Coolier - 新生・東方創想話

■俗物 (後編)■

2014/05/25 10:49:25
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昔々ある所に、一人の尼さんがいました。

尼さんには弟がいて、二人で仏様の教えを学んでいました。

ところがある日、お爺さんになった弟が死んでしまい、お婆さんになった尼さんは悲しみました。
来る日も来る日も泣きました。

しかしある時、尼さんは気付きました。
弟がいなくなった事の悲しさ以上に、自分が死んでしまう恐ろしさに泣いていたのだと。

尼さんは薄情な自分を責めました。
しかし責めても死にたくない事に変わりはありませんでした。

尼さんは妖怪達にお願いして“若さ”を貰い、これからも“若さ”を貰い続ける事にしました。

その代わり尼さんは妖怪達を庇い、退治しようとする人間達から匿いました。

尼さんは若返り、死を恐がる事が少なくなりました。


尼さんは妖怪達を助け続けました。
“若さ”を貰う為でもありましたが、次第に妖怪達の辛い事情を知り、本当に助けてあげたくなりました。

尼さんは人間達も助けました。
昔の自分の様に死を恐がる人々に仏様の教えを授け、安心させてあげました。

そんな尼さんが、妖怪達も人間達も大好きでした

若返った尼さんはやりたい事が沢山ありました。
困ってる方を助け、教えを授け、お仕事を手伝い、お祭りを催しました。

美味しいものを食べたり遊んだりもしたかったのですが、仏様の教えでそれは控えなければなりませんでした。

尼さんは気を引き締め直し、修行を続けました。


ある日、尼さんは人を助けました。
波打ち際に倒れていた人は海の向こうから流れ着いたそうで、色んな国の言葉を知っていました。

勉強熱心だった尼さんはその方を介抱している間、色んな国の言葉を習いました。
けれどそれはとても難しく、結局一つだけしか言葉を覚えられませんでした。


ある日、尼さんは覚えた言葉で作った詩を、お寺の真ん中で詠いました。

異国の言葉は尼さんにしか分からず、しかし尼さんが楽しそうに詠うものだから、皆も楽しくなりました。


尼さんは興奮しました。
こんなにも汚い言葉を詠っているのに、異国の言葉だから誰にもバレません!。


尼さんは毎日詠いました。 愉しく詠い、楽しく踊りました。

それが悪い事だと分かってはいましたが、どうにも我慢出来ません。 尼さんは毎日毎日詠いました。


それから尼さんの様子がおかしくなりました。
美味しいものを無償に食べたくなり、思い切り駆け回りたくなってじっとしていられず、物を壊したくなりました。

人様が見ている時は我慢出来るのですが、誰も見ていない時はもう堪りません。
生のお肉にかじりつき、山から山へ跳び回り、お経を破いて仏像を握り潰しました。

そうして最後には我に返る尼さんは、いつもいつも自分の不信さを恥じ、正気でない自分を恐れました。

尼さんは詠いました。
詠って踊っている間は、他の事を考えないで済みました。

そうしてまた、下品な詩を楽しむ自分を恥じました。


尼さんは仏様に相談しました。
「私は我慢が利かなくなり私欲に流されてしまいます。どうかお助け下さい」

仏様は恐い顔をもっと恐くしました。
『お前は妖怪達から“若さ”を受け取っているな。 その“若さ”は生きる為の力、妖怪達の邪な欲の塊でもある。 “若さ”を断てば、邪な欲も無くなろう』


尼さん泣いて首を横に振りました。
『それだけは、それだけはご勘弁を』

若さを絶てば、尼さんはお婆さんになってしまいます。
お婆さんになったら死んでしまいます。

そして妖怪の欲の染み込んだ尼さんは、尚更“若さ”から離れられなくなってしまいました

「どうすれば、私はどうすればいいのですか?」

『三日三晩、経を唱えて歩き続けよ 四日目の朝に出会った者がお前を救うであろう』


尼さんは一日一晩、数珠を擦り合わせてお経を詠みながら歩き続けました。

擦れ違う人々はありがたいお経を詠む尼さんに手を合わせ、お辞儀をして見送りました。

しかし、尼さんはお経に飽きてしまいました。

尼さんは戸惑いました。 尼さんが読経を飽きるなどあってはならない事です。

しかしとうとう我慢出来ず、尼さんはあの異国の詩を詠い初めてしまいました。

擦れ違う人々は聞いた事の無い言葉に戸惑いましたが、尼さんが詠っているのだからきっとありがたいお経なのだろうと思い手を合わせ、お辞儀をして見送りました。

尼さんはふしだらな詩に頭を下げる人々が面白くて、また詠ってしまいます。

そして、どうしてお経を詠んだ時と同じ様にありがたがられるのか分かりました。
「お経も詩も、内容を分かっていないのか」

読経し、意味を教える事は出来ます。
しかし、真にその意味を理解出来る教徒がどれだけいるでしょう。

お坊さんもそれを求め修行に打ち込み、悟りを開けるのはその中のほんの一握りです。 お百姓さんが日に数刻、お坊さんの念仏を聞いただけの農民が辿り着ける境地ではありません。

なのに信者の人達は、座って経を読むだけでそれらを分かった様な気になるのです。 勤勉な聖ですら修得しきれない異国語を人々が理解出来ず、ただ何となく「響きが良い」「格好いい」等と安直な感想を述べ、結局意味も調べないままに済ませるのと同じではないか、と。

そんないい加減な覚悟“ごとき”で極楽往生を目指そう等と、なんとおこがましい事か。 あまりに浅く他力本願である、と。

それすら見抜けず、教えを授けたつもりになったお坊さん達の、なんと未熟でいい加減な事か、と。


尼さんは足を止めてしまいました。

それまで信じていた仏様の教えに疑問を感じ、蔑ろにし、その考えが揺るがない自分に驚き、恐がり、泣いてしまいました。


尼さんはまた歩き始めました。

涙を溜めたまま笑顔になり、軽やかな足取りで歩きました。

あの詩を詠いながら。



それから一日と一晩詠い歩き続けた尼さんは、一頭の虎に出会いました。

虎は目の前の野うさぎも襲わず、水と草だけでお腹を満たして暮らしていました。

そうした健康で静かな生活を続けた為か、虎はとても長生きをしました


尼さんは自分を恥じました。
虎ですらもあんなに欲を断っていると言うのに、今の自分のなんと情けない事か。

尼さんは決めました。
あの虎を見習い、彼女の様に落ち着いた心を持とう、と。

二晩目と三日目の間の事でした。


尼さんは虎を連れ帰り、仏様に紹介しました。

尼さんは虎を仏様の代理人にしようと考えました。
忙しい仏様に代わって人々が御参り出来る様に、そして仏様が苦手な妖怪達と打ち解ける為の考えでした。


虎はとても頑張り屋さんで、勉強やお仕事を一生懸命こなしました。

人々に好かれ、妖怪達に信頼され、皆から尊敬されました。

虎は本当は緊張したり恐がったり、不安な事が沢山ありましたが、尼さんと一緒に頑張りました。


虎は尼さんと一緒に暮らしていました。

虎は本当は物臭であり、人の生活には中々慣れませんでした。
それでも家事や炊事を覚え、きちんと暮らしていました。


尼さんは虎に聞きました。
「大変な事ばかりですけど、どうしてそんなに頑張れるのですか?」

虎は優しく笑って言いました。
「尼さんの役に立てるのが嬉しいからです」

尼さんはまた尋ねました。
「私が貴女を連れて来なければ、貴女は虎のままでいられたのかも知れないのに」

虎はまた笑いました。
「それでも、貴女に会えてよかった」


どこまでも優しく、自分について来てくれる虎の事が尼さんは大好きでした。

尼さんは虎の事を


殺してしまいたくなりました


自分を慕う彼女を殺したらどうなるか 首を撥ね飛ばしてもあの人懐っこい笑顔のままなのか 首を締め上げてる間、彼女はどんな顔をしてくれてるか

一度頭に浮かんだ好奇心は、それきり離れなくなってしまいました

虎と出会ってから幾分和らいでいた“ワガママ”が久しぶりに、一層強くなって蘇りました

尼さんは、やっぱり自分が嫌いでした


尼さんはひたすらに滝を浴び、禅に打ち込み、寝る間も一時も気を緩めず、虫一匹殺すまいと己を叱り続けました

この頃には尼さんの心はすっかり荒れ果ててしまい、お経は馬鹿らしくしか思えず、内容も丸で頭に入らず、お経はいつの間にかあの詩に代わっていました

なんとか虎を殺さない様にはなれましたが、今度は周囲の人々までも殺してしまいたくなり始めました

尼さんは、こんな事を考え、我慢出来ない自分が大嫌いでした


尼さんは仏様の下に頼みに行きました
「最後の過ちを犯す前に、どうか私を殺して下さい」と

『馬鹿を申すな…殺生を行ってもいない者を処刑で裁けはしない お前の行った過ちはそこまでのものではなく、何より仏が処刑など出来るものか』

「無茶は、承知しております…」


目の前に座る尼僧が人々に慕われた尼さんだと、誰が信じましょうか

顔や髪や服装は普段通りですが、全身が震え、脂汗と青筋が顔に浮かび上がり、口角は吊り上がり、瞳には酷く卑しいギラついた輝きがありました

「ですがこの心身、そうでもしなければ止まれそうにありません…」

今も自身の手首を、骨が軋む程に握り潰しています

「それこそ、神殺しの蛮行すらやりかねません…道中、それを思い付き、楽しみにすら感じていました」

一層笑顔を強めて床に片手をつく尼さんは、今にも仏様に飛び付こうと戦慄(わなな)いています

『…妖怪達から譲り受けている生気』

尼さんの震えが一瞬止まりました

『全てはそこに入り交じる、妖怪の凶暴性が故だ それを絶てば』


「それだけは!!」


バキンッ、と

薄くない床板が握り潰され、穴が開いてしまいました

『それだけは、それ、それだけは…』

悲痛な泣き顔で床板をむしる片腕をそのままに、空いた片手で髪を掻き回す

妖怪譲りのの怪力をもってしても、髪は毟り取れない

「駄目です、駄目、駄目です、駄目、嫌、嫌嫌嫌、嫌ぁぁぁ…」

絞り出す様に叫び、前屈みに身体を折って額を床につけたまま頭を横に振る


生気を絶てば何が起きるか…否、起きなくなるかは明白

尼僧にあるまじき禁術を使っていた事が信仰する毘沙門天に見透かされていたと言う事実にすら気付けない程に、尼は動揺した


『妖怪の本能、若さと寿命にあてた“程度”で晴らしきれるものではない』


仏の槍は動かない
穂先を天に向けるのみだ


『そなたの言う通り、やがては人を殺め妖怪をも殺め、いずれは自身が妖怪となり…いや、その前に身体が持たず死んでしまうだろう』


「駄目…駄目、駄目っなんです それだけは、それだけは…」


余りに哀れな光景

仏に自身の死を望みながらも、生き永らえる術は捨てられない
老いがこわい

その一方で殺生を渇望し、それもまたこわい

そんな支離滅裂な事をのたまうは、誰もが信じて愛する聖白蓮

泣き崩れ、喚き、首を振り
嫌な事を拒み、安寧だけを望み、そんなワガママを御せぬ女だった




私は屋根の上で詩を詠っていた

妖怪達と話している所を人間にわざと見せたりした

そして幸いにも、と言うべきか 港街には異国の商人達が来ており、彼らに尼さんが詠う詩を聞いたら意味を教える様に頼めた

周囲の人々の様子からも、かなり広まっているのが見て取れた

今日にでも、私を除こうと人が押し寄せて来る筈

そうなれば、近辺の妖怪達は私を助けようと駆け付けて来る筈

どちらもお断りだ
人に除かれるのも妖怪に救われるのも望みはしない、させはしない

そうして皆の真剣な怒りや信頼を蔑ろにする自分に、また嫌気がさした
嫌気はさしたが、相変わらず満月に向かって詠っていた


そうして松明と鬼火の双方が見え始めた時、彼女がやって来た

立派な装束に身を包み、作り物の爪を携え

泣きそうな顔をした、あの虎が

その表情に心が痛んだ
あんなにも自分を信頼し、努力し、無邪気に笑いかけてくれた人を裏切ってしまった

しかしそれと同じかそれ以上に、彼女を挫いた事実に悦び震えた


彼女は私に何故と問い掛けた どれも、私を知る人なら聞いてくるであろう質問ばかりだ

やむを得まい 本当の私は、普段の私とそれ程までに掛け離れていたらしいのだから

私は、そう見なされていたのだから

そうして皆に謝ろう、一緒に逃げようと提案され
最後には心中しようとまで言われた

これには驚いた
彼女がそこまで言ってくれるとは

嬉しかった 素直に

しかしそれでは足りない
今の私が求めているのは道ずれの相手ではない


私は詠い踊り、傷付けた
一言詠う度に虎は顔を曇らせ、一挙振るう度に血を滲ませた

妖怪“程度”じゃ振るいきれなかった力の漲りを歌と舞いに乗せ、全力で虎を痛ぶる

虎は身を守るばかりで反撃はしなかった

どうして?何故戦わないの?
私の事が好きだから? 私のやってきた悪事が信じられないから? 私が強過ぎるから?

お願い、戦って 戦って 戦って
叫んで、殴って、私を砕いて

私に独りで詠わせないで 踊らせないで


そうこうしている内に人間達が集まっていた

誰もが火や刃を手に私を罵っている 裏切り者、化け物と

自分で勝手に信じ込んでおきながら、と呆れ
信じさせたのは自分自身でしょう、と自責する

先頭にいるのは…毘沙門天の遣いか

何か横槍が入るのかもと覚悟したが、むしろ虎との戦いを御膳立てしてくれた

よかった 今割り込まれたら、相手が仏の遣いだろうが農民だろうが殺してしまう所だ

散々に痛め付けた虎は頬肉を無くし、屋根の私を見上げている

来て 来て 早く早く 逃げて

私に殺されて 私を殺して 死にたくない


虎が屋根まで追い付いた

虎は泣いていた
泣いていたが、今までに見せた様な気弱で挫けた泣き顔ではなく、決然と立ち向かう様な涙だった

綺麗だった
涙を流しながら視線を外さない彼女に、心底憧れた

そして彼女は尋ねた
あの晩、何を聞こうとしたのか と

あの晩…あぁ
彼女の褥(しとね)に潜り込んだ…彼女の牙に触れ、初めて彼女に手を掛けたくなった、あの夜

彼女の事が大好きなんだと自覚出来た、あの夜か

私は応えなかった
彼女も動じなかった
それが嬉しかった

私が何を聞こうとしたのか、彼女は察している
それが嬉しかった

そして彼女は邪魔な着物を剥ぎ、四つ足に構えた

嬉しさで気をやってしまいそうになった

彼女はもう躊躇わず、私と戦う事を選んでくれた

そうしなければならないと悟ってくれたのだ
防衛や排除の為ではなく、理由を理解して

ありがとう ありがとう ありがとう

自分の意志を正しく汲んでもらえた事が、とても幸せだった

だから 詠った


今まで生きてきて、こんなにも自分勝手に振る舞った事は無かった

大声で喚き散らし、屋根を踏み砕いて踊り、汗と共に血を流した

あの虎が、私を傷付けてくれた

あの虎が、私に拳を振るい爪を立て、鋭い瞳で睨み付け唸り声をあげてくれていた

表向きの役柄とは反対に、いつもお姫様にでも傅(かしず)く様に遠慮ばかりしていたあの虎が

私と同じ様に傷付き、血を流してくれている

どんな時よりも一体感を感じられた
共に修行をしている時よりも、、寝食を共にする時よりも、語り合う時よりも

どんな事よりも満足感を感じられた
若さを実感する事よりも、人妖を助ける事よりも、周囲を欺く背徳感よりも

そして、底知れぬ虚しさも僅かに感じた
私が求めていたのはこんな事だったのかと
私はそんな人間だったのかと

やはり、私は人間ではなくなったのかと

だが、それすら最早どうでもいい

あの虎が、私だけを見ている
私だけに触れている

普段から人の信仰、妖怪の信頼の対象として皆に囲まれ
私には必要以上に近寄るまいと苦笑いをしていたあの子が

今 今だけは、私だけのものに!

なのに、決着が近い事は予感から伝わった

胸の奥から、終わりに向けてギリギリと絞り寄せられる感情が息を詰まらせていく

殺せ、殺せと 今こそ彼女を奪い取れと
その瞬間を確かめろと

虎の爪が手首を貫く激しい痛みみと
指先が虎の掌を貫く凄まじい感触
二つが混ざり合い、意識が飛びそうな目眩を感じる

殺しなさい、と




いや

充分だ



喉元に寒さを感じ
次の瞬間ぬるくなり
あとはもう、血が吹き出すばかりだった

喉を触ろうと指を延ばせば、本来指先が当たるべき喉仏とその周辺の肉が、無い

血飛沫の向こう、すぐ目の前には、肉片を銜えた虎がいました


あぁ 遂にやってくれた

ようやく、その顔を見せてくれたか

懸命に、生きる事に必死な、獣の顔

私が下法に手を染めてまで求めた、力強さ

それを私だけに向けて振るい、喰らい、己の地肉としてくれた


詩が、聞こえた

目の前の虎が、詠っていた

私が散々に人々を馬鹿にした、あの詩を

流暢な発音がどれだけ正確に歌詞を記憶しているかが伝わって来る

虎が詠う詩は、私の詩とは別物の様に優しかった

間違いなく、私が詠っていた詩
多分、私が本当に詠いたかった詩

…嬉しかった
長い間他人とは“ズレた”価値観を持っていた私と近い認識を持つと言う事を伝えてくれる詩だった
彼女の目がそう言ってくれた

私に、近付いてくれた
私を分かってもらえた

なんと、喜ばしい事か
例えそれが驕りであろうと、私はそれを喜んだ


虎は私に謝りました

私に立ち向かった事に、私を喰い千切った事に
私の本性に気付けなかった事に

私は一つ一つに首を振りました
謝るべきは私であり、虎は巻き込まれてしまっただけなのに

結局私のやった事は、虎を安寧から引き摺り出し、起こさなくていい本能を叩き起こしただけの事だった


(ごめんなさい…ごめんなさい、星)

私は誰かに、自分の隣にいて欲しかった
見上げて崇拝するでなく、見上げられて尊敬されるでもなく ましてや、見下すでもなく

一緒に笑って、遊んで、喧嘩して、叱ってもらって、立ち直らせてくれる人が欲しかった

すがって、なじって、八つ当たりして、謝る事が出来る人が

…ワガママな部分ばかり満たしてもらったのではないか

そんな身勝手な欲求に、平和に暮らす生き物を巻き込んでしまった


(…星)

当然声には出せない

望んだ事とは言えやはり…煩わしい

(私は…今の私は、私らしいですか…?)

あの夜、どうしても聞けなかった問い

聞けば、答えが返って来てしまう
答えが返って来たら、それで自分が何者なのか決まってしまう様な気がした

それが何故か嫌だった
だから知りたくても聞けなかった

だから、声に出せない今だから、尋ねたつもりにだけなろうと口を動かした


血が抜けて冷えきった身体が、暖められた

「…素敵です」

…もう
この子は、どこまで私の考えを越えていく

星は私を抱き締め、出せる言葉からと言った風に“私”を語り続けた

抱えてくれる彼女の全身が、涙が出る程に柔らかい

「私は…それら全部がっ 全ての聖が、聖らしいと思います…!」

あまりに あまりにも陳腐な、御約束の誉め言葉
だからこそ、まっすぐな言葉

だが、その陳腐な言葉すら、初めて言ってもらえた気がした

いや違う
きっと、いろんな人達に言ってもらえていたのに、自分の事しか考えなかった私が無下にしていたのかも知れない


だから、この絶頂の中に横槍が入るのも、罰としては相応だろう

地上の人間達の慌ただしい様子に時間切れを悟る

地上から延びた光に身体を貫かれ、全身の機能が著しく弱まるのを実感する

環から数本の光が放たれ、中心に浮かぶ聖目掛け突き刺さった

見た目からは想像も出来ない暴力的な引力に、魔法で編み込まれた身体がバラバラになるのかと呻いた

それでも星に痛めつけられてなければ、振り切ってしまえた強さだ


懸命に抱き締める星の腕が一層柔らかく感じる

あと少し、あと少しと私を引き留め、泣きながら多くを訴えている

その一つ一つが、私にはどんな経典よりもありがたく聞こえ、どんな欲望よりも充実感を与えられ、全身に染み渡っていく


もっと、沢山話せればよかった


星の身体を押しやる

元より外れそうになっていた手が外れ、封印されるがままに地に落ちていく

星が叫び、私に手を延ばす

その口の奥に、喰い千切った肉片が覗いた


生きて、寅丸星

貴女は真面目な人 きっと人々を救い、妖怪を解ってあげられる

貴女は優しい人 皆が貴女の味方になってくれるわ

…貴女は弱い人 私との一件を、いつまでも自分のせいだと責めるのでしょう

だけど貴女は強い人 この経験を喰い尽くし、己の血肉に出来るでしょう


肉を喰らう事を思い出した今の貴女なら、きっと


背中が破裂する様な衝撃を最後に、満月を背にした黄金の虎が、消えた

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