Coolier - 新生・東方創想話

さみどりの庭 7

2014/10/07 21:20:14
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1~6話の続きです。

 生誕直後の赤子の体中に切り傷をつけて溜めた血を保存し、焼き殺した赤子の灰をその血で捏ね、聖体を象ったパンを焼くとしよう。気味悪い頑張りも賃金労働者が空しく捏ねた聖体パンには何も宿らない。呪術とは必ずしも行為を指すのではない。粘りつく糊のような動機が、溢れ出す怨念が、その熱を放出する出口としてある一定の振る舞い方を見いだすならば、その振る舞い方は全て呪術的なのだ。
 したがって放心状態で沐浴を済ませ居間へ戻った私の目尻が、葛籠を抱え、気持ち悪い微笑みをたたえる八雲紫を発見し、しびれるように痙攣するとき、いかにその細動がかすかであろうが、中世の教父の脳内におけるフリュギアの異端の焼き釜で作られるパンと平等に、世界の秩序への憎悪の成分が含まれる権利があるのだった。
「そっとしておいてくれ」
「お召し替えです」
 籠には古めかしい衣装がたくさん入っていた。
 問う間もあらばこそ、鏡台の前で肌着を被せられる。
 彼女はしばらく私の姿を眺め、どう料理してやろうかと少しく考えにふけっているようだった
 私のほうからも彼女を見ながら、どんな態度を取ろうか考えた。結局私は諦めの境地に達し、何気ない風を装った。
「これから何かの儀式でも?」
「ええ。霊夢の魂を鎮めるための儀式です」
 無造作に私の前髪をあげ、意のままに私の顔面に樹液やオイルの類を振り掛ける彼女は、肌になじむまでのときが惜しいとばかりに背後に回り、根菜でも引き抜くかのようにぐいぐいと髪の毛を引っ張るのだった。きつい香料が部屋に射線を引く。
 匂いの発散の幾何学がなす交差は、主に金縷梅の曲線を描いていた。乾いた湿気とでもいうべき際だった香りが高く、隙間風に蝋燭の火がそよぐたび寄せては返し、夜の匂いが洗われる。
「いたいよ」
 ひときわ強く鬢の皮膚が持ち上げられる。
「我慢なさい」
 我慢なさい。この言葉の響きの滑稽味をどう表現すればいいのか、世話慣れした者にしか出せない、あまりにも所帯じみた調子だった。私はそれがおかしく、つい邪魔を入れてしまう。
「ノミ取り中にペットがくしゃみしそうになっても、そう言っているのか?」
「いえ、だいいち、身繕いくらいは一人でしてもらわねば」
 八雲紫はへそをまげて矛先をこちらに向けた。
「わぷ」
 そして私を黙らせるように白粉の襲撃が加えられるのだった。
「ぺ。うーん、かつて幼い頃、よだれをひっかけ縮緬をほぐして遊んだ姉様人形が、どういう気持ちだったのか分かった気がするよ」
「そうして他者に優しくなっていくのです。共感のない振る舞いとは暗闇の蛮勇のようなもの」
 彼女の声色には嘲弄の色はなく、実感がこもっていた。会話が立ち消えになり、白粉の攻撃にかんする反撃の権利は効を失した。
 樟脳たきこめる白衣に身を通す。因果の鳥もちに絡みついた髪が乱暴に掻き上げられる。眉を描かれるごと、紅を引かれるごと、鏡にうつるごとに私が知らない誰かに変化していく。
 鏡の向こう。
 蝋燭に照らされた霧雨魔理沙が私を冷たく見ている。そんなに厳しく人を睨むものじゃない、と鏡の私に言い聞かせた。その眼に射貫かれ私自身、少しく怯えるところがあった。今の私はただ流され、友達を失い混乱し、鏡の向こうに誰が写っているのかもわかっていないただの動物だ。
 もしも鏡の向こう側が本物に移り変わる瞬間があるとしたらこのような時なのだ。巫女になるしかないからなるとか、霊夢を生き返らせたいからそうするとかいった言動は、針が刺さったから痛いとか、頭をぶつけたからくらくらするとか言っている言動と変わりない。したがって、投影された私しか存在しない。
 事件が多すぎる。私の思考の襟袖は薄汚れ、靴下には穴はあき、下着にはシラミが棲息しているがごとしで、処理能力をとっくに超えているのだ。私は私の問題で手一杯のはずだったのだが、どうしてこのような事態に追い込まれてしまっているのだろう。昨日の宴会で食べたいちごの味すら、去年の同じに日に食べた昼ご飯のようだ。舌を刺す酸味も鈍麻しひすらいでいる。
「霊夢が」
 私は八雲紫に問いただす。
「どうして私に殺意を抱いたのか分かっているだろう」
 巫女の役割にしばられる姿を見たくなかったのか、次代へ移りかわることに対する抵抗か、はたまた、一人で死ぬのが寂しくなったのか。
 私なりに核心をついたつもりだったが、八雲紫は眉ひとつ動かさずに漠然とした返答を返す。
「あなたのためを思ってでしょう」
「そうだろうな。しかし、望みどおり私が殺された場合はどうなった」
「あなたの両親は悲嘆し、私は次代の巫女を探すのに苦労したでしょうね」
 期待外れの回答に私は不満を示す。
「私は霊夢の意図を聞いているのだ。くだらないごまかしだ」
「霊夢の考えはとても素直です。ご承知でしょう。巫女となったからには研究に時間は割けませんし、人間以上の何者にもなれませんし、あなたの個人の例の日記にかかげられた実存不安についても解決はしません。さらに博麗の巫女となれば、あなたは巫女という幻想に縛られることになります」
「だから死んでやり直せということか、私が一個の存在として解放されるために」
「ええ、あるいは結界を超え外界で死ぬとしましょう」
 諭すように私の肩に手を添える。
「何を意味するかご存じですか? 魂の消滅です。霊夢があなたを外界へ出したがらなかった理由はただ今生の別れを惜しんだからではありません。幻想郷の輪廻から外れることを危惧したのです。魂が溶けてなくなり、救済の可能性が消失することを」
「外界で死ねば、生き返らないのか?」
 果てしない空虚。結界の底の空間で見た、尽きることのない暗い夜。
 それらイメージの刺すような形象が、脳の動脈に引っかかり傷つけながら心の働きを私する。思えばこのとき初めて、覚えず輪廻のはらわたに手を突っ込みその造りを感じたのだ。
「ええ」
 手を伸ばしてください、と打ち掛けられた単に身幅を合わせる。
 しめやかな絹ずれの音が、夜の虫の音に重なる。
「霊夢は私の正しさを認めた、と言っていた」
「まさに然り。とどのつまりは、あなたはこの幻想郷にて巫女になることを目指すのが正しいのです。霊夢は最後の最後で己の判断以上の予感を感じ、躊躇なく身を投じたわけです。最後まで固執に陥ることなく、微風のまにまに蜘蛛の糸が漂うような倫理の線を描いて。そしてまた、斯く斯くの事情を経ることによりあなたは約束された訳です。この微妙な選択の行路についても巫女の判断の明かしを得て、蔭るところなく漫々と続いていくことが」
 それと一言、私はあなたの選択にまかせると言いました、そしてあなたは返答を済ませたことをお忘れなく。彼女は私のまつげの見栄えを左右から確かめる。
「だが、此の際に至ってなお、博麗の巫女にいかほどの重みがあるのか」
 換言すれば、本腰を入れて拡張を始めた過渡期の巫女として困難な仕事を立派に勤め上げた霊夢ですらあっさりとお役ご免となるこの世知辛く仁義なき幻想郷において、次代の巫女に残された役割など存在しえるのか。
 私は思っていることを素直に話した。
「そうだろう。所詮仕事など巫女には雑事しかなく、他にうまくする者があれば任せるにしくはない。結界の管理は紫でもできるし、妖怪退治も異変解決なら当然、それができる人間も現れるだろう」
「もちろん。するべきものがするべし。それがあなたのやり方でありますし、これからの幻想郷が拡大と保存を両立するしかたでもあります。いわばあなたと幻想郷は軌を一にしている訳です。これから幻想の千路なるフラクションがゆるやかに接触し、共鳴し合い、多様な文化を養っていくでしょう。そして巫女は関係性のアルゴスであることをやめるでしょう」
「仕事はしなくてもいいと?」
 彼女はその通り、と鷹揚に頷いた。
「霊夢のようにはしなくてもよいでしょう。我々はもう我々同士で遊ぶこと出来ます。巫女はもはや一人で全てを行うことはできないでしょうし、する必要もありません。我々はたった一個の存在の肩に全体重をかけてのしかかることをやめました。幻想郷の期待を一身に背負う存在は二度と現れないでしょう。種々は種々のまま匂いたつのが幻想郷の旨であります。その旨に則り、小さなあなたがたが、手の届く範囲で友好を築いていくことでしょう。霊夢は十分にこの幻想郷の拡大の仕方を教育しました。私たちは学んだことを生かさなければなりません」
 こんな風に誰かに着物の世話をされていると、節目節目ごと晴れ着を装った、あの身動きが許されない退屈な時間を思い出す。まるで大きな子供扱いだ。過ぎ去りし幼少の頃を偲ぶ気分にもなれず、ため息をつく。
「だったら……、私の役割など」
 鏡に映る私が気に入ったように八雲紫は頬を上げ、作業を続ける。まさに私の見目ざまは置き物の用に供するための象りであり、それなりに一個の容色として筋をとおし居住まいの起承転結を描破していた。
 だが却って恬とした飾り気は胸裏の虚栄が裏返り丸出しになり、見てのとおり名目のみの身上でございと張り子の本性を玄妙に主張している様子だった。要するに私は知らず識らず普段着に慣れすぎており、得も言われぬ認識の不一致を起こしていたのだ。飾り立てれば飾り立てるほど、空っぽの樽が鳴らすコツンコツンという反響音が小首をかしげ瞬きするたびに眉の先っぽから放射されているようだった。私はまだ意味のある命題を保っているのだろうかと心配になるほど、精神の膝が萎えて弱っていた。
「いいえ、あなたには大事な仕事があります。結界の管理や妖怪退治、異変解決だけが博麗の巫女の職能のあらわれだという説明は、端的にいって間違いです」
「実際、それが巫女の仕事だろう」
 首を振った彼女は、次々と化粧道具を取り出した。私はその名も知れぬ刷毛やハサミの小人の行列から、まだ道半ば、五合目にも達しておらず、日暮れて道遠しといった進捗を悟ることができた。私はげんなりとし、まばたきのうち瞑りの占める時間が長くなるのを感じた。
 八雲紫が眉をやり直しながら、光の具合を確認する。世間話でもするかのように、軽やかに論旨を紡ぐ。
「それはたとえるなら彫細工師の仕事を材木の研磨で説明することに等しく、あまりに一般的であり、実は大工や木こりの仕事の説明にもなるのだと末節の補足を加えることを嫌がる点で、詐欺師の告白に帯びる虚偽を避けられません。するべきものがすべし、巫女には巫女の威権のみに宛がわれた役割があります」
「裁定ごとのことか。しかしそれこそ、巫女の出番などあるのかね」
 私は里の様子を思い出す。
 人間にとって唯一の国民議会とは里長の酒盛りのむしろであり、そこで繰り広げる矛盾したりしなかったりする隻言片句こそが立法の産声なのであった。それもせいぜい効力は世間に幅をきかせる人間の内なる記憶が続くまでであり、書物にものすことは乱丁落丁の馬脚を丸出しにすることを意味する代物ではあるが。
「田畑の境界や水源の管理に関することは先ず人里で解決すべきで、積極的に関与することではありません」
「そうだろうよ、奴らには奴らの国民議会があるからな。妖怪についていうなら、もめごとなどもそうないだろうし」
 妖怪は人間よりも遥かに長生きの知恵、つまり波風立てない社交術に長けているため、飢えた野良犬同士がお互いの喉笛に対して犬歯で挨拶を行うようには、決して挨拶しない。もちろんたまには、妖怪の山の垂簾を震わせる、天魔や山の神といったえらぶった連中の、寂びついた気管の年輪が奏でるしわがれ声の出番もあるだろう。鼻持ちならぬが、人間に比べると顔役の発言の矛盾が少ない分救いはある。
 そして万が一、よしんば妖怪同士喧嘩になったとしても、朝に敵を陥れるなら夕べに死すも可なりといった人間流の捨て鉢な外交術を採用することはなく、お互いがお互いの事情を把握したうえで、付かず離れずの距離感を保っているのが彼女たち妖怪だった。
「それともまさか、新しいルールを私に作れとでも言うつもりか」
 私は濾し残された残留物のうち、もっとも大きなものに言及した。
 人間と妖怪の間に発生する問題についていえば、ルールを犯した側に同情の余地はなく、裁定の以前から善悪が決まっている。人妖の直接的なトラブルに関してこれ以上新しいルールが必要だとは、私は思わなかった。
「いいえ、それはあなたの仕事ではありません」
 しかもスペルカードルールがあるのだ。この幻想郷に屋上屋を加えるような新たしいルールが求められているのだろうか。
 時代は変わったのだ。残る仕事は何か?
「詳しい人間に語っていただくとしましょう」
 八雲紫の楽しい顔面塗り絵の時間が一段落し、足の裏のくすぐる練平絹の下沓の肌触りをもてあましていたときだった。
 目をぱちくり開いて、畳の上に腰を下ろしているのは、私の数少ない人間の知り合い、稗田阿求だった。
「ようこそ神社へ、御阿礼の子よ」
「稗田のご息女じゃあないか」
 稗田阿求が驚いた様子で私を見た。
「これはしたり霧雨のご息女……改め、博麗の巫女さまとお抱え衣紋者八雲紫さまではありませんか。次代の巫女に一足早く会えるということであわててよそ行きの装いをしましたが、どうやら私のほうが支度を速く終えたようですね」
「どうしてここに」
 彼女はするりと立ち上がり、漆黒のまなじりを大きく見開き、指で眼窩をを押さえる。
「ことの記しですよ」
 彼女は見開いた目を細め、自虐的な笑みを浮かべる。
「それに、私の新しいお仲間をお迎えできるとあらば」
「仲間?」
「そう、運命に弄ばれた似たもの同士」
 といい、彼女は握手を求めた。握手の上からさらに手のひらを加え、私をじっと見つめて微笑むのだった。
「我らは独りにて独りにあらず。我らの屍の山上に踏み立つ故。そう、今まで何人の貫かれた我々が地獄の底に堆く沈澱していることでしょう」
 そして手を放す。遠い昔を懐かしむ目で私を見た後に、紫を睨む。
 おや、と思いがけぬ彼女の態度に私は首をかしげる。明瞭に敵意を向けていたのだ。
 もちちろん私としては、八雲紫に文句を言ってやる人間が増えるのならば、とくに止める必要は感じなかった。
「まあ私は怒っていますよ。霊夢さんが失われ、次なる生贄が選ばれた。ええ、いつものこととはいえ」
 彼女は八雲紫につめよった。
「生贄とは私のことか?」
「もちろん」
 彼女は胸に手を当て、怒ったように言葉を早口で継いだ。
「私たちはいわば、はしための扱いを受けているわけです。幻想郷を次代につなぐためのね。犠牲者というわけです。よくも私をここへ呼べたものです。よろしいですか、巫女はなりたくてなるものではありませんよ、御阿礼の子がなりたくてなるものではないのと同じようにね。そうでございましょう、紫様」
「現実の諸要素をもとに」
 私たちに見つめられた八雲紫は少しもうろたえることなく、堂々とした態度で長々しい反論を一席ぶった。
「幻想郷の遺産を引き継ぎ、拡大と保存を両立する社会を続けて行くことは難しい問題です。そこでは隙なく武装した哲学的論理や高潔な倫理観などに信仰篤くすることは百害あって一利なしであり、むしろ時宜と方便こそが重要です。直線は最短ではなく、施しは救済ではありません。春の蝶のはばたきを呼ぶものも冬には吹雪を呼びます。『旧態にとどまりながらしかもつねに変貌してやまず、善良にして且つ邪悪であり、高貴な精神を有しながらしかも野獣のごとく、洗練されていてしかも粗野であり、眼を永遠なるものに注ぐかと思えば、また瞬間の奴隷であり、幸福でしかも不幸であり、ささやかな満足に甘んずると同時に一切のものを貪りつくさんとする』のが人間であり、ひいては社会であるのです。一個の存在の、一時の都合を優先させることはできません」
「つまり、どういうことだ」
 阿求がやれやれ、また紫様ときたら、といった様子で嘆息する。
「九度の転生を経て千年を生きる求聞持法を極めた稗田阿求の経験を駆使すれば、紫様が『あなたがたにはまかせられません』とおっしゃっていることが分かります」
「なるほどな、九度転生するまで待てないから、翻訳ありがたいよ。まかられませんだって? けっ」
 私は喀痰しそうになるが、室内であると思いとどまる。
 頭に血が上った私は、罵りの声をあげた。私の怒りの袖の羽風が、八雲紫の前髪をゆるやかになびかせる。
「霊夢を見殺しにしておいてよく言う。救えるものには救う責任がある。霊夢のいやごとなど無視すりゃいい。奴が何をわめきちらそうが、ふんじばって生命をつなぎ止めてやれば良かったのだ」
 想起する。彼女の体液の温度と、弱々しい言葉。それと生命に触れる感触を。
 私は八雲紫が何か言う前に、結論を先取りして稗田阿求と八雲紫に告げた。
「言っておく。霊夢は私が殺した」
 稗田阿求はこちらを振り返った。いわば彼女は、紫への攻撃の最中に、側面から唐突な味方の足払いを食らった格好な訳だ。
 彼女は私をじっと見つめる。
「……どういうことですか」
 ため息をついた八雲紫が、私たちの間に割り込む。
「誤解を招く言葉はいけません。霊夢は自死しました。あなたは(と、私を見た)看取ったに過ぎません」
 いいですね。と彼女は脅迫するように、押し殺した声で念を押した。
 その雰囲気に飲まれた私は気勢をくじかれ、腕は元気なく垂れ下がり、何やら分からぬもごもごといった喉仏の未熟児を、みじめにも空気中に堕胎させた。
 続いて八雲紫は稗田阿求に対して肩に手をおき、命じるように言葉をかけた。
「御阿礼の子よ、あなたの仕事は霧雨魔理沙とごろつき団を結成して八雲紫を責め立てるためではありません。中立な歴史家として口述を期待して呼んだのです。博麗の巫女の最たる役割とは何か? 教えていただけますね」
 しばらく稗田阿求は沈思黙考した。
 その間も私の装いは進む。帖紙が折られ懐中したるとき、風がやみ、樟脳の匂いが部屋にかかる。わずかながらに含まれる香油の覚醒作用が、観想の能力を活発にさせたのだろう。私の興味は御阿礼の子という役割に向いていた。
 私はこれまで他者に興味を持てず、私自身へ興味が向きすぎていた。何しろ私自身のことをまず片付けなければならなかったからだ。だが霊夢のことを知りたいという欲求が、他者一般への興味を強いるようになった。誰かはこう考えている、誰かはこのような状況におかれている。ならば、私ならばこうする。私は他者の思考の地平を我がこととして見るようになった。
 短命を強いられ、義務に縛られるためだけの人生とは何なのか。私ならばとても耐えられない。彼女がこの幻想郷に抱く思いとは? 私は彼女の考えを機会があれば聞こうと心に留めた。
 稗田阿求は果たして私の講師となることを了解した。
「まあ、良いでしょう。紫様に命じられれば。それに、私には時間がたっぷりあるのでしょうから。あと千年ぐらいはね」
 皮肉むなしく、八雲紫は一転上機嫌になり、完全に満足したように首肯した。
「よろしい」
 では、と私に向かって稗田阿求は訥々と語る。目に力が宿る。
 私はこの力を知っていた。知識の披瀝がまんざらでもないのだ。こういう態度は嫌いではない。
「まず神々と我々の関係から始めるとしましょう」
「神々?」
 私は社会生活の実際上から一見離れたところにある単語に疑義を示す。てっきり出産結婚その他の俗世的な神事とでもいった連中が、将来の私の生活の占有権を主張し、内なる私を往来へ蹴り出すために乱声をあげながら登場すると構えていたのだが。
 神々といえば私には縁の薄い話だ。2,3の関係のある神がいるにはいるが、深い関わりでもない。とはいえ、巫女ともなれば奴らとも仲良くしておかなければ損だろう。
「神は巫女を通してあらわれます。これはよろしいですね。そして次の事実……神が容易に現出することは、あまりに世界観に影響を与えすぎます。これも、よろしいですね」
 結界における幻想の収集作用には種別問わぬ性質がある以上、なるほど、巫女の神に対する留保がこの結界の箱庭には必要なのだ。
「そうだな」
「豊穣の神、厄神などは里人の生活の都合上巫女の対話を経由せず存在しているに過ぎません。巫女という職業が結界の管理者を兼ねるのは偶然ではなく、永遠の宛て職な訳です。妖怪の賢者は考えました。巫女は神の国の釜の底として、彼らに対する備えになると」
 と、稗田阿求は息継ぎをする。
 つまり巫女との対話を担保することにより、神々は個別の幻想として幻想郷を闊歩することにはなり得ない。山の神のような守矢の巫女と結びつく例外はあれど。
 まさか巫女の役割をこのように敷衍するとは。私は呆れてため息をついた。
「不敬な奴だ」
 大結界の敷設工事からこちら、当意即妙、そこに前からあるものを使う生活の知恵を感じさせるやり方で、実に八雲紫が思いつきそうなことだ。いわば巫女は神々の世界を支える張力であり、神々は巫女の影絵としてのみ姿形を捉えられるのだ。
 八雲紫は『原則的でしょう? 巫女が居るのですから、そうなりますよね』といった得意げな顔をした。そして自画自賛した。
「これぞ伝統の踏襲です。素晴らしい」
 ウインクをする八雲紫に対して私はとっさに反撃を思いつかず、悔し紛れに
「もっと沢山の神が幻想郷に居れば、八雲紫も下っ端の振舞いを覚えて、少しく謙虚になったろうに」
 と噛み付くにとどまった。
 八雲紫は手を口に当てて微笑む。彼女は飄々とした態度を崩さなかった。確かに如何程かの真実はあっただろう。だが私の有効な反撃にはならず、まったく堪えていない様子であり、となれば無視することしか私には取れる手段が残されていなかった。
 私は稗田阿求に向かって、あと一呼吸分の酸素を消費すれば分かるようなことを、質問するためだけに質問した。 
「では巫女は誰の味方なのだ?」
 彼女は即答する。
「巫女の本質は中庸であり、人間には属していません。彼女は幻想郷に属します。何故なら巫女はまず幻想郷を降ろすことにより誕生しますので」
「霊夢も言っていたな。幻想郷を降ろす。なるほど、具体的にはどういうことになる。それは妖怪退治屋の理想となることとどう違う」
「退治屋?」
 稗田阿求の不審げな表情を見た八雲紫が、着付けの手をとめて疑問を引き受ける。
「よろしい、結構。私はまだ御阿礼の子に説明はしていませんでしたね。霧雨魔理沙は、妖怪を退治する役割をもった英雄としての幻想となりかけていました。従って、それを回避する必要がありました。巫女となることによって」
 稗田阿求は眉根を寄せる。
 きっと彼女の長い人生の中で、思い至ることがあったのだろう。実に理解が早いことだ。
「幻想郷縁起には。責任の一端がありますね。あり得べきことでした。魔理沙さんには謝らなければなりません」
 肩を落として陳謝する稗田阿求に対して、紫なりの励ましが入る。
「これで八雲紫ばかりが簀巻きにされ棒で叩かれる心配はありませんね」
「よく言うよ」
 稗田阿求は気を取り直して講義を再開した。
「ならば魔理沙さん、幻想となることについて、身体で理解したでしょう。そう、ある幻想として指示されること……、それは、身体的なプロパティ(御阿礼の子が英語を使うことに私は当世の文化流入の勢いを感じた)の延長を意味します。我々が手足の要求、内臓の要求に支配されるのと同じように、幻想独特の要求に支配されるということです」
 私はふと、自分の手の甲をもう片方の手で撫でた。
 手触りを確かめる。そう、幻想になるということは、人間であるか妖怪であるか否かにも関係はないし、気分次第で性格を薬を飲んで入れ替えることとは違うし、巫女のように神を降ろすことでもない。
 たとえるならば、まるで背中に翼が生えるかのごとくあらたな器官を具し、優雅に羽ばたき蒼穹を行くがごとく、その器官をもってのみ把握できる何かを把握できるようになり、飛びたい、空を目指したいという要求に支配され、また翼を折り曲げ傷つけば血は流れるのだった。
「結界には」
 彼女はひ、ふ、み、よ、と蝋燭の蓄えを取り出し、たたみの上に横倒しに置いた。
 中央を指さし、続ける。ことばの旅を続ける指先が、四隅を順に、説明とともに走っていく。
「結界には、精神が宿ります。木々、磐、祠、ある事物、ある概念、つまり、己と他と区別する万物に。したがって、幻想郷にも精神は宿っています。ところで、幻想郷の精神をどうやって知ればいいと思いますか?」
「分からん」
 不出来な聴衆の答えに、我が意を得たりと稗田阿求は喉が絡んだ声を出した。
 蝋燭がころころ転がり、輝かしい征途の末に隣の蝋燭にぶつかって結界が壊れた。
「その通り。普通、分からないのです。でもほら、耳を傾けないとある日突然、こんな風に結界が壊れるかもしれませんよ。一見平和そうに見えて、不平不満をためた幻想郷が精神の病にかかったり、悪い食べ物をたべて赤痢にかかったり、不摂生がたたって心臓の病で倒れてしまうかもしれまんよ。私は冗談で言っているのではありません。寄生虫の存在を訴えることもありましょう。語りたいと思いませんか、知りたいと思いませんか。幻想郷の裡を」
 稗田阿求は唐突に居間を抜け、襖を全開にした。
 循環する空気が蝋燭を揺らめかせ、香料の鼻につく甘さを押し出していく。見事な月夜だった。襖の向こうの鎮守の森が黒々と、眼下に見える里の灯りがちらちらと輝いている。
「どうです? 何が分かります? なるほど、夜気は艶めき、星は嬉しく語り合っています。風もゆるやか、微温で、いうことありません。明日は晴れでしょう。ですが一番大事なこと、幻想郷がいつ壊れるのかは分かりません」
「……虫が入るから閉めておくれ」
 私は先の面白くない結論を予想し、そっぽを向いて注意した。
「それを踏まえて、幻想郷を降ろすことを考えてみましょう。単純に言って幻想郷を神とみなし、その全体を、巫女の自らの身体とすることです。巫女のことばとは幻想郷のことば。胃が痛いと訴えれば地脈が乱れる徴候、頭痛がすると訴えれば結界が罅入り軋む証拠。巫女の勘とはこの手合いの神話の巨人じみたカラクリをもって引き起こされる付随物です」
「そんな大層なことかよ」
「ええ、大層なのです」
 だが霧雨魔理沙という幻想と博麗の巫女という幻想には歴とした峻別を画する線が横たわっている。
 彼女は情動たっぷり、肩を抱いて目をうるませる。
「ああ、かくして巫女も御阿礼の子も、哀れ妖怪の賢者が十重二十重に用意する炭鉱のカナリアの一羽として捕らわれているのです。一言でいえばそうです。個人を幻想と捉えることとは違う、準備された幻想であり、必要な役割として創られた幻想がある」
 襖を閉め、彼女はぺこりと頭を下げた。
「とはいえ御阿礼の子の役目については、また後日にしましょう。準備も終わりのようですしね」
 講義は終わったと、あっさりと台詞を断絶する。
「よく分かった」
 八雲紫が能事おわれりとばかりに御阿礼の子の頭に手を乗せ、謝辞を示した。
「全き説明でした。意地悪であなたに説明させた訳ではありませんよ。あなたがたには友人になってもらいたいのです」
 私は稗田阿求の表情を伺う。てっきり彼女は嫌味のひとつでも余勢を駆って付け加えるのかと思いきや、逆にこれで打ち切りだと決めているようだった。
「いや、実にためになったよ」
 覚束ない笑みを浮かべる私は、稗田阿求の表情の奥を読み取ろうとしていた。
 御阿礼の子は短命を強いられている。いかなる役割を果たしているのか私は知らないが、ともかく逃れられないのだ。
 私なら、役割を放棄し、寿命の延長を他のいかなることも等閑に付してさえ得ようとするだろう。彼女がそれをしないということは、何も得られぬことを受け容れているのか? あるいは彼女は既に、己の人生をないものとして扱い、どうでも良いと思っているのか?
 しょせん私は彼女について無知である。卑近な思惑かもしれないが、重要なことは、彼女は私の潜在的な味方であるという直感だった。
「それで、これは紫、私の仕事なのか?」
 八雲紫は頷いた。
「ええ。それが巫女の仕事です。幻想郷、調子はいかが。……と、私たちはご機嫌伺いをしたいのです」
 私は今更彼女に対して人の道を説こうとは思わなかったし、むしろ本当ならば見事な仕事だと、なかば他人事のように感心した。
 巫女としてひとつ祈誓を立てるとすれば、私はこのことについて言葉を費やすことはやめ、また、己を空しうして役割に徹することもやめ、とにもかくにもお役ご免であり、時を急いて手ひどくご破算にして、放棄してやるのだという破壊の宣言だけだろう。もちろん準備が必要だったし、やり方があるのは心得ていた。今はその時ではない。
 沈黙の帳が降りる。
 とうとう、私の装いが完了した。鏡の中には袿袴を隙無く着込み、白粉たっぷり紅たっぷりの店先に並んでいる人形が飾られていた。
 八雲紫は私に沓を履かせる。
 それにしても、と鏡を見た私は口角を上げる。
 じつに恥知らずなおめかしだ。けばけばしい口紅の目立ち方といったら! 廉恥を弁えるということを知るべきだ。
 これで人前に出されるなんて、顔面がお面の女を見世物にでもしようっていうのか。きまりの悪い人心地がこんこんと胸中にわき出て窒息し、むせかえり、あっぷあっぷし、藁にも縋りたくなった。
「いやあすばらしい。技量結構、粧いまさに百事意のごとしだね」
 八雲紫は照れ隠しとたかをくくっているのだろう、「お似合いですよ」と嫌がらせを言うのだった。
 何も自分を否定し、この真っ赤な紅やおすまし顔や派手なおめかしをきまり悪く思うことはない。何故気まずいのか。さては普段から素顔をさらしているのは、胸裏の虚飾を虚飾ではないとかえって弁解しているつもりだからで、繕いのない己の姿がここにあるのだと遁辞を弄しているからではないだろうか。
 いや、何も今は是までとあやしみのあまり結論を急ぎ、自分でもウソかホントか分からぬ道理にとびつくことはない。鎧戸を閉じて店じまいの勘定合わせをはじめる前に、このわだかまりを何かに転嫁せねば。
 私は袖を振り左右の斜めを確かめ、見返り、小首をかしげた。
 ここで目に入ったのが私の後ろで喜色満面、身体の線に単をのばす八雲紫である。
「顔作りなど霧の籬の向こうに仮の一山を映え渡す観がある作風だね。主題は妖怪の山かい。白粉の高さで言えば霧雨魔理沙の顔面と八雲紫の顔面、なかなか甲乙つけがたしだね」
 彼女はむすっとした。私はしてやったりと心の中で喝采をあげた。
 八雲紫はこめかみを押さえて、5歳児に諭すようにうんざりしながら言った。
「ごきげんな祝詞です。胸も爽立つというものです。遠目夜目ですからね、強弱を効かさなければ。そしてあなたの仕事は創意を振るうことではなく、黙って儀式を見守ることだけです。難しいですか? じっとしていてください。その妖怪の山ですよ」スキマの中に放り込まれた。
 そして草叢の濃い匂いと、清流の気配、背景に鈍としてそびやぐ雲を凌ぐ黒色。妖怪の山の中腹にある広間にて真榊で飾られた小屋に棺が移されるのを見ていた。
 私の隣で八雲紫が問わず語りをした。
「ええ、霊夢が入った棺が移されるところです。ここはご存知ですね。結界がまだ張られていなかったころ、このあたりで木々を切り川に流して塩と交換していました」
 その名残として今も材木の置き場として使われている。
 ここは妖怪の領分である。里人は祠を建て、番を決めて手入れをし、この季節には草刈りも欠かさなかった。小さい頃何度か手伝いに連れてこられたことがあるが、その頃と比べてみると狭く見え、時の流れを感じるのだった。
「ああ、知っている」
 草刈りなどつまらない。なんとかならないかと考えたものだ。親のいいつけを満たすことを楽しめるほど素直ではなくなった頃だった。
 ふて腐れた顔で地べたを這い回り草をむしる少女が、妖怪ならば指の一振りで終わらせる仕事に対して、手に豆をつくり、ウルシにかぶれ、アブに刺され、日差しに焼かれ、汗をぬぐいながら、その熱い額を冷ますのは4刻で消化され体外に排出される冷たいエードではなく、世界に向けて命令する権利を示す不朽の月桂樹であると希求するのは正当な要求だった。氷水にレモンやハチミツを加えミントの葉を浮べることは悪くないし、労働の後では素晴らしく楽しい飲料だが、私の人生の意味の保証書としては相応しいものなのか? 
 やがて早熟な願いがついに魔法使いという月桂樹を見いだしたとき、人生が一変した。目の前の光景はもう昨日とは違っていた。私はようやく生きるに値する宝物が与えられたのだと欣喜雀躍したものだ。魔法と一緒になら私も生きていける! やれやれ、都度やりくりを勘定して生きるなどという卑屈なことはもう一日だってしたくなかったが、……火よ出よ、眠気よ吹っ飛べ、歴史よ消えろ。悪くない、いや、じつに素晴らしい。これなら私は世界に対する主人となるのだ!
 だがそれから数年で全ては逆戻りとなった。魔法の限界を知った私は、次なる私を捜し求め、迷走に迷走を重ねる日々だった。径路の末に生まれた予想だにしなかった結実。それは今日ついに博麗の巫女という雑用係を宛がわれ終の棲家とすることだった。いちいち黴の生えた神楽の舞かたや祝詞の奉じ方で頭をいっぱいにする人生を、私は準備しなければならないのだ。
 いわば私の歴史とは、私の国、私の愛すべきRoyalWeが惨めにも潰走し、崩落し、略奪されるのをなすがままに見せつけられている歴史な訳だ。尺蠖の伸びんとするは屈むるがためといったところである。このお定まりの崩壊の書き割りに対して、はじめのように喪失感に苛まれるには、今日はあまりにも失いすぎ鈍磨してすぎていた。むしろここに至っては自暴自棄の気が勝り、うろたえもせず目前の儀式の準備を悦に入った気分で眺めていた。
「あの頃から幻想郷の良き気風は何も変わっておりません」
 それは説教の響きを帯びていたが、私にとっては皮肉だった。私は腹立たしい気持ちで吐き捨てた。
「すべてのものごとには良いこともあれば、悪いこともあるよ」
「いや此度の巫女も、なかなか口が達者ですねえ」
 感心したように稗田阿求が手を叩いた。
「ご指摘痛み入ります。おっと、大丈夫ですか」
 蔓に足をとられよろめいた稗田阿求を八雲紫が支える。
 八雲紫は親切だ。私はそれを認めよう。と、稗田阿求の身体をやさしく戻す彼女を見ながら思う。
 だがやはり彼女は幻想郷を超えることはなく、むしろ幻想郷の統辞論を成す構成分子として、我々という単語を適切に配置することに血道をあげているのだ。なので八雲紫の口からは人形も古酒も実験器具も吐き出されるが、一足飛びに幻想郷の則を超え至高天へ導いてくれるはしごだけは、滑りのいい喉をしてもぐにょりと伸びてくることはありえない。既にこの化粧にも衣服にもやつの唾液がべったりついている。ありがたいことだ。タダで友達の死後の世話や、私の職の世話まで焼いてくれるというのだから。彼女の唾液が付着することには現世的なな御利益がある。それでもやはり彼女は幻想郷に縛られているのだ。
「どうした、ご飯を食べてこなかったのか?」
 私は稗田阿求を心配して声をかける。
「いえ、少し考え事をね。霊夢さんの話を」
「霊夢?」
 既に日は既に沈み、山から降りる底冷えるような風が温暖な季節だというのに衣服の下から皮膚を舐めている。松脂油の炎上には香木が練られている気色があり、縒られた生糸のほつれが躍るように清香が私たちの呼気に混じり漂う。
「いずれこの話題は、また日を改めて」
 人目を憚ったのだろうと察した私は、おとなしく引き下がった。
 八雲紫は気にした風も見せず、今後の話をする。
「霧雨魔理沙よ、あなたの仕事を説明しましょう。祭儀の最中には特に用事はありません。ただし、その後の一夜をあの小屋で過ごします」
 流れについて説明はそれだけだった。この平地に陰影の濃淡として浮かび上がる小屋において、次代の巫女である私は博麗の巫女の御霊代である巫女装束や霊具一式とともに過ごさなければならない。したがって私の最初の仕事は哀れな供物として幻想郷に献げられることであり、祝詞ひとつ奉じることなく、ただ立てと言われて立ち、寝ろと言われて寝るだけだ。
 物事には順序がある。まずもって目先の仕事の解決こそが矢立の始めとなるだろう。それは私も分かっている。いずれは欲しいものは手に入れるだろう。強いられたこと、奪われたこと、あらゆることに対して。
「儀式が始まります。では私はこれにて自席へ。魔理沙さん」
 彼女は私の肩に手を乗せ、目を見ながら言った。
「助けが必要であるならば、いつでも我が東屋へ」
「親切だね」
「当然です。私の両隣には寂しい隙間風が吹きすさぶものですから、すわお隣にお仲間が誕生したとなれば、是々非々なく片手を差し出し繋ぎあい、懐中を暖め、励ましあいたいものでして」
 と、にこりと笑って請け合った。
「どのような疑問も、すぐさま解決することでしょう。特に幻想郷の内なる事情、霊験あらたかな儀式、禁忌も! 紅魔館の図書館よりも頼りになりなるアドバイスをお約束しましょう」
 年季が一桁違うもので、と彼女は去っていく。
 槽が建ち、神離が作られ、慌ただしく祭祀の準備が始まり、すぐさま降神の儀へと移る。
 私は目立つ場所に立たされ、八雲紫と並んで衆人の監視に置かれるのを感じた。何が起こっているのか分からず、紫に着せられた袿袴の肌触りを持てあまし、することもないし、せめて人形ならば人形らしくしているか、とじっと直立して目前を眺めていた。
 私は祭主でも参列者でもなかった。私はいわば、この儀式における供えものの役割を強いられていた。
「本当に私が巫女になるのだな」
 何気ないつぶやきを隣の紫はつかまえて、小声で囁く。
「今夜はまだ支度の始めです。幾度かの定着を経て、先代の転生が終わらぬ限り」
「いつだ」
「50日後。それまでは巫女はこの幻想郷に不在となります。私が結界の管理を代行し、巫女の権能の保障とします」
 とすると忌明までは霧雨魔理沙は決して博麗の巫女そのものではなく、博麗の巫女代理者「魔法使い霧雨魔理沙」であって、「博麗の巫女」と等価である存在はこの幻想郷から消失しているのだった。私は追い風を感じた。巫女でなければ私は自由だ。幻想郷に背く禁忌に触れることもできる。
 せめてものことに、と祈る。いまは死者の魂が安らいでくれることを。それは私が口に出せばこういう内容になる。
「せめて、一夜の宿の布団が毎日干されているものであれかし」
 私の捻くれた言動が呼び水になったのか、どっと一日の疲労が沸いてきた。かてて加えて、通夜のもがりへの憂いで曙染のようにぼんやりとした視界。そこでは火の粉が夢幻的に飛び交い、服の糸色や赤らかな皮膚がちらちらと明滅しながら渦巻いていた。
 どこから琴や笛の音が響き始める。
 顔を隠した妖怪が神座の正面に進み、白米と黒米を樫葉に盛った皿を供える。神饌が次々と運ばれてきた。魚類、野鳥、水鳥、五穀、海草、野菜、果実、清水、花々。四方八方の漠々たる天際から生のままの供物。濁り酒から清酒まで、海の黒々たる奥から小川のせせらぎまで、山樹の分け目から今年の田畑の作柄のうつしまで、背の高い器から小皿まで。四季も七色も。
「一つ」
 そして祭主である東風谷早苗は榊を取り立て、動作に風をつけながら槽を衝く真似をする。
 絲結びにされた糸が葛筥にかけられる。
 彼女の顔は真剣だった。私と目があったのににこりともせず(お互い様だったが)、厳粛に儀式を遂行していく。
 私は幻想郷における人の死について、そして、死後の決まりについて考える。
「二つ」
 幻想郷は宗旨宗派の別なくことごとくを採用するだろう。それが幻想郷に必要であるのならばだ。神道も仏教も道教もある幻想郷の仕組みは極めて習合的であり、その全てに意味がある。ところで当たり前だが、制度はふつう輻輳したり同時に二つ存在したりはしない。
「三つ」
 素材を厳選する八雲紫の職人根性が生み出したパッチワーク・キルトの傑作がこの幻想郷というわけだが、このパッチワークが描く曼荼羅によれば、私たちが全て閻魔の裁きを受ける以上、本つ魂が根の国へ行き、奇魂は墓所に止まるなどといったなぐさめを必要としなかった。
「四つ」
 私が捕まえるべき霊夢の魂は那辺にあるか。従ってこの問いは実に簡単、三途の川の向こうだ。博麗の巫女が私を見出したときには、全ては手遅れとなるだろう。忌明までの七週間が私に残された時間だった。
「五つ」
 死者の領分を分かつ大きな意味を持ち、我々の栄光を吸収する腫瘍の一つが他ならぬ輪廻転生だ。この腫瘍は魂に所有権を設定することで、我々の魂を我々のものではないと主張しているのだ。自らが自ら足り得ないという不幸は、ふがいない精神をうらむしかない。しかしだからといって自らが閻魔のものである必要はどこにもないのだ。
「六つ」
 たった一個、あの緑髪の出しゃばりなクソ閻魔が、自らの輪廻の地上げ屋根性を棚上げにして私たちの行く末にいっちょ噛みし、生き死にの区別無く、脇卓に仕舞い込んでいるお手製の閻魔帳の細目に、魂たる魂の悪行をみみっちく書き入れるということが全ての諸悪の根源である。まるでパチュリー・ノーレッジが私が盗んだ品物を確認し、分厚い紅魔館備品名彙の第五巻「書斎・地下室」をめくり、赤インキで文鎮ひとつから怨嗟のコメントをものすがごとく態度でもって。
「七つ」
 死者の復活が幻想郷で認められないのは奴が居るからだ。もしも魂が誰の者でもないのならばそれを復活されることも自由であるだろう。死者の復活は幻想郷では認められない。そう、死なないことも、死者が練り歩くことも許されているが、一度三途の川を渡った魂を呼び戻すことだけは許されない。
「八つ」 
 幻想郷は確かに全てを受け容れるだろう……不思議でも何でもない。そう結界が作られているのだから。妖怪の賢者は外科的処置により意に沿わぬ腫瘍を切断し、二度と顕れぬよう焼却溶解するだろう。奴らはこの幻想郷にそぐわぬ器の狭さを直接言及することをはばかり、単に避けられない、残酷なことが幻想郷にはあるのだと仄めかしうそぶいている。 
「九つ」
 実にその残酷なこと、腫瘍の処置が問題だ。私は殺されるかもしれなかったのだ。気紛れな賢者どものメスの緩やかな角度がたまたま私を博麗の巫女にしただけだ。私はこの幸運を一生の恩として、全ての不都合を看過しようとは思わない。閻魔にそむくことはひいては八雲紫にそむくことである。当然、その報いは大きいだろう。
「十」 
 その大きな報いとは具体的には何か、監禁か、死か、一層下への地獄行きか。だが結局、脅しは行為には無力である。奴らは敵であるし脅すだろうが、私は行うだろう。今日奴らは「霊夢の魂を復活させなければ、お前を殺してやる」という冗談に腹を抱えて大笑いしたあとで三日三晩説教するだろう。だが次に出会うとき、奴らは舌先三寸を後悔していうだろう。「あなたをあの時に殺しておくべきでした」と。
 早苗が槽から降りる。
 八雲紫が声を潜めて、私に講義を始めた。
「この儀式には2つの意味があります。ひとつは霊魂の継承、それは博麗の巫女を次代の巫女に鎮めることによって成されます。あなたが今夜を霊具とともに過ごす意味は、継承を専らとします」
 御衣筥が開けられ、巫女服が取り出された。裾がゆらゆらと揺れている。
「もうひとつの意味は何だ」
 八雲紫は意味ありげに私を見た
「もうひとつの意味は、―――より重要ですが―――魂呼ばいです。これは霊魂の復活の儀でもあります。そう、確認です。かくのごとく賦活の祭儀を行ったが、それでも……」
 生き返らなかった。死んだ。言ってはだめだ、と私は言葉をとめようと取り乱して彼女の袖を引っ張った。2,3の視線がこちらへ向く。
「分かった。だからやめて」
 彼女はそれ以上言葉を続けなかった。
 やがて早苗が言葉を吐き終わり、祭具が順に運び出される。だがまだ終わりではない。私はうながされて小屋に入り、この儀式における唯一の仕事、入眠が始まろうとしていた。
 振り返る。霊夢の身体が入った棺が、どこへかに運び出されていく。幻想郷においては埋墓と参墓が分かたれるのが普通だった。この幻想郷が両墓性を採用しているのは驚くには値しない。何故ならば幻想郷において死体を野にさらすことは独特の意味を持っている。妖怪が存在するからだ。
「食べるのか」
 八雲紫は頷いた。
「ええ」
 妖怪は人間の死体を摂取し、自らの一部として生き続ける。幻想郷の住人において、この文化は伝来の先祖信仰と結びつくことによって人間側から妖怪側に対する独特の尊敬を養う素地となっていた。百年にも渡る幻想郷における人間と妖怪の共生! その結実としての死出の食卓は幻想郷の美しい歴史的な観光名所のひとつとしてパンフレットの見開きを飾ることだろう。その写真に人間として写るのは、勘弁願いたいところではあるが。
「小指ぐらいは燻しておいてよ。何、保存食だよ。巫女は何しろ昨今ひもじい職業だ。いざってとき草木の根を食べるよりはマシさ」
 私の強がりは神さびた頭脳を持つ大妖怪の琴線に触れるところではなかった。
 彼女は表情を動かさずに告げる。 
「忌明となればあなたは正しく博霊の巫女です。お披露目までに、相応しい振舞いを身に着けるようにお願いしますよ」
 この後に控える参墓の準備も追善供養も、有志により命蓮寺において執りおこなわれることになっているが、肉体も霊もそこには存在せず、一から十までセレモニーであり、見せかけの自由に他ならず、従って私の興味はそこにはなく、次なる段階として具体的な霊夢の生還についての計画を考えはじめていた。
「輪廻転生を信じる巫女が居るか」
 彼女は輪廻という言葉に反応した。
「何故必要か理解できますか?」
 じっと黙り込む私に八雲紫が続きを教える。
「私、八雲紫にとっては輪廻転生は不可避な制度です。幻想郷は閉じられなければなりません。管轄の閻魔様がいらっしゃるということは、その管轄において魂の循環が行われるということです。無制限な生命の流入、流出を食い止め、幻想郷における生命の分布の調和を図るためです。外界から大量の魂が入ること、幻想郷から大量の魂が抜けること、そのどちらも捨て置けぬ障害です。さらに魂の種類も選別(八雲紫ははっきりとこの言葉を使った)せねばなりません。魂の異動はすべて是非曲直庁を経由し、書類上のやりとりをもとに移管されます」
 棺が運び出され、参列者は減りはしたが、まだ残っていた。
 私と八雲紫は小屋の中に入る。扉が閉じられ、私は巫女服へ着替える。
「選別だと」
「ええ、全てを許容する制度は存在しません。幻想郷は拡張と存続を両立させなければなりません。過去の良き習慣、風俗の保存も。もっと言いましょうか? 輪廻転生は外に対する防備でもあると同時に、内からの侵略に対する防備でもあります。我々は幻想郷の内部でも人間が殖えすぎないよう、また蝗、雲霞、フィロキセラから始まりネズミ、コウモリ、リョコウバトなど、単一種における害が発生しないよう気を配らねばなりませんが、閻魔様のご協力なくしてそれをすることは不可能です」
 いやまったく、ここまで開き直るとは。蝗と人間が一息のセンテンスに同居する視点を露悪的に見せつける彼女の意気に、私は感歎して黙り込んだ。
 幻想郷が用意する神仏習合のコラールは、徹頭徹尾、幻想郷の地縁的諸条件と隔離世界としての幻想郷の存続の都合から構成されており、わけても譲れないところでは細部まで計算尽くであるのだ。私は吐き捨てる。
「実に計算高いことだ、毎度のことだが」
 格子から差し込む月明かりだけがまだらに寝具を照らす。
 外ではまだしつこく祝詞が続けられている。
 反撃の意気を阻喪している間に、着替えがすっかり終わってしまった。巫女服の隙間から霊夢のにおいが立ち上ってきそうだった。
 万感こもった賞賛を八雲紫はあげ、私の頭を撫ぜた。
「よくぞ成し遂げました」
「何をだ」
「よくぞあくびをしませんでした」
「大きなお世話だ」
 悪戯心丸出しで八雲紫は笑う。
「あなたの資質を鑑みたとき、賞賛に値する偉業でありますれば」
 と、彼女は背を向けて建屋の外へ進んでいく。私はそれを見届け、振り返ろうとしたとき、彼女は格子の裏に隠れささやいた。
「もう誰も見ていません、おしまいです。おやすみなさい」
 振り返ると、儀式が終わったからだろうか、雰囲気が和らいでいた。
 私は彼女のどこか場違いな茶目っ気に戸惑いながらも、やはり此度の椿事は八雲紫をしてそれなりに大層なのであったとようやく認識をするのであった。
 やがて祝詞が終わり、早苗が守矢神社とは違うほうへ去って行くのが見えた。今度は恐らく、葬式の祝詞でも奉じるのだろう。奴はこれから妖怪どもの食卓へいき、「言はまくも、あやにかしこき」から始まる一仕事をしなくてはならないのだ。ご苦労なことだ。いずれ私が同族となるとなれば、今夜は彼女がちょっとした出来物に見えたことは告白せねばならない。普段の頭のてっぺんから出るような早苗の声については、私ならば布団の中に地虫が入ったときしか出せないだろう。しかし祝詞を奉じる早苗の喉の振動は落ち着き払い、どこかささやきの掠れが混じるほどの声色が保たれ、しかもよく通っていた。
「また明朝に。出てはなりませんよ」
「言うことをきくよ……いやまて」
 扉が閉められ、うつぶせに布団に倒れかけた寸前で耐える。
「霊夢は地獄に落ちるのか」
「おそらく」
 八雲紫はスキマに消える。
 私は力尽きて布団の上に寝転び、化粧が移るのもかまわず、顔をうずめて布団に向かって話しかける。どうせ洗濯するのは私じゃあない。吐息の蒸気がほほを暖め、またすぐなる冷えを残していく。
「賢者の石……蓬莱の薬……巫女の能力と……、他には」
 表層入り乱れる思考のマーブリングに浮かんだ単語を並べていく。
「ふざけてやがる。何が生命の循環だ。私には関係ない……50日後までに、全てを決めてやる」
続き物を読んでくれるのはありがたいことです。
やはり月1ぐらいのペースになります。
tama
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コメント



0.330簡易評価
1.100名前が無い程度の能力削除
言っちゃ失礼だが読み始め(一話)の時点では衒学被れの魔理沙(と作者)が厨〇病を拗らせるのを生温かく見守りつつ、掛け合いに笑う話だと思ってた。それが前話からの話の締まりに吃驚。何時の間にやら真面目なお話に。……一つの神の摂理に抗う少女たち。ハラハラします
6.100名前が無い程度の能力削除
文体と展開を楽しみにさせていただいてます。
9.100名前が無い程度の能力削除
今回も面白かったです
続きお待ちします