Coolier - 新生・東方創想話

はらぺこよーかい一日未満

2013/04/06 23:27:43
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 ――稀に、闇を出していないルーミア本体に出会うことがあるという。その条件とは、新月の夜である。この日は、何故かルーミアが闇の能力を使わないことが多いらしく、目撃情報も後を絶えない。
 直截対話をした者は少ないが、殆ど対話が成り立たないと思われる。話しかけたりするのは危険だ(*3)。

 *3 幼く見えても、人喰いである。 

  稗田阿求 /『幻想郷縁起』 より抜粋










 はらぺこよーかい一日未満










 木漏れ日のまだらを風が揺らす、涼しげな森の一隅。昼下がりを過ぎた樹上に、その妖怪は微睡まどろんでいた。

 金紗の髪に朱のリボンを結わえ、黒々とした洋服に包まれる矮躯は、重心を木の股に預けていかにも無防備だ。緑濃い影の下、枝へと無造作に引っ掛けた両足といい、口を半開きにしたあどけない寝顔といい、外見からでは、ただ幼い女の子としか判断が付かないだろう。事実、精神年齢もまた、童子のそれと形容して差し支えなかったが。
「……むにゃ」
 違和感に薄く瞳を開く。何かが軋む音に続いて妖怪の眠りを妨げたのは、どうしたことか、宙に浮かぶような感覚だった。何のことはない、足を掛けていた枝がついに根元から折れ落ちたのである。支えを失った半覚醒の妖怪は、重力に逆らう間もなく地上へと墜落していった。
 どさり、という音。全身に走った衝撃で、やっと両目を見開く。人ならぬ彼女にとっては大した打撲でもないのだが、心地良い午睡を中断された驚きと、一瞬、己がどんな状態に置かれているのか分からない当惑が先に立つ。
 かといって、確かめようと身を起こすも億劫おっくうである。とことん暢気のんきな性格の妖怪は、無気力な表情で手足を投げ出すままにしていた。まるで生まれた時分からこうしていましたと言わんばかり。幸い、森の豊かな日陰からは、まだはみ出していない落下位置だ。
「うぅ、……ん?」
 微かに呻いた鼻先に、重さを感じさせない影が留まる。妖怪の鼻梁を何と勘違いしたのか、一匹の蝶がその薄い羽根を休めていた。
 一対の赤い瞳が中央に寄せられ、襟元からじわりと“闇”が滲む。撚り合わされて糸のようになったそれは、白雪の皮膚を静かに這い上がると、その不定形な見た目からは想像も付かない素早さで伸び上がり、小さな獲物の、脆すぎる羽根を絡め取っていた。

 ……小作りな唇をぺろりと舐め上げる妖怪に、脈絡の薄い思いが去来する。
「ああ、余計にお腹が減っちゃった。もうすぐ背中が透けて見えるんじゃないかなぁ」
 木端こっぱのようなささやかな命。数日来まともな食事にありついていない胃袋が、とてもこの程度で満足するはずがないのだ。お世辞にも美味しい獲物ではなかった。
 今すぐに栄養源を確保しなければ死んでしまうほど切羽詰まっている訳ではない。しかし、倦怠感を押して他のことで活動的になれるだけの余裕も無い。日光を遮るための闇を常時展開し続ける気力も湧かず、ともすれば深刻な腹具合である。
 何より、未だ幻想の郷は昼日中ひるひなか。直射日光を苦手とする彼女には不都合な時間帯だ。ご飯は日が暮れてから調達すれば構わないだろう。あるいは、獲物の方が通り掛かってくれるのを待つか。脳天気にも、再び妖怪はそのままうつらうつらし始めていた。

「あなた、何をしているの? こんなところで寝てたら風邪ひいちゃうわよ」
 頭上から声が降ってきた。大儀そうにまぶたを上げてみると、誰かが逆さまに自分のことを覗き込んできている。
 いや、倒立しているのは自分の方だ。肩を地に付け片足を木の幹にもたける、捨てられた人形のような姿勢。スカートが大きくめくれ上がってしまっていることにすらも頓着とんちゃくせず、妖怪は呻吟しんぎんする。
「ん~?」
「ねぇ、何者? こんな所で何をやっているの?」
「そりゃあ寝ていたのよ」
「まあ、あの高さから落ちてきたのね。怪我は無い?」
 矢継ぎ早な質問の主は、まだ年の頃十に達するか達しないかの、見るからに好奇心旺盛な少女だった。ぱっちりと円らな瞳の上で長々しい黒髪を切り揃え、蝶を模した瑠璃色の髪飾りをこめかみに留めている。妖怪にもっと観察眼があれば、藤色の普段着物や履物の鼻緒の柄から、それ以上のことも読み取れていただろう。だが、彼女の興味はただ一点に尽きた。
 気紛れな風が少女の長髪を揺らし、甘やかな芳香ほうこうが広がる。途端、腹の虫が大げさに不平を訴えた。
「ええと、お腹も空いているのかしら」
「あんたは――食べてもいい人類?」

 彼女を含む妖怪全般にとって、人間を捕食することは空腹を満たす以上に自己の存在意義を充足する行為である。その機会が向こうからのこのことやってくるとは、まさしく棚から牡丹餅といったところか。
 きょとんと見返すだけの少女に、妖怪は同じ意味の質問を重ねる。
「あんたは、里の人間なの?」
 食べ物とあらば見境の無い雑食性の彼女だったが、ただ一つ、“里の人間を食らってはならない”という幻想郷の規律にだけは忠実だった。禁じられている理由は良く知らないが、何となく、里に所属している人間に手を出すことは憚られるのである。彼女が食用にする人肉は専ら、どこからともなく配給されるか、不運にもこの箱庭に迷い込んできた外来の人間だ。巫女や魔法使いはやたら強くて迂闊に襲えない。
 ――人里の子らさらい喰らうことまかり成らぬ。汝、人里の子ら攫い喰らうこと罷り成らぬ――
 重たげに頭を振る妖怪へ、首を傾げつつ少女が問い返す。
「里の人間って、里に住んでいるかってことよね」
「うーん、多分」
「それなら違うわ。あたし、家出してきたんだもの」
 何故か自慢げに腕を組む少女は、さも深刻そうに眉を寄せた。
「どうして家出したかって言うと、お父さんが妖怪に乗っ取られてしまったからよ。……そう、本物のお父さんなら、絶対に私のことぶったりするもんですか」
「家出、はぎりぎりかなぁ。まあいいや、いただきまーす」
 訊かれてもいない身の上話を始める少女だったが、妖怪にとってさしたる興味はない。見えない糸で吊り下げられるかのようにして、捕食者の体が地面から浮き上がった。流石に状況を察したのか、少女はぎょっとして後退あとずさる。
「あなた……、もしかして人喰いなの!?」
「人間以外も食べるけどねー。さっき聞かれた通り、私はお腹が減ってるの。さあ、美味しく大人しく私のご飯になりなさい!」
 十字架を象るように腕を広げる妖怪。その闇色の服が生き物のようにざわついた。慌てて少女は、ぶんぶんと手を振っては言葉を挟む。
「ちょ、ちょっと待って! お腹が空いてるなら、あたしに良い考えがあるわ。人間よりずっと美味しい物を食べさせてあげる」
「ふぇ?」
 妖怪の興味を引かれた様子から、一時の猶予を得たと判断したのか、少女は一息に自分の提案を捲し立てる。
「あたしの家は里で一番の料理屋なの。何を隠そう、あたしの腕前は父さんに次いで二番手よ。見逃してくれるんなら、後でたらふく御馳走してあげられるんだけど――」
「へぇ、どんな料理?」
「材料さえ揃えば、幾らだって食卓に並べてご覧に入れましょ。和風洋風何でもござれ。古今東西、うちで食べられない料理は無いって評判なのよ」
 一転、少女は得意げに数々の調理法(レシピ)を披露し始めた。空蜜豆を宝石めいてとじた卵焼きに、香草鶏のかりかり揚げ。骨ごと食べられる川魚とお芋のパイや、旬の花びらを透かして見目にも美味しい、四季折々に並ぶ葛菓子。次々と並べ立てられる料理はどれも耳新しく、食指を動かさずにはいられないものばかりであった。
 自身も興に乗ってきたらしく、身振り手振りで解説を加える少女の、溌剌と自信たっぷりな振る舞いからは、火炭に滴り落ちる肉脂、鍋からぐつぐつと噴き上がる湯気の、音や匂いまで伝わってくるかの如く。知らぬ者が聞いたとしても、そこに天稟を見るような語り口だ。
「妖怪の賢者様も、こっそり贔屓にしてるんですって。私は会ったことないけど……。とにかく、きっと貴方のお口にも合うと思うわ」
 にこやかに微笑む少女もまた、活き活きとして美味しそうではあったが。妖怪は、なけなしの理性を総動員して唾を飲み込む。
「んー、いいよ。その条件で手を打ってあげる」
 淡々と頷く妖怪に、料理人の娘は本来の目的を思い出す。
「……、見逃してくれるの?」
「今だけね。食べさせてくれるまで一緒に居るけど」

 日中の本調子でない彼女であろうとも、この非力な獲物を取り逃がすことはないだろう。元より夜になるのを待つつもりだったのだ。多少の我慢で滅多に味わえない美食にありつけるのならめっけもの。この食糧の処遇は、その後に決めても遅くはないと、一先ず地面へ降り立つ。
 ほっと胸を撫で下ろしている少女へ、妖怪は朗らかな笑みを向けた。
「それじゃ、早く早く」
「今すぐ? 幾ら何だって材料も包丁も無くっちゃあお手上げだわ。もうお家には帰れないし。先に言っとくけど、私の活け造りは美味しくないと思う。せめて薬味の一つでも用意しないとね」
「あ、いーこと思い付いた。付いて来て。案内するわ」
 ぱちりと手を合わせてはきびすを返す妖怪の後ろ姿へ、もじもじと頭の蝶の位置を直していた少女が、おっかなびっくり声を掛ける。
「そうだ。名前を聞いていなかったわ。あなた、何て呼べばいいかしら?」
「私は“るぅみあ”よ。どうしてそう呼ばれているのかは知らないけど」
「お父さんとお母さんが名付けてくれたんじゃないの?」
「さあ、覚えてないわ。どうせ薬味にもならないだろうし」
 振り返ることすらしないまま、妖怪は薄暗い森の深みへと分け入っていった。木漏れ日のざらりとした感触を黒髪に残し、少女も小走りにその背を追う……。

 明と暗の対照も鮮やかな森で、二人は出会った。

 後は、別れるばかりである。







「――でね、あたしから包丁を取り上げて、お前にはまだ早い、なんて言うのよ。もう大根の桂剥きだってお師匠様――おじいちゃんのことなんだけどね――から、手放しで褒めてもらえるくらいなのに。欲目を抜きにしたってよ。だから、閉じ込められていた押入れから、こっそり抜け出してきたの。秘密の抜け道があるのよ。大人は、子供が何にも知らないんだって決めつけているんだわ」
「お父さんが妖怪なら、あんたは半人半妖?」
「いやそうじゃなくって。けれど、今は妖怪が化けているに決まってる。お父さんはいつだって優しかったもの。あたしに般若みたいな怖い顔したりなんて、しないもの」
「まー半分妖怪でも美味しくいただきますけどー」
「もしかして、話全然聞いてない?」

 刻々と角度を変えるお天道様の光が、森の梢に縒り分けられる下。できる限り暗がりを選んでの道行きを、二人は並んで歩いていた。最初は妖怪を警戒していた少女だったが、相手が同じ年格好のためか、今や気安い調子で話を続けている。もっとも、少女の方が一方的に愚痴を吐き、妖怪は大半を聞き流すという噛み合わないものだったが。
 時折傍らを歩く夕食候補を盗み見つつ舌なめずりをしていては、気が漫ろになるのも仕方がない。
「ねぇ、いつになったらあなたのお家に着くの?」
桂男おつきさんと同じ。私に決まった家なんて無いわ」
 蝶よ花よと育てられてきた少女は、この非常識な発言に、呆気あっけに取られて立ち止まった。
「それじゃあ一体どこで眠っているのよぅ」
「どこででも。雨露が凌げて寝床が有ればそこが都」
「お米はどこに蓄えておくのかしら」
「お腹が減ってから獲ればいいじゃん」
 日頃御山の麓を根城にしていることが多い彼女が、人里近い森の、しかも浅瀬で過ごしていたのは単なる気紛れに過ぎない。強いて言えば、ここ数日、めっきり姿を見せなくなった獲物を求めてだろうか。
 元より彼女に目的地など無い。目標も無ければ指標も無い。ただただ漠とした本能に突き動かされての、放浪の日々である。

 と、憮然とした表情の少女が口を開く。
「そんなぁ。てっきりお台所に案内してくれているのかと思ってたわ」
「料理好きな知り合いが居てねー。あいつなら一丁前に、一通りの道具を揃えてるはず」
 思い浮かべるは、夜な夜な森のあわいに赤提灯を灯す夜雀の歌姫である。己の頼りない脳細胞を参照する限り、あの本人も食用になりそうな妖怪は、この近くに屋台を構えていたはずだ。香ばしいタレに漬けられた八目鰻の味は絶品だが、お金とやらが必要なのは頂けない。
 腹積りを変えられては敵わないと、料理人は今にも涎を溢さんばかりの妖怪に念を押した。
「確かに見てくれはちっこいかもしれないけど、これでも周りからはやれ天才だ八宝菜だって評判なのよ。年上のお弟子さん達だって、もう誰もあたしには敵わないの。子供だからって甘く見ちゃ嫌よ? 大風の日だって泣いたりしなかったわ。……ちょっぴり、ほんのちょっぴり怖かったけど。もう一人前に何でもできるのに、お父さんは私が料理人に向いてないって言うの。最近は包丁も触らせてくれなくなって。昔はあんなに熱心に教えてくれてたのに……。だから今朝だって、こっそり厨房に忍び込むしかなかったの」
 少女は、己の腕前に相当の自信を持っているらしい。定かならぬ遠くを見詰める視線には、世間知らずの幼さと、世間ずれした早熟さが同居した、どこか危うい色がある。

 ふと、妖怪は先程口にしたほろ苦い虫の味を思い出す。あの程度では腹の足しにもなりはしないが、一寸の虫にも五分のなんだっけか。最後に一粒残った飴玉を手の平で転がす心持ちで、妖怪は少女に笑い掛ける。
「その蝶々の髪飾り、何で出来ているの?」
「ど、どうして?」
「喉に引っ掛かったら痛そう」
「小骨扱いしないで。これはお父さんから貰った宝物なんだから」
「妖怪なのに?」
「今は取り憑かれてるだけっていってるでしょー」
「どうして?」
「どうしてって……、私に、訊かないでよ」
 一瞬思い詰めた様な光をたたえ、少女は、強いて笑顔を浮かべる。
「似合ってるかしら? これ」
「うん。本物が蜜を吸いに来てるみたい」
「えへへ~」
 照れ笑いして、少女は妖怪の頭部に目を遣った。
「貴方の赤い飾り帯も素敵ね。髪の金色に、とっても良く映えてるわ」
「これねぇ。どうせ自分では外せないんだよね」
「角みたいなものなのかしら?」
「うむむ、どうだろう。食べたことないから分かんないわ」

 当の本人は忘れてしまっているが、朱のリボンの正体は彼女の力を封じ込めるための符であり、先人が魔封じの粋を込めた一種の結界でもある。弱小の妖怪ならば、縛るだけで蒸発してしまうだろう莫大な霊力が込められた一品だ。
 大半のあやかしにとって、人々に恐怖の対象として認知されることが存在の大元である。その最もたるものである夜闇への畏怖、それを根源とする彼女の力は並外れており、許容量を超えて人間を害するに留まらず、他の妖異すらも呑み込んだ。
 今はもう、調伏の経緯が語り継がれるのみである。ここに居るのはもう、致命的だが模範的な、一匹の野良妖怪でしかない。
「そんなことより、もっと貴方が作った料理について教えてよ」
 望むところと胸を張り、少女は滔々と語り始める。いつしか話題は食事に関することから脱線し、日々の生活や友人との遊び、楽しみにしている年中行事へと移り変わっていった。同道者は、特に不平も無く相槌を打つ。
 他愛無い、自分とは全く関係ない話のはずなのに、妖怪は不思議と望郷めいた感情を覚えていた。よもや自分にも、昔は一つ屋根の下で家族と団欒していた頃があったのだろうか。しかし思い出のよすがとなる記憶は、結ばれた符が封印してしまっている。

 妖は肉体よりも精神に偏っている存在である。その妖力の大部分を制限されるということは、心の在り様を抑圧されることと同義。目溢めこぼされた僅かな魂には昨日も明日も無く、その日徒然を徘徊するのみ。
 今日この日の記憶は、せめて心のどこかに降り積もるのだろうか? 不透明な粒子が、静かな水底で層を作るように。
 そんなふとした思考も、あたら気紛れな雑談に押し流され。しかし少女の口数は、日が傾くにつれて段々と減ってゆく。

 青空の山際が、微かに香ばしい色合いを帯び始める頃。
「お餅って、そんなに凶悪な食べ物だったのね。……って、あれ?」
 切れ切れに差し込む斜光の合間を縫って歩いていた妖怪は、いつの間にか、随分と二人の距離が離れていることに気が付いた。少女が足を止めがちになってしばらく経つ。雀の屋台を探し続けて半刻以上は過ぎただろう。時間に無頓着で疲れ知らずの彼女には、人間の体力にまで頭が回らなかったが、幼い子供にとってはいささこたえる行軍であった。
「まだ着かないの? 足が橡麺棒とちめんぼうに、じゃなかった、とにかくがくがくになっちゃいそう」
「もうそろそろ出くわしてもいいはずなんだけどなー。いつも夕間暮れには支度を始めてるし」
 早朝の漁では足りず、まだ水場で食材の調達に精を出しているのだろうか。そうでなくても新鮮な川魚が手に入るかもしれないとの期待を込めて、妖怪は近場の川まで足を延ばすことにした。のんびりと歩きだす道連れの背を、少女は不満そうに見つめる。
 と、その足が獣道のぬかるみに取られた。転びかけた拍子に何がしかの感情が堰から溢れたのか、その場で一歩も動かなくなってしまう。不審げに覗き込む妖怪とも、強いて目を合わせようとしなかった。
「大丈夫? お腹が空いたの?」
「……空いてない」
「私はお腹が減ったわ」
「減ってないもん」
「お家に帰る?」
「や」
「食べちゃってもいい?」
「いやだよぅ……」
 少女の顔に表れているのは疲れだけではなかったが、ただでさえ繊細な幼子の機微を、この妖怪が察するはずもない。唇を引き結んで俯いてしまう夕飯を前に困り果て、ええい面倒だ、このままがぶりといってしまおうかと思ったその時、妖怪の注意を逸らす者があった。少女の髪飾りを同類だと勘違いしたのか、本物の揚羽が二人の傍で羽ばたいている。
 どうせならもっと肉付きのいい蛋白質たんぱくしつが飛んできてほしいと不満げながら、空きっ腹を抱えた妖怪が蝶々に手を伸ばした矢先、鋭く第三者の制止が入った。
「こら! そう口慰みに同胞を平らげられちゃたまらないよ。あんたの主食は別にあるでしょうが」
 驚いて見上げる先に、両足で軽く木の枝をしならせ、片手を幹に突いた小柄な人影。ひるがえ外套マントの裏地の赤と緑髪の対照は少年めいて凛とした印象を抱かせるが、頭部から突き出した二本の触角が、人と一線を画する存在であることを如実に物語っている。
 夜の闇に冷たく燃える蛍の妖にして、幻想の郷に集う虫達を統べる女王――と語られるには、少々威厳が足りないか。
 差し出されたもう一方の手へ、捕食者の舌から逃れた揚羽蝶がふわりと縋った。
「……人間と人食いとは、これまた妙な取り合わせね。それとも妙な巡り合わせ?」
首を傾げる妖怪蛍に目を丸くして、少女が傍らの妖怪に問う。
「あの子、貴方の知り合いなの?」
「多分、もしかすると、ひょっとして」
「ちょっとした馴染みさ。そう言う娘さんは何者かしら? お仲間の臭いはしないんだけど」
 珍しく闇を纏っていない友人と、怯えてその背に隠れようとする人間の子供。二人を見比べていぶかしそうな色を浮かべながらも、蛍は揚羽と共に地表へ降り立った。
「あ、貴方も人間を食べるの?」
「蓼食う虫も好き好き。食わず嫌いのつもりはないが、私は甘い水さえあれば文句は言わない。で、一体どういう成り行きなの」
「それよりさ、あんた、夜雀の屋台を知らない? 確かこの辺で商ってた気がするんだけど、今日はさっぱり見当たらなくって」
 妖怪の無邪気な問い掛けに、蛍はひょいと眉を上げてみせた。
「“ローレライ”の? 赤提灯なら当分お休みよ」
「はぇ? どして?」
「ほら、先日の大風で例の空き地が荒れちゃってね。鰻もどじょうも姿を潜めちゃったし。おまけに店の屋根が丸ごと吹き飛ばされたらしいわ。今頃修理の最中じゃないかな」
「そんなぁ。久し振りに火の通った食事が取れると思ったのに」
「私だっててんやわんやだったのよ。散り散りになった皆の面倒を見にほうぼう駆け回って、やっと一息ついたところ」
 思い返してみれば、凄まじい嵐に遭って数日身動きが取れなかったことがあったような気もする。昨日と昨年の区別をつけようともしない身には、正確な日時は思い出せないが。

 妖怪は、ここにきてようやく自らの空腹に合点が行ったのだった。鼓を撃つ風雨を避けるために動物たちは巣穴に引き篭もり、果菜の類は粗方駄目になってしまった。それでこんなにお腹が空く羽目になったのだっけ。この調子では、人里の作物も相当の被害を受けているだろう。
「ひもじいのは皆同じってこと。ま、里は備蓄がしっかりしてるから心配ないだろうけどね。今年は余計に虫を迎えなきゃいけないかも。……その身なりからしてあんた、口減らしって訳じゃなさそうだ」
 無遠慮な視線に晒され、少女は身を固くする。一方の妖怪はといえば、二人の様子に我関せず、新鮮な気持ちで周囲を見渡していた。改めて森を観察してみれば、木々に刻まれ穿たれた傷跡は真新しく、中には幹を半ばからへし折られている大樹もあった。うろには千切り飛ばされた枝葉が吹き溜まりを作っており、地面の窪みにはまだ乾き切っていない箇所が散見される。

 この分だと、川も随分と水嵩を増しているだろうか。







 夕暮れの、とろ火で炙られたかの如き川面の輝きを避けるようにして、二名の妖怪は木陰に寄り添っていた。もう間も無く彼女達の時間が始まるであろう頃合い。妖怪蛍の手にはまだあの揚羽蝶が懐いており、さざ波の反射する茜色に、ちろちろと薄羽根を焦がしていた。
「にしても、あの女の子は何者なの? どう見てもごく普通の人間みたいだし」
「名前は聞いたけど忘れちゃった。料理人の跡継ぎって言ってたわね」
 ぽつりと喉の渇きを漏らした人の子を、二人は最寄りの水場へと連れてきていた。やや流速を増している川の水は、川底の影を見て取れる程度に澄んでいる。
 妖怪ならば不思慮に喉を潤しても腹を下すことはないのだろう。生水の危険性を承知している少女は、ありがたく素足を浸すだけに留める。
 きんと冷えた流水は腫れた両足に心地良くとも、幼子の不安を流し去るには優し過ぎたろうか。斜光に包まれた風景の中心、岸辺に佇む影絵の物思いに耽る様を、妖怪達は遠く眺めている。

「どんな事情であの子を連れ回しているのか知らないけど、里の人間には手を出さない方が賢明よ。後々巫女にどんな仕打ちを受けるか分かったもんじゃないわ」
「家出したんなら、味見くらいは構わないでしょ?」
「家出ねぇ。馬鹿な事をしたもんだ。しつこいようだけど、放っておくのが身のためね。妖精に迷わされて野垂れ死にしようが、野犬に食い殺されようが、私達には何の責任も無い」
「でも、御馳走は食べてみたいわ」
「――ねぇ、虫の妖怪さん」
「あ、私?」
 振り返った少女は、蛍の妖怪へと憂いを帯びた眼差しを向ける。蝶々の髪飾りが、夕日を受けて煌めいていた。
「貴方は人間を食べたことがないんだっけ」
「皆無じゃないさ。配給が滞っていない以上、危険を冒してまで里人を取って食うつもりは無いってだけ。少なくとも、私は皆にそう言い聞かせてるよ」
「食べるとしたら、やっぱり調理してから?」
「生のままがっつくのはこいつくらいのものさ。言っておきますけど、あんたらよりよっぽど文化的な生活を送ってるんだからね」
「人間って、美味しいのかしら? どうやって料理すれば都合がいいのかしら」
 ほんの少しだけ、少女は瞼を伏せた。その呼吸に合わせて、髪飾りがちかちかと瞬いている。
「そいつは知らない方がいい。さあ、日が暮れないうちに帰りな。私達はまだ紳士的な部類。夜の獣達は、命乞いの暇すら与えてはくれないでしょう。望むなら、道案内を付けてやってもいいわ」
 揚羽を差し伸べる蛍に対し、少女は頭を振った。
「駄目なの。お家には、もう帰っちゃいけないのよ」
「貴方の妖怪に食べられてしまうから?」
 木に寄り掛かって目を閉じていた妖怪が、独り言のように呟く。“貴方の妖怪”が誰のことを指すのか、少女が思い至るにはしばしの時間を要した。
「お父さんは、私のこと――」
「もう少しだけ、食べないでおいてあげる。たまには人の作った料理を食べてみたいもの。それにしてもお腹ぺこぺこ。ねー、“りぐる”なら食べても怒られないよね」
「私を食べてどうする」
「それは食べてから考える。あんまり食べ応えはなさそうだけど」
「寄、る、な!」
 取り付く島もなくあしらわれてしまったものの、冗談で言ったのではない。獣が妖異を食らえばその力を取り込むように、妖怪は人間と別の意味で栄養価の高い獲物である。勿論、滅多に口にする機会は訪れないのだが。
「じゃあ虫とか出してよ。いなごとか蜂の子とかー」
「分かってて誰が呼びますか。ま、虫が鳥に食べられるのは摂理の内だから仕方ないとしても、人間は目障りだからって理由だけで皆殺しにしようとするんだから始末に負えない」
「あら、しっかり下拵えさえすれば、虫さん達だって立派に晩餐の主役を飾れるのよ」
「褒め言葉のつもりだったとしても、嬉しくないわね」
 川の様子に異変が生じたのは、蛍妖怪が複雑な面持ちを傾けた、その時だった。透明な流れに土砂の濁りが混じり、河原にせり上がった水面が少女のくるぶしを濡らす。あっと思った時には遅く、土気色の水が大量に押し寄せてきた。
「な――、きゃっ!?」
 嵐が作り上げた自然の堤防が、今になって上流で決壊したのだろうか。咄嗟のことでに足を取られた少女は、短い悲鳴を上げて瓦礫混じりの濁流に没する。
 反射的に、妖怪は腕をしならせていた。黒い服を構成していた宵闇の一部がほどけて縄となり、蛇の如く波間へ身を潜らせる。間髪容れずに手を振り上げ、豪快な一本釣りを決めていた。
「あら、お見事」
 他人事な感想を漏らしたのは虫の妖怪。突然の展開に思考を巡らせる暇も無く、少女は宙吊りのまま固まっている。
安全な場所まで手繰り寄せられ、地面にへたり込んでやっと過ぎ去った危難を実感したのか、びしょ濡れの身体をぶるりと震わせた。幸い水を飲む暇もなかったらしく、ひとしきり目を拭ってもらったり口内の砂を吐き出したりした後、ぐっしょりと張り付いた着物を気にし始める。
「うえぇ、気持ち悪い……」
「お、生きてる生きてる」
「あい、何とか……。助けてくれたの?」
「今更死なれちゃ、折角我慢してたのが台無しだからね。死人を食べても味が悪いし」
 一部始終を見物していた蛍の妖怪はふっと息を吐き、無言で二人に背を向けた。その手から離れた揚羽蝶は、一心に川の下流へと飛び去ってゆく。二人は、そんな第三者の行動に気付くこともない。
「肌着までぐちょぐちょ……。何か苦いしざらざらするし、最悪だわ」
「水浴びしようにもねぇ。あの様子じゃ拭いた方が早いかな」
 最初の勢いこそ衰えたものの、未だ川面は水底から掻き混ぜられ、黄金色の落日にぬめっていた。濡れそぼる髪を絞っていた少女は、違和感に気付いて思わずはっと声を漏らす。
「ん? どうしたの?」
 魚の一匹ぐらいは流れ着いていないだろうかと川を眺めていた妖怪は、異変を察して頭を巡らせた。顔を青褪めさせた少女が、片手の爪を頭皮に食い込ませて震えている。あの瑠璃色の蝶々が、留められていた居場所から姿を消しているのだった。

 風雨に洗われた大気の向こう、太陽が一際紅く輝いたかと思うと、遠い稜線へとその明りを沈めてゆく。入れ替わりに郷を覆うのは、綾目も知れぬ宵闇か……。







 不器用ながらも少女をなだめることができた頃には、提灯の如く明るい月が山並みから顔を出していた。
「あの蝶々はね、私が五つの時に、お父さんがくれたものなの」
 料理人の娘が、どこか呆けたような面持ちで語る。

 彼女の父親は、目に入れても痛くないほどに娘を溺愛していたらしい。料理人としての腕前に確固とした誇りを持ち、仕事場や弟子の前では厳格な色を崩さない男が、娘の前ではどうしても破顔せずにはおけなかった。笑顔の思い出しかなかった父が己に向けた憤怒の顔は、少女からしてみれば天変地異に等しい事態だったのだろう。怒らせてしまった理由については、どうも説明が要領を得なかったのだが。
「前にも、お父さんが妖怪に乗っ取られてしまったことがあったわ。いつだったかしら、私が厨房でお弟子さん達の真似をしていたら……」
 梢から漏れる冴え冴えとした月光が、獣道を無機質に照らし出していた。湿土に散らばる小枝を踏み折った音も、妖怪の耳朶には鋭い。
 濡れた着物を引き摺るわけにもいかず、少女は今、闇で編まれたお揃いの洋服を着こんでいた。この妖怪にとって、自身から無限に染み出す硬軟自在の闇は四肢の延長線上にあり、いざとなれば鱗にも牙にもなりうる万能の素材である。唯一の不満点を上げるとすれば、食材には成り得ないことか。
「――でもあの時は、食べられてしまうかもなんて、思わなかった。でもこの頃は、違う。笑ってるのに、笑ってないの。お母さんが居なくなったのは、私のせいじゃないのに」
 どうしてこの幼い女の子は、こうもくるくると気紛れに表情を変えることができるのだろうか。まだ出会って半日も経っていないのに、既に百面相を揃えてしまったような気がする。脳天気な発想であっけらかんとものを言ったかと思えば、舌の根も乾かぬうちに小動物の如く怯え、甘えてくる。先程の川原では、ぞっとするくらい大人びた女の瞳をこちらに向けていた。
「私、もう立派にお料理できるわ。頑張って修行したんだもの。おじいちゃんだって、私のこと、お父さんに負けない料理人になるって。……あの大風で、皆とっても気を落としていたから、こっそりご飯を作って励ましてあげようと思ったのに。元気がない時は、お腹一杯美味しいものを食べるに限るってお父さんも言ってたのに。どうして、私を厨房に入れてくれないの?」
 妖怪に相槌は無い。少女の一人語りは淡々としていたが、その表情を窺い知ることは不可能だった。月明かりに落ちる影は一つ。妖の体温は人間よりも低く、おんぶした背中からは熱と鼓動が直に伝わってくる。
「人間って――そんなに美味しいのかしら」
 まだ目的地は定まっていない。ここがどこかも定かではないまま、二人は夜を彷徨い続けている。
「ごめんね、お腹が空いたでしょう?」
「うん。もう背中とくっ付きそうよ」
「実は私も、今朝から一口だって食べてないの」
「私なんか何日も前からよ。何カ月も前からのような気もしてきた」
「あら! そんなに? 妖怪は飢えて倒れたりしないの?」
「さぁね。死んだこと無いし」

 闇夜をその根源とする彼女は、例え一世紀の間断食したところで餓死することはない。夜々に影が溢れ、その身に闇を閉じ込めておく限りは。それでも、魂が生きている以上、腹は減る。
 段々と我慢の限界が近付いていた。後ろ手に背負い直した熱の塊からは、汗と土の臭いに混じって甘やかな体香が漂ってくる。その矮躯には到底食べ応えなど期待できそうにもないが、若い肉は柔らかく、骨ごと丸齧りすることができそうだ。
 悪戯な妖精の囁きさえ聞こえない森で、唾を飲み込む音がさやかに響くかのように思えた。

 最初の一口はどこからにしようか?
 
 繊細そうな指を一本ずつ摘み取ってしゃぶりつつ、晩餐の段取りを考えよう。取る物も取り敢えず手首を噛み千切って、溢れてくる温かい血潮で喉を潤す。末端から中枢へ、柔脆な肉と骨をそれぞれあっという間に平らげたら、お次は足だ。両腕にがっついてしまった分、じっくりと味わうことにしよう。血管の透ける薄肌を剥いで筋肉と脂肪を舌でねぶり、齧りとる。剥き出しの骨格がてかてかするまで舐めしゃぶったら、噛み割ってとろとろの髄を啜るのだ。前菜を胃袋に収め、一息いたらいよいよ。あばらの器を開いて、新鮮極まりない臓物に頭をうずめる。
 肝心なのは、それがまだ屍肉ではないということだ。闇で獲物をくるむことにより、相手をぎりぎりまで生き永らえさせる術を彼女は心得ていた。脈打つ心臓にかぶりつくその瞬間まで、一夜の伴侶と共に食事を楽しむことができるという寸法である。
 悲鳴が聞くにえなければ、唇を貪ってしまえばいい。可愛らしいつぶらな瞳は、じっくり大切に舌の上で溶かしていよう――。

「ねぇ、妖怪さん」
 うなじをくすぐる吐息で妖怪は我に返った。首に回された少女の腕が、せがむかのように締め付けを強くする。
「食べてもいいよ。私のこと」
「……んぇ? 何で?」
「だって、お腹ぺっこぺこなんでしょ?」
「そりゃ確かにそうだけど、御馳走作ってくれるんじゃなかったの?」
「気が変わったのよ。悪い?」
「どーして?」
「どうしてって……。そんな、気分なのよ」
 投げ槍に言い切って口をつぐむ少女に、妖怪は首を傾げる。願っても無い申し出であるものの、一体全体なぜそんな提案をされているのか、皆目見当がつかなった。
 理解できない。理解できないモノは、恐ろしい……
「いきなりそんなこと言い出すなんて、何を企んでいるのかしら」
 たった今まで食い殺す算段を立てていたというのに、逆に向こうから切り出されてしまうと妙な反抗心が湧いてしまう。散々焦らしておいて自分からねだるとは何たる料簡りょうけんか。妖怪は意地になって問い質そうとした。
「この際、何でもいいじゃないの」
「よくなーい」
「いいったらいいの!」
「……む。そう」
 あっさりと妖怪は追求を中断した。しばらく黙って歩き続け、月に煌々と照らされている小さな空き地に差し掛かると、背の荷物をそっと地面へ降ろす。どんな思いが去来しているのか、唇を引き結んだ少女の瞳からはぽろぽろとしずくが零れ落ちていた。
 しかし、涙の理由を斟酌しんしゃくしなければならない理由も無ければ、その余裕も無さそうだ。彼女なりに覚悟を決めたのか、強く双瞼をつむっている少女の髪を撫でる。
 結局、あの髪飾りはどこに行ってしまったのだろうか。急流に呑まれてしまった以上、見つけ出すのは至難だろうが……。
「じっとしててね。すぐに済ませるから」

 振り返り、暗い森に眼を凝らす。夜目にはして自信の無い彼女だったが、月光は十分に明るかった。爛々と灯る一対の眼光。それだけではない。十組は下らない貪婪どんらんな瞳が、木々の合間から二人ををめ付けている。飢えた野犬の群れが、何時の間にか幼い少女達を取り囲んでいたのだった。
「あんた達も空きっ腹を抱えてるんだ。まあ、このご飯を渡すつもりはないけどね」
 道を塞ぐように鎮座していた、大の大人ほどもあろう一際体格のいい一匹が、妖怪へと唸り声を向ける。異変を感じて顔を上げた少女は、自分達の真後ろにも獣が迫っていることに気付いた。
「あらら? 私まで牙に掛けるつもりなの? 弱肉強食っていう言葉を知らないのかな」
「よ、妖怪さん。周りにも沢山居るみたい……」
「うん。これだけ居ればお腹も膨れるかなー。あなたの分も賄えそう」
 無邪気な笑みを浮かべる相手に対して、正面の猛獣が大振りな前足を一歩踏み出した。荒々しい毛並みとぎらつく鋭利な牙とを前に、少女は息を呑んで身構える。
「辛抱が足りてないよ、犬っころ。どっちが食べられる側なのか、歯形を付けなきゃ分からない?」
 ついに正面の巨躯が地を蹴り、他の野犬達も隙あらば飛び掛からんと姿勢を低くする。四方八方からの殺意に対して、妖怪は水平に左右の腕を持ち上げ、小首を傾げて見せるのみ。彼我の距離は幾許いくばくもない。あわや厳つい顎門あぎとが細い首を捉えるかに見えたその刹那、猛獣の四肢が硬直していた。
 年端も行かない幼子であるはずの獲物、その口が三日月に裂け、血のように紅い瞳が獣の鼻先を舐め上げる。
「あいむ、はんぐりぃ――」
 野生としての本能が、その一瞬で悟っていた。この少女の暴力が、己のそれを遥かに上回っていることを。空腹の度合い――そして、残忍さにおいてさえ。
 宵闇の妖怪が、節約のため人間並みに抑え込んでいた妖力を刹那に解き放ったのである。たかが小娘と侮っていた襲撃者には、月がいきなり燃え上がったかのようにも感じられただろう。驚愕と恐怖とが遅れて周囲の獣達にも波及し、圧力となって四つ足を萎えさせる。
「犬語じゃ何て発音するのかしらないけどー。負け犬には、遠吠えする権利だってあげないわ」
 目にも留まらぬ蹴り足が、黒いスカートを割り裂いた先、獣の顎を撃ち上げていた。波打つ洋服の裾が蛸足の如く解け、仰け反った胴体に巻き付く。力無く落下へ転じる犬の横っ面に独楽こま回しの手刀が叩き込まれ、頬から頬へ、自慢の歯並びを根こそぎ折り砕いてゆく。
「歯磨き、ちゃんとしてた?」
 もう一方の手がだらしなく開いた口内に突き込まれ、喉奥の骨格をがっしりと掴んだ。同時、絡みついていた闇の触手が妖怪の元へ引き戻され、胴は空中で数回転。手には、粘土のように捩じ切られた頭部だけが残る。ぴたりと動きを止めた妖怪へ、遅れて血飛沫が降りかかっていた。
 引き抜いた舌の端を齧ってみる。味は大して良くないが、一時凌ぎにはなるだろう。
「あんたもお腹が空いてるんでしょ。ちょっとだけ、分けてあげてもいいよ」
 真夜中の森に、血の臭いが色濃く染み渡る。振り返ってみれば、少女は腰を抜かして座り込んでいた。手と口元を赤く染め、笑顔の妖怪が近付く素振りをみせると、声にならない嗚咽を漏らしながらも這って後方へ下がろうとする。
「ご飯、いらないの?」
「……っ、いや……ぁ」
 覚束おぼつかない足取りで立ち上がり、しかし背を向けて数歩でまた転んでしまう。妖怪は、彼女が誰あろう自分に怯えていることに気が付いていた。これまでに幾度となく見たことがある。さあ餌食にしようと決めた老若男女の、典型的な眼差しだ。
 ようやく恐怖が衝撃にまさったのか、どうにか立ち上がることに成功した少女は、木立の奥へとがむしゃらな逃走を図っていた。
「――もう。いけずなんだから」

 軽く頬を膨らませ、妖怪も追跡を開始する。彼女個人の考えは正直さっぱり掴めない。気掛かりな点が、無いことも無い。だが、人間という生き物が妖怪じぶんに示す反応として、それは至極順当なものだった。

 これまでが、例外だっただけの話である。







 月が空を横切るのと同じ速度で、二つの人影が木々の合間を縫っていた。振り向き振り向き走る先の影は決して俊敏ではなかったが、飛行するというより漂うと言った方が似合う後ろの影とは、まだ一定の距離を保っている。

 首領格の一匹が捩じ伏せられた時点で、野犬の群れは散り散りに逃げ去っていた。とはいえ、どんな成り行きで彼女が再び襲われるか分からない。蛍の忠告通り、夜の森は人間が無防備にうろついていい場所ではなく。逃がす訳にはいかない以上に、勝手に死なれては面白くない。
 息き切って駆ける料理人の娘には、その気になればいつでも追い付くことができた。一向に縮まらない隔たりは、何事かあれば一息で助けに入ることができる間合いである。狩人は、無邪気にこの追いかけっこを楽しんでいた。被食者の恐怖と絶望こそが、生食を旨とする彼女にとって、最高の香辛料スパイスなのだ。
 派手にすっ転んだ少女の後方で、妖怪も足を止める。少女が足をもつれさせながら走り出して暫く、妖怪は月のように追随する。
「どうして―――」
「――どうして?」
 問い掛けも、誰かに向けられたものではない。人が妖怪を恐れるのは当然の摂理である。朱帯の封印によって精神活動の大半を阻害されている妖怪の魂は、他者の立場になって心動かすことを知らない。
 闇は色を問わず、ただ全てを塗り潰すのみである。人を喰うモノとして、この妖怪は純心過ぎた。

 そして現実にも、思考からすっぽり抜け落ちている問題が一つ。自分が空を飛べたとして、相手もそうだとは限らないという点だ。
 突如として前を行く少女の姿が消える。一拍遅れ、尾を引く悲鳴が下方へと滑り落ちていった。慌てて抜けた木立の先は切り立った断層。必死な獲物は勢い余ったのだろう。慌てた妖怪は、取るものも取り敢えず眼下の森へと飛び込んだ。
「ほんと、出会い頭に食べておけば良かった。何で私がやきもきさせられなきゃならないんだか」
 幸いにも、地面までの距離は致命的でなかった。その上着地点には灌木が旺盛に茂っており、また闇の服が緩衝材として突っ張ったお陰で、横たわる少女は外目に軽傷で済んでいる。
 夜目にも汚れてしまっていることが分かる着物を抱き起こすと、汗混じりの蠱惑的な匂いが鼻腔をくすぐった。意識を失って撓垂しなだれかかる柔肉は過ぎた誘惑だ。思わず零してしまったよだれを拭った袖に、赤い線が引かれる。葛藤に胸をしくしくさせながら、妖怪は少女の細い肩を揺すった。
「おーい、生きてるー? それとも死んじゃった?」
 中々反応は返ってこない。もしや無事なのは外見そとみだけで、中身はまずいことになっているのではないかと心配が首をもたげてきた頃、ようやっと少女が薄く目を開いた。
「ぁ……、私、う?」
「羽根も無いのに飛ぼうとしてたよ。私が言えた段じゃないけど、あんたも相当おっちょこちょいね」
 血色も薄い小作りな唇が、朦朧と綻ぶ。
「また……、妖怪さんが、、助けてくれたの?」
「んー、いやそういうつもりは。むしろ据え膳頂こうかと」
 その時、妖怪は少女の円らな瞳に赤い光がよぎるのを見た。改めて意識を向けた木々の合間に、松明の炎が揺らめいている――。
「おい! その子から離れやがれッ!」
 野太い男の怒声と共に飛来した矢は首元を過ぎ、背後の断層に弾かれた。続く第二射を眼前で握り止め、妖怪は不機嫌に眉をひそめる。少女に当たっていたらどうするつもりなのか。片手で獲物を低木の陰に転がす。
「お前――食べてもいい人類?」
 表情を凍らせる男目掛けて矢を投げ返そうとした瞬間、脇腹に鋭い痛みが走った。真横にももう一本の松明。いや、森のそこかしこに人工の明かりが灯っている。男女入り混じった焦りの声が、いつの間にか二人を取り囲んでいた。
 まだ、この地に弾幕ごっこという概念は発明されていない。
「無闇に射掛けるな! あの子も一緒だ!」
「ぶ、無事なのか? お嬢さんは生きてるのか!?」
「こっちでも確認したさ! 人型の妖怪が少なくとも――二体かい? 急ぎぃ合流を!」
「他に別のが潜んでるかもしれん。手前ら、くれぐれも気を付けいよ」
「旦那! 悠長なことを言ってる場合じゃ――」
 焦りと緊張の声が交錯する中、刺さった矢を力任せに引き抜く。白い肌から流れ出るは、鮮血の赤ではなく、どす黒く濃厚な闇の塊だ。
 彼ら彼女らが少女を探していることは、流石の妖怪にも見当付いた。当の本人は辛そうに立ち上がりかけていたが、現状を把握するには頭が回転していないようだ。
「うぅ……、一体何の騒ぎなの……?」
「さぁてね。伏せてた方がいいと思うよーっ、とあいたたたた」
 魔術の類だろう、強烈な投光が二人の影を断層に焼き付けていた。暗がりに生きる妖異に効き目は抜群で、両目を庇いながらも、少女を引き倒そうと歩み寄る。その様がどう映ったのか、つがえられていた各人の矢が引き絞られる。
「止せ! 調伏方ちょうぶくがたが集まるまで応戦するんじゃねぇ!」
 誰か制止する女の声も間に合わない。不幸なのは、眩しさに手を翳した少女の服装が、妖怪のそれと同じだったこと。強過ぎる光が色を塗り潰していたこと。そして、目印だった髪飾りが、今は失われてしまっていたことである。矢群の一部は、明らかに少女と妖怪とを誤認していた。
「こいつ――っ!」
 咄嗟に妖怪は闇色のスカートを大きく翻す。二人を包む膜と膨らませた裏地は矢のことごとくを受け止め、また投光を遮る暗幕ともなる。続いて魔法の灯をも塗り潰す闇が墨汁の如く一帯に広がり、人々の視界を完全に奪っていた。森の中で、混乱の程度が明らかに増す。
「やれやれ、最初からこうしとくべきだったわねぇ」
「妖怪、さん?」
 月光も差さぬ闇の中、混乱する獲物の頬を撫でると、擽ったそうに身を縮ませ、しかし怯えたかのように縋り付く。目が見えないのは妖怪も同じだが、他の五感はいや増しに少女の息遣いを伝えていた。
 これまでずっと辛抱していたのだ。一口ぐらい食べてしまっても構わないはず。それでも、空きっ腹の妖怪は躊躇いを払拭できない。この女の子は、まだ自分が救助されかけていることに気付いていないのだろうか。一言口に出しさえすれば、もう妖怪が牙を立てる機会は失われる。
 ならば、尚更急がねばならないのではないか? でも、でも……、口の中が苦い。
「あんた、――」
 転瞬の間、暗幕を切り裂いた光撃が、妖怪にだけ反応してその身を痺れさせる。素早く飛び込んできた人物が、若い女の声を張り上げた。
「今だ! 鼻の利く者から私に続いてくれ!」
 反撃しようとして、彼女は自分が思った以上に消耗していることに気が付いた。長期間の空腹に加え、ここにきて妖力の大盤振る舞いが祟り、知らず知らずの内に限界を迎えていたのだ。ぽかんとしているところに追撃が入り、妖怪の身体が跳ねる。脇腹の傷口が痛んだ。
 襲撃者は肩透かしに感じたに違いない。閃光が目まぐるしく明滅し、大勢の声が意味を成さないまま渦巻いて消える。妖怪は素直に意識を手放した。暗闇の中、誰かと目が合った幻覚を、最後に焼き付けて。







 ただただ薄暗い所だった。光源は格子の向こうに灯った蝋燭のみ。湿り気を帯びた空気の匂いからして地下なのだろう。ひんやりとした床に仰向けで横たわる妖怪の上に、縞模様の影が覆い被さっている。

 格子の向こうには人影が二つ。
「悪いなぁ、嬢ちゃん。オレ達だって、本当はこんなことしたかねぇんだどよ……」
「情移すなよ、坊。初めに魂から喰われっぞ」
 地べたに座り込む、見張りにしては気弱そうな男の呼び掛けを、椅子に腰掛けた老婆が嗜める。例えるなら、白茄子と梅干の組み合わせだ。
「だけんど、どう見たって小さな女子おなごでねぇか。妖怪た分かってても、オレぁ不憫で」
「はん、昔こいつが何さ仕出かしたか、聞いとらん訳じゃなかろうて。今日のこつは、間が悪かったと思うがね」
 妖怪の常として身体は頑丈で、傷はとっくに塞がっていた。妖の力を封じる結界が牢屋内に張られているせいか、頭の片隅に頭痛が消えないものの、彼女を何より参らせているのは空腹に他ならない。ここに閉じ込められてから何度目か、腹の虫が盛大に抗議の声を上げた。
 臓腑の底に穴が開いたような飢餓感は、いよいよ耐え難いものになっていた。結界や格子が無かろうと、今の彼女にもう反抗するだけの気力は残っていない。目を開いておくことさえ面倒に感じるものの、閉じたら閉じたで少女が語ったご馳走の数々が浮かんで困ってしまう。
 妖怪は、まんじりともせず転がって動かない。
「バァさん、可哀想どころじゃなく、このままじゃおっんじまうんじゃねぇか。何か差し入れでも」
「餌付けでもして、里に寄り付かれるようになったらどうするね」
「……。済まんなぁ、明け方まで、出してやる訳にゃいかんのだ」

 悪行より捕えられた妖異は、通例二度と人間を襲いたくなくなるよう折檻を受けてから野に帰されるものだが、今回に限って未遂かつ人間側に被害も無く、また憔悴も著しかったため、一時的に拘留されるのみの処遇となった。
 彼女としては、延々と空腹を噛み締めさせられるより、いっそ鞭打たれていた方が気が紛れるというものだったが。
「あの、女の子……」
 妖怪が緩慢な動きで地面に頬擦りし、視線の先で居心地悪そうにする男へ、か細い声で問い掛ける。
「……は、里の人間ー?」
「お、おう。勿論だ。じゃなきゃあ、わざわざあんなぁ人手を割いたりしねぇさ」
「後でこっぴどくお灸を据えてやらにゃなるまいね。女子一人で森に入るた、食べてくだしと言ってるようなものじゃ。領分を犯したのはあの娘の方での」
 黒々とした染みの広がる天井へ視線を戻し、小さく呟く。
「――。そーなのかー……」
 本当に残念だ。とっても美味しそうだったのに。
 一方で、結局あの子が里の人間だったのならば、食べてしまわないで良かったという気持もある。その安心が封じられた記憶に根差しているのか、それとも頭の安全装置に施されている仕掛けによるものなのか、妖怪の脳裏には疑問すら浮かばない。
「明け方にゃ真っ先に解放してやるから、それまで堪忍な。……のう、バァさん」
「あの大風で、蔵に余裕ができると思ってるんかい」
「しかしな、生きてて腹ぁ減るは人間も妖怪も一緒でねか。蔵の空きもま、皆さ食うに困るって段じゃないぞぅ」
「そんげ目で見らんとも、握り飯くらいはこさえてやるよ。妖怪だて、米を喰えん訳じゃなかろう」
 妖怪には何の反応も無い。無表情のまま、ただ大の字に横たわって、ここではない遠くを見据えている。何でもいいから口に入れたい気分だ。

 そういえば、あの蝶飾りはどこまで流れて行ってしまったのか。霞みが掛かった理性で考える。このような場所には、迷い込む虫の一匹も期待できまい……。







「…………」
「おじいちゃんはああ言っているが、みんなお前のためを思って叱っているんだ。分かるだろう? お父さんだって、ご飯が喉を通らなくなるくらい心配したんだぞ」
「…………」
「ああ、確かに朝は言い過ぎた。それもこれも――、いや、もう手を上げたりしないよ。約束する」
「……あの」
「おや、失くしてしまったのか。いいんだ、また気に入ったものを買ってあげよう。怒ったりしないよ。お前の無事が一番だ。きっと、身代りになってくれたんだな――」
「…………」
「どうしたんだい? そんな顔をして。もう休みなさい。眠れそうになくてもだ。お説教の続きは明日、しっかり聴かねばならんだろうが」
「……あのね、お願いがあるの、おとう、さん?」
「…………」
「ねぇ、お父さん、」







 嵐に好き放題引っ掻き回された大気も既に落ち着きを取り戻し、朝の清冽な光流を透かしていた。冴え冴えとした日差しを避け、妖怪は大樹の木陰に座り込んでいる。
 慣れるもので、喉元から逆流するかのように思われた空腹感も、細波の如く繰り返す疼きに変わっていた。とはいっても元気が出ないことには変わりない。持たされた握り飯は、夏の瓦に垂れる水滴の早さで蒸発してしまった。
 夜になれば歩き回るだけの余力も回復するはず。やむなく持久戦の構えである。
「うーさっぎ、こーろげった、きーのねっこーぉ、と」
 まあ、そうそう獲物の方から飛び込んでくることはないだろうけれど。たとえ自力での食糧確保が困難だったとしても、定期的に支給される食糧の分は保障されている。
 しかしどうも、妖怪は支給される人間達が気に食わなかった。彼ら彼女らの瞳は曇天の如く濁り、泥のように曖昧、生きながらにして死んでいるような感触だ。

 彼女は昔ながらの妖のように、なるべくなら人を生きたまま食そうとする。生命を喰らう業は、その魂までも己の血肉に取り込むことだ。消化できない豊かな心の在り様を胸の内に積もらせてゆけば、いつか自分もあの女の子のように涙を溢すことができるのだろうか。他の誰かのことを理解することができるのだろうか。
 無く彷徨うこの妖怪に、目標と呼べるものがあるとしたら、それは余りに業深いものだった。

「あーあ、お腹空いたなぁ」
 彼女の呻きを聞き付けたのか否か、何者かの気配が近付いてきた。茂みの向こうから現れたのは、不惑を過ぎた頃だろう男性である。頑固そうな皺が刻まれた表情。手には大きな風呂敷包みを提げ、その背後に、妖怪はもう一人を認める。
「あんたは、食べてはいけない人類」
 男に目で促され、少女は後ろ手のまま隣に並んだ。円らな瞳がおずおずと視線を向ける。
「あの、妖怪さん。昨日は、ありがとう」
 少女が頭を下げる。寝起きにも似て不明瞭な意識で、捕食者は首を傾げた。
「んゃー?」
「それと、ごめんなさい。妖怪さんは私の話を聞いてくれたのに、親切にしてくれたのに、迷惑ばっかり掛けてしまって。お料理、作ってきたの。お父さんにも、手伝ってもらったんだけど。その、約束通り、食べないでいてくれたから」
 つっかえつっかえなのは、傍らの男を意識しているからか。ちらちらと視線向けられる視線を知ってか知らずか、男は真っ直ぐに妖怪を見詰めている。
「娘がお世話になったと聞いていますよ。その上あらぬ疑いを掛けてしまった。こちらはお礼とお詫びを兼ねたものです。有り合わせの物しか用意できませんでしたが、よろしければ召し上がって下さい」
 さてはこの男性が少女の“お父さん”なのだろう。改めて目を向ければ確かに面影がある。しかし残念ながらその事実は、彼もまた里の住人であることを意味していた。朱色の呪符が、妖怪の頭に根を下ろす。

 ――人里の子ら攫い喰らうこと罷り成らぬ。汝、人里の子ら攫い喰らうこと罷り成らぬ――

 と、妖怪の朧な思考に閃くものがあった。かつての約定やくじょうより、里の人間に手を出すことはご法度。ならば、人外の存在ならどうだ? 禁止されてはいないはずだ。そしてこの男は“妖怪”である。娘の弁を信じる限り。それは朦朧とした思考が生んだ、危うい結論だ。
「喰ろうても――」
――いいのか? 男性はまだ何事か述べている途中だったが、妖怪の耳には入ってこなかった。微笑んでいる少女。重たげな音を立てて包みが下ろされ、立方体に近く重ねられた重箱が取り出される。否が応にも食欲を掻き立てる匂い。漆塗りと螺鈿らでん細工が陽光を反射し、思わず目を俯けた。立ち上ろうとする足を、再び甦ってきた飢餓感がよろめかせる。込み上げる欲望が理性を押し流しそうになり、緑濃い梢を仰ぐ。
「好みまでは分かりませんでしたから、果たしてお口に合うと良いのですが――」
 果たして、どっちなのだ? 喰らいついていいのか、否か。正答は闇の中。手探りで確かめようとしても、伸ばした手そのものが対象の形を変えてしまう。こんなに混沌とした感情は久し振りだ。何と何がせめぎ合っているのか、もう自分では理解できない。頭の片隅で警鐘が鳴らされている。ちかちかと朱い色が弾け、引き結ばれることを繰り返す。

 紅い瞳が、後ろ手に何か隠している少女を捉えた。きっと、縋るような目付きをしていただろう。
「ねぇ……」
 思考をこんがらかせた宵闇の妖怪が、喘ぐように問い掛ける。
「食べて、いいの?」
 にっこりと微笑んで、少女は答える――。







 中天を過ぎた太陽の光線が、幾重にも重なった緑の葉によって遮られる森の一隅。妖怪は再び樹上の身分となっていた。絡み合う木の枝に危なっかしく重心を配し、梢の風鳴りを子守唄に午睡を貪っている。すやすやと無防備な寝顔は、和やかな今日の風景に似合い過ぎていた。

 つと鼻先にむず痒さを覚え、妖怪は瞼を開く。何と勘違いしたのか一匹の蝶が、少女の白く通った鼻梁で薄羽根を休めていた。
「…………」
 今の彼女に、この小さな命を摘み取る積極的な理由は無い。寛大に息を吹きかけてやると、蝶は慌てて森の奥へと飛び立っていった。

 瞳を閉じれば、辺りは再び心地良い闇に包まれる。

















 消えた蝶々の行方は、ようとして知れない。















 はらぺこようかい一日未満 (了)







 


 
 ご読了ありがとうございました。プラシーボ吹嘘と申します。

 作中にて、幾つかの設定ないし事実は、敢えて伏せられたままでいます。彼女の能力とかけまして、暗がりでこそ優しい真実があるかしらと思う次第。
 どうしてももやもやするという方は、可能なら暗夜の屋外で、瞼を閉じて両手を広げてみて下さい。楽園は、闇の中でまた色鮮やかさを増す筈です。

 通報されても責任は取れません。私は人目を避けてこっそりと試みています。プラシーボ吹嘘でした。



 その他お暇潰しをお求めの際は、こちらの頁をご笑覧いただければ幸いです。
 
プラシーボ吹嘘
[email protected]
http://ugigi.dvrdns.org/search?ord=ld&mylist=360
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コメント



0.900簡易評価
2.100名前が無い程度の能力削除
なんだこりゃ、面白い
自分は「~なのかー」と「バカルテット」でおざなりに個性を付加されたルーミアが好きではないのですが、このSSは冬の夜に散歩に出た時の小旅行の様な雰囲気と共に、素晴らしく妖怪らしい、且つ愛らしくも恐ろしいルーミアが見れて最高だと思います
3.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。
5.90名前が無い程度の能力削除
終盤の「喰ろうても」にぞっとしたものを感じました。それまでのルーミアの「妖怪」を感じさせる描写。もいいですね。最初から最後まで、いや読後まで楽しませていただきました。

6.100名前が無い程度の能力削除
これはいいものを読ませて頂きました
8.100名前が無い程度の能力削除
基本的にのんびりとした感じなのに、時折ぞっとしたものを感じさせる。
この噛み合わない筈の二つの雰囲気が同居しているのがかなり好みです。
まさに妖怪らしいルーミアでした。
9.100名前が無い程度の能力削除
大変おひさしぶりですね。
読み応えのある作品で、大満足。
またの投稿お待ちしてます。
12.90名前が無い程度の能力削除
闇のように曖昧で、闇のように底知れず、闇のように恐ろしい、とっても魅力的なルーミアでした。
このSSを読んでいる間、眠たげに半目だけ開いて静かに妖しげににやりと笑うルーミアの顔が時折思い浮かびました。可愛い。
17.100名前が無い程度の能力削除
新作の投稿お疲れ様です。あえて七日に楽しく読ませて頂きました。
芸術的な言葉回しが健在で何よりです。
ルーミアの少女と、そして、どこか人とは違う妖怪としての恐ろしい両面性を場面の転換と共に見ていて楽しい一作でした。
結末はあれこれ想像が働いたせいで、悶絶中!
18.100名前が無い程度の能力削除
工夫し統御された文体が雰囲気作りに一役買っていて良かったです。ルーミアがほぼ常に闇を展開しているのは、見たくない物を見ないためなのかもしれません。
19.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしく妖しいルーミアでした。
22.100名前が無い程度の能力削除
4月バカ企画で見た時から期待して待ってましたが、本当に良かった
他の作品も待ってます
26.100パレット削除
 面白かったです!
27.80奇声を発する程度の能力削除
面白いお話でした
29.1003削除
歴代の名作と並べても遜色ない作品。
全身の毛が逆立つような思いでした。素晴らしい。