Coolier - 新生・東方創想話

富士見心中

2013/12/26 08:45:04
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 娘の死屍を啜ってようやく咲き満ちるか……かつての我があるじよ。


   1


 それはとても暖かい春の日で。
 ずっと冬が来ないのではないかと思ってしまうような、そんなうららかな日々が何日も続いた年のことでした。
 だからその分、その年の桜は早く散ってしまったそうですが、それはよく覚えていません。そもそも私は思い出と言えばもう数えるほどしかないのです。性格でしょうか。
 桜を眺めながらうとうとしていた遠い記憶。
 数えるほどしか口にしていないのは、きっとそれが私にとって大切なものだから。
 「――ねえ妖忌」
 いつもと同じ朝。剣術の稽古が終わった後、私は珍しく昔のことを話しました。夢のようにふとよぎった懐かしい情景を。しかしそれが私の中でいつまでも色あせないのは、何か特別な理由がある気がしたのです。
 「違和感と仰いましたか? お嬢様」
 「ええ。なんだかあの時の桜が一番綺麗だったような気がして……まだほんの子供だったからかしら。去年も一昨年も、偽物とは言わないまでも……なんだか……」
 不自然、いや不完全なような。
 八分咲きのまま散ってしまっているような。
 上手く言えずに口ごもっていると、妖忌はいつにもまして難しい顔をしながら、
 「……お気づきになりましたか」
 と、言ったのでした。
 「あの桜のお姿は、本来誰の目にも見えぬものなのです」
 「は?」
 「屍を食んで咲く西行妖の真の姿は生者の眼には映りませぬ。しかし、死者の眼はそも光を映しませぬ。そのお元には妖気にあてられた魑魅魍魎が集まるばかりにございます」
 「ふうん……。なら、私が子供の時に見えていたとしたらそれはなぜなのかしら」
 「七つまでは神のうち、と言います故」
 「うーん……」
 「もしくは、気に入られていたのでしょうな」
 「桜に?」
 「はい」
 死に近いほうがその姿を捉えやすい……だとすれば生まれたての赤子や、今わの際の病人にはあの桜がもっと美しく見えているのだろうか。
 「では、貴方は? 妖忌。半人半霊の貴方なら」 
 「確かに生とも死ともつかぬこの身の上。しかし幽明の境に住まう魂魄の血筋と言えど、あの艶姿をまさしく見たとは言えぬのでしょう」
 「ふうん。残念ね。私も、死んで亡霊にでもなったら見えるようになるのかしら」
 「お嬢様」
 「はいはい。分かってます」
 近頃、なんだか死という言葉を多く使うようになりました。その度にこうして咎められています。
 死蝶の力が強まり始めたことと、桜に違和感を覚え始めたこと。
 きっと無関係ではないのでしょうね。
 

   2


 死蝶。
 触れるだけであまねく命を奪う忌まわしき力。
 生まれた時から持っていたそれは、だから私の両親に由来するものであろうことは分かるのですが、二人は既に他界していますし、詳しいことは誰も教えてくれません。成人にでもなる頃には教えてくれるのでしょうか。
 今日も誰も教えてくれませんでした。何も教えず、祭り上げるように、飼い慣らしたがるように――妖忌は違いますが――皆が私をそんな風に見るのです。
 憂鬱な会合でした。
 親類縁者は勿論、どこから来たともしれない遠縁まで。毎日のように妖忌や他の家来たちが対応してくれていましたが、やはり直接会わないことには、遠路はるばる足を運んだ彼らの溜飲を下げるには至らなかったようで。
 出自の分かった者だけで会食という運びになりました。と言っても、形だけの冗長な顔合わせというのが本当のところです。私に余計なことを吹き込ませないためか、私だけはほとんど別室でしたし。
 何が不愉快と言って、この忌まわしい力にあやかろうとして集まった者たちの騒がしさをおいて他にはありません。
 彼らにはそうまでして手にかけたい人がいるのでしょうか。そんなこと理解できませんし、したくもありませんでした。あんなに恥も外聞もなく求める彼らには手に入らず、望んでさえいない私には生まれた時から備わっているなんて、全く疲れる皮肉ですね。
 「――こんにちは」
 それは唐突に。
 会合の後、部屋で疲れを癒していた時に起きました。
 なんとたとえればいいのか……『肺の中に直接冷気を注がれたような』とでも言いましょうか……。あるいは唐突に無数の視線を浴びせられたような。ただ急に話しかけられただけでは有り得ない感触。
 「ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったのだけれど。今日は警備が厳しかったものだから、忍び込んでしまいましたわ」
 と言いつつも彼女は背後からそう声をかけたのでした。
 「……どなた?」
 「初めましてお嬢さん。私は八雲紫。ただの妖怪だから、仲良くしてちょうだいね」
 金色の髪に、紫と白の洋服。見慣れない作りの傘。
 なんとなく胡散臭いなあという第一印象が正直なところでした。言いませんが。
 「……西行寺幽々子です」
 「存じておりますわ」
 私を知っている。
 ということはおそらくは私が富士見の娘であることも。
 胡散臭いとは言え、妖怪というならさっきまで集まっていた彼らとは違うのでしょうが、しかしうんざりした表情は隠しきれなかったようで。
 「少しお話をしに立ち寄っただけですわ」
 と、少し困ったように微笑まれてしまいました。
 「人の時間は早いものね。ようやく杯を交わす仲になれたと思ったら、もう先立たれてしまうなんて。しかも――いえ」
 「?」
 何か言い淀んだ様子でしたが――もしかして父と知り合いだったのでしょうか。
 「遠くから眺めているだけで良かったのだけど……なんだか近頃は不愉快な連中が集まってきていたみたいだから、少し見兼ねて」
 「桜のことですか?」
 私がそう質問すると、その妖怪はやや驚いたように目を見開きました。
 「……桜、と言うのね。貴方は」
 「え? ああ、はい。そうですね。西行妖のことは昔から……」
 それはよく言えば箱入り。
 あえて悪し様に言おうとも、無闇に本当のことを言おうとも、私は思いません。それが日常をやり過ごすコツです。
 「そうね。あれは桜の中の桜だわ」
 彼女もなんとなく察してくれたのか、そんな風に仰ってくれました。
 「つぼみが綻び始めていたから近くで見たかったのだけれど、嫌われたものね」
 「はい?」
 「西行妖に拒まれてしまったみたい。全然近づけないの」
 突き放したのは貴方からなのにね、と。
 遠い過去を懐かしむように彼女は桜の方を眺めて言いました。
 「でも、きっと今のあの桜に拒まれて近づける者はいないのでしょうね。その気になればこの世界から自身を隔離することさえできるのではないかしら」
 「……ええと」
 「ああ、急にごめんなさいね。でも本当の話よ」
 彼女はまるで自分のことのように誇らしげに、そう言いました。
 それから彼女は、本当に私ととりとめのない話をしてくれました。
 あまり会話に慣れていない私を助けるように、色々な話を教えてもらいましたし、色々な話を聞いてもらいました。
 勿論最初はあまり込み入った話なんてできませんでしたが、彼女は妙に聞き上手と言いますか、気付けばそれなりに話しにくいことも口にしていました。話術か何かだったのでしょうか。あまり外の者と話さないようにと言われてはいたのですが、肩の力が抜けていく心地よさには勝てませんでした。
 父とは旧友のようで、妖忌ともその頃から友人だったようです。西行妖とも古い知り合いだったらしいですが、そのことについてはあまり詳しくは教えてはもらえませんでした。同じ妖怪同士、色事のたぐいだったのかもしれません。そう言うとからかわれてしまいましたが。
 聞き上手は聞き上手で、話し上手でもあるのですが、人をからかうのが好きな方でした……。心を読まれているかのように勘所を避けてからかわれた印象です。
 一しきりそんなお話しを楽しんで、時間が経つのも忘れていた頃。彼女は沈みかけた夕日に染まった桜を眺めて、
 「それじゃあね、幽々子。また来るわ。妖忌によろしく」
 そう言うと、宙に現れた怪しげな闇の中に消えていきました。ああやって入って来たのですね……。
 「八雲……八雲、紫」
 彼女が父と古くからの友人だったということは。
 あの愛おしそうな眼差しは忘れ形見へ向けるそれだったのでしょうか。
 『見兼ねて』と言うのはもしかすると『桜に』ではなく『富士見の娘である私に』だったのかもしれません。
 そうでなくとも彼女は、人間とは比べ物にならないほど長生きをしていたようでした。きっと慣れたもの――なのでしょう。
 彼女の優しさは、私の生まれる前から続いていたのかもしれません。
 そんな無数の別離の痛みの上にある優しさを、私なんかが受け取ってしまってよいのでしょうか、と。
 私は、からかわれたくなかったので訊かないことにしました。


   3


 「今日は天気がよくて富士が見えるわね」
 「あら、紫さん」
 桜は五分咲きといったところだったでしょうか。
 あれから彼女は、時折ふらっと訪れてはとりとめもない雑談に付き合ってくれました。簡単に気を許してもいいのか――だなんて初めの頃の警戒心がばかみたい。
 彼女の思い出話はどれも華やかで、退屈とは無縁のものばかりでした。彼女と比べたら、私なんて生まれたての赤子のようなものなのでしょう。腹の立てようのない子供扱いがこの世にはあるのだなあ、なんてことを思いました。
 「貴方のお父様はそれは豪気な人でね。桜と富士の見える時を除いて埋葬は許さん、なんて言っていたのよ。それも亡くなる十年くらい前から」
 「はは……墓標を桜木にしかねないですね、それは……」
 「……そうね」
 「……」
 「……」
 「紫さん?」
 それは全体、どのような意味の沈黙だったのでしょう。
 彼女はまた、懐かしむように桜を見つめていました。
 「そうでなくとも、西行妖の類稀なる艶やかさは故あってのこと。それは聞けば誰もが頷くものなのでしょうね」
 「……罪深き桜です。一体どれだけの人を狂わせてきたのでしょう」 
 きっと私が生まれるずっと前から、あれはただそこにいただけなのでしょうけれど。しかしそれを除いてあれに罪はなく、また到底許されるものでもないのです。
 決意を込め、私は死蝶を二、三、宙に放ち言いました。
 「西行妖をご存知なら、この死蝶もご存知でしょう。私もあの桜のようです。私のために多くの人が死にました。紫さん、貴方のご好意は私にとって心苦しいほど嬉しく思います。しかしあまり私のような――あっ」
 彼女はあろうことか死蝶に触れてしまいました。一体何を考えられているのでしょうか――思わず目を覆おうとしましたが、しかしその必要はなかったようです。
 「冷たいのね。でも、とても綺麗な蝶」
 まるで死を玩具か何かのように、彼女は掌の上で弄んでいました。
 「あ、あの……」
 「流石に西行妖には敵わないけれど、これくらいならね」
 妖艶な、という言葉が。
 「私は人間ではないもの」
 この上なく当てはまる微笑でした。 
 「……」
 なのに、どこか母親のような。
 「……ありがとうございます」 
 「いいえ、どういたしまして」
 どれだけの時間を生きれば、これだけ深遠な微笑みを浮かべられるようになるのでしょう。百年か、二百年か。あるいは千年かもしれません。
 しかし死蝶によって落命しないほど強い力を持つ彼女は――そもそも生命という存在なのでしょうか。
 「あの、紫さん」
 私は思い切って件の質問をしました。
 人ならざる彼女になら、生死を超越する彼女になら――たとえ近づけなくとも、西行妖の真の姿をその目に捉えているのではないかと。
 しかし彼女は申し訳なさそうに首を横に振りました。
 「亡霊ならあるいは見えるのかもしれないけど……今の西行妖では、生きている者には到底ね。私にもきっと貴方と同じように見えているわ、幽々子。まだ足りぬ、まだ足りぬと嘆くあの桜の姿が」
 「足りぬ……?」
 はっとしたように彼女は目を逸らしました。
 「いえ、それは……」
 それはややもすると失言のたぐいだったのかもしれませんが、しかしその時の私はもう自制が効かず。
 「お願いします、紫さん。私、どうしても知りたいんです」 
 それは少し性急過ぎた嫌いがありましたが――言い訳が許されるなら、あの桜はもうずっと昔から私の好奇心を殆んど奪ってしまう存在だったのです。
 私が上目遣いで訴えると、彼女は根負けしたようなため息とともに口を開きました。
 「私は花見ができればそれで構わないし、これはひどく妖怪的な考えになるけれど」
 彼女はなぜか桜の下を睨むように。
 たとえるなら、愛しくはあってもしかしどうしても許せない誰かを思い出すように、言葉を紡ぎました。
 「西行妖がまだ真に咲き満ちていないとすれば、もしそれがあれだけの屍を食らいなお足りなかったという理由なら。その不足を満たし得るのは富士見の力をおいて他にはない――」
 「そこまでになされませ。紫様」
 「!」
 「……妖忌」
 今まで二、三言葉を交わしていたものの、妖忌がこんな風に横槍を入れたのは初めてのことでした。
 「それ以上はなりません」
 「……そうね、さすがに口を滑らせすぎたわ。ごめんなさい、妖忌。幽々子も、忘れてもらえると有難いわ」
 「いえ……私も、すみません。無理を言ってしまって」
 勿論、私もそれ以上の追求はしませんでした。
 私にとって知ってはならないことなど無数にあり。
 優しい彼女が口ごもったのも、きっと妖忌が今まで隠してきたのと同じ理由に違いないのですから。あんな風に食い下がってしまったのを恥じ入るばかりです。
 「また日を改めますわ。どうか息災で。幽々子、妖忌」
 彼女がいつもと同じように暗い隙間へ消えると、当然かもしれませんが、どことなく気まずい沈黙が訪れました。
 「……これは全くの弁解にございますが」
 こういう時は大抵、妖忌から切り出してくれます。申し訳ないなあと思いつつも、私はやはり人と話すのが苦手なのです。
 「実はそろそろお話する時期だと、考えてはおりました」
 言いづらいことだったのか――あるいは伝え漏らしがないよう熟考していたのか。やがて苦虫を噛み潰したような面持ちで妖忌は続けました。
 「ですが、これは知ってしまえば二度と引き返せぬ茨の道。お優しいお嬢様が、この先ずっと心を痛めてしまうことになるやもしれぬと思うと」
 もう少し、もう少しと。
 それは聞いたことのないような弱々しい声音でした。
 「お話しする機会を見送ってしまった次第です。申し訳ありません、お嬢様。この件の処遇はなんなりと」
 「そんな、処遇だなんて」
 妖忌が本当に申し訳なさそうにしているので、私は「そうだ」と言って無理やり話を逸らしました。いつの間にか金色の妖怪の方に、話術か何か仕込まれていたのかもしれません。
 「ねえ、妖忌。やはり貴方にも見えないの? あの桜の本当の姿は」
 「? はい。それは以前お伝えした通りですが……」
 「花は桜木、人は武士、と言うわ」
 妖忌は少し驚いたような顔をして「光栄至極に存じます」と穏やかに破顔しました。
 妖忌が言わなかったということは、それは私がまだ知らなくても良いことだったからでしょう。あの逡巡も全て、私を思ってくれてのことなのです。
 しかし、それももう限界なのですね。
 「あの桜が散り終わる頃」
 妖忌は決意したように言いました。
 「お嬢様に全てをお話ししましょう。せめて今年限りは、この世で最上の花見をお楽しみ下さいませ」

  
   4

 
 花見の準備も殆んど終わったとある昼下がり。
 桜もほとんど咲いているというのに今日だけはやけに冷える日でした。
 金色の妖怪の方も来ていませんでした。今日は特にあの方の優しさが恋しく感じます。別に毎日来てくださってる訳ではありませんでしたが。
 そう言えば、優しさや温かさを思い出すのは孤独の証拠だとかなんとか。
 縁側に腰掛け、曇天を見上げると急に寒くなったようで、にわかに気分が薄暗くなります。憂さ晴らしに躍らせた死蝶がまるで雪のよう。どこか死に化粧にも似た白さ。
 雪を見るともの悲しくなることが多いです。そう言えば、北国では寒く暗い気候のせいで自ら命を絶つ方が多いのだとか。
 冬も嫌いではないのです。華やぐ春も、さざめく夏も、寂しい秋も。そのどれもがこの国を美しく彩っているようで。
 でもまるで、この死蝶は雪の結晶を模したような。
 ほう、とため息をつきました。もうすぐ桜が散る頃です。息が白くなるはずもありませんでした。
 「お嬢様」 
 それは咎めるような、心配するような妖忌の声でした。
 「あっ……」
 触れるだけで命を奪う死蝶。その美しさを鑑賞するためだけに生み出すなんて許されるはずがないのです。見つかっていたのが妖忌だから良かったようなものの……。
 なのに私はその時とても疲れていたせいか、
 「氷細工のようでしょう?」
 と口を滑らせてしまったのです。
 「お嬢様。無闇にその力をお使いになるのは禁じたはずです」
 それは当然のお叱りだったはずなのに。
 私はまるで涙を堪えるように、言葉に詰まってしまいました。
 しかしそんな私を見かねたのか妖忌は、
 「……儚げで、お嬢様に相応しく美しゅうございました」
 と慰めてくれました。
 私は、礼と謝罪を一つずつ伝えて部屋を後にしました。 
 「…………嗚呼」
 私は一体――何をしているのでしょうか。
 ただただ忌まわしいこの力をどうして綺麗などと思ってしまったのでしょうね。この妖しい輝きに魅せられて何人もの人が死んだと思っているのでしょうね。私は気づかないうちに現実から目を逸らし、逃げていたのかもしれません。
 ――逃げる?
 「どこへ……?」
 あの金色の妖怪の方に連れ出してもらおうとでも? 馬鹿な。そんなことをすれば彼女に追っ手がかかります。妖忌だって、ひょっとしたら腹を切らされるかもしれません。
 私のたった二人の大切な人に、恩を仇で返すような真似なんて――今までなんのために耐えてきたのか分からない。
 「ここが。……ここが私の墓場でしょうに」
 日の沈む前に眠りにつくようになったのはいつの頃からだったでしょうか。
 夜はたやすく死を連想させます。暗いところで目を瞑ると余計なことばかり考えてしまうのです。まるで幼子のように。
 灯りをつけたまま横になり、まどろんでいると、なんとなくあの金色の妖怪の方に来て欲しくなったのですが――結局、もう彼女と会うことはありませんでした。
 誰と会うこともありませんでした。
 

   5
 

 あの桜の下にはいくつもの屍が。
 あれは弔うためにではなく、覆い隠すために散っているのです。
 私の蝶はなんのために舞っていますか?
 私の足元にだっていくつもの屍が。屍が眠っているのです。
 これからもきっと増えるのでしょうね。私にも、貴方にも。
 そうまでして咲かすべき花があるのですか?
 そうまでして生かすべき人がいるのですか?
 貴方は墓標のようですね。私も墓標のようです。もうずっとそこにいたのでしょうね。
 ほらそうして。
 駄々をこねるみたいに私を呼ぶ。
 咲きたがるようにむずがる。
 もういいでしょう?
 ならば咲かせなさい。美しき国の艶やかなる花よ。
 散れば二度と咲かぬ花。一度きりの完全を。共に成し遂げて眠りましょう。
 私たちの咎を覆い隠すため。
 満たされて散るがいい。

    
   6


 目が覚めると悪夢を忘れていました。
 涙が流れていたことから、それは逃げる夢だったような気がしましたし、諦める夢だったような気がしました。何も分かりませんでした。
 「……桜?」
 何か、名を呼ばれたような。
 襖を開けると、桜の方から流れた優しい風が髪を揺らしていきました。
 「いい天気ね……」
 太陽はもう高く、気持ちよく晴れ渡っています。家の中からは白昼の光が眩しいほどでした。顔に柔らかい日差しの熱を感じます。
 ――あの桜のお姿は、本来誰の目にも見えぬものなのです
 嫌な汗で濡れた体を、風にさらさらと扇いでもらっているような。凍えた心身を、優しい陽の光が温めてくれているような。
 あの桜に見初められ、抱きしめられているような。
 ――その気になればこの世界から自身を隔離することさえできるのではないかしら  
 人の姿はなく、瞼を閉じると、草木の揺れる音と小鳥たちの鳴き声が、この世の何もかもになりました。
 まるでここだけが、時間の緩やかになったような。
 ――これはひどく妖怪的な考えになるけれど
 今、私の他にあるのは穏やかな世界だけ。静かで、優しくて、暖かくて。
 安らかで、侵しがたく、そして永遠に続いてしまいそうな。
 ちいさなせかい。
 ――その不足を満たし得るのは富士見の力をおいて他にはない――
 「……死ぬにはいい日ね」
 あの西行妖がこの時ばかりは美しく輝いて見えました。嗚呼そうだ、この桜はきっと私しか知らないに違いないのだ。
 迎えに行こう。   
 白砂へ踏み出す。素足はやはり少し痛い。あと何歩進めばそこへたどり着くでしょう。
 一つ歩むごとに数を増す死蝶の群れが、私の体温を奪っていく。一歩近づくたびに降り注ぐ陽光は幽かに白く。白昼夢よりも淡く霞むような。
 誰かに声をかけられたような気がしました。
 けれどどこにも誰もいませんでした――寝起きとはいえ、こんな生と死のはざまのような世界で後ろを振り返るだなんて、粗忽者のそしりを免れませんね――あの金色の妖怪の方? それとも妖忌?
 見送ってもらえたのなら、それは望外。
 前を向き直してみても桜は美しいままでした。ここまで近付くとなんだか飲み込まれてしまいそうな。
 木影と日向の境で立ち止まる。
 死蝶に冷やされた体が暖かい日の光に照らされると、意識とともに世界が落ちそうになりました。 
 けれどきっと此処が限界。
 俯くのをやめ、桜を見上げる。ちらほらとつぼみの残る枝は、惜しくも八分咲きと言ったところでしょうか。なんだかとても申し訳ないような。
 もうあとほんの少しで散り始めるだろうに……。
 死蝶を砕き散桜に見立て、せめて貴方を飾ります。罪深き西行の為に眠る者がもう二度と現れませぬよう、美しい貴方を永遠に独り占めしてしまうことを許してください。
 このしめやかな心中が貴方に見合うものとなりますように。
 「おやすみなさい」

 世界が落ちていく。
 
 空はよく見えない。
 いち面のはなびら。滲んでいく。
 泳ぐ、ゆれて舞う桃色。
 まどろんで、目を瞑る。
 いつかのにぎわい。
 満開の桜の下で。
 春のひだまりに抱かれて眠る。   
ありがとうございました。
忘れ形見を愛するということは、そのものに目を向けないということとは限らない、と僕は思います。

20140317追記
書き終えた後に思い出したのですが、冒頭に引用する短歌はこっちの方が良かったかもしれません。

身のうさを思ひしらでややみなまし
そむくならひのなき世なりせば
雑賀龍々
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コメント



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とても美しゅうございました。
儚く、悲しく、美しい作品、堪能させていただきました。