Coolier - 新生・東方創想話

猫また 或いは化け猫

2013/01/20 22:56:14
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猫――
(前略) 凡そ、老いた雄猫は妖をなし、その変化は狐狸にも劣らず、能く人を食う。俗に猫麻多と呼んでいる。毛の純黄色、純黒色のものが最も妖をなす。暗い処で背毛を逆さまに撫でると光を放って火が点じているようであるが、これが怪をなす所以なのである。(後略)

本朝食鑑・卷之十一
人見必大/元禄十年



 雲ひとつない秋晴れの日だった。青く高い秋の空に赤とんぼが飛び交っている。秋の空気は湿気が少なく、澄みきっていた。
 橙は一人賑やかな町を歩いていた。心地良い天気のおかげで気分は清々しい。
 この人間の里と呼ばれる町は幻想郷の中心に位置していた。幻想郷とは外界と隔離された桃源郷のような土地である。
 幻想郷ではほとんどの人間が中心に位置する人間の里に住んでいた。町の中心には商家が集中していて、外縁には農家からなる集落が散在している。冬の寒冷な気候のせいか茅葺きや板葺きの屋根の家が多い。町並みや人の服装も、大陸風とも和風ともいえない独特なものである。これは長年外界と隔離された環境であるからかもしれない。
 暦は神無月に入っていた。今年は特に干ばつもなく農作物の収穫はまずまずのようだった。店先には米をはじめとした多くの農産物が並び、冬に向けて買い込む多くの客が訪れる。町全体が活気に満ちていて、呼び込みの威勢の良い声が聞こえる。橙はこの時期の町の賑やかな様子が嫌いではなかった。
 橙は所謂化け猫と呼ばれる類の妖怪である。姿は一見すると人間の十にも満たない少女のように見える。しかし、二つに割れた長い尾が生えていて、頭の上には二つの尖った耳が突き出していた。
 橙は普段緑色の帽子をかぶっている。しかし、今日はその代わりに頭巾をかぶり、いつもより少し長めのスカートを穿いている。明らかに目立つ耳と尻尾を隠すためだった。
 多くの妖怪が訪れる人里でわざわざ自分が妖怪であることを隠すものは少ない。しかし、橙は自分が化け猫であることを町の人に知られたくなかった。
 以前、橙は町の猫をしもべにしようとしたことがあった。しかし、目論見どおりにいかず、ほとんどの町の猫に逃げられた挙句、追いかける途中で民家を荒らしてしまった。そんなことから、橙は町の人によく思われていない。自分が妖怪であることを気取られないようにしたいと思っていた。
 そういった事情にもかかわらず、人里を訪れたのは主人の命があったからである。課されたことは町での買い物だった。一人での買い物は初めて任された仕事で、新しい仕事を命じられたことに少し気持ちが昂ぶっていた。
「橙さん」
 突然名前を呼ばれ驚いた。後ろを振り返ると、頭に大きな椿の髪飾りをつけた少女が立っていた。髪の色は紫色で、身の丈は橙より少し高いぐらいだろうか。明るい色で花柄の着物を着ている。
「うん、そうだけど。あなたは阿求さんだった?」
 少し前に幻想郷についてまとめた本を作るのに取材が必要だ、というようなことを言われて彼女に声をかけられた気がする。
 阿求は明朗な様子で笑みを浮かべていた。しかし、よく見ると顔は色白で病弱そうに見える。
「はい。先日はありがとうございました。今日はお買いものですか」
 阿求は飄々とした様子で尋ねた。彼女は十歳と少ししか生きていないといっていたが、その口調と態度は年齢に不相応に感じられる。
「うん。そうだけど」
「いつもは御主人の狐さんが買い物をなされているようでしたから。ちょっと気になって声をかけてしまいました。今日はお一人ですか?」
「はい。主人に命じられて来ました」
「そうですか。御苦労さまです」
「あ、他の人間には言わないで。私がここに来たこと」
「わかっています。悪戯もほどほどにしてくださいね」
 阿求が笑って言った言葉に橙は少しむっとした顔で返した。
 変わった娘だと思った。これまで会った人間に彼女ほど妖怪に友好的に接する人間はいない。
 それに、阿求の家系は代々短命で、体が弱く長生きできないはずなのに、特にそれを憂う様子を見せないことも不思議だった。
 人間は若いうちに死ぬことを随分と嘆き悲しむものである。普通に考えれば彼女ももう少し悲観的な態度で暮らしていてもおかしくない。しかし、彼女はそんな様子もなく常に快活なように見えた。
 かくいう橙も若くして死ぬことを定められた阿求のことを不憫と考えてはいなかった。
 橙は見た目こそ幼い少女だが、化け猫になるまでに十年ほど普通の猫として生きてきた。猫だけでなく様々な生き物の生き死にを目の当たりにしている。
 動物の幼い子供はほんの些細な病気や怪我で死んでしまう。ひどいところでは、気まぐれに人間に殴り殺された猫も見たことがある。それに比べれば多少寿命が短いなどということはたいしたことではない。大人になるまで生き延びて子供を残せるだけ生きたらそれで生を全うしたといえると思っていた。
 町の中を進んで、目的の豆腐屋に向かう。豆腐屋の隣にある店で小柄な老人が買い物をしていた。薄く開いた目の瞳が白く濁っていた。彼の顔を見たとき橙は息をのんだ。
 橙は彼のことを知っていた。彼の名前は又七郎といった。彼は橙が家猫だったときに世話をしてくれた人だった。しかし、橙は今あえて彼を避けていた。
 化け猫は不幸をもたらす存在として人に忌み嫌われている。橙は人に悪戯をしたことがあるものの、怪我をさせたり命に関わるようなことまでしたことはなかった。それでも人間に良く思われていないのは事実で、関わった人間に悪評が立つのは免れられないだろう。自分に親切にしてくれた彼に迷惑をかけるのは忍びなかった。
 又七郎は昔から目が良くなかった。悪いことに、今は足も少し引きずっているように見える。奥さんもいるはずだが彼女も高齢になっているはずだった。橙は二人のもとから何の前触れもなく去ってしまったことに後ろめたさを感じていていた。
 彼らは今、幸せに暮らしているのだろうか。遠くから様子をうかがうだけなら迷惑をかけないだろう。橙は又七郎を追いかけることにした。



 又七郎は角を曲がり、裏店に入った。下水のすえた臭いが鼻を突く。このあたりには主に日雇が住んでいるはずだった。表店に出ている人が多いせいか閑散としていた。
 目の良くない又七郎の歩みは遅々として進まない。改めて彼の姿を見ると、着ている着物が皺だらけで薄汚い。その様子から橙は微かな胸騒ぎを感じていた。
 漸く又七郎は彼が住んでいる古ぼけた家の前に着いた。一階建ての家で、茅葺きの屋根がところどころ痛んでおり手入れが行き届いていない。彼は建てつけ悪い戸をがたがたと鳴らしながら開け、中に入って行った。
 橙は塀を飛び越え家の横にまわり、家の中を覗き込んだ。部屋の妻戸は開け放たれ、奥の部屋の様子がうかがえる。
部屋の中には老婆が寝ていた。橙が母親のように慕っていた老婆だった。
 彼女の顔は青白く、やつれていて、見るからに病人然としていた。橙は彼女の痛ましい姿を見るのが辛かった。
 彼女は枕元にあるものをじっと見つめていた。それは鈴のついた橙色の首輪だった。
 老人がゆっくりと部屋に入ってきた。老婆の様子を見て呆れたように言った。
「お政、起きていたのか。
 またそんなものを見てあの子のことを思い出していたのか。あの子がいなくなってもう四年にもなるじゃないか」
「そんなこと言わないでくださいな。私はあの子がどこかで生きているような気がするのよ。いつかひょっこり会いに来てくれる気がするのよ」
 お政は微笑みながら言った。又七郎は溜息をつく。
 老人は険しい表情で尋ねた。
「お前、体の具合はどうなんだ」
「まずまずよ。でも、あまり長くない、そんな気がするわ」
 お政はよどみなく答えた。その様子に死を恐れ、悲観しているような様子は見られなかった。
 彼女の態度とは裏腹に又七郎の表情は曇っていた。
「そんなに悲しそうな表情をしないでくださいな。あなたがそんな様子では私も安心して逝けそうにないわ」
「縁起でもないことを言うな」
「誰にでも訪れることだわ。仕方のないことなのよ。ただ最後にもう一度あの子に会いたかったわ」
 又七郎は大きなため息をついた。飄々としたお政の様子につられ少し表情が明るくなった。

 ちりん。

 風が吹き、片付け忘れていたらしい季節外れの風鈴が鳴った。
 一瞬、橙とお政は目が合った。
 お政は微笑んだように見えた。
 橙は慌てて塀を飛び越え逃げだした。



 小春日和で季節外れの陽気だった。秋の高い空に雲が浮かびその隙間から光が差し込んでいる。少し暑いくらいだが山の木々は色づき始めていて季節の変化を感じさせた。
 橙は山にあるあばら家の縁側に座って足をぶらぶらさせていた。橙になついてくれた唯一の黒猫が背中を丸め日向ぼっこをしている。黒猫は右前脚を舐めた後、眠たそうにあくびをした。
 穏やかな天気のせいか神無月にもかかわらず蝶が飛んでいる。季節外れの蝶の鈍い動きを橙は目で追っていた。
 昨日は結局頼まれていた買い物をすることができず、主人に叱られた。しかし、今はそれよりも気になることがあった。もちろんお使いを失敗したことを自分なりに反省していたが、今は別のことで頭がいっぱいだった。
 お政は橙の知らないうちに病に倒れていた。昨日の様子からみて長くはなさそうだった。
 橙は悩んでいた。自分に何かできることはなったのだろうか。彼らに近づくことを避けてきた本当の理由は、煩わしくなっただけではないのだろうか。自分を責めるはっきりとした理由があるわけではない。しかし、どこか気持ちはすっきりとしない。
「おばあちゃん……」
 生き物の生死については割り切っているつもりだった。仲間の猫の中には若くして無情な理由で死んでいったものも多い。いちいち悲しんでいたのでは身も心も持たなかった。
 しかし、育ての親の命を同じように割り切ることはできなかった。
 横を見るとさっきまで寝むそうにしていた猫が身構えていた。猫はゆっくりと飛んでいた蝶に飛びついた。白い翅がはらはらと散る。
 口の中に何か苦いものが広がるような気がした。
「橙、もう一度人里にお使いに行ってくれないか」
 突然声をかけられ振り返る。
「藍様」
 あばら家の入口に橙の主人である大陸の道士のような服を着た少女が立っている。切れ長の目尻のつりあがった目で、整った顔立ちは同じ女性である橙も見入ってしまうほど美しい。毛並みの良い9本の尾が彼女の後ろでふさふさとゆれていた。
「昨日は失敗してしまったが今度はうまくやれるだろう。何に気を取られて買い物を忘れてしまったのか知らないが、今のお前ならちゃんとこなせるはずだぞ」
「わかりました。今度はうまくやれるよう頑張ります」
 二つ返事で答えたが、気持ちは晴れなかった。



 人間の里は相変わらず大勢の人で賑わっていた。
 橙は指示通りにお使いを済ませていく。しかし、気分は沈んだままだった
 藍に渡された紙には油揚げが書かれていた。昨日と同じ豆腐屋に向う。
 店の前で女性たちが世間話をしていた。猫の妖怪である橙は耳が良く、小声での話もすべて聞こえる。普段は聞き流すだけだが、話の中に特に興味をひくものがあり歩きながらも聞き耳を立てた。
「そうそう、裏のお婆さん意識がなくなったみたいね。今晩が山だとか」
「嫌だね。あそこの家は夫婦二人だけで子供もいないのよね。もしものことがあったらお爺さんはどうするのかね」
 橙は気が付くと老婆の家に向かって駆け出していた。何故自分を自分がそうしているのかもわからなかった。考えてみれば彼らの身に起こった出来事だとは限らない。むしろ違っていてほしいとさえ思っていた。
 全力で町を走り抜け老人たちの家に着いた。まだ身を隠すだけの冷静さはあったが、寒くもないはずなのに体が震えていた。
 老婆は目を閉じ横になっている。表情は穏やかで眠っているようで、苦しんでいる様子はうかがえなかった。
 忙しなく動きながら医者が老婆の治療をしている。まだ息はありそうだった。
 老婆の隣に老人が座っていた。顔は土気色で、見るからにやつれ、昨日より老けて見えた。妻の状態が思わしくないからだろうか。
 橙は近しい人が死んでも感傷的にならないと思っていた。それに昨日の様子から今のような事態が起こることも予測できたはずだった。心の準備はできているしかるべきだった。しかし、今はただ気が動転してどうしていいかわからない。
 混沌とした気持ちのまま、ただ茫然と家の様子を見つめていた。気がつくと日が西から入ってきている。日が傾きつつあるようだ。
 外に目を向けると鮮やかな夕焼けが見えた。



 この季節にもなると日中は温かくとも夜になると冷え込む。病人のいる部屋を少しでも温めるため囲炉裏には火がともされていた。
 又七郎は部屋の隅に座っていた。看病の疲れのせいか、船をこいでいる。
 音を立てずに部屋に入ってきた橙に彼は気づかなかった。
 灯篭の光で影ができ、尖った耳と二つに割れた尾が壁に映る。
 橙はお政の手を優しく握った。手は少し冷たかったがまだ温もりはあった。
 お政は苦しそうな様子もなく静かに眠っていた。微かな寝息が聞こえる。
 昨日の昼、彼女は橙がこの家を覗いていたことに気づいていたのだろうか。
 きっと気づいていたのだろう、と橙は思った。
 お政は昔から勘が良かった。自分がどこにいても必ず迎えに来てくれたし、工夫を凝らした悪戯もすぐにばれた。
 それに彼女は橙がまだ生きていることにもうすうす感づいているようだった。
 お政の手はやせ細り、骨ばっていた。昔の温かく包み込んでくれるような手が懐かしい。
 橙がいなくなったとき、お政が随分と探してくれたことを風のうわさに聞いていた。猫一匹にそこまでするのかという向きもあったが、それも気にしていなかったらしい。
 その話を聞いたとき、嬉しい半面どこか申し訳ない気持ちがした。
 部屋の片隅には古ぼけた首輪があった。この家を去る時に置いていったものだった。
 橙は、その首輪を見て昔のことを思い返した。
 お政たちと橙が出会ったのは、今よりもう少し季節の進んだ寒い冬の日だった。凍てつくような寒さの中、橙は意識も朦朧とした瀕死の状態で、お政たちに拾われた。あのとき親身になって看病してくれた彼女たちの優しさと温かさは今でも覚えている。
 気が付くと橙は涙を流していた。お政の手を頬に寄せた。
 思い返してみると彼女たちに甘えてばかりだった。
 彼女たちが家を空けたとき、帰ってくると体を擦り寄せ遊びをねだった。
 騒々しくも楽しかった日々が、昨日のことのように蘇ってくる。
 きっと、お政たちにとっては楽しい思い出だけではなかったのだろう。動物とは言え、一つの命を見守るということは容易なことではない。夫が目の病気を患っていたため、尚更だったはずである。
 お政にとって、私はなんだったのだろう、と橙は思った。ただの飼い猫だったのだろうか。それともそれ以上のものだったのだろうか。今では確かめるすべもない。
 自分にとって、彼女は間違いなく母親だったと思う。実の母親の記憶はほとんどないのだから比較はできないが、何故か確信があった。
 本当に何もできなかった。昨日、生きている姿をお政に見せられたかもしれないことが、せめてもの救いにはなったのだろうか。
 お政の寝息が小さくなっていくのがわかる。今際の際を迎えていることが橙にもわかった。橙はお政の手を両手で包みこむように握った。
 風の音さえせず、囲炉裏で薪が燃える、ぱちぱちという音が微かに聞こえる。灯篭の光がわずかに明滅していた。
 触っているお政の手から、少しずつ温もりが失われていく。
 彼女が息をする音ももう聞こえない。
 橙はどうしようもなく辛くて、ただ泣いていた。
 どれほど橙が悲しもうとも、周りはただ静かなままだった。
 今は確かに辛いが、明日も明後日も自分は生きていかなければならないのだ、と橙は思った。少しずつ気持ちを切り替えて、日常の生活に戻らなければならないのだろう。
 でも、もう少しだけここにいて彼女の存在を感じていたかった。今ここを去れば、もう二度とここに来ることなどないだろう。
 橙はそっとお政の顔をなでた。すでに肌は冷たかった。
 気が付くとすでに空は白んでいた。



 ちょうど日が昇ろうとしていたとき、又七郎は目を覚ました。部屋の中が妙に静かだった。又七郎は目が悪い代わりに、耳が良い。すぐにお政が息をしていないことに気が付いた。彼女の手を握るとその手はもう冷たくなっていた。すぐに医者を呼びに行った。
 医者に診てもらってすぐに臨終を言い渡された。
 そのあとのことを又七郎ははっきりと覚えていない。親戚を呼び出し、片付けの手伝いをしてもらったはずだった。
さきほどまで家にいた親類も、寺への連絡や通夜の準備のためにこの家から去っていた。又七郎以外はだれもこの家にいない。
 又七郎は妻が亡くなったことを今も実感できていなかった。為すべきことに追われていて感じる余裕がなかったのかだろうか。
 一人になってようやく妻を失ったこと実感し始めていた。
 自分は妻に対してよくしてやれただろうか。眼病を患う夫の付き添いとしてつらい思いをさせたのではないだろうか。気がつくと目に涙がたまっていた。しかし、どんなときも気持ちを分かち合ってきた相手はもういない。彼はただ一人声もあげずに涙を流した。
 気持ちが落ち着くと奇妙な感情が湧きあがってきた。それは安堵と不安だった。眼病を患っている又七郎にとって病床の妻の世話は大きな負担だった。明日から彼女の面倒を見なくて済むと思うと、ほっとするところがある。
 それと同時に不安のようなものも感じる。妻の世話をすることは苦痛ではあるが、自分の生きがいにもなっていた。これから何を目的に生きていけばいいのかわからなかった。
「伯父さん」
 突然声をかけられ振り返ると、三十を過ぎたばかりの若い男玄関に立っていた。又七郎の甥の藤三郎だった。
「ああ、おまえか。一体どうしたんだ。通夜までは随分時間があるぞ」
「そりゃそうだけど、伯父さんの様子が変だって聞いたんでね。ちょっと気になって様子を見に来たのさ」
 又七郎は甥の言葉にどう答えていいかわからなかった。今の自分の気持ちをうまく表現できない。例え、言ったとしても若い藤三郎には理解してもらえない気がした。
「そういえば、伯母さんの枕元には黒い獣の毛が落ちてたんだって。なんだか気味が悪いねぇ」
 藤三郎は眉をひそめて言った。
「もしかすると妖怪の仕業かね。この家では随分長い間黒猫を飼ってただろ。しかもそいつは数年前にどこかへ行っちまったはずだ。老いた猫は化け猫になって人の命を取ったりするらしいぜ」
 人里では妖怪が人を害してはいけないという決まりがある。又七郎は、今回それが破られたとは考えていなかった。
妻はあの猫を随分と可愛がっていた。例え妖怪になっていたとしても、あの子が妻に悪さをするとは思えなかった。
「さあてな。飼い主に恩返しする猫もいるって話だ。案外化けたやつでも悪さをするとは限らないのかもよ。
 もしもあいつが来たってんならただ婆さんの死に目に会いたかっただけなんじゃないか。
 それに、昨晩猫が来たかどうかもわからん。わしは昨日寝ちまってたんだよ。目が覚めた時にはもう朝で、婆さんはもう息をしていなかったからな」
「そういうもんかね。猫また、化け猫と言えば人に悪さをするもんだと思ってたんだが。
 くだらないこと言って悪かったよ」
 藤三郎は少し腑に落ちていない様子で言った。
「そういや、婆さんはどんな死に顔をしてたんだい」
「はっきりと見えなかったのかい。俺は片付けには来てなかったから知らないよ。見に行ってみるかい?」
 藤三郎は奥の間の戸を開けた。
 部屋の中には逆向きの着物が体の上に掛けられたお政が横たわっていた。
 又七郎はお政の顔を寄せ、全体をそっとなでた。
 彼女が穏やかな顔をしていることが分かった。
 悲しげな猫の鳴き声がする。
冒頭引用部の訓読は下記の文献に従いました。
人見必大・島田勇雄 (訳注). 1981. 東洋文庫395. 本朝食鑑5. 平凡社

櫛橋と申します。
処女作です。
至らない点が多々あるかと思いますが、宜しくお願い致します。

2013.1.27
誤字の修正。
縦読みにしたときに、出来るだけ単語が分割されないように文章を微調整。
縦読み推奨のタグ追加。
櫛橋
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コメント



0.320簡易評価
4.80名前が無い程度の能力削除
寂しい雰囲気の話ですな
冬の路上を歩いてるみたいなもの寂しい感覚は好きですが
多々良先生みたいなコミカルな奴とかも見てみたいですね
8.無評価櫛橋削除
コメント及び評価ありがとうございます。
初投稿なので随分緊張しました。
>>4様
残念なことにストックしてあるプロットも暗いものばかりです。
しかし、いつかは多々良先生や薔薇十字探偵のような明るいものにも挑戦してみたいです。
言葉遊びが苦手なので、その技術も磨いた上で。
10.80名前が無い程度の能力削除
正統派な空気だなぁ。いい短編でした。
11.80名前が無い程度の能力削除
橙……あれ夕食の買い物は?
12.903削除
SSというよりは、小説と言ったほうが良いような作品でした。
もっと点数入ってもいいと思うんだけどなぁ……