Coolier - 新生・東方創想話

風神太平記 第十一話

2013/12/19 22:12:44
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『伊那騒動・六』






 夜、辰野の山々は、どこまでも不気味な静けさに包まれていた。

 いつもであれば山肌の雪を巻き込みながら通り抜けていく風の音も、今日はほとんど耳にすることができない。いや、冬の山なのだから、本当のところは風など絶えず吹きまくっていたのかもしれないが、心の大半を押し包む不安が、風の音など感じなくさせているのかもしれなかった。それが、辰野勢の兵たちの偽らざる心情であっただろう。

「何も、起きねえな。誰もやっては来ねえ。兵のひとりも馬の一頭も。狐や鳥さえ見かけねえ」

 時が経つに連れ、天地の境に広がる闇の色が、少しずつ薄くなってく。

 ひとりの兵が、その様子をじいと眺めながら、誰に言うでもなく呟いた。痩せぎすの身体をした歩哨である。元からすらりとした体型だったのに、この頃はさらにまた痩せてしまったのだ。身につけた鎧に鉄の気はなく、ただ獣の皮を幾重にも織り重ねただけの簡素なものに過ぎない。濃い不精髭に埋まる頬の輪郭は、失われつつある夜の闇を惜しむかのように、未だ山中に留まったままの暗みによく融け合っていた。外見(そとみ)にも強兵とは言いがたい彼の姿のうち、錆びひとつなくうつくしい穂先を光らせる矛ばかりが、実に不釣り合いであった。

「あるいは、敵の“こけおどし”だったのかもしれん」

 痩せた兵の後ろ――雪に覆われた山肌にぽっかりと穿たれた横穴から、そんな声が響いてきた。兵は、ふいとそちらを振り返る。小さな明かりを灯した穴の奥から、中背の男が壁に背を預けて座り込み、右足を投げ出したままこちらに眼を遣っていた。この横穴を任された『隊長』である。が、痩せぎすは「何を」、と、思った。元から、彼はこの『隊長』のことがあまり好きではない。同じ歳のくせに、隊の長に任じられたというだけで急に偉そうになり、いくさの何たるかを語り始めるようになったからだ。元は自分と同じ、矛より鍬や鋤を握って田畑と格闘する人間だったくせに、と。

 握り締めるものが矛でなく、この憎々しい男の首根っこであったら良かったのに。
 そう思いながら痩せぎすは、かたちばかりとはいえ素直に訊き返しておく。

「どういうことじゃ」
「御大将は――ユグル様は、きっと敵の攻撃が近いから、よくよく気をつけるようにと仰っていたが……。元は俺たちだって、諏訪のやつらを思いきり油断させてから打ち負かしたことがあった。あのときの戦いが敵の脅かしでしかないんなら、向こうも未だ、ちゃんとしたいくさの備えは整ってねえということだ。だけど、もしかしたら幾日も何もしねえのを見せて、おれたちを油断させるつもりかもしれねえ」

 ほうら、また始まった、と、ばかりに、痩せぎすは頬のうちにだけ収まるように、小さな舌打ちをした。そして、自分も向こうに眼ばかりくれてやる。すると、隊長と目が合ってしまう。「何を見てるんだ」と隊長は言った。「寝ずの番から離れるな。いま直ぐに敵が来るとは限らねえが、来ないとも言いきれねえ」。痩せぎすは、また小さな舌打ちをした。

 溜め息まじりに、横穴のなかにある仄かな明かりの方を垣間見れば、この場所に配置された皆は――痩せぎす自身も含めて――すっかり疲れきっていた。いや、きっと山のあちこちに配置された砦……砦とは名ばかりの粗末な拠点に配置された兵たちも、同様の気持ちであっただろう。

 まず山上を押さえて本拠地となる城を築く。
 この山の大半は峻厳で、大軍が移動できる道筋といえば、麓から城の正面へ向けて通った一本の坂道がせいぜいだ。城方はその坂となった隘路(あいろ)を取り囲む山肌に、敵の動きを監視するための拠点を幾つか置いているのである。ちょうど、眼を凝らせば件の坂道を見下ろせる位置だ。そして拠点同士で相互に連絡を取り合い、山のどの地点で敵勢を迎え撃つかを決定する。それが、ユグル率いる辰野方の『戦術』だった。

 だが、そうした地の利こそ山を押さえた城方にあるとはいえ、それぞれの兵にとってはいつ敵がやって来るかが怖いし、何より冬のいくさは寒さがきつい。風気を病んでしきりに咳をしている者もいる。痩せぎすたちが配されたこの拠点のことを言えば、いつも偉そうなことばかり言っている隊長は、昨日、皆が順番で持ち回りをすると決まっている寝ずの番の歩哨のとき、近くの崖の辺りで足をひねってしばらく歩けなくなった。威張り散らしているだけの男がいよいよただのお荷物になったわけだ。そのくせ前と同じように、一丁前に受け売りの戦術論など説くものだから、痩せぎすのいら立ちはいよいよひとつの峠に差し掛かってしまった。

 空を見上げれば、星の光はもうだいぶ地の果て近くに歿しかけている。

 そろそろ夜の終わりが近いのだ。まだはっきりとした暁の気配こそないが、どうにかこの夜は戦わずに過ごすことができそうである。足下の雪を、痩せぎすは五度、六度と踏み固めた。履き物の下にされた雪が自身の身の重みで固まっていくのと、彼の思いが固まっていくのは、まるで同時に起こっているかのようであった。

「おうい」

 と、痩せぎすは横穴に居る仲間たちに、改めて声を掛けた。
 ぼんやりと、眼ばかり動かす者が大半である。が、隊長だけは「どうした」と返してくる。

「ちょっと離れるぞ」
「待て、どこに行くつもりじゃ」
「小便よ、小便。この分じゃあ、敵もそうそう襲っては来るまい」
「待て! ……その間にこの拠点が狙われたら、」
「諏訪のやつらがこっちを油断させようとしてるんなら、むしろいま直ぐにやって来るという気遣いこそ要らねえもんだろうに。本当のいくさのときに小便漏らしちまったとなりゃあ、それこそお笑いだ」

 言い負かされたと思ったか、隊長は何も言い返してはこなかった。

 痩せぎすは、足早に横穴近くから離れていく。
あのろくでなしの隊長にひと泡吹かせたという小さな誇らしさが、彼の心の片隅を占める。かつて山に踏み込んできた軍勢――彼自身は、その軍勢が南科野勢であり、その長がジクイであることも知らないのだ――と戦い、勝利し、生き延びたことが、今の彼にとって不可思議な自信の根拠となっていた。そして、いざその戦いのとき、件の隊長は崖下で次々と討ち取られていく脆弱な敵すら怖れ、弓の弦ひとつ引けなかったということも。まるで勝ちいくさのように意気揚々と、痩せぎすは拠点を離れていく。勝ち誇り、胸を張って。

 とはいえ。
 彼が小便をしたいと言ったのは隊長への嫌がらせというだけではなく、あくまで本当のことだった。

 拠点から離れたとはいえ、大人の男が大股に歩いて二、三十歩。そこまで極端に離れた位置ではない。抱えていた矛をいったん地面に置き、下穿きを解いて、悠々と小便をし始めた。ちょうど崖際、眼下には、かつて味方が敵を容易に撃破したあの隘路が見える。いささか厭戦の気が生じ始めているとはいえ、あのときの勝利の興奮が、彼は今でも忘れられなかった。いかにもいくさ慣れをした顔つきの敵を、生兵法すらろくに知らぬような素人の兵隊が屠っていく。これほどの気持ち良さは世の中にそうそうないだろう。女を抱いて善がらせるのさえ、及びはしない快感だ。

 ――――いつ攻めて来ようが、今度もやっつけて、その上からこうして小便を引っかけてやる。

 厭戦気分と、戦勝の心地よさと、忌々しい隊長を言い負かしたことの嬉しさと。

 痩せぎすの心はこの三つがぐるぐると渦を巻いて、何の色をしているのかほとんど判別もできぬほどであった。専心、といえば、専心だったのだろう。そして彼のその“不用意な集中力”は、崖下の小道から駆け上がって来る人間の気配に対する注意を、完全に散漫なものと化さしめていたのである。

 用足しを終え、再び矛を手に取って拠点に戻り始める、痩せぎすの彼。
 
 その背に冷たい痛みが走り、次にまた声を上げられぬよう喉に刃が走ったときまでも、彼は自分に何が起こったのか、とうとう理解できぬままであった。点々と、傷口から噴き出した自身の血が雪の原に跡を残していくのを彼は見た。そして次の瞬間には、さっき「敵に小便を引っかけてやる」と無言に意気込み見下ろしていた崖下へ、自分自身の身体が、ごろり、転がっていくのが解った。絶命までの数秒間、彼が最後に知ったのは、崖の上で血に濡れた剣を提げ、何の表情もなくこちらを見下ろしているのは、どう見ても味方の兵ではなかったということ。軍装や甲冑の様子を暗みのなかに垣間見るに、それは敵である諏訪方の兵であるということだ。そしてその敵が、動けなくなった自分を投げ捨てたのだということ。

 ――――どうして、やつらがここにいるんだ!

 叫ぼうとしても、彼に残された命はあまりにも短すぎた。
 麓に居るはずの諏訪方が攻め寄せてくるには、崖に取り囲まれたあの隘路を通るよりほか、手段がないのではなかったか。そしてそこを通るのならば、味方が真っ先にその動きに気づいているはず。どうして、どうして。

 生涯最後の疑問に答えを得ることができぬまま、彼はかつて勝ちいくさに酔ったあの崖下へと、今度は敗残の骸として己が死を奉ずることになった。そしてまた、いずれ彼の仲間たちも、そう違わない最期を遂げるはずである。もっとも、彼がその顛末を知ることなど、端から叶わぬことなのだ。


――――――


「西側の拠点が、ひとつ陥ちた」

 諏訪方の総大将たる八坂神奈子は、明けつつある夜空を見上げながら、噛み締めるように呟いた。

 彼女が夜空にその眼で追っていたものは、山中から放たれた一条の火矢である。味方の部隊が山中の拠点を制圧した際、射るように命じておいた勝利の合図だ。細く、しかし明々とした火矢の光は、空に上がると星の輝きと混ざってひときわ明るい尾を引き、やがて弧を描いて地面に落着していく。火そのものは、あちこちに降り積もった雪が消してくれることだろう。雪が降っているなかで、わざわざ火攻めをするのでもあるまい。火矢の光芒がすっかり見えなくなるのを見計らったかのように「これで、五つ目の拠点」と、また神奈子は呟いた。

 一方で彼女の周りを取り囲む諸将は、大将の呟きを耳に容れ、ただ静かにうなずくばかりである。鎧をかたちづくる種々の札(さね)や紐がこすれ合い、がちゃりと細かな音が鳴る。誰もみな、自軍の勝利を目立って言祝いだりはしなかった。いや、最初は当たり前に「おめでとうございまする」と口にしていたのだが、何度も勝ちが続くに連れて、ただうなずくだけになったのだ。

 ばさばさと、久方ぶりに吹く風が本陣の陣幕を震わせる。

 冷たい風は、味方の勝利に向けて確実に風向きを変えつつある。いまや神奈子にはそうとさえ思われる。

 床几を蹴って立ち上がり、彼女は矢盾を組んでつくった机に身を乗り出した。木製の平らかな盾には、墨で直接、地図が描かれている。ユグルたち辰野勢が籠る、あの山を中心に描いた辰野の地図である。たっぷりと墨を含んだ筆を握り、神奈子は地図上の山のうち、特定の場所に『×』印をつけていく。あらかじめ描き込まれていた『○』印に上書きするかたちだ。『○』印の位置こそが、敵拠点のおおよその位置であった。『×』をつけるのはこれで五度目。拠点を落とすたびにくり返されてきた作業。作戦は、確実に功を奏しつつある。

「いや、まったく。諏訪子さまの舌の多さには恐れ入る。此度はどれほどの口説(くぜつ)と金をばらまいて、攻略の糸口をつかんだものやら」
「何を。敵から降って(くだって)きた、あのノオリと申す将のもたらしたもののあればこそ。同郷の友を売るほどに命惜しき男、差し出せるものなら何でも差し出そうて」

 本陣のうちふたりの将が、早くも戦功――というよりかは皮肉交じりの四方山話に打ち興じ始めていた。何人かの者は、身も蓋もない中傷じみた話題に眉を潜めはする。しかし、あえて注意をするということもない。あるいは八坂のいくさ神に遠慮をしてのことであろうか。その神奈子とて、口さがない皮肉は耳に入っていたはずである。それでも何も咎めなかったのは、次の作戦の算段をすでにつけ始めているからに他ならなかった。未だ作戦が端緒についたばかりの現在(いま)このとき、大将自らが慢心の権化のように部下や同盟者の陰口を叩くなど、それを愚の骨頂と呼ばずして何と呼ぼうか。

 ――――諏訪子と、ノオリの手柄。
 ――――なるほど確かに、此度はあのふたりのおかげかも知れぬ。

 とはいえ鋭い目つきで、神奈子は夜の闇を睨みながらそのようにも思った。

 机に描き込まれた地図によれば、当初の陣立て通り――前者は諸陣のうち最後方にて後詰め、後者はそれよりさらに離れた小集落にて別名あるまで待機。神奈子の本陣を中心とする諸軍三千が、主に敵の籠る山と相対する布陣だ。全体を顧みれば各々の層は薄く、しかし両翼から弧を描くように連なったその形態は、まるで引き絞られた弓にも似ている。また一方では大鳥の翼を広げたがごとき、『鶴翼』(かくよく)の陣形である。本来は、突撃してくる敵勢を左右と正面から包み込んで迎え撃つための防御陣形であるのだが、今回、神奈子はそれを攻撃に転用した。辰野勢の籠る山を万遍なく包囲し、『複数の方角から同時に攻め入るため』である。

「御想像が通り、城方は大いに疲弊しておりまする。総掛かりで当たれば、城に通ずるかの隘路は確実に破ることできましょう」
「なるほど解った。いかに強固な陣容とはいえ、兵や武器にも限りはある。して、どれほど攻めれば突破できるよう備えを敷いておるのか」
「総掛かりなら突破できると申し上げましたが、直ぐに突破できるとは申しておりませぬ。このノオリ、浅学非才のうえ田夫野人にも等しき男なれど、いくさにはそれなりに自負を抱いて辰野勢を率いておりましたゆえ。……そうですな。この諏訪方の兵力からすれば、九百近くの犠牲を覚悟して頂きたく存じまする」

 それが、神奈子とノオリとのあいだで交わされた最初の問答だった。

 改めて城攻めの策を練るにあたり、先立って持たれた軍議のうちのひとつでのこと。
 辰野の陣中にあってはその軍略を請け負っていた男が、数日前までは敵だった諏訪方の大将の目前にて、自らの凝らした策を語る。勝利への糸口として確実なものを手に入れつつあるという以上に、自分のいくさに泥をつけたひとりの将と話をするということに、そのときの神奈子の心は湧き立ったものだ。

 だが、純然とした武人同士、武将同士の会話とするには、情勢は緊迫の度を増し過ぎていた。たとえ辰野の城に通ずる山中の道を突破できたとしても、諏訪方にもおよそ九百の犠牲が出るは必定。その分析は、辰野勢の頑強な抵抗による二度の敗北という事実をもってすれば、いたく鮮明な脅威となって立ち現われてくると言わざるを得ない。

 ノオリの前だというのに、思わず神奈子は頭を抱えてしまっていた。

 九百といえば、諏訪方三千のうち三割。
 全体のうち三割の兵を殺(と)られれば、その軍勢は戦闘の継続が困難となると言われている。ならばノオリの分析では、諏訪方はほとんど痛み分けに近い、ぎりぎりの勝利しか得られぬ計算である。

 あくまで机上での結論と位置付けることは容易いが、過去二度の敗北もまたそうした慢心によって引き起こされた。いくさには運の良し悪しもまた絡み、偶然が戦場を左右することさえある。ひょっとしたらノオリの言よりも少ない損害で勝てるかも知れぬし、また、九百をはるかに超える兵を死なせても未だ勝てぬのかも知れぬ。いずれにせよ『九百の犠牲を経ての勝利』という結論は、むしろ損害をもっとも少なく見積もった場合の数字と見て差し支えはないであろう。

「それでは、あまりにも犠牲が大きすぎる。他に攻め手を存じてはおらぬのか」

 対面するノオリを前に、神奈子はさらなる要求を突きつけた。

 できることならば、味方の損害を低く抑えて勝利せねばならない。
 将たるもの、誰しも等しく抱く思いである。相応の時間と犠牲は払うだろうが、敵の城は確実に落ちる。……そんな事実は策とは呼べないのだ。雨の滴とて、千も万も回数を重ねて岩を打てば、やがて穴を開けることがあろう。だがそれまでにいったいどれほどの雨が降らなければならないのか。敵の兵が無限ではないように、味方の戦力もいつかは摩耗していくのだ。兵力の底――軍勢としての戦闘が不可能な領域にまで追い込まれる前に、決着をつけることが求められている。

 神奈子とノオリ、ふたりの会見は作戦が発動する数日前の出来事であった。
 そのときにはもう、ノオリはすっかり髻(もとどり)を結い直していた。髪に隠されることなくはっきりと見えるようになった彼の輪郭は、かつて同胞だったユグルたちへの憐れみで、滲んでいるかのように神奈子には思われた。そこにあるのはいささかの躊躇であったろう、いちどは従うと決めた諏訪の御大将に、軍略の秘密を明かすことへの。

 しかし、ノオリは選択した。
 床几に腰を下ろし、膝の上に置いた手を強く握り締めながら、逃げはせぬと神奈子の眼を見つめていた。応えるように見つめ返す神奈子であった。ノオリは、ついに口を開いた。

「先ほどの話は、あくまで“正面から”攻め込んだときのもの。ならば、“それ以外”の場所から攻め込めば良い話にございまする」

 ノオリの話はまったく理に適っていた。
 正面からの突破に手間がかかるのであれば、横や裏から入り込み、柔らかな脇腹を切り裂けば良い。しかし同時に不可解でもある。つまりは、

「待て、待て! こちらも以前(まえ)に幾度か山近くの様子を探らせてはみたが、あの一本道の隘路を除けば、人が通れる道とてまるでなし。それゆえ城方は――そなたはあの峻嶮な山の上に砦を築かせたのではなかったか」

 そういう事情がある。

 ユグルらの籠る城へと通ずる道は、狭隘な坂道ひとつしかない。
 それを、神奈子を始めとする諏訪方の諸将はよく知っている。
 だからこそ、二度の敗北を経ながらもその道を突破せんと躍起になっている。
 それなのにノオリは、理屈のうえでは瑕疵なきものなれど、実情からすれば甚だ意味の解せぬことを言っていた。何より城への道が一本しかないからこそ、件の坂道を押さえているユグルたちの方が、兵力に劣る側でありながら今まで圧倒的な優位を保ち得たのだ。そして、その鉄壁の護りを築いたのはノオリ自身のはずである。

 だが、一方では。

 表から見て誰にも解るほどの強固さを築き上げたということは、裏を返せば内側に存在する脆さを克服してこそその強さは成立しているとも取れる。つまりノオリは、今までその『弱点』――そうである、城方にとってもっとも知られてはならぬ『弱点』そのものを、自らの命とともにもたらしたのである。

「確かに八坂さまの仰せられる通り、一見したところで道らしき道は見出せませぬ。ましてや、この冬道をや。たださえ峻嶮たる場の多き辰野の山、大軍が移動することのできる道は自ずと限られてしまいましょう。しかし、」

 一拍を置いて、ノオリはわが胸を打ち叩いた。
 この策に自らの命を捧げる覚悟であると、そういうことだと神奈子には読めた。
 それこそ、旧知の味方と離れての行動だ。名と命とを懸けずしてできる仕事ではあるまい。

「あるのだな、他にも隠れた道が」
「ございまする。いちどに多くの兵が移動できるほどのものではございませぬが。しかしだからこそ、城方はそれを悟られまいと、件の坂道に諏訪方の目を引きつけるよう努めていたのです」

 そして明かされた、その道は。

「山の各所に獣道が、密かに通っておりまする。山々の獣のほかには、せいぜい猟師どもが密かに伝えておるような道が。そして獣の歩む道は、大方において人の足にても踏み込むことできまする」

 それこそが、ノオリの示した『策』の核心だった。

 正面突破が困難であれば、山の各所から同時に突入して、城方の防備に小さな穴を幾つも明けていく。そうやって敵の思いもよらぬところを幾度も突くことで、各々は小さな穴たちがいつか繋がり、やがて広がり、大きな穴となる。ノオリの進言は、つまりそういうことだった。

 否、『穴』そのものは、常に城方が抱える何よりの弱点だったはずだ。
 それであるにもかかわらず、今までその『穴』が寄せ手に気づかれることなく、数月に渡って籠城のいくさが続いた理由。それは、南科野の商人オンゾや、ジクイらを始めとする諸勢力と気脈を通じた城方の計略のみならず、攻める側である諏訪諸軍の慢心と油断とが引き起こした陥穽であったことだろう。要害堅固な一本の道にこだわり続け、ここをいかにして突破せんと頭を悩ます――それ自体が敵の罠にはまっているということだったのだ。

 そのとき、神奈子は己の才無きを疑ったに違いない。
 これまで万余の軍勢を率い、勝利に勝利を重ねていた己自身を、むしろ呪ったに違いないのだ。彼女の自信と傲慢さとは限りなき求心のすべであると同時に、神たるその叡慮をも曇らせるものであると、……時としてはそういう失策もあるということを、嫌というほどに思い知った。

 深々と息を吐き、神奈子は籠手越しに額の汗を拭った。

 肌を濡らす冷や汗は、風に吹かれてもその冷たさを彼女に感じさせることはなかった。それだけ勝利への確信と、同時に自らの失策を認めることは、大将たるその心をも一瞬のうちに苛んだ。八坂神奈子は将兵を率いる身である。将兵とは人なのである。彼らを死地に向かわせる者としては、そのときの彼女が味わった焦りの感情は、神よりももっとも神らしいものと言えた。人々に命を棄てさせる者としての。

「……いくさが長引いて、雪でその道が閉ざされたのは、まったく城方にとっては幸運と呼ぶべきことであっただろうか」

 眼には相変わらず力を喪わず、しかし神奈子はぼんやりと言った。
 ノオリはそれに応えることなく、ただ策の要諦のみを簡潔に話す。

「城方は坂道の周辺に十数の拠点を有し、それぞれに小隊を配置しておりまする。これらの小隊は各々が物見にて、坂道を敵勢が登り来れば互いに報せ合い、本隊と合力して迎え撃つという手筈。ゆえにこちらは夜のあいだに件の獣道を密かに進み、城方の拠点を陥れる。さすれば山中での物見たちの繋がりは断たれる」
「そしてその隙に。われら諏訪方は本隊を動かして、城に通ずる坂道を一気に破る」

 ゆっくりと、ノオリはうなずいた。
 旧い味方を滅ぼす策を、新たな味方に授けることを終えて。
 その日の軍議で、もはや神奈子は彼を引き留めなかった。ほとんど無言のまま、ノオリは自陣に戻っていった。覚悟を――辰野人としての自分を殺す覚悟を決めた彼に、今さら余計な気遣いの言葉を掛けるは、むしろ酷なものであろうと神奈子は思っていた。一度これと定めて命を掛ける男に、横からあれこれと指図をするは、むしろ無礼というものだから。

 そして、だからこそ――あとは“われわれ”の仕事である。
 神奈子は腰にした蕨手刀の柄に手を掛けながら、机に描かれた地図を睨む。
 ノオリから策を得たうえは、後の備えは容易く、早かった。洩矢諏訪子がその手管を発揮したのである。

 単刀直入に言えば、諏訪子は周辺の猟師を買収した。
 
 そもそも辰野の猟師たちはこの秋口から、自らの狩り場である辰野の山に入れない状況が続いていた。ユグルらの一党が山を占拠して城を築き、いくさへの備えを固めてしまったせいだった。

 元を辿れば諏訪の中央政権と南科野勢力との土地争いの悶着に端を発したことではあったのだが、山野を駆けて鳥獣を狩り出すのが仕事の猟師たちにとって、政の細かな事情などどうでも良い。完全なる“とばっちり”である。ただ、いつも仕事をするために足を踏み入れる野山が、軍勢によって一方的に禁足の地とされ、うかつに近づかば敵の間者と見なされて矢を射かけられる……そんな理不尽と、何より飯の種を奪われることを甘受できるほど、彼らはお人好しではなかったのだ。

 諏訪子が突いたのは、そんな猟師たちの、辰野勢に対する密かな反感だった。
 いくさが長引くせいでそう多くは採れなかった鳥獣の肉や皮を、適当な高値で買い上げたうえ、

「良いか? 今後、諏訪王権に獲物の何割かを納めれば、周辺の山野で猟を行うに足る、侵すべからざる確固たる権を、きっと与えることを約束しよう」

などと吹き込んだものらしい。

 食い扶持が失われかけていた猟師たちにとって、この申し出はまさに渡りに船だったに違いない。諏訪子はこれで相手方を口説き落とし、見返りとして山中の獣道を案内させる約束を取りつけてきたというわけだ。事実、猟師たちはよく諏訪方の作戦に協力してくれている。雪に覆われて秋までとは姿を変えた獣道も、あたかも本当の獣がにおいを嗅ぎつけているかのように、巧みにその跡を見つけ出すのだ。この獣道もまた狭い道であり、やはり大軍が一挙に攻め込むには適さない。しかしだからこそ、味方は少人数の部隊を各所に送り込んで、ノオリの指図した各拠点を陥れることができるのだ。

「ようし。“風”はどうやら、その向きを変えつつあるようではないか」

 両の拳を握り締め、諏訪子は本陣の諸将に向け、言った。
 みな大きくうなずいて、総大将である彼女への信を新たにした様子である。

 と、そのとき。
 陣幕を突き破らんばかりの勢いで、ひとりの兵が飛び込んできた。
 伝令役として軍勢に随行していた逸勢舎人(はやせのとねり)であった。
 駿足たる彼は戦場ゆえ簡素な甲冑に身を包み、その姿であちこちを走り移動しているであろうにもかかわらず、息切れひとつしていない。逸勢は「伝令!」とひときわ高く叫ぶと、続けざまに、

「城方に多分の動きありとのこと。少数ながら、本隊を押し出し始めたという報せもまた有り。物見との応答が取れなくなりつつあることを危ぶんでのことかと思われまする。おそらくは、わが方の手により山中の拠点が幾つも落ちたゆえかと!」

 さすがに、逸勢の声も弾んでいる。
 たかが一介の舎人とはいえ、彼もまた軍神八坂の傍近く仕える身。今まで諏訪が負け続きで、味方のどこに顔を向けても鬱憤が溜まるばかりという状況にはさすがに飽いていたのだろう。今は未だ小さなものとはいえ、勝ちいくさの気配にその顔も華やいでいた。

「……来たか、ユグル!」

 狙い通りだ、と、神奈子は歓喜を噛み締める。
 夜空を向いた彼女の眼には、また新たに射られた、火矢による味方の合図が明々と映っていた。

「敵の本隊はいつ、何処(いずこ)を目指して動きそうか」

 膝を突くままの逸勢へ、早口に問う。
 問われて逸勢は「三本目の火矢が麓に向かって射られし後、幾つかの部隊を、報せの途絶えた拠点へ向けて動かしつつあるようにございまする」と言った。

 おお、……と、本陣がどよめく。
 敵もいよいよ諏訪方が何かしら『仕掛けている』ことに気がついたに違いなかった。ここまでは神奈子の策の通りだ。以後の戦いは、敵の方もまた動いてくれなければ勝ち目はない。

「あい解った。行って良い」
「はッ」

 逸勢はすばやく身を翻すとその駿足に任せ、また夜闇のただなかへと融けていく。
 彼の後ろ姿を見送ったあと――神奈子はもう、床几に腰を下ろすことはなかった。諸将の顔をひとりひとり見渡して、何かを促すように大きくうなずく。それに応え、将たちもまたうなずき、そして一斉に立ち上がった。

「いよいよだ。各々、気を引き締めて参るぞ」

 微笑を浮かべた神奈子に向けて、将たちは意気盛んに拳を振り上げた。


――――――


 いかに暗闇に紛れて獣道を通り、山中の拠点を潰したとて……勝ちを報せるために何度も火矢で合図を送れば、敵もさすがにその光に気づくだろう。そして戦況に異変ありと見る。

 しかしその異変に気づいたころには、自ら敷いた監視網はその大方がずたずたにされている。それは取りも直さず、諏訪方の本隊が山中に入り込んでも城方が直ぐに気づけなくなることを意味している。敵の大軍との衝突を怖れるならば、むしろそこで城から兵を動かさぬのが上策である。気づいたときには、奥深くまで入り込んできた寄せ手から一方的に屠られる危険があるからだ。

 しかし、この辰野の山では、城に通ずるあの狭隘な坂道を支配した方が圧倒的に優位に立つ。城方からすれば、味方の監視網が破壊され、なおかつ敵の侵入を許しつつあるかも知れぬなかで城に兵を留めていては、防衛上の要所である坂道をむざむざと喪い、地の利を失することになろう。

 それこそが、紛れもなく八坂神奈子の策だった。

 現実を考えれば、いかにノオリからの献策があったとて、夜のうちに城へ通ずる山道を一気に突破して、ユグルの首を挙げるなどまず不可能であると彼女は睨んでいた。悠長にすべての拠点を攻めていれば、いくら何でも城方も異変に気づいて何らかの対策を講じてくるはず。そうなれば、諏訪方が夜間に攻めを始める意味がない。

 それならばいま目指すべきことは、最重要の拠点であるあの坂道を制圧し、加えて敵の本隊を決戦の場に引きずり出すことだ。まず山中の拠点に散在する監視網を陥れることで、城方が配置していた迎撃の手段を潰してしまう。眼や耳を潰されたなかで城方にできることは、そこで地の利を喪わぬがためにあの坂道――神奈子が決戦の場と定めた戦場へ本隊を進めることだけだ。何としてでも諏訪方より早く、戦いの主導権を手に入れるために。

「何も律儀に城を攻め落とす必要はなし。決戦の場にて敵勢を壊滅せしめる!」

 事前の軍議において、机上にて幾度も確かめた此度の戦術……その要となる作戦を、いま再び神奈子は簡素な言葉のみで下知した。おお! と、本陣の将たちは気勢を上げる。

 このいくさは諏訪と辰野、どちらの足が速いかの勝負だった。

 地の利さえ得てしまえば、後は兵力と士気と練度で勝る諏訪方が圧倒的な優位に立つはずだろう。しかし城方がより早く坂道を制圧すれば、その時点で諏訪方の策が破綻する。それほどの危うい勝負である。いつまでも麓に兵を留めている理由はない。神奈子は諸軍の陣営に向けて手早く伝令を放ち、自身、また将兵のなかに踊り込んでいった。矛のぎらつきが万雷の拍手がごとく、御大将たる彼女を出迎える。軍旗(はた)は行軍の気配を暗中に歿せしめるため掲げられることはなく、兵たちの吐く期待と不安の入り混じった白い息だけが、大軍がそこに集っていることを示していた。

 すらりと刀を抜き放ち、神奈子はその切っ先を、敵勢集う山へと向けた。

「皆、あの山の姿をよく眼に焼きつけよ。われらの誉れはあの頂にこそ有り。それを手にしたいと思う者は、遅れることなくこの八坂について来るのだ」

 隠密の行軍を旨とするゆえ、事前に布告(ふれ)を出して鬨(とき)の声を上げることを禁じていたため、将兵は極めて静かにその演説に応じた。矛を振り上げ、鎧に覆われた胸を打ち叩くのみ。しかしそれだけで神奈子は満足だった。尽きることなき幾千の矢と、決して折れぬ真鉄(まがね)のつるぎとを得た気分であったのだ。

 三千の軍勢の先頭に身を躍らせ、いくさ神たる八坂神奈子はついにその征途を踏み出した。

「いざ、――――出陣!」


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