Coolier - 新生・東方創想話

ひななゐロック 【地生不滅】

2014/07/25 17:49:35
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 ――曰く。八百万の神が居たり。悪しき魂を祀りて怒りを鎮め、人々は神の加護を得たり。
 ――善き魂もまた、敬いの心を忘れれば怒りをもって荒び祟る。

 ――曰く。人の一生は苦であり、永遠に続く輪廻の中で終わりなく苦しむなり。
 ――解脱し、悟りを開く事によってのみ苦しみから逃れられる事が出来、故に人は涅槃を目指して歩く。

 ――曰く。世は陰陽に分かれ、暗き所に水が、明るき所に火が生まれた。
 ――残った陽気が風となり、木を育て。陰気は金となり、そして中央に土が生まれた。

 其れ等は全て、かつての世界のあり方だ。そして今は、ニュートンに取って代わられた。
距離、質量、時間、熱量。全ては仕事として計算され、物理と言う「人がもたらした理」の元に有る。
空の蒼さを、光の屈折へ。星の輝きを、核融合へ。人は己自身の手で天を描く時が来たのだ。

 ……しかし。人は未だ、人を救い得る「法」を知らずに居る。
ほんの微かなきざはしだけを電子信号に置き換えて、救いも奇跡も知らぬまま、人は神仏の手を離れていく……


 ◆


 この世のどこかに、迷い人がたどり着く屋敷……マヨヒガと呼ばれる場所がある。
その屋敷こそ幻想郷の賢者"八雲紫"の住処であり、椀などの什器を持ち帰れば幸運が舞い込むと言われている。

 その一室で、紫の式"八雲藍"は三方の壁を流れる数字――幻想にはおよそ相応しくない、デジタルな――を眺め続けていた。
この数字は一種の機械言語で有り、下手に擬似可視化するよりよほど精密に、そして大量の情報を藍に届ける事が出来る。
"監視対象"の相対X座標、Y座標、Z座標、時間量、力圧、仮想霊力量……様々な数値が藍の脳内で演算され、処理されていく。
八雲藍とは、八雲紫の式の中でも最も"紫"に近い者、その称号であった。

 彼女にとっては聞き慣れた、空間を断つ音がして藍の背後にスキマが開く。
そこから一人の女が、絹糸と金を丁寧に練り合わせたような髪をひらめかせ顔を覗かせた。
印象は蜃気楼のように揺らめき、十代の少女のようにも妙齢の女性のようにも見える。彼女の主、八雲紫である。

 「紫様」
 「状況はどう?」
 「芳しく有りませんね。海中に潜られるとどうしても、と言うのも有りますが……どうも、一度龍脈に潜られたようです」
 「そう。となると、只の監視式じゃ霊圧に負けるわね」

 八雲紫はその手に持つ扇子を開き、唇に寄せる。
くるりとその手の平が回転すると、琥珀色をしたウィスキーとよく冷えたグラスが握られていた。

 「休憩しましょ? 幾ら貴方でも疲れたでしょう」
 「業務時間中にアルコールは良いんですか?」
 「働かせてる側が誘ってるんだから、良いのよ」
 
 ふう、と主にしては似つかわしく無いため息を吐く。実際の所、疲れているのは紫の方なのだろう。
よくよく見れば、丁寧に隠されては居るがそれでもうっすらと目元に隈が見える。
もちろん、それこそ紫の式で無ければ分からぬレベルの色合いでは有るが……。八雲藍は、その金色の九尾を物憂げに揺らした。
冬には冬眠と言って憚らない程怠けたがりで有る彼女の主が、ここ何ヶ月か一時も休まずに働き続けているのだ。
はっきり言って、異常事態で有る。橙に会える時間も大分減ってしまったな、と藍は嘆息する。

 「どうでした、是非曲直庁の方は」
 「とりあえず地底からは手を引かせた。大分前に旧地獄は捨てたくせに、一匹地獄鴉が使えそうだと思っただけで泰山鳴動。
  あー、そんな事しても捕まるのは鴉じゃ無いでしょうにー……
  あの天人の娘が来たせいで連中、大義名分を得ちゃうし。本当にどいつもこいつも余計な事しかしないんだから」

 紫は手酌でツーフィンガー程ウィスキーを注ぎ、勢い良く飲み込んだ。
「かーっ!」という台詞にそれまでの雰囲気やら何やらが霧散していくが、それも二人きりでしか見せない仕草だと思えばむしろ愛情すら湧くというもの。

 「寺が出来たと思ったら廟が生えたり、ここ最近ロクな事が無いわ……全く、本当に。
  人と妖怪のパワーバランス、誰が気を遣ってると思ってんのかしら」
 「ま、まぁまぁ。この間守矢神社の二柱から謝罪は有ったじゃないですか。
  『ピタゴラスイッチ的に問題が波及しちゃった、ごめーん☆』って」
 「反省の色が欠片も視えないじゃないの!」

 ほのかに顔を赤くさせた紫が、藍の持つグラスに瓶の中身を注ぐ。蒸留酒特有の強いアルコールの薫りが漂う。
紫は遠くを見つめながら、艶やかな唇で空のグラスを食む。

 「原子信仰か。遺伝子損傷と末代までの祟り、現象だけを持ってくれば一体どれ程の人間が区別を付けられるのかしらね?」
 「紫様、あまりそう言う事を仰るべきでは……」
 「……そうね、不謹慎だったわ。有るまじき発言。オフレコね、これ」

 紫は手をひらひらと打ち払い、先ほどまでの言葉をかき消す。

 「けれど、外の人間達の"目に見えない物への恐れ"が、ある種の信仰の元と成ってるのは確かよ。
  今の浮世じゃ貴重も貴重な、誰の物でもない人間たちの信仰の塊。どうとでも傾きかねない天秤。
  ……それを狙って、色々と勢力が動いてるのもね」
 「まぁ、末法思想ってそういう所ありますしね。
  天におわす方々までそのような物に飛びつかねばならないのかと思うと、少々物悲しくなる所も有りますが」

 そこまで言ってから、藍は数値の流れ続ける壁に目を向けた。その演算された脳裏には、怨霊と祟神を混ぜたような、
根源的恐怖を想起させる"おぞましいもの"の姿がはっきりと映る。おそらくは、彼女の主にも。

 「この監視対象も、それを狙う物の一つなのでしょうか?」
 「……そう、かも知れない。でもそれにしては動きに違和感が有る……」

 紫は藍に酒を注がせると、今度は舐めるようにその風味を味わう。
上等なアルコールの薫味が喉から鼻へと抜けていく、この感覚は、生酒では味わえない。

 「この進路だと、間違いなく出るのは旧地獄よね?」
 「そうですね、数回乱数を変えて計算しましたが、およそ九割がたそうなりました」
 「つまり、万が一に備えてセーブしておくレベルって事ね」
 「……すみません。その方向で仰られている事は、私には良く……」
 「あぁハイハイ、分かってるから。他愛無い事よ」

 ため息をついて、紫はグラスを揺らす。ゆらゆらと揺れる氷と琥珀のコントラストが、影を作り出す。

 「……地底でなゐが起きる、か。ひょっとしたら、貴方にも出向いて貰うかも知れないわ。それと、博麗の巫女にも」
 「そうなると、今よりも橙と離れ離れに成りますか?」
 「今生の別れにしたくなかったらそうして起きなさい。万が一何かが有ったら、あなたですらどうなるか分からないわよ」

 藍の全力とは、つまりスキマを除いた紫の全力とほぼ等しい。紫もまた、それを分かって言っている。
藍は慄いた。このおぞましきものには、八雲紫に逼迫させる程の能力が秘められているのか。

 「勿論、あなた達にはその最悪の状態を防ぐために行ってもらうのだけど」
 「分かりました。"草"の彼には伝えてあるんですか?」
 「これから。……触れれば切れるとは、随分怖い草も有ったものねぇ」
 「彼、そういう古風な言い回しの方が好むでしょう」

 アルコールの余韻を惜しむように、杯を傾け合う。八雲紫の目が、数値上の"監視対象"を鋭く睨みつけた。

 「幻想郷は何でも受け入れるけれど……そこに住む私達まで、そうは行かないか……。
  丁重にお帰り頂くしか無いなんて、それはそれは残酷な話よね」


 ◆◆ ◆◆


  5:スイング・バイ・ミー

 ――覚り妖怪はまず精神に巣食い、じわじわと行動を操り、やがて隙を開かせては肉体を喰らう。
幻想と現実が頒たれるより昔、覚りはそうやって人間達を喰って居たらしい。

 古明地さとりは、実の所未だそうやって人を食べた経験が無い。
幼少時には既に妖怪は人間に小賢しさで叶わなくなっていたし、予期せぬ出来事が起きたくらいで驚いて逃げ帰る小心者の一族など、とっくに人の住処から駆逐されていた。
妹と共に木の実や小動物で食いつなぎ、生活が安定するようになった頃には地底の中で有る。
めったに人間を見かけない以上、食べる機会などもっての外。

 その代わり、覚り妖怪と言う種族は幸か不幸か妖怪にとっての天敵であった。

 普通に暮らす人間相手では虚仮脅かしにしかならない想起――錯乱するほどのPTSDを抱えている人間が果たして何割いる?――も、妖怪……特に年季の入った大妖怪で有れば有るほどに、それは脅威となる。
人に恐れられず、妖怪に恐れられる妖怪……それが妖怪のコミュニティに入った時、覚り妖怪は寄生虫となる。
ロイコクロリディウムめいた支配で、宿主を操った覚り妖怪はより大きなコミュニティへと宿主を移していき……
やがて、是非曲直庁にも取り行って、地霊殿を得るに至ったのだ。



 ――『お姉ちゃんに、地霊殿なんて無いほうがいいよ』

 こいしの為に。ずっとそう考えていたのに。あの子が安心して暮らせる場所を得る為に、一生懸命頑張ってきたというのに。

 ――『だって、お姉ちゃんにこんな場所、相応しく無いでしょ? 私といっしょに、お出かけしましょ?』

 怒りと混乱で絶句した私を見て、妹は華が咲くように笑っていた。鈴が鳴るように、笑っていた。
差し伸ばされた手をはたいて、あの時私は何と言っただろうか。感情的に成り過ぎて、覚えていない。
きっと、酷いことを言ったに違いない。私と妹は、偶に会ってはそうやって喧嘩別れする。
そうして私は言いすぎたと反省し、こいしはまた笑顔で話しかけてくる。だけど結果は何時も同じ。
他の誰の考えてる事が分かっても、あの子が何を言いたいのかが、私には分からない。

 こいしの為と言いながら、あの子の幸せを願いながら……私と妹は、どこかで致命的に掛け違っていた――


 ◆


 天子に五衰の兆しが現れてから、既にひと月が過ぎた。
夏の空のように蒼く流れていた髪は艶のない黒に変わり、人形のように皺一つなかった顔にも表情の癖と言うべき物が一つ二つと見えてくるようになった。幸い、吹き出物は今の所出来てはいなかったが。
そして何より変わったのは、その手の平で有る。

 「……」

 翁との剣術稽古が終わった後。汗だくになった身体を清めるため、川で水浴びをしながら天子は痛む左手首に顔をしかめた。
小手打ちで強く叩き付けられた手首が、青く腫れ上がっている。手首を掴むとズキリとした痛みと共にゴツゴツとした感触がある。
今の天子の手には、何度も繰り返し剣を振る事で皮膚が擦り切れ、硬くなった痕が幾つも出来上がっていた。

 天子は暫くの間そうしていたが、ふと肩を震わせると、川を上がり身体と髪を拭く。
しっとりと濡れる髪を団子状にまとめ、さとりから出る給金で買った服――安物だが、下着だけは奮発した――に着替えると、袴とキュロットの中間のような下衣へ、綾取りの梯子のように緋色の紐を巻き付けていった。

 「着替えたか?」

 茂みの先から嗄れた声がかかる。汗一つ掻いた様子の無い翁に、天子はジロリとした視線を向ける。

 「……何だ」
 「別に。汗をかかない身体が懐かしくなっただけよ」
 「確かに半人半霊は汗を掻きにくいが、全く掻かない訳ではないぞ? 風呂にだって入る」
 「ハイハイ、冷や汗一つ掻かせられない私の力不足ですわ」

 天子は憮然とした様子で、パンパンと衣をはたいた。

 「確かにお主には天賦の才が有る。あるいは、儂の十倍の速度で剣の道を歩めるかも知れん。
  だがそれでも、一ヶ月ぽっちの小娘に剣で負ける道理は無いな」
 「またそれ? そうは言うけど、私もう天人じゃないのよ」
 「肌の硬さはどうにもならんが、筋力は維持すればいいだけの事。それだけの事はさせている」
 「……」
 「とは言え正直な話、あれだけの目に有ってなお再び剣を握りに来るとは思ってなかったがな」

 そう言って翁は川の向こうを見つめる。その眼は何か懐かしい物を見ているようで、少しだけバツが悪そうでもあった。

 「だったら何で、私に刀なんか渡した訳よ」
 「……あのまま、訳も分からず剣を振り回させておくには勿体無いと思った。
  この才を育て、磨き、一本の刀となった時……どれほどの名刀に成るだろうと思うと、血が疼いてな」

 身勝手な話じゃ。と翁は言う。

 「刀は人を殺すための道具だ。剣の道とは、即ち人殺しの道。
  だからかの、儂は孫に剣は教えても剣の道に進ませてやる事は出来なかった。半人前のまま、放り出してしまったよ」
 「……やっぱり、孫、居るんだ」
 「血は繋がっておらんが。そも、儂には実子が居ない故に」
 「その道に、私は進ませるの?」
 「あるいは」

 川に小舟がぷかりと浮かび、船頭がゆっくりと対岸へ渡っていく。
この道が修羅へと続くならば、その船頭はきっと大鎌を持っているのかも知れない。そんな様子は、どこにも無かったが。

 「あるいはお主なら、何か別の道を見つけるのかも知れん。人に生まれ、天に上り、そして地を知ったお主ならば」
 「それでも今の私は、只の人よ」
 「今はな」
 「……勝手な事ばかり」
 「良く言われる。いや、良く言われた、と言うべきか」
 「叱られる内が花よ?」
 「ならば、大人らしく一つ叱りつけておくとしよう」

 そう言って翁は、眼光を再び剣呑な物へ戻し、天子を睨んだ。

 「無心に剣を鍛えるのは良い。だが、無心のまま剣を振るおうとするなら、その時は殺してでも止めよう。
  鉄火無く血に濡れた剣はただ錆びるのみ。お主がそうなるのを見るのは、一介の剣士として忍びないが故にな」

 殺してでも、と言うのが比喩でも何でも無い事を示すような、鋭い目線。
黙し噤んだ天子を残し、老剣士は去っていく。くたりと身体の力が抜け、天子は河原に寝転ぶ。

 「本当に勝手。男ってみんなああなのかしら」

薄暗い所に隠れていたらしい沢蟹が、丁度目の前に落ちてきた天子の手に吃驚し鋏で指を突っついた。

 「あいたっ!?」

 慌てて飛び起きた天子は、件の沢蟹を憎々しげに睨めつけると、靴底でゆっくり体重を掛けていく。
パキポキと音がして、潰れた蟹が後に残った。


 ◆


 「だからさぁ、私は心配してるんだって!」

 ジョッキを豪快に傾けながら、黒谷ヤマメは叫ぶ。
その顔は大分赤ら引いており、既に相当量のアルコールを摂取したのであろう事を伺わせた。

 「やっぱりほら、最近付き合い悪いしさぁ……」
 「そりゃ、並の人間で妖怪の酒盛りに付き合っていくのはキツいに決まってるじゃないの。
  貴女も大概にしておくべきよ、もう大分酔っ払ってるんだし」

 暗緑の目を薄く閉じ、呆れたように対面の女性……水橋パルスィは言う。
その膝には、ほのかに頬が赤くなった白狼天狗の子供が載せられ、すうすうと寝息を立てている。

 「パルスィはさー……会いに行かないの? 最近は」
 「私、橋姫よ? 堕ちていく人間を相手に何を言っていいか、わからないわ。
  あの日、何が有ったのかすらロクに知らないのし」
 「なんだって良いじゃん! 友人なんだからさ、大事なのはハートだよ、は・あ・と!」
 「妬ましい……たった数日仲が良かっただけでそこまで言い切れる貴女が妬ましい……」
 「分っかんないかな、こういうのはね、ソウルがティンと来るか来ないかなの。
  あ、こいつは仲良くなれるな! って思ったら大抵仲良くなれるし、事実天子だってそうだったんだよ」
 「私、貴女と仲良くなれる気なんてこれっぽっちも無かったんだけど」
 「酷っ!?」

 はああ、と大げさにため息を付くヤマメ。酒臭い息が充満し、卓の側に佇んで居た白い犬が、嫌そうに顔をしかめた。

 「あの後、久方ぶりに覚り妖怪の『晒し』が有ったって言うしさ? 星熊様はなんかずーっと難しい顔してるし。
  まぁ、気が滅入る話だよね。せめて、タロから話を聞ければなぁ。何が有ったか覚えてないなんて……」
 「……どうしたって良い記憶に成るわけがないもの。忘れた方が良いに決まっているわ」
 「そりゃそうだね、ごめん。私が不謹慎だった」

 酒の力で無理に盛り上げていた空気は、何か切っ掛けが有れば急激に萎んでいく物で。
ヤマメはちびちびと酒を煽りながら、パルスィの膝に頭を預けるタロを見る。
パルスィの手がふわりと跳ねる髪を撫で付け、その度に耳が微かに揺れた。

 「ロックデビューの方はどうなってるのよ」
 「色々揉めてるよ……やっぱりパンフレットの印刷とかになるとどうしても河童のテクノロジーが必要になるし。
  でも私あいつらと仲悪いし……いっそ天狗に頭下げようかなぁ?」

 そのまま諾々と、他の話題へ移行しようかと言う時で有る。

 「ん、あれ」

 ヤマメの視界の端に、羽衣がちらりと舞い込んだ。
酒の香りがあちこちに充満し爛れた、深夜の雰囲気にそぐわぬどこか楚々とした雰囲気の有る姿。
こちらを見て二、三逡巡した後、ふわふわと近くへ寄ってくる。

 ――こんな奴居たっけ?

 地底ではそれなりに知名度の有るヤマメは、知らない人に話しかけられた経験も無いではない、が。
やはりそういう時には、どこか纏う空気が浮ついている物だ。
この女も確かに、ふわふわしている。しかしそれは、緊張や興奮によるものではなく、頑丈さを持たせる為にあえて緩ませた糸というか……そんな感じなのだ。

 「あのう」

 とらえどころの無い、大人びた声。顔は少し帽子に隠れていたが、こうして見ると随分な美人で有る。
ナイスパッツン、とヤマメはテーブルの下で拳を握りこんだ。

 「どうかしたかい? この辺じゃ見ない顔だね」
 「えぇと、まぁ。地霊殿ってどちらか分かります? どうも皆さん、嫌な顔をしてしまって……お聴きしづらいんですよね」
 「まぁ、あそこに積極的に関わろうとする奴ぁ居ないからねぇ。特に今は、ほんの少し前に騒動が有ったばかりだから。
  アンタも、地霊殿に何か用なの? 何だか、あそこも最近は先客万来だねぇ……」
 「まぁ、少し、知人がお世話になっていると聞いて……」
 「知人?」

 パルスィが少し驚いたように、テーブルから身を起こす。

 「ひょっとして、比那名居天子の……」

 それを聞いて目を丸くしたのは、件の女の方であった。

 「ご存知なのですか? 何かご迷惑をお掛けしていないでしょうか。何分、我侭な割に寂しがりな方ですので」
 「迷惑なんて事は無いけれど、アンタは……友人か何か?」
 「なんだ、天子の奴ちゃんと心配してくれる人が居るんじゃないの。妬ましい」
 「友人、ですか」

 どこか困ったように眉根を寄せる。その様子に、「違うの?」とヤマメは聞いていた。

 「確かに仲は良い方でしたが……友人というには、少々上下関係が強すぎたかも知れません」
 「そういうもん?」
 「そういう物です」

 その受け答えはふうわりとした口当たりの良い物で有ったが、同時にどこかサバサバしているとも取れる。

 「まぁ、今はちょっと難しいでしょうね、あの子」

 パルスィがお猪口を煽りながら言う。

 「何か有ったのですか?」
 「悪いけど、私達もあんまり把握してないんだ。憶測だけで色々言うのは、多分良くないし」
 「ふむ、そうですね。聞き出せるようなら、本人から聞く事にします」
 「それがいいよー」
 
 ひらひらと手を振って。そうして彼女達は、僅かな会話と共に地霊殿への道を教え、別れた。
ヤマメ達が「あぁ、名前を聞き忘れたな」と思ったのは、半刻して酒盛りがお開きになってからで有る。


 ◆


 地霊殿、キッチン。豪奢な表区画からは外れた生活区域であり、ダイニング形式にもなっているその場所に二人の女が居た。
基本的に、使うのはさとりとお燐、後食べる専門のお空、そしてごく最近は天子位で。
あまり広くは無く、さとりのぼそぼそとした喋り方でも十分に部屋に声が行き渡る作りだった。

 「……ですので、八雲紫が表に立った事も有り、しばらくこちらからの地底への横槍は収まりそうです」
 「そうですか。八雲が……」

 覚り妖怪を持ってして、恐れ慄く人物有り。その一人が幻想郷担当の閻魔、四季映姫ヤマザナドゥである。
普段は四半期に一度顔を出し、家主やペット達に説教を聞かせて帰っていく閻魔様で有ったが、この時は違っていた。
地底の怨霊騒ぎから始まる一連の顛末、その一応の決着を知らせに、わざわざ足を運んでくれたのだ。

 「……あまり嬉しそうでは有りませんね、悩ましい問題がひとつ片付いたと言うのに。新しい心配事でも?」
 「いえ。……いえ、なんでもありません。少し寝不足で」

 潔癖な程に白黒をはっきりと分け、常に味方とは限らないものの、是非曲直庁では数少ない信頼出来る人物。
彼女が居なければ、今頃はお空は守矢か、あるいは仏門か……何らかの勢力に取られて居た事は想像に難くない。
勿論こうなれば、さとりも応対しないわけには行かない。苦手意識を何とか乗り越え、引きこもりなりに誠意を見せる。

 「博麗の巫女を使い、一時は退治しにきた八雲が味方になってくれると言うのも、おかしな話ですけどね」
 「そうでしょうか? あれも、知ってしまえば随分と分かりやすいと思いますよ」

 さとりはミルクパンを沸かす火を止めると、蒲公英コーヒーの粉末を匙でトポトポと入れ、かき混ぜる。
たちまち香ばしい香りが映姫の座るテーブルにまで届いた。

 「いい香りですね。優しい香りで」
 「どうぞお召し上がりください、白黒混ざっちゃってますけど」
 「皮肉としては、五十点ですね」

 砂糖を二匙半。ミルクコーヒーなのだから、甘くするのがさとりの流儀で有った。
対する映姫は、常に出された物をそのまま飲む。それが彼女なりのもてなされ方なのだろう。
とは言え、あまりに酷いいたずらをすれば、黒の判決は逃れられないだろうが。

 「話を戻しますが、八雲紫とはつまり、常に『幻想郷の味方』なのです。
  もっと言うならば、幻想におけるより多数な方の味方、でしょうか」
 「……そう、なのでしょうか? あまり実感が湧きませんが」
 「彼女にとっては、幻想入りした動物、植物、三寸の虫ですら数に入るでしょうからね。
  それでいて決してシステムではなく、彼女個人の計算と感情が有って動いているのが可愛らしい所ですが」
 「何というか……閻魔様にかかれば、幻想郷の賢者も型なしですね」
 「まぁ、お陰で説教しようにも中々捕まえさせて貰えないのですが……。
  今回の場合、是非曲直庁は厳密には幻想郷じゃ有りませんからね。彼女は彼女の幻想を守ったと言うことでしょう」

 映姫がカップに口を付ける。その仕草は上品で、どこまでも正しい。
さとりは普段猫背気味な背筋をクイと引き締め、どこかギクシャクとカップを口へ運んだ。

 「妹さんはお元気ですか?」

 カチャリ、とソーサーが鳴る。

 「……ここ最近は全く顔を見せません。もう、およそ一ヶ月半以上……」
 「そうですか。三宝に関心を持ったと聞いて、間違った知識を教えられないよう説教をしようと思ったのですが」
 「閻魔様の説教が待っていると有っては、居たとしてもたちまち逃げ出してしまうでしょうね。
  ……人里の寺に、何か問題でも有るのですか? 聖白蓮は、相当な人格者だと聞きましたが」
 「あまり、居ない場でその人物について語るべきでは無いのですけれど」

 一口、四季映姫は舌を湿らせる。さとりの第三の目に、言うべき事と言うべきで無い事が高速で映っては仕分けられていく。

 「羯諦、羯諦、波羅羯諦」
 「般若心経ですね。閻魔様から直々に唱えていただけるとなると、有り難くて煙が出そうですが」
 「意味はご存知で?」
 「……ええ、まあ」
 「心を読みましたね。まぁ、良いとしておきましょう……そう、我々は行かなければいけない。
  歩まなければいけない。徳を積むと言うことは、その為に己の足を動かすと言うことです。悟りの彼岸へ向かって」
 「聖白蓮は、それを疎かにしていると?」
 「……」

 説教好きの閻魔の事である。大方、妖怪寺と呼ばれる場所等、とっくにチェックしているのだろう。
四季映姫は、言葉を選んでいるようであった。彼女の黒に引っ掛からない言葉を。

 「積み上げる物無しに得られる知慧など有り得ない。しかし彼女は、それを望んでいる。
  歩まない者たちすら救い出そうと考えて……そして、貴女の妹にその可能性を見出している」
 「つまり?」
 「聖白蓮は尼僧でも有るが、魔女でも有ると言うことです。勿論、暴力的な手段に頼ったりは有り得ないでしょうが。
  それに、この間の心綺異変……」
 「まだ何か」
 「いえ。すみませんが、口が過ぎました。ここまでにしましょう。
  私が言いたいのは、古明地こいしを気にかけて欲しい、と言う事です」

 ピシャリと音を立て、映姫の思考が閉じられた。見えかけて居た物が霧散し、さとりの胸にざわざわした物が残る。
さとりは映姫を恨めしげに見つめ、ため息を吐いた。

 「あの子が本気で逃げ始めれば、私に出来る事など何一つ有りませんよ」
 「無意識……似て非なる非想非非想ですか。確かに、目で見えない物を見るのは怖ろしいかも知れません。
  此岸の物で有れば尚更に。ですが相手の心を慮り、そして伝えると言うのは普通の人間が当たり前にやっている事。
  そう、貴方は少し諦めが早すぎる」
 「しかし!」
 「どんな家族であれ、どんな生物であれ、喧嘩の一つでもする方が、よっぽど健全だと思いますけどね」

 蒲公英コーヒーの香りが漂う。映姫はさとりの目を正面から見る数少ない人物である。
その目は叱咤しているようにも、慈しんでいるようにも見えた。
古明地さとりのように他者を己の鏡とする者に取って、四季映姫こそ全てを映す浄玻璃の鏡。
さとりは深く、内へと沈み込んでいく。何もかもが映し出される。何もかもが。


 ◆◯-◯◯--


 地霊殿、三週間程前。
 
 静まりかえった食卓に、カチャカチャと食器を動かす音だけが響く。
上座に座るのはさとり、その対面に天子、横に少し肩身が狭そうなお空お燐のコンビが隣り合って座っている。。
お空たちの対面には空の椅子に料理がもう一人分。これは、何時帰ってきているかも分からないさとりの妹の分。
さとりは毎朝一人分の朝食を余分に用意して、そして大抵の場合それはお空に片付けられる。

 「……うん、美味しい」

 天子はひっくり返した目玉焼きを乗せたトーストを口に運びながら、ぽつりと言った。

 「好み、覚えてくれたのね」
 「白身堅焼きの黄身半熟。裏返すのは見栄えが悪いので好きじゃないんですが?」
 「トーストの端から溢れるでしょ、こうしないと」

 交わされる会話自体は至って和やかだが、その声色は双方共努めて平坦にしている印象を受ける、無機質な物。
おまけに、自分の手元を見たままで目を合わせようともしない。
ぴゅうと冷たい風が吹き抜けた気がして、ペット二人は身を震わせた。

 「う、うにゅー……さとり様?」
 「どうしたの、お空?」
 「えーと、えーと……」

 たまらずお空がぎこちなく笑いながらさとりに声をかける。
さとりは優しく微笑みながら、お空の方を向いた。電撃が走ったかのようにお空の背がピンと伸びる。

 「あ、あの。山の巫女さんがですね」
 「『面白い漫画があるから読むかどうか聞いてみて欲しい』ですか。
  私は小説の方が好みなので……そっちの方で良いのが有れば、と伝えて置いて」
 「あ……はい、うにゅ」

 乏しい記憶領域の中から努力の限りを尽くして情報を引き出すも、優しい拒絶に押し返される。

 「あ、天子は!」
 「ごめん、今結構忙しいから。また今度ね」

 ぱっと表情を明るくして反対側に声をかけるも、天子は首を振った。現在よりは大分青みを残した髪が乱れる。
そっか、と小さな声を残して、お空は隣をちらりと見た。

 「お燐はどうするの?」
 「……ん、あ、ごめんお空。ちょっと眠くて呆けてたよ。なんだって?」
 「えっと、山の巫女さんが、漫画……」
 「あぁ、そうだね。あそこのは量が多いから、運ぶなら猫車を持って行かないと……」
 「そうじゃなくて……うにゅ」

 一つ一つの応対は決しておかしいわけじゃない。さとり様は何時だって優しいし、
お燐だって最近ちょっとぼうっとしてるけど、一緒に仕事をしたりしてる時は何時ものお燐なのだ。
天子だけは少し体調が悪そうだが、万事この調子と言うわけでは無い。笑う時は笑ってるし、ちゃんとしてる。
それでもやはり、お空は一抹の寂寥感を感じない訳にはいかなかった。何かが、バラバラに成っていくような。

 「ごちそうさま」
 「お粗末さまです」

 天子が立ち上がる。壁に立てかけてあった練習用の剣と真剣を手に取り背負い担ぐと、何時ものように地霊殿を出ていった。
彼女が仕事をする本来の目的は既に達成していると言ってもいい。
しかし、さとりは辞めろとは言っていないし、あの二人も自主的に辞める事は無いようだ。
結果、天子は毎朝家を出ては、へろへろになるまで扱かれて帰ってくる。
朝食は天子とさとりが一堂に会する一日一度のタイミングなのだ。

 朝食の後。天子、そしてお燐お空が仕事に出かけるのを見送り、食器を片付けた後はさとりの自由時間で有る。
他のペットの世話はペット達に一任している。矛盾してるように感じるかも知れないが、
さとりでなければどうにも出来ない事以外は案外ペット達の自治で成り立つのだ。
むしろ、下手にしゃしゃり出たりしない方が上手く行く事も多いだろう。無責任だと言われたら、その通りかも知れないが。

 「……」

 さとりは蒲公英コーヒーを一杯入れ、文庫を一冊ページをめくりながら食堂で佇む。
ひょっとしたら、「お腹がすいた~」なんてぼやきながら妹がドアを開けるかも知れない。そう思いながら。
勿論今までにそのような事は一度も無い。だが、今まで一度も無かったことが一秒後に有り得ないと言い切れないのが妹だ。
故にさとりは一冊を読み切るまでの間、ここで妹を待つ。今日も帰って来ない事を確かめて、どこかホッとしつつも……

 その時、滅多に鳴らされない地霊殿のドアベルが、高らかに鳴った。



 「妬ましい」

 難儀しながら重い門を開け、来客と目が合った瞬間にそう言われたら、どんな反応を返せば良いのだろうか。

 ――ひょっとしてネタ振りでしょうか。

 だとすれば、ここらで一発「覚り妖怪は不意打ちに弱い」という定説を覆さなければならない。さとりは身構える。
そして五秒間考えに考えた最高のジョークを口にしようとしたその時、「くちゅん」という音が発せられた。

 「……意外と可愛いくしゃみしますね」
 「ほっといて頂戴、妬ましい」

 照れくさそうに鼻をこする女性を、さとりは見やる。ああ、何処かで見た事の有る地底の妖怪。
確か、嫉妬を司るという橋姫だったか。そう言えば、彼女がここに来たのはほんの一週間前だ。

 「お礼参りか何かですかね?」
 「違うと判っている事を口に出すのはマナー違反よ、覚り妖怪。まぁ、お礼を言いに来たのは間違ってないけど」
 「お礼を言われる程の何かをした覚えは有りませんが」

 多少の嫌味を乗せ、言外にさっさと去れと伝える。しかし橋姫は、予想に反して深々と頭を下げた。

 「あの子を救ってくれてありがとう。感謝してもしたりないわ」
 「……気まぐれです。何より、天子さんが行かなければ」
 「ええ、勿論そうかも知れない。でも結果は変わらないわ。
  ただでさえ目が見えないあの子が、あなたの処置が無ければ精神的にも大きな傷を負っていたかも」

 そうなればきっと、最後には死に至っていた。さして感激もしていないような口調で橋姫は言う。

 「私は無力だった。妬ましいわ」
 「そんな物ですよ、私だって……蹴散らしたのは、お爺さんですし」
 「とにかく、筋を通さなきゃ安心して妬めないのよ。これを受け取って、碌でもない物だけど」
 「碌でも無いって……つまらないでも無く? そんな風に渡される物はちょっと遠慮したいんですが、わりと本気で」

 そう言いながらも、さとりは橋姫に渡された小さな巾着袋を開けてみる。
中には、翡翠のように輝く小さな丸い粒が一粒入っていた。

 「あら、綺麗ではないですか。……これは?」
 「"素直になれる呪い"よ」
 「呪い(のろい)……お呪い(おまじない)ではなく?」
 「橋姫謹製の濃縮グリーンアイ。そんな可愛い効果はしてないと自負しているわ」

 成る程、確かに碌でも無い。さとりは頷いて、そっと粒を巾着袋に戻した。

 「どうやって使えばいいんです、これ。素直になってほしい相手に渡すとか?」
 「いいえ? そのまま食べなさいな、味は悪くないはずよ」
 「……口に入れろと言うんですか?」
 「無差別に効果を発揮しないよう気を付けたのよ」
 「蛍光色をしてますが……なんか光ってるし」
 「ただちに肉体に影響は無いわ」

 つまり、精神的には直ちに効果覿面と言う事だ。
さとりは接客用の胡散臭い笑顔を浮かべ、橋姫に対して言葉を返す。

 「有難う御座います。早速地獄鴉が戻り次第焼却させていただきますね」
 「別に、あなたがそうしたければそうすれば良いわ。使い方を指定できるほど偉い訳じゃないもの」
 「分かってるなら、もう少しマトモなお礼をすれば良いのに……」
 「嫉妬の妖怪にあんまり期待されても困るんだけど?」

 別に手作りに拘らなくても、菓子折りとか色々有るだろうに。さとりは内心で毒づく。

 「……それはね、私からあなたに送れる、ささやかな"選択肢"」

 ふんと不愉快気に鼻を鳴らしながら、橋姫は言う。

 「どう使おうが自由よ。他人に飲ませるのも、自分で飲むのも、使わずに捨てるのもね。
  敢えて選ばない事だって立派な選択の一つでしょう? ただまぁ、所詮嫉妬の塊だもの。
  使えば"碌な事に成らない"事だけは、保証しておくわ」
 「……正真正銘の呪いじゃないですか……」

 さとりは嘆息した。お礼なのか嫌がらせなのか、これでは分かったもんじゃない。
案外、お礼参りと言うのも間違ってないんじゃないかとすら思う。

 「呪いだって、嫉妬だって……ううん、ありとあらゆる悪徳も、必要だから生み出されたのよ。
  そこに貴賎を付けるのは、人間の都合じゃない」

 しかし橋姫は、悪びれもせずにそう言った。嫉妬を背負う事が、まるで誇りで有るかのように

 「きっと、必要なのよ……特に、あなたのように自分で自分の背中を押せない奴にとってはね。
  じゃあね、覚り妖怪。あまり会う必要が無い事を祈っとくわ」

 そうして緑眼の姫は嵐のように去っていく。
あれから現在に至るまで。結局さとりはあの丸薬を捨てられずに、巾着に入れたままポケットの奥に眠っている……

 ◯--◯---◯-◯

 ◆

 「ふっふーふっふー♪ しごーとが好っき~♪ へいへいほ~へいへいほ~♪」

 通行人をそこのけそこのけ、適当な鼻歌を歌いながら道の真ん中を行くのは霊烏路空である。
大きな体躯をぶるんぶるんと震わせる様は、さながらディーゼルエンジン車だろうか。
身長で言えば鬼の星熊勇儀と張り合えるくらい。独特の紋様を描く大きなマントを数に入れれば、もっと行くかも知れない。
特徴的な制御棒は、普段は何処かに仕舞われている。そのテクノロジーはお空自身にもよく分かっていないが、
便利なのでまあ良いかと考える。基本的に頭の出来は鴉の物であった。

 「……はぁ、お燐、どうしたのかな……お腹でも痛いのかな?」

 しかし普段の元気頭も、今はカラ元気を回すので精一杯。親友であり同僚のお燐が、今日は珍しく無断で仕事場に来なかった。
長い付き合いである。お燐が特に理由なくサボる、なんて事の一回や二回無かったわけではない。
だが、その時は大体お空も一緒に誘われるのだ。
お空は誤魔化し方が下手なので大抵後でさとりに一緒に怒られるのだが、それでもお燐はお空を誘う。
お燐がお空にも相談せず仕事を休むのは、これが初めてだった。

 「何かあったのかな……うにゅう」

 最近のお燐は、どこと無く張り詰めている様子があった。何かを話しかけても上の空である事も何回か。
当然、お空とてその原因が分からない訳ではない。少し前から続く天子とさとりの間に漂うピリピリとした緊張感。
お燐はその事について、とても悩んでいるように見えた。

 「わたしじゃやっぱ、頼りないのかなぁ……」

 主であるさとりの事についてである。お空とて勿論、心配にならない訳じゃない。
訳じゃないが、火力で解決出来ない問題はお空にとってどうにもならない事でも有った。

 ――どうして全部フュージョンしちゃいけないのかしら。

 胸の奥に揺れる核の炎を燻らせながら、お空は地底を行く。
仕事自体は一人でもあっさりと終わる量だったが、なんだかこのまま地霊殿に帰りたくない気分であった。
せめて自分だけでも元気を振り撒かなければ、などと思いがあったかどうかは知れないが……

 くぅ。

 やや間の抜けた音を立て、お空のお腹が鳴る。

 「んー……何か、たーべよっ!」

 たまには買い食いをしよう、と思い立ち、お空はその足を広場へと向けるのだった。



 「おや? お空ちゃんじゃないか、久し振りだねぇ」
 「おはよー、オバちゃん。かき揚げ丼頂戴!」
 「あっはっは、もう呑みが始まる頃だよ」

 人参や葱、キノコをかき揚げにしたものが、パチパチと音を立てて揚げられていく。
油を落とすのもそこそこに白いご飯の上に乗せられ、特性タレをかければじゅわっと美味しそうな香りを辺りに振りまいた。

 「はいよ、かき揚げ丼一丁」
 「んー♪ いただきまーす!」

 お空はそれをハフハフと、席にも座らずに食べ出した。
椅子や卓は酒呑みが使う物なので、丼ならばこういう食べ方も有りなのだ。
勿論、主であるさとりにバレたら怒られるだろう程度には行儀の悪い行いでは有ったが。

 サックリと揚がった人参は、噛み締める度にどこか土臭さの抜けた甘みが滲み出る。
キノコもぷりぷりとしていて、それに葱が良いアクセントとなっていた。勿論、タレの甘じょっぱさも忘れられない。
茶碗二杯分の白米と共にザクッザクッと音を立て、お空はそれをあっさりと胃の中に流しこみ、腹を擦った。

 「ごちそうさまー! はい、お椀返すね」
 「相変わらず良い食べっぷりだねぇ。見ていて気持ちが良いよ」

 地霊殿のペットで有りながらもお空に人望が有るのは、ひとえにこの人懐っこさも有るのだろう。
勿論、さとりや他のペットたちに比べたら、街へ出る機会が多いことも有るのだろうが。

 「そういえば、今日はお燐ちゃんは一緒じゃないんだねぇ? 珍しい事も有るもんだ」
 「うにゅ……」

 それはふとした一言で有ったが、お空の顔に的確に陰を散らした。
見かねた店主が「何か有ったのかい?」と声をかける。お空がそれまでの経緯を話すと、店主は不思議な顔をして首を傾げた。

 「でも、お燐ちゃんならさっき見たけどねぇ」
 「本当!?」
 「うん、確か、そこの路地を曲がっていって……」

 早速お空は指し示された道を辿る。お燐の特徴的な尻尾は、直ぐに目に入った。

 ――何よ、お燐ったら。心配かけてくれちゃってさ!

 せめてもの仕返しがお空の頭をよぎる。後ろから急に話しかけて驚かす、他愛もないイタズラ。
幸い、この路地は狭く曲がりくねっていて、身を隠す場所も多かった。
物陰に隠れよく耳を済ませると、気付く事が一つ。

 ――……? お燐、誰と話しているんだろ。

 どうやらお燐は誰かと話をしているようだ。喧嘩になりそうな感じでは無いが、所々声を荒げているのが分かった。
広場からはさほど離れていないので、ワイワイガヤガヤとした音はここにまで届く。会話の中身は聞き取りづらい。
こっそりとお空は、その内容が聞き取れる所まで近づいていく。愚かな好奇心に駆られ。

 「……重ねて聞くが、本気か? 決して命の保証がある訳では無いぞ」
 「そうかも知れないね。……でも、あたい、このままなんて嫌だよ。耳と目を外して生きていくなんて出来ないだろ?」

 ――あれ、お爺ちゃんの声だ。

 お燐と話す男の声は、お空にとっても聞き覚えの有る物であった。
古明地さとりとも何度か面識の有る、侍風のお爺。お空は名前を覚えてなかったが、そもそも彼は名乗った事が無かった。
そんな翁の、命の保証が無いと言う物騒な言葉に、お空は黙って次の言葉を待つ。
お燐が無茶をするようで有ったら、張り付いてでも一緒に行く決意を固め。



 「だから、教えておくれ。あたいに、さとり様の……いや、覚り妖怪の倒し方を」



 「え」

 胸がギュウと締め付けられ、お空の肺から絞り出るような声が漏れた。
お燐の双尾が驚きに膨れ上がり、風切音を立てこちらを向く。翁の目が剣呑に細まる。

 「お空」
 「何を……言ってるの、お燐。冗談だよね、お燐がそんな事……する訳が、ないもん」
 「……あたいは、本気だよ」

 ガシャガシャと音を立て、お空の右手へ超空間的に制御棒が組み上がっていく。その砲口は、お燐へと向いていた。

 「冗談だと言ってよ」
 「……」
 「本気なら……倒さなきゃいけない。さとり様の敵だから」
 「そうか……。あんたはそう選ぶんだね、お空」

 悲しげに首を振るお燐の目の中で、覚悟の決まった炎が燃えていた。
例えここで自分がどれだけ言おうと止まらぬだろう事を、お空は無意識に感じ取る。
だが、それでも感情がそれを否定する。駄々をこねる子供のように。

 「何でよ! お燐!」
 「……本当は、誰かがやるかも知れないんだ。このままで居れば、誰かが何とかしてくれるかも知れない」

 砲口を向けられる圧迫感にのけぞりながらも、お燐は言葉を紡ぎ出す。可能な限り正直に。

 「でも、あたいがやるんだ。聞いてしまったから。見てしまったから。あたいがやるんだよ」
 「……何よ、それ。どういう事なのか全然わからないよ、お燐!」
 「やりたいんだ! その為には、さとり様に……ううん、さとり様のままじゃダメなんだ!
  あたい達がさとり様って思うのを止めなきゃ、さとり様はずっとさとり様のままだから」

 誤魔化さない言葉は、装飾が無いと言う事。
お空の沸き立った脳内にまでそれは染み入らず、ただ炎に飲まれその勢いを増していくのみ。

 「あたいが正しい保証なんて無い。だからお空はそのままさとり様の側にいてやって欲しいんだ。
  ……きっと、寂しがるだろうから」
 「それが分かってるなら――ッ!!」

 キィィンと音を立てて、砲塔にエネルギーが充填される。
フルパワーで打てば大災害になるだろう熱量を、制御するだけの理性は辛うじてお空にも残されていた。

 ――足を焼き払って、無理矢理にでも連れて帰る!

 勿論、それでも火事が起こらないとは限らない。だが、お空にとってはそんな事よりお燐の方が遥かに重要なのだ。
危機を感じ取ったお燐が慌てて跳躍を開始する。しかし遅い。その単純な直線運動は余程狙いも付け易い――!



 バキィン、と。

 甲高い金属音を立てて、お空の腕が上へ跳ね上がった。
圧縮されたエネルギーは上空へと発射され、岩肌を少し焦がすだけに留まる。
その神速の踏み込みを為したのは――他に誰が居るだろうか――翁であった。
老剣士の刀が逆袈裟に振りぬかれ、制御棒に包まれたお空の腕を逸らしたのだ。

 「お爺」
 「行け。双方ともに説得は無意味だろう。これも乗りかかった船よ」
 「……だけど、あたいはあんたに、まだ」
 「追って伝える。流石に戦いながら喋る余裕があるかは分からん相手じゃ」

 お空は。その目を爛々と輝かせ、既に次の戦闘へのエネルギーを注ぎ込んでいた。
普段のお空だけを知る物が聞けば即座に震え上がるであろう、底冷えした声で呟く。

 「邪魔しないで。……焼き尽くすよ」
 「ふん、こちとら貴様の主人から、無闇矢鱈に火を点けて回る輩を退治しろと仰せつかっているのだぞ」
 「……」
 「儂はどちらかと言えば猫の方の意見に賛成でな。その上、貴様にあまり暴れられたらこれまでの働きが水の泡になる。
  色々な奴らの働きがな。それを知る者としては、見過ごすことは出来んだろう」
 「そんな理屈で、納得出来るもんか!」

 CAUTION! CAUTION! CAUTION!
鳥がけたたましく鳴くような音がして、お空の胸の瞳が紅く光る!

 「……ごめんな、お空!」

 猫車を抱え上げ、お燐が壁蹴り屋根を蹴り場を離脱していく。

 「逃がさない!」

 お空はチャージされた出力で、突撃を仕掛け組み敷こうとした。その行く手を翁が阻む。

 ――全部ダイブでぶち破……っちゃ、行けないから!

 「光熱『ハイテンションブレード』ッ!」

 突撃に使用していた出力を全て一旦停止し、前に付き出した制御棒から発射する。
急制動! 運動ベクトルが急反転し、並の人間で有れば気を失いそうなGがお空にかかる。

 「こんのぉぉッ!」

 お空はそれを気合と咆哮で押し返し、障害物を破壊しようと迫った。

 「悪いが」

 その時には既に、延びてきた手がお空の襟元を掴んでいた。

 「届きさえすれば、どれだけ速かろうと同じ事だ」

 受け流されている、否、巻き込まれているとお空が気付く頃には、猛烈な音を立て地面に叩き伏せられた。
背骨が反り返り、肺から空気が逆流していく。ゲホゲホとお空は咳き込んだ。

 「これぞ、無間における破折屈伏の極致也。
  場所が悪いな、地獄鴉。遠距離から近づけない程の熱量を張っていれば、如何に儂とて手の出し様が無いだろうが」
 「…………ぐすっ」
 「む」
 「ひっく、ぐじゅっ、……うぇ、うえぇぇ……」

 お空は、地に仰向けに倒れ伏したまま、別の意味でその眼を赤くし、泣きはらす。
情けなさと、悔しさと、何よりも混乱が彼女の頭を埋め尽くし、そして溢れかえっていた。
ただ、何より友に引き金を引いた重みが、制御棒を収納して尚その腕にのしかかる。

 「分かんないよぉ、お燐……分かんないよ……わたしが、馬鹿だからなの……? 教えてよ、お燐……」

 その質問に優しく頭を撫で、答えてくれる友人は……今、地上への岩道を駆け上がっているのであった。
彼女達の主人を倒すという、受け入れがたい言葉を残して。


 ◆


 ゆらゆらと燻ぶる地底の闇に、地霊殿は建つ。
天子は帰路を歩きながら、その門に背を預けて立つ人姿を見やった。
文銭を通した帯にはだけた死神装束。公僕で有りながらにわか無頼の香り持つサボリスト、小野塚小町である。
器用なことにその大鎌を杖代わりに立ったまま寝こけているようなので、天子は支えを足で払ってやった。

 「んおおぅ!?」

 前のめりにつんのめったツインテールの死神が、べちゃりと音を立てて潰れるのを天子は乾いた瞳で見届ける。

 「……死神。何してるの、こんな所で」
 「あぁ、あぁ、あんたか。そう警戒しないでくれよ。あたいは只の送り迎えさ」
 「送り迎え? って事は」
 「そう、中には閻魔様が来てるよ。会って行くかい?」
 「遠慮しとく」

 天子はそう言うと、小町と同じように門に背を預け、地べたに座り込んだ。
行儀の悪さを咎めるでも無く、小町は「いいなぁ、あたいがソレやると、映姫ように怒られるんだ」と呟く。

 「天人の魂、持っていかなくて良いの。今なら簡単だけど」
 「あくせくするほど手柄に困っちゃ居ないさ、それに、天人さんらとズブズブなのは昔からだしね」

 挑発するような小町の語りは、天子のまゆをぴくりと釣り上げるに留まった。

 「……大人になった、と言うべきなのかね。昔のあんたなら、もっと噛み付いてきたけど」
 「顎の力が衰えてきたんじゃないの?」
 「もうお婆ちゃんだってか? はっははは」

 小町は腹を抱えて笑うポーズを取る。直ぐにその笑いは臓腑の中に押し込められ、小町は遠い目をして虚空を眺めた。

 「……あんた、もうじきだよ。余命幾許も無い。三年……持てば良い方かね」
 「そう……やっぱりね」
 「もう数百年生きたんだろう? その身体から天の気が抜けきった後は、年齢に追いつくようにして体が急速に老いていって……
  ぽっくり、だ。一応、大往生と言えるかも知れないけどね」
 「……」
 「ま、顔見知りのよしみだ。少しなら便宜を図ってやるよ。
  と言ってもあたいに出来そうな事なんて、通行料を少しオマケしてやる位しか無さそうだけど……」
 「別に良い」

 天子は首を横に振る。すっかりと黒くなった髪が、滑らかに揺れ動いた。

 「仏教は、辞めたの」
 「辞めたっ……てぇ、言われてもねぇ」

 呆れたように、頬をぽりぽりと。

 「こっちも仕事だからさぁ」
 「ダメなの?」
 「幻想郷ではとりあえず仏教でやっとけば良い感じだし……ウチに一任されてるからなぁ。
  外の世界まで行けば基督教とかも有るかも知れないけどさ。でも、死者の裁きはどこにだって有るでしょ。
  逃れられるもんじゃないし、こっちだって逃しはしないさ。そんな事してたら権威が地に落ちちまう。
  結局、どこかで捕まっちまうものだよ。長い鎖さ」
 「長い鎖」

 後頭部で腕を組み、小町は気怠げにため息を吐く。
言葉をオウム返しにした天子の瞳が、真円にキュウと小さくなった。

 「鎖と言うより首輪ね。五本指の檻、緑の楔、三つの目」
 「あん?」
 「クソ食らえだわ。何もかも」

 天子は己の手の平をじっと見つめていた。そして手の平の中に、何も見ていなかった。
その眼には怒りの炎のような物が映しだされている。あるいは、消えかけの蝋燭の火か。小町は訝しげに天子の方を向く。

 「おい、あんた」
 「……何よ」
 「……いや、変な未練なんか残すもんじゃ無いよ。怨霊なんかならない方が身のためだ。
  こんな所に長く居れば、分かるだろう。怨霊だって焼かれる時は熱いんだぞ」
 「別に、大丈夫よ。未練なんてそう無いもの」

 天子は立ち上がると、パンパンとスカートを払って、来た道を戻っていく。

 「閻魔が来てるって言うなら、鉢合わせする前に夕飯でも摘んでくるわ。じゃね」

 そう言って手の平をひらひらと振るいながら遠ざかっていく天子の背を、半ば睨みつけるように小町は見続けていた。
天子は一度も振り返らず、結局二人の視線がかち合う事は最後まで無いままだった。



 その頃、地霊殿内部。
既に四季映姫ヤマザナドゥを迎えていたこの内部でも、ちょっとした異変が起こっていた。
普段、中々に迎え難い客人に会っていたのである。それも、鬼の星熊勇儀と共に。
小野塚小町はその時既に寝る体勢に入っていたため、その客人と会うことは無かったのだ。

 もし小町が寝過ごしていなければ、天子にも教えていただろう。
普段雲を泳ぐ天女が地の底に潜る機会など、滅多に無いに違いないのだから。

 「では、永江さんは近いうちに必ず、大きな災いが起きる、と言うのですね」
 「はい、竜神様が言うには、ですが」
 「その……具体的な事は?」
 「さっぱりですね。竜神様の話は長い上に要領を得ないので」

 さとりは目頭を揉んだ。ああ、なぜ私の身にばかリこのような事が起きるのか。
雲の上からすれば、いかんせん他人事か。一応、思い返そうとはしてくれているようだが。

 「……まぁ、来るってもんはしょうが無いよ」

 泰然自若。地霊殿という一種のアウェーに居て、なおどっしりと構える鬼の風格。

 「問題は、どうやって対処するかだろ。なぁ、覚り妖怪」

 星熊勇儀は頬杖を付きながら言った。小心者のさとりにとって、その態度は厄介でも有るが心強くもある。
今回は別に敵同士と言うわけでは無いのだし。まぁ、地霊殿の主として、吊り合うだけの風格は問われるのが辛い所であるが。

 「災いが起きるのは、地底だけなのですか?」
 「はい、竜神様が言うには、地底だけに……そう、なゐが襲うだろうと。まぁ、お陰で飛び回る必要は無いのですが」
 「なゐが? それはおかしな話ですね」

 黙して聞くだけであった閻魔が、ここで声を上げた。
永江衣玖が来た時に彼女は席を立とうとしたのだが、どうせ後で報告しなければならないから、とここに居て貰っていたのだ。

 「ん、おかしいって……どうしてだい、閻魔様」
 「あのですね、星熊さん。地の底が揺れ動いて地上が動かないわけ無いじゃないですか」

 何を考えてるんですかまあお見通しですけど、と横からさとりが口を挟む。
勇儀は少し嫌な顔で口をつぐみ、再び腕を組んだ。

 「つまり、何かしらの超自然的な何かによって引き起こされる。
  しかし幻想郷は大きな要石によって守護されて居るので、必然それが破れるだけの誰かの力が必要になる。
  今、幻想郷で最も要石の扱いに長け、守護を破る力を持っていそうなのは比那名居天子ですが、彼女は既に五衰中……。
  動機もありそうに無いですし、仮に行動を起こしたとしても八雲が事前それに気付かない訳が無い。
  閻魔様の"おかしい"とは、つまりそういう事ですね?」
 「……その通りですが、あまり人の台詞を遮るものでは有りませんよ、古明地さとり」
 「これは失礼」

 さとりはわざとらしく肩を竦める。コホン、と映姫が咳払いを一つ行った。

 「この件は八雲紫にも伝えてあるのですか?」
 「見つけようがない人はちょっと……まぁ、賢者様なら私より早く察知して居そうですが」
 「とは言うけどねぇ。やっぱ、何考えてんのか分からないんじゃなぁ……」

 星熊勇儀が腕組をし、その豊かな胸部をゆさりと揺らす。
対面のさとりと映姫はそれを直視した上で、慎ましやかにアイコンタクトを取る。

 「まぁ、伊吹さんは八雲様とご友人なのでしょう? そこから何か分かるのでは」
 「萃香かあ。アイツも中々、姿を見せないからな……まぁ、良い。
  私の仕事は必要な時に動けるようにしておくだけだ。あまりゴチャゴチャ考えるのは向いてないんだよ」

 ふあーぁ、と大きなあくびを噛み殺す勇儀。

 「それに、まぁ……地底の事は地底で何とかするのが、モットーだからね」
 「良いんですか? そういう事言っちゃうと、酒虫の酒しか飲めなくなりますよ。まぁ、味に文句は有りませんが」

 さとりの指摘に、うぐ、と勇儀は苦虫を潰す。映姫はやおら立ち上がると、悔悟棒でぺしんとさとりの頭をはたいた。

 「永江殿の話を聞く限り、これから信頼関係が重要な時が来るでしょう。あまり余計な波風を立てない事もまた善行。
  そう、貴方は少し他者に心を開かなさすぎる」
 「……ふん、あまり痛くは有りませんけどね」
 「彼岸を渡った後にでも目一杯痛くしてあげますよ」
 「やーい、怒られてやんの」
 「星熊勇儀、貴方もです。鬼で有り、他者の上に立つものならばもっとそれらしい振る舞いが有るという物。
  義務を果たせなければ、それもまた罪となるのですよ」
 「うげ、こっち来るか。あーあー、私ゃそういうの苦手なんだよ……そういうのは、萃香の方が上手かった」

 最後の方のつぶやきには、望郷の念が混じっているようだった。「だから嫌になったのかもなぁ」勇儀は小さく頷いた。

 「取り敢えず、この場で出来る話は済んだようなので、そろそろ私は天に戻りたいのですが」

 パチンと手を叩いて、衣玖が言う。他の三人も特に止める理由も無いので、会議はここでお開きとなった。
流石の鬼も閻魔に睨まれては居心地が悪いのか勇儀はさっさと退散し、
映姫も小町を待たせている事を理由に、見送りもそこそこに彼岸へと戻っていった。
会議の終了を宣言したはずの永江衣玖だけが、さとりと共に二人きりである。

 「……私に何か用が? 手紙ですか、ははあ。二人きりの時に渡しておきたいと」

 訝しく感じたさとりが思念を読む。衣玖は黙って胸元から封筒を差し出した。

 「宛名は……天子さんのお父上から? 内容は……ああ、知らないのですね」
 「母の事を気にしているようだったら、読ませてやってくれとの事です」
 「母……」
 「貴方の眼には映っていませんでしたか?」

 小首をかしげる。さとりはややムッとした調子で、「万能ではないので」と答えた。

 「失礼。まぁ、それならそれで預っていて欲しい、との事です。正直私には何の事かさっぱりなのですが」
 「案外ドライなんですね。天子さんは、ちょくちょく貴女の事を気にしていましたけど」
 「ふむ、焼き餅ですか?」
 「違います!」
 「失礼、空気が何となく」

 悪びれた様子も無く、ぺこりと頭を下げる。さとりは頬を赤く染めながら、「もう良いです」と言った。

 「まぁ、総領娘様から見た私は頼りになる大人かも知れませんが」
 「……いや、むしろダメな大人だと認識していましたよ」
 「頼りになる大人かも知れませんが」

 衣玖はその部分を強く主張すると、さとりの目にも怯まず見つめ返す。

 「あの時期の子は、大人と関係を持ちたがる物ですから。私にも覚えは有りますけどね」
 「……と、言ってますけれど、天子さんだって年齢的にはかなりの物でしょう?」
 「天界での生活は、一を百の水で薄めるような物ですよ。特に子供にとっては」

 それは、構ってくれる大人が居なかった、と言う一種のトラウマでも有る。
さとりは以前、天子の深層に潜りこんだ時にそれを目にしていた。

 「まぁ、かく言う私も総領娘様と鍋つつき合う仲になったのはごく最近ですけど」
 「近いのか遠いのか分かりませんね、貴方達の関係は」
 「まぁ、私としても気を使う必要のない貴重な相手でも有りまして」
 「上司の娘にそんな事言える人は、元々気なんて使ってなさそうですけど」
 「空気よりクッキーの方が美味しいですよ」
 「気を使う気ゼロですね、その発言は」

 なんとなく天子の言わんとする事が分かって、さとりは呆れてため息を吐いた。
確かに、風に流れる葉を掴むような、本気になればなるほど疲れる相手だ。
適当に合わせる分には、成る程心地良いのかも知れないが。

 「あの方をよろしくお願いしますね。きっと、同年代の友達なんか出来た事ないと思いますので」

 そんなよく聞くまでもなく失礼な物言いを残し、衣玖は地霊殿を立ち去っていく。
残されたさとりは大きくため息をつき、すっかりと冷めてしまった蒲公英コーヒーを口に含んだ。
思考の端に、慌ただしく駆け込んでくるお空の意識を感じながら。


 ◆


 むき出しの岩肌を、息を切らせて飛び跳ねるように黒猫が駆け上がる。
火焔猫燐は一人横道や迂回路を駆使して街から離れ、地上への道を探していた。

 「はぁ、はぁ……お空は追っかけてこない、かな」

 街の入口まで来た所で、ちらりと後ろを振り返る。
町中をわざと遠回りをしたり人の姿のままでは通れない道を選んだりして、ここまで来るのに随分と時間がかかってしまった。
お空以外にも、地霊殿のペットは多い。不審に思われる事はそう無いだろうが、顔見知りに会うのはなるべく避けたい所だ。

 ふと、顔の先端にある鼻がスピスピと動いた。
食欲を強くそそる、焼けた醤油と脂の匂い。そういえば昼から何も口に入れていない事に気が付いて、お燐は少し後悔した。

 「せめて飯でも食っときゃよかったか。地上で鼠でも取れれば良いんだけどね」

 自然と口に溜まる唾を飲み込んで、お燐は上を向く。
勿論、食事を取る暇なんか無かったことを分かった上での発言である。
ただ腹が減ったからではない。強い「日常」の香りが、現状を捨て去ろうとするお燐の後ろ髪を引いた。
「今ならまだ間に合う」と、心の何処かで騒ぎ出す。

 「馬鹿言うなよ」

 歯を強く噛み締め、湧き上がる思いを血の味で誤魔化す。

 「間に合わなくなってからじゃ、遅いだろうが」

 ふと後ろを振り向けば、随分と離れた場所まで登ってきた事が分かる。
心をズキリと刺す罪悪感に、お燐は発作的に胸を抱えた。困惑した顔で砲口を向けるお空がフラッシュバックする。
どうあったって傷つけるなら、出来れば知られぬまま出ていきたかった。それもまたエゴだろうか。

 「あぁっ! くそ、未練たらしいねぇ、あたいも……もう、決めたんだ。決めたんだぞ」

 肉球で頬をパシリと叩き、お燐が先を見上げるその時だった。
岩陰で座り込んでいたらしき人影が、見覚えの有る緑色のリボンで纏めたポニーテールを揺らし立ち上がる。

 「ん?」
 「げ」

 酵母の入っていない練り固めただけのパンに、玉ねぎを合間に挟んだ牛串を挟んで食べる。
ああ、そういえば世間知らずだった彼女に通の食べ方を仕込んだのは自分だったな、とお燐は思う。
縁に皮肉骨髄が有るのだとすれば、これがその皮肉か。

 「天子かい? なんでこんな所に居るのさ」
 「そりゃ、こっちの台詞よ……誰かに絡まれたく無かったから、わざわざ外れにまで来たのに」

 居合わせた天子の方ですら、何処か居心地悪そうに頬を掻く。

 「まぁ、お空と喧嘩しちまってね。ちょっと出てくるから、お空に会っても行き先は言わんでくれ」
 「ふーん、珍しい事も有るのね。別にどうでも良いけど」

 それで話は終わりか、とでも言わんばかりの態度に少しお燐の頭に血が上りかける。
臓腑の奥で煮詰まったドロリとしたそれが、ほんの僅かにその鋭い犬歯の隙間から漏れた。

 「あんたは……いや……」
 「あん? 何よ」
 「さとり様を、どう思ってる?」
 「どうって」

 訝しげに目線をお燐の方へ動かした天子は、予想以上にギラギラとした視線に貫かれ鼻白む。
が、すぐに目付きを苛立たしげな物に変えると、切り払うように睨み返した。

 「……何よ、その目」
 「答えとくれよ」
 「知らないわよ! 気に入らないわ、それ! 私に何を言わせようっての?
  答えがとっくに出てるんだったらね、人に言わせようとするんじゃないわよ!」

 子供の癇癪のように頭へ血を上らせ、地団駄を踏む天子。
その姿はとても天人として相応しい物ではなく、見た目相応の少女のそれである。

 「……そうだな、その通りだ」

 お燐はゆっくりと息を吐く。二つの黒い尻尾がぐねぐねと揺れた。

 「悪かったね。あたい、行くよ」
 「そう、好きにすれば」
 「ああ、好きにする。これはあたいが好きでやる事なんだ」

 お燐は自らを戒めるようにそう呟いて、昏き岩肌を登っていく。
それを見送る天子の視線が、光の反射で僅かに暗緑に輝いた。





 ――ふと気付けば、随分高いところまで登ってきたものだ。
 
 そう独りごちる火焔猫燐の前を、金色の尾をふさりと揺らし狐が横切っていく。

 「あんたは」

 お燐の問いかけに対し、金毛の狐は「もう少し上だ」と言わんばかりに流し目を送る。
そして直ぐに、回るように跳ねてはお燐が登る道を数段飛ばしで飛び上がり駆けていく。

 「ちょ、ちょいと待ってよ! 早いって」
 「あまり見咎められるのも厄介でな、頑張ってついてきてくれ。
  何よりこの程度も追いつけない用じゃ、覚り妖怪に勝つのは難しいぞ?」
 「何であんたが、いや、あぁやっぱりと言うべきなんだろうかねぇ、くそっ!」

 黒と金の糸が互い違いに、無骨な岩肌を装飾していく。
しばらく後に金色の狐は涼しい顔で一段と大きく平な岩の上に降り立った。
後から肩を上下させながら追いついてきた黒い猫が、ひんやりとした岩の上にぺちょりと寝転がる。

 「ふむ、久々にこの姿で駆け回るのも気持ちが良いな」
 「はぁ……ひぃ……へぇ……そ、そうかい……」

 見れば、僅かに日の光が差し込む程度には地上にほど近い位置。
狐は涼しげに吹き降ろす風を受けながら、お燐を見やった。

 「それで、何であんたがここに居るのさ……藍さん。橙は居るのかい?」
 「出来れば一緒に連れて着たい所だったが、今は留守だよ。あぁ、難儀していないだろうか……ちゃんと洗濯出来ているのか?」
 「分かった、それは良いよ。付き合ってたら日が暮れちまうだろうし」

 お燐は大きく伸びをすると、息を整えて藍と目を合わせる。

 「時間は、早い方が良いんだ」
 「そうだな、あまり時間は無い」

 ビュウ、と風が吹き下ろし、砂埃が彼女たちを巻き込んで通る。

 「端的に言おうか。私はあの男の伝言を伝えに来ただけだしな。
  あいつが、そして比那名居天子がなぜ覚り妖怪に勝てたかと言う情報だ」
 「一応聞いておくけど、妖怪にも実行出来る方法なんだろうね、それは」
 「人によるが、恐らく君なら問題無いだろう。つまりは『トラウマに打ち勝つ』事だ」
 「……それは、言うのは簡単だけど」
 「行うのは難しいか? だが、スペルカードルールなら不可能では無いはずだぞ」

 スペルカードルール。あらかじめ命名しておいた技を用い美しく咲き誇る、少女たちの決闘法。
その肝は、どんなに強力で有っても決して攻略不能な弾幕は存在しない、と言う事である。
理論上は、どのようなトラウマを想起されようと攻略が可能なのだ。あくまで机上の空論でならば。

 「……そうだね。元々それで勝つつもりだった。けど、肝心の勝つビジョンが見えなくてね」

 しかし相手はさとり。的確にこちらの弾を読みながら苦手な弾幕を張られ続ければ、やはり勝つのは難しい。
お燐はそこで考えが詰まり、翁に相談するに至ったのだ。

 「心配するな、その為の策もちゃんと考えてある」
 「策ねぇ……そんな小細工でさとり様をどうにか出来れば良いけど」
 「小細工? 馬鹿言っちゃいけない。格下が格上に勝つ為の手段など、昔から限られているよ」

 狐の姿の藍は、犬歯を剥き出しにして獰猛に笑う。お燐の背筋を、悪寒が走り抜けていった。

 「特訓、努力、そして発想だ……そうだろ?」



 その三日後。ほつれた赤毛を無理矢理まとめ上げ、お燐は再び地底へと潜った。何故かその隣に博麗の巫女を共にして。
お燐はグイ、と下唇を噛み、慣れ親しんだ闇へと戻っていく。戦うために! そして、勝ち取るために!


 ◆


 石に腰を据え、天子はぼんやりと光の入らぬ天井を眺めていた。何かの通路なのか、ここは他の場所より一段低く作られている。
注意喚起のためか、あるいは本当に真っ暗だと妖怪でも居心地が悪いのか。
橙色の洋燈でちらちらと照らされる天井は、それはそれで風情が有るように考えられなくもない。
……もっとも、天子にそのような事を考える余裕は無かったが。

 「あんた、ここに居たのかい」

 背筋を伸ばして、なお見下ろすような高所から声が掛かる。
天子は一瞥して、その正体を確かめた。星熊勇儀だ。一ヶ月も暮らしていれば、それなりに会う機会は有る。

 「良いのかいあんた、地霊殿に居なくて。果たし状の日はなんだろ?」
 「……あなたこそ、興味が有るんなら見てくればいいのでは無くて?」
 「気取った喋り方だねぇ。あんたそんな喋りだっけ?」
 「他人行儀ですから」
 「ああ、そうかい。ここ座るよ」

 ウンともイヤとも言う間も無く、勇儀はどっしりと胡座をかき天子の隣へ座り込んだ。
天子は再び天井に視線を戻し、ゆらゆらと揺れる炎の影を見上げた。

 「まぁ、私には地霊殿の連中が考える事も地上の連中が考える事もよく分からんけどね。
  ……強いていうなら、まぁ、喧嘩は良い事なんじゃない?」
 「乱暴な奴ね……」
 「萃香と私だって、何度となく拳をカチ合わせてきたんだ。付き合いってのは、そうじゃなきゃあ」
 「鬼の理論で物を語らないでよ。そう言うの、野蛮ですわ」
 「なんだい、萃香が見込みありって言うから、期待してたんだけどねぇ」
 「悪かったわね、期待される程の者じゃなくて」

 天子はゆっくりと咳き込みながら、言葉を返す。視線を合わせること無く。

 「ただの人間に期待なんて……しないほうがいいに決まってるじゃない」





 ……地霊殿!
火焔猫燐はパシリと頬を叩き、その門の前に立った。その隣には博麗の巫女……博麗霊夢が、ぼんやりと佇んでいる。

 「前着た時も思ったけど、相変わらずシケた門構えよね」
 「お姉さん、ここ一応あたいの住処でも有るんだけど……」
 「はいはい、分かってるわよ」

 少し肩を落とすお燐。が、その扉がギイと音を立てて開くのを見ると、再び顔を強張らせる。
門の中から覗く顔を見、霊夢はしかめっ面をした。

 「うげ……何で閻魔様がこんな所に居るわけ」
 「地霊殿には是非曲直庁も一枚噛んでますからね。まぁ、審判兼お目付け役です」
 「はは……ま、公平さは信頼出来るじゃ無いのさ」
 「出来れば合いたい顔じゃ無いけどねぇ」
 「聞こえていますよ、博麗霊夢。貴女は少し天真すぎる」

 コホン、と咳払いを一つ。
地霊殿のエントランスホールをカツカツと鳴らしながら、お燐と霊夢、そして四季映姫は歩みを進めていった。

 「『もし博麗陣営が戦いの勝利者となった場合、当分の間博麗霊夢を地霊殿の管理者とする』。
  まぁ、興味も有りましたから。"あの"博麗がどこかに肩入れをする事は相当珍しいですし」
 「そう? 別に私としては、美味しくお茶が飲めれば別にどこでも良いんだけど。
  ま、お燐が経費で贅沢させてくれるって言うから」
 「……もしそうなったら、きちんと監査をするよう言っておきます。ですが、それだけじゃないでしょう?」
 「ま、ね。紫の奴がなんか企んでるみたいだし……私自身、なんかね。行っといた方が良いなーって思ったのよ。勘だけど」
 「勘、ですか。博麗の」

 霊夢の勘は、ただの経験や観測に基づく無意識的な示唆というだけでは無い。
予知夢の名が表す呪(まじな)いにも似た行為、あるいは博麗霊夢に備わる器官なのだ。それが、働いている。

 「只事ではない、と言うこと」
 「大げさじゃない? なんか、あんまり働こーって気がしないし。私居なくても何とかは成るのよ、きっと」

 霊夢はひらひらと手を振り、扉に手を掛ける。金メッキされたドアノブは、ひやりと冷たい感触がした。
地霊殿ホール。色とりどりのステンドグラスが光り、不自然なコントラストを赤紫の床の上につくり上げる豪奢な空間。
普段の生活空間から離れたそこは、地底の岩肌と同じように冷たく湿った空気を保っている。
久々に綺羅びやかな光を目にして、お燐達は目を細めた。逆光になるようにして、少女が一人立っている。

 「さとり様……」
 「良くも、まぁ、抜け抜けと。あまり問題を増やさないで欲しい物ですけどね」

 少女の肩から三つ足の鴉が飛び上がった。しばし羽ばたくと、そのシルエットは背の高い女の姿となる。
しかし、ただの少女と言うにはあまりに姿が異様だった。光り輝くエネルギーが逆光の中で顕現するそれぞれの足を際立たせる。
分解を司る第一の足。融合を司る第二の足。そして、その制御を行う第三の足。

 「敵影発見。……排除するよ」
 「あら、バカガラス。今日はテンションが低いのね」

 お燐とさとり、霊夢とお空がそれぞれ睨み合う。映姫がその中央に歩み出て、手を大きく掲げた。

 「勝負形式は二対二ですか?」
 「それでもいーんだけどさ、そっちのカラスはこの場所じゃ狭くてやり辛いでしょ。
  私としても、着任早々掃除とかゴメンだし? 私達は表出ましょうよ、広い所で思いっきり」

 霊夢は大幣を肩に乗せ、横柄に笑ってみせる。お空は眉をぴくりと動かし、さとりを見た。

 「行ってらっしゃい、お空。巻き添えを気にするよりそちらの方がやりやすいのでしょう?
  ……それとも、私を心配しているの?」
 「いえ……」
 「大丈夫よ、化け猫程度に負けるほどヤワでは無いわ。なにやら小細工は弄してきた見たいだけど」
 「……分かりました」

 お空は一瞬の涙を飲み込み、直ぐに敵意の篭った目で博麗霊夢を見やる。
霊夢はそれを鼻で笑うと、ふわりと舞い上がり、窓を開いた。お空はそれを追う。一瞬だけ、視線が交錯する。

 「…………お燐」
 「何時か話しただろ、お空。あたいは今を、間違ってると思うんだよ」
 「んじゃ、こっちは勝手にやってるわね。せいぜい上手くやんなさいよ」
 「ああ。ここまで来たんだ。何も出来なかったじゃ、済まされないさ」

 霊夢とお空が出ていく。映姫はそれを見届けると、睨み合う主従へ視線を向けた。

 「このさとりに対して何かを出来る、と? あなた達の事は子猫の頃から面倒を見ているのよ?
  哀れな子、八雲にいいように使われているだけの癖に」
 「……あたいね、分かっちまったんですよ、さとり様。でも、今のままじゃきっと言っても伝わらない。
  だから殴って伝える事にしますよ、幻想郷らしくね」
 「あなた達、巫女から悪い影響を受けすぎよ……。不愉快、ええ不愉快だわ」

 ざわりと、風が頬を撫でるような感触を、いっとう不吉にしたような不快感。
お燐は直感的に、それが心に触れられて居るのだと理解した。尻尾が怖気立つ。
その怯えを見て、さとりは嗤った。ねちゃりとした泥のような笑顔。

 「せいぜい踊っていなさい、お燐。あなたが私に触れる事は無いわ」
 「触れさせて頂きますよ。その為に、ここに来たんだ!」

 「――始めッ!」

 四季映姫が腕を振り下ろす。その瞬間、お燐の目の前に巨大な紫の薔薇が花咲いた。
お燐はそれが幻で有ることを理解しつつ、猫車で打ち払う。先ほどまで睨み合っていたさとりの姿は、既に何処ぞへ消えている。

 ――閻魔様が開始の合図を出すのを"読んで"いたんだな、さとり様。

 さとりに取って、お燐をトランス状態に持ち込む事など赤子の手をひねるより簡単だろう。
なにせ、地霊殿の中でも最古参。彼女の言うとおりお燐お空が子猫と雛だった頃から一緒に居たのである。
精神構造など、とうの昔に読まれきっているに違いない。

 「あたいの思念なんぞ、好きに読むがいいや!」

 こちとらハナっから、思いを伝える為に来てるんだからな。お燐は空高く飛び上がり、茨の生えた蔦から身を躱す。
この程度の幻覚は、最初から時間稼ぎだ。さぁ、想起させてこい。お燐は霊夢との特訓を思い返しながら、歯を見せて笑った。



 地底の中心から外へ外へ、ドッグファイトを繰り広げながら二人の少女が飛んでいく。

 「お燐に何を吹き込んだ!」
お空の砲口から白熱色に燃え盛る火球が発射され、霊夢の袖から数センチ外れた空間を焦がす。

 「人聞きが悪いわね、そんな趣味ないわよ!」

 人が簡単に丸焦げに成るであろう熱量を紙一重で躱して、なお霊夢の顔に焦りは見えない。
何時も通りやるだけだという、経験に裏打ちされた自信が綽々とにじみ出ていた。

 「まぁ、紫はなんか利用する気満々見たいだけど。それって私には関係ないし?」
 「欺瞞!」
 「難しい言葉使うわね、馬鹿の癖に。今あの猫の味方なのは私の方! 大人しくやられときなさい!」

 返しざま、霊夢の手から陰陽玉が投げつけられる。お空の八方を仕切るように結界が張られ、
陰陽玉はその空間内をゴムボールのように跳ねまわる。

 「こんなの!」

 お空は火線を放ち、結界の中心となる御札ごと陰陽玉を焼き払った。

 「あーもう! それタダじゃ無いのよ!? 後で地霊殿の経費で出させてやるんだから」
 「知ってるよ? どうせ払いもしないツケなんでしょ!」
 「ちっ、バレたか……」

 地霊殿を離れ、景色はゴツゴツとした岩肌から幻想郷にそぐわぬのっぺりとしたツヤの有る壁に変わってきた。
周辺では、低圧ナトリウムランプの橙色の光が急ごしらえで取り付けられた足場を照らし出している。
間欠泉管理センターから派生した再開発地域に大分近づいてきたのだ。

 「この辺りなら、アンタも文句ないでしょ……!」
 「……思う存分ぶちかませって言いたいわけ? 生意気だよ、燃えちゃう人間の癖に!」

 霊夢は懐からカードを取り出す。それはこの三日間、お燐の特訓にずっと使っていたカード。
霊夢にとっては訓練など無意味とは言え、それでもこの"今"に限れば一番撃ち慣れた札でもある。

 ――あっちは上手くやってるかしら?

 宣言を行う際の僅かなタイムラグに、霊夢の脳内に三日前の会話が思い返される。

 ――『さとりと戦った時? あー、確かに、どっかで見たような技を使ってたわね』
 ――『でもまぁ、基本的に一回見た弾幕だし……博麗の巫女に一度見せた技は通用しない、とかそんな感じで』
 ――『……「お姉さん強すぎて参考にならない」?』
 ――『じゃあ、アレでしょ。月の無い夜に、闇討ちで』
 ――『何、それも駄目なの。変な奴ねぇ、妖怪のくせに』
 ――『ま、だったら死に物狂いでやるしか無いって事でしょ。あのお爺さんが言った通り』
 ――『トラウマになるまで打ち続けるから……トラウマを克服するまで避ける練習よ』

 あの後。お燐は引きつった笑いを浮かべながら、それでも三日間のスペルプラクティスをやってのけた。
三日間スペルを打ち続けた霊夢もまた、友人に「何だかんだで面倒見が良い」と笑われる羽目になるのだが、それは別の話。

 「今はぐぅの音も出ない程スカっと爽やかに勝利して、祝杯でも上げる!」

 巫力解放。スペルカードから式(システム)が注力(ダウンロード)され、霊夢は引き締まった無表情に変わった。
八つの陰陽玉が浮かび、円を描いて霊夢を中心に回る。重力から、地球から、法則から解放され、"そらにうかんでいく"。

 「『夢想天生』」

 流暢な機械めいた発語で、プロセスとして彼女はその符の名を呼んだ。
お空はそらにうかぶ霊夢を見た事は無かったが、野生の勘が只ならぬ状況で有ることを告げる。

 CAUTION! CAUTION! CAUTION! 

 けたたましい警告音が、そのままお空の心情を語っていると言っても良い。
その後すぐに、周囲に浮かぶ陰陽玉から放たれた放射弾と砲口から乱射される火球との、爆炎と閃光の交錯が始まった。
その光景を呆然と見上げる黒髪の少女と、隣に佇む地底の鬼に、誰も気が付かないままに。





 「『夢想天生』」

 宙に浮かぶ霊夢の姿を見るや否や、お燐は地霊殿ホールの壁を沿うように駆け出した。
まず、霊夢の周りを大回りに対角へ。次に直線的に対角から元の位置へ駆ける。それが比較的安全だと三日間の経験が言っている。
さとりは舌打ちをしながらその想起を……"引きずり出させられた"トラウマを凝視した。

 ――想起された夢想天生には二つ問題がある。

 一つ、本来夢想天生の最も強力な要素である、『本体の無敵化』が想起では意味を成さない事。
いくら想起された霊夢が無敵で有っても、さとり自体はその場に居続けなければならないのである。
あくまでさとりが本体で有る以上、『空を飛ぶ程度の能力』は使えないと言っていい。

 二つ、夢想天生が耐久スペルで有る事。
使用者が無敵、あるいはそれに近い状態となる代わり、勝負として成り立たせるため時間制限が付いたスペルカード群。
これらは耐久スペルと呼ばれ、通常のスペルカードより効果時間が短い場合が多い。

 お燐は縦列放射された札弾を、軽やかなステップでひらりひらりと潜り抜けていく。
これだけ不安要素が有りながらなおこのスペルカードを『想起』させたのは、
お燐にとって他が霞む程の強烈なトラウマがひりついて居るからだ。三日の特訓を経てなお、震え上がらせる程の。

 ――しかし、それを直接想起させるのは……"黒"でしょう。

 ルールには厳しい閻魔だ。もし避けようの無い弾幕を直接想起させれば、反則負けを食らうのはこちらであろう。
お燐のトラウマ……『もう一つの夢想天生』は、その避けようの無い弾幕に入る。
その代わり、一定の手順に則ってのみ発動する。そうすることで勝負として成り立たせる類の札。

 「どうしました? さとり様。こんな弾なら、あたい一晩中だって避けられますよ」

 薄く笑い、十字に襲い来る弾を避けながらも器用に接近してくるお燐。
さとりは慌て、お燐の思考するルートが塞がるように飛び回る。
お燐は決して深追いはせず、次の放射弾が余裕をもって避けられる位置に陣取った。それもまた、特訓の成果か。

 ――スペルカードルールによって出来る穴を突いた戦法。……誰の入れ知恵でしょうかね? 

 弾幕決闘と言う形でさえなければ、こんな事十秒で片が付くと言うのに。さとりは歯噛みした。
さとりと弾幕決闘で勝負するためだけに、新しいトラウマを植え付けそれに対応出来るようにする。作戦としてはあまりに迂遠だ。
お燐はペットの中では頭の良い方では有ったが、どちらかと言えば直情型。こんな面倒な作戦を思い付く頭が有るとも思えない。

 ――まったく、何を吹きこまれたやら。

とにかく、接近される事だけは避けなければ。誰が好き好んで妖獣と肉弾戦を繰り広げるものか。

 「馬鹿馬鹿しい……」

 ペット達とは裏腹に、さとりの腹の中にはただただドロリとした胆汁が粘ついていた。





 CAUTION! CAUTION! CAUTION!

 「わああああぁぁぁぁッ!」

降りしきる弾幕の中、お空は完全に恐慌状態に有った。胸元の赤い目から警戒音が鳴り響く。
もっと熱を! フュージョンを! しかし渾身の熱線砲は夢想天生状態に入った霊夢を直撃……するはずが影をすり抜け、壁が融解する。

 「なんでっ!?」

 その叫びももう何度目になるだろうか。お空は涙目になりながら迫る札弾幕の雨を焼ききり突破口を開く。
当たっていない訳が無い。そして、当たっているなら効かない訳が無いのだ。
お空の攻撃力とは、すなわち単純な熱量。魔法だの術のと言ったまだるっこしい物は要らない。力こそパワー!

 「なのになんで当たらないのー!?」

 対する霊夢は冷ややかな鉄面皮を崩さない。常人ならグレイズしただけで全身が焼け爛れる熱量を前に臆しもせず、怯みもせず。
ただただランダムなジグザグ移動をしながら、少しずつだが近づいて来る。ジリジリとした焦りがお空を焼く。



 「何やってんのよ、あいつら」

 遥か地上から、天子はそれを見上げていた。
暗さに慣れた目にお空の放つ熱による光は視界を焼くが、それでも目を細めたりはしない。
初めて太陽の光を浴びる子供のように、天子は立ち尽くし。その光景を見ていた。太陽と少女が戦う絵を。

 「何やってんのよ、あれ」
 「あれって……弾幕勝負だろう。いやぁ巫女もやるもんだね。勿体無い事したかなぁ、今度は本気で立ち会ってみたいもんだ」

 何処から酒を盛ったのか、盃に口を付けて勇儀は言う。そんな事は分かっている。天子は首を振った。
逆光しか見えない少女の影は、しかし太陽を圧倒しているようで有った。
あの光と熱を相手に、じわじわと追い詰めている。博麗霊夢の影。


 ――まるで、あの日の焼き直しだ。


 今でも覚えている。妙に、夜が長い日だった。沈まぬ月を眺めながら、天子は何をするでも無く佇んでいた。
そっと頬を抑える。腫れも痛みも残りはしなかったが、叩かれた熱さだけは未だに感じられる。
その日は、名居の屋敷で女に頬を打たれたのだ。理由は覚えていない。相手の顔も、最早朧気だった。
ただ、声は笑っていた気がする。「ありがたい事なのよ」とも。父は一瞬手を伸ばしかけ、それを引っ込めた。
きっと私の顔に何か気に入らない物がくっついて居たのだろう。その時の天子はそう結論付けた。

 月を眺めていた。理由は無い。沈みも欠けもせずにそこに有るのが、少し羨ましかったかも知れないが。
不意に、永遠に変わらないかとも思ったその夜を、閃光が切り裂いた。
驚いた天子は雲海からこっそりと顔をのぞかせ、地上界を見下ろした。閃光は地上から放たれていた。
3人の少女が、なにやら言い争いをしながら弾を打ち合っているようであった。

 上空に向かって閃光が迸る。
正確には二人の少女が札を使った弾幕を披露しあい、残る一人は少し遠巻きにそれを眺めているようだった。
後に知ったことだが、この閃光を放つ正体こそ霧雨魔理沙。遠巻きに見ていた女が八雲紫。

 そして、天子が夢中になったこの夜を永夜異変。異変を解決する巫女の名を、博麗霊夢と言った。


 「なんなのよ」


 それは胃からせり上がってきた物が、口の端から漏れるような言葉。

 「なんで、アイツがここに居んの」

 天子の遥か先、遥か上で、少女達の弾幕の華は咲き誇る。不意に息が苦しくなって、天子は胸を抑えた。
昔、天から見下ろしていた物を。今、地に這いつくばって見上げている。
変わったつもりでいた。自ら憧れの存在となり、思うがままに動き、少しでも前進したつもりでいた。
それがどうだ。何だこのザマは。あの日から変わらず何をすることも出来ず、変わった物と言えばただ居場所のみ。

 「私、何も変わってないじゃない……! 何も……ッ!」

 目が焼ける痛みにも構わずに、天子は少女の影を睨み続けた。
不思議と、涙は出なかった。


 ◆


 「天抜き、あと冷酒を一つ」

 席に座るなり注文してきた見慣れぬ客に、蕎麦屋の亭主は目もくれずぶっきらぼうに答える。

 「……姉ちゃん通だね。だがな、ウチは蕎麦屋だ。顔を洗って出直して……」
 「あら……? これは失礼しました、地底の酒は美味しいと聞いて気が逸ってしまって」
 「あ、いや、構わねえよ。好きなだけ飲んでってくれや。むしろ客寄せにも成るってな、はははは」

 ――なんかすげぇ美人だ。見たこと無ぇ顔だが。天女だ。

 振り返るなり顔を赤くした蕎麦屋の親父は、ハテと小首をかしげる永江衣玖に対し慌てて愛想笑いを浮かべた。
妖怪だろうか。だが、地底の妖怪ではない。何というか、地底の婀娜とは纏う空気そのものが違う。
天女と言えば言い過ぎかも知れないが、その衣といい地底に似つかわしくない清浄なオーラを放っていると言うべきか。

 普段、「ケッ、なーにが地上だ!」とうそぶく頑固親父も、これでは黙って天麩羅を揚げるしか無い。
別に下心が有る訳では無い。訳では無いが、お近づきになれればという期待が捨てれる訳ではないのだ。
もし分からない読者諸氏が居れば、何となくそういう物だと理解して頂きたい。

 「まぁ、地底は水が良いから酒の旨さは地上にも負けねえって。怖ぇ鬼も居るしな」
 「それは楽しみです。とても」

 店主の言葉に、衣玖は何の含みも無い心からの笑顔を見せる。
また一つ心臓の鼓動が高鳴ったが、会話の内容はとてもじゃ無いが色気が有るとは言えない物だ。
目の前でパチパチと揚がる物体は、蒲公英の葉、花、ネリ(オクラ)、蓮根。それに鮎だろうか。

 「鮎、有るんですか?」
 「地表近くまで行きゃあな。もっとも、そう量は多くないが」

 お客さんは運がいい、と店主は言う。衣玖はこれは期待できそうですね、と呟き、箸を取った。

 まず、蒲公英の花の天麩羅に口を付ける。
すぐつゆにふやけないように、固めに揚げて居るのだろう。サクサクという感触が歯に心地よい。
油を流すように冷酒を飲む。ふうわりと熟成された米の甘みが舌先に残り、
やや強めのアルコールに混じった芳醇な香りが喉奥から鼻先へと抜けていく。

 「ほぅ……」

 衣玖から思わず熱っぽいため息が漏れる。ハッとした顔をして、慌てて照れ笑いを取り繕った。

 「美味しいです」
 「そいつぁ良かった。取った奴らも喜ぶ。お客さんは何日位ここに?」
 「今日で3日だか4日だか、ですかね。本当はもう仕事は終了してるんですが、折角なので休暇を満喫しようかと。
  何せこっちの事なんて分かっていませんから、一週間位だらだらしててもバレませんって」
 「つまるところサボリかよ。意外と俗だね、お客さんも」
 「綺麗な顔して妥協を飲み込めるようになったら、もう立派な大人ですよ」
 「そういうもんかもなぁ」

 天麩羅を齧り、酒に口を付ける。剥がれた衣と一緒に少しつゆを啜る。
少し離れた所で、聞きなれない異国の言葉が混じった喧騒が聞こえてきた。
見れば、前に声をかけた金髪のポニーの少女が、緑髪のツインテール少女に何やら申しつけているようであった。
大げさな身振り手振りで何かを伝えた後、板状の何かを手に取る。

 「あれは?」
 「黒谷ヤマメを知らないのかい? 地底じゃアイドルで、特に若い奴には人気が有るよ」
 「いえ、一度話した事が有ります……あの楽器。弦楽器としては音をふくらませる部分が無いように見えますが」
 「音楽業界に新しい風を入れるんだと言ってるがね、肝心の本物の楽器が手に入らんで苦労してるらしい。
  仕方なく似せた物で練習してるんだそうだが。ああ、俺らに地上のコネがありゃあ助けになれるのになぁ……」
 「手に入らないのなら、手に入る物で代用すればよろしいでしょうに」
 「出来れば妥協はしたくないんだと。最初はなるべく"本物"を伝えたいと言っとった」
 「成る程」

 確かに本物を知ることは大事だ。衣玖も一時期、最初に食べた印象から雲丹が苦手だった事がある。
今にして思えば、あれは明礬漬けでカピカピの紛い物の雲丹であった。第一印象で決まってしまう物は多々ある。
とは言え、手に入っても居ない楽器の練習をするとは。

 「夢があると言うか」
 「まぁ、こんな時勢だからなぁ。地上と地底の境は有耶無耶になり、ここから出てった連中が地上に寺を構えたとも聞く。
  若い奴らの中には、見慣れぬ世界に心惹かれる奴だって居るさ。特に最近、物騒な事が多いからね……」
 「変わらざるを得ませんか、妖と言えど」
 「俺達は変わらんさ。だが、世間は変わるね。ゆっくりとだが、確実に。
  話を聞けば、つい先程博麗の巫女が地霊殿に乗り込んでいったって話だ。あの館、今度は何をやらかしたやら」

 蕎麦屋の店主は、その目鼻の無い顔で、口元に皺を作り笑ってみせた。
衣玖はお猪口に残った最後の一飲みをあおり、ふと思い出したように呟く。

 「総領娘様。貴女は……変われているでしょうか? 望む方向だろうと、望まぬ方向だろうと……」


 ◆


 「遮光『核熱バイザー』!」

 八方から繰り出される札の数は激しさを増し、流石のお空も一旦攻撃の手を止め防御に回る。
その直後、雨あられのような弾幕が核エネルギーのフィールドに弾かれ燃え尽きていく。

 「あぁもう、あれなんかズルいよ!」

 灰や炎が視界いっぱいに覆い、お空は火の粉が目に入らないよう逃げまわる。
ちまちまではお話にならない。核熱バイザーで稼いだ時間にエネルギーを貯めて、一気に焼き払うか?
バリン! 核フィールドが破られる独特の感触。空気が弾け、肌の表面を震わせていく。

 「え、上!?」

 お空の視界が炎に奪われた一瞬で、霊夢が亜空転移してきたのだ。高角度の急降下キックをお空は為す術もなく鳩尾に受ける。
制御棒に集まっていたエネルギーがフレアとして霧散し、光の尾を引きながらお空は床に叩きつけられた。

 「かはっ……」

 肺の空気を吐き出しながら、お空は追撃の為に迫る博麗霊夢を見上げた。
感情のこもらぬ機械的な瞳の横で、回転する陰陽玉の一つが光りを帯びて軌跡を描く。
翼を使ったジャックナイフフリップでダウン狙いの蹴りを避けながら、お空は冷たい光に本能的不吉さを感じる。
だがそれも、すぐにカッカとした熱さに変わっていった。

 「その目! 気に入らない!」

 もっと熱を、もっと畏れを、もっと力を! お空の神となった半身がもっともっと寄越せと叫ぶ。
目の前の人間一人震え上がらせないで、何が究極の力だと言うのか!
警戒音も高らかに、制御棒が核力で牙突のように付き出される。
体ごと交差するようにすり抜けた霊夢が、振り切った体勢の背面の空に向かって両肘を叩き付けた。

 「にゅうーッ!」

 翼の付け根を強打されたショックで、お空は上手く体勢を立て直せずくるくると回る。二つ目の陰陽玉が点灯!



 「ありゃあ、駄目だねぇ。大分熱くなっちまってる」
勇儀は腕を組み直しながら、岡目八目のコメントをした。このまま行けば、勝敗は誰の目にも明らかだろう。
余力を残す霊夢に対して、お空は翻弄されているだけだ。当たれば一発が有るとは言え、相手は恐るべき回避力を持つ巫女である。
苦し紛れの出鱈目が運良く直撃する、と言うのは中々難しいオーダーだ。

 「……何やってんのよ、バカ……」

 先程から何やらぶつぶつと呟いていた天子が、一際はっきりと言葉を編んだ。

 「夢想天生中の巫女に何をやったって無駄に決まってんでしょ! 時間制限有るんだから避けに専念しなさいよ!」

 声を張り上げるが、渦中の二人には届くべくも無い。二重螺旋の軌跡が二つ、再び上空へと舞い上がっていく。
爆音と光線が鳴り轟き、足場や洋燈等がこしらえられた壁が次々に融解していった。
後で河童が泣きそうだな、と勇儀は独りごちる。

 「ちくしょう……」

 震える声で、天子は言った。塹壕のように掘られた道の両裾から、身を乗り出し、今にも這い上がってしまいそうであった。
いや、天子は実際に床によじ登り、しっかりと足場を踏みしめると、再び弾幕を展開する二人に向かい叫ぶ。

 「聞けぇーッ! 聞きなさいよぉーッ!! ……くそッ!」

 ただでさえ遠い上空、その上お空の弾幕は音だけでも空気が震える程の威力を持つ。
いくら天子がめいいっぱい叫ぼうと、熱くなったお空の耳には入らない。
天子は毒づくと、更に流れ弾飛び交う弾幕戦闘の中心へと向かっていく。

 「おいおい、何してんだ……」

 勇儀は呆れ顔で言う。人間如きがお空の弾幕の側へ近づくのは自殺行為どころの話ではない。
熱量とは、多少刀が振れたり霊力が使えたりする所でどうにかなる物では無いのだ。それこそ、あの巫女や翁が異常である。
霊夢が避けた熱線が、天子の横半メートルを掠めていく。熱で空気が急速に膨らみ、小規模な爆発が起きた。

 「……私は、変わったんだ……"比那名居天子"なんだ……!」

 水分を容赦なく吹き飛ばす熱風の中、浮かされたように天子は呟き続ける。

 「このバカ鴉ー――――――ッ!! ……ゲホッ! ゲホッ!」

 限界近くまで叫び続ける事による酷使も有る上に、熱風は容赦無く天子の喉を焼く。
思い切り咳き込んだ天子は、しばらく咳を続けた後ヒューヒューとした呼吸音をたて座り込んだ。
上空ではお空が破れかぶれに陥り、巨大なランダム弾を放射し始めた。三つ目の陰陽玉が点灯している。

 「ちょっと! そんな所でうずくまってたら死んじまうよ!」

 勇儀が天子を米俵のように担ぎ上げ、慌てて再び壁際へと戻った。
お空の放った弾幕は、床のあちこちに穴を開け、壁を抉る。バツンと何かが焼き切れる音がして、全てのナトリウム灯が停止した。
霊夢とお空だけが変わらず光り続け、お空が金色に、霊夢と陰陽玉が青白色に輝き、闇の中に二人だけの世界を構築する。

 「綺麗なもんだ……」

 勇儀が呆然と呟く。その横では、天子が腹を抱えるようにして膝を付いていた。
顔を上げ、天子は廻る月と太陽を睨みつける。辺りが闇に包まれた事で、より一層デジャヴは深くなった。
お前は置いてけぼりだ、とあざ笑うかのように月日が巡っていく。五月雨のような流れ星を落として。
天から降り注ぐ光が辺り一面で爆発を巻き起こし、塹壕のように一段低い通路にもその振動を伝わらせる。

 「くそったれの歯車め」

 天子が立ち上がる。勇儀は眉を顰めると、その肩を押し留めた。

 「まだ行く気なのか」
 「……退いて。邪魔」
 「死にたいのかい?」
 「死にたく無いわ。……死にたく、無い」

 頭一段分は高い、勇儀と睨み合う。天子の瞳がギラリと光る。

 「ここで、ここで止まったら、死んでしまうのよ。今まで積み上げてきた物が、比那名居天子が、全て死んでしまう。
  死にたく無いわ。でも、死を怖がってるなんて思われたくない!」

 怯え、震え、悲壮さすら滲む声でそう言った。天子はぐっと拳を握りしめ、勇儀の脇を通り抜けていく。

 「……皆、何時か死ぬもんだよ」
 「そういう悟った奴の言ってる事、私は嫌いなのよ」

 馬鹿野郎。そう呟いた勇儀の顔は、何か懐かしいものを見る目に似ていた。ある日突然失った、かけがえの無いものを。





 「ゾンビフェアリー達! そのまま押さえてなよ!」

 お燐の声を耳に、さとりは素早く視線を左右へ動かした。
お燐が連れてきた無邪気な妖精たちは、妖精であるが故に想起の効きが悪い。動きは止められぬ。
さとりは第三の目の感度を最大限に引き上げ、警戒の弱い経路を探索する。
右へ。現状維持。一人目のフォロー。おなか減……ノイズ。左。左。現状維持。前へ。あの子の冠……ノイズ。
小町はサボって……ノイズ。さとり様……ノイズ。さとり様。ノイズ。さとり様! ノイズ、ノイズノイズ!

 「さとり様ぁぁぁぁー―――ッ!!」

 想起された霊夢の蹴り上げる足をより深く身をかがめる事で躱し、軸足をすり抜けてお燐が迫る。
右手で殴ってくる。避けるには間に合わない。さとりは本能的な動作で、辛うじて顔をガードした。

 「あぐっ……」

 重い拳がさとりの拙いガードをこじ開ける。日々数十キログラムの死体を幾つも運ぶその腕力は、さとりとは比べ物にならない。
経過時間の蓄積と集中が乱れた事で、さとりは一枚目のスペルブレイク。身体が重力に引かれて落下を開始する。
その胸ぐらを、お燐が掴みあげた。体勢を直そうともせず、さとりは吐き捨てるように呟いた。

 「……満足ですか?」

 その言葉は、はひどく怠惰で投げやりなものだ。その途端感度が最大のままの第三の目に、爆発的な感情が迸る。
さとりは反射的に目を細めた。第三の目に実際の視力は関係無いが、それでも混同してしまうことがままある。
あぁ、眩しいこの光は、お燐の"こころ"だ。さとりは睨め付ける。

 「どうして」
 「どうして。どうして本気で戦おうとしないのか。どうして相手にしてくれないのか。
  ……えぇ、別にペットとしての情って訳じゃ無いですよ。スペルカードルールに限定された時点で、まぁこんな物でしょう?」
 「それでも、夢想天生は」
 「そう、夢想天生にはまだ先がある。三日間よくもまぁ、こんなもの相手に毎日ズタボロになるまで練習しましたね。
  そして特訓の結果、辛うじて勝負に持ち込めるようにはなった。良かったじゃないですか、それで」
 「良い訳、無いじゃないですか!」
 「そうですか? あなたは確かに頑張りましたよ。
  入れ知恵とは言え私に勝つための作戦を用意して、実行に移すためたゆまぬ努力をした。
  勝負が始まる前に勝ち負けは決しているとはよく言った物です。ええ、もう決まったも同然でしょう?」

 ハッ、と自嘲気味に嗤う。声に色があるとしたら、きっと自分はどどめ色をしているのだろうなとさとりは思った。

 「勝ち負けの決まった勝負に私を巻き込まないでくださいよ。痛いし辛いし面倒臭い」

 途端、さとりの胸元を掴み上げるお燐の手から、不意に力が抜けた。
空中で支えるものが無くなったさとりは、漫然と受け身を取り滞空し直す。
お燐の怒気に当てられて、ゾンビフェアリーたちが散り散りに四散していく。

 「あんたは、何時もそうだな」
 「ふぅん……怒るんですね、あなたは。お空なら泣いている所だと思いますけど。
  余計なお世話なんですよ、お燐。まぁ勝負は勝負ですからね、地霊殿の主はお任せしますけれど。仕方なしに」
 「仕方ないと来た」
 「貴女だって知っているでしょう? 地底の住人を縛り付けている恐怖も、結局は見せかけのハリボテですよ。
  誰かが生贄を用意して、私がそれを加工するだけの簡単なショーだ。貴女にだって出来る」

 ただただ皮肉気に。本気になるのも面倒だと言わんばかりに、さとりは嗤う。

 「まぁ、ちょーど良かったんじゃ無いですか?」

 今やお燐は、完全に怒髪天を衝いていた。頬が引きつり、自然に笑みの形を取る。
だが、同時にどこか冷静でも有った。長い付き合いなのだ、自らの主の捻くれ具合が分からないお燐では無い。
出来ればそこまで行かないで欲しいという思いも確かに有る。しかし、踏み出した以上はその責任を取らなければならない。

 ――お空、骨は拾ってくれよ。

 自分はこれから、覚り妖怪の逆鱗に触れなければいけないのだから。

 「そうやって……仕方ないだの、丁度良かっただの。どんな時も」
 「……」

 さとりが目を細める。思考の終着点が読めないのだ。お燐はもはや、考えて発言などしていなかった。

 「お空の事も仕方ないで見捨てるのか?」
 「何を言うかと思えば……そんな訳が無いでしょう。現に私は、お空が地霊殿にずっと居続けられる為に……」

 はて、とさとりは気付く。神や仏の手をお空から跳ね除けるために、私は何をした?
翁に、信用は出来るだろう老剣士に依頼した。都合よく天から天人が降ってきて、それも利用した。
……私自身は、何かをしただろうか。その気になれば、街へ出て一気に情報を集めることだって出来たはずだ。
天子が居なかったら、今頃どうなっていただろう? やるだけをやったつもりになって、上手く行かなかったなら。

 ――"お空が地霊殿に居続ける為に"? ……どうして、最後までお空と一緒に逃げると言う選択肢がないの?

 「違う」

 さとりの瞳孔が急速にしぼむ。顔を手の平で掴み、無理矢理に無表情を保たせる。

 「上手く行かなかったら……"仕方なくお空を差し出していた"? ……違う、違う」
 「違わないだろ……!?」

 イヤイヤと首をふるさとりに向かい、お燐は糾弾を続ける。

 「お空が最初に暴走した時だって、あたいはこのままだとお空がさとり様に始末されるって思って!
  きっと味方にはなってくれないだろうって思ったから、地上に救いを求めたんだ!」
 「そんな事、無い……そんな事……」
 「そうかも知れない。だから、全部終わった後謝ろうと思ったさ。
  その時あんた、覚えてるだろ? 自分で言った事なんだぞ!」

 ――『気になんてしていないから、さっさと自分の仕事をしてちょうだい』

 地霊異変の後、さとりは済まなそうな顔をするお燐を見るなりそう言ったのだ。
叱るでも無く、励ますでも無く。"気にしてない"。その響きの、どれだけ残酷なことか。

 「あたいはまだ、『ごめんなさい』とすら言えて無かったのに!」
 「それは、必要ないし、私は心が読めるから、それで」
 「それでも、口に出して言わなきゃいけない事ってあるんだよッ! あんたにだって……」

 お燐は腕を再び固く握りしめ、戦闘態勢を取る。表情を引き締め、覚り妖怪を見据える。
言いたかった事。言わなきゃならない事。言われたい事。全てをちゃんと伝えなければ。

 「有るんだろ、言いたい事の一つや二つ」
 「黙り……なさい……」
 「言いなよ、あたいだって好き勝手言わせてもらったんだ。言ってくんなきゃこっちが困る」
 「黙れと言っているでしょう!」

 普段のさとりからは想像も出来ない、キンキンとした叫び声。だがお燐は、その声を知らない訳では無かった。
この声は、さとりがこいしに怒鳴る時の声。ヒステリックで分からず屋な、"古明地さとり"の声だ。

 「私に……私に!? どの面を下げて言えと迫るの! 義理知らずの黒猫が!
  私よりお空を選んでおいて、何を今更忠義者の振りを!」
 「あぁそうさ! お空が本気で地上征服に乗り出していれば、お空だけじゃ無く地霊殿に……
  あんたにだって火の粉が振りかかるかもしれなかったさ!
  私はそれを判っていて、お空の安全の為に一か八かに賭けた裏切り者だ!

  だからこそ、けじめを付けに来てんだッ!」

 第三の目が浮かぶ。目ノ子(まなこ)に全てを透かし、捉え、そして搦め捕る檻が。
さとりには最早、弾幕勝負だからどうのといった理性は残って居なかった。排除する。"私"を脅かす物を、全て――!

 「失せろ! 自ら刻み付けた恐怖の記憶(トラウマ)に押しつぶされて眠るがいい、火焔猫燐ッ!」
 「やっと……初めてあんたに怒ってもらえたよ、古明地さとりぃッ!」

 ――そして"絶対"が顕現する。

 虚空に現れた博麗の巫女の周りを、八つの光り輝く球体が廻る。
輝きが増すにつれて、回転が早まるに連れて、その光は、天を、地を、嘗め尽くすように。
永夜の月では片方だった。非想の空では片方だった。

 "絶対に当たらず、絶対に当たる"

 まさに、夢のような弾幕美。夢にも見そうな恐怖弾幕。
天に生まれし才だけが可能にする、これが本当の夢想天生――!

 この三日間何度も見たはずの美しさに、それでも一瞬呆けながら……お燐は自らの知覚が生み出す光の奔流へと消えた。


 ◆◆ ◆◆


  6:胎児の夢

 ――あぁ、そうだ。ちょっと聞いてはくんないかな。……ここ、座っていいのかい?
なんてことは無い。ちょっとした話なんだよ。

 ……いつぐらいだったかな。覚えてたはずなんだけど……まぁいいか。
あたい、主の部屋の掃除をしてたんだ、うん、さとり様のね。
さとり様、あれで結構ものぐさだから……ほっとくと、埃なんていつまでも積もらせちゃいそうだし。
掃除担当のペットも居るんだけど、基本動物だからなぁ。あたいもだけどさ……大雑把にはともかく、こういう所はね。
それにまぁ、やっぱりさとり様の為に役に立ってるって言う実感も有って……

 ゴミ箱もね。紙くずとかばっかだから綺麗な物なんだけど、中身を移し替えようとして。うん、燃やして処理するために。
そん時に気付いたんだよ。「あ、胡蝶夢丸が有る」ってさ。
こう、薬用の紙袋に入れられて……袋が独特だから、分かったんだよね。永遠亭のロゴ入ってるし。
……なんで地底で引き篭もってるさとり様が永遠亭の薬を持ってるんだって? さぁー、こいし様にでも貰ったのかな。
楽しい夢を見る薬だっけ? あれ自体は別に、危険な薬でも無いし。お土産のつもりだったんじゃないかな? 

 そんで、多分一日一包づつで一週間分だったんじゃないかと思うんだけど……その胡蝶夢丸がね? 
二日分使った後が有ったのさ。そして、一日分包を開けられた状態で捨てられてたんだ。それが、何となく引っかかって。

 だってさ、一日使っただけで捨てたなら、「試して見たけど気に入らなかったんだな」って分かるだろう? 
仮に、とりあえずもう一回だけ試してみようってんだとしても、三日目を包を開けた後捨てる理由は無いじゃん。
二日使って、三回目を使おうとして捨てるってのがどうも……ね。
あたいは、それが気になって……――


 ◆


 滅多矢鱈に降り落ちる熱球と飛び散る床や壁の破片の中、天子は駆ける。
天の気が抜けきった今や、この一つ一つが直撃すれば灰と化すには十分な火力を持つだろう。
走った所で。敢えて危険の渦中に飛び込んだ所で、何の意味が有るというのか? 
ただの自殺行為だと勇儀は言った。事実その通りで、自暴自棄になってるだけでは無いのか? 天子は問いかける。

 「それでも」

 彼女たちの戦いに何の意味が無くても、自分にとっては有る。
例え、あの時から何も変わっていないのだとしても、今変わる事は出来るはずだ。
認めよう。私は今もまだ、あの日見た少女たちの背中を追いかけている。
鋭い破片の一つが紙一重で天子の瞼を掠め、血が流れだす。

 「それでも……!」

 目をつぶれば、脳裏に映るのは天人達の姿。仏の説く救世に絶望を感じながら、浅ましく生き続ける醜いヒトガタ。
名居の男は、端から何も出来ないならば知らないほうがましだと言った。
父の背は、たとえ天に上ろうと人を縛り付けるしがらみが有ると語っていた。
彼らは、例え命を繋ごうと……決して"生きて"は居なかった。

 「お前たちなんぞに、堕ちるものか……!」

 蜘蛛の糸を辿るように走る。流れ弾を避けるために身体を捻り、足がもつれる。

 「走らなければ……動けなければ、ただの岩と変わらないじゃない!」

 天子は自らに言い聞かせるように、低く呟いた。二人の少女は未だ天蓋付近で飛び回っている。
垂れ流しに近い状態で流れ星のように降り注ぐエネルギー弾を、博麗の巫女は難なく捌く。
星と、月と、太陽と。暗い地の底だと言うのに、天はこんなにも美しい。

 「もう、岩だった頃には戻りたくないの! 時の流れを、ただじっと耐え続けていたあの頃には!」

 それは、誰に向けての祈りなのか。それすらも見失い天子は吠える。
切った瞼から流れる血が、涙のように片目を覆った。

 「生きたい! 楽しみたい、美しくありたい! 自分の世界を揺さぶった! 因果と諦めていた物を転がした!
  私はここに居るんだッ! ここに居るんだ、無視すんなぁーッ!!」

 そして、まるで祝福のように降り注いだ光が爆発を起こす。
天子の身体は、まるで華奢な植物の葉が竜巻にそうされるように吹き上げられた。
時間にすれば秒にも満たぬ刹那、ほんの僅かに近くなった空に向けて手が伸びる。

 ――ああ、畜生。届かないなぁ。
 ――こんな死に方しちゃったら、後でお空泣いちゃうかも……悪いことしちゃったかしら。

 天子に、最早空を飛翔するだけの霊力は残されていない。周囲の時間が鈍化し、走馬灯のように天子は思考を巡らせる。
命が燃え尽きる焦りの中、随分と色々な物を取り落として来た気がした。天に居た時は、あんなに恋焦がれた物を。

 ――ヤマメのコンサート、聞き逃したな……。

 硬い床に向かって捻りを付けながら、ぼんやりとそんな事を思う。
頬を撫でる風の感触にほんの少しの懐かしさを感じながら、死の予感に身を強張らせた。


 ドシャリ。

 いくつか天子と共に巻き上げられた地盤が、床と激突する音を聞き……
天子は、待てども待てども来るべき痛みが来ないのでゆっくりと目を開く。

 「……色々言いたいことは有るんだろうけどね。こっちから見りゃ身投げとそう変わんないよ、全く」

 天子の身体は、大きな手の平に抱え上げられていた。特徴的な角のシルエットが、逆光にキラリと輝く。
勇儀はそのまま片手で天子を担ぎ上げると、落ちてくる致命的破片の幾つかを弾きながら少し距離を取った。

 「これでも地獄の鬼だからね。自殺には厳しく当たらなきゃならんのさ」
 「……う」

 呆れたように苦笑いしながら、勇儀は天子の身体を立たせる。
天子は強く咳き込むと、勇儀の胴辺りを掴み前を向く。

 「礼は言っておくわ……だけど」
 「諦めるつもりは無いんだろう? もう分かったよ……まぁ、生きてりゃ引けない時ってのは来るもんさ。確かにね」

 勇儀はぼりぼりと豪快に頭を掻く。

 「そんで私は、何をすれば良いんだい」
 「何を?」

 きょとんとした顔で、オウム返しに天子は聞き返した。

 「がむしゃらに突っ込むだけで満足かい? 違うだろう、本当にやりたい事はもっと別の筈だ。頭を冷やせ」
 「……そう、だけど」
 「あんたらは、もう少し他人を頼るべきだと思うんだよ」
 「達?」
 「私が言うべき事じゃ無い気がするけどねぇ」

 勇儀は、ドッグファイトを続ける上空を見上げる。少女達が光の尾を引き己の華を見せ合う弾幕戦闘。
夢想天生の特殊性から霊夢が一方的なように見えるが、逆を言えば防戦一方でなお持ち堪えているお空も流石と言える。

 「あれを綺麗だと思うのは、私もおんなじさ」
 「同じだと言うの? あなたが?」

 天子は一瞬不愉快そうに眉を攣り上げる。が、すぐに思い直したように頭を振った。

 「いえ……ごめんなさい。あなたが同じだと言うなら、同じなのよね」
 「ま、あんたを見てなきゃ思い出しもしなかっただろうよ。だからかねぇ、何かしてやろうって気分になったのは」

 勇儀は腕を組み、笑う。大妖怪特有のどこか枯れていた部分に、精気が満ちたような獰猛な笑みを浮かべる。

 「久々の喧嘩だねぇ。気に入らない奴をぶっ飛ばす。大昔のルールを思い出すよ」
 「喧嘩……そうね、喧嘩ね」
 「そうだ、お前の喧嘩だよ、天子。お前の物だ」
 「私の、物」

 飛び交う地底の太陽光に手のひらを透かし。天子は、ぎゅうと握り締める。

 「私の物だ」

 その顔に、何処か渦巻いていた卑屈さや怯懦、自己嫌悪といったものは溶けるように落ちて無くなっていた。
鬼の笑いに支えられるように、我武者羅な……悪く言えば散漫とした決意が、一点に纏まっていく。
天子は乱れほつれた髪に手櫛を入れると、不敵に口角を上げた。

 「そうね、順番が違ったのよね……星熊様?」
 「勇儀で良いよ。なんかやる事はあるかい? 私としても、今地底の仕事を増やされたくないんだ」
 「じゃあ勇儀。大声に自信は有る? あの天蓋にまで届かせたいの」
 「ああ、有るとも! 地底の咆哮チャンプとは私の事よ、天井どころか天の上にだって響かせてやるさ」
 「それと、陰陽玉は幾つ光ってるか分かる?」
 「……? あんた、目が」
 「焼かれただけよ……少し休んで、血を拭けば大丈夫……それより、陰陽玉は幾つ光ってるの?」
 「待ってな……四つ……いや、今五つになった。イヤな感じだ」
 「……あんまり余裕はないわけね……」

 天子は顔をしかめる。確か、浮かんでいた陰陽玉は八つの筈。つまり後三つか。
時間もそれなりに経っている。スペルカードの耐久力は、もう余り無いはずだが……

 「あの巫女が地底に来た時は、あんな技使ってなかったけどねぇ」
 「あれが博麗の本気って事でしょ。けど、向こうも焦れてる筈よ。空の頭さえ冷えれば勝機は有る」
 「このままだと負けるよ。パターンは分かるのかい?」
 「じゃなきゃこんな話しないわよ……。彼女の事はよく眺めてたの、ストーカーに勘違いされても不思議じゃないくらいにね」

 そうで無ければ。空に浮かぶのがあの博麗の巫女で無ければ、こんなに血が上るものか。
定命に諦めと憤りを感じていた時に、もう見る事は無いと思っていた背を見つける。まるで運命に嘲笑われているようだ。
しかし、現実にはそんな事は無く、ただ大きな"流れ"がそこに有るだけなのだろう。

 ――万物流転、色即是空。流れに棹させば流される。さっきまでの私はやっぱり冷静では無かったわね。

 天子は自省する。一度死にかけたせいか、頭の中で燻っていた煙がさぁと晴れたようであった。
血と光に焼かれ、心臓が鳴る鼓動に合わせ視神経がズキズキと蠢く。夢現の境に泡となって居た物が、戻ってきた。
さぁ、流れを変えろ。

 「まずは……博麗霊夢も地べたに這いつくばる事を証明してやるわ!」

 宙に浮かぶ二人の視界の端で、小さな小さな人影が動く。



 「うんにゃろーッ!」

 気炎を上げてお空が飛び、札の海を割り焔の道を作り出す。
すかさず二つの陰陽玉が左右から挟み込むように潰しにかかるが、敵弾を陰陽玉ごと焼き払う。

 ――Run out of Energy! Run out of Energy!

 お空の頭の中に甲高いエマージェンシーコールが木霊する。急ぎ左足を打ち鳴らし燃焼を加速後推進力に変え離脱。
放出仕切らない熱を翼から吹き出させ、螺旋状に身体を捻る事で襲い来る札を焼き払った。

 「くうう……」

 しかし、無茶は祟るもの。霊力込みの肘鉄のダメージも有り翼が付け根から痛む。
そのせいで飛行が荒くなり、荒くなると行動を制限され、翼にダメージがかさむ悪循環。
焼け付くようにじりじりと、お空は窮地へと立たされつつ有る。理論上無限のエネルギーも、チャージ出来なければかつかつだ。

 ブゥンと空間が裂ける音が鳴る。

 お空は本能的に、翼で打ち上げるように腕を高く振り上げた。
亜空穴を通り上空から蹴り抜こうとする霊夢の機械的な冷たい目と、一瞬視線が交錯する。

 ――こっちの方が早い! あ、でもまたすり抜けられる!?

 しかし既に攻撃は勢いが付き、傷ついた翼で身をよじればバランスが崩れるのは必至。
ままよ! お空はそのまま体重を乗せ、アッパースイングを振るう。
霊夢は蹴り足を咄嗟に柔らかくしならせ、拳を足場にバックフリップを決めるとそのまま天井に着地した。

 ――あれ、すり抜けないの?

 一瞬呆気に取られるお空だが、天井に貼り付いた霊夢がそのまま駆け出すのを見て即座に離脱に移る。
翼から溢れた余剰エネルギーが光弾となりあたりに飛び散るが、これを無視。
ランダムにばら撒かれた光弾はその殆どが重力に引かれ落下していく。霊夢は未だ天井!

 「落ちなよー!」

 本日何度目かのブーイングをかけるものの、物理法則から浮いた巫女は聞く耳持たぬ。
そもそも音も弾幕になり得る昨今、こちらの声が聞こえているかも怪しいものだ。
その巫女の周囲では計八つの陰陽玉の内、五つが仄かに光を帯び不気味に周回を続けている。

 ――やっぱりさっきのは数えて無いんだ。でも、やばいなぁ……どうしよ。

 お互いがお互いの動きを伺う刹那の静寂の後。雷が空気を引き裂くように、突如大音量の怒声が響き渡った。

 「『移動に無駄なエネルギーを割きすぎだッ! グレイズして躱せ!』」
 「うにゅっ!?」

 耳にぐわんぐわんと衝撃を受け、お空はのけぞった。それを好機と見たのか、陰陽玉から一斉に札弾が発射される。

 「うわっ、いっぱい来た!」
 「『あえて前に踏み込め! 攻撃はしなくていい、避ける事だけ意識すれば避けられる!』」
 「よ、避け!」

 的になる翼は一旦小さく畳み、身を屈めてお空は札を雨を抜ける。
マントや羽が数カ所引き裂かれたが、さしたるダメージは無いしエネルギーも使っていない。
しかし、一息付く暇もなく天井を蹴り飛ばし距離を詰めた霊夢がお空のステップを妨害した。
霊気を込めて放つ両掌底が辛うじて盾にした制御棒ごとお空に食い込み、
吹き飛ばされるお空を背面に出現した結界が弾き飛ばす。霊夢が再び距離をつめ、六個目の陰陽玉が点灯!

 「やばい来てる!」
 「『串を持たない方の腕で掌打だ! 流せ!』」

 返事をする前に、腕が動いた。踏み込む霊夢の右半身をすり抜けるようにお空は身を捻り、左腕で掌打を受け流す。
霊夢もまた体重を乗せたまま急反転し、お空は咄嗟に腕の制御棒を収納した。
両者は肘が当たる距離で向かい合う。その距離五寸!

 「『払い、払い、バックキック!』」

 薙いだ腕を裏拳で弾く! 裏拳で弾く! 弾かれた勢いで回転し逆方向からの高速後ろ回し蹴り! ハイキックで相殺!

 「打ち合えてる!?」
 「『夢想天生と言えど、打撃を入れるつもりなら空間をずらし続ける訳にも行かないって事だ!
   その瞬間だけ攻撃が通る、その時に……』」
 「ありったけをーッ!」

 薙いだ腕を一の腕で弾く! 二の腕で弾く! 回転し後ろ回し蹴り! お空は身を屈め軸足を狙う!

 「『馬鹿、パターンを崩すな!』」

 霊夢はこれを重力を無視した前方宙返りで回避、空中から振り下ろすように発勁を繰り出す。

 「しまった!?」

 お空が呻いた時には既に掌は額へと吸い込まれていった。お空が地上へと吹き飛び、七つ目が点灯する!

 「まずいね、後が無いよ」

 その様子を観測していた勇儀が、怒声を鎮めて唸る。傍らでは、天子が目を瞑り、耳を塞いでいた。

 「大丈夫よ……まだ、大丈夫」

 ケホケホと喘ぎながら天子が口を開く。天子の纏めた戦術を、勇儀がお空へ伝えていたのだ。

 「機械のようでも多少焦れてる。次に弾幕を撒いたら亜空穴からの奇襲が来るわ、後方に警戒させて」
 「信じるが……どうやって分かるんだい? まさか心を読んでる訳でもあるまいに」
 「むしろ、さとりじゃ多分この霊夢は読めないわ。心を完全に無にした上での"超反射行動"だもの」

 つまり、『夢想天生』とは敵を自動迎撃するシステムなのだと天子は語る。
思考速度を極限まですり減らし、一本の針のようにシンプルにした反射神経の楔。
だからこそ、軌跡さえ把握出来れば位置関係だけで次に何が来るか分かる。絶対無敵に見える夢想天生の唯一の穴。
そして天子は、記憶力には自信がある方であった。

 「でもそれは……多分、八雲紫も同じ事を把握してる」

 ぽつりと天子は言葉を零す。距離が離れたことで、状況は再び膠着状態に陥っていた。

 「八雲のが? それは一体……」
 「よく考えなさいよ、博麗が出張ってきた時点で何かありますって言ってるような物じゃない。前もそうだったんでしょ?」
 「そうかも知れないが……いや、そうか……災害?」
 「何か思い当たるのね? いえ、詳しくいう必要は無いわ。理由があるってだけで十分。
  あの女が糸引いてるなら、お燐もきっと十分に対策を取って来てるんでしょうね、これと同じのを」
 「つまり?」
 「パターンの暗記。まぁ、時間かけてる分付け焼刃としてのクオリティは上でしょうけど……
  ついでに、思考も引き摺られて想起対策にも成って、一石二鳥だわ。相変わらず妙に迂遠な策が好きな奴」

 天子はまるで苦虫を噛み潰したような顔を勇儀に向ける。
これは見たくも無いものを見てしまった奴の顔にも似てるな、と勇儀はふと思った。

 「……見たくなかったし、見られたくないだろうなって思ったのよ」
 「それは、負ける所をかい?」

 答えは無い。変わりに、睨み合う二人が動き出す。「動いたよ!」勇儀が叫ぶ。

 「お空は!?」
 「一波を避けて、やや上……間、二丈!」
 「飛び込み蹴りが来る、タイミングを合わせさせて。外したら次は無いわ」
 「責任重大だねぇ……」


 後ろへ落下しながら迫り来る札を躱しきったお空は、足を……また札弾! 第二波が迫る! 

 「もぉーっ! いい加減しつこい!」

 お空は錐揉みしながら飛行速度に緩急をかける。追跡しそこねた札弾達がマントを掠め通過。
お空は足を振り上げてバック転、身体を捻り霊夢に向かって急発進をかけた。
Gが腹部にかかり、歯を食い縛ればそれが自然に笑みの形になる。接近戦を考え制御棒は仕舞ったままだ。

 「『飛び込んで蹴りを入れてくるよ、今度こそお見舞いしてやんな!』」
 「蹴り!?」

 お空は霊夢の動きを注視する。第三波が陰陽玉から発射される。霊夢はまだ動かない。
距離約二間、札弾が誘導を開始。霊夢はまだ動かない。
飛び込む勢いを弱め、回避動作。CAUTION! CAUTION! 脳内に警告音が鳴り始める。まだ動かない。

 極度の集中で時間がゆっくりと鈍化していく。CAUTION。

 頭だけを動かして札弾の一つを回避。髪が一筋断ち切られる。C・A・U・T・I・O・N。

 躱し切れない弾道の札弾が飛来するのが分かる。最小限の熱で焼くことを試みる。C……A……U……

 お空の腕がゆっくりと前に伸びる。お空にしか感知出来ない、微細な粒子が集まって行く。T……I……O……N

 はじけあい、熱を帯び始める。パッパッと光が明滅する。霊夢の足が上がる。

 ――CAUTION! CAUTION! CAUTION! CAUTION!


 「うわわわっ!」

 慌ててお空はフュージョンしかけの腕を払う。既に寸の距離まで霊夢が迫り……蹴り足を……伸ばす!

 「ここだ! ここでキメなきゃ!」

 お空はその足を――引っこ抜くように掴んだ!



 「爆符『ギガフレア』ー――ッ!!」



 CAUTION! CAUTION! CAUTION! CAUTION!
温存されていたお空の体内エネルギーが爆発的に増大し、破壊的光熱磁気嵐の奔流を巻き起こす。
その光束量は一切明かりの入らぬ河童地下開発地域に真昼間以上の明るさを与え、白く染め上げるほど。
地底の太陽が唸りを上げ、辺りの空間ごと焼き尽くす!

 「巫女はどうなったの!?」

 天子が甲高い悲鳴を上げた。
巫女は……博麗霊夢は……健在! 流石に無傷とは行かないものの、焼け焦げた衣装を纏い、なお太陽に影を作る。

 「どうしてくれんのよ、一張羅なのにッ!」

 足を掴まれた一瞬、天性の勘で夢想天生を解き、霊夢は二重結界を更に二重に張り巡らせ火の手を防いでいたのだ。
衣装に付いた火を慌てて消しながらお空に向かい、吠えたてる。
その様子を聞き、目を覆った手の平の奥で上空を睨みつけていた天子は、静かに顔を落とした。

 「落ち……ない? くそっ」
 「落ち着きなよ、それでも夢想天生は解除出来たんだ。後はカラスが普通の弾幕勝負でケリを付けるだろうさ」

 悔しげに舌打ちを打つ天子を、勇儀が諌める。

 「あんたの喧嘩の決着と言うには、ちょっと中途半端かもだけど……」
 「いいの、解ってるわ。元々、じっとしていられなかっただけだもの。……関わりたかった、我儘なの」

 天子は弱々しく手を振るが、その顔に諦念は含まれていない。
やがて光が収まった後、再び辺りは暗闇に包まれた。上空でいまだ続いてるだろう戦闘も最早伺うことは不可能。
赤熱した床の僅かな明かりが、下方から仄かに天子達を照らす。
先ほどまでの爆音、怒声、風切り音が嘘のように静かな世界だった。目が闇に慣れるまでの、ほんの僅かな静寂だが。

 「……どうしようかな、これから」

 隣に立つ勇儀にも聞こえないように、天子が小さく呟いた時。


 何か"とても恐ろしいもの"が……地霊殿からゆっくりと鎌首をもたげ、その産声を上げた。


 ◆


 ここで少々、時間を巻き戻させて貰いたい。

 夢想天生を……そしてその真の開放を想起させた古明地さとりは、力なく床にへたり込むと顔を覆い嗚咽をあげた。
くぐもった啜り泣く音が硬いタイル床の上を滑るように響く。
映姫は声を上げる事も、さとりに手を伸ばす事も無く、ただ眺め続けている。何かを確かめるように、油断のない瞳で……

 「どうして」

 さとりは顔を伏せたまま、辛うじて聞き取れる程度のくぐもった声を出した。

 「どうして皆、変わってしまうのですか」
 「不変なものなんて無いからですよ、さとり様」

 呟きに答え、ゆっくりとお燐が身を起こす。想起による裂傷が身体の至る所に走って居たが、致命傷には至っていない。

 「胸に誇りが有れば、覚り妖怪は怖くない。……結局、その通りなんだ。
  倒れるつもりさえ無ければ……目的に対する確かな誇りさえ有れば、いくら想起の弾を受けようがくたばりはしない」

 ――『勝ったのではない、負けなかったのよ』

 三日の内に一度だけ会った八雲紫は、そう評していた。
天子も、翁も、そして博麗霊夢も。自ら心に浮かべた恐怖に、負けなかっただけなのだと。
ただそれを――肝心のさとり本人ですら――覚り妖怪に対する勝利として扱ってきただけで。

 「だけど、あたいはそんなのどうだっていい」

 キュ、と床を擦り鳴らし、お燐は再びファイティングポーズを構えた。

 「あたいは"さとり様"と戦いに来たんだ。……自分の心に打ち勝とうが、意味が無い。
  だけど、そうじゃなきゃ貴女と真正面から向きあう資格が無いってんなら……あたいは幾らだって、やってやるさ」
 「……あなた、昔の頃のほうが可愛気が有りましたよ」
 「そうかもね」
 「このまま……私の反則負けという事には……してくれないの?」
 「まだ始まっても居ないでしょう? 弾幕ってのが、自らの華を咲かす物なら。
  あたいたちはまだ、弾幕勝負すら初めて居ない。いや、そんな勝負、やったことが無かったんだ」

 お燐の言葉は、鉄条網のように自らをも締め付け、引き裂く。痛みが涙となり、声に滲む。
けれど、お燐は前を向き続ける。

 「あたい達が本当に家族なら、言いたい事も、言った方がいい事も……言わなきゃいけない事も……多すぎる!」
 「私が……地霊殿の主として……」
 「違う! あなたはまず、古明地さとりなんだ。古明地さとりじゃなきゃ、いけなかったんだ!」

 ハッと、息を飲む音が聞こえた。

 「そうだ、甘えていたのはあたい達だ。あたいが見たいのは、地霊殿の主の弾幕でも覚り妖怪の弾幕でもない。
  古明地さとり自身の、さとり様が何を思って、何を見ているのか……そういう弾幕なんだよ。
  教えて欲しいんだ、さとり様の事を……あたい、何も知らないんだ……!」

 涙声でうずくまったまま、さとりは動かない。お燐の方を見ようともせず、首を横にふる。

 「嫌よ……私に、私に何をしろっていうの? 何が出来ると言うの……
  手妻めいた光を浴びせて? それとも、無様に花弁でもちぎり投げていればいいのかしら!」
 「……さとり様……」
 「結局、あなたは強いのよ……お空の影に隠れていては、わからなくても仕方ないけれど。
  皆、私を追い抜いていく。それとも、手加減でもして戦う? ああでも残念、それが分からない私じゃないわね!」

 しゃくり上げる声が、何時しか引きつるような笑いに変わっていた。
ひ、ひ、ひ、は、は、とでしゃっくりのように笑った後、肺から絞り出すような低い声でさとりは言う。


 「負けたくない」


 ざわりと空気が代わり、お燐の尻尾が――人化の術を手に入れた今も手入れを欠かさぬ自慢の毛並みが――怖気立つ。
前髪の隙間から覗くさとりの双眸は、地獄のように見開かれていた。

 「自分のペットを使われて……舞台に上がる事も無く……悠々と高みから見下ろし……
  言いたいことは誰かに代弁させ……何を考えているのかは知らないが……例え、私以外の全ての為になるのだとしても」

 さとりが俯けていた顔を上げる。ニタリと笑ったその口の中には、翠色の飴のような物体が収められ、ぬらぬらと輝く。

 「馬鹿な子。こんな物、受け入れてくれる場所など、有るはずも無いのに」

 蹲っていたさとりが、突如バネが跳ねるように膝を伸ばした。ギラギラとした瞳で、お燐の背後に有る虚空を見つめる。

 「だけど、はいそうですかと頷いてしまったら……それでは私が、あまりに惨めでしょう!?」
 「古明地さとり!」

 変遷を見守っていた四季映姫が、鋭い声を上げて立ち上がる。
さとりは答えない。その代わり、能面のように貼り付けた無表情の下で、こくりと喉が脈動した。

 「……あはっ」
 「さとり、様……?」
 「どうかしましたか、お燐? ああ、いい気分ですね、これは……。酒精の酩酊感にも似ているような……。
  思っていたより随分と、"素直になる"って気持ちが良い物なんですね……」

 さとりは、一瞬前の表情が無かったかのような陶酔感を湛えた笑みを浮かべ、辺りをぐるりと眺める。
その目が爛々と翡翠色に光っているのを見、お燐は身構えた。

 「戦いたいんでしょう? お相手しますよ、地霊殿の主として」
 「あんたは……古明地さとりだ。それ以上でも、以下でも有るものか!」
 「それ以上で有りたいと! 他ならぬ私自身が望んでいるんです!」

 笑っていた表情が、瞬時に鬼女のような憤怒に変わる。かと思えば、すぐに泣きそうな程の悲哀を見せた。

 「そうでなければ……あの子の姉として、釣り合いが取れない」
 「こいし様の……?」
 「あの子は私よりずっと、強くて、気高くて、そして綺麗で……滑稽だと笑いますか? 他人に畏怖される事を望んだ私を。
  自らに足りない物を他所の感情で埋めてまで、あの子に釣り合うように背伸びまでして!」

 そして再びケタケタと笑い出す。
いつの間にかさとりは、眼全体が蛍光色のような緑に覆われ、そこから幾筋もの液体を垂れ流していた。

 「妬ましい」

 こめかみに爪を食い込ませ、肌を引き裂く。ガリガリ、ガリガリと音を立てる。
血が吹き出してなお、ガリガリ、ガリガリと。

 「妬ましい妬ましい妬ましい妬ましい妬ましい妬ましい妬ましい妬ましい妬ましい妬ましい!
  何で私がこんな思いをしなきゃいけないの!? 私はただ、あの子のお姉ちゃんで有ろうと思っただけなのに!
  なんで! なんで! なんで! なんで私が! なんでッ!」

 その鬼気迫る様子に、お燐はおろか、諌めるべき四季映姫も呑まれかけていた。
笑い、怒り、泣き、そして再び笑い、怒って。古明地さとりは。

 「あぁ、そうか……最初から、読むべき心はここに有った……」

 涙を流しながら、笑っていた。


 「幸せな思い出も……誇りも、有るべき姿も……ふふ、最初から、私が持っていたのね?
  私は……私だけを見てればよかったんだ。この力で私の中に篭っていれば、私は幸せになれるのに……

  ならば余計な物は、うるさいモノは、全て消してしまいましょう?」


 さぁ、と空気が凍りついていく。古明地さとりの影から、黒く淀んだ何かが顔を出す。
 四季映姫の心に警報が鳴った。凍りついた火焔猫燐の首根っこをひっつかみ、土煙を上げて迫り来る"何か"を躱す。

 「浄玻璃の鏡よっ!」

 清き法の光がおぞましき物の真の姿を映し出す。映姫が掲げた手鏡には、穢れで出来た蛇が映し出されていた。
穢れたちはその光に当たると、まるで恥じるように消えていく。

 「今のは……道祖神?」
 「閻魔様ッ!」

 空中から迫ってきた気配が、無防備な映姫の背中に牙を向けた。
間一髪、反射的に思考を取り戻したお燐が映姫を突き飛ばし回避をさせるが、代わりに牙はお燐の腕を掠めてしまう。
その瞬間、燐はヒュッと短く息を吸い込み、この世のあらゆる恐怖を見た者のように呼吸と心臓を停止させて死んだ。

 「な……!?」

 否、否否。生命活動を停止しただけだ。妖怪としての本質の死ではない。
掠めただけなのが良かったのだろう。まともに食い破られていたらどうなっていた事か。
妖怪の強靭な生命力を持ってすれば、今ならまだ処置が間に合う。とにかく、外に出さなければ。

 「小町を連れて来ていれば……と言うのは泣き言ですね……!」

 送り迎えにかこつけてサボるので、渋る死神を無理やり引き剥がし仕事に行かせたのが仇となったか。
なおも火焔猫に襲いかからんとする"それ"を鏡で払い、映姫は懸命に燐の肩を担ぐと大扉に向かって翔ぶ。
不思議な事に、おぞましいもの達は一度辺りを呑み込んだ後積極的に映姫に向かい襲いかかろうとはして来ない。
まるで繭のように育っていく"それ"は地霊殿のホールを埋め尽くすと、中庭から首をもたげ地底を舐め回すように見つめた。


 ◆


 その異変に真っ先に気付いたのは、やはりと言うべきか博麗の巫女、霊夢であった。
彼女は即座にお空へ背を向けると飛翔を開始。後方から迫る火球を振り向きもせずに躱すと地霊殿の有る方角を睨みつける。

 「うにゅ、逃げるな!」
 「おバカ。分かんないの? それ所じゃなさそうなのよ!」
 「え……?」

 ここまで来ると、焼けた石のように熱くなっていた空の頭にもその気配が察知できた。
敬愛する主人と共に暮らす家……地霊殿から、氷柱で突き刺される程の冷たい嫌な気配が漂ってきている。

 「な、何がおきたの……?」
 「それを今から確かめに行くんでしょうがッ!」

 お空が見たその場所には、館一つよりも大きい腕をガリガリに痩せ衰えさせ、腹をパンパンに膨らませた餓鬼が居た。
それは……かつて、さとりに拾われる前の。地底にまだ街もなく、名実ともに地獄で有った頃の死の面影で有る。
食われる側の獣――当時まだ幼かった空は、それでも血の眼をして食料を探す彼らに捕まってはいけない事を知っていた。
母が捕まり、血と肉へ解体されていく時の悲しみと恐怖は、朧気で有りながらも未だ覚えている。
……母がその身を挺して空を逃した事は、幼い空には理解出来ていなかったが。

 「さとり、様? ……お燐ッ!」

 顔面を蒼白に変えたお空は、一筋の尾を描き霊夢と並ぶ。



 霊夢たちが弾幕戦闘を中断し、彼方へと飛び去ろうとしている頃。
地上の勇儀と天子達もまた、戸惑いを隠せないで居た。

 「……気象が……こんなに、冷たくなるなんて……?」
 「おいおい、ここは灼熱地獄にほど近いんだったろ?」

 勇儀は、お空の弾幕の余波で未だ所々赤熱し、融けだしている地面を見ながら身を震わせる。

 「こんなだってのに、冗談みたいに寒気がするよ」
 「……さとりに、何かあったの?」
 「どうしてそう思う!」
 「分からない! ……けど……」
 「考えるのは後か。天子、悪く思うなよ!」

 そう言うと、勇儀は鼓を担ぐように天子を肩に乗せ、上空の二人にも負けないスピードで走り出す。

 「ちょ、ちょっと!」

 天子は抗議しようとするも、「喋るな! 舌噛むよ!」と返され、結局口を噤んだ。

 「息を切らせて駆けつけた頃には全てが終わってましたなんて、嫌だろ!」
 「……ん」

 天子は小さく頷き、その後は大人しく勇儀に担がれる。
本気を出した鬼の脚力は流石の物で、三歩で一町を飛び越すと直ぐに地霊殿と街の外周の中間程に固まった一団に追いついた。

 「お燐! おりぃんッ!!」

 そこでは、結界らしき物の上に乗せられ土気色をした顔色で横たわる燐と、その身体に縋り付き無くお空。
そして、小さな街灯の下その身体の心の臓を懸命に押しこむ四季映姫の姿がある。

 「何が有ったッ!」

 その六尺の身体に怒気すら湛えて勇儀が吠える。
丁度、結界を貼り終えた博麗霊夢が顔を上げ、変わりに答えた。

 「"アレ"に触れられたそうよ……間一髪で、ね」

 そう言って顎をしゃくる先には、当然のように地霊殿が有る。
館から首を覗かせる、恐ろしい化け物の姿が。

 「触られた? 触られただけでこんなに成るっていうのか……」
 「魂と、魄は、まだ断ち切られて、いません。精神に、身体がまだ生きている事を、伝えてあげれば!」
 「精神に?」
 「『死んだ』と錯覚しているんです。とにかく、彼女が気付くまで、身体を生かし続けなければ」
 「どきな! 私がやる」

 帽子がズレ落ちる事も厭わず体を揺らす閻魔の、小さな体躯を押しのけ勇儀が心の臓を叩く役に取って代わる。
そう長い時間でも無いはずだが、精神的な消耗故か映姫は荒い息を吐く。

 「ちょ、ちょっと待ってよ。それって……
  地霊殿にはまだ妖怪にもなれないペットたちだって居るのよ!? あいつらはどうなったの!」
 「ぐじゅっ、だい、じょうぶ。皆、今日は居ない」

 涙と鼻水でぐちゃぐちゃに顔を歪めながらも、お空が答えた。

 「わたし、えぐっ、暴れると、危ないから……昨日の内に、さとり様が避難させた」
 「……そう。不幸中の幸いね……」
 「それで閻魔様、何なの? アレは」

 油断なく地霊殿の方を睨みつけていた霊夢が、視線を外す事無く四季映姫に向かって言う。

 「……質問を返す事になりますが、貴女には何に見えますか?」
 「んー……そうね。強いて言うなら山の方に居る神の邪神の方。その眷属っぽい白蛇が一番近いかしらね」
 「ミシャグジ様、ですか。成る程……やはり」

 帽子を直し、瞬く間にその霊気を整えた映姫が、地霊殿を向き直る。

 「一人で納得しないでよ! お燐はどうなってるの、さとり様はッ!?」

 その胸元を掴みあげたお空が、泣き叫ぶように声を荒げた。

 「いえ……ごめんなさい。なるべく簡潔にまとめようと思って……これから話す事は、推測混じりに成りますが……」
 「別に、構わんだろう、そんな事。今更すぎる」
 「……閻魔様の変わりに聞くけどさ、あんたらアレが、何に見える?」
 「何って……」

 身体の動きを休めること無く、勇儀は素早く見返すと答える。

 「取り敢えず、白い蛇にゃあ見えないね。……懐かしい顔だよ。どいつもこいつも死んだ顔だ。
  伊吹の爺さんに、あぁ、最近死んだ牛鬼も居るね……悪趣味なトーテムポールさ」
 「う、う……私には、お腹ぽんぽんの、飢えた奴らに……昔、怖い目に有った」
 「……比那名居天子。貴女は?」

 呆けて立ち尽くしていた天子は「あ、ええ」と我を取り戻すと、小さく唾を飲みこんだ。

 「その、馬鹿にしないで欲しいんだけど……」
 「今、この状況でそんな事する者は居ませんよ。居たら棒で叩きます」
 「怪獣みたいな、でっかい八雲紫。あと、気持ち悪い電車が一杯」
 「……あ! 誰かと思えば神社建て壊し犯! 髪染めてんのね。イメチェン?」

 有言実行。ゴスッという深く鈍い音を立て、悔悟の棒が霊夢の頭に突き立てられる。

 「……このように、"アレ"は人によって見え方が異なる。それは、価値観に潜むイメージが個人個人で違うからです。
  正体不明の種なるものを使う妖怪も居るようですが、アレは紛れもなく想起……それも、無差別な物かと」
 「あいてて……要は、それぞれ想起で連想する物が違うから別々に見えるって訳?」

 映姫は頷くと、辺りをぐるりと見回す。

 「霊鴉路空の見る餓えた者。比那名居天子の見る八雲紫。星熊勇儀の見る同胞の屍……
  共通する物は、"死への畏れ"というイメージです。貴女達二人は死を決定する者へ。星熊勇儀は死による喪失に。
  そして私は、私には、『何も見えない』。
  これは職務上突如訪れ奪っていく事への死を、あまりに多く見すぎているから。
  死が"不可視"で有るイメージを持っていたからだと思われます。
  この中では博麗霊夢、貴女の見える物が一番本質に近いのでしょう。博麗の巫女だけ有って……」

 そして、火焔猫燐はその"死"と言う想起に僅かながらでも触れたのだ、と映姫は説明した。

 「浄玻璃の鏡で映した時、あれは穢れでした。それはつまり、カミの始まり……ハレとケ、即ち『気枯れ』です。
  我々の知識に眠る原始信仰が、古明地さとりによって呼び覚まされている状態に近いでしょう」
 「古き時代の想起……じゃあ、さとりは……あの中なの?」

 死の恐怖……大いなる畏怖を前にして、愕然と天子は呟いた。
話が本当ならば、それを為せるのは古明地さとりしか居ないのだ。古明地さとりが、お燐を死の縁にまで追いやっている。

 「掠めただけで、こんなに成るってのかい」
 「それが『気枯れ』じゃ。死んだと勘違いしてしまえば精神は死ぬ。
  ……それが妖怪なら、尚更に。力の大小など関係なくな」

 うらぶれた小道にコツコツコツ、と足音が響く。一斉に、一同の目がそちらを向いた。

 「ふん、久々に満開の桜が咲いたかと思えば、これではの。船に乗りかかった者として、放っておく訳にも行くまい」
 「……予想より百倍くらい碌でも無い事にしちゃってまぁ、妬ましい……そんなこと言ったら私元凶じゃないの妬ましい……」
 「街の方でも、困惑の空気が感じられますよ。……総領娘様、お久しぶりでございます」

 現れたのは、三人組の男女。一人は死の想起を前にしてなお威風堂々と、一人は爪を噛み千切りそうなほどに歯を立て。
そして一人は、粛々と比那名居天子の前に歩み出ると、流麗な仕草で一礼をした。

 「お爺、パルスィ……衣、玖。なんで、ここに」
 「総領娘様……嗚呼、髪の色も大分抜けてしまわれましたね、お労しや。
  いえ、言い難いのですが……色々と仕事がブッキングして仕方なく地底まで足を運んだんですけどね?
  これもいい機会だと思って三日ほどバカンスを楽しんでいたらこのような事態に」
 「ああ、うん。紛れもなく衣玖だわアンタ」
 「そんな麦酒缶の上を飛び回るハエを見るような目で見ないで下さい。天女ですよ私? 総領娘様の事も探していましたし。
  ……もっとも、総領娘様が『絶対に会いたくない』と思っている限り、会えなかったでしょうけれど」
 「私が?」
 「空気の読める女ですので」

 そうか、と天子は考えた。人に堕ちかけたこの体を見られても案外ショックが少ないのだな、と納得する。
数瞬前の私はどうだっただろうか。天の知り合いに今の自分を見られて、耐えられただろうか?

 「魂魄……妖忌ッ!」

 その声が、一瞬誰の物で有るのか天子には分からなかった。
死を語っている時にも――内心はどうあれ――冷静な表情を崩さなかった四季映姫が、激昂した表情を浮かべ睨みつける。

 「役目を捨て、何処に潜ったかと思えば……こんな場所で、ぬくぬくと!」
 「……閻魔殿か。少し面倒くさい顔に出会ったな……だが、ぬくぬくとしていたつもりはない」
 「貴方はまだ諦めていないのですか? 死者を、蘇らせるなどッ!」
 「それは、果たして今この場で必要な話かね?」

 顎髭をさすりながら翁……魂魄妖忌と呼ばれた男は答える。
ぐ、と映姫は言葉を詰まらせ、咳払いを一つした。

 「それに蘇らせるのでは無い。それは術者の仕事の範疇なのでな。
  ……一介の剣士に出来る事は、切って分かつ。ただそれだけよ。
  "黄泉還り"の桜はお主達が用意したものだろう? 是非曲直庁の閻魔殿」
 「だとしても、無理です。死との縁を切って断つなどと、外法の誹りも免れない」
 「だから止めると? その説教で? ……それで人が止まるなら、そもそもあの方は死なずに済んだ筈」
 「人の話を聞き入れる……それが、貴方に出来る善行です」
 「禊ぐには、人の血も、妖の血も吸い過ぎた。そうじゃろう?」

 妖忌は閻魔への視線を切り、地霊殿に鎮座する想起――彼にとっては、あの忌々しい西行妖――を見上げる。

 「……試金石には丁度良い。前に切った時は、少し温すぎたからな……」

 不吉を匂わせるその舌なめずりに、お空が敏感に反応した。お燐の側から立ち上がると、地霊殿への道に大きく腕を広げる。

 「お爺ッ! あなた……さとり様を切る気なの!?」
 「……邪魔をするか? 娘」

 音もなく、鯉口を切る。その本気の眼差しに、お空の方が戸惑った。
彼女にとっても、翁は顔馴染みであったのだ。孫のように懐いた事もある。その男が、今や獣性も顕に主人を切ると言う。
お燐は未だ、仮初の死から戻ってくる気配が見えない。仮初が何時本物に変わるかも分からない。
そしてその死をもたらしたのは、自らが……そしてお燐もまた敬愛する、主人。
お空の頭はいい方ではない。立て続けに襲う理不尽と混乱に、ただただ涙が滲む。

 「そこまでよ。スペルカードルールを通さない私闘。博麗の巫女の名においてこの私が許さないわ」

 結果的にこの男を引き止めたのは、博麗霊夢が放つこの一言で有った。
諦めたように「博麗を敵に回しては分が悪いのう」と呟くと、刀を収める。巫女もまた、密かに構えていた御札を仕舞った。

 「……とにかく。今、小町が是非曲直庁に報告を上げに行っています。直に戻ってくるでしょう。
  あの"想起"が動きを起こさない限り、是非曲直庁の動きを……そして、火焔猫燐の蘇生を待ちましょう」

 四季映姫がそう言うと、不承不承混じりながらも辺りから同意の声が漏れた。
お空は再びへたり込み、お燐の手を祈るように握りこむ。思い思いの待機動作に入る周囲を眺めながら、天子は嘆息した。

 「妬ましい……」
 「うわっ」

 突如背後に現れたパルスィに驚かされ、天子はつんのめって転びそうになる。

 「な、何よ」
 「妬ましい、妬ましいわ…。一言も喋る機会が無かったじゃないのよ妬ましい……」
 「知らないわよそんなの!」
 「……結局、あの子の嫉妬は自分と妹以外の全てへ向けられたのね。一番嫉妬しているのは、妹に向けてなのに。
  ふふ……大した家族愛、と言うべきかしら。妬ましいわね」

 カチカチと爪を噛むのを止め、パルスィは天子の瞳を覗きこむ。

 「いい顔をするようになったじゃない」
 「あんたに言われても、褒められた気がしないんだけど……」

 ぐいと頬を掴まれる。ギザギザになった爪が、少し痛い。

 「私も、言い方を変えれば神様の一種だし? 無視されるのが、一番妬ましいのよ」
 「……私は、そんな風だったかしら」
 「貴方の顔、何処かで見たなぁって思っていたの。そう、博麗の巫女とそっくりだったのね。
  もっとも、何か理由が有ってと言うよりは……美人を平均化していったら同じような顔になるって事なんでしょうけど」
 「あれが、本当の天に生まれた子でしょう?」
 「宝石に大小はあれど、路傍の石から見れば妬ましい事には変わりない。
  ……一応、責任を感じていなくも無いのよ。ここまでに育つとは思ってなかったから」
 「それが反省している態度なの?」

 パルスィが答える変わりに、横たわっていたお燐がゲホゲホと生きる為の酸素を取り込んだ。
周囲の視線がそちらに集中した瞬間、パルスィは天子の右手に何かを握りこませ、小声で会話するようにジェスチャーした。
天子が手を開くと、どこか危うさを持った小さな翡翠色の輝きが有る。

 「これは?」
 「覚り妖怪に渡したのと同じもの」
 「あんたねぇ!」
 「目には目、歯には歯。毒食わば毒まで。こうでもしなきゃ、女のヒスは強いわよ?」
 「皿も食べなさいよ……いや、食べ物じゃないけど」
 「嫉妬は足を縛り付ける重力にもなれば、前へ進む勇気にもなる。
  結局、貴女なら何とかするって思ってるのよ。私も、そして覚り妖怪も」
 「……私が? でももうそんな力」

 目を白黒とさせた天子は、パルスィに背中を強く叩かれた衝撃で咳き込んだ。

 「天子!」パルスィを睨みつける天子を、勇儀が呼ぶ。「お燐が目覚めた」

 改めて見る火焔猫燐の顔は、酷いもので有った。一瞬の死の幻影にどこか頬はこけ、
髪はこれが人間だったら白く染まってただろうと思うほどに色褪せて見えた。

 ……だが、生きて呼吸をしている。
その事実に天子もまた安堵の息を吐く。何より、さとりがペットを手に掛けたと言う事実が残らない事にホッとした。

 「天子……?」

 掠れた声、うつろな瞳でお燐が懸命に手を伸ばす。
精神状態が直に出てきているのか、その指は年寄りのように萎びれていた。

 「無理しちゃ駄目」
 「……あたいは……上手く、出来なかった……無茶を通して、結局、失敗したよ……
  お空は……ちゃんと、あの人の側に……居てくれたかい……?」
 「お燐……なんで、だろう。私、ぐすっ、こんな……!」

 目を真っ赤に腫らしたお空が手を取りながら泣きじゃくる。
その頭を抱きしめながら、火焔猫燐はぽつりぽつりと言葉を漏らす。

 「……泣いてたんだ……
  さとり様が……泣いてたんだよ……。こいし様の部屋で……『一人に、しないで』って……
  あたいはそれを聞いて、なんでそれを直接言えないんだって。言葉に出来れば、きっと何かが変わるのに。
  皆で、立ち向かって! 皆で分かち合って! それが出来るのが、家族だと、思ってたのに!
  あたいはさとり様と本当の家族になりたかった! さとり様と、こいし様と、お空と、あたいで。
  家族に、憧れたんだ……でも、駄目だったなぁ……結局、さとり様、あたいの事……一度も、見てくれなかった……!」

 親友の頭を抱きしめて、お燐は嗚咽を啜り上げる。垂れた涙が、ポタポタとお空のリボンを濡らした。

 「悔しい、なぁ……! 悔しい……なぁ、お空、悔しいよ……! 一生懸命考えたけどさ、あたいの言葉全然届かなかった!
  悔しい、妬ましいんだ! こいし様はあんなに、想ってもらえるのに!

  それでもあたいはさとり様のお陰で生きてこれた……
  さとり様は、恩人で、暖かくて……膝の上に抱っこしてもらえたら、それはもう幸せなんだ……
  あぁ……あたいはさとり様の事が、大好きなんだよ……なぁ……分かるかい……?」

 死に瀕した身体で精一杯の握りこぶしを作り、お燐はボロボロと泣く。お空と抱きあうようにして、顔をくしゃくしゃに歪め。

 「お燐……分かるよ……。私も、お燐も。地霊殿が、あったかいもんね……。
  ごめんね、えぐっ、私、馬鹿でごめんなさい……何時も、お燐に、迷惑かけてばかりで……!」
 「良いよ……こっちこそ、相談できなくてゴメンな…………」

 二人でひとしきり泣いた後、涙で濡れた声で、お燐は天子の方を向きながら言う。

 「なぁ天子、頼んで良いか……? あたいは、ぐじゅっ、駄目だったけどさ。あの人に、伝えておくれ。
  あたいの……あたい達の変わりに、誰かの為の自分じゃなくて、『もっと自由に生きてくれ』って。
  さとり様の素直な言葉を、聞いてきておくれ……」
 「私が? でも……あんた達に比べたら私なんて、さとりと会ったのはほんのちょっと前で」
 「そういうのじゃないんだ……いや、仮にそうだとしても、きっと違う。
  どんなに家族に近くたって、あたい達はペットなんだ。ペットでしか、無かった」

 頬に手を当て、お燐の赤銅色の瞳がまっすぐに天子を捉える。
震えた唇から、噛み砕くようにゆっくりと、言葉を吐いた。


 「でもあんた……友達だろ? だからこそ、伝わる事って、有るんだ。
  それに……きっと、さとり様が孤独を思い出したのは、お前が居るからなんだよ、天子」


 ハッと息を飲む音が聞こえ、天子がわななく。
頬に当てた手をゆっくりと下ろし、お燐は天子の黒髪に指を通す。

 「お前が……死んじまうから……」

 天子の身体がビクンと震える。言葉という名の雷が、天子を頭から真っ二つに引き裂いたようだった。

 「……ふざけんじゃないわよ」
 「ふざけちゃ、いない」
 「それが……それが! 私のせいだって言うの!? 私に、責任を持てっていうの!?
  私だってなぁ! もっと一杯、やりたい事有ったわよ! お洒落したり、美味しいもの食べたり!
  初恋だってまだだし、やらしい事だって、ほんのちょっと興味あった! それに、何より……!」

 ここで、一度大きく息を吸う。自分が今しがた掴んだ物を、深く呼吸して確かめる。

 「……初めて、友達が出来たのよ。初めて、仲良くなりたいって……言ってもらえたの。私、本当に嬉しかった!
  初めて、友達と服を買いに行った! 初めて、一緒に喫茶店でお茶をした! 全部初めてよ! 悪い!?
  天から人里を見下ろして、馬鹿にして、でも本当はちょっとだけ羨ましかった事が、全部! こっちに来て初めて出来たの!
  死にたくて死ぬわけが、無いじゃないの! あいつにとっては、私を便利に使うための、方便だったかも知れないけれど……!」
 「……それは、無いさ……」
 「なんで、そう思うのよ」
 「だってあの人……嘘が、下手だろ?」

 ……

 ……ああ。

 「そうだった……はは、そうだったわね……」

 気がつけば、天子の目にも涙が溜まっていた。ははは、ははと笑いながらへたり込む天子に、衣玖が声をかける。

 「総領娘様……?」
 「どうしよう、衣玖。私、判ってたのに……覚悟してた、のに……私、もっと沢山生きたい……!
  まだ、やってない事が沢山あるの。やりたい事が一杯有ったの! やっとこれから、色んな事が出来そうだったの!
  死にたくない……死にたく、ないよぉ……!」

 しゃくり上げる天子の背を、天女が優しく叩く。次第に天子も衣玖の胸に顔を埋め、声を上げて泣き始めた。
衣玖は何も言わず、ただ天子が泣き止むまで抱きしめ続ける。母が子に、そうするように。

 泣き声がぐずった声になるのを待ち、パルスィは天子に言う。

 「まったく、とんだ甘えん坊ね。あんたも、覚り妖怪も」
 「何よ……どういう、事よ」
 「甘えたくなる時って有るのよ、特に長女なら尚更ね。でもそれって、ペット相手には無理でしょ?
  あんたは責任重大なんだから、どっしり構えて甘えさせてやれば良いの、責任とって、お姉さんらしく」
 「あんたはお姉さんってより……お母さんだわ」
 「未婚だって言ってるでしょ!」

 妬ましい妬ましいと叫ぶパルスィを、天子は笑って受け流す。目は腫れぼったかったが、どこかスッキリとした笑顔だった。

 「……比那名居天子」
 「閻魔様……」
 「自ら進んで仏の道を捨てた貴方に、今更私が言える事は無いでしょう。
  ……今は、貴女が積める善行より……貴女が、少しでもやりたいと思える事をやりなさい」
 「要は、あんたの喧嘩はまだ終わってなかったって事だろ? 一発やってきてやんなよ、天子」
 「勇儀……うん」
 「私は総領娘様の友達だとも、味方だとも言えませんが……総領娘様にとって、一番近くに居る頼り甲斐の有る大人ですからね」
 「それは図々しいわ」
 「なにおう」

 天子は照れくさそうに頭をぽりぽり掻きながら、決して行儀が良いとは言えない姿勢でお燐の側にどっかりと座り込む。

 「あー、もう。あーもう! 情けないなぁ! ……なんで私、これだけ言われて、即答で返せないのかしら」
 「天子……」
 「……少しだけ、時間を頂戴。心の準備と、あいつに向かい合った時なんて言うか考えるから……」
 「わかった、よ」

 天子はお燐の手を両手で握り、そっと胸の上に落とした。
恐怖は有る。自信は、正直に言ってしまえば、無い。だけど、救いに行くって言ったから。

 地霊殿では相変わらず、さとりによる『死の想起』が渦巻いている。
天子は初めて、ただ魅入られるのでは無く、意思をもってこれを見つめた。


 ◆


 ――私が両親の元に生まれた時。二人は既に、人に住処を追われ山に小さな小屋を建てて生活していました。
それは寝床と竈だけが有るような小さな住処でしたが、私達は慎ましいながらも幸せに暮らしていたと思います。
たった三人の閉じたコミュニティー。ですがそれは、私にとっての世界の全て。

 母は美しく聡明で、流れる銀髪が朝霧にキラキラと輝く姿を今でも覚えています。
私も父も凡庸な顔立ちにくしゃくしゃのくせっ毛だったので、それがとても特別な物のように私は感じていました。
ある日、そんな母が膨らんだお腹を撫でながらこう言いました。

 「さとりはお姉ちゃんになるんだよ」
 「おねえちゃん?」

 実の所、この時の私にそれが何かは分かりません。今までの私の世界に、姉などという言葉は存在しませんでした。
ですがその直後「頑張ってね」と頭を撫でられた事で、私は「おねえちゃん」とやらとして頑張ろうと決意を固めたのです。
だって母は特別で、その母に頼まれた事が特別じゃない訳が無いのですから。

 こいしが生まれたその日、魂を全て注ぎ込んだかのような苦悶の顔で母は死に、私の世界は崩壊しました。
こいしの髪は、キラキラとした銀髪でした――





 地霊殿と街の丁度中間、煉瓦で舗装された小さな道を街灯がゆらゆらと照らす。
もし揺らめく光と影の狭間に小鬼が潜んでいるのだと言われても、なんら不思議には思わないだろう。
少し視線を移せば、ぼんやりと光る結界の上に涙の後が痛々しいお燐とお空が寄り添うようにして眠っている。
精神的な傷を癒す薬として、睡眠程効く物は無い。お燐はつい先程泣き疲れただろうお空と一緒に再び意識を沈めたばかり。

 この場に居る人妖たちは、思い思いに――あるいは看病をし、あるいは想起と向かい合い、あるいは無関心に――過ごす。
何時も騒がしい地底の酔っ払い達の喧騒すら今は聞こえてこない。
ピリピリとした緊張感が、この場のみならず地底の街までも包み込んでいるようだった。

 「皆さんも、一旦一息ついたら如何です? 緊張するばかりでは、動くものも動かなくなるでしょう」

 そんな空気を知ってか知らずか、永江衣玖が何処から拝借してきたのか一同に茶を配って回る。
お前は肩の力抜きすぎだろ、と天子は突っ込んでやろうかとも思ったが、あっさりと流されそうなので黙して茶を啜り込んだ。
張り詰めた空気をかき回してくれる存在は、それはそれで得がたい物である。

 ぶるりと背筋を震わすほどに怖気がする存在を前にしてこそ、ほんの一杯の温かさでも随分な救いに感じられる。
皆それぞれ、息が詰まっていたのだろう。勢い良く茶を飲み干すと、ほぅと息を吐いた。

 「……そして、我々がどうするか、ですが」

 そんな中、街灯の真下に立ち光と影を――白と黒を切り分けていた映姫がポツリと言う。
一同の視線が集まるのを確認すると、コホンと咳払いして先に続けた。

 「やはり古明地さとりを止めねばなりません……彼女は、未だ屋敷の中に居る筈です。
  しかし、万が一を考えたら全員で突入するわけにも行かない。……何より、妖怪には危険すぎる」
 「……触れれば死ぬか。確かに危険だが……逆に言えば、人間なら大丈夫だって言ってるのか?」
 「あくまで、妖怪よりは、比較的」
 「危険な事に変わりはない、か」

 どっしりと地べたに腰を下ろした勇儀が、低く呟く。
映姫はこくりと頷きながら、辺りにいる人妖を見渡した。

 「勿論、屋敷の外で何かが起きる可能性も捨て切れない。内外に別れるべきだとは思いますが……
  当然、地霊殿内部の方が圧倒的に危険でしょう。何処まで死が充満してるかも分からない」
 「……はぁ。ま、だらだらしてても仕方なし、私は中に行くわ」

 霊夢が肩を回しながら、まるで夕飯の買い出しに行くかのような軽い口調で言い、天子がぎょっとした様子で振り返った。

 「ちょ、ちょっと! アンタね、そんな、!」
 「いや、だって……結局いつもと、やる事変わんないし……異変を解決するのは私の役目だし」
 「変わらないわけ無いでしょッ!? 触れたら死んじゃうのよ!? あんな、顔面蒼白になって!
  スペルカードなんてごっこ遊びとはワケが違うに決まってるじゃない!」
 「じゃあ、行かないの?」

 胸ぐらをつかむ勢いで向き合った天子の瞳を、厳かに霊夢は見つめ返す。
歪みもブレもしていない、ただ真っ直ぐな点が軌跡を描き天子の視線とぶつかり合う。

 「行かないの?」
 「……それは」

 天子は鏡のように平らな瞳に写る自分の姿と向き合った。その顔は、自分で考えていたよりも酷く狼狽しているように見える。
次の瞬間、霊夢が瞬きをしたので天子は目をそらさずに済んだ。

 「なんで、立ち向かえるのよ。そんな風に、なんでもかんでも……」
 「あのねぇ、別に私だってそんな、万能じゃないわよ? でも、まぁ、博麗だし。こんな風になった以上は行かないと」
 「……そうやって。色んな奴を助けてるのね、アンタは」
 「行かないならいいわよ。アンタの伝言も、ついでだからさとりに伝えといて上げる」
 「ッ!」

 石畳と街灯で作られた小道に、パシンと乾いた音が響き渡る。
霊夢は頬を抑え、不機嫌そうな目つきで天子に向かい直した。

 「……馬鹿にすんな!」
 「……いったいわね、痕が残ったらどうすんのよ」
 「そっちこそ、皮の厚い面しやがって。少しは痛がったほうが可愛げも有るでしょうに」
 「ああん?」
 「何よ」

 しばしの間、睨み合う。映姫は呆れたように息を吐くと、悔悟の棒を握りしめ二人を軽く叩いた。

 「……頭を冷やしなさい、二人共。博麗らしくもない」
 「同じ所ぶった……」
 「ててて……私も行く。アンタなんかに、救われてたまるもんですか」
 「あっそ、まぁ勝手にしなさい。足さえ引っ張らなきゃ、なんだっていいわ」

 霊夢が手をひらひらと振り、天子が鼻を鳴らす。
二人は一瞬だけ視線を交錯させると、路地の反対側へと別れた。
天子は街灯の側に佇む衣玖の隣にどっかりと腰を下ろすと、顔を見ないようにして、ぼそりと呟いた。

 「……気に入らないわ。ごく自然に背負い込もうとしやがってさ」
 「博麗ですものねぇ」
 「それで理屈が付くのが嫌なのよ!」
 「総領娘様が嫌なのは、背負い込まれる事の方でしょう?」

 天子は顔を背け続ける。頭の上に、ぽんと暖かい手が乗った。撫でられる事が嫌で、手を払いのける。

 「ふふっ、なんだか可愛くなりましたね。丸くなったというか」
 「どうせなら、格好良くなりたかったわよ。自分の足だけで立てるように、自分の道を歩けるように」
 「全ての道は羅馬に通ず。天道だけが道に非ずでしょう、ご自由になさればよろしいかと」
 「……その為の時間は、有るのかしら」

 前に視線を向ければ、四季映姫と起き上がった空が何やら行く行かぬと言い争いをしているようであった。
天子は膝に肘を乗せ頬杖を付きながら、それを眺める。

 「大人の経験から言わせてもらうなら、楽しい物で有れば有るほど、何時始めたって『遅すぎた』と感じられる物です」
 「婚活とか?」
 「してませんから。……そうですね、例えば総領娘様とのお付き合いとか」
 「ぐぬ」

 天子が苦しそうな呻き声を上げ、頬に赤みがさす。
ジト目で見上げると衣玖が無表情に得意げな顔をしていたので、チョップで脛を叩いておいた。

 「私、アイツになんて言ってやれば良いのかなぁ。……なんて言えば、届くのかな。まだ自分だって納得出来てないのに」
 「とりあえず大きな声で言えば良いんじゃないですか?」
 「いや、そう言うのもう良いから」
 「そう言うもんですよ。総領娘様、難しく考えすぎなんです。
  結局言葉なんて自分が何を思っているかより、相手がどう受け取るかなんですから。
  大きい声と言うのは、それだけで破壊力が有るんですよ。だから、一番大きく言えることを言えばいい」

 頼りになる大人からの助言です、と相変わらずの無表情で衣玖はお茶目にウィンクをする。

 「私の能力は結局、空気から伝わる振動とか、電磁波とか、後は乾湿なんかを読める程度の能力です。
  場の空気なんて心理的な物読めるわけが有りませんし、むしろ疎い方だと良く言われますけどね。
  でも、情報に基づく経験の蓄積、言わば乙女の勘と言ったものはちゃんと私だって働かせられるんですよ?

  ……"あれ"は、子供の癇癪と同じような物。
  自分だけじゃどうにもならなくて、おぎゃあおぎゃあと泣いている空気を感じます。
  だから、誰かが手をとって上げる必要がある。言葉なんて、なんでも良いんです」
 「……その割には、お燐の手は跳ね除けたみたいだけど?」
 「プライドが有りますからね、女の子には」

 そうね、と天子は心の中で頷いた。手の中には、パルスィに握らされた緑の瞳がある。
あるいはこれを最初に使ったのが自分だったなら、あの中に居たのは自分なんじゃないだろうかと天子は思った。
少し前で有れば、霊夢の頬を叩く事も、こうして衣玖と会話をする事も出来なかっただろう。
それこそ、プライドと言うものだ。傷ついた姿を誰にも見せずに逝く、象の墓場だ。
そこにはきっと何もない。ただ、あのような"穢れ"だけが溜まっているに違いない。

 「……もし私が、博麗として生まれたとしても……霊夢のように何もかもを赦せる風にはなれないんでしょうね」
 「そうですね。天子様は、天子様ですから。執着の一つや二つ、有ったほうがらしいですよ」
 「執着、か」

 ――色即是空、空即是色、万物流転、諸行無常。

 ――あぁ、そうだ。

 ――全部、「クソ食らえ」と思って、私は出てきたんだ。

 「……そうだ。決まったわ、言いたい事」
 「へぇ……お聞きしても?」

 ……天子は。紐でぶら下げた緋想の剣の柄を握りしめ、その瞳に光を宿す。
柄を捻る。ガキガキガキと錆び付いた歯車のような音をたてて抵抗を示すその柄を、思い切り力を込めて捻る。
観念したようにガチンと音がして、一月ぶりの緋色の燐光が、天子の手元でたなびいた。

 「『おはよう馬鹿野郎』って……言ってやんなきゃね」


 ◆


 ――母が死んだ日から、十数年が立ちました。

 人間の住処は拡大していき、町と町の間には街道がしかれ、次第に私達もより奥へと住処を移さざるを得なく成りました。
父がおかしくなり始めたのは、母の亡骸が眠る場所が人の領域に組み込まれ、墓を拝む事も出来無くなってからだと思います。
その頃既に、こいしは若々しいながらも母の面影をよく写す、美しい姿に成長していました。

 「母さん、ほら見ておくれ。今日はイクチが良く採れたんだ」

 食べきれるだけの量をカゴに積んだ父さんが、扉と言うにも見窄らしい戸を開きます。イクチは、亡き母の好物でした。
父さんがイクチを取って帰ると、母さんは頬に手を当てて嬉しそうにお味噌汁にしましょうと言うのがお決まりです。

 「あらぁ、本当ですね。それじゃあ今日は、お味噌汁にしましょう」

 ……そう、丁度こんな風に。

 「……こいし」
 「うん? どうしたの、お姉ちゃん」
 「……ううん……何でもない」

 この、言い表せぬ不快感を何とか言葉にしようとして失敗し、私は何時ものように口をつぐみます。
こいしは、時折こうやって知らぬ筈の母の仕草を真似をする。私達の心を読み取って、母の思い出を汲み出して。
……まるで母が帰ってきたかのようなその情景に、嬉しさが無いとなれば嘘になります。
とりわけ、死人のようだった父が見る見ると精気を取り戻していく様を見れば。

 ――大丈夫だよ、お姉ちゃん。

 無花果のような甘い声で、こいしが囁く。
これは、思念。血の縁か、父が見えないほど深い所で私たちは繋がれるのです。

 ――お父さんが喜んでくれるのは、嬉しいでしょう?
 ――……心配なの。貴女の能力は、私の何倍も強いから。人は強すぎる力を恐れるのよ。
 ――私たちは妖怪だよ?
 ――だからこそよ。まさか本当に、お母さんになってしまうんじゃ無いかって……
 ――そんな訳ないよ。私はお姉ちゃんの妹……

 とても優しい、母のような笑顔でこいしは微笑みました。

 「さぁ母さん、お湯を沸かそう。今日はごちそうだぞ……」

 父の声がどこか遠く、波のように引いていきます。
ここは、小さな世界。何処か歪んでいても、まだ幸せだった頃の家族――


 ◆


 「天知る、地知る、我知る、人知る。
  ヤマ・ザナドゥの名に置いて、この者の正体を現し判決を下さん。
  ……審判『ラストジャッジメント』ッ!」

 浄玻璃の鏡から光が奔る。全てを映し出す真実の光が、"鎌首をもたげるもの"に向かい放たれた。
"それら"に正しき姿は無い。ただ概念、言葉、現象が、浪漫を求める脳によって擬像化された偶像に過ぎない。
死の焼き焦げる臭いが辺りに立ち籠める。この甘く腐ったガスのような香りも、やはり錯覚なのだろうかと天子は思った。

 「ようし、いいぞ、デカブツが怯んでる。私らも続け続けぇッ!
  要はな、気の持ちようだ! 『絶対に効く』って気持ちでぶん投げろッ!」」

 鬼の怒号が一帯に響き渡る。それを合図に、お燐を除いた警戒組――勇儀、お空、衣玖、パルスィ――の一斉弾幕が花開いた。
陰鬱な空気を吹き飛ばすように、それぞれが爆発し、火花を散らして地霊殿を照らす。
弾幕という形で、異変攻略開始の太鼓が高らかに打ち鳴らされる。
地霊殿上空に顔をだす"鎌首"、そして四本の大蛇が怯むのを見計らい、最後の三人が立ち上がった。

 「……最後に確認しとくけど、本当に良いわけね」
 「くどい。どうせ先の無い命。こんな所で果てる位なら、助けなくていいから。足引っ張るなんて死んでも御免よ」
 「ふん、決死の覚悟だけは一人前か。だからと言って、自ら死にに急ぐなよ?」
 「爺さんこそ、結局付いてくるわけね。……さとりは切らせないわよ? 私が助けるんだから」
 「ふん、切らなければいけない理由が有る訳では無い。だが、近寄って切るしか脳が無いので……なッ!」

 ラストジャッジメントの光が途切れるのを見て、一斉に走り出す。
ダメージを受けた事で目をギラリと輝かせた"それら"から、無数の流れが現れて向かい来る者たちに跳びかかった。

 「邪魔よッ!」

 霊夢が敷き詰めた二重結界が、死色の蛇を弾き返す。
蛇達は一度怯むと、先端を四ツ頭に分け小さな人間たちを飲み込もうと口を開く!

 「……縛!」

 翁によって振るわれた鈍色の刀が、支流となって迂回し襲いかかる穢れを切り払い霧となって散らす。
散った穢れ達は半霊へと取り込まれ一つの黒点へと収束、ジタバタと絡まり合い藻掻く。

 「だったら最後は私の出番よね……!」

 天子は大きく呼吸をすると、緋想の剣を握る手に力を込める。
しばらくぶりに見る緋想の気刃は、ガスの足りないバーナーのように安定した形を取れないでいた。

 ――大丈夫。行ける、信じろ。
 ――マメが血で滲むほど、ただ剣を振ったんだ。後ろ向きだったけど、私は動き続けてた。
 ――足りない分は剣技で補え! ぶつけてやれ! 揺さぶってやれ!

 吐き出され蠢く瘴気の塊に向かって、天子は緋想の剣を片手に持ち跳びかかる。
緋の光はうねりながら黒点を串刺しにして、団子のように縫い止めた。

 「ギィィィィィ!!」

 天子の視界の中、鋼鉄の無機質さがトラウマ的恐ろしさを持ってなおも顎を開き襲いかかる。
深く刃が食い込むのも厭わずに、穢れはガチンガチンと歯を鳴らして剣を喰らうように徐々に手元に迫る。
天子は、思わず怯んだ。もう片手で緩みそうになった指ごと無理矢理握り込み、閉じかけた目を開く。
その瞬間黒点の両側を挟みこむようにして現れた結界が、穢れをすり潰すように回転を始めた。

 「ギャギャギャギャギャ!」

 悲鳴なのか、それとも金切り音なのかの区別も付かない音を上げ、塊となった黒点は緋い軌跡を螺旋状に刻まれる。
緋想の剣から数回淡い稲光のような光が漏れ出て、緋い薄雲として爆散させ、天子はそれを二、三払って剣に集めた。

 「ほら、何してるの! 走る走る走る!」
 「わぁってるッ!」

 余韻も浸らぬままに、三人は我先にと地霊殿の大扉に向かい翔ける。
数個の傍流を退けながら扉を蹴り開けると、長い廊下の先にシンと静まり返ったホールが見える。
そこは未だ続いているはずの外の喧騒を一切感じさせないような、静謐な空間で有った。

 「って……いやいや、流石にそんな訳無いでしょ。扉一枚隔てただけでこんな静かなんて」
 「……そうじゃな。なんらかの超自然的現象が働いている、と思うべきだろうよ」

 扉を蹴破り、玄関に転がり込んだ二人は、その異様な雰囲気を前に感想を漏らし合う。
事実、静かでありながら何処か不穏な、何が顔をのぞかせても不思議じゃないような空気がこの場にはあった。

 「……あれ、ちょっと待った。天子は?」
 「何?」

 天子の不在に霊夢が気付き、辺りを見渡してみるも人っ子一人見当たらず。

 「もしかして扉の外? 何やってんのかしら、あいつ」
 「いや、儂が扉に入るのが最後だったように思う。……やはり一筋縄では行きそうに無いな」
 「お化け屋敷ってわけ? 勘弁してよね……」

 背中合わせに辺りを確認しながら、少しずつ警戒を解く。
映姫の話ではホールで古明地さとりの異変は起きたようだが、ここから見える限りではそれらしい姿は無かった。

 「……煩わしいものは全て消してしまおう、って言ってたそうだけど。さとりの奴、何処に居るのかしら?」
 「少なくとも、迷宮の一番奥で待ち構えていると言う風にはいかんようだな。
  ……生活域を探そう。己の拠り所を探しているなら、そちらの方が可能性が有る筈じゃ……」


 ◆


 ネオン緑のワイヤーフレームに包まれた、地霊殿の玄関。
霊夢が蹴り開けた扉に潜り込んだ筈の天子は、結わえた黒髪を訝しげに揺らし辺りを見渡した。

 「……どこ、ここ」

 見知ったはずの玄関口が、見知らぬ様相を示している。
天子の隣では、なんだかわやくちゃとしたワイヤーの塊が二つ立ち並び、相互に短い線をやり取りしている。
色が変わり動き出したその二本の塊を、呆然とした心持ちで天子は見送った。

 「なんだっけ、ここ……以前、なんかで……何か、言われたような……?」

 取り残された天子は、首をひねりながら前へ歩き出した。
景観はともかく、構造自体は地霊殿と変わりはない。このまま行けば中央ホールに出る。
違和感が首の辺りまでせり上がって、吐き出せそうで吐き出せない。天子はくしゃくしゃと頭を掻いた。

 「前もこうやって、誘い込まれたのよね……誰に?」

 少し行くと、所々黒い物が埃のように集まってもこもこと膨らんでいる。
天子はそれを無造作にブーツで蹴り分けながら、ゆっくりと息を吐きだした。

 ――『やめて! その子の事を、母の名前で呼ばないで! 母さんはもう、居ないの!』
 ――『何を言うんだ! 母さんはこうしてちゃんと居るじゃないか。なんで嘘を付くんだ!』
 ――『その子はこいしよ! 私の妹なのよ! あ、ぐっ……もう嫌、もうやめて……!』

 掻き分けられた塊から、男女の喧騒と何かを殴打した音が聞こえてくる。
気の狂ったような男の裏返った声に、天子は不快感を顕にした。

 「何これ。さとりの声……? それと、誰だろ。じゃあこの中には、こういう嫌な思い出が眠ってるのかしら?」

 ホールの隅から中心に、ぽつりぽつりと山を作る黒い塊を見ながら辟易とする。
同時に、これらを全て消し去ってやりたいと言う不思議な怒りが天子の胸の内から湧き上がって来る。

 「さとり……そうだ、さとりを見つけないと……」

 だとすれば、やはりこんな物にかまってる暇は無いのだろう。
天子はホールの階段の下に立ち、執務室へと足を向ける。
手すりにもべっとりと黒いぼそぼそがくっついていたので、手すりは使わずに一段一段登った。



 ギイと音が鳴り、所々モザイクタイルのように線が走る扉が開く。
コールタールのようにネバネバした物がブーツの底面にへばりついて、天子は辟易とした。

 「あれ……?」

 執務室に着た筈なのに、扉の先には廊下が続いている。
おまけに何かの冗談のように連続した扉が、壁を含めれば人一人分のスペースも無いんじゃないかと言う間隔で続く。

 「全部開けて調べろっての?」

 足元の液体はいつの間にかさらさらとした透明な物に変わり、靴底を濡らしている。
このままだとホールにまで液体が流れていきそうだったので、天子は後ろ手に扉を閉めた。
変わりに、延々と続く扉を一つ開けてみる。マッチ棒パズルで作られた魚のような物が一匹、天子の横をすり抜けていった。
中には正方形で出来た金魚鉢が一つ、所在無さ気に置かれている。

 「将来の夢」

 天子は適当なタイトルを名付け、指で摘んで弾いた。チンと高い音が鳴った。
そのまま金魚鉢を放り捨て、次の扉に手をかけた所ではたと思いとどまる。
液体に、流れがあるのだ。ならばその源を探す方が先では無いだろうか?

 ――『こいし。私の妹。可愛い妹』
 ――『大丈夫、私がきっと守るわ。お母さんの変わりに、私が守る』
 ――『こいし。愛しい妹。特別な子』
 ――『どうかこの哀れな姉を、守って……』

 廊下の奥から辛気臭い声のような物が響いて、どこか遠くに消えていった。
一度くしゃみをし、鼻をすすり上げ笑う。
何時の間にかポケットの中に最中が入っていたので、代わりにそれをムシャリと食べた。残りは魚に上げた。

 「なんだかクラクラするわ」

 少し疲れたのだろうか。丁度いい場所に切り株が有ったので、そこに座り込んだ。
苔と深い木々に囲まれた森は、湿気が高く蒸し蒸しする。木漏れ日が目に痛くて、リボンの巻かれた帽子を深くかぶり直す。
ふと、さとりがどうしているのかが気になった。

 「大丈夫かな、お姉ちゃん」

 足をぷらぷらと揺らしながら、緑の瞳で空を見上げる。風がびゅうと吹いて、顔に少しの飛沫をかけた。
背の高いゼンマイ達がワシャワシャと揺れる光景を、暫くの間遠くに見つめている。
焦げたチーズの香りが香ばしい。飛沫で顔が濡れるので手に持った傘を開こうとして、首を捻った。



 「何かおかしくない?」



 緋想の剣を握り締めた自分の手を確認し、首を振る。何時の間にか真っ暗な背景の執務室でソファーに座り込んでいた。
なるほど、どうやら奥に何かが有るのは間違いなさそうだと天子は頷く。
仮に今緋想の剣を握らなければ、自分はどうなっていたのだろうか。

 「……ふん、顔合わせたくないって訳ね。上等じゃない」

 天子は脳みそをかき混ぜられて酔っ払ったような不快感の中、己の心のスイッチが入っていくのを感じた。
パチリ、パチリと音がして、自分でも嘘のように、気後れ、後悔、やけっぱちだった物が怒りに置き換わっていく。
そもそもこの扱いは何だというのか。なんだか門前払いを受けているようで、気分が悪い。
こっちはわざわざお前の迷惑を引っ被りに来てやっているのだと天子は憤慨した。
勿論、頼まれた訳でも無いのだが。いやしかし、頼まれていないからこそ来るべきだったと天子は確信している。
だとすればやはり、顔の一つでも出してくるのが礼儀ではないか。

 「馬鹿にしやがって……一回ぶん殴ってやらなきゃ気が済まないんだから」

 とは言え、何時までこんな場所に居られるか分かったものではない。天子は足早にドアを開け、次の部屋に乗り込んでいった。


 ◆


 地霊殿、生活域、食堂。
焼けたトーストを持ったさとりが、静かに微笑みながら皿に並べてゆく。
取り皿の前で待っているのはお燐とお空。お空に胸の八咫鴉の目は無く、二人共背丈がすこし小さい状態である。
その対面で、にこにこと銀髪の少女が微笑む。それは確かに有っただろう、家族の肖像。

 「未練、じゃな」

 その頭を、刃が切り裂いた。泣き別れになった少女の首と胴体が、黒いモヤに変わり襲いかかる。

 「ちょっと……もう! せめて段取り合わせなさいよね!」

 攻撃された事で辺りの幻影達もその正体を現し、霊夢と翁の二人を瘴気となって取り囲む。
霊夢は慌てて結界を張り、穢れたちの侵入を防ぎながら青筋を立てて怒鳴った。

 「ふん、そうカッカするな。ほれ、桜が舞って綺麗じゃろうが」
 「だぁから、そう見えるのはあんただけだって言ってんでしょ! 私には只の黒い塊か白い蛇にしか見えないっつーの!」
 「風情が無いの。おなごの癖に」
 「結界の外に放り出してやろうか……」

 霊夢が本気で検討を始めた時、既に老剣士は再び刀を構えていた。
そのまま静かに結界に向け、刀を突き出すように押し通す。つぷりと豆腐を切るようにして、刀は結界に突き刺さった。

 「ちょっと?」
 「構わんよ。こちらで勝手にやる」

 そのまま踏み込み、袈裟に一閃。刀が桜色の霊気を帯びて、辺りのモヤを切り払う。
すると弓が鳴るような音が辺りに響き、刀の届かない位置の穢れまで退散させていく。
一瞬にして、辺りが清浄な空気を取り戻したかのようだった。

 「……やはりな」
 「なぁーにが『やはりな』よっ! 勝手にやるなって言ってんでしょ!」

 刀を仕舞う翁の尻に、霊夢のヤクザキックが炸裂する。
流石に転ぶ程の無様は見せなかったが、二三歩たたらを踏ませる程度の威力は有った。

 「んで、何やったの。おら、ちゃっきり吐けちゃっきり」
 「お主、刀を抜く時としまう時はやめてくれんか……人差し指が落ちたらどうする」
 「ツバつけときゃ治るわよ、そんなもん!」

 眉根を寄せる翁に対し、霊夢はお祓い棒を掌に打ち付けて鳴らしながら睨んだ。
翁は首をふると、不承不承に言う。

 「どうやら、『切れる』らしいと言うことが分かった」
 「あぁん? 今更何言ってるの、さっきからスパスパ切ってるじゃない」
 「いや、今までのは散らしていただけだ。よく考えて見ろ、記憶だぞ? 何処に刀で切れる理屈がある」
 「なに、あんた今更そう言う常識的なこと言い出すの?」

 冷や汗を垂らしながら、霊夢は裏手で翁を叩く。気にも留めずに、老剣士は穢れが散った後の部屋を眺めた。
いや、それは今さっき切った物の手触りを、刃を引きぬく感触を確かめるような。

 「だが、今回は間違いなく『切った』。切ると言う意思を込めて剣を振り、手応えとなって現れた。
  ……つまり、切れると言う事だ。記憶であろうと、何であろうと……」
 「だから、切れない物などあんまり無いって? ……ちょっと聞きたいんだけど。あんた、さとりに何の用が有るの」
 「何の、とは?」
 「私は、まぁ博麗だから異変解決するし。天子もちょっと意外だったけど、あの様子からすると何かしら有るんでしょ。
  ……分かんないのはあんたよ。何でさとりに執着してるわけ?」
 「執着などと……単に適材適所じゃよ。一応、雇い主で有ると言う縁も有るがね」
 「嘘ね」
 「……何を根拠に」
 「命を賭けて某かを企んでる奴は、そんな事で死地に飛び入ったりはしないから」

 霊夢の透き通った瞳が、訝しげに眉を寄せて老剣士の背中を見た。
暫くの間録に手入れもされていないだろう白髪が、後ろ姿と共に上下に揺れる。

 「それは、果たして今この場で必要な話かね?」
 「えぇ必要よ。何よりも私の納得の為に」
 「異変解決より己の納得か。博麗の巫女も随分と独善的になったものだ」
 「そりゃそうよ。異変ってのは大小あれど、皆何がしかの思惑が有ってやっているのだもの。
  それを叩き潰すんだから、独善的じゃなきゃやってられないわ」

 それは決して、四季映姫には言えない台詞で有った。
何よりも公平で無ければならない彼女には、決して言えない言葉。

 「私はね、不平等なの。私はあんたのせいで悲しんだ奴らを知ってる。
  これから美味しいご飯を食べようと思ったらとっととそいつらに教えるなりなんなりするのが一番な訳。分かる?
  それをさせられないって言うなら、納得が必要よ。それを出来ないと言う納得が」

 同時に翁の、この剣呑な光を前にして疑問を投げかけるならば、相応の重みが必要である。
霊夢には自負が有った。数多の異変を解決し、そして円満に収めてきただろうと言う思い。
妖怪を、心から生まれた存在達を相手取るからこそ。己に疑問を持たない事を霊夢は自らに強いている。

 「……少々、長い話になる」
 「構わないわ」
 「いや、移動しながら話そう。こいつらを放置している訳にもいかん。
  どうやらここには何もないようだからな」


 ◆


 コツ、コツ、コツと靴底が石畳を叩く。代わりに、草履と言う事も有って翁の足音は静かな物であった。
所々にあしらわれたステンドガラスが長い廊下を照らす。この先の回廊を降りれば、中庭に……そして灼熱地獄跡に出る。
翁は時折顔を出す穢れを掃きながら、ぽつりぽつりと口を開く。

 「……千年ほど前か。紀伊に、とある名家があった。儂はそこに奉公する、只の若造だったよ。
  はっきり言ってしまえば、遠い昔の事だ。正直に言ってそれほど覚えている事も無い。
  ただ、幼い娘を中心として、何時しかそこに色々な者たちが集まるようになっていた。本当に色々な者たちが、な」
 「それは例えば、あんたのふよふよ浮いてる半身みたいな?」
 「そうだ」

 廊下の端を、顔を黒く塗りつぶされた姉妹が手を繋ぎ歩いてくるのを見、剣士は刀を振るう。
すぐに霊夢がそれらを結界に閉じ込め、圧し潰した。

 「不気味なものを見る子供と語り合う大人も居なかったのだろう。身分の差はあれど、歳が近いことも有って良く話はしていた。
  十五になった時だっただろうか、世の中が変わり、若い男は兵として担ぎ出されるようになった。
  儂も多分に漏れず徴兵され、数年ほど訳も分からずに戦った。まだ剣の腕も、そしてふよふよした半身も無かった頃だ」
 「無かった? 半人半霊は生まれつきなんじゃないの?」

 翁は頷いた。刀を抜き、そして収める。その一連の動作に一切の澱みは無い。

 「少なくとも、儂は生まれは人間だった。"そう"なった日はよく覚えている。
  訳の分からない戦いが訳の分からぬ内に終わり、ヘトヘトになりながら紀伊に帰ってきた日じゃった……
  なんだかんだで、戦う間に縁も生まれてな。顔も名前も覚えてはおらんが、同郷に帰る友が居た。
  家に帰ったらアレが食いたいコレが食いたいと、他愛も無い話をしておったよ」

 コツ、コツ、コツ。霊夢は自分の掌がじっとりと汗ばんで居ることに気付いた。
異様に濃い気配が、近づいてきている。この角を曲がれば……回廊に出れば、"それ"が見えるだろう位置。

 「有る時、一人が急にウーッと唸って道端に倒れこんでな。儂らは慌てふためいて、とは言え為す術も無く見守った。
  その内に、光で出来たような、とても美しい蝶がそいつの身体から飛び立っていった。
  美しさに惹かれてか、一人がふっと手を伸ばして、そいつも同様にウッと倒れ込みよってな。
  残った仲間たちは恐ろしさに皆道を戻っていったが、儂だけは別じゃった。
  帰る場所がもうすぐそこと言うのも有ったが、死出の蝶達の舞に誘われるようにふらふらと奥へ進んでいった」

 回廊にたどり着く。少し視線を下げれば中庭が、いや、灼熱地獄に続く穴から溢れ出た"それ"が犇めくのが見える。
流石の霊夢も、吐き気をこらえきれない様子で口元を抑えた。一人の老人だけが、憧憬の眼差しで見上げていた。

 「しばらく進んでいく内に、剣戟の音が聞こえてくるようになった。
  奉公していた家のすぐ傍のように思えて、慌てて駆け足で道を行くとな……
  慣れ親しんだ筈の光景に、とても美しい桜が咲いておった。
  百を超える蝶たちがヒラヒラと舞い、霊魂と花びらが飛び回って、とても浮世の光景には思えん程に。
  その桜の下には無数の骸が転がり、その更に周りを死神や妖怪共が喧々諤々とただ一人の女の舞を止めようとしていた」

 "それ"は、二人と……ただ静かに、向き合っていた。自分でも何処に行けば分からないかのように。
振り下ろす場所を見失い、置き場を亡くした感情が凪ぐのと同じように、小さな人間たちを見下ろしている。

 「儂は直感的に、そのおなごが彼女で有る事が分かったよ。
  妖怪の一人がこちらに気付き、何やら罵声を飛ばしてくる間に、既に儂はその舞に魅了されていたんじゃなぁ。
  すぅーと意識が吸い寄せられそうになった時、あの娘と目が有った気がした。
  ……次の瞬間、少女が懐の短刀で己の首を突き、死神も妖怪も死へ誘う舞はあっさりと終わったそうだ。
  目覚めた時、儂は既にこの身体だった。どうも中途半端に死と縁を結んだのが良くなかったらしい。
  その後死神共に魂魄家に入れられて、儂は無我夢中で剣を鍛えた」
 「入れられた?」
 「魂魄以外の半人半霊を見たことは有るか? 無いならば、どうやってその血を維持している。
  血とは薄まる物。故に儂らは、最初から血が繋がって等おらん。
  『魂魄家は半人半霊』なのではない。『半人半霊が魂魄家に一纏めにされる』のだ。……妖夢の親の顔など、儂も知らんよ」

 老人の顔が、喜悦に歪む。執念の笑みであり、追慕の笑みでも有り……何より、恋慕の。
千年を越して愛しき女を前にした男が見せる、笑みであった。

 「……相変わらず……お美しい」
 「"アレ"は……あんたにはそう見えるの」
 「ああ、見えるとも。以前よりも色濃く――ああ――見えるとも! それが理由だよ、博麗!
  一日を千秋として生きる中、確かに儂の剣の理由で有った筈の舞が! 歌が! 思い出せなくなっていくのが恐ろしかった!
  孫で有り弟子でも有る小娘と、あの人と同じ顔をした女との思い出に塗り潰されていくのが、な。
  そう、儂はあの舞に魅了されていたのじゃよ。惚れていたといっても良い。千年たった今でも、尚」
 「……死者の、復活」
 「知っているだろう? 博麗。春を集めて西行妖を咲かす。それをあの女に吹き込んだのはこの儂よ。
  ……結局閻魔に、あのヤマザナドゥに気取られて行動に起こす前に失敗したがな」
 「西行寺幽々子の、黄泉帰りを狙って? ……でもそれは無意味なはずよ。
  生き返った瞬間に、時間の流れに晒されて成仏する……そう聞いたわ」

 それは確か、あの長い冬の後八雲紫に聞いた話だ。
あぁ、あの冬ももう大分昔になるのかと、霊夢の胸に場違いな寂寥感がなびく。
回廊の廊下側壁に寄りかかり、霊夢は穢れを噴き出して脈動する大白蛇を見上げた。美しくは、とても見えない。

 「そうならない為に、剣を鍛えた……最初はただ我武者羅に。次第に目的を持って。
  時の縁が幽々子様を攫うのであれば、ただそれを断てば良い。儂に異能は無かった。だから刀を選んだ」
 「……言うだけは簡単ね、言うだけは」

 そう言いながら、霊夢は思いを馳せる。時を止めるメイドが居る。時を切る剣士だって居てもおかしくは無いんじゃないか?
縁切りを扱う神も居るのだ。この場合の縁とはつまり、積み重ねてきた時間の事でも有る。
だが、人が百年刀を振った所で届く領域とも思えない。
千年ならばどうだろうか。飽き性な妖怪に、それだけ一つの事をやり続ける者は居ない。

 「儂はやった」

 老人の血走った目が歪む。枯れた木肌のような顔に、らしからぬ壮健な光が宿る。

 「だが、まだ足りぬ。鍛えが足りぬ。研ぎが足りぬ。……そう思う度に、次第に火が尽きかけていった。
  孫にあれ程の才が無ければ、儂は忘却と言う灰に埋もれて単なる木偶の坊と成っていただろうよ。
  しかし、そうは成らなかった。『儂にこれ程の才が有れば』と何度頭をよぎったことか!
  悲しい事に儂は、半人半霊になっても凡百の只の人間で有った!
  だが、その嫉妬の炎こそが儂の灯火を尽きさせぬ熱の源泉となり、今儂はこうしてこの場に居る!」

 ああ、この男は既に狂い果てて居るのだな、と霊夢は想う。
理想に身を焦がし、現実に冷水を浴びせかけられ、文字通りの刃として己を鍛えていったのだろう。……千年もの間。

 「師匠として剣を教える度に、凝り固まった血が蠢くのを感じた。そして遂に役目を捨て、縁を断ち、儂は地底へと向かった。
  話に聞く覚り妖怪に会い、消えかけた炉にもう一度火をくべるために」
 「……それが、あんたの理由」
 「納得したかね? それとも理解出来ないと罵るか?」
 「納得、するわよ。だけど一つだけ分からない……ううん、確かめて起きたい事がある」

 眉を顰めた霊夢が、人差し指を当てこめかみを揉む。

 「誰にも気付かれずに幽冥結界を超える。同じように、誰にも目撃されず地底へと入る。
  ……それらはどっちも、異変解決のために私が破るまで封印されていた筈よ。
  一介の剣士にそんな事は出来ないわ……ただ一人の協力無くしては」
 「くく、そうだ。その通り。逆に言えば、たった一人の協力さえ有れば、それらの障害は何の問題もなく解決できる。
  故に儂は奴と契約し、儂らは共犯者となった。……確かに、儂を神隠したのは八雲紫に他ならぬよ」

 その瞬間、老剣士の身から霊気が溢れ出す。幽かだが確かに、見覚えの有る気配。
結界を切れるはずだ。博麗の結界術自体、八雲紫の技術を元に作り上げられているのだから。

 「お初にお目にかかるな、博麗の巫女殿。某は地底の契約を調べるために送り込まれた八雲の"草"。
  そして……式としての名は人鬼と言う」


 ◆


 白玉のように磨きぬかれた砂利の海、縁側に雪が降っていた。

 そう思ったのは、あるいはその娘に見せられた幻影だっただろうか。
淡い粉雪のように儚い雰囲気を纏いながら、空々と嗤い蝶を導く少女。その姿を知る者はもう、あまり残っては居ない。
ましてや、真に再びその姿を望む者等、二人……いや、一人か。
蜃気楼のような幽霊が、視界の右上からスウ、と抜けて左下に消えていった。

 ふ、と金の髪を結い上げた女は長い長い浜辺に一人取り残されたような気分を覚え、枯れた桜を見上げる。
大木としてのその威厳は、枯れ衰えてなお健在のようだ。実際、つい最近も七分咲きまでその枝に花を付けたという。
西行妖。永く友人が眠る場所。そして、一人の男の因縁でも有る。

 「だーれだ」

 ふ、と冷たい手の平が女の目を覆い尽くした。悪戯っぽい声が耳の少し横から聞こえてくる。
女は目を細め、白磁のように冷たく透き通った指に自らの指を重ねた。そのまま指を絡めると、ゆっくりと開かせる。

 「……幽々子」
 「もう、紫ったら。愛嬌が無くって、つまんないわ」
 「そういう悪戯なら、貴女の半人前の従者にやった方がきっと面白いわよ?」
 「やってたんだけど、慣れられちゃった」

 その声はこの場にそぐわぬ程明るく快活で、だけど少し胡乱で居た。
ふわふわとウェーブのかかった桃色の髪を揺らし、幽々子と呼ばれた少女は紫の隣に腰を下ろす。
そのまま肩へ寄りかかると、肌と同じく透き通る声でそっと呟いた。

 「肩の位置、変わったのね」
 「……そうかしら」
 「また、差を付けられちゃった」
 「『また』って……一体どの位よ」
 「んー……五百年くらい?」
 「貴女の物差しはちょっと大きすぎるんじゃない?」
 「貴女を捕まえておくにはその位必要なのよ」

 背筋を冷たい手の平がなぞる。紫はやれやれと言うように息を吐いて、少し肩を傾けた。

 「最近、忙しいのね」
 「そうね。ちょっとゴタゴタが続いてて」
 「妖夢もね、最近どんどん大きく育って行くのよ。最初の時なんか、一口でいけそうな位だったのに」
 「……」
 「そんな顔しないで。冗句なんだから、笑って欲しいわ」

 横髪がふわりと紫の耳元を擽る。二人はじっと、花を咲かせない大きな桜の木を眺めていた。

 「貴女がここにふらりとやって来て、何かを決断しようとしている時……
  本当は私、とても嬉しいの。貴女が直接言った事は無いけれど、頼られてるんだって分かるから。
  でも、何も言ってくれないのは、ちょっと寂しいわ~」
 「難しい問題なのよ」
 「嘘。本当は簡単に解決するんでしょう?」
 「そう言われると、立つ瀬が無いわね」

 飾りが無い時の幽々子の言葉は、だからこそ美しいのだと言う説得力が有る。
どんなに美辞麗句を並び立てても好意的に受け取られる時の方が少ない自分とは対極だな、と紫は自嘲気味に笑った。
勿論、わざとそうしているのだから文句の言い様もないが。
幽々子の白い指先が目元に伸びてくる。そのまま紫の長い下睫毛に触れるか触れないかの距離で滑らせた。

 「ちゃんと寝て無いんじゃない?」

 紫は返答代わりに桃色の髪へ手櫛を入れる。んもう、と呆れ半分の苦笑が帰って来た。

 「駄目よ、ちゃんとお手入れしないと」
 「時間が無くて、ついね」
 「しっかりものの式が居て良かったわ。貴女、考え事してる時はズボラなんだもの」

 妖怪なのだから化粧やスキンケア等必要ない、と言おうかと思ったが、この子はそんな些細な変化すら見抜く目の持ち主だ。
藍がしっかりものかと言われると紫としては首を傾げたい所だが、確かに服飾等に関しては時折自分より聡い気がする。
別に見栄えを気にしていない訳ではない、ただ単に自分は理系なのだ、と紫は心の隅で言い訳をしておいた。

 「今度は何を考えてるの?」
 「……荒ぶる死者の怨念達を、どう諌めるか。助けを求め、理不尽を恨み、そして生者に呪いを吐く彼らは
  草に宿れば根を腐らせ、人に宿れば病に冒す。何より土地に宿る事で、木々を弱らせやがて不毛の大地へと変えて行く。
  幻想郷が彼等を受け入れても、私達は彼等を受け入れる事が出来ない……」
 「それは例えば、私の所でも?」
 「死者の魂は移ろいやすいもの。白玉楼にまで呪いが到達すれば、謂れのない魂達が怨霊と化してしまうわ。
  故に、怨霊は地獄の業火で焼き滅ぼされるのが定め」
 「だけど貴女は、そうしたくは無いのね」
 「……やっぱり、そうなのかしら」
 「長い付き合いだから、なんとなく分かるの。幻想郷が受け入れた物を、貴女の都合でどうにかするのが嫌なんじゃない?」

 絨毯のように玉砂利が敷き詰められた中庭で、立ち並ぶ桜並木が一斉に枝を揺らした。
その揺れは全て同一で、一ようで。生きている心地がしないのに、何処か安らぐような、不思議な感覚。

 「彼等はきっと、救いを求めてここに来る。満足に弔ってすら貰えなかった怨恨を晴らして貰うために幻想へとたどり着くの」

 そう呟く女の声は、何処か悲しげですら有る。

 「それでも、なんとかしなければ行けない」

 スウ、と女の瞳に光が差し込んだ。弛んでいた糸が、弾けばいい音が鳴るであろう程に引き絞られる。

 「それは、貴女が?」
 「そうよ。布石を打ち、糸を操り、後は幕を開くだけ。その役に相応しいだけの妖怪が、この八雲紫を置いて他に居る?
  私程に力が有り、そして幻想郷を憂いて居る者が。博麗霊夢? あの巫女が帯びているのは使命で有って愛では無いわ。
  私が幻想の管理人。神々さえ恋する原風景を守護する者。それが、この八雲紫よ」

 鋭い眼を睨め付けて、扇子を開いて口元を隠す。十人中十人が想像する、胡散たるスキマ妖怪の姿。
その腰に、少女らしいフリルをあしらった勿忘草色の着物の袖が巻きついた。

 「行っちゃやぁだ」
 「……幽々子……」
 「なんてね。貴女のその、ちょっと困った顔が見たかったの。
  そうすれば、優しい貴女はまたここに来てくれるから。……ふふ、笑っちゃう?」
 「そんな事、しないわ」
 「貴女が姿を消す時は、ちゃんと一回顔を出してね。……約束」

 ちくり、と紫の胸を良心の棘が差した。
幾ら本人の望みであったとは言え、この少女にとって家族同然だった男を目の前から隠したのは、他ならぬ紫自身である。
そして男の望みが叶った時、この少女は変わらずには居られないのだ。それが、どのような形であれ。

 「ええ、約束よ。……また会いましょう」

 紫は抱きしめ返しそうに成る腕で、そっと幽々子の両腕を払いのける。
そしてブゥンと何も無かった場所にスキマを開くと、溶けるように沈んでいった。
少女は袖元から火打石を取り出し、カチカチと切り火を打ってそれを見送る。

 目も口も無い幽霊たちが、体を揺らしてざわついていた。


 ◆


 ぐるりぐるりと沈んで行く中、天子はごぼりと口から出た泡が上がっていくのをぼうっと見つめた。
こぽこぽとお茶がポットに注がれるような音の中、天子の身体は檻に入れられて沈々と潜っていく。

 ――もう何が来ても驚かないわよ。

 リスのように頬を膨らませながら、天子は不機嫌そうにあぐらをかいた。
この緑のワイヤーフレームの世界にも大分慣れた物で、扉を開ければその先は別世界の様だと言う事もザラにある。
まるで、お伽話に出てくるアリス某のようだなと頬杖を付きながら天子は考えた。
唇が弾けて、溜まっていた空気が再び泡として上がっていく。不思議と苦しくは無い。
しかし、暗く冷たい場所で有った。何処かかび臭く、陽の光が当たっていないだろう事を容易に想像出来る。

 『どうして』
 『どうして、こんな所まで』

 この場にふさわしい沈痛な響きの言葉が、空間全体から反響するように聞こえてきた。

 「それ、私に聞いてる?」
 『帰って。ここは私の場所……』
 「知ったこっちゃ無いわよ、そんな物。というかくっらい場所! 目が悪くなるんじゃない?」
 『どうして、放って置いてくれないの。私に構わないで。私の近くに来ないで……』
 「そうも行かないでしょ、こんな物騒な殻作っちゃって。博麗の巫女じゃなくても誰かが何とかしに来なくちゃ」

 実際にはゴボゴボと泡と成って言葉にならないのだが、構わず天子は語りかけ続ける。

 「ここまで来たんだ、腹割って話し合おうじゃない。
  なんだかんだで皆アンタの事心配してるのよ。お燐お空は勿論、閻魔様や勇儀、お爺だってさ」
 『……嘘を言わないで』
 「嘘なんか付かないっての。そりゃ、アンタほど心の中なんでもお見通しーって訳には行かないけど」
 『静かにして。本当は他人なんてどうでもいい。お燐も、お空も、どうして私を一人にしてくれないの……』
 「嘘つけ、一人じゃ生きられない癖に」

 ゴトリ、と音を立てて檻が傾いた。

 「『深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ』だっけ? 天界の蔵書か何かで読んだわ。
  覚り妖怪って要は心の深くを覗き見て生活してるのよね。だったら、深淵に映った自分の姿に飲まれる事もあんじゃないの?
  だって他人の目は気になるものね! 人にもっと良く見て貰いたい、褒めて貰いたい、尊敬されたい。
  無いとは言わせないわ。そもそもあなた達は恐れられてなんぼの妖怪だもの!」
 『何を』
 「結局はイタチごっこよ。心を読んでるのにその奥を疑ってしまう。もっと読めたら、その奥を。
  妖怪が逢魔が時を好むのは、本当に真っ暗よりその方が人の恐怖心を煽るから。
  なまじっか、あなたは知ってしまっているのでしょう? 自分より深い部分を知る妹の事を。
  人の心を読めなければ、自分の事すらわからないのに!」

 『やめなさい!』

 ぞぞぞ、と身体に纏わり付く液体が動いて、急な流れを作り出す。
天子の身体が傾いた檻に張り付いて、上下左右も不確かな程に揺さぶられた。
天子は、なんとなく分かった気分で居た。つまりここは、他人の心の影響を容易に受けるのだろう。
心に比べて、あまりに小さな領域だから。世界が小さくなった分だけ身体も小さくなれば、見かけの広さは変わらない。。

 『私の事を「面倒だ」と思ったな、心の中で馬鹿にしたな! 私は知っている、知っているんだぞ!
  お前達が口でなんと言ったって、一から十まで私の事を好きな訳じゃ無いんだろう!
  そこまで言うなら、見てみるがいい。他人の心を覗いてみるがいい!
  心が汚れていない者何か居ない。狂っていない奴なんか居ない! その事実を知って途方に暮れてみろ!
  誰も……誰も私の隣には居てくれない……私の気持ちなんて分かってくれない!』

 「お断りよ! 汚れた心なんて自分一つで十分。アンタはそうやって……ああもう! まどろっこしい!
  説得なんて柄じゃあ無いのよ! ひっぱたいて、抱きしめて、お友達になって凱旋してやるッ!
  アンタの気持ちも、私の理想も! 知ったこっちゃ無いのよーッ!!」

 波と波が合わさって、渦を巻いて流れていく。渦は急流となって、檻ごと天子を吹き飛ばそうと襲いかかる。
天子は泡を吐きながら、緑のワイヤーフレームで出来た格子をこじ開けた。格子は、パキンと言う音を立てて粉砕された。
軋む檻から這い出し渦の中心に向かって泳いでいく。ちらつく影が見える。そして光が。

 「あそこに行けば良い訳ね……」

 誘導するようなその光に向かって、天子は泳ぎ出した。怪物に飲まれたかのように辺りは粘つき、天子を押し戻そうとする。
泡が鏡のように天子の姿を映す。それぞれが合わせ鏡となって、天子は万華鏡のように自らの姿を歪められた。
より小さき姿。肥大した姿。やせ細った姿。そのどれもが前へ前へと泳いでいく。髪留めがパチリと切れて、黒い髪がほどけた。
その内そんな虚像達も見えなくなって、波は肉のように脈打つ壁と成っていた。
何時の間にか輝刃を取り戻した緋想の剣を握り、天子はよじ登るように進む。

 『どうして』
 「……首洗って、殴られる準備でもしておきなさい、さとり」
 『私を、嫌いに来るのですか。わざわざこの領域にまで踏み込んで……』
 「んな、訳、無いじゃないの。ゲホッ!」

 涙すら混じった、困惑した声。急に肺に入った空気に反応して喉が収縮する。

 「認めてもらいたいんでしょう! 褒めてもらいたいんでしょう!? 頑張ったねって頭を撫でてもらいたいんだろ、本当は!
  一人じゃなぁ! そんな事はして貰えないんだ。どんなに寂しくても、泣くことすら出来ずに石のように居るしか無い。
  ああそうよ、一人は嫌だ。私はこんな惨めな気持ちのまま死ぬのは絶対にゴメンだ!」
 「……震えていたくせに。怖い怖いと、目を閉じていた人間が、どうしてこうも……」
 「ええ、ええ。あのでっかいのはなんか強そうだし、モヤモヤしてるのは触っただけで死ぬし、怖くて怖くて仕方がない。
  諦めてしまえば、確かに心は楽になるかも知れないわね」

 脈動する狭い空間を抜け、天子は光の中に吐き出された。肉の壁に囲まれた空間の中、さとりを見上げる。
天井は高い。黒いもやが渦巻いていて、正確な高さをうかがい知る事は出来そうに無い。
さとりは淡く光る球体に包まれながら、膝を抱えて宙に浮かんでいた。胎児のように背を丸め、膝で顔を隠す。
球体の八方からはチューブのような管が肉壁と繋がって、瞳のようなシルエットが境界面を漂っている。
遠くからくぐもって聞こえていたさとりの声も、今となっては大分近くなっていた。

 「さぁ、ここまで来た!」
 「……妬ましい。そうやって変わる事の出来る人間が。報われない思いを抱き続けられる人間が。
  私には、出来なかった。あの子のお姉ちゃんでいようとずっと思っていたのに。お母さんにそう頼まれたのに!
  こいし、なぜ第三の目を閉じたの……? あなたの心が信じれなくなったら、私は誰を信じればいい?
  ペット達だって結局はそれぞれの道へ行く。私の隣に居てくれるのは、あなただけだったのに。
  報われる事も無く、変わる事も出来無いまま生きていける程、私は強くなんて無い……!」

 ボコボコと空間が泡立つ。緑色の泡が次第に塊となり、ヒトガタのシルエットを映し出す。
その生まれた姿を見て、天子は思わず短い呼吸音を漏らした。

 「はっ」

 黒い帽子。傲慢さの滲む瞳。人形のような顔立ち。……そして何よりも、流れる空のような青い髪。

 「は、ハッ!」

 想起の中から生まれ、緋想の剣を向ける"それ"は……比那名居天子。
天にして大地を制し、地にして要を除き、人の緋色の心を映し出す仏の御子。
ただ瞳だけを翡翠のように輝かせ、"天人"比那名居天子がそこに居た。

 「アッハハハハ……ああそう。結局、立ち塞がるのは自分自身って事ね。
  ……そうか。今やそっちが天の子で、こっちが地の子って訳……」
 『出来ると思ってるの? 私なんかに。立派な天人になるのも、博麗の巫女みたいになるのも、
  自分を殺す事さえ上手く出来なかった。……どうせ、今回も上手くいかないんでしょう?』

 口を歪めて、『天子』は天子を見下ろした。ああ、あの綺羅びやかなオーラに比べて、自分のなんと見窄らしい事か!
着てる服にはすっかり汗と垢がシミを作り、手指は荒れ放題、黒くなった髪は濡れた海苔のように身体に張り付いている。
今や自分は完全に過去に見下される立場になったのだ、と天子は想う。だからこそ、負ける気がしないとも。
天子は顔に張り付いていた髪を掻き上げて飛沫を散らすと、不敵に笑った。

 「本当、その通りよね。何をやろうにも全然上手く行かなくて。嫌になるったら無いわ」

 緋想の剣を抜き、向かい合う。だが片方は煌々と輝く刃なのに対し、もう片方のは光も弱々しく、形すら不安定な程。

 「……どけよ、私風情が。私はな、友達の目を覚まさなきゃいけないんだよ。
  チートが使えなくなった位でうだうだうじうじやってる奴をね、一回ひっぱたいて連れ戻さなきゃいけないのよ!
  変われるのが妬ましいだぁ!? 私だって妬ましいわ! 第三の目が有ったら周りに合わせるのも簡単だったし、
  空気読めてないだの不良天人だのなんて言われなくて済むし! そもそも生きるのにこんな七転八倒してないっつーの!」

 だが、緋想の剣の強さが決定的な差だろうか? 天子は自問自答する。
否。否だ。そもそもあれは自分自身。何もかもうまく行かないのは、向こうだって同じ条件のはず。
『天子』が出現してから、さとりは何も言ってこない。要は目の前の不愉快な存在をブチのめしてから話せと言う事だろう。
下唇を噛み、無理矢理に口角を釣り上げる。弱気を隠す訳じゃない。だけどそれ以上に、強くなりたい。

 強く、強くなりたいのだ。あの宙に浮かぶ巫女のように――


 ◆◆ ◆◆


  7:天の夢、地の心、人の娘

 街外れ、岩肌に囲まれる中有る筈も無いすさぶ風を感じて、ヤマメはくしゅんと可愛らしいくしゃみを漏らした。
それに合わせて、周りに流れていた騒々しい音楽もフェードアウトして止まる。

 「……あー、ごめん。集中出来てないね。くちゅん!」

 ヤマメはバツが悪そうに口元を抑えながら、もう一つくしゃみをする。
一つ「土蜘蛛が風邪なんて世も末だね」と自虐的な冗句を飛ばすと、恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべた。

 「仕方ないでしょ、こんな環境じゃ」

 バンドメンバーの一人が、辺りに漂う黒いモヤを睥睨しながら言った。

 「なんだろうね、これ。なんか気味が悪いし」
 「あんまりいい予感がしないなぁ。触んない方が良いよ、それ」

 特徴的な桶に腰を掛け、身の丈程のベースを――と、言うよりはベースより少し大きい程度の身の丈で――
器用に扱うメンバーに対し、ヤマメは声をかける。病を扱う彼女は、同質の物がなんとなく分かるのだ。
もっとも、専門とする熱病よりは、精神病的な物では有ったが……

 「……何だろね、あれ。こわいね」
 「そうだねぇ、こわいこわい」

 漂う黒いモヤは、地霊殿の方向に向かって流れていく。そして恐らく、あの天蓋まで届く塔のような物に飲み込まれるのだ。
ヤマメ達からは、その黒い塔が具体的にどのようなものかは窺い知れない。
ただなんとなく心の奥底を撫でられるような、そら恐ろしい感じが抜けないのだ。
そのせいで、折角の練習時間だと言うのに今日はどうも皆ノリが悪かった。

 「どうかな? 『えれき』とやらは。使いこなせそう?」
 「うーん、まぁなんとかしてみせるよ。紐がぷらぷらしてるのが、なんか邪魔臭いけど。
  それにしても、あんなに悩んでたのに良くふたつも手に入れられたね。河童と仲直りでもしたの?」

 緑のツインテールを揺らすベーシストは、薄い胸を叩いた後首をかしげる。
ヤマメもまた、彼女の物とは形状の違う『えれき』を手にしている。それぞれ出る音が違うと、話では聞いていた。

 「まさか! あいつらは相変わらず頭の硬いつるっぱげさ。なんとか伝手を辿っていって、森の道具屋で手に入れたんだ」
 「道具屋? そんな所で楽器なんか売ってるんだ。それもこんなちゃんとしたの」
 「変わった所でね、外の世界から流てきたのを修理したり加工したりして売ってるんだってさ」

 店の倉庫には結構な本数が有って、ヤマメからすれば脱力したものだ。
なんでも店主の聞きかじりの知識によると、晴れた日がどうとかけーおーがどうとかで最近大量に流れついたらしい。
あんまりに長ったらしかった上なんだかあやふやだったので適当に聞き流していたが。

 「まぁ、それでも結構取られたけど……カネで手にはいりゃ安いもんさ」
 「流石、トップアイドルは言う事が違うねー」
 「そんなんじゃないって。こだわりだよ、こだわり。分かんないかなー?」

 ドヤァ、と言わんばかりの顔で腕を組むヤマメに対し、他のメンバーからも「調子のんなー」「酒おごれー」と言う声。
そんなヤマメに対し、とことこ近づいてくる姿がひとつ有った。
ふさふさとした白い髪に白い犬のような耳。弱視の白狼天狗の子供、タロである。
覚束ない足取りで歩く彼女の肩を、ヤマメは飛んで行って支えた。

 「ヤマメさん……」
 「タロ! どうしたのさ、体調が悪いのか? 今パルスィが向こうの様子を見に行ってるよ。直に戻ってくる」
 「いえ、そうじゃないんです! ……けど、ジロが……」

 そう言って振り返った先には、尾っぽまで真っ白な犬が他の動物達を先導している図が有った。
その動物達も様々、犬猫は勿論、鳥類や齧歯類、果てはトカゲのような爬虫・両生類まで居る。
ヤマメは彼らに微かな経立や狢の妖力を感じ取り、驚愕の表情を浮かべた。

 「こいつら、まさか地霊殿の?」
 アォン。

 返答を返すかのように首肯するジロを見て、ヤマメは地霊殿の方向へ振り向く。
そして黒い塔を見上げると、憂慮した様子で呟いた。

 「一体、何が起こってるのさ……パルスィ、天子……無事で居てくれよ?」


 ◆


 轟!

 力を持った拳圧が、弾幕をすり抜けて襲いかかる"それ"を空に叩き返す。
勇儀は振るったばかりの拳を解きながら、首を振り回し暴れるデカブツに目をやった。
それから、四方から迫り来る穢れたちへ。

 「ったく、何だってんだ急に暴れ出しやがって! まったく、後衛ってのは性に合わない!」
 「仕方ないでしょう、どんなに鬼が頑丈であれ、触れただけで死ぬかも知れないとあっては……
  逆に、視えない以上動かない相手に当てるのが精一杯と言うのも情けない話ですが」

 浄玻璃の鏡を四方に向け穢れ達を牽制する映姫が、勇儀の愚痴に向けて答えた。
その溢れかえる霊力だけで牽制に成りはするものの、直接当てられればもっと効果的なのは間違いないだろう。
他にも、空気の流れと衣を扱える衣玖や、核の熱量が強力過ぎるが故にあまり大玉を撒き散らせないお空達が前線ラインを築き、
道をたどって町へと向かう想起を押し留めていた。
逆に、肉弾戦の方が好きと自称し武器も持たない勇儀は、危険過ぎるが故に今回後方支援である。
両拳の拳圧だけで前衛をすり抜けてくる"それ"らを打ち返しているのは、流石と言う他無いが。

 「……おく、う……うぐっ、あたい、もっ!」
 「ほら、動かないの。唯でさえ無茶し通しだったんだから……ああ、それでも動こうとする友情が妬ましい……」

 身体を起こそうとするお燐を押しとどめ、いざと言う時に備えるのがパルスィの役目である。
もっとも、このような状況に首を突っ込んでいる時点で、パルスィ自身大分情にほだされている所が有るのだが……

 「フィクストスター! もういっちょフィクストスター! ……んもぅ、キリが無いよ、メンマ様! 
  私本当に光ってるだけでいいの!? メガフレアしちゃわないの?」
 「閻魔です。そう、少々貴女の力は強すぎる。館を全焼させたくなければ、来た敵だけ追い払って居て下さいね」
 「でも……」
 「はいはい、そういう事なら私がいっちょドでかいのをかましてやろうじゃないか。
  各々方、『二歩以内』から出ないでおくんなよ!」

 いい加減、勇儀も焦れたのだろう。大きな体躯にぎっしりと妖力が詰め込まれ、縄のように筋肉が盛り上がる! 
その様子を見て、慌てて前に出ていた者達も勇儀の周囲に集まって来た。
本能的な恐怖を感じたか、先程まで不平不満を漏らしていたお空でさえも。

 「一歩ぉ!」

 ずがん、と地面が揺れた音がした。特に直で感じていた、お燐やパルスィが慌ててお互いを支えあう。

 「二ィ歩ッ!」

 ゴォン! 、と今度は地面が揺れたのでは無く、地面自体が鐘のように大きい音を出したのだと錯覚するような音が。
特にお空の熱弾等でボロボロに成っていた石畳が、弾かれたように浮き上がり、石となった。

 「四天王奥義、『三歩必ィィッ殺』ッ!!」

 今度こそ、音は聞こえなかった。正確に言えば、あまりに大きすぎてそれが『音』だと認識する事は出来なかったのだ。
それは、言うなれば『破壊』で有った。ただ単純な、振動であり、衝撃と言うべき物達。物理現象。
それが先程まで彼女らを取り巻いていた状況を、圧倒的に『破壊』せしめたのだ。

 「……とは言え、石畳はボロボロだし脆い塀はガラガラか。こりゃあ後でこっぴどく怒られそうだねぇ」

 久しぶりに振るった全力の跡を、勇儀は呆れたように眺める。
勿論、全力で有っても無差別ではなく、家屋その他に被害が出ないよう加減はしてあったのだが……

 「にゃあ……まだグワーンとする……」
 「うう、デタラメ過ぎるパワーだわ……妬ましい……」
 「ですが……助かりました。道路の被害については、私からも弁解します」

 辺り一帯を掃討したせいか、街に向かって流れていく波は一旦途切れたようだ。
一同にゆっくりと安堵の雰囲気が訪れる中、竜宮の使いだけが視線を鋭くして館の方を見続ける。
珍しい顔をしているな、と映姫は思う。短い付き合いでは有るが、彼女がふわりとした表情以外を作る所は、見たことが無かった。

 「どうかしましたか? 永江さん」
 「……いえ、やはり違う……」
 「違うとは?」
 「私は最初、"あれ"が竜神様の語る災いかと思っていました。ですが、違う。
  桁が違う。規模が違う。竜神様が語る物が、たったあれっぽっちで有る筈が無いのです」
 「……この程度に食い止められている、と見るべきなのでは? 現に、大地は揺れましたよ」
 「確かに、予知は事前に防げるから予知では有ります。ですが、私にはそうは思えない。
  竜神様がなゐと言ったならば、それは確かに地震が起き得る程のエネルギーで有る筈。何でも良いという物では無い」

 それに、と苦々しい顔で衣玖は言葉を続ける。

 「嫌な空気が近づいてくるのを感じます。"あれ"よりももっと暗く、嘆くような響きの声が。
  ……この幻想郷に近づけては行けない……地震。岩盤。龍脈……何か、分かりそうなのですが」
 「留意しておきましょう。しかし、目の前の物を何とかしなければ行けない事も事実です」
 「……そうですね……」

 衣玖が曖昧に頷いた時だった。地霊殿の方を伺っていた勇儀が、やおら声を上げる。

 「おい! デカブツがまた動き出したよ」
 「もう第二波ですか? あれだけ掃討したのに、意外と早い」
 「いや、あれは……?」

 鎌首をもたげた穢れに、チラチラと光が交じる。結界だ。そして巫女!

 「霊夢と……侍だ! あいつら、デカブツと戦ってる」
 「戦ってるって……ええっ、相手は地霊殿より大きいんだよ!?」
 「お待ちください。……総領娘様は? 居らっしゃらないのですか?」
 「うーむ……ここからじゃちょっと分からないな……」

 何分、館ひとつ分が遮蔽に成るのである。天子は飛べなくなっているようで有ったし、見えなくてもおかしくはない。
だがそれでも、衣玖は胸から湧き上がる嫌な予感を抑える事は出来なかった。
表面では取り繕いながらも、何時もとはかけ離れた真摯な様子で衣玖は天子の身を案じる。
あの、我儘で寂しがりな少女の事を、衣玖は初めて、何よりも強く想った。


 ◆


 四方から無数の糸のように吐き出されてくる穢れの白蛇を、霊夢は大きく後ろに飛び退いて躱した。
それでも縄のように絡まりながら追いすがってくる蛇達に向かって、霊夢は飛びながら退魔針を打ち込む。
幾つかは四散するものの、半数以上はそれでもなお霊夢に飛びかかってくる。

 「ああもう、面倒くさい!」

 霊夢が腕を払うと、幾何学的なランダム軌跡を描きながら襲いかかる穢れ達の前に光壁が割り込んだ。
激突した幾つかの蛇の頭がひしゃげ爆散するものの、まだ相当数の蛇が残っている。
逆に霊夢は後ろに滑るように飛翔する形になり、減速は免れない。穢れ達が霊夢を囲い込む。

 「しまった!?」

 その時、割り込むように飛び込んだ白い半透明の霊体が、身体を震わせて弓の鳴るような音をたてた。
ほんの一瞬だが怯みを見せる蛇達に向かって、霊夢はアミュレットを飛ばす。
二つが四つに、四つが八つに拡散し取り囲む"それ"らを押し流すと、その隙間に霊夢はふわりと降り立った。

 「あーもう、助かったわ。ケチりすぎも考えものね」
 「それは、道具を使わない方が悪かろう」
 「そうは言うけど、この戦いって完全にイレギュラーなのよ。『夢想転生』も使っちゃってるし……
  お札や針だってタダじゃ無いんだから。これ、経費で落ちるんでしょうね? 八雲の式さん!」
 「生き残れば、な!」

 舞台はすでに、"鎌首をもたげるもの"の巨体でうめつくされた回廊から、地霊殿の屋根へと移っていた。
地霊殿には紅魔館の時計塔のような突き出た建物は無い。遠き異邦のゴシック様式を思わせるその石造りのアーチと天井は、
雨風に晒されることもなく、足場にするのにも十分な程の頑丈さを保っている。

 「いいわね、壊れないのって。ウチも石造りに変えようかしら」
 「金は有るのか? それに、西洋の建築は耐震は考えられておらんと聞くぞ」
 「……そう言えば紅魔館もしょっちゅう崩れたり壊れたりしてるわね。やめときましょ」
 「それは天災によるものでは無かろう」
 「ウチだって天災じゃないわよ!」

 喧々諤々と唾を飛ばしながら、二人は散開すると白蛇の首へ――翁からすれば、想起の西行妖の幹へと――果敢に仕掛ける。
とは言え、霊夢の装備は万全と言いがたく、またこの巨体を前にして、翁の刀もまた十分に届いているとは言いがたい。
只々「巨大」と言う要素を前に、二人の総火力はやや心もとないと言う他無かった。

 「~~せめて弱点とか無いのかしらッ!」
 「それこそ、本来の目的である覚り妖怪であろう。どうする? 今からでも此奴に背を向けて、その姿を探すか」
 「冗談よしてよ、さっきから見てる限りこいつ物理障壁とかガン無視じゃないの。
  袋小路に追い詰められてまとめてポックリなんて、絶対勘弁よ!」
 「ならばやはり、黙って手を動かすしか無いのだろうな」
 「こればかりは、魔理沙のマスタースパークが羨ましくなるわね……」
 「今からでも鴉を呼ぶか?」
 「うぎぎ。でもそれも負けた気分になるし」

 ボヤいた所で、止まる物でもない。癇癪を起こしたようにのたうち回るだけでも霊夢達からすればひやひや物。
撒き散らされる物を封じて行けば少しは縮むかと想ったが、その体躯はむしろ大きくなる程である。
地霊殿の二階から頭を覗かせる程度だったものが、今や天井まで届けと言わんばかりのサイズ。

 「マズいわね……」

 その大きさを再確認するかのように、霊夢がぼやいた。

 「街の奴らの信仰が、集まってきているわ。どんどん力を持ち始めてる」
 「……異変に気付き、慄き、それがまた恐怖を増やしている、と言うことか」
 「これ、ヤバイわ。神の一柱の名を借りた現象だったものが、本物の『祟り』に昇華しつつある。
  育ちきれば、人間の……いえ、妖怪の手にだって負えるものじゃない!」
 「だが、すぐにそうなると言う訳でも無いのだろう?」
 「そうだけど……地上に這い出てくるようになったら、終わりね。下手したら山の頂上の奴すら母屋を分捕られてるわよ」

 それは考えられうる限り最悪の想像では有る、が。

 「そうならないようにお主が居るのだろう、博麗の巫女」
 「うっさいわねー。私だって最初から異変解決の為に来てるなら、もっとちゃんとした装備してるわよ。
  そもそも結界ってのは入念な下調べと計画と準備が有って初めて大きな効果を期待できるの、分かる?」
 「ほう、それで普段下調べと計画の元に異変を解決した経験がお有りかね?」
 「無いけど!」

 そうこうしている内にも、哭いた穢れの塊から無数の蛇が生者に喰らいつかんと襲いかかってきている。
霊夢が防ぎきり、翁が切り払うも次第に波は二人を外れ、街へと向かう流れすら作り始める。

 「ああもう、それ以前に抑えきれて無いじゃないの!」
 「追いかける訳にも行かん! 向こうは閻魔殿や鬼の棟梁に任せるしかあるまい」
 「それって私達孤軍奮闘って事でしょ! あーもう、天子は何してんのよー!」

 とは言えこの飽和量、天子一人が居た所でどうにか成るとも思えない。
むしろ守る対象が居ない分、霊夢にかかる負担は減っていると見るべきかも知れない。
勿論彼女が十全で有り、緋想の剣を、引いてはあの『全人類の緋想天』を扱えるのならば、話は別だが……
しかし、助け舟は案外すぐに――そして霊夢にとっては意外な所から現れた。

 「……あらあら、今日の霊夢は随分弱気なのね」

 ブォンと言う音がして、空間に眼が開く。
穢れの黒と白蛇の白だけが取り囲むモノクロームの空間を、突如として「紫」が彩った。

 「紫!」
 「どーも。ちょっとまずい状況になってるみたいね、二人共」
 「……その通りじゃな。あまり頼りたくは無いが、早い所式を入れてくれると助かる」
 「あら、今日の貴方は聞き分けが良いのね。霊夢と一緒に居るからかしら? それとも……」
 「良いから、何か有るなら早くして。認めたくないけど、結構本っ気で追い込まれてるんだから!」
 「そうねぇ。じゃあ、久々に霊夢と共同作業と行こうかしら。人鬼はその後に合わせなさい。良いわね?」

 そうして紫は日傘をスキマに仕舞う。そして、ゆっくりと腕を振るうと、空中に陣を築き始めた。
先程、霊夢が言ったことを覚えているだろうか? 結界とは、入念な計画と万全の準備が有って初めて百の力が出ると言う物だ。
その苦労を、八雲紫と言う妖怪は無に出来る。いや、より正確に言えば、「有」った事に出来るのだ。
勿論、境界を操る能力と言うのは其れだけで強力であり、胡乱で派手な能力でもある。
しかし、その胡乱さを用いた「結界を常に百として扱える」という堅牢な力と賢者の名に相応しい知慧。
それこそが本当の、八雲紫を幻想郷でも随一の大妖たらしめる力で有った。

 「八雲立つ――
       出雲八重垣
             妻ごみに
    八重垣作る
          その八重垣を」

 そして、その大妖が……ゆっくりと歌を、読んだ。
歌に惹かれるように、地霊殿を取り囲み「線」が引かれる。
そして光線はまた新たな陣に。陣は結界となり、八重に、八重に、八重に。
霊夢達があれほどたじろいで居た巨体の、八方を八重に取り囲み「区引き」が成る。
古代の英雄が己の妻の為に築いた莫大な結界の名を借りて、八雲紫は"気枯れ"を法で縛り上げた。

 「さぁ、霊夢」

 ポカン、と……流石に顎を大きく開く程間抜けでは無いものの、立ち尽くす霊夢に向かって紫は腕を伸ばす。
冷静を取り戻すように首を振った霊夢がその手を掴むと、まるで舞踏会のような自然さで、すとんとその胸に収められた。

 「……子供扱いじゃない? これ」
 「まさか。必要な事よ」

 歯痒い気持ちに成りながらも、霊夢は紫が築いたその結界に対して波長を合わせる。
お膳立ては整っている。後は人の法を、理を用いて「なんとなく嫌なもの」を分別していくだけだ。
なんとなくには理由が付けられ、祟りには名前が付けられて、「有害」と「無害」の境界は頒かたれる。

 「「深弾幕結界 ――夢幻泡影――」」

 かくして、人は神を殺す。それはとてもとても残酷な事。
神となりかけていた物は、その信仰を、畏れを、より分けられて身を縮める。
三十間はあろうかと思われたその体躯は、今は一尺程のどす黒い立方体へと押し込められていた。
無論、そうは言っても「害」である。今や触れただけどころか、見ただけでも精神の弱い妖怪ならば死に至るだけの悪縁。
消滅させられないとなれば封印するしか無いような代物なのだ。

 「人鬼!」
 「無論」

 悪を断つため、翁がすらりと刃を抜き放つ。
刀に霊力を走らせ、桜色に輝く大刃を作り上げた老剣士が、その刀をゆっくりと振り上げた。

 ――……兎にも角にもこれで一段落。後は古明地のお騒がせ姉妹に少し灸を据えないとね。
 ――とは言え、どの領域に入り込んだやら……

 無論、この場に置いて八雲紫が決して油断をしたわけではない。
優れた演算能力を持つ彼女は、八つに八つを掛けた案件の並列処理さえ余裕でこなす事が出来る。
迅速に次の一手を打つために、その内の一つを使い思索にふけった。それだけとも言えるだろう。


 それでも、博麗霊夢が気付いたその些細な違和感に、八雲紫も気付けていたら。
 「彼女」を取り巻く縁もまた、変わっていたに違いない。


 「紫ッ!!」

 血相を変えた霊夢が叫ぶ。振り下ろされた刃が穢れを断つはずだったその瞬間。
高濃度に圧縮された名も無き祟りが、立方結界の境面をすり抜け"爆発した"。

 「なっ……!?」

 結界とは、神ならば神を、人ならば人を縛る物。
目的を違えれば、今なりかけの神を縛り上げた先ほどの深弾幕結界でさえ、例えば霧雨魔理沙一人縛れぬであろう。

 ――恐怖催眠により、自らを一体の神だと信じ込んでいた怨霊たちが……一斉に個に戻ったの!?

 流石と言うべきか、八雲紫は博麗の巫女が呆気に取られるこの事態を、刹那の思索で突き止める。
それも霊障から自分達を護る為の結界を即座に用意しながら、である。
そしてその裏から、桜色の業風が怨霊によって出来た霧を片っ端から晴らしていく。
我に返った巫女もそれを支援するように七色の玉を飛ばした。……しかし、それでいて尚。

 「……かなりの数を逃したわね。奴ら、旧灼熱地獄の方に逃げていったわ」

 つまり、中庭を通って「幻想郷の端」の一つである地の底へ。
本来ならば龍脈に遮られて何処にもたどり着けない吹き溜まりだが、所詮は捨てられた地に通る出涸らしの霊道だ。
地に眠る「畏れ」によって活性化したあの数の怨霊ならば、半数以上が「外」にたどり着くだろう。

 「追わぬのか? 主様よ」
 「……追えるならね」

 川の流れを止められるか、と聞くような物だ。勿論止められるが、しかる後に逃さなければ溢れるばかりである。
霊圧で爆発した後ただ彷徨うだけの霊ならばともかく、怨霊達はまるで吸い込まれるように一つの方向に向かっていった。
地球に重力が働くように、「良くない物」には引力が有る。川が支流を引きこむように、負の念は周りを取り込んで増大する。
紫は、その「本流」に思い当たる物が無いわけでは無かった。

 ――それにしても、酷いタイミングね。
 ――今の能力解除は狙って行われた物じゃない。古明地姉は眠ったか……或いは、死んだか。

 運命を操ると言う吸血鬼に、心の中で毒づく。最も彼女も、こんな辺境の運命なんぞ気にかけても居ないだろうけれど。
どうも本当に、此処の所流れが悪い。まるで古代中国で言う「天」が敵に回ったかのような……

 「なんか凄く納得が行かないけど……一応、こっちは一件落着で良いのよね」

 静寂が戻った辺りを見回しながら、スラリと目を細めて霊夢が呟く。
紫は霊夢の頭に手の平を乗せ、少し乱れた髪を丁寧に撫で付けた。

 「いえ……むしろ、此処からが本番かも知れないわ」


 ◆


 丁度、八雲紫が地底に姿を表した頃である。

 ぐしゃりと潰れる音がして、天子の肺から空気が搾り出された。
床を二、三回バウンドして背中から叩きつけられ、天子は震える手でみぞおちに食い込んだ要石を払いのける。

 『弱っ』

 声も出せない状況で、なんとか奮い立とうとする天子に向かいつかつかと『天子』は歩みよっていく。
蛙のように藻掻く天子をつま先でひっくり返すと、『天子』はその顔に向かって唾を吐いた。

 『弱い。弱スギ。何が出来ると思ってたわけ? 一ヶ月の剣道お稽古で。馬鹿じゃないの?』

 『天子』は天子の腹部を足で踏みにじりながら、嗜虐的な笑みを浮かべ罵倒する。

 『……出来る訳ねーだろうが。失うばかりの一ヶ月でさぁ!
  大体いっつもいっつも場当たりで、格好つけで、薄っぺらいのよアンタって奴は。
  文句が有るなら言ってみなさいよ、ホラ。言えるもんなら言ってみろ!』

 それは実際、あまりにも一方的で有った。天子はただ突っ立っているだけの『天子』に傷ひとつ付けられず、天子の攻撃を避ける事も出来ずにこうして地べたに転がっている。
つまりこれが、天子の認識している人間と天人の差。いや、差と言うにもおこがましい、溝。

 「ごほっ」

 声とも言えない呼吸音が、やっとの事で天子の口から漏れた。だが、それだけ。
あまりに虚しい抵抗に、『天子』ですらわざとらしく目を覆い嘆いた。

 『あぁ……情けない。あっはははは! 情けない! やっぱりアンタ、そうしているのがお似合いだったのよ。
  文句の一つも言えずにうずくまってる姿が本当に似合ってるわ。ダンゴムシみたい!
  そうしてれば、少なくとも死ぬことは無かったでしょうに! ……あぁでも、死にたかったんだっけ?』

 『天子』の足が高く上がる。押さえ付けていた物が無くなったことで、天子は細く呼吸を繰り返す。

 『ならここで……死んでしまえ!』

 そして『天子』はそのまま頂点まで上げた足を振り下ろした。何度も、何度も、何度も、何度も。
ミシン針のように上下する足の下、髪を振り乱して天子が悶える。歯が砕けそうな程に食いしばり、意地でも声を漏らさぬように。

 『エラソーな顔してさぁ! 何も出来なかった癖に!
  強くなる事も!
  誰かを助ける事も!
  おままごとみたいなヒーローごっこも!
  異変も!
  自殺も!
  修行もッ!
  ……母様を助ける事すら、出来なかった癖にッ!』
 「なんッ……の、事よッ……!」
 『解ってるんでしょう? 何時も何時も私の事を泡の奥に閉じ込めて! 死ねッ! 死んでしまえッ! 殺してやるッ!
  やっと見付けた宝剣で、自らの腹を貫いた時!
  大地震を引き起こしそうになった罪で八雲に裁かれた時!
  人助けに無様に失敗して辱められそうになった時!
  お前なんか死んでおけば良かったのよ、殺人鬼のクズ天人が!』

 最後に一つ、大きく横腹を蹴り飛ばす。
壁際にまで転がった天子の散らばった前髪を引っ掴み、『天子』は天子と顔を合わせた。

 『私がお前の何なのか教えてやろうか? ……"後悔"だよ、不良天人。
  あぁ、もう天人ですら無いんだっけ? はっ、じゃあ只の不良品じゃない。成り損ないの不良品。
  痛いだろ? やめときゃ良かったって思ってんだろ? はん、だからアンタは薄っぺらなのよ。本物になんか成れる訳無い』

 髪が引っ張られる痛みを感じながら、天子は『天子』の嘲り笑う顔を見た。
後悔。成る程、殺意が感じられる訳だ、と薄れ行く意識の中考える。何時だって自分は、死にたく成りながら生きてきた。
それでも、死ぬ程度の勇気も無くて。唯一、その勇気を出した時は呆れるような結果に終わった。
借り物の外見。借り物の剣。借り物の信条。借り物の行動。
どれ一つとして本物は無く。故に、比那名居天子に本物に成れる道理など無い。

 不意に、羅刹のようであった『天子』が、優しく微笑んだ。

 『……綺麗だったわね、緋想の剣は。この輝きなら、きっと私を殺してくれるって確信してたわよね。
  無駄に頑丈なこの腹掻っ捌いて、腹ワタぐちゃぐちゃにして、天としてあり得ない程悲惨にしてくれるって思ってたのにさぁ』

 彼女の手元ではその緋想の剣が、失せぬ輝きのまま煌々と輝いている。
あの日、宝物庫に忍び込んで自殺を試みた時と全く変わらない輝き。黄昏の緋色。

 『なのに、気象発現って何なのよ! 極光!? 馬鹿じゃないの!?
  こっちは腹に剣ぶっさしてるってのに、……初めて、私は青空以外の天気を知った。綺麗だったわ』

 そして天子はこの剣を持って異変を起こす。初めは天人の誰かが止めてくれると思った。そして極刑に成るだろうと。
次第に緋色の雲が大きくなるに連れて、下界の者達に期待をした。
キャラはあの夜に眺めたお嬢様風。より我儘に、同情の余地が無いように。
けれど結局誰も退治をしてくれなくて、ならせめて地上に居場所が欲しかったのに、結局仲間にも入れてもらえなかった。
意地悪な八雲紫などは、わざわざ死なないようにトラウマを植え付けたりなんかして。

 『……やっと、死ねる。やっと私を殺せる。この剣で』

 恍惚の表情を浮かべて、投げ出した玩具を片付けるかのように『天子』は言った。
緋色の光刃が迫る。天子は目を瞑り、自らの脳裏に様々な情景を思い浮かべた。
人。物。緋想の剣。永江衣玖。八雲紫。博麗霊夢。ヤマメ。パルスィ。古明地さとり。そしてロック。借り物のRock 'n Roll。
見たことも、聞いたことも無い……――

 「…………heavy……duty……」
 『……何?』
 「I'm Heavy Duty……and,Defenders of the faith……私は、頑丈だ……そして、約束をした……」

 天子はブツブツと、何かを呟いた。その目は何処も見ては居ない。
『天子』は構わず緋想の剣を振り下ろそうとして、出来なかった。もはや、"後悔に比那名居天子は殺せなかった"。

 「私は……約束した。ヒーローに成るんだって。助けも求められない捻くれた奴らを、求められなくても助けるんだって。
  そして、私は頑丈だ……約束を、守るんだ……!」
 『出来る訳が無い。上手く行った事なんて無いくせに。助けられた事なんて無いくせに……!』
 「だとしても、一回! ここで成功すれば、価値があるでしょう! 借り物でも! 偽物でも、なんだっていい!
  私は挫けないんだ! 頑丈なんだ! さとりを助けるんだ! 『私』に構ってる暇なんか、無いんだぁーッ!」

 天子は、『天子』の緋想の剣を握る腕を掴み、押し返す。
先程までが嘘のように身体を力が漲っている。天子は『天子』の目を睨み返しながら、吠えた。

 「退いてろぉぉぉおおおッ!!」

 力を込め、パキンと『天子』の姿に鏡のようにヒビが走る。
次の瞬間には、蒼い髪の、『在るべき姿』を描いた天人は最初から幻だったかのように消え去っていた。
白い破片が雪のように飛び散り、赤ピンク色の壁に溶けていく。

 「ハァーッ……ハァーッ……」

 身体の痛みがスゥと引いていくのを確かめて、天子は痙攣するように呼吸をした。
しばらく顔を俯けたまま、顔を拭う。そして意を決したようにさとりを見上げた。
さとりがゆっくりと顔を上げ、光の無い黒点で天子を見下ろす。宇宙に開いた孔のような瞳。

 「やっと」

 やがて天子は、破顔した。花が咲くように、晴れ晴れとした笑顔で。

 「やっと……私の事見てくれたじゃないの。なんだかずっと、アンタの顔を見てなかった気がするわ」
 「……帰って、下さい」
 「嫌だ」
 「私は、こいしの所に行くんです。貴方は……眩しすぎる。煩いんですよ、煩わしいんです」
 「だけど、私はそうは思ってないわ。……あ、ちょっと嘘ついた。この間までは、少し思ってたかも」

 光の繭に浮かぶうろのような目の紋様が、天子を凝視した。
ギョロ付く瞳は、威圧するでも無く、一定の不快感を持ってその場を制している。

 「ごめんね。でももう思ってない。アンタと一緒に居たい。……一人は、寂しい」

 ずくりと、天子の胸の中で痛みを生む棘が蠢く。
天子は"後悔"に打ち勝った訳でも、倒した訳でもない。ただ、在るべき所に戻しただけだ。
さとりと会話をするために。さとりの目を覚まさせる為に。向き合いたく無いと言う気持ちを、胸の奥に再び押し殺して。

 「死ぬ事を怖いって思いたく無かった。これ以上、誰かに格好悪い姿を見せたく無かった。
  だから、生に喜ぶ事が怖かった。……でもそれって、天界で背景のように暮らしていた頃と全く変わらないのね。
  同じ過ちを二回も繰り返して、今度はアンタにまで落ち込ませて……私、本当に馬鹿みたい。
  だからこそ、アンタに同じ過ちはやらせないわ」
 「勝手ですよ」
 「そうよ。勝手で、我儘で、少女なのよ。……アンタだってそう」

 緋想の剣を肩に担ぎ、大仰な仕草で指をさす。見る者からすれば、さながらホームラン予告のような仕草。

 「つっても、説得しにきたわけじゃないからね。勝手に連れて帰ってやろうじゃないの」
 「最早空にも浮かべない身体で、どうやって? 貴方の大きな口にはこちらが閉口させられますよ。
  ここは私の世界だ! 誰にも立ち入らせたりなんかしない。誰にも分かって欲しくなんか無い!」
 「そう? 私の耳には聞こえるわ。『認めてくれ』『助けてくれ』『私を見ろ』って言うアンタの声がね!
  はっきり言ってしまえば、アンタが帰ってこなきゃ行けない理由なんてこれっぽちも無いかも知れない。
  だけど、私は嫌だ! このままさとりが目を閉じてしまうのを待つのは、きっと死ぬより辛い事だから!
  ――そして! 人間死ぬ気に成れば大概の事は出来るって、学ばせてもらったのよ!」

 天子が緋想の剣を振りかぶり、そして、その刀身を自らの腹に……突き立てる!
さとりが目を開き、その瞳にほんの僅かに光が灯った。

 「何を」
 「……緋想の、剣よ。天の宝剣よ……く、ふっ、答えろ! お前は、認めるのか! あんな非想天を! 偽なる無念無想を!
  がは……っ……! 違うと言うのなら、私に力を貸せ! もう少しの間だけ、私に力を寄越せぇ!」

 そして天子は、突き立てた剣の柄を横へと滑らせる。武士の腹切りめいたその動作と苦痛に、天子は歯を食い縛りながら耐えた。
紅く跡が残る傷痕からは、血の代わりに緋色の霧が噴き出して緋想の剣へと吸収されていく。
今やその光刃は、酸素の足りぬガスバーナーのような揺らめいた炎から、煌々とした気炎の軌跡へと戻っていた。
端から端へ、腹に一文字を刻んだ天子は緋想の剣を引きぬき頭上に掲げる。
振り乱れた黒い髪が緋色に照り返して、灼熱する黒鋼のような紋を浮かばせ、天子は叫んだ。

 「天にして大地を制し!
  地にして要を除き!
  人の緋色の心を映し出せぇッ!
  ――天気『緋想天促』ッ!」

 緋想が一瞬膨れ上がり、拡散して弾となる。
……しかしその光は、遥か上空のさとりに届く事なく散り消えた。先程まで輝きを放っていた光刃も、また。

 「……何をするかと思えば」

 一度見開きかけたさとりの瞳が、再びゆるゆると閉じられていく。

 「結局、貴方の力なんてその程度ですよ。……分かったでしょう?
  多少背伸びをした所で、どうにも成らない事なんて山程ある。
  敗北に塗れるより、現実に妥協して安穏とした死を迎えたらどうですか? 幸い、貴方を埋める土には事欠かないですし」
 「……今から死のうとしてる奴に言われちゃあ、私もおしまいね」
 「ええ、おしまいですよ。私も、貴方も。何も報われず、何も成し遂げられず。ふふふっ。
  私は、こいしの所へ行く。家族の……母の所に……」
 「俯いてちゃ、分かんないわよね」

 さとりの眉が怪訝と不快を示した。前後の話がつながらない。
天子は未だ、笑っている。朧気ながらも、それが諦観や絶望で無い事は読み取ることが出来た。
指が上を指し示す。上? 上には穢れが渦巻いているだけだ。自らの胸から絞り出された、憎悪や嫉妬、無意識の忌避感が。
そう思いながら、けれどさとりは膝から顔を離して、ほんの少しだけ上を向いた。
そして今度こそ、驚愕に目を見開いた。

 「……綺麗でしょう? それが、私の気質らしいわよ。正直自分でも信じらんないんだけど」

 天が、七色に光り輝いている。それぞれが穏やかに色を変え、羽織のように二人をくるむ。
ゆっくりと、ゆっくりと。互いに互いを阻むこと無く。極光に包まれて、さとりの目に光が宿っていく。

 「気質発現――『川霧』!」

 天子が号令を放つと、やがて光は生暖かな空気と交じり合い、水の気を浮かべた。
ゆらゆらと狂う距離感の中、ふと天子の姿が掻き消え上空へと現れる。
上空、即ちさとりの頭上へと。そのまま天子は引力に引きつけられるように、一直線にさとりの元へと落ちていく。

 「飛ぶのは無理でも、落ちるだけなら出来るッ!!」
 「……ふ、ざ、けるなぁ!」

 大上段に緋想の剣を構え、天子が吠えた。
負けじとさとりも、大声を張り上げる。未だそのような声が出る事に、自分自身でも驚いた。

 「認めるわけには行かないんですッ! それだけの力で、それっぽっちの力で何かが成し遂げられるとなれば!
  私の……私の妬む理由は……お燐を、傷つけた理由は……!」

 繭のようにさとりを包む球体から、壁に向かって伸びた触手。
その数本が意思を持つようにくねり、天子を強かに打ちつけようとしなって伸びていく。
あやふやな霧の中、それでもただ重力に引かれ落ちるだけの天子に避ける事は出来ず、利き腕が切り飛ばされた。

 「後悔してるんだったら、ごめんって言えばいいだけの話でしょ!
  アイツはアンタの事、家族だって言ってたわよ。死にかけてまだ、家族に成りたいって泣いてたわ!
  ちっぽけなプライドがそれを邪魔するんだったら、私が全部引き受けてやる!
  そこから引きずり出して、無理やり頭を下げさせるッ!」

 千切れた腕から血が出る事は無く、代わりに緑と黄色の光の粒子がばら撒かれる。
不思議と、痛みは感じない。天子はとっさに左腕に持ち替えた緋想の剣を構え、落下を続ける。

 「来るな、来るなぁ!」

 さとりが駄々をこねるように両腕を振るい、それに連動するかのように出鱈目に触手が振り回される。
天子にその中を回避する術も無く、左腕を、そして下半身を切り飛ばされて、宙をくるくると踊った。

 「あ……」

 さとりは、一瞬呆然としたようにうなだれ、そして乾いた笑いを上げた。

 「……はは……良いんです。これで……これで……」
 「これで、何よ」

 声は、未だ消えない。絶望も無い。切り飛ばされた下半身のスカートから、飾り紐が解けた。
あの日、初めて二人で出かけた日。年頃の娘がそうするようにはしゃぎながら、天子はその飾り紐を買った。
長い間付けて居るのだろう。何時の間にか、燃えるような紅だった色は少し薄汚れてしまっている。
するすると紐が解けていく。その紐の端は、手から離れゆく緋想の剣に結ばれて。

 「思い出せ」

 静かな声で、天子がそう宣言をした。さとりの目が、更に大きく開かれる。
黒い眼の中に天子の姿が映る。腕を切り飛ばされ、上半身だけの姿になり。
それでも未だ眼光を曇らせぬ天子が、解かれた飾り紐の端を咥えた。

 「ああ」

 瞳孔を大きく開いたさとりが、自らの頬を手で抑えた。
緋想の剣が光る。刃の描く軌跡が、歪になった二人を照らし出す。

 「あああ」

 天子はその紐を咥えたまま、勢いを消さずに身を捻り回転した。
一つ、二つ、三つ……その度に引き寄せられて、緋想の光が、迫る。
今やさとりは鮮明に思い出すことが出来る。その光の鋭さも、暖かさも。

 「思い出せ! 想起しろ! 私達の思い出だ――そして、お前の敗北のトラウマだ! 古明地さとりィッ!」
 「ああああああああああああッ!!」

 天子が大きく首を振るい、緋想の剣を薄光の殻へと……突き刺した。

 パキンと軽い音がして、卵が割れた。


 ◆


 ――視界に眩しさを感じ、ゆっくりと目を開く。小窓から朝の日差しが差し込んでくる。
障子戸などという洒落た物が無い、木の枝で補強しただけの窓は寒々しい朝の空気を否応なく取り込んでくれた。
それでも土で出来た壁が有る分まだマシだと思う。隙間だらけの木の小屋で過ごす冬の朝の寒さは、この比では無い。
季節が冬から春に移り変わりゆくのも僥倖だった。なんとかこの冬も越せた事を山の恵みに感謝して、さとりは伸びをした。
その姿を、三つの目が見つめている。

 「……こいし」

 なんとなく気恥ずかしく成りながら、さとりは妹の名を呼んだ。銀髪の、美しい少女の名を。
朝霧が日差しに照らされキラキラと輝いている。さとりは自らのくしゃくしゃの桃色髪を、手で梳いた。

 「おはよう、お姉ちゃん」
 「ええ、おはよう」
 「ふふ、良い夢見てた? なんだか幸せそうだった」
 「ん……そうだったかしら……?」

 記憶を笊で救ってみるものの、清水のようにすり抜けていくばかり。
やがてさとりは思い出す事を諦めて、藁をかき集めて作った布団から身体を起こし、立ち上がる。
そして、苦々しい――義務感と忌避感がないまぜになった顔を浮かべ、尋ねた。

 「父さんは?」
 「まだ帰ってきてないみたい。お水、飲む?」
 「ん……」

 汲んできたばかりで有ろう水瓶から、竹筒で出来た湯のみに水を注ぐ。
なんだか自分が不甲斐ない気がして、さとりはこいしの動きを目で追った。
青く腫れた頬がズキリと痛んで、つい「いたっ」と声を上げてしまった。

 「……大丈夫? お姉ちゃん」
 「うん……大丈夫よ。すぐ治るわ」
 「なんで、お父さんとお姉ちゃんは喧嘩するのかな?」

 ぽつりと、こいしが問うた。非難の色も無く、疑問そのものだと言わんばかりのトーンで。

 「私達って、お互いの心を読めるはずなのに」
 「……分からない。あの人はもう、狂ってるのよ」
 「狂ってる?」

 こいしは首をかしげた。

 「狂うって、なぁに?」
 「……さぁ……分からない」

 こいしはこのように、時折当たり前の事を……しかし、さとりが答える術を持たない問いを問いかける。
その度にさとりは泣きそうになりながら、無垢な瞳に向かって己の無知を懴悔するのだ。
この娘は全てを知っていて聞いているんじゃないか。時折、そう心をよぎる事も有る。
そんな訳がないと、心の何処かで祈りながら。

 「帰ったぞぉ」

 板を立てかけただけの簡素な扉が、不意に開いた。
あっという間に家の中を支配する酒精の臭気に、さとりは顔をしかめる。

 ――また、賭博場帰りだ。

 人が居住する地域が拡大し、宿場が出来て……そして、人が集まればそれだけの欲望のはけ口が必要になる。
二人の父親は、心を読む能力が有ればその重箱の隅からおこぼれを預かる事が出来るのでは無いか、と考えたのだ。
現実に人の勢いは加速し、段々と妖怪が駆逐されて行っているのも確か。
ならば、山河を駆けずり回るより人の世の中で生きていた方が、楽なのも確かかも知れない。
しかし、それは妖怪としての尊厳を捨てた行為。
人を襲う妖怪としての使命を忘れただ生きるのは、何かひどいしっぺ返しが待っているような。そんな気がして成らなかった。

 「あらあら、まぁ」

 こいしが困ったように呟いて、ぱたぱたと近づいて行く。その動作の一つ一つが堂に入っていて、さとりは嫌な気分になった。
水瓶から水を汲む動作一つ取っても、さとりに対して行ったそれとは全く変わる、思い出の中の、母の動作。
父親は竹筒の中の水を一気に呑み、酒臭い息を吐いた。

 「勝った、勝った。人間どもめ、悔しがってやがった。ざまあみろ」
 「父さん」
 「ははは、ははは。そうだ、これでいいんだ。人間め……ははは」
 「父さん!」

 ギョロリ。
血管の浮いた三白眼がさとりを睨みつける。第三の目から読み取れる暴力の気配に、咄嗟にさとりは身構えた。

 「うるさいんだよ!」

 父親の大上段から振りかぶられた張り手が、さとりの華奢な身体を吹き飛ばす。
打撃自体はかろうじて腕で受けたものの、打ち付けた背中からじーんと痺れるような痛みが滲む。

 「お前、馬鹿にしただろう! 馬鹿にしたな! 分かるんだぞ! 妖怪だから分かるんだ!
  だったらお前に何が出来るって言うんだ、ええっ!」
 「げほっ……」
 「何が分かるんだよ、貧相な小娘が! くそっ……くそ、人間共め!」
 「お父さん」

 激昂する父親の袖を、こいしが掴んだ。
不思議な事にそれだけで、しゅるしゅると沸騰した薬缶が一瞬で冷めるように、父親は冷静さを取り戻す。
見る見る内に穏やかな顔つきに戻っていく父親を視界の端に、さとりは大きく息を吸って立ち上がる。

 「やめましょうよ、ね?」
 「……あぁ、そうだな母さん……すまない、取り乱して……怖がらせてしまったかい……?」
 「ううん、でも、やめましょう? ほら、目の下にクマが出来てますよ」
 「あぁ……そうだね……眠いし……ちょっと、眠ろう。おやすみ……」

 覚束ない足取りでフラフラと寝床に向かう父親に、こいしは甲斐甲斐しく付き添った。
それから背中の汚れを払うさとりに向かって、小さく声をかける。

 「大丈夫? お姉ちゃん」
 「ん……うん。大丈夫よ」

 寝転がって直ぐにいびきを立て始める父親を、さとりは憎々しげに眺めた。
その目を後ろからこいしが塞ぐ。両手の平で、蓋をするように。

 「わ、ちょっと、こいし……」
 「だってお姉ちゃん、怖い目をしてるから。喧嘩は良くないよ、ね?」
 「だけど、父さんが」
 「お父さんも本当は分かってるんだよ。ただ、ちょっと優しい物に飢えてるの。大人だから」

 さとりの目はこいしに覆われていて、これ以上をうかがい知る事が出来ない。
しかし、このように自分が年上にも関わらずこいしが言い聞かせて来る事に対し、さとりは良い感情を持っていなかった。
こいしが優しい子だと言うのは分かる。だけど、姉であるのは自分なのだ。
そう思う度に、それがさとりを殴る父親の理論と全く同じ事に気が付いて嫌になる。

 ――私も、こんな男より母さんの血が欲しかった。

 父親の頭頂に生え茂る、自分と同じ色をした髪にふと気付く度、さとりはそう念じた。
思う度に、心の中で緑色の炎が溜まった澱を巻き上げて、心を黒く煤けさせていく。
二人はその後、少し遅い朝食を取り、山へ茸や木の実が無いか探しに出かけた。時期悪く、めぼしい収穫は得られなかった。





 「……父さん、まだ寝てるのね」
 「そうだね」

 一度起きて、酒を飲んでまた寝ているのかも知れない。どっちにしろ、人里の賭場が開くのは夜も更けてからになる。
さとりはほぼ雑草と言ってもいいような草が少しだけ入っている軽いカゴを置き、ため息を付いた。
深酒が効いているのだろう。時刻はそろそろ、日に赤みが指す頃で有る。

 「おねーえちゃん!」
 「きゃっ」

 ぼうっとしていたさとりは、不意に後ろからこいしに抱き着かれ驚きの声を上げた。
同じように家事をしているにも関わらず、白くなめらかな指がさとりの頬を、耳を撫で、頭に何かをそっと載せた。
さとりはそれを手に取って、しげしげと眺める。丸く咲いた蒲公英の花。

 「一輪だけ咲いてるの、見付けたんだ。折角だから、持って来ちゃった」
 「こいし……ありがとう」
 「ホントは色々使える根っこも掘りたいんだけど、ちょっと大変すぎるよね。
  それに根っこが残ってれば、もう一度花を咲かしてくれるだろうし……」

 両手の指の腹を合わせて、照れくさそうにこいしが笑う。
さとりは微笑みながら、その花を竹筒に水を入れ活けた。

 「あれ? お味噌ないや……それに包丁。そういえば、昨日お父さんが投げて欠けちゃったんだよね」

 ごそごそと棚を漁っていたこいしが、声を上げる。
沈んでいきそうな日差しを見ながら、「よし」と言って立ち上がった。

 「しょうが無い、買いに行こう。今ならまだ間に合うよね」
 「こいし……危ないわよ? 今からじゃ、帰ってくる頃には真っ暗になってるし……」
 「大丈夫だよ、お姉ちゃん。妖怪は夜目も効くもの」
 「そうじゃなくて……」
 「人間でしょ? それこそ大丈夫だよ。私、"ふり"をするのは上手だから」

 ……確かにそうなのだろう。だが、さとりの胸はチクリと痛む。こいしは特に、他人が望むように振る舞う節が有る。
無邪気な妹としての仕草すら自分の願望なのではないかとさとりは思い、直ぐに頭から打ち消した。
誤魔化すように声を上げる。物分かりの良い姉のように、振る舞う。

 「……分かったわ。気をつけていってらっしゃいね」
 「はーい」

 こいしは寝ている父親の懐からいくらかの小銭をくすね、出ていった。
さとりは少し疲れていたが、父親と二人きりで居るのに不安を感じ、外で時間を潰す事にする。
夕日を、そして月を見よう。蒲公英を、そうで無くても何か花を探そう。返ってきたら、こいしに渡すために。

 夕日に照らされ燃えるように赤く染まった山は、案外その情景に似つかわしくない位に騒がしい。
特に、手近な木に止まり夜を越そうとする小鳥達の騒々しさは数も手伝って中々の物だ。
しかし、今はその騒々しさがさとりのうら寂れた心を慰めてくれるようでもあった。
さとりは一つ、散りかけの梅の花が咲く木を見つけ、実が成っていないか探す。
しかし流石に早すぎたのだろう、小さなこぶ塊のような物しか見つける事は出来なかった。
心に目印を付けて初夏の頃に取りに来る事を誓う。この木が、人間のテリトリー内で無い事を祈りながら。

 「……ふぅ……」

 なんだか不思議と心がざわめいている。こいしが人里へ買い出しに降りるなど、一度や二度では無いと言うのに。
こいしは特に人の注意を惹かない事に長けているし、気配の消し方が妙に上手だ。
特徴的な髪と顔を泥で汚せば、人攫いなどに目を付けられる筈も無いだろう。
大丈夫だ。さとりは繰り返し、自らに対しそう念じる。けれど今夜に限っては、不思議と不安感は消え去ってくれなかった。

 バサササッ!

 麓の方の木から、小鳥達が一斉に飛び立ってこちらに向かって来る。
すれ違う時、図らずしもさとりには向かい来る小鳥たちの心が目に入った。

 ――人間が来る。人間達が山を登って来る――


 ◆


 半刻後。さとりは急ぎ、野山を駆け下っていた。
焦りに足がもつれ、地面からせり出した木の根に引っ掛けて転ぶ。
口に土が入るのも構わず、急いで立ち上がるとさとりは一目散に走り出した。

 ――こいし! こいしは何処!?

 後先考えず叫びを上げたくなる程張り詰めた心を、必死に理性で押しとどめる。
妖怪というだけ有って、貧相な身体付きと比べればさとりの体力は有る方だが、それでも息が上がってきていた。

 ――人間が! 人間が私達を狩りに来た! 人が大勢、山を取り囲んでいる! こいし! 返事をして!

 さとりは空を見上げる。ちょうど日が落ち、夜の帳が降りる中間地点。
普通に買い物をした後で有れば、まだ家に帰って来ては居ないはずだ。
恐らく、人間達とちょうど鉢合わせした、と言う事は無いだろう。だけどこのままではどうなるか分からない。

 ――お願い! 無事で居て……!

 祈りよ届けと言わんばかりに、何処に居るかも分からないこいしに向かって必死に念を送る。
深く繋がれると言っても、そこまで便利な物ではない。所詮、心を読む術の応用なのだ。
前から人間達の思念が迫ってくる。さとりは咄嗟に、藪の影に隠れた。

 「……やべえんじゃねえのか、ホントに妖怪だとしたらよ。もう夜になるってのに……」
 「ばぁか、妖怪なんか居るかよ。んなもん口実だろ。ちょいと勝ちすぎたんだよ、あの男はよ……
  タネを明かしてやんなきゃあ。まぁ、それで俺達の飯の種になってくれるんだから構わないけどな」

 安っぽい竹鎧を着、多少なり武装した男達が直ぐ傍を通り抜けていく。
おしゃべりに夢中になり、道端でしゃがむさとりに気付いた様子は無い。さとりはほっと胸を撫で下ろした。
いくらさとりが心を読めると言っても、格闘センスが有る訳ではない。
武装した男に複数人で囲まれれば、あっという間に攻撃を避けきれなくなるだろう。
人間は孤独を恐れる生き物だ。一対一ならなんとかなるかも知れないが、それ以上は明らかに荷が勝ちすぎていた。

 ――こいしを……探さないと……

 駆けまわって居たからだろう。思いとは裏腹に、一度落とした腰に中々力が入らない。
代わりに、先程の男達が言っていた事に対し、ぐるぐると頭の中を思いが駆け巡った。

 ――あの人達、父さんを探しているんだ。

 勝ち過ぎた、と言っていた。そうなのだろう。近頃の父親は、贔屓目に見ても冷静さを失っていた。
人間達の驚嘆と嫉妬に酔い過ぎたのだ。だから、こんなになるまで分からなかった。不自然に勝ち過ぎた。

 ――何が大丈夫だ、あの男! 全部あの男のせいじゃないか!

 喉の奥がカァっと熱くなって、今まで飲み込んで来た理不尽が口から吐き出されそうになった。
両手で無理やり口を噤んで、それを抑える。代わりに、胸の中で行き場の無くなった熱が暴れまわる。
さとりは震える足をなんとか奮い立たせ、木の幹に捕まり立ち上がった。


 ガサガサッ!


 草を掻き分ける音が、近くで鳴り響く。さとりの脳内が急激に警鐘を鳴らす。

 ――近づかれていた!? 何時?

 自らの迂闊を呪い、さとりはゆっくりと振り向いた。せめてそれが、人間以外で有る事を祈りながら。
少し土を被ったふわりとした銀髪が、きょとんとした表情の上で揺れていた。

 「あれ? やっぱりお姉ちゃんだ。何してるの、こんな所で?」

 状況に対してやや間の抜けた声に、さとりはへなへなとへたり込む。
手に持つ買い物用の風呂敷を揺らし、実の姉のその様子をこいしは不思議そうに首を傾けて覗きこんだ。

 「こいし……ああ、良かった……」
 「どうしたの、お姉ちゃん。それに、なんだか人間が一杯。しょうが無いから別の道を通っていたんだけど」
 「人間が沢山来て、父さんを探しているのよ。多分賭場主の手下。このままだと私達も巻き込まれるわ。急いで逃げないと」
 「え……逃げるの? お父さんは?」

 こいしが少しだけ悲しげに瞳孔を開き、聞く。
その顔を見た時、さとりにチクリともズキリとも言えるような棘が刺さった。

 「良いわよ、あんな奴の事なんて。大丈夫、こいしは私が守るから」
 「でも」
 「……それに、父さんはアレでも大人の男の人よ。私達はむしろ、足手纏いになる」
 「うーん……それはそうかぁ……」

 こいしは、案外素直に頷いた。チリチリと燃えるさとりの胸の痛みが、少し大きくなる。
こいしの手を握り、少し強く引いた。たたらを踏んだ足が、草むらの影に潜んでいた蟻を踏み潰す。

 「何処に行くの?」
 「それは分からないけど、とにかくこの山を出ないと。じゃないと、いつか人間に捕まってしまうわ!」

 さとりはぐるりと辺りを見回す。何人登ってきているかは分からないが、両手の指で足りる程では無いはずだ。
二十、ひょっとしたら三十は居るかも知れない。夜の山に潜む不穏な空気を、奴らは数で押し潰している。
勝てる訳がない。だから仕方ないんだ。人間達が父親を狙っているのは明白だから、今から家に戻る訳にも行かない。
打たれて腫れた頬がズキリと痛んだ。

 「お姉ちゃん……」

 細い声で、こいしが呟いた。手を伸ばしさとりの片頬に触れる。さとりの、吊り上がった口角に。

 ――笑っていた?
 ――私、今、笑っていたの?

 さとりは愕然としながらも、心の何処かで「ああ、やっぱりそうなんだな」と考えた。
その罪悪感を誤魔化すかのように、こいしを抱きしめて強く囁く。

 「……大丈夫。こいしは私が守るからね」

 これは、これだけは本当の気持ち。私は"お姉ちゃん"だとお母さんにも言われた。
こいしのふわっとした銀の髪。お母さんを思い出す。だけど、そう思う度にこいしがお母さんに近づいていくようで、怖かった。
お母さんの事は勿論大好きだけど、お母さんのお姉ちゃんにはなれない。私はお姉ちゃんになれとお母さんに言われたんだ。
だから、私はこいしのお姉ちゃんでなければならない。私は。……私が。

 「行こう」

 二人は手を引き合い、夜の山を駆けた。一人だと押し潰されるようだった心が、こんなにも違う。
手を繋いだ温かさが、さとりにスリルを楽しむ余裕をくれた。勿論、人間達は迫ってきている。
だが、寝静まった空間の中、その荒々しい思念は避ける事も容易い。
自由! 火照った身体にあたる風が心地良い。まるで鳩にでもなった気分だ。これから何処に行こうか?

 ――何処にだって行ける。こいしが側にいるだけで、不思議とそんな気分になれる!

 彼女の姉であれと自分を戒めるだけで、自然と胸を張れる。前へ歩く事が出来る。
こいしが不安そうにしているならばそれだけ私が安心させて上げなければいけないのだ。
さとりはこいしの手を引きながら、不思議な充足感に包まれていた。ざわめく木までが祝福してくれている。
夜行性の鼠たちが、巣穴から出てきて餌を齧り出す思念までもがはっきりと読み取れる。

 ――何処かへ行く! ここじゃない何処かへ!

 荒い息を吐きながら、さとりはその興奮を心に刻んだ。
その直後、足元に巧妙に隠された符から、燃え盛る炎柱が吐き出された。


 ◆


 「話じゃあ……覚り妖怪ってのは男の筈なんだが……
  まぁ、虚仮威しの符に反応したってことは、あんた達も間違いなく妖怪なんだろうけどさ」

 退魔師らしきその女は、吐き捨てるように呟く。

 「娘とかその辺り? そうなるとちょっと、後味悪いなぁ……どうしたもんかしらね?」

 面倒くさそうに頭を掻きながら、女は古明地姉妹を見定める。
後味が悪い。そう、今殺されてないのは「飯が不味くなるから」程度の理由でしか無いのだと、ハッキリと映る。
それにしても、なんだこの女は。この想起の量は。
怨恨、憎悪、嫉妬、悪意、疎外、飢餓。
有りとあらゆる想起を抱えて、これだけ命を軽く扱って置きながら、何故この女はヘラヘラと笑える?

 「化、け物……」
 「……アンタがそれを言うのかい、妖怪の子」

 見るからに怯え、竦み上がったさとりに向かってその女は炎に包まれた腕を振り上げた。
女らしきシルエットは、足元以外真っ黒に染められている。
あぁ、私はこの時恐怖で全く顔を上げられなかったのだな、と、何処かから俯瞰した視点でさとりは"思い出す"。

 「まぁ、腐っても妖怪だしね。今この場で焼き尽くしておくのが、世のため人のためなんだろうけど」

 飄々とした、しかし確かな殺意のこもった呟きが、さとりの意識を焼く。
涙をボロボロとこぼしながら、口に砂が混じるのも構わずさとりはみっともなく頭を下げ続けた。

 「ごめんなさい……ごめんなさい……人を食べた事は有りません……食べようとも思いません……
  人間様に敵うとも思っていません……ごめんなさい……命だけは助けてください……ごめんなさい……ごめんなさい……!」

 ただひたすらに土を舐め、額を擦り付ける。退魔師の瞳がスゥと搾られていくのが、見ても居ないのに判った。

 「ごめんなさい……助けて下さい……ごめんなさい……」
 「……あぁ、もう。分かったわよ。もともと雇い主があんなじゃ気が乗らなかったし。
  はぁーぁ、久々に人間らしい宿に泊まれると思ったんだけどなぁ」

 ぶつくさと言いながら、退魔師の女はきた道を引き返していく。
その気配が完全に消え去るまで、数分の間さとりは頭を上げようとすら思わずに、その格好で居続けた。

 ――あんな無様な姿、見たいもんじゃないわね。

 彼女の脳内で吐かれた思念が、ぐるぐると第三の目の中で残響する。

 「……ははっ」

 緊張が解れた事で、さとりの口から自嘲的な笑いが漏れた。

 「何よ、これ……」

 ああ、なんという姿だ古明地さとり。弱くてちっぽけな覚り妖怪。
これが本当に、妖怪としての誇りを父親に申し付けた者の姿なのか? この、虫けらのように丸まって哀れを乞う姿が?
そんな訳が無い。そうである筈が無い。私は、自らの誇りを捨ててでも妹を守る事を選んだのだ。

 ――嘘だ。

 嘘。全くの大嘘。妹の事なんて、さっきまでこれっぽちも考えて居なかったじゃないか。
自分が助かるのに必死で、あの子がどうなったかすら確かめようとしていなかった。
見苦しいと言われる筈だ。汚らしいと蔑まれる筈だ。これが古明地さとりだとすれば、なんと、醜い。

 「お姉ちゃん」

 嫌だ。見ないでくれ。私の汚らしい本性を、その目で曝け出さないでくれ。

 「お姉、ちゃん……」

 美しいこいしの姉である事で、自らも美しいと気取っていただけだったんだ。虎の威を借りる狐のように。
許して。許してこいし。許して、お母さん。私にはこの汚い髪がお似合いです。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……

 「……急がないと。皆、集まってきてる」
 「え」

 先程の火柱のせいだろうか。アレは音と光で位置を知らせる役目が有ったのか。
さとりは震える腰とぐっしょりと濡れた足で、どうにかこうにか立ち上がる。

 「あ」こいしが、何かに気付いたていで木々の裂け目を見た。見覚えの有る姿が近づいてきている。「お父さん」

 こいしの声には、喜びと驚愕が半分半分で混じっていた。
彼女達の父親は、血で汚れた服と口元を隠そうともせず、荒い息を吐き出した。


 ◆


 「お父さん……」

 呆然とこいしが呟く。彼女がこのような反応をするのは、さとりが知る限り初めての事だ。
強く鋭い彼女の目には何が視えているのだろう。歪み、濁った視界の中さとりはそんな事を考えた。
土がざり、ざりと音を立てた。近づいてきている。何かが狂っている。この闇の中の何かが。

 「何処へ、行くんだ」

 パリパリと血で乾いた喉から、嗄れた声が絞り出された。

 「何処へ行くんだ」

 ギョロリとした目がこちらを向く。凝固した血液の、あのドス黒い塊が直接ぶつけられたようだった。
深く吐き出された息に、人の、肝の臭いが混じっている。こいしが小さく声を上げた。

 「何処にも行かせはしない」
 「人を……人間を食べたのね、父さん」
 「ああ、ざまあみろだ、力が湧いてくる、もう何処にも行かせはしない。俺の傍から離れるな、母さん」
 「……その子は、こいしよ。私の妹なの」
 「そんなものは居ない」

 拒絶。言い争う余地すら既に無く、会話をしているようでそうではない。
深く心を覗かなくても、狂っているのだと分かる。母の死を嘆き、悲しみ、だが確かに新たな命に喜んで居たはずだ。
その父親が妹の存在を否定する。あの閉じた世界の中、母は生まれ変わり転生を遂げたと言う妄執に取り付かれ。

 だとすれば、父親を狂わせたのは他ならぬこいしなのだ。
最初は無邪気な遊びだったのだろう。母のように振る舞う事で、姉も、そして父親も喜んだが故の。
しかし彼女は強すぎた。良かれと思ってやって居た「モノマネ」が、彼女の手にかかればあまりに完璧過ぎた。
記憶に無い行動で有っても、それらしく振る舞えるだけの応用力と理解力。家族の中の誰よりも強い覚りの力。
そこから生まれ出る代物は、失意の父が勘違いしてしまう程に母親そのもの、いや、より「理想の母」だったに違いない。

 「俺の、俺の妻だ。何処にも連れて行かせない。もう二度と誰にも渡したりなどするものか。
  母さんは確かに一度死神に捕まった、だがこうしてギリギリの所で手を逃れ、再び俺の手元に来てくれたのだ!
  さあ! 母さん、帰ろう。俺達の家に帰るんだ。人間なんか蹴散らせるさ、俺は人喰らいだ」
 「やめて父さん!」
 「ガキは黙っていろ!」

 さとりは、ジリジリと詰め寄る父親の足に縋り付く。
そしてにべも無く蹴飛ばされ、ボロ布のようにそこら辺の土を転がった。
こいしは、唇を引き締めて父親の方を向き、足を半歩滑らせる。

 「お父さん」
 「……どうしたんだ母さん。何をしてるんだ? 何故こっちに来ない。
  今日はご馳走だぞ? なんせ肉が一杯ある……ああ、湯を用意してくれ、畜生共の血が臭くて叶わない」
 「お母さんは……私とお姉ちゃんを生んだお母さんは、死んだわ。もう居ない」

 ガチリ、と空間が凍り付いた。失った刻が錆び付いた歯車をきしませ、ガリガリと錆を産み落とす。
血のように赤い錆を怒気として揺らがせながら、男はこいしを見た。

 「……お前は、誰だ。お前は誰だ! 母さんをどこにやった! 母さんを出せ! 出しやがれ!」

 激昂し、励起された感情が物理的衝撃を持ってこいしに叩きつけられる。
さとりは妹の名を叫び駆け寄ろうとし、男に額を殴られて三度土を舐めた。

 「死んだのか。お前が殺したのか! 母さんを! 俺の妻を!」

 男は殴り伏せた実の娘を見もしないまま、こいしの胸ぐらを掴み上げ叫ぶ。
こいしは、美しい唇の端を血で汚しながらも無感情に男の目を見返した。第三の目の、その奥に潜む魔を。
その瞳がちらりと視界に入ってきて、驚くほど冷たい目だとさとりは思う。
良く笑う子だった筈だ。母のように、優しく笑った顔が似合う子だった。……いや、母の真似をやめればああなるのか?
私に向ける顔ですら、所詮は偽物だとしたら。だとしたら……

 「そうよ、私が殺したの」
 「そうだ、お前が殺したんだ」
 「それで……私はどうしたら、許してもらえるの?」
 「許すだと? 母さんを殺したお前を……いや、そうか。そうか」

 首を掴もうとした手を緩める。男の瞳に、ある種の理の色が浮かぶ。
狂った土壌の上に花を咲かせる、狂った理論。実を付ける事は無いはずなのに。

 「産ませればいい。お前が再び母さんを産むんだ。そうすればまた幸せな家族が戻ってくるんだ。
  子ども達も幸せになる。そうだ……もう一度、産み落とさせるんだ……まだ間に合うはずだ……」
 「……」

 こいしが冷たい土の上に押し倒され、服を剥ぎ取られていく。
その震える下唇が噛み締められるのを、さとりは確かに見た。
目と目が合う。冷たい目だ。だが、雪のような白に少しだけ緑が芽吹いた、柔らかい色をしている。

 ――ああ。

 さとりは嘆息し、自らの後ろを振り返った。
逃げろと、そう言っているのだろうか。深く深く探ろうとしても、散り散りに千切れていて分からない。
後ろには恐らく自由が有る。つい先程、あんなにも焦がれ追い求めた自由が。
あの化け物のような術師が居ない今、二人を囮にすれば十分に逃げ切れる筈だ。

 ――逃げて。逃げてどうする?

 いいじゃないか。あの子は今、己の責任を取ろうとしているのだ。
もう、いいじゃないか。歪んだ家族に縛られる事も無く、私は私を生きる事が出来るようになれる。
私達を歪めていたのは、死んだ母親の呪縛だ。母が眠るこの地を離れ、新しく生きよう。
姉で有る事なんか、さっき捨てたじゃないか。それでもこいしは私を赦してくれた。
母を、そして妹を辞める事で、赦そうとしてくれたんだろう?
足が後退りを始める。草に付いた夜露が絡み付いて、下半身を汚した。

 「ごめんなさい」

 さとりは、懺悔した。
母に。
父に。
妹に。
何度も何度も、心の中で頭を下げた。

 「ごめんなさい……ッ!」

 何も出来なかった。母に言われた事も、父の歪みを正す事も、妹を助ける事も。
くしゃくしゃに顔を歪めながらさとりは立ち上がる。何も出来ないと分かっていて、身体を抱え上げた。
穴だらけの心に穴だらけの身体をくっつけて、さとりの小さな掌から何もかもが零れ落ちて行く。
こいしの目が幽かに細められる。さとりはゆっくりとした足取りで男に近づくと、たった一つだけ拾い上げた。

 「こいしを……離して下さい……」

 男の足に縋り付き、さとりは精々哀れを乞う。
どうせ何も出来ないのならば、せめてやりたい事をやるべきなのだと。
捨てたばかりの家族だからこそ、やはり私には必要だった。

 「母は、母さんは、私が産みます。私が育てます。こいしにはこれ以上渡したくないの。
  私だって母さんの血を引いているんです。産めます、だからやらせてください」

 顔をひきつらせ、無理矢理に笑いを作る。深淵を除けば深淵に落ちると言うのなら、さとりはとっくに狂気の渦に飲まれていた。
瞳で怯え、唇で笑い。涙を湛えながら精一杯に男を誘う。

 「むしろ順番で言えば私なんです。だってこいしの番はもう終わったんですから。終わった筈じゃないですか、ねぇ……」

 狂人の理論を振りかざすと、果たして男はこちらを向いた。線香花火のように小さく光り、血走る瞳がさとりに焦点を合わせる。
足に寄りかかるさとりの髪を掴み、華奢な身体を持ち上げると、男は値踏みをするように眺めた。

 「……そうだな」

 短くそれだけを言うと、男はさとりの首を掴み地面に引き倒す。
ぐちゃりと背中の草が潰れ、服を滲ませていく感触がした。はだけた胸が顕になる。
済んだ空に、落とした物が幾つとなく瞬いた。さとりは潤んだ瞳でぼんやりと手を伸ばすが、もう、届かない。

 男の手が伸びる。さとりの丸めた背筋がピンと反り返り、嗚咽が漏れ出す。
怖い。気持ち悪い。逃げたい。そんな思いが、さとりの思考力を溺れた虫に襲いかかる激流のように削ぎ落としていく。
黒ずんで行く意識の中で、最低の予想よりは幾分か乱暴では無い事にさとりは安堵する。
黒く冷たい川底の中でせめて醜く浮き上がらぬよう、拾い上げたものを強く胸に掻き抱いた。
それが何で有ったかは、最早さとりにも窺い知ることは出来ない。
言葉にも成らない激情の中、このままゆっくりと沈んで行ければいいと、ただそれだけを願う。

 ――私達の歪みは、私達の物。
 ――だから、お母さん。どうか、こいしだけは……

 男の身体が全身に覆いかぶさり、さとりはぎゅっと目を瞑ってその時を待つ。
だが、何時まで待っても覚悟していた衝撃はやって来なかった。代わりに、男の全体重がずしりとさとりの小さな身体にかかる。
大型の狒々のような絶叫がさとりの心身を竦ませ、そして結果的に我を取り戻させた。

 「血……?」

 一瞬、予想以上に人間達が早く集まってきたのかと思考を巡らせる。
だがそうではなく。むしろ、この場からは痛みに呻く男以外の気配は何も感じられない。……何も? 一切?

 「こいしは……?」

 さとりはどうにか下敷きにされていた箇所から這い出して、辺りの様子を探る。
見回すまでも無く、こいしはそこに居た。手に先の尖った包丁を握り、先程まで父親だった男の背に馬乗りになって。
買い物袋の口が開いている。そこから持ってきたのだろうか。何故。何のために?

 「え、あ、あ」

 双眸を閉じてもなお見開く第三の目が、男の瞳が赤から紫に、そして青へと移り変わっていくのを視認した。
さとりは、それが死の色で有る事を知っている。死んだ母が、同じように固く瞼を閉ざしていたのを。
妹は、その刃で男の肉を抉ると、血塗れのままゆっくりとこちらを振り向いた。
その動きの何らかの感情も、最早窺い知ることは出来ない。雪のように高潔だった瞳は、じっとりと生暖かい藻に覆われている。

 「どうしたの、お姉ちゃん」
 「ああ、あなた、なんて事を……」
 「うん。これでお父さんも、きっとお母さんに会えるよねっ!」

 そう言ってこいしは返り血に染まった顔で、今、暖かい笑顔を浮かべた。歪み、狂った暖かみがさとりを照らす。
驚愕よりも先に、臓腑からこみ上げてくる吐き気がさとりの喉を焼いた。
たった一つ拾い上げた筈の大事な物すら、胸から吐き出されて大地を汚す。

 「持って行かないで……」

 最後に残った一欠片を、絞り出すかのようにさとりは呟いた。
底から眺めて居るだけだった激情が、さとりの身体を押し流し始める。

 「持って、行かないでよ……!」

 妹の手を強く掴み、無我夢中に駆け出した。こいしを気に掛ける余裕もなく、只々手を引いて逃げる。
直ぐに、人間達の声が聞こえる。見える。無数の黒い腕が、こいしを狙い木々の隙間から現れた。

 「もう止めてよ! 離してよ! もう何も、私から持って行かないで!」

 ただひたすらに足を動かす。自由へと向かう高揚感は、最早何処にも存在しては居なかった。
むしろ何処に向かおうが、大きな檻に入れられて藻掻く事に変わりは無いのだと分かる。
纏わり付く暗い風景の影が線になり、首輪と鎖となって縛り付ける。
何時の間にか、手を引いていた筈のこいしが先に立つようになっていた。
こいしは振り返りもせず、一目散に駆けて行く。さとりは手を伸ばそうとして、足がもつれ身体を闇の中に投げ出した。

 「もう……何も……」

 膝を付いたさとりを、闇はぐずぐずと飲み込んでいく。身体が腐り落ちていく安心感に虚ろな笑みが浮かぶ。

 「私は……持ってなんかいないのに……」





 「ほーう? つまりアンタは、私の『初めて』なんか物の数にも入らないと言いたいわけか」





 独白に対し答えたその闖入者は、不機嫌そうに鼻を鳴らすと飴玉大の翠球を指で天に弾き、落ちてくる所を口で掴み取った。
こいしが去っていった方角から、さとりに向かってゆっくりと歩いて来る。下を向いたままのさとりに表情は窺い知れない。
闇を切り裂くように光る緋色を揺れる髪に反射させ、やがて少女はへたり込むさとりの前に立つ。
天で無くとも、仏で無くとも。声を伝え、教える者として……縁を結び、そしてさとりへ導く者として――

 「お届け物よ、古明地さとり。――何もかも、受け取らせに来たわ」

 比那名居天子が、立っていた。


 ◆


 風が吹き上げる。

 気がつけばさとりは、どことも分からぬ崖の上で赤子のように蹲っていた。
いや、さとりはこの場所を知っている。この風を、花の匂いを知っている。
こいしの手を引き、ひたすらに逃げた先で辿り着いた場所だ。崖の向こうに登る太陽と、朝焼けに染まる空を見た場所だ。
……そして何よりも、こいしの瞳が閉じて行くのを為す術もなく眺めた場所。

 今、太陽を逆光に、緋色の空を背負い一人の少女が居る。黒く染まった髪を、嫋やかに揺らす。

 「……私が、悪いんです」
 「知らん」

 ポツリポツリと吐き出される言葉が、切って捨てられた。少女は嘆息して、緋想の剣を肩に背負い直す。

 「先に言っておくけどね、私アンタに説教する資格も、そんな気も元から無いし、自分の事棚に上げるわよ」

 比那名居天子は怒っていた。異物をカラコロと口の中で転がしながら、さとりの方を見る。
そして額と額が打ちあう程に胸ぐらを掴み上げると、強く言葉を出した。

 「これから人の話を聞こうって時になぁ、言い訳始めてんじゃねー!」

 唯でさえ怯えた様子のさとりが、更にその身を縮こませる。
ぎゅっと目を瞑ったさとりに向かい、天子は自らの唇を押し付けた。

 「……――!?」
 「……っ、はぁ……まずこれが、私の分だ」
 「あっ、あな、あなたは、何を」
 「そしてこれが!」

 驚きに口をパクパクと開くさとりに向かって、再び天子は接近する。
下顎に指を絡め突き出させ、開けた口に合わせて舌を突き入れる。「んうっ」とさとりから小さな声が漏れた。
口の中に有った丸い物がにゅるんとさとりの口内へ侵入を果たし、天子は身を離す。

 「パルスィからの分」
 「あう……あ……」

 先程までとは違う理由で顔を真っ赤にしたさとりが、へなへなと座り込んだ。
それを見て、天子は少しは溜飲が下がったと言わんばかりに鼻を鳴らす。
大きく息を吸うと、ある種の草に含まれる特有のスーと来る香りがさとりの鼻孔を刺激した。

 「ふん、パルスィの奴、何が呪いよ。ただの薄荷飴じゃないの」
 「……薄荷、飴」

 これは、同じ物なのだろうか。ならば何故そんな嘘に、覚り妖怪である自分が気付けなかったのか。
そこまで思いを馳せて、ふと気付く。天子はまだ知らないかも知れないが、地底では薄荷のような嗜好品は貴重だ。
売れ筋も良くないので、そんじょそこらの駄菓子屋になぞ置いている物ではない。

 きっと、嘘では無いのだ。

 独特の爽快感は確かに人を少しだけ素直にしてくれるだろうし、何よりこれを口に含むという選択肢が生まれる。
それは素直に成りたいと言う心の箍を外す物。呪い(のろい)で有ると言うのも、きっと間違っては居ない。
彼女は彼女なりに考えて、恩人で有るさとりの為に不器用ながらに感謝の印を示したのだろう。
……だとしても、この飴にこれだけの事態を引き起こす魔術的意味など有るはずが……

 「私、疑問なんだけどさぁ」

 さとりが思考を続けようとした時、天子はその隣にどっかりと腰を下ろした。
少しずつ日が昇り、空に蒼が混じっていく。

 「普段心の奥底に閉じ込めてる、世の中全部を馬鹿にしたくて、泣いたり喚いたりしてる『本当の自分』って奴は……
  何、それだけで人間性の全部を決めちゃう程偉い訳?」
 「それは……」
 「私は頑張ってる!」

 拳を振り上げ、天子は高々と宣言する。そのまま、勢いをつけて倒れこむと草のシーツの上に寝そべった。

 「だから私の方が偉い。絶対に偉い。……さとりだって、頑張ってるんでしょ。
  良いじゃ無い、本当の自分がなんだって。見たいって言うんだったら見せてやればいいのよ。
  ううん、そんなの本当の自分でだってない。只の裏面よ。カードに表と裏が有れば、表の方が大事なの、分かるでしょ?」
 「……そうなのかも、知れません」

 さとりもまた、それに習うように大地を背にした。緋と蒼が混じり合う空が、良く見える。

 「お燐に、家族に成りたいと言われました。本当の家族に成りたいと。
  ……どうすれば良いのかなんて分からなくて。私は酷い事をした」
 「そうね」

 天子は慰めもせず頷く。

 「まぁ、私も家族って何なのか、よく分かんないんだけど」
 「どうすれば良いんでしょう……どうすれば、良かったんでしょう?」
 「どうすれば、ねぇ……とりあえず、さとり自身どう思っているわけ。本当の家族について。素直にさ?」
 「素直に……」

 風がさああと吹いて、雲を動かした。
口から薄荷の香りが入り、鼻から抜けていく。口の中が蕩けるように甘いのは、きっと砂糖による物だけじゃない。
そんな、ふやけた口だから、弱音が吐けるのかも知れなかった。

 「……私が先に生まれなければ良かった、って思うんです。
  こいしが姉でさえ有りさえすれば、私達は歪んでいたまま居続けられた。
  姉でも有り、母でも有り。私はそれを疑問にも思わずに、素晴らしい姉の背を見て満足していられたんですよ。
  ……なのに。なんで私が、お姉ちゃんとして生まれてしまったのでしょう」

 震える手を、何かが柔らかく包み込む。少しだけ皹の残る指が、さとりに触れた。

 「こいしならずっと上手く父親の傷を癒す事が出来た!
  こいしならずっと上手く人間達の間で生きていく事が出来た!
  こいしならきっと、私なんかより素晴らしい家族を作ることが出来たのに!
  こいしなら……こいしなら、きっとこんなに強く『こいし』を妬む事は無いのよ……」

 そして何より、こいしで有れば妹の目を閉ざさせるような事はしなかった。
こいしなら。こいしで有れば。何か失敗をする度に、さとりは自らが創りだした棘に苛まれるようで。

 「……でも、それってただ、自分が支えきれなかった物をこいしに背負わせようって言うだけの話じゃないですか。
  自分が楽になりたいから、誰かに押し付けようと言うだけのIF。……そんなの、最低すぎるでしょう」

 ああ、だから私は自分がこんなに嫌いなんだと、何処かスッキリとした心でさとりは呟いた。
無意識下に有った言葉が、重しを外した事でスルリと出てきたのだろう。

 「良いんじゃ無いの」
 「……良いんで、しょうか」
 「私だって、まぁ大概洒落に成らない事したし。自暴自棄の時には色々碌でもない事も考えた。
  清廉潔白だなんて言う気は無いわよ。むしろ堕天して来たんだもの、善か悪かで言えば悪だと思うわ」

 天子は、さとりと握り合わせたままの手を天に向かって突き上げる。
キラキラとした光に照らされて、少しだけ影を作り出した。仄かに陰る、優しい影を。

 「……でも、憧れがあった。決して『諦めない』なんて格好いい言葉は使えないけど、諦め切れずにここまで来ちゃった。
  動機としては後ろ向きかも知れないけど、絶対その分はプラスなんだって最近思うようになったわ。
  ……だから、私達、ちょっとだけ最低じゃないんじゃないかな?」
 「諦め、切れない」

 その言葉は、まるで水に溶かしたかのようにさとりに染み渡っていく。

 「ああ」

 さとりは一度大きく息を吸って、そして息を吐いた。

 「ああ……」

 ジクジクと心を傷つけていた棘が、涙腺からにじみ出て折角の空を滲ませていく。
それがとてももったいなく思えて、さとりは何度も何度も袖で目元を拭う。

 「私……ちゃんと…………お姉ちゃんで、居たかったんですね……――!」

 何度拭おうと一行に視界が晴れることは無く、ただただ袖元の染みだけが増えていった。
天子は手を離すこと無く、蒼くなりゆく空だけを見ていた。

 ◆



 ザリザリ、ザリザリ、ザリザリ、ザリザリ。

 ……深い深い海の底、地を擦るようにそれは漂う。
光すら届かない闇の中、それの這いずる音だけが空間を支配する。
海中の微生物ですら存在を感じられない、死の空間。見るものが見れば、巨大な光る一本の筋が見えたかも知れない。
その怪物には、目が無かった。それどころか、口も、鼻も、触角ですら付いているようには視えない。
今、一筋の隙間から、黒いモヤが流れて闇の中に溶け込んだ。

 その黒いモヤの正体は、地底に潜んでいた怨霊の成れの果て。
古明地さとりが曲がりなりにも霊道に道祖神を想起させた事で、「はじき出された」人の怨念に、結界から逃げ、引きずられるようにして付いてきた怨霊たちの塊。
その怨念に導かれるように、それが光の筋へ向き直る。
それだけが、深い世界の中の変化だった。

 ザリ。……――

 笑ったのだろうか? 微かに気配の質を変えると、名状し難きその悪意は、谷底に光る"隙間"に貼り付いた。
そして海の底を縦断するかのように存在するその隙間を、無理矢理こじ開けて潜っていく。
大地の下に眠る熱を求めるかのように、ザリザリと巨体を捩じ込ませ。
地殻を流れる脈に乗り、悪意は急速に伝播していく。鯉が龍へと変わり行くかのように、上流へと侵蝕を起こす。

 その異変にいち早く動いたのは、主に命じられ様子を見張っていた九尾の狐で有った。





 TLLLL、TLLLL!

 「うわっ!?」

 手に持った陰陽玉が不意に音と振動を放ち出す。霊夢は驚いて、投げ捨てるようにその陰陽玉から手を離した。
宙に放たれた陰陽通信機を八雲紫が優雅に手に取る。地霊異変で使用した物の改良品だ。

 「だめよ、霊夢。物は丁寧に扱わなくちゃ。……はぁい、私だけど?」

 窘めるように注意をする声色は、普段見せる胡散なそれとも少し違う。
……だがそれも、直ぐに怜悧な張り詰めた声にかき消された。幻想郷の賢者から、表情が消える。

 「……藍か。ええ、動きがあったのね?」
 『はい。監視対象は龍脈を辿り、旧灼熱地獄から幻想郷へと登ろうとしています』
 「そう、報告ありがと。想定内のパターンで十分対処出来そう?」
 『無理ですね。これは浸透突破の為の動きじゃ無い。速い! 文字通り、まるで身を削るようだ』
 「目的……」

 龍脈とは、大地を流れる気の塊。確かにそこは結界に妨げられず侵入出来る門では有るが、同時に龍神が守護する圧力の流れでも有る。徐々に慣らして行くならともかく、一度に喰らい過ぎれば神仏とてその身を削るだろう。
あの守矢の神々とて、転移するまで少しづつ準備を行なってから飛んだのだ。龍が守護すると言う事は、それほどの権威が有る。
けれど同時に、土地としては死んだも同然の旧灼熱地獄に回る気脈は、侵入を完全に防げるほど多くはない。
故に、八雲の阻止戦略は徐々に龍脈を登ってくる事を前提にして作られている。その前提条件が、今、白紙に戻った。

 ――そこまでして幻想郷に? ……外の世界では、それほどまでに信仰心が失せているの? それとも……

 紫は空いた方の手で扇子を開き、己の口元に当てる。高速思考のサイン。
幾つもの仮説が紫の脳内で立てられては崩され、積もった砂山が削り取られるように解が導き出されていく。
……それが、答えの出る類の問題であればの話だが。

 ――ダメね、分からない。どうしたって仮定に仮定を重ねる事に成る……

 ぱちりと、扇子が閉じられた。

 「……怨みが地を汚染する以上、あのカミを幻想郷に入れることは出来ない。強硬なお客様なら、尚更ね」
 『カミとして……認めますか、あの者達を』
 「最悪の状況を常に想定しておくべきよ。現実と言うのは時としてその斜め上を行く。
  ……返答は要らないわ。"バックアップ"としての勤めを果たしなさい、藍」

 返事を待たず通信を断つ。その時、伸びてきた腕にパシリと通信機が奪い取られた。
紫は芝居がかった仕草で頬をふくらませ、わざとらしく霊夢に非難の目を向ける。

 「ちょっと、霊夢ぅ」
 「……あんたがそうやって必要以上におどけて見せる時は、大抵少し焦ってる時よね。
  キリキリ吐きなさい、紫。何をするつもり? これから何が起きるの?」
 「あらあら、分からない? 修行が足り無いわよ、霊夢」
 「紫!」

 鋭い眼差しが胡乱な妖怪の目を射抜く。紫は薄く笑うと、霊夢の頭を撫でた。
地霊殿。その平たい屋根の上に、霊夢、翁、そして紫の三人は立っている。
あたりは無風。灰のような、少しだけツンと来る臭いが残り香を漂わせていた。
紫は視線を動かす。中庭では、未だ旧灼熱地獄に続く道が不気味に口を開け続けている。

 「空は、空の果てまで続いている。ならば大地は? 地の底は何処まで続くのかしら」
 「……禅問答? 私、専門外なんだけど」
 「そのままの話よ。同じく、何処までも続く。幻想郷は隔離された楽園では無いの。妖怪が妖怪らしく居ると言うだけの土地。
  だからこそ、私にはここを守るべき責任が有る。賢者として、そして番人としてね」
 「話が、見えない!」
 「纏めて話すわ。今からね」

 紫は日も無いのに日傘をさし、結い上げた髪から覗く白いうなじを表情と共に霊夢から隠した。
ゆっくりと歩み出でた翁が、同じ方向を向いて八雲紫の斜め後ろに控える。
霊夢はジクジクとした焦燥感に襲われた。何かこの妖怪は、取り返しのつかない事に手を出そうとしているのでは無いか。

 「あんたねぇ……っ!」

 TLLLL、TLLLL!

 食って掛かろうとした霊夢を、二回目のコールが静止させる。
霊夢は苛立たしげに舌打ちをすると、むんずと掴んだ通信機に向かって唾を飛ばすように話しかけた。

 「もしもし! 誰!?」
 『……いきなりご挨拶ですね、そっちから呼びつけて置いて』
 「閻魔様? どういう事よ」

 不機嫌な声。あの几帳面な閻魔が通信機から耳を離して嫌な顔をしている図が、不思議と容易に想像できた。

 『地底に居ると言うことで私が呼んだんだ。念の為、火焔猫に同じ物を渡しておいたからな』

 そしてもうひとつ。今度はやや低い、ハスキーな声が通信機から聞こえる。
 「混線?」首をひねり、霊夢はカンカンと陰陽通信機を叩いた。『こら、やめろ』と言う声が伝わってくる。

 「霊夢、藍。そして閻魔様も。お手数だけどご拝聴頂けるかしら?」

 パシン、と紫が手を叩いた。それだけで弓が鳴るように辺りの空気が変わり、苛立っていた霊夢も黙して紫を見る。
未だ幻想郷に背を向け、傘で顔を隠す八雲紫を……――


 ◆


 「……無茶よ」

 四季映姫が呆然と呟くのを、生気の薄い瞳でお燐は見つめていた。
普段は両サイドで跳ねる三つ編みが、片方ほど解かれている……リボンピンに仕込まれた通信機を四季映姫に渡して居るのだ。
こちらから通信を繋ぐ事は出来ず、向こうからしか繋げないらしいので、お燐としてはなんとなくイヤな気分になる。
「念の為」と押し切られて渋々持っていたものだが……よもや、活用する時が来るとは思わなかった。

 「待ちなさい八雲紫……八雲紫!」

 静止するものの、通信は断ち切られたようだ。力なく投げ渡された物の向こうから、ツー、ツーと言う音が聞こえてくる。
お燐は苦しげに身を起こし、苦々しく表情を作る四季映姫に向かって声をかけた。

 「何が無茶だって言うんです、閻魔様」
 「……八雲紫は、荒ぶるカミの侵入を防ぐため……幻想郷を、『博麗大結界』を歪めるつもりだ、と」
 「大結界を? おいおい、そりゃあ……なんだ、その」

 完全に腰を落とし、杯を傾けていた星熊勇儀が立ち上がる。
同様に、思い思いに肩の荷を下ろしていた者たちも注意を向けた。

 「例え一時的であれ、もし大結界が消失するような事が有れば、人口に膾炙していない大部分の妖怪達が消える事になる。
  八雲紫は、その可能性を懸念しているのでしょう」
 「そりゃまた妬ましい事だけど。その方法について詳しい話を聞いても良いのよね?」
 「……まず、私の属する『彼岸』や『天界』が、厳密には幻想郷で無い事は分かりますか?」

 地底の妖怪達は一斉に首を捻るが、この説明は永江衣玖が続けた。

 「そもそも、死者、あるいはそれに属する者たちの世界と、幻想と言えどこの世に生きる者たちの世界は区切られています。
  最近は一括りに纏められる事も多いために、限りなく近づいた上何処ぞの巫女が幽冥結界を解除したりしましたが……」
 「……そうか! と言うことは、地獄も!」
 「勿論、幽冥の向こう側、という事になります」

 彼岸の役人である閻魔は、大きく頷き話し手を交代する。

 「その『区切り』自体は八雲紫がその気になれば何時でも引き直せる、という訳なれば。
  八雲紫は、その区切りと『博麗大結界』の間に空白地帯を作り、そこで荒ぶカミを撃退する気のようです」

 要は吸盤が壁との間に真空を作り出すような物だ、と説明は続く。
カミの祟りを受けた大地は呪念に染まり、作物は腐り落ち人妖は病に冒される不毛の土地に成る事も有るという。
それを防ぐため、多少強引な手段を用いてでも幻想郷へは侵入をさせないつもりなのだ。

 「……それは……えーっと、どうなるんだい。その空白地帯ってのは……」
 「文字通り空白ですよ。生でも死でもない、幻想でも外界でも無い。強いて言うならば、正しく『隙間』。
  私達を存在させる『畏れ』も、人が生きる為の『現』も何も無い、無の空間ですよ」
 「独壇場って訳ね、妬ましい……」

 今更では有るが、この場に居る面々は「災い」については既に永江衣玖から聞き及んでいる。
各々が腰を下ろしながらもこの場を離れないで居たのは、未だ天子とさとりが行方不明なのもあるが……
確かに冷ややかな空気は消えたはずなのに、それを遥かに凌駕する圧力のようなものを、地の更に底から感じ取っていたからだ。

 「結界を歪ませるというのは分かったけどさ、博麗の巫女だけで大丈夫なのかい?」
 「それは……確かに疑問ですね。博麗大結界が出来てから、そのような儀式の話は聞いた事も有りませんし。
  元々、結界と言うのは道具、あるいは森や山を依り代とする物が多いですから。
  どちらもアテが無いこの地底では、それだけ大規模の術の行使はかなり難しいのでは?」

 勇儀が、衣玖が、それぞれの疑問を口にする。
お燐は辛うじて上半身を持ち上げた体勢で、ぼんやりと自分の事を考えていた。

 ――結局、只のあたいの我儘だったのかな。

 本当の家族になりたかった。その気持ちは嘘では無い。けれど、「さとり様の為に」と思ったのは、嘘かも知れない。
何処かで失敗して死ぬかもしれないと言う事は覚悟していた。けれどこんなにも拒絶されるとは、思っても居なかった。
そして思い悩む暇すら無く今度は幻想郷が歪むと言う。さとり様はまだ、見つかっても居ないのに。

 「……依り代ならば有りますよ。先程からずっと、この場に」
 「何だって?」

 四季映姫は皮肉げに、あるいは自嘲気味に笑いを浮かべる。


 「元より地蔵菩薩とは、道祖神と同じく結界を張るもの。そして私は白と黒を分ける、地蔵菩薩をルーツに持つ閻魔大王。
  ……大結界を歪める依り代にこれ程相応しい物は、幻想郷中を探してもそう居ないでしょう」


 その言葉を聞いた時、今度こそお燐は戦慄した。

 ――何故、さとり様は自らの殻に篭るほど、追い詰められたのか? ……何故、今この場に博麗の巫女と閻魔様が居るのか?
 ――何故、自分はさとり様に話を聞いて欲しかったのか? ……何故、比那名居天子と言う客人が、地霊殿にやってきたのか?
 ――何故……なぜ?

 何か、大きなうねりが一本の紐として結い上げられていくような、予感とも違う幽かな閃き。
何かに組み込まれている。何かが喉元にまで食い込んできている。何か。致命的な何かが。
だがしかし、肝心のその正体が掴めない。これは、本当に八雲紫の操る"糸"なのか?
少し違う気がする。ふと、鼻孔を線香の臭いが擽っていった気がした。何処かで嗅いだ覚えのある臭い。でも何処で?

 「ねえ」

 彼女に似合わぬ難しい顔をして、ここまで一度も声を発さなかったお空が声を上げた。

 「出来る事は、分かったよ。分かんないけど分かった。それで、さとり様はどうなるの? 天子は?」
 「……それについては、私にも分かりません。今もまだ、地霊殿の何処かに居るのか……
  あるいは、死者の世界にほど近い所まで堕ちて行っているのか」
 「そっか。じゃあ、助けに行ってくる」
 「は、はい? ちょっと待ちなさい」

 あの閻魔ですら、呆気にとられて言いよどむ。白いマントを背負った黒い翼を大きく広げる友人を、焦りお燐は呼び止めた。

 「お空! 何処に行くのさ!?」
 「だって、お燐が難しい顔してたから!」
 「だからって……」
 「やくもゆかりって人が居るんでしょう? その人に直接会って、聞いてくればいいんだ!」
 「何を言ってるのか判ってるのかい!? 大変な事が起きるんだよ! もう、時間が無いんだ!」
 「だから聞きたいの! きっとお爺もそこに居るんでしょう?」

 高く唸る炉心音を上げながら、地獄鴉の全身から熱気がほとばしった。紅く紅く瞳が輝く。その意志の輝きを示すかのように。

 「やっぱり、私馬鹿だもん。分からないのは諦めたよ。……でも、分からないからって諦めちゃ駄目なんだ。
  お燐が戦って傷ついたなら、私はさとり様の傍に行くために、頑張らなきゃ……ああんもう、上手く言えないよ!」
 「お空……」
 「私、悲しかったよ。やっぱりお燐とは戦えなかった。だけど、さとり様と戦うことも出来なかった。
  だから今戦いに行く! これってなんて言うんだっけ?」

 お空はホバリングを続けながら首をひねる。「知らないよ!」お燐は笑った。

 「行かせて良いの? 閻魔様」
 「……行かせるしか、無いでしょう。それとも力づくで止めますか?」
 「確かに、それは御免ですね。……それに何だか、少しだけいい方向に雰囲気が変わった気がしますよ」

 緑のギョロリとした目を、パルスィは天女のような妖怪に向けた。永江衣玖は相変わらず涼しい顔で、これを受け流している。
パルスィは爪を噛むフリをしながら鼻を鳴らす。

 「……空気を読む程度の能力って事? 妬ましい……」
 「いえ、女の勘です」
 「この場に居るのは全員女でしょうが」
 「だとしたら、この場で私が一番"女"なのですよ」

 これに驚いた顔をするのは星熊勇儀で有った。ぎょっとした表情で清楚そうな女性の横顔を見る。

 「そ、そうなのかい?」
 「いえ、言ってみただけです。良い人居ませんかね」
 「うぉい!」
 「冗談ですよ」
 「……何処から何処までがだよ、おねーさん」

 良く分かっていない顔のお空を除き、全体からガッカリと言ったような雰囲気がにじみ出してくる。
お燐は、たまらずに吹き出した。茨のように縛り上げられていた痛みが、仄かに薄れている。
そのまま自らを縛り付ける棘を引きちぎるかのように身体を震わせて、きょとんとした顔のお空を見つめ直した。

 「……行ってきな」
 「うん」
 「さとり様、ちゃんと連れ帰ってくるんだぞ」
 「うん! 行ってきます!」

 そしてお空は高く高く飛翔を開始する。夜の帳を明かす太陽がそうするように。
あるいは太陽を導く龕灯を持った鴉がそうで有るように、ドォンと爆音を鳴らして飛んでいく。
お燐は親友のその姿を見て、何故かあの髪の蒼い少女を思い出した。嬉しそうに我儘を言う、ふてぶてしい姿を。

 「そうだよな……たった一回で諦めてどうするってのさ」

 無我夢中で託した言葉が、今どうなってるかは分からない。
けれど、このままここでこうやって、膝をついていては絶対に伝わらない筈の言葉。
凍りついた関節が悲鳴を上げようが、無理矢理に体を起こして立ち上がる。今はほんの僅かでも、親友に近い所に居たかった。


 ◆


 「結局、何処から何処までがお前の筋書き通りなのかな、八雲紫」
 「筋書きだなんて」

 灯りを全て落とし、それぞれの眼と浮かぶ半霊が仄かに光るだけの地霊殿。
渋る霊夢を半ば無理矢理に追いやった八雲紫と翁は、暗闇の中黙々と灼熱地獄へ降りて行っていた。
河童の取り付けたナトリウム灯が弱々しく、作りかけの螺旋階段を照らし出す。
より深く、より巨大に。幻想郷全土のエネルギーを支配したら、核管理施設をここへと移す計画なのかも知れない。

 ――神をも恐れぬとはこの事かしら。

 紫は一瞬そう考えて、あまりの馬鹿馬鹿しさに自嘲気味な笑みを漏らした。
その計画の管理者こそが神で有るというのに、まったくもって阿呆臭い。

 「四季映姫に博麗霊夢。都合のいい事に普段滅多に地底ではお目にかかれないだろう手札が揃っている。
  さらにこの上、地霊殿では結果的に全ての住居者が避難を完了。近づこうと言う者もおらんじゃろう。
  生半可に事情を知る者で有れば、全てお主の手柄と思うだろうよ」
 「このまま、死者の誰一人として出ること無く終わればね」

 衝撃が殺せる程度の速度を保ち、深き闇へと落ちていく。八雲紫は淡々と言葉を紡いだ。

 「万全を期すなら、足りてない手札なんか幾らでも有るわよ」
 「ほう、例えば?」
 「草薙の剣」
 「天叢雲剣? 確かに無茶な難題だが……いや、有るのか?」
 「ええ、この幻想郷に」
 「なんと……」
 「興味ある? 普段頑なに、『分相応』とかほざいて数打ちしか使いたがらないのに」
 「む、いや……その通りだ。儂には未だこの程度の刀が似合っておる。神刀妖刀の類に頼るのは、一度きりで良い」
 「そう」
 「……興味が無いと言えば嘘に成るが」
 「そう」

 遥か足元に、血のように煮え立つ溶岩が見える。もう少し行けば、灼熱地獄跡……死者の世界へと入るのだ。

 「まぁ、安心していいわよ。今の草薙の剣の持ち主は、貴方よりも更に相応しくない男だから」
 「持ち主が分かっておるのなら借りに行けばいいじゃろ。その話ぶりだと知り合いの某なのだろう?」
 「使える人間が居ればそうするんだけどねぇ」
 「武器や防具は装備しなければ意味が無い、か……」
 「そういう事」

 そして二人はゆっくりと、魔法陣で形作られた足場の上に降り立った。
死者と生者の境界の、丁度中間……文字通りの死線として、たった二人の結界を敷く。

 「守るべき結界を歪ませ、使える物を全て使い、それで……結局の所勝算は幾ら程なのだ?」
 「……さぁね。考えても仕方の無い事を考えるのは、好きじゃないの」
 「好きじゃなくてもやらなければ成らない。大変だのう、仕事と言うのは」
 「例え勝ち目が無くとも、最善を尽くして幻想郷を守らなければ行けない。私の愛した、幻想の為に」
 「……変わっとらんなぁ、格好つける癖は」
 「それが好きじゃなきゃやってられないわ。全てを裏で操る黒幕なんて」

 八雲紫は、中空に隙間を開きその中に腕を差し込み、何やらを弄り回す。
普段より随分と素に近い……いや、「余裕の無い」紫を見ながら、手持ち無沙汰に翁は思案する。

 ――こやつほど、表情の一貫しない賢者も珍しかろうよ。

 胡散な妖怪としての顔、冷徹な管理者としての顔。親しい者達に見せる顔。そしてほんの時折見せる、慈母のような顔。
魂魄妖忌として過ごして居た頃も含めれば、一応それらの顔を全て翁は見た事が有る。
どれが本物かと言われれば、その全てが八雲紫で有り、その全てが八雲紫で無いとしか言い様がなかった。
それは何年生きようが、男の妖忌には到底理解できない物なのかも知れない。
唯一つの目的に他を切り捨てて生きる刀にとって、全てを抱えて生きる大樹は世界の有り様からして違うのでは無いだろうか。


 ……一度だけ、聞いた事が有る。幻想入りした直後の吸血鬼が暴れ回り、数多の妖怪や人間を眷属にし、支配下に置いた。
あわや大合戦と言う所で、紫は何の防御手段も講じず吸血鬼の首魁に会いに行き……和睦を締結して見せた、その夜に。
何故そうも軽々しく、命を天秤に乗せる事が出来るのか? その献身は何処から来るのかと。

 ――『お主で有れば、この場所で無くてもどこでだろうと生きていけるだろうに』

 そう聞くと、隙間の妖怪は僅かにはにかみながらこう答えた。

 ――『愛されたいと願うのは可笑しいかしら。この歳の女が、愛したいと願うだなんて……笑ってしまう?』

 月を見上げながら答える八雲紫の、頬が僅かに紅潮して見えたのは……赤き月の光の仕業だっただろうか?
今はもう分からない。スペルカードルールが――妖怪と人間が『遊ぶ』為のルールが制定されてから、
彼奴の式として戦う機会も滅多に無くなった。刀は最早、時代遅れの象徴と言って良いのかも知れない……


 「そういう貴方は良いの? こんな所で、志半ばに死ぬ事になっても」
 「構わんさ。その時は、所詮儂が志を果たす器で無かったと言う事だ」
 「怖い癖に」

 そう言う八雲紫の口には、人を誑かす為の笑みが刺さっていた。
さて、何がだろうなと翁は考える。これから戦うであろうカミか、あるいは志の先に待つであろう争いか。

 ……「想起」を初めて食らった時の事を思い出す。何十何百もの桜と、その中心に位置する西行妖。
そして才気溢るる姿に成長した己の孫が、老いた剣士に白刃を突きつけていた。

 ――『私の「幽々子様」は殺させない』

 短くそう告げた幻影を、人鬼は。
嗤いながら、たたっ切った。

 「恐れる、か」

 死んだ女を生き返らせたら、死んだ女は何処に行くのだろうか。
孫は生前の女を知らない。恐らく知る気も無いだろう。死んだ後のあの女に、良く懐いていた。
何もかもが上手くいった最後には、争う時が来るのだろう。たった一つの器に入れる、中身を選ぶための争いを。
少なくとも、相手は神に近しい者だという。ならばここでなら彼の桜を断ち、死の縁を絶ち、神の領域へ至るための強さが判るのではないだろうか。

 「馬鹿な、武者震いよ」
 「なら良いんだけど」

 紫は蛋白に言葉を返すと、スキマに身を翻し重力に逆らった姿勢で下方を見下ろした。
服や髪も大地に引かれ落ちて行かないのは、高度な計算能力でスキマ内に何らかの処理を起こしているからだろうか。

 「そろそろよ」

 珍しく、ほんの少しの緊張を滲ませた声で、八雲紫は呟き……――


 ドォンッ!


 ……つみさく轟音と、パラパラと落ちてくる砂埃に、顔を顰めた。

 「上じゃの」
 「……」

 やや憮然として帽子の上に付いた欠片を払う紫の頭上に、爆発の原因が光の尾を引いて飛び込んでくるのが見えた。
速度による急激な圧力の変化で水蒸気が雲と成り、白き軌跡が生まれていく。

 「うーにゅー――っ!!」

 雄叫びのような、意味の分からない言葉が二人の鼓膜を震わせる。
紫と翁はやや呆れたように金色の光を放つ八咫鴉を見上げ、


 ――その、輝かしい某に僅かに気を取られた一瞬で有った。


 「「「「「「「DAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMNNNNN!!」」」」」」」

 大地が、鳴動する。
聞く者の心が絶望と、怨嗟と、恐怖で塗りつぶされそうになる程の悲鳴が、天まで呪えと言わんばかりに響き渡る。
明滅する溶岩の影から"見計らったように"湧いて出てきた黒い濁流が、その波飛沫の一つ一つに苦悶の表情を浮かべつつ
狭間に立つ緑衣の老剣士と隙間に潜む妖怪賢者を飲み込んでいく姿を、遥か上から霊鴉路空は呆然と見ていた。
……その「遥か」の距離すら、刹那の間に間欠泉のように吹き出した漆黒が塗り潰していくのも、また同様に。

 「――ッ爆符『メガフレア』!」

 本能的に取り出した一枚のスペルカードが、結果的にお空の命を救う。
ほんのコンマ秒程の差で生まれた爆発的な熱量が、辛うじて濁流の僅かな部分を消し飛ばしお空一人が潜める程度の影を作る。
同時に空の全身からガクリと力が抜け、纏っていた金色の光が霧散した。
お空には分からぬ事で有ったが、霊夢と映姫が術式を作動させ「幻想郷」の仕切りを動かしたのだ。

 「「「「「「「DAAAAAAAAAAAAAAMMMMMMMMMMMMMMN!!」」」」」」」

 七方を囲まれて、初めて空は先程まで飛沫の一つにしか見えなかった物が人間の頭部大をした怨霊で有る事に気が付いた。
その怨霊達は、おくうの吐き出した弾――単純な熱量の塊で有るため消失には至らない――には目もくれず、
一目散に大結界に群がろうと上がっていく。

 そして同時に、これ以上無く黒に染まった周囲から、気の狂いそうに成る程の声が浴びせられた。
それは、生への嫉妬。活力溢れる空への執着と誹謗が、山すら揺らすほどの声量で一斉に叩きつけられる。
空は必死に耳を塞ぎながら、精神が黒く塗り潰されていくのに歯を食いしばって耐えていた。
自分の中のほの白い何かがより際立って見える。いいや、それは確かに自分の物という感覚が有ったが、同時に何処か遠い。
ガラスのように鋭く淡い破片。藁にすがるような気持ちで、空はそれに手を伸ばす。

 ――『くそっ、小さいのは取り逃がした』――
 ――『構わねえよ、親鳥だ! 久しぶりに肉が食えるぞ!』――

 暗闇の中マッチを照らすように、怒りと恐怖に涙を湛えながら逃げた、あの日の記憶が蘇った。

 ――『よお、お互い無事だった事を喜ぼうじゃないか。ここなら多分、安全だよ』――

 やがて親友となる黒猫と、初めて有った時を思い出す。

 「何これ? ……なんだか、さとり様の能力に似てる」

 強制的に思い出させられる感覚をそう理解しながら、空は次の声を聞く。

 ――『……そうね、貴女の名前は「空」にしましょう。……言い難い? うーん、じゃあ、呼び名はお空よ』

 言葉も話せなかったあの頃に、拾い上げてくれた暖かな手。
少し皹の残るあの手に撫でて貰える事が、空の幸せであった。

 ふと、後ろを振り返る。影に照らされて、砕けた光の粒が己の紡いできた道を形作っていた。
チラチラと目に焼き付くその道は、お空が思っていたより随分と長く伸びている。

 「そうだ! 聞きたい事が有ったんだ」

 お空は俄に焦りを覚えた。本能的に迎撃行動を取ったものの、今のは一体何だったのだろうか。
空中だというのに地に足が付く感触が有る。自分は一体何処に連れて行かれたのか? あの二人は?
ジリジリと焼け付く熱に当てられて前を向いた。闇の中を三本足で金色の、淡い輝きを放つ鴉が飛んでいる。
その顔に目は無く、代わりに胸元に大きな赤い瞳が付いていた。三本の足で龕灯を抱えたその姿に向かい、一歩踏み出す。

 ――『『『助けてくれ』』』――

 辺りの黒い暗闇の中から、神に捧げる無数の祈りが聞こえた気がした。

 ◆

 ――ブォン!

 怨霊迫り上がる中庭の大口、低い音を響かせて空間に目が開く。
涙の一滴のように、瞳の中から法師服とドレスを割ったような服装の女が滴り落ちた。

 「……全く、あれだけ警戒していたつもりでこの始末。平和ボケって嫌になりますわ……ね!」

 帽子のフリルも無造作に、手をゆっくりと振って女は再び荒ぶりしカミの渦の中へ落ちていく。
出てきたばかりのスキマから、幾つかの光弾が後を追うように発射された。

 ブォン、ブォン、ブォン、ブォン。

 特徴的な音を立て、また数個のスキマが開き光弾がそれを追う。
その数個の光弾を追いかけ、また数個ずつの光弾が。数個づつの光弾を追いかけ、更に数個数個の光弾に、
数個、数個、数個、それは既に千に、そして万に。

 ブォ、ブォ、ブォ、ブ、ブ、ブ、ブ、ブ、ブブブブブブブブヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴ――

 音は振動に。光弾は軍勢に変わり、それはさながら蟲の軍勢が響かせる羽音の如く……

 「――幻巣『飛行虫ネスト』!」

 光の嵐が、丁度円筒を登る形と成っていた黒き大波を押し留める。
深き霧の身体を蝗のように食い散らす中、それでも尚クラスター化した荒御魂が四つ五つと上を目指して這い上がっていく。

 「「「「「「「DAAAAAAAAAAAAAAMMMMMMMMMMMMMMN!!」」」」」」」

 表面をボロボロとこそぎ落とされながら、怨霊の塊は一つの貌と成って現世へと足掻く。
未練を込めた蠢きは、針に刺された程度の痛みでは止まる事を知らないらしい。
紫は舌打ちを一つ、僅かな間に逡巡する。クラスターの数は五つ。飛行虫ネストを展開したまま凌げるか?
現状の火力を集中すれば、五つ殺しきる間に十を産む隙が生まれる。却下。
さらに飛行虫の密度を増やすか? ――計算。現速度では展開中のスキマを通り抜ける迄に削り切れない。却下。
藍は? 不足の事態への備え、それに"万が一"の際のバックアップに欠損の可能性。保留。
本体での直接攻撃。計算? いや、いや、時間が無い。この逡巡の間すら惜しい。消去法的に承認を提案。――採用。

 ダンッ!

 降り注ぐ光の雨の中、紫は超反射的な自動演算(オートパイロット)と己のアナロジーな直感に身を任せ空を蹴る。
空力、ベクトル反射結界、弾幕から受ける反作用すらも利用して、亜音速に到達した身体でクラスターの内一つを打ち据えた。
スキマ移動は使えない。高度な演算能力を必要とするあの能力は、短距離、しかも雨霰のように降り注ぐ光弾の中では相性が悪い。
符号変換(エンコード)に必要な時間が移動時間に勝っては意味が無いのだ。
今必要なのは、速度! 絶対的なニュートンの力!

 ダダンッ!

 「二つッ!」

 趣味じゃないわね、と毒づきながら、紫は今しがた四散せしめた魂を踏み台に次なる目標へ追いすがる。
残りは三つ、急制動によって人間が耐久可能な数十倍のGが小刻みに掛かる。慣性無視の影響だ。
口角が歪む。長らく錆びつかせていた脳髄がオーバークロックの熱に悦びの悲鳴を上げている。
秒間に千を超す着弾音が、血を沸騰させる程のビートを刻む。

 「三つっ!」

 そうだ! 殺せ! 喰らえ! 弾幕決闘では決して踊らぬ舞闘に、眠り付かせていた古き妖怪としての本能が疼き出す。
人心を貪る悪魔のように、瞳を朱く朱く光らせながら、隙間の女が叫び声を上げる。
争え! 争え! 争え! 争え! 人間よ罅割れろ、世界よカチ割れろ! 其処にこそ隙間は潜む! 妖怪は潜む!
救済に巣食いし寄生虫共が、我が守護に食らいつく等と千年早い! 其の遺志、三千世界にばら撒いて永遠の闘争を

 「っ、違う違う」

 ――落ち着け。何を考えている、私は。冷静になれ。敵を見据えろ。
 ――八雲紫は久しぶりに身体を動かした程度でハイに成るような子供か? 賢者だ、賢者たれ。……ほら、目の前!

 DAAAAMMMMN!

 四つ目のクラスターが、紫の打ち下ろすような掌底に核と成る魂を貫かれ、散り散りになった後光弾に喰らい尽くされ消失。

 「最後ッ! ……このペースなら、ギリギリ……!」

 僅かに残る動揺を押し隠し、顔を振り上げたその時だった。
顔半分を飛行虫に貫かれ消え行くのみだったはずの怨霊達が、恨みを募らせ紫へ縋り付く。
勿論、その程度の霊障で大妖がまいる筈も無いが、酷使された物への僅かな一押しには足りてしまう。
その脚、再び空を蹴る筈だったほんの数センチのヒールが、甲高く音をたて割れて砕けた。

 「なっ!?」

 先も行った通り、八雲紫の戦闘速度は今や音速の域に達している。
ましてやその優れた演算能力の大半は、飛行虫ネストへの処理に回されていると言っても過言では無い。
……結果的に、その数センチ、されど絶対的な距離の壁が、八雲紫の前に立ち塞がる。
再計算。ルート再測定。だけど、足りない。あのクラスターが直撃すれば、飛行虫ネストがスペルブレイクするには十分な。
そうすれば、折角押さえ込んでる本隊までもが、再び上昇を開始する!

 「ちぃぃッ!」

 不恰好に、無作法に、靴紐が千切れ飛び外れかけた片靴で、それでも八雲紫は強く強く加速した。
無理だと叫ぶ思考も蹴り飛ばし加速度に変えて、蠱惑的だった白いストッキングの先端から血を滴らせ爪を割る。
形相は既に般若の如く、光弾を弾く結界も最小限に変えた為ドレスは至る所が裂け綻び始める。
荒々しく結界を蹴り飛ばすその音は、あろうことか怨霊達の雄叫びとよく似ていた。

 ――届いて……!

 しかしここまで来れば、目視ですら分かってしまう。拳の先は、僅か数センチ。されど、指を開いても届かない距離。
蜘蛛の糸を掴む罪人のように伸ばされたその手の先で、……桜色の光が、縦横無尽に奔った。

 「二百由旬、一閃にて断つ」

 八雲紫の伸ばした腕と交差するように振り抜かれた剣閃が、悪逆の魂達を切り散らす。
刀の切っ先がほんの僅かに紫の目元やや横皮を切り裂いて、一文字の傷を作り出した。

 「すまん、少し手間取った」

 桜の霊気にてクラスター最後の一つを爆散せしめた老剣士が、悪びれもせずに刀身の歪んだ刀を捨てそう言った。


 ◆


 「全く、信じられませんわ!」
 「信じられんのはお主の方だろうよ……」

 赤く手形の付いた頬をさすりながら、翁は呆れたようにぼやく。
紫が新たに渡した刀は、既に鞘から解き放たれその腕に収まっている。

 「乙女の顔に傷を付けたのだから、その位当然の代償ではなくて?」
 「痕も残らんくせによく言うわい」
 「そういう問題じゃ無いの。朴念仁ね」
 「おかげ様でな」

 光弾降り注ぐ先で、怨念達が喘ぐ。憎い憎いと叫ぶ声が反響しあい、低く唸る恐ろしい声へ二人は視線を動かす。
死人の顔らしき物が膨れ上がり、弾け、まるで泡立つようにゴボゴボと。

 「押さえ込めている……訳では無いじゃろうな。随分と話が違うようだが?」
 「魂の数が増えれば増えるだけ、意識は混濁し動きは原祖のそれに近く成る。
  荒御魂の祟りとは、即ち自然災害のような物……の、筈だったんだけど」

 次第に、泡から弾き飛ばされた黒き弾が飛行虫ヘ打ち返され相殺した。
表面が沸騰したように波立ち、幾つも幾つもの弾が幾千の呪言を睦ぎ合うかのように打ち返される。

 「「「「「「「DAAAAAAAAAAAAAAMMMMMMMMMMMMMMN!!」」」」」」」

 白き雨と黒き唾は次第に拮抗し、まるで壁のように境界線を引いていく。
その様子を確認し、紫は忌々しげに眉を顰めた。

 「……奇襲の件と言い、間違いなく"司令塔"が居るわね、これは」
 「亡者としての性質に囚われず、己の遺志と怨念でハッキリと幻想郷の門戸を叩く核が居る、と言う事か」
 「軽く見積もっても万を超えるであろう祀ろわぬ魂達を纏めて?
  ……それじゃあもう、成りかけのカミのレベルを超えてるじゃない……」

 紫は、これでも未曾有の危機だと認識はしていたのだ。
していたが、それでもあしらうだけあれば八雲単独でこなせるだろうとも考えていた。
守矢……それも分り易い利益で交渉の口を開ける八坂はともかく、あのミシャグジ様の巫女に頼る事は、成るべくなら避けたい。
あの神は危険だ。強大な存在で在りながら、余りにも「負け慣れて」居る。
勝負に負ける事を良しとして、そこから幾らでも利益を得る。紫の経験上、そういう手合いに借りを作る事は最も避けるべき事だ。

 ……だが、彼女こそ、幻想郷で唯一の祟りの専門家と言っても良い存在で有ることに変わりは無い。
悪は巨悪に喰らわれる。たかが"なりかけ"程度の祟りなぞ、本物の大蛇にかかれば纏めてひと呑みにしてくれるに違いない。
しかしそれは同時に、あの最凶最悪の祟り神に八萬の魂と言う贄を与えるに等しいのだ。
渡すのが自身のプライドだけで有るならば幾らでも譲ろう。だがそれが、直ぐには引かないと分かっていたとしても、
幻想郷を滅亡させるだけの威力が有る銃の引き金で有ったとしたら……?

 ――どうする。今直ぐにでも守矢に藍を向かわせるべきか、否か。

 白と黒の境界は、じわじわと後退し迫りつつ有る。
人鬼は幾つか当たり損ねた流れ弾がこちらに向かって襲い来るのを剣風で散らすので手一杯。
飛行虫は既に制御出来るギリギリの数まで増やしている。耳から粘ついた血が溢れ、たらりと垂れた。

 ――「奥の手」は確かにまだ残して有る。……切るの? こんな段階で?
 ―― 一応用意はして有るけれど、ただの虚仮威しよ? 相手に意思が有ると分かった以上……むしろ悪手よね。
 ――意思……核となる物か、せめてそれさえ分かれば……

 射出と射出の間、紫は僅かなひずみの中で思考する。
神算鬼謀のその知能も、大半の能力を処理に食われており今の思考速度は常人程度。
次の一手が霞がかったように見えぬまま、ジリジリと刻限が迫る。


 TLLLL、TLLLL!


 機械的な清涼さを含んだ音が、淀んだ空間に響き渡った。
何処か間が抜けたとすら言える異物感に、翁はおろか紫自身ですら一瞬不愉快気に瞳孔を閉じる。
だが直ぐに「緊急の要件」の為に通信を開けっ放しにしておいた事に気が付いた。
状況が状況ゆえか、ザザ、ザザと砂嵐混じりのツートン音が、やがて言葉を為していく。

 『あー、あー、紫? 聞こえてる?』
 「……霊夢?」

 そういえば、陰陽玉型の通信機は霊夢に返していたのだったか。
しかし、なぜ今になって。この規模で大結界を歪める作業は彼女や閻魔様に取っても相当の大仕事の筈。
事実通信越しの彼女の息は荒い。まさか、博麗大結界に何か起こったのか? 

 『とりあえずこっちは順調に済んだわ。閻魔様が石みたいに動かなくなってる』
 「……そう。それならばそれで良かったわ。また何か頼むかもしれないから、それまで待機してて……」
 『あんたにゃ正直、言っても言い足りない事が山ほど有るんだけどさぁ』

 紫は苦々しく顔を作った。案外自己主張の強い巫女である。それ程に置いていかれた事を気にしているのか。
だが、幻想郷の外で戦わなければいけない以上、幻想郷に不可欠な霊夢がこの場に居る事はむしろ足手纏いに成りかねない。

 「後にして頂戴。戦闘中なのよ」
 『一言だけよ』
 「だから……」
 『バカガラスどうなった? 私とすれ違ったの見かけたから、そっち行ったはずなんだけど』
 「カラス? あぁ……あの娘」

 思えば不意を付かれたのは、彼女が飛び込んで来た時であった。
もっとも、相手が機を見てくると言う発想がなかった以上、それはこちらの落ち度で有るのだが……

 ――姿が見えないと言う事は、既にあの中に飲み込まれでもしたか? そうなれば到底無事では居られまい。

 「霊夢、残念だけど……」

 そう、告げようとした時だった。
キンと眼の奥が痛み、反射的に目を閉じる。僅かだが鮮やかな光が、幽闇の底から一瞬だけ目に飛び込んだ気がしたのだ。

 『紫?』

 その光源を探す紫に、とぼけたような霊夢の声が聞こえる。

 「……そうね、貴女の言う事が無駄な訳無いものね。気にしてみるわ」
 『なによ、素直ね。まぁあんまり無茶するんじゃないわよ? ちゃんと戻ってきたら一発殴らせてもらうんだから。それじゃ』

 ブツリと音を立てて、通信が切れる。紫は苦笑して、先程見えた光の正体を探ろうと目を凝らす。
全てを呪い尽くす大波は、スイスチーズのように身体を穴だらけにしながらも尚じわりじわりと迫ってきている。
先ほどの光は飛行虫の光ではない。明らかにこちら側に向かって発せられた強い光束。それは最早、天啓のようでさえ有る。

 ……天か。この八雲紫が、何かに祈るか。
それもいい。

 「人鬼! 少しの間飛行虫の射出を弱めるわ。時間を稼ぎなさい」

 紫が指を鳴らすと、スキマからニョッキリと剣の柄が顔を出す。
それも一つや二つではない。その数、ざっと二十程。

 「これだけ有れば十分ね? ……大事に使いなさいよ、八雲の金庫だって無尽蔵じゃ無いんだから」
 「御意に」

 老人は、その内の二つを乱暴に抜き取り剣呑な笑顔を浮かべた。
霊力を込められた刃が桜色に光り輝き、「鳴り」始める。高速で振動する程に、きしみを上げているのだ。
剣士の鍛えられた腕筋に縄のような彫りが浮かぶ。強弓がそうされるかの如く、引き絞る。

 「散華!」

 二刀一閃。刀は砂糖菓子のように砕け、その一粒が桜の花びらとなって舞うように散る。
光の雨の中淡く滲む桜吹雪が、確かに悪霊達を怯ませた。その隙に、紫は演算に支障が出ない程度にまで出力を落とす。

 「しかし何をするつもりだ? まさか疲れたからと言うわけでは有るまいが」

 刃の消えた刀を捨て、新しく抜きながら翁は尋ねた。
紫は口元の微笑みを扇で隠すと、わざとらしい声で言う。その言葉を聞いて、老人は呆れたように鼻で笑った。

 「神に祈るのよ、たまには……ね」


 ◆


 ガアガア、ガアガア。
怖い声だ。生を妬み、死をばら撒き、その言霊で人を殺す。恐ろしい叫びが何十も、何重にも。
空は曇っていて、冷たい雨が降っている。ふとその雲の隙間から、朧がかった金の月が見えた気がした。

 ――でも、なんだか平気。

 空は不思議な気持ちで翼をはためかせた。その前には、目印となる龕灯を持ち金の羽根で舞う三本足の鴉が居る。

 ガアガア、ガアガア。

 『多くの者は、私を恨むのでしょうね』

 ふと、声が聞こえた。聞いたことの無い筈なのに何処か暖かく、それでいて畏れ多いような気持ちになる声。
圧倒的な神聖と、微熱のような心地よさを感じる美しい響き。

 『誰かに讃えられるその倍、私は恨みを作るでしょう。
  ……それでも進むと決めたからには、成るべく多くの者に無事で居て欲しい。
  味方は勿論、敵である方々にも二度と笑えぬ事の無いよう、楽園のような国を作りたい。
  八咫鴉……私は、甘いでしょうか』

 ――あなたは誰?

 答えは無い。紅の瞳が、ちらりとこちらを見る。真っ白な肌に、紅の刺青を神秘的に掘り込んで居る。
お空は何故かすんなりと、声が「彼女」の思い出で有る事を知った。
思えば暫く一緒で有ったというのに、彼女の事を殆ど知らない自分に気付く。

 『ミシャグジ神は……洩矢神は恐ろしい神で有ると聞きます。ヤマト全土を祟る事の出来る、祟り神だと。
  ……勿論、私は地に祟られる謂れは有りません。でも、民は?
  貴女に行ってもらうのは、もし建御名方神が祟りに飲まれたらその光で祟りから救い出す事が出来るよう。
  その必要が無いに、越したことは無いのだけれど』

 声は優しく、そして悲しげに彩られていた。
思わず「おかあさん」と呟いて駆け寄りたく成るような、けれど本能的な厳しさも感じるような不思議な声。
目の前を飛ぶ光との距離が、ぐんぐんと近くなる。まるで一つに戻るかのように。

 『八咫鴉、貴女もどうか無事で居て……』

 ――私は……

 清浄な祈りが、身体を満たしていく。じわりじわりと身体が別の物に置き換わっていくような感覚。
真っ白に染まる視界の中、女の人が振り返り、微笑む。
胸がキュウと締め付けられて、お空の目から涙が一つこぼれた。

 ガアガア、ガアガア。

 太陽が、登る。



 ――――……。

 既に日は高く昇り、影は短くなった時計の針を北方向に指し示す。
さとりと天子の二人は、崖に並び立ち東の空を見ていた。黒く滲んだ空を。

 「何……かしら、アレは」

 冷や汗を垂らしながら、天子は呟いた。何か酷く、不吉な気配が感じられる。
墨汁を零したように黒く滲んだ空では、チカチカと光が瞬いている。星のようでは無い……もっと別種の、攻撃的な光。

 「凶兆って感じよね。見るからに」
 「……アレは……人妖の、無意識。それも、極端に負の方向に偏った……?」
 「分かるの?」
 「私達は、今……『本質』に、近い所に居るの……。それぞれのではない、『物質』の対極としての所に」
 「なーんか、分かるような、分からないようなって感じ。もうちょっとハッキリ言っても良いんじゃ無い?」
 「それをすると、『ここ』は違ってしまう。何からも切り離された、自分だけですらない世界。
  ハッキリとさせてしまえば、天子さんの『ここ』と私の『ここ』すら違ってしまう。一緒に居られないのは、寂しいです」

 天子の肩に、そっと暖かい物が乗った。天子は照れくさそうに、肩に乗ったさとりの頭を小突く。

 「あう」
 「素直になったのは良いけど。あれ、ほっとく訳にも行かないでしょ。
  ここまでわざわざ来てやったんだから、ものの帰りよ」
 「それは良いですけど、どうやってあそこまで行くつもりなんですか?」
 「む……えーとぉ」

 天子は一歩下がり、慎重に崖の下を覗きこむ。びゅうという風が顔面に叩きつけられた。
早咲きの、葉混じりの山桜が所々を彩って素晴らしい風景に変えている。とは言え、飛び降りが現実的な話かどうかは別問題。
もっともこの場は恐らく現実ですら無いのだが。

 「というかそもそも、ここからどうやって帰れば良いのかしら」
 「天子さん、割りとノープランですよね」
 「そりゃあ、そうよ! 必死だったんだから」

 胸がずん、と突き出される。ぼよん、どころかぷるん、ですら無いのは可愛らしい部分か。
さとりは微笑と苦笑のあいの子のような顔をして、目を細めた。
風が頬を撫でて、一筋のひやりとした感触を残す。心象に刻まれた青空を、数十年ぶりに見上げた。

 ――――……。

 「ああ……」
 「何よ、急に」
 「忘れない、物ですね。あんなに忘れたいと願って、いつしかそう願う事すらしなくなって。
  ……随分と静かになったと思っていたのに……」
 「一見火が消えたように視えても、風が吹けば再び燃え盛る事もある。
  かつて人は、この火を移り変わりの象徴に例えたわ。激しく燃え、元に戻る事は無い」
 「元に戻る、事は無い……」
 「……でもね、私は別に良いと思うの。火を便利に使わなければ、文明だって生まれなかったのよ。
  『元に戻らないんだから気にするな』なんて、あまりに熱が無いと思わない?
  元に戻りたいと願う事だって、人の勝手だわ。そんな物を誰かに指図される覚えなんて、無い」
 「良い、のでしょうか」
 「良いのよ」
 「良いんですね」
 「諦めても良い、諦めなくても良い。ロックってのは、自分で決めるって事よ。
  誰かに言われたからじゃ無い。その代わり、自分で責任を持つの。私はそういう事だと思ってる」
 「それが、天子さんのロックンロール」

 ――――……。

 黄金の鳥が、羽ばたいていた。二人の頭上をクルクルと旋回して、やがてゆっくりと降りてくる。
その丈は、少女一人が乗れる程にあった。鳥は耳を通ったのに気付かない程透き通った高い声で、一つ鳴いた。

 「私に行かせてくれませんか」

 天子の袖をくいと引いて、少しうつむいたままさとりが言う。

 「……私は、守ってみたい。誰かのためでは無く、自分の居場所を、自分の手で」
 「私はお邪魔かしら?」
 「まさか! でもきっと、今貴女の隣にいたら、私は貴女のために戦ってしまう。
  寄りかかって依存してしまう。……そうしたらもう、私はお燐の願いに答えてあげる事が出来ないでしょう?」

 その言葉を聞いて、天子は諦めたように息を吐く。
腰に手を当てて笑みを作った後、手をひらひらと振るう。「行ってこい」と言うかのように。

 「そっか。じゃ、大人しく応援してるわ」

 桃色の髪を光る太陽に照らして、少女は恥ずかしそうに巨鳥の背に腰掛けた。
真っ赤に染まった金の瞳が、グルンと視線を向ける。さとりはそっと、その頭を撫でた。

 「……約束を、してくれますか」
 「内容によるけど?」
 「桜が咲いたら、見に行きましょう。誰も居ない秘境でも良い。誰もが居るような宴会の場でも良い。
  出来ればあの子も捕まえて、皆で桜を見に行きたいんです」
 「……貴女の妹を捕まえるのは、何だかとても骨が折れそうよね」
 「だからって、諦められませんから」
 「分かった。約束ね」
 「ええ、約束」

 誰からも忌み嫌われた少女は、小指を切ってにかりと笑う。
歯を見せたその表情は、意外な程に愛嬌を感じさせる物だった。

 ――――……。

 鳥が鳴く。黄金の羽根をはためかせ、高く高く空に登る。
天子はその背を、表情も無く見つめていた。己を置いていくその背を、意外な程感慨無く見上げ、やがて崖の上に寝転んだ。
景色が糸のように解けていく。やがてそれは、泡の◯なノ-◯ズに-◯◯て……◯---◯◯◯--

 ---◯-◯◯-◯◯◯◯--◯---◯-◯


 ◆


 「「「「「「「DAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMNNNNN!!」」」」」」」

 蒼天すら呪い汚す声が、地殻を揺らし響き渡る。岩盤が揺れる度に大地が死に、パラパラと砂埃となって落ちて行く。

 「ちいぃっ」

 目の前に構えた交差刀で辛うじて切り躱すも、翁は厳しい戦いを迫られていた。
使い捨てた刀は既に二十どころか五十を超え、現に今「音を断つ」霊力を込めた刀も、ガラス細工のように砕け落ちる。
深く祟られたがゆえに、刀としての死を迎えたのだ。

 ――切れば死に、防げば死に、当たれば死ぬ!
 ――だからこそ、だからこそよ!

 穢れとしての純度は既にさとりが想起させたそれを遥かに超え、神域に達しているからこその奇跡。
人に害なす奇跡こそ、神の祟りの本質で有るが故に。半人半霊たるこの身体、決して相性が良いとは言えなかった。
刀を打ち合わせる度に血が滾るのを感じる。似て非なるとは言え、「死そのもの」へ対峙する興奮で口角が上がる。
祝福するかのように視界の端で桜花が散り始め、翁は歯を剥いた。

 ――「死」よ! その縁よ! やがては喰らってやろうと、呪い続けたが……
 ――千年磨いたこの刀。それで尚、こんなにも足りないか!

 枯れ樹肌のようなその腕に、みっしりと鍛えられた筋力で持って鋼の白刀を振り回す。
夢見るは、死を断ってなお砕けえぬ一太刀。この様子では、まだ遠いか。諦めぬ。絶対に、絶対に。
たとえ枯れ果てたとしても、一振り出来る力が残っていれば、悲願は叶う。叶えるのだ。

 「業風ッ!」

 男は吠え、死を象徴する桜を切り散らした。
光の雨が頬を掠め、真新しい切り傷を作る。嗅ぎ慣れた鉄の臭い。
この状況で、主は先程から瞑想するかのように目を閉じて何やら口内でつぶやいている。
その内容は翁には分からぬし、分かる必要もない。刀が振れて切れれば良いのと同じ事だ。

 「しかし、これは……厳しいなッ」

 せめてもの一撃に柄を蹴り飛ばしながら翁は問う。
散々切っては砕けをして来たが、未だ蠢く物は底を見せる様子が無い。
式が貼ってあるとは言え、流石に疲労も精神的肉体的共に無視出来なくなってきた。
情けない事だな、と翁は独りごちた。三~四百年前で有れば、この倍は動けたであろうに。
そして、俄に焦りが生まれる。現状に、ではない。衰えが見えて尚、己が「この程度」で有る事へ。
そんな僅かな心の緩みさえ、状況は許してくれなかったが。

 「……見つけた。呆れた生命力ね、この状況でまだ五体満足なんて。
  八咫鴉の加護か、余程神経が図太いのか」

 神妙な面持ちで紫が言う。翁の目で有れば、微細なスキマを高速で操作しているのが分かっただろう。

 「だけど、使えるというなら使ってやるわ。外の信仰とのパスを直接繋げる。起き上がりなさい、霊鴉路空!」


 CAUTION! CAUTION! CAUTION! CAUTION!


 警戒音がけたたましく鳴り響く。黄金色の光が波を切り裂くように漏れ初め、白黒のコントラストを強調した。
爆発。卵の殻のように黒い粘膜が爆ぜ飛び、炎が作る熱を尾のように引きながら、巨大な金鴉が渦巻く闇の中から姿を現す。
太陽の化身とも言われるその鳥は、日の入らぬ地底に置いても太陽の如き気高さを失わず。
飛行虫が降り注ぐ中、神聖さを持ってその場を支配する姿は、いっそ荘厳とすら言えた。

 ――――!!

 心地よさすら感じる鳴き声が、空間を震わせる。三本の足が力強く空を蹴り、紅い瞳がギョロリと辺りを見渡す。
その背に、小柄な少女が一人またがっていた。

 「……大丈夫よ、お空。私はちゃんとここに居るわ」

 金色の羽毛を撫で擦りながら、水色のスモックを着た少女は言う。桃色の髪が、幽かに誇らしげに揺れた。

 「古明地さとり!?」
 「……お空に、連れてきて貰いました。再びご迷惑をお掛けした事、平に謝りたい。
  しかし今は状況がそれを許さないのも事実。先ずはこの荒ぶる神の御心を、知ってからにするとしましょう」
 「馬鹿を言わないで。ここはもう幻想郷じゃ無いの。今の貴女は存在するだけでも辛い筈なのよ?」

 そうで無いのは八雲紫のような「例外」、及びそれに準ずる物か、そうでなければ知名度の高い神仏位で有る。
事実、さとりの額に浮かぶ脂汗と苦しげに吐く息が、只事で済んでいない事を物語っていた。

 「……傾(かぶ)いてみせろ、と。そう背中を押されました。
  諦める理由も、諦めない理由も無いならば。せめて少女らしく、そうしてみろと」

 滲んでいた汗がたらりと垂れた。それを舌ですくい取ってニヤリと笑う。
地の底では、未だ沸き立った闇に幾千の顔が浮かんでは消えている。さとりはそれに、目をやった。

 「それに、これだけの心が渦巻いているのです。
  人は本能的に、己の醜さを誤魔化し、無視し、それを直視されるのを嫌うもの。
  どうして覚り妖怪が恐れられない謂れが有りましょうか」

 笑い、大仰な仕草で手を広げてみせる。祀ろわぬ魂全てを、抱きしめるかのように。

 「あれにはな、核が居るそうじゃ」
 「人鬼……!」
 「傾くと言うなら、やってみてもらおうでは無いか。スマンが儂はもう疲れておって、刀も無い。
  主様とて後どれだけの間、これだけの出力を維持出来る?
  確かにお主は"外"である影響を受けにくいかも知れないが、それは底無しを意味する訳では有るまい。
  元々金鴉は戦わせるつもりだったのだろう?」
 「それは……」

 紫はほんの僅かに思案し、そしてゆっくりとさとりに振り返った。

 「核。……要はあの魂の中からその心を見定めて、想起を持って退散させろ、と」
 「……救援は、出来ないわよ?」
 「やりましょう。それが私の居場所を守る事にも繋がるならば」

 ――――!!

 「ええ。貴女も居るものね、お空」

 さとりが優しくその頭を撫でる。随分と雰囲気が変わったな、と紫は思った。
開いた扇子を口元に当てて、やがて紫はこくりと頷く。翁も同じように、刀を鞘に納めて腕を組んだ。

 「……人鬼、私達は再び不測の事態に備えて待機」
 「御意に」
 「やってくれるのね、古明地さとり。見事荒ぶる神を鎮めて見せれば、今回の一件は不問としましょう」

 パチリと音を立てて扇子を閉じ、金色の鴉に向かって突き出す。
金鴉は答えるように一度大きく羽ばたいて、燃え盛る瞳でスキマ妖怪を見た。
その背に乗るさとりは、ゆっくりと己の第三の目を撫でた。大事な物に触れるように、丁寧に口元に持ち上げる。

 「ええ、私は古明地さとり。怨霊も恐れ怯む少女。
  この地底の守護を任された者として、見事カミを恐れさせて見せましょう」

 翼の炎がパチパチと音を立て、祟る怨面へと吸い込まれていく。

 「……足りぬ、か」

 その時老人が、顔にも心にも出さず口だけで呟いた一言に、その表情に、気付く者は居なかった。
例えその場の、誰であれ。


 ◆


 ……

 …………地上。



 深い藍色に染まっていた空が、ゆっくりと赤色に塗り替えられていく。

 妖怪の山で見張りをしていた夜勤の白狼天狗が交代し、欠伸一つ晩酌に思いを馳せ。

 徹夜で記事の編纂を行なっていた鴉天狗が、死んだ眼で窓の外を見上げ。

 湖の中心で物憂げに佇んで居た蛙神が、蓮の葉の上から水に飛び込み。

 畑仕事に携わる人間達は、忙しそうに各々の家の戸を開け。

 家人が朝餉の支度をし始めた音で、薬師の弟子が目を覚まし。

 山彦の威勢のいい挨拶が、里外れの寺に轟いて。

 眩しそうに闇を作り出した妖怪が、木に激突し小鳥たちを騒がさせ。

 薄く笑った吸血鬼が、女中に窓の遮光を閉めさせる。



 それは、幻想郷の朝だった。

 何一つ変わらぬ、幻想郷の朝だった。



 ――――――――ッ!!

 周囲の怨嗟ごと吹き飛ばすかのように、その翼を広げれば二丈にすら届きそうな身体を震わせ、金鴉は鳴いた。
荒びしカミは生への呪言を止める事無く垂れ流し、土壌すらも黒く染め上げる。
土が死ぬ。もうその土地は今後百年何も実らす事は無いのだと、八雲紫の心は言っていた。
古明地さとりはその第三の目の眼差しで、見るものの心を映し出す。
そしてその唇で、小さく小さく歌を紡いでいた。彼女にとって珍しい事に。

 「地底の街は蒲公英の――……地底の民が根を下ろすこの大地、貴方の色に染めさせる訳には行きませんよね。
  ……ふふ、我ながらなんて似合わない台詞」

 ――――!

 「そうかしら? ありがとう、お空。そして、お燐にも言わなくちゃあ。
  随分と迷惑をかけてしまったわ。色んな人に……」

 金の尾は鞭のようにしなり、翼は太陽のようにフレアを纏いて邪気を払う。
その背において、少女は意外な程にしっかりとしがみついていた。妖怪としての最低限の腕力は、備わっているとはいえ。

 「「「「「「「DAAAAAAAAAAAAAAMMMMMMMMMMMMMMN!!」」」」」」」

 黒き怨念が蝗の大群のように渦を巻き、その光を蝕もうと襲いかかる。
さらに後ろからは幾千の光弾が尚も雨あられと降り注ぎ続け、死墨で出来た水面で跳ねて黒白のマーブル模様を作る。

 ――――……?

 「こっちは大丈夫よ。あなたに任せるわ」

 ――――!

 ぐるり、とその身を回転させた。降り注ぐ光弾を掃き散らしながら、宙に舞う羽が熱持つ彗星となって降り注ぐ。
三本の足が炎を吐いて、金鴉は更に速度を増した。取り囲もうとする死霊の一角に穴を開き、圧し潰される前に脱出する。

 「「「「「「「DAAAAAAAAAAAAAAMMMMMMMMMMMMMMN!!」」」」」」」

 獲物を取り逃がした墨玉から、触手のように糸が伸びる。
節々に魂の苦悶の表情を浮かべさせ、金鴉の羽根を削ぎ地へ叩き伏せようと縦横に手を這わす。

 ――――!!

 身を捻り、翼で空を蹴り、時には足で掴んだ異物を壁に押し付けながら黄金の鴉は飛ぶ。
しかし、ジグザグを描きながら襲いかかる触手の一本が、鴉の羽根の一房を強かに打ち付けた。

 「お空ッ!」

 バランスを崩しきりもみ状に廻る背中に懸命に捕まりながら、さとりは声を上げる。
瞼の無いギョロリとした紅い瞳が一瞬だけこちらを向く。
その瞳に宿った炎は、消えるどころか、より強く燃え上がったように見え。

 「大丈夫なのね?」

 問いに答える代わり、金鴉は瞬時にバランスを取り戻すと、その勢いで絶望の表情が浮かぶ濃い霧の表面を撫でた。
そして一際大きく高く鳴くと、宙返りの空圧で割れた波紋目掛け嘴を突き進めていった。

 ――――――――ッ!!

 徐々に近づく漆黒の水面を見ながら、さとりはふと己の動悸が激しい事に気がつく。
恐怖、緊張、畏れ。勿論、それらも有るだろう。しかしこの胸の高鳴りは、それだけでは説明出来ないのでは無いか?

 ――これは。
 ――私、ひょっとして、興奮しているの?

 ふとした可能性がさとりの心を満たす。ああ、そうだ。知らない訳じゃない。
第三の目が覚る心は、何時だって暗く、自分を傷つけるような想起ばかりでは無いのだから。
仲間同士で飲む酒の、腹の底から笑い出す思い出だって有った。
心の髄が痺れるような、愛の睦言の思い出だって有った。
それらが目に触れる度、さとりは「私には相応しく無いから」という言い訳で目を逸らしてきたのだ。

 だが、だがしかし。

 本当に望んでないのならば、小説や漫画にそれを求めるだろうか?
魔法使いの少年の、綱渡りのような冒険に胸が張り裂けそうにならなかったかと言われれば嘘に成る。
血に刻まれた運命が辿る物語に、心躍らなかったかと言われれば嘘に成る。
そして甘酸っぱく切ない恋物語に、憧れを、そして嫉妬を感じなかったかと言われれば嘘になる。嘘に、成るのだ!


 「……結局、私は自分の心から目を逸らし続けていたんですね。それでは怨霊と、何も、変わらない……」


 その事に思い至った時、自然と素直に声が出た。
黄金の背に包まれたその先では、幾万もの未練が渦を巻いて生への怨嗟を放っている。
さとりは自嘲気味に笑った。竪穴を埋め尽くす程に巨大なそのカミの身体は、もう手を伸ばせば届く程の位置。

 「「「「「「「DAAAAAAAAAAAAAAMMMMMMMMMMMMMMN!!」」」」」」」

 その目を混沌に這わそうとしたその瞬間、声が地を響かせ、矮小なさとりの身体を縛り上げる。
人間、妖怪、関わり無く原初の恐怖を煽るその存在は、ここに来てなおカミとしての存在を増しつつ有る。
皮肉にも、賢者、八雲紫の恐れが。そしてさとりが想起させた地に住まう人々の死念が、この化物に食われているのだ。

 ――これが、私が巻いた種。

 水に住まう魚が水の流れを知るように……空に住まう燕が風の流れを知るように。
今のさとりには、その心の流れる様が手に取るように知ることが出来た。
このカミは、幻想郷が欲しい訳でも、人に信じられたい訳でもない。
何かたった一つの物を求めて、文字通り身を削ってまで執着している。
だが、その巨体故に、祟りを……死を撒き散らさなければ、存在し続けられないのだ。

 「まるで、全身にネズミの口が空いた巨人ね」
 ――――!
 「……情けない話よね、戦わなきゃいけないと分かっているのに、身が竦んでしまうの。
  こんなになるまで、私、何かに立ち向かった事なんて無かった」

 酒気で顔を赤らめた、あんなちっぽけな男がさとりにとっての暴力の象徴であった頃を思い出す。
そしてあの夜。逃げて、逃げて、ひたすらに逃げて。何もかもが手からすり抜けて、その事からも逃げ出した。
こいしはさとりを置いていったのか。それとも、追いかけて来てくれなかったのか。

 ――『楽な道に転がるのなら、その辺の石にだって出来んのよ?』

 まだ髪が青かった頃の比那名居天子にそう言われたのは、ほんの少し前だ。そして、もう随分と昔に感じる。
結局、何も言われる事はなかった。「がんばれ」とも、「立ち向かえ」とも。彼女は、何も強制しようとはしなかった。
言われた事をやる事は、楽な道だから……だけど、それでも天子は追いかけて来てくれた。
導く為ではない。ズタボロになりながら、ただ「私はここに居るんだぞ」と言うだけの為に追いかけて来てくれた。

 「揺さぶれ、転がせ」
 ――――?
 「きっと、そういう事なのね。私達は進む事しか出来無いから……『諦める』術を、持っていないから。
  自分の二本足で歩くか、それとも何かに背を押されて転がるか。それだけしか、無い」

 震える手で、金の羽毛を強かに掴む。天子だけじゃない、お空だって追いかけて来た。お燐もまた、そうしただろう。
膝を叩け! 前を見ろ! 私は譲ってもらったのだ。比那名居天子があれだけ成りたがっていた、主役の座を!
もう後ろには戻れない。諦められないと気付いてしまった。生きる者が石に成る事など、出来はしないのだ!


 「私は……欲しい! 貴方達と同じように!
  愛しき家族が! 友人が! 生命の……悦びが! 他人からの借り物では無い、私自身の手の平でッ!」


 スペルカードを中空に浮かべ、掴み取る。腹の底からの叫びが、辺りを震わせた。

 「――想起『テリブルスーヴニール』ッ!」

 さとりの手から光が迸り、X線のように黒く濁った霧の中を透過する。
本来は動揺の内から記憶を読み取る為のスペルカードだが、今ならば別の使い方も出来る気がしたのだ。
今。そう、まるでヤニでぼけていた瞳に、眼薬を差したかのようにスッキリと"視界"が晴れ渡っている。
比較対象が存在しないため他者が知ることは無いが、覚り妖怪の中で決してさとりの能力は高いとは言えなかった。
自らの姿を他者の心の内にだけ求め、自分の心を覗きくないと言う気持ちが、彼女の目を濁らせていたと言ってもいい。

 だが、その心は最早預けられた。故に彼女は全力を振るう事が出来る。
信心こそが神の、そして妖怪の力の源だと言うならば、自らを信じる事が力に成らない訳が無いのと同じように!

 ――憎シ! 憎キ命アル者! ナゼ死ナネバナラヌ! ナゼ生ヲ求メテハナラヌ!
 ――ナゼ彼岸ニ連レテ行カナイ! ナゼ輪廻ニ入ル事ガ出来ナイ! 救エ! 救エ! 私達ヲナゼ救ワヌ!

 纏わり付く幾万の怨霊、その一つ一つの恨み辛みがさとりの第三の目を焼く。
物理視界が紅く滲む。気が付けば両目、いや三つ目全てから涙のように血が溢れていた。
意識をしてしまえば痛みは強くなる。さとりが握りしめた手の甲の上に、ぽたぽたと赤い花が咲く。

 「ぐ、ぅっ……!」

 勿論、第三の目にこれ程の負荷を掛ける事はさとりにも初めての行為である。
今、針でつつけばパチンと弾けてしまうのでは無いかと思う程に、三つの目に力が篭る。
痛みと乾きで自然と目が閉じてしまいそうに成るのを必死に堪えながら、さとりは奥へ奥へと光を進ませて行った。

 ――――!

 それを見かねてか、さとりの視線の先に光が神々しさと共に照射される。
太陽の持つ神威によって、彩虹を黒く蝕む祟りの霧が中和され、錆びついた鋸で引っかかれるような視神経の痛みも瞬きが出来る程度には楽になった。

 「ありがとう、お空」

 限界まで凝らした目も、少しの余裕を取り戻す。さとりは無意識に、その絹のような手触りの背を撫でた。
憤懣の声は未だ、暴力的なまでにさとりの中で鳴り響いている。荒く息を吐きながら、さとりは力を振り絞って眼力を込める。

 ――『生き方を変えたいって思った事は有る? 私は有るわ。ずっとずっと、そう思ってた』

 リフレインするかつての会話。さては無理をしすぎて走馬灯でもよぎり出したか。
分かっては居ても、自分の軟弱さに腹が立つ。手を上げる事もせず、ただ流れに巻かれ救いを待っていたかつての己。
成る程、この怨霊共と重なる筈だと笑いが出た。
紙一重の違いなのだろう。掬われたのが優しき天人か、それとも飢えた祟り神か……
何にせよ、さとりは拾い上げられ、そして問いかけられたのだ。



 私は、行くぞ、と。
お前は、どうする? と。



 「……私も、変わりたいと思っていましたよ。
  何でもっと妹と仲良く出来ないんだろうと、けれど思うだけで何もして来なかった」

 三つ目から流れる血はいつの間にかどす黒く変色し、折角の黄金色に輝く羽根を汚している。

 「憧れだけが有った。諦める事も出来ず、前に進む事もせず。漠然とそれだけを抱いている。
  ……そんな自分を、肯定して貰えたんですよ。だから私は、前に進める!」

 さとりはふと、背を誰かに支えてもらった気がした。服越しに感じる手の平の暖かみが、例え錯覚だとしても勇気をくれた。
幻想郷ですら無い場所で力を奮ったためか、既に意識は朦朧として明瞭としない。
最後の力を振り絞って、さとりは想起に霊力を込めた。やるならば今しかない。神すらも恐れさせるはったりを!

 ――憎イ! 妬マシイ! ソノ白イ肌! 血ノ通ッタ唇! ナゼ私達ニハ許サレヌ!
 ――私達ハ救ワレ無ケレバナラナイ筈ダゾ! ナゼ苦シマ無ケレバナラナイ!

 「醜き怨霊共よ! 歩むべき足を亡くした者達よ!
  お前達は再び恐怖の記憶(トラウマ)の底で眠りにつくがいい!
  ……荒ぶカミよ! 幾ら貴方が望もうと、この先は私の場所だッ!
  想起……『サブタレイニアンサン』ッ!」


 ―――――――ッ!!


 そして、太陽が花開く。生者に取ってその光は暖かな恩恵であり、死者に取ってその熱は苛烈な災禍である。
白く誇り高く神威を発する光球の周りを、金鴉がコロナのように飛び回り、甲高く鳴いた。
太陽は光を発し、地底の壁面を橙色に浮かび上がらせて燃え盛る。その圧倒的な威容に、存在だけで怨霊達が散っていった。

 「「「「「「「DAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMNNNNN!!」」」」」」」

 怨霊達の断末魔の声がさとりの耳に響く。破れかぶれめいて襲いかかろうとした固まりが、イカロスの如く灼け尽くされる。
例えそれを逃れても、八雲紫の操る光の雨に穿たれて消滅する。最早先は無いだろう、と、思うと同時にふわりと気が抜けた。
限界を超え、ぐらりとさとりの視界が傾いた。両の瞳から血の気が失せていく過程で、さとりの世界から色が失せていく。
赤みがかった光は冷たく青く輝く黒に変わり、薄緑のスカートに垂れた血痕が白く輝いている。
色が無くなったのではない、反転したのだと半ば呆然とした頭でさとりは考えた。
水色のスモックは、瞬かしい黄色に変わり、桃色の髪には、変わり銀色がチラつく。

 ――ひょっとして、これがこいしが見た世界なの?

 ぐわんぐわんと頭が唸る。理論も何も有ったものでは無いが、何処か確信めいたものがさとりには有った。
白い霧の向こう、浄化される苦悶の顔のより遠くに、一人の女性と目が合う。
ならばあれが、「カミ」なのだろうか。遠目では有ったが、その表情は意外な迄に透き通っていた。そして、その心も。

 ――あ……
 ――あなた、は……!?

 さとりの血の滲んだ瞳孔が驚愕に見開かれる。
ホワイトアウトしていく意識の端で、さとりはその女の一端に、確かに触れたような気がした。


 ◆


 地霊殿中庭。その回廊を見下ろす、石造りの屋根の上。

 『監視目標、龍脈に押し流されて下っていくのを確認……紫様、ご無事で居てくれましたか』

 通信機越しの相手が安堵の息を吐くのを、霊夢は憮然として聞いていた。
別に、一人置いていかれたのを気にしている訳では無いが……端的に言えば暇である。
この場に居るもう一人、四季映姫は地蔵のように――と言うか、地蔵そのものとして――動かないし、歪めた結界も安定している。
一度安定した結界はあまり手間が掛からないからこその結界術であり、とは言え事が事だけに不測の事態に備えるのは必要不可欠。
そうとは分かっていても、何だかくさくさとした気持ちを抑える事が出来なかった。

 「そんなに心配なら、あんたも行けば良かったでしょうに」
 『……勿論、私達とて最初はそのつもりだったさ。だが徐々に性質が分かって行く内に、そうもいかない事が明らかになった。
  戦うことが出来ない不甲斐なさは、私も同じだよ』

 通信相手で有る紫の式……八雲藍は、こちらも口惜しそうにつぶやいた。

 『外界の法の下戦うとなった時に、私達では戦力にならない。勿論、まるっきり無力では無いだろうが……
  中途半端な力では、カミと戦うには分が悪い。それに、私達はそれぞれやる事も有った』
 「分かっては居るわよ、あんたらを除けば博麗大結界に触れるのは、それこそ私くらい。
  でもおかしいじゃない。あの爺が良くて、なんで私やあんたはダメなのさ」
 『……神は居る。仏も同様に。幽霊だって、ひょっとしたら居るかも知れない……
  だがな、"妖怪は居ない"のさ。オカルトと一括りに纏められては居るが、幽霊と妖怪じゃあ妖怪の方が圧倒的に嘘臭い。
  外の世界では、誰もが無意識にそう感じているんだよ。人の魂は有って欲しいが、自然の化身なんてどうでも良いものさ。
  ましてや人を喰らう者なんて居ない方が良いに決っている。気象は気象、獣は獣だ』

 ハハハ、と乾いた笑いが響く。霊夢は不愉快そうに鼻を鳴らすと、膝にのっけるように頬杖をつく。

 「変わりゃしないでしょうに。それに、私は巫女よ」
 『ただの巫女じゃ無い、博麗の巫女さ。幻想郷の中じゃ無敵でも、外じゃそうは行かない。
  紫様も、お前に大事があったら困るんだよ。何せ、まだ子供も産んでもらっちゃ居ない』
 「産ませる気あるなら神社の経営にもうちょっと協力してよ。参拝客が居なけりゃロクな出会いも無いじゃない」

 そのままぐちぐちと文句を叩き合っている時である。眼下にふと人影が見えた気がして、霊夢は中庭を覗きこんだ。
見覚えのない髪色の、見覚えのあるシルエット。比那名居天子が、狐につままれたように立ち尽くして居た。

 「天子? あんた、今迄何処に居たのよ?」

 そういえば、行方不明になったまま展開に呑まれて忘れていたが、入り口で分断されて以来である。
霊夢は概念結界を示すオレンジ色をした光の壁の向こうへ声を出した。
少し前までおどろおどろしく声が響いていたこの空間も、今は大分静かになったものだ。
声が聞こえていない事は無い筈だが、天子は微動だにする事無く空を見上げ立ち尽くす。

 「天子……?」

 ――『……相変わらず……お美しい』

 霊夢はふと、既視感を覚えた。あの狂いきって一回りした老人と、呆けた天子の姿が何故か重なって見えたのだ。
目を凝らして、もう一度見る。鬼気迫るような感覚は、もう何処にも無い。

 「気のせいよね」

 頭を振り、目頭を揉む。通信機越しに藍の声が聞こえてくる。

 『霊夢? 紫様から連絡があった、大結界を戻すぞ。慎重に作業してくれよ』
 「はいはい……」





 ――……

 ――……とり様、さとり様ぁ」

 ふわふわとしたものに包まれて、さとりは覚醒した。
何だかガンガンと頭が痛む。"目"を酷使し過ぎたせいかもしれない。なんとも自分に似合わぬ事をしたものだ。
だけど不思議と、不快では無かった。泣いて、喚いて、怒って。皆に迷惑をかけ、そして最後に力を振り絞り。
何かを手に入れられたかと言えば、特に何も無い。それでも何処かすっきりとした気持ちがさとりには有る。
強いて言うなら、味を見る前に諦めていた、否、諦める事も出来なかった酸っぱい葡萄。
その一粒が、今さとりの手の中に有った。

 「さとり様、死んじゃやだぁ」

 それにしても、声が五月蝿い。
目が開けばいいのだが、どうやら血がべっとりと固まって瞼を洗うまで開きそうに無いようだ。
仕方なしにさとりは抗議の手を闇雲に突き伸ばした。ふにっとした、柔らかい感触が帰ってくる。

 「んっ!? にゅう……」

 ――……? なんでしょう、コレ。

 そのままふにふにと揉んでみる。さすってみる。どうやら球形をした何かが二つ有るようだ。

 「うにゅ……さ、さとりさまぁ……」

 泣いていた声が、甘えるような声色に変わった。
鼻声のせいで分からなかったが、良く聞けばこれはお空の声か。
そう考えると、さとりの頭に一つの可能性が思い浮かぶ。だが間違っている可能性も捨て切れない。
より確実な情報を得るため、さとりは球体の頭頂に有るはずの突起を探り、摘み上げようとし――


 「何やってんだテメーは」


 べしゃり! と程よく暖められた蒸しタオルが顔に向かって叩きつけられた。
水分を含み質量も増したそれは、速度を持って当たると結構痛い事をさとりは身を持って知る。

 「……顔、拭きなさいよ。結構酷い事になってるから」
 「これはご丁寧に……有難うございます。天子さん」

 じんわりと熱を持つタオルを、ゆっくりと瞼に当てる。ガサガサと音がして、乾いた血が顔を汚しているのが分かった。
そのまま暫く、さとりは蒸しタオルの中で目を伏せた。ぽつり、ぽつりとくぐもった声が上がる。

 「天子さん……まだ、そこに居ますか?」
 「……? アンタ、第三の目が……」
 「少し、無理をしすぎたみたいです。……でも、前ほど不安に駆られはしない。ふふ……貴方達のおかげかも。
  ねぇ、二人共……私はこれで、少しは格好良くなれたかしら?」
 「うにゅ、当たり前ですよ! きっと、さとり様と一緒じゃなかったら、私……」
 「……そう……じゃあ、これで少しは、胸を張って顔を合わせられるかしら……」

 赤黒く変色した血を、ペリペリと剥ぎとってさとりは目を開く。
いつの間にか、地霊殿のホールにまで運ばれていたらしい。地の底だと言うのに、ステンドグラスが輝いて見える。
お空は、アヒル座りの状態で抱きしめてくれているようだ。ふわふわとした物の正体は、やはり彼女の羽毛であった。
視界を動かす。柱の影に、ぴょこんと飛び出した尻尾が見える。

 「お燐」

 ぴくりと尻尾が膨れ上がる。その行動のベタさに思わずさとりは吹き出した。
くすくすと笑いながら、「おいで」と声をかける。優しく、言えた筈だ。

 「さとり様ぁ……」
 「……ありがとう、お燐。貴女にしか言えない事を言ってくれて。
  そしてごめんなさい。私が背負うべきだった物を背負わせてしまって」
 「良いんです、そんなの。例えさとり様に嫌われても、あたいはさとり様の助けに成りたかったんですから」

 ペタペタと駆けてくる足音が、ピタリと止まった。「ですけど」お燐の声のトーンが一段落ちる。

 「……ちゃんと、答えを聞くまで……貴女の下に戻るわけには行きません。
  それが、ケジメです。あたい達の、引いて置かなければならない一線です」
 「お燐……」
 「本当は今すぐに貴女の膝に飛び込みたい。無事を喜んで、抱きしめあって、いつも通りに頭を撫でて貰いたい。
  ……だけどそれをしてしまったら、きっと甘えてしまう。あたいも、さとり様も」

 くしゃくしゃになった顔で、それじゃあ駄目なんだ、とお燐は言った。
前後はどうあれ、真っ先に引き金を引いたのは彼女である。ここまで来てようやっと、言葉の届く位置に立った。
今の第三の目は、心を読む事が出来ない。彼女の望む答えを、返して上げる事が、出来ない。

 「今更、格好付けるなんて無しですよ」

 それでも、不安気にスカートを掴むのが見て取れた。
普段心を読む事にかまけ"目に入らなかった"仕草が、表情が、こんなにも。嗚呼、こんなにも色濃いなんて。

 「正直に答えて下さい……あたい達は、『古明地さとり』の足かせでは有りませんか。
  さとり様は、あたい達を言い訳にしては居ませんか! 地霊殿の主で有る事で、逃げてるんじゃ有りませんか!?」
 「…………こ、こほっ」

 声を出そうとして、さとりはえづいた。お燐の目が険しくなる。
すーと息を吸い、はーと息を吐く。それだけの事すら満足に出来ない程に、恐怖感が有る。手が震える。
ただ、自分の気持ちを正直に言うだけだと言うのに。それだけの事が、満足に出来ないなどと。

 「さとり」

 くしゃくしゃの髪を、天子が撫でる。涙が一筋こぼれて、身体の震えが収まっていく。

 「だ、大丈夫。大丈夫です」

 すー、はー、と深呼吸。今度は上手くやる事が出来た。

 「……見ての通りですよ、お燐。何も持っていない素の私は、満足に喋る事すら出来ない弱い妖怪。
  だけどそれでも……色々な物に、憧れるんです。妬みもするんです。
  いくら『本当の自分』なんて言葉を飾った所で、所詮そこに居るのは醜い獣。その為の檻として、地霊殿は有りました。
  正直な事を言えば、今迄ずっと私の中に居たのは私の母でした。私は、母に言われて誰かのお姉ちゃんであろうとしていた。
  ……実の妹が上手くいかないのならば。そう思って、貴女達の姉であろうとした……そうなのかも、知れません」

 胸に手を当てて行われるそれは、告白であり、懺悔。
地霊殿の二階、ステンドグラスに描かれた誰とも知らぬ聖人像が、輝きながら見下ろしている。

 「そんな私でも、良いですか。こんなに弱くてちっぽけな、姉でも許して貰えますか。
  許されるのであれば、私は貴女達の家族で居たい。今度こそ本当に、私自身が暮らす為の家族が欲しい。
  きっと私は弱いから、一人で生きていくなんて出来ない!
  一人で得て、一人で蓄え、そして一人で失っていく……そんな事、私には、出来ない……」

 淡水色の袖口が、濃い色に滲んでいく。顔を覆う手の一つがそっと手に取られた。
そのままお燐は、さとりの顔を胸に抱きしめるように、ぎゅうと抱きしめる。

 「……ホントだ。あんた、こんなに小さかったんだねぇ……」
 「ぐすっ、大きな、お世話です、よっ」
 「そりゃあ、こんな小さな身体に、ずっと守って貰おうと思ってたのが間違いだったんだ。
  ……今迄ずっと、ありがとうございました。そして、無理をさせちまってごめんなさい」
 「さとり様……私、色々考えてみるよ。お燐やさとり様、神様達の言う通りにするんじゃなくて。
  分からない事が有ったら、ちゃんと自分で答えを探すんだ。うにゅ……きっと迷惑も一杯かけるけど、さ」
 「ええ、そうして、下さい……けれど、どうしても分からなくなったら……ふふ、私の事も、頼ってくださいね。
  誰かに頼りにされると言うのも、それはそれで幸せな事なんですから……」

 三人は暫くの間、さとりを挟むようにして団子のように抱き合っていた。長く長く、お互いの存在を確かめ合うかのように。
腰に手を当てて、呆れた様子で天子が鼻を鳴らす。けれどその目尻は、確かに緩んでいるようだった。

 「……そう言えば、他の皆さんは何処に行ったのでしょう? 姿が見えないようですけれど……」
 「あぁ、どっかのバカガラスは話聞きやしなかったけど、アンタが命に別状無いのは分かってたからね。
  そうと分かってからは、とっとと宴会の買い出しに行っちゃったわ。……まぁ、気を使ったのかも知れないけどさ。
  ただ、八雲紫は私をチラリと見て帰ってったし、ジジイは……何処に行ったのやら、ね」
 「行方不明に?」
 「そ。まぁ、こんな状況で神隠し出来る下手人なんて、もう決まりきってるけどさ。挨拶も無しってのは酷いわよね」

 ひと月とは言え、師弟の縁で有った仲だ。そう言う天子の言葉には、何処か寂しさが滲んでいる。

 「おーい! さとりが目を覚ましたんならあんた達も手伝いなさいよ~!」

 開けっ放しの扉の向こうから、暢気な巫女の声が響く。
がやがやと聞こえてくる会話を聞くに、橋姫や勇儀、永江と名乗ったあの竜宮の使いや閻魔様もまだ居るようだ。
今日は口うるさいのは勘弁して下さいよ、と言った笑い声が聞いて取れる。

 「あ、はいはーい」
 「うにゅー!」

 お燐やお空がぱたぱたと駆けていくのを見て、天子は自分も動こうと足を動かす。
ぐいと身体に反力が掛かり、さとりに服を握られて居る事に気が付いた。
きょとんとした顔で振り返ると、何処か顔が赤いように見える。薄暗い地底の灯りでは、少々心許無かったが。

 「どうかした?」
 「……天子さんに……そのつもりが無い事は、分かっています。
  だけど私はそういう女で……きっと、小心者だから。第三の目が閉じている今で無いと、言えないと思うんです」

 扉の向こうから照らされる天子の影に、立ち上がるさとりの姿が重なっていく。
天子の瞳が、見開かれた後ゆっくりと細められる。仄かな逆光の中で、時間が歩みを進ませる。
ぷは、と小さく息を吐いて、さとりは唇に残る残滓を舐めとった。





 「――私、古明地さとりは……貴女の事が、好きに成りました」

 三つの目が天子を見つめる。比那名居天子、人生における三度目の口付けで有った。




【人心照悪】編に続きます。
※誤字修正しました。ネズミの口は不評ですが、まぁ良いか。ある種の鼠は道なりのものを齧りながら進むそうです。
はまちや
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コメント



0.590簡易評価
3.60名前が無い程度の能力削除
ピンと来ない、或いはビミョーな例え、比喩が多数あったのは天道落伍変とあまり変わりませんが(ネズミの口が沢山ついて〜みたいなのとか、怨霊の叫びが同じ内容なのにしつこく書かれてるとか)、文章そのものは洗練されて来てるよーな…気のせいか?
イクさんがかなり良いキャラしてますね
しかし、こんなに読んでもまだ半分以上あると言うのは、バイキングか焼肉食い放題にでも来た気分ですな
次も長そうだ(喜
4.90絶望を司る程度の能力削除
いいキャラしてますね・・・全員が全員。
5.100dai削除
長いよう、面白いよう
9.100片隅削除
ヤバイ。本当にどんどん引き込まれる。
これだけやってまだまだあるなんて、こんなに嬉しいことはない
10.無評価名前が無い程度の能力削除
皆いいキャラしてるし見せ場も盛り沢山。コメし切れないのが勿体ない…
で、衣玖さんと勇儀姐の女子力対決はまだですか(チラッ
11.100名前が無い程度の能力削除
なんか新しい
15.90名前が無い程度の能力削除
おもしろい
17.50名前が無い程度の能力削除
序盤、説明が足りず読者おいてけぼり。自分の読解不足では無い……筈。
ページの抜け落ちた小説。二三話分スットバして視るアニメ。そんな感じ。
後半さとりを探しに向かったお空が、いつの間にか竪穴を下りてるのも少し気になったかな。
・・・次行きます。

>圧迫感に圧されながらも (間違いではないけれど何か変?)
>映姫ように  映姫様?
>思いを伝える為に着てるんだからな  来てるんだからな
>異変解決の為に着てるなら  来てるなら
「到着」とも言うが、厳密には「来てる」と「着てる」は別の言葉らしい
言葉の形・意味は時代と共に推移するから完全に間違いとも言えないけれど
>吹き上げされた  上げられた
>春に移り変わりゆくのも行幸だった  僥倖だった
>激昂する父親の袖をを  袖を
>一瞬不愉快気に瞳孔と閉じる  瞳孔を
>さとりはふと己の動機が激しい事に気がつく 動悸
>ネズミの口が空いた巨人 (この表現、自分もよく分らんかった)
>自分の心を覗きくないと 覗かないと?
18.50名前が無い程度の能力削除
微妙にわかりにくい喩えや出典の分からないマイナージョークはもう
作者さんの持ち味だと諦めますが、あまりにもポンポン場面が飛ぶのは
流石にこれだけの大長編だとキツいものがあります。
なんというかアメコミチックな勢いはかなり好みが分かれそうなので、
好きな人は好きなんだろうなぁと思いますが自分には合わなかった...
ここまで読んだからには最後まで読み切る覚悟ですが...筆に勢いが乗ってくると
どうも趣味に走り過ぎる傾向があるようでその辺少し読み辛くなってきました。
22.100名前が無い程度の能力削除
とても長いし分かりにくいとこもあるけど引き込まれる作品。
気付けば時間を忘れ全部読んでた感じ
さとり様がかわいすぎる…