪く白球の直下に在った建物は屋根が丸ごとごっそり落ちていた。
 これが、鬼の力だった。しかも、彼女はまだまだ実力の一割も出してはいない。今見せた技とて、スペルカードルールに合わせて手頃なサイズに纏めた、『お試し版奥義』とでもいうべき代物だった。
 本気になれば妖怪の山を吹き飛ばせると豪語する鬼もいるというが、それは決して妄言などではないのだ。
 妖怪たちが固唾を呑んで見守る中、光球はその光を次第に弱めていく。
 そして、知覚能力に優れた妖怪たちから順に、状況が、また一つ大きく動いたことに気づいていった。
 勝敗はまだ決していない。それは明らかだった。ただ、二者のうちの片方の気の質が、確然たる形で変化していた。その気は妖怪を滅ぼす類のようでもあり、同時に、純然たる妖怪そのもののようでもあった。それらが混沌としながら一箇所に共存しながら渦巻いているのだ。
 鬼のひりつくような妖気は変わらない。ならば、それは――。
「それが、あんたの奥の手かい?」
 闇の中に鬼の声が響いた。光によって眩まされていた目が闇に慣れてゆくにつれ、妖怪たちの間からどよめきが湧き上がる。
 天に、巨大な光の蝶が舞っていた。
 歪な翅を持った金色の蝶だった。その翅は淡い光を放ちながらゆっくりと羽ばたいているように見えた。そしてよく見ると、その翅には花弁のような模様に縁取られた四つの眼があり、そのすべてが明白な意思を持って蠢きつつ敵対者を睨め据えていた。どうやら、蝶のような形をした使い魔の類か、あるいは霊的な存在であるかのようにも見えた。
 その蝶の胴体にあたるところに、僧侶・白蓮の姿があった。
 彼女自身も僅かな光を放ちつつ、手を合わせ、目を閉じ、何事か真言のようなものを口の中で唱えている。
 空中には勇儀が放った初撃と第二撃の弾幕が散在していたが、蝶が大きく一つ羽ばたくとその弾幕は瞬時に蒸発していった。
 勇儀は空中に仁王立ちして面白そうにその蝶の動きを見ていたが、弾幕が晴れ白蓮の姿が顕になると、みるみるうちにその表情が変わっていった。
「驚いた……。私の三歩必殺をまともに食らってほぼ無傷とはね……」
 勇儀の言うとおり、白蓮は衣服こそところどころ焦げて解れてはいるものの、身体には軽い裂傷程度しか見受けられなかった。
「見事な技です。身体強化の魔法がなければ生きてはいられなかったでしょう」
 白蓮は傷口を法力で治しながらそういって鬼を讃えた。
「……む、むむ……?」
 勇儀は己の中に猛り狂う脈動を感じていた。
 全身の細胞が闘いの予感に興奮し、身の底から震える。
「こ、こりゃまさか武者震いか? ふ、ふふふ……。この感覚、百年……いや、千年ぶりか……。ふふ、ふふふ……」
 鬼の不気味な含み笑いはやがて哄笑に変わった。
「あははははは! いいよ! 気に入った! あの金髪魔法使いといいあんたといい、最近の地上は随分と楽しそうじゃないか!」
 勇儀は気風の良い声でそう叫ぶや、片手に持っていた盃をあおって中の酒を喉の奥に流し込んだ。最後の一滴まで飲み干すと、彼女は空いた盃を無造作に投げ捨てた。盃はごすりと鈍い音を立てて大路の固い土路に突き刺さる。
 鬼の目の中にはぎらぎらと妖しい光が揺らめき、重い妖気が彼女の輪郭を縁取るようにして首をもたげた。
「本気でやろう。どっちかがぶっ倒れるまでやろうじゃないか」
「ええと……あまり乗り気がしないのですが……」
 白蓮は困惑しきりという顔をして、ちらとこいしに目をやった。こいしは長屋の上に上がって白蓮たちを見上げるばかりで、何を考えているのか判然としない。
 鬼が一歩白蓮に近づく。ただそれだけで、空気がおどろおどろしい呻き声を上げる。
「私をその気にさせといてそりゃないよ、坊さん。ここは元来ルール無用の地底世界。星熊勇儀が地に盃を捨てる時ってのはね、そりゃ命を賭して戦う時さ。そしてそれを拾うのは、敗者の血酒を啜る時さ!」
 白蓮はこの地に戦いに来た訳ではない。こいしとの戦いは必要悪として自らを誤摩化すことができたが、この戦いは全く自らの意図したものではない。できるならば避けたい戦いではあった。
 だが、目の前の鬼はどう考えても、小賢しい手段で切り抜けられる相手ではなかった。
 白蓮は決然と目を上げた。
「……仕方ありません。この際、鬼の本気の挑戦を受けることができたことを光栄と思うべきでしょう。皆苦を滅することこそが仏の道! いざ、南無三――!」
 かくして、地底の鬼と地上の僧による、悪夢のような闘いが始まった。
 互いに覚悟を決めた者同士の闘いは既に弾幕戦の域を軽く凌駕し、最早戦争とでも呼ぶ他ない有り様だった。超高速で繰り出される多量の弾幕に空気ははじけ飛び、巨大な流れ弾が地面に衝突する度に轟音とともに大地が跳ね上がる。
 しかし、闘う両者の間に何がしか暗黙の了解があるのか、その弾幕はあくまで美しかった。
 だから、賢明な妖怪たちは既にその戦いの場から逃げ去ったものの、頭のネジの飛んだお祭り狂いの妖怪たちは残ってこの非日常の中の非日常を大いに楽しんでいた。
 瓦が落ち裸になった長屋の屋根に登って観戦するこいしとパルスィも、そうした狂者の側の妖怪だった。もっとも、パルスィの方は闘いにはそれほど興味を持っていないようではあったが。
 地底の闇に浮かぶ幻想戦を見上げながら、こいしは頬を膨らませていた。
「あーっ! ずるい! 私の時はあんな技使ってくれなかったのに!」
「あら、妬ましいの? ねえ、妬ましい?」
 妙に嬉しそうに笑いながらパルスィはこいしにすり寄る。この妖怪はこの期に及んでもまだ嫉妬を稼ぐつもりでいるのだ。
「うるさいっ! パルスィはあっち行って!」
 こいしは苛ついた様子でパルスィを邪険に振り払う。その向こうでは、建物が勇儀の大江山颪によって木っ端微塵に砕かれ竜巻のように巻き上げられていく。
「うふふ。……しかし恐ろしいわね、あの坊主。鬼と戦って全く怯んでいない」
 呆れたように漏らすパルスィの横に、巻き添えを食った妖怪が黒こげになりながら墜落する。
「私だって鬼なんか怖くないわ」
 握りこぶしを作りながら必死にそう訴えるこいしの視界外から、白蓮の散撒いた護符が突っ込んでくるも、こいしは首の動きだけでそれを避けた。護符はそのまま先ほど墜落した妖怪に突き刺さる。
「それは良かったわね。力のある妖怪が妬ましいわあ」
 悲鳴を上げながら走り回る哀れな妖怪を尻目に、パルスィはこつこつと嫉妬を稼ぐ。
 この二匹の妖怪にとって、上空の闘いは単なる余興でしかなかった。たとえそれが、旧都の家屋の半分を倒壊させるほどの死闘であったとしてもだ。
 こいしは眼を輝かせながら再び空中の戦場を見上げた。
「でも、あんな風に鬼をあたふたさせられたら、きっと楽しいだろうなあ。私も修行したら、あんな風に戦えるようになるのかなあ」
「……仏教ってそういうものだったかしら」
 パルスィが訝しげに眉根を寄せる。こいしは既に、仏教を闘いの教えと信じて疑っていなかった。それは、少なからず白蓮の行動による影響でもあったのだが。
「……あっ!」
 そのこいしの顔色が、不意に青ざめた。こいしの視線を追って、パルスィの眼が上空に泳ぐ。
 闘いは新しい局面に突入していた。両者とも手持ちのカードが底をつきかけており、互いに通常弾幕を張りつつ相手の出方を待つ消極的な闘いが続いていた。
 そうした筋の悪い闘いに業を煮やした勇儀が、ついに実力行使に出たのだ。
 パルスィの眼がようやく二者の姿を捉えると、彼女もまた動揺を隠しきれずに顔をしかめた。
 勇儀が、白蓮の丹田に手刀をめり込ませていたのだ。白蓮の口から血が吹き出す。
 鬼のこめかみに、二の腕に、血管が浮かぶ。彼女は感情を顕にして叫んだ。
「猪口才な! たとえ魔術で護られていようと、鬼の膂力で丹田を直接衝けば無事では済まないよ!」
 パルスィは眼を丸くして成り行きを見守っていた。彼女が最も驚いたのは、あの鬼が遂に腕力に頼ったことだった。
 白蓮の額から大粒の汗がこぼれ落ちる。相応の激痛が急所を責めているはずだったが、彼女の顔には笑顔が張り付いたままだった。
 勇儀の背筋に、冷水のようなものが伝った。一瞬、ほんの一瞬だけ、鬼の心に恐怖が宿ったのだ。
 それが何を由来とした恐怖なのか、噛み締める時間はなかった。
 その時にはもう、鬼の頭頂部に白蓮の握りこんだ両手が叩きつけられていた。鬼は雷のごとき勢いで地面に激突する。
 追い打ちをかけるようにして、光の剣を逆手に持った白蓮が地上に横たわる勇儀に向かって急降下する。身を捩ってすんでのところでその切っ先を躱す勇儀。
 地上の妖怪たちが唖然として見守る中、空中戦は地上戦へ、弾幕戦は肉弾戦へと変わる。
 近くでよく見ると、先ほど白蓮を衝いた勇儀の指先の関節が、本来曲がるはずのない方向に曲がっているのがわかった。
 互いの肉体に拳がぶつかる度に爆ぜるような轟音が響く。彼女らが繰り広げる肉弾戦における凄まじい衝撃は、両者の肉体を通じて大地に伝わり地鳴りを誘発する。
 衝撃は地底の天蓋を更に超えて最終的に地上にまで達した。地上の人妖たちは今頃、断続的に発生する小地震に戦々恐々としていることだろう。
 最早この二者の闘いは戦争と呼ぶことすら生ぬるく、天変地異の域に達していた。
 勇儀の振り下ろした右拳を、白蓮が片手で受け止めると、白蓮もまた、もう片方の手で勇儀の首に手刀を叩き込まんとする。しかし、勇儀はそれを肩と顎の間に挟んで止めた。
 両者は互いに放った打撃を互いに受け止めたまま動かなくなった。
「はは……ははは……っ!」
 怒涛の殴り合いの末に切れた勇儀の唇、その端に、乾いた笑いがこぼれた。
「参ったねこれは……こんなに楽しくちゃ……」
「それほど暴力が楽しいとは、なるほど、伝え聞く通りですね。山をも崩すというその力も、決して伝承上の絵空事ではなかった。とても興味深いものを見せてもらったわ」
 その顔色こそ激痛に青ざめさせてはいたが、白蓮の目元にはいかにも楽しそうな笑みがまだされしていた。
 妖怪のことになると分別のつかなくなる白蓮の悪い癖が出ていた。西に奇妙な妖怪が居ると聞けば探しにでかけ、東に船を沈める幽霊がいれば自ら船を沈められに行く。南に困った妖怪がいれば助けに行き、北に腕っ節の強い妖怪がいれば一発殴られに行く。妖怪好きが行き過ぎるあまり、妖怪をより知りたいと願い、その結果、単なる知識では満足できなくなってしまったのだ。それが、妖怪マニアとしての聖白蓮の一面だった。
「そりゃよかった。あんたなりに楽しんでくれたのなら、嬉しい限り。……私も楽しかったよ」
 両者の右手がみしりと音を立てる。お互いに、自らの手をかばって飛び退る。
「だがそろそろ終幕の時間だ! お礼と言っちゃなんだが、私の最高の技を披露してみせよう!」
 勇儀が高く掲げるその腕、その手元には禍々しい真紅のカードが携えられていた。
「頼光の為にとっておいた技だがあんたなら不足はないね! 試し切りさせてもらう!」
 カードの表面には墨字で三文字。勇儀はその名を叫んだ。
「最終奥義『血吸丸』!」
 地底の妖怪の中で、人間に退治された経験のある者には、共通する癖がある。それは、己を退治した謂れとなる名称を自らの技の中に組み込むことだった。力のある妖怪ほど、そうした趣向を好む。それはあたかも、人間に退治されたという事実が己にとっての称号であるかのように。
 勇儀の前に現れたのは一本の赤い刃だった。文字通り血を吸ったような色をした刀身は、やがて鈍く光ると音もなく粉々に砕け、微細な弾の群れに変化した。
 一見何の変哲もない弾幕のようではあった。しかし、そこは鬼の最終奥義であるから必ずや何かある。そう見立て、白蓮は最大限の警戒をもって対処した。
「大魔法『魔神復誦』!」
 白蓮の背後に再び蝶の翅が生じた。その翅の中の四つの瞳が勇儀を捉え、そして、光る。
 息を付く間もなかった。猛烈な圧力の弾幕が白蓮の背後の翅から放出され、多くのものを巻き込みながら旧都の大通りを駆け抜けていく。
 長屋の上から闘いを見ていたパルスィは咄嗟に身を伏せた。凄まじい妖気に吹き飛ばされそうになるのを堪えるのがやっとだった。
 傍にいるはずのこいしが声を立てないので脇を一瞥すると、彼女の姿は既に見えなくなっていた。おおかたこの妖気の風に吹き飛ばされたか、既に安全な場所に避難したのだろう。
 再び闘いに眼を向けると、眼下には光の川が出来上がっていた。圧倒的な弾幕の密度のために、パルスィはすぐそこに居るはずの勇儀の姿すら認めることができなかった。しかし、鉄砲水のように通りを飲み込んだ弾幕を見る限り、これを相手にする勇儀が無事で済むとはパルスィには到底思えなかった。
 そして、白蓮自身も己の技に手応えを感じていた。あるいは、己の技が鬼を凌駕しているのではないかと錯覚さえしていた。
 白蓮の心の中に、修行僧にふさわしからぬ傲慢がちらつく。
 異界にて千年間鍛え上げた己の魔力が、伝説の鬼を凌駕することに対する純粋な喜び。
 その赤黒い喜びは脳幹から流れ落ちるように白蓮の全身に伝播する。
 それが修羅の精神であることに、戦闘によって高揚した白蓮は気づいていなかった。
 白蓮の弾幕はどれだけ時間が経とうが衰えることはなく、それどころか時間とともにさらに厚みを増していく。にも関わらず、未だ勇儀の姿は見えない。濁流の中に沈黙が続いていた。
 これはまさか、あの鬼が為す術なく敗れたのではあるまいかとその場に残る誰もが思いかけたその時、鬼の溌剌とした声が大通り中に響き渡った。
「魔の力を使うとは愚かだな、坊さん!」
 白蓮は小さく舌打ちして弾幕を解く。相手は嘘を吐かないと豪語する鬼だ。ハッタリなどではない。それに、間違いなく己の弾幕が命中していたにも関わらず、相手のいる場所から放たれる妖気は減衰するどころかいや増している。魔界仕込みの大魔法は、地底の鬼には通用しなかったのだ。
 光弾や光条が消えて失せると、その災禍の跡が顕になった。旧都の大通りは一面焦土と化し、地面は至る所から黒々と煙が立ち上る。大通り沿いの木造長屋の壁は良くても黒焦げ、悪ければ完全に破壊され部屋の中が開け晒しとなってしまっていた。そして、弾幕の陰風が止んだ途端、燻っていた何がしかがあちらこちらで発火し、その火は瞬く間に古い家屋を飲み込んでいった。
 鬼は、大通りの真ん中に一人、豪然と仁王立ちしていた。燃え盛る旧都の町並みを背負い、焦げ付いた大地を踏みしめながら、しかし、火傷一つ負っていない。
 ただ、そうした鬼の威容よりも目を引いたのは、その周囲を巡っている無数の紅蓮の刃の群れだった。その刃は勇儀が先刻最終奥義と称して現出せしめたものだったが、先ほどは一本だけだった筈の刃の数は今や無数に増えており、体積にしてもずっと肥大化していた。その一本一本が勇儀の身長をゆうに超えており、それらが勇儀を中心に円形に陣を張る様は、さながら刃を花弁とした花のようだった。
 白蓮はすぐに何かを察したように刮目し、そして苦々しげにその目を細めた。
「その刃は、妖気を……」
 鬼は不適に笑う。
「ご明察。……たらふく食わせてもらったよ。この血吸、あんたの魔力を糧にしてここまで増長したのさ。さあ、これからあんたの命を奪いに行くよ!」
 その声を合図にしたかのように、勇儀の周囲を回っていた刃が一本ずつ円陣から抜け出し、白蓮目掛けて飛び出していく。
 恐れていた鬼の最終奥義が、遂に発動したのだ。
「……っ!」
 魔力で強化された動体視力をもってしても、その刃の切っ先を見切ることは困難を極めた。炎上する旧都の煌々たる光の中、禍々しい色の弾幕はただ残像のみが網膜に飛び込むばかり。半ば直感を頼りに身を躱せど、翻ってみればいつの間にか己の身体には深々と切創が刻まれていた。
 魔法によって鋼鉄を超える硬度を持った己の肉体を、生身同然に切り刻むその威力に、白蓮は愕然としていた。
 一弾一弾が巨大すぎるのだ。さらに速度にしても、千余百年生きた白蓮が眼にしたこともない代物。生半可な身の躱し方では避けきれず、さりとて下手を打てば胴と足が泣き別れになる。
 この闘いにおいて初めて、白蓮の心に恐怖が宿った。
 死の恐怖である。
 闘いはとうの昔にごっこ遊びの域を超えていたが、それでも己の能力を持ってすればあらゆる弾幕戦は児戯に等しく変わる。――白蓮はそう思っていた。
 しかし、今、鬼が放つ渾身の技は、どのような覚悟の相手であっても命のやりとりを余儀なくさせる。上代、鬼と人間がまだ何の取り決めも持たずに命のやりとりをしていた頃の名残を色濃く残す禁断の技だった。
 鬼は決して嘘は吐かない。勇儀は盃を捨てた時に、この技を放つ覚悟を決めたのだろう。
 対する白蓮の覚悟は、甘かったと言わざるを得なかった。そしてその甘さが、死の恐怖というさらなる脅威を呼び込んでしまった。
 白蓮にとって、死は特別なものだった。勿論、それは誰にとっても特別なものだが、だからこそ、普遍的でもある。しかし、ある切っ掛けから白蓮にとっての死は普遍性を失い、故に、彼女は人並み以上に死を恐れることとなった。その恐怖は不老の法を得て千年以上経た今でも変わることはない。
 白蓮の全身が総毛立ち、玉のような汗が毛穴という毛穴から吹き出る。瞳孔が拡大し、呼吸が荒れる。
 死を予感させるイメージが早回しの紙芝居のように脳裏をよぎっては消える。
 恐怖は今や白蓮の心を完全に束縛し、そして束縛された心は身体の制御を鈍らせていた。
 白蓮は半ばパニックに陥りながら、己の肉体に掛けられている身体強化の魔法をさらに強化するために懐の魔人経巻を引き抜く。
 その瞬間、白蓮は確かにその目で見た。己が握る魔人経巻の下をかすめる紅く巨大な影を。勇儀の放った紅蓮の刃の一本が、白蓮の両腕の下をくぐり抜け、今まさに彼女の胴を輪切りにせんとしていた。
 時間が無限遠に膨張する。叫びだしたいほどの恐怖だけを白蓮の心に残したまま。
 後悔、不安、怒り、悲しみ、嫉妬、憎悪、そして、恐怖。ありとあらゆる負の感情が、その限りなく停止に近い時間の中に止めどなく沸き立つ。けれども、雑念を捌けるために真言を唱えるほんの僅かの時間もないという矛盾。
 どこで道を間違ったのか。それを考えるためのあらゆる余裕は、もう白蓮の中に残されていなかった。
 不意に、どこかで、重々しい鐘の音が響いた気がした。
 そして、彼女の視界に別の風景が広がった。

 ***

 狭く粗末ではあるが、清潔に保たれた僧堂の中に白蓮は立っていた。お堂の外には緑溢れる山々の稜線が見え、澄み切った空気の中でその輪郭は、指でなぞれそうなほどくっきりと映えていた。
 そこは山中に建てられたお堂だった。そして、山の裾野の広がる先には、見まごうこともない、奈良の都へと至る広大な平原が横たわっていた。刻は日没前後のようで、彼方の空は深い藍色に染まっていた。どこかでからすの鳴く声が聞こえる。
 懐かしい風景だった。それは、千余百年前に見た、信貴山からの眺めだった。涼やかな風とともに、山々の緑がもたらす夏の香りが白蓮の鼻孔をくすぐる。
 白蓮は己の掌を見る。これもまた懐かしい、皺だらけの掌がそこにあった。それは、間違いなく、かつて恐怖とともに捨てた筈の自らの老体であった。
 自然と、白蓮の心臓が早鐘を打つ。
 ――これは、過去だ。
 過去見の妖怪に頼るまでもなく、彼女は確かに今、遥か過去の時の中に居る。
 いったい何事が己の身に起きているのか、それを判断するまでに白蓮は若干の時間を要した。
 あるいは、死に直面した自らの魂が、最期に己の積年の望みを僅かであれ叶えるために見せた夢の様なものだろうか。
 そう白蓮が思い至った時、ふと何者かが背後から白蓮の足首を掴んだ。白蓮はびくりと身を震わせて、恐る恐る足元を見やる。
「……姉……君……」
 白蓮の足元には、最愛の弟、命蓮が横たわっていた。彼は片方の手で胸を掻き、苦しみながらしきりに姉の名を呼んでいた。
 命蓮の肌は既に蒼白を通り越して土気色に変わっており、喉から漏れる息がヒューヒューと恐ろしい音を立てる。今際の際だった。
 縋るような視線を己に向ける命蓮の姿が目に入った時、白蓮の精神は瞬時にして千余百年の時を越え、一介の尼君のそれに戻っていた。
「命蓮……!」
 白蓮は知らずの内に、弟のか細い身体を抱きしめていた。腕に、ひんやりとした命蓮の肌の冷たさが伝わる。
 三十万余の日々を過ごす中、一日たりとて思い返さぬことのなかったその姿を、確かめるように掻き抱く。すると、命蓮もまた震える腕で姉の背中を包み込んでいた。
 背中に回された腕は確かな重みを持って白蓮の肌を圧する。夢にしては随分と明晰な感覚だったが、白蓮がそのことに疑問を覚えることはなかった。
 ただ、この一瞬、人としての命蓮に触れることのできるこの一瞬の機会を、白蓮は心ゆくまで堪能していた。例えそれが弟の死に目であっても、例え弟が悶え苦しんでいても、白蓮にとってそんなことは何ら気に病む必要はなかった。
 なぜなら、この後、血を分けた弟の身に何が起きるか、白蓮は知っているのだ。
 もし、彼が人として亡くなっていたなら、彼女はどれだけ救われていたことだろう。死への恐怖など湧くこともなく、人間としてその生を全うしていたかもしれなかった。
 白蓮の腕の中で、弟の命のともしびが僅かずつ小さくなっていく。姉を呼ぶ声は次第に掠れ小さくなり、ついに途絶えた。背中から伝わる命蓮の呼吸も小さくなり、とうとうそれすらも止んでしまった。
 そしてついに、命蓮の生命は潰えた。
 白蓮は命蓮の亡骸を抱えながら微動だにしなかった。ただひたすら、もう動かない命蓮の肉体をきつく抱くばかりだった。そうすることで彼の身体から魂が抜けてくことを防ごうとでもしているかのようだった。
 もし、今この場の行動で過去を変えることができるのなら、白蓮は喜んでそうするつもりだった。それによって自分の未来が失われても構いはしなかった。自分がこの先出会うあらゆることも、自分と出会うことで恩恵を得ることができた多くの者たちも、全て犠牲にして構わないと思っていた。
 なぜなら、死を捨てた結果得られた自分の未来はイレギュラーなもので、本来あってはならないということを、白蓮は百も承知していたからだ。もしも自分の行為で誰かが幸福を得たとして、その幸福は本当のものなのか、彼女は常に自問自答してきた。答えは未だに出ていない。
 彼女は死を捨てる過程で多くの妖怪と出会い、彼らが虐げられていた事実を知り、保護もして来た。白蓮の行動に対し、救われたと言ってくれる妖怪も数多いた。それらの行動と信念のみに限れば、彼女は決して自分が間違っているとは思っていない。ただそれ以前の、人間としての生を捨てたことに関してはまだ迷いがあったのだ。
 どれほどの時間が経っていたのか、気がつくと周囲は闇に沈んでいた。
 そして、結局その時はやってきてしまった。
 白蓮の周囲がほの明るく輝き始めていた。それは最初は気のせいとも思えるほど幽かな光だった。しかし、次第にその光は強くなり、僧堂全体を照らすほどになってもまだそのまばゆさを増していった。
 光源は白蓮の頭上にあった。彼女は意を決して顔を上げる。
 僧堂の空中に、もう一つの風景がぽっかりと口を開いていた。
 それは、黄昏色の丸い額縁のような光に縁取られた、寂寞とした荒野だった。
 その荒野の中に、豪奢な僧衣を纏った男が一人、こちらを向いて佇んでいる。着ているものこそ違えど、紛れも無くそれは、弟・命蓮の姿だった。彼は人間の姿をしていたが、人間のそれではない穏やかな表情を浮かべて白蓮を見下ろしていた。
 白蓮がこの風景を見るのは二度目だった。正確には、これと寸分違わず同じ場面に遭遇したのが二度目になる。
 もう二度と見たくないと思っていた光景だった。
「姉君」
 命蓮の姿をした存在は、張りのある声でそう白蓮を呼ぶ。確かに白蓮を姉と呼んだのだ。これもまた過去の出来事と全く変わらない。
 ならば、あの不毛の大地に立つ僧は間違いなく命蓮の魂であり、彼は今まさに遷化を遂げようとしているのだった。
 命蓮の魂は既に肉体を離れ、彼方の地にその存在を移している。白蓮は、抱えていた命蓮の亡骸をゆっくりと僧堂の床に横たえた。
 それを見届けてから、命蓮はゆっくりと口を動かしてこう言った。
「姉君。私は、三千世界に遍く満ちる苦悩を救うため、この娑婆から離れ別の仏国土へ旅立たねばなりません」
 白蓮は唇を噛んだ。
 彼女が最初にこの場面に出会った際は、命蓮が何を言っているのか理解出来ないまま、ただ呆然と彼の話を聞いていた。そしてしばらくの時を経てようやく、彼の言葉の意味を彼女なりに理解した。
 命蓮は高僧であり、自身は一介の尼にすぎない。最愛の弟の魂は新たなる救いのためにこの世ならざる場所へ赴き、自分はこの世の輪廻の中に死後も永久に繋がれていく。
 自分は、金輪際、死してなお、この最愛の弟と再び相見えることはない。
 永劫の輪廻の先にも、相見えることは叶わない。
 今ならそれを最初から分かっている。だから僅かだけ冷静でいられる。
 白蓮は、千年前に訊くことができなかったことを、今、命蓮に向かって訊ねた。
「……私も、連れて行ってはくれませんか……?」
 命蓮は静かに首を横に振った。
 予想はしていたことだったが、明確な意思を示されたことはやはり辛いものだった。
「姉君には、この世界でまだ成すべきことがあります。それはとても大切なことだ」
 命蓮は決然とそう言った。まるで、この先に起きることの全てが見えているかのような口ぶりだった。
 それでも白蓮は諦めなかった。心のどこかで僅かずつ育っていく絶望と恐怖を振り払い、懸命に食い下がる。
「私は老い先短い。その僅かな時間の中で何を成せましょう? それでも何事か成す必要があらば、私は人間を辞めなければなりません。私が成さねばならないことは、怪異に身を変えてでも遂げねばならぬことなのですか?」
 異界に立つ命蓮は微笑むばかりだった。白蓮は必死に言葉を継ぐ。
「貴方とともに異界の教化に勤めることよりも、それは大切なことなのですか?」
 命蓮はやはり変わらず沈黙するのみだった。
 白蓮の声が震える。
「……本当に、だめなのですか?」
 彼女の問いに、命蓮は穏やかに「はい」とだけ答えた。
 頬に涙が伝う。
「どうしても、いけませんか……?」
「はい、姉君。ですが、恐れることは何もないのです。寂しいことも、何もない」
 命蓮は白蓮の頬を撫でるように腕を伸ばす。すると、白蓮の頬を見えない指がそっと撫で、そこに伝う涙を拭った。
 彼は目を上げ、そして、遥か彼方を見るように目を細めた。その有様はいつか奈良で見た広目天の塑像の目に良く似ていた。ただその目元には厳しさはなく、ただ優しさだけが溢れていた。
「今、私には見えます。姉君はこれから娑婆で多くの者と出会い、多くの者に慕われながら、その者たちと共に多くのことを学ぶことでしょう。時に虐げられ、時に膝をつくこともあるかもしれません。しかし、姉君が慈愛を忘れず、ただ一心に利他行の徳を積むことができるならば、その精神は必ず誰かの心に伝わっていく」
 そこで一度命蓮は言葉を切り、もう一度白蓮を見ると、柔らかく微笑んだ。
「そうして多くの心に伝えられた貴女の想いは、いずれ私の向かう世界にも届くことでしょう」
 命蓮がそう言い終えると、頭上に浮かぶ光の門がにわかに収縮を始めた。命蓮は目を閉じ、白蓮に向かって両手を合わせた。
 何も変わらなかった。千年前と、何も。
 ただ一つ違うのは、命蓮の口から白蓮の未来について語られたことだけだった。
 白蓮は遮二無二に光の門に膝行り寄ると、その敷居にあたる所に手をかけた。
 すると、門から閃光が迸り、白蓮の手は軽い衝撃とともに跳ね上げられた。
 神聖なる門は、尼僧として修行していた白蓮を受け入れることはなかった。
 そしてその事実は、今の白蓮が命蓮と共に在れないことをつまびらかにした。
 それでも諦め切れない白蓮は無我夢中で手を摺り合わせる。
「命蓮! お願いです! どうか、私も連れて行ってください! どうか!」
 そうしている間にも光の門はみるみる小さくなっていき、命蓮の姿も、はじめに頭とつま先が、それから肩と膝が、続けて胸と腰がと見えなくなっていく。
 遂には光が豆粒ほどの大きさになった時、命蓮の最後の言葉が聞こえて来た。
「さようなら、姉君。仏門に在る限り、またいつか相見えることもありましょう……」
「嘘よ! 命蓮! 行かないで!」
 光の門が完全に消えたと思った瞬間、再び僧堂の中に光が弾け満ちあふれた。
 視界の全てを白く染める光に包まれ、白蓮の意識は次第に薄れていく。
 薄れゆく意識の中で、白蓮は何度も弟の名を叫び続けていた。

 ***

 熱い土が頬を焼く。いつの間にか、白蓮は大地に突っ伏して倒れていた。
 蒸し暑い陰風が血と汗の臭いを伴って白蓮の鼻先を掠める。
 恐るべき激痛が下腹部を責め苛み、思わず白蓮は短く呻いた。痛みのあるあたりを手でまさぐるとぬるりとした感触が伝わる。目で見る。内臓ははみ出ていない。幸いなことに胴体の輪切りは免れたようだ。
 悪夢から覚め、現実に戻ってきたことを白蓮は理解した。たった今垣間見た夢ほど最悪ではないが、楽天的ではいられない現実に。
 戦いはまだ終わっていない。白蓮は地に手をつき、膝を立て、力なく半身を起こした。片方の手には魔人経巻が、まだ取り落とすことなく握られていた。
「私と闘いながら、私以外の誰を見ていた、坊さん……!」
 声のする方を見る。通りの先に、鬼が、先刻から一歩も動かず佇んでいる。彼女は眼を血走らせ、凄まじい形相で白蓮を睨んでいた。
 勇儀はふっと相好を崩して白蓮を指さす。
「ひどい面じゃないか。闘いも終わる前からご先祖様に挨拶回りでもして叱られたかい?」
 言われて白蓮は己の顔に手をやった。指先が濡れる。何故か、既に頬を拭った跡があったが、無意識のうちに自らの手で拭ったのだと白蓮は判断した。
「気が早いのは構わんが、私はちっと幻滅したね。生きとし生けるものは常に闘争に身を置かなければならない。そして闘うものは、最後の最後、血の一滴が枯れるまで戦い続けなければならないんだ!」
 修羅道。闘いに生き闘いに果てる闘争の世界の住人。星熊勇儀、彼女はまさしく純然たる修羅道の者だった。
 彼女がその世界に生き、死ぬことを望むならば、それを否定することは白蓮にはできなかった。しかし、同時に、自らがその道に堕ちることは決してあってはならないことだった。
 白蓮の脳裏に命蓮の言葉が蘇る。千年前は錯乱して記憶に残ることのなかった言葉が。
 死を目前にして白蓮の脳裏に鮮やかに刻み込まれた命蓮の言葉。その言葉を守るためには、仏への道、人間道を全うしなければならない。
 我執を捨て、自らの力にたのむことを止めなければならない。
 白蓮の手から魔神経巻がするりと離れて地に落ちた。彼女の身体を包んでいた魔法が解け、周囲を圧していた妖気が霧散する。
 それを見て勇儀が叫ぶ。
「観念したか、坊さん! 私のスペルカードはまだ終わっていない! 成仏させてやる!」
 勇儀がその腕が高々と掲げると、紅の刃が再び勇儀の周囲を巡り始めた。
 手負いの上、魔人経巻を手放した白蓮には既に、鬼の弾幕を躱す力は残されていなかった。
(最後のスペルカード……これが通らなければ、私は死ぬ……。命蓮、お力を!)
 白蓮は懐からカードを抜き、それをほんの一瞬勇儀に見せると、すぐに合掌して技の名を叫んだ。
「飛符『転輪聖王の金環』! 万の理を統べる輪王よ……! 今ここに来たりて全ての邪なる力を平定せしめよ!」
 白蓮の手から小さな護符が放たれ宙を舞う。それは命蓮の遺品である貴重な護符だった。符は法力を纏っており、宙に放たれた途端自立運動を始めた。
 護符は、実体を持たない円形の法の索道の上を周回しながら放射状に広がっていく。
 その弾幕は、しかし、今まで白蓮が放って来た弾幕に比べるといかにも遅く、数が少ないため隙も多く見受けられた。
 鬼はその粗末な弾幕を見るなりせせら笑った。
「ははっ、今更こんな技なんか効くもんかい。……消え失せろッ!」
 掲げられていた勇儀の腕が振り下ろされる。彼女の周囲を巡っていた紅の刃が、宙を漂う護符もろとも白蓮を八つ裂きにしようと躍りかかった。
 猛烈な速度で飛翔する勇儀の弾幕『血吸丸』は、空中を力なく漂う護符を切り裂く、かと思われた。
 紅の刃が護符に触れた瞬間、目も眩むばかりの閃光が走った。それは妖怪が最も嫌う類いである、法の光だった。たまらず勇儀は自らの瞼を片方の腕で覆う。
 光はすぐに止んだ。勇儀は自ら視野を狭めたことを僅かばかり後悔し、慌てて払いのけるように腕を下ろす。と、そこで信じられないものを見た。
 相手の護符を捉え切り刻んでいた筈の己の刃が、忽然と姿を消していた。そして、代わりにその場所に、光り輝く一本の剣が浮かんでいたのだ。
 剣は法の索道を離れ、勇儀に向かって一直線に突進する。その速さたるや、勇儀の放った血色の刃に勝るとも劣らなかった。
 勇儀は泡を食ってその剣を避けた。避ける瞬間に剣を一瞥した勇儀は、さらに驚くべき事実を目の当たりにしていた。
 鬼の額に汗が伝う。承服しかねる事実を目の当たりにして鬼は我慢出来ず、唾を飛ばして怒鳴った。
「どういうことだ!? この剣は私の血吸丸と、なりが全く一緒じゃないか!」
 勇儀の言葉通り、唐突に現出したかに思えた光の剣は、勇儀の放った血の刃と寸分たがわぬ形状だった。
 白蓮は激痛に耐えつつ、毅然とした声でそう鬼の言葉に応じた。
「当然です。この護符は妖怪の力を法の力に変えるもの……。……たとえどのような性質の妖力であっても、この法力から逃れることはできません……!」
 勇儀の言葉が詰まる。自らの誇りをかけた最高の技が、こうも簡単に、しかもあんなちっぽけで小汚い護符一枚に覆されたとは、到底信じがたいことだった。
 誇り高い鬼として、はらわたの煮えくり返る思いだった。勇儀のこめかみに血管が浮き出る。
 彼女は怒り任せに怒鳴った。
「……小賢しい! ならばその剣もろとも吸収してやればいいことだ! 押し切ってやる!」
 勇儀の周囲に再び紅の刃が生じる。先ほどと比べてその数は二倍以上に増しており、言葉通りに、物量で押し切るつもりであることが一目で見て取れた。
 刃は絢爛に舞って白蓮に向けて飛ぶ。符に衝突した刃が次々に光の剣に変わっても、勇儀は怯むことなく次弾を繰り出す。
 紅の刃と光の刃の衝突が始まった。妖力と法力のぶつかり合う甲高い音が空に響き伝わる。刃同士は空中で鍔迫り合いを繰り広げ、互いに相手を押し切ろうと小刻みに震えていた。
 しかし、次第にどちらが劣勢か目に見えて来た。強力な妖力にねじ伏せられ、光の剣の刀身が弓のようにひしゃげ始めたのだ。
 そしてついに妖力に屈したか、ギヤマンの割れるような音と共に、光の剣の一つが粉々に砕け散った。
 汗だくになりながら弾幕を放ち続けていた勇儀はそれを見て、勝ち誇った笑みを見せた。
 しかし、その笑みは一瞬で消え失せた。
 破砕した光の剣は梅の実ほどの大きさの弾に姿を変え、勇儀の刃の周囲を輪になって取り囲んでいた。輪は放物線を描きながら次第にその径を引き絞ってゆき、勇儀の刃の側まで到達すると、その刀身を激しく締め上げた。
 ぐちゃり、という、肉の潰れるような音が聞こえ、勇儀の刃は大量の血の塊となって地底の土の上に流れ落ちた。
 弾幕の輪は勇儀の刃を始末すると収斂から拡大に転じ、勇儀の周りを取り囲むと再び収斂に転じる。
 勇儀の顔に再び笑みがこぼれた。今度は戦慄を伴った笑みだった。
「はははっ! 最後まで楽しませてくれる! だけど、こんな輪っか、何度だって消してやるさ!」
 勇儀が邪魔な物を払うように腕を振るうと、先ほどのさらに倍の刃が生み出され、白蓮に向けて飛び放つ。
 刃が弾幕の輪を捉えると、それは再び砕け、今度は大豆粒ほどの大きさの弾に変化する。そして再び収斂しながら勇儀の刃を破壊し、勇儀を取り囲む。
「何度だって……何度だって……!」
 さらに倍の刃。破砕する弾幕。芥子粒ほどの弾の輪。包囲される勇儀。
 気がつくと、勇儀の動ける範囲は限りなく狭くなっていた。破壊する度に分裂する弾幕は、退けてもなお再生して勇儀を押し包んでいく。
「な、何度……」
 腕を振るう隙間さえ失われた時、鬼は絶叫した。
「く……くそおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!」
 敗北の二文字が鬼の心を過った瞬間、忽然と静寂が訪れた。
 周囲を満たしていた弾幕は彼我共に消え失せ、大通りには勇儀だけがただ一人、ぽつねんと立ち尽くしていた。
 スペルカードルール上の、時間切れだった。
 勇儀が慌てて目を上げ、通りの先を見ると、先程まで立っていた筈の場所に、すでに白蓮の姿はなかった。

 ***

 白蓮とこいしは互いに手を繋ぎ、地霊殿までの道を歩んでいた。
 ついさっきまで壮烈な闘いを鬼と繰り広げていた白蓮が堂々と通りの真ん中を歩いているにも関わらず、彼女に注目する者は誰もいなかった。
 こいしの『無意識を操る程度の能力』。それが、二人の気配を完全に消していたのだ。
 二人は誰にも気取られることなく闘いの場を後にしていた。
 白蓮は余った方の手で自らの腹部の傷を法力で癒しながら、とぼとぼと歩いていた。その顔には苦しげな表情が浮かんでいたが、それは決して傷の痛みだけに由来するものではなかった。
 そんな白蓮の心中を察することは、こいしにはできなかった。彼女は無邪気に笑いながら白蓮を見上げる。
「白蓮お姉ちゃん、すごかったねえ! あの鬼とあそこまで戦えた妖怪、私は見たことがないよ」
 こいしは興奮しきりという風に頬を紅潮させていた。
 白蓮はそんなこいしの顔を見て、曖昧に笑った。
「……嬉しくないの? 鬼と戦って引き分けに持ち込んだのに」
 こいしは不思議そうに首を傾げる。
 今の白蓮にしてみれば、こいしの言葉は己を責めているようにしか聞こえなかった。彼女はため息を一つついた後、弱々しく笑ってからもう一度こいしをみた。
「先ほどの闘いは……魔神復誦を破られた時点で私の負けですよ。肉体強化の魔法も、弾幕も、あの段階で私が出せる力は全て出し切っていました。最後のスペルカードは私の弟の力をお借りしただけです」
「そうなの? でも、たとえどんな手段を使っても、勝てば誰も責めやしないっておねえちゃんは言っていたけどなあ」
 姉のサトリ妖怪は妹にどんな教えを施しているのだろうと、一瞬白蓮の心に疑問が浮かんだが、考えてみればそれは妖怪としては至極真っ当な考え方だった。
 だが、その考え方を続ける限り妖怪に未来はない。この世界には盛者必衰の理があり、その理からは妖怪とて逃れることはできない。そして、より苛烈に他を踏みにじって来た者ほど、滅びまでの道程は短くなる。
 長生きする妖怪は、そのことを良く心得た妖怪なのだ。そのような者は大抵、無用な争いを避ける傾向がある。地上で長く生きる風見幽香などが良い例だろう。
 白蓮は妖怪に新しい生き方を模索してほしいと願っていた。だからこそ、こいしに妖怪の未来を感じ、今この地に降り立った筈だったのだ。
 しかし蓋を開けてみれば、規範となるべき自らが業の中に片足を突っ込み動揺する体たらくだった。そのことに白蓮はひどく消沈していた。
 白蓮はもう一度、深く深くため息をついた。
「私はあの闘いの最中、一瞬だけ心に邪念を持ったのです。自分の力を過信し、自分の力が鬼を凌駕していると奢ってしまいました。あのままもし闘いを続けていたら、私は取り返しのつかない過ちを犯していたかもしれません。そういう意味で、今回は負けてよかったし、結果的にこうして難事を切り抜けられたのだから良しとしましょう」
 彼女は自分を納得させるようにそう呟いた。こいしは納得出来ない様子で、低くうなる。
「うーん、それは違うわ。妖怪は、自らの力を示してこそ、妖怪としての存在を全うできるものよ。挑戦を受けた以上、全力で相手を脅かさなきゃそれは妖怪じゃないわ。相手を従わせたければ、力で屈服させるのが一番良い方法よ」
 白蓮は苦笑する。弟子たちが彼女の勧誘に反対した理由を、今、白蓮はようやく理解した。
 彼女は生粋の妖怪なのだ。最近再び地上に戻って人間と交わっていたために多少変質はしているものの、地底の妖怪である彼女の本性は、血を欲し災いを呼ぶ古式ゆかしい悪鬼羅刹の類いなのだ。
 命蓮寺の高弟たちが入門したばかりの頃も、今のこいしのような考え方で生きていたことを思い出す。すると、なんとも懐かしい気持ちが白蓮の心をくすぐりはじめた。
(自分たちだってずいぶんやんちゃだったくせに、そんな昔のことは忘れてしまったのかしらね)
 白蓮は昔の弟子たちの行いを思い出して、一人くすくすと笑った。
 妖怪だって、変わることができる。それを弟子たちは教えてくれた。ならば、自分だって変われる。こいしだって、彼女か望むならば、きっと。
 そうして考えていくうちに、滅入っていた白蓮の心の中に少しだけ光が差して来た。
 怪訝そうに見上げるこいしに対し、白蓮は照れ臭そうに笑って囁きかける。
「弟子たちには、このことは秘密にしてね。彼らの上に立つ私がこんなことでは示しがつきませんから」
「うん、わかったわ! たとえ鬼相手でも、負けたって伝わるのは恥ずかしいもの」
 そうね、と言いながら、白蓮はこいしの頭を撫でた。こいしは目を細めて屈託無く笑う。
 この子はきっとこれからの妖怪の規範になるような、すばらしい存在になってくれる。白蓮はこいしの笑顔を見てそう強く信じた。
 白蓮の身体に刻まれていた筈の無数の傷は、既に跡形もなくなっていた。

 ***

 瓦礫の散らばる旧都の大路の真ん中で、勇儀は大の字に寝そべって空を見上げていた。燃え盛る家々から吹き上がる火の粉が、暗い空の中をちらちらと漂う。その細やかな光が映り込んだ勇儀の緋色の瞳は、普段以上の輝きを放っていた。
 周囲では闘いの終わりを待っていた火消しの妖怪たちが、がなりたてながら忙しそうに右往左往している。彼らは彼らなりに気を遣っているようで、大路の真ん中に寝そべる勇儀の横を通る時だけは口を閉じ、足音を忍ばせていた。
「地上か……」
 勇儀は視線の先、暗い宙のさらにその先の先に思いを馳せていた。
 そうして戦いの余韻に浸っていると、勇儀の頭上からあざ笑うような声が聞こえて来た。
「無様ね、勇儀」
 勇儀の視界を遮るようにして、誰かが彼女の顔を覗き込む。
 パルスィだった。
 彼女は洞窟の中で見せていた表情とはまた違う、妖艶な微笑を湛えていた。それは、嫉妬芸を見せていない普段のパルスィの顔だった。
 勇儀はあからさまに嫌そうに顔をしかめる。
「チッ、なんだい、橋姫かい。煽りに来たんなら無駄足だったね。悪いが嫉妬は売り切れだよ。完敗だよ、完敗。全力で戦って敗けたんだ。こんなに気持ちのいいことはないよ」
 言っているうちに先ほどの闘いを思い出してきたらしく、勇儀の表情が次第に明るく輝き始めた。彼女は嬉々として言葉を続ける。
「あんたも見たろ、あの坊主の弾幕。最後の技には度肝を抜かれたよ。まさか初見で私の血吸丸を破ってくるやつが鬼の眷属以外にも居るなんてなあ。地上なんてつまらん奴ばかりだと思っていたけど、最近はなかなかどうして骨のある奴が増えたみたいじゃないか、なあ?」
「……やせ我慢じゃないの?」
 楽しそうに語る勇儀を、パルスィは冷たく見下ろしていた。
「あんたにゃわからんよ」
 勇儀は憮然としてそう吐き捨てた。
「ふーん。まあ本当にそういう考え方できるんなら、さぞかしあんたは幸せでしょうね。妬ましいわ」
「なんだ、やっぱり妬みに来たんじゃないか」
「ううん、今日はもう店じまい。嫉妬はたらふく食べられたし、面白いものも見れたしね」
 パルスィはそう言ってせせら笑い、顎の上から勇儀を見下ろしていた。勇儀は怪訝そうに片眉を吊り上げ、彼女を睨め上げる。
「……鬼が地べたに這いつくばってるのがそんなに面白いかい?」
「違うわよ、あの坊さんのこと。あいつがまさか力の勇儀に勝っちゃうなんてね。不用意に襲わなくて正解だったわ」
「なんだい、知り合いかい」
 勇儀はがばりと起き上がり、パルスィに向き直って胡座をかいた。余程白蓮に興味があるようで、その緋色の目が爛々と輝き始める。
 そんな勇儀を見てパルスィは煩わしそうに顔をしかめた。
「私もさっき旧都の入り口で知り合ったばかりよ」
 そうにべもなく言われ、勇儀はいかにもがっかりした様子で「あ、そ」と呟く。
 一方のパルスィは勇儀の失望なぞどこ吹く風。既に自分の世界に入って恍惚とした表情になっていた。
「……なんだい、あんた。気持ち悪いね」
「ねえ、信じられる? あの坊さん、私がちょっと煽ってやったらブルブル震えて目にこんなに涙を溜めて泣きそうになってたのよ?」
「……」
 勇儀の目元にあからさまな疑いの色が浮かんで来た。
「……あんた、煽りの腕鈍ったんじゃないかい? 私は嘘が嫌いだが、中でも見え透いた嘘が一番嫌いだ。つくならもうちょっと手の込んだ嘘をつけ」
「煽りでも嘘でもないわよ。信じられないなら土蜘蛛のヤマメに聞けば良いわ。あのヤマメが心配して励まし始めちゃうくらい惨めったらしく嫉妬しちゃって……ふふ……」
 パルスィは本当に嬉しそうに勇儀の前で小躍りをしてみせた。付き合いの長い勇儀も、彼女がこんな風に浮かれるのを見るのは初めてだった。
 勇儀は眉間に皺を寄せて首を振る。
「……とても信じられないね。それに、勝った奴への悪口を聞くことほど胸くそ悪いことはない」
 パルスィは勇儀の言葉を無視して鼻歌まじりの小躍りを続けていた。
 しばらくそうして踊って見せた後、彼女はついと勇儀の背後に回り、その耳元に向かって囁きかけた。
「ねえ勇儀」
 勇儀の鼻がひくつく。
「あの坊さん、戦いは滅法強いけど、精神攻撃の前では赤ん坊みたいね。何が面白いって、勇儀が負けた相手に、私が勝てたってこと。腕っ節だけが妖怪の全てじゃないってことがはっきりして、私、本当に嬉しいの」
「失せろ!」
 勇儀が猛然と立ち上がり振り返った時には、パルスィはとうに大路の先に走り去っているところだった。
 彼女は走り去る途中でふと振り返り、目を細めて笑ってみせた。その笑顔はこの世のものとは思えないほど美しかった。
「ふふ……でも、貴女も惜しかったわよ、勇儀……ふふふ!」
 鈴の音のような声が闇の中に残り香のように漂う。
 その言葉が彼女なりのフォローのつもりなのか、煽り芸の続きなのか勇儀には判断できかねた。
 忌々しげにパルスィの姿を見送っていた勇儀は舌打ちを一つつくと、再び大通りの真ん中に仰向けに倒れた。その衝撃で大地が低い地響きを立てる。
 勇儀はぼんやりと空を見上げる。そしてただ一心に、その空の先にある世界を思う。
(……地上か……。口実さえあれば、もう一度行ってみてもいいね。……そうだな、祭りでもある時なんか良いんじゃないか。……そうだ、そんときゃ萃香の奴に案内させよう……! 魔理沙にも会いにいきたいしな……。その時までにあの坊主を打ち倒せる新しい技を編み出しとかないと……。……ああ、俄然楽しくなって来た……!)
 彼女はその日一日中、そうして仰向けに寝転んだまま空の一点をひたすらに見つめていた。

 ***

「貴女が地上に妖怪寺を建立したという尼君ですか。私のペットからお噂はかねがね聞いています」
 白蓮の前に座る小柄な妖怪は、か細い声でそう言うと、手元のティーカップから紅茶を一口啜った。
 緊張した面持ちでその所作を見つめる白蓮の横で、こいしが笑顔を顔に張り付かせたまま、ゆらゆらと身体を揺らして立っている。
 ビロード張りの質の良い椅子に座っていると、足の裏にほの暖かな温度を感じる。どうやら床暖房完備という噂は本当らしい。
 白蓮とこいしの二人は、ようやくにして地霊殿にたどり着き、今、さとりの自室に通され、彼女と向かい合って座っていた。
 座るさとりの前には大きな机が設えられていて、彼女はその上で小さな手を上品に重ね合わせている。小柄な身体ながら、自分がこの館の主であることを威厳を持って伝えようとしているようだった。
 古明地さとりは古明地こいしの姉であり、当然ながらこいしと同じサトリという種族の妖怪だった。第三の瞳を閉じて心を読むことのできなくなったこいしと違い、姉のさとりは今も人妖問わず相手の心を読むことができる。
 サトリ妖怪は相手の心を読みそれを口に出すことで相手を脅かし、生きる為の活力を得る。それはこの妖怪の業のようなもので、やめろと言ってそう簡単にやめさせられるものではないし、やめたいと思っても生半にやめられるものでもなかった。
 心を読めば相手から嫌われる。嫌われたくはないが、心を読まなければ妖怪として生きていけない。
 その葛藤の末、彼女はこの地底に逃げ込んだのだ。自分と同じ嫌われ者が棲む場所ならば自分も受け入れてもらえるのではないかという期待とともに。
 しかし実際は地底に逃げた所で状況は変わることもなく、さとりは地底でも相変わらず嫌われ者だったが。
 結局それが自分の業なのだと納得し、今は地霊殿から一歩も出ることなく、一日の大半を自室に引きこもって生きている。そう白蓮は聞いていた。
 だが、白蓮が目にした古明地さとりの容貌からは、噂に聞くような破滅的な雰囲気はそれほど感じられなかった。自室に引きこもって生活しているというが、髪にはちゃんと櫛をかけているようだし、衣服にもちゃんと糊をきかせてあって、身なりはきちんとしている。机の下からは、ぴかぴかに磨かれた赤い靴がのぞく。
 もっとも、二人が地霊殿につくとすぐ、ペットから自室に来るよう伝えられたので、彼女は白蓮が来ることを予想して、頑張って身だしなみを整えたのだろうとも思われた。実際、部屋に入るなり、こいしが驚いた顔で「おねえちゃん、どうしたの? おめかしなんかしちゃって」などと言ったのだから。精一杯の威厳を見せようとしていた苦労もそれで台無しになり、さとりは恥ずかしさに真っ赤になった顔を隠す為に、しばらく窓の外を眺めるフリをせざるを得なくなった。
 それでも今は気を取り直したようで、落ち着き払った様子を見せている。
 さとりは白蓮の目を見ずに静かに言葉を続けた。
「貴女の目的はわかっています。旧都が騒がしかったのでペットに様子を伺わせにやったらば、どうも地上の僧侶がこいしを手に入れる為に、なぜか鬼と殺し合いをしているようだと聞いて……。それならば十中八九この地霊殿に来ることだろうと思っていましたよ」
 話が若干歪曲して伝わっているようだが、概ねは合っているので白蓮は敢えて突っ込まないことにした。
 ただ、なぜ自分がここを訪れたのか、その理由はしっかりと伝えなければならない。そう思い、白蓮は口を開こうとした。
 それを、さとりは手で制した。
「ご存知とは思いますが、私は他者の心を読むことができます。貴女の本心は貴女の心に直接伺った方が早いでしょう」
 言うが早いか、サトリ妖怪の身体的特徴である第三の眼がぎょろりと動き、白蓮の胸元を一点に凝視する。
 それを見て白蓮は、さとりがサトリ妖怪の能力である『心を読む能力』を使おうとしているのだと察した。
 僧である自分が嘘をつくことはない筈だが、言葉は時に誤解を生むことがある。だから、白蓮はさとりの行動を止めず、成すがままにさせた。そして、ただ一念、自分の望みを思い続けることに努めた。
 すると、さとりはややもしないうちに小さく頷き、納得したように呟いた。
「……なるほど、こいしを貴女の仏教に入門させたいと。……こいしの無意識の力の中に、妖怪の未来につながるヒントがあるかも知れないと貴女は考えているのね。…………」
 彼女は見事に白蓮の心を言い当てていた。白蓮は心の中でさとりの能力に感嘆し、素直に讃えていた。
 これならば、会話の必要などもない。嘘をつくことを気にして会話に慎重になる必要もない。仏教徒である白蓮としては、非常にありがたい能力のように思われた。
 しかし、これで終わるかと思っていたさとりの読心は、白蓮の目的が果たされた後もまだ続いていた。
「……うん。……ああ、そんなことがあったの……。……。…………」
 さとりは白蓮の心を眺めながら、何か一人で呟いたり、頷いたりしていた。
「あの……」
 いつまで経っても心を読むことをやめないさとりを見て、白蓮の心の中に不安が首をもたげてきた。
 サトリ妖怪の『心を読む能力』というのは、いったいどの程度深くまで相手の心を読むことができるのか。
 特に深く考えて来なかったが、少なくとも今の反応を見ると、どうも『今考えていること』以上のことを読めている節がある。例えば自分の頭の中にある、普段意識していない思いや、過去の記憶なども読むことができるとすれば、嘘をつかなくて済むなどと無邪気に喜んでばかりいられなくなってくる。
 それとも、今のさとりの行動はそう思わせて相手の本心を引き出そうとするブラフだろうか。
 白蓮が不安そうに見守る中、さとりは一人で興奮して息を荒げたり、逆に青ざめて震えたりしていた。彼女は、今はもう両目を固く閉じ、第三の眼だけで白蓮を見ていた。
 無言が部屋の中を支配し、空気に緊張が充満する。こいしだけはそのような空気もどこ吹く風で、退屈そうに部屋の中をうろつき回っていた。
 しばらくして、さとりは一仕事終えたように長々とため息をついた。彼女はゆっくりと両目を開く。
 さとりのすみれ色をした両眼が、しばしの間白蓮をじっと見つめていた。単にもったいつけているだけだったのだが、白蓮としては気が気ではない。そんな白蓮の気持ちを読んで、さとりは内心で楽しんでいたのだ。
 そのような心の内はおくびにも見せず、さとりはもう一度大きなため息をついて、そして、ようやく重い口を開いた。
「……貴女の心に少しでも邪な企みがあれば、この場で八つ裂きにするつもりでしたが……。どうやら底意はないようですね。……わかりました、こいしの入門を許しましょう」
「ホント!? やったあ! おねえちゃん、ありがとう!」
 窓際で外を眺めていたこいしが、さとりの言葉を聞くと喜色満面で振り返った。彼女は座っているさとりに軽やかに駆け寄り、背後から抱きすくめる。それから更にさとりの頭に頬擦りまで始め、まっすぐに梳かされた髪がくしゃくしゃになる。
 そんな気ままな妹を、さとりは「こいし、お客様の前よ」などと言って嗜めた。だが、その表情からは今まで無理して見せていたような威厳がすっかり剥がれ落ち、姿に見合った屈託のない笑顔に取って代わっていた。その様子は、まるで甘えん坊の子供に玩具を買い与えて甘やかす母親のようだった。
(仲の良い姉妹ですね……)
 じゃれ合う姉妹の姿を見て、緊張していた白蓮の心は柔らかにほだされていく。
 白蓮の心の中にふと、命蓮の顔が浮かんだ。人間として生きていた頃の白蓮と命蓮は、この姉妹に負けないくらい仲が良かったものだ。
 それが今は、片や聖人として異世界の救い人となり、片や魔人として妖怪の救い人として生きている。
 もしも彼が自分と同じ術を使い、今もこの世界で自分と共に居てくれたら。
 切実な思いがこみ上げる。しかし、それは禁ずべき邪な思いだった。
 彼女は邪念を払うように首を振ると、一つ咳払いをしてからさとりに深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。それでは近日中にでも、彼女に地上のお寺を案内したいと思うのですが、よろしいでしょうか?」
 妹を首に巻き付けたまま、さとりは紅茶をひと啜りし、目を伏せ無言で頷いた。
 やおら、こいしが顔を上げて白蓮に視線を移す。
「お寺に行ったら修行が出来るんでしょう? なら、善は急げよ。今から行きましょ! 私、今日中に回復魔法を覚えたいの!」
 彼女はそう言うなりさとりを突き離し、勇んで白蓮の元に駆け寄った。優雅に紅茶を飲んでいたさとりは、背中を勢い良く叩かれ、大きくむせて咳き込んでしまった。
 なかなか咳が止まらないさとりを心配して白蓮が席から立ち上がると、駆けてきたこいしが彼女の腕を無理矢理引っ張って部屋の外に連れ出そうとする。
「白蓮」
 こいしに引っ張られ戸惑う白蓮の背中に、さとりが声をかけた。
 咳をどうにか治め、平静を装って呼びかけたつもりだったが、さとりの声の端は少しだけ震えていた。
 その声の震えは、決して、妹を取られたことへの怒りから来たものではない。そんな感情はさとりの心の中には微塵も存在しなかった。ただこれから始まる己の独壇場への期待と興奮が、彼女の身を震わせていたのだ。
 彼女が企図していたのは、ちょっとした悪巧みだった。それは、白蓮の心を読み終えた時からさとりの胸の中に芽生えていたものだった。
「八苦を滅した尼君……。貴女はそう呼ばれているそうですね」
「……」
 白蓮の表情がにわかに曇る。
 やはりあの長い無言の間に、過去の出来事まで読まれていたのだ。
 呼ばれても振り返らない白蓮に対し、さとりは構わず続ける。
「でも実際はどうでしょう。貴女の心は多くの煩悩に四苦八苦しているようにしか見えません。弟子たちはあなたの理想を正しく理解しているとは言えず、善意の行いも空回り。その御心はたいそう苦衷にみちておいでのようです」
「……現し世の苦難は全て修行の一環です」
 白蓮は低い声で呻くように呟いた。
「……そうやってやせ我慢していても、私には貴女の心の内はわかっているのですよ。遷化できない聖人さん」
「……っ」
 白蓮は瞼を固く閉じた。出来ることならば耳を塞ぎたかったが、新しい弟子の手前、プライドがそれを許さなかった。
 一方のさとりは興奮を隠し切れないようで、頬を紅潮させ、瞳を爛々と輝かせて白蓮の背中を見ていた。
 表情を見なくても分かる。白蓮の心は今ひどく動揺し、もうちょっと揺さぶれば簡単に打ち崩せそうだった。
 白蓮は、以前屋敷にやって来た人間たちよりもずっと複雑で、ずっと脆い心を持っていた。心理戦で己が遅れをとることは絶対にあり得ない相手だ。そうさとりは見立てていた。
 もちろん、今この場で白蓮と争う気はさらさらなかった。彼女はこいしの大切な客だったし、何よりさとりは荒事の類いがあまり好きではなかった。
 ただ、少しだけからかってみたかったのだ。
 さとりは夢中で話を続けた。
「……そう、弟命蓮上人の死、それが貴女のトラウマ……。貴女は千年経った今でもあの日のことを忘れられないで居る。貴女は、人間であるかぎり、愛する弟の許にたどり着くことはできないと、そう思っている。貴女は……」
 そこまで言ってさとりは息を継ぐ。あまりに喋ることに熱中し過ぎたために、息をつくことすら忘れていた。
「……貴女は、自分の中の人間性を嫌悪している」
 白蓮はなおも振り向かず、押し殺した声でこう吐き出した。
「……私は、とうの昔に人間を辞めました。もう私は妖怪同然なのです」
 その言葉の端が、僅かに震えた。
 ――もうひと押しだ。
 さとりはついに机から身を乗り出し、白蓮に向けさらに言葉を浴びせかけた。
「いいえ、白蓮、貴女は人間よ。いくら臭いを消そうったって分かります。貴女の中にはどうしたって、人間としての性質が残る。貴女が妖の力をその身に取り入れたのは、延命だけが目的ではなく、自分の中から人間性を追い出したかったからよ。……そして、貴女は心の底で自分以外の人間を恐れている。彼らを見ると自分の中にある人間性を思い出してしまうから……。だから周りを大好きな妖怪たちで固めて心の安息を……」
「……失礼いたします……」
 白蓮はさとりの話を最後まで聞かず、振り返ることなく急いで部屋の扉を開いた。
 こいしを連れて足早に部屋を出ようとする白蓮の後を追いすがるようにして、さとりは最後の言葉を贈った。
「貴女も私と同じよ、聖白蓮」
 白蓮は廊下に出るや、蓋をするように両手で部屋の扉を閉めた。そして、その姿勢のまましばらく動かなかった。
 彼女は苦しそうに肩で息をしていた。瞼は大きく剥き上がり、顔からは血の気が引き、冷たい汗が額から流れ落ちる。
「おねえちゃん、聖お姉ちゃんのこと気に入ったみたいだよ。よかったね!」
「……」
 何も考えていない妖怪は無邪気に白蓮に笑いかけたが、白蓮は答えることが出来なかった。
 こいしは白蓮から反応がないことでようやく異変に気づいたようだ。不思議そうに白蓮の顔を覗き込む。
「元気ないね。おねえちゃんの言ったことが気になってるの? あんなの、気にしなくていいよ~。あれがおねえちゃんの性格なんだもの。悪気はないんだよ?」
 白蓮はこいしを見ずに何度も頷いた。あれこそが、サトリ妖怪の性質なのだ。そんなことは百も承知していた。
 突然、自らの腹部に鈍い痛みを感じ、白蓮は顔をしかめた。心の不調は身体に影響を及ぼす。鬼に衝かれた丹田が今になってうずき始めたのだ。
「ねえ、大丈夫? おなかが痛いの?」
「……いえ、大丈夫よ。……さ、お寺に参りましょう。皆に貴女を紹介したいの」
「うん! 行こう行こう!」
 白蓮の手を、こいしはスキップしながら引っ張る。こいしが一つジャンプするたびに、白蓮の脚はよたよたと頼りなくもつれた。
 二人はその足で地上に向かう。
 今回の地底遊行を振り返ると、結果はどうあれ、経過の方は惨憺たるものだった。肉体的にも精神的にも、白蓮は自らの未熟さを嫌という程思い知らされるばかりだった。
 だが、こいしという成果はその労苦を補って余りあるものだ。白蓮はそう信じて疑わなかった。

 ***

 白蓮とこいしが部屋を出て行った後、部屋に一人残されたさとりは、しばらくの間頬を紅潮させてうっとりと天井を見つめていた。
 胸の奥が激しく脈打ち、毛細血管の末端まで躍動するような感覚がさとりの身体の中で続いていた。
 久々に味わう、勝利の感触だった。地上に居た頃、一妖怪として恐れられていた頃も、時折似たような感覚を享受できる機会があった。
 この感覚があるからこそ、さとりは人の心を読むことを止められなかったのだ。
 ただ、さとりの心の中にはそうした妖怪としての本能的な喜びの他にもう一つ、何か得体の知れない漠然とした感情が漂っていた。
 ――貴女も私と同じ。
 白蓮との別れ際に、何か一言気の利いた台詞を吐きたいと思って咄嗟に口をついて出た自分自身の言葉が、さとりの心の中の小さな枝先に引っかかっていた。それがどうやら、この漠然とした感情の原因のように思われたのだ。
 改め考えてみても、確かに、あの聖白蓮という僧侶はどこか自分に似ている。先ほど白蓮に対し口に出して言ったように、恐怖から逃げ恐怖を忘れる為に自分の周りを賛同者で囲うあたりの行動などは、自分のそれと全く一緒ではないか。そう思うと、なんだかあの僧侶が他人とは思えなくなってくるのだ。
 心臓の鼓動も静まり始め、冷静さを取り戻すに従い、さとりの頭の中は徐々に白蓮のことで占められていく。
(少しやり過ぎたかしら……)
 部屋を出る寸前、扉の隙間から見えた白蓮の青ざめた顔を思い出し、さとりの胸がちくと痛んだ。あの白蓮の表情は、ある種の人妖たちが、さとりの能力を知って最初に見せる表情とまるきり同じだった。そのある種の人妖というのは、つまりは、さとりのことを嫌いになっていく者たちのことだ。
 しかし、さとりはすぐにその軟弱な考えを振り払う。あの程度の煽りに翻弄される方が悪いのだ。妖怪の道理を通すならば、弱い者は常に悪なのだ。
 そう考えれば、自分の行動は妖怪として何ら間違ったものではなく、むしろ立派なものだったと納得できた。
 正確には、納得したフリをして傷つきそうになる自分を騙していたのだが、もはや自分が自分に騙されていることすら、さとりには分からなくなっていた。自身の心と、心を閉ざした者の心だけは、サトリ妖怪にも読むことはできないのだ。
 そうして無理矢理に己を納得させたものの、今度は別の心配事が頭をもたげてくる。
 ――あの僧侶にこいしを任せて大丈夫なのだろうか?
 聖白蓮という妖怪まがいの存在の、その思想は確かに立派だ。妖怪が妖怪として生きる際の苦悩を克服することが出来るならば、自分だって何もこんな暗く蒸し暑い地底に引きこもって暮らさずに済むのだから。
 それから、あの僧侶の持つ妖力。あの桁外れの妖力は、格の高い人妖や聖者を向こうに据えて見劣りすることはなく、いざという時に頼りになりそうではある。
 これらの点だけ挙げれば何の不安もなく自らの妹を預けられるのだが、ただ一つ、どうしようもなく致命的な瑕疵があの僧侶には存在する。それが、あの心の弱さだった。
 精神的な弱さは妖怪にとって死活問題だ。なぜならば、妖怪は精神が主体の存在だからだ。肉体はどれだけ損傷を受けても容易に傷を癒すなり復活するなりできるものの、精神が破壊された場合生半には回復せず、最悪の場合死に至ることだってあり得る。肉体が主体の存在である人間とは真逆なのだ。
 万一こいしがあの僧侶の心の弱さに悪い影響を受ければ、こいしの生命の危険に繋がるかもしれない。
 白蓮は確かに自分に似ている。しかしそれは、自分の良い部分ではなく悪い部分に似ているのだ。
「お燐!」
 衝動的にさとりは椅子から立ち上がり、彼女のペットの中でも最も信頼出来る者の名を呼んだ。
 ほどなくして部屋の扉の隙間から現れたのは、二股の尻尾を持つ妖怪猫だった。
「にゃーん。はいはい、さとり様。お燐はここに!」
 お燐と呼ばれた黒猫は、さとりの足下まで素早く駆け寄ると、彼女を見上げて達者な人語を話し始めた。彼女は火車という種類の化け猫で、人間の死体を奪うことを趣味兼生業にしている。人間からは毛嫌いされる類いの妖怪だったが、底抜けに明るい性格なので妖怪の間では割と評判が良いようだ。
 お燐の頭をさとりの小さな手が撫でると、彼女はごろごろと気持ち良さそうに喉を鳴らす。
 さとりは何気ない風を装って、穏やかな声でお燐に訊ねた。
「貴女、最近頻繁に地上に出かけているみたいね」
 お燐はびくりと身を固くして、さとりから目を背ける。
「にゃ!? い、いえ、それほどでも(寺に死体あさりに行ってるなんてバレたら叱られちゃう)」
 彼女は嘘をつくのが下手だった。わざわざ能力を使って心を読まずとも、声や態度ですぐ隠し事があることがわかってしまう。
 さとりはお燐のそういう素直な性格が好きだった。
「別に叱ったりしないわ。それよりお燐、ちょっとお願いがあるの。こいしが地上のお寺に出て行ったのは見たでしょう? ちょっと後をつけて様子を見てきてちょうだい」
「あれ? 基本放任主義じゃなかったんですか?」
「気が変わったのよ……」
 気難しい主人の考えていることは、お燐にはよく分からなかった。ただ、こいしのことを心配しての命令であることはお燐にも察することができた。
 お燐は、今でも自分の主人がこいしのことを思い続けていてくれることを、心の中で喜んでいた。彼女はさとりのことが好きだったが、同じくらいこいしのことも慕っているのだ。
「わかりました! じゃあ、(死体あさりのついでに)行ってきます!」
 お燐の『好き』のヒエラルキーの中で、さとりとこいしは死体の下だった。
 さとりは若干むっとして、お燐を嗜める。
「死体あさりのついではダメよ。こいしのことを最優先でお願い」
「え~……」
 あからさまに嫌そうな声を出すお燐。さとりは少しばかりイライラしながら、それでも辛抱強くお燐をなだめる。
「そんな声ださないで。ちゃんと働いてくれたら、その日の晩ご飯は特別にアユの塩焼きにしてあげるから……」
「アユ!」
 お燐の目が俄然輝きだした。お燐の『好きなものヒエラルキー』の頂点に君臨しているのが、アユの塩焼きだった。
 アユ、死体、こいし、さとりの順である。
「わかりました!! このお燐、全力でこいし様を見守らせていただきますっ!」
 言うが早いか、お燐は猛ダッシュで部屋を駆け、風のような速さで戸の隙間を抜けて出て行った。
 ようやくお燐を送り出し、さとりは大きくため息をつく。
 再び独り残されたさとりは、部屋の真ん中にぽつねんと佇んでいた。
 彼女は床に目を落とし、じっと何事か考えていたが、しばらくすると忙しなく部屋の中を右往左往し始め、そうしていたかと思えば再び部屋の中央に立ち止まる。
 そんな奇行を何度か繰り返した後、彼女は何事か思いついたように何度も何度もしきりに頷きだした。頷くうちにさとりの頬に不気味な笑みが広がってゆく。
 彼女はそそくさと椅子に座ると、机の引き出しの中から原稿用紙の束を取り出して机の上に置いた。それから机に据えられていた万年筆を手に取り、迷いなく原稿用紙の上に筆を滑らせ始めた。
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一年と半月以上前に投稿した第一話(http://coolier.dip.jp/sosowa/ssw_l/181/1362806025)の続きになります。
全話が完成したため投稿させていただきます。
第一話でコメント頂いた内容がまるで予言のようにほぼすべて当たってしまいましたが、作品を完成させることができてよかったです。
引き続き第三話もお楽しみください。
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以下返信です。

>>1様
大変お待たせいたしました……!

>>1様、2様
ヤマメとパルスィは『地底に行くなら出しとこうかな』くらいの軽いノリでご登場いただいたわけですが、書いてみたら結構いいキャラしてました。ヤマメかわいいよヤマメ。
パルスィはさらに物語上重要なセリフを語る役目を負うことにもなり、出してよかったなと思います。

>>3様
ありがとうございます!
こいしちゃんは第二の主人公のようなポジションですね。

皆さんのご指摘の通り、白蓮対勇儀の戦いは冗長だったかなと思います。小説を書いている最中も『ここは後でどこか削ろう』と思ってはいたのですが、いざ推敲してみると削りたい箇所が見つからないという……。自分、勇儀姐さんが好きなんですよね……。ですが、思い切って削ったほうが良かったかもしれないと反省しております。
すずかげ門
suzukagemon@gmail.com
http://twitter.com/suzukagemon
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コメント



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1.90名前が無い程度の能力削除
遅かったじゃないか…(レイブン)

それはともかく、地底のそれぞれの面々が、人あたりが良い癖に厄介で面倒で、「そら封印されるわ」と思わされる風に書かれていて面白かったです(特にヤマメとパルパル)
満点じゃないのは姐さんとの戦いを読んでてちょっとダレたからですが、ストーリーは相変わらず気になるので続き行ってきます
2.80名前が無い程度の能力削除
地底のやつらマジめんどくせえw
嫉妬稼ぎをするパルスィと粘着で都合の良い解釈をするヤマメが良いキャラしてます
3.90名前が無い程度の能力削除
完成おめでとう御座います。先ずそのことに感服します。
第二話、妖怪の魅力に手に汗をして読みすすめました。果たして妖怪寺の人間白蓮をどう書くのか。こいしがもう一人の主役なのかな? 上の方の指摘どおり、私も過去の回想後の戦闘展開はもう少しすっきり書けたのではないかなと。ああ!先が読みたい(買い出しいかないと…)