Coolier - 新生・東方創想話

氷ノ華

2013/08/04 21:43:14
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夏の日差しが照りつけ、蝉の鳴き声が入り込んでくる和室の中で

敷かれた布団に横たわる年老いた人間が、その長いようで短い生涯を終えようとしている。

老人の意識は無く、掛け布団に覆われた身体は内外共に活動の停止を始めていた。

朽ちて逝く心と身体。けれども、その老人の表情はどこまでも安らかで、ただ静かに来るべき時を待つ。そんな印象を、眠る老人を見た者に与えるだろう。

その時、既に「五感」の停止が始まっている筈の身体が感じ取った。

ふわりと微かに舞う風と、遠い昔に肌身で感じた空気、そして

「久しぶり」

懐かしい、二度と聞くことのないと思っていた声。それがハッキリと聞こえた。

「しばらく見ない間に随分様変わりしたじゃない。いつかの無邪気さはどこにいったの?」

変わらない声。その質問と、こうして再開できた喜びを声に出そうとするも、口が、喉が、肺が、動かない。動かせない。

そんな老人の微かな動きを感じとったのか、声の主は、無邪気そうに弾む声で言葉を紡ぐ。

「ねえ、このあたしが聞いてるんだから、返事くらいしなさいよ」

からかうような言葉も、かつてのように応えようとするが、できない。

声の主も、それを既に承知していた。

そして、悔しさ、悲しさ、怒り、そのどれともつかない声で、低く呟く。

「……だから、嫌い。人間なんて、弱っちいし、脆いし、すぐに動けなくなるし――」

声の主は俯きながら、心の奥底に溜まったモノを吐き出すかのように。

「あんたなんて、あんたなんて――」

言い放つ。かつて応えられなかった言葉を。


どこからともなく吹いた風が舞い、静かな空間を通り過ぎて言葉をさらってゆく。それが、まるで別れを告げる風のように。

「――別れは、済んだ?」

「別れなんて、そんなにいいもんじゃない」

照りつける日差しを遮りながら、手に持った日傘を微かに持ち上げて女性―に見えるスキマ妖怪は家屋から出てきた声の主に問いかける。

声の主は俯きながら、日傘を持ったスキマ妖怪と共に音も無く消えていった。





氷ノ華





「はっ……はぁっ……はぁっ……」

幼い顔立ちの少年が草木をかき分け、雑木林の中を早足で進んでいる。木綿で編まれよく使い込まれた服は所々擦り切れ、手足は泥で汚れていた。

「陽が落ちる前に、帰らないと……」

息を切らしながら、独り言を呟く。気付けば陽は傾き始め、周囲は薄暗くなり始めていた。季節は夏といえど、陽が落ち始めてから周囲が暗くなるのは一瞬のことであった。

『いいかい。森で遊ぶのは止めはせんが、陽が傾く前に帰ってくるんだ。それと、絶対に奥深くに行っちゃあいけない。そうしないと恐ろしいモノに遭うんだぞ』

母の真剣な表情と、言葉。それが全くの冗談ではない事を物語っていた。

『お母さん……その恐ろしいモノって…』

思わず唾を飲み込み、母の言葉を促す。

『逢魔時といって、よくないモノが出てくるんだよ。だから陽が傾く前に帰ってこなくっちゃいけないよ』

必死に足を動かし、前に進む中で思い出すのは家を出る前の母の言葉。

一度きりの忠告ではなく、森へ遊びに入るたびに忠告された言葉。

少年は今までその忠告を守り、陽が傾いても森に残る事は無かった。

今日という日を除けば。

今日は珍しい花や鳥が多く、夢中になって追いかけた。しかし気付けば陽は傾き、黄昏時となっていた。

体力、気力共に限界を迎え、少年の手足が震える。それでも少年は震える足を一歩、二歩と進め、力の入らない手で草木を左右に描き分けて進む。

しかし少年が一番恐れているものは、意外と近くに居たのだった。

「オッホン! エッヘン! アッハン! え~~みなみなさま~~本日はお日柄もよく~」

突如として聞こえてくる少女の声。

「ねーねーチルノちゃん、あーそーぼー。ねーねー」

「ちょっと河童! あんたさっさと始めなさいよ! こんなクソ暑い中こっちは身体溶けそうになるのを我慢して付き合って…ってルーミア! あんたただでさえ暑苦しい格好してんだから引っ付くな~っ!」

少年の足が、止まる。目の前の草木を掻き分けようとした矢先、突如少女たちの声と姿が草木の隙間から見えたからである。

一人は水色で彩られた服を着た、少年が見た事もない被り物をした少女。

もう一人は、またも少年が見た事もない黒い服と、黄色の髪を持ち、惹き込まれそうな赤い目の少女。

そして黄色髪の少女に抱きつかれ、勢いよく捲くし立てている青色の服に、透明な羽根、人間離れした青い色の髪をした少女だった。

少年は一目見てそれが「人ならざるものたち」と気付いてしまった。時刻は逢魔時、場所は人里離れた森の中。

「ではでは早速。今回新たにお披露目するのはこの『妖怪能力抑制装置』でございます~」

「ヨクセイソウチ…? その髪飾りがそんな凄そうな名前の物なの?」

河童、と呼ばれた少女が誇らしげな表情でどこからともなく取り出したのは霞草をモデルにした小さな髪飾り。

羽根のある青い髪の少女が、黄色髪の黒服少女に抱きつかれながら訝しそうな表情で問いかける。

「この『妖怪能力制御装置』を着ければどんな妖怪だってその能力を抑制して人間そっくりになれて、人間と仲良くなれちゃうのです!」

「ニンゲンと仲良くったって、そんなの無意味じゃない。それにあたしニンゲンなんて嫌いだし」

「まっ、まっ、まっ、話してみると意外と楽しいものですよ? 得られるものも多いですし。それにこれさえあれば、今まで河童というだけで避けられていましたが人間として情報収集を……ククク……!」

少年はあまりの奇奇怪怪な出来事の連続で恐怖に身体が動かす事ができない。

青い髪の少女は露骨な表情で、そして河童の少女は黒い笑みを浮かべながらそれぞれの思惑を漂わせる。ただ一匹を除いて。

「ん~~。んっ、えいっ!」

それは

「へっ?」

一瞬の、出来事。

「あはっ。やっぱりチルノちゃんに似合うのだー」

河童の手にあった髪飾りを目にも止まらぬ速さで奪い取ると、そのままチルノの髪へパチリと着けてしまった。

「えっ……? えええええぇぇぇぇ!?」

チルノの叫びは、髪飾りの眩い光に飲み込まれていった。

視界が光に包まれたのは、一瞬。

「……あのさぁにとり。コレ、どういう事か説明してくれる?」

「実験は成功です! 成功! チルノさん、大成功ですよ~! どこからどう見ても、360度どの角度から見ても人間ですよ~!」

「チルノちゃん、ニンゲンになったのかー?」

髪飾りをつけたチルノの外見に殆ど変化は見られなかった。背中にあった羽根が消えているのを除けば。

そんなチルノの様子にひたすら興奮を隠せないにとりはチルノの周囲をグルグル回り、時折頭を撫でたり、肌を触ったりしている。

ルーミアはにとりの真似をして一緒にチルノの周囲をグルグル周り、一緒になって肌や髪にベタベタ触りチルノに「鬱陶しいー!」と怒られていたりする。

その様子を見て少年の恐怖心は振り切れた。

「っ……!」

妖怪が人間に成り済ます恐怖。出逢ってはならない人外。

すぐにその場を離れようと足を後ろに出した瞬間、パキリと、踏み出した足が枯れ枝を折る乾いた音が響いた。

集まる視線、静寂した空間。

「……ニンゲン?」

「ニンゲンだね」

「わーニンゲンだー」

出逢ってはいけないモノと一人の人間の邂逅は、ここに幕を開けた。

「ねーねー。あの人間、食べてもいいの?」

「ダメ」

ルーミアの無邪気にして恐ろしい提案はにとりの一言で却下された。

「人間を見るのなんて久しぶり。ちょっとからかっちゃお」

チルノは悪戯そうな笑顔を浮かべ、手を少年の方へ向ける。

「……あれ?」

悪戯っぽい笑顔からキョトンとした表情になるチルノ。何度か手を少年の方に向けるが、チルノが期待する出来事は起こらない。

「あっ、チルノさん、言い忘れてましたが妖怪能力抑制装置を着けている間は勿論妖怪の能力を行使できません」

「そういう大事な事は先に言えーーー!」

文字通り食って掛かりそうな勢いのチルノを、ルーミアは笑いながら眺めている。

「それともう一つ。身体能力も人間並みに低下しています。あと妖怪能力抑制装置は一度着けてしまうと、自然と取れるまで待つしかありません」

「だからそういう大事な事はーーーって、外せない……?」

益々怒り心頭になりつつあったチルノの感情は、にとりの一言で急激に冷える。

「はい。妖怪能力抑制装置は如何なる物理的・呪術的干渉も受け付けないようになっています。無理に取ろうとすれば装備者の体に多大な影響を及ぼします」

「はあぁ!? あんたなんてシロモノを……ってルーミア、取ろうとするなー!」

にとりの説明を聞いていたのかいないのか、ルーミアは満面の笑みを浮かべながらチルノの髪飾りを取ろうとするが

「チルノちゃん、これホントにとれないみたい」

ルーミアがいくら力を込めても髪飾りは取れる事は無かった。

「仕方ない……自然と取れるってにとりの言葉を信じるしかないわね。それに今は――」

チルノは恐怖のあまり失神している少年に視線を移し

「あいつをどうにかするしかないか」

呆れたように溜息交じりでチルノは呟くのだった。





身体が左右に揺れている感覚。それに気付くと同時に少年の意識は浮上し始める。

「う……ぅぅ……」

ゆっくりと広がる視界。最初に目に飛び込んできたのは、見慣れた星空だった。

「お、気がついた?」

声に反応し、上体を起こす。その時初めて自分が麻布で張られ、左右を棒で支えている物に乗せられ運ばれているのだという事を知る。

「あの……」

「怖がらなくていいよ。君を村まで送るだけだから」

にとりの優しい言葉が投げかけられる。その言葉がどうにも信じきれず、少年は怯え始める。

「ねえ、あんたはなんであんなとこにいたの?」

しかし震える間もなく、前を向いて先導していたチルノがこちらを振り向かずに鋭い口調で言葉を投げかけてくる。

「えっと、その……迷子になって」

「あんな奥まで来たら妖怪に出逢うって知らなかったわけじゃないんでしょう?」

「うん……」

続く鋭い言葉に、少年は頷くしかできない。

にとりは静かに二人のやり取りを見守っていた。

「その、君たちは、本当に妖怪なの?」

少年の疑問。人間離れしているとはいえ、容姿は殆ど人間だ。その事を疑問に感じた時、言葉が漏れていた。

「それを証明してあげようか。アンタをここで置き去りにして。すぐにでも血に飢えた子がアンタを喰いにくるよ」

「チルノさん……!」

「にとりは黙って」

感情を感じさせない声。耐えかねたにとりの言葉はしかし、チルノの言葉によって制される。

「いや……あの……」

星空だけが周囲を照らし、雑木林の奥は深い闇に包まれている。耳をすませば聞こえてきそうな獣の息遣いに、少年は怯える。

「そうだ! 私、人間の暮らしに興味があったんだ。ある程度の事は知ってるんだけれども、もし良かったら詳しく聞かせてくれない?」

場の雰囲気を和ませるように明るい声でにとりは少年に話しかける。少年は最初こそしどろもどろであったが、次第に元の態度を取れるようになっていった。

道中、にとりと少年の会話は続く。チルノは終始無言で前を向き、小さな身体で少年を運び続けていた。





「チルノさん、そろそろ」

歩き続けて、どれくらい経ったのだろうか。にとりはそう言って、チルノも動きを止める。

「人間さん、もうすぐ村が見えてくるのだけど、立てる?」

にとりの言葉を聞き、少年はゆっくりと地面に足をつけて、立ち上がる。恐怖で抜けていた腰はもう大丈夫なようだった。

「うん、大丈夫みたい。ありがとう」

にとりと、そしてそっぽを向いているチルノに、お礼を述べる。

「色々と、ごめんなさい」

素直に謝る。もう二度とこの森に足を踏み入れることは無いだろう。そしてこの妖怪たちと出逢うことも無いだろうと少年は感じていた。

「もう二度と森に入ろうと思うんじゃないわよ」

チラリとこちらを向いて、鋭い口調で言うチルノ。彼女は終始そんな態度だった。

「うん……わかった。それじゃあ……」

少年は短い別れの挨拶をして、その場から離れようと歩き出そうとした時。

「誰かそこにいるのか……?」

雑木林の間から響いたのは、聞き慣れた村人の声。そして複数の足音。

「っ! こんな近くまで人間が……! チルノさん、すぐに離れましょう」

にとりは自慢の光学迷彩スーツを着込み、すぐさま透明になるにとりはチルノにそう言い聞かせる。

少年は一瞬にして消えたにとりを見て彼女たちが本物の妖怪だという事を今更ながらに思い知る。

「えっちょっと、待ってよにとり……!」

チルノも撤収するために走り出そうとするが

「あっ……れ……」

木の根に足が絡まり、鈍い音を立てて倒れ込む。少年が慌てて駆け寄るのと同時に複数の村人たちが雑木林の間から姿を現した。

「おめぇ……! こんなとこにいたのか! みんな心配してたんだぞ!!」

「怪我はねえか!? まったくこんな夜まで一体どこで何を……」

村人たちの視線は、少年から人間離れした風貌の少女へと注がれる。

「……そのおなご、どこの子だ?」

訝しげな表情。行方が分からなくなっていた少年を真夜中の森で見つけた時、見慣れない少女と共にいれば疑うのは当然の事だった。

「この子は、その……」

少年は大人たちの無遠慮な視線からチルノを庇うように立つ。

「おい、どした? 見つかったのか?」

「ああ、森から、へんなおなごと一緒に帰ってきたんだ!」

次々と合流する村人たち。上手な言い訳を出せない少年を、村人達は不審の目で見始める。

「そいつは妖怪に違いねえ! さっさと追い返しちまおう!」

誰かが口火を切った。誰かが口火を切り始めると、それは一斉に広まってゆく。

「待ってください皆さん」

村人たちが口々に追い返そうと言い始め、少年ににじり寄って行こうとしたその時。

女性の声が村人達の列を開ける。

「その子は私の姪。彼が迷子になったと聞き、捜しにいってもらっていたのです」

村人達が開ける道を真っ直ぐに進みながら、上白沢慧音はそう言い放つ。

「先生……!」

「上白沢先生だ」

村人達の不信感は完全に拭いきれないまでも、場を収めることはできたようだった。

「……彼女は少し怪我をしているようです。手当てをしてから戻りますので、皆さんは先に村へ戻っていてください。これ以上夜の森に留まるのは危険です」

チルノの様子を見て慧音は目を細め、村人達に振り返り村へ戻るように促す。

「先生がそう言うのなら…」

村人達は口々にそんな事を言い、来た道を引き返す。

しかし村人達のチルノに注がれる視線は、見慣れないモノに対する畏怖の念が込められていた。

村人たちが離れてゆくのを確認した慧音は

「河童も、ありがとう。この子をここまで連れてきてくれたんだろう?」

雑木林の広がる場所へ声を掛ける。すると、今まで姿を消していたにとりがバツの悪そうな顔で現れる。

「ごめんなさい……私のせいでこんな事になっちゃったみたいで……」

その謝罪は、チルノにも向けられていた。

「にとりは気にすることないよ。もしあそこでにとりが姿を消してなかったら、もっと大変な事になってただろうし」

チルノは笑いながら、にとりに優しく声を掛ける。

「この子たちはは私が村まで送らなければならないから、君は気をつけて帰るんだよ」

慧音はそう言ってチルノをおんぶすると、少年と共に雑木林の中を歩き始める。

「……チルノちゃんを、よろしくお願いします……」

にとりの心配そうな言葉は、風にのって慧音の耳へとしっかり届いていた。





「あの、先生……ありがとうございました」

「うん? いやいや、本当に何事も無く無事で良かった」

躓いた時に足を挫いてしまい、歩けなくなってしまったチルノを背負って歩きながら、慧音は応える。

その後ろを、少年が歩く。

「それで、説明してもらえるかな?」

歩く歩調は変わらず、慧音はずっと黙り込んでいるチルノへと質問する。

「助けてくれて、ありがと」

「うん。こちらこそ彼を村の方まで送ってくれて感謝してる。でも、私が聞きたいのは『君が何故人間になっているのか』なんだよ。チルノ」

慧音は一目見た時から気付いていた。チルノ自身は氷の妖精であるし、他の妖精の姿を見た事は何度もある。

けれども、今のチルノはから妖精独特の気配や力が感じられず、限りなく人間に近い匂いを放っていた。

「それは―――」 

誤魔化しても仕方が無いと思ったのか、チルノは今までの経緯を静かに語り始める。

慧音は時折相槌を打ち、歩きながらその話を聞いていた。

少年はただ不思議だった。何故慧音がチルノと普通に話しているのか、何故チルノが妖怪であるという事を見抜いていたのか。

いくつもの疑問が浮かんでは沈み、チルノの説明が終わると同時に村へとたどり着く。

「そうか……そんな事が。あの河童も呆れたモノを創る」

溜息交じりに呟く慧音は、少年の方へ振り向き

「今日はもう家に戻りなさい。家の人が心配しているだろう」

有無を言わせぬ雰囲気に、少年は頷くしかなかった。去り際にチルノの顔を見るが、チルノは俯いていて表情を窺うことは出来なかった。

少年は家に戻り、両親に泣き付かれ、引っぱたかれ、また泣き付かれて、美味しいご飯を食べ、布団に入った。

見慣れた天井を見ながら思い浮かべるのは、激動の出来事。迷う森の中。逢魔時。出逢ってはいけないモノたち。村までの道で話した事、慧音先生。

全ての出来事が夢のようで、けれどもハッキリとした感覚に残っていた。そんな事を思い浮かべるうちに、少年の意識は深く深く沈んでゆく。





「さて、私たちも戻ろうか」

「戻る……って……?」

「私の家にだよ。このまま君を放っておくわけにはいかない。それにさっきから」

キュウ、クルクルクルと、軽い音が鳴り響いていた。チルノのお腹から。

「全く、空腹まで人間化していたなんて。とりあえず私の家でご飯を食べよう」

「さっきから苦しいのは、これのせいなのね……ホント、人間は不便……うぅ……」

チルノは俯きながら悪態をつく。慧音が家に戻ってからチルノは大量のご飯を頬張った事は言うまでもない。





「えー、始める前にまずは紹介したい子がいる」

翌日から少年の日常は戻ってきた、かのように見えた。

「この子は今日から君たちとここで共に学ぶチルノ君だ。仲良くしてあげてくれ」

目が覚めた時、全てが夢だと思った。けれども、夢ではなかった。

「チ、チルノです……ヨロシクオネガイシマス」

いかにも言わせられているセリフを吐く目の前にいる少女は、自分を村まで送り届けてくれた妖怪のうちの一匹。

何故あの子がここにいるのか。何故森に帰らなかったのか。様々な疑問は、後に慧音の説明により解消される。

「えーっと……えーっと……ここは……」

筆の持ち方が歪で、文字すらもマトモに書けないチルノを見かねて、少年はチルノの隣に移動して助言をする。

「チルノ、そこはそうじゃなくって」

「あーもううっさい!そんな事はわかってるの!こうでしょ!こう!」

「いや、だからそれは違うって」

こうして始まった奇妙な生活は、少年にとって心から楽しいものであった。





「彼女は正真正銘の妖怪だ。いや、正しくは妖精、といったほうがいいのかな」

誰もいなくなった夕陽の差す寺子屋の中、慧音とチルノ、少年の三人は座して話し合っていた。

「チルノの話によれば、それがこの髪飾りによって人間化しているらしい。取り外そうにも自然に取れるのを待つしかないようだ」

慧音と少年は髪飾りを触るチルノを見る。その横顔と髪飾りは夕陽に染まり、その姿は少年の心をトクンと高鳴らせた。

「あの時、彼女を村に招いたのも、今こうして寺子屋に来てもらっているのも外敵から彼女を守るためなんだ」

外敵。

そんな不穏な言葉が場の空気を重くする。

「彼女の力は今、殆どゼロになっている。だからこそ他の妖怪に狙われる危険性もあるし、そして村人の中には彼女を妖怪だと信じて疑わない者もいる。いくら彼女でも、今の状態で襲われれば命を落としかねない」

「そんな……」

少年は初めて知る。明るく振舞っていた彼女がその実、極めて危険な橋を渡っているのだという事を。

「そういう者もいるからこそ、彼女を寺子屋に連れてきた。あの時、君たち二人を見た時に村人へ私の姪だと説明したのもそのためだ」

チルノの表情は変わらず、どこか遠くを見ていた。彼女は予め、慧音から説明されていたのだろう。選択の余地もなく、彼女はここにいる。

「村人たちと、彼女との溝が深まらないように全力を尽くす。しかし私一人では厳しい」

慧音は真っ直ぐに、少年を見つめる。

「こんな事を頼める義理ではないが……君にも協力してほしい」

「そんな……僕にできることなんて」

慧音の視線に、怯む。けれども、チルノには命を救われている。あの時、あのまま森に放置されていたら今頃は――。

「君だからこそ出来る事だ。ただ彼女と仲良くしてくれれば、それでいい。それでこの寺子屋にいる子供たちも、彼女と気軽に接することができる」

慧音はそっぽを向いていたチルノの肩に手を置き、こちらへと移動するように促す。

ムスッとした顔のチルノは

「はい」

手を差し伸べてきた。

「えっ……」

「えっ? じゃないわよ! 人間は何かをしてもらう時はこうするんでしょ!」

頬を染めながらジロリと見てくるチルノを、少年は微笑ましく思いながら

「よろしく、チルノ」

手を、握った。その手は暖かく、そして柔らかかった。人間の手と同じと、少年は思った。

「ふんっ、よろしく」

握った手の感触に感動する間もなく、チルノはパッと手を離してしまった。

その様子を、慧音は微笑ましく見守っていた。





それからの日々は少年にとって流れるように、けれども充実した日々であった。

「はぁ……はっ……はあぁ……チルノは……足が速いなぁ」

「当たり前じゃない。あたしはさいきょーなのよ!」

追いかけっこで自信満々の笑顔を見せるチルノに、少年の胸は高鳴っていた。その胸の高鳴りは、日を追うごとに確かなモノとなっていく。





「僕は、チルノが好きだ」

「へ?」

日々を追うごとに少年の中でチルノの存在は大きなものとなっていた。

初めて誰かを想う気持ちを言葉にするが――。

「好きって、どういう意味なの?」

少年の告白は、あまりにも純粋な質問によって打ち砕かれた。

「いや、ほら、その……」

「好きって、楽しいとか、おもしろいとか、ああいう事?」

赤面する少年に、チルノは心からわからないという風に質問する。

「う、うん……」

「あたしも楽しいよ。でも、人間なんて、弱っちいし、脆いし、お腹空いてすぐに動けなくなるから、嫌い」

「うん、そっか……」

こうして少年の初恋は、残酷なカタチで幕を閉じてしまった。





チルノの存在を訝しがる村人達も少なくなり始め、平穏な日々が続いていたある日の夜。

村の少し外れた場所にある井戸で水を汲んでいるチルノの元へ

「チルノちゃあああああん! じんばいじだのだああああ!」

泣きべそをかきながら迫ってくるルーミアの姿があった。

「ルーミア!? あんたこんなとこで何してるの。こんな人間の里に近い所まで降りてきちゃダメじゃない!」

「えへへ……チルノちゃんがどうしても気になっちゃって……」

何気ない会話。しかしチルノにとっては数少ない「気を許せる友人」が自分を心配して来てくれたのだ。嫌な気持ちになるはずがない。

しかし、それが大きなミスであり、始まりであった。

夜よりも暗い宵闇がパッと現れ、不審に思った帰り途中の村人が足を止める。

するとそこには、宵闇の中で笑う二人の童。

「妖怪じゃ……やっぱりあいつは妖怪の仲間だったんじゃ……!」

畑を耕す道具をその場に置き捨て、走り去ってゆく。幻想卿の空に仄暗い雲が掛かり始めていた。





「ねえ藍。人間と妖怪、相容れぬモノ同士が心から結ばれることはあると思う?」

どこか遠くを見ながら、縁側に腰掛けるスキマ妖怪――八雲紫は独り言のように呟く。

それは呟きのようであり、自問のようであり、問いかけるようであり。

「その問いかけにどのような意味があるかは存じませんが、あり得ません。人間と妖怪は対等の存在ではないからです」

座した膝の上で眠るチェンの頭を優しく撫でながら、しかし強い口調で藍と呼ばれた九尾の狐は断言する。

「人間と動物が結ばれる事の無いのと同じように、人間と妖怪は結ばれることなど有り得ません」

「その通り。人間と動物が結ばれようとしても人間の倫理感がそれを許さない。それと同じように」

紫は目を細め、どこか懐かしむように呟く。

「人間と妖怪が結ばれようとするのならば幻想郷の倫理感がそれを許さない。ただ一部の特異な例外を除いて、ね」

その言葉は、夜の闇へと吸い込まれていった。

パチリパチリと夜闇に火の粉が舞う。手に持った松明は紅い炎を絶やすことはない。

炎で照らされる住民たちの表情は、恨みと憎しみに満ちていた。

妖怪に目の前で自分の子供を喰われた者、身内を攫われた者、畑や家畜を無残にも荒らされた者。

十数人の人間たちが松明を持ち、音も無く進む。

妖怪と知ってしまった村人たちの晴らしたくても晴らすことの出来ない怨嗟は、たった一人の少女に向けられようとしていた。

「……はっ……はぁっ……! くそっ、どうして……!」

少年は走る。チルノのいる家屋までの最短ルートを、かつてないほどの全速力で。

松明をもった村人たちの様子に気付き、理由を聞いた。少年は我が耳を疑った。

村人を何度も止めようとした。しかし誰一人聞く耳をもたなかった。あまりにも騒ぎすぎて拘束されそうになった所を必死の力で逃げ切り、チルノのいる家を目指し走る。

家は目の前。周囲に住人の姿はまだ無い。

村に来た最初の頃こそ慧音と共に同じ家に住んでいたが、やはり一人の方が落ち着くのか、少しだけ村から外れた使われていなかった小屋に、チルノは一人住んでいた。

「チルノ! チルノ!!」

慌しく家屋の門を開き、室内へと入ると、すぐに眠っているチルノの姿が見える。

「チルノ、起きて! チル、ノ……?」

抱き起こそうとチルノの身体に触れると、衣服越しでもわかるほどに熱をもっていた。

そして暗闇に慣れた目が

「はぁ……はぁ……は……」

目を伏せながら途切れ途切れに息を吐くチルノの表情を捉えた。

「すごい熱……。チルノ、あとでお医者さまに診てもらおう。とにかく今は――」

そう言いながらチルノの身体を支えつつ、家屋から脱出しようと立ち上がりかけたその時

「やっぱりおめぇもなのか。おめぇももう、そいつらの仲間になっちまったのか」

戸口から差し込む満月の光が遮られるのと同時に松明の炎が目に入り、能面のような表情のむらびとたちが入ってくる。

「違う! この子は人間だ!!」

少年の必死な叫びは、

「惑わされっちまったんだなぁ……可哀相に」

「焼き払うしかねえ。もう手遅れなんだ」

村人たちの心に響くことはなかった。

「悪いけどそいつ共々、死んでくれや」

一切の感情が削ぎ落とされたかのような声と表情で、村人たちは一斉に松明を壁へと投げつける。

瞬く間に家屋の壁は燃え上がり、炎は天井を目指す。松明を投げつけると同時に村人たちは少年とチルノを一瞥する事もなく去っていく。

「チルノ、ちょっとだけ我慢してね」

チルノを支えなおし、炎と煙に包まれゆく家屋を脱出しようとする少年の耳に

「……って。まっ……て……」

少女の掠れる声が響いた。





「人間と妖怪。相容れない二つのモノが結ばれようとした時、それを良しとしない『反発力』が発生する」

紫の呟きは続く。藍は静かに主の言葉を聞く。

「その反発力こそが幻想郷の倫理感。不思議なものね。『幻想そのものが意思を持つ』なんて、隔離した私自身考えもしなかった」

紫は嗤う。何十年、何百年も前の事を思い出しているかのように。

「けれども、これは遅かれ早かれ起こりえる必然的な事象。共に同じ世界に住む者同士の切っては切れない関係」

紫は想う。寂れた神社にて、異常を察知して飛び起きた巫女のことを。

「幻想郷の意思で弱められた立場で、どんな風に事態を打開してくれるのかしら?妖精さん」

それは、期待を含むかのような言い方だった。





「けほっ、けほっ! っチルノ……! 良かった、目が覚めたんだね」

「ここ、は……?」

まだ意識がおぼろげなのか、焦点の合わない目でチルノは呟く。

「事情はあとで説明するから、早くここから逃げ――」

チルノの身体を支え、今度こそ脱出しようと試みる少年の行く手は、大量の火の粉と鈍い音を響かせる炎に包まれた家屋の柱によって遮られる。

予想以上に火の回りは早く、煙と炎は家屋を瞬く間に侵食する。

「熱っ! くそ、こんなところで……げほっげほっ!」

煙は視界と体力を奪い。迫り来る熱波が肌を焼く。少年は呼吸も満足にできず、その場に膝を折る。

苦しげに悶える少年を見ながら、チルノは肩にかけられた手をゆっくりと払う。

「げほっ! ……チル、ノ……?」

涙と煙のせいで近くにいるはずのチルノの表情は見えないが、彼女が立ち上がる姿は確認できた。そして

「あたしね、人間が嫌い。人間なんて、弱っちいし、脆いし、すぐに動けなくなるし」

そんな言葉が、煙の向こうから聞こえてきた。

「でも、あんたのせいで色んな事を知ってしまった。普通だったら知らない事も、おもしろい事も、たくさん」

声がすぐそばで聞こえたかと想うと、右腕を持ち上げられ、そして

「だからあんたは生かしてあげる。これで二度目なんだから、感謝しなさいよ」

強引に、家屋の外へと放り投げられた。離れた場所からたくさんの足音が聞こえてきたが、少年は意に介さなかった。

チルノとはもう二度と逢うことはできない。そんな直感めいたものが、少年を叫ばせる。

「チルノーーーーーー!!」

その叫びに呼応するように、天高く光の柱が立ち上り、家屋の炎を圧倒するいくつもの氷柱が姿を現した。

「これは…! おい、大丈夫か!何があった!?」

遅れて到着した慧音の言葉にも。少年は応えることができなかった。

氷柱は幾重にも重なり、炎を圧倒してゆく。その様子はまるで炎の中で咲く氷の華のようだった。





気付けばそこにいて、羽根の生えた小さな身体のものたちは「自分と同じものである」という認識を最初から持っていた。

自分の存在を疑問になど想った事もないし、楽しい日々だった。周りの子が日陰に集まる「暑い日」は嫌いだけれども、周りの子が言う「寒い」日は快適だった。

湖畔の上で蛙を凍らせる遊びも楽しかったし、レティたちと冬にお出かけするのはもっと楽しかった。

異変が起こる度に、神社の怒らせると怖い巫女がすっ飛んでいった。そんな行動を見て「何故人間は自分以外の者のために動くのだろう」と常々疑問だった。

白黒の魔法使いも同じ。自分のためじゃなく他の人間や、妖怪のために動く。それが理解できなかったし、理解しようとしなかった。

けれども、キッカケはあの日から

『えっ……? えええええぇぇぇぇ!?』

そして、アイツに出逢ってから

『その……迷子になって』

放っておけばよかったのに、何故か放っておけなかった。そして送っていたら、おかしな展開になった。

そこから人間としての生活が始まった。人間を観察していると、誰もが誰かのために動くというのではないということがわかった。

歳を重ねた人間ほど、自分を避けた。自分と同じくらいの背丈の人間ほど、積極的に近付いてきた。アイツのように。

『僕は、チルノが好きだ』

その言葉は何かを伝えようとしていることはわかったけれども、それを理解してはいけないと本能が警鐘を鳴らした。

でも、ほんのりと胸が温かくなった。同時に、その日から身体の様子がおかしくなり始めた。

力が入らず、身体も重く。話すのが精一杯で、立っているのも辛くなっていた。

それもこれもアイツが変なことを言うからだ。理解できないことを言ってくるせいで、こんな目に。

そんな事を考えていたら

「……ノ! チルノ!!」

思い浮かべていた顔の主が、泣きながら自分の名前を呼んでいる。

その泣き顔を見ていると、胸が苦しくなって、泣き止ませたくなって、手を伸ばす。しかし、実際に手は動かない。

動かない身体がもどかしい。募るのは焦燥感。何故こんなにも変な気持ちになるのか。

それもこれも今目の前でおぼろげに見える泣き顔をしているやつのせいだ。

そう想うとだんだん腹が立ってくる。

妙ちきりんな髪飾りさえ着けられなければ。

こいつにさえ出会わなければ。

こんな想いをすることも、無かったのに。

フワリと身体が浮く感覚。恨み言の一つでも言ってやらなければ、この腹の虫はおさまらない。

目をゆっくりと開けると、ぼやけた視界の中にあいつの泣いている顔と、炎に染まりつつある家屋が目に入ったのだった。

『けほっ、けほっ! っチルノ……! 良かった、目が覚めたんだね』

『ここ、は……?』

熱く、苦しい。一番居たくない場所にいるということはすぐに分かった。

『熱っ! くそ、こんなところで……げほっげほっ!』

同時に、目の前にいる人間が死の際に立たされていることも本能的に悟る。

――この人間は、ここで死んではならない。

何故こんな言葉は頭に浮かぶ。何故そんな言葉が浮かぶのか。

何故、頭の中でこの人間との思い出が蘇るのか。

チルノには分からなかった。理解できなかった感情。それが今、この瞬間に。

『げほっ! ……チル、ノ……?』

ほんの少しだけ、理解できた気がした。

『あたしね、人間が嫌い。人間なんて、弱っちいし、脆いし、すぐに動けなくなるし』

それは紛れも無い本心。けれど、知ってしまった。

『でも、あんたのせいで色んな事を知ってしまった。普通だったら知らない事も、おもしろい事も、たくさん』

妖精として暮らしていた時には知らなかった事、少年と、寺子屋のみんなと遊んだこと。数々の思い出が、頭の中をよぎる。

『だからあんたは生かしてあげる。これで二度目なんだから、感謝しなさいよ』

腕を引っつかみ、精一杯の力で放り投げた。今はこれが精一杯。

『らしくもない、なんて、ルーミアやにとりに笑われちゃうかな』

そう自嘲気味に呟き、炎に包まれゆく中、彼女は胸に手を当て、体内から呼応するように眩い光を放つ球体を取り出す。

『身体は人間になっても、あたしが妖怪だっていう事は変わらないんだよね』

頬を流れるのは、一筋の涙。手に持ったのは、眩い光を放つ彼女自身の核。頭の髪飾りが、ひび割れる音が響く。

思い浮かべるのは、少年の顔。その時、少年が家屋の外から自分の名前を叫んでくれたのを、ハッキリと聞いた。

彼女は最後に笑顔を浮かべ、そして――。






「……これが、始まりなのね」

光の柱が立ち上った方向を見つめながら、誰にとも無く呟く巫女。

「そう、これが始まり。人間と妖怪の境界を超えるための、ね」

巫女の呟きに応えるように、紫は呟く。その表情は楽しげで、その様子を見ていた藍の背筋に冷たいものが走った。

「チルノちゃん……?」

ルーミアはキョトンとした表情で光の柱が立ち上る方向を眺め

「チルノさん……まさか……」

にとりもまた、光の柱が立ち上る人間の里を見ていた。

チルノやルーミアだけではなく、真夜中に立ち上る光の柱を、白黒のまほうつかいが、湖畔にある紅い館の住人たちが

現世とは別の世界―冥界の桜が咲き乱れる白玉楼で宴会を行っていた住人たちが

林の奥深く、閉ざされた館の住人達が、四季の花に彩られた花園にいる住人が、無縁仏にいる住人が

妖怪の山に住まう住人たちが、守矢神社に住まう住人たちが

地底に住まう住人たちが、一斉に光の柱が立ち上る場所を見て、感じ取る。

一つの小さな命が消える瞬間と、そしてその命により証明されてしまった「打ち破る事の出来ない境界線」の存在を。





少年は泣き続けた。三日三晩、目も腫れ上がることも、両親が心配する事も厭わずに、ただ泣き続けた。

胸に残るのは後悔。思い出すのは彼女と過ごした日々。永遠とも感じた瞬間はその実ただの思い出に過ぎず

それに縋り付いては泣き続けた。チルノのいた小屋を焼き討ちした住人たち全員は、その時の事を憶えていなかったという。

時間は残酷に過ぎてゆく。少年が立ち止まっていても、周囲は変化してゆく。

少年は青年に、そして大人へとなり、平凡な日常を生きてお淑やかな女性と結ばれ生涯の伴侶とし、家庭を築く。

けれども、彼の胸にあった後悔の念を拭いさる事は誰にも出来なかった。

そしてその後悔故に、彼は心の底から幸福感を得られずにいた。

幸福になってしまっては、かつて自分自身の命を助けてくれた少女に申し訳が立たないと幸福感を得そうになるたびに胸を痛めた。

チルノの最期を見た場所にあった氷の華は溶けることは無かった。しかし気味悪がった村人達の手により無理矢理撤去されてしまう。

慧音と共に反対したが、二人だけでは村人の総意を変えることは不可能だった。

彼はチルノに命を助けられてから毎日、欠かさずその跡地に赴いた。氷が撤去されて更地になった場所に足を運んだ。

『もう、こんなとこで何してんの?』

かつてのように明るい声で、過ぎた年月を何でもないことのように明るい言葉を発しながら出て来てくれるのではないか。

そんな淡い期待を抱き続け、生き続けた。彼の妻はそんな彼を咎めもせず、ただ愛し続けた。彼の愛が自分に向いていない事を分かっていても。

更に時が経ち、彼と妻の間に男の子と女の子が誕生した。彼は出来る限りの愛情を妻と子供に注いだ。

愛情を注がれた子供は成長していき、彼の手と顔には皺が刻まれ始めていた。

子供達が成長し、大人になって孫が誕生した時には既に足腰の動きが鈍くなり、体調を崩しては寝たきりの生活を強いられる日々が続いていた。

それでも彼は跡地に行く事を止めなかった。跡地は少年時代と変わらずの更地で、またいつか巡り会えるのではないかと微かな期待を胸に抱いて。

彼自身、自分の命が長くない事を悟っていた。だからこそ最期に一目見たかった。そして伝えたかった。あの時伝えきれなかった感謝と謝罪の言葉を。

そして願わくば、もう一度言いたい。あの時理解してもらえなかった言葉を。

月日は少しだけ流れ、夏の日差しが照りつけ、蝉の鳴き声が入り込んでくる和室の中で

布団に横たわる人間が、その長いようで短い生涯を終えようとしていた。

老人の意識は無く、掛け布団に覆われた身体は内外共に活動の停止を始めていた。

朽ちて沈み逝く心と身体。けれども、その老人の表情はどこまでも安らかで、ただ静かに来るべき時を待っていた。

その時、既に「五感」の停止が始まっている筈の身体が感じ取った。

ふわりと微かに舞う風と、いつかどこかで肌身で感じた空気、そして――。





「ねーねーおとうさん、おかあさん、ここに、おじいちゃんとおばあちゃんが眠ってるの?」

村の少し外れにある場所に、ある家族の姿があった。

「ええ、そうよ。ここは大事な場所だから、静かにね」

彼が天に召されてから何度めかの夏。彼の子供だった男の子と女の子は、立派な大人に成長し、お互いに良き伴侶を見つけて子を成し

こうして祖父の墓参りへときていた。

「どうして父さんはこんな更地なんかに墓を立ててくれって言ったんだろう」

娘の手を握りながら、男は呟く。

「それがお父さんの遺言だったからよ……あら?」

父の墓の前に、添えられている華。

「わー!またあの華だー!こおりでできた華だー!」

興味津々に走り出そうとする息子を女は抱き上げ、墓前に手向けられた華を見て呟く。

「毎年、どなたなのかしら。あんなにも繊細で綺麗な氷の華を添えてくださるなんて」

墓の前には。太陽光を反射し美しく光る氷の華が一輪、添えられていた。



氷の華 END
約三年ぶり、四作目の投稿でございます。

初めまして、 E.Sと申します。
今回はずっと暖めていて、いつか書きたいと思っていたものを形にしてみました。

何だか続き物のようになってしまいましたが、続編の予定は一切未定です。申し訳ありません。
また二次創作SSは書きたいと思いますので、またどこかでお会いできればと思います。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

それでは、またいつかどこかで。
E.S
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コメント



0.280簡易評価
5.70名前が無い程度の能力削除
やー、ベタですが良い話でした。2人が仲良くなる過程があっさりし過ぎている感はありましたが、テンプレに乗れていると思います。

ただ1点。人間と妖怪の壁は良いとして、チルノはいつの間に「妖精と妖怪の壁」を超えたんでしょう!?いったいぜんたい彼女の過去に何が…。
8.90絶望を司る程度の能力削除
泣くぞ!?泣いちまうぞ!いいな?いいんだな!?
9.703削除
悪くないですよ。話自体は悪くないです。
しかし「数あるテンプレ的作品のうちの1」から抜け出すための大きな武器が無かった、
それが伸び悩んでいる原因かと思います。
あとはにとり、もうちょっと考えて発明しようか。
話自体はいいんですけどねー……。惜しい。