Coolier - 新生・東方創想話

風神太平記 第七話

2013/06/06 22:13:14
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 しかし、である。
 十一月に入ると、諏訪子の策には早くも破綻の兆しが見え始めた。

「豪族たちが、王権の立ち入りを拒むと?」
「は。南科野、とりわけ天竜川流域の諸領主ことごとく、八坂神の御名による査察を頑なに拒んでおりまする。所によっては兵を配置して、われわれ王権よりの使者を追い返す者まで出る始末」

 さも申しわけの立たないといった顔で報告をしているのは、数日ぶりに諏訪の柵へと登城した評定衆のひとり――渟足(ぬたり)である。身にまとっているのは簡便な旅装であり、政の場に参ずるための正装をしてはいない。着物の裾など、未だ薄らと土埃で赤茶けているのが見て取れる。十一月二日の評定堂は、彼の報告を受けたその瞬間から、たちまち重苦しいものに包まれた。楽観という緩やかな流れに遊ぶ花や葉が、突然、悪童の投げつけた石によって川底に沈んだかのごとき落胆でもあろう。いや、しかし、誰よりも何よりも落胆をしているのは、此度の任を与えられておきながら、果たすことのできなかった渟足その人であるに違いない。

「仔細を。仔細を申せ」
「は。……仔細というほどのこともなく。ただ、王権であろうと何であろうと、水運の操業を妨げられるは、豪族たちの“実入り”に対し、少なからざる差し障りがあるであろう――と。いずれの土地の領主を糺しても、皆、そのように申しておりました」
「水運よりの実入りよな」
「その通りにございまする。すなわち各地の豪族たちは、天竜川での水運を川の商人たちに任せ、その代わりに河手を取り立てており、それを大きな財の柱としていると。水運を差し止められるは、その河手に対して大いなる妨げであると」
「ッ! ……ええい。せっかく官衙から報せがあったものをよ」

 と、神奈子が舌打ちを見せたとき、評定堂に居た大半の者たちがびくりと肩を震わせた。冷静ではあるが、いちど激すれば手のつけられなくほど怒ることがある。軍神ゆえの性と言おうか、八坂神奈子にそのような面があることは、この場の皆が知っている。そして現在(いま)のいら立ちの大きさというもの――それは神奈子が自らの胡坐の上に開いている、一条の竹簡にすべての発端があったのである。

 神奈子の舌打ちに動じなかった唯一の人物……諏訪子は、ちらと横目を遣ってその竹簡を見た。伊那辰野周辺には天竜川上流からたびたび多くの舟や筏が下り、積み荷の受け渡しが行われているらしいこと。辰野を発した舟はその次の渡し場で武器甲冑の類を多く売っており、ユグルの元で糧食と交換した結果であると考えられること。またユグルが城を構えた丘の西側には、彼の一族の勢力に組み込まれた小村があること。その小村にもまた天竜川が流れ込み、舟を乗り入れるのにちょうど良い浅瀬があること。そこを渡し場として、すべての取引が行われている公算が強いこと。

 いずれも南科野各郡の官衙に対し、天竜川近くへの監視強化を命じて後に明らかとなった『成果』であった。やはり当初の読み通り、ユグルは水運商人から糧食を手に入れていたということだ。ここまでは諏訪子の目論見が当たった。外堀から埋めて、徐々にユグルを干上がらせることで開城に応じさせようという目論見が。けれど、今はそれまでである。ユグルと水運商人との関わりが明らかになった後の、次の一手が叶わない。

 つまり――――。

『事が終わるまで水運の操業を差し止めさせよ』という王権からの通告に対し、南科野の豪族たちが、はっきりと『否』を突きつけてきたのである。理由というのは先述がごとく、河手(かわて)……つまりは河川交通において、停泊する舟に対して課される通行料が、一時的にせよ途絶えてしまうのは甚だ困るというものだった。領内に天竜川が流れ、かつ渡し場や泊(とまり)を有する豪族にしてみれば、河川を利用した交通や交易が活発であるほど自分たちの利益は大きくなる。だから、それが邪魔されれば収入源が断たれるというわけだ。極めて単純で解りやすい理屈。しかしそれゆえにまた、関わってくる損得の振り幅は大きくなる。豪族たちにとってもユグルにとっても、諏訪王権にとってもだ。

 なお『河手』というのは本来、日本史においては中世の頃に使われた用語であり、本文中ではあくまで便宜的に使用しているということに留意されたい。

「その河手とやら、王権のうちに組み込むことはできませぬか」

 頬を掻き掻き、諏訪子は言った。
 せっかくの策が水の泡となってしまうのは、むろん、悔しい。もし一策が潰えるのであれば次の手を、それもだめなら次の手を。そうしなければ、此度の“勝利”はおぼつかない。それは、この策の提案者である洩矢諏訪子自身がよくよく承知していることなのだ。

 思いのほか、首尾悪しき報告に諏訪子が動じていない。
 そのことに気づいた神奈子は幾分か落ち着きを取り戻したようではある。かたわらにあるもうひとりの王の問いに、しかし、彼女はどこか躊躇いがちに問い返すことをした。

「其は、河手徴収の権をわれらが召し上げるということか」
「左様にございまする。そうすれば、そもそも河手云々でかの地の者たちが不平を言い出すこともないのでは」
「無理だな」

 すっぱりと断ずる神奈子。
 あまりの即答ぶりに、さすがの諏訪子も少しばかり気に障った。が、ここはひとまず黙って話の続きに耳を傾ける。

「われら出雲からの東征軍が、ここ諏訪を目指して科野に足を踏み入れたとき。その進路に当たった南科野の諸豪族は、ほとんど手向かう者もなくあっさりとわれらに従うた。諏訪入りの折も、諏訪勢とのいくさ以外に何の障害もなく渡河に移れたのはそれが理由だったのだが……。ゆえに、戦後の除目(じもく)にてもかの豪族たちには、ほとんど所領替えを命じておらぬ。強き地盤をそのままにした南科野の豪族たちを、今になって敵に回すは甚だ危うい。たとえそれが、河手ひとつを取る取らぬのことであったとしても」
「別の方面から切り崩すのも、難しうございまするか」
「……やれやれ。除目の際は恩賞のつもりだったが、それが此度は毒になるとは」

 盛大、かつわざとらしい溜め息を吐く神奈子。
 自らの先見のなさを自嘲せずにはおれない、といったところだろうか。
 そんな神奈子を横目に見つつ、頬杖を突いて諏訪子は再び思案する。水運商人と南科野の豪族たち。この二者のあいだには利権の構造――諏訪に八坂政権が誕生する以前から続く、既得権益の深い繋がりがあると見て間違いないだろう。除目を経てもほとんど変わらなかったという地盤の強固さもある。出雲勢の諏訪入りに際しても、おそらくは抵抗する愚を悟って戦力の大半を温存しているはずだった。それゆえに、官衙の権限をもってしてもそう容易く切り込めるものではない。

 つまり南科野の諸豪族は、今なお隠然たる『眠れる獣』として存在しているということである。八坂神奈子は怖れているのだ。水運を差し止め河手徴収の特権を侵すことは、その獣の尾を力いっぱい踏みつけかねない行為だと。まして、天竜川を挟んで対峙する南科野諸州との仲を違えれば、諏訪は自ずから科野という国の半分を敵に回すということではないか。その危惧せるところのものが、重大な障壁となって事態の解決を妨害している。

 打つ手はない、か……?

 ほんの小さな声で、神奈子が呟いた。
 それは、おそらくこの場においては諏訪子にのみ聞き取れた軍神の弱音だったかもしれない。否、諏訪子にのみ漏らした弱音だったのだろうか。臣らに対しては常に王の威を示さねばならない八坂神の。

「いいえ。未だ手は残っているはず」

 力強く、諏訪子は宣した。
 両の手を着物の裾のなかで握り締め、神奈子も評定衆も、その両方を鼓舞するかのように。

「しかし、これ以上何をなさると仰せらるる」

 怪訝な顔を向けてきたのは、老臣の威播摩令(いわまれ)である。否、評定の場に参ずる者たちは、みな諏訪子に疑いの眼を向けていた。突き刺さる視線がさすがに痛い。破綻しかけているのは、他ならぬ諏訪子の仕掛けた策なのだ。が、それでも彼女は笑って見せた。にいと、不敵に。

「策は、もうある。なれど、そうそう他人(ひと)に漏らすべきものではない」
「よほどの自信ですな」
「己に自信なくば、策があるなどと口には出せぬ」

 言って、諏訪子はすッくと立ち上がった。
 神奈子の視線が這いあがる。何をするつもりかと無言に問う。「ご安心を」と、ことさらに両腕を大きく広げながら、まるで役者のように大仰な身振り。

「打倒すべき敵が自ずから炙り出されに来た。此度のことは、そう考えれば良いかと」

 とは申せ――多分に、“張子の虎”であるには違いなかった。
 しかし、その張子とやらのなかに然るべきものを詰めることができれば、あるいは。


――――――


 明けて、十一月三日。

 諏訪子は諏訪の柵から一時的に姿を消していた。再び上諏訪の商館に赴いたのかといえば、そうではない。その日、彼女がやって来ていたのは、自身の古巣たる下諏訪御所である。科野行幸の最後に訪れて以来、一か月以上ぶりの『還幸』である。還幸とはいっても……むろん、郷里が懐かしくなったわけではない。行うべきことを全て投げ出して逃げ込んだわけでもない。要は、

「よう参ったな、ギジチ」
「は。亜相の権においてのお呼び出しとあらば、従わぬわけには参りませぬ」

 政のうえでの談合である。
 
 御所は拝殿、謁見の間。
 今この場は、完全な人払いの下にある。諏訪子に仕える神人(じにん)たちでさえ事が終わるまでは近づかせぬよう、よくよく厳命が為されていた。御所の中庭、梅の木の枝々に遊ぶ雀か鴉の声ぐらいしか、閉め切られた扉や蔀(しとみ)をくぐり抜けてはやって来ない。あるいはまた、それは諏訪子とギジチの声についても同じであろう。改めて、周りに人の気配や物音がないのを、諏訪子は眼と耳を配って確かめた。さすがに杞憂かもしれぬとは思う。この部屋の周りには、あらかじめミシャグジたちを幾らか留め置いてある。蛇神たちが異変を察すれば、その感覚は、直ぐさま主である諏訪子にまで伝わってくるというわけだ。

「しかし、何ゆえ此度は下諏訪の御所に? いや……諏訪子さまご直々の御用を疑うているわけでもございませぬが。上諏訪の商館か諏訪の柵にでもお呼び下されば、さほど時を置くこともなく馳せ参じましょうものを」

 慌ててのことか、ひと言を添えるギジチ。
 彼の失言めいたものをあえて笑うこともなく、諏訪子は答えた。

「さして大きな理由(わけ)はない。強いて申さば、“悪だくみ”をせんがため」

 眼をわずか見開き、しかし、ギジチは何も答えなかった。これを諏訪子の諧謔(かいぎゃく)と見るべきか、あるいは本気で言っているのかを判別しかねている風である。頭のなかで、慎重に次の言葉を選んでいるようにも見える。けれど諏訪子が彼の返答を待つことはなかった。今度こそ不敵に笑い、またさらに問いかける。

「答えよギジチ。南科野の商人で諏訪との緊密な繋がりがあり、そのうちもっとも大きな力持つ者とは、誰か?」
「とはまた、ずいぶんと唐突な問いをなさいますな」
「良いから、答えよ」

 口ぶりを強く押して、言った。
 ギジチは諏訪子の方から眼を逸らし、唇に手を当てて思案の態である。しかし、それほど時間を掛けずに答えが返ってくる。

「オンゾ。伊那郡飯島に本拠を置くオンゾという男」
「相違ないか」
「相違ございませぬ。われらのごとき北科野の商人が南科野で商いをするうえは、何につけてもオンゾを介さねば――つまりは支払うものを支払わねば――話が通らぬほどにございまする。かの商人は、木曽の山脈より飯島に流れ込み、天竜川にも合流する中田切川の水運に関わって財を成したとか。さらにまた、南科野各地に商いの拠点を持っており……そうですな、諏訪からもっとも近き場所は、確か岡谷。そこを南科野各地への中継ぎとして使っていると」
「ようし、解った」

 してやったりとばかり、諏訪子は己の膝をパンと叩いた。
 突然の行動に驚いたか、見ていたギジチは口を真一文字に引き結ぶ。

「これらの話が、いったい何に繋がりまするか」
「ふ、ふ。とぼけるなよ。さっき、儂は“悪だくみ”をすると申した」

 肩をすくめるギジチ。どこかわざとらしい仕草ではあった。互いが互いに向けて道化を演じ合っていることを見透かしている。ふたりともが、おそらく気づいていたに違いない。

「上諏訪商館から運び出された武器や糧食はいったん岡谷に集められ、そこから天竜川の水運商人たちに引き渡される。そしてその後、ユグルの城がある伊那辰野を始めとする、下流の土地に行き渡る手筈になっておる。そこまではだいぶ前に当たりをつけていた。だが……、天竜川の水運はどうにも差し止めること叶わぬ。その流れ速きにも似て、こちらの策を押し流してしまう」
「諸方の豪族方も、河手が取れずば懐が寒うなりますからな」
「やはり、その手の地勢には明るいか――まあ良い。問題はその先」

 逸る気持ちを抑えるごとく、諏訪子は奥歯を軋った。

「しばしのあいだ、ギジチには泥を被ってもらう」
「何と?」
「オンゾと商館との取引について、今後はそのすべてを禁ずる」

 これまで仮にも沈着な態度だけは、最低限、崩すことのなかったギジチは、その言葉を聞いた途端に拳を振り上げた。まるで目の前の痴れ者を殴りつけるかのような素振り。部屋のそばで諏訪子と感覚を共有せるミシャグジたちが、一挙に牙を剥いて謁見の間に躍り込むかと身構えた。が、直ぐに諏訪子が心中に蛇神たちを制する。そしてギジチが、振り上げた拳を自らの膝に叩きつけるは、「この男を殺すには及ばず」と諏訪子がミシャグジに念じ終えるより早かった。

「畏れながら。其は、事態の根から断つにせよ、あまりに性急なる思し召しかと存じ上げ奉りまする。斯様な処断を致さば、後々に至るまで南北科野の商人同士のあいだに禍根が残り、今後、多大なる差し障りがあろうものかと」

 短慮は、どちらか。
 突拍子もない計画を口にした諏訪子か、それとも拳を動かしたギジチの方か。そう思うと急に可笑しくなってくる。やはり互いは道化である。「嫌か、この策が?」と諏訪子は問うた。「嫌もなにも。諏訪の地に端を発する商業の道が、毀損の憂き目に遭うは必定のこと」。

 ふっ、と、短く息を吐いて、祟り神は商人に問う。

「其許にとって、オンゾという男は“信ずるに足る者”ではないのか?」
「何を仰せか。北と南の商人輩(しょうにんばら)は、いわば野の獣が縄張りを争い合うがごとく商圏を奪い合う間柄。有り体に申さば敵同士。斯様に信ずるに足らぬ者だからこそ、南科野の商人……オンゾに対しては莫大な進物を捧げて仲介を依頼し、当地に物を売っている。そうして互いに繋がっているうちは、少なくとも味方と呼ぶに足る者。しかしそれゆえに、容易に乗り越えられるような“障壁”ではございませぬ」
「ふうん。なるほどな。“障壁”か。其許にとって、オンゾはな」

 やはりか。
 南科野が『眠れる獣』であるのは、諏訪王権だけにあらず。
 そう口には出さぬながら、にんまりと諏訪子は笑って見せた。もはや、彼女はほくそ笑むことを隠しもしない。見る人の見れば、明瞭なまでの異様さだ。

「ギジチよ。其許が此度のことについて、心配をする必要は何もない。“すべてはオンゾが悪いのだ”。王権に叛き奉るような輩を裏で助けるオンゾがな。其許はただ、そのような不埒の輩に対し、商人として益を逃したと怒るだけで良い」
「ほう、それは」
「“諏訪王権は、常に心正しき者の味方ぞ”」
「オンゾが、心悪しき者であるという確信がおありで」
「そうであった方が……否、そうであろうからこそ、都合が良い」

 けれど、ギジチは動ずることがなかった。諏訪子の言葉の裏にあるものを、目聡く察しているのだろう。よもや、こうなることまでも予期していたのではないか。であるならば、そら恐ろしいやつだと、諏訪子はさらに深く笑む。おそらくは“オンゾ潰し”のため、諏訪子に対してあえてその名を挙げたに違いない。そうして、その拠点のひとつが岡谷にあるということまでも明かしたのだ。“悪だくみ”をすることにかけては、諏訪子にも劣るものではない。

『眠れる獣』を射殺すための弓を、あるいは矢を、互いが用立てるという約定だった。
何の証文もない、密約ではある。だが、それがむしろ正解なのである。
後ろ暗い取引をする際には、足がつかぬよう慮るが上策と。

「ギジチ。其許の手に南科野をくれてやる」


――――――


「諏訪子さまに、御書状が届いておりまする」
「誰から?」
「御使者は、上諏訪商館のギジチどのよりと申しておりました」

 取次の神人が言うなり、諏訪子はその手からひったくるようにして竹簡を受け取った。下諏訪御所の拝殿奥に位置せる私室から、妻戸(つまど)の向こうへと神人を押し遣り押し遣り、部屋の奥に縮こまるみたいな体勢で書状を解く。まるで男から恋文を受け取った生娘である。けれど、竹簡に書かれている文面に眼を走らせるその顔は、初心(うぶ)な生娘などとはかけ離れていた。いや、およそ少女らしからぬ黒い光がみなぎっている。よし、と、小さな声で呟く諏訪子。直ぐさま竹簡をまた紐でまとめ直すと、懐にそれを挿し込んで――とはいっても、紙よりかさばるからいささか不格好だ――急ぎ妻戸を押し開く。

「誰か、ある」
「御前(おんまえ)に」

 声を発すれば、近くにて侍っていた神人がやって来た。
 
「上諏訪へ行く。急ぎ輿の仕度を」

 神人はそのまま取次役となり、しかるべき者たちの元まで「輿の仕度を急ぐべし」と走り行く。急ぎ駆け去った彼のその背を見るにつけ、諏訪子もいよいよ気が急いてきた。肩から背にかけて、びりりとした不思議な感覚が走っている。武者震いのようなものだろうか。今さらになって、策の失敗を恐れる気持ちが自分にあるとも思えない。

 神の身ながらにして、幸運なめぐり合わせには感謝をしなければなるまい。此度のことは、ある意味で賭けである。オンゾがもし、諏訪子からの『諏訪との取引停止』の命令に素直に応じてしまっていれば、ここから先へは繋がらなくなる。

 諏訪と岡谷の取引における符丁は、各々の場合で関わる者が違っているにも関わらず、ただひとつだけ共通の紋を用いている箇所があった。いわば南科野の商人たちを貫く背骨である。その同じ紋が集まる道筋を辿って行くと、諏訪に隣接し、天竜川の水運交易の始まりたる岡谷へと繋がる。諏訪子もこれに気づいて直ぐさま水運を差し止めさせようとし、しかし南科野の豪族たちの反対によって頓挫した。だが、諏訪からの人と物の目指す先が岡谷であるということは、ギジチの話――オンゾが岡谷に商業拠点を置き、そこを南科野への中継点としているということと辻褄が合う。

 手段は単純だが、巧妙だ。

 商館での取引そのものは傘下の中小商人たちに任せ、オンゾは岡谷の拠点に集めた荷を水運商人に売り渡す。元より岡谷は天竜川と、そこに依拠せる水運交易が始まる場所なのだから、かの場所への集荷にそれほどの違和はない。そして間に別の商人を“噛ませる”ことで、直ぐには足がつきづらくする。まして、オンゾは中小商人から品物を買い入れる顧客であり、中小商人にとっては貴重な『お得意さま』である。互いの利益を護るべく連帯しているのは想像に難くない。結びついた者同士が、意思を伝達し合うために共通の符丁を用いるというのもさして不思議な話でもないだろう。そして、商業利益護持を是として完成され、連綿と続いていた同業者間の共同体に、新参者でしかないギジチたち北科野の商人が入り込むだけの余地は、端からないというわけだ。

 目に見えるかたちで証拠を残すようにしているというのは、自らの取る手段が不正なものではないというのを示さんがためとしか思われない。ならばなおさらオンゾの立場にとってすれば、諏訪子からの勧告に従うわけにはいかないはずなのだ。ここでオンゾが諏訪子に屈すれば、彼は不正を犯したということをむざむざと認めるばかりか、南北科野を繋ぐ中枢となった諏訪での勢力をも喪う羽目になりかねない。

諏訪子は、周りに誰も居ないのをよく確認し、いちどは懐に挿した竹簡を再び取り出した。紐を解き、中身を検めれば、

「オンゾは、上諏訪商館での取引を禁ぜしめよという洩矢王からの勧告に対し、“否”との返答」

 というギジチからの返書である。

「やれやれ。ようやく“ハッタリ”が効いてくれた」

 フと笑う諏訪子が深々と息を探すようにして空を見ると、太陽の光は、初冬というにしてももうだいぶ弱まっていた。十一月六日。例年よりも降雪が遅い気はする。なれど、自らの身体を省みれば時季も相応にしてやはり寒い。竹簡を再び懐に挿し戻すと、肩を抱いてぶるりと震えた。上諏訪の夫も、いま寒くはないかと心配しながら。


――――――


「諏訪子さま」

 と、問う声に、出立前の慌ただしさながら振り向いた。

 輿は未だ御所の門をくぐってはおらず、神人たちの肩にも担がれてはいなかった。
 斯様な状況で当たり前のように諏訪子に声を掛けることのできる人物は、この下諏訪にあってはごく限られている。くッ、と、唇の端を吊り上げながら、なぜだかやって来る可笑しみを彼女は堪える。神人頭のアザギが、そこに居るのだった。かつて諏訪子に潰された両の眼を固くつぶって、彼は短く辞儀のみ見せる。と思うと、眼の見えぬがゆえに欠かすことのできぬ侍者である、先導役の少年に手を引かれながら、諏訪子の近くまでやって来た。首を巡らしてアザギを見るとき、防寒のため自ら頸元にまとった朱鷺色の襟巻きが、いやに煩わしく思えて仕方がなかった。

「どうした、アザギ」
「は。どうということもございませぬが……ただ、お気をつけくだされませ」

 諏訪子は、唇まで襟巻きに埋めながら「何のことか」と呻くのみだ。
 大事の報告を奏上するでもなし、ただ気をつけよと言うだけのために姿を見せるとは、この男にしては意図の読みづらい行動である。「次こそは早う戻って来いと、また小言を申すのかな」。指先で襟巻きを除け、唇を寒風に晒しつつ、諏訪子はいたずらっぽい笑みを見せる。乾いた風が黄金の色をした彼女の髪を梳き、またアザギの髪をも揺らしていった。それを少しくうっとうしがるような素振りを見せ、アザギは「諏訪子さま」とまた呟く。

「伊那辰野をめぐる此度の一件には、何かただならぬ魔のごときものを感じまする。ゆめゆめ、ご油断だけはなされませぬよう」
「数千年を生くる崇り神をつかまえて、魔のごときものに気をつけよとは。其許もようやく冗談を覚えたか」
「胸騒ぎが致しまする。良からざる企てが、あなたさまの足下を掬うような……」

 アザギの言を塞ぎたいような心地で、諏訪子は襟巻きの布をまた口元に戻すのだった。
 何か、主の様子が変じたことを盲目(めしい)ながらに鋭く察し、神人頭は息を吐きつつ頭を垂れる。風から眼を護るようにして、彼は指先で目蓋を押さえていた。眼の古傷が痛むか、と、諏訪子は察する。こちらから引き留めてしまうのも、ならばアザギの傷に障るものがあろう。

「企てならば、この洩矢神の方でも巡らせておる。たっぷりとな。此度は、その魔のごときものとの知恵比べ。……まあ、どっちが勝つか、見物と思うて待っておれ」
「諏訪子さまが、そのように仰せらるるのであれば」
「それから、眼を」
「眼……?」

 両の眼を喪っているアザギにとって、感情の表出は顔面の筋肉を尋常の人より使う必要がある。眉間に深い皺を寄せ、彼は諏訪子への疑問を表した。

「其許の眼を、よう労われ。何ひとつ見えぬでも、痛むと痛まざるとでは天地の違い」

 アザギは無言で、再び辞儀をした。

 それをもはや諏訪子は見ず、大仰に片手で中空を差す。「出発せよ」との合図である。短い掛け声とともに担ぎ役の者たちが輿を肩にし、その向こう側で御所の門が軋み音と共に開かれる。護衛と先導を兼ねた武装の神人たちに導かれながら、上諏訪行きの一行は下諏訪御所を後にした。諏訪の柵へ向かう輿の上で、諏訪子はアザギのことを考える。冬が来ると、あの男の眼はどうしてか痛みを蘇らせる。わたしが、夫になるかもしれなかった“あの子”の眼を、自らに仕えさせるために針で突いたときからだ。その眼が痛めば痛むほど、彼は諏訪子を乞い求める。もう何もかも済んだ仲なのに、そんな気がする。そういう女々しいとも思えるところが、妙に諏訪子の気に障る。しかし、それでも、

「可愛らしいと思えてしまうこともある……」

 アザギという奴婢の子を、神人の頭にまで育て上げたのは諏訪子なのだ。
 どうして彼女の好みでないといういら立ちが、彼のすべてを嫌う理由になどなろうものか。


――――――


「八坂さま! 八坂さまは何処に居られるか!」

 冬風吹き込む諏訪の柵を、幾日かぶりに諏訪子は走りまわった。
 すれ違う者たちは一様にぎょっと眼を剥くが、その視線にはいつもと違う驚きが混じる。何せ数日ぶりに、洩矢諏訪子が下諏訪御所から帰って来たのである。着物の袖を翻し、髪の毛が乱れるも気にすることなく疾走する諏訪子。城内の舎人や衛兵の驚愕を乗り越えるようにして彼女が行き着いたのは、やはり神奈子の執務室であった。

「八坂さま!」
「今度はどうした諏訪子。ようやく帰って来たかと思えば、そなたはいつでも騒がしいな」

 風が吹き込まぬよう、八坂神の執務室は扉も蔀も閉め切られていたが、ほとんど叩き割るような勢いで諏訪子はバンと扉を開け放った。筆を取った手を中空で静止させる神奈子の向こう、稗田阿仁は驚きのあまり、擦っていた墨を文机にこぼしてしまっていた。自分のせいで起こったことなのに、稗田の失敗につい吹きだした諏訪子。口元に浮かぶ笑みを努めて袖で隠しながら、にゅうと顔を突き出して彼女は乞う。

「急ぎ、兵をお借りいたしまする」
「なに?」
「ひとまず百。……いや二百。商館を取り巻かせられるだけあればよろしい。南科野から諏訪に至る道々を封鎖させられるだけなら、なおよろしい」
「万策尽きて、ついにいくさに訴えるつもりか?」
「否、否。いくさをせぬために兵が要るのです。数日来、この諏訪子が下諏訪に在ったは何のためだとお思いか」

 一気にまくし立てると、それきり神奈子は黙り込んでしまった。やがて筆の柄の先で、こめかみを二、三回突くような仕草を見せる。頭が痛いことだ、と、皮肉を訴えているみたいに諏訪子には見えた。だが、そんなことには構っていられない。早くに事を為さねば、全く事は成らないのである。「如何に?」と神奈子を急きたてる。

「いま直ぐ急いで召集しても、軽装の将兵がおよそ百五十。半刻ほどは掛かるやもしれぬ」
「構いませぬ。足らぬと思わば後から追っ付け増やしていただければ」
「それで良いのだな」
「然り、と」

 ふたりは、互いにうなずき合った。
 何をする気だ、という神奈子の問いに、ただ含み笑いだけを返す諏訪子。


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