Coolier - 新生・東方創想話

対若の蹉跌

2013/04/13 01:31:29
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 まだ地球が球体であった頃の話だ。
 ある夜、大妖怪の一人である八雲紫は、己の魂に夢を見させるべく四海を彷徨した。あらゆる隙間に存在する事ができる彼女であったため、雲の斑目や鳥の羽に包まれた空気、波濤の谷、獣の顎に形成られた玉座に乗って旅をした。西へ東へ。北へ南へ、世界の片端へ。
 砂粒のごとく小さな灯が掌へ山盛りにできるほど集められた街を見、干上った河に架かっていた老いぼれの橋が砕け、月彩を含む砂塵を巻き上げるのを見た。
 気が向けば幾千もの感嘆と侮蔑の声を鳴らす口じみた物を背後に引き連れて高すぎる人間の住処を行き過ぎ、飛び交う鉄の箱船の中で繰り広げられる数多の国の富者が天然の食料に口を潤す宴を覗き、時には黴臭い室の決して見つけられぬ場所より、生まれたばかりの赤子へ哄笑を授けた事もあった。
 やがて飽き、元いた場所である現から外れた世界へと足を向けた時、八雲紫は世界中へ散らしている人の腹を借りて生んだ自らの触覚器のうち、東の果ての少女とともに在るものを、いずれ食すための人間に寄り添う者の合図を聞いた。
 獲物の名は宇佐見蓮子。美しい花を付ける植物の名を冠する少女。トレードマークの黒い帽子が納めた脳の中で大輪を咲かせているのは好奇心で、月と星を見ることで場所と時間を知ることのできる目を持つ少女。蓮花の白さを思い浮かべた妖怪の目元が笑みでしなる。
 八雲紫はスキマと呼ばれる、彼女のみが自由に行き来できる空間へ少女の曲線を着て入り込み、瞬きする間も置かずに八卦がぎっしりと施された服をまとうや、右腕を無造作に脇へ突き出した。その肘から先が霧散したが八雲紫は一瞥もせず、ただ服を揺するわずかな動きが、その先がどこかへ繋がっていることを教えるのみ。

「どれほど生きた」

 八雲紫が太古の呪詛に似た声で問えば答えがあったらしく、妖怪は旅の途中でも見せたことのない笑みを浮かべた。触覚の本質ともいえる部分との交信ゆえに、意識と言葉を用いての会話で無かったことは明らか。しかし以後起こったことから推測し、人間の言葉で表現したならば以下のようになるだろうか。

「十一年」
「上出来です」

 八雲紫の服の模様が組み変わる。

「星と月を見て己の実在を確立させる瞳は、この星が作り出した羅針盤、地球の精髄とも言える混沌をその奥に繋げています。かの娘の肉体と魂は、私があまさず飲み干す事に決めました」

 歯車が噛み合うようにして、八卦が八卦を押し込み、ずらし、すり合わせ、服の模様が組み変わり続ける。

「そして私は一人になるの?」
「おまえはそのために生まれたの」

 触官の蓄えた些細な情報を、妖異は一方的に食っていく。

「記憶を食われるなんて嫌よ」
「食う?」

 八雲紫が聞き分けの無い子供に言い聞かせるような声音を使う。

「式に積み重なった情報の羅列を取り出すことを、食うと表現するのも間違いではないでしょう。けれども擬人化されている本体が言えば滑稽にすぎるというものよ」

 この言語に触覚の感情工程が揺さぶられ、可憐な瞳から一粒の涙を絞り出す式が発令されたのを紫は知ると、関連数列を握り潰しながら満足気に吐息を漏らした。己の作り出した仕組みが完璧に作動しているのを喜ばぬ知性があろうか?

「いずれ蓮子にも見せてあげましょうね。あなたを動かす言語森を」
「やめて」
「その表情、声音。上手に動いているわ。よくできているわ。楽しみだわ。蓮子にたくさんあげてきなさい。たくさん奪ってきなさい」
「やめて」
「行ってらっしゃい。愛しい我が細工」

 こうして元に戻した右手から味わい尽くした自らの爪先、人間にはマエリベリー・ハーンと名付けられた少女の記憶を引きちぎり吐き捨てると、妖怪は再び地上へ、鏡よりも平らかになったどこかの海へ降り立ち、東方へ向かって歩き始める。風の息、魚の息、月影の息は止まっていた。幻想の境界が悪を行う時、世界は目を逸らすのだろうか?
 思い描く宇佐見蓮子を頭の中で咀嚼してみれば口の中は彼女の味で溢れ、黒い髪の匂い、冷えた肌の下で燃える胎の苦味、なによりも素晴らしいのは世界の紋様で編まれた星屑と月華の眼。
 収穫の時ではないだろうか? 果実が熟れるには時の手による細工を待たなければならないが、時とは獲物を追い込めば共に駆けていくもの。静止した海の上を八雲紫は表情を咲かせて夜を歩いた。目的地までどの程度の時間が必要だろう。女の足ならば――半年というところ。時々には手慰みに、生み出したスキマへ悪を流し込んだかもしれぬ。甘露に満ちた腰を持て余す女の指のごとく。





 京都は現在、二〇〇三年産の近未来にある。天より降って来た侵略者の末裔らによる国はなお続いており、千年の水もて神の直径を成らせ続けた樹を支えた鉢、朽ちかけた木とほころびた石の歴史に建つ王都は首都として、再び瑞々しい文化を咲き誇らせている。そこに林立する五を五倍した数ある大学のひとつで、八を八倍した個数の大教室の一室で行われている都市計画の講義は、十七歳の名物教授が教壇に立つということで他学科の生徒まで押しかけ立ち見ができるほど。
量子変換炉の設置場所を仮定すべく口泡を飛ばす教授と、睡眠学習が駆使された結果十歳で大学生となった少年少女が電子で編まれたモニターに向かう空間において、壁際で手書きのメモ帖に文字を書き込む宇佐見蓮子の姿はいささか浮いている。重量はカード型の拡張現実用端末と樹脂製のコンタクトレンズふたつ分、空間にいたっては使用時に七十立方センチメートルを圧迫するだけにすぎない文明の利器をあえて使わないというのはすいぶんな偏屈であった。
 さて、講義時間もそろそろ尽きようかという頃、やたらと原子核へ物をぶつけたがる自学科の教授との論法の類似点について、蓮子がメモをまとめはじめた時、彼女の華奢な手が突然握り締められた。走らせていたペンは転がり落ち、驚愕に少女の心臓と骨とが軋んだが、幸運にも無礼者が隣に立つ友人だと判別できたために声を挙げてマナー違反を犯すことにはならなかった。
 蓮子は三つ呼吸をする間に空いている方の手でメモ帖をポケットに収め、認証を終わらせてせり上がって来る拡張現実のアイコンの中からプライベート用のチャットソフトを立ち上げてから、指でさりげなく合図を送る。やがて入室してきた友人、マエリベリー・ハーンへ考えておいた最初の一言が送られた。

『まさかとは思うけど、何か見えたの?』

 体表の電位と樹脂を利用した拡張現実ではなく、真の不思議――近年になって見直され、再び人間の親しい道具となった古代の技術である結界を、彼女は己が目で見ることができた。視線を動かして見たメリー(蓮子は彼女をそう呼んだ)の横顔は、講義に集中している真面目な学生そのもので感情の動きはない。しばらくしてからメリーの白い指先がようやく宙をなぞりだす。

『話が終わるまで、決して手を離さないで。とても重要な話で、おそろしく突飛でもある』

 握り締めてきたメリーの手を、蓮子も思わず握り返した。心臓はまだ体中へ血液の激流を送り出していたが、掌から伝わるリズムで相棒もそうなのだと知れた。

『いいわよ。少し手を緩めてもらうことはできる?』

 ほんの少し手と手の結び目が柔らかくなるが、それでも感情を押さえ込むように細かい震えは止まらない。
そこにメリーのおびえを感じ取った蓮子は激高した。
 生徒の動向を監視しているリアルタイムプログラムをジャミングするための、半分非合法なソフトウェアを起動。動作を確認してから、細い花びらが合わさったような辞書ツールを、あらゆる故事を引っ張り出せる銀の枠を持つ窓を、人が行なってきたあらゆる恐怖の記録が記された黒繻子のようにつややかな皮を模したアプリケーションを呼び出した。
メリーがどんな光景を見ていようと、すぐに答えを返せるようにしてから、彼女は言葉の続きを待った。視線の隅で、ジャミング限界へのタイムリミットを示すウィンドウがポップアップすると同時にメリーは語った。

『結論から書くけど、私、この手を離したら蓮子のことを忘れるわ』

 蓮子は生まれて初めて自らの頭脳がしぼむ音を聞き、つい考えるのを止めてしまった。引き続きたくさんの初めて聞く音の数々を彼女は静聴していった。体の血が薄まる音、認識が蒸発していく音、耳が音を失っていく音。目だけが無事であった。

『妖怪の類だと思う。蓮子の拡張現実に何か写らなかった? さっき、ほんの少し』
『いいえ』
『目の端に何か映って、そちらを見ようと思ったら、もう終わっちゃってた』

 蓮子は何度も目だけでメリーを見る。首を曲げ、思っていることを口に出して、それから直接話をしたかった。だが、この場で必要以上の私語を交わすのはルール違反だったし、そうなってしまえば待っているのは退室だ。不用意にメリーの位置を変えてはいけないと、蓮子の本能が囁く。いまは萎縮した少女の体に、それは必要以上に大きく響いていた。
 彼女達が「秘封倶楽部」と称したふたりぼっちのオカルトサークルは、禁じられた結界の向こう側への探索を何度も何度も行ってきた。年齢相応の好奇心を貪るために、二人の能力を何度も使って。多くの不思議をその目に収めてきた蓮子は、この事態に我を失うと同時に、心の隅がこう告げるのを聞いてもいる。予期はしていた。いずれ向こう側にいた何かに追いつかれるだろう、とは。

『背中から入り込んできて、私の中にいる』

 流れてきた文字列の後、蓮子はメリーが寄りかかった壁を凝視した。壁と背中の境界には薄い陰が腰掛けているだけだ。視界の隅でタイムリミットを示す数字がカウントされ続けているが、蓮子には何が限界なのか理解できない。

『あなたの記憶を隠していってる。消えるギリギリのところで止めてる』

 ついに不条理の爪が蓮子の心臓へ突き立てられ、そこから吹き出した怒りが体中へ流れ出す。がらんどうになっていた体中に激情の濁流が上書きしていく感覚は強烈で、蓮子はつい唇から吐息を吹いた。「なんで私だけを?」 メリーに問いただしかけた口の端を噛んで声を止める。答えられない問いを発してどうするというのだろう? 代わりのようにしてメリーがつぶやいた。

「入りきった……」

 新しい文字列がチャットウィンドウに途絶え途絶えで入力されていく。

『私の記憶にある結界を、境をいじられていってる。あなたを知っているか、いないかの境界を。手を握っているのは、そこが蓮子と私の線だとわかるから、それをよすがにして記憶を保っている。私の目が進んでいて良かったわ』

 蓮子の空いた手はもだえ、いきなり奔放に空中をいじり回したかと思えば火を握りしめたのかのように硬直し、縮まった。

『咄嗟に貴方の手を握れたのも、貴方との境界をいじれたのも幸運よ』

 メリーは表情を動かさない。

『手を離さずにおけば、記憶は繋がったまま?』
『そうね。でもずっとは無理よ』
「OK。対策を立てるのに大した時間は必要ない。大体できたわ」
「頭の回るのが早いわね。さすがよ」

 蓮子のつぶやきを皮切りに、遂に会話が小声でかわされた。周りの人間の視線が一瞬集まり、霧散する中、もう普段の表情に戻ってきた蓮子を見てメリーは安堵の目を向ける。ただ、口元には影が刷かれていた。

『貴方が出てくる記憶だけが不自然に歯抜けするのであれば、帰納として宇佐見蓮子を当てはめる。別のパターンとして、貴方がらみの記憶と矛盾が起きないように、つまり、ここ数年を綺麗サッパリ忘れるというのであれば』

 繋いだ指で優しく手の甲をノックされたので蓮子が顔を動かすと、メリーは破顔した。

「どうせ全部忘れるわ。また私と友達になって頂戴」
「ばか」
『とても都合よく記憶が改竄されて、貴方の事だけを忘れるなんてことになったら』

メリーの手が離れかけ、蓮子の指が強張ると、あやすようにメリーの指が戻ってきた。

「悪いけど、ありとあらゆる方法で私とお近づきになってね。最初は貴女へ気を許さないでしょうけど、蓮子だもの。たぶん、ガードも緩くなるわ」
「そうなったら、先に就職活動へ打ち込むことにするわ」
「それもいいわね」
「冗談よ」

 講義は終わりかけているのだろう、拡張現実を操作する時の衣擦れや、緊張をほぐすための溜息が、教室内を泳ぎ始める。二人の私語もその音にかき消されていた。その中で蓮子の方から先に指を弛めだす。

「最初に言っておくけど」

 二人の手指の間に、完璧な空調が作りだす冷えた空気が滑り込み始めた。

「記憶を戻す方向で、私は動くからね」
「妖怪退治でもするの?」
「それも辞さない」
「現実的じゃないわねぇ」
「あら。俄然やる気よ」
「やめときなさい。夜は怖いわよ」

 二人はそのまま手を離した。はじまりに落としたペンが退出していく人々の足に蹴られていき、視界で半現実の電影像がけたたましく動く中でも、蓮子は友人から目を離さず微笑んだままだった。メリーの顔にやがて困惑が芽ぶき、他人を見る表情が沁み出してきた時なってさえ、蓮子は微笑んでいたのかもしれない。





「国立図書館に行くしかないのかしら」

 蓮子は私室の中で愚痴りながら、借りてきた資料の山を流し見ている。
記憶を奪った妖怪の行方は分からないままだった。大学、もしくは立地に関係の有りそうな妖怪はいない。神様はいたが、そもそもが分社であったために関係があるようには思えない。戦神の類で、人の記憶をどうこうする逸話も見つからなかったからだ。

「獏だとどうもかみ合わないし。鵺も違うわね」

 メリーの記憶を奪った妖怪さえ特定できれば、突破口は見つかるはずだ。その情熱が蓮子を突き動かしている。
国立図書館。さきほど何も考えずに呟いた単語にもう一度意識のフォーカスが当てられ、ページをめくる指が止まる。京都に建てられているあそこならば、確かにこれ以上の資料を、もしかすれば正解の一粒を拾い上げることができるかもしれない。
 だが、それは恐らく彼女には実現不可能な手段だ。都内の大学生でさえあれば誰でも閲覧が許されている半公開書架郡ですら、宇佐見蓮子には見ることができないはずだから。
 結界暴きは禁忌だ。
そして秘封倶楽部は、自分達のためにその禁を犯す集まりだった。メリーは知っているのだろうか? 彼女達がもう一部の企業には決して就職できないことや、京都のあの場所へ住めないということを。図書館の匿名性はこの時代、もう失われてしまっていたのだ。多くの結界の成り立ちと同じく、極めてひそやかに二人は罰を下されていた。
 蓮子は腹立ちまぎれに過去にまとめたノートを風のような速度でめくり、時折覗く貼り付けられたままの写真だけを脳で処理をしていく。そうすれば何も考えずに、落ち着くまで時間を殺せたからだ。やがてひとつの写真に目を奪われた。立ち並ぶ墓石と卒塔婆と夜、メリーの仏頂面。ここはどこだっただろうか。思い出を雑巾をかけるようにして荒っぽく探る中で蓮子の唇が動きを止め、机に置かれた指が拳になっていく。
蓮台野へ行ったのは冥界を、異界そのものを見るために出かけた冒険だった。異界への冒険で何を手に入れると、種々の伝承は示唆していたか。記憶を失ったのであれば、それを取り戻すことが可能な場所はなかっただろうか? 何か、願いをかなえる類の場所が。午前零時に終わりを告げる城のごとき場所が、楽園に関する伝説がどれだけあっただろう。
静脈認証の後、錯覚と電子で作られている拡張現実の緑がかった玻璃板の上で指を滑らせる時になっても、蓮子はまだ天国旅行へ向かう人間の浮かれた目つきで未来を夢見ていた。完璧に元通りとなった秘封倶楽部を夢見ていた。





 星星の衣が秋をまとい始める頃、京都の底冷えは徐々に厳しくなっていく。倶楽部活動の目的地へ歩いて向かう途中、はじめて二人の間に何があったかを伝えられた時、メリーの脳裏によぎったのは疑いではなく、戸惑いだった。

「私は宇佐見さんのことを疑ってない。でも、そんな不満そうな顔をしないで。いきなり前のように接するのは無理よ」

 蓮子はあっけに取られた顔をしていたが、すぐに笑みを返した。相手を警戒させないように浮かべる、優しさの糸で包み込んだ顔であり、相棒の少女に対しては取り出さなくなったはずの仮面であった。

「私はそんな」
「してるのよ。小さな変化だけど、顔に出てる」
「やっぱり相性がいいのね、私たち」

 喉で棹立ちした言葉という悍馬を抑えかね、メリーは化学合成で作られたキュウイとクリームのサンドを口いっぱいに頬張り、飲み込む。身に付けた礼儀作法に嘲笑されながら口の中に広がる美味に嘘はないが、合成なのは間違いないだろう。

「ここまで踏み込んで気持ちが推し量れる友人なんていない。でも、一人いたの。思い出せない一人が」

 その友人と過ごした日々は今のメリーにも思い出せるが、奇怪なことに容姿や声だけを全く思い出せないでいる。笑い合い、ちょっとだけ疎ましく思い、大切にしてくれた相棒との行動履歴だけが脳に刻まれて、心に貯まっていた彼女の「彼女であったのだろうか?」指先や眼は、異教の神の顔をそうするようにして削り取られていた。この傷跡を自らの中に見出すたびに少女の背筋は冷えた。まるで自分の脳の中で妖怪が生まれたよう。

「のっぺらぼうのような」

 つぶやいた蓮子をメリーが睨む。心の中をのぞき見られたようで気持ちが悪かったからだが、蓮子は同じ声で「ごめんなさい」と言い、メリーの前を歩き始めた。二人は少なくなっていく民家から山に向かってわき道へ逸れていき、小さな鳥居を抜けて石段を登る。
歩き続けているマエリベリー・ハーンの身体は熱くなっていき、そのためかふとした拍子に首筋を撫でていく風の冷たさが心地よく、同時に季節を思わせた。
山裾に作られた少しだけ小高い場所にある神社が、彼女達の目的地だ。宇佐見蓮子は少し先をどんどんと登っていく。今夜は十六夜、たっぷりとした月明かりのために、メリーが先導者を見失うということはない。
 時折月と枝によって作られた陰の緞帳を通り抜けていく中で、二人は無言だった。メリーとしては好都合だったが。息は上がっていたし、なにより雑談をしながらゆっくり歩くには、知り合ってからの時間は短すぎた。
そもそもは強引に連れて来られたのだ。『その場所にあるはずのない神社の亡霊が見られるのよ』と蓮子に言われ、引きずられるようにして今に至っている。
メリーは荒唐無稽な目を持っていたから本来見ることのできない物には興味があった。蓮子もそういう目があると言うし(メリーが視た限りでは本物だった)、恐ろしく行動的で、なにより自分と同じ欲望を持つところが気を許す要因であったろう。脳の襞から削られた友人と合致していたゆえに。
 たまに後ろをちらりと見る蓮子の背を追いながら、メリーは問題の場所へ、ちっぽけな社へとたどり着いた。
 古びて薄汚れた鳥居をくぐり、草が顔をのぞかせる石の参道を歩く間、静かになっていく二人の呼吸と、心臓の音だけが世界を包む。

「虫の声もないのね」

 この静寂を破ったのは黒い髪の少女の問いかけだった。独り言のようでもあったが、明らかにもう一人の少女へと投げかけた言葉。

「そもそも何を祀っているのかしら」
「謎よ。その話は誰も知らないの。何か変わったところはある、メリー?」

 初対面の時から独特の愛称で呼ばれることを、メリーは少しだけ煙ったく思う。もっとも、心の大部分は素直にそのことを受け止めていることの方が、彼女にとっては我ながら不可解だったが。

「ここ、おかしいわ。結界がひとつもない」

 再び沈黙が降りてきた。神社であるのに、結界が一つもないというのはどうしたことだろう。鳥居、燈籠、手水舎、拝殿。目に見える設備は夜の中でも明らかに古びて荒れてはいたが、結界が破れるほどに損壊しているようには見えない。そもそも、ここがあるはずのない場所であるならば、彼女たちはいつ結界の裂け目を飛び越えたのだろう?
腕組みをしながら、蓮子が拝殿を回り込むように動く。

「本殿らしき物はない、と。御神体の調査も無理ね。とりあえず拝殿の中に入ってみましょう。装飾なんかで判断するしかないわ」

 賽銭箱の向こうにある屋内は所々光が差し込んでいるようだったが、それにしては随分と暗い。内壁の様子すらわからないその極端な視界が、メリーには月光と闇しかないように見えた。異界じみた内部とを隔てる入り口にも結界がないことが彼女には恐ろしい。いままで見てきた神社で、こんなになった場所はなかったのだ。

「懐中電灯とか持ってる?」
「もちろんよ。一本しかないから、私から離れないでね。あの破れ天井の感じなら十分考えられることだけど、床が腐ってたりするかもしれない」
「脅かさないでよ。多分、一回あったんだから」
「いやな共通体験ね」
「同感」

 踏み入った拝殿の床はどうやら奈落を生むほど柔かくはないようで、歩き回る少女二人分の重さには多少軋む程度の返事しかあげないようだった。壁や天井を無遠慮に照らしていく懐中電灯の光を、彼女達は次々と目で追っていく。

「宇佐見さん」
「蓮子でいいわ」
「蓮子、さん。ここ、拝殿じゃないわ」
「本殿のようにも思えないんだけど、消去法でそうなるのよね」

 二人の疑問も当然だろう。社殿の中はほぼ空だった。星が覗く穴開きの天井を含め、全ての方向にある木目はむき出しで何の装飾もされておらず、設置されていたものといえば二つ。ひとつは神棚で、天井近くの高い位置に粗末な作りで据えられている。
そこに置かれた箱の中に御神体があるのだろう。
 もうひとつは、中央に据えられた四脚の机であり、これが異彩を放っていた。布をかぶせて装飾されていたのである。赤と金をふんだんに使った炎が全体の印象として机をすっぽり覆っており、机面から垂れる緑と黄で丁寧に編まれた仏の台座のような絵柄がそれを押さえ込むようにしていた。分厚い布が古ぼけていなければどれほど煌びやかであったろうそれは、寒々しい室内で胸を押さえつけてくるかのような存在だった。

「この机がわからない。御神体があるべきなのはどう考えてもあっちの神棚よね?」

 蓮子が向けた人工の光に映し出された棚の上には、文字の書かれた木札が一つだけだ。

「天津甕星(あまつかめぼし)? って、何の神様なの」
「あまつ『みか』ぼし。星よ。同じ星神で主宰神の一人である天之御中主神と違って、国津神だったり天津神だったり、他の神様と同一視されたり菩薩と同一視されたり」
「忙しい神様ねぇ」
「その分、身近に感じられたのか星神社のほとんどは天津甕星を祀っているのよ」
「詳しいのね」
「自分の目に関することだから、どうしても突っ込んで調べたりするのよ。メリーはないの、そういう事」
「貴女に比べれば、熱心ではないわね。人が教えてくれることの方が多かったくらい」
「今度その話も聞かせてよ。で、話の続きだけど」

 懐中電灯が机を照らし出す。

「まさかあの札が御神体って訳でもないだろうし、そうなるとこの机に神が宿るのかしら。明らかに仏教の流れを汲む出来映えのこれに、何の関連性もなさそうな星神が? 祭壇にしたってあんまりにちぐはぐだわ」
「床下に何かあるんじゃないかしら。人の目に触れないとしたらそこだわ」

 床を見下ろしたメリーの視界の隅で、何かが動いた。目だけでそれを追う少女に見えたのは結界の裂け目。結界がなかった所に、どうして裂け目ができるのだろう。

「土地そのものが御神体だというのは一理あるわね。でも天津甕星に関するっていうのが引っかかるのよ。隕石が降って来た土地だったりするのかしら?」
「蓮子さん」

 ショールの裾が引かれる。心臓が二つ鳴る間、沈黙が再びその外套を広げた。

「何が見えるの」
「結界の裂け目がそこらじゅうに増えていくの。床も、壁も、天井も」

 蓮子は天井を見上げる。彼女には真っ黒な天井と切り取られた星空しか見えない。場所のわからぬ夜空しか見えない。

「三時十九分二十七秒」

 蓮子が習慣で呟く。二人の少女は体を寄せ合い、手を握り合う。
三人目の少女が生まれたのはその直後であり、その瞬間をだれも、出現した本人でさえ突然のものとして受け取った。秘封倶楽部の前に現れた彼女は、一瞬の驚愕をその表情に許し、立ち去らせると、二人を視界に入れたまま静かに辺りを見回した。

「お二人に質問があります」

 夜の蔭に沈んでいる格好の蓮子とメリーに向けられた言葉は平凡だったが、秘封倶楽部は凍りついたままだ。災厄が服を着てやって来たように思えたし、来訪者の雰囲気や笑顔が柔らかいものであったのも、この場合恐怖を煽った。
 片方はうなじまで、もう片方は肩下まで垂らした後ろ髪は月明かりを帯びた風信子石(ジルコン)の房。全身を濡らすよ夜の光よりも輝く両目の月は見たことがないほど老い、公平さと酷薄さと正義に燃えている。彼女はすでに、この世界での役割を見つけだしていたのだ。変わることはないと。
 こうして秘封倶楽部と楽園の閻魔、ヤマザナドゥは出会った。このうち二人は、その後ろで糸を引く影に気づいていたのかもしれない。

「私の名前はシキエイキ。季節の四季に、映す姫と字を当てます。あなた方は?」
「マエリベリー・ハーン」

 影から一歩出たために綺羅となった金色を肩から垂らして少女は答える。声には警戒が隠されずに横たわっていたが、四季映姫はにこりとした。

「宇佐見蓮子よ、シキエイキ」
「私は罪を裁く者。地獄の閻魔様、の一欠片になります」

 以下に続けられる入り込んできた者の言い分によれば、ここは彼女のいるべき世界ではなく、担当する此岸でもなく、にも拘わらず人間のような脆い身体と一すくいの知識、萎れた権能を持って産み落とされたものらしい。いまの彼女は、本体から零れ落ちた髪の一筋、もしくは風にちぎられていく吐息の残り香である、と自らを秘封倶楽部に伝えた。己の出自を、任地についての情報を抉り取られている、とも付け加えた。
そして四季映姫は自分のために思考する。
 彼女を本体から切り取った鋏の名前は知らないが、それを拾った手の名前に少女は思いあたりがあり、おそらくはこの地への運び手の名前とも共通するだろう。あらゆる境目に潜む妖怪、幻想の境界、八雲紫。
 つい四季映姫は笑いが噛み殺せなくなった。神の爪先をかすめ取り(もしくは拾い取り)わざわざ隠すなどとは、『神隠しの主犯』の二つ名からすれば諧謔に溢れ過ぎていたし、彼女を許そうと思い始めているこの思考も恐らくは計算されている事に腹も立ったのだ。表情の変化に戸惑う秘封倶楽部へ、笑い出したことを一言詫びて閻魔は続けた。

「私は私を、正当な持ち主へ返すために向こう側へ戻らなければならない。その誘導を呼び水となった貴方達にお願いしたいの」
「そもそもの原因は私たちなの?」

 蓮子が問う。

「そうです。貴方達が私を呼び寄せてしまった」
「誰かを呼び出そうなんて、考えてもなかったわ」
「それでも私はここにいるのですよ。望まなかったとしても、為したことに違いは無いのです」
「納得できないわね」

 憮然としたメリーを見て、映姫は、ややあってから苦笑した。

「どうも職務の挙動が抜けないわね。失礼だったことをお詫びするわ。ごめんなさい」
「さっきから謝ってばかりね。いいわよ、閻魔さまなんだからどーんと構えて頂戴」
「今の私は貴方達と変わらないわ。人間じゃないだけで、人間と同じくらいの存在よ。でも、そうね。すごく軽やかなのね、これくらいって」

 象牙さながらに白く滑らか、そして優美な曲線でできた自らの手指を四季映姫がしげしげと眺めるこの瞬間に、宇佐見蓮子は閻魔を名乗る少女の力になろうと決心した。美しい花に水をやりたがるのは人間の性であるがゆえ。

「ねぇ、メリー。彼女の手伝いをしましょう」

 メリーを見つめ、同時に未知を見つめる蓮子の瞳はきらめき燃え上がっていた。いつか見た瞳のはずだ、とメリーは脳に刻みつけられた空白の誰かを思い出す。その時のメリーの心臓は、今みたいに早く打ちつけられていただろうか? 記憶は肯首した。では、冷たい予感を押しやってなお、この企みに加担すべきだろうか? 脳は肯首した。二人は秘封倶楽部なのだから、と。

「ええ。ここの結界が開きっぱなしであれば、話は早かったかもしれないんだけどね。もう閉じちゃってる」
「今日はこのまま帰宅ね。さぁ、四季映姫。私たちは貴方に協力する。」
「感謝します。まえりべりー・はーん、うさみれんこ」
「イントネーションが少し違うわ。そこも含めて、歩きがてら話しましょうか。メリー、秘封倶楽部は彼女を歓迎しようと考えているのだけれど、貴方はどう?」
「聞くまでもないわね」

 二対の好奇心が点火した瞳と、一対の瞳が交差する。

「ようこそ京都へ、四季映姫」




 
 京都は日本の首都としての機能と同時に、世界有数の観光都市としての機能をも充足させていった。古えからの寺社と自然はそのまま、残りを科学と結界学の全てを動員して完成したのが、あらゆる騒音を極力殺すように設えられた都、風のうねりと光のたゆたいが制御された街、幻想を夢見させる常識の劇場であった。ただし天候と気温の操作はまだ人間の手で行えず、先ほどようやく東に暁の剣が立てられた時刻とあっては、腰から直接体温を奪うかのような京都特有の寒気が街を抱き寄せのしかかっているのも道理であった。
 街にちらつく人影の中の一人として、宇佐見蓮子が足を運んでいる。厚く巻かれたケープとマフラーに包まれる首を蓮子が巡らせると、空に黒曜石の四角い黒が浮いているのを見つけた。向こう側の風景を透過させる光学迷彩はこの季節によく壊れるのだ。京都が誇る、観光地としての景観と首都機能を両立させる技術の一つが、世界に類を見ないビルへの光学迷彩の配備数であり、極端な所では人の出入り口以外を全て透明にしてのけたともいう。
 蓮子は拡張現実の操作パネルで防寒具の内温を一度上げると、みやこの始まりのままで残された真っ直ぐに伸びる街路の続きを始めた。歩きながら、少女は眠りの足りない頭で壊れた黒い窓に思考が囚われていく。故障したパネルのひとつ、影よりも黒い向こう側に何かあるという気がしてならない。もし秘封倶楽部があれを見たならば、いつものように蓮子は何も見つけられず、メリーは何かを見出すのだろうか。黒大理石を切り取ったかのような故障部位に蓮子はもう一度だけ視線をやった。あの位置は今の時刻、もし天に星がかかっているならばデネブが回っていたかもしれない。そら、いま、闇の向こうに羽ばたく白鳥が見えたのではないか?
 寒さがなおも絡みついてきたと感じ、震えながら蓮子は急ぎ足で東へ向かった。
 やがて勾配の緩い上り坂へさしかかり、道の両脇にはオミヤゲ・ショップが並び立つ。中には今しもシャッターを開こうとしている店もあるようだった。そんな店の中へ理路整然と詰め込まれた豊富な商品は、人間の視界へ効果的に入り込むように計算されて配置されていたため、京都に住み慣れて観光用の風景に見向きもしなくなった蓮子の視界にも美事に押し入り、そのために漆塗りの食器が彼女の目についてしまった。
 元を正せば材料は全て合成品の、しかし製品ができるまでの工程は昔と変わらない手間のかかる、手作業で何度も漆モドキを食器の芯に塗ってようやく完成する漆器が、歩行する蓮子の脳裏に閻魔との会話を思い起こさせた。
 本格的な冬に入る前、薔薇色のやわらかな陽光の下で、今世紀に残っているのが不思議なほど古びたスタイルのオープンカフェで卓を囲んだ秘封倶楽部と四季映姫は芳しい飲料を楽しんでいたはずだ。

「面白かったのは人間の計算は既に哲学と化している、という話ね。先人の残した知識を継いだ先に、瞑想と同じ境地が待っていたというのは私にとって心安まる。ただ、何と言ったかしら、蓮子が例えに出した数学者」
「プランク」
「その『ぷらんく』の式を、精髄の結晶を発見するまでの過程を抜かして身に付けた蓮子は、残された人生で彼以上の知識を手に入れる事ができる。だから『ぷらんくよりも頭がいい』」
「そうそう」
「傲慢ですよ。先人を遠い向こうにある足跡としてのみ捉える事は、暗質に捕われる道であり、やがて自己を縛られることにもつながります」

 無意識だろう、四季映姫の人差し指が一本、天を指した。

「説教くさいわねぇ。しかも、閻魔様の説教と少し違うんじゃないの、それ」
「はい。少し違うようです」

 京都への来訪者は楚と笑う。

「閻魔ではなく、ヤマの方に寄せられて此処へ切り取られました。恐らく、何か理由があるのでしょう」

 その言葉が、いま現在の蓮子を眠らせずに動かしていた。ヤマ。閻魔の原型、インドでの死の神。中国の十王信仰と結びつく前の神。
 集めた資料を頭の坩堝で掻き回していると、視界に電子の窓がアラートが光った。ひとつだけ起動させていた連絡用のチャットアプリを、最小化からポップアップさせる。記されていたメッセージは、『いま貴方の後ろにいるの』。
 蓮子は考えていた神様の事を全部放り出し、即座に振り向いて言った。

「おはよう」

 そこにいたのは秘封倶楽部の片割れ、古すぎて彼女たちのようなオカルトサークルしか知らない怪談を引用し、おそらくは蓮子を困らせようとした外つ国の少女。

「おはよう」
「早いじゃない、メリーさん」
「どうせそっちは徹夜でしょ」

 歩み寄る二人は間近で視線を交わす。メリーはイタズラが失敗したためか、はたまた此処へ来るまでに息が上がったのか、紅い頬をしていた。

「その通り、徹夜よ。よくわかったわね」

 風が鋭く鳴り、声は二人だけの間を通り過ぎた。メリーが何を告げたものか。今や記せる者は誰もいないが、蓮子にとって意外であった一言を持ちだされたのは想像がつく。でなければ、言葉に続いて咲いたメリーの笑顔を、複雑怪奇な心の宮を素通りさせ、魂の泉の底、必ずや物事を識ってしまう領域へ落としこんでしまったなど有りえぬからだ。これは蓮子にとって不幸だった。
 その笑顔は歳相応に素朴で単純、少し前まではいつも見る事ができた顔であり、いま手に入れたそれも全く同じだと。同じなのだった。メリーの記憶があろうとなかろうと、浮かべる笑顔に少しの違いもない。
 蓮子自身の規定によれば、彼女はいま一人のはずだった。完璧にメリーの友人をやってみせる事が蓮子の行動原理となり、完璧に記憶をメリーの脳へ蘇らせることが蓮子の目標となっていたはずだった。
 白い息を吐く目の前のメリーを、蓮子は美しいとさえ感じていた。変える必要のない笑顔がそこに在るのだ。では、取り戻そうとしている記憶は必要ないのだろうか。否だとすれば、失われた秘封倶楽部の記憶こそが重要であり、今のメリーはその派生物に過ぎないことになる。

「さ、これから見るのは飛び降りのメッカ。古今東西津々浦々からやって来る、ダイバーたちの終着点よ」

 踵を鋭く返し、蓮子はメリーに背中を向けて目的地へ歩き出す。疲労した脳が止めようとしない論理の流れを断ち切るための行動だったが、付いて来ると踏んでいたメリーは結界探しのフィールドワークに乗り気ではなかったらしく、二人はそこで別れた。
 こうして京都を歩き回る蓮子は、手がかりがすでに途上へ落ちていると信じていた。いつものように、森へ蒔かれた菓子の切れ端、乙女より手渡された糸の束、約束された出口へと続く光なき道があるのだと信じていた。報われぬことが殆ど無い少女時代であったから。
 それから京都中を一人で駆け回り、自室や腰を下ろせる場所で取った幾度かの仮眠の後、淡く白みかけた東の空を目にしてようやく疲れを覚えた蓮子は、その日の夜に約した秘封倶楽部と四季映姫の会までにまとまった休みを取ろうと、一足先に集合場所、蓮子とメリーが通う大学へと向かうために駅へ飲み込まれていった。痺れた思考は今や情報と幻想の整理より離れ、京都へ既に溢れている蓮子とメリーと四季映姫との思い出を拾いはじめた。都内を巡る環状線地下電車の始発に座り、浅い覚醒を弄びながら蓮子は頭蓋の内をまさぐる。地下鉄ではあるが、卯酉新幹線と同じくカレイドスクリーンを使用した壁面に映し出されているのは江戸時代の読本じみて戯画化された京都であったから、流れていく風景が三人で巡った場所を思い出す縁となった。
 例えば、いま視界を流れていった何気ない丘は、現実には四季映姫と初めて出会った神社が現れた場所である。住宅地の外れに位置し、どこか古い空気を残したままの林が繁った丘は、夜になると貪欲な顎を広げて迫ってくるようである、再度訪れた夜、三人を出迎えたのは道路から逸れて伸びる段差の小さな石段と、丘の反対側まで続く歩道だけだった。
 空に羅針盤座が輝く数時間、階段の頂で三つの影は京都を見渡していた。時折は言葉を交わしたかもしれぬ。やがて陽が近づいたのだろう。盆地中にうっすらと膨らみきった霧の向こうに、紫色の錆が滲みはじめた。
その頃になって、ぼやけた山と谷と、なにより人が住むのだろう色とりどりの冷たい光の粒を眺めながら、四季映姫はぽつぽつと語った。
 彼女は本霊に入ったひびから毀れ落ちた一抹にすぎない身であったが、眼の前に広がる『みやこ』も同じく残骸であるとまず決めつけた。そして、もし未だに一人であったならば、孤独が生み出す誇りと少女としての傲慢さゆえにヤマザナドゥの一握を気取ったかもしれないと言った。
 秘封倶楽部は無言だった。それぞれの理由があって無口になっていたのだ。メリーはひとつとして結界を見つけ出せなかったと後からこぼしていたし、蓮子は四季映姫が語るその時、異様な音を聞いた気がして集中力を削がれていた。耳にした事も無いのに、八分儀へひびが入る音だと理解して聞かされた音を。

「精神的な充足を先行させ、人の数を調整して社会の劣化を免れたというこの国は、罪を省みないことに慣れきっている。満たすために伸び続けるだけの罪を、私なら刈り取らんとしたかもしれない」
「閻魔の模倣をしたいの、貴方」

 メリーの問いに四季映姫は首を振る。

「したかった、にしましょう」
 蓮子の背後に転がる船の残骸、竜骨や帆の末路が風に撫でられ、耳障りな音を立てた(そんな物があっただろうか?)。
 四季映姫の肩越しに夜の黒い鉄はすでに溶け始めており、山へ黄色の剣が掲げられつつある。彼女たちは幽かに残る現在唯一の手がかり、幻想の残り香を別の場所に求めることにして、始まりの場所を降り始めた。
 蓮子の視点が現実へ切り替わる。集中力の終了に伴って体の中をのたうつ余韻の蛇を楽しむ少女の眼前を流れていくのは、墨で作られた京都中央駅。駅を始点として蓮子の想起は再び開花し、胡乱な頭へ腰を据えた次の客人は、猛禽じみて遠景を見据える双つの瞳の思い出だった。
 駅から秘封倶楽部の通う大学へ向かって歩き、ビル群も寺社も民家もまばらになった辺りにあるカフェ――最近よく利用する例のオールドスタイルのカフェで、緑の錆が浮く椅子を寄せて三人は話をしていた。
 覚めた琥珀色の陽光に満ちた頃であり、指向性を持った暖気を人工の旋風として温度調節を行う外気用の空調設備も店と同じくオンボロで利き過ぎており、冬の入口に差し掛かった季節にも関わらずメリーは上着を脱いでいたのを蓮子は覚えている。

「今の世の中、認証端末がないと不便だし、食事も自由にとれないし。四季映姫も使ってみる? 私のスペアがあるから今度持ってこようか」

 蓮子はコーヒーを楽しむ四季映姫へ提案した。

「ちょっと、本人認証はどうするのよ」
「そこはアレして。せっかく京都へ来たのに、簡単な買い物もできないんじゃ四季映姫もつまんないわよねぇ」
「電源内蔵型じゃなくて、電位差で動くタイプじゃなかったかしら。貴方のサブ端末。四季に皮膚の電解質なんてあるとは思えないんだけど」
「あー。少し前のだからね。どうだったか」

 楽士の音色を聞き流す時の顔で、四季映姫は二杯目のコーヒーカップに唇を付ける。蓮子はどうやって自分の提案を実行可能にしようか思案に暮れ、いくつかの閃きがカジキマグロの姿をとって注文した黒っぽい紅茶の中を泳いだかに見えた。紅茶の記憶、その中で四季映姫の言葉が蘇る。

「ここは、私が地蔵であった頃の噂から思い描いた『みやこ』と変わりない。瞳に取り付けられた玻璃に映し出される虚像と現実との混成を見、不在貨幣と通信販売によって物に満ち足りたまま外を出歩く人々も、あらゆる雑音を殺すようにして作られた街も、衣服どころか食べ物すら合成された物で賄われている生活も、十より多くの世紀を遡った京都と変わりはない。四十を四十回繰り返した四季のあとでも、行為すべてが罪であるという点において人間が生まれてから変わっていないのね。
 とするならば、やはり私はここでも誰かへ裁きを下すために生まれたのでしょう。たぶん、お二人のために」

 美しい花に水をやり終えたあとのように、蓮子はにこりと笑い、メリーは指で髪を梳く。四季映姫が自らの生まれ出された意味を考えようとする余裕は、もはや京都から消えてしまった心の機微であり、おそらくは美徳だったと二人の少女に告げているようであった。
 京都では風の声ものどを絞められたかのようにか細い。世界中から集まってくる観光客を、涜神の塔より分かたれた千々の言語でもって順路へ導く電子の、存在しないはずの声。そこからはじき出された午後の路上で、少女たちはお互いを充たしていた。

「職務に関わることかもしれないから答えなくてもいいのだけど」

 新しい話題を思いついたメリーが四季映姫へ聞く。

「ヤマザナドゥって、ザナドゥ担当のヤマって意味なの?」
「ええ。おそらく貴方が考えているほど大きな場所ではないと思う。前にも言った通り、やって来た場所の知識はほぼ完璧に奪われているから推測になるけど、隠れ里という程度かしら」

 伏し目がちな閻魔の虹彩が黒炭の色となって蓮子の脳裏に再生される。彼女の目はそこまでの色だっただろうか。黒豹を思い起こさせるほどの黒、欲望に濡れた深海の色をしていたのは、あの時閻魔の話し相手になった自分ではなかったか。

「それってモンゴルのじゃなくて、楽園、という意味合いの方よね?」
「ええ」

 自分がその一言を聞き返した時にこっそりとテーブルの陰で爪を立てていたのは蓮子も覚えていたが、想像で眺めた自らの顔の目尻に鱶の顎じみた皺を浮かべて微笑んでいたのには、さすがに苦笑した。白昼夢にしては自虐が過ぎる。
 醜い顔から目を背けんがため、蓮子は同じ場所の、違う日の思い出を掘り起こす。あれは、温まりにくくなった部屋の寝床に毛布を引き込んだ日だっただろうか。

「向こう側にいける系の話、やっぱり無いわね」

 操作する端末に何も手がかりがないのを確認すると、蓮子は彼女だけに見える操作パネルを払いのけた。物珍しそうにカフェラテを品よく嗅ぎ、すすっていた四季映姫が問う。

「向こう側、とは先日の幽霊神社のことですか?」
「いいえ。この場合の向こう側っていうのは、地球上以外のどこでも。割と開いてるのよ、どこかへ繋がっている結界というのは」
「それはよかった。穴だらけのようでは困りますから」
「人間からすればどちらも同じくらい危険よ」

 こういう起伏のないメリーの声は、苛立ちを押さえるためのものだと蓮子は知っている。おそらくは四季映姫もわかっているだろう。ここでふと、夢見る現在の蓮子は閻魔の少女が蓮子の心をも、常に過去のメリーと現在のメリーを比較している事をも知っているのだろうかと思った。おそらくはそうだろう。
 鉄と炭素の固まりに揺さぶられる夢見心地の少女は知る由もなかったが、四季映姫は彼女たちが思う以上に幻想の、観念の生き物であり、ヤマの側面を強く持ち合わせたとはいえ骨の髄から閻魔であったために、人の心を佳く写し取った。本物の閻魔のように、本人へ写し出してみせる事こそしなかったが、ごく自然な動作として少女たちの感情と思考を胸の内に投影していた。
 メリーを苛立たせているのが四季映姫であるのを本人よりも深く理解していたのが、この可憐な幻想の来訪者であったのは哀れであったろう。
 日を追うごとにメリーの心の中で膨らんだのは、記憶に関する問題解決へ向けての都合の良すぎる展開と存在への不信。そして記憶にある大事な友人によく似た蓮子への、合致しない鍵と鍵穴へ向けるかのごとき焦燥。これら負の感情が僅かに自制の殻を破って四季映姫に向けられていた。
 もしかすれば、必ずや用いると先んじて宣告されたスキマの淵と牙を覚えていたのかもしれぬ。なにしろ、一度食いちぎられているのだ。脳に残された跡が目に見えずとも、模造とはいえ精神の手が傷を探り当てた事も考えられる。
 今も昔も彼女らを知らなんだ蓮子は、少女らしい単純さでメリーの事を残念だと思っていた。とびきりの幻想が来客として現れているのに、機嫌がいつまでも悪いようではもったいない、と。

「私が気に入らない?」

 四季映姫の菫の声。

「あまりに都合がよすぎるの。私のへんてこな記憶喪失、楽園を冠する異界、そこへ帰る理由のある貴方。気に入らないわ、四季映姫。隠している事は何?」

 驚いたことに――聞いたメリーもそのようだったが――四季映姫はバレましたか、と呟いて、香り高い飲料を喉へ一口落とした。

「隠し事は、なぜあの場所で私が、こんな偏った化身で呼び出されたのか見当がついている事。恐らくは貴方たちが原因の半分で、あの神社もどきが残り半分のはず。黙っていたのは、それが知れても解決策に結びつかないと思ったから。あの時起こったことは不可逆な出来事なのよ。遡ったとしても元には戻せない。
 でも貴方は違うんじゃないかしら、マエリベリー・ハーン。閻魔に隠しごとは通じない」

 メリーは答えず、四季映姫の眼を見たまま指を祈るように組んだ。

「自分の腕の中へある物でも、持っている本人に見つけられない物が隠し事になるのかしら」
「自らの目に映らなければ他人の目を以って映しなさい。人の目に映らなければ水面を使って。持つ者でありながら自覚しない事、それは罪と知りなさい」

 舌打ちをするメリーを蓮子が驚いて見つめた。彼女が初めて見せる仕草であったため。
メリーを欠落させた存在が彼女に埋めた劇薬、自覚という名の毒花は、誰知るともなくすでに青々としていたかもしれぬ。
 各々の物思いに耽るしばしの時間の中、蓮子は目の前で時計の針が回っているように感じた。ちくたく、ちくたく。張り詰めたメリーの顔に、神の瓶よりもなお静かな四季映姫の瞳。ちくたく、ちくたく。
 秒針の音に嫌気が差した蓮子が目を開けると、自らが勝手に定めている仮眠場所――大学構内で仲のいい教授持ちの研究室で横になっているのを認め、あっさりと意識の綱を手放すことにした。そうして集合時間の深夜まで、室内の光と人がどれだけ入れ替わろうとも蓮子の寝息が乱れることはなかった。





「三時十九分二」
「そんな場所へ行かせるのはイヤよ」

 悪癖である時刻告知を遮られた事に、なにより告げられた言葉の内容に蓮子は驚く。秘封倶楽部が通う大学構内の噴水前、夜空の下でメリーに倶楽部活動を拒否されたのは初めてではなかっただろうか。

「確かに危ないわ。でも、まずは観察くらいやってみたいと思わない?」
「思わない。そもそも、蓮子と違って夢が現実になってる私はどうするの」
「行こうよ」
「無理に決まってるじゃない!」

 メリーの堪忍袋がついに切れる。少し離れて二人を見守る四季映姫が両目を閉じた。

「諦めなさい。今回ばかりはどう頼まれてもノーしか言えないわよ」
「あの時、月に空気があるだなんて思ってもみなかったでしょう? あの情熱を忘れないで」
「ノー」
「考えを大きく持って。そうだわ。理論上、木星中心だろうとへっちゃらで行けちゃう耐圧服がウチにあったじゃない。理工だったかしら。耐熱もきっと大丈夫なやつ。そういう服を借りてきたらいいでしょう?」
「ノー」

 にべもないメリーに、今度は蓮子の辛抱がなくなった。

「さすがにそれは臆病なだけよ、マエリベリー・ハーン!」
「あなたは短慮よ、宇佐見蓮子」

 己の意見を宣言するように、握られた新聞の号外を指で弾き鳴らすメリーの指は、偶然にも巨大な見出しを叩いた。
『地下三〇〇〇キロメートルに 巨大人工物』
 宇宙へ衛星をぶら下げる事ができるようになった人類だが、未だに自星の中身ーー四五〇〇度を超える高温と、二七〇万気圧で存在する液体金属の中へは手が届いていなかった。その白紙地帯へ全長二十キロメートルの建造物のような物が発見されたと世界の報道機関は報じたのが今日。以前に流行った地震波を使用した測定では汲み取れず、カシオペア・ニュートリノが白日の下へ晒したとされる大地の下の未知だが、どうやら発見自体は十年近く伏せられていたらしいとは、蓮子の裏表ルートが伝えてきた実にオカルトらしい蛇足だ。このお節介な付け加えが、蓮子の好奇心を煽り立てている。無垢の白雪が敷き詰められた平原へ付けられた一つだけの足跡を、宇佐見蓮子は許さない質だったから。

「私たちが未踏の世界へ、というだけなら、借りてこられる耐熱服を着てハワイにある火口へでも飛び込めばいい。でもやらないわよね。なぜかしら?」

 メリーはそんな蓮子への説得を続けることにしたようだ。

「金持ちの道楽じゃあるまいし、なんでそんな事をしないといけないの。私たちが見つけるのは夢よ。人の手が届かない場所を人はずっと探し続けて、その指先を継いだのが私たちじゃない。地球の核にある人造物に目は向いた。あとはそこへ行くだけ」
「もうひとつ。いま私がナルコレプシーじみた強烈な眠りに襲われて、その拍子に結界を抜けニュースが報せる場所へ行ったとしたら、私はどうなるかしら」
「たぶん、気がつくよりも前に死ぬんじゃないかしら。脳へ生体信号が届くより速やかに焼きつくされて」
「最後に、私がそうなる事を貴方があらかじめ知っていると仮定したらどうする」
「どんな手を使っても眠らせないわ」

 メリーは蓮子の顔をのぞき込んだ。

「どうして?」
「バカなこと聞かないでよ。死にたいの」
「ノー。で、さっきの話に戻るけど、私が行きたくない理由はそこにある。友人を死なせたくないのよ」
「なんでそうなるのよ。私にとっては夢じゃない」

 本当にわからないといった顔をする蓮子へ、メリーはもう一度爆発しようと、さっきよりもなお荒い、地球の熱血のような感情を解き放とうと口を開きかける。

「人の夢は不凋花ではありません」

 もし四季映姫の穏やかな声が噴水の水音を伴って流れなければ、メリーは傷つけるための言葉を蓮子に突き立てていただろう。

「マエリベリー。蓮子の夢もやがて現になるの?」
「私の目はどんどん強くなっていってるし、蓮子も向こう側が人によって現になりえるということを知っている。何よりも、夢は現実に変わるもの、という自覚がある」
「それは確かに危ない。一人で向かわせる訳にもいきません。ですから、私が同行しましょう」

 菫に微笑まれたとあっては、少女二人は引き下がるより他になかった。

「もし私にとってもメリーの夢が現になるのならば、溶けた銅を飲むよりは骨が折れそう。しかし、夢であるならば大丈夫でしょうね」
「閻魔も夢って見るの?」

 微笑み、四季はメリーに自動販売機で買ってもらったミネラルウォーターを飲む。

「こちらへ来てからは一度も。ただ、見ると思うわ。閻魔は人間の始祖だから夢も内包しているはずよ。さて、これから一回どこか別の結界に私と出かけてみない、マエリベリー?  親睦を深めるついでに仮説の実証をしましょう」

 こうして、四季映姫とメリーは夢へと出かけた。それぞれがこの夜をどう過ごしたのか、もはや誰一人知る者はいない。だが、はじめて蓮子の知らない秘封倶楽部の夜が訪れたその日、羅針盤の少女は、子狐、小熊、子獅子に山羊が、夜の裾を駆け抜けていくのを感じ取れたかもしれぬ。四つ足が地面を叩く振動と気配に蓮子が振り返れば、せわしく動く後肢だけが夜陰に飛び込んでいくのを見たということも有りうる。
 ただ、終わりを告げた四季映姫の夢試行の後、京都内にて大地の神がおわす大和神社から地核への旅行が企てられた事は確かだ。最後までこの倶楽部活動をメリーは良しとはしなかったが、結局は折れて二人を送り出したのも間違いはなかろう。
 そうして真っ先に蓮子の視界に飛び込んできたのは光、何も見えない白の中へ注ぎ込まれたために天地を失い、身体も失い、琥珀に強く結ばれた花梨のごとく己を失うに至った。少女は自分は死んだのではないかと須弥に思い、怯え、声を出すという生まれながらの行為に及ぶまで数秒を要した。

「四季、そこにいる?」
「どうしました」

 蓮子の指が声の射す方をまさぐる。

「何も見えないのよ。光だらけで。体の感覚もあやふやだけど、私、その、無事かしら」
「五体満足よ。少し待ちなさい」

 指を握られると同時に、蓮子は自分の五体と四季映姫の存在を理解した。光景はまさしく未知。法則性こそ散見されるが、工物とはとても思えぬ巨大な、事前の話通りならおそらくは浮き島と言うのがふさわしい大地、空洞が全くない起伏の中にこの文明の創作者たちがいるのだろうか。
 辺りを満たすのはどろどろの溶岩であろう。だが動作することに抵抗がなく、普段よりは動きにくい空気の中にいるようだった。

「白と黒を分けるって、こういうことなの? 貴方すごいわ、四季映姫! 一緒にきて正解だった」
「それは良かった。この光景は例の地核にあるという建造物でいいのかしら」
「他にこんな場所があるんなら、それはそれで大歓迎ね。さ、それをハッキリさせるためにもデートといきましょう」
「でーと? 探索の事ですか?」
「そんな感じ」

 少女たちが歩く岩、もしくは金属の地底領土は明らかに意図を持って造られた場所だった。何よりも、たまに視線をよぎっていく黒い模様、薄く、小さいが明らかな意志を持った平面が幾何学模様と水影の曲線を表現しながら消えていく物が蓮子を興奮させる。

「ここには間違いなく思考がある。文明もおそらくは。アガルタ、それどころかシャンバラに通じる場所かしら? 昔から知られていた場所なのかもしれない」
「地獄よりもなお苛烈な環境を、楽園のように言うかしら」
「今の私のように、夢でつながり、偶然に助けられて目の当たりにしただけならば突飛な想像じゃないわ。未知の場所を楽園だと思うのは自然な願いよ」

 四季映姫の脳裏に〈偶然〉が浮かべた気味の悪い笑顔がよぎる。まさか〈偶然〉は、ちっぽけな少女の知的好奇心を満たすために、こんな場所をわざわざ探してきたのだろうか?

「あまり接触してこないわね。逃げていくようには見えないけど」
「私達は、あちらから幽霊のようにしか見えないのかもしれない。事実、我々は夢なんだから希薄だろうし」
「この環境で生きていられる身体ならば、地上の生物なんて気体みたいなものかしらね」

 蓮子の足が止まった。まっすぐな路の向こうを見て目を細め、それから挑むような笑みを浮かべた。

「四季映姫、あれが見える? 道の真ん中に落ちている、あれ」
「いえ。何もない」

 意外そうに四季映姫を振り返った蓮子を、驚いたように四季映姫が見返す。

「何も?」
「ええ。道が続いているだけで、何もない」

 急に蓮子が道の向こうを見返す。意図しない音を聞いた人間の反応で。

「引きましょう。何が見えているのか、歩きながら説明して。それとも走る?」

 手を後ろに引く四季映姫の指を強く握り返しながらも、蓮子は動こうとしない。

「馬がいるのよ」

 夢から覚ますべきだとは四季映姫も考えただろう。だが彼女では、人の意識に白黒をつける領域まで踏み込めるだけの権能は無かった。宿命が警告を下していると気づいてはいても、人間のように相手の手を引くことしかできないのだ。夢の中での出来事が夢のままで終わる保証はないと常の人間よりもよく知る秘封倶楽部の宇佐見蓮子に対して、未知がここしばらく見せていなかった(初めてであったやもしれぬ)片側の顔、恐怖の面を見せた。夢が現にならぬといえども、眠りの川端で夢幻に捕まり、そのまま戻ってこなくなった人間など星の数ほどもいたはずだ。

「シャンバラに白い馬。でもこれ、ペガサスよね? あの肌の下に流れている血は、物は何?」

 どこを見渡しても、ときおりよぎる黒い影以外は四季映姫の目に映らない。ましてや馬など。ここでようやく一歩引き下がった蓮子の腕を抱くようにして引っ張ると、少女たちのバランスが崩れ、走り出す事がかなった。
 蓮子は追ってくるのだろう馬に怯えながら走り、閻魔は思い浮かんだ予想ゆえに醒めた感覚で隣の少女を観察していた。〈偶然〉の組み上げた筋書きは、宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンの、おそらくは前者の感情を輝かせ続ける事に目的が置かれているのだろう。知的好奇心の皮紙も恐怖で編まれた柔布も、貴石である魂を磨くには重宝する。二つながらともなれば、輝きの深みも増すというもの。だから蓮子が壊れるほどの喜怒哀楽を与えようとはすまい、と四季映姫は見切りをつけていた。もっとも、匙加減を誤らなければの話ではあったが。
 閻魔にとって謎であったのは、少女が逃げるのは不自然だった事だ。普段の蓮子ならば夢なのだからと割りきり、あるいは乗馬を試みるほどの行動を起こすはずだ。ただの馬であれば。
 変わらぬように思える平らな地面を駆け続け、ようやく意識が引き戻されるために煙の柱となっていく蓮子を見届けながら、四季映姫は追ってきた何かがいるのであろう場所を見つめた。

「魂を持つものであれば宣告します」

 閻魔は言った。蓮子と同じく夢の終わりを告げる霧散が始まった身体はこの星最古の火の中で燃えていくかのように揺らめいたため、緋の衣をまとい、大きな王冠を戴き、黒と黄の光に満ちた肌色の中で赤い目をしているヤマそのものが現れたかのよう。

「この身ではどれほどの価値があるかもわかりませんが。これより先の生、我が鉄符を受けたも同じと知れ」

 次の瞬間には霧よりも淡く炎と溶けた。
 それから夢より覚めるなり、三人は異変に気づいた。
 メリーと四季は飲料の入った容器を地面へ叩きつけるようにして投げ捨てる蓮子を見て。蓮子は、口にしようとしたボトルにぎっしりと髪の毛が詰まっているのを見て。
 髪は先ほどまで見ていた夢と同じ色で輝いていた。無色の涼しい輝き、夜の翼にかけられた小さな鋼の抜き身、月の世界に散る冷えきった銀、すなわち星さながらに。





 大学構内のカフェテリアに座る蓮子は通路をじっと見つめていた。夜空を見つめる、あの目つきで。地核への冒険以来、蓮子の視界で星座は受肉し、地上を闊歩するようになった。彼らは人間の空想より生まれるなり黒い天空へ放逐されたが、三千年の時間を経て戻り来るや、久しぶりの地上を堪能していると見える。宇佐見蓮子は星の産砂となり、彼らの母となったというわけだ。蓮子が街中を歩いていくライオンを見たのは二十日ほど前。合成定食屋で座ったテーブルの横に薄汚れた祭壇ができていたのが同日午後で、夜には物悲しい目をした巨人が、走り去るバスの中へ詰め込まれてガラスを掻きむしっていた。

「貴方の眼を元に戻す事が先決じゃないかしら」

 対面に座ったメリーは蓮子の視線を辿りかけて眉をしかめ、コーヒーカップに手を伸ばし、水面を見つめてから元に戻した。名残惜しそうに視線を戻す蓮子が応える。

「私のこれは後回しよ。目的は変わらない。貴方を四季映姫の故郷へ連れて行く」
「目の下の隈を隠してから言って。珍しくファンデーションなんて使ってるけど、丸見えよ」

 不可思議との接触が蓮子の眼を深化させている、とは四季映姫の予想。度重なる結界暴きに加え、先日の地核への遠出、あまりに人間離れした世界への歩みが決定的だったのではないかと語った閻魔はこうも付け加えた。「そしてまた私も、幻想の塊よ」

「見栄えが悪いなんてどうでもいいのよ。今この時に於いてはね。メリーにも観測できない夢が私に降りかかってきてるの。準備が可能だった観測機器にはすべて反応無し。貴方の瞼に手を当ててビジョンを共有する事もできない。なら私以外の誰が、受肉した星座の存在を証明するの。星を見て数字に翻訳するこの目がある事を、今ほど幸運だと思った事は、まぁ、そうそう無いわ。
 これは私にとって現実よ。メリー、貴方の夢が貴方にとっては現実のように」
「引き替えに、端から見ていて判るほどの速度で磨耗していく貴方を眺め続けろって言うの? いつも勝手ね。私の記憶は直そうとするのに、自分の疲労は斟酌しないなんて」
「疲労はほっといても癒える。記憶はそうじゃないでしょう。もちろん、秘封倶楽部としての活動はちゃんとやり遂げるわよ。心配しないで」
「自分が回復しそうにない勢いで変わっていってるの、わかってないのね。いい機会だわ。今日言いたかったのはね、秘封倶楽部の活動、少し止めるべきじゃないかしらって」

 本題を切り出したメリーは途中で口をつぐんだ。蓮子の表情が硬くなり、なおかつ相手も想像していた事だったらしいと知れたから。

「嫌よ」
「休養も取らずに動き続けようっていうのがおかしいの。大学だってある。まだ蔑ろにはなってないけれど、『まだ』なだけよ。これだけ時間を考えずに前のめりで動くなんて今までなかったじゃない。私たちは異常に巻き込まれてはいるけれど、私たちまで異常になることはない。少し休むだけじゃない」
「休むんじゃないわ。停滞よ」

 疲れを見ぬ振りをする若さが蓮子を駆り立てていた。自然、感情をも自らの魂にくべる薪としていたために、普段の分別が消し飛んでもいた。今の彼女は年の割に頭の切れる少女ではなく、みずからの欲望に振り回される人間だった。

「壊れながら進むなんて間違ってる」

 そして、ねばり強く説得しようとするメリーもまた、寛恕からではなく己に忠実たらんとしての行動だった。己の恐怖に忠実な人間として。

「ずいぶんと弱気じゃない」

 声に潜む毒がメリーと蓮子本人を傷つけていく。

「いいかげんにして頂戴。蓮子」
「何を怖がってるの」

 その一言は蓮子の意図したように飛び石としてメリーの心の水面に波紋を立てたわけではなかったが、代わりに星のような短剣となって友人の深淵目掛けて貫き落ちていった。隠していた心を見抜かれたのだとメリーは錯覚し、動揺した。それゆえ口を飛び出す言葉はある意味で本質。

「結界を見るのは貴方じゃない。私よ」
「脅してるの?」

 だが食い違った挿し木から幹は伸びぬ。枝に降りて眠る鳥、水に潜る魚、墓のごとき無言が添えられた。

「休むなら休めばいいわ。お疲れさま」

 席を立つ蓮子と、いつまでもコーヒーカップに手を付けないメリーが残された。
 これが一週間前。
 冬の山は幹と石畳と剥き出しの土の色。既に落葉の大部分は土に還っており、昨日の夜半わずかに降った雪が新しい白色を加えたために、かえって色彩を奪ったような錯覚をメリーに与えていた。彼女は一人で山中の観光道をぶらついており、経路から少し外れたところにあるベンチへ座ると、どこからともなく四季映姫が現れた。おそらくは随分と前から付いて来ていたのであろう、モノクロームの風景から滲み出てきた閻魔の足音に気づけなかった自分を罵っていると、メリーに声が掛かった。

「私はいずれあちらへ帰るでしょう。貴方達の手によってか、よらないとしても」
「だから為すように為しなさい。貴方のことは二の次にして、私たち秘封倶楽部のやりたいようにやれ、と」
「貴方はやはり頭が回る」

 ベンチの空いた場所に四季映姫が座る。

「貴方の言動がブレないから予想できるの。でもね、言われるまでもなく私たちは好きなようにやってる。だからこうやって、たまにぶつかるの。ただのケンカよ」
「私と出会ってからは初めてよね。そしておそらく、ここまで尾を引いてるのも初めてじゃないかしら」

 メリー己のいらだちをぶつけまいと、歯と舌で口の中を縛り付けた。

「なぜ話さないの、マエリベリー・ハーン。貴方の恐怖を」

 見せたくない部分まで見透かされたがゆえにメリーは相手を視線で噛みちぎらんと振り向いたが、相手の無表情に近い微笑にぶつかり、声を出すのは一度だけ控えた。

「蓮子にも。私にも言わない」
「この悩みは私の物よ。解決策も私の中にある。それに、貴方なら言わなくてもわかってるんじゃないの?」
「今の私はね、マエリベリー・ハーン。ただの少女よ」
「知ってるわよ」
「わかってほしいのよ。今の私には鏡も力もない。向き合って貴方と話すしかできないの」
「知ってるわ」
「そうよね」

 四季映姫は暖かい日本茶の入った容器を取り出すと、うつむいたメリーの手にそっと触れさせた。

「貴方たちにもらったお金で買ったの。ああ、でも、六門銭の対価みたいで縁起が悪いかしら」

 メリーは腕に触れた温もりを彼女が手にするために、たぶん結構な苦労したのだろうと想像した。指先を使って容器を受け取り、掌で包むようにして熱を奪う。

「蓮子の目に起こっている変化は私のせい」

 四季映姫は言った。

「ヤマは人間の始祖の一人で、一番先に死んだ人間であることから、全ての人間の先頭を行く者。死の国を治めるもの、死を管理するもの、正義(ダルマ)と同じもの、定めによって治めるもの。そして、対であるもの。
 彼は対を象徴する側面がある。妻は双子の妹であるヤミーであり、天国の支配者と地獄の支配者を兼ね、一日の中で快楽と苦痛を味わうべく定められた。私は恐らく、出会ったあの神社で、対を際立たせるために使用されたのだと思う」
「そこに二つの物があれば、何だって対になるじゃない」
「宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーン、神道と仏教、現実と幻想。でも一番望まれた対称は、恐らく天津甕星と宇佐見蓮子の眼でしょう。これを縁取る錦糸と鋼玉の被衣が私という訳」
「なぜ貴方なの」
「一番手に入れやすい閻魔だったからでしょうね。私たちの背後に立つ、あの誰かにとって」

 淡い太陽が世界を染める冬の昼に風が吹き、葉をすべて脱ぎ落とした木々の幹を縫って行く。音を立てずに過ぎ去ったにも関わらず、メリーは全ての指を縮こまらせた。

「怖いの」

 四季映姫もまた無言。

「境界を見つける度に、夢で未知の世界へ行く度に、私の記憶が変わっていく。たぶん蓮子と過ごした、秘封倶楽部としての日々が変質している。
 月へは見たこともない女の人と行って兎達と踊った。新幹線でヒロシゲに乗りながらパノラマビューについて談笑したのは誰かのお祖父さん、私が夢を見始めた頃の相談に乗ってくれたのは片腕のないアジア人。博麗神社へ行った時の思い出は、まだ顔無しの誰かと行った事になってるわね。たぶん蓮子と。
 蓮子は私の記憶を元に戻そうとしてくれてるけれど、活動をすればするほど元には戻らなくなっていってる気がする。最後には貴方の世界へ辿りつけて元通りになるかもしれない。でもそんな保証はどこにもないじゃない。ねぇ、今わたしが確信を持って蓮子と過ごした日々と言える記憶も、このままだと塗りかえられてしまうのかしら? レミングスが後から補充されても、崖から落ちる数のほうが多い場合はその時点でおしまいじゃない」
「無明に怯えて足を止め、口を噤み諦めることは例え年若い子供であっても罪なのです。暗闇の中を進み苦しむことと同様に。生きることと同様に」

 メリーは俯いたままだ。

「貴方は迷わなければならない。全てを蓮子に話しなさい。それが今の貴方が積める罪よ」
「他人事でしか無いのね」
「そうです。私は私の中で判断を下す者ですから。でもね、マエリベリー。私の正義は貴方に歩き出して欲しいの。四季映姫として、小さな私の小さな友人にはしあわせになってほしい」
「あんたなんて大嫌い」

 破り取った跡のあるメモ用紙を四季映姫の手元に置くと、メリーは顔を見せないようにして立ち上がった。四季映姫がメモを広げる。

「本当よ」
「そう。じゃあ私はマエリベリーの邪魔にならないよう、散策の続きをするとしましょう。例えば、この覚書にある寺社なんて興味深い」
「……途中まで一緒に来なさいよ。お茶のお礼、するわ」
「いただきます」
「お汁粉なんてどうかしら」
「素晴らしい」

 今や山は菫青石色となっていた。





 秘封倶楽部の二人は大学構内の池辺で待ち合わせをした。開講中とあってか人もまばらだったが、寒い風が吹く中でも同じく腰を下ろしている者がいるにはいた。人目がある中での会話を善しとしたのは、穏やかな会話をした思い出がここにあったからかもしれぬ。噴水が寒々とした空の下でも止まること無く水模様を描く最中、メリーは自分の身に何が起きているのかを蓮子に話した。
 話が終わっても、二人はしばらく座ったままだった。蓮子は自らの指を撫でさすり、メリーはそんな彼女をぼんやり眺めている。

「一人でやるつもり?」

 蓮子はメリーと目を合わせる。指は動かしたまま。

「そうもいかないけど」
「でも、やるんでしょう。どうやって私にその事を切り出そうか、途中からずっと迷ってるんですもの」
「メリーは、やっぱり活動するって顔になってる」
「そうね。そのつもりになったの」
「なんで」
「貴方、鏡は覗いてる? 私達の歳でそんな濃い隈が眼の下にできるなんて初めて見たわ。そんなもの見せられて、引っ込んでいられるわけないじゃない」
「少し頑張りすぎただけよ」

 メリーの脳裏に四季映姫がよぎる。あまりに下手な嘘を、メリーですら咄嗟にわかってしまう嘘を蓮子がついたから。

「人に優しい嘘をつくのであれば、自分も騙せない嘘は使わないことね。星の獣、ずっと見えてるんでしょ」

 自らの精神が摩耗していっているのは、黙り込んだ蓮子自身にも判っていたことだった。まるで理解できない出現位置、感触、行動。観測する度に身体に内在する何か、魂と呼ばれているものかもしれない何かが精神ごと削れていく感覚を味わいながらも、蓮子は『活動』を止めることができなかった。誰が彼女を止められたというのだろう? 好奇心こそが全てであったのだ。

「バカね」
「そうよ。知らなかったの?」
「残念ながら」

 ようやく二人はお互いに笑った。ぎこちない物ではあったが、心の緊張を解きほぐすには十分すぎるほどの笑顔。

「負担がかかるのも事実だし、まずは境界を超えないような活動をゆっくり進めていきましょうよ。私は、目を使わないで済むようなやり方を思いつくことにするわ」
「なにそれ」
「目を閉じていれば受肉した星座は見えない。おかげで一眠りが捗ること捗ること。でもやっぱり勿体無い気もするわね。さっきもすぐそこ、池のところに綺麗な髪の女性のような星座が座っていたもの。アンドロメダか乙女じゃないかしらね」

 メリーの笑顔に疑問が混ざった。その直後、美しい金の髪ごと相手の顔が引きつるかのような怯えを蓮子は見て取り、月よりも冷たい針金が心臓に差し込まれた。なにか良くないことが起きようとしている、と漠然とした不安に蓮子の背骨が締め付けられていく中、メリーの目線がわずかに動く。見ているのは蓮子の後ろ。速さは歩み来たる人を見るそれ。

「ゆっくりされては困るのです」

 降ってきた女の声は月の暑さ、持ち場から逃げ出した夜空の彼方、凍る緑柱石の夜啼鳥。蓮子の髄が凍りつく間に、少女は頭を掴まれて地面より浮いていた。蓮子を持ち上げている、おそらくは人間と同じ大きさの五指は、片手で彼女を吊り上げているにも関わらず柔らかで、むしろ軽やかなほどの感触を伝えてくる事に蓮子は完全に混乱した。そのため、後ろの声が告げる意味と、メリーが漏らした絶望の吐息の音色はついぞ聞こえずじまいだった。

「さあ、蓮子にも見せてあげましょうね。あなたを動かす言語森を」

 鉄槌がメリーに振り落とされる。速度は月の光、凶器の名は宇佐見蓮子、担い手は少なくとも人間ではない。蓮子はメリーの頭にまばたきをする間もなく――もしくは許されず――叩きつけられ、水へ飛び込む時と同じ感触を味わい飲み込まれ罇d i タ 、 4ム シ€(IXュケマョ」タat M I0エ゙・鈼]゚・・ヌイiア・鮱=゚スh竣L・M・!msモロヨ姻v・M6 B メ・・)>ァx&・;テ・・ ・ツw・・・ミ・Å・駱杳€eAゃ・@烟<ーヌ纊'x P`ク ・.5ネ w,)會eヤ:エニツツM注・HM・c.タ~yア・0C・8ニnZョヨ菶vォ\・・W羽d)・4Q叡・膸pa&JBア朽・鮹・(鞋ンgt]5」鍾O%%--nUレ・{・アミ2xマKc扮・QAネl^2゙ワ2凩訐詬瑩幔槹俊゚剌・・アゥ*}擅>・Hィk9O5xハW・_ゥQuB,罨説rV'別)ネ)ク潭・ッワ0タノクl黽・ル匂UオqCッ延蘚・チM@"・歔・Mメⅱm腕・6XoO. Hoチウ€T・ ュュゥヤ・シ・2 PlHムゥヤヨ 「€j I・nトネ44・]ユラXH d瀏A・<・蓋uウレキク@・2 A €(@@ セ珎‡G・ 佶航 ナC・P艶CE?ナ*!o@O8ア・ヌg簍/・ リ・ッ・「Aニoクt萃ヨekラ€羽dm€ndEf€Vゥネpネ@ 冽T ヒ」*テ4ー ネノ・JOrY'ネ凾・ ・蕕4ノ・B 脇゚熈Tサチ・CJ尹﨡ゥ・U濤・7Hサ刹b・xョヨ\h/㌔g"ケカ・・、€ヤ&€n精ハcキ・;RWD]顕ヲU0[~#簇 Xョ9sgvv飯ァ・サクF゙8テ「フ)`淌P攀JzG・慊・レ∪i・KZウヘP・リ蝨燁J0・XX編・x浜nVュ楷オ・ロキ椚|銛・fホ?{ウ9・~<*T跨9$嬌L/ツ!b芝酒Hノ魄n。ホ・ET,66M疽Sヒ・Oコ9'・タ丞+"`IG0H校ォ鱈・;ュメ238lャ。iイj涇@:@8猛q゚癢mh73゙Bエエ・ヲ・檎KUオ 迫HェOXl羽d状',S㍊€ ADレ・ 俔F・朽リ史A・(2コヤDメF:`€ーネB轍E茄サ・・Tタ蝸+オM [ヨオmvアU巫モモォXXロCハ@"r%Jケr5祷n禽 龍ネBル3・ラゥbュ;;ロキ㌣bbシゥhVu3・動t娃ヨ{xヌMタQ・U・・。臑ウm",頷・]廰#・ ・9ンヤ蔆h^ 盥h抜⑮恃ムエミ"・9dB<ィ」ネ齟マ従b癧/ニヘBナHKアルe゚u礼嘯釭0ソスカ詈twョヨ・マ,6%hhH泉ムメンモィニ「)0サ<リヒg`ヨ"n。Rh%ヨqミ€W~・CX.Yム・ホ(|zU:/ヲ・戛・ーー)ャオ・7ュs杉9(トyシ!PCモ ・C・}・cニコ0h-├・Cァゥ・@€チト )炳i潮.y0ヤレリ善d礪伏)"榕#ロネTウq・s藜;/・j゙.hヒ ゚゚ァ・ wケエpZ沖c^}2ェ、0盗bnイ(wjヲR qD忍Lc,K7:ィKuィ羽dC浄ウ2ム・J潭蕭P`ノ`キF 7)ータ ムTホ"マセfキ赦・シPp・ハフb广~ェ9ム・}i)0マ也ア゙「*蹟ンョVw.YN{オt・・ア疏、3E8ナ#JH謗・ニ瘧ュソ2{惞K0ラ几#"t壗ユウF・Jラp&抜鴿ノ%{R;5dOソdG・鰛_'2ミj晗3Ⅴナ」hL・ユy・ホg@テヒgサsュ?M略褜 I 凵yp團H阨<・ゥ゙「陷T膽}・ィ(,t・;ネ5⑰ヒ^フュ@・レB*H1・gーz蓁5ネZ・ミUュホFTス}イGi哢渾I5Q5Eogoユヲ・アK'

 絶叫して振り回した腕がメリーに叩きつけられ、川面から引き剥がされた蓮子は背中から地面へ落ちた。むせる間もあればこそ、地面を掻き、か細い声を張り上げ、足で空気も石も蹴りつけた。見たものを全て身体の中から絞りだす機械と化したように。そのためならば、多少自らが剥がれても構わぬと。蓮子にとって蓮子自らが理解不能の対象となり、恐怖と憤りの囚人、果てのない人間の空想の被害者となっていた。
 同じく地面に倒れるメリーは、相棒に打ちつけられた肺がせわしなく動く以外ほとんど動かなかった。川に写った丈高の百合の影が自らを植物だと思い込むことは不思議ではない。だが手折られた百合が川の流れに差し込まれたとするならば、百合の影は己をどのように悟るのだろう?
 天を仰ぐメリーを覗きこむようにして女が、蓮子が神話の乙女と評した女の笑みが見下ろした。腰から下は結界の裂け目に飲み込まれている。否、裂け目から上半身がはみ出している。

「貴方、もうだいぶ記憶が上書きされてるじゃない?」

 メリーの瞳が揺れる。結界の向こう側から潮の匂いが薫るようであり、涙が海へ帰ろうと盛り上がった。

「あそこに転がってる彼女に全部バレちゃったわよ。貴方が人間じゃないのも含めて。さあ、急いで、知恵を絞って昔を取り戻すのです。人の知恵は顔かたちが違うように違っているのです。阿呆は阿呆の知恵でしか動きません。
 貴方の知恵はどうかしら? 彼女の知恵はどうかしら?」

 涙が頬を伝うよりも早く、まばたきの闇が降りるより速やかに女は消えた。メリーは病床から抜け出すように起き上がると、ようやく意識を断ち切ることを許されて眠る蓮子の側へ座り、腿へ頭を乗せてやった。彼女の額を撫でさすり、夜の黒髪を手指で静かに梳いた。目を覚ました蓮子がどのような顔をするのか、怯えながら。





 彼女は己に夢を見せていた。メリーの指が無意識の動きで枕を、寝床に広がる髪を撫でつけ、しばらくは目を閉じたままで微睡みを堪能していると見えたが、違和感によって急速に頭が冴えていったのだろう、あらゆる動きがこわばり、急に目を開いた。ベッドが普段と違う。それでいて馴染みのある感触と視界が、メリーの時間感覚を狂わせた。掌がゆっくりと握られる間に、彼女はそこが以前暮らしたサナトリウムである事を確信し、そうして自分の記憶を疑い、やめた。
 薄いシーツを体から流れるままにして上半身を起き上がらせ、全ての調度、衣服、光景が当時のままである中、見つけた一点だけの異常、枕元にある黒電話に指を添わせる。
 まず最初に三人で夢に飛び込んだ記憶を開始点として信じる事に決めてから、彼女は自分に何ができるかを整理し始めると、いつも率先して脳の中に馳せ参じる言語を用いぬ声、すなわちメリーの勘が『ここから動いてはならぬ』と囁いた。窓から溢れた陽を掬わんと白い手をかざし、溜まるぬくもりも記憶の通り。心を安らげるこの夢の裏に潜む物へひとしきり考えを巡らせ、メリーは博物館で見た覚えのある受話器を持ち上げ耳に当てる。それだけでコール音が鳴り始め、現在の電話と同じ音が使われていることに驚いていると、一粒のノイズの後で向こうへ繋がった。

「もしもし」
『メリー?』
「蓮子ね。大丈夫? こっちは無事よ。四季映姫が見当たらないわ」
『こっちも大丈夫。で、四季映姫はいないわね。そっちは外? 中?」
「中よ。トリフネへ行った後に入れられたサナトリウムそっくりな部屋にいる。ご丁寧に患者服に着替えさせられてね。ここから動かない方がいい気がするから、貴方をすぐに探しへ行けそうもないんだけど」
『そもそも、私のいる空間とメリーのいる空間が繋がっているかもわからないじゃない。いいわ、私の方から動いてみる。メリーの勘は当たるんだから、そのままでいて頂戴』
「貴方は部屋の中にいるの?」
『ええ。我が学び舎の二階廊下』
「そこから外に出ないほうがいい気がする」
『了解。じゃあ、四季映姫を探しながら合流するとしましょう』
「無理しないでよ。夢の中だけど」
『わかってる。それじゃ』

 電話を切り、蓮子はレトロで汚れやすそうな電話を脇に抱えた。昔は有線で繋がれた据え置きの電話機を使っていたと聞いていたが、思ったよりは軽い過去の遺物を幾分か楽しんで抱える。いくつかの恐ろしい体験も、結局は彼女の心から好奇心をぬぐい去ることはできなかったようだ。蓮子は沈む夕日のオレンジ色に染まった世界をもう一度見渡した。子供の平らかな世界からは高すぎる茜の色、まだ伸び切らぬ小さめの心が稀に感じた平穏を与える色、自らの名を探しはじめるために用意された終わりゆく日の色が、いまや一人ぼっちの少女を見下ろしている。
 蓮子は先ほどの電話で嘘を少しだけ混ぜていた。今いる小学校の廊下は見覚えがあったし、二階でもあったはずだ。ただ校舎や部屋といったものが悉く消し去られ、地面に敷かれて寄木細工模様となった廊下の一部と、「宇さ見」と名札の付いたロッカーがぽつりと置かれていた場所へ蓮子は立っていたのだ。足元に転がっていた電話機が目覚まし代わりである、メリーの声から始まった今回の夢。
 小学校もどきは敷地内だったと思われる場所まで懐かしいアスファルトに覆われ、広がっている。その向こうには家や道が見えていたが、こちらもそこかしこが不自然に欠けていた。人間も動物も未だに見えない。
『外に出ないほうがいい気がする』
 歩き出した途端、メリーの一言が思い出される。「最初の一歩目から守れなかったわ」と目で、口の端で語り、蓮子は大きく息を吸い込んだ。足は自然と帰宅を選んだ。京都に比べて古い街並みが続く東京は、夢の中でも光学迷彩を備えたビルなど無く、それどころか夢であるためか影絵のように空へ向かって実寸以上に太く、高くそびえ、地平線の端が紫になりつつある空を容赦なく角張った黒で塗りつぶしている。
 自分が地平線を認識していることに蓮子はおかしくなった。たっぷりと建築物が立ち並ぶ本来の東京で、地平線など見えはしない。
 そう言えば初めて地平線を見たのはいつだったか、と蓮子は記憶をまさぐりながら、何時まで経っても自宅へ着かない帰り道を歩いた。
 おそらくはメリーと見たのであろう地平線があやふやに脳裏へ浮かぶ。なにしろ夢の中だ。のろい頭では記憶の点描をしっかり拾い集めるわけにもゆかぬ。蓮子の家も、彼処へ見えている地平線上あたりにあるのだろうか。それともまだ先に。時間の感覚など初めから蓮子にはなかったが、疑惑が胸を浸し出した。
『もう止めにすべきではないだろうか。ここは明らかに異常。一度休み、備えるべきではないか?』
 ぬるついた汗が首を流れ落ちているように蓮子は思い、手で振り落とすように撫で付けながら歩いた。やめよう、とは思わなかった。自らの心の声がそう言わなんだため。歩き続けたいと願う少女の耳に電話のベルが聞こえてきた。

「もしもし」

 蓮子は返事をした。

『私。いまあなたの後ろにいるの』
「部屋から出ないんじゃなかったの」

 膝の関節が軋み、肉の反応が遅れだした。夢のなかでも疲労は溜まるのだろうか、と蓮子は逡巡する。咄嗟にひらめいた解決法は休息であったが、彼女は却下した。

『無理よ蓮子』
「やっぱりそこから出られそうにないのね。もうちょっと休んでなさい。私の方も収穫はないけど、目標ができたの」
『私のことじゃなくて。あなたのことよ。何にもなりはしないの』
「ええ?」

 聞き返す蓮子の背中に軽い痛みが走った。変な姿勢で歩いていたのだろうと結論付け、なるべく背筋を伸ばす用に意識して歩く。そういえば、受話器を取っていないのにどうして会話ができているのだろうかと蓮子は首をひねった。

『どれだけ歩いたってね、歩くだけであなたはおしまい。あなたは選ばれてないのよ』
「なに? 手がかりがあったの?」
『あなたは選ばれたりしない。何者にもなれはしない。その目はなんにもなりはしない。その手は何もすくい取れやしない』

 髪がずしりと重くなる。腕が、腿が、動きをやめようとする。振り返らずに歩き続ける少女には知る由もなかったが、遥か空の果てに滲み出ていた夜が伸びてきて、蓮子の身体にびっしりと張り付いていたのだ。
 電話はまだに鳴っていた。蓮子は受話器を掴み、ありったけの力を使って取り上げた。

「例え選ばれてなかろうが行くわよ」
『訳がわかるように言って頂戴』

 受話器からはメリーの声。

「おひさしぶりね、メリー。手がかりなし。あと、外に出ちゃった」
『それは遠回しに、私にも部屋から出ろって言ってるのかしら』
「どうしようもなかったのよ。ねぇ、そっちで何か変わったものが見えたりしないの」
『我が病室に変化なし。どうしようもないって、何かに襲われてるとかじゃないでしょうね。声も疲れてる気がするし』
「襲われてなんかないわよ。フィールドウォークで疲れてはいるけどね。こちらの時刻はただいま夕方なんだけど、私の目じゃ何にも見えない。一番星くらい見えそうな時間のはずなんだけど。ああ、星座がうろつきまわってないのは懐かしいかな」
『なにやら楽しそうね』
「東京の景色だもの。私の田舎、ちょっとヘンテコになってるけど、故郷の夕焼けの中にいる。現在は帰宅途中ってわけ」
『前に連れていってもらった場所かしら。東京よね』
「そう。多分、東京へは私とだけ行ってるはずよ」
『そうね。きっとそう』

 メリーの沈んだ声に呼ばれ、正体不明の声が再び、今度は蓮子の脳が作り出した虚声として囁く。何もすくい取れはしない。
 その時、メリーへ声を返そうとした蓮子の目に映った物があった。

「おやおや、我が家が見えてきた」

 おどけた口調であったのは、無意識に話し相手を思いやってのことだっただろうか。夢の中ゆえ息切れこそ起こさなんだが、身体が酷使されていた事もあり、蓮子はいくらか考えなしに喋った。

「あんなに黒かったかしらね」

 夕日が逆光になっているためだろう、と蓮子は考えていた。地平線上へあるように見えるにも関わらず、家路への最後の曲がり角の先に見つけたかのような近しさを感じるのもそのため。黒い家じみたものが自らの生家だと、宇佐見蓮子の心も、脳も疑わなかった。

「蓮子?」

 だがメリーは違った。彼女はその時、心臓を冷えた煙で撫でつけられたのだ。受話器を耳に押しつけるがすでに音は絶えていた。いや、絶えていない。静かな、吉祥草の揺れる音が彼女の耳に聞こえた。
 メリーはベッドから飛び出したが、なおも扉から外へでることには躊躇した。柔らかな陽射しをたたえる窓も無論の事、壁を破るという荒唐無稽な想像も含めて、自らを外へ繋げるであろう行為の全てが危険に繋がるのだと今や悟っていた。
 信州のサナトリウムを模した病室は、以前のようにひとつの結界となってメリーを閉じこめている。室は万人に見える結界であり、彼女も病棟ではただの人間であった。過去においては。だが現在においてもそうであるのだろうか? 療養のために山奥へ作られた院で、彼女は地下深くにある地獄を見てきた。
 この時、地獄のイメージが直感と結びつき、メリーと現実を隔てていた薄皮が顕在したのご今の夢、少女を地獄から隔離している結界がこの病室の幻、想起なのだと思い知った。部屋の外にあるのは地獄、破滅だ。
 地獄の縁に腰掛けていた己にメリーは身震いし、蓮子がどこへ向かっているのかと思い至るや、髪を跳ね上げてベッドの上の電話機を胸に抱き寄せ、凝視した。メリーと蓮子を繋げる糸はここにある。だがどうやってたぐり寄せるべきか、メリーには見当もつかなかった。こうして考える間にも、蓮子は前に進み続けているだろう。
 だが電話は糸ではなかった。蓮子とメリーの間に横たわっているのは間違いではなかったが、二人の手と手を結ぶものも、また手と手である事を理解した。メリーは以前、蓮子と握った手と手を一種の結界としてみなした。二人の差異を境界線として認識した。結界として区別し、操作した経験を思い出した。
 この手はどうであろうか。幻想でできた少女の手は、メリーに何を認識させるだろう。

「やっぱり気に食わないわね、貴方」

 怯えながらも勇気をしっかりと携えた声でメリーは言った。己の構成数式に鱶の顎じみた痕を残した存在が記憶の中で声もなく笑い、唇でこう言った。『もし貴方が妖怪になれば、どんなのになるのかしら』
 以前、人間の属性は死だと閻魔の少女は説いた。では幻想の属性は? 地獄の属性はどうであろう?
 メリーは黒い電話機を例の目つきで眺めやり、目的の物を見つけるとそこへ指を走らせた。病室からは一切の光が失われ、少女と電話機も消え去った。
 同時に、黄昏の街で蓮子は家路への最後の一歩を踏み出したが、二の腕を強く掴まれて後ろへ引き戻された。反射的に振り向いた先にいたのは、自分より少し背の高い、大人と子供の境界線を少し過ぎたコーカソイドの女性。その顔、その髪、なによりもその目が彼女の正体を物語る。

「メリー?」
「そっちは外れよ蓮子。ううん、この夢自体がハズレ。もう戻りましょ」
「四季映姫がまだ残ってるわ」
「大丈夫。ここにいるわよ」

 メリーは手にした黒の受話器を見せる。蓮子は白い受話器を見やった。夢が終わった。





「黄泉だったの? あそこ」
「その入口でしょうね。なまじ私が死者の国に縁があったせいで、いつもとは違う在り方を強いられた。そのせいで行使できるようになった部分もあったから、なんとか二人を繋げることができたのだけれど」

 夕暮れカフェテリアで、無事だった三人が顔を寄せていた。

「冥界経由で四季映姫を戻す方法は失敗か。仏教の地獄が見えるって情報だったんだけどなぁ」
「あらゆる死後の世界は幾つもの顔を持つけれど、本質はひとつよ。匙加減がズレただけで全く違う表情を見せるのは仕方のない事ね。それよりも、二人が無事で本当によかった」
「四季映姫の中に、細工された情報、記憶があったの」

 必要以上に平坦な声音でメリーが言う。困惑を隠すかのように。

「いくつか思い出せない記憶があるって前に言ってたやつ?」

 秘封倶楽部の視線が四季映姫に移る。

「正確には大部分ね。権能と同じく削ぎ落とされたと思ってたその中のいくつかは、マエリベリーが言うように検閲がかかっていたみたい。今ならわかるけど」

 少しマエリベリーの気持ちが分かったわ、と閻魔は笑う。

「私が管轄する地獄は、とある別世界の魂を循環させているのは御存知の通り。今回わかったのは、別世界の名が幻想郷だという事。そして、その世界は或る結界によってこちら側のと区別されている。その結界の名前は」

 四季映姫はそこで言葉を止めてメリーを見やり、メリーは一層乾いた声で続きを引き取る。

「博麗大結界」
「はくれい?」

 メリーは少し考え、メモ帖をめくりながら仮想現実のデータベースも検索していく。

「ええと、博麗神社の、はくれい?」
「うん」

 三人は黙り込み、しばらくの間、飲み物だけが口にされた。

「他に、博麗神社に関して情報はある? 四季映姫」
「幻想郷の側にも同じ神社がある」
「向こうの物も無人でボロボロ?」
「いいえ。管理者がいる。でも人間よ」

 蓮子は気のない返事をして、机を数回指先でたたいた。

「話がうますぎる」
「私も同感」
「四季映姫は?」
「言わぬが花かしら。私のどの部分が仕組まれたものか、知れたものじゃないわ」
「決まりね。そもそもメリーの記憶をすっぽ抜かすわ上書きするわやりたい放題の相手が、そんな綻びを残してしまうなんて考えられない」
「でも手がかりには違いない。結界の様子を見るだけならもう一度あそこへ行くのもありじゃないかしら」
「無しよ。様子見でメリーの能力は使わない」
「でも」
「何かありそうなの?」
「……いいえ。そんな気はしない」
「博麗大結界が区切っているのは、常識と非常識の境界線です」

 四季映姫が言った。

「その区別が付き、発見できる場所であれば、博麗神社でなくともおそらく向こう側へ至れる。黄泉への活動は、その意味で言えば方向性は正しかった」

 星の鶴が道の真中へ降り立つのを蓮子だけが見た。

「私が見ている星座も非常識なのよねぇ。あいつらが向こう側へ行ってくれれば便乗できたりするんだろうけど」
「私が観測できないんじゃあね」
「数字にはできるのよ。前も言ったけど」

 おどけて広がる蓮子の手のひらを、メリーは凝視した。頭の中で数字と観測という単語が出会い、意味を持ったからだ。

「蓮子、星座の身体は星でできているのよね。そこから時間は読み取れるの?」
「ええ。全部、日本標準時でバッチリ。たぶん京都基準で観測してるからズレが無いんだろうとは予測してるけど」
「観測できていない星座ってあったかしら」
「無いわね。軽くメモも取ってるけど、確認してみる?」
「いらない。ねぇ蓮子、貴方は京都にいながら、南半球でしか見られない星座も見ている。しかも観測時刻はここを基準として。おかしいと思わない?」
「非常識ですね」

 四季映姫が付け加えた。蓮子はノートをめくりつつ、半眼になっていく。

「現在採用されていない星座はずいぶん見たわ。そっちは重点的に調べてみたけど、出現位置、時刻、生物の存在密度、霊的な因縁に法則性はなかった。でも、京都からでは見られない物に関してのふるい分けはやってない。やってないのよ」

 蓮子の指が空中を描き、少女は立ち上がった。

「行ってくる。さあ、何が出てくるかしらね」
「違うわよ。行ってくる、じゃない」

 メリーと四季映姫も立ち上がる。

「行きましょう、よ」

 そこから二日間、蓮子の疲労はひどいものだったが、彼女たちは京都から見えないはずの星座の出現位置に法則性を見出した。それらが見えるのは決まって蓮子が特定の方角を見ている時だけであり、彼女の背中にはある場所が必ずあった。
 こうして、彼女たちは道祖神社へ向かっている。夜を行く三人は集まってから無言だったが、四季映姫が口を開いた。

「道祖神社の祭神は猿田彦と天鈿女だけど、蓮子を通して星を投影していたのは猿田彦と同じ神であるとされている道俣神ね」
「イザナギが黄泉国から戻って禊をした時、脱ぎ捨てた袴から生まれた神様だっけ。なんで蓮子の星と関係があるのかしら」
「関係を持たざるを得なかった、というのが正しいと思うわ。冥界に関係して生まれ、道祖神としての性格から分かれ道に存在して悪しき存在を防ぐとされ、仏教の地蔵菩薩とも同一視された。道祖神社に祀られている二柱が夫婦の神だというのも、対称的ね。
 光が常に影を生み出すとは限らない。影が影を生み出すために光を熾す事だってある」

 蓮子が引き継ぐ。

「嫌なものを防いでくれる神様なら、今からの私達には嬉しい味方じゃないの。なんであれ、人間を助けてくれる神様ならね。ところでずいぶん詳しいのね、四季映姫。もしかして神様の勉強は閻魔の必修科目だったりしたのかしら」
「そうよ」
「しまったなぁ。神話関係は調べるより先に相談しておけば楽できたのか」
「嘘よ、蓮子。四季映姫は嘘つきなんだから」

 閻魔なのに、と付け加えるメリーへ閻魔は笑い返した。

「図書館で調べたの。閲覧だけなら誰でもできるようだったし。身分証明なんてできなくても、案外なんとかなるわよ」

 三人の足が敷地の前で止まる。道祖神社は今も京都の街中にポツリと残されていた。それほど大きな神社ではないが、夜には観光客用にライトアップされた境内が出迎える。普段ならば。
 今夜は一つとして境内の灯は照らされておらず、月の明かりだけが辺りを染め、隣接する民家さえ例外ではなかった。
 メリーの目にはすでに結界が見えていた。世界の鼓動と同じ早さで生まれては消えていく数多の裂け目。メリーは蓮子の片方の目蓋に指を置き、蓮子のその手を握るや、これと目指した結界へ小走りで寄って行き、中を覗いた。メリーはそこに一面の夜空を見た。蓮子が口を開く。

「10時16分06秒。違う」

 二人はすぐに他の裂け目へと向かう。

「09時22分26秒。違う」

 炎の後の影のようにして二人は境内を周った。手と目を繋ぎ、メリーが視る夜空と蒼穹の向う側にある星空を、蓮子が告げる数字を端々へ振りまいた。

「04時27分12秒。違う。02時30分16秒。違う。20時30分36秒。違う。00時49分50秒。違う」

 翡翠を洗う川の律動、夜虫の声が止む呼吸、冬の空寂の全てを含んでいたとはいえ、二人が踊りの名手のごとく進み続けたと考えてはならぬ。秘封倶楽部の本質、夢と現、空と瑕、非常識と常識に従って歩んでいたのだ。
 やがて四季映姫が歩み始めた。二人が露払いをする境内の石畳の上を歩き、少女たちが己のために機を織り上げていく様を眼で追いながら。全ての御先を行く足を優しく沈ませて導く、十重二十重に縫い合わされた分厚い絨毯が秘封倶楽部の二人によって作られていった。編み込まれた文様は、魅知と星槎と幾ばくかの涙。ポラリスを中心として廻る、視界いっぱいの星のような蓮子とメリーの歩みが無言で幕を閉じる。蓮子が未知の夜空を見つけたからだ。繋がれた手がそっと離れ、二人が四季映姫を視た。四季映姫がメリーと蓮子を見た。
 秘やかに隠されていた中心を見初められたためか境内の結界は崩れ始めており、人間の体を構成する曲線を思わせる帯をいくつも巻きつけて作られた骨組みは鳥居を中心に破られ毀たれ、徐々に幼子が砂の山を積み上げる際の両手の形へと変わっていった。桜吹雪のごとく降りだした幻想の黒い欠片が少女たちの視界を埋める中、放逐された閻魔は、楽園への入り口に右腕を無造作に突き出した。その肘から先はどこへ消えたものか。片腕を差し入れた四季映姫が静かに言った。

「二人とも、幻想郷へ足を踏み入れてはならない。解決策などあそこには無い」

 沈黙がその仮面を変える。川のほとりを歩く静けさから、暗闇の抱きすくめてくる静寂へ。またあるいは、夜が抱えた星の囁く声だけは少女たちに届いたかもしれぬ。
 四季映姫は差し入れた片腕が消え去った時にはじめて気づいた。己のあまりの小ささに。幻想郷においても彼女の一部は保存され、二人を導けるなどとなんと傲慢な願いであっただろう。本体の小指に巻き付けられる約束の髪の毛の一筋程度には自らを大きく思っていたのだ。
 事実は違った。神隠しの主犯にかすめ取られた四季映姫は一粒だった。海に降り注ぐ雨粒の一粒。さような差があるならば、幻想強に戻った彼女は水に拡がり消えていく一滴の墨よりも儚いものとなろう。自我は無論、思い出すら本体に届きはしないだろうと今や悟っていた。秘封倶楽部の二人と幻想郷に踏み込めば、瞬時に四季映姫は本体へ霧散してしまう。
 ヤマザナドゥの管轄が、非常識の内側に残された二人の少女へどのような目に遭わせる場所であったか、わざわざ記す必要があろうや? もし運良く無事で過ごせたとしても、次に忍び来るのは最悪の化物。今は見逃していようと、獲物から胸元に舞い込んだとあらば一切の容赦も仮借もなく、必ずやスキマは宇佐見蓮子を食うだろう。今あれが獲物を弄んでいるのは、酷薄な気まぐれと、幻想郷の内と外を区切る法規に対する如才なさが為した偶然にすぎぬ。
 蓮子が問う。

「これから先も、ずっと?」
「今は」
「私たちが終わるのとどちらが先?」

 四季映姫は答えぬ。それこそが答え。

「結局、貴方と関わって得をしたのは貴方一人」

 メリーが言う。声音は乾いた土、しかし込められた感情は碧玉だった。

「それにも関わらず、まだ何か隠し事をしながら去るのね。でも、いいわ。私たちともう逢わないなんて思ってるなら大間違い」
「間違っているのですか」

 四季映姫は儚げに目元を細める。

「ええ。私たちは秘封倶楽部。必ずそっちへ行くわよ。その扉が使えなくたって、他のどんな扉も使えなくたって」

 精一杯の不敵な笑みがメリーの口元に刷かれた。

「蓮子が何とかするわ」

 三度、沈黙が口を片手で隠して訪れた。月と星もそれにならい、だが自らの光は抑えず降るに任せた。

「そう。では私は向こうで待つことにしようかしら。だからと言って短絡的に動いては駄目よ。なぜならば」
「私たちは迷わなければならない」
「そうです」

 メリーと四季映姫の間でかわされる秘密の微笑み。

「何よ。仲良くなってたんじゃない」

 蓮子の心がわずかな嫉妬、廬薈の味を味わった。願ったはずの関係にどうして求めていない答えを得たのか、またそれはどちらの少女に対してだったのか、彼女自身にすら分からなかった。
 別れを前に咲く四季映姫の顔の裏にある覚悟を、秘封倶楽部の二人が知ることは生涯ないだろう。目の前で別れを見守る少女たちは、文字通り四季映姫が消え去るところをそれと知らず記憶に刻む。
 あっさりと閻魔の少女は境界をくぐった。視界が闇に落ちる。いつかのように自らの視界をはっきりしたものにはできなかった。
 そして訪れない溶解の時を待ち、待つという行為が成立する事をいぶかしく思った。なにも写さぬ目、触覚の消えた肌、むろん味も匂いもせぬ。右手はやはり消えていたが、他の部分はまだ実在を主張していた。

「あなたに渡す物があります」

 潰れたはずの聴覚が、耳朶に触れるほど近くから発せられた言葉を拾った。我が身を包むようにして抱きすくめる左手、右手、右腿、絡む左腿。もはや用を為さぬ喉から、それでも四季映姫はその者の名を呼ぶ。隙間に棲む大妖、主犯の名を。

「一滴の水が千尋のわたつみに混ざっても、なお混ざりきることのない記憶へと作り替えてさしあげましょう。水銀のように。宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンに手渡された贈り物を、しっかりと携えてあの尊大な本霊の中へ戻りなさい」

 振り返り目を覗こうとするも、背後から両手に(では身体を抱きすくめている両手は誰のものだろう?)首を包まれていては動くこともできぬ。
 消え去ることのない四季映姫の思い出を、楽園の閻魔は必ずや得ることだろう。そしてあの厳格な裁定者は、事故によって幻想郷と関わりを持った人間の魂をどこの地獄で裁こうとするだろう? 
 魂の所属は、肉体の所属、死の所属を決めてしまう。

「ところで、この会話は消してしまうでしょうから伝えておきますが」

 捕食者が言った。

「閻魔の裁定が望ましいものであれば、即座に宇佐見蓮子は食べます」

 四季映姫の分霊は、それも是とし、罪ともみなして消えていった。彼女は最後まで閻魔でしかなかったが、ただ、二人の友人が救われるように祈りをもって最後の思考としたのは、少女としての在り方だったろう。





 京都の夜は、すでに人の物ではなくなっている。
 遠く平安の昔、羅生門の逸話が生まれた時代よりは気安くいられはしたが、昔日の何もない夜とは決別していた。
日が暮れたばかりではあったが、今のマエリベリー・ハーンのように、オープンカフェの外に座ってコーヒーを飲むなどというのは普通の感覚でやれる事ではなかった。治安そのものはいい。人工の壁や仕切りの中であれば、夜天の下で飲食を楽しむ風習は残っていたし、人通りもまったくないわけではない。だが、闇と灯が作った陰の中には物理学で説明できない世界があると、少なくとも京都に住む人間は知っている。
科学への熱中が薄れてきた近代になってから、霊的研究を千年もの間続けてきた京都は皮肉にも躍進した結界学が存在しうる事を証明した。し直してしまった。
闇夜には理解不能が潜む。呼び方はともあれ、解明操作できない何かが居る。その姿を見たという人間は増え、本物か偽者か区別のつかない映像も多く残されるようになった。街に光は常に掲げられ、月の有無に関わら道を照らすのは幾世紀も前よりの習慣。だが夜は帳。どれほどの時間をかけようとも、再び降りてくるものだった。
黴が生えたとすら言える古いカフェをまだメリーは気に入っており、過ぎ去る人々の視線も気にならない様子でくつろいでいる。若さ、というよりは幼さがそうさせていたのかもしれない。なにしろ、心に手傷を負ったばかりとはいえ、彼女はまだ十一歳だった。鷹揚に動いた右手が持ち上げる時計アプリを見て、戻し、そのまま爪を使ってコーヒーカップをひそやかに鳴らした。

「たぶん、5分遅刻ってところかしら。微妙ね」

 メリーは待ち人が来るまでにもう一杯コーヒーを飲むか考えていたが、近づいてくる足音へ目を向けた。
向こうから歩いてくるのは宇佐美蓮子だ。彼女の待ち人、同行の士、陽の落ちた冥い街を、いつもと同じ歩調で歩く酔狂な少女。
 お互いが手を振り出会いの挨拶をかわすと、蓮子はそのまま店内へ入っていき、コーヒーを手に同席した。

「一言あってもいいんじゃない」
「今日は約束に間に合ったわよ」
「そこじゃなくて。友人に声もかけずにコーヒーを取りいくのは、マナーがなってないんじゃないの」
「挨拶ならしたわよ。あなたも返した」

 指をひらひらさせて手を振る蓮子に、メリーは眉をしならせる。

「声が欲しいのよ」
「変なメリー。何か奇妙な物でも見た?」

 蓮子が古めかしい紙でできたノートを開く。友人を気遣う一方で、彼女の瞳は観測者、記録者としての光を隠そうとしない。結界を視る事のできる少女、メリーの異変を見逃そうとしなかった。

「いいえ。貴方こそどうなの。まだ見える? 星座は」
「いいえ」

 いいえが、異常なしが交換される日常を二人は安堵とともに受け入れている。四季映姫が帰ってからしばらく、貪るような睡眠と簡単な連絡以外交わしていなかった二人はようやく安らぎを見出していた。落ち着いて蓮子を眺めていると、以前話した他愛のない会話をメリーは思い出す。
『月の光を浴びると落ち着くというのは異常者たちの特徴なのかもしれない』
 夜遊びをやめられない二人は、よくそんな話をしていたはずだ。メリーの頭の中ではもう、その会話も見知らぬ誰かと交わしたことになっているけども、あれは蓮子と過ごした時間なのだと確信している。
 絶えず降り注ぐ月の光を感じ、メリーは顔を上げた。

「今日はずいぶん灯が暗いのね」
「そうかしら」

 吊り下げられた、もしくは地面に埋め込まれた人工灯は常に明暗を察知してその光量を調節する。月が明るすぎるだけかもしれぬ。その分、電気で咲く光が暗くなっているとすれば道理だ。蓮子がメモをめくる手を止め、ページを見つめていた。一口、メリーはコーヒーをすする。

「どうかしたの」
「四季映姫を京都案内するの、叶わずじまいだったなぁって」

 見やすいように片手でページを開き、もう片方の人差し指で文字を示す。『閻魔、地蔵、女の子』の走り書き。メリーは一言軽い返事をしようとして、止めた。蓮子の言葉は涙であったのだろうから。代わりにもう一口苦味をすすり、読み終わったのを知らせるために身を引き、ソーサーへカップを置いた。蓮子は無言でメモを、仮想情報の整理を再開する。地上から逆向きになった光が彼女の頬を照らす様は、不可視の涙を空へ向けてこぼすようにメリーには思えた。
 メリーはコーヒーカップに指を絡める。

「次の活動場所なんだけど、もう決めてるのよ」

 残り少ないコーヒーに星と月が浮かぶ。蓮子の属性が手の中に収まっていることにメリーは安堵した。

「おいしいわね、このコーヒー」
「そうかしら」

 ノートを捲っていく音を聞きながら、メリーは夜空を飲み干した。
視線を戻すと、蓮子が消えていた。
 メリーが物を飲み込んだ後の喉の動きに似てのたうつ境界を見るや否や、また一つの記憶が泡沫と化したが、考えるのと同じ早さで手足のすべてを使いテーブルを乗り超え、老いた太陽が地平線に沈む一瞬、ただひとつ残った金の剣が夜の鞘に収められるのと同じ速度でそこへ飛び込んでいった。





 京都に居たはずの不良学生は夜の野原の只中に立っていた。月の銀を塗りたくられたススキがそこかしこに溢れ、太った首が風で振られる光景に郷愁が煽られた。自らの立場を確立させようと夜空を見上げ、息が止まる。蓮子の心中を嵐のように疑問と答えが吹きすさんだ。今や蓮子は識れた時刻と知らぬ場所を突きつけられていた。
 確かに日本人のセンチメンタルな風景ではあるし、吸気に満ちる風のにおいも知っている(もしくはやがて知るのであろう)香りの方が多かったが、自らの目が通じない日本のどこかなどという場所は、この少女の未知だった。
 脳髄の迷路から逃れ得た理解が疑問を整頓し、やがて一つの結論を導き出す。『喫茶店から夢に飛ばされるなんて、おそらくメリーに関係した厄介ごとに巻き込まれたのだろう』、と。蓮子がその場で推論を重ねていると、やがて草を踏む足音が聞こえた。振り返るとメリーがいたが、その顔に浮かぶ真剣さに加えて、幾ばくかの、蓮子には見覚えがある表情が浮かんでいた。メリーが記憶を失ってすぐの頃、自分の顔の上で見た気がした。

「どうしたの?」
「どうして忘れていたんでしょうね。大切なことだったのよ。絶対に思い出してはいけないことだったのに」

 落ち着いた足取りで寄ってくるメリー。ちら、と蓮子の背後を覗き見はしなかったか?

「蓮子、目を閉じて。私がいま見ている物を見せてあげる」

 笑いを浮かべて境界を見る少女が言う。決然とした美しい笑みを。それゆえに蓮子は素直に、そして愚かにも瞳を閉じた。再び二人でこの問題を切り抜けるために。メリーの指が蓮子の瞼に触れ、何も映らない暗闇を疑問に思った彼女が目を開くと、目の前に彼女自身が、宇佐見蓮子が立っていた。自分が見たこともない、美しい笑みを浮かべて。

「さよならよ、蓮子」

 目の前の蓮子が言う。それから胸を手のひらで押しやられた。存外に強い力だったために少女はよろけ、後ろへ突き出された足が踏みしめるはずの地面は消えていた。悲鳴が喉より放たれるより早く、自由落下を始める前の浮遊感に包まれながら、意思を感じる流線型に縁取られた暗黒へと落とされていく。その時、宇佐見蓮子は生まれて初めて結界を見ていた。
 遠ざかる夜空、風、そして蓮子の顔をした誰か。混乱にたたき落とされた彼女はやがて地面に尻餅をついており、こちらを見下してくる大人たちの顔と目が合い、そこが喫茶店の露天であることに思い至った。
 一人ぼっちで戻ってきたのだった。視界の隅に映る自分の前髪の色素がひどく薄く、街灯に透かされた髪の色はまるで金色。怯えに抱きしめられ恐怖の湖へ引きずり込まれる前に蓮子は夜空を見上げると、そこには人工の光によって掠れた星と月があるだけ。そこから何も読み取れない、伝わらない。生まれて初めての反応、無。
 自らの指先を忌むように見れば、そこにある掌、爪、服は彼女の良く知る物、だが蓮子以外が所有すべき物が写った。聡い少女はもう自分に何が起きたのかを思いついていたが、押し付けるようにしてその新しい考えを頭の隅へ追いやろうと、だが決して手放さないように格闘している。そこから導き出される、最悪の結論を。
 『では自分の顔をした少女はどうなったのか』という結論を全く考えないようにするために。
 せめて鏡を覗いて決定的なものを見てしまうまで、蓮子はそうするつもりだった。





 宇佐見蓮子は身長ほどもある姿見をはさんで、見慣れた虚像へ手を重ね合わせていた。マエリベリー・ハーンの顔が見返してくる鏡は押し付けた掌の熱を吸い上げており、非人間的な温度差はすでに感じない。
 蓮子がメリーの部屋で、生活習慣の意味で骨董品と化していた姿見を見つけたのはついさっきの事だった。四ヶ月ぶりに開いた部屋の支配者、埃とかびた空調の臭いはまだ主張を続けている。
 警察と、記録上は二度目の病棟と、メリーの実家と、京都を全て嘘で接いだ四ヶ月は終わりを告げようとしていた。蓮子が最後から二番目に来なければならなかったのは、この部屋だ。

「メリー」

 写る自らの顔へ向けて、蓮子は呼びかける。そして部屋を出た。
 向かう場所は博霊神社。パックに詰め込まれた栄養剤たっぷりの市販滋養流動食を握りつぶすようにして飲み、空き殻を進路上にあったダストボックスへノールックで投げつける。十一歳の胸は激情に燃え盛っており、蓮子も強いてその炎を消そうとはしない。
 京都のそこらじゅうにある結界を見かけると、彼女はこの四ヶ月を思い出すのだ。神隠しに遭いかけた少女のような言動を演じる一方で、感情で正気へやすりをかけるようにして実験と予想を繰り返した季節を。結界と境界を、この目が見せる夢のような現実に立ち向かうために、抗うために注ぎ込んだ四ヶ月を。
 電車の座席で仮眠を取るまでの間に考えたのは、メリーにしてやられたということ。見事な不意打ちだった。しかし、次にその手が使えるのは蓮子の方だ。
 乗り換えの末にたどり着いた夜の田舎道を歩きながら、蓮子はGPS機能のついた端末全てと拡張現実用のコンタクトレンズを袋に入れて、そこそこの大きさの川へ放った。スペアとして残してあった〈宇佐見蓮子〉の端末も入れておいたので、身寄りのない外国人の患者が夜にほっつき歩いていても、散歩するくらいの時間は与えられるだろうと彼女は考えていた。
 博麗神社に着くと、ここを目的地に選んだ理由が蓮子の目に見えてきた。以前訪れたときにメリーが言った言葉が根拠だったのだが、それを目の当たりにして蓮子は言った。

「大きいにもほどがあるじゃない」

 隣にいない友人に文句を言って、崩れかけた本殿の前にある境界へ向かいまっすぐ歩く。今の彼女の目がとらえている物は古びた妖気も神気もたっぷりと吸った境目であり、その中に渦巻く混沌の中で、蓮子はとある色見を探した。帰っていった閻魔の、あらゆる人間の御先であるヤマに通じる閻魔の色を。
 夢に時間は関係ない。メリーの夢の中の話は、随分と昔であったろう時代の事も混じっていた。人の先端を行くヤマはまた、原初の人間でもあり、始祖でもある。
 蓮子が行き着きたいのは一番最初の時だ。この身体に書き換えられた最初の時間に行き着く程度であれば、たとえ閻魔のフェイクであろうと連れて行ってくれるだろう。境界の認識は知覚であり、隙間の中で見つけた四季映姫に近しい色を見つけると、蓮子は結界をその色に染め上げた。あとは願ってそこへ飛び込むだけだ。祈りはすべてを可能にすると、彼女はすでに学んでいた。一番最初へ。蓮子は祈った。
 一度も振り返ることなく、蓮子は石畳を規則正しく鳴らし、向こう側へと飛び込んだ。
 そして蓮子は潰された。





 話が終わったのだと魂魄妖忌が気づくまでには多少の時間が必要だった。上弦の月に照らされた彼の身体は傷と土にまみれ、骨肉は疲労にしゃぶりつかれている最中であったのだ。

「そこで終わりか」
「ええ」

 やっとの事で口から出した言葉に答えた妖怪は八雲紫。夜の中でスキマと呼ばれる弧弦に腰かけ、頭上の月へ向けて扇子を扇いでいる。その行動はもちろん、妖忌に理解できなかった。

「気分転換にはなった」
「それは良かった」
「悪いほうにだ。結局、どこの国の話なんだ。みやこではあるまいし、唐だとも思えん。レンコは漢字を用いた名だと言ったな。子供の名前とはとても思えんし、めりー、などは西胡で付ける名か」
「字も読めぬのに、西胡など何処で覚えてきたの」
「嬢に吹き込んだのはお前だろう」

 整息に努める妖忌の脳裏に先日の幽々子との会話が淡く浮かび、泡沫と消えた。人と死を娶せる富士見の娘は、ここ幻想郷においても隔離された場所、いま妖忌が倒れている背後の屋に住み暮らしている。目の前の妖怪が友となってからは、会話の端々に胡散臭い言葉が増えているのを妖忌は快く思ってはいない。

「剣の斬り試しに付き合ってあげているというのに、幽々子とお喋りをするくらいは大目に見てほしいわ」
「言葉も無い」

 初めて妖忌が八雲紫に斬りかかったのは、生業のついでにこの家を守っていたから当然のことだった。ではその後、堂々と忌まわしい娘の元へ通ってくるようになったスキマ妖怪へ、毎度同じように斬りかかるようになったのは当然なのだろうか、と妖忌は暇な時間に自問する事もあった。なるようになってしまったのだから、という自らの心の答えはいつも変わらない。衣の端すら刈れぬ己の未熟を忸怩たる面持ちで考えながら、彼はこの状況を受け入れていた。
 再び口を開いたのは妖怪の方だった。

「海はご存知?」
「幾度か見た」
「人が生まれたのは何処かしら?」
「この国だ。イザナキとイザナミがどこで子を生んだのかは知らないが、お前ならわかるんじゃないのか」

 会話の接穂があちこちへ飛ぶのには妖忌も慣れたものだ。

「私は全知ではありませんわ。ただ、人間は海の底で生まれた、という話もあるのよ」

 妖忌は笑った。そんな馬鹿な事はないだろうと。神々が海の中で子を為したなどとは聞いたこともなかったから。

「確かに笑い話ね。ええ、ひどい場所だった。山よりもなお重い海神の掌で握りつぶされながら、陽ではなく大地の火によって煮え滾った熱泥が海と交わる褥」
「わざわざ見に行ったのか。いつもの如く酔狂か、それとも的外れな話でもなかったのか」
「いいえ。ひどい的外れ」

 足先から腰辺りまでスキマに呑ませるや、紫は傘を(どうにもこの妖怪の装いは貴族じみている。召使いをろくに従えてないことだけが違うところか)開いた。

「ごきげんよう、妖忌」

 妖忌は刀に這う指に力を込め、止めた。不意をつこうにも、目論見が読まれているのは眼の色で明らか。妖怪の目はこう告げている。それは楽しからんや?

「これから散歩か」

 すでに八雲紫は肩までスキマに沈め、黒よりも黒い空を見上げて呟く。

「己の魂へ現を見せに。探し物のための探し物を。四海の隅へ。西へ東へ。北へ南へ、世界の片端へ……」

 スキマに呑まれる瞬間の一言は聞こえなかった。
 失われた名前は。
読んでいただきありがとうございました。

先日はこちらの確認不足で分割して作品を上げてしまい、読んでいただいた方にご迷惑をおかけしました。
以後同じ事がないようにします。

また、前回読んでくださった方、感想をくださった方、大変励みとなりました。
ありがとうございます。

http://twitter.com/kawagopo
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コメント



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1.60名前が無い程度の能力削除
すまない、俺には難し過ぎてよく分からなかった
丁寧に書いてるのは分かる
5.50名前が無い程度の能力削除
ごめんなさい。上の人と同意見です。
文章のひねりが効き過ぎて話の内容よりも、読みにくい、分かりにくいというストレスの方が印象に残ってしまいました。
6.90名前が無い程度の能力削除
蓮子とメリーの、加えて映姫様の友情のみに視界を絞って読みました。引き込まれます。面白かった。
それゆえ結局、この展開はないんじゃないの、とも思ってしまいます。感情移入できるのはそこですから。

地殻の内奥に飛び込んだり、星座が受肉したり。随所のイメージが豊かで、そこは楽しかった。彼女らにももうちょい楽しい夢をみて欲しかったですね。
8.80名前が無い程度の能力削除
全知全能でなくともそれに近い妖怪の思惑に逆らうなんて不可能だったろうに……メリーがどんな思いで蓮子を突き飛ばしたのか考えると辛くなります
そしてせっかく逃がした蓮子が最後こうなってしまうのは、二人の尋常でない友情のせいだと思うことにしました
きっと作者が伝えたかった事を正確に読み取れてはいないんだろうけれど、切なくなるような二人の、それから僅かの間少女でいた閻魔との友情は見ていて心動かされました
小難しい文章でスラスラとは読めませんでしたが、このくどくてかつ持って回ったような言い回しは私は好きです
良い時間を過ごさせていただきありがとうございました


最後に、人間と違って持っている時間が長くそれ故にルーズな生き物なのだから、たった十一年ぽっちと言わずに五十、六十年でも夢を見させてやってもいいだろう!ケチ!と八雲さんには文句を言いたいものですね!
作者様の考える八雲紫でも、自分の所行に後悔したり、返ってきた相手の反応を見て動揺したりすることもあるんでしょうか?
このssを読んで、もしそういう八雲紫もいるのなら是非見たくなりました
9.80名前が無い程度の能力削除
難解な表現に、見えそうで見えない裏設定、物語運び全体は若干駆け足気味で、これでもかとばかり読者を置き去りにしますねぇ・・・重厚長大、悪く言えばくどいといった様相で正直コレを「諸手を挙げて楽しめた」といえる人は少ないと思う。自分もそう。
しかし理解できる所から端折って読み返すとなんとか理解できるようになってるし、なにより個々の表現やキャラの言い回しのセンスの良さは初見でも素直に楽しめました。
少なくない欠点を魅力ががっちりカバーしてる感じ。つまりはおもしろかったです。

しかし秘封にこういう結末は少なくないとはいえ、ここまで「悲しい」よりも「虚しい・やるせない」趣向はなかなか無いな・・・
10.100名前が無い程度の能力削除
上手い感想が言えなくて申し訳ないですけど、面白かったです・・・良い時間をありがとう
12.無評価名前が無い程度の能力削除
少し読みづらかったですが、欠点を勝る魅力があって面白かったです。
13.70非現実世界に棲む者削除
コメントが遅れてしまいました。
本当は投稿された翌日に読んだのですが、いつの間にかコメントするのを忘れてしまいました。すいません。

上の方達のように私も難しすぎてよくわかりませんでした。
一番気になるのは、何故映姫を登場させたのか、それと結局メリーはどうなってしまったのか等、疑問だらけです。

でもやっぱり切ない話だなあってことはわかります。
でもとっても良い作品でした。でしゃばってすみませんでした。

それでは失礼いたします。
14.80奇声を発する程度の能力削除
不思議な魅力がありました
15.100さとしお削除
「とりかえしがつかないということ」だけが確かな質量を持ってぶつかってきていたような気がします。
『結論から書くけど、私、この手を離したら蓮子のことを忘れるわ』のたった一言で、最後まで読まされてしまいました。これは凄い
16.100長久手削除
比喩の飛距離と文章の強度があまりに凄くてただただ舌を巻きました。
星座が受肉するくだりなど、ちょっと類を見ない美しさです。
17.20名前が無い程度の能力削除
ただただ読みにくい。何が言いたいのかさっぱりわからなかった。