Coolier - 新生・東方創想話

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2013/08/08 03:16:53
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 妾《わたくし》の師である先生こと宇佐見蓮子を亡くし、彼女の遺体が居ない墓参りを習慣とする様になってから一年ほど過ぎた時のことです。
 一年という区切りを目処に妾が済し崩しに受継いだ寺子屋の看板文字を変えようと決意したある日のこと。その日は憂鬱になるほど爽やかな風が朝から流れていました。極めて窮屈な姿勢で歩くのは宇佐見先生の影を汚したくなかったからでありまして、ソレを継いだ妾も品行方正でなくてはならないという思いからでした。しまりのない顔などは見ていて気持ちの良い物ではありませんし、立ち振る舞いも淑女でなくてはいけません。大口を開けて笑うなともってのほかで、泣くべき時に泣き、笑うべき時に笑うという努めて人足るものの見本であろうと平生を過ごしたのです。それは戯曲舞台に立つようでもありましたし、本当の自分を見せるのが怖いという取るに足らない虚栄の為だったと自覚していましたが、それでも続けるのは、やはり宇佐見先生という偉大な女性を汚したくなかったからという思いが一層強いからだと言い聞かせ続けています。つきましては上白沢慧音という人物を形成するのは自我や自己やではなく、他人の評価という曖昧な定規のみが標なのですから。それが半人半獣である妾の生きる術でした。即ち、獣を殺し人として生きていかなければ到底宇佐見先生の跡目は継げないのです。
 春風薫る砂利道を歩き、中町を通り過ぎ始めに見える十字路を左に曲がったところの側に目的の場所はありました。その文字屋サンの戸を叩きましたが返答がないため引き戸をガララァと音を立て開けました。途端に横溢した墨と檜の香りがツンと鼻につきましたが、黴臭いそれは何故か心地よいのです。
「あのォすみません」
 恐る恐る暗がりに呼びかけましたが返答がありませんでしたので、もう一度「すみません」と大きな声を出しました。すると暗闇の縁からするりと頭に手ぬぐいを撒いた男性――おそらく店主でしょうか――が無精ひげのたくわえた口元を歪ませニヤついた笑顔を妾に向けました。
「店主様でしょうか」
「ヘェ、そうですが。どちら様で」
「上白沢慧音と申します。スミマセンが、看板に文字を入れていただきたいのです」
「なんて入れたいの。縮尺は?」
「五尺六寸の一尺四寸です。なるべく長持ちするものでお願いいたします」
「承りましたッと。それでなんて書くの?」
「上白沢塾とお願いします」
「先生さんですか、若いのにお偉いですね。幾つですか? 私の息子も是非ともよろしくお願いしますよ」
「今月で十五歳になります、駆け出しですが一生懸命やらせていただきます」
 なんて取るに足らない社交辞令も交えながら手続きをすませました。彼は見積もりを出す間、少し待っていてくれと申しておりましたので小椅子に腰掛けて辺りを見渡したり手遊びをしていたりとまるで落ち着きのない子供のようだと自嘲したりして過ごしました。やがて店主は小さな紙切れに大きな金額を書き入れ手渡してくれましたので丁寧に、上白沢慧音、と一筆入れ――こういうところは吝嗇家であった宇佐見先生と違うところなのでしょうかと誰かに尋ねてみたくもなりました――慇懃にお礼をし、立ち去ろうとしたときのことです。
「そういえば、あの人は先生さんのご家族か何かでしょうかね」
「あの人とは……どなたの事を差すのか存じませんが、妾は天涯孤独の身ですから違いますよ」
「でも髪色が同じでしたけンね。雪のように真っ新な色でおっかない目をしてたなァ」
 流行なんでしょうかね、などと下卑た笑い声を上げながら店主は妾の髪色を揶揄しながらまいどなどと宣いますので、心底鬱陶しくなったという風に装い、彼女を探すために店を飛び出しました。辺りを見渡しても当然のように、彼女の影形は見当たりません。そして彼の言葉を口の中でモゴモゴと反芻しました。あの少女なのだとしたら、と焦燥が頭の中に広がります。嘗てほんの一時でしたが、女性同士の逢瀬めいた事柄をいくつか重ねた藤原と名乗る少女の事です。一件以来彼女は忽然と姿を消しましたので、妾はあらゆる手段を使って彼女を探しました。一年ほど前までは妾の評価などはそれはもう一様に悪いことしかありませんでしたし、それこそ忌み子や悪魔の子であると石を投げられるなんてものでした。だけれどもそれは内面意識の改革によって如何様にも出来ると妾は実感していました、結果妾は一応というのがふさわしいでしょうけれども、この空間である町で生きていけるようになりましたが、一方で同じような境遇の彼女は一度たりとも見たことがありません。結局彼女の噂はどこにありません。だから、先の店主の言葉はずきりと妾の胸にのしかかりました。彼女の残骸は未だ妾の夢に出てくることもあり、まるで存在もしない亡霊を追いかけているかのようでもありました。何故妾がこれほどまでに彼女に出会いたいのか、分かりませんでした。気持ちの中でこんなドロドロな意味不明な感情を覚えたのは初めてで、とにかくもう一度会いたいという一念のみでした。別段急用があるわけでもなく、それこそ特別な事情などあるわけもありませんでしたが、兎にも角にも妾は彼女に強く逢いたいと願うのです。その正体は何なのかと何度も自分に問いかけるのですが、尚一層迷宮に閉じ込められるように重くのしかかる意味深な命題に苛まれ続け、会えば氷解するだろうという漠然とした形で決着を付けました。
 だからこそ、なおのこと彼女に逢わなくてはならないのです。しかし、気が付けば日は既に西へ傾き黒鴉が雄弁に宵闇を手招きしていたため、足をハタリと止めました。ちょうどそこへ、誰でしたでしょうか……たしか金物屋の夫人だと見当を付けましたが、しかし彼女に他愛のない雑談の話し相手として呼び止められましたため断ると心象が悪くなると思い足を止めました。

「ヘェ、博麗様が子供を。実におめでたいことですとも、残念ながらおそらくは妾とはあまり接触がないでしょうけれども、ええ勿論です。え、霧雨夫人も子供を身篭もったのですか。フフフ、八雲様もお喜びのご様子なのですか。なんともまぁ、妾は彼女に貶まれこそすれども、祝福は受けておりませんので羨ましい限りです。それはええもう本当に。ほほえましいことですね、めでたいことです。しばしばあることではございませんから。ええ、祝いごとの際には必ず足を運ばせていただきます。ところで、スミマセンが今日は用事が立て込んでおりまして。すみませんが失礼させていただきます。はい、それは……はい、その折りにはよろしくお願いします」
 心にもないことを矢継ぎ早に口ずさみながら、内心一振りの剣が一本グサリと刺さった様に動きたくなくなりました。何か例えようもない大きな――陳腐な例えですが歯車とでも申しましょうか――モノが蠢いているような錯覚に囚われました。気の迷い自意識過剰だと言われればそれまで、王子様を待つ姫君の様な他愛ない妄想だと言い捨てることもできましょう。ですが確かに妾は心の臓を禿鷹のように鋭い爪を持つ何モノかに握られているような怯懦が全身を駆け巡るような悪寒です。何かとてつもない程醜悪な害悪を、もやもやとした毒に充ち満ちた真綿で締め上げられるような感触がじっとりと右手の掌に残り続けています。
「慧音ちゃんも早くいい人が見つかるといいわねェ」
 そこでやっと動くようになった唇を戦慄かし、
「フフフ。まだ気が早いですよ。それに今は教鞭を握るだけで手が震えるほどですから」
 妾は人並みの幸せを求めてはいけないと改めて戒めましたが、心に鎖を張り巡らせるほど、人との関わりあいに切に焦がれるのです。即ち、妾は一度たりとも、人並みの関係を気付いたことがないと自覚するのが、如何に自分が矮小であるかを思い知らされてしまうのです。いまはもう騒がれなくなりましたが一年ほど前の惨劇は妾の仕業なのです。あのときの出来事は妾は思い出したくありませんが、そのとき確かに、妾自身の手で多くの人の命を殺しました。それは決して赦されることではないのでしょう。だから妾は一生この罪を背負って生きていかなくてはならないのです。ですが、だから、本当の愛を求めてしまうのです。苦しくて辛い現状から逃げ出したいと想うのはいけないことです。
 気がつけば、自宅兼仕事場である寺子屋まで到着していました。とうの昔に真宵闇がより一層、顔を覗かせてハトの優しい歌声が真水の様に耳朶を振るわせます。ホゥと息を吐くと途端に寒気がこみ上げて来てしまいました。それはきっと孤独から来るある種不安の種のようなものだろうと結論づけ、死ねばいいのに、と強く思いました。軽い夕食《ゆうげ》を取り、カラスの行水を済ませ、褥に仰向けに倒れ込むとあのイカれた魔女《マリサ》に押し倒された事が脳裏を過ぎります……というのも、今ならば彼女の気持ちの一寸でも分かるというのも烏滸がましいのでしょうが、それでも理解出来る部分が見つかりました。彼女はきっと見るモノを変えたかったのでしょう。あくまで人の身の上(きっと彼女は怒ると思いますが)でありながら、神の上に挑もうとしたあの女性は誰よりも世界を憎んでいたから、誰よりも世界を愛していたのです。今になって思えば、彼女は純粋が故に汚濁に感化されてしまったのでしょう……とここまで考え、ふと荒唐無稽な妄想に囚われてしまったのです。
 それは先の会話であり、魔女の名字に到りました。あのときに感じた悪寒というのは、とどのつまり彼女が、遙か未来の存在だと指し示すものではないのでしょうか。「莫迦な事あるものか」と吐き捨てたくなりましたが、グッと飲み込みます。きっとこの疑問も彼女に、藤原多比能に逢えることが出来れば、答えを得られるはずなのです。奥底が焦げ付いていきます。
「それで、キミは何がしたいの」
 迷い道に差し込む一条の光のように、玲瓏な声色が響きます。確かに妾の部屋には妾しかいないはずなのに。
「何って、それは、」
 目を開けた妾は起きあがり、枕元で佇んで居るであろう彼女に向き直ります。一年ほど前からちらほら見え、聞こえ、触れる妾にのみ関わる亡霊。それが彼女です。しっとりと濡れた艶のある髪がストリと落ち紅葉色の双眼で妾を見下している彼女。その容は妾と酷似していて、薄気味悪い微笑を虹彩に張り付かせていました。
「アナタに言われなくても分かっています」
「ふゥン、だったら何故行動しないの」
「いまは時期じゃないから」
「そうやって言い訳作るの止めたらどうカシラ?」
「……いい加減成仏でもなんでもしたらどうですか」
「そうやってまた逃げちゃう、子供なところは相変わらず」
 辟易としてきて二度《にたび》布団へと潜り込み目を閉じました。
「もう気付いているでしょう。私はアナタが殺したと思い込んでいるもう一人の自分です。況んや個我の結晶」
 瞼を差すように、彼女の言葉の剣は色めきます。
「教師なんてアナタには役不足なのよ。アナタにはアナタに相応しい役があるワ」
「巫山戯ないでください。妾は妾で十分です。覬覦《きゆ》など身を滅ぼす事であると知っているから」
 霧雨魔理沙がそうであったように。両手で抱えきれないほどの願いを望もうと思った時点で、それはもう、人ではないのですから。
「いまはそういうことに、しといてあげる。やがて必要なくなるために必要なンでしょうね、ソレは」
 そして白々とした朝日が差し込みます。いつの間にか眠っていたのでしょうか。彼女と過ごした時間が夢だったのか現だったのか、わかりません。
 夕食よりももっと軽めの朝食を食べて、授業の準備をしてから襖を開きます。
「…………」
 振り返ってみても、虚ろな私室には誰もいませんでした。
 妾に教師が役不足などと、宇佐見先生への冒涜です。あンな奴が妾であるはずがありません。執務室で資料を探しながらも途中もずっと苛立ってしまって、手からいくつもの書類が落ちるのは必然とも思え、そこでようやく冷静になることが出来ました。
 驚いた事に宇佐見先生は授業カリキュラムや悉くの雑務の書類を残していなかったのです。つまり先生の頭の中では完結しているため媒体に残す必要が無かったというこ、と同時に妾への引き継ぎなんてものは一切いらないのかもと悲しい気持ちでいっぱいでした。それなのにと、わき上がる想いを押し殺してようやく目当ての書類を見つけ光溢れる教室へと向かいました。まだ先生には追いつけないかも知れませんが、それでも頑張ってみようと思います。


「はァ。でも妾《わたくし》はまだそういうことは考えたことがないので申し訳ありませんが断らせていただけないでしょうか」
 元々は華族だという男性から婚姻を申し込まれたため、頭を下げ断りました。失礼のないように元教え子である彼を門まで送り、
「フフフ。キミにはきっといい人が見つかりますよ」
 と気休めを言いましたが、彼はにこりともせずに立ち去りました。職員室に戻り、溜息を消すためと今夜の望月に備えるため湯飲みと口づけをしました。最近、と言っても二十歳になったことが原因なのか、特に求婚めいた事が多いように思えるのです。恋愛に特別な感情は持ち合わせていないつもりなのですが、身も知らぬ写真だけ見て決めるのは憚《はばか》られますし、仕事を辞め、望まぬ事に時間を費やされるのは嫌だったというのもあります。くわえて炊事洗濯は人並み以下で、もっともやれば出来ると思っていますが、とにかく、いまの私にはやらなくてはならないと決めたことが星の数ほどあるのですから。しかしそれは建前で、本音は至極単純なもので、人と四六時中一緒にいるというのがとても怖く、嫌いでした。気詰まりで、体がぎこちなく動き、それでいて常に仮面を被り続けなくてはならないのがたまらなく窮屈になると予見したのです。人の愛し方を知らない妾がどうして人と契りを結べましょうか。
 しかし、かといって現在の日常が満ち足りているかと言えばそうではないのです。いえ、安寧とは日々の中に産まれるものであると、知っているけれどもそれでも退屈というほかありませんでした。時の流れは意外に早く、単調たる楽譜通りに、音符を打ち鳴らす日々こそ、疎んではいけませんが、それでもなにか、切っ掛けが欲しいと思ってしまう妾が悪いのでしょうか。それともこの感性こそが真っ当なものなのでしょうか。ぐるぐると回る渦中の中心にあるのは、八雲紫への憎悪と、霧雨魔理沙への親愛めいた感情。しかしそんな感情は鏖殺《おうさつ》しなくてはこの世界では生きていけないのです。宇佐見先生を殺したのは八雲紫です。上に述べた邪念を顔に出せばたちまち妾は、八雲紫によって文字通りなかったことにされてしまうのですから。彼女こそ残酷な神様なのです。もちろんそれによって良いことは沢山あります。妖怪が蔓延るこの地を平定するには絶対的なモノが必要でしょう。だけど、その理は妾にとってはそれは何か歪なモノのように思えてならないのです。いき過ぎたカアスト制度とでもいいましょうか、トップに立つモノの胸先三寸で命のあり方が、生の歩みが決められてしまってもいいものなのでしょうかと……呪怨めいた思いは日増しに膨らみ続けますが、それを取り払う方法も、それ以上に覚悟もないまま妾は自分の中のもうひとりの妾を殺しながら生きています。
 窓の外から差す日が逢魔に変わりつつありました。成績をつける作業を一段落させた妾は、晩ご飯は適当に山菜でいいかなどと考えていたときの事です。しばしばと鞏膜《きょうまく》が乾いてきたため、窓の外を見ました。そして、そこに何かを見ました。
 粘着質な視線は紅の罫線。描く軌跡は銀嶺の純白。そしてソレは人。
「だれですか」
 ゆっくりと影に問いかけました。いいえ、分かっています。彼女です。
 藤原多比能、いまは妹紅などと名乗っているそうですが。不老不死の彼女、その幻影が尚も妾にこびりつき離れようとしないのです。代わりにといってはなんですが、最近妾にそっくりのあの亡霊は見えなくなりました。きっと思春期特有の想像だったのだろうと結論づけました。
「出ておいで」
 ありったけの勇気を振り絞り、呼びかけます。次の瞬間、こんどこそ妾は絶句しました。ガサリと――推測ですが、壁により掛かかり座っていたであろう彼女が――立ち上がり、
「なに」
 あの老婆のようにも童子のようにも聞こえる声を携えながら、睨み付けてくるのです。
 ようやく逢えたのか、それとも目を逸らすことを止めたからなのか、どちらなのでしょうか。不老不死という人ではなくしかし限りなく人に近い妾と近しい環境を両腕に抱え込んだ彼女と邂逅することが出来たのです。途端に背筋がぞくりと反り返るような悦びを覚えました。窓越しでは大切なモノを見間違えると思い、窓を開け彼女を呼びかけました。妾は見下ろし、妹紅は見上げるような姿勢になりました。
「イヤ、驚いただけですよ。こうして顔を見合わせるのは二年ぶりくらいですかね多比能」
「いまは妹紅だって言ってるじゃァない」
 笑いながら、そうでしたね、と返しながら思うのは、なんて彼女は輝いているのだろうという絶賛の言葉でした。
「なんで妾を見ているの。羨ましいからですか」
 斜陽か赤面か分からぬままの頬を備えた顔がこくりと頷きます。そして「前にも言ったよ。人じゃないのに、人と関われる慧音が羨ましいって」と吐き捨てるように告げられました。だから、
「ねェ。一緒に暮らさないかい」
 彼女と出会って気分が高鳴っていたためでしょうか、さらりとそんな提案が出来た自分が何よりも恐ろしい気がしました。すると妹紅は、
「そンな資格は私にはない」と言いました。
「その資格はどこにいけばもらえるの」
 妾は彼女に尋ねました。
「ここの外」
 その言葉を聞いたとき、嗚呼、これは運命なのだと直感しました。彼女もまた変革を求める人なのだと。決して彼女はそんなことを言わないでしょうが。彼女も妾と同じ思いを抱く人なのだと直感してしまったのです。こんな嬉しいことはありません。なにせ妾は自分こそが異常では無いかと思い続けていたのですから、同類を見つけて、喜ばないはずがありません。
「つれてって」
 躊躇いなく二階から飛び降り、彼女に求めました。
「いいけど、遠いわよ」
 藤原妹紅はそんなことを言いながら、はにかみながら妾の右手を引いて走り始めます。その手はとても人間らしいと言ってはおかしいですが、なぜか宇佐見先生を追憶したほど優しいぬくもりをまとっており、時折「大丈夫」なんて振り返りながら、走る速度も妾に合わせてくれているのがなんだか面映ゆくもあり、複雑な気持ちで襟懐《きんかい》が満たされていくのが分かりました。しかし楽しい時間というものは瞬く間に過ぎていくモノでありまして「ここだよ」と藤原妹紅は急に止まります。
 そしてその佇まいの美しさに、妾は再び見惚れてしまいました。満月すら霞むほどの神々しさとでもはかなさを内包した妹紅の姿はまるで絵画の一部から出てきたように、憂いを帯びた視線を月に投げかけるのです。か細く縷々とした一条の光である彼女は、少しの強風でも飛んでいってしまいそう。瞬間に理解出来ました。彼女は守る側ではなく守られる側の存在であると。では彼女は誰に守られるのでしょうか……その答えに思い立ったとき、少しだけ欲張りになろうと思いました。そして妾は誰でも持っている、人との関わり方を手に入れることが出来たのです。彼女に魅入っていては、妾はおかしくなってしまいそうだからと言い訳し、辺りを見渡してもそれまでの辿ってきた雑木林となんと遜色ありませんでした。これが、ここが切れ端だというモノだとは到底信じる事ができません。白髪を靡かす彼女は、見えない壁の前に立っているかのように微動にしないのです。
「ここが、切れ端。雑踏の切れ端。触れて御覧よ」
 言われるが儘、私は彼女の横に立ち左手をまっすぐに伸ばしました。
 ギきぃぎぃンと甲高い音を立て、途端に妾の指先は火鉢に突っ込こまれた様な激痛が走りましたが、手を引けばそれは波のようにスッと和らぐのです。もう一度試してみますと、しかしやはり同じです。そこまでしてようやく藤原妹紅が言いたいことが分かりました、心なしか彼女の横顔はとても柔らかく、まるで梅の花のように美しい瞳を遙か向こうに向けていますので、妾もつられてそちらを見ます。広がる稜稜とした山が連なり冷めた群青が生き物の様に月明りと折り重なりあたかも絹織物だと、でもその景色は繋がっているように見えてそれこそ硝子ケイスの様に区切られているのです。近くて遠い彼の楽園に思いを馳せながら、
「ここから出たいの?」
 喉が糜爛《びらん》するような声色で藤原妹紅を脅迫しました。すると彼女は白昼夢から醒めたような顔で、カエルが潰れたような声で、
「慧音、アンタは……何を言っているの」
 と逆に聞き返されました。それだけで十分でした。だから妾は少女の見開いた目を鏡にしながら、微笑みます。そして思います。嗚呼、妾は彼女を守るために産まれてきたんだなァと。
「妾が八雲紫を穿ち、神になるということでしょう」
 それをハッキリと口にしたのは、今生で初めてです。そして、パキリと何かが音を立て、かみ合ったような錯覚が訪れました。
 ずっとずぅッと前から抱いていた曖昧な妄想。宇佐見蓮子という大切を彼女に消されてから、長年胸中に抱いていた念でもありました。そしてそのとき魔女が現れた様な気がして、ハッと振り返ってみましたが、やはり誰もいませんでしたが今この瞬間に何故彼女の幻影を見たのかはハッキリと理解出来ます。畢竟《つまり》、あの忌々しい魔女からの祝詞であり呪詛を受け取ったのです。
 私は今この瞬間に産まれ墜ち、そして妾は死んだことを自覚したのですから。
「やっぱり。慧音、アンタみたいな害虫はいないほうがいい」
 妹紅は刃を正真正銘人を殺すためだけに作られた道具を私に向けます。研磨したようなとても綺麗な眼球が素敵な憎しみで彩られて、それは宝石のようでもありました。ボロボロで摩耗しきった妹紅の歯車は、一瞬でも切れ込みをいれれば弾けてしまう張り詰めたゴムに似ていました。
 さて、害虫とはどういうことなのでしょうか。しばしの逡巡と共に、行き着いたのは哄笑という形で表現出来ました。
「流石、妹紅です。私のあだ名にぴったりです」
 人に不利益をもたらし、この世界という土壌を腐らせたいと願う私は文字通り害虫でしょう。そして私は彼女にゆっくりと歩み寄り、その鋭い刃物を手で掴み下げさせました。今度驚いたのは妹紅の方でした。
「ね、見てごらん、私の体はこんなに醜いんだよ」
 満月の日だけは私は人の体ではなくなるのです。半分は人で半分は神獣だから、と。この台詞を言うのは何年ぶりでしょうか。二度目の告白は、彼女なら私を受け止めてくれると確信して、そして妹紅を抱きしめました。彼女の体は華奢すぎて、ちょっとでも力を入れてしまうと壊れてしまいそう。それでも抱きしめて、私の中の私を彼女の注入するように膂力《りょりょく》に力を入れないように抱きしめました。
「私は妹紅以外は何も要らないから、ね、一緒に帰ろう」
 そう、彼女以外の悉皆《しっかい》を滅ぼしても構わない。そのためなら藤原妹紅という少女の為なら、妹紅の世界に私がいるのであれば、私はこの世界の害虫となっても構わない。
「それって告白なの?」
 妹紅の腕が上がり、私の髪をなでました。私の頬に彼女の涙が伝わり、滴り、地面をすこし濡らしました。
「……そうかもしれないね」
 誰でも知っている愛し方を、私はいま初めて知ることが出来ました。
読了感謝です。誤字脱字、表記揺れありましたら連絡いただければ嬉しいです。
きゃんでぃ
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2.80名前が無い程度の能力削除
役不足 → 分不相応

結婚と八雲紫に代表される社会秩序の重圧を前にうじうじ悩んで、狂気に身を浸すように異端の愛に傾倒する、ある女性の心の揺れが描かれています。

古風な文体が、鬱屈としてもどかしい閉塞的な空気感を出していて良かったです。

別にこれ東方で(ry
9.803削除
書こうと思っていたことが全て2様に既に書かれていた件。