はあ、と溜息を吐いた青娥の手には一枚の手紙が握られている。布都から青娥に宛てたこの手紙には、今日の正午に伝説の樹の下で待つと書かれている。青娥はこの手紙を見た瞬間、今日っていつやねんと地面に叩き付けた。布都の書いた文字はかっちりとしていて実に達筆なのだが、内容はあまりにも曖昧でぼやけている。
手紙は昨日の内に届けられたらしいから、手紙に書かれた待ち合わせ時間は昨日の事だと推察出来る。そうだとすれば待ち合わせ時間を過ぎている。数分数十分ならともかく、一日も遅れたのであれば、きっと待ち人である布都は帰ってしまっているだろう。無視を決め込んでも良かったが、何となく捨てきれずに、慌てて支度をして向かっている。
伝説の樹は、一応当てがある。妖怪の山の中腹にある櫟で、去年布都がヘラクレスオオカブトを見つけ狂喜乱舞した木だ。ヘラクレスを採った布都は喜びのあまり、伝説じゃあ! と叫びながら命蓮寺に松明を持って突貫をかけ、泣きながら帰ってきた。
布都は相手の事情を考えない。自分のしたい事をしようとする。だから良くトラブルになる。今回もどうせトラブルだろうと青娥は確信している。布都が青娥に持って来る話は大抵神子に相談出来ない事だ。この間の冬には太子様にスキーをお教えしたいから内緒で特訓させてくれとアルプスの山へと案内させられた上に、その一時間後には雪に埋もれた布都を探して広い雪山の中捜索隊の真似事をさせられた。あの時は仙人の体を持ってしても凍傷になるかと思った。去年の夏は太子様に蛍をプレゼントしたいとかで虫の掴み取りに参加させられた。箱に詰められた数多の虫に腕を突っ込んだ時の感覚は今思い出しても鳥肌が立つ。
そんな面倒事断れば良いのにという意見はもっともであるけれど、正直なところ青娥はその無理難題が楽しみでもある。持って来る難題の破天荒さは笑いを誘うし、その無理に挑んで布都が追い詰められていく姿は見ていて飽きない。自分も布都と一緒に巻き込まれてしまうが、それ以上の愉しみを味わえる。それから付け加えるなら、何だか布都に頼まれると放っておけないというのもある。
青娥は日が天頂に昇る少し前に伝説の樹を視界に捉えた。勿論布都が居る訳が無いと分かっている。誰も居ない場所にやってきた自分は何をやっているんだと自嘲しつつ伝説の樹の傍に降り立つと、啜り泣く声が聞こえてぎょっとした。幽霊か何かだろうか。仙術を心得ている青娥にとって幽霊等物の数でも無いが、森の中で死に、死しても尚泣き続ける様な手合なんて関わるだけで嫌な気分になる事は必定だ。その上、泣き声は小さな子供のものだった。泣いている子供なんて生きていようが死んでいようが相手にしたくない。
とりあえず顔だけは確認しておこうと声を追って伝説の樹の裏を覗き込むと、見知った人物が膝に顔を埋めてうずくまっていた。一瞬、青娥の思考が真っ白になった。何してんだこの人と呆れつつその名を呼ぶ。
「布都様?」
青娥が名を呼んだ瞬間布都が凄まじい勢いで顔を上げた。赤く腫れ上がった目が大きく見開かれ、続いて怒鳴り声が響いた。
「遅いわ、ど阿呆が!」
「え、ええ?」
何でいきなり罵声を受けなきゃならんのだと困惑する。気圧されて後ろに下がった青娥に詰め寄った布都はぎりぎりと歯を軋らせる。
「手紙を読まなかったのか?」
「いや、読みましたよ」
「今日の正午と書いてあっただろう」
「ええ、ですからさっき読んですぐにこちらに向かってきたのですが」
「出したのは昨日だ!」
「いえ、そう言われましても」
不在の家に手紙を持って来られたって、その日の内に読める訳が無い。
「分かりやすく玄関に貼ったのは昨日の朝だぞ? 何故すぐに読まなかった!」
「ずっと不在でしたし。貼った時に一言掛けて下されば、留守である事は分かったと思うのですが」
布都が黙りこんで下を向き、肩を震わせた。
「何時間待ったと思っているんだ!」
知らないけど何時間待ったんだろう、と布都の事を眺めると、服はやけに汚れ、その上頭には葉っぱがのっているのに気が付いた。
「もしかして一晩中待っていて下さったのですか?」
すると布都が涙混じりの目できっと睨み上げてきたかと思うと、はっと口を開いて、再び俯いた。
「待ってない」
「え? でも今」
「我も今来たところだ」
「そうですか」
どうやらこの子は一晩中待っていたらしい。恥ずかしがって待っていない等と嘘を吐いているけれど、あまりにも分かり易すぎる。何だか可哀想でなので、青娥は布都のご機嫌を取る為に持ってきた飴玉入りの缶を差し出した。
「一つ舐めます?」
「舐める」
青娥が差し出すと布都はそれを口の中に放り込んでばりばりと噛み砕いた。それで頬を緩めながら青娥の事を睨み上げた。
「買収はされんぞ」
胸を張る布都に青娥も笑顔を見せる。
「ええ、承知しております」
とりあえず泣き止んでくれたのならそれで良い。子供が泣いている事程面倒な事は無い。意図的に泣かせたのであれば大好物なのだが。
何だかやけに集っている羽虫を手で払ってから、出来るだけ警戒を与えない様に笑顔を見せた。
「それで、今回はどんなご用件ですか?」
「何だと思う?」
「さあ? とんと」
「邪な貴様の事だ。どうせろくでも無い事を想像してここに来たのだろう?」
布都が自信あり気な表情で胸を張ってそんな事を言うので、青娥の笑みが固まった。
こうである。
青娥は拳を握り締めて笑顔を堅持した。
こらえろ私。
はっきり言って、自分は布都から好かれていない、と青娥は思っている。もっと正確に言えば、言動を信用してくれない。数多の人間を誑し込んできた手練手管を使って接しているのに、どうしても信用を得られない。それどころか、笑顔を向けただけで、邪悪な事を考えているに違いないと疑いの眼差しを向けられる始末。
青娥は何とかして布都と仲良くなりたかった。あんな事やこんな事をして籠絡し、その挙句裏切って絶望の淵に突き落としたかった。その顔を恐怖と絶望と涙で汚し、その醜く美しい姿を堪能したかった。
飛鳥の世からそう望み続けているのに未だに成し遂げられていない。
青娥と布都の相性は最悪だ。
人との関係を築く事に関して、青娥はそれなりの自負があった。中国や日本、世界各地の、お互いがお互いの腸を貪り合うどす黒い政界劇の中を渡ってきたのだ。聡明な者とはビジネスな関係を築き、愚鈍な者は傀儡としてきた。
飛鳥時代、布都も神子の側近という要人だったので、いつもの調子で政界への足掛かりに利用しようと、近付いてみたのだが。
青娥は忘れない。布都に目通りした際、いきなり渋面を作られ、贈り物を突っ返され、唾まで吐かれた事を、永遠に忘れない。
この幻想郷でも、神子はそれなりの勢力と認識されており、布都もまたその側近として重要な位置に居るから懐柔したいと考えている。そうでなくとも青娥の性癖から、布都を信用させて突き落とすという無上の快楽を味わいたいのだが、どうしてか上手く行かない。時代も移り変わったのだし今度こそという思いで近付いてみたが、悪化した嫌いさえある。蘇った布都と久しぶりに顔合わせた時に、何者だ? と忘れられていた事をきっと忘れない。
過去に於いても現代に於いても、布都に取り入る事が出来ないでいた。
そもそも交渉以前に、丸っきり端から人の言動を疑ってくる。どれだけ愛想良くしても駄目だし、あれこれ餌を見せてみても駄目だった。神子等は、布都は純粋ですから邪悪が分かるのでしょう等と笑っていたが、戯けた事だと青娥は切り捨てる。純粋? あり得ない。そんな高尚な話ではない。布都はきっと動物的感覚で目の前の物が腐っているかどうかを見分けているんだ、と青娥は考えていた。
二人の布都に関する見解はともかく、青娥にとって布都は天敵中の天敵であるのは事実だ。今までだって青娥に騙せない者は居たが、騙せないなら騙せないなりにやってきた。神子も騙せない者の一人で、提案の意図を完全に読まれてしまう厄介な存在だが、それでもお互いに利益を享受しあう関係を築けている。だが、話が通じないとなるとお手上げで、例えば復讐心で襲いかかってきた者を説得する事は出来ても、飢えた獣に食べないで下さいとお願いしたところで何の意味も無い。そもそも言葉が通じない野生動物に何を言っても無駄だ。そして言葉が通じないどころか、近付いただけで疑いの目を向けてくる布都は、野生動物以上に厄介な存在だった。
長年の付き合いの末にとにかく一気に籠絡する事は不可能だと判断して、小さな事からこつこつと積み重ねていく事にした。この幻想郷において布都は、昔と違って何故か無理難題を携えて相談しに来るので、もしかしたら布都はそこまで自分を嫌っていないんじゃないかという希望を胸に、あれこれと布都の気を引いて、相談事に乗り、色色と協力してきたのだが、未だに懐柔出来ないで居る。
閑話休題。
「どうじゃ、図星であろう? 邪悪な貴様の考え等お見通しよ」
「これは御見逸れしました」
青筋が立つのを覚えながら、青娥は我慢しいしい布都へ今日の目的について尋ねた。すると布都は再び胸を張り、偉ぶった様子で喜ぶが良いと言った。
「今日は貴様をナズリンランドに招待してやろうと思ってな」
「ほう」
青娥は興味深さに息を吐いた。
ナズリンランドというのは、つい最近命蓮寺が作った信者獲得用のテーマパークである。何故かスキマ妖怪も手伝って、別空間の中に作られた巨大なアトラクションランドは、言ってしまえば外の世界の有名なテーマーパークの模造品だ。信者獲得用という事で命蓮寺風に変えれば良いのに、そんなつもりは全く無かったらしく、千葉にあるテーマパークそっくりそのままである。技術や趣味の問題で完全な再現には至らなかったらしいが、そのままを目指しただけあって、本家の半分程度には面白さを保っており、娯楽の選択肢がない幻想郷では、あまりの人気に入場制限までかけられている。
世界中の本家本元を回って限定グッズを集めた事もある青娥は、そんな素人の作ったハリボテ如きに全く興味は湧かないが、布都がそれに行きたがるというのは興味があった。テーマパークの主催者は布都の不倶戴天の敵、命蓮寺。隙あらば寺を燃やそうとする布都がどうして敵地へ遊びに行こうというのだろうか。
「どうだ! 嬉しかろう!」
誘ってくれるのは良いのだが、理由が分からない。
「ええ、大変嬉しいのですけど、何故私を?」
「どうせ邪な謀ばかりしているだろうからな。その歪んだ性根を少し発散させてやろうと思って」
青娥の頬がひくつく。
「それはありがとうございます。ですが、どうしてナズリンランドに? まさか」
燃やそうとしているんじゃと問う前に、布都が答える。
「デートという奴だ」
「は? え!」
思わず声が裏返った。青娥は信じられない気持ちでまじまじと布都の顔を見つめる。見つめ見つめ、見つめ続けて、その真意を探ろうとする。
デート、それは好きな者と一緒にお出かけをする事。
ならば布都は自分の事が好きなのか?
と、ここでそんな期待するのは素人だ。
そもそもデートなんて今時な言葉を使った事が引っ掛かる。どうせ誰かから適当な事を吹きこまれたに違いない。
布都のプロフェッショナルである青娥は心を落ち着けてから柔からな笑みを浮かべた。
「何か勘違いしていません?」
「何をだ?」
「何をって、デートの意味を。炎を使う行事ではありませんよ?」
「何を言っておる? 好いた者同士が何処かへ出掛ける事だろう」
「え? ご存知なのですか?」
「当然だ」
「あ、あの」
まさか本当に私の事を?
でもいつの間に布都様は。
青娥の顔が赤くなり言葉が出ずに居ると、布都が渋面を作る。
「別にお主の事が好きな訳ではないぞ」
青娥の肩がすとんと落ちた。
分かっていた。
そうだろうと分かっていた。
でも落胆する心は止められない。
布都の意図を掴みかねる。さっきから布都にペースを握られているのが口惜しくて、思いついた事を口にする。
「太子様と一緒に行かれないのですか?」
すると布都が唇を噛んで眉を寄せ、悔しそうな顔になった。どうやら今回の理由はその辺りらしい。
「もしや喧嘩でも? 置いて行かれたとか?」
「……太子様はちゃんと我も誘って下さった」
「あ、つまり、券が余っているから、私も呼べと太子様が」
「違う。これは我の一存だ」
どういう事か分からない。
困惑していると布都が項垂れて呟いた。
「太子様は既に一昨日ナズリンランドに出掛けられた」
「あら。布都様は一緒に行かれなかったのですか?」
「我は重い病気に掛かってな。一緒に行けなかったのだ」
ああ、だから悔しくて私を誘って。と考え、そうじゃないと首を横に振った。
布都は太子との用事があるのなら、多少の病気でも無理を押していく。太子と一緒に出掛けられない病気であったのなら、それはもう歩く事すらままならない程の重い病気の筈だ。しかしそんな病気に掛かれば、神子が布都を残して何処かへ遊びに行く等あり得ない。
「仮病を使ったんですね」
布都は一瞬言葉をつぐみ、それから伏し目がちに青娥を睨んだ。
「何故分かった」
「どうしてですか? 命蓮寺のテーマパークだから行きたくなかったとか?」
「行きたかったに決まっておろう。太子様と一緒に出掛けられるのであれば何処にだって行くわ」
ならどうしてと青娥が首を傾げると、布都はスカートを握りしめた。
「デートは好きな者と行くものなのだ」
それを聞いた青娥は意味が掴めずしばらくぽかんとして、意図に気が付いて思わず吹き出してしまった。
布都に睨まれて慌てて口を閉じるも眦が下がるのは抑えられない。
「夫婦水入らずを邪魔したくなかったから嘘を吐いたと?」
布都は目を逸し、しばらくして頷いた。
やはりと青娥は頷く。どうやら布都は神子と屠自古のデートを邪魔したくなかった様だ。
笑いそうになるのを堪えながら、青娥は納得する。
その嘘を見抜いていたから神子もその好意を察して布都を置いて出かけたのだ。残された布都はナズリンランドに行きたくて行きたくて仕方が無いのに、既に遊んできた神子と屠自古を今更誘うのは悪いし、一緒に行ったとしても自分だけが初めてだというのも悔しい、かと言って他に一緒に行く程親しい友達も居ないし、一人で行くにしても命蓮寺の息が掛かった場所へ遊びに行くのは流石に怖かったのだろう。
理由さえ分かれば、ただただ可愛らしい。
青娥は己の胸に手を当てて恭しく一礼してみせた。
「そういう事であれば、不肖この私めが、太子様には遥かに及びませんでしょうが、布都様とデートして精一杯楽しませて差し上げますわ」
「うむ、期待しておらぬが、よろしく頼むぞ」
青娥はぐっと拳を握って怒りを堪える。
「さ、早速行こうか」
そう言って飛び立とうとする布都を青娥が呼び止める。
「布都様、もしや今から行かれるのですか?」
「ん? 当たり前だ」
「ですが、布都様、一日ずっとここに居たのでしょう?」
「ですがも何も無い。別に我は疲れとらん。とにかく早く行きたいのだ」
そう言って布都はそわそわと足踏みをするが、次の青娥の言葉で固まった。
「ですが、ちょっと臭いですわ」
布都は黙ったままゆっくりと自分の服に顔を近付けて何度か鼻を鳴らすと、大人しく家へと帰っていった。
ランドの入場口で待ち合わせという事で、青娥も一度自宅へ戻る。本物でないとはいえデートというのであれば、気合を入れなければならない。お洒落をするのは相手への礼儀でもあり、臨戦態勢に移る為の儀式でもある。そんな訳で、青娥はあれこれと身支度を整えてから、ランドの入場口へと急いで向かった。鏡を前にして、必要以上に緩む頬を引き締めるのに大分時間を取られてしまったので、遅刻しかかっていた。
妖怪の山をのぼると、広い駐車場の向こうにランドの入り口が見えた。幻想郷は車が走っていないので、当然駐車場はがら空きである。守矢神社の巫女が言うには、中のアトラクションより駐車場の方が再現度が高いとか。千葉のあれに視察へ行った命蓮寺の面面が、あまりにも広い駐車場とそこを行き交う車達の壮大さに息を呑み、ここがあの有名なランドかと借りていたカメラのフィルムを駐車場の時点でほとんど使い切ってしまったと聞いている。
混雑している様子は無かった。入り口には人影がほんの僅かに見えるだけだった。何の規制も無かった頃や入場制限をし始めた頃は随分と混乱があった様だが、予約制に切り替えた事が見事に功を奏し、異常な混雑は収まったし、プレミアム感が乗って箔もついた。
入り口に布都が見える。遠目からでも一目で布都と分かるいつもの布都だ。あまりにも普段通りの姿なので、思わず脱力しそうになった。例えデートであってもお洒落なんかする気は無いらしい。こっちは散散身支度を整えてきたのにと口惜しくなる。
とはいえ、過剰な落胆はしない。その性格から自分と出掛けるのに身なりなんて整えてくる訳が無いと分かっていた。ほんの少しだけ、遊園地にデートという事でちょっと期待はしていたが、分かっていた。
問題は別にある。
布都が命蓮寺の連中に囲まれていた。まるでならず者に囲まれる乙女の様に、布都が命蓮寺の連中に壁際まで追い込まれている。
「なあ、謝っときなって」
そっと近寄ってみると、命蓮寺の船乗り幽霊がらしい事を言っていた。
「マジで謝りなって。悪い事言わないからさ」と命蓮寺の正体不明が言う。
布都様何したの? と青娥がはらはらしていると、囲まれていた布都が青娥に気が付いて手を挙げた。
「おお、青娥殿。随分遅かったな。今こやつ等を焼滅させるからちょっと待って居れ」と凄い晴れかな笑顔でマッチに火を付けた。途端に命蓮寺の連中がきーきーと叫びだす。
この子に怖い者は無いのだろうかと布都を見つめていると、背後から妙に朗らかな声が聞こえてきた。
「あら、あなた、この子の関係者ですか?」
振り返ると命蓮寺の白蓮がにこやかな笑顔で立っていた。その笑顔を見た瞬間、青娥はぞっとして動けなくなる。凍り付いた青娥の横を通って、白蓮は布都の前へと進み出る。
命蓮寺の虎を捕らえてマッチで燃やそうとしていた布都が、近付いて来た白蓮に気が付いた。捕まえていた虎の髪の毛を放し、白蓮の事を見上げる。
白蓮と布都の邂逅を傍で見つめながら青娥は胸を押さえていた。自分の感情が信じられなかった。今自分は白蓮に恐れを抱いている。布都が白蓮を怒らせているところなど見慣れているし、白蓮と神子が本気で戦っている場面も見た事がある。そんな時であっても全く恐れを覚えなかったのに、今、白蓮を前にして体が竦んでいる。何か分からないが危険を感じて仕方がなかった。
酷く嫌な予感だ。
布都様、ここは穏便に。
胸を押さえながら青娥は祈る。人生には決して逆らってはならない流れが存在する。今がその時だ。今の白蓮に逆らえば恐ろしい事になる。だから、布都様、どうかそのマッチを収めて穏便に。
青娥の祈りが通じたのか、布都は火のついたマッチを落とした。青娥が安堵して息を吐いた瞬間、布都があろう事か服の中から小型の松明を取り出して地面に擦り火を付けた。
「来たな、仇敵! 現れると思っていたぞ! ここは貴様等の庭だからな」
布都様ぁ!
青娥が心の中で悲鳴を上げていると、布都は松明を掲げ、持っていない方の手を前に突き出してポーズを取った。
「憎き腐れ坊主め! 今日こそ焼滅しここを貴様の墓、ぐっ」
決め台詞の途中で、白蓮の手が布都の喉と松明を掴みあげた。
じたばたと暴れる布都に、白蓮はゆっくりと顔を近づける。
「こんにちは。今日はどうしてここに?」
布都は掴む手を必死で引き剥がそうとしているが、びくともしない様子だった。
「あら? 神子さんと屠自古さんが居らっしゃいませんね? どうしたんですか?」
布都のばたつきが止まる。
白蓮の笑いが強くなる。
「ああ、そう言えば、一昨日いらっしゃってましたわ。このナズリンランドで実に楽しそうに。あらあら、でもおかしいわ。あの時は神子さんと屠自古さんの二人きり。どうして布都さんは居らっしゃらなかったのでしょう?」
布都の目が鋭く細まる。が。その反抗的な態度は白蓮の愉悦を大きくしただけに見えた。
体ではなく、心を攻めている。それも今、一番布都にとって言われたくない言葉で。
布都は反抗的な態度で動揺を隠そうとしているが、実際効いているのは、布都の目に浮かんだ涙を見れば一目瞭然。
それを見て青娥が一歩前に出る。
布都様の心を壊すだなんて、そんな事許さない。
布都様を壊すのは私だ。
青娥が白蓮への怖気を吹き飛ばして割って入ろうとした時、突然横から星に抑えられた。
「待ってくれ」
「放しなさい」
青娥が星を睨みつけたが、星は青娥に抱きついたまま首を横に振った。
「駄目だ。お願いだから白蓮に人殺しをさせないでくれ」
「何を」
「あれが、物部さんを救う唯一の方法なんだ!」
白蓮を見ると、布都を押さえつけて、人の心に染み入る説法の技術を最大限に使って、延延と言葉責めをくらわせていた。布都はもう涙目になって震えている。
あれの何処が救いと言うのか。
再び星を睨むと、星はまた首を横に振った。
「白蓮の怒りは過去最高に達している」
それはさっきの雰囲気から何となく分かる。
「今、白蓮は自分で自分を抑えられない状態なんだ。それを言葉、即ち理性に乗せる事で何とか暴力に転化しないでいる状態なんだ。物部さんをうちの境内みたいにしたくなかったら、お願いだから白蓮をあのままにしておいてくれ!」
「命蓮寺の境内に一体何が? いえ、それより仮にも大僧侶がそこまで怒るとは一体何が」
「物部さんが」
「布都様が?」
「白蓮の大事にしていた鞍作止利作の仏像を燃やしてしまって」
ぶっ、と青娥の唾が星に吹きかかった。
鞍作止利とは飛鳥時代の仏師だ。当時は大変人気のあった人物で、その才能は折り紙付き。作った仏像の中には国宝指定を受けた物もある。それを燃やした? それはもう人類の文化に対する冒涜に相違無い。
「それだけじゃないんだ」
「まだ何か?」
「物部さんが火を付けた仏像を持って乱入してきたのは、丁度白蓮が弟子や檀家に、命の尊さだとか節制だとかを説法をしていた時で」
「それで?」
「物部さんはその欺瞞を暴くと言って」
星の悲しみに満ちた表情に、青娥は背筋が寒くなる。
布都の力は、白蓮や星等力のある者へ向けられれば冗談になるが、それ以外の力弱き者達へ向けられたら、相手を死に至らしめる暴力に変わる。冗談事ではなくなってしまう。
「まさか、その場に居た者達を傷つけたとか?」
「いや、白蓮がお酒やお肉を食べて体重を増やした事を見抜いて暴露したものだから」
「生臭すぎやしません?」
星は涙を拭いながら鼻を啜る。
「まあ、確かに白蓮が悪いけれど、幾らなんでもみんなの前で太ったとか言っちゃうから」
その瞬間、星が横にすっ飛んだ。
青娥が驚いて吹っ飛んだ星を追うと、広い駐車場を何度かバウンドし、ごろごろと転って、最終的に豆粒の様に小さくなる程遠くで動かなくなった。
青娥は反対の、星をふっ飛ばしたと思しき犯人に視線を移す。
右手に闘気を漲らせた白蓮は、目が合うとにっこりと笑って言った。
「三種の浄肉と般若湯は、別腹なのでセーフです」
それだけ言って、白蓮が再び布都への口撃を再開する。
布都が地面にうずくまり最終防衛形態に入っても尚、白蓮が執拗に布都を罵り続けていたが、布都のやった事を考えると、助けに入る気持ちは湧かなかった。確かに自分も公衆の面前でデブと言われれば同じ事をしてしまいそうだから。
やがて白蓮は布都への精神攻撃を止めて、命蓮寺の面面に慰められながら、途中姉さんはスレンダーですよと言った一輪をぶっ飛ばしつつ、何処かへと去っていった。後には涙を流しながらぐすぐすと鼻を啜っている布都が残された。さてどうしたものだろうと、青娥は溜息を吐く。
泣いている子供程面倒な手合は無い。試しに飴を差し出してみたが、何の反応も見せてくれなかった。
これは最早夢の国の力に頼るしか無い。
とりあえずパスポートを買って入り口である隙間を通り入場する。
布都の御機嫌を取れそうな物は無いかと辺りを見回すと、入口近くのカフェが目に入った。評判の甘味処で、ここしかないと判断した青娥は、泣いている布都を宥めつつカフェに入った。
「布都様、ほら美味しそうですよ」
カウンターでメニューを受け取った青娥がカウンターの奥で今正に作られている巨大なパフェを指さした。このカフェを評判たらしめている大人気メニューだ。甘い物に目が無い布都がこれで落ちない訳が無い。案の定、布都はカフェを見た途端に目を輝かせた。そわそわと落ち着かなげに青娥へパフェへと交互に首を振っている。
「そのパフェ二つ」
青娥がパフェを指指して店員にそう告げると、落ち着かなかった布都が上擦った声を出してぴんと直立不動になった。それを横目で見つつ、お金を払う。店員はすぐさまカウンターの向こうで特大のパフェを作り上げていく。布都は、人の顔程もある、和風の、正確に言えば、外の世界のパフェを作ろうとして材料を用意しきれなかったのでぜんざいや小豆等のありあわせで補った、パフェが完成するまで、テーブルで待っていれば良いのに、カウンターから離れず他に目もくれずにじっと待ち続けた。完成したパフェを持って外のテーブルに着く間も、布都は終始落ち着かない。席に着いた布都の前にパフェを置くと脇目も振らずに食べ始めた。
「美味しいですか?」
「うむ」
返事もそこそこに満面の笑みを浮かべながら食べ続けている布都に、青娥は笑みを見せる。
噂の名物スイーツは随分と効果があった様だ。山盛りのパフェが見る間に崩れて無くなっていく。一心不乱にパフェを掻き込み続ける布都はあまりにも幸せそうで無防備で、今ならどんな言葉にも騙されてくれそうだった。
何か布都を籠絡出来る言葉は無いか考えていると、布都の背後から声が聞こえてきた。
「あら、それは一昨日神子さんも食べてらっしゃいましたね。屠自古さんと二人仲睦まじく。二人の後追いで食べるパフェは美味しいですか?」
笑顔の白蓮が布都に覆い被さる様にしてパフェを覗き込みながら口元に手を当てて笑っていた。驚いた布都が振り返りざまに立ち上がる。その拍子に、布都の頭頂が白蓮の顎に突き当たって、白蓮は声も無く背後に倒れた。途端に何処からか命蓮寺の連中がやってきて、白蓮を引っ張っていく。白蓮が居なくると、布都はまたパフェを食べ直していたが、さっきまでの嬉しそうな顔が一転、俯いて寂しそうな顔になっていた。それでもパフェは美味しいと見えて、休む事無く口に運んでいる。
「布都様」
「美味しいのだ。誰がいつ食べようと」
「ええ、間違いありませんわ」
だがパフェも有限で、やがて底が見えてくると、布都の掻き込むペースが目に見えて落ちていった。残念そうな顔をしながら、器にこびりついた部分を集めつつ、少しずつ口に運んでいる。少しでも長くパフェを味わっていたいといういじましい思いがありありと見える。そんな布都を見て、青娥は好機到来と、自分のパフェを布都の方へ寄せた。
「布都様」
不思議そうな顔をする布都に、青娥はとびっきりの笑顔を見せる。
「これ、私の分ですが、良かったらあげますよ」
これぞパフェを注文していた時から考えていた青娥必勝の策。あれだけ夢中になっていたパフェが、無くなる直前で更にもう一つ与えられたのだ。きっと布都は遭難の途中で桃源郷でも見つけた様な喜びを覚えるに違いない。丁度神子との壁や孤独感を感じているのだ。傍で優しくしてくれた自分に落ちない訳が無い。
布都の喜ぶ姿を期待している青娥の前で、布都は眉根を寄せて渋面を作った。
「何じゃ。人の食べ残し等、要らんよ」
「は?」
「育ちの悪い貴様とは違うのだ」
そう言って、最後の一掬いを食べた布都は満足そうにお腹を叩いた。十分満足したという顔であった。
負けた?
青娥が忘我の心地で、布都を見る。
布都は嬉しそうにお腹を擦った後に、青娥のパフェを見て言った。
「早く食べよ。遊ぶ時間が減る」
負けた。
青娥はわなわなと全身を震わせながら、ゆっくりとスプーンを取ってパフェと向かい合った。
正直、最初から食べる気が無かった。布都にあげる為に頼んだものだ。自分で人の顔程もある巨大なパフェを食べられるとは思っていない。青娥には目の前の山盛りのパフェが、山盛りの糖分と脂質の塊にしか見えない。どう考えても食べられる代物ではない。勿体無いが残してしまおうと思ってスプーンを置こうとした時、布都が言った。
「まさか残す気ではあるまい? 折角作ってもらった物を残す等」
「食べますよ! 食べますったら!」
青娥はもうやけになってスプーンでパフェを掬い口へ運んだ。機械的にパフェを掬い咀嚼する。頭の中で増え続けるカロリーカウンターを振り払いながら、必死でパフェと格闘し続け、ようやく食べ終わった青娥は燃え尽きて椅子にしなだれかかった。
青娥は口元に手を当てて吐き気を堪えていたが、それに気が付きもしない布都は、椅子から立ち上がって元気良く胸を張る。
「随分時間をくってしまった。さあ、早く行くぞ」
「あの、布都様」
「何じゃ?」
少し休ませてもらおうと声を掛けたのだが、布都の満面の笑みを返されると、その晴れやかさに眩んで、待ってくれとは言えなかった。
「いえ、行きましょう」
「うむ」
布都が元気に進んでいく。だがそこに空元気が見え隠れするのは否めない。多分白蓮に言われた事が尾を引いているのだろう。それでもパフェのお陰で空元気が出せる位には、元気になってくれたのだから良いかと、前向きに考えながら青娥がその後ろを歩いていると、布都が振り返って言った。
「で、次は何処に行けば良いんだ?」
青娥と布都は近くの従業員からマップをもらい、しばらく睨めっこしてから、まずはジェットコースターに乗る事に決めた。青娥としては、何となく布都は絶叫系が好きそうで、風を切るコースターの心地良さを感じれば、さっきの件で気落ちした事を忘れられるかもしれないし、何より吊り橋効果でこちらに靡いてくれないかと考えていた。
布都はジェットコースターという未知の存在がどんなものなのか期待しながら浮かれ気味に凄い速度で歩いている。その駆け足の様な歩みに、苦労しながら小走りでついていくと、しばらくして目的の威容が見えてきた。妖怪の山を模したミニチュアの中を凄まじい速度で駆け回るコースターが金属の軋みを高鳴らしていた。搭乗者達が楽しそうな悲鳴を上げている。
布都を見ると、右へ左へ上へ下へと走るコースターを目を輝かせながら追っていた。
「何だこれは。ただあの乗り物に乗って走り回るだけか?」
如何にも興味が無い演技をしているらしいが、その歩みはまるで飛び跳ねる様だった。
「大変な速度で走り回りますから、風が心地良くて楽しいですよ」
「ふん、そうか。まあ、本気を出せば我もあれ位の速度で飛び回れるが」
布都が前も見ずにコースターを見上げながら入り口へ向かう。上を向いたままなので、危なっかしい足取りでふらつくから、青娥はその手を取って引っ張りながら入り口へと向かった。
入り口に列は無く、すぐにでも乗れそうだった。並ぶ事を前提に作られているので搭乗までの道程も凝っている。夢の国には遥かに及ばないと聞いていたが、意外にしっかりと作られていて、質感もまるで本物の様だ。贋作とはいえ、夢の世界に入り込んだ様な不思議な気分になる。青娥はそれを心地良く感じながら歩いていたのだが、はっとして布都が居ない事に気がついた。慌てて駆け戻ると、ゲートで従業員と揉めていた。
「布都様!」
今度は何をしたんだと駆け寄ると布都が仏頂面を向けてくる。
「おお、青娥殿。こやつが聞かん坊でな、我を中に入れないばかりか、この悪趣味な絵の傍に立たせようとしているのだ」
悪趣味な絵?
不思議に思って布都の指さした板を見ると、デフォルメされた命蓮寺の鼠が描かれていた。頭頂部には線が引かれていて、背丈が満たない者はコースターに乗れないという謝罪文が描かれている。
ジェットコースターに乗る為の身長制限だ。
「布都様、これはコースターに乗るのに必要な事でして」
「成程。ではこうしよう」
もしかして理解してくれたのかなと笑顔を向けると、布都がマッチを取り出したので慌てて止めた。
「何をする!」
暴れる布都を押さえつけて、この絵と身長を比べる事がコースターに乗るのに必要なのだと繰り返し繰り返し、理解してくれるまで何度も説明する。
「ふむ、仕方が無い」
分かってくれて何よりだ。
疲れた。五分も説明させられた。
「我がこんな鼠なんぞよりも小さい事等あり得る訳が無いというに。ほれ、早く比べよ」
布都は鼠の絵の前で自信満満に腕を組み、青娥と従業員へ視線を送った。
「さあ、これで良いな?」
布都が身を翻して入り口へ向かおうとするのを従業員が慌てて止めた、
「何じゃ? 我は」
「すみませんが、もう一度」
布都は一瞬目を見開き、それから青娥へと目をくれた。不穏な想像をしたのだろう。目には不安がありありと浮かんでいる。布都が絵の前に立ったのは一瞬だったので、青娥には、布都と絵の中の鼠、どちらの背が高かったのかは判別出来なかった。同じ位の高さに見えた。
布都がさっきまでの尊大な態度とは打って変わって恐る恐るといった足取りで絵の前に立ち、描かれた鼠に何度か視線を送ってから、手の先までぴんと伸ばし直立不動の姿勢になった。
「どうだ?」
布都が言った。
従業員は恐恐と青娥に目配せをした。それを受けた青娥はしばらく布都と絵を見比べた。鼠の方が僅かばかり高い。ほんの少しの差だが確かに布都の背が下回っている。どうやって乗れない事を伝えようか迷っていると、布都の背がするすると伸びた。そうして鼠の背を超える。青娥が布都の足元を見ると、爪先立ちをして背を稼いでいた。あまりにも健気だ。布都を見れば少し涙目になっている。
青娥は溜息を吐いてから従業員に言った。
「さ、見ての通り布都様の背は足りている事ですし」
布都の顔が、一瞬明るくなった。
「駄目です」
従業員の拒絶に、一転、目に見えて落胆した。自分の頭に手を載せ、絵に手の角を押し付けたままそっと頭を離して、自分の背と鼠の背丈を確認する。
「我の方がこの鼠よりも勝っているぞ! 貴様、やはり命蓮寺の回し者か!」
「いえ、踵が離れていては駄目なので」
「そんな事、何処にも書いていない!」
従業員が困り切った顔で、再び青娥へと目配せをしてきた。青娥は溜息を吐く。布都には可哀想だがルールはルールだ。
「布都様」
「青娥殿! 我の方が間違い無く勝っているぞ! そうであろう!」
布都が必死で爪先立ちをしつつ絵と自分の背丈を比べながら、涙を浮かべている。
しかし幾ら訴えても変えられない事がある。世の中全てが思い通りに行く訳ではない。個を超えたところに社会があり、そしてその社会はルールによって守られている。非情ではあるがルールが定められている以上──
「青娥殿。何故黙っているのじゃ。早くそいつに教えてやってくれ。我の背は、ほれ、こうして高いじゃろう?」
遂にはぴょんぴょんと飛び始めた。
ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、涙目で青娥に訴えかけてくる。
「布都様」
「青娥殿」
青娥は口元を抑えながら、涙目の布都と視線を合わせた。
「確かに布都様の背が勝っています」
「本当か!」
従業員が目を剥いた。
「ちょっと、駄目ですよ」
「どうしてですか?」
「いえ、ですから、ちゃんと踵をついて」
「その程度の差なら問題無いでしょう? どんな物でも余裕を見て作られているのですし」
「まあ、それはそうですけどね。でも」
応じようとしない従業員に向けて、青娥がとびっきりの笑顔を見せた。
「良いじゃ無いですか。ね?」
必殺の笑顔である。これで大抵の男は落ちる。女も落ちる。落ちない奴は馬鹿か不能か天才のどれかである。
従業員は真っ当に分類される人間であったらしく、顔を赤くして口ごもった後に帽子を被り直しながら俯いた。
「分かりました。負けましたよ。どうぞ」
「では」
行きましょうと言って布都の手を引いて中へと進む。
「随分と時間をとられた」
「ええ。でも無事に入れて良かったですわ」
「うむ、感謝するぞ」
感謝という言葉に胸が暖かくなる。誇らしくなる。
そう、これが本来の私。笑顔で相手を落とし、意のままに振る舞う。それが私。
だというのに。
どうしてこの小娘は。
青娥は思わず歯ぎしりをしていた自分に気が付いて、慌てて首を横に振り、怒りを振り払った。布都を籠絡出来無いのはただ自分に力が無いだけだ。相手を落とせないからと言って怒る事は、自分の小ささを曝け出す事にしかならない。
青娥は自分を落ち着ける為に辺りを見渡した。歩む廊下は良く出来ている。海外の御伽噺の世界をモチーフにした背景に可愛らしいぬいぐるみ達が飾られ、愛らしい動きをしている。素敵な空間であった。けれど青娥の視線はすぐにそれ等から興味を失い、別のものを見定める。捉えたのは隣に居る布都の様子。隣に青娥が居るのではしゃぎたくともはしゃげないので葛藤しているらしい。そんな布都の様をじっと見つめていると、青娥の背筋にぞくぞくと快楽が流れた。
布都に驚かされたり心配させられたりし続けていた為に、見失っていたが、ようやく自分の本調子が戻ってきた。それを実感し、青娥は笑う。
「如何した、青娥殿」
突然布都に声を掛けられて、青娥ははっとして涎を拭いた。
「いえ何も」
「そうか? 随分恐ろしい顔をしていたが」
布都が幾分怯えを含んだ声でそう言った。
いけないと青娥は自分を律する。本調子を越えて、危ない領域に入り込んでいた。何だか布都とデートをしているという雰囲気にあてられて自制心を失っている様だ。青娥は咄嗟に頭を巡らせて言い訳を探る。折角良い雰囲気になっている気がしないでもないのに、ここで台無しにしてはならない。
「いえ、ただ、このアトラクションはとても怖いと評判で」
「何? 怯えているのか?」
「ええ、少し」
青娥がしおらしく体を竦めると、布都は驚いた表情で顔を覗きこんできた。
「信じられん。あの邪悪なる青娥殿が?」
そこでその形容詞は無いでしょうがという心の中のつっこみをおくびにも出さず、青娥は弱弱しげに額に手を当てる。
「私、こういうのはちょっと」
「ならば何故」
布都は一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに気が付いた様だ。相手の事情を考えない事が多いとはいえ、相手の事を全く考えない訳ではない。
布都は眉根を寄せ苦しげに辺りを見回してから、歯痛を堪える様な顔で言った。
「そういう事なら、わざわざ乗る必要は無い。すぐに出よう」
そんな布都の言葉を青娥は不思議に思う。妙に優しい言葉だ。てっきり、ジェットコースターに乗るのは決定していて、無理矢理連れられるか、置き去りにされるかの二者択一だと思っていた。
「ですが、楽しみにしていらっしゃったでしょう? 私に構わず」
布都の瞳が揺れた。けれどそれも一瞬で、きっと睨みつけてくる。
「ここには他にも多くの楽しいものがあるのだろう? わざわざこれに拘る必要は無い。デートというのは、二人が楽しまなければならんのだ」
「あ、ちょっと」
「さ、行くぞ」
やだ、今、私凄い思われてる!
力強く引っ張られながら青娥はその事実に思わず眩めいた。
理由は分からないが、かつて無い程、布都との距離が縮まっている。
これを逃す手は無い。
そう考えた青娥は、布都の手を引いて、立ち止まらせた。
「お待ち下さい、布都様。勘違いしないで下さいな」
「勘違い?」
布都が怪訝な顔をして振り返る。
「ええ、怖いからといって、乗りたくない訳ではありません。私だって本当は楽しみたいのです」
「つまり?」
「つまり今までは忌避してきましたが、これを機会に乗ってみようかなと」
その瞬間、布都の表情がぱっと華やいだ。
「本当か!」
「ええ、ですが、一人では怖いので」
「そうか! ならば仕方無い! 我が一緒に乗ってやるぞ!」
急に元気になった布都は、青娥の手を掴んだまま反転して、奥へと進みだした。軽い足取りで進みながら、布都は言う。
「怖いのなら、我の手をしっかりと握っておれ」
その凛凛しい表情が、青娥には何だか懐かしく思えて、おだてるのでも皮肉るのでもなく、純粋な気持ちで言葉が口を衝いた。
「布都様は、勇敢なんですね」
「当然だ」
褒められて気を良くしたらしく、布都は胸を張って前へ歩く。
「怖かったら目を瞑っていれば良い。ちゃんと我が手を引っ張って出口まで連れて行ってやろう。我に任せろ」
ちょっとジェットコースターを勘違いしている様だったけれど、前を歩いて力強く手を引っ張ってくれる布都を、青娥は本当に頼もしく思った。
「安心せい。勇敢な我がついているぞ!」
布都が振り返る。熱気で赤く染まった頬を吊り上げ、満面の笑みを浮かべていた。
「どんなものが来ようと恐るるに足らず!」
ジェットコースターが登っていく。乗っている者達に恐怖を与えようと、かたりかたりと歯車が音を立て、きちりきちりと金属が軋み唸る。
「布都様」
青娥は心の底から心配で、隣の布都を見つめた。布都はその視線に気が付いて、笑みを見せる。
「大丈夫だ」
「ですが」
青娥は布都の手を握りしめる。布都が思い出した様に、青娥以上の力で握り返してきた。
「按ずるな。大丈夫だ」
布都の力強い笑みに、青娥はこれ以上の心配は野暮だろうと頭を振った。
「そうですか。でしたら、信じます」
コースターが最高点に達した。かたりかたりと恐怖心を煽りながら高度を稼いできたコースターが、恐怖心を解放しようとしている。
眺め回せば園内を一望出来る最高の場所。ランドの周りは青で埋め尽くされている。空には晴天が広がっている。周りは海で囲まれている。園の境界から先は何処まで見渡しても青さしか見えてこない。例え作られた景色とはいえ、思わずはっとしてしまう程美しい光景だった。
そして前を向けば、これから自分達の落ちる奈落の行く末が見える。最高の絶景に僅かな恐怖のスパイス。そして隣には。
コースターが最後の恐怖心を煽る為に、一度停止する。後は落ちるだけ。乗客達の恐怖が肌を通して伝わってくる。
「青娥殿、怖くない怖くないぞ」
「布都様」
ああ、と青娥は感嘆の息を吐く。
布都が恐怖に震えているのが握る手を通して直に伝わってくる。
それがただただ愛おしい。
これは最高の料理だなと舌なめずりをしつつ、青娥は布都の震える手を握りながらそっと指を這わせて告げた。
自分でも興奮しているのが、分かった。
「一緒に堕ちましょう」
その答えを聞く前に、コースターが落下を開始した。
凄まじい悲鳴が鼓膜をつんざいた。
「このパンツ一つ」
顔を赤くしながら青娥はレジカウンターにパンツを差し出した。
店員はそれを受け取り笑顔で会計を行う。
会計を行う店員の手から、パンツに描かれた可愛らしい鼠の絵が所在なげに覗いているのが見えて、青娥は言い知れぬ恥ずかしさを覚える。
告げられた金額ぴったりを店員に渡した時、ふと店員があざ笑った様に見えた。
その瞬間、青娥は店員を一睨みし震え上がらせる。
自分が馬鹿にされるのは許せない。
自分の物が馬鹿にされるのも同じ位許せない。
震える手で差し出されたパンツを受け取り、外へ出ると隣接したトイレに入った。居並ぶ扉の内、一つだけ閉まっている扉の前に立ってノックする。
「布都様、戻りましたよ」
扉を開けると、便座に座って泣きじゃくっている布都が現れた。
「布都様、もう泣くのは止して下さい」
「だが、こんな」
青娥は布都にパンツを渡し、布都の足元に落ちたそれを拾い上げて、売店で貰ったレジ袋に入れた。きつく結んでごみ箱へ捨てる。
「あれは何だ? 新手の拷問か? 畜生、命蓮寺め。この様な罠を」
マッチに火を付けた布都の手を青娥が抑える。
「布都様、落ち着いて下さい。マッチに火をつけるのは止して」
マッチの火を握り消すと、布都の手を引いて立ち上がらせようとする。
「さ、いつまでもここに居たって仕方ありません。行きましょう」
布都は腰を浮かせかけたが、強引に青娥の手を振り払い、再び便座に座った。
「布都様?」
「行くが良い。我はもうしばらくここに居る」
「あ、もしかして、催されました? でしたら、外で待っていますね」
はっとした様子で口元に手を当てた青娥を、布都が睨み上げる。
「違う!」
項垂れて、もう一度、早く行けと小さく呟いた。
無理も無い事かもしれないが、存外に落胆している布都に、青娥は溜息を吐く。
「布都様、あれは誰でも怖いものですわ。あれに乗った者は皆漏らしているに違いありません。仕方の無い事です。恥ずかしいのは分かりますが、気にする事はありません。行きましょう?」
青娥は何も考えずに励ましの言葉を吐いた。どうせ漏らした恥ずかしさ等、すぐに忘れて気を取り直すだろうと考えていた。青娥からすれば、布都の今までの奇行の方が余程恥ずかしい事だったからだ。
だが布都は思った以上に落ち込んでいて、青娥の励ましを聞いても立ち上がろうとはしなかった。
「ならば何故青娥殿は無事だったのだ?」
「それは」
全く怖くなかったからだが、素直にそういう訳にもいかず、一瞬言い淀む。
その一瞬が、布都の自尊心を傷付けてしまったらしい。悲しげな顔をしたかと思うと、不機嫌そうにそっぽを向いた。
「もう我は要らぬだろう。一人で行けば良かろう」
完全に拗ねてしまった様だ。こうなると説得するのは面倒臭い。何を言っても卑屈に捉えられて、益益泥沼に入り込むのは目に見えていた。
青娥は落ち込んだ布都の頭頂をじっと眺めながら思案し、結局これしか無いかと決断する。
「布都様?」
「なんじゃ? 早く行け」
「嫌です!」
そうして布都の体に抱きついた。
勢い余って態勢を崩した布都は背後の給水タンクに体をぶつけた。布都は痛みに顔をしかめながら青娥を引き離そうとするが、膂力が違う。青娥は決して布都から離れようとしない。
「こら、何をする! 離せ!」
「嫌です! 一緒に行くって言ってくれるまで放しません!」
「何故じゃ! こんな怖がりな我が居ても邪魔であろう! だったら一人で行った方が」
「私は布都様と一緒に遊びたいんです!」
暴れていた布都が止まる。ゆっくりと顔をずらし、青娥と目を会わせて尋ねる。
「何故じゃ」
「私がそうしたいからです。さっきのジェットコースターだって、布都様が居なければ私は乗れませんでした。私がちびらなかったのは布都様が傍に居てくれたからです。布都様と一緒だからこそ私はここで楽しめるんです!」
「何故じゃ」
「ですから」
「何故お前は我に構う」
「はあ?」
今は確かに青娥が構っているが、大抵の場合近寄ってくるのは布都からである。今日だって元はと言えば、布都がデートに誘ったのだ。
「別に我の誘い等断れば良い。それなのに何故受け入れるのだ?」
「何故? 誘われたのなら嬉しいじゃありませんか。断る理由はありません」
布都が拳を握りしめる。新品のパンツを握りしめる。
「貴様は我と同じだよ。だから分かる。お前はそんな、曖昧な理由で人を受け入れたりしない」
それを聞いて、青娥は思わず笑みを浮かべる。
「布都様は特別なのです。だから」
「ふざけるな。もしも我が特別であったとしても、それは尸解仙となる前だけだ。かつて太子様の腹心を努め、謀略を担っていたあの頃の我であったから貴様も近付いてきたのだろう」
ああ、と青娥は心の中で嘆息する。
ああ、どうして。
「だが今の、この幻想郷では最早無用の長物。貴様が我に関わる理由等無い筈だ」
どうして、誰かが弱点を曝け出す瞬間はこんなにも美しく愉快なのだろう。
青娥は背筋に行き渡った愉悦を味わいながら、朗らかな笑みを浮かべる。
「知りたいですか?」
当然だと布都が頷く。
「では行きましょう!」
そう言って、青娥は布都を立たせた。困惑する布都に顔を近付け妖艶な笑みを浮かべる。
「今日一日、私と一緒にここで楽しみ尽くしましょう。そうしたら理由を教えてあげますわ」
布都が弱みを曝け出す様を見るのは楽しいが、ここでこれ以上続けるわけにはいかない。
こんなトイレの個室では風情が無い。
折角楽しめそうなのだから、もっと素敵な場所で楽しまなければ損だ。
パンツを履かせて外へ出る。遊びたい乗り物はあるかと聞いたが、どれがどんな乗り物なのかも分からない布都には答え様が無い。それを分かった上で聞いた青娥は、出来るだけ布都が楽しめそうなアトラクションを選んで布都に勧めた。
青娥の巧みな誘導で園内を回り、布都は殊更それを楽しんでいた。必要以上に仰々しく。何か可愛い物があれば目を輝かせ、美しければ驚嘆し、驚けば体全体でそれを表現する。青娥から理由を聞く為に、痛痛しい程大仰に楽しんでいる。布都にとって楽しみ尽くすとは、正の感情を迸らせる事の様だ。
そんな布都の様子に快感を覚えつつ、青娥はかつての布都を思い出していた。女ながら、いや女であるからこそ政界での謀略を一手に引き受け、神子に与さぬ者を肉親であろうと容赦無く破滅させていった稀代の策士。ありとあらゆる手を使って相手を陥れ、それを成す為に布都は己を捨てていた。人を陥れる者は人に陥れられる。それが分かっていたから、布都は決して隙を見せなかった。隙を見せないという事は、個性を無くす事だ。笑う事が良しとされる場面では笑い、泣くべきとされる場面では泣く。常に周囲へ注意を怠らず、その時最善とされる反応を周囲に見せつけ続ける。初対面の青娥を邪険に扱ったのも、神子の腹心である自分がそうする事で、道教と神子の密事を悟られぬ様にする為。だと青娥は信じたい。決して自分だから嫌われた訳ではない筈だ。
そんな情動表現ばかりしていたからなのか、あるいは元からそういう人間だったのかは分からないが、布都は政界の謀から外れた日常生活においては酷く子供っぽい。あるいはそれすらも相手を油断させる為のキャラクターであったのかもしれないが、嘘も吐き続ければ真実になるという言葉の通り、今では芯から子供っぽい性格をしている。
水路を巡り、人形達の歌う様を眺めながら、喜びはしゃいでいる姿は子供の様にしか見えない。
性格はそのまま人間関係に繋がる。
布都は人間関係を作るのがあまり上手くない。飛鳥の頃は、民は守る為のもの。神子は崇める対象。それ以外は全て敵。だから友達はおろか、相談相手すら居なかった。この幻想郷では刺がとれて、神子や屠自古に人として心を許している様に見えるし、何人かとは世間話を酌み交わす位の関係は作れている様だが、それでも根本の部分は変わらない。未だに相談相手と呼べる仲にまでは発展していない様だ。
心を許している神子と屠自古が夫婦同士という事もあって特別仲睦まじいので、今回の様に疎外感を覚えて布都が孤立する事は多々ある。そうすると、もう相談出来る者は無く、例え嫌いな相手を前にしても寂しくて寄ってきている。
まあ自分に寄ってくる理由はそんなところだろうと、青娥は推測している。
布都は青娥と自分は同じだと言ったが、青娥はそう思っていない。だが似ている部分はある。だからこそ布都に惹かれるのだろう。勿論容姿や性格が好みなのもあるけれど。
自分は布都に惹かれている。
今日という日の間に、それを度度意識させられた。
今までこの感情は他の者達に向けるのと同じ様に、ただ己の愉悦に根ざしたものだと思っていたけれど、そうでないのだと気が付いた。
思い返してみれば、初めて会った時、そして長い時を経て再会した時に、期待をしていたからこそ落胆したのだ。
例えどう取り繕おうと、今でも思い出せる位に心に焼きついている。
その感情が言葉の上で何と言うのかはまだ分からないけれど。
楽しんでいる布都を見つめながら青娥は笑う。
誰であろうと誰かの弱点が露呈するのは、美しく愉快なものだ。
二人のデートはそのまま続き、日が暮れ、夜になった。そろそろナイトパレードが始まる時間である。
「青娥殿! 何やら人が集まっておるぞ!」
走りだそうとした布都の首根っこを青娥が掴むと、布都はカエルの様に呻き声を上げた。
「何をする、青娥殿!」
咳き込みながら睨んでくる布都の手を握り、その場から連れ出す。
「もっと眺めの良い場所があります。あそこじゃ前の奴等が邪魔で見えないでしょう?」
「おお! そんな場所があるのか! 早う連れて行け!」
青娥はディナー予約を取っておいたお店に入った。通された二階のバルコニー席は正にナイトパレードを見る為に作られたもので、既に居た別の客達は陽気に盛り上がりながらパレードを今か今かと待っている。
席に座った青娥はソムリエが勧めたワインを適当に頼み、向かいに座った布都の様子を伺う。布都は満天の星空の下の夜景に目を輝かせていた。
「素晴らしい景色だな」
「ええ。ですが、お楽しみはこれからですわ。すぐそこを綺羅びやかなパレードが通ります。それはそれは美しいと聞いています」
「そうか! それは愉しみだ!」
布都がそわそわと落ち着かなげに体を揺すった。青娥は微笑みを浮かべ、やってきたワインを持ち上げて布都に差し出す。グラスを打ち合わせ、一口含んで飲み下してから、青娥はゆっくりと布都の顔色を伺いつつ、トイレで約束していた本題を切り出した。
「さて、そろそろお教えしましょうか」
布都はずっと気になっていた事だろう。その為に、今日はずっと楽しんでいたのだから。
「何がじゃ?」
布都が心底不思議そうな表情をした。
青娥は動揺で動きが止まる。
「そなたに教えてもらう事等何も無いわ」
布都が憎たらしい顔をして嘲る様に鼻で笑う。
頬をひくつかせた青娥はゆっくりと両手を突き出し、布都の両頬を指で摘んで、思いっきり捻った。
布都の悲鳴が上がる。
布都が痛みに悶絶するのをじっくりと眺め、怒りと愉悦に頬を上気させる。
「下らない事を言うのはこの口ですか、布都様?」
「場を和ませようとしただけだろう。冗談の分からん奴だ」
両頬に手を当てながら、布都が涙を浮かべてそう抗議した。
質の悪い冗談を言う方が悪い。
青娥は咳払いをしてから、もう一度言った。
「さて、そろそろお教えしましょうか。何故私が布都様に関わろうとするのか」
「うむ。何故じゃ」
布都が真剣な顔で身を乗り出す。
青娥は身をくねらせ、唇に指を這わせる。
「それは私が布都様を愛しているからですわ」
「そうか。で、本当は?」
布都がにべもなく切って捨てた。
もうちょっとうろたえてくれると思っていたのに予想外の返答をされて、青娥は言葉が続かない。
「青娥殿、我は真剣なのだ。茶化さないでもらおう」
「いや、布都様だってさっき冗談を」
「知らん」
苛立った青娥が再び頬を抓ろうとすると、布都は大仰に後ろへ下がる。
だがすぐに戻ってきて、真剣な顔をして言った。
「青娥殿、そなたは我と同じだ。だから分かる。そんな理由で人に構ったりなどしない。我等が尊ぶのは利益のみ。そうであろう?」
「いいえ。少なくとも私は人と人との真心込めた付き合いを重んじて」
「嘘を吐け」
布都はグラスに口をつける。
「そなたは歪んでいる。悪だ。それが真っ当な理由で人の繋がりを望む訳が無い。そうであろう」
その低く唸る様な告発に、青娥は咄嗟に何と返していいのか分からなかった。
それでも何か言わなければと思い、口を開く。
「布都様」
「待て、青娥殿」
料理が運ばれてきた。
布都は青娥を無視して料理に向かい、美味しそうに頬を緩めながら平らげる。
そうして再び真面目な顔付きになってテーブルに肘を突いた。
「そなたは悪だ。そうであろう」
「いや、そんな凄まれても」
完全に緊張が弛緩した。
仕方無く青娥も料理を食べる。何だか味がしない。
青娥が食べ終わるのを見計らって、布都は話を続ける。
「かつてなら分かる。あの頃の我には確かに力があった。殆どは他人から与えられたものであったが、確かに青娥殿が欲するものを持っていた。だからかつて我に取り入ろうとしていたのは分かる。だが何故今もまだ付き合ってくれるのだ? それが分からん」
「今の布都様には力が無いと? 別に力を失った訳では無いでしょう?」
「だがこの幻想郷で役立つ力は無い。私には、今、何も」
「そんな事は」
「待て、青娥殿」
料理が運ばれてきた。
「あの、布都様、出来ればもう少し真面目に」
布都は青娥を無視して、料理に舌鼓を打つ。
青娥も仕方無く料理を食べた。
やっぱり味がしない。緊張しているのだろうかと己を分析する。緊張しているつもりは無かったけれど。
布都が再び真面目な顔になる。
「青娥殿、教えてくれ」
改まった布都の態度に、弛緩していた青娥が背筋を伸ばす。
「何でしょう? 何か重要な事ですか?」
「どうしたら胸が大きくなる?」
青娥は一瞬、その言葉の意味が理解出来なかった。理解した後も、苦笑いを返す事しか出来無い。
「あの、もうちょっと真面目に」
「真剣に聞いておる。どうしたらおっぱいが大きくなる」
「どうしたらって、牛乳とか筋肉つけたりとか揉んだりとか」
「そういうのは粗方やり尽くした」
ふむ、と青娥は思案する。少なくとも布都に関して言えば、胸を大きくするのはそう難しい事ではない。
「成長すれば良いのでは? 今は子供の姿をしているから小さいのでしょう? あの頃、飛鳥の時代は、他人と比べても大きかったじゃないですか。だから今の体を成長させるなり、大人の体に作り変えるなりすれば良いのでは?」
「我の話では無いのだ」
そうなると、一人しか居ない。
「太子様ですか? そこまで小さいとは」
「この前命蓮寺の生臭坊主と比べられて落ち込んでいらっしゃったのだ」
「く、下らない」
阿呆らしすぎて力が抜ける。
もう少し真面目な話をしたいのに。
だが布都は肩肘を張って、心底落ち込んだ顔をしていた。青娥はそれを不思議に思う。
「どうしてそんな下らない事を」
「そうだ。下らない。だが今の私ではそんな下らない事のお役に立つ事すら出来ないのだ」
そう繋がる訳ねと得心する。
平和になった幻想郷では、飛鳥時代に必要だった権謀術数や過剰な暴力は必要無い。自然、神子の悩みは小さくまとまったものばかりになる。それに対して何も出来無いのが歯痒いのだろう。必要なのは細やかな気配りであり、布都が最も苦手とする分野だ。勿論、神子だって国をどうにかしようという野望は捨てていないだろうが、それはそれで、今度はあまりにも大きすぎて、こんな小さな幻想郷の中でどうにか出来る問題では無い。
「我はこの幻想郷では役立たず。太子様に必要とされない人材なのだ。それなのにどうして青娥殿は我に構う」
「必要とされていないという事は無いでしょう。ほら、スキーを教えたり、蛍を持って行ったりしたじゃありませんか」
「結局スキーを教える程上達するまでには至らなんだ。蛍も三日で動かなくなった」
「いや、えーっと、でも太子様は確かに布都様の事を大事にしていらっしゃいますわ。居なくなったらきっと悲しむと思いますけど」
「確かに悲しんでいただけるだろう。だがそれは太子様が慈悲深いからだ。我が必要だからではない」
布都が自嘲する。
「そんな事は」
「では青娥殿、もしも初めから我が居らず、幻想郷に太子様と屠自古二人で復活したとして、太子様は何か困ると思うか?」
何も困らない。
神子は本質的に他人を必要としない。居るから使う。居なければ自分でやる。それが出来るだけの力を持っている。
「この幻想郷は平和じゃ。飢餓も戦火も無い。我等と命蓮寺の戦はあるが」
「それは布都様が勝手に突撃しているだけの様な」
「ぬるま湯の様なこの世で、我に出来る事は本当に何も無いのだ。無理矢理にでも松明を掲げなければ、本当に何も」
布都の言葉に反論する事は簡単だ。幾らだって正論で封じ込める事が出来る。
けれど自分が何の役にも立たないと信じきっている布都に対して、役に立つと言ったところで信じる訳が無いし、正論を振りかざしたところで傷付けるだけで、何の解決にもならない。
正しいは善でも悪でもない。
「布都様、先に私があなたに構う理由からお答えしましょう」
青娥が座り直すと、布都が居住まいを正す。
遠くから軽快な音楽と歓声が聞こえてくる。それは実際よりも遥か遠く、世界の果てからから聞こえてくる様だった。
「それは、あなたが太子様に付き従うのと同じ理由です」
「我が太子様と?」
「そうです。かつての世ならいざ知らず、この幻想郷で太子様に付き従う利益なんてたかが知れています。ましてそんな苦しみながら一緒に居る理由なんて何も無い。それなのにどうして布都様は太子様と一緒に居るんですか?」
布都が考える前に、青娥は用意した答えを口にする。
「勿論、理由なんて一つに絞れるものでもないですが、それでも、一言で表すなら、それは太子様と一緒に居たいからでしょう?」
「それは、確かにそうじゃが」
「それと同じ。私は布都様と一緒に居たいから誘いを受ける。勿論そこに、様様な理由が絡んでいますけど、だからって一緒に居たいという気持ちが覆る訳じゃありません。私はあなたと一緒に居たい。それじゃいけませんか?」
布都が俯いた。考えあぐねているらしかった。
それならそれで良い。
今すぐに理解してもらえるだなんて思っていない。
この平和な世の中、分かりあう時間は悠久にある。
問題は今自分が何をしたいのか。
今どうしたら楽しめるのかだ。
そして今はただただ、この快楽に酔っていたい。
「さて私の理由はそういう事ですわ。それで次に布都様が仰った役立たず云云。これはあなたが完璧に間違っています。というよりも勘違いしている」
「何を?」
「必要とする、というその事自体をです」
「意味が、分からん」
「先程、言った通り。布都様は太子様と一緒に居たい。そうでしょう? 一方で、太子様もまた布都様と一緒に居たい筈。これも間違いありません。さっき布都様ご自身で言ったじゃありませんか。あなたが居なくなれば太子様は悲しんでくれるって。布都様、勘違いしてらっしゃいますが、誰かを必要とするというのは相手の能力だけを求めるのではありません。相手の存在そのものを必要とするのです。例えば太子様以外にも世を照らす力を持った者が居たとして、布都様はあっさりその方に乗り換えられるんですか? 少なくとも私は無理です。布都様と同じ能力を持っている者が居たって、布都様でなければ要りません。例え今日、別の者に誘われていたって、布都様でなければここには来ませんでした」
「何故そうまでして我を」
「私がそうしたいと思ったからです」
さっきと同じ言葉を返す。
料理が運ばれてきた。
青娥は会話を中断してそれを食べた。すぐに食べ終えた青娥は、布都が躊躇いがちに食事しているのを待つ。外の喧騒がどんどん近付いて来る。もうすぐ傍を通るだろう。その時までに話を終わらせて、一緒にパレードを見たかったが、出来無いかもしれない。それは少し残念だ。パレードを見ずしてランドで遊んだ事にはならない。出来る事なら布都に見せてあげたかったのだが。
「布都様、私は世界を回しています」
食べ終えた布都に、早速青娥は話を切り出した。
「私の世界は私が回している。それは誰の世界も同じ。布都様の世界は布都様が回しているし、太子様の世界は太子様が回している。けれどその世界を形作っているのは決して自分一人ではありません。私の世界は布都様や太子様が居て初めて成り立つし、布都様の世界は太子様が居なければ成り立ちませんし、太子様もまた同じ」
「そうだろうか」
「違いますか?」
「先程も言った通りだ。我は役立たず。太子様の世界に我は要らぬ」
「そんな事はないと思います。その人の存在が必要なのです。決して能力で召し抱える訳ではない」
「いや、我は誰からも必要とされていない。それは自分が一番良く分かっている。この世界に、我は不要だ。我自身の世界にも、本当なら居ない方が良い。いや、我等居らぬ。居らぬのだから誰からも必要とされなくて当然であろう」
布都の眦に涙が浮かんでいる。
それを見て青娥は俯く。俯いて口内の頬肉を噛み潰した。痛みでもって愉悦を抑える為に。
これ以上興奮すると、人目も憚らずにこのまま押し倒してしまいそうだった。
「布都様。結局、あなたの悩みはこういう事でしょう? あなたはかつての都で太子様の命令通りに動いていた。ただひたすらに太子様の為。己を滅し、太子様の道具になって働き続けた。けれど今はそんな道具が必要とされる時代ではない。あなたは一人の人間として生きるべきなのに、太子様の道具として生きる以外の生き方を知らない。結局今も太子様の道具のまま。そこに自我は無い。だから自分なんて存在しない。だから誰からも必要とされていない。あなたの悩みはそこに集約している」
布都は答えない。ただ俯いている。それが答えた。
駄目だ。可愛過ぎる。
青娥は胸の内から湧き出る感情に肩を震わせた。感情も震えも次第に大きくなり、我慢の限界に達して、ついには声を上げて笑い出した。
いきなり笑い出した青娥に驚いて布都は呆然とする。
その目の前で、青娥は腹を抱えて笑い、笑い、笑いまくった。
布都は涙の溜まった双眸をきつく細めて怒鳴りつける。
「何がおかしい!」
「いえ」
青娥は謝ろうとしたが、すぐに笑いが押し寄せてきて、言葉は途切れ、笑い声が続いた。
布都は涙目で青娥を睨みつけるが、どうする事も出来無い。
涙を浮かべて震えている布都の前で、青娥は外面を気にせず笑い続ける。
やがて青娥の笑いは収まったが、未だに笑みが尾を引いている。
「布都様、失礼しました。あまりにも、あまりにも」
また我慢が出来なくなって吹き出した。
「失礼。いえ、私、布都様のそういうところ、好きですよ」
布都は不機嫌そうに顔を背ける。
「貴様からすれば下らぬ悩みなのだろうな」
「ええ、これ以上無い程、馬鹿馬鹿しい」
布都が空けたグラスを叩き付けた。
怒った布都を見つめながら、青娥は笑みを崩さない。
「結局、あなたにその器はなかったという事でしょう?」
「太子様の傍に居る器ではないと?」
「いいえ、人を陥れるという悪を受け入れられなかったのでしょう?」
布都が俯いた。自分でも分かっていたのだろう。そして苦しみつづけていたのだろう。生まれ変わっても尚、かつて行っていた事を自分で許す事が出来無いでいるのだ。
「何の罪も無い赤子を殺す事は悪ですか?」
「無論だ」
「では見殺しにする事は?」
「悪だ」
「でしたらあなたは悪です、布都様。あなたは多くの罪も無い赤子を殺した」
「分かっている」
「私も殺しています。だから私も悪ですね」
「そうだろうな。我も貴様も悪だ」
「見殺しにしたというのであれば、太子様もそうですわ。彼女の望みであなたが動きそして人が死んだのですから」
「違う! 我が勝手に」
「確かに殆どはあなたが太子様の為にと勝手に動いてやった事でしょう。でも幾つかは命令の上での行いがあった筈です。それに太子様は例えあなたが勝手にやった事でも、それを予測し得た筈です。聡明な方ですから」
「違う! 太子様は」
青娥は笑顔で布都の心を責め苛む。
「いえ、そもそも赤子を見殺す事が悪になるのであれば、この世に悪でない成人等おりません。皆誰しも赤子を見殺しにしている。誰それの子供が病気で明日をも知れない。何処其処の子供が危険な森の傍に住み着いている。それが子供の危機であると分かっていながら、実際に助けに行く者は居りません。幻想郷だけではありませんわ。知っていますか? 外の世界では地球の裏側であろうと情報が瞬時に行き渡るのですよ。全ての人間が知っているのです。世界の何処かで今も赤子が死んでいると。それを知っても多くの者は現地に行って助けようとしません。具体的に子供を助けようとしている者も、その手が届くのは限定的です。誰も世界中に存在する全ての子供を助ける事は出来無い。必ず知っていながら、助けられない子供が存在するのです」
「詭弁だ。そもそもそれは見殺しの内に入らない」
「では話を戻しましょう。例えば、そう、自分を恋い慕い、ついてきてくれる者が苦しんでいて、それを見殺しにするのは悪ではないですか?」
「それは」
「悪です。ですから太子様は悪です」
「そんな事は無い。太子様は」
「ねえ、布都様。意固地になるのはやめましょう? 太子様は決して世間の価値観でいう善だけを行う聖人君子ではありませんわ。それは分かっているのでしょう? だからあなたはその悪を全て被ろうとしているのでしょう?」
「太子様は決して悪等では」
苦しげに呻いた布都に、青娥は一層の笑顔を向ける。
「太子様は悪ではありません」
唐突な言説の翻しに、布都は驚いて顔を上げた。
「あなたがそう信じるのであれば、あなたの中で太子様は悪ではない。何故なら悪というのは、何か世界の法則で定まっているものではなく、個人や社会等、受け取り手の印象によって左右されるものだから」
青娥はウェイターを呼んで、新しいワインを持ってこさせた。
外の歓声は更に近付いている。もうすぐパレードがやって来る。
何とかパレードまでに終わらせたかったが、無理かもしれない。
本当はちょこっとからかって止しておくつもりだったが、酒の所為か口が滑る。
目の前のこんなに可愛い布都を前にして、口が止まる訳が無い。
「ですから、私は悪です。あなたが悪だと思うから私は悪です。あなたの意思によって私は悪にされました。あなたの所為で、です」
布都の瞳が揺れる。動揺している布都を見て、青娥は留まる事の無い快楽を全身に感じる。
「我は、貴様は、貴様のしてきた行いは」
「そしてあなたも悪です、布都様。あなたの行いとは関係ありません。あなたは私と同じだと言った。あなたにとって私は邪悪の象徴です。あなたが私と同じだという以上、それは私の邪悪に着目しての発言に他ならない。あなたはあなた自身を悪だと思っている。ですから、あなたは悪ですわ、布都様。あなたがあなた自身を悪に仕立てあげたのです。そしてそれは、結局のところ、太子様を悪と糾弾している事に他なりません。だからこそ、太子様は悪です」
「何故そうなる。私は太子様が悪でないと信じている」
「あなたは自分が悪だと分かっているのでしょう? でもあなたは自分なんて存在しないと言ったではないですか? ならそのあなたという悪は何処から生まれ何処に存在しているのですか? 問うまでもありませんね。あなたは自身の存在理由を太子様に仮託し、太子様の傍に居る。悪は太子様です。あなたがご自分を悪だと断じる以上、太子様は悪なのです」
布都は俯いて唇を噛んだ。
青娥は全身で快感を覚えながら、グラスに口をつける。
パレードの音がすぐ近くから聞こえる。
見ると、綺羅びやかなパレードが遠くに小さく見えた。
不意に忍び笑いが聞こえてきたので、青娥は布都に視線を戻す。
「今日は随分長く話したな」
布都が顔をあげる。その顔は笑っていた。
急な態度の変わり様を、青娥は訝しむ。
「そなたと昨日までに交わしてきた言葉以上に話し合った気がするよ」
青娥が疑わしそうな顔をする。
「そうですか? 流石にそれはないと思いますけど」
「何処まで本気だ?」
「本気とは?」
「さっきまでの話、そなたは何処まで事実だと思っている?」
青娥は首を傾げてこめかみに指を這わせた。
「さあ? 私、そういう事は気にせず話す方なので」
「というと?」
布都の疑念に、青娥は恥ずかしそうにはにかんだ。
「私は相手がどんな反応を見せるのかしか気にしません。今はただ布都様を精神的に追い詰めたかっただけですわ。それが事実かどうかなんて預かり知る事では御座いません」
布都が呆れた顔をした。
「最低だな」
「ええ。分かっていた事でしょう?」
「まあな」
布都が顔を上げ、周りの人人が見つめている先を見た。
道の先には、小さく綺羅びやかな集団が見えた。
「あれが、パレードか?」
「ええ、もう少しでここに来ますわ」
「そうか」
布都はワインを煽り空にする。
青娥も同じ様に空にしてウェイターに新しいワインを注文する。
「我はそなたの言葉に反論出来ん。それは我の心に合致し過ぎている。そなたは吐く言葉の事実を気にしないと言ったな。ならばどうしてそうまでして、我の心情に沿うた言葉を吐ける」
「先程申し上げた通りですわ。私は布都様を精神的に追い詰める為の言葉を吐いたに過ぎません」
「だとしてもどうしてそこまで的確に」
「それは私が言葉を用いたからです」
「意味が分からん」
「言葉とは力です。力とはベクトル、大きさと方向性です。だから概念に言葉が乗ると方向性が定まります。だから言葉は物の定義を明確にするのです。私は、あなたの未分化の悩みに言葉をあてがい、方向を定めたに過ぎません。私があなたの悩みを言い当てたのではない。あなたの悩みが私の言葉に飛びついたんです」
「納得出来んな」
「納得する必要はありません。これもまたあなたを精神的に追い詰める為の言葉に過ぎませんから」
「そうか」
布都は俯き、顔を上げると、パレードを見つめた。
先頭を走るフロートには、電飾で飾り付けられた階段の上に、青いドレスを着てガラスの靴を履いた狐と猫が乗っていた。見る人が見ればシンデレラだと分かるが、幻想郷に住む多くの者はシンデレラを知らない。ただそのまばゆい美しさは例えシンデレラを知らなくとも感動出来る。
「素晴らしい眺めだな」
「今日は童話をモチーフにしたパレードだそうですよ。喜んでいただけたのなら何よりです」
「青娥殿はあまり喜んでいる様に見えんな。何故じゃ?」
布都の問いに青娥は素直に答える。
「私は、外の世界でこれの本物を見た事がありますから」
「本物の方が更に美しいという事か?」
「完成度としては遥かに上でしょう」
布都はそれを聞いても、決してパレードから目を逸らそうとしない。
「我にはこれが美しく見える」
「私だって美しい事を否定はしませんわ」
布都は髪を掻きあげ、小さく溜息を吐いた。
「そなたから見えれば、我が抱いてきた悩みはみんな実にちっぽけに見えたのだろうな」
「まさか。どうしてそう思います?」
「所詮我が生きたのは数十年。千年以上の長き時を生きたそなたからすれば赤子の様なものだろう?」
青娥はくすりと笑って、身を乗り出し、布都の頭を撫でた。
撫でられた布都は驚いて、青娥の手から逃れようとして、勢い余って椅子から転げ落ちた。大きな音を立てて椅子が倒れ、周りの視線が布都に集まる。
布都は恥ずかしそうに椅子を直してから、青娥を睨みつけた。
「いきなり何じゃ」
「いえ、てっきり赤ちゃんプレイをご希望なのかと」
「赤ちゃんプレイ?」
「知らなければ神子さんに聞いて下さい」
布都は悔しそうに顔を歪める。
「今度までに調べておく」
「もしもしたくなったら遠慮無く言って下さいな」
青娥の余裕ある態度に布都は不満そうな顔になり、そしてテーブルの下で青娥に蹴りを入れた。青娥が痛みを訴えて跳ね上がる。
「何ですか、急に!」
「何だか馬鹿にされた気がしたからだ」
「だからって暴力に訴えないで下さい」
「我にはこれしかない」
布都は己の手を見つめて、悲しそうな顔をする。
「後千年生きれば、我も変われるのか?」
「私の様にですか?」
布都が頷くと、青娥は首を横に振った。
そうしてパレードを見る。二番手は白蓮が豪奢なドレスにアクセントで茨を巻きつけている。隣は王子様の格好をした星。物凄い人気を誇っていて、熱狂した観客達がフロートの周りに集って、キースキースと連呼していた。星は恥ずかしげにしているが、白蓮は満更でも無い様子だ。
「例え千年生きても我は変われぬか?」
「誰も変われません。十年生きても百年生きても千年生きても、きっと一万年生きても人は変わらない」
「そんなものか?」
「そんなものです。比率で言えば、百年生きた内の十年と千年生きた内の百年は同じ変化量の筈です。それも正比例すればの話。人の変化なんて飽和曲線ですから、十年二十年を過ぎれば、変わるのは知識と周囲の環境だけです。根っこの部分は何も変わりません。劇的な何かが無い限りは」
パレードの三番手は、守矢神社の面面。楽しそうに白雪姫の格好をしている早苗と、恥ずかしそうに王子様の格好をしている神奈子、そして小人の格好で死んだ目をして突っ立っている諏訪子だ。こちらも尋常じゃない盛り上がりを見せて、遂にはフロートに登る者まで現れた。早苗がその者からねだられたサインの願いに快く応えた事で、次次と観客が乗り始め、何故か皆が酒を片手に歌い出し、それに当てられたのか神奈子と諏訪子もやけくそになって歌い、もはや混沌としか形容の出来無い騒ぎを見せている。
「青娥殿はその劇的な何かを与えて、世界を変えたいのか?」
「私? 世界を変えたいだなんて言いましたっけ?」
「そなたと我は同じだと言っただろう? 我は自分を変えたい。世界を回すのが己自身であるなら、己を変える事は世界を劇的に変える事に他ならない。そなたも同じ筈だ。だがそなたは自分を変える事は出来無いと言う。ならきっとそなたは自分に関わる者を変える事で世界を変えようとしているのだ」
布都はワインを煽り、笑い声を上げた。
「という妄想をしてみた。大分酔っているな」
青娥もそんな布都に笑みを返す。
「ですが、きっと当たっていますわ」
「あのキョンシーもそれか?」
「芳香ですか? まあ、そうとも言えますね。ただ、まあ何と言うか、何て言えば良いのでしょうね。私も酔っ払っていて良く分かりませんわ。何故でしょう。そんなに飲んでいないのに。布都様と飲んでいるからでしょうか」
ちなみに、ワインの味なんて分からんだろうと、青娥は悪戯で布都のワインにスピリタスを混ぜる様店員に頼んであったのだが、忙殺された店員は青娥にも同じ物を出していた。
閑話休題。
四番手は、鉄で出来た巨大な人形で、足元に居る河童が手元の機械を操作する事で、人形は体を動かし、目から夜空に向かって光線を放った。
「私はね、人を陥れるのが大好きなんです」
「歪んでいるな」
「陥れると、その人は絶望的な状況に追い込まれて頑張るでしょう? それを乗り越えられた時、きっとその人は成長出来る筈なんです。そうやって人が成長する喜びを」
「嘘だな」
布都がにべもなく切り捨てる。
青娥はくすくすと笑い、額の汗を拭った。
気が付くと随分熱くなっていた。
気が付くと喉が乾いていた。
「お水頼んでも良いですか?」
「我にも一つ頼んでくれ」
ウェイターに水を貰い飲む。
五番手は命蓮寺の船幽霊と尼僧と入道で、北風と太陽を演じている。粗末なシャツとスカートを履いた尼僧の周りを、スカート部分に過剰なギャザーの入った真っ赤なドレスを着た船幽霊が足でリズムを打ち鳴らしながら踊りまわり、その二人に向かって入道が息を吹き鳴らしている。観客達が熱気を込めて声援を送っているが、その半分近くは吹き荒れる風でめくり上がり中の見えそうなスカートを注視している。
「芳香は、昔の私の友達です。あの子の故郷は兵隊に焼かれ両親も殺されました。それに絶望せず、遠戚に疎外されながらも、孤独の身で奮起し、女官兼薬師として、宮廷に仕えました。そこで私と出会いまして、友達と言える位の付き合いをしていたのですが、結局あの子は死にました。帝が願う不老長寿の薬を開発する為に、あの子の同僚達によって実験台にされたのです。衰弱しきって絶望したあの子が最期私に望んだのは、例えどんな形であっても生きていたいという事。なのでキョンシーにしたんです。今では私の可愛い部下ですわ」
布都は胡散臭そうに青娥を見て、それから気まず気に顔を逸らした。
「好きなんだな、あのキョンシーの事が」
「ええ、さっきも言った通り、あの子は絶望を知り、そして成長しました。あの子だけなんですよ。キョンシーになっても完全には自我を失わず、それどころか少しずつ自我を回復しているのは。きっとあの子の絶望とそこから生まれた生きたいという願いの結果に違いありませんわ」
布都は何も言わずワインに口をつける。
青娥は運ばれてきた水を布都に差し出して、自分も飲んだ。
「ああ、それから、私が仙人を目指したのは、母親が重い病にかかったからです。父の修行していた山に入って、父が師事していた方の弟子となり、そしてこのかんざしを盗み出して、王宮の万能薬を盗み出しました。薬を持って帰った時、母は死んでいましたが」
「何故急にそんな話を?」
「芳香の話をしたら同情していたみたいなので、私にも同情してくれるかなと」
「貴様の冗談は分かりにくい」
「そうですか? 笑い所たっぷりだと思いますけど」
にこにこと邪気無く笑う青娥を何だか見ていられなくて、布都はパレードへと目をやった。
六番手は、妖精達で、様様な動物の格好をして踊り回っている。どうやらブレーメンの音楽隊の様だが、フロートの上には数十の動物が踊り回り、滅茶苦茶な楽曲を演奏している。
それを見ながら布都は言った。
「綺麗だな」
「ええ、そうですね」
「眩しいな」
「そうですね」
まだ何か言いたそうなので、青娥は布都の言葉を待つ。
布都はそわそわと何やら腰を浮かせたり、髪を弄ったりしていたが、やがてそっぽを向きながら小さな声で何かを言った。
小さすぎて青娥には聞き取れなかったが、雰囲気から何となく察して、笑顔になった。
「いいえ、こちらこそ。愛する布都様と一緒に居られたのですからこれ以上の喜びはありません」
青娥が億面も無くそんな事を言ったので、布都は益益顔を逸し、青娥とは反対を向いてしまった。
「青娥殿、そういう冗談はあまり言うべきではない」
「でしたら、布都様だって、言いたい事はちゃんと言うべきですわ。心の中だとか、小声ではなく、はっきりと」
布都は膝の上で拳を握りしめ苦悩する様に俯いた。その背中に向かって青娥は問う。
「それでさっき何と言ったのですか?」
しばらく眺めていると、布都は背を向けながら怒った様子で言った。
「性格が悪いぞ、貴様!」
「それでさっき何と言ったのですか?」
「何も言ってない!」
「そんな事はありません。確かに何か言ってしましたよ」
布都が顔を真赤にしながら振り返り、パレードを指さして叫ぶ。
「パレードが綺麗だなと言ったのだ! それ以外には何も言ってない!」
青娥が口元に手をあてる。
「あら、それはつまり愛の告白?」
「違うわ、阿呆!」
布都は叫んだまま席を立って店の中へと駆け込んでいった。
青娥はそれを追わない。
どうせすぐ戻ってくる。
青娥には分かっている。
青娥と布都は似た者同士なのだから。
しばらく待っていると、案の定戻ってきた。
「青娥殿、厠は何処にあるのじゃ?」
「では一緒に行きましょうか」
青娥が手を差し出す。
布都はそれを手に取る事を躊躇して、悩んでいたが、催した尿意に耐え切れなくなったのだろう、最後にはその手を取った。
翌日、青娥は道でばったりと神子に出会った。今日は布都も屠自古も従えていない。神子は出会って挨拶をするなり、深深と頭を下げてきた。
「昨日は一日布都と遊んでくれてありがとう」
「いえいえ」
「帰ってきた布都は大変嬉しそうにランドの事を話していたよ」
「そうですか」
青娥が平静を装って簡潔に応じる。
内心、ちょっと嬉しい。
「今日はお一人でどうなされたんですか?」
「ん、よくよく考えてみれば、今回の事で布都を蔑ろにしていたのかもしれないとちょっと反省してね」
青娥は驚いた。あの布都が蔑ろにされているなんていう不安を、神子自身に相談するとは思えなかった。神子の事であるから、布都が何も言わなくとも、布都の本当の悩みに気が付いたのかもしれない。流石聖徳太子。だとすれば、もっと早く気付いとけと思う。どうもその辺りに鈍いところがある。そういうのを見ていると青娥は苛苛としてしまう。
「今日は一日布都と一緒に居ようと思って、屠自古には外出してもらったんだ」
「はあ、で、肝心の布都様は?」
「それが起きたら何処にも居なかったんだよ」
「太子様との約束を蹴って?」
「いや、約束は特にしていなかった。驚かせようと思って布都には何も言っていなかったんだ」
肝心のところで詰めが甘い。女泣かせな方だと青娥は溜息を吐く。
「そこ等の者に聞くとどうやら命蓮寺へ行ったと聞いてね、迎えに行くところだ」
「成程」
命蓮寺に行ったとは、嫌な予感しかしない。
青娥が肩を竦めていると、神子が小さく笑った。
「布都は随分と青娥殿に心を許した様だ」
青娥も笑い返す。
「このまま行けば、太子様から離れて私の下へ来る日も近いですわね」
青娥の冗談を聞いて、太子がおかしそうに笑った。
「そうだな。布都がもう少し外を見てくれれば」
そう言って、遠くを見つめる様にして道の先に目をやり、そこに凄い勢いで向こうから走ってくる布都を見つけた。神子が顔を綻ばせてそれを迎えようとして、布都の背後を見て凍りつく。
走る布都を、恐ろしい顔をした白蓮が追っていた。
きっとまた命蓮寺で何か(放火)をやらかしたのだろう。今度という今度は許さないという決意と殺意の滲み出た表情で白蓮が布都の事を猛追している。
「布都!」
神子が慌ててそれを助けようとするよりも先に、青娥が前へ飛び出した。
そして布都の横をすり抜け白蓮に肉薄すると、羽衣を白蓮の足へと引っ掛けた。
白蓮がつんのめって地面に顔面をぶつけ、それでも勢い止まらずごんごんと地面の上を、まるで川面に投げた石の様に、跳ね転がりながら道の向こうへと消えていった。
立ち止まって呆然としている布都。
その手を取って、青娥と神子はその場から逃げ出した。
しばらく逃げて、人里を見つけ、甘味処に腰を落ち着けると、布都が青娥へ頭を下げた。
「感謝するぞ」
いえいえと手を振って、何があったのかと問いかけると、布都は呆れた様子で首を横に振った。
「昨日の件で我も反省してな。大事な仏像を燃やしてしまった代わりに四猿を贈ってやろうと思ったのだ」
「それでは代わりにならないでしょう。相手は国宝級ですもの」
「こちらも国宝だ。何と太子様が直直に作られた物だから」
「え? あれを渡したんですか?」
四猿とは神霊廟が販売している猿の人形である。詰まるところそれは道の教えを形にした物だが、俗人達からすればただの魔除け、縁起物でしかない。まあ、教えだの何だのという精神的な崇高さよりも、民衆にとっては即効性のある実体の方がよほどありがたい訳で、神霊廟の意図とは反しつつも、随分と売れ行きを伸ばしていると聞く。だがそれはあくまで神子の弟子達が作った物についてであって、神子が作った物は話が別だ。
「うむ、国宝に並ぶ芸術品なのだ」
確かに国宝級の破壊力を持っている。何せ、その四猿はあまりにも芸術的すぎて、誰にもその素晴らしさが理解出来ず、それを見た布都以外の弟子達全員が悪夢にうなされ、以後神子が四猿を制作する事が禁じられた程である。四猿の前にも神子が芸術的才覚を発揮して希望の面を作った事があり、希望の面を見た秦こころはあまりのショックに卒倒して事件へと発展した。
「それが何故か奴等は怒り狂って襲って来おった」
「まあ、何故とは言いませんが」
と言いつつ、青娥は神子へ視線を向ける。神子はどうしてだろうと言いたげな不思議そうな顔をしていた。良い加減、太子様は自身の壊滅的なセンスに気が付いた方が良いと、青娥は他人事ながら苛立ちを覚える。
「まあ、そんな事は良いじゃないか。それより、布都、今日はお前と一緒に居ようと思ってな。何処へでもお前の好きな所に連れて行ってやろう」
それを聞いた布都は嬉しそうな顔になる。
青娥はそれを見て溜息を吐く。
そんな嬉しそうな顔を向けられた事が無い。
結局神子に全て持っていかれるのかと思って溜息を吐く。
そんな風に落胆していた青娥だが、次の布都の言葉を聞いて、耳を疑った。
「いえ、申し訳ありませんが、今日は太子様と一緒に居られませぬ」
青娥と神子はあまりの驚きに変な声が出た。
「何故だ、布都! 体の調子が悪いのか?」
大慌てで掴みかかる神子に、布都は首を横に振る。
「いいえ、今日は青娥殿と遊ぶ約束をしておりますので」
「は?」
神子が首を捻じ曲げて青娥を見た。表情が抜け落ちている癖に、万感の憎悪がこもっているのがはっきりと分かる顔だった。
そんな約束をした覚えは無かったが、青娥は肩を揺らして笑いながら、布都の言葉を肯定する。
「ええ、その通りですわ。太子様は邪魔だからどっか行ってて下さいな」
「いや、ちょっとお前、私の布都に」
「では、太子様、失礼致しますぞ」
布都が神子の傍をすり抜けて、青娥の手を掴み、歩き出す。
「布都! 待て! 布都! 今日はそなたと二人きりで」
必死で呼び止めようとする神子に向かって、布都は振り返ってにっこりと笑った。
「太子様はどっか行ってて下さい」
その素っ気無い言葉に、神子は地面に膝を突いて、布都の名を思いっきり叫び上げた。
それを布都は振り返らなかった。
しばらく歩いてから、未だ布都を呼ぶ声が背後から聞こえる事を気にしつつ、青娥は布都に尋ねた。
「良かったのですか? 折角、太子様が布都様と過ごしたいと仰っていたのに」
「良いのじゃ」
今までであれば布都が神子の誘いを断るなんてそうそう考えられない事だ。
青娥が布都の突然の心境の変化を不思議に思っていると、布都が笑った。
「思えば、我は太子様に依存し過ぎていた。そしてそれは同時に太子様を束縛していた。それをそなたに気が付かされてな。そなたの様に、自由気ままに生きてみようと思ったのだ」
「別に、そういう意図では無かったのですが」
とはいえ、それで太子離れをしてくれるなら、好都合だ。
自分の真似をというのも悪い気はしない。
「それにな、青娥殿」
布都がにやりと笑って青娥を見上げる。
「自分を信じてくれる者を陥れるのはこの上無い快楽じゃ。そうであろう?」
それを聞いて、青娥は吹き出し、笑い声を上げる。
「別にそこまで私の真似をする必要は無いのですよ?」
「心地良いのは確かだ。思えばずっと、太子様のお傍に居て、畏敬や喜びを感じる事はあれ、この様に晴れやかな気持ちになった事は殆ど無かった」
布都がそう言って、空を見上げた。
青娥も見上げると、青青とした空が広がっている。
「さ、今日は何処へ行く?」
布都に問われて、青娥は立ち止まる。
「布都様は何処に行きたいですか?」
「行きたい所があればこちらから提案するわ。それ位、分からんのか」
ぐっと拳を握りしめて怒りを堪えた青娥は、昨日あれだけはしゃいでいたのだから、とりあえずテーマパークでも連れて行っておけば良いだろうと適当に考える。
「では、昨日行ったテーマパークの本物に行きましょうか? USAという遠い異国にあるのですが、スキマに頼めば一飛びでしょう」
そう言って満面の笑みを向けたのに、布都は呆れた様子で渋面を浮かべた。
「はぁ? また同じ様な所か? そなたも工夫の無い奴じゃのう」
鎮まれ、私。
青娥は奥歯を噛み締めつつ、怒りを堪える。
仲良くなれたと思ったが、やっぱり態度は変わらない。まあいきなりべたべたされても困惑するが。
青娥は少し考え、昨日見た美しい景色を思い出す。
「では海に行きましょうか? 新鮮な海魚なんてあまり食べた事無いでしょう?」
その提案に、布都が乗る。
「ほう、良いな! 我は都からあまり出なかったのでなぁ。話ではとてつもなく広い湖だと聞いているが」
思った以上に喜んでくれた布都を見て、青娥がくすりと笑う。
「ええ、きっと驚きますわ。海はその広さ故に、全てを包む母と呼ばれているんですから」
「そうか。では行こう」
早速二人で手を繋いで外へと向かう。
その途中で、布都が夢見る様に言った。
「全てを包む母か。我もその様になれたら」
「布都様ならなれますわ」
「そうか」
布都が顔を綻ばせる。
「青娥殿も」
「え?」
優しげな布都の声音に驚いて、青娥は布都を見る。
そんな優しい言葉を私に、という驚きと喜びで胸が一杯になる。
望外の喜びに至っている青娥に向かって、布都が慈愛に満ちた顔で言った。
「母なる大地にその邪念を取り払ってもらえると良いな」
青娥は一瞬目の前が明滅した。
多分脳の血管の何処かが切れた。
「ええ、そうですわね」
何となく良い雰囲気だと思っていたのに、一気に裏切られた。
その落差に、憎悪に近い感情が芽生えている事に気がつく。
青娥は一つ息を吐いて心を落ち着ける。
もしかしたら昨日あれこれ言ったからその仕返しで言っているのかもと思ったが、布都の表情を見ると、どうやら心の底から善意でそう言っているらしい。
向こうからすればこちらは悪の象徴なのだ。
相変わらず進展しないなぁと俯いて溜息を吐くと布都が手を握りしめてきた。
どうしたんだろうと顔をあげると、布都は尚も優しげな笑みを向けてきていた。
「そうすれば、そなたは海になれるぞ」
一瞬頭が真っ白になり、それから顔が火照る。
呼吸すらも忘れる忘我から回復すると、青娥は何か負けた気がして悔しくて、布都の手を容赦無い力で握り返した。
布都が悲鳴を上げる。
「何をする、青娥殿!」
「いえ、別に」
追われる方が自分にあっている。
今までずっとそうしてきたし、これからもそうしていく。
だからやっぱりこの子は天敵だ。
布都が何でこんな事をしたと喚いているのを、何でもありませーんといなしつつ青娥は思う。
翻弄されても良いかと思わせる布都は自分の天敵なのだ。
その瞬間、そんな思考をした自分が恥ずかしくなり、再び布都の手を思いっきり握りしめた。
もう一度、布都の悲鳴が辺りに響いた。
手紙は昨日の内に届けられたらしいから、手紙に書かれた待ち合わせ時間は昨日の事だと推察出来る。そうだとすれば待ち合わせ時間を過ぎている。数分数十分ならともかく、一日も遅れたのであれば、きっと待ち人である布都は帰ってしまっているだろう。無視を決め込んでも良かったが、何となく捨てきれずに、慌てて支度をして向かっている。
伝説の樹は、一応当てがある。妖怪の山の中腹にある櫟で、去年布都がヘラクレスオオカブトを見つけ狂喜乱舞した木だ。ヘラクレスを採った布都は喜びのあまり、伝説じゃあ! と叫びながら命蓮寺に松明を持って突貫をかけ、泣きながら帰ってきた。
布都は相手の事情を考えない。自分のしたい事をしようとする。だから良くトラブルになる。今回もどうせトラブルだろうと青娥は確信している。布都が青娥に持って来る話は大抵神子に相談出来ない事だ。この間の冬には太子様にスキーをお教えしたいから内緒で特訓させてくれとアルプスの山へと案内させられた上に、その一時間後には雪に埋もれた布都を探して広い雪山の中捜索隊の真似事をさせられた。あの時は仙人の体を持ってしても凍傷になるかと思った。去年の夏は太子様に蛍をプレゼントしたいとかで虫の掴み取りに参加させられた。箱に詰められた数多の虫に腕を突っ込んだ時の感覚は今思い出しても鳥肌が立つ。
そんな面倒事断れば良いのにという意見はもっともであるけれど、正直なところ青娥はその無理難題が楽しみでもある。持って来る難題の破天荒さは笑いを誘うし、その無理に挑んで布都が追い詰められていく姿は見ていて飽きない。自分も布都と一緒に巻き込まれてしまうが、それ以上の愉しみを味わえる。それから付け加えるなら、何だか布都に頼まれると放っておけないというのもある。
青娥は日が天頂に昇る少し前に伝説の樹を視界に捉えた。勿論布都が居る訳が無いと分かっている。誰も居ない場所にやってきた自分は何をやっているんだと自嘲しつつ伝説の樹の傍に降り立つと、啜り泣く声が聞こえてぎょっとした。幽霊か何かだろうか。仙術を心得ている青娥にとって幽霊等物の数でも無いが、森の中で死に、死しても尚泣き続ける様な手合なんて関わるだけで嫌な気分になる事は必定だ。その上、泣き声は小さな子供のものだった。泣いている子供なんて生きていようが死んでいようが相手にしたくない。
とりあえず顔だけは確認しておこうと声を追って伝説の樹の裏を覗き込むと、見知った人物が膝に顔を埋めてうずくまっていた。一瞬、青娥の思考が真っ白になった。何してんだこの人と呆れつつその名を呼ぶ。
「布都様?」
青娥が名を呼んだ瞬間布都が凄まじい勢いで顔を上げた。赤く腫れ上がった目が大きく見開かれ、続いて怒鳴り声が響いた。
「遅いわ、ど阿呆が!」
「え、ええ?」
何でいきなり罵声を受けなきゃならんのだと困惑する。気圧されて後ろに下がった青娥に詰め寄った布都はぎりぎりと歯を軋らせる。
「手紙を読まなかったのか?」
「いや、読みましたよ」
「今日の正午と書いてあっただろう」
「ええ、ですからさっき読んですぐにこちらに向かってきたのですが」
「出したのは昨日だ!」
「いえ、そう言われましても」
不在の家に手紙を持って来られたって、その日の内に読める訳が無い。
「分かりやすく玄関に貼ったのは昨日の朝だぞ? 何故すぐに読まなかった!」
「ずっと不在でしたし。貼った時に一言掛けて下されば、留守である事は分かったと思うのですが」
布都が黙りこんで下を向き、肩を震わせた。
「何時間待ったと思っているんだ!」
知らないけど何時間待ったんだろう、と布都の事を眺めると、服はやけに汚れ、その上頭には葉っぱがのっているのに気が付いた。
「もしかして一晩中待っていて下さったのですか?」
すると布都が涙混じりの目できっと睨み上げてきたかと思うと、はっと口を開いて、再び俯いた。
「待ってない」
「え? でも今」
「我も今来たところだ」
「そうですか」
どうやらこの子は一晩中待っていたらしい。恥ずかしがって待っていない等と嘘を吐いているけれど、あまりにも分かり易すぎる。何だか可哀想でなので、青娥は布都のご機嫌を取る為に持ってきた飴玉入りの缶を差し出した。
「一つ舐めます?」
「舐める」
青娥が差し出すと布都はそれを口の中に放り込んでばりばりと噛み砕いた。それで頬を緩めながら青娥の事を睨み上げた。
「買収はされんぞ」
胸を張る布都に青娥も笑顔を見せる。
「ええ、承知しております」
とりあえず泣き止んでくれたのならそれで良い。子供が泣いている事程面倒な事は無い。意図的に泣かせたのであれば大好物なのだが。
何だかやけに集っている羽虫を手で払ってから、出来るだけ警戒を与えない様に笑顔を見せた。
「それで、今回はどんなご用件ですか?」
「何だと思う?」
「さあ? とんと」
「邪な貴様の事だ。どうせろくでも無い事を想像してここに来たのだろう?」
布都が自信あり気な表情で胸を張ってそんな事を言うので、青娥の笑みが固まった。
こうである。
青娥は拳を握り締めて笑顔を堅持した。
こらえろ私。
はっきり言って、自分は布都から好かれていない、と青娥は思っている。もっと正確に言えば、言動を信用してくれない。数多の人間を誑し込んできた手練手管を使って接しているのに、どうしても信用を得られない。それどころか、笑顔を向けただけで、邪悪な事を考えているに違いないと疑いの眼差しを向けられる始末。
青娥は何とかして布都と仲良くなりたかった。あんな事やこんな事をして籠絡し、その挙句裏切って絶望の淵に突き落としたかった。その顔を恐怖と絶望と涙で汚し、その醜く美しい姿を堪能したかった。
飛鳥の世からそう望み続けているのに未だに成し遂げられていない。
青娥と布都の相性は最悪だ。
人との関係を築く事に関して、青娥はそれなりの自負があった。中国や日本、世界各地の、お互いがお互いの腸を貪り合うどす黒い政界劇の中を渡ってきたのだ。聡明な者とはビジネスな関係を築き、愚鈍な者は傀儡としてきた。
飛鳥時代、布都も神子の側近という要人だったので、いつもの調子で政界への足掛かりに利用しようと、近付いてみたのだが。
青娥は忘れない。布都に目通りした際、いきなり渋面を作られ、贈り物を突っ返され、唾まで吐かれた事を、永遠に忘れない。
この幻想郷でも、神子はそれなりの勢力と認識されており、布都もまたその側近として重要な位置に居るから懐柔したいと考えている。そうでなくとも青娥の性癖から、布都を信用させて突き落とすという無上の快楽を味わいたいのだが、どうしてか上手く行かない。時代も移り変わったのだし今度こそという思いで近付いてみたが、悪化した嫌いさえある。蘇った布都と久しぶりに顔合わせた時に、何者だ? と忘れられていた事をきっと忘れない。
過去に於いても現代に於いても、布都に取り入る事が出来ないでいた。
そもそも交渉以前に、丸っきり端から人の言動を疑ってくる。どれだけ愛想良くしても駄目だし、あれこれ餌を見せてみても駄目だった。神子等は、布都は純粋ですから邪悪が分かるのでしょう等と笑っていたが、戯けた事だと青娥は切り捨てる。純粋? あり得ない。そんな高尚な話ではない。布都はきっと動物的感覚で目の前の物が腐っているかどうかを見分けているんだ、と青娥は考えていた。
二人の布都に関する見解はともかく、青娥にとって布都は天敵中の天敵であるのは事実だ。今までだって青娥に騙せない者は居たが、騙せないなら騙せないなりにやってきた。神子も騙せない者の一人で、提案の意図を完全に読まれてしまう厄介な存在だが、それでもお互いに利益を享受しあう関係を築けている。だが、話が通じないとなるとお手上げで、例えば復讐心で襲いかかってきた者を説得する事は出来ても、飢えた獣に食べないで下さいとお願いしたところで何の意味も無い。そもそも言葉が通じない野生動物に何を言っても無駄だ。そして言葉が通じないどころか、近付いただけで疑いの目を向けてくる布都は、野生動物以上に厄介な存在だった。
長年の付き合いの末にとにかく一気に籠絡する事は不可能だと判断して、小さな事からこつこつと積み重ねていく事にした。この幻想郷において布都は、昔と違って何故か無理難題を携えて相談しに来るので、もしかしたら布都はそこまで自分を嫌っていないんじゃないかという希望を胸に、あれこれと布都の気を引いて、相談事に乗り、色色と協力してきたのだが、未だに懐柔出来ないで居る。
閑話休題。
「どうじゃ、図星であろう? 邪悪な貴様の考え等お見通しよ」
「これは御見逸れしました」
青筋が立つのを覚えながら、青娥は我慢しいしい布都へ今日の目的について尋ねた。すると布都は再び胸を張り、偉ぶった様子で喜ぶが良いと言った。
「今日は貴様をナズリンランドに招待してやろうと思ってな」
「ほう」
青娥は興味深さに息を吐いた。
ナズリンランドというのは、つい最近命蓮寺が作った信者獲得用のテーマパークである。何故かスキマ妖怪も手伝って、別空間の中に作られた巨大なアトラクションランドは、言ってしまえば外の世界の有名なテーマーパークの模造品だ。信者獲得用という事で命蓮寺風に変えれば良いのに、そんなつもりは全く無かったらしく、千葉にあるテーマパークそっくりそのままである。技術や趣味の問題で完全な再現には至らなかったらしいが、そのままを目指しただけあって、本家の半分程度には面白さを保っており、娯楽の選択肢がない幻想郷では、あまりの人気に入場制限までかけられている。
世界中の本家本元を回って限定グッズを集めた事もある青娥は、そんな素人の作ったハリボテ如きに全く興味は湧かないが、布都がそれに行きたがるというのは興味があった。テーマパークの主催者は布都の不倶戴天の敵、命蓮寺。隙あらば寺を燃やそうとする布都がどうして敵地へ遊びに行こうというのだろうか。
「どうだ! 嬉しかろう!」
誘ってくれるのは良いのだが、理由が分からない。
「ええ、大変嬉しいのですけど、何故私を?」
「どうせ邪な謀ばかりしているだろうからな。その歪んだ性根を少し発散させてやろうと思って」
青娥の頬がひくつく。
「それはありがとうございます。ですが、どうしてナズリンランドに? まさか」
燃やそうとしているんじゃと問う前に、布都が答える。
「デートという奴だ」
「は? え!」
思わず声が裏返った。青娥は信じられない気持ちでまじまじと布都の顔を見つめる。見つめ見つめ、見つめ続けて、その真意を探ろうとする。
デート、それは好きな者と一緒にお出かけをする事。
ならば布都は自分の事が好きなのか?
と、ここでそんな期待するのは素人だ。
そもそもデートなんて今時な言葉を使った事が引っ掛かる。どうせ誰かから適当な事を吹きこまれたに違いない。
布都のプロフェッショナルである青娥は心を落ち着けてから柔からな笑みを浮かべた。
「何か勘違いしていません?」
「何をだ?」
「何をって、デートの意味を。炎を使う行事ではありませんよ?」
「何を言っておる? 好いた者同士が何処かへ出掛ける事だろう」
「え? ご存知なのですか?」
「当然だ」
「あ、あの」
まさか本当に私の事を?
でもいつの間に布都様は。
青娥の顔が赤くなり言葉が出ずに居ると、布都が渋面を作る。
「別にお主の事が好きな訳ではないぞ」
青娥の肩がすとんと落ちた。
分かっていた。
そうだろうと分かっていた。
でも落胆する心は止められない。
布都の意図を掴みかねる。さっきから布都にペースを握られているのが口惜しくて、思いついた事を口にする。
「太子様と一緒に行かれないのですか?」
すると布都が唇を噛んで眉を寄せ、悔しそうな顔になった。どうやら今回の理由はその辺りらしい。
「もしや喧嘩でも? 置いて行かれたとか?」
「……太子様はちゃんと我も誘って下さった」
「あ、つまり、券が余っているから、私も呼べと太子様が」
「違う。これは我の一存だ」
どういう事か分からない。
困惑していると布都が項垂れて呟いた。
「太子様は既に一昨日ナズリンランドに出掛けられた」
「あら。布都様は一緒に行かれなかったのですか?」
「我は重い病気に掛かってな。一緒に行けなかったのだ」
ああ、だから悔しくて私を誘って。と考え、そうじゃないと首を横に振った。
布都は太子との用事があるのなら、多少の病気でも無理を押していく。太子と一緒に出掛けられない病気であったのなら、それはもう歩く事すらままならない程の重い病気の筈だ。しかしそんな病気に掛かれば、神子が布都を残して何処かへ遊びに行く等あり得ない。
「仮病を使ったんですね」
布都は一瞬言葉をつぐみ、それから伏し目がちに青娥を睨んだ。
「何故分かった」
「どうしてですか? 命蓮寺のテーマパークだから行きたくなかったとか?」
「行きたかったに決まっておろう。太子様と一緒に出掛けられるのであれば何処にだって行くわ」
ならどうしてと青娥が首を傾げると、布都はスカートを握りしめた。
「デートは好きな者と行くものなのだ」
それを聞いた青娥は意味が掴めずしばらくぽかんとして、意図に気が付いて思わず吹き出してしまった。
布都に睨まれて慌てて口を閉じるも眦が下がるのは抑えられない。
「夫婦水入らずを邪魔したくなかったから嘘を吐いたと?」
布都は目を逸し、しばらくして頷いた。
やはりと青娥は頷く。どうやら布都は神子と屠自古のデートを邪魔したくなかった様だ。
笑いそうになるのを堪えながら、青娥は納得する。
その嘘を見抜いていたから神子もその好意を察して布都を置いて出かけたのだ。残された布都はナズリンランドに行きたくて行きたくて仕方が無いのに、既に遊んできた神子と屠自古を今更誘うのは悪いし、一緒に行ったとしても自分だけが初めてだというのも悔しい、かと言って他に一緒に行く程親しい友達も居ないし、一人で行くにしても命蓮寺の息が掛かった場所へ遊びに行くのは流石に怖かったのだろう。
理由さえ分かれば、ただただ可愛らしい。
青娥は己の胸に手を当てて恭しく一礼してみせた。
「そういう事であれば、不肖この私めが、太子様には遥かに及びませんでしょうが、布都様とデートして精一杯楽しませて差し上げますわ」
「うむ、期待しておらぬが、よろしく頼むぞ」
青娥はぐっと拳を握って怒りを堪える。
「さ、早速行こうか」
そう言って飛び立とうとする布都を青娥が呼び止める。
「布都様、もしや今から行かれるのですか?」
「ん? 当たり前だ」
「ですが、布都様、一日ずっとここに居たのでしょう?」
「ですがも何も無い。別に我は疲れとらん。とにかく早く行きたいのだ」
そう言って布都はそわそわと足踏みをするが、次の青娥の言葉で固まった。
「ですが、ちょっと臭いですわ」
布都は黙ったままゆっくりと自分の服に顔を近付けて何度か鼻を鳴らすと、大人しく家へと帰っていった。
ランドの入場口で待ち合わせという事で、青娥も一度自宅へ戻る。本物でないとはいえデートというのであれば、気合を入れなければならない。お洒落をするのは相手への礼儀でもあり、臨戦態勢に移る為の儀式でもある。そんな訳で、青娥はあれこれと身支度を整えてから、ランドの入場口へと急いで向かった。鏡を前にして、必要以上に緩む頬を引き締めるのに大分時間を取られてしまったので、遅刻しかかっていた。
妖怪の山をのぼると、広い駐車場の向こうにランドの入り口が見えた。幻想郷は車が走っていないので、当然駐車場はがら空きである。守矢神社の巫女が言うには、中のアトラクションより駐車場の方が再現度が高いとか。千葉のあれに視察へ行った命蓮寺の面面が、あまりにも広い駐車場とそこを行き交う車達の壮大さに息を呑み、ここがあの有名なランドかと借りていたカメラのフィルムを駐車場の時点でほとんど使い切ってしまったと聞いている。
混雑している様子は無かった。入り口には人影がほんの僅かに見えるだけだった。何の規制も無かった頃や入場制限をし始めた頃は随分と混乱があった様だが、予約制に切り替えた事が見事に功を奏し、異常な混雑は収まったし、プレミアム感が乗って箔もついた。
入り口に布都が見える。遠目からでも一目で布都と分かるいつもの布都だ。あまりにも普段通りの姿なので、思わず脱力しそうになった。例えデートであってもお洒落なんかする気は無いらしい。こっちは散散身支度を整えてきたのにと口惜しくなる。
とはいえ、過剰な落胆はしない。その性格から自分と出掛けるのに身なりなんて整えてくる訳が無いと分かっていた。ほんの少しだけ、遊園地にデートという事でちょっと期待はしていたが、分かっていた。
問題は別にある。
布都が命蓮寺の連中に囲まれていた。まるでならず者に囲まれる乙女の様に、布都が命蓮寺の連中に壁際まで追い込まれている。
「なあ、謝っときなって」
そっと近寄ってみると、命蓮寺の船乗り幽霊がらしい事を言っていた。
「マジで謝りなって。悪い事言わないからさ」と命蓮寺の正体不明が言う。
布都様何したの? と青娥がはらはらしていると、囲まれていた布都が青娥に気が付いて手を挙げた。
「おお、青娥殿。随分遅かったな。今こやつ等を焼滅させるからちょっと待って居れ」と凄い晴れかな笑顔でマッチに火を付けた。途端に命蓮寺の連中がきーきーと叫びだす。
この子に怖い者は無いのだろうかと布都を見つめていると、背後から妙に朗らかな声が聞こえてきた。
「あら、あなた、この子の関係者ですか?」
振り返ると命蓮寺の白蓮がにこやかな笑顔で立っていた。その笑顔を見た瞬間、青娥はぞっとして動けなくなる。凍り付いた青娥の横を通って、白蓮は布都の前へと進み出る。
命蓮寺の虎を捕らえてマッチで燃やそうとしていた布都が、近付いて来た白蓮に気が付いた。捕まえていた虎の髪の毛を放し、白蓮の事を見上げる。
白蓮と布都の邂逅を傍で見つめながら青娥は胸を押さえていた。自分の感情が信じられなかった。今自分は白蓮に恐れを抱いている。布都が白蓮を怒らせているところなど見慣れているし、白蓮と神子が本気で戦っている場面も見た事がある。そんな時であっても全く恐れを覚えなかったのに、今、白蓮を前にして体が竦んでいる。何か分からないが危険を感じて仕方がなかった。
酷く嫌な予感だ。
布都様、ここは穏便に。
胸を押さえながら青娥は祈る。人生には決して逆らってはならない流れが存在する。今がその時だ。今の白蓮に逆らえば恐ろしい事になる。だから、布都様、どうかそのマッチを収めて穏便に。
青娥の祈りが通じたのか、布都は火のついたマッチを落とした。青娥が安堵して息を吐いた瞬間、布都があろう事か服の中から小型の松明を取り出して地面に擦り火を付けた。
「来たな、仇敵! 現れると思っていたぞ! ここは貴様等の庭だからな」
布都様ぁ!
青娥が心の中で悲鳴を上げていると、布都は松明を掲げ、持っていない方の手を前に突き出してポーズを取った。
「憎き腐れ坊主め! 今日こそ焼滅しここを貴様の墓、ぐっ」
決め台詞の途中で、白蓮の手が布都の喉と松明を掴みあげた。
じたばたと暴れる布都に、白蓮はゆっくりと顔を近づける。
「こんにちは。今日はどうしてここに?」
布都は掴む手を必死で引き剥がそうとしているが、びくともしない様子だった。
「あら? 神子さんと屠自古さんが居らっしゃいませんね? どうしたんですか?」
布都のばたつきが止まる。
白蓮の笑いが強くなる。
「ああ、そう言えば、一昨日いらっしゃってましたわ。このナズリンランドで実に楽しそうに。あらあら、でもおかしいわ。あの時は神子さんと屠自古さんの二人きり。どうして布都さんは居らっしゃらなかったのでしょう?」
布都の目が鋭く細まる。が。その反抗的な態度は白蓮の愉悦を大きくしただけに見えた。
体ではなく、心を攻めている。それも今、一番布都にとって言われたくない言葉で。
布都は反抗的な態度で動揺を隠そうとしているが、実際効いているのは、布都の目に浮かんだ涙を見れば一目瞭然。
それを見て青娥が一歩前に出る。
布都様の心を壊すだなんて、そんな事許さない。
布都様を壊すのは私だ。
青娥が白蓮への怖気を吹き飛ばして割って入ろうとした時、突然横から星に抑えられた。
「待ってくれ」
「放しなさい」
青娥が星を睨みつけたが、星は青娥に抱きついたまま首を横に振った。
「駄目だ。お願いだから白蓮に人殺しをさせないでくれ」
「何を」
「あれが、物部さんを救う唯一の方法なんだ!」
白蓮を見ると、布都を押さえつけて、人の心に染み入る説法の技術を最大限に使って、延延と言葉責めをくらわせていた。布都はもう涙目になって震えている。
あれの何処が救いと言うのか。
再び星を睨むと、星はまた首を横に振った。
「白蓮の怒りは過去最高に達している」
それはさっきの雰囲気から何となく分かる。
「今、白蓮は自分で自分を抑えられない状態なんだ。それを言葉、即ち理性に乗せる事で何とか暴力に転化しないでいる状態なんだ。物部さんをうちの境内みたいにしたくなかったら、お願いだから白蓮をあのままにしておいてくれ!」
「命蓮寺の境内に一体何が? いえ、それより仮にも大僧侶がそこまで怒るとは一体何が」
「物部さんが」
「布都様が?」
「白蓮の大事にしていた鞍作止利作の仏像を燃やしてしまって」
ぶっ、と青娥の唾が星に吹きかかった。
鞍作止利とは飛鳥時代の仏師だ。当時は大変人気のあった人物で、その才能は折り紙付き。作った仏像の中には国宝指定を受けた物もある。それを燃やした? それはもう人類の文化に対する冒涜に相違無い。
「それだけじゃないんだ」
「まだ何か?」
「物部さんが火を付けた仏像を持って乱入してきたのは、丁度白蓮が弟子や檀家に、命の尊さだとか節制だとかを説法をしていた時で」
「それで?」
「物部さんはその欺瞞を暴くと言って」
星の悲しみに満ちた表情に、青娥は背筋が寒くなる。
布都の力は、白蓮や星等力のある者へ向けられれば冗談になるが、それ以外の力弱き者達へ向けられたら、相手を死に至らしめる暴力に変わる。冗談事ではなくなってしまう。
「まさか、その場に居た者達を傷つけたとか?」
「いや、白蓮がお酒やお肉を食べて体重を増やした事を見抜いて暴露したものだから」
「生臭すぎやしません?」
星は涙を拭いながら鼻を啜る。
「まあ、確かに白蓮が悪いけれど、幾らなんでもみんなの前で太ったとか言っちゃうから」
その瞬間、星が横にすっ飛んだ。
青娥が驚いて吹っ飛んだ星を追うと、広い駐車場を何度かバウンドし、ごろごろと転って、最終的に豆粒の様に小さくなる程遠くで動かなくなった。
青娥は反対の、星をふっ飛ばしたと思しき犯人に視線を移す。
右手に闘気を漲らせた白蓮は、目が合うとにっこりと笑って言った。
「三種の浄肉と般若湯は、別腹なのでセーフです」
それだけ言って、白蓮が再び布都への口撃を再開する。
布都が地面にうずくまり最終防衛形態に入っても尚、白蓮が執拗に布都を罵り続けていたが、布都のやった事を考えると、助けに入る気持ちは湧かなかった。確かに自分も公衆の面前でデブと言われれば同じ事をしてしまいそうだから。
やがて白蓮は布都への精神攻撃を止めて、命蓮寺の面面に慰められながら、途中姉さんはスレンダーですよと言った一輪をぶっ飛ばしつつ、何処かへと去っていった。後には涙を流しながらぐすぐすと鼻を啜っている布都が残された。さてどうしたものだろうと、青娥は溜息を吐く。
泣いている子供程面倒な手合は無い。試しに飴を差し出してみたが、何の反応も見せてくれなかった。
これは最早夢の国の力に頼るしか無い。
とりあえずパスポートを買って入り口である隙間を通り入場する。
布都の御機嫌を取れそうな物は無いかと辺りを見回すと、入口近くのカフェが目に入った。評判の甘味処で、ここしかないと判断した青娥は、泣いている布都を宥めつつカフェに入った。
「布都様、ほら美味しそうですよ」
カウンターでメニューを受け取った青娥がカウンターの奥で今正に作られている巨大なパフェを指さした。このカフェを評判たらしめている大人気メニューだ。甘い物に目が無い布都がこれで落ちない訳が無い。案の定、布都はカフェを見た途端に目を輝かせた。そわそわと落ち着かなげに青娥へパフェへと交互に首を振っている。
「そのパフェ二つ」
青娥がパフェを指指して店員にそう告げると、落ち着かなかった布都が上擦った声を出してぴんと直立不動になった。それを横目で見つつ、お金を払う。店員はすぐさまカウンターの向こうで特大のパフェを作り上げていく。布都は、人の顔程もある、和風の、正確に言えば、外の世界のパフェを作ろうとして材料を用意しきれなかったのでぜんざいや小豆等のありあわせで補った、パフェが完成するまで、テーブルで待っていれば良いのに、カウンターから離れず他に目もくれずにじっと待ち続けた。完成したパフェを持って外のテーブルに着く間も、布都は終始落ち着かない。席に着いた布都の前にパフェを置くと脇目も振らずに食べ始めた。
「美味しいですか?」
「うむ」
返事もそこそこに満面の笑みを浮かべながら食べ続けている布都に、青娥は笑みを見せる。
噂の名物スイーツは随分と効果があった様だ。山盛りのパフェが見る間に崩れて無くなっていく。一心不乱にパフェを掻き込み続ける布都はあまりにも幸せそうで無防備で、今ならどんな言葉にも騙されてくれそうだった。
何か布都を籠絡出来る言葉は無いか考えていると、布都の背後から声が聞こえてきた。
「あら、それは一昨日神子さんも食べてらっしゃいましたね。屠自古さんと二人仲睦まじく。二人の後追いで食べるパフェは美味しいですか?」
笑顔の白蓮が布都に覆い被さる様にしてパフェを覗き込みながら口元に手を当てて笑っていた。驚いた布都が振り返りざまに立ち上がる。その拍子に、布都の頭頂が白蓮の顎に突き当たって、白蓮は声も無く背後に倒れた。途端に何処からか命蓮寺の連中がやってきて、白蓮を引っ張っていく。白蓮が居なくると、布都はまたパフェを食べ直していたが、さっきまでの嬉しそうな顔が一転、俯いて寂しそうな顔になっていた。それでもパフェは美味しいと見えて、休む事無く口に運んでいる。
「布都様」
「美味しいのだ。誰がいつ食べようと」
「ええ、間違いありませんわ」
だがパフェも有限で、やがて底が見えてくると、布都の掻き込むペースが目に見えて落ちていった。残念そうな顔をしながら、器にこびりついた部分を集めつつ、少しずつ口に運んでいる。少しでも長くパフェを味わっていたいといういじましい思いがありありと見える。そんな布都を見て、青娥は好機到来と、自分のパフェを布都の方へ寄せた。
「布都様」
不思議そうな顔をする布都に、青娥はとびっきりの笑顔を見せる。
「これ、私の分ですが、良かったらあげますよ」
これぞパフェを注文していた時から考えていた青娥必勝の策。あれだけ夢中になっていたパフェが、無くなる直前で更にもう一つ与えられたのだ。きっと布都は遭難の途中で桃源郷でも見つけた様な喜びを覚えるに違いない。丁度神子との壁や孤独感を感じているのだ。傍で優しくしてくれた自分に落ちない訳が無い。
布都の喜ぶ姿を期待している青娥の前で、布都は眉根を寄せて渋面を作った。
「何じゃ。人の食べ残し等、要らんよ」
「は?」
「育ちの悪い貴様とは違うのだ」
そう言って、最後の一掬いを食べた布都は満足そうにお腹を叩いた。十分満足したという顔であった。
負けた?
青娥が忘我の心地で、布都を見る。
布都は嬉しそうにお腹を擦った後に、青娥のパフェを見て言った。
「早く食べよ。遊ぶ時間が減る」
負けた。
青娥はわなわなと全身を震わせながら、ゆっくりとスプーンを取ってパフェと向かい合った。
正直、最初から食べる気が無かった。布都にあげる為に頼んだものだ。自分で人の顔程もある巨大なパフェを食べられるとは思っていない。青娥には目の前の山盛りのパフェが、山盛りの糖分と脂質の塊にしか見えない。どう考えても食べられる代物ではない。勿体無いが残してしまおうと思ってスプーンを置こうとした時、布都が言った。
「まさか残す気ではあるまい? 折角作ってもらった物を残す等」
「食べますよ! 食べますったら!」
青娥はもうやけになってスプーンでパフェを掬い口へ運んだ。機械的にパフェを掬い咀嚼する。頭の中で増え続けるカロリーカウンターを振り払いながら、必死でパフェと格闘し続け、ようやく食べ終わった青娥は燃え尽きて椅子にしなだれかかった。
青娥は口元に手を当てて吐き気を堪えていたが、それに気が付きもしない布都は、椅子から立ち上がって元気良く胸を張る。
「随分時間をくってしまった。さあ、早く行くぞ」
「あの、布都様」
「何じゃ?」
少し休ませてもらおうと声を掛けたのだが、布都の満面の笑みを返されると、その晴れやかさに眩んで、待ってくれとは言えなかった。
「いえ、行きましょう」
「うむ」
布都が元気に進んでいく。だがそこに空元気が見え隠れするのは否めない。多分白蓮に言われた事が尾を引いているのだろう。それでもパフェのお陰で空元気が出せる位には、元気になってくれたのだから良いかと、前向きに考えながら青娥がその後ろを歩いていると、布都が振り返って言った。
「で、次は何処に行けば良いんだ?」
青娥と布都は近くの従業員からマップをもらい、しばらく睨めっこしてから、まずはジェットコースターに乗る事に決めた。青娥としては、何となく布都は絶叫系が好きそうで、風を切るコースターの心地良さを感じれば、さっきの件で気落ちした事を忘れられるかもしれないし、何より吊り橋効果でこちらに靡いてくれないかと考えていた。
布都はジェットコースターという未知の存在がどんなものなのか期待しながら浮かれ気味に凄い速度で歩いている。その駆け足の様な歩みに、苦労しながら小走りでついていくと、しばらくして目的の威容が見えてきた。妖怪の山を模したミニチュアの中を凄まじい速度で駆け回るコースターが金属の軋みを高鳴らしていた。搭乗者達が楽しそうな悲鳴を上げている。
布都を見ると、右へ左へ上へ下へと走るコースターを目を輝かせながら追っていた。
「何だこれは。ただあの乗り物に乗って走り回るだけか?」
如何にも興味が無い演技をしているらしいが、その歩みはまるで飛び跳ねる様だった。
「大変な速度で走り回りますから、風が心地良くて楽しいですよ」
「ふん、そうか。まあ、本気を出せば我もあれ位の速度で飛び回れるが」
布都が前も見ずにコースターを見上げながら入り口へ向かう。上を向いたままなので、危なっかしい足取りでふらつくから、青娥はその手を取って引っ張りながら入り口へと向かった。
入り口に列は無く、すぐにでも乗れそうだった。並ぶ事を前提に作られているので搭乗までの道程も凝っている。夢の国には遥かに及ばないと聞いていたが、意外にしっかりと作られていて、質感もまるで本物の様だ。贋作とはいえ、夢の世界に入り込んだ様な不思議な気分になる。青娥はそれを心地良く感じながら歩いていたのだが、はっとして布都が居ない事に気がついた。慌てて駆け戻ると、ゲートで従業員と揉めていた。
「布都様!」
今度は何をしたんだと駆け寄ると布都が仏頂面を向けてくる。
「おお、青娥殿。こやつが聞かん坊でな、我を中に入れないばかりか、この悪趣味な絵の傍に立たせようとしているのだ」
悪趣味な絵?
不思議に思って布都の指さした板を見ると、デフォルメされた命蓮寺の鼠が描かれていた。頭頂部には線が引かれていて、背丈が満たない者はコースターに乗れないという謝罪文が描かれている。
ジェットコースターに乗る為の身長制限だ。
「布都様、これはコースターに乗るのに必要な事でして」
「成程。ではこうしよう」
もしかして理解してくれたのかなと笑顔を向けると、布都がマッチを取り出したので慌てて止めた。
「何をする!」
暴れる布都を押さえつけて、この絵と身長を比べる事がコースターに乗るのに必要なのだと繰り返し繰り返し、理解してくれるまで何度も説明する。
「ふむ、仕方が無い」
分かってくれて何よりだ。
疲れた。五分も説明させられた。
「我がこんな鼠なんぞよりも小さい事等あり得る訳が無いというに。ほれ、早く比べよ」
布都は鼠の絵の前で自信満満に腕を組み、青娥と従業員へ視線を送った。
「さあ、これで良いな?」
布都が身を翻して入り口へ向かおうとするのを従業員が慌てて止めた、
「何じゃ? 我は」
「すみませんが、もう一度」
布都は一瞬目を見開き、それから青娥へと目をくれた。不穏な想像をしたのだろう。目には不安がありありと浮かんでいる。布都が絵の前に立ったのは一瞬だったので、青娥には、布都と絵の中の鼠、どちらの背が高かったのかは判別出来なかった。同じ位の高さに見えた。
布都がさっきまでの尊大な態度とは打って変わって恐る恐るといった足取りで絵の前に立ち、描かれた鼠に何度か視線を送ってから、手の先までぴんと伸ばし直立不動の姿勢になった。
「どうだ?」
布都が言った。
従業員は恐恐と青娥に目配せをした。それを受けた青娥はしばらく布都と絵を見比べた。鼠の方が僅かばかり高い。ほんの少しの差だが確かに布都の背が下回っている。どうやって乗れない事を伝えようか迷っていると、布都の背がするすると伸びた。そうして鼠の背を超える。青娥が布都の足元を見ると、爪先立ちをして背を稼いでいた。あまりにも健気だ。布都を見れば少し涙目になっている。
青娥は溜息を吐いてから従業員に言った。
「さ、見ての通り布都様の背は足りている事ですし」
布都の顔が、一瞬明るくなった。
「駄目です」
従業員の拒絶に、一転、目に見えて落胆した。自分の頭に手を載せ、絵に手の角を押し付けたままそっと頭を離して、自分の背と鼠の背丈を確認する。
「我の方がこの鼠よりも勝っているぞ! 貴様、やはり命蓮寺の回し者か!」
「いえ、踵が離れていては駄目なので」
「そんな事、何処にも書いていない!」
従業員が困り切った顔で、再び青娥へと目配せをしてきた。青娥は溜息を吐く。布都には可哀想だがルールはルールだ。
「布都様」
「青娥殿! 我の方が間違い無く勝っているぞ! そうであろう!」
布都が必死で爪先立ちをしつつ絵と自分の背丈を比べながら、涙を浮かべている。
しかし幾ら訴えても変えられない事がある。世の中全てが思い通りに行く訳ではない。個を超えたところに社会があり、そしてその社会はルールによって守られている。非情ではあるがルールが定められている以上──
「青娥殿。何故黙っているのじゃ。早くそいつに教えてやってくれ。我の背は、ほれ、こうして高いじゃろう?」
遂にはぴょんぴょんと飛び始めた。
ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、涙目で青娥に訴えかけてくる。
「布都様」
「青娥殿」
青娥は口元を抑えながら、涙目の布都と視線を合わせた。
「確かに布都様の背が勝っています」
「本当か!」
従業員が目を剥いた。
「ちょっと、駄目ですよ」
「どうしてですか?」
「いえ、ですから、ちゃんと踵をついて」
「その程度の差なら問題無いでしょう? どんな物でも余裕を見て作られているのですし」
「まあ、それはそうですけどね。でも」
応じようとしない従業員に向けて、青娥がとびっきりの笑顔を見せた。
「良いじゃ無いですか。ね?」
必殺の笑顔である。これで大抵の男は落ちる。女も落ちる。落ちない奴は馬鹿か不能か天才のどれかである。
従業員は真っ当に分類される人間であったらしく、顔を赤くして口ごもった後に帽子を被り直しながら俯いた。
「分かりました。負けましたよ。どうぞ」
「では」
行きましょうと言って布都の手を引いて中へと進む。
「随分と時間をとられた」
「ええ。でも無事に入れて良かったですわ」
「うむ、感謝するぞ」
感謝という言葉に胸が暖かくなる。誇らしくなる。
そう、これが本来の私。笑顔で相手を落とし、意のままに振る舞う。それが私。
だというのに。
どうしてこの小娘は。
青娥は思わず歯ぎしりをしていた自分に気が付いて、慌てて首を横に振り、怒りを振り払った。布都を籠絡出来無いのはただ自分に力が無いだけだ。相手を落とせないからと言って怒る事は、自分の小ささを曝け出す事にしかならない。
青娥は自分を落ち着ける為に辺りを見渡した。歩む廊下は良く出来ている。海外の御伽噺の世界をモチーフにした背景に可愛らしいぬいぐるみ達が飾られ、愛らしい動きをしている。素敵な空間であった。けれど青娥の視線はすぐにそれ等から興味を失い、別のものを見定める。捉えたのは隣に居る布都の様子。隣に青娥が居るのではしゃぎたくともはしゃげないので葛藤しているらしい。そんな布都の様をじっと見つめていると、青娥の背筋にぞくぞくと快楽が流れた。
布都に驚かされたり心配させられたりし続けていた為に、見失っていたが、ようやく自分の本調子が戻ってきた。それを実感し、青娥は笑う。
「如何した、青娥殿」
突然布都に声を掛けられて、青娥ははっとして涎を拭いた。
「いえ何も」
「そうか? 随分恐ろしい顔をしていたが」
布都が幾分怯えを含んだ声でそう言った。
いけないと青娥は自分を律する。本調子を越えて、危ない領域に入り込んでいた。何だか布都とデートをしているという雰囲気にあてられて自制心を失っている様だ。青娥は咄嗟に頭を巡らせて言い訳を探る。折角良い雰囲気になっている気がしないでもないのに、ここで台無しにしてはならない。
「いえ、ただ、このアトラクションはとても怖いと評判で」
「何? 怯えているのか?」
「ええ、少し」
青娥がしおらしく体を竦めると、布都は驚いた表情で顔を覗きこんできた。
「信じられん。あの邪悪なる青娥殿が?」
そこでその形容詞は無いでしょうがという心の中のつっこみをおくびにも出さず、青娥は弱弱しげに額に手を当てる。
「私、こういうのはちょっと」
「ならば何故」
布都は一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに気が付いた様だ。相手の事情を考えない事が多いとはいえ、相手の事を全く考えない訳ではない。
布都は眉根を寄せ苦しげに辺りを見回してから、歯痛を堪える様な顔で言った。
「そういう事なら、わざわざ乗る必要は無い。すぐに出よう」
そんな布都の言葉を青娥は不思議に思う。妙に優しい言葉だ。てっきり、ジェットコースターに乗るのは決定していて、無理矢理連れられるか、置き去りにされるかの二者択一だと思っていた。
「ですが、楽しみにしていらっしゃったでしょう? 私に構わず」
布都の瞳が揺れた。けれどそれも一瞬で、きっと睨みつけてくる。
「ここには他にも多くの楽しいものがあるのだろう? わざわざこれに拘る必要は無い。デートというのは、二人が楽しまなければならんのだ」
「あ、ちょっと」
「さ、行くぞ」
やだ、今、私凄い思われてる!
力強く引っ張られながら青娥はその事実に思わず眩めいた。
理由は分からないが、かつて無い程、布都との距離が縮まっている。
これを逃す手は無い。
そう考えた青娥は、布都の手を引いて、立ち止まらせた。
「お待ち下さい、布都様。勘違いしないで下さいな」
「勘違い?」
布都が怪訝な顔をして振り返る。
「ええ、怖いからといって、乗りたくない訳ではありません。私だって本当は楽しみたいのです」
「つまり?」
「つまり今までは忌避してきましたが、これを機会に乗ってみようかなと」
その瞬間、布都の表情がぱっと華やいだ。
「本当か!」
「ええ、ですが、一人では怖いので」
「そうか! ならば仕方無い! 我が一緒に乗ってやるぞ!」
急に元気になった布都は、青娥の手を掴んだまま反転して、奥へと進みだした。軽い足取りで進みながら、布都は言う。
「怖いのなら、我の手をしっかりと握っておれ」
その凛凛しい表情が、青娥には何だか懐かしく思えて、おだてるのでも皮肉るのでもなく、純粋な気持ちで言葉が口を衝いた。
「布都様は、勇敢なんですね」
「当然だ」
褒められて気を良くしたらしく、布都は胸を張って前へ歩く。
「怖かったら目を瞑っていれば良い。ちゃんと我が手を引っ張って出口まで連れて行ってやろう。我に任せろ」
ちょっとジェットコースターを勘違いしている様だったけれど、前を歩いて力強く手を引っ張ってくれる布都を、青娥は本当に頼もしく思った。
「安心せい。勇敢な我がついているぞ!」
布都が振り返る。熱気で赤く染まった頬を吊り上げ、満面の笑みを浮かべていた。
「どんなものが来ようと恐るるに足らず!」
ジェットコースターが登っていく。乗っている者達に恐怖を与えようと、かたりかたりと歯車が音を立て、きちりきちりと金属が軋み唸る。
「布都様」
青娥は心の底から心配で、隣の布都を見つめた。布都はその視線に気が付いて、笑みを見せる。
「大丈夫だ」
「ですが」
青娥は布都の手を握りしめる。布都が思い出した様に、青娥以上の力で握り返してきた。
「按ずるな。大丈夫だ」
布都の力強い笑みに、青娥はこれ以上の心配は野暮だろうと頭を振った。
「そうですか。でしたら、信じます」
コースターが最高点に達した。かたりかたりと恐怖心を煽りながら高度を稼いできたコースターが、恐怖心を解放しようとしている。
眺め回せば園内を一望出来る最高の場所。ランドの周りは青で埋め尽くされている。空には晴天が広がっている。周りは海で囲まれている。園の境界から先は何処まで見渡しても青さしか見えてこない。例え作られた景色とはいえ、思わずはっとしてしまう程美しい光景だった。
そして前を向けば、これから自分達の落ちる奈落の行く末が見える。最高の絶景に僅かな恐怖のスパイス。そして隣には。
コースターが最後の恐怖心を煽る為に、一度停止する。後は落ちるだけ。乗客達の恐怖が肌を通して伝わってくる。
「青娥殿、怖くない怖くないぞ」
「布都様」
ああ、と青娥は感嘆の息を吐く。
布都が恐怖に震えているのが握る手を通して直に伝わってくる。
それがただただ愛おしい。
これは最高の料理だなと舌なめずりをしつつ、青娥は布都の震える手を握りながらそっと指を這わせて告げた。
自分でも興奮しているのが、分かった。
「一緒に堕ちましょう」
その答えを聞く前に、コースターが落下を開始した。
凄まじい悲鳴が鼓膜をつんざいた。
「このパンツ一つ」
顔を赤くしながら青娥はレジカウンターにパンツを差し出した。
店員はそれを受け取り笑顔で会計を行う。
会計を行う店員の手から、パンツに描かれた可愛らしい鼠の絵が所在なげに覗いているのが見えて、青娥は言い知れぬ恥ずかしさを覚える。
告げられた金額ぴったりを店員に渡した時、ふと店員があざ笑った様に見えた。
その瞬間、青娥は店員を一睨みし震え上がらせる。
自分が馬鹿にされるのは許せない。
自分の物が馬鹿にされるのも同じ位許せない。
震える手で差し出されたパンツを受け取り、外へ出ると隣接したトイレに入った。居並ぶ扉の内、一つだけ閉まっている扉の前に立ってノックする。
「布都様、戻りましたよ」
扉を開けると、便座に座って泣きじゃくっている布都が現れた。
「布都様、もう泣くのは止して下さい」
「だが、こんな」
青娥は布都にパンツを渡し、布都の足元に落ちたそれを拾い上げて、売店で貰ったレジ袋に入れた。きつく結んでごみ箱へ捨てる。
「あれは何だ? 新手の拷問か? 畜生、命蓮寺め。この様な罠を」
マッチに火を付けた布都の手を青娥が抑える。
「布都様、落ち着いて下さい。マッチに火をつけるのは止して」
マッチの火を握り消すと、布都の手を引いて立ち上がらせようとする。
「さ、いつまでもここに居たって仕方ありません。行きましょう」
布都は腰を浮かせかけたが、強引に青娥の手を振り払い、再び便座に座った。
「布都様?」
「行くが良い。我はもうしばらくここに居る」
「あ、もしかして、催されました? でしたら、外で待っていますね」
はっとした様子で口元に手を当てた青娥を、布都が睨み上げる。
「違う!」
項垂れて、もう一度、早く行けと小さく呟いた。
無理も無い事かもしれないが、存外に落胆している布都に、青娥は溜息を吐く。
「布都様、あれは誰でも怖いものですわ。あれに乗った者は皆漏らしているに違いありません。仕方の無い事です。恥ずかしいのは分かりますが、気にする事はありません。行きましょう?」
青娥は何も考えずに励ましの言葉を吐いた。どうせ漏らした恥ずかしさ等、すぐに忘れて気を取り直すだろうと考えていた。青娥からすれば、布都の今までの奇行の方が余程恥ずかしい事だったからだ。
だが布都は思った以上に落ち込んでいて、青娥の励ましを聞いても立ち上がろうとはしなかった。
「ならば何故青娥殿は無事だったのだ?」
「それは」
全く怖くなかったからだが、素直にそういう訳にもいかず、一瞬言い淀む。
その一瞬が、布都の自尊心を傷付けてしまったらしい。悲しげな顔をしたかと思うと、不機嫌そうにそっぽを向いた。
「もう我は要らぬだろう。一人で行けば良かろう」
完全に拗ねてしまった様だ。こうなると説得するのは面倒臭い。何を言っても卑屈に捉えられて、益益泥沼に入り込むのは目に見えていた。
青娥は落ち込んだ布都の頭頂をじっと眺めながら思案し、結局これしか無いかと決断する。
「布都様?」
「なんじゃ? 早く行け」
「嫌です!」
そうして布都の体に抱きついた。
勢い余って態勢を崩した布都は背後の給水タンクに体をぶつけた。布都は痛みに顔をしかめながら青娥を引き離そうとするが、膂力が違う。青娥は決して布都から離れようとしない。
「こら、何をする! 離せ!」
「嫌です! 一緒に行くって言ってくれるまで放しません!」
「何故じゃ! こんな怖がりな我が居ても邪魔であろう! だったら一人で行った方が」
「私は布都様と一緒に遊びたいんです!」
暴れていた布都が止まる。ゆっくりと顔をずらし、青娥と目を会わせて尋ねる。
「何故じゃ」
「私がそうしたいからです。さっきのジェットコースターだって、布都様が居なければ私は乗れませんでした。私がちびらなかったのは布都様が傍に居てくれたからです。布都様と一緒だからこそ私はここで楽しめるんです!」
「何故じゃ」
「ですから」
「何故お前は我に構う」
「はあ?」
今は確かに青娥が構っているが、大抵の場合近寄ってくるのは布都からである。今日だって元はと言えば、布都がデートに誘ったのだ。
「別に我の誘い等断れば良い。それなのに何故受け入れるのだ?」
「何故? 誘われたのなら嬉しいじゃありませんか。断る理由はありません」
布都が拳を握りしめる。新品のパンツを握りしめる。
「貴様は我と同じだよ。だから分かる。お前はそんな、曖昧な理由で人を受け入れたりしない」
それを聞いて、青娥は思わず笑みを浮かべる。
「布都様は特別なのです。だから」
「ふざけるな。もしも我が特別であったとしても、それは尸解仙となる前だけだ。かつて太子様の腹心を努め、謀略を担っていたあの頃の我であったから貴様も近付いてきたのだろう」
ああ、と青娥は心の中で嘆息する。
ああ、どうして。
「だが今の、この幻想郷では最早無用の長物。貴様が我に関わる理由等無い筈だ」
どうして、誰かが弱点を曝け出す瞬間はこんなにも美しく愉快なのだろう。
青娥は背筋に行き渡った愉悦を味わいながら、朗らかな笑みを浮かべる。
「知りたいですか?」
当然だと布都が頷く。
「では行きましょう!」
そう言って、青娥は布都を立たせた。困惑する布都に顔を近付け妖艶な笑みを浮かべる。
「今日一日、私と一緒にここで楽しみ尽くしましょう。そうしたら理由を教えてあげますわ」
布都が弱みを曝け出す様を見るのは楽しいが、ここでこれ以上続けるわけにはいかない。
こんなトイレの個室では風情が無い。
折角楽しめそうなのだから、もっと素敵な場所で楽しまなければ損だ。
パンツを履かせて外へ出る。遊びたい乗り物はあるかと聞いたが、どれがどんな乗り物なのかも分からない布都には答え様が無い。それを分かった上で聞いた青娥は、出来るだけ布都が楽しめそうなアトラクションを選んで布都に勧めた。
青娥の巧みな誘導で園内を回り、布都は殊更それを楽しんでいた。必要以上に仰々しく。何か可愛い物があれば目を輝かせ、美しければ驚嘆し、驚けば体全体でそれを表現する。青娥から理由を聞く為に、痛痛しい程大仰に楽しんでいる。布都にとって楽しみ尽くすとは、正の感情を迸らせる事の様だ。
そんな布都の様子に快感を覚えつつ、青娥はかつての布都を思い出していた。女ながら、いや女であるからこそ政界での謀略を一手に引き受け、神子に与さぬ者を肉親であろうと容赦無く破滅させていった稀代の策士。ありとあらゆる手を使って相手を陥れ、それを成す為に布都は己を捨てていた。人を陥れる者は人に陥れられる。それが分かっていたから、布都は決して隙を見せなかった。隙を見せないという事は、個性を無くす事だ。笑う事が良しとされる場面では笑い、泣くべきとされる場面では泣く。常に周囲へ注意を怠らず、その時最善とされる反応を周囲に見せつけ続ける。初対面の青娥を邪険に扱ったのも、神子の腹心である自分がそうする事で、道教と神子の密事を悟られぬ様にする為。だと青娥は信じたい。決して自分だから嫌われた訳ではない筈だ。
そんな情動表現ばかりしていたからなのか、あるいは元からそういう人間だったのかは分からないが、布都は政界の謀から外れた日常生活においては酷く子供っぽい。あるいはそれすらも相手を油断させる為のキャラクターであったのかもしれないが、嘘も吐き続ければ真実になるという言葉の通り、今では芯から子供っぽい性格をしている。
水路を巡り、人形達の歌う様を眺めながら、喜びはしゃいでいる姿は子供の様にしか見えない。
性格はそのまま人間関係に繋がる。
布都は人間関係を作るのがあまり上手くない。飛鳥の頃は、民は守る為のもの。神子は崇める対象。それ以外は全て敵。だから友達はおろか、相談相手すら居なかった。この幻想郷では刺がとれて、神子や屠自古に人として心を許している様に見えるし、何人かとは世間話を酌み交わす位の関係は作れている様だが、それでも根本の部分は変わらない。未だに相談相手と呼べる仲にまでは発展していない様だ。
心を許している神子と屠自古が夫婦同士という事もあって特別仲睦まじいので、今回の様に疎外感を覚えて布都が孤立する事は多々ある。そうすると、もう相談出来る者は無く、例え嫌いな相手を前にしても寂しくて寄ってきている。
まあ自分に寄ってくる理由はそんなところだろうと、青娥は推測している。
布都は青娥と自分は同じだと言ったが、青娥はそう思っていない。だが似ている部分はある。だからこそ布都に惹かれるのだろう。勿論容姿や性格が好みなのもあるけれど。
自分は布都に惹かれている。
今日という日の間に、それを度度意識させられた。
今までこの感情は他の者達に向けるのと同じ様に、ただ己の愉悦に根ざしたものだと思っていたけれど、そうでないのだと気が付いた。
思い返してみれば、初めて会った時、そして長い時を経て再会した時に、期待をしていたからこそ落胆したのだ。
例えどう取り繕おうと、今でも思い出せる位に心に焼きついている。
その感情が言葉の上で何と言うのかはまだ分からないけれど。
楽しんでいる布都を見つめながら青娥は笑う。
誰であろうと誰かの弱点が露呈するのは、美しく愉快なものだ。
二人のデートはそのまま続き、日が暮れ、夜になった。そろそろナイトパレードが始まる時間である。
「青娥殿! 何やら人が集まっておるぞ!」
走りだそうとした布都の首根っこを青娥が掴むと、布都はカエルの様に呻き声を上げた。
「何をする、青娥殿!」
咳き込みながら睨んでくる布都の手を握り、その場から連れ出す。
「もっと眺めの良い場所があります。あそこじゃ前の奴等が邪魔で見えないでしょう?」
「おお! そんな場所があるのか! 早う連れて行け!」
青娥はディナー予約を取っておいたお店に入った。通された二階のバルコニー席は正にナイトパレードを見る為に作られたもので、既に居た別の客達は陽気に盛り上がりながらパレードを今か今かと待っている。
席に座った青娥はソムリエが勧めたワインを適当に頼み、向かいに座った布都の様子を伺う。布都は満天の星空の下の夜景に目を輝かせていた。
「素晴らしい景色だな」
「ええ。ですが、お楽しみはこれからですわ。すぐそこを綺羅びやかなパレードが通ります。それはそれは美しいと聞いています」
「そうか! それは愉しみだ!」
布都がそわそわと落ち着かなげに体を揺すった。青娥は微笑みを浮かべ、やってきたワインを持ち上げて布都に差し出す。グラスを打ち合わせ、一口含んで飲み下してから、青娥はゆっくりと布都の顔色を伺いつつ、トイレで約束していた本題を切り出した。
「さて、そろそろお教えしましょうか」
布都はずっと気になっていた事だろう。その為に、今日はずっと楽しんでいたのだから。
「何がじゃ?」
布都が心底不思議そうな表情をした。
青娥は動揺で動きが止まる。
「そなたに教えてもらう事等何も無いわ」
布都が憎たらしい顔をして嘲る様に鼻で笑う。
頬をひくつかせた青娥はゆっくりと両手を突き出し、布都の両頬を指で摘んで、思いっきり捻った。
布都の悲鳴が上がる。
布都が痛みに悶絶するのをじっくりと眺め、怒りと愉悦に頬を上気させる。
「下らない事を言うのはこの口ですか、布都様?」
「場を和ませようとしただけだろう。冗談の分からん奴だ」
両頬に手を当てながら、布都が涙を浮かべてそう抗議した。
質の悪い冗談を言う方が悪い。
青娥は咳払いをしてから、もう一度言った。
「さて、そろそろお教えしましょうか。何故私が布都様に関わろうとするのか」
「うむ。何故じゃ」
布都が真剣な顔で身を乗り出す。
青娥は身をくねらせ、唇に指を這わせる。
「それは私が布都様を愛しているからですわ」
「そうか。で、本当は?」
布都がにべもなく切って捨てた。
もうちょっとうろたえてくれると思っていたのに予想外の返答をされて、青娥は言葉が続かない。
「青娥殿、我は真剣なのだ。茶化さないでもらおう」
「いや、布都様だってさっき冗談を」
「知らん」
苛立った青娥が再び頬を抓ろうとすると、布都は大仰に後ろへ下がる。
だがすぐに戻ってきて、真剣な顔をして言った。
「青娥殿、そなたは我と同じだ。だから分かる。そんな理由で人に構ったりなどしない。我等が尊ぶのは利益のみ。そうであろう?」
「いいえ。少なくとも私は人と人との真心込めた付き合いを重んじて」
「嘘を吐け」
布都はグラスに口をつける。
「そなたは歪んでいる。悪だ。それが真っ当な理由で人の繋がりを望む訳が無い。そうであろう」
その低く唸る様な告発に、青娥は咄嗟に何と返していいのか分からなかった。
それでも何か言わなければと思い、口を開く。
「布都様」
「待て、青娥殿」
料理が運ばれてきた。
布都は青娥を無視して料理に向かい、美味しそうに頬を緩めながら平らげる。
そうして再び真面目な顔付きになってテーブルに肘を突いた。
「そなたは悪だ。そうであろう」
「いや、そんな凄まれても」
完全に緊張が弛緩した。
仕方無く青娥も料理を食べる。何だか味がしない。
青娥が食べ終わるのを見計らって、布都は話を続ける。
「かつてなら分かる。あの頃の我には確かに力があった。殆どは他人から与えられたものであったが、確かに青娥殿が欲するものを持っていた。だからかつて我に取り入ろうとしていたのは分かる。だが何故今もまだ付き合ってくれるのだ? それが分からん」
「今の布都様には力が無いと? 別に力を失った訳では無いでしょう?」
「だがこの幻想郷で役立つ力は無い。私には、今、何も」
「そんな事は」
「待て、青娥殿」
料理が運ばれてきた。
「あの、布都様、出来ればもう少し真面目に」
布都は青娥を無視して、料理に舌鼓を打つ。
青娥も仕方無く料理を食べた。
やっぱり味がしない。緊張しているのだろうかと己を分析する。緊張しているつもりは無かったけれど。
布都が再び真面目な顔になる。
「青娥殿、教えてくれ」
改まった布都の態度に、弛緩していた青娥が背筋を伸ばす。
「何でしょう? 何か重要な事ですか?」
「どうしたら胸が大きくなる?」
青娥は一瞬、その言葉の意味が理解出来なかった。理解した後も、苦笑いを返す事しか出来無い。
「あの、もうちょっと真面目に」
「真剣に聞いておる。どうしたらおっぱいが大きくなる」
「どうしたらって、牛乳とか筋肉つけたりとか揉んだりとか」
「そういうのは粗方やり尽くした」
ふむ、と青娥は思案する。少なくとも布都に関して言えば、胸を大きくするのはそう難しい事ではない。
「成長すれば良いのでは? 今は子供の姿をしているから小さいのでしょう? あの頃、飛鳥の時代は、他人と比べても大きかったじゃないですか。だから今の体を成長させるなり、大人の体に作り変えるなりすれば良いのでは?」
「我の話では無いのだ」
そうなると、一人しか居ない。
「太子様ですか? そこまで小さいとは」
「この前命蓮寺の生臭坊主と比べられて落ち込んでいらっしゃったのだ」
「く、下らない」
阿呆らしすぎて力が抜ける。
もう少し真面目な話をしたいのに。
だが布都は肩肘を張って、心底落ち込んだ顔をしていた。青娥はそれを不思議に思う。
「どうしてそんな下らない事を」
「そうだ。下らない。だが今の私ではそんな下らない事のお役に立つ事すら出来ないのだ」
そう繋がる訳ねと得心する。
平和になった幻想郷では、飛鳥時代に必要だった権謀術数や過剰な暴力は必要無い。自然、神子の悩みは小さくまとまったものばかりになる。それに対して何も出来無いのが歯痒いのだろう。必要なのは細やかな気配りであり、布都が最も苦手とする分野だ。勿論、神子だって国をどうにかしようという野望は捨てていないだろうが、それはそれで、今度はあまりにも大きすぎて、こんな小さな幻想郷の中でどうにか出来る問題では無い。
「我はこの幻想郷では役立たず。太子様に必要とされない人材なのだ。それなのにどうして青娥殿は我に構う」
「必要とされていないという事は無いでしょう。ほら、スキーを教えたり、蛍を持って行ったりしたじゃありませんか」
「結局スキーを教える程上達するまでには至らなんだ。蛍も三日で動かなくなった」
「いや、えーっと、でも太子様は確かに布都様の事を大事にしていらっしゃいますわ。居なくなったらきっと悲しむと思いますけど」
「確かに悲しんでいただけるだろう。だがそれは太子様が慈悲深いからだ。我が必要だからではない」
布都が自嘲する。
「そんな事は」
「では青娥殿、もしも初めから我が居らず、幻想郷に太子様と屠自古二人で復活したとして、太子様は何か困ると思うか?」
何も困らない。
神子は本質的に他人を必要としない。居るから使う。居なければ自分でやる。それが出来るだけの力を持っている。
「この幻想郷は平和じゃ。飢餓も戦火も無い。我等と命蓮寺の戦はあるが」
「それは布都様が勝手に突撃しているだけの様な」
「ぬるま湯の様なこの世で、我に出来る事は本当に何も無いのだ。無理矢理にでも松明を掲げなければ、本当に何も」
布都の言葉に反論する事は簡単だ。幾らだって正論で封じ込める事が出来る。
けれど自分が何の役にも立たないと信じきっている布都に対して、役に立つと言ったところで信じる訳が無いし、正論を振りかざしたところで傷付けるだけで、何の解決にもならない。
正しいは善でも悪でもない。
「布都様、先に私があなたに構う理由からお答えしましょう」
青娥が座り直すと、布都が居住まいを正す。
遠くから軽快な音楽と歓声が聞こえてくる。それは実際よりも遥か遠く、世界の果てからから聞こえてくる様だった。
「それは、あなたが太子様に付き従うのと同じ理由です」
「我が太子様と?」
「そうです。かつての世ならいざ知らず、この幻想郷で太子様に付き従う利益なんてたかが知れています。ましてそんな苦しみながら一緒に居る理由なんて何も無い。それなのにどうして布都様は太子様と一緒に居るんですか?」
布都が考える前に、青娥は用意した答えを口にする。
「勿論、理由なんて一つに絞れるものでもないですが、それでも、一言で表すなら、それは太子様と一緒に居たいからでしょう?」
「それは、確かにそうじゃが」
「それと同じ。私は布都様と一緒に居たいから誘いを受ける。勿論そこに、様様な理由が絡んでいますけど、だからって一緒に居たいという気持ちが覆る訳じゃありません。私はあなたと一緒に居たい。それじゃいけませんか?」
布都が俯いた。考えあぐねているらしかった。
それならそれで良い。
今すぐに理解してもらえるだなんて思っていない。
この平和な世の中、分かりあう時間は悠久にある。
問題は今自分が何をしたいのか。
今どうしたら楽しめるのかだ。
そして今はただただ、この快楽に酔っていたい。
「さて私の理由はそういう事ですわ。それで次に布都様が仰った役立たず云云。これはあなたが完璧に間違っています。というよりも勘違いしている」
「何を?」
「必要とする、というその事自体をです」
「意味が、分からん」
「先程、言った通り。布都様は太子様と一緒に居たい。そうでしょう? 一方で、太子様もまた布都様と一緒に居たい筈。これも間違いありません。さっき布都様ご自身で言ったじゃありませんか。あなたが居なくなれば太子様は悲しんでくれるって。布都様、勘違いしてらっしゃいますが、誰かを必要とするというのは相手の能力だけを求めるのではありません。相手の存在そのものを必要とするのです。例えば太子様以外にも世を照らす力を持った者が居たとして、布都様はあっさりその方に乗り換えられるんですか? 少なくとも私は無理です。布都様と同じ能力を持っている者が居たって、布都様でなければ要りません。例え今日、別の者に誘われていたって、布都様でなければここには来ませんでした」
「何故そうまでして我を」
「私がそうしたいと思ったからです」
さっきと同じ言葉を返す。
料理が運ばれてきた。
青娥は会話を中断してそれを食べた。すぐに食べ終えた青娥は、布都が躊躇いがちに食事しているのを待つ。外の喧騒がどんどん近付いて来る。もうすぐ傍を通るだろう。その時までに話を終わらせて、一緒にパレードを見たかったが、出来無いかもしれない。それは少し残念だ。パレードを見ずしてランドで遊んだ事にはならない。出来る事なら布都に見せてあげたかったのだが。
「布都様、私は世界を回しています」
食べ終えた布都に、早速青娥は話を切り出した。
「私の世界は私が回している。それは誰の世界も同じ。布都様の世界は布都様が回しているし、太子様の世界は太子様が回している。けれどその世界を形作っているのは決して自分一人ではありません。私の世界は布都様や太子様が居て初めて成り立つし、布都様の世界は太子様が居なければ成り立ちませんし、太子様もまた同じ」
「そうだろうか」
「違いますか?」
「先程も言った通りだ。我は役立たず。太子様の世界に我は要らぬ」
「そんな事はないと思います。その人の存在が必要なのです。決して能力で召し抱える訳ではない」
「いや、我は誰からも必要とされていない。それは自分が一番良く分かっている。この世界に、我は不要だ。我自身の世界にも、本当なら居ない方が良い。いや、我等居らぬ。居らぬのだから誰からも必要とされなくて当然であろう」
布都の眦に涙が浮かんでいる。
それを見て青娥は俯く。俯いて口内の頬肉を噛み潰した。痛みでもって愉悦を抑える為に。
これ以上興奮すると、人目も憚らずにこのまま押し倒してしまいそうだった。
「布都様。結局、あなたの悩みはこういう事でしょう? あなたはかつての都で太子様の命令通りに動いていた。ただひたすらに太子様の為。己を滅し、太子様の道具になって働き続けた。けれど今はそんな道具が必要とされる時代ではない。あなたは一人の人間として生きるべきなのに、太子様の道具として生きる以外の生き方を知らない。結局今も太子様の道具のまま。そこに自我は無い。だから自分なんて存在しない。だから誰からも必要とされていない。あなたの悩みはそこに集約している」
布都は答えない。ただ俯いている。それが答えた。
駄目だ。可愛過ぎる。
青娥は胸の内から湧き出る感情に肩を震わせた。感情も震えも次第に大きくなり、我慢の限界に達して、ついには声を上げて笑い出した。
いきなり笑い出した青娥に驚いて布都は呆然とする。
その目の前で、青娥は腹を抱えて笑い、笑い、笑いまくった。
布都は涙の溜まった双眸をきつく細めて怒鳴りつける。
「何がおかしい!」
「いえ」
青娥は謝ろうとしたが、すぐに笑いが押し寄せてきて、言葉は途切れ、笑い声が続いた。
布都は涙目で青娥を睨みつけるが、どうする事も出来無い。
涙を浮かべて震えている布都の前で、青娥は外面を気にせず笑い続ける。
やがて青娥の笑いは収まったが、未だに笑みが尾を引いている。
「布都様、失礼しました。あまりにも、あまりにも」
また我慢が出来なくなって吹き出した。
「失礼。いえ、私、布都様のそういうところ、好きですよ」
布都は不機嫌そうに顔を背ける。
「貴様からすれば下らぬ悩みなのだろうな」
「ええ、これ以上無い程、馬鹿馬鹿しい」
布都が空けたグラスを叩き付けた。
怒った布都を見つめながら、青娥は笑みを崩さない。
「結局、あなたにその器はなかったという事でしょう?」
「太子様の傍に居る器ではないと?」
「いいえ、人を陥れるという悪を受け入れられなかったのでしょう?」
布都が俯いた。自分でも分かっていたのだろう。そして苦しみつづけていたのだろう。生まれ変わっても尚、かつて行っていた事を自分で許す事が出来無いでいるのだ。
「何の罪も無い赤子を殺す事は悪ですか?」
「無論だ」
「では見殺しにする事は?」
「悪だ」
「でしたらあなたは悪です、布都様。あなたは多くの罪も無い赤子を殺した」
「分かっている」
「私も殺しています。だから私も悪ですね」
「そうだろうな。我も貴様も悪だ」
「見殺しにしたというのであれば、太子様もそうですわ。彼女の望みであなたが動きそして人が死んだのですから」
「違う! 我が勝手に」
「確かに殆どはあなたが太子様の為にと勝手に動いてやった事でしょう。でも幾つかは命令の上での行いがあった筈です。それに太子様は例えあなたが勝手にやった事でも、それを予測し得た筈です。聡明な方ですから」
「違う! 太子様は」
青娥は笑顔で布都の心を責め苛む。
「いえ、そもそも赤子を見殺す事が悪になるのであれば、この世に悪でない成人等おりません。皆誰しも赤子を見殺しにしている。誰それの子供が病気で明日をも知れない。何処其処の子供が危険な森の傍に住み着いている。それが子供の危機であると分かっていながら、実際に助けに行く者は居りません。幻想郷だけではありませんわ。知っていますか? 外の世界では地球の裏側であろうと情報が瞬時に行き渡るのですよ。全ての人間が知っているのです。世界の何処かで今も赤子が死んでいると。それを知っても多くの者は現地に行って助けようとしません。具体的に子供を助けようとしている者も、その手が届くのは限定的です。誰も世界中に存在する全ての子供を助ける事は出来無い。必ず知っていながら、助けられない子供が存在するのです」
「詭弁だ。そもそもそれは見殺しの内に入らない」
「では話を戻しましょう。例えば、そう、自分を恋い慕い、ついてきてくれる者が苦しんでいて、それを見殺しにするのは悪ではないですか?」
「それは」
「悪です。ですから太子様は悪です」
「そんな事は無い。太子様は」
「ねえ、布都様。意固地になるのはやめましょう? 太子様は決して世間の価値観でいう善だけを行う聖人君子ではありませんわ。それは分かっているのでしょう? だからあなたはその悪を全て被ろうとしているのでしょう?」
「太子様は決して悪等では」
苦しげに呻いた布都に、青娥は一層の笑顔を向ける。
「太子様は悪ではありません」
唐突な言説の翻しに、布都は驚いて顔を上げた。
「あなたがそう信じるのであれば、あなたの中で太子様は悪ではない。何故なら悪というのは、何か世界の法則で定まっているものではなく、個人や社会等、受け取り手の印象によって左右されるものだから」
青娥はウェイターを呼んで、新しいワインを持ってこさせた。
外の歓声は更に近付いている。もうすぐパレードがやって来る。
何とかパレードまでに終わらせたかったが、無理かもしれない。
本当はちょこっとからかって止しておくつもりだったが、酒の所為か口が滑る。
目の前のこんなに可愛い布都を前にして、口が止まる訳が無い。
「ですから、私は悪です。あなたが悪だと思うから私は悪です。あなたの意思によって私は悪にされました。あなたの所為で、です」
布都の瞳が揺れる。動揺している布都を見て、青娥は留まる事の無い快楽を全身に感じる。
「我は、貴様は、貴様のしてきた行いは」
「そしてあなたも悪です、布都様。あなたの行いとは関係ありません。あなたは私と同じだと言った。あなたにとって私は邪悪の象徴です。あなたが私と同じだという以上、それは私の邪悪に着目しての発言に他ならない。あなたはあなた自身を悪だと思っている。ですから、あなたは悪ですわ、布都様。あなたがあなた自身を悪に仕立てあげたのです。そしてそれは、結局のところ、太子様を悪と糾弾している事に他なりません。だからこそ、太子様は悪です」
「何故そうなる。私は太子様が悪でないと信じている」
「あなたは自分が悪だと分かっているのでしょう? でもあなたは自分なんて存在しないと言ったではないですか? ならそのあなたという悪は何処から生まれ何処に存在しているのですか? 問うまでもありませんね。あなたは自身の存在理由を太子様に仮託し、太子様の傍に居る。悪は太子様です。あなたがご自分を悪だと断じる以上、太子様は悪なのです」
布都は俯いて唇を噛んだ。
青娥は全身で快感を覚えながら、グラスに口をつける。
パレードの音がすぐ近くから聞こえる。
見ると、綺羅びやかなパレードが遠くに小さく見えた。
不意に忍び笑いが聞こえてきたので、青娥は布都に視線を戻す。
「今日は随分長く話したな」
布都が顔をあげる。その顔は笑っていた。
急な態度の変わり様を、青娥は訝しむ。
「そなたと昨日までに交わしてきた言葉以上に話し合った気がするよ」
青娥が疑わしそうな顔をする。
「そうですか? 流石にそれはないと思いますけど」
「何処まで本気だ?」
「本気とは?」
「さっきまでの話、そなたは何処まで事実だと思っている?」
青娥は首を傾げてこめかみに指を這わせた。
「さあ? 私、そういう事は気にせず話す方なので」
「というと?」
布都の疑念に、青娥は恥ずかしそうにはにかんだ。
「私は相手がどんな反応を見せるのかしか気にしません。今はただ布都様を精神的に追い詰めたかっただけですわ。それが事実かどうかなんて預かり知る事では御座いません」
布都が呆れた顔をした。
「最低だな」
「ええ。分かっていた事でしょう?」
「まあな」
布都が顔を上げ、周りの人人が見つめている先を見た。
道の先には、小さく綺羅びやかな集団が見えた。
「あれが、パレードか?」
「ええ、もう少しでここに来ますわ」
「そうか」
布都はワインを煽り空にする。
青娥も同じ様に空にしてウェイターに新しいワインを注文する。
「我はそなたの言葉に反論出来ん。それは我の心に合致し過ぎている。そなたは吐く言葉の事実を気にしないと言ったな。ならばどうしてそうまでして、我の心情に沿うた言葉を吐ける」
「先程申し上げた通りですわ。私は布都様を精神的に追い詰める為の言葉を吐いたに過ぎません」
「だとしてもどうしてそこまで的確に」
「それは私が言葉を用いたからです」
「意味が分からん」
「言葉とは力です。力とはベクトル、大きさと方向性です。だから概念に言葉が乗ると方向性が定まります。だから言葉は物の定義を明確にするのです。私は、あなたの未分化の悩みに言葉をあてがい、方向を定めたに過ぎません。私があなたの悩みを言い当てたのではない。あなたの悩みが私の言葉に飛びついたんです」
「納得出来んな」
「納得する必要はありません。これもまたあなたを精神的に追い詰める為の言葉に過ぎませんから」
「そうか」
布都は俯き、顔を上げると、パレードを見つめた。
先頭を走るフロートには、電飾で飾り付けられた階段の上に、青いドレスを着てガラスの靴を履いた狐と猫が乗っていた。見る人が見ればシンデレラだと分かるが、幻想郷に住む多くの者はシンデレラを知らない。ただそのまばゆい美しさは例えシンデレラを知らなくとも感動出来る。
「素晴らしい眺めだな」
「今日は童話をモチーフにしたパレードだそうですよ。喜んでいただけたのなら何よりです」
「青娥殿はあまり喜んでいる様に見えんな。何故じゃ?」
布都の問いに青娥は素直に答える。
「私は、外の世界でこれの本物を見た事がありますから」
「本物の方が更に美しいという事か?」
「完成度としては遥かに上でしょう」
布都はそれを聞いても、決してパレードから目を逸らそうとしない。
「我にはこれが美しく見える」
「私だって美しい事を否定はしませんわ」
布都は髪を掻きあげ、小さく溜息を吐いた。
「そなたから見えれば、我が抱いてきた悩みはみんな実にちっぽけに見えたのだろうな」
「まさか。どうしてそう思います?」
「所詮我が生きたのは数十年。千年以上の長き時を生きたそなたからすれば赤子の様なものだろう?」
青娥はくすりと笑って、身を乗り出し、布都の頭を撫でた。
撫でられた布都は驚いて、青娥の手から逃れようとして、勢い余って椅子から転げ落ちた。大きな音を立てて椅子が倒れ、周りの視線が布都に集まる。
布都は恥ずかしそうに椅子を直してから、青娥を睨みつけた。
「いきなり何じゃ」
「いえ、てっきり赤ちゃんプレイをご希望なのかと」
「赤ちゃんプレイ?」
「知らなければ神子さんに聞いて下さい」
布都は悔しそうに顔を歪める。
「今度までに調べておく」
「もしもしたくなったら遠慮無く言って下さいな」
青娥の余裕ある態度に布都は不満そうな顔になり、そしてテーブルの下で青娥に蹴りを入れた。青娥が痛みを訴えて跳ね上がる。
「何ですか、急に!」
「何だか馬鹿にされた気がしたからだ」
「だからって暴力に訴えないで下さい」
「我にはこれしかない」
布都は己の手を見つめて、悲しそうな顔をする。
「後千年生きれば、我も変われるのか?」
「私の様にですか?」
布都が頷くと、青娥は首を横に振った。
そうしてパレードを見る。二番手は白蓮が豪奢なドレスにアクセントで茨を巻きつけている。隣は王子様の格好をした星。物凄い人気を誇っていて、熱狂した観客達がフロートの周りに集って、キースキースと連呼していた。星は恥ずかしげにしているが、白蓮は満更でも無い様子だ。
「例え千年生きても我は変われぬか?」
「誰も変われません。十年生きても百年生きても千年生きても、きっと一万年生きても人は変わらない」
「そんなものか?」
「そんなものです。比率で言えば、百年生きた内の十年と千年生きた内の百年は同じ変化量の筈です。それも正比例すればの話。人の変化なんて飽和曲線ですから、十年二十年を過ぎれば、変わるのは知識と周囲の環境だけです。根っこの部分は何も変わりません。劇的な何かが無い限りは」
パレードの三番手は、守矢神社の面面。楽しそうに白雪姫の格好をしている早苗と、恥ずかしそうに王子様の格好をしている神奈子、そして小人の格好で死んだ目をして突っ立っている諏訪子だ。こちらも尋常じゃない盛り上がりを見せて、遂にはフロートに登る者まで現れた。早苗がその者からねだられたサインの願いに快く応えた事で、次次と観客が乗り始め、何故か皆が酒を片手に歌い出し、それに当てられたのか神奈子と諏訪子もやけくそになって歌い、もはや混沌としか形容の出来無い騒ぎを見せている。
「青娥殿はその劇的な何かを与えて、世界を変えたいのか?」
「私? 世界を変えたいだなんて言いましたっけ?」
「そなたと我は同じだと言っただろう? 我は自分を変えたい。世界を回すのが己自身であるなら、己を変える事は世界を劇的に変える事に他ならない。そなたも同じ筈だ。だがそなたは自分を変える事は出来無いと言う。ならきっとそなたは自分に関わる者を変える事で世界を変えようとしているのだ」
布都はワインを煽り、笑い声を上げた。
「という妄想をしてみた。大分酔っているな」
青娥もそんな布都に笑みを返す。
「ですが、きっと当たっていますわ」
「あのキョンシーもそれか?」
「芳香ですか? まあ、そうとも言えますね。ただ、まあ何と言うか、何て言えば良いのでしょうね。私も酔っ払っていて良く分かりませんわ。何故でしょう。そんなに飲んでいないのに。布都様と飲んでいるからでしょうか」
ちなみに、ワインの味なんて分からんだろうと、青娥は悪戯で布都のワインにスピリタスを混ぜる様店員に頼んであったのだが、忙殺された店員は青娥にも同じ物を出していた。
閑話休題。
四番手は、鉄で出来た巨大な人形で、足元に居る河童が手元の機械を操作する事で、人形は体を動かし、目から夜空に向かって光線を放った。
「私はね、人を陥れるのが大好きなんです」
「歪んでいるな」
「陥れると、その人は絶望的な状況に追い込まれて頑張るでしょう? それを乗り越えられた時、きっとその人は成長出来る筈なんです。そうやって人が成長する喜びを」
「嘘だな」
布都がにべもなく切り捨てる。
青娥はくすくすと笑い、額の汗を拭った。
気が付くと随分熱くなっていた。
気が付くと喉が乾いていた。
「お水頼んでも良いですか?」
「我にも一つ頼んでくれ」
ウェイターに水を貰い飲む。
五番手は命蓮寺の船幽霊と尼僧と入道で、北風と太陽を演じている。粗末なシャツとスカートを履いた尼僧の周りを、スカート部分に過剰なギャザーの入った真っ赤なドレスを着た船幽霊が足でリズムを打ち鳴らしながら踊りまわり、その二人に向かって入道が息を吹き鳴らしている。観客達が熱気を込めて声援を送っているが、その半分近くは吹き荒れる風でめくり上がり中の見えそうなスカートを注視している。
「芳香は、昔の私の友達です。あの子の故郷は兵隊に焼かれ両親も殺されました。それに絶望せず、遠戚に疎外されながらも、孤独の身で奮起し、女官兼薬師として、宮廷に仕えました。そこで私と出会いまして、友達と言える位の付き合いをしていたのですが、結局あの子は死にました。帝が願う不老長寿の薬を開発する為に、あの子の同僚達によって実験台にされたのです。衰弱しきって絶望したあの子が最期私に望んだのは、例えどんな形であっても生きていたいという事。なのでキョンシーにしたんです。今では私の可愛い部下ですわ」
布都は胡散臭そうに青娥を見て、それから気まず気に顔を逸らした。
「好きなんだな、あのキョンシーの事が」
「ええ、さっきも言った通り、あの子は絶望を知り、そして成長しました。あの子だけなんですよ。キョンシーになっても完全には自我を失わず、それどころか少しずつ自我を回復しているのは。きっとあの子の絶望とそこから生まれた生きたいという願いの結果に違いありませんわ」
布都は何も言わずワインに口をつける。
青娥は運ばれてきた水を布都に差し出して、自分も飲んだ。
「ああ、それから、私が仙人を目指したのは、母親が重い病にかかったからです。父の修行していた山に入って、父が師事していた方の弟子となり、そしてこのかんざしを盗み出して、王宮の万能薬を盗み出しました。薬を持って帰った時、母は死んでいましたが」
「何故急にそんな話を?」
「芳香の話をしたら同情していたみたいなので、私にも同情してくれるかなと」
「貴様の冗談は分かりにくい」
「そうですか? 笑い所たっぷりだと思いますけど」
にこにこと邪気無く笑う青娥を何だか見ていられなくて、布都はパレードへと目をやった。
六番手は、妖精達で、様様な動物の格好をして踊り回っている。どうやらブレーメンの音楽隊の様だが、フロートの上には数十の動物が踊り回り、滅茶苦茶な楽曲を演奏している。
それを見ながら布都は言った。
「綺麗だな」
「ええ、そうですね」
「眩しいな」
「そうですね」
まだ何か言いたそうなので、青娥は布都の言葉を待つ。
布都はそわそわと何やら腰を浮かせたり、髪を弄ったりしていたが、やがてそっぽを向きながら小さな声で何かを言った。
小さすぎて青娥には聞き取れなかったが、雰囲気から何となく察して、笑顔になった。
「いいえ、こちらこそ。愛する布都様と一緒に居られたのですからこれ以上の喜びはありません」
青娥が億面も無くそんな事を言ったので、布都は益益顔を逸し、青娥とは反対を向いてしまった。
「青娥殿、そういう冗談はあまり言うべきではない」
「でしたら、布都様だって、言いたい事はちゃんと言うべきですわ。心の中だとか、小声ではなく、はっきりと」
布都は膝の上で拳を握りしめ苦悩する様に俯いた。その背中に向かって青娥は問う。
「それでさっき何と言ったのですか?」
しばらく眺めていると、布都は背を向けながら怒った様子で言った。
「性格が悪いぞ、貴様!」
「それでさっき何と言ったのですか?」
「何も言ってない!」
「そんな事はありません。確かに何か言ってしましたよ」
布都が顔を真赤にしながら振り返り、パレードを指さして叫ぶ。
「パレードが綺麗だなと言ったのだ! それ以外には何も言ってない!」
青娥が口元に手をあてる。
「あら、それはつまり愛の告白?」
「違うわ、阿呆!」
布都は叫んだまま席を立って店の中へと駆け込んでいった。
青娥はそれを追わない。
どうせすぐ戻ってくる。
青娥には分かっている。
青娥と布都は似た者同士なのだから。
しばらく待っていると、案の定戻ってきた。
「青娥殿、厠は何処にあるのじゃ?」
「では一緒に行きましょうか」
青娥が手を差し出す。
布都はそれを手に取る事を躊躇して、悩んでいたが、催した尿意に耐え切れなくなったのだろう、最後にはその手を取った。
翌日、青娥は道でばったりと神子に出会った。今日は布都も屠自古も従えていない。神子は出会って挨拶をするなり、深深と頭を下げてきた。
「昨日は一日布都と遊んでくれてありがとう」
「いえいえ」
「帰ってきた布都は大変嬉しそうにランドの事を話していたよ」
「そうですか」
青娥が平静を装って簡潔に応じる。
内心、ちょっと嬉しい。
「今日はお一人でどうなされたんですか?」
「ん、よくよく考えてみれば、今回の事で布都を蔑ろにしていたのかもしれないとちょっと反省してね」
青娥は驚いた。あの布都が蔑ろにされているなんていう不安を、神子自身に相談するとは思えなかった。神子の事であるから、布都が何も言わなくとも、布都の本当の悩みに気が付いたのかもしれない。流石聖徳太子。だとすれば、もっと早く気付いとけと思う。どうもその辺りに鈍いところがある。そういうのを見ていると青娥は苛苛としてしまう。
「今日は一日布都と一緒に居ようと思って、屠自古には外出してもらったんだ」
「はあ、で、肝心の布都様は?」
「それが起きたら何処にも居なかったんだよ」
「太子様との約束を蹴って?」
「いや、約束は特にしていなかった。驚かせようと思って布都には何も言っていなかったんだ」
肝心のところで詰めが甘い。女泣かせな方だと青娥は溜息を吐く。
「そこ等の者に聞くとどうやら命蓮寺へ行ったと聞いてね、迎えに行くところだ」
「成程」
命蓮寺に行ったとは、嫌な予感しかしない。
青娥が肩を竦めていると、神子が小さく笑った。
「布都は随分と青娥殿に心を許した様だ」
青娥も笑い返す。
「このまま行けば、太子様から離れて私の下へ来る日も近いですわね」
青娥の冗談を聞いて、太子がおかしそうに笑った。
「そうだな。布都がもう少し外を見てくれれば」
そう言って、遠くを見つめる様にして道の先に目をやり、そこに凄い勢いで向こうから走ってくる布都を見つけた。神子が顔を綻ばせてそれを迎えようとして、布都の背後を見て凍りつく。
走る布都を、恐ろしい顔をした白蓮が追っていた。
きっとまた命蓮寺で何か(放火)をやらかしたのだろう。今度という今度は許さないという決意と殺意の滲み出た表情で白蓮が布都の事を猛追している。
「布都!」
神子が慌ててそれを助けようとするよりも先に、青娥が前へ飛び出した。
そして布都の横をすり抜け白蓮に肉薄すると、羽衣を白蓮の足へと引っ掛けた。
白蓮がつんのめって地面に顔面をぶつけ、それでも勢い止まらずごんごんと地面の上を、まるで川面に投げた石の様に、跳ね転がりながら道の向こうへと消えていった。
立ち止まって呆然としている布都。
その手を取って、青娥と神子はその場から逃げ出した。
しばらく逃げて、人里を見つけ、甘味処に腰を落ち着けると、布都が青娥へ頭を下げた。
「感謝するぞ」
いえいえと手を振って、何があったのかと問いかけると、布都は呆れた様子で首を横に振った。
「昨日の件で我も反省してな。大事な仏像を燃やしてしまった代わりに四猿を贈ってやろうと思ったのだ」
「それでは代わりにならないでしょう。相手は国宝級ですもの」
「こちらも国宝だ。何と太子様が直直に作られた物だから」
「え? あれを渡したんですか?」
四猿とは神霊廟が販売している猿の人形である。詰まるところそれは道の教えを形にした物だが、俗人達からすればただの魔除け、縁起物でしかない。まあ、教えだの何だのという精神的な崇高さよりも、民衆にとっては即効性のある実体の方がよほどありがたい訳で、神霊廟の意図とは反しつつも、随分と売れ行きを伸ばしていると聞く。だがそれはあくまで神子の弟子達が作った物についてであって、神子が作った物は話が別だ。
「うむ、国宝に並ぶ芸術品なのだ」
確かに国宝級の破壊力を持っている。何せ、その四猿はあまりにも芸術的すぎて、誰にもその素晴らしさが理解出来ず、それを見た布都以外の弟子達全員が悪夢にうなされ、以後神子が四猿を制作する事が禁じられた程である。四猿の前にも神子が芸術的才覚を発揮して希望の面を作った事があり、希望の面を見た秦こころはあまりのショックに卒倒して事件へと発展した。
「それが何故か奴等は怒り狂って襲って来おった」
「まあ、何故とは言いませんが」
と言いつつ、青娥は神子へ視線を向ける。神子はどうしてだろうと言いたげな不思議そうな顔をしていた。良い加減、太子様は自身の壊滅的なセンスに気が付いた方が良いと、青娥は他人事ながら苛立ちを覚える。
「まあ、そんな事は良いじゃないか。それより、布都、今日はお前と一緒に居ようと思ってな。何処へでもお前の好きな所に連れて行ってやろう」
それを聞いた布都は嬉しそうな顔になる。
青娥はそれを見て溜息を吐く。
そんな嬉しそうな顔を向けられた事が無い。
結局神子に全て持っていかれるのかと思って溜息を吐く。
そんな風に落胆していた青娥だが、次の布都の言葉を聞いて、耳を疑った。
「いえ、申し訳ありませんが、今日は太子様と一緒に居られませぬ」
青娥と神子はあまりの驚きに変な声が出た。
「何故だ、布都! 体の調子が悪いのか?」
大慌てで掴みかかる神子に、布都は首を横に振る。
「いいえ、今日は青娥殿と遊ぶ約束をしておりますので」
「は?」
神子が首を捻じ曲げて青娥を見た。表情が抜け落ちている癖に、万感の憎悪がこもっているのがはっきりと分かる顔だった。
そんな約束をした覚えは無かったが、青娥は肩を揺らして笑いながら、布都の言葉を肯定する。
「ええ、その通りですわ。太子様は邪魔だからどっか行ってて下さいな」
「いや、ちょっとお前、私の布都に」
「では、太子様、失礼致しますぞ」
布都が神子の傍をすり抜けて、青娥の手を掴み、歩き出す。
「布都! 待て! 布都! 今日はそなたと二人きりで」
必死で呼び止めようとする神子に向かって、布都は振り返ってにっこりと笑った。
「太子様はどっか行ってて下さい」
その素っ気無い言葉に、神子は地面に膝を突いて、布都の名を思いっきり叫び上げた。
それを布都は振り返らなかった。
しばらく歩いてから、未だ布都を呼ぶ声が背後から聞こえる事を気にしつつ、青娥は布都に尋ねた。
「良かったのですか? 折角、太子様が布都様と過ごしたいと仰っていたのに」
「良いのじゃ」
今までであれば布都が神子の誘いを断るなんてそうそう考えられない事だ。
青娥が布都の突然の心境の変化を不思議に思っていると、布都が笑った。
「思えば、我は太子様に依存し過ぎていた。そしてそれは同時に太子様を束縛していた。それをそなたに気が付かされてな。そなたの様に、自由気ままに生きてみようと思ったのだ」
「別に、そういう意図では無かったのですが」
とはいえ、それで太子離れをしてくれるなら、好都合だ。
自分の真似をというのも悪い気はしない。
「それにな、青娥殿」
布都がにやりと笑って青娥を見上げる。
「自分を信じてくれる者を陥れるのはこの上無い快楽じゃ。そうであろう?」
それを聞いて、青娥は吹き出し、笑い声を上げる。
「別にそこまで私の真似をする必要は無いのですよ?」
「心地良いのは確かだ。思えばずっと、太子様のお傍に居て、畏敬や喜びを感じる事はあれ、この様に晴れやかな気持ちになった事は殆ど無かった」
布都がそう言って、空を見上げた。
青娥も見上げると、青青とした空が広がっている。
「さ、今日は何処へ行く?」
布都に問われて、青娥は立ち止まる。
「布都様は何処に行きたいですか?」
「行きたい所があればこちらから提案するわ。それ位、分からんのか」
ぐっと拳を握りしめて怒りを堪えた青娥は、昨日あれだけはしゃいでいたのだから、とりあえずテーマパークでも連れて行っておけば良いだろうと適当に考える。
「では、昨日行ったテーマパークの本物に行きましょうか? USAという遠い異国にあるのですが、スキマに頼めば一飛びでしょう」
そう言って満面の笑みを向けたのに、布都は呆れた様子で渋面を浮かべた。
「はぁ? また同じ様な所か? そなたも工夫の無い奴じゃのう」
鎮まれ、私。
青娥は奥歯を噛み締めつつ、怒りを堪える。
仲良くなれたと思ったが、やっぱり態度は変わらない。まあいきなりべたべたされても困惑するが。
青娥は少し考え、昨日見た美しい景色を思い出す。
「では海に行きましょうか? 新鮮な海魚なんてあまり食べた事無いでしょう?」
その提案に、布都が乗る。
「ほう、良いな! 我は都からあまり出なかったのでなぁ。話ではとてつもなく広い湖だと聞いているが」
思った以上に喜んでくれた布都を見て、青娥がくすりと笑う。
「ええ、きっと驚きますわ。海はその広さ故に、全てを包む母と呼ばれているんですから」
「そうか。では行こう」
早速二人で手を繋いで外へと向かう。
その途中で、布都が夢見る様に言った。
「全てを包む母か。我もその様になれたら」
「布都様ならなれますわ」
「そうか」
布都が顔を綻ばせる。
「青娥殿も」
「え?」
優しげな布都の声音に驚いて、青娥は布都を見る。
そんな優しい言葉を私に、という驚きと喜びで胸が一杯になる。
望外の喜びに至っている青娥に向かって、布都が慈愛に満ちた顔で言った。
「母なる大地にその邪念を取り払ってもらえると良いな」
青娥は一瞬目の前が明滅した。
多分脳の血管の何処かが切れた。
「ええ、そうですわね」
何となく良い雰囲気だと思っていたのに、一気に裏切られた。
その落差に、憎悪に近い感情が芽生えている事に気がつく。
青娥は一つ息を吐いて心を落ち着ける。
もしかしたら昨日あれこれ言ったからその仕返しで言っているのかもと思ったが、布都の表情を見ると、どうやら心の底から善意でそう言っているらしい。
向こうからすればこちらは悪の象徴なのだ。
相変わらず進展しないなぁと俯いて溜息を吐くと布都が手を握りしめてきた。
どうしたんだろうと顔をあげると、布都は尚も優しげな笑みを向けてきていた。
「そうすれば、そなたは海になれるぞ」
一瞬頭が真っ白になり、それから顔が火照る。
呼吸すらも忘れる忘我から回復すると、青娥は何か負けた気がして悔しくて、布都の手を容赦無い力で握り返した。
布都が悲鳴を上げる。
「何をする、青娥殿!」
「いえ、別に」
追われる方が自分にあっている。
今までずっとそうしてきたし、これからもそうしていく。
だからやっぱりこの子は天敵だ。
布都が何でこんな事をしたと喚いているのを、何でもありませーんといなしつつ青娥は思う。
翻弄されても良いかと思わせる布都は自分の天敵なのだ。
その瞬間、そんな思考をした自分が恥ずかしくなり、再び布都の手を思いっきり握りしめた。
もう一度、布都の悲鳴が辺りに響いた。
ひじりんもなかなか業が深くて良い・・・。
ウメハラは何も悪くない
布都を こころを置き去りにした耳年増な子供として書いたのは良かった
大人でも子供でも成長は楽しみがあるし なにより可愛い
見ていて凄くドキドキする2人でした。
見ていて凄くドキドキする2人でした。
見ていて凄くドキドキする2人でした。
理想の豪族キャラの関係でした
最後に布都が太子の誘いを断る場面のなんと痛快なことか!
ご馳走さまでした
わけわかんない布都が好きです
なんだかんだで周りが好きな青娥と合わせて大好きです
単純なイチャイチャとは違う、見事な心理戦でした。特に割と青娥に心をゆるしているのになびかないブレない布都の描写は素晴らしいです。クソ生意気なのにヤバい可愛い。あと大人だとデカイのか……。
ご馳走様でした。
はーたまらん。
ししゃもさんもありがとう。
色々な意味でドつぼでした。ありがとうございます
めんどくさくて全うからはほど遠いせいふとの魅力が存分に感じられました
→性格ではないでしょうか。
それはともかく、せいふとの良さを改めて実感。有難うございます!