Coolier - 新生・東方創想話

さよなら私のイデオローグ

2013/12/20 02:10:32
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 私と彼女の末路を語る為に、まずは居場所の話から入ろうと思う。

 居場所。三つの漢字を連ねて意味を持たせた単語。誰もがそれを求めて、渇望して、いつしかそれを自分の物にしている。一生を掛けて探す酔狂な奴も居れば、折角見つけたそれに違和感を覚えて、あっさりと捨ててしまう馬鹿も居る。沢山居る。

 例えば、私の夫。

 私も彼も人間だった時に、互いの隣を互いの居場所にしようと決めた仲。寄り添って、肌を重ねて、その温かさと劣情こそ自分が求めた居場所だと思おうとした二人。

 ――だった。

 今はもう顔も思い出せない元夫は、私の隣は自分の居場所じゃないと判断した奴だった。
 折角見つけた居場所を捨てて。
 別の女の肌の上を、新たな居場所として確定させようとした大馬鹿者の内の一人。

 もちろん、私は殺した。

 世間には掃いて捨てる程に居るだろう大馬鹿者の一人を、私は当然殺した。愚かしくもたった一人の男の隣こそ終の居場所と確定させていた私を裏切ったソイツを、殺した。微塵の躊躇も無く殺した。私を捨てて、私から永遠に居場所を奪い去ったソイツは、嫉妬の情念が生み出した緑の炎で灰になった。消し炭に。塵芥に。焼却ゴミになった。生きたまま火葬を施され、祀られる墓も与えられずにチリとなってこの世から消滅した。
 少しばかり話がそれた気もするけれど私が言いたい事は、居場所という奴はつまり、それほどまでに重い概念だという事だ。

 奪えば死を用意される程に。
 生きながら焼き殺されて然るべきな程に。

 そうしてそんな大切な物を呆気なく奪われた私は、千年近くを経由して居場所の事ばかりを考えている。
 奪われた復讐を果たす為に人から鬼になった私は、人の世界は当然ながら、妖怪の世界ですらも居場所として定める事が出来ない女となっていた。誰かと添い遂げる事が、子を成す事が、生者として定めるべきゴールだと思っていた、思い込んでいた私は、その手段を奪われて、捨てて、自分がどこに居るべきなのか判らなくなってしまった。
 他者を妬み続ける妖怪になった私は。
 誰かの隣に居る為の資格を死ぬまで喪失する事となった。

 嫌われ者の妖怪。
 社会を形成する歯車になり得ない鬼。

 そんな私が忌み嫌われて、追い立てられて、挙句に地底の世界へと墜とされたのは、まぁ当然の事だろうなと思う。自分自身で居場所を造る事の出来なくなった女の末路として、臭い物に蓋をするみたく追放される事は、捨てられる事は、極めて真っ当な処分だと自分でも思う。

 そうして消えてしまえたのなら、人を呪えば何とやらで終わる話だった。
 地底の世界に追放されて、居場所を完璧に失ったまま死んでしまえたなら、それこそが夫を呪い殺した私の業だと納得したまま、消えて無くなってしまえる筈だった。愚かな女の復讐譚はそれでおしまい。忘れられて、死んで、影も形も無くなって、かつて失った居場所と同じように、ゼロになりましたとさ。なんて。そこで救いの無い私の人生という奴にピリオドが打たれる筈だった。

 唯一の誤算は、私と同じように追放された妖怪たちが、旧地獄に社会を作って生活していたという事。
 社会。コミュニティ。関係性という紐で他者と繋がり合って、水面下で陣取り合戦をする環境。居場所を造り出すことを求められる世界。全てを失って静かに消えて行くだけだった筈の私は、行きついた果てでもまた居場所を思考せねばならなくなった。

 ……いや、少し違う。
 私は、もうどこにも行く事の無い私は、ここでもまた、同じことを考え続ける羽目になってしまったのだ。

 つまり、
『――ここは私の居場所じゃない』
 と……。

 前置きが長くなった。そろそろ本題に入ろう。
 これは私と彼女の物語だ。
 社会から排斥される事を宿命づけられた、哀れな二人の女の話。居場所の話。ここは私の居場所じゃないと、私の居場所をちょうだいと、言外に、時には言葉にして、叫び続けた話。過去の話。社会を否定し、社会から否定された彼女についての昔話。
 この社会に倦んでいた私を、同志と呼んだ天邪鬼――鬼人正邪との。

 ◆◆◆
 
 正邪について語る前にはもう一つ、触れておかなければならない事柄が存在する。それは暫定的に私が定着した居場所――つまりは橋の管理という仕事に付いてだ。
 宇治川に身を浸す事で人では無くなった私は、鬼という分類の中にある橋姫という妖怪になっていた。それは生前の私が、橋の上に居る事を好んだ事も関係するのだろう。

 橋は単に川の上を渡る為のインフラに留まらず、こちらの世界とあちらの世界を繋ぐ境界としての役割も与えられている。鬼となった私に橋という概念が付与された事で、嫉妬狂いの女の成れの果ては境界を管理する鬼神としての役割をも担う事となった。
 それはかつて京都に多量の死をもたらした橋姫という荒御霊を祀る事で、災厄を収めようとした人間の必死な信仰の結果なのだけれども、今回の話に私の出自はそれほど関係しないので、長々とした講釈は割愛しよう。

 重要なのは私が地底世界の橋=境界を管理する仕事を押し付けられた事だ。
 ――押し付けられた。
 そこに私が、『暫定的に定着した居場所』と形容した理由がある。

 獲得した訳では無く、与えられた居場所。
 たまたま私が橋姫だったから、手に入れる事になっただけの居場所。

 種族としての宿命というよりは元々橋の上が好きだったという理由から、その暫定的な居場所をそこそこ気に入っていたのだから、私も現金な女だ。ペルシャ人だった父親が国と国を旅する商船乗りで、船が流れているのを見ると父を思い出すから――いや、これも蛇足だろう。関係が無いので割愛。

 境界管理の仕事なんて大層に言った所で、やる事なんか何も無かった。当然だ。地上と旧都の間には不可侵条約が存在していて、地上から来る輩も地底から出る輩も居やしなかったのだから。
 厄介者を管理者に仕立て上げて、体よく中心街から追い払う方便だったのかも知れない。けれど、特に誰とも顔を合わせない日々というのは、そこそこ快適だったし、私は意図的に橋へ誰も来ない様に振るまっていた。少し大げさに嫉妬心を振り撒き、誰彼かまわず妬んで見せる事で、旧都に住まう他の妖怪は、すぐさま私の下へ近づいて来る事を止めた。気分が悪くなると知っていて、それでも来る様な馬鹿なんて一人を除いて誰も居なくて、その一人の馬鹿こそが鬼人正邪だった。

 天邪鬼という、鬼の中でも極めて特殊な一分類。
 鬼という漢字を冠しながらもその実、鬼らしい行動理念も規範も存在しない曖昧で奇妙な特殊例。誰かから『お前は鬼じゃない』と言われてしまえば、途端に鬼という区分から離れてしまう、そんな不確かな妖怪。鬼人正邪。

 粘着質。
 それが彼女に対して抱いた、最初の印象だった。
 指に纏わりついた決して乾燥しない糊みたいに、どれほど邪険に扱っても、彼女は私の橋へと来る事を止めなかった。

「また辛気臭い顔をしているな」

 ニヤニヤ笑いを浮かべながら橋板を踏んでやって来る正邪に溜め息を吐く事が、私の定型的な反応になっていた。機嫌を損ねる様に振るまっているにもかかわらず毎日毎日来られると、こちらとしても適切な嫌味の語彙に限界が訪れる。

「御機嫌よう。話は終わった? ハイお疲れ様。さようなら」

「そうかそうか。じゃ、帰らないぞ。少しお喋りをしよう」

「……うわーい。正邪。パルスィ正邪大好き」

「そうかそうか。嬉しいな。じゃ、帰らないぞ。長々とお喋りをしよう」

「そこは帰りなさいよ……天邪鬼の本分はどこに行ったのよ……」

 頭を抱える。コイツに何を言っても無駄だという一念が醸成されるのに、長い時間は要しなかった。悪い意味で人の嫌がる事を進んでやるコイツは、嫌がる私の隣に陣取って欄干に背を預ける事に何よりの悦を見出している様だった。

 コイツを私から引き剥がす為には、コイツの事を本気で好きにならなければならない。
 嫉妬狂いの橋姫である私でも、流石にそこまで倒錯できない。

「面白い話とつまらない話。どちらを聞きたい?」

「アンタの話は全部つまらないから、私に選択肢は存在しない」

「それじゃ、フラクタル図形の話をしよう。そもそもフラクタルとはフランスの数学者であるブノワ・マンデルブロが導入した幾何学の概念の事を指す。図形の部分と全体が自己相似になっている物をフラクタルだと呼称するわけだ。マンデルブロの定義によるとフラクタルは『ハウスドルフ次元が位相次元を厳密に上回る様な集合』であり、完全に自己相似なフラクタルにおいてハウスドルフ次元はミンコフスキー次元と等しくなる。フラクタルを定義する際の問題においては、①『不規則過ぎる事』に正確な意味が存在しない。②『次元』の定義が唯一でない。③物体が自己相似である方法がいくつも存在する。④全てのフラクタルが再帰的に定義されるとは限らない。といった物が存在している。近似的なフラクタル図形は自然界のあらゆる場面で出現されるとされてな、自然科学の新たなアプローチ手法となったんだ。近似と呼称した理由は、数学的に厳密なフラクタルは無限大を含むため自然界では成立しない所にある。フラクタルの例には『カントール集合』『シェルピンスキーのギャスケット』『コッホ曲線』『高木曲線』『ヒルベルト曲線』『マンデルブロ集合』『ジュリア集合』『メンガーのスポンジ』『ロマネスコ・ブロッコリー』『バーニングシップ・フラクタル』『リアプノフ・フラクタル』等々がある。理論上は有限の体積の中に無限の表面積を包含できるフラクタル構造は、生物が選択する無駄の無い進化において非常に合理的かつ効率的な訳だ(※Wikipedia『フラクタル』より抜粋)」

「ねえ、お願いだから一回死んでくれない?」

 ご丁寧に注釈まで声に出して言った正邪に、頭痛を発症し始めた私は懇願する様に言う。

「生きるっ!」

「それじゃ私と関係の無い所で生きて」

「そうかそうか……パルスィ。結婚しよう」

「アンタと一緒になる位なら、触手か何かの養分になる方がマシ」

「生やそうか?」

「死ね。二回死ね」

「生きる、生きるっ!」

 ……とまぁ、万事がこんな具合。精神を病まなかった私を褒めてやりたい。元々が健全という訳では無い事も関係するかもしれないけれど、それはまぁどうでも良い話だ。
 そんな訳で私は全く不本意な事に、一日のほとんどを倒錯し切った天邪鬼と共に過ごす事を余儀なくされた。
 正邪を追い払う為に暴力的な手段に訴えた事も何度かあるけれど、私が勝とうが負けようが次の日には平気な顔をして現れるので、遂には根負けした。うんざりとした気分で、どこから調達して来るのやら正邪が語りまくる話に耳を傾ける羽目になった。

 天邪鬼は、鬼人正邪は、地底の中でも指折りの嫌われ者だった。

 嫌われるように、と意図的に他者を排除した私よりも尚、正邪は地底の妖怪たちから、とてもとても嫌われていた。自然体で振るまう事が、他者の神経を逆なでする事と同義の正邪を気に入る奴なんか、誰一人として居なかった。正邪に付きまとわれる事で、私に同情的な視線を送る妖怪が居たほどに、正邪は全くもって嫌われ者として最上級に位置した。鼻つまみ者で、誰もが彼女を嫌い、嘲り、同族に対する仲間意識の強い筈の鬼たちからさえも、目の上のたんこぶなんか目じゃないくらいに、疎まれていた。

 いっそ妬ましいくらい。
 どうしたらそこまで他人から嫌われる事が出来るの? と聞いてみたいくらい。
 他者を排除しようとしたからこそ正邪から目を付けられたのならば、もう少し愛想よく振るまえば良かった、と私をして後悔せしめたくらい。

 そんな鬱陶しい日々が転機を迎えたのは、何気ない私の一言が原因だった。
 単なる嫌がらせ以外に目的もないように振るまっていた正邪が、明確にその態度を変化させて私と接する様になったのは。

 それは、とある冬の日の事だった。
 読みたくもない百科事典の項を無目的に暗記させられている様な日々にも慣れてしまったある一日の事。

「今日は社会とコミュニティの話をしよう」

 ニヤニヤと厭な笑みを携えた正邪が、いつも通りお呼びでない知識を垂れ流してやろうと悪意に満ちた声音で語り出した。私もいつも通り聞き流そうとしていたのだけれど、その話は妙に私の琴線に触れた。

「コミュニティ――つまりある一定の地域に居住し、共属感情を持つ集団の事だ。コミュニティに属する事で、構成員はある種の意識を共有する事となる。仲間意識。同族意識。帰属意識。まぁ、何と呼んでも構わんだろう。個を集団と為すに当たって、必要なルールを共有している意識の集まりとも言える。ルール。規則。不文律。そうした事項を共有し、守る事が社会=コミュニティに属する為には必要な訳だ」

 個人が社会に属する事。
 コミュニティの一員として認められる為に必要な決まり事。
 
 その文言は、私に他愛ない思考を喚起させた。居場所について。地底の世界について。この世界と私との関係性について。いつも通りにつらつらと人物名を並べて私を不要知識の海に沈めこもうとする正邪の言葉を無視し、私は私の思考にどっぷりとはまり込んでいた。

 私は妖怪としてよりも、『鬼』としての分類がなされている。嫉妬に狂った橋姫という名の鬼。その分類が正鵠を得ているならば、私が帰属するべき社会は『鬼の社会』なのだろうか。なんて。居場所を無意識に渇望していたが故の私の思考。
 ならば、私の居場所は、『鬼の社会』にあるのか?
 その命題を、私の意識は即座に否定した。
嘘を吐かず、酒ばかりを呑んでガハハと豪快に笑い、腕力を誇示する集団が、私の求める私の居場所? そう在る事が、私に求められている事?

 冗談じゃない。全く持って、じょおおぉぉぉだんじゃない。

 私は橋姫だ。水橋パルスィだ。私よりも妾を選んだ夫を殺して、嫉妬を糧とした緑色の炎に焼かれ続ける一人の女だ。分類上は鬼かも知れないが、『鬼の社会』は私の居場所じゃない。奪われた私の居場所は千年の時を超えて消滅したまま。肌に合わない居場所を欲して犬の様に尻尾を振りながら、『鬼の社会』に加わるために自分を変えるなんて真っ平だ。まっっっっぴらだ。
 そう考える自分の心情を自覚した事。
 それは自分が有する世界の狭さを認識した事と同義だった。
 漠然と無意識の領域に押し込めていた居場所に対する認識は、意識のステージへと昇る事によって即座に私を世界から、社会から切り離した。

 何の事はない。

 私は正邪の言葉によって、自分に居場所が無い事を再認識させられたのだ。橋という暫定的な居場所も私が、私の意識が忌み嫌う『鬼の社会』から与えられた物でしかなく、そのコミュニティに馴染めない以上、結局私に行きつく場所など無かったのだと。

「つまりコミュニティと言うものは――」

「……ここは」

 ポツリ、と私の唇から漏れた言葉。
 それは特別な感傷によるものじゃ無かった。単なる独り言で、判り切っていた事項の再確認で、正邪に伝えた訳じゃ無いもの。つまり誰の心にも届く筈のない台詞。無かった台詞。
 けれど、正邪は私が口を開いた事で、即座に無駄な社会論の教授を止めた。その時の私は、全然それに気付いて居なかった。私の意識は内界に全ベクトルを向けていて、私の耳は何も聞かず、私の眼は何も見ていなかった。

「――この社会は、私の居場所じゃない」

 ……思えば。
 今にして思えば、きっとそれが私の罪の根源なのだ。
 正邪が明確に行動を変化させた事が、それによって引き起こされた出来事が、異変未満の取るに足らない地底の雑事が、悪行だったと定義するのならば。
 その言葉こそが。
 何もかもの発端だったのだろう。
 社会に馴染めず、社会に疎まれ、社会に居場所を見出せないはみ出し者である私と、そして正邪を繋いだ、発端だったのだ。

「……無ければ、作ろう」

 正邪が私に向けて言った事で初めて、私は私の他愛ない自認が、音となって外界へと発信されていた事に気付いた。

「お前が満足に呼吸のできる環境を作ろう。弾き出した社会を切り開いて、開墾して、お前の居るべき居場所を作ろう。コミュニティをぶち壊して、マイノリティが除け者にされない世界にしてしまおう――」

 世界を、
 引っ繰り返してやろう――。

 ……今も昔も、私は私を救ってくれるヒーローなんか求めてない。
 私は嫉妬と怨嗟に首まで浸かっている。夫と妾を殺す為に作った緑色の焦熱地獄。胸中に、脳内に巣食う地獄。私は私で居る限り、生きている限り、自分の中に拵えた地獄から逃げられない。逃げるつもりも無い。
 その呼びかけが、私を救うと言ってのけた正邪の言葉が、彼女の真心から出た物だなんて信じなかったし、ましてや救われたなんて微塵も考えなかった。

 私たちは、ただ、共有したのだ。

 自分が社会から、世界から、爪はじきにされた存在だという意識を。社会に馴染めず、居場所がどこにも無い存在だという認識を。それを共有したに過ぎない。
 正邪の言葉は、私ではなく自分に向けられていたのだろう。そう思った。
 私の為という言い訳が欲しかっただけだ。
 自分を行動させる推進剤として、私の言葉を利用しただけだ。

 正邪は『自分が』満足に呼吸できる世界が欲しかったのだ。
 弾き出した社会を切り開いて、開墾して、『自分の』居るべき場所を作りたかったのだ。
『自分の為に』コミュニティをぶち壊して、マイノリティが除け者にされない世界にしたいと願ったのだ。
 自分の為に。
 世界を、引っ繰り返してやりたかったのだ。

 そして私は――それで良かった。

 正邪の行動が結果的に私の利益になるのならば、それに乗っからない手は無いと思った。彼女のエゴが退屈で閉塞的なこの世界をぶち壊してしまう光景は、きっと素敵だろうと思った。生暖かな言葉で紡がれた革命論に、私の感情は打算的に迎合した。
 鬼人正邪のエゴと私のエゴは、その瞬間にリンクした。
 何もかも、自分の為。他者への思いやりも、自己犠牲も皆無。隣人愛を鼻で笑う様な、自分勝手極まりない二人きりのレジスタンス。

 そう。最初から、正しさなんか爪の欠片ほども存在しなかった。
 私たちは初めから、もしかしたら生まれたその瞬間から間違っていて、世界に刻み込む足跡はその一歩目から、進むべき王道なんかとは見当違いの場所にあった。

 だから私は、今になっても内省の意識が無い。何が正しかったんだろう。何が間違っていたんだろう。私たちはどうするべきだったんだろう。そんな負け犬の遠吠え染みたifの世界に思いを馳せた事は、一度も無い。
 そうだ。何もかもが間違っていたのだ。
 ……もしかしたら、私たちが存在している事、そのものから。

「お前の為の世界を作ろう。弱者がのさばる世界を作ろう。弱肉強食のこの世界を蹴散らそう。よろしくな……同志よ」

 そうして差し出された彼女の手を、私は逡巡もなく気軽に取った。

「……よろしく」

 その時の私は、彼女が成功しようが失敗しようがどちらでも良かった。正邪は私を『同志』と呼んだけれど、彼女と志が同じだとは微塵も思わなかった。
 そして終ぞ私は、正邪を『同志』だなんて呼ばなかった。
 回転を始めたレジスタンスに対して、私は傍観者の立場で居るつもりだったから。

 傍観者。
 私は結局最後までその立場を貫く事に――いや、『貫かされる』ことになる。

 ◆◆◆

 その翌日。意気揚々と私の橋へとやってきた正邪の姿と言ったら、星の誂えられたベレー帽に咥え煙草、というひどい物だった。ゲバラ気取りなのは言われるまでも無く判ったけれど、地底世界には葉巻なんて豪華なコスプレ道具は無かったらしく、革命家の権威について行けていない紙巻き煙草の所在なさげな有様に、私は思わず吹き出してしまった。

 思えばそれが、私が正邪の前で笑った初めての出来事だった。真面目くさった表情を浮かべていた正邪は、私のリアクションを受けてニヤニヤ笑いの相貌へと移行したが、自分のスタイルの馬鹿馬鹿しさを自認しての笑みか、単につられて笑ったのかは判らなかった。

「必要なのは、強者の美徳を打ち砕いてやる事だ」

 これ見よがしに燐寸で煙草に火を点けた正邪は、煙にむせながら言った。口から漏れる煙が異様に白く濃密だったので、吹かしているんだろうな、と思った。口腔喫煙でむせるだなんて滑稽以外の何物でも無かったけれど、私は特に指摘もしなかった。

「地底の世界は下らない義理と人情、そして面子で回っている。その機構をぶち壊してしまえば、それが地底世界への革命となるだろう。その為には、私とお前の能力を合わせて使う必要がある」

「私もやるの?」

「当然だ。お前の為の革命だからな。この世界をギャフンと言わせてやるんだ」

 正邪はそう言って唇をニヤリと歪めると、ロクに吸っても居ない煙草を橋板の上に投げ捨て、踏み潰した。当然私はポイ捨てに穏やかならざる気分を抱くのだけれども、コイツは私が嫌がるだろうと判ってやっているので、喜ばせない様に平静を装った。

「……で、具体的には」

 溜め息と共に正邪から視線を逸らし、欄干に背を預けた私は旧都の街並みを眺める。和紙燈籠が穏やかなオレンジで周囲を照らす光景。霧がちな地底において、その明かりは空気中の水分に妨げられて、ボンヤリと境界が薄らいでいる。煙草を咥えなくても吐く息は白く、初雪も間近だろうなんて私は考えていた。

「物事には原因があり、結果が存在する」

 ポイ捨てを気にも留めなかった私のリアクションが不満だったのか、不承不承といった感じで捨てたばかりの吸い殻を拾い上げ、眼下の川に放り捨てた正邪は、まともに吸えない癖に二本目の煙草を咥えて言う。

「まず私が結果を作る。その結果は、私の能力に拠るのだから然したる理由――原因は存在しない。そこでお前の能力が必要になる。普通ならば戸惑うだろう結果の襲来に、お前の能力が理由付けをするわけだ。原因が在るから結果が起こるのではなく、望む結果の為に理由をこじつける。判るな?」

「全っ然判んない。アンタ『具体的』の意味知らないんじゃないの?」

「お前が『具体的に』と言ったから、私はこんな説明をしなくちゃならない」

 抽象論を吐いた正邪は、何を今更と言わんばかりに返して来る。キョトンとした表情に一発パンチを食らわしてやりたい衝動に襲われるが、そんな事をしても私の手が痛み、コイツは鼻血を垂れ流して大喜びするだけだ。好きでも無い相手と、やりたくもないSMプレイに興じる趣味は私には無かった。正邪と居ると、自分が聖女にでもなった様な気分になる。『最低』って事。

「そんなに怒るな。嬉しくなってしまう。遺伝学の権威であるメンデルの話をしようか?」

「アンタのその全く思い通りにならない上に、さっさと本題に入らない迂遠でムカつく言動、大好きよ」

「端的に言うと我々がやる事は、敬意の破壊にある。地底の住民が大なり小なり持つ尊敬の念を『反転』させて不満へと変え、『そうなってしまった』理由付けに『嫉妬』を持ち出す訳だ」

 面倒臭いプロトコルを踏んだ甲斐あって、ようやく正邪が判りやすく計画について語ってくれた。この天邪鬼を上手く操作する事は、誰に対しても愛想よく淑やかな振るまいを貫くくらいに難しい。それは私の本能の否定であり、つまり円滑なコミュニケーションを執行する為には、毎度毎度コイツ自身の本能とぶつかり合わなくてはならない訳だ。

 ――妖怪としての本能。
 鬼でありながら、鬼として生きる事の出来ない本能。
 個人として存在するよりも先に、生き方を定義するどうしようもない強制力。
 私は嫉妬。
 コイツは反逆。
 社会に加わる事の出来ない、歪な存在同士。
 共生できない社会からの排他的空気を肌に感じ続ける私が、正邪が、革命と言う夢想で、エゴで繋がり合ったのは、ならば必然だったのかも知れない。
 居場所を嫌悪し、それでいながら居場所を渇望する。
 そんな矛盾を抱いたまま世界に倦んでいるという点において、私も正邪も同質の哀れな存在だったのだから。

「昨日までの友人が、今日は敵意を向けて来る。明日の恋人が、生涯憎み合う怨敵となる。きっと大騒ぎになる。何もかも価値観がぶち壊れてしまうぞ。愉快だな、愉快だ。想像するだけで、愉快で愉快で堪らない。余りにも愉快過ぎて、計画をお蔵入りにしてしまいたいくらいだ」

 クスクスと下種な笑いを携えながら欄干に背を預ける正邪が、脳内にしか存在しない狸の皮算用に耽溺しているのを横目に、私はと言えばそんな世界を作り上げた正邪の居場所について考えていた。

 こんなひねくれ切った妖怪だ。
 いざ革命が成功した暁には、その混沌に嫌気が差すのだろう。そうしてまた世界を反転させ、混沌に秩序をもたらせば、またまた秩序に嫌悪を抱く。オセロの様だ。
 際限なく状況を引っ繰り返す事の出来る箱庭世界を手にしても、コイツはきっと満たされない。黒と白の駒を永遠に反転させたところで、灰色の面は現れやしない。

 嫌だ嫌だと駄々を捏ね続ける理想無き革命家は、求める物を生涯手にし得ないのだろう。
 千年前、私が夫を殺して、獲得した居場所を消失させた業が、決して消えない様に。

 そんないたちごっこを、コイツは死ぬまで繰り返すんだろうな、と。その時の私は、早々に結論付けていた。悲惨も極まれば滑稽へと逆転する。そんな哀れな喜劇をずっとずっと、死ぬまで演じ続けるのだろうな、と。

 ――彼女を、鬼人正邪を、意志無きシステムと仮定すれば、話はそこで終わりの筈だった。

 現状に対して永遠に満足しない変革希望者。
 そんな矛盾の塊がはなから存在しない理想を求めた所で、悪魔の証明なんて詭弁を持ち出すまでも無く不合理で無意味で、茶番にも及ばない。
 そう考えて、結論に至った気になって、行く先には失敗の文字しかない正邪がどこまで倒錯し続けられるのか。それを観察するのも暇潰しにはなるかな、と。そんなお利口さんぶった高みの見物的な打算の意識を持っていた私はつまり、彼女を見誤っていたのだろう。

 事の顛末における内省、と言うより後悔は、その一点だけ私の胸中に燻っている、
 彼女を鬼人正邪ではなく、天邪鬼という種族の一個体として見ていた事。
 天邪鬼という妖怪としての本能ではなく、鬼人正邪個人が抱いていたイデオロギーの存在に、最初は気が付いていなかった事。
 その事は今も時々、失意の念を持って振り返る事がある。

 ◆◆◆
※『嵐山虎熊』の困惑についての諸々

 旧都の南西エリア。スラムに程近く、比較的治安の良くない地域の賭場及び酒場の胴元として、周辺の住民より尊敬を集めていた彼が、酒を飲みに馴染みの酒場へと赴いたある日のこと。

 普段通りに暖簾を潜り、引き戸を開けて中に入った虎熊は、いつもならば愛想よく自分に歩み寄って来る筈の店主からの返答が無い事に首を傾げた。店主に声を掛け、自分が来た事をアピールするも、店主からの返事はやけにそっけない。虫の居所でも悪かったか、と寛大に無礼を受け止める彼が、いつも座る席に陣取る。店内の喧騒を一望できる席なのだが、そこに至って彼は更なる違和感に直面する事となる。

 馴染みの店。顔ぶれも普段と変わらない。しかし、店主ばかりか顔馴染みの客たちさえも、どこか余所余所しい。声を落とし、ひそひそと話をする知り合いたちは、頻りに彼の姿を視界の端に収めては、友好的とは到底言えない表情ばかりを浮かべる。

 何かがおかしい。

 不愉快の念を自覚して初めて、彼は『何か』が昨日までとは一変してしまって居ることに気付かされた。
 鬼という種族としての実直を旨としていた彼は、必然誰にでも無く理由を問い質そうと声を荒げた。

「何だお前ら。今日はどうしたってんだ。言いたい事があんなら直接言いやがれ」

 彼の吐いた言葉は酒場の空気を刹那止めるが、返答らしい返答は待てど暮らせどやって来ない。

 埒が空かない。

 溜め息を一つ。免罪符を掲げるように零した彼は、酒場の店主へと詰め寄る。詰め寄って、そして胸ぐらを掴んだ。

「俺がなんかしたのか。不満があんならこそこそしねぇで、きっちりぶつけりゃ良いだろう。女が腐ったみてぇにウジウジしやがって。ブン殴んぞ」

 恫喝染みた彼の声音に、店主の眼は卑屈な色を湛えていた。その弱々しげな、そして弱々しい事を振りかざしている様な店主の表情に、声を荒げたばかりにもかかわらず、彼は戸惑った。

「殴りたきゃ殴ればいいだろう」

 目線を逸らした店主の声が、ぬるりと気持ちの悪い領域から響いて来る気がした。その声。陰湿な声音。それに彼は聞き覚えがあった。

 これは、弱者の声だ。

 自分が弱い事を憎みながら、それを正す努力をしない。自分が弱い事に対する呪いを自分のみならず、他者にも向けて吐き散らす弱者の声。自分が弱いと、自分は弱いのだからそれを鑑みろと、他人に押し付ける卑屈な弱者の声。

「アンタは腕力がある。人望がある。立て板を割った様な快活さに、周囲を取り纏める頭もある……うんざりなんだよ。そこが。そんなアンタが来ると、自分の矮小さを自覚しろと言われてるみたいで、うんざりなんだ。俺も、他の客らも、アンタの事が――」

 ――妬ましいんだよ。

 日の差さない場所に口を開ける底なし沼の様な、冷たく汚らわしい口調に彼はゾッとした。ゾッとして、掴んでいた胸ぐらを放してしまった。ふと周囲に目をやる。店中の客が彼を見つめていた。ジメジメと卑屈で気持ちの悪い両眼が、何を言うでも無く彼に向けて並んでいる。
 弱者。
 弱者。
 誰も彼もが、弱者の持つ暴力的なまでの押し付けがましい自己正当化の色合いを持って、慕って居た筈の兄貴分を睨み付けている。

 昨日までは、こんな気持ちの悪さは無かった。昨日までは誰もが自分を慕っていて、誰もが気前のいい性質で自分と相対していた。その当たり前な空気は今、最初から幻だったかのように消失していた。
 暴れる気力も、怒鳴り散らす意志も無く、彼は半ば逃げる様に酒場を後にした。
 おかしい。どう考えてもおかしい。溜め込んでいた不満が爆発した風でも無かった。不満を押し隠す様な女々しい奴なんか一人も居なかった。

 そこまで考えて、彼は悟った。変わったんじゃない。変えられたんだ。誰かがアイツらの意識を弄ったんだ。そうじゃなきゃ説明がつかない。しかしそんな真似ができる人物に、彼は心当たりが無かった。水橋パルスィと面識があればすぐにでも気付いただろうが、しかし彼は橋に近づいた事は無かった。だから気付けなかった。気付けなかった彼は、自分一人で解決できないと悟り、星熊勇儀に相談する事を思い付いた。

 力の勇儀。鬼の四天王に名を連ね、鬼たちが地底に赴いた後もあちこちに顔を出し、面倒事を解決する姉御肌。アイツに相談しよう。アイツなら、何か知っているかもしれない。アイツは俺以上に力が強い。人望も俺以上にある。鬼だけじゃなく、旧都に住まう妖怪なら、大抵の奴と面識がある。

 アイツの方が。
 俺よりも頼りになる……。

 ――俺より。俺なんかより。旧都の南西地区なんて小さな場所でふんぞり返ってる俺より。女の癖に、俺みたいな奴よりも力が強い。大通りを通れば、俺を知らない奴はごまんといるだろうが、アイツを知らない奴は居やしない。人望も名声も、掃いて捨てる程にありやがる。俺より。俺みたいなちっぽけな奴よりも。
 アイツの方が俺よりも優れている。
 俺は、アイツの事が――

 妬ましい。

 ……妬ましい? そんな女々しい感情、俺が持ったことあったか? 否、どうでも良い。自分の気持ちに嘘を吐かないのが俺の信条だ。鬼として在るべき姿だ。アイツが妬ましい。俺がシメる場所に、アイツが口を出すかと思うと虫唾が走る。アイツの功績に手を貸すなんか考えられない。四天王だ何だといい気になりやがって――。

 そうして彼は、『気が変わった』彼は、勇儀の下へと向かっていた足を止め、自分の家へと舞い戻る事となる。彼の抱いた疑念は、『降って湧いた様な』反逆心と嫉妬心に塗り潰され、事態の解決に対する行動意欲は無意識の彼方へと消えた。

 同様の事件は旧都の様々な場所で起こっていたが、誰もが彼と同じように『気が変わって』事件を解決しようと行動を起こさず、日に日に旧都は反感、嫉妬、それに伴う憎悪の渦巻く息苦しい世界へと変わって行く事となった。

 ◆◆◆

 地区ごとに、その場所を纏める人望者に対する敬意を反感へと『引っ繰り返す』。
 反感は正邪の能力を行使された結果なのだから、そこに妥当な感情は存在しない。意志無き反乱は、私の能力である『嫉妬』の喚起によって理由のある反逆へと変わる。
 その結果として、旧都は嫉妬心に根差した反感が支配し始め、それまで存在していたコミュニティの不文律は徐々に機能を止めて行く。

 鬼のコミュニティ。
 強者が弱者を統率する、極々一般的な社会体勢。
 その不文律に染まれない私たちを、言外に排斥してきた世界。
 それが私たちの働きによって、少しずつ少しずつ崩れていく。

 傍観者を気取り、場合によっては失敗する正邪を眺めて楽しもうとしていた私は、予期せぬ革命の成功を目の当たりにして、はっきりと爽快な気分を抱いていた。
 反感が反感を産む。一人の嫉妬が、新たな一人を嫉妬の地獄へと叩き落す。誰もが隣人を信じられない、希望の無い世界。皆が不幸になって、皆が自分は不幸だと自覚して、目に付く誰かに呪いをブチまける。そんな最低な社会。鬼としての健康さを喧伝する事が、不健康な感情から疎まれる。

 疎まれる強者が強者として機能しない。
 誰もが弱者の身分に墜ちて行く。
 そんな最悪のディストピアを目にして気分が高揚する程には、私も捻じ曲がっていた。

「社会は、脆いものだ」

 相変わらず紙巻き煙草でゲバラを気取る事を止めない正邪が、暗澹たる澱んだ空気の流れる旧都の街並みを闊歩しながら、愉快そうに呟く。
 制圧した地域のパトロール。
 私と正邪の計画によって健全な有り様(ゲシュタルト)を捻じ曲げられた地区の見回り。
 見よ。狭苦しい路地を歩く誰もが、背を丸め、足元だけを視界に収めて、とぼとぼと半死人のような無目的さで彷徨う不健全な光景を。

 反感と嫉妬で世界を呪う弱者は、自らの意識の殻に閉じこもったまま、内部に渦を巻くコールタールみたいな感情だけを見据えている。粘々と黒く、何も生産しないマイナスの意識。脳内に生み出した強者という虚像に毒を投げ付ける弱者の凶暴性。そしてそれが故に、自分もまた誰かに恨まれているのでは、妬まれているのでは、と。被害者面をする事を厭わない。

 なんて惨めな人々。
 なんて鬱屈した空気。

 地上の奴らから排斥された哀れな者共。気分が悪いから。社会に悪影響だから。そんな過去から目を背けて、こんな薄暗い地の底で、穴倉で、廃棄妖怪処分場で、それでも自分に誇りを抱き、肩を怒らせて悠々と湿気た空気を切り切り歩いていた妖怪たちは、鬼たちは、日光の差し込まない世界に似つかわしい惨めさを胸に、弱者として存在している。

 同情にすら値しない、弱者の群れ。
 私や正邪と同じ、自分以外の全てを憎まずには居られない、捻じ曲がった弱者たち。

 正邪の望む引っ繰り返った世界には、こんな唾棄すべき者共しか居ないかと思うと、仲間が増えた様な気がして私は嬉しくなってしまう。

「誰かに対する信頼。信用。そういった繋がりで成り立っている社会は、それを崩されれば何もせずとも瓦解していく。支配者を殺せば終わった旧時代の革命も乙なものだが、支配の基準が構成員に宿っている細分化された社会を緻密に崩していく革命も、爽快だな」

「……そうね。良い気分だわ」

 大きく深呼吸をした私が、怯えた様な目を挙動不審気味にあちこちへ向ける一匹の鬼を眺めながら同意する。
 私たちの革命の被害者が湛え、外気に少しずつ垂れ流す嫉妬の感情。
 浅ましい感情を含んだ冬の空気を胸一杯に吸い込めば、私の肺細胞が歓喜を喧伝する。なんて心地のいい空気。なんて呼吸のしやすい世界。この地底に疎まれ、この地底を疎んでいた私は、何百年ぶりの愉悦に脳髄を溶かしていた。

 笑い声なんか、気配もない。
 吐き気を催す様な、楽しげな喧騒なんか胡蝶の夢だったみたいな鬱々とした空気。
 救いようのない社会の一端を目に焼き付けながら。
 そこに流れる空気に思う存分浸りながら。
 社会秩序に仇を為す目的しかないパトロールを終えた私たちは、私の橋の上へと舞い戻る。

「……もうすぐだ」

 半分くらいしか吸っていない煙草を眼下の河へと放り投げた正邪が、ギラギラと欲の香り立つ両目で遠景の旧都を睨み、そこへと伸ばした右手の拳を握り締める。
 手頃な地区外れからジリジリと侵攻している私たちの計画は確かに実りつつあるが、私の橋の上から見える区画=旧都の中心街はといえば、まだまだ陰鬱さの感染から免れていて、普段通りの躁病気味な喧騒を湛えている。それを確認する事で、正邪は目的へ向けた熱意を高めている様に見えた。

「もうすぐ、反感こそが秩序となる。嫉妬こそが不文律となる。強者を排他する世界が降りて来る。そこには弱者しか居ない。私やお前の様な弱者しか、その世界には居ない。社会から除け者にされて然るべきとされて来た弱者が、マイノリティが、大手を振って通りを闊歩する事が出来る。私たちのディストピア。新たに創造される私たちの居場所。誰もが等しく劣等感を抱く、平等な世界。そうすれば、もう誰も、排斥されて泣かなくて済むんだ」

 自分自身に言い聞かせる様に紡がれた言葉には、いつもの正邪が持つヘラヘラとした軽薄さが欠片も宿って居なくて私は少し驚かされる。切実な声音。希望を欲する真摯な台詞。それが、それまで私の抱いていた鬼人正邪像と余りに乖離していて、私は全く持って虚を突かれた気分になる。

「……そうなったら、今度はそんな救いようのない世界に嫌気が差すんじゃないの?」

 確認の言葉。私の中でズレの生じた天邪鬼というキャラクターを修正する為に吐いた、皮肉めかして真意を問う台詞。
 それで正邪がニヤニヤ笑いを取り戻して、「そうかもな」と言ってくれれば、私の中の乖離は無かった事になる筈だった。
 私が抱いた人物像は揺らぎを消失して元の鞘へと収まり、鬼人正邪はやはり、理由無きが故に浅薄さから抜け出せない小物として、私の感情器官に受理される筈だった。
 けれど。
 彼女は、鬼人正邪は、私へとゆっくり向き直り、真摯さを全く崩さない表情で、声音で、

「そんな事してどうなる。折角手に入れた居場所を捨てる様な真似をするものか。弱者の楽園を破壊して堪るものか。お前の為の、弱者の為の世界に、嫌気なんか差すものか」

 と。
 そう、言ったのだ。

 ――見誤っていた、と。
 それに気が付いたのは、その時だった。

 私は彼女を見誤っていたのだ。理屈も意志も何もない、ただただ現状が気に入らないだけの天邪鬼だと認識していた。居場所を作ろう、なんて。そんな事を口走ったのも、単なる気まぐれだと、思い付きだと、そう決めつけていた私は、どこまでもこの一匹の鬼を、妖怪を、天邪鬼を、見誤っていたのだ。
 認める他に無かった。
 嘘だなんて、疑う余地すらも無かった。
 今、正邪が口にした言葉が、彼女の真意なのだと。彼女は単に社会が、現状が気に入らないと言うだけで、革命をもたらそうと思いついた訳では無かった。彼女は、本気で弱者の為に動いていたのだ。

 ――弱者。

 私や正邪を始めとした、社会に馴染む事の出来ない哀れな魂。
 社会に居場所を作り上げる事ができず、社会に然したる利用価値なしと判断された、どうしようもなく不幸な有象無象。それを救ってやる事。ダーティな策を持ってこの世界を滅茶苦茶に破壊し尽くす事で、彼女は強者が弱者を食い物にするという、絶対的な自然の摂理に戦いを挑んでいたのだ。

 きっとその理想は、間違っているのだろう。彼女の倒錯したイデオロギーは、地底の世界に不幸をもたらすだけなのだろう。弱者は救われないまま強者から食い物にされ、虐げられる事こそが、世界のあるべき形なのだろう。弱者が強者を駆逐する世界は、やがて緩やかに消滅していく他にないのだろう。
 けれど私は。弱者の身分を疎み、弱者としてしか居られない自分を取り巻く現状を呪い、至極当然の結果として私を疎む社会へ憎しみを向ける私は――正邪の間違ったイデオロギーを否定する事なんか考えられなかった。
 自分が弱者であるが故に、弱者の為に行動を起こせる彼女を、否定するなど。

「どうして……」

 揺らがされた私の意識は、気付けばそんな言葉を発していた。

 どうして貴女は、弱者の為の世界を作ろうと思ったの?
 どうして貴女は、私の橋に通い続けていたの?
 どうして貴女は、私なんかの為に動いてくれるの……?

 そんな沢山の理由を問う意志が、ごちゃ混ぜで曖昧なまま、たった一つの『どうして』に寄り集まる。何を問うているのか。何に応えて欲しいのか。問いかけを口にした私にさえも判らない、不親切極まりない質問。
 どこかへ置き去りにしたとばかり思い込んでいた内省から、正邪の顔を直視できなかった私は、乱暴な問いを空中に残したまま目を背けてしまう。弱者の為の、私の為の世界が醸成され始めている旧都の街並みへと。

「――この世界は、私たちに無理を強いている」

 そんな言葉と共に、正邪の指先が私の顎へと添えられる。私の目を見ろ、と。正邪の指先が私の顔を自分へと向けるように促す。性急では無い、無理は言わない、けれども彼女の真っ直ぐな意思を伝える。そんな絶妙な力加減。抵抗しなかった私の顔が、ゆっくりと正邪を真正面に迎えた。

「鬼らしく存在しろ。人を襲い、酒を飲み、ガハハと豪快に笑え。自分の存在意義に殉じて、強い、強い、鬼の名に恥じない生活を送れ。口には出さなくとも、きっと誰もがそんな風に思っている。そんな風に流されて生きている自分を誇っていて、その規範から外れた奴を疎んでいる。鬼、なんて。人間が乱雑に張ったレッテルを、まるで勲章のように誇らしげに掲げている。それが簡単にできる奴は良いだろうさ――だが」

 もう私が目を背けないと悟ったのか私の顔から右手を離した正邪が、ギリと歯軋りをする。その目は私を見ていたが、彼女の意識はきっと私を透過して社会を見ていた。何の問題も無く機能する社会を睨み付けていた。

「……その生き方を選べない不器用な奴らの痛みを、彼らは知る事が無い。知ろうともしない。強いという概念は相対的な物だ。自分が強者である為には、弱者の存在が不可欠だ。その定義づけは何でも良い。腕力。知力。財力。様々なパラメータを恣意的に使って、奴らは自分が強者であろうとする。誰かを蹴落とし、泥水に顔を叩き付けて弱者を嬲る事で、自分が強者であるという自覚を持つ事を欲している。地底だけじゃない。どこだって同じだ。妖怪も人間も動物も変わらない。そしてそれが――弱者が淘汰される事が、強者の食い物にされて、泣きながら自分を呪う事が当たり前だと考えている。それが自然の摂理だと、社会の基本的な在り方だと。そんなお為ごかしで、自分が蹴落とした奴らの苦しみから目を背けている。私はそれが気に食わない。私は天邪鬼だから、そうして成り立つ当たり前の世界が、社会が、胸糞悪くて堪らない。だから私は、強者になんかならない。どんな汚い手段を使っても、絶対に強者にだけはならない。そして強者に媚びへつらう当たり前の弱者にもならない。弱者の立場のまま、強者をぶっ潰してやりたい。力を持って変えるんじゃ無く、力の無いまま変えてやりたい。鬼として疎まれている私が、鬼のコミュニティを粉々にしてやりたい。だから私は、お前の力を借りたんだ。お前の力を借りる為に、ココへ通い続けたんだ」

 胸中に溜まった澱をぶちまける様に、倒錯したイデオロギーを捲し立てた正邪の台詞の末尾。そこに添えられた言葉への備えが全く出来ていなかった心臓が、ぞくりと脈動を一つ強めた。

「どう……して……」

 二度目の『どうして』を、私はほとんど反射染みて口にする。私の背後に打破すべき社会を見据えていた正邪の視線が、視点が、明確に私の存在へと集約するのが判った。

「ただ単に、社会に仇を為せる特異な能力があるだけの奴なら、口車に乗せて、騙して、利用しても良いだろう。でも、お前だけは駄目だった。お前じゃなきゃ駄目だった。お前が弱者だから。お前も私と同じ弱者だから。私と同じ弱者の立場にあって、鬼の分類の中でも鬼として疎まれる側にあって、それで居ながら強者の思う弱者の姿じゃ無かったから。社会に馴染めないと本能に定められていて、それでも矜持を失わずに存在できていた弱者だったから。お前が、私と同じ存在だったから――」

 ――だからお前は、私の『同志』なんだ。

 ……行き場の無い不定形の怒りを叩き付けるように。
 私の背後に広がる旧都の街並みへと向けて喧伝するように。
 私を見つめたままに締め括った正邪は、鬼気迫る表情を崩さず肩を怒らせていた。

 弱者のまま弱者の楽園を創り出そうとする、弱者の為の変革者。弱者の立場を決して逸脱しようとしない、イデオローグ。偽らざる本音を口にした彼女が、私の目の前に立っていた。言うべき理念を言葉に還元し尽くして沈黙を迎えた天邪鬼を、私はどこか呆然と見つめ返していた。

「……ハハ……」

 馬鹿げた考えだと思った。
 荒唐無稽な願いだと思った。
 どこまでも倒錯し切っていて、どこどこまでも捻くれたイデオロギーだと思った。
 ――そんな風に否定を喚く理性の声を、私の感情が握りつぶして行く。

「……馬っ鹿じゃ、ないの……?」

 せせら笑って感情の揺らぎを押し隠そうとした唇が、不随意に震えているのが判った。

「私の協力を得る為に……嫌がらせを続けてたですって……? 素直に私に頭を下げるんじゃなくて……私が自分から『この世界を変えたい』なんて、言い出すまで……待ってたってワケ……?」

 一体、どれくらい振りだっただろう。
 ――否、違う。
 きっとそれが、生まれて初めての出来事だったのだ。
 私が、本当の意味で誰かから必要とされたなんて。
 私じゃなきゃ駄目だと、切実に望まれたなんて。

 私を裏切った夫が、その場限りで吐いた歯の浮く様な台詞じゃない。表層的な肉欲なんかじゃない。私を、私の存在そのものを。私だけが持つ、誰の役にも何の役にも立たない、誰かを不幸にするだけの能力を、必要とされたなんて。

「ハハ……アハハ……馬鹿よ……アンタ、筋金入りの大馬鹿者だわ……馬っ鹿みたい……素直に頼めば良いじゃない……正直に言えば良いじゃない……つまらない話ばっかり延々と垂れ流して……馬鹿みたい……馬鹿……ばか……」

 一体私は、どれくらい長く、その切実さを求めていたのだろう。はなから私の物にはならない筈の感情。どうしようもない強さで向けられる、真摯さのベクトル。そんな物は仮初だと、人間だった時に絶望した筈の想い。私とは何の関係もないと、作り物だからと、斜に構えて馬鹿にし続けて来た言葉。

 目の前のコイツは天邪鬼だとか。
 そうでなくても、嘘かも知れないとか。

 千年に渡って自分の心を守る為に構成し、機能を続けて来たロジックが働く事は無かった。潤んだ涙腺が。熱される歓喜が。言葉に揺らがされた私の細胞が。その言葉を無条件に信じていた。正邪の真っ直ぐな言葉を、正邪の真っ直ぐな視線を、私を構成する意識も無意識も肉体も、盲目的な強さで抱きしめていた。

 誰かに必要とされる事。
 その思いに応える事。

 その相互的な個々人との繋がりこそが、居場所なのだ。見つけるべき物。定着すべき概念。千年以上前に行使した呪いのお蔭で、私から遠く、絶対に手の届かない場所へと消え失せてしまった物が今、目の前に立っていた。誰かを妬まずには居られない呪われた存在は、倒錯したイデオロギーを得て、無くした筈の物を取り戻した。

「……アンタに付き合ってあげる」

 隠す事もせず、涙を袖で拭った私は正邪に微笑みかける。
 上手く笑えているだろうか。
 渋面を拵えてばかりだった私の表情筋は、私の想いを伝える事ができているだろうか。

「私の為じゃない。アンタが欲する世界の為に、私が全力を注いであげる。アンタの理想の為に、身を粉にしてあげる。アンタの敵を、私も憎んであげる――よろしくね? 私のイデオローグ」

 涙を拭きとったばかりの手を、私は正邪に向けて差し出した。得たばかりの繋がりを、明確な形にしてしまいたかった。目に見える形に。肌で触れあう形で。到達した居場所を、私は確定させたかった。
 鬼人正邪の隣を、私の居場所にしよう。
 胸の内に萌芽したそんな決意を、具現化したかった。
 そしてあわよくば――それを、正邪と共有したかった。

「……元より、そのつもりだ。同志よ」

 弱者を背負って立つと表明したイデオローグは、天邪鬼は、本能に身を委ねる事無く素直に私の手を取った。時間にすれば十秒にも満たない握手。失っていた期間に比べれば刹那の行為はしかし、私の喪失を補てんするに充分だった。
 傍観者の立場をやめ、同じ場所へと突き進む者として。
 同じ理想を共有し、同じ目的の下に協力し合う二人として。二人きりのレジスタンスとして。私はようやく、自分の望む居場所を手にする事となった。

 ◆◆◆

 始まりを経験した全ての出来事には、当然の結果として終わりが用意されている。

 私の心情が変わったとて、私の目的意識が変容したとて、その理は変わらない。計画にも行動にも行きつく先があって、それが望んだものにならない可能性はいつだって大きい。

 元から間違いだらけだった。
 最初から正しさなんか無かった。

 社会に馴染めないたった二人のレジスタンスが、それ以外の圧倒的大多数を敵に回して目的を達成できる可能性なんて、最初から小数点の遥か向こう側。正しさが無ければ賛同者も得られず、膨張しない革命なんか川面に浮かんだ泡よりも儚い。

 私はそれを、最初から熟知している筈だった。
 どうせ失敗する正邪を見て楽しむ事になるんだろうな、とさえ思っていた。

 そんな私一人の意地悪な意識が180度引っ繰り返っても、奇跡の成就する可能性にはなんら影響を与えない。二人きりで世界をパーフェクトに引っ繰り返せる確率は、タイプライターの上を歩く猫の足跡が、フェルマーの最終定理を証明するくらい。猫に心からお願いしても、どうせ無理だと猫を見て笑ってても、不可能に近いという意味では同じ事。

 革命と称して地底の妖怪たちの意識を反転させて、嫉妬を注入し続けて、大体二割の地域が私たちの思い通りのディストピアに生まれ変わった頃のことだった。

 私と正邪が北端辺りの寂れた個所で、さて今度は誰に反感を向けさせればいいかと調査をしていた日。
 そこは中心街からはかなり離れた旧都の端、すなわち地霊殿の近くに位置するが故に、住民の姿は疎らだった。家々に誰かの気配は無く、特定の集合場所も見当たらない。ぼんやりと長椅子に腰掛けて煙管を吹かしたり、何をするでもなく蹲って地底の有限な空を見上げたりする奴らに覇気は無く、人望を持って地区を取り纏める存在が居るのかどうかも曖昧な場所。

「この辺りに強者らしい強者は居ないのかもな」

 フン、と鼻息を鳴らした正邪が、次いで「張り合いが無いな」などと嘯く。しかしその表情はどこか楽しげにも見えて、弱者ばかりが目につくこの地区が愛おしいのかもしれないな、なんて彼女の隣を歩く私は考えていた。

「じゃ、どうする? この辺りは無視する?」

「イヤ……きっちりやっておいた方が良いだろう。地区を取り纏める者が居なくとも、社会は上意下達のピラミッドだ。ここらの奴にとって『自分よりも上の者』が曖昧な対象だろうと、統治される側の弱者であることに変わりは無い。強者に牙を剥く弱者の攻撃性は、どこであっても私たちの世界の為に必要だ」

「……そうね」

 正邪の言葉に頷き、深呼吸をした私は自らの内に巣食う緑色の感情を加速させる。
 ……カッコいい事を言ったけれど端的に言えば、嫌な事をちょっぴり思い出した程度。
 だけど、負の感情は空気感染性の猛毒だ。

 不快な感情を抱く奴の傍に居るだけで気分が悪くなるというのは、特別な力を持たない妖怪だろうと人間だろうと同じ事。
 そして嫉妬に焦がれる妖怪橋姫は、その感染力が普通よりもずっと強い。
 だから私がやる事と言えば、いつもと大して変わらない。つまり誰彼かまわず妬みながら、苛々しながら、この地区をブラつくだけで良い。それだけで大抵の奴らは嫉妬という感情――自分以外の存在を見たり、思い出したりするだけで自動的に燃料の投下される効率的な不快感を、その身に宿す事となるのだ。

「つくづく、破滅的な能力だな。お前の隣に居るだけで、私も嫉妬の感情が強まって行くのが判るよ。誰も彼もが愛おしくなってきた」

「嫉妬を隣人愛に変換するなんて聖人でも難しいんじゃない? アンタも大概だわ」

「そんなに褒めるな。嫉妬とむず痒さが相まって、私の心がグチュグチュだ」

「褒めてる訳じゃ……いや、褒めてる事になるのかしら? 判んなくなってきた。妬ましい。あと『グチャグチャ』って言って。そのオノマトペ凄く気持ち悪い」

「パルスィったら、私とのやり取りですっかりグt」

「それ以上言ったら殺すからね」

「いけず。だがそれが良い。お前に殺される為に、言葉を重ねたくて堪らなくなってきた。これが愛か。ヤンデレって奴か」

「絶対違う。受け手側が病んでるって、なんか新しいわね……妬ましい」

「お前それ言っとけば何とかなるって思ってないか? 妬ましいって奴」

「少し」

「安易な口癖は止めておくべきだ。それが許されるのはコ○助だけナリよ?」

「肝に銘じておくわ。あとその物真似、全然似てないわよ。妬ましい」

「ハハ。お前も大概捻くれてるな」

 なんて。
 下らないやり取りをしつつ街道の端に突き当たって右折した――その時だった。

 それは多分、偶然だったんだろう。

 こちらも『向こう』も、全く予期していなかった邂逅。
 しかしながら、いつかは訪れる事と規定されていた対峙。
 私たちが元凶で、『彼女』が解決の為に動いていたのならば遅かれ早かれ、偶然だろうと必然だろうと、その瞬間を私たちは迎える事になっていたのだ。
 それがたまたま、私たちがその地区に居た日だった、と。
 ……きっと、それだけの事なのだろう。
 そして運悪く『その』姿を目の当たりにした私と正邪は、同時に虚を突かれ、同時に口を噤み、そして少しの差も無く身体を硬直させる事になる。
 ――地霊殿の主にして、心を読み取る妖怪。古明地さとりと出逢ってしまった事で。

「……あら」

 私の振りまく嫉妬を敏感に感じ取ってか、正邪の操る反感を悟ってか、さとりがゆっくりとした挙動でこちらに目を向ける。

 二つの眼と、胸に付いた巨大な一つ目を、こちらへと同時に向ける。

「『しまった』……? ああ、成程。貴女たちだったんですね? ここ最近、旧都で起きているらしい『異変みたいな何か』の犯人って。となると、人為的な物だったって事ですか。はぁ、どうりで……今日見て来た妖怪たちの反感や嫉妬が、やけに『似過ぎてる』と感じた理由も判りましたよ……」

 わずらわしいとばかりに、さとりは私たち二人を見て大きく溜め息を吐く。探りを入れる言葉も、思考も推理も必要としない、反則的な捜査能力。ミステリだったら三文以下も良い所だ。

「……正邪」

「あらパルスィさん。私を倒すかどうかの相談ですか?」

 呆気に取られて真っ白になった意識を何とか再起動して隣で呆ける正邪を呼んだ途端、さとりは全く危機感の伴っていない指摘で私の口を再度噤ませてしまう。

「それ無駄ですよ? 正邪さんには、そのつもりが全く無いみたいです。この人には判るんでしょうね? 私が紛う事無き弱者だって。弱者の立場に居続ける事を旨とする正邪さんには、か弱い私を苛める事ができないみたいです。口封じなんて、強者が弱者を虐げる構図そのものですものね? あ、私の意識を弄って逃れようとしましたね? 正邪さん。それも無駄ですよ? 私は旧都の人たちみんな嫌いですから。最初っから反感を持ってるなら、何でも引っ繰り返す程度の能力を使った所で無意味ですよね。『なんでここに?』……? ふむ。頼まれたんですよ。『旧都の奴らの様子が変だから、視ちゃくれないか?』って……ハイ。お察しの通り、勇儀さんです。旧都がしっちゃかめっちゃかになっちゃうと、私の仕事にも支障が出ちゃいますので、仕方なく。えぇと、首謀者は……あぁ、正邪さんなんですね。パルスィさんは協力者の立場、と……。『違う』? 何も違いませんよ。貴女一人じゃ、弱者の為のディストピアを作ろう、なんて大それた事、考えないでしょう? でもそれちょっと楽しそうですね。旧都が安定する前にやってくれれば文句なしだったのに――さて」

 ずけずけと心の中へと立ち入って、私たちが口を開く暇すら与えずに。
 コミュニケーションにおける形式を鼻で笑う様に。
 一方的に喋り倒し、勝手に結論へと至ったさとりが、ポンと手を合わせる。調査は終わったと宣言する、残酷なピリオド。

「私の仕事は終わり。地霊殿の外に出るなんて久しぶりでしたけど、やっぱり旧都って胸糞の悪くなるコミュニティですね。うるさいし、お酒臭いし、みんな私の事をジロジロ厭な目で見て来るし。その点は貴女たちと同意見です。二度と出たくないですね。それじゃ、後の処分は勇儀さんに任せる事にします。お二方とも鬼の一種なので、制裁は身内に任せるのが一番でしょう。『我々はどうなる』? 知りません。そんな事。それでは、さようなら」

 取り繕った形だけの笑みを残して、さとりがフワリと空へと舞い上がる。
 勇儀に報告をしに行くのだ。
 私と正邪が、この社会に仇なす者だったと進言しに行くのだ。

 ……逃す訳には行かない――ッ!

 そう思い、スペルカードを求めて懐に手を突っ込む。
 なのに。
 私のその動きは、私の殺意は、行動は、他ならぬ正邪の手によって止められてしまった。

「何するの正邪! アイツを止めなくちゃ!」

「駄目だ……それだけは、できない……」

「どうして!? アイツが勇儀に報告すれば、全部全部終わっちゃうのよ……っ!?」

「パルスィ、駄目だ……それだけは、駄目なんだ……! 頼む……早まらないでくれ……」

「なんでよ!? 革命を起こすんでしょう!? この社会を引っ繰り返してくれるんでしょう!? 私たちの居場所を作るんでしょう!? 弱者が満足に呼吸もできない社会をぶち壊すんでしょうッ!? なのに、どうして――ッ!?」

 正邪の手を振り払ってでも、さとりを止めなくちゃいけないと思った。なのに、私の腕に縋り付く正邪の力は切実で、強くて、どうしてもスペルカードを取り出す事ができない。私たちを悠然と見下ろす上空のさとりは、何もかもお見通しだと言わんばかりの粘つく笑みを浮かべ、急ぐ様子も見せずに旧都の方へと飛び去ってしまった。

 まんまと破滅を取り逃がしてしまって、憤怒に入り混じった混乱で訳の判らなくなってしまった私の両膝が、立ち竦む事すら放棄して地面に崩れ落ちる。もう、終わってしまう。何もかもが。私たちが為して来た事が。私たちが作ろうとした世界が。
 正邪が、自分の心を虚飾せずには居られない天邪鬼が、本能に抗って心から語った理想が、終わってしまう。

「……どうしてよ……?」

 追い詰められたような無表情で、さとりの行ってしまった方を眺める正邪に、私は震える唇から、力の削げ落ちた言葉を投げつける。

「アンタ……自分がどんな失敗を犯したか、判ってるの……? ディストピアを作りたかったんじゃなかったの……? なら、何をしてでも、さとりを、止めなくちゃいけなかったじゃない……判ってるの? ねぇ……? それとも、嘘だったの……? アンタが語った理想は……自然の摂理に歯向かって、弱者が満足に呼吸もできない世界を壊したいって言った……言ってくれたアンタの言葉は、嘘だったの? ねぇ……ねぇ!」

「――嘘じゃないさ」

「なら――ッ!」

「嘘じゃないからだよ!」

 二の矢をつがえて正邪の行動を批難しようとした私を、彼女の口から迸った痛切な叫びが押し留めてしまう。

「アイツが言ってただろう!? アイツは弱者だ! この社会を疎み、強者共の蠢くこの世界を呪う弱者なんだよ! それを力ずくで黙らせろってのか!? アイツを捻じ伏せて、私たちの言う事を無理矢理聞かせろってのか!? そんなの――私たちが潰そうとしてる輩のやり口その物じゃないか……!」

 はち切れてしまいそうなギリギリの表情を浮かべる正邪が、ぎこちない動作で私の両肩に手を置いて来る。私の肩の肉を痛いくらいに掴み、解けない矛盾に打ちひしがれた弱々しい彼女の両眼が、縋る様に私を見て来る。

「パルスィ……私を、理想無きレジスタンスにしないでくれ……打算的に行動して、原初の意志すら喪失する、盲目な愚か者にしないでくれ……私は弱者のままじゃなきゃ嫌だ……ズルをしてでも、相手の裏をかいてでも、誰かを利用しようが嘘を吐こうが、私は弱者のままじゃなきゃ駄目なんだよ……強者になんかなりたくない……弱者のまま世界を変えてやるっていう、私の理想を、無為に、しないでくれ……頼む……」

 哀願を紡ぐ正邪の唇が震えているのが見えて、激情が瞬時に萎えるのが判った。混乱と怒りの去った空白に、冷静な思考が降りて来る。

 あぁ、またこの声音だ。

 天邪鬼としての本能を踏み潰して、自分の胸中を真摯に語る正邪の声。傍観者を気取っていた私を賛同者へと仕立てあげ、居場所があるんだと認識させた真っ直ぐな声。求められているからこそ私にだけ与えられる、真剣な天邪鬼という、矛盾に満ちた存在の言葉。
 これがあったから、私は正邪の隣に居ようと思ったんだ。
 それを蔑ろにしてまで、理性的判断の喚き立てる行為を通せるほどに、私は強くなかった。

 革命は、もう終わる。

 失敗の烙印を与えられて、私たちは裁きを受ける。
 社会的正義における自浄作用の名の下に、二人きりのレジスタンスは、大悪の反逆者としてこの社会から完全なる排斥をもたらされる。その行き着く先が、追放であるか死であるかは判らない。けれどあとに残るのが狂った公共の敵(パブリック・エネミー)に対する害意と敵意だけなのは、痛いくらいに判った。
 勝者の歴史に、敗者の哲学は残されない。
 強者の社会に、弱者の叫んだ希望の巣食う余地は無い。
 そんな希望の欠片も無いどん詰まりを自覚して、それでも私の意識は絶望へと走ろうとはしなかった。
 私のエゴ。私の求める所。私の欲した物。
 それは、この社会を変化させる事の失敗では、揺らがなかったから。

「……逃げましょう」

 どうするべきかも判らず項垂れたまま私の肩に乗せていた正邪の手に、私はそっと自分の手を重ねる。

「――え?」

「逃げるの。どこでも良い。ここじゃないどこかへ。私たちが居られる場所へ。世界を変えられないのなら、いっそ世界なんて無い場所へ行きましょう。社会を倦んで、社会に排斥されるのが苦痛なら、社会なんか無い場所へと行きましょう。私たちが満足に呼吸のできない場所なんか捨てて、何も無い所を私たちの理想郷にすれば良い」

 ……思えば最初から、私は地底の社会なんかどうでも良かった。
 社会に迎合するのも、迎合できない社会を自分好みに変える事も、どうでも良かった。
 ただ私は、私が居られる場所さえあれば良かった。
 何も変えず、変えられる事も無く、私が私のまま。それで許される場所さえあれば、それで良かった。

 弱者のままじゃ許されない場所なんか、要らない。
 私のままじゃ居られない居場所なんか、要らない。
 その時の私にとって、それは正邪の居るどこかだった。

 彼女さえ居れば、彼女の隣なら、私は私のままに存在できる。厄介者でも、嫉妬狂いの橋姫でも無く、水橋パルスィとして。私個人として、存分に生きて行ける。

「だが……それじゃ……」

 私の瞳を数瞬見つめた後に、正邪は迷った両目を私から逸らした。
 それはそうだろうな、と私は思った。
 鬼人正邪は、社会を変えてしまう為に私を欲した。
 水橋パルスィは、自分が自分のまま居られる最小限の社会その物として、彼女を欲した。
 だから私の提案は、正邪の望む物では無かったのだろう。
 この世界に存在を余儀なくされた弱者の救済が叶わなくなる逃避行は、彼女の求める所から遥かに離れた場所にある。
 それを判って居ながら――私は、彼女の手を取って走り出す事を選んだ。

「な……何を、パルスィ……?」

「今は何も言わないで。何も聞かないで……お願い」

 正邪の手を引いて、私は走った。彼女の理想を否定してでも、私は自分のエゴを優先させた。飛んでも良かっただろうに、『ここじゃないどこか』を切望する私の意識は、何よりも走る事を求めて喚いていた。飛ぶ事よりも走る方が、その曖昧な目的地への近道だと、私の感覚は矛盾した決断を下していた。 
 求める所に些少の齟齬が存在しても、互いが互いを求めている事に違いは無い。
 正邪がどうだかは判らない。けれど私は、正邪無しに自分の理想郷へと至る事はできないと思った。コイツの隣に居ると決めたんだ。コイツの隣が私の居場所だと判ったんだ。それを失うと知りながら、みすみす足を止めて堪るものか――。

 狭い路地を抜けて、大通りへ。真っ直ぐ、真っ直ぐ、私の橋へと走る。道行く妖怪や鬼たちが、私たちを奇異の視線で見つめて来る。それを無視して、私は正邪の手をしっかりと握ったままに走り続ける。脈動の早くなる暖かな手。社会に倦んだ弱者を救済しようと伸ばされた手。断罪を目前にして、それは私の手の中で酷くか弱い存在に思えた。
 それで良いんだ。
 か弱くて構わない。弱者のままで良い。弱いままに社会を変えようと願ったその手に、頼りがいも力強さも求めない。正邪は正邪のままで。私は私のままで。それが許される世界に比べれば、こんな社会もこんな世界も、無価値だ。

「地上に行くわよ」

「パルスィ……だが……」

「知らない。アンタの言い分は聞かない。地上との取り決めなんか関係ない。幻想郷ですら無くていい。最初から、私に居場所なんか無かった。追い立てられた地底さえも、私の居場所にはなってくれなかった――」

 アンタが居ないと嫌だ。
 アンタの隣じゃないと嫌だ。
 大っ嫌いなコミュニティの裁定なんか、受け入れない。
 敗者だ弱者だなんて。そんな言葉でアンタの理想を裁かせない。

 叫ぶ。正邪を顧みる事もせず。前へ。ただ前へ。ここじゃないどこかへ。感情は、想いは、いつだって一方通行だ。相互に想い合ってるなんて言葉、相手の心も読めない私たちにとっては欺瞞でしかない。そして心を読める存在は、誰からも好かれない。親愛とエゴに違いなんて無い。かつて当たり前の愛情に裏切られた私は、適切な繋がり方なんて忘れてしまった。
 押し付けで構わない。
 ずれた感情でも構わない。
 私にとって、正邪を失わない為に足掻く事だけが、真理だった。

 行く手に橋が見えた。私の橋。私が暫定的に定着しただけの小さな居場所。何十年と立ち尽くし続けただけの領域。二人きりのレジスタンスが開始した場所。アレを走り抜けて、地上への縦穴を飛び上がるだけで良い。

 しかし。
 橋に差し掛かった私の足が止まる。
 最悪の結末が希望の前に立ち塞がり、大きく口を開けて待っているのが見えたから。
 星熊勇儀が、私の橋の真ん中で、私たちを待ち構えていたから。

「……ここに来ると思ったよ」

 朱塗りの盃を片手に持った勇儀は、飄々とした口調で言う。元山の四天王。大柄な、一本角の鬼。紛う事無き強者の立ち姿は、弱者でしかない私の眼には威圧的にしか映らない。

「さとりから、お前さんらが仕出かした事についての話は聞いた……大それた話じゃないか? えぇ?」

「――ささやかな話よ」

 正邪の手を握ったまま、私は勇儀に言い返す。社会に馴染めない哀れな弱者を救おうとしただけ。私たちが私たちのまま、許される世界を作りたかっただけ。自分の居場所を欲しての行動なんて、誰だってやってる。
 けれど、目の前の鬼は首を横に振る。その挙動には、予測されうる切実な怒りなんか予兆も無い。それは悪戯坊主を咎める大人の素振りで、下らないミスを窘める上層部の物で、詰まる所、強者の余裕以外の何物でも無かった。

「お前さんらにとっちゃ、そうなのかもしれん。けれど、違うんだ。被害者にとっちゃな。ただでさえ感情を弄られるなんてのは、不愉快だろう。それが地区単位ともなりゃ、大それて不愉快な話になるだろう」

「何それ。私の否定? 誰かの嫉妬を喚起せずには居られない橋姫の存在が、不愉快だってこと? 大層なお言葉ね。何様のつもり?」

「違うね。反旗を翻す目的でやったって所が問題なのさ。地底の秩序を崩す目的があったって所が問題なんだよ。嫉妬如きじゃ社会は揺らがない。それは本来、個人に向けられる感情だろう? だが――社会に対する反感となると話は別だ」

 そこで勇儀は声を一段低くし、正邪をねめつける。私をして震え上がらせる威圧感に、しかし天邪鬼である正邪は涼しげな表情を浮かべていた。

「そんな目で私を見るな。照れるじゃないか」

 私の手から離れた正邪が、一歩勇儀の方へと歩み出して肩を竦める。

「天邪鬼よ。お前さんが元凶なんだろう? 今回の事件の発端は、お前さんなんだろう?」

「違うね。社会が悪いのさ。自然の摂理が間違ってるのさ。お前みたいな強者が、私みたいな弱者をイジメて許されるこの世界そのものが間違ってるのさ」

「簡単に迎合しない奴は嫌いじゃないんだがねぇ……お前さんのそれは強い者だからじゃないんだろ? それがお前さんの本能だって、ただそれだけなんだろう?」

「違うね。色々な思慮があるのさ。私には。弱者にだって、通したい我はあるのさ」

「……お前さんに、一つ教えておいてやろう」

 埒が空かない、とばかりに溜め息を吐いた勇儀が、右手に持っていた盃を煽る。

「なら、二つ程教えておいて貰いたいもんだな」

「人の口に戸は立てられん」

 正邪の嫌味を無視した勇儀は、こちらにゆっくりと歩み寄りながら口を開いた。

「直にお前さんらの被害者たちは、自分たちの感情を操った奴が、鬼人正邪だと知る事になるだろう。鬼人正邪のせいで、自分たちは本来慕っている兄貴分に暴言を吐き、不快な感情を露わにしたと知るだろう。そうなった時、何が起こると思う? 誰からも嫌われているお前さんが、自分たちの社会を脅かしたと知ったら……まぁ、待ってるのはリンチだろうね。不愉快ってだけでギリギリ手は出されてなかったお前さんも一線を越えちまった今、それをされない理由が無くなっちまったんだ」

「ふぅん……」

 勇儀の脅しに、しかし正邪は興味なさげに自分の爪をぼんやり眺めながら曖昧な返事をする。私の顔の見えない位置へと移動してしまった正邪は今、私がどれ程悲痛な表情を浮かべているのか知る由も無いだろう。

 正邪は、私なんか目じゃない程にこの社会から疎まれている。鬼のコミュニティの構成員から、ほとんど恨まれてさえいる。天邪鬼如きが、鬼として認知されている事すら耐え難いと考える原理主義者すら居るのだ。
 今まで正邪が存在する事を許されていたのは偏に、彼女がただ不愉快に存在するというだけで、然したる事件も起こさなかったというそれだけの理由に過ぎない。
 その理由が無くなった今、秩序の名の下に、正義の名の下に、正邪に対する直接的な暴力を止める手段は存在しない。社会正義という大義名分は、歯止めなくこれまでの鬱憤を爆発させるだろう。
 恐らくは正邪が無残にボロ衣の様にされた挙句、命を落とすまで。

「――それはそれで、楽しそうじゃないか」

「……だめ」

 私は正邪の下へと歩み寄り、彼女の手を取る。ニヤニヤ笑いを浮かべて勇儀を見つめていた彼女が、意外そうな表情へと移行して私を見る。

「一体、何なのよ……」

 私は正邪の手を強く、強く掴んだまま、縋り付く様に握ったまま、キッと勇儀を睨み付ける。コイツが語っているのは、正邪の罪だけだ。私の事を無視している。意図的に、私をこの事件から除外さえしようとしている。正邪こそが元凶で、諸悪の根源で、私はその添え物程度にしか考えていない。そしてそれを確定させようとしている。

「正邪の事ばっかり……私は何なのよ……コイツの革命の片棒を担いだ私にも、同じリンチが待ってるっての? それは説明するまでも無いとでも思ってるの? アンタの口ぶり、何もかも正邪に押し付けようとしてるじゃない……私だって犯人よ……私だって、この社会を引っ繰り返そうとしたわよ……なのに、何だと言うの……」

「それは、世論の問題なんだろうよ。パルスィ」

 勇儀の表情をチラと見やった正邪が、私の肩に手を置く。優しげに。慈愛すら感じられる様な柔らかさで。

「事実とか、思惑とか、どうでも良いんだ。奴らにとってはな。要は、私を完全に叩きのめす理由が欲しいんだ。鬼としてのあるべき姿を逸している私が、天邪鬼が、鬼の一員である事そのものが許せないと思っている、大部分の構成員たちはな。私に手を出す大義名分ができたなら、その片棒をお前が担いでいるとか、お前が私の同志だとか、どうでも良いんだ。その事は、私をリンチしようが何しようが許される、なんて情報に埋もれてしまう。むしろお前は庇われるだろう。利用された善意の第三者になるだろう。私を大悪人に仕立て上げる為にな。そっちの方が、『受けの良い』話になるんだから――

 強者であらんとするマジョリティが欲しているのは、厳正な事実じゃない。
 判り易く、かつ罪悪感なしに痛めつける事のできる、悪という名の弱者だ。
 誰もが自分の欲する情報しか求めない。見ない。知ろうとしない。そうして見つけた自分の信じたい情報だけを、真実だと誤認して縋り付く。

 ……いつの時代だって、社会ってのは、似たようなもんだ。なぁ? そうだろう? 力の勇儀さまよ」

 それまで柳に風とばかりにヘラヘラと受け答えをしていた正邪が、はっきりとした口調で勇儀に向けて断言する。それを受けて強者である彼女は、何も言わずにただ目を逸らした。

 歪んだ理で動かざるを得ない社会を突き付けられて。
 嘘を吐かない事を信条とする鬼は、沈黙を選んだ。

「何よ……それ……」

 判り易い正義感のもとに、正邪が正邪であることを許せない奴らが恣意的に情報を用いて、気に入らない正邪に鉄槌を下せる事に耽溺する?
 それが強者とやらの求めている事だと言うのか。寄って集って気に食わない個人を叩きのめす事だけを望んでいると言うのか。私の存在が、私の行動が、正邪憎しの念に飲みこまれて、何もかも蔑ろにされてしまうとでも言うのか。

「――私は、そんなの許さないわよ……」

 正邪から手を離し、掌に爪が突き刺さる程に強く拳を握り締める。黙りこんだまま、回答を保留したままに視線を逸らす勇儀を睨み付ける。

「誰が目を逸らそうとも、誰が無視しようとも、私は叫ぶ。叫んでやる。私だってアンタ達を害したんだって。私は私の意志の下に、この社会を滅茶苦茶にしてやろうとしたんだって。正邪に罪を擦り付けて、それで良しとしようとするなんて不健全だわ。何が社会よ。何が鬼としてのあるべき姿よ。そんなの、認めないから……」

「お前さんが認めなくとも」

 大きく溜め息を吐いた勇儀が、チラと私を視界の端に収めるや否や、また目を逸らした。旧都の方へ。正邪への鬱憤を多く内包して回る社会の方へ。

「大多数の奴らは、そうは思わない。鬼人正邪に操られたんだと思うだろう。正邪がお前さんを利用して、自分の思う悪行を為そうとしたと思うだろう。何を言っても変わらない。どれほどお前さんがソイツの肩を持ったとしても、同情的な視線しか集められないだろう。ただでさえ正邪に付きまとわれていた事で、皆がお前を憐れんでたんだ。正邪に毒されて、正邪を庇うように仕向けられたと思うんだろう。それほどまでに、鬼人正邪に対する反感ってのは強いんだよ」

「他人事のように語るなよ」

 正邪がまた一歩勇儀の方へと歩み寄って、嘲笑う様な声音で言う。手を伸ばせば届く程の距離まで近づいた彼女は大柄な勇儀を見上げて、それでも臆した素振り一つ無く言葉を重ねた。

「お前もだろう? お前もそう思っているだろう? 哀れな橋姫が、嫌われ者の天邪鬼に毒されてしまったと。地上と地底の境界を管理し、この社会を守護する役割を担っていた同胞が、逸れ者で鼻つまみ者の私のせいで、大それた行動に走ってしまったと。私が水橋パルスィを利用したのだと。お前もそう思っているんだろう? 他ならぬ自分がそう考えているからこそ、他のお前の同胞も、同じように考えると推測しているんだろう? 世論なんて曖昧な対象の判断に身を委ねて、自分の感情に嘘を吐くなよ」

 真っ向から正邪に煽られた勇儀は憎々しげな感情を持て余しているかのように、眉根を潜めたり牙を剥いたりした挙句、苛々と頭を振った。

「……あぁ、そうだよ。私は、お前が嫌いだ。大嫌いだ。私でさえ、まがりなりにも同胞全ての事を考えて行動している私でさえ、そうなんだ。他の奴らもきっとそうさ。この機を好機と見て、全力でお前を排除しようとするだろう。それができたなら、パルスィが本当に心からお前に共感したのか、それともお前に利用されたのか、それは些細な問題だと考えるさ。だから――これから言う話は、旧都の同胞を纏める立場にある私からの、お前に対する精一杯の慈悲だ」

 そう言って勇儀は、正邪の胸ぐらを掴んだ。小柄な彼女は勇儀の腕力の前に為す術も無く吊り上げられ、両足が橋板から離れる。

「正邪!」

「早まるなよ。暴力を振るおうってんじゃない」

 咄嗟に勇儀の凶行を止めようとした私を、勇儀が鋭く制してくる。宙吊りになった正邪は息の詰まった苦悶の表情を刹那浮かべるも、すぐに唇へ嘲笑の色合いを携える。

「ハ……やっと正直になったな……大物ぶって私に目こぼしをし続けて来た姿……最高に胸糞悪かったぞ……」

「もう私は、お前の存在そのものを看過できない」

 再び正邪の嫌味を無視した勇儀が、彼女を苦も無く吊り上げたまま、私の橋の上を地上方向へと歩き始める。

「私がどれ程お前に重い罰を下したとしても、どれほどお前を痛めつけたとしても、同胞らの鬱憤は止まらない。当然許すなんて選択肢も、同胞たちは納得しない。そのうねりは、私でも止められないし、お前を庇ってやる理由が残念ながら無い。お前がこの先地底に居た所で、待っているのは地獄だけだ。もうここが地獄じゃない事とは別問題でな……お前を寄って集ってぶちのめした挙句、殺してしまう事もまた、旧都にとっては有意義じゃない。だから私は、お前を追放しようと思う」

 橋を渡り切った勇儀は地上への縦穴がある方へと向けて、半ば放り投げる様に正邪の胸ぐらから手を離した。無様に背中から転んだ正邪は、しかし勇儀の断罪にも、最低な扱い方にも文句ひとつ言わず、ニヤニヤと笑いながら彼女を見上げるばかりだった。

「もうお前は、同胞じゃない。鬼じゃない。ただの捻くれた妖怪だ。地上との取り決めを破っちまう事にはなるが、仕方あるまい。さとりに話が行ってるんだ。旧都全体の治安維持と妖怪一匹の目こぼし。是非局直庁の奴らだって、どちらに天秤が傾くかくらい判断できるだろうさ」

 淡々と、正邪を見下ろす勇儀が冷徹な口調で告げる。立ち上がり、スカートに付いた砂埃を払う正邪は、飄々としてその処分を聞き流している様に見えた。

「地上に出れるのか。暖かな日差しに、草の匂い。あまり好きじゃないんだが、懐かしいな。まるで温情だ」

「そうだ。温情だ。旧都ですら扱いきれん妖怪に対する罰にしちゃ、甘すぎると私でも思うよ」

「だろうな。拳が震えてるぞ。殴りたくて殴りたくて叶わんのだろう? 仮にも鬼どもの為政者として、私刑に走る事は何としても避けたいのか。不健全な事だ。強者というのも、弱者と変わらん位に捻じ曲がっているとは新発見だな」

「何とでも言いな。もう言い返す理由も、こっちには無いんだからな」

「…………ふざけないで」

 それまで置いてけぼりにされていた私は、勇儀を押し退ける様にして正邪の隣に向かう。ようやく手に入れた私の居場所。やっと見つけられた、私が十全に生きて行ける奴の隣。それがみすみす奪われようとしているのに、黙って眺めて居られるほど私は聞き分けが良くなかった。

「正邪を罰するなら、私の事もきちんと罰しなさいよ。正邪を追放するのなら、私だって追放しなさいよ……アンタの糞みたいな判断で、正邪に罪を全部おっ被せるような真似、絶対にさせないから……!」

「パルスィ……」

 正邪が私の名前を呼ぶ。下らない豆知識を、捻くれたイデオロギーを私に向けて発信し続けた唇が、驚嘆の念を持って私の名前を呟いた。

「それは無理だ」

 せせら笑うように、勇儀が肩を竦める。私の必死な言葉を、切実な申し出を、冗談に貶めようとしているみたく。それが溜まらなく、腹立たしかった。

「お前さんは同胞だ。お前さんを追放する理由が無い。お前さんの真意がどこにあろうと、鬼人正邪一人の犯行で、全部説明できるんだからな」

「同胞……?」

 コミュニティに属する一人。鬼としての共属感情を持つ一人。この地底に生まれた鬼としての居場所を、自分があるべき場所と判断して存在する個人。
 ――冗談じゃない。
 こんな社会の一員としての居場所なんて、要らない。

「……違うわ。私は、アンタ達とは違う。私は鬼としてのあるべき姿なんて持ち合わせてない。それを踏襲するつもりもない。私はこの社会を憎んでる。この社会を引っ繰り返してやろうと願った。私は……アンタ達の敵よ」

「違うね。お前さんは仲間だ。この橋を守護する事で、私らの社会に貢献してくれている仲間じゃないか。そんなお前さんがちょっとした気の迷いを持ったくらいで、私がむざむざ切り捨てる様な――」

「何様のつもりよ!」

 ヘラヘラと笑っていた勇儀の胸ぐらを、私は衝動的に掴んだ。さっきコイツが正邪にやったように。正邪の痛みを、コイツに判らせるように。

「アンタみたいなのには判んないわよ! 私みたいな逸れ者の気持ちなんて! 正邪の願った理想の尊さなんて! 生まれた時から強者で居られるアンタみたいな幸せ者に、私たちみたいな弱者の救われなさなんか一生判んないわよ! この社会に居場所を作れない私たちみたいな半端者を誰が救ってくれるってのよ! 強い奴が報われて、弱い奴が足蹴にされる当たり前の摂理に対する絶望なんか判んない癖に!」

 勇儀の胸ぐらを掴んだまま、激昂した私はそれを前後に揺さぶる。しかし紛う事無き強者である勇儀の体幹は、ひ弱な私の腕力なんかじゃ揺らぎもしない。ただ服が伸び縮みするだけ。それがまさに絶対的な力の格差その物に思えて、歯痒かった。

「自分の居場所を作る為に、強くなれって言うの? 弱い者には何も変えられないなんて、使い古された格言でも掲げるつもり? この世界が気に入らないなら、まずは自分を変えろなんて、判った様な口利くつもりじゃないでしょうね!? そんなの偽善じゃない! 生まれた時から弱者にしかなれないって決まってる、私や正邪の事を馬鹿にしてんの!? 自分も社会も変えられない不器用な私たちの魂は、弱いから救われる価値なんかないって言いたいの!? 当然顔で強者の理屈を振りかざしてんじゃないわよ! 無責任に自分たちの当たり前を押し付けるんじゃないわよ! 嫌い! 大っ嫌い! こんな社会も! のうのうと幸せを勝ち取れる強い奴らも! 不幸にしかなれないと宿命づけられてる弱者の扱いも! 全部! 全部大っ嫌い!」

 悔しい。
 悔しかった。
 自分が何も変えられなかったという事も。変えられなかった私が、至極当然の結末として折角手にした居場所を奪われようとしている事実も。私の共感したイデオロギーが、大多数の強者の鬱憤によって正邪一人の悪行という言葉に、押し込められようとしている事さえも。
 社会に貢献していない正邪は、誰彼かまわず憎まれている事によって追放される事となった。
 まがりなりにも社会に貢献してしまった私は、正邪に対する鬱憤の前に悪事を蔑ろにされて、追放の憂き目を回避してしまう事になった。

 結局私は、どこまでも半端者だった。
 橋の上に立つ私は、此岸にも彼岸にも行けなかった。
 こんな事なら、もっと大々的に憎まれれば良かった。もっと多くの奴らに嫉妬を振り撒いて、鬼として認められないくらいの反感を集めてしまいたかった。
 正邪の辿り着いてしまったどうしようもない境地へ、私も行きたかった。
 でもそれは、もう叶わない。
 私が、半端者だったから。私が、暫定的な居場所を手にしてしまったから。旧都の秩序を乱すどころか、旧都の秩序の一端を担ってしまって居たから。
 社会を変えてしまおうとして繋がり合った私と正邪は、結局社会に負けて、引き剥がされる事になってしまった――。

 弱い事が罪なのか。
 規範から零れ落ちて行きどころを無くした私たちは、存在そのものが罪だというのか。
 元から間違いだらけだった。
 最初から正しさなんか無かった。
 私たちは初めから、もしかしたら生まれたその瞬間から間違っていて、世界に刻み込む足跡はその一歩目から、進むべき王道なんかとは見当違いの場所にあった。

「だったら……っ」

 もしもそうなら、私は、最初から――。

「私は……私なんか……生まれて来なければ良かった……っ!」

「――それは違う。パルスィ」

 勇儀の胸ぐらをしっかと握り締めたまま、項垂れて涙を流していた私の肩に、正邪が手を乗せながら、そう、断言した。腫れぼったくなっているだろう瞳をその手の方へと向けると、ぼやけた視界の向こう側で、確かに正邪が優しげに微笑んでいるのが見えた。

 排斥されてしまう事が決まったイデオローグは。
 悲嘆なんか微塵も感じさせない表情で、凛と立っていた。

「私は、お前に出逢えて良かったと思ってる。地上の奴らから追い立てられた敗残者の寄せ集めであるこの世界で、それでも強者と弱者の垣根を作って、その分類に甘んじる奴らしか居ないこの世界で、お前みたいな奴と出逢えた事を、共に手を取れた自分を、誇りに思っている。お前が居たから……私と同じ境遇のお前が、社会に倦みながらも、背筋を伸ばしたまま存在してくれたから、私は、レジスタンスとしての自分になる事ができたんだよ――」

 だからそんな、悲しい事を言わないで。

 そう微笑んだ正邪が、私の頬を伝う涙を指で拭う。
 弱者の立場を決して逸脱せず、ヒエラルキーの最低辺から強者の支配する社会を引っ繰り返してしまおうと望む、弱者にとってのレジスタンスは、叶わなかった理想を嘆くのではなく、当然顔で機能する強者の理を憎むのではなく、私に心からの感謝を述べて来る。
 その優しさに、強さに、私は胸がはち切れそうな思いを抱く。

「確かに私たちには居場所が無いかもしれない。私は負けて、このコミュニティから排斥されたかもしれない。だが、私は諦めない。悪びれない。強者に逆らって、弱者を持ち上げる自分を絶対に変えない。どんな汚い手段を使っても、どれ程下等で下種な存在に墜ちたとしても、私は弱者としての自分を曲げない。それが私の、貫き通すべき存在意義。半端者で、社会から許されない私のイデオロギーだ――パルスィ」
 
 期待しなくても良い。
 絶望なんか、もっと必要ない。
 私の事は、切り捨てて欲しい。
 でも私はいつか、お前を内包するコミュニティを引っ繰り返して、お前を掬い上げたいと思う。
 来ないかもしれないその日まで。
 バイバイ。
 私の大好きな、私の同志――。

 正直な気持ちを欺かずには居られない天邪鬼は。
 本能に抗して私に真心を残した鬼人正邪は。
 精一杯の気持ちを表明するように、私の額に自分の額を重ねると。
 私を置いて、地上の世界へと自らの足で、排斥されて消えて行った。

 ――また逢える日は、きっと来ない。
 私たちが満足に呼吸のできる社会は、秩序のひっくり返された混沌は、きっと来ない。
 世界は余りに巨大で、余りに重たすぎるから。
 その重さは、他者と相容れない私と貴女を繋ぐ程に強かったのだから。
 いつの日か、アナタに逢える日が訪れる事を祈って――

 さよなら……私の、イデオローグ。

 ◆◆◆

 これで、私たちの物語はおしまい。

 その後、地底の世界に侵攻して来た二人の人間のせいで、地上と地底の間に敷かれた絶対的な不文律はうやむやになってしまったけれど、私は正邪に逢う為に地上へ向かったりはしなかった。
 私が再び彼女に逢う時は、弱者が強者を駆逐する最低のディストピアが創生された時だと決まっているのだから。
 そんな救いようのない世界が生まれた時、彼女が私を掬い上げに来た時以外に、再来の日は迎えないと、決めたのだから。

 伝え聞く話に拠ると、正邪は地上でも色々と画策して、またもや失敗を迎えたらしい。
 アイツは弱者のまま、言葉巧みに小人という弱者を利用し、挙句に人間に蹴散らされ弱者に似つかわしい敗走を喫したのだと。
 その事を聞いただけで。いつかの私の居場所が、きちんと遠く離れた所で機能し続けている事が知れただけで、私は充分に満足だった。

 まったく。
 私の時と、やってる事が何も変わっちゃいない。

『強者として小人の姫を利用した訳じゃない。弱者としての志を共にしただけだ』
『見捨てて逃げた訳じゃない。戦略的撤退だ。私は姫に、私を切り捨てさせたのさ』
『全ては弱者の為。最終的に、弱者のディストピアを作り上げる為に――』

 そんなアイツの台詞が、今にも耳に聞こえて来そうだ。本気なんだか口から出まかせなんだか判らないニヤニヤ顔の吐く、二枚舌かと紛う流れるような語り口調。どんな道理に合わない手段を用いてでも、弱者として存在し続けるレジスタンス。強者として在る事にどうしようもない忌避感を抱く、捻くれて、弱くて、下種な、私の――同志。 

 相変わらず、強者が弱者を支配する当たり前の世界が私の周りで渦を巻いている。
 けれどそんなどうしようもない通常の社会の只中に居て、私は依然として社会に倦み続けていて、社会に馴染めないまま、馴染まないままに存在し続けている。
 いつか正邪が理想を達成できた暁に、私が彼女の一番の理解者となってやる為に。
 誰からも好かれないと宿命づけられた天邪鬼の、居場所となってやる為に。
 そんな那由多の彼方に存在する理想の実現が来る日まで、アイツが行ってしまった世界に一番近いこの橋の上で、地底と地上の境界で、私はアイツを待ち続けようと思う。
 この橋が。二人きりのレジスタンスが開始して、終結してしまったこの橋の上こそが、今の私の、居場所。

 アイツの姿が見えなくても。
 世界が終わるよりも前に、アイツの描いたディストピアが訪れなくても。
 いつか描いた理想を共有している限り。

 私たちは――繋がっている。

Fin
イデオローグという言葉は、伊藤計劃氏の『ハーモニー』で読んで知りました。この世で一番好きな小説です。正邪もパルスィもがっつり性格悪いってところが本当に堪らないですね。
夏後冬前
[email protected]
http://blog.livedoor.jp/kago_tozenn/
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コメント



0.690簡易評価
1.100名前が無い程度の能力削除
正邪ってどうしてもハッピーな環境にしづらいですよね
天邪鬼だから
4.90名前が無い程度の能力削除
理想に殉ずるイデオローグに革命を達することはできない。革命を達した指導者はより悪辣な社会システムを作り上げる。社会の、人の意識の変化は、水面下で徐々にしか起こらないものなのでしょう。
6.90名前が無い程度の能力削除
彼女達の血ヘドを吐くような叫びにも、ある程度理解や共感は持てても決して賛同はできません
できませんが、そういうことと作品としての評価は全く別、というのを深く実感できた話でした
7.100絶望を司る程度の能力削除
非常におもしろい作品を読ませていただきました。感謝
8.90奇声を発する程度の能力削除
とても面白かったです
11.90名前が無い程度の能力削除
さとりを弱者と見抜く正邪が男前過ぎる・・・
とても納得がいく展開でしたが、せっかくなら正史とか無視してオリジナルに、残酷に締めて良かったと思う。そう思える位よくできた重苦しさだった。
12.100名前が無い程度の能力削除
社会には共感を強要させる傲慢さが有り、嘘を直隠す醜悪を社交性と呼ぶ。
そう云ったニンゲン性を飲込めない彼女らはきっと一途でピュアなのでしょう。
故に、ハミ出し者。ひねくれ者。嫌われ者。本当とても愛らしい。
15.90名前が無い程度の能力削除
「ハーモニー」は良いですよね。好きです。何がとは言えないのですが。

短編以上の分量がありますが、掌編を読んでいる気持ちになりました。よかったです。
20.100名前が無い程度の能力削除
さとりを止めてれば成功したんでしょうか
正邪はアマノジャクとしてさえ排斥されるものだったんですかねぇ
22.100名前が無い程度の能力削除
ハグとかちゅーとかじゃなくて額を重ねるっていう正邪の愛情表現がとても良い