Coolier - 新生・東方創想話

紫のスキマ/紫のスキマを越えて

2014/03/07 17:34:47
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 時として夢は、現実よりも現実らしく、夢想する者の前に姿を見せる。霊感の強いだけのただの少女にも、妖怪の賢者にも、全てに等しく彼らは降りかかる。数千年、数万年も時空を隔てても、それは一貫した事実だった。
 そんな大前提を糧に、胎内のような暖かさが地上を覆い、うららかな霞のような空気に人々は翻弄され、大抵の妖怪たちは忌むべき太陽の全盛期に呪いの言葉を投げ掛けていた。
 八雲紫は妖怪でありながら少数派に属していて、平穏な時が流れるのを誰よりも愛し楽しみながら、手をこまねく眠気に身を任せていた。
 この至福を逃してたまるものかとしがみついていた最中、紫は不透明な膜の向こう側から自分の名前を呼ばれた気がして、昼時の微睡みから覚醒した。正確に言えば、遥か未来の彼方から自分のものに限りなく近い名前が聞こえてきたのである。それによって激しい虚無が紫の胸中に去来し、一時は身動きができないほどだった。


 彼女一人しかいない居間で、藍などと共に平生より使用している長方形の机に、紫は向かっていた。手には、渋味の強い緑茶の入った湯飲みがあった。外からか、あるいは中からかは判別がつかないものの、急に何らかの刺激がなければ、机に突っ伏して眠りこけていただろう。
 紫はじっと湯飲みに張られた水面を見つめて、単に気のせいだったのか、実際に幻想郷の誰かが紫の名前を口に出したのか、暫しの間思考する。一番可能性があるのは、紫の式、八雲藍が彼女に助力を求めていることだ。
 予定通りであれば藍は屋外に出ていることもないだろうし、とりあえず彼女に当たってみることにした。
「藍ー!」
 それでも側にいるとは限らないので、家中に響くように少し声量を大きくした。
「紫様、どうなされましたか」
 どうやら紫とそう離れてはなかったようで、間もなく九尾の狐が襖を開けて紫の前に姿を現した。家事の途中だったのだろう、白い割烹着を身に付けている。この藍の様子からして、彼女が紫を呼んだのではなさそうだったが、念のために確認をしておいた。
「あなた、私を呼んだかしら」
 藍は一瞬キョトンとすると、
「いえ、特には……」
 さも不思議そうにして答えた。
 紫は大して落胆を覚えること無く、そうよね、と呟いた。
「もう下がって良いわ」
「はぁ……失礼します」
 いまいち釈然としていない藍の背中を見送りながら、紫は次なる可能性に思案を巡らせる。
 何個か小さなスキマを開いて、自身に関係のありそうな話題が上がっていないか、はたまた些事でも諍いが起きていないかを監視するが、博麗神社では博麗の巫女が健やかに昼寝をしているし、紅魔館ではメイドたちが忙しく立ち回っていて、地底は地底で騒がしく宴会祭り、寺や仙界などもいたって静かな時間を送っていた。
 幻想郷の管理人の事など皆な頭に無いようで、それぞれ思うがままに暮らしているのを見て、紫はやっぱりと思いつつ、自身に降りかかった不可思議な現象について、何もヒントが落ちていないことに不満を募らせた。
 眠りにつく前の浮遊感に付き物のこととして処理するのにはあまりに生々しく耳に残っているし、かといって現実に起きたことにしては実感が沸かなかった。
 一口緑茶を含むと、舌に触るざらざらとした感触があの出来事を掠れさせた。少し浸けすぎたかと僅かな後悔をした後、紫は何気なくスキマを閉じた。閉じたスキマがあった座標から形の無い手が伸びて、紫の肌を撫でている錯覚に、後ろ髪引かれる思いをしながらも、紫は席を立った。
 気分転換のために、どこかに行きたいと紫は思い至った。些細であるはずのあの声が紫の頭に残響して離れないからだった。それに、スキマから発せられていた奇妙な引力も、紫の気分に不愉快さを放り込んでいる。
 この後に際立った予定もなく、仕事と呼べるものも藍に任せておけるレベルだったから、後腐れなく出立できそうだった。残っていた緑茶をあおるようにして飲み干し、出掛ける前に藍に一言いれておこうと、家事をしている自分の式の姿を探す。
 ところが、藍は既に一通り家事を終えていたようで、自分の部屋で割烹着を脱ぎ、座り込んで休憩をしていた。
 紫の姿を認めた藍は慌てて居住まいをただし、どうかされたのですか、と紫に訊いた。
「ちょっと遊びにいこうかなと思ってね」
「わかりました、お供しますか」
 結界絡み等ではない私用であるし、それなりに仕事を終えて疲労感もあるだろう藍を連れていくのも気が引けて、紫は、まあまあと式を落ち着かせた。
「ちょっと幽々子のところに行ってくるだけだし、あなたはお留守番してなさい」
「ですが」
「いいからいいから。それとも、ついていきたい理由でもあるのかしら?」
 いつもなら紫が一言言うだけで従う藍だったが、今日の彼女は少し強情だ。紫が呆れを滲ませても、藍は一向に引く気配がない。
 道具であるのにも関わらず、こうして言うことが聞けないのならば、また勉強の必要も出てきたな、と紫はぼんやりと考えながら、藍の出方を待った。
 藍は道具としての自覚と、従者としての意思が葛藤しているようで表情は苦々しく、紫の目が細められてようやく口を開いた。
「あります」
「……へぇ」
 平生よりも紫の堪忍袋の緒に負担がかかるのが早かった。藍がこんなところで少しばかり我を出してくるとは思ってもいなかったが、何やら大きな理由がありそうで、懐に入っている扇で式を打つことを紫は我慢した。
 こんなお供云々で揉めることも馬鹿らしいものだと紫は呆れるが、藍の表情が、怯えているのではなく、言いづらそうにしているだけなのを汲み取ると、どうしても必要なことのようでもありそうだった。
「聞かせてもらえるかしら」
「はい」
 藍の言葉を紫は半ば楽しみにしていた。考えることの無い道具など従者にしておいても意味がなく、わざわざ一考する頭を与えているのだから、藍のような高等な頭脳を持つ道具が何を思っているのか、聞く必要があると思ったからだった。
 尚も口を開閉し憚られている藍が、意を決したように紫をしっかりと見据えた。
「泣いている紫様を放っておくことなどできません」
 その回答に、紫の顔が豆鉄砲を食らったようになった。衝撃のあまり怒ることも頭から抜け、藍の言葉を理解したときには、思わず笑い声が漏れてきたものだった。
「な、泣いている、私が?」
「はい」
「ア、アハハハハハハハハハ」
 質の悪い冗談だと笑い転げる紫に対し、表情を一切変えることなく紫を見続ける藍。紫の笑が一頻り続いた後、紫の顔持ちは一転、見る者を凍えさせるそれに早変わりした。
「ふざけないで頂戴」
「いえ、私はただ」
「言い訳なんて要らないわ!」
 紫は胸から競り上がってくる気持ちが抑えきれなくなり、柄にもなく声を荒げてしまった。突然の怒声に、藍も体を震わせた。普段の紫ならば、静かに憤怒の炎を燃やし、音もなく報復を実行するだろう。しかし、このときばかりは、感情を包み隠さず、自分の式にぶつけている。だからだろう、藍も肩を狭めているが、いつもとまるっきり違う紫の様子から目をそらそうとしなかった。
「私が泣いてるですって……どこをどう見たらそうなるのかしら」
 人差し指で鋭く藍を指しながら、震える声で紫が言う。紫の方が、藍の真摯な視線に怯えているかのようであった。
「そんな目で見ないで!」
 とうとう紫は式に背中を向け、背後に潜む恐怖から身を守るように自分の体を抱き、その場に踞った。なぜ自分がこんなに心を乱しているのか、分析もままならず、まとまらない思考の渦に、精神をすり減らされている思いだった。
 背後にいる藍が、主人を心配して近寄ってこようとしているのを感じ、
「来ないで!」
 制止しようと叫んだつもりだったが、乾いた音が喉から出るばかりだった。
「紫様!」
 藍が紫の体を抱き、顔を覗きこもうとするが、紫は身を捩り、断固として自分の表情を見せまいとした。そこには、藍に自分の弱さを見せまいとする最後のプライドがあったのかもしれない。
「しっかりしてください、紫様!」
 世界の終わりを告げる鐘の音を耳にしたような悲壮な藍の声をバックグラウンドに、意識が遠退きつつあることを紫は感じた。死ぬわけではないとは薄々とわかっているが、冥界の薄ら寒さが体に吹き付けてくるのに鳥肌が立つのを禁じ得なかった。
 紫は自分の頬に触れ、もう乾いた涙の跡が指に当たったのを最後に、意識を投げ出した。


 産声が闇の中に響き渡った。





「おはよう、藍」
「お早うございます、紫様」
 心地良さそうに目を開けた紫に、藍は寝覚めの優しい一言をかけた。染み一つ無いほど手入れのされた布団から紫が身を起こすと、藍は恭しく頭を下げながら膝を伸ばした。
「お食事の用意は既に整っていますので」
「……ありがとう」
 紫のらしくもない穏やかな笑みに儚さを感じ、藍は表情が歪むのを隠すように踵を返した。紫はそんな従者の背中をぼんやりとした目付きでとらえると、緩慢な動きで着替えを始めた。
 紫の部屋から出た藍は、居間へと向かう足を止め、薄暗い廊下を振り返り、今しがた退出した部屋から聞こえる衣擦れの音に耳を澄ませた。
 紫が豹変し、意識を失ってから数ヵ月が経った。あれからというもの、紫の感情の揺れ幅は落ち着いているし、藍にぶつけるということもない。むしろ、以前よりも無気力になってしまった気もしていた。あの日、紫は回復してすぐに藍に謝罪し、翌日も翌週も紫はすっかり元の調子を取り戻し、そうしたことで藍を安堵させていたのは事実で、少しばかり丸くなったと言うこともできそうだ。
 だが、紫が気にしていなくとも、一番身近な存在である藍からすると、とても無視できない変化も目につくようになっていた。 睡眠時間の増加である。
 もともと紫が床についている時間は長い。持っている力が強大な故か、半日前後眠らないと能力はおろか活動も維持できないようだったのだが、ここ最近、着実に覚醒限界が短くなっている。
 当座は藍もあまり気にならない程度だった。昔から紫には怠け癖のようなものも無きにしもあらずで、やれやれと嘆息しながらも二度寝を目論む主人を叩き起こすのも藍の日常の一欠片だった。
 睡眠が十四時間ほどになった頃ぐらいだろうか、さすがに藍も違和感を覚えだした。起こしてくれと頼まれている時間帯には紫も一度は目を開けているはずなのだが、言いつけを守っている自分の式に揺さぶられても死んだように無反応なのだ。演技をしていると藍が踏んで、強引な手段に出ても結果は変わらず。結局数時間して藍が困り果てたときに、紫が何事もなかったように身を起こすのだ。
「紫様、二度寝も大概にしてください」
「してないわよ。それよりなんで起こしてくれなかったの」
「ちゃんとあなたを起こそうとしましたが」
「そうなの?」
 こんな具合にだ。嘘か、素か、単にだらけているだけかはたまた紫が衰弱しているのかはわからないが、紫の態度に信憑性が妙にあるのと、紫さえもが原因がわからないと戸惑っていることが長く続くものだから、只事ではないと藍も思い始め、独自に調査を続けているにも拘らず、一向に成果は出ていない。放置しても問題ないものか、考えることも恐ろしいものが進行しているのか、藍の頭を現在進行形で悩ませている。
 内心を悟られないようにとなんとか取り繕いながら紫が朝食をとるのを傍に控えて待ち、主人がまだ朦朧としているらしい頭を冷ますために外出すると言い出すのを笑顔で承諾した。
 いつでも紫の傍に寄り添いたい願望を藍はまだ持ち続けている。けれど、また逆鱗に触れてしまいかねないために藍は随伴すると提案するのを控えていた。スキマに入っていく紫を見送り、食器を片付けると、結界の見回りに出るために玄関に向かった。
 藍は靴を履きながら、紫がスキマを開いた際、そしてそこを潜ろうとする際に彼女が横顔に陰りを見せたことを思いだし、気分が暗澹とするのを防ぐことはできなかった。
 自分の主人が何かしら悩んでいることは確かなのに、道具としての自制心と、紫を襲う未知の何かによって彼女の痛みを和らげることができない。その現状に、藍が無力感を抱くのは当然のことだった。
 眉を潜め、二人を取り巻く暗い靄のようなものに対して怒りを露にし、藍は空を仰ぎ見た。どこまでも晴天が続いていそうだったが、遥か西の方に雨雲が渦巻いていて、やや湿めり気を持った風も藍の肌を撫で、背後に生い茂る針葉樹の森をざわめかせた。





 藍が定例の見回りをした結果、結界の綻びが目立ち、けれど外からの干渉のせいでもないようですぐに修繕できるものであったから片手間で終わらせると、その後に人里にまで足を伸ばし様子を観察して帰宅した。その間も彼方に蠢く暗雲を妙に気にかけていた。
 台所や洗面所などに設置している、外の世界で最近開発された式が正常に動作していたことを確認すると、家事の仕上げに取りかかった。一通りそれらを終え、微かな達成感に身を休めると、主人のいない空間に寂しさをつのらせ、気を紛らわせるように茶を淹れる。
 いつ紫が帰ってきてもいいように湯飲みは二つ用意された。藍は縁側に移動し、降り注ぐお天道の光に体を暖め、見当もつかない主人の居場所に思いを馳せた。
 湯飲みが空になるのには時間がかかった。ひたすらぼんやりしようと思っても、いつの間にか藍の頭に紫の悲愴めいた顔が思い浮かばれた。
 自分の主人の身を案じるのは従者として当然のことだが、行きすぎた心配は不信と同じこと。それは果たして忠義に則しているのかなどと自分に言い聞かせ、もっと別のことを考えようとし、その時に浮かんだのは彼女の式である橙のことだった。
 相変わらず猫たちを統率するのに難儀しているようで、それでもあの子はなんとか一人前になろうと努力している。橙の勇姿は藍も見たことがあるし、彼女が八雲の姓をもらう日もそう遠くないだろうと期待を寄せる。
 淹れた煎茶を飲み干す頃までに紫が帰ってこなければ、久々に橙のところを訪ねてみよう、そう藍は計画した。気分転換にもちょうど良さそうだった。
 視界の端に、業務をこなしながらも決して思考の隅から離れようとはしなかった陰鬱な空の残滓を認めて、藍はそれに気をとられた。
 そもそも、藍は雨が好きではない。個人の感性的な問題だけではない。もし雨を橙が被ってしまったら式が取れてしまう。そうなると気が気でなくなってしまうのだ。チラリと自分の自慢の尻尾が台無しになるなんてこともよぎったが、上二つに比べるとインパクトは劣る。
 今回は、悪夢めいたことを仄めかしてくるあの忌々しい暗黒に今の境遇を重ねてしまい、気分を害してしまいそうだから、というのが一番強い。
 何となく目を背けたかったが、雲は不思議な引力を持っていて、藍の視線を釘付けにしていた。藍が湯飲みを持ったまま呆然としていると、とある変化に彼女に体が敏感に反応した。
 細かい砂粒のような霧が藍の視界に固まりつつあったのだ。霧はある一定の指向性をもって三次元に広がり、藍のよく知る姿をとった。藍は刹那驚きはしたものの、見慣れた光景だったのでそれ以上のリアクションはとらなかった。
 形作られた霧は藍の隣、急須を挟んで座った。藍が逆さにされた湯飲みに手を伸ばすのを、霧は素振りだけで止め、代わりに腰に下げていた瓢箪に口をつけた。
「で、どうかされたんですか、萃香さん」
 萃香と呼ばれた霧は微笑みをたたえたままもう一度飲み口をくわえ、
「あんたが寂しがってるだろうと思ってさ」
 飲めと言わんばかりに藍に差し出した。
「まあ、その通りですが」
 藍は受け取らず、拒否する意味も込めて持っている湯飲みに茶を付け足した。萃香も気にした風もなく先程藍が見つめていた方角に目をやった。
「萃香さん、紫様がどちらに行かれたかご存じですか?」
「知らない」
 萃香がぶっきらぼうに答えると、藍は視線を落とした。
「幽々子のところにも三途の川の向こうにも行ってないみたいだし、もちろん私のところにもな。最近のあいつの行動は今まで以上に訳がわからない」
 慌てて萃香はそう付け加え、藍の姿を横目に盗み見た。藍は黙りこんだままで、紫のことを考えているだろう以外、いったい何に思案を巡らせているのか、萃香の預かり知らぬところにあった。
 萃香も似たような心境にあった。紫とも親交は深かったし、良き友として、上手くやっていけているつもりだった。それなのに、紫の変わり様に打つ手もなく、かといって直接踏み込めば崩れさってしまいかねないほど紫は脆くなっていて、どうすることもできていない。
 長年付き添ってきた仲として歯痒い思いをしているのは藍と同様だが、紫への依存度から言って、藍の精神状態の方が深刻な状態にあるのは明白。こんな風にした紫に萃香は口に出さず悪態をついたが、藍のためにも踏ん張らねば、と意を決した。
「そんなに気にすることもないんじゃないか? これまでだって紫の不可思議な行動には私たちも振り回されてきたんだしさ」
「そう、ですね」
 わざと軽薄ににやけ、友人の気持ちを和らげようと萃香がすると、微かに藍の目に光が点り、伊吹童子はすかさずこう続けた。
「あんたも暇だったら式のところに顔出してやったらどうだ。きっと喜ぶぞ」
「萃香さんが来る前にそれはちょっと考えてました。ただ紫様がいつ帰ってきてもいいように、私は」
「どうせちゃんと帰ってくるんだからそんなに気にかけなくてもいいんじゃない。それよりも、あんたがそんな思い詰めた顔してる方が紫の奴には堪えるんじゃないか?」
「しかし……」
 まるで暖簾に腕押しをしているようで、こりゃ重症だ、と萃香は頭を掻いた。ほんの少し足を伸ばすだけでも大分違ってくるだろうに、藍はここを離れようともしない。相当難儀な奴だな、と率直な感想を萃香は抱いた。
「それじゃあこうしよう。私がここで紫が来ないか見張って、もし帰ってきたらすぐあんたに伝える。そうすればあんたも安心して外に出られるだろう」
 さも名案だと誇らしげに提案する萃香を見て、藍は鬼の真意に気づきつつあった。また、萃香の言うことももっともだと言う藍の心中に住み着くもう一人の彼女も存在していた。
 本当はまず自身の目で紫が帰ってくるのを、紫がまだこの世界に存在するのを確かめたかったが、紫の友人であり、藍の友人でもある萃香にここまで気遣われるのも申し訳なく思って、とうとう折れた。
「……ありがとうございます。それではお願いしますね」
「うい!」
 藍の気分はまだ晴れなかったが、寝転がってわざとらしく明るく振る舞っている萃香の気持ちを汲んで、若干無理矢理な笑顔を返すと、ゆっくりと橙の棲家へ飛び立った。
 行く道の前半は遅かったが、距離を重ねるごとに、藍のスピードは元の調子に戻っていった。澄みきった空気が藍の肺の悪しき気を拭い去り、ひとまずの忘却を彼女にもたらした。
 それから十年余り後、紫はついに睡眠と活動の関係が逆転し、日が沈んでから八時間ほどしか意識を保てなくなってしまった。文字通りの昼夜逆転である。











 八雲紫の使役するスキマには、人のものと思われる多勢の目玉が存在していて、一度でもスキマの内部を経験した妖怪や人間は、その光景のショックのあまり、度合いは違えどトラウマのようなものを抱えることになるという。
 平生は何処か目的地を持って使用しているため、詳しく隅々まで調べることを紫もしてこなかったがために、ほとんど未知の領域として認知されてきた。紫も困ることはなかったため、そこまで追求もしてこなかった。
 紫がその果てに興味を示したのは、以前意識を失った時以来、眠りの度合いが深くなってからである。スキマを使っているわけでもないのに、夢に広がる光景はまさしくスキマを潜った向こう側で、新しく出口を開くことはできないが、本物のスキマとそう変わらない性質を持っていると気づくにはそう時間をかけなかった。
 眠っている時間が長くなっているのならば、その間を有効活用する他ないと紫が決心し、深淵へ歩を進めていくが、今までのっぺりとした背景としか認識しかなかった目玉が明らかな質感を持って彼女を睨み付けていて、異物として彼らに認められていると感づくのも聡い彼女には容易かった。圧倒的な疎外感にも負けず紫が歩みを止めなかったのは、単に好奇心のせいだけではなかった。
「   」
 声が聞こえてきたのだ。懐かしい声色と、耳朶に優しい聞きなれた名前が、紫を揺さぶっていたのだ。紫はその声がする方向へと無心に進んでいった。背後から親しい手つきの誰かが肩を掴んでいたが、紫はそれを無視し、ただひたすらに道標に従った。
 やがて蛍光灯の灯りのように現実味のある光が前方に見えてきて、その一点に紫が達したとき、彼女は第二の目覚めを経験する。


 夢中であるはずなのに、体を流れる生命の循環、やんわりとした外気、窓の外から聞こえる慌ただしい人間の足音、無機質な匂い、そのどれもが彼女の脳に現実だと刻み込ませようとしていた。
 ふかふかとしたベッドから身を起こし、目覚まし時計を見てみると朝の六時を回った頃で、まだ寝足りなさを感じながらもいそいそと体を動かし始めた。
 寝起きに付きまとう倦怠感はもう慣れっこで、夢の中で自分が別人として振るまい、違った人生を辿ってきたという変な錯覚ももれなくついてきても、特段邪険に思ったりはしなかった。むしろ、手放すことに喪失感を覚えるほどで、昔はよくそれで涙を浮かべることも多々あった。
「早くしなさーい」
 階下から母親が彼女を呼んで、
「はーい」
 元気よくそれに返し、一つ背伸びをすると階段を降り、父親と母親が待つリビングに駆け足で向かった。
 ハーン家に生まれたマエリベリーには、もはや悩みともつかないほど、心を占めて離れていかない大きな一つの悩みがあった。御年十二歳に至るまで大きな病苦からまぬかれてきたし、体も弱くない。それに勉学はいたって優秀で、生活態度も問題はないものだから、今通っているジュニアハイスクールでの生活のことではなかった。
 父親の都合で三年後に決まっている日本への引っ越しはチラチラと顔を見せてきてはいるものの、母方の祖母がそっちの出身なものだから全く知らない土地というわけでもないし、級友と離れることに寂しさは募るが仕方ないことと割りきることもできている。
 もう一つ言うと、すぐにこっちに戻ってくることになるだろうこともわかりきっている。二三年、マエリベリーがジャパンのハイスクールを卒業するまでに違いない。
 それ以上にマエリベリーの興味をつかんで離さないのは、時々彼女の目に写り込んでくる怪異の数々だった。
 発端は、四歳の秋頃だった。家族で日本に旅行をしたのだが、旅行した先々で、空間に不気味な裂け目ができているのをよく目にしたのだった。
 まだ幼いマエリベリーには余程の脅威に感じたのか、触れることはおろか近づくこともしなかったのだが、家族に話してみても実際に見えていたのは彼女一人で、相談も孤独と恐怖を増長させることにしかならなかった。ただ父親はまだ霊感が一般人より強かったのか、訴えてくる自分の娘の眼に存在しているだろうスキマに感づくこともしばしばあった。
 それだけではなく、夜になって、人々の栄える街が作り出した暗闇や、裏路地などにはびこる影に代表される負の場所に現れる人ならざる者の気配にも、マエリベリーは身の毛をよだたせていた。
 そんな経験の後、欧州に帰ってきてからも不思議な現象に巻き込まれそうになることが多くなっていった。あの裂け目に遭遇することはほとんどないが、伝説に謳われる存在らの遠吠えや囁き声が、何気ない日常の隙間から漏れてくるような錯覚がマエリベリーを襲ってきたのである。
 ただ、マエリベリー・ハーンも怯え竦んでいるだけではなかった。むしろ、自分の拠り所を見つけたような懐古心と、広がっていく深淵へと引き寄せられる引力にどんどん惹かれていったのだった。
 安っぽいオカルティズムには全く興味は湧かず、今はもう語り継がれることもなくなった迷信や逸話、ギリシャ時代の超古代神話を皮切りに、日本の信仰形体や妖怪、風習などを徹底的に収集し始めた。そうすることによってますます自身の充足感が増すと共に、尽きることのない探求心がさらに強まっていくのを、彼女は嬉しく思った。
 マエリベリーは現地での蒐集に勝るものはないと考えだし、いずれ日本へ留学し、この目で、耳で、奇怪な出来事を、科学に封をされた幻怪を紐解いていきたいと願うようになった。父親から日本へ移住する予定があると聞かされたときは、天がまたとない機会を与えてくださったと内心に歓喜が花を咲かせたものだった。
 もし父親が欧州に戻ると言い出しても、メリーはたとえ下宿し自炊する羽目になっても、日本へ残るつもりでいるほどだ。
 ともすれば別に悩みどころではないはずなのだが、問題なのは、幻想の知識を取り入れていく中で、もう一人の自分が甲高い叫び声をあげているような幻聴が時たま聞こえることだった。
 自分はマエリベリーを構成する上っ面でしかなくて、マエリベリーの中心部には、もっと他の大きな存在が中核をなしているのではという、非常に大それた不安だ。両親にも打ち明けていないことで、単なる妄想として片付ける勇気もなく、いつか自分という殻をその誰かが破って、自分は自分でなくなってしまうという恐怖を一人抱えて、身を震わせ続けていた。
 だが、飽くなき探求心はマエリベリーを休ませることなく、今日も、彼女の好奇心を奮い立たせ、幻想への扉へと一歩づつ歩ませる。マエリベリーも、そこに妙な安堵を感じるから、余計に質が悪いと自覚もしていた。
 母の作る、幽かに和の香る朝食を食べ終わると、学校へ行き、いつも通り授業を受けた。いつも通りの授業態度で、そののんびりとした性格と愛想のよさで同級生と楽しく過ごし、また合間を縫って知識欲を満たそうとした。
 マエリベリーは授業後になるとまっすぐ家に帰宅し、インターネットで情報をかき集め、整理すると自己分析に入る。最近は進路に対しても視野を広げなければならない時期にもなってきていて、伝説以外にも学問的な興味も消化をすることが多くなってきた。それも苦痛とは感じないし、元々勉学が好きなんだなぁと彼女は独り呟くことも多い。
 夕食や入浴も済んで、またマエリベリーはデスクに向かう。十一時を回る頃にはなぜか抗いがたい眠気が襲ってきて、それがマエリベリーの一日が終わる合図となる。
 いそいそとベッドに潜り込み、毎日のように繰り返される意識の遠退きと同時に、まるで自分の体躯が泉になって魂が沈んでいってしまうような錯覚を感じながら、マエリベリー・ハーンは眠りに落ちていく。

 そして八雲紫は、行きとは全く異なって、暗闇の中を真逆さまになって落ちながら、もう一人の自分が送っている人生に哀愁の念を送りつつ、藍がすぐ側に控える部屋にて目を覚ます。
 頭では違うとわかっているのに、マエリベリー・ハーンとしての自分の方が現実味がある気がして、長編映画を見終わった後みたく感傷に浸り、紫は深く、ため息を吐いた。








 もう春が八回ほど経過したある日、居を構えている八雲家には橙も加わり、紫が目覚めている間を充実したものにしようと八雲の縁者たちは奔走していた。しかし、楽しいものであったのは間違えようもない。決して義務感だけではない、二人それぞれの我が儘な気持ちからの行動でもあった。
 奔走とは言ったが、際立って何か催し物をやるのでもないし、接し方を病人に対するときのように変えるのではない。
 確かに紫の力が弱まっているのは火を見るよりも明らかで、いずれ消滅してもおかしくはない。いや、もっと断定した言い方をしても差し支えなくなっていた。
 だとしても、紫は恐らく特別を要求しない。幻想郷の平穏を感じるだけで幸せだろうし、藍も橙もそれを暗黙のうちに理解している。
 宴会は定期的に神社で行われるし、客人も定期的に訪れてくるので、取り立てて行う必要も見当たらないし、また、起きているときは昔と変わらない知性と威勢を見せているから、藍や橙も主人が消えかかっているというのにいまいち実感がわかず、今まで通り紫に注意されたり、少しだけ反発したり、何百年以上繰り返されている日常を謳歌していた。
 だから、紫が幽々子を自宅へ小宴会を開きたいと招いたときも、大親友と酌を交わすことにどちらの従者も疑問はなかったし、出来るだけ楽しみたい、という素直な希望を持つに至った。
 幽々子が紫邸に到着したのは、空が暖色のグラデーションを作り始めた頃で、それでもかの賢者が起床して間もない頃だった。
 妖夢は先に藍の手伝いに行かせていた。庭師はかなり渋ったものの、主人の得も知れぬ深い笑みと、理由をあまり話さない威圧的な語りかけに折れて、ちょっとだけ肩を怒らせて出ていった。
 幽々子が妖夢を追い出すようにしたのは、単に、冥界で気ままに浮かぶ霊魂や、妖夢が毎日手入れを欠かさない中庭の枯山水や松、そしてその奥にある西行妖を独りで眺めたかったからで、時間が凍ったような無の時間に、センチメンタルになりながら考え事をしようにも取り留めのない思考の濁流に飲み込まれて、広大な夜の砂漠で孤独にさ迷っているような寒さを胸に沈ませたものだった。
 自分の感情が何なのかははっきりとしていたから、幽々子は出発の時間になると気持ちを切り替え、倉に保管してあった秘蔵の酒のことを思いだし、それを抱えて白玉楼を後にした。
 八雲邸に近づくと、幽々子の膨大な収容量を誇る胃袋を騒がせるような香りが彼女の鼻を楽しませた。紫と対面する前に料理はどんな塩梅かと台所を覗きに行くと、もうほとんど仕上げの過程に入っていて、相変わらず手間もかかって質も良さそうなご馳走の片鱗を目撃した。
 調理している藍と妖夢の姿は真剣そのものだったが、絶えず二人の間には会話があって、和気藹々ともしていた。それを見て幽々子はひとまず安堵し、気づかれないようにその場を離れようとする。
「あれ、幽々子様」
 注がれていた視線に感づいたのか、妖夢が振り返って幽々子を発見した。つられて藍も幽々子を見つけると、
「ああ、お久しぶりです、幽々子様」
 軽く一礼をした。二人が一旦作業を中断しようと調理器具を置いて、幽々子は律儀だなぁと苦笑をこぼした。
「そんな別に私に構わないでいいのよ」
「いえ、少し時間を空けないといけないものもありますし、大事なお客人をぞんざいにはできません」
「変わらないわねぇ、藍ったら」
 妖夢の方は、と幽々子が視線を送ると、
「あ、あの、幽々子様がお見えになったのでつい」
 気まずそうに答える妖夢。あまり考えていなかったようだ。そんなところに可愛いげを見いだしながら、幽々子は二人に見つからないように、盛ってある一品をつまみ、持ち去ろうとする。
「ダメです」
 もちろん妖夢は幽々子の手癖の悪さを見逃すはずもなく、鋭い一声で主人を諌めた。幽々子が唇を尖らせると、九尾な式も苦笑をもらした。
「ところで藍って、今日も見回りを?」
 これ以上追求されるのを恐れ、幽々子がかなり強引に話題を切り替えた。妖夢の目がずっと幽々子を刺していたが、気づかない振りを通そうと亡霊は目を合わせない。
「ええ、今日はトリフネまで。紫様の助けがないとなかなか行けないので、ついさっき行って参りました」
「トリフネって……ああ、あの鉄屑の塊のことね」
「一応当時の外の世界の最先端技術を駆使して作られたものらしいんですが、今となってはそうですね」
「幻想入りしてもなんの益にもならないなんてただの宇宙ゴミと大差無いわ。しかも中には害獣が一杯いるんでしょう?」
「少なくとも、幻想郷本土に放つことは難しいでしょう」
「何でも受け入れるって触れ込みなのにね」
「受け入れてはいますよ、一応はですが」
 幽々子と藍が何やら黒い笑みを浮かべ合っている傍ら、妖夢は暇そうにお玉の取っ手を手中で弄っていた。肝心なことは一切教えられず、言われるがままに行動してきた彼女にとって、対岸の火事のように思えているのだろう。あまり事情に立ち入らず、もしもの際順応できるように耳に残しておくことはしていた。
「そろそろ紫のところに行くわね」
「そうですね、幽々子様のお顔を見るだけでも紫様もお喜びになるでしょう」
「じゃあねー」
 少女の見た目相応の振る舞いで幽々子が立ち去ると、残された藍と妖夢は何事もなかったように作業に戻った。
 紫は自宅の庭を眼前に、絵画の一部として書かれた一介の人間のような背中を幽々子に見せつけていた。色彩が気持ち薄まって、注意しなければ見落としてしまうほど儚い印象を与えている。
 それに拍車をかけたのは、紫を紫と認識できる輪郭がぼやけていることだった。概念と事象、『モノ』と『コト』の境界があやふやになっていたのだ。誰も紫がそこにいることを証明できなくなりつつある、そんな危うい存在に彼女は成り果てていた。
 幽々子は察した。察してしまったことで、いつも通りを装って、気づかない振りをして紫と顔を合わせることができないまで内心が掻き乱されたが、長年の付き合いから来る優しさと、意地っ張りな部分が努めたお陰で、声を震わせることなく、平生と同じ態度で親友に声をかけることができた。
「そんなに呆けちゃって、まるでおばあちゃんよ」
「そうね、何となくわかるわ」
 紫が、幽々子がいることを初めからわかっていたように返してきて、幽々子は一瞬ヒヤリと体感温度を下げたものの、消えかけている妖怪の横顔にお馴染みの胡散臭い笑みが張り付いていたのを見て、悟られていないようだと確信し、とりあえずの安心を得た。
 幽々子は、自分の冷たいそれとは違う紫の体温が感じられるほど近くに腰を下ろした。紫は意外そうに幽々子を見て、ほんのり体重を預けてくる幽々子に合わせて、体を傾けた。
「珍しいわね、幽々子がこんなに甘えてくるなんて」
「冷たくて嫌かしら?」
「何を……幽霊って元々こうやって使うものでしょ?」
「まあね」
 幽々子の手に握られていた酒瓶に紫の視線が行き、それに気づいた幽々子はこう言った。
「今日のためにとっておいた秘蔵の代物よ」
 にやけながらの言葉に、紫は呆れ混じりに鼻で笑った。
「嘘おっしゃい。大方いつものやつでしょ」
「でも高かったのよ?」
「いくらぐらいなの」
「んーと、これぐらい」
 幽々子がなんでもないことのように指を立てるが、その本数に紫は驚愕を隠そうともせず目を見開いた。
「……期待できそうね」
 案外素直な返答が来て、幽々子は満足そうに笑みを濃くした。
「フフッ」
 落ち込み気味だった紫も、思わず口元を覆った。紫が笑ったというだけで、なぜか寂寥が強まって胸に傷を残すのを幽々子は無視した。
「そういえば幽々子、この前変な二人組を見たって言ってたわよね」
 紫が声色の調子を幾分か取り戻して幽々子に訊いた。切り出し方からして思い付いたのではなく、以前から疑問に思っていた様子だった。
「ええ、遠目からしか見えなかったけど、おかしな二人だったわ……。あれは生きた人間よ。本来私たちのいる場所には来ちゃいけない存在のはずなのに、どうやって入ってきたのかしら」
「そんな不思議なことでもないわ。ついこの間も頻繁に出入りしてた人間もいたじゃないの」
「じゃあ私が見かけた人間もその類いだって言うの?」
「あり得なくはないわね」
 幽々子と一緒に当事した訳でもないのに、いやに自信ありげに語る紫。そんな彼女を幽々子は奇妙に感じた。
 紫は博識である。幽々子も大概な知性を持ち合わせているが、彼女からしても、紫は妖怪の賢者と言われるだけあって、その圧倒的な知識と計算力は異常と思えるほどだった。
 特筆すべきは知識の方だ。今はもう幽々子の見ることはできない海のように深い埋蔵量があり、そのレパートリーは多岐にわたる。時折未来を予測しているのではないかと疑いたくなるような意外な知見や叡知を見せつけることもあり、その恐ろしさといえば、出会って間もない頃の幽々子に必要のない不信感もわかせるほどであった。
 確かに紫の言う通り、能力持ちの人間も幻想郷では珍しくない。能力を開花させる人間が増加した時期もあれば、その中に幽々子すらも圧倒する力を行使できる人間も現れた。幻想郷の外の世界で、かの博麗の巫女や、それこそ高度な結界に干渉できる紫のものと近いレベルの能力が発生するというのも、可能性は低いが理解もできる。現実、守矢の三柱のうち一柱はいい例になっている。
 そういったことまでなら幽々子もわかる。いや、ある程度力と経験を積んだ妖怪、詳しく言えば幻想郷の成立前から生きている妖怪ならば誰でも理解可能だ。それを紫は、発生した事柄を以前から知っていた、あるいは経験しているが如く振る舞ったのだ。なんら関わりの無い突飛な事象すら既知の範囲内に納めている、薄気味の悪さが今まさにあった。
「ねぇ紫。あなた、なんでも知ってるのね」
 幽々子が他意なく紫を誉めると、誉められた側は不意に表情に影を落とした。
「私ね、こうなることを前々から知ってたような気がするの」
「こうなること?」
「私が消えるってこと」
 幽々子は思わず息を飲み、必死にそれを隠してとぼけようとするが、紫は制するように黙って首を振った。紫は、幽々子が察したのに気づいていたようだった。
 兎に角声をかけるべく言葉はないかと頭を巡らせる幽々子だったが、結局閉口するしかできなかった。
「私がそう感じたのはついこの間に倒れてすぐの時。なんと言うか、ずいぶん前に一回読んだ本を読み返してるみたいな気分になったのね。だから、結末は覚えてないけど、変な安心感があって、受け入れることに抵抗もなかったっていうか」
 紫が一旦そこで間を開ける。
「思い返してみれば、今までもそんな経験がたくさんあったわ。例えば……」
 紫の瞳に、幽々子の姿が写る。遥か昔、幽々子の知らない幽々子の過去に思いを馳せているような遠い目だった。
「まあ、それはいいとして。……ああ、それに、とてつもなく巨大で実体のない強迫観念に襲われることもあったわ」
「月面戦争の時?」
「正解。よくわかったわね」
 幽々子がその発想に思い至ったのも無理はない。千年以上前、紫は月に戦争を仕掛けたことがあるのだが、あの戦いは端から見て、全く無謀に等しいものであった。
 当事も、月の科学力を噂という形で見聞きするものは多かったし、その噂を裏付けるような遺物があちこちで出土されているのも、紫初め大古参の妖怪は周知していた。それによれば月は到底地上の民が敵う相手ではなく、勝算もゼロに等しいものでもあったと言う。
 だが、紫は決行した。
「だってあのときの紫、少し変だったもの」
「あの時の私は、見えない意思に従わなきゃいけない、そういう義務があると思い込んでたから。それがさも当然だってね。だから」
 紫がくっつけていた体を幽々子から離し、親友に向き合った。
「私が消えても、気にする必要はないわ」
 紫の達観した表情が、幽々子を貫いた。
「あなたは消えないわ」
「いいえ、私は消える」
 幽々子の絞り出した慰めも、紫は唾棄するように切り捨てた。二人はしばらくの間無言で見つめあった。音はなかったが、視線で、息づかいで、表情で、互いの心中を吐露し、想いを交わす会話はあった。
「酷いわ、紫ったら」
 今度は涙が溢れそうになるのを、幽々子は隠そうとしなかった。わからず屋な大親友に見せつけるつもりだった。
「私もそう思うわ」
 紫はわざとらしく飄々と受け流した。気丈に振る舞っているとも、諦観しているともとれる態度だった。
「藍をよろしくね。あの子、私がいないとなにもできないから」
「藍にはなにも言わないのかしら」
「必要ないわ。あの子はただの道具よ。消耗品にわざわざお別れを告げるなんてしないでしょ」
「その割には随分と情が籠ってるみたいだけど?」
 幽々子に反撃された紫は、返答をしないことで難を逃れようとした。幽々子も、深く追求するのをやめておいた。藍に対して何かしらフォローをする必要はあるが、紫にそのつもりがないことに付け加え、紫最後の晩に、これ以上の騒動を引き起こしたくなかったからだ。後始末を押し付ける形になってはいるが、上手くやってくれるはずという紫の幽々子への信頼の結果だろう。
「じゃあ、もう今夜は辛気臭いのは無しでいきましょう」
「楽しめるだけ楽しまないと損よね」
 幽々子は覚悟を決め、迷いを払拭するように快活に笑うと、紫の得意な胡散臭い笑みも鼓舞された。
 ちょうどその時、従者らによって部屋に料理が運び込まれてきて、食欲を刺激する殺人的な香りと、見ているだけで愉快な盛り付けの数々が二人の前に現れた。作業には途中から橙も参加していたようで、彼女も藍に引き連れられてきた。
 その晩の紫邸は、どこの宴会にも劣らないほど各々が騒ぎ、今し方まで漂っていた哀愁と、藍たちに待ち受ける困難を吹き飛ばすほどの活気を取り戻した。


 橙がいの一番に耐えきれなくなり、最初の脱落者となった。次は妖夢で、主人である幽々子たちより控え目に飲み続けたのだが、ふと突然事切れてしまった。藍は前の二人と比べると別格で、紫らと十分渡り合えていたのだが、翌日の片付けに響くといけないという理由から紫側から一方的にシャットダウンさせられてしまった。
 二人っきりになった幽々子と紫は、灯りをすべて消し、月明かりで手元を照らさせながら、夜のしめやかさを噛み締めるようにして静かに杯を傾け続けている。
 忍耐強そうな夜虫の鳴き声と、天蓋に散りばめられた宝石、吸い込む度に肺を冷やす清澄な空気、どれもが最期の催し物には上出来だ、と変わらぬ調子で紫が笑うと、明日起きても紫はまだ存在して、互いに笑い合えるんじゃないかという淡い希望を幽々子は仄めかされたように感じた。
 紫の表情は朗らかそのもので、夕方に彼女が覚悟は出来ていると語ったのを幽々子は覚えていたが、今に至ってようやく納得がいった。
 ただ、紫の消滅に関する事柄は口に出すのも憚られているようで、当たり障りのない、思い出話や幻想郷の抱える問題点、最近知った興味深い出来事などに会話の花を咲かせていた。
 紫が、意識がだんだんと朦朧としてきたと訴え始めたことにより、幽々子は現実に引き戻されたが、その瞬間が来るまで紫の傍を離れないという決意は変わらず心にあった。
「幽々子」
 紫が語りだしたのを聞いて、まるで遺言のようだ、幽々子は感想を持った。一字一句聞き逃してたまるものか、と耳を澄ます。
「私は八雲紫よね?」
 表情や所作は全く変わらなかったが、紫が不安を押し殺しているのは明らかだった。幽々子は、予想したものとは異なった親友の心中に戸惑い、また、なぜそんなことを、と疑問に思ったりもしたが、詮索することをすぐに放棄した。心置きなく紫が生を終えられるようにすることが使命だと肝に命じたからだ。
「あなたは八雲紫よ。妖怪の賢者で、幻想郷の母で、私や萃香の友人で、藍の主人で、誰よりも優しく誰よりも残酷な妖怪。他の誰でもない」
 幽々子の声色は穏やかだったが、紫の奥深くまで浸透するように念が籠っていた。真正面から言うのは恥ずかしかったのか、青々とした待宵月を見上げながらだった。
 紫も幽々子にならって夜空を展望した。月が綺麗だった。
「……ありがとう」
 紫が囁くような小さな声で礼を言った。
 幽々子には、紫が苛まれている不安がどこから来ているのか、判然としなかった。紫の境界がうやむやになって、紫としての自我が存在できなくなるのが怖いのだろうか。紫を認識していた人が、妖怪がいるという確証が欲しかったのだろうか。それにしては、少々的が外れていたのでは……。
 意図しないで幽々子の首が回り、紫の横顔を視界に入れた。
 紫は泣いていた。月を眺めたまま、絶世の美貌に雫を溢していた。不謹慎ながら、思わず見とれてしまうほど浮世離れした光景だった。
「消えたくない……私、消えたくないわ……!」
 叶わぬ願いが紫から吐き出される。今まで甲斐甲斐しく振る舞ってきた分だけ、切実さがむなしく響いていた。
「幽々子……」
「っ!」
 二十年近く前から、否、紫が妖怪たちの先導者としての立場を確立して以来、ずっと隠し通してきたであろう心情の発露に幽々子はいたたまれなくなって、自分の胸に紫を抱き寄せた。
「うっ、うぅぅぅ……」
 少女のように泣きじゃくる紫を、幽々子はただ強く抱き締め、紫の爆発した感情を受け止め続けた。幽々子自身も、避けられない結末に目を背けていられず、駄々をこねる赤子のように、紫が何処かへ行ってしまわないように力を込めた。ひたすらに無言だった。
 やがて、幽々子の腕の中にあった感触がなくなり、彼女が慌てて紫の姿を辺りに探すが、親友がどうなってしまったのか、わかりきったことだった。
 突然訪れた別れに音はなく、代わりに、夜虫の同情めいた演奏が幽々子の空虚な心境を代弁していた。


 八雲紫は、永遠にその存在を失った。



































 宇佐見蓮子が鳥船遺跡の結界をマエリベリー・ハーンと暴いてから、彼女には気がかりなことができた。相棒であるメリーの無視できない変化である。
 サナトリウムにメリーが収容され、退院した彼女に接した時、蓮子はその変化に激しく揺れ、不吉な未来を案じるほどであった。
 元々メリーは境界が見えるということで、蓮子は彼女の目を利用して各地に潜んでいる結界を暴くというサークル活動を行っていたのだが、鳥船遺跡に侵入して以後、メリーの能力が肥大化し、人の域を越えてしまっているほどにまでなっていると蓮子は気づいた。
 メリーは自覚していないようだったが、以前よりメリーから人ならざる不穏な気配を感じることが多かった蓮子は、此度の異変で慄然としたものだった。
 メリーは、サナトリウムでの隔離を終えて、なにか爽快感じみたものを心に到来させていた。生まれてこの方、自分は夢で活動するためのもう一つの人格が存在するのではという得体の知れない恐怖に震えていたのだが、それが跡形もなく消滅したのだ。さらに、自身の目が強化され、あらゆるものの過去を見ることができるという、知的好奇心を精一杯満たしてくれるような素敵なものに進化し、秘封倶楽部の更なる飛躍に寄与できそうだったからだ。
 最初のうちは、弊害もなく二人のサークル活動は行うことができた。しかし、やはりというか、蓮子の懸念が現実のものとなり、だんだんと二人の間を引き裂いていくことは、想像に難くなかった。
 メリーの記憶に、明らかに他人のものと思われる記憶が混在していたのである。メリーがその事に自覚がなく、指摘しても暖簾に腕押しなことから、かなりの重症であることは事実だった。
 時々自分が誰であるか、名前がなんなのかすらも混濁することがあり、その都度蓮子はメリーを現実へ引き戻していたのだが、『八雲紫』とメリーが自称したときの心地といえば、生理的な拒絶反応を引き起こしかねないものだった。
 メリーも、自分の過去の記憶が段階的に薄れ、家族のことも霧のように消えていくことに不安を覚えなかった。反面、マエリベリー・ハーンとしての自分が消えていっても、それにより本来の自分が取り戻せそうなものだから、むしろ待ち望んでもいた。
 何より安堵できるのは過去を幻視しているときや、結界を飛び越えているときで、時間を跨ぎ過去に行くことができれば、マエリベリーという余計なものを削ぎ落とし、八雲紫という懐かしさに回帰できるという確信めいた信仰が彼女を支配していた。
 そしてついに殻を脱ぎ捨てるときがやって来たとメリーは歓喜した。
 誰の声に指示されるわけでもなく、足の赴くままに向かったところ、京都の路地裏に潜んでいたとある結界に直面した彼女は、いつもと同じようにその向こう側へ入り込んだ。
 振り返ると出口のようなものは閉じて無くなっていて、もはや戻ることは不可能だったが、不思議と後悔も絶望もなかった。
 どこへ向かい、何をするべきか、彼女は既にわかっていた。道中異形の者と遭遇することもあったが、襲われることはなく、逆に恐れられていた。遥か昔の夢の中で彼らのような化け物に追いかけられた記憶があったが、いつ見たのかはっきりとは思い出せなかった。
 名を尋ねられることもしばしばあり、彼女は迷うことなく『八雲紫』を口にした。
 八雲紫は妖怪さえも恐れるという偉大な存在へと成り上がり、海を越えた大陸にも名を轟かせるのもそう未来のことでもなかった。
 彼らの耳に入ったのは彼女の功績だけではない。信憑性に乏しいのだが、まことしやかに囁かれる噂がある。紫は、時折狂ったように邁進することがあるが、決して妖怪として致命的な精神欠陥があるわけではなく、何かに導かれるがままに行動しているだけである。未来を予測するように的確な計画を立てることもあるが、純粋な計算から成り立つものと、関わりや繋がりもない突飛なものがあり、どちらもが彼女の底知れなさを助長するものである、というものだった。
 八雲紫が従者の前で気絶したことも、彼女自身から随分と前から仄めかされていたように思えると、冥界の管理人も閻魔に告げている。
 八雲紫は消滅したが、いつかまた彼女が帰還するという期待を、彼女の友人であった妖怪は皆持っている。取り分け、八雲藍はそれが強いようだった。
 それには根拠がある。八雲邸の一角に、紫がかつて使用していたスキマの入り口が残されているからだ。出入りは自由だが、その奥まで行くことは誰も試していない。もしかしたらどこかに繋がっているのかもしれないと、使いの道具を潜入させているはいるが、連絡はいつまでたっても来ない。もしも藍の耳にスキマの先へたどり着いたと連絡があれば、彼女は何もかも放り出してスキマへ身を投げ入れるだろう。
 スキマは一つの希望でしかない。八雲紫の在処など知る由もないが、ただ一つ言えるのは、スキマの中に蔓延る無機質な目玉の数々と、高貴であり深淵のように不気味な紫だけが、彼女たちの行く末を知っているだろうことである。
もうちょっと上手くまとめられたらとほんのり悔いが……

元ネタは某SF作家の『銀の鍵』から。タイトルに関しては『銀の鍵の門を超えて』も含めて
カーターってメリーっぽいなーと思いながらでした

ハメにも?
八衣風巻
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コメント



0.140簡易評価
1.90名前が無い程度の能力削除
不思議なお話でした。紫とメリーの境界がひどく曖昧になっていって、それがゆっくりとした喪失感を演出します。
2.80絶望を司る程度の能力削除
全ては終わり、そして始まる。
なんつーかあれだよね。永遠ループってこ(ry
3.100名前が無い程度の能力削除
力のある作品だと思いました。
ムズムズするような読後感で、弱々しい紫の様子が印象的
4.90奇声を発する程度の能力削除
こういう感じのお話も良いですね
7.100名前が無い程度の能力削除
ちょっと泣いちゃったじゃないか……
10.100名前が無い程度の能力削除
紫とメリーがループしている?
ハッピーでもなければバッドでもないトゥルーエンドだと思いました。