Coolier - 新生・東方創想話

青き笛吹きゆめむすび 1

2013/12/30 23:59:59
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 回ることもなく、揺れることもなく。舞い降りる粉雪を、紅色の布地が受け止める。
 白の中に立てられた孤独な傘。その下で、盃を片手に座す女もまた独りだった。

 雪色の髪は背中を覆い尽くし、膝の下に敷かれた茣蓙におさまりきらぬほど長い。
 頭の白糸の間からは、二つの小さな角。そうした夜叉を彷彿とさせる部位を持ちながら、ひどく痩せた首である。
 着ているものは法衣に似た卯の花色の衣で、袖の長いゆったりとしたものだ。
 顔は瑞々しさと枯れた落ち着きが奇妙に溶け合った、比丘尼を思わせる細面だった。

 女は……瞼を閉じたその鬼は、盃に残った酒を口にせず、無想の境地にいた。
 さらり、と傘に積もった雪が滑り落ちても表情は無のままであり、時折冷気が側を通り過ぎても微動だにしない。
 雪の中に佇む傘が枯れ木ならば、鬼は木肌に寄り添う樹氷であろうか。
 透徹とした時の中で、共に戻ることのない青の季を偲んでいる。




 笛の音。
 白の世界に、何処からともなく調べが流れてくる。

 鬼の閉じた瞼が震え、その口元に淡い微笑が浮かんだ。

 辺りの雪の群れが、笛の唄声に合わせて舞い始めた。
 わずかに弾んだり、隣同士で軽く触れ合ったりしながら、無色の層を滑り落ちていく。
 さらに一陣の風が吹き、降り積もる繭から一斉に羽化していくように、雪の群れは遠くへと去っていった。

 笛の音が止み、辺りには再び静寂が戻る。
 鬼は静かに杯を干して、ほっと息を吐き、

「……よい調べでした」

 傍らに出現していた気配に、そう礼を述べた。

「朝から天守の頂で雪見酒とは、いい身分だな」
 
 からかうように返答したのもまた、まぎれもなく鬼であった。
 眉間に鬼の象徴とされる、深紅の一本角が生えている。
 ただしこちらの鬼は、引き締まった胴にさらしを巻き、肩に赤い羽織をかぶせただけの軽装だった。
 下は袴を穿いているものの、女人の姿の割に慎みがなく、ましてや冬の朝には似つかわしくない見かけだ。

 けれどもその全身からは周囲の冷気を吹き払うほどの熱がにじみ出ていた。
 その熱気も、内に秘した絶大なる妖力の残りかすに過ぎない。
 人が向き合えば膝を屈し、虎が向き合えば身を伏せ、神が向き合えばその背に山を視る。
 並の鬼の佇まいではないことは明らかであった。

 白い鬼は振り向かぬまま、冷え切っていた盃の酒を呑み干し、隣を袖で差して尋ねる。
  
「星熊様もここで御一献、いかがですか?」
「付き合おう」

 はじめからそのつもりだったのだろう。一本角は腰に結わえていた瓢箪を軽く叩いて言う。
 彼女は遠慮なく傘の下に入り、茣蓙の上に胡坐をかきながら、

「実は土産がある。きっと気に入ってくれると思う」
「なんでしょう」
「まぁ待て」

 鉄輪をはめた腕の先で、くるりと掌が返る。
 ぱっ、と一瞬だけ火がちらついたかと思えば、その手の上に盃が現れていた。
 星の形を彫った、大盃である。次いで一本角は、瓢箪の口を開けて傾かせ、とくとくと朱の受け皿に注ぐ。

「さぁ、ぐっと空けろ」

 盃を差し出された二本角は、口を小さく開けたまま固まっていた。

「早く呑め。じゃないと、味が落ちる。こいつはそういう宝なんだ」

 一本角は飾らぬ口調で、子供のように急かす。
 二本角はしばし、躊躇したままでいた。
 やがて覚悟を決めたのか、両手で盃を受け取り、恐る恐るといった態で端に口をつける。

「……嗚呼」

 ため息と共に、魂の香りが抜けていくようだった。
 彼女はまた、淡雪の微笑を見せながら、

「鬼でよかった、とつくづく思います」

 と、能天気な感想を伝えた。

 一本角は膝を叩き、豪快に笑った。
 先程の笛の音とは似ても似つかぬ、砕ける波のような声だった。

「地上にいた頃は、ほんの一口で赤くなったお前が、こうも変わるものなのか」
「返す言葉もございません。慣れとは恐ろしいものですね。その私が、今のこの様を見たら、どれほど驚くことでしょう」

 恥ずかしそうに言って、白い鬼は髪の間に生えた角の片方を撫でた。
 鬼にしては小さな角。その角は彼女が一度、己の過去を捨て去った証でもある。

「いい眺めだな……」

 一本角は下界に視線を移しながら、満足げに呟く。

 城から見下ろす都は、いっときの眠りから覚めようとしていた。
 北東には寺社仏閣の面影を残す、煌びやかでありながら毒のある建造物の数々。
 南東は灯りに煌々と照らされている商家が立ち並んだ繁華街。
 北西は無秩序に軒を寄せ合う長屋で形成された庶民街。
 南西は家屋がまばらに建っていたが、まだ手つかずの広大な土地が広がっている。

 いずれも天からの光に頼らず、緑なき岩の大地にて、己が熱で命の火を燈していた。
 凍てつく白銀にさらされても決して弱らぬ鼓動の気配が、深い穴底からせり上がってくるようだ。

 見る者が見れば――例えば地上の賢者共などは、目を瞠ったであろう。
 かつては地獄と呼ばれ、長らく見捨てられていた土地に、これほど絢爛な都が出現していたのだから。

「地の底に根を下ろしてから、まだせいぜい四、五十年。こんなものではない。都はまだ大きくなる。鬼達の数もますます増えることだろう」

 旧都を統べる鬼の声には、揺るぎない自信と期待が込もっていた。
 一本角は屋根に積もった雪をすくって握り、湯気に変えながら、

「けれどもここは、いつまでも、その頂として残り続ける。私を打ち負かす鬼以外の妖怪でも現れれば、話は別だが、そんなものはいない」
「………………」
「つまり、こんな景色を前にこんな美味い酒が味わえるのは、私らだけに許された贅沢ということだ。ほら、遠慮せずどんどん呑め」
「ええ……」

 盃を返しながら、白い鬼は言う。

「けれども、私はもう一杯。それで休ませていただきます。おかげで永く楽しい夢が見られそうです」

 一本角の表情が、にわかに曇った。二本角の言い方が気に障ったのだ。

「……そんなつもりで持ってきたわけじゃないぞ」
「なにか、お気に障りましたか」
「とぼけるな。これは末期の酒には向かん。最近めっきり仕事場から出なくなったようだが、まだ良くはならないのか」
「………………」
「きっと治る。これからも今までのように、あいつらに明るい様を見せてやってくれ。みんなお前が好きなんだ」
「どうでしょう。私の出自を思えば、皆からつまはじきにされて当然でございますよ。それに……」
「私達が育てた」

 一本角は強い口調で遮った。

「私達が教えた。喧嘩のやり方を、酒の嗜み方を、鬼の流儀を全て伝えた。鬼の絆は垣根を作ることはない。生まれ、育ち、巡る血。いずれが違っていたとしても、離れていたとしても、鬼であれば心は一つ」

 もう一度大盃に酒を注ぎ、彼女はぶっきらぼうに、二本角に突きだした。

「そして鬼は気持ちに嘘をつかない。それが鬼の何よりの誇りだ」

 白い鬼は、照れたように口元を緩める。
 鬼の頭目だけが触れることのできるはずの――その盃を受け取り、彼女はもう一度空けた。
 今度はより早く。表情は温かいまま。しかし、

「では私も鬼の端くれとして、正直に申し上げます。私は今、憂いておりました。この体のことではございません。憂いていたのは、この都の行く末。そしてそれ以上に私の心を塞いでいるのは……」

 続く声は、先程のものと違って、ひどく湿っていた。

「この都を産んだ身でありながら、この都を愛せぬ己がいることでございます」

 一本角の呼吸が、一瞬止まった。眦は裂けんばかりに広がっている。

「今も、星熊様の笛の音を聴きながら、涙をこらえていました。声をあげて泣きたくもなりました。ここからの眺めは、いつも哀しい」
「哀しいだと?」
「星熊様だけではなく、伊吹様も……いいえ、この城に住まう者は皆同じ。火を絶やさぬこの都は、享楽の箱庭。地上の楽園など取るに足らないものだ、と皆は口を揃えて申しております」
「私もその一人だ。お前はそうではないというのか」
「いいえ。ただし、私もすでに鬼である身。角を持つ者らを除いて、都のよい評判を聞いたことはございません」

 身を乗り出して問うていた一本角が「うむ……」と言葉を詰まらせる。
 二本角は視線を都の向こう、さらに遠くへと向けた。

「お忘れですか。この地底は、地上よりも遥かに広く、深い。そこに纏わる業もまた同じ。私達鬼の笑い声は、いつも泣き声を追い立てる」
「…………」
「私はそれが哀しく、恐ろしい。その泣き声はやがて呪いを生み、この旧都の火など軽く呑みこんでしまう気がしてなりませぬ。鬼の力を奪い、この都を滅ぼしてしまうと……そしてそれを、いた仕方なしと考えている己も、哀しくてならないのです」

 声は次第に湿っていき、俯いた横顔が、垂れた白髪に隠れる。
 一本角は胡坐をかいたまま、刀の鯉口を切るような慎重さでもって尋ねた。

「…………それは『予言』なのか?」

 その問いに、二本角は何も言おうとしなかった。
 ただ、かすかに首を縦に動かしたのを見て、一本角もまた黙りこくった。
 
 周囲に積もった雪が、溶けはじめていた。
 旧都における、最強の鬼の熱に脅えて。

「鬼では……この都を守れないと、救えないというのか。そんなこと、私は……」

 赤く燃えた両目が、虚空を睨み据える。 
 行く末にて待つ敵を思い、今にも表へと噴き出しそうな闘気が、一本角の体内を駆け巡っている。

「なぜ今になって明かした」

 一本角には、二本角の気持ちが解らなかった。都を愛せぬという言葉を、受け入れられなかった。
 その白髪が伸びきってしまうまで本心を隠し続け、仲間に対して嘘をついていたなど、決して信じたくはない。
 第一彼女は今日まで、そのたぐいまれなる能力によって、この旧地獄に住む者達を導き続けてくれた。
 もしも本心から、この都を疎んでいるというのなら、そのような危機の存在など隠してしまえばいい。
 予言が出鱈目で、ただ不安を煽るだけのつもりなら、一本角だけに伝えるというのも不自然だ。
 二本角は膝元の大盃を、そっと返した。

「星熊様。これを……」

 彼女の手には、盃の他にもう一つ、細長い木箱があった。
 蓋は紐で固く封じられている。

「私にとっては、最後の絵になるでしょう」

 今度は一本角は、その言葉を咎めたりしなかった。
 黙って受け取り、続く彼女の託宣を心に刻む。

「はじめは貴方が怖かった。貴方の火は、眩いほどに強かった。そして一たび怒れば燃ゆるのみならず、金剛の刀に転ずる気質の御方だった。でもその火は私の行く道を照らしてくれた。刀は私を守り、未来を切り開いてくれた。何より地の底に追いやられて以来、私は貴方のその懐の広さにずっと救われてきました」
「………………」
「それ故に、どうしてもお伝えしておきたかったのです。鬼として生きていく勇気をくださった、その恩を返すために。その予言は、都を呪うためのものではありません。この都を救う手だてが、そこに封じられています」

 思わず一本角は、渡されたその箱を見つめた。
 これが、彼女の最後の予言。都を滅びから救うための希望。
 紐を解こうとした手を、二本角の手が柔らかく押しとどめた。

「どうか私の益体もない予言など、今は忘れてくださいまし」
「だが……」
「もしも星熊様の御心に、何か思うことがあれば、その時こそどうかこの絵を道標として……」
「いつだ」
「このままいけばおそらくは……あと……」

 二本角の目が、光っていた。
 一本角は彼女の、鬼には珍しい黒い目が好きだった。
 雪の中で凍え、儚く散ってしまいそうな体の中で、内なる強い意志を湛え続ける、その強い目が。
 酒を一息に呷り、一本角は宣言した。

「わかった。私がその間、この都を預かろう」

 二本角は、心から安堵したように息を吐き、再び笑みを取り戻す。

 雪が止もうとしていた。

 







 その晩、ひとりの鬼が逝った。


 彼女の遺した箱の封が解かれたのは、それから七十五年後のことであった。












 ~青き笛吹きゆめむすび~











(1)


 弱肉強食。適者生存。いつの世も社会の外で蔓延るその掟は、土の下であっても変わることはない。

 さらにいうなら六道の内、地獄道を除く五つの道、あるいは外道と比較しても、地底ほど生きるのに易しくない場所はなかった。
 何しろここは古より多くの怨霊や異形の捕食生物が棲みついており、大概はエサとそれ以外にしか他者を区別することはない。そして当然妖怪も気安い者達ばかりのはずがなく、獲物を前にすれば見境なく襲い掛かるのが常である。
 醜い生と死が織りなすこの澱んだ空気に苛まれ、迷い込んで早々に骸になる者も少なくはない。
 それが地底の、語られることなく棄てられ続ける、無明の歴史なのだ。

 ただし新参者の運がよければ、たとえば相談した相手がたまたま血に飢えてなかったり争いに飽きていたりしたら、「とりあえずあそこに行ってみては」、と紹介される場所がある。
 地底の中でも浅層にあたる風穴地帯。事情通で面倒見のいい土蜘蛛の家は、そんな穴の一つである。

 硬くじめじめした悪路を行き、捕食者の目が放つ光にびくついていた来訪者は、まず小奇麗にしてある洞窟を見て大抵拍子抜けし、土蜘蛛の姿を見て、ますます拍子抜けする。
 すすき色の髪を一つにまとめ、こげ茶色の丸みを帯びた服を着た少女――の外見をしたその妖怪は、あどけないようで、どこか世慣れした穏やかな笑みで来訪者を受け入れ、土の下で生きる上での助言を与えてくれるのだ。
 同胞や、あるいはより深い地下に住む大妖怪達も、彼女の垂らす知恵の糸を借りにやってくるが、これもひとえに、この土蜘蛛の徳によるものだろう。よりひどかった旧時代から、異変を通じて幾分穏やかになった今に至るまで、訪れる者の顔ぶれが変わることはあっても、絶える様子はなかった。

 だが彼女の元にやって来るのは、相談者ばかりではない。
 時に、とんでもない変わり者が訪れることもある。


「……熱いね、と話しかければ熱いねと、答える人のいない冷たさ……。ああ妬ましや……」


 その風変りな妖怪は、笛の音と共に黒谷ヤマメの棲家に現れるなり、挨拶もせずにそう歌を詠んだ。
 両の掌を上に軽く持ち上げ、卑屈な笑みを浮かべて「やれやれ」とでも言いたげに、かぶりを振っている。
 ヤマメは、ただ目を細めた。雲間で遊ぶ童子を見守る天女のごとく……。

「………………」
「何よ、その横線みたいな生温かい目。指で刺したくなるんだけど」
「いや、いきなり現れるなり謎のポエムを呟く妖怪を前にして、言葉を失うしか」
「ポエムじゃないわ。最近の私の日記よ」
「ますますお気の毒なことで」
「カップルが悪いのよ……全部カップルの仕業よ……」

 妖怪が今度は壁を睨みながら、親指の爪を噛み始めた。

 造作だけでいうなら、その横顔は美人の範疇にあたる。
 肌も陶器のように白く、ブラウンの地に菱形模様を編みこんだペルシャンブルーの上着も異国情緒が溢れており、そうした部分だけに注目すれば魅力的な容姿だと評する者もいるだろう。
 だがその表情と仕草がいけなかった。
 眉間は谷間をつくり、目は鋭角に尖り、歯は爪を噛み、唇は呪詛を紡ぐ。
 おまけにショートボブの濃い金の髪から見え隠れしている尖った耳は、神経質そうにピクピクと動く。
 まさに愛を憎む修羅。誰かに好かれることを完全に放棄した風采である。

 水橋パルスィ。嫉妬妖怪、橋姫。
 彼女の深いグリーンの両目には、今日もめらめらと鬼火がともっていた。

「イヴの晩にね。無駄に熱いカップルがいくつも通り過ぎていったのよ。私の。目の前を。これ見よがしに」
「ああ……まぁあそこらへんは主要な街道になっちゃってるから、しょうがないんじゃないかしら」
「しかも女の方が私を見てくんのよ!! 『うわー、シングルジングルベルだー、カワイソー』とか、心の中で言ってんのよ! あと『万年ぼっち妖怪って悲惨だよね』とか!」
「心読めんの?」
「読めるわよ!! 幸せそうなやつ限定でね!」
「サトリの妖怪みたいだね」
「ザッツライト! 我は今日から、古明地パルスィなり! 汝が妬ましき心をこの目で暴かん!」

 メデューサよろしく、髪をうねうねと動かしながら、パルスィは顔に手を這わせてポーズを作る。
 はたして本気なのかネタなのか。いずれにせよ、落差の激しいアクションである。
 一方のヤマメは、まさしく石と化した犠牲者。
 互いに不動の構えのまま、十秒という無駄な時間が経過し、先に根負けしたのは橋姫の方だった。

「……何よ。今日はいつもよりノリ悪いわね」
「うん、ちょっとね……イヴの日に色々あったの思い出して。あんたのボケに対応すんのもキツいわ」
「話してみなさいよ。妬んでやるから」
「話したくなくなるように言うんじゃないよ。実はさぁ、クリスマス前に、編み物の依頼がやたら増えたんだよね」
「へぇ」

 腕組みしていたパルスィは、ふむふむ、と考え、やがて人差し指を立てて、

「わかったわ。彼氏へのプレゼントにマフラー編みたいから教えて、って頼んだメス共がいたのね。妬ましい」

 地底においてクリスマスの存在が根付いたのは、ここ最近の話である。
 元々は地上から伝わった行事で、初めは流行する兆しがなかったものの、いつしか祭りとくればなんでも取り入れようとする旧都を中心に盛り上がりを見せ、今ではすでに地底全体に浸透していた。
 とはいえ、その解釈はバラバラで、サンタクロースの手口を使って盗みを働いたり、門松に髑髏を飾ってツリーとしたり、トナカイの格好をした牛鬼が往来を暴走したりするなど、いかにも破天荒な地底らしさが随所に表れている。
 だが一応、好意を抱く存在にプレゼントする日、という微妙にずれた解釈が、概ね共有されているらしく、それを通じて遊び半分で付き合いだす者や、本気で恋愛にのめり込む者も少なくなかった。

「それくらいなら可愛いんだけどね」
「わっ……まさかあんた、代役やってやったの?」

 パルスィは眉をVの字に吊り上げた。

 代役というのはつまりこういうことだ。
 クリスマスのプレゼントに、彼氏にマフラーを編んであげたい。けど、自分の腕では心もとない。変なものを作って、ガッカリさせちゃったらどうしよう。
 そんないたいけな乙女心のために、できそこないのマフラーを編みなおしてやる。
 本人の為になるかならないかはともかく、これこそイヴの日に似合う正統サンタクロースにふさわしい行いといえよう。

 だがパルスィにとって、優しいというのは自惚れていると同義であり、善意というのはクソと読む。
 与える方も欲しがる方も、脳味噌がイカれているとしか思えない。

「断れなかったんよ。ある子は風邪ひいてて、ある子はなんか絶望的に不器用で。ちょうど三本」
「けっ。突っぱねてやりゃよかったのよ。反吐がでるわ」

 とパルスィは嫌悪感もあらわに言ってのけてから、

「大体、マフラー三つくらい、あんたの腕なら楽勝でしょ。なんでそんなにぐったりしてんだか」
「はぁ……」

 ヤマメがのろのろと立ち上がり、奥へと向かう。
 パルスィが怪訝な顔で見守っていると、なんとヤマメは家のくずかごに腕を突っ込み始めた。

「何してんのヤマメ。ホントに頭がイカれちゃった?」
「……これが頼まれたそのデザインなんだけどね」

 呟きながら戻ってきたヤマメの指に、メモ用紙のようなものが三枚、挟まれていた。
 ぴらりと差し出されたそれを、パルスィは首を傾げて受け取り、いざ確認して目を剥く。

「こっ……これは!?」





   地底を揺るがす二人のバーニングパッション――伝説の百年を記念して

   告白禁止! この人は私のものです。やめてっち!

   メグりんLOVEのやっ君へ  来年も愛してます



 
 恐るべき言霊を飾るハートマークの数々!!
 「ギャー」とパルスィは御札を投げつけられた山姥のごとく、飛び退いて叫んだ。

「妬ましいを通り越して気持ち悪いわ!! いつから地底の妖怪はこんなに軟弱になったのよ!? ああむず痒い!! 虫唾が走る!!」
「うへへ。私も編んでる間に蕁麻疹が出そうになったよ……」

 ヤマメは乾いた笑みを浮かべ、メモ用紙をゴミ箱に戻す。

「何とか完成させた後も、夢にメグりんとやっ君が出てきそうで……うう、なんか手が痒くなってきた。ちょいちょい」
「ちょっと。私の服でこすらないでよ。バカップルの菌がうつるじゃない」
「来年は絶対やらないからね、って全員に念を押しといた」
「ま、それが賢明ね」

 食あたりを起こしたような顔つきの友人を、パルスィは立ったまま見下ろし、ふと怪しげな微笑みを湛える。

「でも結局あんたも、クリスマスはロンリーだったんでしょう」

 実はこれこそが、パルスィが本日ヤマメの家に足を運んだ理由であった。
 裏でいかにも遊び慣れている風なこの土蜘蛛が、今は特定の誰かとお付き合いなどしていないというのは、チェック済みである。
 わざわざ友人の家まで出向き、自分の境遇を二百メートルほど高い位置の棚に上げて、孤独な様を鼻で笑う。
 陰険極まりないものの、地底においても上位の性格の悪さを持つ、橋姫の鑑とまで称される水橋パルスィにしては、まだ生ぬるい行いと言えよう。
 ヤマメは体を前後に揺らしながら、特にショックを受けた様子もなく、

「そうだねぇ。男っ気は全くなかったね」
「ふふん、妬ましくないわ」
「キスメとは旧都でケーキ食べたりして夜まで遊んでたけど」
「はぁ!?」

 瞬間、橋姫の鑑と称される妖怪の表情は一変、というより自壊した。
 般若をモデルにした福笑いが、土蜘蛛に迫る。

「なんでよ!」
「なんでって何がさ」
「だからなんでよ! どうしてよ!」
「どうしてって何がさ」
「だからどうして……うっ……ああもう! わかってんでしょ!?」
「ごめん。本気でわからんわ」
「なんで私も連れてかないのよ!!」
「ええ!?」

 ヤマメは素で驚いた。

「行きたかったのパルスィ!?」
「行くかどうかはともかく、声くらいかけて誘うでしょ普通! 何よ! 二人で苛め!?」
「い、いや、声かけたよ! でもあんたイヴの日には誰にも会いたくないって言いまくってたじゃん! すごい剣幕で!」
「言ってないわよ!!」
「言ったってば! あとは『はぁ? クリス鱒だぁ? 地上から来た新種の魚類に浮かれてんじゃねーわよ。七面鳥の丸焼きかぶって一昨日爆発しろ』とも……」
「ああ言ったわ!!」

 パルスィは堂々とうなずき、薄い胸を張って言った。

「でもあれはあの時の私の気持ちよ! 今の私の気持ちを考えなさいよ!」
「そこまで面倒見切れるかいぃ!!」

 ヤマメも起立し、一歩も引かずに怒鳴る。

「だから玄関前で何度も何度も何度も呼んでやったんじゃないか! あんたが絶対絶対絶対行かないって食器やら家具やらをぶん投げてくるから、私とキスメは仕方なく……!」
「そこは首に縄でもかけて、嫌がる私を無理矢理旧都に拉致するくらいの根性見せるべきでしょ!!」
「知るかぁっ!! なんなのその面倒くさい性格!? 狙ってんの!? 努力してそうなったの!?」
「ええそうよ!! 橋姫だもの!! どうせ面倒くさいわよ! ウザいでしょうよ! 妬ましい!! わ、私を差し置いて、買い物でケーキで……うっ……ううー!」

 パルスィは岩の壁を拳で叩き始めた。

 天井から落ちてくる土埃に「うわ……」とヤマメは汗を一筋流す。
 いつものオーバーリアクションジョークではなく、これはマジな方らしい。
 自らの業に苦しむ哀れな友人の姿を見ていると……

 ――家の壁が心配だね……。

 いやいや。

 ――じゃなかった、さすがに可哀想だねこりゃ。

「よし! パルスィ!」
「な゛に゛よ゛」
「今から買い物行こう。旧都に」
「はぁ!? 馬鹿じゃないの!?」

 パルスィは飛ぶような動きで壁から移動し、反対側の壁にかけられていたカレンダーをバシバシ叩きつつ叫んだ。

「見なさいこれを!! もう27日なのよ!? 今日旧都に行ったところで、記念にも何にもならないじゃない!!」

 ここで「ははぁ、記念が欲しかったんですかぁ」などと返したら台無しになることは容易に分かったので、ヤマメは軽く受け流した。

「元々今日は出かけるつもりだったんよ。ちょっと大事な用事があるのさ。あとはぶらぶら買い物とかもしに行こうと思ったんだけどね。一人だとちょっと寂しかったんだ」

 一人だと寂しい、というところを、ヤマメはさりげなく強調して続けた。

「いいじゃん。今はクリスマスよりも人がきっと少ないだろうし、ごみごみしてなくて歩きやすいんじゃないかね。二人でデートしようよ」
「ぐすっ……キスメは呼ばないの?」
「キスメは買い込んだ本を読みまくるって言ってたから、どうかなぁ」
「……そう、じゃあ仕方ないわね……」

 パルスィは肩を落としたまま「……行く」と鼻声で呟いた。
 よろしい、とヤマメは満足して立ち上がる。初めからこれくらいの素直さがあれば物事は進みやすいのだが。
 しかし、それではパルスィであっても橋姫とはいえまい。その辺りの事情を、長年の付き合いである土蜘蛛はきちんと心得ていた。

「ヤマメ」
「ん?」

 支度する手を止めて、ヤマメは振り向く。 
 壁に寄り掛かっていたパルスィが、明後日の方向に首をねじりながら、無愛想な声で、

「……来年は三人でね。私が何言っててもね」
「はいはい。わかったわかった。ちゃんと首に縄かけて引っ張ってあげるよ」

 今度こそ苦笑をこらえきれずに、ヤマメは言った。






 男作ってみたら、と一瞬思ったとしても口には出さない。
 これこそ、世慣れした土蜘蛛の徳というものである。






(2)


 春、夏、秋。地底のそれらは、地上のものとは似ても似つかない。
 光届かぬ世界。故に桜が咲き乱れることもなく、日差しで草が生い茂ることもなく、名月の下でススキが揺れることもない。
 ただ唯一似ている季節があるとすれば、冬の夜ではないかと言われている。
 旧都は雪が降るからだ。

 水橋パルスィと黒谷ヤマメが歩く旧地獄街道も、雪が積もっていた。
 ぶら下がった派手な提灯や、鬼火を閉じ込めた灯篭が照らす建物は、どれも天然の白色で清められている。
 遥か上では妖気を吸って成長した発光植物が、ぽつぽつと、ちょうど星代わりに輝いていた。
 確かに地上の街もこんな感じかもしれない、とパルスィは見上げながら思う。

 街道に妖怪の数が少ないというのも、今夜の雰囲気が地上を想起させる理由の一つだろう。
 いつも、お祭り騒ぎといわれる旧都だが、一応暦と行事の概念が存在する。
 クリスマスの雰囲気は去っており、気持ちはもう大晦日の準備へと向かっているようだった。

「……の割には、熱々のカップルらしき奴らも、ちらほら見かけるわね」
「まーねー。この前のイヴで出来た仲もいるだろうし」
「ホーリー嫉妬」
「こらこら」

 と、襟をヤマメに引っ張られ、店の中にいた二人組に中指を立てて祝ってやっていたパルスィは、仕方なく道に戻った。

 旧地獄はいくつもの層に分かれており、もっとも広い空間を占有しているのが、ここ鬼の都、旧都のある場所である。
 今、二人が歩いているのは、旧都の南東部にある町だ。
 辰巳横丁といって、パルスィやヤマメのような地底の上層に住む妖怪も、気軽に闊歩できる比較的大人しい区域だった。
 ここらにある建物はいずれも背が低いために、北にある大きな塔や御殿、天守閣がよく見える。それらを遠くから眺めながら、手近な店を選択するというのが、この道を行く者達の嗜みである。

 パルスィは普段、旧地獄の上の層にある大きな橋の近くに住んでおり、誘われない限りここまで下りてくることはなかった。
 ただその橋は、旧都を行き来する妖怪にとって交通路の一つになっているため、地上の噂も地底の噂もパルスィの耳にはよく入ってくる。その割に、どちらにもあまり縁がないのが自分らしいといえば自分らしかった。この道を歩くのも数年ぶりである。久しぶりに来てみると、
 
「変わったような変わってないような……」
「懐かしいでしょ」
「…………」
「衣食に道楽。ちょいと危険な遊びなんかも、より取り見取りですぜ。どっか行きたいところある?」
「……別に」
「じゃあ、私が適当に選んでいい?」
「……ええ」

 パルスィは首に巻いたマフラーを通して、むっつりとした声で応えた。
 ヤマメは気にした様子もなく、買い物用にしては大きめの鞄を片手に、のんびりとした歩調で足を進める。
 彼女に気取られぬよう、パルスィは視界の端で、雪をかぶった家屋の残骸を見つめていた。

 両脇に建つ店の提灯が彩り鮮やかなためか、その一角だけが暗く沈んでいた。
 訪れる者がいなくなった墓場の雰囲気がある。降り積もる青白い雪は、さながら死化粧だろうか。
 おそらくだいぶ前に店が潰れたのだろう。ここも弱肉強食。数年も経てば廃れるものがあってもおかしくない。
 軽く首を振って、パルスィはヤマメの後をついていこうとした。

 と、往来の向こうから、体格のよい妖怪の集団が歩いてくるのが目に入る。
 二本足でなければ、群れといってもいい雰囲気だ。

「えーと今の時間だとあっちの方かなぁ」

 独り言のようなことを呟きながら、ヤマメはさりげなくパルスィを道の端へと誘導する。
 黙って従いながらも、視界の端で自然と様子を探っていた。

 旧都の見廻り組だ。
 鬼か、あるいは鬼の血が混ざった者達が、いずれも使い古した道着を引き裂いたような簡素な衣をまとっている。
 己の筋肉を誇示した服装であるのみならず、それぞれが金砕棒や中華刀、槍などの武器を携えていた。
 物々しい雰囲気ではあったが、鬼達は歩きながらこちらに顔を向けるだけで、言葉を発しなかった。

 が、重い足音が背中側に回った頃合いで、


「……『穴暮らし』が堂々と歩きやがる……」


 耳に届いたその声に、パルスィの後ろ髪が、わずかに怒気で持ち上がった。
 すかさず振り返り、鬼達の背中を睨みつけたところで、隣の土蜘蛛の手がやんわりと肩に触れてくる。

「気にしたら負けだよ。やっこさん、うちらに楽しげに縄張りを歩かれる方が気分が悪くなるんだから」
「………………」

 思い直したパルスィは、ポケットの中で固めていた拳を解き、再び並んで道を行く。
 ヤマメの言うとおりだ。あの手の嫌味は、この都じゃ数えきれぬほどある。
 一時の感情の流れに身を任せても、損にしかならぬことも、経験として知っている。
 けれども、楽しげに歩く、という部分については異論があった。少なくともパルスィはそうではない。

 見たくないのに見えてしまう。たまに通り過ぎる見回り組の鬼達の、胡散な眼光を。
 聞きたくないのに聞こえてしまう。悪意に彩られた、陰口の断片を。
 嗅ぎたくないのに嗅いでしまう。道行く妖怪が向けてくる敵意を。
 全て妄想かもしれない。けどこの道を歩くとどうしても、そうした嫌な記憶を繰り返しているようで……。

『ああ。そういえば私、旧都が嫌いだったわ』
 
 『今さらかよ!?』と想像の中でヤマメが突っ込みを入れてきた。

『少しはマシになってるのかと思ったのよ。全然そんなことはなかったわ』
『あはは。変わってないのは、この街の方じゃなくて、パルスィの方だと私ゃ思うんだけどねぇ』
『どういう意味よ。郷に従えってこと? あんたと手を繋いで、蕩けるようなスマイル浮かべて、旧都のための讃美歌でも披露してやれって?』
『そこまで言わないけど、手くらいは繋いであげるよ。ほれほれ』
『いらんわい。あんたはその鞄といいだけ手を繋いでなさい。というかそれ大きすぎないかしら。どれだけ物を買う気……』

 パルスィは想像の中で、彼女と会話を弾ませた。
 けれども現実は、会話の無いまま、ただ歩くだけの時間が続く。
 ヤマメの家では言えるのに、ここではタイミングを見失ってしまう。

 こんな風に私と歩いていても、退屈じゃない? 無理して誘ってしまって、後悔してるんじゃない?
 きっとキスメと歩いた時は、二人とも足取りが軽かったんでしょうね。

 広大な嫉妬の海に小舟を浮かばせ、余計な台詞ばかり漁っては捨てる作業。
 本当は好きなのだ。そんな風に外のものを妬んで卑下する自分の立ち位置が。好きで我が儘を言っているのだ。
 つくづく橋姫っていうのは救えない畜生ね、などとパルスィは歩きながら自身に幻滅する。
 いっそこの場で地割れでも起こって、全て台無しになってしまえばいい。そんな自棄な願いまで浮かぶ。
 ああ妬ましや、妬ましや。

「パルスィ、あれあれ。見えてきたよ」
「何が?」
 
 とパルスィは口を開き、ヤマメが指さす方を見て、

 その屋台に釘付けとなった。
 ヤマメが食べ物を買って、こちらに戻ってくるまで、ずっと停止していた。

「はいよ」

 差し出されたその地底の名物料理、地獄焼きを受け取らずに、パルスィは小さい声で言う。

「なんでわかったのよ」
「え?」
「私がさっき、これのこと考えてたって」

 少し前に歩いていた通りで、潰れていた店。
 だいぶ前にパルスィは、その店でヤマメに地獄焼きをご馳走してもらったことがあったのだ。
 取るに足らない思い出の一つに過ぎないが、もう二度とは食べられないのだろう、と思って妙な寂しさを覚えていた。
 けれども、ヤマメが今購入しに行ったその屋台が掲げているのれんは、過去に見たあの店と同じものであった。
 どういう事情があったのかは知らない。察するに、主人が店から屋台に鞍替えしたのだろう。

 「それは……」とヤマメが地獄焼きにパクつきながら言う。

「私もサトリになってきたのかも……っていうのは冗談で、私が食べたくなったから。旧都に来た時はいつも買ってるし」
「………………」
「で、食べるの? 食べないの? パルスィ」
「それ以上太ったら見苦しいから、一つ片づけてあげる」
「これはそういう風に見える服だっつーの」

 心外そうに訂正してくるヤマメの手から、パルスィは地獄焼きを奪い取り、思いっきりそれにかぶりついた。
 酸味のあるタレが沁み込んだ生地の奥から、野菜と肉の汁が溢れだす。乱暴なようで繊細なバランスの味が、過去から再び自分の元に戻ってくる。
 十分に咀嚼してから呑みこみ、パルスィは感想を述べた。
 
「相変わらず、家で食べられないのが妬ましくなる味ね」
「だよねぇ。私一回挑戦してみたんだけど、なんか普通のお好み焼きっぽいのになっちゃった。タレに秘密があるんだろうけど」
「まぁ、あんたいっつも大皿料理ばっかりで、味付けもころころ変わるしね」

 あ、会話が繋がった。

「パルスィは凝り性だからね。レパートリーは少ない気がするけど、私の作るのより丁寧で美味しいことは認めてあげるわ」

 再び無愛想モードに戻ろうとしたパルスィだったが、ヤマメの挑発じみた反撃に、勝手に台詞が口をついて出る。

「狭く深くで何が悪いのよ。私の一品料理に勝るものを出して見せなさい。広く浅く代表」
「いや私も手芸とかは凝るよ。あとは建築とかも割とこだわりがあるし」
「そりゃ趣味じゃなくて土蜘蛛のアイデンティティだからでしょうが」
「十時間も鍋の前に立って煮込み続けたり、お塩を一粒も数え間違わずに味付けできる執念には敬服します」
「そうよ! 私には知り合いも尋ねてくる奴もいないから、いくらでも趣味に時間を打ちこめるのよ! あんたとは違ってね! 妬ましい!」
 
 自慢するはずが、なぜかこっちが悔しい思いをすることになった。
 いつものことである。

 そう、これがいつもの私達だチキショーめ。

「なんか言ったパルスィ?」
「何でもねーわよ」

 むしゃむしゃと地獄焼きを食べ終えたパルスィは、屑のついた掌を払ってから、またポケットに突っ込み、

「じゃあ次に行こう」
「お? 珍しくやる気になってるね。どこにする?」
「そうね。ウィンドウショッピングなんてどうかしら。その後はどっかでお茶しましょう。たまには甘いものが食べたいから。芝居小屋で何か観るのもいいわね」
「………………」

 ヤマメは鬼の蒙古斑でも発見したかのような表情になっていた。
 パルスィは半眼で尋ねる。

「何よその顔」
「えと……いつにも増して刺激的なジョークだな、と思いまして」
「らしくないのは百も承知よ。気が変わる前に、さっさと案内しなさい。私は土地勘がないんだから」
「はいはい。ご案内しますわよ」

 ヤマメが鞄を持ち直して、億劫そうに歩きはじめる。
 けど彼女の歩調が、先程よりも早く、軽やかになっているのを、パルスィは見逃さなかった。

 軽い溜息が漏れる。明日まで橋姫は休業しよう。
 大嫌いな旧都。一人では決して楽しめそうにない。
 だけど今日だけはもしかしたら、嫉妬の神様が奇跡をくれるかもしれないから。

 パルスィはマフラーで口元を隠しながら、そんなことを思った。






(3)


 旧地獄の端っこで、橋の上に年中立っていると、地底だけでなく、地上からの情報もよく入ってくる。
 その中には土の下で暮らす者達からすると滑稽な噂もたくさん混じっていた。
 たとえば、地底というのは慢性的に物資が不足しており、それらを奪い合うために妖怪同士の争いが絶えず、徐々に衰退しているという噂だ。おおかた、地上を地底に勝る楽園という風に捉えたいがための偏見であろう。
 ところがどっこい、少なくとも旧都はなんでも手に入るといってよい。
 食糧、衣料、日用品、服飾品、書物や家具はもちろんのこと、武器や怪しげな薬など。
 もしそれらの品々を一つの建物でまかなうことができれば、これほど画期的な買い物の場はないだろう。

「まさかパルスィとここに来ることになるとはねぇ。なんか機嫌よさげだけど、パルシウム不足?」

 適当なことを言うヤマメは、籠に無造作に積まれた腕輪の一つを手に取って見ながら言う。
 隣に立つパルスィは、売り場の四方に目を走らせながら、

「あんたのその野暮ったい服装見てると、確かに嫉妬心が不足するわ。ん、あれとかどう? あの赤と黒の上着」
「それならさっきの方がいいし、今着てるやつの方がまだマシ。それよりパルスィはほら、こういうのとか似合うんじゃない?」
「そんな服着て橋に立ったら、哂われて血を吐きたくなるわよ。っていうかそれが見たいだけでしょあんた」
「バレたか」
「おい」

 ケラケラと笑う土蜘蛛は、白色のウェディングドレスから手を離す。
 値札には『花嫁の悲哀がこめられた衣装! 銀貨三つから交渉いたし候』と書かれていた。

 ここは乱麻堂という、旧都の中でも珍しい百貨店である。
 ただしヤマメに案内してもらったパルスィは、これもまた、たちの悪い冗談なのではと思った。
 何しろ商店とは思えない。外から見ると、石で築いたアリ塚のような奇妙な造りをしているのだ。
 中も凄い。上の階を通らなければ直接渡れない部屋が一階にあったり、二階と三階の間に隠れた層があったりと、わざと迷わせようとしているのではないかという複雑さ。
 もちろんそれは、けったいな品を売る場所を設けているために他ならないのだろうが、買い物がしやすい場所とはいい難かった。
 ただし地底でも名うての物売りが集まってくる場所であり、商品の水準は他と比べてかなり高いそうな。
 要するに玄人向けで、妖怪らしい店といえよう。

「そろそろ別のところに行ってみようか」
「ちょっと待って。えーと、さっきのアレとアレを組み合わせてみたりとか」
「この階で夜明かしする羽目になりそうだね」
「気が散るからそういうことは言わないで」

 ここに初めて来たパルスィは、大体どこがどんなものを扱っているのかもろくに把握していないので、目移りしてしまっていた。
 性格的にも、一旦納得するまでとことん粘るタイプなのである。
 なのでこういう場所には一人で来るのが本来性に合っているのかもしれないが、一人では旧都を訪れる気などまるで湧かない。
 結局こういう構図になるのも致し方なし。

「あ、ちょっとパルスィ?」

 後ろ手で友人のお手並みを拝見していたヤマメが、ふと石の壁に貼られている案内板に目をやりながら、

「私、ちょっと上の階に野暮用があるんだけど、その間、ここでゆっくり見てる?」

 振り向いたパルスィは、一瞬彼女の表情を見つめ返した。
 妙な笑みである。さりげなく何か隠しているような気がしたが、野暮用とは何だろう。
 けど確かにパルスィとしても、ここで彼女を立たせっぱなしというのも何となく悪い気がしないでもなかったので、

「いいわよ。行ってらっしゃい。待ち合わせはこの売り場でいいわね」
「うい。じゃあまた後で。そんなに時間はかかんないと思うから。迷子になるんじゃないよ」
「大きなお世話よ」
「あはは」

 ひらひらと手を動かして、ヤマメは手に提げた鞄を揺らしながら、上へと続く穴を昇って行った。

 茶々を入れる存在がいなくなってから、パルスィは腕を組んで考え始めた。
 眼前には、畳んだり飾られたりしている衣服の数々。
 精神的な存在力が強い妖怪にとって、服装というのは心の大事な拠り所の一つである。
 それは髪型や服飾品にいたるまで同じであり、いずれもただのお洒落以上のこだわりがあるのだ。

 パルスィは今のところ、新しい自分の服を買うつもりはなかった。
 ではなぜここを選んだのかというと……実はかねてから思うところがあったのである。

 ――これは好きじゃないって言ってたわね。

 赤と黒のチェック柄のセーターを手に、パルスィは悩んだが、結局別の売り場を回ってみることにした。
 この階は全ての店が主に衣類を扱っているらしかったが、どこもかしこふざけた品数で、しかも並べ方が無頓着だった。
 洒落た柄のスカートを下げたハンガーの隣に、反物の山がきちんと巻かれた状態で棚に陳列されている。
 壁際にゴージャスな装飾のドレスが立ち並んでいるかと思えば、その近くでは天井からコケティッシュなコスチュームがぶら下がっている。
 首を違う方向に動かす度に、網膜にカラフルな紙やすりを当てられているような気分にさせられた。
 が、案内人の推薦通り、品はよい。ただし、下着売り場の側で、ついでなのかなんなのか判らないが、鮮魚や生肉が売られているのを見た時には、さすがにどうかと思った。
 
 おや、とパルスィはとある店の一角で足を止める。
 その店は割と商品の分野が統一されていたのだが、ジャンルが一風変わっていた。
 仮面やら民族的な衣装やらが、オレンジ色の灯りに照らされていたのである。
 
 パルスィは売り場の前で考え込んだ。
 意外と、こういう変わり種の方が素直に受け入れてくれるかもしれない。
 たとえばこの上半身まで覆えるほど大きな、ジャングルの王者を想わせるお面は、ネタとして楽しんでもらえそうである。
 いやいや、やはりここは真面目に、こちらの指飾りや髪飾りとかだろうか。しかし土蜘蛛というのは、この手の工芸品にかなりうるさかった覚えがある。
 無難なものよりは、やはりセンスを感じさせる刺激的なものでぎゃふんと言わせたい。
 次いでパルスィの目に入ったのは、赤い角がいくつか生えた派手なお面だった。手に取ってみたが、これは刺激的というより東洋の魔物のようである。
 何となく、彼女がこのお面をつけて、ポーズを取っているところを想像してみて……
 
 その時。

「うわー、キモい目付き」
「見てるだけで呪われそうだな」

 パルスィはサッとそちらを向いた。
 持っていたお面を投げつける勢いで。 

 が、笑っているその二人組の妖怪――こいつらもカップルだろう――はパルスィではなく、棚にある商品の一つを指していた。
 こちらの視線に女の方が気付き、笑みを引っ込めて何か呟きながら、男の方をどこかに引っ張って去って行く。

 やっぱり物を投げつけた方がスッキリしたかもしれない。
 パルスィはため息をつき、髪をいじりながら気を落ち着かせる。
 どうも旧都に来て、いつも以上に神経が過敏になっているようだった。
 家の中心で膝を抱えている時でさえ、たまに世界中が自分を哂っているような気がしてしまうのだから、こんなところにくれば周りの視線や陰口に一々翻弄されるのは当然かしら。

 そんな風に自嘲しながら、パルスィは持っていたお面をひとまず小脇に抱え、二人組が見ていた指さしていた商品棚へと向かい、そこに陳列されていた大トカゲのぬいぐるみと向き合う。
 確かに、目付きが悪すぎる。
 ぬいぐるみといえば、こうした美的な欠点がチャームポイントになりそうなものだが、この瞳は深い怨みを湛えていて、正真正銘の欠点といえる。これを作ったやつは趣味が悪いか、性格が悪いかのどちらかだろう。来年まで売れ残っていてもおかしくない。

 それにしても、緑色の眼も含めて、なんだか自分によく似ているような気もするが……。
 パルスィはすぐ近くの服売り場に姿見があるのを見つけ、周囲には誰もいないことを確認してから、その前に立った。
 自分の姿を正面から映してみる。

「…………」

 はっきり言って、今のぬいぐるみよりも目付きが悪かった。表情も硬かった。
 試しに、ちょっと笑いかけてみると、鏡の中の橋姫は、相手を嘲るように冷たく頬を歪めた。
 上手くいかない。もっと……こう柔らかいというか可愛い感じの笑みはできないものか。
 と、

 ――可愛いですって? 何の話よっ。

 パルスィは脳内で己にツッコミを入れた。
 橋姫の本分を忘れて、誰かに送るプレゼントに、ニヤニヤと一人で気持ち悪い笑みを浮かべて。
 いつから自分は、そんな頭から花の咲いた軟弱妖怪になったのか。実に腹立たしい。
 しかし、

 ――ダメよ私。抑えなさい。今日は決めたんでしょう。

 街道を歩いていた時の誓いを思い出す。
 本日は橋姫の自分に表に出てきてもらっては困るのだ。
 大体、あの土蜘蛛のところに出かけたら、調子が狂うのはいつものことであるし、その延長だと思えばいいのだ。
 
 周囲に誰もいないことを再度確認してから、パルスィはまた鏡を覗きこんでみた。
 相変わらず、愛想の欠片もない橋姫が映っている。
 しかし、笑顔くらいはどうにかならないものか。 
 あんな邪悪な笑いを浮かべている奴が隣にいて、いい気分になる者などいそうにない。
 もっとこう目元が柔らかくして、唇の両端を自然な形に持ち上げて……。
 
 と、パルスィが鏡に映った自分の顔に触れて、体操をしていると、

 店内の空気に、さざ波が走った。
 何事かとパルスィは反射的に、通路側の方に顔を向ける。

 一瞬、黄金の髪がなびくのが目に映った。
 と同時に、満腹した大型の獣が悠然と側を通り過ぎて行くような強い気配が、肌を一撫でして去っていった。

 パルスィは呼吸を止めていた自分に気が付き、舌打ちする。
 折れようとする膝を理性で支えることはできても、粟立った肌の感触を失くすことはできなかった。
 わざわざ確認しなくても分かる。あれだけの気配を醸し出す妖怪。

 ――鬼か……。

 間違いない。
 しかし旧地獄街道では、あんな畏怖を覚えるほど濃密な妖気は発している輩には出くわさなかった。
 なので十中八九、今のは旧都の奥に住む強者の鬼だろう。
 まぁ自分には関係がないだろうし、関わりたくもない類いの妖怪だ。
 パルスィは頭を振って気を取り直し、買い物を続けようとしたが、


「やっぱりここにいたか、『ヤマメ』!」 


 自分の名が呼ばれたわけでもないのに、パルスィの心臓が跳び跳ねた。
 そして、
 
「うっそー!」

 続いて聞こえた甲高い声が、もう一段高く心臓を蹴り上げる。
 鏡に映ったもう一人のパルスィは、髪の毛を逆立たせ、緑の目を剥いていた。
 通路の方へと急ぐ。
 仮面やら首飾りやらを並べた商品棚の陰から、様子を盗み見る。

 やはり聞き間違いではなかった。
 パルスィの連れである土蜘蛛が、楽しそうに話している姿が見えた。
 向かい合っている黄金の長髪は、知らない妖怪である。
 けどまぎれもなく、今近くを通って行った、一本角の鬼とみてよかった。

『なんでここに来て……まさか買い物……』
『見回りも兼ねて……お前をここら辺で見たって連中が……寄ってみた……どんぴしゃ……』
 
 二人が大声を出したのは最初だけで、今の声量だと、ここからでは途切れ途切れにしか聞こえない。
 だが、遠目にも和気藹々としていて、会話が盛り上がっているのが分かる。
 薄暗い店内で、二人だけにスポットライトが当たっているかのようだった。

 パルスィは完全に橋姫に戻っていた。手に持っていたお面に力がこもり、折れ曲がる。
 内なるグリーンの大型固形燃料に、炎が浴びせかけられたのだ。

(ねぇ……あれ本物よね)
(こんな店にもあんな御方が来るのね……)

 他の客のひそひそ話が、パルスィの耳に入った。どうもヤマメと話している相手のことを噂しているようだ。
 彼女達の側にいる店員のまなざしも何だか輝いているし、相当位の高い鬼なのかもしれない。
 にしては、ヤマメがいかにもくだけた感じで話しているのが引っかかるが……

 と、その顔がこちらを向きかけた瞬間、パルスィは素早く頭を引っ込ませた。
 気づかれていないことを祈った。そして願わくば、時間を巻き戻してもらいたい。
 しかし無情にも、ヤマメが早歩きでこちらに近づいてくる気配があった。
 このままだと見つかる。見つかって、顔を出すだけですむはずがない。絶対ヤマメはあの鬼を紹介してくる。
 そして私は鬼に自己紹介して、挨拶して、その後は……

 まっぴらごめんだ。

「パルスィー?」

 パルスィはその声に弾かれたように、ヤマメとは逆の方向へと急いだ。
 腰をかがめ、売り場を忍者のごとく低い姿勢で移動する。
 だがヤマメの気配は速度を一定に保ったまま、正確に自分を追ってきていた。

 パルスィは狼狽しながら、早急にこの状況を切り抜ける策を練る。
 先程見つけた商品の赤いお面をかぶってみた。これぞまさしく「赤の他人」。……みたいに誤魔化せるはずがない。
 近くに飾ってあった黒い外套を取って羽織った。明かりに乏しい店内でこの格好なら、見つかることもないかも。

「パルスィー。そこにいるんでしょー」

 声に追い立てられ、パルスィは再び脱兎となる。
 今更ながら思い出した。向こうはこの建物を歩き慣れているのだ。このままではいずれにせよ捕まってしまう。
 売り場を、奥へ奥へと逃げながら、パルスィは口の中で呪った。

 ――ああ畜生。岩石が落ちてきて、こんな建物ぶっ潰してしまえ。

 けど橋姫の願いなど、聞き届けてくれる神はいない。
 そんなことをしたらこの世がなくなってしまう。だからいつも橋姫は、耐えるか逃げるかする他ない。
 けれども耐えることもできず、逃げることもできない状況がきたら。

 そんな状況に追い詰められたパルスィの目に、外へと通じる窓が映っていた。

 ――やるっきゃない!

 窮地に陥った橋姫の行動は、誰にも御することはできなかった。
 当人である、パルスィ自身でさえも。






(4)


 少々時が遡る。 

 場所は乱麻堂から半里離れた所にある区間、通称人食い広場と呼ばれている区画だ。
 けったいな名前だが、その実態はいわゆる蚤の市に近い。地底の様々な場所から妖怪が集まって、特に厳しい審査を通ることなく、花見の場所取り並のいい加減さでスペースを見つけ、適当に物を並べて売るのである。
 誰でも気軽に商売ができるため、品物はピンからキリまであるが、地上からの輸入物や掘り出し物が出回ることも多く、旧都で特に盛っている市場の一つであった。
 
 とはいえ、ここも望んだものが簡単に手に入る程甘い場所ではない。
 服なら服屋、薬屋なら薬屋という風に、分かりやすくジャンルを分けている店は皆無。
 物々交換だったり貨幣の受け渡しだったり、場所によって取引のやり方も違う。
 下手をすると物を買う代わりに、己の魂を引き渡すことになりかねない怖い店も混じっているため、素人が手当たり次第首を突っ込んでよい市ではなかった。

 しかしながら、その妖怪は誰がどう見ても素人で、いかにも食い物にされそうなタイプであった。
 
 まず、桶に入ってふらふらと浮遊している様は、紛れもなく旧都では珍しい釣瓶落としの外観である。
 そして引っ込み思案な性格なのか、緑色のおさげを二つ下げた頭が、桶から半分ほどしか出ていない。
 わずかに見えている両目は、きょろきょろと上下左右に動いており、いかにも不安げで、連れとはぐれた迷子の妖怪のごとし、である。

 けれども彼女は迷子ではなく、一人でこの市場に来ているのだった。
 そしてかれこれ半刻ほどうろついているが、結局何も買えずにいる。

(ちゃんとした目的があるように、堂々と歩くんだ。迷ったり自信無さげな歩き方してると、いいように利用されるからね。とにかく旧都では隙を見せないこと)

 ――うう……わかってるけど怖いよヤマメちゃん。

 釣瓶落としのキスメは心の中で弱音を吐いた。

 旧都にあまり馴染みがないキスメにとって、ここは生き馬の目を抜く修羅の世界に等しかった。
 周囲は賑やかで、それぞれの都合で精いっぱいな者ばかりなためか、誰もキスメに構うものはいない。それでも狭い通りを左右に飛び交う物売りの大声を聞くと、まるで自分が罵倒されているような思いにさせられる。
 出し抜けに喧嘩が始まった時は自分が怒鳴りつけられたわけでもないのに逃げ出したくなったし、すぐ側で捕まった泥棒の片腕に刀が振り下ろされているのを目にした時は失神するかと思った。

 すでに幾度も、広場の出入り口まで引き返している。
 けれどもその度に、キスメは勇気を振り絞って、再び中に戻ることを続けていた。
 別の道を辿る度、洞窟で暮らしている者には刺激的な、色彩豊かな出店と売り物がこれでもかと主張してくる。
 どの通路も息苦しくなるほど人でごみごみしていて、客の体の隙間から店主の雰囲気を観察するだけで一苦労である。
 目的の品はまだ手に入れていない。とにかく、以前土蜘蛛から受けた助言通り、良い品物ではなく良さげな売り手を捜し、懸命に跳ねて移動していると、

「あ……」

 キスメの魂が、とある出店の展示品に吸い寄せられた。
 そこでは頑丈そうな透明な箱の中に、三段くらいの棚ができていて、色々な小物を陳列していた。
 指輪やペンダント、財布や人形、筆や飾り櫛、化粧道具などなど。 
 その中で数本の笛と共に、小奇麗な笛袋が並べられていたのだ。 
 特に端にある袋、かすかに青みがかった黒の中に星が浮かんでいる、そんな見た目の袋に目を奪われる。
 有象無象のきらびやかな小物の中で、それだけがすまし顔をしていた。

 すぐにキスメは、ケースの向こう側にいる店主の方を確認する。
 その頭巾をした鬼は、こちらの逆側にいる客と話をしていた。
 愛想のよさそうな声だ。向こうの客もまんざらではないような受け答えをしている。
 ここならきっと大丈夫だ、と思ったキスメは、大きく息を吸い込んで、

「こ、これください!」
「んん?」

 客と会話を終えた店主が、こちらに気付いてくれる。
 ものすごく優しそうな笑顔だ。出会って五分でお年玉をくれそうな恵比須顔。

「ほう、お目が高いねぇ。その笛はなかなかいいものだよ」
「い、いえ。笛じゃなくて、その横の袋、買いたいんです」
「袋? こんなものが欲しいのかい」
「これで、払えますか?」

 キスメはお金代わりに持ってきていた、鉱石を渡す。
 これを見つけてヤマメに鑑定してもらった際は、かなりの価値があると太鼓判を押してもらった。

「ふうむ……ふむふむ、少し待ってくれんかね。よく見てみなくては」
 
 店主は物珍しそうに、深い青緑のそれを見つめながら、体をゆっくり回す。
 そこに別の客がやってきて「これは銭でいくらだい」と尋ね、店主はそちらと話しこみ始めてしまった。
 キスメはしばらく待ってあげて、ようやくそっちのお客と話が終わった頃合いを見計らって、もう一度声をかける。

 が、どうも声が小さかったようなので、もう少し大きめに「ねぇ、おじさん!」と呼ぶ。
 すると店主は億劫そうに、また体をこちらに回して、

「何かな」
「私の石、どうでした?」
「石ぃ? そんなものもらった覚えはないが」

 一瞬、何を言われたかわからず、キスメはきょとんとなった。
 それから土蜘蛛の大事な忠告を、愚かにも今になって思い出し、蒼白になった。

(いいかいキスメ、商品を手に取る前からお金を出さないようにね! 物売りの中にも泥棒はいるんだから!)

 つまりこの優しそうな店の主人は、

「ど、泥棒!」
「あぁ!?」

 鬼が頭にかぶせていた頭巾を取った。

「何が泥棒だ穴暮らし! うちの店に因縁つけるなら、その桶叩き割るぞ!」

 キスメは仰天していた。
 その鬼の頭には、今まで話していたはずの笑い顔の他に、怒れる悪鬼の顔が張りついていたからだ。
 なんというか、出会って五分で身ぐるみをはがされそうな凶悪な面容である。
 さっきまで聞いていた朗らかな声に対し、その顔が発しているのは、まるで脅し文句だ。

 本で読んだことがあった。 
 阿修羅崩れといって、三つの表情に分かれた顔で商売をし、気に入らない相手には怒り面を向けるのだという。
 つまり今、自分がこの顔を向けられているということは……。

「だ、誰か……」

 キスメは思わず通行人の誰かに助けてもらおうとするものの、

「へへ、バカが。穴暮らしがいくら喚こうが、誰も聞きやしねぇよ」

 さっきの笑い面が穏やかな声で、げに悪辣なことをのたまった。
 一方のキスメは金縛りにかかったように、何も言えない。
 交渉は強気で。ただし欲しいと思わせるな。時には引くのも戦術。
 頭の中で、もらったアドバイスを大急ぎでかき集めるものの、全て砂になってこぼれ落ちてしまった。
 
 ところが事態は少し変わった方向へと舵を切る。
 店主が透明なケースの上に、節くれだった手を置いて、

「だがものは相談だ。おい、釣瓶落とし。このちんけな石をもう一つ持ってたりしねぇか」
「え、ええと……」
「それなら、この中の笛袋をやってもいい。欲しいんだよなぁ?」

 怒り面を見上げながら、キスメは桶の中に忍ばせている袋に無意識に手をやっていた。
 実は鉱石はもう一つある。けれどもその一つだけだ。二つあげれば、もう買い物はできない。
 だがここでこの店主に渡せば、この笛袋が手に入る。
 鉱石は惜しいが、とにかく品物を手に入れて早く安心して、この広場を一刻も早く抜け出したい。

 キスメは、袋からもう一つ石を取り出し、おずおずと桶の中から手を持ち上げ、それを差し出そうとした。
 店主の怒り面が引っ込んでいき、笑い面が徐々にこちらを向く。
 その時、

「ちょっと待ちなよ旦那」
 
 笑い面の額に、ゴンと重い音を立てて、拳大の石が命中した。
 突然の攻撃を受け、阿修羅崩れは「ぐぁっ!?」とよろめいて後ずさる。

「様子がおかしいと思って覗いてみりゃ、なんっつー阿漕な商売してんのよ。第一、その翠玉二つでそっちの布袋一つ? 天地が引っくり返って、居眠りした太陽が地底に転がり落ちても釣り合う勘定じゃないよ」

 早口でまくしたてたのは、化け猫のような外見の少女だった。
 赤い三つ編み。緑の刺繍の入った黒いワンピース。首と手首、靴にも赤いリボンがついている。
 キスメの知らない顔である。けど一度見たら忘れないであろう、お洒落な妖怪だ。阿修羅崩れの怒り面が、唾を飛ばしてがなり立てた。

「なにすんでぇ! 人の商売に口を出すんじゃねぇケダモンが! ここでの仁義を踏みにじるんなら、その二つの尻尾ちょん切るぞ!」
「仁義ぃ? 今の流れのどこに仁義があったのよ三枚舌。あんたも鬼の端くれなら、嘘抜きで商売してみればいいじゃない」
「ほざけ死体売り! その細首叩き折ってやろうか!」

 頭から湯気を立てた阿修羅崩れが、後ろ手にごつい石斧を取り出そうとする。
 が、その隙に猫娘は鉱石をかすめ取り、振り返って手を動かす。

「皆さーん。ここに笛の袋ひとつでこんなものあげようとしてる釣瓶落としちゃんがいるんだけど、他にもっと出せる人いなーい?」

 キスメのものと違って、その甲高くて張りのいい声は、雑踏の隅々までよく通った。
 途端に餌をねだる幼鳥のごとく、方々の店から返事があった。

「おお!? おい! うちに寄ってけ嬢ちゃん! 悪いようにはしねぇ!」
「あたしのところに来ておくれ! この箱いっぱいの布袋と交換してあげるから!」

 声は止むどころか増えていき、それまで混沌としていた辺りの空気が変わっていく。
 さらに狭い道を通って、離れた場所からも商いをしていた妖怪が続々とやってきた。
 「なっ!? もっとよく見せてくれ!」「そいつはどえらいもんじゃないか!」と、場があっという間に大騒ぎとなり、熱気の渦が生まれる。

 猫娘は右手を掲げたポーズのまま、その中心で得意げにしていた。そして、傍にいるキスメは溺れないようにあっぷあっぷしていた。
 石斧を振りかぶっていた阿修羅崩れが、急に慌て始める。

「ちょ、ちょっと待て、てめぇら! これはうちの客だ! 早いもん勝ちだろうが!」
「ぬかせ腐れ三面」
「てめぇの目ん玉磨いてる間に、その嬢ちゃんは他で商売を終えてら」

 ついには、通行する妖怪達まで足を止め、面白がって野次を飛ばし始めた。
 阿修羅崩れの首がぐるりと回り、怒り面と笑い面が引っ込んで、哀しみの面が表に出てきた。

「ええい、わかった! 嬢ちゃん悪かった! 笛袋だけじゃなくて、なんでもいいからうちの店でどんどん買え! ただその鉱石一つはうちに置いてけ!」
「そうこなくっちゃ! さ、なんでも選んでいいらしいから、遠慮せずに桶にしまいなよ」

 視界の真ん中のゴツい泣きっ面が、横から出てきた猫娘の満面の笑みで隠される。
 キスメは彼女を見つめたまま、ぽかんとしていたが、

「よ、よくわからないから、一緒に選んでくれると嬉しい、かな」

 と、その猫娘に頼んでいた。




 ◆◇◆




「いやぁ、大漁大漁。これ地上で売れば、かなりいいお値段になるだろうねぇ。や、冗談だけど」

 黒い二本の尻尾を御機嫌に揺らして、猫娘は街道を歩いている。
 彼女が押している猫車の中には、先程の阿修羅崩れの店で手に入れた食器等の小物がたくさん入っていた。

「でも本当に、あたいがこんなにもらってよかったの?」
「うん!」

 隣を浮いて進むキスメは、迷うことなくうなずく。
 この火車――お燐と呼んで、と彼女は言っていた――は元々人食い広場に食器を買いに来ていたのだというし、キスメの桶に品物はたくさん入らない。
 それに彼女が助けてくれなければ、鉱石を二つも手放してしまうところだった。
 親切にされるよりも意地悪されることの方が多い地底で、見ず知らずの妖怪である彼女が助けてくれたことに、本心から御礼を言いたかったから、思い切ってプレゼントすることにしたのである。

 それにキスメが一番欲しかった品物は、無事に手に入れることができた。
 桶の中にしまっていた包みを開き、もう一度それを確かめてみる。
 黄や緑の小さな星が浮かぶ、青みがかった夜の色の笛袋。

「気に入ってもらえるかなぁ……」
「ん? その袋って、誰かにあげるつもりなの?」

 お燐が興味を示して尋ねてきたので、キスメは教えてあげた。

「私が生まれた時からの友達に、お世話になってる御礼をしたくて、これを買ったの」
「友達にプレゼントかぁ……なるほどねぇ、初々しい。あたいはプレゼントって、あげる相手もくれる相手も、ご主人様ばっかりなんだよね。一応他にも候補はいるんだけど、そいつ、あたいがあげたことすぐに忘れるんだから、あんましありがたみがないっていうか」 

 嘆かわしそうに、赤いおさげが振られる。 
 彼女がどこかのお屋敷で飼われているというのは先程も聞いたが、キスメにとってはなかなか信じがたい話だった。
 お燐は自分より年上なようだし、一人前の妖怪に見える。彼女をペットにしてしまうとは、一体どんな凄いご主人様なのだろう。
 詳しく聞いてみたかったが、十字路に来たところで、お別れの時間が来てしまった。
 旧都の中心街へと続く道を、お燐は指さし、

「あたいの家はこっちだけど、キスメは?」
「あ、私は上の方に住んでるから……」
「あらま残念。じゃあその妖怪にもよろしくね。また会えたらいいねキスメ」
「うん、ありがとうお燐ちゃん!」
「今度はあたいがなんか奢るからー!」

 火車が手を振って去っていく。気持ちのいい、爽やかな別れっぷりだった。
 キスメは十字路の真ん中で跳ねながら、その姿が視界から消えてしまうまで、手を振り返してあげようと頑張った。
 が、

「そこの釣瓶落とし」

 急に怖い声をかけられ、キスメの背筋が冷える。
 下駄の音を響かせて近づいてきたのは、同じ服装をした鬼の集団だった。
 真ん中の一人が、油断のない目付きで問うてくる。

「我らは都の見廻り組だ。今の火車とどういう関係だ。答えろ」
「え……」

 と言ったきり、キスメは心身ともに硬直しかける。
 どんな関係と言われても、出会ったばかりの……友達? なのだろうか?

「き奴はただの火車にあらず。地霊殿の者なり。お前のような穴暮らしがなぜ知り合った。不逞な輩は取り締まらねば」

 地霊殿? なんのことだろう。
 でもキスメは『穴暮らし』という言葉は知っている。旧都の者達は、地底に住む他の妖怪、家を持つ土地を持たない妖怪達を、穴を掘って暮らすという意味から、穴暮らしやらモグラやら地虫等の名前で呼んでいるのだ。
 だから自分も、穴暮らしということになる。でもなんでこんなに怖い顔をされるんだろう。
 まるでキスメがお燐と付き合っていることが、とんでもなく悪いことのように思われている気がする。

「え、えっと私は人食い広場で、お燐ちゃんと知り合って……」

 キスメが何とか事情を説明してわかってもらおうとすると、

「どけどけぃ!! 轢き殺すぞ、そこのお前らー!!」

 罵声と共に、もの凄い勢いで側を何かが通って、冷たいしぶきが桶にかかった。
 振り返るとたくさん積荷を積んだ大八車――いや、輪入道だろうか――が、茶色い雪を撥ねながら通りを去っていくところだった。

「なんだあやつは!?」
「不逞な輩、捕まえて叩きのめすべし!」

 と、キスメと同じく雪をかぶったらしき鬼達は、息巻いて走り出した。

 運良く、助かったらしい。
 何となく、燐と出会った素敵な思い出に水を差された気分になり、キスメは去った鬼達の方に向かって、あかんべぇをした。……が、誰かに見られて、また因縁をつけられてしまっては敵わないので、すぐに止めた。
 旧都で危ない行動は慎むべき。これも大事な教えの一つなのである。
 
 早く安全な上の世界に帰ろう、とキスメは街道を急ぎながら、もう一度包み紙を開いてみた。

「大丈夫かなぁ……」
 
 不安が尽きない。
 これを贈ろうとしている相手は、いつもキスメに好意的な妖怪なので、きっとよほど機嫌が悪くなければ、受け取ってくれるはず。
 ただし、気をつけないといけないのは、渡すタイミングである。今年ではなく、来年の方がいいかもしれない。
 とにかく、絶対にこれが『クリスマスプレゼント』だと覚られてはいけない。
 そんなことをすれば……。


『はぁ? クスリマスだぁ? 地上から来た新手のドラッグに浮かれてんじゃねーわよ。モミの木こめかみにぶっ刺して、赤鼻のトナカイに踏み荒らされろ』


 ぶるる、っとキスメは桶の中で震えた。
 記憶にある妖怪の表情は、阿修羅崩れの怒り面や警備の鬼の脅しや、輪入道の突撃よりも怖かった。
 クリスマスを三人で祝うのは、まだ当分先のことになるだろう。

「さーさー! どうぞご覧なすって! 乱麻堂で手に入らないもんはございやせん! 食い物、着物、なんでもありでございやす!」

 旧地獄南東の辰巳横丁まで来て、キスメは大きな建物の前を通った。
 乱麻堂というらしい。どれほどの数の大石を組んで建てたのだろう。それとも山を切り崩して造ったのだろうか。
 その岩でできた葡萄の房のような建物は、周囲のあらゆるものを見下ろしていた。
 玄関口も、妖怪が次から次へと出入りしており、警備役の一目入道が左右に並んで立っている。
 キスメが一人で入ろうとしても、追い払われそうな雰囲気があった。旧都では強くなければ、満足に買い物もできないのだ。

 へこたれそうにもなるけれど、希望が湧いてくる光景でもある。
 今の自分は人食い広場をあてもなく歩き回るのが精いっぱいだけど、そのうちこんな大きい店に一人で入れるような、そんな妖怪になってみたい。
 その頃には、先程の火車の家に気軽にお呼ばれできるかもしれないし、いつもの仲良しの三人で旧都の隅々を満喫できるかもしれない。
 未来に夢を馳せながら、キスメが乱麻堂を歩き過ぎようとした、その矢先である。

 何か頭上で光った。
 と思いきや、いきなり乱麻堂の窓の一つから、影が勢いよく飛び出すのが見えた。

 キスメが呆気に取られて足を止めていると、影はクルクルと回転して落ちてくる。
 そして、ダンッ、と地面を鳴らし、ちょうど目の前に着地した。

「ちっ……どうしてこんなことに」
「パ、パルスィちゃん!?」

 キスメが驚いて叫ぶと、駆けだそうとしていた目の前の妖怪が、いきなりズッコケた。
 そのリアクションは明らかに、クールになりきれない残念妖怪……といつも己を卑下している橋姫、水橋パルスィのものであった。
 彼女はバッと立ち上がり、こちらに詰め寄って、

「なんでこんなとこ歩いてんのよキスメ! 家で本読んでたんじゃないの!?」
「そ、それはえーと……!」

 本当の理由をこの場で話すべきかどうか、キスメは迷った。
 そして何よりも混乱のあまり、状況に頭がついてきていない。
 今の今まで思い浮かべていたお友達のパルスィが、乱麻堂の窓から突然飛びだしてきたのだ。
 一体どうして。

「いたぞあそこだー!!」

 急に往来に大声が響き渡った。
 屈強な体格の鬼達が、乱麻堂から飛び出してくる。
 キスメの前で眉をひそめていたパルスィは、続いて自分が手にしているのものを見下ろし、

「しまった!? これ会計してなかった!!」
 
 と声を上げて、そのお面やらマントやらをキスメに押し付けてくる。

「キスメ! これ店に返しといて! あともしヤマメに会ったら、私は先に帰ったって伝えて!」
「えっ!? えっ!? えっ!?」

 ヤマメちゃんがここに来ている?
 話がさらに解らなくなり、焦るパルスィと迫りくる鬼達、二方向を交互に見ながら、キスメはおろおろと迷う。

「観念しろ泥棒めが! 旧都で盗みを働いたやつがどうなるか思い知らせてやるわい!」

 先頭の鬼がこちら目がけて突進してくる。その手には首を斬り落とすのも訳なさそうな、ゴツい牛刀があった。
 ここにきて、キスメの脳が高速で回転した。


1 パルスィちゃんが追われている

2 鬼がパルスィちゃんを斬ろうとしている

1+2=このままだとパルスィちゃんが危ない

3 私が何とかしなきゃ


「えーい!!」

 ごちん。

「ぐぉぉぉお!?」

 キスメの捨て身の体当たりが、見事迫りくる鬼の鼻にヒットした。
 この桶は見かけよりも頑丈な上に重い。倒れていく巨体の後ろで、他の鬼達がたたらを踏む。

「パルスィちゃん逃げて! 私が食い止めるから!」
「バカっ!!」

 とパルスィにキスメは抱えられ、猛スピードで連れ去られた。

  


 ◆◇◆




「なんてことしてくれたのよあんたは!」
「で、でもパルスィちゃんが真っ二つにされちゃうと思って……!」
「私はそんなノロマじゃないわ! けどあんなことしたら、あんたがコマ切れにされるでしょうが!!」

 とパルスィは駆けながら叫んだものの、もともとは自分の奇行が原因であることは明白である。
 そして問答をしている暇はない。八つ裂きにされる前に、とっとと旧都から退散しなくては。

 裏路地をひたすら移動する。上の層へと真っ直ぐ飛べばすぐに見つかってしまうだろう。
 なるべく目立たぬ道を、あてずっぽうでパルスィは選んで進んだ。
 すでに商品は放り出してきたというのに、殺気がまだ追っかけてくる。しつこい鬼共だ。よほど頭にきているらしい。捕まれば本当に膾切りにされかねない。
 状況が分かっているのかいないのか、桶の中の釣瓶落としは「ごめんね、ごめんねパルスィちゃん、ごめんね」とうわごとのように繰り返していた。

 ――ああもう……あとでヤマメになんて説明すりゃいいやら。

 やはり意地を張って旧都になんて来るんじゃなかった、とパルスィは心の中で悪態をついた。
 
 必死で逃げるうちに、ようやく旧都の端まで来た。
 身を隠す建物はないが、ここからなら旧地獄の外まで逃げられる。パルスィはキスメを抱えて飛ぼうとする。
 
 その一呼吸前だった。
 パルスィ達を追ってきていた鬼達とは、全く異質な気配が、前方に出現したのは。

「おおっと、ここは通さないぞ」
 
 回り込まれたのだ。
 そこをどけ、と喉元まで出かかった一言が、不可視の力に押しつぶされた。

「ずいぶん面白い組み合わせだが、コソ泥とあっちゃあ見過ごすわけにはいかない。観念するんだね」

 目の前に立ちはだかったその鬼は、尋常ならざる妖気を身にまとっていた。
 同じ妖怪であっても、おのずと畏怖してしまうほど濃密な、まるで喋る壁のような気配だった。

 桶の中のキスメが、一言も漏らさず、震えはじめる。
 だがパルスィはあえて、相手を睨み返した。
 忘れるはずもない。あいつだ。あの時店で楽しそうにヤマメと話していた、あの一本角の鬼。
 そう思っただけで、嫉妬の念が増幅し、内なる畏怖を拭い去る。

「鬼に下げる頭なんて持ってないわよ」

 パルスィは真っ向から刃向かった。
 虚勢である。だが、数百年鍛え抜かれた虚勢だ。見破られるようなハッタリではない。

 相手はパルスィの反抗的な態度を前にして片眉を持ち上げ、野性的で力強い、いかにも鬼らしい笑みを浮かべた。

「いい度胸だ。卑怯な悪党には、顔面に下駄の裏で押印してやるんだが……」

 鬼の五指が、こき、と骨を鳴らしながら固められていく。
 先程追手が振りかざしていた牛刀よりも、数段迫力があった。

「お前には特別に私の拳を味わわせてやる。旧都の北の端まで飛ばしてやろう」

 震えるキスメを、パルスィは背中に隠しつつ、その相手を睨み続けた。
 絶対に怖がってやるものか。絶対に逃げるものか。そして、ただで食らってやると思うなよ。
 力を溜めに溜め、反撃を準備する。

 両者の間で緊張に満ちた空気が破裂しようとする、その一瞬だった。

「なーにやってんだか……」

 狙いすましたかのように、間延びした声が届いた。
 振り向かずとも、パルスィは背後の気配が誰のものか分かった。

「ヤマメちゃん!」

 キスメが歓声を上げる。
 パルスィと対峙していた鬼の方も構えていた拳を解き、意外そうに言った。

「なんだヤマメ、知り合いか」
「まぁね」
「いいえ、全く覚えがないわ」

 そう言うと、すかさず、ぺしんと後ろから頭を叩かれ、パルスィは軽くよろけた。

「痛っ!?」
「つまらない意地張ってんじゃないよ。ほら、さっさと立つ」

 襟首を掴み上げられる。視界の端に入ったのは、予想通り、黒谷ジト目であった。
 何しとるんだあんたは、というのと、しょうがないねあんたは、というのが混ざった表情である。
 怒っているのは間違いない。

「さ、謝りに戻るよ。キスメもおいで。一緒に頭下げてあげるから」
「放してヤマメ! 私は鬼などには屈しない! いっそ正々堂々盗みを働いてやるから!」
「うるさい」
「ぐふ」

 暴れる橋姫と、それを押さえつける土蜘蛛、あたふたとついていく釣瓶落とし。
 残された一本角の鬼は、訳の分からぬ顔をしていたが、すぐに三人の後を追って歩き始めた。






(5)


 乱麻堂に戻り、警備の鬼達の前に立った橋姫の第一声は「ごめんなさい」でも「申し訳ありませんでした」でもなかった。
 「情けは無用」、「煮るなり焼くなり好きにしてみろ」である。盗人猛々しいというのはまさにこのことだ。
 乱麻堂の関係者ならびに警備の鬼の神経を逆なでするには十分どころかお釣りがくる言動だったであろう。

 が、「このドジ姫の言ってることについては、気にしないで。ただの誤解だから」と土蜘蛛の腕力に任せたネックロックを食らってから、橋姫はようやく「ぐぇぇ」と謝罪した。
 頭を下げられた方、特に釣瓶落としの一撃を食らって赤鼻になっていた鬼は、今にも牛刀を抜いて躍りかかりそうな様子だったものの、「誤解だっていうなら、ぐだぐだ引きずることもないだろう」という一本角の一声により、結局品物は全て買い取るということで丸くおさめられることになった。

 それから少し後、今パルスィは、乱麻堂から離れた朱雀街にある『我闘処誇羅』の個室に来ていた。
 辛党ばかりが住む旧都では珍しい甘味所の店である。
 入口付近はどことなく大衆的な雰囲気が漂っていたものの、南側ではかなり評判の高い店らしい。
 そう知らされずとも、壁も四角い卓も木製であることから、大体想像はつく。
 石造りの建築が基本の地底において、本物の木を使った建物は専ら高級な店だといえた。
 
 座敷の卓を挟んでパルスィの向かいにどっかと座るのは、先程の珍事を一言で裁いた一本角である。
 白い無地の上着、えんじ色の襟と袖。こざっぱりした服装だが、額から生えた赤い角と長く伸ばした黄金の炎のような髪の毛には、有り余るほどの風格があった。
 パルスィの予想通り、やはり彼女は旧都の鬼の中でも特別な者なようだ。
 この店に入るなり、支配人らしき者が大慌てで出てきて、二階の特別席に案内してくれたので。

「いやぁ、勇儀がいてくれて助かったわ。あの様子だと、私らだけじゃ、頭下げても許してもらえそうになかったし」

 と朗らかに笑うのは、土蜘蛛のヤマメである。
 普通は同席しているだけでもビビるはずなのに、彼女はごく自然に鬼の隣に座っていた。
 
「大晦日が近づくにつれて、治安が悪くなるんでね。どこの店も気が立ってるんだ。まぁ得物を持って追っかけたことについては、許してやってくれ」

 そういう鬼の方も、土蜘蛛の遠慮ない態度を当たり前のように受け止めている。
 というかパルスィには、かなり二人の距離が近い気がしてならない。腕がほとんど触れてないか? 今にも肩を組みそうな雰囲気だが……。

「あの……」

 と細い声を出したのは、パルスィの隣に座るキスメだった。ちなみに彼女は桶のまま座敷に上っている。
 「ん?」と勇儀が顔を向けると、ヒュッ、と緑色の頭が桶の中に引っ込んだ。

「あはは、可愛い釣瓶落としだね。生まれて五十年も経ってないな」
「キスメ、大丈夫。この鬼はあんたを食いやしないよ」
「友を助けるために、鬼の顔に正面から一発ぶち込んだんだろう。大したもんだ」

 引きしまった腕が伸び、わしわし、とキスメの頭を無遠慮に撫でる。
 パルスィはその様子を無言で眺めていたが、ふと鬼の視線が自分のものと合い、全身が力むのを覚えた。

「お前さんの啖呵もなかなかだった。ヤマメの知り合いだけある。土蜘蛛……じゃなくて、橋姫か。旧都じゃ見かけない顔だけど」
「……ええ」
「名前は?」
「聞く前に名乗るのが礼儀じゃない?」

 視界の端でヤマメが目を閉じ、額をつまんでいた。「また始まった……」と仕草で言っている。
 が、鬼の方はまるで気にした様子もなく、鷹揚にうなずき、

「それもそうだ。私は星熊勇儀。四天王の力の勇儀、と言えば大抵は通じるんだが、上の連中は知ってるかね」


 ――星熊……勇儀……!? 力の勇儀!? こいつが!?


 さすがのパルスィも瞠目せざるを得ない。
 地底において星熊勇儀の名前を知らない妖怪はモグリといっても差し支えないだろう。
 かつては地上で妖怪の山を率いた四天王であり、今では旧都の北に居を据える、鬼の頂点に立つ大妖怪と言われている。
 旧地獄の浅い層に住むパルスィ達とは、まるっきり格が違う。
 その隣で肩をすくめている土蜘蛛と、どんな経緯をたどれば知り合いになるというのか。

「んじゃ、そっちも名乗ってもらおう」

 勇儀は自らの名を自慢するわけでも謙遜するわけでもなく、屈託なくパルスィに尋ねてくる。
 こうなると、答えぬわけにもいかない。

「……パルスィよ」

 押し殺した声で告げる。だが、押し殺し過ぎてイントネーションが失われてしまったらしく、

「パルスィーヨか」

 新種のトウガラシのような名前に勘違いされた。

「苗字もあるのかい?」
「……水橋。水橋パルスィ」

 ――ナニ笑ッテンダ。殺スゾ。

 パルスィは訂正しながら、きつい睨みで威嚇した。星熊勇儀ではなく、その隣で口を押さえつつ笑いをこらえる土蜘蛛を。

「みずはし……みずはしぱるすぃ……ああ、そういえば前にヤマメに聞いたことがあったっけ」
「へぇ……」
「けど忘れちゃった。まぁ本人が目の前にいるんだから、私がどんな奴か判断すりゃいいこったね」

 「話せよこら」という言葉を、パルスィは呑みこんだ。

「それにしても、窓を出口と間違えるとは、なかなか聞かない話だが」
「……近視なの」
「ほう、地底じゃ珍しくないが。どれどれ見せてくれ」
「………………」
「そんなに初対面の相手をジロジロ見るもんじゃないよ、勇儀」
「いや、見事なまでに緑色だなって。なかなか橋姫の眼なんて覗く機会がないしね」
「………………」

 目をそらしたまま、胸中で舌打ちするパルスィは、すでにこの鬼がどんな奴かを判断、もとい評価することができていた。
 大雑把で無神経な、典型的な鬼の首領とみて間違いないだろう。
 仕草の一つ一つに自信がにじみ出ていて、容易に反論を許さない空気を作り出しているところが、いかにもそれらしかった。
 気に食わない。

 そこで、どごん、と階下から爆弾が破裂したような、重たい音がした。
 さらにガラスが割れるような音と罵声。壁に飾られていた絵が落ちてくるほどの衝撃が、ここまで届く。

「旧都名物かしら……」

 ぽつりと言ったのはヤマメ。
 間を置かず、部屋の戸がノックされた。
 勇儀が立ち上がってそちらへ向かう。戸が横に開き、先程パルスィ達を案内した店の主人が青い顔を見せた。

「ほ、星熊様。お騒がせしておりますです」
「なんだい。下がうるさいけど、喧嘩か?」
「今日が初めてじゃないんです。仁義も筋もなっちゃいないくせに力ばかり強くて……あの連中、北じゃ大きな顔ができないから、こっちで暴れてるんですよ」
「仕方ないな。ああ、三人から注文を取っておいてくれ。これは小遣いだ」
「へへー」

 勇儀がさりげなく取り出した金子を、店主はうやうやしく受け取る。
 腕まくりした広い背中が、外へと消えていき、入れ替わりに彼の方がテーブルにやってきた。

「それではご注文をお伺いいたしやす。当店のおすすめは……」
「ああ、下の騒ぎがおさまってから、また来てくれない? その方がいいでしょ。こっちはのんびり三人で話してるわ」
「いえいえお構いなく」
「大丈夫。あの四天王様にはちゃんといいサービスだったって言っておくから」

 ヤマメの対応に、店主はまだ食い下がろうとしていたが、下の騒ぎの方もやはり心配ではあったらしい。
 結局、紅茶を三人分という中途半端な注文を受け取り、深々と頭を下げて去っていった。
 これでようやく、いつもの三人になった。

「ぷはー」

 桶から顔を出したキスメが大きく息を吐く。

「緊張して息できなかった~」

 実に素直でまともな台詞に続き、パルスィも知らず溜息を吐いていた。
 同じ地底の妖怪といえども、鬼と同席するというのは、すさまじいプレッシャーがあるものなのだ。
 この点においては、自分もキスメと大差のないレベルといえる。
 あのまま最後まで突っ張った姿勢を続けられたかどうかは、少々怪しかった。

「すごいなーヤマメちゃん。あんな鬼の人と友達になれるなんて」
「キスメだってなれるかもよ。気に入られてたみたいだったしね」

 「ええ? 私はムリだよぉ」とキスメは桶の中に顔を半分隠す。
 くつくつと笑ってから、ヤマメはパルスィの方に話を振ってきた。

「悪かったねパルスィ。まさかこんなところで勇儀と出会うなんて思ってなくてさ。あちらさんを南側で見かけるのも珍しいんだよね」

 やはり彼女は、パルスィがどうして乱麻堂から逃げ出したのかという理由については、察していたようである。
 ただしその理由に関していうなら、謝るのはヤマメではなく、パルスィの方なのだ。
 確かに、お出かけ先で友人の友人という面倒くさい知り合いを増やすのを歓迎するような性格はしていない。
 それでも相手が並の妖怪であれば、パルスィはつむじを曲げることはあっても、あそこまで必死に逃げ出すようなことはなかっただろう。
 問題はヤマメが紹介しようとしていた相手が『鬼』だったということであり、しかもヤマメとあれほど仲良さげに話していたという事実が衝撃的すぎて、冷静に受け止めることができなかったのである。その動揺は心の底で、今の今までずっと続いている。
 決して感づかれぬよう、パルスィは慎重に言葉を紡ごうとした。
 まずは、

「呼び捨てなのね」
「ん? ああ、勇儀のことね。やっぱり驚く?」
「……あんたならあり得なくもないって思えてきた。付き合いは長いの?」
「えーと……」

 呟いてから、ヤマメは指を折り始める。

「いや、あんたの方が長いね」

 そこは勝っていたらしい。
 だが比較のために記憶を掘り起こさなくてはいけないということは、自分と大して変わらぬ、相当の古株のようである。

「考えてみると、あんたは旧都に年に一度来るかどうかだし、私は勇儀と旧都の北でいつも会ってたから、二人が顔を合わせる機会がなかったんだろうね」

 未来永劫その機会がなければよかった、とパルスィは卓を爪でカリカリ引っ掻きながら思った。
 現実は常に非情である。特に橋姫にとっては。

「どうやって知り合ったの?」
「え、うーん。それはねーなんていうか……ひ・み・つ?」
「………………」
「い、いや、そんな充血した目で睨まなくたっていいでしょうに。勇儀に直接聞いてよ。私の方から話していいか、ちょっと悩むし」
「直接聞きたくないからあんたに聞いてるんでしょうがっ」

 というパルスィの魂の訴えは、台詞になることなく、全て奥歯ですりつぶされた。

「でも驚いちゃった」

 と、会話の合間を縫ってキスメが楽しそうに言う。

「だってパルスィちゃんのこと考えて歩いてたら、本当にパルスィちゃんが建物を飛び出してきたんだもん」
「さぞかし笑えたでしょうね」
「そんなことないよ。なんかテレパシーみたいでびっくりしたけど。私も誘ってくれれば、一緒に旧都に来てたのに」
「それは……」
「ああ、ごめんキスメ。私が余計なこと言ったからなんよ。買い込んだ古本をたくさん読むって言ってたからさ。あの量を本当に全部読み終えるなんて思ってなかったし」
「ううん、本当はまだ半分くらいしか読めてないの」
「ほう? いや半分でも大したもんだ」
「パルスィちゃんも一緒だったら、もっと買っちゃってたかも。クリスマスに三人で旧都を歩けたら、もっと楽しかったはずだと思うし……」


「ありえないわ」


 さりげない期待を含んだ発言を、パルスィは一刀両断した。
 息を呑むキスメを、正面からねめつけ、

「クリスマスに旧都を三人で歩けたら? キスメ。あんた本気でそんな幼稚で愚かなこと考えてたわけ?」
「あの……その……」
「いつも言ってるでしょう。私はね。旧都に住む奴らは大嫌いで、同じ空気を吸っているだけで胸が悪くなるの。無神経で乱暴で差別意識の固まりで、私達のような『穴暮らし』なんて虫けらとしか思っていない地底の害悪帝国。それが旧都よ。この街を三人で歩く? 旧地獄街道なんてどれもこれも、猥雑で見苦しくてたまに悪臭が流れてきて常に下品な笑い声や陰口が聞こえてくる、デカいだけの通りよ。歩いて一文の得にもなりやしない」
「…………」
「それにこの機会にはっきり言っておくけどね、地底のクリスマスなんてクソよ。あんな祭り、ただ騒ぎたいアホ共の口実。それが信仰心だっていうなら、私だって大目に見てやるわ。けど真面目に神聖な気持ちで受け入れようとするやつなんてゼロ。軟弱な妖怪を増やす病原菌。クリスマスというものに関する一切のものが地底から排除されない限り、平穏はない」
「ぱ、パルスィちゃん。目が怖いよ」
「もっと怖がりなさいキスメ。この緑色の目のことを思い浮かべて、我が身を戒めなさい。あんたが旧都で遊んだりクリスマスを祝って幸せを味わっている間に、悩み苦しみ、絶望している連中が山ほどいるんだからね」

 嫉妬将軍(ジェラシージェネラル)、ここに降臨。
 無垢な精神であっても完膚なきまでにこき下ろすこのやり口。地底の妖怪でも指折りの性悪といってよい。
 だが、パルスィは清々していた。橋姫はアンチハッピーを唱えている時が、一番生き生きとしていられるのだ。
 キスメは自分がどれほど愚かだったのかを理解したようで、またもや桶の中に引っ込んだ。
 そしてヤマメの方は……

「ご高説どーも。じゃあこれも無駄になっちゃうのか」

 興ざめした口調で彼女は言って、手提げカバンから何かを取り出す。
 視線の温度を変えぬまま、その様子を見つめていた嫉妬将軍は、

「え……」

 と不覚にも声を漏らしてしまった。

「ふっふっふ、驚いたようね、水橋君」
「なにそれ……」
「実は三つじゃなかったんだよね。個人的なクリスマスのプレゼント用に、内緒でもう一本作ってたのさ。誰かさんが欲しがるんじゃないかと思ってねぇ」

 ヤマメの手元にあったのは、リボンでラッピングされた新品のマフラーだった。
 彼女の言う誰かさんは、困惑を隠せなかった。

「ど、どうしてマフラーなの?」
「ずっと前に私があげた白のマフラー、たぶんボロになっちゃったんでしょ? 今日巻いてるのは、私の知らない柄だったし」
「………………」
「そろそろ代わりのが必要になる頃だと思ったんだ。だからこれは新しいの。柄を考えたりするのも含めて、製作期間一ヶ月でござい~。ちなみにリボンはさっき乱麻堂でつけてもらったんよ。服屋で一度別れた時にね」

 ヤマメが両手で左右に広げて示す。以前の小ざっぱりしたマフラーと違って、複雑で手の込んだ彩色だった。
 淡いグリーンを基調として、ペルシャンブルー、オレンジ、ホワイト、ゴールド、様々な色の糸で編みこまれていて、しかも細緻な紋様が描かれている。何ともエキゾチックで、どこか気品のある代物だ。
 彼女は得意そうに小鼻を動かして、

「で、欲しい? 欲しくない?」
「……クリスマスプレゼントにマフラー……馬鹿馬鹿しい……」
「あっそう。じゃあこれは余り物らしい。帰って鍋敷きにでも使うか」
「待って」

 仕舞われそうになったマフラーを、パルスィは受け取った――というより掠め取った。

「鍋敷きなら、ちょうど不自由してたところだわ」

 無理のある言い訳を口にしながら、試しにその『鍋敷き』を首に巻いてみる。
 とてもしっくりきた。先程巻いていたマフラーはちくちくしたが、これは本当に肌と一体化してるようで、首にじんわりと温かみが広がった。
 キスメが桶から顔を出して、嬉しそうに言う。

「パルスィちゃん、似合う!」
「……どうも」
「じゃあ、じゃあ、これももらって! 私からもプレゼント!」

 と、彼女は両目を固く閉じて、手に乗せた細長い袋をこちらに突き出してきた。
 「な……」とパルスィは絶句する。
 
「えっ? あれ、そんなのキスメ買ってたのかい?」
「さっき人食い広場で、買ってきたの」
「そりゃすごい!」

 ヤマメが目を丸くして褒める。
 パルスィも驚かずにいられない。なぜキスメが旧都に来ていたのか疑問だったが、まさか自分にプレゼントを買うためだったとは。
 ましてやあの悪名高い人食い広場で、一人で購入してきたなんて、引っ込み思案だった釣瓶落としが、いつの間にここまで成長したのだろう。

 しかも落ち着いていて高貴な色調のその笛袋もまた、自分の好みにはまっていた。

「おお。私よりセンスがいいんじゃないかねキスメ」

 覗き込んで言うヤマメの褒め言葉に、キスメは相好を崩し、今度こそ、と期待に満ちた顔を向けてくる。
 パルスィはマフラーと袋を手にした状態で、しばらく硬直した。

 最悪だ。逃げ場がない。
 親切にされるのは大嫌いなのだ。
 自分が幸せなのを認めてしまえば、嫉妬できなくなる。それに期待すれば、いつかは裏切られるのが世の性だ。

 けれどもパルスィは……この場で二人の笑みを退けることはできなかった。
 丁寧に笛袋を畳んで懐に入れ、マフラーを解きながら言う。

「でも私、何にも用意してないんだけど……」

 礼も言わずにそう喋ると、ヤマメが待ってましたと言わんばかりに、

「じゃあ何かお土産をパルスィに買ってもらうってことで」
「え!? ちょっと!」
「キスメは何がほしい?」
「ケーキ! すごく大きなの! ヤマメちゃんの家で、三人で食べたい!」
「…………」
「ねぇパルスィちゃん、いいよね!?」
「……肥えて桶に入らなくなっても知らないわよ」

 腕に引っ付いてくる釣瓶落としに、パルスィはさりげなく毒を吐いておく。
 何となく、二人に上手く籠絡されてしまった気がしたが、これも初めてではなかった。
 どうにでもなれ。どうせ私は道化の役しかできない、クールを装った残念妖怪だ。

 空気が丸く(?)収まったところで、ヤマメがパチンと手を鳴らした。

「よし。じゃあこの後は甘いもの食べてから、この三人でさくっと買い物に行こうか」
「三人?」
「私とあんたとキスメ。何をいまさら」
「そうじゃなくて、あの鬼を省いてもいいの? 偉い奴なんでしょ」
「ああ、勇儀はまぁ……鬼には珍しく気が長いから」

 私の方が鬼より気が短いとでも言いたいのだろうか、とパルスィは思ったものの、これ以上あの邪魔者が自分達の輪の中に入りこんでこないというのであれば、願ったり叶ったりだったので、何も言わなかった。
 色々と無駄な騒ぎを乗り越えて、自分にとって都合のよい流れになってきたような気がした。
 嫉妬の神様も、たまにはいいことをしてくれる。
 そんなことを考えてる間に、タイミングよく、一本角が部屋に入ってくる。

「すまないね。ちょっと下で連中と話をしてきた」
「どうせ拳骨を振るったんでしょうが」
「これが一番説得力があるんだから仕方ない」

 呆れるヤマメに対し、悪びれもせずに勇儀は言ってから、

「あれ、まだ頼んだのは来てないのかい」
「ああうん。三人ともお腹空いてなかったから、軽く飲み物だけね」
「そうか。実は私はこれから家に戻らないといけない。外せない用事があってね。だから、ここでさらばということになる」

 まさしくパルスィにとって理想的な展開であった。
 鬼が意味ありげな目つきで土蜘蛛の方を見やる。

「できればヤマメにも参加してほしかったんだけど」
「げ、それってアレのこと? 今日やるの?」
「ああ。無事に立ってられるのは何人かなぁ。楽しみだ」

 なんだか不吉な雰囲気が漂う言い回しであったが、深く突っ込んで絡まれても仕方ないので、パルスィはやはり静観していた。
 ……が、

「おっとそうだヤマメ。例のブツができてるって話だけど」
「ああ、そうね。忘れちゃ大変だ」
 
 とヤマメがカバンの中から何かを取り出した。

 刹那、パルスィの全身を巡る血が、残らず凝結した。

「おお!」

 鬼はヤマメからもらったそれ、『銀白のマフラー』を首に巻いた。
 とても長く太く、しかもびっしりと紋様が編みこまれていて、非情に丹念に作られているのが分かる。
 「うん! まるで力がみなぎってくるようだ!」と鬼は嬉しそうに言う。

「苦労したんだからね、それ作るの。本当に。『二か月』かけたんだから。でもありったけの念はこもってるはずよ」
「そうか! いやぁこんな素晴らしいプレゼントがもらえるなんてなぁ!」

 足元から緑色のマグマが噴き上がり、全身を焼き尽くす感触があった。
 息が止まり、体の自由がきかなくなる。

「はっはっは! これで大晦日も楽しく過ごせそうだ! 連中にいい土産話ができたよ」

 ぐわし

「ん……?」

 キスメが悲鳴を呑みこみかけたのが聞こえた。ヤマメが驚きのあまり、腰を浮かせる気配があった。
 星熊勇儀は、何事かと瞠目している。

 そしてパルスィは……鬼の首に巻かれたマフラーをわしづかみにしていた。

「……ヤマメ」

 声はドロドロと澱みきっている。

「私はこっちをもらうわ」
「は?」

 とこれはヤマメ。
 キスメの方はびっくり仰天したまま、桶の中で口を半開きにしたままだ。
 そして鬼は、我に返ったようにパルスィの腕を掴んだ。
 それまでの友好的な態度を引っ込め、有無を言わせぬ迫力で鬼は告げてくる。

「止めておけ。これはお前さんなんかが触れていいもんじゃない」
「なんでよ!?」

 パルスィは叫んだ。
 力で負けても、気迫で負けるわけにはいかない。
 まずは先手。空いた手の方で首ごと刈る勢いで、マフラーを取り外そうとする。
 しかし、鬼の動きはそれを軽く凌駕していた。
 何をどうやったのか、パルスィの伸ばした手は空振り、またもや手首を押さえつけられる。

「ちょっとちょっとパルスィ! あんたが何を勘違いしてるのか大体わかったから、少し落ち着き!」
「放せ! 私に触るな!」
「そっちが触りにきてるんだろう! 何の真似だい一体!!」

 勇儀も声を荒げる。ただし彼女は防戦一方になっていた。
 突飛な行動に理解が追いつかず、どう対処すればいいのか困っているらしい。
 しかしパルスィ自身にも解らない。ただ、それを嬉しそうに首に巻いているのが、

 ――死ぬほど妬ましいのよ!!

 一度嫉妬心が燃え盛れば、橋姫は決して止まらない。
 見かねたようにヤマメが割って入ろうとする、その瞬間だった。

 豪、と音を立てて、とてつもない気が、マフラーから放たれた。

「なっ……」
「ぬっ……!?」

 直後に部屋に突風が巻き起こった。
 テーブルが座布団と共に宙を舞い、悲鳴を上げるキスメを、血相を変えたヤマメが桶ごと抱え込んだ。
 あまりの風の激しさに、パルスィも反射的に瞼を固く閉じる。
 空気の枕を顔面に押し付けられる間、一瞬だけ、喉元を熱湯が通り抜けるような感覚が過ぎさった。

 時間にして二呼吸程だっただろうか。
 ようやく部屋の空気が落ち着いたので、パルスィは目を開く。

 腕一本で目元を防いでいる状態で、鬼が佇んでいた。
 相変わらずヤマメからもらった長いマフラーを首に結んでいる。
 ……が、何かがおかしい。彼女は腕の奥から、こちらを驚愕の表情で見つめていた。
 その視線の行方を、パルスィはゆっくりとたどってみた。

 鬼の首に巻かれている、銀の紋様が編まれた白いマフラーが、ピンと張られた状態で伸びている。
 その先が、パルスィ自身の首に繋がっていた。
 我に返り、慌てて手をそのマフラーに当てる。
 力を込めて、引っ張ってみる。

「……ほどけない」

 十二月二十七日。
 水橋パルスィの悪夢の時間が、今まさにスタートしたところだった。




 

(6)

 
 若い妖怪の店員が『我闘処誇羅』の二階へと続く階段を昇っている。
 両手に持ったお盆には三人分のティーカップ。淹れたての紅茶が湯気を立てていた。

「まさか、あの星熊様のお世話ができるなんてなぁ」

 若者は幸せな気分で呟いた。
 彼は一応、端くれではあるが、れっきとした鬼である。鬼にとって、生きる喜びというのは主に三つある。
 自分の強さを磨くこと、その強さを試す事、そして強い者の役に立つこと。
 下の者が世話をするのはもちろんだが、上の者が下の者に強さを見出せば、可愛がるというのも古からの習わしであった。

 そして、今回若者がお世話をさせていただく相手は、なんとあの星熊勇儀。
 旧都に住む鬼であれば、声をかけられるだけで有頂天になる御仁だ。
 下の乱闘騒ぎの後始末にベテランが全て駆り出されているため、まだ若い自分に世話役のお鉢が回ってきたのである。
 これを幸運と言わずしてなんと言おう。

 二階の個室の前に来て、彼は生まれて初めて、咳払いというものをしてみた。
 とにかく失礼のないようにしないといけない。相手は泣く子も黙る鬼の四天王なのだから。
 ただし接客は堂々としなくてはいけない。意気地なしは強い鬼に嫌われるものである。

 以上のことを心に留めた上で、自らの一生に刻まれるであろう初舞台に立つべく、彼は元気よく戸を開けた。

「お待たせいたしましたっ。ご注文のお飲物ですっ」
「取り込み中だ! 下がってろ!!」
「はいーっ!!!」

 物凄い勢いで怒鳴りつけられ、若者はすかさず回れ右して扉を閉めた。
 その場で、お盆を片手で持ち上げた状態のまま固まる。

 ――い……今のはなんだ?

 怒られたという事実よりも、目撃した光景にうろたえていた。
 一瞬見えたのが間違いでなければ、


 力の勇儀の首と、一人の客の首が、マフラーで繋がっていた。


 どういうシチュエーションだ、それは。
 土蜘蛛らしき女性もいたが、あれはもしかして一流の縄師?
 ここはそういったサービスを行ってはいない。いわゆる、出合茶屋の類なら他にいくらでもある。
 分からない。分からないが、何か大変なものを見てしまったのでは。
 そして今も扉の向こうからは、甲高い声と荒々しい唸り声が、激しく聞こえてくる。
 何か大変なことが起こっているのでは。

 お盆を見下ろす。とりあえず、この飲み物は一旦下げないといけない。
 そしてその理由について、先程四天王から直接言われたことを、店のオヤジにきちんと報告しなけりゃいかない。
 あとは今しがた見た光景を、どこまで話すかであったが。

 ――ありのままを報告するしかないよな……。

 嘘をつけない鬼の端くれは、そわそわと階段を下りて行った。




 ◆◇◆




 さて、鬼の若人が期待を胸に扉を開け、悶々としながら引き下がった座敷部屋。
 そこで繰り広げられていたのは、あいにく艶めかしい官能的な情事ではなく、色気の欠片もない寸劇であった。

「一体何なのこれー!?」

 甲高い声で喚いているのはパルスィである。
 首に巻かれたマフラー……のようなものを必死で外そうとするものの、全く歯が立たない。

「ああもうヤマメ! 一体何がどうなってるんだか説明してくれ!」

 同じく困惑しているのは勇儀である。
 鬼の桁外れの腕力をもってしても、綱を首から取り外すことができない様子であった。
 体格の良い彼女が慌てふためいている姿は、さらに滑稽な絵面である。

 そんな二人を前にして、目を白黒させているのはキスメ。
 困ったように、ぽりぽりと頬を指でかいているのがヤマメである。

「うーん……これは一体……どういうことかね」
「何を唸ってんのよヤマメ! なんとかしてよ! あんたが作ったんでしょこれ!」

 自分の行動を棚に上げて、パルスィは喚き立てる。

「それはそうなんだけど……まぁ、まずはちょっと落ち着きよ二人とも」
「落ち着いてられるわけないでしょ! なんで私がこんな鬼と、い、一緒にこんなのを……!」
「同感だ」

 そううなずいたのは、まだ綱を力で引きちぎろうとしている勇儀の方である。
 最初の状態よりも少し伸びてはいるようなのだが、全く二つに分かれる様子がない。
 ヤマメは頬をかくのをやめて、「んー」とこめかみのあたりをいじっていた。

 やがて彼女は指を動かすのを止め、悩ましげに閉じていた瞼を開ける。

「ねぇ勇儀。この際、パルスィに事情を話そうと思うんだけど、いい?」

 鬼はそれを聞き、綱から手を離し、不審そうな目でパルスィとキスメを見据えた。

「この橋姫は信用ができるのか? それに、そっちの釣瓶落としに聞かせるには、事が大きすぎる」
「それは承知してるけど……もしかしたら例の『予言』に絡んでるのは、私と勇儀だけじゃないかもしれないでしょ」

 予言? 事が大きすぎる?
 二人の奇妙な会話に、パルスィは少し冷静さを取り戻した。

「何なのこれ。もしかして、マフラーじゃないの?」
「マフラー? おいお前さん、これがマフラーに見えたのか」
「うっさいわね! 私がさっきもらったのはマフラーだったのよ! 馬鹿にすんな!」
「何の話だ!!」

 勇儀も負けじと怒鳴り返す。放っておけば、首に巻かれたものそっちのけで、取っ組み合いを始めかねない有様だ。
 ヤマメがすかさず、向かい合った二人の間に割って入り、

「まぁまぁお待ち。始めから説明してあげるから。あのねパルスィ。今あんたの首に巻きついてるのはマフラーじゃない。ただ作ったのは私。今年の秋に依頼を受けてから編んだもので、今日旧都に届けに来たのさ」
「ヤマメちゃん、そんなの作ってたの? 私全然知らなかった」
「一応用途は極秘扱いだったからね」

 驚くキスメに、ヤマメは振り向きながらそう釈明する。
 パルスィもそこで思い出した。

「そういえば、確かあんた家で、旧都に用事があるって言ってたわね。あれってこれのことだったわけか」
「そういうこと。けど話せない事情があったんよ」
「私がそう念を押したからだ」

 口を挟んだのは勇儀である。
 彼女は座敷に腰を下ろし、面々を睨み渡した。

「もし事が公になれば、旧都がパニックになりかねない。だから口が堅く、信用のおけるやつ以外は絶対に聞かせられない話なんだ。この意味、わかるな?」

 その時、二つの眼光は、紛れもなく鬼のものとなっていた。
 顔色一つ変えずに、舌を容赦なく引っこ抜ける目だ。立って怒鳴るよりも迫力がある。
 さしものパルスィも、大人しく聞く姿勢になった。キスメの方は言うまでもない。

「心して聞け。ことの始まりは、旧都の成り立ちからになる」

 胡坐をかく勇儀の述懐が始まった。

「この都がどのような経緯で築かれたかは、知っているか」
「……ええ」

 話がいきなり昔に飛んだことに気後れしつつも、パルスィは応える。

 旧都というのは、元々旧地獄に作られた都を略した名称である。
 地獄が経費削減の為にスリム化を行った際、それまで利用されていた広大な土地が切り捨てられ、多数の廃墟を残して、そこで働いていた獄卒の鬼達も移住してしまった。
 その後、地上の幻想郷にて、博麗大結界なるものが作られてから、それまでの妖怪達の秩序は大きな変化を強いられた。人間の数が大幅に減るとともに、限定的な活動を強いられることとなったため、必然的に彼らの存在を必要としていた妖怪達も、多くのルールで縛られることとなった。

「まぁそんなわけで、地上に住んでた鬼をはじめとした大勢の奴らが、そういった束縛に嫌気がさして、当時すっかり寂れていた旧地獄に移り住んだんだが……」
「だいぶ前のことだけどね。私も覚えてはいるわ」
「その中に、人間の巫女も混じっていた。名を臥姫という」
「は?」

 思いもよらぬ単語が出たので、パルスィは間の抜けた声でそう聞き返していた。

「巫女? それって、最近地上から来た、あの巫女の親戚?」
「違う。いわゆる博麗の巫女とは全く血の繋がりがない巫女だ。ただ無関係とも言い難い。ちょっと事情が込み入っててね」
「事情……」

 パルスィの頭を、噂を元に構成された知識が流れていく。

 博麗の巫女というのは確か……異変解決と妖怪退治を生業とする巫女。
 百十数年前に作られた博麗大結界を管理しており、幻想郷を成り立たせている唯一の存在。

 唯一……という条件が、その事情を察するヒントとなった。

「外れクジってことかしら」
「言葉は悪いが、そういうことだ」

 勇儀は苦い口調で認める。
 結界ができた時に犠牲になったのは、妖怪だけではなかったのである。
 人間、特に本来妖怪退治を生業にしていた者達の多くも、その役目を失うこととなった。
 特に巫女というのは非常にデリケートな存在だった。博麗の巫女を除く巫女は、次なる幻想郷にとって争いのタネになりかねない有害な存在だったのだ。
 なので、残らず淘汰されることになった。

「当時の地上の連中は、新しい仕組みの邪魔になる者は全て排除するか隠居させる方針だった。その時まだ小娘だった臥姫も、ただの人間であることを強いられた。けれどもそいつもやはり生まれながらの巫女で、それ以外の生き方を知らなかった。なので、地上を捨てる他なかった。やつは鬼として生き、天寿を全うした」
「………………」

 パルスィでなくとも、眉唾ものの話に聞こえてならないだろう。
 いくら巫女を廃業する必要があったからといって、よりによって地底を選び、鬼の仲間入りをするとは。
 そんな奇特な経歴をもつ存在ならば、もっと地底で有名になっていてもおかしくないのではないだろうか。
 勇儀はこちらの考えを読んだのか、静かに苦笑する。

「お前さんが知らないのも無理はない。旧都に住んでる奴らも、ほとんど存在を知らないんだ。私を含めた四天王と、当時うちに住んでいた古株の奴らだけかな」
「そんな得体のしれない巫女を、よく食わずに取っておいたものね」
「役立たずの巫女ならそうしようとする奴らもいたかもしれない。けれども臥姫には才能があった」
「虎柄のパンツでも編めたわけ?」
「予言だよ」

 鬼の目が赤く光り、パルスィの次弾の軽口が喉の奥に引っ込んだ。

「臥姫は予言者だった。この旧都は、臥姫の能力によって築かれたものなんだ」

 どうやら本題はここからのようである。 
 パルスィは態度だけでも、真面目に耳を傾けている風に装うことにした。
 
「臥姫は死の間際、つまり今からきっかり七十五年前、ある予言を私に残した。それが『旧都崩壊』。七十五年後に旧都が滅び去るという不吉な予言だ」
「ずいぶん大胆な予言ね」
「ああ。大胆すぎる予言だな」

 天変地異、地上の妖怪による侵略、いずれにせよそれが本当になれば、騒ぎになるどころの話ではあるまい。
 ただし、真偽のほどはいよいよ疑わしい。この妬ましくなるほど強大な鬼の都を滅ぼすなど、一体どのような脅威であれば可能となるのか。
 パルスィは旧都が大嫌いだったが、ここが滅びるという話を聞いても、よほどの証拠がない限り信じようとは思わない。
 おそらく、この都に住む者であれば、誰もがそうなのではないか。

「私は唯一、予言のことを知っていたが、その謎を解き明かすことはできないままだった。ただ、当時から七十五年後にあたる今年の見回りは、以前よりも積極的に行うことにしていた。旧都が崩壊するような兆候が、どこかにないかってね」
「つまり、あんたはそれを見つけたというの?」
「………………」

 勇儀が一旦、会話を切った。
 そのまま、もったいぶった所作で腕を組みながら、双眸を閉ざす。
 この期に及んで、まだ出し惜しみするのか。沈黙してしまった勇儀を前に、そう急かしたい気持ちになったものの、下手に触れれば血が滲みそうな静けさを醸し出していたため、パルスィも迂闊に問い詰めることができなかった。

 鬼の牙城を揺るがし、畏怖を抱かせるほどの危機の芽とは、一体何だったのか。

「……神無月の末のことだった」




 ◆◇◆




 旧地獄を呑みこんだ地底最大の洞穴は、今の旧都の広さを倍に広げたとしてもまだ余裕があるほど広い。
 鬼門である北東の反対にある洞穴の南西部は、長年手つかずの状態になっていたが、近年は人口を増す都のため、新たな都市計画に沿って開発が進められているところだった。
 
 勇儀はその旧都の南西部にある、黄泉比良坂を訪れていた。
 黄泉比良坂といえば、かつて男神イザナギが亡くなった妻の女神イザナミに会うため、黄泉へと潜る際に通った道である。
 ただしここは、その伝説の名前を借りているだけで、実際は何の変哲もない、起伏に富んだ岩の丘陵地帯だ。
 地底にある植物は、陽の光の代わりに化学物質や地熱のみならず、妖気も栄養源としているため、旧都から離れれば当然その数は少なくなる。
 なのでここらは、広大なことを除けば、他の洞穴とそう変わらない景観――のはずだった。

 工事を請け負った鬼達は、石を素手で、あるいは猫車などで運んで片づけていた。
 現場の責任者である鬼が、つるはしを肩に乗せて、太い眉をこすり、

「御足労いただき、かたじけねぇです。さすがにぶったまげましたよ。地底に潜ってから初めてと言っていいんじゃないですかねぇ」
「ああ。今朝の大音からして、ただの崩落じゃないとは踏んでいた」

 勇儀は汗だくの鬼の隣で、頭上を仰ぎながら言った。
 ここで落盤が起こったのは今朝のことだった。百年の歴史を持つ旧都にとって、未体験の目覚ましであり、すぐに飛び起きた勇儀は、部下の報告を待つことなく、現場に飛んだ。
 地底の広い空間を占有する旧地獄において、もっとも憂慮すべき災害は地震による崩落である。
 無論、ここが地獄として活動していた頃から、その対策はなされており、旧都を築いた鬼達も、その仕組みを受け継いでいた。都にとって天に相当する上部の岩盤の、術による補強。そしてもう一回り小さな結界が、旧都全体を囲っているのだ。
 今回の崩落騒ぎは旧都とは関わりの薄い、この黄泉比良坂で起こったことだが、その規模は甚大で、鬼達にとってはまさしく寝耳に水の事態であった。

「結界班は? 翁はなんて言ってた」
「それが異常なしだと」
「……こんなでかいものが現れて、異常なし、か」

 背筋を後ろに曲げながら、勇儀は「それ」の頂上まで目線を持ち上げようとする。が、結局叶わなかった。

 山。
 ただの大きい岩ではなく、もはや山と呼んでよい、恐るべき大きな岩が鎮座していた。
 もしくは切り立った崖か。全体が黒く滑らかなために、目線を下げれば洞穴が続いているようにも見えてくる。
 要は視方の差異であり、どこに立っても途方もないサイズと評してよかった。

 間近に立って見上げると、勇儀は久しぶりに、自らの体が豆粒のようにちっぽけになる錯覚が生じた。
 他の鬼であっても変わらないだろう。どれだけ密度を操っても、この常軌を逸した重量感は再現できまい。
 もっとも鬼の力は、その体躯で量りきれぬものがある。上から落ちでもしない限り、所詮岩は岩でしかない。そう思うのが普通なのだが。
 
「負傷者はどこにいる」
「それがですねぇ。負傷といっていいかどうか」
「はっきり言え。何人だ」
「崩落の時に怪我をした者達はいやせん。ただこの岩が落っこちてくる前から、どうも妙なことが起こってやしてね」
「何?」

 岩山に目を奪われていた勇儀は、そこでようやく鬼の方を向く。

「なぜ報せなかった」
「取るに足らない話だったからですよ。地ならしの際に、泣き声や呻き声が聞こえてくるとか、嫌な夢を見たとか。いや、わっしはまだそんなもんは一度も。心身の鍛え方がなっちゃいないんだ、と叱ってやってたんですがぁ」
「嫌な夢……夢……」

 勇儀は繰り返しながら、その場から離れ、他にも転がっている岩石群を見て回った。
 責任者である鬼は、後につきながら語る。

「夢は夢ですよ。ただどうも、今度の崩落でその数がさらに増えたもんで。まぁ確かに、あっしも今回現れた石っこ共は、どうも好きになれねぇ。ここらの石は素直な奴らばかりだったのに、うんともすんとも」

 彼はすでに何度となく旧都の外部を開拓してきた、老練の工人である。
 地底においては、それは誰よりも石と向き合ってきた、ということになる。その意見は軽視できなかった。

「……ん」

 勇儀は近くにあった岩の表面が、湿っていることに気付いた。
 試しに触れ、濡れた掌の臭いを嗅いで、額に皺を寄せる。

「水かこれは?」
「ただの水なのかどうか。水神が中に眠ってるんじゃないかって話してる連中もいますよ」
「もしここらの岩にぎっしりそんなもんが詰まってるとしたら、割ればたちまち洪水になるだろうな」
「道理で。そういや、地底に潜って、都造りをはじめた時も、水神をいくつかなだめましたなぁ。この辺りのどこかに固まってて、長い間見つけられてなかったのかもしれやせん」
「………………」
「ここいらの岩はみぃんな濡れてやがる。岩がべそをかいてるようで気味が悪いと言ってたやつもいたっけなぁ」

 そう聞いた途端、岩肌に浮かんでいる模様が、何かの顔にも見えてきた。
 勇儀は再び、目前にそびえ立つ岩山、そして辺りに転がっている岩に目をやる。

「確かに、薄気味悪い岩だなこりゃ……」

 どれもこれも妙に黒ずんだ岩達。その大きさと関係なしに、何か面妖な気配を共有している。
 隕鉄か、あるいは要石のように霊的な力を帯びているのではない。むしろ何一つ感じない――いや、感じさせてくれない。
 岩陰で沈黙した見えない敵意が、背後から忍び寄ってきている。この違和感は何なのだろう。

「とりあえず、ただの水神ならやりようはあります。岩を砕くのは後回しにして、都の南側に堤防を作ってから、一つ一つ小さいものから崩していく方向で……」
「工事は中止だ」
「へ?」

 鬼が目を大きく広げ、太い両眉を持ち上げる。

「作業してるやつらを引き上げさせろ。ただし朝昼晩と交代しながら、一時たりとも目を離さず、見張り続けるんだ」
「いや、待ってくだせぇ姐御」
「ダメだ。これは決定事項だ。後で人手をやる。それまでに何か異常があればすぐに私に報せろ。いいな」

 呆気に取られる部下を尻目に、勇儀は再び旧都に戻ることにした。
 古い記憶の棘が、微かに震えている。
 
 ――まさかとは思っていたが、やはり今回も的中なのか。

 ついに最後の予言の封が、解かれる日が来たようであった。




 ◆◇◆




「ちょっと待って」

 しばらく黙って経緯を聞いていたパルスィは、そこで話を遮断した。

「一体いつになったらヤマメが絡んでくるのよ。この綱の役割は何なの?」
「実は臥姫の残した絵には……」
「絵?」
「まずは黙って聞け。臥姫の残した予言は、『綱を手にして闇に躍りかかる、一本角の鬼』だった」

 勇儀は一本角の鬼が、自身のことだろうというのは分かった。ただし、その持っている綱というのが、一体何なのか全く見当がつかなかった。
 公にして相談することなく、勇儀は色々と心当たりがありそうな者を探っていたのだが、ある時、予言の他にもう一つ大事な情報があったのを思い出したのである。

「そもそも私は、臥姫から予言の絵を受け取る前に、鬼の力だけではこの脅威に対抗することはできないという話を聞いていた。鬼以外に頼りになる妖怪といえば、私にとってはヤマメのことだった。だから半年前、彼女に内密に相談したら、確かに土蜘蛛の秘伝の一つに、『万本綱(よろずのつな)』という水神の祟りを封じるための綱の製法があるというのを聞いて、これしかないと思った」
「………………」
「で、大晦日までにヤマメにそれを届けてもらうはずで、今日会って無事に渡してくれたところだったんだけど……とんだ邪魔が入った」

 鬼の声のトーンが一段低くなる。面と向かってパルスィを責めてはいないが、責めているも同然の態度である。
 視線に串刺しにされる前に、パルスィは矛先をかわす。

「最初から事情を話してくれれば、私だってこんなことはしなかったわ」
「だから大っぴらに話せない理由があると言っただろう」
「っていうか、あんたなんでさっきこれを首に巻いたわけ?」
「綱があったら、とりあえず首に巻いてみたくならないか?」

 ねーよ。

「それに理由を聞いたって納得できないわ。水神の祟りで滅びる? この旧都が? それにその巫女の予言が本当だっていう証拠もないわけでしょう」
「真実だろうとそうでなかろうと、ことが起こってしまえば、いくら慌てても遅い。準備するのは当然だ」
「ああそう。じゃあ、この綱が私達の首に巻きついてる理由についても、答えてもらいましょうか」
「…………」

 勇儀は、もう一人の当事者の方を向いた。
 パルスィもそれに倣う。
 そして、二人に見つめられたヤマメは、肩をすくめて言った。

「実は私も、どうして二人がその万本綱で結ばれちゃったんだか、理解不能なり。……ふぎっ!?」

 彼女のふてぶてしい片頬を、パルスィは思いっきりつねっていた。

「そこが一番解明してほしい謎で、解決してほしい問題なんでしょうが!! あんた一体どんな作り方したのよ!?」
「たたた……! いや普通に一本一本にしっかり念をこめて編んだだけよ。世界平和、交通安全、安産祈願……ああ、無病息災だけはちょっと土蜘蛛としてのポリシーがアレで」
「こんな時に冗談言ってる場合か!!」

 腹立ちまぎれに、もう片方の頬もつねる。眉の垂れ下がった土蜘蛛の顔が、お餅のように左右に伸びた。
 勇儀が何だか感心したような呆れたような声で、

「お前さん、よくしゃべるねぇ。なんだってここに来た時はあんなに黙りこくってたのさ?」

 あんたがいたからに決まってるからでしょうが、という念を込めて、パルスィは精一杯そちらを睨みつけたが、鬼は赤い目をぱちくりとさせて、「?」を顔に浮かべるだけだった。
 そこでヤマメが赤くなっていた両頬をさすってから、銀のマフラー……もとい万本綱を手に取って、両眉を寄せ、

「うーん、私も勇儀から予言を見せてもらったわけじゃないし、具体的な造り方が指示されたわけじゃないんだよねぇ。だからただ土蜘蛛の伝統的な万本綱を編んだだけで、複雑な念をこめた覚えはないんだけど、なんでこうなっちゃったかなぁ」

 パルスィももう一度、首の綱に触れてみる。よくよく観察してみると、確かにこれはマフラーには見えなかった。
 万本綱という名前通り、やはり綱のような外観で、紋様には銀色の光沢がある。
 肌触りも先程もらったプレゼントとは質が異なっていた。異常なほど柔らかい白蛇の腹のようだ。息苦しくはないが、気持ち悪い。
 キスメがたるんだ綱の中間辺りに触れながら言った。

「ヤマメちゃん。これ、大きな包丁とか、ハサミで切れないかな」
「面白い意見だけど、この太さの蜘蛛糸だと、よっぽどの怪力……の方は人材に困らないか。でも相当の切れ味の刃がないとダメさね。火をつけたくらいで断ち切れるような造りじゃないし。勇儀、臥姫の予言には何か書いてなかったの?」
「特にそういうことは書かれていなかったが……いや」

 勇儀は何かを決心したかのように立ち上がった。

「こうなった以上、ヤマメに直接実物を見てもらう方がよさそうだ。ただし『予言』の隠し場所を知っているのは私だけで、まだ存在を他の連中に知られるわけにはいかない。だから一度うちに帰らないといけない」

 鬼の赤い瞳が、パルスィの方に向く。
 瞬間、内なる橋姫の勘が最大級の警告を発した。

「まさか……」
「当然、お前さんにも来てもらう。何しろ、この綱が外れないんだからな」
「んなぁ!?」

 パルスィの両足が宙に浮いた。

「嫌! 絶対に嫌よ! そこって鬼の溜まり場なんでしょ!? 行きたくなんてない!」
「我慢してもらう。本来嫌がるやつを連れて行こうとは思わないが、旧都の未来がかかってるんだ。ここは首を縦にしか振らせない」
「冗談じゃないわよ! そんな勝手な話、許されるもんですか!」
「パルスィ。言いたかないけど、元々あんたが勝手な行動したからこうなってんのよ」
「ぐっ、そ、それはそうだけど! でも、こんなことになるなんて……」

 予想できるはずがない。鼻白むパルスィは、自己弁護と自己嫌悪の狭間で葛藤する。
 大体この鬼が悪いのだ。あんな風に紛らわしいことするから、こっちはマフラーと勘違いして……いや、それがマフラーだったとしても常識的にはああいうことはしないか。
 振り上げた拳のやり場に困り、追い詰められたパルスィであったが、

「い、いや、やっぱりダメだわ! だってその住み処に向かうってことは、この格好で往来を歩くってことでしょ!?」
「む、確かにそうなるな」
「無理! 変な噂立てられたらどうすんのよ! 地底で生きていけなくなるわ!」
「そうだねぇ。この際パルスィの羞恥心については自業自得だから耐えてもらうにしても、一つ問題が……」
「待ちなさいヤマメ! こんな解けないマフラーもどきを作ったのはあんたでしょ! 責任がゼロとは言わせないわよ!?」
「確かに仰る通り。まぁでも、旧地獄街道を徒歩で行くことはないよ。籠か何かを呼んで隠れて行けば誤魔化せるだろうし。でも一つ問題が……ん? ありゃりゃ?」

 ヤマメの首が窓の方を向く。釣瓶落としがぴょんぴょんと跳ねて、そこから往来の方を覗いた。

「ヤマメちゃん、人がいっぱい集まってるよ」

 確かに、店の外が何やら騒がしい様子であった。
 窓の陰に立って外の様子を確認するヤマメは、あちゃあ……と顔をしかめ、

「誰かがタレこんだんだね。おおかた、さっき飲み物運んできた鬼の兄ちゃんかしら」
「隠密にするわけにはいかなくなったか」

 パルスィの目の前が真っ暗になった。
 このままでは鬼と相合マフラーをしているのが、旧都中に知れ渡ることになる。
 妖怪であっても神経がプッツンして、貧血でぶっ倒れそうになる「窮地」である。

 対して勇儀の方は、こんな奇天烈な事態においても、肝が据わっているようであった。

「で、ヤマメ。問題っていうのは?」
「『予言』の保管場所がもろに鬼のたまり場っていうのは問題だよ。そんなところで橋姫のパルスィが、こんなマフラーっぽいものを勇儀と首に巻いて現れたりしたら、どんな騒ぎになるかわかったもんじゃない」
「なるほどねぇ、確かに」

 旧都で知らぬ者はいない鬼の頭領は、首に巻かれたそのマフラーっぽいものを軽く持ち上げながら、

「予言のことを今広めるのは得策とは思えないけど、この格好を見たら説明をする以前の段階で逆上する奴がいてもおかしくないな。もし忘年会までに外れてくれなかったら、パルスィがどんな目に遭うやら」
「ああー!?」

 ヤマメがいきなり、素っ頓狂な声をあげた。

「わ、忘れてた! アレって今夜だったんだ!」
「ああ。この綱が外れても外れなくても、私は今夜の忘年会に絶対に参加しなきゃいけない。その時はちょうどいいから、お前達三人も混ざるといいさ」
「ちょっと、もしかしてさっき言ってた『アレ』って、忘年会のことだったの?」

 全く自分に縁のない単語ではあったが、大体どんなものかはパルスィにも想像がつく。
 
「その通り。鬼達が今年の苦労を癒すために開く、豪勢かつ肝要な宴だ。ヤマメも数年ぶりに楽しもうじゃないか」
「いやいやいや、パルスィとキスメにはちょっと厳しいんじゃ……覚悟がいろいろと……」

 たらーと汗を一粒流したヤマメの視線が、徐々に二人の方に向く。

「死を……」
「死!?」
「きゃあ!」

 顔を引きつらせて聞き返すパルスィの横で、キスメが小さく悲鳴をあげる。
 死をも覚悟しなくてはならない鬼の忘年会。一体どのような地獄が待ち受けているというのか。

「大げさだな。死んだ奴なんてしばらく出ちゃいないよ」
「『しばらく』って何よ! 第一私達は鬼じゃなくて、橋姫と釣瓶落としなのよ!」

 能天気に笑う鬼に、パルスィは全力でツッコミを入れた。
 部屋の隅にあった手頃な柱に、生き別れが迫る娘を抱きしめる勢いでしがみつく。

「絶対に嫌! 外を歩くのも嫌! 私はここから動かないわ!」
「じゃあ担いででも連れて行く。よっこらせ」
「ぎゃー!! 放せ痴漢!!」

 米俵のように担がれ、パルスィは四肢をばたつかせた。
 ポカポカと背中を殴られても、「よせ、くすぐったい」と鬼はまるで効いてない感じだった。
 このまま外に出てしまえば、ほとんど誘拐に等しい構図である。普通に並んで歩くよりもひどい噂になるだろう。

「まぁ、とりあえずここから動くにしても、パルスィが正体を明かしたくないとなれば……」

 ヤマメは二人の騒ぎを余所に、紙袋をあさっていた。
 側で見守るキスメの前で、二つのブツを取り出す。
 
「……うん。これって、ちょうどいい小道具になるんじゃないかしら」

 担がれたパルスィと、それを担いでいる勇儀は、同じタイミングでそちらを見た。
 
 ただし、続いて浮かべた二人の表情は、陰と陽、全くの正反対であった。
 





(7)


 その飲み屋は、旧都に星の数ほどある酒場の中では、比較的静かな空気が漂っていた。
 暴れ出す者も、悪酔いしたあげく床を汚す者もいない。めいめいがそれぞれの卓を囲んで、飲み食いをしている。
 ただ鬼をはじめとした旧都の妖怪というのは、乱を好むのが性分であり、火種が投げ込まれればすぐに焚きつけて、場を灼熱地獄へと変えてしまうのも毎度のごとしである。
 つまりこの静かな空気も、いってみれば可燃性ガスと変わらないわけだ。
 そんな中、

「たったったっ、大変だぁ~!!」

 と酒場の戸を蹴破って、魍魎が倒れ込むように飛び込んできたのだから、一気に店内は騒然となった。
 早速、入口の近くの席で飲んでいた一人が声をかける。

「なんだぁ! 火事か! それとも喧嘩か!」

 どちらも旧都では日常茶飯事である。
 魍魎はしばらくうずくまったまま震えていたが、やがて声を絞り出した。

「ほ、ほ、ほし……ぐまの……」
「ほし? ぐま?」
「勇儀の姐御がどうかしたのか」

 奥の席にいた大柄な鬼の一人が、のっそりと腰を持ち上げた。
 立てば天井が低く感じるほどの偉丈夫であり、背中に担いだ金砕棒も稲妻を背負っているような迫力がある。
 旧都の南側ではなく、本来は北に住まう強力な鬼であろう。突然現れた客ではなく、そちらに視線を向ける者も幾人かいた。
 星熊勇儀、という名前が出てから、店内の空気もさらに熱を帯びていた。
 地底の生き神に等しい四天王に何かあったとなれば、ただ事ではない。

「そ、そこの表通りで、ほ、ほしぐまの……力の一本角が……」

 魍魎は泡を食いながら続けようとする。
 店の中の者達は、固唾を呑んで続きを聞き届けた。

「歩いてたんだ……」

 一瞬、沈黙が落ちた。
 それから一気に空気が軟化して、どっと笑いが起こった。
 中にはつまらなそうに盃を放り投げる者もいる。

「どこの田舎もんだてめぇは!」
「力の勇儀なら週に一度は都をうろついてらぁ。星熊杯を片手によ」
「ばっ、ばっ、おめぇ」

 魍魎は酸欠のひょっとこに似た滑稽な表情で、まだ必死に何かを伝えようとしていた。

「二人で……並んで歩いてたんだ」
「二人ぃ? どうせ見廻組のもんだろう。年の瀬だから警備強化っちゅうことで……」
「互いの首にマフラーを巻いてだぞ!?」



 なにぃいいいいいいいいいいいいいい!?



 酒場の鬼達のどら声が唱和し、天井が妖気の爆発で吹き飛んだ。
 店にいた全ての客が立ち上がり、厨房にいた主人や手伝いまでも調理道具を持って飛び出してきた。
 そして皆、倒れた魍魎の体を踏み越え、表へと通じる出口に殺到する。
 店はもぬけの殻となり、かわりに興奮した野次馬の大群が旧地獄街道に出現した。

「鬼の四天王が相合マフラーだとぉ!?」
「よくも勇儀の姐御と!!」
「うらやま……いや、けしからん!!」
「本当に羨ましいか!?」
「いや正直、微妙なところだ!!」

 好き勝手に喚きながら、地底の妖怪達は先を争うようにして道を急ぐ。
 件の通りはさほど探すまでもなく、すぐに見つかった。
 旧地獄街道三番通、白虎街十四丁目。その通りにて、行燈行列が行われているわけでもないのに、大層な人だかりができていたのだ。

「どけどけ見せろい!!」

 群衆をかき分けた鬼達は「……おおおおお!!?」と外れた顎が胸の辺りに届くほど驚愕した。

 首に銀のマフラーを巻き、通りを歩く一本角の鬼。
 決して下品な大股ではない。肩をいからせて無頼を気取っているわけでもない。
 その足運びは実に堂々としていて粋で、男衆にまさる膂力を女性ならではの柔らかさで包んでおり、同じ鬼であっても真似ることの難しい魅力を生んでいた。
 地底の妖怪であれば、老若男女問わず憧れるであろうその姿。間違いなく旧都の鬼の第一人者である、星熊勇儀である。

 そして確かに情報通り、勇儀は隣を歩く者と、あろうことか相合マフラーをしていた。
 しかし、その者の出で立ちが、なんとも異様であった。

 その妖怪はなんと、『真っ赤な刺々しい面をつけていた』のである。
 頭部全体を隠せるほど大きなもので、炎に雷を閉じ込めたような荒々しい造りだ。
 背丈は勇儀と同じほどで、足まですっぽりと覆う外套を羽織っていた。
 遠目には性別すら判らない。がっちりした肩幅は男に見えるが、襟からはみ出ている髪の毛の長さは女にも見えなくもない。それも地毛かすら明らかではなかった。

 群衆の一人がゴクリと喉を鳴らして呟いた。

「ありゃあ……雷獣じゃないか……」
「雷獣?」

 周囲の者達が耳を傾ける。

「雷の化身で、獣の神とも云われている。一たび怒りに燃えれば、その炎は天をも突き破るという位の高い妖怪だ。大体は地上で龍の回りをうろついているというが」
「それが旧都にやってきたのか……確かに、勇儀の姐御とあれだけ親密なのには驚いたが、それくらいの妖怪なら納得だ」

 通りの妖怪達は一様に感心して、鬼の四天王とその恐るべき連れが行く様を見送った。

「ねぇねぇお燐。あれ雷獣だって」
「おっかない妖怪が地上にはいるもんだね」

 群衆の後方で背伸びをしていた地獄鴉の少女が浮き立った声で言い、隣の火車の猫娘が相槌を打つ。
 二人とも他の野次馬と同じく、滅多に地底に来ない妖怪に興味津々であった。
 が、

「あれれ?」

 火車の視線が雷獣と一本角のコンビから、通りの反対側を歩いている目立たない影に移った。
 一人はすすき色の髪をした、ふっくらとした服装の妖怪である。そちらは特に気になりはしなかった。
 気になったのは彼女が抱えている桶――の中に入った妖怪である。
 その姿が見えたのは一瞬で、すぐに通りを埋めている人波の中に消えてしまった。

「あれって……キスメ?」
「知り合いなの?」
「うーん、でもとっくに旧都を出たんだと思ってたんだけど、他人の空似かしら」

 火車は腕を組んで首をひねった。




 ◆◇◆




「絶対に失敗だわ……」

 旧都に現れた謎の妖怪――に変身したパルスィは、小声で愚痴った。

「なるべく目立たない通りを選んだはずなのに、これじゃ噂を広める為に歩いてるようなものじゃない」
「どこを通っても噂にはなっただろうし、構うことはないさ。お前さんの顔は誰にもバレやしない。上手く化けたからな」
「もっとゆっくり歩いてよ。ついていくのが難しくなるから」
「おっと、すまない」

 隣を行く勇儀が、相変わらず泰然とした様子で言う。
 注目されることには慣れているのか、彼女はパルスィとマフラーを繋いで歩いていることについて、本当に露程も気にしていないらしかった。

 ただしパルスィの方は、余裕などあるはずもなかった。
 シチュエーションもさることながら、いつもと全く違う身支度をする羽目になったのも、とてつもないストレスであった。
 赤い鬼の面に肩パッド。足元まですっぽり覆う金と黒の外套。恥ずかしいことこの上ない。他人であれば指をさして笑いたいくらいだ。
 こんな格好をして旧地獄街道を歩くなど死ぬほど嫌だった。けれども、隣の鬼と妥協し合った結果、こうする他なかったのである。

 綱を解く手がかりを得るためにも、旧都の北東にあるという勇儀の住み処に行く必要があった。
 ただしパルスィは絶対に自分の素性を知られたくはない、と頑として言い張った。
 実際、ただの橋姫が鬼の四天王とこんなことをしていると知られれば、配下の鬼達がどんなにいきり立つか分かったものではない。パルスィと勇儀がこんなことになってる理由の大元についても、恐慌を避けるために明かせない。

 というわけで水橋パルスィという存在には一旦消えてもらった方が都合がいいという話になり、星熊勇儀の長年の知り合いである謎の妖怪を創り出すこととなったのである。
 まず顔を隠すため、パルスィが乱麻堂でごたごたの末に購入した仮面をつけることになった。
 マントも同じく、乱麻堂で手に入れたものだ。これを着て宙に浮けば、背格好を誤魔化すことができる。
 通りで見物している者達は、勇儀と歩いているのが旧地獄の辺鄙な場所に住む橋姫だと夢にも思わないだろう。

 あとの問題は、移動する手段であった。
 星熊勇儀の身に何かあったという噂は、どうやら『我闘処誇羅』付近を中心に、すでに広まっていたらしく、遠からず旧都全域に広がる可能性があった。
 なので店に籠を呼んでもらう、トップスピードでひたすら通りを鬼の城まで逃げ続ける等、色々な案が出たが、

「こそこそするなんて、私の性に合わん!!」

 と今度は勇儀が待ったをかけた。
 そんなわけで、こちらはその希望通りあえて堂々と表通りを歩いて、勇儀の住み処がある北東の区域へと向かうことになった。 
 もちろんパルスィが猛反対したのは言うまでもない。首がねじ切られても嫌だ、とまで喚き立てた。
 結局妥協せざるを得なかったのは、ヤマメの説得があったからである。
 すでに噂話によってパルスィの背格好が広まっている可能性を鑑みて、あえて全く違う姿を見せて回ることにより、印象を上書きすることができるので、後で元通りになった時に、パルスィの存在を疑われる可能性が減るということだ。
 勇儀をなだめつつパルスィを説得するためにこねた無茶な理屈に聞こえたが、自分の希望だけを押し通すわけにもいかない空気だったので、結局パルスィはやはり、悪い夢でも見ているということにする、ということで条件を呑まざるを得なかった。
 しかし、これはもう極めつけの悪夢といってよかった。
 確かに群衆は勇儀に遠慮しているのか、遠巻きに眺めるだけで近づいてこないのだが、とにかく視線が痛い。
 こんなに他者から注目された経験などないので、なおさらである。真冬とは思えぬ暑さを感じる。
 ちなみにヤマメとキスメは変装をしていないため、二人と知り合いだとバレぬよう、別のルートを使って現地で合流するという作戦があらかじめ立てられていた。

 それにしてもパルスィもまさか、ヤマメのために選びかけていた物を、自分が装備して外を出歩くことになるとは思っていなかった。
 こんな格好で鬼の隣を歩かされ、頼りになるはずの土蜘蛛がいない。なんとも心細い状況である。
 しかもこれから鬼の巣窟に乗り込まなくてはいけないのだ。
 迫りくるプレッシャーに苛まれながら、パルスィは尋ねていた。

「ねぇ。あとどれくらいかかるの?」 
「もう見えてる。あれだ」

 勇儀は立ち止まり、人差し指で示した。

「あそこで私は寝泊まりしている」

 パルスィは面の奥で、あんぐりと口を開けたまま、言葉を失った。

 勇儀の指の先には、『城』があった。
 それはこの層に下りてきた時には、否応なしに目に入れることになる、旧都で最も大きな建物である。
 櫓と塔に囲まれた天守閣。雪の冠を頭に戴いた、鬼瓦なのかしゃちほこなのかは判らないが、鬼の角を想わせる巨大な二つの飾り。
 おそらく城下で篝火がいくつも焚かれているのだろう。足元から灯りを受けたその城は、見ているうちにせり上がっていきそうな迫力があった。

「といっても、私一人が住んでるわけじゃない。仲間が大体二百くらいで、面子はちょくちょく入れ替わる。鬼は放浪が好きだからね。私の部屋はあのてっぺんだ」

 勇儀が指しているのは、天守閣の上方であった。
 橋の下にある洞穴に住んでいる橋姫とは天地の差だ。パルシウム過剰でこめかみから血が吹き出そうになる。
 考えてみれば、この鬼は旧都でトップクラスの鬼なのだから、当然トップクラスの豪邸に住んでいても不思議はなかったが、やはりそのスケールには肝が潰れる。 
 
「まぁ、今回はこれのせいでお互い不便なことになってるが、いい機会だと思って堪能してくれ」
「……さっさとこの綱が外れてくれることを願うわ」

 なんとか立ち直ったパルスィは、そう呻いた。
 祈りが通じるなら、来年のクリスマスにサンタの格好で橋に立ってやっていい。花嫁姿でもいい。この状況はそれ以上に胃が痛む。とにかく、一刻も早く綱が解けることをパルスィは望んだ。それからまっしぐらに家に帰って酒でも飲んで寝てしまおう、と誓う。

 と、街道が坂道に差しかかった。
 進むにつれて、視界が妙な色に霞んでくる。漂う妖気が濃すぎて霧状になっているのだ。
 
「玄武街の艮坂。聞いたことはあるか」
「……一応ね」
「こっから先は鬼以外は足を踏み入れない。旧都の真髄が待っている」

 勇儀がしたり顔で、何やら愉しげに語る。
 旧都の鬼門にあたる北東部は、まさに鬼の中の鬼が集まる、もっとも危険な区域だという話である。
 いつの間にやら、野次馬が姿を消しているのは、それと無関係ではないのだろう。

 やがて、坂の勾配が分からなくなるほど霧が濃くなってきた。
 ずっと背丈を誤魔化していたパルスィは、地面に足を下ろしてみるまで、雲の上を歩くような感覚でいた。
 
 霧は坂が終わった瞬間に、唐突に晴れた。
 パルスィ達の眼前に、鬼の顔面を象った、禍々しい門が出現する。
 鋲が打ちつけられた鉄扉を、鮮血の色をした柱が支えている。門の上部には、『鬼ヶ城』と彫ってあった。

 そしてその背後には、輪をかけて迫力のある城が聳え立っていた。
 間近で見ると、ますます圧倒される。本丸は建築物の域を超え、山などの自然の造形物に比肩しうる偉容を誇っている。
 門の他に、城につきものの石垣の類が存在しないが、その理由は説明されずとも本能的に理解できた。
 濃密な妖気と酒の香り、それらとない混ざった鬼の「におい」が結界の役割を果たし、曲者を阻んでいるのである。
 無論、鬼ではない自分もまた、戦慄を禁じ得ない。
 
「パルスィちゃん」

 その声が気つけとなり、パルスィの意識が現実へと舞い戻った。
 見れば、霧の奥から釣瓶落とし、そしてその後ろから土蜘蛛が現れるところだった。
 ヤマメは普段と変わらぬ足取りで近づいてきて、確認してくる。

「二人とも、段取りはわかってるね?」
「ああ」
「…………」

 勇儀は軽い声で応え、パルスィは沈黙を保ったまま首肯した。

 四人が門の前に立つと、何の合図もなく、扉がきしみながら、上に口を広げていく。
 パルスィは錆びた鉄の悲鳴を聞きながら、先に待ち受けているであろう地獄を予見していた。
 あるいはこの音も、苦しみ悶える未来の自分が、警告しているのかもしれなかった。






(8)


 城に入ったパルスィ達を出迎えたのは、どこからともなく聞こえてくる銅鑼の音と太鼓の響き。
 そして玄関口に一人立つ、青黒い巨漢であった。
 勇儀が片手を上げて、溌剌とした声をかける。

「今帰ったぞ左の字」
「御意に」

 巨漢は目礼した。
 一目、ただの鬼ではないことが分かる。
 腕も胴も太く、肩までも筋肉で膨れ上がっている。その表面にあるいくつもの生々しい古傷の痕は、百戦錬磨の闘士であることをうかがわせた。おそらく野卑な毛皮の上着の下も、多数の傷が隠れているのだろう。髭と一体化した黒髪には白いものが混じっており、マタギに転職したばかりの壮年の古武士、といった風貌である。
 しかし、特に強烈な印象を与えるのは、その顔だ。不動明王の片目を刀傷で塞げば、このような悪相になるのではないか。

 炎の色をした右目がぎょろりとパルスィ達の方を向く。

「黒谷ヤマメ殿だけかと思えば……これはまた……変わった客ですな」

 勇儀が軽く頭を動かして、他に誰もいないことを確認した。
 それから片目の鬼に近づいて何やら耳打ちする。

「……少し厄介なことになった。とりあえず下の連中には、私のツレがやってきていると話しておいてくれ。後で詳しく説明する」
「嘘、ということですか」
「背に腹は代えられん。大事な客人だというのは本当だ」

 橋の上で、他人のひそひそ話を聞いて集め続けた過去を持つパルスィである。
 この距離なら二人が何を話しているのか、小声であってもよく聞こえた。

「その首に巻かれてるものも、例の『予言』と関係があるのですか」
「これからそれを調べることになる。まだあのことは伏せておけ。それと宴の準備も適当に始めてくれていい」
「……世話役を回しましょうか」
「後で頼むかもしれないが、とりあえずその必要はない。まぁ何かあったらこっちから呼ぶさ」

 鬼がうなずいたところで、内緒話が終わった。

「では、二名の客の名を、この場でお聞かせ願いたい」

 勇儀が振り向く。

「桶に入ってるのは釣瓶落としのキスメ、そしてこっちの面をしているのが……」
「ミズメよ」

 パルスィは一言で自己紹介を片づけた。
 鬼の城にいる間は素性を隠すため、この偽名を使うという話になっていた。
 できればもう少し気の利いた名前がよかったのだが、覚えやすく反応しやすい名前だということで、これを採用することになったのである。

「ミズメ殿とキスメ殿……ですか」

 巨漢の鬼が目の前に立つ。
 パルスィは後ずさりしたくなる気持ちをこらえ、面の奥でその眼光を受け止めた。
 はたしてどうなることかと思ったが、

「お初にお目にかかります」

 鬼はなんとその場で軽く頭を下げた。
 それでもパルスィより頭の位置が高い。

「それがしは左近。我らが鬼ヶ城にようこそお越しいただきました。客人に不便はさせぬ所存故、どうかおくつろぎいただきたい」

 まさか鬼にこのようなかしこまった態度を取られるとは思っていなかったため、パルスィは完全に呑まれた。
 旧都の南側で見かける、粗暴で品位に欠けた鬼と違い、いかにも朴訥で礼儀をわきまえた印象の武人である。
 ただし、

「私には挨拶してくれないのかね」

 左近の顔が歪んだ。まるで己の虫歯に話しかけられたようなしかめ面だった。

「ようこそ黒谷ヤマメ殿。一昨年の宴以来、久方ぶりですな」
「どうも、旦那もお元気そうで何より」
「………………」

 左近は一切、ヤマメの方を見ていなかった。口調は馬鹿丁寧だが、片眼が何やら不穏な光を帯びている。
 どうやらヤマメは、この鬼とそこまで仲良くないらしい。というよりパルスィの目には、嫌われているように見えた。
 両者はそれぞれ、旧都の奥深くに住む者と地底の浅いところに住む者なので、これが通例の光景とも言えたが。

「では勇儀様、また後ほど」

 鬼が目礼して城の奥へと去っていく。
 パルスィは、ホッと息を吐いた。面のせいで額の汗をぬぐえないのが何とも気持ち悪い。

「今さらだけど、やっぱり好かないねぇ。こういうやり口はどうも」

 勇儀が頭をかきながらぼやいている。鬼は嘘や虚飾を嫌う。本音で事実を暴露できない状況が苦痛なのだろう。
 パルスィも正直、変装して偽名を名乗るというのは腹立たしいことだったが、正体がバレて鬼に名前を憶えられるよりは一万倍マシである。

「……ねぇねぇ……パルスィちゃん」
「ん? 何?」
「ミズメちゃんって呼んでいい?」
「…………」

 パルスィは無言で、笑みを向けるその釣瓶落としの額に、デコピンをかました。

「じゃあとりあえず、ついてきてくれ。まずは臥姫の遺した、例の絵を見てもらう」




 ◆◇◆




 勇儀を先導役に、四人は鬼ヶ城の廊下を行く。
 パルスィは無言で歩きながら、面の奥で素早く眼球を動かし続けていた。
 どの廊下も左右に広く、天井が高く、一抱えできるほどの太い柱も並んでいる。
 見た目は木製だが、本当に木でできているのだろうか。床の質感も金属に似ていて、やたら頑丈そうである。何らかの術を使っているのかもしれない。
 壁の模様は一見出鱈目で乱雑だが独特の雰囲気が漂っており、歩いているだけで百鬼夜行の仲間入りをしたような気分にさせられた。
 そしてこの鬼特有の妖気。先程から殆ど住人とすれ違わないのは幸いだが、曲がり角でどんな金剛力士と鉢合わせるか知れない。

 パルスィは我知らず、呼吸が早くなっていることに気付いた。
 背中が汗をかいているのは、服装のせいでも廊下の室温が高いせいでもない。
 ある程度覚悟はしていた。それでも、自分の認識はやはり甘かった。
 いざ鬼の根城に来て歩く心境は、蛇の巣穴に迷い込んだ野鼠の気分に等しかった。
 ここは旧都の秘奥中の秘奥。決して気を抜いてはならない。さもなくば食われる。橋姫の勘がそう警告し続けている。

「ところで、あの左近ってやつが……ここで二番目に偉い鬼なわけ?」
「いや、仮の副将軍って言った方がいいかな」

 勇儀がこちらの心境を察した様子もなく、気さくに答える。

「今ここには若い連中も多く残っていて、左近はそいつらのまとめ役を買って出ている。四天王で残っているのも私だけだ。他の奴らはどこで何をしてるやら」

 からからと、廊下に鬼の首領の笑い声が響いた。
 らしいといえば、らしい仕組みかもしれないが、パルスィにはずいぶんいい加減な話に聞こえた。
 ここでは、きちんとした階級制度もないようだ。そもそも土の下に潜った妖怪の多くは、地上の複雑で面倒なルールを避けて潜ったのだから、ある程度受け入れやすい話ではあるが、それにしても適当である。

「ただしこの鬼ヶ城に住める鬼は、旧都の鬼の中でも精鋭中の精鋭で、誰であっても入れるわけじゃない。そういう場所に来ているんだと知っておけ」

 幸運に感謝しろ、とでも言いたいのかもしれないが、鬼嫌いのパルスィは大凶を引いた気持ちにしかならなかった。
 今さら嫉妬の神様に期待していた自分が大馬鹿だったのだろう、きっと。

 勇儀の先導で、四人は外へと通じる回廊から、本丸の裏にある小さなお堂の前に来た。
 パルスィの願いが通じたのか、幸いなことに、玄関で会った左近以外の鬼とすれ違うことなく目的地にとたどり着くことができたようだ。

「ここが……」

 勇儀はお堂の扉を親指で示し、

「臥姫の仕事場だ。中はあいつが生きていた当時のままになっている。私が譲り受けた予言の絵も、ここに保管してるのさ」

 つまりこの奥に、今回の事態を引き起こした謎の根幹が眠っているというわけだ。
 ただしそこでまた、勇儀の台詞がパルスィの耳に引っかかった。

「ここに来る前もそんなこと聞いたけど、なんなの『絵』って」
「ははは、そういえばまだ、臥姫の意味についても教えてなかったな」

 勇儀は可笑しそうに喉を鳴らして言った。

「臥姫っていうのは、あいつが鬼になってから与えられた名前なんだが、その理由はいつも横臥していたから。一日十八時間以上眠るようなやつだったからだ」
「じゅっ、十八時間!? えー!!」

 そう飛び上がって驚いたのはキスメである。
 「ひどいときには丸一週間眠っていたこともあるぞ」と鬼の話はさらに続き、パルスィも絶句した。
 ヤマメもこれは初耳だったらしく、呆れたように、

「恐ろしくずぼらな巫女だねぇ……セミの幼虫じゃあるまいし」
「寝たくて寝たいわけじゃなく、そういう体質だったのさ。それにただ眠っていたわけじゃない。その間必ずあいつは夢を見みていた。その夢が、なぜかいつも現実のものとなる」
「だから予言の絵、なのね。けどわざわざ絵で描かなくても、口で伝えるなり書き記すなりすればよかったんじゃない?」
「あいつの場合、話したり文字で表したりすると、夢の印象が濁ってしまったらしい」

 パルスィもようやく合点がいった。
 巫女の予言といえば、祈祷だったり、鏡を覗き込んだりするのが相場だと思っていたが、その臥姫とやらはずいぶん変わり種だったようだ。
 まぁ変人でなければ、地底に引っ越して鬼の仲間入りをするはずもあるまい。

 ではその問題の絵というのは一体どのようなものだったのか。
 勇儀の逞しい腕が、扉の閂にかかる。

「鬼以外でここに誰かを入れるのは初めてなんだが、まぁ事情が事情だから、臥姫も許してくれるだろう」

 閂が外され、両扉がゆっくりと押し開けられていく。
 その向こうは真っ暗であった……が、

 ――この香り……墨?

 パルスィは御堂の奥から漂ってきた、その匂いの正体を悟った。
 だが墨だけではない。地底ではあまり嗅ぐことのない、古い紙の匂いがする。

「足元には気をつけな」

 勇儀が手をかざすと、その先に鬼火を生まれた。
 ふわり、と室内に白色の光が移動する。

 キスメとヤマメが息を呑む。
 パルスィも面を外して、その光景の前に立ち、目を見開かざるを得なかった。

 光を浴びて、お堂の中で一斉に目覚めた幾千もの墨絵が、四人を出迎えていた。
 掛け軸のようにきちんと飾られたものや、釘で留められたもの。壁はもちろんのこと、通気用らしき窓を除けば、天井にまで貼られている。
 どれも並大抵の技量ではない。絵が生きている、という表現を超えていた。
 一つ一つの紙の中で息づく別の世界が、今にも動きだし、飛び出してきそうなほど。

「すごいねこりゃ……」

 一歩踏み入ったヤマメが、感嘆の声を漏らす。彼女の言葉は、パルスィの気持ちをそのまま代弁していた。
 よく見渡してみると、飾られているものだけではなく、絵巻らしき巻物もたくさん積まれているのが分かった。
 地底に墜ち、人から鬼に変わり、この部屋にこもり、生涯をかけてこれらの作品を生み出し続けた巫女。

 狂っている。
 そして、その『狂いの美しさ』を目の当たりにし、地底の妖怪達は感嘆していた。

「あ……」

 キスメが小さく声を漏らし、壁の絵の一つに近寄る。

「おっとキスメ、触っちゃだめよ」
「うん……これって人食い広場?」

 彼女は一枚の絵を指して尋ねる。
 確かにそれは、パルスィも知っている、あの風紀も品格もないくせに物だけは豊富なイカれた市に似ていた。
 勇儀がうなずいて解説する。

「当たりだ。ただし大体百年前、つまり今の人食い広場ができる前に書かれたものだ」
「どういう意味?」
「臥姫は旧都の設計者でもあったんだ。こっちも見覚えがないかい?」

 勇儀が別の絵を指す。
 大きな通りを様々な鬼達が、籠を担いだり踊ったりしながら行進している。
 それは旧都における一番大きな通り、すなわち旧地獄街道の本道を描いたものらしかった。
 確かにこうして見ると、ここに展示されている絵は、旧都の風景画が多い。

「つまりこれらの予知夢から生まれた絵を元にして、この旧地獄を都に変えていったってことだな」
「へー、知らなかった。私達土蜘蛛も工事に参加したことはあったけど、まさか巫女の予言が都の設計図だったとはねぇ」
「真相を知っていたのは一部の鬼だけだ。仲間入りしたとはいえ、人間の巫女だった臥姫が考案したとなれば、反対する者も少なくなかっただろうから。けど私ら四天王をはじめとした鬼の頭達は、全員それを受け入れた。無視するにはあまりに魅力的な図案だったんだ。現に旧都は、あれからずいぶん豊かな都になった」

 紙の一つに勇儀は目を落とし、懐かしそうに語る。

「もしかすると、あいつは純粋な予言者じゃなかったのかもしれない。旧都で生きる者の秘めたる願いを聞き届けて、それを眠りの中で形にする能力だったんじゃないか、とも思ってるんだ」

 感慨深げな鬼の横顔を、パルスィは意外な気持ちで眺めていた。
 あるいはこの鬼は、その臥姫とやらを鬼の仲間として認めていただけでなく、それ以上の親しみを抱いていたのかもしれない。
 地底にて鬼に堕ち、鬼に好かれた人間の巫女。
 けれども彼女がどのような人物だったのかどうかについては、パルスィはさほど興味が湧かなかった。
 ただ妙に気になったのは、

「例の予言の絵には旧都の崩壊が描かれていたんでしょう。それは一体誰の願いごとだったわけ?」

 何気ない疑問だったのだが、全員の視線が集まってきた。
 もっとも、すぐにその問いに答えられる者はいなかった。

「確かに……あいつの予言はいつも、旧都を繁栄に導くものだった。なんで最後になってあんな予言を……」

 勇儀もパルスィが予想した以上に、神妙な面持ちになって考え込む。
 ただしそれはほんの一時で、すぐに彼女はかぶりを振り、

「いやまぁ、あくまで能力云々は私の考えだ。忘れてくれていい。とにかく今は、皆に予言を見てもらうことにしよう」

 勇儀は奥の間に足を向けた。
 首と首が繋がっているパルスィも、そちらに引っ張られる。
 察するにその小部屋は、臥姫の寝所らしかった。布団はもう敷かれてないが、枕台らしきものが置いてあったから。
 勇儀は枕台を持ち上げ、その下を漁り始める。どうやらそこが隠し場所になっているらしい。

 パルスィはその間、改めて臥姫の遺した業績を眺めた。
 橋姫としては、地上を妬んでいてもおかしくない彼女の部屋に、嫉妬の念が残っていないというのが意外だった。
 これだけ墨絵がひしめいていても、荒々しい感じを抱かせず、神聖で静謐な空間になっている。故人は穏やかな性格の持ち主だったのかもしれない。

 けれども彼女が遺した最後の予言は、旧都の崩壊だという。その崩壊とは、一体何を意味しているのか。
 少なくともパルスィの頭では、この頑強な鬼の都を手軽に滅ぼせるような手段など……


「ないっ!?」


 勇儀が大声をあげたので、パルスィは思わず飛び上がりかけ、非難する。

「いきなり大声出さないでよ」
「無いんだ!! 臥姫の絵が見当たらない!!」
「はぁ!?」

 残りの二人にも聞こえていたらしく、キスメとヤマメはすぐさまこちらに駆け寄ってきた。
 勇儀が手にしている箱の中は、確かに空っぽだった。
 ヤマメが扉の方に目を向け、

「誰かが入った形跡はなかったの?」
「わからん。ここに住んでる奴なら、入ろうと思えば誰でも入れる。けど、この絵の隠し場所を知っているのは私だけだ」

 箱を持ち上げて逆さまにして、勇儀は覗き込む。

「予言の絵だけじゃなく、形見の筆まで盗られてる。鬼の城で盗みを働くとは……」

 突然、彼女の背中から、猛烈な妖気が噴出した。
 壁に飾られた絵がはためき、建物全体がかすかに揺れる。
 口調は冷静だが、相当お怒りのようだ。空気が落ち着いた後も、彼女の首筋に浮き出た血管は、まだ残っていた。
 けれども、気持ちが波立っているのは、勇儀だけではなかった。

「じゃあ、パルスィちゃんの綱を解く手がかりも、旧都を救う手がかりも……」

 キスメが言いかけて、ハッと自分の口を押さえる。
 パルスィは一言も発さない。けれども自らの首に巻かれたままの綱には、五つの爪が食い込んでいた。
 





(9)


「大問題ですな」

 話を聞き終えた左近は、腕組みしたまま、そう唸った。
 勇儀と同じく怒りを押さえつけている様子だが、こちらの方が外見上、さらに凄まじい形相となっている。
 あえて表現するなら、片目の不動明王から、毒餌を舐めた土佐犬の化け物に変わっていた。組んだ青黒い腕の襞が増え、はち切れそうなほど膨らんでいる。

 向かい合って胡坐をかいているのは勇儀。その後ろにはパルスィ達三名。他には部屋に誰もいない。
 ここは鬼ヶ城の本丸ではなく、外にある櫓の一室である。
 あまり人が立ち入る場所ではないらしく、散らかってはいないが、なんとも簡素な造りで、床の間に刀が一つ飾られている他には何もない。窓すらない。緊急の密談に使うにあたっては、うってつけの場所のようだった。

 勇儀はここまでのいきさつを、全てこの片腕である左近に話していた。
 すなわち、ミズメならぬ水橋パルスィの素姓と、知り合うことになったきっかけ、その後のことの顛末をである。
 左近はお面をしたパルスィの正体が橋姫だということについては、初めの対面の時に看破していたようだ。
 だが敢えて、勇儀に何か考えがあるのだろうと判断し、黙っていたらしい。

 すでに彼は予言の存在についても聞いていたらしく、疑問を挟むことなく真剣に耳を傾けていたが、パルスィと勇儀の首が万本綱で結ばれた経緯だけは、やはり釈然としなかったようで、わずかに片眉を歪ませていた。
 しかし話が『予言』の絵の窃盗に及んだ時は、それまでと比べ物にならぬほど、その顔に怒気がみなぎった。

「盗まれたものも大事なれど、不愉快なのは『ここ』でそれが起こったことにあります。勇儀様が見回りに出ている間、城は蟻の子一匹たりとも侵入を許しておりませぬ。ゆえに」
「ああ。つまりは、そういうことだろうね」

 勇儀も低い声で肯定する。 
 外から侵入したものがいないとなると、内部の者による犯行。
 すなわち鬼ヶ城に住む鬼の誰かが盗みに入ったということなのだ。

「獅子身中の虫とは……ならば今夜の催しは取りやめ、早急に取り調べを行いましょう」
「そうしてもらいたいところだが、今回はできるだけ慎重にやってくれ。下手に一人一人に尋問して回れば、予言のことに関する噂が立つかもしれない。危機に備えて一致団結しなければならないこんな時に、結束を乱したくはない。それが犯人の狙いかもしれないしな」
「お言葉ですが」
「言うな。わかってる」
「…………」

 左近の視線は一度、勇儀の首に巻かれた綱に走っていた。
 今鬼の大将がこんな馬鹿馬鹿しい状態に陥っているというのに、結束も何もない。そう言いたいのだろう。

「とにかく、私らがすでに後手に回ってるのが気に食わない。犯人の目星が全くつかないどころか、目的も不明だ。あそこに入ることは誰でもできた。けど、隠し場所は誰にも話していない。なのに部屋を荒らすことなく、あの予言の絵を発見して盗むことができたカラクリがわからないし、不気味だ」
「確かに。それに、ここで盗みを働く大胆な所業、若い奴らの肝には見あいませんし、我々年寄であればその罪業の重さは骨身に染みています。萃香様ならやりかねませんが……」
「ん、萃香か……」

 勇儀は不意に急所を突かれたような顔になった。

「あいつがここに帰って来てるなら、その技に気付けるのはおそらく私だけだ。私の怠慢ってことになる」
「滅相もない。いずれにせよ、それがしは裏から探りを入れてみます。宴の方はすでに指示を出し終えております故」
「頼む。ところで左の字」

 彼女は空咳をしてから、一枚の紙を懐から取り出した。

「この絵を見てどう思う」

 左近は勇儀から受け取ったその紙を見て、思案気に顎鬚を撫でる。

「はて。臥姫にしては下手な絵ですな。第一何を描いたか、まるで見当がつきませぬ。先週、孫娘が酒に酔って襖に落書きをしたことがありましたが、ちょうどこのようでした」
「そうか。実はこれは私が予言の絵を再現しようとして、さっき描いたものなんだ」
「………………」
「捨てておいてくれ」
「……は」

 左近は何といっていいか分からぬような難しげな顔をして、紙を恭しく受け取った。
 「では御免」と立ち上がり、勇儀以外の者に挨拶することなく、部屋を去ろうとする。
 ただ去り際に鬼は三名を、特に面をつけている橋姫の方を一瞥した。
 何だか癇に障る目付きだったので、鬼がいなくなってから、パルスィはぼやいていた。

「あの鬼は信用できるわけ?」
「あいつが裏切ることはない。私の片腕で、分身のようなものだ。私の首を絞めるようなことはしないさ」

 勇儀は躊躇いなく言ってのけた。彼女が左近に全幅の信頼を置いていることが窺える。
 それから勇儀は胡坐をだらしなく崩し、天井に向かって息を吹く。

「しっかし、わからないねぇ。誰がいつどうしてあの絵を持っていったんだか」

 臥姫の絵がなくなっていることが発覚した後、四人は念のため、御堂の中を探索してみた。
 外に持ち去られたのではなく、もしかしたら同じような墨絵の山の中に隠されたかもしれなかったからだ。
 けれども紙の数が膨大な上に、実物を見たのは勇儀だけなため、探索は難航して仕方がなかった。
 青い風景の絵とか、黄色い部屋の絵とかであれば分かりやすかったのだが、全て墨絵なために尚更探し辛い。
 結局、一刻ほど探って、四人が得たのは徒労だけだったし、勇儀が自信を持って描いた絵については、座興以外の何物でもなかった。

 予言の絵は見つからず、謎は明らかにならないままだ。

「はっきり言って、予言の行方がどうとかいうのには興味がないけどね」

 勇儀が心外なように見てくるのを無視して、パルスィは立ち上がった。
 薄情と思われようと構わない。旧都が滅びようがどうしようが、全くパルスィに関わりの無いことだ。
 もっとも重大なのは、自分と鬼の首が、いまだにマフラーもどきで繋がったままということである。

「じっとしてたって、何も解決しないわ。予言なんかに頼らないで、この綱を何とかして解きましょう。あんただって、このままじゃ不便でしょう。互いに自由になったら、私はすぐ帰らせてもらうわ」
「勇ましいこった。けど斧でもハサミでもどうにもできないっていうこの綱を、どうやって解くっていうんだい?」
「この城にはなんか凄い武器とかないわけ? ほら、伝説の刀とか、いかにもこういった城にありそうだし……」

 鬼の両目が、パルスィを見下げるように細くなった。

「あるにはある。旧都の市場でも出回ることのない優れものがな。けど、意味がない」
「どうしてよ! やってみなけりゃわからないでしょう?」

 やる気のない態度が気に入らなかったので、ついまた語調が荒くなる。
 勇儀は嘆息して、のっそりと腰を持ち上げた。

「ちょうどいいから、見せてやる」

 彼女が向かった先は、部屋の床の間だった。
 そこに飾られている刀を手に取り、力みのない仕草で引き抜いて見せる。
 直刃の刀身が鈍い光を帯びていた。模造刀ではなく、本物らしい。

「これは鬼の戦利品の一つ。かつて鬼を退治して歩いていた名のある人間から奪った刀だ。十分に研いである」
「確かに、よく切れそうね。それなら……」
「いいか、見ろ」

 勇儀が手刀を作って、大きく横に振った。

 澄んだ音が耳を打った。

 反射的に片目をつむっていたパルスィは、もう片方の瞳で、信じられない光景を目撃していた。

 なんと、刀が折れていた。というより『切られて』いた。
 一切角の立っていない、滑らかな断面図。
 対する勇儀の手からは血の一滴も流れていない。というより、痕すらついていない。
 キスメが口を小判形にして、言葉を失っている。

「わかったか。経験を積んだ鬼にとって、自分の肉体ほど頼りになる武器はないんだ。つまり私の力で何とかできないとなると……ふん!!」

 再び、勇儀の剛腕が閃いた。ただし先程よりも速く、強い。
 部屋の中を旋風が巻き起こり、横殴りの風がぶつかってきた。
 手で顔を庇い、後ずさりしていたパルスィの前で、畳から壁まで続く大きな亀裂が走っていた。

 が、その生々しい線上にある万本綱は、相も変わらず繋がっていた。

「……この地底にある武具じゃ、ましてや力技じゃ無理だって話なんだよ」

 片手を軽く回して、鬼は白けた声で言う。
 全身凶器の妖怪にパルスィは怯みつつも、なんとか食い下がった。

「じゃあ何か特別な術をかけて解くとか……」
「それも難しい話だねぇ」

 とこれは、腕を組んで壁にもたれていた土蜘蛛の弁である。

「その万本綱は土蜘蛛の技の中でも指折りの秘技でね。材料に使った糸にも元々強い念がこめられていて、それを何万本も束ねたわけだから、まさしく百年分に近い思念の束なのさ。つまり、解くにもそれ相応の術が必要とされるわけで、莫大な念と複雑な術式が必要になる。そこらの念仏やマントラで、今日明日にすぐ外せるようなもんじゃないわ」

 ヤマメも作り手としてのプライドがあるのか、口調にある種の自信が込もっていた。 
 もちろん、この場合はその出来栄えが良いせいで外せなくなっているので、はた迷惑な自信といってもよい。
 彼女自身そのことを承知しているらしく、面目なさげに息を吐き、

「でも、パルスィの言う通り、じっとしてたって何も解決しないのは確かだし。今から綱をもう一度作ったんじゃ、予言が示した必要なタイミングに間に合わないだろうし、なんとかこれを解く方法を考えてみるしかないね」
「そうだな。消えた絵を見つけるにせよ、術のあてを探すにせよ、とりあえず解決策が見つかるまでは、私はこっちのパルスィと、一緒に過ごさなきゃいけないわけか」
「ひぃ!?」

 パルスィは身を縮めて、鬼から飛び退いた。
 ついに、自分が口に出さずとも最も恐れていた事態になりつつある。

「まぁそうなるよね。綱が解けるまで何日かかるかわからないけど、その間は寝食共にしてもらうことに……」
「嫌! 絶対に嫌よ!」
「勇儀。綱が解けるまで、パルスィの生活面については、何とかしてもらえる?」
「ああ、それはもちろん。飯や寝床に不自由させるつもりはないよ。ほとぼりが冷めるまで、ここに住めばいい」
「ぐわばばばば!」

 二人が勝手に話を進めている。しかもパルスィにとって、絶対に受け入れられない方向へと。
 濁流から必死に陸地へ這い上がろうとする気持ちで、パルスィは土蜘蛛の両肩を掴んだ。

「ヤマメ! 今日からあんたの家に泊めて!」
「ええ!?」
「じゃなきゃ呪うわよ! 夜な夜な枕元で悲しみの歌声を聞かすわよ! マフラーで首を吊って死ぬわよ!」
「いいや、ダメだ。火急の事態が起こった際にも、鬼ヶ城の方が都合がいいさね。ここならヤマメに迷惑をかけることもないし」
「私が思いっきり迷惑してんのよ! あの店からここまでずっと悪夢が続いてんのよ! しかも史上最低のね!」
「なるほど! 悪夢と聞いて思いついたぞ。私がずっと起きてるから、お前さんは寝てるだけでいい。この綱が外れるまで、お前さんが起きる度に私が首を絞めて落としてやれば……」

 発想が鬼そのものであった。
 言葉にならない金切声をあげるパルスィに、勇儀は肩をすくめ、

「軽いオーガジョークだっていうのに。ヤマメはわかったろう」
「いや」
「あれ?」
「っていうか、冗談なんて言ってられる状況じゃないよ。これから忘年会まであるっていうのに、頭が痛くなってきた。私も結構、作った妖怪として責任感じてるし……」

 声を落とすヤマメは、お気楽な彼女には珍しく、沈痛な面持ちだった。
 いい気味だ、もっと苦しめ、などとパルスィは思うことができなかった。
 そんな顔をしないで、私をなじってほしい。ドジを踏んで、貴方の功績を台無しにしてしまったのは、私の方なんだから。
 という台詞が口から自然と……。

 ……出るような性格なら、そもそも橋姫などになっていない。
 パルスィは、本音を百倍希釈して、そっぽを向きながら言う。
 
「誰かを責めたって解決するもんじゃないってことは、もうわかったわ。いいから、これが解ける方法のことだけを考えなさいヤマメ」
「ごめんねパルスィ……」
「ま、あんたのことだから、これを解く方法を知っているのに、わざと黙ってるんじゃないかと少し疑ったけどね」

 パルスィにしてみれば、それこそ友の自責の念を和らげてやるための、精いっぱいの冗談だったのだが、

「………………」
「ちょっとヤマメ!! 何で目をそらすのよ!?」

 そう詰め寄ると、慌てるヤマメは壁に背中をつけ、忙しく顔を振り、

「ち、違う違う! わかってたら何とかするって! なんにもないから!」
「ヤマメェ!! あんたまさかやっぱりこの状況が楽しいからしばらく眺めてようなんてことずっと考えてたんじゃないでしょうね!?」
「いやそれはさすがに……!」
「今すぐ吐かんかいおんどりゃー!!」

 目を血走らせながら、パルスィは土蜘蛛の胸倉を締め上げる。
 十秒前とはうって変わって、友情もへったくれもない光景である。
 側で見かねた二人が止めに入る。

「待て待て。ヤマメは嘘をついていやしない。私は嘘の臭いに敏感なんだ」
「いいえ! こいつは何か隠してるわ! 私は秘密の臭いに敏感なのよ!」
「パルスィちゃん止めて! 喧嘩しないで!」
「黙ってなさいキスメ! 喧嘩じゃなくてこれは尋問よ! ゴーモンに変えたっていいわ!」

 胸倉をつかまれるヤマメは、息苦しそうに瞼をきつく閉じながら、

「い、一応作ったのは私だからさ! 心当たりがないわけじゃないんよ! もしかしたら『水気』と何か関係があるんじゃないかと思って……!」

 すいき……?
 聞き慣れない単語がまたもや出てきて、パルスィは眉根を寄せる。
 ところが隣にいた勇儀が、大発見したかのように声を張り上げた。

「そうかぁ!! お前さんが橋姫だっていうことをすっかり忘れてた!」
「はぁ? どういう意味?」
「だから最近旧都の西部で起こった崩落事故が、水神の祟りかもしれないという説について話したろう。ヤマメに万本綱を頼んだのは、土の気でそれを縛るためだ。けれども、その水神を縛るための力が、お前さんに作用してしまったのだと考えると、納得がいく。橋姫っていうのは水と関わりの深い妖怪でもあるからな」
「………………」

 五行相克。
 人間界においては、五行相生と共に広く知れ渡っている法則である。
 水は火に打ち克ち、火は金に打ち克ち、金は木に打ち克ち、木は土に打ち克ち、土は水に打ち克つ。
 五行はそもそも森羅万象を木火土金水の五元素の因果で説明するもので、例えば『火』は紅色、南、夏を表し、『金』は白色、西、秋を表すといった具合に、色や方角、季節や星にいたるまで様々なものに当てはめられており、後に陰陽論と結びつき、陰陽五行説として知られるようになった。
 ただしそれは、人間界の話である。人は原理から世界を解釈するのに対し、妖怪は事物に働く原理を直に感じ取ることができる。もちろん、その能力に差はあるが、本能的に慣れ親しんでいる法則だといってよい。
 
 さて、確かにパルスィは水が好きである。
 音を聞くのも好きだし飲むのも好きだし浴びるのも好きだ。けど、嫉妬の妖怪という自覚はあっても、水の妖怪という自覚はない。河童のように水を操れるわけでも、泳ぎが得意なわけでもないのだから。
 気がどうのこうの言われても、専門的なことは一切解らなかった。
 それに、

「でもそれならなんで勇儀さんの首に巻きついてるのかな?」

 キスメがパルスィの疑問を代弁する。
 ヤマメもまさしくといった感じで同意して、

「そう、それが謎だったんよ。だからただの勘違いだと思ったんだけどねぇ。でも水気じゃなくて別の力が働いているとしても見当がつかないし、あーもう作ったのは私だっていうのに」

 拘束から解放された彼女は、自らの作品を手に持ってみて、さらに悩ましげに思案を始めた。
 謎は解けるどころか、さらに深まってしまったようだ。

「いや、手がかりは他にもあるぞヤマメ」

 そう言ったのは、自分の首に手をやっていた勇儀である。

「黄泉比良坂だよ。元々そこでこれを使う予定だったんだ。盗人探しは左近に任せて、明日私らで現場に行ってみることにしよう。異論はないな」
「あるわ」

 パルスィは真っ先に挙手する。

「行くのはもちろん構わないけど、どうして明日なの?」

 その問いに、鬼は大真面目な顔で言った。
 
「それはだな。あと二時間もしないうちに忘年会が始まるからだ」
「知らんわい!!」

 橋姫のツッコミキックを、勇儀は簡単に払いのける。
 もう一度パルスィは獣となって飛びかかりながら、

「どんだけ飲み会が好きなのよ! こんな状況でよくそんなことが言えるわね!」
「まぁ私らがこんな姿じゃ機嫌を損ねる奴らも多いだろう。だが事情が事情だ。必要なら私が拳で黙らせる」
「参加しなきゃいいだけじゃないの!!」
「ダメだ。私は絶対に顔を出さないといけない。ということは、首が繋がっているお前も参加するということだ。今の私とお前は一心同体だからな」
「『二心同体』だから最悪なのよ! さては最初からそのつもりだったのね!? この大嘘つき! 鬼の癖に!」
「嘘なんてついていない。詳しく話さなかっただけだ」
「何たる詭弁!」
「よぉし! それじゃあ順番が前後してしまったが、みんなにこの鬼ヶ城を案内してやろう!!」
「そんなことより、この綱を外す方法でも考えなさいよバカ鬼!」
「お前は特に真面目に聞いておいた方がいいぞパルスィ! 何しろこの後忘年会に参加して、しばらく鬼ヶ城で一緒に暮らすかもしれないんだからな」
「い、い、い、一緒に……!」

 この鬼と一緒に暮らす。この鬼の巣窟で。首と首が繋がった状態で。
 髪の毛をかきむしっていたパルスィは、

「…………う~ん」

 ついに神経の限界に達し、その場で倒れた。

「きゃー!! パルスィちゃん!?」
「パルスィ! しっかりおし!」

 キスメとヤマメが慌てて介抱する側で、全く理解していなさそうな勇儀が、何事かと頭を掻く。
 パルスィの地獄はまだ、一丁目を過ぎたばかりであった。




 ◆◇◆



 

「ここの城の防備は、ちょいと変わっていてね。旧都の結界と同じ仕組みなんだ。つまり、弱い刺激には反応せず、強い刺激に反応するようにできている。まぁそんなものがなくても、私らには関係ないんだが、念のためというやつだな」

 鬼の説明が、右耳から左耳へと通り抜けていく。
 パルスィは七割の意識を凍結させ、残りの三割で足を運んでいた。
 側には相変わらず、土蜘蛛と釣瓶落とし。そして案内をする一本角。 
 気絶から覚醒した後、ずっとこんな風に城を歩き回らされているのだが、最早だいぶ感覚が麻痺してきていた。
 というか緊張を通りこし、半ば放心している。

「この階はまだ経験の浅い若い奴らが居住している。大部屋で飯を食って寝てるわけだが、怠けるやつはいない。いつでも心技体を鍛え合うために、どこも丈夫に設計されている」

 廊下を歩く勇儀は、簡潔かつ丁寧な解説を続ける。
 大雑把な性格だと思っていたし、彼女はこの城の主なはずだが、意外にも、こうした役回りを苦にしていないらしかった。

「すごーい、どれも広いねー」

 キスメは畳部屋の大きさに心を躍らせている様子である。
 確かにこの城は、住んでいるのが鬼ばかりなためか、どこもかしこも広い間取りで、頑丈そうだった。
 外面は城のようだったが、中身は温泉旅館とまではいかぬものの、それに近いゆったりとくつろげそうな部屋が多い。 

「鬼の数が少ないように見えるかもしれないが、それは今晩旧都に遊びに出ている奴らが多いからだな。けど間もなく続々と城に帰ってくることだろう。じゃあ、二階に行ってみるか」

 勇儀が階段の方へと向かった。

「より強くて格の高い鬼が、上の方に部屋を持てるんだ。まぁ特別な決まりがあるわけじゃないけど、自然とそうなっている」

 パルスィは後に続きながら、今この城には若い鬼も多いと言っていたことを思い出した。
 今のところ自分の身は安全なようだが、後で状況がどう転がるかは予測できない。けれども相手が未熟な鬼ならば、私の実力でもなんとか凌ぎきれるかもしれない、と一瞬期待したが、

「おっと、ここは今日は使えないか」

 階段を上って回廊に出た勇儀が、足を止めてそう言った。
 パルスィは後ろから覗き込み、顔を強張らせる。

「あー、すみません姐御。不便がなければ、気をつけて通ってもらえますか」

 そこには屈みこんだ半裸の鬼がいた。
 鬼が廊下にいることについては、別に驚くべきことではない。ここは鬼の棲家なのだ。

 問題は彼が、げんのうと板を片手にこちらを向いていることで、その足元の床に『大穴』が開いていることであった。
 よく見ると天井も陥没していて、壁は刃物か何かでズタズタにされた跡があり、暗がりの中に血の染みらしきものも広がっているのが見えた。
 まるで何か猟奇的な殺害現場のようであったが、鬼は悪戯が見つかったかのように笑みを漏らし、

「昨日、那陀が酔って転んで、ここで頭を打ったんです。ちょっと勢いがつき過ぎたみたいで、あっちから歩いてきた官九郎の頭に、那陀の持っていた一升瓶が命中して大喧嘩」
「やれやれ、しょうがないな若い連中は。まだ今夜の宴があるっていうのに」
「またいくつか廊下に穴が開くでしょうねぇ。下っ端の奴らが不平を言いそうだ。あ、ヤマメさんもお元気そうで。いやぁ数年ぶりじゃないですか。不便をかけてあいすみません」

 ヤマメが「今夜はよろしく~」と仲よさげに手を振る背後で、パルスィは先程までの甘い考えを全て打ち消していた。
 転んで頭を打つだけで、この頑丈そうな床に大穴をこさえ、さらに些細な理由で血を見るほど互いを傷つけあう。
 若くても鬼は鬼。そして勇儀の話では、それらがざっと二百名ほどここに潜んでいるということだった。 
 恐ろしや。

「あれ? そちらの方々は……」
「今夜の客だ。宴で紹介する。じゃあまた後で」

 勇儀は矢継ぎ早に言って踵を返し、パルスィ達もそれに倣う。
 ただし、自分の背中にあの鬼の視線が突き刺さっているのが、パルスィには感じられた。

 ……と、「わぁ!」という悲鳴が聞こえて、四人は振り向く。
 げんのうを持っていた鬼が、いなくなっていた。穴に落ちたようだ。

「こりゃ忘年会でどうなることやら」

 ヤマメが半分引きつった笑みでつぶやく。
 そこでようやくパルスィも、今の鬼が自分と勇儀の様を見て、ショックで穴に落ちたということに気付いた。
 肝心の勇儀は、相変わらず悠々としている。

「まぁどうなるかは、蓋を開けて見なけりゃわからないな」
「待って勇儀。蓋を開ける前に下調べさせてよ。忘年会をどうするかの段取りを決めておいた方がいいでしょ」
「よし。じゃあ次は宴会場に向かうとするか」

 勇儀とヤマメの相談により、パルスィ達は城の四階を目指すことになった。
 階段を昇りきると、早速異様な廊下が四人を出迎える。
 長いのはもちろんのこと、端から端まで、物々しい絵が描かれた襖が続いていたのだ。
 勇儀がちょうど、廊下の真ん中にあたる襖に立った。

「ここが今夜、忘年会が開かれる『羅刹の間』だ」

 戸がいっぱいに開かれる。
 中に入ったパルスィは、その部屋の大きさに呆れ果てた。
 今まで見学して回っていた部屋も、鬼の体格に合った設計であり、どれもこれも生活空間としては馬鹿デカい代物だった。

 けどこの部屋はそれにも増して広い。というか広すぎる。一体いくつ畳が使われているのだろう。
 こうして廊下の中点の位置に立っていても部屋全体を視界に収めることはできず、首を左右へと向けなくてはいけない。
 端の壁が霞んで見えた。一般的な人間であれば――いや、パルスィであっても、駆け足で大きく一周すれば息切れしそうな部屋である。

「どうだ! なかなかのもんだろう!」
「す……すごーい!」

 そう歓声を上げたのはキスメであった。
 さっきから主に凄いとしか感想を言っていない彼女だったが、今回は特にインパクトが強かったようである。
 廊下の天井に頭が付きそうなほど、嬉しそうに跳ねていた。

「すごいすごいすごいすごい! パルスィちゃん、私こんなとこ初めて! 上に帰ったらみんなに自慢できるよ!」
「生きて帰れればね」

 パルスィは、ぼそりと呟く。
 あと数刻もしないうちに、この部屋で鬼の群れと呑まなくてはならない。
 想像するだけで、頭の中が鉛へと転じる。

 四人は部屋に入った。
 たくさんの灯篭が天井に備え付けられており、存外明るい。なので、大胆で遠慮のない部屋の内装がよく分かった。
 無地の壁にごつい古畳。花はもちろんのこと、床の間すらない。唯一ある掛け軸にいたっては、『手形』である。
 廊下と反対側にある障子の連なりは、ちょうど鬼ヶ城の正面にあたるらしく、旧都の眺めを一望できるそうだ。
 デザインはともかくとして、大きさだけなら旧都で一番豪華な宴会場、といってもよさそうだった。

「これから定刻までに全員分の膳が並べられるわけだが。パルスィ、お前さんは好き嫌いがあるか」
「別に」
「うちの料理長の腕は確かだ。地上には鬼の舌をバカにする連中もいるが、とんでもなく美味いぞ。それに今夜は滅多に手に入らない上等な酒も用意してある」
「ああそう」
「それと風呂だな。今日は色々あって疲れてるだろうし、忘年会の前に一っ風呂浴びにいこう。私はいつも一日に二度入るんだ」


 ………………。


「だぁ――――!?」

 そこでパルスィは、あられもなく叫び、畳の上につんのめって転んだ。
 度を失い、隣を指さして、土蜘蛛に問いつめる。

「ちょっと!! こ、こ、こ、この鬼と風呂にまで入れっていうわけ!?」
「なんだい。女同士じゃないか。風呂くらい誰かと入ったことないのかい?」
「…………っー!!」
 
 あまりの憤激に、喋ることすらできなくなった。
 慣れた調子で、ヤマメが怒りで荒くなったパルスィの気息を通訳する。

「私やキスメと入ったことがあるけど、出会ってから三十年はかかったような。まぁなんていうかシャイで潔癖症なのよパルスィは」
「最後の二つは余計よヤマメ!」
「昔の話だろう。ここの温泉も自慢の設備だぞ。お前さんが入ったことのない、無間地獄級の風呂を堪能させてやろう」

 そんなもん入ったら死ぬ、とパルスィが言い返す前に、キスメが思い出したように発言する。
 
「あれ、でもパルスィちゃんっていつも水浴びで、お湯はぬるめなのが好きなんじゃなかった?」
「そ、そうよ! 熱いのは絶対だめ! 許さないわ!」
「ぬるめか。じゃあ七十度くらいでいいかい?」
「馬鹿じゃないの!? ゆで卵作ってんじゃないのよ!」
「どっちかといえば、温泉卵かね」
「そこはどうでもいいわよ!」

 頓珍漢な合いの手を混ぜ込むヤマメに、パルスィは思いっきりツッコミを入れてから、不意にある事実に気が付き、

「待ちなさい! 私とあんたは今、首が繋がってんのよ!」

 立ち上がるなり、腰に手を当てて威張る。

「これじゃお互い、服が脱げないからどうしようもないわ!」
「私の方なら大丈夫だ」

 勇儀は、ぐにーん、と自分の服の襟をつかんで、大人がもう一人潜り抜けられるほど伸ばして見せた。
 餅か何かで出来てるのかそれは、とパルスィはツッコミたかったが、口が回らない。

「お前さんの服も、見た感じ、帯で止めてるだけだろう。ん? 中に肌着を着てるのか?」
「だ、だから何よ!?」

 パルスィは一歩退きながら言う。
 胸元を覗きこんでいた勇儀は、破顔一笑。

「じゃあそれは脱ぐときに『破けば』いい。上がったら浴衣を貸してやる。さぁ! 温泉に行くぞ!」

 パルスィはもう一度その場でぶっ倒れ、介抱される羽目になった。






 (10)


 温泉というのは地下から湧くものだ。
 大元は地中深くに溜まっている多様な成分を含む温水が、地熱などをきっかけにして表出するものをいう。
 ならば、地底はよい温泉の宝庫に違いない、と地上から入りにやってくる者達も最近はしばしば見られる。
 そして大抵はガッカリして、湯を浴びることなく汲むだけで帰っていき、それすら途中で捨ててしまう者もいる。
 なぜかといえば、地上の「温泉」と地底の「温泉」では、まるで趣が異なっているのだ。

 まず場所が地面の下というのが問題である。
 周囲に森林や星空などあるはずもなく、灯りもろくに用意されていないためにとても薄暗く、景観の中に楽しめる要素がほとんどない。湯のにおいも地上のものよりクセが強く、温度も平均して高く、怨霊で呪われているものまである。
 つまり地底においては、温泉でさえその例から外れることなく、地上の者達にとって生易しくはないわけで、元々ここらに住む妖怪でもなければ、わざわざ好き好んで入るものではないのである。

 もっとも鬼ヶ城の温泉は、地底の温泉としても地上の温泉としても、極上の部類といってよかった。
 まずここもとにかく間取りが広いこともそうだが、外の眺めも悪くはない。
 鬼火の灯りに照らされて、岩から突き出た水晶が滑らかな輝きを見せており、地上とまた違った夢幻の世界を楽しめる。
 一方で洗い場などもきちんとしており、桶や椅子、鏡はもちろんのこと、シャワーに似た設備も用意されていた。

 岩を流れるお湯の音に混じって、しゃかしゃかと音を立てているのは、妖怪小豆洗い……ではない。
 切り出した岩の椅子に腰かけた土蜘蛛であり、彼女が泡立てて洗っているのは、手前の桶に入っている緑の頭であった。

「お客さん、かゆいところはないかねー」
「だいじょぶでーす」

 ヤマメの軽くふざけた台詞に、キスメの方も楽しげに応える。
 二人とも一応、生まれたままの姿だったが、釣瓶落としの方は裸というわけではなく、ここでも桶の中に入っていた。
 妙な構図であるものの、湯気は肌身を隠すのに十分なほど多いし、第一気にする者が周囲にいない。
 二人とも心からくつろぎ、堪能している。

「温泉って楽しいね。次は私がヤマメちゃんの背中洗ってあげるね」
「はいよ。どうぞお手柔らかにね」
「この後の宴会も楽しみだね。お腹空いてきちゃった」

 顔を拝むまでもなく、泡の冠を頭に載せた彼女が温室育ちのお姫様よろしく、にこにことしているのが知れた。
 ヤマメは洗う手を止め、つい苦笑して言った。

「あんたはすごいねぇキスメ」
「え?」
「ここに着いた時はだいぶ緊張していたのに、今はもう馴染んじゃってるようだからさ」
「だって、ヤマメちゃんとパルスィちゃんが一緒だから安心だもん」

 楽観的な答えが帰ってくる。
 ヤマメとしては、そう信頼してくれるのは嬉しいものの、ここはかの有名な鬼ヶ城である。
 危険度の比は旧都の繁華街どころの話ではないし、万が一のことがあった際にこの釣瓶落としを守りきれると断言することができなかった。
 実際パルスィの方は心配するまでもなく、ここに来た時から相当警戒しており、自分の立場と可能な行動をしっかり見極めようとしているのが分かった。
 それに比べて、まだキスメは世間を知らない甘いところがあるが、贅沢を素直に受け入れられる彼女の性格を、ヤマメはわざわざ捻じ曲げるつもりはない。
 それに旧都を、ひいては地底全体を支配する種族について学ぶのに、ここに勝る教室はないのだから。

「キスメも旧都に来るようになったんだから、きちんと話しておいた方がいいね」
「え、何を?」
「鬼のことさ」

 ざぶん、とお湯をキスメの頭にかぶせて泡を流し、「はい、交代」とヤマメは背中を向けた。

「外面についてはの話はまぁ、いいだけ見本があるからわざわざ私が話すこともないね。大事なのはむしろ、中身の方だ。鬼の中身を知らないと、鬼と付き合うのは難しい。逆に鬼の中身を知れば、なかなか頼もしい妖怪なんだけどさ」
「鬼の中身って?」
「つまり鬼っていうのは…………わひゃ」
「あ、ごめん。くすぐったかった?」
「もうちょい強めにお願いします。それでえーと……そうそう、鬼っていうのは強さに敬意を払う。そして正々堂々としたものを好む。嫌いなのは嘘や卑怯なこと。仲間意識が強いのに、ぶらぶらとあちこち移動したがるとか、変わってるところもあるね」
「そっか。ヤマメちゃんも強いから、勇儀さん達に慕われてるのね」
「あはは、私なんか勇儀に比べれば木端妖怪に過ぎないって」

 これは謙遜でもなんでもない。
 勇儀自身が肩の凝らぬ性格のために勘違いしてしまいそうになるが、ヤマメは一度も彼女を見くびったり侮ったりしたことはなかった。
 鬼の四天王といえば、その実力からいっても正真正銘の怪物である。まともに戦えば、敵う妖怪などこの地底に存在しないだろう。 

 また役割を交代して、ヤマメはキスメの背中を洗ってやる。

「あと鬼は一芸に秀でているのが多いね。料理の鬼とか鍛冶の鬼とかって言葉は人間も使ってるらしいけど……とにかく自分のワザを磨き上げることに執念を燃やしてるんだ。中途半端は認めず、ひたすら完成を目指す。だから自信家だけど、そこのところを褒められると、すぐに機嫌がよくなるのさ。勇儀もその点では変わらないかな」

 「おーいヤマメー。なんか私の噂してないかー」と湯煙の向こうから声がした。
 ヤマメは思わず、首をすくめた。

「……耳はよくないけど勘が鋭いってところも忘れちゃだめだね」
「ふふ」

 くすぐったかったのか、それとも二人のやり取りがおかしかったのか、キスメが笑みをこぼした。

「でも私のまわりに、鬼と知り合いだっていう人、ヤマメちゃん以外にいなかった気がする」
「ああ、それにも理由があるんよ。旧都に住んでる大部分の鬼と、いわゆる『穴暮らし』の連中は、あまり互いに馴染むことがないのさ」

 桶の中の水を流し、ひょい、とキスメの入ったそれを担いで、ヤマメは靄の中を歩きはじめる。

「どうして?」
「いろいろ理由はあって一口には説明しにくいんだけどねぇ。キスメも旧都を歩いている時、鬼を見たでしょ? どんな感じだった?」
「……なんか私が都にいるのが気に入らなかったみたい。市場でも無視されたり意地悪されたりしたし、あんまり好きじゃないかも……で、でもそれは私が弱いからだよね」
「関係ないさ。実際、都をうろついてるのは大抵見てくれだけの鬼で、力に任せて威張り散らすくらいしか芸がない。でも、そんな奴らばかりじゃないんよ。特にこの城に住んでるのは、勇儀も含めて根性の曲がってない本物の鬼達だと思う。ただねぇ」

 そこまで滑らかに語っていたヤマメは、口角を意味ありげに持ち上げ、

「本物だろうと偽物だろうと、地底の浅いところに住む大抵の妖怪が、鬼と気質が合わないっていうのは事実なんよね。……ほら」

 湯船に向かう道の途中で、横を親指で示して言った。

「あんなわかりやすい光景は滅多に見られないよキスメ」



 まさしく土蜘蛛の云う通り、滅多に見ることのできない奇妙な光景がそこにはあった。
 岩をくりぬいたというか砕いて作ったのではないかという、鬼らしい無骨な造りの大型湯船。
 その端で両腕を広げ、岩を枕にしてゆったりと温泉に浸かる一本角。
 彼女の首に巻かれた綱の先では、橋姫がやはり浸かっていた。

 湯船ではなく、樽に。

 つまり、広々とした開放的な浴槽の中に身を沈めている鬼の近くに、わざわざ肩を縮めて樽風呂に入っている橋姫がいるのである。
 そして二人は互いに同じ綱を首に巻いて繋がっていた。
 何も知らない第三者が見れば、これは鬼が考案した、斬新ないじめの手法か何かと思うところではあるまいか。

「湯加減はどうだい」
「熱いわ」

 樽風呂に浸かるパルスィは、鬼の方を見向きもせずに答えた。

「雪であれだけ薄めておいて、熱いはないだろう。ほとんどその中身、水になってやしないか」 
「私が冷たい水に浸かっている間に……」

 パルスィはあくまで相手を見ないまま、口元を歪めて言う。

「……何億という存在がどこか温かい場所で笑っている。そう考えるといい具合に嫉妬が湧くわ」
「まるで嫉妬するために生きてるみたいに聞こえるな」
「それが橋姫ってものよ」
「……暗いな」
「……それに、冷泉の方が好きだから、これでいいのよ」

 やせ我慢ここに極まれり、である。
 地底のよい湯は大抵強い妖怪の集団が占有しているために、誰でも簡単に入れるような大衆的な風呂はどれも質が悪い。なので旧都の鬼ヶ城にある温泉といえば最上級のものであり、選ばれし鬼以外では味わうことのできない秘湯なのである。
 しかも貸切となれば贅沢この上ない。そんな贅沢をどぶに捨てるような真似をしているのが、橋姫パルスィであった。

 パルスィがわざわざこの樽を所望した理由が、熱いのが苦手だからというのは本当である。
 試しに今鬼が入ってる湯に手を差し入れてみたところ、手首から先が溶解するかと思うほど熱かった。
 肩まで浸かれば三分も経たずにアルデンテの橋姫ができあがってしまうだろう。入れるはずがない。
 そしてもう一つの理由は、この鬼と同じ湯に断じて浸かりたくないということだった。
 鬼との裸の付き合いなど、思い浮かべただけで体中に蕁麻疹ができる。

 そもそもパルスィはこの鬼の側で服を脱ぐのも嫌だったのだが、
 「そうなると、お前さんは私とこうしている間、ずっと体を洗えないことになるが」
 という意見に、涙を呑んで、ぶかぶかになることも構わず、無理矢理肌着を足から脱ぐことになった。
 これほど屈辱的な湯浴みも初めてである。
  ……それにしても。

「………………」

 パルスィは目の端で、鬼の姿を観察した。
 引き締まった腕をしていたため、体に無駄な肉などついていないのだろう、と思っていた。
 だが水面に浮かんでいるのは、まさしくパルスィにとって『無駄な肉』であった。
 肉の桃、いや西瓜かもしれない。とにかく下品な破壊力である。
 その上洗い場で見た時は、ヤマメと同じくらい尻もデカかった。
 パルスィは自分のプロポーションに自信はない。よく言えばスレンダー。悪く言えばやせぎす。
 対してこの鬼の体つきは……並ぶだけで惨めな気分にさせられる。
 
 そのうち、勇儀の御機嫌な鼻歌が聞こえ始めた。
 ……期待を裏切らない音痴だ。というか元の歌がどんなものか分からないメロディーだ。
 どうしてこの鬼のやることなすこと全てに、神経が逆なでされるのだろうか。ここまでくると、パルスィを苛立たせる天才といってよい。

「……ねぇ」

 ストレスの種を一つでも減らしたかったので、何とか鼻歌を止めさせるため、パルスィは自分の方から問い尋ねた。

「この後の忘年会って、本当にどうしても出なきゃだめなの?」
「~♪ ん? 今さら怖気づいたか」
「ふん、誰が」

 本音では髪の毛がごっそり抜けそうであったが、この鬼の前でそんな弱みを見せたくはなかった。
 意地を張らない限り、この状況に耐えることはできない。

「師走も無事に終わるはずだったのに、例の水神騒ぎで心身ともにやられて息抜きしたいやつらが多いんだ。そいつらをねぎらってやるのは、鬼の頭である私の務めだ。で、今のところこの綱が外れる気配がないから、お前さんに出席してもらう他はない」

 全部あんたの都合なのね、と言いたいが、そもそもこんな事態に巻き込まれたのは、己自身の行動であったのをパルスィは思い出した。
 責められる相手がいないこの状況で、とんまの橋姫にできるのはひたすらに耐え忍び、蓋をした心の底で妬むことだけだ。

「そろそろ上がりたいんだけど」
「ん、早いな」

 勇儀が湯船の中から立ち上がる気配があった。
 パルスィは一瞬たりともそちらに視線を向けず、洗い場の方へと歩む。

「何ならあっちの二人みたいに、私達も背中を流し合おうか」
「絶対にごめんだわ」

 垂れた紐を引くと、上から滝がシャワー状となって落ちてきた。
 二人は座椅子を一つ挟み、それぞれの場所にて、上がり湯で身を清める。

「風呂に入れば、少しは打ち解けることを期待したんだが、見込み違いだったか……」
「………………」
「一つ聞かせろ。お前さんは鬼が嫌いなのか? それとも私が気に食わないだけか?」
「……両方よ」

 パルスィは早々に立ち上がり、傍にあった水桶の水を、柄杓で頭にかぶせた。

「私は鬼に媚びへつらったりしない。這い蹲って足を舐めたりもしない。あんたがいくら腕力で脅してもね。ただ軽蔑するだけ」
「そんなつもりはないがな」

 鬼は立ち上がりながら、不穏な口調で言う。

「だがこの後の忘年会でも、そんな態度を示す勇気があるかな。お前は主賓の座に座って、鬼の群れを正面から相手することになるんだぞ」
「………………」
「ヤマメも初参加の時は、似たような立場だった。あっさり乗り切ったけどね、あいつは。お前さんと違って実に堂々としたもんだった」

 パルスィは振り向いた。洗ったばかりの髪が、静電気に触れたように持ち上がる。
 その薄笑いを浮かべる顔に、眼力で風穴が開けられないものかと唸りながら、

「あんたは……私にはできない、って思ってるわけね」
「ああ。ちなみに私にとっても愉快な宴だし、余計なことは考えず、大いに楽しませてもらうつもりだ。だから自分の面倒は自分で見るんだな『ミズメ』」

 友好的な気配はすでにない。
 ここにきて、勇儀はあからさまに、挑戦状を叩きつけてきていた。
 けれどもパルスィにとっては、慣れ慣れしくされるよりも、こういう態度を取られる方がやりがいがある。
 顎を突き上げ、鼻で笑いながら、

「受けて立ってやろうじゃないの星熊勇儀。私を舐めたことを後悔するがいいわ」

 やせ我慢は、まだ続いていた。




 キスメは湯船の中から、洗い場の方にいる二人の様子を窺っていた。
 湯気でよく見えないが、会話が弾んでいる様子はない。せっかくの温泉だというのに、まるで決闘者のように向き合っている。

「ヤマメちゃん、パルスィちゃん大丈夫かな。なんか……ちょっとパルスィちゃんと勇儀さんって、あまり仲がよさそうじゃないよね」
「キスメが心配する必要はないよ。勇儀もパルスィも、無駄に相手に怪我を負わせるようなバカじゃない」

 隣で目を閉じて湯に浸かるヤマメは、諦めた口調で呟いた。

「……けど、先が思いやられるね。こうなることはわかってたんだけどさ」

 鬼は地底の浅層、すなわち旧地獄の上にある層やそのまた上にある風穴地帯を毛嫌いしている。
 脆弱で疑心暗鬼で、そのくせ狡猾な妖怪ばかりが集まるところだからだ。
 そんな根暗妖怪の見本のような存在が、我が友、水橋パルスィなのである。






(11)


 酉の刻の半ばに入り、城の廊下をびりびりと鐘の音が震わせた。
 羅刹の間にて、宴の準備が整ったという知らせである。
 鬼の忘年会。古くは歳晩のすさびと呼ばれていた歴史の長い酒宴だ。
 一年の疲れを癒すための催しだが、その実態は決して穏やかなものではない。
 来る年のことに思いを馳せるなど笑わせる。後のことを考えず、年の瀬に残った精力を燃やし尽くさん。
 そういった心意気でもって臨まなくてはならぬ、鬼に相応しい狂気の宴といえよう。

 鬼の頭である星熊勇儀は、今夜この城で行われる忘年会の主人役であった。
 肝心要の彼女が羅刹の間に現れるまでは、宴の鬼は箸を咥えることも盃を舐めたりすることも許されない。
 もちろん訳もなくそんな無体な事を強いるような大将では、信望は集まらなかっただろう。
 彼女は仲間を何よりも大事にする、鬼の中の鬼なのだ。

 が、今夜の星熊勇儀は、少し例年とは異なる事情に付き合わされていた。
 鐘の音が鳴り終わってからも、羅刹の間から遠い一階にて、立ったままでいたのである。
 それも厠の前だ。用を足すためではない。その首に巻かれた綱の共有者を待っているのだった。
 勇儀だけではなく、側には土蜘蛛と釣瓶落としもいた。

 やがて厠の戸の奥へと続く万本綱が、するすると動きはじめ、

 ぬっ、と橋姫が顔から現れた。
 勇儀は鼻を鳴らして、片頬を歪める。

「綱を無理矢理引っ張る必要がなくなって何よりだ。どうだ。吐き気はおさまったか」
「おかげさまでね……」

 小馬鹿にしたような鬼の目付きを下から睨みつけて、パルスィは呻いた。
 風呂に入ってさっぱりした後のはずなのだが、肌の色はさらに青くなっており、表情も冴えず、どんよりした雰囲気を背負っている。
 総じて見かけは、重病の患者か健康な亡者、といったものに変わっていた。
 ヤマメがまさしく、健康な亡者に接するような明るい声をかける。

「そんなに気を張らなくても、あんたは御内裏様になったつもりでいればいいんだよ」
「……わかってる」

 ヤマメが笑みを保ったまま、眉の端を悩ましげに垂れ下げた。
 「じゃあこの鬼がお雛様ってこと? 笑わせるわ」という、いつものような混ぜっ返しを期待していたのだ。
 しかし今のパルスィにそんな余裕はなさそうだった。そろそろ虚勢も限界に近づいているのかもしれない。
 宴会場に着く前に、また倒れなければいいが。

「パルスィちゃん……」

 おずおずとした声で話しかけたのは、キスメである。
 彼女の表情は鬼とも土蜘蛛とも異なり、心の底から友人を心配している。

 それを見たパルスィの顔つきが、にわかに変わった。
 顔に血の気が戻り、背筋もしゃんと伸びる。
 
「何あんたまで不安そうな顔してんのよキスメ」
「でも……」
「同情なんてまっぴらごめんよ」

 パルスィは憎まれ口を叩きつつ、キスメの桶を持ち上げ、彼女の額にゴチンと己の額を当てた。

「私は橋の上で二日間立ってたこともあるのよ。鬼火も凍りそうな真冬にね。知ってるでしょ? 鬼の宴席で夜通し座るくらいどうってことないわ」

 誰が聞いても、ただの強がりにすぎない口上である。
 それでもキスメは安心したらしく、頭突きされた額を押さえながら、はにかんだ笑みを見せた。
 彼女の耳元に、「……ヤマメの側を離れるんじゃないわよ」と小さく耳打ちしてから、下ろしてやる。

「覚悟は決まったようだな。じゃあ行こう」
「ええ」

 パルスィは面を装着した。
 この瞬間からまた、ミズメの時間の始まりだ。
 勇儀を先頭にして、四人は先程下見をした羅刹の間へと向かった。

 鬼ヶ城の四階に着き、すぐにパルスィは違和感を覚えた。
 一度通った廊下だったはずなのだが、何かが違う。
 妖気――いや、すでに瘴気と呼んで差支えないレベルのものが、城の奥から流れてくる。
 修行を積んだ高僧であっても、呼吸しているだけで頭から角が生え、牙が伸びていきそうな空気。

 そして……声が聞こえてきた。
 落石か遠雷を想わせる、大勢の話し声が、すでに見えている羅刹の間の戸から。

 ――うっ……!!

 パルスィの勘の虫が、ここに来て以来最大級の警告を発してくる。
 できれば少し立ち止まり、深呼吸させてほしい。そんな願いを口にしたくなる。
 だがパルスィの希望は天には届かず、地獄へと続いていた。
 羅刹の間に着き、勇儀が戸を力強く開け放つ。


「野郎ども!! 待たせたな!!」



 雄々おおおおおおおおおおおおおおっっっ!!!



 物凄い大音声で、パルスィは後ろに引っくり返りそうになった。
 さらに、むせ返るような鬼の体臭と妖気で、胃が裏返りそうになった。

 勇儀が堂々と、熱のこもった部屋の中に歩み入る。
 パルスィは無言というより無心でその後に続き、面の奥から部屋の様子を眺め渡した。 

 むはぁ。まさしく鬼の見本市。
 あれだけ広かった部屋に端から端まで膳がずらりと並び、その全ての席に鬼が座している。
 赤鬼、青鬼、緑鬼、黒鬼。禿頭の者や長髪の者。一本角もいれば二本角、三本角も。美形もいれば獣じみた顔の者も。
 そして共通しているのは、いずれも鬼特有の凄味を、全身から滲み出しているということである。
 野獣の巣窟だ。パルスィが最も嫌悪する存在が空間にひしめいていた。

 部屋で沸き立っていた鬼達の歓声が、にわかに五月雨のようなざわめきに変わっていった。
 その原因は他でもなく、自分の存在であることを、パルスィは覚っている。彼らに注目されている気配がひしひしと伝わってきたので。

「お二人はこちらへどうぞ」

 後ろからついてきたヤマメとキスメは、世話役らしき鬼に奥へと誘われた。
 見れば、大部屋の後方に空いている膳が二つ並んでいる。末席ではないらしい。

 そして……会場全体を見渡すことのできる、最も目立つ位置には、二人分の膳が並んでいた。
 おそらくそこが鬼にとって、主人が座る上座となっているのだろう。
 確かにお内裏様とお雛様に見えなくもない。
 
 パルスィは努めて端然と、勇儀の後に続いて、その二つの席の方へと歩む。
 鬼達のざわめきが、さらに強くなった。群れに異物が混ざり込んでいることについて警戒しているのだろう。
 今この場でぶっ倒れたら、どんなに気が楽かしら、ということをパルスィは考えながら、座布団の上に腰を下ろした。

 顔を上げると、視界がますます凄まじい眺めに変わった。
 この席は上座にあたるために、あの左近に勝るとも劣らぬ恐るべき体格の鬼達が間近に座している。
 その全ての視線が自分達に向けられているのだから、これもある種の拷問、いや地獄の責め苦に等しい。

「皆、今年も達者な働きぶりだった」

 勇儀の一声に、鬼達は水を打ったように静まり返った。
 ただし、妙に張り詰めた部屋の空気は変わらない。

「前置きを抜きにして、すぐにでも宴を始めたいところだろうが、その前に紹介しておこう。今夜の宴には、この城に住まぬ者も三名混じっている。我が友、黒谷ヤマメについては、知ってるやつも多いな。その隣にいるのは釣瓶落としのキスメだ。どちらも私の招いた客なんで、仲良くしてやってくれ」

 二人が立ち上がって――といっても、キスメの方は下半身が桶の中にはまったままだったが――ぺこりと会釈する。
 鬼達の注意がそちらへ向かったのは、ほんのわずかな時間だった。
 すぐに列になった強面が、こちらに向き直る。

「そして私の隣に座っているのは……ミズメだ。今夜初めて紹介できることを嬉しく思う」

 ミズメ。その通り。私はミズメ。この鬼の姉妹分だから、今日隣に座っている。
 パルスィは念のため、もう一度自分にそう暗示をかけた。目を閉じ、深く呼吸しながら。

 鬼の一人が、節くれだった腕をおもむろに上げた。
 「なんだ銅閣」と勇儀が問う。

「恐れながら姐御。その『お首に巻いているもの』について話してくれやせんと」
「もっともだ。それを聞かないことには、宴で酔うこともままならん」

 隣に座る、舌をはみ出した犀の顔をした鬼が腕組みしてうなずいた。
 それを皮切りに鬼達が方々で不満を訴え始める。やはり皆、どこの馬の骨だそいつは、という本音を共有しているらしい。

 勇儀は明後日の方向に目をやりつつ、ぽりぽりと頭の後ろをかきながら述べた。


「まぁ話すと長くなるんだけど……『ちょっと前』にある因縁があってね。それ以来、彼女は私にとって『唯一無二の相方』だ。だから今もこんなものを巻いている」


 ゴォゥッ!!


 部屋に大風が起こった。
 その瞬間、パルスィは声を出さずに耐えた自分が信じられなかった。
 緊張が極限に達したからではない。

 鬼達に『嫉妬』されたのだ。

 会場に集まっていた全てのつわものが、その獰猛な精神力を嫉妬の念に費やし、パルスィにぶつけてきたのである。

 ――うっぷ……。

 魑魅魍魎であれば一瞬で気化するレベルの威圧感だったが、橋姫は嫉妬を食べて生きる種族だ。
 威嚇されたというよりは、むしろフルコース料理を咀嚼する間もなく胃の奥に叩き込まれたような感じだった。
 今度は緊張ではなく、満腹感で気が遠くなる。

 先程の銅閣という名の鬼が目に見えて動揺した様子で、それこそ膳を倒しそうな勢いで腰を浮かし、

「そ、その因縁についてもっと詳しく聞かせてくだせぇ姐御!!」
「それには『深い事情』があるので話せない。私に喧嘩で勝てたら、話してやろう」
「…………!!」

 様々な鬼達が歯噛みして悔しがっている。あからさまに畳を殴りつける者までいた。

 一方でパルスィは、勇儀の能弁ぶりに、ひそかに感心していた。
 彼女の言う『ちょっと前』というのも正しいといえば正しいし、『唯一無二の相方』というのも不可抗力ながら間違いとはいえない。
 そして『深い事情があるので話せない』というのも本当のことである。
 嘘と真実の境界を、すれすれで踏み越えることなく語ったわけだ。
 さらに、自らの拳でそれ以上の追及をねじ伏せてしまう。実に鬼らしい策略であった。

「ミズメ殿……」

 パルスィと三つしか席の離れていない隻椀の鬼が口を開いた。
 老いた見た目相応の、しわがれていて落ち着いた声音である。

「我々鬼一同、恥ずかしながら御身の名前を存じておらず、降って湧いたような報せに一抹の鬱気を噛んでおる。ここはひとつ、宴に先だって貴殿の口から挨拶を承りたい」
「……だ、そうだけど」

 隣の勇儀が、こちらを向く気配があった。
 顔を見なくとも、考えていることは分かる。これもまた、彼女からの挑戦状に違いない。
 少しでも弱った様子を見せたり震え声で挨拶してしまえば、この鬼の大群の前で馬脚を現す事になる。

 だがパルスィには秘策があった。
 まずは限界まで息を吸い込み、


「……我はミズメ。山の四天王、星熊勇儀の相方なり。音に聞こえし旧都の城にて、かような宴に招かれたこと、感謝いたす」


 ゴウッ、とパルスィの気が、大部屋の隅々まで泳いだ。


「おおっ!!」
「むぅ……」

 鬼達から感嘆の声が次々に上がった。
 部屋に満ちていた自分達の妖気が、パルスィのそれに跳ね飛ばされてしまったのだから当然である。
 まさしく大妖怪でなければ到底できぬ所業であり、中には心を打たれた様子で「ミズメ殿!」と歌舞伎の大向うよろしく声を出す者までいた。

 第一の関門を無事に乗り切れたことに、パルスィは安堵の息を百回分吐きたい気分だったが、ぐっとこらえた。
 種を明かせば、今の妖力は全て一分前に『鬼達から受けた嫉妬』をエネルギーに変えただけである。
 つまり、もらった芋を蒸かして出して「なんて美味い芋なんだこれは! あんたは凄い!」と感心されたも同然である。
 もう一度やれ、と言われてもできやしない。だがハッタリには十分だろう。

「さすがだな……ミズメ……」

 と勇儀が呟くのが聞こえた。台詞とは裏腹に、冷めた粥を飲み干したような声だった。
 隣にいた彼女は、パルスィがやったことのカラクリに気が付いたのだ。
 いや気が付いただけではなく、幻滅したらしい。ただの手品に近いものだし、鬼としては到底受け入れられないやり口だったのだろう。

 ――知ったこっちゃないわよ。橋姫っていうのはこういう妖怪なの。

 パルスィは平然とした態度で言い捨てる。ただしもちろん、心の声で。 
 勇儀が酒を注いだ大盃に手にして言った。

「……それじゃあ皆、盃を手に」

 大部屋にいる全員が、その言葉にならう。パルスィもそそくさと手酌で、目の前の盃に酒を注ぎ、手に取った。
 旧都をまとめ上げる鬼の頭領の祝着である。一体どんな乾杯の音頭がくるかと思ったが。


「お前らっ!! 今宵は四の五の言わずに呑めっ!! 食えっ!! 歌えっ!! 騒げっ!!!」


 勇儀はいきなり部屋を揺るがす蛮声を轟かせ、鬼達も盃を掲げて野太い声で呼応した。




 ◆◇◆




 予定の時よりも少し遅れ、勇儀の無茶苦茶な啖呵を皮切りにして、鬼の忘年会――晩歳のすさびが始まった。
 噂を色々と聞いていた上、乾杯の音頭も過激だったので、一体どんな恐るべき夜になるかと戦々恐々としていたパルスィだったが、

 ――今のところ、よくある宴会の滑り出しのようね。

 というのが正直な感想であった。

 もちろん、部屋の熱気はかなりのもので、やかましさも尋常ではない。
 鬼達はどら声を上げたり下品な笑いを響かせたりしながら、好き勝手に飲み食いしている。
 料理は用意されたお膳だけではなく、顔程もある握り飯の山が、笹の船に乗って次々に運ばれていた。
 ただしやはり主役は酒のようだ。大盃に噛みついて飲んでいるのはまだ上品な方で、樽を拳で割り、杯代わりにして呷っているものも多い。
 空の容器やらを忙しそうに運んでいるのは、顔に面をした小人のような鬼達である。おそらくは使い魔の一種なのだろう。

 そもそもパルスィは大人数の飲み会に参加した経験などないので、どんなものかを直に知っているわけではない。
 が、客観的に見て、用意されている物と参加している者が豪快なところを除けば、さほど危険な宴には思えなかった。

(油断したら死ぬよパルスィ)

 とそこで、脳内の友人に忠告され、パルスィは慌てて気を引き締めなおす。

 実は先程パルスィが厠に閉じこもっていたのは、決して緊張して現実逃避していたからではない。
 ヤマメから受け取っていた『忘年会指南書』をしっかり頭に叩き込むためだったのだ。
 パルスィは数分前の出来事を、もう一度頭に思い浮かべた。



  ~~~




   パルスィ この手紙をあんたが読んでいるとき 私はもうこの世にはいないだろう

   何しろここは地底 あの世みたいなもんだからね はっはっは(笑)



「いらんボケかましてんじゃねーわよ……!」

 厠に閉じこもったパルスィの手に力がこもり、持ったアンチョコの紙がたわむ。二行目の語尾の(笑)が妙に腹立たしい。
 だがすぐにヤマメの意図が掴めた。
 おそらくあいつはこちらの緊張をほぐすため、わざとこういう書き出しにしたのだろう。
 一旦怒りをおさめ、便座に座るパルスィは気を取り直して文面を読み進めてみる。
 


   無事に綱が外れてくれれば何よりだったんだけど こうなった以上仕方ない
    
   私はキスメのお守りがあるから あんたには忘年会を自力で切り抜けてもらうことになる
  
   その点は覚悟してほしい



 つまり助けを借りることなく、孤軍奮闘せよ、ということだ。
 げんなりしたものの、パルスィもそのことについては、ある程度覚悟していた。
 初めての鬼の宴で危険な目に遭いかねないのは自分だけでなく、キスメも同じであり、彼女は自分より遥かに弱い妖怪だ。側で見守ってやる者が必要だし、逆の立場でもそうせざるを得なかっただろう。
 まぁ逆の立場とはいっても、ヤマメが自分の助けが必要なほどの窮地に陥るのも考えにくかったが。

 続きには、忘年会の情報が簡潔に書かれていた。
 序・破・急。いわゆる伝統演劇等の構成として知られるものだが、鬼の宴もそういう流れになっており、だんだんと酒が進むにつれて過激になっていくものらしい。が、



   私が過去に参加した忘年会は どれもこれも おっそろしいくらいの盛り上がりで

   ある年なんて 急・急・急 っていう表現が似合いそうなくらい凄かった
 
   今回もそうなる可能性はある けど正確に予測はできない その場のノリ次第だからね



 なんとも不安な情報に、パルスィは便所の中で天を仰いだ。
 よりによって地底で最もハードな宴会に、飛び入りで参加することになってしまった。
 今朝までの、嫉妬以外のなにものにも束縛されない日々が、何と自由で輝かしかったことか。
 ぐっと涙をこらえる。便座に座りながら泣く自分が、あまりにもみじめだったから。

 それよりも、あとはその危険な宴をどうやって乗り切るかという話だが。



   パルスィ あんたには二つの道がある 宴で石になってやり過ごすか

   それとも鬼に混じって楽しむか 



「なんでやねん!?」

 パルスィはつい紙に向かってツッコミを入れていた。
 この期に及んで、どうして宴会を楽しむなんていう選択肢がありうるのか。
 楽しもうと思うなら二枚目を やり過ごそうと思うなら三枚目の紙を読んで。
 そう続きに書かれていたので、パルスィはすぐに三枚目に目を通した。
 二枚目の方は自分には無用。ここにある便所紙にでも混ぜてやろう。



 
    やっぱりこっちを選んだか じゃあやり過ごす秘訣を授けよう
    
    それはさっき書いたとおり 石になることだ
  
    黙って酒を飲むふりをしながら 周囲の雑音に心をとらわれずに 夜明けを待つ

    話しかけられたら当たり障りのない答えだけを言う

    決して叫んだり暴れたり 目だつような行動を取らず 川底で眠り続ける石のようになる

    そういう性格のミズメという鬼になりきるんだ 

    ただし勇儀の側にいる限り 騒ぎに巻き込まれないということは ありえない

    だから常に展開を先読みして 準備しておくこと


    あと ここのご飯は美味しいので 食べ過ぎないようにね
 



 ~~~




 最後の忠告は何だか間が抜けてたな、と宴の席に座るパルスィは、今になって思い出した。
 けれども説明された要領はよく解った。鬼のペースに巻き込まれないよう、流れから身を置いた状態でやり過ごせということだ。
 幸い、首が綱で繋がっているとはいえ、勇儀のお膳とは畳二畳分は離れている。
 彼女はあの大きな朱の盃に酒を入れて飲んでいて、時々話しかけにやってくる鬼達と談笑していた。パルスィの存在は鼻から無視しているようである。

 だがそれは好都合。
 パルスィにとって迷惑なのは、石を演じているのに話しかけられたりして、ボロが出ることなのだから。
 風呂での会話からしても、勇儀もパルスィが無事でいられるとは思っていないようであったが、パルスィは必ずこの宴を乗り切って、この鬼の鼻をあかしてやることを誓っていた。

 問題はこの飛び切り目立つ席に座って、どれだけ鬼に絡まれず、一人の時間を過ごせるかであったが、

「まだお箸をつけてらっしゃらないですね」

 ――来たな……!

 ついに知らない鬼に話しかけられ、パルスィは意を決してそちらを見た。

「うっ……」

 いきなりディープな面様の刺客である。 
 その鬼は小柄であり、背が曲がって痩せていた。ここに集まった鬼は身の丈八尺を超えている連中ばかりなので、いささか見劣りする体格である。
 が、目玉は黄色くぎょろりとしていて爬虫類的で、肌は両生類のようにつるりとした緑色。裂けた口の端には縫い合わせた痕があり、夢に出そうな凶悪な面構えである。
 丁寧な口調も頭にかぶった白頭巾も恐ろしく似合わない。
 
「料理長の板巳です。料理の鬼とくれば、あっしのことでござい。本日はミズメ様に、膳の説明をさせていただきやす」

 板巳と名乗った鬼は、隣に正座してくる。
 体を斜めに傾けて逃げたくなる本能を強靭な精神力で抑え、パルスィはそいつの説明を聞いた。

「まずこちらが地獄豆腐の蜜がけ。さっぱりした風味ですので、この小鉢から召し上がっていただくのがよいかと思われます。こちらの皿は地底魚の肝焼きでして、御造りも同じ魚を用いました。本日の椀はシロメスッポン。生きのいいものを使っております。中央の皿は卑眼牛の肉。こちらは火をほとんど通しておりませんが、きっとお気に召すかと思われます」

 細い指先から伸びた長い爪が、一つ一つの皿を示していく。
 料理よりもつまみ食いの方が似合いそうな手だ、という失礼な感想が浮かんだ。

「追加の膳はこちらがお済み次第お運びいたします。握り飯もたんと用意しておりますので、遠慮なく召し上がってくだされ」
「いや、苦しゅうない」

 適当にそれらしい言葉を使ってから、パルスィは目の前のお膳に意識を移した。
 緑がかった蜜を垂らされた、灰褐色の直方体。微かに焦げ目のついた赤黒い塊。
 まだら色の皮が残った切り身。何が潜んでいるか分からぬ漆椀。それらに囲まれた、紫と茶色の筋が入った肉。
 シロメスッポンと卑眼牛というのは、話に聞いたことはあったが見たことも食べたこともなかった。

「ささ、お熱いうちにどうぞ」

 板巳がもみ手をしながら薦めてくる。裂けた口は半月の形になっていた。
 パルスィは潔癖症である。握り飯を断ったのも、他人の手で握られたご飯を口に入れると気分が悪くて呑みこめないからだ。用意された皿についても、この強烈な顔の料理長が腕を振るったと聞くと食欲が失せる。

 しかしながら、見方を変えれば、これは第二の関門だといえた。
 潔癖症で神経質でへそ曲がりな橋姫であれば断っている。
 だが鬼の首魁の相棒である、川底の石のごとき性格のミズメが、断るわけにはいかない。
 パルスィは意を決して、箸を手に取った。

「……いただきます」

 まずは、最も無難げな地獄豆腐の蜜がけに箸を伸ばす。
 もちろん面を外すわけにはいかない。口の部分は開いているので、食べられないことはない。
 ただ、うっかりすると顔につけたり、こぼしてしまうかもしれないため、かなり難易度の高い作業である。

 パルスィは慎重に箸の先を口に運んだ。
 鼻から息が抜けないように、なんとか地獄豆腐を呑みこもうとして……



 ……これはー!? う――ま――



「馬っ……!! が舞う!!」

 パルスィは思わず、そんな台詞を口走っていた。
 板巳が黄色い目をさらに大きく広げて、一度瞬きしてから尋ねてきた。

「今なんと?」
「いや……逆さまから読んでも『うまがまう』」
「………………」
「急に思い出したんだ。忘れてくれていい」
「はぁ」
 
 訝しげに頭の白頭巾を傾ける料理長の視線に、パルスィは何だか気まずくなって両肩を縮めた。
 もちろん『馬』は「美味い」の『うま』である。素直に「美味い」と褒めるのが癪だったので台詞を差し替えたのだ。
 が、急カーブに失敗し、脱線して道なき道に突っこんでしまった結果、わけの判らない発言になってしまった。
 遠くにいるヤマメがこの場にいたなら、笑って転げまわっていただろう。

 しかしこの料理は率直に言って、馬ではなく、舌が舞うレベルの美味さであった。
 鬼の城に来て以来動いていなかった胃が、急に目覚めた感覚があった。

 今度は地底魚の御造りを口に含む。

「ぐぅ!」
「はい?」
「……グッドな仕事だ」
「お気に召したようで、ありがたき幸せ。肝焼きの方も是非」
「…………がはぁ!?」
「いかがなさいましたか!!」
「ぐぐぐ……いや、味が濃い。濃すぎる! どういうことだこれは」 
「へへー! 申し訳ありません! 元が濃厚なため、これでも念入りに下ごしらえをして生臭みを取り、薄い味付けにしたのですが……!」
「そういう丁寧な仕事をするからこんなことになるのだ! ……うが……ぬ! この椀……なんと表現したものか」
「美味しゅうございますか?」
「まぁ美味い」

 パルスィはこの部屋に来た時とは、全く別種の苦行を味わっていた。
 これらの料理を前にして、石になりきるということである。

 箸を口に含むたびに、次々と楽隊が食道を目指して舌の上を行進していく。
 それらを理性でなんとか押しとどめ、おそるおそる咀嚼すると……目の前に光り輝くお花畑が広がる。
 飲みこむのがもったいない美味さが、休む間もなく襲いかかってきて、それを何とか凌いだ後には、馥郁たる香りの余韻に眩暈を禁じ得ない。

 爪を噛んだり人を呪ったりを日課とするパルスィであったが、実は料理についてはそれなりの自信を持っていて、数少ない人に誇れる趣味の一つであった。
 元々は昔、ヤマメが手料理を「お、いけるねこれ」と褒めてくれたのがきっかけで、それ以来他者を満足させ続けようと常に念入りな仕事を続けた結果、自然と料理の腕が上達したのだ。
 自分だけが食べるのであれば妥協することもできただろうが、人にケチをつけられるのは許せない性格なのである。

 だがパルスィは今この場で、自分が料理の名人であっても、料理の鬼ではなかったことを悟らされ、打ちのめされた。
 ここに用意された数々の皿は、いずれもそれほどの域に到達していた。
 今までこの味を知らなかったのが悔しい。そして作れる存在が側にいることが妬ましい。

 ――いや……でも……。 

 パルスィはもう一度、地獄豆腐の蜜がけを食べてみた。
 ますますもって美味い。けどこの味なら再現できるのではないか。
 地獄豆腐は旧都でなくても手に入る食材であり、パルスィも過去に原材料から作ってみたことがある。
 問題は蜜の方だ。おそらく胡麻油。それと念入りに取った出汁に醤油を加えたのだろうが、塩加減も含めて、その配合が絶妙である。
 そして風味付けに何かを加えているのが気にかかった。柑橘類か、あるいは別の果物か。これを聞かずに、この城を去れはしない。

「ねぇ、この地獄豆腐の蜜って……」

 台詞の途中で、ガシャン、と音がした。
 見れば、鬼の一人が――すでに相当酔っぱらっているのが見て取れたが――膳を蹴倒しているのが目に入った。
 すかさず板巳が立ち上がり、腰から包丁を抜いて激怒する。

「貴っ様ぁ!! おれっちの飯を畳に食わすとはどういう了見だこら!!」
「やかましいこの兵六玉が!! こんなまどろこっしいもん一々摘まんでられるか!! 全部握り飯に突っ込んで運んでこいってんだ!!」
「ぬかしたなぁ!? てめぇの舌に味わせるくらいなら、大百足にでも踏ませた方がマシだ!! その五体、膾切りにしてやらぁ!!」 

 料理人の魂を片手に、板巳が飛びかかっていく。
 二人はもみくちゃになり、結局別の鬼の手によって、すぐに廊下に叩きだされた。

「な、なんなの一体……」

 いきなり膳を蹴倒した鬼にも、その鬼と刃物を手に取っ組み合いを始めた料理長にも、パルスィは意表をつかれていた。
 だがもっと理解しがたかったのは、それを目撃しているのにも関わらず、他の鬼達は全く気にせず笑顔で酒盛りを続けていることであった。
 しかも、よく見ると殴り合いが起こっているのは一か所ではない。

「どっせーぃ!!」
「なんのなんのぉ! ちょこざいな!!」

 奥の方でも何やら騒ぎが起こっているらしく、二人の筋肉魔人が立ち上がって、半裸で押し合いをしていた。
 相撲、いや、ど突き合いだろうか。張り手なのか拳なのかよく判らないが、腕を目まぐるしく動かしており、肉と肉がぶつかり合う激しい音が聞こえてきた。
 どうやら酒がまわって、鬼の本性が現れ出したらしい。いよいよ、忘年会は序破急の『破』にさしかかったようである。
 パルスィは勇儀と結ばれた首の綱の長さを目で測りつつ、いつでも壁際に避難できるように腰を浮かせた。

 その直後に、信じられないことが起こった。

「拙者は獅子瓦にござる! かつては地上で、舞の鬼を名乗っておった! 今宵は我が舞をとくとご覧あれ!」

 なんと、喧嘩をしている鬼達の横で、一人の鬼が舞を披露し始めた。
 錦絵から飛び出してきたような色男である。ごつい体格の連中が集まっているので、余計にそう見える。
 それに舞の鬼と自称するだけあって、確かに大した身のこなしだった。
 だがこの場合は、上手いとか上手くないとかそういう問題ではなく、

「いいぞー! 獅子屋!」
「相撲なぞに負けるな!」

 声援を受け、若い鬼の踊りがさらに白熱してきた。
 しかも、相撲をしている鬼達の側から離れようとしない。

 パルスィはその光景を見て、確信した。
 なんてこった。あの鬼、後方で行われている喧嘩相撲と、舞で張り合っているのだ。
 となるとあの重量級の殴り合いも、宴会の余興に過ぎないというのか。
 細身の鬼が畳の上で、麗しい舞を披露している。そのすぐ近くでは筋肉だるまが二人で相撲を取っていて、どしんどしんと床が揺れているのである。
 しかもよくよく確認すると、会場の最後方にはいつの間にか正装した鬼が五人囃子よろしく座っていて、演奏を始めていた。

 ――呑まれるな。流されるな。意識を真っ直ぐに保て。

 パルスィは何とか自分自身に命じて、石の心を取り戻そうとしていると、

「姐さぁ~ん。お酌していいですかぁ?」

 また新手の刺客がやってきた。が、今度は先程の料理長とはまるで違う出で立ちだった。
 それは若いというか、まだ少女としか思えない造作の鬼であった。
 パルスィは当惑する。姐さんとはもしや、自分のことだろうか。
 しかもその鬼が寄り添って、肌をくっつけてきたので、パルスィは身を硬くする。

「お酌。いいですぅ?」
「う、うむ」

 ぎこちなくうなずいて、パルスィは固まった腕で持った杯を、彼女に差し出した。
 鬼の少女は慣れた手つきで、なみなみと酒を注いでいく。
 まさか鬼にお酌してもらうような状況がくるとは。逆は死んでも嫌だが、こういうのもきまりが悪い。
 
 パルスィは盃を呷った。

「んぐ……」
「いかがですかぁ」
「…………」

 美味い。が、喉が焼けるほど強い酒だ。
 これを樽から水のように呷っている連中もいるが、一体どんな内臓を具えているのだろう。
 それにしても若い鬼だったが、ただの少女とも言い難かった。
 桃色がかった髪の毛や、渦巻きが浮き出たほっぺなどは幼さを感じさせるものの、体つきが妙に発達していて、やたら色っぽい。舌足らずで馴れ馴れしく、一般的な鬼とはまた違った意味で、パルスィが好きになれそうにないタイプである。

「私、この回に参加したのって今年が初めてで、新米みたいなもんなんですよー。叔父のおかげでここに混ざれたっていうかー、だからまだ顔もみんなに覚えてもらってなくてー。あ、申し遅れました。私、杏魅と申します。あ・ず・み、ですよ。ミズメ様と同じ字数です。うふふ、ミズメお姉様って呼んでもいいですか?」
 
 ここでかぶりを振って、「ではなんとお呼びしましょう」などと重ねて尋ねられては面倒だったので、パルスィはうなずいた。
 しかしミズメお姉様。身の毛のよだつ響きだ。
 パルスィが内心の鬱積を酒で誤魔化していると、杏魅はいきなり、さらに顔を寄せてきて囁いた。

「……ところでミズメお姉様は……勇儀様のご愛妾なんですか」
「ぶっ!!」

 パルスィはたまらず酒を吹いた。
 歩いて五歩の距離にいる鬼を指し、向こうに気付かれないように小声で言う。

「そんなわけがないだろう……! どんな想像を巡らせば、私があいつの愛妾になるんだ……!」
「勇儀様ってー、喧嘩一筋であまりそういったお話聞かないんですよー。なのにミズメお姉様、この宴会でも勇儀様とマフラーっぽい帯を巻いて過ごしてるじゃないですか。そんな熱々ぶりを見たら、ついにそういう相手が現れたんじゃないかって……」
「………………」
「実は私、先輩方に聞いてこいって言われたんです。鬼の癖に意気地なしですよねぇみんな。でも本当に違うんですか? 正直に言ってくださいよ」
「本当に違う。絶対に違う」
「じゃあなんでその帯解かないんですか?」
「郷里ではそういう風習があるんだ。こいつとはただの……腐れ縁の知り合いだ」

 とてつもなく無茶な理屈を並べ立てながら、パルスィは面の奥で顔を赤らめていた。
 地底だろうが地上だろうが百万の妖怪が聞けば九十九万九千九百九十九の妖怪が疑う話に聞こえる。
 しかし、

「なーんだ。面白い風習ですね」

 鬼だけは例外のようだった。
 鬼の仲間は鬼に嘘を吐くなどと疑っていないために、多少無茶な理屈でも乗り切れる。ましてや宴会なら尚更だと、ヤマメが豪語していたが、本当だったらしい。
 あっさり嘘が通じたことに、むしろパルスィの方が多少不安に感じるほどである。

「でもやっぱり勇儀様とそんな風にできるのは羨ましいなぁ。ヤマメ姐さんもやってたりするのかしら」

 思ってもみないタイミングで、知り合いの名が出てきたので、パルスィはつい尋ねていた。

「なんでヤマメが姐呼ばわりされてるんだ。あいつは鬼じゃなくて、土蜘蛛だろう」
「えー、そりゃそうですけどぉ、土蜘蛛って鬼の言うこと割合素直に聞くし、橋姫とかよりはずっとマシっていうかー」
「………………」
「それにヤマメ姐さんは別ですって。ここにいる鬼、みんな一目置いてますよ」
「勇儀と仲が良いから?」
「あ、それもあるかな。とにかくモテモテです。ほら」

 モテる……と聞いて、パルスィはあんぐりと口を開けた。
 確かに、鬼の喧嘩相撲(まだ続いていた)のさらに奥では、人だかりならぬ鬼だかりができていた。
 薄目で見てみると、ヤマメが鬼達と仲よさそうに酒を酌み交わしているのが映った。隣にいるキスメも何だか可愛がられている様子である。

 それはパルスィにとって、自分の価値観を引っくり返される光景であった。
 鬼達が『穴暮らし』を忌み嫌っているのは確かだし、ヤマメとて例外なはずがない。
 旧地獄街道を二人で歩いている最中だって、蔑んだ目で見られたのは一度や二度じゃないのだ。
 けれども勇儀をはじめとしたここの鬼達は――旧都に住む妖怪の代表者達は――むしろその反対の態度で接している。
 
「なんで?」
「はい?」
「なんでヤマメは……ここであんな風にしてられるの?」
「そりゃあ……明るいし、鬼のみんなを恐れないで堂々と付き合ってくれるし、相談にも乗ってくれるし、何よりも強い! 私達は強い奴が好きなんです。ミズメ姐様だって、この気持ちわかるでしょう?」
「………………」

 正直、全く解らなかった。

「私、聞いたことがあるんですよ、ヤマメ姐さんが初めてここに来たときのこと。その時はみんなやっぱり、勇儀様の盟友って言われても全然歓迎できなくてー、酔った先輩達が勝負をしかけて叩きのめそうとしたんですってー。でもヤマメ姐さん、向かってきた鬼を触れもせずにひっくり返しちゃったらしいんです! どんな技を使ったかわかんないけど、びっくりですよねー。私も今夜できたら勝負してくれないかなー」

 杏魅がぺらぺらと、当時の武勇伝を交えて、ヤマメの強さを羨ましげに語る。
 
 それを聞いているうちに、パルスィは一つ、唐突に理解していた。
 旧都をうろつく鬼をはじめとした妖怪達は、大部分が露骨に外の地底妖怪を見下し、時には搾取している。
 パルスィにとって最も受け入れがたく、藁人形がいくらあっても足りないほど憎い者達だ。 

 それに対して、この城にいる鬼達は、そんな旧都の鬼よりはマシな性格かと思っていたが、とんでもない。
 こいつらは自分達が一番だと思って驕り高ぶっているというよりも、弱い奴らが眼中にないのだ。
 ある意味こちらの方が、たちが悪い。自覚せずに強者の論理を振りかざし、パルスィら穴暮らしを淘汰してきたのだろうから。
 旧都を除く地底の妖怪は、どいつもこいつも鬼よりも弱い妖怪ばかりで、鬼に刃向かうよりもへりくだったり、ひたすら避けたり、陰で嫉妬したりすることを選択する。ここの鬼達は、そんな『弱さ』など認めないだろうし、訴えに耳を貸すこともしないだろう。悔しかったら強さを見せてみろ、で終わらせるに違いない。

 実に分かりやすく、単純なルールであった。
 そのルールを知ったパルスィは、今まで以上に鬼が嫌いになりそうな予感があった。
 なんて妬ましくて勝手な連中なのだ。私達だって、好きで弱くなったわけじゃない。私達には、私達なりのプライドがあるんだぞ。

「ミズメお姉様?」
「………………」

 パルスィは鬼の娘の声を黙殺した。
 これ以上、彼女に一滴も酒を注いでもらいたくはなかったし、一切の施しを受けたくはなかった。
 第一こいつらは嘘が大嫌いなのだから、もし自分が鬼ではなく、橋姫であることがバレたらただでは済まないだろう。
 それはそれで痛快である。

「杏魅ぃ! こっちに来て呑め! お前の祝い酒をやる!」

 わーい、と鬼はあっという間にパルスィの元から去っていった。
 
 下っ端の鬼に愛想を尽かされたということになるかもしれないが、パルスィはようやく、あるべき自分の位置にたどり着いた気がしていた。
 誰にも注目されない、完全に景色と同化している状態。川底の石……ではなく、煮えたぎる油の海に混ざった一滴の水。
 まさしくこの宴に入り込む前に望んだ、日陰者の自分にふさわしい居場所を得ていた。
 
 じゃあ、この気持ちは一体なんなのだ。

「妬ましい……」

 パルスィは、ぼそりと呟いた。 
 視線の先には、裏切り者がいた。
 鬼と親しげに会話している、穴暮らしの二人。

 この宴で鬼達に己の存在を証明し、常連となり、酒を酌み交わす仲を築いた成功者、土蜘蛛。 
 そして、つい先ほどまでパルスィと同類だったはずの釣瓶落とし。
 彼女もヤマメと同じ道を歩みながら、私を置き去りにしていくのだろう。

 そんな二人が、妬ましくて……眩しくて……。


 パルスィはつい懐に手を伸ばしていた。
 そこに忍ばせておいたのは、厠の便所紙に混ぜるつもりであったはずの、『忘年会指南書』の二枚目である。
 別にこの輪に混ざりたいというわけではない。
 ただ、そんな絶対に混ざるはずのない一滴の水である自分に、あの如才ない土蜘蛛が、どんな助言を残したのか。
 それが気になったのだ。パルスィは畳んでいた紙を開いた。



 

 


   がんば ♥








「なんでこっちは投げやりなのよ!!」

 パルスィは叫んで、たった一言書かれた紙を破り捨てた。
 無責任極まりない。何の参考にもなりゃしない。
 ちょっとでも期待した自分が馬鹿だった。いや、期待などしてはいない。
 馬鹿な考えは捨てよう。橋姫としてもミズメとしても、このまま嫉妬を噛みしめながら黙って座るのが一番だ。

 そんなことを悶々と考えているうちに、視界がひどい有様になってきた。
 相撲は決着がつくどころか二人から六人に増えており、鬼の踊りも数名が入り混じった極彩色の乱舞へと変わっていた。
 会場の後方で、酒を浴びせかけられながら一心不乱に太鼓を叩きまくる鬼を筆頭に、やかましい演奏が続けられていた。
 それらの周囲を、がなり声と酒瓶が飛び交い、めいめいがそれぞれの席で好き勝手に隠し芸を披露している。
 
「この刀を呑みこんで見せようぞ!」

 そう宣言した鬼が、曲刀を呑み込むどころか、バリバリと音を立てて食べてしまっていた。

「俺様の妙技をご覧に入れよう!」
 
 火縄銃の弾丸を、瞼で受け止める鬼がいた。

「ひぃいいい! 痛むわい! だが渡りきったぞ!」

 炒った豆の絨毯の上を裸足で完走した鬼が、周りから褒め称えられていた。

 パルスィは禅の世界に没頭した。
 無念無想。明鏡止水。色即是空。焼肉定食。
 私はここにはいない。私はこいつらとは関係がない。私はこいつらとは何の縁もない。私は……。

 不意に勇儀が立ち上がる気配があった。

「どぉれ。久しぶりにあの技を見せてやるとするか」

 いよぉ!!

 掛け声が唱和して、鬼達が手拍子を鳴らし始めた。
 相撲を取っていた連中も舞を披露していた連中も手を止めて、それに混ざる。
 いつの間にか、太鼓を叩いている鬼達を除き、広間にいる全員が手拍子をしていた。
 なんだなんだ、とパルスィも訳が分からず、それに付き合う。

 小太りの鬼が、自らの巨体と同じサイズの酒樽を、肩に担いでやってきた。
 「ご苦労」と勇儀は労って、樽を両手で受け取る。さらにそれを抱え込み、大口を開けて呑み始めた。

「大将ぉ!」
「景気のいいやつを一発頼みます!」

 掛け声がいくつも飛ぶ。
 勇儀の呑むペースは全く衰えず、まさしく樽から注がれるままに酒を嚥下している。
 明らかに自分の身の丈よりも樽は大きいというのに、一体どこに入ってるのか。
 その妖術めいた呑みっぷりが芸かと思いきや、そうではないらしかった。

 勇儀が酒を呑み干さんとする間に、鬼達の手によって、障子が次々に開け放たれていく。
 回廊の向こうには、旧都の夜景が広がっていた。

 樽を空にしたらしい勇儀が、悠揚迫らぬ所作で、外に向かって歩きだす。
 首が繋がっているために、自然とパルスィも立ち上がって、彼女の後をついていくことになった。

 羅刹の間にて最も目立つその舞台に、鬼は仁王立ちした。
 太鼓の音を背負い、旧都の上空を見上げる。赤い一本角が、天を指していた。
 右手の上に、鬼火がともる。パルスィが臥姫の仕事場で見たものと同じものだ。
 勇儀が頭を、弓を引くがごとく、思いっきり後ろにそらした。
 そしていきなり、ぷぅううううううう、と外に向かって、酒の霧を吹き、


「っらぁ!」


 気合と共に鬼火を投げつけた。
 その火は、赤い蝶となって闇夜を飛び、霧の中に飛び込んで、
 
 視界が明るく染まった。
 パルスィは面に開いた二つの小さな穴から、その異常な光景を目撃していた。

 炎の龍虎が、旧都の空で相打っていた。
 龍は朱雀に、虎は玄武へとその姿を目まぐるしく変え、やがて火焔は螺旋を描き……。

「そらっ!!」

 勇儀の合図により、万雷の音を轟かせて弾け飛んだ。

 すさまじく豪快な宴会芸だ。
 羅刹の間に惜しみのない歓声と拍手が巻き起こる。

 ――こ、これが序破急の急ってとこかしら。

 パルスィは腰を抜かした状態で、何とか場の流れを解釈しようとする。
 だがその判断は甘かった。いや、甘すぎた。

 自らが生み出した酒花火に照らされ、鬼の四天王がその優美な黄金の髪を振って、羅刹の間に向き直った。

「よーし、頃合いだ! ここらでいっちょヤるかぁ!」

 『ヤる』? なんのことだ?

 困惑するパルスィの目には、酒に酔って興奮している一本角の鬼が映っていた。
 素面でも危険な鬼が、酔っぱらっている。しかも彼女は旧都における最強の鬼だとか。
 一体何が始まろうとしているのだ。

 ばさり、と勇儀が豪快に上着を脱いだ。
 あの二つの巨大な乳房が――固く巻いたさらしで封印されてはいたが――出現する。
 何の準備のために服を脱いだのか、パルスィにはまだ分からなかったが、

「さあ! 私とヤりたい奴はいないか! どんどん来な!」
「ちょっ!?」

 あまりにあからさまな発言に、声が裏返った。
 まさか『ヤる』ってそういう意味か!?
 パルスィが追及する間も避難する間もなく、事態は進んでいく。

「姐御! 不肖この雷電、一番槍の大役を頂戴いたしやす!」

 半裸で筋骨隆々の益荒男が、恐るべき勢いで勇儀に迫ってきた。

「ひぃぃぃいいいいい!?」

 パルスィは悲鳴をあげた。
 勇儀の立つ位置はすぐ側だ。このままでは自分も餌食になる。
 鳥肌が全身を覆い尽くす感覚で、気が狂いそうになったその瞬間、


「踏み込みがあまい!!」


 ドゴォ!!


 巨木に至近距離で大砲を打ちこんだような音がした。
 一瞬の出来事であったため、パルスィの思考は追いつかずに停止したままだった。
 ただその網膜は、勇儀の右ストレートを食らい、突進してきた三倍の速度で鬼が飛んでいく様を映していた。

「次ぃ!! さっさと来い!!」

 勇儀の掛け声を受け、別の鬼がやってくる。
 今度の鬼もかなりの巨漢で、見事な二つの角を生やしていた。
 その頭を構えて、「ブモォォォ!!」と興奮剤を打たれた牡牛のように突撃してくる。
 さっきの鬼に勝るとも劣らぬ突進力だ。が、

「気迫が足りん!!」


 ズガン!!


 勇儀の拳により、突撃してきた鬼の巨体が横から縦に軌道を変えた。
 畳に頭がめり込み、床が震動し、パルスィの両足が浮き上がった。

「しゃらくさい! そこの三つ! 何怖気吐いた顔していやがる! 束でこないか!!」
「う、うぉおおおお!!」

 今度は鬼が三体だ。視界が瞬く間に筋肉の山で塞がれ、パルスィは失禁しそうになる。

 だが勇儀は迫りくる肉の壁に全く引かず、それどころか半歩踏み込み、

「軽い軽い!!」

 ぐぉおおおお!!

 目にも止まらぬ速度で放たれた左拳が、ほとんど同時に鬼達を後ろに吹っ飛ばした。
 いずれも胸に立派なクレーターができているのが見えた。間違いなく骨がひしゃげている。
 
「次だ!! 次来い!!」

 今度はなんと七体だ。
 前方百八十度を鬼達の裸体が踊り、切れ目なく連なる鋼鉄の肉団子で埋め尽くされる。
 いくらなんでもこれは死んだ、とパルスィは観念したが

「数が揃っても無駄だっ!! これでも食らいな!!」

 勇儀の右足が霞んで見えなくなった。
 鋭い風切り音を追い越して、衝撃波が鬼達の体を、そして部屋に散らかっていた膳の山を最奥へと吹っ飛ばしていた。
 
「勇儀様!!」

 次の挑戦者はたった一人で、闇雲に突進してはこなかった。
 背は勇儀と同程度。胴着に身を包んだ青い散切り髪の優男で、鬼にしては細身である。
 ただし今まで突っ込んできた鬼達よりも、格段に妖気が優れていた。
 
 勇儀が嬉しそうに吠える。

「琵琶丸か! 久しぶりだな。あれからずいぶん腕を上げたと聞いたが?」
「はっ!! 勇儀様に捻られて以来、三年かけて技を磨き、この場に参上いたしました!! 今こそ再び、手合せ願います!!」
「よし! その心意気を試してやる!! 来い!!」

 琵琶丸の姿がかき消えた。
 低い背が何倍もの大きさになって、山から岩が崩れ落ちてくるような気配が迫ってきた。
 自分も勇儀ごと押しつぶされるのでは、とパルスィが覚悟する程だった。

 が、対峙する勇儀の妖気はそれ以上に膨れ上がり、爆発した。

 またもや一瞬で、別の光景に切り替わる。 
 流星が同時に降り注ぐような音を奏でて、胴着姿の鬼の体が部屋の最奥に飛んでいったのだ。
 よくて全身粉砕骨折、といった有様に見えた。
 勇儀は鼻をこすりながら言う。

「私の肩に触れることができたのは褒めてやろう。その調子で精進しな」

 あれだけ拳を叩き込んでおいてよく言う。
 真っ白の頭に残った、パルスィのなけなしの理性がそうツッコんでいた。

「これでお終いか!! 傷もつけずに立っている奴は何をしている!! それとも角無しかお前達は!?」
「くそぉ!! いくぞみんな!! 俺に続け!! 今日こそ勇儀様を倒すんだ!!」
「うおおっ!!」

 鬼達の挑戦はさらに続いた。
 勇儀はそれらを易々と制していった。
 両手両足を芭蕉扇に変えて、ちぎっては投げちぎっては投げ。
 鬼の屍が部屋のあちこちに出現していく。そんな様子を気にすることなく、間近で苦悶の声を浴びながら、勇儀は高笑いと共に殴り続ける。

 パルスィは彼女の背中を盾にしてうずくまり、ひたすら悲鳴をあげながら思った。
 ふざけんなバカヤロー。これのどこが宴会だ。ただの異種格闘技のバトルロイヤルじゃないか。

「ヤマメぇ! お前も座ってないで来い! 久しぶりに相撲を取ろうじゃないか!」

 ――ヤマメ!?

 パルスィは聞き違いではないかと、顔を跳ね上げた。
 なんと、奥にいた土蜘蛛が勇儀の誘いに、本当に立ち上がるのが見えた。

「おい!! ヤマメさんが俺らの仇を打ってくれるぞ!!」
「頼みます姐さん!!」

 すでに叩き伏せられていた鬼達も嬉しそうに吠える。

 ――嘘でしょ!?

 パルスィはまだ信じられなかった。
 短い時間、この鬼の化け物ぶりを間近で見続けた今、無謀な挑戦としか言いようがない。

「しょうがないなぁ……」

 まんざらでもなさそうな顔でいう土蜘蛛の顔は、ほんのり赤く染まっていた。
 酔っている。正常な判断ができなくなっているのだ。

 ――断りなさいヤマメっ。キスメのお守りはどうしたのよっ。

 口をパクパクと動かしながら、パルスィはその思いを遠くの友人に無言で訴える。
 声が出ないため、勇儀の方を引き止めようとするが、膝が震えて動かなかった。
 妖怪としての本能が先立ち、もはやまともに近づくことができない。
 
 ついに、ヤマメが突っ込んできた。
 勇儀が力比べでもするかのように、右の掌を前にかざす。 

 だがヤマメはそれに付き合わない。
 体が伸び上がった、と思いきや低い姿勢で懐に飛び込み、伸びた鬼の腕を掴む。

「おおっ!!」

 鬼達から驚きの声が上がる。
 勇儀が誘ったとはいえ、はじめてその間合いにまともに入ったのだから当然だ。
 すでにヤマメは、一本背負いの体勢に入っていた。
 流れるような動きが――途中でぴたりと止まった。
 勇儀の両足は畳についたまま、動かない。

「……糸も張らずに突っ込んでくるとは大した度胸だが……」

 勇儀の神速の足払いが、ヤマメに決まった。
 掴んでいた腕を支点にして、彼女の体が宙に浮く。

「あ……!」
「まだまだ力不足だな!」

 
 勇儀が腕を伸ばし、ぎゅぃん、と独楽のように回転して、ヤマメの体を外に、


「え……」


 パルスィの目の前で、ヤマメが城の外へと消えていった。


「次だ次!! 残ってるやつ、まとめて面倒見てやる!!」

 勇儀はまだ殴り合いを続けている。

 パルスィはその音を背後で聞きながら、外を見続けていた。
 夜の闇に消えてしまった友人は、再び上がってくる様子がなかった。

「はっはっは!! こんなものか!! まだ来てない奴はいないか!! 遠慮はいらないぞ!!」

 頭の血管が切れる音を聞いた。
 震えていたパルスィの膝に、生気が宿った。

 体を起こす。振り向きざま、パルスィは腕を振りかぶり、


「この馬鹿鬼ぃ!! いい加減にしろぉ!!」
「ごっ!?」


 魂の込もった鉄拳が、鬼の顎に叩き込まれた。
 勇儀の体がぐらりと揺れて――彼女はその場に片膝をついた。

 歓声が止み、部屋の空気が凍る。
 パルスィもまた、急速に血の気が引いた。

 しまった……。
 我を忘れて、やってしまった。鬼の大将に、不意の一撃を食らわせてしまった。
 怒り狂った鬼達が、主人の仇を討とうと突っ込んでくる、そんな未来が幻視できた。




「……勇儀様……?」


 けれども、パルスィの覚悟した事態は、やってこなかった。
 何やら様子がおかしい。鬼達は怒っているわけではなさそうだった。
 いずれも目玉をはめ込んだ埴輪のごとき、口を開けた大間抜けな面で、こちらを見ている。


「…………勇儀様が、膝をついた?」


 鬼の一人が呟き……




 うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!




 今宵最大級の盛り上がりに、羅刹の間が大きく揺らいだ。
 倒れていた者達も含めて、ほとんど全ての鬼が諸手を上げて喜んでいた。
 抱き合って涙を流している者までいる。まるで亡国の危機に瀕していた戦で、大逆転の勝利の報せを受けた雑兵のように。

「ついに土をつけた!!」
「無敗伝説が終わった!!」
「おい! 大穴らぞこれは!! 誰か負けに賭けてたやつはいねぇがぁ!?」
「新しい時代の幕開けだぁ!!」

 どうやら私は勇儀を倒したということになったらしい、とパルスィは事態を把握した。
 まともな手段ではなかったと思うのだが、そんなことも鬼達には関係ないらしかった。
 どれほどの快挙なのか呑みこめないものの、とにかく彼らは狂喜乱舞していた。

「すげぇ! ミズメの姐御と呼ばせてくだせぃ!」
「ミズメお姉様! 私感動しましたぁ!」

 そして、そんな鬼達の喜びは、パルスィに集中していた。
 誰もが橋姫の自分を、称えていた。


「…………ふ」

 なんなんだ……この展開は。

「ふ……ふふ……」

 こんな風に声をかけられたら……私は……私は……。

「…………血が……たぎるわ」

 パルスィは面の裏で、ゆっくりと笑みを刻んだ。
 体が沸騰しそうなくらい熱い。こんなことは、初めてだ。

「っしゃあ!! もう完全にキレた!!」

 一切の理性を手放して、パルスィは感情のおもむくままに叫ぶ。

「こんな無茶苦茶な状況、いい加減呑まずにやってられるか!! あんた達!! どんどんお酒持ってきなさい!! 全部呑み倒してやるわ!!」
「おおおお!! ミズメ様バンザイ!!」
「ミズメの姐御!!」
「お姉様ー!!」

 また鬼達が歓声を上げ、酒を手に突撃してくる。

 パルスィはビビることなく、その群れを迎え撃ち、





 意識が激流の中に飲みこまれた。




 ◆◇◆ 




 一方その頃、鬼ヶ城一階の大部屋でも、ささやかな宴会が行われていた。
 呑んでいるのは紛れもなく鬼であり、酒も料理も一応揃っている。
 なのに空気は妙に陰鬱としていた。
 畳の上で使い魔達が愉快な踊りを披露しているのを、座敷犬のような目で見つめる鬼達。
 その間、ひっきりなしに上から物凄い音が響いてくる。

「今年も賑わってるみたいだな」

 一人の鬼がひねた声で呟く。

「勇儀様に挑戦してるんだろうよ」
 
 仰向けになった別の鬼が、天井にぼやいた。

「生殺しだぜ畜生。これじゃ城入りしても自慢にならねぇ」

 彼らは鬼ヶ城に住みながら、羅刹の間入りを許されていない者達だった。
 いずれも旧地獄街道の風を肩で切り、いくつもの修羅場をくぐり、他の者から羨望の眼差しを集めてきた実力者である。
 ただし玄武坂を上れば、そんな武勇伝も通用しない。上の階には化け物揃い。
 ここまで上り詰められたからこそ、あと一段がどこまでも果てしなく感じられるのであった。

「今年こそは顔を出せると思ったのになぁ」
「くそ、杏魅の奴、抜け駆けしやがって」
「同輩を怨じているうちは、仲間入りなどできんぞ」

 寝転んでいた鬼達が、一斉に飛び起きた。
 入口に姿を現したのは、全身を刀傷で覆う片目の鬼だった。

「左近様! どうして!?」
「それがしは今夜、見回り役を引き受けた。これはお前達への差し入れだ」

 左近は酒甕と干し肉を放り投げる。
 わっ、と湿っていた場が湧き返った。

「勇儀様は、この城に居る全員の顔を覚えている。が、あの羅刹の間に集うことが許されるのは、本物の鬼達だ。まだ角も半端なお前達は、修練が足りん」
「わかってますよ、それくらい」
「なら愚痴など申すな。愚痴や不平を口にするほど、鬼の角は痩せていくのだからな」

 そう然りながらも、左近は両頬に深い皺を刻んでいた。
 昔の自分、彼らのように若かった頃を思い出したのである。

 左近は鬼のしきたりが、ことのほか気に入っている。
 上下の立場を定めるのは、正々堂々とした力比べのみ。
 そして強い者は上に立ち、ただし威張り散らすことなく、仲間を大事にし、下の者は強者を慕うことにより、強い絆で結ばれる。口ばかり達者な者や卑怯なやり口を好む者は、決して強者として認められない。奸計を張り巡らせて、上にいる者を陥れようと考える輩も決していない。

 だからこそ鬼は鬼でまとまれる。もはや地上に未練はない。我々は追い出されたのではなく、この地底を選んだのだ。
 この旧都こそが鬼達の楽園だと、鬼の副首領は自信を持って言い張ることができた。

「そういや左近様。これなんすけど」

 奥にいた若い鬼が一枚の紙を懐から取り出した。 

「あ、いやそれは……」

 感慨に耽っていた左近の頭に、半眼の勇儀の面が浮かび上がった。
 彼女の作品は、言いつけどおりに捨てておいたのだが、その名誉を考えれば焼却すべきだっただろうか。

「上手い墨絵ですよね。何を描いたのかはわかりませんけど、この一本角は勇儀様だろうか」
「ん? 上手い絵だと?」

 どうやら、勇儀が書いた絵ではないらしい。
 左近は心のどこかでホッとしつつ、それを手に取り……

 愕然となった。

 ――これは……!!

 背中を戦慄の汗が伝う。
 それはまさしく、以前勇儀から見せてもらい、紛失したと思われていた、臥姫の『予言』だったのだ。

「おい! これをどこで見つけた!?」
「へ?」
「申せ!!」

 左近の豹変ぶりが意外だったのだろう。
 若い鬼はおっかなびっくり告げる。

「子鬼ですよ」
「なんだと」
「廊下でまだ小さい鬼が持ち歩いていたんで、声をかけたんです。そうしたら驚いて、この紙を放り出して……」

 小さい? 子鬼?
 思ってもみない犯人像だった。しかし、嘘をついている様子はない。

「その鬼の特徴は。もっと詳しく申せ」
「えーと、頭が真っ白でした。あ、でもてっぺんは黒かったかな?」
「そいつなら俺も見かけたぞ。確かにつむじは黒かった。角が見えたんで、てっきり今夜の宴に参席した誰かが連れてきたんだと思ったんですがねぇ」

 容姿について聞いても、左近には全く覚えがなかった。
 この城に子供の鬼は住んでいない。誰かが外より連れてきた子供であれば、左近の耳に届かぬはずはない。
 一体何者だろうか。そやつがどこかからこの城に忍び込み、盗みを働いたというのか。

「左近様。じゃあこっちの絵も見ますか? 同じ時に拾ったやつですが」
「む?」

 左近は紙を受け取り、いよいよもって眉間の谷を深めた。

 ――これは……なんだ……。

 見たこともない絵だった。
 黒雲で体を覆った、足を山に生やしたような化け物が、両腕を天に向けている。
 よくよく観察してみると、二枚の絵は繋がっているように見えた。
 勇儀らしき一本角の鬼が綱を手にして躍りかかり、それを手足の生えた山が迎え撃つような構図になっているのだ。
 臥姫の描いた絵よりも紙が新しいので、右のそれは、その子鬼が描いたという悪戯だろうか。

 いくら考えても、己の頭では分かりそうにない。
 しかし左近はその二つの絵に、不吉な予感を覚えてならなかった。

 ――この旧都に一体、何が起こるというのだ、臥姫よ。

 窓から城の外に目を向ける。
 月の昇らぬ旧都の夜は、いつにもまして暗く映った。






(12)


 旧都の中央部にぽつりと建つ屋敷。
 ランプの灯が消えた玄関ホールにて、小さな影が動いていた。
 赤から黒、黒から赤。塗り分けられたタイルの上を、影はでたらめなステップを踏んで、歩いている。
 透明なパートナーと尾を繋ぐ、四本足の社交ダンス。
 
 ――あー……酔っぱらっちゃった……。

 窓際に到達した火焔猫燐は、ぷはぁ、と息を吐いた。
 普段は一杯だけと定められているマタタビ酒を、今夜は四杯も飲んでしまった。
 床がとろけたチーズのように感じられる。体はワインゼリーになったよう。 
 こんな時は人型よりも、猫型の方が快感である。

 ――地上の宴会もいいけど、やっぱり地底も心地いいニャー。

 ひんやりした床に寝転がって、燐は喉を鳴らした。
 屋敷が引っくり返る。
 世界が引っくり返る。
 窓の外は……お星さまが見えているだけで、引っくり返っているようには見えない。

 ――あれ……窓が開いてる……?

 燐はもう一度寝転がって、しゃんと立った。
 窓枠に近寄り――落ちないように気をつけて――外に体を出してみる。

「わっ」

 酔いが醒めそうになった。
 その屋根に腰掛けている、灰色の長い髪の少女は、捜して見つかる妖怪ではなかった。にも関わらず、捜してないのに見つかることは度々ある。
 まさに、今夜のように。 

「こいし様~どこに行ってたんですか。みんな待ってたんですよ」

 燐は二足歩行の人型に戻り、彼女に近づいて声をかけた。
 古明地こいしは帽子を緑のスカートの上に載せ、ぼんやりと虚空を見たまま、不思議そうに頭を傾けていた。

「忘年会のことですよー。クリスマスが終わってから、こいしさま帰ってきたじゃないですかー。だからさとり様に頼んで、もう一度クリスマスっぽいパーティーを開くことになったんですよー」
「…………」
「ツリーもケーキもありますよ。ななななんと、プレゼントも用意してるんですよ。そんなところにいて、風邪をひいたら大変ですよ~」
「……あれ? お燐がいる」
 
 いきなりこいしがそんな風に言ったので、ガクッ、と燐は膝を屈した。
 これだけ接近して話しかけていたというのに、今になってこちらの存在に気付いたらしい。少なからずショックである。

「そんなところにどうしているの? 風邪ひいちゃうよ」
「……こっちの台詞ですよ。いいですか。最初から説明します。プレゼントがあるんです」

 ――あたいが旧都の市で手に入れてきたんだけどね。
 
 燐は心の中で付け加えた。
 買い物の最中、人食い広場を歩き回っていたところ、釣瓶落としがボったくられようとしているところだったので、見かねて助けてやったら、御礼にたくさんの物をくれたのである。
 もともと頼まれていた食器類の他に、お揃いのアクセサリーなど。
 決してお使いのお金を使いこんだわけではないので、主人に怒られる筋合いはない。実際、さとりは喜んでくれた。

「だからせめて顔を出してください。さとり様もきっと喜びますから」

 けれども、こいしは返事することなく、また無口になってしまった。
 その胸元にある第三の眼は、固く閉ざされており、こちらの心を読んではくれない。
 おまけに彼女は猫の自分が閉口する程、超がつく気まぐれな性格なので、こんな扱いを受けるのはいつものことである。
 ただ、こいしが一か所で動かずに、ボーっとしてるのを見るのは珍しいので、燐はしばらく一緒にいようかな、と考えていた。

 旧地獄街道の本道は、旧都の動脈であっても芯というわけではない。中心部からは微妙にずれた位置を通っている。
 その中心部にあるここらの街も、閑散としていて建物が少なく、他と比べて賑わっているとは言い難い。
 理由の一つとして、この屋敷のご主人様が、嫌われ者の妖怪だというのがある。
 妖怪は人を食らう。人の肉を、人の歴史を、人の思いを、人の魂を。けれどもこの屋敷に住むご主人様は、妖怪そのものを食べてしまうのだ。
 固く守られた妖怪の心を隅々まで覗き込み、食べてしまう。だから普通の妖怪は、ここに近づこうとしない。
 
 でも燐は旧都に出かけるのが好きだった。ここから見る街の灯は、もっと前から好きだった。
 地上では草木も眠る……といわれる時間帯だが、地底ではむしろこの時間に街が活発になる。
 地霊殿に住む動物たちは妖怪化してから、この屋根に立ち、自分達が宝石に囲まれて生きてきたというのを知る。
 あの街の光景に憧れ、主人のさとりの許しを得て、やがてはあそこに出かけるようになるのだ。
 燐は今でも、ここに来るたびに昔のことを思い出す。思えば、今夜出会ったあの釣瓶落としに負けず劣らず緊張して、ぎくしゃくしていたっけ。

「あれ? もしかしてあれを見てるんですか?」

 こいしの目が、斜め上に向いていることに気付き、燐は彼女の視線の先を指した。
 そこには、先程窓から見えた一等星……によく似た何かがある。

「さっきから、ずぅっと見えてるの」

 まるで独り言のように、こいしが囁いた。

「綺麗ですね。何だか、本物のお星さまみたい」

 燐もまた、ロマンチックな気持ちになって言った。
 旧都で星は見えない。夜光虫か発光植物の固まりが光を放つのだ。
 だから本物の星に憧れる妖怪は多くいる。燐も地上に出た時は、満天の星空に心が浮き立ったものである。
 ところが隣に座る気まぐれ屋さんは、小さく笑い声を立てる。

「わかってないなー、お燐は」

 こいしが、はじめてこちらを向いた。
 意識が剥がれ落ち、真水のような彩度に変わった目を細め、

「あれはね……とっても怖い『妖怪』よ」
「へ? 今なんて?」
「お燐って見かけによらず可愛いのね」
「は? ええ!? 見かけが可愛いんじゃなくて!?」
「プレゼントを奪いに、お姉ちゃんのところに行ってみよー。レッツゴー」
「奪うんじゃなくて、もらいにいくんですよ! 話を聞いてたんですか聞いてなかったんですか! ちょっと、こいし様!」

 屋敷の中に戻ろうとする彼女が、無意識に隠れて見えなくなってしまわぬよう、燐は慌ててついていった。




 地底の奥で燃える、緑色の光。

 移ろうことなく、瞬くことなく、『それ』は旧都をじっと見下ろしていた。 




(続く)

 
 
 2に続きます。

旧名:PNS
このはずく
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コメント



0.2120簡易評価
1.100名前が無い程度の能力削除
>炒った豆の絨毯の上を裸足で完走した鬼

コイツだけ芸のベクトルが違うw
3.100名前が無い程度の能力削除
続きが気になりすぎる
感想は最後に!
4.100名前が無い程度の能力削除
パルスィ姉さん、嫉妬の神様ってあんたなんじゃ…
6.100名前が無い程度の能力削除
これは続きが気にならずに何となろうか
残り2つもじっくり読ませて頂きます!
12.100名前が無い程度の能力削除
宴会のシーン、パルスィが巻き込まれていく様をみて、たのしくなりました!
15.100名前が無い程度の能力削除
大事なはずなのにいちいち愉快な地底がたまりません
シリアスとコメディがミスマッチになっていないのは流石の一言
18.100名前が無い程度の能力削除
キャラの欠点とかコンプレックスとかが、すごくうまい具合に推進剤として機能してるなあ。ぐいぐいと引き込まれていく。
宴会のところは自分までひやひやして見させていただきましたよ。
謎の子鬼や最後の光は一体何なのか。
楽しみにして続きを読ませていただきます。
24.100名前が無い程度の能力削除
さて次だ。このワクワク感を感じる今この時が一番幸せの時だ。
26.100名前が無い程度の能力削除
いちいちそれらしい設定が、地底世界の魅力を幾重にも造成していて、最高です。「核融号」を思い出します。
パルスィのキャラクターが陰気で嫉妬深くて良いです。リアリティにあふれる。飲み会のときに隅っこでぽつんとしてる人、のような感じがします。
31.100賢者になる程度の能力削除
長いけど一気に読んじゃう

33.100Admiral削除
うおお、PNSさんの新作来てたー!!
相変わらずのオリキャラの動きの巧みさ、お美事です!
これはいい…。
一気に全編読んできます!
44.100名前が無い程度の能力削除
くっ、やっぱり貴方の作品は最高だ!
51.100名前が無い程度の能力削除
とても楽しく読ませて頂きました。
名前のない鬼たちからオリジナルまで、原作以外のキャラも含めて旧都がいきいきと描かれていて、のめり込むことができました。
特に地の文の描写は真に迫ったものがありとても良いです。
一方で、序盤の会話に言葉遊びや皮肉といった捻りがあと少し足りないかもしれないと感じました。ヤマメとパルスィの気の置けない距離感は大好きです。
素人意見失礼いたしました、続きも楽しく読ませて頂きます。