Coolier - 新生・東方創想話

それさえ在れば満ちるもの

2013/07/21 06:26:44
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※ いろいろあって椛と美鈴が付き合っている話です。






        それさえ在れば満ちるもの



     ◆



 薄ぼんやりとした月の明かりが、大地を曖昧に照らし出す。野原に根付いた野草の群れも、ちらりほらりと立つ高木も、ざわめく不気味な影として、夜闇に姿を浮かばせている。
 今宵の夜空は薄い雲で覆われており、月を飾る星達を目にすることは叶わない。月そのものの姿さえ、はっきりと見ることは出来ないようだ。
 だが、今の私にとって、月の一つや二つ拝めないことなど、何の問題でもない。そんな物が無くとも、今宵が良き夜であることには何の疑いも無いのである。
 何故なら、私の傍には、月よりも明るく、そして美しい女性(ひと)が居るのだから。

「やっぱ、メルランさんのトランペットはいいわね。気力が湧くって言うか、何て言うか…。聴いてる真っ最中にさ、無性に体を動かしたくなってきちゃった」
「解ります。最後の曲の独奏でしょう?」
「そうそう! あそこから三人揃ってのフィナーレまで、もうずっと鳥肌立ちっぱなし!」

 私の隣を歩く彼女が、今にも走り出しそうな、浮き浮きとした様子で話す。
 その艶やかな紅い髪は歩を進める度にゆらゆらと揺れ動き、朧な月の明かりを受けて、妖しく煌めいている。
 彼女は紅美鈴。吸血鬼レミリア・スカーレットの邸宅、紅魔館で門番を勤める妖怪である。

「私も、弾幕勝負をしたくなりました」
「お。やる? 軽くスペカ二枚くらいで」
「良いですね。貴方が手加減をしないのなら、ですが」

 そして、私は犬走の椛。妖怪の山で哨戒をしている白狼天狗だ。
 今日は彼女の月に一度有るか無いかという貴重な休日を使わせてもらい、二人で騒霊達の夜行演奏会を聴きに行っていた。今はその帰り道である。
 帰り道と言っても、山か館に真っ直ぐ帰ろうとしているのではない。ただ当ても無く、夜の幻想郷を二人でぶらぶらと散歩しているだけだ。

「そりゃムリだわ。あんたがケガしたらどうすんのよ」
「またそうやって、私を馬鹿にするのですか? 怪我をするのは貴方の方かも知れませんよ」

 これでも長年、武人として鍛えてきた身である。遊びに出掛ける幼子(おさなご)のような扱いを受けるのはいただけない。
 だが、彼女が私の心配をしてくれること、そのこと自体は嬉しい。本当に嬉しい。
 とは言え、余り一方的に過保護な扱いを受けるのも悔しいので、少しだけ機嫌を損ねた振りをしてみることにした。
 ところが、彼女に動じた様子は無い。それどころか、首を少しく傾けて私の顔を見下ろしながら、妙に意地悪そうな笑みを浮かべている。

「拗ねる椛も可愛いわね」

 たわい無い。私が何をしてみたところで、全ては彼女の糧になる。
 そして彼女は、このたったの一言で、容易く私を黙らせるのだ。



 烏滸(おこ)がましいことに、今より四月(よつき)程前から、私は彼女と交際をさせてもらっている。
 ほんの六月(むつき)ばかり前、彼女と初めて出会うまでは、自分が婦人と斯様な関係に至ろうなどとは全く予想していなかった。
 むしろ、今でも夢ではないかと思うことが有る。
 生まれて初めて恋い焦がれた相手が女性であったこと以上に、その相手が私と同じ想いを抱いてくれたこと。それが、未だに信じられずに居るのだ。正直なところ、余りに分不相応な幸せを享受してしまっているような気がして、今に罰が当たるのではないかと不安ですらある。
 もっとも、これを彼女に伝えると、私が安心を求めて抱擁や口付けの催促をしていることにされるので、敢えて言葉にはしないが。

「…あんたってさ」

 暫く黙って私の様子を見物していた彼女が、途端に真面目な面持ちになって話し掛けてきた。

「何でしょう」
「案外チョロいわよね。ちょっと心配になってきたわ」
「む…」

 心外である。不本意なことこの上無い。
 その言い方ではまるで、私が誰にでも同じような態度を取るみたいではないか。

「馬鹿を言わないでください。何も心配される謂れは有りません。貴方が言ってくれたのでなければ、そんなことで……」

 言い掛けて、ふと気が付く。
 いや、待て。私はまんまと罠に嵌められていないか、と。

「あれ。どしたの椛? 続きは?」

 思った通り。案の定だ。
 歩きながら器用に身を屈め、私の顔を覗き込んでくる彼女の顔は、先ほどより一層意地悪く笑っている。
 大方、私にこれを言わせたかっただけなのだろう。

「…何でも有りません」

 私は足を速め、覗き込んでいる彼女の頭を無理矢理に退かせた。
 高下駄の歯で野草を強く踏み付け、ずかずかと歩みを進める私に、そのすぐ後ろを追い掛けながら、彼女が言う。

「冗談だってば。椛が浮気するなんて思ってないよ」
「そう言う貴方は」

 と、言い掛けたところで、突然、彼女が背後から私の体を掴まえ、ぐいと自分の方へ引き寄せてきた。
 無理矢理に向かい合わされた私が慌てて顔を上げた時には、既に目の前まで彼女の顔が迫って来ていた。そして、そのまま、某かの言葉を発する暇も与えてもらえず、強引に口付けをされてしまった。
 いや、彼女のは口付けと言うより、口吸いと表現した方が適切かも知れない。それを素直に受け入れる私も悪いのだが、この行為自体、嫌いではないので仕様が無い。
 暫しの後、ようやく私の舌と唇を解放した彼女は、じっと此方を見詰めて微笑んだ。

「あんただけだって」

 そんなことは解っている。解り切っている。
 何も、ここまでしてくれなくとも、本気で疑うつもりなど毛頭無いというのに。

「…強引ですね」
「イヤなら噛めば?」
「人前でやったら、そうします」

 おそらく、有言実行はしないだろう。私には恋人の舌を喰う趣味など無い。
 と言うより、仮に本気で咬むつもりだっとしても、出来ない。毎回毎回、彼女と口付けを交わしている間は、何も考えられなくなってしまうのだから。
 しかし、星明かりの届かぬ薄暗い夜とは言え、我々妖怪にとっては昼間と大差の無い視界で、しかも、此処は野原の真ん中だ。誰かに見られたりしていないか、と些かの不安が過(よぎ)る。
 私は思わず妖力を用いて千里眼を使い、辺りに人影の無いことを確認した。少なくとも、この野原には誰も居ないようである。
 安心して再び歩き始めた私の隣で、一緒に歩き始めた彼女がクスクスと笑う。

「見てるヤツがいるんだったら、見せ付けてやればいいのよ」

 どうやら、私が千里眼を使ったことに気が付いていたらしい。
 互いの立場が立場なだけに、余り堂々としているのもどうかと思うのだが、私は彼女のこういう大らかなところが好きなのだ。
 だからと言って、軽々しく首肯するわけにもいかないので、結局、何も言えず終いなのであった。
 ふと気が付けば、辺りには湿り気の強い風が吹き始め、雲の上から幽(かす)かに地上を照らしていた月の明かりは、一層薄らいできていた。



     ◆



 二人で散歩を続けること、暫し。私達は魔法の森の端へと辿り着いていた。端というのは便宜上の言い方で、辺りには既に、林とでも言うべき程度の木立や茂みが散在している。
 今は、森をぐるりと迂回するようにして、その林の中を歩いているところだ。
 真っ直ぐに奥の方へと入り込んでしまっても良かったのだが、この森特有の茸から出る、幻覚作用の有る胞子の影響を彼女が懸念したため、避けて通ることにしたのである。

「貴方も私も、そう易々と幻覚に陥ることは無いと思いますが」
「まあね。念のためよ。念のため」
「ですが、宜しいのですか?」
「うん?」

 実は今晩、この森には、紅魔館の住人が二人やって来ている。
 一人は、館の主人レミリアの妹君であるフランドール・スカーレット。私とは時折盤上での勝負をする仲であり、専ら愛称で「フランさん」と呼ばせてもらっている。詳細は省くが、私が美鈴さんと出会う切っ掛けになった妖怪(ひと)でもある。また、度々、私に彼女を「奪(と)られた」と発言しており、本人曰く私の「恋敵」であるらしい。
 もう一人は、レミリアの知己である魔女、動かない大図書館ことパチュリー・ノーレッジである。
 元々、森に用事が有ったのはパチュリーの方で、森に住む魔法使いのアリス・マーガトロイドを訪ねると言う彼女に、フランさんが自分も同行すると言い出したのだ。当初、パチュリーは難色を示したそうだが、彼女の使い魔や美鈴さんが説得を繰り返した結果、渋々承諾してくれたらしい。

「様子を見ておきたかったのでは?」
「ああ。フランドール様のことね」
「はい」

 フランさんがパチュリーと二人で館の外へ行くのも、魔法の森を訪れるのも、今日が初めてのことである。そもそも、彼女が外出するようになったこと自体、つい最近の話なのだ。
 その為、美鈴さんはここ数日、頻りに二人のことを心配する素振りを見せていた。
 当のフランさんからは過保護だ心配性だと言われていたが、そうなるのも仕方の無いことだと思う。彼女にとって、あの館の住人達は皆、家族同然の大切な存在なのだから。

「…うん。そうね。気になってんのは確かかな」

 そう言って、彼女はその場に立ち止まり、首を後ろに傾けて上方を仰ぎ見た。
 ざわめき揺れる枝葉の隙間からは、厚い雲に覆われた闇色の空が垣間見えている。空はすっかり雨模様のようだ。

「アリスん家(ち)に行ってんだから、大丈夫だと思うけど…。パチュリー様が一緒なんだし…」

 些か歯切れの悪そうな彼女の気掛かりは知れている。流水を天敵とする吸血鬼のフランさんが、雨に降られはしないかと心配なのだ。
 自らを気分屋と称し、物事に飽きやすいフランさんのことだから、うっかり屋外へ出てしまっている可能性は大いに有る。断じて思慮分別に欠けた妖怪(ひと)ではないのだが、気紛れに衝動的な行動を起こしたがるので、油断出来ない。
 むしろ、私の見立てでは、家の中で大人しくしている確率の方が低い。パチュリーやアリスが積極的に彼女を構うのならともかく、そうでないなら、おそらく四半刻(しはんとき)と持たないだろう。
 私の千里眼で確認出来れば良いのだが、魔法の森は秘密主義の魔法使い達によって至る所に結界が張られており、妖力を用いて見渡すことが困難になっている。私程度の力では、何処か一点に絞って覗き見るのが精一杯だ。おまけに、私の視界は屋内までは届かない。
 こういった事情は美鈴さんもよく知っており、様子を見たいのなら直接向かうしかないということも、重々承知している筈である。
 彼女はしばらく空を眺めていたが、やがて少しだけばつの悪そうな笑みを浮かべ、私の方へと向き直った。

「ごめん。やっぱり、ちょっと見に行ってもいい?」
「勿論です」

 何も謝ることなど有りはしない。私も、出来ればそうしてほしいと思っていたからこそ、フランさんの話を持ち出したのだ。
 逢瀬の最中に無粋だという自覚は有るし、二人きりの時間が惜しくないと言えば嘘になる。
 だが、彼女には心配事を抱えたままで居てほしくない。それに、無理に私に気を遣ったりせず、家族のことを大切にしてほしい。
 詰まるところ、これは私の我が儘なのである。

「…椛」

 立ち止まっていた足を森の方へと向け、歩き出そうとする私を、不意に彼女が呼び止めた。その声はやや低く、警戒を促していることが窺える。
 何事かと思い、散漫になっていた注意を払いなおして辺りの気配を探ってみると、一人の妖怪がすぐ近くまで来ていることに気が付いた。気が付くと共に、右手が腰に提げた柳葉刀の柄へと伸びる。
 間も無く、木立の間から、その妖怪が姿を現した。

「憶えのある波長だと思ったら…。丁度良かったわ」

 独特の洋装に、薄い藤色の長髪。頭上で半端に垂れた白くて無駄に長い耳。そして、体に染み付いた種々の薬品の臭い。
 その妖怪の名は、鈴仙・優曇華院・イナバ。迷いの竹林に在る奇妙な住人達の屋敷、永遠亭で使い走りをしている妖怪兎である。聞くところによると、月から来た兎を自称しているらしい。
 性格は高飛車で利己的で自分勝手。根っからの悪党ではないものの、何かと他人(ひと)を小馬鹿にした言動が鼻につく。
 私と顔を合わせるのはこれが二回目なのだが、初対面の印象が絶望的に悪かったこともあり、はっきり言って、余り気分の良い再会ではない。

「お久しぶりです」

 美鈴さんが警戒心を顕にしながら挨拶すると、鈴仙はきょろきょろと目玉を動かし、私と彼女とを交互に見てきた。
 その目線が三回ほど往復したところで、口許に不愉快な薄ら笑いが浮かべられる。

「ええ。久し振りね、門番さん。今夜は犬の散歩?」

 以前に会った時、詰まりは初対面の時のことだが、私はこの兎に「二度と白狼天狗を犬などと呼ぶな」と注意していた。無論、その直前に「犬」呼ばわりされた為である。
 その事実と、ただ今の過去を省みぬ無礼な発言とは、私が妖弾(ようだん)を放つのに十分過ぎる理由となった。刀を抜かなかったのは、細やかな自制心が働いた為だ。
 しかし、私が放った十と二発の妖弾は、あっさりと避けられてしまう。鈴仙はまるで私の攻撃を予測し切っていたかのように余裕の表情を浮かべつつ、最小限の動きだけで全ての弾を躱し切った。

「この間から進歩が見られないわね。ちゃんと修行してる?」
「五月蝿い。余計なお世話だ」
「あのね、あなたは性格も戦い方も単純すぎるのよ。もう少し相手を見て、フェイントを掛けると…かッ!?」

 偉そうに講釈を垂れようとしていた鈴仙が慌てて体を仰け反らせる。何時(いつ)の間にか気配を隠して左方へと廻り込んでいた美鈴さんが、その顔面に向けて拳を放ったのだ。
 残念ながら、彼女の拳は鈴仙の鼻先を掠めるに留まり、風を切る音を立てて空(くう)を穿つ。一方、体を反らせた鈴仙は片手を地面に突き、そのまま後ろ向きに一回転して元の体勢へと戻った。
 不意打ちに対して何事か言いたげにしている鈴仙の顔を、彼女がぎろりと睨み付ける。

「私(ひと)の女をイヌ呼ばわりしてんじゃないよ」

 これだけ堂々と宣言されてしまうと、嬉しいような、流石に少し恥ずかしいような、複雑な心持ちだ。自分でも、かあっと頭が熱くなっているのが判る。
 鈴仙はそんな私を呆れたような目で見つつ、深く、そして大きく息を吐いた。

「はいはい。ごめんなさい。まさか、本当に付き合い始めてるなんてね……」

 あれは今から四ヶ月前。まだ私が一方的に美鈴さんへ想いを寄せていた頃のことだ。
 この兎は、波長なるものを掌握する能力によって、その事実を看破していた。
 しかし、そのことで私を蔑みはしなかった。からかわれたり、彼女と二人きりになるようにと変な気を遣われたりはしたが、それだけだったのである。
 あらゆる分野に精通する薬師の弟子であるが故に、そういった指向を持つ者など、疾(と)うに見慣れているのかも知れない。もっとも、私は彼女以外の女性に――と言うより、他の誰に対しても、恋愛感情を抱いた憶えは無かったのだが。

「どうやって口説いたのよ?」
「うちに通いつめただけですよ」

 質問を突き付けられた私に代わり、彼女がさらりと答える。
 同時に、彼女は素早く私の後ろへと回り込み、その両腕で力強く抱き締めてきた。

「わ!?」
「私が勝手にオチました。ね?」
「め、美鈴さん。人前でこういうことは…その…」
「いいじゃない。どうせ鈴仙さんにはバレちゃってんだし」
「そういう問題では…ないとは言いませんが、ですが、何も目の前で…」

 おたおたと狼狽える私と、何故か異様に自慢げな美鈴さんを前に、鈴仙が先程よりも一層大きな溜め息を洩らす。

「…何よ、そのため息。何か文句でもあるんですか」
「……別に」

 そう言う鈴仙の顔は、見るからに面白くなさそうであった。
 詰まらぬ。詰まらぬ。と、何時(いつ)不満を述べても可笑しくないような表情である。
 その様子を訝しく感じたためか、ようやく彼女が私を抱く力を弱めてくれた。

「それより、あなたにやってもらいたいことがあるんだけれど」

 鈴仙は強引に話を変え、無礼にも私を指で差してきた。
 何の用事かは知らないが、この兎の頼みを聞いてやる義理など、寸毫たりとも有りはしない。
 無視する。その結論を出すまで、一瞬すら掛からなかった。

「美鈴さん。そろそろ行きませんか」
「ん。そうね」
「さらっと無視(スルー)しないでよ」
「アリスの家の場所は知っているのでしょう?」
「うん。引っ越したりしてなきゃいいんだけど」
「ちょっと! 話ぐらい聞いてくれても良いじゃない!」

 改めて歩き始めた私達の後ろで、兎がぎゃあぎゃあ煩く喚いているが、気にせずに進む。
 大体、あの兎は他人(ひと)に物を頼む態度がなっていない。実力が私を上回っていることは認めてやっても良いが、間違っても目上などではないのである。強者に媚びるのが天狗の習性であるとは言え、見返りの期待出来ない相手に無条件で払ってやる敬意など無い。
 と、二十歩ほど歩いたところで、前方に見える茂みが急にガサガサと音を立てて揺れ始めた。
 風のせいではない。あの茂みの中で、何者かが動き回っているのだ。

「まーた何かいるわね」

 彼女が訝しげにしているということは、前方に居る何者かの気配は、紅魔館の住人のものではないのだろう。
 生憎、私の眼でも、茂みの中は屋内と同じで見えづらい。と、なれば、頼りになるのは耳と鼻である。
 早速、嗅覚を研ぎ澄まし、意識して匂いを嗅いでみる。すると、件(くだん)の茂みの中から、妙に食欲をそそる、ある独特の薫りが漂って来ていることに気が付いた。

「んー? 気配は妖怪っぽいけど、知ってるような知らないような…」
「茸の匂いがします」
「うゃ? キノコ?」
「はい。まだ、群生する場所からは離れている筈なのですが」
「キノコ狩りの帰りじゃない?」
「歩くキノコだったりして」

 背後から鈴仙が口を挟んだ。
 あれだけ露骨に無視してやったのに、まだ諦めずに絡んでくるつもりらしい。

「いやいや。そんなもん、いるわけないでしょ」
「いるのよ、これが。もう何年も前だけど、冗談みたいに大きいのに追い掛けられて大変だったんだから」
「へぇ。さすが、災難には遭い慣れてますね……じゃなくて、何で付いて来てんですか」
「まだ用が済んでないから」

 知ったことか。他を当たれ。貴方のような不幸の申し子と一緒に居ると、私達まで巻き添えを喰うではないか。
 そう言って追い払おうとした、その時――

「あー! 椛!」

 ――甲高い娘の声が私の名を呼んだ。
 驚き、声のした方へ顔を向けて見ると、あの茂みの中から、一人の娘が顔を覗かせていた。
 娘は衣服に引っ掛かる小枝を振り切って茂みから飛び出し、体のあちこちに木の葉を付けて、一直線に私の方へと駆け寄って来た。

「椛! 大変なの! マイクがいなくなっちゃった!」

 遂に私を目掛けて飛び掛かってきた、その娘の名は、橙。妖怪の山の奥地に佇む摩訶不思議な屋敷、迷い家を根城とする猫又である。また、主人である九尾の狐から鬼神の力を授かった式神でもある。
 彼女はその両手で私の服をがっしりと掴み、如何にも切迫した面持ちで私の顔を見上げている。

「何かと思ったら、藍さんとこの黒猫じゃない」
「あ! 名前のわかんないヤツ!」

 今の今まで美鈴さんの存在に気が付いていなかったのか、橙は突然大きな声を上げて、彼女のことを指差した。
 私がその品行の悪さを窘(たしな)めるよりも先に、彼女は左手で橙のうなじを掴んで私から引き剥がし、その顔を自分と向かい合わせるように、ぐいと持ち上げた。

「美鈴、ね。紅美鈴」

 やけに優しい声色で、にっこりと微笑んで言い聞かせる。しかし、その笑顔の裏側には、猛り狂う明王の如き憤怒が隠されているのに違いない。と言うより、隠し切れずに辺りの空気がびりびりと震動している。
 そんな彼女の怒りを肌で感じたのか、橙は一度びくりと体を震わせた後、すっかり硬直してしまった。
 この娘の性格からして、悪気が有っての発言ではなかったのだろうが、妖怪(ひと)にはそれぞれ禁句というものが有るのである。

「ちょっと、門番さん。恐がってるじゃない」

 今度は鈴仙が彼女の手から橙を取り上げる。
 橙は暫しの間、目をぱちくりさせながら鈴仙の顔を見詰めていたが、やがて「あっ」と言わんばかりに大きく口を開いた。

「うどん!」

 ひょっとして、わざとやっているのではないだろうか。そう疑いたくなる程の失言振りである。
 美鈴さんに引き続き、鈴仙にも禁句を述べてしまった愚かな黒猫は、勢いよく空中へと放り投げられてしまった。
 幼い娘を投げ飛ばすとは褒められた行為ではないが、このことで鈴仙を咎めようとは思わない。因果応報以外の何物でもないからだ。
 それに、橙は空を飛ぶことが出来るし、それでなくとも猫なのだから、少々高く放られたぐらいでは何の危険も無いのである。
 案の定、彼女はくるりと体を回転させて軽やかに着地し、また私にしがみ付いてきた。

「椛ー! いじめられたー!」

 この娘と私とは前々からの知り合いで、これまでにも度々、こうして泣き付かれている。
 彼女は我々山の妖怪の一派ではないのだが、とある事情――主に畏敬と打算だが、具体的な内容は伏せることにする――により、手の空いている時には面倒を見てやることにしている。
 面倒を見るというのは、力を貸すとか手助けをするとか、それだけのことではない。多忙な九尾に代わり、躾を施す場合も有る。
 即ち、叱るべきところは叱っておく、ということだ。

「橙。ひとの名前はしっかりと憶えた方が良い。憶えていないならいないで、一言詫びを入れてから、もう一度名前を尋ねるべきだ。面と向かって『名前の判らない奴』などと言うものではない」
「…ごめんなさい」

 叱られた時は素直に謝るのが橙の良いところだ。もっとも、謝っても改善しないことが多々有るのは少々問題だが。
 それと、もう一つ。

「貴方が謝る相手は私ではない」

 そう促してやると、橙は体の向きを変え、美鈴さんに向かってぺこりと頭を下げた。

「ごめんなさい……えと…」

 橙は何かを言おうとして、すぐに言葉を詰まらせた。
 その様子から何事かを察したのか、美鈴さんは苦笑しながら膝に手を当ててゆっくりと腰を曲げ、その顔を橙の眼前へと運んだ。

「美鈴」
「…メイリン」
「よし」

 彼女がぐりぐりと頭を撫でてやると、橙は少し気恥ずかしそうに俯いた。
 これで、蟠(わだかま)りは無くなったと考えて良いだろう。
 そう結論付け、私は少し前まで話を戻すことにした。

「それで、誰が居なくなったと?」
「ちょっと。私への謝罪は?」

 わざと度外視していた兎が大いに不満げな声を上げ、またも話の腰が折られる。
 問答無用で放り投げておきながら、謝罪まで要求するとは何と図々しいことか。

「…何か文句が有るのか、優曇華院?」
「あなたなんかにその名で呼ばれたくないわ、イヌパシリ」

 その名に如何なる思い入れが有るのかは知らないが、誇り有る犬走の名を愚弄しようとは良い度胸だ。
 赦さぬ。この場で決闘を申し込んでやろう。
 と、私が懐の札に指を掛けたところで、俄(にわか)に橙が動き出した。彼女は小走りで私と美鈴さんの間を抜けて鈴仙の前まで移動し、先程やったのと同じように、ぺこりと頭を下げた。

「ごめんなさい、ウドンゲイン」

 この瞬間、私の頭に上った血は一遍に下がり、熱もすっかり冷めてしまった。同じく殺気立っていた鈴仙も、橙に謝られた途端、おろおろと狼狽し始めた。
 己の大人気(おとなげ)の無さを恥じる私の隣で、美鈴さんが声を出して笑う。

「え、ええ…。私の方こそごめんね、投げ飛ばしちゃって…。ええと…出来れば鈴仙って呼んでくれる?」
「冷たいおうどん?」

 それは冷製。

「うどんから離れて。鈴仙よ、鈴仙」
「レイセン?」

 無邪気な橙を前に、鈴仙は本当に戸惑った様子だ。
 普段、賢しくあくどい妖怪と一緒に居るせいで、素直に謝られることに慣れていないのかも知れない。

「子どもの前でケンカしちゃダメよねぇ」

 美鈴さんは相変わらずけたけたと笑いながら、そっと橙に近寄り、体に付いた木の葉を手で払ってやった。

「で? 椛に何を捜してほしいって?」

 改めて彼女が尋ねるも、橙はきょとんとして目を瞬いている。
 私を頼って飛び付いたまでは良かったのだが、関係の無いことで威圧されて投げられて叱られて、何時(いつ)の間にか当初の目的を忘れてしまったようだ。
 暫しの沈黙の後、いよいよ私が痺れを切らしそうになったところで、ようやく橙が慌てだした。

「マイク!」
「マイク?」
「えと、いつの間にかいなくなっちゃって、一緒にさがしてたんだけど、見つからないから帰るって…あ、マイクはめったにいない猫なんだけど、手下にしたくて修行してたら…えと、森なんだけど、あのね…!」
「慌てすぎ慌てすぎ」
「概ね判ったから、先ず落ち着け」

 要するに、マイクという名の珍種の猫が魔法の森で迷子になったというわけだ。
 それで、初めは誰かが捜す手伝いをしてくれていたのだが、途中で諦められてしまった、といったところか。薄情と言えば薄情な話だが、魔法の森に長居したくないと言うのも解らないではない。
 橙自身、森は危ないから迂闊に入るな、と主人から再三言われていただろうに。厄介な所で迷子を出したものだ。

「この森の中を捜すのは、私の眼でも難しいのだが…」
「え? そうなの?」

 声低く呈した苦言に、どういうわけか鈴仙が反応した。
 どうやら、私への用向きは森での捜し物――もしくは探し物であったらしい。こんな夜分に、茸でも探させるつもりだったのだろうか。
 一方、橙は今にも泣き出しそうな顔をして、じっと私を見詰めている。一度、誰かに捜索を打ち切られてしまっただけに、また断られるのではないかと不安で堪らないのだろう。
 斯様に憐憫(れんびん)の情を起こさせる表情で訴え掛けられては、断れるものも断れない。
 私は美鈴さんに申し訳無いと思いながらも、フランさんの安否の確認は彼女に任せ、橙の猫捜しを手伝ってやることにした。

「すみません、美鈴さん」
「ん。わかった」

 早い。
 彼女は屡々(しばしば)、こうやって私の先手を取ってくる。そして、それは大抵、単なる早合点ではないのだ。

「後で私もそっち手伝うから。もしかしたらフランドール様も捜さなくちゃだし」
「そちらは杞憂だと良いのですが…」
「さがしてくれるの!?」

 橙の顔が、ぱっと明るくなる。
 喜ぶのは見付かってからにしろ。という言葉が喉まで出掛かったが、寸前で止めて飲み込んだ。何も、わざわざ不安を煽ってやることはあるまい。

「デート中なんだけどね。椛の優しさに免じて許してあげる」
「デート?」

 危うく咳き込みそうになった。
 どうせ隠そうとしても、すぐに露呈してしまうのだから、無理に隠す必要は無い。交際を始めた日、そう言う彼女の意見に賛同したのは確かだが、何も、自ら進んで暴露しなくても良いのではないだろうか。

「そこは橙(このこ)の可愛さに免じるところじゃないの?」
「何言ってんですか。可愛さに免じるにしても椛一択ですよ」
「……うん。ツッコミを入れた私がバカだったわ」

 うんざりというのは、正に今の鈴仙のような様子を言うのだろう。眉間に皺を寄せ、片手で額を押さえている。一見すると、頭痛に苛まれているようにも見える。
 私も恥ずかしさに顔を覆いたい気分だが、鈴仙が諦めた今、私が何とかしなければならない。放っておくと、彼女は間違いなく、橙に余計な知識を植え付ける。
 橙がまだ首を捻っている今の内に、話を逸らさなければなるまい。

「美鈴さん」
「ん」
「パチュリーは、猫は平気でしょうか」
「んゅ? …うん。ネコアレルギーはないと思うけど?」
「では、橙を連れて行ってくれませんか?」
「アリスん家(ち)に?」
「はい。そこで橙を預かってもらえれば、と」
「え? わたしも! わたしもさがす!」

 橙は慌てて宙に浮かび上がり、両手をぶんぶんと振り回しながら、声高く言い放った。
 自分が連れて来た猫が居なくなったのだ。自分も捜したい、捜すべきだと思うのは、よく解る。
 しかし、それを認めてやるわけにはいかない。

「おそらく、半刻(はんとき)も待たずに雨が降る」
「にゃっ!?」

 雨と聞いた途端、橙の真黒い二つの耳と真黒い二又の尾が、ぴんと真っ直ぐに立てられる。
 この娘は水が大の苦手なのだ。

「この子も雨ダメなの?」
「猫ですから。それに、濡れると式の札が剥がれてしまいます」
「そっか。式神だっけ」

 妖怪としてはまだ相当に幼い橙が流暢に言葉を話すことが出来るのは、式神であるが故のことだ。札が剥がれると、彼女はただの妖獣に戻ってしまい、意思の疎通に難儀することになる。
 懸念事項は少ない方が良い。

「それじゃ、しょうがないね。あんたは家ん中で大人しくしときな」
「でも、でも、わたしも!」
「ダーメだってば。あんたまで迷子になったらどうすんのよ」
「ならないもん!」

 聞き分けの悪い橙を彼女が優しく両腕で抱えるが、橙はどうしても納得がいかない様子で、じたばたと手足を動かしている。

「大丈夫。私も捜してあげるから」
「え?」
「え?」

 突如として挟まれた発言に、思わず驚きの声が洩れる。
 美鈴さんも私も、鈴仙の方を振り向いたまま、体が固まって動かない。

「………何よ。何でそんなに驚くのよ」
「鈴仙さん…。いつからそんな兎(ひと)になったんですか」
「何か悪い物でも食べたのか」
「私を何だと思ってるわけ!?」
「自己中」
「右に同じ」
「あのね…。私だって、他人(ひと)の捜し物くらい手伝うわよ」

 意外だ。基本的に、自分と身内以外の為には動かない女だと思っていた。
 もっとも、妖怪としては、それで普通なのだが。

「その代わり、うちの」
「ああ。やっぱり見返りは求めるんですね」

 美鈴さんがほっと胸を撫で下ろす。

「…当たり前でしょ。私だって暇じゃないのよ」
「暇でもないのに、私達にちょっかいを掛けていたのか」
「あなたが使い物にならないって判ってたら、関わらなかったわ」

 この兎に重用してもらいたいとは思わないが、使い物にならないとまで言われるのは業腹である。
 しかし、敢えて反論はするまい。森を覆う魔力に千里眼が阻まれてしまうのは、単(ひとえ)に私の修行不足が原因なのだから。

「…それで、要求は何だ」
「もう。早く言ってくださいよ。急がないとホントに降ってきちゃうじゃないですか」
「あなたが止めたんでしょ!? だから、猫を捜すついでに、うちの」
「キタキタキタキター! 早速ニャンコの反応がきた!」

 突然、森とは反対の方から、何者かの騒ぐ声が聞こえてきた。丁度、妖怪の山が在る方角だ。
 鈴仙はぴたりと話を中断し、如何にも怪訝そうな顔をして、そちらを振り向いた。少し遅れて、美鈴さんもそれに続く。

「流石は最新型! 流石はお稲荷様印! こんなに早く見付かるんなら、最初っからコイツを使えば良かった!」

 何者かは休むこと無く一人で喋り続けており、その声は段々と大きく、鮮明になってきている。
 此方へ向かって来ているのだ。それも、真っ直ぐに。私達を目掛けて。
 普段の私なら、逸早く千里眼で正体を確認し、皆に警戒を促す場面である。しかし、今回はそれをするまでもない。
 聞こえてくる声が、余りにも聞き慣れたものであった為だ。

「さあ、待ってなよ! 迷子の迷子の仔猫ちゃん! 今、迎えに行ってやるからな! って、あれ!?」

 夜中に大声を上げて走り回る虚者(うつけもの)が、遂に私達の眼前までやって来た。
 左右で束ねた碧い髪。その上に乗せられた、膨らみの有る緑の帽子。身を包む衣服や背に負う鞄からは、金属と油の臭いが漂ってくる。
 私の古くからの友人、河童の河城にとりである。
 彼女は左手に妙な黒い板――何かしらの装置らしき物を持ち、目を丸くして私達のことを眺めている。

「…おろ?」

 手許の装置を見る。私達を見る。また手許の装置を見る。また私達を見る。
 それを何度も繰り返す。

「橙じゃん!」

 とうとう愕然として叫んだ。
 一体、何をそんなに驚いているのか。

「何なのよ、あんたは」

 奇行に堪え兼ねた美鈴さんが鬱陶しそうに尋ねる。
 すると、にとりは無駄に大袈裟な身振りでぐるりと腕を回し、右手の親指で自分自身を指差した。
 大見得を切っているつもりなのだろうが、百歩譲っても様にはなっていない。

「私は世紀の技術者、河城にとり! 通称、谷カッパのにとりだよ! 趣味は機械弄りと天狗大将棋、好きな物は胡瓜と人間!」
「知ってるから」
「最初以外ね」
「訊いているのは、そこではない」
「にとりー!」
「ひゅいっ!?」

 橙が美鈴さんの腕から強引に抜け出し、にとりに飛び掛かった。

「さっきはよくも見すてたなー!」
「ちょ、ま、危なっ!」

 顔を引っ掻こうとしてぶんぶんと振り回される橙の爪を、にとりが必死になって避ける。

「私は別に…っと! あんたを見捨て…たっ!? わけじゃ…!」
「帰るっていった! 見つからないから帰るって!」

 私達の前に橙の猫捜しを手伝っていた者の誰何など、全く気にしていなかった。
 それが誰か判ったところで、その者が改めて力を貸してくれるわけではない。そう考えていた為だ。
 まさかそれが、にとりだとは思わなかった。

「いや、ちょっくら工場(うち)に帰るとは言ったけ…ど! ちゃんと、もど…うわ!? 戻る、って言ったべ!?」

 先程、初めからこれを使えば良かった、などと言っていたことから察するに、にとりは猫を捜すための道具を取りに自分の工場(こうば)まで戻ったのだろう。あの手に持った装置がそうだと思われる。
 ところが、橙はそれを、なかなか見付からないから諦めて帰った、と誤解してしまったようだ。
 美鈴さんと鈴仙も同じ推察をしたらしく、二人とも呆れたような馬鹿馬鹿しいような面持ちで、橙の蛮行を傍観している。

「『戻ってくる』って言えば良かったのに」
「ってか、何でちゃんと説明しとかなかったかな」
「大方、勿体振って出し惜しみをしたのでしょう」
「あー、なるほど。驚かせたかったわけね」
「それで、子ども一人を森に置き去り? あの愛猫家(ナインテール)が聞いたら激昂しそうね」

 鈴仙の言う通りだ。にとりは先ず、橙の安全を確保するべきだった。
 新参者の妖怪ではあるまいし、森の危険さぐらい重々承知しているだろうに。

「ちょいと、椛さん! 見てない…で! 橙をと…止めてちょうだいよ!」
「要請(ヘルプ)が出たわね」
「どうする、椛?」

 暫し思案する。

――自業自得だ。諦めて、顔に格子状の模様でも描いてもらえ。

 そう切り捨てても良かったのだが、今は少々時間が惜しい。それに、にとりが持って来た胡散臭い装置も、ひょっとしたら使えるかも知れない。
 ということで、止めてやった方が無難だという結論に落ち着いた。

「一応、助けます」
「オッケィ」

 美鈴さんは了解の言葉を述べるやいなや、恐るべき速さで橙の背後へと回り込み、がっしりと羽交い締めにした。
 その手際の良さに惚れ惚れするのと、先を越されて手持ち無沙汰になってしまったのとで、私は思わず小さな溜め息を吐いた。

「いやぁ、助かったよ。有り難う、中国さん」
「その呼び方やめないと、このネコ解放するわよ」

 捕まえられた橙は未だ興奮が収まらないらしく、目を大きく見開いてにとりの顔を睨み付け、唸り声を上げながら、彼女の腕を振り払おうと暴れている。

「あんたも落ち着きなさいってば」

 事ここに至り、橙の様子が可笑しいことに気が付く。
 元々、気性の穏やかな方でないとは言え、ここまで昂りやすい性質(たち)ではなかった筈なのだ。

「美り…じゃなくて門番さん、ちょっとその子よく見せて」
「今の言いなおさなくてよかったですよね?」

 鈴仙が顔を覗き込むと、橙は次第に大人しくなっていき、やがて手足を動かすことを止めた。
 得意の波長弄りを施したらしい。
 原理は全く解らないが、その者の波長を長くすると呑気に、反対に短くすると狂気に陥る、とのことだ。今回の場合は、前者ということなのだろう。

「落ち着いた?」
「……うん」
「あなた、何か変なキノコ食べたでしょ」

 成る程。言われてみれば最初から、いやに顕著な茸の匂いがしていた。妙に興奮気味だったのは、某かの茸を口にしたことが原因であったのだ。
 と、納得し掛けたのだが、その問い掛けに対し、橙はふるふると首を横に振った。

「食べてない」
「本当?」
「変じゃなかったもん。全部おいしかった」

 味の話はしていない。
 恐るべき怖いもの知らずである。一体、どれ程の茸を口にしたのか。
 運が悪ければ、命を落としているところだ。少し興奮気味になる程度で済んだのは奇跡とさえ言える。

「橙。森の茸は無闇に食べるな」
「拾い食いすんなとは言わないけどさ」
「キノコだけはやめておきなさい」
「そうだよ、橙」
「……だって…」

 羽交い締めにされているところへ、四人から一斉に窘められ、橙はすっかり意気消沈してしまった。

「だって、食べたらわかるって言われたから…」
「何?」
「食べれないキノコは食べれないんだから、食べようとしたらわかるって…」

 皆、一斉に口を閉ざし、一時の沈黙が訪れる。
 式が無ければまともな会話も出来ないような幼い妖怪に、言葉遊びなどさせるものではない。

「…うん。『食べられないキノコ』って、そういう意味じゃないのよね」
「ちがうの?」
「いやぁ。世の中には、とんだ法螺吹きが居たもんだねぇ」
「笑い事か」
「その屁理屈、誰から聞いたのよ」
「にとり」
「ちょ、おま…!? それ内緒って言っ……!?」

 慌てて逃げようとするにとりの手から鈴仙が装置を奪い取り、私が腕を掴んで思い切り背負い投げる。
 投げ飛ばされたにとりは、偶々そこに立っていた粗樫の幹へと逆様に叩き付けられ、呻き声を上げて地面に落ちた。

「橙。にとりの言うことは信用するな」
「何も信じるなとは言わないけどさ」
「にとりだけはやめておきなさい」

 悪い河童に騙された可哀想な黒猫の頭を三人で優しく撫で回す。

「だっで…魔理沙がぞう言っでだがら……」

 地に臥した愚か者が何か言っているが、誰一人として気に留めようとはしない。
 一頻り橙を慰めた後、鈴仙がにとりから奪った装置を取り出して見せた。

「で、これが探知機みたいなんだけど」
「たんちき?」
「また通信機かと思ってました」
「あなたは通信機(それ)しか知らないんでしょ?」
「あはは。アタリです」

 この地で生まれ育った私と違い、美鈴さんを含む紅魔館の住人達は外の世界の出身で、幻想郷へ来たのも極最近のことだ。
 だが、外の世界に居る間も、目覚ましく発展した人間達の技術には余り触れてこなかったらしい。

「説明しよう!」

 何時の間にか復活していたにとりが声高らかに叫び出した。

「そいつはマーガレット二十三号! この私、スーパーエンジニア河城にとりの技術力と彼(か)の天才、八雲藍による命令式(プログラム)とが合わさって誕生した、最新型生命探知機だよ! 従来の型とは物が違う。これは、特殊な電波を発信することによって目標を探知する、今までに無い画期的な装置なのであります! まず、動物や妖怪が種族として持つ特有の動きや鳴き声をサンプリングして登録するんだね。すると、そいつらが周囲に与える極小さな影響を電波の反射から敏感に察知し、その変化から逆算して対象が居る位置を正確に」
「要するに、生き物と化け物を見付け出すための機械よ」

 鈴仙が強引に話を纏めた。
 放っておくと何時までも続く、ということに気が付いたらしい。

「へぇ。そんな便利なもんがあるんですね」

 解説を途中で打ち切られたことが余程悲しかったのか、にとりは私達に背を向けてしゃがみ込み、地面にのの字を書き始めてしまった。
 先の長々とした説明は全く理解出来なかったが、この装置が何と無く役に立ちそうだということは解った。
 しかし、これの何をどうすれば良いのか、私には皆目見当も付かない。幾ら目を凝らしてみても、硝子を嵌め込まれた、出っ張りの在る黒い板にしか見えないのである。
 他方、鈴仙はこれと言って戸惑う様子も無く、既に悠々と装置を弄り始めている。

「使い方が解るのか」
「当然。こんな原始的な装置、操作するだけなら簡単よ」
「最新型って言ってましたけど」
「あなた達みたいな地上民(バーバリアン)と一緒にしないで」

 この女が本当に月の兎なのだとすれば、月とは不愉快極まりない連中の巣窟であるに違いない。八雲の賢者が攻め込みたくなる気持ちも解るというものだ。
 しかし、今は沸き立つ殺意を抑えなければならない。
 にとりがすっかり鬱(ふさ)ぎ込んでしまっている以上、探知機は鈴仙に操作してもらう他無いのだ。

「マイクさがして! マイク!」

 橙が鈴仙の背中をよじ上り、その肩の上から顔を出すようにして乗り掛かった。

「はいはい。捜してあげるから、降りて。重い。それと爪が痛い」
「橙。急ぐ気持ちは解るが、少し大人しくしていろ」
「にゃ」

 しがみ付く橙を鈴仙から引き剥がし、後頭部が自分の首の辺りへ来るように抱き抱える。
 重い、と感じることは無い。しかし、私が抱えるのは無理が有った。
 橙の靴が私の足の甲を踏んだり、高下駄の台の側面を蹴ったりしているのだ。以前、同じように抱えた時は、精々踵で膝を蹴られる程度だったのに。
 おそらく、もう十数年もすれば、私よりも背丈が大きくなるのだろう。その頃には、式が憑いておらずとも一端(いっぱし)の妖怪と呼べるようになっているに違いない。
 私もまだまだ若輩なのだが、より若い者が成長していく様を見るのは、なかなかに感慨深いものだ。
 などと、妙な気分になってしまうのは、何も出来ることが無くて暇なせいであろう。

「そう言や、あんたら今日はデートじゃなかったのかい? 何だって、こんなとこで橙の手伝いしてるんさ?」

 果たして、本当に落ち込んでいたのか。にとりが何事も無かったかのような調子で尋ねてきた。
 にとりは、私が彼女と交際を始める前から、私の奇異な恋を応援してくれていた。そればかりか、「別に珍しいことでもない」と、同僚達の私に対する軽蔑の眼差しを和らげてくれた恩人でもある。
 もっとも、山のあちこちで言い触らして回り、やんごとなき方々にまで私と彼女の関係が知られてしまう原因を作ったのも、こいつなのだが。

「何処ぞの河童が山に帰ったせいで、代わりに泣き付かれた」
「ははあ、なるほど。私のお陰で、お愉しみが中断されちまったってわけだ」
「そういうこと。私も椛も、あんたに貸し一つだからね」
「お、良いね。久し振りにカステイラ食いたい」
「誰が菓子くれてやるっつったのよ」

 彼女の額に青筋が浮かび上がる。この場に橙が居なければ、今にも殴り掛かりそうな気配だ。
 だが、相対するにとりは全く平気な顔をして、へらへらと笑っている。

「冗談だってばさ。また今度、椛さんのアレな写真でも譲ってあげるから勘弁してよ」
「待て。何だ、その写真というのは」
「しょうがないわね。それで手を」
「打たないでください!」
「みゃ!?」

 思わず声を張り上げてしまい、抱えている橙を吃驚(びっくり)させてしまった。
 私がそのことを橙に詫びている間に、写真云々の話はうやむやに流されてしまう。

「…で、鈴仙さんも居るのは何で? 修羅場ってたん?」
「んなわけないでしょ。何か知らないけど勝手に付いて来たのよ」

 鈴仙は黙って機械を弄りながら、少しく眉を顰(ひそ)めている。

「椛、椛」

 急に、橙が私の名を連呼し始めた。
 大方、「暑いからいい加減に離せ」とでも言いたいのだろう。先程、耳許で叫んでしまったこともあるし、これ以上、私に抱き抱えられていたくないのに違いない。
 そう思い、そっと地面に下ろしてやると、橙はくるりと身を翻し、一つの質問を投げ掛けてきた。

「メイリンって男なの?」

 また、わけの解らないことを言う。
 私はともかく、この麗しき美女の何処に男子と見間違う要素が有るのだ。
 一瞬、何かの戯れかと思ったが、私を見上げる橙の顔は無邪気さと純粋さに満ちており、とても冗談を言っているようには見えない。
 では一体、何が橙に斯様な疑問を抱かせたのか。その答えは、失笑を洩らした彼女が教えてくれた。

「女だよ。女同士でデートしてたの」
「なんで?」

 古今東西、逢い引きとは男女が行うもの。
 幼い橙は、今の今まで、その常識に例外が存在することを知らなかったらしい。あるいは、主人が意図的に避けさせていたのかも知れない。
 その為、私か美鈴さん、何れかの性別を疑わざるを得なかったのだ。選ばれたのが私でなかったのは、単に旧知の間柄だからであろう。

「何でって、そりゃ、決まってんでしょ」

 と、彼女は私の左肩に手を回し、ぐいと私を引き寄せた。
 抵抗する暇も力も有りはしない。いや、そもそも、彼女の腕を邪険に払い除けることなど、私には出来ない。

「好きだからよ」

 この一言で、私は忽ち逆上(のぼ)せてしまう。
 無垢な子供に何を吹き込むのか、と諫める余裕など有る筈も無い。それどころか、その言葉を何度でも繰り返してほしいとさえ思ってしまっている始末である。

「でも、そういうのはデートしたりキスしたりとはちがうって、藍さまがいってた!」

 私も、そう思っていた。大分昔から知識としては持っていたし、その手の噂が有る知人も居たが、自分には関係の無いことだと疑わなかった。
 彼女に出逢うまでは。

「私も違うクチだと思ってたんだけどね。椛があんまり可愛いもんでさ」
「椛はかわいくない! カッコいいもん!」
「わかってんじゃない。仕事中とか気合い入ってる時は格好いいもんね。でもね、プライベートになるとすっごい可愛いのよ」
「何を力説しているのですか、貴方は」

 流石に口を挟まずには居られなかった。

「何って、あんたの可愛さについて」
「解りました。解りましたから、その辺りで勘弁してください」

 格好良いと言われるのも、可愛いと言われるのも、決して嫌ではない。嫌ではないが、まるで全身を擽(くすぐ)られているかのようにこそばゆい気持ちになるので、程々で止めてもらわないと悶え死にしそうになる。
 それに、これ以上橙に余計な知識を付けさせるのは本当に不味い。九尾に後で何を言われるか判ったものではない。
 今の内、橙が訝しげに「変なの」と呟いている内に切り上げておくのが吉だ。

「なあ、鈴仙さんよ。あんた、よくあの二人に絡む気になったね」
「今、後悔してるところ。事ある毎にイチャイチャイチャイチャ…。鬱陶しいったらないわ」
「おんや? この間は、温かく見守ってやろう、とか宣ってなかったかい?」
「…うるさいわね。もっと苦労すると思ってたのよ」

 にとりは何時の間にか私達から距離を取り、声を潜めて鈴仙と話をしている。
 自分から話題を振った癖に、何と無責任なことだろうか。

「それより、探知機(これ)、壊れてない?」
「うい? なして?」
「森(あっち)から猫の反応があったんだけど、凄いスピードで移動してるのよ」

 小声で話すのを止めたかと思えば、今度は何やら不穏な話になってきた。
 美鈴さんもそのことに気が付いたらしく、私の肩からそっと手を離す。
 ようやく動けるようになった私はにとり達の方へ近寄って行き、鈴仙が手に持つ機械を覗き込んだ。その背後から、美鈴さんと、宙に浮かんだ橙が同じように機械を覗き込む。
 装置に嵌め込まれた硝子には、大きさの異なる複数の同心円が描かれており、周囲に文字やら数字やらがごちゃごちゃと記されている。それらの円の上半分を、一つの点が右へ左へ忙しく動き回っていた。

「この落ち着きの無い点が猫(ターゲット)でしょ?」
「だねぇ」

 と、にとりは一度森の方へ視線をやってから、再び探知機に目を落とした。

「…うん。確かに森の方だけど、ちょいと速過ぎるな」
「マイク? マイク?」
「何? 速過ぎって、どんくらい?」
「時速百五十キロくらい」
「はあ!?」

 どう考えても怪物である。鴉天狗には遠く及ばないものの、そこいらの妖怪に出せる速度ではない。少なくとも、私が走るよりは数段速い。
 到底、探している猫だとは思えなかった。幾ら何でも、自分より遥かに強力な化け猫を手下にしたいと嘯く程、橙は愚か者ではないからだ。

「橙。一応、訊いておくが、マイクというのは妖怪か?」

 案の定、彼女は首を横に振った。

「ちがう。ふつうの三毛猫」
「三毛猫? あんた、さっき、珍しいネコだって」
「あ、待って。急に減速して止まった」

 改めて装置を見てみると、確かに、先程まで激しく動いていた点が、今は一ヶ所に留まっている。
 それを確認し、にとりと鈴仙が顔を見合わせた。

「故障(バグ)じゃない?」
「判らん。…けど、橙はちゃんと探知出来たんだよねぇ」
「なら、猟豹(チーター)の妖怪とか?」
「いやぁ、聞いたことないね。虎の姉ちゃんなら知ってるけど」

 二人は揃って「うーん」と唸り、首を捻っている。
 考えても判らないのなら、実際に見て確かめるしかあるまい。
 ようやく、私に手番が廻ってきたようだ。

「その猫…かどうかは知らないが、正確な位置は判るか? 十歩程度なら誤差が有っても構わない」
「お。見てくれるのかい、椛さん」
「え? あなた、森の中は見えないって言ってなかった?」
「一点に絞れば辛うじて見える。少し時間は掛かるが」
「ふうん。つくづく半端な能力ね」

 一々癪に障る兎だ。

「余計な口を叩いている暇が有ったら、早く位置を言え。目標が動いたらどうする」

 鈴仙は不満そうな顔を見せながら、一寸にも満たぬ小さな妖弾(ようだん)を二つ空中に放ち、それらを水平に並べて静止させた。手前の弾から奥の弾を真っ直ぐに見た、その先に居る、ということらしい。
 それは正に森の奥。丁度、橙に遭遇する前、私達が向かおうとしていた方角であった。
 次に、にとりから距離を教えてもらい、千里眼を用いて森の奥地へと視界を飛ばした。
 森の中はまるで磨り硝子を隔てたように見え難くなっているが、目を凝らして徐々に焦点を合わせていく。

「鈴仙さん鈴仙さん」
「何よ」
「椛に見てもらってる間に、その機械でフランドール様を捜してくれません?」
「え」
「おんや? 何、何? フランが行方不明になってんのかい?」
「や、そうじゃなくて…ってか、そうじゃなかったらいいな、ってとこなのよ」
「フランドールってだれ?」
「うちのお嬢様よ。レミリア様の妹様」
「情緒不安定の悪餓鬼(ラスカル)ね」
「ちょっと。そんな言い方される謂れはないでしょ。フランドール様があんたに何したってんですか」
「この間、永遠亭(うち)の備品を壊しまくってくれたのは誰?」
「……あれは………フランドール様だけじゃなくて…諏訪子さんとか…魔理沙とか……てゐさんだって………」

 やっと、物が認識できる程度に視界がはっきりしてきた。
 森の中の少し開けた場所に、洋風の家らしき建物が一軒。外壁に嵌め込まれた窓からは、僅かに明かりが洩れている。
 そして、その庭先には――

「話戻すけど、そいつでフランを探すのは無理だよ」
「へ? 何で?」
「情報(データ)が登録(インプット)されてないからよ」
「インプ?」
「ああ、もう。これだから地上の民は…。……ええと…。この装置はね、吸血鬼っていうのはどんな妖怪だ、って、予め教えておかないと探せないのよ」
「任せてください。吸血鬼の説明だったら」
「ああ、いやいや。その、教える為の言語ってのが有るんだよ」
「何語? こう見えても、色々いけるわよ」
「うん。そうじゃなくて……」
「違うんですか?」

 ――背丈が橙と同じか、それより低いぐらいの何者かが一人。
 もとい、二人だ。地面で仰向けに倒れている者を見落としていた。

「私だって捜したいものがあったのに、見事に猫の類型(サンプル)しか入ってないのね、これ」
「いやぁ。実は、ニャンコの分だけは藍さんが入れてくれたんだけどね。追加で登録しようと思ったら、命令式(プログラム)の書き方がちんぷんかんぷんでさ」
「でしょうね。こんなの、私にもさっぱり解らないわ」
「あ? さっき偉そうに『原始的』とか吹いてませんでした?」
「…物は単純でも、中身が数字の神秘だったのよ」
「やれやれ。自称月の兎も、式神の頭脳には敵わないかい」
「自称は余計!」

 色とりどりの物体がぎっしりと詰められた、籠らしき代物。それが、二人の傍らに置いてある。
 更に、よく見ると、倒れている誰かの近くに、ところどころ黴(かび)の生えた大きな餅が落ちている。と、思ったが、その物体はもぞもぞと動いているようだ。あれは多分、生き物だろう。

「んー…。よく解りませんでしたけど……とにかく、探せないんならしょうがないですね。ひとまず私はアリスん家(ち)に」
「ちょっと待って。マスク貸してあげる」
「お。ありがとうございます」
「あなたのは無いわ。その子の分だけ」
「……よかったわね、橙」
「これ、なに?」
「こうやって、口と鼻を隠すようにして……そうそう。それを、頭の後ろで結ぶと良いわ」

 倒れている何者かは、淡い桜色の服を身に纏い、その黒い髪に白い布らしき物を付けている。
 一方、それを見下ろしているらしい何者かは、明るい色の洋服に金色の髪。それと、周囲に宝石のように輝く装飾品が浮かんでいるように見える。
 それから暫く目を凝らし続け、ようやく認識することが出来たその顔には、大いに見覚えが有った。

「……あれは」
「お? なんか見えた?」
「虎だか豹だか、居たかい?」

 思わず口許が綻ぶ。
 面白いとか、可笑しいとか、そういったことではない。強いて言うなら、安堵の笑みである。

「美鈴さん」
「うん?」
「フランさんのことは心配要りません」
「へ?」
「やはり表へ出られていたようですが、たった今、無事にアリスの家まで帰られました」
「え、何? フランドール様が見付かったの?」
「はい」

 彼女は心底不思議そうに目をぱちくりさせている。
 実を言うと、私も今一つ状況が解っていない。ただ、どういうわけか、高速で移動する猫の正体を確かめようとしていたら、フランさんを見付けてしまったのだ。
 勿論、それだけではない。

「それと、橙。貴方の猫も見付かった」
「ホント!?」
「少し大柄な雄だろう?」
「うん!」

 橙が上げた喜びの声は、くぐもっていた。
 見れば、彼女は顔の下半分を覆い隠すように一枚の布を巻いている。先程の会話は殆ど聞き流していた為、うろ覚えだが、鈴仙が貸し与えた代物だろう。
 私が最初に黴の生えた餅だと思っていた物の正体は、ずんぐりとした三毛猫であった。フランさんの足許で、気分が悪そうにしながら寝転がっている。無事かどうかは判断し兼ねるが、とりあえず外傷は無いようだ。
 そして、もう一人。仰向けに倒れる何者かの正体も判った。

「ところで、鈴仙。ひょっとして、貴方の捜し物は兎か?」
「…まあ、一応、そうね。どうして判ったのよ?」

 迷いの竹林を牛耳る妖怪兎の最長老、因幡てゐが、三毛猫と一緒になって引っくり返っているからである。
 また、彼女等の近くに置いてある籠の中身は、大量の茸であった。

「何だよ、椛さん。森の中もしっかり見渡せるようになってんじゃないか」
「いや。私が見たのは一ヶ所だけだ」

 皆、ますますわけが解らない様子で、一様に首を傾げている。
 私は全員でアリスの家に向かうことを提案し、その道すがら、今しがた自分の目に映ったものについて話すことにした。
 洋風の家。茸で一杯の籠。その傍で倒れている三毛猫と妖怪兎。それらをきょとんとして見下ろす吸血鬼。それから、扉を開けて彼女等を出迎えた、まるで人形のように整った容姿を持つ少女。
 これらをどう説明すれば良いか。大いに悩んだのは言うまでも無い。



     ◆



 ぽつり、ぽつりと小雨の降り始めた夜分。
 私達は森の木々の合間を歩き、アリスの家の前までやって来た。三毛猫マイクと妖怪兎てゐを引き取るついでに、雨宿りをさせてもらおうという魂胆である。
 勿論、此処に来るまでの間に、私が見た光景のことは四人に話してある。だが、如何なる経緯であのような状況に至ったのか、その結論は皆で話し合っても出せず仕舞いであった。
 ただし、一点だけ、フランさんが件の猫と兎を常識外れの飛行速度で連れ回していたらしいことだけは、異論無かった。

「そりゃあ、目ぇ回して倒れるよねぇ」
「しかし、何故、フランさんが猫や兎を…?」
「わかんない。お夜食じゃなきゃいいんだけど…」
「三毛猫はともかく、てゐなんか食べたら胃が荒れるわよ」
「マイクも食べちゃダメー!」

 聞けば、鈴仙は今日の黄昏時から、魔法の触媒や薬の材料となる茸を採取するため、てゐと二人でこの森へ来ていたらしい。
 ところが、持参した籠の半分近くまで茸が溜まった頃、てゐがその籠と共に姿を消したのだと言う。

「だから、キノコを持ち逃げして売り捌くつもりだと思ったのよ」
「あんたの相棒、どんだけ信用ないんですか」
「いや、解るよ鈴仙さん。あの姉ちゃんならやり兼ねない」

 詐欺師と名高い兎の話はさて置き、私は魔女の家という物を今、初めて間近に見た。
 この家の印象を簡潔に述べるとすれば、小綺麗な一軒家である。
 山では滅多に見掛けない白塗りの壁の上に、直線だけで描けそうな三角の屋根が乗せられている。紅魔館の一部を切り取って小さくした物、と言っても良さそうだが、あちらと違い、この家には目立つ所に窓が在る。この一事だけで、大分違って見えるものだ。
 窓の内側には光を遮る為の布が吊るされており、中の様子を窺うことは出来ないものの、僅かに洩れる室内の明かりが、この家の印象をぐっと明るくしているのは間違いない。
 そういったことをぼんやりと考えている間に、雨粒が体に当たる頻度が少しずつ増してきた。

「ん…。雨足が強くなってきたわね」
「さっさと入れてもらわないと、濡れ鼠になっちまうよ」
「あなたは雨なんか平気でしょ。河童なんだから」
「わたしも平気! ネズミじゃないから!」
「ああ、そう。だったら、上着返してくれる?」
「やだ。ぬれるもん」
「それは平気って言わない」

 雨が降り始めたのは、五人で歩き始めて間も無い時だった。そこで、鈴仙は自分の上着を脱ぎ、橙の頭に被せてやったのだ。
 思えば、この湿気た風の吹く日に、誰一人として傘を持っていないというのも、随分と間抜けな話である。
 アリスの家に来たことで、美鈴さんと二人で過ごす時間は無くなってしまったが、彼女が雨に濡れて風邪を引いてしまう事態を避けたという意味では、幸いだったのかも知れない。

「どらどら。鍵は開いてるかね」
「いや、ノックしなさいよ」
「だーいじょーぶ、まーかせてー。傀儡師と技術屋と言やぁ、親も同然、子も同然」
「はあ?」
「だから、この家は私の家も同然ってわベバッ!?」

 そそくさと扉へ近寄り、丸い取っ手に手を掛けようとしていたにとりの体を、内側から勢いよく開かれた扉が撥ね飛ばした。にとりの体は風に吹かれた紙切れの如く宙を舞い、土の上へ落ちてなお、ごろごろと転がった。
 扉が開け放たれたことによって、室内の明かりが玄関先の地面を照らす。
 その光を背負い、一人の少女が立っていた。少女はきょろきょろと首を動かして辺りの様子を確認し、そこに私達の姿を認めるやいなや、此方に向かって飛び出して来た。

「美鈴! いらっしゃい!」
「うぉわ!? ちょ、雨! 雨降ってます!」

 迷わず美鈴さんに抱き付いた少女の背には、宝石のような羽根がきらきらと輝いている。彼女こそ吸血鬼の妹君、フランさんである。
 フランさんは、慌てて家の中に駆け込もうとする美鈴さんの腕をするりと抜け出し、今度は私に向かって飛び付いてきた。

「椛もいらっしゃい!」
「わ…っと…。今晩は」

 飛び掛かられた勢いで二、三歩後ろに下がってしまった。
 同時に、しゅん、しゅん、と焼ける鉄板の上で水滴が蒸発するような音が聴こえ始める。その音は、彼女の体に雨の滴が落ちる度、鳴っているらしかった。
 これは不味いと、急いで家の中へ連れ戻そうと思ったのだが、彼女はすぐに私の傍を離れてしまい、脇の地面を凝視して叫んだ。

「にとり! どーしたの!?」

 自分の開けた扉が何者かを撥ねたことに気が付いていなかったらしい。庭先で大の字になり、気を失っているにとりを見て、フランさんは酷く狼狽している。
 私は美鈴さんと顔を合わせ、共に苦笑いを浮かべながら目線で会話し、ともかく二人を家の中へ連れ込むことに決めた。

「えー…と…。その…ちょっと転んじゃったみたいです。心配いりませんよ。たぶん」

 そう言いつつ、彼女がフランさんを背後から抱き上げる。フランさんは彼女の言葉を聞いて僅かに安堵の表情を浮かべながらも、未だ、にとりから目を離せないで居た。
 実際、目立った外傷が有るわけでもない。顔の右半分が少々赤みを帯び、扉のぶつかった痕がくっきりと残されている程度だ。放っておいても、半刻も経たずに目を覚ますだろう。
 強いて言えば、しこたま打ち付けた鞄の中身のことで、起きた後に泣きを見るかも知れない。

「ホントに大丈夫? 死んじゃいそうだったら教えてね? 私が吸血(たすけ)てあげるから」
「それ一度トドメを刺すってことですよね」

 確かに、三途の川は渡らずに済む。世にも珍しい吸血河童の出来上がりというわけだ。
 飽くまで冗談で言っているのだと思うが、如何せん、フランさんの本気と冗談の境目は推し測りにくい。万が一にも実行されては困る。

「…ともかく、中に入らせていただきましょう」
「ん。そうね」

 にとりの傍へしゃがみ込み、その膝と背中を両腕で支えて、ゆっくりと持ち上げる。
 振り返って見れば、鈴仙は既に橙を連れて屋根の下まで退避しており、開いた扉に凭(もた)れて此方の様子を窺っていた。

「あら。鈴仙も来てたのね。ごきげんよう」
「…ええ。久し振りね」
「鈴仙さん。ちょっとにとりを見てやってくれません?」
「はいはい。分かったから、さっさと中に運んで」

 何処か面倒臭そうな鈴仙に急かされ、にとりの体を壁にぶつけないよう注意しながら、家の中へと入り込む。
 一足先に入った橙と美鈴さんの後を追い、三間余りの廊下を横歩きで抜けると、目の前に、洋風の衣装を身に纏った少女の人形が姿を現した。脳天から爪先まで僅か八寸程度しかない、小さな人形だ。
 それはすぐ近くの床を指差し、甲高い一本調子な声で「ソコニオケ」と指示してきた。
 指し示された床――小綺麗な絨毯の一角を見てみると、出迎えたのと同じ種類の人形が二体、巻いた敷物をころころと転がして広げていた。
 間も無く敷物が広げ終わり、その上ににとりを慎重に降ろす。その際、三体の人形は、にとりの背中から鞄をひっぺがす手伝いもしてくれた。

「今日はお客が多い日ね」
「そこの門番は客扱いしなくて結構よ」

 聞き憶えの無い妙に楽しげな声と、憶えの有る気怠そうな声とが耳に入る。
 それを機に、改めて見回してみた魔女の家の内部は、外観よりも一層清楚であった。
 玄関と直結しているこの部屋は、茶の間として使われているらしい。部屋の真ん中辺りに、白い布で覆われた四角い机と、三つの椅子が置いてある。
 淡い単色で模様を描かれた壁には、額縁に入った風景画――私には余り馴染みの無い、所謂都会の喧騒を描いた物らしい――が掛けられており、奥に向かって右方の壁際に置かれた棚の上には、赤と白の薔薇を差した花瓶が飾られている。
 三つの椅子の内、二つにはそれぞれ少女が腰掛け、洋風の杯を手に薫りの良い茶を愉しんでいた。
 入り口から見て奥の方に座り、眠たそうな目で此方を見ているのがパチュリー。そして、手前の椅子に座り、杯を持たない方の手で器用に人形達を繰っているのが、先程千里眼で見た魔法使い、アリスである。

「いらっしゃい。お久し振りが四人に、初めましてが一人ね」
「そこの河童は『さようなら』かも知れないわ」
「お疲れ様です。すみません、お騒がせしちゃって」
「夜分に失礼するわね」
「おじゃましまーす」

 美鈴さんとにとり、鈴仙、おまけに橙も、アリスとは顔見知りのようだった。

「お初にお目に掛かる。私は」
「白狼天狗の犬走椛、でしょ」

 初対面で間違いない筈なのだが、アリスは私のことを知っているらしい。
 私の方も彼女を知っているのだから、お互い様ということになるのだろうか。

「さっき、うちの庭先を覗き見してたのは貴方ね?」

 これだから魔法使いは油断ならない。
 遠見(とおみ)を妨害するばかりか、その検知まで可能な結界を当然のように用いてくる。

「…失礼した。やむを得ない事情が有って」
「ああ、ごめんなさい。気にしないで。別に怒ってるわけじゃないの」

 アリスは飲んでいた紅茶を机上に置き、静かに微笑んでいる。
 この笑みには、裏が有るのか、否か。
 そんなことを考えてしまうのは、私が魔法使い全般に対して、『不気味』という印象を持っているせいだろう。

「貴方のことは色々と聞いてるわ」
「…色々、と言うのは…。…その……」

 どうにも歯切れの悪い私を見て、アリスがクスリと笑い声を洩らす。

「美鈴とのことも知ってるから、気を遣わなくても大丈夫よ」

 ひとの口には戸を立てられない。それが世の常だ。
 だからと言って、ここまで知れ渡っていなくとも良いのではなかろうか。
 森の魔法使いにまで知られているとなると、もはや秘密でも何でもない。周知の事実である。

「そんなこと言ったら、本気で人目を憚らないわよ、この二人」

 先程までのことを思い出してか、鈴仙は随分げんなりとしている。
 していながらも、横に寝かされたにとりの瞼を開いて瞳孔を確認したり、脈を取ったり体温を測ったりと、着実に診察を進めているらしかった。

「そんなことないですよ。私だって、人前じゃ遠慮してんですから」

 自信満々に言う彼女に、鈴仙が「あれでか」という目を向ける。
 いや、実際、あれでも大分遠慮してくれている方なのだ。彼女にしては、だが。

「いっそ仕事をクビになるくらい現(うつつ)を抜かしちゃえばいいのよ」

 悪意に満ちた呟きと共に、幼い少女のクスクス笑いが私の耳を擽り、ひんやりとした悪寒が私の背筋を撫でる。
 フランさんのこの発言、願望には続きが有る。もしも美鈴さんが主人の逆鱗に触れ、晴れて解雇となった暁には、改めて自分の配下として迎え入れるつもりなのだ。

「そしたら二人とも私のものにしてあげるのに」
「二人?」

 一瞬、聞き間違いかと思った。
 だが、どう考えても聞き間違いではなさそうに思えたので、私は彼女に質してみることにした。

「フランさん。『二人とも』とは、どういうことでしょうか」
「椛だけじゃないんですか?」
「え?」
「え?」

 美鈴さんの口から予想外の言葉が出てきた。
 思わず、二人で顔を見合わせる。

「何故、私が?」
「へ? や、だって…」

 少しの間、互いを指差したり首を捻ったりしながら「え?」を繰り返す。
 いよいよ訳が解らなくなり、揃ってフランさんの方を振り向いて見るが、そこに彼女の姿は無かった。

「ホント、イヤになっちゃうわ。どっちも私の方が先だったのよ?」

 何時の間にか、彼女は空いた椅子の背凭れに腰掛け、左手で頬杖を突いていた。

「この際、はっきり言ってしまうのはどうかしら?」
「それだと、奥ゆかしさがないもの。そんなのレディじゃないわ」
「じゃあ、魔理沙にでも相談してみたら? 斜め下のアドバイスが貰えるわよ」
「ダメよ。魔理沙はジャマばっかりするんだもの」
「ふふ。ああ見えて純愛が好きだものね。…なら、レミリ」
「イヤ。絶対イヤ」

 何の話かは判らないが、アリスの助言に対し、フランさんは飽くまで不満げだ。

「それより、その行儀の悪い座り方は止めなさい」

 ただでさえ機嫌の悪そうなところへパチュリーから戒められ、フランさんはいよいよむくれてしまった。

「ふんだ。いいわ。今日は浮気してやるから」

 と、彼女は背凭れから飛び立ち、空中でくるりと一回転して、にとりを診ている鈴仙の背後へと回り込んだ。

「ねー、鈴仙。にとり死んじゃいそう?」
「残念だけど、ちょっと失神してるだけよ」
「ふーん。あなたがそう言うなら大丈夫ね」

 私や美鈴さんよりも、鈴仙の方が信用されているという事実。少々口惜しくはあったが、こと医務に関しては仕方の無い話である。
 鈴仙は何処からか取り出した薬臭い湿布をにとりの額へと貼り付け、下ろしていた腰を上げて踵を返した。

「手間を掛けたな。有り難う」
「別に」

 友人の具合を診てもらったということで、一応、礼を述べておいたのだが、鈴仙の反応は何とも素っ気無い。

「怪我人を診るのも勉強だからね」

 そんなことを言いつつ、彼女はどっかりと椅子に腰掛け、足を組んだ。言うまでもなく、その椅子は本来、フランさんの為に用意された物である。
 他人の家で随分と図々しい振る舞いをするものだと思ったのだが、後で美鈴さんから聞いた話によると、これは鈴仙の照れ隠しであったとか何とか。

「勉強熱心なことね」

 そういう事情を知っていれば、勤勉さを労うアリスの顔が、妙に意地悪く笑っているように見えたのも納得出来ただろう。

「ところで、鈴仙。貴方の『用件』は、そっちの部屋で寝てるから、雨が止んだら連れて帰ってあげてね」

 そう言って、アリスは部屋の奥に在る扉を指差した。

「…迷惑掛けたみたいね」

 小さな溜め息を吐きつつ、鈴仙が言う。
 すると、机上に乗せられたアリスの人形が片手を大きく横に振り始め、また例の甲高い声で「チャウチャウ」と言い放った。

「私は寝床を貸してあげただけよ」
「むしろ、フランが彼女に迷惑を掛けたみたい」

 パチュリーがじろりとフランさんの方を見やる。
 これを聞いたフランさんは、奥の扉――その向こうでてゐが休んでいるらしい扉に向かっていた足を止め、くるりと後ろを振り向いて抗議を始めた。

「心外だわ、パチュリー。私は迷惑なんてこれっぽっちもかけてないのよ。ちょっとカゴを貸してもらっただけ」
「持ち主ごとね」

 籠と言うのは、鈴仙達が茸を採取する為に持参した物のことだろう。
 てゐが姿を消した時点で約半分、私が千里眼で見た時には目一杯まで、茸が詰められていた。増えた半分は、フランさんの手によって集められた物だったのだろうか。

「……ありゃ?」

 頭の中で事態の整理をしようとする私の傍らで、美鈴さんがきょろきょろと部屋の中を見回しながら疑問の声を上げた。

「どうしました?」
「橙がいない」
「え?」

 慌てて私も部屋の中を見回す。
 確かに、つい先程まで居た筈の橙が見当たらない。思い返してみれば、鈴仙がにとりの診察を始めていることに気が付いた時には、既に貸していた上着が返されており、橙の姿も見えなくなっていたように思う。

「橙なら、猫を捜してるとかで奥に行ったわよ?」
「何と」
「マジで? いつ?」

 全く気が付いていなかった。どうやら、私が彼女と一緒になって首を捻っている間に、橙とアリスの間でやり取りが有ったらしい。
 ともかく、所在が知れているのなら問題無い。
 そう安堵した、その時だった。
 フランさんが奥の扉の取っ手を回し、ぐいと引っ張ってそれを開けた途端、中から見憶えの有る小動物が凄い勢いで飛び出してきた。やや太り気味の、ずんぐりとした三毛猫だ。
 更に直後、その三毛猫の後を追って、橙がドタドタと部屋の中へ駆け込んで来た。
 先の猫には特に驚かなかったフランさんも、橙のことは予想外であったらしく、「わっ」と驚きの声を上げる。

「こら、にげるなマイク!」

 怒号を上げて追い掛けて来る橙から、三毛猫マイクは鳴き声を上げながら逃げ回る。私達の脚の間を器用に擦り抜け、棚に飛び乗り、椅子の下へと潜り込む。
 追手の橙も負けてはいない。一般的な猫に比べれば余りにも大きいその図体で、花瓶の一つも倒すこと無く、マイクの後を追い回している。
 皆、暫くはその追走劇を黙って眺めていたが、やがて、橙がフランさんの目の前を横切ろうとしたところで、がっしりと襟首を掴まえられた。

「ちょっと!」
「にゃっ!?」
「私の使い魔に乱暴しないでよ!」
「ちがうもん! マイクはわたしの手下だもん!」
「なに言ってるの! 私が先に見つけたのよ!?」
「わたしが先! わたしが森につれてきた!」
「っていうか『ミケ』ネコだから『マイク』って安直すぎるわ! 却下よ! 却下!」
「そんなのわたしの勝手でしょ! わたしのネコだもん!」
「だからそこが違うって言ってるのよ!」

 言われては言い返し、またそれに言い返す。そんなことを五度(ごたび)、七度(ななたび)と繰り返しても、二人の言い争いは終わらない。自分の猫だ、いや自分のだ、と不毛なやり取りを延々続けている。
 その隙に、マイクはアリスの膝の上へと飛び乗った。この場に居る八人の妖怪変化の中で、彼女が最も安全であると判断したらしい。
 事実、微笑を浮かべてマイクの体を撫でてやるアリスからは、淑やか且つ穏やかな雰囲気が感じられる。

「あのネコがマイク?」
「そのようです」
「特に変わったネコには見えないけど」

 美鈴さんは些か訝しげだ。

「知らない? 雄の三毛猫って稀少(レア)なのよ」
「へぇ?」
「鈴仙の言う通りです。そして、それを有り難がる人間も居るので、ただの猫に比べれば使い魔に向いていると言えるでしょう」
「幻想郷(ここ)に居ることが条件だけど」
「あー、なるほどね」

 と言っても、平凡な猫との間に大した差が有るわけではない。精々、心持ち喧嘩の強い猫、程度のものだ。
 どう贔屓目に見積もったところで、吸血鬼であるフランさんの使い魔としては役者不足である。

「私が保護してあげたのよ!」
「保護じゃなくて誘拐!」
「違うってば!」
「ちがわないもん!」
「違うの!」
「ちがわない!」

 少なくとも、橙と対等に口論をして取り上げる程の価値は無い。無い筈である。

「で、フランドール様が使い魔にしちゃったんですか?」
「まだ契約も何もしてないわ」

 子供染みた口喧嘩を続ける二人を横目に見ながら、パチュリーが答える。

「フランが連れ回したせいで、さっきまで気絶してたから」
「……ですよね」

 妙な胞子が飛び交う森へ連れて来られた挙げ句、――おそらくは逃げ出したところを――吸血鬼に拐われ、尋常ではない速度で西へ東へ持ち運ばれる三毛猫。
 成る程、災難だ。気の毒としか言いようが無い。

「そりゃあ、あんなことされたら目も回るわ」

 開けっ放しになっていた扉の向こうから、何者かの苦言が洩れる。更に続けて、ずるずると何かを引き摺る音が聴こえてきたかと思うと、小柄な妖怪兎が後ろ向きで姿を現した。
 鈴仙の相棒、妖怪兎の最長老、てゐである。
 彼女は茸のぎっしりと詰まった籠を重たそうに引っ張りながら、部屋の中へと入ってきた。

「おはよう。気分はどうかしら?」
「だいぶマシになったよ」
「やっと起きてきたわね、この横領犯」

 鈴仙は椅子から立ち上がり、ツカツカと足音を立てて、てゐの方へと歩み寄っていく。
 一方、横領犯呼ばわりされたてゐは、むっとした様子で彼女の顔を見上げた。

「あのね、鈴仙。今日の私ゃ、未成年者略取の被害者だよ」
「はい却下(ダウト)」

 即答。容赦無し。聞く耳持たぬ、と言ったところか。
 あるいは「未成年者」という文言さえ入っていなければ、鈴仙ももう少しぐらいは考えたのかも知れない。

「どうせ、あんたがあの気狂娘(ヴァンパイア)を唆したんでしょ」
「違うってばさ。ちょっと話を聞いてよ」

 てゐが語ったところによると、事の経緯は次の通りだ。
 先ずは、先程聞いていた通り。鈴仙とてゐの二人は、永遠亭の薬師の命により、魔法の触媒や薬の材料となる茸を採取しに魔法の森までやって来た。
 如何にも真剣に仕事をしている風を装いながら、鈴仙が茸を集めるのを待つこと一刻半(いっときはん)。概ね目標としていた数の茸が集まった頃、てゐは己の小遣い稼ぎの為、茸を森の魔法使いに売り付けるべく、これを籠ごと持ち逃げしようとした。

「やっぱり横領してたんじゃないの!」
「ちょ、痛い痛い! 耳はやめてよ、耳は! ちゃんと売る前に栽培して、倍にして返すつもりだったのよ!」
「ガラス張りの嘘をつくな! しかも何を堂々と『上手にサボってました』宣言してるか!」
「いや、ほら、あんたの目が如何に節穴か、この娘らに教えてあげようと思あ痛たたたた!? 結ばないで結ばないで!」

 ところが、鈴仙の目を盗んでまんまと籠を奪取したところで、何処からともなく吸血鬼の娘が現れ、こう言ったのだそうだ。

――悪い魔女に魔法を教えてもらおうとしたら、代わりにキノコを集めて来なさいって言われたんだけど、入れ物を忘れて来ちゃったから、あなたの持ってるカゴを借りて行くわね。

 貸してほしい、でも、借りても良いか、でもないところが、実にフランさんらしい。

「そりゃ困るでしょ? その中には私が一生懸命集めた商品が入ってるのにさ」
「商品って言うな! 集めたのは私でしょうが!」

 籠だけなら有償で貸してやっても良いのだが、中身まで一緒に持って行かれては困る。
 そう口にしたのが間違いだった、と、てゐは語る。

――それじゃあ、あなたも一緒に行きましょう。

 この一言で、有無を言わさず森中を連れ回される羽目になったのであった。
 異常な速度で急停止、急発進、急旋回を繰り返され、激しい目眩と吐き気に見舞われた挙げ句、遂には気を失ってしまったのだと言う。

「いやもう、とんだ災難だったわ」
「自業自得ではないか?」
「自業自得じゃないですか?」
「自業自得でしょ」

 見事な異口同音であった。
 口を揃えたのは私を含めて三人だけだったが、完全に聞き手に回っている二人の魔女も、きっと同じ意見を持っていたに違いない。

「あんたのせいで、メチャクチャ遅くなっちゃったじゃない。師匠がしん……きっと、かんかんに怒ってるわ」

 鈴仙は懐から取り出した懐中時計をちらりと見て、ぶつぶつと文句を垂れている。

「そこは大丈夫」
「何で」
「失神する前にあの娘を誘導して、例のすっごく美味しいキノコを採らせといたから」

 てゐは引き摺って来ていた籠の中をごそごそと漁り、何やら良い薫りのする茸を取り出して見せた。それを見るなり、鈴仙がいやに苦々しそうな表情を浮かべる。
 私にはその茸の何たるかが全く判らなかったが、アリスは何か知っているらしく、「あら」と声を洩らした。

「そのキノコ、貴方達と三人で採りに行ったわね。懐かしいわ。あの時は鈴仙が囮になってくれたんだったかしら」
「あなたが私を騙したんでしょ!?」
「オトリって?」

 声を荒らげる鈴仙を他所に、美鈴さんが尋ねる。
 すると、てゐは両手を目一杯に大きく広げてみせた。

「こいつはね、それはもうでっかいキノコの親玉が護ってるのよ」
「ああ。さっき言ってた、歩くキノコですか」

 鈴仙は以前、巨大な茸の化け物に追い掛けられたことが有ると言っていた。
 てっきり冗談だと思っていたのだが、そうではなかったらしい。

「その巨大キノコの注意を逸らすために、他の匂いの強いキノコを使うんだけれど」
「鈴仙がそれをうっかり食べちゃったのよねー」
「うっかりって言うな! あれは……ッ!」

 鈴仙が思わず言葉を詰まらせる。私と美鈴さん、おまけにパチュリーから向けられている冷たい視線に気が付いたのだろう。
 つい先刻、橙に向かって偉そうな口を利いていたのは、何処の誰だったか。

「…鈴仙。森の茸は無闇に食べるな」
「ってか、拾い食い自体どうかと思いますよ、あんたの場合」
「だから違うったら! 私はこの人形遣いに騙されたのよ!」
「ほう…」
「へぇ…」

 晴れぬ疑いに、鈴仙はアリスを指差した手をわなわなと震わせ、顔を真っ赤に染め上げている。
 事の経緯など知りはしないが、具体的にどう騙されたのか説明しようとしない辺り、彼女自身にも後ろ暗いところが有るようだ。大方、騙される方が悪い、という程度の稚拙な罠にでも引っ掛かったのだろう。

「ところで…」

 悔しがる兎の無様をしばらく眺めた後、美鈴さんがアリスの方に視線を向けつつ口を開いた。

「てゐさんの話に出てきた『悪い魔女』って、アリス?」
「いいえ。私じゃないわ」
「おろ?」
「私よ」
「パチュリー様が? 何の魔法を教えるんですか?」

 そう彼女に尋ねられると、パチュリーは一つ大きな溜め息を吐いてから話し始めた。
 興味本意で魔女の茶会に付いて来たフランさんだったが、私達が予想していた通り、ものの半刻も待たずして談話に飽きてしまったらしい。
 彼女は、アリスがパチュリーに対して、使い魔――紅魔館の地下図書館で司書をしている小悪魔――は元気かと尋ねたのを切っ掛けに、こんなことを言い出した。

――私も使い魔が欲しい!

 そんなことを急に言われても困る。契約の儀を行う為の魔法に必要な触媒も無いし、そもそも肝心の使い魔候補が居ないのだから、話にならない。
 要望を一蹴するつもりでパチュリーがそう答えると、フランさんは「じゃあ探してくる」と言い捨て、止める間も無く出て行ってしまったのだそうだ。
 そして、あの大量の茸と、使い魔候補である三毛猫を提げて帰ってきた、というわけだ。しかも、妖怪兎のおまけ付きで。

「わかった!? つまり私は善意の第三者なのよ!」
「わかんない!」

 吸血鬼と化け猫の喧嘩はまだ続いていた。
 何の話をしていたのかは知らないが、橙を相手に小難しい理屈を捏ねたところで糠に釘である。

「あー、もー! このわからず屋! こうなったら、あのネコを賭けて……」

 フランさんが決闘に用いる札を手に持った瞬間、場の空気が一変する。
 思わず「げ」と呟き、素早く彼女の背後へ回り込もうとする美鈴さんに、椅子に腰掛けながら静かに魔力を高め、すぐにでも魔法を放てるよう身構えた二人の魔女。一方、兎どもは一切の迷い無しに二人で茸入りの籠を持ち上げ、部屋の隅へと退避を始めた。
 私も、もし橙が決闘に応じようとしたら即座に止めるつもりだったのだが、事態はそこから動かない。
 すぐにでも決闘を申し込むかと思われたフランさんが体の動きをぴたりと止め、両目をぱちぱちと瞬かせながら、橙のことを観察しているのだ。

「…なに?」
「……あなた……ネコマタね!?」
「にゃっ!?」

 橙の二本に分かれた尾が目に見えて大きく膨らんだ。矛先が自分に向いたことで、ようやく対峙している相手の危険性を認識出来たらしい。
 雄の三毛猫と二尾の化け猫。どちらがより珍しく、より使い魔に向いているか。敢えて言うまでもないことである。

「しかもクロネコ! クロネコのネコマタ! わかったわ! あのネコあげるから、代わりに私の使い魔になりなさい!」
「や、やだ! わたしは藍さまの式神だもん!」
「じゃあ選びなさい! 式神やめるか、使い魔になるか!」
「どっちもやだ!」
「ワガママ言っちゃダメよ!」
「やだったらやだ!」
「あ、こら! 待ちなさい!」

 脱兎の如く逃げ出した橙をフランさんが追い掛ける。二人は飛んだり跳ねたりしながら部屋中を動き回った後、奥の扉から出て行ってしまった。
 部屋に残された者達は、誰も言葉を発しようとしない。一人と一匹を除き、皆、呆然と、あるいは唖然として固まっているのみである。
 例外であるパチュリーは、天井や壁の向こう側から響いてくる騒音――二人が走り回る音や橙の悲鳴など聴こえないとでも言うかのように、悠然と紅茶を飲んでいる。
 また、相変わらずアリスの膝の上で鎮座しているマイクに至っては、呑気に欠伸をしている始末。ひょっとすると、自分が取り合いをされる立場でなくなったことを理解し、安心したのかも知れない。利口と言えば聞こえは良いが、なかなかに現金な猫である。

「いやいや。子どもは元気があっていいね」

 口を開いたのは、てゐであった。
 彼女は妙に機嫌良さげに体を弾ませながら、フランさん達が出て行った扉へと近付いていく。

「どこに行くのよ」

 鈴仙が声を掛けると、てゐは開けっ放しにされた扉の取っ手を掴みつつ、にんまりと笑って答えた。

「あの娘らが粗相しないか、見張っといてあげようと思ってね」
「何であんたが」
「そりゃあ、わたしが年長者だからよ」

 胡散臭い。絶対に何か裏が有る。
 私の知る限り、彼女が桁違いの最年長であることは間違いない。だが、この兎は鈴仙とは比べ物にならない程の利己主義者で、好き好んで他人(ひと)の世話をしようなどという精神は一切持ち合わせていない筈だ。

「で、本当は何をしに行くの?」
「なに企んでんですか?」
「物取りか」
「一応忠告しておいてあげるけど、うちの物には防護魔法を掛けてあるわよ?」
「迂闊に触れば焼き兎。そうしたら美鈴に捌かせれば良いわね」

 誰一人として、てゐの味方をする者は居ない。これが日頃の行いというものか。
 しかし、彼女はそのことを気にする様子も無く、鼻唄混じりに部屋を出て、早々に扉を閉めてしまった。



 てゐが部屋を出たのと同時に、斜め下の方から「う、う…ん」という呻き声が聴こえてきた。
 どうやら、にとりが目を覚ましたようだ。

「あ、起きた?」
「んー…?」
「大丈夫か、にとり?」
「…んあ……?」

 にとりはまだ瞼が重たいらしく、半開きの目をしたままで上半身を起こす。
 緩慢な動作できょろ、きょろと周囲を見回し、やがて私と目が合うと、右手で何かを摘まむような仕草をし始めた。

「ああ、ごめんごめん。うっかり寝ちまったよ。もう私の手番かい?」
「うむ。今は対局中ではない」
「ほぇ?」
「なーに寝ぼけてんのよ」

 すぐ傍にしゃがみ込んだ美鈴さんの顔を間近に見て、ようやくにとりの目がしっかりと開かれる。

「…おおう。中国さん」
「美鈴だっての。で、体は大丈夫?」
「うん? ボディ? どっか不具合出てたっけ?」
「あんたはロボか」
「私の話かい」
「あんたの話だよ」

 どうにも頭が呆けたままのにとりと彼女の問答は続く。

「どっか痛いとこは無いかって聞いてんの」
「はぇ? いや、別に?」
「そう。そんなら、よかったわ」
「んん?」

 事故だったとは言え、先刻、にとりを撥ね飛ばしてしまったのはフランさんだ。その為か、彼女は私が思っていたよりもずっと、にとりの怪我を心配していたらしい。
 それでなくとも、にとりは彼女自身にとっても友人であるし、何かと心配性な彼女が友の無事にほっと安堵の笑みを浮かべるのは、何ら不思議な話ではない。それは重々解っているつもりだ。

「ところで、私ゃどうしてアリスの家に居るんだっけ?」
「あんた、やっぱり頭打ってんじゃない? 橙のネコを探してあげてたでしょ」
「ああ、ああ。そうだった。思い出したよ。で、マイクは見付かったんかい、ちぇ…ん…? ありゃ? 橙は?」
「フランドール様と鬼ごっこ中」
「うや? フラン? ああ、そうか。フランも、ちゃんと居たんだ。良かったねぇ」
「うん」

 ただ、このやり取りを見ていて、何と言うか、ほんの少しだけ、むず痒い気持ちになった。
 原因は判っている。判り切っている。それは概ね、私の矮小さが故のことだ。
 にとりは、フランさんや橙とは違う。彼女の家族でもなければ、幼子(おさなご)でもない。だから、こんな感情が沸き上がってしまうのだろうか。
 いや、違う。そうではない。私は彼女の家族にさえ、うっすらとこの感情を覚えたことが有るのだ。
 嗚呼。何と馬鹿馬鹿しく、愚かしいことか。これは断じて、表に出して良いものではない。
 心頭滅却。心頭滅却。
 と、懸命に彼女から目を逸らし、押し殺していた私の意識は、しかし、容易く暴かれてしまう。

「美鈴」
「ほい?」
「あんまりその河童(ひと)に構ってると、椛が拗ねるわよ」
「れ…イッ…!?」

 酷く咳き込んだ。噎(む)せ込んだ。おかげで、要らぬ節介を咎めるために兎の名を叫ぶことすら出来なかった。
 だが、自分が咳き込むよりも僅かに早く、二人の魔女が小さく失笑を洩らしたのを、私は聴き逃さなかった。アリスに至っては、机に突っ伏して体を震わせながら、机上の人形に「ネタマシー、ネタマシー」と発言させるという、性質(たち)の悪い冗談を繰り出している。

「おぉっとっと。すまないねぇ、椛さん。こいつぁ、気が付きませんで」

 何処ぞの鴉天狗を彷彿させるにとりの嘲笑は、私を苛立たせるのに十分過ぎる不愉快さであった。

――図に乗るな。

 にとりを睨み付けるべく振り返った私の視界は、そこで待ち構えていた美鈴さんの胸部で覆い隠されてしまう。

「むぐ」
「もー。椛はそういうの全然言ってくんないから」
「い、いえ、その…! 私は、そのようなことは……!」
「んー?」

 くぐもる声で必死に弁解しようとするが、何分、図星を指されたという自覚が有るものだから、全く以て言葉が続かない。
 また、こうやって私を抱き締める時の彼女の腕力は半端ではない。幾ら振りほどこうとしても、ぴくりとも動かないのだ。あるいは、私が無意識に力を弱めてしまっているのかも知れない。

「…ええ…と、あのですね、人前でこういうことは…」
「話逸らして逃げようとすんじゃないよ」

 私を抱き締める力が一層強くなる。
 彼女の鼓動が直接頭に響き、そのひんやりとした肌が、すっかり火照った私の体を冷やしていく。

「ねえ、椛」

 至極小さな、恐ろしく優しげな声で、彼女が囁いた。

「私は、浮気なんかしないよ」

 この時、すっかり全身の力が抜けてしまっていた私には、彼女の言葉は先刻言っていたことの再確認だとしか思えなかった。よりにもよって、数百年来の知己に謂れの無い悋気(りんき)の念を向けた私への戒めだろう、と。
 実はそれが、移り気に振る舞うフランさんへの、彼女なりの細やかな当て付けであったと気が付いたのは、随分後になってからのことだ。

「いつもこんな感じ?」

 アリスが尋ねる。
 部屋の様子は全く見えないが、声の大きさと向きからして、尋ねた相手はパチュリーだろう。

「普段はもっと酷いそうよ。彼女が紅魔館(うち)に来る度、門の前でいちゃつき通し。余りに鬱陶しいものだから、その間は侵入者も来ないらしいわ」

 言われてみれば、私が紅魔館の門前に居る時は、身の程知らずの野良妖怪どもはおろか、あの白黒魔法使いも基本的に近付いて来ない。ただ単に戦力差を鑑みてのことだと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。
 普段の私達は、そんなに近寄りがたい雰囲気なのか。
 そう思うと、今のこの状況が一段と恥ずかしく思えてきた。

「結果的に賊が減ってるんですから、いいじゃないですか」
「そんな利点の一つでも無かったら、とっくにレミィか咲夜に殺されてるわよ、貴女達」

 もっともである。
 私が彼女に逢う為、あの館を訪れる時、彼女は勤務中なのだ。

「まあ、仕事中に恋人とイチャイチャしてるって、死刑(デスペナ)ものよね。普通」
「まだ居眠りの方がウザくないだけマシだよねぇ」

 この河童と兎は、煽りたいのか貶めたいのか、一体どっちなのだろう。

「あら、素敵じゃない。幸せそうな二人を見ているだけで、こっちまで幸せな気持ちになれるんだもの。…ただ、今の椛は少し複雑そうだけれど」
「アリス、あんたいいこと言うじゃない。つまり私たちは今、みんなに幸せを振り撒いてんのよね」
「貴方の耳は不都合な情報を切り捨てるように出来ているのかしら?」

 アリスの言う通り、複雑と言えば複雑な心境だった。
 そろそろ手を離してほしいと思う傍ら、もう少し彼女の鼓動と体温を感じていたい自分が居ることは否定出来ない。

「森の住人は年がら年中、幻覚(こうふく)そうで羨ましいわ」

 鈴仙がこうした嫌味を言うのは、私達に限ったことではないようだ。

「貴方はいつも、幸せが傍に居るでしょう?」
「地上(こっち)だと奇運(トラブル)のことを幸運(しあわせ)って呼ぶの? 欲しいのならあげるわよ。何なら代金も払うわ」
「てゐさんは粗大ゴミですか」
「生ゴミよ」

 日頃から、てゐの悪戯のおかげで散々苦労しているらしい。

「今日だって、まだ永遠亭(うち)でやらなきゃいけない仕事が残ってるのに、てゐのせい…で……?」
「うん? どうかしたかい、鈴仙さん?」

 鈴仙が急に話を中断した。この状況は、先程、にとりが合流した時と似ている。
 違うのは、鈴仙がそうした原因、彼女と私にだけ聴こえたであろう微かな音が、誰かの騒ぐ声などではなく、地響きであったことだ。それは一定の間隔を空けながら何度も繰り返され、少しずつ大きくなってきている。
 何者か、それも、巨大な何者かの足音である。

「…美鈴さん」
「あ、ごめん、苦しい?」
「いえ、そうではなく…」
「暑い?」
「そうでもなくてですね」
「私のこと好き?」
「好きです」
「何を聞いてるのよ!」
「答えなさんな!」

 紙のような物が私の後頭部にぶつかり、パン、という大きな音が轟いた。おそらく、にとりに張り扇で叩かれたものと思われる。
 それに伴い、今まで一向に動かなかった美鈴さんの腕が、そっと私から離れた。一歩後ろへ下がって見てみると、彼女は顔をしかめ、片手で自分の後頭部を押さえていた。

「…グーで殴ることないじゃないですか! にとりはハリセン使ってんのに!」
「撃たれなかっただけありがたいと思いなさいよ」

 喚く彼女に、右手を握り締めた鈴仙が冷淡として答える。

「あなた達のバカに…間違えた、あなた達バカに付き合ってる場合じゃないのよ」
「誰が馬鹿だ」
「聞く? それを聞くの? 胸に手を当てて、よーく考えてみたら?」
「え? こうですか?」
「きゃ!?」

 彼女の手が一瞬の迷いも無く私の乳房を押さえ付け、私は何とも頓狂な声を上げてしまった。

「じ、自分の胸に当ててください!」
「ちょっと、聴いた? 今の、聴いた? 椛さんが『きゃ』って。『きゃ』って」
「にとり。今、貴女までボケに回ると、そこの月兎がキレるわよ」
「よく解ってるじゃない本狂(ブックワーム)。いいから全員、ちょっと耳を澄ましてみて。何かがこっちに向かって来てるのよ」

 いよいよ焦れた鈴仙が皆に注意を促すも、この時には既に、耳を澄ますまでも無かった。
 何者かの足音は周囲に大きく響き渡り、部屋の窓や机上の杯がかたかたと音を立てて震えているのである。

「…ゴリアテ人形を放し飼いにでもしているの、アリス?」
「いいえ。残念ながら、自律人形はまだまだ研究段階よ」

 パチュリーとアリスの二人は、この期に及んで悠々と紅茶を呑んでいる。

「あの足音は人形なんかじゃなくて…」

 アリスが足音の正体について言及し掛けた、その矢先。
 壁際に置かれた棚の引き出しがひとりでに開き、その中から橙が勢いよく飛び出した。彼女は着地するまでの僅かな間に目玉をぐるぐると動かして部屋の中を見回し、音も無く床へと降り立つやいなや、私の方に向かってバタバタと駆けてきた。
 天井や床、壁からならともかく、棚の引き出しから出てくるなど、考えもしない。突然のことに驚く余り、私は言葉も出なかった。

「椛ー! かくまってー!」

 何処にだ。
 と、尋ねる間も無く、橙は件の棚から隠れるように、私の後ろへと回り込んだ。

『こら! ひとに助けを求めるなんて卑怯よ! 正々堂々と逃げ回りなさい!』

 沢山の小人が同時に叫んだような、そんな奇妙な声がしたかと思うと、今度は先程の引き出しから真黒い蝙蝠の大群が姿を現した。
 蝙蝠達は見る見る内に一ヶ所へと集まり、一人の見知った吸血鬼の姿を形作っていく。

「どどどどっから出てきたんですか!?」
『あら美鈴、見てなかったの? そこの引き出しからよ」
「いやいやいやいや! それは見ましたけど!?」

 驚きを隠せない美鈴さんとは対照的に、フランさんは落ち着き払って問答をしながら、普段通りの姿へと戻っていく。
 その後ろでは、にとりと鈴仙、ついでにアリスの操る人形が揃って、開いた引き出しを覗き込んでいる。二人と一体は筆や帳面といった品々を引き出しの中から取り出し、底をコンコンと叩いたりした後、互いに顔を見合わせた。

「あら、にとり、起きたのね。ごきげんよう」
「お、おう。久方振りだねぇ、フラン」

 やはり二人とも、先の事故のことは把握出来ていないらしい。にとりに至っては、自分が気絶していたことも認識していない可能性が有る。
 もっとも、その話をする機会を奪ったのは他でもない、私なのだが。

「丁度良かったわ、フランドール。貴方にお尋ねしたいことがあるのよ」

 あちらの人形に引き出しの怪を不思議がらせているのは、一種の演技なのだろうか。アリス本人は至って落ち着いている。
 落ち着き過ぎていて気味が悪いぐらいだ。

「なにかしら。答えが四十二にならない質問なら、答えて差し上げてもよろしくてよ」
「貴方、さっき森でキノコを探し回っていた時に、すごく大きいキノコを起こさなかった?」

 この問い掛けに、私と美鈴さん、それに鈴仙の三人が、ぴしりと体を硬直させた。パチュリーは僅かに目を細めたものの、飽くまで平静だ。
 他方、にとりは話が見えないようで、目をぱちくりさせている。
 当然だ。その存在を知らない者に、あの足音と巨大な茸の怪物とを関連付けることなど、出来る筈が無い。

「その答えはヤブの中ね」
「どうして?」
「起こしちゃったのは私じゃなくて、おば様の方かも知れないから」

 鈴仙の手から一本の筆――先程、引き出しの中から取り出していた物だろう――が零れ落ち、カタカタと音を立てて床の上を転がる。
 フランさんの言う「おば様」とは、てゐのことである。
 詰まり、彼女は、てゐと共に行動していた折、巨大な茸が「起きた」のを確認したということだ。

「…それで、貴女はそのキノコをどうしたのかしら?」

 今度はパチュリーが尋ねた。

「どうもしないわ」
「珍しいわね。いつもの貴女なら、捕まえるか喰べるかするところでしょう?」
「だって、おば様がうるさかったんだもの。逃げて、離れてって。お目当てのキノコさえ手に入ればいいのよ、なんて言ってね。それに、雨が降りそうだったから」

 今日のフランさんは思いの外、冷静であったらしい。私達が心配する必要など無かったようだ。

「あれの縄張(テリトリー)はもっと奥の方じゃなかったの!?」

 鈴仙の両手の平が机を思い切り叩き付けた。
 先程から、彼(か)の怪物の足音が響いてくる度、彼女の長い耳は逐一ぴくり、ぴくりと敏感に反応している。そして、この焦り様だ。
 以前、余程酷い目に遭わされたらしいことは、想像に難くなかった。

「何かに釣られて出て来ちゃったみたいね」
「何かって何!?」
「そうね…」

 アリスは片手の人差し指を口許に当てて考え込む素振りを見せながら、もう片方の手で人形を操り、部屋の隅に置かれた籠の中から一本の茸を取り出した。先に見た物とは違う、斑模様の毒々しい茸である。

「誰か、このキノコを食べなかった?」

 その茸こそ、怪物の注意を引き付ける為に利用するという代物に相違無い。
 確かに、幾らか唾液腺を刺激する薫りを漂わせている。
 しかし、私には大して強い匂いに感じられなかった。これなら、橙の体に付いた匂いの方が食欲をそそられそうだ、とさえ思われた程だ。

「あ! それ、おいしかった!」

 私の足許で橙が喜びの声を上げるやいなや、鈴仙の口から魂の抜けるような細い吐息が洩れる。
 よろよろと足を動かし、力無く椅子へと座り込んだ彼女を横目に見つつ、アリスがぼそりと呟いた。

「潰すと匂いが強くなるのよね」

 無論、噛み潰した場合も例外ではあるまい。そういうことか。
 私達と出会すまでの間、橙はマイクを探して森のあちらこちらを動き回っていただろう。そうして、そこかしこに匂いを付けて来たに違いない。
 件の怪物は、それを辿って此処へ来ようとしているわけだ。

「で、でも…。そんな匂いなんか、雨で流れて…」

 希望を捨て切れぬ憐れな兎は、やおら椅子から立ち上がり、不確かな足取りで一方の壁際まで歩み寄った。その手が上から吊るされた布を横に滑らせると、硝子張りの窓が露になる。
 硝子の向こうに見える屋外の天気は、紛うこと無き小雨であった。
 私達が此処へやって来てから、雨足は強くも弱くもならずに足踏みをしていたのである。これでは匂いも流れまい。

「降るならもっと景気よく降りなさいよ!」

 どれだけ声を荒らげようと、どれだけ壁を叩き付けようと、空の模様は変えられない。

「へい。誰か私に説明してくれないかい」

 全く事態を把握出来ないまま進められる話に、とうとうにとりが痺れを切らした。

「つまり、どういうことだってばよ?」
「今、バカでかいキノコが橙を食べに来てんのよ」
「にゃっ!?」

 美鈴さんの余りに率直な説明を聞いた橙は、またも尻尾の毛を大きく膨らませ、おたおたと机の下に潜り込んだ。

「美鈴。もう少し、遠回しに言うことは出来なかったのかしら?」
「大丈夫ですよ。巨大キノコぐらい、ちょちょいのちょいで」
「なら、貴女が何とかしてくれるのね」
「……へ?」

 今のは墓穴を掘ったと言わざるを得ない。
 これだけ妖怪が居るのだから大丈夫、と言いたかったのだろうが、フランさんと橙は雨が天敵。小雨とは言え、怪物の駆除には参加出来まい。
 おまけに、パチュリーは喘息持ちの虚弱体質。冷たい雨に体を濡らすなど、承服するはずがない。
 そして、美鈴さんはこの場で唯一、上下関係の下側に存する者だ。怪物をどうにかするとなれば、彼女に白羽の矢が立つことは、初めから目に見えていた。

「あの…。前にされてたみたいに、雨をどばーっと降らすわけにはいかないんですか…?」
「館に居る時とは事情が違うわ。無闇に天候を弄ると後でうるさいのよ、色々」

 おずおずと提案した彼女の意見はあっさりと切り捨てられ、代わりに「良いから行け」という視線が向けられる。
 これは余談だが、私が同僚から聞いた噂によれば、少し前の異常気象が有って以来、天候絡みの異変が起こると、八雲の賢者が殺意混じりに現れるようになったらしい。

「助かるわ。頑張ってね」
「うゃ?」
「ところで、あのお化けキノコも希少種なのよ。生態系が変わってしまうから、殺したりしたらダメよ? 穏便にお帰りいただいてね」
「は?」

 アリスも一切遠慮しない。如何にも簡単そうに、難儀な注文を付けてきている。

「い、いや。ていうか、あんたも手伝ってよ」
「私はここで、パチュリーと一緒に防御障壁を展開しておくわ。家を溶かされたりしたら困るもの」
「溶かす? 今、溶かすって言った? 壊されたり、じゃなくて溶かされたりって言った? ねえ?」
「それに、雨に濡れると人形が傷むし」
「話聞きなさいよ!?」

 ふと窓の外に目をやってみると、立ち並ぶ木々の向こうから、如何にも毒々しい色合いの傘が見えてきていた。それは僅かな上下運動を繰り返す度に大地を震わせ、少しずつ、少しずつ此方へと近付いてくる。
 そこいらの高木よりも背が高いことは間違いないようだ。

「時間が無いわ。貴女達二人でさっさと行って来なさい」

 そう言って、パチュリーは先ず美鈴さんに人差し指の先端を向け、次に、その手を横へと動かし、鈴仙を指差した。

「はぁ!? 何で私が!?」

 当然、鈴仙の反発は激しい。
 うっすらと涙を浮かべた眼(まなこ)で、これでもかと言う程強烈にパチュリーを睨み付けている。

「察しが悪いわね。貴女の部下がうちの妹様を誘導した結果、モンスターを起こしてしまったんだから、その責任を取れと言ってるのよ」
「な…!? さっきは、フランドールが迷惑掛けたとか言ってたじゃない!?」
「故意に寄り道させた分は別勘定よ」

 アリスの人形が二体、鈴仙の周りを浮遊しながら、両手で万歳をして「ソレハソレ」「コレハコレ」と囃し始める。
 それらは何やら黒い球体を紐で体にくくりつけられ、背に負っていた。

「フランの分の責任は、美鈴に取らせるわ」
「末端に責任を負わせないでくださいよー」
「よし! しょーがないわね! 美鈴がイヤなら私が」
「い、行きます! 私が行きますから、フランドール様はここにいてください!」
「……はーい」

 フランさんが心底残念そうに見えたのは、断じて気のせいではないだろう。
 放っておくと、彼女は本当に雨の中へ飛び出してしまいかねない。

「だから、何で私なのよ!? てゐを行かせれば良いじゃない!」

 鈴仙が浮遊する人形の片割れを右手で捕まえつつ、左手でパチュリーを指差して喚く。
 すると、パチュリーは見るからに邪悪な冷笑を浮かべ、こう言い返した。

「そのてゐが姿を眩ましてしまったから、貴女に言ってるんでしょう?」
「フ、フランドール! あなた、てゐを見たでしょ!? どこに居るの!?」
「おば様? ううん。見てないわ」
「てぇゐいいぃ! どこに隠れたのよおぉ!?」

 てゐがフランさん達を見張るなど、本気で信じていたわけでは有るまい。
 あの老兎(ろうと)は、こうなることを予見して逃げたのだ。流石は年の功。鴉天狗にも負けず劣らず小賢しい兎である。

「鈴仙」

 アリスがにっこりと笑って語り掛ける。

「…何よ」
「貴方が右手に持ってるその子、よく見てごらんなさい」

 じたばたと手足を動かす人形の背に在る球体。よくよく見てみると、そこには「爆弾」を意味する異国の文字が刻まれていた。
 それに気付いた鈴仙は一層切羽詰まった表情になり、慌てて辺りを見回し始める。もう一体の人形の行方を探っているのだ。
 だが、幾ら周囲を見回したところで見付かりはしない。何故なら、その人形は――

「鈴仙。貴方の耳には神経が通っていないのか?」
「え」

 ――彼女の左耳の根本にがっしりとしがみ付いているからだ。
 鈴仙は必死になってそいつを引き剥がそうとするが、一向に離れる気配が無い。無理に引っ張ろうとして、自分が痛がる始末である。

「私ね、出来ることなら、大切な人形(わがこ)に自爆なんてさせたくないのよ?」

 この少女も、いや、この少女こそ、魔女と呼ぶに相応しい。
 柔和な雰囲気で他人(ひと)を油断させ、恐怖の底へと陥れる。まるで妖怪の鑑のような御仁である。
 膝の上で寝ている三毛猫が、いずれ三味線にでもされやしないか、と不安になってくる腹黒さだ。

「ああ、もう! 行くわよ! 行けば良いんでしょ!?」
「そう。それは助かるわ」
「話の解る兎(ひと)で良かったわね」

 半ば狂乱気味の鈴仙が承諾したのとほぼ同時に、二体の人形は彼女の体を離れた。
 人形達はそれぞれパチュリーとアリスの眼前へと飛んで行き、そして、あろうことか、するりと紐を解いて爆弾を下に落としてしまった。
 私を含む複数名が「あっ」と声を上げる。間も無く二つの爆弾は机に衝突し、その表面に一筋のひび割れが刻まれた。

――爆発する!

 銘々身構えた私達の予想とは裏腹に、部屋の中はしん、と静まり返る。聴こえるものと言えば、ほんの僅かな雨音と、例の地響きに起因する物音だけであった。

――……不発?

 恐る恐る机の上を見てみると、爆弾はどちらも真っ二つに割れていた。しかし、その成れの果てである四つの半球の中からは、火薬ではなく、半透明で色とりどりの、小さな星形の物体が姿を現しているではないか。

「………こんぺいとう?」

 誰が呟いたか、それは間違いなく、仄かに甘い香りを放つだけの、何の変哲も無い金平糖であった。ただし、一個あたりの大きさが約一寸と、些か大振りではあるが。

「魔理沙に貰ったんだったかしら?」
「ええ。他に入れ物が無かったからって、こんな物に詰めて投げ渡してくるんだもの。ビックリしちゃったわ」

 それは此方の台詞だ。
 口から息が、肩から力が抜けていく。
 私も相当に肝を冷やしたが、まんまと謀られた鈴仙の屈辱たるや、計り知れないものが有る。
 彼女の顔は見る見る赤く染め上げられ、瞬く間に憤怒の表情へと変わっていった。

「だ…! 騙…し…! また…!」
「じゃあ、頑張ってね」
「有言実行しなさいな」

 その様子をいやらしい笑みで眺めながら、二人の魔女は金平糖を一つずつ手に取り、それを齧った。

「……これだから地上の民は嫌いなのよ! 卑劣で悪辣なことこの上無いわ!」
「どう致しまして。これでも魔界育ちなの」
「私は貴女みたいに、ジュンスイでスナオな月兎が好きよ?」
「うるさい!」
「ま、まあまあ、鈴仙さん…。そんなに怒んないでください…」

 とうとう堪忍袋の緒が切れてしまった鈴仙を美鈴さんが宥める。
 だが、鈴仙の怒りは全く収まろうとしない。

「ここで怒らなかったらどんどん悪乗(エスカレート)するんでしょ!?」
「や、だから…」
「それとも何!? まだ私を虐め足りないわけ!?」
「いいですから」
「何が!?」
「トラウマなんでしょ? あのキノコ。そんなにイヤなら、やらなくてもいいですから」
「………え…?」

 彼女の心優しさ、慈悲深さは相当なものだ。親しい者は勿論のこと、時には敵対する相手に対しても情けを掛けてしまう程である。
 私が心を惹かれたのも、そんな彼女の類い稀なる優しさに触れたが故のことだったのかも知れない。
 ただし、それは飽くまでも――

「オトリは」
「囮の話か!」

 ――妖怪にしては、だが。

「そうですよ? 他に何があるってんですか?」
「文句が山ほどあるわ! 何で私が囮になること前提なのよ!?」
「へ? だって、前は率先してやってたんじゃ」
「やってない!」

 などと、彼女と鈴仙が漫才をしている間に、机上に溢れ落ちた金平糖をこっそりくすねた者が居た。フランさんだ。
 フランさんは手に取った二つの金平糖の内、一つを自分で食べ、もう一つを、未だ机の下でがたがたと震えている橙に差し出した。

「キティ。心配いらないわ。あなたを狙って来たオバケキノコは、美鈴たちが追い払ってくれるもの」
「……ホント?」
「ホントよ」
「でも、すっごい足音…」
「何てことないわ。美鈴はとっても強いんだから。ちょっと大きいだけのキノコなんて、蚊を潰すようなものよ」

 誇らしげに言うフランさんの圧倒的な自信に触れ、ようやく橙も平静を取り戻したようだ。
 差し出された金平糖を受け取り、それをたったの一口で食べてしまった。

「おいしいでしょ? 私の友達が作ったのよ」
「……うん」
「落ち着いた?」
「…うん」
「そう。よかったわ。じゃあ、あなたはこのお家(うち)で……」

 フランさんが幼い橙を慰めている。これは一見すると、大変微笑ましい場面として映るだろう。
 だが、油断してはならない。彼女もまた、恐怖を喰らう妖怪の一人なのだから。

「私と一緒に、アソビマショ?」
「にゃア!?」

 これは恐い。
 紅く輝く狂気の眼差しに、牙を剥き出しにした三日月のような笑み。そして、抑揚の壊れた「アソビ」への誘い掛けだ。
 仮に私が橙の立場であったとしても、尻尾を巻いて逃げ出したくなるだろう。

「やだ、やだ!」
「アハハハハハハハ! 逃げた、逃げた!」
「もうやだー!」
「待て待てー!」

 鬼ごっこ再び、である。
 二人はまたも部屋の中をバタバタと走り回り、隅に置かれた茸入りの籠の周りを何周かした後、忽然と姿を消してしまった。
 直後、壁の向こうからフランさんの高笑いが聴こえてきたのだが、相変わらず、何をどうやって部屋を移動したのかは謎のままだ。

「…よし。フランドール様のお墨付きも頂いちゃいましたし、ちゃっちゃと片付けますか!」
「…あなたは本当に単純で羨ましいわ」
「またまたー。鈴仙さんだって、輝夜さんとかに褒められたら嬉しいでしょ?」
「…………まあね」

 鈴仙の返答に妙な間が有ったのが少しだけ気に掛かったが、今はそれどころではない。

「では、参りましょうか」
「へ?」

 私が暗に同行の意を告げると、美鈴さんは至極驚いた顔を見せた。

「何よ。あなたも来るつもり?」
「橙を此処へ連れて来ようと言ったのは私だ。その分の責は取る」
「や、でも、あんたは別に…」

 別に無理して来なくとも良いではないか。もし、怪我をしたらどうするのか。
 そう言われるであろうことは、私にも判っていた。
 だから私は、先手を打つことにしたのだ。

「ここは譲りませんよ、美鈴さん。私も、本当は貴方を行かせたくないのですから」
「ッ…!」

 彼女が私の身を案じてくれるのは嬉しい。だが、心配なのは私とて同じこと。
 ただ待つだけでは、不安で堪らないではないか。ならば、せめて一緒に行きたい。それが私の本音だ。
 彼女は暫く私を引き留める算段を立てているようだったが、にとりと鈴仙の二人が黙って手を左右に振っている所作を見て、ようやく諦めてくれた。

「…わかった。頼むからムチャしないでよ? 私の前に立つの禁止ね」
「解りました。立ちません」
「浮くのも禁止」
「……善処します」

 詭弁の余地が未然に塞がれてしまった。
 そうそう何でも思い通りには出来ないものだ。

「あれだな。尻に敷かれる恐妻家って言うより、後生大事にされる奥方様って感じだねぇ、椛さんは」

 にとりがクックックッと厭らしい笑いを洩らす。
 その余計な茶々に、私は少々むっとしたが、美鈴さんの方は上機嫌であった。

「ところで、にとり」

 突然、鈴仙が子供を諭すような、穏やかで落ち着いた声色を用いて話し始めた。
 何か有る。それが何かは判らないが、必ず何か企んでいる。そんな予感のする声だ。

「…何かね、鈴仙さん?」
「何か、使えそうな武器は無い?」
「ああ、何だ。そういうことかい。ちょっと待ってな」

 少しく鈴仙を警戒していたにとりだが、その目的が単なる武器の借用であると判ると、ホッと息を吐いて鞄――床に置きっ放しになっていた――の中を漁り始めた。
 その様子を見て、私はふと、先刻の不幸な事故のことを思い出していた。

「そうだ、にとり。言い忘れていたが、お前の鞄は先程」
「あああぁあ!?」

 遅かった。私が言い終えるよりも先に、にとりが悲鳴を上げた。
 その手には、硝子板がひび割れ、黒い液が滲み出した、無惨な姿の生命探知機が持たれている。
 あれだけ派手に撥ね飛ばされた挙げ句、豪快に地面を転がったのだ。機器の一つや二つぐらいは壊れているだろうと思っていたが、よりによって御自慢の最新型とは、何とも不運なことだ。

「ちょ、これ、マーガレッ……われ…われ…!?」
「うわっ。何それ。なんかヤバそうなことなってるけど……」

 探知機を手から取りこぼし、膝から崩れ落ちるにとり。絶望に体を震わせ、今にも泣き出しそうになっている。
 その肩の上に、鈴仙の手が優しく乗せられる。

「にとり。元気を出して。また作り直せば良いじゃない」
「……鈴仙さぁん…」

 にとりはぐっと涙を堪えて鈴仙の顔を見上げた。しかし、その視線が鈴仙と合うことは無い。
 何故なら、彼女は赤い瞳を冷たく光らせ、開いた鞄の中身をじろじろと物色しているからだ。

「……対戦車砲(バズーカ)と閃光発音弾(スタングレネード)があるなら十分ね」

 低く小さな呟きを発するやいなや、鈴仙はひょいと鞄を持ち上げ、それをにとりの胴体に押し付けた。

「はい。持って」
「ほえ?」

 にとりが間抜けな返事をしつつ鞄を抱えるのと同時に、その額に貼り付けられた湿布が強引に剥ぎ取られる。湿布は鈴仙の手の中でぐしゃぐしゃに握り潰され、部屋の隅に置かれた屑籠(くずかご)へと投げ捨てられた。

「なな、何だい、今のは…」

 湿布を貼られていたことに気付いていなかったらしく、にとりが惑いの声を上げる。
 と、そこへ再び鈴仙の手が伸びていき、今度はにとりの襟首をむんずと掴まえた。

「うょ? 何?」
「じゃ、行くわよ」
「………クァッ!?」

 まさかの連行である。突然の通達に驚く余り、にとりの涙も完全に引っ込んだ。
 幾ら何でも、これは酷い。自分が部下の尻拭いをさせられることに苛立ち、八つ当たりをしているのではないか。
 斯様な勝手が許されて良い筈が無い。

――私も手伝うのだから、それで構わないだろう。にとりは置いて行け。

 そう言って、鈴仙を窘めようとした私の意見は、しかし、間も無く改められることになる。

「なして!? 私、関係無いじゃん!?」
「橙(あのこ)がキノコを食べちゃったのは誰のせい?」

 成る程。一理有る。
 と言うより、ある意味では、こいつが主犯だと言っても過言ではない。

「い、いや、あれは魔理沙が…!」
「他人(ひと)のせいにしない」
「えと、ほら、何だ、あれだよ! 今、私、自信作がぶっ壊れて失意のドン底じゃん!? すっげ可哀想!」
「そうね。何も悪くないのにキノコ狩りに駆り出される私の次くらいに可哀想ね」
「雨! 雨、降ってるしさ! 濡れちゃうじゃない!?」
「黙れ河童」
「弁護士を! 弁護士を呼んでくれ!」
「詐欺師で良ければ後で紹介してあげるわ」

 必死の抗議も虚しく、にとりの体は絨毯の敷かれた床の上をずるずると引き摺られていく。
 その後ろを、私と美鈴さんがゆっくりと追い掛ける。彼女も、にとりを同行させることに異論は無いようだ。

「椛さん! 何で黙ってんのさ!? この横暴な兎さんを何とかしておくれよ! 友達だろ!? マブダチだろ!?」
「解った。親友として、お前が自分の責任を全うする手助けをしてやろう」
「おま…!? 鬼か!?」
「天狗だ」

 間も無く、にとりと鈴仙の姿は廊下へと消える。
 私達もそれに続き、部屋を出ようとする寸前、彼女がくるりと後ろを振り向いた。

「それじゃあ、行ってきます」
「首尾良くやりなさい」
「よろしくね。終わったらシャワー貸してあげるから」

 アリスと共に、大勢の人形達が手を振って私達を送り出す。
 思えば、のべつ人形を繰っていたアリスはともかく、パチュリーはここまで唯の一度も、紅茶を飲む以外の動作をしていない。動かない大図書館の二つ名は伊達ではないということか。

「シャワーかぁ。…椛。一緒に入る?」
「いっ…!? あ、いえ、その、それは…」

 しどろもどろになる私を見て、彼女はまた意地悪く笑う。

「んー? 何か変な想像してない?」
「…そう言う貴方は」
「してるかな」
「真顔で言わないでください!」
「あはは。ごめんごめん」

 けたけたと笑う彼女の顔は、明らかに私の反応を見て楽しんでいるようだった。

「ちょ…でっか!? あんなでけぇの!? マジで!?」
「うわ…。前より大きくなってる…」

 玄関の方から、湿り気の強いひんやりとした空気と共に、先に出た二人の悲哀が聴こえてきた。
 あのままやる気を失って、二人仲良く敵前逃亡されては困る。と、少し早足で廊下に歩み入る。

「椛」

 敷居を跨いで屋外へ出ようとする私を、不意に彼女が呼び止めた。
 振り返って見ると、彼女は妙にばつの悪そうな笑みを浮かべ、じっと私の顔を見据えていた。

「何かさ、ごめんね」

 私にはその意図が解らない。

「何がです?」
「や、その…ね。たまのデートなのに、こんなことになっちゃって」
「そんな……」

 そんなことは、美鈴さんが気にすることではない。
 私は慌てて彼女の謝罪を打ち消そうとしたが、その前に、彼女が更に言葉を紡いだ。

「でも、私ってば、わりと楽しんじゃってるのよね、この状況」
「え?」
「何だかんだ、みんなでわいわい騒ぐの大好きだからさ。だから、それがちょっと、あんたに悪いな、って…」

 そう言って、彼女は少しだけ目を伏せた。
 私は彼女の気遣いが余りにも嬉しく、その身に凭(よ)り掛かりたい衝動に駆られたが、何とか堪えてみせた。

「何も悪いことなど有りません」
「ん?」
「貴方が楽しんでくれているのなら、私には、それが一番喜ばしいことです。それに…」
「…それに?」
「こうして一緒に居られるだけで、十二分に幸せですから」

 勢い任せに言いたいことを言ったは良いが、無性に恥ずかしくなってしまい、私はすぐに玄関口の方を向きなおした。
 彼女は一言「そっか」と呟いた後、私の背後でクスクスと笑う。
 開け放たれた扉の向こうでは、半端な雨が大地を湿らせ、その雨に打たれる二人の妖怪が、これから立ち向かう怪物の巨大さにうんざりしている。
 当の怪物、巨大な歩く茸は、森の木々を押し退け掻き分け、その冗談みたいに大きい図体をこれでもかと見せ付けてきていた。その傘の端からどろりとした粘液が滴り落ちる度に、辺りの樹木がその形を歪まされていく。
 あれを穏便に追い返せとは、なかなか無理を言ってくれる。まったく、どうすれば良いのだか。
 思わず天を仰ぐも、空にはどんよりとした雨雲が広がっているばかりで、星の導きは得られそうにない。

「…あの館ぐらい有りそうですね」

 それでも、今宵はやはり良い夜だ。何故なら、――

「はん。紅魔館(うち)のがずっとでかいよ。大したことないわね」

 ――私の傍には、星々よりも明るく、そして心強い女性(ひと)が居るのだから。
 今日は吉日。疑う余地無し。
 ただし、――

「やっと出て来た。あんまり遅いから、怖じ気付いたのかと思ったわ」
「貴方と一緒にされては困る。精々、震えて弾道を歪ませぬよう、気を付けることだ」
「もーみじ。ケンカ売んのはあと、あと。とにかく、風邪引いちゃう前にあれを追い返すわよ! …あ、にとり。あんたオトリね」
「ひゅい!?」

 ――谷河童と月兎、おまけに化け猫にとっては、厄日かも知れない。








 
 御読了、誠にありがとうございます。
 拙作へコメント・評価をくださっている皆様へ、改めてお礼を申し上げます。ありがとうございます。

 何度でも甦るさ!とゆーわけで、懲りずに参りましょう。
 美鈴×椛「それものシリーズ」第四弾となります。

 今回は前作『それはこれから見えるもの』で付き合い始めた美鈴と椛のデートの模様を書かせていただきました。
 ツッコミに鈴仙、ボケににとりを加えての四人パーティ結成です。一つ仕事が終われば忽ち解散してしまうでしょうが、またいずれ、この面子を組ませてみたいと思います。

 それでは、お疲れ様でした。
昭奈
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コメント



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3.100名前が無い程度の能力削除
甘ったるいわあ。近くにいるだけで胃もたれしそう
鈴仙の苦労がしのばれますな
5.90奇声を発する程度の能力削除
甘々しくて良かったです
6.90名前が無い程度の能力削除
うん、食い応えのある文章は好きですよ
「読んだなぁ」って満腹感があるのは良い事だ
ただ面白いんだけど、連中の話題が錯綜し過ぎて、ちょっとゴチャゴチャした印象がありますね(連中の話が右と左に蛇行してて、ついて行くのがめんどくさかったので、、ここで個人的に-10点)
にとりと鈴仙はコメディリリーフとして登場したんだろうけど、彼女らがいなくても話が成立するような…
「そこに拘ってんだよ」って事なら、この感想はお気になさらずどんどん書いてくだちい
7.100名前が無い程度の能力削除
ところどころに毒のあるやりとりが好きだわ
あとなにげに美鈴ガンガン押すんだなw
14.803削除
ここで終わりですかーッ!?
相変わらずキャラクターの濃いこと。そして「まとも」な奴が一人も居ない! いいですね。
ただしストーリーが蛇行というかちょっと遠回りしすぎかなという印象でした。
個人的にここの鈴仙が好きです。
16.80名前が無い程度の能力削除
戦いはこれからだエンドは好きでは無いのですが、にとりと椛の気の置けない関係が好きです
17.100名前が無い程度の能力削除
鈴仙の皮肉屋なキャラと、独特の当て字を用いた言葉遣いがすごくツボです
美鈴と椛も良いですが、この鈴仙が主役のスピンオフなんかも読んでみたいですね
18.90名前が無い程度の能力削除
高慢ちきだけどヘタレな鈴仙可愛いです
フランがてゐをおばさまって呼ぶのが育ちが良さそうで好き