Coolier - 新生・東方創想話

風神太平記 第九話

2013/08/10 22:16:22
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 人が生きている限り――否、神だとて生きている限り、その身は無間に大毒を食まねばならぬのであろうか? 眼下に積み上げられた凄惨な光景を見て、“諏訪さま”はそう思わずにはいられなかった。

 見ているとはいったところで、今そこに“諏訪さま”の身体があるわけではない。その意識に骨肉はなく、その心にかたちはなかった。水のさなかに融け混じった氷のように、空といわず地といわず、ただ永く永くその存在を漂わすばかりなのである。人々の口が自分の名を――“諏訪さま”の名を口にするたび、ひとつの時代がやって来る。それはいつの世にても幸と不幸を兼ねずにはおかないのである。信ずればこそ人は幸となり、信ずればこそ痛苦のもと不幸ともなる。おまえたちもか、と、“諏訪さま”は問うた。骸は決して答えなどせぬものだ。けれど、狂信を除いてほか恃むものとてなかった兵たちは、眉間を矢で打たれても腹を矛で裂かれても、幸と不幸の区別はつくまい。

 いずこからか飛び来たる蝿どもが、最後の仕事とばかりに屍へ蛆を湧かせに掛かってくる。その蝿を追い回すようにして、飢えた野犬が死者の肉を貪りに這い出てくる。黒々とした血溜まりのさなかにあって、そうした最期を迎えつつある百を下らぬ兵らの屍体どもを、真白い蛇が取り巻いている。みな人には解らぬ唄をうたう。嘉する(よみする)ごとく唄をうたう。いずれ骨肉はみな土となって、消え去ってしまうことだろう。かたわらに在りて秋を待つ稲と、いずれ余さずひとつになるだろう。

 そして“諏訪さま”は、稲がやがて実らせる黄金色を借りようと思った。
 無惨にも裂けた股座から、血と精液を垂れ流す裸の少女の姿も借りようと思った。
 化身するには身体が要る。火矢で焼かれて誰もみな死んだ一村の片隅で、自らを犯す男たちへの怨みをかたちにすることもできないまま死んだ少女の骸は、あつらえ向きと言えるものだ。元より“諏訪さま”に定まった姿などない。しかし人が自然に相対すべく、自らの代弁者としてつくった存在である。人と誼(よしみ)を結ぶには、人の姿がいちばん良い。

 蝿がすべての屍体に卵を産みつけ、野犬が半分の屍体を喰い終わったとき、ようやく少女は息を吹き返した。血の熱さも精液の冷たさももはやない。しかし、いま自分のなかに、人とは違う何かが宿っているのだと気がついた。兵らの残虐の犠牲に踏み潰された少女は、もはや本当に死んでしまっていた。代わりに抱いているのは、己が諏訪そのものの化身であるという新たな確信である。

少女は“諏訪さま”であり、“諏訪さま”は少女であった。
幾千幾万ものミシャグジに言祝ぎを受ける彼女の、その髪の毛は、秋になれば実るであろう稲穂と同じ、黄金の色をしていた。

「この身もまた、いつかは毒を食まねばならぬのか?」


――――――


 東の佐久勢とのいくさは、勝利に終わった。
 しかし勝利とはいっても、上に『辛くも』と加わる類のものである。
 かろうじて敵勢を押し返しはしたものの、味方の被った損害も大きかったのである。

 両諏訪の首長(おびと)たちが各々に拠出した兵力は、総勢で七百ほど。
 五百で攻め込んできた佐久勢より上回っていたとは申せ、勝ちを得る頃には百以上が死んでいた。重い傷を負った者はもっと多い。顧みれば佐久の豪族連中が水利とか国境の定め方などで、諏訪に難癖をつけてきたのがそもそもいくさの原因である。諏訪の諸豪族は利害の一致によって連合軍を結成し、戦いはしたが、各地の豪族方を寄せ集めただけの軍勢では烏合の衆とそう変わらぬものがある。多大な犠牲を払いながらも勝てたのは、きっと時の運が味方したからに過ぎない。

 死んだ者たちはやむを得ない。
 しかし、生き残った者たちとて無事では済まなかったのだ。

 否、むしろ生者の受ける苦しみの方が果てないだろう。一家の働き手である夫や息子を喪った者、手足がなくなって以前と同じようには動けなくなった者。頬を切り裂かれてものが喋れなくなった者、眼球を射られて何も見えなくなった者。焼かれた村々の数もひとつやふたつではきかない。眼をつぶっても耳にうめき声が聞こえ、耳を覆えば鼻を腐臭が襲ってくる。勝者であるはずの諏訪がいくさで受けた塗炭の苦しみとは、そういう惨憺たるものに他ならなかった。

 少なくとも佐久は此度の負けいくさに懲り、向こう五年は諏訪を攻めるようなことはしないだろうが……それでも、諏訪の側の被った損害が完全に恢復するには、十年あっても足りはすまい。それが、豪族たちの合議における一致した見解であった。

「そもそも両諏訪自体が千々に乱れはせぬまでも、その時々の情勢によって“付いたり離れたり”をくり返しておる。これを一統と成すことせねば、佐久はもちろん他の郡(こおり)とのいくさにも勝てぬと思うが」

 うん、うん……とばかりに、豪族たちはトムァクの言にうなずいた。
 下諏訪にある神殿でのことである。両諏訪から集まった各地の主だった首長は、この神殿のなかの一部である、広い拝殿で合議をすると決まっていた。夜のこととて幾つか明かりが灯されている。灯明から揺れる光は、ごくわずかな震えばかりを皆の影に与えていた。

「トムァクどの」

 腕組みをした首長のひとりが、フと口を開いた。

 下諏訪勢のなかでもいっとうに力あるトムァクは、今回の合議を召集した首班である。じろと彼方を見遣り、「いかがなされた」と訊ね返す。眼光は、とても二十三、四の歳しか経ていないとは思えぬほどに鋭かった。十九のときに父の死により家督を継いで、自らの領地を治めている彼なのだ。こうした場での弱腰は、相手に付け入られる原因になるのだと、よく解っている。

 一方、トムァクに睨まれことが気に入らなかったのか、四十ばかりのその豪族はちょっと口ごもりつつも、ぽつぽつと意見を述べ始める。

「いや、なに。両諏訪を統一せんとする腹は理解できる。わしも大いに賛成じゃ。皆がひとつに力を合わせねば、この肥沃(ひよく)の地を狙う敵どもに勝てはすまい。しかし、問題は“いかにして”諏訪を一統の国とするかではないか? 今までわれら豪族、互いに誰かひとりを特段の王として戴くことはなかった。誰がその座についても、必ず悶着が起ころうからな。しかし諏訪をひとつの国とするうえは、その上に立つ者が必ず要る。その座にふさわしき者、われらが担ぎあげるべきものが、未だないのではないか?」

 おお、と、半分ほどの首長らがうなった。
 確かに、この豪族の言うことにも理はあろう。

 両諏訪を統一するということは、ひとつの『権力』のもとに諏訪の人々をまとめ上げるということだ。そしてその権力を保つものとは、悠久にして不朽の『権威』である。人々が従い、その支配を受け容れるに足るだけの『権威』が政になければ、『権力』の基盤はおぼつかない。つまり、両諏訪を統一しようと口に出すのは簡単ながら、そのために大勢で持ち上げるべき“神輿”が未だなかった。神輿がないということは、トムァクの主張する諏訪統一そのものが正当性を得られないということを意味するものである。

 むろん、トムァク自身もそのことが解っていないはずはない。
 青年は無言でうなずくと、「そう、まさにそこよ」と呟いた。

「此度の佐久勢とのいくさは、各々の首長方が互いに危機の色を同じうしていたからこそ勝てたようなもの。つまり、皆が等しく心に信ずるもの掲げれば、それこそがわれら諏訪人の志、担ぐべき者となり申す」
「それも解る。だが、それをどうやって見つけ出すのかを議するべきではないか?」

 歳はトムァクとそう変わらぬながら、若禿げですっかり髪の薄くなっているコログドが訊いてきた。あまり髪が少ないせいで、かろうじて結った髻(もとどり)もぺたりと変に潰れている。卑近のいくさよりこの方、諏訪の行く末を議すること度々であるせいか、その疲れで余計に髪が抜けているのではないかというあわれさだ。

 やはり諏訪豪族たちにとって喫緊の課題とは、諏訪統一のための旗頭を見つけ出すことなのである。豪族たちが各々でばらばらの政をやっていては、外敵に勝てぬどころか諏訪国内でさえ太平は遠のく。それを解決するために皆が頭をひねっている。しかしこの議論を始めた張本人であるトムァクばかりは、ひとつも悩むところがないようであった。否、むしろ。初めから策を引っ提げて合議に臨んでいるということか。

「なあに。容易きことではないか。“諏訪さま”を王と据えるのよ!」

 ぱン、と、トムァクは膝を打ち叩き、座の首長衆を見回した。
 皆からそれぞれ溜め息が漏れる。天地自然の神霊であるミシャグジの蛇神たち、その蛇神と人間とのあいだに“口利き”をしてくれるのが、まさにトムァクの示した“諏訪さま”なる神である。そもそもこの晩の合議が行われている神殿そのものが、“諏訪さま”を祀り、その託宣を得るために存在している。政は、過たず神明に属する行いであった。

 そしてトムァクが言い出したのは、この神明――神そのものを一国の長に据えるということ。“諏訪さま”を諏訪統一の旗頭として掲げるということだ。確かに、これ以上に強力な『権威』など世の中のどこにも存りはしない。神は、人より上位のものだからだ。

「考えてもみよ? 今までわれらは田植えをいつ始めるとか日照りのときに雨を乞うとか、そういうことのために“諏訪さま”の託宣を欲してきた。しかし、かの神を王にさえ据えておけば、その勅を得るかたちでわれらの手に政が委ねられる。勅とはすなわち神慮にして叡慮じゃ。ならば、他ならぬ“諏訪さま”が諏訪統一をお望みであるという勅を賜わればこそ、諏訪全土をひとつにすることができるはず。これで諏訪は、御神のもとすべての者が心をひとつにできる。いずれの地にも負けぬ強い国ができる」

 若さゆえの血気が先に立つ部分があったのか、トムァクはいつの間にか、鼻息荒く自らの考えを開陳していた。

「諏訪全土に、“諏訪さま”の依代となるべき磐座(いわくら)や神籬(ひもろぎ)を置こうと思う。各地に“諏訪さま”のおわす場こそあれば、何より、両諏訪は同じ神を信ずる同胞(はらから)であるというのを示す証となろう」

 一方で豪族たちからの反応は――同意が半分、反対がもう半分といったところであった。
 概して若手といえる領主たちほどトムァクの意見に好意的であり、古株の者たちほど渋い顔をしているようだ。その古株の者のうち、ひとりが言った。

「待たれよ、トムァク」
「何でござるか」
「良き策とは思えど、少し無理があるような気もするがのう」

 膝を進め、トムァクはその豪族へ向き直る。
 髪にだいぶ白いものの混じる男だった。上諏訪の外れ、岡谷近くに割拠する者のひとりだ。このあいだの佐久勢とのいくさにも自ら五十余名を率いて参じはしたが、総崩れとなって真っ先に退却せざるを得なくなったという者でもある。

「何か問題がお有りか?」
「そこまで大きなものではないがな……わしは、岡谷の商人オンゾと関わりを持つことから、“諏訪さま”の膝下には先まで加わっておらなかった」
「心得ておりまするぞ。上諏訪衆のうち特に伊那との境近くに居られる方々は、“諏訪さま”への信仰に合流して未だ日が浅い」

 ごくりと、トムァクは唾を呑んだ。

 諏訪に“諏訪さま”が居るように、他の土地にもまたそれぞれ土着の神が居る。
 もともと下諏訪の一部を根城としていた“諏訪さま”への信仰は、次第に上諏訪へと伝播していったとはいえ、今なお諏訪各地では“諏訪さま”以外の旧い神に親しんでいる者も多い。まして岡谷近くに領地を持つ件(くだん)の豪族は、他の神を信仰する商人たちと繋がりを持つべく、あえて“諏訪さま”に降ることを遅らせてきた節がある。つまり“諏訪さま”を文字通り『土着神の頂点』へと押し上げるためには、他の土着神たちを残らず屈服させ、その信仰を放逐、ないしは従属させる必要があるということだ。それが成し遂げられたときにこそ、まことの諏訪統一は成るはずだ。

 先の佐久勢とのいくさでは、“諏訪さま”を信ずる者たちとの協調を快く思わず、出兵の要請に対して苦い顔をした領主も少なからず居たほどである。だからといって臆すれば、それだけ理想は遠のいていく。容易ならざる真実を抱えながら、トムァクは豪族に言った。

「しかし、此度の佐久勢とのいくさでようく解ったはず。まずは諏訪統一こそ急務。そのためには旧き土着の神々たちを脇に押し遣り、人々が余さず“諏訪さま”を祀ることこそ肝要」
「わし自身はそれでも良い。しかし、あまり急なることには民人の反発は必至じゃ。国境近くの土地では、他の郡の信仰と入り混じった場所も多くある。これをみな“諏訪さま”の威に服せしめるは、容易なる仕儀に非ず」
「しかしそれを成し遂げれば、民人もいくさなく、日々の耕作に励めるようになる。たびたび取り決めが破られる国境の別も、信仰の違いによって互いに定めることできましょう」

 深くうなずきつつも、老豪族は渋い顔を崩さなかった。
 心のなかではトムァクへの賛成と反対が半分ずつといったところか。しかし、賛成を示す者こそなかったとはいえ、他の者たちでトムァクの意見に批判を行おうとうする者は未だ現れないようであった。誰もみな豪族として領地を経営する以上は、その時々に御家や土地を護るべく最善の行動を取らなければならない。寄らば大樹の陰と言う俚諺(りげん)もある。“諏訪さま”という神への信仰に与しさえすれば、自らの立場が脅かされることもなくなる。神の権威にすがるということは、紛れもなく神に庇護を受けるということにもなるからである。少なくとも、同じ諏訪という身内から討たれる危険は限りなく低くなると言って良い。

「他に意見のある者はおるか。何かあったら申されよ」

 トムァクは背筋をしゃんと伸ばし、再び一同を見回した。
 誰もみな、思案の態である。おそらく、今は未だ結論を出しかねているのであろう。無理もあるまい。今までは同じ諏訪の民同士とはいえ、“諏訪さま”への信仰を名目としたごく緩やかな繋がりにより、たびたび離合集散を繰り返してきた諸氏族の連合体であるに過ぎない。一個の国家を構成する諸侯としての帰属の意識は、この段階では希薄であると言わざるを得なかった。

「何もなければ、一定の賛意ありとわしは考える。良いな?」

 程度の差こそあれ……豪族たちはうなずいた。
 異議はないようである。

 皆の応え(いらえ)を見届けると、トムァクはまた別の方向へと向き直る。
 この合議の場における、もっとも上座の方向であった。
 そこには真白い着物に袖を通し、肩を揺すっている男が居た。細面の顔を飾る鯰みたいな髭は、ひょろりとし過ぎていて、いささか不格好と映った。しかし灯明の明かりしかない暗がりの下では、その不格好さはむしろひとかどの奇妙な精悍さを構成するものとなっている。男が腕組みをすると、衣擦れの柔らかな音が皆の耳を打つ。彼の着物は、この合議に加わった他の誰のものより値打ちあるものであった。何せ、ひとりだけ絹で織られた服を着ていたのだから。他ならぬ“諏訪さま”の祀りに携わる立場ゆえ、人々から寄進された進物などからの実入りも多い。拝殿の灯明にて燃える油さえ、彼が供したものである。

 トムァクは男の方へ顔を向け、にわかに笑む。
 彼を無視しては、この話のいっさいはまとまらないからだ。
 それほどまでに重き立場に居る男である彼は、

「いかがか、ウヅロどの。“諏訪さま”の信仰を諏訪全土に広げ奉るは、われら豪族の総意なり。後はあなたが首を縦に振ってくれれば、それで良いのだ」

 トムァクが呼んだごとく、その名をウヅロといった。

 トムァクが諏訪豪族たちの首班であるすれば、このウヅロは諏訪信仰の顔役とでもいうべき男である。袖を通す白の着物は、まさしく“諏訪さま”に仕える神人(じにん)のもの。袍(ほう)にも似ているが、拵えはこちらの方が華やかだ。それをもって無言のうちに、神のもとにあるウヅロが自らの権勢を象徴しているごとく、トムァクには思われたことであろう。まずもって人々が“諏訪さま”にうかがいを立てるには、この男を通さねば話にならない。

「のう、トムァクどの……」

 じいろと、ウヅロはトムァクに眼差しをくれてやる。
 ひどくべったりとした眼差しである。未だ何も言ってはいないのに、非難の意思がありありと見て取れる。そのことに気づいて、青年は唇の端を噛んだ。構わず、ウヅロは続ける。

「先ほどから聞いておるが、ずいぶんと勝手な申されようではないか」
「勝手な申されよう……? わしは、一応ながら皆からの同意を得てござる。ウヅロどのとてずうっと黙っておられるゆえ、わが策に同意してくれているものと思うておったが」

 内心にいら立ちめいたものを感じながら、それでも努めて穏便にトムァクは話す。
 ウヅロの機嫌を損ねては、“諏訪さま”の信仰を押し広げることなど夢のまた夢だ。

 しかし当のウヅロはそのようなことなどまるで気にする様子もなく、「ふン」と鼻で笑いさえした。さすがに、他の豪族たちにもどよめきが走る。あからさまな嘲弄であったのだから。ウヅロは言う。

「“諏訪さま”における祀りの御神体である“鉄の輪”は、あくまでこの下諏訪の神殿にこそおわす。あちこちに依代を設けたところで、其はまことの“諏訪さま”に非ず。偽りの“諏訪さま”を崇めたところで、何が諏訪の統一か」
「何を、申される……!?」
「何を、じゃと? トムァクどの、おぬしの策は、いたずらに“諏訪さま”の御威光を貶めんとしているようにしか思わぬと言うておるのじゃ! 各地に依代を置けば、当然、それを祀る者や、神の声を聞き届ける依巫どもも起ころう。そのような者たちが、この神殿にて行われし託宣の方を蔑ろにはせぬという保証がいったいどこにある? 悪くすれば、“諏訪さま”への信仰そのものが諏訪各地で勝手次第に分立し、裂け乱れる怖れすらもな。斯様な策になど、累代に渡りて“諏訪さま”を祀っていた家の者であるこのウヅロが、許しを与えると思うてかッ!」

 ばん、と、ウヅロは拳で床を打ち叩いた。
 極めて強い怒りの表明である。そのときの振動で、豪族たち皆の膝がびくりと震えたほどだった。とかく凄まじい剣幕と言うほかはない彼の強弁に、トムァクもまたしばし言葉を喪ってしまう。けれど、ここで引き下がってはすべてが無駄に終わるのだ。ばくばくとした胸の鼓動に、鎮まれと内心では命じながら、再び彼はウヅロへ向かっていく。

「先ほどまでの合議を聞いていて、出てきた答えがそのようなものであるとは呆れてしまう。いまこの両諏訪を取り巻く情勢がいかなるものであるのか、ウヅロどのはまことにお解りか。東には佐久より攻められ、南に目を転ずれば辰野を入り口として南科野勢が上諏訪への侵入を狙うておる。東と南への対応に忙殺されているあいだ、北の小県もまた動かぬと言う保証はない。斯様なときに、諏訪が身内同士で割れていて何になろうか? 御神のもと国をひとつにするは、“諏訪さま”を戴く大儀じゃ。“諏訪さま”の御名を掲げていくさをするもまた、ひとつの大儀。大儀なくば、物事は為されぬ。少なくとも同じ“諏訪さま”を信ずる者同士であれば、各々の土地で依代や依巫を違えるとても、立派に一個の国となり申そう。御神を奉る限り、われらは等しく“諏訪さま”の子であるからよ」

 長々と振るわれたトムァクの熱弁を、しかしウヅロはほとんど聞き流していたようである。あちこちへと適当に眼を遣って、「ほう」とか「ふうん」とかいい加減な相槌ばかり打っている。そのことに気づいて、トムァクの声ぶりも少しずつ消沈していった。どうやら今ここで、ウヅロに理を説いたところでほとんど意味はないらしい。

 トムァクからの反駁が消え去ると、すかさずウヅロは彼を睨みつけた。
 もう青年は驚きもしない。ただ諦めが半分ばかり、心にどす黒い染みをつけていた。

「妄言はもう終わりにござるか?」
「妄言などと……わしはただ、」
「ああ、よいわ! 御神について慮ることできぬ無能な若僧と、これ以上の話こそ無用! とにかく“諏訪さま”の祀りが各地に立つなどあってはならぬ。そのようなことすれば、“諏訪さま”の御名にさえ傷がつくわ。諏訪の統一? ばかなことを。そのようなことせずとも、いくさのたびに“諏訪さま”は加護を与えてくれ申そう。父の遺領をそっくり継いだのみで豪族の首班となったような男に、いったい何ができるというのだ」

 無能な若僧。
 父の遺領を継いだのみの男。
 ふたつの侮辱に、トムァクの怒りは今にも爆発するところであった。
 やはり若さのゆえ激昂か、ウヅロの憎たらしい面構えに一撃をくれてやらんと、腰に提げたつるぎの柄をつかみかける。しかし、そのとき、彼の手首をひしと握って制止する者があった。直後にすさまじい力で腕ごとひねり上げられ、トムァクは痛みのあまり動けなくなってしまう。痛みに歪んだ視界で、それを行った者を見た。自分の隣に居た、サダギという豪族であった。佐久勢との戦いでは一番の戦功を上げた男だ。勇猛果敢で諏訪一の強力(ごうりき)を誇る彼が、トムァクの暴走を寸前で止めたのである。

「あい済みませぬな、ウヅロどの」

 よく日焼けした顔に媚びた笑みを見せ、サダギはウヅロに謝罪する。
 怒りと情けなさのせいで反抗もできぬ、トムァクの代わりにであった。

「トムァクどのは未だお若い。此度の合議において皆の同意を得ただけで、それで早くも舞い上がり、諏訪統一などといった大それたことを言い出してしまわれたのであろう。本来であれば、このようなことは皆で幾度も話し合って決めねばならぬことでるというのに……」

 ウヅロは、呑気に髭を撫でながら聞いている。

「おれがようく言うて聞かせる。此度はトムァクどのを、このサダギに免じて許してやってはくださらぬか?」

 と言うと、サダギはトムァクを抑え込んでいた手を離した。

 突然のことで、トムァクは床にべったりと倒れ伏す。潰れた蛙みたいに無様な有り様。今までしかめっ面をしていた豪族たちが、老若の別なく噴きだした。むろん、ウヅロも例外ではない。諏訪随一の実力者である自分に食ってかかってきた生意気な若造が、恥をさらして這いつくばっているのだ。彼の自尊心がそれで満足しないわけがない。

 にやりといやらしく笑い、ウヅロは言った。

「ふうん……。まあ、わしも人の情けを介さぬような物の怪にはあらず。先ほど無能な若造と言うたことは、サダギどのに免じて取り消そう。だがな、トムァクどの。いたずらに身の丈に合わぬことすれば、むしろそれは己のわざわいとなろうぞ。幸い、おぬしは未だ若い。政における処世のすべ、よくよく心得られよ?」

 遠回しに、やはり『この世間知らずめ』とトムァクをばかにすると、ウヅロは部屋を出て行った。神殿の顔役である彼が居なくなれば、話し合いはお開きということにもなる。残った豪族たちは顔を見合わせて、居残って話し合いを続けるかどうか考えていたようだが――やがてはひとり、またひとりと、合議が行われていた部屋から離れていくのだった。出ていくのが遅ければ遅いほどに、それはトムァクに心を寄せている者の順番でもあっただろうか。

「今は耐えなされ。こういう大仕事は、やろうと言うても直ぐにはできぬもの。ひとつの策を性急に推し進めるは諏訪統一どころか、むしろ国や政が割れるもととなり申す。まずは事前の“備え”こそ肝要じゃ。でなければ、“大きな敵”は倒せませぬぞ!」

 そう助言を残すと、トムァクとコログドを除いては最後まで残っていたサダギもまた、ついに部屋を出て行った。ぽつねんと、ふたりの男が残される。灯明の基である油も、そろそろ尽きてきたころだ。明かりが幾らか小さくなっていた。

 慰める――でもなく、あくまでも親しい友人に接する態で、コログドはトムァクに話しかけた。トムァクの方は暗闇ばかりに眼を向けて、ずうっと胡坐をかいたままでいる。

「のう、われらも帰ろうぞ」
「ああ」
「いささか、腹が減った。酒も飲みたい。おぬしもつき合え」
「ああ」

 灯明の火を消すことなく、ふたりは“諏訪さま”の神殿を後にした。
 部屋の明かりを消さなかったのは、ウヅロへのささやかな仕返しだ。灯明の油は、なかなか値の張る代物である。明かりを使い終わったら直ぐに火を消さなければ、そのぶん、無駄に燃えることになる。

 それぞれの侍者が掲げる松明の明かりに導かれ、ふたりの青年豪族は馬上に身を移した。
 夏の夜道にぬるく留まる闇の向こう、西のかなたに赤々とした日の残りが燃えている。あれがぜんぶ地の果てに歿したときには、自分たちはウヅロ憎しの愚痴をこぼしながら酒を飲んでいることだろうと、トムァクは思った。

「サダギどのは……」
「うん?」
「先ごろ、御子がお生まれになったとか」
「ああ。確かトライコという名であったそうな」
「護るものがあるという人は、強いな。“いくさ”のやり方を心得ておる」
「そうじゃなあ」

 そんな取りとめのない会話の果てに、フとコログドが口にした。

「此度は残念であったが……まあ気を落とすには未だ早かろう。ウヅロどのは、若くしてわれら豪族の首班となったおぬしを、自らのご権勢を脅かす者として怖れておいでに違いない。各地に依代や依巫が立てば、わざわざ下諏訪を訪れずとも“諏訪さま”に祈ることはできよう。そうなると、ウヅロどのが人々から得るはずだった進物や財物の類は、それぞれの土地の依代や依巫の方にこそ集まる。ウヅロどのの“あがり”は減るのじゃ。だから、あれほど強く反対しておられたのだと思う」
「むろん、解っておる。己に何の利も害もないまま、ああまで反対するはずはなかろうとな。しかし、いま為すべきことは、各々の利害ではなく諏訪そのものの利害を考えること。そのために、わしは“諏訪さま”の御名をお借りせんと思うておる……」
「サダギどののご助言通り、何か手を打たねば。人は大儀で足場を固めねば、利害の選り分けを行うことすらおぼつかぬのだから」
「そうだな……」

 とは答えども、トムァクには未だ何も思い浮かばなかった。
 策を弄して狡猾に老獪に立ち回るには、二十四歳の彼は、未だあまりに若すぎたのかもしれなかった。


――――――


「……諏訪子さま、起きてくださいませ。諏訪子さま。…………諏訪子さま!」

 直ぐ耳元で呼びかける声に、諏訪子はびくりと身を震わした。
 目蓋を半分ばかり開いたまま、ぼんやりと辺りを見渡す。幾つかの竹簡と、少年の体格と体力に合わせて弦を張られた小さな弓が、まず真っ先に眼についた。そしてかたわらで不思議そうにこちらの顔を覗き込んでいるのは、自分の夫であるモレヤなのであった。

 ――ああ、そうだ。今わたしは、彼の部屋に居たのだ。

 大あくびをひとつすると、諏訪子は指先で目尻をこする。
 目脂はない。代わりに、あくびに伴って現れたわずかな涙の珠が、指先で潰されかたちを失い流れ落ちていくばかりだ。とすると、それほど長いあいだ眠っていたわけでもないらしい。

「おお、済まぬモレヤ。諏訪子はどれほど居眠りをしておった」
「きっと、粟(あわ)の粥が鍋で煮られるほどに」
「わが眠りは邯鄲(かんたん)の夢のごとし、か……」

 よう学んでおるではないかと、諏訪子は素直に夫を褒めた。
 微笑し、モレヤははにかむ素振りを見せる。この数日で彼の体調もかなり良くなっている。このぶんでは快癒も間近いだろうという薬師の見立てに従ってか、モレヤは病が癒える前から諏訪子に対して「勉強につき合って欲しい」とせがんでいたのである。治りかけのときに無茶をせぬが肝要と諌めはしたが、頑として夫が言うことを聞かないのでついには諏訪子の方が折れてしまった。ために、いま彼の部屋で漢籍の素読をしていたところなのである。けれど。

「このところ、お疲れのご様子ですね。やはり無理にお誘いせぬ方が良かったでしょうか」
「構わぬ。わたしの方でも、たまの息抜きと思えば苦ではないよ」

 モレヤの言う通り疲れが溜まっていたせいなのか、諏訪子は漢籍の竹簡を手にしたままつい居眠りをしてしまったのであった。あぐらをかき、頬杖を突いて夫の声を聞いていたのがいけなかったのかもしれない。そう思って、今度はしゃんと背を伸ばす諏訪子。

「では、続きをしようか? どこまで読んでいたかな」

 少し無理をするように笑みをつくると、改めてモレヤに促す。
 しかし、当のモレヤは両手で竹簡をぎゅうと握り締めたまま、声を出そうとはしなかった。怪訝な――というにしてはかなしそうな感じが過ぎる眼で、竹簡さえも見ることなく、じいと妻である諏訪子にばかり視線を注いでいたのである。

「どうした、そう見つめられてはさすがに恥ずかしい。もしや目の下に隈でもあるか?」
「いいえ。けれどどうしてか、諏訪子さまがかなしそうなお顔をされていたようですから」

 言われて、諏訪子は吐胸を突かれる思いがした。

 そうしてついさっきまで、ほんの短い夢のなかで見ていたことが何だったかを思い出してしまう。それは、洩矢諏訪子という神がその身に体験してきたことの追想だった。そして、その後に起こるはずの出来事についての兆し。ある年の夏に起こったいくさ。新進の豪族たちが推し進めようとする政の改革。守旧の者たちとの対立。そして、その後には。

 片手に竹簡を握り締め、諏訪子はぶると肩を震わせた。
 寒いからではない。さきほどから火鉢のなかで、ほの赤い光が呑気に熱を吐いている。
 眉根にツいと皺を寄せ、笑みとも嘆きとも解らない顔で、諏訪子は夫に答えた。

「……ん。昔のことをな、夢に見た。この少女の姿に化身するようになってから、ついぞ夢など見たことはなかったが」
「昔のこと? 幾百年、幾千年も昔のことにございまするか? この諏訪ができたばかりのころのことにございまするか?」
「そこまで古いものでもなく……せいぜい、三十余年ほど前のことだ。尋常の人にとっては長き年月であろうが、まがりなりにも神たる身には、」

 邯鄲の夢よ。……。
 しかし、言いかけて、口ごもってしまう諏訪子。

 邯鄲の夢か。栄華も衰退も邯鄲の夢か。そう思うと自分ただひとりが――それこそ神でさえ取り残してしまうほど――長大な時のなかに放り出されたような錯覚に陥ってしまうのだ。未だ諏訪が統一されていなかったころ。未だ“諏訪さま”がはっきりとした諏訪の王ではなく、あくまで人々の素朴な信仰に応えるための存在であったころ。未だ諏訪の豪族たちが、まっさらな意志と理想で政に邁進していたころの記憶。

 それらは仮初めとはいえ栄華へと、駆け上がる道の始まりだったのかもしれない。
 だが青い果実が熟れ、やがては腐って落ちるように、『凋落』はいつしか始まっていた。
 趙の盧生(ろせい)が栄華と没落を短い時のなかで垣間見たように、神たる自分は諏訪という国の歴史の狭間を夢のなかで垣間見たのだ。それは、まだ何もかもが腐り始めるより古い。ならば今のこの時代も、やがて幾つもある腐敗のさなかとして夢に見るときが来るのだろうか。

「諏訪子さま?」
「あ、ああ。たまに夢など見ると、妙に物思いに沈んでしまう」
「かなしき夢にございましたか」
「かも知れぬ、な。かなしき夢であったかも知れぬ」

 正義のもと新しき秩序を打ち立てた政も、いずれはどこかでそのやり方が狂い、やがては箍(たが)が外れ、悪へと堕してしまう。そしてその悪を断ずるとして、別の誰かの手によって秩序はすげ替えられてしまうのだ。そんなことは、――そう、いま諏訪子やモレヤが手にする漢文の史書にさえよく詰まっている。国家と政の興亡、それを為す腐敗と革新の連続。人が人である限り、くり返されねばならない世の摂理であり、宿業なのだ。神が人の想いから生まれ出たものである以上、諏訪子もまたその理から逃れるすべとてあるはずがない。そしておそらくは、神奈子でさえも。彼女や自分がつくっていくる、この科野の国でさえも。

 かたちにならない厭な予感を振り払うように、諏訪子はより夫の近くへと膝を進めた。
 火鉢から少し離れる格好となったが、人がふたり寄ればその分だけ余計に温かい。病の快癒も間近い少年の体温は、衣越しに伝わる限り、諏訪子より未だ少し高いとも思われた。

「うん、もう眠気は醒めた! さ、今度こそ続きを読むぞ。殷本紀の途中からであったな」
「はい。ちょうど湯王(とうおう)が諸侯や民人へ、夏(か)の桀王(けつおう)誅伐の誓いを述べるくだりです」

 言ってモレヤは竹簡に眼を落とし、一字一句までていねいに読み上げ始めたのである。

「“格れ(きたれ)なんじ衆庶、来たれ、なんじ悉くわが言を聴け。われ小子敢て亂(らん)を擧ぐるを行うに匪ず。有夏、罪多し。われ、維れなんじの衆言を聞く。夏氏罪あり。われ上帝を畏る、敢て正さずんばあらず。今、夏、罪多くして、天命之を極す”。……」


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