Coolier - 新生・東方創想話

風神太平記 第六話

2013/05/01 23:51:19
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 十月に入るか入らぬかのうち、諏訪の山には初霜が降りた。

 旧暦十月は、現代の暦では十一月に相当する。
 雪深い寒々とした冬を控える諏訪の山里は、冬の影を目の当たりにして人の気もまた急いていくかのごとしと言えた。土を踏むことあれば、割れた霜はそれに連れて音を立てる。人々の足跡はそっくりそのまま、行き過ぎんとする一年の足跡にも似た何かである。そして、霜が降りるは諏訪の柵もまた例外ではなかった。

「“ふるべ、ゆらゆらと、ふるべ”……」

 唄いながら指で触れるごとに、枯れ花はかさりと音を立て、足下に踏みつけられた霜がさくりと鳴いた。しゃがみ込む洩矢諏訪子の細指が、冬を迎えて死に身を浸す小さな花に、最期の慈悲を与えてもいる。少なくとも、誰にも忘れられたまま枯れて消え去る花であるよりは、こうしてその終わりを看取られる方がまだ良かろうか。小さな中庭に植わっていた花々は、何処に自らの種子を運ばせるべきかと気づく暇もないほど早く、冬に呑まれて衰えた。剥き出しの土はいささか荒れ模様である。枯れた根や茎から先に庭よりその姿を消していき、後に残ったのは雪積もるを待つばかりの裸の地面だ。諏訪子は、その真中にぽつんと立つ。今年は幾本、永年続く神の身として、花が死ぬるを看取ってきたかと自嘲しながら。

「冬、か。病に伏せる夫のために、今日は何を摘み行かんと欲しても、野の花も庭の花もみな枯れ果てる冬」

 少女の手には、色あせた花が四、五本ばかり。
 いずれもまた、自らの死期を読み違えたような、年老いてしまった花ばかりである。

 秋のために植えた萩の花もみななくなり、今はこの名も忘れた素朴な老い花だけが彼女の手に入れられる限りのものだった。諏訪の柵には、自らの御所の庭で慣れ親しんだ梅の木もない。冬来たるを知り、そこから春待つの始めとして憧れるべき梅の花はないのだ。とは申せ、枯れかかった小さな花でも、病床に伏せるモレヤの心を慰める役には立つだろう。そうであると、思いたかった。花を摘んでは夫の枕元に運びやり、それが枯れてはまた新たな花を摘みに行く。おかげで諏訪子が整えさせた小さな庭は、今やその諏訪子自身の手で丸裸なのだった。モレヤの病が長引くほど、庭はみすぼらしくなっていく。その事実に、ふと苦笑を覚えざるを得なかった。

「来年の冬は、……椿でも見たいな」

 周りに誰も居ないがゆえの、独りごとである。

 また少し老い花を摘むことを続けると、諏訪子はやがて履き物を脱ぎ、階を上って、廊下へとその身を復した。途中で誰かに行き合っても、花を手にしているということを見抜かれぬよう、袖のうちに指をよく隠しながら。擦るような足取りで夫の部屋へと向かうとき、ひゅうと寒々しい風が吹く。冬というものは、生半可な刃物などより幾層倍も研ぎ澄まされた切れ味があろう。そんな冬が、諏訪子はあまり好きではない。ふいな冷静さが、自身の思い違いを悟らせるきっかけにもなってしまうのだから。

「あ、……! 椿は、だめだ。あれは人の首が落ちる様によう似ている。不吉、不吉」

 病に伏せった夫ある身としては、あってはならぬ思い違いと――、つい諏訪子は頭を抱えたい思いであった。また、将兵を抱えていくさする身である神奈子にしても、もしや椿を嫌うかも知れぬ。真一文字に引きしめた唇は、冬の風を受けてすっかり乾ききっていた。今度は、苦笑もしなかった。


――――――


「うぇ……苦い」
「男子(おのこ)たるもの我慢、我慢。苦い薬ほど、よく病には利くともいうぞ」

 子供の顔でできる最大限の渋面――とでも言ったら良いのだろうか。
 床(とこ)から半身を起こしたモレヤは、器から湯で煎じた薬を飲み干すが早々、口のなかが痺れたのをまず癒すがごとく、べえと舌を突き出した。かの少年なりの冗談であろうか。彼の手から空になった器を受け取り、いったん水差しの横に戻した諏訪子は、一応、苦笑いで応じて見せた。一時期はひどく熱が高く、まともに話をするさえためらわれる病状であった。長患いは悪しきこととも言うけれど、ひと月近くも病の床に伏せっていれば、なるほどどうにか快方に向かってくるというものであろう。医療技術が未発達な時代、激烈な病に苛まれて命を取り留めるということは、現代の感覚よりはるかに幸運なことだったに違いない。折々に薬師の処方する薬のおかげもあろうと、諏訪子は確信していた。特製の粉薬を包んでいた一尺四方の麻布を折り畳みながら、安堵の笑みを漏らさずにはいられないのだ。

「腹が空いてはおらぬか」
「今は何も。薬があまり苦いので、腹が減ったのも忘れました」

 ……もっとも、良薬とはいえ実際に苦い薬を飲まされる方には、たまったものではないのかもしれないが。

「腹も満たさねば病は治らぬ。薬師の方でもそう言うていたであろうが。腹が空かぬでも、後で粥を持ってこさせるぞ」

 モレヤをたしなめながら、諏訪子は近くにあった桶に片手を掛けて引き寄せた。満々と湛えられた水に手を浸すと、ここだけひと月先に本格的な冬が来たみたいにきりりと冷たい。やはり桶に掛けられていた手拭いを取り、水に浸してひと絞りする。モレヤの床に自らも上がって、彼の首筋や胸板を拭いてやる。白い寝巻から覗く少年の肢体には、薄らと汗の筋、その跡が滲んで見えるような気がしていた。汗の跡が多ければ多いほど、それは病魔との長い戦いを経験した傷跡のようなものである。

 手拭いをまた桶に戻すと、寝返りを打ったせいで乱れはだけた寝巻の胸元を、諏訪子はていねいに戻してやった。夫婦のあいだで――互いの身体のことをすでに知ったふたりである。今さらになって、なに恥じらう仲でもあるものか。そうではあるが、やはりこうして相手の裸を目の当たりにするようなことがあると、諏訪子もモレヤも揃いも揃って無言になってしまう。ふと諏訪子の手の甲が、一瞬だけだがモレヤの胸に触れた。ちょうど肋骨の終わるところ、“みぞおち”のくぼみだ。初めて、自らの指が少年のその部分をなぞったときのことを思い出す。そのときの息遣いや、快感と苦痛の入り混じった眼の光が、自分を懸命に見つめていたことまでも。

 だがそれ以上にずしりと心にのしかかるものは、諏訪子だけが知っているモレヤの肉体へと、怨霊と化した諏訪の神霊が憑いたという事件そのものだ。夫が病んだのは、まさしくあの怨霊に憑依されて以来である。諏訪の柵に帰りついてのちに直ぐさま高熱を発し、頭の痛みと烈しい咳に苛まれ、時によっては食べたものをことごとく戻したことすらあった。まったく、一時は死すらも覚悟しなければならないような状況だったのだ。そんな状況で床に伏せる夫を慰めるため、諏訪子は城の庭から花を摘むことを始めたのだが、運が悪ければそれがそのまま弔花と化すことも十分にあり得た事態であろう。

 伴侶の裸を見ることの恥じらいでなしに、……そんな危難がようやく過ぎ去りつつあるからこそ、諏訪子はモレヤの肌を見て、何も言えずに黙り込んでしまう。人の身は、脆い。洩矢諏訪子とモレヤの血がいずれ混じって子を成そうが、夫婦の片方は先に死んでしまう運命に決まっているのだと。

「諏訪子さま、いかがなされました?」
「いや、……なんでもない。また花を摘んできたが、もはや庭先の草花はあらかた採り尽くしてしまったよ。今や、すっかり丸裸だ」
「それなら、冬でも見られる花を植えましょう。例えば、椿とか」
「ばか。病身に椿は不吉であろう」

 今はただ、素直に笑うことにした諏訪子である。
 手に取った器は、モレヤがさっき粉薬を服するのに使ったものだ。木製のそれに、やはり桶のなかから水をひと掬いすると、彼女はすばやくモレヤの床から離れた。そして部屋の隅、ちょうど夫からもっともよく見える位置に置かれた大皿へと駆け寄っていく。その縁に、花弁を外側に向けて幾本か並べられた色とりどりの老い花たち。底の深い大皿は、ちょうど簡便な花瓶の役目を果たしていた。茎の部分がよく浸るように、諏訪子は皿へと水を注いでやった。

「病となって、……良かったと思うことがひとつだけあります」

 唐突に、モレヤが呟いた。
 きょとんとした顔で、諏訪子は夫を振りむいた。いつの間にか、彼は枕に頭を埋め、布団を引っ被っている。それは何ぞと問う間もなく、モレヤは諏訪子に続きを伝えた。

「日々の楽しみができました。諏訪子さまが、花を持って来てくださること」

 布団を空けてちらとこちらを窺うモレヤの顔は、ほの赤い。
 また熱が高くなってきたのだろうと、諏訪子は無性に信じたくなる。


――――――


「おお、洩矢諏訪子さま。ご機嫌麗しうございまする」
「ん。其許は確か……済まぬ、誰であったか」
「は。水内郡の豪族、ギジチにございます」
「あ、そうだったそうだった。諏訪亜相の身となってから、諸方の領主豪族たちにまみえる機会がとみに増えた。おかげで、各人の顔と名前を一致させるのがなかなか大変なのだ。許してくれ」 
 
 モレヤの部屋から出て幾らも廊下を進まぬうちに、諏訪子が出くわしたのはギジチであった。彼は力ある商人と聞いてはいるが、諏訪子の眼で見た限りでは、思いのほか身なりは質素だ。衣服は絹でなしに木綿のようだし、登城のための儀礼として腰に佩いた剣にも装飾らしい装飾は施されていない。一枚羽織った丈の長い防寒着は、動きやすさを考えてか袖が備わっていないつくりになっていた。とはいえ、よく見ると布のなかに綿を入れて縫い合わせているようで、贅沢といえばこれが数少ない贅沢なのかもしれない。

 長い黒髪の先が冬風に吹かれて散らばされることに、少々わずらわしそうな顔をしながら、ギジチは改めて礼を見せた。諏訪子も、無言にうなずきを返す。

「今日は何用で登城せるのか」
「此度、諏訪郡に商館を建設中にございますゆえ、その仔細を詰めるべく八坂の神と談合に及ぶ由にございまする。ときに諏訪子さまの方では、何か急ぎの御用向きでも。そうであるなら、お引き留めを致すべきではなかったかも知れませぬが」
「いや、さほどではなし。薬師のもとまで、薬をもらいに行くところだ」

 他人(ひと)に見られて直ぐに解るほど急いた足取りをしていたかな、と、諏訪子はちょっとばかり蹈鞴(たたら)を踏む。そんな彼女の仕草には何の関心も示すことなく「薬師……?」と、ギジチは声をすぼめた様子。何かを考えている風である彼は、やがてひとつの結論として、ある事実に思い至る。感情の起伏に乏しいとさえ見える冷徹な表情が、少しとはいえ慈しみのような何かを湛えた気配へと変わる。

「そういえば、ご夫君――モレヤさまが風気(ふうき。風邪)をお召しあそばされ、寝込んでおいでとか」

 さも心配げな声ぶりである。
 が、諏訪子はギジチの方にはさして注意を払わなかった。ちらと廊下の外に眼を写し、城内の巡検を負う衛兵たちが矛を担いで通るのを見守る。相手への応え(いらえ)は、どこか上の空だ。

「いや、な。最初は誰も風気と思うたが、薬師が見立てるには、咳病(しわぶきやみ。流行性感冒。現代の病名ではインフルエンザとされる)のより重いのが喉や肺腑に居座っていたものらしい。おかげでひと月もの長患い」
「ひと月とはまた重病。聞けば今年は諸方にても、やはり人々のあいだで同様の病が流行り、方々で病死者多数とのこと。霜と同時に、疫病(えやみ)もまた天より地上に降りたもうた、といったところにございましょうか」

 諏訪子は、「んん」という、うなずきにもならない中途半端な返事で応じた。

 その視界を行き過ぎていく衛兵たちのさらに向こうに、また別の兵らが立っている。
 彼らは弓を手にし、いっときも絶えることなくしきりに指で弓弦を弾いてばかりいた。背に負った箙(えびら)には確かに矢が収められているようだが、決してそれを“つがえよう”とするところが見えない。ただひたすらに、眼には見えぬ何者かと対話を続けるかのごとく、鳴弦だけをくり返し続けていた。「ギジチ」と、諏訪子は唐突に相手の名を呼ぶ。冷静さを崩したことのないギジチも、さすがに少し驚いて、諏訪子の示した方を見た。少女の指先は、鳴弦の士――辟邪(へきじゃ)の兵たちへと向けられている。

「だから、あれ見よ。諏訪の柵にても、辟邪の者たちの鳴弦の音(ね)が連日高い。病が流行り、人の死ぬるは死穢(しえ)も流行る。死穢が流行れば、いずれは健常なる者たちにも触穢(しょくえ)の災いは免れぬ。だから、祓えが要る。――出雲人たちの、それが理屈なのだ」

 辟邪の武と呼ばれる、穢れに対抗する霊的な武力。
 それが病にどう対抗できるのかは未知数と言えるだろう。けれど、そうやって空弓でも打っていなければ、とかく人は不安になって仕方がない。だから、鳴弦を不快と蔑む気持ちも諏訪子にはない。

 本来、『辟邪の武』とは、源頼政が鵺を射落して紫宸殿(ししんでん。天皇の御所における私的空間)に平安を取り戻したという伝説のごとく、武士たちに期待された穢れとの戦い、霊的な武力とでも言うべきものである。しかし時代を大幅に遡って考えてみると、倭(やまと)の王権が東へ東へと勢力範囲を伸長するということは、倭国の文化圏から外れた異人異神と、倭国の神とが――つまりは東西ふたつの宗教観、世界観がぶつかり合うことをも意味していたはずだ。

 後世、蝦夷の首領であるアテルイが『悪路王』なる化け物として貶められたともされるように、史書において己が正当性を高めるという以上に、異文化の人や神は汚らわしい怪物として、倭国文化の恩恵に浴した人々の眼には映ったに違いない。土蜘蛛や八岐大蛇といった妖怪の正体が、実際は漂泊民、産鉄民だったという説は、そうした考えを裏書きしているものとも取れる。

 いずれにせよ、宗教や神話というものに対する感受性が現代よりもはるかに強かったはずの古代、神代においては、戦争とは政治と政治、軍勢と軍勢のぶつかり合いであると同時に、互いの掲げる正当性、端的に言えば神と魔物との闘いという側面が、人々の思考形態の重要な一角を占めていた可能性があるだろう。だから、単純な意味での武力と同時に、霊的な意味での『戦争』を行うための戦力が必要だったという想像もできる。自らもやはり倭の神の一柱である八坂神奈子という武神が、異邦の軍勢との戦いにおいて、後の武士に見られるような霊的武力を行使する者たちを自らの手勢に加え用いていても、それほど不自然なことではないかもしれない。

 だが普通のいくさをしているよりは、辟邪の者はよほどに多忙とも言えるだろう。凶事起これば空弓(からゆみ)を打ち、疫病が流行れば弓弦を弾く。出雲人は触穢――穢れに触れることをとかく嫌う。国政を預かる立場の者が触穢に見舞われれば、これを天下触穢と称し、禊ぎを終えるまでろくに政にも関われぬしきたりだという。凶事に際しては神霊の怒り疾く解かんと、血の滴る生贄を捧げる諏訪人民の素朴さとは、まるで比較にならぬ面倒くささである。

「病流行れば、昼夜を問わずして斯様な儀式が……」
「諏訪の柵では、薬師までもが鳴弦をするぞ」

 けたりと諏訪子は笑うふりをする。
 このギジチという男の心底が、いまいち見えてはこないせいだ。神奈子と諏訪子の二神から格別の引き立てを得るべく、あれこれと工作する者は今までたくさん居た。むろん、ギジチもご多分に漏れず、優れた猟犬や――数日より以前、荒蝦夷の使う蕨手刀とかいう馬上の武器を献上したと聞く。だが、彼には他の領主や豪族が放つぎらぎらとした権力への意志、権勢欲がどこか薄いのではないかとも思えた。今はただ、八坂政権への忠勤に励んでいるというようにしか思えない。奇妙といえば、奇妙な男である。

 しかし、諏訪子の思いなど知る由もないギジチは、しばらく何も答えなかった。答える言葉を探しあぐねている風でもある。依然として続く辟邪の兵らの鳴弦の音は、水中の澱(おり)のように確固として在る疑念を、どうかして払わんとさえしているようにも思えてならない。かく申す何かもまた、魔除けの効き目と言い得るべきか。

 それから自らの顎を指先でひと撫でし、ギジチは何か良い思案をしたようでもある。が、何か気の咎める提案なのか、その細い身を屈め、幾分、諏訪子の耳元に口を寄せてささやく素振りであった。

「さても、斯様に病魔が科野国中を闊歩するは。これもまた、モレヤさまに怨霊が憑いて称したごとく、古き怨霊が八坂さま憎しと振りまく祟りのゆえにございましょうか。だとすれば其は、科野諸州においてかの御方へ投げかけられる拭いがたい影となるやも……」
「ギジチ」
「は」
「口を慎め。そのような物言いが過ぎれば、叛心の在るを疑われようぞ」

 屈めた身を戻す間もなく、ギジチは言葉を詰まらせる。

「これは、ご無礼をつかまつりました。何とぞ、お許しのほどを」
「いや、……諏訪子は良い。だが、他の誰か出雲人にでも聞かれてみよ。くだらぬ冗談のつもりとて、たちまち舌禍となって其許の身を焼く」
「そのお言葉よく胸に留め、ゆめ忘るることなきように相努めまする」

 一歩ほど下がったかと思うと、再びギジチは諏訪子に言葉を掛ける。

「先ほどの物言いのお詫びでもございませぬが、モレヤさまが疾くご快癒あそばされるを祈念する意味で、何か良き薬でも届けたいと思いまする」
「薬か。否、それよりも。もうだいぶ快方に向かっているとはいえ、病のために未だモレヤの食が細い。何か精のつくものを食べさせてやりたいと思うが、いかがか」
「それなら……牡蠣などは。海に産する貝で、滋味に富むとしてよく食されておるものだとか。科野と越州とを行き来する行商人に声を掛け、牡蠣の干物を仕入れることなどできぬか図ってみましょう」
「うん。では、その牡蠣とやらの干物を頼む。届くころには、見舞いの品というより快気祝いになってくれれば良いがな」

 苦笑いをし、諏訪子はギジチに背を向ける。
 別れのあいさつもろくにせぬまま、彼女は足早に目的地たる薬師の庵へと向かっていった。遠ざかりつつあるギジチが、自分の背へ向けてかすかに頭を下げたような気配があったのを、何となく感じ取っている諏訪子であった。


――――――


 次第に遠ざかり、やがて廊下の角を曲がって見えなくなった諏訪子の後ろ姿。
 あえて敬意を込めて見送るでもなく、じいとその背を見つめているだけだったギジチは、ついさっきまで演じていた忠臣の眼を振り棄てて、またいつもの冷徹な表情に立ち戻りつつあった。は――あ、と、軽い溜め息がつい喉を通り抜ける。

 洩矢諏訪子は、八坂神とのいくさに負けて国家の実権を奪い去られたかつての王。
 自らもまた神であるその身にしてみれば、外来の新王である八坂の神の下に置かれ、政を恣(ほしいまま)にされることはさぞ鬱憤の溜まる事態であろう。そう、彼は思っていた。ために、それとなく“探り”を入れてみたつもりであはった。が、どうやら『未だ』だ。未だ洩矢諏訪子は、八坂神に対してさのみ強い不満を抱いているわけでもないようである。

 買い被り過ぎか――?
 そんな疑問がギジチのなかで膨らんでくる。
 否、そうではあるまい。内心にかぶりを振りながら、誰にも見られることなく彼はにやと笑んでいた。トムァクの爺ばかりか怨霊と化した古き神霊たち含め、八坂政権に対する不満分子が未だに燻ぶり続けていることが明らかである以上、政のうえでの火種には事欠くまい。

 それに権力の極端な一本化は、その一本しかない柱が全てを支えようとする分だけ、柱の出来が悪かったときの危険が大きすぎるのだ。他に支えるものがないせいで、いざ発生した危機の重みを跳ね返すのが難しくなる。つまりはそういうことである。八坂神に権力が一極集中することの危うさが浮き彫りとなり、結果として洩矢神を中心とする科野勢力への権力の割譲が求められるときは、きっと来るに違いない。商機を逃さぬ眼力が求められる商人の性(さが)か、ほとんど天賦の才でさえあるかもしれない彼の『霊感』は、自らの勝利を不可思議なほどに確信していたのである。それこそギジチ自身にさえ、自分は少し軽率ではないかと思えるほどに。

「用心たれ、このおれよ。熟れた果実を急ぎ仕入れても、売るときにはすでに腐るもの」

 小さな声で、ギジチは呟いた。
 収穫した未だ青い果実は、熟れどきを見て流通させる方がよく“さばける”。
 そう考えると諏訪子という王の野心が――未だ熟れぬ果実であるというのは、ひとつの幸運でもあろうか。
 
 洩矢諏訪子。
 未だ、わが手にて放つに値するほどの『矢』ではなし。
 鏃(やじり)の部分を使うに足るほど鋭く削るには、もう幾つかの細工、あるいは幸運が要るはずだ。八坂神と並び立つ王として彼女を仕立て上げ、二神相克たるの政を招来せしめる日のために。


――――――


 庵のなかに漂う空気は、他のどの場所ともまるで違うにおいを飼っている。
 試みにそんな形容をしたくなるほどには、確かに、諸々の薬種のにおいを飼い慣らしているということが、紛れもなく薬師という職掌の持つ業(わざ)だった。すんすんと、庵に来るたび諏訪子は鼻先をひくつかせる。仮にも少女の姿を取っている身にすれば、いささか“はしたない”とも思える仕草ではあった。

 一方で、「しかしな……」とも、彼女は自分で自分に言いわけもする。
 さすがに、医薬のことに関しては洩矢神といえども『専門外』である。嗅ぎ慣れぬ薬品のにおいに子供じみた興味を抱き、やはり子供じみたことに及んでしまうのも仕方がないところがある、たぶん。

「もう直ぐ、調合が終わりますから。あと少しお待ちを」

 薬師がそんな声を掛けたのは、いよいよ暇を持て余した諏訪子が、かたわらに置いてあった石臼に残っている、何かの粉に指を触れようとした瞬間だった。まるでいつ釘を刺すべきかを完璧に把握していたかのような薬師の発言を聞いて、諏訪子はついぎょっとして肩を震わせる。薄黄色い粉末――野草の束に硫黄をひと匙も振りかけたような臭気がある――の色は、はッと我に返った瞬間の彼女の眼には、実際以上に鮮やかな色味を持っているようにも映った。

「済まぬ。少し退屈をしていた。別にいたずらをするつもりはなかった」
「それは、まあ。薬種を磨り潰して薬を練っているところなど見ていても、あまり面白くはないでしょう」
「そのようなことは、」
「ご無理をなさらずとも……そもそも、薬をお渡しするくらいの仕事、わざわざ諏訪子さまに御足労を頂かなくとも、こちらから出向きましたものを」

 と、薬師は微かににこりとしながら諏訪子の方を向く。
 どこか、奇妙な『女』であった。

 後ろ頭に束ねて編んだ長い髪は、くすんだ銀の色をしている。老人のように、色の抜け落ちた白髪として銀に近くなったわけでもない。顔つきはあくまで若々しい。可憐と言っても良いだろうが、相手を見つめるその目つきには、どこか老成しきっているがゆえの沈着さもある。定めし、彼女が医術を修めた知恵者だからであろうと諏訪子は考えている。耳から顎の先端にかけての稜線は、三日月の“欠けた”部分をそのまま持ってきたかのように滑らかだ。そうして、何か諏訪子の耳では聞き取れぬ独りごとをときおり口走るたびに、彼女の玲瓏な輪郭は唇まで凛と震えるのだった。

 その薬師が、さして広いでもない自らの庵の端に身を置いて、薬研(やげん)の車を前後に押し引きながら、ゴリゴリという音を絶えず響かせている。薬品の材料を粉に挽いているのである。どうやら人蔘(にんじん)という植物らしいが、どうも諏訪子には憶えのない名前である。舶来の産品らしい。(野菜としての“ニンジン”は日本国内では江戸時代以降に知られるようになったものという。薬種としての人蔘――“高麗人蔘”は、十六世紀に朝鮮半島から日本に輸入されて栽培が始まった。この二種は、もともと別種の植物である。そのため、作中で薬師が挽いているものは古い時代の輸入品である、薬種としての高麗人蔘と考える方が適切かもしれない)

 その好奇心に釣られてか、ついと諏訪子は改めて庵のなかを見渡すことをした。大人の背丈ほどはあろう幾つかの棚には、素焼きの器や小壺が所狭しと置かれている。というよりは、数百種はあろうそれらは、押し込められているといった方が適当な有り様であった。すべて、中身は薬種なのだという。諏訪子が初めてこの庵を訪うた(おとのうた)とき、薬師は「どこに何があるかはすべて判っている」と笑った。諏訪子は、むろん目を剥いた。

「薬を挽きながらでよろしければ、少しお話でもいたしましょう」

 手元で前後する薬研車に眼を落としつつ、薬師はゆっくりとそう言った。

「それほど退屈に見えるか、諏訪子が」
「退屈なのは、私もなのです。朝方にモレヤさまの具合を診てから、今までずっと“ここ”に籠りきりで。あまり長く薬を挽いていたものだから、そろそろ腕が痺れて参りました」
「うん。……城内にも、風気を病む者が出始めているらしいからな。薬師にとっては今こそ“いくさ”のときであろう」

 今度は、諏訪子もつい笑ってしまう。
 とはいえ薬師など、あまり顔を会わせたことのある相手と言うわけでもないのである。
 いざ話をしようと思っても、なかなか有意な話題は出てきそうにない。
 ちょっとばかり、諏訪子は考えこんだ。

「このひと月ばかり、よく思うていたことだが」
「ええ」
「人は、死ぬな。直ぐに死ぬ。神の身にして、儂はようやくそのことに得心がいった」

 う、ふふ……! 
 と、そんな風に薬師は吹きだす。まるで無知な子供が発する素朴な疑問を、やけに嬉しがる母親のようである。

「感傷というものにございましょう。病に相対する職掌の者の前で斯様なことを申されては、世に薬師と呼ばるる人々の立つ瀬がありませんわ」
「取り憑かれたのだ、儂もそのような思いにな。重き風気が、肺腑から飽かず咳を吐き出させるごとく」
「われらが眼にては見えぬだけ。あちらこちらで、人は数多死んでおりまする。そのことにいちいち気を払っておいででは、情け心が幾つあっても足りないでしょう」
「薬師の口からそういう理屈が出ると、今度はこちらの立つ瀬がない」

 では、と、諏訪子は呟いた。
 けれど、直ぐに言葉が出ては来ない。未だどこか、ためらいの残る情を彼女が持っているからに違いなかった。それでも、引き絞った矢を放つかのように喉を震わせた。反面、顔ではなぜだか笑っている。ただし、皮肉げに。

「モレヤもな、いつかは死ぬのだ。ここひと月……あの子が重く病みついたことで、諏訪子はようくそれが解った」

 われ知らず、諏訪子は立ち上がっていた。
 薬師が諏訪子のためにと用意してくれた、椅子というには不格好なかたちをした腰掛けの上から。いささか長さの余ったつくりになっている着物の袖から、その細腕を突き出して、彼女は自分の胸元をひしと握り締めていた。ぎゅうと、布の襲(かさね)に皺が寄る。薬師は、一片の疑問さえ眼の端にも浮かべることがない。ただ、いつも通りの冷静さである。

「ただ何となく、儂はわが夫を犬猫を愛でるような眼で見ていたのかも解らぬ。しかし、そうではないのかも知れぬ。だがいずれ、相手の手のあたたかみを知っているときに先々の死のことまで感得できるほど、器用な者はそうも居まい」
「……死こそは、人の生きる輪郭というものをはっきりと浮かび上がらせるものです。いくさであれ、病であれ」

 薬研を動かす手を緩め、薬師が言った。

「土塊(つちくれ)でできた人形の方が、また土を寄せ集めてつくり直せる分、人が生くるよりもはるかに救われておると思えるときさえ、儂にはある。時が変われば人々の代も変わる。それはやむを得ぬこと。なれどわが夫がいずれ死んだ後、永世生くる神の身で、あの子の何もかもを憶えておることが果たしてできようか」

 ちらと、彼女は諏訪子の方を見たかと思うと、

「憶えてなどおれぬから、人は子を成すのでしょう。子など成せば手放すのが惜しくなるから、死にたくない死なせたくないと願うのでしょう。およそ、今の諏訪子さまのように」

 そんなことを即答した。幾らか、気だるげな声音。

「斯様に瞬きほどの思案のみで答えるか」
「あら。気づいてはおりませんでしたか。私は、けっこう厭な女なのですよ」

 ゴリゴリと、再び薬研車の音が響く。

「生きる限り、誰もみな病みついているようなもの。毒を服するがごときもの」
「お、おお……それは、つまり?」

 溜め息まじりに諏訪子は応じる。
 からかいか、あしらいか。本気とも冗談とも、両方に思える薬師の言に。

「詰まるところ。申し上げたいのは、生きる者たちはただ自らの命の生き死にという以上に、他の何かに服さなければ、まるで立ち行かれぬものだということにございます。八坂の神が自らの国つくりに御執心であるごとく。洩矢の神がご夫君との“先行き”をお案じなされるごとく。なれば、服するものはすでに大毒。生きるがすでに病そのものではありませんか。火のごとき己を滅することが安らぎへの近道というなら、確かにそれは言祝がれるべきなのでしょうが……あいにくと、それは死に至る道程とさほど道行きを違えるものとは思えません」

 薬研を動かすことを止めると、薬師はすっかり挽き潰された乾し人蔘の粉を匙で掬った。そして、それをかたわらの小机の上に並べてあった一枚の小皿に移し替える。人蔘の粉末の小皿には、あらかじめ挽き潰されていた数種の薬種の粉末がすでに混ぜ込まれているのであった。最後に乾し人蔘を加えた“それ”を、薬師は竹の棒で手早くかき混ぜる。手慣れた手つきは、皿から少しの粉も落とす気配がない。

「では誰もかれも、その大毒からは逃れられませぬ。ひとえに、道行きの先に等しく死が待ち構えているがゆえ。その死を踏み越えることで生の大毒から逃れられるのであれば――、“向こう側”に何が待っているのかを、いつか詳らか(つまびらか)にしてみたい。諏訪子さまのお考えも、それに近いものがあるのでは」
「とは、な。其許の生くるも、たいがい病んでおるわ」

 あらためて諏訪子は問う。
 
「薬師。其許の胸に巣食う大毒とは、いかに」

「ふふ。――ずいぶんともったいぶった物言いになってしまいましたけれど、要はあなたさまと同じこと。どうにも離れがたく思う相手が居る。そういうこと」
「郷里に夫でも残してきたのか、其許は」
「まあ、似たようなものです」

 ねえ、諏訪子さま。と、やけに間延びした声で薬師が問うた。
 ひどく愛らしくもある響きである。彼女が、夫という者にしな垂れかかるところを、ただ、ぼうと諏訪子は想像する。

「天地に死穢の満ち満てるは、これ、山川草木(さんせんそうもく)においてあらゆる命が生きんと欲するがゆえ。けれど終わりなき命を持ったところで、裏を返せば力の限り死に背を向けなければならぬほど、やはり生きることに執心している。どうあっても命というものは魂を燃やして在る光。それがためにうつくしいし、病んでもいる。燃える光の種が尽きるは、甚だ都合の悪いこと」
「そこで、他の誰かを欲するのだな」
「いずれわが身を焼き尽くす炎と解っているのに、火種を求めずにはいられないのですよ。いかに時が経とうとも、あなたのご夫君はきっとあなたという御方を責め苛むかもしれません。それを糧にして、諏訪子さまは己が身を燃やすのかもしれませんわ」

 口を半分開けながら、諏訪子はゆっくりと天を仰いだ。
 全身から力が抜けていく。どうあっても、どうやら因縁めいた繋がりからは逃れられそうにないらしかった。共寝をしても、モレヤとのあいだには子をこしらえたわけではない。けれどもし本当にそうなったら――、洩矢氏の血筋はモレヤ亡きあとも、ずっとずっと諏訪子の思い出につきまとい続けるのだろう。そんなことを、つい思う。そうして、モレヤとのことが幾久しく諏訪子の胸を冒していくのだ。忘れたところで、忘れたというその事実が新たな苦しみとなる。それが、諏訪子を病ませる大毒なのだろうと思った。

 そして何も言われていないのに……諏訪子が八坂神奈子の人質となっているあいだ、夜に響く空弓を射っていたのは、眼の前に居るこの薬師なのだと諏訪子は直感した。彼女もまた、何かを喪うことを怖れているのだと思った。庵の奥に、真新しい弓弦を張った弓がひと張り。梓弓(あずさゆみ)の音は、死穢とともに燃え尽きぬ人の世の情念をも射抜かんとする試みか。

「儂は、其許から化かされた気がするぞ、やけに」

 すとんと腰掛けに身を置き直し、ようやく諏訪子は落ち着きを取り戻す。
 幾らか安堵した眼を向けると、薬師の仕事はもう仕上げに入っている。調合した薬を薄い麻布で包み、中身が漏れないようていねいに折り畳むと、微笑みながらそれを諏訪子の元へと手渡した。

「いつも通り、お食事の前にお湯で煎じて服用なさいますよう」

 薬の包みを受け取り、諏訪子は立ち上がった。
 その動作をちょっと制するかのように、薬師は早口に言った。

「今はただ、御身が隣にご夫君あるを幸いとなされませ。それこそが魂の死病にして、しかし、一切の心を癒すことのできるただひとつのもの」

 そうして自身も立ち上がると、奥に立てかけてあった弓を手に取り、諏訪子に向けて矢を射る“仕草だけ”をする。四、五度、空弓に弓弦がびィんと震えた。何のことはない、児戯のごとき下らない『まじない』でしかない。それでもどうしてか、真っ正直に梓弓する薬師のことを厭な女だとは思っても、諏訪子は嫌いにはなれそうもなかった。

「洩矢神の前途に幸の多く、また凶事少なからんことを」

 言って、最後にまた空弓を射る。

「神が人から幸運を祈られるとは」
「仰せ、まったくごもっとも」

 眼を交わし合い、ふたりは瞬きほどのあいだだけ苦笑する。
 薬師に背を向け、諏訪子は外に通ずる庵の口へと足を向けた。

「しかし、恩には着よう。礼を言うぞ、八意(やごころ)の薬師」


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