Coolier - 新生・東方創想話

私は天子。女漁師の天子よ!

2014/10/14 22:57:38
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 カツオ
 (鰹、松魚、堅魚。スズキ目・サバ科に属する魚の一種。外洋性の大型魚で群れをなして移動する。幻想郷では弾幕ごっこ中の少女が、遊泳中のカツオと衝突する事故が度々発生している。)




「パパなんて大っ嫌い!」

 天子は力の限りそう叫んで、屋敷を飛び出した。
 向かう場所は考えていなかった。とにかく家から少しでも離れたかった。
 腹が立った。
 腹の底から沸々と怒りが湧き出してくる。それと同時に情けなくて涙が出そうになる。
 父は変わってしまったのだと天子は思う。昔は格好良かったのに、今では見る影もなくなってしまった。
 天子はお父さんっ子だった。小さい時は、「将来はパパのお嫁さんになる!」と良く言っていた。父が母と仲良くし始めると、わざと転んで痛がる振りをして父の注意を引いたりしていた時期もあった。大きくなって思春期を迎えても、自分の洗濯物を父親とは別にして欲しいとは一度も言ったことはない。それくらいのお父さんっ子だった。
 そんな天子が、父親に向かって「大嫌い」と叫んだのである。これは普通のことではない。
 怒りのままに足を動かす。屋敷を振り返ることもなく、ひたすら大股で歩き続ける。
 天界の端っこまで来ると天子は大きく息を吐いた。一度だけ来た道を振り返る。しばらくはここに戻っては来ないだろう。もしかしたら、しばらくでは済まないかもしれないが。
 前を向く。
 天子は勢い良く地面を蹴って、天界から地上へ向けて飛び立った。


 気がつけば人里に降り立っていた。
 どうやってここまで来たのかはほとんど覚えていない。頭の中は怒りでいっぱいで何か考える余裕はなかった。里には暇つぶしで良く訪れるので、体が自然と向かったのかもしれない。
 せっかく来たのだ。里を散歩でもすることに決める。他にやることもない。
 川に架かった石橋を渡り、商店が連なる通りへと向かう。適当にぶらぶら歩いて商品を眺める。水飴が売っていたのでそれを買って舐めながらまた歩き始める。川のせせらぎを聞きながら、風で揺れ動く柳の木の下を通る。
 なるべく何も考えないようにして散歩していると、少し気分は落ち着いたように思う。
 父の顔は見たくなかった。
 家に帰るつもりはなかった。どれくらいの期間になるかわからないが、とにかく帰りたくはない。
 別に宿などはどうにでもなる。少しは持ち合わせがあるし、天子はそこらのお嬢様とは違い、野宿をすることだって平気だ。
 今どうにかしたいのはこの気分。多少マシにはなったとは言え、いまだ父に対する怒りは収まらない。思い出すだけでもイライラしてくる。
 とにかく何か気分転換になるようなものがあればいい。
 そんな事を考えながら、十字路を右に曲がった時だった。

「あー、天人のねーちゃん!」

 声をかけてきたのはここらに住む普通の子供、勘太郎十二歳。里に良くやって来る天子は地上の顔見知りも少なくなかった。この子はその一人だった。天子は子供に好かれる性格をしているのか、子供の知り合いも多い。彼女の無遠慮な物言いが子供にとっては接しやすいのかもしれない。特に勘太郎とはサッカーを好む者同士として話が合った。

「クソがきじゃない。どうしたの?」
「これからいつもの空き地でサッカーするんだよ。ねーちゃんも一緒にやらない?」
「いいわよ」

 二つ返事で了承すると近所のクソがき勘太郎は嬉しそうに笑顔を作った。天子としても子供の相手をするのはやぶさかではない。それに体を動かすのは良い気分転換になるだろう。

「ねーちゃんにオレのスーパードリブルを見せてやるよ。クリロナやメッシも目じゃないぜ」
「ほほう。じゃあ私はジュニーニョ・ペルナンブカーノも真っ青のフリーキックを見せてあげるわ」

 空き地へ行くまでの間、二人はサッカー談義で盛り上がったり、最近の寺子屋で出された宿題が多くて大変だ、それはしっかりやらないとだめよ、えーやだよめんどっちい、面倒でもやらないとだめなもんはだめなのよ、などと話をした。
 そうこうしている内に空き地へ到着。
 と、何やら様子がおかしいことに気付く。先に集まっていた子供達が空き地の前で集まって、みな不満げな顔を浮かべている。

「おーい、お前らどうしたんだ。こんなところに集まって」
「あ、勘太郎。それがよー、なんかこの中に入っちゃダメなんだってよ」
「入っちゃダメってどういうことだよ?」
「いやーそれがさーおれもよくわからないんだよ。とにかく入っちゃダメって言われたんだ。ほら、あそこにおっさん達がいるだろ。あいつらに言われたんだよ」

 空き地の中央。二人の男がいる。一人は見たところ五十くらいの年齢で、もう一人は三十くらいでメガネをかけている。二人は空き地のあちこちを指差して、何やら話をしている。
 状況が良くわからない。とにかくここで遊んではいけないらしい。
 集まった数人の子供達は、これからどーすんべ、他に場所あっかなー、いやここら辺でサッカーできるのはここくらいだぞ、あーめっちゃサッカーやりたかったのに、などとぶつくさ言っている。
 可哀相に思う。昨日まで遊んでいた場所が今日になって急に立ち入り禁止となれば理不尽に思う。もちろん何か理由があるのだろうが子供達の話からはわからない。
 ならば直接聞けばいい。

「ちょっとそこの二人! ここで遊んじゃダメってどういうことよ!?」

 天子が声を上げながらずかずかと空き地に入ると、二人の男は同時に視線を寄こす。
 こういう場合、大体は大人の勝手な都合で純粋無垢な子供達が割を食うのだと相場は決まっている。
 しかし自分はそんなものには屈しない。
 大人の身勝手な都合などクソ食らえだ。
 もし何か相手が理不尽なことを言ってきたら文句を言ってやろうと決めていた。文句を言って言って言いまくって、この二人のおっさんを追い払って、その後何事もなかったかのように子供達とサッカーをして、華麗にハットトリックを決めてやるのだと天子は考えた。
 天子が近づくと五十くらいの親父が少し困ったような表情を浮かべながら、

「あー、君は何だ。そこにいる子供達の仲間かい?」
「子供達の代表よ」

 天子が胸を張って答えると後ろから、おーいーぞねーちゃん! やら、いつから代表になったんだ! などと声援や野次が飛んでくる。

「ねえなんでここで遊んじゃだめなの?」

 天子が訊くと、五十歳の親父はしわのある顔にさらにしわを増やす。なんと言えばいいのか言葉を探しているように見える。いや、言うべきことはわかっているのだが、それを言いたくないという感じだろうか。
 その様子を見て、隣にいた三十歳の黒縁メガネの方が代わりに答えた。

「私たちは今この場所を査定しているんだ。他の場所で遊んでくれ」

 査定。その言葉で天子はピンと来た。

「ああ、なるほど。そういうこと。そっちの人がこの土地の所持者ってわけね。で、あんたはここらの不動産屋ってことでしょ。それでそっちの人はこの土地を売りたいというわけね?」

 五十歳の親父が答える。

「ああ、そうだ。だからこの場所はもう使えなくなる。子供達の遊び場になっているのは知っている。特に使い道のない土地だったから子供達が有効活用してくれるのは嬉しかった。ただ、このところお金に困ってしまってね」

 そこで五十歳の親父は深いため息を吐いた。おや、と天子は思う。自分が考えていたのと何か違うぞ、と。もっとこう自分勝手で理不尽極まりない理由を振りかざしてくるかと思っていた天子にとって、相手のこの反応は意外だった。

「本当に申し訳ないと思うよ。遊び場を奪うようなことをしてしまってね。でも私にも生活があるんだ。すまないが、向こうの子供達にはもうここで遊ぶことはできなくなるから、別の場所を探すように言ってくれるかな」

 しわの刻まれた目で天子をまっすぐに見てそう言った。その目は何だか悲しげで、本当に申し訳なく思っているのだと天子にもわかった。
 優しい人なのだ。自分の土地をただで子供達に開放していたというのに、それをやめることに罪悪感を抱いている。
 ここで何か言い返しても悪いのは自分の方。この人が悪いわけじゃない。天子は理解した。
 天子にはどちらの気持ちもわかる。この五十歳の優しいおじさんはお金に困って仕方なくこの土地を売ることにしたのだ。しかし子供達も遊び場がなくなって困っている。決して広いとは言えないこの人里では他の遊び場を見つけるのは大変だろう。里の外にはいくらでも土地が広がっているが、妖怪に見つかったらどうなるかわかったものではない。
 ただ天子にはどうしようもない。ここは引くしかない。子供達のことは可哀相だが、ここでこの聖人のような五十歳のおじさんに文句を言うのは道理に反する。

「わかったわ」

 たった一言そう口にして天子はきびすを返す。
 すまないね、と背後から声がかけられる。
 わかったならさっさとどっかへ行ってくれ、とメガネが言う。その言葉にかちんと来たが天子は何も言い返さなかった。
 それからメガネはこほんとひとつ咳払いをすると、

「さて、この土地のお値段ですが、およそ一千万といった所でしょう」

 一千万か、と天子は思う。子供達の視線が向けられる。みんな不安そうで、それでいてどこか期待するような顔をしている。そんな顔で自分を見ないで欲しい。自分には何もできないのだから。
 世の中そう思い通りには行かない。みんながみんな幸せになるなんてあり得ないのだ。できれば子供達の気持ちを汲んでやりたいと思う。天子だって子供の頃は、公園やら空き地で良く友達と遊んだし、その時の楽しかった思い出は今も残っている。今の子供達にもそういう思い出を残して欲しいと思う。
 でもこればっかりは仕方がない。
 子供達にはこの状況を説明してわかってもらおう。せめて新しい遊び場を探すくらいの手伝いはしてあげよう。自分にできることと言ったらそれくらい……。
 ふと子供達の方へ向かっていた天子の足が止まる。
 本当にそうだろうか。自分にはそんなことしかできないのか。もっと何かできることがあるのではないか。
 考える。
 約五秒の熟考の後に天子は二人の方へ振り返る。

「ねえ、この土地の値段。一千万って言ったわよね」

 メガネは一瞬戸惑ったがすぐに、

「ああ、そうだが」
「ふーん、なるほどなるほど。ねえ、おじさん」
「何かな?」

 土地を所有するおじさんが天子を見る。天子はその目をまっすぐ見返しながら、

「この土地、私が買っちゃだめかしら?」

 は、とクソメガネは言った。この馬鹿は何を言い出すんだ、と。しかし、おじさんの方はそんな反応とは対照的に、腕組みをして何も言わずにただ天子の方に視線を送っている。
 それから、

「本気かい?」
「本気ほんき。本気と書いてマジ」
「ふむ……」

 しばらく黙り込む。

「一千万。本当に払えるのかい?」
「どうかしらね。今手元にそんなお金ないから、ここでぱっと払えはしないけれど、でも時間さえくれればどうにかして用意するわ」

 再びの沈黙。およそ十五秒。ゆっくりとおじさんは口を開く。

「わかった」
「本当!?」
「ただし条件がある。お金は二週間以内に用意すること。それができなければ、この不動産屋さんに売ることにする。こっちは権利の関係上それ以上待てないんだ。いいかな?」
「うんうん。それでいいわ」
「不動産屋さん。すみませんがそう言うわけで、せっかく査定してもらったのに申し訳ないが、この話は保留としてくれませんか」

 そう言っておじさんはメガネに頭を下げた。

「構いませんよ。この土地の所持者はあなたですから。あなたの決定には逆らえません」
「随分と物わかりが良いじゃない。メガネのくせに」
「君は今、メガネをかけている人全員を馬鹿にするようなこと言ったってわかってるのか」
「ま、何はともあれ二週間以内に一千万用意すればいいんでしょう。じゃ、私はさっそくこれから集めてくるから、そういうわけでよろしく」
「うむ。ああ、それとあそこにいる子供達に伝えてくれ。二週間はここを自由に使ってもいい、と」
「ありがと、伝えとくわ」
「その後は君次第だ。頑張っておくれよ」

 さて、そんなわけで天子は一千万を用意することになった。
 場当たり的な思いつきだったが、とにかく子供達の遊び場をこのままなくすわけにはいかないと天子は思ったのだ。
 子供達に今の状況を説明する。一千万が必要になったこと、これから自分はその金を集めに行くこと、少なくとも二週間はおじさんの好意で自由に空き地を使ってもいいこと。

「一千万。マジかよねーちゃん。そんな金本当に用意できるの?」

 天子が説明し終えると子供達は二通りの反応を見せた。ひとつは上記の反応で、もうひとつは、一千万ってうまい棒何本買えるんだよ!? というものだった。

「用意するしかないでしょ。もうそう言う風に言っちゃったし」
「でもオレ、今月のお小遣い使い切っちゃってあと百五十二円しかねえよ」

 勘太郎が参ったなーと頭をかきながら言う。天子はその頭を軽く小突く。

「ばーか。あんたらには何も期待してないから何もしなくていいの。せっかく空き地が使えるようになったんだからサッカーでもしてなさい。お金は私が用意するから」
「天人のねーちゃん……!」

 そう言って勘太郎は目に涙を浮かべながら天子の顔を見上げ、体を震わせる。
 この私の行いにそこまで感動したか、よしよし可愛い奴め、頭でも撫でてやろう、などと考えていた天子だったが、

「もしかして、一千万は用意してやる代わりにオレ達の身体で支払えとか言うつもりじゃ……」
「ざっけんなこらぁー! ガキは玉蹴りでもして遊んでろ!」

 天子が鬼の形相で勘太郎の尻を思い切り蹴り上げると子供達は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
 その背中を目で追いながら、さてこうしてはいられないと一千万を用意するために天子はさっそく行動に移すことにする。




 必要額は一千万。
 天子は思考を巡らす。
 もし天子が父親にお願いすれば何とかなる額ではある。

「おお、そうかそうか。一千万必要なのか。よーしじゃあここはパパに任せておきなさい。すぐに用意してあげるからね。これからも困ったことがあったらすぐにパパを頼るんだよ。さあこっちにおいで、頭を撫でてあげよう」

 しかしだ。それは嫌だ、と思う天子であった。
 父は自分の娘にとことん甘い性格をしていると実の娘である天子ですら思っている。その程度の金などなんてことないだろう。頼ってくれたことを嬉しがって満面の笑みでぽーんと出してくれるはずである。
 しかしだ。そんな顔は見たくない天子であった。
 何よりさっき父親に向かって「大嫌い」発言をしてきたばかりである。のこのこと家に戻るつもりはない。
 天子は静かにため息を吐く。
 名居家に仕える比那名居。地上にいた頃は、天子はその名前に誇りを持っていた。名居家に仕える者として周りから尊敬を集めていた父親に、天子は憧れを持っていたし、自分の事のように誇らしくも思っていた。それが天人へと格上げされて天界にやって来たらどうだ。周りからは不良天人やら天人くずれやら、タイの尾びれに付いてきた海藻やら、ひどい言われようだ。
 天子自身はそんな事を言われようが気にしない。さすがにまったく堪えないわけではないが、そんな雑音は無視してしまえばいい。天人の友達ができないという事はひっそりと気にしている天子だが、天人の格がどうのこうのと言ってくる連中と仲良くしようとは思わない。
 それよりもだ。問題は父である。
 向けられてくる非難の視線なんて受け流せばいいのに、その一つひとつをご丁寧に受け取ってはへらへら笑って、これからもどうぞよろしくお願いします的な言葉を返す。波風を起こすことを可能な限り避けようとする。地上にいた時は胸を堂々と張っていたのに、今となっては背中を丸めて他人にへいこら頭を下げている。
 そんな父の姿を見るのは天子にとって耐えられなかった。自分の父親の落ちぶれる様を見るのは悲しかった。
 そうやって日々少しずつ溜まっていった鬱憤が、ついに爆発した。
 天界の集会から帰って来た父に、天子はおかえりと声をかけた。ただいまと父は返し、ふうと息を吐いた。

「さっき決まったんだが、パパは天界の地質調査をすることになった。これから少し忙しくなるかもしれない」

 何でもないことのように言った。が、これは少しおかしい。
 わざわざ天人がそんな事をする必要はないはずである。そういう雑事は天女とかそこらに任せるのが普通だ。いくら比那名居が大地の扱いに優れた能力を持っているとは言え、天子の父がそんな仕事を引き受ける義理はない。

「ねえ、何でそんなことをパパがしないといけないの?」
「うん? そうだなあ、パパはそういうことが得意だからだよ。天子も知ってるだろう。地上にいた頃は良くやっていたじゃないか」

 そう言う父に対し天子は首を振って、

「そうじゃない! 天人にもなって何でそんな雑用みたいなことをしないといけないのかって言ってるの!?」

 天子は声を荒げた。

「仕方がないさ。集会でそういう風に決まったんだから。その決定には逆らえないよ」
「何でよ! どうせその集会に集まった奴らなんて、私らの事を小馬鹿にしている連中でしょ。今回だってわざとパパに面倒ごとを押しつけるために集会なんて開いたんじゃないの! そんな連中の言うことなんて、はね除けちゃえばいいのよ!」

 父はわずかに微笑む。

「こらこら、そういう事は言うもんじゃない。それに餅は餅屋って言うだろう。パパの力が発揮できるチャンスだ。今はその何だ……ちょっとまだ周りから認められてはいないかもしれないが、与えられた仕事をきっちりこなせばそういう目も変わるかもしれないだろう」

 そんなことで父に意地悪をしている連中の気が変わるとは思えなかった。そしてどこまでも甘い事を言う父に対して、怒りが芽生えた。昔の格好良かった父はどこへ行ったのか。どうしてこうなってしまったのか。天子は悔しくて仕方がなかった。そしてどうしようもなく腹が立った。

「もういい! パパのことなんか知らない!」

 気がついたらそんな言葉が飛び出していた。一度口をついて出てきた言葉はそう簡単には止まってくれなかった。そして、天子は叫んだのだ。

「パパなんて大っ嫌い!」

 その時、去り際に見た父親の顔を言葉で表すのは難しい。しかし、どこまでも深い悲しみに包まれたその眼差しは、天子の脳裏にはっきりと刻まれた。
 あの眼差しを思い出すと天子はもやもやとした気持ちになる。それと同時に怒りも込み上げてくる。
 天人になんかなるんじゃなかった。今までに何度もそう思った。こんなみじめな思いをするくらいなら、天人なんてクソ食らえだ。
 格好良かった父のままでいて欲しかったし、天子だって地上にいた時は友達がたくさんいて今のような疎外感を覚える事もなかった。地子として生きていれば、幸せのままでいられたはず。
 そこで天子は首を振る。
 こんな事を考えたってどうしようもない。それに天人になった事を後悔したことは何度もあるが、天人になって良かったと思った事だって何度もある。寿命が長いというのは大きな利点なのだ。もし地子のままだったらとっくにあの世に行っているのだから。
 結局の所、天子は天人でありながら地上に憧れている。地上にいた頃の遠い昔の生活に未練を捨てられず、天人にもなりきれず普通の人間にも戻れない中途半端な立ち位置で悩んでいる。天子でありながら過去の自分である地子に憧れる。そんな思いを抱いていると、自分は一体何者なのかがわからなくなってくる。

 ――私って一体なんなの?

 一度深く息を吸う。そしてゆっくりと吐き出した。
 難しい事は考えない。考えるだけ無駄だ。とにかく今自分のすべきことだけを考える。
 一千万だ。それを稼ぐ。
 とにかく家には戻るつもりがなかった。
 そんなわけで親の手助けを受けるという可能性を排除した結果、天子が取るべき行動はひとつだった。
 やって来たのは里にある職業安定所。
 先ほどまでの鬱屈とした気分を晴らすために、ここは一発かましてやろうと思う。
 天子は大股でその建物に近づく。
 大きくもないし小さくもない。特徴もないし味気ない。そんな外観をしているが今の天子の目に入っているのは薄汚れた入口のドアだけだ。
 入口までやって来た彼女は両開きのドアを景気よく蹴り開ける。そしてそのままの勢いで室内に入ると大声で一言、

「二週間以内に一千万必要になったから稼げる職を紹介しなさい!」

 沈黙。
 職員やここに職を求めてやって来た人たちの視線が天子に集中する。が、誰一人として言葉を発しようとはしない。ただの人間には興味ないからどうのこうのと学校の教室で言い放ったかのような反応。数秒してから何事もなかったかのようにそれぞれが自分の作業に戻った。
 よれよれのワイシャツを着た職員の一人が耳の穴を指でほじりながら言う。

「お嬢さんよぉ、二週間で一千万? そんなに稼げる職業があったら僕だってこんな仕事すぐに辞めて転職してるねぇ。悪いんだけど世の中そんな甘くないんだ。ねえお嬢さん」

 意気揚々と乗り込んだ天子だったが、唐突にやって来たアウェーの空気に飲み込まれそうになる。
 空気が重たい。
 先ほどまではあんなに軽かった身体が今は固く強張っている。この建物の敷居をまたいだ瞬間世界は反転したかのようにがらっと変わってしまった。なぜだかここにいる全員が敵に見え、端っこの方にひっそりと置いてある観葉植物ですら自分に敵対心を向けてきているように感じる。
 しかしここで負けるわけにはいかない。まだ来たばっかりで何もしてない。天子は自分を奮い立たせる。今更引き返すことはできない。ついさっき一千万用意すると啖呵を切ってきたばかりだ。なんと言われようとも引くわけにはいかないのだ。
 ならばここはもう一度、自分は本気なのだということを宣言してやるのだ。天子は大きく息を吸い込む。雷頑固親父に向かって「娘さんを僕にください」と言うくらいのつもりでぶちかましてやる。「一千万を稼げる職業を私にください」と叫ぶために吸った息を全て吐き出そうとした瞬間、

「とりあえず座りなよ、お嬢さん」
「はい」

 郷に入っては郷に従え。職員の言うことには大人しく従う。
 よれよれのワイシャツを着た職員と机を挟んで向き合う形で椅子に座る。

「んで、一千万が必要と。二週間以内に?」
「そうなのよ。なんとしても必要なの。何とかならないかしら」
「んなこと言われてもなあ。ここには多くの人が職を求めてやって来るけどよ、希望した通りの職に就けるなんてなかなかないぜ。僕だってなるべく希望通りの職を紹介したいよ、そりゃあ。でも現実ってもんを見なきゃダメだぜ。二週間で一千万の報酬。そんなアホみたいに金稼げる職なんてないよぉ」
「えー、そんなこと言ったってあなた職業斡旋のプロでしょ! 探してよ!」
「まあね、探せと言われれば探すよ。仕事だからねこっちも。でも見つからないと思うなあ。ところでお嬢さん、借金か何かかい?」
「まあ、似たようなものね」

 その年で大変だねえ、と職員は手元の資料らしきものをパラパラと捲りながら言う。

「うん、やっぱねえな」
「ちょっと! あきらめるの早いわよ!」
「まあまあ落ち着きなよ。このリストには載ってねえってだけさ。あんまり気は進まねえけどお嬢さん訳ありなんだろ? そんなお嬢さんのためにとっておきのやつ持って来させるから。おーい、近藤! ちょっと例の訳あり職業リスト持ってきてくれ」

 近藤と呼ばれた職員が、「え、マジすか」と驚きの声を上げる。

「マジマジ。大マジ。大至急な」
「自分で取りに行かないのね」
「僕はこう見えて、ここでは結構偉いんだ。人を口で使う立場ってわけ。……おう、悪いな」

 彼は近藤から黒いファイルを受け取る。表面にはでかでかと白ペンで「訳あり」と書かれている。

「何よ、訳あり職業って?」
「よく言うだろう。訳あり物件って。あれは事故やら欠陥やらで普通よりもかなり安くなっている物件のことを言うんだ。で、このリストに載っている職業はそれと同じ類のもんだな。何かしらの訳がある代わりにそれなりの報酬がある、ってわけだ」
「銀行強盗とか?」
「あのねえ、お嬢さん。この場所は仮にも里の公共機関なわけだよ。そんなもん紹介するわけねえだろうが」

 短期間職業はどこかなーと言いながら黒ファイルを捲り、半分が過ぎた辺りで机の上に開いた状態で置いた。それから、一千万いっせんまん……と呟きながらリストを上から下へと指でなぞる。一番下まで行くと次のページでまた同じ動作を繰り返す。さすがに厳しいかなと職員は呟く。天子は黙ってその動作を見守る。七回目の動作に入って指が真ん中の辺りまで来たところで、その指がぴたりと止まった。

「あった一千万! えーと期間は……約十日間! しかもこれ明日からだ。どんぴしゃじゃねえか。こりゃあすげえ」
「本当!? あったの!?」

 天子も身体を乗り出してリストを覗き込む。

「あ~、でもこれあれだな。最高で一千万ってことだな。仕事の出来によっちゃあ大幅に報酬の値が変動する」
「どれ、どれなの。え~っと」
「これだよ、これ」

 指差された場所に書かれていた文字を天子の目が捉える。

【職種】漁船員
【主な業務内容】一本釣り、その他雑用
【期間】約十日間(場合によっては短くも長くもなる)
【手取り】零~一千万

 漁船員。一本釣り。その文字を見て天子は疑問に思う。

「ねえ、一本釣りって書いてあるけど、一体何を釣るの?」
「さあて何だろうね。そこまではこっちも把握してないなあ。ま、一本釣りってことはやっぱマグロじゃねえか。あれは儲けるときは儲けるからな」
「手取り、零~一千万って書いてあるけど」
「そりゃあ、釣れなければ儲けが出ないからな。儲けが出なければ払える賃金もないだろうに」

 もう一度よく見る。手取りが気になってその下に書かれている部分を見落としていることに気付く。文字が小さくて見えづらい。天子はさらに身体を乗り出して覗き込む。職員と頭がぶつかって「痛っ」という声が聞こえたが気にしない。よく目をこらす。

【募集要項】力のある方。身体が丈夫で体力のある方。銃で撃たれても死なない方ならなお良し。

 そこで職員もどうやらその項目に気がついたらしい。前屈みだった姿勢を今度は後ろに倒して椅子の背もたれに寄りかかる。

「ありゃあ、これはすまねえ。ちゃんと確認してなかった。そりゃそうだよなあ。訳ありってくらいだしそう簡単な募集なわけがねえんだ。そもそも女の子に漁船ってのも厳しいか」
「ううん。別に平気よ。募集要項も全部満たしてると思うわ」
「え?」

 素っ頓狂な声が室内響き、ちょうど天子の後ろを歩いていた職員の一人がびくりと身体を震わせた。

「お嬢さん本当かい。力ある?」
「あるある。普通の岩なら殴れば砕けるくらいにはある」
「身体も丈夫で体力ある?」
「もちろん。里を端から端まで走ったとしてもまだまだ余裕よ」
「銃で撃たれても死なない?」
「それはわかんないけど、まー私天人だし、身体の頑丈さには自信あるからへーきでしょ」
「なるほどねえ。見た感じただのお嬢さんじゃないとは思ってたけど、まさか天人のお嬢さんだったとは、いや、これは失礼」

 まったく失礼とは思っていないようなおどけた口調で彼は言う。

「別にいいわよ。……それよりも何で銃で撃たれても死なない方である必要があるのかが気になるわ」
「僕にもわかんないなあ。でもま、最近は何かと物騒だしねえ。船を襲ってくるような連中でもいるんじゃねえか」
「随分と適当ねえ」
「仕方ないだろう。はっきりとした情報がないんだから。訳ありリストに入ってるのはどれもそんなもんさ。んで、どうするんだい。これにするかい? それとも一応他のも探してみる?」

 さすがにこれ以外にはないと思うけれどね、と職員は付け加える。

「いいわ、じゃあそれにする」

 内心ほっとした。実のところかなり不安だった。ここがダメだったら天子にはどうするべきかわからなかった。なんとしてもここで仕事を見つけたいと思っていたから、無事見つかって安心する。まだはっきりとしたことはわからないが、進むべき道が示されているといないとでは心の持ちようがまったく違う。

「ありがとう。世話になったわね」

 天子が礼を言うと、よれよれのワイシャツを着た職員は無精ひげの生えた口元を綻ばせる。

「おう、良いってことよ。こっちはこれが仕事だしな。それじゃこの紙にサインしてくれ。……それにしてもお嬢さん、ラッキーだったね。この仕事の募集期限は今日までだ。今すぐに行ってきな! 場所は、……命蓮寺だ」




「ようこそ! いやー、一応里の職業安定所にも募集を出しておいたんだけど、まさか本当にそこから来てくれるとは思わなかったわー」

 所変わって命蓮寺。
 職業安定所の紹介で来たと言ったら、すぐに笑顔で出迎えてくれたのがこの人、村紗水蜜である。お決まりの白のセーラー服に船長っぽい帽子をかぶっている。命蓮寺に行ってこいと言われた時に、もしかしてと思ったが案の定だった。命蓮寺に住まう彼女がいつから漁師に鞍替えしたのかは知らないが、何にせよ今の天子にとっては都合が良い。
 とりあえず客室に通されて、出された茶をふうふうしてから飲む。うまい。落ち着く。

「良かったー。人手が足りなくて困ってたのよ。ぬえのやつは面倒臭いとか言って手伝ってくれないし、いや、本当に助かるわ」
「こっちもお金が必要だからちょうど良かった。所で本当に儲かるんでしょうね。私は二週間以内に一千万必要なんだけど……」

 村紗は目を丸くする。それから、う~んと唸る。

「どうだろう。確かに不可能な額じゃない。調子が良ければそれ以上稼ぐことだってできるよ。でも、どれだけ釣れるかは船を出さないことにはわからない。だから賃金に関してはっきりとしたことは言えない」
「そっかあ」

 茶を啜る。
 確実に稼げるわけではないということに不安を感じる。が、天子としてはもはやこれ以外に道はない。逆に言えば調子が良ければ目標額を稼ぐことができると言うわけだ。これは十分なチャンスだ。

「そんな儲かるんだ。マグロ釣り」
「うん? 私たちが狙うのはマグロじゃないよ。……そっか、安定所の方には何を釣るのか伝えてなかったっけな」
「あれそうなの。じゃあ何を釣るのよ」

 村紗はこほんと咳払いをひとつ。

「私たちが釣るのは、……カツオよ!」
「ふーん」
「あれ!? 反応薄!」
「だってカツオでしょ」
「ええ!? カツオだよカツオ! タタキにして食べるとめちゃくちゃ美味しいあのカツオだよ。竜田揚げにしてもいいし、カルパッチョにしてもいける。乾燥させてカツオ節にしたら出汁としても使える万能魚のカツオだよ!?」

 確かに美味しいと思う。しかし一体彼女が何にそこまで興奮しているのかわからない。とにかく村紗がカツオを愛していることはわかった。天子にとってはマグロもカツオもそんなに変わらない。重要なのはとにかくたくさん釣り上げることだった。
 それから約三十分後。
 今日もう一人船員が来ることになっているらしい。仕事に関する説明はそいつが来てからと村紗が言ったので、二人で談笑しながら待っていると、とてとてと廊下を歩く足音が聞こえ、天子達のいる部屋の前で止まったかと思うと襖がゆっくり開き、そこに姿を見せたのは長い銀髪に赤もんぺ。

「あ~~~~~、あんたは!?」

 天子が叫び声を上げて立ち上がる。何事かと近くにいた村紗がぎょっとする。銀髪赤もんぺの藤原妹紅はその声に驚いたものの、天子の姿を確認すると同じように、

「あ~~、お前は!?」

 と声を上げる。両者はにらみ合う。
 実を言うとこの二人、つい先日にちょっとしたいがみ合いを起こしていた。
 天子が地上で釣りをしていた時に、妹紅もちょうど魚を捕るために釣り竿を担いでやって来たのだ。魚が好んで住まう場所というのは決まっている。そこを見極めるのも釣り人としての腕前のひとつで、天子と妹紅が同じ場所を選んだというのも両者がそれなりの実力を持っているということだった。
 しかしだ。釣りというのは経験がものを言う。天子は釣りそのものの経験は豊富だったが、地上での釣りにはそれほど慣れてはいなかった。一方、妹紅は今までにも何度もこの場所で魚を釣ってきた経験があった。どうすれば魚が釣れるのかを熟知していた。
 運が悪かったというのもあると思う。決して天子の技術が低いというわけではなかったと思う。しかし釣りを始めてから一向に釣れる気配のない天子と、途中からやって来てあれよあれよと魚を釣り上げる妹紅。自分がまったく釣れずに他人が釣れまくるという状況はひどくストレスが溜まる。八つ当たりだとはわかっていてもイライラする。
 と、そこでようやく天子にも当たりが来た。糸が引っ張られる。竿に重たい感触が伝わる。天子は思いっきり竿を引いた。
 針にかかっていたのは、枯れ枝だった。
 その時に、約五十メートルほど離れた距離にいた妹紅が鼻で笑ったのを天子は確かに感じた。怒りが頂点に達した。
 五十メートルの距離を二秒で詰めると、つかみかかるような勢いで、

「あんた今、私のこと笑ったわね!?」

 普段の天子だったら自分を抑えることができただろうが、イライラが溜まっていた。妹紅も妹紅で、ここで素直に謝れば良いものを長年ここで釣りをしてきた釣り師としてのプライドみたいなものが邪魔をして余計に怒らせるようなことを口にしてしまう。

「いや、さすが天人様だな、と思ってね。湖のゴミ拾いですか? いやー、助かるわー」

 火に油だった。
 そこから二人は壮絶なキャットファイトを展開するわけだが、その様子の説明は割愛する。ただ、その場所でもう魚が釣れることはないということだけは確かだ。
 その時の記憶がまだ鮮明に残っている二人は命蓮寺の一室でにらみ合う。一瞬にして空気が張り詰める。
 出会って五秒で喧嘩し始める二人に村紗は置いてけぼりをくらったが、すぐにすっと立ち上がると後ろの押し入れをぴしゃっと開け、そこに置いてあった客用スリッパを手につかむと、ためらいなく二人の頭へと振りかざした。パン、パーン、と実に気持ちの良い音が命蓮寺全体に響き渡る。
 頭を押さえてうずくまる二人に向かって村紗は声を上げる。

「馬鹿野郎ども! いきなりな~に、剣呑なムード作ってやがる。明日から同じ釜の飯を食う仲間になるんだぞ。仲良くしやがれ!」

 まさにキャプテンである。
 船長の命令は絶対だった。
 二人は渋々怒りを収める。お互い目を合わせずに、少し距離を置いて座布団の上にゆっくりと座った。
 村紗はそんな二人の頭を再び客用スリッパでぶっ叩く。

「馬鹿野郎ども! だ~れが座れと言った!? 外へ行くぞ、ついてこい!」

 理不尽だと二人は思ったものの村紗がいまだその手にしっかりとスリッパを握っているので、口には出さなかった。大人しく村紗の後ろをついていく。
 向かった先は命蓮寺の庭。結構な広さがある庭だったが、今はその中央にどでかい船が居座って庭のほとんどを占領していた。
 どうやらこれが漁船らしい。見た目は実に立派である。外の世界にある漁船を参考にしたのか近代的な外観だ。が、木造だというのが一目でわかる。表面には色が塗られていないので素材の色がそのまま出ている。そのせいで見た目は漁船なのに、漁船という印象を受けない、何とも不思議な船だった。漁師よりも七福神が乗っている方が似合うかもしれない。数十人が乗ってもまったく問題がないほどの大きさだったから、これを三人で乗り回すというのは贅沢なものだと思う。

「これに乗って明日から漁に行くのか」

 妹紅の言葉に村紗が頷く。

「その通り。さて諸君。明日からカツオ漁に出るわけだ。これから私たちは同じ船に乗る仲間だ。さっきみたいな喧嘩は絶対にするんじゃないぞ。それと船に乗ったらキャプテンである私の命令は絶対に聞くこと。船員の命を守るのがキャプテンだ。できる限り安全を心がけたい。だから私の声には良く耳を傾けること。よろしい?」

 うんうん、と天子と妹紅は頷く。

「うむ。じゃあ君たちの仕事について話をしておく。君たちの仕事は主にカツオを釣る作業だ。後はまあ掃除とか食事を用意したりかな。船の操縦やら何やらは私が全て行う。というか大体オートでできるからそんな細かい作業はしなくてもいいんだけどね」

 それから三人は船に乗り込む。主な船の構造について説明を受けた後、甲板までやって来る。
 甲板の真ん中には白い布が斜めに張られていた。その左右に人が歩くスペースがあり、船の左側から白い布が坂道のようになっている。坂道の下の部分には窪みがあり、ベルトコンベヤーと思われる装置がぐるっと張り巡らされている。

「ここが君たちの持ち場だ。ここでカツオを釣る。竿を持ってここから糸を垂らす」

 左側の通路に立って村紗が言う。これが竿だ、と置いてあった竿を見せる。シンプルな仕掛けだ。竿と糸と針。それ以外のツールは一切ついていない。針はそれ自体が餌の形をしているので、カツオは餌と勘違いして食いついてくるというわけだ。

「それでカツオが食いついたら、思いっきり引っ張る。そうするとカツオがぽーんと釣り上がる。そのカツオはこの後ろにある白い布でキャッチする。それで、そのままカツオはこの布の上を転げ落ちてこのベルトコンベヤーに乗っかるわけだ。そうすれば後はこの装置が勝手に冷凍室に送り込んでくれる」

 なるほどねえ、と二人は感心する。

「ただし、この一本釣りはコツが必要で練習しなきゃだめだ。カツオを釣り上げても針が外れなければスムーズに行かないからね。釣り上げたカツオを後ろに放り投げると同時に、口に刺さっている針も外さなきゃいけない。うまくやれば空中で勝手に針が外れるからすぐに次の動作へ移れる。慣れてしまえばものすごく効率的な釣り方なんだよ」

 玄人達が並んでカツオを釣ると、船の上を常にカツオが舞っている状態になるらしい。その場を見たことはないが、その光景は見応えがあるのだろうと天子は思う。
 さて、と村紗は口元に笑みを浮かべた。

「じゃあ、これからさっそく一本釣りの特訓を始めましょうか」


 一本釣りの特訓は二人にとってそれほど難しいものじゃなかった。内容は土嚢に糸を結びつけそれを竿で持ち上げるというものだった。大の大人でも苦労する重さだが、二人にとってはまったく問題ないようだ。見た目はか弱い少女だがそこに天人やら不死身という属性が付くと、とんでもない馬鹿力が身につくらしい。天子と妹紅。この二人は間違いなく使える。村紗は確信に満ちた表情を見せる。
 特に天子に関しては最初からかなり筋が良かった。約十キロの土嚢が軽々と持ち上がり、綺麗な弧を描いて後ろに飛んでいく。フォームが綺麗だ。動きに無駄が少なくスタミナの消費を抑えられる。カツオは群れで移動するため、一度釣りを始めたら延々と同じ動作を繰り返さなければならない。重たいものになると十キロを超えてくる個体もある。身体への負担もその分大きい。スタミナの消費が少なければ少ないほど有利だ。
 村紗に褒められた天子はふふんと得意げな顔をする。

「これは私一人いれば十分かもね」

 天子が横目で妹紅を見ながら言う。
 天子はプライドが高かった。釣りの腕には特に自信があった。自分の得意分野で負けるのはものすごく悔しいし、何より自分の腕を笑われることは我慢ならない。先日妹紅に鼻で笑われた事はそう簡単に忘れられるものじゃない。そのため言わなくても言い事をついつい口走ってしまう。

「何だと?」
「あんたが竿を持つ必要はないわ。代わりにデッキブラシでも握ってなさい」

 しかしプライドが高いのは天子だけではなかった。

「はん、どうやらいまだにこの前の釣りのことを根に持っているようね。言っておくけどお前がまったく釣れなかったのは私のせいじゃない。お前が下手くそだったからよ」
「何ですって?」
「だってそうでしょう。あんなに簡単に魚が釣れる場所で長時間やって坊主って、……ぷっ」

 吹き出し方が完全に人を小馬鹿にしていた。
 あの時の怒りがめらめらと蘇ってくる。
 確かにあの時釣れなかったのは自分のせいだ。それはわかっている。しかし、それを馬鹿にされるのは気分が悪い。このまま馬鹿にされ続けるのも釣り師としてのプライドが許さない。
 ならば、と天子は思う。
 右手を空中へ向けてまっすぐ上げると、人差し指を立てる。それをそのまま妹紅の方へ振り下ろす。びしっと音が鳴りそうなほど仰々しく妹紅を指差すと、

「勝負よ! どちらがカツオを多く釣るか。それで私とアンタどっちの方が釣り師としての腕が上か、はっきりさせようじゃない」

 天子の宣言に妹紅は口元をゆがめる。

「面白いじゃない。いいわ、その勝負乗った。後で泣いて後悔するんじゃないよ」
「ふふん。ひとつ言っておくわ、妹紅。私はカツオを釣ったことがあるの。何度もね」

 その言葉に今度は村紗が反応した。

「あ、そうか。天子は天界に住んでるんだものね。確かにカツオは三月の頃に天界付近を通る。その時に捕れたカツオは初ガツオって言うんだよ。脂はあまりなくてさっぱりとした味わいなんだけど、それが好きって人もいるのよね」
「そうそう。それでその時期になると天界の端っこに座って釣りをするの。人気の場所なんて人がすごく多くて、それでみんな横に並んで糸を垂らすもんだから、一匹でも引っかかると近くにいる人と糸が絡まってお祭り騒ぎになるの。普段は大人しい天人もさすがにその時は声を荒げて怒鳴り散らしたり、殴り合いの喧嘩を始めたりすることもしばしばよ」
「ま、何はともあれ期待しているよ。さて練習もここまでにしてそろそろ引き上げようか。明日は夜明け前に出航するしね。二人とも今日はここに泊まって行くといいわ」

 うーい、と二人は返事をする。
 引き上げながら妹紅が天子に視線を寄こしてくる。明日から見てろよ。声には出さなかったが口の動きで妹紅が言っていることがわかった。あんたこそ見てなさいよ。天子は言い返す。

「お腹空いたー、今日のご飯何かなー」

 村紗のとぼけた声が聞こえる。
 何はともあれ、明日からいよいよ始まる。
 目標額は一千万。なんとしてもカツオを釣り上げなければいけない。天子は拳にぐっと力を込める。妹紅にも勝負で勝たなければいけない。こいつをぎゃふんと言わせた後で、一千万をあのおじさんに突きつけてやるのだ。
 やってやる。絶対に。天子は決意する。

「え、晩ご飯カレーじゃないの!?」

 村紗のがっかりした声が聞こえた。




 翌日。
 外は暗い。まだまったく空も白み始めてすらいない時間。
 あてがわれた部屋で妹紅と天子の二人はまだ眠っていた。
 用意された布団は最初、隣同士ぴったりとくっついていたのだが二人は部屋に入った瞬間に何も言わずにそれらを離すと、できる限り距離を取った。
 天子は妹紅のことがはっきり言って嫌いである。それはいざこざを起こしたのもひとつの原因であるが、それ以外にどうも気にくわないものがある。彼女が発している他人を拒絶するオーラ。他者との繋がりを極力避けようとしているのが伝わってくる。それは恐らく妹紅が不死であることと関係があるのだろう。別にそれはいい。他者を否定し孤独に生きようがそれは勝手だ。天子が気にくわないのはここからだ。
 妹紅は繋がりを拒絶している。なのにだ。それなのに、完全に他者との関係を切り捨てようとはしない。むしろ新しい繋がりを、より深い絆を、彼女は欲しがっているように見える。
 全くの矛盾。そのどっちつかずな立ち位置でうじうじ悩んでいる姿が見なくても目に浮かんでくる。黒なら黒、白なら白とはっきりとした結論を出せばいいのに、散々悩んだあげく答えを先送りにして結局いまだに迷い続けている。
 天子にはそれがはっきりとわかる。臭いを感じるのだ。自分の立ち位置について悩みを抱いている同族の臭いが。
 天子には天子の悩みがあった。天人としての自分と天人になりきれていない自分。そんな微妙な立ち位置に自分はいて、両側から引っ張られている。
 ――自分は一体なに者なのだろうか。
 心の中にあるそんな疑問は、ふとした時に浮かび上がってくる。
 天子は自分の思い悩む姿を人に見せたりは決してしないが、それでも嗅覚の鋭い奴にはわかるだろう。
 そして今天子と部屋を一緒にしている相方は、どう見ても鼻が利きそうだった。
 恐らく妹紅もその臭いを感じ取って天子のことを嫌っているのだろう。つまりこれは同属嫌悪というやつだ。
 二人は同じ部屋で一言も喋ることはなかった。二人が唯一会話をしたのはどちらも眠りについてからだ。天子が「あ」と寝言を言うと、すぐ後に妹紅が「うん」とこれまた寝言で返した。奇跡的に阿吽の呼吸を見せたわけだが本人達が知るよしもない。
 さて、そんな二人の許に大股で近づくひとつの影。どてどてどて、と廊下を突き進み部屋の前までやって来ると、ためらいもせずに襖を勢いよく開け放つ。

「馬鹿野郎ども! いつまで寝てやがる! 出航だあああ!」

 村紗が両手を掲げて大声を上げる。突然のことに天子はびくりと身体が跳ね起き、妹紅は「しまった甲賀の連中か!?」などと訳のわからないことを口に出した。
 近くの部屋から、

「村紗、うるさいよ」

 と誰かの声がした。


 漁船の方はもうすでに準備が完了しているようだった。いくつもライトが点いている。
 天子は欠伸をかみ殺しながら漁船に乗り込む。次いで妹紅も乗り込んだ。
 村紗が操縦室から身体を半分出すと二人を見下ろす形で、

「さて、いよいよ出航するわけだ。昨日も言ったが船の上ではキャプテンである私の言うことには絶対に従うこと。それと私を呼ぶときは必ずキャプテンと呼ぶこと」

 はーいキャプテン、と二人は言う。

「うむ。よろしい! それじゃあ出航する。揺れるから二人ともつかまっときな」

 村紗は操縦室に引っ込む。
 すぐに船が振動する。地面から離れる感触。ゆっくりと船が浮き上がる。
 天子は船の縁から顔を覗かせて下を見る。少しずつ遠くなる大地。命蓮寺全体を見下ろせる距離まで上がるとそこから上昇速度が増す。すぐに人里の端から端まで見渡せるほどになった。
 まだまだ辺りは暗い。人里にもほとんど明かりらしい明かりはない。そのため里全体が黒い何かの塊にしか見えない。地上よりも月や星が輝いている夜空の方がずっと近くに感じられる。
 自分で空を飛んで景色を眺めるのと船の上に乗って眺めるのでは、見ている景色は同じでも何か違う。船から眺めた景色は何もかもが新鮮に見える。地球の丸みを感じることだって慣れきってるはずなのに、今はそれに胸を高鳴らせている。
 船に備え付けられたスピーカーが音を吐き出した。

『ピーーー! ザザザ~~……。おっと失礼。あ、あ~。天子と妹紅聞こえる?』

 天子が手を振って応える。

『オーケー。安定状態になったからもう手を離しても平気だよ。それとしばらくは特にすることもないと思うから、眠かったら船室に入って寝てて良いよ。こっちからは以上』
「それじゃあ私は一眠りすることにしようかな」

 妹紅は欠伸をしながら船室へと繋がる階段を降りていった。
 天子はすっかり目が覚めてしまっていた。どうしようかと迷ったが、階段を駆け上がり操縦室へと向かう。

「ねえ村紗。操縦室の中入ってもいい?」
「村紗じゃない、キャプテンだ!」
「ごめん。入ってもいいキャプテン?」
「可愛い船員の頼みは断れない。いいよ、どうぞ」
「やった」

 操縦室はそれほど広くない。よくわからない機材がたくさん備え付けられていて、何かのボタンやらメーターやらがごてごてと並んでいる。天子がそれらを興味深げに眺めると、村紗が説明してくれる。これが速度計、これが姿勢指示計、こっちが高度計に、その隣が昇降計……。何となくわかったようなわからないような。
 そんな天子の顔を見て村紗が笑う。

「ま、天子が気にしておくべきなのはそっちのやつだよ」

 村紗が指差した場所にあったのは青い画像を表示しているモニターだった。良く見るとほとんどは青い表示だが所々に緑や白っぽい部分もある。画面の端っこの方に数字が映し出されているが意味はわからない。

「それは魚群探知機だ」
「へえー、これが。じゃあカツオの群れが現れたらここに表示されるのね」
「そういうわけ。オレンジとか赤色が表示されたらそこにカツオがいる。これだけ広い空だ。闇雲に探してもなかなか見つからないからね。これは結構高性能だからかなりの距離をカバーできる。優秀だよ」

 今画面にはそれらしい反応はない。まだ出航したばかりだから当たり前と言えば当たり前だ。

「早く見つかるといいわね」
「そうだね。でもま、そう簡単に見つかるようなものじゃない。一カ所にとどまってくれるなら見つけるのも簡単なんだけど、奴らは止まると呼吸ができないから常に高速で泳ぎ続けなくちゃいけないのよ」

 天子はへえと相槌を打つ。

「三月に天界付近を通るカツオは初ガツオと言うってのはこの前教えたよね。じゃあ今私たちが狙っている九月のカツオをなんて言うか知ってる?」

 わからないと首を横に振ると、村紗が説明してくれる。

「この時期のカツオは戻りガツオって言うんだよ。奴らは一度幻想郷を離れて、天界、そして魔界まで泳ぎに行く。それで魔界でしこたま餌を食べて、それから新鮮な瘴気もたくさん吸って、再びこの幻想郷の空に帰ってくるんだ。だから、初ガツオと比べて身体がずっと大きくて、脂がのっていてすごく美味しい」
「へえ、そうなんだ。知らなかった」

 ひとつ賢くなった天子だった。
 東の空が明るくなり始める。もうそろそろ夜が明ける。新しい朝がやって来る。
 天子はこの時間帯が好きだった。一日の内で一番新鮮さを感じられる。真新しい白紙のノートを開く時のような感覚。
 外の様子を良く見ようと天子が身を乗り出して窓に顔を近づけると、村紗が注意する。

「天子。その手の近くにあるボタンは押しちゃダメだよ」

 見ると、右手のすぐ近くに赤いボタンがある。下には『触るな危険』と注意書きがしてあった。

「何これ?」
「ミサイルの発射ボタン」
「え?」

 なぜ漁船にミサイルが備わっているのか。
 素朴な疑問。
 いや、天子が知らないだけでもしかしたら最近の漁船にはミサイルが標準装備として備わっているのかもしれない。そもそも村紗は『ミサイル』と口にしただけで何のミサイルかまでは言っていない。イラクやイスラエルで雨あられのごとく降り注ぐような物ではなく、例えば魚を釣るために発射する必要がある何かをミサイルと言っている可能性もある。うん、きっとそうだと天子は思う。
 でも一応訊いてみることにする。

「何のミサイル?」

 村紗は不敵に笑って一言、

「漁師の遊び心だよ」


 出航してから約三時間後。すっかり空も明るくなり妹紅が甲板に上がってきた。
 妹紅がやって来て最初に口にした言葉は、

「何やってるんだお前」

 その視線の先。天子が船の縁に寄りかかり、まるで干物か何かのような状態でだらけきっていた。明らかに普通の様子ではない。

「……話しかけないで。吐きそうだから」
「はあ、船酔い? よくそんなんで釣り勝負しようなんて言い出したわね」

 妹紅が呆れたような声を出す。
 まったくだと思う。今の天子には言い返すだけの気力がない。勝負なんてどうでもいい。さらに言うと一千万もどうでもいいようにすら思える。とにかくこのへその奥から湧き上がる吐き気を抑えて欲しい。今願いがひとつ叶うとしたらそう言うだろう。
 その日、天子はずっと船酔いと格闘するはめになった。幸運にも、と言うべきかはわからないが一日目にカツオを発見することはなかった。船室でぐったりと死んだように横になって時間を過ごした。
 二日目の朝になってようやく天子は船室に敷いた布団から身体を起こした。気分は、あまり良くない。しかし昨日のような吐き気はない。それだけでも世界が違って見える。船酔いから解放された喜びから、とにかく無性に何かに感謝がしたくなった。ありがとう布団さん。ありがとう階段さん。ありがとうデッキブラシさん。そんなことをぶつぶつ呟きながら、外に出て新鮮な空気でも吸おうと甲板へ飛び出した。
 外は雨だった。
 しかも結構な雨だ。あっという間に全身がびしょ濡れになった。
 天子は操縦室へと走ってドアを開ける。中には椅子に座ってくるくる回っている村紗と、腕組みをしながら魚群探知機のモニターをじっと見つめている妹紅がいた。

「ねえキャプテン! 何で雲の上に行かないのよ!? おかげでびっちょびちょじゃない!」
「おー天子。船酔い治ったみたいだね。良かった良かった。雲の上に行かないのは、この高度が一番カツオを発見しやすいからだよ」

 それなら仕方がない。

「でもま、そうだね。雨もひどいし、一度雲の上に行こうか」

 船が雨雲に突入する。視界が灰色に埋め尽くされる。ほとんど何も見えない。しばらくして雲を突き抜けた。そこにあったのは清々しいほどまでの青い空。
 先ほどまで打ち付けていた雨の音が消え、静まりかえった世界が広がる。
 天子はさわやかな朝の空気を胸一杯に吸い込む。水分を多く含んだ素晴らしい空気だった。
 船のすぐ下には雨を降らし続けている灰色の雨雲がまっすぐに伸び広がっている。船は雲の上を滑るように進む。こうして船の上から眺めると、何だか本当に海の上を進んでいるように見える。船の切っ先が雲を切り裂き、裂かれた雲が左右に弾ける。まるで水しぶきのよう。
 あまり良くなかった気分も、その景色を見ていたらだいぶ良くなった。
 後はカツオが見つかれば何も文句はない。
 昼になり三人で食事を取る。妹紅が用意した握り飯をがっつきながら、軽く会議をする。

「いまだカツオの群れは見つからない。とは言ってもまだ二日目。まだまったく焦る必要はない。見つかる時は見つかるし、見つからない時は見つからない。そんなものよ」
「手ぶらで帰るのは嫌よ」

 妹紅が言う。天子としてもまったくの同意見である。

「カツオが通るルートって決まってないの? ほら、三月は天界を通るでしょ。ならこっちに帰って来る時もどこか決まった道を通るんじゃないの?」
「通りやすいルートは確かにある。ただしいくつもあるんだ。それに確実にそこを通るわけじゃない。ここを通るだろうと山を張って待ち構えても実はまったく違う場所を通ってました、なんてこともある」
「だとすると、いくつかあるカツオが通りやすいルートを、ぐるぐる回って探すしかないってわけか」
「そういうこと。後は漁師の勘に頼るだけ。ま、この私に任せておきなさい。絶対手ぶらで帰すような真似はさせない」

 村紗のことを信頼していないわけではないが、天子は少し心配になる。何しろこうして漁船に乗り込むこと自体初めての経験だ。勝手がわからない。そこに一千万を稼がなければならないというプレッシャーが加わって不安に思わないわけがない。
 天子のそんな様子に気がついたのか、村紗は天子の頭をぽんぽんと軽く叩いて、

「大丈夫。見つかるよ。必ずね」

 その言葉が現実のものになったのはそれからおよそ十六時間後。三日目の朝になってからだった。




 天子は一人、操縦室で魚群探知機のモニターを見つめていた。夜は交代制でこうしていつでもカツオが現れてもいいように見張り役を置いておく。今回は天子の番で、後の二人は船室で眠っている。操縦はオートになっているので心配はいらない。
 画面に変化はない。ほとんどが青い表示。
 さすがに変化がないとつまらない。もう夜通しこうしてじっと見ているのだ。いくらなんでも飽きる。
 おまけに眠気がやって来てついうとうとしてしまう。自然と垂れ下がる頭を気力で持ち上げる。欠伸をしながらも何とか画面を見続ける。
 夜も明けようという時間。
 天子が八十五回目の欠伸をしようとした時の事だった。
 それは唐突にやって来た。
 モニターに赤い反応。天子は半分ほど閉じていた目をこすると、画面を覗き込む。確かにある。見間違いではない。画面右上にしっかりと赤色が映し出されている。
 落ちかけていた意識が一気に浮かび上がった天子は操縦室のドアを開け、階段を飛び降りる。船室に転がるように駆け込んで寝ていた二人を叩き起こした。すぐさま二人は起き上がると、操縦室へ。魚群探知機の反応を見た村紗が雄叫びのような声を上げる。

「カツオだぁああああ。野郎ども! 準備しろ!」

 村紗から双眼鏡を手渡された二人は船首へ。そこからカツオらしき影を探す。
 スピーカーから指示が飛んでくる。

『カツオの群れは雲を纏ってる! 雲を探せ! かなりのスピードで移動しているからすぐにわかるはずだ!』

 天子と妹紅は右と左に別れて、双眼鏡でそれらしい雲を探す。前方にある雲を調べてみるがどれも普通の雲だ。それらしいものは見つけられない。
 と妹紅が声を出した。

「いた! あそこだ!」

 妹紅が指差した方を天子も見る。
 それはやっと天子達の前に姿を現した。
 朝日が空をあかね色に染め上げている。夜と朝のちょうど境目。そんな空にひとつの雲がある。明らかに他の雲と移動速度が違う。こちらへ向かって突き進んでくる。双眼鏡で見ると、何かの影が時折雲から飛び出している。確認するまでもない。
 ――カツオだ。
 村紗もその雲の位置を把握したようだ。

『野郎ども! 竿を握って持ち場につけ! いよいよ本番だ。気合いを入れろーー!』

 急いで竿を握って船の左側へ。待ちに待った時間だ。胸が高鳴っているのがわかる。
 ついに肉眼ではっきりとカツオの姿が確認できる距離まで来た。そこで船が急旋回し、カツオと同じ進行方向を取る。ついに天子と妹紅の目の前にカツオの大群が姿を見せた。
 巨大な群れ。
 雲を纏ったそれらはまるで一匹の龍のようにすら見えてくる。三人が乗っている船など簡単に飲み込んでしまえるほどの大きさだ。もしかしたら龍なんて存在は本当はいなくて、人々は空を泳ぐカツオの群れからその姿を想像したのではないか。そんな風にすら思えてくる。光を反射する銀色の魚体は、龍の鱗に見えなくもない。

「やっとね。待ってたわこの時を」
「勝負のことは忘れちゃいないでしょうね? どちらが多く釣り上げるか」
「もちろんよ。自分から言ったことを忘れるもんですか」

 妹紅と天子、二人はにやりと笑う。竿を握る手に力が入る。
 村紗からの指示はただ一言だった。

『釣れ!』

 その合図が下された瞬間、二人は針を投げ入れた。
 まさに入れ食いだった。針を投げ込んだ瞬間、一匹のカツオが食いついてきた。天子はそれを引き上げると、後ろにある白い布へ放り投げた。針はうまい具合に空中で外れ、釣り上げたカツオだけが布の上に落ちた。そのままカツオは布の上を滑り落ちて下で待ち構えるベルトコンベヤーに載って運ばれていく。
 天子はすぐに第二投目へ。妹紅もそれに続こうとするが針がうまく外れなかったようで、後ろで暴れるカツオと格闘している。
 それを横目で見ながら天子は二匹目も問題なく釣り上げる。全身をバネのように使い、無駄な力は加えない。村紗から教えて貰った一本釣りの動作を完璧にこなす。
 針外しに手こずる妹紅に対して、三匹目、四匹目と次々釣り上げる天子はその差を確実に広げていく。
 しかし油断はしない。ひとつの油断が命取りになる。何が起きるかはわからないのが釣りだ。少しでも気を緩ませると自分もミスをするかもしれない。空中での針外しは特に細心の注意が必要だ。一回でもミスをすると大幅なタイムロスとなる。油断はしない。一投一投を確実に、集中して釣り上げる。

 その時の天子の集中力には目を見張る物があった。村紗はその様子を操縦室から見守っていた。妹紅は少々苦戦しているようだが、それは仕方がない。初めては誰だってそんなものだ。それでも初めてにしてはセンスが良い方で、段々と針を外すのもうまくなっている。最初と比べたらかなり動きはスムーズになっている。しかし、天子はどうだ。
 天性の才能としか思えない。その動きにほとんど無駄は感じられない。機械のような正確さで次から次へと釣りまくる。熟練の漁師を思わせる動きだ。普通の人間ならこの域に達するのに一体どれくらいの年月が必要だろう。それにだ。何度も何度も同じ動作を繰り返せば必ず疲労も出るし、集中も切れる。だというのに、天子にはその兆候がまるで見えない。ただ目の前のカツオを釣ることだけを考え、ひたすらに身体を動かし続けている。天子の才能に、可能性に、村紗はぶるりと身体が震えた。

 はるか向こうの地平線。わずかに太陽が顔を見せる。空が赤く燃える。
 妹紅は歯を噛み締める。心の中で舌打ちをする。予想外の天子の釣りっぷり。そして予想外の自分自身のミス。完全に先を行かれている。気持ちが焦る。しかし、妹紅もこれまで伊達に修羅場を抜けてきたわけではない。この程度で修正が利かなくなりはしない。出だしのミスはミスと受け入れ、とにかくこれからのミスを減らすことのみを考える。カツオを釣り上げる動作の一つひとつを見直す。良い点はそのままに悪い点だけを見つけ、改善する。見る見るうちに一匹一匹を釣る速度を上げていく。

 五十センチほどの巨体がベルトコンベヤーの上でビチビチと跳ね回りながら、流れていく。次から次へと流れていくカツオだけを見れば、まさか釣り上げているのが二人だけだとは思わないだろう。
 何匹釣っただろうかと天子は思う。最初の方は数えていたが、途中から面倒になってやめた。妹紅は何匹釣ったのだろう。始めの頃は苦戦していたようだったが、今ではすっかり慣れたようで天子とほぼ同じペースで釣り続けている。とりあえず最初のアドバンテージがある分、釣り上げた数では自分が勝っているはずだった。ならばこのまま同じペースで釣り続ければ負けることはない。重さ十キロは超えるだろうかという大ぶりのカツオを釣り上げながら、そんな事を考える。
 銀色の魚体が二人の頭上を舞う。天子が釣れば妹紅が釣る。常に船の上にはカツオが舞っているような状態。白い布がカツオの血で汚れていく。

 今までかなりのペースで釣り続けて来た天子だったが、少し動きが鈍くなったように思う。若干、妹紅の方がここに来て速度で勝っているように見える。
 さすがに疲れたか。村紗は天子を見つめる視線をすっと細める。しかし、何か違う。疲れているのは妹紅も同じだろう。他に何か原因があるのではないだろうか。村紗はじっと天子の様子を窺う。ほんのわずかな異変。村紗でなければ見逃してしまっていただろう。些細な変化に気付く。天子は何かを気にしているような素振りを見せている。それが天子の集中力を削いでいる。一体何だ。考える。
 二人の頭上を舞うカツオ達を見て、ピンと来る。村紗はスピーカーのマイクをひっつかむ。

『カツオは一度釣り上げちまえば、しばらくの間は空を泳ぐことはできない! 船の上から逃げたりしないからガンガン釣り上げろ!』

 カツオ漁にはいくつかの種類がある。一度に大量のカツオを捕獲できる巻き網漁が近年では主流になってきているが、それでも一本釣りを選択する漁師は少なくない。それは巻き網漁と比べて魚体に傷がつきにくいというのもあるが、一番の理由はカツオは釣り上げてしまえばしばらくの間は空を泳げなくなるからだ。釣り上げてしまえばこっちのもの、というわけである。
 天子は村紗の方へ一瞬視線を寄こした。それからまた元のペースで村紗の言葉通りガンガン釣り上げ始める。
 空恐ろしいと村紗は思う。この状況でそんな事を気にする余裕があるとは。帽子を脱いで髪をかき上げる。もしかしたら自分はとんでもない才能を見いだしてしまったのかもしれない。期待すると同時に、少しだけ、そんな天子に対して嫉妬している自分に気付いて、村紗はため息を吐いた。


 二時間が経った。薄暗かった空もすでに明るい。
 天子は竿を放り出して床に座り込んだ。全身がぐったりと疲れている。竿を振り続けた腕は小刻みに震えている。いつもならリンゴくらい簡単に握り潰せるほどの握力は持っているが、今はもう豆腐ですら潰せる気がしない。
 首を動かし周りを見る。近くで妹紅が大の字で倒れている。その隣で途中から一本釣りに加わってきた村紗がぐったりとしている。
 天子は空を見上げる。良く晴れた、綺麗な空だった。
 ついにやってのけた。彼女たちは釣り上げ尽くした。あの巨大な群れを。
 誰も喋らない。誰も喋れない。
 ただ、みんな同じ気持ちだった。
 最高に気分が良い。
 真っ白だった布もカツオの血で赤く汚れている。三人はほぼ中央で釣りをしていたため、汚れが目立つのも真ん中に集中している。少し歪ではあるが、遠くから眺めれば日の丸に見えなくもない。それが本物の日に照らされて輝いていた。
 しばらくして村紗が立ち上がった。

「いやあ、良くやってくれたよ二人とも。すごいよ、かなり大きな群れだったのに釣り尽くしちゃった!」

 興奮が伝わってくる。どれくらいすごい事なのかはわからないが、村紗の様子を見るになかなかの事のようだ。

「本来ならまた違う群れを探しに行くんだけど、今ので結構な量が捕れたからここは一度里の方へ戻ろうかと思う。二人もかなり疲れてるみたいだし、そっちの方が良いと思う」

 天子としても異論はない。いま新たに魚群を見つけたとしても何もできはしないだろう。とにかくゆっくりと体を休めたかった。妹紅も同じ気持ちだろう。
 異議無し、と二人がそろえて口にする。

「そう言えば、この釣り上げたカツオはどこに持っていくの? 魚屋さん?」
「違う違う。漁船が帰ると言ったら漁港でしょう。港だよ、港」
「ふ~ん。あるんだ、港」

 村紗が頷いて、操縦室へと向かおうとした、その時だった。

 ピ~~~ザザザ~~~~!

 スピーカーから大音量の耳障りなノイズが響き渡る。
 うるさいよ村紗、と天子は文句を言おうと思ったが、よくよく考えれば村紗はここにいてマイクはいじっていない。それに良く聞いてみれば音が発生しているのはこの船に備え付けられているスピーカーからではない。
 じゃあ、一体どこから? そんな疑問はすぐに解決する。
 近くを通っていた雲の中から、船が突然現れた。
 天子達が乗っている漁船よりも一回りでかい。その見た目から同業者ではないと一目でわかる。どこからどう見ても戦艦だった。おまけに改造したと思われる跡が荒々しくあちこちに残っていて、無理やり備え付けたような砲台やら機関銃やらが色々な方向に向かって伸びていた。
 甲板にいくつかの人影が見える。

『ピーーー!! うるさ! ……あ~、あ~、マイクテストマイクテスト……オーケー? おう、そこの漁船よ!』

 やたらとハスキーな女の声。
 まさか、と村紗が船の縁に手をついて向こうに浮かぶ船を見据える。天子と妹紅も起き上がり、併走しながらこちらへゆっくりと近づいてくる船に視線を送る。

『あっぱれだねえ。見事なカツオ漁だった。実に見応えがあったよ。それでだ、ちょっと提案なんだが、あんたらが釣ったカツオ。私たちに分けてくれないかね? こっちの見てくれでわかるかもしれないけど、私達はカタギじゃない。怪我をしたくなかったら大人しく渡しな。なに全部を取ろうってわけじゃない。あんたらにも生活があるだろう。そうだな、七割ってとこでどうかしら?」

 甲板の上。いくつかある人影。その中に堂々とした出で立ちの女がいる。こいつがボスだ、と一目でわかった。つばの広い帽子をかぶり、黒いロングコートを羽織っている。その下はなぜか水着だ。足にはロングブーツ。やたらとエロい組み合わせ。おまけにおっぱいがでかい。
 三人の反応はそれぞれだった。面倒な事になったぞ、と村紗。何か変なのが来たな、と妹紅。おっぱいでか! と天子。
 しかし三人とも考えは同じだった。
 ――あんな奴らに苦労して釣ったカツオはやれるか。
 三人は猛然と操縦席へ駆け込む。最初に乗り込んだ天子がスピーカーのマイクを手に取る。そして息を大きく吸い込むと、

『ばっっっっっっっっっっっっっかじゃないの!? あんたらなんかにやれるカツオなんてないわ。どうぞお引き取り下さい。というか、あんたのおっぱいを寄こせ!』

 いよ、よく言った天子、と村紗。何言ってんだお前、と妹紅。

『そうかい。残念だ。交渉決裂ってわけね。なら容赦しないよ』
『望むところよ。言っておくけどね、こっちだってただでやられるつもりはないわよ』
『ほう、面白い。……そうだ、まだ名乗ってなかったわね。私はメアリー。女海賊メアリーよ』
『海賊ぅ? ここは空じゃない。空賊って名乗りなさいよ!』
『ふ……。馬鹿だねえ。いいかい、海ってのはねぇ、いつでも心の中にあるもんなんだよ!』

 何言ってんだあいつ馬鹿か、と妹紅。それにしてもおっぱいでかいな、と天子。そうか、そうだったのか……、と村紗。
 向こうが名乗り上げたからにはこちらも応えなければならない。なんと応えるか少し逡巡する。天人の天子? それとも絶世の美少女天子? 納得のいくのが思いつかないので仕方なく適当に答える。

『私は天子。女漁師の天子よ!』
『そうかい女漁師の天子。覚悟しな。力ずくで奪いに行くよ!』

 海賊船が大きく旋回してこちらに向かって突進してくる。船の大きさからしても、装備からしても明らかに向こうの方が有利だ。勇ましく啖呵を切ったは良いが、さてどうしたものか。

「さってちょっと面倒なことになったね。あれは最近ここら一帯を荒らしてる荒くれ者どもだ。まさかさっそく見つかるとは」
「キャプテンどうするの? こっちから乗り込んで全員倒す?」

 天子が言うと妹紅が横から口を挟んでくる。

「さてどうかな。確かに負けはしないだろうがこの船を守らなければ意味がない。向こうがやけくそになって捨て身になったらどうしようもない」
「そうだね。……まあ、ここはこのキャプテン村紗に任せておきなさい!」

 そこで操縦室の窓ガラスが弾け飛んだ。機関銃の弾が横薙ぎに飛んできたのだ。三人は身をかがめて身を守る。窓ガラスの破片が降り注いでくる。機関銃が弾を発射してくる音は鳴りやまない。弾はこの船のどこかに当たっているのか鈍い音が響いている。
 ――銃で打たれても死なない方ってこういう意味だったのか!
 今になって理由を知る天子だった。

「村……キャプテン、本当に大丈夫なの?」

 妹紅が不安げな声を出す。

「この船はそう簡単に落ちはしないよ。なにせこのキャプテン村紗ご自慢の漁船……」

 なんだから、と言い終わる前に船全体に凄まじい衝撃が加わる。天子は危うく破壊された窓から飛び出るところだった。妹紅は頭を壁に打ち付けたのか、頭を押さえて痛がっている。
 砲撃されたのだ。大砲の一発が船体に直撃。船の後方部分からわずかにだが黒い煙が上がっている。
 天子は焦る。

「ちょ、ちょっとさすがにまずいんじゃないの!?」
「砲撃を一発や二発くらったくらいで沈む船じゃない! 問題ない!」

 さらに衝撃。船全体が振動する。今度は天子が顔面を壁に思いっきりぶつける。村紗も床にすっころぶ。
 妹紅が声を上げる。

「一発や二発問題なくても、さすがにくらいまくってたら問題あるでしょ! それにもし仮に船が平気でも、私たちが平気じゃない!」
「確かにそうかも」

 床に落ちた帽子を被りなおしながら村紗が言う。
 海賊船はこの船のすぐ後方に陣取ったようだ。砲撃は止んだが、何か別の手段を講じてくる気かもしれない。早いところ手を打たないとまずいというのは天子にもわかった。

「やっぱり私と妹紅で向こうの船に乗り込んで、あいつらをぶっ飛ばした方が良いんじゃない!?」
「賛成」

 しかし村紗は首を横に振る。

「いいや、その必要はない。向こうが良い具合に後ろに来てくれた。これはチャンス! キャプテン村紗の真の実力を見せてやる! 二人ともどこかにつかまってて!」

 あまり良い予感はしない。天子はとりあえず言われたとおりその辺にしがみつく。
 村紗は操縦パネルの上に散らばったガラスの破片を手で払いのけると、いくつかのボタンを押す。壁からつきだしたレバーをオンからオフに切り替える。

「奴ら何かしてくる気みたいだ!」

 後方の様子を確認していた妹紅が叫ぶ。
 その時、海賊船の船首が鈍い音を立てながら左右に開いた。そこから出てきたのは、一本の巨大な槍のようなもの。それがどでかい大砲の筒に収まっている。どう見てもこれから飛ばしてくる気満々だった。

『最終警告だよ。大人しくカツオを寄こすんだ。そうすればこの特製の槍を船に突き立てられずに済む。これは一度狙った場所に刺さると「かえし」が出るようになってる。「かえし」はこっちが操作するまでは引っ込まないから、槍が外れる事はない。そして後は槍に繋がってるワイヤーで引き寄せちまえば、逃げることは不可能。さあ、選びな。今からこいつを食らいたいか、大人しく私たちの言う通りにするか』

 まずいと思う。あんなもの装備してるなんて聞いていない。降伏するなんて考えはなかったが、かなり追い込まれた状況だ。

『俺たちの姉さんは、今年で二十七歳。婚期は逃しても狙った獲物は逃がさない! 大人しく勘弁しやが……うるさいよ! 誰が婚期を逃したって!? 余計なお世話だよ! ……それで、女漁師の天子。どうするんだい。あと十秒待つ。それまでに返答しない場合はわかってるね?』

 十、九、と数える声が後ろから響いてくる。
 天子は村紗を見る。村紗は動かない。左手をハンドルに、右手を横にあるレバーに乗せている。
 五、四、三、と数が減っていく。どうする。どうすればいい。天子は拳を握りしめる。その横で妹紅が舌打ちをする。村紗は動かない。
 女海賊メアリーが二を数えて、一に行くか行かないか、その時になってようやく村紗が動いた。右手のレバーを最大出力まで押し上げると、両手でハンドルを握る。
 そして、それを豪快に回転させた。
 船が横に傾いた。と思ったらそのまま船は逆さまの状態になる。いきなり天地がひっくり返って驚きながらも天子と妹紅は何とか振り落とされないようにしがみつく。その勢いのまま横に一回転して元の状態に戻ると、今度は縦回転へ移行。Gがかかり後方の壁に体が押しつけられる。もはやジェットコースターだ。何がどうなっているのか二人にはまったく把握ができない。洗濯機の中に放り込まれたらこんな感じだろう。村紗だけが楽しそうな顔をして、何事もないかのように船を操縦している。
 海賊船に乗っていた船員はさぞ驚いただろう。目の前にいた漁船がいきなりバレルロールからの宙返りを見せたのだから。
 宙返りが終わると漁船は海賊船の後ろにぴったりとくっついていた。戦闘機並みの機動力だった。

『ね、姉さんまずい! 漁船を見失った!』

 海賊船のスピーカーからそんな悲鳴が届いてくる。
 後ろを取ってしまえばやることはひとつだった。
 ――漁師の遊び心。
 村紗の指がそのスイッチに近づく。その時の彼女の顔は、漁船の船長なんてもんじゃなかった。自分の船を傷つけられて怒らないはずがない。相当頭にきている。
 海賊よりも海賊らしい顔を浮かべて村紗はスイッチを押した。
 二発のミサイルが船首から発射される。近距離から発射されたそれらをよける術は海賊船にはなかった。
 直撃。光が弾ける。遅れて衝撃波が届く。こっちにまでやって来そうなほど炎が膨れあがる。視界がオレンジ色で染め上げられ前の様子がどうなっているのかまったく見えない。
 炎が収まると、そこにあったのは船体に大穴が空いた海賊船。見るも無惨な姿だ。火がついているのか黒々とした煙がこちらにまで届く。

『うわあああああ、姉さーん、やられたぁあ! ぎゃああ死ぬぅう。姉さんの事が好きでした! うるさいよ! 落ち着きな! 船員は被害状況の確認を急げ。あとけが人の有無も! 早くしろ!』

 子分どもと女海賊メアリーのやり取りを最後に、その海賊船は高度を落としていった。雲に隠れてその後どうなったのかはわからないが、どうでもいいことだ。撃退に成功しカツオは無事守れたのだから。それしても急に現れたと思ったら急に消えていった。嵐のような奴らだ、と天子は思う。

「なっはっはっは! 見たか! このキャプテン村紗の実力を!」

 テンションが異様に高い村紗とは裏腹に、天子と妹紅は床にぐったりとうずくまる。

「あれ、どうしたの二人とも?」
「ねえ村紗。確かにすごかったよ。あんたの実力は十分にわかった。だからね」

 天子はため息を吐きながら、

「お願いだからさっきのはもう二度とやらないで」




 人里の外れ。大きな川が流れている。その川のほとりに、港はある。
 船は無事に着港した。船底が水面に触れて大きな水しぶきを上げた。
 天子は船から降りる。久しぶりの陸地だった。何だかほっとする。
 天子はぐったりと疲れ切っていた。今日は色々とあり過ぎた。思い出すのも面倒になる。

「おお、村紗ちゃんじゃねえか。お前さんがここに来たって事は、何か釣ってきたのかい?」

 出迎えてきたのは筋骨隆々の男。大体三十代前半といった所か。日に焼けた顔は精悍で、男らしさがある。

「どうも善一郎さん。なかなか良いもん釣れたわよ。今から降ろすから手伝って」
「あいよ! そいつぁ楽しみだ。おい、お前ら! 仕事だ!」

 善一郎と呼ばれた男が声を上げると、奥からぞろぞろと人が出てくる。今までのほほんとしていた空気が、その一声で急に慌ただしくなった。

「ねえ村紗、何か手伝うことある?」
「ん~、そうね。特にないかな。天子も妹紅も疲れてるでしょ。休憩してていいよ。明日にはどうせまた出航するから、少しでも英気を養っておいて」
「そう。それなら休ませてもらうわ。すごく眠いし」

 妹紅が欠伸をしながら言う。

「おう、お嬢ちゃん方。休むならここの仮眠室を使いな。男の汗の臭いが染みついた布団が嫌だってんなら無理だが」
「ありがたく使わせて貰うわ」

 天子が応えると、善一郎は良く通る声で叫ぶ。

「おい、そこのお前、このお嬢ちゃん達を仮眠室へ案内してやんな」

 まだ若い男が慌ててこちらにやって来る。
 自分たちが釣ったカツオがどのようにして陸揚げされるのか興味はあったが、さすがに気力を使い果たした天子にはとにかく睡眠が必要だった。
 仮眠室に案内された二人はすぐに布団の上に横になった。
 天子はこの三日間の事を振り返る。怖ろしいほど大変だった。身も心も疲れ果てた。それだけ濃密な時間を過ごしたとも言える。船の上での生活は、新鮮でこれはこれで悪くないと思える。初日の船酔いを除けば、だが。実際あれでかなり消耗した。
 そもそもなんで自分は漁師になんかなったのだろうか。
 思い出す。子供達のために空き地を一千万で買い取る事になった。空き地に行く前に、勘太郎に出会ったのだ。一緒にサッカーをやろうと誘われた。それがきっかけ。その前、何で自分は里を歩いていたのか。さらに思い出す。家を飛び出してきたのだった。父親に失望して、おまけに「大嫌い」とまで言い放って。
 今になって少し後悔する。何もそこまで言わなくても良かったかもしれない。
 いや、そんなことはないと天子は思い直す。
 自分は格好良い父親の姿が好きなのだ。あんなに腑抜けた父は見たくもないし、はっきり言って嫌いだ。
 枕の位置を調整する。微かにかび臭いにおいが鼻をつく。気にはならない。
 とにかく寝たかった。もう頭を働かすのは面倒だった。
 天子は目を閉じると、あっという間に深い眠りに落ちた。




 天子は父に色々な事を教わった。
 子供の頃――その頃はまだ地子という名前だったが――小さい子にありがちな親への質問攻めを天子も良くしていた。気になったことはすぐに質問となって口から飛び出した。天子の素朴な疑問に父は嫌な顔ひとつ見せずに、丁寧に答えた。天子が訊いたことはどんなことでも答えてくれた。何でも知っている父はすごいのだと子供の時の天子は思った。実際、天子の父はかなり優秀で、名居家からも一目置かれていたがその時の天子は知らない。ただとにかく父は頭が良くて、優しくて、そして大好きだった。
 そんな父と良く近所の空き地で遊んだ。
 天子は活発な性格で、おままごとよりは身体を動かして遊ぶことを好んだ。父と良くボールを投げ合ったりしたし、追いかけっこをしたりもした。
 空き地には近所の子供達も多く集まっていた。それぞれが好き勝手に遊んでいた。
 いつだったか、父がそんな空き地で遊ぶ子供達を眺めながら、天子に語りかけた。
 父がなんと天子に語ったのか、天子は覚えていない。
 夕方だったと思う。
 真っ赤な夕日に照らされた父の横顔は印象に残っている。その顔はとても真面目で、そしてとても優しげで、静かに語る父の姿に子供の時の天子は、自分もいつかこうなりたい、自分も将来父の言うようなことをしたい、と思ったのだ。何か強く感じ入る事があったのは覚えている。
 父が一体あの時何を話したのか、ほとんど覚えていないが、話を終えた父が最後に天子を見下ろしながら言った一言だけは、しっかりと記憶に残っている。

「パパの一番の宝物は、おまえだよ」




 天子が起きた時にはすっかり空は暗くなっていた。妹紅はすでにいなくなっている。
 懐かしい夢を見た。子供の頃を思い出す夢。目が覚めると、夢の内容が砂時計の砂のように頭からこぼれ落ちていく。さっきまでしっかりと覚えていたはずなのにどんな夢だったのか、ぼんやりとしか頭に残っていない。
 ひどく懐かしい気持ちになる。
 だからだろうか。子供の時、父と遊んだ記憶が蘇ってきた。しかし、ピントの合わない写真のようにひどくぼやけた思い出だった。

 ――あの空き地で、パパは私に何を言ったんだっけ?

 少し考えたが、思い出せそうにはなかった。
 身体を起こして伸びをする。
 仮眠室のドアを開け、外へ出る。
 夜風が心地良い。鈴虫の鳴き声と川岸に打ち寄せる波の音が聞こえる。
 たき火の周りに人が集まっていた。天子はそちらへ足を向ける。

「がははは。あの噂の海賊をやっつけたのか。そいつはすげえなあ」

 豪快な笑い声が聞こえる。善一郎だ。その隣に村紗がいて、たき火をぐるっと囲むように人の輪ができている。天子が近づくと、善一郎が気付いた。

「おう、お嬢ちゃん。起きたか。ほら、こっち座んなよ」

 手招きされて、天子は善一郎の隣に座る。

「腹減ってるだろ。おい! お嬢ちゃんの飯持ってこい!」

 彼が叫ぶとすぐに天子の前に飯が運ばれてくる。どんぶりの中にはご飯とカツオのタタキ。醤油を少しと、刻んだネギにおろし生姜。
 腹が鳴った。そう言えば、今日は何も食べていない。急に空腹を意識する。

「今日お嬢ちゃんらが釣ったカツオだ。良いカツオだよ。何より新鮮だ、うまいぜ」

 天子はいただきますを言うのも忘れてカツオ丼をがっつく。口の中に入れられるだけ入れて、咀嚼する。カツオは脂がのっていて、とろけるようなうまさがあった。ネギとショウガの薬味が良いアクセントになっている。これならいくらでも食べられる気がする。口の中にあった物を飲み込み、次を掻き入れる。
 天子の豪快な食べっぷりに、周りにいた人たちは笑顔を見せた。

「良い食べっぷりだねえ。気に入った! おかわりはいくらでもあるから、好きなだけ食いな!」

 結局天子は三回もおかわりをした。四杯のどんぶりを腹の中に収めたのである。四杯目を食い終わった時には、拍手すら起きた。女の子のがこんなに食うところなんて見たことがないと口をそろえて驚いていた。
 その後、酒が運ばれてきて、たき火を囲みながらみんなで酒盛りをした。

「いや~~、話は聞いたよ。お嬢ちゃんものすごい釣りっぷりだったらしいね。村紗ちゃんが言ってたよ。そりゃあもう目を見張る物があるってね。いやあ、見たかったなあ」

 善一郎の言葉に周りにいた人たちも同じようにして頷く。そんなお嬢ちゃんに乾杯! と善一郎が言い、それぞれが手にしていた酒を一気にあおる。くぅ~~~、と声が上がる。

「そうなの? 自分ではよくわからないわ。あの時はとにかく必死で何も考えられなかった。とにかくたくさん釣らなきゃって思って」
「本当にすげえ漁師ってのは、漁をしてる最中は余計なことは考えないもんさ。いかにして魚を捕るか。それだけを考える。そう言う意味で、お嬢ちゃんは確かに才能があるのかもしれないな」

 天子の座る場所の反対側から、お嬢ちゃんの才能に乾杯! と声が上がる。またそれぞれが手にしていた酒をあおる。あ~~、効くぜ~、とあちこちから声がする。
 何だかくすぐったい。天子はあまり人から褒められることに慣れていない。恥ずかしさをごまかすように天子も酒をぐいとあおる。

「しかし嬉しいねえ。若い子がこうして漁に出てくれるってのはな。しかも女の子ときた。ここは男ばっかりのむさい場所だから、一人でもいてくれたら一気に華やかになるな」

 今は二人いるがな、両手に花だ、がはは、と彼は笑った。それからたき火を見つめる。急にその顔から笑顔が消え、目元に寂しげな影を浮かべた。善一郎は深く息を吐く。

「最近はめっきり漁業も人手不足だよ。今の若い奴らは漁師になんかなりたくないって奴ばっかりだ。残念だよ。船なんか乗りたくねえ、ってわけだ」
「そうなの?」

 天子が尋ねる。彼は静かに頷いた。

「俺がガキの頃なんか、木材をかき集めて来てよく船を作ったもんさ。それを川に浮かべて一番長く下った奴が勝ちってな。俺はそれで良く勝ったもんさ。お前の船はすげえな、それなら三途の川でも渡れるんじゃねえか、って友人におだてられて、一度試したことがあるが三秒と持ちはしなかった。危うく向こう岸に行って帰って来られなくなるところだったよ。そんときは死神の姉ちゃんに助けて貰って何とかなったけどな」

 がはは、と善一郎は豪快に笑った。ちなみにその時の死神の姉ちゃんが俺の初恋さ、もちろん叶わなかったけどながはは、と。
 善一郎は皆から慕われているようだった。彼が笑うと周りにいる人もつられて笑う。聞いていて気持ちの良い笑いだ。俺は笑いたいから笑うんだ。まさにそんな感じがする。

「ここにいる人たちは、みんな漁師なの?」
「ああ、そうだぜ。みんな漁師で、みんな仲間さ。今日からお嬢ちゃんもそうだな。俺たちの仲間入りだ」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、私は期間限定よ。お金を稼ぐために一時的に漁師になってるだけ」
「お嬢ちゃん、お金が必要なのかい?」

 一千万ね。そう答えると、どよめきが起きる。

「そいつは大変だな。事情は知らねえが、とにかくお嬢ちゃんの願いが叶うことを祈ってるよ」
「ありがとう」

 すると善一郎が顔を近づけてきて、真面目な顔で言う。

「お嬢ちゃん、覚えておきな。俺たち漁師はな、一度でも酒を交わした相手は仲間なんだよ。一度でも漁に出て、一度でも一緒に酒を酌み交わしたら同士だ。お嬢ちゃんの漁に一緒に行けはしないが、心からお嬢ちゃんの漁がうまく行けば良いと願ってる。漁ってのはたまに孤独を感じる。なんでこんなことしてるんだってな。そう思う時があるんだ。でもな、もしそうなったら、思い出せ。俺たちがいるってことをな。例え一緒にいなくとも、絆で繋がってるんだよ。それだけは覚えておいてくれ」

 そこで村紗がすっと盃を掲げた。

「私たちの絆に!」

 善一郎も同じように盃を掲げる。

「俺たちの絆に!」

 たき火を囲っていた他の漁師達も盃を掲げる。そして天子も同じように持っていた盃を掲げる。

「乾杯!」

 全員で一緒に酒をあおる。
 この時確かに、ここにいる全員が仲間で、同士だった。その輪に今自分も入っている。今まで感じたことのないような、それでいてどこか懐かしいような、とても不思議な感覚だった。
 善一郎は酒を飲み終えると、ぷはー、とおどけた口調で息を吐いた。

「いけねえ。いけねえ。なんかしんみりしちまった。俺も年を取ったなあ」

 まったくだ、いい加減に嫁さんを貰いなよ。誰かがそう口に出した。

「本当だぜ。俺もさすがに嫁さんが欲しい。そうだ、お嬢ちゃんどうだい? 俺の嫁さんにならないか?」
「残念だけど、私に見合う男はそうそういやしないわ」

 天子がそう答えると、ちげーねえ、とその日一番のがはは笑いを見せた。


 酒盛りは大いに盛り上がった。
 善一郎を始め、その他の漁師も皆、実に気の良い人達だった。
 とにかく酒が進んだ。
 天人の身体はアルコールに対する耐性も高い。そう簡単に酔いつぶれたりはしない。無謀にも飲みくらべ勝負を挑んできた漁師の一人を返り討ちにしてやると、みんな口々に天子の事を褒め称えた。
 こんなに楽しく酒を飲んだのも久しぶりだった。天界に住んでいると、なかなかこうした交流がない。天人による宴会は行われるが、そもそも天子はその場に呼ばれる事はない。何よりも格を気にする天人が、格もクソもない天子を仲間と認めはしない。
 だからだろうか。ついさっき顔を合わせたばかりの自分を、こうして仲間と認めてくれたことが、ものすごく嬉しかった。そしてどうしようもなく楽しかった。
 漁師が顔を合わせると、自分が釣った魚の自慢話を始めるらしい。みんな天子に話をしたがった。
 フィッシュストーリーという言葉がある。これはホラ話という意味だ。自分の釣った魚の事を人に話す時、実際よりも大げさに言うことからそのような意味合いになったらしい。さらにロシアにはこんなことわざもある。
『釣りの話をするときは両手を縛っておけ』
 まったくその通りの光景が、天子の目の前で繰り広げられた。
 誰か一人が自分の釣った魚がとんでもなくでかかったと自慢すると、それに乗っかるように今度は違う人が俺はそれよりもでかいのを釣ったぞと言い出す。それが次から次へと繰り返されるものだから、いつの間にか釣り上げた魚の大きさは船を超えた。
 笑える。誰が聞いたって嘘だとわかるのに、見栄を張らずにはいられない彼らのことが良い意味で可笑しくてしょうがなかった。
 それに天子にもそんな経験があった。子供の頃、今日起こった出来事を父親に話をする時、実際よりもずっと誇張して伝えた。父に語った話の中での天子は、かけっこでは誰にも一度として負けたことがないし、しりとりは三万回以上続いた事があるし、世界の危機を少なくとも五回は救った。
 誰だって見栄を張りたくなる時はあるのである。
 しばらく続いた魚のサイズ自慢が終わる頃にはみんなべろんべろんになっていたし、天子もすっかり酔っぱらっていた。
 身体が火照った。上半身が勝手に動く。
 別にこのまま飲み続けても良かったが、少し酔いを覚まそうかと思った。
 夜風に当たってくると言って席を立ち、適当に港をぶらぶらと歩くことにした。
 お腹もいっぱいだし、酒が入って気分が高揚してるし、何よりみんなと話をしたり笑い合ったりして、もうこれ以上は入らないってくらい心が満たされた気がする。とにかく気分が良かった。鼻歌でも歌いながらスキップしたいくらいだった。
 さすがにそんな事はしなかったが、足の赴くままに歩く。
 頬が熱い。血液が体中を巡っているのがわかる。こんなに酔っぱらったのも久しぶりだった。
 川縁ということで、風はそれなりに吹いていた。酔いを覚ますにはちょうど良かった。水の流れる音も心地良くて落ち着いた。
 ふらふらしていると、たき火が見えた。元の場所に戻ってきてしまったかと思った天子だったが、近づいてみると違うとわかった。
 妹紅が一人、たき火を前に酒を飲んでいる。浮かれない顔で。
 どうしようか迷った天子だったが、結局話しかけることにした。酒が入っていて酔っていたというのもある。気にくわない奴だけど、一人で寂しそうだし仕方ないからこの天子さんが相手してやろうと思った。

「な~~~にしみったれた顔してるのよ」
「そんな顔してたかしら」
「してたしてた。これ見よがしにしてた。こ~んな感じに」

 眉間に思いっきりしわを作って、どさりと地べたに座り込む。
 妹紅は何も言わずにため息を吐いた。

「何よ。どうかしたの?」
「いや、温かいな、と思ってさ」
「たき火が?」
「この場所が、ってこと。港にいる人たちとか、ね。私は独りでいることが多いから、余計にそう感じるのかもしれない」
「コミュニケーション不足ね。非常にまずい傾向だわ」

 妹紅は軽く笑った。

「そうね。いつからかそうなってた。自分から人を避けるようになってた」
「そのくせに、人との繋がりを捨てきれないんでしょう」
「やっぱりわかる? まったくその通り」
「わかるわよ。臭うもの。中途半端な位置にいる奴の臭い」

 妹紅はまた笑った。今度は少し自嘲的な笑いだった。盃をぐいとあおり、

「でもそう、そろそろ人との交流を避けるのも終わりにするべきなのかもしれない。自分の立ち位置をはっきりとさせるのも悪くない」

 たき火を見つめる妹紅の目。何か決心したように、じっと舞い上がる火の粉を見つめている。
 急に妹紅の顔つきが変わり、天子は少し動揺した。

「え、本当にどうしたのよ? いつ見たって話しかけるなオーラ全開だったあんたが、急にそんなこと言い出すなんて」
「前からずっと考えてた。と言うよりも、正確には考えさせられていたというべきだけど。……私にはお節介な友人がいてね。何を思ったのか私みたいな変わり者をいつも気にしてくれてるんだよ。ちょくちょく家にも遊びに来てくれて、おう、妹紅、一緒に酒でもどうだ? なんて。美人でスタイルも良いんだから、私の事は放っておいて男でも作りなよって言うとすごい怒るんだ。私でも手が付けられないほどにね。まったく参るよ」

 妹紅の話からその友人が誰だか天子にも予想が付いた。あの特徴的な帽子を被った人だろう。確かにスタイルが良かった。グラマラスだったな、と思う。

「良い友人じゃない」
「そうだ。私にはもったいないくらいだと思う。それで、そいつが言ってくるんだよ、そろそろ里で暮らさないか、ってね。私は今までずっと独りで生きてきたし、今更大勢の中に入って生活をするなんて想像できない。だから、ずっとその誘いは断ってたんだ。
 でもね、このままじゃダメなんじゃないかなって思う自分もいるんだ。変わらなきゃいけないのかもしれないって。里で暮らすのも悪くないのかもしれないってね」

 里で生活するためにはお金がいる。妹紅は今までサバイバルまがいな生活を送っていたから無一文だった。もしかしたらお金がない事を理由に里で暮らすことから逃げているのではないか。自分で自分の逃げ道を作っているのではないか。彼女はそう思い、それならお金を稼いでから後の事は考えようと思い立った。それで漁船に乗ることに決めたらしい。

「でも私もそろそろ決心する時が来たように思う。今日こうして港の人たちと交流を持ってはっきりしたよ。私はやっぱり繋がりが欲しいんだな、って。この漁が終わったら、里で暮らしてみる事にする。正直不安でいっぱいだけど、とにかくそうしてみようと思う」

 妹紅は今までの中途半端な立ち位置から、一歩前へ進むことを決めたのだ。今までの慣れ親しんだ生活を捨て、まったく新しい真っ白な生活を選ぶことにしたのだ。
 今までの自分を捨て去るのは難しいことだ。新しい自分になる事を決意した彼女の心境は天子にはわからなかったが、その決意に至るまでに相当な労力が必要だった事はわかる。
 天子の中にあった好き嫌いメーターが揺れた。大きく嫌いに偏っていた矢印が好き方向へ向けて動いて、好きと嫌いの中間くらいで止まった。
 応援してやりたくなった。
 さっきまで妹紅の事は気にくわないと思っていた。それが、自分を変えようとしている妹紅の姿を見て、天子の心にも変化が生じた。

「でさ、お金をいっぱい稼いだら、そのお節介な友人を連れて、ちょっと旅行にでも行こうかと思うんだ。豪華な宿を取って、でっかい温泉に入って、美味しい料理を食べて。それで……、そいつに言ってやるんだ。里で暮らすことに決めたよ、って。でも自分一人じゃ不安だから、その……。もし良かったら…………、一緒に暮らさないか、みたいな」

 そこまで言うと妹紅は恥ずかしそうにうつむいて、頭をかきむしる。

「はあ~~~、まったく。悪いわね、つまらない話を聞かせて。でも天子が聞いてくれたおかげで少しすっきりしたよ」

 そういえば自分の名前を妹紅が口にしたのは初めてのように思える。
 酒が入って感情が高ぶりやすくなっていた。自然と天子は妹紅に感情移入していた。
 天子は妹紅に近づくとその肩を手でしっかりとつかんで、

「全然つまらなくなんかないわ。妹紅、あんた頑張りなさいよ! その友人にがつんと言ってやりなさい! 『これから毎日味噌汁を作ってくれ』ってね! 当然、指輪もその時に渡すのよ!」
「ゆ、指輪ぁ~!?」

 妹紅が素っ頓狂な声を上げる。当然でしょうと天子は頷く。

「い、いや、そう言う意味じゃなくてね」
「じゃあどういう意味なのよ?」
「え~と、だからね……」

 妹紅が釈明をしようとするが、今の天子は馬の耳になっていたから聞き入れない。妹紅が必死になって誤解を解こうとしても、まったく素直じゃないんだからそういう態度を取ると彼女に嫌われるわよみたいな事を言って受け流す。
 そんな風に妹紅と天子が言い合っている所に、今度は村紗が乱入してくる。

「あれ~~、お二人さんいつの間に仲良くなったの~?」
「うわ、酒くさ! あんたどんだけ飲んだのよ」

 天子に向かって抱きつくように寄りかかってくる。息が臭い。手には一升瓶。村紗は気持ちの悪い笑みを漏らして、

「いや~~~~~~、盛り上がった盛り上がった。やっぱりこういうのって良いよねえ。お酒はみんなで飲まないとね~~」
「わかったから離れなさいよ」

 村紗は天子から離れると、一升瓶をどんと地面に置いて座り込む。

「せっかく三人そろったし、ここでもう一度乾杯をしよう! 私たちは同じ船に乗る同士なんだから~」

 どうやら初めからその気だったらしい。天子に盃を渡して、一升瓶の酒を注ぎ込んだ。妹紅にも同じように注ぐ。村紗の盃には妹紅が入れた。

「何に乾杯するの?」
「明日からの漁が大漁になるように、だな」
「三人の絆にだよ」

 三人で盃を頭の上に掲げる。

「じゃ、そんな感じで、……かんぱーい!」

 天子が言う。それを合図に三人は一斉に酒を飲み干す。
 確かにこういうのも悪くない。同じ目標に向かって進む仲間がいるというのは心強い。
 一緒に力を合わせて頑張るなんていつ以来だろうか。少なくとも天子が天人になってからは記憶になかった。
 思い返してみれば、そもそも天子は自分でお金を稼ぐ経験すらなかった。裕福な家庭に生まれ生活に関して苦労したことなどない。そこらの子供が親と一緒に田んぼに足を突っ込んでいる間、天子は遊んでいた。というわけではないが、一般的な子供と比べればやはり特殊な部類に入る。名居に仕える比那名居の家に生まれた身として、将来のために勉学に励んだ。天子が生意気にも色々な知識を知っているのはそのためだ。
 ともあれ、結局は天子が父親のように仕事をこなすことになる前に、天人として迎え入れられる事になったのだが。そんなわけで天子が労働の報酬を得るのは、父親の肩を揉んでお駄賃を貰った時以来ということになる。
 たき火の薪がぱちんと爆ぜた。

「そういえば、天子は何で漁船に乗ることにしたの?」

 妹紅が訊いてくるので、天子はこれまでの経緯を簡単に説明した。説明し終えると、妹紅は感心したような声を上げる。

「へえー、そいつは立派じゃないか」

 うんうんと顔を真っ赤にした村紗がわかってんだかわかってないんだか、腕組みをしながら頷いてみせた。
 妹紅の言うように、確かに立派な理由だ。子供達の遊び場を守るために一千万を稼ぐのだから。
 でも、と思う。
 ふとした疑問が天子の頭をよぎる。
 確かに子供達とは顔見知りだし、それなりに仲が良い。天子が漁船に乗るきっかけとなった勘太郎とはサッカー愛好者として気があった。だから彼らの力になれることはやってやりたいと思う。
 だが、ここまで一生懸命身を粉にしてやる必要はないんじゃないか。
 なぜ自分はこんなに子供達のために頑張っているのだろう。
 自分自身へ問いかける。別にそんなに努力する必要はないのではないか。子供達に対してそこまで義理があるわけじゃないし、そもそも自分は義理堅い性格でもない。
 たかが子供達の遊び場を守るという理由でこんな必死こいて努力するなんて馬鹿らしくないか? 例え一千万が手に入らなくても自分にはそれほど問題がないのではないか?
 その問いかけに対する答は「ノー」だ。
 はっきりとしている。天子はどうしても一千万を用意してやりたいと思っている。
 しかしなぜ自分がここまで必死なのか、その理由は天子にもわからなかった。

「天子どうしたの? ぼーっとして」

 村紗が訊いてくる。

「ん、ちょっと考え事してた」

 妹紅がそっと天子に話しかける。

「何を考えてるか何となくわかるよ。何で自分はそんな理由で頑張ってるんだろうって思ってるんでしょう」
「良くわかったわね」
「伊達に長くは生きてないからね。自分にも似たような経験がある。何で私はこんなつまんない理由で、必死に頑張ってるんだろうってね。たぶんだけど、そういうのはさ、今まで生きてきた中で何かしら心動かされることを経験してるんだよ」
「心動かされること、ねえ。何かあったかしら」
「頭で覚えてなくても、心で覚えてるもんなんだよ。理由はわからないけれど自分はこうしたい、こうしなければいけない。そういう気持ちって、過去の経験が無意識的に働きかけているんだと思う」

 そうなのだろうか。天子には明確な心当たりがなかった。ということはつまり、妹紅が言うように無意識的に働きかけている何かがあるのかもしれない。天子が忘れているだけで、過去の経験の中にその答があるのだろう。
 結局は今の天子にはわからないということだ。世の中わからないことだらけだ。
 それならそれで良い。必死になってる理由がわからなくたって、やりたいという気持ちは本物なのだ。だったら、やるまでだ。

「ま、今はわからなくても、そのうちふと思い至ることもあるよ」
「さすがね。伊達に年食ってないだけはあるわ。年配者の言葉には妙な説得力がある」
「とは言っても、私はまだまだぴちぴちの千代前半だけどね」

 笑った。
 唐突な不死人ジョークはそこそこうけて、三人で顔を見合わせてくすくすと声を漏らした。
 それから天子は村紗の方を向いて、気になっていたことを訊く。

「ところで村紗。今回のカツオってどれくらいの稼ぎになったの?」
「ん~、と。今のところすでに釣った奴の七割くらいは捌けていて、残りが後どれくらいで売れるかってのにもよるんだけど、まあ大体予想は付く。そこから船の燃料代と修理費を引いて、残りを山分けにすると、え~と、一人当たり三百万って所かなー」

 三百万。必要額まではまだまだ届かない。一日あたりで百万。そう考えればこのペースで行くと目標まで届く計算になる。しかし、どうなるのかは今後の運次第だ。

「あと七百万かー」
「行けると思うけどね~。あと七日間ほど漁をするつもりだけど、もし足りなかったらもう少し期間を延ばしてもいいし。期限はいつまでだっけ?」

 おじさんとの約束は二週間以内。約束を取り付けた後に職探しをして一日を消費。そこから三日間カツオ漁に出て、合わせて四日間を使ったことになる。ということは、

「残りは十日間。それまでに一千万持ってかなきゃいけない」
「そうすると、えー、カツオを競りに出すのに一日残しておくとして、漁に出られるのは、え~~~~と~~~~」

 酔っぱらったせいでうまく脳みそが働いていない村紗に、横から妹紅が、

「九日間」
「うん、そう九日間。まあ、へーきへーき。何とかなるよ。それよりも、お酒を飲もうじゃないの」

 もうすでにだいぶべろべろになっているのにまだ飲もうとする村紗を、妹紅がこんなんで明日から大丈夫なのかみたいな目つきで見ている。
 こんなんでもやる時はやるキャプテンだ。村紗の実力は身をもって味わったし、何よりカツオ漁にかける情熱はこの中でも一番なのだ。この三日間一緒に行動して、村紗は信用に足る人物だと天子は思っている。その村紗がお酒を飲もうと言っているのだから、天子が今すべきことはひとつだった。
 そんなわけで盃に目一杯の酒を注いで、それを一気にあおると一口で飲み干す。
 おおーいーよー、と村紗が声を上げ、自分もそれに続いて盃を傾ける。それを見て妹紅が渋々といった感じで酒を手に取りつつも、その表情は満更ではない。
 明日からまたカツオとの戦いの日々が始まる。その前に、この三人の親睦を深めるのも悪くない。
 空を見上げると、ぽつんと月が浮かんでいた。物静かに優しい光を放っているそれは、何だか自分たちの姿を羨んでいるようにも見えた。




「おはよう!」

 漁師の朝は早い。
 昨日夜遅くまで飲んでいたにもかかわらず村紗は元気いっぱいだった。妹紅はまだ眠そうで欠伸を連発していたし、それは天子も同じだった。
 日が昇る前であっても港では人が動き回っている。
 天子達も出航に向けて船の準備をする。昨日受けた砲撃により船体にへこんでいる部分があるが、問題になるほどではないらしい。見た目よりはかなり丈夫なようだ。
 村紗が昨日のうちに直したと言っていた操縦室の窓はしっかり新しい物になっていた。仕事が早い。前回の反省を活かしてガラスには飛散防止フィルムが貼り付けられた。寺子屋のガラスに貼られている物と同じ物だ。これで万が一また機関銃の掃射を受けても、破片が飛び散らずに済むので安心である。
 天子が準備に勤しんでいる横で、準備を終えた別の船が続々と出航していった。天子が昨日一緒に酒を飲んだ人達も船に乗って出て行った。心の中でそっと「たくさん釣れますように」と願った。ちなみに彼らがどこで何を釣っているのかは知らない。
 前回のカツオ漁は三日間だった。たまたまでかい群れに当たったから帰ってきたとのことだった。普通は群れを釣り上げたらそのまま次の群れを探す。ということは次に帰って来るのはいつになるかわからないということだ。今がカツオ漁のピークで、予定では後一週間ほどの漁になる。もしかしたら長くなるかもしれないと村紗は言っていたが、天子に残された時間はそれほど多くない。できれば予定通り終わって欲しいし、その時には目標額まで到達している事を願うばかりだ。
 食料のぎっしり入った段ボール箱を持ち上げた時、背後から声がかけられた。

「おう、お嬢ちゃん。精が出るね」

 善一郎だった。

「もちろんよ。これからまたいっぱい釣って来なきゃならないんだから」
「がはは。そうだったな。ところで、お嬢ちゃんに会いたいって奴が訪ねてきたぜ。あー、なんだっけ。職業安定所の職員だと言えばわかると言っていたが、知り合いかい?」

 天子は段ボール箱を抱えた状態で動きを止める。

「よれよれのワイシャツ着てた?」
「ああ、そうだな。よれよれのしわしわのワイシャツだった」

 心当たりがある。間違いない。

「知り合いよ。この職を紹介して貰ったの。どこにいる?」
「なるほどね。港の入口んとこで待ってるよ。そこのでかい道をまっすぐ行ったとこだ」
「わかった。ありがとう」
「おう、いいってことよ」

 手に持っていた段ボール箱をどうしようか迷った所に、ちょうど妹紅がやって来た。

「キャプテンがもうすぐ出発するってさ。早いとこ必要な物は詰め込んでしまいましょう」「ちょっと妹紅。これお願い。急用ができたの」

 そう言って天子は段ボール箱を放り投げた。妹紅は難なくキャッチする。

「え、何よ。どうしたの?」
「たぶんすぐ終わると思うから。そこにある残ってる箱もお願い」
「まあいいけど」
「残りはここに置いてある分だろう。なら俺も手伝ってやるよ」

 二人に礼を言うと天子は駆け足で職員が待っているという港の入口へ向かう。天子の背後から善一郎の良く通る声が響いた。

「何だこの箱! めちゃくちゃ重てぇじゃねえか! もんぺのお嬢ちゃん良くそんな軽々と持てるな」

 港の入口。門の前に一人の男が立っている。トレードマークのよれよれのワイシャツを着ている。無精ひげも相変わらず、さらに髪もぼさぼさ。見た目をまったく気にしない性質なのか、この前会ったときよりもひどくなっている。とてもじゃないが職業安定所の職員をしているような見た目じゃない。どちらかと言えば職業を紹介してもらう方だ。

「ひどい見た目ね」
「一言目がそれか、ひどいね~。こっちはお嬢さんの事を気遣ってわざわざ会いに来たってのに。こんなお日様も昇ってねえ朝早くにだよ。こんな真面目に働いている奴なかなかいねえぞ」
「私がここにいるって良くわかったわね。昨日帰って来たばっかりなのに」
「おう。職業安定所の情報収集力を舐めてもらっちゃ困るね~。ありとあらゆる噂が集まってくるんだぜ。おばはん達の井戸端会議から妖怪どもの宴会までばっちりチェックしてる。僕らに集められない情報はないよ」
「すっごく胡散臭いけれど。それで、私に何の用かしら?」

 天子の質問に職員は答える。

「あ~そうだな。まあ用ってほどじゃねえんだが、一応こっちも仕事を紹介した身なわけだよ。その後どうなったのか確認したくてな。訳ありリストの職業だったから、特にね。何か問題があったりしたら僕としても寝覚めが悪いんだ」
「ふうん。あなたって見た目の割には良い人なのね。こっちは問題はないわよ。今のところ順調。海賊に一度襲われたけれど、撃退したから平気」

 多少の厄介ごとはあったものの、それなりにうまく行っている。三日で三百万。稼ぎとしても十分だろう。

「海賊ねえ。そういやそんな奴が出るって噂もあったな。物騒なこった。ま、とりあえずお嬢さん的には問題ないんだな。安心したよ。一応、報告書の方にも問題なしと書いておくけどいいよな」

 好きに書いて構わないと天子が言うと、職員は頷いた。それから三秒ほど天子をじっと見つめてから、

「それじゃ用はそれだけだ。それじゃあな、お嬢さん。頑張れよ」

 片手を上げながら背を向けて去ろうとした職員に、天子は声をかける。

「あ、ちょっと待って」
「うん?」
「あなたのおかげで、お金の方はうまく集まりそう。だから改めてお礼を言っておこうかと思って。ありがとう」

 天子は頭をぺこりと下げる。
 見た目はこんなだが中身の方はしっかりしている。こうして気にかけてくれているというのも、天子にとってはありがたいものなのだ。だから、一度言っておきたかった。
 すると職員は右手で頭を掻きながら、大きく息を吐いた。

「あ~、言おうかどうか迷ったんだけどな、せっかくだし言うことにするよ。お嬢さん見てるとどうしても思い出すんだ。僕には娘がいてね、お嬢さんと同じくらいの年頃……、お嬢さんの実年齢は知らないけれど、とにかくそれくらいの見た目だ。で、その娘がね、…………めちゃくちゃ可愛いんだよ」
「え、なに、いきなり自分の娘の自慢話!?」

 突然の話につっこみを入れる。職員は声を出して笑ったが、それからすぐに目をすっと細めた。

「そんな話じゃねえさ。女房にはとっくの昔に家から出て行かれた。娘もその時一緒にな。寂しいもんだ、独りってのは。……ま、そんなことはどうでもいいんだ。お嬢さんに職を紹介した後、ちょっと気になってね。お嬢さんの事調べさせてもらった。悪く思わないでくれ、この仕事をしてると色々と問題のある奴も集まってくるんだ」
「別にいいわよ。後々面倒ごとを起こされたりすると、そっちとしても困るってことでしょ」
「まったくその通りだ。それで、あ~、これは完全に僕のお節介なんだが……。お嬢さん、親御さんと揉め事起こしたんだろう」

 天子は表情には出さなかったが少し驚いた。良くそんな事まで知っているな、と。彼が言っている職業安定所の情報収集力というのは侮れないのかもしれない。

「確かにそうだけど……」
「お父さんは随分と娘を大切にしてるらしいね。僕も同じ父親としてその気持ちはわかる。それでだ、訊きたいことがある。お嬢さん、この仕事が終わったら、家に戻る気はある?」

 はっきり言ってわからない。この数日、一千万を稼ぐことしか頭になかった。それからどうするかなどまったく考えていなかった。ただ、父に対する憤りはいまだに心に残っている。だからきっと、この仕事が終わったとしても自分があの家に戻る事はないだろう。
 天子は静かに首を横に振った。

「そうか。それはお嬢さんの勝手だからな。僕があまりどうこう言えた義理じゃないんだが……。でもお節介したくなっちゃうんだよ。これはお嬢さんに対するものというよりは、お嬢さんのお父さんに対するお節介っと言った方が正しいんだけど……。同じ親としてな、やっぱり娘に出て行かれる気持ちってのはわかるわけなんだよ」

 だから、できたら家に戻ってやって欲しい。お父さんは絶対に心配しているから。
 職員はそう言うと、胸ポケットからワイシャツと同じようによれよれになったタバコの箱を取り出して、一本を選び口にくわえるとマッチで火を付けた。タバコの紫煙が風に乗って流れていく。
 天子は煙の行方を目で追っていた。まだ辺りは薄暗くて、それはすぐに暗闇の中に紛れてしまう。
 それから天子は口を開いた。

「ねえ、何で二人に出て行かれたの?」

 職員はタバコの煙をゆっくりと吐き出した。

「僕が馬鹿だったからだよ。あの頃の僕は、親父は格好良くなくちゃいけねえと思ってた。その考え自体は今も同じだが、何が格好良いのか勘違いしてたんだ。自分の理想を追いかける事が男として最高に格好良い事だとすっかり思いこんでいた。そのせいで仕事も転々とした。仕事が長続きしないのは自分が輝ける仕事じゃないからだ、なんて言い訳してな。生活もかなり苦しかった。当然そんな僕に対して女房は色々と言ってきた。今思えば、あれは僕の事を思っての言葉だったとわかる。だけど、その時の僕は耳も傾けなかった」

 彼は短くなったタバコを携帯灰皿の中に押し入れた。タバコの箱を手に取り、もう一本出そうか迷って、結局取り出さずにそのまま胸ポケットにしまった。

「結局、そんな僕に女房は愛想を尽かして、娘の手を引いて家から出て行ったというわけだ」
「後悔してる?」
「もちろんさ。朝目覚める度に死ぬほど後悔するよ。もしあの時の自分が目の前にいたら、思いっきりぶん殴ってる。なんでお前はそんな馬鹿なんだ。勘違いもいい加減にしろ。何が親父は格好良くなくちゃいけねえ、だ。何が格好良いかも知らねえくせによ、ってな……。でも、過去の自分はここにはいない。この感情はどこにもやり場がねえんだ」

 力一杯握った拳を見つめながら、

「この歳になってやっとわかった。本当に格好良い親父ってのは、自分の理想を追いかけるような奴の事を言うんじゃねえ。むしろ逆だ。今の現状がどれだけ自分の理想と違っても、どれだけ苦しくても、そんな自分の内面は決して家族の前には出さねえで、そして、自分を犠牲にしてでも家族の事を一番に考えられる、自分を盾にしてでも家族を守ることができる、そういう親父が最高に格好良いんだ」

 職員は言い終わると深く息を吐いた。まるで自分の中にある悲しみを吐き出そうとしているかのように。
 後悔や悲しみ、それから過去の自分に対する怒り。そういったものが声音の中に込められていて、直に心に響いてくるようだった。天子が感じたそれらの感情は彼の中のほんの一部分なのかもしれなかったが、それでもこの職員が抱えているモノの大きさを推し量るには十分だった。
 水の音が聞こえる。微かにひぐらしの鳴き声も聞こえる。少し辺りが明るくなってきた。
 天子はそっと訊く。

「娘さんには会ってないの?」
「家を出て行かれてから、一度も会ってない。お得意の情報収集で娘の噂は耳にするけどな。後、写真もある」

 職員はポケットから財布を取り出すと、そこから一枚の写真を抜き出した。そこには彼の言うとおり、天子と同じくらいの見た目の少女が映っていた。髪も長く、可愛らしい女の子だ。
 彼はじっと手元の写真を眺める。その顔はまさしく父親の顔だと思った。

「この写真が、僕の宝物だよ」

 あっ、と思った。
 宝物。その言葉を聞いて天子は思い出す。
 ――パパの一番の宝物は、おまえだよ。
 父が言った言葉。職員が語って聞かせてくれた話から、昔の記憶が一気に引き出された。
 空き地で父が自分に語ってくれた。あの時の思い出が蘇る。
 言葉では言い表せないような感情が、湧き出してくる。胸の奥からじわりじわりと。こぼれてしまわないように、無理やりそれを押しとどめる。
 この感情を表には出したくなかった。必死に堪える。
 今は自分の事はいい。それよりも、この冴えない職業安定所の職員に対して、何か言葉をかけてやりたかった。

「ねえ、あのさ。私がここで『今からでもやり直せばいいじゃない』みたいな言葉をかけてあげたいのは山々なんだけど、どうしてもそれって安っぽいというか、無責任に感じるの。だからね」

 天子は笑って、

「一緒にお酒でも呑んで、あなたの愚痴を聞いてあげる。これからちょっと出かけて来ないといけないから、すぐにと言うわけにはいかないけれど。でも、帰ってきたら必ずそうしてあげるから。ここにはね、すごく気の良い人達が集まってるの。きっとみんなあなたの言葉を真剣に聞いてくれると思う。たき火を囲んでお酒呑みながらみんなと話をしたら、少しは気が軽くなるかもしれないでしょ」

 職員は少しの間、天子の顔をじっと見ていた。それからいきなり声を上げて笑い始めた。

「ああ、そうだな。それも良いかもな。楽しみにしてるよ」
「うんうん。私もね、あなたの言葉を聞いて、ちょっとすっきりしたから。お礼しなきゃ。どうせお得意の情報収集で私が帰って来たらわかるでしょ?」
「当たり前だ」
「じゃあ、そういうことで。約束よ」
「あいよ。それじゃ行ってきな、お嬢さん。たくさん釣ってこいよ」
「うん!」




『遅いよ~~天子! とっくに準備終わってるんだから!』

 スピーカーを通して村紗の声が飛んで来たので、天子は両手を合わせて謝るポーズ。
 地面を蹴って勢いよく船に乗り込んだら、すぐに船は動き出した。
 わずかに船が浮き上がる。そのタイミングで善一郎が見送りに来てくれる。

「気をつけてな。大漁を期待してるぜ」
「もちろん。期待してて!」

 天子は甲板から身を乗り出して手を振り返す。漁船はぐんぐんと高度を増していく。あっという間に善一郎の姿はミジンコくらいの小ささになる。
 期待に応えたい。カツオをたくさん釣って帰る。お金を稼ぐのはもちろんだが、それ以外の理由もできた。自分たちの帰りを待っていてくれる人がいる。
 そして、職員との約束もある。
 彼の言葉は天子にとって何か響くものがあった。彼が語ってくれた話とその時の表情。それらはどうしても天子に自分の父の姿を思い出させた。
 少し気になった。家を飛び出した後、父はどうしてるだろうか。
 昔からずっと天子のことを一番に考えていた父。父が愚痴をこぼしたところは一度だって見たことはない。父はいつも天子の前では笑って、そして優しく接してくれた。小さい時からずっとだ。今も変わらない。
 最高に格好良い親父って何だろう。天子にとって格好良い父親の姿は、地上にいた時の父だ。今の父の姿はあまり好きじゃない。昔に戻って欲しいと思う。
 だけど、あの職員が言っていた最高に格好良い親父。それは今の父の姿と――

『天子、妹紅! 暇だったら船の上を掃除しておいて』

 村紗の指示に思考が中断される。
 妹紅がデッキブラシを両手に一本ずつ持ってきて、片方の一本を投げて寄こしてきた。

「キャプテン命令だ」

 天子はそれを受け取ってさっそく掃除を始める。
 甲板の上で汚れが目立つのは昨日天子達がカツオを釣っていた場所で、通路がカツオの血で焦げ茶色に変色している。ちょっとした殺人現場だ。
 ホースで水をかけながらこびりついた血をデッキブラシでごっしごしすると、元の木材の色合いを取り戻していく。

「悪かったわね」

 妹紅がデッキブラシを動かしながら言った。

「うん?」
「いや、そう言えばまだ謝ってなかったなと思ってさ。天子のこと毛嫌いしてたんだよ。何となく気にくわないなって思って。ごめん」

 天子は掌をひらひらとさせて、

「い~~わよ、そんなこと。それを言ったら私だって同じなんだから」
「そっか」

 妹紅はふっと笑って見せた。
 素の性格はなかなか憎めない奴なのかもしれない。案外可愛げのある奴だ。
 二人でデッキブラシを一心不乱にごしごし動かしてると、村紗が気を利かせてくれたのかスピーカーから波乗りジョニーが流れ始める。
 ちゃんちゃんちゃんちゃ、ちゃ、ちゃんちゃんちゃん……♪
 掃除という退屈な単純作業でも、音楽が加わると大分ましになる。選曲も実にナイスだ。天子は音楽が好きだった。部屋にはレコードやカセットテープやCDがどっさり置いてある。歌うのも当然好きだ。天界にカラオケがないことが残念で仕方がない。
 そんなわけで、波乗りジョニーである。この曲は不思議な効果がある。魔法と言っても差し支えない。自然と体が動き出す。思わず歌い出す。どこで聞こうがまるで湘南のビーチにいるような錯覚が起きる。とにかくテンションが上がる。そう、魔法なのである。
 妹紅が鼻歌を歌い出してごしごし。
 それを見て今度は天子が歌詞を口ずさみながらごしごし。
 ごしごし、ごしごし。  
 すると段々と気分が乗ってくる。いつしか体でリズムを取っている。軽く口ずさむ程度だったのが本気の歌声になる。ごしごしがごしごし♪に変わる。
 ごしごし♪がちゃんちゃん♪のリズムと合わさった時、天子はもう我慢ができなかった。デッキブラシをマイクに見立てて、気分はすっかりミュージシャン。
 デッキは今やステージへと変貌した。最高のライブの始まり。
 歌詞が二回目のサビに突入した時にはすでに気持ちの高鳴りは最高潮。季節は少し外れていたが天子の中では夏真っ盛り。目の前に広がる大空を海に見立てて、遠くに見える歪な雲をビキニ姿のチャンネーかなんかに思い込みながら思いっきり熱唱。もう誰にも止められない。もはやマイクにしか見えなくなったデッキブラシを握りしめ、それに向かって腹から声を絞り出す。
 妹紅がへったくそな合いの手を入れてくれば、村紗が操縦室でノリノリのダンスを見せる。
 二人のそんな反応を見た天子はさらにテンションを高める。そうすると今度は妹紅と村紗のテンションも上がる。テンションがテンションを呼び、それらの相乗効果により興奮が大幅に膨れあがって爆発寸前だ。
 曲はラスサビに突入。天子は船の縁に飛び乗って、眼下に広がる大地に住む人全員が観客のような気持ちで魂を込めた歌声を響かせる。今の天子の前には桑田佳祐の歌声もただのバックコーラスだ。
 妹紅が飛びっきりの笑顔を見せながら一緒になって歌う。村紗も操縦室から飛び出して何か叫んでいる。
 最高に盛り上がりながら天子がサビを歌い切ると、そのタイミングで船が通り雨に遭遇した。船を叩く猛烈な雨の音は百万人の観客の拍手に聞こえ、天子は両手を挙げてその喝采に応える。雨雲はすぐに過ぎ去り、今度は太陽の光がスポットライトのように降り注ぐ。
 時間にしてわずか五分。いきなり始まりあっという間に終わりを迎えたライブは、本当に一瞬で、自分が握っている物がマイクではなくただのデッキブラシだと再認識するまでの時間も一瞬だった。
 それでも、この余韻は本物だ。観客なんていないし、端から見えればただの阿呆だったけれど、この時船の上にいた三人は確かにライブ会場にいたのだ。
 天子は船の縁から降りると、妹紅と村紗が迎えてくる。三人はハイタッチを交わして、大きな声で笑い合った。


 その後、波乗りジョニーはテンションが高くなり過ぎて危ないということで封印された。
 掃除を終えた後、天子は昼飯を作りに厨房へ。と言っても、漁船にある厨房なんて狭苦しくてまともに料理なんてできやしない。
 朝方に詰め込んだ段ボール箱からレトルトカレーを引っ張り出すと、それを鍋にぶっ込んで加熱する。電子ジャーからほっかほかのご飯を皿に乗っけて、その上に温めたルーをどばっとかける。見た目はあまりよろしくないが、見た目なんて気にする繊細な奴はこの船にいない。むしろ男らしくてこっちの方が漁師っぽいから良い。
 などと思っていた天子だったがその考えは甘かった。

「ちょっとー、この見た目はあんまりじゃないか。カレーのルーはかければ良いってもんじゃないんだよ。ご飯とルーは分けること。それに比率も悪い。ご飯が四にルーが六。もしくは三と七。それが鉄板」

 村紗が文句を垂れる。カレーにはうるさいらしい。たかがレトルトカレーでどうこう言う必要はないのではないか。天子が言い返すと、村紗はレトルトだからこそ細かいところを気にしないと、などと言ってくる。
 しかし味の方は抜群に美味しかった。たかがレトルトカレーのくせにやたらと美味しく感じるのは、船の上から幻想郷の風景を眺めながら食べているせいかもしれない。見渡す限り大自然。遠くにおにぎりくらいの大きさになった妖怪の山が見えた。こういう経験はなかなかできるものではない。ある意味で贅沢だ。
 カレーを食べ終わった妹紅は船室へと戻って行った。夜間の見張りをするために今の内に休んでおくのだ。
 天子は村紗と操縦室で一緒に談笑しながら、カツオの群れが現れないかと魚群探知機のモニターを見つめる。
 操縦はオートになっているので、ハンドルを握る必要はないのに村紗は常にどちらかの手で触っている。本人曰く落ち着くとのこと。

「ところでさ、キャプテンは何で漁師なんてやってるの? お寺で働いてたんじゃないの?」
「お寺の手伝いはしてるよ。後は遊覧船のキャプテンもしてるし、漁師もシーズンに入ったら少しだけどやってるわけ」
「ふーん」
「天子と妹紅がカツオをたくさん釣ってくれたおかげで、みんな喜んでたよ。港にいる人達はみんな漁師で、交代制で港での業務をこなしてるんだけど、やっぱり港には魚がいないと寂しいでしょう。だから、たくさん釣って帰るとすごく活気が出て、みんな笑顔になるんだ」

 ハンドルを触っていた手を左手から右手に代えて、村紗は続ける。

「私はさ、船に乗る者として漁師さん達にも頑張ってもらいたいの。みんな良い人達だったでしょう。だから余計に、あの人達が浮かれない顔をしてるのは見たくないんだ。最近は、人手不足とか不漁とかで色々と問題抱えてて大変だから、私の力で少しで盛り上げられたら良いな、って思って。それで、こういうことしてるの」

 もちろん、魚を捕るのも好きっていうこともあるけれどね、と村紗は笑った。

「そっか。キャプテンにも理由があるのね」

 村紗は黙って頷いた。
 天子は思う。
 人が何かをするきっかけというのは、絆によるものなのかもしれない。
 妹紅も村紗もそれぞれが何かしらの絆を持ち、それが原動力となっている。そして、それは天子も同じ。子供との絆がきっかけとなって今こうして船に乗っているのだから。
 天子は自分がまさか漁船に乗り込むことになるなんて思ってもなかった。当然と言えば当然だが、世の中何が起こるかわからないものである。

「それにしても、天子はカツオ釣りの才能があると思う。このまま漁師になっちゃっても良いんじゃないかな?」
「うーん、さすがにそれは嫌かな。思ったよりもずっと大変なんだもの」
「そっか。残念」
「まあでも、偶になら手伝ってもいいかも。大変だけどその分やりがいもあるし、結構楽しいのよね。こうカツオがぽーんと飛んでいくのを見るのすっごく気分が良いし」
「あーわかる。私もここから二人が釣ってるのを見てたけど、迫力があってすごく見応えがあったよ」

 天子と村紗はしばらくカツオ談義に花を咲かせた。
 すると、

「お! これはカツオだね」

 魚群探知機のモニターに反応があった。
 しかし、前回見つけたのに比べると明らかに画面上に表示されている反応は小さかった。

「あんまり大きい群れじゃないのかしら」
「うん。前回のやつの十分の一くらいって所かな。でもま、見つけたのを片っ端から釣って行けばそれなりの量にはなるから、とにかく釣ろう。妹紅を起こして来てくれる?」
「これくらいなら、私一人で十分よ。寝かせておいてあげましょ」
「頼もしいね。じゃあお願い」

 前回同様、村紗が巧みな操縦を見せ、カツオの群れの横に船をつける。
 肉眼で確認しても、やはりこの前とは比べものにならないくらいにその群れは小さかった。この前のが龍だとしたら、今回のは龍の糞だ。
 それでもやるからには手を抜いたりはしない。天子は竿を手に取って深呼吸をする。集中力を高め、これから釣り上げる相手を睨む。
 ベルトコンベヤーが稼働する音。横目で操縦室にいる村紗を見ると、彼女は親指を立てた。いつでも行ける。
 天子は一度大きく息を吸い込んで、それと同時に竿を振った。針を群れの中に投げ込んで、カツオが食いついた瞬間に息を吐きながら引き上げる。まるまる太ったカツオが釣り上げられ後ろに控える布に向かってぶん投げられる。
 釣りは魚との勝負だと天子は思っている。今回はカツオ漁ということで普通の釣りとはまた少し違ったものだが、それでも魚との勝負ということに変わりはない。釣ったら勝ちだし、釣れなかったら負けだ。
 しかしながら、天子がカツオを釣っている姿を端から見ると、勝負なんてもんじゃない。それは一方的な虐殺。カツオは量で勝負を仕掛けてくるが、たった一人の力の前にはなすすべもない。次から次へと数を減らして行く。
 ベルトコンベヤーに載って運ばれていくカツオは冷凍室へと送られ、そこから里に住む皆様の食卓へと送られる。船の上でびちびちと跳ね回るカツオの姿が、今の天子にはまるで食卓に並ぶ一品になることを喜んでいるようにすら見える。「うわー、ぼくは一体どんな料理になるんだろう。やっぱり手堅くタタキかなー。ショウガに醤油もいいけれど、ポン酢に大根おろしもいいよねー、うわーなっやむ~~~~」。もちろんカツオはそんな事を考えてはいない。あくまで天子にはそう見えたというだけだ。
 カツオを釣れば釣るほど気分が高揚してくるようだった。ランナーズハイならぬ、アングラーズハイ状態だった。
 そんなわけで、天子とカツオの勝負にけりがつくまでにそれほど時間はかからなかった。
結果は言うまでもない、天子の圧勝だ。

「さすがだねぇ。これくらいの群れなら余裕で釣り上げちゃうんだから」
「でもやっぱり疲れるわね。肩が凝るわ」

 肩をとんとん叩きながら天子が言う。

「ん、お疲れ様。これから引き続き群れを探しに行くよ。次のが見つかるまでは船室で休んでていいけれど?」
「ううん、平気。私はそこらへんにいるから、何かあったら呼んで」

 ここ三日間の漁船の上での生活で、天子にもお気に入りの場所ができた。船の縁の上だ。そこに座って足をぶらぶらさせながら幻想郷の景色を眺めるのが好きだった。
 天界から眺めるのとはまた違った景色。幻想郷の大地がずっと近くに感じられる。それでもはるか下方にある地面には、手を伸ばしても決して届きはしない。
 船の縁に腰を下ろして足をだらんとさせた。
 その時、ふと思う。
 この位置こそが、今の自分の立ち位置なのだと。天界でもない、地上でもない、そんな中途半端な位置。天人でありながら、天人として認められていない自分にはお似合いだ。
 自嘲的な笑いが込み上げてくる。
 地上から天界へ移る時は、希望に胸を高鳴らせたものだったが、行ってみればこのざまだ。天人の友達なんて一人もできやしないし、いつも孤独を味わうはめになっている。昔は良かったなどと懐古して、何でこうなってしまったんだろうといつも思う。
 そして何より父親の事。
 地上にいた頃の大好きだった父親の姿は、今の父にはすっかりなくなってしまった。そのことが何よりも天子にとってショックだった。
 だけど、と思う。
 あのよれよれのワイシャツを着た職員が言っていたあの言葉が蘇る。

「今の現状がどれだけ自分の理想と違っても、どれだけ苦しくても、そんな自分の内面は決して家族の前には出さなねえで、そして、自分を犠牲にしてでも家族の事を一番に考えられる、自分を盾にしてでも家族を守ることができる、そういう親父が最高に格好良いんだ」

 それは今の父親の姿と重なる。
 昔からずっと家族のことを一番に考えてきた父だった。それは今も昔も変わらない。変わったのは父の態度。父に対する周りの態度。そしてそんな父親に対する天子の心情。
 天子は周りにいる人達から羨望を受けている父が好きだった。羨むような憧れるような眼差しを一身に受けながら胸を張って歩いている父の姿が好きだった。今のように他の人に向かって頭を下げて、いつものように背中を丸めている父の姿は見たくない。昔のような父の姿であって欲しい。
 だけど、それは自分のエゴなのだろうか。

「最高に格好良い父親、か……」

 天子はそっと呟いた。




「起こしてくれれば良かったのに」

 夕方になって起きてきた妹紅がまず言った言葉がそれだった。
 どうやら寝ていた自分を差し置いて、先ほど遭遇したカツオの群れを天子が一人で釣り上げてしまったことが不満らしい。

「いや、でも金魚の糞並みに小さい群れだったし、私一人で余裕だったから」

 天子が言うと、妹紅はじっと目を細めて、

「釣り勝負してたのにそんな事されたら勝てないよ。ただでさえこの前の時にかなり差をつけられてるんだから」

 それで思い出した。

「あ、そっか。そう言えばどっちがカツオを多く釣るか勝負してたんだっけ」

 自分から言い出しておいてすっかり忘れていた天子だった。

「ええー、忘れてたの?」
「うん。めんごめんご」

 片手を上げて軽く謝って見せると、妹紅はため息を吐いた。

「まあ別に良いけれど。どうせ勝てそうになかったからね。この勝負は天子の勝ちで良いよ」
「あれ、どうしたのよ。そんな弱気になって」
「別に弱気になったわけじゃない。正直、天子の釣っている所を見て驚いたよ。うまく言葉にできないけれど、とにかくすごった。すごい迫力があった。あんなのを見せつけられちゃうとね、これは勝てないなって思うよ」

 天子は自分ではわからなかったがどうやらすごい技術を持っているらしい。村紗にも褒められたし、こうして妹紅にも素直に褒められると、何だか恥ずかしいやらむずかゆいやら。

「そ、そんなすごいかしら?」
「ああ間違いない。この前は天子の事を馬鹿にしちゃったけれど、撤回するよ。天子は私よりもずっと釣りがうまいよ」

 前にも言ったが天子は褒められる事に慣れていない。自分だけが褒められるというのも悪い気がして、

「いやでも、それはカツオ釣りに限った話だし。妹紅は、ほら、地上での釣りは私なんかよりもずっとうまいと思うわ。湖に糸を垂らしてる姿なんか、見ていてすっごい様になっていたもの」

 天子が褒め返すと、妹紅は頭を掻いた。実を言うと妹紅も人から褒められることに慣れていなかった。そもそも二人は褒められることも褒めることも慣れていなかった。

「そ、そう?」
「うん。すごく格好良かった」
「ふ、ふーん。まあでも、天子だってすぐに地上の釣りもうまくなると思う。才能あるよ」
「あ、ありがとう……」

 お互いに褒めあって、そして二人して黙り込んだ。
 初デートに行った男女が勇気を出して手を繋いでみたんだけど、恥ずかしさやら何やらでお互い何も言えなくなってしまった時のような、そんな空気が流れる。
 そんな二人の様子を、何やってんだあいつらみたいな目で村紗が見ていた。


 そんなこんなで、カツオ漁四日目は終了。今日の夜の見張りは妹紅なので、天子は村紗と一緒に船室で一夜を過ごした。
 カツオ漁五日目ともなると船の上での生活にもだいぶ慣れた。初日はげろげろしていた天子だったが、それも遠い過去のことだ。今ではすっかり漁師の顔つきになっている。船の独特の揺れで酔うこともないし、むしろ心地良さすら感じるほどになった。
 村紗と妹紅との仲も深まった。キャプテンである村紗とは初日から良く話をしたし、一緒にいる時間も長かったので、その分お互いの距離を縮めるのに苦労はなかった。
 妹紅の方はと言えば、最初の三日間こそはほとんど会話らしい会話はしなかったものの、たき火を囲って酒盛りをした事を境に大きく変化が生じた。あれをきっかけにお互いに認め合うことができた。今では気さくに談笑するほどの仲になった。
 船の上での生活はうまく行っていた。しかし、問題のカツオ漁の方がここに来て不調におちいった。
 四日目は天子が一人で釣り上げた小さな群れだけだったが、五日目にはその小さな群れすら発見する事ができなかった。六日目でようやくまた小さな群れを見つけることができたが、漁獲量は芳しくない。
 日が経つにつれて天子の焦りも増す。まだ大丈夫だとは思いつつも、不安は大きくなる。
 八日目になっても不調から脱することはできない。一体カツオはどこに行ってしまったんだと疑問に思うくらいに見つからない。ただ時間だけが過ぎていく。
 そして九日目。当初の予定では十日間の漁だった。つまり明日が最終日という事になっていた。
 最初はそれほどでもなかった村紗も段々と渋い顔を浮かべるようになって、カツオの気配がまったくなくなると、ため息を吐く回数も多くなった。
 明らかに流れは悪かった。
 最初の三日間で稼いだ額は、三百万。その後の五日間で捕ったカツオから村紗が計算した稼ぎは五十万にいくかどうか。合計で三百五十万。目標までは残り六百五十万。残りは今日を入れて二日。延長するとしても一千万の期日まではあと五日しかない。釣ったカツオを金に換えるのに一日を残しておいてその日の内に一千万を届けに行くとしても、天子に残されたカツオ漁の時間はたった四日間だけだ。
 残された四日間の最初の一日も、すでに昼を過ぎている。

「ど~~~~しよ~~~~~~。あんな自信満々に一千万用意するとか言っておいて、間に合わなかったら。というか、このままだと絶対間に合わないし」

 思いっきり頭を抱える天子。
 村紗と妹紅はそんな天子を気の毒そうに見ているが、何も言うことができない。どう見ても状況的にはかなり厳しい。明るい話をする材料なんてない。
 カツオ漁を知る村紗の顔を見れば、この状況が想定を大きく外れるものだと言うことが良くわかる。
 何とか今日中にでっかい群れを見つけられれば良かったのだが、天子のそんな願いもむなしく、時間が過ぎていった。
 夜。
 天子は船の縁に座って夜風に体を晒していた。
 ここ最近はこうやって一人であれこれと考える事が多くなった。
 そんな所に妹紅が近寄ってきた。隣まで来た妹紅は縁の上に腕を乗せた。

「天子はいつもこうしてるね。好きなの?」
「うん。景色が良く見えるし、それに考え事をするのにもちょうど良い場所なのよ」
「ふうん。考え事ってのは、やっぱりお金のこと?」
「……それもあるけれど、そっちは考えたってどうしようもないわけだし、あんまり考えないようにしてる。今考えてるというか悩んでるのは、すっごくプライベートなこと」

 妹紅が軽く笑った。

「プライベートなことかー。じゃあ、私はあんまり訊いたりしない方が良いかな」
「……ううん。聞いて欲しいかも」
「私で良いのなら喜んで」

 天子はしばらく何と言えば良いのか考えてから、

「あのね、私のパ……お父様のことなんだけど、昔はすっごく格好良くて私はそんなパパ……じゃないお父様に、ああもうパパでいいや。とにかく、私は昔の格好良いパパに憧れていたんだけど、今は全然その時の面影はなくなっちゃったわけなの。私はそれが許せなかった。でもね、ある人が最高に格好良い父親について話をしてくれたの。それで、何だか私わからなくなっちゃって」
「ふむ。そのある人が話してくれた格好良い父親の姿ってのが、今の父親の姿と同じだった、とかそんな感じ? でも天子は昔の父親の方が好きだと」

 天子は頷く。

「そう、そういうこと」
「私も自分の父については色々と思うことはあるから、天子がそういうことに悩む気持ちも少しわかるよ。でもやっぱりそういうのは、自分でけりをつけるしかない。私がここであれこれ言ったとしても、きっと余計に天子のことを混乱させることになるだけだと思う」

 少し黙った。
 数え切れないほどの星が夜空の闇のなかでひっそりと輝いていた。

「……そっか」

 天子は一言そう呟いた。
 また沈黙。
 数秒間の空白の後、

「私ね、わかったの。なんで私が子供達のために頑張ってお金を稼いでいるか」
「うん?」
「あのね、昔、私がちっちゃい時にパパが言ってたことを思い出したんだ」

 夕暮れの空き地。
 子供達が遊んでいる姿を眺めながら父は、天子にこう言った。

 ――いいかい、天子。私たち比那名居は地震を鎮める要石を守っている。それは大切な役割なんだ。たくさんの人の命を守る事に繋がっているからね。私は人々を守りたい。特に子供達は本当にたくさんの可能性を秘めている。大人にとって子供というのは宝なんだ。絶対に守らなきゃいけないものなんだ。私は子供達を守る立場にあるし、その役割を担っている事を誇りに思っている。だから、私はこれからも比那名居の者としての役割をこなしていこうと思う。……この話は天子には少し早かったかな。

 父はそう言った後、明るく笑って最後に一言、

「パパの一番の宝物は、おまえだよ」

 その時の天子はまだまだ小さかったけれど、それでも父の言っていることは理解できた。そして、自分もいつかこうなりたい。大きくなったら父のように、周りにいる人達を、子供達を守る立場になりたいと強く思ったのだった。
 結局、天子はそんな立場にはならず、大きく道を外れて周りの人達に迷惑をかける立場となってしまった。
 それでも、その時感じた思いは完全には消えていなかった。記憶はすっかり忘却の彼方だったものの、心の中にその思いは火種のようにくすぶっていたのだ。そして、今回の子供達の空き地問題を機に、その思いは燃え広がった。
 子供達の遊び場を守る。
 父親が守っていたものに比べれば、天子が今回守ろうとしたものはメダカの目やにくらい小さいものだったけれど、それでも天子は守ってやりたいと思ったのだ。その思いに偽りはない。
 天子はそんな自分の思いを、妹紅に説明した。

「なるほどね。それが天子の理由か」
「はあ~~~~~、私ってほんとに馬鹿だ」
「そんな事はないよ。立派な理由だと思う」
「ううん、違うの。私って結局パパから離れられないんだなーと思って。家出までしてきたってのに、私が何かする時の動機はパパに関係することばっかり」
「天子はよっぽどお父さんの事が好きなんだね」

 天子はむすっとして、

「今のパパは…………嫌いよ」

 妹紅は笑った。

「今の父親も過去の父親も同一人物だよ。本当にお父さんの事が嫌いなら、そんな風にお父さんのように頑張ろうなんて思わないよ」

 そんな事はわかってる。でも天子は認めたくはなかった。
 さらにむすっとして黙った。

「一千万まで届くといいね。まだ時間は残ってる。ぎりぎりまで頑張ろう」

 天子は黙ったまま頷いた。
 まだ時間は残っている。かなり厳しいとは言え、ここであきらめるつもりはない。
 それに期日までに間に合っても間に合わなくても、最後まで自分の力を出し尽くせれば、何か得るものがあるような気がする。
 妹紅が今までの中途半端な位置から一歩踏み出したように、天子にも何かしらの変化が訪れるきっかけになるかもしれない。根拠はなかったが、そんな気がするのだ。
 妹紅は船室へと戻っていった。
 天子はまだしばらく風に当たっていたい気分だった。
 少し肌寒かった。
 今の天子にはそれがちょうど良かった。




 時間は一気に最終日へと飛ぶ。
 ほとんど成果を上げられぬまま、この日をついに迎えた。
 釣らないよりはマシ程度の群れには当たったが、本当にその程度だ。今回の漁で捕ったカツオを全部売ったとしても百万になるかどうか。最初の漁で稼いだのを足せば四百万になるが、あと六百万足りない。今日だけでその分を稼がなければならない。どう考えたって絶望的だ。
 不漁だった。
 圧倒的な不漁だった。
 これには三人とも意気消沈した様子で、船の上での会話も減った。三人にはそれぞれカツオを釣る理由があった。この結果にはとてもじゃないが満足できやしない。
 未明から辺り一面雲で覆われていた。日が昇った後も分厚い雲海がどこまでも広がっている。船はそんな雲の上を進みながらカツオを探している。
 不気味なほど静かだった。
 カツオはおろか鳥の姿すら見えない。生物なんてこの世からいなくなってしまったかのようだ。
 辺りの様子に天子は何か嫌な感じを受ける。
 もう十日以上船の上での生活をしている。空の気候にはそれなりに敏感になっていた。だから今のこの空の状態が今までとは何か違うという事がわかる。
 村紗や妹紅も何か感じているようで怪訝な顔つきをしていた。
 まるで嵐の前の静けさみたいだ。何かが起こるような気がする。
 何かすごい事が。
 そして天子のそんな予感は的中することになる。

 カツオ漁最終日。これから大波乱の展開となるわけだが、その幕開けは唐突だった。

 馬鹿みたいにでかい鈍い音と船全体を揺らす衝撃。
 砲撃をくらった時以上の衝撃だった。
 天子は突然の振動にすっ転んだ。何が起こったのかはわからなかった。とにかく何かやばい事態だとは直感でわかった。
 体勢を立て直す。すると、音がした。

 ピ~~~ザザザ~~~~!

 スピーカーから出るあの耳障りなノイズ。
 その音は船の後ろから聞こえた。嫌な予感。
 天子は漁船の後ろ側へ走った。
 船の構造はもう頭の中に入っていた。どこに何があってどうなっているかわかっている。しかし漁船に見慣れない物体があった。船の床から黒光りするタケノコのような物体が斜めに突きだしているのだ。
 見覚えがある。そしてあのノイズにも聞き覚えがある。

『は~~~はっはっは。どうだい!? 私たちご自慢の特製槍は? すごいだろう』

 大音量のハスキーボイス。漁船のすぐ後ろ。雲の中からゆっくりとそれは顔を出した。
 海賊船。前面部分をご開帳した姿で登場。その中に収まっていたどでかいブツは、いま漁船のけつにぶち込まれている。

『前にも言ったけれど、そいつは簡単には外れないよ。私たちは狙った獲物を逃がさない。この前はしてやられてけれど、今回はそうは行かない。さあ、カツオを寄こしな!』

 女海賊メアリーの再登場に、妹紅が舌打ちをして、村紗がとんでもない悪態をつく。

「あんのパイオーツめ!」
「こんな時に言い得て妙なあだ名付けてんじゃないわよ!」

 見事に串刺しにされたわけだが漁船の方は問題なく動いていた。それだけは安心できた。
 突き刺さった槍からはごついワイヤーが伸びていて、それによって海賊船と漁船は今や繋がった状態となっている。このワイヤーは見るからに頑丈そうだった。とてもじゃないが切れそうにはない。ということは、この船の後方にぶち込まれた槍自体を引き抜かなければならないわけだが、この前のあの女海賊の話によれば、この槍には「かえし」が付いているらしい。そう簡単には外れやしないだろう。


「どうする!?」

 天子が叫ぶ。

「全面戦争だ。それしかない」

 妹紅が指を鳴らしながら言う。

「私の大切な船を一度のみならず、二度も壊すなんて良い度胸してやがる! 野郎ども! 遠慮はいらねえ! 皆殺しだ!」

 村紗が怒鳴り声を上げると、妹紅が不敵に笑って、

「奴らに懸賞金はかかってないのかい? そうすりゃ少しは金の足しになるのにね」
「残念だけどそういうのはない」
「そう、そりゃ残念」

 そこで天子が、

「ま、何にせよ、こっちはカツオが釣れなくてストレス溜まってたし、ちょうど良いわ。全員ぶちのめしてあげる」

 意見は一致した。
 三人は船の後方に陣取り、海賊船を睨む。
 海賊船の甲板にはこちらに乗り込んでくる気満々の海賊どもの姿。見えるだけでも二十人はいる。どれも男だ。メアリーの姿はない。どうやら自分で乗り込む気はないようで、下っ端に任せるつもりらしい。
 二つの船の距離がゆっくりと近づく。
 今漁船に保存してあるカツオの量は多くないとは言え、それでも奪われたら百万ほどの損失だ。奪われるわけにはいかないし、さっさとこの馬鹿どもを撃退してまたカツオ探しをしなければならない。
 いよいよ目と鼻の先まで海賊船が近づいた。
 乗り込まれる前にこっちから乗り込んでやろうと思った天子が船の縁に足をかけた。
 その時だった。

「な、なんだあれはーーー?」

 海賊船に乗っていた雑魚Aが船の進行方向を指差して叫んだ。周りにいる雑魚どもも、同じように天子の背後を何か信じられないような目で見つめている。
 何だろうと思った。仕方なく天子も振り返ってその方向を見た。

 空に壁があった。

 壁だと思った。それはどう見ても壁にしか見えなかった。
 分厚く伸び広がった雲から垂直にばかでかい灰色の壁が天に向かって伸びている。縦と横がどこまで伸びているのか目で確認できないほどだ。
 漁船の進む方角の前方。まだ距離はあるようだが、あまりにもでかすぎてそれとどれくらいの距離なのかがうまく把握できない。

「なにあれ!?」
「あれは……まさか」

 血相を変えた村紗が操縦室へと駆け込む。天子もそれを見て村紗について行く。
 村紗が操縦室についてまず最初に見たのは魚群探知機のモニターだった。
 モニターを見た村紗はもうこれ以上変わりようがないくらい顔色を変えて、

「まさかと思ったけれど、どうやら私の予想は当たったみたい。こんなの初めて見た」
「どういうこと?」

 天子が訊くと、村紗はモニターを指差して、

「これを見ればわかるよ」

 天子はモニターを覗き込む。
 そこに映っていたものは、カツオの反応。魚群探知機なのだから当たり前と言えば当たり前だが、今までの反応とは比べものにならないほどの大きさ。
 画面の三分の一ほどが真っ赤に染まっていた。船の進行方向にそのレッドゾーンはある。
 と言うことは、

「あの壁みたいな奴が全部カツオの群れの雲ってこと!?」
「どうやらそうみたい。カツオは群れれば群れるほどその体に纏う雲も大きくなるんだ。だけど、あんなのは普通じゃない。何百とか何千とか、そんな数の群れじゃない。何万、何十万、ヘタしたら百万を超えるかもしれない」
「百万……」

 天子は双眼鏡を引っ張り出してその雲を見てみる。
 壁かと思ったそれは確かに雲のようだった。限りなく黒に近い灰色の巨大な雲だ。双眼鏡で何倍にも拡大してみて気付いたが、渦を巻いているのか雲の表面がかなりの速度で動いている。時折、稲光のような光も所々で発せられていた。
 それはもう雲と言うよりは、ハリケーンと言った方が正確なのではないかと天子は思う。
 同じように村紗も双眼鏡に目を押し当てながら言う。

「竜巻みたいに渦を巻いているね。たぶんあの中はものすごい風が吹き荒れていると思う。私もあんなの見たことないから、実際あの中がどうなってるのかわからないけれど、とにかく尋常じゃない状態なのはわかる。あんなのに突っ込んだら、普通の船ならまず助からない」
「じゃあすぐに逃げないと!」

 しかし村紗は目から双眼鏡を外すと、天子の方をまっすぐに見て、

「いいの? これはチャンスだよ?」
「え?」
「天子は明日までにお金が必要なんでしょう。あの中には大量のカツオがいる。札束が向こうから来てくれたようなものよ。今から船の容量いっぱいまで釣ることができたら、明日中にはその分のお金を用意することができる。あの雲はおそらく高速で移動してるから今このタイミングを逃したら、二度とチャンスはこない」
「でも、突っ込んだら助からないって……」

 村紗は首を振った。

「普通の船なら、と言ったんだよ。でもね、私たちが今乗っている船は普通じゃない。そこらの船とは比べられないくらい頑丈だし高性能よ。それに……」

 親指で自分の胸を指して、

「なんたってこの船のキャプテンはこの私なのよ。私に任せておきなさい。船の操縦で右に出る奴なんていないよ。それとも天子は私のことを信用できない?」

 天子は村紗の目を見る。その目は自信に溢れていた。
 ふっと天子は笑って、

「信用してるに決まってるじゃない」

 村紗とは船の上で生活を共にする仲間だ。わずか十日とちょっとの生活だったが、それでもこの生活でお互いに信頼関係を築くには十分な時間だった。

「決まりだね! あそこに突っ込んだら私は船の操縦で手一杯になると思うから、釣るのを手伝うことはできない。天子と妹紅の二人に頑張って貰うしかないけど、それでも良い?」
「当ったり前でしょう。私たちだけで十分。……あ、そう言えば忘れてたけど、後ろの海賊船どうするの?」

 カツオに興奮して天子はすっかり忘れていたが、今この船と海賊船はワイヤーで繋がった状態なのだ。それでこれから荒れ狂う嵐の中に突っ込んでも平気なのだろうか。

「できれば何とかしてもらいたい。唯一不安があるとしたら向こうの船に引っ張られてバランスが保てないかもしれないって事だから」

 と、そこで海賊船を気にして一人船の後方に残っていた妹紅が叫んでよこす。

「ちょっと! 今どういう状況!?」

 天子はスピーカーのマイクをつかんで、

『あの前にある壁みたいなのはカツオの群れの雲なの! 今からそれに突っ込んでカツオを釣れるだけ釣るわよ!』

 妹紅が驚いた声を出す。
 天子が今度は海賊に向かって、

『馬鹿海賊ども! そういうわけだから今すぐその槍を引っこ抜きなさい! あの中に入ったらただじゃ済まないわよ。死にたくないのなら大人しく家に帰ることね!』

 天子が言い放つと、すぐに向こうから返答がある。

『なるほどね。確かにあれはやばそうだ。だけどね、そっちが漁師としての仕事を果たすというのなら、こっちも海賊としての仕事を果たさせてもらうよ!』
『後悔してもしらないわよおっぱい海賊のメアリー』
『そっちこそ、覚悟しておきなまな板漁師の天子』

 やり取りはそれで終了。もう後には引けない。
 ちなみに天子の胸はまな板でない。人よりはちょっとだけちっちゃいけれど、しっかりとあります!
 妹紅が苦笑いを浮かべながら、

「何だか大変な事になったみたいだね」
「まったくね。まずは後ろにくっついてる邪魔者を排除しなきゃ」
「向こうの話によれば確か、槍に付いてる『かえし』は向こうの船で操作できるらしいね。あっちに乗り込んで、操縦室まで行かないと」
「まず私と妹紅で協力して速攻であいつらを叩きつぶす。それで槍を引っこ抜くように命令する。槍が抜けたら海賊船を再起不能にして、その後に急いでカツオ釣りに移るって感じで良いかしら?」

 すると妹紅は手をひらひらとさせて、

「いいよ。あいつらの相手は私がするから。天子は釣りに専念してよ」
「大丈夫なの? 妹紅の腕っ節の強さは身をもって知ってるけど、それでも相手はかなりの人数なのよ」
「平気へいき。私は不死身なんだ」

 あの雲の中がどうなっているのかわからないが、外から見た感じ相当やばいというのはわかる。さっさと釣ってさっさと離脱するのが理想だ。そう考えると、一人が釣りに専念できるというのは大きなアドバンテージだ。
 しかし、二手に分かれたから効率が上がるとも限らない。二人で協力してさっさと向こうの馬鹿どもを片づけた方が早いかもしれない。
 それにだ。

「いくら不死身と言っても、捕まっちゃったらどうしようもないでしょう。海賊なんて品性のない奴らばっかりよ。女を捕まえたらどうせ、いやらしぃ~~~~~~~事するに決まってるわ。いま里でひっそりと人気のあるエロ同人みたいな展開になるのは嫌よ!」
「捕まらなければいいんでしょ。それにもし仮に捕まったとしても、片っ端から燃やし尽くしてやる。鈴奈庵の一番端っこの棚に置いてあるエロ同人みたいな展開にはさせないわ」

 天子は強く言う。

「鈴奈庵に置いてあるエロ同人を借りる度に、小鈴が『私、全然気にしてませんよ』みたいな態度で接するんだけど、その実顔を真っ赤にしている姿が人気で、それ見たさにわざわざ小鈴が店番をしている時に借りていく人もいるエロ同人みたいな展開には本当にならないんでしょうね!?」
「成人にならないと店で買ったり鈴奈庵で借りたりできないから、そういうのに興味が出てきた子供は、川とか草むらに落ちているのを期待して探しに行くエロ同人みたいな展開には本当にならない!」

 天子は一度落ち着いて、

「本当に任せても良いの?」

 妹紅は天子に背を向けて、顔だけで振り返りながら、

「任せておいて。すぐに片づけてそっちの応援に行くよ。絶対に無事に帰る。この漁が終わったら、慧音と一緒に旅行に行くんだからね!」
「わかった。任せる!」

 フラグっぽい発言は無視。
 妹紅の事も信頼している。最初は天子とあまり良い関係ではなかったが、その分距離が縮まった今となっては妹紅への信頼も大きい。妹紅が一人で十分と言うのなら、信じるだけだ。
 三人の役割は決まった。
 後はそれぞれがその役割を果たすだけだ。

「フルパワーで突っ込む。加速に備えて!」

 村紗が言い放つ。

「いつでもオッケー」

 天子は壁に手をついて答える。
 すると、後方から何やら声が上がった。
 妹紅が海賊船に突撃したのだ。乗り込まれる前に乗り込んでしまえと思ったのだろう。海賊の一人を蹴り飛ばしている姿が見えた。
 蹴られた方はぐるんぐるん回りながら勢いよく吹っ飛んで、周りにいた海賊を何人か巻き込んでようやく止まった。
 と、そこで船が加速するのを感じた。慣性が働き後ろの壁に押しつけられる。ジェット噴射でもしているのかというくらいの急加速だ。
 見る見るうちに後ろの海賊船との距離を伸ばしていく。妹紅の姿が小さくなり、やがてその影は海賊達の中に紛れて見えなくなった。
 そんな雑魚どもなんかさっさと片づけて早く帰って来なさいよ、と天子は心の中で言う。
 海賊船とはある程度の距離まで離れたがワイヤーが邪魔をした。限界まで伸びきったようで急に後ろに引っ張られるような感覚があった。

「あーもう! やっぱり後ろの荷物が邪魔だ」

 村紗が忌々しげに叫ぶ。
 しかし、後ろとはかなりの距離が開いたので海賊がこっちの船に乗り移って来る事はなくなった。多少速度は落ちたがまだかなりの速さを保っている。
 逆に例の雲との距離はかなり縮まった。どうやら向こうもこちらに向かって来ているようだ。これなら後数分であの中に飛び込む事になりそうだった。
 近くまで来ると、その大きさに圧倒される。
 漁の三日目に見つけたカツオの群れなんて目じゃない。あれが龍だとしたら、この目の前にあるのはまさしく「龍の巣」だ。
 音がする。風の音だ。それは明らかに普通じゃない。とんでもない威力で雲が渦を巻いているのが目でも耳でもわかる。
 いよいよこれからあの中に入るのだ。村紗ですら中の状況がどうなっているかわからないと言っていた。誰も見たことがない未知の世界が広がっているのだ。
 ふと天子は自分が震えているのに気がついた。
 自問自答する。
 本当に良いのか。もしかしたら命の危険すらあるかもしれない。今だったらまだ間に合う。引き返す事だってできる。
 カツオなんて釣ってどうする。それで金を稼いだところで自分に何か見返りがあるのか。子供達の事なんか放っておけばいい。たかが遊び場の一つや二つなくなったってそんな困りはしない。命をかけるなんて馬鹿げている。
 数秒の思考の後、天子はそんな考えを全て捨てた。
 ここまで来て逃げるなんてそれこそ馬鹿げている。ここまで来たのだ。最後までやり遂げたい。それは子供達のためでもなく、ましてや父親のためでもない。これは天子自身のためだ。
 体の震えが大きくなる。
 気がつけば自然と笑っていた。
 不思議な気分だった。確かに恐怖もあった。だけど、この体の震えは恐怖から来るものではない。
 最高の獲物を前にして、最高に興奮しているのだ。漁師の才能があるなんて村紗や善一郎に言われた天子だったが自分でそれを自覚することはなかった。しかし、今になってはっきりとわかった。自分の中には確かにとんでもない才能が眠っていたのだ。今すぐにでも竿を握りたくてうずうずしている。

「さあ突っ込むよ。覚悟は良い!?」
「もちろん!」

 目前まで来た所で村紗が舵を切った。船は大きく右へ向きを変える。渦を巻いている向きと同じだ。雲に対して斜めに進入してうまい具合にこの流れに乗るつもりらしい。
 その判断は正しかった。馬鹿正直に突っ込んでいたらその瞬間に船は大破していたはずだ。船が雲の流れに乗った瞬間、とんでもない衝撃が襲ってきた。天子は操縦室の中で三回転はした。景色がめまぐるしく変わり体があっちこっちにぶつかって、気がついた時には村紗と抱き合うような形で重なり合っていた。

「あ~~~~~~、痛~い。おしり思いっきり角にぶつけたわ。……キャプテンは大丈夫?」
「私は平気。それにしても天子は桃みたいな匂いがするんだね。良い匂い」
「こんな時に何言ってるのよ。頭でもぶつけたか!?」
「冗談だよ」

 天子は起き上がると村紗に手を差し伸べて引っ張り起こした。

「船の方は問題ないの?」

 村紗はいくつもある計器を確認して、

「今のところは大丈夫、だと思う。あの衝撃に耐えられたのは良かった。一番怖かったのが入る時だったから、入ってしまえばこっちのもんね。ほら、よく言うでしょ。いれる時が一番痛いって」
「やっぱりあんた頭ぶつけたね!?」

 天子は一度落ち着いて操縦室の窓から外を眺めてみる。
 視界がものすごく悪い。まったく見えないわけではないが、数十メートルより先の景色は完全に寸断されている。時折ぱっと明るくなって雷鳴が響き渡ると、黒々とした雲の姿が映し出される。あちこちで乱気流が発生して荒れ狂う雲の流れが身をよじる邪悪な龍のようだ。
 船は揺れ動き、何かにつかまっていないと立ってられない。そのままひっくり返るんじゃないかとすら思う。
 村紗が何とか舵を握って、あれこれ操作すると揺れの大きさがようやく軽減される。

「天子、カツオは見える!?」

 窓の外を注意深く見つめる。とにもかくにも視界が悪いせいではっきりと見えない。それでも目をこらして良く眺めると、ちらっと何かの影が船の横を通り過ぎた。
 銀色の胴体。
 間違いない。カツオだ。

「いた!」

 一匹見つけるとすぐに他の姿が見えてくる。雲に隠れて見えなかっただけで、そこら中にいる。かなりの数だ。適当に針をぶん投げればおそらく針にかかってくるだろう。

「四方八方にたくさんいる!」
「よし! じゃあ天子、片っ端から釣ってきて! 任せたよ!」

 大きく頷いて、天子が操縦室の扉に手をかけて外に出ようとした。
 その時だった。
 扉に触れていた手が離れた。体が宙に浮いた。天子の意志によるものではない。
 船が今までとはまったく違う方向を向いた。あまりにも急な方向転換によって体が宙に放り出され、後方にあった壁に激しくぶつかる。天人の体が丈夫だったから助かったが普通の人間なら骨の数本はいっているところだ。しかし、船の急激な動きは止まらない。完全に船の機動力を無視した動きに引っ張られて、天子は室内の中をごろごろと転がった。
 何が起こったのか、なぜだかわかった。あまりにも色々と起こり過ぎて逆に頭の中はひどく冷静になっていた。
 船は今、海賊船と繋がった状態だ。天子の乗っている船が先に雲の中に入った。そして、その後に海賊船が続いて入ってきたのだ。漁船の方は村紗の操縦によってある程度スムーズに突入することができたが、向こうの船も同じように入って来るとは限らない。つまり今のこの状況は、向こうの船に引っ張られたことによって起こっているのだ。
 ヌンチャクみたいなもんだ。片一方を持って振ると、もう一方は遠心力によって激しく動き回る。海賊船がおそらくへったくそな突入方法をしたために、渦に思い切り巻き込まれたのだろう。そして、この漁船もそのあおりを受けてしっちゃかめっちゃかな状態になったわけだ。
 天子は自分よりも妹紅の身が気になった。果たして無事だろうか。
 ようやく船の変則的な動きも安定する。もみくちゃにされてかなり目が回ったが、何とか立ち上がる。
 と、村紗の姿が目に入った。床の上でぐったりと倒れている。

「村紗!」

 天子が叫んで駆け寄る。

「村紗じゃない。船の上ではキャプテンと呼べ……」

 そう言ってみせるが村紗の言葉は弱々しい。村紗は頭を押さえていた。近寄って覗き込むと、手の指の間から赤い雫が滴っている。頭をどこかに激しくぶつけたのだ。

「血が出てる! どうしよう……」
「この程度屁でもない」

 村紗は無理やり起き上がろうとする。天子はそれを制止しようとしたが、村紗は聞き入れない。

「カツオ釣るんでしょう。こんな所で寝っ転がってなんかいられない。大量の獲物が目の前にいるんだから」

 漁船の船長としてのプライドだろうか。ふらふらになりながらも無理やり立ち上がって、袖を使って目に入ろうとしている血を拭いた。なんとしてでも天子にカツオを釣らせようという気持ちが伝わってくる。
 天子は黙って頷いた。船の揺れに村紗の体がよろめくと、それを支えて操縦席に座らせる。
 と、そのタイミングで今度は操縦室にブザーが鳴り響く。

「次から次へと今度は何!?」

 天子が怒りを込めて叫んだ。
 村紗が計器類をざっと眺めて、右下にあるメモリに視線が合うとそこを食い入るように見つめた。

「大変だ……! 今の衝撃で船の動力部分に影響が出たみたい。エネルギーがどんどん減っていってる……」
「それってつまりどういう事!?」
「エネルギーがなくなると船は動かなくなる。操縦不能になって空を飛ぶ力も失われる。そうなると墜落するしかない」

 衝撃的な発言。
 天子は頭を抱えたくなる。だが我慢する。悲観したって状況が変わるわけではない。とにかく最善の手を尽くすしかない。

「後どれくらい持ちそうなの?」
「ちょっと待ってね……。えーと、そうだな……。あークソ! 減り方がかなり早い。これだと後一時間くらいでなくなる!」

 後一時間。
 絶望的な状況だった。一時間以内にカツオを釣って、おまけに後ろにくっついてる荷物を外さなければならない。しかも港まで帰る時間も考慮に入れなければならない。
 時間は圧倒的に足りない。誰がどう見ても絶望しかない。
 しかしそれでもやらなければいけないのだ。
 どんなにつらい状況でも、どんなに絶望しかなくても、できる限りの事をやらなければならない時があるのだ。
 それが今だ。

「海賊の方は妹紅が何とかしてくれるわ。だから私はカツオの方を何とかする。時間ぎりぎりまで釣るから、引き上げるタイミングはキャプテンが判断して」
「天子……」

 村紗が天子に視線を寄こす。額からはまだ血が出続けている。当然痛いだろう。
 村紗だって大変な状態だったし、妹紅も今は一人で海賊相手に戦っている。そんな状況で一人何もせずになんかいられるわけがない。そんな事は天子のプライドが許さない。二人が自分の役割をやり遂げるのなら、天子もやり遂げるだけだ。
 村紗は大きく頷いて、

「わかった。外はかなり風が強い。吹き飛ばされないように気をつけて。船から離れたらどうなるかわからないよ」
「了解。じゃあ行ってくるわ」

 天子は操縦室の扉を開けて外に出る。その瞬間猛烈な風が襲ってくる。吹き飛ばされないように船にしがみつきながら何とか移動する。途中で被っていたお気に入りの帽子が彼方へと消え去ったが気にしてる余裕なんてない。しまってあった竿を引っ張り出して、一本釣りを行う場所まで来る。
 ベルトコンベヤーが始動する。これにもエネルギーを使うだろう。できるだけ早く、大量のカツオを釣らなければ。
 カツオの血で染まった布を背後にして、竿を握りしめる。
 そして、竿を振った。
 針が雲の中に消えるとすぐにぐんと引っ張られる感覚がある。力一杯引き上げると生きの良いカツオが釣り上がる。
 あっという間に一匹目を釣りあげた天子はすかさず二匹目を釣りにかかる。
 視界が悪くてもカツオには餌の形をした針がしっかりと見えているようだった。一つの針に無数のカツオが群れる様子が見て取れた。
 この雲全体がカツオの群れなのだ。水の中に入って魚釣りをしているようなもんだ。竿を振ればどこででも釣れる。そこら中にカツオがいるのだ。
 時間がない。急がなければならないが、焦りはミスを生む。無駄なタイムロスだけは絶対に避けなければならない。とにかく集中力が必要だった。
 自分の動き全てに注意を払う。最短の時間で、最小の力を使って釣り上げる。
 釣り始めて少しすると雨が降り始めた。最初は弱々しい雨だったがすぐに猛烈な雨へと変わった。一つひとつの雨粒が飴玉くらいの大きさで、風に乗って弾丸のような勢いで横から吹き付けて来る。
 それでも釣り続ける。ただひたすらに、馬鹿みたいにカツオを釣りまくる。
 風にあおられて船が大きく揺れ動いた。そのせいで釣り上げる動作の最中に、天子はバランスを崩してしまった。いつもなら針が勝手に外れるのだが今回はうまくいかなかった。針をくわえたまま船の上でカツオがばったばたと暴れ回る。
 舌打ちをして、カツオを引き寄せ口に刺さった針を手で外した後、片手でカツオをベルトコンベヤーにぶん投げる。
 焦るな、と自分に言い聞かせる。一度深呼吸して気分を落ち着かせる。
 再び一本釣りを開始。
 限られた時間の中で一匹でも多く釣り上げる。いま天子の頭の中にあるのはただそれだけだ。
 一心不乱に釣りまくっているとさすがの天子も疲れてくる。カツオは大きいものだと一メートルほどになる個体もある。そうなると重さは二十キロ近くだ。そんなもんを釣り上げているのだから当然力を使う。天人パワーによってそこらのマッチョよりはよっぽど怪力だったが、それでも疲れるものは疲れる。
 呼吸が荒くなる。
 と、口から吐き出される息が白く濁った。
 辺りの気温が急に下がってきた。
 寒い。
 雨が氷のつぶてに変貌する。
 全身を打ち付けてくる氷塊は天子の頑丈な体にダメージを与えるほどではないが、雨よりはよっぽど厄介な相手だった。液体が固体になるだけでも不快感がまったく違う。集中力が一気に阻害される。
 何より寒い。
 体が震えてくる。頭の天辺から足のつま先までびしょびしょになっている所に、今度は凍てつくような冷気が襲って来たのだからさすがに堪える。
 手が、指が、腕が、寒さによってかじかんで、まるで錆び付いた機械のように動きが悪くなる。
 それでも天子は一本釣りをやめない。
 意地だ。
 我慢強さには自信があった。ここまで来たらもう意地だ。周りの状況がどうだろうが何がなんでもカツオを釣ってやる。例え火山が噴火しようが、天と地がひっくり返ろうが知ったことか。自分が満足するまで、カツオを釣るのはやめない。
 歯を食いしばって震える足を力の限り踏ん張って、かかった獲物を引っ張り上げる。銀色の魚体が天子の頭上を越えて後ろへ投げ飛ばされる。
 ここに来てさらに一匹を釣り上げる時間を短縮し始める。悲鳴を上げ始めた体にむち打って、無理やりに動かしながらもさらにギアを上げる。
 天子が釣ったカツオの数はすでに百は軽く超えた。常人ではあり得ない速度で釣りながらも、その勢いは落ちるどころか一層増していく。
 苦しい。
 呼吸が追いつかない。全身が酸素を欲しているのがわかる。心臓はばくばくでいつ爆発してもおかしくないくらいだし、腕はもうすでに乳酸のダムと化して一センチ動かすのだってしんどいし、頭の中は真っ白で立っていられるのが自分でも不思議に思うくらいの状態だった。
 それでもただひたすらに竿を振り続ける。
 今ここで一度でも止めてしまえばきっともう竿を握る気力もなくなってしまう。休みたいという気持ちを気力で封じ込めて、ひたすら釣り続ける。
 だがしかし。
 ここに来て、悲劇が訪れる。

 天子の体が弾き飛ばされた。

 横っ腹に大砲の弾をぶち込まれたのかと思った。それくらいの衝撃だったし、実際その認識はそれほど間違っていなかった。
 カツオに体当たりされたのだ。
 荒れ狂う風に乗ってスピードを増したカツオの巨体はそれこそ大砲の威力に匹敵するものだった。さすがの天子もこれは効いた。船の外に放り出される事はなかったが、床の上でぐったりと倒れ込んで起き上がることができない。
 意識が落ちていく感覚。
 あらがう力は天子には残されていなかった。そのまま天子はゆっくりと目蓋を閉じて、完全に意識を失った。




「天子!」

 村紗は舵を握りしめながら叫んだ。
 操縦室の中から天子がカツオに吹っ飛ばされた所を見ていた。天子は倒れたまま起き上がる気配はなくぴくりとも動かない。
 このままではまずい。とにかく操縦室の中に天子を運び入れようと思った。
 操縦をオートに切り替えて、急いで天子の許へと駆け寄ろうとした。
 しかし、そこで邪魔が入る。
 船全体が後ろに引っ張られる。またしても後ろにいる海賊船によってバランスが大きく崩れる。船が傾き、ひっくり返りそうになったので、村紗は慌てて操縦を手動に切り替えて船の姿勢を元に戻そうとする。ぎりぎりの所で最悪の状況は免れた。今ひっくり返ったら天子がそのまま船から落下していってしまう。それだけは何とか防いだ。
 だが状況は好転しない。
 相変わらず後ろの船に引っ張られて、右へ左へと漁船が揺れ動く。その動きに合わせてハンドルをぐるんぐるん回して、船を安定させようと努力する。
 とてもじゃないが天子の所に駆け寄っている暇なんてなかった。
 すぐ近くにいるのに助けに行くことができない歯がゆさに、村紗は歯を食いしばる。
 マイクをひっつかんで、力の限り叫ぶ。

『天子! 天子、起きろ!』

 すると反応があった。天子がぴくりと体を動かした。

『天子! こっちに戻って来るんだ! 早く!』

 その声に応じて、ものすごくゆっくりとだが天子は船の縁にしがみつきながら起き上がった。どう見ても平気そうではない。
 だと言うのに、天子は村紗の言うことを無視した。こっちに戻ってくるどころか、落ちていた竿を再び拾い上げるとまたカツオを釣り始めようとする。

「どうしてそこまで……」

 涙が出そうになった。
 ぼろぼろになりながらも必死にカツオを釣ろうとする天子の姿に、村紗は胸がいっぱいになった。
 それなら村紗のやることは一つだ。船員が気持ちよく漁を行えるようにするのが船長の務め。少しでも天子がやりやすいよう、船の姿勢を安定させることに全力を尽くす。
 船はひっきりなしに好き勝手動く。村紗の腕がなければとっくにひっくり返っている。ハンドルを右へ回したと思ったら、次の瞬間には左に回す。レバーで速度の方も制御しながら、一秒単位でめまぐるしく変わる状況に対応する。
 船のエネルギーはもうすでにかなりを使い切った。残る時間はあと二十分といった所だろう。いまだに後ろの突き刺さっている槍が外れる気配はない。あれが外れてしまえば船の操縦もだいぶ楽になるのだが、それは妹紅の頑張りに期待するしかない。
 と、そこに新たにブザーが鳴り響く。

「今度は何だ!?」

 計器類に目を走らせる村紗だったが、すぐにブザーは鳴りやんだ。

 その瞬間、船の動力が完全にシャットダウンしたからだ。

 明かりが消える。
 ほとんど何も見えないような暗闇に包まれる。
 そして、船は前のめりになりながら落下し始める。
 まずいと思った時には、体がふわっと宙に浮いて無重力状態へ突入。天井に尻餅をつくという不可思議な事態になっていた。
 とにかくこのままだと墜落する。それだけは絶対に避けなければならない。
 と、天井についていた尻が離れた、と思ったら今度は床に叩きつけられる。落下する速度がいきなり減速したのだ。
 顔面をしたたかに打ち付けて、涙がじわりと浮かぶ。
 だが明らかに落下速度は遅くなった。
 どうやら海賊船と繋がっていた事が今回ばかりは良い方向へと転がったらしい。向こうの船の浮遊力によって、何とかこの船も支えられているというわけだ。しかし、それでも完全ではない。速度は遅くなったとは言え地面に向かって突き進んでいる事に変わりはない。
 村紗は操縦パネルの前に素早く移動して、まずエンジンをオフにする。それからすかさずオンへと切り替える。しかし、船はぴくりとも動かない。
 今度はあれこれといじり回って、再びエンジンをオフからのオン。だがそれでも船が動く気配はまったくない。
 村紗は何度も何度も試す。だがやはり船が動力を取り戻すことはない。

「ちくしょう!」

 力の限りそう叫んで、操縦パネルを拳で殴った。
 船長は船員を必ず無事に港まで届けなければならない。それは絶対だ。それが守れなかったら、今後キャプテンなんて名乗れるはずがない。

「頼む……。頼むよ……! 動いてくれ」

 必死の思いで操縦パネルをぶっ叩く。
 もう村紗にできることと言ったら、それくらいだった。
 キャプテンとしてのプライドや魂、そんなもんを拳に込めて、両手を振りかざして本気でぶち込んだ。

「動けぇええええ!」

 ばこぉぉおおおおおおんとものすごい音が響き渡る。
 すると、ピーーー、というけたたましい音を立てて機械類が復活。すかさず村紗はその瞬間にエンジンをオンへ。わずかな時間差があって、エンジンが始動。船に動力が戻る。
 ぱっと漁船の明かりが点いた。
 すぐに村紗は前のめりになっていた船体を引き起こす。ようやく船が水平を保ち、墜落という最悪の展開は避けることができた。村紗は大きく息を吐いた。
 と、そこで思い出す。
 ――天子は!?
 窓から甲板の方を見ると、縁にしがみついている天子の姿が目に入った。この日一番の安堵に全身の力が抜けかけたが、まだ気を抜くわけにはいかない。まだこの荒れ狂う雲の中にいるのだ。

『天子、ごめん! 船の動力がオフになった。でも、もう平気。いつでも一本釣りを再開できるよ』

 天子が頷いたのが見えた。
 とにかく時間ぎりぎりまで釣らせてあげたい。その後、無事に港まで帰る。
 そのためには後ろの海賊船を切り離す必要があった。
 ――妹紅、頼むよ。
 村紗は胸の中でぽつりと呟いた。




 海賊船に一人乗り込んだ妹紅は暴れに暴れ回った。
 向かってくる海賊の顔面に右ストレートを叩きこみ、次いで左フックを脇腹に突き刺す。二発で意識を刈り取る。
 今度はサーベルを持った厳つい男が向かってくる。

「かよわい女の子相手に武器なんて引っ張り出して来るなんて、卑怯じゃないのかい?」
「うるせえ! こっちはおめえが不死身だって事くらい知ってるんだ。普通の女なら容赦する所だが、不死身となれば話は別だ」
「ひどいねえ。不死身差別って奴?」

 サーベルを振りかざしてくる相手をいなして、鳩尾に膝蹴りを叩きこむ。苦しげな声を上げて男の体が崩れ落ちる。
 もうすでに何十人もの海賊達を倒していたが、次から次へと湧いて出てきてきりがない。
 妹紅は甲板から船の内部へと侵入したが、この船の構造には参ってしまう。まるで蟻の巣かなんかのように入り組んでいるのだ。外から見たよりも中はずっと広くて、似たような細道が四方八方に伸び広がっているもんだから、自分がどこから来たのかすらわからなくなる。

「いた! あそこだ! 者どもであえ~~い!」
「これじゃ、どっちが賊かわからないね」

 束になって襲いかかってくる連中にドロップキックをかます。ドミノ倒しのように海賊どもが綺麗にぶっ倒れる。その上を妹紅は遠慮なく走り抜けると、目に入ったドアを開けて室内に入り込む。
 入った先はどうやら食堂で大きなテーブルが置かれていた。本来ならその上に美味しそうな料理が並んでいたのだろうが、今は床の上にぐちゃぐちゃの状態で散らばっている。船が大きく揺さぶられたせいでそうなってしまったのだろう。
 誰もいなかった。
 ドアの外から走り抜ける足音が聞こえてきたが、通り過ぎて行った。
 しかしこう広いと操縦室を探すのも一苦労だ。妹紅は一息つく。
 と、そこでテーブルの上にまだ無事に残っていた料理が目に入った。上手に焼けた骨付き肉だった。見るからに美味しそうで、かぶりついてしまいたいという欲求が湧き上がる。
 ぐるると腹が鳴った。動き回ったせいだろうか、かなり腹が減っていた。
 妹紅は骨付きに近づくと、匂いを嗅ぐ。いかにもうまそうな匂いを発している。
 別に食ってもかまいやしないだろう。腹が減ってはなんちゃらと良く言うではないか。
 妹紅は骨付き肉の骨の部分を手に持って、豪快にその肉にかぶりついた。口いっぱいにジューシーな肉汁が広がった。
 うんめぇえええええええ。
 口には出さなかったが心の中で力一杯叫んだ。
 一口目を飲み込み、すぐに二口目へ。食べ出したら止まらないほどにその肉はうまくて、がつがつ食いつく。
 思えば、まともな食事は久しぶりだった。漁船の台所ではまともな料理なんて作ってられないし、ほとんどがレトルトなどの簡単に作れるものばっかりだ。まずくはないが、さすがに似たようなものが連日続くと飽きてくる。
 何より肉は久しぶりだ。
 久しぶりの肉は本当にうまかった。
 しかし、半分ほどまで食べた辺りから少し異変が起き始めた。
 骨付き肉を持っていた手が急に震えだした。かと思ったら今度は足までもが勝手に震え出す。持っていた骨付き肉が手から離れて床に落ちて、それと同時に妹紅の体も崩れ落ちた。
 自分の体がうまく動かない。
 立つことすらできず、地面にはいつくばる。
 突然自分の体に起こった異変に驚きながらも、原因は予想が付く。
 骨付き肉だ。
 と言うことは――。
 妹紅が這いつくばっているすぐ近くに置いてあった段ボール箱。その中から男が急に飛び出してきた。

「はっはっは~~。まさかこんな罠に引っかかるとは、自分で仕掛けておきながらびっくりしちまったぜ」

 男の言葉にまったくだと妹紅も思う。自分のアホさ加減に頭を抱えたくなったが、全身がしびれて腕さえも動かすことができない。
 死に至る毒だったらリザレクションしてしまえばまったく問題がない。だが体の自由を奪う毒だとさすがの妹紅にもどうする事もできない。
 男が食堂の扉を開けると、外に向かって叫ぶ。

「お~~い! 例のお嬢ちゃんをとっつかまえたぞ!」

 どたどたと複数の人間が走り寄ってくる音。すぐに数人の海賊どもが食堂に駆け込んでくる。

「しびれ肉で体の自由をなくしてある。しばらくはまともに動くこともできないぜ」
「ほぉ~~~、やるなあ、お前」

 海賊どもの視線が妹紅に集中する。ぐへへへ、なんて言いながらどの顔も気持ちの悪い笑みを浮かべいる。
 男どもがゆっくりと近づいてきて、妹紅を囲んで壁のように立ちつくす。
 全部で六人。体が麻痺していなければ、こんな人数相手にすらならなかったというのに。
 妹紅は男達をにらみつける。

「お~お~、怖いねえ。すげえ気迫だ」

 海賊の一人が言うと、他の奴らが一斉に笑い出す。

「さて、こんなチャンスめったにねえ。今の内にやることやっておかなくちゃなあ」

 その言葉に妹紅は身の危険を感じた。
 まさか、と思う。
 男達の気持ち悪い視線がより一層強くなり、ぐへへ笑いが室内に響き渡る。
 ここに来て妹紅は初めて男達に恐怖を感じた。

 ――こいつらまさか、私の体が動かないのを良いことにエロ同人みたいな事をする気!?

 六人の内の二人がお互いに目を合わせて頷くと、ゆっくりと妹紅に近づいて来る。

「やめろ……来るな……」

 妹紅は必死に抵抗しようとするも、やはり体の方は言うことをきかない。手を弱々しく握りしめるくらいのことしかできなかった。
 男達の手が妹紅の体へと伸びてくる。その手から逃れる術は今の妹紅にはなかった。
 ふと慧音の顔が浮かんだ。
 ごめんね、と謝りたくなった。ごめんね慧音、と。
 覚悟を決めた。自分は屈服しない。どんなことをされても心まではやられはしない。
 二人の男の手が妹紅の体へと伸び、そして――

「よし、こいつを船長室へ運ぶぞ」

 妹紅は二人の男に抱え上げられた。海賊どもは妹紅の脇に腕を入れて体を持ち上げると、引きずるようにして運び始めた。

「あとロープ持ってこい。効果が切れて暴れ回られたら大変だからな」

 覚悟を決めていた妹紅は、あれ、と思う。てっきりこれからあれこれといやらし~~~エロ同人みたいな展開になると思っていたが、どうやら違うらしい。二人に抱えられてずるずると細い道を引きずられて行った。
 運ばれた先は船長室だった。
 そこでついにボスと対面。
 広い部屋だった。壁際に子分どもがずらっと並び、奥に海賊船の船長メアリーが相変わらずロングコートに水着というエロい格好をして、座り心地の良さそうな椅子に足を組んで座っている。
 今すぐにでもその顔をぶん殴ってやりたかったが、毒によって体の自由を奪われて、さらにロープでぐるぐるに縛り付けられて巻き寿司状態にされて身動きがまったく取れない。

「まったく、とんでもない奴だね。随分と好き勝手やってくれたじゃないか?」
「……ふん。それを言うなら、お前らだってそうだ。さっさと漁船に突き刺した槍を外せ」

 メアリーは笑った。

「はん、まったく威勢が良いね。そういうの嫌いじゃないけど、お前さん、今の自分の立場をわかってないみたいだね」

 メアリーは立ち上がるとヒールをかつかつ鳴らしながら近寄って来て、妹紅の顔面に蹴りを一発入れた。
 口の中が切れて、血の味がする。

「さあて、どうしたもんかね。私たちとしては早くこの雲の中から出たいわけなんだが……こいつを餌にして、向こうの漁船に交渉を持ちかけるか。さすがに仲間を見捨てるような連中じゃないだろう」

 マイクをつかむと、

「操縦室。聞こえるかい?」
『はい、姉さん』
「スピーカーで前の漁船に声が届く範囲まで近づけるかしら?」
『やってみます』
「頼んだよ」

 マイクを戻して、メアリーは椅子に座り込む。

「こいつの身柄と向こうの船にあるカツオ全部を交換する。まずはこの雲の中から抜けるよう指示を出す」

 最悪だ。
 自分のへまで仲間に迷惑をかけるような事だけは絶対にしたくなかった。それなのにこんなくそつまらない失態によって、自分たちの計画が何もかもぶち壊しになるなんて。
 向こうでは天子と村紗が懸命に頑張っているはずだ。見なくたってわかる。必死に自分の役割をこなしているはずなのだ。
 それなのに……。
 必死に考える。この状況を打開するための策は何かないのか。かろうじて動く首を回して辺りを確認する。子分の数は十人以上。何人かがその腰にサーベルやら短剣を差している。
 床には真っ赤な絨毯。壁にはでっかい地図と古めかしい絵画が飾られている。天井からは仰々しいシャンデリア。船の揺れに合わせて、ひっきりなしに揺れ動いている。
 体に回った毒はまだ抜けない。全身が麻痺して、手を握りしめるのだって苦労する。体を縛っているロープの方は炎で焼いてしまえば何とかなりそうだったが、毒の方を何とかしない限りは状況を打開する事はできそうにない。
 どうするか。
 考えることおよそ三十秒。
 無理だ。何も思い浮かばない。
 毒が抜けきってしまえばこっちのもんだが、体の感覚からしてまだ当分は無理そうだ。
 申し訳なく思う。せっかく頑張ったというのに、全てが無駄になってしまう。村紗、そして天子に対しての罪悪感が膨らんでいく。
 おそらく二人は交換条件を受け入れるだろう。自分が向こうの立場でもそうする。そして、へまをした自分の事を責めたりは絶対にしないだろう。そのことが何よりも妹紅にとってつらい。
 何とかしたい。
 この絶望的な状況を、何とか。

 がくん、と船が揺れた。

 床に座らされていた妹紅は背中を打ち付けた。
 壁際で立っていた海賊達も一斉に全員が倒れ込んだ。うわー、やら、どひゃーとか悲鳴が飛び交う。
 斜めに傾いた船体は元に戻るどころか、そのままどんどん傾き続ける。
 メアリーが怒声を飛ばす。

「何が起こった!?」

 部屋に備え付けられたスピーカーから、

『前の漁船に引っ張られてます! すごい勢いで落ちてる!』
「なんだと!?」

 床が傾き、その上をずるずると体が滑って行く。海賊たちも何とか壁にしがみついて堪えようとするが、努力叶わず後方の壁まで滑り落ちていく。そこに次から次へと新しい海賊が落っこちていくもんだから、下敷きになった奴は可哀相だ。
 壁際まで滑り落とされた妹紅の前に、海賊の一人が降ってくる。その腰には短剣があった。
 それを見て閃いた。
 妹紅はすかさず身を縛っていたロープを炎で焼き切った。それからしびれてうまく動かない腕を懸命に伸ばして、その腰に収まっていた短剣を手につかむと、鞘から抜き出す。
 銀色の綺麗な刃だ。雑魚のくせに良い短剣を持っている。これなら人の体なんて簡単に貫くことができる。
 妹紅はそれを逆手に持つと、何のためらいもなくその刃を自分の胸へと突き刺した。深々と刺さったそれは心臓を貫き、来ていたシャツを一瞬にして真っ赤に染め上げた。かは、と口から血液混じりの咳が出ると、妹紅の意識が消え去った。
 そして、

 リザレクション。

 炎の中からまるで不死鳥が蘇るがごとく真新しい体となって復活を遂げる。先ほどまで全身に回っていた毒はすっかりなくなり、いつもの健康的な体に戻っている。
 船の落下が止まり、ようやく水平を取り戻す。
 端っこで重なり合った海賊の雑魚どもを尻目に、妹紅はボスと対面する。

「ほう、混乱に乗じてうまい具合にやったようだね」
「ああ、これでお前をようやくぶん殴れるよ。さっきはよくも蹴りを入れてくれたね」
「この私とやる気かい? やめておきな、私はかなり強いよ」
「生憎、こっちも腕には自信があってね。……一つ訊いておくけど、降参する気はないんだよね。今すぐ漁船に刺さった槍を外すって言うのなら、その綺麗な顔に傷がつかなくてすむんだけど」

 妹紅が言うと、メアリーは声を上げて笑った。

「馬鹿を言え。こっちのセリフだよ」
「そう。じゃあ、やるまでだ」

 お互いに見つめ合う。
 空気が張り詰める。お互いが相手の動きに細心の注意を払っている。メアリーは両手を前へ構えているが、妹紅は余裕綽々といった様子で、もんぺのポケットに両手を突っ込んでいる。
 先に動いたのは妹紅だった。
 およそ五メートルの距離を瞬きをする間よりも早く詰め寄って、メアリーの頭めがけて回し蹴りを叩きこむ。常人には捉えきれない速度で繰り出されたそれを、しかしメアリーはしっかりと捉えきっていた。左手で受けきると、右手で妹紅の顔面めがけて拳を繰り出してくる。
 妹紅は首を捻ってその攻撃をよけると、今度はメアリーの脇腹めがけて左フックを放つ。メアリーはそれもうまく腕でガードする。
 妹紅は続けざまに攻撃を繰り出す。右ストレート、左ジャブ、意表を突いたかかと落とし。しかしメアリーはそれらの攻撃を全て凌ぎきる。
 妹紅は一端距離を離すと、

「やるね」
「そっちこそ」

 もう一度離れた距離を一気に詰め、今度は前蹴りを繰り出す。メアリーは横に大きく飛び、それを交わす。妹紅はそのまま後ろにあった壁に蹴りを食らわせる。めりめりという音がして、壁に大きなひびが入った。妹紅は壁についた右足で勢いを殺すと、その足で壁を蹴り、横によけたメアリーに向かって飛びかかる。
 その顔に向かって左パンチをお見舞いする。
 妹紅の変則的な動きについてこれず、メアリーはまともに顔面を強打された。パンチの勢いで体が吹き飛び、床の上をごろごろと転がり回った。

「……ぐぅ」

 メアリーは床に膝をついて、顔を上げると妹紅を睨む。

「へえ、結構タフだね。普通ならその一撃で意識が刈り取られてもおかしくなかったのに」

 手加減はまったくしていない。熊だって一撃でしとめられるほどの攻撃だったはず。それをまともに受けて、妹紅を睨んでくるほどにはまだ力が残っているとは、多少の驚きがあった。
 メアリーが立ち上がった。
 ゆっくりと両腕を構える。何か、雰囲気が変わった。じっと妹紅のことを見つめてその場から動こうとしない。その目はまるで鷹のように鋭い。妹紅の一撃を受けた事でメアリーの集中力が増した。妹紅が強敵であると認識したのだ。
 だが構いはしない。このまま押し切ってぶっ倒す。
 妹紅はメアリーに詰め寄って怒濤の攻撃を仕掛ける。四肢から繰り出される圧倒的な攻撃の前に、メアリーは防戦一方だ。その全てを受けきることはできず、右フックが脇腹に突き刺さり、左の蹴りが頭を捉える。膝蹴りが鳩尾に叩きこまれると、さすがのメアリーも苦しげな声を上げた。

「おい、やべえぞ! 姉さんがやられそうだ」

 周りにいた雑魚どもがざわめき出す。

「俺らも加勢しよう!」

 そこでメアリーが、

「手を出すんじゃないよ! これは私とこいつの勝負だ!」

 一喝。
 それだけでその場が静まりかえる。

「いいのかい? 私は別に全員が相手でも構わないんだけど」
「馬鹿を言え。……さあ、かかってきな」

 その姿勢は敵ながら天晴れだ。その心意気を確かに受け取った。
 妹紅は笑う。
 それならやることは一つ。全力で叩き潰すだけだ。
 勝負を決めるつもりで猛烈なラッシュを仕掛ける。先ほどよりも早く、そして重い攻撃。メアリーはその一つひとつの攻撃をガードしていく。だが、やはり妹紅のスピードについて行けず、ガードの隙間をぬって妹紅の拳や蹴りが体に突き刺さる。
 まともな人間ならとっくに死んでいる。それなのにメアリーはいまだに立ち続けている。怖ろしいタフさだった。
 ここに来て妹紅に疲れが見えてきた。今まで涼しげだった顔に汗が浮かぶ。口から吐き出される息は荒い。重く早い攻撃は相手に大きなダメージを与える分、自分のスタミナを多く消耗する。
 妹紅が疲れを見せ始めてから、今まで防戦一方だった展開に少しずつ変化が訪れる。妹紅の攻撃が通らなくなった。メアリーのガードに全て吸収される。
 そして、その攻撃の合間をぬって今度はメアリーの攻撃が妹紅を捉え始める。最初はそれほどでもなかったが、次第にカウンターは威力を増し、右フックが顎先を捉えた時には妹紅の足がふらついた。
 メアリーは妹紅よりも頭一つ分は背が高かった。そこから繰り出される攻撃はかなりの威力がある。一撃、一撃のダメージは確実に蓄積していく。
 妹紅としてもそのリーチの差を埋めるためにより深く相手の懐まで飛び込まないといけないので、スタミナの消耗は当然大きい。
 相手のカウンターを受けて妹紅もかなりのダメージを受けていたし、メアリーの方も相当なダメージが蓄積していた。
 妹紅とメアリーの戦いは、もはやどちらが勝つかわからない状況になった。

「なんて戦いだよ。こんなに激しい戦闘は見たことがねえ」
「まったくだ。姉さんと互角にやり合う奴がいるなんて、思いもしなかった」
「しかもすげえ可愛い」
「馬鹿言え! 姉さんだって可愛いし、美人だろ!」
「確かにそうだけどよ、あっちのお嬢さんの方が可愛らしさでは上だ」
「何だと!」

 妹紅とメアリーが戦う横で子分どもが言い争いを始める。言い争いはすぐに殴り合いの喧嘩へと変わったが、二人にはもうそんなもの見えていなかった。
 お互いに疲労は限界を超えていた。
 防御に回すだけの力がない。お互いにノーガードで殴り合う。妹紅が殴ったら、メアリーが殴る。
 ここまで来たら意地と意地の戦いだった。
 先にくじけた方が負け。至ってシンプルだ。
 メアリーはとんでもなく強かった。ここまで苦戦したことは妹紅はここ最近記憶になかった。
 メアリーの顔面に右の拳を叩き込むと、次いで妹紅の顔面に同じく右の拳が飛んでくる。
 ふと思い出す。
 漁船に乗る数日前。あれは妹紅が湖で釣りをしようとした日だった。いつも釣りをしている所に、見慣れない奴がいた。しかし顔は知っていた。それは天人の娘だった。
 横目でそいつの事を見ていると、まったく釣れている様子がなかった。妹紅の方は逆に釣りを始めるとすごい勢いで魚が釣れた。天人が羨ましそうな視線を飛ばしてくるのに気付いていた。
 そして天人の方にもようやく当たりが来た。嬉しそうに引き上げた針に付いていたのは、枯れ枝だった。それを見て、笑いが堪えられなかった。
 だが次の瞬間、五十メートルほど離れていた天人がものすごい勢いでやって来たのには、さすがに驚いた。しかし、妹紅はそんな内心をおくびにも出さず、天人に対して挑発するような事を言ってしまう。
 そして、それから猛烈な争いへと発展したのだった。
 あの時の天人との戦いに比べたら、今のこのメアリーとの戦いなんて子供の喧嘩のようなもんだ。
 それを思い出した。
 妹紅は渾身の拳をメアリーに叩きこんだ。するとメアリーは大きくよろめいて、殴ったら殴り返されるという均衡が初めて崩れる。

「お前は確かに強い。だけどな、天子ほどじゃない!」

 妹紅はそこで左足を大きく踏み込むと、

「そして、お前のおっぱいは確かにでかい。だけどなああ!」

 さっきから気になっていた。メアリーが攻撃する度にばいんばいん目の前で揺れて、鬱陶しい事この上ない。
 妹紅は右の拳を大きく振りかぶって、

「慧音ほどじゃああ、ないんだよおおおおお!」

 右の拳に全身全霊を込めてメアリーの顔面に叩き込んだ。
 メアリーは大きくぶっ飛んでそのまま壁に激しく衝突した。壁に背を預けたまま立ち上がる気配はない。
 妹紅はメアリーに近づく。最後の一撃を叩きこもうと拳を振り上げた。

「待ってくれ! もう俺たちの負けだ! だからもうやめてくれ。とどめを刺さないでくれ。姉さんがいなくなったら俺たちは行くとこがなくなっちまう。俺たちのようなはぐれもんを受け入れてくれる人なんて、姉さんくらいしかいねえだ。だから頼む……!」

 子分の一人が駆け寄ってきながら言う。
 メアリーの姿を見下ろす。意識はあるようだったが、ぐったりとして動けるような状態ではない。
 妹紅は振り上げた拳を降ろして、近寄ってきた子分の胸元をつかみ上げた。

「だったら、今すぐに漁船に刺した槍を外せ!」
「わ、わかった。……今すぐやる!」

 そいつは部屋に備え付けられていたマイクに向かって何かを言った。操縦室に指示を出したのだろう。
 勝った。
 ぎりぎりの戦いだったが、妹紅は勝ったのだ。
 これでやっと帰れる。外れたのを確認したら、すぐに戻ろう。
 妹紅も限界の状態だった。足ががくがく震えて止まらない。
 ――待ってろ二人とも。すぐに戻るよ。




 突然、船の明かりが消えて落下し始めたのは驚いた天子だったが、ぎりぎりの所で縁につかまって何とか船から放り出されるのだけは免れた。
 その後、船は何とか安定を取り戻した。
 天子はすぐに一本釣りへと移る。
 時間はもう本当に残りわずかだろう。目標額である一千万まで届くかはわからないが、とにかく釣るしかない。
 天子の身体はぼろぼろだった。カツオを釣り上げる動作はものすごい力がいる。一回一回の動作で確実に体力を消耗する。
 何よりこの吹きすさぶ風と体に打ちつけてくる氷の塊が厄介だった。ベーリング海で蟹取りをしてるわけじゃないのに、この過酷さ。むしろこのカツオ漁の方がよっぽど大変だろう。
 漁師というのは本当に大変な職業なのだと天子は実感した。
 カツオが天子の視界の先を泳いでいった。こんな激しい天候の中であっても、カツオは実に優雅に泳いでいく。まるでこの天候を楽しんでいるかのように。
 ふざけやがって。
 こっちはこんなつらい思いしてるというのに、随分と暢気なものだ。
 むかっ腹が立った。
 釣ってやろうと思った。目の前を泳いでいくカツオ全てを釣ってやる。そしてベルトコンベヤーに載って冷凍室に運ばれて、そこから港で陸揚げされて、そして里の皆さんの食卓に並べばいいんだコノヤロー。
 天子は竿を振り上げた。そして、針をカツオの群れめがけて投げ入れる。
 これまでもう数え切れないほど釣ってきた。はっきり言ってしまえばもう見飽きた。最初の頃は、カツオが釣れる度にすごく気分が良かった。なのに今はカツオなんて見たくなかった。
 ふざけんなと思う。何がカツオだよ、と。初ガツオだか戻りガツオだか知らないけれど釣れちまえばただのカツオだろうが、と。
 針に食いついたカツオを引き上げる。何百回と繰り返した動作だ。もう天子の身体に染みついている。
 天子の身体はとっくに限界を超えていた。全身が鉛のように重たくて、自分の身体ではなくて何か別の、例えば人形か何かの身体を借りているかのような感覚だった。
 それでも天子がカツオを釣り上げるフォームは実に美しかった。
 まったく無駄がない。
 必要以上の力を入れず、最も早い速度で同じ動作を繰り返す。
 人は時に、あまりに洗練された技術を見るとそれを芸術のように思う。動きの一つひとつ、頭の天辺から足のつま先、腕、掌、指の先、その全てがある目的の下に完璧なハーモニーを奏でる時、人の動作というのは芸術に昇華するのだ。
 そしてその時の天子の動きはまさしく芸術だった。剣術の型のような規則正しい美しさがあった。
 誰が見ても、はっと息を飲んで立ちつくすであろう。それほどまでに今の天子の一本釣りの技術は圧倒的なまでに洗練されていた。
 もちろん当の本人はそんな事は気にしていないし、少しでも効率よく釣り上げることしか考えていなかった。
 心臓の鼓動が聞こえる。ドクンドクン、と。
 吐く息は真っ白。これだけ身体を激しく動かせば熱くなるのに、まったくそんな事はない。寒くて死にそうだ。
 苦しくて、つらくて、もう今すぐにでも竿を投げ出してしまいたかった。
 何でこんな事してるんだろう、と思う。自分は何でカツオなんか釣ってるんだろう、と。
 孤独を感じる。
 天子の心の中で孤独が大きく膨れあがり、その思いに支配されそうになる。
 苦しい。苦しい。苦しい。
 つらい。もう嫌だ。やめたい。
 心が折れそうになる。
 だが、折れない。一歩でも踏み出したら落っこちる崖際まで押し出されて、そこからぎりぎりの力で足を踏ん張って持ちこたえる。
 その時天子を支えたのは天子自身の精神力だけではない。
 港で善一郎が言っていた。

「漁ってのはたまに孤独を感じる。なんでこんなことしてるんだってな。そう思う時があるんだ。でもな、もしそうなったら、思い出せ。俺たちがいるってことをな。例え一緒にいなくとも、絆で繋がってるんだよ。それだけは覚えておいてくれ」

 今になってその意味がわかる。
 圧倒的な孤独が天子に襲い来る。善一郎のあの言葉がなかったらくじけていたかもしれない。
 大丈夫、自分には仲間がいると自分自身に言い聞かせる。
 港では善一郎や一緒に酒を酌み交わした漁師が天子の帰りを待っている。
 そして操縦室には村紗がいる。妹紅だって今は少し出かけているが、一緒に戦っている事に変わりはない。
 絆だ。
 限界を超えて、満身創痍になった天子の身体は、みんなとの絆によって支えられている。
 釣る。
 まだ釣れる。
 自分はまだ戦える。
 カツオを釣る。何が何でもたくさん釣る。
 全身が軋み、そこら中が痛んで、今すぐにでも弾け飛んでしまいそうになりながら、カツオとの真剣勝負を続けていく。
 まったくおかしな話だと思う。
 今の天子は絆によって支えられている。こんなにつらい思いをするはめになったのも、絆によるものだ。子供達のために一千万を稼ぐことになった。そして、なぜ自分がそうしたいと思ったかと言えば父親の姿に憧れていたからだ。
 色々な絆がある。
 そのどれもが大切な絆だったが、天子にとって一番大切だったのは父との絆だった。
 今にして思う。
 大っ嫌いなんて言うんじゃなかったなあ、と。
 あの時の父の顔が浮かんでくる。悲しそうで、そして何より寂しそうな目をそっと天子に投げかけていた。
 謝りたい。ごめんね、と。


 ――ごめんね、パパ。家に帰ったら謝るから許して。それから久々に肩を揉んであげる。もちろんお駄賃なんていらない。ただでやってあげる。小さい時パパと一緒に遊んだ昔話でもしながら。後は、このカツオ漁の話とか。
 私ね、わかったの。何かを守るのって本当に大変なんだな、って。きっとパパも大変だったよね。ううん、今も大変だよね。
 昔とは変わっちゃったけど、今でもパパは私のことを守ってくれてるんでしょう。パパが他の天人に対して愛想良くしてるのは、私に対する周りの刺々しい視線を和らげようとしてくれてるからなんでしょう。本当はね、わかってたんだ。
 パパだってつらい思いしてるのに、大っ嫌いなんて言っちゃってごめんね。
 でもそれ嘘。本当は、パパのこと大好き。
 今のパパは格好良くないなんて思ってたけど、やっぱり違うってわかった。今のパパだって最高に格好良いよ。
 私、自分勝手ですぐ感情的になるの。そのせいできっとパパにもいっぱい迷惑かけたよね。これからは私、治していこうと思う。
 地上で仲間ができたんだ。村紗と妹紅って言うの。村紗は漁師との絆を大切にしていて、みんなのために頑張ろうって張り切ってるの。誰かのために何かできるってすごいよね。
 妹紅は私と似てるとこがあって変な風に尖ってるというか、不器用な奴なの。そいつがね、変わろうとしてる姿を見て、私も変わらなきゃだめかなって思ったの。このままパパに迷惑ばっかりかけるのもダメだな、って。
 天界での生活はあんまりうまく行ってないけど、でも何とかして私もとけ込めるように努力してみる。パパを見習って、頑張るから。
 きっとすぐには無理だと思う。すごく時間がかかっちゃうかもしれない。でも、天人は長生きだし大丈夫。長い目で見てよ。私が変わっていくところ。これからもずっと一緒に。
 ね、パパ。


 雷鳴がとどろく。
 カツオを釣りまくった事に対して怒り狂っているかのように、幾筋もの稲光が船の横を通り過ぎていく。
 荒れ狂う獣の咆哮のような爆音が鳴り響く。
 天子は負けない。
 今更そんなものに怖じ気づいたりはしない。
 天子はやっと自分の立ち位置を変えるための一歩を踏み出す覚悟を決めた。過去の父親の姿の未練によって、天子は天人として生きる事を心のどこかで嫌がっていた。そのせいで中途半端な位置で宙ぶらりんの状態だった。だが、それはもう過去の話だ。
 迷いを断ち切った天子に、もう不可能なんて言葉はなかった。
 残り時間は本当に残りわずかだろう。
 全身全霊を込めたラストスパート。
 天子は近くにあった収納スペースを蹴り開けて、そこからもう一本の竿を取り出すと、両手に一本ずつ構える。
 そして二つ同時に振った。
 器用に二本の竿を操りながらカツオを釣り上げる。カツオが食いつくタイミングは左と右でバラバラだというのに、食いついた瞬間にはカツオが船の上に引き上がっている。
 猛烈な速度でカツオが次々と釣り上がり、布の上に落とされる。布から転がり落ちたカツオでベルトコンベヤーの上は大行列だ。
 竿を二本持って振り続ける天子はまるでバチで太鼓を叩いているかのよう。雷が鳴り響くが、その音は天子が打ち鳴らす太鼓によって発生しているのではないかとすら思える。
 ここに来てついに天子の中にあった漁師の才能が爆発した。その能力全てを発揮して、カツオを釣っている。
 今、天子は他の何者でもない。
 この時の天子は天人でもなければ、まして今までうだうだ悩んでいた中途半端な天子でもない。
 天子は心の中で叫ぶ。

 ――私は天子。女漁師の天子よ!

 そして、ついに船の冷凍室は満杯になった。あまりにも常人離れした動きによってたった一人で、一時間もかけずに詰め込めるだけのカツオを詰め込んだのだ。
 しかし、それでも天子は止まらない。
 右で釣れば左で釣る。機械よりも正確な動きで天子はカツオを釣る。
 ベルトコンベヤーはいよいよ行き場を失ったカツオによって機能不全を起こしていた。溢れかえったカツオは船の通路の上にこぼれ落ちて、そこでびちびち跳ね回る。

『天子! もう十分だ! これ以上は船の方が持ちこたえられない』

 スピーカーからの村紗の声によって、天子はそこでやっと動きを止めた。握りしめていた竿が勝手に手からこぼれ落ちた。全ての力を使い果たして、もう箸を握る力さえ残されていない。

『こっちに戻っておいで! この中から脱出するよ!』

 天子はふらふらになりながら操縦室へ向かって歩き出す。一歩進むだけがフルマラソンよりもつらい。それほどまでに疲れ果てていた。
 歯を食いしばって一歩一歩進んで行く。
 何とか操縦室の扉があと数歩で手に届く距離まで来た、その時だった。
 メキメキという音と共にいきなり船が大きく揺れた。漁船の後ろに刺さっていた槍がついに外れたのだ。
 喜ぶべき事態だったが、しかし天子にとってそれは最悪のタイミングだった。
 船の揺れに耐えられるだけの力が残されていなかった。天子の足が船から離れて、宙に放り出される。
 目を大きく見開いた村紗の顔が見えた。こちらに向けて手を伸ばすが当然届くはずもなく、天子の身体は完全に船から離れて、荒れ狂う雲の中へと飲み込まれて行く。
 空を飛ぶ力も当然残っていない。船に戻ることは不可能だ。
 そのまま雲の中でもみくちゃにされて散々痛みつけられた後、地面に頭から激突するはずだった天子の身体は、そうはならなかった。
 誰かに空中で抱きかかえられた。
 そのまま船の上へ舞い戻った。
 村紗が操縦室の扉を蹴り開けて、

「妹紅ぉおおおお!」

 天子を空中でキャッチしたのは妹紅だった。妹紅は天子を抱えたまま、操縦室の中へと転がり込む。

「ごめん。待たせた」
「いや、最高のタイミングだった」

 村紗はそれから顔をぐちゃぐちゃにして、

「二人とも良く戻ってきてくれた……! うううあああ…………」

 大号泣。滝のような涙を流して、鼻水まで垂れ流す。
 妹紅はそんな村紗をなだめながら、

「キャプテン頼むよ。船の操縦ができるのはキャプテンだけなんだから」

 村紗は大きく頷いてハンドルを握りしめる。
 壁際に座らせられた天子は妹紅の顔を見ながら、

「……妹紅。あんた、ひどい顔ね」

 妹紅の顔は油で揚げたのかってくらいぱんぱんに膨れあがっていた。所々青あざを作り、血がにじんでいる。

「色々あったんだよ」

 妹紅がため息混じりにそう言うと、天子は静かに笑った。

「所で、さっきから鳴り響いているこの音はなに?」

 妹紅が村紗に訊く。
 操縦室の中にピーピーピーとうるさく鳴り続けている音がある。

「ああ、これ。もう船のエネルギーが尽きかけている音だよ」
「え! それちょっとまずいんじゃないの!?」
「うん。だから、これから全速力で港に帰るよ」

 妹紅は海賊船に乗り込んでいて知らなかったが、船の故障によりエネルギーが急速に減って行っているのだ。警報が鳴り響いているという事は、もう本当にぎりぎりの状態なのだろう。

「後ろにくっついてた邪魔な船がなくなってしまえばこっちのもんよ。さあ、帰ろう」

 村紗がハンドルを回転させる。
 雲の中は相変わらず不規則な風が吹いていたが、村紗はそれを逆に利用して船を加速させる。残りわずかなエネルギーの消費を少しでも抑えるためだ。
 巨大なカツオの群れだった。群れは一つの台風を作り上げ、そのエネルギーはとんでもないものだった。しかし、天子はその中でカツオを釣り続けた。大漁旗を掲げて帰ったって誰も文句は言わないだろう。
 時間にしておよそ一時間。わずかな時間だったが、天子には途方もなく長い時間この中にいたような気がする。
 いよいよ船がカツオ雲の中から脱出した。今までの天気が嘘のように平穏な空があった。下にはどこまでも続いていく雲の海。そして船は雲の海へ突入する。
 雲の海を突き抜けると、下に広がっていたのは久しぶりに見る大地。
 場所は魔法の森付近。ということは、人間の里までは後もう少しだ。
 しかし、ここまで来てエネルギーの危機を知らせる警報がよりけたたましい音を立て始める。

「もうほとんどエネルギーが空っぽだ……! 後はぎりぎり間に合うのを祈るしかない」

 村紗が言う。ここまで来て墜落なんて事は勘弁して欲しい。
 天子は祈る。
 床に手を置いて、船に向かって、頑張ってと念を送る。
 船はふらふらと不安定な動きを見せながらも、何とか持ちこたえる。

「見えた! 人里だ。港はもうすぐだよ」

 村紗が叫ぶ。
 妹紅が窓から身を乗り出して確認する。
 天子は疲れ果てて身体が動かないので、ただただ祈る。
 しかし、そこでついに。

 ピーーーーーーーーーーー……。

 心電図が止まったかのように一度長く警報が鳴り響いて、静かになった。
 動力が完全にシャットダウン。
 船は浮遊力を失って落下を始める。
 三人は同時に叫ぶ。

「うわあああああああああああああああ」




 善一郎は港で一人タバコを吸っていた。
 村紗の船を見送ってもう一週間以上経つ。そろそろ帰ってきても良い頃だったが、まったく音沙汰がない。
 村紗の事だから心配ないとは言えそれでも気になるものは気になる。
 タバコの煙をふう、と吐き出して、その煙の行方を目で追った。
 すると、空に何かが見えた。
 黒っぽい小さな塊だったそれは、次第に近づいてきて、その輪郭をはっきりとさせた。
 善一郎は気付いた。
 それが船である事に。
 そして、ものすごい速度でこの港に向かって真っ直ぐ突き進んでいる事に。
 進んでいるなんてもんじゃない。落ちているのだ。こっちに向かって。

「おいおいおいおい! 冗談じゃねえぞ!」

 善一郎は慌てて立ち上がると大声で叫ぶ。

「全員退避! 港にいる奴らはすぐに遠くへ逃げろ! 船が降ってくるぞ!」

 そう叫ぶなり自分もすぐに避難する。建物の柱の影に逃げ込んで身をかがめて身体を守る。
 そして――。
 水が弾け飛ぶ轟音を響かせて船が着水した。水の中で爆弾でも爆発したのかってくらいの水柱が立ち上がり、おまけに冷凍室に収まりきらなくて船の上で暴れ回っていたカツオ達がその衝撃によって船からぶっ飛んで、イルカの曲芸か何かのように空中でくるくると回った。水柱とカツオが空で混じり合い、限界の高さまで上がるとそこから一気に降り注いでくる。
 不思議な光景だった。
 霧のように白く濁った景色の中で、カツオが次から次へと降り注いでくる。
 港にいた全ての人間がその光景に呆気に取られて、開いた口がふさがらない。

「何が起きたってんだ一体……」

 善一郎は柱の影から体を出し、それから船へと恐る恐る近づいた。
 すると、

「いや~~~~~~~、着いた着いた。カツオはちょっと飛び散っちゃったけど、まあそれは後で回収すればいいでしょう」

 漁船の操縦室の扉を開けて、村紗が姿を現す。

「いや~~着いた着いた……じゃないでしょ! 死ぬかと思ったわよ!」
「そんなこと言ったって妹紅は不死身じゃない」
「確かに……そうだけど!」

 続いて妹紅が飛び出してくる。
 そして最後に天子がお尻を押さえながらゆっくりと、

「いった~~~~。またお尻ぶつけたわ。絶対アザになってる」

 善一郎を始め、港にいた人間達は全員頭が混乱していた。突然の出来事に思考が追いつかない。
 何とか混乱する頭を落ち着かせて、善一郎は声を上げる。

「何がなんだかわからねえけどよ。お嬢ちゃん方、怪我はねえかい?」
「お、善一郎さん。こっちは大丈夫! ……妹紅はちょっと怪我してるけど問題なし。それよりカツオがものすごい釣れたから、陸揚げするの手伝って。あと飛び散った奴も回収したいし」
「ああ、まあ……。問題ねえならそれでいいや」

 善一郎は深いため息を吐いて、それからふっと笑った。




 さすがの天子も焦った。
 もう無理かと思ったが、本当に何とか港までたどり着くことができた。
 村紗の操縦技術を褒めるべきか、自分たちの悪運の強さを褒めるべきか。
 何はともあれ無事に港に帰れたことは喜ぶべき事だった。
 村紗と妹紅が船を降りたので、それに続いて天子も降りようとした。
 その時だ。
 辺りが影に包まれる。
 頭上に光を遮る何かがある。
 天子が頭上を見上げると、そこにあったのは例の海賊船。
 所々から煙を出しながら、空から落ちてくる。

「おいおいおい! 次から次へとどうなってんだ!?」

 善一郎の叫ぶ声が聞こえ、港が慌ただしくなる。
 そして、海賊船は天子が乗っていた漁船の隣に着水した。水しぶきが上がり水面が大きく揺れて、漁船揺さぶられたせいで天子は尻餅をついた。
 天子が乗っていた船ほどの勢いで落っこちて来たわけではないので、それほど被害はでなかったが、船体が大きい分、着水した時に跳ね飛んだ水しぶきでびしゃびしゃになる。だが、天子は元々びしょ濡れ状態だったし、今日一日であまりにも色々な事が起こったせいで、海賊船の一個や二個が落ちてきたところでそれほど驚きはしなかった。
 天子は立ち上がると船から飛び降りた。
 久々の地面の感覚。
 周りには善一郎を含め、港に待機していた漁師達が集まっていて、今し方落っこちて来た海賊船から少しの距離を取りつつ、じっと興味深げに見つめていた。

「善一郎さん。ただいま」
「おう、お帰りお嬢ちゃん。しっかし、まさかお嬢ちゃんを乗せた船が落っこちて来たと思ったら、今度はいかつい船が落ちてきやがった。まったくどうなってんだ今日は」

 と、海賊船の甲板から歩み板が陸へとかけられて、そこからぞろぞろと海賊達が降りてきた。どいつもこいつも顔や腕に怪我を負っている。ぶつけたと言うよりは何かに殴られたような青あざだった。
 そして、身体を二人の男に抱えられながら女海賊メアリーが降りてくる。その顔はぼこぼこに腫れ上がっている。主に顔の左側が青あざだらけで、右と左がまったく別人みたいになっている。

「あれ、妹紅がやったの?」
「うん」
「随分と派手にやったわね」
「私だってやられたからね」

 子分に支えられていたメアリーだったが、

「ええい、鬱陶しい。離しやがれ」
「で、でも姉さん。ひどい怪我だ。医者に行って治療して貰った方が良い」
「うるさい。天下のメアリー様が医者なんかにかかれるか! 私が船長なんだから、お前達は私の言うことを黙って聞けばいいんだよ!」

 何やら揉め始める。
 メアリーが子分達に一方的に捲し立てて、それを子分達がなだめている。
 と、天子の隣にいた善一郎が動いた。
 メアリーの方へ真っ直ぐ歩いていくと、

「怪我してるじゃねえか。俺は医者じゃねえが多少の知識はある。手当てしてやるよ」
「何だいお前は?」
「俺は善一郎。漁師をやっている」
「はあ~~~~~~、ふざけてんのかい!? 私はね、天下の女海賊メアリー様だよ。漁師だか何だか知らないけれどね、お前の出しゃばる幕はないんだよ」
「ガタガタうるせえなあ。海賊だか何だか知らねえがな……」

 善一郎はメアリーのすぐ傍まで歩み寄って、それから膝を折ってかがみ込むと、

「女に優しくするのが、漁師ってもんなんだよ」

 そして善一郎はメアリーを抱きかかえて立ち上がった。
 お姫様抱っこだった。
 その瞬間、今まで分厚く覆っていた雲の隙間から一筋の光がこぼれ落ちた。その光は二人のいる場所をちょうど照らし出し、まるでおとぎ話に出てくるワンシーンのような雰囲気だ。
 メアリーは顔を真っ赤にして、自分を抱きかかえている男をぼうっと見つめた。
 その場を見守っていた天子達や漁師、海賊の子分を含めて全員が思った。
 あ、この女、惚れたな、と。
 そのまま大人しくメアリーは善一郎の腕にすっぽりと収まって運ばれていった。
 天子と村紗、妹紅の三人はお互いに顔を合わせる。
 天子が何とも言えない表情を浮かべながら、

「まあ、何はともあれ一件落着って事でいいのかしら」

 村紗は、まあいいんじゃないと言って息を吐いた。
 妹紅の方は、やれやれといった感じで首を横に振った。




 数日後。
 天子は人里を歩いていた。
 カツオを売った金で一千万用意することができた天子は、帰ってきた翌日にすぐ地主のおじさんの所を訪れてお金を差し出した。おじさんは多少驚いていたものの、天子が用意した金を受け取って嬉しそうに微笑んだ。その笑みはお金を受け取って喜んでいたというよりは、子供達の遊び場が失われずに済んで良かったと安堵した表情だった。
 土地の売買における手続きについて天子はまったくわからないが、おじさんが一人で何とかしてくれたようで、その日から正式にあの空き地は天子のものとなった。
 子供達にそのことを報告すると大いに喜んだ様子で、天子の事をあがめ奉った。天子が天人から神になる日も近いかもしれない。
 そんなわけで。
 天子は里をのんびりと歩く。今日は父に届けるお土産を買うのが目的だった。
 カツオ漁から帰ってきた天子は、まだ実家の方には戻っていない。すぐに帰ろうと思っていたが、いざ帰ろうと思ったらなかなか踏ん切りがつかなかった。
 だけど今日こそは帰る。そのために、父の大好物である苺大福を買いに来たのである。
 和菓子屋さんに向かって里の通りを歩いていると、向かい側から妹紅が歩いてきた。
 妹紅は女性と一緒にいた。妹紅が帰ったら旅行に一緒に行くと言っていた女性だ。やっぱりいつ見てもグラマラスだった。
 ふと妹紅も天子の方に気がついた。視線があったので、妹紅に向かって頑張れという意味を込めて親指を立てると、妹紅は少し恥ずかしげに頷いた。
 それからさらに歩いていると、今度はあの職業安定所の職員を見つけた。
 漁から帰ってきた日、天子は約束通りその職員を交えて酒盛りをした。職員はそこで自分の境遇について語って、それを聞いていた漁師達はしきりにうんうん頷いて、その後あれやこれやと意見を交えながら話をした。それでどうやら職員の方は吹っ切れたようだった。
 今見つけたその職員は、いつものよれよれのワイシャツではなくぱりっとした真新しい物を来ていたし、ぼさぼさだった髪も撫でつけて、ひげもすっかり剃って清潔感があった。訊かなくてもこれから何をしに行くのかわかる。
 天子は無言でその背中に向かってエールを送った。
 と、今度は、

「おー、天子。こんな所で会うなんて奇遇だね」

 村紗だった。頭巾を被った女性と一緒だった。あと変な雲もついている。

「ああ、村紗。何してるの?」
「私たちは買い出しにね。お寺の手伝いだよ」
「船にはもう乗らないの?」
「船の方はしばらくは乗れない。修理が必要だし、それにお寺の方の手伝いも忙しくなりそうだし、まあ仕方がない。でも船が直ってまた余裕ができたら乗るよ。その時は天子もどう?」
「う~~~~ん、考えておくわ」

 村紗はそっかと頷いて手を振った。隣にいた頭巾を被った女性は軽く頭を下げた。
 和菓子屋にたどり着くと、天子は苺大福をたくさん買った。両手に袋を持って店を出る。
 店を出た瞬間、

「あー、天人の姉ちゃん」

 近所のクソがき勘太郎の登場である。
 思い返せば、この勘太郎とたまたま人里で顔を合わせたのが、漁船に乗り込む事になったきっかけだった。本当に大変な二週間だった。だが、天子にとってとても意味のある二週間でもあった。

「クソがきじゃない。どうしたの?」
「これから三丁目の空き地で野球するんだよ。ねーちゃんも一緒にやらない?」

 少し考える。これから家に戻るつもりだった。
 だが、少しくらいなら良いだろう。

「いいわよ。でも、私が買い取った空き地じゃないのね」
「今日やるのは野球だしね。あそこはサッカー専用みたいな感じだし、それに今日は地区対抗ラジオ体操をやってるから使えないんだよ」
「ふーん」

 地区対抗ラジオ体操って何だろう、とか、土地の所有者である自分は何も聞いてないぞ、と思った天子だったが気にしない事にした。
 勘太郎と一緒に歩いて三丁目の空き地へ向かう。
 空き地へ着いた二人だったが、そこで様子がおかしいことに気付く。先に集まっていた子供達が空き地の前で集まって、みな不満げな顔を浮かべている。
 おや、と思う。どこかで見たことがある光景だぞ、と。そして、隣にいた勘太郎も似たような反応をした。
 天子は空き地の中央へと視線を送る。そこにはやはり見覚えのある二人の姿が。この前天子が買い取った空き地の地主だったおじさんと、不動産屋のメガネだ。
 天子はずかずかと二人へ近づいていくと、二人の方も天子に気がついた。

「ねえ、これってもしかして……」

 天子が言うと、おじさんはとても気まずそうにうつむきながら、

「ああ……。この土地も実は私のものでね。その……なんだ。今まで苦労をかけた妻に、これから少しでも楽をさせてやろうと思ってな。うんまあ、この土地も同じように売ろうと思ったわけなんだ。申し訳ないとは思う」

 今の天子には良くわかる。
 人が何かを行うきっかけというのは絆によるものなのだ。
 人は多かれ少なかれ、それぞれが絆を持っている。そのために何かをしようと思うことは決して悪い事じゃない。
 それにこの土地がおじさんの所有物である限り、何も口出しすることはできない。
 天子は少し考えてから、

「それで、この土地の値段はいくらなの?」

 隣にいたメガネが答える。

「およそ三千万といったところだ」

 三千万か。
 天子は空を見上げる。
 綺麗な良く晴れた空だった。
 ふうとため息を吐き、それから天子はそっと一言つぶやいた。

「パパに頼むか」
ここまで読んで下さった方々、本当にありがとうございます。
一体何人の方がここまでたどり着いてくれるのかわかりませんが、とにかく感謝を!

初めての長編と言うことで、読者の方々が楽しめるものになっているのか私にはわからないし正直まったく自信がありません。そもそも初めての長編がカツオ漁ってどういうことやねん! と自分でつっこみを入れたいくらいです。

それでも自分の持っている力は全て出し尽くして書いたつもりです。
もう空っぽです。燃え尽きました。カツオという文字は当分見たくないです。

最後にもう一度。読んで下さった皆様ありがとうございます。
そして作品集200おめでとうございます。

※誤字がたくさんあったので修正しました。2014/10/15
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コメント



0.1400簡易評価
1.70名前が無い程度の能力削除
実はこの二人共謀して天子を担ぎ上げて詐欺をって思ってしまった
最後のオチがそんな感じw
5.100名前が無い程度の能力削除
かつお!!
7.90絶望を司る程度の能力削除
オチがwww
白熱して面白かったです。
9.90奇声を発する程度の能力削除
読み応えあって面白かったです
10.100名前が無い程度の能力削除
いいね。こういう話好きですよwww
なんていうか、飛びたい気分かな!!
12.100名前が無い程度の能力削除
なんでこんなカオスな設定からこんな馬鹿みたいに熱い作品が生まれてきちゃうんだよ…
やっぱり貴方の作品は最高ですね!
14.100名前が無い程度の能力削除
これ いいんでないかい!?
僕も天子ちゃんにパパって呼ばれたい
15.100名前が無い程度の能力削除
あれだけ熱い展開だったのにオチがひどいw
18.100名前が無い程度の能力削除
オマエは全然まな板のスゴさを分かってない(幻聴)
なんか知らんけどカツオがしれっと空を泳いでて誰も疑問に思ってないしwww普通に空に漁に出て行くしwwwwその時点で色々と度肝を抜かれたけど、最後まで引っ張っていかれてしまったw
オリキャラたちも含めた熱い人間模様、天子と妹紅と村紗の絆、そして手に汗握るカツオ漁。最高でした!
その一方でおっぱいでか!の感想を抱いちゃう天子や、謎の小鈴のエロ同人や、海賊との決着の台詞がひどかったりと、ひどいんだけどなんかもう笑ってしまうのも卑怯だった。
最後のオチもひどい。
ひどいんだけども、そういうギャグとしての機能も果たしながら、父親に対して素直になった天子の心情もあらわしているあたりがにくい。
19.100名前が無い程度の能力削除
すらすら読めるのに内容は充実してる
そしてどの登場人物も埋もれたりせずにキャラが立っている
文句のつけようがない作品でした
オチもスッキリしていて後味良し!!
20.90名前が無い程度の能力削除
本当にパパが大好きな天子が可愛くてよかったです
21.100名前が無い程度の能力削除
すげえ完成されてる感……!
24.100名前が無い程度の能力削除
いい意味でくだらなくて面白かったです。文章も長さを感じさせずスラスラ読めました。
29.100このはずし削除
まさかカツオ漁を主題に、これだけのものを読まされるとは!
さらにこのオチwww 堪能しました!
30.無評価序盤で読むのを止めました削除
冒頭から話が動くまでのテンションがタイトルに負けている感じがします。またはそのテンションにタイトルが合っていない感じ。私の感覚ではその時点で危険なにおいを感じ取りました。もちろんタイトルの意味が後半になってわかるという面白さもあるのですが、雰囲気は統一しておかないと、なかなか作品世界へ入り込みにくいのではないかと思います。
また冒頭とタイトルの違和感からか、数分読んだ程度だとこの作品がどう面白くなっていくのか予想出来ず、予想出来ないため期待のしようがなく、恐る恐る読み進めるには180KBという数字は大きすぎて、結果、途中で読むのを止めました。
せっかくの大作なのですから、最初のプレゼンで躓いて面白いところまで辿り着けないのは勿体ないです。もう少し導入部分で工夫のしようはあったのではないかと思います。
32.100名前が無い程度の能力削除
と、時にはままならないこともあるってーことを子供達に教えるのも必要なんじゃないかなー。
自身が父親の格好の悪さに煩悶したみたいに>オチ

そうか、幻想郷の海産物は雲海の中にあったのか(困惑)
33.100大根屋削除
熱い!泣ける!面白い!
長いけど勢いで読んでしまえる長編でした。満点!
35.100名前が無い程度の能力削除
カツオが空を飛ぶことに何の違和感も感じさせない程度の能力を持ってると言われても信じるわwwwww
でも言わせろ、カツオは空を飛ばないwwww
39.100名前が無い程度の能力削除
面白かった!
これから他の作品読んできます