Coolier - 新生・東方創想話

夜の帳にお辞儀を一つ

2014/09/23 10:16:41
最終更新
サイズ
33.26KB
ページ数
1
閲覧数
2245
評価数
3/17
POINT
960
Rate
10.94

分類タグ

パルスィは毒々しい色をした提灯の明かりを横目に、ガラクタが乱雑に積まれた路地を駆けた。別段急いでいるわけではないが、のんびり歩いていたところで気難しい輩に会って、どんないちゃもんをつけられるかもわかったものではない。朝から呑んでいる者も多いが、やはり一番の盛り上がりをみせるのは黄昏時を過ぎた今頃だ。道行く酔っ払いに接触しないように気をつけてさえいれば、この刻限の旧街道はこうして通り過ぎてしまうに限った。追い立てられる子ネズミのように振舞うのは癪に障るが、面倒事に巻き込まれない生活の知恵だと思えば抵抗感は和らいだ。地殻の下の嫉妬心に声を声をかけるような輩はそうそういないだろう。だが、酩酊は鬼の脳からすら理性を引っこ抜いてしまうのだから。用心はいくらしていても無意味ではない。
跳ね上がった前髪を一度撫でつけ、ついでに噴出していた玉の汗をぬぐった。
多少走ったくらいで息があがるような柔な身体ではないが、いかんせん荷物が悪い。波打つ隙間がないほどたっぷり詰め込まれた酒瓶をもう一度抱えなおす。
丁稚の誤りに酒屋の店先でしめしめとほくそ笑んでいた半刻前を遠く感じる。
ついでにつまみも調達していこうと買い求めた肉も今は少しだけ疎ましい。包み紙に滲んだ肉汁も肌に張り付いてきて不快だ。
自分を鼓舞するように足に力を込める。まだ半分も来ていない家路だが、妬ましさを通り越して呆れを抱く謙遜から早く逃れたかった。
すえた臭いをまとわせて佇むの女の横を抜ければ、小路の終わりが迫ってきていた。湿気を含んだようなねっとりとした暗闇へと目を凝らす。
馬鹿騒ぎは眺めているだけでもうたくさん。さあ孤独と静寂の愛しいあばら家へ。何もないけれど、ここにはないものがなんでもある。
一歩踏み出す毎に増す黒にパルスィはそっと息を吐いた。

「いい夜だね」
安堵のため息に打ち消されたのだろう。長い耳をもってして拾うのが一瞬遅れてしまった足音に、彼女は眉をへの字に曲げた。


――星熊勇儀。
彼女ほど旧街道のど真中を大股で歩くのが似合う者もいないだろう。
そんな大物がこんなうらぶれた処に?
旧都の鬼の大将にして地底を取り仕切っている実力者の一人である彼女が、木端妖怪であるパルスィに声をかけてきた真意もわからない。地殻の下の嫉妬心など、破滅的な金剛力の前ではとるに足らない存在でしかないはずである。
頬に緊張が走ったパルスィを見て、勇儀は苦笑した。ほれこれだと、手にしたとっくりを上下に振って見せる。名工による品なのかやたらと細工に凝った逸品であるが、それに見入る余裕などパルスィにはなかった。相手の力の抜けるようなしぐさにも関わらず、訝しげに眉がゆがませる。
天下の四天王が一人酒?
パルスィの眼差しが冷やかなものになっているのを見て、鬼は鼻を鳴らした。
「疑っているのか」
「ならその爛々とした目を何とかしてもらいたいものね。何を企んでいるの」
「鬼が企み事など。私だって静かに一服したい時だってあるさ」
「方便だわ」
ほうべん、ね。
噛みつくような勢いの橋姫をちらりと眺めて、勇儀はパルスィの言葉を舌先で転がした。よく吠える弱者に興ざめしてくれたのならそれでいい。興味を無くしてくれれば万々歳だ。
先ほどから一升びんと肉の包みに注がれる視線がいたたまれないのだ。ちびちび舐めるつもりのそれを取り上げられてはかなわない。法の代わりに腕っ節が支配する旧都において鬼は絶対だ。くれと言われれば二つ返事にならざるを得ない。相手がおいてけ掘りの妖怪になる前に早く話を切り上げてしまいたいと視線は勇儀の背後――ねぐらの方へと走った。
振り切って逃げるか?
一瞬の逡巡を切り捨てる。それは悪手でしかない。住処が割れている以上どこに逃げても無意味でしかない。パルスィは己の非力よりも先に相手の暴力的な権力を妬んだ。
貧乏ゆすりのような地団太をする橋姫に、勇儀は考え込むように己の顎を撫でた。髭がなくとも様になって見えるのはその体格から醸し出される貫禄のせいだろう。
「橋姫にはわからないのか。皆で乱痴気騒ぎも悪くはないが、一人酒はしんみりやるのが一番なのさね」
「誰にも邪魔されず 自由でなんというか救われて?」
「そうそう」
「独りで静かで豊かで?」
「なんだ、わかっているじゃないか」
地上からの侵入者が落としたマンガの受け売り、しかも一人飯の極意だとは言えず、パルスィは視線を落とした。そんな彼女の心も知らず、気を良くした勇儀は上機嫌に肩を叩いてくる。虚弱、臆病、狡猾な者として分類されるであろう橋姫である。親しげに接してくるのはなにかの冗談だとしか思えなかった。鬼は力強い、勇気ある、あるいは正直な者を好むのではなかったのか。
「酒瓶下げているってことは、あんたもイケる口だろう?」
もう仕舞にするつもりなのか、燃えきった葉を落として勇儀は笑った。
「下戸ではないわね」
「よしよし!愉しませてあげるからついてきなよ!私の奢りだ」
暗闇の中こぼれた笑みに白い歯がまぶしかった。
有無を言わせぬのではない、言われることを考えてもいない顔だった。それが鬼の慢心であり傲慢であると彼女は知らないのだろう。
「お生憎さま。これから食材の仕込みがあるの」
「簡単な調味料くらいならうちにだってあるよ」
「調味料?まさか」
驚いた顔をしてみせたパルスィに勇儀は得意げな顔をしてみせた。夜な夜な飲み歩き。自炊とは程遠い生活をしている鬼でも台所に立つことはあるのだろうか。さしそすせそも危ういと思っていた相手が、次々とあげていく面妖な調味料の名前に意図せず耳がピクリと動いた。
コチュジャン……おいしそうだ。コリアンダー……確か食用できる薬草だったはず。サドンデスソース……どんな味がするのだろう。
権力者である彼女の元には様々な献上品として珍しい食材が寄せられてくるということなのだろう。それらを自由に使って彼女は料理をしているのか。鬼というだけで条件反射で感じていた嫉妬心に熱がこもるのを感じた。妬ましい!
「それも奢りのうちと考えてもいいのかしら」
「もちろん」
無意識に肉の包みを撫でているパルスィを見て鬼は力強く胸を叩いた。
弾かれたように揺れる胸から目をそらして、ならば異論はないとパルスィは口の中で呟くようにして云った。
世界に満ちている嫉妬で身体を維持できるとはいえ、贅沢を退けるほど禁欲的な生活はしていない。少しの面倒事と引き換えに口にできるであろう御馳走に思いを馳せ、喉を鳴らした。
この鬼はどうやら今日は静かな時間を所望しているようだし、適当に酌でもしていれば時間は過ぎるだろう。自分なら辟易していまうだろう鬼の自慢話だって、縦穴の連中に聞かせる土産話くらいにはなるはずだ。皿のように目を丸くさせて聞き入るだろうつるべ落としの姿を思い浮かべた。鬼と交流があるかもしれない土蜘蛛はその話なら知っていると張り合ってくるかもしれない。

「それなら夜は短い。さっそく場所を移そうか」
ちらりと先ほどの見た売春婦の姿が脳裏をよぎった。早まっただろうか。まるで自分が買いたたかれた女のようだなと思ってしまったが、もう後にはひけそうになかった。
杞憂であればよい。
浮かんだ嫌な考えを追い払おうと、パルスィは頷くようなそぶりで頭を振った。



 ○

鬼の言葉に偽りはない。
通された台所にパルスィは息をのんだ。
清潔に保たれた空間、ならぶ調味料。潤沢な食材。整然と並べられた鍋や包丁はどれも丁寧に磨きあげられており、室内のちょっとした明かりも反射してピカピカと輝いていた。パルスィはうっとりと眺める。
鬼の大将にふさわしい一級品ばかりである。
隙間風がふきすさぶ縦穴のあばら家とは対照的であった。とりわけてパルスィの生活水準が低いのではないのだから、さすがにこれは鬼が別格なのだとみていいだろう。
ここに立って腕を振るうのはどんなに気持ちのいいことだろう。日々乏しい食材でやりくりをしている身としては羨ま妬ましい限りである。腹が膨らめばそれなりに満足はできるが、旨いにことしたことはない。
「あるものは何でも自由に使えばいい」
「これだけあったらどれを使えばいいか迷うわね」
所狭しと並べられた瓶を一つ一つ手にとって、付けられた名札を確認する。少し視線を走らせただけでも、和洋問わず様々な調味料があるのがわかった。
思わず漏れた感嘆のため息に、勇儀は誇らしげに胸をはる。自分の持ち物を認められて気を良くしない鬼などいない。旨い酒とお世辞にはめっぽう弱いのだ。
勇儀は今まで以上に親切な様子でパルスィに笑いかける。
「アゲハは右から三番目のを好んで使っているよ。こいつは肉との相性もいい」
「アゲハ?」
「通ってきているお手伝いさんの名前さ」

女中か。
パルスィは白けた顔になった。一瞬でもこの鬼に家庭的な面を見出していた自分が馬鹿だったのだ。あれこれ眺める気分が風船の空気のようにしぼんでゆく。途端宝の山だった台所がどうでもよくなってくる。感じいていた親近感の払い戻しを要求したいくらいだった。
勇儀に根掘り葉掘り質問する気も起きず、言葉のまま三番目の物を手に取った。
「これってどう使えばいいのかしら」
「ケチャップと合わせて使っても美味しいけど、初めてならシンプルに塩で焼いてからかければいいんじゃないかね」
「そうなの」
トマトとも塩とも相性がいい。これは一体どんな味なのだろう。容器に色が付いているせいでどんなものなのかまったくわからない。振ってみたところ半液体のようだが。
期待と少しの不安を胸に、調味料の蓋をあけた。


――悪魔が牙をむいた。
揮発物が容器に溜まっていたのだろうか。部屋に広がったそれを吸いこんだ鼻が、喉が悲鳴をあげる。異物を追い出そうとこみあげてくる咳と涙。混乱する頭でもわかる。これは危険物だと。
受けた衝撃を脳が処理しきれず、無様に床に転がる。
「ちょっと、ちょっと。大丈夫かい?橋姫よ」
大丈夫なものか。咳き込むのと正常な空気を求めるのとで、胸が激しく上下する。拒否反応から口の端を流れる涎をぬぐう余裕もない。ヒリヒリと痛みを感じる粘膜。目玉を取り出して水で洗いたいという衝動に駆られた。

信頼は打ち砕かれた。
震える喉を押さえつけ、パルスィは涙が滲んだ瞳で敵を睨みつけた。
「おのれ星熊謀ったな……!!!」
「鬼がそんなことするもんか。調味料一つで大げさな」
「白々しい!」
「ちょっと辛いけど、大げさなんだよ。あんたは」
「ちょっと?大げさ?これがただの激辛ソースだっていうの?ならば、お前が甘味に埋もれて死ぬように祟ってやる!」
「甘い物も私は好きさ」
「うわほしぐまつよい」
ならばどうやって報復をすればいいのだろう。パルスィは頭を抱えた。アゲハとやらが丁寧に掃除をしているのか、床には埃一つ落ちてはいないが屈辱的な格好であることには変わりがない。喘ぎながらもなんとか一矢報いんと、緑の目をぎらつかせた。
その様子を意外なものを見るように見下ろしていた勇儀は、やれやれと肩をすくめた。
その場にしゃがみ込み、床に這いつくばるパルスィの目線に近づく。訝しむ間もなく悪魔の調味料を、そのラベルを突き付けた。パルスィは危険物に尻ごみをするが、それを許さない。
「いいかい、橋姫。これはさっき言っていたソースさ」

サドンデスソース。
必殺必中(ただし辛党は除く)死のソースである。
デスソースはそのままの意味だったのだ。伊達や酔狂で冠しているわけではない。


「なんだ。橋姫は嫉妬なんてゲテモノ食いの癖に、辛い物が駄目なのかい」
「唐辛子以上に辛いものなんて口にしたことがないもの。ゲテモノ食いはあんたのほうじゃない」
「あれも唐辛子なのにねえ」
そんな馬鹿な。規格外にもほどがある。
くっくと笑う鬼に茫然としていると、唐突に液体で満たされた杯が差し出された。中で躍った水滴がふわりと香る。
これが何かを問うまでもない。
「期待には添えなさそうだから、せめてこちらは奢らせておくれ」
くいっと杯を傾ければ、芳醇な香りが口に広がる。舌先から鼻に突きぬけていく
それには一切の嫌みはなく、深い味わいの中にもしっかりとキレがあった。
すきっ腹にはいささか刺激が強い気もしなくはないが、胃に流れ落ちた熱は心地よかった。喉を焼くほどには苛烈ではなく、舌と脳髄ばかりを溶かしていく。身体がぽかぽかと熱を帯びるのを感じた。
鬼でなくとも酒豪になるというものだ。
杯を両手で抱えたまま、パルスィの頬がだらしなく緩んだ。香りが際立つが風味を損ないかねないことを思えば、こうして常温で呑むのは正解だろう。つまみが味噌だというのも実によくかわっている。
一升瓶にしっかりとおかわりがあるのを確認して、一息であおった。奢りでなければまずこんな呑み方はできまい。叩きつけられる香りの渦に目を猫のように細める。

感動に打ち震えるパルスィに対して、勇儀は涼しい顔つきであった。

「気に入ったかい?私のお墨付きさ」
遠慮なくやってくれ。
鬼は手ずから二杯めを注ぎ、続いて己が愛用している馬鹿にでかい杯にも酒を満たした。徳利ではおいつくはずもなく、端から用意はされていない。一升瓶からの豪快な酌だったが、酒は一滴も零されることはなかった。酒の扱いはお手の物なのだろう。
期待していた言葉を得られ、パルスィは調子づいて杯を舐めた。
一心地つくまでは目が向かなかったが、手にしている酒器は漆を重ね塗りした上に金箔があしらわれていた。水底に沈んだ花弁のように金色が艶やかに躍る。シロの灰を思わせる揺らめき。
さすがだ。酒の絡みの諸事に鬼は一切の手抜かりもない。
パルスィはほう、と息を吐いた。
「嗚呼、なんて妬ましい」
「橋姫の十八番かい」
「こんな風にお酒を飲める鬼たちに嫉妬をしないわけがないじゃない」
「そうは言ってもおまえさんもそのお仲間じゃないか」
「そうかな?そううだったかしら」
小首を傾げる。
「なんだい、もう酔っちまったのか?呆けるには早いだろう」
「どうかしら……鬼の酒はきくわね。これは飲み薬が必要だわ」
「しょうのないやつだな!」
勇儀は口笛を吹いた。
商店のディスプレイのようにズラリと瓶の並んだ棚の前に立ち、とっておきを選び出す。封紙ラベルごと封を開ければ、よく熟成された品のある香り。もともとこの種の酒は万人受けはしないが、まろやかな甘みを残しつつ芋臭さをなくしたこの逸品をきっとパルスィも気に入ると勇儀は踏んでいた。焼酎を貧乏人の呑み物と揶揄するべからず。ましてや勇儀が手にしているのは、のん兵衛垂涎の3Mの一角である。
さっそく注がれた一杯を興味深げに嗅いでいたパルスィは一口含み目をしばたたせた。
「芋焼酎も捨てたものじゃないだろう?」
「こんなものまで幻想入りしているの?」
「まさか!特別な伝手で無理やり手に入れたのさ」
酒を飲みながらパルスィはしきりに美味しい美味しいと頷いた。
その様子を眺め、勇儀はチェシャ猫のように笑った。
「さっきは随分と怒り狂っていたけど、機嫌はなおったみたいだね」
「あれは……しょうがないでしょう」
おのれ、とか謀ったな、とか退治される妖怪のようなことを口走っていた気がする。規格外とはいえ、調味料一つで騒いでいた過去を思い出して、パルスィは顔を赤らめた。
顔をうつむけて焼酎を舐めた。やはりいい酒だった。
「どれ。つまみが味噌だけってのも淋しいから、何か作ってこよう。橋姫の肉をちょっとだけ分けてもらうよ、いいかい?」
「作ってこようかって……あなた、料理ができるの?」
「料理ってほど大したものでもないけどね。今みたいにふと、小腹がへった時に便利だろう?自分でちゃっちゃと作ってしまえば誰の手も煩わさないから、遠慮なく腹をすかせられるのさ」
勇儀はにやりと片目を閉じた。

 ○

「旨い酒だったな」
手にした酒瓶を床に転がして勇儀は言った。他にも同じように空になったものが4,5本。
酒樽さえも飲み干すと言われる鬼にしたら、微々たるものだ。日本酒と焼酎のチャンポンに気を良くしたパルスィはよく食べよく呑んだが、一方勇儀はというと普段の健啖ぶりを考えたら控えめだったと言えるだろう。だが、宴の終わりを告げた彼女の顔は満ち足りていた。飲み干してしまった酒瓶を未練がましく見ることもない。
杯を重ね腰砕けになったパルスィは対峙する鬼の横顔をなんとなしに眺めていた。力を誇り、その腕っ節でこの地底をまとめ上げているという評判からは想像することすらなかった、柔和な眼差し。そのギャップも人気の秘訣なのだろうか。
「また一緒に呑もう。いい酒が手に入ったら声をかけるよ」
社交辞令にはない熱を込めて勇儀は言った。舌の肥えた鬼がいい酒をいうからには、次もまた度肝を抜くようなラベルを目にすることになるに違いなく、パルスィは無意識に喉を鳴らした。
その様子を諾と捉えた鬼は満足そうに頷いた。
「そういえばまだ名乗ってなかったっけね。必要ないだろうけど。私は四天王が一人、星熊勇儀さ」
勇儀は座敷の真中で胸をはって言った。朗々と紡がれる自己紹介は、砕けた態度ではあるものの芝居の花形にだって見劣りしない堂々たるものだった。
右手を伸ばす所作に、パルスィは一瞬見とれた。
「……水橋パルスィよ」
酒の火照りで汗ばんだ己の手を少しだけ気まずく思う。服の裾で手汗を拭い、そろそろと控えめに上げた手を勇儀は見逃さなかった。
一回りどころか二回りも大きい拳は想像通り温かかった。常に川風にさらされている手には熱すぎる気もする。ゆっくりと上下に振られる。


妙な縁を結ぶこととなってしまったようである。パルスィは天を仰いだ。


  ○

二人で呑んでいる時の勇儀は、馬鹿騒ぎの中心にいる鬼とは信じられないくらいに静かだった。鬼の宴会では酒樽はたたき割りられ、グラスがいくつも砕かれる。そういう荒々しいものだと聞くが、パルスィの前に座る勇儀は大事そうに杯を抱えて呑んでいる。ちびちびと。
ジキル博士とハイド氏というのはオーバーな表現かもしれないが、どちらの顔も間違いなく彼女であった。皆に尊敬される力の星熊勇儀であることに彼女はちょっと疲れていたのかもしれない。連日の喧騒の疲れを癒すように、静寂をつまみに二人並んで酒を舐めた。宴会芸も、音楽も、華やかなものは何一つなかったが、勇儀の横顔を見ると穏やかな顔をしていたのだから、これはこれで満足しているのだろう。
とりとめない話をしながら二人は呑む。
ある時勇儀は酒造りをしてみたいと言い出した。発酵はどうするのかと問えば口噛み酒があるだろうという答えが返ってきた。勇儀は己のひらめきに満足げだったが、パルスィはため息をついた。何が悲しくて租借して粥のようになった米をべそぼそと吐き出さねばならぬのか。酔っ払いの口から吐き出されるのは汚物と戯言だけで十分である。米を口に含むのは清らかなる乙女でなければならないのだと講釈すると、ならば水橋がやればいいというので勇儀の頭を斜め45度から叩いて修理を試みた。
とりとめない話をしながら二人は呑む。
ある時パルスィはきき酒をしてみたいと言い出した。色んな酒を飲んでみて、ちょっとは自分の舌に自信がついてきたのだった。それならと勇儀が用意した蛇の目のお猪口を手に、きき酒の真似ごとが早速はじまった。舌の上で転がして味をみたまではいいが、香りを楽しんだ後吐き出す動作がどうしてもできない。ここまで楽しんだからには飲み干すしかないという酔っ払い的思想が邪魔をするのである。飲み込むきき酒もあることにはあるが、大量に呑むのは御法度だと知り、早急に挫折をした。勇儀はだろうねと、にやにや笑いながら酒瓶を傾けた。
とりとめない話をしながら二人は呑む。

 ○


「橋姫は器量よしだな」

勇儀は苦い笑みを浮かべて言った。二人だけのささやかな飲み会が片手では数えきれないほど重ねられた日のことだった。
酔いの戯れにねだられたパルスィが許した膝枕の上、四天王の一人が大きく息を吐く。トレードマークの酒杯は、ひっくり返しては不味いからと取り上げられている。
横になっては酒も飲めないしなと、大人しく差し出された杯をパルスィは舐めた。
勇儀は小さな湖が橋姫の唇を潤していく様をアルコールで潤んだ目で見上げた。くぴりと呑みこんだ雫を、口の端で赤い舌に舐めとる。何気ないその仕草こそが艶やかだと勇儀は思った。パルスィの唇は地底の雨風にさらされて荒れてはいたが、酒とつまみで血流のよくなり十分肉厚で牡丹のように赤々としている。
「それに優しいし」
我儘を受け入れてくれた膝をそっと勇儀は撫でる。
「鬼は審美眼がおかしいの?」
「まさか。鬼ほど優れている奴もおるまいよ」

「鬼ほど下賤の輩を軽蔑している者もいないでしょうに」
伏せた眼でパルスィは嗤った。
自嘲しているわけではない。パルスィは嫉妬喰らいの生き様を楽しみこそすれ恥じてはいなかった。人が嫉妬に右往左往する輩は愛おしく、その感情は甘く苦い。その喜びを他人が理解できる日が未来永劫来ることがなくとも。
今更鬼の一人や二人に軽蔑されたところで痛む心は持っていなかった。パルスィは勇儀の熊のようなちくちくする髪をそっと撫でた。大型犬を愛でている時のように心は凪いでいた。
トゥンク……と少女漫画ばりに心臓をときめかせるのは他の少女に任せておけばよい。調子のいい鬼にいちいちとりあっていては、心臓を機械仕掛けにしなければならなくなる。
「下賤な輩、か……」
本人に事実として淡々と告げられた言葉に勇儀は眉をひそめた。
「萃香のやつは確かにそう思っているようだね。他の鬼もわからない。だけど私まで一緒にしてくれるなよ、橋姫。私はお前と呑むのが好きだよ」
初めて交わした握手と変わらぬ暑さで鬼はパルスィの腕を掴む。身体を起こそうと重い頭をあげたが、なにを思ったのかふっと力を抜いた。膝の上へ戻る。
再び転がった勇儀の少し膨れた顔を覗き込むようにパルスィは身をかがめた。
「私も嫌いじゃないわ。鬼は気前がいいしね」
「仲間に対してケチになってもしょうがないじゃないか」
目を逸らした勇儀はぶっきらぼうに呟いた。
「星熊は博愛ねえ……宇宙船地底号かしら」
目の前の鬼と仲間だと言われてもあまりピンとくるものではない。勇儀とパルスィは地底というカテゴリの中に共に属してはいるが、橋という境界が間には横たわっていた。パルスィも一応鬼だと言えなくもないが、胸を張って言うにはあまりにちっぽけだった。恨みつらみで鬼になる人間というのは和洋問わず掃いて捨てるほどあるがその中でもパルスィは、血統書でも付けてやりたいほどのしゃんとした鬼連中には若干煙たがられていた。
数回杯を交わしたとはいえ、その目に見える隔たりはそう消えるものではないはずだった。この人懐っこい四天王にとって他人とは、一度会ったら友達で毎日会ったら兄弟なのだろうか。とんだドレミファどーなっつだ。
「そうかい」
勇儀は顔をくしゃくしゃにさせた。
「わかっちゃいたが、やっぱり違うんだな」
「何がよ、何とよ」
長い長い息を吐いた相手の顔をパルスィが伺うと、苦虫を口いっぱいに頬張って噛みつぶしたような顔をしている。額に深く刻まれた3本のしわ。ここにきて初めて見た表情のような気がする。
勇儀は身体を起こすと、パルスィが持つ愛用の品へと手を伸ばした。パルスィの手にはやや不似合いなそれも、持ち主の手にはよく馴染んで見えた。
勇儀は手の中に納められた杯をもてあそんで、酒の海が作り出す波をしばし眺めた。言葉を探しているというよりは、言おうか言うまいか逡巡しているらしかった。鬼どものボスとしての眼光も、酔っ払いのどろりと曇った眼差しもそこにはなかった。
勇儀は杯をぐびりと飲み干す。
「橋姫と呑み交わすのは四天王仲間で騒ぐのと同じくらい楽しいって話さ。どちらも気を使わないし、気を使われないから楽なんだよ。ただ、そうなる理由は正反対なんだからなあ!」
やりきれないと頭を左右に振る。
「萃香たちは付き合いも長いし、気の置けない仲間だ。だけど、お前さんが私と気を使わない付き合いしてしてくれているのは、好意からじゃないだろう?興味がないんだ、私に」
パルスィは自分が零した発言が失言であったことにようやく気付いた。「興味がないなんて」反射のように口に出して、「そんなことない……」喘ぐように呟いた。
意義を言いたてたところで、そうとられてもおかしくない程度にはパルスィの態度は淡泊であった。今更言葉を尽くしたところで、勇儀の抱いている印象は覆るだろうか?閻魔に判決を言い渡された罪人のようにパルスィは茫然となった。
「わかっちゃいるさ、無茶苦茶を言っているってことは。えらく矛盾しているんだ。気を使われるのはおっくうで、そのくせ自分を大事にしてほしいなんて」
勇儀は申し訳なさそうな顔になる。
「気を使わないでいてくれる水橋だから、水橋にとって私がその他大勢の鬼でしかないんだろうってわかっちまうのがなあ」
それがたまらなく悲しいと、力の勇儀は見る影もなく肩を落とした。
肩を落としたからと言って実際に小さくなるわけでもないが、活力を失った生き物は弱弱しく見えるものである。鬼自慢の角がへたりと曲がりかねない有り様だった。
勇儀はこみあげてくるものを抑えるように、一度鼻をすすった。
そのスンという音にパルスィの胸はきゅうとなる。息ができない。身体の芯に氷を押さえつけられたような心地がして胸を抑えた。パルスィは奥歯に力を込めて、言葉にならない声が漏れるのを噛み殺さなければならなかった。
じわりと額に嫌な汗が浮かぶ。
蝋燭の頼りない明かりの下では、音と言えばグラスの中の氷が溶けてぶつかりあうものだけだった。

「……すまなかったね、もう仕舞にしよう」
長い静寂を割いて、静かに勇儀は夜の終わりを告げた。杯を逆さに伏せる。
封をきった状態のままだった酒瓶に栓をねじり込み、半ば強引にパルスィに持たせた。ケチがついてしまったから、家で呑みなおせと。
橋姫は閻魔のように白黒はっきりつけたがる性分ではないが、ここで打ち切られるのはしまりが悪い気がした。わけがわかない!苛立ちを隠さない叫びに、勇儀は途方にくれた顔をしていた。二、三口をパクパク動かして、結局言葉にならなかったのか無言で立ち上がる。
ふらふらと幽鬼のように歩きだした勇儀を追って、パルスィは気がついた。
行き先は玄関だ。

「今晩はもうお帰り」
そう言った勇儀の目からは涙がはらはらと零れ落ちていた。


  ○

「言いたいだけ言ってこっちの話には耳を貸さないのね!」
苛立ちのまま玄関を蹴っ飛ばしてやろうとも思ったが、誰かに見咎められてもやっかいだと思い直した。四天王にいちゃもんをつけていると決められたが最後、月夜の晩は無事ではすむまい。
では代わりに酒瓶を叩きつけて地面に呑ませてやろうかとも思ったが、勇儀が気に入りだと笑った顔を思い出すとそんな気も萎んでしまった。
斜に構えているせいで多くの物を失ってきたはずなのに。鬼の慟哭はいつかきた道であった。今日もまた同じことを繰り返す。
外からの暴風を厭うて立てた衝立は、心地の良いそよ風や木漏れ日すらも遮ってしまうものだ。

 ○

もう呑みに誘われることもあるまい。そう考え、幾分ましな着物を行李の奥にしまいこんで早一月がたった。ハレからケへの揺り戻しはあっけなく、何を混ぜているかもわからない安酒に舌が満足しだした頃だった。
いつものように橋のたもとに肩を預け、特に何が流れてくるわけでもない川を眺めていたパルスィを顔なじみの土蜘蛛が訪ねてきた。えっちらおっちら歩く様は陸をゆくトドである。彼女の妙な服装は陸を這うには向かないのだった。
飛ぶか跳ねるかすれば早いだろうに、気が乗らないのかヤマメはのっしのっしと道の真ん中を歩いた。そしてようやくたどり着いたかと思うと、どかりと隣に座り込み、挨拶もそこそこに「今晩勇儀の家に呼ばれているからよろしく」と言った。
不躾ないいように、パルスィは鼻白んだ。
「よろしくって何よ」
「鬼を歓待してきてってことさ」
「星熊が問答無用で呼びつけてきたというの」
驚いて顔をあげると、うんにゃと気の抜ける声を出してヤマメは首を振った。
「正確には都合がつく日を聞いてきてくれって頼まれたんだけど。その場で『今日の夜にパルスィはきっと行きます』と返事しちゃったんだよ」
「なに勝手してくれているのよ」
馬鹿がつくくらいまっすぐな鬼とどんな顔をしてまた会えというのか。最後に見た泣き顔を思い出して、服の裾を握り閉める。あの時、もっと掛けるべき言葉があっただろうと思うものの、では何を言えばよかったのかとなると気の利いた言葉は思い浮かばなかった。対峙していなくともこうなのに、二人きりになったら?いたずらに逢瀬だけ重ねてお互いを傷つけあうことにならないだろうか。
怖気づく気持ちに気づいてパルスィは己の矮小さを恥じた。
「わざわざパルスィの都合を聞いてまた勇儀のとこに答えにいくのって二度手間だもの。ねえパルスィお願い。友達を助けると思ってさ。あんたが無視したら私が伝言のお使いすらできないたわけだと思われちゃうじゃない」
「自業自得ね」
パルスィは鼻を鳴らしてみせたが、ふてぶてしい態度にはいつものキレがなかった。目ざとく気づき、おやっと眉をあげたヤマメに背を向ける。この顔をみられるわけにはいかない。
なんとなしに空を仰げば、それにならってヤマメも視線をあげた。
見えているのは苔むした岩や埃っぽい土の天井だけだ。星空や青空などと心が晴れるようなものはここにはどこにもない。
「何故星熊は私を誘うのかしら」
「淋しいからさ」
「あんなたくさんの妖怪に囲まれていて?」
「集団の中でだって孤独にはなれるさ。勇儀に群がっている連中はしょせんおべっかいいの顔色うかがいだもの」
わけしり顔でヤマメは懐から取り出した人参を齧った。一応土は落としてきているようだが、生だった。
気にする風でもなく、土蜘蛛はボリボリ齧る。
「私だって星熊の太鼓持ちみたいなものじゃない」
「太鼓持ち舐めんな。どうせパルスィは鬼と呑んでいても、何か芸をやって盛り上げたり気の利いた話題をふったりしないだろ。そんな合コンに参加するもおしぼり配ったり料理の配膳をしたりを綺麗どころに先にやられてしまいテーブルの隅でから揚げとか齧って愛想笑い浮かべている系女子が太鼓持ちとか片腹痛いわ」
牛のように人参をもごもごと租借しならがヤマメは憤った。地底のアイドル、もとい宴会芸人としては聞き捨てならなかったらしい。昨今のアイドルは人参だって生で食べるようだ。実にワイルドである。
「お腹が減るからやめて。あとヤマメってから揚げに勝手にレモンをかける系女子よね」
「今度からパルスィのにはタバスコをかけるよ。……つまり私が言いたいのはだね、こんなじゃれあいをする相手が今の勇儀にはどれだけいるのかという話さ」
「無理やりまとめるわね」
「このままじゃパルスィとグーパンで殴り合うことになりそうだから」
「せめてそこはスペルカードを使いなさいよ」
「私とパルスィならいい殴り合いになるよね。夕日をバックに今度やってみようか。だけど問題は勇儀だ。この地底に彼女と力の釣り合った相手がどれだけいるのかという話でもある。ピラミッドの頂点は孤高にして孤独なのである」
「ひっぱるなあ」
「そこでパルスィの出番だよ。最後に立っていた方が勝ちのルール無用のデスマッチ!強敵私こと黒谷ヤマメを倒し、ステージ2、ラウンド1ファイ!」
「なんでよ。星熊となんてやりあえるわけないじゃない」
「確かに。確かにパルスィは勇儀にワンパンで殺されちゃうだろうさ。だけど、勇儀は呪術的な力はからっきしでね。パルスィの力をもってすれば瀕死くらいには追い込めるだろうさ」
「結局殺されるんじゃない。そういうヤマメだっていい線いきそうだけど」
「私かあ。勇儀は黒星病とか天然痘とかにかかっても死なささそうだねえ。あ、でも狂犬病なら死ぬかな。お酒飲めなくなって」
「さりげなく黒星病って言っているけど、それ植物の病気よね。せめてそこは黒死病チョイスしてやりなさいよ」
きっと今日も地霊殿でさとりが、バラの葉にちる黒点に悲鳴をあげていることだろう。リン酸、カリを多く含む肥料が効果的らしい。散った葉をこまめに掃除することも忘れずに。
土に半ばまで埋められた勇儀に、鼻歌を歌いながら肥料を施すヤマメを想像してパルスィは頭を振った。額の角が花とすり替えられていても、違和感がない。
平和的で実に狂った光景を描き出す自分の脳みそにため息をついた。

「あなたと話していると疲れるわ」
「疲れたなら、酒で喉を潤してくればいいじゃない」
ヤマメを睨むと、けろりとした顔でひゅーひゅーと下手な口笛を吹いた。ひょっとこのようなとがった唇に不満をいう気も失せる。
「……あなたの話、乗ってあげる。私もあいつの顔がみたいし」
オブラートに包み切れなかった言葉に、他でもないパルスィ本人が驚いた。
「そりゃ助かる。愛しているよパルスィ」
「私も愛しているから、今度からはこちらの都合も考えてほしいわね」
「心に留めておくよ。恋も病もひきはじめが肝心さ。あとは二人でうまいことおやりな」
お見通しらしい。
勤めて口をへの字に曲げれば、ヤマメはにやりと笑って投げキスの真似をしてきた。地底のアイドルは今日も愛を振りまいている。

かくしてパルスィは、次はあるまいと思っていた勇儀との飲み会へと出かけることとなった。女の感というのも存外当てにならないものである。


 ○

期待半分気まずさ半分で顔を出したパルスィを迎えたのも同じような顔だった。てっきり呑んで待っているだろうという予想は裏切られ、呼気の中に酒精はなかった。似合わないエプロンを首から下げてるのは、つまみを作っていたからだろうと察しがつく。醤油とみりんのほっとする香りが部屋に広がっていた。
視線を宙に走らせ、いらっしゃいと勇儀は頭をかいた。
パルスィにとって間取りまで承知している勝手知ったるなんとやらではあったが、大人しく家主の背中についていった。前をゆく勇儀の茶汲み人形のようにぎくしゃくとした歩みに普段なら噴出してしまうのだろうが、冗談を云う気にもなれなかった。つられるように不自然な足取りになり、二人して緊張しながら歩いた。
広いとはいえ、そこは個人宅だ。目的地はあっという間だ。
通されたのは床の間に花が一輪活けられた8畳ほどの部屋だった。朱色の座布団が二枚、椀と杯を挟んで向かい合わせで置かれている。上座をすすめられたが、それを無視して上座の隣に陣取った。
板の間ならまだしも、座布団がないからといって尻を痛めることはあるまい。
勇儀はその無作法に何も言わず、パルスィが辞退した席へとドカリと腰を下ろした。
「先日は悪かったね。水に流して今日は楽しもうや」
「ええ、そうね」
それきり会話が続かない。
あたりさわりなく、元気にしていかたと問えば「まあね」とかえってきた。
それはそうだろう。四天王の一人が床に臥していれば、縦穴にだって噂話の一つや二つ流れてこないはずがない。見回りや会合やらにかこつけて連日飲み会だったことはなんとなく想像がついた。
パルスィのいない宴会で、彼女を慕い取り囲む大勢の妖。その中で勇儀はちらりとでも地殻の下の嫉妬心のことを思い出してくれただろうか。今日、声を掛けられたということは期待してもいいのか。
一か月は長くて短い。
変化が乏しい地底でも、話題を貯めるには十分の期間である。見聞きしたニュース、通りすがった連中との会話、ふいに思いついたくだらないこと。もう会うことはあるまいと思っていたものの、彼女に話したらどんな反応が返ってくるかしらと頬づえをついて夢想したりした。己を淡泊だと信じていたパルスィはその奇行に大いに戸惑いを覚えた。勇儀の家への道すがら、なんとなく話すことリストを脳内で作成してはいたが、いざ目の前にしてみるとそのドキュメントはエラーを訴え開くことができなかった。
会話に詰まったら、天気、出身地あたりの会話が鉄板だが、今それを使うのも間が抜けている気がする。そも地底に天気らしい天気もない。
「星熊……あの」
言葉を詰まらせたパルスィの顔を、勇儀はじっとのぞきこんだ。もごもごと次の言葉を紡ぎかねている様を見て、急がないからゆっくり話なとでも言うように小さく頷いた。
生き馬の目を抜く宴会と違って、これは仲間内の晩酌だ。幸い勇儀は見かけに反して気は長いようだ。
前回の余裕を失った彼女ならともかく、今日なら一晩でも言葉の続きを待ってくれるだろう。だが、それでもパルスィはこれ以上勇儀を待たせたくはなかった。
唇を舐め、相手を見つめ返した。意外とまつ毛が長いなとどうでもいいことを思った。
気持ちだけが先走り、じっと相手の顔を伺い。そして諦めた。
「ほら、星熊」
パルスィがポンポンと膝を叩くと、その意図を解した勇儀は驚いた顔をした。
「上手に言葉にできる気がしないし、どうしたらいいのかもわからないけど……これなら、以前喜んでくれていたみたいだし」
「膝枕かい」
「お嫌かしら?」
澄まして言ってみせれば、とんでもないと鬼は慌てた。
恐る恐る頭を膝に乗せる姿は2回目とは思えないほどで、どこかに置いてきたらしい前回の図々しさを少し恋しく思った。パルスィが怖気づいた分だけ、距離を彼女は半歩引くことを覚えてしまったのだろう。二人でいたいのならば、ヤマアラシの抱えるジレンマに倣い、落ち着くべき場所を見つけなければならない。
手櫛で髪をすいてやると、勇儀は気持ちよさそうに目を閉じた。
甘える子犬のようだった。
「この一カ月橋姫は元気だったかい?」
「元気よ。嫉妬に精が出たわ」
「橋姫らしいなあ!」
呆れたような声を出しながらも、勇儀は歯を見せて笑った。
「……私はさっき言った通り元気だったけど、家に帰ってきて雑魚寝してるとさ。妙に落ち着かないんだ。身体崩して楽にしているはずなのにさ。腹出して寝るなって叱ってくれる人がいないんだもの。妙な心地さ。柱の影からでも、パルスィがひょっと顔を出せばいいのにと思ってた」
「私なんて有象無象の中の一人だし、どこがいいのかわからない」
ぽつりと漏らした言葉に、膝の上の勇儀が身じろいだ。
「お酒をすすめられたら夢中になって、あなたに酌をしてあげるのが疎かになるような女よ?」
ヤマメは鬼を歓待してこいと言ったが、パルスィが酒の相手として勇儀にあれこれ世話をしたことがあっただろうか。むしろ接待してもらっていたように思う。招待されていたとはいえ、さすがにまずかったのではないかと自分でも思う。遠慮は必ずしも美徳とは言えないが、ずうずうしさが悪徳であることは断言できる。
顔を曇らせたパルスィを、勇儀は笑い飛ばした。
「そんなに気に入ってもらえたら選んだ甲斐があるってものだね。酌だって、相手に呑みのリズムをコントロールされているような気になるから毎度毎度はしてくれなくてもいいのさ」
「今こうして膝枕をしてあげてても、足が痺れてきたらきっとあなたを放り出すわ」
「変に我慢されるよりもそっちの方がいいさ。そういうあんただから私も気兼ねなく甘えられるんだ」
パルスィの膝の上で、勇儀は目を閉じた。気持ちよさそうに伸びをする。
「こんなに無防備にだってなれるのさ。動物だってほら……腹を見せるのは信頼の証とかよく言うだろう?」
「腹の一つや二つであなたがどうこうなるとは思えないけどね」
勇儀の腹筋は鉄板と大差なく、弱点には到底なりえない。ぺしぺしと腹を叩くと、勇儀はくふふと笑った。
身をよじって逃げるわけでもなく、ただ、じゃれ合いを楽しんでいる風であった。破願した勇儀はゆったりと息を吐く。
ヤマメの言っていたように殴り合いとまではいかないが、小突きあいくらいならいつかできるようになる。そんな予感がパルスィを包んだ。

「……私、最初はあなたのことを誤解していた。小路で声を掛けてきたあなたは私を浮れ女として扱うと思ったわ」
「突然声をかけられもすれば、警戒しても仕方ないわな」
「あなたが遊び人じゃなくてよかったわ」
「あー……うん、……今はそういうことは、ねえまあ……お……追々?」
ごにょごにょと濁される語尾。
「はい?」
態度は悪いが、聞き取れないものは仕方がない。開き直って、もう一度言って欲しいとのニュアンスを込めてパルスィは顎をひいた。メンチをきったわけではない。断じて。追々、何をする?疑問符を浮かべるパルスィに、勇儀は背筋を伸ばした。膝の上での動作が様にはならなかった。
じろりと見下ろされる目に、恐る恐る口角をあげた勇儀。苦虫を噛みしめるどころの話ではない。
パルスィはかちこちの頬をむにっと摘んだ。マッサージのつもりであり、他意はない。
勇儀は降参だというように両手を上げた。

「……今はこうしているだけでも割と満足さ」
「あら、そう?なら今日くらいはお酌をしてあげるわ、勇儀」
「ありがたく頂戴しようか、パルスィ」

夏も終わりを告げつつある。外ではコオロギが大合唱だ。
窓際にススキでも飾り酒を掲げれば、酔っ払いだって風流だと言うに違いない。月見で一杯。乙なものだろう。
濃さを増していく夜の闇の中、二人は乾杯をした。
通勤の途中、庭に小さな畑をもつ、趣のある平屋建ての家が解体されているのを見かけました。
にほん昔話にでてくるような素敵な家でした。穏やかで、温かで、私はその家が大好きでした。
必要とされなくなって、幻想郷にでもいくのかもしれません。

久しぶりに小説を書きたいなと思ったのは、それがきっかけでした。
それがなんでこんな酒くさいはなしになったのか……
しばいぬきち
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.670簡易評価
3.90奇声を発する程度の能力削除
とても良かったです
4.100名前が無い程度の能力削除
この雰囲気がとても好きです
氏のほかの作品も読んでみたいです
7.100名前が無い程度の能力削除
しばいぬさんのレイアリを読み返しに来たら
久々に投稿されてて凄く嬉しい
相変わらず魅力的なお話を創りますね