Coolier - 新生・東方創想話

深雪離れに住まう

2013/05/04 14:44:29
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深雪離れに住まう

 それはちょうど、朝の雪を積もらせるサルスベリの木の下の、かまくらの天辺にふさわしい飾りの、かわいい蜜柑の丸みの微調整に余念が無く、悴む手先が我慢出来なくなったときであった。屋敷の裏から甲高い、誰かを呼ぶような鳴き声が聞こえてきたのである。
 つと鳴き声の主を探そうと首を回すと、存外、近い場所の林冠を沿うようにして羽根を滑らせる影があった。鳥のようだった。
 今年の冬は根雪が早く、稗田の屋敷の庭が白く積もったのが師走も上旬、南天の実が鮮やかに赤く色付く大雪過ぎだ。湯たんぽを添い寝相手にお布団に潜って、朝になるとすでに庭の地面が見えないほどで、吐く息が感嘆に白く濁った。理由はもちろん、愉快だからである。今年で十六、年が明ければ数えで十七になる身の上として、私の未だ捨てきれない子供心を情けなくも想う。しかしそれは仕方ないのである。雪、であったから。

「肩掛けもせずに。お風邪を召しても知りませんよ、阿求様」

 屋敷の雨戸越しにうちの女中が声を上げていた。雪が積もった朝なのに、どうしてこれを見て過ごすだけでいられようか。これからもっと寒くなれば、重たく湿って邪魔になるばかりなのだから、初雪くらいはせめて楽しみたいというもの。その気持ちがかまくらとして形を成しつつあるのだ。
 庭先の足跡一番を奪った丁稚の小僧の首根っこを捕まえて、今はかまくらの中を掘らせている。この恨みは転生しても忘れないと正面向かって言い放ってやったら、小僧くん、仄暗い顔をして急に素直になったものだ。

「なるだけ広くしておくれ。かと言って壁を薄くし過ぎるのも駄目だよ。崩れない程度に、それでいて隙間風がないようにね」

 私は私で飾りの蜜柑の仕上げに専念していた。こればかりは他人に任せることは出来ない。しかし雪像で丸みを表現するのは想像するよりはるかに難儀で、もたもたしているとあっという間に手先の温もりが雪の結晶に移ってしまって、淡く溶けた白い蜜柑が艶めく様は熱がそのまま残っているようであった。熱の名残りの雫が丸みを伝って再び凍った。
 鳥の鳴き声を聞き、その飛ぶ影を見たことを一旦忘れるには程よい風流さであった。仕事を終えた小僧くんを正式な仕事へと送り出したあと、私はいよいよ以って心が踊り出すようだった。
 小さなちゃぶ台と火鉢と、好みの茶菓子を幾つかよそって、小鈴のところで手にした外の本を見繕って。鉄瓶と五徳も忘れずに。幸福の時への準備は雪像のときと同じく手間がかかるものである。しかしやはり雪像と同じく、それに見合うだけの幸せな形を必ずや得られると想う。その形はほこほことした、手先が暖かくなって目元が緩むような、まあるい輪郭だ。
 幾度か屋敷とかまくらを往復し、最後に茶筅を運ぶ際に、私が歩いた雪道から逸れるひとつの足跡を見つけた。小僧くんのものではない。裏門から入って迷いなしに私のかまくらへと続くその足跡を目で辿る。近づくにつれ、嫌な予感が柔らかい新雪を踏み固める。
 畢竟、私はまたもや一番を奪われた。

「お先いただいております。なかなか良いですね、風情があって、お茶がご用意されているのも、また良い」

 お菓子いただいてもいいですか、と、その仙人はすでに私が運んでおいたぬれ煎餅に手をつけていた。人里に稀に現れ、隙あらば説教を披露しようと虎視眈々に狙う者が居る。博麗の巫女にも物怖じしない妙に落ち着き払ったその素性は、未だ有益さを見出だせないまま、数年前からこの稗田の家にも訪れるようになっていた。今や図々しくもひとが作ったかまくらの、一番乗りさえ平気で奪ってしまう。
 名を茨木華扇。実に目鼻が利く小姑の遊撃手のような振る舞いに、正直、面倒くさい。

「邪仙」
「なんてことを仰るのですか」

 彼女の木枯らしのように空回る声色が、私の心中に木の葉を舞い散らせる。せっかく落ち着いた時間を心根に潤わせようとしているのに、突然とした忙しさがそれをかき回して乾かしてゆくのだ。その声が、私についつい邪険な目配せを強いらせる。

「非道いお顔をなされる。幸せの神様が逃げてしまいますよ、そんな疫病神を見るような目をされていると」
「いま、そそくさと逃げました。貴女に私の気持ちは分かりますまい。それよりも横に少々動いてください。私も入りたいです」
「おっと失礼」

 茨木華扇は中腰のままでじりじりと動き、左の内壁へと寄り添う。小型の卓を中心に、茨木華扇が足を横に出して座り込んだ。地面には茣蓙を敷いておいたのでそれほど冷たくはないはずである。腰を少々左右に振りながら、茨木華扇はこちらを見上げた。どうぞ、とでも言うのであろうか。
 決して広くはないかまくらは、ふたりも入ればすぐに手狭となった。かまくらの上座に火鉢を据えて、私と茨木華扇とが卓を挟んで向かい合う。大いに奇妙である。

「さすがに少し、狭い、ですかね」
「元々ひとりでのんびりする用に拵えたのです。それで、今日はなんの御用ですか」

 茶筅を卓上に置くと、火鉢の炭が硬質な音で小さく弾けた。幾らか勢いの強い炭火が鉄瓶のお湯を沸き立たせる。膨らむ湯気を手で仰ぎながら、私はこれ以上火が強くならないように炭を分け広げた。火箸の先に、熱が凝る。大した用でなければ今度にしてほしいのですが、と、私は言葉を押し出した。

「この屋敷の裏は谷津田でしょう」
「ええ、元来、小さな丘がありましたからね」
「そこの林に、サシバが住みました。鳴き声を聞いてはいませんか。聞きようによっては甘い感触の、なにかに呼びかけるような甲高い鳴きをします」

 へえ、と言いながら私が鉄瓶を上げて卓上を伺うと、そこにはふたつの湯のみが忽然としてある。片方はもちろん私の愛用であるが、それを差し置いてちゃっかりとした雛鳥のようにこちらへと口を開ける、桃の花色の湯のみがあるのだ。
 意外にもかわいらしい湯のみをお持ちなさる。いや、性格は小生意気な郭公の雛のそれであるが。桃の花色の湯のみは私の愛用よりも先にお茶を入れてもらおうと、そのずぼらなかわいらしさでねだっているようだった。茨木華扇から目配せが届く。

「濃いめでお願いします」
「嫌です。私は薄めでさらさらと飲むのが好きなのです」

 私は鉄瓶の熱いお湯を急須へと注ぐ。茶葉が広がるが早いか、すぐに急須を持ち上げる。せいぜい、急須を軽く振る程度でほとんど間を置かずに、続けて湯のみへと薄い緑茶を流し込んだ。無論、私の湯のみが先である。桃の花色した郭公の雛には退いてもらった。
 その湯のみと、同じ色の舌を出して茨木華扇が言う。

「ご無体な」
「鳥の鳴き声ならさきほど聞きましたよ。確かに、誰かを呼ぶような鳴きで、華扇さんが言う鳥かどうかまでは分かりませんが。林の上をするする飛んでいて、遠目で見ても大きい鳥ではありました」
「人里に居ながら目に入る大きい鳥ならば鳶か、隼か、もしくはサシバか。どれも猛禽の類ではありますが、鳶ならば高々度に、隼ならば水辺に住まうものですから、阿求さんが見たものはサシバです」

 間違いないと深く頷いた茨木華扇はかまくらの入り口から少しだけ身を出して、口笛を吹いた。短くも、低音と高音が同時に出ているような奇妙な鳴りであった。その音の余韻が高い空に霧散するかどうかの瞬間に、かまくらが大きな影で急に暗くなった。
 屋根から雪が落ちてきたような、お腹に鈍く響く空気の震えとともに尋常ならざる大きさの鳥が降り立った。ゆうにこのかまくらよりも体長があり、威風堂々とした体格の上に鋭い銀の視線を放つ眼がこちらを見据えていた。見事な大鷲だった。

「これは久米。大鷲です。見たと仰る鳥はこれよりも小さかったですか。どうですか」

 大鷲の眼光に射抜かれてしまい、呆気に取られるのに忙しい私は、もはやそれどころではない。

「どんな鳥だったかなんて、分かりませんよ、そんなの」
「そうですよね、詳しくもないのにしかも遠くからでは分かりませんよね。それは残念」

 ため息をつきながら、茨木華扇は自らの湯のみを再度差し出していた。私の愛用の隣に再びの郭公の雛である。しかも今度は大鷲からの睨みにも挟まれてまるで托卵されたホオジロの境遇。ホオジロは自分の卵と知らずに育てるが、私はほとんど脅されているのと同じだけにいっそこちらが『一筆啓上仕候』と鳴きたいところである。無論、内容は郭公への非難故に云々。
 仕方なくお湯を少し足して、急須を雛の口へと傾ける。私が呆気に取られていた間に、調度良く茶葉が開いて濃さは上々。桃の花色した郭公の雛は、機嫌良く湯気を上げていた。

「おお、茶柱ですよ。縁起がいい。善き哉、善き哉」
「それで、私はなにをどうしたらいいのでしょうか」

 きょとんとした顔で郭公の親、もとい、茨木華扇は私の白い巣の中で、囀り始めた。



「まずはじめに断っておきますが、この件を頼みたい者は私にとっては誰でもいいということです」
「はあ」
「たまたま阿求さんが近くにお住まいだったというだけで、深い意味はありません。ただ、粗雑な者には務まらないことだけは確実なのです」

 と、苦ったらしい顔をして茨木華扇は大きなリボンを指先で宙に描いた。

「はあ」
「概要を申しましょう。阿求さんにはあのサシバを観察していただきたい。サシバは本来冬にはもっと南方まで飛んでゆく渡り鳥です。しかし様々な理由で稀に渡らずに越冬する個体がいます。これを、落ち鷹、と言います」
「鷹ですか。サシバじゃなくて」
「同じ鷹の仲間ですよ。サシバは群れで渡りを行うのですが、群れから離れ、孤独に冬を越そうとする姿がまるで天から落ちたかのように例えられたからでしょう。一番心もとないのはサシバなのに、暢気なものです」

 茨木華扇は再びため息混じりに一旦区切った。自分の湯のみに口をつけて、さらに深い吐息をこれ見よがしに白く濁らせる。

「そう言われると、なんだか寂しそうに鳴いていました。それこそ誰かを呼んでいるような、探しているような鳴き声で聞いているこちらも心が寂しくなる」

 良い耳をしてらっしゃる。と言った茨木華扇は努めて明るく振る舞おうとしているようで、未だ湯のみだけに視線を注いでいた。暖かそうだった湯気は、いまはあまり立ち昇ってはいない。

「私が心配しているのはその不可思議な生態でして」
「と、言うと」
「ええ、動物が幻想郷に迷い込むといってもそうそう頻繁なことではない。依然、結界は強固に敷いてありますし、外の世界でサシバが絶滅したとか忘れられたとかではないですから、今回の件、少しおかしなことだと想い、調べたのです」
「迷い込んだにしても不自然、と」

 私の相槌に茨木華扇は軽く頷いた。

「この久米に乗って、しばらく上空から観察しておりました。行動範囲は二里足らず、そのほとんどが畦や向かいの林への狩り。至って通常な生態行動ですが、観察を始めて三日、あのサシバはその間一度も寝ていないのです」
「寝ずにずっと狩りをしているのですか」
「越冬のためとは言え些か張り切り過ぎですね。でも元々夜行性ではありませんからたどたどしい夜の狩りですし、それにしたって休むことも無いというのは異常です」

 冬眠する動物は冬ごもりの前にその身体に沢山の栄養と脂肪を蓄えるという。熊などがそれであるが、脂肪が付きにくく眠る訳ではない栗鼠などは巣に餌を蓄えて越冬するので、秋の山では餌集めに精を出す栗鼠が一所懸命に右往左往している。食べるものに困る冬の間は、どんな生き物にとっても辛く、厳しい季節であるのだ。
 我々人間にしたって、芽吹きを待ちわびながら過ごす冬は一抹の不安を抱えるものだ。如月頃など、干し芋や高野豆腐などの保存食ばかりで食膳にまるで彩りが無くなる。美味しくないことはないが、それでもタラの芽とか菜の花の辛子和え、精の付くものが恋しくなるのである。
 食べ物は、在るに越したことはない。生き物にとって越冬は命懸けであるからだ。それを憂うのならば寝ることも惜しまず餌を集めるのも、理解出来ないこともない。だが、もし私だったら、

「私だったら身体を壊して寝込んでしまう」
「普通の生き物であればそれが当たり前でしょう。生きる為に狩りをしているのに、睡眠をせずに健康を害してしまっては元も子もない。越せる冬も越せなくなってしまいます」
「確かにおかしな行動ですね。まるで自分の身を擲っているかのようで」
「さらに見ていると、もっとおかしな、うんいや、変なことがありまして」

 そこで茨木華扇は言い淀む。口を半開きにして目を泳がす様は、どうにも歯切れが悪く、まるで道に迷うかのように言葉が出てこないようであった。出口を見つけられないのか、それともひとり歩きをすることも出来ないほど未熟な言葉なのか、彼女の喉奥で長いこともんどり打っていた。
 咳払いを合図にして、茨木華扇の口先が頼りなげに動き出す。

「夜になると、サシバの頭が、光ったのです」
「はあ」

 面妖と言えばよいのか、それとも鼻で笑ってやればよいのか。

「光るといっても強烈に明るくなるのではないのですよ。蛍のように、の表現が当てはまります。炎の揺らめきよりもずっと弱々しい、ちょっと拭ってやればすぐに落ちてしまいそうな淡い仄かな明るさなのです。それが最初はサシバの頭にあって、日を追うごとに光が背中を伝って羽根へ、そして尾羽根へと広がってゆく。薄ら不気味で、それこそ見間違いだったならどんなに良いか」
「光るだけ、なのですか」
「サシバへの害は無いようで、すこぶる伸びやかに飛んでいました。自分で気づいているのか気づいていないのか、分かりませんがね」
「ふむ」

 夜に眠らないことと、夜になると光ることの大元は果たして同じなのか。
 私は一呼吸おいてから手元の湯のみを卓に逃した。内心のそぞろさで、つい言葉に力が入る。

「なかなか興味をそそられますね。サシバの奇妙なところを観察するのも吝かでない。大鷲に乗れるというのもまた、楽しそう」
「大鷲に乗れる、とは」
「この久米、でしたっけ。私もこれに乗ってサシバを観察したらよろしいのでしょう。きっと寒いでしょうから、きちんと着込んでいかないと」

 言いながら私は、未だかまくらの入り口をほとんど塞いでいる大鷲のふくふくとしたお腹を撫でた。存外に触り心地が良く、柔らかい羽毛はまるで毛足の長い絨毯のように暖かく向かい入れてくれて、大鷲の体温が指の間に染み込むように感じられた。これは大いに優しい。いますぐ抱きつきたい衝動に駆られる。腹の羽毛は飛ぶことよりもその温もりを保つ為のものであるからして、風切羽の刃物のような鋭利さよりも、空気を包むお布団のような大らかさが、空を飛ぶ為に寒風を身に纏いつつも、襲い来る冷気から守ってくれるのであろう。羨ましい。
 自分が大鷲に乗り空をゆく様を瞼の裏に映して、私は大鷲のお腹を幾度となく撫でた。

「飛んでみたかったんですよ空を。私は」
「阿求さんは空を飛べないんでしたっけ」
「ええ、ですから大鷲を」
「久米は貸せませんよ」

 茨木華扇はもう一欠片、ぬれ煎餅を手にした。それを口に含んでもそもそと咀嚼し始める。鉄瓶が沸騰してお湯が宙に拡散する気配と、茨木華扇の満足気な余韻が嚥下される気配だけが、私のかまくらの中でぬくぬくと増長していた。

「久米を休ませたくて貴女にお願いしているのですから」

 なんとも非情なる判断である。私は落胆の色を隠しもせず、いや、むしろ言葉にするよりも目立つように、茨木華扇への非難も込めて身体全体で大いに嘆いてやった。未だ吐き出し切れない塊が水底へと沈殿してゆくような野太いため息を、それこそかまくら全体に響き渡らせるかのように見せつけてやった。しかして、当の茨木華扇はそれでもきょとんとした態度でこちらを見つめていた。どうやら私のこの落ち込みが何故起こっているのか、とんと理解していないらしい。
 もちろんこれは私の早とちりであるし、要らぬ期待を素知らぬ相手に抱いてしまったことによる軽率の報いである。些細な自業自得と甘んじて受け入れよう。だがそれとて、すべて私に非があるわけではあるまい。

「果たして私に救いは無いのですか」
「うん? 阿求さんへのお願いは強要ではありませんがその分、見返りを期待されても困るのですが」
「いや、この際お礼などはいいのです。言ったとおりサシバを観察するのも悪くない。でもあまりにも身にならないというか、誰でもいいなんて枕詞を付けられたら、私だって暢気にはしていられない、というか」

 なんだか、気安い扱いを受けて不貞腐れているように想われてしまいそうである。少なからずその気が無いことも無いが、つまるところ、私は自分自身がとても情けなく想えてならなかったのである。
 こちらの意図を汲むような器用さを感じられない茨木華扇は、少しばかり悩んだふうにしたあと、したり顔で私に囁いてきた。

「休ませた後ならば、久米をお貸ししてもよろしいですよ」

 なんという邪な言葉であろう。自らの見たものに自信を持てず、純粋に言葉を探していた先ほどまでとこれが同一人物とは。

「いや、ですから、もはやそういうことでは、ないのですよ」
「そう仰りつつ、口元がほら、はしゃいでおられる」

 まさかと想い、すぐに手で口を隠した。茨木華扇の嫌らしい目つきを受け流しつつ、手のひらで確認した私の唇はしっかりと緩んでいた。なんという辱めであろう。改めて茹だるような動悸を抱き、両腕で顔を隠すも、歪な視線を敏感になった肌が鋭利に感じ取ってしまって堪らなくなった。耳まで赤いのが、自分でも分かる。
 茨木華扇は賢しく微笑む。

「では、その件はおいおいということで、どうでしょう」
「わ、私はですね」

 声を荒げようが引き止めようが、そこからの茨木華扇はなにを言っても暖簾に腕押しで、私の言い訳を聞きもせずに大鷲に乗って飛び去っていった。まるで台風一過であった。立つ鳥跡を濁さずとは言うが、これほどまでにそれに反する鳥も居るまい。
 そして様々な意味でやはりあの人は郭公であったと、かまくらに残る桃の花色した湯のみを見て、そうと想えてならなかった。







「阿求様は安請け合いしすぎです。縁起の編纂だって始めたばかりなのに」

 もっともなことだと、私はそれを黙って聞いていた。それ以外になにが出来たであろう。至極当然な、非常に的確かつ恐ろしいほどの無比なる正確さに、想わず押し黙ってしまうほどであった。ちょっと泣きそうにもなった。
 出掛けるので防寒着を用意してくれとうちの女中頭に言えば、長襦袢の上に綿を入れた厚手の袷へ腕を通すまでは静々としたものだったが、そこから袴の紐を絞める頃には少しばかり言いたくもなったのだろう、力強い絞め方に私が唸るとそこを堺にして着付けがみるみるうちに乱暴になって、羽織、外套までが終わってみれば目を合わせることもなく辛辣な言葉が出てくるようになった。
 なにも言うな、などと言えまい。言えば必ずや後々のわだかまりにもなるし、言わないことがいまの私の最良だと想えてならなかったからである。しかしてそれすらももしかしたら相手の癪に障ったのかもしれない。おずおずと襟巻きもとお願いするも、指し示すだけでそのまま襖を開けて出て行ってしまった。
 もはや為すことすべてに精緻な行き届きが不可欠なような気がして、私は細心の注意を払いつつ襟巻きを手に取った。なのに不恰好にしか仕上げられないので、非道く、様々なことに申し訳なくなる。

「かまくらはしばらく自由に使っていいからね」

 門から出るときすれ違った小僧くん、私がそう言ったら嬉しそうに駆けて行った。私もあのくらい物事に関して寛容でありたいものである。
 屋敷の外もやはり一面が銀色な世界で、よもや世界すべてが雪に埋もれてしまっているのではないかと、山の稜線までもが空に向かって吼えるように輝いている景色を眺めながら考えていた。空には未だ、順番待ちの雪雲が頭をぶつけ合っていて、果たして世界は銀色に埋め尽くされんばかりの勢いであった。
 谷津田の畦道をゆくと、屋敷からも見えた林が左手に佇んでいた。木立の並びは等間隔に揃えられていて、人の手が入っている里山なのだとすぐに分かる。この辺りは陽当たりも良く、田園はもとより山菜の採取も期待出来る土地柄なので、自然と人の手が加わるのであろう。
 ことに人里に近いこのような場所では、手入れすることで動植物との折り合いも兼ねており、余計な殺生がまかり通ることなきようにしてある。過ぎた搾取は争いを呼ぶことに繋がると、少なからずの戒めなのである。
 逆に、人里に寄り添う小さな生き物を求め、深山の奥からこちらへと近づいてくる者もいる。狐狸の類、そしてサシバなどの鳥類がそれだろう。

「サシバも、この寒中で一体なにを獲っているのだろう」

 雪道の一番乗りはとうの昔に飽き飽きして、私は自らを励ます意味も込めて呟いた。踏み出す度に足を取られ、吐く息が疲労の色に濁る。いまはもう、林冠にサシバの姿は見えない。しかしてがっかりもしていられない。
 茨木華扇から頼まれた以上、相応の結果を残さねばならぬと、それならばやはり一度間近でサシバを、奇妙な生態を持つという外界からの落ち鷹を、私は見てやらねばならぬと想い立ったのである。そうすると女中に辛く当たられたことが、今にして色々と功を奏してきた。所謂、反発心というものであろうか。決して、大鷲に乗れるからではない。
 一先ず、サシバの現状を見定める為に彼の寝床を探すことにする。想うに、卵を暖めるわけではなく、越冬するだけであるからきっと簡素な巣であるに違いない。もしかしたら降雪を凌げられればいいくらいのものであるのかもしれない。となれば高所に設ける必要もなかろう。

「大木の虚、とか」

 博麗神社近辺に潜む妖精どもは、木の中に家をこさえていたと聞いたことがある。妖精と比較するなどサシバに申し訳ないが、彼奴らとて考えることが出来ないこともないし、多少なりの知恵でもってその場所を選んだはずだ。空をゆく旅人であるサシバの、一息休める止まり木としての仮宿ならば、きっと大木の虚はもってこいのはずである。わざわざ一から作ることもなくて外敵から簡単に身を隠せる、一等快適な寝床ではなかろうか。
 私は先日、稗田の屋敷に寄った薪売りの話を想い出した。聞き慣れない、妙に高揚した声が屋敷の玄関で油を売っていたことを憶えている。売り物であるはずの薪を放って自らが見たものを話し聞かせるのに一所懸命であった。
 曰く稗田の屋敷裏にある林の楠木に、巨大な雷光が轟き落ちた、と。その雷光には私も憶えがあった。天地揺るがすとはまさしくそれと、お布団の中で想ったものだ。

「あれだな、件の雷光が傷付けた楠木というのは」

 薪売りが話していた楠木は、常緑の種類故なのだろう、冬枯れした林の中にあってそこだけ緑の残り香が漂っているような、白く雪が煙る大きな香炉のごとく立ち竦んでいた。林に足を踏み入れるとすぐに分かる、尊大な存在の楠木はしかし、雷撃によって刻まれた傷が痛々しく焦げていた。なるほどこれはさぞや強烈な雷光だったのだろうと想わせる、深い深い亀裂がぽっかりと穿っていたのだ。
 私は、楠木に出来たこの穴がちょうど虚の代わりでサシバの寝床になっているのではないかと、当たりをつけていた。実際には虚はすでに他の動物が住んでいる可能性もあるから、つい最近出来たあの雷撃の傷跡はうってつけであろう。それこそ天からの授かりものである。ふむ。
 さてそれではサシバが住んでいるか確認しようかと、楠木を見上げてみるとひとつ気づいたことがあった。楠木の雷撃跡、想っていたよりも高所なのである。屋敷の屋根か、はたまたそれ以上か。私は木登りは得意でないし、宙を飛ぶのはもっと不得意だ。これでは覗くことままならない。なにやら途端に気持ちがしおれそうになる。膨らみかけた気概が、待ち構えていた箸に突かれる焼き餅のように、ぞんざいに簡単に萎む。
 このまま口を開けていても仕方がないので、ならば、と、私はサシバが住んでいるであろう楠木の雷撃跡を中心にして、周辺を歩くことにした。先ほど自分の口から漏らした、サシバはなにを餌として獲っているのか、を探るのだ。

「大きい鳥は蛙や蛇なども食べると言うけど、こんな雪が降ってはそれも狙えはすまい」

 冬でも動ける鼠、もしくは自らよりも小さい鳥が妥当だろうか。それくらいならきっと、静かにしていれば私だって見つけられる。
 しかししばらく歩いたのち、それもまた期待出来るものではないと想えた。楠木のぐるりを周回したのだが、まったくもって生き物の気配を感じられない。聞こえるのは私の吐息と雪を踏む小気味の良い音だけで、鼠が忍ぶ雪下の息遣いも、寒さを歌う小鳥の囀りも、冬の冷気に包まれて結晶化するかの如く固まっているようだった。静まり返ってさらに沈黙が降り積もる。命の気配さえ、冬が凍らせているようだった。
 いや、これは私の感覚では鈍感すぎて見つけられないだけなのかもしれない。そう想い、歩いて来た道をなぞって畦まで出る。そこもまた、やはり雪の装い。秋には黄金の実を着こなし、土の豊かさがはだける馥郁の田園はしかし、沃土の眠るままに静寂な、毛玉のような刈り取り跡が転がるぼろ衣の如く着古した風体だった。雪の覆いのところどころに虫食いのように現れる凍土が、ここはすでに食後なのだと物語っている。これでは、サシバの餌となる鼠なんぞ寄り付きもしないだろう。目についたのはせいぜいどこのものかも判別つかぬ黒い木の実で、拾ってみるととてもおいしそうには見えなかった。
 一応、茨木華扇に私がサシバを観察しに出かけたということを知らしめる為に、この木の実を証明代わりにする。懐に入れてなおごろごろとした感触がおいしくなさそうである。もはや気分はお腹を空かせた畜生のようであった。
 このままではいけない、と、私は這う這うの体で楠木とは畦道を挟んで反対側の林へと向かった。こちらの方は風向きの関係だろうか、積雪少なく風が巻き上がって冷たく私をあしらってくる。外套が風でまるごと持ち上がる。そのまま飛んでしまいそうな勢いに、私はまたもや尻尾を巻いて逃げおおせた。こちらの林も、サシバが楽をして狩りが出来そうなほど豊かであるとは想えなかった。
 三度畦道まで戻って、少し離れたところにある楠木を見つめた。未だにサシバの影も形もあらず、雷撃跡が黒々として、雪雲の遠景に痣をつくっていた。そこから吐き出されるかのように雪雲がさらに厚みを増し、また雪が散らついてくる。こうなってはもう、私には退散するしか道はない。これ以上ここに留まって身体を壊してしまっては、うちの女中頭に今度はなにを言われるか分かったものではない。なんだか些か及び腰になっている。
 もしかすると、サシバはいまは休んでいるのかもしれない。茨木華扇の話によればここのところずっと寝ずに狩りをしていたようであるし、姿が見えないということはきっと寝ているのだろう。寝ることが出来るほど餌が集まったのだろう。私にはその餌がなんなのか分からなかったが、サシバには、サシバなりの満足が得られたのであろう。
 都合のいい予想や妄想の類ばかりで、なかなかに自分本位の極みである。しかして、私がこれ以上なにが出来るわけでもない。手詰まりなのである。それこそ空が飛べれば、きっとサシバを見つけられるし、こんな雪に降られても関係なく悠々と目的を達せられたのだろうが。

「とても愉快で、大いに楽しそうなものだ」

 空を飛ぶ楽しみや喜びはそれを持たない者こそより強く想うところだが、かと言って、実際に空を飛べる者がその想いを忘れたりひけらかすようなことをするかと言うと、決してそうではない。むしろ、飛べる者にはそれなりの、苦労なり努力があるはずで、能力を持つに至る事実を大いに感謝しているであろうか。いやさ、もしかすると辛苦少なからずの想いの方が多分にあるのかもしれない。
 サシバは、鳥だ。飛ぶことが己の信義であろうし、連綿と続く血が成せる生業であろう。故に余計なことなど考えておらず、ただただ当たり前に空を飛んでいることも予想出来る。しかしそれこそがきっと、最も健やかなる精神であると飛べぬ人間は想うのだ。
 いまは空も曇って雪を降らせている。空を飛ぶには、些か心許ない。飛べぬ私でさえそう想ってしまうのだから、サシバの心情や果たして計り知れない。
 深雪晴れが近く訪れることを祈りつつ、私は楠木に背を向けて帰路を急いだ。頬に触れる雪に、染み込むような冷たさを感じる。その雪の感触は飛べる飛べぬに関係ない、この世界の約束事だと感じられた。






 稗田の屋敷に戻る頃には降雪も勢いを増し、大きな綿毛が落ちてくるかの如くの風情に諦めて帰るという自らの英断が誇らしく想えた。と、門をくぐると丁稚の小僧くんがまたも仄暗い顔をしていて、申し訳なさそうにひとり立ち尽くしている。

「あ、またお邪魔しております。どうでしたか、サシバの様子は」

 庭の私のかまくらから顔を出して、茨木華扇が手を振っていた。同じ日に二度も逢いたくない人物ではある。私は出かかった苦言を辛うじて飲み込み、着替えはしたかったが一先ず、茨木華扇の方へと足を向けた。
 仕方なし、と、小僧くんの頭を撫でておいた。

「サシバを見ることは残念ながら出来ませんでしたよ。それらしき巣はあったのですが、いかんせん、私は空を飛べないので高所へは行けませんから」
「いやいや、飛べないのは関係ないでしょう」

 気概の問題でありましょう、と茨木華扇はいまにも説教を吐き出さんと眉間に皺を寄せ始めた。散々歩き疲れてもはやお布団に潜ってしまいたい私には、拷問と呼んでも差し支えないほどの事態である。まだ地獄に落ちるわけにはいかぬ、と、私はそこに自身の言い分を割り込ませる。

「私はか弱いのです。仙人やら妖怪とは比べられないほどですし、常人とでさえ膂力も体力も勝負にはなりません。それをして情けないと仰られるなら、地獄の閻魔様もお優しい。サシバの件は私が安請け合いし、しかし純粋な興味を抱いてことにあたっているのですから、例え根源を持ち込んだ貴女だとて好き勝手言ってもらっては私の立つ瀬がないのです」

 言を荒げてしまった私はこれでは野良犬のような、およそ理に適わぬ遠吠えの言い分だと、きょとんと驚いている茨木華扇の顔を見てからやっと気づけた。
 まったくもって勝手なのは私の方で、先ほど自身の心を見抜かれたときとはまた違った、血の気が引くような恥ずかしさで堪らなかった。自らの不断さを棚に上げ、いざそこから降りようとしてみれば少々の高さに足が竦んで恐ろしくなったような、後先を考えない恥ずかしさであった。
 私は、なにも言えなくなる。目前の茨木華扇は未だきょとんとしているようである。
 しかし彼女は存外にもそこからみるみるうちに切なそうになって、終いにはそそくさと、申し訳なさそうにかまくらから出てくる始末。逆に今度は私がきょとんとしそうになる。
 茨木華扇は言い難そうに、

「怒ってらっしゃる?」
「う、鬱屈としたものは、あります」

 私がなんとかして声を出すと、彼女はさらに仄暗くなって、すぐにも消えてしまいそうな、短くなった蝋燭の揺らぐ炎のため息のようにして、熱を溜めた瞳をこちらに向けた。

「阿求さんにまでそう仰られると、私、もう溶けてしまいそうで」
「な、なんだと言うのですか」
「四人目です、阿求さんは。散々断られて、私のお願いを最後まで聞いてくださったのは阿求さんだけでした」

 意外な展開である。
 聞けば、私より先だってサシバを観察云々のお願いを三人の者達にしていたらしい。しかし、すべてけんもほろろ。尽くが茨木華扇の二言三言を耳にしただけで即座に断ってきたそうだ。彼女は名前を伏せたが、ある人物には封印されそうになったとかならなかったとか、のっぴきならぬ状況もあったそうな。
 茨木華扇の奔放な性格と図抜けた言い方であれば、さもありなんと想える。私とて甘い蜜がなければ遠回しにした挙句にやはり断っていたかもしれない。とかく茨木華扇と言えば面倒臭いから話しついでに限ると、人里界隈での暗々裏の約束なのだ。
 しかして、そんな茨木華扇が頭を下げないまでもお願いをと、少なからず頼ろうとした結果で私の元に来られたのだから、あまり悪い気はしないものだ。それだけ何事かに必死なのであろう。いつのまにやら、私の中の凝りは解けていた。
 親鳥が餌を捕りに出て行って一向に帰ってこないときの雛のように、静かに大人しく萎んでしまった茨木華扇が、私にはなんだか他人事とは想えなくなってきた。

「ここは寒い。屋敷の中に入りましょう。暖かいお茶を飲めば、きっともっと話したくなりますよ」

 気づけば、かまくらに残した火鉢の炭も冷え込んで黙ってしまっている。ここに居てはいずれ炭と同じく何事も口に出来ぬようになってしまいそうで、私はゆっくりと茨木華扇を屋敷へ入るよう促した。
 さあ、と、軽く腰を支えてやればやっとこさ彼女は水銀が流れるようにして重そうに動き出す。なんとも気の毒そうな風情に、これでは、腹を立てていた私が一層のこと恥ずかしい。

「緑茶を用意しておくれ。玉露でなくていい。暖かくて、濃いめでお願い。それを私の座敷まで運んでほしい」

 先ほど私の迂闊さを戒めた口うるさい女中頭はしかし、恭しげに外套を預かるとしっかりとした責任感をその深い頷きに見せ、まるで風を纏うかのように颯爽とした素早さで廊下の奥を曲がって行った。私の言葉に腐心さを見出したのか、それとも普段とはかけ離れた様子の茨木華扇を見てこれは大事だと感じたのかは定かで無いが、どちらにしても良く出来た女中である。主人である私が最も望むことを自らの経験で判断し、無心にそれをこなすのだから、どこに出しても恥ずかしくない立派な忠義者だ。もしかしたら私には勿体無いくらいかもしれない。ふむ。
 私の座敷の襖を開くと、暖かい空気が出迎えてくれた。あらかじめ熾してあった火鉢が、座敷の隅から興味深そうにこちらを見つめている。その雰囲気にあてられ、恐縮し続けていた茨木華扇にも少し明るさが戻ったようであった。
 程なくお盆に乗った急須が運ばれてくる。私の愛用と、そしてかまくらから出て来てこっち、ずっと茨木華扇が抱いている桃の花色した湯のみに緑茶が注がれた。

「ああ、やっぱり自分の部屋は落ち着きますね。慣れ親しんだと言うか、飼い慣らされたと言うか、身体の一部が根付いているようにお尻が和む、と言うか」

 そう言って私は座椅子に身体を預ける。暖かい緑茶を口に含むと、香りと熱が染み入って気持ちが楽になる。向い合って座る茨木華扇はまだ湯のみをただ見つめているだけ。しかして落ち着きはしたのだろうか、軽く呼吸を整え、低い声で語り出す。

「サシバは、落ち着けたのでしょうか。仲間も居らず、幻想郷に取り込まれて寂しくはないのでしょうか。この雪で寒くはないでしょうか。辛くはないのでしょうか」

 存外にも頑ななサシバへの想いの吐露に、私はどうにも聞いておきたくなった。

「華扇さんは何故そこまでサシバに肩入れされるのですか」
「何故って。動物が、好きだから」

 茨木華扇は子供のようにして短く答える。
 動物の身を案じ、数日間も見守った上に自らが使役している大鷲の不調も考えて誰かに代わりを頼むのだから、なるほど、動物愛護の鑑と言われてもなんの支障もないであろう。数人に断られてなお、それでも心配だから私の元に来ているほどで、自らの評価よりも動物の為を想って行動するほどの世話焼きなのだ。悪く言えば自分勝手でもあるが。
 しかし、この応答ではなにか違う気がする。薄い紗幕に覆われているような、曖昧な真実のぼやけた輪郭だけを見ているような気がする。

「動物が好きなのは分かります」
「では、いいではないですか、それで」

 有無を言わせぬ切れ味鋭い言葉である。そこで初めて自らの湯のみに口をつける茨木華扇は、問答無用の非情さに包まれているようであった。

「全部を全部話せることなど多くはないのです。阿求さんには、私にも込み入ったことがあるのだとご理解していただくしかありません」
「はあ」

 相変わらず、展開の早い女性だ。落ち込んでいると想えば春嵐のように風向きを変えて突き放してくる。誰かに頼み事をしておきながら内に抱えているものを全部話さないというのは、一般的に考えて大いに失礼なことであろうし、それは暖かく座敷を誂えてくれた女中達にも悪い。私はあまり面白くない。私のことはともかく、私の身内の好意を無為にして化すような事態は見ていて悲しくなる。口元が苦々しく曲がる。
 そんな顔をしたからであろうか。お茶はおいしいのです、と、茨木華扇は続けた。

「私の為にご用意していただいたことには感謝しています。この暖かい緑茶も、皆さんのご親切も、久しく感じた優しさです」

 数人からつっけんどんに扱われた身の上故に、類稀なる説得力がある。

「私には身に沁みる。だけどそれに浸っている訳にはいかない。私にはサシバを助けたいと想う気概があるのです」
「ふむ」

 私はついつい深く頷いてしまった。なにかまだ胸のつっかえが取れない気持ちもあるにはあるが、それを無いものとして茨木華扇を見れば、幾らか誠実そうではあった。これは私の人を見る目の良し悪しが多分に関わってくるであろうが、彼女は信じるに値する仙人であると想うのである。何故ならば、彼女には、人から嫌われても成就させたいという努力的な部分があるからだ。これは尋常なことではない。努力とは人に認められてこそのそれで、人からちょっとでも悪気のある言で突かれれば途端に萎んでしまう。私も経験がある。経験がある以上、ないがしろに出来ぬし、その根底は繋がってしまっている。ならば信用出来るのではなかろうか。
 努力は、雲の形に似ている。どこからともなく現れては人に気骨さの雨を降らせ、ときには雪のように冷淡さを押し付けてまた音もなく消えてゆく。どこへ消えるのかは分からぬが、私たちはそれがまたすぐに現れることを知っている。生涯という空を漂うには、努力の雲の道標が必要であるが故に。
 一見すると愚かしげなところもあろう。知らぬ者には虚しく見えるかもしれない。しかしそれを笑ったり貶したりしてはいけない。努力家を笑っていいのは努力家だけである。誰の顔色を伺わずにでも立派に膨らむ雲と同じく、努力に貴賤などありはしない。

「それはまた、華扇さんの好きになさるのが一等健やかですよ」

 私は心底そう想えて、茨木華扇に笑い返した。その言葉に気を良くしたのか、彼女は最初だけまたきょとんとしていたものの、すぐに目を見開いて、得意気な風を身体全体で示す。増長もまた許そう。沈んでいるより、浮かれている方が彼女の領分なのである。
 手元の湯のみを傾けると濃い緑茶が丸く踊る。私は、

「これでサシバも無事に冬を乗り切れたら、言うことな無しなのですがね」
「そうです。私は阿求さんに提案があって再訪したのでした」

 言われた途端、私の心臓が、影踏み鬼に追いつかれたときのようにぎくりとなる。
 桃の花色した湯のみを両手で握りながら、茨木華扇の長い睫毛が快活に閃いた。

「今晩ふたりでサシバを見に行きましょう」







 夕餉は早めに済ませた。冬瓜の風呂吹きに柚子味噌をのせたものを、茨木華扇は丁寧に褒めながら食して、ご馳走様と述べる時分には冬瓜の実まるまるひとつ分程を平らげていた。それと合わせて稗飯も随分とおかわりして、台所付きの年増の女中が辟易していた。

「稗田家ではやはり稗飯なのですね」

 口の中のものを飲み下した途端に喋り出すものだから、少しばかり行儀が悪いと想う。

「いえ、特別選んでいるわけではありません。冬はまだ長いですから、備蓄が少ないものから食べていかないと」
「殊勝なことです」

 お膳を女中たちが片付けている最中からすでに茨木華扇はそわそわと落ち着かないでいた。私が少し休まれては、と言うと、

「足が急くのです」

 と言ってやはり聞く耳を持たない。
 あまりにもその様子が忙しなかったので、むしろ私は飴湯のように食後のお茶を転がした。濃いめの魅力さを知りはしたが、舌に慣れた緑茶の薄い渋みと触りが、私には無遠慮に心地良い。柔らかい香りとずんぐりとした余韻が私の血管にまで入り込み、もはや座布団の上から動きたくなくなる始末。
 そうして春を待つ苗のように暢気に根を這わせていると、ついに茨木華扇が立ち上がって私の腕を掴んだ。

「阿求さん、早く、早く行きましょう」
「サシバは逃げませんよ。それに食べてすぐ動くのは性に合わないのです」

 そこからさらにたっぷり半刻は頑張ったであろうか。茨木華扇がなにか言うその度に、私の口からは不思議と言い訳がするする出てくるので、これはもはや、そういう星の下に生まれたのではないかと夢想し得た。その様子を見ていた女中が後ほど話してきて、曰く、まるで当たりが入っていないと知らずに振るっている富籤のようだった、と。うまいことを言う。しかし元来からして富籤とはそういうものだよと、褒めてやった。
 果たして茨木華扇は大人しくなった。いや、消沈したと言っても過言ではないほど静かになった。その浮き沈みの激しい性分を察し、疲れるだろうにと私は最後の緑茶を飲み干した。そろそろ、不憫にも想えてくる。
 私はおもむろに立ち上がると、襖を開けて女中を呼び、先ほど頼んでおいた物が用意出来たことを聞く。茨木華扇の尖った視線を感じながら再び元の座布団へと戻り、お尻を落ち着かせる。部屋の隅で火鉢と共にじんじんと熱を溜め込んでいる茨木華扇が、

「いつになったら出掛けるのですか。寒いからと暢気にしていては夜遅くなって余計に外は寒くなりますよ」
「ええ、ですから華扇さんが着る分の外套をですね、仕立て直しておきました」

 もう何度目かのきょとんとした顔である。傍にある火鉢の熱が、その顔の前でゆらゆらと遊んでいた。
 茨木華扇はなにか切ないような声で、

「ど、どういう」
「一応華扇さんは客人ですし、寒いままでいられてはもしかしたら後々面倒ですし。だからちょっと、取り繕う程度にですが暖かくしていただこうかと。しかし屋敷には私の外套しかなくて、華扇さんには丈が合わないので仕立て直さないといけなくて」

 ちょうど座敷の襖が開いて、ひとりの女中がその外套を持ってきてくれた。二年前まで私が外出するときに着ていたもので多少なり擦れてはいるが、その部分さえ修繕すれば外套それなりの役目を果たしてくれるはずである。問題は私と茨木華扇とでは身体の大きさが違うので、きっと肩も苦しく、袖も手首の前で足りなくなってしまうことだ。
 しかして、幸いにもあの口うるさい女中頭の特技が裁縫であったから、茨木華扇が今晩出掛けると言い出したとき、私からお願いしておいたのだった。

「おお、おお」

 なにごとが唸りながら、茨木華扇は外套を受け取っていた。私からは彼女の顔は見えなかったが、震える背中からして喜んでくれているのであろう。早速、いそいそと着ようとしてくれている。
 仕立て直された外套はほとんど貫頭衣のようになっており、足りない袖はいっそ取り外されて、肩はゆったりと着やすい風情。代わりに丈が継ぎ足してあるようでそれが鳥の飾り羽のように茨木華扇の腰回りを彩っている。暖かそうである。かわいらしい。羨ましいことなどはない。
 茨木華扇はこちらを振り向くと必死そうな顔で、言う。

「が、外套なら、私だって持っているんですよ」

 それから、座敷に置いてあった姿見を目一杯占有して、茨木華扇は自らを回り灯籠のようにひとりで囃し立てている。

「ええ、そうでしょうとも。お気に召したのなら差し上げますよ」
「阿求さんがそこまで仰られるなら、し、仕方ありませんね。私には必要ではありませんが、頂戴いたしましょうか。わあ」

 さらに一度姿見で確認すると、茨木華扇は満足したようなほころびのある顔で、ほくほくと襖を開けて出て行ってしまった。しばらく、遠ざかる為虎添翼なる足音。もはや翼を得た虎のように向かうところ敵無しといった踵の閃きは、火花を散らして大いに闊達であろう。私も、夜の寒気を翻す為の外套という翼を授けた身として、なかなかの飽食感を味わう。善い行いをした。今晩のサシバ観察行とやらもきっと捗るに違いない。ふむ。
 もう一杯、と、急須に鉄瓶の熱いお湯を注ぐ。やはり軽く回してすぐに緑茶を、といったところで廊下から騒々しい、給餌を忘れられた矮鶏のような踏み込みが近づいて来た。
 ときに、矮鶏の羽根色は笹に例えられて、赤笹、黄笹などと言われるらしい。果たして座敷に入って来た矮鶏は、暖かい色に染まる笹を与えられた迂闊さに、鶏冠を紅潮させて啼いた。

「私だけじゃなくて、阿求さんも一緒に行くのだと」

 さすがに観念すべきか。これ以上茨木華扇を乗せてもあまり得になることは無いと想え始めたので、嫌々ながら出掛けることにする。



 私も自分の外套に腕を通して、女中頭に一刻ほどで戻るよと、言いながら長靴を履く。紐をきつく結んで立ち上がると女中頭が、少しばかり気苦労を刻んだ目尻を緩ませながら、

「私どもがなにを申しても、阿求様が戻られるのはご自身にお任せなのですから、屋敷のことはなにもご心配はございません」

 などと、言う。私はただ分かった風に黙って頷く。そうして提灯を手渡され、先だって門の下で待つ茨木華扇の傍まで雪を踏んだ。茨木華扇もまた、下半分だけ照らされた顔で暗がりに頷いたようであった。提灯の火が、夜気の中で雪道を浮かび上がらせる。そこには昼間に私が踏んだ足跡だけが続いていた。
 ふたりで歩き出してからすぐに、茨木華扇が顔だけで屋敷の方へ振り返ったようであった。その仕草がほんのまばたきする間だったので、私は最初、彼女がこちらを向いたのかと想って、少しばかり驚いて見つめてしまった。相変わらず提灯が顔の下半分だけを明るくし、茨木華扇の顎の稜線上で、白亜が脈打っている。こちらを見ずに茨木華扇が言う。

「良い女中さん方ですね」
「うん。お客様にしっかりと尽くすよう、代々の女中頭の目が行き届いていますから」

 私が息を濁らせながら言うと、それだけではありませんでしょう、と、茨木華扇の言葉もまた、白くなって後方へと靡いてゆく。

「阿求さんが気が付かずとも、あの女中さん方はそれを物ともせずに、貴女の傍に居ようとする。そういう気持ちがある。私には、それがくすぐったいほどに、羨ましく想えるときがあります。そんなとき、私はその光景を見て見ぬ振りをするのですよね。まるでそれは当たり前のことで、別に気にすることではないと視界の外に放るのです。おかしな話です」

 茨木華扇の声が、遠くでこだまするサシバの鳴き声のように、朧気に聞こえる。耳を澄まさねば危うく溢してしまうほどの、溢れた先の雪原に吸い込まれて消えてしまう遠鳴きのような、はかなげな声質であった。
 私は、ようやっとその言葉をすくい取り、刹那の間、胸の内で反響させた。
 茨木華扇は、

「寂しいというのとはまた違う気がします。私には久米と、竿打という二羽の大鷲が居て、他にも傍に居てくれる動物たちがおりますから、少しも寂しくはないのですよ。でも、そうですね、誰かに想われているというのは暖かいものだと私は想います。それは冷たい雪を溶かす頬の熱のように、身近で、特別なことではないけれど、ひとりでは感じられない確かさがある。自分の生涯が誠実だったという、確かさが」

 だから私は羨ましいのかもしれません、と、夜に向かって言った。
 しばらく、私も茨木華扇も黙ってしまう。真面目に応えればいいのか、それともふざけて聞き流せばいいのか、判断に困る。このようなとき、自らの気の利かなさ加減にほとほと嫌気が差す。平時には気にも留めず、そういう自覚が無いことすら私には分からないのである。
 私の吐く息が白くなってすぐ消える。茨木華扇の吐く息が、白く濁って私の視界を横切る。提灯が破く夜の帳の隙間から、昼間の私の足跡が先を誘ってくれるが、それがどこへ連れていってくれるのか、皆目見当もつかない。果たして私は立ち止まり唸ってしまった。
 同じく立ち止まる茨木華扇が困ったような声を出す。

「いえ、阿求さんはお気になさらずに。ただの想いつきなのですから」

 だからと言って、それに応えられないのは情けないと、想う。

「私は華扇さんは素直なのだと想うのです。素直だからそのようなことを簡単に言いのけてしまわれる。とても潔い。きっと目と心と口が一直線に繋がっているからでしょう」

 私は目で見たものを考えてから口にしてしまう。せっかく見たもの達を忘れないというのに、それらを素直に伝えられないときがある。
 茨木華扇には、そういうところが無いのである。生涯という空を飛ぶのに邪魔になる、しがらみというものが無い。もしかしたらあるのかもしれないが、それを重荷にしない膂力があるのだ。

「ともすれば私には、それが一等羨ましい」

 素直になるというのはこういうことだろうか。茨木華扇の真似事は難しい。
 仕立て直した外套を翻し、髪をかき上げながら茨木華扇は言う。

「私は褒められてはいませんよね」
「それは難しいところです。言うなれば、子供の初めてのおつかいのようなもの」
「ほほ、その心は」
「あまり期待は出来ません」

 されどやることに意義がある。

「非道い仰りようです。結局のところは無い物ねだりなのでしょうか」
「そりゃあもう。持っていないものは欲しくなりますし、元来持っているものは本人からしたら見えてなかったり要らないものであったり。だから誰かと見比べて、教えてもらわねばならない。そうやって、お互いに言い合えばよろしいのでしょう」
「ああ、だから『背負い込む』なんて言うのかもしれませんね」

 自分の背中は自分では見えませんから、と、茨木華扇はこちらに近づいてきて私の背中を支えるように押してくれる。その勢いで飛び出した右脚は、昼間に付けた私の足跡よりもはっきりと深い、明瞭なる道標を雪の道に残す。

「さあ阿求さんお急ぎを。サシバは私達の都合は考えてくれませんよ。そうでなくても今晩は出遅れてしまったと言うのに。今時分はきっと夜の狩りをしているはずです」

 そのまま私の手を引いて、茨木華扇が前を進む。相変わらずの自分基準な力強さに少しばかり驚く。しかしてその大きな歩幅、夜気を斬る敏捷な肩肘を私はどこか頼もしいとも想える。

「そうだ、昼間に出掛けた際にこれを拾ったのですが、華扇さんは分かりますか」

 私は懐から昼間あの林で拾った黒い木の実のようなものを取り出した。前を歩きながら茨木華扇はそれを指先で摘み上げた。細める眼差しが、まるで小さな虫を見つめているようである。

「ちょっと暗いですね、灯りを」
「おっと。どうぞ、どうぞ」

 慌てて振ったせいか、私は提灯を自分の膝に当ててしまい、手を放してしまった。あ、と言う間に提灯は雪道へと転がる。幸いにも火袋は燃えていないようだが、中の火が転がった拍子に消えてしまう。
 わたわたとして、雪に躓く。私が危うく五体投地で倒れ込みそうなところを、茨木華扇が受け止めてくれた。

「なにをしてらっしゃるのですか」
「すいません、提灯が、灯りが、消えてしまって」
「消えたらまた付けてあげればよろしいでしょう。そんなに慌てなくても」

 暗闇で、首の後の方から茨木華扇の声がした。灯りが消えたというのにすかさず助けてくれたのは、さすが仙人だからだろうか。夜目が利くのは便利なようで、彼女は私を軽々と立たせて、さらに暗がりから簡単に提灯を見つけて私にもそれが分かるよう、手元まで近づけてくれる。そこまですれば、手触りで提灯の中も判別出来るのだ。
 目が暗闇に慣れない。火打石を、と、懐を探っていると奇妙な光を感じた。淡い、蛍のような仄かな明るさ。ふとそちらを見ると茨木華扇の手があった。

「これは」

 目を見開く顔が暗闇に浮かんでいる。茨木華扇の手には淡い光。ぼうと照らすそれを私も見つめると、果たして黒い木の実であった。私が拾った、とても美味しそうに見えないあの黒い木の実、のようなものが淡く光っているのである。

「阿求さん、これは私が見たサシバの光と同じです。どうしたのです、これを」
「昼間にサシバの巣らしき場所の近くで見つけました。何故光るのでしょう」

 茨木華扇が再び目を細める。焦点を合わせるように木の実を見つめ、光の正体を探る。
 私が火打石を手に取ると、茨木華扇はそれを片手で遮った。明るすぎると見えるものも見えなくなってしまうらしい。
 しばらく、針の穴に糸を通すような注力の眼差し。と、突然茨木華扇は顔を上げた。

「燐蟲、ですね、これは」

 淡い光の中で真面目な表情が凝る。

「燐蟲とは」
「その名の通り、暗闇で光る蟲です。なにかに寄生しながら生活するのですが、ほとんど妖怪に近い性質で、曖昧な部分があります」
「曖昧というと」
「元々は外界に居るごく普通の光虫なのですが、だんだんと少数になって忘れ去られる寸前の状態で幻想郷に流れ着いてしまったのです。普通の虫のように生育しては死を迎えますし、妖怪のように突如として大きな力を持つこともある。両方の性質を併せ待つ奇妙な蟲なのですよ」

 なんだか理解が難渋しそうである。

「元の姿とは違いまるで菌糸のようで、そうして他の動物に寄生し、集合したのちにある行為に及びます。こいつは外界と幻想郷を行き来する『渡り』を行うのです」
「それは果たして大丈夫なのですか。どうかしたら怒られそうですね」
「大丈夫もなにも、こいつは普段はまったく無害な奴なのですよ。だからこうして私も阿求さんも平気で居られる。しかし、寄生された宿主の精神が燐蟲の目的と重なってしまうと、そのときこいつは力を振るう。サシバの当初の目的はどのようなことだったか。阿求さん」

 昼間にサシバを見ていないのでしたか、と、茨木華扇が両眼に燐蟲の光を映しながら私の肩を掴む。その手は堅く張る切迫の針金の芯が通ったかのような、とても頼りなさげなか細さであった。
 私は、昼間にサシバを見てはいない。やや間を置いて頷き返した私から、茨木華扇は即座に視線を外す。手元を見ずに、私へと燐蟲が宿る黒い木の実を戻してきた。

「すでにサシバと燐蟲は渡りに至った、のですか」
「急ぎましょう」
「ですがそれは良いことなのではありませんか。サシバは晴れて渡りを行えるのですよ、越冬なぞ、しないに越したことはないのでは」
「いえ、駄目です」

 提灯の火も付けず茨木華扇は夜目だけを頼りに私の手を引き、雪道を進む。

「燐蟲は曖昧なものなので力さえ貯まれば容易に外界に出れましょう。ですがサシバは未だ現実の存在。しかもつい前日迷い込んで来たばかり。しっかりとした身体を守りながら、急激な二度の次元の変化に果たして心身が保ちますでしょうか。答えは否ですよ、阿求さん。たとえ外界に渡れたとしても、存在が薄れてしまったり心身の崩壊現象をやすやすと招いてしまう。境界を渡るということは、それなりの危険が伴うのです」

 どうやら、私の料簡は見当違いであったらしい。戒めるようにして茨木華扇は私に言うと、また真っ直ぐにサシバが居るであろう林へと顔を向ける。急ぎ歩む為には雪道はもはや足元を不安にする邪魔にしかならない。一層のこと、私を置いて先に行かれよと口から出そうになるが、止めておいた。こうして手を引っ張られるのだから、私としてもなんらかの役に立ちたいと、そう想うようになったのである。
 故に、私もなんとか歩みを早め、雪道のような邪魔にだけはなってはならないと、必死に茨木華扇の手を握った。やはりその手先は細く、そして冷たい。
 サシバは果たして無事なのであろうか。いや、正直になれば、私はサシバが無事かどうかなどはあまり気にはしていない。サシバとて野生の生業であれば、生きるか死ぬかの状況は久しいわけではないだろうし、ともすれば自らの習性という生き物としての矜持を全う出来るのであるから、燐蟲からの博打の誘いに乗らぬ手は無しと勝負に出るのもまた、大いに立派であると称えてやりたいくらいなのである。それを憂慮しようというのは、野暮だとは想う。
 しかして、茨木華扇はどうなのであろうか、とも想う。
 サシバを助けたいと私に明言している以上、そのひとつ想いだけが彼女をして彼女たらしめらんものの根幹であろうから、嘘や同情などという下世話な身勝手さでは決してなかろう。もし茨木華扇の傲慢であるならば、ここまでのどこかで必ず諦めや妥協が生まれ、私を巻き込むような状況にもならなかったはずである。茨木華扇には、人から嫌われても成就させたい理由がある。口にすることは永劫あり得ないがその振る舞いで説得し、成就の結果で納得させるほどの気丈さがあるのだ。
 そしてその理由を聞き質すというのもまた、野暮なのである。野暮は嫌いだ。野暮は煮ても焼いても食えぬ。野暮は、人の精神を軽んじる。

「私はいま、一等サシバを助けたいと想いました」

 一言、それを発するためだけに茨木華扇の手を握り返した。

「いままでずっとそうでしたよ、私は」

 茨木華扇はまた、こちらを振り向かずに、言う。それに誘われて私も前を向いた。気づけばすでに谷津田の畦道を歩いている。サシバが居るであろう林は、灯りを失ってなお、夜気の中で薄っすらと孤島のように浮かんでいるのが私の拙い目にも分かる。
 否、あれは、燐蟲の光である。昼間には判別出来得なかった淡い光が、夜という外套を纏うことで現した強かなもの。畢竟、此度の件の道標にならんとする光。それが林の全体に満遍なく行き渡って、それこそまるで蛍のように発光しては消えてを繰り返している。冬の蛍のなんと奇妙なことか。雪が光を吸い込んでは吐き出し、それを助長させているとでも言うのであろうか。
 何故これまで気付かなかったのだろう、と、広い歩幅で揺れる私の口から白濁と溢れた。

「いえ、あれはいまさっき明滅し始めたのですよ」
「ということはあれはまさか」
「おそらく、燐蟲が渡りを行う好機を探っているのでしょう。まだ間に合います」

 そのまま、明滅を繰り返す林の中に茨木華扇と一緒に突き進む。頭の上でなにか得体の知れぬものが蠢いていると想うと、どうも心が落ち着かない。光は木々の枝に寄生している燐蟲からと想われるが、それらが積もっている雪にも映り、上と下から照らしてくるのは淡い加減だとしても些か気持ち良くない。これではまるで巨群となった燐蟲の腹の中のようではないか。ともすればこの明滅は心の臓の脈打ちか。
 途端に仰々しく感じられるようになった腹の中で、私は昼間に探りを入れた楠木を見つけた。相変わらず目立つ雷撃跡に、ついつい視線がゆく。黒く焦げたものはさすがの燐蟲も好かぬのか、そこだけ光らず、やはり奈落の如き深淵さがあった。
 と、一際敏捷な光が奈落から飛び出し、天から垂れる蜘蛛の糸のような軌跡を私の目に焼き付かせた。

「サシバ」

 同じく気づいたらしい茨木華扇が光の名を呼ぶ。その声は夜闇の提灯に吸い寄せられる羽虫のように、私の視線を暗い空へと惑わした。

「華扇さん」
「良かった、まだサシバは無事ですね。しかし、私が見たときより光が強いし、すでに全身が明るくなっている。燐蟲が渡りを始めたら確実に巻き込まれましょう」
「いや、華扇さん、救うあてはあるのですか」
「うん?」
「サシバをどうやって助けるのですかと、なにかお考えあるのですか」
「うん」

 非常なるきょとん顔である。きょとんという音が、その大きく見開いた目から転がり落ちそうなほどであった。

「考えあっての真面目さかと想いきや、よもや無策故の妄動とは」
「あ、ありますよ、大丈夫です。サシバをですね、ええっと、ああん、どうしよう」

 ここに至ってことの重大さに気付き、慌てて腕組みをするも思考を手繰り寄せるには些か精神がそぞろな風情。茨木華扇のうんうん唸る声はしかし、それほど仕事をしてはいない様子である。
 周囲の光る脈動が、心なしか早くなってきている気がする。私も口を出さねばなるまい。

「一先ず、サシバをこの林から遠ざけてはどうでしょう」
「そう、そうです。燐蟲の大多数が集まっているここから離れれば巻き込まれはしないでしょう。よし、よし。そうしましょう。しからば阿求さん、先程の木の実、あれをお持ちになって」

 私が懐に携えていた黒い木の実を再び取り出す。同じくこちらも明滅し、なにやらさらに美味しくなさそうである。茨木華扇が視線でサシバを追いかけつつ、

「サシバはきっと、燐蟲を集める為に夜の狩りを行なっていたのでしょう。夜でなければ燐蟲の光が分からない。自分自身に集まっているかどうか判別し難いでしょうから」

 なるほど一理ある。いくら無垠を一望出来うる鳥の目でも、果たしてほんの僅かな光を昼間に探すことが出来るものか。お日様のような力強いものに覆われてしまえば、小さなものなど無きに等しくなってしまう。弱者に許されるのはそれに抗わずに自身を洗練させることだけなのか。燐蟲が群れを成し、大きな行為に及ぶのもまた無理もないのかもしれない。
 木の実の僅かな燐蟲は、寂しげでもしっかりと脈打っている。

「ですから、これを使ってサシバを誘き寄せます。木の実にもっと燐蟲を取り付かせてより明るくし、こちらに沢山あるよと誘うのです。釣り上げたらばそのまま林の外へと導きます」
「燐蟲を集めるのならば林の外でおやりよ、ということですね」

 頷いた茨木華扇は足元の雪を掴み、雪球を拵えた。

「要領は簡単です。見ての通り燐蟲は集まる習性がありますから、そこらの枝に木の実を近づけてこちらに移す、近づけて移すを繰り返します。そうすればこの雪球のようにどんどん燐蟲が集まってきます」

 茨木華扇は雪球を落とし、手で軽く転がした。すると雪球は周囲の雪をくっつけ一回り大きくなり、さらに転がすともう二回りも大きくなる。ふむ。

「承知しました」
「阿求さんはそちらから、私はあちらから、手折った枝に集めてきます。急ぎましょう」

 言うが早いか、茨木華扇は積雪をものともせずに颯爽と行ってしまった。先ほど私を引っ張っていたときは、あれはあれで手加減してくれていたらしい。まるで雪に足跡が付くよりも速く次の足を出しているかのようだった。
 私も颯爽とまではいかないが、なるたけ急ぐ気持ちでもぞもぞと動き出した。先ず近場の枝を見上げる。高い。もっと低い枝にしようと横に動く。そうすると背伸びをしてちょうど手が届く枝があり、これならば少々の煩わしさだけでそれなりの疲労という満足感を得られそうだと想い、早速つま先立ちの格好になる。枝に半分ぶら下がるような風情で雪を払い落としてやると、ぼおっと光るものが見えた。
 木の実を枝に近づけてみると、なるほど燐蟲が移動してゆく。木の実から枝へと。

「おお」

 白い息で呻いてみてすぐに枝から遠ざけるも、すでに木の実に居た燐蟲の半分ほどが出かけてしまっていた。なんということか、これではいけない。
 しばらく試してみるに、どうやら燐蟲は仲間が多い方へと移動する性分なようで、ただ単に集まるとだけが本質ではないようである。しかして、これで要領は得た。それを踏まえつつやってやれば、本当に、雪球のようにして燐蟲の光が増してゆく。そのうちに、こんな小さな木の実には無理があるのではないかと想うほど、明るさは上々であった。ここに居るであろう燐蟲どもは、私の目には見えないが、きっと押し合いへし合いの凄まじき状態なのであろうか。想像するだけでも難儀そうである。これ以上集めてやるのはかわいそうである。
 明るさも充分であろうと、手を止めて茨木華扇を探す。どうやら彼女の方は手間取っているようで、向こうの方で右往左往していた。不器用というのは、往々にして誰の得にもならないと、改めて想うものである。
 少しばかりその様子を眺めていても、一向に茨木華扇の周囲は明るさを伴わないので、これはもはやと私は一所懸命になっている彼女に向かって歩き出した。木の実は、提灯代わりとなって私の足元を照らしてくれている。畦道の溝も、積もった雪の小山も、これのお陰で良く見えて躓くことはなかった。なかなかに便利である。
 もうそろそろ声をかけても良き近さだろうかとして、

「華扇さん」

 ある程度抑えた調子で声を上げた。すると、茨木華扇もこちらに気づいて、手を振ってくれている。その姿を見ながら歩を進めると、存外にも振り方が必死そうで、さらにそれが勢いを増してきた。私もさすがに手を上げないと悪い気がして、燐蟲が集まったことを示すのも含めて、軽く木の実を持ち上げて振り返した。きっとあちらからは明るく揺れる光が見えていることであろう。これならば文句はありはすまい。
 だが茨木華扇は私の成果とはまた違った雰囲気で両手を横に振り出した。なにやら、やはり必死に、身体全体が旗になったかのように、忙しなく動いている。一体全体なんだろうと訝しんでいると、ついに茨木華扇がこちらに駆けて来た。まったくもってよく分からない。

「阿求さん」

 茨木華扇の声が届くが早いか、私の身体が、ふわり、浮いた。
 人間というのは不思議なもので、自分がどのような状態になっているのか理解が及ばないときなのに、その視界や耳の働き、頬で感じる風の感触というものが一様に鮮明になって、まるで一枚の油絵の中に入り込み身体中が色彩を吸い上げているかのように、敏感な肌触りが目の前に広がる景色という景色を把握して、無垢なまでの奔放さで、自分自身の心を感嘆色へと変えてゆく。視界の端に触る程度の、明滅する林の生彩たる輪郭。柔らかな耳朶が、裂けるのではないかと想えるほどの風の鋭い鳴り。その鳴りが私の頬に共鳴し、初々しい震えを見せる産毛すら、風がさらってゆく。はためく外套。指先に開放感が閃く。お腹と背中の気圧差で渦を巻く。自由に成り果てた手足は宙を掻き、襟足から伸びに伸びきった私のそれほど長くない後ろ髪もまた、尾羽根のように羽ばたける。
 睫毛に空気の流れを捉え、私はそのとき、夜空の放物線となった。
 そうやって、必死に景色だけを見つめていた。なにもかもが初めて見る景色で、それらが荒々しい息遣いでもって私へと叩きつけるように述懐してくるのだ。ならば一心不乱に、全身全霊を傾けて記憶を刻むしかないではないか。どうしてそうなったかよりも、杯のように、享けるだけの存在になるのに忙しかった。見えた万事を忘れることなくが私に許された天禀だとしても、この一瞬のさらに刹那の、情緒が弾く閃耀を、そのすべてが生まれてゆくのはいま現在の須臾以外に存在しないのであるから、忘れる忘れないに関係なく、見ないわけにはいかぬのだ。それが私の根幹なのだと、瞬きの軽さが教えてくれる。いまを見よ。されど忘れるべからず。其は自らの見たものすべてに非ず。

「阿求さん、駄目です」

 叫び声が私の意識を乱暴に掴み上げる。必死そうに、切なそうに私の名を呼ぶ声に、しかしどうしても鬱陶しさを感じずにはいられなかった。正直、邪魔だと心底に想える。

「早くその木の実を捨てて、さもないと貴女もサシバごと渡りをしてしまう。そんなことになりでもしたら、私はあの女中さんたちにあわす顔が無いのです」

 恍然からその言葉で解脱する。すると、途端に、驚愕の気持ちが私の心の臓をがなり立てる。想わず、私は悲鳴を上げた。そして身体中が震え出す。こんな高いところは、恐い。今更ながら隠れていた恐怖感が顔を出して、空なのに、溺れたように手足を振り回した。
 ふと見れば、茨木華扇がこちらを見上げている。両手を上げ、全身で仰け反って私を見つめていた。珍しいこの状況に私は改めてとんでもないことになっていると自覚した。助けを求めなければならない、危うい状況なのだ。茨木華扇が言うように、このままだと私も燐蟲の渡りに巻き込まれて身を滅ぼすことになりかねないのかもしれない。と、サシバはどうなったのか気になった。
 高所は、見上げるのもそこから見下ろすのも、私にはとても難しい。こと後者の状況であるいまは、どうにも恐怖からくる目眩で、目の前が大いに迷ってしまう。その恐怖をなんとか飲み下して、先程まで飛んでいた光の姿を探した。しかしてその彗星の如く存在感あるはずのサシバが見当たらない。もはやなにがなにやら、なんだか様々なことが一度に起こってどこから確認するものか、それすら順番がおかしい気がする。こうして私が飛んでいるのだって、どうしてだっけ。

「振り払えますか、阿求さん、まだそこからならば私が受け止めますから」

 茨木華扇がまた叫んでいる。振り払う、とは。
 なにかの存在が知れた途端に私の首の後、背中の辺りから鋭い視線が感じられ、それはあの久米からの波長と似ていた。首を振り、なんとかそれを見定めんとする。しかし次に発せられた茨木華扇の言葉でその行為は意図せず成就される。

「サシバです、貴女を掴み上げているのは。分かりますか」

 ぐるり、精一杯に首を回した目の端に、銀の視線を放つものが居た。果たして私を捉え、閃く双眸の収束が夜空を穿つようにして輝いていた。そうして短く、されど迸る雷光の如く鳴く。身近で聞いたサシバの声に私の心の臓は怯えて竦むよりも先に、むしろ大いに、鼓動を強くした。
 なんと、雅なものだろうと想えた。
 サシバに足で掴み上げられ、私はそのまま空を一緒に飛んでいた。飛ぶ、と言うより正しくは攫われた、と言えばよかろうか。地上で隠れ潜んでいる兎や鼠よろしく、捕食されるべくして捕まって、束の間の空旅ののち、喰われる。いや、喰われることはさすがになかろうが、こうして無様に地上を見下ろしていると、もはや二度と戻れぬ安らかな故郷を憧憬しているような気持ちになって、心根が安寧ではない。まさに餌食の境遇。私の空を飛ぶという夢がついに訪れたのは良いが、よもやこのような気持で迎えようとは。現実は非道い。
 落胆出来るのであればまだ良い方である。そうこうしているうちに少しばかりでも落ち着けてきたのは、幸いでもある。なんとかしてサシバの爪を振りほどいて地上に降りねばならない。助けられますか、と、今度はこちらが茨木華扇に叫んでみた。

「阿求さんが落ち着いていらっしゃれば、大丈夫です。サシバをむやみに刺激しないようご留意を」

 茨木華扇は私が返事を寄越したのに安心してか、先程よりも幾らか表情が和らいで、手を振る動作も大らかであった。どうやら心配をかけてしまったらしい。飛べるにも関わらず茨木華扇が地上からああして叫んでいるだけなのも、サシバへの影響を考慮してなのだろう。

「私は大丈夫。どうにか調子を取り戻せそうですから、なんとか降りてみます」

 そう言葉が出たものの、さてどうしたものかと想えた。吐息の白さも霞む闇夜の高さ。一先ず、いまの私に主導権は皆無である。自らの迂闊さ故に無防備な背中を晒し、サシバの接近に微塵も気づかず、あまつさえつい先程まで暢気にも呆けていた私に、この野性滾る翼を御することなど、正直、まったくもって自信が無い。私の格好はまるで捉えられた兎のそれであるから、手足でもがくにしても限界があろう。否、まだ兎の方が野性に生きている分、私よりも強かな狭義でもって反撃に構えるのかもしれない。さすれば私は兎以下か。
 しかしてそれもまた否である。何故ならば、野性の熱が私に携わっていないのとは別に、知慧の傍流のさらに末端たる兎には到底持ち得られないものを私は備え、それに熟達しているからである。つまり、言の葉である。私は筋が震えるほどにまで首を回し、そして、言った。

「話せば分かる」

 するとサシバが再び鳴く。まるで私の言葉を跳ね返すような硬質さであった。
 サシバは左右に身体を振らしたかたと想えば、飛び方を変えて突如として高度を落とした。それまでただ林の上を旋回していたのが、どこか一点に向かって進路をとったのである。まさか私の言葉が通じたのかと小さく期待したのだが、向かう先は地面ではなく、どうやらあの雷撃が落ちた楠木のようで、俄に落胆してしまった。やはり、そうなのである。サシバに言葉は通じない。当たり前である。

「なにをしてらっしゃるのですか、危ない、前を見て」

 下の方で、なにかにじゃれつく仔犬のような風情で、茨木華扇が駆けていた。もっとしっかりしろと、険のある声色で幾度もこちらに叫び上げている。そんなこと言ったって、私はもはや手詰まりなのである。やはり兎以下なのである。
 みるみるうちに楠木が近づいてくる。いや、私がサシバによって近づいているのであって、むしろあちらは黒くて歪な口を開けて待っているのだ。夜だからと自らの恐怖を誤魔化すつもりはないが、あれは夜闇によってさらに恐ろしいものになっていると想えてならなかった。為す術もなく、ただただその大きな口に吸い込まれるだけといういまの状況が、私を背中を非道く、どうしようもなく強張らせる。情けなくもちょっとだけ泣いた。

「阿求さん」

 雷光の熱から免れた楠木の枝が私の身体を引っ掻いてゆく。とっさに顔だけは両腕で守ったが、それでも口の中に葉っぱが入って来ては緑の味が舌に広がった。気付けば、サシバは私を勢いに任せるまま放って自らは高度を上げる為に強く羽ばたいていた。その姿を私は宙で一回転する間に見る羽目になった。二度の羽ばたきですぐに視界から消えるサシバ、それを楠木の枝越しに見送る私。悔しがる暇も無く、背中と後頭部で私は着地した。サシバが狙ってくれたのか、はたまたまったくの偶然か、どうやら楠木のその焦げた穴に私は入ることが出来たようであった。衝撃は存外にもあまり感じず、枝の中を突き通って来たのもあってか、調度良く勢いが殺されていたようだ。骨に響くのに十分なものではあったが、なんとか、無事に大地から地続きのものに触れることが出来たのである。はからずも気が抜けて、逆さまにひっくり返ったままで私は、先送りにした悲鳴を小さく漏らした。
 未だ、口の端に葉っぱが残る。後を引く緑の味と一緒に呆けた気持ちを吐き出すと、すぐに焦げた匂いが私の覚醒を手伝おうとしゃしゃり出てくる。鼻孔の奥ではしゃぐその匂いに、私はむせてしまった。咳をすると、空洞で反響した。帰ってきたその声にも焦げた匂いがこびりついているようで、篭った声質はとても私のものとは想えなかった。
 すると、その反響と重なるようにして、焦げた闇の方からまったく異なる、艶やかな鳴き声が聞こえた。私はすぐさま緊張した。いつでも逃げられる準備をと、視界だけでも上下正しくする。しゃがんだまま、声の方を見据えると、空気と共に焦げた埃が巻き上がって、銀の視線と私の視線が繋がった。そいつは再び鳴く。

「サシバか」

 二羽目が居た。楠木にまだもう一羽が居た。
 私の手の中で、木の実が光る。心の臓のように脈打つ明るさが、楠木の空洞に隠れていたもう一羽のサシバを照らす。それは仄かな明るさの中でさらに陰影を深め、私という闖入者が転がり込んだにも関わらず、湛然不動たる姿でこちらを見つめていた。警戒、とはまた違った雰囲気であった。光が明滅するたびに嘴から頭頂部にかけての輪郭が浮き上がり、ゆったりとした銀がその間で揺れていた。燐蟲がまったく付いていないところからして、私を攫ったサシバとは違う個体のようだ。
 やはり言葉はきっと通じないだろうが、敵意が無いということだけは、私にも不思議と理解出来ていた。兎角、活気が無いか、大人しいといった風情が当てはまりそうであった。
 相手が静かなのであれば、こちらも恐々としているのではいけない。未だ私の脈打ちは忙しなかったが、サシバと視線が交わりつつ、その様子がおかしいことに気づいた。微かに、左の翼が持ち上がる。羽ばたきたい気持ちがその風切羽に備わっているはずなのに、しかし力強くも軽やかな機敏さが、感じられない。まるで泥が被さって、重く纏わりついているかのように、鈍い。右の翼はほとんど動いていない。動かせていないのだ。

「お前怪我をしているの」

 私が手を伸ばすとサシバは左の翼だけを広げ、穏やかでも、光沢のある瞳を研ぎ澄ませた。鳴きはせずとも、鋭い嘴を開いて気韻の息を吐く。動かずとも、溺れるかの如き濃密な空気で暗がりを満たす。杞憂、と、私は承った。手を引き、頷くことだけは欠かさなかった。
 奇妙なものである。先程から言葉が通じていないのに何故だかサシバの気持ちが分かるのだ。視線、所作、雰囲気に至る機微の流れを読んで、果たしてそれが誠に正しいのかどうかは真贋の区別も覚束ないが、それでもなお、なにかが伝わって来ているという確信が持てるのは、ひとえに私の関心がサシバに向かっているからであろうか。興味が無いことに伝播の繋がりが生まれる道理はもちろんあり得ないが、さりとて関心が向くからといってそれが通じるというのもまた、少しばかり慢心が過ぎるとは、想う。所謂、妄想にも近しい。しかし、自らとは存在の違う、関心を持つに値する素晴らしき相手が居る以上、伝播の云々は関係無く、私が読み取れたものは尊重されるべきことなのではなかろうか。
 何故ならば。

「サシバよ。分不相応の行為をしたこと、誠に申し訳なく、謝辞を尽くしても至らないことながら、すべてを反省しようと想うほど私は利口ではないし、そして私の友人も、同じ想いであるはずなのです。孤高に生き、気高きに絶えるのは果たして美しいことなのか、私には分からない。ですが、私たちは貴方たちを救いたいと想う。そういう思惟が集まってしまうことこそが、貴方たちが気品に満ち溢れている証左となるのでしょう。それをどうか、忘れないでいただきたい。貴方たちは決して孤独ではないのです」

 それらは私にも、茨木華扇にも当てはまること。

「その気持ちを教えてくれた友人や、家人に、私は報いなければならない。あるいは記憶に刻まなければならない。私のこれまでとこれからを、支えてくれている事柄なのです」

 言って、私は深々とお辞儀をした。サシバが動く気配は無い。威厳ある格好のまま未だ私へと銀の視線を寄越してくる。ほんの少しも微動だにしない。
 果たして私の言葉が通じているかどうか定かではない。私のように気持ちだけでも伝わっていれば有難いが、容易く成就するとは到底想えない。しかして、これはあくまでも通過儀礼である。私が私として、サシバをサシバとして、本来持ち得ているであろう精神の本懐を尊重し、ありのままに考え、ありのままの想いを遂げるまでの、ただの挨拶代わりなのである。
 突如として埃が舞い上がる。サシバが不意に動いて、夜空へと向く空洞の入り口を見遣って、鳴いた。私はこの鳴き方を憶えている。私の消えることなき記憶の道標に、しっかりと刻まれているあの鳴き声。それは早朝に聞いた、誰かを呼ぶような鳴き声。

「あのサシバを呼んでいるの」

 私が早朝に聞いた鳴き声は飛んでいる方ではなく、怪我をしているこちらのサシバであった。
 もう一度鳴く。サシバの、近くで聞くと叫んでいるかのような声が、空洞で寂しげに響いて、夜空へと放り出されてゆく。それは春先に溶け出す深雪のような艷やかで瑞々しい声であった。鳴き始めは少し低く、そこからぐっと甲高くなり、余韻には笛のような息の通り方をする。しかし声にはやはり、線の細さが、心許ない寂しさがあった。
 飛んでいる方のサシバは、気づいていないのか近づく気配さえ無い。否、そんなはずはない。屋敷に居た私にも聞こえるほどであったのだから、近辺を飛ぶサシバに聞こえない道理は無い。聞こえているにも関わらず、来ないのだ。何故呼んでも来ないのか。
 私が考え込んでいると、上の方で葉がざわめく音が聞こえた。すわ、やはり来てくれたのか。

「良かった阿求さん、ご無事なようですね」

 茨木華扇が夜空を背負いながらこちらを覗いた。安堵と同等の、無念さがあった。彼女は緩む顔を見せながら、

「一時はどうなるかと想いましたが、いやあ重畳、重畳。でもゆっくりもしていられません。さっきよりも目に見えて明滅の間隔が狭くなってきています。もう燐蟲が渡りを行うまで時間が、え、あれ、サシバ」

 どうして、あれ、と、茨木華扇もやはり驚いて背後を振り返っている。どうにもサシバは一羽だけという想い込みがあるようで、私と同じく驚いて、目を白黒させていた。
 茨木華扇が言うとおり、私の持つ木の実も明滅を早め、本当に時間が無いと急かしているようであった。渡りが始まる。サシバの危険な賭けが始まろうとしている。手を、と、私は茨木華扇に両手を差し上げた。すぐに了解してくれて、彼女も手を近づけて、私の方と組んでくれた。しっかりと両手を組んだ私に対し、茨木華扇は片手で簡単に持ち上げてしまった。

「よいしょ、と。ありがとうございます」
「いえ。しかしサシバが二羽居たとは。私が見張っていたときはあの飛んでいる方しか見ていなかったようです。迂闊でした」
「無理もありませんよ、こちらのサシバはどうやら怪我をしている。飛びたくても、飛べないのです。そうしてずっとこの楠木に潜んでいたのですから、夜目が利いたとしても見えはしますまい」

 怪我ですか。茨木華扇は心配そうに呟いて目を下に向けた。その先ではサシバがやはりこちらを見上げていた。暗がりに置き去られた風情で、身体中を緊張させている。
 私はそこから未だ上空を旋回している方のサシバへと目を転じた。羽ばたきを一度、二度。大きく広げた両翼は風を捉え、扇型の尾羽根が風をいなして震えていた。嘴の先端が鋭く閃き、光る身体故に飛ぶ軌跡が目の奥に残像としてひりつくと、まさに夜空を切り裂きゆく様、凄まじかった。それが果たして美しく、野性の理に適っていることなのか、私にはやはり分からなかった。

「本当は、二羽共々で渡りを行いたいのでしょう。知らぬ世界に迷い込んだ、唯一の仲間なのですから。でもあれはたった一羽で帰ろうとしている。危険な賭けを犯してまで」

 私が言うと、茨木華扇が少し尖った声で、

「仲間を置き去りにしてですか。そんなこと、力づくにでもすぐに止めさせます」
「理由はどうなのかは、私には分かりません。サシバに言葉は通じませんし、飛べぬ私に飛べる者の気持ちも分かりません。だからサシバの真意を慮るのは非道く差し出がましいと想う」

 もしかしたら、私の考えすぎなのかもしれない。言葉が通じぬ、なにを考えているのか分からぬことを、さも大袈裟に捉えることでまるで違うものと決めつけてしまっているのかもしれない。そうやって暗幕で覆うことで、やはり分からぬのだと安心しているのかもしれない。疑うよりも、楽ではある。空など飛べぬ方が、辛い想いをしないで済むのだという勝手な想い込みで安心するのである。こうして地べたに居るときでさえ堪えることが少なからずあるのに、どうして空を飛んでまで別の重荷まで背負わねばならぬのか。自分に見えぬ重荷など、なんの役にも立たないのだから、あえて背負う気には到底なれない。だから知らぬままでいよう、という、安堵に囚われるのである。

「差し出がましいなんて」

 私を持ち上げてくれた手をそのままに、茨木華扇は飛び荒ぶサシバを見遣って、言う。訴えかけるような声であった。私は、はっとした。このような気持ちが凝った声色を、私はいつか聞いたことがある。屋敷から出掛けるときの、女中頭の顔が浮かぶ。昔よりも目尻の気苦労は深くなっていたはずだ、と、想った。
 怪我をしたサシバがまた叫ぶ。力の限り叫んだ鳴き声が、光に負けじと夜空を裂く。しかし。しかしやはり来ない。返事もせず、なにも聞こえていないかの如く、まるでそれの為だけに飛んでいるかのように、夜空の高いところをサシバは旋回していた。

「華扇さん、やはり私には彼らの気持ちは分からなかった。例え想いを汲もうと腐心してみても、始まりからして違っているのではどうにもならないのです。生まれ持ったものは変えられない。サシバも、私も貴女もそういうものを背負っている。肩代わりしてやることなんて出来ないのでしょう」

 茨木華扇はなにも言わない。なにも言いたくないと見るにはしかし必死そうで、なにも言えないと見るにはあまりにも物憂いげな表情をしていた。

「傍が背負っているものがなにかを教えてやれても、それは本人にしか背負えないものなのです。だから、背負う気構えというか覚悟のようなものを邪魔することだって私たちには出来ない。してはいけないのです。その覚悟をあのサシバは冠のように頂いている」

 林の燐蟲はもはや明滅さえしていなかった。ただただ仄かな光が渦を巻いていて、それがちょうど旋回しているサシバと同じ方向へとうねっていた。うねりはざわめきの飛沫を上げ、飛沫は泡沫とし、だんだんと宙に浮いているようだった。渦は昂然たる流れとなって、その回転の中心を上昇させていた。その景色の中で、サシバはすでに輪となった。
 私はついに来なかったサシバに想いを馳せ、空洞の入り口から再び中へと飛び降りた。案の定、尻餅で着地したが、この際痛いなどと言ってはいられない。

「この怪我をしているサシバだけ連れて行きます」

 さあ、おいで、と両手を差し出しながら、私はゆっくりと近づいていった。未だに銀の視線だけは勝ち気なもので、暗がりにあって突き刺さってくるようで目に辛い。先程の無礼と相まって、なんだかものすごく無遠慮なことをしていると想えたが、一度泥を被ってしまえば二度も三度も同じことと気にしないようにした。
 私には分からないという事実だけが残ってしまったのだから、もはや寸分の狂いも無く、いまの状況は進んでゆくのだろう。
 もしこれが逆の立場であったなら、私はどうしていただろうか。大人しく退いて次の好機を狙うのか、それともやはり強行に出るのか。その場その場での気持ちの揺れ動きなど、いざ須らくそうなってみないと、きっと分かりっこない。気持ちや覚悟などの、所謂、精神の波長というものは、起こるべきときにすっと立ち上がるのではなくて、それまで蓄積され続けてきたものであって、一種の年輪のようなものが生み出すざらついた艶かしい、しかし力強い木肌の如きものと想える。だから、もしその状況になったら、考えるよりも先に『居る』のである。なんの兆しも予感も無く、最初から気持ちや覚悟などが『居る』のである。それはその者自身が培ってきたものであるから、善きにしろ悪きにしろ、結果が決まっているようにして状況は進んでゆく。サシバは、きっと万事了解している。
 茨木華扇が、私はなにもしてやれなかったのでしょうか、と、空洞の入り口に手をかけたままで、白く濁らせてぽつねんと言う。

「私たちが好きにやったことが、ここに至ったのです。なにもしなかったのではなく、したからこうなった。それを否定するのは野暮というものです。野暮は嫌いです」

 存外にも怪我をしたサシバはなんの抵抗もなく、私は身体全体を反らしながらようやく抱き上げた。怪我をしているから、などではなくて、どこか達観しているような静かでも重たい沈黙さである。鳴かずとも首をゆらゆらとさせながら、サシバは空洞の入り口から夜空を眺めていた。
 同じく私は入り口に居る茨木華扇を見遣り、声をかけた。

「それでですね」
「ああ、今度は私が阿求さんを抱えて脱出しろと仰るのですよね。分かります、分かります」
「面目ないが、宜しくお願いします」

 私は軽く会釈しながら、燐蟲が集まっている木の実を懐へと仕舞い込んだ。もう必要無いと想えた。
 背中から腰を抱えられて、入り口の縁まで上がる。そうして見えた景色は荘厳たるものであった。
 先程までの光の渦がさらに勢いを増し、燐蟲の大小からなる塊が煌々と泡のように舞い上がり、旋回し、私の視界すべてに溢れていた。まるで星空をひっくり返したようで、林全体が星屑の竈になっていた。渦の中で燐蟲の泡が廻り、火花のように弾けては他の泡と混ざり、また弾ける。ぐるぐると光の質を上げながら渦は益々唸りを上げ、燃え上がるように上昇してゆく。しかして一等奇妙なのは、まったくの静寂さにあった。これほどめまぐるしく燐蟲たちが騒いでいるというのに、少しばかり枝々が擦れ合う音がするだけで、ほとんど深閑としたものであった。風の音さえ遠のいてゆく。
 きっと目をつぶってしまえばこの現状を知ることも出来ないであろう静寂さ。だがこの景色は瞬きすら許さぬほどの、妖艶で蠱惑な性質があった。ずっと眺めていると、吸い寄せられそうになる。
 楠木から離れ、抱えられながら宙をゆく間、私の腕の中でサシバが微かに身体をにじらせていた。光の景色になにか想うところがあったのか、それとも宙をゆく感覚につい羽根を動かしたくなったのか、それともやはり、飛んでいたもう一羽のサシバを気にかけたのか。銀の視線はなにも語らず、ただ渦のうねりだけをその瞳に映していた。私はその中で、光の羽ばたきを見た気がした。見上げた渦の高いところは、すでにどこか遠い場所のようであった。

「ここまで離れれば、もう心配はないでしょう」

 そう言って、茨木華扇が私たちが踏んで来た雪道にゆっくりと降ろしてくれた。私の足が雪に付くか付かないかで、怪我をしているサシバが途端に動き出して、つい驚いて放してしまった。着地した両足をひょこひょこと、サシバは私から少し間を置いたところでうずくまってしまう。しかしすぐに頭を上げ、林の方を、光の渦の柱を見つめ始めた。

「まるで鷹柱のよう」
「鷹柱」

 茨木華扇の感嘆とした白い息に、私は鸚鵡返しにやはり白く濁らせた。
 渡りを行う鷹たちは、飛行の負担をなるべく抑える為に、上昇する気流で高度まで昇ったところから滑空して移動距離を延ばすのだという。それは各地からの旅団が一堂に会する深山の地で、滔々と続けられた神事のように、なんども行われてきた渡りの伝統。幾百にも及ぶ渡りの旅団が風を読み、風に乗り、まるでその光景は天に聳える巨大な柱のようであると。
 私はそれを聞いて、どうにかしてその場にきっと道標があるのだと想えた。
 光の鷹柱はやはり静かに夜闇に浮かびながら、どんどんと上昇してゆく。林の幾つかの木々が、根こそぎ持ち上がる。その中にあの楠木もあって、果たしてすべてが流れの向きに逆らうことなく、身を任せたように状況を享受していた。光のうねりが、燐蟲の縛られぬ性質が、サシバの矜持が、あの柱のすべてを支えている。私が、あの中に残っていたとしたら、そのままこの世界から居なくなり、外界の、ここではないどこかに行けたのであろうか。
 鷹柱の端が地上から離れる。いまやその頂上は雲よりも高いところに到達し、星空を貫かんばかりであった。一等高い位置に、光の輪があって、一度二度のまたたきののち、その輪の中心へと光の鷹柱は吸い込まれていった。そして最後に輪も消えた。夜空からサシバの呼び声が聞こえた。
 呆然と立ち尽くしていた私と茨木華扇は、怪我をしたサシバが片翼を地面と水平に広げたのに虚を衝かれ、そちらへと目を向ける。なにやら、飛ぼうとしているかのように、サシバは風切羽を滾らせていたが、未だうずくまったままで夜空の、光の鷹柱が消えた辺りを見上げていた。つい私がその姿を見て、落ち鷹、と、呼んでしまった。
 くるりと振り向いた銀の視線が、呆けていたこちらを射抜いた。









 翌日の午睡から目覚めた頃に、狙いすましたかのようにまた茨木華扇が屋敷へと姿を現した。さすがの仙人も夜更かしやそれまでの心労が祟ったのか、今朝は起きられずにいたと鬱々と溢していた。それでも半日と過ぎずに回復するところは、やはり仙人であるからであろう。あくまでも人間の、あまつさえ虚弱体質である私など暫く身体の怠さが抜けそうにない。まったく動けぬわけではないが、数日の間は粥で身体を労る日々となる。
 仙丹でも処方しましょうか。そう微かに呟いた茨木華扇は、自らの失言を取り繕うべく、残ったもう一羽のサシバについて話し始めた。

「怪我は大したことはないようです。まだ飛ぶことは無理でしょうが、十分な休養を取れば春にはまた空に飛び出せるはずです。いまは私のところで囲んでいます。竿打が不審しておりましたので叱責しましたが、どうやら、あのサシバは雌鳥でしょう」
「そうですか、雌、なのですか」

 私はそれを聞いて幾つか腑に落ちる点があって、少しばかり顎を引いた。訝しんだ様子の茨木華扇が、濃いめの緑茶を一口含んでから言う。

「なにかありましたか」
「いや、大方違うと想いますが、消えたサシバの方、私たちはあれの意思の少しだけは汲めたのかな、と」

 私も自分の湯のみに淹れた薄目の緑茶を含んだ。ぐっと自らの心境も一緒くたに飲み下す。なにも出来なかったわけでは、なかったのであろう。
 茨木華扇はそこに言及することもなく、膝の上で手癖を弄んでいた。

「ところで華扇さん、座敷なのですからその、外套は脱いでいただけますか。気に入っていただけたのは嬉しいのですが、ちょっと行儀が良いとは言えない」
「え、だって良いじゃないですか、これ」

 そう言って素早く立ち上がり、また座敷の姿見の前で華やいでいた。私は閉口した。もしかしたらあんまり宜しくないことをしたのかもしれないと、だんだんとなにかが募ってくる。差し上げた身としては満更でもないが、これはどうしたことか。重い。茨木華扇が夢中になっている間に、私は座敷から静かに逃げた。私の屋敷であるのに、なんとも情けなく想う。
 廊下に出て、縁側から庭を望むと、かまくらの中で丁稚の小僧くんが遊んでいて、やはりあの子はなかなかに器が大きいのではと、関心した。何事も憂きことなかれと、思慮するところなのである。
 私だとて、二羽のサシバのためにもっと出来ることがあったのではないかと、未だに悔いてしまう。しかしてあの時あの場所で、他になにが出来たのか、もはや確認のしようがない。茨木華扇に偉そうなことを言ったが、私自身を納得させるためでもあった。そうやって心の安寧を求めなければいけないのは、情けないし、不甲斐なくもある。

「自前で空を飛ぶのはいつになるのやら、分からないな」

 昨日とは違い、今日は朝からの陽射しのせいかとても暖かく過ごしやすい。その分かまくらが溶けてしまうのは致し方なしと許容するべきである。冬はまだまだ長い。機会はまた訪れる。それに雪が溶けるのは風流で、一見頼りなさを見出すが、その水滴に映る恵みというものは強かなものだ。
 雪の結晶は花のように優雅で、緻密で儚い、生まれつき瑞々しさ備わる蕾であるという。その雪が解け出して、花衣芽吹き深雪咲く頃に、サシバもまた飛び立つのであろう。
 いまはまだ、そのときではない。





.
 ということで、十一作目でした。投稿作数も二桁を越えたところで、やっとか! 来た、メイン遅筆キタ! これで勝つる! 
 勝てないよ。


【幻想感情線を】閑話休題【天に昇ります】

 阿求がかわいいのは言わずもがなでして、それを表現出来さえすれば書いた甲斐がありますし、作家冥利に尽きるものですが、華扇ちゃんやマミゾウさんも書籍関連で盛況で、そちらも目移りしてしまいそうなほどかわいいですよね。やはり絵などはズルいと想うのです。ちょっとでもかわいく書いてごらんなさい、僕のようなものがわんさか釣れて入れ食い状態になるのですから、ビジュアル、ひいては目から入る情報とは壮絶なまでに欲望の中枢を刺激するのだと、東方漫画を読んで想ってしまうのです。
 あとゲーム。本編に敵うものなどありません。永夜抄霊夢が一番です。
 ……終わりましょう。


 この度はお付き合いいただき本当にありがとうございました。次に投稿する機会に恵まれましたら、その時もどうかよろしくご教授ください。

 東方Projectに感謝を込めて。ありがとうございました。



※追記
皆様、お読みいただきまして誠にありがとうございました。拙いながら、以下にコメント返しでございます。


>>3様:『蟲師』が大好きです。なので何かしら匂いだけでも似せられればなぁと想いました。他に『夏目友人帳』とかも。
>>4様:う~ん、悩ましいです。書きたいものはこういう感じなので、敬遠されるのも致し方なし、でしょうか。
>>5様:ふたりがかわいく読まれ、なおかつ情景描写も伝わっているようで、なによりです。
>>6様:華扇ちゃんは役立たずじゃないんです、一所懸命なだけなんです(´;ω;`) かわいいんですけどね……。
>>7様:楽しんでいただけたようでなによりです。もっともっと精進して描写を引き立たせたいですねぇ。
>>8様:この文体、意外と書いていると楽しいんです。そこで生き生きとふたりを描けたのでもっと楽しかったです。
>>13様:現実世界の生き物が東方キャラと組むとなかなかに面白いかと想いました。これからももっと書いてみたいですね。
>>15様:会話、気を遣いました。気を抜くと阿求と華扇のどっちが喋っているのか分からなくなりそうで……。
>>16様:貰い物を大事にする華扇ちゃんかわいいです!
>>17様:おっしゃられる通り、詰め込みすぎた気がします……。あれもこれもと欲張ってしまいました……。
>>19様:ありがとうございます。僕も書いている最中はニヤニヤしてて、自分が気持ち悪かったです。(*´∀`)
百円玉
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コメント



0.700簡易評価
3.100名前が無い程度の能力削除
阿求もかわいいけれど、この華扇はどうにも可愛すぎて困る。
蟲師を少し連想しました。アイデアのあるお話ですね。
冬の寒さとふくよかさ、そんなものを思い出しつつ、実に楽しく読ませていただきました。
4.90名前が無い程度の能力削除
おっとりだが少し曲者な阿求に妖艶に見えて純な華扇ととてもキャラが非常に魅力的。会話も巧い。
けど場面の描写がちょっとくどいかな。言葉表現自体は好きだし巧いと思うけども。それで敬遠してる人がいそうでもったいない。
5.100名前が無い程度の能力削除
阿求と華扇の可愛さは勿論のこと、情景の美しさに心を惹かれました
6.100名前が無い程度の能力削除
t大変良いものを読ませて頂きました。華扇の役立たず振りが愛らしいです。
7.100名前が無い程度の能力削除
阿求を通して見える幻想郷の描写がとても好きです。
静かでいて、丁寧に表現されているので、想像しながら読むことが捗ります。

今回も楽しませていただきました。
8.100名前が無い程度の能力削除
古風な文体で季節感や生活感、そしてオリジナルの幻想的な光景を美しく描写しています。
ひねた話し方と考え方をしながらその実純粋で感情的でそして感受性ある阿求と、天然でSelf-righteousだけれど思いやりがあって一途な華仙の二人の主人公が紡いだ物語は、他人や動物と通じ合うことがもどかしいほどにうまくいかないけれど、細い細い糸は繋がっているという根底のテーゼに支えられて鮮やかで完成度の高いものに仕上がっています。
13.100非現実世界に棲む者削除
阿求と華仙は小説の世界でもやっぱり可愛いです。
無論、東方のキャラは全員が全員可愛いですけどね。

動物を題材にした東方の小説は初めて読みましたけど、こんなに深いものなんですかね?
だとしたらもっと読んでみたいですね。
これからそのような小説を読んでいこうと思います。

そのような想いを想起させてくれたこの作品と作者さんに心から感謝します。

ありがとうございました。
15.100名前が無い程度の能力削除
阿求に華扇、二人とも可愛いです。会話のテンポと内容が素敵でした。
16.100真四角ボトム削除
サシバを通したそれぞれの考えや思いが良く伝わって来ました。
二人の距離感や対応などが非常にしっくりきて、丁寧な描写と合わさって読んでいて心地よかったです。
華扇のほんのり垣間見えた、過去の思いのようなものも良かった。
上の方も言われていますが、蟲師のような細かな機微を感じれる、よいお話でした。
貰い物で喜ぶ華扇ちゃんにほっこり。可愛すぎる。
17.70名前が無い程度の能力削除
面白かったですが、いろいろなものが詰め込まれすぎていて、何が主題で何が大事なのか見えにくくなっているなと思いました。もう少し伝えるべき情報と描写を洗練すれば、傑作になったと感じます。
丁稚小僧や華扇ちゃんの桃色の花の湯呑などの細部、主要二人のかけあいなど、目を引く部分も多々あっただけに、少し残念です。
19.100名前が無い程度の能力削除
序盤の華扇と阿求がかまくらの中で話をしているシーンから、どうやって話をふくらませてていくのだろうと思っていましたが、想像以上に物語に動きがあってとても面白かったです。
それと華扇が実に可愛くて良かった。外套を貰って喜んだり、肝心なところであたふたしたり、とすごく魅力的でにやにやしてしまいました。
23.90奇声を発する程度の能力削除
それぞれが良かったです
24.100名前が無い程度の能力削除
風情のある描写の端々にあらわれる阿求の子供っぽさが可愛らしくて、作者さんの思う壺に嵌まってしまったようです。

「話せば分かる」

には吹いた。
25.903削除
サシバとはなかなかマニアックな鳥を選択される。
阿求と華扇の魅力、それに情景描写がとても良かったです。
27.100Admiral削除
いいですねえ!
まるで明治大正の文学作品のように格調高く読みやすい。
作者様の筆力の高さが伺えますね。