Coolier - 新生・東方創想話

風神太平記 第七話

2013/06/06 22:13:14
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 一日に上諏訪商館の門をくぐる者たちの数は、どうやら、諏訪の柵まで神奈子や諏訪子への謁見に訪れる豪族たちよりもはるかに多い。前者は多くて日に数十人。侍者や供の者まで含めても、百人に届くかどうかといったところ。しかし商館の方は、科野各郡から一日に二百人近くも人が来る。商人だけでなく、彼らが使役する奴婢や人足も合わせるともっともっと多くなる。そして程度の差こそあれ、彼らは商品と代金を兼ねたいろいろな品物を持参している。十重二十重に連なった商人と部下たちが、それぞれの品物を大事に輸送し、商館目指して諏訪への道々を歩んでくる様は、もはやちょっとした『軍勢』である。いざ敷地のうちに彼らが入れば、元から商館で働く人足たちも作業の人数に加わる。集荷、出荷の際には身分を問わず人々が入り乱れ、商館の敷地内はごった返すこととなる。

 そして冬が近くなるほど、彼らは諏訪人以外の顔ぶれを増やしていったらしかった。諸方から訪れた科野州人たちは、ギジチの言うとおり冬の到来によって雪が道々をふさぐ前に、済ませられる取引は済ませておきたい腹だろう。ふん、ふん、と鼻を鳴らしながら、諏訪子は幾重かの人波を通り過ぎた。どこへ行くともない。気晴らしに商人たちが競りを展開する様子でも見物してみようと思っただけだ。それに三日も通えば、はじめは面食らった人の多さにもどうにか慣れてくる。列の切れ目、並びの隙間にちょうど良く身を滑り込ませるやり方も覚えた。ある競りでは、鹿の皮三十枚に十数俵の米と塩蔵のわかめ三樽の値がついていたのを目にしたことがある。防寒着の材料になりそうな素材は、冬に向けて値が釣りあがっているゆえ、どうやら高値で捌けているらしい。

 一方、競りに参ずる商人たちである。

 晩秋の肌寒さは日増しに強くなっているというのに、黒山の人だかりをつくる男たちは自分たちの熱気に呑まれ、額にはてかてかと薄く光る汗の幕をつくっている者さえも居た。そんな彼らのあいだを堂々と歩いていく諏訪子は、有り体に申さば“かなり浮いている”。背丈のうえでも熱気のうえでも、彼女が男たちに敵うことはない。ぴょんぴょんと、幼い蛙みたいに飛び跳ねて、かろうじて競りの具合を眼にしようとするのが精いっぱいの見物ぶりであった。

 とはいえ、ただ見て回るだけでも気晴らし以上の愉しみがあることに、諏訪子は薄々と気づいていた。まがりなりにも彼女は『神さま』であり『王さま』なのである。本当であれば、相手の方から畏まって道を譲らなければならない雲上の立場である。それが、ここに集っている連中の大半は――例外は諏訪子の容姿を知っている諏訪人くらいであろう――彼女のことなどお構いなしに自分たちの仕事に熱中しているのだ。すれ違っても頭も下げないし、積極的に道を譲るわけでもない。人のなかに紛れ、人と同じように肩を並べて歩く。すべてが新鮮な体験だった。それが何だか可笑しく、面白い。

 そして諏訪人かそうでないかを見分けるやり方は、割合とたやすい。ただ、諏訪子に対して畏まるかそうでないかに注目すれば良いだけなのだから。道を歩いていて、諏訪子とすれ違った諏訪人はみな例外なく拝跪(はいき)の礼を取ろうとする。まさか諏訪の旧主が商館を訪れ、供も連れずにぶらついているとは思いもしないのであった。そういう手合いと出くわすたび、苦笑してその必要なきをやんわりと説く諏訪子であった。

 しばし歩くと、競りの熱気はいつかだいぶ遠ざかっていた。

 さてここは……と、眼をぐるりと巡らせる。辺りには茣蓙(ござ)を、もう少し物持ちが良い者なら麻布なりを敷いて簡素な床とし、日除け砂除けとして薄い板を屋根代わりにした露店が立ち並んでいる。並んでいるとはいっても、各々が縦横に真っ直ぐ位置を整えて店を出しているわけではなかった。空いている場所から、早い者勝ちの要領で手当たり次第に場所を占めているらしく、露天同士の位置関係や通行人の利便性の考慮などまったく為されている様子がない。単純に言えば、見るからに雑然としてごちゃごちゃとした市塲だ。露店の群れのめちゃくちゃな立地と、ときおり吹き込む風で巻き上がる土埃とが絡み合い、まるで“斑模様”を見るようである。二、三度、諏訪子は独りごとを口にする代わりにうなずいた。初めて商館にやって来たとき、ギジチから得た案内と説明を思い出したのだ。ここは確か、行商人たちが店を置く区画であるのだと。

 顎をしゃくるみたいにして、いま来た道を振り返る諏訪子。

 甕(かめ)や樽を、荷車に積み込む奴婢たちが見えた。きっと中身は主が競り落とした商品だ。ほう、と、息を吐き、再び行商人の区画に目を転ずる。場所の違いもそうだが、大河の本流のような人波がふたつの区画を隔て、どちらも同じ敷地のなかだというのに、それぞれがまるで別々の市場を形成している。

 程度の差こそあれ、行商人たちの身なりは競りに参加している商人たちよりも、総じて質素であった。尾の切れかかった草鞋や、裾が擦り切れたままの着物を身につけている者も居る。旅の途中で被った砂だの埃を払い切るに足る、満足な寝床がない者さえも居ることだろう。彼らはみな競りには加わることなく、かといってその様子をじいと眺めることもなく、ときおり自分の店の前を通る人があれば、声を掛けたり呼び込みをしてみたり……といった程度である。要は、彼らは零細商人なのである。

「商館を訪れたとはいえ、資力の少なさゆえ競りに加われぬ行商人たちも居りまする。そのような者たちには、届け出さえあれば自由に市を出せることにしてあるのです。そうして商館のうちで他の商人と取引し、品物を売買し、新たに得た品を持って次の土地まで旅立つことになる」

 とは、諏訪子の脳裏に残っているギジチの説明であった。

 しかしながら、資力なき零細商人ばかりの市とはいえ、競りの場にもおさおさ劣らぬほどの活気は保っているようだ。客足は決して少なくはないのである。漂う空気は淀みかけていたのだが、それはたくさんの人々が行き交うがゆえの“人いきれ”と、それから彼らの歩みが舞い上げる砂や土の混じった物に他ならない。なまじ強い力を持たぬ商人たちだから、互いの利の見極めには大商人よりも厳しいものがあるのかもしれないと諏訪子は思う。取り扱っている品物は、大商人たちの流通の経路にはわざわざ乗らぬような、小口と呼べるものが多いみたいだった。農民や漁民、諸々の職人といった人々が、各々の職能を活かして本業の片手間に生産したものかもしれない。

 同時に、雑多ともいえるくらい商品は種類に富んでいる。
素焼きの小壺に入った少量ずつの醤(ひしお)、灯明に差して燃やすための魚油、木や植物の蔓で編んだ飾り。抜け目ない者は「諏訪を発つに備えていかがか」と、真新しい草鞋(わらじ)の束や、旅の保存食として干飯や干芋を中心に売り込んだりしている。競りを終えたらしいひとりの男が、指物(さしもの)細工――とはいっても、動物のかたちをしたごく小さな人形だ――を取り扱う露天で、鷹の人形を買っているところを諏訪子は見た。郷里で待つ子供への土産であろうか。自然と顔のほころぶ様子の彼を見るにつけ、諏訪子もつい興味を惹かれてしまう。

 気づけば、彼女も露天の群れの深くにまで足を踏み入れてしまっていた。
 舞い上がる砂埃を厭い、鼻と口元を着物の袖で覆いながら。しかしその袖の向こう側では陽気に鼻歌など歌っていることに、諏訪子自身は気づきもしない。果たして、市塲の活気にでも中てられたものか。


――――――


「どうだい、そこのお嬢さん。ちょっと見てかないか」

 そんな風に声を掛けられたのは、幾つかの店を冷やかしに覗いてみた後のことだった。耳に入ってきたのは男の声だ。よくよく聴覚の奥で吟味するまでのこともなく、さほど歳経ている感じはないと当たりをつける。その声ぶりを聞くに、未だ三十にもならないくらいだろう。

 お嬢さん、と呼ばれたのが誰のことか解らずに、諏訪子はきょろきょろと辺りを見回してしまった。が、周りに居るのはみな商人も奴婢もみな男、男、男ばかりだった。老女も少女も妙齢の者もない。女は、見たところ自分ひとりである。目を丸くしながら、諏訪子は自分で自分の顔を指した。声のした方には、日除けの板もない露店が一軒、どんと陣取っている。

「そうそう。そこのお嬢さんだよ。どうだい、良い品物が揃ってるよ」

 にいと口角を上げ、露店の主が笑いかけた。

 袖で顔を覆うのもいつかうっとうしくなり、周りを行き交う多くの人々と同じように、当たり前に顔を晒して諏訪子は歩き始めていたのだった。そんな彼女を目聡く見つけて、声をかけてきたものらしい。じろと相手の顔を見る。ぎょろりと突き出た眼をした男だった。何だか魚を連想させる不格好な顔立ちだが、笑うとどこか妙な愛らしさも覗かれる。わざわざ人を選んで呼び止められたことに、諏訪子も少なからず興味を引かれてしまった。とはいえ、むろん男にではない。彼が扱っている品物の方だ。

「せっかくだから……少し、見てみよう」
「どうぞどうぞ。いやどうも、店を出す場を間違ったか、男相手じゃ思うように捌けなくてねえ」

 嫌がる素振りなどあるはずもなく、男はちょいちょいと諏訪子を手招く。
 と、彼女の方でも男の言葉に合点がいった。
 茣蓙の上の立て板には白粉(おしろい)がある。紅がある。簪(かんざし)や櫛もある。丸く艶のある石に紐を通した、装身具らしい物もある。たぶん首飾りなのだろう。海原に磨かれるうち、輝くようになった石を束ねたものだと男は言った。総じて、化粧道具や飾り物の類を扱っているようだった。しゃがみ込み、諏訪子はじいと品物を見比べる。そのうち、何とはなしにひとつの櫛を手に取った。別段、彫り物や上薬で特別な装飾が施されているわけでもなければ、高級そうな素材でできているようにも見えない。木目も露わな木製の品。言ってしまえば、安っぽい櫛である。――と、男はいっそう笑みを深くし、「ああ、櫛かね。あんた、髪の毛がきれいな黄金の色してるからね」。

「儂の……いやいや、わたしの髪の毛が珍しうはないのか? この黄金色を」
「なに。おれはね、これでもいろんな国を見て回ってきたつもりさ。たとえば、その白粉を買いつけに行ったときに聞いた話だ。ある山では、宵の口に人喰いの化け物が現れるという。そいつは暗闇に紛れて旅人に問答を仕掛け、相手の答え方がまずいと“そーなのかー”と言って食い殺しちまうそうだ。なんでも、その化け物も黄金の髪をしているそうな」
「ふ、ふ。では、わたしの髪はその化け物とやらと同じというわけか」
「おっと失礼! まあ、何だ。あんたの黄金の髪の毛は人並み外れてきれいだってことだよ。うちの白粉や櫛を使えば、もっときれいに映えるに違いない。こう見えても上等なのばかり仕入れてきてるんだよ」
 
 ぺらぺらと早口で、男は語る。世辞だというのは判りきったことではあったが、快活な調子で褒められれば、諏訪子でも決して悪い気はしない。そんな文句に惹きこまれたつもりでもなかったけれど、手のなかの櫛を裏返すことを幾度か繰り返し、それからもう片方の手で自分の髪にツと触れた。風に吹かれ、埃に洗われて、彼女の髪は少しばかり乱れてしまっている。

 櫛か……と声に出すことはなく、心中、呟く。

 なぜか無性に思い出されてきたのは、自分の髪の毛ではなく夫であるモレヤの方だった。
 病で寝込めば汗もかく。汗をかけば髪の毛もいつしか乱れていくだろうが。その乱れた夫の髪の毛に、自分が櫛を入れてやるという空想をした。他人の頭に髻(もとどり)を結ってやるような、結髪の技術は諏訪子にはない。自分の髪さえ、誰かに梳いてもらうことがほとんどという立場でもある。だけれど、もし妻が夫の髪に櫛を通すという世間並みの体験が自分にもできれば、きっと愉しいのかもしれない。当たり前に市場をぶらついて、当たり前に櫛を買い求めた結果としての愉しみだ。

 諏訪子があれこれと思いめぐらしていたのは、ほんの数瞬のことでしかなかったが、商人の方では品物を買うか買わぬかの懊悩と見たらしい。小さな溜め息らしいものをひとつ吐き出したかと思うと、

「ようし、解った。どうせなら、今ここでお嬢さんが自分の髪の毛をな、その櫛で梳いてみると良い。買うか買わないかは、それから決めてくれても構わんよ」

 小首を傾げる男からは、そうせよと暗に促されているとしか思えない。
 怒るでもなく唇を尖らせながら、ひとまずは相手の言うとおり、櫛の歯に自らの髪を噛ませてみる。耳の端の辺りから、髪の毛の終わりまで。すうと櫛はよく通っていく。安っぽい見かけに似合わず、軽くてずいぶんと使いやすい代物だった。四、五度ほど、そうして諏訪子は梳いてみただろうか。そのときである。

「ん……?」

 手のなかの感触が急に変わったことに、思わず声を上げてしまった。
 驚いて手を止め、櫛を髪の毛のなかから引き抜こうとする。しかし、直ぐにはできない。髪の毛に櫛の歯が絡まり、引っ掛かっている。髪を傷めぬよう、慎重に櫛を引き抜いた。すると、ぽろりと髪の束から何かがこぼれ落ちてきた。足先に落ちたそれを、諏訪子はひょいと摘まみ上げる。そうして、件(くだん)の櫛と交互に見比べてみるのだが。

「櫛が、欠けた」

 櫛の歯の数本が、根元からぽきりと折れてしまっていた。
 ちょうど、幾十も並んだ歯のうち、真ん中の辺りに位置するものだった。それが、ぎざついた断面を覗かせてきれいに折れ飛んでしまっている。見たところ、櫛にある他の歯は無傷のようだったが、いざ使おうとするとさっきみたいに髪が引っ掛かるようでは、もう櫛としての命は絶たれたも同然だろう。

 唐突な出来事に諏訪子は驚き、ただぼうっとしているだけである。
 けれど、それを見ていた男の反応は早かった。異様なまでに早かった。つい先ほどまで愛想よくニコニコしていた顔を、急速に怒りのそれに変じさせる。魚みたいにぎょろつきながらも愛嬌のあった目は、今や外敵を拒む雀蜂の複眼みたいにぎらついているではないか。

「ちょっとちょっと、あんた! いったい何してくれてるんだよ、うちの売り物によう!」
「いや、よく解らぬ。勧められたとおり試しに髪を梳いてみたら、歯が欠けてしまって……」
「だから、それがマズいって言ってるんだよ! あーあ……どうしてくれるわけ? これもう売り物にならないよ? あんたが使ってるときに壊れたんだから、これ、あんたが壊したってことだよなあ!」

 口調も声も、完全に恫喝のそれだった。

 目を白黒させながら、諏訪子は反論もできずに黙り込む。
 何かしら言い返してやりたいのだが、買ってもいない売り物の櫛で自分が髪を梳いているときに、櫛の歯が欠けてしまったのは本当のことだ。むろん、“わざと”やったわけではない。偶発的な事故みたいなものである。どうにかそのことを伝えようとは思ったのだが、怒りまくる男の剣幕が――正直なところ――怖い。こんなにも剥き出しで、解りやすい他人の怒りに気圧された経験は、諏訪子にとっては、たぶん初めてのことかもしれなかった。

 それに、周りの目もある。仮にも諏訪の王が市場でくだらぬ騒ぎを起こしたとなれば、外聞に泥を塗ることにもなろう。現に周りの露店や客たちが、何があったかとこちらに関心を寄せ始めているのが解った。まして諏訪子は常人に非ざる黄金色の髪をした少女である。これで周囲の目を引かぬ方がおかしい。

 何も言えず、ただただ困惑の態。
 最善ではないが、もっとも悪手から遠い手段は沈黙することだけだった。
 しかし男は、そんな彼女の態度にもいら立ちを覚えたらしい。諏訪子の手から櫛を無理やり引ったくると、これ見よがしにひらひらと動かして見せた。

「ったくよう。良いかい、お嬢さんよう。櫛一本を売り物として並べるのにも、つくったやつと交渉したり代価を支払ったり、市場まで持ち運んだりしなけりゃならねえの。つまり、あんたはその苦労を潰してしまったわけ」
「それは……済まぬと思うが、」
「要するによ。タダじゃないんだよ、品物は。タダじゃあね」
「タダでは、ない?」

 持って回ったような言い方だ。
 眉根に皺をつくる諏訪子。

「解らねえ人だな。要するに、壊した櫛の分の代価はきっちりと払ってもらうということだよ」
「しかし、持ち合わせがだな」

 ぱっと諏訪子の頭に浮かんだのは、商取引で代価として使われる物――米や絹、鉄、塩などだった。むろん、いずれも今の諏訪子が持ち歩いているわけはない。その意味では、彼女は『一文無し』と言える。ほんの気晴らしに商館のなかをあちこち散策していただけだったのだから、当然といえば当然だ。とはいうものの、男の方がそんな事情を知っているわけでもない。じろじろと、諏訪子の身なりを頭のてっぺんから履物の先に至るまで何度も見まわしはじめた。あからさまな値踏みである。諏訪子に負わされた損害の分を、どうにかして穴埋めするつもりだろうが。

「まあ、俺もあんたを取って食おうというわけじゃない。あんたの身に着けてる物をひとつ、もらうよ」
「なに……」
「そうだな。その、翡翠の飾りをくれ。そうしたら、この件は手切れにしても良い」

 言われて、諏訪子は自分の首元に手を遣った。男の視線はその部分に注がれていたからだ。ちょうど、今日の彼女は装身具として両腕に青銅の輪をはめ、それから翡翠の珠を連ねて紐を通した首飾りという装いをしていたのである。確かに、翡翠は宝飾品の材料ともなる貴重品だ。倭国のうちでも産出される地域は極めて少ないと聞いたことがある。その希少性たるや、翡翠そのものが貨幣としても通用するくらいである。この件の代価として見るなら、櫛を壊した賠償をしてなお、釣りが返ってきてもおかしくないほどの代物に違いない。けれど。

「ちょっと待て。その櫛一本に翡翠の首飾りとは、相場が違いすぎる。どう考えても不釣り合いな取引ではないのか?」
「ばか言っちゃいけないよ、お嬢さん。品物が一個壊れたってことはだよ、そのぶん、儲けに繋がる道筋が失われちまったってことだ。壊れた櫛をやむなく店先に並べてみなよ、まともに品物も揃えられないやつだと笑われちまう。そうすると客足が遠ざかる。俺だって、これから冬に備えて色々と物入りだ。方々にこさえた買掛(ツケ)だってある。そんなときに儲けが減る。これが、どれだけの痛手かねえ」

 おのれぇ……!
 と、奥歯を軋って、諏訪子は渋々と首飾りに手を掛けた。
 質の高い翡翠はそのぶんだけ値打ちが高く、貴重なのだ。いま身につけている物だって、元はといえば神奈子が諏訪に王権を築いた後、新政権に頭を垂れてきたどこぞの豪族からの献上品である。諏訪一国の王とても、そう易々と手に入るわけではない。そんな存在を渡せば、確かに手切れとしては申し分のない『謝罪』である。だが、何か釈然としない。納得がいかない。じいと、諏訪子は男を睨みつけた。そして――――。

「解った、やむを得ぬ。売り物の櫛を壊してしまったわたしに非があった。翡翠の飾りはくれてやる」

 これ以上の押し問答は無用とし、素直に首飾りを引き渡したのだ。
 翠色の石は、舞い上がる砂埃を被ってもなおその輝きを失っていない。それを、男は大事そうに諏訪子の手から受け取ると、

「へへっ。どうも、どうも!」

 と、笑みを見せた。

 ついさっきまでの怒りだけで人を押し潰せそうなほどの剣幕は、とっくになりを潜めてしまっている。目当ての品物が手に入ったおかげで、そういう感情はどこかにすっかり消え去ってしまったものと見える。悪態のひとつもつきたい気持ちになりながら――それでも何も口にせぬところが矜持でもあったけれど――、諏訪子は、あらためて男を睨みつける。さっき自分が引き渡した翡翠の飾りを、彼は大急ぎで着物の懐にねじ込むところであった。

「ん? 何だい。何も買わねえってんならもう帰んなよ。さっきみたいに売り物を壊されちゃあ、たまったもんじゃない」
「あ、ああ……。済まぬな、邪魔をした」

 どこかばつが悪そうに視線を逸らすと、足早に露店から遠ざかる。
 そんな諏訪子を追いかけるようにして、彼女を憐れむか、あるいは見識のなさを笑う人々の声がこそこそと聞こえてくる。どこかの令嬢であろうか、斯様な場所でガラの悪い商人に絡まれるとは、と。だけれど、諏訪子は別段に怒りもしなかった。それでも、自分に向いた噂話を繰り返す人々を一瞥すると、そんな連中はあっという間に口をつぐんでしまうのが解る。思わず、ほくそ笑んでしまっていた。何も知らぬ人々だ、無理もあるまいと。

 ――――いいかげんに出てこい、“蛇”め。

 心中にそう念ずると、彼女の肩口から首元にかけて、“ぬるり”とした感触が這い込んできた。さきほど失われた翡翠の飾りの代わりに諏訪子の首を護ろうとするかのごとく、その感触は輪をつくっている。五感のいずれにも属さない霊的な直感で、諏訪子は白い鱗の連なりを感覚した。洩矢神に仕えるミシャグジ蛇神のうちの一柱が、いま密かに顕現をしたのであった。

 ミシャグジはその鎌首をひょいと持ち上げると、鼻先を諏訪子の頬にこすり付ける。まるで人懐っこい仔犬が飼い主にそうするように、二つに割れた舌先で主の唇を探り当てようとする素振りさえ見せた。甘えているのであった、持ち物をひとつ失った諏訪子を慰めるようにだ。

 蛇神の姿は、常人の眼にはそうそう見ることができない。
 頬を掻くふりをして蛇の鼻先を撫でてやりながら、諏訪子は苦笑した。

 ――――さすがの儂とても肝が冷えた。
 ――――其許があの商人の頸元に絡みついていたのだから。

 そう言う諏訪子の声なるものは、やはり心中から蛇神へと発されたものだった。
 先ほど、あの商人に翡翠の飾りを渡したときのことを思い出す。正直なところ、壊れた櫛の賠償としてこちらの持ち物を要求されたとき、彼女は渡すべきかどうか判断できずに逡巡していた。悪くすれば押し問答がもっと長く続き、もっとろくでもない事態にまで発展していたかもしれない。

 けれど、あの土壇場でとっさに翡翠を渡した……否、“渡さざるを得なかった”のは、さっさと厄介な場面を切り抜けたかったから、というわけでは決してない。自分に仕える蛇神のうちの一柱が商人の頸元に絡みつき、今しも牙を突き立てて呪詛の毒を流し込もうとしているのが見えてしまったからだ。

 およそさっきの場においては諏訪子にしか解らぬ“刺客”ではあった。彼女が命ずれば、直ぐさまミシャグジはあの男を噛み殺すことができただろう。けれどそれをさせなかったのは、衆目の在るなかでいきなり人ひとりを殺すのは、あまりにも目立ちすぎるという理由からだった。余計な騒ぎを起こしてしまうのは、洩矢諏訪子の本意ではない。結局、いずれにせよ翡翠の飾りを商人に譲り渡すことでしか、あの厄介ごとを収める手段はなかったということだ。

 ――――あの男は“諏訪さま”に無礼をはたらいた。
 ――――御下命あらば、直ぐにでも討ったというのに。

 溜め息をついて、諏訪子は応ずる。

 ――――ばかめ。こんなにも人が多いなかでみだりに呪殺なぞしてみよ。
 ――――諏訪の地は忌まれ、外からの商人は寄りつかぬようになるぞ。

 伝えると、蛇は拗ねるみたいにしてそっぽを向く。
 それは、しょせん外なる神である八坂神を利する理屈ではないかと言いたげに。
 蛇神にも蛇神なりに主を思う気もあろうか、『彼』はより強く諏訪子に自分の鱗をくっつけてきた。人間同士が内緒話をする様子にも似ている。

 ――――さっきの男は、“諏訪さま”の身なり卑しからざるを見て“カモ”にしようと思ったに違いない。
 ――――あの櫛にも、あらかじめ歯が欠けやすいように細工をしてあった。
 ――――つまり、いんちきだ。初めから櫛を“諏訪さま”に壊させて、翡翠の飾りを奪うつもりだったのだ。
 ――――そうする口実はあったのだから、やはり直ぐに殺せば良かった。
 
「なに……」と、思わず諏訪子は口に出して答えてしまった。周りの喧騒に呑み込まれたせいで、その“独りごと”は誰からも気づかれなかったが、急に足を止めたために数人の奴婢たちと肩が触れたりする。わなわなと、今さらになって怒りが湧き上がってくる。自分は初めから、いんちきな商人に騙されていたのだと。けれど、ひとまず怒りの矛先はあの商人ではない。

「ばかっ! それを先に言わぬか、先にっ!」

 そうやってミシャグジを叱り飛ばしても、傍目にはずいぶんと烈しい独りごとを口にする少女としか思われなかったことだろう。つい大声を発してしまった彼女には、直ぐさま好奇の視線たちが突き刺さる。諏訪子はしまったと顔を赤らめた。ミシャグジの方は、いつの間にか姿を消してしまっていた。小狡さでは商人並みかと、喉の奥にて悔しがることしかできなかった。


――――――


 行商人たちが集まる市場とはいっても、彼らは単に商品を欲しがる客を相手に当たり前の商売をするだけではない。そこは商人同士の活発な取引の場であり、情報交換の場でもある。どの方向に視線を遣っても、商人と商人のあいだで取り交わされる商談は、同時にどこで何が起こった、どこでどんな品が産出してどれくらいの値がついたという、そういう諸々の情報をも含んでいた。

 ひとくちに情報というが、ある品物の相場を揺るがすような重要な話から、何々という土地でいくさが起きそうだという剣呑な話題、あるいは家に残してきた女房の愚痴といった他愛のないものまで、内容に関しては玉石混交といった様相なのだが。

 とはいえ、この『商業の集積』『情報の集積』というふたつの機能こそが、八坂神奈子が諏訪を商都に成さしめんとする真の理由であるに違いないと、諏訪子は人波のなかで考える。これを政の意によって管理し掌握すれば、莫大な利益となって王権の実入りに反映されるだろうというのは容易に想像できる。なるほど確かに、こんな美味しい話を易々と手放すのは惜しいというものだ。商業の権を他の誰にも渡したくないという神奈子の意思は、彼女個人が政に臨む意地であると同時に、そういう実利的な面も多分に関わっているはずである。この権限を神奈子以外の他人に明け渡すことは、まさに国をふたつに割るにも等しい大事であろう。

「しかし、それゆえに性根の悪しき者も入り込むということか……」

 翡翠の首飾りをいんちきな行商人に騙し取られた今、首元の軽さがいやにかなしい。
 その気になれば、権力に恃んで(たのんで)あの商人を捕らえることももちろん可能だろうが、それではどうにも、最初に騙された自分のみっともなさを認めてしまうような気がするので、もう翡翠の飾りを取り返すことは諦めている諏訪子であった。ならば、今後はあのような不埒なやつが入り込まぬ体制を整えるよう、どうにかして神奈子に進言するだけだ。

 そのように割り切っても、やはり持ち物を掠め取られたことへのいら立ちはなかなか癒えてくれなかった。足取りも荒く、しばし競りの区画と市の区画を行ったり来たりしたかと思うと、また市塲のなかをあちこちうろつき始める。そのうち、あの憎きいんちき商人の顔だけでも憶えておこうと、露店のあった場所にまで再び歩みを向けた。

 ……しかし。
 どうにも手遅れであったらしい。
 すでに男は立ち退いて、跡さえ風に攫われて砂埃が舞い飛んでいるだけ。
「しまった!」と、思わず歯噛みする。

 考えてみれば、後ろ暗い商売をしている者がそう簡単に足のつくような真似をするはずはない。儲けが出たら、咎めを受けぬうちにさっさと退散するのが賢いやり方だ。舌打ちをするほどの意気さえ上がらぬままに、ガクリと膝を折りかけた。近くを通りかかる人々が、何だこの娘はという視線を寄こしてくるのにも構わぬまま。今度は、ミシャグジも慰めに来てはくれなかった。

「もう良いわ。此度のことは、高い代価を払って市井(しせい)の有り様を学んだと思うよりほかない……」

 そう独語すると、ふらふらと諏訪子は立ち上がる。
 何度も眼をしばたたいていたのは悔し涙を我慢していたからでは決してなく、埃が眼に入ってしまったせいだと、むりやり自分を納得させながらであった。それに、買い物をすわけでもないのにしばらく市場で時を費やしすぎたとフと気づく。そろそろ、仕事に戻らねばならないだろう。頭の中身を努めて切り替え、諏訪子は再び人波のさなかへと歩き出す。が、そのときであった。

「うわっ……」
「おッ――!」

 未だ十歩も歩かぬうちに、誰かと身体がぶつかった。

 鼻先を思いきりぶつけてしまったような感じがしたから、相手は諏訪子より背が高い。驚いて閉じてしまった眼を開けると、やはり背の高い男であった。顔を上げて、見上げるかたちにならなければ相手の表情までは窺えない。少しわざとらしく鼻をさする素振りを見せてやると、相手の男は「お、おお、申しわけない。ずいぶんと盛んな市場だったから、ついあちこちに眼を惹かれて、よそ見をしながら歩いてしまっていた。お怪我などないか?」と、ずいぶんと殊勝な態度。何度も何度もしつこいくらいに頭を下げるその様子は、むしろ諏訪子の方が申しわけなくなってくるほど。

「いいや、周りをよく見て歩かなかったわたしも悪い。そちらこそ、品物に傷など入ってはおるまいか?」

 そんな風に返したのは、男がいかにも「いま長旅をしてきた」といったような姿をしていたがゆえの憐れみだっただろうか。

 脛に巻いた脚絆はすっかり汚れてい、草鞋も緒が切れかかっている。腰には飲料水を溜めておくのだろう大ぶりな竹筒と、おそらくは干飯などの食料を携帯するための小袋がある。周到なことに、干飯の袋には獣の毛皮を加工してつくられた“覆い”がしてあった。湿気や水気を防ぐための工夫だろう。旅のさなかに切る暇がなかったのか、白いものの混じる髪の毛はよく伸びている。前髪が眉毛を越えて目蓋にまで差し掛かっているのが、ちょっとうっとうしそうだ。年格好は、四十を超えているといったところか。

 彼は、背負子(しょいこ)を介して茣蓙や商品などの荷物を負い、ここまで輸送してきたようである。荷物――四角く大きな箱は蓋が外れたり背負子から抜け落ちたりせぬよう、縄で厳重に結びつけられている。何を輸送してきたのか外見(そとみ)には解らない。それでも、男が大儀そうに、背負子の帯が肩からずり落ちぬよう気をつけている所を見ると、どうやら中身には結構な重さが秘められている。

 諏訪子の気遣いを、男は笑って受けた。
 心配は無用、ということらしい。諏訪子もつい微笑をこぼす。
 しかし直ぐに、さっきあの商人に翡翠の飾りを騙し取られたことを思い出す。こうして相手に対して非を認めるようなところを見せれば、また何かしらつけ込まれるのではないかと。……が、そんな疑いは男の次の問いで氷解してしまった。

「ええと。会ったばかりで名も知らないお人に尋ねるのも悪いこととは思うのだが、この諏訪の商館という場所では、どこでも好きに商いをして良いのかね。なにぶん、初めてやって来た土地なもので」

 ははあ、と、諏訪子はつい漏らしそうになった。
 なるほど、この男は上諏訪商館にやって来るのは初めてなのだ。ましてや、どうやら諏訪の土を踏むこと自体が初めてという。旅装の具合から見るに、それなりの遠国(おんごく)と呼べる場所の出身であろうか。もっとも、問われて答えぬほど意地悪い諏訪子でもない。たちの悪い商人のカモにされたことは、ひとまず忘れることにした。

「否。まずこの商館の元締め――ギジチという男だが――に届け出をして、許しを得る必要があるのだ。それから市を出すには、持参した品物の二割を場所代として納めねばならぬ。競りに参ずるつもりであれば、三割を納める」
「二割か……なかなか高いことで」

 顎を覆う髭を悩ましげに撫でながら、男は苦笑した。
 無精の結果というよりも、旅のさなかでは剃る暇とて取れなかっただろうと思えるくらい、青々と伸びた髭だ。そこまで含めて、やはり商人として大きな富貴を得ているわけではないのだろうとも思った。

「ま、ともかく。初めて来る土地ゆえ、何かと不都合も多かろう。そちらさえ良ければ、わたしが案内(あない)を承っても良いが?」
「はあ……。あなたが誰かは存じ上げぬが、助けてくださるというのなら、この際だ、お願い申し上げる」

 ちょいちょいと手招きをして、諏訪子は男を誘導する。
 人波のなかに分け入りながら、彼はしきりに首を傾げていた。


――――――


 さほど長い時間を掛けることもなく、商人と諏訪子はまた元の市場に戻ってくる。

 男の手には、木簡が一条。書きつけてある内容そのものは割合と簡素だった。納品された二割の品物の種類と、それに応じて市場に参ずる許しを与えること。取引のあらましに関しては、漏れなく伝えること……それだけである。いわば、この木簡というのは商館利用の許可証なのだ。商いの規模の大小に関わらず、商館に居る商人たちは、みなこの木簡を携えているのが見える。

 諏訪子が案内をしてやった商人もまた、何の滞りもなく許可証の発行を受けた。
 その間、諏訪子は何をするでもなく取り次ぎが終わるのを待っているばかりであった。
 別段、初めて会ったこの男にそこまでしてやる義理もないのだが、自分から案内を買って出たのを中途で放り出すというのも、具合が悪いと思ったのだ。許可証の発行、それに品物の納品までを済ませた男は、こころなしか妙に表情が明るい。さっきまでより身軽になっているようにも感じられる。背負った箱の中身が少し減って、身体にかかる負担も少なくなったおかげに違いない。

「いやあ、助かった。何から何まで本当にありがたい。あなたが案内を引き受けてくださらなければ、こちらはずっと右往左往をする羽目になったかもしれぬ」

 かッかと嬉しげに笑いながら、男は背負子を背より下ろした。
 と、同時に、竹筒や干飯の袋と同様なかたちで腰にしていた、短刀を手にする。
 すらりと鞘から抜き放つと、荷物を固定していた縄をぎりぎりと切り離す。手早く茣蓙を敷き、その上にごとりと箱を置く。すると男は、さっきまで荷物を縛っていた縄に齧りつき、噛み切って食べ始めたのである。呆気に取られる諏訪子に気づくと「ああ、これは芋の茎を煮しめてつくった縄だ。余計な荷物を減らせるし、いざというときの食い物になる。驚かれたか」と彼は答えた。無言でこくりとうなずく諏訪子を尻目に、男はまた作業に戻る。茣蓙の上に下ろした箱から蓋を外すと――、なかに入っていたのは素焼きの小壺が十数個。塩蔵の“しらす”だと、興味深げに見守っていた諏訪子に、男は答えた。

「しらす……? とは、いったい何のことか?」
「おや、ご存じではないか。鰯だとかの稚魚を捕まえてな、塩茹でにして、乾したものよ」
「おお、ではそちらは海近くの土地からやって来たのか」

 思わず、身を乗り出す諏訪子である。
 海知らぬ土地たる山国の諏訪にとって、沿海部からの旅人ははっきりと『異国』の者である。互いの土地に住まう者同士が直接に交わることは珍しい。ましてや、仮にも王として禁中にある洩矢神が、沿海の行商人と顔を合わせるということが、これまであったかどうか。見た目相応に少女の好奇心を覗かせる諏訪子に少しばかり面食らいながらも、男は「ああ、そうだ」と答える。その間も、箱からしらすの蔵された小壺を手早く茣蓙の上へと取り出していく。

「普段は藻塩なぞも扱うている。遠州(えんしゅう)は、磐田郡(いわたごおり。現在の静岡県磐田市とその周辺付近)にある、海浜の集落の出でな。どうしても諏訪で買いつけたい物があったゆえ、この度は冬が来る前に急いでやって来た」
「なに」

 あらかたの商品を茣蓙の上に並べ終えると、男は胡坐をかいてひと息をついた。その様子を、諏訪子がしゃがみ込んで眺めているというかたちである。彼女のさらなる疑問に苦笑しつつ、男は「これよ」と腰から一物を外して見せた。

「さっきの短刀か」
「うん。これなる短刀は諏訪の鉄器。諏訪の鉄でつくられた短刀だ」

 どこか自慢げに、男は短刀の鞘を撫でた。それから、ほんのわずかばかり刀身を引き抜いて、刃の紋を光らせる。鼻を鳴らすような素振りを見せながら、諏訪子はそれにじいと見入った。鞘の“こしらえ”が、諏訪では見たことのないつくりになっていたからだ。おそらくは鞘の部分だけ、この男の郷里で新たにつくり直したのだろう。そして先ほどは気づきもしなかったが――、刀身における一片の揺らぎもない光の反射は、確かに諏訪の工匠の手になる質良き鉄器の証であるように見えた。あるいは土蜘蛛の系統に属する者が打ったものかもしれないとも思う。

「このような鉄器は、なかなか手に入るものでなし。代価として仕立てたのがこれらの塩蔵しらすだったわけだが、果たして釣り合いが取れるかどうか」

 苦笑する商人に、諏訪子も釣られて微笑を返す。
 けれど、ひとつ疑問が浮かび上がってもくる。諏訪の鉄器は、諏訪の民がつくり、諏訪国内で使用されるためにつくられるのが普通だからだ。例外を挙げるなら、工匠であり行商人でもある土蜘蛛衆だが、彼らのつくる鉄器とて、質が良いとはいえどそう大量に生産できるわけではない。鉄の産出には山を切り開いて木を切り倒さねばならぬし、生産の過程で排出される鉄の“くず”を川に捨てなければならない。そのため土蜘蛛たちは麓の平地民を慮って、冬に鉄器をつくることが多い。他の土地にまで売りさばくような真似は、したくてもできないというのが本当のところのはずである。

 ではなぜ、この男は『諏訪の鉄器』を持っている?

「なあ、商人よ。その短刀は、いったい何処(いずこ)にて手に入れたものか」

 にわかに笑みを消し去って、諏訪子は訊ねる。
 よほどの貴重な物なのだろう、短刀をまた腰に戻しつつ男が答えた。

「そう怖いお顔をしなさるな。……川下りの商人たちから、藻塩の甕が五つで買うた」
「“川下りの商人”……?」

 耳慣れぬ言葉である。
 眉根に皺を寄せながら、なおも諏訪子は問いただす。

「天竜川を舟や筏で下ってきた、水運を司る商人たち。聞けば天竜川は、遠州を貫いて科野州から伸び、その源は諏訪の湖という。ここ諏訪でつくられた鉄器を、水運商人たちが川を下り、私の住む土地まで来て売っていた。だが、連中の手を介すると貴重な品なのを良いことに、思いっきり値を吊り上げられるのでな。だから、直接、諏訪まで鉄器を買いつけに来たということだ」

 頭のなかで、何かの箍(たが)がかきりとはめ込まれるような気配があった。
 ざわざわとした、期待と不安の混ざり込んだ奇妙な感覚が諏訪子の身体を熱くする。一瞬ばかり唇を噛む。両手をぎゅうと握り締める。彼女の眼の色はもう変わっている。茣蓙の上に置かれた商品の小壺を蹴倒さんばかりに身を乗り出すと、「もっと詳しう話せ!」と商人に迫る。

「若い娘がこんな話を聞いて、いったい何が面白い……?」
「良いから話せと申しておる!」
「そ、そこまで言うなら、助けてもらった恩と思って話すが。――水運商人どもはな、いつも川上の土地々々で品物を仕入れては、川下までやって来て売りさばく。我々のような海沿いに済む者は、米をつくるすべをよく知らぬ。ゆえに、連中から米や蔬菜(そさい)など買うている。それがこの数月、急に品物に武器や武具が混じるようになってきた。私の鉄器も、そのときに買うたもの。何でも、科野の伊那とかいう場所でいくさがあったとかなかったとか」
「まことか……!?」
「嘘ではないよ。いくさがあれば、武器兵糧が飛ぶように売れるのは当たり前のこと。他ならぬその伊那でこそ品物がたくさん捌けると、水運商人どもは声高に自慢しておったわい」

 諏訪子は――いつしか奥歯をぎりと噛み締めていた。
 強く強く、力強く。そしていかなる天意のあらん、神の身ながらこの幸運をもたらした何ものかに謝し奉りたい気持ちがじわじわと湧きあがってくる。眼の前の霧が瞬く間に晴れていくのを、いま諏訪子は確かに感覚した。そしてその先には彼女が求めていた真実、少なくともその糸口があるはずだ。

「なるほど、読めたような気がするぞ」

 なぜこのことに今まで気がつかなかったのか。
 ユグルの城に糧食が尽きなかったのは、あらかじめ潤沢な備蓄があったからでも、食い物が無限に生る木があったからでもない。となれば、何者かが必要な糧食を運び込んでいると考えるのが筋である。しかし、そこで陸路の輸送のみを疑っていたのが間違いだった。見落としていた『盲点』は、陸路ではない。諏訪湖を発して伊那郡に流れ込み、南科野から遠州へと続く天竜川水系。疑うべきは、その水路だったのだ。

「と、なれば……やはり諏訪の地から天竜川上流の水運商人にまで、品物を流した者が居るはずだ!」

 立ち上がり、諏訪子は叫んだ。
 その顔には、市場の散策を愉しんだときより幾層倍もの鬱憤晴らしをしたという、明るさがありありと浮かびあがっているのである。

「遠州の商人、よくぞ教えてくれた。此(こ)は、何より其許の手柄ぞ! 洩矢諏訪子の名において、子々孫々まで加護を与えん!」

 が、男の方はただ呆気に取られて諏訪子を見つめているだけだった。
 ぽかん、と、口を開けて、「何を言っているんだ、この子は」という顔をしている。加護がどうのというのは子供の戯れだとでも思っているのだろう、彼は明らかに苦笑いをしていたのだから。

「それは結構なことだが。……あなたはいったい何者なのだ? その堂々たる立ち居振る舞いを見るに、よほど力ある商人の娘御でもあるのか?」

 むふふ、と、ばかりに含み笑いをして、諏訪子は再び背を屈めた。
 彼女の「耳貸せ」、という少しばかり横柄な物言いにも、雰囲気に呑まれたか、男は素直に従ってしまう。男の顔に唇を寄せると、諏訪子はこっそりと呟いた。

「よくぞ訊いてくれた。実は、儂が何者かというとだな――」
「はぁッ!? 神さまッ!?」

 なおも喧騒絶えぬ市場の人波に、四十路の男の絶叫が響いた。


――――――


「八坂さま! 八坂さまは何処に居られるか!?」

 着物の袖を振り回しながら、諏訪子は諏訪の柵の廊下を全力で駆け抜ける。

 仮にも、普段は王らしい威厳を心がけて静々と歩く彼女だったが、今日のような急ぎの用事でそんなこともしていられない。草原に野兎を追いかける無邪気な少年のように、ただ彼女は神奈子の名を呼びながら城中を駆けた。すれ違った舎人や官吏が、頭を下げるのも忘れてぎょッと驚いた顔をする。禁裏守護の衛兵たちが、すわ侵入者かと矛に光をきらめかせる。しかし、いずれの者たちも“騒ぎ”の中心が諏訪子であることを知り、途端に警戒を引っ込める。

「八坂さま! ……ああ、こちらに居られましたか」

 あまり急いで走りまわっていたものだから、諏訪子は自分の足取りを制しきれずに柱に突っ込みかけてしまった。

 と、どうにか頭をぶつけずに済んだ彼女が視線を巡らした先は、八坂神奈子の執務室とでも呼ぶべき一室である。諸々の竹簡――各地からの訴状や地勢、税の徴収の次第を記録した文書に囲まれながら、文机に向かって新たに発給する文書に自分の名前を書き入れている神奈子。かたわらには、彼女に代わって公文書を作成する職務を負うた祐筆の稗田舎人阿仁。突如として飛び込んできた諏訪子に、彼は相当驚いてしまったらしく、そのために文章を書き損じてしまったくらいだった。誤字を削り取るための小刀を手にした稗田を、神奈子は横目に見つつ、竹簡の末尾に走らす筆を止めた。

「いったい何用あってそのように騒がしく走りまわっておる。それに、伊那辰野に向かう軍勢のために、兵糧を徴収しに行ったのではなかったのか」

 沈着な彼女ではあるが、やはり諏訪子が現れた瞬間にはびくりと肩を震わせていた。
 が、諏訪子の方ではそんなことはお構いなしだ。ぜえぜえという息切れを整えようとすることもなく、直ぐさま神奈子の目前に踊り込んで顔を突き出す。文机ががたりと揺れ、二神の視線が交錯する。

「此度は、その伊那の騒動についてのことにございまする。南科野の諸官衙に、今すぐ布告(ふれ)を賜るべし! “天竜川近辺の監視をこれまでより強化すべきこと”と!」

 はあ?
 という顔を、神奈子はしていた。手にしていた筆を硯の元まで戻すと、「落ちつけ、諏訪子」と再び諭す。「わたしは、落ち着いておりまする。さ、早く!」とは、諏訪子の返答である。まともに会話が噛み合っていないのは諏訪子自身よく解っていたつもりだったが、急いた気持ちが彼女の言葉に微妙な“ずれ”を与えてしまう。

「この期に及んで、まさか川を遡上してユグルの城塞を攻めるという腹か? 其は天竜川の流れ速きゆえに難しきものありと、すでに報せがあったではないか」
「ああ、そうではなしに! とにかく官衙に布告を……」

 と、諏訪子が言いかけたときである。

「諏訪子さま、お待ちください! 百数十巻の文書すべてを持ち運ぶは、甚だ骨の折れることで……」
「来たか! 遅い、遅い!」

 執務室に、諏訪子付きの文官たちが十人近く、わらわらと入って来たのである。
 諏訪子と共に、上諏訪商館で取引帳簿を検めていた者たちだった。

 彼らはみな手に手に十数巻ずつの竹簡を抱え抱え、ひいひいと息を切らしている様子。そして、諏訪子に命じられるがまま、竹簡を部屋の床に置いた。置いたというよりも、ばら撒いたといった方が適切であるかもしれない。しかも、この執務の部屋は大人数で談合などするのが前提のつくりには、当然ながらなっていない。一気に人が多くなり、おまけに百数十もの竹簡という荷物が増えれば、ほとんど足の踏み場もない有り様である。あまりのことに、稗田は削らずとも良い竹簡の箇所まで小刀の刃を走らせてしまっていた。よほど呆気に取られたのだろう。

「先ほどから、いったいどういうことだ諏訪子!? そなたは何を企んでおる」
「順を追って申し上ぐるは時が掛かり過ぎるゆえ、かいつまんで」

 ここまで来て、ようやく諏訪子は深々と息をする。
 人が多くなりすぎて熱くなりつつある執務室の空気が、彼女の喉に生温かいものを与えた。

「上諏訪の商館にて、とある行商人からただごとならぬ噂を耳に致しました」
「噂とは」
「諏訪の鉄器が、天竜川の周辺を根城とする水運商人たちによって、科野国外に運ばれる場合があるということ。その水運商人たちが伊那辰野にても取引をしている疑いのあること。そして水運の場へ続く品物の受け渡しが、そもそもかの商館にて行われているらしきこと」
「何……」
「これなる竹簡は、その疑いある帳簿を押収してきたものにございます。直ちに御披見あるべし」

 文机を除け、神奈子は竹簡のひとつを手に取った。紐を解き、最初から眼を走らせる。諏訪子もまた同様である。稗田も、文官たちもそうした。検める竹簡には、いずれも諏訪を出発点とし、天竜川方面を始めとする南科野諸地域へ向けた商品輸出の旨が記されている。未だ文字による筆記という文化に馴染まぬ南科野の商人たちが、独自の記号などを使って記述したものゆえ、判読には手間がかかる。なれど、しばしの時間を掛けて眼を通すうちに、多くの文書に共通する特徴が解ってくる。

「黒曜石の鏃(やじり)三十個につき、鉄の鏃一個に代えると定まっている」
「干飯や干芋の取り扱いが多い」
「特に、天竜川の始まりたる岡谷方面へ向けて運び出されるものが多い」

 誰ともなく、そして幾度もそんな意味のことが呟かれた。黒曜石の鏃を鉄の鏃に代えるというのは、武器の質よりも数を重んじて交換を行う比率ではないか。干飯や干芋の扱いが多いのは、長期の籠城に備えて保存性の高い糧食を乞うているということかもしれぬ。そして岡谷という場所は諏訪に隣接する土地にして、諏訪湖から発する天竜川の上流に当たる。下流域には、伊那辰野を含んだ南科野が存在している。すなわち、この土地を介して諸々の品物が天竜川の水運商人まで運ばれ、彼らの手で伊那辰野のユグルの城近くまで運ばれている。そう考えることは十分に可能であった。

「なるほど」

 と、稗田はうなずいた。

「それで、諏訪子さまは南科野の諸官衙に布告を出すよう、御奏聞(ごそうもん)をなさるおつもりだったのですね。水運商人たちの操業を差し止めてしまえば、ユグルには糧食を得る手立てがなくなる」
「そうだ、その通り。それに考えてみれば、ユグル方の戦力はせいぜい四百ほどしかないという。そんな小勢でありながら、嶋発(しまたつ)と安和麻呂(あわまろ)の率いる八百の八坂軍に挑んだは、いつまでも城の周りに敵が居ては、川まで出ての水運商人との取引ができぬゆえかと」

 ふふん、と、誇らしげに胸を張る諏訪子。
 しかし神奈子は、怪訝な顔で彼女を見返した。

「確かにその見立てが真実(まこと)ならば、こちらとしても一擲(いってき)の賭けに出るだけの値打ちはあろう。だが、それならば始めから岡谷なり天竜川近くなりへ直に軍勢を送り込み、制圧をしてしまえば良いのではないか? わざわざ官衙に布告を発して天竜川周辺に目を光らせるなど、まどろっこしいにも程があるぞ」
「同じ賭けでも擲つ(なげうつ)ものの大小で、損得の結果も変わりましょう。たださえ、われらはいちど軍勢を発したうえ撃退されているではありませぬか。ひと口に天竜川流域とは申しても、南科野は広うございまする。このうえ当地を制圧して、もし当てが外れた場合、いたずらに時を空費するばかりではなし。世人にてはただ軍兵を遊ばすのみかと物笑いの種となること必定」
「ならば、どうするのだ」
「確かな“裏”を取らなければなりませぬ。南科野の商人から水運商人に品物が引き渡され、さらにそれが伊那辰野のユグルの元にまで流れているということは、この三者が癒着している疑いが強いということ。それゆえに、まずは王権の御名において諸官衙による監視を徹底させまする。きっとどこかに、われらが付け入るに足る“綻び”を見出せるに相違ないかと」

 ううむ、と、神奈子は頬杖を突いて考えこんだ。
 その間、諏訪子もまたこの策について思うところがあった。

 かつて“諏訪さま”を祀り上げ、その御名のもと専横をはたらいていた諏訪の諸豪族は、神奈子の土地政策によって科野各地に移封された。ギジチもまた、大商人たるの名を確固としているのは水内郡を中心とする北科野でのこと。諏訪以南の地においてはそれほど強い影響力を持っているわけではない。となれば、幾重もの隠蔽の果てにユグルの叛乱を支援しているのは、別の『誰か』ということになる。

「後ろ暗き商いをするときには――」

 と、ギジチが諏訪子に言ったのは、彼女が急ぎ諏訪の柵に登城する直前のことであった。

「自らが直接に品物を売りさばくことをせず、間に幾重もの“繋がり”――すなわち、信ずるに足る別の者を密かに介さねば、すべてが明るみに出て御破算となってしまうもの」
「では、此度はその“繋がり”なるものが水運の商人たちであると。そう見立てても構わぬのだな?」
「ギジチは、そのように愚考を致しまする」

 商館の奥に在る彼の館で、諏訪子から突きつけられた南科野との取引の帳簿を目にしながら、彼はあくまで冷静なのだった。

「私も諏訪から諸方へ武器を売るに際しては、自ら動くことはせず。あくまで土地々々に存在せし“仲立ち”の者に売ることをくり返し、それが結果として武器を求むる大元の者へと届くのです」
「なるほどな。となれば、“繋がり”の多い分だけ最後に買う側の支払いはかさむというわけか。……其許の儲けのからくりが、少し解ったような気がするぞ」

 諏訪子の言葉に、ギジチは極めて冷笑的な表情だけ返していたのだということが、急に思い出されてくる。果たして、自らの手の内をあえて晒すもまた彼の策の内なりや? 相手の手の上で踊っているのは諏訪子か、それともギジチの方なのだろうか。

 そんな夢想をしている間に、神奈子は「よし」と声を張る。
 どうやら思案するを終え、彼女も結論に至ったようである。諏訪子たちは、それを見据えて息を呑む。

「此度の謀(はかりごと)は、諏訪子に任す。元より武威に頼る開城という策も潰え、そなたに預けた一件ぞ。急がば回れということもある。直ぐに南科野の諸官衙に布告を発することとしよう」

 そう言うと、にやりと彼女はほくそ笑んだ。
 応えるように諏訪子も笑う。釣り上がった唇と、わずか膨らんだ頬の真裏には、内に蔵せるその謀略が渦巻いているかのようであった。

「上手くすれば、今度こそ一矢も放つことなく、すべてを終わらせられるかもしれませぬ」

 十月二十四日は、かくて暮れもしようかと頃合いだった。


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