Coolier - 新生・東方創想話

鈴の鉾、紅の門

2014/04/27 16:02:32
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「美鈴! ほれ、起きぃ美鈴!」
「ふぇ!?」
 耳元で怒鳴る老いた声に、美鈴は寝ぼけ眼を瞬かせながら飛び起きた。
 赤い髪を振り乱して周囲を見回すと、枕元に一人の人影がある。綺麗に禿げ上がった頭と、短い顎鬚。腰の曲がった矮躯を中華服に包んだその姿から彼女を叩き起こした人物を悟り、美鈴は呆れ気味に嘆息した。
「まったく……脅かさないでくださいよ、師匠」
 責めるような口ぶりの美鈴だが、片や師匠と呼ばれた老人はカラカラと笑い、
「「脅かさないでくださいよぅ」じゃなかろうて。儂がお前さんの敵だったら死んどるぞ?」
 美鈴の口調を真似て茶化す彼を、美鈴は半眼で睨みながらぼやく。
「師匠の気配に気づかなかったわけではありません。いきなり枕元で叫ばれるとは思ってなかっただけです」
「ふぇっふぇっ。どうじゃかのう」
 わざとらしく胡散臭い笑い声を上げ、老人は美鈴に背を向けた。そのまま何も言わず歩き出す姿は、「ついてこい」と如実に語っている。
 もう一度溜息をつき、美鈴は諦めて立ち上がった。身体にかけていた藁束をどけ、すぐ傍に置いていた靴に足を通し、彼の後に続く。
 美鈴の纏う服は、老人と同じような中華服。薄汚れた緑の生地が、腰ほどまである髪の真紅を一層際立たせていた。スラリと長い手足はよく鍛えられて引き締まっており、細いながらもか弱い印象を一切与えない。
 吹けば飛ぶようなあばら家から老人とともに外へ出て、天を振り仰ぐ。途端、美鈴は渋面で老人を睨みつけた。
「何かおかしいと思ったら……師匠、まだ夜半じゃありませんか。どういうつもりです?」
 広がる空には星が瞬き、煌々と輝く月が薄い雲を照らしている。遠く望む地平や山々の輪郭は闇に沈んだままで、日が昇りつつあるような時刻でないことは明白だ。
 美鈴の批難にも老人は涼しい顔のまま、懐から煙管を取り出して咥える。火種などなかったはずだが、彼が大きく息を吸い、煙管を口から離すと、吐き出された紫煙が宙に白線を刻んだ。
 彼は満足げに頷き、
「うむ、美味い」
「霞を食らうのは良いとして、また随分と俗な味の物をお好みになりますね」
 皮肉たっぷりな美鈴の言葉にも、老人は振り返りながらニヤリと笑んだ。見せびらかすように煙の立ち上る煙管を揺らして見せながら、彼はもう一度煙を細く吹く。
「儂くらい徳を積むとな、ちぃとばかし俗世にうつつを抜かしたところで咎められることはないんじゃよ」
「初耳ですねぇ。師匠がそんなに徳の高いお方だったなんて」
 おどけた口調で美鈴が言うと、老人はいよいよ愉快そうにからからと笑った。
 美鈴は、妖怪だ。だが彼女が師事する目の前の老人は同族ではない。仙人なのである。
 修行のため、当てもなく彷徨っていた頃に出会い、そして負かされた老仙人に弟子入りしたのも、もう遥か昔のことだ。
 そして、彼が戒律というものに全く頓着しないことを、美鈴はよく知っている。煙草も吸えば酒も呑む、俗世を捨て修行に励む一般的な仙人像からは遥かにかけ離れた存在だ。世界広しと言えど、ここまで奔放な仙人というのも他にはいないだろう。そもそも、何を思って仙人になったのかさえ定かではない。
「それで。結局のところ、どういうおつもりなんですか? 何か理由があるんでしょう?」
 同じ問いをもう一度投げる美鈴に、老人はしかしニヤニヤと笑ったまま、ただ無言で紫煙を燻らせる。おや、と美鈴は眉を跳ね上げた。
 人を食った人物ではあるものの、この師匠がここまで勿体をつけることは、これまでただの一度もなかったのだが。
「……のう、美鈴」
 身構える彼女に何を感じたか、老人は微かな苦笑を交えて声をかける。未だ細く煙の立ち上る煙管の先端を彼女に向け、
「お前さん、今儂と本気で戦って、勝てると思うかい?」
「む、何ですかその言い方は。そりゃあ私はまだ未熟かもしれませんが、そんなことはやってみなくちゃ」
「いんや、分かる」
 険しく眉を寄せ言う美鈴を遮って、老人は首を振った。ますます不機嫌そうに顔を歪め、美鈴は低く唸りながら己の師匠を半眼で見つめる。
 彼は煙管を咥え直しながら、小さく肩を上下させた。
「勘違いするでない。儂じゃもう、お前さんには勝てんよ」
「えっ」
 思わず美鈴は目を見張る。まじまじと老人を見つめるが、やはり彼が撤回する様子はない。
「な、何をご冗談を……」
 どうにか言葉を絞り出すが、その声は隠しようもなく上ずっていた。ぎこちなく形作った笑みも、口の端が小刻みに引き攣っている。
 驚愕を禁じ得ない様子の弟子を真っ直ぐに見据え、老人は紫煙とともに言葉を紡ぐ。
「お前さん、強くなることが目的だと言うておったな。強くなることが、お前さんの妖怪としての本分じゃと」
「……はい」
 初めてこの老人と邂逅したときの言葉を、美鈴は思い出す。確かに彼の言った通りの言葉を、彼女は告げた。
 美鈴は生まれた瞬間の記憶がない。
 気がつけばそこに在り、彼女の中には『強くなりたい』という欲求だけが存在していた。だからこそ、自分は強くなるために存在しているのだと、漠然と考えていた。少なくとも、それ以外に道はない。終着点の見えない修行の道に身を置いてこそ、己の本懐を見出すことができるはずだと。
 そして、その思いは今でも変わっていない。
「儂がお前さんに教えられることは、まだある。じゃがの、これ以上お前さんを強く鍛えるってのは、儂にはちぃと荷が重い。口惜しいがの」
 そうとは見えない顔で言い、老人は再度煙管に口をつけた。もう語ることはないと言わんばかりに、彼は口を閉ざし、ただ煙をたなびかせる。
 片や、美鈴は唐突な虚無感に襲われ立ち尽くしていた。
 いつか追いついてみせると意気込んでいた師匠を、自分でも知らない間に追い抜いていたのだと告げられたところで、実感を持てるはずがない。だが当の師匠自身がそう言っているのだ。それを疑うこともまた、できない。
 思考の停止した美鈴に、老人は先までの哀愁を消し去って、
「が、のぅ。ならばせめて、弟子に次の道を示してやるくらいはしてやらんとの」
 そう言うと、ニマリと笑う。
「それで、昔の弟子に渡りをつけてな。そ奴のところにお前さんが行けるよう、用意させた。まぁちと急になったが、大目に見ておくれ」
「師匠の、昔のお弟子さん、ですか」
 まだ思考が麻痺したままの、うわ言のような美鈴の言葉に、老人は「そうじゃよ」と首肯した。どことも知れぬ彼方、東の空を指差しながら、彼は楽しげなトーンで問いかける。
「海の向こうの島国の話、聞いたことはあるかい?」
「? そりゃ、あることは知ってますけど」
「あそこに、人間と妖怪が共存する世界がある、という話のことじゃよ」
「……師匠に師事する前に、噂程度には。正直なところ、信じてはいなかったんですが」
「ところが、あるんじゃよ。幻想郷という名の、噂通りの妖怪の理想郷は実際に存在しておる。お前さんの同族もわんさかおろうて」
 落ち着きを取り戻しつつある美鈴だったが、師から告げられた事実には、先とは別の意味で驚きを隠せずにいた。そんな彼女の様子を得意げに見上げながら、老人は煙管を返して灰を捨てる。
 風に溶ける灰を見送り、彼は続けざまに言葉を紡いだ。
「今以上の強さを求めるなら、今のお前さんより強い者がおる世界に行くより他にあるまいて。その点、幻想郷なら不足はなかろう。と言うより、お前さんの敵になるような者がおる場所は、他にないじゃろうな」
 言いつつ、彼は吸い終えた煙管の火皿を、指でとん、と突く。その一突きで熱を失った煙管を、彼は懐に仕舞った。
 改めて美鈴を見やれば、彼女は既に平静を取り戻していた。一方で、老人に投げ返す視線には微かな批難が混じって見える。その理由も、心当たりがないわけではない。
「……確かに、お前さんは手放すには少々惜しい弟子じゃがの」
 嘆息じみた鼻息を鳴らし、老人は美鈴に言い聞かせる。
「同じように、儂の手元で腐らせるのも、また惜しいでな。まぁ、手に負えなくなったと捉えるなら、それも仕方のないことではあろうがな」
 言うと、彼は口を閉ざして再び美鈴の顔色を窺う。が、彼女の老人を睨む目に変化はない。身を刻むような沈黙に、老人は早々に煙管を仕舞ってしまったことを少しだけ悔いた。
「……師匠は」
「うん?」
 不意に美鈴が、か細い声で呟いた。聞き逃し問い返す己の師匠へと、美鈴は今一度強い眼差しを向け、
「仙人だって、もう師匠以外にいないといっても過言ではないでしょう。師匠は行かれないんですか?」
 問い質す美鈴の声にはしかし、諦観の色が濃い。長く師事した相手なのだ、与えられる返答も、既に察しがついているのだろう。そしてその予想は、正しい。
「仙人の修行なぞ、基本は独りでするものよ。第一、儂はまだまだ人世への未練が絶えぬでの。如何に同類がいようと、狭苦しい箱庭は性に合わんよ」
「だろうと思いました。つくづく仙人らしからぬ方ですね、師匠は」
「そうかのう?」
「ええ。よりにもよって妖怪を――仙人になる気など毛頭持ち合わせない者などを弟子にするあたり、特に」
 敢え無く断られた美鈴だったが、肩を落とすその表情に浮かぶ失意は、決して濃くはない。嘆息を漏らした後に再び師へと向けた目は、完全に『吹っ切れて』いた。
「分かりましたよ、師匠。今日まで御世話になりました」
「何じゃ、「私もこっちに残る」だのとごねるかと思っておったんじゃがの。存外、儂に未練がないと見える」
 わざとらしく残念そうな表情を作って嘯く老人に、美鈴は笑みを向けて、
「ご冗談を。そんなに軟弱な弟子に育てたおつもりですか?」
「ふぉっふぉ、言いよる。それでこそ、儂も安心して送り出せるというものよ」
 上機嫌に笑う老人を、美鈴も見下ろして微笑んだ。
 と、不意に老人が東の方角に目をやった。美鈴も追従したその時、遠方の山に光が灯った。
 最初、美鈴は日の出だと思った。だが違う。空は未だ暗く、すぐに陽が昇る兆候はない。一方で、山の先端に灯った微かな光は、複雑に蛇行しながら山を下り、地上を走り始める。
「師匠……?」
「迎えじゃの」
 美鈴の問いかけに、老人も端的に答える。光は間違いなく、彼女たちのいる位置を目がけて伸びてきていた。
 霊脈だ。美鈴の直感が、そう答えを弾き出す。
 直に目にしたことはないが、仙術の中には霊脈に働きかける類いのものもあったはずだ。目の前のこれを為しているのが師匠の直弟子だというのなら、高度な仙術を扱えるのも不思議ではない。
 また同時に、これが彼の島国からの干渉だというのなら、言うまでもなく術の規模は相当に大きい。となれば、術の行使にも様々な制約があるはずだ。
 例えば、奇門遁甲という占術から発展した空間制御を可能とする仙術があるが、そもそも多くの占術において、日付や時刻は最も重要なファクターである。これは奇門遁甲においても例外ではないし、目の前で行使されているこれが似た仙術の系譜にあたるなら、術に課せられる制限も同様だろう。
 要するに、今この時を逃せば、次に道が開かれるのはいつになるか分からない。今さらながらに、師が「急になった」と言った意味を理解した。
 美鈴と老人の足元まで迫った光のラインは、唐突に延長を止めた。代わりにその終端が大きく膨れ上がり、直径2メートルほどの円をその場に生む。
「さて、整ったの。この先、その身一つで敵を求め力を求むも、次の師を仰いで修行に励むも、総てお前さん次第……美鈴、行きなさい」
 顎で光の円を指しながら、老人が笑う。名を呼ぶ瞬間、微かに声色が変わった。湖水の如く落ち着いた瞳には、紛れもない徒弟に対する慕情に満ちていた。
 これまでずっと美鈴を見守ってきた目。美鈴はその両目をじっと覗き込み、強く頷いた。
 それ以上の言葉は不要とばかりに、美鈴は固く口を閉ざしたまま光の中に踏み出す。二歩、三歩と進み、円の中心に立つと、彼女は師へと振り返る。後ろ手を組んで立ったまま、彼は寂寥とは無縁のにこやかな笑みを浮かべていた。
 霊脈の輝きが激しさを増す。術を構成する何かが美鈴の存在を捉え、その肌を這い回る。
 次の瞬間、足元の地面が抜ける感触とともに、自分の身体が霊脈へと吸い込まれるのを美鈴は自覚した。視界がぶれ、眩いカーテンの向こう側にいた師匠の姿が見えなくなる。
 咄嗟に「お元気で!」と叫んだ声が届いたか否か、それを確認するより早く、美鈴の意識は地上から完全に切り離されて――

――済まんの、手間をかけさせた
――他ならぬお師様の頼みですから。けど、よろしいので?
 目を開ければそこは幻想郷かと思いきや、美鈴が一瞬の空白の後に意識を取り戻した場所は、前後さえ曖昧で不確かな場所だった。それどころか、自分の身体の間隔さえ定かではない。恐らくまだ霊脈の中なのだろう。
――貴方の愛弟子を、私が台無しにしてしまうとはお考えにならないんですのね
――まぁ当面は、お前さんの掌の上じゃろうがの
 水中から地上の音を聞くような、酷く不明瞭な声。だがその一方は、間違いなく師たる老人のものだ。そしてもう一方は覚えのない女性の声。察するに、こちらが老人の古い弟子だろう。
 老人はくっくっと忍び笑いを漏らし、
――じゃがの。あ奴はいつまでもお前さんの思惑に囚われてはおらんぞ。こと成長することにかけては、お前さん以上の逸材じゃて
――あら、それは楽しみですこと。もっとも、私も式には事足りています故、あの子を手元に置く気はありませんけれど
――ほ。暫く見ぬうちに、随分と素直になったものよ。何ぞ企みがあることは否定せぬわけじゃ
――お師様相手に隠し事なんて、私がすると思いまして?
 さも愉しげで、しかし同時に切り結ぶような緊張感を秘めた会話。はっきりとしない思考でそれを聞きながら、美鈴は何もかも不明瞭な空間を漂い続ける。
 と、唐突に師匠の気配が、美鈴の方を向いた気がした。姿が見えているわけでもないのに、自分の存在を師匠が捉えたという感覚だけが、美鈴の意識を引き締める。
――まぁ、俗世に飽きが来たらば儂もそちらに行くでな。それまで、精進を怠るでないぞ?
 明らかに、美鈴へと向けられた言葉。驚愕と同時に、それを待っていたかのように、美鈴を包んでいた霊気の流れが偏向する。
 声の元が、師匠の気配が一気に遠ざかり、それとともに逆方向からは別種の気配が近づいてくる。霊脈に穿たれたもう一つの穴。地上へと続くその穴に、美鈴の意識は猛烈な勢いで吸い上げられ、
 そして――

   ■ ■ ■

「ああ、やっぱり何か来た。紫の奴、人の家の庭で霊脈に穴開けるなんて、何考えてるのかしら」
「意図が知れたところで、許容する気はないでしょう?」
 次に美鈴の意識が目覚めたとき、初めに見たものは、向かい合ってテーブルに着きながらぼやく二人の少女だった。
 どちらも背は低く、容姿は幼い。人間ならば十と少しといった頃だろう。片方の長い紫の髪の少女は、外見的には人間と相違ない。だがもう一方は違った。
 背に生えた蝙蝠の羽。疑う余地もない、妖怪だ。
「ここが、幻想郷?」
 半ば茫然として、また半ば問いかけるつもりで、美鈴は口を開いていた。
 その瞬間、声を聞いた少女二人の視線が美鈴にピントを合わせた。蝙蝠羽の少女は、向かいの少女に一瞬だけ目をやって、
「パチェ」
 その名と思しき言葉をかけた。呼ばれた少女は小さく嘆息し、億劫そうに右手の指で虚空をくるりと撫でる。
 指先に仄かな光が灯り、宙に刻まれた円が魔法陣と化す。思わず身構える美鈴だが、魔法陣はすぐに溶けるようにして消え去った。それを確認した紫髪の少女は、もう一度美鈴に向き直り、言う。
「私の言葉、通じているかしら、お客人さん?」
 気だるげでありながら、不思議と芯の通った声。
 その言葉に、美鈴は今さらながらに、初めに聞いた少女たちの会話を理解できていなかったことに気がついた。先の魔法陣は、互いの言葉を翻訳するためのものだったのだろう。
「だ、大丈夫です。通じています」
「そう。だそうよ、レミィ」
 慌てて美鈴が答えると、少女はひとつ頷き、向かいの少女へと水を向ける。
 紫髪の少女自身は、自らの魔術の効果を確認した時点で満足したかのように、美鈴への関心を失ったらしい。手元の文庫本に目を落とす彼女へ呆れた眼差しを向けてから、蝙蝠羽の少女はその目を美鈴に移した。
 真紅の双眸に目を覗きこまれた瞬間、美鈴の背筋を得も言われぬ悪寒が走り抜ける。
「ふぅん、そう。なら尋ねるけれど、貴女は何の用があってここへ?」
 鋭い眼光を美鈴に突きつけたまま、少女は幼い声で尋ねた。
 その視線に宿る威厳は、美鈴がこれまで経験したことのない重さだ。しかし一方で、その意図は警戒でなく品定めであることに美鈴は気づいた。少女が只者ではないことには気づきつつも、相手が自分を脅威と認めていないという事実が、彼女の闘争心に火をつける。
「私は、修行のために、師匠の手引きでここへ来ました」
「ほう」
「幻想郷の外にはもう、妖怪はほとんどいません。だから、私の敵となり得る同族を求めて、この場所へ来ました」
 美鈴の返答に、少女が眉を跳ね上げる。その表情には僅かな好奇心が混じっているものの、零した声は不満げだった。
「要するに、貴女は『幻想郷へ来た』という認識しか持ち合わせていないわけだ。その中でこの場を選んだのは、貴女の意思ではないと……あぁ、確かに貴女のお望み通り、妖怪だったら掃いて捨てるほど見つかるわ。勝手に庭に踏み入ったことは咎めないでおくから、達者でやりなさい」
 一人納得したかのように呟くなり、少女はぞんざいに手を振りながら言い捨てる。
 態度と言葉から察するに、美鈴が自分たちの庭に現れることは全くの慮外だったのだろう。なるほど、何の許可もなしに余所者が自分の庭に現れたのなら、不機嫌にもなろうというものだ。
 が、やはり美鈴を歯牙にもかけようとしない二人の様子は、やはり気に食わない。決して友好的とは言えない彼女たちの様子を見て、なお自らの目的を憚りなく告げたのは、半ば以上挑発のつもりだったのだ。その上でこうも淡白な反応しか返さないというのは、美鈴にとってこの上ない屈辱だ。
「そうですね。探すまでもなく、目の前にいるようですし」
 目を細め、より直截に美鈴は言う。いよいよ蝙蝠羽の少女は渋面を作り、ちらりと相方に視線を送る。対する紫髪の少女は、無言のまま肩を上下させた。まるで「こうなることは予想できていただろう」とでも言わんばかりだ。
「貴女をここへ送りこんだ奴の思惑通りに事が進むのは、正直癪なのだけど」
 力なく嘆息し、恨めし気な眼差しで美鈴を睨みながら、蝙蝠羽の少女が告げる。覇気のない、気取った様子のないその物言いは、かえって彼女の言葉が本心であることを如実に示している。
 だが、それに対する美鈴の返事は、少女を瞠目せしめるのに十分だった。
「それが強くなることに繋がるなら、私は誰の掌で踊らされようと構いません。いずれその掌を踏み抜くつもりで、道化を演じるだけです」
「……ほう」
 きっぱりと言い放った美鈴を、少女は改めて凝視した。値踏みするような瞳はしかし、先よりもより深く、美鈴の真価を見定めんと輝いている。初めて少女の興味が美鈴に――その背後にある思惑でなく、美鈴自身に注がれる。
 ただそれだけで、美鈴の背筋を炙る畏怖が倍増した。
「なるほど、確かに保守的に過ぎたか。ここであいつの思惑を上回って見せるのも一興ね……」
 誰にともなく呟くと、少女は細い笑顔で美鈴を見上げ、
「いいわ。夜明けもまだ遠いことだし、そんなに言うなら相手をしてあげましょう。幻想郷で初めての敵が私であることを、光栄に思いなさい」
 鈴を転がすような声で、彼女は轟然と言い放った。彼女の放つ気配に気圧されつつも、美鈴が思わず頬を緩めかけた瞬間、少女は「但し」と付け加える。
「貴女の口車に乗せられた以上、私はその生意気な口を踏み砕くつもりでいるわ。よもや、それを不服とは言わないでしょうね?」
「勿論」
「上等」
 問いに迷う余地などなく、美鈴は即応した。それに、少女の口元が一層鋭く、そして苛烈に笑みを刻む。
 その瞬間、少女が発する威圧感はその質を大きく変えた。これまでを神像や峻峰の放つそれに例えるならば、今はさながら抜身の刀剣、或いは牙を剥く猛獣だ。美鈴は事ここに至ってようやく、それまで彼女から受けていた重圧に、危機感という要素が含まれていなかったことを悟った。
 敵意を露わにしたことで、ようやく目の前の少女の恐ろしさ、少なくともその一端に気づいた。決して容易い相手と思っていたわけではないが、どうやら相手の力量を正しく測ろうとしていなかったのは、美鈴も同じだったらしい。
「ふっ……」
 が、身を焦がすような戦意を肌で感じ、美鈴の身を震わせたのは恐怖ではなく、昂揚だった。
 間違いなく、この少女は美鈴がこれまで出会ってきた敵の内では『最強』だ。その身に宿した妖力の大きさは、感じたことがないほどに強大である。師の出会う前の自分ならば、たった今感じているこのプレッシャーに晒された時点で、戦意を失い平伏していただろう。
 しかし今は違う。敵に抱く畏怖を糧に、闘志を燃やすことのできる自分がいる。これだけの存在感を放つ敵を前に、戦えるという確たる自信を持つことができる。それは美鈴にとっては、図らずも己の成長を実感することができる瞬間だった。
「……レミィ。暴れるならせめて離れてもらえるかしら?」
 美鈴が気圧されないのを見て取り、紫髪の少女が溜息混じりに告げる。蝙蝠羽の少女は鷹揚に頷き、椅子から立つなり美鈴を手招いた。
「はいはい。こっちよ」
 誘われるがままに、美鈴も少女に続く。二人は机から離れ、庭の中心へと向かっていく。
 庭とは言うものの、飾り気はまるでない。大きな館を中心に有する広大な敷地、塀で囲われたその内部は、ただ剥き出しの地面にちらほらと雑草が根付いているばかりだ。先の机以外には、人工物は何一つない。
「暴れ甲斐のある庭でしょう。それとも壊す物があった方が気が乗るかしら?」
 辺りを眺めまわす美鈴の仕草に気づいたのだろう、少女が挑発気味に言う。少しばかり恥じ入りながら、「戦いやすい方が好みです」と答えるに留める。
 返答を得た少女が一瞬口元に過らせたのは、苦笑だった。
「貴女はまるで、戦うことそのものが存在意義とでも言いたそうなほど、戦うことに拘るわね」
「戦いを通じて強くなることが、です」
「じゃあ強くなる目的は?」
「今はまだ分かりません。己を高める過程で、自ずと見つかると思っています」
「迷いがないのね。少し、羨ましいわ……」
 重ねられる問いに、美鈴は遅滞なく答える。問答を重ねるごとに、少女の苦笑はより濃く変わっていった。最後に一言、美鈴には聞こえないほどの小声で呟いてから、彼女は身を翻し美鈴に向き直る。
「最後にもう一度だけ考え直すチャンスをあげる。吸血鬼、スカーレットの血統に聞き覚えがあるかしら」
「っ……名前には覚えはありません、が」
 少女の言葉に、美鈴の肩がピクリと震える。おや、と訝る少女へと、美鈴は先よりも闘志に燃える瞳で、
「吸血鬼は特に戦い甲斐のある相手だと、師匠より聞き及んでいます。確かに、幻想郷で最初に手合せする相手が貴女であることは行幸でした」
「貴女の師匠とやらにも、少し興味が湧いてきたわね」
 呆れ気味に言う少女の双眸はしかし、既に美鈴一人を見据えたまま離れようとはしない。
 元より美鈴が今になって心変わりすることは考えていなかったのだろう。一見すると棒立ちしているようにしか見えないが、美鈴は少女に一部の隙も見出すことができない。
「――ああ、そうそう。貴女の名前、聞いていなかったわね」
 と、間を外すように少女が言う。牽制というよりは、むしろ美鈴に一息つかせるような間の取り方だ。
 釈然としない思いはあったが、少なくとも返答を拒む理由はない。美鈴は『この問答で最後』と示すつもりで、拳を構えながら答えた。
「美鈴です。貴女は?」
「レミリアよ。レミリア・スカーレット」
 軽い調子で答える少女――レミリア。但し、鋭く据わった眼光は、美鈴の言外の警告に対し雄弁に応じていた。たとえ身構えていなくとも、今の彼女は既に臨戦態勢にある。
 息を呑み隙を窺う美鈴へと、レミリアは地を這うような声で呼びかけた。
「さぁ、先手は譲るわよ美鈴。せいぜい、真価を示す前に朽ち果てることのないよう、願いたいわね」
「では――いざッ!!」
 敢えて誘いに乗り、美鈴は地を蹴った。左半身の姿勢から、右脚のばねだけでステップを踏む。地面すれすれの滑走は、目測で五歩を要したレミリアとの距離を一息で詰めた。
 美鈴の眼力では、レミリアの立ち姿から明確な好機を見出すことは不可能。ならば、敵でなく自分の意思が少しでも傾いた瞬間に、ここと見定めて打って出るほうが得策と判断しての行動だ。
 これに驚愕したのはレミリアだ。素直に誘いに乗ってくることを予想していなかったわけではなく、また初手から懐に飛び込んでくることが意外だったわけでもない。美鈴の見せた速度が、彼女の発する妖力から察していた速度を遥かに上回っていたからだ。
 仙人の修行法に内丹術というものがある。体内の気の循環によって、体内で霊薬、仙丹を練り道(タオ)へと至るというものだ。仙丹の精製についてはともかく、美鈴は師と仰いだ仙人の元で、この修行法に最も長く触れてきた。
 自らの妖力――『気』を練り、体内で効率よく、目的意識を持って循環させる。自らの力を操ることは一見当然のように思えるが、これは例えるなら己の血流を操作するに等しい。普通ならば体内に『在る』としか認識していないものを、その厳密な実態まで把握し、制御するというのは並大抵のことではない。
 文字通り血反吐を吐くような努力を重ねることで、あくまで戦闘に特化した範囲ではあるものの、美鈴は気の扱いを完璧に心得たと言って差し支えないほどに習熟した。全力で気を循環させれば、その肉体は強度のみならず瞬発力においても、平時とは比較にならないほどのパフォーマンスを発揮する。
 レミリアが驚愕から冷めたのは、美鈴の左足が大地を捉える一瞬前。弩の如く引かれた右の掌底が解き放たれる直前だ。
 レミリアが咄嗟に左腕を、美鈴の掌底の軌道に滑り込ませる。胴体への直撃を逃したことを察するや否や、美鈴は目標を胴から腕に変更。着地と同時に、全体重を右腕に乗せて渾身の一撃を見舞う。
 ダンッ、と震脚が響き、鉄槌さえも生温いほどの衝撃に見舞われたレミリアの腕が、無残にへし折れ――ない。
「っ!」
 上方から打ち下ろすような掌底は、イメージと寸分違わずレミリアを捉えていた。が、左腕一本でそれを受け止めたレミリアは小揺るぎひとつしない。両足は数センチほど地面にめり込んでいるというのに、腕も膝も、まるで彫像の如く微塵も動いてはいない。歯噛みしつつ、美鈴は腕を引きたくなる衝動を咄嗟に抑えた。レミリアの左腕を掴み、さらに押さえ込み続ける。
 このままでも、再び腕に衝撃を与えることはできる。寸勁。全身至る部位の動作を腕へ集約し剄を放つ、発剄の技法の一種だ。だが先の一撃を眉ひとつ動かさず封殺してのけたレミリアに、たとえ隙を突く形になったとしても、ただの寸勁が通用するとは思えない。
 ただの一撃で思い知らされた力の差に、次手を講じる美鈴の思考は早くも沸騰し――

――真価を示す前に朽ち果てることのないよう――

 耳元で囁かれたかのように、レミリアの挑発が蘇る。
 迷いは一瞬で蒸発した。美鈴は右手に意識を集中し、寸勁を放つ。
『ッ!?』
 轟音とともに光が弾ける。先の一撃では微動だにしなかったレミリアが、大きく後ろに弾き飛ばされて地面を滑る。
 鋭い舌打ちは、二人が同時に打ち鳴らしたもの。レミリアは受け止めた打撃の予想外の重さ故、美鈴は今度こそレミリアの防御を突き崩すつもりで叩きつけた剄を、既の機転でいなされたが故。
 体内で循環させるだけが気の使い方ではない。むしろ多くの妖怪たちがそうしているように、体外へ放出することも――内丹術の本分からは外れるものの――重要だ。
 寸勁と同時に、美鈴は極限まで加速した気を、しかも鋭く細く絞って放出した。剄を受け止めた腕を貫通し、レミリアの身体まで撃ち抜く算段だったのだ。
 だが、レミリアは腕に魔力を流したことでこれを防いだ。無論美鈴はその魔力の盾さえ砕くつもりでいたが、レミリアは咄嗟の判断とは思えない精妙さで魔力を制御し、美鈴の気の収束を失わせ、その衝撃を腕全体で受け止めた。
 どうにか衝撃を殺し切ったレミリアが、顔を上げて息をついた。爛々と両眼を輝かせ、笑みを喜悦に染め、彼女は興奮も露わに叫ぶ。
「ははっ、やるじゃない貴女! こんなに息が詰まる思いは久しぶりよ」
 惜しみない礼賛に、しかし美鈴は言葉を返そうとはしなかった。
 相も変らぬ上から目線の物言いにも、続けざまに攻撃を防がれた今となっては、それだけの力があることを認めざるを得ない。一方、相手に少なからぬ驚愕を与えていることもまた事実。勝機は依然として存在する。
 追撃に移ろうとする美鈴を牽制するようにレミリアが動いた。左手が宙を一閃すると、描かれた四つの魔法陣から、魔力に形作られた光の鳥が羽ばたき出る。
「甘い!」
 同時に飛来したそれを、美鈴は右の手刀で薙ぎ払う。
 否、絡め取った。
「ちぃっ!」
 レミリアの舌打ち。美鈴の手刀を取り巻く気が、使い魔を形成していた魔術の術式のみを綺麗に吹き飛ばしたのを、彼女の目はしかと見て取った。
 宙に残ったレミリアの魔力を、美鈴は自らの気の流れに巻き込んで制御を奪い取り、そのまま返す刀で撃ち返す。さらにそれを追って跳躍。矢の如き勢いでレミリアに肉薄した。
 レミリアの反応は簡潔だった。引き戻した左手を手刀に構えると、迫る自らの魔力の塊に突き入れる。光弾を砕いた指先は、その真後ろにいた美鈴をも貫こうと伸びる。
――好機。
 胸中で叫び、美鈴はレミリアの左腕に右手を叩きつけた。弧を描くように手刀を逸らし、腕をがっちりと掴む。掴んだ腕を引き込みながら左半身を滑り込ませると、レミリアの身体を肩に担ぎ上げ、さらには放り出す。
 手を取った瞬間からここまで、全てが流れるような一挙動。練達の早業は、レミリアに抗する暇を与えない。
 上下逆さに宙を舞うレミリア。美鈴に対し晒しているのは、腕を囚われ無防備となった左半身。美鈴は倒していた上体を起こすと、躊躇なく左拳を叩きつけた。
 右腕や脚で防げる状況ではない。遂に捉えたと確信した美鈴だったが、一瞬の後にその自信は裏切られることとなる。
「な……!?」
 呻かずにはいられなかった。会心の一撃を受け止めたのは、レミリアの背から伸びた翼。戦い始めたときには二の腕ほどの長さしかなかったはずのそれは、いつの間にか半身を包み隠せるほどに長大となっていた。
 魔力を帯びた翼は、辛くも美鈴の拳打を防いでいた。だが、腕と翼膜では元の強度に大きな差がある。完全に受け切ることは、さしものレミリアでも適わなかった。狙い通りとは言い難いものの、美鈴の攻撃は遂にレミリアの身体を捉えたのだ。
 衝撃と気の放射に屈した矮躯が折れ曲がる。か細い左腕は、まだ美鈴の手の中だ。左拳を振り切った勢いに任せ、美鈴は再び上体を倒しながらレミリアの腕を引く。地面に引き摺り落として追撃を見舞う算段だ。
 だがその時、レミリアの口から掠れた声が零れ落ちた。
「『不夜城レッド』……」
 レミリアの魔力が膨張する。美鈴の背筋が粟立つ。
 咄嗟にレミリアの腕を手放して飛び退った美鈴の鼻先を、天を突く勢いで屹立した火柱が炙る。いや、火柱ではない。轟と唸りを上げて吹き上がるそれは、全てレミリアの魔力そのものだ。
 魔力の柱の中、レミリアは泰然と空中で体勢を立て直し、足から地面に着地する。なお衰えぬ赫光越しに美鈴を睨めつけるその表情は、美鈴にとって意外なものだった。
「まさか……」
 感銘に打ち震えるその表情には、一欠片の怒りも浮かんではいない。その満面を彩るのは、晴れやかなほどの笑みだった。
「まさか、ここまでやるなんて……はは、先に一本取られたのなんて、何時以来かしら!」
 拍子抜けするほど楽しげに――そう、楽しげだ。強敵との邂逅に興奮しているのは美鈴も同じだが、レミリアの喜びぶりはそれに留まらない何かを感じさせる。
 理解の範疇外にあるレミリアの反応だが、美鈴が感じたのは不気味さではなく、得も言われぬ親近感だった。
 これほどまでにレミリアが歓喜する理由は分からない。分からないが共感できる。そんな奇妙な感情の去来を、美鈴は拒もうとはしなかった。油断なく身構えながらも、彼女もまた無意識に頬を緩めてしまう。
 だが――だからこそ見落とした。レミリアが魔力の壁の向こうにいるという意味、長いようで短かった攻防の中で、初めて『仕切り直し』を許してしまったことの重大さを。
「さて、こうも楽しませてくれるなら……今度は私が先手を取らせて貰おうかしら」
 レミリアが口にした瞬間、彼女を中心に風が薙いだ。魔力に満ちた風は泥のように重く、美鈴の足元を撫でていく。
 だが、美鈴の目元を歪ませたのは、そんなささやかな風などではなく、倍増したプレッシャーだ。自らが後手に回るというただそれだけで、かつてない窮地に立たされているのだと、彼女は過たず理解していた。
 もっとも、それを不服とは思うまい。『倒す』だけならばいざ知らず、憚りなく『勝った』と胸を張りたいのなら、先手を譲られたままに勝利するのでは駄目なのだ。自らの攻めで相手の防御を打ち砕くとともに、相手の攻めを凌ぎ切り、また反撃に転じることができてこそ、真の意味で勝ったと豪語することができる。
 故に、レミリアの挙動を注視する美鈴の表情には、焦りも悔恨もなかった。そんな彼女の反応を、レミリアは一層上機嫌に、だが微かに獰猛さを交えた笑みで見やった。
「行くわ」
 宣言と同時。レミリアが振るった腕に合わせ、光の柱が弾け飛ぶ。さらに散った魔力はすぐさま形を変え、彼女の正面に無数の魔法陣を刻む。
 紡がれた魔術は先と同じ。鳥形の使い魔が次々と湧き出て飛来する。但し、当然ながら数は先ほどの比ではない。防ぐなど論外だ。
 美鈴が地を蹴り跳躍。鳥たちの軌道から身を躱すが、それはレミリアも想定していたことだ。声なき指示に従って、使い魔たちは美鈴を追跡する。
「っ!」
 鳥たちの挙動は単一ではなく、それぞれが角度とタイミングをずらし、美鈴へと迫る。肩越しにそれを振り返り、美鈴は小さく舌打ちした。
 が、胸の内ではむしろ、レミリアの詰めの甘さをほくそ笑んだ。息が詰まるほど白熱した攻防の中にあって、レミリアが美鈴の表情まで読み取っていることを確信した上でのフェイク。
 使い魔の軌道は一見すれば美鈴の逃げ道を塞いでいるようだが、そこに致命的な穴があることを、彼女は一瞥して見抜いていた。レミリアは地を馳せる美鈴を、あくまで平面上を動く標的としか見なしていない。
 上に跳ぶのは論外だ。たとえ一時は攻撃から逃れ得たとしても、踏みしめる大地のない空中では機動力が大幅に落ちる。追撃を躱せるはずがない。そんな道理も弁えず、わざわざ上方の逃げ道を封鎖していることも、レミリアを『甘い』と評した一因だ。
 そして、軽視すべき領域を警戒すれば、より重視すべき領域が手薄となるのが道理。美鈴は容赦なくその死角を突く。
 今しも美鈴の背に追いつくかに思われた使い魔が、突如標的を見失う。制御していたレミリアも同様だった。目を剥き視野を広げ――遅れて美鈴の姿を見つける。その瞬間、彼女が何をしたのかを悟った。
「潜り抜けて!?」
 意図せず口を突いた驚愕の言葉。その通り、美鈴は魔力の鳥に追いつかれる直前にその場で身を伏せ、両手両足で這うような体勢でレミリアに向き直っていた。
 直後に撃発。全身のばねを使って、美鈴は起き上がるよりも先にレミリア目がけて飛びかかった。その速度は、体勢が万全であったときと大差ないほどに速い。
 レミリアの僅かな油断を的確に突いた、理想的な奇襲。しかし、この時点で美鈴はまだ、レミリアの力を見誤っていた。一つは反応速度、もう一つは術の展開速度。
 美鈴が表情でレミリアのミスリードを誘ったように、レミリアもまた己の動作に罠を仕込んでいた。レミリアが魔術を使う際に生み出す魔法陣は、手でなければ描けないものではない。
 レミリアが虚を突かれたのは一瞬。美鈴の間合いに捉えられるよりも早く、彼女は一瞥のみを以て魔術を紡ぐ。血色の魔法陣が刻まれたのは、レミリアの右の足元。息を呑む美鈴を迎撃すべく、即座に魔術が起動する。
「くっ!」
 放たれたのは、鎖に繋がれた紡錘形の銛。甲高い音を立てて飛来するそれを、美鈴は身を倒して辛くも躱す。左手で受け身をとりながら転倒しつつ、速度は意地でも落とさない。転びざまにレミリアへ足払いをかけるが、予期していたレミリアは羽毛を思わせる軽い足捌きでこれを避ける。
 蹴りを放った勢いで跳ね起きる美鈴だったが、さすがに出遅れた。身を翻し振り返ろうとした瞬間、その背筋を突如、凄絶な悪寒が走り抜ける。
 背後で急速に高まる魔力。じじ、と虫の鳴くような異音が耳を打つ。視界の外で起きている事態を予想できないまま、それでも美鈴は危機感に従って、振り向くより早く側方へ身を投げた。
「グングニル……」
 噛み締めた牙の隙間から漏らすような声でレミリアが唱える。直後、美鈴の肌を掠めて真紅の雷光が飛び去った。的を外したレミリアの魔術は、美鈴の遥か前方で地面に着弾。まるでバターにナイフを入れたかのように、縦に深々と亀裂を生み出した。
 戦慄が思考を埋め尽くそうと脈動する。刹那反応が遅れていれば、今ので勝負が着いていた。あれほどの速さと威力に、抗する術などあるはずがない。
(っ違う! 幸運だろうと今のは躱したんだから、次を撃たせないよう手を打たなきゃ!)
 胸中で叫ぶ。歯を食いしばって己を奮い立たせると、美鈴は跳躍の勢いを借りて素早く反転、立ち上がった。
 レミリアに向き直った美鈴を迎えたのは、口惜しげなレミリアの渋面。彼女としても今の一撃で決着のつもりだったのだろう。右腕を振り切った体勢から、彼女は足を退きつつ腕を振るった。
 即座に次の魔術が用意される。もっとも、先の神速の一撃を再び放つには時間が足りなかったのだろう。生み出された無数の魔法陣からは、鳥形の使い魔が、そして真っ赤な銛が、視界を埋めんばかりに現れる。
 破壊の圏外へ逃れることを許さない面制圧。美鈴の洞察力は、怒涛の如き魔術の間に潜り抜けられるだけの間隙を見出していたが、それはまたレミリアも承知している。と言うより、誘っている。弾幕を形成する傍らで、レミリア自身は腰を落とし、その鋭い爪の光る右手を腰だめに構えていた。
 選択を迫られる。
 魔術による飽和攻撃は、当然ながら美鈴が真っ向から防ぎ得る限度を超えて余りある。躱すには、見出した隙間に身を潜らせるしかない。そしてそれがレミリアの狙いでもあることも明白だ。
 飛び込むのなら、続く手刀をどう捌くか。先と同じように受け流そうにも、レミリアが二度同じ手にかかって隙を晒すとも思えない。
 或いは下がる。この場合は魔術による追撃が来ることは明白だ。しかも今見せた展開速度から考えて、そこで手詰まりにならないとも限らない。
 いや、それに輪をかけて危険なのは、あのグングニルという魔術だ。一度は躱せたが、それは偶然以外の何物でもない。第一、術の発動を目にして見たわけではないのだ。術の全容がまるで把握できていない以上、次は正面切って撃たれたとしても、見切る自信はまるでない。
(どうする……ッ!)
 あと一つ。凌ぐだけに留まらず、一気に形勢をひっくり返し、攻めの主導権を奪い返す。
 残る二つの選択肢と比してもなお困難なのは重々承知しているが、美鈴にも切り札は残っている。問題は、その術の消耗が大きい点。つまるところ、切ったなら即座に勝負を決める必要に駆られることだ。
 レミリアの底が見えない現状では、それは一種の賭けに訴えることと同義である。が、かと言って今の攻防をやり過ごし、さらに相手の手札を引き出そうとすることもまた、賭けであることには違いない。
 どちらのリスク、どちらのリターンを採るべきか。引き伸ばされた刹那の中、脳裏に響いたのはレミリアの挑発でも、師の教えでもなかった。

――いずれその掌を踏み抜くつもりで、道化を演じるだけです――

 自分自身の言葉がフラッシュバックした瞬間、美鈴は我知らず目を見開いた。
 そうだ。たとえどんな策を練ろうと、それがレミリアの掌中である可能性は否めない。それでも構わない。必要なのは彼女の裏を掻くことではなく、自分を弄ぶ掌を踏み抜く覚悟だ。
 決断を下すと同時に、美鈴は眼前に広がる弾幕へと速やかに意識を戻した。もう焦りも悩みもない。過熱していた思考が冷静さを取り戻すと同時に、凍りついていた視界内の光景は氷塊し、動き始める。その動きを正確に把握できるようになる。
 機はたった今。それを逃せば、レミリアの元へ辿り着く道は閉ざされる。その判断が、美鈴の背中を押す。
 突破口はただ一つ。その先には手刀を構えたレミリア。出口で待ち構えるその最後の壁を打ち砕く。意思が、美鈴の足を動かした。
 真紅の輝きの間へと身を滑り込ませながら、美鈴は敢えてその呼吸を乱した。大きく吸い、大きく吐く。自らに暗示として仕込んでいた呼吸を合図に、彼女の中で気の循環が速度を変える。
 美鈴の体内で循環させられる最大速度から、さらに加速。たちまち彼女の総身から、留まり切れなくなった気が漏れ出し、その輪郭を淡い金に染め上げた。
『猛虎内剄』。
 通常の気の循環が体内のみで完結し、実質的には永久機関であるのに対し、この術は、気の循環を加速させ身体機能を一層強化するとともに、『積極的に』気を体外へと放出することでその助勢を得るものだ。
 例えるなら、身体という浴槽の栓を抜くようなものだ。一度発動してしまえば、後はただ突っ立っているだけでも力を消耗していってしまう。ただでさえ普段の条件では力の浪費とは無縁なのだから、その影響の深刻さは言葉にするまでもない。
「――行きますッ!!」
 それでも、時間と引き換えに得た瞬発力を頼みに、美鈴はレミリアの元へと馳せる。彼女の活歩を以てしても二歩を要したはずの距離を、金色の気を纏った美鈴は瞬きの間に埋めた。
 レミリアの顔には微かな驚愕こそありはしたが、美鈴が勝負に打って出ることは予測していたのだろう。先刻より遥かに速く迫る美鈴に向けて、慌てる素振りもなく突きを放つ。だが、伸びた腕を美鈴が鷲掴んだ瞬間、さしものレミリアも目を丸くした。美鈴は受け流すのではなく、レミリアの腕を、ただその膂力のみで強引に押し留めた。
 この戦いの初撃――美鈴の渾身の発剄を、レミリアが事も無げに受け止めたことを思えば、如何に肉体の強度を上げようとも、単なる力比べならば負けはしないとレミリアは考えていた。だがその見立てを、あまりにあっさりと覆されてしまった。彼女の驚愕も致し方ないと言えるだろう。それほどまでに美鈴の自己強化は常軌を逸していたのだ。
 さりとて瞠目こそすれ、レミリアも事ここに至って、なおも成す術がないほどに非力ではない。腕を戒められるや否や、その両翼が伸び上がった。真紅の魔力を曳いて、翼が美鈴の右腕を打擲。『猛虎内剄』がなければ骨が砕けていてもおかしくないほどの衝撃が、一瞬だが美鈴の手を痺れさせる。
「つっ……」
「このっ!」
 その隙に拘束から抜け出し、レミリアは大きく後方に跳躍。翼の撫でた軌跡に魔法陣が描かれ、雨あられと魔術が降り注ぐ。
 肉弾戦には微塵の勝機もないことを悟ったのだろう。必死の応射で抗するレミリアだが、対する美鈴からすれば白兵距離にしか勝機はない。臆することなく、彼女は前へ踏み出した。無数に飛び交う弾幕の只中を、美鈴は隙間を縫って潜り抜ける。
 その軌跡を見て驚嘆しない者はいなかっただろう。美鈴が全身からの気の放射を微細に制御しながら体現してのけた挙動は、まさしく神業と言う他になかった。彼女の踏んだステップのあまりの鋭さに、鮮明に浮かんだ残像がレミリアを幻惑し、迎撃の手を遅らせる。
 次に美鈴の影が一つに定まったとき、彼女は既にレミリアを間合いに捉えていた。右の掌底を大きく引き絞りながら、美鈴は狙いを定めるべく、レミリアの体勢を検める。
 体格差からして顎を突き上げるのはやや苦しいし、両腕は僅かに上がり頭部を庇いやすい位置にある。両腕と両脚、また一度は渾身の一撃を決定打に仕損じさせた両翼の位置と予想される速度から、確実に防御の間に合わない領域を絞り込む。
 見定めたのは、胴の中心。重心へ打ち下ろし気味に一撃を叩きつければ、たとえ耐えたとしても地面に押さえつけられる。即座に左で次撃を放てば美鈴の勝利だ。
 即座に判断し、脳裏に描いたイメージ通りの軌道に掌底を滑らせる。肘から迸った輝きが、一閃をさらに加速させた。
 レミリアは表情を歪ませながら必死で翼に力を込めるが、既に間に合うタイミングではない。美鈴の拳を防ぐことも、魔術を紡ぐこともだ。
 だが、自分に残された時間の短さを、レミリアもまた承知していた。故に彼女の取った行動は簡潔であり単純だ。
 小さく翼をはためさせた瞬間、黒い翼膜に仄赤い光が灯り、同時に魔力が颶風となって美鈴の全身を打ち据える。術にさえ至らない力業。にも関わらず美鈴を僅かでも押し留めるだけの圧力を発揮できたのは、それだけレミリアの馬力が優れている表れだ。
「こ……っの!」
 振り抜いた掌底がレミリアを捉え、その身体を跳ね飛ばす。だが、レミリアの抵抗が功を奏し、狙いとタイミングが微かにずれる。微かといっても、インパクトの一瞬に全身の力を結集する拳打にとって、その影響は甚大だ。結果、美鈴の発剄は大きく威力を減じることとなった。
 レミリアは器用に空中で体勢を立て直すと、どうにか足から着地した。彼女の面貌には苦渋が濃く浮かんでいたが、戦闘の継続に支障を来たすほどのダメージは免れていた。依然衰えぬ戦意を湛えた眼光が、高速で魔術を刻む。
 飛びかかる美鈴。一挙動ごとに振り撒き続けていた気は既に底を尽きかけている。あと数瞬の内、あと一撃で決着をつけなければ、美鈴に勝利はない。
 迎え撃つべく、彼女の到達に先んじて魔法陣が完成した。術の内容を判別している余裕はない。美鈴は半ば以上自棄になりながら、右拳を固く握りしめる。
「ふッ!!」
 鋭い呼気が、美鈴の体内の気を爆発させた。最後の一歩を踏んだ瞬間から、全身に薄く気を巡らせ、残る総てを右腕に集中。金色の気はさらに凝集され、遂にはその色を七色に揺らめかせた。
 レミリアの顔が強張る。それでも、彼女の心に絶望はない。今となっては最後の頼みとなった眼前の魔術に、全力で魔力を注ぎ込む。
 ズン!
 美鈴の震脚。重音とともに、踏みしめた地面が陥没する。同時にレミリアの魔術が起動。魔法陣の中心から、魔力で編まれた鎖が飛び出し、彼女の右腕に絡みつく。
 否、絡みつこうとした瞬間、魔術は虹色の気の奔流に呑まれ、砂塵の如くに解体される。
「ばっ……!?」
 速度に限れば鳥形の使い魔や銛の魔術を大きく凌ぐ、拘束にのみ特化した魔術。最大の窮地にレミリアが下した魔術の選択は謝りではなかったが、その狙いについては迂闊だったと言えただろう。
 一手前の攻防で、ほんの少しの体勢の乱れが美鈴の拳の威力にどれほど致命的な影響を与えるか、彼女は身を以て知っていた。神速で迫る美鈴を捉え得る魔術があるのなら、レミリアはそれを最も防がれる恐れの少ない、気の密度の低い部位へ放つべきだったのだ。
 刹那に犯した判断ミスが、遂に美鈴の奥義を防ぎ得ぬものとさせた。
「『彩光蓮華掌』ッッ!」
 叫び、美鈴は右腕を振るいながら拳を開いて掌底を構えた。腕を覆っていた気がさらに収斂され、掌に激しい熱が渦を巻く。極限まで練られた気の塊は、目を焼かんばかりの七彩に輝いた。
 捻じ切られた大気が悲鳴を上げる。音さえ置き去りに疾った美鈴の右手が、宙に在る魔法陣を一瞬の遅滞なく打ち砕く。美鈴の渾身の掌底は、今度こそ吸い込まれるようにレミリアの身体に突き立った。
 炸裂した剄は、その総ての力を掌のただ一点で放出した。気の輝きが弾けるように消え、瞬間的な突風が巻き起こる。山一つ吹き飛んだような錯覚を与えるほどの轟音が、大地と、庭に立つ者全ての身体を揺るがした。
 美鈴はレミリアに掌底を叩きつけたままの格好で、彫像の如く動きを止めていた。
 力はほぼ使い果たした。正直なところ、立っているのがやっとの有様だ。それでも、自らが最後に叩きこんだ発剄の感触だけは、立ち尽くす美鈴の右手にはっきりと残っている。
 あまりの手応えの無さが。
「ははっ……」
 敗北を確信し――むしろ、既に敗北したことを受け止めて、美鈴は悔しげに笑みながらレミリアの顔を見上げていた。その視線の先にあるレミリアの口元が、ニヤリと曲がる。
 美鈴がドレス越しに掌底を打ち込んだレミリアの左胸。だが、そこに肉体のある感触はない。そればかりか、レミリアの左腕さえなくなっている。短い袖は何にも支えられることなく、美鈴が起こした風に煽られひらひらと揺れていた。
 その袖口に、突如黒い何かが飛び込んだ。しかも一つではない。無数の小さな黒い影は、忙しなく羽音を打ち鳴らしながら次々にレミリアのドレスの内側へ殺到する。それとともに、美鈴の触れる左胸には厚みが生じていった。
 今の今まで忘れていた。数ある吸血鬼の伝承の中にはあったはずではないか。無数の蝙蝠に分裂して夜闇に溶けてしまう、神出鬼没を旨とする吸血鬼像が。
「……あはは」
 完全に元の姿を取り戻したレミリアを前に、美鈴はもう一度自嘲気味に笑って、その場にへたり込んだ。
 ほとんど終始主導権を握りながら、最後までレミリアに決定的な一撃を見舞うことはできなかった。技の上でも、また戦術においても、持てる力を十二分に発揮できたにも関わらず、遂にその拳はレミリアには届かなかった。
 初めて師に挑み、そして敗れたときと同じだ。圧倒的な力の差を見せつけられた。己の全力を、のらりくらりと躱された。完敗と言うより他にない。
 結局は、井の中の蛙だったのだろう。自分の実力は弁えていたつもりだが、それより遥かに強い相手と、こうもあっさり出会うとは思っていなかった。不甲斐ない一方、ここでならさらに高みを目指して修行に励むこともできるだろうという希望もある。
 それが叶うかは、レミリアの温情次第だが。
 その時ふと、俯いていた美鈴の視界に、白い手が差し出された。思わず顔を上げると、レミリアが美鈴を見下ろしながら手を差し伸べていた。
「え……?」
 ただ、その表情は美鈴を困惑させた。彼女を見下ろすレミリアの浮かべた笑みが示すのは、勝利の昂揚でもなければ美鈴への敵意でもない。
 苦笑であり、自嘲であった。
「負けたわ。美鈴、貴女強いのね」
「負け……え?」
 自らの認識とかけ離れた言葉が、美鈴の耳を素通りする。事態を呑み込めず目を白黒させる美鈴に何を思ったか、レミリアは小さく嘆息して、
「本当は変身なんて使う気なかったのよ。ううん、使うまいと思っていた。けれど貴女の攻撃を凌ぎ切れずに、結局は使わざるを得なくなった。使わないと決めた術を使わされた時点で、私の負けよ」
 さばさばと言いながらも、その声はどこか口惜しげだ。そして同時に、やはり上から目線の物言いでもある。負けたと言いながら、その点については改まる気配がない。
「第一、ああも貴女に一方的に攻められっぱなしで「勝った」なんて言えるほど、落ちぶれてはいないわ。攻勢に出る隙なんて見つけられないんだもの」
「けれど」
 気づけば、美鈴は反駁の声を上げていた。目を瞬き口を噤むレミリアへ向ける目は、不平と憤懣を宿して不穏に輝いている。
「私は全力で挑み、貴女を倒すことができませんでした。私は力を使い果たし、貴女は私にとどめを刺すことだって容易い状況にあります。これで「勝った」と言えるほど、私は馬鹿じゃありませんよ」
 幾分挑発的に、そして険悪な心中を隠すこともなく美鈴は吐き捨てた。
 反駁の理由があるのなら、『癪に障った』と言うのが最も正しいだろう。勝敗を自分の基準だけで判断するその傲慢さ、負けたと言いながら、なお自らを相手より高く置いた態度。要は戦う前と何も変わっていない。
 美鈴は全力を尽くして戦った。その結果、レミリアの美鈴に対する認識は全く変わらなかった。口で何と言おうと、より深い『根』の部分で、レミリアは美鈴を見下したままなのだ。それが酷く気に食わなかった。
――が、美鈴の発言はある意味で正鵠を射ている一方、根本的な部分を履き違えていた。彼女の言葉に、レミリアは目を丸くして応える。
「貴女の勝ち負けなんて知らないわよ。そんなことは関係なく、私は負けたと言っているの」
 言下に「何を馬鹿なことを」と聞こえた気さえするほど、それは迷いのない言葉だった。思わず美鈴の方が唖然としてしまう。だがその短い返答は、レミリアの胸中を如実に表していた。
 彼女は『自分の勝敗』と『美鈴の勝敗』を、完全に別のものとして捉えている。つまるところ、明確な勝敗を決する必要がないということ、さらに言うなら、この一戦を単なる修行か遊びと認識しているということだ。美鈴としては考えなしに喧嘩を売った格好だったため、ようやくレミリアの認識を知ることができたことになる。
 その上で、レミリア個人としては自分の戦果が不服だったと言っているのだ。無論それはそれで、美鈴に苦戦するなど有り得ないと告げているも同然であり、それ自体屈辱的ではある。ただ、それは美鈴に対する侮蔑によるものではない。
 美鈴は修行中の身である。自分はまだ未熟だと思っているし、それはこれまで周囲に自分より強い者のいない環境でも変わることはなかった。ただ、いずれさらに力をつけ、『自分が強く在る意義』を見出せたならば――今はまだ未熟な自分が、目標と見定めた境地に達することができたなら――そのとき彼女は、自らに確固たる矜持と誇りを持って生きていかなければならない。
 相手の力を認め、賞賛してなお揺るがぬ圧倒的な自信。レミリアの姿は美鈴にとって、『斯く在るべき様』なのだ。
「そうか……なるほど」
 茫然と独りごち、美鈴は大きく溜息をついた。口元に宿る苦笑は既に敗北を悔やむでもなく、レミリアの真意、その器の大きさを見誤っていた自分の未熟さを恥じていた。
 ただ、レミリアの人となりについては、この時点でもまだ美鈴の理解は浅すぎた。間違っていたのではない。ないが、それだけでないことを、この時の美鈴は知らなかったのだ。
「だから美鈴。私は私を破った貴女に、相応の褒美を与えようと思うの」
 鈴を転がすような声色。だが美鈴がもし、より詳細に彼女の顔色を見極めようとしたならば、或いは気づいたかもしれない。彼女が隠し切れず口元に過らせた、様々な感情が綯い交ぜになった笑みに。
 例えるなら、巣にかかった餌を前に蜘蛛が舌なめずりをするかのような、獰猛な笑みだ。だがそこに混じる喜色は決して嗜虐的なものではなく、どこか清々しい達成感を感じさせた。
「けれど、同時に貴女は私に敗れたと言った。私は貴女に敬意を表して、その意思も尊重したいとも思う」
「……はい」
「そこで、よ」
 故に、完全に手遅れな領域まで踏み込まれてもなお、美鈴はレミリアが秘めた意図に感づくことができなかった。

「美鈴。貴女に命じるわ」

 その言葉を、ほんの一瞬とはいえ、何の違和感も抱かず受け入れそうになった自分に気づいた瞬間、美鈴は今度こそ己の敗北を悟った。
「私の僕となり、この紅魔館の一員となりなさい。貴女には、門番の任を与えるわ」
「……え、いや、え?」
 直前までのやりとりを忘れるほど傲然とした命令に、美鈴は思わず二度聞き返してしまう。彼女の表情は鳩が豆鉄砲を喰らったも同然だったが、それを見返すレミリアは、「してやったり」とばかりに細く笑みを見せた。
「貴女は私に負けた。なら、私の命には従うべきでしょ? 同時に私は貴女に褒美を取らせる義務がある。だから、貴女に門番という立場を与える。そういうことよ」
「貴女の家の門番になることが、私にとって褒美になると?」
「当然でしょう」
 どうにか理解は追いついたものの、ぼやく美鈴は呆れ顔だ。だが、限りなく胡乱げに睨み返す彼女へと、レミリアは一片の迷いもなく頷いた。
 彼女は誇らしげに胸に手を当てながら、
「この私、レミリア・スカーレットに喧嘩を売る不届き者と、真っ先に相見える権利を貴女に与えると、そう言っているのよ」
「っ!」
「加えて言うなら、私が貴女を有用と判断する限り、もしその使命を全うする中で貴女に危機が迫ったなら、私が守ってあげるということよ。修行の身には、これ以上ない厚遇ではなくて?」
 思わず目を剥く美鈴を見下ろしながら、レミリアはふふん、と鼻を鳴らす。言葉も出ない美鈴へ、彼女は屈んで顔を近づけながら、「ちなみに」と付け加えた。
「最初に言った通りよ。私は貴女に、拒否権を認めた覚えはないわ。けれど……もしも不服だと思うなら、そう言ってごらんなさい」
 告げられ、しかし美鈴は何も返事をすることができなかった。脳裏をぐるぐると巡る幾つもの言葉に翻弄され、彼女は口を開けたまま、言葉を紡ぐことができずにいた。そんな彼女を、レミリアも業を煮やすことなく見つめている。
 どれほど時間が経っただろうか。
「……まさか……」
 蚊の鳴くような声とともに、美鈴は一度だけ目を閉じた。再び瞼を開いたとき、彼女の瞳は真っ直ぐにレミリアの姿を映し、そして美鈴は力強く微笑んだ。
「それだけの待遇に、不満を持つはずがないじゃないですか」
「よろしい。なら今日から貴女は私の従者。よろしくお願いするわね、美鈴」
 美鈴に頷きを返し、レミリアは右手を差し出した。
 が、その直後、彼女は予想だにしていなかった不意打ちを受けることとなる。
「ぷふっ……ふ、あはははっ」
「? えっ?」
 美鈴は手の甲を上向けて差し出された手を取ったものの、その意味が分からず、無駄に自信あり気な目でレミリアの顔を見上げる。レミリアが思わず噴き出したが、美鈴にはその理由がまるで想像できなかった。
 レミリアがどんな反応を期待していたのかを美鈴が知るのは、それから暫く先のことだ。
 目元に浮いた涙を拭いつつ、美鈴の手を引っ張って立たせながら、レミリアは未だ戸惑う美鈴に問いかける。
「あぁ、笑った……あ、それと美鈴」
「は、はいっ?」
「もう一つ。貴女が元いた場所の言語では、『スカーレット』は何て言うのかしら」
「ええと、紅……ホン、でしょうか」
 頼りなげな解答ではあったが、レミリアはそれに泰然と頷いた。彼女は手を伸ばし、美鈴の長い髪の一房を手に取り、
「なら、新たなスカーレット家の一員として、貴女に名を授けるわ。紅美鈴。これからはそう名乗りなさい」
「紅……美鈴」
「ええ。貴女のこの髪にもぴったりでしょう?」
 そう言って、レミリアは紅い髪をさらりと梳くようにしながら手放した。美鈴はレミリアの撫でた髪の房を、わざわざ自分でもう一度手に取って、まじまじと眺める。
 思えば、自分の髪の色など長らく意識したことはなかった。無論最低限の手入れはしてきたが、レミリアに言われて初めて、自分と紅という色の相性に気づいたほどだ。
 その上で、新たに与えられた『紅』という名をどう思うかといえば……答えは決まっている。
「ありがとうございます。不肖紅美鈴、全霊を以てお仕え致します、レミリア様」
 両手を組んで頭を垂れながら、美鈴は神妙な声で応える。初めて見る中国式の礼にも、それが何を意味しているのかは分かったのだろう、レミリアは戸惑うことなく満足げに頷いた。
 そんな二人のやりとりを遠目に見ていた影が、ふいに歩み寄ってきた。美鈴が現れたとき、レミリアと共にいた紫髪の少女だ。彼女の気配に気づき、二人がそちらを振り返る。
 何か声をかけるべきかと迷う美鈴を無視し、彼女は感情の読めない瞳でレミリアを見つめ、
「レミィ、いいの?」
「いい? 何が?」
「時間」
 要領を得ず眉を揺らす美鈴だったが、対するレミリアは覿面に顔色を変えた。彼女はどことも知れぬ方向――東の空を睨んだ後、
「美鈴! 今後の詳しい話は館の中でしましょうッ!」
 叫ぶが早いか、矢のような勢いで駆けだしていってしまう。目を白黒させながらも、美鈴は同じく東へと目を向け、ようやく事態を把握した。
 いつの間にか、空が白み始めていた。
「吸血鬼が太陽駄目って、本当なんですね……」
「平気らしいわよ。本人曰く、だけど」
 小さく呟く美鈴だったが、すぐ傍でぼそりと答える声があった。視線を向ければ、紫髪の少女が美鈴の傍らに立ち、彼女を見上げていた。
 彼女は相変わらずの表情に乏しい顔で、
「パチュリー・ノーレッジよ。よろしく」
「美鈴……紅美鈴です。よろしくお願いしますね」
 微笑み頷く美鈴を、パチュリーはじっと眺めたまま動かない。美鈴が訝り顔を曇らせると、ようやく彼女は目を背け、レミリアの消えた方向へと視線を向けた。
「あの子……レミィだけど」
「レミリア様のことですか?」
「寂しがり屋だから。認めようとはしないけど、気をつけてあげて」
 ぼそぼそと一方的に告げると、彼女はそのまま館の方へと歩いていく。パチュリーの独特のペースを掴めぬまま置き去られ、しばし美鈴は立ち尽くす。が、彼女は小さく嘆息しながら、
「何だか……退屈はしなさそうだなぁ」
 そう呟き、レミリアの待つ紅い館へと、軽い足取りで歩き出した。
 僅かに覗いた朝日が、彼女の影を細長く刻む。それはまるで、彼女の足元を伸びる道のように。だが、彼女が歩く方向とはまるで別の方向に。
 別れ際、師は美鈴に「一人で修行に励むのも、新たな師匠を見つけるのも自由」と告げた。だが彼は想像していただろうか。美鈴がそのどちらでもなく、誰かの従者となる道を選ぶことを。
 その選択が誰の思惑の通りなのか、或いは誰の思惑にもないのかは、美鈴には知る由もない。そのどちらであろうとも、美鈴自身の意志による選択だということに変わりはない。
 その意志さえあれば、たとえ道など無くても歩いて行ける。
「さ、励みますか」
 そう自分に言い聞かせ、彼女は晴れやかな笑顔で館の扉に手を掛けた。

   ■ ■ ■

「――ていう感じでね」
「ほぇ~」
 長い長い話を語り終え、紅茶のカップを傾ける美鈴に、悪魔の少女は感心したような声を上げた。
 二人と同じテーブルにはパチュリーもついている。少女はパチュリーが呼び出し、彼女が管理する図書館で司書として使役している小悪魔なのだ。
「思い返すと、貴女が紅魔館へ来てから結構経つのね。なんだか懐かしいわ」
「そうですよねー。正直なところ、私も話しながら驚きましたよ。思った以上に記憶が曖昧で」
 パチュリーの言葉に、美鈴が苦笑いで相槌を打つ。司書の少女は、二人のやり取りを聞きながら無意味に頷くばかりだ。
 きっかけは何でもない雑談だった。物の弾みでパチュリーたちと美鈴の馴れ初めに小悪魔が興味を持ったため、深く考えず語ってはみたのだが、これほど長い話になるとは美鈴自身も思ってもみなかった。
 やはりそれだけ、美鈴にとって感慨深い出来事だったのだろう。曖昧だったと言いながら、結局はかなり仔細に思い出せたこともその証左だ。
「けど何ていうか……失礼な話なんですけど」
「うん?」
「美鈴さんがそこまで強いなんて、正直思ってもみませんでした」
 忌憚のない小悪魔の台詞に、美鈴は無言で肩を落とす。片やパチュリーは涼しい顔でカップを置きながら、
「そうでしょうね。ここ長いこと、美鈴が本気出してるの見たことないし」
「えっ、手抜きしてるってことですか?」
 驚いた目で美鈴を見つめる小悪魔へと、美鈴は微笑みを向けてわざとらしく肩を竦めて見せる。
「能ある鷹は爪を隠す、って言いますからね」
「…………」
「ってー、突っ込んでくれないとただの自惚れになっちゃうじゃないですか」
 照れ笑いで誤魔化しつつ言う美鈴だが、パチュリーは何も言わず紅茶を啜る。彼女の浮かべた微笑に、小悪魔はただ疑問符を浮かべるしかできない。
 美鈴は頬を気まずげに掻くと、カップの紅茶を飲み干して席を立った。軽く驚きを見せる小悪魔に目を向け、微笑しながら言う。
「紅茶、ご馳走様でした。また暇になったらいつでも呼んでくださいね」
「あ、はいっ」
「心配しなくても、仕事中には呼ばないわ」
 見送る二人に手を振りながら、美鈴は図書館を後にする。扉を閉める前にちらりと覗いて見えたのは、追及の視線を主に向ける小悪魔と、それを事も無げに受け流すパチュリーの姿だった。
 ふぅ、と一息つき、美鈴は改めて自身と主の出会いを振り返る。
 門番としてこの紅魔館に招かれたことは、これ以上ない幸運だったと、彼女は今でも思っている。今の立場を与えられたことで得ることができたもの、知ることができたものの数は、到底数えきれるものではないだろう。
 ただ、一方で門番という仕事に求められることについては、実際にその任に就くまで理解できていなかった。つくづく、当時の自分の先見の明の無さに呆れるばかりだ。
 確かにレミリアは、「自分に挑む愚か者と初めに戦う権利」を与えると言った。だが、そのとき美鈴は、『阻むべき敵』と『通すべき敵』がいることを――さらに言えば、『通すべき敵』が意外なほど多いことを――知りもしなかった。
 誰かのために仕えるということの意味を、あの頃の自分は知らなかったのだ。
「なんて言ったら、お嬢様に気を遣わせちゃいますかね……」
 口中で呟きながら、美鈴は廊下を抜けて庭へ出る。深い意味はない。少しだけ、昔話をしたせいで感慨深くなっただけだ。
 夜気がひやりと肌を撫でる。思わず身を竦ませ、空を見上げた美鈴の瞳に、天高く昇った白銀の月が映った。
「……ああ、そういえば」
 曖昧だと自分で語った記憶、その中で本当に思い出せなかった、些細なことに美鈴は気づく。
「師匠と別れた夜の月、どんな形だったっけ」
 苦い声。だがそれは悔恨ではなく、むしろ安堵さえ滲んだ響きだ。
 記憶の欠落をようやく見出し、過去に囚われていないことを自覚できた自分を、そしてそんなきっかけを見出すまで、下らない不安にかられていた自分を嘲るように一度鼻を鳴らし、視線を下ろした。
 そのまま、彼女は庭の中を歩いていく。館を離れ塀に近づきながら、足元の気を探る。やがて一点、目的の場所を探り当てると、彼女はそちらへ足を向けた。
 辿り着いたのは、僅かに霊脈の流れが地表に近い場所。はっきりとは覚えていないが、恐らくは美鈴が外の世界から幻想郷へとやってきたとき、初めて立った場所だ。
 彼女は一度、二度とその場所を踏むと、前のめりに屈みこんだ。見下ろした地面の先に思い浮かべるのは、かつての地に残してきた師匠。他の何を忘れていたとしても、彼の剽げた笑みを忘れられないことには、何の疑問も抱けない。
 自分はまだ未熟だ。それでも、外の世界にいた頃よりもずっと成長したと思っている。その成果を師匠に見てもらいたい。そんな思いが、小さく火を灯して揺らめいた。
 けれど、焦る必要はない。彼の最後の台詞を思い出す。美鈴が気を揉んだところで、あのマイペースな師匠との再会が何時になるかなど、変わるはずがないのだ。
 だからこそ、美鈴は自分がかつて通った道を見下ろし、精一杯の感慨を込めて、あの日返せなかった言葉を返すのだ。

「気長にお待ちしていますよ、師匠」

 届くはずのない一言に、どこからか懐かしい笑い声が聞こえた気がして。
 美鈴はもう一度足元を蹴りつけて、踵を返した。
大半の方とは初めまして。えどわーどです。
好き勝手に昔話を考えてみたら、こんな風になりました。楽しんでいただけたでしょうか。もしそうであれば幸いです。

それでは、また機会があればお会いしましょう
えどわーど
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コメント



0.1010簡易評価
17.100名前が無い程度の能力削除
理想の紅美鈴でした。