Coolier - 新生・東方創想話

湖神

2013/04/23 23:59:58
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 ひどく凍える夜である。吐く息は瞬く間に白く落ちていく。湖から立ち上る寒気は彼女の肌を鋭く刺す。
 彼女は視線を氷上に落とした。深黒晦冥にして人をして手元すら見ることが能わぬ深淵であっても、彼女には厚い氷と陸と、そしてその狭間が見える。目を上げれば、向こう岸の下社も見える。
 厳寒は彼女を足から冷やし、もはや彼女の全身が冷え切っていた。いくら戦慣れした体とは言っても、寒さを退けることはできない。深沓の上から、足は冷やされていた。かろうじて感覚はあった。雪は先刻にやんでいたが、風が身を切っていた。風は湖から寒気を運び、彼女に叩きつけていた。
 どれほどの時間が経とうと、寒気が収まる気配はなかった。彼女は視線を上げた。視界は風で霞んでいたが、見えないほどではない。
 彼女はしめやかに一歩を踏み出した。地から氷へ。右足を氷上に載せ、体重をかけた。同時に、氷が割れ、突き出した。彼女の足の周りを囲むように、大きく割れ、半身ほどの高さの氷山が盛り上がった。その間に道が出来る。彼女は二歩目を踏み出した。大きな音とともに、氷が割れ、氷山を作った。三歩、四歩と、ゆっくりと歩を進めた。一歩ごとに氷山ができた。彼女は前を見たまま、五、六歩に一回、足もとに目線を落とした。自分の足を確認し、再び一歩を踏み出した。風は彼女の体を横に切っていた。周りには氷しかない、その吹きさらしを彼女は歩いている。四方八方から風の音がする。吐いた息はどこかへ飛んでいく。彼女が足もとを見るたびに氷が割れる音がとまり、痛い音が彼女の耳を切り裂いていく。再び一歩を出せば氷が割れていく。盛り上がった氷がばらばらと音を立てて氷に落ちていく。あるいは吹き飛ばされていく。手を隠すように腕を組み、また歩き出す。
 風に雪が混じり始めた。彼女は内心で舌打ちをした。前が見えにくくなることに苛ついていた。それだけではなかったが。
 やがて、はたと立ち止まった。風は吹雪に変わっていた。目を凝らして、後ろを見た。今まで歩いてきた部分が、すべてひとつの氷の山脈となっている。それが自分が歩いてきた道だとみとめた。おそらく、湖の半分程度までには進んでいる。再び前を見遣ると、向こう岸は遠く雪に隠れている。冷気が肺腑を刺している。二、三度強く息を吸い、大きく吐いた。その度に凍った空気が彼女の胸に入り込み、鋭い痛みをもたらした。だが、落ち着くにはちょうど良かった。頭蓋の内側から鉋で削られていくような痛みがあったが、狂うほどでもない。足もとは変わらぬ氷である。手指は赤くなっていた。口を覆い、息を吐いて暖めたが、大して暖まるわけでもなかった。
 手指は随分と細くなったように思える。いや、そのようなことは無いのだが、気のせいか、骨張って見える。寒さのせいではなく、己の心がそうさせているのだと思った。
 この骨張った指で、いったい何ができるというのか。氷った湖の真ん中に佇立したまま、彼女は沈鬱に潜った。少しの苛立ちはすぐに悄然とした表情に消えた。
 撫でた髪は驚くほどに滑らかであった。子がややくすぐったそうにしていた。笑顔と、やや甲高い声で話す子は、彼女らの心に平穏を与えていた。しばらくの不安から解放されたように、彼女らは子の来訪を待ち、その話に耳を傾けていた。ほぼ毎日のように新しい話をする子は、彼女らには無くてはならない存在であった。だからなおさらに愛おしく、掛け替えのない子である。しかし、彼女は現世の子である。子の話についていくのは、彼女らに、時に凄惨な真実を突き付けた。子に悪意はない。あの子には善意、いや、善意も悪意もない。ただの純粋である。無垢の心のみがある。彼女らに触れられ、愛されるのは彼女が純粋だからである。ならばこそ、子は彼女らに悲嘆を植え付けてしまった。
「水は、凍ると体積が大きくなる。」
 ただそれだけの、彼女の知らなかった知識である。しかし、それ故に彼女はここまで歩かねばならなかった。
 煙の中、彼女は己の歩いてきた道を見た。紛うことなく己の足跡である。彼女が歩いて作った道である。何の間違いもない。だが、子の話を否定はできない。苦心惨憺たる思いを振り切れなかった。子の言うことを疑うわけにはいかない。だが、しかし。首を強く振り、そこに己の足跡がある。
 卒然、彼女は後ろに大きな音を聞いた。音は彼女の心の腑を大きく震わせた。振り返るわけにはいかなかった。肺腑がそのはたらきを投げ捨てたように胸が硬直した。焦燥とも、喪失ともとれる虚空が彼女を襲った。寒さではなく、手先が、足先が、彼女がの己が震えていることを認めるつもりはなかった。銷魂のまま、ゆっくりと顔を戻した。ゆっくりと、大きく喉を鳴らしながら。
 ――視線の先、向こう岸まで、己の足跡が渡っていた。
  
東方のSSを投稿するのは初めてです。
短いですが、よろしくおねがいします。
有河隆道
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コメント



0.720簡易評価
1.80名前が無い程度の能力削除
科学 VS 神
神奈子様は忘れがちですが湖の神でもありましたね。
5.90名前が無い程度の能力削除
中身も、文章も、面白い。
欲を言えばもっと長いものを読みたかったですが。
6.80名前が無い程度の能力削除
短く、象徴的なだけに想像を色々と働かせたくなるような作品ですね。厳寒の湖の描写も綺麗です。
今度はぜひ長めの作品にも挑戦をば。
14.80名前が無い程度の能力削除
うーん。いい切り口だなあ。
15.100さとしお削除
作者さんがやりたいことを全部、鮮やかに書ききってしまった
20.70奇声を発する程度の能力削除
良かったです
22.803削除
雰囲気がありますね。短いですがなかなか良いです。