Coolier - 新生・東方創想話

Green Eyed Plastic Soul

2014/08/06 12:28:44
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 以下の事柄を私が記す事になった次第に関して――異変として容れられなかったこの事件が、記録できない事を阿礼乙女は惜しみ、事実ではなく虚構の体裁で遺す事を発想した。そこまではわかるが、お鉢が私、古明地さとりに回ってきた事に関しては、よくわからない。私が物語を書くにあたり、編纂者とは手紙を通してのやりとりしか行っていない。嫌われたものだ。
 そんなわけで、これを正史――幻想郷の歴史における正典と受け取られては困る。当事者には取材を行ったが、想像の余地のある部分には創作も多く含まれている。覚り妖怪には想像する以上の事はできないのだ。ご容赦願いたい。

 事件の発端にはさしたる理由があったわけでも無く、しかも事は奇妙に深刻だった。異変と受け入れられなかったのは、この辺りの事に依るかもしれない。そもそも異変とは子供のごっこ遊びと変わりないものだが、今回に関しては怪我をともなった遊びだった。俗っぽい例えを出すならば、箪笥の角で小指を打った時の事を思い出して欲しい。ちっぽけだが鋭い痛みに悶え、後には気恥ずかしさの混じった、ほのぼのとした放心が続く。致命的ではなかった。しかし骨を折っているかもしれない。
 スペルカードルールが制定されて以来、異変には通過儀礼としての側面――祝祭的な要素が濃くなりつつある。少女達は決闘を行う事で一人前の人妖として幻想郷に受け入れられる。異変を起こす事、巻き込まれる事、解決する事は、一種のステータスとして認識されつつある(蛇足の話で、通過儀礼としての異変を論じるならば、たとえば紅魔館の主などは最たる例だ。彼女は紅霧異変の後には性格がやや落ち着いたと聞く。吸血鬼の人間的成長というのも不思議な言い回しだが、精神的に成長できる動物は人間しかいない。善かれ悪しかれ、彼女は幻想郷に受け入れられて、成長した。もちろん私も、私の妹もそうなのだろう)。異変とは、妖怪達が自我を確認する為に起こした――もしくはその過程で起こってしまった――遊びに過ぎない。異変の関係者にとって重要なのは、弾幕それ自体ではなく、登場人物として認知され許容される事なのだ。
 異変には物語が必要だった――というより、物語が存在する事が、今や大前提となっている。物語が無ければ異変として容れられず、後世には語られない。今回の場合、事件を解決した者はいても、舞台を縦横に駆け回る主人公はいなかった。博麗の巫女は手痛い失敗を受けて、語る口を噤んでしまった。ただ事件の経過を記すのみでは、物語を成立させる事は難しい。
 ところで、この事件の隅っこで興味深い動きを見せた人々がいた。彼らの話をしようと思う。その話をするには、事件より時間を遡らなければならない。
 以下は私の創作である。

 地上の光が小さな点となって垣間見える。その針のような眩しさに、少女は緑に光る眼を細めて呟く。
「幻想郷は沈下中。汚らしい地獄の底へ」
 烏天狗の襲撃は嵐のような出来事で、金髪緑目の少女は叩きのめされ、蹂躙された末にその姿を写真に収められた。こう記してみると、二人の新聞記者がまるで強姦魔のようにも思えてくるが、少女の心象としてはまさにそうだった。
「鼻欠けにでもなってしまえばいいのに」
 ぼそりと呟いてから落下を緩め、隣を見やる。襲撃を受けた時、道連れがいた。顔も知らない道連れ――。スカートの襞と赤いリボン、緑の髪がひらひらと舞う。
「あの天狗のせいね」緩やかに落ちながら、赤いドレスに緑髪の少女は柔らかに笑った。「彼ら、とてもちぐはぐな事をするのよ」
「そうなの?」
「天狗の新聞大会では、真実をいかに捏造するかが競われるの。そういうのが素晴らしい記事らしくて」
「なんとも衝撃的」緑目の少女は自由落下を止める事にした。「……ところで、もしかして人間?」
 質問をしながら減速し、体勢を立て直す。
「いいえ」と相手の少女は苦笑いして答える。「あまり見つかりたくはなかったのだけれど」
 その言い様に首を傾げる。「まるで地底に忍び込みたかったみたいね」
「そういうわけでもないの」少女はそっぽを向いて言った。「人目に触れたくなかっただけ」
「あら、忍者ごっこ?」と訊いた方は肩をすくめる。「――まあともかく、こそこそ忍び込まれるのは、ちょっと気に食わなかっただけよ。別に通っていいわ」
「どうも」少女は縦穴を降りかけ、ふと止まって相手を見上げた。「幸運な一日を」
 含みのある言い方に、見下ろす方は皮肉っぽく言い返す。
「天狗に出歯亀されただけでも、今日一日は充分に不幸よ」
 相手はその言葉に白い歯を見せて笑い、唇の動きも明確に答える。「それだけで済めばいいけれど。――それじゃあね」
 そのまま自由落下的にきりもみしながら落ちて行く少女に、残された側はどことなく不満を抱きながら見送った。
(可愛らしい服を着ていた)
 自分のいまいち垢抜けない服装を見返してみる。どうも良くない。思い返してみると、苛々としてきた。
 ひとつ、からかってみる気になった。方法は後で考える事にして――このあたりが彼女の軽やかさで愚かさなのだが――とりあえずはひらひらと、旧地獄の底まで落ちていく事にした。

 底まで行き着いて、ようやく呼び止める事ができた。
「……引き止めるつもり?」
 身構える相手に少女は
「いいえ、決闘ごっこはもうたくさん」と実感を滲ませる大げさな溜め息をつき、親切心を持っている素振りをする。「案内してあげようと思って」素っ気なく言い、それから最低限の理由を添えた。「……暇だったからね」
「それはありがたいのだけれど」言われた方は苦笑いをしている。「私にあまり関わらない方がいいわ」
 そう言われて「迷惑?」と恨めしそうに返し、罪悪感を差し向けてみる。
 相手は「そうでもないわ」と景色を眺めた。「――この辺り、地底に水の流れはあるのかしら」
「有るかもしれないし、無いかもしれない」
 少女は慎重に答える。決して嘘ではない。幻想郷の常で、地理方角が著しく変わる事がある。
「地上の川の一部が流れ込んでいるようなの」相手は説明した。「どうもそこに取り損ねたものが落ちているようなので」
「取り損ねたもの?」
 問いかけに、少女はニッコリと笑う。これ以上素性を隠し立てしても、むやみとついて回られるだけだと考えたようだった。
「私は人間の厄を受けて、神様に渡しているの」
 少女は緑色の目を瞬かせ「厄神様ってわけね。――残念だけど、地上からの水の流れなんて見た事も聞いた事も無いわ」と本当のことを言った。
「そう」相手も困った顔で溜め息をつく。「天狗にからかわれただけだったわけね。――そういえば貴方は」周りを見渡して、再び相手を見据える。「随分と殺風景な場所で遊んでいるのね」
 緑目の少女は「地底は隅から隅までこんなもんよ」と主観を言った。「酒と馬鹿騒ぎの為の場所。私は馬鹿騒ぎの方は好きではないけれど――なんなら、今から飲みにでも行きましょうか?」
「嬉しいけれど、杯を受けるわけにはいかないわ」厄神は答え、宙にふわりと浮いた。「また、厄を落とした時にしましょう。地上に戻らせてもらうわ。縦穴の番人さん」
「橋よ」彼女は厄神の少女を見上げながら言う。「この縦穴はあの世とこの世を繋ぐ橋。私はそれを渡る者を見守るの」
 厄神は納得した表情になった。「じゃあ、貴方は橋姫なのね」と、その後に言い添える。「……そうなんじゃないかと思っていたけれど」
「地上に戻った方がいいわ」
 橋姫は素っ気なく言い、厄神を見送って地の底に取り残された。

「――地上の妖怪なんて、碌なもんじゃないよ」
 その夜の橋姫は、知り合い宅にて酒を浴びせあう事に終始していた。既に一人は桶を酒風呂にしてひっくり返っていて、板敷きの上では唐傘お化け――地上から降りてきたらしく、地底では見ない顔だ――が寝転がりながら傘を胸に抱き、寝惚けながら口三味線をしている。白い脛がちらちらと目につく。
 気を持っているのは橋姫と土蜘蛛だけだった。二人は地上に対しての恨みを述べてはいたが、本気で言っているわけではない。ただ四人ともが烏天狗の襲撃を受けていて、その話題を肴に飲み始めたから、惰性でぶつくさと愚痴を言っているだけだ。
 ただし、土蜘蛛は飲んでいる間に気がよくなっていたが、橋姫は逆に、飲めば飲むほどに怒りが募っている。その違いはあった。
「――だいたい、なんで厄神なんかを酒に誘おうと思ったのさ」
「なんとなくよ」
 橋姫はそうとしか言いようが無く、不機嫌に酒をあおった。
「なんとなく、からかいたくなったの」
「人をからかいたくなったり、遠ざけたり」土蜘蛛は何か言わんとしていた口を噤み、肩をすくめて、つまみ物の黄金虫をぼりぼりと貪りはじめた。橋姫は友人の悪食にうんざりしているが、いざこの虫の煎ったのを食べてみると水飴のように甘いので、余計に形容しがたい気分になった。
「とにかく、地上の連中と関わると碌な事が無いんだからさ」
 議論を締めくくるかのように土蜘蛛は言ったが、同じ言を繰り返すとは、やはり酔っているのだろう。
 橋姫はまだ収まらない。そう言っている土蜘蛛が、頻繁に地上で遊んでいる事を知っているのだ。
「……あの厄神こそ、地底に潜るべきだったと思うわ」
「ん、そうもいかないんじゃない? あれにもああ見えて、人の厄を引き受ける仕事があるんだから」
「そんなもの」喉を鳴らして酒を体に流し込み、言った。「放ってしまえばいいのに。そして地底に追われてしまえばいいのに」お決まりの文句を呟く。「――妬ましいわ」
 土蜘蛛は何も言わず、溜め息をつきながら酌をしてやった。

 その頃の厄神は、黄色く甘ったるい香の煙の中で、橋姫との遭遇に関して思いを向けていた。ちらちらと動く暖炉の火を眺めながらの追憶では、印象がおぼつかない。ようように捻り出した印象もなんとも貧弱なもので
(話に聞く嫉妬狂いにしては、思いのほか快活な子だった)
 というほどのものだった。
(あれも、胸の内では何を考えているか知れたものではないのかしら)
 作業途中――流し雛の試作品が散らばったテーブルの上を眺め、一人むなしく頭を振る。
 目的も無く、ふらふらと外に出る。秋の樹海は夜気も清々しく、彼女は空飛ぶ事より歩く事を選んだ。樹海を通り抜けると、妖怪の山の麓は、紅葉の神の意匠によって鮮やかに色づいている。
 山頂に神社ができてから、妖怪の山の周囲は随分と賑やかになった。山奥の天狗はいい顔をしなかったようだが、彼女は悪い事だとは思わない。山頂の神は胡散臭くて俗世に擦れていたが、学ぶべき部分も多い。そもそも厄神が流し雛を売るようになったのも、こんな周囲の変化に因る部分が大きかった。
 人や他の妖と関わろうとするようになって、様々な変化があった。最近では宴会や祭礼があると、人前に出る事ができるようにつとめている。周囲との付き合いも、以前に比べて増えた。物事は良い方向に向かいつつあった。世はなべて事もなし。
「紅深き顔ばせの」
 厄神は歩きつつ謡を口ずさむ。開ききった瞳孔には星の光さえ鋭い。その鋭さには見覚えがあった。地底の穴底からの日の光。そしてあの緑目の少女。どういうわけか随分と気にかかる。
(気に入ったとでも言うのだろうか)
 酔いに潤んだ目を擦り、散歩を切り上げる事にした。
(一晩すれば酔いも抜けて、彼女への執着も薄れるだろう)
 目論みはその通りになった。それから数ヶ月、彼女らは出会う事が無かった。

 大晦日の夜、厄神は厄を納めてから山を登った。山への参拝は、そちらの神社との付き合いでの事で、長居するつもりはなかった。
「博麗のところは百鬼夜行でしょうね」
 世間話ついでに、緑髪の巫女がぽつりと言う。標高が何千という数え方の山で、そのうえ天狗との間で参道を巡るいざこざがあったせいか、少ない参拝客は、やはり挨拶に訪れただけのようだ。巫女の方も、一通りの事が片付けば分社のある博麗神社に下るつもりらしかった。
「初詣に初百鬼夜行、初日の出がいつも通りの結末。他に初物は――と。今からでも退治に行きたいですよ」
 巫女の口調は、相手の神社が羨ましくて仕方が無いといった口振りだった。
(私もその妖怪の一人なのだけれど)
 厄神は山頂から辞した。東の空からまだ日は昇っていない。博麗神社が彼女の初詣となるだろう。

 博麗神社の場合、客は参拝客というよりは酔っ払いの妖怪――しかも彼らが目的にしているのは参道の出店や宴会まがいといったもので、それすらも許可は取らずに勝手に店出しされたものだった。
 挨拶に行ってみると、巫女にはうんざりした顔で適当にあしらわれた。どうやら、来る顔全てが妖怪である事に苛ついているらしい。例年の事だった。
 妖怪でごったがえしている神社を眺めて
(これはこれで趣き深いものだと思うけれどね)
 と思うのは、厄神が人ではないからだろうか。
 挨拶もそこそこに、参道の出店を見て回る事にした。ほとんどが野良妖怪や妖精の小遣い稼ぎ程度のもの。そんな往来の中をすり抜けて進んでいると
「遊んでかない?」
 と知り合いの河童に声をかけられた。厄神は、射的の賞品が夏秋の在庫処分であることを知っているので、適当にごまかす。
「ああ――久しぶり」と出店の裏に入り込み、一斗缶の焚き火に当たる。「それにしても冷えるわね――最近、沢にはいなかったみたいだけど」
「年末だと、何かと出入りが多いからさ。わかるだろ?」
「そうかな、私はいつも通りだったけれど」
「ほんっと、自分の事には無精なんだね」河童は呆れたように言う。「飲む?」と傍らをごそごそして取り出したのは、夏の炎天にふさわしいようなラムネの瓶だった。しかも例によって胡瓜味である。
「――それにしても、相変わらずの妖怪神社ね」とラムネには手を出さず、しみじみと話題を変える。
「もう何年もこんな感じだよね」河童は苦笑いして、思い出したように体を震わせ、焚き火に薪を放り込み、火を掻いて手をかざした。「でも妖怪神社になる前は無人神社だったわけだし――感謝して欲しいくらいだよ」
 と店の表に出て行った。
(人間からの信仰は無いけれど、妖怪からの信頼は相変わらずなのね)
 なんとはなしに髪を手櫛で梳り、指に絡まった髪の毛を焚き火の中に落とす。そうしていると、表の方が騒々しい。
 首を傾げつつ店の表に回ると、先の河童が土蜘蛛に掴み掛かろうとしていた。彼らの確執はよく知られている通りである。
(また面倒事になってる)
 と思っていると、土蜘蛛の傍らで頭を抱えている橋姫と目が合った。再会の感慨は無いに等しく、まずは各々の友人を乱闘から引きはがすべく、野次馬が集まり始めた一座に飛び込んでいく。
 どうなだめるかにあたっては、年末年始にかこつけることにした。
「あんたたちの仲が悪いのはわかってるけど」厄神は河童の肩を抱きながら言う。「水に流しなさいよ。もうすぐ新年なんだから」
(さっきから何度言っただろうか)
 言語の反復に、知覚が麻痺して単語の意味や品詞の用法も関係なく、平坦に発している錯覚さえ受ける。
 橋姫の方に目を向けると、やはりうんざりした表情になっていた。
「だって、売られた喧嘩だもの」と土蜘蛛は言っている。
「こいつ、わざわざ流感の季節に地上に上がってきてるんだよ――それもこんな人ごみでさ」
 厄神は溜め息をつく。「なにも新年早々に喧嘩騒ぎを起こさなくたって……それも神社の境内で――」懸念している事を言いかけて、さっと身を引いた。
 橋姫に至っては無情にも土蜘蛛を突き飛ばして、拘束と平衡を失った土蜘蛛は、河童の胸に飛び込んでしまう。
 橋姫はくるりと踵を返す。厄神も同様の行動をとっていて、二人は顔を見合わせた。
「……ああ、久しぶりね」
「そうね」
「どう? 飲みにでも――」
「いいね」
 引きつった表情で大仰な身振り手振りをしながら、足早に現場から離れる二人は、最後に河童と土蜘蛛を心配げにちらりと見つめた。哀れみの視線を受け、河童はきょとんとして土蜘蛛を胸に抱き続けている。
 巫女が喧嘩騒ぎの制裁を下した時には、厄神と橋姫は屋台店と参拝客の波間に身を隠してしまっていた。

「……ここがいいわ。この時季のは美味しいらしいし。――失礼」
 二人は焼き八目鰻の屋台に入り込み、席を詰めて空けてもらう。
「熱燗二つ。――それに串焼きも。私の分は味噌つけて炙ってちょうだい」
 手早く一通りの注文をする。串焼きを魚田楽にする注文は、河童の受け売りだった。こうすると八目鰻の油っぽい臭みが薄れる。
「久しぶりね」酒を待ちながら橋姫は言った。「会った時に飲みに誘ったのが、巡り巡ったのかな」
「――ああ、あの時のね」しばし首をひねった厄神は、ようやく思い出したといったふうに頷く。「あの時は誘いを無碍にしちゃって。……今日は厄も落としたし、朝まで付き合ってあげても構わないけど」
「それはいいけれど……」
 と来た道を見返す。
「あの二人、大丈夫かな」
「前にもこんな事があった」厄神は言った。「一杯やったら退散した方がいいかも」
「どこかで飲み直す?」
「お酒なら私の家に」
 とまで話が行き会った時、燗酒と串焼きが差し出された。
 橋姫は「それはまた、いい誘い文句ね」と呆れつつ杯に口をつけると、匂いだけで酔いが回りそうな芳しい香りといい、雪花を連想させる柔らかく溶けて喉を抜け落ちて行く口当たりといい、大味な地底の酒には無い繊細さを感じる。
「……妬ましい」
 酒に対して呟かれた言葉を、厄神は別な事のように勘違いしたらしく
「そういうわけでもないのよ。――そもそも私、山の友達も少ないし。……厄がうつっちゃうからね。でも最近は、遠ざけすぎるのもどうかなって思って」
「それで?」
「そうね……じゃあとりあえず、貴方は地底の、一人目の友人」
「……お互いの名前も知らないのに?」
「私は鍵山雛」
 ああ言えばこう言う式で答えられたので、橋姫は苦笑いしてしまった。この流れを断ち切ってしまうには、もう遅すぎる。すげない態度をとれば話は別なのだが、この緑目の少女は、そうするには情が深すぎた。
「……パルスィ」寒いせいか、酒が体を巡るのが早い。耳が熱くなった。「水橋パルスィよ」

 それから数日、年始の諸々の雑事が終わった後には、水橋パルスィは地獄と地上を結ぶ縦穴の中途で、うたた寝をしたり、借り物の本を読んだり、時には分身を引き出してつまらない二人遊びに興じたりの毎日を繰り返している。そんな暇を飽かした日々の中に、ひょっこりと鍵山雛が遊びにきた。
「もてなしはないけれど」とパルスィは言った。旧都に戻れば酒くらい手配できるかもしれないが、目の前の厄神は、だらだらと強いだけの地底の酒が得意ではない気がする。
 雛はニコニコしながら「貴方の退屈そうな姿を眺めているだけで楽しいわ」
「はいはい」と適当な返事を返す。もはや妬ましさすら無かった。「――それじゃあ退屈な私の為に、なにか面白い事を考えなさいよ」
「そうね……おままごとでもする?」
 パルスィは鼻で笑った。「子供みたいね」と言った後で、自分がままごと遊びをしている場面を連想する。羨望、憶測、嫉妬。良い結末に恵まれない事が確定している。
 パルスィは嫌な予感を振り払うように「……ままごとは嫌」と言った。
 雛は、相手の声にかかる陰に気がつかない。「じゃあ、ちょっと大人っぽい遊びにしましょうか」と言う声色がはしゃいでいる。
「なあに?」
「お医者さんごっこ」
「――そういう冗談は好きだけど」
 雛は無言でパルスィの背後に回ると、首筋にひんやりとした掌を当てた。頸部の脈動はにわかに早まり、熱くなった首筋と相手の冷たい手の対比が気恥ずかしい。
 そのまま肩を揉み始めたときは、拍子抜けした。
「……厄を払ってくれるのかと思った」と率直だが表面的な感想を言う。もっと別のものを期待していたような気もする。
「肩が凝ってそうだから」雛は肩をほぐしていく。「でも貴方、案外と普通の人よりも厄を溜めてないのね」と意外そうに言った。「いつもどこでも妬んでいるって聞くから、よほど厄でも溜まっているかと思ったけれど」
「言うだけ言ったらすっきりするものよ。そういうのは吐き捨てるものだもの」
「なるほど」と雛は虚空を見つめながら呟いた。「人生に大切な事はすでに学んでいるわけね。――雪」
 パルスィも顔を上げる。遥か縦穴の外から、地底の風に翻弄されつつ、性急に舞い落ちるものがある。地上の雪だ――地底のそれではない。
「もしかすると、地上は吹雪いているかも」ここまで雪が吹き込んでくるのは、あまりないことだった。「帰った方が――」
「そうねえ、どうしましょう」
 問いかけられた橋姫には、新年早々に押し掛けた負い目があったが、なんとなく気分ではない。
「……あまり地上の妖怪と一緒にいるところを見られたくないわ」と釘を刺した。「貴方も樹海に迷い込んだ人間を追い返しているらしいし、私の気持ちはわかるはずよね」
「最近は勝手にさせてるの」雛はぶっきらぼうに「そっちの方が、文句が来ないもの。追い返したら角が立って――」と言いかけて止める。「お互い愚痴っぽくなるとよくないわ」
 しばらく無言が続く。肩揉みの位置関係のまま身を寄せあう。
「寒くなってきたわ」
「耳元で囁かないでちょうだい」
 雛は面白がって「どうかしたの?」とわざと声を甘くする。
「くすぐったいから」
 そう言われた雛は、パルスィの尖った耳を、コリコリといじくり始めた。一瞬で顔が赤熱して、身を翻す。相手を睨みつけはしたが、顔が赤いのと上目遣いが潤んでいるのとで、端から見れば威嚇効果は皆無のように見える。
 ただ、声だけは剣呑さを孕んでいた。「――なにするのよ」
「……ええと、その耳、硬いのかなぁって」
 雛は少し戸惑って、言い訳にもならないことを言った。そうしてから「ごめんなさい」と小さくなって謝られると、パルスィも許すしかない。
「……悪いけどこれ、普通の耳よ」と的外れな事しか言えなかった。
「ふむ」
 次の瞬間にはけろりとした表情で互いの耳たぶを触り比べている雛を見て、どうとでもしてくれという気分になった。

 それからまた数日後、パルスィは酒の付き合いで地霊殿に向かった。ちょうど年始と春先の間にあるやや暇な時期で、彼女にとっては遅ればせながら新年の挨拶も兼ねていた。
 ところで、この嫉妬を操る少女は、忌み嫌われる覚り妖怪に友情の萌芽を感じている。簡単に言えば、性格の悪い同士で馬が合うような気がしていた。
「相手をしてくれる人がいないの」
 主である古明地さとりは、屋敷内を先導しながら言う。
「みんな働き者でね。それでも新年は酌相手をしてくれる子がいたけど……いなくなってみると寂しいものよ」
「私は敵娼ってわけね」酔っているせいか、舌の滑りも申し分無い。
 この橋姫は覚り妖怪への対処を心得ている。まずは図々しくとも思った事を口に出しておく事、そして早くに酔っぱらっておく事である。そんなわけで彼女は、招待を受けてから数刻もしないうちに、あらかじめへべれけになってから地霊殿を訪れたというわけである。
 捨て身の対策は効果を発揮したようで、さとりは酔いにねじ曲がったパルスィの思考にあてられて、頭をくらくらさせながら案内していた。
「……うちの火車を使いにやった時は素面だったようだけれど」
「正直に言うとね、覚り妖怪を相手にするには、こっちの方が楽なのよ」
「なるほど」さとりはニヤリと笑う。「今日は泊まって行きなさい。そのようでは、帰り道で襲われるわ」
「橋姫は犯した男にも情を移すものよ」しゃっくりを一つ。「そんなタチの悪い女に、ちょっかいかける馬鹿が居るかしら」
 さとりは肩をすくめて、いくつかの洋酒を用意したテーブルにつかせる。
「では足腰も立たないほどに酔わせて、無理矢理泊めさせましょう」
「それでは貴方が強姦魔のよう」橋姫は酔いに任せてぽつりと言った。
 覚り妖怪はこの言葉がどことなく引っかかったのか「酔っているけれど、微妙に自制が働いているみたいね」と、つい悪い癖が出た。「そう、誰がそうさせているのかというとね――男……でもなくて、恋人、愛人、いや――」目を丸くした。「友人?」さとりは考え込んだ挙げ句、安楽椅子の上で笑い転げ、それは相手のあからさまな不快に気がつくまで続いた。
「ああ――いや、ごめんなさい。なにを飲む? 三種類の酒があるの。サモトラケの酒にキプロスの酒、そしてシチリアの酒よ。これらはユデアのヘロデ王の御代からの曰く付きで、なんでも予言者の首を――」
「貴方の分析は、聞かない方が身の為のようね」橋姫は心を読まれる以上の事をされた気分で、苦りきって杯を突き出す。「注いで。今日は死ぬまで飲むわ」
 さとりは酌をしながら「貴方はその相手を意識する事すら恐れているみたい」と言わずもがなの事まで付け加えた。
 パルスィにはそれが気に食わない。

 春が近づくと、厄神は桃の節句の流し雛の事で特に忙しくなる。河城にとりの元に訪れたのは、相談があっての事だった。
「取りこぼした流し雛が、どこに行っているかって?」
「そう」雛は自らの想像を言う。「まあ私の説は変わらないけどね。たぶん川のどこかで水流が分かれて、地底に流れ落ちているのよ」
 想像に対し、技術者は頭を振った。「……単に幻想郷の外に流れているだけだと思うけれど。そんな場所は見た事も聞いた事も無いし……どちらにしても、私は地底には行かないよ」と釘を刺して「でもまあ、簡単な実験くらいなら手伝えるかな」と鉛筆を取った彼女は、デスクの紙の束から適当な一枚を引き抜き、さらさらとその場の思いつきを描く。
「――まず禊川の上流から下流までを、いくつかの区間に分割するんだ。そいで、川上から浮標を放流して川下で回収する作業を、区間毎に行う。なにかしら変わった事があるなら、その地点の結果に現れる。――どうかな?」
「ええ、それでいきましょう」即座に応じた雛は、相手の肩を叩いた。「じゃあ、準備はよろしくね」
「うげ……」
 にとりは嘆息してぶつぶつとぼやく。「こっちだって忙しいんだよ。――失礼、誰か来たね」と、予定にはない来客の対応に、逃げるように出て行った。
 残されて手持ち無沙汰になった雛は、鉛筆を手に取り、紙束の中途から無造作に一枚引き抜いた。単に落書きがしたかっただけの事で、紙面には既に走り書きが残されているのを見て、元の場所に戻そうとした。ふと手を止める。
 地底への縦穴の図が記されている。要点のみの簡素な地図で、目的地までの道のりしか記されていない。
(行きたがらないくせに地図を書くなんて、おかしな子)
 と怪訝に思っていたが、すぐになんとなく察しがついて眉をしかめる。
 そこに、にとりが戻ってきた。雛は慌てて別の白紙を上に重ねて、落書きをしているふりをした。もしかすると見つかっていたのかもしれないが、その後で堂々と下の地図を透かしながら敷き写しを始めたので、あまりの大胆さに河童は気にも留めなかった。
 突然の客は夜雀のミスティア・ローレライだった。にとりは手にしたカセットを弄んでいる。
「ベータマックスだね」
「ベータフェネチルアミン?」
「どうしてそうなるんだい……」
 ぼやきつつも作業場の隅のがらくたに手を突っ込み、ベータデッキを引っ張り出しながら「……テープを入手したはいいけど、見る手段がないってのは間抜けじゃないかな」
「そうは言うけどねぇ」と夜雀は首をひねっている。「拾った物だから……」
「どこで?」
 首を更にひねって答える。「……どこだっけ?」
「……それにこれ、水が入ってるよ。中身も黴びてるし」
「えー、見れないの?」
 にとりはデッキを抱えながら「河童の技術を舐めないでくれたまえよ」と鼻息も荒い。
 にとりは作業場の隅でスクリーンを準備しながら、デッキをまじまじと眺めているミスティアに「赤いボタンは押さない方がいいよ」と声をかけた。
 言われた方は頓狂な思考で「え、爆発するの?」と恐々聞き返す。
「……いや、上書き録画されるだけだよ」
「なんだ、普通じゃない」
「……あ、そこのそれ、持ってきてくれないかな」
 パイン材――というよりは松材で組まれたスピーカーキャビネットからは、やにが滲み出し、垂れて固まっている。
 雛は写し書きした地図を折り畳み、原本も元の場所に滑り込ませた。
「――ところでこれ、なんのビデオなの?」
 にとりが訊いたのは、上映の為に作業場の電灯を消した時だった。
「うーんとね、パンクバンドの精神病院でのライブだって聞いたわ」
 なんじゃそりゃ、と嘆息した。「よくわかんないな」
 ――ミスティア・ローレライによれば、この一本のベータテープが、後にバンド結成への決意を促したのだとか。もっとも彼女の発言の適当さには多くの例がある通りで、このエピソードにおける彼女の決意は、数多くある説の一つに過ぎない。なんにしろ、取材で語ったときは信じていた。馬鹿は間違った記憶でも硬く信じるものである。
 ともかく、こういった経緯で、鍵山雛は河城にとりの土蜘蛛襲撃計画を察知する事ができたわけである。

「確かに、そこはヤマメの住み処ね」
 パルスィが断言したのは、雛の家での事だった。流し雛の作業で手伝って欲しいからと早朝から駆り出された時には、内職の賃金でも吹っかけようかというほどに機嫌が悪かったが、事のあらましを聞いていると、どういうわけか事態が切迫している。
「でもまさか、ここまで彼女が怒っているとは思わなかったわ」
 雛はロッキングチェアにふんぞりかえっている。
「弾幕で決着をつけるつもりかな」
「それも微妙なところね」
 パルスィもいつになく考え込んでしまう。
「喧嘩するほどとは言うけどね。……私たちでどうにかできないかな。彼女達は敵対しているけれど、私たちそれぞれの友人なわけでしょ」
「……あの子と私は単に飲み仲間よ」
「そういう細かい部分はいいから」
 こんな調子で、どうも良い対応が思い浮かばない。
「――少なくとも、今夜襲撃される芽はないわ」雛は暖炉に歩み寄る。
「へえ、なんで?」
「今夜は夜雀の屋台に呼ばれてるのよ。いろいろあってね」暖炉から火を取り、香に着けながら言う。「ただで飲ませてくれるっていうから」
「それなら」パルスィは言った。「そこで先手を打つがいいかもね」

「悪いわね」その実ちっとも悪いと思っていない雛は、図々しく屋台の主人に言った。「私達までご相伴に預からせてもらって」
「いいのよ」あくまで上機嫌なミスティアの表情と口調は、客商売用のそれなのか、それとも性格なのか。
 雛の隣で、河城にとりはやけ酒に突入している。全ては厄神の連れてきた友人のせいだった。
「あのさ、八目鰻の血をタレにする事ってできる?」
「あいよ」
「またあんたはえらいもので食べるのね……」
 黒谷ヤマメの注文に関して、隣に座る橋姫はぞっとしないふうに感想を述べ、自らの串焼きにかぶりつく。
 河童は土蜘蛛をじろりと睨み、あからさまに舌打ちをして杯をあおった。自制されて行き場を見失った怒りは、雛へのぼやきとして発される。「――どうして土蜘蛛なんか連れてきたのさ」
 雛は「喧嘩してそれきりだったでしょう」とすっとぼけた物言いだ。「仲直りくらいはしておいた方がいいわ」
 にとりは肩をすくめ、事実の部分はどうあれ、雛を許す事にした。この人懐こい厄神ならば充分にあり得る話で、善意からのものであると納得できたのだ。
 ただ当然の事ながら、土蜘蛛へのわだかまりはおいそれと解消されるものではなく、この席でやりこめられないかと思案し始めた。しかし酒の勝負では土蜘蛛に分があるような気がする。
 土蜘蛛の弱点というのも、あまり知らない。にとりの土蜘蛛嫌いは無理解から来るもので、相手を知り尽くした上での嫌悪ではなかった。
 不機嫌に台をつついて杯を手に取るが、もう酒はない。もう一本燗を呼ぼうかと思った時、誰かが隣に座って酒を注いでくれた。顔を向けると、席を替えたヤマメだった。
 相手はあくまで朗らかに「この前の事、謝っておこうって思ってね。私はもう、去年の事だって流してたんだけど……」
 と、ちらりと外された視線の先のパルスィと雛は、知らん顔で酒と肴を楽しんでいる。この二人組に向けられた形容しがたい悔しさの方が先立つ。
 特に意味もなく、片頬を丸く膨らませた。「お節介な友達ってわけだね」
「お互い様にね」ヤマメは白い歯を見せて笑い、続ける。「――それじゃあさ、こないだの喧嘩の続きでもしようか」
 途端に複雑な表情になった雛とパルスィを見て、にとりは小気味良い気分になる。
「……いいね」勢い良く杯を干すと席を立つ。「来なよ。受けて立ってやる」
「ちょっとー、店から離れたところでやってよね」
 喧嘩早い酔客どもに、さすがのミスティアも一言添えて、その横では雛とパルスィが顔を見合わせて溜め息をついた。どうにもならない仲はどうにもならないものなのだろうか。
 結果として、この喧嘩は良い客寄せになったという。

 ひと月が経った。雪解けにはまだ早かったが、白く渦巻く川の水量は、間違いなく増えている。雛は睫毛が凍りつきそうな寒風に目を細めた。
 水路の土手を伝い歩き、小さな橋に行き着くと「このあたりでしょ?」と土手を下りて川岸まで行こうとした。
「危ないよ」にとりは注意する「私はいいけど、体にこたえる寒さなんだから」
「だいじょうぶ」雛は言った。「このブーツ、鉄板が入ってるから」
 見当違いの返答に呆れながらも、にとりは長靴の裏が気になってきてしょうがない。今しがた、半分凍った泥濘に足を踏み込んでしまったばかりだ。
「ちょっと待ってて――泥を落とすから」
 と道ばたにあった岩で靴の裏を刮げながら考え込む。
(この橋の上下で、流れ行く浮標の数が明らかに違う)
 これは明白な事実だった。気がかりなのはその部分ではなく、ここまで数日をかけた調査――浮標を放流しては下流で回収し、結果を集計する行為の結果が、くっきりと輪郭を伴っている事実についてだ。フィールドで思い通りの結果が出ているときほど慎重になるべきだと、経験則が囁いている。多くの技術者がそうであるように、彼女には潜在的なペシミストの傾向があった。
「……案外、橋の下に引っかかっているだけかもね」雛は暢気に言って、橋桁の下に顔を突っ込んだ。にとりは神経質に長靴の裏を岩に擦りつけ続ける。
「あっ」
 という声が響き、視界の端で雛が滑るように消えた。はっと顔を上げる。足を滑らせて、川に転げ落ちたのかと思った。水音はしない。ただ冬の終わりを暗示する、乱暴な泡立ったせせらぎのみが聞こえる。
「雛……?」
 にとりの口から言葉が漏れたのは、相手を気遣うというより、突然に一人取り残された寂寞を否定して欲しいが為だった。
 返事は帰ってこない。

 その頃、水橋パルスィは縦穴の岩場で暇を持て余している。彼女は退屈していた。
 あくびを漏らし、なにか悪巧みを思いついたふりをしてニヤニヤと笑い、気恥ずかしくなって舌打ちをするという、生産性のまるで無い行為を繰り返している。今や地底は、彼女の愉悦、悪戯心さえくすぐらない場所だ。愉悦とは勿論、痴情の果ての悲劇の事だった。
 二人の人間――巫女と魔法使いがこの旧地獄に乗り込んでからというもの、ぬるま湯に浸かっている気分だった。地底の界隈は、かつて無いくらいに面白くない。
 そんな橋姫も、人間の介入やスペルカードルールに、多少の期待を寄せた時期はあった。新しい登場人物と新しい規則はしばしば関係のもつれの原因になるからだ。しかし物事は期待通りとは行かず、かねてからだらだらとしていた日常は、更に延びきって締まりが無くなってしまった。鍵山雛との交歓すら、単に地上に出て行く為の理由でしかないのかもしれない。
(いつか、彼女を裏切ってみたい)
 発作のように思いつくと、いつの間にか傍らに自らの分身がいる。ニヤニヤと笑っているのが、無性に腹が立った。
(彼女は孤独だったと言っていたけれど)
 パルスィは分身の首に手をかけた。手に力を込めていく。雛が肩を揉んでくれたときの事を思い出した。あの時、もう少し手の位置が上だったなら。
(ひとりぼっちの妖怪は誰に嫉妬するのか)
 そのうちに、分身はぐるりと白目を剥いた。このまま死なせても悪いので、パルスィは拘束を解く。暫くの間、喉をわななかせて空気を欲していた分身は、落ち着くと熱っぽく恨めしげな眼差しでパルスィを睨み、そっぽを向いた。
(何が不満なのかというと、鬱憤を晴らす相手がいないのだろう)
 とは自分でも理解している。その点、いつの間にか喧嘩友達のような関係に落ち着いている土蜘蛛と河童が、ひどく羨ましい。
 鍵山雛との日常を思い返し、かねてから疑問だった事があった。厄神は厄を纏っているものらしいが、彼女が厄を振り撒いている情景を見た事は一度も無い。巫女や魔法使いも、恐らくは限りなく素に近い彼女に出会っている筈だが、不幸を被っているのかといえば微妙な所である。その上、行事や縁日にも顔を出すらしい。こうして考えてゆくと、不思議な事だった。
(周囲を不幸にするという話も、人間を妖怪の山に寄せ付けない為の方便なのかもしれない。あのお人好しならばあり得そうな事だ。そもそも彼女は――)
 肩を叩かれる。
「なによ」と分身にわざわざ返事をするのも妙な話だが、彼女はそうした。
 相手は甘ったるく耳障りな声で――自らの声とは基本的に耳障りなものである――睦言を言い、目尻を蕩かしながら体を擦り寄せてくる。暇と寂しさを持て余している自分自身を見てしまったパルスィは、分身を消した。気に入らないなら――利己的で一方的な愛が実らないならば、消してしまえばいいのだ。
(後には我が身が残るばかり――と)
 岩場の陰から物音がした。
 パルスィは首を傾げた。その場所は一枚岩に楔を打ち込んだように狭まる袋小路で、誰かがいるような場所ではない。その場所から人影が現れた時、彼女は思わず言葉を発してしまった。
「どうしたのよ」
 現れた鍵山雛は、パルスィの問いかけに答えない。
「……遊びに来るにしても、妙な所から出て来るのね」
 からかい気味に言った言葉も無視され、雛は青い顔でふらふらと歩いている。パルスィは焦れて、歩く先に立ちふさがった。
「顔色が悪いわね、どうかしたの?」
 雛は睫毛を伏せ、パルスィを半眼でぼんやりと眺めているようだった。
「今日は駄目ね」
 ぼそぼそと呟かれた言葉は、語りかける相手などいないかのような口ぶり。
「厄が溜まっちゃった」
 口調は相変わらず独り言のようだが、相手に異常を気づかせるには充分で、雛の周りを巡る淀んだ空気は、パルスィの体に絡み付き、刺々しい痛みで蝕み始めている。思わず、身を引いてしまった。
「ここは地底らしいわね」厄神の独り言は同意を求めていない。「また友達の為に来ようかしら」と、最後にようやく橋姫に微笑みかけた。それも一瞬の事だ。
 不吉さを湛えて地上へと戻っていく雛を、パルスィはぼんやりと見送る事しかできなかった。

 様々な事を処理しなければならない午後が落ち着き、鍵山雛は短い黄昏の中、椅子に背を預けつつ、ぼんやりと由無し事を考えている。
 川辺に取り残された河城にとりは、突如として消失した厄神をいたく心配していて、大事になりかけていた。
 どう言い訳を言ったかまでは覚えていないが、河童は多くを訊かず安心してくれた。もしかすると、なんらかを察して及び腰になったのかもしれない。なんであれ雛には良い事だった。
 焚いた香の煙にくらくらと目眩を覚える。香木が鎮静の作用をもたらしているのかもしれないが、雛にはわからない。
 目を瞑ると、途端に意識が混濁する。
(橋姫様には謝らないといけないな――無視しちゃったもの)
 夢へと沈み込む間、厄神はそんな事を思っていた。

 桃の節句も過ぎ、厄神は既に一仕事を終えた気分になっている。実際には流し雛を回収したり、そこから厄を集めたりの作業があるわけで、これからが本当に忙しいのだが、無人販売所共々、もう暫くは放置しておく事にしていた。
「売れ行きとか、確認してるの?」
 パルスィはロッキングチェアを揺らすのをやめ、じんわりと脳皮質に浸透していく酔いを受け止めながら尋ねた。
「ぜんぜん」テーブルに伏す雛は、夜明けの日が漏れ入るカーテンの隙間を眺め、あまりの眩しさに軽い吐き気を催し、頭を重たそうに揺する。「流し雛なんて、そのうちみんな自分で作るようになるし」と理由のような事を言って、すっくと立ち上がった。「少し、寝てくるわ」と、ふらふら歩きながら呟く。
「帰った方がいい?」
「休んで行きなさいな」
 と言ってみたが、パルスィは朝帰りで地底へと戻っていった。
 雛は寝室に戻るのも億劫になって、ロッキングチェアを派手に揺すりながら身を埋める。入眠までの数分間、この椅子が誰も彼もを抱いて受け入れいる事実に、奇妙で見当違いな嫉妬を感じた。恐らくは橋姫の残り香のせいだろう。

 橋姫は、地底への帰り際に道連れができていた。気まずい気分になる。相手の仕事道具である手押し車を蹴り飛ばしたのが、先日の事だったからだ。しかしこれは相手に非がある事だった。衰弱に爪まで剥がれ落ちた青黒い腕を鼻先に停められれば、誰だって蹴り飛ばしたくなるものだ。
「朝帰り?」
 火焔猫燐にからかわれ、パルスィは忌々しい気分になった。しかし、忌々しさに微妙な気恥ずかしさと優越感が混じっている。当人は、そんな心理には気がつかなかった。
「貴方は死体と一夜を明かしたんでしょう、妬ましいわ」と嫌味を返した。
「骨ばっかりさ」死体愛好家は素っ気なく言い、ちらりと背後を振り返る。「しつこいなあ、まだ追いかけてくるよ」
 パルスィも背後を振り返ってみると、春の暖かな日差しの中、空中にぼんやりと人影が浮いている。どうも違和感が気になって目を凝らすと、影は陽光にも否定されたかのように、黒々と妙に浮いて見えた。
「人喰い妖怪さ」燐は解説した。「昨晩はずっと、あいつと死体を取り合いしてたんだ」
「なるほど、熱い夜だったわけ」
「結局、骨しか取り分がなかったよ」と手押し車の覆いを指す。
「へえ、そんなに強かったの?」
「いや」燐は溜め息をつく。「どれだけ追い払ってもついてくるんだ。うざったいったら!」
「彼処にては光明も黒暗の如し」不気味さを感じたパルスィは、珍しく自分から提案することにした。「急ぎましょう。――さすがに地底までは追いかけて来ないでしょ」

 なにか気がかりな夢から目を覚ました雛は、昼下がりの気怠さを一人で乗り切られなくなっている自分を感じて、少し悲しくなった。
 暖炉を見ると、灰が白くなりかけている。外は暖炉の火が必要のない陽気だったが、夜はまだ寒い。暖炉に薪を放り込み、火が移って熾き火になったところで空調を閉じた。
 暇を持て余して、無人販売所を確認に行く事にした。
 道中は春の陽気を感じる事だらけで、厄神は妖精が遊んでいるのを見つけた。妖精というのは基本的に馬鹿なので、交尾中の犬の尻を蹴り上げたり、無理矢理交尾させてみたり、妖精同士で人間の交合の真似事をしてみたり、時々思い出したように悪戯してみたりと、だいたいやることの相場が決まっているのだが、今は弾幕ごっこに励んでいる。日常の光景だった。
 人里に入ってみても、いつも通りだった。里の人間は彼女を無視していて、無人販売所には代金の他に置き忘れがあった。本来は持ち主が回収するまで置いておくべきなのだろうが、決まって野菜や果物といった食物の類なので、腐らせるわけにもいかず、持ち帰る事にしていた。

 その帰り道、開けた農道で喧嘩を売られた。相手は幼児程度の背格好で、顔と名前は知っている。毒人形のメディスン・メランコリーだった。
 雛は相手を見下ろすように眺め「人間ではないみたいね」とわかりきった事を言った。
「人間なわけないじゃない」
「ええ、わかるわ」雛は別の事を考えていた。例えば、手にした春野菜が毒の匂いに痛まないだろうかといった、まあまあまともな懸念である。「それじゃあ妖怪ね。なんにしても私にはあまり近づかない方がいいと思うけど――なにか用が?」
「貴方、人形売りでしょう?」
「……そうね」
「じゃあ人形の敵よ」
 突然断じられた雛は、どうしたものかという困り顔になった。弾幕に使えそうなものなど、余り物のひなあられくらいしか持っていない。「……それでも私、悲劇の流し雛軍団の長なんだけど……」と言い返す。
「自分で自分を悲劇というのは気に食わないなぁ」
「アリストパネスは喜劇を純粋に肉体に基づくものとしているから、私にとっては悲劇なのよ」
「どういうこと?」
「心を持つ事は悲劇って事」
「なんのこっちゃわからないけれど」のらりくらりとした言い様にメディスンはなぶられている事を察して、さっさと決闘を始めさせろと言わんばかりに吐き捨てる。
 厄神はすっと目を細めた。どのみち戦わなくてはならないらしい。「まるで厄の塊を纏っているみたい」
「厄? スーさんの事?」
「――中国人?」
「スーさんはスーさんよ。スーさんの毒が貴方を倒すの」
「中国人を犯人にすべきではないわ」
 ぐだぐだと前口上は終わる。決闘の内容に関しては、あまり語るべきところがない。それは単に幻想郷の日常で、勝った方が捨て台詞めいた言葉を発して遁走するという状況すら、幻想郷らしいといえばそうだった。
 敗れた雛は、土壌に毒が染みていくのを見つめつつ、あの子は流し雛になり損ねたのかなと、よくわからない事を考えている。
 そのまま感傷にひたって夕焼け空を眺めていると、人影が里の道からやってきた。雛にしてみれば無視してくれてもよかったが、相手は眉をひそめて駆け寄ってきた。
「どうしたのよ、貴方」と言いかけ、そこで相手が厄神だった事に気がついたのか、一瞬の躊躇が感じられた。
「人形遣いの人ね」雛は苦笑いをする。「今日は、春先にしては暑かったわ」
 アリス・マーガトロイドは溜め息をつき「夜になったら冷えるわ。――ところでこの匂いは」と周囲を見渡した。
「貴方の友人じゃない?」もう何年も前、この人形遣いと毒人形が、紅魔館のパーティーで連れ立っていた所を見た事があった。
「――とにかく立ちなさい。ここは毒の匂いがするし、私の家にでも」

 人形遣いが調合した膏薬には、麻薬が含まれていた。弛緩作用で照明が眩しく感じられ、部屋を薄暗くしてもらう。
「……ちょっと前に、あの子と流し雛の話をしたわ」
 アリスは腕組みをしながら言った。
「二人で人里に出た時に、流し雛が流れていくのを橋から見たのよ」
「初めて流し雛を見たんでしょうね」
 雛の印象では、メディスンが入り浸っている竹林の蓬莱人は、雛人形になど興味が無いような気がしている。アリスも同様だったようで
「どころか、雛人形すら知らなかったみたい。……そうじゃなくてもあそこって、ずれた人ばかりだし」と批判めいた口調で言ってから話を戻した。「――でも、その場で流し雛の説明をしてあげたとき、怒っていたふうは無かったけど」
「本心を隠していただけかも」
 雛は周囲で立ち働きをする人形達を、ぼんやりと眺めていた。人間を憎む人形が、人形遣いと交流しているというのもどうなのだろうか。
 アリスは厄神の眼差しの先に込められた意味を汲み取ってか
「私は彼女の敵ですらないわ。私は人形に操られているようなものだから」
 と皮肉げな冗談を言った。言葉は、酩酊した雛に暗示のように作用して、人形遣いの操り糸が、逆に彼女の指を操作しているように見える。
「私を人形の奴隷だと思っているみたい」
 続けた言葉は本当のものだったのかどうか。
 その夜は泊めてもらう事にした。

 とうに夜半も過ぎて、水橋パルスィは頭を悩ませている。
 付き合いで引っ張られるように連れて来られた酒宴は、既に二次会に場所を変える雰囲気になっていた。単に居心地悪いのもそうだが、酔い潰れる事を恐れてちびちびと飲み下すのも、精神衛生に良い影響を与えていない。
「さあさ」
 杯を干すたびに酒を注がれるのも気に食わない。パルスィは相手を睨め付ける。
 睨まれた星熊勇儀は、気にも留めずに心地よく飲んでいる。
 二人はあまり仲が良くない――とはパルスィが一方的に勘違いをしているだけで、勇儀の方は橋姫に対して、無関心に近い付き合いを決め込んでいるだけなのだが、こうして一緒に飲んでいるのも嫌になってきた。
(なにかこう、席を離れる潮が欲しい)
「浮かない飲み方だね」
 思いためらっていると、勇儀が傍らで言う。
「別に」
 素っ気なく答えると、肩をすくめられた。
「なんだか、思い詰めているようにも見えるけれど」
(こういう、変に聡いところも苦手だ)
 パルスィは思わず舌打ちしそうになって、ごまかす為に酒をあおる。
「どうしてそう不機嫌なんだい」
「自分自身の心が解るなら、不機嫌になる事も無いでしょうよ」細く息を吐いたパルスィは、きっと相手を睨みつける。皮肉な事に、他人の心は手に取るように察しがつく。「おおかた『いつもはニヤニヤと人を小馬鹿にしている癖に』とか思っているんでしょうけど」
 勇儀は頭を掻きながら
「否定はしないよ、うん」
 とパルスィが干した杯を再び満たしてやって
「最近よく地上に出ているって聞いたけれど……」と気まずそうに話を変えた。
 橋姫は酒の強さにむせかけるのをこらえながら「地底の鬼もつまらなくなったからね」と当てこする。「地上の方が面白いのよ――少なくとも、こうして酔う為だけに、貴方と酒を交わすよりもね」
「こりゃきついね」鬼は苦笑いした。「でも――なるほどそうかもしれない」
 素直に認められてしまい、パルスィは拍子抜けする。
「特に最近は」勇儀は言った。「みんな妖怪らしく無いからね」と宴の余興を眺めた。
 パルスィは頷く。
(妖怪らしさとやらを重んじるのは、彼女らしいといえばそうだ)
 地底の妖怪は、地上から忌まれ追われた者――要するに妖怪の中でも、特に嫌われ者の集団と一般に定義づけられている節があるが、しかし実情は全く逆で、地底の妖怪こそが妖怪のあるべき姿である。彼らは地下に潜り、人前から姿を消したからこそ、いわゆる妖怪らしさを先鋭化させ、退化する事なく生き延びた。一方地上では、遠からぬ昔に吸血鬼異変というものがあった。地上の妖怪は間違いなく弱体化している。
(今や地底も同じ轍を通っている。妖怪の山の神のような山師が一人いれば、もっと酷い事になるのではないか)
 とは地底における公論のようなもので、その住人達が危機感を持たないのは、単純に自らの力を確信しての事だった。
(確信できるような楽観主義が妬ましい)
 パルスィにできるのは酒を飲む事だけだった。

「本当なら、私もついていくべきだと思うけれど」
 翌朝、玄関先まで見送るアリスの言葉に、雛は苦笑いした。それはそれで話がややこしくなりそうな気がする。
「いいえ、大丈夫よ。どうせ個人的な事だから」
 と断りながらアリスの家を辞した後、その足で竹林へと向かう。竹林の入り口で出会った案内人は、メディスンに関して次のような申し開きをした。
「最近は見てないわね。……よく知らないけど永遠亭にもいないみたいだし、この辺をほっつき回っているふうもないわ。おおかた、太陽の畑の妖怪のところにでも遊びに行ってるんじゃない?」
「そう……ありがとう」
 礼を言うが早いか、相手は天下の往来に寝転がり、再び雲の数を数え始めた。
(不死になると、割と暇なのね)
 雛は暢気に事を構えている。

 太陽の畑に辿り着く頃には、日が中天にさしかかっていた。
「毒の妖怪?」怪訝とも嘲笑うともとれる、暢気な口調で風見幽香は聞き返した。「厄神様が、そんな子にどういう用事なの?」
「ちょっとした意趣返しなの」雛は素っ気なく言った。「とは冗談で、その子の厄を取ってあげようと思って」
「心当たりはあるわ」幽香は日傘でもって指し示した。「丘を目指しなさい。今の季節は鈴蘭の花畑になっている。無名の丘」とまで言って頭を掻く。「あの子の人間嫌いも収まったと思っていたのに――意趣返しと言ったけれど、元はといえば貴方も同じようなものじゃないの?」
「私の事を人形売りで人形の敵と言っていたのよ。たぶん、流し雛を売っていたのを見ての事ね」
 幽香は鼻を鳴らす。「私も詳しい事までは知らないけれど――」
 言いかけた時、春の風が二人の間を吹き抜けた。
「毒の匂いがする」花の妖怪は無感動の中にも、押し隠した不快をちらつかせつつ言った。「花が毒を持つのは自然の事だけれど、今年は度が過ぎるわ」と雛を無表情で見つめた。「灸を据えるなら、存分にやってあげてちょうだい」
 雛は頭を下げて丘へと向かった。

 パルスィは二日酔いの頭痛に苛まれつつ、雛の家の扉を叩いた。反応が無かったが踵を返すわけでもなく、鍵のかかっていない家に押し入り、椅子にどっかりと腰をかけた。
(昨日の夜から帰っていないのかしら)
 白くなった暖炉の灰が、むらむらと嫉妬心を湧かせた。
(何に嫉妬をしているんだか)
 鍵山雛がどこでどんなふうに遊んでいようと、関係ないではないか。
(他人の不幸をつまみ食いしながら生きる小物妖怪の、どこに嫉妬するのか)
 考察するまでもなく、答えはわかりきっている。忌み避けられているはずの厄神は、地上を――人間を捨てなかった。人間に追われ、地上を捨てて地獄に下った橋姫は、そこに嫉妬している。それだけの話だ。
「私だって」パルスィはぽつりと、これだけは声に出して呟いた。「貴方達を愛していたのかもしれないのに、ね」
 おもむろに、もったいぶって目を瞑る。彼女が帰って来るまで、眠って待とうと思った。

「仕返しにでも来たっていうの?」
「そうね」雛はあっさりと認めた。それよりも気になるのは、鈴蘭畑に渦巻く毒の匂いだ。「昨日、貴方がやった事と同じ事をやり返してあげようと思って」
 メディスンは冷淡に「私は何もやっていない」と肩を聳やかす。「ただ弾幕でやりあっただけじゃない」
「そうかもしれないわ。人形さん」厄神は言った。「でもそれなら、私にも反撃する権利はあるってものよ――ところで、私も元は人形だったのよ。たぶん」
「元奴隷が奴隷を売るような話ってわけね」メディスンは物の本で読んだ事を思い出した。「そういうのが一番悪質なのよ」
「なにか勘違いをしているようだけれど」頭を抱えながらも、あくまで落ち着いた声色で返す。「まあいいわ……貴方はそのうち、その毒で自らを滅ぼすでしょうね」
「同じような事は閻魔様にも、竹林の薬師にも言われたわ」と認める。「でも薬師はこうも言ったわ。人間は自分の肺や内蔵を腐らす、腐食性の気体に頼りながら生きているって。それって私にとっての毒と同じようなものじゃないの?」
「……その薬師、暗に貴方は滅ぼされるべきだと言っているのね」雛は辛辣に言い返す。「それならば今の貴方は、人間の領域で生きるべきではないわ。火山の毒気を吸って、沼の腐り水でも啜りながら生きるべきよ」
 無理も無い話で、メディスンはこの侮辱に激昂した。今すぐにでも目の前の厄神を破壊し尽くしてやりたかったが、足が動かない。動かす事ができない。
 雛は自らの周りを渦巻く、どす黒い厄の中心で苦笑いした。メディスンはその笑みに恐怖を感じ始めている。
「ここには厄が溜まりすぎているわ……いずれ、貴方はひとりぼっちよりもひどい事になる。大好きなスーさんすら殺してしまうでしょう。――もう手遅れかもしれない」
 メディスンはようように口を開いた。「そんなこと――」
 雛は哀れみの視線と言葉を、ぶっきらぼうに投げかける。
「貴方の足元の鈴蘭、腐っているわ」

 季節が移り変わり、初夏になった。使われなくなった暖炉は、掃除もされていない。家主が無精なのだ。
「六月の月よ」
 雛の言葉に、パルスィは頷いた。開け放されたカーテンからは、満月の光が差し込む。もしかすると今現在かけられているレコードの事だったのかもしれないが、どちらにしても構わない話だった。
「晴れてよかった」
 と雛は言った。パルスィは
「別に土砂降りでもよかったけれど」
 と応じる。すると雛は、思いつきのように突然席を立った。
「晴れているのなら、外に出る事もできるわ――お散歩しましょう」
 パルスィは「逢い引きみたい」と素直な感想を言った。
 外の空気はまとわりつくように湿っているが、この後の季節に続くようなむせっぽさは無く、かえって涼しげだ。
「春は終わったみたい」
 樹海から出るまでの道のりで雛が口を開いたのは、この一度のみだった。
 二人には思い出す事がある。桜の季節、春の宴に、夜雀の屋台から帰っていた時だ。山道の脇の藪の中で、妖精が盛り合っていた。酔ったパルスィが変な嫉妬に駆られないうちに、雛は友人の首根っこを掴んで家に戻り、その場面を混ぜ返しては笑い合っていたが、変な気分になってきたのでやめた。春にそんな事があった。
 六月の満月の夜に、二人は同じ記憶を思い返し、顔を見合わせている。
「春は終わったのね」パルスィは神妙な表情で言った。
 雛は頷いて返す。「もう草木の青さも深いわ」
「春頃の話でいえば――」間を置くふりをして言葉を切る。「……あの人形の子、最近はどうなの?」
「今はもう大人しいそうよ」
 そう、とパルスィは生返事をする。本当に聞きたいのはその事ではない。一瞬のためらいが質問を変えさせていた。言わんとしていた言葉が内心を巡る。
(あの日、厄を引き摺りながら地底に現れた貴方は、何を見たのだろうか)
 結局、あの時厄神が現れた岩室の隙間は袋小路でしかなかった。思い返せば不思議な事しか無かったし、それからの彼女の挙動も、どことなくおかしいような気がしている。
(でも、私が彼女を親友のように気づかうのもおかしい。たぶん、親友でもなんでも無い、はずなのに)
 思わず苦笑いが顔に出ている。
「なによ」
 笑われてふくれる雛はいつもの彼女で、パルスィはほんの少しだけ安心した。
「思い出し笑いよ」とごまかす。「あの時はいつになく怒っていたなあって。……あんな貴方を見るのは二度目よ」
「二度目?」雛は睫毛を瞬かせる。「一度目なんてあったかしら」
 それとなく言ってみた事への食いつきは良かった。
「そうよ。あれはちょうど――」
 言いかけたその時、幻想郷の空は覆うような暗闇に閉ざされた。
「……月が隠れたのかしら」
 それにしてみてもおかしな暗さである。雛はともかくとして、パルスィは地底の暮らしも長いので、夜目はそれなりに利く。それでも一歩先を確認するのもやっとの暗闇だ。
「どうもおかしい」
 雛は自分の掌を宙にかざしている。焦点の合わない視線は、掌を捉えてはいない。
「本当の真っ暗闇みたい。ほとんど見えないわ」
 パルスィは「暗いところは慣れてるから」と手を引いてやることにする。なぜだか妙に暖かい手だった。
 直感的な不安が背筋を巡ったのは、踵を返して目の前に広がるのが、やはり暗闇だと知れたときだった。
 一歩先に踏み出す事すら躊躇してしまう。早くも方向感覚を失いかけているのだ。冷や汗と神経過敏で、背中に衣服が張り付く事に、この上ない生理的嫌悪を感じる。
「……パルスィ?」
 雛は不安げな口調で問いかけてきた。少なくとも耳の方はまともらしい。良い事に、それだけでも精神安定には効果があった。
「……思いのほか暗いわ」震える声で、我ながら馬鹿な言い草だと思った。「そこに石舞台があったわね。月が出るまで、座って待ちましょう」
 雛は疑惑を込めた口調で「……単に月が隠れただけとは思えないけれど」
 パルスィが何か言う間もなく、雛は鼻先が触れ合うほどに顔を近づけてきた。甘い息が鼻にかかり、顔の近さに全く気がついていない事が察せられる。
「だって、貴方の瞳の光すら見えないもの……」
 と、額がパルスィの鼻柱にもろに当たってしまった。
「あらあら」
 しゃがみこむ橋姫に、厄神は背中を撫でながら声をかける。
「大丈夫? どこか当たったみたいだけど」
「鼻血出そう……」
「い、いたいのいたいのとんでけー」
「ふざけないで」
「はい……」
 しゅんと小さくなる雛を見て、パルスィは微妙な嗜虐的快感を覚えた。
「それに厄神としては、その『痛いの』は貴方が受け取るべきじゃないかしら?」
「ん、確かにそうかも……」
 雛はパルスィの鼻柱を撫でる。少し、痛みが和らいだような気がする。
「……ありがとう」
 パルスィは素直に礼を言うしかない。

 幻想郷始まって以来の布告が八雲紫の手によってひっそりとなされたのは、ちょうどこの頃の事だ。
 彼女の式の言によれば、主人は呆けたように考え事をしていたという。
 暫くして妖怪の賢者は
「遣いをやる必要も無いかも知れないけれど」と、ぽつりと呟いた。
 紅魔館は動くに違いない。夜は吸血鬼の世界で、その彼女らですら一寸先も見えない暗闇ともなれば、解決に動かない筈が無い。
 白玉楼。彼女らは既に、足取りも軽く異変解決へと赴いている。主人は既に異変の根源を察しているだろう。
 永遠亭はどうだろうか。時は満月の夜である。月の姫が、望月が見えない事に憤り、異変を解決すべく人を出向かせる事は、容易に想像できる。
 守矢神社は好きにさせておくが良い。天狗どもは黙っていても動く。河童は闇に怯えているかもしれない。
 地底は信用がならない――というより、鬼に至ってはこれを機に闇鍋でも始めるのではないだろうか(実際、一部向きではそうだったらしい)。
 命蓮寺にしても、異変解決に動く可能性は大いにある。今頃は上へ下への愉快なほどの大騒ぎをしているだろう。
 幻想郷が闇に包まれる異変は、既に幻想郷はもとより地底や冥界――もしかすると彼岸にまで波及している。単に解決を依頼する遣いであったとするならば、余計なお世話と追い返されるような状況だった。
 もちろん彼女が出そうとしているのは、単に異変解決を依頼するような布告ではない。
 暫くして、八雲紫は口を開いた。
「……この前会った厄神に、彼女だけに遣いをやりましょう。――いえ、別の式を遣るのではなく、貴方が行ってちょうだい」
 妖怪の賢者は何か重大な決断するように、大きく溜め息をついた。
「『博麗の巫女に異変を解決させてはならない』とね」

 厄神と橋姫は、互いの手を握りあって石舞台の上に座っている。
「――これ、もしかして異変かしら」
 と、雛は遅まきながら思い当たった。いくら月を眺めていても、雲間から覗く光の輪郭すら見出だせない。
 パルスィにはなんでも良かった。
「……仮にそうだとして、私たちには動かない以上の手段は無いと思うけれど」
 できるやつに任せておけばいいのよ、と石舞台の上に寝転がった。
「果報は寝て待てと言うでしょ」
 しかし、寝るまでもなく導きは顕われてしまった。
「八雲の式です」
 女性の声が背後の闇から聞こえ、パルスィは弾けるように上体を起こした。
「紫様からの託けです。――『博麗の巫女に異変を解決させてはならない』と」
 八雲の式を自称する声は「それでは」と別れの挨拶のような事を言って、それきりだった。
 呆然とするパルスィの横で、雛は石舞台の上の砂利を弄び始めた。
「……なに? 今の」
「私にもさっぱり」表情までは窺い知れないが、雛の声にはあからさまな不機嫌が加味されている。「最初から最後まで、私達にはさっぱりなのよ」
 雛は砂利を片手に立ち上がる。ややあって、道に向かって投げられた石が転がる音がした。
「春先に地底で会ったときの事、覚えてる? 私が厄を引き摺って現れた……」
(忘れるわけがない)
 と思いながらパルスィは認めた。
「あの日、私は地上の川べりで足を滑らせて……気がついたら地底を流れていた。そこは見た事も聞いた事も無い大空洞で、私は取りこぼした厄が流れ着く終着を見つけたの」
 何投目かの砂利が、岩かなにかに当たった。
「そこに彼女はいた」パルスィの夜目から見える雛は、彫像のように表情を変えない。「幻想郷の大妖怪がね。洞窟は外の世界と幻想郷の隙間の、ちょっとした結界の歪みらしいわ。最近、結界のいろんな部分を弄ったせいかできてしまったみたい」
 パルスィは眉をはね上げる。「……それと今回の異変に関係が?」
「さあね。それはわからない」雛は呪文を唱えるように呟いた。「『博麗の巫女に異変を解決させてはならない』……そんな事、今まであり得たかしら」
「それを、わざわざ貴方に伝えた事の方が怖いわ」パルスィは首を傾げた。「……でも、解決したいのは山々だけど、こうも暗くちゃね」
「まったく」雛はさらに小石を投げる。
 すぐさま「痛っ」と情けない声が返ってきて、二人は顔を見合わせた。

「求むる者は得、尋ぬる者は見いだし……」
 パルスィは雛に手を引かれながらぼやく。手を引いている雛は、更に先を歩く河城にとりの服の裾をつまんでいる。
 先頭の河童は、なにか珍妙なかぶり物を装着していた。
「びっくりしたよ」
 と言いながら淀み無く歩く彼女を見るに、本当にこの暗闇でも前が見えているらしい。
「作業中にいきなり暗くなってね。電気が落ちたわけではなし、懐中電灯も蝋燭も使い物にならない、こりゃ異変だと思ってね」と額の装置をつついた。「暗視ゴーグルがあったのは物怪の幸いだよ。人間には――妖怪にも感知できないほどの、微かな光も感知できるんだ」
「それは凄いわね」と雛は生返事をした。「ところで目的地がわかってるみたいに歩いているけど、大丈夫なの?」
「だんだんと感度が悪くなってきている」説明がわりに河童は答えた。「異変の主に近づいているんだ。動力が切れかけているとかの気遣いは無いよ――足元、木の根が出てるから気をつけて」
「飛べばいいのに」
 パルスィがぼそりと呟く。先を歩く二人は、思いも寄らなかったという表情で振り返る。橋姫は溜め息をついた。
 三人は暗闇に支配された幻想郷の夜空へと飛び立つ。空気は水分を保って重たく、風は凪いでいる。空気の匂いからは雨の可能性が感じられた。低くなった雲に突っ込んでしまっても具合が悪いので、低空を飛行する事にする。
 会話は容易だった。飛び立ってから程なく、にとりは口を開く。
「……というより、異変の主の当たりはついているんだ」
「へぇ?」
「幻想郷縁起は知ってるよね」
「家にあるわ」と雛は答えた。更に言えば本棚の肥やしになっている。
「じゃあ、宵闇の妖怪についての記述は読んだ?」
 読んだ記憶も曖昧な雛は「……ええとつまり、彼女がこの異変を?」と微妙に同意を濁した。
「多分ね。あれのリボンは御札になっていて、実は何かの封印じゃないかって言われているし。それが解けたのかも」
「……リボンが御札で封印っていう話は初耳ね」パルスィが口を挟む。
「え、書いてなかったっけ? そんな感じの事」
「さぁ、どうだったかしら」雛はすっとぼけた。
「魔理沙に聞いた話だったかなあ……」
 わいわいと道中を騒がしくするのは暗闇への恐怖を一掃するのに一役買っていたが、あまりに迂闊すぎた。
 三人は罠にかかった。それは非常に単純な罠で、罠にかけられたと気がついた時には、彼らは団子に折り重なりながら粘性の網に絡まり、地面に転がった。
「捕まえた」嬉しそうに言う声には、三人とも聞き覚えがある。「さぁて、どう料理してやろうか」
 パルスィはいち早く状況を察し、飲み友達に向かって叫ぶ。「ちょっと、タンマタンマ」
 一瞬の静寂。
「あれえ」漆黒の闇の中、黒谷ヤマメの声は、妙に間が抜けて響いた。「その声、パルスィじゃないの。どうしたのよ」
「こっちの台詞よ……解いてよこれ」
「まあいいけどさ、この異変、あんた達が起こしたの?」
「なんでそうなるんだよ」と怒りを隠そうともしないのはにとりである。
「……だって、こうも真っ暗なのに昼間みたいな勢いで突っ込んできたじゃない」
「こっちには河童の技術と文明の利器があるんだい。早く出せ」
 憤慨するのはいいが、暴れられると一緒に網に収まる二人が窮屈な目に遭う。
 ヤマメは首を傾げながら「まあ、別にいいんだけど」とあっさり縄を解き、理由も聞かずに「それじゃあ一緒に妖怪退治と洒落込もうじゃない」と、にとりを先頭に押した。

 そもそも黒谷ヤマメが、夜の地上に這い出たのは、建築の仕事があったからだった。
「真っ暗になった時にお夜食のおにぎりを落としちゃってね。しかも暗闇だからそれっきり……」
「食べ物の恨みね」パルスィは補足して同情を示した。
「――になるはずが、踏んじゃったのよ。ぐしゃって」殿を飛ぶヤマメは、哀れっぽく言葉を継いだ。「だから余計に腹立たしいの」
「わかるようなわからないような……」
 雛が呟いた時、先頭のにとりは高度を下げ始めた。程なくして、四人は湖畔の粘土質の土を靴の裏に感じた。
 湖の霧の、ひんやりとした空気が肌に触れる。
「このあたりから先は、私でもほとんど見えなくなっちゃうよ。……光が完全に存在していないんだ」にとりは言う。「さっきから考えていたんだけど――」
「ひどく寒いわね」雛は言った。
「放射熱の問題だね。ここは霧も深いし……ってそういう事じゃなくて」疲れた口調のにとりの表情は、もはや誰にも窺い知れない。「ここは蜘蛛の巣作戦が確実だと思うね。忌々しいけれど」
「土蜘蛛の巣で捕まえるのね」雛は初耳な作戦名について文字通りに解釈した。
「まあね。……でもこの湖全体に巣を張るわけにもいかないしなあ」リュックサックを地面に置き、錠を開く音。呟くにとりは、声に出しながら指針を決めているようだった。「それに相手は寝ているかもしれないし……飛ばない虫は蜘蛛の巣にかからないからね。……そんなわけで」
「わけで?」
 鸚鵡返しへの返答は一瞬遅れた。荷物の中を手探りしているらしい。「……この湖一帯の連中を全員叩き起こせばいいんだ」
「どうやって?」
 答えの代わりは燐を擦る音だった。
 パルスィは嫌な予感に反射的に身を縮め、耳を塞ぐ。
 ただ雛の手を握ったままであったので、腕を引かれた方は、そのまま体勢を崩して転倒し、粘土の地面に顔を突っ込んでしまう。雛にはしかし、文句を言う暇も、権利も残されなかった。
 尻に火のついた据え置き式使い捨て照明弾は、湖畔一帯の湿った空気に、妙に重苦しくくぐもった轟音を響き渡らせ、その開発者と土蜘蛛を湖に吹き飛ばした。
 目玉が飛び出しそうな、鼓膜が破れんばかりの衝撃――開口部から侵入した爆風圧が逃げ道を求めた為である――の後、パルスィは身を起こす。燃焼した火薬の匂いがする。額が熱く、ありもしない緑と紫の光がちらつく。地面に身を投げ出したとき、岩に頭をぶつけていた。
「……大丈夫?」と雛の声。背中をまさぐられる。
「ええ、ちょっと頭を打っちゃったけれど……あなたは?」
 声は「泥んこ」と端的に状況を伝えた。
 湖の方角からは、河童と土蜘蛛が言い争いながら水辺に這い上がる様子が聞こえてくる。
 と、唐突に雫が天から滴り落ちる。
 天候の変化はにわかに激しく「雨よ」と共通の認識を呟いたパルスィの声も、相手に聞こえているかは怪しくなった。頭が痛み、雛の体にもたれかかる。
 にとりの呼び声が、豪雨となった水の壁をすり抜けて聞こえてくる。
「ここよ」と雛は返事をする。足音が近づき、止まった。
「大丈夫?」にとりの声は近い。「ごめん、火薬の量が多かったみたい」
「多いなんてもんじゃないよ」と呆れている声はヤマメだ。「スカートが焦げちゃったじゃないか」
「そんなの、発明では日常茶飯事さ」にとりは態度を変えて言った。
 雛は「パルスィが頭を打ったみたい」と説明した。「しばらくここで休むわ」
「……そっか」にとりの声色は、別に驚いたふうでもない。「じゃあ私たちは、この辺りをぐるりと一回りしてみるから」
「ええ」雛の声はどことなく悲しげだった。「怪我はしないでね」
「わかってるよ。――これ、蒲の穂だけど、血止めくらいにはなるかも」
 遠のいて行く二人の足音は、すぐに雨の向こうに掻き消えてしまった。

「二人は行ってしまったわ」雛はパルスィに囁く。「貴方は休んでて。……雨に濡れない場所があればいいのだけれど」
 パルスィは頭の痛みをこらえて「いいわよ。体は丈夫だから」と答えた。
「ずっと介抱しているわけにもいかないのよ」雛の口調は諭すようだった。
「……どこかに行くの?」
「いいえ、ここで博麗の巫女を止めるわ」厄神は決意を口にした。「あの賢者は噂を聞くに色々と不明な人のようだけれど――それでも何かが引っかかるもの」
「私としては……」橋姫は意見を言った。「どちらに与する気にもなれないわ。あいつらには、地霊殿騒ぎの時にやられた恨みもあるし」
「根に持つのね」
「古傷はいつまでも疼くものよ」
「それじゃあ、幻想郷の賢者は脇にうっちゃって、博麗の巫女への雪辱戦という事にしましょう」と雛は言った。「貴方の負け分も含めてね。行ってくるわ」
「待って」
 ふらふらとどこかへと行こうとした雛の手を掴む。頭を打ったせいか異変のせいか、雛よりは夜目の聞く筈のパルスィも、ほとんど盲いてしまっていた。
「貴方だけでは、何も見えないでしょ」と他人事のように言い「私も行くわ」と立ち上がった。

 博麗霊夢はこの異変に際して、神社裏手に住む光の三妖精を駆り出していた。
 異変だというのに八雲紫が顔を出そうとしない今、妖精ながらも彼女らを当てにしたのは、判断としては正しかった。湖に向かうにつれ、サニーミルクが収束して照らす事ができる光量は少なくなりつつあったが、代わりにスターサファイアの能力が役に立ち始めている。
「それにしても、本当に暗いわね」
 と空を駆けながら霊夢は言う。
 妖精達はそれに対して
「雨のせいで、これ以上光を集められないよ」
「傘持ってくればよかった」
「もう少しで爆発のあった場所だと思うけれど……」
 と好き勝手に喋っている。
 それを聞く霊夢は
(話題を統一しようとは思わないのね)
 と考えつつ、同時にこんな異変など早いところ解決して、風呂に入り直して寝てしまいたいとも思った。
(こんなの、風邪引くに決まってるじゃない)
「……誰かいるみたい」
 とスターサファイアが言った。サニーミルクの能力は既にほとんど使えないものとなり、視覚の受容感度から、分光された緑色の光のみが地面を舐め回している。
 湖に辿り着いた博麗の巫女と三妖精を待ち受けていたのは、泥だらけの厄神と、額を腫らして血を滲ませている橋姫だった。
「また、えらい格好ね」と呆れる霊夢も、ずぶ濡れである。こんな状況は――始まる前から疲弊しきっているような状況は、らしくない気がする。
(私たちは何を本気になっているのかしら)
 と首を傾げたくなった。

 緑色の光を投げかけられ、久々の刺激に雛は目を細めた。火星人でもやってきたかのようだ。
 三匹の妖精――光は彼女らの能力だろうと推測した――を引き連れて現れた博麗霊夢は何かを言ったが、豪雨に阻まれて明瞭には聞こえない。
「出向いてもらって悪いけれど」と雛は言う。「もうそろそろ、この異変も解決するわ」
「あんたらはどうしてここにいるの? それにさっきの爆発は?」
 質問する霊夢の声には、帰れるなら帰りたいという感情が滲み出ていた。
「ちょっとした事故があって……」雛は言葉を濁す。一連の状況を説明してみても、到底理解されるとは思えない。「――まあ、あとは私達がどうにかするわ」
「じゃあ、貴方達は私を邪魔するのね」
「邪魔するつもりはないけど……」言いかけて思わず苦笑いした。実際のところは、邪魔するつもりしか無いのだ。「貴方も、そのままじゃ風邪を引きそうだし、早く帰ったらいいのに」
「そうしたいのは山々だけど、臥せって起きてみても、まだ真っ暗っていう可能性だってあるじゃない。あんた達が異変を解決できる保証はあるの?」
「それ、霊夢さんが夜まで寝てるだけかも……」ぼそりと呟いたのは妖精の内の一匹である。
「それじゃあ」それまで沈黙していたパルスィが口を開いた。「私たちが貴方を負かして追い払って、それで帰ってくれる?」
 霊夢は見開いた目に、緑色の光を反射させた。
「……喧嘩を売りたいなら、そう言ってくれればいいんだけど。――ほんっと、妖怪ってわからないわ」
 ぼやいた次の瞬間、彼女の網膜は真っ白に焼き付いた。
 背後で光弾を炸裂させて目眩しを行ったパルスィは、雛を引くとは反対の手で、弾幕に使えるものは無いかと懐中を探り、舌打ちしか出ない事に失望する。五寸釘の一本も持っていなかった。
「とりあえず、これからの事を――」
 言いかけて気がつく。声が消えている。雛も状況に気がついているのか、手を握る力が強くなった。パルスィは握り返してやって、相手というよりは自分を励ました。

 博麗霊夢の視界は、突然の過露光に白飛びした世界から、一瞬だけぼんやりとした緑の光に戻り、暗転した。
 突然の事に驚いて、サニーミルクが能力を解除したのだ。
(あの目潰しは、ルールには抵触していない)
 思った直後、下手をすると目が潰れていたかも知れない事に思い当たり、余計に腹が立った。
「あいつらの声を消しなさい」
 霊夢はルナチャイルドに言った。
「二人に相談をさせたらまずいから」状況は臨機応変を必要としている。意思疎通ができないのは何よりも過酷な事だろう。
 今や皆の目となっているスターサファイアは「空を飛んでる……。今は湖の上。距離は――」と言葉を失う。
「距離はどうなの?」霊夢は促す。「なんだか馬鹿にされている気分だけれど、あれを退治しない事には先に進めないのよ」
 暢気な声で尋ねられたスターサファイアは、危機を把握しているのが自分だけだと、ようやく悟る。「――弾幕に囲まれてるのよ!」
「……落ち着きなさい」
 わめく妖精に対して、霊夢は臆したふうも無く言いながら、妖精のずぶ濡れの髪を撫でてやった。
「弾幕の密度は? 避けられる?」
 深呼吸――というよりも息を飲み込んで無理矢理に安定を保ち、スターサファイアは言った。「……速さはそれほどでもない。でも、散らばってる」
「散らばる?」
「花の実が弾けて種を散らすみたいに」
 霊夢には覚えがあった。子爆弾を撒き散らす種類の弾幕らしい。「距離はどう?」
「……ちょっと待って、当たる気配はないみたい」
 拡散して壁となった弾幕は、雨が降りしきる中、妙に緩慢な動きでゆらゆらと地面に落ちた。妖精はそれを報告する。
「見せ弾ね」と霊夢。「時間稼ぎみたい。弾幕以外ではどう?」
「あいつらは湖の上空よ」その必要もないのに、スターサファイアは目を擦った。豪雨は能力の邪魔である。「……ええ、二人とも湖の上空」
「湖の方は真っ暗?」
 サニーミルクはややあって「……たぶん目を瞑ったときより真っ暗ね」と婉曲的に答えた。彼女の能力ですらお手上げという事だ。
(同じ立場に引き込んでやろうという事ね)
 だが相手は、ルナチャイルドの音を消す程度の能力までは把握していない可能性はある。ましてやスターサファイアの動く物の気配を探る程度の能力など、彼らは知っているのだろうか。
(あんたらには見えていないものも、私には見えているのよ)
 それは一寸先も侭ならないほどの現状では、何よりも有利な条件だった。
「方角と距離を教えなさい」霊夢は言った。「盲で聾で唖なんて、一瞬で片付けてやるわ」

(声が通じない)
 ――というより、声は出ているが空気を伝わっていないといった方が正しい。雛自身の声は、頭の中に響いていた。
「ねえ、ちょっと」
 と言ってみても声は届かない。パルスィは、何か目的があるかのように嵐の中を駆け抜けている。顔に当たる雨粒が痛い。
(だいたい尻尾を巻いて逃げる相手を、あの巫女が追いかけるだろうか――そう、これは単なる逃走なのではないだろうか)
 にわかにパルスィに対しての疑いが首をもたげる。ただ逃げたいが為に橋姫は遁走している――その可能性はあった。彼女を信じる理由は無い。
(ずるい)
 すぐにでも手を引き、顔を寄せて詰問したくなったが、ここで無理矢理に失速して平衡を失えば、二人して地面に――彼女は湖の上を飛行している事すら知らない――叩き付けられる可能性があった。だいたい、心を通わせる事すらままならないのだ。
(なにもかもが、ずるい)
 何に怒っているのかもわからなくなる。コミュニケーションの断絶の中、友人を信じられなくなっているだけかもしれない。
 その時、腕を引かれた。肩を寄せられ、抱きすくめられる。雨に濡れて冷えきった体が、芯からこみ上げてくる熱に戸惑う。顔に当たる雨粒の痛みが弱くなる。
 雛のこめかみに、なにか柔らかいものが当たった。
「――こえる?」
 骨を通した振動が、内耳に響いて頭の中に入る。子音の判別は困難だったが母音は比較的容易で、あえて明確に発音されるアクセントと音節の区切りによって、どうにか単語を判断できる。
「……いまから、いう、はなしを、よく、きいて」
 雛は抱き合うようにして、パルスィのこめかみに唇を当てる。
「きこえるわ」彼女は、そこまでは伝わらないまでも喜色を浮かべて答えた。

「……水中?」
 ルナチャイルドがスターサファイアの言葉を鸚鵡返しした。
「ええ。水中に飛び込んだわ」
 妖精達が疲弊しきっているのは霊夢も察している。時間を追うごとに状況は悪くなっていた。もはや厄神と橋姫を倒したところで、異変を解決できるだけの余力も無いかもしれない。
「……明らかね」霊夢の先程からの考察は補強されていく。
 水の中ならば、光は通らず、声も水の壁に拡散して伝わらない。曲がりなりにも対等の立場に立てる。単純な考え、単純な戦法だ。
 だが、相手は単なる野良妖怪である。
「……そう、水の中。あんた達にやってもらいたい事があるんだけど――」霊夢は三妖精に言った。「私が弾幕を撃ったら、全員で一緒に、ありったけの弾幕を湖に撃ち込みなさい」
 三妖精は疲れきった声で了解を示した。
「――止まって。ここの真下」スターサファイアが言う。
 霊夢は滞空した。夜の嵐は激しさを増している。
 博麗霊夢は躊躇なく、いくつかの護符を湖に撃ち込んだ。スペルカードにもならない、名無しの弾幕だった。
 それに続いた三匹がかりの弾幕は、妖精のものとはいえど、暴力の嵐という形容が相応しかった。博麗の巫女が泡立つ湖の熱気を肌で感じながら連想したのは、虐殺――それも一方的な虐殺で、その事が彼女の気分を悪くさせた。
「弾幕が湖の底に届きます」
 度重なる状況報告に、スターサファイアの口調は無感動で機械的なものになってしまっている。直後に彼女が「――撃ち返してきた!」と叫んだときは、霊夢ですらぎくりと背筋を跳ねてしまう。
「あんたたちは私の後ろにいなさい――こっちに来るまでの時間は?」
 妖精は霊夢の背中に張り付きながら「もうすぐに水から出てくるわ」とすぐさま答えた。
 果たして水しぶきが上がる。
 避けるのは容易かった。妖精ながらも回避指示は的確で、弾幕は規模こそ大きいが狙いどころの無い単調なものだった。光を否定した闇の中、弾幕は輝きもせず、霊夢らにやり過ごされた後も飛翔し続け、消滅した。
 湖面を騒がしくするのは雨粒だけになった。反撃が一発だけなのはおかしい。
「おかしいわね」霊夢は思った事を言った。「あいつら、もしかしてやられたんじゃないの」
「……水中がかき混ぜられて、よくわかんないわ」
「照らしてみようか?」サニーミルクが提案した。「たぶん多少は――」
 霊夢が答えて「いえ……もうちょっと待ってみましょう。それから……」
 と言いかけた時、背中が重くなる。思わぬ出来事に湖に落下しかけて、慌てて体勢を立て直した。
 妖精の一匹が――暗闇の中では、それが誰なのかさえもわからない――ぐったりと全体重を背中に寄りかけている。
「ちょっと――」と霊夢が言いかけた時、すぐ側で水音がした。ちょうど子供一人が落ちていったような――と、同じ水音が再度響き渡る。
「……ねえ、あんた達?」
 霊夢は不安を押し隠しながら妖精達に呼びかけたが、誰も返事をしない。三妖精が行動不能に陥ったのは明らかだった。
 博麗霊夢は、雨の降る中、夜の湖で独りぼっちになった。叩き付ける雨粒が、叩き付けるごとに神経を麻痺させ、焦燥する彼女の服に染み込み、判断力と体力を奪っていく。
「あー、あー」
 調子を確かめる素振りの少女の声が、滝のような雨音にも邪魔されないほどのすぐそばで聞こえた。はっと向きを変える。闇は闇のままで、何も見えない。
 声の主は「良かった。もう声は出るみたいね」と嬉しそうに言った。「私の弾幕は囮、目眩しだったのよ」まあ、はなから何も見えてないけどね、と笑う。
「あの派手な弾は、厄神様が集めた湖底の厄を、湖の水と一緒に上空に打ち上げるのが本命。この雨が私達の弾幕だった。まったく、随分な賭けだったわ」
「……あんた達はその賭けに勝った」霊夢は即座に認めた。凍えて麻痺し始めた触覚と、必要以上に過敏になった聴覚だけが彼女の拠り所である。闇が怖い。彼女は恐れていた。「私はもう、にっちもさっちも行かないもの」
「そうでもないの」声は困ったように言った。「実は私、勝ったふりをする為だけにここに来たもの」
 霊夢は眉をひそめた。「どういう事……」
「私の本体は、もう既に気を失ってるって事」唐突に声が――水橋パルスィの分身の声が、雨音に掻き消されるように細く小さくなっていく。「貴方は異変でもなんでも解決しなさいな。――ああ妬ましい」
 吐き捨てるような最後の一言の後、静寂。
 博麗の巫女は呆然と暗闇に漂っていた。

 宵闇の妖怪――ルーミアが引き起こした一連の事件は、いささか喜劇的すぎる幕引きとなった。現実の常で、大真面目に悲劇を演じる人々は、間違いなく愛すべき喜劇役者なのだ。
 例えば真っ先に湖に辿り着いた魂魄妖夢は、何を思ったか漆黒の闇の中を猪突猛進に突撃した挙げ句、湖に頭から突っ込んで前後不覚になっていたし、波長を探知しながら慎重に先を進んでいた鈴仙・優曇華院・イナバは、突然の爆発――河城にとりの照明弾である――と直後の豪雨を攻撃だと勘違いして弾幕を乱射してしまい、紅魔館の門番として様子を見に来た不幸な紅美鈴を巻き添えにした事で、自責の念に苛まれていた。
 河城にとりと黒谷ヤマメは、道中で足を踏んだ踏んでいないの大喧嘩を起こして相打ちになり、泥の中で伸びている。結局、足を踏んだのは妖精だった。
 異変を解決したのはアリス・マーガトロイドである。
 人形遣いは、ルーミアの髪から解けかけたリボンを結び直した。それまでの闇は嘘のように逃げ去り、満月が――雨は上がっていた――沈もうとしながらも妖しく輝き続けている。
 常ならば真っ先に異変解決に乗り出していた筈の霧雨魔理沙や東風谷早苗は、異変に全く気がつかなかった。二人とも、いかにも人間らしく熟睡していたのだ。
 命蓮寺では異変の最中にちょっとした小火騒ぎがあり、この深刻な――目に見えず迫り来る炎ほど恐ろしいものはない――危機に掛かりきりで、解決に乗り出すどころではなかった。
 火災の命蓮寺を救ったのは、にわかに降り始めた豪雨だった。こちらの不幸はあちらの幸運というわけだ。

 水橋パルスィは、湖畔の葦原で目を覚ました。身を起こしてみると、東の空は薄紫色の夜明けである。――その事実が意味するものに思い当たるまで、少し時間がかかった。
 立ち上がり、自らの体を眺めてみる。服はずぶ濡れで、泥だらけだった。腕には擦り傷が目立ち、湖底に弾幕を撃ち込まれた際、舞い上がる砂礫ごと散々に掻き混ぜられた事を思い出した。
 体の節々は凍えて軋んだが、骨に異常は無いようだ。彼女は湖畔に沿って、とぼとぼと歩き始める。
 鍵山雛は、そう遠くない場所で湖面に漂っていた。
「オフィーリアかしら」
 パルスィは呟く。精神の平衡を失って狂い死にした少女の名を出すとは不吉にも程があるが、橋姫らしい連想ともいえる。
(もしかすると、雛と私はよく似ているのかもしれない)
 今更な事を唐突に思いつきながら、パルスィは湖に飛び込む。
 雛は目を覚ましていながら、ぼんやりと虚空を見つめていた。
「起きていたのね」パルスィは呆れた。「なにやってんのよ。流し雛ごっこ?」
 雛はちょっとはにかんで
「そうかも」
 と答えた。

 ここで筆を止める。
 私にもわからない事だらけだ。証言に偏りがありすぎる。仕方の無い事と諦めているが、取材にあたって、快く引き受けてくれた者とそうでない者がいるのだ(前者の筆頭は鍵山雛で、後者は博麗霊夢だった。水橋パルスィは、嫌々ながらも積極的に協力してくれた)。
 文頭に、創作が多く含まれると記した。最たる創作は博麗霊夢の描写である。彼女は本気で取材を嫌がり、私の元には光の三妖精を寄越した。妖精の記憶を信じるならば、追跡の描写に関しては本文の通りである。ちなみに彼女らは異変時の巫女に関して「ひどく殺気立っていたけれど、気をつかってくれて優しかった」という印象だったようだ(単に彼女らの視覚補助が異変解決の生命線だから、なだめすかしていただけではないかと思うのは意地悪すぎるだろうか)。
 逆に一切の想像の飛躍も許されず、ただ淡々と事実を書き連ねるに終始するしかない部分もあった。
『博麗の巫女に異変を解決させてはならない』という、不思議な言葉の事である。この言葉に関して、私は納得のいく説明を受けていない。
 納得のいかない説明は受けた。曰く、八雲紫は境界の修復にかかりきりで、巫女のサポートに就けなかった。今回の事件のような暗闇という状況は生身の人間が一人で解決するにはあまりにも過酷で、本来ならすぐにでも巫女を留めるべきだったが、いかんせん彼女は経験も浅く聞かん気が強い。どうせ既に異変解決に飛び出しているのだから、誰か多少でも事情を知る温和な妖怪に頼んで、巫女を食い止めて貰おう――と。
 あくまでもその説明を信じているのは、語った八雲藍――取材を拒否した妖怪の賢者は、式を代役に立てた――だけであろう。
 私は八雲紫に話を訊きたいと思った。

 机の前で伸びをする。骨が鳴った。目の前には、加えたり削ったりして余白まで埋め尽くされた原稿が広がっている。疲れているのか、この清書されていない文章を見ると苛々してきた。読み返すべきかもしれないが、思考が鈍っているのが気になる。気晴らしに体を動かしたかった。
 書斎の扉を開ける。
 私は暗闇の中に佇んでいた。

 水滴が水を打つ音が空間の中で反響する。ひんやりとした空気が肌を撫でる。感じられるのはそれだけではない。目が早くも暗闇に慣れ始めていた。
 振り仰ぐと、天然の岩盤が闇に消えていた。水滴は闇の向こうから落ちているのだ。洞窟の底は、異様なほどに澄んだ水を湛えていた。砂利が散らばる岸辺に私は立っていて、その場所に鎮座する碁盤と盤上の黒白の石は、人工物の存在感と言うべきか、妙に浮いて見えた。
「やっと来たわ」
 盤の向こうに座す八雲紫は、ニヤニヤと笑っている。
「貴方を待っている間、詰碁をしていたの。もののたとえですけれど――」と盤面の石を払い取り、対面を指した。「座りなさい」
 私は頭を振り「ボードゲームは苦手ですが」と言う。相手の心が読めてしまうので、ちっとも上手くならない。頭を使うのは苦手だ。
「碁を打てとは言いません。この盤は、単に舞台装置でしかない」彼女は碁石を放り捨てる。「あなたと話す為のね。隣り合わせて話をするのも、間に何も挟まないのも、なんだか不思議になってしまうでしょう? だからこうして場を用意したのだけれど」
「お心遣いはどうも」つい、皮肉めいた口調が出てしまう。
 妖怪の賢者は口元を隠して笑う。「――それにこの碁盤があれば、ものを教えるのも簡単だろうと」
「教えるとは」と言いつつ、八雲紫に対面する。
 相手は紅を差した薄い唇を、いっそう歪めた。意図が読めなかった。彼女は私を嘲笑っているように見える。心が読めない。
「……まず発生の原則から言って、真空中には如何なるものも存在しませんわ。それは存在意義に置いても同じ。例えを出すと――」と彼女は傍らから小石を拾い、盤上の目に据えた。「こうすると小石が意味有りげになる。意味ありげになるのは、盤が存在しているからよ。本来ならばこんなもの――」と石を弾き捨て、続ける。「どうなったのかもわからない、路傍の石でしかない。この目は小石に役目を強いて縛り付ける呪い。……逆に言えば、この盤は滑らかな黒白の石が持つ、碁石としての概念を保ち続ける結界でもある」
 言わんとする事はなんとなくわかる。心を読む必要も無い。
「妖怪の概念を保つ結界――博麗大結界と、幻と実体の境界ですね」
 相手は頷く。「しかし二つの結界は想定された用法が違っていて、それがこの空間、この歪みを作っている。先からの例で言えば、碁盤で将棋をやるが如く、ってところね」八雲紫は続けて呟く。「霊夢にも困ったものだわ」言葉には、微妙な部分で理解しあえない苛立ちが籠っている。「彼女は異変を娯楽にしてしまった。その辺りも、結界の不安定さに繋がっているみたい」
「と、言いますと?」
「この話は忘れてちょうだい」
 唐突に八雲紫は不機嫌さを露にした口調で言った。
「……この場所には鍵山雛も訪れたようですね」私は鍵山雛の証言を思い出して、話題を作り出す。この場所は幻でも実体でもない。相手の心が読めないのも、その為かもしれなかった。
「厄神様はそこまで喋ってしまったの」拍子抜けした声だ。「ああ見えてお喋りさんっぽいものねえ」とクスクス笑う。「……あの子なら結界の守り神に相応しいと思っていたけれど、そうしなくてよかったかも」
 新しい単語だ。「結界の守り神?」と鸚鵡返しする。
「私には向かない仕事よ」賢者は言った。「もちろん博麗霊夢にもね。なにものにも囚われない彼女は、私の能力そのものだから」と困ったように笑い「引き止める妖怪達を蹴散らして妖怪の山に乗り込んだり、地底に潜って忌み嫌われた妖怪どもを打ちのめしたり――彼女は人妖の垣根を乗り越え、境界を破壊してきたでしょう? 結界の管理なんて、あの子には不可能なのよ。本質的に」
 そしてそれは、と続ける。
「私自身にも言える。結界を維持しきれないと悟った私は、人妖の生活圏の境界にて、人妖の領域の境界を守り続けていた鍵山雛を、この場所に縛り付けようとした。身も蓋もない言い方をすれば――」口調は少しずつ重苦しくなり、ついには笑みが消えた。「野良妖怪をお仕着せの神に仕立て上げて、結界の平衡を保とうとした。彼女を縊り殺して、この場所に埋めてしまってね」
 人柱のようなものかしら、と紫は言った。
 私は自分の表情が苦々しいものになるのを感じた。

 ただ八雲紫は、最後の最後でこの決断を踏みとどまった。
 彼女が幻想郷の贄として検討された理由は、一つには彼女が孤独である事にあったという。
「でも最近は、友人も作って楽しそうにしていたから……」と妙に人間臭い言葉を続けたのが印象的だった。
「橋姫の事ですね」
「私、あの妖怪は嫌いね」心を読まなくてもわかる程の、嫌悪に満ちた口調が吐き捨てられる。「一個人としての彼女は興味深いのでしょうけれど。――無論、幻想郷は向こう岸もこっち側もいいかげんだから、厄神も地上に戻る可能性はありますわ。でもそれは一柱となった鍵山雛であって、お節介焼きで思い込みの激しい、お人好しの野良妖怪ではない。橋姫はそれを悲しむでしょう」
「――では」と私は結界とは別の事を訊く。「別の話になりますが……なぜ宵闇の妖怪の件で、厄神を頼ったのか……そこが気にかかっていたのですが」
 八雲紫は、これにも躊躇する素振りを見せずに答えた。どうやら最初から話すつもりだったらしい。
「人妖の線引き――あちらとこちらの境界を守る彼女らにとって、越境者たる博麗霊夢は天敵よ。でも、だからこそ彼女らが戦うべきだった。……これ以上、理屈で言える説明はありませんわ」
 妖怪の賢者は『彼女ら』と言った。橋姫も勘定に入っていたわけだ。ひょっとすると、水橋パルスィも結界の守り神とやらの候補に検討されていたのかもしれない。
 別れ際――地霊殿に帰される際、賢者はぽつりと言った。
「博麗霊夢が異変を解決する限り、崩壊は収まらないわ。……彼女が異変を解決するだけ、結界は均衡を失っていく。これもまた発生の原則だけれども、生まれたものは滅びなければならない。今や幻想郷は緩慢に滅び始めた――でも巫女が異変を解決する事を否定はできないし、妖怪達も緩やかに迫り、やがては訪れる死を受け入れられるでしょう。我々も成長したのですからね」
 私は「……あまり話すべきではない部分まで話したようですけれど」と流石に不安になって指摘する。
 妖怪の賢者は「貴方の本は稗田阿求に焼き捨てられるでしょうね」と意地悪な笑みを見せて言った。「彼女好みの物語にするならば、幻想郷を闇に包んだ悪い人喰い妖怪が退治されて事件が解決する。それだけの話にするべきですわ」
「この方が面白くなると思ったんです」私は言った。「なにしろ博麗の巫女が、手も足も出なかった異変の話ですからね」
 八雲紫はニヤリと笑った。

 そして稿は陽の目を見ない事が確定した。事情を細かく書く必要は無いだろう。私の気分が悪くなるだけだ。
 最後に、河城にとりの証言(本人の希望から取材は書簡を通して行われたが、奇妙なほどに協力的だった気がする)を掲載して締めくくりとする。この証言は非常に些細なもので、恐らくは意味の無い事だろうが、重大な示唆を孕んでいる可能性は、そうでない可能性と同じくらいあるのだ。

 夏。山の静謐を埋め尽くさんばかりの虫の声は、河童の作業場を押し包むようだった。
「……氷はあるから、食べたけりゃ自分で作ってね」
 作業場の隅でガリガリと氷を削っていた河城にとりは、不機嫌そうに言った。
「じゃあ宇治金で」
「あ、私も」
「無いよ」にとりは厄神と橋姫に素っ気なく返しつつ、縁日の売れ残りのラムネをかき氷にかける。「砂糖ならあるけどね……ちょっと甘さが足りないかな」と傍らにシロップの容器を引き寄せる。
 河城にとりの作業場は、昼下がりの避暑地に成り下がっている。鍵山雛と水橋パルスィの二人は暇を持て余すと入り浸り、レコードを大音量で聴き入ったり、持ち寄りパーティーを開いたり、専門書を閲覧したりしていた。
「別に迷惑はしてないけど……お菓子とか持って来てくれるし」
 河童は歯に染みる氷菓の冷たさ意外にも顔をしかめていた。
「ここは音楽喫茶じゃないんだよ……」
 とはいえ、自作オーディオを自慢たっぷりに応接の場に鎮座させていれば、珍しいもの好きの妖怪に目をつけられる事はわかりきっていた筈で、自業自得である。
「ミルクならあったわ」パルスィが、コンデンスミルクの缶を片手に言った。「微妙に期限切れだけど、よく冷えてるわ」
「それで我慢しましょう」
 と二人がかりで手動かき氷器と格闘を始める。非力な雛はすぐに氷を削るのを代わってもらい、パルスィはぶつくさ言いながら嫉妬心を物理エネルギーに変える。
 にとりは肩をすくめ、テーブルの上を眺めた。厄神が読んでいた本が山積みになっている。読むのは好きなのだろう。にとりは、彼女が変な事には博識だが、基本的に頭が弱い事を知っている。要するに、突拍子もないのだ。
 今読んでいる書籍も、とりとめのないものだ。外の世界のバウハウス運動を範とした工業デザインの専門書、一八五一年の英国王立芸術院展の目録、幻想郷風土記、幻想郷縁起――相変わらず、何を考えているかわからない。
 一番わからないのは、図版の中に一つだけ小さく新書が置かれていたことだ。
 書名は『コンピュータの彼岸』、著者は八雲紫である。
 初めてなので書きたいことを書きました。

 幻想郷の様々に対する個人的な見解を、ただひたすら折り込みたいが為に展開を組んでいったので、基本的には適当です。ただ自分の意見には誠実だと思います。明日には意見が変わっているかもしれません。そんなもんです。

 特に最後の節は、作品の初期構想――多層的メタフィクションと多次元的サイバーパンクとしての要素が立ち消えになった後も、ただ「かき氷を食べたい」という気持ちを抑えきれずに遺したもので、意味はありません。実は最後の一文は現状でも意味が通るようになっていますが、読み解けないでは意味が無いも一緒なので、やっぱり意味は無いです。こんな曖昧な状態を意味があると主張できるのは妖怪だけです。

 雛とパルスィに関して。この二人の組み合わせを選んだ理由は、完全に個人的嗜好からです。でも幸薄い人々が好きというより、2ボスが好きなようです。ミスティアが拾ったベータマックスには元ネタがありますが、単に思いつきです。

 主人公二人は、カップリングというよりもペア、コンビ、もしくはパートナーとして描いたつもりでしたが、読み返すとだいぶいちゃついてしまっています。今日投稿したのは、橋の日と厄の日の間だからです。

 後をだらだら書くのは自信がないからです。また何か書きます。
チョクリツエンジン
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コメント



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1.10名前が無い程度の能力削除
・筋が通っていない
・説明が難解
・オリジナル設定が説明もなく出てくる
・さとりの記述体で文章が書かれていない
以上4点各-20点。意味深なあとがきで-10点。持ち点100点から減算し10点でファイナルアンサーです
3.20名前が無い程度の能力削除
簡単に言うと全体が読みにくく、長い割にあまり興味を引かれる箇所や面白みを感じる表現が無いです。
話の内容をもう少し分かりやすく簡潔に纏めることが出来れば全体の3分の1くらいは落とせるはずです。
後、「」と地の文が混じっている個所が多々ありますが、これは狙ってやってるのでしょうか?
5.50名前が無い程度の能力削除
内容は悪くないだけにまとまってたらと思うと残念
所々飛ぶというか場面展開も戸惑うような感じだったので次に期待
6.60名前が無い程度の能力削除
悪くないが良いとは言いにくいです。
全体の雰囲気は好きです。
7.90名前が無い程度の能力削除
最後には異変がありましたが、日常物語としての印象がつよかったです。

作品全体にただよう雰囲気もキャラ同士のかけ合いも好きでした。