Coolier - 新生・東方創想話

交響曲第五番を操る程度の能力

2014/07/03 00:02:03
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 5月、薔薇が旬となる時期である。
 紅魔館の門番が手入れしてきた薔薇の花達も、ようやく彼女の働きぶりを証明するかの
ように、その蕾を開いていた。

「悪い天気ね」
「私にとってはいい天気よ」
「本にとってでしょ、湿度的に」

 屋内に差し込む太陽光に目を細める館主とは裏腹に、その友人は珍しく日の光を浴び、
吝かでない声でその日の機嫌を伝える。

「晴れても悪い、雨でも悪い……吸血鬼っていうのは難儀なものよね」
「そうでもないわ。雨じゃなければ、夜はいつだっていい天気だもの」
「それなら、夜はいい天気になりそうね、夜まで寝たほうがいいんじゃない?」
「今日は朝更かしの気分なのよ」

 一般的に、吸血鬼は夜行性である。だが、吸血鬼が毎日朝に眠り、夜に寝るのを常とし
ているのは眉唾である。少なくとも彼女、レミリア・スカーレットは昼間も平気で出歩くし、
疲れれば夜にだって寝る。そもそも人間以上の身体的スペックを持ち合わせた吸血鬼が
疲れることは稀なのだ。故に、吸血鬼の日常は人間が作りだした24に区分けされた時間
の間隔に囚われることが無いのである。

「それに、珍しいのは貴女もじゃない? 陽の光なんか浴びちゃって」

 大図書館管理人、パチュリー・ノーレッジ。如何なる財宝よりも本を丁重に扱う、本のた
めに生まれたような彼女が、窓際で本を開いていることのほうが、レミリアにとっては珍
しい光景であった。

「本を干しているわけでは無いわ。私が私を干したいだけよ」

 なるほど、本は開いているものの、陽は彼女の背に当たっていた。さながら日光から本
を必死に庇っているようで、これはこれで中々滑稽である。

「自分を干したいだなんて、気でも触れたのかしら?」
「気の一つでも触れたいのは、レミィのほうなんじゃないの?」

 茶化したつもりであったが、伊達に付き合いの長い友人ではない。こんな時の返しは、
パチュリーのほうが一枚上手であることに気付かされ、レミリアは腰掛の肘置きを軽く小
突いた。それが彼女なりの降参のサインであることを、パチュリーは良く知っている。

「……静かね」

 暇ね、とは素直に言わず、レミリアは頬杖をつきながら息を漏らす。
 何をするにも気が入らぬ、かと言って、今の環境が不快というわけでもない。むしろ暖
かな陽気、色鮮やかな花が咲き、活気に満ち溢れた世界となるこの季節。快適で無いこと
のほうがおかしい。
 快適すぎるのだ。特に寒波が押し寄せたこの冬から打って変わり訪れた、楽園と呼ぶ
に相応しいこの空気。小間使いの妖精達も大分にサボタージュを満喫しているようだが、
怒る気にもなれないほどに呼吸がし易い。
 これがいけないのだ。レミリアはそう思った。この状況は、五月病に近いものがある。
突如訪れた、己のキャパシティを超える快適さに、体が対応できていないのである。

「ビスケットをお持ちしましょうか?」

 こんな時でも症状を露にしていないのが、最も脆弱であるはずの人間一人だけというの
がまた、滑稽さに拍車をかけている。

「ありがとう咲夜。それより……」

 手を伸ばした先にあるはずの物が無いことに気付いたレミリアは、その目を細めた。そ
れは彼女なりの、露骨な不快感の表現であった。

「カップを一つ追加したほうがいいかしら?」
「お茶のおかわりが欲しいわね。ちょっと冷めてるわよこれ」

 ここにいる面子に気配を察知されることなく、主のカップを奪うことが出来るような者
は、少なくともレミリアが知る限りでは一人しかいない。

「猫舌なのよ、私は」

 テーブルの対面で音を立てずにカップを置いた八雲紫を前に、レミリアは二度肘置きを
小突いた。

「ウェッジウッドね」
「アウガルテンのほうが好きだけどね、割っちゃったのよ」

 カップの縁をなぞる指を眺め、レミリアは紫に視線を合わせない。合わせたところで無
駄であることを、彼女は知っている。八雲紫の真意を掴むことが出来るのは、地下にいる
性悪妖怪だけであろう。自身が性悪であることも、勿論自覚はしているが。

「で、何の用かしら? どうせ碌なことじゃないんでしょうけど」
「あら、ビスケットよりは刺激を得られると思うけど?」
「別に刺激が欲しいわけじゃないわ」
「不変に勝る恐怖は無いわよ?」
「別に恐怖も感じちゃいないわよ」

 言いたいことを直接言わない。どこまでも回りくどい女である。

「小賢しいのは嫌いよ。やりたいことだけ言いなさい」

 どの道論戦で彼女を折ることは出来ないであろう。必要なのはYESかNO、その回答
だけだ。

「静かな静かな春の陽気……ちょっと音が足りないわね」

 それでもやりたいことだけ言わない。どこまでも回りくどい、八雲紫はそんな人物であ
った。それが安易に予想できたからこそ、レミリアは三度肘置きを小突いた。

「で、何をして欲しいわけ? 私に音を奏でろとでも?」
「あら、中々鋭いわね」
「は?」

 予想外は予想内として、それにしても予想外、レミリアはその感想を、一文字で漏らし
た。

「何で私が演奏しなきゃいけないのよ」
「あら、楽器を奏でろとは言っていないわ」
「指揮にしたってお断りよ」

 至って単純な話。これほど分かりやすいNOは無い。メリットを何一つ感じられない。
メリット以上に面倒臭さしか感じられない内容である。

「あら、これほど貴女に相応しい曲は無いと思うんだけど」
「少なくとも、私は指揮者なんてやったことないわよ。やる意義も無いわ」
「あら、貴女は操れるんじゃなくて?」
「……?」
「交響曲第五番を」

 こいつ。レミリアが脳内で発した単語はその三文字であった。
 これは明確な挑発であった。交響曲第五番を操ることが出来ないということ、それは吸
血鬼、レミリア・スカーレットのアイデンティを根底から否定することになるからだ。

「私に『運命』を操れと言うか……!」
「あら、操れなかったかしら?」
「レミィ」

 親友の一言が警鐘を鳴らしている。「この誘いに乗ってはいけない」と。

「『交響曲第五番「運命」』……貴女を象徴する曲を、貴女自身が操る。私はそれを見てみた

いのですわ」
「……」

 八雲紫の真意は分からない。レミリアがそれを指揮することが、八雲紫にとってそれが
何らかの利があるのか、それとも幻想郷にとっての利があるのかは分からない。
 しかし、レミリアは既に分かっていた。そんなことは、自身にとってはどうでもいいことな
のだと言うことを。

「あんたが何を企んでるのかは知らないけど」
「安心なさい。役者は大体決めてあるわ」

 そのやり取りにパチュリーは深く息を吐き、咲夜は肩を竦めた。諦めたのだ。
 この友人は、この主は、

「私に操れない『運命』は無いわ」

 必ずこの話を受ける、と。




 メンバーは二日と経たずに集められた。恐らくレミリアに話を振る以前から、既に配役
は決められていたのだろう。

「オーケストラとあらば、当然私達の出番よね」

 トランペット担当、メルラン・プリズムリバー。

「トリオ以外も、たまにはいいかも知れないわね」

 ヴァイオリン担当、ルナサ・プリズムリバー。

「ピアノが無いのはちょっと癪だけど、ま、いっか」

 ファゴット担当、リリカ・プリズムリバー。

「まあ、楽器なら多少は授業で教えてはいるが……」

 フルート担当、上白沢慧音。

「大分昔に色々と嫌々習わされたっきりだったけど、ちゃんと出来るかしら」

 オーボエ担当、比那名居天子。

「うーん、まあ、確かに弦楽器だけどさあ……」

 チェロ担当、九十九弁々。

「気にしない気にしない、異文化コミュニケーションってやつだと思えばいいのよ」

 コントラバス担当、九十九八橋。

「やりたきゃやれば、やってるうちにやれるのさ~♪」

 ヴィオラ担当、ミスティア・ローレライ。

「挨拶は心のオアシス! 音楽は魂の桃源郷よ!」

 ホルン担当、幽谷響子。

「この楽器の叫びが聞こえてくるわね。早く私を叩けって」

 ティンパニ担当、堀川雷鼓。

「えーと……何で私呼ばれてるの?」

 トロンボーン担当、アリス・マーガトロイド。

「この楽器は私用にカスタマイズさせてもらうよ。演奏したことないからね」

 クラリネット担当、河城にとり。

「おい」
「あら何かしら?」

 ロビーに集められた総勢十二名の奏者達を前に、レミリアは紫を睨んだ。

「何かおかしいでしょこれ。特に最後の二名」
「あら、ベストな人選よ」

 確かに一部には楽器に精通した者がいるが、どう見ても素人と思われる輩が数人いる。
うち一名は演奏ではなく改造する気満々である。

「まずはお集まってくださいましたこと、感謝しますわ」
「はい質問」

 真っ先に手を挙げたのはアリスである。

「私、魔法の研究について面白い話があるって聞いて来たはずなんだけど?」
「ごめんなさいね、そうでも言わないと、貴女動かないでしょう?」
「やっぱり嘘か……」

 露骨に警戒の色を露にするアリス。当然である。

「でも、この演奏には貴女が必要だと判断したから誘ったのは本当よ。勿論、他の面子も
ね」

 周囲の様子を見る限り、演奏の話を聞かされていないのはアリスだけらしい。

「嘘をついたのは謝るわ。代わりに報酬は弾むわよ?」
「報酬?」
「ウェッジウッド」
「乗った」
(こいつうちのティーカップセットパクる気だ!)

 レミリアが眉間に皺を寄せるのを気にも留めず、紫とアリスは勝手に商談を進めてしま
った。ともあれ、奏者の中でこのプロジェクトに異議を唱えるものはいなくなった。

「楽器はこちらで用意させていただきましたわ。初心者や未経験楽器が多くあるとはいえ、
貴女達なら三ヶ月あれば十分演奏に間に合うと思っている」
「そこなんだけどさあ、ホントにたった三ヶ月で大丈夫なわけ? 経験者から言わせても
らうけど、楽器覚えるのって結構大変よ?」

 リリカの意見は尤もである。これから触れる楽器は、リコーダーやピアニカなどではな
い。いや、リコーダーやピアニカとて、極めれば馬鹿には出来ない楽器である。それもた
だ演奏を練習するわけではない、これからやろうとしていることは、オーケストラだ。素
人目から見てもハードルが高いのは明らかだろう。

「大丈夫よ。恐らくこの中で一番苦労するのは……レミリアでしょうから」
「あん?」

 当然、レミリアはその言葉に反応する。レミリアだけではない、その場の多くが、紫の
言葉に目を丸くした。当然だ。彼女は楽器を奏でる必要は無いのだから。

「まあ、そのあたりは後々嫌でも分かるでしょう。演奏会は月見の晩。貴女達にはそれま
で毎日、楽器の練習をしていただきます」
「それは困るな。寺子屋での活動が出来なくなってしまう」
「私も! 屋台の営業時間は削れないわ!」
「ご心配なく」

 慧音、ミスティアが意見するが、紫は動じない。

「演奏に慣れるまでは時間は定めない。出来れば集まって練習して欲しいけど、都合が悪
い時は自主トレーニングで構わないわ。サボってないことだけ分かればいいし。半月に一
回は合奏練習に出てもらうけど」
「それなら問題無いわね」
「音楽で私がサボるわけないじゃない。勿論やるわよ!」

 なるほど流石に計画はしっかり立ててある。そのあたりは抜かりない。

「ねえねえそんなこといいからさ、早く楽器触らせてよ楽器! こっちもカスタマイズの
設計図から作んなきゃいけないんだし」

 にとりは根本的に間違えている気がしてならないが、この中の誰もが、これからの三ヶ
月を共にするパートナーに触れたくて仕方が無いのは確かだ。

「こ、これはもしや……!」

 自分用に用意された一本のオーボエを前に、天子は指を振るわせた。

「ロレーロイヤルの最新モデル。ちょっと奮発させてもらったわ」
「どこでこんな物仕入れたのよ全く……ただの素人の演奏会に使うには贅沢すぎるわ……!」

 あの高慢天人である天子が、未だに一本のオーボエに触れることすらできず、ただ指を
震わせてそれを見つめている。それだけで、この場で用意された楽器一つ一つが、どれだ
け価値のあるものであるかが見て取れた。

「もしかしてこのティンパニも……」
「このホルンも……」
「ギュンター・リンガー、アレキサンダー、勿論ガルネリもありますわ」

 皆が息を呑んだ。役半分が素人である楽団が使う代物ではない。楽器を触りたい、そう
思っていた者達は、楽器を触れられずにいた。身分、技術、資産、あらゆる区分において、
人は己に見合わぬものを目にした時、それに近づけなくなるものである。

「躊躇しても仕方なかろう」

 真っ先に楽器に触れたのは、慧音だった。

「無償で貸し出すということは、管理責任はそちらにあるのだろう?」
「ええ、勿論ですわ」

 理由はどうあれ、紫は本気でこの演奏会を成功させる気らしい。そしてこの思い切った
行動は、思わぬ成果を生むこととなる。

「……ちょっと私も練習してくる」
「あら、改造するんじゃなかったのかしら?」
「こ、こんないくら値打ちがあるか分かんない高級品弄れるわけないじゃないか! 楽器
に失礼ってもんだよ!」

 次に楽器を手に取ったのはにとりだった。最もまともに演奏しなさそうな面子である彼
女が、他の経験者達を差し置いて楽器を取ったのだ。

「わ、私も」
「私だって!」

 それに続き、我先にと全ての者が、自分の楽器を手に取った。最も素人であるはずのに
とりが動いたのが功を奏した。人妖問わず、幻想郷の住人達はプライドが高い。一人が動
けば、他も動く。後は求める結果が大きくなるよう先導すればいい。

「やれやれ、相変わらず上手ね」

 少し重そうにトロンボーンを手にとり、アリスは紫に視線を向ける。

「ま、乗せられてあげるわ」

 結局、全員乗せられたのだ。やらざるを得ないと思わされたのだ。魔女、妖怪、霊、天
人、付喪神、それぞれの者達は皆、紫が用意した高級楽器という餌を食わされたのである。

「ホールは貸切とさせていただいてますので、好きに使っていただいて構いません」
「え、ちょっとそんな話聞いて――」
「構いません」
(こいつ……!)

 どうやら既に主導権はレミリアには無いらしい。

「えーと、とりあえず大きく吹けば大きな音出るわよね」

 華奢な腕には似合わぬホルンを抱え、響子は大きく息を吸い、

「プスー……」

 無様な音を漏らした。

「あー……ダメよそんな強引に楽器を扱っちゃ」

 苦い顔をする響子のホルンを手に取り、メルランは撫でるようにホルンを抱える。

「金管楽器っていうのは、音を管の中で上手に響かせなきゃいけないのよ。マウスピース
も触れる程度に、強く押さえつけず、楽器によって響き方には癖があるわ。まずはこの子
の性格を知ることよ」

 小さく息を吸い、彼女はホルンに息を吹き込んだ。

「!」

 それは何の演奏でもない、ただの「ド」の音だった。だがホールに響いたその音は、一
切の抵抗無く、そこにいた全ての奏者達の耳を通り抜けた。ブレや濁りの無いその音は、
ホルンから溢れる歓喜の声のように聞こえた。

「おお~……!」
「管楽器は呼吸をする。まずはホルンの呼吸を知り、それに合わせることよ」
「うん、分かったわ!」

 ホルンを返され、響子は瞳を輝かせた。やはり経験者がいるのは有りがたい。ここには
管楽器、弦楽器、そしてオールマイティなプロフェッショナルがいる。プリズムリバー三
姉妹にとって、必要なのは自身の練習時間ではなく、演奏の基礎を知らぬ者への教育であ
る。三姉妹の中で一番最初にそれに気付いたのは、次女、メルランだった。

「ふむ、どうやら私達も指導側に回ったほうがよさそうね」
「楽器なら私達にお任せよ! どんな楽器のことでも教えてあげるわ!」

 ルナサ、リリカもそれに続く。

「あーダメダメ、エレキギターじゃないんだから弦はもっと丁寧に扱わないと」
「うーん、腹式呼吸から覚えたほうがよさそうねこれは」

 ホールに広がる不揃いな音達。それは音楽と呼ぶにはまだまだ程遠いものであったが、
個々が確かな『音』として成り立っていた。

「順調ね……ところで」

 徐々に流れを掴み始めた演奏風景を眺め、レミリアは紫に問いかける。

「私、何もすることなくない?」
「あら、言ったはずよ? 一番苦労するのは貴女だって」
「苦労も何も、私は楽器演奏しないじゃない。退屈過ぎて欠伸が出るわ」
「ここにある十二の楽器、ここにいる十二の奏者達……貴女は彼女達を導かなければなら
ない」
「大袈裟ね。指揮者なんて音に合わせて指揮棒振ってりゃいいだけじゃない」

 やれやれと肩をすくめ、レミリアは踵を返した。

「部屋で曲だけは聞いておくわ」
「あら、レコードなんて持ってたかしら」
「アンティークが趣味なのよ」

 立ち去るレミリアを横目に、紫は扇子をパチンと閉じ、楽器達との対話を試みている者
達に目をやった。

「さて、いつ気付くかしら。間違いに」




 半月が経過した。紅魔館から不揃いな音が鳴り響く。だがそれは小さくも、確かに、音
としての「形」を成しつつある音だった。

「ふうん……全員サボらず練習してきてるみたいじゃない」

 ホールで奏でられる、バラバラながら確実に成長の色が見て取れる音色に耳を傾け、レ
ミリアは内心ホッとしていた。
 十二人という人数、それぞれが自由気まま、やりたい放題が基本の幻想郷の住人達……
必ず、誰かが足並みを乱すと思っていたのだ。
 紫の策は確実に功を奏していた。ロレーロイヤルの効果、河城にとりを採用した人選は、
着実に十二人全ての奏者達のモチベーションを底上げしていたのである。

「ちょっとはやる気が出てきたかしら?」
「失礼ね、私は最初からやる気よ。やるって言ったんだからね」

 相も変わらず唐突に姿を現す、あるいは最初から現れていた紫に、レミリアは若干不機
嫌気味に目を細める。そんな彼女に対し、紫は僅かに落胆の色を見せたが、それに彼女が
気付くことはなかった。

「さて、忘れずお集まりいただき光栄ですわ」
「まあ、数名忘れてたから引っ張ってきたんだが」

 慧音は小さく息を吐いたが、凡そこれは想定内だったのだろう。定時の30分前に紅魔
館の門を通ったアリスの次に通ったのは、彼女と、ミスティアの二名。最初から迎えに行
くつもりだったに違いない。

「西洋の楽器っていうのも、中々赴きがあって悪く無いわね。慣れたら琵琶より素直かも」
「よく言うわ。毎晩ギャーギャー言いながらチェロと喧嘩してたくせに」

 九十九姉妹の異文化コミュニケーションはそこそこ順調らしい。

「その点打楽器って凄いわよ? 最後まで叩けばいいだけだもの」

 口では軽く言っているが、雷鼓の指には肉刺(まめ)ができていた。彼女は彼女なりに、
異国の楽器に苦戦していたのだろう。あるいは……、

「へへっ、どうやら私はこのクラリネット君と盟友になれそうだねえ」

 予想外の伸びを見せた、ド素人筆頭のにとりに感化されたのかもしれない。天性か、あ
るいは河童ならではの手先の器用さがクラリネットに合っていたのか、既に彼女は基礎の
段階を凡そクリアする程度に音色を奏でられるようになっていた。

「さて、予定通り、今日は半月に一度の合奏練習……皆さん、準備はよろしいかしら?」
「正直、まだあんまり自信は無いんだけど……」

 紫の声に、アリスは若干表情を曇らせる。当然と言えば当然だ。この中ではにとりに次ぎ、
最も演奏に遠い存在である。練習を重ね、それなりの基礎を詰んだところで、やはり他の楽
器経験者と比べれば、その差はどうあっても隠しようが無い。河童が特別なのである。

「あと二ヶ月半もあるのに、最初からそんなんじゃ、出来る演奏も出来なくなるわ。とりあえず、
やれることはやりましょ?」

 リリカの言うことも尤もである。全員が一度、「やる」と決めたのだ。今更退くことも出来ない
だろう。

「それでは皆さん、始めましょうか」

 紫の一言に、全員の表情が仄かに引き締まった。指揮者、レミリアを除いて。

(『運命』なら、もう聞き飽きる程聞いたわ。さて、それじゃあ見せてもらおうかしら……貴女達
の演奏とやらを)

 小さな指揮者は、静かにそのタクトを天に掲げた。その静かな動きに合わせ、十二の奏者
は僅かに指を緊張させた。

(いち、に、さん……はい)

 紅魔館のホールは、音色を響かせるに適した構造をしていた、広く、丸みを帯びたドーム型
の天井は、一斉に扉を叩く音色を、その空間に反響させた。

(へえ……中々やるじゃない)

 一人一人の演奏に耳を傾け、レミリアは少し、感心していた。まだまだ、音色は弱く、拙い。
されど今この場で奏でられているメロディは間違いなく、交響曲第5番『運命』であった。

(まあ、まだまだなんだけど……)

 そこにはまだ、強さが足りない、壮大さが足りない、そして、美しさが足りなかった。だが、レミ
リアはまだ気付いていなかった。この七分弱の第一楽章の中で、何が一番足りていないのかを。

「んー……まずまずってとこじゃないかしら?」

 一通り演奏を終えて、レミリアはそれなりに納得した様子でタクトを下ろす。

「どこが?」

 だが、ホルン担当、幽谷響子から発せられた言葉は、レミリアの評価を根本から否定するもの
だった。

「なんですって……?」

 ただの山彦から、よもや真正面から反論が帰ってくるとは予想していなかったレミリアは、眉間
に僅かな動揺を見せた。

「んー、やっぱ響子もそう思う?」

 賛同を露にしたのはヴィオラ担当、ミスティア・ローレライ。自身より劣る妖怪にこうも立て続けに
否定されたのでは、レミリアも黙ってはいられない。

「何よ、まだ半月しか練習してないのにそれなりに形になってるなら十分じゃない。そんなに高望み
してたわけ?」
「いや、違うわ……」

 ヴァイオリンを膝に休ませ、ルナサは小さく息を吐いた。それは、呆れの溜息だった。

「足りないのは私達じゃない、貴女よ」
「な……っ」

 レミリアは悟った。それが、オーケストラ演奏のプロ、プリズムリバー三姉妹の長女から発せられ
た言葉だったからではない。その場にいる十二の奏者、その全てが、指揮者への不満をその目で、
その顔で語っていたからだ。

「レミリアさん、貴女もしかして、指揮者は音に合わせて棒振ってりゃいいって思ってない?」
「そ、そんなわけないじゃない! ちゃんと毎日聞き飽きる程『運命』は聞いてたし、テンポも! 抑
揚も! 全部完璧にこなせていたはずよ!?」
「っかー! 違う! そうじゃないわよ!」

 メルランへの反論を遮ったのは、末っ子、リリカである。

「それじゃあただ音の塊こねくり回してるだけじゃない。指揮者ってのはね、オーケストラで扱われる、
全ての楽器を演奏するのよ?」
「わ、私が演奏……?」
「指揮ってのは、導くってこと。私達の演奏は、あんたの指揮に導かれて、初めて『オーケストラ』にな
るんだから。少なくとも私は、あんたの聞いたレコードの再現をするために演奏しにきたわけじゃない
んだからね!」
「んぐ……っ」

 ぐうの音も出ない。リリカの指摘は、レミリアの全ての誤解を突くものだったからだ。

指揮とは、単純な作業では無い。ここにいる、十二の楽器、十二の奏者を、『交響曲第五番の完成』
という終着点に導かなければならないのだ。つまり、レミリアの担当とは、指揮とは、十二の楽器全て
を奏でることなのである。

「理解したかしら? 一番苦労するのは、貴女だって」
「なるほど……」

 扇子で口元を隠す紫の、その表情は見て取れない。だが、彼女は笑っている。レミリアはそう思った。
今、自分は彼女の思い通りのシナリオに導かれている。さながら指揮者に導かれる音色のように。そん
な時、彼女は笑うのだろう。だから、レミリアは彼女を見なかった。

「……。貴女達はいつもどおりの練習を続けなさい」
「あら、どこに行くのかしら?」
「やることができた。しばらく席を外すわ」

 レミリアは、紫に、十二の奏者達に振り返らなかった。これは、予想以上の難題である。それを直感した
からだ。カツカツと靴の音を響かせ、ホールを後にする小さな背中を見送りながら、紫はアリスに目を配る。

「ふふ、あとはよろしく」
「え?」
「彼女が正解に辿りつくには、時間がかかるでしょうから」
「え、ちょっと、どういう――」
「それでは御機嫌よう。また半月後に」

 アリスへの返答を待たず、紫はその場から姿を消した。アリスはただただ、呆然とするしかない。ただ、分
かったことが二つある。紫は最初から、自分の演奏に期待などしていないということ。そして真の狙いは、
「レミリア・スカーレットを自分に任せる」ということである。

「……また貧乏くじ引いちゃったかしらね、これは」

 とはいえ、今更抜けるわけにもいかないだろう。十二人の奏者のうち、最も現在練習が必要なのは自身で
あることも自覚しているし、なにより、ウェッジウッドが約束されている。

「でも……私もただ言いなりにはならなくてよ」

 遠のく足音のある方向を見つめながら、アリスはトロンボーンを握る指を少し強めた。




「咲夜、フランの部屋を空けなさい」
「え、空けなさいとはいったい」
「……言い方が悪かったわね。しばらくは、ここ、私の部屋でフランの世話を頼むわ。私はあの部屋に用がある」

 レミリアの行動は迅速だった。元より目的が先に走り、過程は後から作るのが、彼女の性格である。そこに、深
く理由を聞かずとも命に従う従者がいるのだ、早いことこの上ない。

「それとパチェ、貴女にも一つ頼みがあるわ」
「いいけど……まさか「私をベートーヴェンにしてくれ」とか言うんじゃないんでしょうね」
「そのまさかよ」
「え……?」
「私の耳を塞ぎなさい」

 それはレミリアの覚悟だった。自らが指揮者として、『運命』を操るものとして決定的に欠けているものは何な
のか。それを原点から探る必要がある。レミリアはそう考えたのだ。

「構わないけど……恐らく地獄の苦しみを味わうわよ」
「え、何、そんな痛いの?」
「痛くはないわ……でも、空気の流れすら認知出来ない音の闇に、数百年と音のある空間で生きてきた貴女が
耐えられるかしら」
「……覚悟の上よ。あ、一応、用が済んだらそのうち戻してね?」
「何か安い覚悟ね……」




 程なくして、レミリア・スカーレットは、「音」を失った。紅魔館の地下の奥深く、かつて495年間、小さくも凶暴な
悪魔を幽閉していたその部屋の扉を閉め、レミリアは覗き窓から心細げに覗きこむ従者に微笑んだ。

「私がいいって言うまで、ここの封印を解いちゃダメよ? 私がこの中でどれだけ暴れても、どれだけ苦しんでも、
私がよしと言うまでは、永遠にここを闇に閉ざしなさい」
「――」
「あー……そっか、耳聞こえないんだったわね……私、ちゃんと声出せてるかしら?」

 咲夜は首を二回縦に振る。どうやら、まだ発声をする感覚は残っているらしい。しかし、いずれそれも失われる
だろう。

「演奏のメンバーにはこう伝えて頂戴。必ず最高の指揮を見せてあげるから、安心して練習に励みなさい、と」
「――」
「分かったなら、行きなさい。そろそろフランが機嫌を損ね始める頃よ」
「――だ、そうですよ、アリスさん」
「やれやれ、何をするかと思いきや、本当に面倒くさいことになってるじゃない」

 尾行をしていることが気付かれるのは最初から分かっていたのか、アリスは悪びれる様子なく踵を返した。





 さて、時刻はまだ昼を終えたばかり。されど、この部屋には光一つ差し込まない。ただただ暗く、そして静かな、
アンティークとぬいぐるみだけが綺麗に並べられた、さながら人形のためだけにある部屋のようである。

(ベートーヴェン、1770年に生まれ、齢三十にて難聴を発症……)

 手にしたタクトを掲げ、誰もいない、どこでもない壁を見定め、レミリアは大きく手首をしならせた。

(音楽家にとっては命の次……いや、命よりも大事であるものを失いつつ、尚音楽家であり続けた……いや、聴
力を失い、そこから多くの名作を生み出していったその強さ……)

 ぬいぐるみだけが、レミリアを見つめていた。彼女は真正面に居座るそれに目を合わせることなく、一心不乱に
タクトを振り上げる。

(静かに、されど確実に押し寄せる無音という名の『運命』……それが扉を叩く音が、貴方には聞こえたのかしら?)

 大きく腕を振り、タクトが空を切る。気付けばレミリアの額には、じわりと汗が浮き出ていた。

(聞かせてもらうわ。その音を……!)




 それから、更に半月が経過した。紅魔館ホールに、半月振りのオーケストラが響き渡る。交響曲は第一楽章を
ミスなく演奏するまでにその仕上がりを高めていた。

「これ、大分形になってきたんじゃない? この調子なら第四楽章まですんなりいけそうね」

 オーボエ担当、比那名居天子はふんと鼻息を鳴らして胸を張る。メンバー内では一番高慢かつ不真面目に見
える彼女だが、そこは腐っても天人。その身分と実力に見合った技術を身につけていた。

「それもあるが、やはり指揮者の実力が違うのだろう」

 フルート担当、上白沢慧音は、その場で見事な指揮をしてみせた妖怪に目をやった。

「あら困りますわ。当日の指揮者は私ではないのですから」

 タクトを降ろし、八雲紫は仄かに笑みを返す。事実、彼女の指揮は完璧と言ってよいものだった。全ての奏者の
演奏を管理し、そして音へと導く動作があったからこそ、ミスの無い合奏をすることが出来たのである。

「そこなんだけど本当に大丈夫なのかしらね、このままあんたが指揮者代わったほうがいいんじゃない?」

 天子の歯に衣着せぬ発言は些か不謹慎なものであったが、それに反論する者はいなかった。何より、今この場
に、レミリアはいない。

「ま、私達が出来ることは練習しかないんじゃない? 確かに演奏にミスは無かったけど、やっぱまだまだ音が粗
いよ。もっと滑らかな音が出せるようにならなきゃ見世物にはならないね」
「あら、随分言うようになったじゃない?」

 この練習期間を通じて、にとりとメルランは随分と打ち解ける仲になったらしい。管楽器演奏をする仲間が増えて
嬉しいのか、はたまた騒霊という新しい顧客対象を見つけたからかは定かではないが。

「まあ、にとりの言うとおりね。次の半月後には三楽章がこなせるように頑張りましょ?」
「あら、どこ行くの?」
「ちょっと野暮用よ」

 その時、雷鼓の呼び止めに軽く手を振り、紅魔館出口とは逆に歩みを進めていったアリスを目で追う者がいた。

「……?」





「……」

 覗き窓から映るのは、紅魔館主、レミリア・スカーレットの背中であった。耳の聞こえぬ吸血鬼は、ただただ一心
不乱にタクトを振り続けていた。

「……酷いものね」

 それは、アリスの素直な感想だった。
 そこに映るレミリアの指揮は、もはや指揮の形を成していなかった。ただ、闇雲に棒を振っているだけ。その動き
に、どの楽章か、どのパートかは全く見えてこない。その背中にも、焦燥と疲労が見て取れる。

「なにやってんのさ?」
「ヴェイッ」

 唐突に背後から声をかけられ、アリスは思わず扉に肩をぶつけてしまったが、レミリアの聴覚が失われているの
が幸いした。どうやら彼女には気付かれていなかったらしい。

「み、ミスティア、何故ここに……?」
「何故はこっちの台詞さね。こんなとこで秘密の特訓だなんでずーるいんだ」

 どうやら、この夜雀は少し勘違いをしているらしい。

「私は別に秘密特訓なんてしてないわ。してるのはむしろこっちのほうよ」
「お?」

 扉の向こうを覗き見て、彼女は興味深げに耳を奮わせた。

「なにあれ、全然なってないじゃない。イメトレじゃあ指揮は上手くなんないって。せめて音楽くらい流さないと」
「聞こえないのよ」
「え?」

 アリスのその言葉を、ミスティアは理解出来ていないらしい。恐らく鳥である彼女のことだ、今、自分達が演奏して
いる曲がどんなものなのか、誰のものなのかも知らないのだろう。

「私達が今練習している曲は、耳の聞こえない音楽家が作ったものなの」
「耳が聞こえない!? そんな状態でどうやって曲なんて作れるのさ」
「知らないわよそんなの。それを知りたいから、あの子は自らの耳を塞いでるのよ」
「……」

 人間というものは不思議なものであり、音を失っても音を作り出す者もいれば、視力を失ってなお、絵画を生み出
す者もいる。恐らくそれは、妖怪や神、悪魔といった、有り余る力を持って生まれた種族が持ち合わせぬ力。

「……うし、決めた。私もここで練習する」
「は?」
「こんなとこで一人で練習してるなんて寂しいじゃない。だから私もやる」
「やるって言ってもね……このドア開けられないのよ? レミリアだって耳聞こえないんだし、ここで練習しても」
「やる」

 どうやら梃子でも動かないらしい。音楽家の端くれとして、何か思うことがあるのか、それとも考え無しの行動か。
恐らく後者だろうが。

「……まったく、ホント貧乏くじだわ」

 溜息混じりに、アリスは苦笑した。つくづく面倒事を引き受けてしまう己の性格を、彼女は笑ったのだ。




 何日が経っただろう。何週が経っただろう。少なくとも半月は超えた。既に一ヶ月は超えているかもしれない。

「ああ……」

 苛立ちが、焦燥が、ただぐるぐると部屋の空気を淀ませていく。

「ああ……!」

 自らが振るタクトの先が、まるで視線の先を飛んで回る蝿のようだ。

「ああ!」

 服が擦れる音も聞こえない。どれだけ力強く腕をしならせても、タクトの先が空を切る音すら聞こえない。

「あああ!!」

 そして、自らの叫びでさえ。

「うう! ああ!! うおあぁ……!!」

 既に、何を自分の口が、舌が、どのように動いているのかさえ、レミリアには分からなくなっていた。ただ闇雲に
タクトを振るだけの時間に、意味などは無い。もはや、自分がやっていることが指揮ですらないことも自覚してい
る。それでもやらなければと焦る体、不安、恐怖。それなのに、この体は音を掴むことが出来ない。そんな己への
憤り、恨み、怒り。ありとあらゆる負の感情が、レミリアの体にべっとりと纏わりついているようだった。

(分からない。分からない……私は一体何をやっている、何をやっていた? こんなことで運命を……指揮をこな
すことなんて……)

 聞き飽きる程聞いたはずの『運命』を、思い出すことが出来ない。音の記憶すら辿れない、そして聞きなおすこと
すらできないのに、一体どうやって『運命』の本質を知れと言うのか。

(どうして……一体どうしてこんな耳で音楽を続けようと思えるわけ? 分からない……理解が出来ない……自分の
作ったものが何であるかすら理解することが出来ないと分かっているのに、なぜお前にはそれが出来たのだ……!)

「地獄の苦しみを味わう」パチュリー・ノーレッジはそう言った。そう言ったのは覚えている。しかし彼女は、そんな彼女
の声すら、今は忘れかけようとしていた。

(運命よ……)

 縋った。

(運命よ……!)

 レミリアは、縋った。

(お前の音が、私には聞こえない……!)

 小さな吸血鬼は閉ざされた、冷たい、鋼鉄のドアに、その小さな拳を押し当て、そして震えた。

(この扉を叩いても! 私には何も響かない!)

 彼女は扉に腕を振り下ろす。走る鈍痛、響く衝撃。かつて495年間、自らの妹を封印してきたこの扉が、この程度で
壊れるはずが無いことは分かっていた。
 それでも、レミリアは叩いた。何かを感じること、それを忘れることが、何よりも恐ろしいと感じた。痛みでもいい、骨が
砕けるほどの痛みでもいい。何かを感じていなければ、気が狂いそうだった。

(聞こえない……聞こえない……もう、やめよう)

 もう、限界だった。耐えられなかった。音への乾きが、他の感覚までをも麻痺させようとしているように感じられた。他
の者達が今何を話しているのか、何を聞いているのか、それを共有できないことが、これほどまでに苦しいことだとは思
わなかった。レミリアにはもはや、指揮などどうでもいいものになっていた。ただ、この、今にも全てを押しつぶしそうな
沈黙の重圧から解放されたかった。
 この扉の先に、いつもの日常が待っている。縋る思いと、強烈な無力感に苛まれながら、レミリアは覗き窓に顔を近付
けた。散歩をせがむ老犬のように、扉に張り付いていた。

「――」

 レミリアの瞳に映ったのは、楽器だった。トロンボーンと、ヴィオラ。長く、そして美しく輝く金色と、気品ある木製の艶が、
レミリアの時を止めた。

「――」

 七色の魔法使いと夜雀の二重奏。いつから彼女達はそこにいたのだろう。いつから、彼女達はここで演奏をしていたの
だろう。

「――」

 レミリアが感じたもの。それは、この音を聞くことが出来ないという悲壮では無かった。

「――あ」

 それは間違いなく、この耳には届いていなかった。それでも、レミリアにははっきりと聞こえた。

「……あぁ」

 これは、交響曲第五番『運命』。それの、第三楽章。

「あぁ……あぁ……っ」

 それは、殆ど呼吸に近いそれであった。それでも口から出たものは、小さな小さな、

「あぁ……!」

 嗚咽だった。

「――」

 ぴたりと、演奏が中断された。彼女の小さな声に、二人が気付いたのだ。

「――」
「――」

 二人が何かを言っている。レミリアの耳に、その言葉は届かない。

「――」
「――」

 今、きっと私は、酷い顔をしているのだろう。泣いているのか、絶望しているのか、疲弊しているのか分からない、
わけの分からない顔をしているのだろう。それでもレミリアは、扉に近付く二人の視線から、目を離すことが出来な
かった。

「――――――――――。――――、――――――――」
「――――!」

 アリスとミスティアは、笑っていた。不思議と、何が言いたいのかが理解できた。彼女達は今、私を励ましてくれて
いるのだ。

「がんばれ」

 それは、時に無責任な言葉だ。だが、その苦しみを共に味わう者から発せられた言葉は、同じ音でも、違う色を作
り上げる。

「がんばれ」

 手垢がこびりついたトロンボーンと、所々皮が切れ、肉刺だらけになっている指が、二人の努力と苦労を物語ってい
た。少し艶の落ちた髪が、物語っていた。彼女達もまた、戦っていたことを。

「がんばれ」

『運命』と、戦っていたのだということを。

「あぁ……っ、うあぁ……!!」

 決壊した。こみ上げたものが、全て押し出された。これまで長く生きてきて、これほどまでに無様であったことは無い
だろう。これほど弱く、小さな自分を、他者に見せたことは無かっただろう。それでも、レミリアは泣いていた。人前で、
誰よりも小さく、誰よりも無様に泣いて見せていた。
 それは歓喜の涙だった。この悪魔の館で全てを従え、全てを支配し、あらゆる運命を敵に叩きつけてきたレミリアが、
初めて、旧友、パチュリー・ノーレッジ以外の者と共有することが出来たこと。それは、共に、友として歩むことだった。

「く……っ、うっ……!」

 打ち震えながら、レミリアは思い出した。この幻想郷は、この世界は、人だろうが、妖怪だろうが、幽霊だろうが、悪魔
だろうが、全てを受け入れる場所であった。
 それなのに、何故気付かなかったのだろう。この手の平には、いくらでも掴めるものがあったのだ。ただ、紅魔館の主
であるという自負が、プライドが、常にそれを避けていた。たとえ近くにあっても、私はお前とは違うのだと、常に跳ね除
けていた。
 レミリアは、気付いてしまったのだ。初めて「負け」を味わったあの日から、私は憧れていたのだ。あの巫女のように、
あの空を自由に飛び回り、あの大きな空のように、この幻想郷のように全てを受け入れるあの女に、私は憧れていたのだと。

「うああぁぁ……!」

 そして、私は、いつだって本当は、それを手に入れることが出来たのだと。

「――」
「――」

 音の閉ざされた空間の中で、二重奏は再開された。彼女の嗚咽が止まるまで、その涙が枯れ果てるまで、交響曲第五番は、
幾度となくアンコールを繰り返した。




「――」

 咲夜が何かを言っている。何を言っているのかは分かっていた。だからレミリアは覗き窓に映る咲夜に、静かに首を縦に振った。
 悪魔を縛る封印は解かれ、重苦しいドアはゆっくりと、床を擦った。
 少し生暖かい風が、レミリアの頬を撫でた。きっと、咲夜は毎日この部屋を通じる部屋を清掃していたのだろう。黴臭さを一切感じ
させない、澄んだ匂いの風だった。

「――」

 そこにいたのは、咲夜だけでは無かった。その傍らには、少し安堵した様子で溜息を吐く旧友、パチュリー・ノーレッジと、少し寂し
げに顔を覗かせる影。心底自分を心配していたのだろう、愛すべき妹の姿があった。
 レミリアは小さく歩みを進めた、小さかったが、真っ直ぐと、歩いた。そして立ち止まり、彼女は優しく、そして少し強く、フランの体を
抱き締めた。
 少し驚いたのか、ピクリと肩を竦めるその反応に、レミリアは小さく息を吹き出し、笑った。

(ありがとう。そして、こんなところにずっと閉じ込めてごめんなさい)

 きっと、あまりに不器用な私のことだ。こんなこと口が裂けても口から出さないだろう。だから今は、この行動だけで十分だった。
抱き寄せるこの腕に、小さな手が応えている。その感触だけで十分だった。
 きっと、私はあまり変わらないだろう。口が裂けても口から出さない私だから、だから今は、今だけは……。

「――」

 パチュリーの言葉に、レミリアは首を横に振った。言葉が理解できたのかと、耳が聞こえるようになったのかと思ったのか、パチュリー
は驚いた様子で目を丸くした。
 勿論聞こえてはいない。聞こえるはずがない。それでも、レミリアには理解できた。最も付き合いの長い友人の言葉だから。
 今だけは、この素晴らしい音の無い世界を楽しもう。
 この館で誰よりも誇り高く、誰よりも不器用な私だから。レミリアは、敢えて自らの耳を封印したのだ。

(さあ、行きましょうか)

 咲夜達の背後でその様子を見つめる二人の同志に、レミリアは力強く微笑んだ。




 ホールには、既に全員が集結していた。アリス、ミスティアを率いて、その輪に戻ってきたチームリーダーに、十の奏者達は少し驚いた
様子を見せたが、この二人の行動は、残りのメンバーにも恐らく悟られていたのだろう。全員が全員、レミリアを快く迎え入れていた。

「まったく、逃げ出したんじゃないかってヒヤヒヤしてたわよ」

 比那名居天子がその背中を叩き、

「やっぱ、紅魔のコンサートには悪魔がいなきゃね!」

 リリカを筆頭に三姉妹がうんうんと腕を組み、

「私の川澄君もあんたを待ってたよ!」

 にとりはクラリネットに名前までつけていたようだ。

「私のティンパニが! 早く叩けと叫んでいる!」
「叫ばないけど吹かせろー!」

 雷鼓と響子はやたらとテンションが高く、

「私達もようやく」
「洋楽器と語らえるようになってきたわよ」

 九十九姉妹は大事に互いの楽器を抱きかかえ、

「指揮の極意は、見極められたか?」

 慧音は問いながらも、既にその答えは知っているようだった。
 当然、レミリアにその言葉は聞こえない。何を言っているかは理解していない。それでも、彼女はただ、頭を下げた。
それで、全てに応えられると思ったからだ。

 特訓を始めてから二ヶ月と半月。本番前日を除けば、これが最後の合奏練習であった。
 レミリアは、ただ黙ってタクトを見せた。それだけで、合図は十分だった。全員は持ち場に配置し、ただ、レミリアの
指揮を待った。
 全員が期待していたのだ。自らの耳を塞ぎ、二ヶ月を地下で過ごし、今なおその耳を閉ざしたまま、ここに立つレミ
リアが、一体何を得たのかを。
 小さな靴音一つでさえ響き渡るこのホールが、しんと静まり返った。全員が、下げられたタクトの先端を凝視していた。
そして、指揮者、レミリアの腕が静かに上げられた瞬間、

 ホールの空気が、動いた。

 八雲紫はただ静かに、その様を眺めていた。扇子でその表情を隠しながら。





 八月十五日。今宵はどこまでも闇が冴え渡り、それ故に、そらに浮かぶ満月が何よりも美しく輝いている。八雲紫が
呼びつけたのか、はたまた天狗が嗅ぎ付けたのか、紅魔館の庭園は満員御礼となっていた。

「はーいA席はこちら、残りチケットはB席がまだ残ってますよー!」

 商売をする気は無かったのだが、気付けば紅魔の門番がチケット販売と行列案内を担当していた。

「こりゃまた……随分集まってきたわね」
「当然と言えば当然だったか……紅魔館の悪魔が、多の種族を交えて演奏会を開くなど、この上ない大事件だ」

 ホールの扉の隙間からその様子を眺め、天子は若干の緊張を露にし、慧音も軽率だったかとばかりに頭を掻く。

「お、おおおおおだだだだいじょぶだー私には川澄君がいるもんねわたわたしとこの子が過ごした日々を思いだだせば
ここここんな人の群れななんて」
「落ち着け河童」

 その人数に、十二の奏者達はただただ萎縮していた。わいわいがやがや、彼女達の不安な声ですら掻き消されるか
のような、見物客達の騒ぐ声が、扉を通してでも聞こえてくる。

「……」

 そんな中、一人、木製のアームチェアでくつろぐ者の姿があった。

「……」

 閉じた瞳をゆっくり開き、彼女は静かに、両腕を開き、そして、

 パァンッ

 ホールの淀んだ空気を、大きな破裂音が吹き飛ばした。その衝撃に、全員の目が彼女に向けられる。

「……」

 優雅に立ち上がったその指揮者は、一人一人の瞳を確認するように、そして何かを伝えるように、彼女は見つめた。

「……」

 それだけで十分だった。
 レミリアが彼女達と演奏をしたのは、事実上半月程度しかない短い期間であった。それでも、この当日までにそれぞれが
味わった三ヶ月は、紛れも無く、皆が共有したものだった。だから、十二人、いや、レミリアを含めた十三人の合図は、それ
だけで十分だった。

「さて、皆さん、準備はいいかしら?」

 気付けば、八雲紫はホールの扉に立っていた。だが、レミリアはそれすら既に見透かしていたらしい。それとも、そうなる運
命が見えていたのか。
 レミリアは、ただ微笑み返した。それは余裕の笑みだった。その反応だけで、どうやら紫は満足したらしい。

「それでは皆様の演奏が、無事成功することを祈っていますわ」

 そして、扉は開かれた。




「遅いわね、いつまで待たせる気かしら」
「おいおい霊夢、オーケストラってのは慌ててやっても意味無いんだぜ? それに開演時間まではあと1分ある」
「と、言ってる間にあと48秒ね」

 観客席には、博麗霊夢と、霧雨魔理沙の姿があった。特別招待席。わざわざ招待状付きで誘われたのだ。無碍に扱うわけ
にもいかないだろう。

「ま、トリオもパンクも食傷気味だったしね」
「今回は十二人らしいからな。何考えてるかは知らんが、楽しみだな」

 博麗霊夢の狙いは別であった。直感したのだ。この演奏会には必ず、あの妖怪が絡んでいると。あのプライドが高く、面倒
くさがりな吸血鬼が、こんなイベントを進んで開くわけがない。

(何かやらかす気なら、乱入してでも止めないと)
「お、来た来た!」

 観客の拍手に迎えられ現れたのは、若干未だ緊張の色が見える十二の奏者達と、夏空にしては随分涼やかなこの夜のように、
流れるように、脚を運ぶ吸血鬼の指揮者。

「お、なんか気合入ってんな。いつものレミリアじゃないみたいだ」
「……」

 完全に客の一人と化している魔理沙とは裏腹に、霊夢の瞳はただ真っ直ぐに、レミリアに向けられていた。

「? ……!」

 その視線に気付いたのか、彼女は霊夢に視線を合わせる。特設ステージと最前席の距離は10メートル弱。その小さな空間に、
二人だけの沈黙があった。

「……」
「……」

 僅かに笑みを零し、レミリアは背を向けた。

「まあ、せいぜいそこで見ていなさい」

 霊夢は、そう言われた気がした。




 演奏が、始まる。悪魔が指揮する、前代未聞のオーケストラの予感に、観客達は静まりを見せ始める。

「……」

 タクトを握る指先から、僅かな頻脈を感じる。目の前に座する十二の同志達の少し荒い呼吸が、今にも伝わってきそうである。
 レミリアは、その感覚を愉しんでいた。絶対王者であると自負していた自身が、緊張しているのが滑稽で堪らなかった。そして、
その感覚を、ここにいる仲間達と、今、私は共有している。

「……」

 私だけではない。同じく招待席でこちらを見つめているであろう、愛しき妹、頼もしき友、素晴らしき従者が、門の外でもこちらを
気にかけてくれているであろう、手のかかる門番が、私が、私達がこれから起こす、一世一代の大演奏に緊張をしている。
 耳が聞こえずとも、レミリアにはそれが分かった。それが可笑しくて、嬉しくて、レミリアは誰にも気付かれぬよう、少しだけ笑い、
そして視線を上げた。

(さあ、みんな……始めようか)

 再び、一人一人に目を配る。それは、ほんの1、2秒のことだった。この1、2秒から始まる、沈黙……これだ、これが大事だ。
レミリアは、既にそれを知っていた。
 タクトを握る手が、静かに、されど真っ直ぐに挙げられた。小さな翼が、大きく開く。

「!」

 その瞬間、観客席に沈黙が走った。空気が、一瞬で変わった。嵐の前の静けさとは、このようなことを言うのだろうか。霊夢はそ
の時、鳥肌が立つのを覚えた。そして確信した。ここにいるのはレミリア・スカーレットであって、レミリア・スカーレットではないと。

(さあ、ともに迎えよう。これから押し寄せる……)

 そして、タクトは沈黙から解放される。

(運命の大津波を!)




『交響曲第五番「運命」第一楽章』



 それは、抗えぬ程に大きな運命が押し寄せる、恐怖と無力の大津波であった。心臓に叩きつけられる三度の衝撃が、観客席を襲った。

(お前達には見えるか、自身の行動、生き様、人生、その全てを否定せんが如く降り注ぐ無慈悲な采配が)

 それは、抗おうとする儚き勇気すら叩き潰さんとする、残酷な現実。

(お前達には感じるか、敵うはずなき巨大な力を、逃げることすら許されぬ残酷な選択を、受けとめるには重過ぎる、悪でもなく、正義
でもない、純粋すぎる試練を)

『交響曲第五番「運命」第一楽章』、そこには、抗いようの無い運命が、是非を問わずに扉をこじ開けんとする恐怖と戸惑いがあった。
 観客は、思わず肩を震わせた。悪魔の奏でる運命とは、かくも恐ろしく、どこまでも澄み渡る黒であり、人という存在はそれの前では、
あまりにも小さいものであったのだ。故に、観客達は、思わず肩を震わせた。彼らの本能が、その曲に萎縮したのだ。

(さぞ恐ろしかろう、さぞ辛かろう、だが、運命の前に、命はあまりに小さく、あまりに無力……お前達は、それに叩き伏せられることを選
ぶことしか出来ない、だが……)



『第二楽章』



 それは、頬を、髪を撫ぜるように優しい息吹を感じさせるものだった。暖かく、柔らかい、陽の光を感じさせるものだった。

(目を開けてみろ。そこに立つ者の姿を確かめてみろ)

 それは頼もしく、力強く、それでいて優しく、その者の肩を支えるものだった。

(お前のその弱々しい眼とは裏腹に、その者は今、お前を見ている)

『交響曲第五番「運命」第二楽章』、それは、運命に絶望する者に手を差し伸べる、救いのメロディー。そしてそれは気付かせる。その者が
見た恐ろしい程に大きく見えたものは、目を逸らさずに見つめれば、決して動かぬものではないということを。
 観客席から、緊張の色が薄れていくのを、レミリアは肌で感じていた。今の観客達は、あの部屋で打ちのめされ、心折れかけていた自身
そのものだった。だから、今の彼女には理解できた。観客達が、何を望んでいるのか、何を欲しているのかを。

(さあ、私が導いてやろう。そして教えてやろう。お前が恐れたそれは、決して終末を迎える鐘では無いことを)



『第三楽章』



 それは、心の奥底から湧き上がるマグマのように、じわじわと、確実に、吹き上がるものだった。

(さあ、立ち上がれ、前を向け。お前が失ったものは決して小さくは無い。だが、お前の手にあるものはまだ手に余るほどある)

 それは、押し寄せた波を押し返さんとする、小さくも、強く燃え盛らんとするものだった。

(気付け。お前は一人ではない。孤独ではない。その手を握る者を見よ。その肩を支える者を見よ)

『交響曲第5番「運命」第3楽章』、それは、自らを打ちのめした運命に立ち向かわんとする強き覚悟、反撃への準備である。
そしてそれは背中を叩く。失った代わりに得たものを忘れるなと。それ以上のものを掴み取れと。
 観客席は、息を呑んだ。それは助けでありながら、全てを解決するものではない。自らの歩みを、ほんの少し助けるための
ものであることを肌で感じたからだ。そして、それが掛け替えの無いものであることを、彼らは悪魔に説かれたのだ。

(さあ、共に行こう。お前が打ち勝たねばならない運命だ。私が術を教えてやる)



『第四楽章』



 それは、強く吹き荒れる風であり、自らが起こす風だった。

(思い出したか。お前にはこれが出来たのだ。これがお前の姿だったのだ)

 それは、押し寄せる運命の波を押し返す、強く、勇猛果敢な、命を燃やす程の反撃だった。

(さあ、腕を振り上げろ、声を張り上げろ。お前のその勇ましさは語り継がれるだろう。お前のその叫びは世界に広がるだろう)

『交響曲第五番「運命」第四楽章』、それは、運命に正面から挑み、それに打ち勝たんとする命の躍動。それは運命に打ち勝ち、
厚い雲にすら風穴を空ける、勝者を照らす賛辞の光だ。

(上白沢慧音……あまり喋ることは無かったが、私がいない間、お前が仲間を取りまとめてくれたのだろう?)

 レミリアはタクトを振った。

(ルナサ・プリズムリバー……私が与えた舞台は、お前の最高の舞台に成り得たか?)

 レミリアはタクトを振った。

(メルラン・プリズムリバー……管楽器全般の演奏は、お前がいなければ完成しなかった)

 レミリアはタクトを振った。

(リリカ・プリズムリバー……世話焼きなお前のことだ。自分の練習時間を削らせ、悪かった)

 レミリアはタクトを振った。

(幽谷響子……お前の陽気さは、確かに私達に力を与えてくれていた)

 レミリアはタクトを振った。

(堀川雷鼓……力強いお前のリズムが無ければこの合奏はきっと完成しなかっただろう)

 レミリアはタクトを振った。

(九十九弁々……洋楽器も悪く無いだろう? 私も機会があったら、和を愉しませてもらおう)

 レミリアはタクトを振った。

(九十九八橋……洋と和を織り成す、幻想郷唯一の姉妹であることを、誇るといい)

 レミリアはタクトを振った。

(比那名居天子……口こそ悪いが、楽器を持ったお前の姿は、まさしく天人だったぞ)

 レミリアはタクトを振った。

(河城にとり……最も練習を積み重ねてきたお前が今、最も楽器に愛されているぞ)

 レミリアはタクトを振った。

(ミスティア・ローレライ……真っ直ぐなその音色が、私に道を示してくれた)

 レミリアはタクトを振った。

(アリス・マーガトロイド……いつも以上に苦労役を買わせてしまったな。だが……感謝している)

 レミリアはタクトを振った。

(さあ、前を向け、前へ進め。私が送ろう、私が導こう。その苦難の先にある、光ある未来へ!)

『交響曲第5番「運命」』、それは、苦を味わい、苦を分け合い、苦と向かい合い、苦と戦い、そして幸ある未来を切り開く、
希望への扉を目指す人生賛歌。

 レミリアはタクトを振り上げた。大きく翼を、その両腕を、観客全てを包み込むように、大きく、大きく広げた。

(私について来い。その足音を世界に響かせろ! 運命の扉は、既に開かれている!)




 余韻が空を漂った。13の音楽家達の大行進が通り過ぎたのだ。
 沈黙があった。それは5秒か、10秒か、限りある時間だが、どこか長く感じられる時間だった。
 パン、と、小さな音が響いた。その音は、一つ、また一つと増えていった。それは、雨降り始めのように徐々に、確実に
増えていき、そして、暴風雨となった。
 背中に、翼に、大喝采が浴びせられた。レミリアは両手を広げたまま、背に当たるその刺激を真っ直ぐに受け止めていた。
 彼女は導いたのだ。抗えぬ現実に跪く者達の目の前で、威風堂々と扉を開いて見せたのだ。それは無謀とも違う、勇気とも
違う。悪魔が手に入れた、不似合いなほどに、内から輝く光だった。それは悪魔ですら神と見紛うほどの神々しさを纏わせ、
この夏の夜の空に太陽の如き輝きを放ったのだ。目を逸らすことは出来なかった。逸らすことなど、出来るはずがなかった。
小さな悪魔の指揮は、12の奏者達による演奏を、かくも美しく、壮大に彩ったのだ。

「……」

 拍手の波が押し寄せられる中、レミリアは振り返り、観客席に正対した。そしてゆっくりと、優雅に、美しく、頭を下げた。その
様に、客席からはより一層の拍手が沸き起こった。

「……はは、こいつはすげえや。まさかレミリア達がこんなにすげえ演奏するなんてな! て、あれ、霊夢……?」

 興奮冷めやらぬ魔理沙の隣に、博麗霊夢の姿は無かった。




「妖怪、天人、霊、悪魔……バラバラな種族は見事に心を一つにし、演奏会は大成功を収めましたとさ。めでたしめでたし――」
「何がめでたいのかしら?」

 紅魔館ホール内。壮大な拍手が扉を叩く中、影を潜めていた八雲紫の背後に姿を現したのは、博麗霊夢だった。

「あら、演奏がお気に召さなかったかしら?」
「演奏のことを言ってるんじゃないの。あんた……レミリアを神にでもするつもり?」
「あら、やあねえ、相変わらず勘だけはいいんだから」

 会場内に湧き上がった、レミリアに向けられた感情。それは「信仰」だった。それは、悪魔に決して向けられるはずのない感情で
ある。そして人々の感情が悪魔へと向けられること、それは、悪魔への信仰を仰ぐことに他ならない。

「ただでさえ仏教だの道教だのでわんさかしてるの。これ以上厄介なの増やされても困るのよね」
「あら、あの子が厄介なのは前々からだった気がするけど? それに霊夢、貴女は一つ勘違いをしている」
「あーん?」
「私は貴女の厄介事を一つ解消してあげようとしているのよ?」

 紫は動じず続ける。

「吸血鬼、レミリア・スカーレット。強大な力をもった悪魔の館には、それと同等の力を持った妹に、人にあらざる力を手にした人間、
百の知識人にもまさる知識を得た魔女、盾にも矛にも成り得る妖怪が潜んでいる。霊夢、貴女は一度彼女らに勝った。でも、この
幻想郷で一番の危険因子が彼女らであることに、未だ変化は無い」
「……つまり、予防ってわけ?」
「ご名答♪」

 扇子を閉じた紫の口元は、笑っていた。紫はこの館の主、この悪魔の一団の全決定権を持つレミリア・スカーレットに敢えて多くの
人脈を作り上げることで、危険を分散させたのである。

「人脈が増えりゃ、その分悪魔の子分が増えるんじゃなくて?」
「それ以上に監視の目が増えれば問題無し。病は広がる前に元を絶てば、大体は治るものよ?」

 結果、悪魔の館に多くの関心が寄せられたことは事実。大手を振って、この館の住人が悪事を働くことは、今後暫くは出来ないだろう。

「ま、今すぐ何も起こらないなら構わないけど……程々になさいよ? 人間と違って、妖怪だの幽霊だのはすぐ姿を変えるんだから」
「あら、私が匙加減を間違えるとでも? こう見えて料理は得意なのよ?」
「聞いてない」

 ともあれ、事は思ったよりは大きくないらしい。今すぐ事を荒げる必要は無いと判断し、霊夢はふんと鼻息を吐いた。

「それより、こんだけ人集めたんだから、当然演奏だけで終わらすわけじゃないわよね?」
「野蛮ねえ。まあ、そういう性格は嫌いじゃないわよ?」

 ホールの奥から、香ばしい匂いが漏れている。悪魔が変わることがあったとしても、このお約束だけは変わらないで欲しいなと、霊夢
は思った。




「お姉ちゃん凄かったよ! 何か、私ぼーっとしちゃった!」
「見事な演奏でした。不覚にも少し、涙腺に来ましたわ」

 一方、偉大な指揮者は妹らに歓迎を受けている最中であった。信頼できる家族達、そして頼もしい奏者達に囲まれ、レミリアは深々と、
頭を下げた。

「レミィ、そろそろいいんじゃないかしら? いつまでも口を閉ざしてちゃ、せっかくの夜が息苦しくなるわよ?」

 あれほど待ち遠しかったはずの時間なのに、今はどこか別れが惜しい気もする。だが、レミリア・スカーレットは、レミリア・スカーレット
でなければならない。耳を閉ざした吸血鬼は、やはり何かが抜けている。レミリアは静かに首を縦に振った。勿論、パチュリーの声は聞
こえていない。

(多分驚くだろうけど……ま、いいか)

 この時、パチュリーは一つ忠告を忘れていた。最も、言ったところでどうせ声は聞こえないのだ、同じことだろう。パチュリーは、術式を
解除した。レミリアの封印された聴覚を解除した。なんてことはない。指先ひとつ、パチンと鳴らすだけだったが、

「ふおおぉぉ!?」

 途端に、レミリアは耳を押さえて悶絶した。そして、自分の悲鳴にさらに悶えた。

「あー……やっぱりね」

 二ヶ月半もの間、ずっと無音の中で生きてきたのだ。突然入る音の量に、鼓膜の防波堤が亀裂を生じかけたのだ。

「お、おおおぉぉ……って、いーなり、あに、でひゃい、おほ! らしてんのほぉ!」

 ずっと口も動かしていなかったのだ。言葉を思い出すのにも今しばらくはリハビリが必要だろう。

「……ぷっ」

 一人が吹き出した。先ほどまで、あれほど優雅で美しいと思われた指揮者が、聴覚が戻った瞬間これである。

「あっはははははは!」
「い、今の聞いたか!? おほって! おほだって! 変なの!」
「おいおい何情けない声出してんだよ紅い悪魔さんよぉ? くっ、ぶふ……!」
「こらこら……くっ、あんまり笑うもんじゃ……ふっ、失礼というもの……んくっ……!」

 レミリア・スカーレットは、レミリア・スカーレットに戻った。そしてこれが、レミリア・スカーレットだったのである。

「あ、わんひゃはひっ、わーうな! ひょと! ひょお!」
「や、やめて! それやめて! あは! ははははは!」
「は、腹! 痛いから……! い、いひひ……!」

 霊夢と紫は、開かれた扉から、多くの笑い声が空に溶けて行く様をただただ眺めていた。

「あー……うん、全然問題無かったわこれ」
「美味しい美味しい、お酒の肴ができたわね。改めまして、めでたしめでたし……」
「ほら、あんたたち! 飲むわよ! そのヘタレ指揮者かついでこっち来なさい!」
「お、待ってました!」
「よっしゃー飲むぞー!」
「さあさどいたどいた! 指揮者様のお通りだ!」
「おひょい! ちょひょ、あんたはひあにゃってん! おほおぉ!」

 十二の仲間に担ぎ上げられ、奇声を上げる指揮者は抗いも虚しく、宴の場へと、開かれた扉の向こうへと、
吸い込まれて行ったのであった。
 さて、約半年ぶりの投稿。お久しぶりです。久々です。
 運命といったら交響曲第五番。これをレミリアと絡めたらどうなるか?
 相変わらず突拍子も無い発想から生まれた作品でしたが、いかがでしたでしょうか。
 人生楽ありゃ苦もあるさ。苦とは楽を味わうためのスパイス。スイカに塗す塩みたいなもんなのかも知れません。
 さて、もうじき夏本番。皆様がスイカを美味しく食べられますように……では、また。
久々
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コメント



0.630簡易評価
7.20名前が無い程度の能力削除
面白かったけど、この紫の運用法じゃ何をしても茶番にしかならない。
10.無評価名前が無い程度の能力削除
文体も話作りもいまいち。必然性ないし、真面目にもネタにもなりきれてない。なまじ基礎があるだけに、話自体のつまらなさが目立っちまった感じかな。
12.100名前が無い程度の能力削除
久々おもろいもん読ませていただきました!
また次回作楽しみにしてます
18.無評価名前が無い程度の能力削除
素人が指揮見て弾けるわけないけどな
余裕を持って演奏できる実力がないと、指揮に合わせるなんて出来ない
19.70名前は無い程度の能力削除
引き込まれました。
20.80ロア削除
 いいものを読ませていただきました。
 自分にとって一息で読むには長い作品でしたが、巧みな文章運びに引きこまれて難なく読み進めることができました。笑いと感動を詰め込んでしっかりと形にした、お手本のような作品だと思います。
 欲を言うなら、オチに斬新さが欲しかったですね。最後の展開に予想がついてしまったことばかりが残念です。私の運が悪かったと言えばそれまでですが、膝を打たされるようなアイディアで締められていれば、なお良かったと思います。